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青木城 ( じょう )

⇒ 因島村上氏最後の拠点で、永禄十年(1567)に 村上新蔵人吉充 が向島立花の余崎城から移ったとされている。のちに、村上氏は小早川氏の旗下となり、関ヶ原合戦後は毛利とともに防長に移り、城は廃された。海に近い山城で、城地からは海が見える。城からすぐ船で海に出ることができたであろう。因島村上氏は三島村上水軍のひとつで、戦国時代は瀬戸内海を制圧していた。遺構は曲輪跡がよく残っており、現在はみかん畑になっている。
広島県因島市重井町
JR山陽本線尾道駅よりバス重井町下車
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青木繁吉 ( しげきち )

⇒ 1886 (明治19 )〜 1971(昭和46)
明治・大正・昭和期の実業家(石油販売業)
雑貨商を営む家業に一時従事し、姉の嫁ぎ先へ丁稚奉公に出る。小柄な体のため軍隊にも入れず、生涯を商売しかないと決心し、奉公中に貯めた32円を元手に1908(M41)高知県高岡町で石油店を開業。天秤棒を担いでランプ用の灯油を売り歩き、一年足らずで町の有力商店に成長した。翌年ライジングサン社(昭和シェル石油)と取引を始め代理店に昇格。電灯の普及と動力用発電機の急増により需要の動向に変化が予想されていたので、1915(T4)愛媛県へ移り再び行商を始めた。石油製品の小売のほか精製方法を独力で研究し、各種の自家製品を作り販路を拡大。 20原料輸送のため木造タンカーを建造。23蒸留窒を設け石油元売りへの道に進んだ。25青木運輸を設立し海運業へ進出。翌年町会議員、1934(S9) から9年間町議と市議を務めた。41統合要請を受け入れ太陽石油として発足、代表者となる。戦中戦後の混乱期を乗り越え58ソ連原油輸入に成功。60東京に本社移転。開業以来現役引退まで50年余、独立自尊を信条とし、将来を洞察する鋭い先見性により、社運の降盛に努め、磐石の基盤を築いた。
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青木周蔵 ( しゅうぞう )

  1. ⇒ 1844年、山陽町埴生(はぶ)に生まれた周蔵は、福沢諭吉(ふくざわゆきち)の勉学の方法に習い、まず蘭学(らんがく)を学びましたが、やがて藩校明倫館で学び、藩医(はんい)青木研蔵(あおきけんぞう)の養子になった後、ドイツの大学に留学して政治の学問を修めました。帰国後、外交官となり、外務大臣を2度務め、低い地位 にあった日本を世界の国々と平等な地位にするため、不平等な条約の改正に努めました。
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  2. ⇒ 青木周蔵(明治期の外交官)
    外交官 - 青木周蔵は異才のテクノクラートであった。長州の片田舎の青年がプロシヤ(現ドイツ)に留学し、外交官となり、国家の大計に果敢に挑戦した。特に欧米諸国との不平等条約改正に力をつくした人物として有名である(当時の日本はとても低い地位にあり、不平等な条約をいくつも結んでいた)。伊藤と大隈の政争、条約改定、憲法制定、大津事件、日清・日露戦争・・明治時代は列強の重圧の中で国家の存亡をかけた選択の日々であった。
    また青木周造はペルー大使館人質事件で注目をあびた青木元大使の祖父にあたる。

     周蔵は弘化元年(1844)、村医三浦玄仲の長男として厚狭郡小埴生村(山陽町)に生まれました。20歳の時に萩へ出て藩医能美隆庵に入門、のち藩主侍医青木研蔵(長州藩の高名な蘭学医、青木周弼の弟)の養子となり、念願の士族入りをはたした。
    ※ 青木周弼は、長崎でシーボルトに師事して西洋医学を学び、日本で初めて種痘をおこなったことでも知られている。13代長州藩主・毛利敬親の侍医で、幕末に文武両面ですぐれた人材を輩出した明倫館の医学所、好生館の会頭兼蘭学掛をつとめた。弟の研蔵も、好生館の西洋学師範掛となっている。青木周蔵の名は、周弼・研蔵の名の1文字ずつをとってつけられた。

     山口県萩市には、いまも昔のままの姿をのこす武家屋敷群がある。そのなかのひとつに、旧青木家がある。門の前の石碑には青木周弼、青木研蔵、青木周蔵の3人の名が刻まれている。
     青木家の3軒隣には、木戸孝允の旧家がある。長崎で医学を学び、海外への留学を切望していた青木は、明治元年(1868)、木戸の推挙をえてドイツ(プロシア)に渡り、政治と法律を学ぶこととなる。

    明治元年 木戸の推挙を得、藩命でドイツ(プロシア)へ医学修業に赴き、宿願であった政治・経済学を学び、その後専任駐独公使となり、ドイツ貴族の娘エリザベットと結婚。

     各国公使を歴任後、帰国、明治22年(1889)第1次山県有朋内閣の外相となり、のち2度外相を務めた。
    同27年には日英通商航海条約に調印して治外法権を廃止し、明治政府の懸案であった不平等条約の改正に大きく貢献した。

    大正3年(1914)没、71歳。

    - 故青木周蔵 略年表 -
    1844年(弘化元年) 厚狭郡 小埴生村に生まれる。幼名 団七。父親は蘭方医(産科医)三浦玄仲、妻は小野田市千崎の目文貞。
    以後、6歳まで小埴生で育ち、それから宇部市藤曲に移り寺子屋に通学した。
    1865年(慶応元年) 長州藩藩医青木家の養子となり、青木家の娘テルと結婚。名を青木周蔵に改める。
    1868年(明治元年) 医学修行のため長州藩に希望し3年間プロシャ(現ドイツ)留学。
    1873年(明治6年) 外務一等全権公使として再びドイツに赴く。翌年オーストリア公使兼任。
    1877年(明治10年) プロシャの貴族の娘エリザベート・フォン・ラーデと結婚。
    1879年(明治12年) 条約改正取調御用掛拝命。娘ハナ誕生。
    1884年(明治17年) ベルリンに着いた軍留学生森林太郎(鴎外)、青木公使に会い強烈な印象を受け、後に「舞姫」を発表。
    1889年(明治22年)山県内閣のもとで外務大臣となり、不平等条例改正に全力を傾注。
    1891年(明治24年) ロシア皇太子が刀で斬りつけられる大津事件が勃発。西郷内相とともに引責辞任。
    1893年(明治26年)イギリス全権公使を兼任。
    1894年(明治27年)青木駐英公使・キンバレー英外相間で日英通商航海条約調印。
    1896年(明治29年)日独通商航海条約をはじめ、ベルギー、フランス、オランダなど次々と通商航海条約を結ぶ。
    1900年(明治33年)明治天皇に対ロシア強硬策を単独内奏、閣内不統一で外相辞任。
    1914年(大正3年)71歳、東京で逝去。
    1914年(大正3年) 第一次世界大戦勃発
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青木周弼 ( しゅうすけ )

⇒ 1803年、現在の東和町和田に医者の青木玄棟(げんとう)の長男として生まれた周弼は、弟・研蔵(けんぞう)とともに長崎で蘭学(オランダの学問)を学びました。西洋医学に精通 していた周弼は、当時世界中で恐れられていた伝染病の天然痘(てんねんとう)を予防する種痘(しゅとう)を長州藩に取り入れ、多くの人の命を救いました。かの高杉晋作も 疱瘡にかかった際、青木周弼・研蔵兄弟の治療で一命を取りとめたという。
また、藩校明倫館の中に医学館を設け、蘭学書の翻訳や医者の育成に努めました。
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青木繁 ( しげる )

⇒ 青木繁(1882〜1911)は久留米市荘島町に生まれ、大いなる志を持って芸術の世界に生き、重要文化財「海の幸」「わだつみのいろこの宮」などの鮮烈な作品を残して、明治洋画壇の鬼才と言われながら28歳の若さで夭折(ようせつ)しました。

明治15年福岡県久留米市に旧有馬藩士青木廉吉の長男として生まれた。
明治37年坂本繁二郎ら4人と房州(千葉県)布良(めら)へ写生旅行に出かけ、「海の幸」を制作し、白馬会第10回展に出品した。この作品は一躍青木の名声をあげた。
明治38年8月23才の時、臨月の福田たね(栃木県芳賀郡水橋村・現芳賀町出身)を連れて、現在の下館市川島に移転し、旅館「玉乃井旅舎」2階で間もなく男子を出生、「海の幸」にちなんで 幸彦(さちひこ)(後の尺八の名手・福田蘭童)と名づけた。
川島時代の青木は、郵便局の2階をアトリエにして制作に励み、妻たねと近所の出産したばかりの女性、鬼怒川の砂利とり人夫をモデルにして「大穴牟知命(おおなむちのみこと)」を制作。この作品は『古事記』に出てくる話を題材にしたもので、水戸線の不要になった枕木を削って額縁をつくり、白馬会創立十周年記念展覧会に出品した。
明治39年12月、日本武尊を祀る信仰の山加波山に登り代表作「日本武尊」を制作した。
羽黒神社境内の小公園の一角に「青木繁の碑」がある。
加波山で制作された「日本武尊」は東京国立博物館に、「大穴牟知命」は久留米市石橋美術館に所蔵されている。
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青木茂 ( しげる )

⇒ 武藤山治に殉じた青木茂

武藤山治 むとうさんじ1867〜1934
紡績王・鐘紡中興の租・時事新報社社長・衆議院議員
  倒産寸前の鐘淵紡績に入社し、その再建に努め、工場の近代化や従業員の福祉向上を図って、後に「紡績王」「鐘紡中興の租」「鐘紡の事実上の創業者」と称賛され、衆議院議員として政財界の革新に尽力した。また経済界きって筆の立つ人物でもあった。
とくに注目すべきことは、武藤山治は「温情主義」の経営で知られる。女子工員らの悲惨な労働環境を改善し、寮制度・日本初の共済組合設置等福利厚生に尽力し、鐘紡をわが国有数の大企業に育てあげた。また、日本の近代資本主義を守るため、独立自尊の経営を求めてやまなかった。とりわけ政商を憎み、政官財の癒着を攻撃。自身の命をかけて、論争を仕掛けた。
1932(S7)年、政界引退。時事新報社相談役に就任。
1934(S9)年3月9日、時事新報社に出社するため北鎌倉駅に向かう武藤山治が暴漢に襲われ、武藤をかばった書生・青木茂が凶弾2発を受けて死亡。武藤は5発を浴び、倒れた。犯人もその場でこめかみに1発打ち込み、自殺。犯行に及んだ動機ははっきりしない。翌10日、武藤も鎌倉の病院で息を引き取った。数え年68歳。

武藤山治は、凶弾に倒れた日の朝、鎌倉、山ノ内の潤光学園女学校(現北鎌倉女子学園)の隣の別邸を出て、北鎌倉駅に向かう途中に待ち伏せしていた暴漢に出会い、しばらく歩きながら話をしていた矢先に暴漢は「あんまりです。」と叫んで、ピストルを発射した。いつもは執事が武藤山治に同行していたが、その日は風邪で外出できず、青木茂が偶々執事に代わって、主人公の武藤山治に同行した。元来正義感が強く、日ごろ武藤山治に心酔していた茂は、いざと言う時に身を挺して、主人を護衛せんものと、敢然と暴漢に立ち向かった。主人のために一身を省みずその楯となって、23年の短い生涯を終えた。山治は重体のうちにも青木茂のことに十分配慮するようにと家族に言い残し、青木 茂の跡を追うように2日後に絶命した。

青木 茂は 小学校から優等生であり、藤沢中学(現 藤嶺学園)に入学したが、家庭の事情により一年で中途退学している。その後は農業の手伝いをし、兄が出征の間家族のために働いた。19歳の時大正村(現 横浜市戸塚区東俣野町)で、6部落連合弁論大会が行われた時に、県下でかって二等に入賞した参加者をおさえて優勝している。一度こうと決めたら貫徹する一途で、負けず嫌いの性格でもあった。

親類の伝で武藤家の書生になってからは、給料の中から5円を差し引いてあとは親に送金するという孝行ぶりを発揮した。親が、洋服など身の回りの物にもう少し小遣の増額を勧めても頑ぜず、最初の信念を曲げなかった。死後衣類などもきちんと整理されてあって、その几帳面な性格の一端が窺われた。以前は老人に対して思いやりはなかったが、武藤家に仕えるようになってからは、中気で病床にあった70歳のおじに好物を携えて、見舞うようになった。このことは武藤山治の感化するところがいかに大きかったか、父親は感謝もし、また驚嘆していたという。

もし、このような不運な事件に巻き添えにならなかったら、生来聡明な青木の未来はどんなものであったか予想し難いが、家族の期待に背かなかったであろう。事件のあった翌日の新聞には、武藤山治をかばわんとして怪漢に撃たれ、その場で昏倒したとの記述により、当時の新聞記事を読んで有縁無縁の人々から青木家に慰藉の手紙や言葉が多く寄せられたという。
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青木淳 ( じゅん )

⇒ 1956年神奈川県生まれ。82年東京大学大学院修士課程修了。83〜90年磯崎新アトリエ。91年青木淳建築計画事務所設立。94年東京建築士会住宅建築賞、96年くまもと景観賞、97年吉岡賞、99年日本建築学会賞、2000年 青森県立美術館公開設計競技最優秀賞など受賞。

最近、青木氏と言えば、ルイ・ヴィトンの店舗設計として有名。
氏は既にヴィトンの店舗設計の「顔」といっても良いほどの存在で、日本に留まらず、ニューヨーク5番街の設計なども手がける

ルイ・ヴィトン松屋銀座店
ルイ・ヴィトン表参道ビル
ルイ・ヴィトン名古屋栄店
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青木正日 ( じょんいる )

⇒ ・朝鮮人カモシレナイ?
・先祖ハ藤原氏二ツカエテイタラシイ?
・野球部デス(4番キャッチャー)
・オレハ頭ガ3割イイ(7割バカ)
・木村拓哉(スマップ)ノ息子トイウ情報モアル
・IQ180
・偏差値74,8
・好キナ食ベ物ハ、ニクand芋
・友達ニ芋トイウヤツガイル
・新しく出た遊戯王のパックを買ったら
アームドドラゴンlv5とlv3が当たった。
・切り札は溶岩魔人ラヴァーゴーレムと
シールドクラッシュとマシュマロンだ。
・この前の練習試合でヒットをうった。(自慢)
・なぜ?僕はこんなに頭がいいのかいつも疑問だ
・僕の友達はみんな弱い
・僕は友達の彼女に秘密をばらした
・大好物は芋になった。

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青木ジョンイル ( じょんいる )

⇒ ・頭は、悪い偏差値35.1川本高校に行く予定
青木正日の知り合い。ここだけの情報青木正日の正体は????????????????????????
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・人だった
 へーへーへーへーへーへーへーへーへーへーへーへーへーへー
 へーへーへーへーへーへー 20へー            
・I am foolish.     我愚蠢
・It attaches [ a top or ] whether it loads. Since reason boast is carried out
■ジョンイル登録
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青木繁恵 ( しげよし )

⇒ イラストレイター
カメラマン
モダンアーチスト
映像作家
詩人
油絵作家
伊勢丹のイラスト
新譜ジャーナル
の イラスト
六本木のタウン誌
新宿プレイマップ
だぶだぼ
経済
目黒雅叙園
センチュリー ハイアット
クレスト 立川
甲府 富士屋ホテル
都ホテル
山梨フルーツパーク
グランド・アーク半蔵門
ブライダル DVD
ビデオ 写真
製作 生い立ち ビデオ DVD
エンデイング DVD ビデオ
製作



青木純一郎 ( じゅんいちろう )

⇒ あおきじゅんいちろう、男性、1972年12月6日 はマルチクリエイター・作家・評論家・構成作家・コント作家・川柳作家・クイズ作家・声優・教育アドバイザー・番組プロデューサー

東京都荒川区生まれ。埼玉県立浦和西高等学校、早稲田大学第二文学部文芸専修卒。
デビューは1985年冬、劇場用アニメ映画『世紀末救世主伝説 北斗の拳』(1986年正月公開)のエキストラ声優。
ライターデビューは1992年、劇作家小池一夫経営の編集プロダクション『スタジオ・シップ』から発行された「月刊100論」にアルバイトのライターとして執筆。
作家として食べられなかった時代に進学塾専任講師として主に小学生・中学生を指導し、埼玉県No.1国語講師に輝く。(育伸社の調査結果による)
投稿採用本数が1200本強という元ハガキ職人。
クイズ好きらしい。
リクルートフロム・エー 東京ピンポイント「南池袋公園ウルトラクイズ」優勝
リクルートフロム・エー 東京ピンポイント「戸越公園ウルトラクイズ」優勝
将棋アマチュア2段。最近はまったく指していないようで結構弱いらしい。
競馬好きで、JRA・地方競馬問わず、よくやるらしい。競馬好きが講じて「競馬格付バトル!」という番組のプロデューサーを務めている。
2月から第1第3月曜深夜「夜遊びメールバトル」にも出演中。番組の主役である伝説のロックバンド【電気GUY】のdrums・アランとして活躍している。北斗の拳・ケンシロウのような格好でドラムを叩いている。
ゴーストライターとしての著作が十数冊とのこと。


青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。
Sakura Dictionary Ver. 1.09a
Scripted by UTANO Lime
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