> 「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」の末尾
> (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
> 中の良い関係を続けていた。
> 然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
> 余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
> その為に源氏化で生き残ろうとした。)
>
>
> 敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
> この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。
>
> 然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
> 恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)・縦の陸路」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。
>
> それには二つあった。(前段でも論じている。)
> 第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
> 第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興の危険性」で既に存在していあったのである。
> この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。
>
「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」
続けて「伊豆ー美濃論」である。
さて、この「二つの事」が無かった事に依って、前段から論じている様に「信濃」には「一色の格式」は必要無かったと云う結論に成る。
そうすると、ここで先に論じて置かなくてはならないのは“「近江の事」”である。
その前にもう一度、お浚いをして置く。
前段でも何度も論じたが「近江」には、抑々、何度も論じているが「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」に「近江佐々木氏」の三氏が「同族の血縁族」として存在していた。
最初は「近江始祖の川島皇子」の裔の「近江佐々木氏」が発祥し、そこから皇子族が近江に移り「伊勢の施基皇子の賜姓」に倣って「青木氏」を名乗り「近江青木氏」が発祥した。
そして、この両氏が血縁して「近江佐々木氏系青木氏」が発祥した。
(注釈 筆者はこの説には疑問を持つていて、「伊勢の施基皇子」と「近江は川島皇子」の「異母弟族」は「同族血縁」をしていた事から、正式には「賜姓」は「伊勢」が受けているので、「近江」にも「伊勢の青木氏」を興したと考えている。
「伊勢」にも嫁家先に優秀な子供が生まれた場合には「青木氏」を興させるその仕来りはあった。
この事から近江の青木氏が生まれたと観ているのだ。
それが後に、「皇位族の五家五流」には「仕来り化」して「青木氏」を名乗る事と成ったと観ている。
そもそも、「美濃には浄橋と飽波以外には無く、「甲斐」には全く記録が見つからない処からこの二つはその後に「政治的な仕来り化」に依るものと考えている。)
上記の注釈からも記録からも「近江佐々木氏」は「青木氏族の一員」としても考えられる。
「近江佐々木氏」もその様に考えていたし、異母兄弟の「伊勢の施基皇子」の裔と相互血縁した様に「奈良末期の血縁」では間違いなくそうなる。
(注釈 「近江佐々木氏の研究記録」もその様に観ていて「青木氏族の定義}の中に入れて詳細に論じている。)
つまり、「青木氏族」はその所以を以て発祥している。
概要は次の通りである。
前段でも「血縁弊害の処」で論じている様に、奈良期の「伊勢青木氏からの血縁」で嗣子の一人に「近江の青木氏」を興させた。
これが「近江青木氏」で、この「近江青木氏」と「近江佐々木氏」との三つ巴の重血縁で「近江佐々木氏系青木氏」が発祥して子孫を拡大させた。
従って、この三つは「三つ巴の起点」の「近江佐々木氏」が主縁(リード)と成っている所以である。
故に、記録に依れば当時は「近江三氏族」と云われていたのだ。
この「近江三氏族」は地理的要因でその存続の「経済的な裏付け」が弱く、従って、「伊勢」は奈良期には「額田部氏や穂積氏」を投入してでも「干拓灌漑の工事」をして同族と観て「和紙の殖産」を促したのだ。
ところが、史実としてこれが「逆の効果」を生んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた「和紙」で経済力が着いた所以を以て「二つの青木氏族」は「伊勢と信濃」から離れて「甲斐」と同様に「自立の道」を選んでしまったのだ。
要するに「同族離れ」をした事を意味する。
「近江佐々木氏」にリードされた事から「伊勢」とは疎遠と成って仕舞った。
ところが、更に「嵯峨期」に入っても「縛り」の外れた「嵯峨源氏」が当に近江の地元で起こった。
当然に、その傾向にあった「三つの族」は更に「源氏化」が極端に進んだ。
「近江佐々木氏」に全て引っ張られていたと云う事である。
これが経緯である。
「近江」には「源氏化」で最早、当然に「伊勢の権威と支援」は必要なかった。
要するに「近江族」には、「信濃」と「甲斐」と共に、“「一色の格式」”に付いて「別の意味」を持っていた。
「近江佐々木氏」にも「源氏化」が起こった事に依って相反する意味を持つ「一色」を拒絶するそれを「他の近江二氏」と共に共有する事を成し得ていたのである。
これが「近江」に「一色の地名」の無い所以でもあるのだ。
従って、この「三つの青木氏族」は「経緯と云う過程」で「一色の地名」に於ける「権威」は必要とはしなかったのである。
況や、「近江族」に執っては当に論外であった。
(注釈 「近江」でこの「一色」を必要としなく成った事が、「神明社の情報紋の遮断の主原因」と成ったのである。
「近江」は「佐々木氏と経済力」が主因であった。)
「一色の論」から再び「美濃の論」の元に戻して。
然し、「美濃」は要するに、これ等の事と比較すれば、前段でも詳細に論じた様に主因は次の為の事であった事が判る。
前段で論じた事を「別の視点」からこれを観て観る。
「青木氏の歴史観」としては「興味深い経緯」が見えて来る来るのだ。
第一段は「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が起こったのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化」であった。
「第二段の事」はそもそも「青木氏」である限りは「神明社族」であり、然しながら「源氏化」に依って「八幡社族」と成って仕舞った。
結局は「神明社」と「八幡社」は「密教と顕教の差」にあり、その「教義」は相反するものと成ったのである。
故に、「神明社の存在否定する結果」と成ったと云う事である。
(注釈 「密教と顕教の差」は前段で論じた。
「9つの縛り」と「原理主義の白旗派・律宗」の意味する差である。
端的に判り易く云えば「水と油」であるだろう。)
これが「美濃域」にも「神明社」が少なく成った所以であって、それが「源氏化と姓化」に合って、それが「源平戦」と成って「神明社」が無くなり、上記した“「第一段の遮断」”が起こったのである。
これが当然に「伊勢と信濃」に大きく影響した。
前段で論じた様に「源平戦」で敗戦し生き遺った「所謂、一色族」は前段でも論じた様に「信濃までの山間部」に逃げ込んだと云う形である。
然し、此処で彼らの一部は「生遺路線」を選択して「源氏族」から逃れ「一色の青木氏」を旗印に「伊勢信濃のシンジケート」と成ったと云う経緯である。
この時、「青木氏の財力」を使って彼等を保護し「美濃−信濃間域」に「神明社の再興・情報網(第1期)」を成し遂げた。
(注釈 この時の「神明社再興」には“「神明造祠社」”が多かった事が「桑名の資料」には記されているし、現在も「桑名と美濃の西地域一帯」には集中してこの「神明造の祠社の神明社・9社」は遺されている。
その管理は「伊勢の青木氏神官族」で成されていたが、何方かというと「社」というよりは寧ろ此処に「青木一族」が集合して「情報交換・中継点形式」をしていた事が記され、その内容が詳しく判っている。
「室町期の御師制度」の「情報交換の中継拠点化」と成っていた事をも示す。
「全国から集めた情報」をこの「桑名域に集めていた事」にも成る。
つまり、「桑名殿」が「情報交換の係」を担当していた事にも成る。
これは「商いの情報」と「戦況の情報」であった事にも成る。
「美濃伊豆の戦況」も然る事乍ら「商い」も大きく成っていた所以であろう。
これは前段でも論じた様に「伊勢」では「桑名」に全て「神明社・9社・北東向きに26kの直線上」が一括集中させていた事でも判る。
それ故に、前段の「御師」から集めた情報から「移動時期」を見据えていて、「伊勢の裔系の集団移動・1500/5集団」は、先ずはここに辿り着けば先ず「第一段階」では安全であって、元よりそれは「桑名殿の裔系」であった事にも依る。
此処に美濃の「伊勢の裔系」の「二つ目の清光院」と「二つ目の清光寺」を木曽川長良川を隔てて戦略的意味合いで右に隣接する様に建立しているのである。
前段でも論じた様に「額田端浪の一色」から「現在のR19」で全く直線的に最短で移動した事に成る。
集団として「御師制度」での「お伊勢参りの名目」は当に疑われる余地は無かった。
前段で論じた「移動経緯」から「水路」では一時それなりに回復する「第2期」が起こった。
「伊勢−渥美−駿河−伊豆」と繋がった事に成ったのである。
次は、これを起点に「国衆の南下策」を促進させる為に「縦の陸路」の「伊勢−三河−美濃−信濃の情報網」を造り上げる事にあった。
ところが室町幕府との「白旗派の浄土宗承認」や「伊勢神宮信仰」に合わせた「神明社の庶民信仰・御師制度」等の「政治的策謀」や「御師制度」等の策で、「桑名と尾張」の間の「空白地・空白期」では「伊勢−美濃−信濃の情報網・R19」で一時的に無事に繋がったかの様に見えた。
然し、これも「15年程度の短期間」で「空白地」と「空白期」は同時に崩れたのである。
これで再び、「室町期の戦乱」で「信長勢力」に依って恣意的に「神明社の情報網・中継点形式」が遮断される結果と成ったのである。
要するにこれが「第3期」である。
これで再び「伊豆との連絡網の遮断」と成った。
然し、「平安末期の伊豆の結論」は、それぞれ違う経緯で「近江と美濃と甲斐」が敗退したのである。
その「時系列の経緯」では、この事から上記の通り「1159年」から「伊豆入り」し、「1221年の直前・源氏滅亡」までの「約60年間程度」で、それなりに「神明社の情報網・中継点形式」は回復させた事(第3期)が「人と神明社の構え」から判る。
いよいよ「国衆の南下策」を急いで動かそうとしていたその時に、然し、再び、記録から観てみると“「鎌倉時代」の「伊豆内部の混乱」”で「第3期の神明社焼失」の事と成っている。
要するに今度は「鎌倉幕府の滅亡の混乱」に巻き込まれて「伊豆の神明社の焼失」が起こって仕舞ったのである。
「伊豆」が滅亡寸前であった事に成る。
これらの「室町期前期」の「3期の経緯」を経て、結論は「1540年以降の室町期後期」に、再度、前段で論じた様に「国衆の南下策」で回復させた事(第4期の経緯)に成っている。
そこで、この時「3期の経緯」は、「室町幕府」が「法然浄土宗14派中」の「最小派」の「白旗派の密教浄土宗・原理主義・青木氏の律宗族」を「本貫本宗」として強引な決定を下した。
背後に「政治的な動き」が「伊勢との間」であった事は否定できない。
同時に「原理主義一体」のものとして「神明社(青木氏の守護神)」も認める等の決定を下し、「青木氏」を擁護した。
これがこの際の「幕府と青木氏の政治的策謀」であったと観ている。
これで、「神明社の情報網・中継点形式・水路」は「藤枝・富士宮・三島と駿河」までの再建立(第3期)が成し遂げられたのである。
これで「浄土宗」が「白旗派の原理主義の律宗族」と成った以上は、つまり、「伊勢と信濃の青木氏」の「政治的立場」が公に認められたも同然と成った。
これで「1560年期の松平氏・三河で独立」が「三河国衆」として認められより「国衆の南下策」が容易と成ったと考えられる。
当然に「国衆」に成るには単なる南下策だけでは成立しない。
「足利氏との政治的策謀・裏工作」と同様に「松平氏との政治的策謀・裏工作」は否定できない。
この戦乱の世の中でそんなに簡単に上手く行く事は無い。
(注釈 この第4期の「藤枝の四つの神明社」にはその「第4期なりの特徴」が出ているのである。
それは「神明社の社構え」であるのだが、この中に「特徴」を顕著に表している「神明社」がある。
それは「呼称」の一つだけに表れている。
その「社名の構え」が“「伊勢神明社」”と云う「神明社の情報網・中継点形式」を適格に表現しているものであるのだ。
実は、この「伊勢神明社の命名」は同時期に「信濃と美濃」にもあるのだ。
敢えて、「第4期」の混乱期であるが故に、「足利氏背景」と「律宗族・遺された皇族系族」であるとする「其れなりの意味・誇示」を持たして名付けたと考えられる。)
「伊勢と云う呼称」のその背後には「伊勢の抑止力」を「伊豆」にも宛がえたと観られる。
将又、同時に「仏教の象徴族」の「律宗族」であって、且つ、明らかに全国庶民信仰と成った「神明社・御師制度」の「神明社族」であるとして、その族の「神明社の情報網・中継点形式」の「拠点である事」をも周囲に誇示している事に成るのだ。
これは同時に、「神明社」を分散させるのではなく「伊豆」から離して「藤枝、三島地域、富士宮地域」の「三カ所」と隣の「駿河市東町」の「一地域」に集中させているのだ。
そもそも本来であれば「庶民信仰」であれば平等に「分散」させるのが常道である筈だ。
ところが極めて一か所に集中させているのだ。
明らかに「伊勢の呼称」と共に「ある種の目的」があっての事である。
この上記の「計四ケ所の神明社の創建期」と「伊豆内部の神明社の創建期・平安期」が現地調査に依れば、その「構えの内容・平安期の様式変化」から判断して大きくずれていて、前者が「室町期初期」である事が判る。
「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆」の経路を再興して「伊豆」を護ろうとした場合は、「伊豆の人」が先ず移動してそこに「守護神社・神明社」を建てると云う経緯を辿るだろう。
つまり、「室町幕府の擁護」もあってそれなりに補完出来た「第4期」でこれを実行したと云う事に成る。
それ故に、「伊勢の呼称」は「室町幕府の擁護」があった事も相まってあってその「格式」を誇示しての事もその一つであったであろう。
「室町幕府の擁護・白旗原理主義」が「全国の神明社」をも護った事もあったと考えられる。
つまり、普通ではあり得ない仏教の「菩提寺」が神教の「守護神」を護ったと云う事である。
これは、特定される”「律宗の氏族」”であるが故の事であろう。
この様に「室町幕府の権威」が失墜し始めた室町期末期までは兎にも角にも「神明社の情報網・中継点形式」は何とか維持出来た。
これが上記した様に「特別な変化」である。
(注釈 そもそも「神明社の建設」は、「社格」は「官幣社」で在り乍らも「賜姓五役・令外官」であるとしてその「財源と建設と維持管理」は「青木氏部」で江戸初期まで行われていた。)
さて、これで「伊豆側」の「神明社の情報網・中継点形式」は回復した様に観えた。
唯、ところが「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆の経路」は、「伊勢−美濃−三河」の間で上記した様に再び断絶したのである。
これは「戦乱期の信長」で「尾張域の神明社」は再び「神明社の情報網・中継点形式」の「神明社」が今度は「信長勢」に敵視され遮断される結果と成ったのである。
「室町期中期」には遂には「情報交換・中継点形式」は、又もや「伊豆」には届かなく成って仕舞ったのである。
今度は「青木氏の対処」は違った。
再び、「渥美への裔系の移動」は前段の通り成功した。
そして、次の段階として「1540年頃」から「ある行動」に移したが、今度はその戦略は゜青木氏の氏是」を破り「戦闘的」であった。
そもそも、この行為は奈良期からの「青木氏の氏是」に反する。
然し、問題は、何故、この「青木氏の氏是」に反する行為を執ったかである。
その理由は、実は「伊勢から伊豆」までの「情報交換(中継点形式)」には「大きな欠点」を持っていたのだ。
この「欠点」が「戦乱と云う状況」の中で「氏全体の致命傷」に成る欠点であったからである。
それまでは問題では無かった。
「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆の経路」を観ればすぐ判る。
それが「−三河−駿河−」には「青木氏」は存在しないのだ。
要するに、この間は「二つの血縁族」の「定住地」では無いのだ。
然し、それでもそれまでは「人間の血管」に当たる“「神明社」”と云うものがあって生きて行く事が出来ていた。
(注釈 歴史的にはこの域を支配する「今井神社系のシンジケートの連携」で何とか助けられて繋がっていた。)
ところが「戦乱と云う状況」では“これをも絶たれると云う事”が起こった。
適格に言い換えれば“「人間の血管」だけでは駄目”に成ったと云う事である。
要するに「体」を造らなくては成らなく成った。
その「体」が「氏の人」のものであって、其処に置かなければ効果は出ないと云う事である。
「神明社」が「血管」であって、「心」であり「体」と一体にしなければ成らなくなったと云う事である。
この「−三河−駿河−伊豆」の間に何らかな方法で「体」を置かねばならない。
そして、それだけでは無かった。
「伊勢−美濃−信濃・縦の陸路」が「信長」に壊されようとしていたのである。
現実に「体のあった美濃」が小さく成って「山間部」に逃げ込んだ事で「空いた隙間むを見事に壊された。
「神明社の血管の破壊」と「美濃氏の体の破壊」も興り「形」が無い事に成って仕舞ったのである。
「伊勢−(美濃)−信濃・縦の陸路」でも「信濃シンジケートと云う形」で繋いでいたが無理と成っていた。
それは「伊豆」が成り立たなく成っていた事を示すものであった。
この「空いた隙間」を何とか現地孫で埋めていた「伊勢秀郷流青木氏族」も補完して「美濃」まで僅かに張り出していたが、その「頼みの勢力」の一つと成っていた「永嶋氏」も衰退し「結城」に引き始めていたのである。
そこで「伊勢と信濃」は「戦闘的復興戦略」(下段で論じる)を採った。
つまり、此処に「陸路と水路」の「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築しなければ「廃墟と復興の第5期」が必ず起こると考えたのだ。
「伊豆の背後」の「頼みの綱」の「秀郷流青木氏」に“「助太刀」”を頼むとしても「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」が欠けていれば「即戦力」には成らず間に合わなく成っていた。
そこででは、どうするかであった。
簡単な事である。
「美濃」をもう一度興して「美濃」から「三河の湾岸域」に引き出して「青木氏の拠点を新たに作る事」と、破壊された「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を造りなおす事以外に無い筈である。
これで「血管と体と心」が「伊勢−美濃−信濃」と「−三河−駿河−伊豆」を造る事が出来る。
「伊勢−美濃−信濃−三河−駿河−伊豆」(駿河には第4期で構築した)は完成する。
これで「伊豆」は護れる。
前段でも論じた様に、問題は上記の“「美濃・額田一色」を「三河」に南下して来る事が出来るか”である。
つまり、「信濃シンジケート」と成っている「美濃の額田青木氏」を「シンジケート」では無い「三河の青木氏」にする事である。
これは「山岳民」を「湾岸民」にする事に成る。
これは「人,時、場所」の「三要素」が揃わなくては成り立つ戦略では無い。
それには「陸路と水路の両面のルート」を構築しなければならない。
「縦の陸路」は“「美濃」を「三河」に南下して来る事で出来る。
そうして、これが出来れば「三河の港」を確保していれば「伊勢と三河」までの「水路」は「伊勢水軍」と復興させた「駿河水軍」で成り立つ。
「水路」は「伊勢−(美濃−信濃)−三河−駿河−伊豆」の上記で論じた様に「駿河」には「第4期」で構築したので「駿河・駿河湾」と「内浦湾」では出来ている。
後は「三河と駿河間の完全な水路の構築」にあった。
未だ左程に「子孫力」の出来ていない仕立てた「駿河水軍」に「充分な力」を持たせる事にあった。
これには「伊勢」が地権獲得などの「経済的な支援」をして「子孫力」を「現地域」に回復させる事にあった。
当然に、その為には先ずは゜干拓灌漑開発の額田部氏に頼る事」に成るだろう。
(注釈 前段でも論じたが、「駿河」にはこれ等の経緯から「伊勢と伊勢水軍との血縁族」の「駿河青木氏」が存在した。現在も存在している。
「静岡県静岡市駿河区」に「青木の地名」が遺されていて、「約370334平方メートル・374反・11200坪」の面積を持っている地域である。
「青木公民館」もある位である。
凡そ「380人が養える地域」である。
ここは本流を「安倍川」とし、支流を「丸子川」で駿河湾に注いでいる。
何れも元は二つの川洲で西端には山が控えている。
記録に依れば、室町期中期にこの山から東に向かって川洲を埋め立てたとしている。
当然に「伊勢青木氏」に基づく「額田部氏の干拓灌漑開発」である。
つまり、「美濃域とほぼ同時期」に戦略的に行っていた事に成る。
安倍川の「西側の洲域」と「東の洲域」に分かれ、「東の洲域」にこの「丸子川の洲域」がある。
この「西の洲域」は8k平方メートルである。
現在の「青木地域の面積・380人・西1/4は森」では十分な子孫を養えない。
恐らくは、地形から、駿河湾に向かって「1.5kの距離」があり、湾口を使う以上は少なくともここまでの「地権域」を有する必要がある。
現在の青木地区は「居住域・山間部の陵域」であったと観られ、「田畑」を「南の湾口」に向かって開墾して「地権域」を得たと考えられる。
実はその「地形域」が現在も遺っていて、この「地形域」から「現在の湾口」までは「約0.5kの位置」にある。
この「0.5k」は其の後の江戸期か明治期に埋め立てられた事が判る。
その「地形域」が「約547反・547人」と成る。
これを合わせると「374+547≒920反」=「920人程度の駿河青木氏の人口」が室町期のこの「作戦期」には「伊勢の支援」を受けて「子孫力」を拡大させ存在していた事に成る。
当然の事として「約2k程度北の山手」には、現在も「賜姓族」では無い「妻嫁制度」に基づく女系の「伊勢との血縁族」の「駿河青木氏」の「青木神社・一族の集会所」があり、その右横には「額田部氏の分家の穂積神社・事務館」も存在するのだ。
伊勢より派遣して額田部氏一族に依って干拓灌漑されたのである。
「青木神社・一族集会所」あたりも「其の後・寛永期」の「地権域」であった事が解る。)
(注釈 この「青木神社」は「和気命・応神天皇」を祭祀する神社である。
「応神天皇」は実在天皇の初代で「飛鳥王朝の五大豪族連合国家の初代の大王」である。
「伊勢青木氏」の「妻嫁制度」に基づく「嫁家先の女系の駿河青木氏」で嫁家先で生まれた「優秀な男子」を以て「青木氏を興させる制度」である。
「上記の美濃論の経緯」より復興させた。
この「伊勢」の「神明社の祭神」の「皇祖神の始祖」の「和気命・応神天皇」を祭祀している事に成り、「駿河青木氏」は「神明社を主神とする事」は否である為に、守護神を「始祖の応神天皇」とした事に成る。
室町期の1540年〜1560年代に再興した事に依り、「青木氏の檀家寺」は禅宗寺派で臨済宗で地権域内中心より150m真西の山際に在る。
独自の干拓灌漑地である為に「菩提寺」にしていた可能性も否定できない。
当時は、「水軍などの海族・海人」は「鎌倉期以降の影響」を受け帰依は臨済宗か曹洞宗であった。)
そもそも、さて「水路」とは、その「圏域・海域権」が「水運組合と海運奉行」に依って昔から決められていて変わっていない。
要するに「伊勢水軍」が勝手に駿河に入る事は出来ないのである。
ではどうするかであった。
「伊勢の尾鷲」の「伊勢水軍の差配」の家に資料が遺されていて、この一節にこの事に付いての「行」がある。
要約すると、「摂津会所の・・・駿河殿の件の御差配に付いて承知致し候故に御安堵下される様に・・・尚、・・・を御手配お頼み申し候・・・」とある。
恐らくは「福家からの指示」があって「水軍」が何かをしたと考えられる。
この時期は「準備段階」に入った5年後の「1545年」と成っている。
同時に前段でも論じたが、「伊勢」が「千石船の大船」を更に一艘を建造し持ち、「熊野水軍」と「摂津の寄合組合」に対し「海路の水利権」を申し出て獲得している。
「商記録」にもこの「支払添書」の一行の事があり一致している。
これは恐らく「組合員の会員権の取得費」であろう。
「摂津」までの四艘目の「海路の水利権」を持った事が判る。
さて、そこで、前記の「駿河水軍の経緯の事」ではあるが、「駿河水軍」には「平家水軍」に対抗する為に「駿河源氏」に頼まれて参戦するが滅亡する。
この「駿河水軍」と「伊勢青木氏」と「伊勢水軍」は相互に血縁関係を持っていた事を前段で論じたがこの「源平戦」で「美濃族」等と共に滅亡する。
この「駿河水軍」が逃げ延びその「生き残り」の其の後の傍系支流が「海路の水利権」だけは依然と宝の様に傍系に預けて持っていたと考えられる。
筆者の分析では、「伊勢の福家」はこの時の「差配」を「伊勢水軍の差配頭」に考えを述べたのでは無いかと観ていて、上記の資料はその時の打診であったと観ている。
そして、「1540年の準備段階」の五年後から「伊勢水軍」に「駿河水軍の支流末裔の者(血縁族の駿河青木氏滅亡)」を呼び出して訓練し、其の後に「伊勢」が建造した「船一艘」を与えて、「血縁族の駿河水軍」を復興させようとする考え方を述べたのでは無いかと考える。
その為に取り敢えず、経済的に成り立ちさせる為にも「摂津会所(堺)」に先ずは「海路水利権」を申し込んだのでは無いかと観ている。
先ず直接は「駿河水軍としての申請」では無く「伊勢の申請」として扱ったという事に成る。
「伊勢の仕事」を彼らに与え「摂津支店」までの「荷駄の搬送」に従事させて経験を着けさせたと観ている。
この事を「血縁族」でもあった「伊勢水軍の差配頭」にこの事を相談し伝えて了解を得たという事ではないかと観ている。
(注釈 訓練の為に「熊野沖の荒波」と「淡路の早潮」を経験させたと考えられる。)
さて、その「後の事」ではある。
「駿河域の会所(府中)」に「駿河水軍」が組み入れられるかであろう。
唯、「組合の株券」は保持している筈である。
「源平戦」で負けただけで既に幕府は室町期にあるとすれば、「出自を証明」できれば「復権」は出来る筈で、後は「商人」である以上は「組合の株券」を買うと云う「名目の裏の手」で解決は可能である。
この「証拠」と成るものは無いが、「状況証拠」である。
(注釈 この「状況証拠」に付いて、現実に「其の後の事」ではあるが、「駿河湾」と「内浦湾」に「伊勢からの荷駄・商記録に四か所の記載有」が入り、「藤枝、三島」を始めとする「地域・八カ所の青木氏」の「青木氏の商い」が復活しているし、「下田」と「稲取」にもである。
当然に、「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築も復活しているのである。
これが何よりの状況証拠である。)
先ず、そうすれば「水路」では「三河・渥美湾」から「伊豆・駿河湾」まで成り立つ。
前段でも論じた様に「後の事」は「陸路の創設」が「戦い」を伴ったもので大変であった事が「松平氏の戦記等」の複数の記録で詳細に判っている。
この様な「多くの死者」を出した「実戦事」は「伊勢」と「信濃」の「青木氏の歴史」の中では初めてである。
それまでは全て「抑止力」で済んでいる。
ところが、この時の記録に依れば「額田青木氏の差配頭」等が「激しい銃弾戦・本戦」で戦死しているのである。
尚、注釈として、「伊豆の現地調査」の印象の一つは「イ地域からリ地域」までの「青木の地名」の「青木氏」には現在も「何らかの商い」を営む「青木さん」が実に多い事であった。
この事に「大きな意味」があって、1159年に「伊豆」に入ったが当然に其れまでには「伊豆の土地への繋がり」は全く無かった。
「伊豆」は実質は「頼政の所領地の守護の警備」としてではなく、「山岳地の伊豆」を豊かにする「管理人的な目的」で「頼政」に頼まれて入った経緯である。(清盛の圧力か)
従って、「伊勢や信濃」の様に「土地の郷士との繋がり」で「氏族」を形成していた訳では全く無かった。
「伊勢信濃の融合族」として「管理人的な目的」では「商い」が主体で管理するだろう。
「頼政」は遙任であって実質の格式は表向きは「伊豆守護代」である。
「地域の治安」と「地域を豊かにする事」の「二つが目的」であって、「武力的に統治する形態」ではそもそもなかった。
「平家」に執っては「源氏」が隆盛してくる事はそもそも好ましくない筈で「正三位」にして「伊豆守護代」を与えたが、これは「清盛の思惑・上げて置いて下げる戦略」と見える。
故に、「伊勢や信濃との繋がり」の中で「殖産を含む商い・伊豆楮や海産物」を興して統治する事が主眼であったのだ。
この産物が全て「伊勢」に送っていた形態であった事が記録に遺る。
これ等が「良質な為」に中には「和紙の伊豆楮」と呼ばれていた位である。
それだけに、「伊豆の商い」は、「独自路線での伊豆」では無く、飽く迄も「伊勢や信濃との繋がり」が切れれば滅亡するのである。
当然に「伊勢や信濃」はこの「命の繋がり・血管」を切る事は見殺しに成る事は充分に承知の上である。
前段でも論じた事柄は必死に成って「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築してこれを護ろうとした事の表れなのである。
「管理人」として入った当初は「土地との繋がり」の無い地域である。
故に「国友」を「信濃青木国友」として入って管理している者等に配慮し、且つ、「地元の者」には実は「頼政の孫」を隠して「信濃の青木国友の事」を誇示して上手く「バランス」を保ったとも考えられている。
その経緯が現在に成っても“「何らかの商い」を営む「青木さん」”の形に成って表れていると考えられるのだ。
(注釈 実は、前段でも論じたが、「伊勢」に、この時、「伊勢秀郷流青木氏」の出自元の「秀郷流蒲生氏郷」が入り、「近江商人」を呼び寄せて「管理方式」で「国を富ませ統治」に替えるとする考え方を採用した。
この方式が平安末期から鎌倉期にかけて芽を吹きだしていた。
「清盛」も「同様の形式」で「九州の北部域太宰府」などを統治しようとした。港の泊開港等)
当の「青木氏」から観れば約300年後の「宿敵の信長」も「楽市楽座・自由市場」の方針を示している。
つまり、「伊豆」は既に1159年にはその考え方を実行したその「先駆け」であった筈である。
「伊豆」に執つては300年経ってもこの環境下にあってこれまで上記した様に「四度の復興」で生き延びて来た。
ところがこの「管理方式の立場にあった事」がこれが「一種の弱点・欠点」でもあったのだ。
「伊勢と信濃」は「商いをしている事」からもこの「一種の弱点・欠点」を「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」で必死に補い救おうとした構図と考えられる。
然し、それが「四度の再興」で何とか逃げ延びられたが今度は簡単では無く成ったのである。
それが皮肉にも「同じ考え方」を持ちもっと進んだ考えの「信長」であったのだ。
唯、「彼の考え方」には「伊勢信濃の律宗族」に執っては「相容れない勢力」があった。
それが「青木氏」が「補完の手段」としている「神明社に依る情報交換点・シンジケート」の「寺や神社などの勢力」も含む「影の勢力」であった。
「伊勢」でも「影の勢力」として観られ、同時期(1568年〜1576年)の8年間に渡って「信長勢力(秀吉含む)」とも争っているのである。
然し、緊迫していたのは「伊豆」だけではなかったのだ。
当然に「伊勢」も対象として観られていたが、「伊勢シンジケート・ゲリラ戦」で対処して「伊勢の五つの戦い」で勝っているのだ。
ところが不思議な事に、この「勝った背景」には、前段でも論じたが「信長」から派遣されていた「信長の重臣」の「青木氏血縁族」である「蒲生氏郷」があったからだ。
何故に「信長」は敢えて「伊勢」にこの「寵愛する血縁族の氏郷」を配置したのかである。
普通ではしないであろう。
歴史では”優秀な戦略家であったから”と成っている。
然し、「青木氏側」から観れば、「表向き」は整えていても左程潰そうとは見ていなかったのではないと考えられる。
其れで無くてはいくら何でも「伊勢五戦」にゲリラ戦で勝つ事は無いだろう。
彼はそれを配慮し、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の「出自元・氏郷の曾祖父の兄弟」でもあり、故に彼は“上手く立ち回った”のであると観ている。
一部の資料では裏で情報を流し丁度良い処で事態を短期で治めたと考えられる。
「氏郷」は「美濃や伊豆の事」も配慮して「大きな傷」に成らない程度に収めたと観ている。
それ故に「伊勢の背景」が出来た事から伊勢では戦いながらも、早期でも「美濃と伊豆」に手を出す事が出来たのである。
前段でも論じたが、一説には、“「1540年頃」には動き出した”とする記録があり、これには「美濃」で起こった「斉藤氏等の争い(美濃尾張を制する)」に「シンジケート」が多少は何らかの形で関わったとする説では無いかと観る事も出来る。
然し、上記の時期では「伊勢」では「駿河水軍」を興す為に「船の調達」に関わる「伊勢水軍」との「やり取り」が「1545年頃」であった。
そうすると、この説ではこの「5年間」で並行して何か伊豆に関わる事も含めて既に「美濃域」で動いていたのでは無いかとも考えられる。
実際には「初期の戦闘行動」があったのは「1545年〜1560年代」であったので、この間の「25年程度」は時系列的に“準備期間であった”と云う事にも成る。
この「準備期間」は当然に「美濃尾張を抑えていた斉藤氏」に疑われる。
然し、記録から「斎藤氏との間での争い」に関するものは何も発見できない。
先ず、国衆南下の為の「三河の松平氏との調整」の前に、手順としては現場でのこの「斎藤氏との調整」を果たさなければならないであろう。
そもそも、この「斉藤氏」は「1432年」から始まり「1542年の最盛期」を経て最終は「1573年以降」は衰退し、そして江戸期には「米沢藩の平侍」までに落ちる事に成るが、これは「国衆」が南下して「一言坂の戦い」の「1年前」と成る。
そうすると、少なくとも国衆南下に入り「三河松平氏の国衆」と成った時期の「1560年以前」ではこの「美濃」では未だ「斎藤氏の影響・1567年」を受けていた時期である事は間違いは無い。
「超近代銃の集団」を訓練しているのに警戒もされず何も無かった訳では無いだろう。
(注釈 この「斉藤氏」が勃興する直前には「美濃の西端」から「尾張の桑名東域」に架けて天武期からの「五都計画の不入不倫域・天領地」であった。
その為にここは1542年頃までは「空白地」であって、相模より国衆の五藤氏がこれを無視して入ったのが始まりでここから雪崩の様に崩れ「不入不倫域」は護られなく成って、遂には丹波から「国衆山内氏」が入って来たのである。
「空白地」の「空白期」は崩れた経緯があるのだ。
この空白期を利用して「額田の青木氏」の「家族の移動作戦」が実施された事は論じた)。
その為には二つ考えられる。
一つ目の策は、一時的に「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」に入っていた事
二つ目の策は、斎藤氏に「裏の策(金策)」を使った事
この「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」は公的な記録に遺されているので現実である。
国衆として「美濃」を離れて「三河国衆」として南下するには「斉藤氏」に対してそれなりの策を講じる必要がある。
無事に南下するにはそれが「二つ目の策」であった筈である。
故に経過としては南下出来たと考えられる。
「1567年」に「稲葉城」を「信長」に依って滅ぼされ「1573年」に逃亡した事に成る。
(注釈 この「時系列の結果」から観ても、「犬猿の仲」の「信長が入る前の時期」に「上記二つの策」で南下している事(1560年説)の資料は間違いはない事に成る。)
「本戦の戦闘行動」は前段でも詳しく論じた様に「一言坂の戦い(1572年)」で始まり、続いて「三方ヶ原(1573年)」であった。
実は「額田の南下の国衆」はここまでは関わったのである。
実はこの時期は上記した様に「伊勢」でも「激しい戦い(1568年〜1576年 実質は1578年)」に成っていた。
ところが、記録を観ると、“「ある事(詳細は後段)」”で「其れ成りの目的」を完成してか「1574年以降」は「三河」から手を引いている形に成っているのだ。
唯、この「資料説」が史実とすると、“「1540年〜1560年の行動(準備期間)・(準備戦)」と「1568年〜1578年の戦い・(本戦)」がどんなものであったのか”は「詳細」は判らないが気になる事である。
後者は前段で論じた様に、「三河記録の通り」、当に「戦い」のそのものであった。
問題は「前者の期間の行動」である。
“「ある事(詳細は後段)」”が「伊豆」に関わる事であるとすると、この「信濃シンジケートの元」が「第4期の再興の事」と成り得る。
然し、この時の少し後には、既に「美濃」では「神明社の情報網」は切れていたので、「戦闘的復興戦略の作戦行動」の本戦とは異なる。
別に、要するに“「初期作戦」”が取られていた可能性は否定できない。
「伊勢(前半はゲリラ作戦・後半は本戦)」でも戦っている時期でもある。
この「環境の中」で「後者の戦い」にいきなり突入する事は無いと考えられる。
そうすると、「前半と後半」とには”「8年間の差の期間」”があるが、つまり、「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」である。
この期間が“「初期作戦・前哨戦・記録にない」”説としは正しい事に成る。
前段で、「1540年の少し前」には渥美への「家族などの移動作戦」が実行された事は論じた。
然し、この”「8年間の差の期間」”は何なのかである。
少なくとも何かが起こつている筈である。
では「どんな作戦」で「戦い」は繰り広げられたのかではある。
ところがこれには「青木氏側」にも「三河側」にも、又、他にも詳しい記録はない。
「三河国衆」に組み込まれた時期なので何かある。
そこでこれを読み解くには、「戦闘的な復興戦略の作戦行動」には何が考えられるのかである。
つまり、「シンジケートの額田青木氏」を「国衆」として「蒲郡」まで南下させて引き出して「土壌」を作るには「美濃」と「三河」に“どのような行動を取らす必要があるのか”である。
それを一応、次の様に考えて観た。
イ 「準備の財源」には問題は無い事を保障している事。
ロ 「伊勢と信濃」が説得に掛かっている事。
ハ 「一族の生活保障」を約束している事。
ではこの「三つの事」に就いてどの様に手配するかであろう。
0 シンジケートの目的と説得 (神明社復興 伊豆救出)
1 シンジケートの内部の意思統一 (「a族とb族」の利害統一)
2 シンジケートの「差配頭」をどうするか (美濃青木氏の末裔)
3 この「組織」をどの様に分けるかの決定 (「a族とb族」の二つに分けた)
4 その「組織の形」を何にするか (「国衆」として結束)
5 「戦略の提示」とその「作戦会議」 (最大の課題)
6 「軍師の決定」 (伊勢秀郷流青木氏)
7 「作戦実行」を何時に開始するか (美濃を出る時期)
8 「合力相手との関係性」の決定 (松平氏)
9 「松平氏(国衆)」との調整 (伊勢が担当)
10 「戦略実行後の処置」 (伊勢信濃が補完)
11 「土地の郷士との説得」 (国衆として入る地元説得 蒲郡と吉田)
12 「駿河青木氏」の復興 (駿河水軍の再興)
13 「駿河水軍と美濃族との関係性」の復活 (平安末期決別 水陸の経済的繋がり)
14 「渥美湾の利権」の取得 (美濃の陸運と水運の融合)
15 「駿河水軍」との結合 (伊勢湾−渥美湾−駿河湾の航路)
16 「神明社」の建設開始 (桑名−渥美−駿河−伊豆)
筆者ならば少なくともこれだけの事は事前に決めて係る必要があると考える。
その「問題の決め手」は、仮に「戦い」を前提とすれば「主要な事」は「5と6の事」であろう。
これを“1590年程度までに「最終目的・南下定着」に到達させる”とすると長くは無い。
何せ「伊勢」も「戦い」に入っているのだ。
「伊勢と信濃」が「実戦力」を持っていないと成れば、“「伊勢のシンジケート」の「抑止力」”をフルに使って側面から牽制して、且つ、「財力」で抑え込む以外には無いだろう。
前段でも論じたが、現実に「伊勢の松ヶ島戦い」の「二戦」では幾つかの記録には完全にこの「伊勢のシンジケート」の「抑止力」だけで勝利して「最小限の負担」に軽減している。
これに「秀吉の長島の戦い」を入れれば「伊勢五戦」である。
全てこの策で「伊勢」はとりあえず勝利している。
後は、これを「三河」に全力を投入するかと云う事に成る。
現実には、作戦通りに「伊勢信濃が出来る事」は、上記の通り見事に「伊勢のシンジケート」の「抑止力」を派遣してフルに使って側面牽制して、且つ、「財力」で抑え込んだ事に成った。
片方の伊勢で戦い、片方の美濃では国衆南下をさせたのである。
実戦に近い「伊勢シンジケート」の「ゲリラ支援」を受けて「南下国衆」を使って先ず“「三河の山間部・東側・東三河」”を獲得する事であった。
これは「松平氏」に執っても「東側の脅威」が無くなり、且つ、反発していた「東側の土豪」を味方に固定させる事に成り得策と成ろう。
それには「伊勢シンジケート」は次の事をした可能性がある。
「戦略物資の輸送路の遮断」
「戦闘物資や食料調達の買い占め」
「周辺域のゲリラ作戦の展開」
「伊勢」と全く同じ作戦」を「三河・東域」にも採った事が「商記録の添書・商取引・時系列」で読み取れる。
これが“「初期作戦の実行」”説の根拠に成っている。
「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」の事である。
(注釈 時系列で追ってみると、この時期は、武田軍は“「東三河」”に侵攻し、制圧し、東側の弱い地域に東から攻め入った。
要するに、「1571年の二連木城の戦い」であった。
この時、「南下の額田国衆の銃隊」を東域に配置して武田勢を牽制した。
と同時に、観た事も無い「近代銃の額田青木氏の国衆」を観て安心させ「東三河の土豪勢力の抱え込み」を図っていたのである。
「西三河」は「生粋の松平氏の旗本」、「東三河」は今川氏等の「残存兵で編成された2000程度の軍勢」であった。
それだけに不満などで一揆などが頻発していた時期である。
其処に配置したのである。
故に、前段でも論じた様に「松平氏」は、「西と東の二軍の軍制」を執る中、本来は西に所属する処、家康は「額田青木氏の南下国衆を「東軍・東三河」に配置した所以であろう。
最終は武田軍は「東三河」に侵攻し、先ず「二連木城から一言坂の戦い」へと始まる。
とすると、「一言坂の戦い」では、東軍域に配置された「額田青木氏の超近代銃の威力」を東域の「二連木城」の「小競り合い」の中で知っていた事に成る。
そして、その後の経緯は,「東三河の東軍の酒井政次の吉田城」を攻めてたが落とせず甲斐に戻つた。
つまり、この東軍に所属していた「額田青木氏の南下国衆」もこの城に入っていた事に成り、「300丁の銃」で抗戦した事に成り、結果として武田勢は“これは叶わぬ”として引き上げた歴史史実の事に成る。
故に、「一言坂」では「350の兵」に対して何と「坂下3000兵」と「坂中3000兵」で「武田軍・20000兵」の本隊から割いて「軍構え」をしたのである。
これは「額田青木氏の南下国衆の威力」を事前に知っていた事に成る。
結局は、前段で論じた通り「一言坂」でも「武田軍本隊」は戦いを諦めて兵を引いた結果と成つたのである。
これが、「上記の疑問の答え」であり、”「8年間の差の期間」”であったと観ているのだ。
“何故、簡単に引いたか”にこの「答え」があったのである。
この「東三河の二連木城め吉田城」は前段でも論じた様に「伊勢の裔系の青木氏」が多く定住する事に成った地域の「青木氏の地名」の遺る「豊橋の中心」に在る。
現在は「縦の陸路」を設定した所から「真西に2kの所」にある城で廃城と成っている。
当に、「信濃」までの「縦の陸路の設定確保」と「東三河の戦いの最前戦」に在ったのだ。
参考 この「東三河」は267000反の面積を有し、浜名湖より3.5kの位置に在り、西に渥美に繋がっている地域である。)
その「国衆南下のルート」は「本庄の額田」から「蒲郡」までの「真南に60k」の「圷と山間部の境目」を降りて来る事に成る。
降りて来るにはこの「縦の陸路域」を「国衆」として制圧する必要があったのだ。
この“「南下の初期作戦」”の目的は改めて次の二つにあった。
「国衆」と成って南下して「渥美湾域」を抑え此処に「伊豆」までの「陸路水路の拠点」を築く事
「伊勢の信長勢力」に絡み乍ら「三河」での「信長勢力への牽制」である事
この「初期作戦の二つの目的の達成」であった。
この「二つの目的達成」は「信長」に執って「戦略上好ましくない事」であったと考えられる。
然し、「松平氏」にはやっと「三河」を結果として「今川」から取れたもので、これを「信長」に取られる危険性は歴史が物語る様に充分にあって、それを「三河」に執っては「国衆の立場」から側面から牽制してくれるのには実に都合はよかったのだ。
それは誰も入手できない「超近代銃」を持つ事で「単なる国衆」とは見ていなかったのであろう。
それは「歴史的な史実」として「雑賀衆」に信長は入手を断られそれだけに困難さは知られていた筈である。
(注釈 商いで同舟の「雑賀族」に「伊勢」は手を廻した事も考えられる。)
(注釈 「雑賀衆と根来三千の銃傭兵」で取り敢えず解決した史実が在る。
そこで、「信長の松平氏への牽制」は、歴史的にもこれは「現実の事」として激しく動いていた事はこれは史実である。)
何しろ「ゲリラ作戦の国衆」で、且つ、“「超近代銃300丁(下記)」”で「武装する国衆」であり、後ろに「財力の青木氏」が控えていると成るとうっかりと手は出せない。
既に、少し前に「伊勢の事(伊勢五戦)」で「痛い目」にあっているのだ。
抑々、信長も「額田青木氏」と云えど「普通の国衆」では無い事は知っていた筈である。
何せ背後に「伊勢」と「秀郷一門」が控えているのだ。
「信長」に執つては直近に「武田氏との決戦」を控えている中では「三河の国衆側」から動かなければ取り敢えずは「黙視」が常套手段であろう。
現実に三河松平氏は「額田青木氏の国衆」を使って西の護りには動かなかった。東の護りに集中した。
家康は「戦い」も無く「蒲郡域」と「渥美吉田域・豊橋域・東三河」を「今川氏衰退(1560年・岡崎城敗退)」のすれすれ(「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」の記載)に手に入れる事が出来たのは、この「強力な背景・額田青木氏の国衆」があった事に間違いはない。
恐らくは、この「信長」は「岡崎城奪取のチャンス」を狙っていたと考えられる。
松平氏に執っては単独での「蒲郡と吉田の奪取」は目立ちすぎる事から得策ではない筈で、従って「松平国衆」としての「蒲郡と吉田の奪取」であれば、「信長」を含む「衆目の理解」が得られた筈であった。
(注釈 既に「額田青木氏の一族一門郎党の家族」は約30年前に「渥美の古跡神明社の存在・伊勢神官族」を前提にここに入っていた。伊勢の裔系が入る事には武力に依らずとも何の問題も無かった。
寧ろ、“彼等を護る”と云う「正統な名目」が成り立っていた。)
これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。
(注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
つまり、「水路の戦略(1540年〜1545年)・第1期」と「陸路(1560年〜1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
それでも「伊豆−美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。
(注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56−1」で詳細に論じる。
「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。
「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」に続く。