第26/33番目の紋様です。
この紋様は全部で85の紋様があります。
家紋200選に選ばれている家紋です。
この橘紋にかかわる青木氏は1つです。
先ずこの橘紋の発祥の由来から述べます。 この橘紋の橘氏は敏達天皇の5世の孫(美努王)の妻の県犬養の三千代が和銅元年(708)に「八色の姓」(皇族の血筋を受けた血縁者の氏を真人族をはじめとして八の階級に分ける制度)により宿禰の姓を賜りました。
そして、この時「橘」の氏を名乗りました。つまり、「橘の宿禰」族です。
天武天皇が定めた身分階級です。 詳細は研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の橘紋を参照ください。
橘氏は第7世の皇族関係者である美努王(みぬおう)妻の子供であるので「宿禰」となります。
この子孫の葛城王と佐為王がこの橘姓を受け継ぎます。
第6世まで皇族関係者として扱われ、第7世以降は臣下するか下族する事になります。 関東方面に移されます。これが平族(ひらぞく)後の坂東八平氏に成ったのです。 (本来は天智天皇から第4世以降をもって王を名乗ることを禁止した。)
故にこの葛城王は後に諸兄(もろえ)と変名し左大臣まで登ます。 しかし、この橘氏は藤原一門との勢力争いで潰され排斥されて滅び子孫は極めて少ない氏となります。 後に嵯峨天皇期の令により、僅かに遺したこの一族の末裔が青木氏をなのったものです。平安末期のころです。
この氏は、別にある武蔵の武蔵7党の一つの丹治氏(左大臣の島王の青木氏)の「皇族青木氏」を含め、身分が下がるが皇族関係者の唯一の賜姓族ではない「皇族青木氏」です。
実際には鎌倉末期までに17人の青木氏を名乗れる皇族関係者がいましたが、この二つ以外の子孫の末裔は確認出来ません。僧侶などにて終わった事による原因です。
この橘は橘の葉や花を家紋化したものであるが、家紋の由来は垂心天皇の命を受けて「多遅間毛理」(たじまのもり)が中国に赴き持ち帰ったものです。 この「たじまのもり」が「たじまの花」となり「橘」に変化したものと言われています。
橘氏の橘紋は江戸期に入って徳川氏の支流や御家人らがこの宿禰族の橘氏の家紋を真似て85もの紋様となつたのです。 橘氏の橘紋の使用は橘氏と青木氏のみです。(第3の橘氏を除いて)
後に橘紋は藤原氏に圧迫されて子孫が抹殺されて遺せなかつた氏としてつたわり、縁起が悪いとして後に使われなくなりこの紋の使用は消えていきました。
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