「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」の末尾。
参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
この“「良い味」”には「高度な技術」が潜んでいたのだ。
故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明であったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ[匠」にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、求めてめている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」に成る前の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。
それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。
「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」
さて、戻して、そこで「鉄」に均等に「炭素とマンガン」のこれが“「結晶間に浸透すると云う現象」を上手く利用できていた”のではとする発想が偶然かは別として生まれて来るのだ。
そもそも「進歩」などと云うものはそのキッカケは「偶然」によるものが多い。
参考として、先ずその前に“「結晶とする知識の獲得」”は現実に「技術理論として把握していたのか」の疑問であるが、それは“「貿易か経験」”かで得られていたかは判らないが、それは実は「目視的」に解るのだが、故に外観的には「答え」としては“解っていた”と判断できるのだ。
つまり、それだけの「経験力」とされを基にした「技術力」を周囲に比べて特段に持ち得ていた事に成る。
何故ならば、その「試作の単片」を鏡の様に「砥石・日高砥石」の様な「超仕上げ砥石」で細かく磨き上げ、これに強い日光を当てれば「光の屈折」でうっすらとその「結晶の様子」が浮かび上がり、且つ、その「屈折」で僅かに「色合い・結晶の判別が可」も浮かび上がり観えるものである。
これを更に「うすい2%程度の硝酸塩」に「2分程度浸して」それを拡大鏡で観れば凡その結晶構造まで観える。
当時としては外国から輸入して「ある程度の拡大レンズ」はあつた事は解っているので、ある程度の範囲の「結晶構造」は観えていた事が考えられる。
取り分け、前段でも論じたが「酸」の中でも、この「硝酸塩・硝酸カリウム・黒色火薬」は糞尿などを自然発酵させて変化させる事でも簡単に得られるが、故にその身近なものとして古代から既に「狼煙」などにも使われていて「火薬などの発達」と共に古代からあった。
注釈 因みに 一般に聞きなれないこの「硝酸塩」とは、「硝酸類とアルカリ金属とアルカリ土類金属」との結合体の「塩類」で、古来から糞尿などから造られていたし、肥料にも使われていた最も人類に「身近な化学薬品」とされるものであつた。
故に、「アルカリ金属類・リチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、フランシウム」と、「アルカリ土類金属類・カルシウム、ストロンチウム、バリウム、ラジウム、 ベリリウム、マグネシウム」であり、取り分け、「リチウムとナトリウムとカリウムとマグネシウム」は炎色の発火性を用いて「火薬等」にも広く多く用いられていて、従って「花火」と云う点では同然に「古代から身近な金属類」として扱われていた古い歴史を持っていたのだ。
だから、上記の通り「鉄」を鍛える為に加えられる金属類としては身近なものであったのだ。
上記で論じた取り分け「遷移元素のマンガン」は、「酸に溶けやすい金属」として有名で、性質は「野菜など採取できる身近な金属の亜鉛」にも性質は類似しいて、この「硝酸塩類」と共に古代から広く用いられている金属である。
この様に後勘から観た「金属の歴史観・学問的知識」を承知すると、「銃の事」に関してにもより理解は深める事が出来るであろう。
筆者は、大和に於いては「金属知識」は「局部」にではあるがそれなりに高くて広まっていたと観ている。
それだけに「最先端の専門的知識」で以てこの様に検証する必要があるのだ。
前段で論じた様に「奈良期から平安期」の「古墳建築や干拓灌漑」を手掛けた「額田部氏」の「土木建築工学的専門知識」は、唐に勝るとも劣らずの知識を持ち得ていたが、「金属」などの「冶金工学的な知識」や「額田部氏」と連携した結果から、「地質学的知識等」も「青木氏部」に依ってその知識は同然で高められて行ったと考えている。
其の連携は、「青木氏部」は明治初期まで続いたとする事からその技量は「日本のトップクラス」にあったと考えられ、故に「近代銃」にまでのものに応用されるものであったのだと考えている。
依って、明治初期の「伊勢屋の解体縮小の政治的圧力」では、「額田部氏の起業化・桑名」と「青木氏部の大工会社・2社・寺社大工」と共に「二つの企業化」を成したと成っている。
然し、この辺の「青木氏部論の研究」も何時かは論じて観たいと考えて準備している。
従って、この程度の事は「砥石の歴史・奈良期チャート」を観れば判るし、その「日高砥石」は技術の発展と供に歩んで来た経緯があって、その経緯は「歴史の技量」を物語る一品として有名で、「古代の何かの特別な技量」を物語るものには必ず「日高砥石」が出て来るのだ。
歴史に使用されたものとして青木氏では長く保有して来た。
これは「刀用だけではないもの」からも判断して技量の判定や確定に利用は出来るのだ。
現在では、この砥石の代わりに「腐食液・2%硝酸ナイタール」を使ってすれば「顕微鏡等・最低で20倍最大で100倍」で万華鏡の様に綺麗に観えるが、故に、「顕微鏡」が無いにしてもこの「結晶らしき概念の概要」は密かに保有していた事が判るのだ。
その事から「鉄と炭素とマンガンの関係の知識」とその「結晶的な概念」は「青木氏部」だけには充分にあったと経緯からすると確定できるだろう。
ただ、この「マンガンに関しての知識」は「概念程度」で相関的な知識は無かった事は解る。
尚且つ、上記したある程度の要領を記したものが、技量を統一する為なのか「要領書的な物」として「技量伝承の為」にか、「密かに氏人の床下に遺されていた形跡・世間に漏れる事を危険として嫌った」があって、「桑名地域の蔵の資料の一部」が読み取れるのだ。
注釈 「明治35年伊勢屋解散・摂津に移籍」と共に「青木氏部」も解散し、一部が「桑名の額田」で工業所を創業、その関係する処の一部から資料が発見されている。
この「多くの遺産物」は「失火消失・口伝・この頃の火事は疑問が多い」したと考えられるが、その様に伝えられている。
それが前段で論じて来た「額田青木氏の銃の処の検証」であって、「古来・8世紀初期頃」には「近江鉄の生産703年と713年」は下記の通り歴史的に確認されている事から、そうすると「10世紀頃」には「伊勢青木氏」の中で密かにも硝煙は生産されていたと考えられる。
その「名残の証」として「近江鉱山」に使う「火薬・焔硝の形」で遺されていたのであろう。
その「名残」が「近江鉱山の近くの村」の「近江の床下・鉱山開発の爆薬」からも発見されていて、それに連動してか前段でも詳細に論じたが、偶然にもこの「要領書的なる物」が、「蔵等」では無く「思い掛けない所・神社の床下」から発見されたこれも「歴史的な由縁」なのであろう。
つまり、この「発見カ所の床下」から考えると、この「要領書的な物の事・メモ的な物」は“何か特別なものとして観られて扱われていた事”を意味するだろう。
そこで前段でも論じたが、歴史的には「天智天皇・大化期」には「朝鮮半島の百済復興」に出向き、それに「中国・唐」が朝鮮半島に進出し「白村江の戦い」で敗戦して急いで帰国し、「中国の大和侵攻」の“いざという時に戦える様に、“「中国道・現在の山陽道」を結城氏等に命じてこの工事を急いで完成させ造られたとする「歴史的史実」”がある。
この時に下関の半島の先端からの「緊急の伝達手段」として「狼煙・焔硝」を使って都に「情報を伝える手段」を「構築・史実」したのだが、この事は既にこの“「焔硝」”は在って常時使われていたが、その為にこれは「皇親族」として唯一の「朝廷の国造の支配頭」をしていた「青木氏・青木氏部」で生産されていた事を示すものだ。
故に、此の頃からの「青木氏部の存在」は、「近江鉄」に始りその時代の「技術的基礎・国の技術的基準」は「青木氏部」にあったと考えられ、当然に上記の事も含めて「硝酸塩の歴史」も「青木氏部」にあったと考えるのが普通であろう。
つまり、この「顕微鏡」が無いにしても、この“「焔硝の存在」”に依って使っていたかは記録が見つからないので実録が見つからないので判らないが、“「結晶らしき概念の概要」”をそれなりに「鉄の表面」から、「より鮮明にして明確に確認できる環境に在った事」には成るだろう。
筆者は完全では無くてもそれなりに使ってたと観ている。
これは「奈良期からの青木氏部」には、「かなりの技術力が在った事」が云え、且つ、「氏族で独自の部・歴史的に確認できるのは四氏程度」を持ち、中でも総合力を持ち得ていたのは「青木氏部」であって、且つ、「朝廷の物造・国造の差配頭であった事」と「令外官・賜姓五役の事」からも裏付けられる事を示しているものだ。
「青木氏部」は、要するに当時は「国の工学院的な立場」にあったと観ているが、「院号の確認」は古い為に資料がなく確定は出来ない。
唯鉱山とその製鉄の技術を保有している限りに於いては技術の総合力を保持していたと考えるのが普通であろうし、青木氏部に比べて他に居なかったとすれば「国の工学院的な立場」の説は認められるであろう。
況してや賜姓五役の令外官であったのだ。
他に代わるべきものは無い事は頷ける。
「青木氏部」の他に確認できる範囲では、記録として残る与えられた「院屋号」は「紙屋院、絵画院、墨具屋院、繪所預院,軍師処、等」が記録に明確に遺されている。
この事から、一部資料からこの「鍛屋・かや」又は「鍛冶院・かぬやいん」と云う号名が出て来るがこれが「院号」では無かったであろうか。
そもそも「青木氏部の位置・朝廷との関わり」づけから、この「青木氏部」の中にも「院や屋や号」に相当するものが必ずあったのでは無いかと観ているのだ。
「近江鉱山を二つも興した青木氏」であれば何も無しはおかしく「院屋号」は少なくとも与えられるであろう。
況してや「院屋号」を与えないと折角の鉱山の鉄もその販売も出来る事は無いだろう。
現実にその「功績」を以て「伊勢」に「二度の大字」を与えられて功績を認められているのだ。
「青木氏」は、自らも「青木氏部」を持ち、且つ、直接には「令外官」として「国造」を支配し、朝廷の「伴造」も「皇親族」として代わって差配下に置いていたとしている。
故に、その名残として「光仁天皇」の以降は 「諱号」を「伴」にする事が多かったのだ。
その関係する「青木氏部」の中の一つに上記した「鍛屋(かや)・鍛屋院では」と出て来る。
この「鍛屋(かや」の号は、「近江鉱山開発の所縁」からの「院号・特区別占有権」を授かった「鍛冶屋(かぬや)の院、又は屋、又は号」では無いか。
「鍛屋(かや)・「鍛冶屋(かぬや)」に「屋」が着いている処をみると、「紙屋院」と同様に「鉱山を掘る事」と共にそれを「売り捌くまでの事」に成っていたと云う事だろう。
さて、再び技術論に戻る。
その「上記の方法」でこの「概要」は少なくとも会得していたと考えられるが、この「炭素」と同様に、「記する処の筆者の読み込み」では、この「要領書的な物の存在」では“「光で映し出された粒の細かさが左右する」”として、その「光具合の技量」を会得していたらしく、それを「青木氏部の匠集団の中」で密かに伝えていたらしい事が解る。
そもそも他と比べて珍しくも「青木氏の家訓10訓」にもある“「技術の重要性に関する事」”を説いているのはこの事に依る所以であろう。
つまり「青木氏」の中にその「立場の関係者」のなかには「技量の伝承の義務」みたいなものが江戸期前までは長くあったのでは無いだろうが。
余談だが、先ず、そもそも「家訓」に「技術の重要性」を説いているものは世間では皆無であろう。
それだけに「商い・殖産」をしながらも、「技術の青木氏部の存在」が「伊勢と信濃の青木氏」の中では大きかった事を意味している。
当時としてはこれでは普通で考えれば、世間からも“不思議な氏族である”と充分に観られていた筈だ。
今で云えば、前段でも論じている事だが、“「販売」”もし、“「物造り」”もし、“「研究所」”も持つ「青木ホールディングス」であったのであろう。
それでいて、一方で“「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷」”を重んじ維持し、将又、“「巨万の豪商」”と成りながらも、他方では“「質・施し」を「神明社」で施す”と云う処まで及んでいたのだ。
一方では、“「律宗族」”と呼ばれ扱われていたとするのだから、その「歴史の中」にはその「独特の影響力」は深く「農業の分野」までに及んでいて、信濃と越後から進んだ技術を学び「伊勢の立地」からその「土壌と季節性」に苦手とされる「米の超早場米と酒米の開発・日本初」まで挑んでいたのだ。
どう考えても、“不思議中の不思議の氏族”と普通に考えれば観られていた事には成る。
確かに「奈良期の古来」よりその存在そのものが「普通」では無い事は間違いは無いが、これは前段でも論じた様に、「普通」では成り立つ事の無い「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷・院号の伊勢屋」と「賜姓族青木氏」の「二足の草鞋策を使い分けていた事の所以」である事は自明の理であるが、それが余りにも長い歴史を有し続けていた事から、これを世間ではこれが普通の事・当たり前の事と捉えられていた事に成るのでは無いかと考えられし、この事に就いてだけに明確に論じたものはないが、この説論は「流れ」や「状況証拠」から観て先ず間違いはない筈だ。
だから、それらを纏められていたものが「家訓10訓」にも成り得ていた事は、“不思議な事では無い”し、そうでなければ「伊勢と信濃の女系氏族郷士50衆」からも異論は出て、「氏族存続・全ての事」のそのものが成り立たなかった筈だし、然し、「伊勢と信濃での連携」で成り立ってきたのだ。
それ故に、当初、「青木氏の解明の研究」に苦労したが、「技術の重要性に関する事」は「大正14年」まで続いたと云える。
その「科学の片鱗」が未だに「子孫の血液・理数系」の中に色濃くの遺し得ているのだ。
元に戻して、“「結晶らしき概念の概要」”のそれは、「紀州姥め樫の備長炭・墨」では「細かい事」が良い事が解っていたからであり、それで無くては、“「良い品質の墨」からの「炭」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、略して、専門の呼称として「サイアナイド・浸炭効果」とこれを云うが,特殊な技術」が得られていたのだ。
これを、“「浸炭としての効果」が出ない”として「青木氏部の中」では伝えて語られていたらしい事が書かれている。
然し、「一般の技術・主に鈩鉄」では、“「良い品質の墨」からの「炭/炭素」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、「強く硬くすると云う概念」は全く無かったと観ている。
唯、「幾つかの記録の表現」から「総合的」にあったのは、つまりは、「鍛して・叩いて強くする」と云う概念であったらしい。
その証拠に「炭素の量」に「拘りの表現」が全くにして無いのだ。
そもそも「鈩製鉄」では,「内炉の底にたまる鉄・0.10%程度・純鉄」と「炉外の炉低に流れ出た0.28%程度・低炭素」の「二つの鉄の塊」が出来て、それが「鉄表面0.2ミリ付近に侵入した鉄」が二つ出来るのだ。
これを、“何度も加熱して鍛して折り重ねてそれを繰り返しで造った玉鋼」は出来るのだが、元より「炭素の量」に「拘り」が全くにして無かったのだ。
ところが「近江鉄」は鉱山から掘り出した「鉱石」であって「砂鉄の箱型炉」では無く、新しく鉱石様に開発された「竪型炉」から出来る為に“「浸炭としての効果」を強く求めたのだ。
両者の求める「技術の領域」が全く異なっていたとする「大きな技術の経緯」があったのだ。
だから誰も真似は出来なかったと云う事があった。
略して、「専門の呼称」としては「浸炭・サイアナイト」と成るのだが、要するに特別なのだ。
この「一連の銃の研究」では、「約20年の試行錯誤の結果」から、その「温度に依って左右している事」を把握したとしていて、「内部の結晶・結晶の表現」としは、記録に無いが、但し、唯単に“「粗鉄・あら鉄」の「炭差」”の「意味合い」として記している。
これは、況や、「鉄の細かさの温度に依る変化」として捉えていたと云う事に成るだろう。
この様な「専門的な見地から記されている事」を要約すると、先ず「墨」の如くに極めて「粒を均一にして、更に「極めて細微」にして、それを先ず「熱・灼熱」して、「粗鉄・あらてつ・結晶を開いて」にして、これに「繰り返し」で「浸・浸透」させ、「鍛」し、これを以て「繰り返し」、その「技・熱処理」を施し、その後に「冷する」とあり、更に、不思議にその後に“「低く焼する」”と「添え書き」があり、「要領書・メモ形式的・古くて読み難い」に記されている。
但し、この“「鍛」し”、は “「鍛える」”と云う「意味合い」だけでは無く、主に“「繰り返しの過熱」”に等しい「意味合い」で表現しているらしい。
この「加熱を繰り返す事」に依って「墨、又は炭が浸みこむ事を促進させる」と云う意味合いで、“「鍛」し”、の呼称が使われていた事に成る。
但し、この事は鈩鉄とは根本的違っている
つまり、この事は近江鉄では「メインの作業目的」には、「墨、炭の量を微妙に調整していた事」に成るだろう。
正しくは、この「工程」において「炭」では無く、最早、「細墨」を越えてであって、「炭素・Cの意味」を成している。
それは次の理由による。
1 加熱の炭
2 鉄に付着している不純物の除去・還元作用・炉中で炭酸ガスに不純物は酸素に吸着させ、その代わりに炭素は鉄の結晶間に浸み込ませる。
3 鉄にガス程に細かく成った「墨/炭素]を浸み込ませ浸炭する。炭では分子が大きすぎて浸みこまない。
奈良期ではまだ「1の加熱炭」であったが、その平安期中期頃には「2の還元・入替」に気づき、平安期末期には「3の浸炭」へと進化を遂げた。
兎も角も、上記の時期は捉え方で確定は出来ないが工程は次の様に推移して行った。
「近江鉄の進化」=「1の加熱炭」→「2の還元」→「3の浸炭」
つまり、この「20年の試行錯誤の経験」から、この前段でも論じた様に上記の数式の工程から既に「青木氏部」は、「墨の殖産の技術・墨・炭の経験」を持っていて、それを「高温に成る良質の備長炭の加熱材を使用した事」から、“偶然にも“「表面が少し固く成る事」”を知り得たと考えられる。
要するに、「浸炭硬化」であった。
ところが、その“「固さ」”と表現するものが、然し、実質のその特性は、“「硬さ」”であるのだが、これをより得る為に「何度」も上記の通りに、“「鍛する事」”と“「炭で加熱を繰り返す事」”で「得られる事」のこの“「三つの技」”を把握したのであろう。
そして、「注目する事のもう一つ」は、その中には、「鍛する事の意味」が「鈩鉄」と違っていた事が理解した事が解る。
この「鍛する事」で、「加熱によって拡大した結晶」が潰され、且つ、その「エネルギー」で「硬くなるの効能」では無く、「一度に炭素を継続して浸み込ませる技」よりも、「何度も加熱を繰り返す事の技」で、より「炭素を浸み量を増やす改善策」を見出した様であったが、これの進化が主であった様であり、その事によって「最悪の品質」を招く“「結晶の拡大」”を防いでいた様でもあり、その事が知っていたかは別として把握していた様だ。
故に、この結果から、「要領書的な物の事の遺す重要性」があって記され、それにはその得られる性質を“「固さの表現」”と成ったと考えられる。
然し、この「事実」はこの二つは下記の“「特別な現象」”で違うのである。
さてところが、この“「固さと表現」”に付いて其の侭では、折角の“「欠点解消の処置が裏目に出る」”と云う経験をして仕舞ったのだ。
この後で「収縮や変形や亀裂や炸裂等」の好まない「欠点の事・ロ」の顕著の特徴が、恐らくは、「試作中・試撃ち等か」に発生したのだと考えられる。
つまり、文章の行を読み取ると、「何の為の試行錯誤経験か判らない事」が起こって仕舞っていたのであろう。
故に、将又、更に「試行錯誤の経験・やり直しの過程」に入った様だ。
兎も角も、工程を元に戻す為に行った「低く焼している事の過程」で、この「欠点の事・ロ」が何故か「消えて治っている事」に気づいたのだろう。
これが、要するに“全ての熱を掛けて仕上げた物”に、もう一度矛盾するかの様にその「熱の影響を除去する為の熱の処理」が必要とする事に気づいた事に成る。
これは当時としては当に「原理矛盾」である。
ところが、それが,現在で云う「テンパーリング・応力除去の概念」と云う「高度な技術」なのであって、それを知らずか獲得していた事に成るのだ。
抑々も“この世に於いて固くはなるが硬くもなる”という事は、この「自然界」に於いては原理的に無い。
その“「硬くなったもの」”、そのものには、この世に於いて「一般的に得られない事象]であって、その「事象」を知っていて恣意的に人間が造り出さねばならないものである筈だ。
従って、この様に「作り代えたもの」には、“何某かの次元変化を興させねば元には戻らない”筈だ。
それが適用されたのが、この「金属にのみ発生する原理矛盾の熱処理」なのだ。
故に、その上で結果として“「要領書的な物の事」”に示す様に「原理矛盾の技術理論」を纏めて遺し確立させ獲得したと考えられる。
ここで、この“「固さと硬さ”に関する検証・概念では大きく違うのだが、然し、この「概念の解決」が必要と成ったとみられる。
現在から観ると、先ずその概して云えば、その“「硬さの概念」”はこの事で完全とは云えないまでもある程度に掴んでいた様である事は認められる。
然し、これを専門的に観れば未だ「大きな未熟の一点」としてあった事が確認できるのだ。
つまり、それは此処では、当初、何度も「加熱―鍛えー再加熱ー冷しー繰返し」の「五つの工程事で得られた特質」と考えられていた様であるが、実はこの「昔の概念」は大事な処が一つ抜けていて違うのである。
確かに、この「五つの工程事」では、「鉄」がある温度に依って「炭素」が偶然に「結晶」に浸み込み、それが「結晶の縁」に「浸み込み」が起こり、それが「鍛される事」で潰れて「原形」より「薄く」なり、これが「繰り返される事」で要するに「固くなるとする一般概念」として受け取られていたらしい。
ここが違うのだ。
これは降る程度の範囲では確かである事は完全に否定はしないが、然し、実はこれは“「固さ」”の「直接的効果」では無いのだ。
飽く迄も、上記した様に冶金学では此れは、本来は上記した様に“「固さ」”なのであるからだ。
ここには、何故ならば“「本来の硬さ」”から来るものには、必ずこの「自然界」では観られないある“「特別なあり得ない現象」”が起こっているものなのだ。
これが起こっている限りは“「固さ」”では無いのだ。
これでは、この時代では未だ当に「獲得し得ていなかった概念である事」は成る。
それは、これには“「固さと硬さ」”に関係する「大事な結晶理論に伴う事」が起っているからなのだ。
これは、「結晶の概念」に付いては、当時としては未だ“「鉄の細かさの温度に依る変化」”としてしか「概念」が無かった事の所以」なのだが、従って、それをこの「記録」では“「粗鉄・あらてつ」”と記されている所以でもある。
“「粗鉄」”はで飽く迄も「鉄の域」を超えていない。
「鉄」を「粗い」と「細かい」とに分類しているだけであってこれには「結晶の大小の概念」がない。
要は、「鉄」には「粗い」と「細かい」ではなく、“「結晶の大小の概念」”が必要なのである。
“「鉄の粗い」”は、必ずしも「結晶の大きい」に相当するとはならないのだ。
何故ならば、「鉄の粗いの定義]としては、これには「均一性」が無く、この「粗い」の中に「細かい部分」も含んで「粗い」としている。
「鉄」は「使用」に際しては、“ほぼこの「均一と細かい」で無くては使用に際しない”のだ。
従って、「鉄」には「均一と細かい」が必ず求められ、この「均一」に「不均一としての不純物」が介在していればそれが阻害して「均一・又は均一性」は得られないのだ。
故に、「不純物の除去。還元」が求められたのだ。
結局は、「粗い」と「細かい」ではなく、それは「結晶の大小の概念」が必要と成って来たのである。
何故ならば、この「不純物」は、この「結晶間」に存在するからだ。
この「結晶」を小さく求めて行けば結果として「不純物」の「ノロとスラジ」も消えて行くのだ。逆の事も云える。
処で、この「鉄の中]で、この「結晶を小さく求める事」は並大抵の事では無いのだ。
「鉄を加熱する事]はそれは粗くなると云う定義に成るのだ。これを繰り返せば繰り返す程にその粗さはより増すのだ。
「鉄の工程」としてはこれは「論理矛盾」である。
「温度」を上げれば挙げる程に「結晶」は大きく成り、時間も長引けば長引く程に大きく成るし,その分だけ「鉄」は「結晶間の力」が弱く成り脆く成るのだ。
ではどうするかであるが、この「鉄」には「ある特定の限定された温度域」で「適度に加熱する事」で「細かく成ると云う事」が不思議に起こるのだ。
これは「論理矛盾の解決」である。
この神が与えた「特定の温度」を把握する必要があるのだ。
そうでないとそもそも結晶間に存在するものは何であれ「弊害物」と成り得ても脆く成るのである。
これを「無弊害物」にしなければ成らず、同時に強くする物質に換えなければならない。
ではそこでこの「結晶間に浸み込んだ細かい炭素」は、「不純物」として成り「炭素の効果」を発揮しないのだ。
寧ろ、普通の理論では「浸みこんだ炭素」が逆に概して「結晶間の間」に入った「不純物」として「鉄の表面強度」を弱くして仕舞うのだ。
結果として場合に依っては「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に全面に走るのだ。
故に、当時としては「炭素」は「不純物」と観ていた筈だ。
然し、ところが「加熱材」として、又「還元剤」としても使わなくてはならないのだ。
「鈩製鉄」の「玉鋼」は、当に当初よりこの概念の中にあるが、「703年と713年の近江鉄」では「鉄鉱石」であって、ここから原鉱石を溶かして「鉄」を引き出し、「炭素と石灰」を使ってその反応強さで結合させて「各種の鉄を造る事」に成るのだ。
故に、「玉鋼」だけには限定されていない。
「不純物」と観られているこの「炭素」は、「近江鉄」に執つては逆で、つまり、「炭素と石灰」を使う「竪型炉」に執っては「必需品」と成り得るのだ。
但し、この「近江鉄の竪型炉」に執っての必需品には、飽く迄も「不純物」である以上は「難しい限度」があるのだ。
故に、「結晶間の不純物」と観られている「炭素の存在」は「鉄の性質」に大きく左右するのだ。
従って、「鈩鉄」に比べて「近江鉄」ではその特徴を掴めば歓迎されていたと考えられる。
とすると、この歓迎されている以上の「近江鉄」には、「不純物視」されていた「結晶間の炭素」を「コントロール」していた事に成り、逆に「炭素の少ない鉄・やわらかい鉄」から「炭素の多い硬い鉄」を生産する事に進化を遂げて行ったと考えられる。
ところが上記した様に普通で考えれば「不純物」である限りは「近江鉄」には「限度」が存在する事に成る。
この「限度」を掴まなくてはならない。
それも「結晶間」に存在する限りは「破壊」に繋がるからだ。
これを「青木氏部」は絶対に掴む必要があった筈だ。
さて、もう一つこの“「限度」を掴まなくては使え無い”という事が起るのだ。
そこで、それが「鉄」である限りは、先ず「加熱と冷却の熱処理」をすることが求めらる。
「炭素量」が多く成れば成る程に、そもそも「炭素」が基本的に「不純物」である限りは相当に鉄の純度を上げない限りは「熱」に依って存在する「結晶間」で破壊するのだ。
では、この「ノウハウの知識」が進んでいない以上はその限度の数値は「偶然把握」であり、どの様に「偶然の一致」がこの「近江鉄」に起こっていたかである。
学問的に研究調査で後に判った事ではあるが、この「不純物の炭素」の「鉄の結晶間」に浸み込む程度は、「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」でこれは定まっている事に必ず気付くのだ。
だと云いながらも、現実にはどの様にその限度を調べるかであってその方法が源るられていた筈だ。
「最低で0.25%程度」、「最高でも1.3%程度」で限度は発生する。
この「高い炭素」の場合は、「炭素の弊害」を無くす為の「特殊金属・マンガン等」を加えなくては使えないのだ。
これは現在で判った知識であって、当時は「採取できる鉱石」に自然に含まれていてるもので、その量も決まってくるのだ。
資料を読み取ると、「炭素」ではある程度の量で、それを「酸化する程度」で把握していたらしい。
「マンガン」では含まれる「自然量」は、「鉄に含まれる金属の量」で「自然と鉄の反射色」が変わって来るので判る。
採掘場所で異なるので、ここの「マンガンを含んだ鉱石」は「錆び難い鉱石の事」で判るし、「還元」を強くすると「炉の入り口に溜まる量」でも判るのだ。
これで「鉱石を選んでいた事」が書かれているが、「炉の入り口に溜まる量」を集めて炉中に入れ直しても使えないのだ。
何故ならば、「マンガンの融点」が高い為に「鉄の中に溶け込まず遊離して存在する事」に成るので、結局は不純物に成り破壊に繋がるのだ。
従っても「マンガン等」は明治期の高炉でやっと使える様に成った事が書かれている。
戻して、「炭素の量」はマンガンなどが除去された後の「酸化程度」で見極めていたらしい。
その証拠に古来では、「箱型炉の炉低外に流れ出た鉄」は、「深い船底の様な穴」に流し、そこで先ず「微粉末の炭」に包んで保護していた事が解っている。
これは「酸化を防ぎ目的」と、「炭素を表面に浸み込ませる目的」で行っていたものであるらしい。
これを「二度目の加熱」で更に「炭素を浸み込ませる目的」であったらしい。
最高で四度も「製鉄加熱」を繰り返していたらしい事が書かれている。
これは当に飽く迄も「酸化防止を目的」とした「炭素の量の浸炭目的であった事」に成る。
この「近江鉄」を「青木氏部」が「鍛冶院・かやいん・かぬいん/鍛冶院/かやいん」として「号」を以て扱う以上は、この「数値」を掴む必要に迫られていた筈だ。
少なくとも、「自然の摂理の概要」に左右されている程度の事を「平安期中期」までにはその歴史的経緯から逆算して観て知っていなければならなかった筈だ。
そうで無ければ当時としては、「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」も「偶然の自然の理屈」で決まっている以上は、つまり「論理的な理屈では導き出せない事」から下記の「温度域・723度」をも把握できていない筈だ。
「近江鉄」は下記の「温度域・723度を使えない事」に成っていた筈だ。
ところがこの「温度域・723度域を使う事」で解決するのだ。
根気いる実験しか無かった筈だ。
然し、結果論から「1540年〜1550年頃」には、最早、この「温度域・723度」は「銃の欠点克服の為」に「試行錯誤の上」で掴んでいた事に成る。
この「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」に直接影響している“「鉄の理想的な結晶間の炭素量」”の「温度域・723度」であって、此処にだけに“「共析鋼」”と呼ばれる鋼にある事を、概して少なくとも掴んでいた事に成り、逆の事も云える。
完璧な「偶然の自然の理屈」で出来る表の様で無くても「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」では、“それなりの「ポイントの繋がり」”としてを掴んていたと考えられる。
それは「竪型炉の加熱時の備長炭の墨」の「木炭の加え方」と「石灰の投入の仕方と量と質」に「ノウハウの源」を府詰めしていた事に成る。
少なくとも「無秩序な木炭と石灰の加熱と量」では得られないと心得ていた事に成る。
これは「匠の極めた範囲のノウハウ」であったのかも知れない。
これ等の事は「青木氏部」に秘かに引き継がれていた事に成る。
だから、「鎌倉幕府に竪型炉による製鉄方式」を求められて「関東の鉱山}に拡大する事が出来たのだ。
注釈として「伊勢本領安堵」の秘密裏に駆け引きに使われた事が考えられる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏部」から廻していた「鍛冶師の日野」の「ノウハウ」を薩摩藩等が秘密裏に「引き抜き事件」が1550年代に起きたが、この時には「伊勢の指示」に従った「日野の職人」の殆どは「伊勢の指示」に従い「伊勢」に逃げ帰って「青木氏部」に戻った事件があった。
それ程に、「青木氏部の保有する銃の生産のみならず製鉄のノウハウ」にも興味が集まっていたのだ。
取り分け、「近江鉄の4つの鉱山の製鉄」には「竪型炉のノウハウ」も含めてこれらは「鍛屋院の青木氏部」しか持ち得ない「製鉄ノウハウのかたまり」であったのだ。
それにはどうするかであるが「以下の事」が同時に考えられていた筈である。
「鉄」には「特徴ある特定の温度域」で突然に細かく成り、同時に不思議に「結晶」は丸く成り、「鉄」は四方からの負荷力が均一化して強くなると云う特徴を持っているのだ。
その「加熱温度」が「600度〜650度」と限定されているのだ。この温度域に結晶と炭素に限り起こるのだ。
これも偶然の原理でこの「不思議な温度」なのだが「不思議な温度」だけに色々な名で呼ばれている。
「微細化温度、球状化温度、均一化温度、応力除去温度、安定化温度・・・等」の「全ゆる熱処理」で起こった欠点を克服する温度でもあるのだ。
現在では結晶に限り「再結晶処理温度」とも云うのだが「金属の熱処理」としては、丁度、「中間の温度域帯」に位置するのだ。
然し、この「金属の熱処理」の概念は「近代の新しい目的」から来た見つけられた熱処理で過去に於いては其処まで金属に対しての必要性も無かったであろうし、判らなかったであろう。
では、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」に、ではこの“「特徴ある特定の温度」”で処理すればよいか”と云うと、問題と成るのは、“どの工程で行うか”によりそうでもないのだ。
要はその効果の問題である。
先ずその前に「この概念」はそもそもが未だ把握していなかったであろう。
先ず「処理」が難しすぎるからだし、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」の「目標達成」には意味が大きすぎる。
そこまでしなくても、ほぼ「額田青木氏に与えた銃の欠点除去の目標」は達成できたからだ。
それは「近江鉄」が使った「竪型炉」から得られる「鉄鉱石」には、「特徴ある特定の温度域」は何も必要としないのだ。
従って、下記にその「温度域・723度・共析鋼」を記しているが、偶然にも「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に走る事は起こらなかったのだ。
だから、この「要領書の粗いの表現」からして書いた時のものは「完成時の物」では無い気がする。.
「偶然」にも「凄い温度域」をこの「近江鉄」で見つけ出したと云う事だ。
侭さに上記した「偶然温度」であるのだ。
先ず「鉄の不純物」にはある「物理的な特徴・比重差」があって、これを「攪拌する事」で一か所に集中する性質を有するので、これを「く字型の道具」で取り除く事は「鉄の場合」は比較的に容易であるのだ。
唯、「鉄」に科学的に付着しているものには、「石灰」と「木炭に依る炭酸ガス/加熱材にも成る」で「還元する事」で可能であるのでこれは一般の製鉄の工程通りである。
以上の“「不思議な現象」”では、当時に於いては当然に「この概念に到達する確認できる術も無かった事」も頷けるが、さてだからと云って完全に無かったかと云うとそうでもないのだ。
そもそも放置できない事だからだ。
それは何度も論じている様に、これも“「紀州産備長炭の特徴」”にあったのだ。
これをその「産地の紀州の藤白地区」から運んで来て、この「砂鉄」の「鈩製鉄手法の箱型炉」を、先ず「箱型」を「縦」に向けて、それを改良して、「炉溶温度」を上げられる様にし、それに合わせて改良を重ねた「竪型炉」を態々造って使っているという事なのだ。
「鈩製鉄」の様に、単なる「木材」を「炉」に投入してそこから時間を掛けて「木炭」にしてでは無く、この改良した「竪型炉」では既に先に「備長炭」にして炉中に投入してから使っているのだ。
「木炭」に成るまでの「無駄な時間と工程」を省いて直に「木炭効果」を上げる事で「木炭による還元反応」を高めた事と、「木炭(備長炭・墨)」を「鉄の表面」に浸み込ませて「硬く錆び難くする改良」を重ねたのだ。
それは「鉄の表面層」に「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭・炭素」が幕の様に成って「浸みこむ事」を掴んだからである。
「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭の炭素」は、化学組成上は「錆びない物質」であるからで、「錆びる鉄の物質」の表面層上にこの「錆びない物質の侵入」があれば、結果としてそれが「障壁」と成って「錆び難い物質」に代わる筈である。
これで先ず「浸みこんだ微細炭」で「目的の一つ・錆び難い物質に変質」が達成されたのだ。
序でに、他の「二つ目の目的」を先に云うと、この事は同時に“表面が硬く成る事”であり、この「硬く成る事」に依って「二つの原因(炭素が変化して硬化する=炭素が表面硬化を起こす」を起こすのである。
更に他の「三つ目の目的」を先に云うと、この事で“表面が硬く成る事”で「摩耗性」が向上する事である。
そして、この「摩耗性」が向上する事にも「二つの原因」が起こる。
それは「炭素の高い滑り性と高温での結晶が変わり鉄組成の変化」があり「表面」は硬さで強さで改良されるのだ。
注釈 そもそも 「還元反応」とは、「鉄」に外の物質が化学組成上で付着していれば「鉄」からこれを剥がさねばならない。
これには化学組成上の結合である以上は、化学的に剥がさなくてはならない。
この剥がす作業には「二つ」あって「酸化と還元」であるが「酸化」は「相手」も傷つけ壊して剥がす。
相手に傷を着けないで剥がすには、この「還元」で付いている部分の化学組成に反応させてそっくり剥がして自分の方に付着させる手法で、これを使う。
これらの事を科学的に把握していたかは別として何らかの形で使っている以上は古来から把握していたと云う事だ。
一部の資料では「自然界に起こる偶然の結果を見習ったという事」であったらしい。
その証拠に当初は加熱するのに「藁」を使っていた事から獲得したと観られている。
「加熱の藁」は燃えれば「灰」に成り高い還元の効果を発揮する。
これが「石灰石」に匹敵したのであろう。
この手法の「良悪の問題」は、ここにあって「期待する効果」がそれだけなのかである。
つまり、そもそも “何故にこの「細かい紀州備長炭の墨」が良い”と判断していたのであろうかである。
“何かが在ったから良いと判断していた”のであろう。
そしてこの「難しい疑問点・細かい墨」に、言い換えれば “「青木氏部の技術の概念」がここに到達できていなかったのか”である。
その「答え」は、実は当初は青木氏部も“完全には到達できていなかった”のだ。
何故ならば、この“「細墨の疑問」”に就いては、そもそもこの“「自然界」”に存在しない“未来の現象であって難しすぎるから”であった。
これは「当時の事」としては「当然の事」であろう。
そこで、“ではどの様な事の「未来の現象」が起こっていたのか”である。
これを解く事が少し専門的で難しいのだし忘れ去られる可能性が高いが、「青木氏」がこの様な「銃と鍛冶屋院での鉱山開発の事」に関わったのだと云う事の「青木氏の将来の為」に誤解を恐れずにここで出来るだけ判り易く下記に解いて遺して置く。
そもそもこのような立場に置かれていたのは当時としては「910程度の氏族」の中で唯一であったろう。
確かに上記した様に、「五つの工程事」の様に、“「何度も鍛える事」”で「鉄」にはある「一定のエネルギー」が加えられ、その「エネルギー」が「鉄」に「何かの形」で残る筈である。
この事で、この場合は確かに「要領書」に記されていた“「固さ・A」の概念”であって、それは確かに先ずは増すのだ。
そして、「通常の鍛えた鉄物」は、確かにこの“「固さ・A」の概念”は先ず得られる。
ところが、「火縄銃等の殆どの鍛物」のものには、この“「固さ・A」の概念”では済まされない何かが出ているのだ。
然し、此れでは上記した「火縄銃等を含む銃に起こる欠点」を補えていないのだ。
ところが「額田青木氏の超近代銃」に施されていたこの“「硬さ・B」”では、
「紀州備長炭の炭・細かい炭素」と、「数度に鍛える事・加熱の効能」と、
その「事の時間と温度」の“「三つの要因」”で、
この「炭素の量」が“「結晶間に残る量」"としては増えるのだ。
当初は「炭素が結晶間に残ると云う概念」がそもそも無かったであろう。
それも「炭素」であり、この「細かい炭素」が鉄の中に残ると云う概念が無かったと考えられる。
「途中の段階」までは “「鉄に浸み込んだ」”と云う風な程度に思い込んでいたらしい。
でもそうだとすると、「鉄の何処に浸み込んだと思ったのかである。
当然に「結晶の間という事」になろうが、この「結晶の概念」がそもそも低かったのであるからどの様に考えていたかである。
ところがこの段階でも未だ「鉄が結晶の網」で出来ているとは思っていなかったらしい。
「鉄」の何処に浸み込んだと認識していたのかである。
餅の様にところどころに浸み込んだ程度で在ったのだろう。
“水に墨が黒く浸みた如く”と思っていた様な事が書かれている。
初期では「鉄などの鉱物」を「粘土の様な固い物」と同じと考えていたらしい。
ところが、その途中で、「結晶の概念」を“何となく獲得した時」”があったらしいのだ。
それが顕著に考えられる時期が来たらしい。
それは「炭素」が浸みこむと鉄の表面の色が灰色に変化する事に気が着いたらしい。
要するに、“「光の屈折”」で色が変化する事の認識を獲得した時であろう。
この事は当然であり、「浸透した結晶間」の「難しい疑問点・細かい墨」、即ち、「炭素」が「光の邪魔」をして、その「炭素の結晶間での凹凸」で「光の屈折率が違う事」が起るがこの時の様だ。
当にこの時に「結晶と云う概念・網」を「鉱物の鉄」に対して持ち得たのであろう。
この「概念の取得」が「近江鉄の鋼の最も良い使い方」であったのだ。
注釈 「結晶の語源説」には明治からの新しい学問であった為に外国語説が多いが、その言葉は元は「結晶」では無く「クリスタル」であり、ところが日本では違うのだ。
「結晶の字形]から判断してでは,“三方からの「太陽の光」が結んだもの”としてあり、それは「石英・酸化シリコンの結晶」として判断していて、それが昔からある身近にあった「透明の水晶・シリコンの結晶」であったらしい。
この「水晶」に当たる「光の行方」を観て定義したとする説もあるのだ。
当に定義とするには「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」は「日本古来から存在する大変多い古来の宝石」として扱われそれの定義は適切である。
筆者は、古来の人は、日本列島は地質学上で「石英列島」であって、山を歩けば直ぐに見つけられる結晶体である。
この身近な何処にでもある「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「概念・認識」の根底にはあったと考えていて、だから、「鉱物の鉄」に含まれた「結晶間の炭素の屈折光」には、この「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」を観たのでは無いかと考えている。
因みに、「ひすい]も「こはく」もこの「シリコンの石英の結晶体の一種」でその中に含まれ「微量のアルミかナトリュウム」かの違い色合いは起こるのである。
この「珍しい事」による「宝石」とさせれる「結晶」は、殆どは「樹液や石や植物等」が地球の地下深くでの圧力で固形化したものでこれを「宝玉」と呼ばれる事と成ったものであり、「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「鉱物が結晶化して宝玉」となったものは少ない。
況して、故に当初は「鉄と炭素の結晶化の認識」は無かったであろう。
実は、「たたら製鉄の箱型炉」の「炉外底の炉池」には「溶融鉄が流れ出して来るシステム」と成って溜まるシステムとなっているが、この「炉底池」に「炭」が敷き詰められているのだが、これは、「鉄と炭素の結晶化の認識」からではなく、「高温の鉄の酸化を防ぐ目的」で上と下から「炭」を蒔いて覆い「酸化を防いだ事」が解っている。
これ即ち、「炭素は「鉄の結晶に浸み込ませる目的」では無かった事」を物語っている。
「炉中底」にも一部残った「溶融の鉄」もこの炭が敷き詰めた炉外底に最後は流されるのだ。
つまり、「炭」は「酸化を防ぐ目的」にあった事に成る。
だとすると、此れでは「酸化の認識」はあったとしても、その逆の「還元の認識の定義」を高める事の例に突きあたらないのだ。
「箱型炉の鈩製鉄」にしても、「竪型炉の近江製鉄」にしろ「鈩では炭」、「近江製鉄では石灰石と炭」を「還元剤」とする化学反応を明確に意識して使っているのだ。
ところがこれでは「還元の認識の定義」を高める事の例に合わない。
それは「酸化」より「還元」の方が「常識」であったのかであるがそんな事は無いだろう。
「確かに害の無い還元」であったとしても、「何れの製鉄」でも使っている以上は認識はあった筈である。
「鈩製鉄」では、「加熱材」として「藁と木材」を大量に投入し炉の中で熱を籠もらせて投げ込んだ「砂鉄」を溶かす。
その結果として「藁と木材」は、「灰」と成り、この「高温に成った灰成分」は「還元反応」を結果として招く。
これが「メカニズム」である。
飽く迄もこの時は“「加熱材」”であって“還元剤」”では無かった事に認識は成る。
つまり、「還元の認識・概念」は当初は無かった事に成る。
ところが、対比する「近江鉄の竪型炉」では、「加熱」は「木炭」で、「還元剤」として明確に加熱材を兼ねない「石灰石」を投入しているのだ。
勿論、「木炭」であれば高温に於いて加熱中に先ず炉中で「鞴の酸素」と反応して「一酸化炭素」と成り、これが「鉄の表面」に反応して初期には「還元剤」として働くのだ。
これが更に「加熱」が進むに従って、この「石灰石」が「溶融・900度」して「還元反応」を起こし「科学的な還元」を本格的に起こすのだ。
その為には「竪型炉」はより溶融点を挙げる必要があって「改良の必然性」が高くなった一つなのだ。
そこで、何故、突然に「石灰石」に意識が飛んだのかという事である。
それは恐らくは、「鈩製鉄の箱型炉」に使う「加熱の藁や木材の灰」のその「効果」が大きく、その「灰」の「加熱の末路の凝固」の中には「炭酸カルシウム等・白い粉の塊」が多く含まれ冷えると凝固し当初は「邪魔物」として扱われていた。
ところが「鉄鉱石に着いている付着物の撤去・邪魔者」は、結局はこの「白い石の灰の塊」にあると認識し、これが「還元」として働いているのではないかと云う概念を持つに至った筈だ。
だとすると、「白い石の灰の塊」を獲得する為には、「青木氏部と額田部氏の協力」を得てその「専門知識」を生かして、その「山の同じ成分」と観た「山の石灰層の切り崩し」にあると観たのではないだろうか。
「消石灰の原料」は、「石灰石・炭酸カルシウム)」である。
この「石灰石」を砕いて「炉」で加熱した後に、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来るのだ。
だとすると、「白い石の灰の塊」は、要するにこの“「消石灰」”である事に成るし、恐らくは「骨粉などの苦土石灰」も使っていたと考えられる。
要するに、「石灰石」=「消石灰」=「白い石の灰の塊」として繰り返し砕いて使えば「還元効果」はより生まれる所以である。
これはこの段階で、これは「竪型炉」に改良してそれに依って「溶融温度が高くなった事」に依る効果であって、その時に「還元と云う概念」をこのでの実績での事で明確に持ったという事であろう。
そもそも、これは「箱型炉では得られない概念」で、「竪型炉で得られた概念」であった事に成る。
つまり、これが年代的に竪型炉の開発と近江鉄の開発の「703年と713年と云う事」に成るのだ。
注釈 「苦土石灰の成分」は、要するに貝粉や骨粉の堆積であり、「炭酸カルシウム}と「炭酸マグネシウム」が主な成分であり、 これに対してこの「消石灰の成分」は、「水酸化カルシウム」が主な成分である。
何れも「日本列島の成り立ち」から無限にあって積極的に使ったと考えられる。
ところが、「石炭」は、これに代わるものでありながら「古来」より列島にはその存在が多く認められて使われていた記録がありなから、それが「最大の加熱材」で、且つ、「最大の還元剤」を兼ねているのに「歴史・青木氏部」は何故か使われていないのだ。
その「原因]は当にその「有毒の硫黄・亜硫酸ガス」であるからだ。
この「石炭の硫黄」も、この「石灰石」を砕いて炉で加熱した後、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来る様に、同じ工程で「石炭も石灰」も元は地球上の生物の化石であって、故に「全く同じ工程」を踏めば出来る筈なのだ。
これに依って「無害の石炭・コークスの名称」が得られ、「石灰=コークス」として使えている筈なのだし、「技術が無かった」と云う事では無いのだ。
然し、この処理も知り得ていて敢えて使っていないのだ。
何か「宗教上の掟」に依るものかであるが、それも記録が無く、この「記録}が特段に無いと云う事は他に「有毒の硫黄」の「宗教上の掟」としか考える事は出来ない。
そもそも、その温度は「500度」だが50度+のそれだけの違いであり、これは全く「技術の有無」ではない。
要するに処理後の呼称は「コークス」であり、それでも使わなかったのだ。
「石灰石の処理」を知っていた限りは使えた筈だ。
「明治期の高炉」までこの「コークス」は頑なに使わなかったのだ。
それは「石灰石」などで「還元」は充分であったと云う事かもしれないが、然しながら「還元力」は、兎も角も高い温度が得られる「加熱材」等の「三つの高い効果を持つ」のには、現在もこれに代わる物は無いのだ。
後は「青木氏部」である限りに於いて「積極的に使わなかった事」が原因して後世に於いて後段で論じる「神に捧げる物の定義」に扱われたのかである。
つまりは、これが「鈩鉄と近江鉄の違い」から発生した結果かである。
さて、話を戻す。
「結晶論」の此の“「結晶間に残る墨量・炭素の量」”の「鉄の結晶間の縁だけに増えた量」が、「鉄の量」に対しては、「炭素・0.8%」に達した時に初めて、“「ある変化」”が「鉄の結晶間」で起こるのだ。
理屈ではなく「自然が造り出す原理」である。
何度も経験しなけれは得られないし「自然が成す基準値」である。
これが当時としては、最大限に「難しい疑問点・細かい墨」であった筈なのだ。
それが起こったのだが、「青木氏部」に執っては「何事も驚きの瞬間」であったろう。
そもそも、それが何が起こったのかである。
更にどんなに条件が整ったとしても、唯一つは“「墨・炭素に成る為の細かさ」が細かい”と云う点で、これも「偶然の事」で起こっていたのだ。
唯、「細かい炭」であれば起こるという事ではないが、その“「細かさ」"が得られる「偶然の墨」だったと云う事だ。
その確実に起こり得る「加熱中の偶然温度」が、何と不思議に、どんな条件でも“「723度・変態絶対温度と云う」”と云う点に限定されている事に成っていたのだ。
つまり、この「温度に達した事・723度」で、「鉄と炭素」に、つまり、「細かい事の幾つかの偶然の条件」にある“「不思議な一致の偶然の変化」”が起こったのである。
その“「723度」”は、「温度計」が無く、それも「高温」のものを計る事が出来ない時代に於いて、どの様に確認したのかであるが、この「不思議な偶然の事」が起こる「限定した鉄の温度」を覚えて置く事で可能と成ったのだ。
これは「723度と云う特徴ある温度」である以上は、一度観ると忘れない「鉄の表面」が、「“波打つように輝く橙色”をしている」と云う色の特徴を持っていたのだ。
これは何故起こるかと云うと、“「723度」”の「鉄の内部」では「特別な変化」を興す為に「色判定」には「ある5度程度の範囲温度で安定した特徴」を示したのだ。
概して、先ず上記した持ちづらい概念の「鉄の結晶」には、「高温」に於いて「3つの色々な結晶構造」があり、それは「温度と鉄と炭素量」に左右されているのだ。
そして、この「不思議な723度」がその「全ての鉄と炭素の結合点」であるのだ。
「試し」に加熱して温度を下げて来ると、この「結合点」の「・723度」に於いて再び同じ点に必ず到達する「不思議な点」であるのだ。
この「・723度の結合一致点」ではこの「鉄と炭素の結晶」は「3つの色々な結晶構造」で出来ていて、それが加熱を下げて来ると、「オーステナイト結晶」の「不思議な結合点」に到達するのだ。
これには「物理的な原因」は無く「偶然の摂理」に基づき起こるのだ。
注釈 「4つの色々な結晶構造」とは次の通りである。
オーステナイト結晶
パーライト結晶
フェーライト結晶
セメンタイ結晶(常温)
そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”だからこそ、この世に起こらず存在しない“「トランスホーメイション・変態の温度」”と表現されるのだ。
そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”に「ある特定のエネルギー」を加えると、世にも不思議な事が又起こるのだ。
この「温度以下」でも起こらず、この「温度以上」でも、この「限定した温度以上」に達しない限りは起こらず、その場合は、その「温度の差の分」だけの “「歪み・欠陥を持つ事」”に成るのだ。それは「偶然」であるからだ。
当然に、従って、「近江鉄」に於いて、この“「723度の温度」”を見極める「極めて難しい匠の目視技」が求められたのだ。
云うまでも無く、この“「723度の温度」”の「偶然温度」に達しても「偶然温度である限り」は「幅・ユレ・3から5度程度」を持ち、この「偶然の幅」を獲得しなければ、この“「723度の温度」”の「良好な結果」は得られないのだ。
「青木氏部の匠」はこの「偶然の幅の限界」を習得しなければならなく成っていたのだ。
言って仕舞えば上記した様に、先ず、
第一番目に「0.8%Cを偶然に見つけ出す事」に成功したが、
そこで、次に第二番目に「723度」に「絶対的な偶然温度」がある事を知るに至る。
これに対して「上記する偶然要素」を“「723度の温度」”を獲得するに必要とする「絶対の鉄」に含まれる数多くの要素を組み合わせて、「偶然の要素の影響を観る事」に成ったのであろう。
この工程を踏まなければ「銃の欠点」を解決に至らなかった筈だ。
要するに、これも「偶然の炭素量」が「0.8%C・(0.86C)」であって、この「二つを中心」としてそれぞれの「加熱」に対する「時間」。「細かさ」。「速度」。「質量」。「体積」。「面積」。「墨の素材」。「加熱力」。「融点」。「角度」。以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈である。
当時に「冷却過程」に対する「冷却材」等に対しても以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈だ。
「青木氏部」として「関係表」を完全な形で造る程度に得ていたかは判らないが、大筋でその目的の為の範囲にはできていたであろう。
「処理後に対する把握」を根気よく出来て初めて「銃の欠点が安定よく排除する事」に成功したと考えられるのだそれで無くては「銃の欠点が安定よく排除する事」は出来ていない。のだ
以上の様に、「数えきれない偶然」を「組み合わせ」で見つけ出す事に成った筈である。
上記の「新しい鉄の持つ専門知識」を一度に得て総力を挙げて活気だったと考えられる。
「目視」で凝視していれば一瞬ではあるが目に見えてに伝わって来るものがある。
そして、「その時の鉄」の中では、其の「細かい炭素」と共に“「共析鋼」”と云う「偶然結果」として得られる総合品質の「良質な鉄のもの」に変化するのだ。
そして、“この時、「ある変化」と共に飛びあがるような「不思議な事」が更に起こる”のだ。
上記の“「不思議で偶然なある変化」、即ち、「この世では普通に起こらない特別な変化」、即ち、“「変態」”であって、「鉄の炭素との結晶」”では、結晶の呼称として“「オーステナイト」から「マルテンサイト」”と云う形に変化して起こるのだ。
これを「銃の試作過程」で一度に「鉄の持つ不思議な複数の新しい知識」が関連して「偶然に会得したと云う事」に成ったのだ。
それが言葉で纏めると“「共析鋼」”であって、その「結晶の変化」としては、先ずは「オーステナイト」であって「マルテンサイト」であるのだ。
では、この「不思議な結晶の現象」の“「偶然な変化」”とは、一体何なのかである。
これを何度か繰り返している時に、「ある温度・723度」で「炭素の量・0.8%/鉄」に達した時に、「偶然」に「冷やす工程」と成った時に、ある特別なこの「世では普通では興らない現象」が「炭素と鉄の結晶」を通じて“音を立てて瞬間的に起こったのだ。
これは「可成りの偶然」な事である。
これが、“「変態・不思議な偶然のある変化・鉄と炭素の結晶のオーステナイト」からの「マルテンサイト」”と云うものなのだ。
「超硬く」て、この世のどんな物にも、例えば「ダイヤモント」と互角程度以上の強さを持ち、その強さは「どんな物理的で科学的な強さ硬さ」よりも優れているのだ。
これは、当然に“「前段の銃の欠点」”を性質的に補う事に余りあるのだ。
そこで、この通常では得られない「鉄と炭素の高温での結晶の状態」を専門的には“「オーステナイト」”と云う。
全ての結晶の共通点である共析鋼でありながらも、この偶然にも得た一部の結晶の構造を全て一度「オーステナイトの状態」にして「鉄と炭素」の全てを「必要な時間」を掛けて変えて仕舞う必要が伴うのだ。
その「時間」が長いと、「鉄と炭素の結晶の関係」に長いと「粗大化現象」と云う「取り返しのつかない欠点」を造り出して仕舞うのだ。
当然に短いと、「不完全な鉄と炭素の結晶の関係・不均一現象」を生み出してし割れてしまうのだ。
何れも大きな欠点を持ったものに成って仕舞うのだ。
この上記の「温度・目視で把握・表面の色」も然る事乍ら、「時間・目視で把握・表面の色の流れ」にも「極めて難しい匠の目視の技」が求められるのだ。
要するに、「鉄と炭素の結晶」を仲介して「一種の炭素の結晶に「ある独特の変化が起こるのだ。
それは、「手に伝わる2秒程度の鈍音」と「震動」と「表面色」と「表面模様」と「油の冷却材の表面の踊り具合」でも判るのだがそれは一瞬で起こるのだ。
判り易い近い例として、「マグマの中で溶けた炭素」が火山噴火等で外に放り出される。
それまで「莫大な地球の高圧のエネルギ」が加わった時に「炭素の結晶体に変化」が起こり、それが「冷却等のある工程」を経て、「地球の冷却圧」とで「ダイアモンドと云う結晶体に変化する事」になるが、それはこれに類似する。
そこに「高温に成った鉄が介在する事」で「鉄と炭素の二つの結合体の結晶体」が起こるのだ。
これは、「ダイアモンド」と同じく、その「特異な状態のものが、つまり「・マルテンサイトと云う特異な形」を保つ為に、突然にこの「高温にあるオーステナイトの結晶」から「急激に冷やす事/1S以内」で「変態と云う特殊な現象・トランスフォメーション」が自然発生的にこの世に起こされるのだ。
これで得た「あり得ない二つの結晶体の物体」を「マルテンサイト・鉄と炭素」/「ダイアモンド・炭素」と云うのだ。
その「特別な特質」は「炭素の結晶体のダイヤモンド」に比して「鉄と炭素の結晶体のマルテンサイト」は決して劣らないのだ。
寧ろ、「鉄との結晶の変態の結合体」と成るので「違った優れた特性」が導き出されるのだ。
まあ、一般的に判り易く云えば「ダイヤモンド+鉄を造った」と云っても良いだろう。
然し、此れは、解る様に「通常のこの世の事では無い事」の故に、つまり、その侭では「自然界」に無いものであるので、この“「マルテンサイ」”は、「自然破壊」して仕舞い「応力分散」が出来ずに割れ破裂するのだ。
この「ダイアモンド」も「地中深く高圧の中」で「緩やかに冷やされ」て「ダイヤモンドと云う特別な特質の侭での状態で長く保たれ状た状態で維持された事」で割れないでいるのだが、それと同然で出来た侭の状態では「マルテンサイト」は、間違いなく「破壊」が起こるが、“穏やかに保たれていれば同然のものが得られ道理”であると考えた筈だ。
その地球の“「穏やかさ」”を施してやれば「ダイヤモンド」と同然事と成るは必定である。
その「穏やかさを施こすに替わる事」を考え出せばよい事に成る。
そこで「青木氏部の匠等」は懸命に考えた。
「穏やかさを施こすに替わる事」が、これが「この世に無い変態」である以上は論理的に解る事では無い。
現在でも難しいが、当時でも直ぐには結論は見つからなかったであろう。
つまり、これは簡単に見つかる事では無く、「穏やかさを施こすに替わる事のこの世の有無」も含めて試行錯誤の末に辿り着いたのが、それは思いも依らぬ「低温で加熱する事」で加熱して得たものをもう一度加熱すると云う事はそもそも「・原理矛盾」であったのだ。
然し、「低温で加熱する事」そのものが定義的に変である。
「マルテンサイト」は論理矛盾であっても「ダイヤモンド」はところが「・原理矛盾」では無いのだ。
そもそも、「加熱」と云うのかは問題であるが、少なくとも「常温・20〜50度」を越えた「以上の温度である事・イ」には間違いはないが、この「常温以下の温度−40〜5度・ロ」に保つ事を「加熱」とはそもそもならない。
然し、論理的には地球環境に似た環境に近い「このイとロ」に於いては、「+圧力」を加えてこの温度域に保てば破壊する事なく保てる筈なのだ。
その「対策」として、初期には「ダイヤモンド」に合わせて何れも「地中深くに埋めた事」が書かれているが失敗している。
それには、この世のものでない変態である以上は「マルテンサイト」の持つ「応力の大きさを解消する力」を持ち得ていなかった事に成る。
論理的には「マルテンサイトに成るに必要としたエネルギー」に相当する「マイナスのエネルギー・打ち消すエネルギー」か必要である。
これを求めるにはところがそれでは時間が掛かる事の欠点がある故に、事前に加熱後の灰配中に居れていた。論理的に「多少の変態の変化」は認められるも、何かで間違って、“「ある温度”に保てた「灰中に落とした侭」として放置して忘れていたいと書かれていて、ところがその結果として「破壊する事なく保てる事」を会得確認したとあり、それ以後は“「灰中・100〜150度」で「2日から3日程」に忘れて寝かしていた”とある。
然し、これが結果として取り立ててその「銃の欠点を補う特性」に通常の変化はなかったのであろう。
これは論理的に応力除去では納得できる良好な操作で、現在でも行っている「油中加熱」と共に「一つの方法」と成っているのである。
当時としては「初期の頃」は「経験から獲得した理論」であったのだ。
筆者は、上記した様に「近江鉄の製鉄法」にしてもこの熱処理にしても「日本特有の灰中冷却処理」で「より長く処理」が好ましいと考えている。
其の後、「1540年頃」から始めてから「1560年頃のほぼ銃の欠点除去の完成域・1565年使用後」であった観ているが、「完成期」と考えられる時期の「室町期末期から江戸初期」に掛けては、「西洋」から「貿易に限られて」で「冶金知識」も合わせて「伊勢屋」を通じて入ったと観られる。
然し、“「青木氏部」”ではその前ごろには「経験を通じて獲得している事」が判っていて、「独自の開発」による「竪型炉に依る技術」ではなく、これは「其の後の技術」はより進んだ「高炉の製鉄法との融合技術」であったと結論付けている。
「竪型炉の発展経緯」から観て「外国人の技術導入」では無かったと観ているのだ。
そこで、当時は上記した様に、飽くまでも未だ「何度も鍛する事」での“「固さ・A」”の概念」であったが故に、「硬さの概念」のそのものが無かった筈だが、この「概念のはっきりとした認識」の無い侭に、「額田青木氏の超近代銃の中、つまり「・摂津・青木氏部」では、「硬さの技・技術・処理」が経緯からすると何とか得られていたのだろう。
と云う事は、それはそれまでの「巧みの技」を生かした「20年間の試行錯誤の過程での結果」であって、当初はその概念に付いては、その時は、それは“何か変だな程度の概念”であったろう。
然し、「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」が在って、そこからこの「硬さの概念」が確実に得られていたのであって、その結果が上記した驚く様な「近江鉄の高度な技術に発展した事」に成る。
注釈 「伊勢青木氏」では「家訓の技術を重んじられる家系の風潮・文化」は、この長い間のこれらの極める概念が色濃く遺された遺伝的な結果のものであろう。
さて、「鉄」は高温に過熱するたびに「鉄の結晶」は粗大化するが、この「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」では、「高温の鉄の結晶」は逆により潰されて細かく成り、その「より細かく成った結晶」の間に、更に「微細炭素が浸みこむ」と云う過程が起こっている。
そもそも鉄は加熱する事で粗大化するが、この結晶をそれを鍛して細かくすると云う技を駆使していたのだ。
上記した「再結晶化温度の処理・600度〜~650度」は全く使っていないのだ。
この代わりに「鍛する事」でこれに換えているのだ。
この「鍛する事」で上記した「変態・マルテンサイトが起こる環境」が整えられて行って、「鉄に対して良循環が起こり続ける事」に成って行ったのだ。
そもそも「再結晶化温度の処理・600度〜~650度を使う事で得られる結晶のマルテンサイト」と、「鍛する事」で結果として得られる結晶の上記した「変態・マルテンサイト」とには違いが生まれる。
それは「鍛する事」で「結晶に受ける応力差」の違いである。
「鍛する事」で受けた「大きく成る応力」を計算に入れておく必要がある。
「マルテンサイトに成った時の鉄に対する影響」は無視できないのだ。
これを如何に無くすかである。
然し、この上記の基礎には「青木氏部」が古来より「専門部」として「朝廷に治める飾刀」から得た技がここに培われ続け引き継がれてきていたのだ。
「朝廷に治める飾刀」は、「青木氏部を持った時期・647年頃」からとすると、「703年・713年の近江鉱山開発・近江鉄」を使っての「飾剣」であった筈で、砂鉄に依る玉鋼の「飾剣」では無かった筈である。
注釈 大化の改新までは全て剣は中国からの輸入で朝鮮半島に攻める事に成った時に兵に全て刀剣を与える事と成り、中国と韓から「鍛冶部・かぬちべ」を北九州に迎えて全国がら部人を送り習わせたことが始まりであり、「飾剣・直刀」の製造は700年前後に入ってからの事である。
ではそれは何故なのかであるが、それを下記に論じる。
実は、前段で「駿河青木氏論との額田青木氏論の関係性」で論じた様に、「近江鉄の殖産の過程」で「琵琶湖から淀川」を経由して「原鉱石」を「内船」で「大阪湾」に出して、「摂津青木氏部」に「鉄の原鉱石を運び入れる道中」があって、その「運び込まれ得られた鉄」を「日野等」に先ずは支給して、「伊勢屋」は「鉄製品、最終は銃」を先ず生産していたのだ。
これに薩摩藩などが密かに目を着けた。
前段でも論じたが、そもそも「古代期」に「日野」は、「殖産の四つの近江鉱山」の「鍋窯の日用品等」の「鉄鍛冶屋」としての「鍛冶屋の摂津の影響を受けた有名な職域」にあって、そもそも「青木氏部の商いの範疇」にあった。
その「殖産の背景」で室町期には、「銃の生産・限定期間中」にその後匠等は「全員伊勢に引き取ると云う事件」が興ったのだ。
各地の豪族等は、「銃と云う事」に着目して「銃」よりもその元に成るその“「鍛冶職・かぬち」を摂津と日野で丸ごとに獲得する”と云う直接的な武力行動に出たと云う事に至ったのだ。
この「歴史的経緯」があり、それで「摂津」ではこれ以上は無理であるとして「伊勢に引き取ると云う行動」で対抗したのだ。
それからは前段でも論じたが「伊勢での銃の製作と云う過程」に入ったのだ。
元々は前段でも論じたが、「伊勢の青木氏」では古来より「朝廷」などに納める「日野の飾刀/特定範囲」としても数は少なくも「朝廷用品の実用品物・供納品」として「賜姓五役」の一つとして「青木氏部」で造られていたのだ。
それが前段でも論じたが、一時、戦乱に巻き込まれた時にこの「日野鍛冶匠」は「伊勢青木氏部」に一斉に逃げ込み組み、「伊勢の部」に組入れられた経緯があった。
ところがこの一部が「伊勢」に組しなかった「非組合員の他の匠等」は、薩摩等に侵略され引き連れられていった経緯があった。
この関係で「古来の飾刀鍛冶の技量を有していた匠等・青木氏部・鍛屋院」が「賜姓族の賜姓五役」から多くのいた事が判っている。
恐らくは、当然にこの「賜姓五役の殖産の経緯」から観ても「この時の技量が生かされた事」と考えられる。
そこで、では、“どの様な技量が生かされたか”と云う事に成る。
何度も論じているが、先ず元を質せば、「院号を与えられた施基皇子とその裔系」は、その結果として「伊勢の五つの大字」を与えられた所以と共に、それに伴う「国造差配頭の位置」にもあって、且つ、「鍛屋院・かぬやいん
」の「青木氏部を独自に持つ数少ない氏族」であった。
その「伊勢と信濃の氏族」がそれを総合的に生かすその延長線上にはあって、故に当時の「技術水準の最高位置にいた事・令外官として国造支配」は頷けると共に、更には「それをリードしている青木氏部の立場」にもあった事」に依るこの“「二つの技量」”が生かされていた事に成る。
注釈 筆者は、「天武天皇」が、“朝廷の高官の中には専門の官僚と成り得る優秀な大和人がどれたけいるか”と聞くと云う事件が起こったが、この事に注目している。
“官僚に変わり得る高い技量の持つ部人を持つ氏族がどれだけいるのか”と問われたが、その答えは“いない”と云う「返答」が返って来たとある。
殆どは、後漢の職能集団の帰化人であった。
この時、「令」を発したが、この時の令の「因事菅隷」の通り、殆ど「施基皇子の後裔の伊勢青木氏以外」には専門家は居なかったと観ているのだが然し勿論に[官僚族]では無かった。
この物語るところは百々の詰まりは、「伊勢の施基皇子とその裔系」は「因事菅隷の青木氏部を持つ氏族」を形成している事は既に重々に承知していた事である。
然し、その中でこの発言を発するという事は大きく気にしていた事から発したと観ているのだ。
つまり、「後漢人」に左右されない「青木氏部」の「独自の専門的レベル」が政界を騒がす程に高かったものである事を証明している。
それだけにこの“「因事管隷」”は「青木氏の歴史」を知る上で忘れてはならない「青木氏に大きく影響を与えた事」に成る「史実」と成る。
それには先ず「青木氏に与えられた院号を調べる事」なのだ。
それに「最も有力な院屋号」は、この「伊勢」に最低で四つの大字を功績として与えられ、それを下に莫大な私財を投じた「近江鉱山開発の特別な院屋号」である。
つまり、「近江鉱山開発の青木氏部が持つ院号屋号」であるが無いと云う訳には成らないであろう。
そもそも、本来は、彼等に対して「朝廷の太政官」が「天皇」に代わってこの様な「令」を発するが、「奈良期の皇親族」ではこの「太政官」に代わって「永代の賜姓五役の格式」に於いての「永代令外官」として間違いなく「因事菅隷」を実施した事が書かれている。
「皇親族=太政官=賜姓五役=「令外官」=「浄大一位格式」に依って「因事菅隷」があって、「令外官=永代浄大一位格式」は「太政官の上位」にそもそもあったと記されている。
取り分け、「政治の事」は兎も角除きそれ以外の発言権に関して優先権を有していた事が「佐々木氏の研究資料」等にも記されている。
故に、この事から「青木氏部・因事菅隷」は先ずはその「見本の様な立場」にあって「先導役」として走っていたと観られるのた。
「青木氏部」は、要するに「奈良期から平安期」までは現在の「国立技術院・工学院の様な立場」として活躍をしていたらしい事は判っている。
然し、ところが色々な資料を散見するが、それらしき確実に明記した「院屋号名」が表の記録に出て来ないのだ。
これは「考え方」に依っては、この「因事菅隷」そのものが「青木氏」にある以上は、「工学院」と云う“院が別に存在したと云う事”では無く、「因事菅隷」を持つ「工学院=青木氏部」のそのものの呼称では無かったかと観ている。
要するに「青木氏部」が「因事菅隷」を持つ以上は「青木氏部=院屋号」であったと云う考えも成り立つ。
この「青木氏部に関する事」では、「近江鋼の鍛屋院の号等」の「幾つかの類似の記述」が観られるが、これが「総合の技術院や工学院の号」も得られていた可能性がある事を物語る。
要するに当時は、「工学院=鍛屋院等の号」にあったと観ている。
そうでなければ「日本最初の近江鉱山開発」は、「因事菅隷」として「青木氏」に命じ無かったであろうが命じているのだ。
それが「賜姓五役としての令外官」であったのではないだろうか。
筆者は、その「院屋号の前提にある事」として、因みにその「進んだ技量」の中でも、この「青木氏部の中」に論じている様に、つまり、一つの証明として古くから「朝廷に納める飾刀の工程」のこれが青木氏部の中にあった事を明確に物語る様に、「全ての技術の院屋号の所以の代表品」は、この「朝廷の飾刀・飾剣」にあったのでは無いかと観ているのだ。
だから、「日本最初の近江鉱山開発」にも「工学院=鍛屋院の号・鍛冶院・・かやいん・かぬやいん」は下されていた筈だ。
だとすると、第一に、「鍛屋院の号」が無ければ「鉄」を掘り出してもそれを裁いて「利益」に持ち上げる「商い」もしなければ成らないのであるとすると、これを認めている「占有権・独占権」も無くてはならものであるし、況してや、そもそも「因事菅隷」を出しているのだ。これがある以上は絶対に「占有権・独占権」は成り立っている筈だなのだ。
この事で、故に後に基礎的に「飾刀の工程」が持つこの「青木氏部の基礎技量」が生かされたのであろうと考えられるのだ。
それが「天武天皇の問の前提」にあったのであろう。
その「高度な技量の詳細を語る事」にあるが、実は専門的にこれを論じると、下記の様にそもそもこれは「発想の域」を超えているのだ。
当然に、上記のこの「結晶の変態現象・トランスフォメーション」、即ち、「高温に依って起こるオーステナイトと云う鉄と炭素の結晶体」での「結合体」が、一瞬にして突然に「全く違う「別の結晶体の物に変化してしまう現象」を云うが、これに依って起こる「変態した結晶体・この世では通常で起こる事では無い結晶の現象」、これを別に「マルテンサイト」と云うが、これが「鉄の表面に文様」として何らかの形で出て来るのである。
それを以てこの「マルテンサイト」が起こっているかは、別として、それが「良い飾刀にもそれに近い模様が出て来ている事」に成るのだ。
この「論理的で不思議な高度な現象」が起こっているその事が、この「奈良期からの賜姓五役の目的の青木氏部の高度な技量」に依る「飾刀工程の表れの文様」であるりだ。
つまり、これを専門的に「刀文・刀紋」と云うが、これにこの「マルテンサイト」が相似すると当初では考えられていたのだ。
然し、これに成るには、その前の概念としては先ずは“「奈良期の第一段階の基礎・飾刀」と成っていた”と考えられていたのだ。
「飾刀・直刀」は、未だ奈良期初期までは「中国と韓からの輸入品」であって、殆どの物は「鍛冶物・かぬもの」はそうであったのだ。
その後の事は上記した「天武天皇の因事菅隷による変革」で進められた。
この一翼を背負わされたのは「青木氏部」であり、それが「近江鉱山開発」に始まる「大和の事・大改革事業」に成るのだ。
さこで「銃の欠点の克服」の「技術的な経緯}としては次の様に成る。
この「平安期まで飾刀工程の流れがこの「・第一段階」であった。
更には、上記の「平安期の技量の第二段階の基礎・殖産」と成ったのだ。
次には、上記の通りに相当に難しく成った「室町期の技量の第三段階の基礎・銃」と成った。
その「技量の経緯」は「第四段階の銃の完成期」と成った。
以上と次第に進んだと成るのだ。
「銃の欠点の克服工程」は主にこの「第三段階}からであろう。
そこで、その「概要のメカニズム」は、そもそも「この第四段階までの現象」には、この「奈良期から室町期」までを通しての「歴史的な飾刀の刃文・刃紋の進歩」と相似してそれが「表・銃身」に現れて来るのだが、ところがこの「第四段階までの現象」だけはこれを覆す様な現象が起こっている事に気が着く事に成るのだ。
それが次の様な時に起っている事に成るのだ。
そこで「鉄の製鉄基礎論」から「銃に対する概要論」をここから述べる。
先ず「鉄の製鉄基礎論」に関わっていた時期の「飾刀・直刀期間」の経緯には、上記した論の「鉄の歴史」が伴うが、「初期・江戸期まで」は「砂鉄の玉鋼」と呼ばれる「金属原材料」で原始的に維持して敢えて全てが造られいたが、[青木氏部」では要するに上記した「後の近江鋼鉄の銃に使われた様な進んだ共析鋼」には、これに「近い鋼の原理の事」に相当するのである。
そこで、「刀にする為に鍛える工程」で先ず論じて観るとする。
そもそも、これらを「刀にする為に鍛える工程」とは、そもそも、その「鍛える度ごと」にその「表面」、又は、「断面の光の文様」や、その「板鋼の折重ね具合」を見定めて、その中でその「砂鉄玉鋼の性質」を見極めて重ね合わせて厚くして行く工程なのだが、「刀紋」はその過程の模様である。
その数度の工程を以て幾重にも重ね合わせた状態にして加熱し叩いて鍛えて接着させて強くするが、「刀紋」はその強さを表す模様である。
これ等は「叩く速さの時間と叩く力」に左右されて「刀」に成るかは決まり、それが正常にて出来ていなければ「その鍛えている刀」には「内外部に亀裂と剥離」が起こり「玉鋼の刀」にはならないのだ。
そこで、その欠点を防ぐ為に「複雑に性質の違う幾種の違う玉鋼の鋼片」を折り重ねて、ある「高温加工の熱状態」、但し、「この・温度」を間違えると成らないので何度も鍛えるが、この時に「匠の技量の差」が問われるのだ。
その「違う性質の玉鋼が重ねられる事」で、その「折重具合の断面」は“年輪状”の様に「折り重ねた鋼」と成り得る。
この事が重要であって、「玉鋼の場合」に依って、要するに「折重具合の違う金属特性の複合特性」で「刀の長短の特性」を導き出す「製造方式」であるのだ。
その「炭素の特性の性質が違う砂鉄」、即ち,「玉鋼」では「鉄で炭素との結晶の結合体の事」であって、そこには「表面」もその「断面」にも「折り重ねて鍛えた結果」として、「重ねた平鋼板の良し悪し」を見極める事が出来るのだ。
それには、「重ねた平鋼板の良し悪し」は、その「平板の重ね具合」はこの「刀としての刃先形状」に全てを出す為に、その「刀の長手方向の刃先先端の断面」を「刀形状の三角に削り磨く」が、この時にその「重ね合わせた鋼の色合いの文様」が、この「長手方向の刃先先端の断面の断面模様」に出るのだ。
これが「刃文」と成り共に「先端の刃先文」としても出るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」で「砂鉄の玉鋼」の「刀の良し悪し」が決まるのだ。
多くは「先端の刃先文」で見極める事が出来る。
要するに、「鋼にしたものを重ねる事」に依って「表層状態」に強度を増す様に成るのだが、「一枚の鋼」であるとその「内部は均一性に欠ける事」の為に、一か所に「応力・力」が掛かり弱いし折れる。
そこで、この様に「玉鋼の日本刀の構造」は、「大樹の年輪」の様に、複雑に特性の違う“「玉鋼」”が造られ重ねられる事で強く成り、それが「外観の色変化」として「刀文・刀紋」と「先端の刃先文」」として二つに現れるてくる事に成るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」」は、“「適度な急速な冷却効果」”に依ってより現れるものであるのだ。
取り分け、従って、この「刃文と先端の刃先文」を見分ける事、特に「刃先の先端に出る文様」で「匠・刀師の技量の良悪」と「その刀」のみ成らずその「工程の技量の良し悪し」も判る事に成るのだ。
さて、そこでこの「良い刃紋を出す」には、その主に「熱の如何」が問われのが当然である。
この「加熱」を一定の速さで下げる為の“「冷却」に伴う「良し悪し」”も判り、その「鋼の炭素と加熱と冷却」と、その「過程の模様・経緯」も僅か乍らも「刀の表面と破面」にも表れる事に成るのだ。
故に、この「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」に依って上記した「マルテンサイに近い模様」は得られるが上記の工程の「・砂鉄」には結晶は得られない。
然し、それに「近い模様」が「良い刀全体」にも表れて来るのだ。
但し、上記した「近江鉄」に依って得られた「銃の工程」と違って、この「刀の場合」は、実はこの“「マルテンサイト」”は得られていないのだ。
つまり、得られる為に必要な条件に到達していない物が多いのだ。
殆どは、「玉鋼を幾重にも重ねて鍛える事に依って出る粘りと硬さの影響」で成り立っているものである。
何故ならば、この上記した“「マルテンサイト」”が得られたとしても放置すればこの世の「変態」で在る為に「破壊」が必然的に起こるからで、此れを防ぐ「ノウハウ」にも「超高度な技術」に到達ししていなかった事にもあり、且つ、基本的にそもそもこの“「マルテンサイト」”にも、「砂鉄」から得られる「玉鋼」で在る限りは到達していなかったものがあったと考えられる。
つまり、「砂鉄の玉鋼」では、必然的に「0.8%共析鋼」に成り得ていない事に成るからだ。
ここが論理的な大きな違いである。
従って、「銃の欠点」を克服する為には「初期」には先ずは「飾刀の経験・647年から650年頃に開始」から入ったと考えられるが、この「青木氏部」では、「近江鉄」として追及した「0.8%共析鋼・755年頃に完成」とは成るが、此処でこの「近江鉄・703年713年」を使いながらも「初期の初期」に「中国から直刀輸入640年頃していた」ので「初期に直刀・砂鉄玉鋼理論」を「製鉄」に参考にしたが、5年も経たずに直ぐに「近江鋼の開発」に入っているので、先ずは躓いたと考えられ、直ぐに「近江鉄の製法の確立」に入っている以上は「飾刀の経験・647年から650年頃」も「近江鉄」で入り直したであろうし、それが「銃の製法・基礎」に結び付いて行ったのだ。
こと程左様に、平安期の当時は、この「技術としての確立した概念」を持ち得ていたかは定かでは無いが先ずは無かったと考えられる。
この「刀のノウハウ」からは「刀の良し悪し」は、この「上記のマルテンサイト」にする為の「匠の技とその有無」が左右する事なので、だから、少なくともこの「マルテンサイト」を「自然破壊」から救い維持する為には、重要なのは「一定の冷却」と、上記した様に其の侭では「内部応力・自然界ではあり得ない別の物に変化する変態現象」に依り「自然破壊」が起こる。
但し、「マルテンサイトの呼称・英とドイツの呼称」は何処にも記載は無い。
この「変な現象を起す事」は、概念的に「青木氏部」では把握していた様ではあるが、そこで“何と呼称していたのか”を調べたが資料的には何処にも見つからない。
後に「貿易」で「冶金学的な事」を江戸初期前後に把握している事からすると、「貿易」で伝わった何等かの呼称があった筈で、それが何なのかであり、「銃」に対して少し遅いが拘わりの度合いが判る。
それを論じる。
実は、“らすぅ”と云う言葉が一か所に確認できるが、これがその「呼称」として使われていたとも考えられる。
その「根拠」は、そもそも外来語の“らすぅ”とは「トラスの原語」であって、“構造物を意味するもので物理学でもよく使われる。
「呼称」としては、この「らすぅ・ラス」は、「マルテンサイトラス」、又は「らすマルテンサイト・ラスマルテンサイト」としも使われる事が可能な用語である。
筆者は、この「らすぅ・ラス・トラス」と云えば、この「マルテンサイトの様なものの構造体」と訳していたと観ている。
恐らくは、この「らすぅ・ラス」は、当時は輸入された「専門用語」であったと観られ、「マルテンサイト」に限らず「構造体」を指していた呼称であったと考えられる。
その「構造物」とは、“原理的には幾つかの柱の様なもので結合し互いに引き合い強度を保っているもの”であり、例えば、“氷や雪の結晶の様なもの”もそれに当たるだろう。
当にこの「密に成った複合的な構造物」の「マルテンサイト」も、その「元の鉄と炭素の結晶体」もこれに当たるだろう。
“「らすぅ」”は遊園地にあるジャングルジムである。
この記している呼称の“「らすぅ」”は、「一つの構造物」と認識して記していた事は間違いは無いと思うし、「貿易」に依って得た知識であった事が解る。
と云う事は、“「鉄」が別の「一つの構造物」に成った“という事は認識していた事に成るだろう。
そして、それが、“「氷や雪の結晶”の範囲」で観ていた事に成る。
と云う事は、“砥石で磨いて光を当てて腐食させて観ていた”とする行為は頷ける。
唯、この記述は一か所にのみに記されて散見されていたが、この事がどの様な意味を成すのかは色々な意味を持つ。
「特別な言葉」なのか、「汎用的な言葉」なのかは判別が着かないが、少なくとも書いていた事の「らすぅ」は、“「銃の欠点」を補う工程のみ”として書き、それを「匠の範囲」では使われていたのであろう事が予想できる。
依って、「古来よりの技」の「飾剣・飾刀の範囲」では使われていなかった事に成り、故に、日本語に無い言語の「らすぅ」に成っていると考えられる。
何時頃にこの「言葉・呼称」が用いられていたかはその所以は「銃に関わる事」であり、且つ、「銃の欠点」を補完に成功した頃には既に「貿易」に依って入っていた事に成る。
とすると、この記述から観ると、少なくとも前半の「1540年頃以降から1550年頃まで」であるので、そのそれを獲得する為に試行錯誤していた頃の事に成る。
そもそも、筆者は最初は「全体の文書の読み込み」に苦労していたので、この「らすぅ」の「単語の言葉」までに気が着かず素通りであった。
ところが、後に成ってふと気が着き、この“「らすぅ」”の言葉が何を意味するのか意味しないのか気に成って改めて読み直したが、その意味する処が暫くは判らなかった。
つまり、「らすぅ」が“「トラス」に繋がる”と云う発想まで出なかった。
この「トラス」は筆者の専門域の「物理の構造体の専門用語」である事である事が良く判っていたが、「らすぅ」と書かれていたので“ピン”と来なかった。
よく考えて観れば、ある時、「トラス」は「ラス」として単語で使う事がある事を思い出した。
其の使う時が、「ある構造体」の前に着けて「ラス・・・」と使う事がある。
そもそもその「ある構造体」とは、普通は「トラス」は主に“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”の事で、ここで議論している「マルテンサイトの様な「変態で起こった構造体」は“「稠密六方晶」”と云う「特殊な方位の構造体」である。
この様な場合は「ラス・・・」として“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”として表現する事に成っていて、この「マルテンサイト」は“「稠密六方晶」”なので「ラス・・・」として表現する事は学問上は正しい事に成る。
そこで「らすぅ」は「日本語表現」で、スペイン語やポルトガル語の様な「母韻原語」ではないので、この「英語やドイツ語の場合」は「トラス」の「トのtの発音」は「子音の無音」の発音と成る故に、「青木氏部」では「らすぅ」と聞こえたと考えられるし、又、「ラス・・・」で「らすぅ」と受け取った事になろう。
「らすぅ」の「ぅ」は「日本人特有の耳と口の癖」に依るものであろう。
これを記述した者は「神明社の祐筆」であった事から、尚更に言葉に「韻」を含める使い方と成ったと考えられる。
兎も角も、何れにしてもこの“「らすぅの表現」”は、「銃の欠点」を補完した「0.8%の共析鋼の変態構造」の事であった事に成ろう。
この“「らすぅ」”では、「文献」で会得したものなのか、「指導の外国人技術者」を招聘したかは判らない。
「貿易」をしていた事故に、「指導の外国人技術者の招聘」は充分にその能力は有り得たと考えられる。
故に、この“「らすぅ」”の言葉からも、「銃を成功裏に治めた事」が云えるし、「近江鋼の使用の事」と「0.8%の共析鋼の変態構造の事」も納得できる。
だとすれば、「フリントロック式改良銃の近代銃であった事」も証明できる。
もっと云えば、「三方ヶ原後」に暫くはこの「銃」は保全していたが、その後完全にこの世から遺さずに抹消した事も頷ける。
それは「指導の外国人技術者の存在と招聘」から、その「銃の西洋での殺戮具として使われた事」を耳にし、又、「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」も充分に考えられる。
さて、そうすると「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」があったとして、“20年間の試行錯誤はの期間は長いのでは無いか”という素朴な事であるが疑問が湧く。
その疑問に答えられる事がある。
それは、前段でも論じた事ではあるが纏めてみると次の様な事が上げられる。
1 「フリントロック式改良銃の近代銃であった事
2 日本人にあった額田青木氏に合わせた銃であった事
3 特別に4発式回転式自動銃にした事
4 持運びの中型銃にした事
5 火縄銃式では無く硝石型(火打式)でした事
6 長距離銃にした事
7 銃の欠点を無くした事
8 量産型にした事
9 近江鉄を使い玉鋼を使わなかった事
10 准高炉型製鉄にした事
11 反動型銃にした事
12 立膝型銃にした事
13 操銃に合せた編成隊を考案した事
これ等の事が解決しなければ「額田青木氏としての銃」とは成らなかったのだがそれだけの[伊勢青木氏の要望]は高かったのだ。
判る範囲で以上と成るが、これ等は「指導の外国人技術者」の「指導」だけで解決し得る範囲では無い事が判る。
現に、「額田青木氏としての銃」の為に、この「銃での戦い方」で「伊勢の秀郷流青木氏」が担当しているという事は「青木氏の要望」が作戦の成功の為に「絶対的な必須条件」であった事を物語り、「銃の仕様」には「相当な要望」があった事が云える。
故に「指導の外国人技術者」が存在していたとしても「20年間と云う期間」を敢えて要したと考えられる。
「銃製作の要領書的な片鱗]のものが密かに遺されていたとしても「指導の外国人技術者」をものがたるものは何も遺されていないのだ。
唯、「青木氏や伊勢屋の状況証拠」から考えれば充分に有り得る事で否定は出来ない。
そもそも全国行脚の「僧侶や絵師や彫刻の匠等の修行者等」の長期宿泊する「特別の厨」がつい最近まであった事も、又、親族や店子や客等が慰安を兼ねて泊る「庵」も各地各所にあった事が確認されていて、筆者も子供の頃にここに宿泊した事がある。
摂津や松阪や桑名には当然の事として外国人如何に拘わらず「指導の技術者」の宿泊はあったと考えられる。
そもそも、これ以外に「神明社や清光寺の宿坊」もあったのだから「指導の外国人技術者」の存在は筆者は在り得たと考えている。
上記した“「らすぅ」の記述の言葉”は間違いなくこれに関わっていただろう。
話を更に戻す。
そこで、この「砂鉄の玉鋼」では無い「近江鉄」での「0.8%C共析鋼」での「変態現象」で得た「稠密六方晶」の“「マルテンサイ」”を「自然界」で存在し得る様にする為に研究されたが、“「少し緩める適度な戻し作業」で、現在では学術的に確立していているが、「ある極めて低い温度範囲でのテンパーと云う処理」が必要に成るのだ。
「近江鉄の銃の欠点の対策」では偶然結果で「灰中の長時間保存」で獲得した。
この「ある極めて低い温度範囲」とは、一般で云えば「テンプラ油の温度」よりも低い「150度程度の温度」であり、[150度程度の低くてゆっくり冷やす程」に、その“「マルテンサイ」”の効能を下げる事なく高い効能で得られる事が解ったのだ。
時間があるのであれば「150度程度」で「2日程度から3日程度・48時間〜68時間が良い事が判った。
そうすれば“「完全な稠密六方晶」の「良質なマルテンサイ」”の範疇で得られるのだ。
そして、上限は“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”を前提とするのであれば「灰中」であるので「150度・4日」と云う処であろう。
後は、“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”をゆっくりと衝撃無く下げて行く事に成ろう。
故に記録から観て、“「焼灰の中でという事」”であったので、“150度程度の低くて極めてゆっくり冷やす程に「マルテンサイ」の効能を下げる事なく高い効能で得られるの範囲”を使ったと観ている。
これは「灰中150度3日の加熱」は温度のばらつきから難しかった様であった。
当時としては、別の面で「灰中」以上に上記のばらつきを解決させる効果的な「植物油の利用」はあった筈である。
それが高額であった事から食用等に限定してあったが、「青木氏部」も「殖産の工業等」には使っていなかった様だ。
「殖産の関係」からその記録が多くは散見できないが、その僅かな記録を観ると面白い事が起こっていた事が記されている。
それは「関西」からその「油使用」が、「食用類」などにもその関西人の性格から面白半分で積極的に使われ始めたのだが、その前はその絞った「絞粕」の捨てる場所も無かった事から、「ミカン畑等」に無造作に捨てられていたとある。
然し、ある時にこの「和歌山や瀬戸内の周囲」の「害虫に依る田畑の病気」が関西域全域に大流行した。
この時、この捨てていた「みかん畑」にはこの病気が不思議に起こらなかった。
そこで、これをこの「害虫被害」の受けた「田畑」にも蒔き捨てた処、「田畑の病気」は完全に治まりそれと゜ころか大生育して効果がある事を確認した。
その「生産」は、当初はその結果として「油の使用」よりその「絞粕用」として「生産が高まった経緯」があり、当然に其れに連れて「油の使用」が増えた。
結果として「油は安価」に成り「食用」にも研究されて使われる様に成り、その果ては「工業」にも使われる様に発展して行ったのだ。但し、関西域だけであった.
その時期が室町期中期から始まり、可成り遅れた江戸期に入っても「江戸・関東」でもこの「病気」は広まったが当初は「江戸気質]で毛嫌いして使われずにいたが、背に腹は代えられないとして使われる様に成ったと記されているのだ。
要は、「窒素リン酸カリの有機剤」であり、「土中の微生物」を増やし、これで害虫と病原菌を減らすとともに、主に「チッ素肥料」として植物の栄養を多く供給すると共に、「害虫を遠ざける働き」も多く強くあり、この「絞粕」の中には「アブラムシ、ハダニ、コガネムシ等」を、取り分け当時の「椿油かす」には「ナメクジ、カタツムリ、バッタ」等を撃退する効果があるし、「もと枯れ病」や「バッタやイナゴ」もこの頃に大発生したとあり、このところから「窒素不足」が原因していたと考えられた。
この時の記述はこの「微生物の増加」と「虫の撃退」の効能が働いたものと考えられる。
「植物油の使用」は、人類起原にほぼ一致するが、「鉱物油」に関しては発見は江戸期初期の1690年代に発見されているが、「限定的な使用」はエジプトの古来に「アスファルト」として「接着剤」として工業的に使われていた古い記録がある。
人類に多く利用され始めたのは「1855年」からで、生活に密着して使われたのは「1890年代」の「アメリカ」と成っている。
従って、室町期中期頃には未だ「鉱物油での使用」は未だ無く、況してや「冶金的な物への利用」は「1890年代の事」で、勿論の事無く直接に冶金的な物への使用も無かった。
従って、「冶金的な冷却材としての使用」は「植物油」に限られていたが、極めて高価で使用は困難であった。
又、使えたとしても「冷却時」に「熱」に耐えられずに「油」が分解して「炭化してしまうと云う事」が起こり、「冷却材の使用」には耐えられなかった筈だ。
つまり、「上記のマルテンサイト」を獲得する事は、元来、「砂鉄の玉鋼」は、勿論の事、「近江鉄」の場合にも難しい事であって、元より原理的に使っていない。
後は冷却としては「水の冷却」と成るが、「砂鉄の玉鋼」は「マルテンサイト/変態」が起こらない為に、「ある技能の範囲」で使用は可能であった事が記録から解っている。
では、その“「ある技能の範囲」”とは、どの様なものであったかを過去の資料の経緯を辿りその論理を考え合わせて考察した場合には次の様であった。
先ず「水の冷却」には、その「冷却と云う点では大きな効能」はあるが、逆に逃れ得ない欠点もあるのだ。
それは先ずは「一つ目」としては“冷えすぎると云う欠点”である。
物理・冶金学では、“何でも冷えればよい”と云うものでは決して無い。
「ある一定の冷える遅い速度」が必要であるが、それ以上に速いと「上記のマルテンサイト」のみならず、その「本体の鉄と炭素の結合体」に、更には、その「結晶」に異常を起こし、破壊するか、又はそれの破壊に相当する近い事が興るのだ。
先ずは、それには少なくとも「約5S以上」に「緩やかに冷却する事」が必要で、これ以上に速く冷却すると、先ず間違いなく「強烈な破壊濁音を出して破壊」が起こる。
この「季節変化」に伴うこの“「水の温度の冷却」”が、この「約5S以上」に保つ必要があり、そもそも極めて難しいのだ。
何故ならば、ここにはもう「一つの理由」がある。
それは、「春夏秋冬」には“「水の温度の冷却」”がかわり一定に保つ事には困難が伴う。
夏の様に高ければ氷などで冷やさなくてはならないし、或いは「一定の冷温」を保つ「井戸水」が求められる。
然し、“「水の温度」”が高いと水分中に含まれる「空気」が膨張して「大量の泡」を発生させてその「泡」が品の表面に密着し極端に「冷却能力」を著しく低下させ、“「水の温度の冷却」”に合わないのだ。
最も嫌う事がこの“「水の温度の冷却」”で起こって仕舞う事に成るのだ。
夏場で「水温」が高くなると、では冷やす為に「冷たい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
「冬」もこの逆であり、「暖かい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
秋と春も同然の事が起る。
兎も角も、「水の温度の冷却」”の三つ目では、「焼入・冷却」の為に新たに水槽に水を入れると「焼入物・冷却物」の「強烈な熱」で「水槽の温度」は急激に上がるので「適切な温度・約20度・約5S以上・それだけの広さの水槽要」まで到達するのを待つしかない事に成る。
出来得る事ならば“「使い古しの水・濾過」”が“「空気と不純物が少ない事」”から水が“「軟化・アルカリ成分が少ない軟水」”にして最も好ましいのだ。
「上記の事」が「春夏秋冬に「水の温度管理」ができるかに関わるのだ。
「砂鉄の玉鋼などの刀の処理等」では論理的に難しい事になるのだ。
逆の事として、「近江鉄の0.8%C共析鋼」に於いては「青木氏部」では此れを克服する必要があった事に成る。
その意味でも、「植物油」にしろ「鉱物油」にしろ「水」より好ましい事が解るし、冷却速度の比熱でも良い。
因みに、「セルシウス温度」で、水1gあたり1気圧で1度の温度を上げるために必要な熱量の事で、水の比熱は1とすると、これに対する「油の比熱」は「0.5」である。
結局は「油/水=1/2」であるので、「温度管理」では現実的には「油の方」が優れている。
物質1gを1度上昇させる為に必要な熱量がこの「比熱」で、 この値が大きいほど温まりに難く成り、 水の比熱が1に対して、油は0.5である為、水に比べて早く温まる事に成る。
然し、水と油を比べれば、水の方が温まり難く、冷め難いが、油の方が温まり易いが冷め易いのでこの2倍で冷め易く、「冶金的な冷却と云う点」では逆である。
云い換えれば、「冷やされる方」に執っては「水は表面を早く冷やす」/「油は表面を遅く冷やす」の原理が働く。
この事から“「室町期の中程頃」”では、「高価の件」は別として、「冷却能力」では油の可能性が出ていた事が解るし、「水の泡等の欠点」の少ない「油の使用」が検討されたのだ。
上記した「油粕の事件の記述」は、丁度、この頃の事で、「氏族」の一部の中には遺したこの資料では、何故に記述して遺したのかは判らないが、「冶金的な冷却と云う点」では逆である事が解っていて、「殖産」として「油増産」に入った事が考えられる。
「みかん畑」としていたので、「伊勢から紀州」の「みかん畑」に「油粕」を捨てていた事に成るので、未だあまり広まっていなかった。
ところがこの突然の事は次の様な経緯を辿ったのだ。
この「植物油の使い出だし」は、遺された資料より古来より細々と「食用への使用」であって、未だ「現在の様なテンプラ等の概念」は無かった。
ところが、関西では室町室町期中期に成って「下記の経緯」で突然に広まったのだ。
「植物絞り油の経緯」
「植物絞り油の使用の経緯」 =「食用への使用」→・「害虫除去剤への使用」→「肥料への使用」→「冶金的な冷却材への使用」→「食用への大使用」
その「切っ掛け」は上記した様に、関西で起こった・「害虫大発生の事件」からで思い掛けない事からその「除去剤」として急遽,“「大増産」”と成ったのだ。
更には、それが「肥料」にも良いと成って、「絞り粕と云う事」の“「大増産」”と云う事だけでは無く、「植物油」そのものの“「大増産」”と成って行ったらしい。
そこに、「食用油の使用」は、又、「比熱の点」で劣る「水」よりも、又、「焼灰」よりも、その中間にあり「目的」に適している事が解った「青木氏部」では、そこで、この“「大増産」”を切っ掛けに悩んでいたこの「冷却剤への使用」に、この「話題中の植物油」に「発想」を切り替えたと考えられる。
「学実的な冷却理論」もあまりはっきりとしなかった「本論の経緯」の中では、それは「試し」に切り替えて観るしか無かったのではないだろうか。
それは「伊勢の青木氏」としては「伊勢」に居るか限りは「長い伝統も立場」もあり、これは「世間へ義理を破る事に等しい事」であり、然しも世の中は、既にそれを迫る「鉄の汎用」と「油の汎用」と「肥料の汎用」との「切り替え転換期」に入っていたのでは無いか。
筆者は、この「時期」がこれ以外に「神に対する3つの正義・「神饌」<「薬用」<「禊用」」、つまり、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の関係性がこの時期に変わって来たと観ているのだ。
それだけに関西で起こった害虫被害の解決事件が社会に与えた影響は大きかったと観られる。
それは、“何故この様な「資料の記述」が「南勢の家人の家」に遺されていたのか”に対するこの疑問であった。
普通なら「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が記し、その「書」が当然に其れが何れかの「青木氏の蔵・3回消失」に遺されていた筈であるのに、「南勢の蔵であった事」に疑問点があるのだ。
当然に、「植物油の原料の生産」とその「絞り工程」は、「南勢と南紀の殖産」として行われていて、その「粕の捨て所のみかん端」も「南勢と南紀」とすれば、「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が関わる書では無いだろうか。
だからこの「植物絞り油の使用の経緯」は、記録に遺す程の相当な出来事であった事を物語るだろう。
ではここからは「植物絞り油の使用の経緯」は“どの程度の期間で進んだのであろうか。”で論じる。
次段でもこの論の続きを行う。
上記に記した“「室町期の中程頃」”である事には間違いは無いのだか、もう少し詳しく論じる。
そもそも室町時代中期頃までは、主に「作物]を育てるために使われていた「肥料」としては草木灰や刈敷等のアルカリ農法で焼き畑もその一つでこれを蒔く事が中心であったが、これでは害虫等を駆除できないでいた。
この「室町時代中期頃の害虫事件」で「肥料三要素の窒素リン酸カリ」を多く含む「油粕事件・バッタ事件・銃開発期に一致」で、一度に関西では変化を来したのだ。
ところが、「江戸・九州の方に先に伝わる」では「下肥」で済ませていたが何と「享保期飢饉・故に米も育たず害虫も大発生」まで使われなかったのだ。
結局は、この「関西農法」を採用し、その結果として「食用油文化」と「果物農業」も関東に広まったのだ。
最終、次段で論じるが、この貴重な食用油を殖産の銃開発に使ったのだ。
その「経緯」を前段で論じたが、もう一度殖産の経緯を辿って観るとする。
上記した様に「1540年頃」が実質の活用段階に入った事は解るが、では、それが「本論の銃での開始点」であるとすると、「植物油の殖産」は、「日本書紀」にも記されている様に「716年頃の前からの事・施基皇子没の2年後」で、「伊勢の裔系」は「令外官」として「部の国造(朝廷の命)支配」として働いていた。
「近江鉱の二つ鉱山開発」もその一つで、この時期と当時に命じられて行われていた。
この「大功績」に依って、“「伊勢の大字と民200」を「4回」に渡り「合計では民500・実質では民800」を得て、「土地・領地」ともに“「実質の伊勢の王」”と成って行ったのだ。
この上記した“「殖産が自由に出来る領地」”としては、当時の「伊勢の有効面積の80%以上を獲得・地権域含む」し、「実質の伊勢の土地を殖産等で実行支配する伊勢王」と成っていた”と記されいる。
注釈 ここで何か事件が興っていた様だ。
実はそれまでは、“これだけの功績を掲げながら何故か朝廷から「初代伊勢王」とは認められていなかった”のだ。
それまでは「第七位王位」であって「第四世族内の真人族」であり「冠位」は「天皇」に継ぐ「浄大壱位」で、「賜姓臣下族」と成っていたが他にこれ以上の冠位と官位を持つ者は例え皇族の皇子であっても存在しなかったのだ。
この「大功績」も含めても「伊勢王」として認められていなかったのだ。
つまり、「施基皇子」は「伊勢の王」とされながらも何か政治的なものがあって「初代の伊勢の王位」では無かったのだ。 来敵の孝徳天皇の第二第三皇子が一代限りの伊勢王に任じられていた。
ところが任じられて直ぐに毒殺されていて,第三皇子がこれに代わろうとした。
要するに「伊勢王」であるが「伊勢王」と成ろうとはしなかった。
つまり、従って「朝廷からの国司」が「伊勢」を官吏して、その者が「初代の伊勢王」と一時呼ばれていたとされていて、「伊勢王」とは認められていなかったが、然し、この「近江鉱山開発等の功績」で「実質王」として、「伊勢への遙任」から、それ以降は、施基皇子は領国に「赴任・着任・647年」からが初めて認められたのだ。
つまり、“「初代の伊勢王」が存在しながら「領国の伊勢の国」を管理し始めた”としているのだ。
「遙任中」は「三宅連岩床の国司代」の配置の前に、この様に「初代伊勢王」がいたが「伊勢への遙任」に“「ある事件」”が起こり、それでその遙任の地位を「天皇」から解かれ、その「都の一族裔系」と共に「伊勢」に赴任し「着任」が許されたとしているのだ。
実は“この伊勢に関わる「ある事件」”とは何なのかである。
気に成る事なのでここで先に検証する。
つまり、「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王」と成っていたのだ。
この「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」と共に、この「その2人皇子・伊勢王の子供2人」の「突然の病死(政争)・伊勢王」で、「天智天皇の施基皇子」がら「領国の伊勢の国」の「伊勢王を勤める事」に史実は成ったのである。
(注 斉明天皇・661年没〜中大兄皇子662年)
「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は“「一代限り」”で任命されていた。
「一代限り」である事と云う事でありながらも、「政治的な意味合い」で「初代伊勢王」と呼称されていたのだ。
「天智天皇・在662年〜672年」の「第7位皇子の施基皇子・716年没」は「青木氏の賜姓」を受けたのは「飛鳥期の難波宮の都」で「647年の事」である。
先ず、「皇極天皇期」に「中大兄皇子・後の天智天皇」から「645年の大化の改新後の2年後に「賜姓・647年・臣下族」をして「伊勢青木氏」で受けていながら、政治的には次の様に成っている。
645年から「賜姓・647年」までの2年間
654年までの7年間
661年までの7年間
以上の「16年間」である。
一族が「天武期初期に移住したとする説」に従うと、「672年〜686年の初期」の約11年間の以上の後期の2期を合わせて、「賜姓時」より「27年間」は「天智天皇即位の662年」までの“「16年間」”は都にいた事に成る。
表向きは遙任である。
これは「伊勢青木氏」ではあって「伊勢王・第四世族内真人族の王位」ではあったが「伊勢」にいなかった計算に成る。
これが、上記した「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で、「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」と成っていたとするのが「理由」と成るのだ。
但し、「伊勢青木氏の記述」を借りると、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」の内の一人が死んだが、“もう一人が伊勢王”として続けたとしての事であり、記述はこの“もう一人が伊勢王”を“「施基皇子の中」”に組み入れて施基皇子「初代伊勢王」と成ったとしている。
これは“「施基皇子の中」とは、“もう一人の孝徳天皇の皇子”を“「父親・天智天皇の政敵」でありながらも保護した”と云う意味であろう。
そうする事で何事も無かった事にして、次は実質の「領国の伊勢の国」の「施基皇子が初代伊勢王」と成ったと云う事にしたのではないだろうか。
と云うのは、最早、この“もう一人の伊勢王”と成った者は、「孝徳天皇の皇子」であるとすると、「天武天皇期」では、既に、この間に「3人の天皇」が即位しているとすると、「大化の改新・645年」で定められた「王位の定義」は、「第四世族外の第五世族位か第六世族位の皇子」が成る者として決められていて、この“もう一人の伊勢王と成る者”は、既に「王位」に無く、既にこの時は「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に居た筈なのだ。
「大化改新の詔」では「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に成った者」は「関東・坂東」に配置される掟である。
所謂、「大化改新後」は「初代の坂東八平氏の始祖」と成る筈であった。
ところが「孝徳天皇の皇子」は「坂東」に流される前に政争で殺戮されたし、多くは自ら進んで政争を避けて「栗隈王の様」に一族挙って九州に臨んで配置されている。
此れを取り分け「第六世族」と成った「中大兄皇子の政敵の孝徳天皇」の「元皇子」を“伊勢の中で囲い救ったと云う事”に成るのである。
つまり、これ自体は大問題であるが「父の政敵の子」をこの「伊勢」で「施基皇子は匿った形」に成るが、“この時、何故か問題は起こらなかった”のだ。
既にこれは「脅威と成る皇子」では無く成っている事もあり、「政敵の脅威」とはならないし、「伊勢」の中に囲い込む事で他の勢力も含めて抑え込む狙いもあったと考えられる。
何れにせよ、これは今後の事を含めて丸く治めたと云う事であろう。
この記述から読み取れる範囲は、「北部」、つまり「伊賀」に配置したとある事から観てこの者は密かに「伊賀の氏人の一人」として後に「伊賀青木氏と融合させたと云う事」に成ろう。
さて、「伊勢」がいよいよ「施基皇子の第二世族王・真人族伊勢王」に成ったのは何時か”であるが、前段でも簡単に触れているがこの考察を序でにここでする。
「施基皇子とその裔系」は、「伊勢」に「正式に移住できた年」は、「孝徳天皇失脚の654年・歴史経緯説」か、「天武天皇即位の672年・青木氏の記述」の「二時期の二つの説」が成り立つ事に成る。
先ず、前者は、「天智期初期・654年」に“「遙任」”として「真人族王位の伊勢王」と成った。
つまり、都に居て「伊勢」には国司代を置いたがこれが「三宅連岩床」である。
“「遙任期間」”は“「18年間」”と成る。
次に、後者は、「天武天皇初期・672年」に願い出て「一族」ともども「伊勢」に“「赴任」”をした。
朝廷から派遣されていた「国司代」の「三宅連岩床」を都に帰した。
「前者の前期」は、「孝徳天皇の皇子・二人・一代限りの真人族伊勢王」で記述から読み解くと、“後に伊勢で匿った”とする記述からすると、「遙任」では無く既に「赴任」であったと考えられる。
この「赴任期間」は、「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」とすると、「真人族伊勢王の赴任期間9年間」である。
仮に、前者と後者であるとすると、“何故、天皇の権限下で赴任にて一族を移住させられなかったのか”の大きな疑問が湧く。
この「赴任期間」は、「嵯峨天皇期弘仁二年・811年詔勅」までとある。
この「関係する詔勅」は、続けて「五年と七年と最後の十年の四詔勅」まで少なくとも「賜姓族」であって、“「伊勢王であった」”ので、“「139年間」”であり“「伊勢王」”であり続けた事に成る。
然し、「施基皇子没・632年〜716年没・84歳」に依って「伊勢王」を解かれたのでは無く、これらの「四詔勅」に従えば、その内(湯原王、榎井王、白壁王、他三人)が「四家」を構成し補佐し、「後裔の福家嫡子・春日王」が「形式上811年」の「95年の間」までは“「伊勢王」”を続けていた事に成る。
但し、ところが「嵯峨期」に成って「出自元を擁護する派」の「桓武派」と、「皇親族・青木氏」であった「出自元の勢力」を弱めようとする「嵯峨派」との間で“「同族の政争」”が起こる。
つまり「桓武派」を推し進めていた「薬子の変」が起こった結果として「嵯峨派」が先手を打って勝つが、明らかにこれを“一族内の争い”と見做されていた「世間の評価・不評」で、「反発を受けてた嵯峨派」は、結局は譲り、「桓武派の代表の平城上皇」が、元の「信賞必罰の大権」を古巣の飛鳥の宮で握る事の「折衷案」で、「一族内の争い」は治まる。
従って、「形式上811年・95年間」」のまで続けていた事は、「信賞必罰の大権」を握った事の「折衷案」で、つまり、「平城天皇806年〜824年」の「形式上824年」まで、この“「伊勢王」”は、更に“「13年間」”を延長され続けられる事と成ったのだ。
「遙任期間・18年」+「赴任期間・三期の」=“「139年間」”+“98年間”+“13年間”
=250年間
では、「時系列に歴史的経緯」を観ると、以上と成るが果たして、「現実の事態」と云うと「時系列の歴史的経緯」では治まっていないのが世の常である。
つまり、「824年以後」は、確かに「賜姓族」を外され「嵯峨天皇」から令外官の一部の立場を弱められ結果として、「伊勢王」では無く成っているが、本当にそうなったのかで在る。
実はそう成ってはいないのである。
確かに[250年の伊勢王」としては正式には終わらせられたが、唯の昨日今日と「朝廷から派遣された三等官の官僚族達」が「国司・伊勢王」と成っていた訳では無く、「伊勢郷士50人衆」を「氏族」として女系で血縁し、況してや「四掟」で「藤原秀郷流一門族316氏」と結ばれている「青木氏族の伊勢王」を外したからと云って、そう簡単に外れる訳ではない。
当然に「嵯峨天皇」に依って「伊勢国司の官僚」が朝廷から一時廻されたが務まらず、僅かの地に「出自元擁護の仁明天皇」に依って「天智天皇の奈良期からの不入不倫の権」に基づき「出自元の伊勢王」は復されたのだ。
その結果、「伊勢」には国司を置かず、「250年以降」は、南北に分け “「無足村主100人衆・郷士衆」”として「古来からの神域の伊勢」である事を以て自然発生的に「自治体の合議制」で治められる様に成ったのだ。
この“「無足村主百人衆・郷士衆」”には「氏族の伊勢郷士50人衆」も含んでいるのだ。
当然に「南勢」も「青木氏の旧領地」でもあり「北勢」と同然に“「無足村主百人衆・郷士衆」”は組まれたし、「氏族の伊勢郷士南勢50人衆」がこれに参加した。
要するに「村主衆」であるので「郷士衆の者」が代々務めた。
室町期には中には「府の役人」も務めていた者がいる。
「青木氏の記録」を観ると、その“「無足村主百人衆・郷士衆」”の「財政的な支援」を影で「伊勢青木氏」はしていた事が書かれている。
“「無足村主百人衆・郷士衆」”が「中央の政治圧力」に屈せない様に「独自性」を持たしていて「河川の修理等の工事」等にも「経済支援」や「技術支援」していた事が「商記録」等からにも書かれている。
中には史実として「中央政府」に対して「犯罪者などの引き渡しなどの交渉」にも強く関わっていた事が書かれている。
それは「鎌倉幕府や室町幕府」や「紀州藩との殖産等」で良好な関係が維持されていた事からの結果からであろう。
現実に、幕末に起こした「南勢」からの“「無足村主100人衆・郷士衆」の「伊勢騒動」に対して「紀州藩」と交渉して罪人を出さずに済ませた事もあった。
ところが、これに呼応して「北勢」の“「無足村主百人衆・郷士衆」”が動いたが「明治政府・薩摩藩等」が介入して「大伊勢騒動」に発展した。
これに対して、「薩摩藩主体の維新政府」とは、蔵等を焼かれる等の「犬猿の仲」であったが、「先導者全員斬罪の条件」に対して、古来より「献納をしていた伊勢青木氏」が裏交渉してこれを取り下げさせ「一人の先導者」が責任を取る形で事を納めたのだ。
これが「伊勢青木氏」が直接的に関わった「明治9年まで13年間の伊勢騒動・信濃を巻き込んでいる」であった。
当に、これは「伊勢王」であろう。
「250年後/272年」も間接的に「伊勢の事」に関わり、その「鎌倉期」からの伊勢の“「無足村主百人衆・郷士衆」の「自主の政治体制」は江戸末期まで続いたが、結局は、間接的であるか直接的であるかの「関わりの具合」であって、「支援」に関しては「政治」も[経済」でも「実質上の伊勢王」として勤めていた事に成るのだ。
ここに第一に奈良時代から取り組んでいる「殖産の伊勢青木氏」があって女系で何度も深く繋がっていたとすれば、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「伊勢の民」も誰一人漏れなく「潤い」と「治政の恩恵」を得ていたのであるから、伊勢王期間の250年、又は272年後」に、突然に「伊勢王」で無く成ったからと云って“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「殖産」で「伊勢の民」等は誰一人左を向くような事は無かったと考えられる。
ハッキリ言えば、「伊勢の民の指導者」の“「無足村主百人衆・郷士衆」は「女系の血縁族の伊勢青木氏の氏族」であるのだ。
とりわけ、「純粋に氏族で形成している氏」は、日本に於いて「伊勢と信濃と秀郷流の青木氏」だけであるとすると、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、最早、「250年後/272年」以上の「何度も血縁を重ねた親族の一族」であった筈である。
取り分け、「男系血縁族」では「親族でも主権争い」をするが、これは無く、「女系の血縁族」は「血の繋がり」を強くする。
これは前段でも何度も論じたが「人類」は、「女系のみの継承」による「女性の遺伝子的繋がり」から出来ている。
後勘から観てもどんな面から捉えてもこの“「伊勢王を外した”と云う「嵯峨天皇の判断」には「疑問」が残るが、そんな「伊勢王」の「伊勢」であった。
其の侭に「伊勢王」であり続けていた場合に何か拙い事が起っている要素があったのかと云う疑問がある。
「272年間」までが“「現実の伊勢王」”であって、それ「以後の明治9年」までは“「実質の伊勢王」”であり続けたと観ている。
注釈 前段でもになども引用する処はあるがこれを前提にこれ等の論を続けて読んで頂きたい。
確かに「伊勢青木氏]は「皇親族」として力を持ちすぎて「天皇の地位を脅かす力」はあったが、既にこの時はこの政治的争いに巻き込まれない為に徹底した「女系化」をして「青木氏側」から防いでいる。
これで「天皇の地位を脅かす事」は出来ないしないし、寧ろ、「桓武天皇や平城天皇や仁明天皇」の様にその力を利用して「地位の安定・財源」を図っても何の不思議は無かった筈だ。
突然に「天武系から天智系」で血の繋がる一族」と成ったとしても、そこは力を借りて安定を図るべきでは無かったか。
要は、「嵯峨天皇」が一般的に嫌ったとする「皇親族」としてその度を過ぎなければ良い訳だ。
それを既に見抜いて「施基皇子」が「氏是」にしているでは無いか。
寧ろ、「天皇家の方」から近づいてきているのだ。
それを信用するかしないかであって、「施基皇子」は歴史に遺る程に表の行動は「歌人」に徹しているのだ。
後は「院号」を以て「殖産」を続けていれば良い訳であるし、それを続けているし「献納・内蔵」もしているし「院号代/大蔵」を納めている。
要するに、現実には「天皇家の内蔵の方」が潤っていたのだ。
「青木氏」を「皇親族で地位を保っている」として「社会」に「諂い」し見せたくないとする態度を採ったとも思っていたのか。
然し、「施基皇子」は「歌人」として振る舞っている以上はこの説は当たらないだろう。
寧ろ、「嵯峨天皇」は「伊勢青木氏」に卑下したかであるが、何故ならば「後裔の春日王」も歌人であり全てに優れていたとされる。
「嵯峨天皇」に似て「初代の白壁王の光仁天皇」もその性質の傾向があった事が伝えられている。
然し、この奈良期からの「伊勢」に「250年後/272年」もの間に、「伊勢氏族50人衆」で「強固な基盤」が既に築かれていて、そこに「朝廷国司」が来たからと云って務まるかの疑問が残る。
現実には「経済基盤」と「支配の勢力基盤」と「軍事等の統治の政治基盤」が築かれているのだ。
これ等の協力なしでは何も出来ないのが現実である。
「朝廷としての税」にしても「伊勢弁財使」としても「税を都に送るだけの運搬の役目の官吏」であったろう。
それ故に「250年間」で「伊勢郷士衆50衆の氏族・北部」で構成されている国では、最早、「押領使の役目や弁財使の役目」は唯、無かったであろう。
従って、「824年」からは実質は「伊勢北部」は「伊勢国司不在」であったのだ。
其の後、この“「738年間の国司不在の伊勢国」”は、元より「郷土史・無足村主100人衆由緒等」に依れば、“「無足村主百人衆以上の村主構成人・郷士衆」で保たれていた事が記録から判っていて、取り分け「伊勢南部」も「伊勢南部郷士衆50衆の氏族」で保たれていたのだ。
この「伊勢南部」も云うまでもなく「奈良期からの伊勢青木氏の旧領地」であった。
ところが「奈良期からの不入不倫の権」を破って「戦国期」に成って突然に「1562年から1576年」の「8年間」に渡りに「朝廷の学問処官吏・公家」だった「北畠氏」が「貴族の武力」を以て「伊勢・1415年」に強引に入り込み南北朝期に「伊勢国司」として振る舞い、最終は「信長」に1576年に潰されたのだ。
約長くても「150年間」であるが、「伊勢国司としての役割」を果たした期間は実質無いのだ。
矢張りは、古来から「伊勢一国惣国者国衆」として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主百人衆の郷士衆」であったのだ。
彼等が参加しなかった後から甲斐と信濃から入って来た「工藤氏や神田氏や川久保氏等」との「伊勢の戦乱」であったのだ。
唯、秀吉はこれを見抜いていたのだ。
注釈 前段でも論じた様に、余談として、この「奈良期からの不入不倫の権」を自ら先鞭を切らずに「特殊な伊勢」に対して自ら手を下さず「北畠」に遣らせた「信長の策」に嵌まったのだと筆者は観ている。
この注目の「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」は北畠氏に着いて行かなかったのだ。
筆者は、古来から“「伊勢一国惣国者国衆」”として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」が従うと思ったところに問題があって、この「村上源氏を押し出した北畠」は余計な事をしたものだと思う。
「村上源氏以上の格式」を有する「伊勢一国惣国者国衆」に対して{武力」では護れはしない「伊勢]である事を読み切らずに馬鹿な事をしたと思うし、「伊勢」は其の様に一定期間振る舞ったのだ。
注釈 この“「伊勢惣国者」”で成り立つ「南北部の村主郷士の自治組織」は、江戸時代に成ってから政治的に利用され、「津藩の郷士の軍役の家臣」として利用され「政治の安定・取り込み政策」を図ったのだ。
ところが「南北部の村主郷士の自治組織」の彼等には、元より「経済的」に安定する「擁護の支援者・伊勢青木氏」がいた為に、「津藩の働き掛け」に必要以上に靡かなかったのだ。
中にはこの柵から抜け出せずに「軍役の役」を持ちながらも「無足村主百人衆」を捨てなかったのだ。
「典型的な事件」として「伊勢騒動の指導者」の様に、「津藩の役人」でありながらも主張する処は主張し自ら責任を取った指導者もいたくらいで「無足村主百人衆」を守ったのだ。
明治5年までの歴史が残っている。
ところが江戸期に入って「伊勢」は、「多くの支藩・紀州藩」が乱立したが、どの藩の家臣にも成らず「無足の立場」で「自治組織」を形勢していた。
又、この「土壌」を利用したのが「信長の楽市楽座」である。
更には「伊勢秀郷流青木氏の梵純」の「甥の蒲生氏郷」が、この「伊勢の組織」を利用して「伊勢」を上手く治め「信長」より特別の褒章を得た史実があるほどの忘れてはならない「伊勢の事を左右する程の自治組織」であったのだ。
況してや、「帝紀」で少なくとも「嵯峨天皇」は、「天智天武天皇の青木氏に下した命」は覆せないし、それを覆せない以上は「伊勢出自の光仁天皇・白壁王」と云えどこれを黙認したが、「桓武天皇と平城天皇」は帝紀を追認している。
従って、この「帝紀の現状」は「絶対的帝紀」として覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢の領地と民」はこの「帝紀」に従う決定として「施基皇子の後裔地」として例え「天皇」であっても覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢王の国司事件」によりその後は“伊勢国司を置く事は絶対に出来ないと云う定め”に成っていたのだ。
唯、累代の中で「嵯峨天皇」だけがこの「流れ」を嫌って「賜姓族と皇親族を外す事」で、「帝紀」に逆らったのだが、但し、晩年にこれに反省して自らが「賜姓族青木氏の制度」を甲斐に復活して「甲斐青木氏・税を司る役人の甲斐冠者」にしてから自らが復して「甲斐青木氏」として「青木氏の賜姓制度」に戻しているのだ。
その後に「円融天皇」により既に「四掟」で「母方」であった「秀郷一門の嗣子第三子」に「秀郷流賜姓青木氏」に復する事を永代に命じているのだ。
依って、この「考え方」に依れば一時的には成るが、「賜姓族」では無く成ってる時期もあった事に成り、同然に「伊勢王では無く成る時期」も起こったと云う事に成るのだ。
「甲斐青木氏」として「賜姓」を復しているが、「制度」として復しているかは復したと明記している命が無い限り疑問であるのだ。
天皇が正式に賜姓をするかは別として条件が揃えば名乗っても良いとしたのだ。
これが「左大臣の島氏の青木氏」であったり「時光系回青木氏」であったり[橘氏系青木氏」等があったり証券の疑義はあるとしても「丹治彦流丹治氏系青木氏」がある。
「秀郷流青木氏}は「円融天皇]より正式に条件に拘わらずに「賜姓」を永代で受けて別格である事は女系で云う迄も無い。
まあ、「円融天皇」が「青木氏に依る賜姓制度」を正式に復した事にも成ると観ている。
これは「賜姓族」を外したのは一時的にせよ「賜姓族と皇親族」ではあったとしても、“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだ。
但し、「皇親族」では“外した”と云う記録はあるが、「仁明天皇」がこれを“復した”とする記録は「五つの朝廷史書」にもないし、これ等の「史書」から明らかに「賜姓」で「臣下」している限りに於いてだけでは「皇親族」は必然的には生まれてない。
この“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだが、“無いと云う事”は外していないという事にも成る。
つまり、「伊勢王」でありながら“「皇親族」では無い”と云う矛盾は生まれるのだ。
又、同時に「伊勢王」である以上は「賜姓族」である事に成る。
だとすると、「伊勢王」の「賜姓族」は、否定できない事実であるのなら、「皇親族」と成り得る事は否定できない。
「記録の有無」は、兎も角も、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係は成立していなければならない理屈である。
これを脅かした「嵯峨天皇の行為」は、矛盾するか否かではなく、「帝紀」に触れるか否かではなく、記録にあるか無いかではなく、この「出自元」でありながらこの「三つの関係」にある事をそれぞれを否定したのだ。
そこで「特別令外官」だけに就いては、「3等官以上の官吏」であれば成り得るので「令外官」であった事は否めないし、況してや「浄大壱位の冠位」を持つ「永代賜姓五役」であった事は否定できないので、「永代令外官」は否定できずその侭の状態で放置した事にも成るのだ。
つまり、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」でありながら、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係を否定してしまって「百々の顛末・始末」は矛盾した結果と成ったのだ。
然し、結局は、この「嵯峨天皇の矛盾」を放置できずに「仁明天皇」が遂にはこれを修正したと成るのだ。
この「歴史段階の結論としての証明」は、何はともあれは、“武力を前提としない氏族の青木氏”に対して、“「鎌倉幕府」は、「仁明天皇の修正部分」に基づいて、「鎌倉幕府」は「安堵策」を以てこれを認めているのだ。
ところが、「歴史」では此れを正しく評価していて、この「伊勢」の「商いも営む二足草鞋策の裔系青木氏」に対しては、「伊賀域」を除いて、「伊勢全土本領安堵している史実・上記の関係式を認めた証拠」”があるのだ。
「鎌倉幕府」は、「伊賀域を除いたとする事・地頭」からすると、「奈良期から平安期初期に掛けての詔」に従ったと云う事であり、又、「帝紀の有様」に従ったと云う事に成るのだ。
「室町幕府」は、これを「伊勢北部」と「伊勢南部一部の旧領地」を二つに分けて本領安堵して全体を減らしたのだ。
更に、その上でこの「地権策を多く用いたこの安堵策」は「奈良期の最も初期の状態」に限定した事を意味する。
然し、この時は、限定と云う事は減らしたのかと思いきや「別の形」で処置して復しているのだ。
それは、「青木氏の財力」を生かして優先的に「地権獲得・幕府には都合がよい」で本領を復して解決しているのだ。
恐らくは、この「地権獲得」から得られる「大財源」を狙ったものである事は明白である。
これ等の史実は、「伊勢王」では無く成った「824年」からも、“「武力を持たない豪族・秀郷流一門の抑止力」”を背景に「伊勢」を「実質に支配をしていた事」を示すものだ。
次に、「伊勢王であった時期」としては、「賜姓前の“647年以前」はどうであったか”という事に成る。
当時の「施基皇子15歳」で「成人」と成り、その為に「賜姓」を賜り、当然に独立した証として「姓」を持つ以上はそれなりの位に応じて「国・地域」も賜るのが「当時の真人族の者の仕来り」であった。
この時に確かに「孝徳天皇の二人の皇子」の「伊勢王]として「一代限りの王」が居ながらも、「施基皇子」はその「伊勢の一部域・賜姓地は指定されていた」を賜っているのが通常と成っていた。
然し、未だこの時は初代の「孝徳天皇の皇子の伊勢王・毒殺」が居た事から、「全域」では無かった事には成るが、そこで、この時、「伊勢」は果たして、「施基皇子の賜姓地」が決まっているのに、「初代の孝徳天皇の皇子の伊勢王」が存在し得ていた事に成り得るのかである。
これは矛盾する。
これは「孝徳天皇の皇子の伊勢王」に執っては「100%伊勢王としての立場」には無かった筈である。
それでも「伊勢王・一定期」にしたと云う事だが、これは「中大兄皇子の政治策」であった事は明白であった。
「歴史の経緯」からして、この状況の中では「伊勢王」は確かに「孝徳天皇の皇子」であった史実かも知れないが、現実は考え難い。
「施基皇子」は、「賜姓」を「伊勢」に受け、且つ、「功績」に依って「伊勢の領国・4つの大字/80%」を受けながら、「伊勢王では無いと云う矛盾」が「一時期に続いていた事」に成るのだ。
ところが、この「状態下]で、「中大兄皇子」は、「大化改新・645年6月12日」を実行しているのだ。
「政権」を掌握した「中大兄皇子と中臣鎌足」は、「皇極天皇」を退位にし、「皇極天皇の弟」の「孝徳天皇」を即位させた。
そして、その直後から「新たな時代の始まり」として、それまで正式に無かった「元号」をも「大化」と定めた年でもあって、「王位」も「第世族」までと決めた年でもあり、「日本」と「天皇」の「呼称」をも正式にこの時に定めた年でもあった。
それまで「王位であった者」が「王位で無く成った者」が多く出て混乱し、これ等の者は坂東に配置されて「ひら族]と名付けられて流されたのだ。
これが「後の鎌倉幕府を支えた坂東八平氏の始り・熊谷氏等」である。
この「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は「斉明天皇」からは「第三世王」であり「天智天皇」となると「第四世族」と成り「施基皇子」が匿ったとしても必然的に「伊勢王ぎりぎりの位置」にあった事に成る。
所謂、この「皇極天皇・在642年〜645年」と「孝徳天皇・在645年〜654年」の「中間・即位前」の中での起こった「改新劇」であって、「母親の重祚」の「斉明天皇・在594年〜661年」と「天智天皇・在668年〜671年」から「天武天皇・在673年3月20日〜86年10月1日」と繋いだ歳でもあった。
当に「日本の社会状況」を含めて「状況」が大きく変わる「大化の経緯」であった。
現実に、この時は「天智天皇」が「伊勢」に「紀州日前宮」から「最終地の遷宮地」として定め移した年でもあり、これを「伊勢神宮」と定めた歳でもあり、此れを「天武天皇」が正式に整えて最終決定して仕上げたのだ。
だとすると、この「経緯」では、「伊の勢の国」は、「施基皇子」が15歳で成人し「賜姓」を受け、且つ、其の位から地を賜っている筈である。
つまり、「年・647年の前」の「645年前頃前・皇極天皇期」の「伊の勢の国」は誰の支配下にあったかと云う事に成る。
母親に代わって「中大兄皇子」が摂政を執っていた年の「伊の勢の国」は当然に神宮の事等もあって、「中大兄皇子」の支配下にあった事に成り、「15歳の賜姓を受けた施基皇子」には、「伊の勢の国の全域」とは云わずとも「ある域の領地]を与えた事に成る。
でなければ「15歳での賜姓」は無い。
ここが、“「旧領地」”と呼ばれていた「南勢域の尾鷲の域」ではないか。
此れであれば、他は安堵され無く成っても、つまり「江戸時代」になっても「此処・南勢尾鷲域」は安堵されていた事から符号一致するのだ。
つまり、「647年の前」の「642年の5年間」は、実質は「施基皇子の支配下」にあって「647年」に「正式に領地」と成ったとする経緯である事に成るのだ。
つまり、この以上に検証した上記の「疑問」は、この状況の中で「中大兄皇子」がその「裔系」を以て「伊勢」を一時的に支配していたのではないかという事だ。
「伊勢王の本領地の250年間」に、この“「5年間」”が加算される事を意味し、それは「255年間」と先ずは訂正される所以と成る。
ところが、疑問としては、もめた「嵯峨天皇後」の「伊勢王の期間」は、果たして、上記した様に「賜姓族」を外された事で、要するに検証する“「伊勢王の期間」が此処で途切れたとする論”で良いのかである。
つまり、これは「全ゆる殖産」は終わったとする事に成るが、この「殖産」は「伊勢王」であったかは別として「伊勢を代表する殖産の青木氏」として「紀州徳川氏」と共に明治期まで続けているのだ。
これは何を意味するのかである。
他に伊勢に同じ様な立場を保全している者があるのなら続けてはいない筈だ。
「坂本竜馬の船沈没の事件の問題」も「伊勢の青木氏」が「勘定方指導役」として代わって解決しているのだ。
本当にこれも何を意味するのかである。
「伊勢」に「それなりの替わる者」が居れば出て来ている筈では無いか。
要するに自ら伊勢松阪から摂津に身を引くまでの「明治期初め」まで「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は「実力のある実質の伊勢王」であったのだ。
兎も角も、「時代経緯」がこれだけの事を示しているのに、それにしても「嵯峨天皇の出自元の行為」に対しては「純和天皇」も「中間の立場」を保ち無関心を装ったが、「仁明天皇」だけは、「嵯峨天皇時代の施政」に反して「反意の態度」を執って「出自元を擁護し復した」と幾つかの史書にある。
「鎌倉期の史書」にも「伊勢青木氏の血縁筋の最後」は、「仁明天皇」が最後として記していて、ここまでの史実には「否定者」は、「嵯峨天皇以外」に無く、多くの者が良い「関与人物」として記している。
この事から観れば「天皇」としては、後勘からみれば、「伊勢での青木氏の立場」を立ち直らせたのは「仁明天皇と円融天皇]であったろう。
淳和天皇・在823年5月29日〜833年3月22日 10年間 嵯峨天皇の異母弟
仁明天皇・在833年3月22日〜850年5月4日 17年間 嵯峨天皇第二皇子
円融天皇・在969年9月27日〜989年9月24日 20年間
とすると、「嵯峨天皇での青木氏賜姓の中止」で、その後は「伊勢王」は結果として停止し、「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」と成ったとあるが、「仁明天皇の復政」で「伊勢王の立場保全・実質は伊勢村主百人衆の上に立っていた」は戻ったとする説論が成り立つ。
そうすると「伊勢王」が復されたのであれば「賜姓族」も復したと成るだろう。
上記した「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である以上は、復する事は理窟の上では間違いは無いであろう。
取り分け、この「説論」は「北勢」に於いては「青木氏の氏族」である「伊勢郷士50人衆の村主衆の氏人」で成り立っていた事を考察し、「旧領地の南部の伊勢郷士50人衆の村主衆」もこれに従ったと考えられている。
とすると、少なくとも「北勢の伊勢王」であり続けた事が間違いは無い事が云える。
そこでそもそも「南勢」は上記した様に「奈良期からの旧領地」であった。
「北勢+南勢」に於いて、この関係が成立しているにも関わらず、そこで「実質伊勢王」を、「朝廷」は「嵯峨天皇の乱政」で掻き廻され、「帝紀を覆す事」は出来ない為に矛盾の進言もをせず“「積極的黙認」を続けた事”に成るのだ。
取り分け、「南勢」に於いては明確に認められるのだが。
その「証拠」に於いて「江戸期の伊勢での一揆反乱騒動・前段・伊勢騒動で論じた」は何とこの「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」での「南勢」から起こっているのだ。
そして、「北勢衆・経済的な補完は伊勢青木がした」がこれを補佐したと記録にある。
従って、江戸期まで働いていたとするならば、「北勢」は少なくとも「仁明期]までは充分に「実質伊勢王の威光」は働いていたと考えられる。
従って、筆者は、250年間+5年間+17年間=“272年間” が“「伊勢王の期間」”としているのだ。
後は、守護等を置かない「南北の無足村主百人衆の自治組織」が治めていた事に成る。
「戦乱期の中」で「1415年」の「国司の格式」を得て「公家貴族の北畠氏」がこの「自治組織」を其の侭に「伊勢」に強引に入る事に成ったのだ。
然し、この時も「公家貴族の北畠氏」の資格は「3等官以上が成り得る国司」であって「伊勢王」ではないのである。
この事は、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である事が現実に認められる以上は否定は出来ず、“「積極的黙認」を続けた事”に依って「伊勢王の存在」を影乍ら認めていた証拠であろう。
現実に「朝廷に執っては最大の献納・献納そのものが伊勢王の証拠」が行われているのだ。
況して、「地頭と守護」のいない「南北の無足村主百人衆の自治組織」と「伊勢青木氏の支援」で治めていた「伊勢」の中で「国司」であったとすれば、「公家貴族の北畠氏の国司」は何の意味を成すかである。
「南北朝の指金」に過ぎなかったと観ていて「朝廷を救うものでは無かった」のだ。
況してや 「戦国時代1467年から1690年を戦国時代」とすると、「50年前の南北朝の朝廷」にあっては「公家貴族の北畠氏の国司」をこれをその格式とすれば「伊勢国司の意味」の成す処等はないのだ。
実質は、この段階でも「伊勢王」は、伝統的にも実績でも功績でもどれを執っても“「伊勢青木氏に代わり得る者」が「伊勢」には存在していなかった”という事であって、「献納等の行為」も含めて公私ともに演じていたと見做せるのだ。
その状態を再び室町幕府の公が形式的に時代に合わせて認めたのが「律宗族の青木氏」であったのでは無いか。
平安期で“「積極的黙認」を続けた事”に対して、室町期では「正親町天皇」も巻き込んでの事であったと観ている。そうでなければ「正親町天皇・朝廷」を引き込まなかったであろう。
“「積極的黙認」はこの時点で終わりを告げ実質伊勢王を認めた形を執ったのでは無いか.
それが「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係であり続けたが、「伊勢青木氏」に執ってはそれがあるか無いかは別として大した意味を持たず、「南北の無足村主百人衆の自治組織」に囲まれた「奈良期からの伝統とその形を護る青木氏・律宗族」であったのでは無いか。
最早、軌道に載った「殖産の青木氏」であったのであろう。
要するに、[近江鉄の殖産」は「伊勢王の在り様」に大きく関わっていたのだ。
それだけにその伊勢王の期間が問題に成る。
「伊勢の国」の「伊勢王としての殖産」に関する事件は以上
注釈 「伊勢の資料」には、恐らくは“「250余年間」”とするものもあるのはこの事に依るものであろう。
要するに、“実質の限界値を何処に定めるか”にある。
それにしても「奈良期初期の曖昧期の5年間」と、「平安期初期の曖昧期の17年間」を除けば、前段でも記述した様に、確実には、“「250年間」は「伊勢王」であった事”が認められる。
注釈 そして、その後は、上記した様に鎌倉期には「御家人の地頭職・足利氏」を置いたが「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」を受けた様に、「平安期末期・1192年」までの“「368年間」”も、下記の政治体制としての「伊勢郷士衆南北百人衆」でまとめていた期間も、“「実質の伊勢王」”であった事に成る。
この時の「伊賀域」は、伊勢松阪に代わって「足利氏の地頭職」を置いて外したが、「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」で、「鎌倉期初期・1220年」までは、「平安期の伊勢王」に相当する特殊な伊勢氏族」として保たれていた。
然し、「鎌倉中期頃」からは「伊勢の態勢」は替わり「執権北条氏の政治策」で「伊勢の主な本領地」は無く成り、その代わりを「裏の形」では“「買い取る形・地権者」”としての「地位」を築いていたのだ。
その古来から「立場格式を特別に有する“「郷氏」”、即ち、「豪族に相当する財力と抑止力を有している事」を前提として、「地頭」に相当する“「守護族・郷氏族・伊勢王」”として務めたとなる。
注釈 「鎌倉幕府」の「頼朝」は、前段でも論じたが、天皇宣下が降りず「征夷代将軍」”とは直ぐには成れず、「頼政の以仁王の令旨」を以て引き継いだとして一段格下の「鎮守府将軍」に甘んじていた。
従って、正しくは「鎌倉幕府」は、開けずに、「鎌倉の府」として振る舞っていた。
この「鎌倉の府」の下では、「守護職」に代わって「地頭職の官僚」を前提として置く事を定めて「朝廷」に申請したがこれも直ぐには認めなかった。
そこで、この樹立したばかりの「鎌倉の府」は、強引に「御家人」から成る「地頭職」を主要地に置き始め、「既成事実」で府の管理体制を造り上げたのだ。
その為に前の「守護」と「地頭」との間で「争い」が続いた。
その「地頭の最初の設置」が、「天智天皇の詔」がある為に「伊勢松阪」に直接に置けず、その代わりに「伊勢伊賀」に置いた。
そして「美濃一色」にも置けず「美濃沼田」の二か所に先ず置いたのだ。これが最初であった。
そもそも「一色の呼称」は「伊勢」於ける「伊勢王・施基皇子の大字の総称」として使われていたもので、「伊勢」から主要三か国・近江・美濃・信濃」に嫁いだ者等が故郷を懐かしんで住んでいる地域を「一色」と呼んだものであって、それが周囲から格式と見做され、乱れた室町期には無断で格式を高く見せる手段として使われる様に成ったものだ。
要するに、第の氏名姓と云われるもので、足利氏や徳川氏は時と場所に依って足利氏、徳川氏以外に「名乗り名」を四つも使っている。
この「名乗り名」を使う事には幕府の追認があったのだ。
そこで、足利氏等の「名乗り名」に付いては次の通りである。
例 足利氏・土岐氏等の「第三の名乗り名」 (一色に付いて)
1 美濃国の戦国大名の「斎藤義龍」が「美濃一色氏」を称する。
2 土岐頼益の養孫である「土岐成頼」の裔の「土岐頼栄の子孫」が「土岐一色氏」を称する。
3 足利氏支流の「吉良有義の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
4 足利氏支流の「吉良定堅の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
5 藤原北家良門流の「犬懸上杉憲藤の裔孫の上杉教朝の子孫」が「上杉一色氏」を称する。
6 足利義昭より偏諱の授与で「菅原流一色昭孝」を称する。
7 足利在種の裔孫が「足利一色氏」を称する。
要するに、これも「社会と周囲と朝廷と幕府」はその格式を認めていた事を示すものである。
所謂、「施基皇子とそその裔系」に対して「伊勢王の権威」を認めていた事を示すものである。
それは合わせて「格式を保つ為の古き伝統」をも維持していた事にも依る。
注釈 そもそも、“「大兄」”とは、同母兄弟の中の長男に与えられた「大王位継承資格」を示す称号で、「中大兄」はその「2番目の大兄・皇子」を意味する語である。
「大化の改新」とは、母の「皇極天皇期の645年に「乙巳の変」での国政改革の事で、その2年後に賜姓を授かり、「中大兄皇子」から「第7位の第四世族内の施基皇子」として臣下している。
「孝徳天皇の子供の初代伊勢王」が、“「施基皇子の配下に入った」”とするは、“この二人の内の次に成り得るもう「一人の子供・皇子」が身を引き「施基皇子の配下に入った」”と成ったと考えられる。
この事に就いて「施基皇子の功績」を以て、「天武天皇・在672年〜686年」も流石に放置できず、この時に「施基皇子の大功績」が有無を言わさずに「匿う事と赴任の事の容認」に踏み切る事に左右した事に成ろう。
注釈 さて、“この「注釈に関わった時はと云うと,そうでは無かった”のだ。
つまり、「初代伊勢王」は実は「施基皇子」であった。
ところが、その「中大兄皇子の政敵」の“「一代限りの初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”は「伊勢王の施基皇子の配下の国司」として入って着任した形を執って「伊勢」に匿ったのだ。
この為に政敵の「一人目の一代限りの初代の伊勢王・兄の皇子」は毒殺された。
この為に、「一代限り」である事から次の「二人目の伊勢王・二人目の弟の皇子」に引き継がせる為には、この「二人目の皇子」には、飽く迄も、“「初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”の呼称としては引き継がせ様としたが、「実質の形」は「政治的立場」から「伊勢国司の形」として辻褄を合わせたのだ。
この不思議な時系列を読み解けば、この「二人目の孝徳天皇の皇子」を救い匿う口実を造り上げていたとすれば理解は出来るのだ。
そして、故に“「実質の形」”では、「朝廷」は飽く迄も“「初代伊勢王」と当初は呼んでいだ”の経緯と成るが、実の処は“呼んでいたと云うよりは呼ばしていた”のでは無いか。
ところがこの「政争]とは別に、「施基皇子」が「朝廷」で「賜姓臣下族」として振る舞っていたが、それでいて余りの高い功績を積み重ねた為に、その侭では「朝廷」も無視し続ける事はできなくなったのだ。
前段でも論じた様に、「賜姓五役」としての「功績」が誰よりも高く上げながらも、その様に振る舞わなかった原因である。
注釈 「真人族」の中では「有名な歌人」として振る舞い「政治的立場」に敢えて出ず隠した形でおとなしくしていた。
その為に上記した様に「冠位と官位と伊勢領地」とを「皇子真人族」の他の誰よりも獲得していたが、それ故に上記の様に「伊勢王呼称」には拘りを示さなかったのだろう。
その「真人族」が何と初めての「第七位の第四世族内の真人族」が、最初の「臣下族」と成り、且つ、それが「賜姓族・647年」と成り、「天皇の親衛隊」と成った事で、その事象は過去に事例が無く、“「前例のない扱い」”であった事から、「天武天皇」とその「后・姉・持統天皇」は、その「扱い」に対して勿論の事で「朝廷」も困ったのでは無いかと観ている。
此れは「父の天智天皇の大化の改新」で起こった初めての事であって、何事にもその「扱い」に極めて慎重に成ったと云う事ではないか。
古来より上記している様に「帝紀」があって、“天皇が一度詔として定めた事はどんな事が有っても覆してはならない”とする掟があった。
これに対する「三等官以上の官僚族」がこれに関われない“「政治的迷い」”があったからであろう。
つまり、「浄大壱位と云う冠位」を持っていた事で、「兄の皇子」に対して“「天皇も裁けない出来事」”と成っていたと考えられる。
その「最大の要素」は、「天皇に継ぐ冠位」と「真人族で賜姓族のその前例のない功績」であったと考えられる。
これに「天武天皇」も「兄・天智天皇」で、その「后」も「天智天皇の娘」であり、「大化の改新の詔」と「帝紀の尊重」であるとすると、このそれ相当の“施基皇子の処遇に迷う”のは「自明で理」であるだろう。
注釈 「施基皇子の功績に伴う処遇」に対して、「兄の川島皇子の処遇」は礎それ相当に評価されていないのは不思議で、「皇子順位」は川島の皇子の方が確かに上であるが、「近江への褒章の処遇」は同じと成っている。
冠位と官位は施基皇子の方が上であるし、「領国の価値としては施基皇子の方が間違いなく上である。
「賜姓」も「施基皇子」は「神木の青木」から当時の慣例から上で、「普通の当時の賜姓」の最低は「地名」であり、「川島皇子の賜姓」は単なる「近江の地名・神社名」であって「真人族の賜姓」の扱いではない。
然し、以上の様に「青木氏のの氏是」にもある様に上位にありながら目立たない様にしていたのだ。
注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。