第16/33番目の紋様です。
この紋様は全部で61あります。
この紋様に関わる青木氏は3つの紋様です。
この3つの紋様は次ぎの通りです。
第1番目は抱き茗荷紋です。 第2番目は丸に抱き茗荷紋です。 第1番目の分家筋に当ります。 第3番目は抱き茗荷菱紋です。 第1番目の支流紋です。
この茗荷紋の系統は近江滋賀地方に多く分布する二宮氏の末裔に当ると見られています。 この根拠は最初に鎌倉末期に最初に使用したのはこの二宮氏であります。
そして、後に伊勢鳥羽地方の鳥羽氏が用いています。更に滋賀地方の稲垣氏、小沢氏なども抱き茗荷紋です。
近江滋賀地方の二宮氏が室町期の戦国時代に勢力を高め、この一族の一部が鳥羽地方に移りここで定住して勢力を持ち一族を繁栄させたものと見られますが確定は困難です。しかし、志摩地方には江戸期に二ノ宮氏の末裔の稲垣氏がここの伊勢志摩の領主を勤めていますので間違いないと考えます。
この伊勢地方には奈良時代から賜姓皇族青木氏が松阪地方を中心として西には名張から東には桑原までの帯状に勢力を持ち、東部永嶋地方では元半国司であつた北畠氏、北部は伊賀地方の半国司の伊賀氏が押さえていました。 しかし、伊賀、永嶋地方は秀吉に滅ぼされて弱体化し、此処に秀吉の命にて近江滋賀地方から二宮氏の一族が入り込み勢力を高めたとも見られていますが逆説もあります。
伊勢松阪地方は古来より朝廷の不可侵の土地でもあり、天領地でもあつたことから秀吉は蒲生氏郷に命じて大きな戦いも無く伊賀氏と青木氏を破り、ここに朝廷の禁を破り城を築きましたので、鳥羽氏らの侵入を防ぎました。
その後も徳川氏はここを紀州徳川氏の飛び地領として管理し、奈良期から存在する賜姓皇族青木氏を保護しておさめました。(この伊勢青木氏は1320年頃から商いを「二束の草鞋」ではじめ伊勢の豪商紙屋長兵衛としての顔もあり勢力を盛り返しました。)
近江滋賀地方の二宮氏の末裔は稲垣氏、小沢氏らの支流一門を出して更に勢力をかためました。 伊勢の皇族賜姓青木氏と二ノ宮氏の末裔の稲垣氏との血縁で発祥した青木氏と成ります。
詳しくは研究室の「青木氏と血縁族」の茗荷紋のところを参照してください。
家紋は次ぎの通りです。 第3番目はデーターは保持していません。
第3番目の抱き茗荷菱紋の家紋を次に補充して頂きました。 |