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  [No.382] 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/24(Sun) 09:59:18

> 「青木氏の伝統 56−4」−「青木氏の歴史観−29−4」の末尾

> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
詳細の検証は更に次段に続く。
その疑念は明治初期に消えた。
> その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
> その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
> 中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
> 紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
> この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
> この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
> これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
> これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
> この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
> そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
> 後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
> 後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」

(注釈 「巨万の富と伊勢青木氏のその後」
それは奈良期から始まった。
「紙屋院の紙の製造・朝廷の認可・勅命」からこれを基に自ら氏力で開発した「和紙」の「余剰品の市場放出の権利・商い」を「925年頃・紙屋院伊勢屋の号」を与えられ認められ手始めた。
そして平安期の「1025年頃の総合商社・献納金」を設立し、遂には、「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得た。
更にそこから「室町幕府」には「白旗派・原理主義」を「浄土宗」と認めさせ、結果として唯一の“「律宗族」”と呼ばれるまでに至った。
それを「源・大儀」に、これを「共存共栄共生の概念・青木氏の氏是」で確率させ、要するに室町期の戦乱の中で“「紀伊半島の民」”を護ったのである。
当に、これが既には「平安期末期・嵯峨天皇期」からは「高位族の務め・皇親族・令外官」では無く成っていたが、然し、「伊勢青木氏・信濃青木氏の協力」の範囲では、その概念を頑なに「伝統」として持ち続け、「明治9年」までのその「行動」は矢張り、“「賜姓五役」”であった。
つまりは、”「隠れた令外官」”に徹したと云えるのだ。
「明治期まで続いた天皇への献納」は何よりのその証拠であろう。
況や、「共存共栄共生の概念」に徹していたかは、「明治35年以降」の「富の蓄積」の有無に表される。
そもそも、この「明治35年以降」は既に「普通の富の範囲」にあり、決して最早、「巨万の富」と云えるものでは無かった様だ。
それは「幕末」から起こった「伊勢信濃の全域の庶民が興した伊勢騒動」が明治9年までの「11年間」も続き、これを背後で補完していた為にこれにより「巨額の富」を放出したのだ。
「何万と云う民の糧」を全額支援したし、その「後始末」に明治政府に対してあからさまに「巨額の献納」をし、「騒動の事・始末」の「処罰者」を「差配頭」だけにして「民全員」を穏便に済まさせた。
「地祖改正」で「伊勢の地権域の民」に全て「無償」で「地権」を譲り「富」は遂に底を突いたとされる。
更に、維新時の大名に貸し付けていた「債権放棄・計10万両・主に紀州藩」に合い、富の底の底を突いたとされる。
最後は、「明治35年の松阪の失火」で「松阪福家」は責任を取り、全てを売り払い賠償したとある。
この事から「松阪」より「福家」を「摂津・紙問屋伊勢屋・現存」に移し、「松阪」は「殖産・早場米の開発と酒米の開発」のみにして、「員弁と桑名の四家・現存」に営業の差配を移したとある。
そして、「青木氏部」は「大工職人・宮大工」として支援して独立させて「桑名額田」に夫々の会社・二社・現存」を設立させたとある。
祖父の代の「明治維新から昭和20年」までは、「四家との繋がり」は有りながらも、最早、「富」では無く、“「律宗族」”から“「徳宗家」”としての「呼称の名誉」だけが遺されていた事は事実であった。
「青木氏の資料」と「明治期の郷土史」にもこの記載が遺る。
最後の「福家」であった「祖父」は、後始末を着けた其の後「尾鷲の旧領地」に引き上げたが、「多気と熊野と田辺と海南の庵・一族氏人の保養地」だけが残った事と成った。
「祖父と父」はその間に得た「教養」を許に、これ等の「庵」で「多くの弟子や僧侶・禅宗」を養い、世間に輩出した。
江戸期に「廃れた南画の復興」や衰退していた「彫刻・華道・茶道・歌道・禅門道・俳句道の普及」にも努め、「職業弟子」を世に無限と云える程に送り出した。
現在もその弟子の子孫が受け継いでいる。
これが認められ、「明治期の華族制度」の推薦に続いて、二度目の大正期に徳川侯爵より「文化功労」により推薦され、政府より感謝状を贈られるとするが「氏是」に従い何れも再びこれを辞退した。
「共存共栄共生の概念」に従い関係者で築き上げた「巨万の富」の「分配・地租改正等」は全てこれで終わったのである。
筆者は、未だ、一部の「資料や遺品」と共に「口伝」でも伝わり、その「伝統」は「松阪」や「旧領地等の尾鷲」にも遺り、丁度、その「末尾の経緯」を具に観て来た事に成るのだ。
それ故に、未だ何とか興せるこの「伝統の経緯」を遺そうとしている。
「長野青木氏」でも興し始めたと聞く。)

「前段」で述べきれなかった事柄をここで少し話を元に戻して論じて置く。

(注釈 「雑賀根来を潰した後の銃の行方の印象」
さてそこで、最後は潰そうと思っていた「信長」の「松平氏」に対しての思惑である。
雑賀族等を潰した後、彼等が持っていた「雑賀根来の火縄銃」のその配分の問題」には、直接は「割分」として「松平氏には渡す事」は戦略上は不可能であったであろう。彼等の戦力を強くして仕舞う事になり「潰しの思惑」は難しく成る。
従って、長篠後の「信長―秀吉の紀州征伐・1577年〜1585年」には「松平氏」は参戦させていない。
つまり、思惑から敢えて参戦させなかったのではないか。
と成ると、要は「信長」が渡さねばならない「条件下」としてでは「参戦への義務責任」があるかである。
つまり、それは「雑賀討伐の貢献」に対して「家康の功績」があったかに対してであろう。
実は、この「第一次から二次と、最終の三次の雑賀攻め」に関して「松平氏」は参戦さしていないのだ。
「1570年の石山攻め」と、「1577年から始まり1582年までの雑賀攻め」には殆ど関西勢で攻撃している。
「三河の家康」に「信長」から「同数の火縄銃を渡す事」では簡単に済むが「雑賀の銃」は上記理由で渡っていないのであり、戦利品もである。
又、引き続いて「紀州全体の惣国勢力」を潰す為に起こした「秀吉の紀州征伐・1581年〜1585年」でも参加はしていないのだ。
現実に、確かに「信長」は「雑賀攻め」に梃子づった。
その「原因」を象徴するのが、「雑賀川の戦い・1572年2月」であった。
「寺山城・雑賀城」から「銃」で狙い撃ちされ、「3万の織田軍勢」は手も足も出ず「壊滅状態」で一度京に引き上げている。
然し、果たして、「信玄」によらずとも「信長」も、「三方ヶ原の戦い・1573年・ホ」の「直前・1572年・ニ」に「雑賀川」のこの「大量の銃の攻撃・威力」を体験して観て驚いているのだ。
又、その前の「1570年」にも「石山本願寺攻め」でも「雑賀衆門徒の銃攻撃・ハ」を受けていて失敗し「銃の威力」を知らない筈は無いのだ。
「長良川の戦い」で、現実に雑賀・根来族の銃の傭兵を雇っていて其れで九死に一生を得ている。
従って、「吉田城の戦い・イ」や「一言坂の遭遇戦・ロ」でも「銃の情報」は既に得ていた筈である。
信長は「5回の史実」として経験しているのにそれ程に疎かで無神経では無かった筈である。
結局、故に、これ等は止む無く「信長」は「兵糧攻めと凋落」で収束させて、最終は「雑賀銃」を「傭兵・1575年長篠の戦い」で獲得しているのだ。
この様にして゜雑賀根来の傭兵の火縄銃を「獲得した銃」を観ても、凡その「簡単な事」では無かったかを察するであろう。
そもそも、この様に「松平氏に銃が渡る歴史的経緯」は無いのだ。
寧ろ、「信長の性格」から“「銃を渡す事」は何を意味するか”を即座に察した筈である。
それは間違いなく「松平氏を強める事」に外ならない。
それ程に万来の信頼をする「和議・織田氏」と「松平氏」では無かった。
寧ろ、「弱める事に裏の狙い」は在った筈で、歴史的にもこれは史実で証明されている。
ところが、実は、「雑賀根来の銃」の「一部・500丁」を「松平氏」に渡したとする説が有るのだ。
筆者は、この説に反対で、この時の一部の火縄銃は、上記に論じた通りの「雑賀族の逃亡者・鈴木氏系・500丁・紀伊山脈」が山に持ち込んだものであると観ているのだ。
何故ならば「雑賀族」とは云えその内情は壱枚岩で無かったのだ。
元々、「鈴木氏の本家筋・藤白穏便派・藤白神社神職族」は「分家筋の鈴木孫六の行動」には反対していたのだ。
そのその住んでいる地域も違っていた。
それ故に、”いざ戦い”となった時、雑賀族と見做される事に警戒して、いち早く山に潜りこんで忍者的な生活したのだ。これが「雑賀忍者」と云われるものである。
地元ではこの時、持ち込んだ「武装兼猟銃用の物」と云われている。
「現地での雑賀族の情報の知らない者の説」の単なる推論に過ぎないと観ている。
恐らくは、これも間違いなく「江戸期の修正」で、“雑賀族の銃としたくない”とする「旗本の書き換え」であろう。
確かに、「織田氏との関係」に付いては美化した方がこの方が「犬猿の仲」を和らげる効果はあるし、「今後の事」では都合は良い筈であったし、「織田氏との長篠後の争い」では「織田氏への悪者の転嫁」としては、「松平氏」に執っては都合が良かった事になろう。
確かに「紀州攻め」をしている中での出来事としては、歴史を後勘から観ても「松平氏の印象」としては、一つの“「緩衝材」”には成る筈で納得が得られやすい「美化事」になろう。
「伊勢や紀州の歴史史実」を現地の詳細に掌握している「青木氏の歴史観」から観て、この事に付いてはこの様に見抜いて観ている。
「雑賀根来の銃」の「一部・500丁の説」に付いては、「現地の史実」を調べずその様に江戸期に成って「旗本」に依り都合の良い様に、“「徳川歴史を仕組んだ」”と観られる。)

(注釈 「江戸初期の銃の必要性」
そもそも、「1605年に銃規制」があったのに、江戸初期以降に「銃の必要性」があったのかと云う疑問が湧く。
確かに、“計算に入らない数の銃の残り”、つまり、「秘匿品の戦利品」の「約100丁〜150丁程度」は戦い時に少なくとも「単体」で獲得した筈である。
そうすると、「秀吉などの家臣」を含む「織田軍」が持ち得る「火縄銃の限界」は、どんなに見積もっても、「雑賀根来の傭兵銃隊」は「1000丁」と成っているとすると、「約500〜650丁程度」が限界に成る。
「紀州」では、兎も角も「保有量・生産量」は「1500丁・生産量限界」が最大であったとされている。
それは、これは「傭兵が持つ銃」だけでは無く、「雑賀族衆と根来族衆」の個々に生活に使い持つ銃が「500丁」であったと口伝ではされているのだ。
つまり、「傭兵用は1000丁限界と云う事」に成る。
現実に、「秀吉」が紀州征伐後の「紀州の刀狩り」で門徒衆も含めて庶民や農民や郷士等が持っていた「秘匿火縄銃」が郷土史等に依れば「100丁程度」を差し出されたとする記録もある。
これ等は表向き「紀伊族」からの「侵略防御」のみならず「イノシシやシカ等の猟銃」に使う銃であったとされているし、現実に「鈴木氏の本家裔」が持つ絵図にも遺されている。
従って、これは史実であろうし、そもそも、つまりはそれ以上に生産されていないのである。
「紀州征伐」の前後をして、「堺のブロック」に依って“「近江」には、最早、「生産能力」は殆ど無かった”筈で、「雑賀」が遣られれば、“今度は「近江・日野」である”として「伊勢」などに逃げ込んでいる始末であり、カウントには当たらない事に成る筈だ。
そうすると、正式に「生産」に及んでいたかは別として、「銃を生産する能力」を持ち得ていた「最後に残った堺」は、伊勢の資料に依れば、現実には実際は早めに「危険が迫った為」に「伊勢の指示」で中止しているのだ。
中には、「堺の銃生産・火縄銃」を“明治期まで続いたとする説”があるが、これに付いては「伊勢の資料」では、「元の鍛冶屋」に其の侭に転身しただけの事とされていて、「銃の生産の事」では絶対に無い。
そもそも、「1605年」に徳川幕府に依って「銃規制」が掛かり「生産」は無くなったので論理的に無い。
況してや、そもそも「伊勢・摂津・堺」が「財源や発注」を引挙げれば、そもそも、「銃生産を続けられる事」は100%無く、又、「商業組合」の「7割株の組合組織」の中にある事から「別の商人」が密かに入る事の「空き」もない筈である。
仮に、密かに「別の商人」が間に入れば、そんな「危険な事を許す事」は無く、そうなれば結果として間違いなく「別の商人」を「伊勢は潰す事・シンジケート」に成るし、そんな「組合人」も居ないであろう。
史実を無視した「無根拠の説」である。
つまり、江戸期では、残るは、「西洋」での無用と成った「旧式兵の用火縄銃」だけの売りつけで、「西洋の近代銃の発達」で、不用で古く成った「西洋の火縄銃」を「貿易」で秘密裏にオランダやポルトガル等から入った可能性が高く、前段でも論じた様にその「貿易量」で既に「銃規制範囲の基準量」を超えているのだ。
「青木氏」が持った「試作銃改良型の原型」は、所謂、「フリントロック式の近代銃・改良銃」は、その元は飽く迄も「フランスやイギリスやドイツ」の開発国での事であって、「周辺国・欧州」はこれに何とか切り替えていた時期である。
日本に古くなった「火縄銃」を高く売りつけて、その「資金」を獲得していた史実と成っていたのだ。
そもそも、「日本の火縄銃」の「最古」のものは”「1588年製の厳龍寺銃」”と成っているのだ。
その為に、この17年後の「江戸期頃の火縄銃」は、江戸期に入り「銃規制・1605年」も重なって極端に史実として低下しているのだ。
因みに、「総合的な資料の分析」に依れば、江戸期中期までは「火縄銃」の旧式の価格は、「35石〜80石」/丁に相当し、当時は1石=1両であって約35両〜80両に成っていた。
既に当初よりは約1/10程度以下と成ったと記されている。
これは「銃規制」に依って必要性が極端に低下した事に依る。
「一頭1200人に1銃の規制」の中では、「一万石以上の大名」には殆ど所持していなかった事に成り、「銃力に相当する火縄銃」はそもそも無かった筈であるし、そんな「財政的余力」は他の事でも既に限界で、世情安定期では「無意味な銃」ではあった。
その意味で、「価格の低下」が在って「抑止力」としても効果は無かったのである。
然し乍ら、室町期から「伊勢を含む青木氏族」は、現実に資料の中では、表現として明確にしていないが、「資料の行」から「読み取れる範囲」では、“いざと云う時の抑止力”としての為に秘匿に保持し続け、上記の様に「銃の価値の低下」は、逆に「青木氏族」に執っては、寧ろ、その「抑止力の無意味合い」が高まり、江戸期でも密かに確実に「改良銃」は持っていた様である。
因みに、前段でも論じている事ではあるが口伝でも、「紀州藩の藩主」が「尾鷲」で鷹狩りの際に「銃」を使って腕前を民に誇示披露したとある。
この時、「尾鷲」で保養中の「福家の先祖」が「自分の銃」を持ち出して「遠くの柿」を打ち落として見せたとあり、「家臣」が怒って先祖を叱責した。
その後、この「先祖」は「和歌山城」に呼び出され切腹かとして袴の下に白衣を着て出仕したが、逆で「上座」に導かれて座り、藩主は下座で挨拶をしたと伝えられている。
「元皇親族の伊勢松阪の青木氏福家」で紀州藩には「債権・2万両と勘定方指導・2度」をしていた事から格式が上であるとして上座を譲ったとある。
江戸末期には「紀州藩の財政危機の勘定方指導」として活躍した「伊勢松阪の青木氏の福家である事」や「吉宗育ての親であった事」等を知っての事であったとされるが、その後は、初代藩主に「水墨画」や「俳句」や「和歌」や「茶道」などの「素養指導」を大広間で家臣も交えて行ったとしていて、この「慣習」は「祖父の代の大正14年」までこの関係は続いたとしている。
これは「銃の密かな存在保持」を「裏付ける証拠」でもある。)

(注釈 「1500丁の検証」
さて、明治初期には、“「50万丁」と「世界最大の銃保有国」であった”とする公的な資料があるが、この事に就いて疑問が大いにあり触れて置く。
そもそも、日本にはこの「火縄銃用」の「発火薬の硝石」と「弾丸の鉛」の生産は極小で殆ど「貿易に頼る事」以外には無かったのだ。
確かに、西洋で不用と成った売りつけの「古式火縄銃」は多く「一般の商人」に依って密かに仕入れられていたが、これに伴って「硝石と鉛」も輸入しなければ使えず「飾り銃」であって、況してや、「銃規制・1605年」で持てば「お縄」であるし、安定化した世の中では「銃」は不要で「抑止力」にしか使えなかった筈である。
依って、攻撃用以外に「一般の大名や武士」や、況してや「民」には不要である。
「50万丁」とはそもそも一般の民も持たなくては成らない数である。
そもそも全国でそれ程に「武士」は居なかったのだ。
江戸期初期ではほとんどの記録では、一万石以上の大名264人、旗本5200人、御家人17000人、その他480人と武士の家臣だけで、「媒臣の数」は含まずの合計は実質は53900人であったとされる。
そうすると、平均204人/大名と成り、同じ「江戸初期の1605年の銃規制の基準」から53900/1200では単に「約45丁」と成る。
大名を大まかに「一頭として264人」で、これに「戦時の義務兵数の平均1200人」として計算して観ると、「総勢の兵・316800人」が集まる事に成る。
これと合わせると「家臣数」は「約37万人」と成る。
江戸初期の持っていても構わない「戦時の火縄銃」は、規制に関わらず持っていたとしても「媒臣数」は、「264人の大名」で「平均一騎の兵数50人」としているので、「最大一頭は4騎まで」が義務つけられていて、これが「媒臣の陪臣」と成るので、「264・4・50」と成り、最大で「52800人の数」に成る。
合わせると「約43万の兵」が、「50万丁の説」で計算すると「家臣と媒臣の全員の兵」が何と1丁ずつを持つていた事に成る。
あり得ない数に成る。
そもそもそんな「財力」を持っていなかった。
「銃規制」からすると、別の計算を元にすると、「264人の大名の媒臣数と陪臣数」は、江戸初期の人口は「平均2700万人」とされ、「家臣媒臣・陪臣の数・武士」は、国印状発行でこの「7%」であったと記され、これは明治期まで“抑制されていた”のである。
従って、この基準から観ても「385700人の計算」に成る。
この基準からの計算でも「上記の37万人」にも一致する。
記録に見る処では1割弱としているので、正しい数であろう。
「人口増加」を「食料生産量・米収穫・」以上、つまり「1反=1石=1人の原則」に超えない様に抑制していたのだ。
「火縄銃の持ち得る計算の数」は、故に「1500丁前後」と成るのだ。
この数は、故に「室町期の最大生産」の「1500丁の経緯」にも一致するのだ。
又、「戦」が起こらない限りは「武士」には「無用の長物」で「藩の持ち物」であった。
藩としての「最低限の幕府からの義務」に過ぎなかった。
本音では藩財政から「金のかかる物」は持ちたくない筈である。
この「驚くべき数字」が公的に資料としている江戸中期からの「火縄銃の量」としているが間違いである。
では検証して観る。
「銃規制」の「1頭=1200人=1丁の基準」からこれを護ったとしても、当時の人口が「4000万人」として「国印状を取得した正式な武士」は約7%であったとされる。
現実にはこれにも規制があった。
そうすると、「400万武士/1200≒3330丁」である。
これがこの「基準に適合する量」である。
上記で検証した「火縄銃の貿易で搬入した量」と加算したとしても、「規制の合法的な量」は「3330丁程度」は妥当であろう。
上記で論じた「火縄銃」の「生産地三カ所の経緯」から「国内最大生産量」は「1500丁〜2000丁」としても、「外国からの銃」は凡そ「1330丁〜1830丁」と成る。
検証の結果としては、「50万丁」は「刀狩りと銃規制」を配慮されていない飛んでも無い量と成る。
これでは「銃規制」など忘却して全くなかった事に成る。
これから割り出すと「三カ所の経緯」を無視して、且つ、「生産量の経緯」を無視して下記の様に「年数の単純計算」をした事に成る。
最大で「国内生産1000丁/年+輸入1500丁/年」・江戸期中期前・200年≒50万丁と成る。
こんな事は絶対にあり得ないのだ。
何故、この「50万丁」が一人歩きして公的数として成つたかにはそれなりの理由が見える。)

(注釈 「50万丁の行方の検証」
これは幕末からの維新にかけて紀州藩士であった「陸奥宗光・1844年〜1897年」は「明治維新の政治体制造り」に貢献した人物で、殆どは政策は「彼の発案と努力」に依るもので、版籍奉還、廃藩置県、地租改正等、数を挙げれば暇はない。
そして「徴兵令」もである。
中でも、本題の「徴兵令」では、彼の努力により「徳川幕府紀州藩」が他の二藩と行動を別にして「維新政府側」に着いた。
この時、「御三家の紀州藩」は「維新政府」がまだ実行していないのに率先して「近代軍制」を敷いて「維新政府の後ろ盾」と成った。
これを観て「維新政府」は彼を政府に招き、「維新政府軍制の構築」を任したのである。
この時、全ての古い刀等一切を捨てさせ、武士に関わらず「銃に依る西洋式軍制」を執った。
彼は、「坂本龍馬の下で海援隊」の一員としてとして働き、「彼・龍馬」を神髄していて、彼の進んだ教えを推し進めた。
この時の「兵力」が「陸軍力24万と海軍力25万」で「49万」であり、中でも「陸軍」は「村田銃・国家予算の20%」をかけて編成したものでこれを「主力」としたものであった。
恐らくは、「50万」とするは単純に推論的にこれから来ていると考えられる。
これ等は「1883年・明治16年」から「8年計画」で近代化を推し進め、この体制で「1877年の西南戦争・明治10年」の実戦で成果を上げ、其の後の「明治20年代・1887年」に完成した。
この事は「陸奥宗光の活動」で「薩摩との主導権を争い」が起こり、彼は何度も投獄や失脚に追いやられたが、「伊藤博文等の海援隊の仲間」が彼を何度も救い上げた。
結局は、「彼の造った軍事組織」で「西南戦争」で「薩摩」は「維新政府」から抹殺一掃されたのだ。
其の後、「日清戦争」で「弱いとされていた海軍」は、「陸奥宗光の造った軍事組織」で相手が「数段の兵力差」であっても「勝利」を得たのだ
この事は世界に有名を馳せたのだ。
実は、この「紀州陸奥家」とは「伊勢青木氏」とは無関係では無く、前段で論じたが「幕末の紀州藩勘定方指導」をしていたが、この時の「宗光の父」が「紀州藩の勘定奉行」であって親交が深かったと記されている。
幕末に「紀州藩が犯した操船ミス」で「海援隊の船の賠償金」の支援で、「伊勢屋・2万両・摂津支店・大阪豪商」が支援に動いたが、この時の「勘定奉行」であった。
これは「陸奥宗光の優れた交渉力」として「公的な記録」として遺っている。
資料にも「重要な逸話」として遺されている。
明治9年で「伊勢青木家」からの「天皇家への献納・925年開始」は「幕末から始まつた伊勢騒動の件・明治9年」で打ち切っている。
結局は、「伊勢屋」はこの為に「打ち壊し」や「火付け」等で長い間、維新政府から攻撃されたが、何とか残ったのは“「陸奥宗光の御影だ」”と「伊勢青木氏・伊勢屋」はしているのだ。
注釈として、余談であるが、「伊勢青木氏」はこの「打ち壊し」や「火付け」の「裏の組織」は上記の経緯から「薩摩藩」に依るものであったとも考えられる。
つまり、「陸奥宗光派」と「献納中止」と「武士に頼らない銃の軍組織改革」とそれに関連する「軍費支援・国家予算の20%・支援」と「伊勢騒動・明治9年終結」に在ったと観ていて、これは「薩摩藩」に執っては“「裏目に出る利害関係」が大きく働く”と観ての行為であったのであろう。
結局は、何とその「陸奥宗光の銃軍事組織」で「西南戦争」に持ち込まれて薩摩は敗退したのだ。
「西郷」が「第九回御前会議」で大声をあげ机を叩き席を蹴って勝手に退席し、「大久保の制止」に関わらず「薩摩」に勝手に帰り、その結果、11の身分は剥奪されたのもこの「明治9年の事」であった。
これを契機に維新政府内で「薩摩藩」は勢力を失い「西南戦争」へと突き進む経緯と成るのだ。
ここでも「紀州藩の家臣」の殆どは「伊勢藤氏」であり、「上記の仕儀」から「致し方無しの経緯」とは考えられるが、直接的では無いにしても「政治に関わる事」に対しては「青木氏の氏是」を間接的にも破っている。
唯、「紀州藩藩士の陸奥宗光」とその仲間の「海援隊の裏工作・維新政府の重鎮と成る」で「多少の被害」があったが無事に済んでいる。
この事は「伊勢青木氏」だけに及ばず「青木氏族全体の事」として「伊勢藤氏の力」を借りて成した事に過ぎない。
前段でも詳しく論じたが、「影の首謀者青木氏の伊勢騒動」は「伊勢」だけに及ばす「信濃青木氏」も背景と成っていた事は資料としても遺されている通りの事である。
「伊勢騒動」に対して「維新政府」の「罪に対しての寛大な対応」で応じたのは「紀州藩藩士の陸奥宗光等の働き」があったものと考えている。
「献納・明治9年」も中止し、この「1年後に西南戦争・明治10年」が起こり、している事から考察すると、“「青木氏族」としてはこれ以上の事は危険で出来ない”として「維新政府」から離別したと考えられる。)

(注釈 「近江への再支援の疑問」
飽く迄も、「生産者」でもあって「雑賀・根来の衆」を“「銃傭兵軍団」だとして存在させて置いて「銃の拡散」を抑えておく必要があったのだ。”
当然に「近江」に対しても「堺」からの資材や財源の支援供給で行動を抑制していた。
何故、又しても「難しい近江」に「財源と原材料と職能」を「堺・七割株」から提供したのか、又、当時の「伊勢青木氏の福家」は判断したのか不思議でならない。
これでは「和紙殖産の苦い経験・源氏化」が生かされていない。
筆者なら絶対にしない。
その意味で「銃」は「公的記録」としては、上記した様に「1543年に種子島」に入ったが、実際には、その「40年後」の「1583年頃の近江」から広まった事に成るのだ。
その「意味」では、余りにも「殺戮度の高い銃」は世に存在する事の危険度を察知した「秀吉の刀狩りの判断・1588年」と「家康の銃規制・1605年」は手早く正しかったのだ。
「家康の銃保持・1583年の説」としては正しかった事に成る。
上記した様に、「青木氏の堺銃」は「秘密裏・約100年弱前」に「1543年前からの試作段階・ホイールロック式」を経乍ら,随時適時にて一族一門に「生き残り抑止力・1545年頃」として渡して、最後は「フリントロック式銃・1560年・額田青木氏」に実際に「第一次吉田城・一言坂」で使用したのである。
合わせて「生産元の功罪」の「青木氏の銃」が「近代銃」で「高額」で使用に際しては黄鉄鉱や硝石等特殊な交易で無ければ手に入らない事、又、相当な「熟練」を要し、且つ、銃そのものがそれが漏れたとしても広まらず、最早飾りに過ぎない事に成り得て、故に「身内」で「抑止力の概念」を護り確実に秘匿出来た事も評価できる。
敢えて当初より「火縄銃で無かった事」は「広まらないこの事」を意味していたのだと観る。
惜しむらくは前段でも何度も論じたが、「火縄銃の乱れ」は又しても「近江の事」であったし、「江戸初期前後の松阪での近江商人との軋轢」でも苦労をしているのだ。
「青木氏の全ゆる資料」では、「その説明の一行」が無いが「子孫」としてここに敢えて筆者が遺す。
「青木氏の歴史観」としての後勘としては、矢張り、その原因は、又しても「近江・日野の無節操な行動・抑止力の無効化」にあったのだ。
結局、乱れを食い止める為にも「堺・支援供給」も「中止する破目」と成った。
故に、「火縄銃の銃の歴史」は遅れていて「近江の龍源院銃・1583年」が「銃の事の始まり」として正しいのだ。
「長篠の戦い・雑賀根来火縄銃」での「松平氏の銃保持説」は「誇張の何物」でも無いのだ。
公的に良く「絵巻」でも華々しく描かれている様なものでは決して無かったのだ。
これは「秀吉の刀狩り・1588年」の「5年前の事」に成る。
この事からは「松平軍」は未だ“「銃の調達」”は出来ていなかった事に成る。
恐らくは、上記した様に「銃シンジケート」がしっかりと未だ効いていた事に成るか、高額で手が出せなかった事にも成るが、「家康側近」の「西三河の旗本衆」が“極めて保守的”であった事かにも成る。
筆者はこの「注釈説」から「三河の保守説・嫉妬癖」を更に採用している。
念の為に論じて置くとすれば、この「三河の保守説・嫉妬癖」の性格が、前段で論じた様に「吉宗の頃」にまで続き現実に「史実問題」を起こしているのだ。
如何に「額田青木氏」の「国衆の300丁の近代銃・フリントロック式改良銃」が保持も含めて全ゆる面で如何に「考え方や行動力や判断力」が進んでいたかは判るのだ。
然し、「銃」は例え“「抑止力」”であったとは云え「青木氏の氏是」を超えている事は否定できない。
それだけに「下克上と戦乱」とで「子孫存続」が緊縛していた事にも成る。
「伊勢」のみならず「一族一門の血縁族」により「高い抑止力」を着けて全体で護ろうとしていたのだ。
実際にこの「抑止力」を「伊勢の梵純軍等」は「伊勢の梵純軍等の資料」で使った事は判っているが、青木氏側の確実な記録は見つからない。
「多少の牽制で使った事」もあろうが、全体としては「抑止力の情報力」を高める為に「抑止力・デモはしただろう」であったと観ている。
故に、前段や上記した様に「信長・秀吉・家康」はこれを“「噂」”で知っていたのだ。
つまり、抑止力は働いていたのだ。)

(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a−1の一部)」は完全に滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a−1)と(a−2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a−2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と信濃青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺い実行した。
要するに、「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があったらしい。
この時の「額田の南下国衆」の行動は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く「幅の狭い縦の陸路1・東山稜」の“「直線勢力圏」”の構築に限定していたのであった。
ここには当時にあったこの付近には、“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く「一定の物資輸送」や「兵の移動路」等に使われる道で、この様な「土豪」が抑えていた「商業道の物・近道」であったらしい。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「戦力差・銃」に依って「戦い」には成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体」の様な形で「合力を申し合わせた事」が書かれている。
彼らは、元々、別の面で美濃と信濃路間の「一種のシンジケート」であった事を知っていた。
近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事は既に知っていたらしい。
何せ武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であったかららしい。
「額田の青木氏の国衆」には背後には「伊勢信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えていたのだ。
これを噂なりに知つていたと云う事であろう。
従って、この「商業通路1」の「土豪集団」は一切戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては{南下国衆}に近づいていた方が全ての面で利得であった。
明らかに資料と戦記の「記録の通り」である事が判る。)

(注釈 「「商業通路の検証」
現在でもこの様な商業道が全国に多くあって、特に「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての路が遺されているが、この道は歴史に名を遺す商業道であった。
因みにこれには「面白い実話」がある。
前段でも論じた様に室町時代末期に「秀吉」は、「奥州結城氏・永嶋氏」を攻めた時、内部混乱が起こりこれを「奥州結城」に養子に入った一族を護る為に、「背後」を一族の「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した。
「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしていたが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められる事を恐れた。
「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする記録が遺されているのだ。
何故、「秀吉」が「伊勢の秀郷流青木氏」を恐れたかである。
それは、「改良銃による戦歴」を情報として入っていた事を示す証拠でもある。
「銃力」が「非接触による10倍力」を知っていた事に成る。
必死に「商業道」に隠れて逃げたと云う事であろう。
この様に、この頃、“「商業道」”なるものが土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、これには“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152R}は{2ルート}もあった様だから「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから、この「商業道・縦の陸路1」に付いては”問題は無い”と観察できた。
「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こされ、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こされた。
「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始されたのだ。
そこで、伊勢は全体青木氏族の事を考えて信濃との命綱である”縦の陸路を造ろう”と決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、この東南の「商業通路」の「利権を持つ東と南三河の土豪連」は、幸いに「信長方」に付かなかった為に何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にしても繋がり、兎も角も、再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ東・南三河の山際の「商業通路」は信濃―三河間は容易に通れたらしい。
「今川氏の勢力圏」と「信長の勢力」圏の丁度狭間にあってここまでは及ばなかった。
従って、元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させたのだ。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa−2」と「血縁性を持つ官僚集団」を先ずは「田原の古跡の神明社」のある「渥美半島・伊川津」に差し向けたのだ。
そして、この奈良期から「古跡神明社の青木氏族の神職族」が住んでいた地域に「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」にはそもそも、奈良期の古来より神明社があり、「伊勢青木氏」より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当先に「額田の家族」をも移し、その後に「蒲郡と伊川津」に「国衆」が移動した経緯であった。
然し、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とにはある種の違う事が起こっていた。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければ成らなかった事が判ったのだ。
そこには明らかに次の事が違っていた。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a−1)と(a−2)の一部の族」であった。
ところが、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、「二つの説」が有って記録的には、はっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東・南の端の「商業通路」では無く、別の西三河の「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
この一部が「伊勢桑名」に帰り、残り「蒲郡青木氏」が残った。
さて、この「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し「縦の陸路2」の「ルート2上」には当に直線状に、丁度、真ん中に「青木村」があり、其処には「古跡の神明社」もあり「清光院」もあり現在もあるのだ。
この歴史を調べれば判るが、先ず「この古跡神明社」も田原と同じく奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」が存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、少し後の同時期に近いと考えられる。
何故ならば、この「西三河の神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成っている。
これは完全な伝統の「奈良期の構え」である。
この事から、これは「神明社」と「青木」に執っては「証拠」と確定できる。
然し、この「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に完全な同時期とは確定できないが、少なくとも「平安期末期か鎌倉期」である事には間違い。
何故、「蒲郡」かに付いては「桑名の言い伝え」ではあって、資料的には何も物語るものはないが、何かを考えられるとしたら、「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものがあったと考えられる。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が定住していた筈で、現在も「青木氏」はこの村と共に存在するのだ。
そうすると、この状況からも「蒲郡と伊川津の青木氏」は同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって、別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東・南の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「蒲郡の額田青木氏」は「縦の陸路2」で南下したと考えられる。
「縦の陸路1」と「縦の陸路2」の多少の違いの「時間差」があった事に成る。
その後の「裔系の統一」が起こり、その経緯は次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ているのだ。
前者が「a−1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a−2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が認められる。
この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏・四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだが、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の「行の表現」と成っている。
どうも同時に、「三方ヶ原の戦い後」に直ちに離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグ」があったと観える。
その「タイムラグ」は、「地元3土豪・国衆・四国」との「伊川津七党の絆」があった事からの「時間差」では無いかと観ている。
「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事から「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて「土豪間の話し合い・本家と分家」が着かなかった事が「読み取りの行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・3氏」を引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏の異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に元は4氏であった。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
因みに「西郷氏」は三河の戦いにも参加しなかった事が判るが「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これに成し合いに時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
この「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた気に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に三河に入りその後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、この一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた島津氏である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に不毛の地の「伊川津」に入り込んだかは判らないがこの「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得わしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つは独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は未だ危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、「伊川津四家の青木氏の陸運」は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に大きく強く関わっていたからである。
つまり、「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の一部は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されている。
“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いたかは確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に出ていて、記録にも明確に遺つている。)

(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたが、もう少し追論すると、はっきり云える事は上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は、「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈として、「1510年〜1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・銃」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆としての成った目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より三河そのものに“「国衆」”として遺る理由は無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a−1)(a−2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景」の保護下に入る事が出来る所以でもある。
然し、「a−2の裔系」である以上は「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“渥美四家”は“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」にはその「目的」が達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事には成っただろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、事を興し先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的により強固な「勢力地・縦の陸路2」を張ったという事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った間の無い頃の「1560年頃であった事」に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成る。
そうすると「東の山際の商業陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた陸路であり、それを「東三河国衆」として無許可で使える短絡路として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、資料の調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地」で「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であってこれを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じであったのだ。
故に、その史実を承知していれば「南下後1560の頃」の直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくはこれは当初からの「伊勢の情報と作戦」であったと考えられる。
この「二つの縦の陸路の創設」は「国衆の銃と財力」に保障されたものであったろう。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は完全では無いが最早無く成っていた筈であるが、然し、「12年間」も続けた。
これは何故なのかである。
一つは松平氏と織田氏への牽制にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せて置く必要があったのだ。
そうする事で戦国の世の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れていた。
さて、それに就いてであるが“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった様だ。
それを裏打ちするだけのもっと“大きい背景”が必要でそれには問題があったのだ。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らは、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a−1)と、(a−2)」の中には「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」であった。
これを「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」に入っていただけの事に結果として観えた事になっていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に「不満をもっていた事」が「資料の行」から読み取れる。
要するに、「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、「伊川津四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」の「感覚差」が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」に「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけで信用せずに「伊川津7党」を構築していた訳では無く「影の一党」を後ろに描いていた事になる。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東からの「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に承知していた筈である。
室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は元の関東に勢力圏は押し込まれ桃山時代まで「秀郷一門の背景」は維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事に成る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、”七党を組んでも若干心もとない”ものを持っていた事に成ろう。
「細かい歴史観」としては「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に何某かの魅力を感じていた事に成る。
そもそもこれは「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのも「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」は時代が進んだ事に依って「国衆」と云うものが生まれ、彼等から観れば従って「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類するのである。
平安期は「元官僚族類」の支配下にあった庶民である。
全国的に観れば「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この渥美半島の室町期後半の最後まで生き残った4土豪の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば「下・農民」であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」には、明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らないが、「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり似せていると云う事だ。
因みに、「片喰紋類」には125紋あり、「州浜紋類」には43紋ある。
三河に関わるこの「3土豪の家紋」はこの中には無く、あるのは渥美半島の田原藩主の本田氏の本田片喰と東三河の酒井氏の酒井片喰での二つであり、恐らくはこの「3土豪」は、二つは「本多片喰系の類似紋類」ともう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。
この事で「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保氏・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し「類似紋を使う事」を許可されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門」に従って陸奥から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の西への伸長にともない「関東屋形」として三河域に一部の「支流子孫・卑属」を遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が事に成り、「分家筋」に執っては“「抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が得策であると考えたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に入って行った事」は判る。
この様に「伊川津青木氏」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったのでこの一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これは「秀郷流一門の背景」が色濃く出て来た証拠でもある。
分家筋は「読み」の通り相当に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は貢献したのであろう。
「永嶋氏」は平安期と鎌倉期に四国徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで「牧野氏の出自説」には大まかには二説あり、共に四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいているが、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は「阿波」から出て来て「乱の功績」で三河宝飯郡の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元は「牧野」では無かった事に成る。
何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違い差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「家紋」を持つ事から、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、豊橋に讃岐神社を造っている事から「讃岐」から一度「三河」に入つた国衆団であったと考えている。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて、現実にこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、20に近い一族の家紋がそもそも統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は阿波の「農民であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも其処の民であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の江戸初期頃の物と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a−2)の族」の一部が、「(a−1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から、伊川津では「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a−1族の裔」は兎も角も、「a−2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a−1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a−2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ伊勢の裔系である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」に続く。


  [No.383] Re:「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/21(Sun) 14:33:32

> 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」の末尾
>
> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
>詳細の検証は更に次段に続く。

> 次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
> 此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
> この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
> 美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
> この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
> これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
> 全体では「440の判別紋」がある。
> これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
> 念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
> 「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
> 奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
> 中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
> この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
> この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
> 墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)


「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」

(注釈 「国衆の最終目的差」
さて、その「目的差」が生まれたその根拠は、「伊川津青木氏である事」は、勿論の事、「土豪3氏」も「戦乱の中」で生き遺る為には“「何らかの傘」”の中に入らなくては成り立たない。
それが、当面は互いに同地域で結束し合って護りあう「結合体・党」の「伊川津七党」と成ったのだ。
相互に全く関係性の持たない各地から集まった「国衆の集団」であった。
この時期は伊川津に限らず全国各地で「土豪」等が生き遺る為にこの「党」を結成した。
そして、その土地で「国衆」と成ったが、こんな“小さな伊川津”でも同じであった。
だが、この各地の「党の結成目的」はそれは全く千差万別であった。
この「伊川津」の「七党」の中でも、元々、「額田青木氏の南下国衆」には「伊勢の背景」や「秀郷流一門の背景」もあっが、「彼等の目的」に執ってはそれは完全なものでは無かったし、寧ろ、無かったと云える。
普通は「血縁性」などの「一族性の高い土豪等」が集まって「党」を結成する。
例えば「有名な出雲亀甲集団」の様な「党」を組んでいたが「伊川津」では違っていた。
故に「国衆」であっても、彼等には「国衆」から「家臣化する事」に「最終目的」があったのだ。
この「最終目的」の違う族が「七党」を組んだが、「額田青木氏の南下国衆」とはそもそも相当にこの「目的」が異なっていた。
然し、その途中でも彼等には未だ先の見えない「松平氏の国衆」と成っていたのだ。
その「弱い傘笠」の中に最終的に遺る「目的の道」があって、結局は、様子を見てそれを選んだ「彼等の本家筋・未だ国衆」は、未だ「旗本」では無いが「田原藩大久保氏の配下の准家臣扱い」と成っていた。
「土豪3氏」に執っては、その「東三河軍・吉田域」までの「酒井忠次/300の東三河の配下軍門」に入って先ずは「初期の目的」が達せられた。
ここで「目的の異なる七党」には「亀裂の発生」が此処から観られたのである。
ところが、この様な時に、「額田青木氏の南下国衆」にも同時に同じ「東三河の酒井氏の軍政下」の「吉田城詰め」を命じられて仕舞ったのだ。
当初は、「国衆と成る条件」としてより「伊勢」に近い「西三河の軍政下に入る予定の話」に成っていたらしい。
一方、そもそも、形上は少し後にはなるが「三河の東西」は別としても間接的ではあるが、「東三河の土豪3氏」に執っては、結局は「西三河を本貫とする松平氏」に、彼等は「松平氏の譜代と云う立場」を獲得して、先ずは「初期の目的」を獲得し生き延びられる事に成った。
然し、ところがここで彼等の中で「ある事変・本家分家の生き方」の「路線争い」が起こった。
当初から三河に「一族一門全員の参加」とは成らなかったのだ。
何時の世も牛家制度の中では「本家」が良い目をするし、「犠牲」は何時も「分家」と成る仕組みだ。
それが「三方ヶ原の戦い」後に一挙に噴き出した。
故に、この「乱世の三河」では「伊勢青木氏の抑止力」の「額田青木氏との連携の道・商い・陸運業」を選んで身を護った「分家筋も居たと云う事」に成ったのだ。
ここで「伊川津七党」の「目的の差」が吹き出し、「土豪3氏の分家筋」は、「伊勢や伊川津の青木氏・四家」に執っては「土豪3氏の生き方の違い」が、思い掛けない事にこの「額田青木氏の目的」に賛同したと云う事に成った。
「額田青木氏側と伊川津青木氏」に執っては、此処で「路線争いの事」が出て思い掛けない事に成って仕舞ったのであろう。
然し、この時、この「分家筋」に執っては「陸運業をすると云う事」は、当初、決して“「武士・国衆」を捨て「商人」に成る”と云う事だけでは無かったのだ。
資料から観て、この事で相当悩んだ様であり、当初からの「路線争いの事」がここで「分裂離脱の決断をさせた原因」では無いかと考えられる。
この時、簡単には「分家筋」は転身出来た訳では無かったのだ様だ
資料によると三方ヶ原で「彼等の戒め」か分家が前に出されたのだ。
それは更に「伊川津青木氏の四家」でも、兎も角も「伊勢青木氏」と「額田青木氏」が組入る事に付いて「反対の態度」を表明していたのだ。
要するに、今までに無かった掟でもある氏族以外の”「よそ者が青木氏に入る事」”への危惧であった。
「当初の目的」がここで完全に顕在化したのである。
この「分家筋」に執っては、この「三河国衆」の時の様に「商いの銃の護衛団」として生きる事を選択した事に成り、“より「身の安全を図る事」は出来る”と判断したとも「別の意味」としては考えられる
筆者は、「大犠牲を負っての決断」でこれは無視できない事であったと考えたと観ている。
そもそも、「彼等の分家筋」の「利害の計算」は否定はしないが、それが判り易く云えば当時としては「転身だけの意味」では無く、「国衆化」か”「青木氏化」”かであった筈である。
要するに、当初から「路線争いの元」には彼ら分家筋には「青木氏化の道」を選んでいたとも執れる。
即ち、恐らくはこの態度が「将来の陸運業の中での分裂の危機」を呑んでいて、この「態度・姿勢」が「伊勢・額田側の反対の態度」を和らげる事に成功したと云う事に成ったのであろう。
故に、その「態度」は現実に昭和期までこの「青木氏化の道の約束」を護り続けたものと成ったのだ。
つまり、其処に「本家―分家」のこの「利害の計算」が出て来ていたと考えられる。
長い間、「額田青木氏」に執っても「自由性のある青木シンジケート」として生きて来て、「土豪3氏」に執っても、その彼らがこれからの明日も知れない「自由性の無い国衆」として生きて行くかの選択であった。
取り分け、「氏家制度」の中では「分家筋」はその意向は通り難いし弱い。
もっと云えば「本家筋」は「国衆」に依って「当初の目的」の通りに「武士化」に、そして「分家筋」は元の「民・庶民の路」を拘りなく選んだ事に成る。
この点では、何時も最前戦に居て犠牲に成る「分家筋」としては「路線の考え方」として一致していた事に成る。
“本家筋に着いて行くと云う考え方”は、この時、最早、絶対に無かった事に成る。
それは、「三方ヶ原の戦い」の「惨めな様」にあったのであろう。
結局は、両者ともに今後も、「自由性のある青木連携族・陸運業」で行けば「糧と子孫繁栄」は未来に完全に保証されるのだ。
一方で「室町期末期の松平国衆」としてはどうなるかは保障は無かった。
そこで、彼らは薄々に「未来の姿」を感じ執っていたのだろう。
これも後勘から観れば、「本家の家臣化の発展」も「分家の糧と子孫の繁栄」の「両方の目的」は達成されている事に成ろう。
「信長の脅威の背景等」もあって激戦の続く「松平国衆」の中では、目的の違う「本家」と違ってこれ以上は生きられないと判断し、それに「渥美半島の糧の低さ」も働いて、寧ろ、“生き遺れない”と、「本家分家」であろうが、況してや「分家」では悲観的に感じ執っていたのである。
結局は「土豪3氏」の「本家と分家の目的の差異」が「伊川津の流れ」を造ったが、然し、「蒲郡青木氏の本家」と「伊川津青木氏四家の分家筋」の間では、この「目的差異」は頑固な程に生まれなかったのだ。
それは「伊勢からの支援」があったからであろうし、「伊川津」は「古跡神明社の定住地」でもあり、“南下国衆と云う感覚”は元々無かったと観られる。
寧ろ、「他の国衆」よりは”「原住民的感覚」”を持って観られていたと考えられる。
故に、其の後も矢張り、「伊勢の裔系青木氏」として頑なに「伊川津」から移動もせず、「豊橋、豊川、岡田、岡崎、豊田」と子孫を広げているのだ。
これが何と「昭和20年」まで結束し続けていたのだ。
そして「陸運業、開拓業、殖産業」として、“三河の各地に地名を遺す程に”根付いたのだ。)

(注釈 「南下国衆の戦歴」
念の為に「国衆戦歴」を記録から論じて置く。
これを論じれば、額田青木氏の目的が浮き上がる。
幸いにこの「時期の記録」が多く世間に遺っている。
この「多くの資料」から読み取れる事は次の通りである。
中には、この「五記録」を結構信用できるものとして基に文章が「半物語風」にして江戸期に記録したものがある。
又、これらを元に「三河の青木氏等に付いての事」も記して再現しているものもある。
それらによると、「国衆」として最初に「活躍の場」が現れたのが、「伊勢青木氏の資料」の「読み取り」からは、1545頃から「銃の訓練」を開始し準備段階に入っている。
「三河国衆」と成つたのが「南下国衆・1560年」と成っているが、この「記録」から観ると「最初の活躍」は、次の通りである。
「桶狭間の戦い・1560年・?」―「第一次吉田城の奪取・城主・1564年」―「姉川の戦い・1569年」―「第二次吉田城の戦い・1572年」―「一言坂の戦い・1573年・偵察」―「三方ヶ原の戦い・1573年」
以上の「6戦」であった。
但し、「桶狭間の戦い・1560年・?」は「南下国衆・1560年」とは“「同年のズレ」”がある。
この「物語風の記録」の中に“「銃」”と云う表現があるが、未だこの時期には、その「生産量」と「シンジケート販売」と「高価格」であった事から、“松平氏は銃を持っていない”と云う史実がある。
この検証から配慮したもので、この「銃の表現」は疑問である。
何故ならば、「桶狭間の戦い」には、そもそも広義では「1556年の説」もあり、その前の「桶狭間の戦い」に至るまでの「長い勢力争いの戦い・1542年へ1548年」があって、これには「南下国衆」は果たして正式に参戦していたかの疑問があるのだ。
「弱体化した松平氏」の「米生産の三河平野」を「織田と今川」の「争奪する戦い」では、大まかには「第一次と第二次の小豆坂の戦い」に成っている。
そもそも「桶狭間」は、この「今川氏勢力」の「三河」を超えて尾張国境が不明瞭に成っている時期があって、その「不明瞭な尾張東部」に侵攻して、「争奪戦の最終決着」を着けた戦いである。
その前には、「織田信定、織田信秀」と領土を広げて、「今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配」を巡って争う小競り合いの状況に成っていたのだ。
これが要するに、「決着戦」と成った「1556年とする桶狭間」であって、「最終決着戦・1560年」に「額田青木氏の国衆」が即参戦していたかは「時間差の疑問」がある。
筆者は、要するに「南下国衆」は、そもそも「桶狭間・東尾張」は「今川と織田の戦い」であって弱体化していた「松平氏」は「今川氏側」に組み込まれて、ここには未だ関与して来ないのだ。
従って、未だ間違いなく“1560年最終決戦に参戦しなかった”と観ているが、然し、この「三河」を接収されていた為に「今川方」としての「1556年とする桶狭間」には「銃の傭兵」として「合力・傭兵」をした可能性があったと観ているのだ。
それは、「江戸期の資料」から直接は明記はしていないが、「第一次の小豆坂」で「銃使用の表現」がある。
然し、未だ「織田氏」も「今川氏」もこの時期に「銃の軍制」を敷いて居なく弱体化しているのに、「松平氏が持っている事」は100%あり得ない。
然し、戦記では「銃を使った事」が書かれている。
「南下国衆」は額田でそもそも「1540年」に編成しているが、これは編成して「2年後の事」である。
初期状態の「1556年とする桶狭間の時期・4年前」は、まだ三河は「今川方」であったと観ている。
「銃を使った事」があったとして、「訓練中の額田青木氏」の「実地訓練の形」で「傭兵的」に合力した事に成るだろう。
然し、「銃の訓練」は「青木氏の資料」では正式には「1545年」としているので、これには「3年の差」がある。
貿易で得た「銃の見本」を種子島銃より先に堺で「フリントロック式の改良銃」を密かに作り始めていた時期と成り得る。
「記録」から読み取る範囲では「種子島より10年程度前」の様にも読み取れる。
そもそも、「種子島の火縄銃」は西洋で新しく「軍用銃」が改良され古くなった「火縄銃」を売りつける為に1545年に持ち込んでいる事情である。
「伊勢青木氏の貿易」で「西洋の軍用銃」と成った「フリントロック式銃の見本」は種子島より前に入手出来ていた可能性は充分にある。
依って、「3年の差」は次のシナリオで解消できる。
「種子島・1545年」より前に既に改良作業に入り試作生産が行われ、「資料の行」から観て少なくとも「1542年頃」には、既に「額田青木氏の国衆用」に合う様にある程度の「改良銃の試作」が成され、秀郷一門などでも「試作撃ち」が成されながら進めていた事になり得る。
これを「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下で「額田青木氏」とが「第一次小豆坂の戦い等」で数は少ないが「試し打ちの合力」をしたと考えられる。
さて、この説を「裏付ける出来事」が「伊勢と渥美」で起こっていたのだ。
それが、ところがこの時期に、「伊勢青木氏の死活問題と成る事」が「伊勢湾と渥美湾」で「非常事態」が起こっていたのだ。
つまり、それは「額田国衆の目的」も「達成不可能に成る非常事態」が起こっていた。
この「二つの湾の支配権」が「今川氏」に依って握られてしまっていたのだ。
これを至急、且つ緊急で対応しなくてはならない事に成っていたのだ。
そこで、「試作中の銃」を以て急ぐ事から「試し打ち」と「青木氏の誇示」を図ったと考えられる。
ところが、「改良」が進む中、「相当に威力」は「火縄銃以上」に増し、目的に適合したが、それに反して「訓練」を伴わなくてはならない程の「使いづらい銃」と成ったと考えられる。
これは資料の一部の行からも読み取れる。
故に、「1545年」から慌てて訓練に入ったとする経緯であったと観られる。
勿論に、「時の時代性」も然る事乍ら、「国衆としての訓練」もあって、「生産する銃の数・350〜400丁」が次第に整い次第に「秀郷流青木氏の指導・試し撃ち」の許で本格的訓練に入ったと考えられる。
その最後の仕上げが1560年と云う事に成ったのだ。
従って、「南下国衆の合力の傭兵」は「今川方の依頼」か、「松平方の依頼」かであるが、当然に、「松平方」と成ろう。
それが、「今川の圧力」かは判らない。
この時、「水軍力」の弱かった「織田方」に対して「今川方」は「海からの包囲網」として「伊勢湾海域から知多・渥美湾の制海権」を握って仕舞っていたのだ。
この為に「織田方」も懸命に「水軍力・史実記録」を着けようとした。
そこで「織田方」は「伊勢衆」に「調略」を掛けていた事が資料からも史実として判っている。
丁度、この時期には「三者三様の形」でこの“「水軍力」”を握ろうとしていた時系列と成っていたのだ。
仮に「傭兵」として活躍していたとすると、これからそもそも、「伊勢湾」と「渥美湾」の「制海権獲得」で南下して抑えようと訓練していた最中でもあり、このままでは全てを失うと考えた可能性が充分にあり、対応次第では「南下国衆の意味」も無くなる事に成っていた。
従って、そこで「伊勢側」は、先ずは「伊勢湾の制海権の保全・7割株保有の伊勢水軍の強化」を試みていたのだ。
同時期に「源平戦で敗戦し衰退していた駿河水軍」に、「伊勢」は船を一艘与えて「伊勢水軍」で実地訓練させ急いでいた事が記録からも判る。
「尾張の調略」と「今川の制海権」に対して必死であったのだ。
そこで、「弱体の松平方」からも何らかの「南下国衆を目的としている事」を聞きつけて、これに対する「伊勢側や額田側の目的」もあり、「裏の特別な依頼や配慮」があって要求に応じたとも考えられる。
「松平氏」に執っては、“三河に「銃で武装する国衆」が南下してもらえれば「弱体化の歯止め」どころか「20倍の勢力増強」に繋がり、独立性は高まると観た事もあり得る。
その「条件」として「表向き」は、「渥美湾の商用利用権」を認めるとすれば、「今川氏」も簡単には手は出せなくなる利点もあった。
「抑止力」として「裏」は銃で武装していたが「青木氏の行為」である以上は商用である。
現実に後に「渥美湾の制海権とその利用」は認められているのだ。
何にせよ無償ではあり得ないだろう。
その為には「銃の威力・示威行為」を周囲に大いに見せつけて置く必要が両者にあったと観ている。
とすれば全ての記録と一致する。
これが南下しようとしていて訓練をしている「額田青木氏の国衆の情報」を“国境の三河が掴んでの依頼”があったと観る事が出来る。
それは「1540〜1560年」までの「伊勢側・額田側の利益・目的」と「松平氏の将来の利益」が一致していたと観ているのだ。
故に、「今川氏」が「桶狭間」で幸いに負けてからの「敗戦衰退」が始まつた「1560年」を契機にして、”「南下の絶好の期日」”とする「一つの大きな要素」とした考えられるのだ。
無暗に、「南下1560年」とはしないであろう。
「人時場所と理由目的手段」を整えるのが「基本軍略」である。
つまり、「美濃・1540年」で訓練をしていた「額田国衆の銃の情報」を国境の隣の松平氏は既に掴んでいて、“「松平氏」から「傭兵的な依頼」があった”とする可能性もあり、「物語風の戦記の銃の行」以外に何処にも「銃に関する記録」はないが、この事は完全否定はできない。
そもそも、「銃の訓練」をしていれば秘匿はなかなか出来ないであろうし、隠しても漏れるは必定である。
唯、この「物語風の銃の行」は、単に“「桶狭間”の表現」であって、必ずしも「桶狭間の戦い」そのものを言っているのでは無く、広く「三河域」で起こった「織田方と今川方の決戦・争い」である事も考えられる。
「当時の慣習」としては、常時戦いの中にあって、今の様に”桶狭間”と云えば、歴史的な”桶狭間の戦い”と連想するが、当時は単なる場所に過ぎない事であった。

歴史を研究していると、どうしても今から昔を観る陥り易い癖があって間違える欠点でもある。
「江戸期の資料」の発見と研究が進んでいない時代には、これは起こり得る事も考えられ「第一次の吉田城の戦い」の「籠城戦」から根拠なく想像して、その前の「桶狭間」にも“「松平氏は銃を持っていた」”と考えた事もあろう。
とは言え、その前に起こった「美濃長良川の戦い」で「同盟国の信長・雑賀根来の傭兵」が初めて使った事も「史実」として江戸期でも知られていた事である。
だとすると、「籠城戦から想像する」と云う「筋書き・想像」は無いであろう。
「裕福な織田方」が「傭兵」でやっと持てているのに、「衰退極まりない松平氏」に持てる事等100%無い事は判るし、銃を持てば疑われるは必定で危険極まりない事なのである。
「銃の生産地」が「雑賀・根来」と限定され、そもそも「銃販売」は「シンジケート」で縛られ「市販」は全く生産量も無かったのだ。
「高額な火縄銃を買える事」もあり得ない事も「当の作者」は想像できていた筈である。
そんな事を書けば記録としての価値は否定される。
そもそも「織田方」には、歴史上では、「火縄銃の生産地」で結成された「雑賀根来の火縄銃の傭兵軍団」を大金を叩いて初めて雇い込んだ事は「史実」として知られているのだ。
従って、「織田方や今川方」には「額田青木氏の300の改良銃」が幾ら何でも合力して味方する事は無かったし、「二つの湾の事」は「青木氏の存続」の意味でも絶対に放置できなかったであろう。
従って、「銃の行」は、「三河」で全体的に起こっていた「小豆城の事等」の「小競り合い」を指していたと考えられる。
だとすると、上記した切羽詰まった「伊勢の状況」と史実が一致して来るのだ。
この時は、「三河の松平氏」は弱小で「今川方」であるが、だからと云って「松平氏」に「傭兵」で「今川方に付く事」も記録もないし無いだろう。
「今川方の戦記」の中に、「戦い」で盛んに「火縄銃」を使ったとした記録も見つからない。
あったのは「京」に出向いて、「銃の興味の調査」で鍛冶師に働きかけていた事は記録にあるが、「大量の銃が調達できた事」とそれを使う「銃の軍制」の記録はない。
そもそも、前段の検証でも論じた様に、「同盟中の武田氏」にも「戦力と成る銃数・三方ヶ原」は持っていなかったのだ。
従って、どんな大名でも、当時、未だ持ち得られていない効果で「貴重な火縄銃」、況してや「300丁の超近代銃」で構築された「国衆」であった事から、「三河」は「傭兵」として「三河国衆の額田青木氏」に、“銃を獲得する”と云うよりは「変な傭兵の国衆軍団」に興味を示していた事は確かであろう。
ある資料に「火縄銃の事」に就いての「行」があり、「強力な弓矢の感覚」程のものであって懐疑的であったらしい。
それは主に、そもそも「入手」が難しく、「価格」が高く、「天候」に大きく左右され、「移動」は出来ず、「発射」の準備時間が長くかかり、「威力」を出すには「大量の銃」が必要で、「馬防策」が必要でいざ戦いには障害と成り、「軍制下」で無くては使えないと云う否定的に認識されていた事が書かれていて、実は「銃の理解度」は極めて低かったのだ。
「弱小の松平氏」がどんなに金を積んでも到底買えないから、故に傭兵の様なつさもりで「国衆と成る条件」として「渥美湾の制海権・使用権」を認めた事に成ったのであろうし、これで「伊勢の資料・伊勢湾の侵略の件」との「間尺」はこれで合う。
この「変な傭兵の国衆軍団」とは、彼等が持っていた「火縄銃の感覚」とは違い、この「近代銃」は「フリントロック式改良銃」であり、「戦い」は「移動式銃」で、「荷駄」を引き連れて「移動を伴う方式」であり、上記の欠点を大きく替える「変な銃の国衆」と観ていたと考えられる。
要するに、寧ろ、「殺傷力」のある「強力な弓矢の感覚」にあったと観ている。
その彼等土豪3氏が、「弱小の三河の国衆」を目指しているとも成れば、不思議に成り興味を持つ事は間違いはない。
「渥美湾の制海権を狙っている事」も含めて少なくとも「家康・松平氏」は興味を持っていただろう。
寧ろ、「三河」に執っては好都合であり、織田方や今川方に抑えられるよりは歓迎する事に成ろう。
そして、彼等が奈良期からの「伊川津の神明社族・律宗族」であると云う事にも「親近感」を抱いていただろう。
仮に、「南下国衆」を「伊川津」に配置したとしても言い訳が着く。
筆者の説では、「変な銃の国衆」は、当初は都合よく「今川氏」に利用される可能性があり、隠しても隠し切れないが余り強くは出していなかったと観ている。
然し、この「変な銃の国衆」の銃は、「移動」は肩に担いでのもので、「戦い」では「防護柵越しの固定銃の火縄銃」では無いのだ。
移動で銃撃する時は、荷駄を前にして「膝座式の三段構え」で連射するのだ。
再び移動前進するし、移動しながら連射もするのだ。
現物は遺されていないが資料から読み取れる範囲では、「ショットガンの一発連射式」か軍用で使われる「ボルトライフルの類似式」の「中筒銃」であった様と観られる。
「火縄銃の様な長筒」では無く「ピストルの中筒銃」と考えれば判り易い。
特徴として「銃全体」として「少し丸み」を帯びていたらしく、何せ「射撃の反動」はすごかった様だ。
そのために、この「反動」を真上に逃がし、静かに肩口まで下ろして連射し、命中率を上げるには「練習・訓練」が相当に必要であったらしい。
表現からすると、「射撃の反動」が強すぎる為に「熟練度」に依っては「腰横に据えて構えるスタイル」もあったらしい。
この場合の構えでは「三段撃ちの場合」は「前後入れ替え」であったらしい。
当にこれは「弓矢の構え」であり、「矢」の代わりに「強力な弾」が遠くに飛ぶのであった。
そして、そもそも「撃手」は、「農民」では無く「郷士国衆」で、且つ、移動式であるので同時に「刀と銃」とかで「戦い」もするとしているのだ。
従って、「火縄銃以上」に戦術的には、移動すると云う事が枷にもなって“誰もすぐ使える銃”と云う事では無かった様だ。
恐らくは、当時は、周囲は、”あんなもの使えるか”であって、未だ“変な国衆”と観ていたのではないだろうか。
筆者は、従って、この「銃を含む国衆の威力・試射」を示す為にも「桶狭間の戦前」の「織田氏」との「8年間の小競り合い」のどれかに其れなりに「傭兵・示威行為」として参戦していたと観ているのだ。
それが「第一次小豆坂の戦い・1542年」と「第二次小豆坂の戦い・1548年」では無いかと観ているのだ。
これを表現として判り易く「地名の桶狭間」で表現したのでは無いか。
何故ならば、此処は、そもそも「岡崎古跡神明社の青木村」より「真南8kの位置・2里」にあり、そもそも「岡崎城」に近く、昔は「三河国額田郡小豆坂」で行われた合戦でもあるのだ。
先ずは「伊勢の神職族」が住んでいた地域であり、危険に晒される事を放置出来なかったのでは無いか。
又、今川氏に依り「伊勢湾の制海権と渥美湾の制海権」の二つを奪われている事への何れも「示威行為」で無かったかと推論できるのだ。
そうでなければ「今後の南下国衆」としての「本来の目的」は達成され得ないだろう。
その為にも「変な国衆としての示威行為」を「松平氏合力」で見せつけたと考えられる。
「火縄銃の知識」が有っても、「近代銃の知識」は無かったであろう。
それも当に「弓矢の様に使う短い銃」であり、その「便利さ」に驚いたであろう。
さて、然し、「第一次」は勝利し、「第二次」は松平氏側は敗退しているし、幾つかの資料の記録に依れば「銃に依る威力の表現」、又は、「銃を使ったとする表現」は何処にもない。
では、一体これはどういう事であろうか。
筆者は「二つの目的に依る事前の示威行為」と書いた。
「改良銃の試射」を請け負い、「北陸の戦い」にも使用した経験もある「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下に「国衆」として「上記の訓練」を開始して未だ「2年目の事」である。
「実戦をする程の銃と撃手を出す事」は「示威行為の範囲」としてそれ以上の事はしなかった筈である。
“この様な物を持っているよ。!だから「二つの青木村」には手を出すなよ。!「伊勢の制海権」を犯すなよ。!と示威をしたと観る。
それは「織田氏」と「今川氏」に対しての「示威行為」であった。
だから、「織田氏」も「今川氏」も驚いた。
「織田氏も今川氏」も、「武田氏」と違って「火縄銃の威力」には興味を強く持つていた事は記録からも判っている。
「織田氏」は、「今川氏の勢力圏」に入っていた「伊勢湾の制海権」に、これを壊し「制海権」を自分の手中に納める為に、この時期に「伊勢水軍・商業水軍」に「調略」を掛けたが、「伊勢側の引き締め・伊勢衆持株増」で失敗し、必要以上に手を出すのを止めた。
史実、この「伊勢衆」から離脱し、この「織田氏」に味方して裏切った「一衆」も居たし、遠く離れた武田氏に味方した者まで現実に記録として出ていたのだ。
念の為に注釈として、因みに信長に味方した「九鬼水軍」は、「熊野水軍の裔」で「海賊軍」であって、この「海賊軍」とは一線を画していたし、「伊勢青木氏の伊勢水軍・伊勢氏」は「堺組合」に所属していた「商業水軍」でもあった。
「水軍の衆」を分けるとすると、そもそも古来より「海賊衆」、「警固衆」、「船手組」、「船党」などの「四衆」があった。
「水軍」と称するものは、「船手組」、「船党」の「二つの衆」を意味する。
「伊勢衆・伊勢氏の伊勢水軍」は、奈良期より存在し、「船手組」と「船党」の二つの役割を合わせ持つ「本来の水軍」を意味する。
「海賊衆」と「警固衆」は、平安末期から鎌倉期に発生した要するに当に「海賊」である。
その一部の「警固衆」が「海賊も傭船」の「二役」を演じたのである。
「海賊」そのものの「紀伊水軍」もあったが、然し、この「紀伊水軍」は不思議に「伊勢との繋がり」を「平安期・奈良期末」の古くから持っていた。
結局は「調略」に乗ったのは「九鬼水軍」とそれに関わった「一部・一氏・匿名現存」だけであった。
上記した「伊勢」に大きく関わった「九鬼水軍」は、元来は、づばリ「熊野海賊」そのものであり、「室町期末期」には記録にもある様に「信長」に味方して「傭兵」もしたのだ。
然し、「伊勢地域」は古来より温暖であり「気候や風土や物産」にその豊かさがあり、「伊勢衆」を「温厚な性格」にした。
従って、「伊勢氏等の伊勢衆」はこの「環境の恩恵」を壊す事無く護って来たのだ。
「伊勢屋の青木氏」が「織田氏や武田氏や今川氏」の「外からの調略の手」が伸びた時、真っ先に「伊勢水軍の内部の結束」を固めたが、この効果は高く乱れる事は無かったのだ。
結果として、動いたのは「海賊衆」だけで、その「九鬼水軍」はこの環境に馴染まず結果として“「伊勢衆」”から強く排斥されたのだ。
「伊勢湾の北勢」に近づけなかった事が記録されている。
従って、「尾張」などに入る際は、一度、太平洋に出て、再び尾張の知多湾に入る必要があった事に成る。
この“「海賊衆」”と「警固衆」に属する「二衆」は、その後も「尾張国」と「甲斐国」との関係を持ったのだ。
後に「織田軍」に入った衆は、その後も昭和期まで「水運業」を営んでいるし、現在も「水運業」と「陸運業」として遺っていて有名である事を追記する。)

(注釈 「「銃の威力を誇示する狙いの目的」
独自に入手した「西洋の新式銃のフリントロック式」に「日本人体格・青木氏族」に合う様に改良を加えた事に依って、「相当な訓練」を施さなくては使えない様な「独特な個性」の持った「改良銃」が出来た。
然し、その為に逆に「弓矢の様に使える移動式」のものとし「銃の威力」も増したのだ。
そして、試作の生産量を次第に増やし、これを事情の持った「額田青木氏用・南下国衆」にして引き渡したのだ。
結果として「威力誇示」の為に「第一次の小豆坂の戦い」で合力して「多少の銃の威力」でも「非弱な松平氏」は「銃の威力」と云うよりは「恐怖」にあって勝利したのだと考えられる。
この時は未だ初期の「訓練中」であった事から、全面的に「300の銃」を持った使ったとは考え難い。
仮に「脅かしの範囲」であるとするならば、「数丁」で良い筈であるし、又、訓練中とするならば「犠牲」を負わない範囲としてそうしなければならないであろう。
「伊勢」や「額田青木氏」に執っても「威力誇示の目的」は過剰で在っては成らず「適度に知られる範囲」で良かった筈である。
この時期には、「額田の北の背後」の“「縁戚の信濃」でも「5度の戦い・武田氏・1555年まで」”が起こっていて、又、“「尾張では1558年までは5度の戦い」”が起こり、「第二次」までには合わせてこの周辺で“「10度の戦い」”が起こっていたのだ。
依って、暫くは「国衆」として訓練している「額田青木氏」は合力しなかったし、出来なかったのだ。
「縁戚の信濃での5度の戦い」に「威力誇示」として使用していたかは判らないが、「第一次の小豆坂の戦い程度」には加勢していたと筆者は経緯から考えたい。
「考え方」に依っては「信濃青木氏」にも「試作銃」として渡していた筈であろうし、充分に有り得ることである。
「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には「試作撃ち」を頼んでいた事は判るが、其処までの詳細は記されていないが「行」から何となく読み取れる。
だとすると、僅かながらも「武田氏の一部」ではこの時に「実戦的な感覚」ではないが、初めてその存在を知っていた事も考えられる。
「5年から10年前の事」として「小豆坂と信濃の戦い」で、まだ出始めた「火縄銃の存在意識」の方が強く、「額田青木氏の改良銃」は、”忍者が使う「単なる火薬弾」”の様に観られていたかも知れない。
因みに、「火薬」は「黒色火薬」で古来では「焔硝」と呼ばれていて、歴史は古く618年〜907年に観られ、日本人はその存在を実際に経験して知ったのは「元寇の役・1281年」の時とされている。
参考として、筆者の子供の頃に、「木の又の形状」に成った物にゴムパチンコを張り、これにこの「5ミリ程度の市販の焔硝玉」を挟んで飛ばして、物に打ち付け爆発音で鳥など脅かして落下させ、網で捕らえると云う楽しむ悪戯をした事がある。
この様に弾力性のある物で跳飛ばす「単なる火薬弾」の「知識と道具」は鎌倉期後半には実際に「戦い」に使われた記録が遺す様に既にあったのだ。
要するに、敵を「火傷」させるか「脅かし」としての道具が使われていた。
ところが、”丸い堅い「弾」が飛んで来て死なせる”と云う「弓矢」に勝る「殺傷力の道具」が「火縄銃」であったが、「火縄では無い道具」で何処からともハッキリと観えない遠くから「弾の様なもの」が飛んで来て、不思議に突然に死ぬと云うものとして受け取っていたのだ。
資料に依れば、「火縄銃」は飛距離は500m程度で命中率は50mとされ、「改良銃」は1500mで命中率は500mであったとされる。
だから観えない処からの「流れ弾の被弾」とすれば“判らない”と記される事と成ったのであろう。
そもそも「人の感覚」とは、「焔硝→火薬弾道具→改良銃→火縄銃の過程」で先ず直ぐに「過去の感覚」に捉われ、この時は「火縄銃」までには至っていなかったと観られる。
要は、「焔硝」から「弾」に、「脅し火傷」から「死」に替わった事にあって、「第一次小豆坂」から“何か変だな”と成って行ったのである。
だから、「青木氏族」に執っては「威力誇示、示威行為」の目的は達していたのであった。
ところが、その「地元の美濃」では、「1556年」で「長良川の戦い」で歴史的に「実際の火・火縄銃」が用いて河中で使用されたのだ。
従って、「南下国衆」が合力していないこの「第一次の小豆坂」より「6年後の第二次の小豆坂・1448年」では「松平氏」は敗戦して極度に衰退している。
そして、この「第一次小豆坂の戦い・額田青木氏の国衆の銃の実地訓練」で、それを観て「織田氏の経験」が学んだ事は、「銃を使う戦闘に発想」は切り替わったのだ。
そして、「織田氏の経験」が行動に移したのだ。
これを証明するのは、その事が起こった戦いがあった。
その記録では、「長良川の戦い・1556年・斎藤家の内紛」に「援軍」として合力し対戦したが、この時,「道三側・父」が「敗戦」と決まった時、最早、これまでとして「信長」は対岸で特異な行動を採ったと記されている。
それは「信長自身」が「最後の切り札」として、「雑賀根来の火縄銃傭兵軍団」を破格な金銭で雇っていた。
この「切り札の火縄銃」の一部を川の真ん中に「数隻の船」を繋いで浮かべて「川岸に迫る敵」に向かって「数丁で射撃」を繰り返したとある。
「敵」は矢張りこの「行動」に驚き、「向川岸の背後」にこの「雑賀根来の火縄銃の軍団」が構えている事を想定し、恐れてこの侭に進軍すれば全滅すると考え対岸の川岸で進まなかったとされる。
結果として「信長」は、無事に対岸から「殿軍」を逃がす事に成功し、又、自らも引き上げる事に成功したとする史実がある。
この時の「火縄銃」が、「雑賀根来の火縄銃の傭兵」で事前に雇っていた事は「道三家・1553年・正徳寺の面接」には既に知られていたとされる。
故に、この「火縄銃での威力の知識」が既に「美濃」でも何とか感覚的に持ち始めていたからこそであって「川岸」で留まったのだ。
これを暗に「甲斐や信濃や三河や美濃や尾張や駿河」の周辺国に知らしめる必要があっての行為であって、「額田青木氏側」には其の後にも世間に「青木氏の存在」の為に「銃の威力を誇示する狙い・抑止力」があったと観られる。
“こちらからは決して手は出さないが出すと怖いよ”とする「威力行為・メッセージ」を発していたのだ。
この事を事前に合理的思考で感じ執っていた「信長」は、これを利用してこの「網」にかけて「最後の仕掛け」の「全滅誘い込み戦略」を採用したのだ。
そうでなければ、「額田青木氏の実戦的史実」を世間に知らしめていなければ、この「信長」も然る事乍ら、“「斎藤義龍側」も引き上げる事”は無かっただろう。
故に、この様な経緯に成るのには、「江戸期の三河の事」を書いた「戦記の火縄銃の表現の行」から検証した事として、“「銃の実戦的威力」”を最初は「第一次小豆坂の戦い」で誇示していたと考えられるのだ。
他にこれ以前に「銃の実戦」は歴史上では無かったのだ。
その「長良川の戦い」で“デモンストレーション”として見せた時期は、「第一次小豆坂の戦い」から「11年後の事」であったのだ。
つまり、「額田青木氏側」に執っては世間に「銃の威力を誇示する狙い」は成功していたのだ。
当然に、この事に依って「伊勢湾の制海権」と「渥美湾の制海権」に「微妙な影響」を与えていた事に成るのだ。
さて、この“疑問”に付いては、ところが“風吹く川の中”で果たして「火縄銃の欠点」として“火縄銃が使えたか”であり、「無条件に使える」のは「青木氏が持つフリントロック式改良型」だけであって、然し、「第一次の敗退時・対岸に撤退時」に「使われた可能性」もあるが、少なくとも「火縄」に限らず「銃の威力」として「感覚的」に感じ執っていた事は充分に考えられる。
筆者は、この「長良川の信長の銃」の使用は、概ね史実として受け取っているのだ。
又、故に、「威力の印象」を目的とすれば「川の中」で、「信長一人と家来複数」で夕刻の凪時に何とか「火種」を保護して撃った可能性も充分に考えられると観ているのだ。
そもそも「信長」が「長良川」で最初に「威力行為」として使った理由にはもう一つある。
それは「銃」でも同じ「堺・伊勢青木氏の銃製作」との「付き合い」のあった「銃の傭兵軍団の雑賀根来族」にある。
この「雑賀根来族」は摂津堺の組合員であり、地元に店を構える事や銃を試作している事や資金先として堺から拠出している事や傭兵軍団を編成しているやシンジケートを組んでいる事等から「伊勢青木氏の行為」を充分に知っていた筈である。
それは何よりもそもそもこの「雑賀地域」に「伊勢屋の店」を構えていた事が判っているのだ。
恐らくは、「鉄製鉄の取引の為の店」であったと考えられ、明治初期まで続いていた。
この時期に「銃の生産」のみならず「傭兵軍団」でもあったとすると、“「金のある雇先」を探していた”と云う事に成る。
「重要な事」は他に「雑賀根来を使った雇先」は資料から無い処を観ると、それが最初に「雇先」と成ったのは先ず「信長」であったと云う事だ。
つまり、未だ「傭兵の金額」が手の届くところには無かったと云う事だ。
「市販の銃の生産」をしない「雑賀根来衆」に執っては「雇先」が無ければ其れで無くては「雑賀根来」は成り立たない。
「伊勢屋」は「雑賀」に「小店」を出していた事は記録としてあり判っているし、江戸期には「鉄の販売」に関わっていた巨額の儲けを得ていた事も判っている。
つまり、この時、「雑賀根来衆」は「信長」に「伊勢と額田の情報」を流していた可能性は高い。
だから、未だ「南下国衆」と成っていない時期には、「伊勢や三河や額田」には「銃の存在」を警戒して「信長」は「長良川の後」までは「斎藤家」が潰れるのを待って手を出さなかったのだ。
兎も角も、決定的なのは「歴史的な本格的実戦」として「第一次吉田城」と「三方ヶ原の戦い」と「第一次小豆坂から其の後22年後」の「雑賀根来の傭兵軍団」に依る「長篠の戦い・1575年」であった。
「三河側」の「今川氏・松平氏連合」と、「尾張」から侵攻してきた「織田氏との間」で、「第一次と第二次」の「2度」に繰り広げられた小競り合いを除く「戦い」では、要するに「三河の弱体化」に両氏に組み込まれた「三河平野」を獲得しようとする「典型的な争奪戦」であった。
未だ、「額田での銃兵の国衆」として編成されて訓練に入って間の無い頃であった。
要するに、この様な「周囲の環境」の中で、改良に依って相当に訓練を要する銃であっただけに、“訓練だけの何にも無し”では現実に戦乱下では済まないであろう。
仮に、「物語風の記録史」の「この実戦説」は、「銃を使った行」が「史実」として確定されれば、「訓練中の実戦・示威行為・伊勢湾と渥美湾制海権脅威」とも考えられる。
同時に、前段でも論じた様に、この事から「額田の家族の3度移動」は、「資料の状況判断の行」から観て、「第一次と第二次の期間・1442〜1448年」の後に「美濃と三河の空白期間」が起こったが、これが「額田の伊勢の裔系の青木氏」に執っては「移動に伴う絶好の時期」と成っていたと考えられる。
この為にも「威力行為の示威行為」を強く示す必要もあったのだ。
これらに付いて、「幾つかの郷土史」も含めて総合すると、「松平氏の火縄銃保持」と書かれている「行」には、この「第一次の合力」を捉えて「後勘・江戸期」で「印象付けられた事」である事が判る。
「銃の経緯」は上記の通りであって、後勘から観て「矛盾」だらけの「江戸期の脚色の歴史書」がそれが引き継がれ「長篠の戦いまでの行」と成って仕舞ったのであろう。
「正しい歴史書」と云うよりは、“興味を引き付ける物”でなくては江戸期では売れない。
従って、江戸期では現在と違い「適度の脚色も妥当な範囲」として常識としていたと考えられる。
「酒井氏の東三河の兵力・二連木城・吉田城の戦い」からは、現実に「国衆としての合力」ではあるが「松平の銃隊」と成っているのは現実である。
要は、「持ち主の問題」であろう。
当初は、「南下国衆の銃隊300と荷駄50人・伊川津土豪衆」と「牧野氏等の国衆の兵300」と「酒井氏の手勢200」であった事が解る。
形勢不利で援護に駆け付けた「家康の三河本隊」と共に、「支城・二連木城の全兵力」は「吉田城」に敗走し逃げ込んだが、現実にはここで「実戦」として「吉田城」で「銃」で押し返したのが最初であった。
其の後は、「350人の300銃隊と荷駄隊」は、合力ながらも「一言坂の戦い・偵察隊」と「三方ヶ原の戦い」では、「銃隊としての単独行動」ではあったのだから、そもそも「江戸期の記録通り」の「松平軍の銃隊」そのものとは言い難い。
ところが「江戸期」では、其処まで「検証能力」があったかは甚だ疑問で、この事がこの「物語風記録」を元にこれまでを「松平氏の銃隊」と都合よく脚色されて仕舞ったのだ。
本当に江戸期では、“其の後も三河の伊川津に定住し続けたのである”からその様に解釈していた可能性も充分にあり、仕方のない事かも知れないのだ。
これが「一般の歴史観」と成ろうが、関わった「青木氏の歴史観」からするとこの様に違うのだ。)

(注釈 「南下国衆の立場」と「牧野氏等の国衆の兵300」
この戦記の記載には、疑問があり、検証を要する。
当時の標準は、「1年=1反=1石=1両=1人」とし、それに基づいて「子孫拡大式の4nの2乗」が働いたとしていた。
更に「1騎=50人」と「1頭=1200」等の「当時の軍規基準」とその他全ゆる「社会の一般原則」から照らしても、「渥美・伊川津・田原・吉田」の前期した様に「石高5000石」は妥当と見做される。
ところが、記録に遺る戦国中の「松平氏の標準軍規」から考察すると、「土豪3氏で300兵」と云う事は、この原理からすると「土豪3氏の手勢」には、少なくとも「6人の騎馬」が居た事に成り、且つ、「夫々の土豪3氏」から「各2人の准指揮官・差配頭」が居て、合わせて「6人の戦場准指揮官・現場」の「軍編成」と成っていた事を示すのだ。
其の上に「1人の戦場指揮官・現場」で構成されて動いていた事に成る。
同然に前段でも論じた様に、「額田青木氏と伊川津四家の銃隊」は「350の銃隊・荷駄含み」で「300丁の射撃兵」と「50人の補足兵・射撃の補足」が着いていた事に成る。
当然に、この「6人の戦場准指揮官」で「敵の動向」に依って「6つの配置編成」で動いていて、「1人の全体指揮官」で指揮統制されていた事に成る。
それに対して「吉田城の酒井氏の作戦本部」からの「情報や命令の伝達伝令係」が置かれて動いていた事に成る。
この「額田青木氏の射撃銃隊」の戦闘方式は、資料に依れば「隊の前面」に出て「城壁・廓櫓」から「武田軍の動向」を観て射撃した事に成っている。
この「吉田城」で観れば後ろは直ぐの川である。
「三つの郷土史や絵図」から総合すると、「城」は後ろに川をして、そこに「本丸」を中心に「二の丸、三の丸」の二つを配置していたとある。
それを「堀」が「城」を囲む様に不思議な”「円形」”に取り囲様な”「円城構え」”であったとされる。
ところが「平城の館城」の様に「吉田城」には珍しく「天守閣」はなかったとされ、「櫓」は後ろが川であった為に、前面に「当初は2基」であったとされる。
ところが「酒井忠次」が「城主・1564年」と成ってからは、「三層櫓の5基」に改造されて護られていた事に成っている。
そして、この「三層櫓の5基」は、当時の「城構え」としては珍しく「弱さ・武田軍を予想」を必要以上に補強していたのだ。
実は、この「特別な改造」が、当時としては「兵と2基の櫓の弓矢で護る構え」で充分であって、“いざ”と云う時には寧ろこの「櫓廓の存在」が邪魔をする。
然し、この事から敢えて「弱点」とも成り得る「特別の改造」をした事を考えると、最後まで“「籠城スタイル」の「弓矢で護る城に替えた事」”に成るのだ。
つまり、それを「額田の南下国衆」の「弓矢に替わる銃隊」を配置したと云う意味合いに成る。
「松平氏」に執っては「南下国衆」が「ある条件下」で「合力した事」で、この時は未だ「強力な弓矢に替わる銃」と感覚的には捉えられていた事に成る。
「額田青木氏の銃隊」は「移動式銃隊」として「最大の効果」を発揮するが「強力な弓矢程度」と捉えていた事が判る。
そこで、仮に「前面6カ所」で応戦すると成れば、その「構え」はこの「櫓5基」に夫々上記の通りに「銃隊」が配置され、後ろの川側に予備として「1騎の銃隊」が配備されていた事に成る。
普通は、「城櫓」は、その目的から「2〜3基」で普通で「5基」と云うのは大変に珍しく先ず無い。
つまり、殺傷力の小さい「弓矢の意味」はここにあるのでだあって、「弓矢」で敵を死滅させるものでは無く、城に寄せ付けない様にする「牽制策」にあったのだ。
「平城」で「弱い勢力」のこの城を護ろうとしてこの力をより強めようとして「5櫓」としたのだ。
要するに、この「城白構え」は”時間稼ぎ策”に過ぎないのだ。
其処に「忠次」は「弓矢」の代わりに「南下国衆の銃隊」を偶然に置いたと云う事で、結果として遂には「時間稼ぎ策」から「死滅力があり撃退策」に替わり得たのだ。
当初の国衆条件は「東の軍政下」では無く西軍制下であった。
この約束を破って、吉田城に詰める事を命じたのは、時間的に観て呼んでから「城改造」をしたのではない事は判っているので、この「酒井氏の作戦」であった事に成る。
恐らく、この時に初めて「彼等の感覚」は、「弓矢の代替」から「死滅力があり撃退策」の感覚へと大きく変わった事を物語っている。
この作戦で、一番小さい城が何と”「武田軍」を何と追い返した”と云う大事件を起こしたのだ。
唯、ところがこの事が「額田青木氏の南下国衆」に「ある被害」をもたらしたのだ。
それは、この勲功は「旗本の立場」を脅かす程の事であって、「彼等の大嫉妬」を招いてしまったのだ。
その「旗本の嫉妬」は「西三河軍」では無く、案定の「東三河軍の中」にあって「酒井氏と大久保氏の中」に起こったのだ。
この「二つの旗本」は何と定住地の「伊川津の田原城」の者等であった。
中には、当然に「旗本」では無い「国衆の土豪3氏・譜代」も含んでいただろう事は判る。
恐らくは、そもそも「吉田城」は、「二連木城の土豪」と対抗する為に建てられた普通の「土豪同士の対抗城」であった事から、「2基」であった事に成り元来「特別な城」ではなかった。
とすると、これを「忠次」が「東三河の土豪等」を「1564年」に攻め落として、その功績から「家康」からこの「東三河軍の防御城」としてを与えられたものである。
この為に、恐らくは、この事を筆者は次の様に考えている。
この時の「1560年頃」に「額田青木氏の銃隊」が「国衆」と成って、「伊川津」で約束違反で「東三河軍」に組み込まれていた。
「青木氏の資料」には「西三河軍編成」に入ると考えていた「行」が記されている。
これは「伊勢との繋がり」からより近い「西三河軍制」に入る方が得策だと観ていたのである。
恐らくは、これは「当初の国衆条件」では無かったかと判断され、だから青木氏に遺されている資料には「不満」を抱いた手紙の「行」が記されているのだ。
これを無視され「松平側の理由・状況」を前面に押し出された。
この事から、「額田青木氏の銃隊」の様に「櫓廓」を上記の検証より弓矢より強力な感覚を持たれた事で「5基」に変更したとも考えられるのだ。
「青木氏の歴史観」からすると、これが“改造の根拠であった”と考えているのだ。
その「証拠」は、当初は「戦記」に依れば「家康と忠次」が、“城から出ての「戦い」”と成っていた事が記されているが、現実に隣の「二連木城」で本隊が救援に駆け付けて「野戦」をして敗退した。
結局は敗退して、この「吉田城」に「二連木城兵」と共に「籠城の戦い」と成ったとある。
これには「誘い込みの戦略」と記したものもあるし、筆者も伊川津から移動した銃隊が既に入場している処からそう見ている。
これが「額田青木氏の銃隊」の「国衆」が、「東三河の軍制」に約束を違えて組み込まれた理由であろう。
始めから、武田軍の攻め込みを考えて「約定を護る心算」は三河軍に無かったと観ている。
恐らくは、ところがこの時に「土豪3氏の手勢・300」と「忠次の手勢の200」と「家康の本隊3000」で、実際に史実ではその「前の戦い」と成った「野戦・二連木城等」に出て配置され応戦した事に成っている。
ところが、この「戦い」には「額田青木氏の銃隊」の「国衆」は参戦していないのだ。
然し、当然に「二連木城」では多勢に無勢で敗戦して「吉田城」に籠もる結果と成り、「城」から「5基の櫓廓」から「300丁の弾幕の銃撃戦」で応戦した事に成っている。
この時に、「第一次の吉田城の史実」に基づけば「銃の持たない武田軍」は、犠牲が多く直ちに“勝ち目がない”として「戦う事」を諦めて引き上げたと成っている。
ところが少しこの「史実の戦術」には一概に信じられない事があり変である。
筆者は、これは「吉田城と二連木城」から出た「勝ち目のない野戦」と云う事は、「櫓廓」からの「銃弾」が効率よく「弾幕を敷ける距離」まで「武田軍」を“城に引き寄せる「忠次の作戦・事前の廓櫓改造」”であったとも考えられる。
「郷土史」でも「有利な銃撃戦」に持ち込む為の「戦略」であったと記されている資料もある。
つまり、その目的は犠牲無く「東三河の全ての兵」が「逃げ込んだ事」から考えると、「額田青木氏の銃隊」が「国衆」の「後方支援」として「吉田城」に入った事から来ているのであろう事で理解できる。
故に、ここでも「銃の存在」ははっきりと明記されているのだ。
この事は合わせて「6の郷土史類」にも記載がある。
「二連木城」と合わせて最高で「吉田城」では「3850の兵力・兵の集結作戦」と成ったのだ。
此処からである。
然し、ここで疑問は、“これだけ「小さい城」に「3850の兵」を詰め込んで集めて何をするのか”であろう。
戦略的に「銃隊説」があったとしても可笑しい。
寧ろ、後ろが川であるので「飲料水不足の危険」は兎も角も「兵糧不足の危険」があった筈である。
故に、この疑問からすると相当に「銃隊の効果」を理解していてこれによる「短期の攻撃」を狙っていた事にも成る。
突如、その「約定」は見つからないが「額田青木氏の南下国衆」に執っては、「伊勢と繋がり」を採る事に有利な「西三河軍制」を望み、この「当初の約束」を破ってでも「東三河軍制」に組み直して「短期決戦を狙ったと云う事」になろう。
つまり、この推理では少なくともこの時は「南下国衆の銃の威力」を最低でも「強力な弓矢」として高度に評価していた事を意味する。
その評価はなんと「武田軍の撤退」で更に変わり、「強い羨望を生み出す程」のものと成ったのだ。
それは、「マッチロック式の火縄銃」では無く、「フリントロック式改良型」であった事に依るだろう。
誰が考えても、「全方位の周囲の5基の櫓廓」から間断なく撃ち掛けられれば「全員死滅の事態」と成り、早期に勝負は着くと見做されて、「全兵力温存の意味」からも採った「止む無き作戦」であって、松平氏側としては思い掛けない程にこれが成功した事に成る。
ところがこれらの記録に依ると、これが「1556年〜1572年までの戦い」に依る「兵力変化」では、最終は、然し、結果としては「羨望」からか「奇襲隊として任務」を与えられた事に成ったのだ。
然し、「青木氏」に執つてはその目的から良い事であった事に成る。
「南下国衆時の約定の違反」に意識した事も充分に考えられる。
最終目的の「渥美湾の制海権の獲得」を意識していたと云う事だ。
「青木氏の氏是」に伊勢から指令が届き、それに基づきだから我慢したのだ。
本来であれば「吉田城の戦功」からもっと積極的に使われる事で弱体化した態勢を替える事もあったであろうし、「今川氏も見直した事」もあっただろう。
寧ろ、「伊勢の指令」は、この「今川氏に使われる事」を警戒した事も考えられる。
この時の「東三河軍の兵力」はある戦記では「500」と成っている。
少なくとも、この計算では、「350の銃隊」が存在するも「東三河の兵力・酒井忠次軍」は実質は減少している事に成るのだ。
本来は、「酒井の手勢200」+「土豪勢の300」+「350の銃隊」=850と成っている筈である。
ところが、記録では「500」と成っている。
要するに、この江戸期の戦記の記録では「350の銃隊」が計算されていない事に成る。
「吉田城の戦いの扱い」では、「東三河軍制」に組み込まれていながら、「吉田城の戦い後」は組み込まれていない事に成る。
つまり、これは「吉田城の戦い」の後、直ちに「東三河軍制下」に無く「伊川津に戻つていた事」に成る。
筆者は、「羨望説」や「約定説」では無く「今川氏に使われる事」を気にして「伊川津に戻した事」の説を採っている。
“「弱く見せる事」”に依って「身の安全・松平氏」を保ち必要以上に「織田氏や今川氏」に対して“「戦力の威力」”を隠したのであろう。
そもそもこの時、「西三河の軍・1200」は「石川家成」を「頭」としている。
この時までの兵力は、「松平軍の本隊・3000」と合わせて、「合計5000の兵」としている。
この兵力の数字は正しい。
「南下国衆の銃力・20倍」を以てすれば「5万以上の戦力」と成り得て、その「戦い方」では「織田氏や今川氏」を凌ぐ兵力と成る。
「銃力」に対する「松平軍の認識」は高くは無かったが、「吉田城」で観ていたのであるから少なくとも「弓矢以上の威力の認識」は「酒井氏や家康」には有ったのではないか。
上記の記録に依ると「吉田城の戦い」での「吉田城の兵力・酒井忠次軍800/500」は「額田の南下国衆の銃隊の数」を合算すると検証と一致する。
そうすると結論は、東三河の独自の「酒井軍の兵力・300」の「吉田城の戦い・1571年」の後に、そもそも「土豪3氏」と共に“「伊川津に戻っている事」”で一致するのである。
取り分け、「額田の南下国衆」は戦い後直ぐに戻っている事に成る。
これは「土豪3氏と南下国衆」とには「家臣化を望む者」と「渥美湾の使用権を望む者」とのその「目的の違い」があったからであろう。
資料から「三方ヶ原・1572年」で、急遽、「伊川津から呼び出しを受けた事」の行でも一致する。
この時、記録に依れば「土豪3士等の国衆」は「数からする事」と「その事を匂わす行」から既に参戦している。
この事の物語る事は、軍制下にあったとしても更には“「東三河軍制」に正式には組み込まれていなかった事”を証明する。
これは「第一次の吉田城の戦い」の後に、“「350の銃隊」に何かがあった事”に成る。
それが、「額田青木氏側」の「350の銃隊」に何かあったのか、「松平氏側」に何かあったのかである。
「伊川津」は、「大久保・本多氏の田原藩・1560年」であるが、「酒井軍制下・吉田城・1565年」には既にあった。
それを共に、この「6年間の戦いの任務」は、“「350の銃隊」では「先鋒隊、偵察隊、奇襲隊の任務」であって、「大久保・本多氏の軍政下の3土豪等」では「3つの城を護る役目」にあった事が判っている。
この「東三河の田原城」と「二連木城」と「吉田城」の3城である。
「武田軍の本隊」との最後の一戦の「青木氏の一言坂の戦い・1572年偵察隊」までは、この「三つの役目」、つまり“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」”の位置に据えられていた事に成る。
「土豪3氏」とは違い固定された「城の防護役」では無かった事に成る。
要するに、記録から総合して考えると、その様な「あやふやな意味」の「最前戦の決死隊の事」の様で、強いて云うならば「危険な位置に据え置かれていた事」に成るのである。
これは「松平軍を救う位置」にある事を認識しながらも、実態は「計算にも入れない」、且つ、「兵力数にも入れない」の立場に置かれていた事に成る。
逆に云えば、確かに良い方に考えれば、これは明らかに「銃隊を認識し生かした事の証」でもあるのだが、それが「固定式の火縄銃」では無く、それは唯単なる「強力な弓矢」に替わる「フリントロック式の改良銃が魅力」であった事にも成る。
これは「概念」としては“「兵力」では無く、未だ「銃力」に対する「排他的概念」”があった事に成る。
これが拗れて「記録」にも遺される程の「東三河の旗本・大久保氏との軋轢」の原因と成っていたと読み取れる。
寧ろ、「銃先」を「旗本」に向けていた事位の軋轢であった事を意味する。
「三方ヶ原の戦い」の「引き上げ方」はそれを物語るだろう。
それを知った上での事で、其れで無くては「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」は心理的に危険に任務を務まらないだろう。
それだからこそ、早々と「三河国衆を辞した理由」と成った一つなのである。
前段でも論じたが、「激しい戦歴」では、結局は主に「伊川津の手勢」には全体として「350の兵の減少・記録犠牲者」があった事にも成っている。
記録では「土豪3氏の手勢」は「300」と成っていたので「全滅に近かった事」に成る。
「吉田城の忠次の手勢・300」には、其の後の「戦歴の経緯の変化」は依然として元の「200」と成っている事から考慮すると、東三河域の「豊橋・豊川の今川国境の国衆・周囲の国衆の100人以上」の減少と成り、「大被害」であった事に成る。
これは「三河戦記の三記」にも「今川国境域・元今川国衆」の「国衆の戦死」が多かった事が書かれていて、その「戦いの激しさの事」として「記録」として遺されていて「有名な記載部位」がある。
江戸期の身内の記録であるので悪くは書かなかった筈である。
とすれば、“「第一次吉田城の戦いの功績後」に「伊川津」に戻った”と云う記録の疑問は、「第一次吉田城の戦い」の後に“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊としての役目」”は既に終わっていた事に成るだろう。
故に、「吉田城の兵糧等の問題」もあり、「必要性の低下」で「伊川津に戻つた事」にも成る。
そして、ところが、その経緯としては、「浜松城の野戦」で「城自体の存続」が危ぶまれ「形勢不利」と成り、「伊川津」に戻って「三河国衆を抜ける準備」をしていた処に、突然、呼び出され止む無く合力し、この「流れ」に従いそれが「三方ヶ原の戦い」までに繋がって行った事に成るだろう。
故に、無理に「鶴翼の陣形」の「左側面」に付き参戦し、「三方ヶ原の敗戦」が決まった処で躊躇なく「戦線離脱」して、急いで「伊川津」に戻って、再び「三河国衆の離脱の準備に入ったと云う事」に成るだろう。
この「記録」に依れば、“「額田青木氏の差配頭等」も戦死している”と書かれているのだ。
とすると、「三つの戦記の記録」から「額田青木氏の国衆差配頭」の「三方ヶ原での戦死」からも「犠牲」はあった事が記載されているし、「額田青木氏の差配頭・名も記載」からも「二人戦死している事」に成る。
合わせて、この記録から読み取る処では、「土豪3氏の手勢・300」等も「桶狭間の戦い・1556年」と「吉田城の戦い・1564年」と「東三河一揆・1563年」と「姉川の戦い・1569年」と「三方ヶ原の戦い・1573等」の「以上5戦」で、全体として「17年間」で「土豪3氏約300の兵」の「全滅に近い戦死の事」と成っていたと記録している事に成る。
恐らくは、その中でもこれは無理に執った「鶴翼の陣形」の敷いた「松平軍の翼面」に他の土豪3氏の国衆も共に着けさせられていた事に依って「犠牲」を多くしたのであろう事が判る。
注釈として、本来は「銃隊」には「無理な陣形」であって」旗本の居る中央の最前線」に配置されて「銃隊の弾幕効果」が出るのだ。
然し、「本来の形」にしていれば勝敗は変わっていたかも知れないがそうでは無かった。
恐らくは、この「300の兵の伊川津国衆の戦死の事」を「土豪3氏の分家筋」は、“先ずこの事を念頭に置いた”と考えられる。
“このままで「土豪3氏」の中でも前戦の最前面に出される「分家」では何時か全滅する”と考えて深慮したと観ているのだ。
そもそも、鎌倉期末期から室町期中期に架けて関東や四国から流れて来て「三河」に住み着き、「三河国衆」として「伊川津の土豪と成った3氏の分家筋」は、遂に決断し「陸運業に成る事」に傾いていたのであろう。
この「伊川津の分家筋」が、「陸運業に加わった事」は「田原の古跡神明社族青木氏」と、その背後に「伊勢の存在」を強く認知し、安定性が担保されていた事を知っていた事に成る。
つまり、後から「伊川津に来た勢力」と云うよりは「伊川津の原住民性の族」を認知していたのである。
この上で「陸運業と成る事」に決断した時の約定とか、反対していた「蒲郡青木氏・桑名」と共に「伊勢との契約書」なるものがあった筈であるが、発見できず未だ見つからず遺されていない。
それは“遺されていない”と云うよりは“遺らなかった”と云うのが正しい。
それは「伊勢」で起こした「3度の失火も含めての消失」で“遺らなかった”である事は間違いはない。
「3度中の消失」のどれかも解らないが、最後の「明治35年の消失」では「曾祖父と祖父の忘備録」には、“全ゆる物改めて火中に放り込んだ”と書かれているので、「執事役」を務めていた「菩提寺清光寺」も消失した時で、遺されていたものが消失したとすればこの時であろう。
然し、例え、これ等の事を「より詳細に描いた記録」が遺されていたとしても、又、「土豪3氏」の国衆の“「300の兵の戦死の事」”は知り得ていたとしても、「渥美伊川津の土豪3氏の本家筋」は、「一族の筋目を遺すと云う宿命」と「松平氏への恩義」と「初期の目的の立身出世」の「三つの狭間」でそういう訳には行か無かったのであろう。
「生き遺りと自由」を求めた「分家筋」が、「伊勢側の了解」を得たので「陸運業」に参加した事に成ったのだ。
確かに「伊勢側の主張」も納得できるが、損得で云えば必ずしも損を危惧する事だけでは無かった筈である。
“船頭多くして船山に登る”の諺の通り「利」はあったのだ。
「額田青木氏の三方ヶ原の戦線離脱」は「罰則中の罰則」であるが、この罰則は受けずに「伊川津と蒲郡」に定住しているし、「豊橋、豊川、岡崎等」に定住もしているし、「陸運業と開発業と殖産業」もしている。
これは要するに「上記の位置にあった事」を証明している。
「松平氏」に執っては事情により違約はしたが、「神明族」と共に「最初の約定」の通り居ついてほしかった事に成るだろう。
故に、江戸初期の”{伊勢の事お構いなしのお定め書」と「頼信との良好な関係」がこれを証明する。)

「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」に続く。


  [No.384] Re:「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32
     投稿者:青木   投稿日:2020/08/05(Wed) 15:02:35

> 「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」の末尾。

> 「生き遺りと自由」を求めた「分家筋」が、「伊勢側の了解」を得たので「陸運業」に参加した事に成ったのだ。
> 確かに「伊勢側の主張」も納得できるが、損得で云えば必ずしも損を危惧する事だけでは無かった筈である。
> “船頭多くして船山に登る”の諺の通り「利」はあったのだ。
> 「額田青木氏の三方ヶ原の戦線離脱」は「罰則中の罰則」であるが、この罰則は受けずに「伊川津と蒲郡」に定住しているし、「豊橋、豊川、岡崎等」に定住もしているし、「陸運業と開発業と殖産業」もしている。
> これは要するに「上記の位置にあった事」を証明している。
> 「松平氏」に執っては事情により違約はしたが、「神明族」と共に「最初の約定」の通り居ついてほしかった事に成るだろう。
> 故に、江戸初期の”「伊勢の事お構いなしのお定め書」と「頼信との良好な関係」がこれを証明する。)
>

「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」

(注釈 「土豪3氏の中の激論で落着」。
更に掘り下げて観る。
その証拠が「陸運業」に従事した「渥美から豊川までの5地域」に遺る「土豪3氏の裔」は全て「分家筋一統・後段で証明」として生き延びているのだ。
上記の通りその典型が「牧野氏の分家」であった。
そもそも、「全国五地域・21地域」に分布存在している「牧野氏・江戸期」は、何処が本家筋かは判らない位なのだ。
室町期からの「国衆」として「阿波牧野村」から出て来た処迄では系譜は一致するが、三河の「系譜の5地域」の内容、更には「渥美から豊川までの牧野氏の系譜も家紋」も全く違っているので、「本貫」を辿れない有様なのだ。
恐らくは、これは何処の国衆の事でも同じであって、「牧野氏に限らずの事」であるのだが、これは“各地の本家筋の分家筋が戦乱で何とか生き延びた差の”証拠であろう事が解る。
又、戦乱で生き残る為の考え方、取り分け、「本家筋と分家筋の分裂の結果・後段」もあったのだ。
要するに、江戸期に向けて「激しさを増す戦国時代」には、その「激しさ」を増し、まだまだ続いていたので栄枯盛衰で変化して判らなくなったのである。
従って、「伊川津」も同じでより安全な策を執った「分家筋」が<繁栄し子孫拡大が起こり子孫的には本家筋を遥かに超える「勢いとなった事」で起こった現象である。
つまり、それは「青木氏」と伴って「陸運業で生き延びた事」を意味していて、その事で江戸期に「分家の5地域の系譜」を大きく遺したと観る事が出来き、これが各地に広がったと云う事と成る。
この現象は、「本家筋の子孫・大久保氏・本多氏の田原藩の准家臣」から「松平氏の譜代家臣」に成った事も然る事乍ら、この僅かな享受を嫌い「分家筋」の中でも「土豪3氏の中」では、記録には無いがその経緯から“それぞれの「家」で激論に及ぶまでの「激しい議論」があった事”が予想できる。
然し、この「陸運業」に「分家筋」が「三河5地域」で参加し、「別行動」を執ったにも関わらず、同じ「藩域の地域」で「子孫を遺せた状況」には「青木氏外」であるが関わった族としては改めて検証を要する。
それは「当時の氏家制度の慣習」としては、「本家分家の関係・氏家制度」は「主従関係」に近く「本家の路線」に従わなかった場合は、普通ならその地域から出て行くのが普通であったし、少なくとも罰は受ける。
江戸期には幸いにも「土豪3氏の本家筋」は「徳川幕府」と成ってからは、「牧野氏や戸田氏」に関わらず「各地の藩」に仕官していて、「5地域」に定住していなく縛られていなかった。
従って,この為に「分家」に執っては却って「5地域に住める事の意味合い」は増したのである。
その為の「糧」と云う意味では、細々と本家からの「分部・わけぶ」で生きるよりは「陸運業」での「商いの糧」で生きる方が「子孫」を大きく遺せる所以と成ったという事である。
「本家の譜代の田原の糧」ではその「絶対量」から観てここまでは「子孫」を広げられなかったと考えられる。
それが「陸運業に従事した事」に依って「分家の子孫」が「全国の5地域に広がった」と云う事であろう。
これらは前段でも論じた様に“「5地域の家紋分析」”で判るのである。
この様に「履歴」を詳細に各処で掘り下げて行くと、その「一役」を“「伊勢の額田の裔系青木氏」と「伊勢青木氏」が担っていた”と云う事が判り、ここに幅広く「青木氏の歴史観」と云うものが観えて来るのだ。)

(注釈 「「銃隊の青木氏の戦線の行動と離脱」
そこで、少し遡ってみて観るとする。
それは実は「三方ヶ原の戦線離脱」から観えて来るものが他にもあるのだ。
その間に「松平軍本隊・3000兵と西三河軍・1200兵」は「三方ヶ原」に先に到着して陣形を組むと云う戦略であった事が判っている。
「戦い」と云うのは、そもそも「第一の戦略」は、多勢の「大軍(25000兵・騎馬兵・6000)」に向かうには、先ずは「無勢」であっても“「有利な陣地取り合戦に勝つ事」”であった。
その「第一の手順の事」は先ずは成功している。
然し、ところがその“「陣形」”が「多勢無勢の場合の構え」としては逆と成るのに間違えてしまったのであった。
要するに、「地形取り」も含めて元から負ける「陣形」を採った。
つまり、その「武田軍本隊・魚鱗の陣形」を引きつける「時間稼ぎ」にさせられたのである。
此処で「第二の手順」が間違えたのである。
「松平軍5000」は、本来は「無勢」であったので「魚鱗の陣形」を執るべきなのに逆の「多勢の陣形」の「鶴翼の陣形」を執った。
これを「三方ヶ原」に向かう準備の途中で報告を受け観た「武田軍本隊」は、その途中で「鶴翼の陣形」から直ちに「魚鱗の陣形」に直して「赤兜の騎馬兵」を前面に押し出した配置にしたとされている。
“何故、松平軍が間違えたか”は判っていないが、“「武田軍が魚鱗の陣形を採る事」は無い”と見込んでいた事もあり得る。
それは「堀江城の落城」に手間取り、そこから「三方ヶ原着陣」に更に手間取り、その過程で“魚鱗の陣形にする時間的余裕は無い”と観ていた可能性は否定できない。
「三方ヶ原」で陣形を組み直して混乱している間に「鶴翼」であっても左右の鶴翼が中央に前に集まり、前進突撃すれば完全に攻められると云う事もあり、先ず無いと考えていた事もあり得る。
実際に歴史上の記録には「鶴翼」と見せかけてこの戦法を採って勝利した記録も他にある。
然し、「三方ヶ原」に向かう途中で陣形を魚鱗に組み直したとあるのだ。
それには、「武田軍本隊の赤兜の騎馬隊」が有名で、これがあると云う事は「鶴翼」でも「魚鱗」でも何れでも出来る事に成り得ると云う事だ。これを失念していた事になるのか未だ判らない。
何方かと云うと、「大軍」で在り乍らも「鶴翼の陣形」より「魚鱗の陣形」に合っている事に成るのだ。
だから「赤兜の騎馬軍団」が強いだけでは無くて恐れられたのだ。
もう一つあって、「山県軍の5000」の「大軍の別動隊」が、東の端の「二俣城」から「三方ヶ原」に来ると云う事であるし、「松平軍の鶴翼の背後」を突かれる恐れも充分にあったのだ。
現実にそうなった。
一瞬にして「総崩れに成った原因」は「大軍の別動隊」に鶴翼の側面を北側から突かれて付き抜かれた事にあった。
そもそも、現実に背後で無かったがこの「山県軍の別動隊」の「鶴翼の右側面」を突かれた事に依る「総崩れ」の敗因であった。
更には、「武田軍」はこの北の平地の「三方ヶ原」を「宿営本陣」としてここを「拠点」として「南の籠城の浜松城を攻める作戦」であった事が判っている。
何れにして戦略では“信玄の方が一枚上と云う事”であった事に成る。
「物語風の戦記」では、無謀にも“家康が頑な主張した”と成っている。
恐らくは、筆者は前段で論じた事とは別に、この詳しい経緯は、「好感を以て見る」とすると次の様に観ている。
これは後勘から観ても当時から観ても誰が考えても「無謀である事」は間違いは無い。
とすると、其処まで間違えるかであり、何かの考えがあったのでは無いかと観る事も出来る。
それは、次の通りとして「青木氏の歴史観」を読む。
当初は「家康」は「家臣の反対」を押し切つて、「額田青木氏の偵察隊の300丁の銃の威力」を想定して、「鶴翼の中央に据える計画」では無かったかと観ているのだ。
そうであれば、「武田軍・25000」に対しても“「火力を前提とした軍力」では「銃20倍=10万」で勝てる事”と成って、「鶴翼の陣形」で行けると踏んだと考えているのだ。
ところが、「浜松城の松平本隊」は、「野戦」を2度も試みて「武田本隊」と遭遇して「一言坂の戦い・元亀3年10/14」で一度、敗走しているのだ。
なので、この「陣形」で行けるかを確認する為に、「武田軍の本隊の様子」を「三方ヶ原の決戦・元亀3年12/22」のその前に、更にもう一度、「一言坂・元亀3年12/22」の2時間前頃に、「伊川津」から突然呼び寄せた「額田青木氏の銃隊」に「偵察隊」として出して見に行かした「戦歴」に成っている。
ところが、「350の銃隊・額田青木氏の南下国衆」の「偵察隊」は、記録では「一言坂の坂上」で深入りして見つかり武田軍本隊と「遭遇戦」と成って仕舞ったのだ。
此処からは、記録に詳細にある通り、兎も角も「前段の史実」の通りの「銃撃戦」が発生し、その「銃の威力」で圧倒して勝って「西の坂下」に無事降りて、「浜松城の北側」に一度隠れ、其の後に浜松城の城の周りを通過した「武田軍本隊」の最後尾を追尾したとある。
「堀江城の陥落」の前に、「三方ヶ原」に向かって走って何とか「開戦ぎりぎり」に本隊の鶴翼の左側面に辿り着いた事と成っている。
この「松平本隊」は「三方ヶ原」には既に到着をし、「松平本隊」は史実の通り早く着き過ぎて「鶴翼の陣形」を敷いてしまっていたのだ。
従って、時間的経緯より「額田青木氏の銃隊」が中央に配置する時間にまでは間に合わなかった事に成り、結果として「左側鶴翼に着いた結果」と成ったのである。
そして、「松平軍右鶴翼を貫いた山県軍の別動隊」と左側鶴翼にまで到達し決戦と成って仕舞ったのだ。
然し、それにしてもここで何故、「松平軍」は「三方ヶ原」に「野戦」を選んで出たのかである。
「籠城戦の方」が「350の銃隊・額田青木氏」で護れば、「第一次の吉田城の戦績」の通りに有利で時間が稼げるし、背後を「織田の援軍」が突く事は充分に可能と成るのである。
「武田軍」は戦略上は最もこれを恐れていたと考えられる。
普通、「浜松城の籠城戦」は1ケ月は掛かるので、「織田勢のより大きい支援」を受けられる。
「攻める側」は兵力が大きければ大きい程、時間が掛かると「兵糧や兵の疲れ」で不利と成る。
この時、史実は確かに「織田氏本隊は北の脅威」で戦っていた。
「1ケ月程の時間」を稼げば「支援」は受けられる筈であるが、ここでは受けられないと観ての事であろう。
「戦記」では、理由は書かれていないが、「家臣の反対を押し切って野戦」に出たとだけある。
その「理由付け」に「松平軍を大きく見せる事」を理由に「野戦の鶴翼の陣形」を敷いたと江戸期の「後付けの理由付け」をして脚色されているのだ。
さてところが、「武田軍本隊」もこの事の堀江城で計画より遅れていた。
「三方ヶ原」に着いた時には、相手が「鶴翼の陣形」であった事から事前の情報にて「三方ヶ原」に向かう途中で「応戦の陣形配置」を正確に執り直し、「赤兜の騎馬軍団」を前に出して「魚鱗の陣形」にまず似せたのだ。
そもそも「赤兜の騎馬軍団」は「籠城戦の堀江城攻め」には役に立っていないのだ。
従って、無役の「赤兜の騎馬軍団」は邪魔に成らない様に「本隊の東先端」に位置していた筈である。
だから、「魚鱗の陣形」が簡単に採れた事が云えるし、その侭に鶴翼でも「赤兜の騎馬軍団」を使える。
これに遅れていたので「山県軍の別動隊」が先に着陣していれば、この「別動隊」と同勢力の「松平軍の鶴翼」との戦いに成る事もあった。
勝敗は判らなかった筈で何方かと云えば「別動隊の疲れ」から松平軍に成った事にも成る。
「武田軍本隊側」は何れにしても遅れて着いたが、陣形変形中に攻めせれれば指揮系統が乱れ「総崩れ」に成るが全てが良い方に向いたのだ。
逆に松平軍側にはこの逆であった。
その為、そこで、この「遅れのリスク」を少なくする為に「赤兜の騎馬軍団・6000」をより先ず前に出して相手を牽制したのだ。
この時、「武田軍本隊側」にも「二つの計画」が狂っていた。
それは記録では一つは「山県軍の別動隊」が北の「二俣城」から駆けつけて合流して「松平軍」を牽制する予定であったがこれが遅れた。
もう一つは「堀江城の落城」が遅れた事だ。
結局、このままで「開戦」と成り、記録では本隊に合流できず暫くして「北側山際の松平軍本隊」の「鶴翼陣形の中央」の右側上の少し離れた道路脇に到着した状況であった。
これでも「松平軍本隊」より「以北の位置」にあったので、この間隙を突けなかったのだ。
然し、これが結果として幸いしたのだ。
松平軍は驚いた筈で「鶴翼の陣形」は正面には強いが側面には弱い。
この「右側面中央」を突かれる結果と成って仕舞ったのである。
「開戦開始」は左正面から「赤兜の騎馬軍団」の騎馬隊の突撃、右側面から別動隊が突進してきたのだ。
そもそも、戦記通りに全く「戦い」には成らなかった筈である。
「右側面の別動隊」は其のままに左側面を直線的に貫通する形に成った。
ところが此処で「武田軍側」に予期しない事が起こったのだ。
それは「左側面」に就いていた「額田青木氏の300の銃隊の存在」であった。
「記録」では「別動隊の突撃」は「額田青木氏の300の銃隊」の「やや後方側」を突き抜ける形であった事が判る。
空かさず「銃隊の筒先」を右側に向け直して一勢に「弾幕の切れない連発射撃」を三段で繰り返したとある。
「別動隊」はバタバタと倒れ、それでも突っ込んで「銃隊の右側」を突き抜けて行ったとあり、更に「銃隊」は向きを変えて「別動隊」に向けて移動せずに「銃撃」を繰り返したとある。
この時、「別動隊」は、踝を返して「波状攻撃」を繰り返さずにその侭に直線的に「浜松城」に向かったとある。
然し、「銃隊」はこれを追わなかったとあり、直ちに「戦線離脱」して「伊川津」に向かって走ったと成っている。
この「別動隊の戦死者」は「武田氏側の戦記」では「武田軍の別動隊」の殆どを占める「2000/5000}と成っているが正しくは「5000弱」である。
ところが、この「別動隊の兵力5000」とするものもあり、少なくとも脚色されて「約半数以上」は戦死した事に成る。
この事から「別動隊の波状攻撃」や「移動式の銃隊の追尾」があれば、「別動隊」は完全に全員戦死と成っていたであろう。
ここで「青木氏の関わった歴史観」は大きく変わっていたであろう。
そうした場合、「額田青木氏の銃隊」は大きく「歴史の戦歴に名を遺す事」に成ったであろうが、その様には敢えてしなかったと云う事に成る。
これは青木氏側では”何故か”であり答えは簡単である。
それは奈良期からの「青木氏の氏是」にあったのだ。
それは、次の氏是にあった。
”世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”
以上である。
つまり、不必要に「歴史の戦歴に名を遺す事」を禁じていたからである。
要するに”無駄な事はするな”であろう。
話を戻して、「山県軍の別動隊」は本来は包む様に「本隊」に合流して「二番手」に控える「総崩しの突撃軍の役目」の役にあったとある。
「一番手」であると「騎馬隊」との「速度の差」で「本隊との距離差」が出て脆く成るのだ。
「総崩しの突撃軍」で「松平軍の鶴翼の中央」が脆く成る欠点があり、「武田軍」の「魚鱗の中央」にも「騎馬隊」が前に出た事に依り前が脆く成る欠点もを持っていた。
「魚鱗の陣形」は全軍を一斉に前に動かせるのが特徴で、速い「騎馬軍団」が勝利しながら前に出れば時間稼ぎに成り「本隊」も前に出られる。
これで何れが勝つかは必然的に成る。
この「欠点」を補う役目が別動隊にあったのだ。
欠点の持った「無勢の5000の鶴翼」と、同じ欠点の持った「多勢の魚鱗の20000の鶴翼似」の衝突と成ったのである。
これに「山県軍の別動隊」が北の右側面に結果として着いた事に成る。
「欠点」を持ちながら「武田軍本隊」は前進したが、この「別動隊の右側面の攻撃」が大犠牲を負いながらも攻を奏したのだ。
結果としては、「多勢>無勢の差」が出て遂には無勢が疲れて一挙に負けたのだ。
「動くと陣形が乱れる鶴翼」は、何度も「鶴翼」を開閉をする「固定型の行動性のある戦い」をする事から、この方が疲れて不利と成るのだ。
“騎馬兵が効果的に戦えば、「鶴翼似の魚鱗の陣形」が「突破力」は勝る”と「信玄」は咄嗟に考えた事に成る。
「現実の史実」は“突破された”とその様相を両者の戦記で記録している。
「額田青木氏の銃隊」が踵を返して「南・浜松城」に向かって別動隊を銃撃で追えば別働隊は完全に戦死と成っていたが、既に「大きく傷を負いながらも別動隊」に依って崩された「松平軍」は勝敗は決していたので歴史は変えられなかった筈である。
「額田青木氏の国衆」としての大きく犠牲を負う義理は、最早元より無く、この「勝敗の決定」で戦線離脱したと考えられるのだ。
もう一点は、「松平軍のミス」にあった。
「鶴翼の陣形」を敷く場合は、「背後」が無くなるので“川を超える事は厳禁である”のに対して越えて陣形を敷いた“とする資料がある。
「吉田城」に居た「額田青木氏の銃隊」に対して急遽呼び寄せて「偵察隊」を命じて「一言坂」で「武田軍本隊」と遭遇している史実で判断すると、「浜松城」を素通りした「武田軍本隊」がその時には攻略した「二俣城」から先ず南下して、「西の堀江城の攻略」の為に向かって西に移動中で、「一言坂の丁度東の坂下」の域に隊を整える為に留まっていた事に成る。
「額田青木氏等の銃隊」が「呼び出し」に応じて「吉田城」からは「東海道」を通って「約11時間弱は掛かる事」から「命令通り」に先に出発して「浜松城」に入り、「偵察の命令」が出て慌てて「一言坂上に向かう事」と成った経緯である。
この時、時系列では「動き出した武田軍」と「同時刻頃に偶然に一言坂に到着した事」に成る。
「西の堀江城」に向けて「浜松城の南横」を素通りする「武田本隊」を観た「浜松城の家康」が次の様に思ったとする筋書きを描いている。
「流れ」から観れば、全ての「東の支城」を潰され、「東三河の護り」の西側の護りの「堀江」が攻められれば、“全て終わり”と観た家康は、感情的に成り、“最早、これまで”として「野戦」を選んで仕舞ったとしているのだ。
そして、「二度の野戦」を選んで「三方ヶ原」に向かって出発し到着したのは時系列では「4時間半後の事」であった。
この説に対してだとすると、そこで「地形の位置関係」に「野戦の有利性」があるのかを先ず観てみる。
「三方ヶ原」は「一言坂」からも「4時間半程度の位置」の「三角洲の洲原」にある。
「北の三方ヶ原」と「南西の浜松城・徒士3時間半」と「東の一言坂・徒士4時間半」は丁度、「底辺・三時間半」の「南向きの逆二等辺三角形」の位置関係にある。
「西の堀江城」から「三方ヶ原」までは、「徒士2時間」の東の「山間部の位置」にある。
そうすると「三方ヶ原」は、「松平軍本隊」に執って特段に「野戦を選ぶ程の地形・位置の有利な戦場」では無い事が判る。
やや、「堀江城」から「三方ヶ原」に向かうには「武田軍本隊」の「大きい軍と山間部」は地形上から西側から向かうには可成り「不利な状況」ではある。
又、これが「堀江城攻略」も遅れた事も不利に成っていたし、「陣形」も「魚鱗」に変更しなければ成らなく成っている。
但し、「武田軍本隊」が早く「戦場」に着けば、「松平軍」は「鶴翼の陣形」を敷くのには時間は掛かるので「不利」に成る。
「武田軍の陣形を組む事」に付いては「魚鱗」である為に、到着次第に段階的に積み重ねて行けば「陣形」は出来る事から「有利」である。
この「不利と有利の狭間」にあって苦労して遅れて「戦場」に着いてみれば、情報の通り確かに東側に「松平軍」は「鶴翼の陣形」で構えていたのである。
一説では軍を大きく見せたとする説があるが、偵察情報や土地の事等を考えればそんな騙しは直ぐ判る愚論である。
既に、戦場に着く前には、敵状偵察に依って「情報」はもたらされていた筈で、「魚鱗の陣形の準備・騎馬隊を前に」を「戦場」に着く前に始めて向かったと考えられる。
これが「不利」を無くす「手立て」と成り、結果として全て「有利」に働いた事に成ろう。
そこに「山県軍の別動隊」が遅れて北の中間に到着した。
当然に、「松平軍」にも「敵状偵察」に依って「情報」は入っていた筈で、“疲れている”と観て、又、遅れると観て「鶴翼の陣形」で整えられれば「戦いの定法通り」で“包み込む様にすれば勝てる”と観たと戦略的に唯一として考えられる。
要するに「浜松城」からは「三方ヶ原」はやや平地を通れる「真北の位置」にある。
「堀江城」に向かった「武田軍本隊」が「最後の砦の堀江城」を落すのは、“時間の問題として間違いは無い”と観た「家康」は、”最早、これまで“として、この「多少の有利性」に期待して早めに出て間違った「野戦と鶴翼」を選んで仕舞ったと観る事も出来る。
問題は「偵察隊」の為に「一言坂」に向かっていた「額田青木氏の銃隊の威力」をこれを観ると「銃隊の威力」を多少考慮していたかに成る。
「額田青木氏の銃隊の威力の配置の位置関係」がこれが「武田軍側」と「松平軍側」の何れにも云える事であった。
その意味では、「二度の実戦的な経験」をしていた「武田軍本隊」には「有利に働く事」に成っていたであろう。
「松平軍」がこれを考慮していたとすれば、“「野戦と鶴翼」を選んで仕舞った事”には、「銃隊の威力を中央に据える事」では一部に合理性があったが、そうさせなかった原因は“「旗本」”はそうさせなかったのだと青木氏の報告の手紙にはある。
「決め手」は別の意味で「旗本の理解」にあった事に敗因があったと観える。
然し、結果として“現実には中央に据える時間に間に合っていない事”から、考えていなかった事と命令が無かった事の方が確かであろう。
何故ならば、「武田軍」が「堀江城攻め」に手間取つていた事から、途中まで追尾していた「銃隊」が「松平軍に戻る事」には、元々、その可能性は低く「武田軍」と共に同時程度に成る事の方が公算が大きい。
更に、ぎりぎり間にあっていたとしても、「鶴翼の陣形」に着いた時に“「旗本」が中央を護るのだ”と云う「古い考え」が先行して、「銃隊の威力」を排除して「中央に入れなかった事」の方が確率は大きい。
ところが「武田軍」は「吉田城籠城戦と一言坂遭遇戦」で、その「銃隊の威力」を経験で認識を新たにし充分に知っていた事に成る。
ここに「武田軍勝利」は先ずこの「有利の差」に出たのだ。
場合に依っては、「武田軍本隊」は「堀江城陥落時」には「浜松城籠城戦・三方ヶ原野営」を考えていたとする可能性の方が強かったのだ。
ところが、「齎された情報」ではそうでは無かったのだ。
そして、「浜松城の背後」の「北から南へ攻める作戦・浜松城の弱点」であった事に成る。
それが「三方ヶ原」に向かう途中で「情報」に依って突如「作戦を替えた事」に成ろう。
それは、「武田軍本隊」としては「額田青木氏の銃隊」が三方ヶ原に間に合わないか、「松平軍」が「鶴翼の中央」に受け入れなければ、「銃隊の威力」を“それ程に受けなくても良い”と云う判断に至っていた事も充分に考えられる。
それは、追尾して来ていたからだ。
つまり、「旗本との軋轢」は知らないとしても遅れて「鶴翼の中央」に配置できないと考えたのだ。
その証拠が「二俣城」からの「別動隊・山県軍」にこの情報が無かったと観られ、「武田軍本隊」に加わらず、遅れた事もあったが、到着次第、配置されている側の反対側の「北の山際」からいきなり「鶴翼の陣形の腹」を突いたのだ。
これは「銃隊」が遅れるとすれば左側面に着いていた事に成り、“これを知らず”に故に突撃したのだ。
何故ならば、「山県軍の別動隊」は「額田青木氏の銃隊の威力」の過去に経験をしていないのだ。
初めてここに知った事に成ったのだ。
これは矢張り、弓矢の延長程度で「認識の甘さ」にあった事に成る。
「長良川の信長の火縄銃の情報」や「三方ヶ原の2000人の戦死と云う結果・経験」から、故に「長篠の戦い」では出陣の軍議の最後に「別れの盃」を躱したと記録されているのだ。
唯、「山県軍の別動隊」は、“「鶴翼の腹」を突くだけでも陣形は崩れる”と観ての事でもあっただろう事も判る。
「2000の犠牲を覚悟しての事」でもあったかも知れないが、「弱小の松平軍」を攻めるにはここまで覚悟する事は無かった筈である。
矢張り兎も角も、“経験のない「山県軍の認識の低さ」にあった”のであろう。
山際に到着した時点で、その後に「武田軍本隊と合流する事」も戦術的には問題は無く可能であった筈である。
そうする事で、「銃隊の威力」を「武田軍本隊」に受けずに済み、西に向いていた「銃隊の右側面を突く事」が出来、「銃隊」は直ちに慌てて「攻撃の向き」を「北の山際の方向」に向ける必要が出た筈だ。
然し、突撃を続けて歴史に遺る大きな犠牲を負ってしまったのだ。
然し、結果は此処に「タイムラグ」が起こり、この「タイムラグ」を使って「別動隊・山県軍」は南に向かって「突撃の態勢」を執り続け、「鶴翼の混乱する腹幅」を突き抜け「銃隊の威力」を全面的に受けて大犠牲を負って仕舞う失敗をしたのだ。
そして、「余りの大犠牲」の為にその侭に直進し「浜松城」に向かった史実と成ったのだ。
故に、「銃隊の青木氏」は前面で指揮していた「差配頭の犠牲」を負ったのだ。
然しながら、必要以上に犠牲を出さない様に判断して、「追い打ち・別動隊の波動攻撃」を受けない内に直ちに、其の侭に「伊川津」に向かって敗走して逃げ帰ったのだ。
ところが、南に抜けた「別動隊・山県軍」は態勢を立て直して再び北に向かって「波動攻撃」をせずに「浜松城」に向かった。
この時の資料には、この一度の「腹幅を突き抜け作戦」で「別動隊・山県軍」は銃撃に依って「2000人/5000の負傷者」を出していた事が判る。
吉田城や一言坂で経験して認識度を高めた「武田軍本隊」は知っていても「山県軍の別動隊」は知らず突き抜けたのだ。
認識の甘さにあった事は間違いは無い。
これだけの犠牲を負えば普通はしないとは考えられるが、ところが「青木氏の銃隊」を引き付けて「武田軍本隊」を護る為にも「別動隊・山県軍」は「犠牲」になって何度も「波動攻撃」を掛けて来ると「銃隊の青木氏」は判断したのである。
資料に依れば、「銃隊の青木氏」が構えていた処は、北の山際に向かって兵站に上昇している丁度、「陵の際の位置・現R261と「R251の交差点付近・山際から南2k」の位置であったと記されている。
影に成って見えていなかったのであろう。
つまり、「額田青木氏の銃隊」は「別動隊・山県軍」が全滅覚悟で態勢を立て直して何度も「波動攻撃」を受けやすい位置にあったのである。
要するに、「額田青木氏の銃隊」に執っては「不利」と見たのであろうし、「初期の目的」から全滅に至らしめられる程の「松平氏に対する犠牲」を負う必要性は無いと判断したのだ。
「差配頭の犠牲」は極めて大きかった事を認識して「指揮官」は、「地形」と「別動隊・山県軍」の戦略的目的からこんな無謀な攻撃を仕掛けて来る事は「波動攻撃」は充分に有り得るとして警戒したのだ。
だとすると、これは極めて「短時間の時間差の判断」と成ろうし、これが「タイムラグ」である。
寧ろ、筆者は、逆に「銃隊の青木氏の行動」を観て「別動隊・山県軍」は「波動攻撃」を中止して「浜松城」に向かって南下したと考えているのだ。
何故ならば、「移動が出来る連発式の銃隊の青木氏」が向きを替えて「別動隊・山県軍」を銃撃しながら追随し南下してくる可能性もあったからだ。
西に向いていた「額田青木氏の銃隊の威力」の東北側から攻撃を掛けられていて、これを直ぐに向きを変えて「射撃を開始した事」は「火縄銃の認識」だけしかないので驚いたのではないだろうか。
「別動隊・山県軍」に執ってはこれは「最悪のシナリオ」であろう。
「移動式の銃隊の威力」は、「武田軍本隊との遭遇戦の一言坂」で聞いた居た事も考えられるが其処まで情報が二俣に届いていなかった事の方が大きい。
「固定戦術」ならば「別動隊」を周囲に分散さして周囲から突撃すれば「波動攻撃」では多少の犠牲が出るが、これは「戦術」としては可能であろう。
然し、「別動隊の先頭」を常に「集中攻撃」をしながらも、「額田青木氏の銃隊」でじわじわと「連発銃」で攻撃される事は避けねばならない態勢であり、そもそも、「武田軍本隊の一言坂の遭遇戦」がそうであった。
「移動式・フリントロック式改良銃」と「固定式・マッチロック式の火縄銃」との差が夫々の行動に出たという事に成るだろう。
そもそも、そんな「詳しい銃知識」は100%無かったであろう。
要するに、「銃隊の青木氏の戦線離脱」は「別動隊・山県軍の犠牲」に執っても「利」が一致した事に成ったのだ。
結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
この「篝火」に意味があった。
そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。)

「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」に続く。


  [No.385] Re:「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/09/19(Sat) 14:53:31

「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」の末尾

結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
この「篝火」に意味があった。
そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。


「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」

「伝統シリーズ」で、「注釈」として論じて来た「伝統56−3〜59」までの事が、実は「研究」が進むと「青木氏の歴史観」として、別に論じ切れない事、又は、論じ得ない事が多いのだ。
これをここで分けて更に続ける。

(注釈 「二軍の経緯」
「全ての資料」からの「読み取り」で、“「時系列」”から検証して観ると色々な事が判って来る。
この「美濃の額田青木氏の歴史観」を解く事で他に観えて来るものがあるのだ。
開戦時、直ぐに「二俣城の戦後始末」を完了し「武田軍の本隊」に合流する為に「西の三方ヶ原合流地点・計画は宿営地」に向かって急いでいた「山県軍の別動隊・5000」は、「当初の作戦計画」とは「様子」が違う事に「情報」を得ていたので、東沿いに南下する案もあったらしいが、然し、「北の山際」から先ず西に向かい「松平軍の鶴翼右側面」に着こうとしていた。
「武田軍本隊」に合流する作戦が二俣城で決めた「元の作戦」であった。
ところが、「作戦のずれ」と「松平軍の行動のズレ」が起こって仕舞ったのだ。
そこでこの「二つの作戦ズレ」で「別動隊」として「独自の行動作戦」により有利に臨機応変に出るしかなかったのだ。
「当初の計画通り」に「武田軍の本隊・魚鱗の陣形に入り込むのは危険」に合流せず、山際で様子を見ようとした事もあり得るが、然し、「経緯」から観て「合流する充分な時間的余裕」がそもそも無かった事が判る。
結果として「北山際の鶴翼右側面」の少し離れた位置に着いたのだ。到着したのだ。
ところが「時系列」から観て、「東の街道沿い」を直に南下して「松平軍の背後」に着き「武田軍本隊との挟み撃ちの態勢を執る事」も時間的には出来た筈であるし、その案も実際には出ていたのだ。
此れの方が軍を動かす上では確かに円滑である。
それは「天竜川沿い」に「二俣街道−飛龍街道・16.8k−5.5h」を経て「三方ヶ原」に入る事は出来るのだ。
確かに「北の山際」に沿って「三方ヶ原」に入るには、「15.2k−5h」を所要する。
要するに、これを考察すると、余りこの差が無い筈で、そこで、「判断の分かれ目」は「情報」による「鶴翼の陣形」にあった事が判る。
この「松平軍の鶴翼の陣形」であれば「右側面を突いた方」が良いか、「背後を突いた方」が良いかに関わる。
「選択の理由」では、「時間差」と共に「地理地形」には問題差が無い。
そこで「背後を突く事」には、「武田軍の本隊」と「山県軍の別働隊」での“「挟み撃ち」”に成るが、これでは「両方のタイミング差」が起こる。
「タイミング」が狂えば「武田軍側の2軍」のどちらかに「大被害」を興す。
少なくとも、この場合は「武田軍の本隊」が先ず「戦闘態勢」に入り、「山県軍・徳川軍と同勢」が「背後」を突けば成功する。現実には「二つの作戦ズレ」でそんな「打ち合わせの時間」は無かったのだ。
「武田軍の本隊」は「魚鱗」、「松平軍」は「鶴翼」とすると下手をすれば、先ず「武田軍本隊」に犠牲が大きくなる。
其処に「山県軍の別働隊」が「背後」を突けば、確かに最終は「武田軍本隊」と「山県軍本隊」での「挟み撃ち」で勝利するだろうし、「山県軍の別動隊」より「武田軍の本隊」の「犠牲」の方が大きくなる。
これは「別動隊としての使命」から「逆戦法」である。
然し、「北の山際」から「タイミング」を見計らって南に向けて準備の無い弱点の「鶴翼の右側面」を突けば「鶴翼の陣形」は先ずは本隊に犠牲無く時間差に問題なく崩せる。
其処に「武田軍の本隊」が攻め込めば「武田軍の本隊」には犠牲は少ないし、「山県軍の“別動隊”」の「本来の目的・使命」は達成される。
然し、そこで青木氏の歴史観に関わって来るのだ。
この「作戦」には「南下国衆の銃隊」の配慮は無いのだ。
“右鶴翼の側面を突いて成功した”と「山県軍の“別働隊”」は瞬間は思ったと考えられる。
ところが、違った。
突然に突撃の瞬間に「突撃の前面」に観た事も無い「凄い弾幕の銃力」が迫って来たのだ。
最早、突撃し始めた”「山県軍の別動隊」”の「突撃の勢い」を止める事は出来なかった。
それは「敵中に留まる事」に成り、左の松平軍の本陣の攻撃を受け、且つ、防御しようもない遠方から「銃弾」を浴びせられる事に成り、下手をすれば「全滅の憂き目」を受ける。
最早、より早く突っ込む以外に無かった筈である。
「凄い弾幕の銃力」の前には全くの“「無防備の戦い」”と成ったと観られる。
故に、「両軍の全戦記」には統一して短い戦闘の時間で「2000の犠牲・程度・少な目」が出たと記されているのだ。
結果としては、然し乍ら、突撃し「鶴翼の横腹」を突かれ「総崩れ」に成って「松平軍の敗戦」は一瞬で決定的と成ったのだ。
不思議な光景である。
「大将の家康」が時間的に観て「右側面」を突かれた時点で早くも「戦線離脱」していたのだ。
そして、「家康の本陣」が楠ずれたのを横目で見ながら、ところが一方で「山県軍の別動隊」は、この思い掛けない「弾幕の大きな犠牲」を負いながらも、その侭に“「浜松城」に目がけて突進した”とある。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、この“「浜松城」に目がけて突進した”事には「意味、疑問」があったと考えている。
「浜松城」に目がけて突進した“「山県軍の別動隊の面目」”が働いたと観ているのだ。
勿論、再び向きを替えて南から「波状攻撃」を「南下国衆の銃隊」に向けて何度もかけて「自らの別動隊の使命」として「全滅」に至る作戦を実行すると云う手もあった。
それは、「武田軍の本隊」の「犠牲」を少なくする為でもあって、又は、「救う」と云う「別動隊の本来の使命」もあった筈で、それをもせずに、且つ、「波状攻撃・全滅」もせずに、「浜松城」に向かったのは「別動隊の使命」の全てをそもそも逸脱している。
「命のやり取りの作戦」を実行する戦場で「全滅覚悟」で「使命」を果たすのが通常である。
これは勝利した後、「戦後処理」で“「誹り」”を受けるは必定で、それを敢えて“浜松城”に目がけて「計画の無い作戦」として南下したのだ。
南下したのは、勝利を確認する目的」で、そうでなければ「城」を落とすのが「別動隊としての使命」である。
もし、ここで、“「南下国衆の銃隊」が追尾して来る”とした場合でも「銃力の戦力の違い」で近づかずして別動隊は全滅に至るは必至である。
これは「別動隊の使命」でもあるが、「臨機応変」に「計画の無い作戦の形」を執る事で本隊を補完するが、其れから考えると、”「体裁」”を整えた事となろう。
又、その時、「南下国衆の銃隊」が思いがけずも「追尾してこない様子」が見えたので城検視するだけ引き上げで「体裁」を執ったのではないか。
それだけに「別動隊の被害」が大きかった事も云えるのだが。
否、然し、地形と距離から「南下国衆の銃隊の行動」は観えていた筈であるので採れた行動であったとも観える。
これを観て、それ故に「体裁」を整えたし、「もぬけの殻の浜松城」を攻めずに引き上げて仕舞ったと云う「不思議な行動・判断ミス」を執ったと観ているのだ。
「もぬけの殻の浜松城」であってさえも「山県軍の残兵」を「当面の守備兵」として置き、「別動隊の使命」には「掃討作戦」が待っていた筈で、「本隊の到着」を待って残しておくのが「戦いの常道」である。
其れさえしていない。
この一説では、“浜松城に「隠し兵力」が未だ居るかも知れないとする事で引き上げた”とする擁護説もあるが、つまり、これが「定説」にも成っているが、それでも「別動隊の使命」は、「本隊」に対して「全滅覚悟」でその「障害」と成るものを「取り除く事」が「本来の使命」である。
そもそも、「石高」で凡その「兵力」は決まるし、「戦場」を観れば馬鹿で無ければ「兵力数の限界」は直ぐに読み取れるし、「情報」も得ている筈である。
それが「武田軍唯一の軍師の将軍」であれば100%そんな事は無いだろう。
「都合よく江戸期に間尺を合わした擁護説・脚色」としか観られない。
仮に、「2000の兵力」が無く成っても、未だ「3000の兵」はあるし、「別動隊の使命」としては「城兵」が同程度の「3000もの兵」がある事は無い。
「織田軍の援軍」の3人の「軍目付・軍監」は、「織田氏の狙い」である「時間を稼ぐ籠城戦」から、家康が突如、「開戦」に作戦を変換した事で3人が持つ援軍は引いた。
従って、「松平軍の5000」だけで「無謀な野戦」を仕掛けたのに、そもそも「3000も城に残す事」は絶対に無い。
そもそも、「野戦」とは「勝負の決戦」であり「前哨戦」ではないのだ。
であれば「城」に詰めているのだから直ぐに判るし、「8000もの兵力」を国衆をかき集めても確保する能力は松平氏には無かったし、そんな力は無かった事は後勘で無くても解った筈である。
他に「織田軍の援軍説」が、「後付けの多説」ではあるが、筆者は「織田軍」は況や”「西の信長包囲網」”で西に逼迫した戦況下にあり、元々負けると思われる勝負に「多くの援軍を送る事」は100%無い。
故に、「織田軍」に執っては「東での時間稼ぎ」であった筈で、それには「籠城」が最適で「籠城戦の城」の中に多くの「援軍を送る事」は無い。援軍を結果として廻さなかったとするこの説を論じている説もある。
ところが、「野戦」を遣って仕舞ったので、それを止められなかった3人の「軍目付・軍監」の「援軍の将」はそれでも後に「信長」に「無能者」として叱責を受けている史実がある。
「佐久間、平手、水野」が「多くの軍記」に記されている「者・織田家の旧重臣・3人衆」ではあるが、実際は「尾張美濃への配置」に遺していた軍とする説が主流であり、状況に応じて判断する立場にあつてこの「三者の援軍」は明らかに形の上でのものであった事が云える。
要するに、言葉の通り”「軍目付・軍監」であった事が判り、状況次第で援軍を送るかを決める立場にあって、「時間稼ぎの籠城戦」では無く、「開戦」を選んだと成れば「軍目付・軍監」としては「援軍」は送くる馬鹿はいないと観ているのだ。
筆者は、現実には送らなかったと観ていて、敗戦状況から観てこの「軍目付・軍監」の三者も命は危なかった筈で、現実には無傷であった処を観ると代理を送り、意見が通らなかった「野戦」と成った時点で3人の「軍目付・軍監」も引いたという事であろう。
当然に「軍目付・軍監」の「代理」や僅かな「援軍」も意見の違う「戦い」に合力する事は無く引き上げたと成る。
織田側の「一つの戦記」の「尾張美濃への配置説」の「軍目付・軍監の説」は正しい。
故に、「軍目付・軍監」は「旧重臣」であったのだ。
故に、、この「軍目付・軍監」とも成ればその「意味」は違って来て、「戦記」ではここの「知識のずれ」で多説の生まれる処の所以と成ったのである。
従って、故に此処で論じ着れていない「一つ青木氏の歴史観の疑問」が生まれるのだ。
それは「時系列の記録」では、「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って「篝火」をたかせ疲れから茶漬けを食した後に寝たとある。
さて、本論でも一部論じているが、とするとそこで“家康は何時逃げたか”であり、その「逃げる時間・タイムラグ」は「戦いの状況・経緯」から無かった筈である。
少なくとも「山県軍の別動隊の方」が「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍の本隊」を護り引き付ける為に、「波状攻撃」をしなかった事は判っているので、先に「浜松城」に到着している筈である。
“開戦開始から2時間で戦い”は完全に終わったとある事からすると、連続的に観て「山県軍の別動隊」の「右側面の突撃」から「左側面」に到達して、更に、そこから「浜松城」に到達するには「徒歩・徒士」でほぼ「2時間」である。
そして「右から左りに突き抜ける」には、少なくとも「5000の鶴翼の軍幅」は地形からどう考えても「750m〜800mの最大範囲」にあり、「勢い」を着けて「戦い」ながら「前進」するとすれば、「徒歩」を基準として「最低でも15分程度」で抜ける事は出来る。
そうすると「浜松城」まで「2.3h〜2.4h」と成り、先に「家康」が「浜松城」に逃げ帰っていたとすると、「戦い開始」のこの「15分の間のタイムラグ」の間にしかなく、考えられるシナリオは「山県軍の別動隊が突撃する前に既に逃げ始めていた事」に成る。
つまり、城に着いて「篝火と茶漬けと寝る」と云う時間は少なくとも無かった事に成る。
仮に、“「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って”とすれば、「山県軍の別動隊」が右側面を突く勝敗の決まらない相当前に逃げ帰らねばこの説は成り立たない。
「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」は、そもそも「負けると云う事」であり、戦う前にそれを知って逃げた事に成る。
それ以外に「時間的余裕」は生まれない。
つまり、この事から「二俣城」からの「山県軍の別動隊の情報」が全くなかった事に成る。
然し、記録では「二俣城の戦闘と落城」は知っていた記録と成っているのだ。
「開戦の前」から北の山際に「山県軍の別動隊」が居た事は山手の地形からして観えていた筈である。
それも「別動隊である事」、且つ、「山県軍である事」は「二俣城の敗戦の情報」からも知っていた筈である。
開戦直前には合流せずに「武田軍の本隊」とは違う事をすると云う事は認識していた筈である。
又、「一言坂の偵察隊・南下国衆の銃隊」からの情報もあった筈である。
そもそも、「戦い」の場合は「情報の獲得」が戦いを左右し制すると云われている。
そうと成れば「忍者」を含む“「幌者”と呼ばれる者」を各地に配置して「情報」を獲得し、又、命令等を伝え戦うのが普通であり、これはあり得ない事である。
事前に間違いなく知っていた筈であり、そうでなければ「籠城戦」として「野戦」には出ない。
だとすると、「戦闘時間」が何れの戦記でも「2時間」であったとし、「三方ヶ原」から「浜松城」まで「徒歩2時間」とすると、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右横腹を突いた瞬間」の直前の更に前で逃げ始めた事に成る。
既に知っていたのに開戦すると逃げた事に成る。
この「タイムラグ」では、「山県軍の別動隊」が「左横腹・鶴翼の軍幅」を突き抜けるまでの時間と成り、つまり、「指揮官の山県」は横目で「家康」が逃げ始めた事を知っていた事に成る。
だとすると、「山県軍の別動隊」が「額田青木氏の銃隊」に「波状攻撃を加えて来る事」は、既に「勝利が決まっている事」に成り、無く成っている事に成り無理はしない事に成る。
「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱していた」としても、少なくとも「波状攻撃」は別としても「武田軍本隊に掃討作戦の使命で合流する策」もあった筈である。
「額田青木氏の銃隊」も「波状攻撃の考え」は同じで無かったと考えられるのだ。
現実のには史実では、そもそも「兵の居ない篝火の浜松城」を攻めずに”検視”しただけで、「使命の掃討作戦」もせずに「本隊」に戻っているのだ。
だとすると、“疑問は何故攻め落とさなかったのか”が「大問題」であろう。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、先ずは「精神的なダメージ」として“「額田青木氏の銃隊」から受けた「犠牲」にあった”と観ているのだ。
要するに、余りの犠牲の大きさに質と量で「空城」に対して“戦え無かった”と云う事だ。要するに「戦意喪失」である。
そして、それには「精神的ダメージを加わったという事・判断ミス」になろう。
「武田軍の戦記」には「犠牲2000/5000」とあるが、「戦場」を整理始末するのは「勝利した側の役目」である。
そうすると、「味方の銃による犠牲」は正しく確認出来た筈で、この「額田青木氏の銃隊」の前にあった「犠牲2000」は少なくとも記録を残す心理として少な目に記録するだろう。
筆者は、到底、「犠牲2000」では無かったと観ているのだ。
「武田軍本隊の犠牲」は、殆どの「松平軍の大将」の無くした「崩れた中」に攻め込んでいるので僅かと観られ、「山県軍の別動隊の余りの犠牲」の多さに驚いた筈である。
だとすると、「750m〜800m」ではそもそも「フリントロック式改良銃」では「射程距離内」にあり、その「飛距離」と「命中率の良さ」から「鶴翼の右横腹」に突撃した時から撃ち始めているので、命中率100%として時間的に考察から「3000」は遥かに超えていたであろうし、それも「相当な訓練」を要する「改良銃」であった事に依り、「火縄銃」に比べる事の出来ない程の「銃の特別な威力」で「ケガ」では無く「戦死」であった筈である。
「南下国衆の銃隊」が遅れて陣形の敷いた後の「鶴翼陣形の左側面」に着いたとされているが、恐らくは「鶴翼」は開け閉めして動く事から、「銃隊」が「移動式」と云っても鶴翼と同時に様に動く事は無理で、故に「南下国衆の銃隊」が着くとした場合は「付け根部分」に位置した事が考えられる。
其れで無くては“銃は味方を打つ事”に成り論理的に「付け根部分」で無くてはならない。
と云う事は、「南下国衆の銃隊」が記録では、僅かに“右に向きを替えた”としているので、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面の山際」から突撃して来たとされているので、「付け根部分」より更に右という事は「松平軍の鶴翼」の「頭部分」と云う事に成る。
つまり、“旗本が護る本陣の先端”を目がけてやや斜めに突撃した形と成る。
「付け根部分」と「旗本が護る本陣の先端」とは完全に右向く程度の大きな距離差は無い事に成る。
だから、「旗本」は崩れ「本陣」に居る「家康」は少なくとも「突撃」と同時程度に逃げ出した事は符号一致するし、「15分の差」で「命拾い」をして逃げだした事に一致する。
では、どの方向に逃げたかと云う事に成るが、「山県軍の別動隊」が向かう同じ南に向かう事は不可能であり、先ず「東の天竜川の飛龍街道」に向かって逃げ、其処から南下して更に西の城に戻る算段と成る。
そうすれば、最も敵から離れられ安全で、其処から城に戻るとすると、完全に「山県軍の別動隊」の方が先に城に到着する事に成るし、引き上げた後を見計らって「城に入ったという事」に成る。
従って、「篝火策の説」は「山県軍の別動隊」が「城」を攻めずに「本隊」に合流した後という事に成る。
この「篝火策の説」はその後の「武田軍本隊の城攻め」を警戒してのものであった事に成る。
ところがここで意見が分かれる。
「武田軍本隊の城攻め」をしたとする「江戸期の説」と、其の侭に「三方ヶ原」から「甲斐」に向かって引き上げたとする説があり、途中で信玄は死亡したとある。
経緯から「後の説」が正しい。
さて、そうするとこの「15分の差」は、「山県軍の別動隊」にも言える事であるので、この侭に「浜松城」に「家康」と「山県軍」が向かえば「家康」が既に城に入り、「篝火」と「茶漬け」と「寝る」という事は、城の前に「山県軍が居たとすると時間的余裕」では無理な事である。
要するに「直前説」はあり得ないと成れば、「山県軍」が城前から引き上げたのを見計らって入り、「武田軍の本隊」が「詰め」として攻めて来る事を予想しての為の「篝火」と「茶漬け」と「寝る」で「諦めの策」であったと考えられ、これであれば「時間的なタイムラグ」は一致する。
だとすれば、「城引き上げ後」の“敗残兵が城に入り込んでいる”とする「思わせの篝火」であった事は頷ける。
「家康」に執っては、“傷ついた山県軍の別動隊の使命を果たさずに引き上げた事”が幸運であった事に成り、それは偶然にも、「家康」が重視しなかった「戦力の“南下国衆の銃力の御蔭」である”と説いているのだ。
更には、「南下国衆の銃力」が「山県軍の別動隊」を目がけて「追尾作戦」をしていれば更には「家康」には「幸運」を招いたであろう。
「山県軍の全滅」と、「南下国衆の銃隊」が「城」に入り「籠城戦」とも成れば、「兵力差」は無く成り、「籠城戦」を選んだ方が勝利する事もあり得て、場合に依っては全面勝利して「武田軍」は撤退していた可能性もあったと云う事に成り、「家康最大の幸運」と成ろう。
何故なら「籠城戦」で時間を稼げば、西で戦っていた「織田軍の援軍」が来て外と城とで「挟み撃ち」にして勝利出来ているし、「武田軍の兵糧」は底を突く事になり、「長期戦」は無理である状況にあった。
又、その心配をして「武田軍の長期戦」は絶対に避けるであろう。
現実には、西の「信長討伐軍との戦い」は解決せずに、恣意的に援軍を向けなかったとも観ているが、要するに「援軍」は来なかったが、「山県軍の別動隊の使命」を果たさずの「判断ミス」が、再び、西の「信長討伐軍との戦い」に織田軍は勝利して、更に伸長した事で結果として2年半後の「長篠」まで待ち込むまでに「松平軍」を急に大きくさせて仕舞ったのだ。
「急に・2年半」という処に意味がある。
敗戦している中でこれには「大きくなる為の財力・軍力」が必要であった筈で、それは其の後の「額田青木氏の陸運業と開発業と殖産業と渥美湾の制海権料」の「冥加金」にあったと観ているのだ。
「伊勢青木氏・伊勢屋」は「相当な支援・財力」をしたと考えられる。
其れで、近隣の国衆を集め兵力を高め、「輸入の火縄銃を含む武器」を買い求め勢力を高めたと考えられる。
況してや、「南下国衆の銃力の脅威・2度の経験」もあったので、「青木氏等」に良い方向に傾いた元と成る「判断ミス」としては、その考える事は人間はこの方向に走るは必定である。
つまり、「信玄死亡」が原因では無いと観ているのだ。
「武田軍」としては、「第一次吉田城の経験」もあるのだから、先ずは「城攻め」を諦めて「甲斐」に引き上げると云う判断となったのであろうが、戦略的に観た場合はこの行動は違い戦い時での判断が要求されるだろう。
其処にも「判断ミス」があったのだ。
「南下国衆の銃力」が姿を変えて「松平氏の財力」の面で支援して逆に大きくしてしまったのだ。
後ろに「伊勢青木氏の伊勢屋」が控えていた事が忘却していた山県であったのだ。
“「山県軍の大犠牲」”があり「武田軍の本隊」も「200の死傷者」を出しているとすると、引き上げは兎も角も、「武田軍の全軍」は「信玄死亡」であっても”「戦略的」”には「浜松城の集結」は常道であろう。
現実に「信玄死亡」は「2年間」は伏せていたのだし、戦略的に観て秘匿して戦場から甲斐に戻せばよい事に成るだけで要するに「戦略」は完遂するのだ。
実際には信用できる「武田軍の戦記」の殆どは「引き上げ説」が主流で、「松平軍の戦記」は「浜松城集結説」で「追い払いの勝利説」を唱え江戸期にこれを脚色している。
実際は「引き上げ説」が正しいが、後勘から「素人」が考えても、「松平軍も武田軍もその戦術」には疑問であるのだ。
これを「信玄病気説」でこれ等の「戦場行動の疑問」を霧消させていて「辻褄」を合わせているが反論はし難い。
この「信玄病気説の検証の確定要素」は調査したが「可能性」があるが上記で論じた様に「平時の事」では兎も角も「戦時の戦略」としては無い。
だとしたら「15分のタイムラグ」しかなかったにも関わらず「家康」は逃げ込んだとする「浜松城」の可能性の低い説は、兎も角も、輪を掛けて、“浜松城に逃げ帰った徳川軍”が、“崖に布の橋を掛け、「武田軍」をあざむき追い落とした”とある説は「後付けの脚色」の何物でも無い。
動物的反応で生き死にを掛けた緊縛した中ではそんなものに騙される者は居ない。
この説では、そもそも、“山県軍の別動隊の右鶴翼から突撃の戦歴”も無く成っている事にも成り得る。
これでは、“「武田軍」は引き上げていない”し、“「山県軍の別動隊」の軍より早く城に入った”と成るし、“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」がかっていて「後付けの脚色美化」をし「物語風」にして楽しんでいる感がある。
実は注釈として、「歴史観」として、「江戸期」とは、そもそも「真実探求書」と云うより、「面白く物語風の歴史書」を好む傾向があって、「史実の探求」よりも、”これを「社会」が求めたのだ”という事を決して忘れてはならなく、「現在の感覚」では正しく推し量れないのだし、通常は時代が進めば歴史は美化されるものなのだ。
ところが、如何せん「後勘・現在」でも、「面白く物語風の歴史書」をこれを前提に「史実」として論じているものが多いのだ。
それだけに、大変な時間を掛けてより「多くの歴史観」を以て「矛盾を探し出す力」が無駄ではあるが必要であるのだ。
さて“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」では、「2時間」と云う極めて短い戦い時間で「総崩れ・大将逃げた」の説では、“大将が逃げたが全滅は無かった”と云う事にも成るのだ。
そもそも、これも“「15分のタイムラグ」”は「南下国衆の銃力が造り出した戦歴」であるのだ。
そして、「山県軍の別動隊の使命」の「波状攻撃」もせず、「南下国衆の追尾」もせずの異変行動は、「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した結果」が齎したものだったのだ。
「織田軍の雑賀根来の傭兵」の「火縄銃の長篠での結果」では、「全滅の20000」と記録されている事から考察すると、筆者は「三方ヶ原の戦い」は「完全全滅」に近かったと観ているのだ。
兎も角も、この「事象」は其れこそ「家康の大将の戦線離脱」であるが、「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」で逃げた事は確実である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にはその国衆と成った目的から「山県軍とのやり取り」も有ったし、敗戦の決まった戦場に遺る義理も無かったし、もう一つの決め手は、「家康の速い戦線離脱」を鶴翼の着け根部分にいて「右に向きを替えた事」で知ったのでは無いかと考えられるのだ。
そこで、「武田軍本隊と山県軍の別動隊の行動経緯」を追って観れば完全に判る。
「時系列」
 9/29 本隊より「別動隊の行動開始」
 9/29 「山県・秋山・馬場隊の3隊」 出陣−諏訪−東三河−武節−長篠−遠江
 9/31 「馬場隊 分離」 犬居−高遠−吉村−三河
 11/3 「馬場隊」 二俣城 到着 

 10/3 「武田軍本隊」 出陣−「諏訪・・・遠江」−犬居(馬場隊合流)−三河
 10/16 二俣城 到着

 10/9 「馬場別動隊」 武田軍本隊に合流
 10/13 「武田軍本隊」から「馬場隊 再別動隊」 犬居−只来
 10/13 「武田軍本隊」 「二俣城」 到着
 10/18 「二俣城」 「戦場状況見分」
 10/18 「武田軍本隊に馬場隊」 到着 開戦
 11/3 「山県・秋山隊」 二俣城 到着
 11/4 「全軍合流 開戦」
 12/19 落城 開城
 12/21 本隊 朝頃一言坂発進 銃隊到着−額田青木氏の銃撃戦
 12/21 17時半頃浜松城通過
 12/21 20時頃堀江城到着・開戦
 12/22 堀江昼前頃開城
 12/22 昼過ぎ(15時頃)三方ヶ原に出発
 12/22 昼4時頃到着・開戦

 12/21 「額田青木氏銃隊」
 12/21 早朝・5時頃に「浜松城」を出る
 12/21 「一言坂・3時間半」で9時頃に到着
 12/21 早朝 「額田青木氏偵察隊」は「遭遇戦・4時間以上(14時頃終了)」
 12/21 17時過ぎ頃に「浜松城の北東横近く」に再入場せず戻り陣取りする

 12/21 「武田軍本隊・馬場隊」
 12/21 13時半頃昼過ぎ 「一言坂通過(無抵抗)」
 12/21 17時半頃「浜松城」通過
 12/21 浜松城牽制後、「堀江城」へ出発・到着20時頃・開戦
 12/21 一言坂遭遇戦後、「額田青木氏偵察隊」の追尾受ける
 12/21 堀江城に夕方到着−開戦

 12/21 「武田軍本隊・馬場隊」 堀江城 包囲 調略・開城開始
 12/21 「包囲 夜半から作戦開始」
 12/22」 「堀江城 朝に落城・開城」
 12/22 「堀江城の結果」を朝に全体把握」 「三方ヶ原」に出陣する。
 12/22 「三方ヶ原」に「昼過前出発・2時間」で到着
 12/22 「情報で陣形を選択」し整え行軍

 12/22 「松平軍の出陣」 「浜松城 早朝出陣・2時間」で到着
 12/22 「松平軍 三方ヶ原西に移動」 「野戦陣形・4時間・12時頃」を整え待つ。

 10/13 「馬場隊 只来城」を落す
 10/13 「武田軍本隊」 「天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城」落とす
 10/15 匂坂城を攻略
 10/15 掛川城や高天神城 孤立

 10/14 「松平軍 浜松城孤立」
 10/14 「一言坂の戦い・松平軍」 野戦で敗戦
 10/16 「武田軍別動隊・山県軍」 朝から「二俣城」攻める
 12/19 「武田軍別動隊・山県軍」 二俣城落城させる
 12/20 「二俣城で掃討作戦と三方ヶ原に向けて補給路確保」

 12/22 「武田軍別動隊」 昼12時過ぎ 西に向けて移動
 12/22 「別動隊 三方ヶ原・15時過ぎ」 山際北側に到着
 12/22 「武田軍全軍」 「三方ヶ原」 「16時 集結」 「魚鱗陣形」で構える。
 12/22 「16時頃 開戦」 「18時過ぎ松平軍崩壊始まる」 勝利決定
 12/22 「16時過半頃」 「青木氏銃隊」と「武田軍別動隊 突撃」「肉白戦の激戦」
 12/22 「17時前頃 「青木氏銃隊」 戦線離脱 伊川津に向かう
 12/22 「17時過ぎ頃」 「武田軍山県隊」 波動攻撃せず其の侭「浜松城」に直進
 12/22 「20時頃を浜松城検視」 ・確認し城攻めずに「本隊」に引き上げる。

(注釈 「・印の疑問 銃隊の威力と篝火の策」
上記の「時系列」に「全ゆる戦記」などの信頼出来る「状況証拠の情報」を組み合わせれば「正しい歴史観」が生まれる。
「武田軍の別動隊・山県軍」は北の「二俣城」より「旧道(391号)」を移動したと考えられる。
当初、「籠城戦」を予想していた「武田軍の宿営地」としていた「三方ヶ原」に到着してより「戦いの陣形・配置」を整えるのに「大軍の場合」は歴史資料に依ると「2〜4時間」を所要したとする記録がある。
そうすると「戦場」には、「三方ヶ原」に向かう途中で事前に齎された情報により、急遽、「魚鱗の編成」をしながらとあるので「2時半頃〜3時頃」には到着していた事に成る。
史実は「三方ヶ原の戦い」は「所要2時間」とあり、「4時頃」から突然に「山県軍の別動隊」の「右側面」を突破して突撃する事から始まり、その時、「敵大将・家康」が逃げ出す事で「指揮系統」が無くなり、一瞬で「総崩れ」が起こり「夕暮時」で終結したとある。
「松平軍の戦記」から戦死者は、真偽は別として「武田軍200程度・本隊」で、10倍の「松平軍2000程度/5000」とある。
これは疑問であるが、「家康」は「数人の供回り」で「敗戦前に浜松城」に単独で逃げ帰ったとある。
「勝った方」が「戦場清掃をする紳士協定」があり、「兵の死者」などは敵味方に分けて引き渡した。
その他のものは農民などに請け負わさせて始末したとしている。
「松平軍の敗残兵」と「負傷兵・3000/5000」は「浜松城」に夜半に「城篝火」を頼りに都度逃げ帰るとあり、「山県の別動隊の城検視」とには、「時間差」があったか黙認したかであるが、直ぐに城から引き上げたとある。この事から、だとすると後から「戦意を失った者や負傷者」がぞろぞろと来る者を「山県昌景」はこれを黙認していた事に成り得る。
これを観ていれば、「城に戦える程の守備兵」が居たかは「一目瞭然」で落とせるか落とせないかは直ぐに判断は着くし、右側面から突破しているのであるから「松平軍の戦闘能力」も判断は着く筈であり、これは「完全な判断ミス」であり、寧ろ、「判断ミス」と云うよりは筆者は大変珍しい「勝者の敵前逃亡・戦線離脱」であったと厳しく見ている。
「家康と敗残兵」が、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面」から入り左側面で犠牲を負いながら通り抜け、その侭に「浜松城」に到着した事に成っているが、其れより前に入ったとする「説・とんでも無い脚色説」もあるが、「時系列分析」からこれは100%あり得ない。
最終の「戦場の細かい清掃と処置」は「農民」に金を渡して行ったとされているが、普通は慣例としてそうするの事に成っていたので「武田氏の資料」が信用性がある事に成る。
唯、この「山県軍の部動態の行動」が不思議の一つで、「敵将の首実検」をせずに城を攻めないで本隊に引き上げた事に大疑問が残る。
唯、「山県軍の別動隊」も「武田氏の別の戦記」では「2000」としている事から「青木氏の銃隊」に依って「犠牲」が大きかったと云われ、「城攻めの余力」は最早、無かったと考えられる事も出来るが、それでも「城」に向かって走ったとすれば、未だ「余力」はあった事に成り、「城」を落とす戦力があった事に成る。
「別動隊としての使命」を果たす事が出来ない程の全く「余力」が無ければ「城」には行かないで本隊に合流するだろう。
どう考えても「城」は完全に落とせた筈だ。
「本隊」は「犠牲200」と納得する記録もあり定説の様に扱われているが、「山県軍の犠牲」は何れの資料にも「2000以上の記録」は「遺された資料」からは散見出来ない。
そもそも、弓矢では無く、「四連発の銃弾」で、且つ、「1k手前から命中率」が90%としている事から、これを受けたとすれば少なくとも「10倍の犠牲」はあったと考えられ、結局は「負傷兵」も含み少なくとも「残兵1000程度以下」と成り、故にこれに「疲労している事」を考えるとせめて「城攻め」は無理だったと考えたとも云えるが、確かにこの「疲労説」もあるが、右から左に「突破しただけの時間」と、「城までの距離・2h」とするとこの説はあり得ない。
「篝火説」では無いが、何も無理して「城」に入らずとも「城」に戻って来る「敗残兵を掃討する事で「城」は簡単に落とせるのだ。
そもそも、戦い後、必ず行われる「掃討作戦」は本隊では無く「別動隊の使命」でもあるのにこれもしなかったのだ。
「別動隊の使命」から観れば、「残り」で「裸の城」を攻めておく必要が戦略上あった筈で、ここを拠点に周囲の出城を落としているので、「三河の西・尾張」に向かって進軍する事が出来た筈である。
筆者は「軍師の山県」は「信玄病気説」でも全滅覚悟で「後の事」を考えても「浜松城」を確保して、その後の事は「後者に託す事」の「判断ミス」をしたと考えている。
「信玄病気説」は“人間死のうが一定”が「武士の定め」であり、「信玄病気説」は記録では「甲斐」を出陣する際にも資料から「病気説」はあったのだ。
とすると、これは予想出来ていた事であって、「浜松城」を確保して「山県昌景」も命を捧げる「本来の使命」で覚悟するべきであった。
それを、後に「勝頼の出陣」の際に、“死を覚悟して酒を仲間と密かに躱す”等の史実は女々しく「三方ヶ原の判断ミス」“に対して「いいわけ」をしている”としか見えない。
唯、だとしてもこの時、この敗戦後の「浜松城」には「50人程度以下の守備兵・一説」しか居ず、「山県軍の別動隊」の「残兵」で攻めれば勝てる可能性は充分にあった。
場合に依っては、「青木氏の銃兵」を幾らか城に遺していたと考えたのでは無いかとも考える事も出来るが、目の前で「戦線離脱」して早々と「伊川津」に戻る態勢を採っているのを観ている筈で、仲間を置いて伊川津に引き上げる事等あり得ない。
だから「波状攻撃」を掛けなかったのだ。
そうすれば、残るは「判断ミス」で無いとするならば、「山県軍の戦況」は後勘から観ても最悪であった筈で、残すは、“諸々に「山県昌景」は城に2時間もかけて行っていながら「戦える状況では無かった事」”に成り、「引き上げ」を「別動隊」に命じた事だけに成る。
上記の通り少なくとも「残兵1000程度」の計算は、後の「長篠の戦い」の「織田軍の傭兵の銃隊3000」の「結果・12000戦死・火縄銃」を考慮しても未だ多い方であったと考えられる。
そもそも「火縄銃」では、当時の資料から「兵力」に直すと最低でも「10倍」とされている事から観ても、「戦い方の状況」に依っては「20倍以上」にも成ると記され、「兵力・火縄銃」に相当するとした場合でも、「不思議なフリントロック式改良銃の威力」を直前に観ているので、これを「20倍の兵力以上」とすると、「少なくとも残兵1000程度以下」では、「城守備」として「50人の銃兵」を残して置けば「1000の以上の兵力」と成る。
然し、現実には遺していない事は早々と戦線離脱して伊川津に向かっているので、「山県軍」はこれを観ていて確認しているのでこの説は成り立たない。
だとするも、仮に、「銃」を配置していたとしても、ここでも「山県軍の残兵」で「籠城戦」で戦うとすると、「別動隊の使命」としても少なくとも「全滅に近い事」とは成るが、何も「守備兵」と戦わなくても「城」は落とせる。
それは、要は「落したと云う形」}を作れば「流れ」として勝利しているので必然的に堕ちる。
上記した様に、それは「三方ヶ原の敗残兵」が「城」に戻って来る時を以て「山県軍の別動隊」が「掃討作戦」を展開すれば、「本隊」も到着するか「本隊」からの「掃討作戦の支援の援軍」を待って簡単に勝利出来る。
何れにしても絶対に“命を賭して「浜松城」を全滅覚悟で落とすべき”であったのだ。
つまり、何れの考察でも、「別動隊の使命」を無視して、「判断ミスの汚名」を避ける「口実」として、“全滅を避けたかった”とする「言い分」としたと観るしかない。
筆者は、そもそも、“武田軍は甲斐に引き上げる”と云う「選択」に対しても、感情的に成り過ぎて「戦略的」に観て疑問であると考えているのだ。
三河の隣の駿府まで支城全てを抑えたのであれば、「拠点の浜松城」を抑えて居れば西に対して勢力を確保でき、且つ、「指揮官の信玄病気死亡説」が仮に起こったとしても、後は「勝頼」なりを据えて構えた方が、「甲斐軍の勢力」は保全出来る。
“京に上る”と云う「大戦略上」を前提とすれば、「信玄そのものの病気・死」は「位置づけ」としては小さい。
何せ、“信長が天下をとり幕府を開く”と云う「名目の苦労」より、「甲斐源氏の幕府」は容易であるのだ。
「鎌倉幕府」と「室町幕府」は全て「河内源氏の支流」であり、例え甲斐が末端の支流であっても「甲斐源氏」としてはその「前例はある事」であって、「信長の様に全国制覇」をしなくても、「足利源氏」に代わって「甲斐源氏」が東側勢力を抑えたのであるから、「朝廷の宣下」は得られやすく「幕府」は簡単に開ける。
後は、その後の行動で逆らうものは滅ぼせば幕府は樹立出来る。
先ずは、世の常として「源氏と云う格式・格式問題はある」を前面に押し出せば豪族は“靡く筈”である。
何故ならば、豪族や信長は自らは「幕府の名目のお墨付き」は「朝廷・宣下」から得られないのであるから、「豪族の勢力」をそれなりに認めてやれば天下は落ち着く。
これが「尾張の信長の弱点」であったのだから。
各所の拠点に山県等の将を配置する事で「次の尾張」を潰せば、これで「天下の幕府」は開けるのだ。
筆者は「山県昌景」は「最大の判断ミスをした事」を説いている。
要は「大戦略の流れを造り出す事」であった。
それが「南下国衆の銃隊」で「大犠牲を負った事」で「正常な判断」が出来なく成ったと説いている。
それに反して「南下国衆の戦線離脱の判断」は逆に“実に正しかった”と説いている。
だから「武田氏」と違って生き遺れたのだ。
その“「判断ミスの山県」”が存在する「長篠」では「武田氏を潰す源」を造っていたと云う事なのだ。
「青木氏の歴史観」を正しく理解して遺すには、この様な深く関わっていた処を解明して置く必要があるのだ。
何故ならば、“「歴史」”は時代が進むと“美化され都合よく偏纂される”のが常道であるからだ。
それは「歴史」には、時代ごとに、氏ごとに、地域ごとに「慣習仕来り掟等の伝統知識」があるのにそれを把握しないで論じる者が多くなるからである。
そこで、もう一つ論じて置く必要がある。
「青木氏の銃隊の数」が「300丁」とは、「吉田城の籠城戦」と「一言坂遭遇戦」と「三方ヶ原での経験」をしていたとしても、概略でしか知らず、「正確な数」は「武田軍側」は、況して、遅れて来た「山県軍側」は正確には知っていなかったであろう。
この事による「判断ミスの可能性」である。
当時、「火縄銃で10倍」と評価されていた事が記録から読み取れる。
「青木氏の遺された訓練の手紙や商記録の出費や堺の生産力や南下国衆の数」から割り出した数の「秘密裏の数」は「300丁」である。
ほぼ「3度の失火」で「正式な記録」は消失してはいるが、「遺る資料」を継ぎ足して行けば間違いは無いだろう。
もう一つの推論として、「武田軍本隊」は「南下国衆の銃隊」がこれを「松平軍の銃隊」と観ていた事の可能性である。
「山県軍の別動隊」の右側面からの突撃時に「300丁の銃」を、仮に精々、「50丁前後の読み違い」はあったとすれば、「五つの三河戦記の記録」でも、「山県軍の別動隊」も「「50丁前後=1000人の兵力」が「浜松城」に居ると考えた可能性があって否定は出来ないのだ。
然し、史実は「南下国衆の銃隊」は「戦線離脱」しているので、これは成り立たないが、そもそも、「第一次吉田城の籠城戦」や「一言坂の遭遇戦」で「松平軍」として戦っているとすればその様に理解した事は否めない。
その様に「渥美湾の制海権を獲得する条件」として「伊川津の国衆」と成って合力している「詳細な経緯」を知っていたかは疑問の方が大きいので、この「推論」も成り立つが、知る必要も無かったかも知れない。
そもそもこちら側の事である。
但し、「総崩れ」と成った「松平軍」を尻目に「戦線離脱」している処を「山県軍の別動隊」や銃声の「しなくなった戦場」を「武田軍の本隊」は観ている以上は、例え「松平軍の銃隊」と観られていた「南下国衆の銃兵の仲間」を「城」に放置して見殺しにして「伊川津」に逃げないであろう事くらいは直ぐに判断できる。
そうすると、この推論は低いが余りの犠牲の大きさに“「山県昌景の判断力」は低下していた”とする上で成り立つ推論ではある。
そもそも、“戦略的に城を落とすべき”と云う“別動隊としての使命感”も無くしているのだから戦線離脱したとしても「松平軍の銃兵」かは論外であった事にも成る。
そして、尚悪いのは未だこの「判断力の低下」は続き、史実にある「甲斐」に帰って“「最後の盃」を躱す“などは「武将」としては言語道断であり、「勝頼」に「無能の責任」を押し付けて、「自己の判断ミス」に薄々気づきながらも「大義の立つ死に場所」を考えたと成る。
その「死に場所」と成った「長篠での戦い」の銃弾の前では、「火縄銃の時代」に旧態依然として「先陣を切った騎馬隊」は全員戦死し、その後に無謀にも突っ込んで来て戦死した「“山県隊”・馬場隊・内藤隊・真田兄弟隊・土屋隊」や、撤退し乍ら傷を得た「穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊」が全滅に近い状態であったとすると、最早、論外で「銃の威力」をどれ程のものであるかをそもそも経験していながら、未だ旧態依然として「山県昌景の判断ミス・死滅」しても「浜松城を落とす事・別動隊の使命」は続き、大きく「武田氏」を潰したと云わざるをえない。
ここには「美濃の額田青木氏」のみならず「青木氏族」の「時光系甲斐青木氏」が居たのだ。
そして滅亡に近い状態にさせているのだ。
況して、「南下国衆の銃隊」が追尾していれば兎も角も、掃討作戦もせずに早々と“戦線離脱”して甲斐に向かっているのだ。
確かに被害は大きかったかも知れないが、例え「信玄」が戦死・死亡していたとしても“絶対にどの様な場面を考えても、「当初の戦略の目的」の通り「浜松城」を陥落させる必要があった”のだ。
後勘の「歴史の説」は時代が進むと共に殆どは「美化論」に左右されて行くが、筆者は「正しい歴史観」を獲得する為には、少なくとも「青木氏の歴史観」に関わって来る事に対しては、「山県昌景」を美化する訳には行かないのだ。
況してや其れが、“「籠城戦」”とも成れば、「第一次吉田城の経験」の通りに、“より「銃力」は「無限の兵力」と成ろうとする時代に成っていた”のだ。
将としてのあるべき「時代の読みと経験」をしていながら其れさえも読み間違えていたのだ。
故に、この「判断ミス」に依って“「山県軍の別動隊」は「城」から引き上げた”と充分に考えられるのだ。
つまり実際には、“城には戦えるほどの「守備兵」は居なかった”のだ。
「三方ヶ原」から「勝敗」が決まる直前で「額田青木氏の南下国衆」が“戦線離脱している事”は、「城」には「南下国衆の額田青木氏」の「銃1丁」も遺してはいなかった事の証拠であるのだ。
そもそも、「山県昌景」は有名な「武田軍の緻密な近習軍師」でもあったとされるが、「緻密」ならその「緻密な判断の情報」を獲得し成し得ているし、「上記の事」を最も気にしなければ成らない人間であった筈である。
何故ならば、実は此処にもう一つ江戸期での「後付け・脚色説」ではあるが、その説には「山県軍の別動隊」の「引き上げ判断」に傾いたものがあったとする説がある。
一応、参考として論じて置く。
それは“城の門には明々と「篝火をともしていた事」”は「史実」であって、実は、これは唯単に「篝火を焚いていた」と云う訳では無いのだ。
つまり、「後付け脚色説」では、この“城には家康が居た事にも成る。”のだ。
そもそも、これは「中国三国志の軍師」の“「諸葛孔明の篝火の策」”であるのだ。
大軍の「敵将の仲達」はこれを観て何かの策を警戒して引き上げたのだ。
この「中国故事の戦略に習った事」を何と「家康」は窮地に知ってか知らずか実行したとも考えられる説なのだ。
恐らくは、城に入っても安全だとする「敗残兵への合図の印」であった事
「山県軍の別動隊」が浜松城に到着した時に城には「家康」がいた事を示す事
以上の二つにも成るが、「15分のタイムラグ」に「山県軍」より「家康」が先に城に到着する可能性が低いのにこの「篝火の策説」がいまだ定説として成っている。
つまり、この説だと上記の通り先に入るには、「タイムラグ」からして「山県軍」が「鶴翼の右側面」を突く直前に、戦わずして先に逃げた事に成るのだ。
裏を返せば「後付け脚色説」にした事は、「山県軍」が「浜松城」を落とさず引き上げた直ぐ後に、「家康と敗残兵」が「城」に入って「篝火」を焚いて「残りの兵」に安全を合図告知した事と成り、故に安心して茶漬けと就寝がて来た事に成り得る。
「城引き上げの判断ミスの行動」が「美化の隙間」を与えこの様な多くの脚色説を生み出す結果と成っているのだ。
つまり、何を云うかと云えば、この「篝火の策」が直前に「山県昌景」が経験した「銃の威力・隠銃力」を連想させたと成るのだ。
本来であるのなら、「青木氏の南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した事」は確認しているが、追尾してくる事もあった筈で、それを恐れていた事もあるが史実はこれを否定している。
そもそも、逆に「山県軍の別動隊が城を落とせた事」を示す証でもあるのだ。
一時的であっても証としては成り立つ。
これらに関する「史実」は今も無い。
そこで検証して観る。
実際は「浜松城」からは、この“「三方ヶ原」”は、南の海から少しくぼんだ「丘陵の窪みの位置・標高50m・18mの段差上」にあり、「戦線離脱した事」が観えなかった事もあるが、「山県軍の別動隊の残兵」を1000としてこれを並べた場合の「最後尾」が南下国衆の戦線離脱が見えていた筈であり、「戦線離脱の報告」は充分に出来ていた事に成り、且つ、だから「波状攻撃」もしなかったのだ。
唯、この「篝火策の説」は、「松平氏側の戦記」のもので「武田氏」のものでは無い。
あったとすれば少なくとも多少成田も行で読み取れる範囲で戦記として書かれていたであろう。
先ずは、「山県軍の別動隊が城を落とした事」を示す証説を別にして、仮に、この説が有ったとして、これは「敵」を「油断させる策」である事は「軍師の山県」も充分に承知である事は疑わない。
突撃中、「家康が戦線離脱した事」は左に見えているので、寧ろ、筆者は直前の印象から“「城に隠銃隊」を配置しているのでは”と考えさせて仕舞った事とも成ると観ていたのだが、然し、「南下国衆の銃隊の戦線離脱」ではこの説は成り立たない事に後で知ったのだ。
これは別の意味で正しく“「篝火の策の延長」”であるのだ。
この「篝火」が「敗残兵の道案内」として事前に点灯させていたとして、「直前の銃撃」で死傷者を多く出した「山県昌景の理性」を無くした感情から、“「篝火策」”に合わせて「銃」を連想させたと説く事も出来る。
四時から始まり2時間で終わったとする多くの戦記から判断して割り出すと、「山県軍の別動隊」が「浜松城」に到達した時刻は、鶴翼右側面から左側面までの突撃時間は約0.2〜0.4hで、「三方ヶ原」から城まで徒士で2.2〜2.3hとして、合わせて2.4h〜2.7hと成り、「負傷者」を運ぶ「タイムロス」を考えた場合、「合計3h」は要する事に成ると、1月の7時頃となり、「篝火」は策でろうが何であろうが必然的に必要である。
浜松城の所在地は明白に成っているので、殊更に「篝火策と云う程の事」は無かったと考えられる。
この説はやせ我慢の「後付けの脚色」である事は否めない。
そもそも「篝火」を灯す灯さないではなく、「城」を確認できれば大方は研ぎ澄まされた「戦いの野生本能」として判るし、その場で調べる事さえも出来る。
視点を替えて「青木氏の歴史観」から検証すると、この様に「江戸期の作文・脚色」とは、検証では「史実として違う事」が相当に見えて来るのだ。
一般から観れば其処に「歴史の伝統の面白み」が生み出させ夢が引き起こされるのだが。
但し、「額田青木氏」にとっての結果としては、「青木氏の歴史観」を構成する上で「山県昌景の浜松城の判断ミス」は、その後の「渥美湾の制海権の確保」や「陸運業の転身」や「開発業・殖産業への路」を開けた事で実に都合は良かったのだ。
“松平氏の生き延びられた事が良い方向に働いた”と云う事である。
それ故に検証している。
況や、この事らは「青木氏の氏是」として「良い事」なのだが、それ他家にろんじてはいるが、「一部の記録以外」に表立って「歴史上の記録」には載って来ないが、その全てを決めた行動は、「三方ヶ原の早期戦線離脱」が左右したのだ。)

(注釈 「上記の経緯の追加再考察」
これ等の「経緯」から更に次の事が読み解ける。
「堀江城・朝より開戦・調略・激戦」とで、全体の計画より相当時間が掛かった事が読み解ける。
もう一つは、「武田軍4軍が揃う」のを待って「三方ヶ原」を「宿営地・当初の目的」にして北から南に向かって「浜松城を攻める計画」であった事も読み解ける。
結果として思い掛けなく「野戦」を選んだ「家康」に依って「宿営地であった三方ヶ原での戦い」には成ったが、その「集結場所」が偶然にも「宿営地」とする処の「三方ヶ原」であった事も読み解ける。
何れの軍を動かすにも必ず「食事や武器」などの「補給隊の荷駄隊」が最後尾に伴う。
取り分け、松平氏にはこれが無かったと考えられるが、「武田軍の本隊」には史実として確認されている。
それ故に「宿営地」が「戦場と成る事」には、「武田軍の本隊」には「多くの計画の崩れ」が生まれた筈であるし、「武田軍の本隊」に執っては「若干の弱み」とも成った事であろう。
然し、この「若干の弱み」は直ぐに解決された。
それは「松平軍」は「鶴翼の陣形」であった事で、「魚鱗」の様な「移動型の陣形」では無かった事なのだ。
「最後尾」に詰めていれば安全であったので、勝負は実戦に至らずとも既に此処で決まっていたとも考えられる。
参考として、「武田軍の本隊の計画」では、「一言坂の遭遇戦」に依って「軍の行動」が一時止まり、軍が大きい程に時間が掛かるので「編成立て直し」で、“予定より「4時間〜6時間程度の計画」は先ずは「ずれ」て居る”事に成る。
「武田軍の戦記」と「三河の戦記の五つの戦記」と「伊勢青木氏の資料・手紙等」を総合するとその経緯は次の様に成る。
「青木氏の銃隊」の「一言坂の偵察遭遇戦」では、前段でも詳しく論じたが、「武田軍の本隊」は「北の二俣城」から南下して、東から「堀江の西」に向かって「一言坂」を東から上って坂上に到着した。
一方、「吉田城」から「呼び出し」で到着して、「浜松城」で「命令」を受けて「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」から出て「東の見晴らし」が良く、必ず「武田軍本隊」が通過する「一言坂」に西から向かい「西の坂下」に入り「坂上」に上った少し東で遭遇したとある。
此処で初めての「敵対の実戦」の「銃による遭遇戦」が始まるのだ。
そこで、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、実戦のしない「偵察隊」ではあったが、「西の坂下」に逃げると東から西に向かっている「武田軍本隊の騎馬隊」に背後を追撃され全滅と成る。
そこで、「偵察隊の使命」と異なり「東の坂途中の武田軍」に目がけて前段で論じた「銃撃戦」を開始し、果敢にも徐々に「銃弾幕」で「武田軍の本隊」に近づいたと戦記である。
そして、この「武田軍の本隊」は「弾幕」で押し込まれ止まるとある。
そこで、「武田軍の本隊」が更に徐々に東坂下に押し帰されると、逆に「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は尚に「東の坂下」に向けて降りる事に成り、其の侭では地形上では「坂の左右の道幅」が狭い所に達する為に、且つ、「大軍の後退」は難しい為に、「武田軍の本隊」は次第に前面に「崩れ・乱れ」が起こり始めた。
結果としてこれでは「離れた遠く・300m」から連続的に撃ち掛けて来る為に手の施しようが無く全滅して行く事に成り得ると判断したとある。
そこで、「武田軍の本隊2万」の内、「3000」を「坂の土手下」を通り、先回りして「西の坂下」に配置させて「僅かな火縄銃」で挟撃しようとしたとあり、これが「南下国衆の銃力」が勝り「効き目」が無く、そこで「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「東の前進」を止めたとある。
そこで「東の武田軍の本隊」と「西の3000」に左右に向けて「南下国衆の銃隊」を二つに分けて当に「坂上頂上」から「西の坂下」にも「弾幕」を浴びせたとある。
そこで「西の坂下の分隊3000」は余りの「銃隊の威力」で戦う事を中止したとあり。”道を開けた”とある。
これを観た「武田軍の本隊」は、更に「坂の中腹の左右」に土手を通り向けて「3000の兵」を追加してこの「坂下分隊」を救おうとした。
要するに「物量作戦・弓兵力」で囲んだつもりであつたらしい。
ところが「余りの弾幕」は止まる事無く激しく、犠牲が多く出ることを懸念した「中腹分隊」も戦う事を遂に中止して仕舞ったのだ。
これは「フリントロック式改良銃」で「黄鉄鉱」で「4回転シリンダ」であるこの事から、「火縄銃の様に10〜15分の間隔」では無く「弾幕間」は空かないのである。
この時の記録として「300の銃」の「銃身に熱」を持った為に「三段式・銃身に熱」に分け、冷やしながら「前後左右の銃兵」に、「弾を用意する補足兵・50と荷駄兵」が付いての編成で打ちかけたとある。
この時、「荷駄兵50」は「疲れた銃兵」に代わって入れ替わりながら撃ち掛けたとある。
この事の意味が重要で、要するに「50の荷駄兵」は「高い経験・熟練度」を要する「フリントロック式改良銃」であった事から、「試射打ち」を経験している「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏の混成隊」であった事が考えられるし、熱を持つほどの激しい連続射撃であった事が判る。
これであれば、全く間隔の無い弾幕の雨嵐であったし、「命中率と飛距離と破壊力」は「火縄銃の10倍以上・約20倍」であった事から、驚いた「東の武田軍の本隊」も編成を崩して「東坂下通り」に徐々に後退し始めていた。
この「遭遇戦」は飛距離に問題が無い為に「命中率」は100%であったと伊勢の資料では記されている。
この結果、「武田軍の本隊」は「軍編成」を崩し、「凸状の坂道の下両方向」に崩れたとある。
「赤兜の騎馬隊・6000」が「武田軍の本隊」に存在していたがどの戦記にもこの事に一切触れていない。
何故ならば、この「赤兜の騎馬隊」が先頭に居た場合には後退するにはこの「赤兜騎馬隊」は馬は「後ずさり」が最も難しい筈である。

この事に付いて何も書いていないと云う事は「軍の最後尾」に位置していた事に成る。
この「遭遇戦」に「二時・4時間」が掛かり、「西の堀江」に向かう為には「坂上で本隊の態勢立て直し」に「一時・2時間」を要したと記されている。
この事には「赤兜の騎馬隊」が原因していた事が云える。
恐らくは、記されている事の事実は、別としてもその程度の事に成る事は充分に予想できる。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」はこの結果から何とか「無傷・無抵抗」で徐々に「西の坂下」に降りたとある。
そこで、其の後、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の判断として、“これは「浜松城の戦い・籠城戦」に成る”として、西に走り「西の坂下の北東側・城の北東付近」の一か所に潜んで「銃」を構え密かに陣取ったとある。
これはこの行動から観て、「武田軍の本隊が浜松城の城攻めの有無」を確認していた事に成る。
然し、「城攻め」をせずに「城の門前」を悠々と牽制しながら「武田軍の本隊」は先に「堀江城の方向」に向かって悠々と進軍したとある。
従って、結果として「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この後ろから徐々に西に向けて「武田軍の殿軍・荷駄」を「追尾する形」を採った事に成ったとある。
これは、もし、「浜松城の戦い」と成ると、城に入らずに小高い丘の“「北東の後ろ」”から再び「弾幕を浴びせる作戦」に出る計画であったと観られる。
「大軍」である為に「地形的な面」から「陣取り」をしないと「主城・浜松城」を無暗に攻める事は先ず無い。
この「武田軍本隊の移動の状況」を把握する為にも、「浜松城北東」の「銃隊」に執って良好な「近くの場所・地形的な良好な場所」に先回りして「偵察隊としての使命」から隠れていたのだ。
これは、仮に「浜松城を攻める様子・牽制の攻撃」が伺えれば「使命」を超えて坂の上での様に「丘から銃弾」を浴びせる予定であったと観られる。
故に、この事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」に入ら無かった事が判る。
ところが、この上記の「時系列」から観て、未だ、この時は「松平軍」は「浜松城」に居たのだ。
この時まで“籠城戦を覚悟していた”と「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は判断していた事に成るのだが、「武田軍本隊」も「籠城戦と観ていた事」に成る。
そこで堀江城を潰して「三方ヶ原で宿営する予定の行動」であった事に成る。
つまり、恐らくは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この為の「武田軍の牽制攻撃程度」の行動が城に向かってあると観ていたのだ。
暫くして,故に、何事も無く「浜松城」を通過して「堀江城」に向かう事が解ったので、確認の為に「陽動作戦」を警戒して追尾したのだ。
これは、「武田軍の本隊」は攻める事も無しに、唯、「後ろ・殿軍」を追尾し来て備えている一方では、「武田軍の本隊」は「追尾している事」を知っていたので、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「300の銃力の威力」を以て、“何時銃撃してくるか”を恐れたと考えられる。
何事も無く「堀江」に到着したが、この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「追尾」を「西と東の街道の交差際・湖東町付近」で武田軍の本隊が戻る事が無いとして「追尾」を止めたとある。
ここから「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、結局は城に戻らずに「東の路」を採り「三方ヶ原」に向かっているのだ。
宿営地に事前に向かったのか、将又、松平軍の野戦の情報を掴んだのかであるが、後者であった事が経緯で判る。
ここが「野戦のタイミング」と「浜松城出陣のタイミング」の狭間であろう。
そこで、「武田軍の本隊」は「西の端の堀江城」に向かい「堀江城」を潰して、「別動隊」を待つ為に遅れて慌てて「三方ケ原」に向かったと成った考えられる。
この時、既に「松平軍」は城を出て「野戦」を選んで「三方ケ原」に向かっていた事に成る。
「三方ヶ原への到着のどの程度の時間差」があったかは、正確には判らないが「堀江城」から「三方ヶ原」と「浜松城」から「三方ヶ原への差」があった事は考察できる。
問題に成るのはそれは「野戦を選んだタイミング」である。
「松平軍」からすると「家康」は「情報」を受けて「最後の砦」の「堀江城の陥落時期」を観て「冷静さ」を失い「野戦」を選んだと考えられるからだ。
仮に先ず相互の出発点に「タイムラグ」が無いとして、距離的にほぼ同じ程度であるが記録では「松平軍の方」が記録ではやや早く着いたとされている。
後から遅れて到着した場合は陣形を整える前に襲い掛かられて負ける。
然し、ここで武田軍に味方する「三つの事」が起こった。
それは、一つ目は、「三方ヶ原」に向かう行軍の途中で、後ろにいた「赤兜の騎馬兵」を前に出して、且つ、「魚鱗の陣形」の「三角形の編成」をしながら進んだとある。
二つ目は、「移動型ではない鶴翼の陣形」を松平軍は敷いたのだ。
この「二つの事」で遅れて到着した「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」で攻められずに無事であったのだ。
「出発点のタイムラグ」は最低で0.5h、最高でも1hであろう。
主説と成っている経緯では、城を「未明・夜明け前」に早く出て、早くに「三方ヶ原」に「到着・バイアス8時頃〜9時頃」したと記している。
この事に付いては「早く出ている事」は確実であるが、未明に関しての判断の意見の分かれる処で「松平軍」は「未明・朝方・夜明け前」に「城」を出たとしている説が通説と成っている。
これ等の説は「鶴翼陣形は時間が掛かる事」を理由にしている。
「上記の経緯欄」からそんな「時間差」は無かった事が判る。
三つ目は、「山県軍の別動隊」の「三方ヶ原への到着の遅れ」である。
この「遅れ」で「鶴翼の側面を突けると云う利点」が起こった事である。
当然に「鶴翼の陣形最大の弱点」である。
この「三つの事」が二つ欠けたとしても「三つ目」がこれを救い「相互補完の形」が出来ていた事に成るのだ。
「山県軍の別動隊」が先に着けば「本隊」が後からだと、中央に位置するべき「本隊の置く場所」を何処にするかで定め難く成り、「陣形の組み方」が難しく成る筈であった。
止む無く、合流できず右側面に着く形と成った。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「松平軍の動向の情報」からその事を見極める為にも、「堀江と向かう街道」と「三方ヶ原に向かう街道」の「交差点」で追尾を中止した事に成る。
因みに、この「青木氏の手紙の資料」から読み取れる記述には、「情報と云う言葉」が入っている事に意味を持っている。
つまり、「伊賀青木氏の集団」がこの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に寄り添って「独自の諜報活動」を側面からしていた事を意味する。
更に云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「荷駄隊の50」は少なくとも「伊賀青木氏の伊賀者・香具師・日用品を全国に販売しながら情報を集め諜報活動をする役目」であった事を意味するのだ。
「伊勢青木氏の一族」で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を補完していた事に成り得る。
その事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「三方ヶ原・当初は城に向かう予定」に着くのが相当に遅れる結果と成ったのである。
速く到着していれば「鶴翼の頭」の所の中央に据えられ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の威力で「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊」を少なくとも全滅に至らしめるまでには成っていた事に成り得る。
そうなれば、「全国の目」が「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に向けられて必要以上に警戒される事に成って「松平軍が勝利の形を得る事」に成り、歴史は替わり「渥美湾の制海権」どころの話ではなく成っていただろう。
この「遅れた事」が歴史に記録を遺さない「施基皇子の遺訓意」の「青木氏の氏是」の結果を引き寄せたのだ。
ところが、「12/22・早朝過ぎ」には、「松平隊」は、何と“「野戦」”を選んで既に「浜松城」を出て「三方ヶ原」で迎え撃つ為に「陣取り行動・鶴翼の陣形」に出ていたのである。
この情報を掴んだ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊の行動」と「松平軍の行動」を知った事で、予想外の“「野戦」”と成れば「城」に戻らずに慌てて「三方ヶ原」に向かったのだ。
「国衆としての当初の目的」から「三方ヶ原」に向かう必要が無かった筈であるのに、向かったのだ。
この理由を「青木氏の色々な資料の行」から読み解くと、「松平軍の戦闘の結果」に依っては、“渥美湾の制海権の夢は潰える”と云う「危機感」が「指揮官の脳裏」に走ったのである。
元々はその為の「偵察行動」であった様で、故に戦うのではなく、「戦いの行方の偵察」の為に左側面に着いたのだ。
ところが、突然、思い掛けなく右側面から「山県軍の別動隊」が北の山際から突撃して来た。
応戦するしかなく右側面に入った時に「火蓋」を切った。
右側面の突撃時は射程距離内であった事から「山県軍」も驚き兵はバタバタと倒れ、最早、動きの流れからブレーキが効かず引き上げる事も出来ずに「額田青木氏の南下国衆の銃隊」のいる「左側面」を突き抜けたのだ。
「松平軍の状況」を偵察する行動であった事から直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に戻ったのだ。
そして、「武田軍の三河攻め・伊川津攻め」が起こる事を予測してこれら対処する為に戻ったという事に成る。
然し、「伊賀の香具師の情報」から南下した「山県昌景の残軍」は「城を攻め落とさなかった事」を知ったのだ。これで先ずは救われた。
次の「武田軍の三河攻め」に対処する為に「三河の国衆」を止め「陸運業」に転身して「攻撃の対象」から逃れる準備を「伊勢」と共に急いで張ったと云う事に成ろう。
「東の秀郷一門」と全国24カ所に点在する「秀郷流青木氏116氏」と共にシンジケートを張りこの「抑止力」の為にもこの「銃」は保持していたのだ。
後勘から観ると、一切の対応に理する処があり、その根拠は「青木氏の氏是」に通じているのだ。
当然に「魚鱗の陣形」を予想していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も、又、これを観て更に驚いた。
「魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「陣形の先頭」に出れば陣形は整い「銃の効果」は出る。
「20倍の戦力」と成り無勢でも「武田軍」に勝利出来る事と成るが、“然し史実は違ったのだ。”
「松平軍」は「東の戦況・悉く支城が潰された事」で戦況が悪化していた。
そもそも、急遽、「額田青木氏」を「伊川津」から出て「吉田城」に入り、そこから「東の浜松城」に呼び出されたのであるから、これは否を観るより明らかで誰が観ても「軍力」は低下しているし、この事に対して「情報」を得ていて、「武田軍の本隊」も「見誤る事」は100%無かっただろう。
そもそも、「最後の砦」の「西端の堀江城」が攻められているのに、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を使って「背後を襲う事の行動作戦」を採るのは「当然の戦略」であろう。
然し、其れさえもしなかったのである。
筆者は、この様に緊急策として浜松城から呼び出しはあったとしても、この事から、「国衆としての位置づけの違い」が「家康」に執っても「銃の信頼」はそれなりにあったとしていても、違約状況であった事から「遠慮があった」とも考えているのだ。
筆者は、「偵察隊と云う目的」には「銃の威力」のみならず、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」の能力も期待していたのではないかと観ているのだ。
そうすると、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」のみならず「伊賀者全体」をこの「戦い」に注いで強力化していた事が云えるのだ。
だから“「浜松城に隠し軍」を残すような事はしなかったし、それをする訳がない“と観られ、「額田青木氏の銃隊」が動いている事を「一言坂」で知って、当然にこれに伴い「伊勢」が動き「伊勢者」が動いている事は、「武田軍の本隊」は先ずは思うのが普通であろう。
然し、「別働隊の山県昌景」は浜松城では「軍師であった事」もあって違っていたのだ。
要するに、“余りの思い掛けない「銃の攻撃」と「その被害の大きさ」”に「冷静さ」も失っていて「篝火の計」に却って翻弄されたと云う事もあろうが、然し、そもそも戦っていてどの程度の軍力を持っているかは判っていた筈であり、「織田軍の援軍・説が錯綜」もどの程度で在るかは「関西の戦況」から観て判る筈で、其の隙を突いての「駿河三河攻撃の戦略」であって読めていたし、且つ、何は兎も角も「別動隊の基本中の基本」の「使命感」さえも失っていた事にもなる。
「使命感の喪失と判断ミス」が、「青木氏の氏是」に沿う行動が取れ「青木氏」を救ったのだ。
故に「江戸期の作文」では、「別動隊の山県昌景」は城から引き上げたのは“「信玄病状悪化説」”が主流と成っているが、そもそも、故にこの説は「青木氏」から観れば大いに疑問なのだ。
何故ならば、「三方ヶ原の戦い」でどれだけの「連合軍の軍勢」であったかは観て判っている筈で、況してや「軍師」であってこの事は“見誤る事”は先ず無いだろう。
「開戦」は「2時間」であったと「武田軍側の戦記」と「松平軍側の戦記」でもこの事では一致している。
「浜松城の守備隊」が“「銃隊」”でない限りは、「別動隊の余力」でも充分に攻め落とせる範囲であり、仮に「後付け」の「信玄病状悪化」であったとしても、死んだとしても少なくとも「1時間程度」で簡単に落とせるだろうし、“そんな時間が無かったとは云い難い”し、「今後の事・尾張織田氏決戦」を充分に予測出来ていた筈で、「青木氏の歴史観」からすると逆ではある。
この事を考えると“落としていた事の方が絶対的に得策”であったろう。
「家康の首を落としていた方」が、つまり、「今川勢力」が衰退している中では「東三河」を完全に落としていた方が、「武田軍」に執っては簡単に「西三河と尾張」に掛かれるだろう。
背後から上杉から牽制されてはいたとする説があったが、「駿河と三河」を手に入れ東から西に向かって「織田勢との戦い」に成っていた事も考えられ、北たから南に向かって通して治める事で「莫大な財」を得た「武田勢」に対しては、「上杉」もそう簡単には手は出せなくなるし、「向後の憂い」を無くして有利であった筈である。
「海の幸と陸の幸」の「財を得る事」は要するに「銃を得る事」に繋がるのだ。
この様に後勘で検証して観ても、現も実にも「長篠」に至るまでの「勝頼の行動」はそうなっている。
唯、「山県の判断ミス」が「武田氏」を二派に分けてしまったと云う事で「勝頼・武田氏の行動」は狂ったのだ。
「松平氏の勢力如何」に関わらず「伸長し始めた織田氏勢力」を“間断なく東・西三河」で抑えて置く必要”が戦略上は絶対に必要であった筈であろう。
「浜松城」を起点に「三河を制圧する拠点」であった事は「甲斐の複数の戦記」にも統一して記されているし、現実にも「武田氏の一連の南下政策の戦い方」はその様に行動していた。
そもそも「松平軍の採った行動」が、「堀江城支援無し」と「銃隊を使わなかった事」から考えれば、“「大軍の城守備隊」が「浜松城」にあった”とは実に考え難いし、「三方ヶ原」が一瞬で壊滅状態に成っているのに、仮に守備兵の中に銃隊の一部が居たとしても「城守備隊」が「援軍」として向かわなかった事もおかしい。
「城」は負けては元も子も無しである。
なのに「山県昌景」はこの「基礎的な誰でも知っている戦略」からも逸脱して「判断ミス」をしていたのだ。
そもそも、「額田青木氏の南下国衆」と「伊勢青木氏」からすると、当初の「国衆に成る条件」からして「守備隊」と云う「国衆の立場・家臣化」には無かった。
「国衆に成る条件」を知らない「銃保持の守備隊説」は「青木氏の歴史観」からすると無いのだ。
仮に居たとして「三方ヶ原」が「完全敗退」に成り掛けているのに「城」から出て「武田軍の背後」に廻れば未だ崩せていた事も考えられる。
だとすると「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も引き上げてはいなかった筈である。
「引き上げ」そのものが難かった事になろう。
況してや、「青木氏の銃隊」が「城守備隊」として「城」に残していたとすれば、早めに「城」から出て「背後」に廻れば充分に勝てていた事は考えられるが史実は遺していなかった。
「南下国衆の銃隊」にこの「役目を負わす事」の範囲が約束上出来ていなかったと観られる。
「青木氏の資料の行」から観て、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」とは「渥美湾の制海権の補償」と「三河の商いに於ける補償」を前提としての「契約」であり、「家臣と成る契約」では無かった。
だから本来は“「吉田城の守備の範囲」”が限界であって、それを超えての「一言坂の偵察隊」であり、「三方ヶ原の目的外の働き」であって、その後はすぐさま「戦線離脱」して「伊川津」に戻り「陸運業の準備」に入ったのだ。
“「城」に残してほしい”との話はあったのかも知れないが「城などに入る事等」は元々無かったし、あったとしても拒否していたであろう。
筆者は軍議の中で「城に一部を遺す事」の「松平側からの話」はあったと観ているのだ。
「三方ヶ原」に長時間に戦場に遺るのでは無く、思わず面前に現れた敵の「山県軍の別動隊の突撃隊」を打ち壊したが、この“「開戦」”と同時の「戦線離脱の行為」はそれを裏で証明している。
恐らくは、兎も角も、「南下国衆の銃隊」みならず「伊勢」も“「建前」”だけを執り“勝敗には関わりが無かった”のではと考えられる。
唯、先ずは「渥美湾の制海権の獲得」にあって、最低限に「松平氏の三河域の保全」にあったのであろう。
「駿河の浜松城」の次は誰でも判る事だが「東三河と来る事」は読み込んでいただろう。
その為にも、逸早く、「伊川津」に戻り「伊勢の得意の情報網・香具師」を張り“「防備」”を整えようとしたと考えられる。
その「防備の方法」にはいろいろあると思うが、先ず、「三河国衆」を辞して「陸運業」に転身して、「武田氏」とは「戦歴」を造っている以上は、「攻撃の対象」から免れる「戦術」を執った。
それ故に、「土豪3氏の分家」の「陸運業への参加」は「疑いを招く事」が強い事もあって、且つ、「内部問題も招く事」として「問題」と成ったのだ。
そこで、「商い」でありながらも万が一の場合として、社会が安定せず盗賊や山賊などが頻繁に横行する中で、この「銃で抑止力」を高めたのだ。
「籠城戦」から「野戦」に作戦変化した事で「一言坂の遭遇戦」で、一応は「目的・命令」は終わっていて、故に、“堀江の近くまで追尾した”のであって、「三方ヶ原の鶴翼の左側面」に着いたのは「将来の事・渥美湾の制海権獲得」を考えれば「様子見の建前」を果たしていたのだ。
筆者は当初、「追尾」は「使命が果たされた事」で「「伊川津に戻る過程」にあったのかとも推測したが、資料を読み込む過程で「三方ヶ原」に向かっている事が判ったのだ。
ところが、「二俣城」からの「山県軍の別動隊」の「鶴翼右側面」からの思い掛けない突撃にあい、取り敢えずは「目の前の敵」に「応戦」に及んだと成ったと観ている。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「一言坂と三方ヶ原」は「初めての交戦経験」であった。
これを「戦線離脱」と云えるかは別として、故に、「今後の事」を考えて「戦況」を確認して「交戦」を終えると、行き過ぎの無い様に直ぐ様に“「踵」”を返し、必要のない場から「戦線離脱」をしたのだ。
確かに“「戦線離脱」は恥ではある”が、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「当然の行動」であったのだ。
故に、「山県昌景の判断ミス」で「浜松城」で生き延びられた「松平軍」が再び拡大しても咎められる事なく、「伊川津」に其の侭に居られたのはこの所以でもある。
寧ろ、「咎められる処」ではなく、「伊勢の青木氏・伊勢屋」を背景にして「陸運業、開発業、殖産業」と経済で「三河」を大いに替え豊かにする事に成り、それに伴て「子孫」は拡大し、それでこの「三河の財力」を以てしてその後の「長篠」から「甲斐」へと迎えたのだ。
筆者はこれは過言では無いと観ている。
それ以後、「家康」とは、その後の紀州藩とは幕末まで“「水魚の交わり」”が続いた事が何よりの証拠である。
「伊川津」のみならず、それ故に、一部は「桑名」に帰したとしても「額田青木氏の主家の蒲郡青木氏」の「蒲郡」に「事務所」を構えて遺る所以と成ったと考えている。
それだけにこれ等から判断すると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・銃力」には、当初から“「軍に与える影響の威力」”には「密かな自信」を持っていたのだ。
現実には、「城」には「山県昌景の恐怖感」だけあって、「銃隊」は無かったが、将又、「別動隊の背後」から猛追して来る可能性の事も考えたかも知れないが、現実にはその様な立場には無ったのだ。
寧ろ、「別動隊の使命感達成」では、「浜松城を攻める事」以外に「武田軍の本隊」を護る為にも、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「別動隊に引き付ける事」の考え方もあったが、この為にも、逆に死に物狂いでの「別動隊の波動攻撃」を受ける事を「南下国衆の銃隊」は予想覚悟していた事にも成る。
故に、「南下国衆」から観れば、逸早く、「戦線離脱する方」が得策と観たのだ。
然し、「波状攻撃」をしようとして偵察すると、「伊川津」に向けて「戦線離脱している事」は確認できているので、結局は「向後の憂い」を無くして「城」に向かったのであるし、然し、城を落とさなかったのだ。
どの様に考えても「別動隊」と云うよりは、“百々の詰まり”は「山県昌景の行動」が可笑しいのである。
“信玄の病状悪化説”としても「勝頼・後継者」等もいると考えれば「城も落として置く方」がどう考えても良い。
兎に角もどの様に可笑しいのかと云えば、良い方に観たとして、“落とさずにいた”のは、筆者は、“敢えて家康を遺した”とも「一つの考え方」としては考えられるが、其れならば「三方ヶ原」で突撃しなければ良く、当初の予定通りに先に「武田軍の本隊」に合流する手は疑われずに済む事にも成る。
「陣形の採り方」から観て「勝敗」は「時間差」に依るもので勝利している。
「城を落とさずに引き上げた事・判断ミス」には、後刻、「甲斐・武田氏」の中で議論が分かれた筈である。
「勝頼」は、戦略上最も重要な「別動隊と云う使命」を果たさなかった「原理主義」を以て「山県昌景」を間違いなく信用しなかったのであろう。
其れなりの「知恵・判断力」は「勝頼」には充分に有った筈で、故に武田氏は二分したのだ。
筆者はこの説を採っている。
「使命」を果たさなければ各自思い思いの行動を執れば「軍略の意味」はそもそも無いだろう。
故に、その後の「武田氏の中」で「長篠」に対して「軍勢」を纏めるのに「国衆・豪族・史実」は割れたのだ。
この様に江戸期の「家康擁護説」もあるが面白おかしくして物語にした脚色説である。
何度も云うが「青木氏の歴史観」から観ると「山県昌景の判断ミス」が全てを左右したのだ。
その「判断ミス」を起こさせたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」であった。
更に、その「判断ミス」を助長させたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦線離脱」であったと説いている。
事程左様に、幾つかの歴史史観は、この「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の歴史観を考察の中に配慮していない事で起こる「後付けの搾取や偏纂説」で「誤り」を起こしているのだ。
取り敢えずは「後勘説」とはなるが、一応、検証して観る。
それは、信玄死亡後、「織田勢の伸長」が益々著しく成り、西三河は元より「東三河」も完全に手中に納め、「駿河」も手中に収める可能性があった。
だとすると、「武田氏側」は「織田勢を抑える」には「家康を生かす事」で“歯止めに成る”と「山県昌景」は考えたていたのではないかと云う「江戸期の説」もある。
要するに、興味本位の「後付けの我田引水説」ではあるが、其れならば“浜松城を攻め落としていた方がより確実”であろう。
つまり、「武田氏の中」で「三方ヶ原の後」に「山県昌景の判断ミス」を隠して、そうすれば、「今後の勝頼の東三河攻め」が容易に成るとする説を考え出したとしたのではないか。
「勝頼の能力」にも、“山県昌景等の重臣等は疑問を持っていた事”は「戦記」でも書かれていて、同時に勝頼からも重臣たちへの「信頼・判断ミス」が薄らいでいた環境の中で、「長篠の戦い」を避けて撤退を進言したが、「決戦に傾いた」としたとする説である。
この時、旧来からの旧臣達は“「織田の勢力の伸長」を憂いて、最早、「勝ち目」がない”として「別杯」を交わしたとある。
この「別れ杯」は実際に躱された事は史実であり、これに其れなりの意味がある。
つまり、「苦戦して負ける事」を覚悟していた事を意味する。
「武田氏の戦記」の幾つかでは、この時に「松平氏の調略」を進言したが「勝頼」は聞き入れなかったとしているので、上記の「山県昌景の戦略・判断ミスを隠す」は崩れたのであり、これ等が何よりの証拠と成るであろう。
それには、「山県昌景の軍師の脳裏」には、「三方ヶ原の苦い経験・判断ミス」があり、そもそも、自信のある軍師の”戦い方の善悪の勝敗・判断ミス”では無く、「軍略」に関わらない“銃の有無の勝敗”だとして「軍議の争点・山県派」を逸らしていたと云う事に成ろう
確かにそうであり、既に、「武田軍」は「三度」も銃に経験しているのだから、この事を意味するのは当然である事は否めないが、“「山県昌景の判断ミス」”は“「銃の威力」”から来ている事を軍議で示し、この様な「判断ミス」を犯さない様にするには、「責任転嫁」か「非難覚悟」で“銃の有無の勝敗”を主張した事に成ろう。
「銃の有無論」としても、そもそも、「三方ヶ原」のは「松平氏の銃」では無く「南下国衆の限定した戦いの銃」であった。
武田氏が三方ケ原後に「火縄銃」を獲得しようとしても「信濃甲斐」に於ける「税に対する国衆の不満」が高く、「高額な銃の獲得」は「銃生産量」は元より「銃シンジケート」で仕切られていたルートでは根本的に無理であった。
そもそも「織田氏」でさえも「火縄銃」は「雑賀根来の傭兵軍団の銃」に頼っていて、信長は「長篠後・1575年」に「雑賀根来との関係性・発言力を増した」は「悪化・1570年〜1576年」して調略や戦いを開始し、「1577年・長篠2年後」に遂には「信長」に依る「雑賀根来潰し」が本格的に起こったのだ。
要するに、「三方ヶ原の3年前」から既に獲得の為の「調略作戦・7年間」が展開していたのだ。
呉越同舟で兎も角も「傭兵」としていたが極度に警戒していた事が判る。
そして遂には、これに決着をつける為に「秀吉」に依る「銃獲得作戦・1585年」が開始された。
結局、15年間で完全に「銃とその銃組織」は手中に収めたのだが、既に「三方ヶ原の傭兵銃の威力」も裏では「銃獲得の戦い」が行われていた史実なのだ。
この「雑賀根来の傭兵軍団の銃」の獲得に向けて大きな犠牲を払って「紀州征伐」を行ったくらいである。
その程度の事は情報で武田氏が掴んでいただろう。
この環境の中で裏ルートで多少の銃が入手出来ていたかも知れないが戦力には成らなかったし、「銃獲得」が容易ではない事位は、「税の問題」に依らずとも「無理の判断」は武田氏側では出来ていただろう。
そこで、この事から考えれば何せ「戦線離脱している事」は知っていれば、この「国衆の力は違う」の位の情報は掴めていたと考えられるし、2年5月後の「武田氏」にも「情報網の存在」は当然にあって、「三方ヶ原後」に「陸運業に転身している事」はこの期間であれば噂では無く「情報」として充分に掴めていた筈である。
故に、其の後の状況証拠から“責任転嫁であった”と筆者は観ているのだ。
だから「甲斐・武田氏と甲斐の国衆」は「三方ヶ原後」に二つに割れていたのだ。
つまり、「武田軍」には三河以上に「旧態依然の古い感覚」があり、「銃の認識」に極めて低いものがあり、「銃の数」にも「戦うだけの数」は到底無かったし、例え、「調達の充分な財」があり、且つ、「銃の認識」が強くあったとしても「生産量とシンジケート」から無理であったのだ。
この「当時の外国製」は「銃身の爆発」が多くあり、高額ばかりで信頼されていなかったし、「貿易」は限定されていたのだ。
「外国製の火縄銃」は、そもそも「西洋で新しい軍用銃」が開発され、そこで不要と成った「中古の火縄銃」を高額で最初に種子島に持ち込んだのだし、「貿易」で新しい幾つかの「軍用銃の見本」も秘密裏に入っていた事も史実である。
従って、それ等の「全ての諸事情」を憂いた「別れの杯・杓別杯」であったとし、これを美化であろうが、「戦記」ではこの様に定説化にしているのだ。
「山県昌景・判断ミス」を裏返しする程に、反省し恥てそれほどに「強い銃の感覚」を「三方ヶ原」で持ったし、「武田軍本隊」に居て「吉田城や一言坂」で経験した多くの他の将も「長良川の情報」や「自らの三度の経験」を通して、「強い銃の威力感覚」を持っていたから、「憂いの別れ杯」と成ったしているのだ。
然し、そもそも「長良川・1556年」で初めて使った事で「自信や確信」を持った「伸長する信長の感覚・雑賀根来の銃傭兵軍団」は全く反対であった。
「長篠」では“それが決め手と成る”と感じ執っていた事を「憂いの別れ杯」は意味するのだたろうか。
それは、「三方ヶ原等の戦い」等で経験していたので、、「山県昌景の軍師の脳裏」にはこの事が走馬灯の様に浮かび、矢張り「雑賀根来の銃傭兵」が「決め手」と成ったのだ。
「長篠」では「織田軍の火縄銃の威力」が統一して記録されているが、「松平軍の銃力」は全く記録されていないのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、既に、「三方ヶ原」で逸早く「戦線離脱」して「伊川津」に戻り、「陸運業」に入った事で、「フリントロック式改良銃」は「青木氏の記録通り」に「松平軍」に渡していない事に成る。
これを使うには、「高度な熟練」と「弾丸や黄鉄鋼の入手」等の「貿易による調達」が必要であつて、且つ、「手紙の行を読み取る事」でも判るが、未だ「安定しない社会」では「陸運業の護身用」として「伊川津」で生き延びて行くには、“「抑止力」”として持っておく必要があったのだ。
仮に「松平軍」にこれを渡して入れば、「織田軍の火縄銃以上」に記録に成っていたであったろう。
現実には、「危険極まりない銃の勢力」が隣にいると成れば「織田氏」はこれを許さなかったであろうし、当然に戦いと成っていただろう。
そうでなくても現実にはこの方向に動いたのだ。
「三方ヶ原の戦い」とは別に、この「改良銃」を「松平軍に渡す事」で、「織田軍の火縄銃の傭兵銃・1000丁・10倍」と「松平軍のフリントロック式改良銃・300丁・20倍」の「対決」と成っていただろう。
因みにこの仮説では、「勝負」は「火縄銃の非移動式と弾幕の間隔差」と、「可動式」で「連射弾幕の差」と「命中率と被弾距離」で、「松平軍」は近づく事なく勝利していたであろう。
要するに、最早、其の後の「南下国衆の銃」を「松平氏に渡さなかった理由」は、「唯単なる撤退・判断ミスの経緯」だけでは無かった事が判るのだ。
「渡す事」で戦略的に何が起こるかであり、それが「青木氏」に於いての「利」にあったのだ。
渡して「松平氏」が「銃による兵力」を拡大させて伸長する事を良しとしては居なかったと観ている。
「織田氏との勢力争い」を起こし「渥美湾の制海権の獲得」が成し得なくなる危険性があったからだ。
現実にはそう成って行ったのだ。
筆者は、「武田軍の銃の感覚」が「経験」から強く成って行った時期の過程にあって、ところが逆に「武田軍・勝頼一派」にはこの「銃の感覚」は未だ薄く「山県昌景への判断ミスの不信感」と共に増幅し、家中ではこの「感覚差」とで争う中にあったのだ。
従って、共に「戦力と成り得る保有数」も無かったのだ。
「武田氏の中」では故に「三方ヶ原後の軍議」では激しい議論があったと予想できるし、「武田氏側の戦記」もこれを記している。
「信濃も獲得していた武田氏」には、信長の様に金に糸目を着けず「銃の獲得」は出来ずとも、「生産地の雑賀根来のシンジケートの傭兵」を「高額の金銭」を払って雇ってでも、「勝利」と云う一点に焦点を合わせ戦った事に違いが出たのだ。
勝利さえすれば元は取り戻せると云う「合理主義」にあった。
故に、直前の「信長」も「長良川の一件」が無ければ、ここまでは「銃への信頼」は無かったと考えられるのだ。
この様に、“「銃の存在」が「戦いの勝利を左右する事」”から「銃の戦記」として江戸期に書き添えると云う事が頻繁に起こり、その為に「松平氏の銃」は要するに「額田青木氏の銃」であったと誤解された。
「江戸期の戦記」では上記したような銃の環境下にあって「銃を獲得する高い経済力」も無かったにも関わらず、これを「松平氏の銃」と見間違えて描いた事に成る。
「1573年」に既に「南下国衆」が引き上げて離脱して銃力は無くなっているのに、未だ“保有している”と勘違いしていた事に成る。
念の為に史実は、次の様に成っている。
「銃の最大生産力」とその「一丁当たりの金額」と銃を外に漏れない様にして「銃のシンジケート」を構築して「傭兵需要」を保全していたので、「入手」そのものが難しかったのだし、「2000両/1丁と云う高額・初期は4000両」でもあって、「輸入」も同然で「秀吉の刀狩り」までの事であるし、「織田氏」でも「生産地の雑賀根来の傭兵」であったのだ。
仮に、戦記の意味の様に獲得できても「銃隊」を編成出来る程はそもそも無く、「近江からの横流し」からの獲得量が関の山で少量あったのだ。
後にこの事が「伊勢青木氏」に発覚し、「堺」を経由して近江には「資材の供給」を停止している。
この為に、「近江銃・龍源寺銃」は崩壊し、「真面な鍛冶師」は殆どは「伊勢青木氏・青木氏部」に引き取り、「横流しをした一部の者」は史実として「薩摩」に逃げ込んでいるのだ。
「殆どの戦記」は、この事の史実に間違えていて、入手出来たのは「信長の紀州攻め後の事・織田氏が獲得」である。
そう云う意味で、「三河戦記の五戦記」には、「額田青木氏の事」が「戦死者や戦場や伊川津の事」も含めて記されてはいるが、江戸期初期には「幕府の銃規制」があって「戦記」に書かれている程に「大量の銃の期間・刀狩りまで」は極めて短く、「銃の意味」が無ければ態々「書き足す事」は無かった筈である。
故に、江戸期に成って「多くの戦記」には「後付けの銃の事」を書き足したものであるが、「額田青木氏の事・南下国衆の銃」は「書き足される事」は無かったのだ。
これが「青木氏の資料」には遺されているとしてもである。
「長篠の戦い」がこの期間内であって、その後に「雑賀と根来の傭兵軍団」は上記した様に「銃の持つ惣国」の集団として「紀州征伐・信長と秀吉」で潰され、直ぐ後の“「秀吉の刀狩り」”で「銃」は「法度」に成ったのだ。
更に、「家康」が江戸初期初期に“「銃規制」”をして封じ込めて全く意味が無く成り、「銃の価値と値段」は底を突き無く成って仕舞ったのだ。
仮に持ったとしても貿易に関わる程の勢力との繋がりがなけれは銃は使えなかったのだ。
丁度、この“狭間”に「武田氏の銃事情」は置かれていたのだ。
故に、「入手の事情」と云うよりは当時は“「傭兵への事情」”として扱われ、「武田氏の中」では「議論が別れる処」と成ったのだ。
「信長の長良川の印象・火縄銃」と「3度の実質経験・南下国衆の銃」が「武田氏」を二分し、その基は「山県昌影の判断ミス」が引き起こしたものであったと「青木氏の歴史観」としてはどうしても成り残しておく必要があるのだ。
然し、これが「額田青木氏と青木氏族」に執って「良い方向」に事は運び「永遠の運」を掴んだのだ。
因みに、この時、「南下国衆の銃の陸運業」は、完全放棄せずに実質に使われる事は無かった様だが、「護身用・抑止力」として一部を密かに保持し、残りを「伊賀」や「秀郷一門」に「大量の備品・弾、黄鉄鉱」と共に「下げ渡している事」が読み取れる。
この「南下国衆の銃の陸運業」の「戦歴の持つ威力の事」は瞬く間に全国に密かに拡がり襲うものは居なかったであろう。
資料の陸運業の事の行には、「国と国を渡る運送」には「宿」で密かに隣のシンジケートと交渉をしていた事が記されている。
この経緯に依って「伊豆や信濃との道」は出来て「青木氏族」は生き延びられたのだ。
此れさえ出来れば「下げ渡す事」をしても「効果」は認められ、生き遺っている「全青木氏族」は護られるのだ。
「青木氏の歴史観」として「三方ヶ原の経験」は無駄ではなく「良い方向」に向いたのだ。
何を兎も角も、躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」が効果を奏したのだ。
同じ「一瞬の判断」でも「銃」に頼らない「青木氏族」は、生き延びて子孫を拡大させ、疎遠であった「甲斐青木氏」を含む「武田氏」は滅亡したのだが、この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。)

「青木氏の伝統 61」−「青木氏の歴史観−34」に続く。