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  [No.368] 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/21(Sun) 14:47:28

「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」の末尾

「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。


「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」



「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院や比売さまや妃御さま」等も、本論で論じている多くの「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。

これを証明する言葉としての注釈は、最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
恐らくは、これは「青木氏」が「神明社に依る影響」から独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。

(注釈 そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
関東の「宗家筋の秀郷流青木氏」にも「資料関係」が多く遺されていないのは「大戦の火災」よりも明治期から昭和期までの“「攻撃」”が主因と観ている。
これは「首都の関東」であるが故の「伊勢信濃等以上の災禍」と云える。)

ところで「光仁期の中期頃」から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいたと論じたが、時代と共に世間にも都合が良かったのか広まって意味が少し異なって行った。

この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族の制度」では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。

ところが注釈として、この「後家」に対しては青木氏の中では「分別する呼称」は無かった。
依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」の事を云っていた。

確かに上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家 ロとハ」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて「人を説き」、「導きをする事」は至難であったらしい事が読み取れる。
然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事が「青木氏」では必要であったらしい。

取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
例えば、衰退した「近江佐々木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「美濃土岐氏系青木氏」、や「四掟の青木氏に近い公家」の「後家」を引き取る事は充分にあった筈である。

云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味でも戻る事があったらしいが、但し、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。

そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、ところが「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
そこで、「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)の範疇」に合ったとしても其処には“「生女」”ではないと云う基準がある。
従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。

前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
この場合の処置が難しかった事が読み取れる。

それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。

(注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に、世間から観れば「記録」から垣間見れる「恐怖の青木氏の抑止力」であった。
それ程に恐れられていたのだ。
故に、「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が絶対に可能と成っていた。
尚、「室町期」までは「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。無かったと云う事は少なくとも無いだろう。
「恐怖の抑止力」もあるが、“「不吉」”として記録しなかったと観られる。
但し、「江戸期」は「神明社」を全社を幕府に託した為に無い。それ故に幕府に依って消されたと観ている。)

況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも「保護施設」として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。

そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって、「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
それは、「斎王の里の館」にである。
そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い“「女人(女官)制度」”があった。
凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。

況して、そもそも、「平安期」には「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅と禁令の文面」の通り「源氏賜姓」にもある様に保護せずに突き放した。
「四掟の範疇」の「四家の家」にも「朝廷の保護」は無く同然であった。
更には、元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」から始まり、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」をも支える「その力」が既に無かった。
当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。

(注釈 「天智系青木氏」の「直系尊属の仁明期後」は「斎王に関わる事」の「祭司」さえも無く成った。)

前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは、「賜姓」を外れた事で「賜姓五役」等も)を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。

(注釈 これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)

これを最低限にして、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。

「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
この“「多気の里(青木氏の呼称)」”は、“「斎王の里(郷土史の呼称)」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
この段階(嵯峨期以降)では、最早、“「斎王」の云々”では全く無かった。

(注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)

だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。

「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない)」を出していた。
従って、「青木氏の概念」としては「光仁期から仁明期前の斎王」は「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。

(注釈 そもそも、「斎王」は、「王族」やそれに準ずる者から嫌われて「仁明期以降(青木氏の直系尊属)」から成る者は少なく成っていた。
筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期−嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
記録的にも、この「政争没」は「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、“「世にでない記録」”として遺さない様にする為の「奇策」であったらしい。)

(注釈 此処で云う「後宮」とは「后妃の事」を指すが、「后妃が住む宮」を云う事もある。
皇室では、「后妃」と「嬪妾」には「ある身分格差」があり、「嬪」は「ひ」と「ひん」と「ひめ」の「三つの呼称」で分けられる「格差」があり、「ひ」と「ひめ」は皇族内の「「女(むすめ)」:娘の位置」にあった。
「ひん」は「純潔制度の同族血縁」の中で生まれた中間の位置にあった。)

従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。

つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(呼称:十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
“「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わさせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。

ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
それは、この“「後家」”そのものなのである。
前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。

この“「言葉(後家)」”が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、“「家」”と云う言葉にある。
その前に当時として、“「家」”とは、「公家(公の家)」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語(格式の言語)」である。
当時は“「家」”は「高い格式を持っていた言語」であった。
要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。

ところが、江戸期に「姓族」が「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
唯、現実には、「氏族(武の家)」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。

(注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)

“「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族等」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄の格式を示す用語」であった。
当然に「家」に着く“「侍」”も同然である。
「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
「公・きみ」の「斎・いつき」の「立場や役務を表現する言語」である。

前段でも何度も論じた様に、「斎」は、朝廷を構成する「三つの政治体制」の「三蔵」の「大蔵・内蔵・斎蔵」の「斎」であって「祭事」を意味し、即ち、「政治」の位置にあった。
この「政治の位置」を司る「朝廷の集団」を「公(く・きみ)」として「公」の「集団(家)」で「公家」と称した。
この奈良期に於いては、「軍事を司る集団」は「政治体制」の「三つの中」に無かった。
「大化の改新」で信頼できる「皇族」より「賜姓」され「臣下」して「近衛の親衛隊」を構築した。これを「朝臣族」と称した。
この「武」を以て「近衛」の「賜姓臣下朝臣の族の集団」を「武の家」と称し、「公家」に対して「武家」とした。
後に、「大蔵氏」から出自した「坂上田村麻呂(桓武天皇)」の「征夷大将軍」と「近衛軍団」を「三つの政治体制」に加えて、「三蔵」に「武家」の「軍事集団」を加えた。
この時、「斎蔵の家の公家」には「蘇我氏の事」を顧みて安全を期する為に個々にこの「軍事集団を持つ事」を厳禁した。
この「近衛軍団(武家)」と共に「軍事集団」を「天皇」に帰属させて互いに牽制させて「政治の安定」を図った。
これが「武の家」の由来であり、「武の家」とはその「立場の格式」を意味する。
「家」とはその意味で使われたが、「姓化」が進んだ室町期中期から江戸期ではこれを無視した。


「施基皇子」を始めに「賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」を「家」とされた。
この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。

「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家」、即ち「20家」と「郷士族50(氏族)」で構成していたと云う事に成る。
従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「血縁族の郷士集団
(氏人)」を持つ「氏族」として朝廷に認められた事に成るのである。

唯、ここで「武家貴族」を認められながらも「家」を興す以上は「公家の禁令」に従って「武の朝臣族」であっても「賜姓族臣下族」ある事を前提に「表向き」には「武」を持たなかった。
但し、「影の抑止力」を持った。
ここが「補完役との違い」(「姓」と「武力」の「保有の容認」と、「身分格式の同格扱い」を)としたと成る。
そうでなければ「補完役」は務まらないであろうし「当然の朝廷の認知」である。

当然に、これは「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以でもある。
従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成り同然に「姓族イ」と成る。
当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。

「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」

以上の関係式が出来る事に成る。

(注釈「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」に依れば、「嵯峨源氏」は「単なる朝臣族」の「姓族イ」に所属し「皇別」の中でも「皇別の真人系48氏」に組み込まれていない事は興味深い。
「嵯峨期の詔勅の文言」を厳しく実直に反映している事に成る。
この「嵯峨源氏」を含む「賜姓源氏族11流」はこれに従う以外になかった。
従って、この厳しさから「源氏」には「賜姓を受けない源氏」が多かった事に留意が必要である。
つまり、「上記皇別の48氏」に組み込まれるには相当厳しいものがあって、「賜姓」を受けられない侭に「源氏」を名乗つても「賜姓源氏」に成っても全て滅亡した。
「清和源氏の満仲−頼信系河内源氏」だけが「一切の朝臣族の柵」を排除し、「姓」と「武力」の「保有」と、「身分格式の同格扱い」の「欲望」を捨てて「姓と武力で生きる事」を選択したと成る。
上記の関係式を捨てたのである。)

「秀郷流青木氏」は、「青木氏の補完役の策」として「特別賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」としても認められた。
その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏」の“「家」“が認められた。
そして、尚且つ「冠位と官位」でそれを補填して証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に、「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」と「格式身分」とを与えられたのである。
つまりは、「賜姓源氏」を超えた扱いを受けた事に成りその意味は大きいし、「補完役」と云う「意味合い」も大きいし、「賜姓青木氏五家五流への配慮」が高かった事に成る。

(注釈 然し、結果として観方に依れば平安末期には「近江」「美濃」「甲斐」はこれを裏切り源氏化した事に成るのである。)

従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
つまり、上記の「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の「関係式」が姓族には成り立たないのである。

そもそも、そこで「姓族」には、前段でも論じたが、次の「二つ」がある事を知って於く必要がある。
(a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族(新別に分類)」
(b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族(諸潘)」

(a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。

「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の関係数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
これがその論理的証拠である。

つまり、上記の「氏族」の「家」に起こる「血縁制度」であるからこそ「後の宮(高位の人)」の「家」であるのだ。
前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。

注釈として、結局は「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」のそのものを認められていないから、従って、残るは「分家」として発展せざるを得ず、つまりは、「一つの家」を“「分身の様」に分ける“と云う理屈と成る。
故に「分ける家」なのであって「家・氏」を別段に興していない理屈に成る。
“「分家」”ではない「独立した四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」として成立する故なのである。
依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。
「主君−家臣」を何れが「契約関係」を破棄すれば「主君−家臣」では無く成るが、「血縁関係」が存在する以上は「氏人・家人・郷士」から離れる事は永遠に出来ない所以である。

「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の関係数式は付いて廻る事に成るのだ。

従って、この独立した「四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」に起こる「後家」は「姓族」には論理的には「起こらない言葉」と成るのだ。

そもそも、“「後家」”は、皇室の“「後宮」”に通ずる言葉であり、皇室の「宮(高位の人)」、即ち、「皇別の氏族」の“「家」”であり、この“「家」”は「青木氏族」の様な「氏族」のみに“「後家の言葉」”(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。

(注釈 「公家」は「斎に位置する家」であるので「政治的」には力はあっても「経済的」にも「武力的」にも力は無く、「斎に関わる権威を貸す荘園制」に頼っていた為に本質は弱体であった。
「氏族」としてでは生きて行けない為にこの「公家」には「姓族化する傾向」は大変に多かった。
「荘園」を下に「姓化」して禁に反して「武」を持って生きた「公家」は殆どは100年未満で潰された。)

この結果として「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
この場合は、上記の関係数式は無く成り「氏族」を朝廷より外される事に成った。公家も同然であった。

(注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う「高位の特別の格式」を有する事により「公家の関係族」にありながらも「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
そして「361氏」と云う「姓化した族(現地孫末裔)」には「分家」が特別に認められた。
依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍らも”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)

従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様:特別に「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「青木氏の神職」には「神紋の柏紋」の使用を許された)」だけなのである。

(注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸国の渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた「数々の氏」と「家を構成する制度」が異なっている。)

故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」/「4000家紋」に成り得たのである。

この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
当然に“「後家」”もである。

(注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。
明治期には家紋と称される文様は8000と成った。)

「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家(施基皇子の伊勢青木氏)」の「天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」:無理やり宣下)として、「皇室の後宮」に因んで、皇室は「宮を興す事」に相当する「家を興す」の故を以て“「後家」“と云う呼称を使って「皇室」に対して「公然」とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。

(注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を”「巫・かんなぎ」“と呼んでいた事が判っている。
この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
当然に「後家」も務められた。
どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。)

そこで、上記の注釈に関して、だとすると、「500社弱の神明社」等に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。

この注釈に関して「五家五流青木氏」は、勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
「116氏の秀郷流青木氏」にも「宗家筋(四掟の範囲)」では「同様の制度」を敷いていた以上は、一族一門の「女(むすめ)に対する処置」も同様に起こっていた事があり補完されていた事は解るが、この事に就いての補完は“どの程度のレベルでの補完であったか”は定かではない。

唯、「116氏の秀郷流青木氏の24地域」にも「宗家筋(四掟の範囲)」で「春日社」が「守護神」であった事も考えると、「かんなぎ」は存在し得ていたので、実質は「協力関係の程度」かと観られる。
筆者は、「361氏の秀郷一門」が当初は「春日社」を主幹していたので、「第二の宗家」としては算数的表現とすれば「361/116の義務範囲」であったと観ている。
後に、前段でも論じたが、「興福寺事件以来」は「361氏の守護神」は「春日神社」に変革したので、「116氏の「宗家筋(四掟の範囲)」(宗家筋(四掟の範囲)」は「春日社」を主幹する経緯と成った。

それでも何しろ、「平安期」では、「家的」には「116/5」と観れば、「地域的」には「24/5」と観れば、「500の神明社」だけでも運営するには難しい事は歴然としていた。
「室町期」では、殆どは「伊勢と信濃」と成り得ていたので「宗家筋(四掟の範囲)」の補完無くしては無理であった筈である。
但し、「伊豆」は独自運営し、衰退した「近江と甲斐(美濃は暫くは伊勢と信濃青木氏が支援を出来なかった)」ではその力を無くし停止していた。

(注釈 「美濃青木氏」は室町期末期に「別の形」で「伊勢と信濃の力」が隠れていた「美濃青木氏」を引き興した。
「一色域」に隠れていた「美濃青木氏の末裔一族」を「経済力」と「強力な武力」の支援で引き興して「蒲郡青木氏」として、「伊川津七党の青木氏」の「田原青木氏」として興す事に支援し「徳川氏の国衆」として成功した。)

「江戸期初期」には、「幕府へ神明社の引き渡し」と「菩提寺の顕教令」で全て「青木氏」からの「かんなぎ」等は停止したとある故に、「116氏の秀郷流青木氏」からの「補完の必要性」は無く成った事が判っている。


注釈から話を戻して、それが最初の“「後家」の呼称”であった。
正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の中にいた場合に於いては“「後宮」”として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から“「後家」”であった。
(言語的に「宮」と「家」は同意で格式的意味合いが異なる。)

そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない事で、明らかに「救済策(逃避の便宜策)」であった事が判る。
これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来て、「青木氏族」の中で生きる事は出来たのである。
将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官」”とそれを支える“「采女(上記)」“として生きて行く事かの、この“「三つの選択肢」”が広げられて行った。

奈良期の「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初の頃から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事も”「後家」“と伴ってその存在は判っている。
「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
そして、ここから「福家の支援」に依って「郷士・氏人」に「嫁」に向かったのであろう。
これらの「独特の青木氏の呼称」から観ても「四家の政所の制度」の多くは「女系」で占められていた事が明らかに判る。「女系族」であった事が判る。

恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここでも同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
これは「氏人の底上げ策」であろうし、「強力な絆構築策」であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
上記の通りの氏族全体の「数多くの女の力」で以て、これも「男系」では成し得ない「女系の妻嫁制度」ならではの「堅い絆」が構築されていた事が判る。

注釈 青木氏の中での「十二女司(十二司女と書かれているのもある)」は、次の様な役目であった。
「内司」、「蔵司」、「書司」、「薬司」、「侍司」、「単司」、「殿司」、「掃司」、「水司」、「膳司」、「酒司」、「縫司」の「12の役目」を指し、「青木氏の保護施設」の「日常の雑務・庶務」を12に分けていた。
「意味」は読んで字の如くであり、「奈良期の天皇家の伝統の継承」であったと観られるが、取り分け、「伝統」と云うよりは「雑務」を分ければこの様に成るのは当然で、そもそも「皇室の伝統継承」と云う感覚は無かったと考えられる。
「斎王の館」などでのこの様に分けていたと考えられる。
「多気の家人の家の資料」に遺された損傷激しい読み難い資料から公的資料と査照して再現した。
これを要約すると、次の様に成る。

1「内司」は「妃嬪妾」の「入妻や後家」等の女系制度の人の「内回り」の仕事、
2「蔵司」は「金銭の財務関係」の仕事、
3「書司」は「手紙代筆」や「文書の保管管理」の仕事、
4「薬司」は「薬医回り」の仕事、
5「侍司」は「身辺警護」の仕事、
6「単司」は「簡単な雑務」や「外回り」の仕事、
7「殿司」は「寝所回り」や「便所回り」の仕事、
8「掃司」は「掃除」などの「清掃」に関わる仕事、
9「水司」は「水回り」の仕事、
10「膳司」は「食事の準備」とその手配の仕事、
11「酒司」は「酒宴」やその手配の仕事、
12「縫司」は「衣服回り」の仕事

以上と成る。

この「十二の役務」には、更に「実務の下働き」をする者がいて、例えば、記録に遺る者としては、6には「下働き」の「仕女(しめ・かがりめ)」と、10には「下働き」の「炊女(かしきめ)」が別にあった事判っていて、これには「階級」は無く、「青木氏」と関係する「地域の民」がこれを務めていたらしい。
この「二つ」は、“務めていた”と云うよりは「通いのパート」の様な契約にあったらしい。
必ずしも、「女」に限らず中には「男」も居た様な表現である。
前段でも論じたが、総じて彼等を「男子衆:おとごし」と「女子衆:おなごし」と呼ばれていた様である。
この「呼称の語源」は、「男子:おとこ」の「おとこ衆(おとこしゅう)」から変化して「おとこし」、「女子:おなこ」の「おなこ衆(おんなしゅう)」から変化して「おなこし」と成り、これが昭和の頃まで「伊勢」から「奈良や紀州」に遺る方言として紀州では「こし」が「ごし」と呼称した。
筆者の子供頃には使われていた方言で、筆者の家にも二人の「おとごし」と「おなごし」と呼ばれる人が雑務全般を担っていた。

この「伊勢青木氏の伝統」が強く地域に根付いていた為に「方言」と成って遺されている所以である。

(注釈 筆者はこの「おとごし」の人から「植木の手解き」を受けた記憶が事がある。
明治期の鎌倉の縁者の家では「支女」に当たる人が10人いた事が判っていて、この頃までこの「伝統」は何とか引き継がれていた事が判る。)

上記で論じている様に、“「皇室の後宮」”に仕える「女官」に対して、これに相当するのが“「青木氏の後家」”等であって、従ってそれに仕える「青木氏の女」に関わる「役目柄」である事に成る。
訳して、“「皇室の後宮」”≒“「青木氏の後家」”の関係式が成立する。
故に、「皇室の十二女司」≒「青木氏の十二司女」と成る。

元々、「中国の王朝」の「宦官制度(男子の官僚)」に対しての制度を、「奈良期の朝廷」に持ち込み天「皇家の後宮」の制度として敷いた。
この制度は変化して、「平安中期」から「後宮制度」の「身分格式の立場」を持たして「内の政所」の「女性の発言権」が整い、「外の斎蔵(政治)」に対しても「発言力」を増した。
更に「10世紀初期頃」から整理され充実した「後宮制度」が出来た事に依り改めて「後宮以外」にも「女官」にもこの制度を敷いて力を発揮させた。

ところが、ここに目を着けたのが「摂関家」であって、この「摂関家」が「斎蔵の外政」に対して「勢力拡大」の為に「内の政所」を掌握する事で「内外の両方」に触手を伸ばした。
「内の政所」と成った「後宮」を引き受けて「政治の斎蔵」の「一つの仕事」して掌握し「内外の政治の権力」を広げた。
この為には、「内の政所」の内容を「摂関家」に都合の良い様に変更し、「内の政所」の「格式や身分」を下げて「内の発言力」を弱めて「摂関家の発言力」をより完全に確立させたのである。
この為にも「天皇家」に対して「内の政所の発言力」に及ばず“「血縁」”を入れて「摂関家の血縁の浸透(例えば、上記の許嫁等)」を図った。
この段階で、「十二女司の内容」は「原型」を留めない程に完全に権力に浸潤する様に変化したのである。

この「歴史的経緯」から観ると、「青木氏側」は「光仁期の前頃」からの事であるので「青木氏の十二司女」の方が早く「原型」を保持していた事が判る。
「青木氏」では、この「原型」が上記した様に「五家五流青木氏」に「妻嫁制度」や「後家制度」が確立して行く過程で生まれた時期に採用されていた事が判っている。
この「古い制度」の「采女・うねめの呼称」が「多気」に遺っていた事がこれを証明している。
青木氏の資料の一部に「十二女司の内容」の変化に伴って“「十二司女」”の違いの呼称があるのはこの事の証明に成る。
この事から「青木氏」は「十二女司の内容の変化」で敢えて変更したのでは無いかと考えられる。

注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。

時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」

∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」

以上の論理が成り立つと観ている。

更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。

故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。

この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。

> 「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


  [No.369] Re:「青木氏の伝統 49-1」−「青木氏の歴史観−22-1」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/22(Mon) 10:41:57

> > 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」の末尾。

> 注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
> 故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
> そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
> そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
> これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。
>
> 時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
> 内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」
>
> ∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」
>
> 以上の論理が成り立つと観ている。
>
> 更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
> この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
> 云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
> 当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
> この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。
>
> 故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
>
> この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
> 故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
> これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
> これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。
>



「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−22」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

然し、ここで、先ずは一つ疑問がある。
それは、“この「後家の表現」を「青木氏族」が使っていたという事を、又、何処でその資料と成る物が世間に漏れたのであろうかである。”これが「疑問−1」である。

この疑問に触れて観る。
そもそも、これは上記した様に「青木氏族」の「四家の中だけの制度」であり、この事は当時の「ある書物の記録」(不記載とする)として記述されている。
この「後家の処置」は、元より、「青木氏族」としては知られたくない一種の「隠れ蓑の策」であった筈なのだ。
確かに、「光仁期(770年)」から「仁明期(847年)」の「約80年間程度」は、少なくとも「直系尊属の氏族」として前段でも論じたが「政争」に巻き込まれない様に「青木氏の氏是」を護って何とか遠ざかろうとしていた。
従って、「四掟の血縁」に依ってこの「政争」に引き込まれる可能性が高まるが、これを避けようとすればこの「後家の隠れ蓑の策」は是非に必要であった。
期間的に観てこの“「後家の隠れ蓑の策」”を使用するとした場合の期間を、検証すると長く観ても「天皇家とその周りの族の政治的混乱期」が続いた「清和期(960年代頃)」までの間の事であろう。

前段でも論じたが、歴史的には「清和源氏(経基―満仲)」そのものがその「張本人の一人」であった。
この時、歴史的に「秀郷一門(青木氏族の秀郷流青木氏を含む 960年頃)」が敵視され大きく影響を受けた。
注釈として、「関東での政争・将門の乱等」と「瀬戸内の純友の乱」が代表的である。
この様に、二つの「青木氏族」はこれらの「政争」から何とか逃れようとしたのである。
故に「関東の秀郷流青木氏」、「讃岐の秀郷流青木氏」は逃れられなかった事に成り巻き込まれた。

この「政争」に“何が起こったか”と云うと、取り分け、秀郷一門の「青木氏族」と成った「主要五氏」に対しては、「円融天皇の補完策(960年頃)」により「特別優遇」され「最高の位階や官位」を次々と与えられた。
然し、「清和源氏(経基―満仲)」にはこの特別優遇は無かった。(羨望と嫉妬)
それが故に、この「青木氏族」の「弱者の女性」(位階を持っている)は、「他の氏族」から「絶好の婚姻策の相手」と定められて“「政争の具」”と成って巻き込まれる事と成って行った。
この時、この結果、矢張り、光仁期の「五家五流青木氏」と同じく、この“「政争の具」”に使われる事を嫌って、上記の様に「女系の妻嫁制度」をより充実させてより確立させている縁戚の「伊勢や信濃の青木氏(救済策)」に逃げ込む事が多く成った。

ところが、未だ「伊勢の秀郷流青木氏」を除き「他の主要な青木氏族」にはこの制度は未完であった。
それには、「嫁家先制度」に関わらない場合には、「女(むすめ)」として入る事、将又、即座に「入妻」として入る事の二つは、「掟」の上では困難であった。
そこで、どうしたかと云えば、“「隠れ蓑の策」”として造り上げていた“「後家制度」”で隠れて、その制度の中で何とか“「青木氏族」”として生きようとしたのであった。

これは「源氏族の様な朝臣族」に執つては「羨望」と云うか、寧ろ「嫉妬」に近いものがあって、更にこれを「政争の具」と云うものにして引きずり込ませ様とする「煩わしい環境」の中にあった。
高い位階と官位を与えられる同じ賜姓朝臣族でありながらも、彼らは「嵯峨期の詔勅」で冷遇されていたのである。
だから当然と云えば当然なのだが。況してその「補完役」までも自分たちを超えて厚遇されていたのだ。

この為に「伊勢、信濃の青木氏」と血縁関係の深かった「位階の持つ嫁家先(四掟)」の「秀郷一門の主要五氏の青木氏族(青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏)」は、「戦乱や政争」に明け暮れていた事から空かさずに「女系での子孫存続」に懸けて大いに救済を伊勢らに求めてきた。

(注釈 この事は、「青木氏の資料」は元より「佐々木氏の資料」にも、「純友の乱の研究記録」の一環として、「讃岐秀郷流青木氏等の青木氏族」の行でこの「混乱の様」が記載されている。
これは「秀郷流青木氏116氏24地域の分布」にも大きく影響を与えていた様である。
それは「現地孫の増加」と「家紋分布の変化」に顕著に観られる。)

事程左様に、「光仁期(770年頃)」から始まった「緊急策」であった「後家制度」は、90年間を経て「女系の妻嫁制度」に組み込まれた。
そして他の関係する「青木氏族」からも積極的に利用される“「正式な隠れ蓑策」”に替わって行った。
この経緯が「疑問−1の答え」である。
つまり、この様な環境から「秀郷一門」へと間口が広がりそれが更に一族一門に広がったと云う事に成る。
これが元で先ずは広まったのである。

ところが、この「疑問−1」にも「疑問−2」が伴う。

この「正式な隠れ蓑策」に付いて、「朝廷や摂関家などの権力者」が、この公然と行われる「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(第一段階 770年頃〜870年頃の100年間 更には第二段階960年代頃の100年間まで)に、“何故に政治的な権力や圧力を行使しなかったのかと云う疑問の「疑問−2」が湧く。

当然に何時の世も世の中の周囲では起こる”「反動」”であり“出る杭は打たれる”が世の例えである。

少なくとも、取り分け、「政治、政争」の中心にいて「利害」が伴った「北家で藤原摂関家」が、台頭する「秀郷流青木氏族」等に対して同じ「北家」でも少なくとも「口を出した筈」である。

(注釈 そのひとつの証明に成る事がある。
現実に「北家の摂関家」は衰退気味の中で「下がり藤紋」から「下がる」は忌み嫌うと云う事で「上り藤紋」に「総紋の家紋」を変えた。
この「先祖伝来の下がり藤紋」を急に替えるという処に意味を持つ。
然し、秀郷一門はこれに追随せずに「下がり藤紋」を貫いた。
これにも証拠と成る意味を持つ。)

必要以上に「宗家の勢力」より大きく成る事を「四家」で構成していた内の同じ藤原一族でも「南家藤原氏も西家も」の様に潰されて勢力拡大を嫌った筈である。
当然に「皇族賜姓臣下族の青木氏」に対しても、然し、記録上では「口出し」は全く無かった。

何故なのかである。
それは、次の「六つ事」にあったと考えられる。

「光仁天皇の尊属」であった事。
「朝廷の大献納者」であった事。
「抑止力の大氏族」であった事。
「経済力の大氏族」であった事。
「不入不倫の権の公的な保持者」であった事。
「摂関家藤原氏」を遥かに超える「身分、冠位、位階の氏」であった事。

他にも、前段でも論じたが、嵯峨期に「皇親族と賜姓族」を外されたにも関わらず「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処、賜姓五役)」を務めた。
更には、「商い」を通じて「献納」の際に「天皇」に「巷の情報提供」をする“「戦略処(青木氏の表現)」“と云う「秘密裏の務め(令外官)」をも実行していた事が判っている。

これらの務めは、前段の通り、元からの「施基皇子の役目(「撰善言司」)」でもあった事から、「青木氏族」がこれらを“「戦略処」”の言葉として捉えていた事が「青木氏の資料」に記載されて遺されている。
これは「日本書紀の記載」の「施基皇子の編纂」の“「撰善言司」(「撰善言集」)”の「司」の「範疇(役目)」がそれに当たるだろう。
歴史的にも証明できる。
これ等の事も大いに働いて「疑問2」の答えとしては、「表向き」には簡単には「口出し」が出来なかったと観ている。

「疑問2」の「口出しの出来ない理由」に対して、「疑問1」はだから「裏向き」を使って「讒言」で「政争」に巻き込んだと云う事であろう。


そこで話が変わるが、そもそも、上記の「司・(つかさ)」に就いて「青木氏の歴史観(「撰善言司」)」として知って置く必要があるので先に特記する。
これが「口出しの記録」が遺らなかった事を理解する事に役立つ
その「言司」に込められている意味の“「司」”とは、これを咀嚼すると現在で云う「司の意味」と大部違っている。
つまり、当時の“「司」”とは、“「朝廷(天皇)の一つのプロジェクトの役目」“を云う定義で、その「権能」は「天皇から与えられる令外官的意味合い」を持っていたものと考えられる。

最低限、「室町期頃」までは、取り分け、記録から観るところでは少なくとも「鎌倉期の頃」までは「司」とは、「朝廷の仕事を務める下級の役人」の事を云っていた。
それ故に、更に後には、「朝廷」、或いは、「幕府」より依頼されて「ある物」を専門的(令外官=司=匠)に作り、納品する「庶民の匠(たくみ)」の事も指す様に成ったと考える。

これを「青木氏の歴史観」から観ると、筆者は“「朝廷(幕府)」の本来の「司の使用」”は「日本書紀」にも記載がある様に「施基皇子」の“「撰善言司」”の頃が始まりでは無いかと観ている。

この前提は奈良期頃から始まった「渡来人」に依って興した“「経済システム」”にあったと考えられる。
それは現在の様な「市場経済」ではなかった。
歴史を考える場合はこの前提を知って理解を深めるべきである。

その「古代の経済」は、何度も前段で論じているが“「部経済」“と呼ばれるものであった。
それは“「全ての物造り」”の者は「朝廷の管理下」に置かれ、そこで造られた一切の物は先ず朝廷に納められ、「必要量」を収納し、「余剰品」を庶民に放出すると云うシステムであった。

この「役目」を「朝廷の令外官」が担っていたのだが、つまり、これを「賜姓五役の一環」として共に「令外官の役目」として「皇親族の施基皇子とその子孫(青木氏)」が果たしていた。
ここに大きな意味がある。
この「各種の物造部の頭」の事を「匠(たくみ)」として呼称し「朝廷の末端の役人」として扱われていた。
この「匠頭の役人」が「朝廷内の呼称」として「司」(役目・役人)と成った。
つまり、「・・部司」(かきべのつかさ)である。
つまり、この「司」は「物造り部の頭」の事である。

(注釈 「青木氏の資料」によれば「物造りの人」を「部人(かきと)・部民(べみん)」)と書かれている。
これらを「匠司」を束ねていたのが「上級役人・官僚」の「造(みやつこ)」である。
「伴」、即ち、「束ねるの意」の「伴(とも)」に「造」で「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれていたのである。
但し、「大豪族等の者」にも一部これを認め分けて「部曲(かきべ)、又は、部民」(かきべ)と呼んだ。

(注釈 そこで当然に、「青木氏」に執っては「民に放出する役目の立場」として全国の「伴造」を配下にして、これを「総合的に総括する立場」としても独自に”「青木氏部」”をも保有していた。
従って、「総合的に総括する立場」を使って「光仁期」から「仁明期」までの「青木氏出自系の天皇」はその本来の「諱号」は「伴・とも」に関わるものを名乗った。
故に、この経緯から、この時から元の支配下にあった「官僚の伴氏」は「大伴氏」と変名した事は歴史の有名な史実である。
平安初期は「諱号」により「伴氏」から「大伴氏」に、この「諱号」の影響が無くなった平安後期には地域的には「大伴氏」から「伴氏」に官僚の諡号姓名を変名した経緯がある。)

(注釈 この「部司(かきべのつかさ)」に繋がる後の朝廷官僚、即ち、「五大官僚族」としてこの「伴造」の「伴氏」は「物造り」の「立場の重要性」から朝廷内にその勢力を拡大させ力を得て、そしてその部が盛んであった九州各地に配置された。
九州各地に「大伴氏とその末裔族」が多い所以はここにある。
前段でも論じた様にここが「渡来人の定住地」である。
従って、多くの子孫の官僚族を九州各地に遺しているのだ。
この子孫が名乗った者の多くの地名(例・鹿児島の市来・市来氏)が遺されている。
九州全域に「物造りの匠(たくみ・つかさ)」と呼ばれる「司(つかさ)」が多い所以なのである。
これがこの「匠司」から「たくみ」が「つかさ」と呼ばれ、「司」の「つかさ」が「たくみ」と呼ばれる所以はここから来ている。)

(注釈 「青木氏」に神明社等の建造物を建造し管理維持する為に独自に「青木氏部」を持つていた事に成っているが、筆者はこれら「朝廷が抱える全ての部人」を青木氏部と呼んでいたのでは観ている。
それは、これらの「部人の統括」は元より「その物の処理」まで任されていたのだから「全体呼称」を「青木氏部」と呼称していたと考えている。
その証拠に市場放出権を任されこれを以て余剰品を一手に「商い」までに発展させられる「権利」を朝廷は認めているのであるから、その「総括権」から「青木氏部」としていたと考えられる。
これが嵯峨期から「単独の青木氏」の「青木氏部」と替わって行って約60年後に独立して行った事に成ろう。
何故ならば「60年と云う猶予期間」があるのは「祖先神の神明社」は依然として「青木氏」に委ねられているのであるからだ。
天皇家に「祖先神の神明社の維持」のそんな力は無かった筈である。嵯峨期の詔勅が徹底する程に青木氏には影響は直ぐには来ていなかった事が云える。)

この「部人(かきと)・部民(べみん)」の殆どは「後漢の阿多倍王」に引きつられて来た「職能集団の200万人の渡来人」である。
薩摩の「阿多」や「大隅」などがそれに当たる。
これが、本来の「司の語意」であり、「匠の語意」であるのだ。

ところが、この「部の経済」は「市場経済」が発達し「鎌倉期頃」から次第に崩壊し、一部の物を「専売品」として定め、後は全てを「民が営む市場」に放出し始めたのである。
そこに「貨幣経済」(中国から貨幣を輸入する)が浸透し、室町期中期には完全な「市場経済」へと移り始めたのである。

重要な事は立体的に観察すれば、「青木氏」も連動して「市場放出権」や「伴造」を支配下に治めたことから「商い」は拡大した事で「疑問1と疑問2に打ち勝つ力」を持ったのである。

(注釈 これに連れて次第に匠と司の語意の変化が起こった。)

前段でも何度も論じている様に、「嵯峨期」から、「皇親族や令外官や賜姓族」から外れた後も、注釈の通りで「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処の実務)」と「賜姓五役」の「影の務め」を矢張り果たしていた事も解っている。

それ故に、「疑問−2」の答えとしては、「周囲の勢力」は、上記の「六つの事」は勿論の事、「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(770年頃〜870年頃)に対して、“何故に「政治的な権力」を行使しなかったのかと云う疑問には、天皇家も摂関家にしても“一切何も言えなかった”ではないかと云う事であろう。

依って、「司の役目」としても秘密裏に「令外官」を続けていた事を示す証拠等とも考えられる。
寧ろ、戦略的には「表向き」は兎も角も「裏」では積極的に利用していたと考えられる。

この“「匠司」”は“「言司」”と共に正確な知識の上に「青木氏の歴史観」として歴史の史実確定の上での見逃してはならない言葉なのである。

(注釈 「青木氏の伊勢と信濃」は、「皇族賜姓朝臣族」、「伊勢(伊勢王)」の「冠位」は永代浄大一位、「信濃(信濃王)」は浄高二位 伊勢の官位は永代正二位、唯、信濃の官位は従四位上であった。
何れも「皇族の四世族内の王位」に与えられる「冠位と官位と位階」である。
これは「大化の改新」で「王位の範囲」を「第六世族」から「第四世族内」に改められた事から来ている。
「伊勢」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇」を出した事から、同時に「敏達天皇の春日真人族の四世族(天智天皇)」の「同族、同門、同宗、同位」であった事から、「賜姓臣下族朝臣族」から、再び、「真人族」と成り得て、独自の「志紀真人族」を形成するまでの事と成る。
そして、遂には再び「最上級の冠位位階の氏族」と成った。
故に、「天皇」に「面会」が許され、且つ、「意見」までを述べる立場に永久に成っていた。)

この事を考えれば「疑問1と疑問2の答え」は鎌倉期には最早「無駄な抵抗」と成り得ていた事であろう。

(注釈 祖父の口伝では、祖父や曾祖父・先祖代々にはこれに関係する慣習が引き継がれ、「徳川時代の紀州藩藩主との接見」でも藩主より何時も上座に位置したと聞いている。
従って、「令外官」として「献納時の挨拶」では「巷の情報」を「天皇に対する提供」する事は異議なく可能であった。
これも前段でも別の面で論じたが、この「永代の冠位位階」を持ちながらも「朝廷の衰退」で、「慣習慣例仕来り」と成った「江戸期末」までは「将軍家」、「大正期」までは「紀州徳川氏」にも「上座」で面会が出来た事が「記録と口伝」と、又、実際に扱いを受けた「祖父の話」も聞けている。)

(注釈 筆者の祖父は、明治から大正期まで「紀州徳川氏の茶道や南画や歌や禅の師匠、況や「素養指導」を務めた。筆者も一部確認している。)


そこで話を初めの「後家制度」に戻して。
この様な“「普通の立場」”でなかった「背景」があった為に、要するに「摂関家」を始めとして他の氏族は“「口出し」”は「表向き」には出来なかったと考えられる。
従って、その結果から「公然とした隠れ蓑策」の「後家制度」と成り得ていた。
そして、後にこれが「秀郷一門」から「表」に出て広まったという事に成ろう。
「関東の秀郷一門」は挙って江戸初期に「徳川家の御家人」として、又、「官僚族」として活躍した事で「一般の姓族の武士」にまでに広まりを見せた事に由来しているのである。

其の内に、「他の氏族」にも、これは「都合の良い策」として、「後家」は一般化して行って、これが範囲を広げて、何時しか「多くの意味合い」を持つ「庶民手段」に成ったと考えられる。
故に、昭和中期頃まで使われたのであろう。
そもそも、「嵯峨期の詔勅禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用は禁じたが、この「後家」だけは早期に広まっている。
これは他家に都合の良い策であった事が由縁と云える。

注釈として、然し、庶民まで使われる様に成った事には、これらの「史実の事」を知り得ていた「青木氏族」の「伊勢、信濃の青木氏」も「秀郷流青木氏」も驚いていたと考えられる。
「世情の安定期」に入った「江戸期」には取り分け使われた。
これは、矢張り、「女系の妻嫁制度」の制度に付随するそのものの「隠れ蓑策」は別にしている。
「享保の改革」を実行する為に「吉宗に同行した伊勢青木氏」と、「幕府の家臣」と成っていた「武蔵の秀郷流青木氏」の“「二つの力の影響」”が世間に一度により広がりを見せたものでふろう。
取り分けに「武家諸法度」を護る為にも「武士の社会」に「都合が良く」、この“「影響」“を「社会慣習」として捉えて印象強く与えたと考えられる。
昭和期まで続いたのはその証明である。
逆に云えば、「便利な慣習」であったのであろう。
これは「後家の呼称」の多さを観れば判る。
「後家と云う言葉」を使う事に依って、それまでに無かった「社会慣習の区切り」が付けられたという事であろう。

広まりを論理的に観れば、伝わった当初は、それほどに“「差別的な悪い意味」”では用いられてはいなかったのであろう。
これは「江戸社会」が「享保の前後の頃」から社会は「安定期」に入り、「姓」から伸し上がった者にも「歴史や伝統」がそれなりに生まれ“「武士のお家感覚」”が広まった事に依るだろう。
これは、つまり、更に、「黒印状」に依って社会に「権威に依る差別化」が起こり、それを容認する「武家諸法度」が制定された事が起因し、「姓の武士」にも「氏族」と同じ様に“「家感覚」”が起った事に成るだろう。
この「家感覚」が起これば今度は必然的に「武士の家の慣習化」が起こりそれは複雑化する。
ここに、「青木氏族」等の「後の家」の「上記の便利な慣習」が真似られて用いられたと成る。

これは、明らかに他の「姓族」には無い「青木氏族」ならではの完全な「青木氏の歴史観」である。
注釈として、この時期には「大括り」には「青木氏族」である「近江佐々木氏」も遂には耐えきれず「姓化」が起こり「氏族」は「伊勢と信濃青木氏」のみと成っていた。
故に、「後家の伝統」の「青木氏の歴史観」である事さえも忘れ去られたのである。

(注釈 「近江佐々木氏の青木氏の研究」の中にはこの「後家の現状」の行が記述されている。
念の為に、これは「近江佐々木氏」も「青木氏族」であった事を説いている事に成る。
筆者は「青木氏族」であると考えている。
但し、全国に広まった「近江の宇多佐々木氏」は異なる。)

この「後家の言葉」の“「広がり」“が、最初は、「特定の身分を持つ階級」に使われた事から、その”「便利さ」“であったからだと考えられる。
「便利さ」を例えれば、「行ず後家」、「戻り後家」、「遺り後家」、「添え後家」、「妾け後家」、「隠し後家」、「不義後家」、・・・「後家倒し」、「酌婦後家」、「擦鉢後家」等、
以上、最早、全ての「女の人生縁」に繋がる事に宛がわれている。

この用語は、矢張り、関西に多く、北に向かうに従いその語意は限定されて使われて行く面白い傾向にある。
それは、何をか況や「伊勢から始まった言葉」であったからであろう。


さて、この事に付いて「青木氏の歴史観」として元に戻って少し詳しく「内部の事」を論じてみる。

当然に、「位階」などを持つ「入り先」も、この「四六の古式概念」に基づく「妻嫁制度」ではその「掟」に従わざるを得なかった。
又、古来の「古式の慣習仕来り掟」を持つ「入り先(高位の武家貴族)」である以上は、況してや、「神経を最大に働かせる血縁(公家階級)」に於いては、「大きな差異」は「伊勢」や「信濃」とはそんなに無かったであろう。
当然に歳を得た「熟女」は「嫁(行ず後家)」に出さないであろうし、「青木氏」も「入り嫁」としては受け付けなかったであろう。
ここが、双方に執って「妻嫁制度の掟」を納得させる為の「住職神職の腕の見せ所」であったであろう。

今から考えれば、これは「女の人権を無視した事」には成る。
然し、「子孫存続と云う大前提」を達成するには、「四六の古式概念」の基で執った「妻嫁制度」「嫁家制度」では「当然の仕儀」と成り得ていた。
それは「氏家制度」の中では社会と異なる特異な制度であった。

そこで、資料を見て行くと「面白い掟」の「伝統」の様なものが出て来る。

先ずこの事から論じる。
例えば、“嫁ぐ際に、その準備を誰がしていたのか”と云う事なのだが、これにも「女性の性」を抑え込んだ「掟」があった。

当然に、「嫁ぐ準備」は、「女(むすめ)」に対して「口出し厳禁の掟」と「養育平等の掟」と成ってはいる。
これが、その「母元」と「女(むすめ)」に執っては「見栄の性」としては気に成る事ではある。
これを、「平等」に扱う事を前提に「養育所の住職」に任していた。
“「養育の一切」”と“「出と入りの手配」”の「下計画」を当然に「福家」が決定していた。
これに対して「住職」が「実務」を務めていたが、「福家と母元」は「女(むすめ)」の事には「口出し厳禁」であった。


そこで「面白いもの」があって、これに触れて置く。

これも「女系の妻嫁制度」を「適正に守る方法」で確立されたものであろう事が判る。
何故ならば、これを司る「執事の差配」が「何らかの間違い」を興した場合、常に「6のパラメータ」であれば良いが、この「4のパラメータ」が狂い「3の領域」に入ったとすると、「血縁の弊害」を興す可能性が否定できなかった。

この時、「執事」は、常にこの「6のパラメータ」にあるかを確認して、「妻嫁制度と嫁家先制度」を管理していた。
従って、これで行くと、上記した「三つの血縁源」から「入妻」として入る「女」が「3のパラメータ」に成らないか先ず「確認注意する事」に成る。

(注釈 「出と入り」の「女系譜」、又は「女過去帳」の様な「一覧表」を作っていた可能性がある。
それでなくては「管理」は到底無理であろう。
故に、「女墓」が出来ている所以であろう。
この一覧表は明治35年の災禍で消失した。存在した事は確認できる。)

どう云う事かと云うと、解りやすい例が直近で起こっていたのである。
それは、上記した「冠位と位階」を持つ「近江佐々木氏(地名から賜姓)」は、「施基皇子」の弟(兄とする説もある)の「川島皇子」の出自であり、「佐々木郷(奈良期は斎々木の地名)」の「川島皇子(色夫古女)」は、「施基皇子(越道郎女)の息子の「白壁王(後の光仁天皇)」は「叔父」にあたる。(パラメータ1)
その「叔父の家」に、「光仁天皇の女(むすめ)」の「能登王女」が、「川島皇子の男子」の「市原王」に嫁す。(パラメータ1)

ここで「いとこの三親等の血縁」に成る。
且つ、この「市原王」は「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
既に、ここで「近江佐々木氏」では大きな「トランスポータ」が蓄積された。(青木氏族の所以)

ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「能登王女」の「女(むすめ)」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入った。

(注釈 「能登王女」も共に伊勢に戻る。これは要するに前段でも論じた様に「後家」として戻った事に成る。
正しくは離縁して娘を引き連れて戻った事に成る。
「能登王女」も「青木氏の四家」の叔父に嫁した形を採っている。)

この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等の血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポータ」が蓄積される。(パラメータ2)

処が、更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもある。
既に、「曾孫」のここに更に「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「名張王女」”が嫁したのである。
この段階で、その“「名張王女」”の「近江佐々木氏」の「女(むすめ)」に「血縁弊害」が必ず起こっていた筈である。

つまりは「血縁弊害」の起こらなかった「女(むすめ)」が、再び、「伊勢青木氏に嫁した事」に成る。
これは可成り大きな「トランスポータ」が「伊勢青木氏の四家」にも蓄積されていた事は否めない。
女系で継承される「ミトコンドリヤの基本遺伝子」が元に戻ったと云う事である。
「女同士の近親婚」は生理上あり得ないので、これをどの様に考えていいか良く判らない。
この時期では、未だ、この様に相互に「女(むすめ)」の「交換の血縁」は常態化していた。

従って、この時の「執事の差配」は、この「嗣子」と「佐々木氏に嫁した能登王女」の「女(むすめ)」との「入妻」は既に絶対に避けなければならない事に成っていた筈である。(パラメータ3)
これは「女系」で引き継がれるこの「人の遺伝子」は、それも「二重」に元に戻って仕舞う事に成る。
これは最早、「近江佐々木氏=伊勢青木氏」と成って仕舞った事を意味する。(青木氏族である。)
況して、この「嗣子」が、当時の「相互血縁の仕来り」で「近江佐々木氏の女」(むすめ・いらつめ)の「入妻の男子」であった場合は「トランスポータの血縁弊害」は最悪と成る。

(注釈 不詳だが、あった可能性が充分にあった筈。)

これでは「男子」が母親から引き継いだ同じ「人の遺伝子(潜在性遺伝子)」が同じ家内で血縁すると云う「最悪の現象」が起こる。

(注釈 「人の遺伝子」は直接に女系に繋がれる。)

更に殆ど訳の分からない「近親婚」に近い事が起こる事に成る。
確実に、この時、「伊勢」にも「近江」にも「血縁弊害」が何かが起こっていた事に成る。
だから、一方でこの時期の「政治没」や「生誕不詳」や「消息不明」の記録が実に多い事の一つであろう。
故に、そしてそれは、「青木氏族」や「佐々木氏族」の「掟」のみならず「弊害子・嬰児」は「普通の仕来り」を超えた事として「抹殺される事」が「位階」の持つ「貴族社会」での「社会の掟」と成っていたのであった。

従って、この事があって、“「良い子孫存続」”の為の「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「伊勢青木氏」は、この時の経験を生かして「最悪の血縁」が生まれると云うどの様な「人の遺伝子」を持ち得ているか判らない「男子継承方法」を避けた。
そして、「人の遺伝子」を明確に引き継いでいる「女系」で管理して、「最悪の血縁」を避け「良い子孫存続」の方法をこの時に採ったと考えられる。

この時、「青木氏」には「女性」による「人の遺伝子」を引き継いでいるという「漠然として概念」に到達していたと観られる。
当然にこの当時では、「遺伝子と云う概念」は無かったが、“「経験」”から「女性の持つ特異性」を感じ執っていたのであろう。

それの経験とは、筆者は、「男女の両性」にあって「男性」のものが機能していないと云う事に気が付き、その次の「四つ事実」に着目していたと考えている。

大部前の前段でも論じたが、男性には「へそ」と「ちち」と「子宮」と「生殖器の一部」は保持しながらもそれが“機能していない”と云う現実に気づいたと云う事である。
当時、「子宮」の位置には未だ「男性」にも「親指程」のものが「なごり」として機能せずに遺されていた事が人類学の研究で判っている。
「交配の進む民族」にはこれが「進化の過程」で無く成ったとされ、未だアフリカや交配の進まない山岳民族に現在も観られる。

その「生殖器の一部」とは、「女性の膣」の「子宮の入り口」に“「ちんこう」”と云うものが現在人にもある。
これは「子宮の入り口」を閉めているもので同形の機能を持つ。
そもそも、「男性の生殖器」は「女性の生殖器」の単に外部に突き出たものに過ぎない。
この「進化の過程」で女性にある恥骨が男性には消滅した。
又、女性に無く男性に在る「喉仏」もこれを物語る一つである。
これらを「総合した能力」から「女性」が「人の継承の源」である事を外見から見抜いていた事に成ろう。

(注釈 人間で無くても虫や小動物の雌からの分離で雄が出来て生殖を行いその後死滅や母体に戻る等の変異を起こす。
これでも解る。
中には余談で海中や小動物に「ブルーの光」を雌に強く当て続けると雄に替わる等の事も解っている。)

(注釈 昭和の中頃まで、“娘は母親似、息子の娘は祖母似“と云う「言い伝え」があった。
つまり、「息子の娘」には、「祖母似(息子方・潜在型)」と「母親似(直系型)」の「二つの系統」が起こり引き継がれると云う事であるから、相当前にこの真実を既に分かっていた事を示す。
つまり、上記でも示す様に外見でもこれは現在の「ミトコンドリヤの遺伝子」の摂理を既に云い充てていた事に成る。)
 
即ち、前段でも論じている「女系の妻嫁制度」では、他の氏族とは異なり、上記の「社会の掟」に従うのではなく、この外見上の経験則の経緯からも最低でも“「パラメータ3」(四の法則)”に成る様に改善を加えて行ったのである。
そして、常時は「パラーメータ4」(「パラメータ5」)に成る様に「女系の妻嫁制度」を改めたのである。

この「血縁制度」は「氏族の命運」を左右する要素であって、それ故に、“「四の法則」”に従う必要があった。
かと云って、平安期は当然の事として、鎌倉期も未だ難しい状況下にあった。
「下剋上や戦乱」と云う中での室町期中期頃までは“「六の法則」”は、「三つの発祥源の役務」を崩す前提に成るので、先ず執れなかったというのが現実であった筈である。
執れ始めたとしても、「江戸初期過ぎの安定期」に入った頃からの話と成っていた事に成る。
唯、「パラメータ5」の「六の法則」を取り入れたかは別問題であろう。

(注釈 「青木氏の四六の古式概念」は、「資料」より読み取ると、「始り点」(原点)を「影響の出ない点」としてそれを「−」として計算、「パラメータ」は、影響の出る「開始点」を「1」として計算する。
数理学上は「パラメータ」は原点を「0」としている。
この原点を「0」とする処に「古代浄土宗」と「神明社の融合」の「宗教的概念」があった様である。)

この時、この「天皇家や公家族や氏族内」で起こるこの「血縁弊害の現象」を観て、「青木氏の執事」は、「四の古式概念」で防いでいた事が資料より読み取れる。
そして、防ぐ為にはその“「発生源の範囲」”を確実にする事により改善したとされる。

それが、如何なる理由があろうとも、「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式を導き出し確立させて行った事に成る。
「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式で、経験則で「パラメータ4」(五の法則)で差配すれば、「血縁弊害」は完全に解消される事に成ったのである。

(注釈 但し、これには一つの「特別な掟・前提」があった。それが“「嬰児」”と呼ばれる掟である。)

この「嬰児の掟」(別記)を護る事が大前提とした。
従って、この「関係式」を維持するには、相当に“「執事の管理に依る差配」“が左右したと考えられる。


ところが、上記の例に観られる様に、「パラメータ2」の内で「嫁家制度」を未だ敷いている「位階」の持つ「三つの血縁源(近江佐々木氏等)」があった。
ここから入る「伊勢の妻嫁制度」の限りに於いては、「福家と四家制度(4+4*4=20)」のこの「関係式」を敷いたとしても、「人の遺伝子の弊害」を持ち込まれる可能性は未だあった。
これには“「四掟を基準とする付き合い」”を続ける限りは防ぎきれないものが絶対に起こる。

さてそこで、考えたのが、「人の遺伝子」を直接引き継ぐ“「女(むすめ)」の範囲」を広げる事”にあった。
このシステムでは、「人の遺伝子」の“「種と量」“が「氏族内に増える事」に成る。

(注釈 男系の場合は、息子が引き継ぐ母親から「人の遺伝子」は隠れていて「息子の娘」にどの様に出るかは判らないし、娘を二代続きで生まれなかった場合は、「母系の人の遺伝子」は消える事に成る。
つまり「血縁濃度」は高く成る。
「重要な事」は論理的にも「男系嗣子の交配」は上記した様に「潜在型」である以上は外見からは管理する事は出来ない。
娘が二代続きで生まれなかった場合の確立弊害の防止は男系では出来ない。
その点では「女系」で管理すれば「直接型」であるので外見からは管理は可能である。)

これは前段や上記で何度も論じている事である。
「氏人からの血縁源の導入」と、それを補完する「女(むすめ)」の「養育制度」との二つであれば、例え「嫁家先制度の相手」が「位階の持つ三つの血縁源」であっても問題なく出来る。
それは「女(むすめ)」の範囲を広げた「女」を差し向ければ、どんな事があっても「パラメータ3(四の法則)」、或いは、「パラメータ4(五の法則)の数式論」は完全にクリヤー出来る。

何故ならば、この「三つの血縁源」から、再び、仮に「伊勢青木氏」に入ったとして、広がっている範囲で云えば次の様に成る。

それは既に、「パラメータ2」(三の法則)で嫁いでも、そこから、更に、「三つの発祥源」の「女(むすめ)」を「入妻」として迎えても、この過程では更に「パラメータ2」が加わり、最低でも、「バラメータ4」(五の法則)に成り得る。

直接、「自分の子供」の「女(むすめ)」を差し向ける事は、「名張王女の例の場合」でも「曾孫域」(パラメータ4)であったので、現実として、これを踏襲するとすれば、例え、「氏人との血縁性」があったとしても可能に成り、恐らくは、「パラメータ5」(六の法則)に成ったであろう。

それが「玄孫(「夜叉孫域」)」の「女(むすめ)」とも成れば、確実に「パラメータ5」(六の法則)に成る。血縁弊害の可能性は極めて低く成る。

つまり、恐らくは「女(むすめ)」の範囲を「玄孫」までとしたのは、「相手との血縁状況」が、何らかの「近い血縁」が結ばれる運びに成った可能性がある。そこで仮にあっても、「一つの方法」として「玄孫」を「嫁家先制度」に組入れておけば解決する事と成ると判断した事に成る。

では、そこでこの「嫁家先の相手」は、「何処の氏族」かと云う事に成る。相手次第だ。
これが、あり得るとしてら「伊勢秀郷流青木氏」か「秀郷一門の伊勢の伊藤氏(伊勢藤氏)」の範囲と成り得るだろう。

注釈として、 「信濃青木氏」は、既に「四掟の範囲」を超えた殆ど「同族(四親等内親族・直系尊属)」に等しく、「伊勢青木氏」と同じとして考える必要があった。
「信濃青木氏=伊勢青木氏」の関係式である。
上記の「近江佐々木氏の事」を考えれば、最早、その隙間は無く「伊勢青木氏」で論じる場合でも、それは何もかも「伊勢青木氏=信濃青木氏」と成るに等しい。
現実に「系譜」を観れば、又、「口伝」でも明治9年まで現実にそうであった。

然し乍ら、当然に「信濃青木氏との血縁」は、「伊豆の融合青木氏」に観られる様に、「他の青木氏族」とは異なり頻繁に行われていた。

では、だとするとこの「青木氏族の組み合わせ」の「信濃伊豆」との「血縁の弊害」はどうしていたのかである。

それが出来ていたのは、「伊勢青木氏=信濃青木氏」である事より、其処には、最早、“「位階」”と云う「バリヤー」の存在を超えていたもの何かの事があったからである。

この「位階」が、「四掟」が、「嫁家制度」の「バリヤー」が、存在しない氏族はどの様であったかである。
全く同様の「四家制度」と「女系に依る妻嫁制度」、や「後家制度」、「多気の里、神職、住職、物忌、支女、斎院、斎宮、」等の制度一切も、「伊勢青木氏=信濃青木氏」であると云う事に成っていた。
依って、「同じルートの中」にあった。

これを解決できるキーは「氏人の郷士の血縁源」であった筈である。
最早、「氏人―氏上」、「御師」も同じと成ると、「女(むすめ)の制度」も同じであれば、必然的に“「信濃の小県郡の郷士衆との繋がり」”も双方が血縁で結ばれていた事に成り得る。
これが血縁の弊害防止の策と成し得ていたとする答えである。


これを検証する。

注釈として、江戸期初期前は、「小県郡の青木村」は「六郷」に依って構成されていた。
後段でも詳細に論じる。

そうすると、「伊勢」の「女(むすめ)」を「信濃」に、「信濃」の「女(むすめ)」を「伊勢」にという事が興る。
「伊勢」の「女(むすめ)」の「氏人の郷士」の「自由な血縁源」と、「信濃「女(むすめ)」の「氏人」と成っている「限られた郷士」の「自由な血縁源」が交互に、「伊勢と信濃の青木氏」に入る「仕組み」と成り得ていた事に成る。

そもそも「信濃青木氏」の「氏人の郷士」は「小県郡青木村の郷士数」に限られていた。
「信濃」にも、初期には「移動する国衆」も含めて変動する中でも「500以上」はあったとされる。
ところが当初の平安期の頃と比べると「氏人の郷士衆」は1/10程度に激変化した。

注釈として、平安期末期頃までは、
現在の地名で云えば次の様に成る。

長野市 1郡
大町市 3郡
小県郡 2郡
上田市 1郡

以上の四か所の7郡までを「郷氏」としての「勢力圏」として治めていた。

「信濃国」は「10郡 67郷」にて構成されていて、当時としてはこの内の「4郡程度」を勢力圏にあった事に成り相当な勢力を保持していた事に成る。

昔は1郡に「平均50郷士」が存在し得る限界数であって、これ以上は面積的な事からも無理の様であったらしい。
この事から、当初は「200程度の郷士数」を支配下に治めての「巨大な郷氏」であったと考えられる。
然し、記録から実際はこの時の「氏人」と成り得た「郷士数」は「100に満たない数」であったと考えられる。

江戸期初期に成ってこの「勢力の支配地」は「殖産可能な肥沃な土地」であった事から「江戸幕府」に依って「幕府の財政確保」の観点から「幕領地」として接収された。
従って、この経緯から最終は住む域が分断された事に依って次第に衰退し「小県郡域の一郡域(青木村)」と成った。
「郷士数も50以下」と成ったのである。

然し、「信濃青木氏」は「接収の結果」として、この元の「聖域の4郡の連携域」では「7郷が確実な村範囲」として広く「地権」が認められていた。
結果として、この「地権域」まで含めると「合計12郷域」までにも分布している事に成った。

下段に論じる様に、ここに江戸期初期の主に享保期には「大変な出来事」が起こった。

(注釈 伊勢青木氏と吉宗との関係はこれで最悪と成った。)

この事に就いては小県郡の青木村の「青木村歴史館」にも記録が遺されているし、公に成っている研究論文にも詳細に論じられている。

さて、この上記の「注釈の範囲」に於いて、それが「玄孫(パラメータ4・五の法則)の範囲」として血縁すれば、既に、「玄孫域」では「パラメータ4」を超えている事に成り得る。

故に、「伊勢=信濃間の血縁」は、「玄孫の更なる目的」として先ずは「玄孫域を原則」と定めていた根拠に成る。
これが「郷士数」と「玄孫域」の「二つの防止策」で先ずは「血縁の弊害」を防いでいたのである。

この「玄孫域」を用いる疑問は、「研究の過程」で資料から読み解けた範囲である。

「資料」には、四度も「玄孫」の「女(むすめ)」が相互に時期は多少異なるが、「出と入」が起こっていた。
「伝統−40の末尾」に記した下記の「女(むすめ)」の範囲は、「玄孫域外」の次の域と成る。

5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

以上は、資料から散見できる範囲では、何らかの“「特別な事情」”により養育した事が考えられる。

この「5〜7の範囲」の「女(むすめ)」が実際の「嫁家先制度」に乗せたかは定かではない。
然し、あった事は事実であろう。
因みに、「筆者の父」の従弟は「伊勢郷士」の出自であり、別の従兄は「信濃郷士」である。


そこで、検証の問題なのはこの“「特別な事情」“とは何であったかは定かではない。
唯、これは「青木氏側の事情」と云うよりは、「室町期末期の混乱期」の、前段での「伊賀の件」の様な「氏人の家」に「氏存続」の“「特別な事件」”が起こった事が主な事も一つとして考えられる。

「伊勢=信濃間の血縁」は上記した様に「玄孫域」で解決出来ているので、それ以上と云う事に成ると、論理的に「信濃」や「伊豆」と「秀郷流青木氏」の「伊勢や近江や武蔵」の「関係性の深い青木氏族」のところに「特別な事件」があった事と成る。
故に、「青木氏の資料」には確たるものとして多く散見できないのであろう。

それらの事が原因して「伊勢内」では、
先ず考えられる「一つ目」は、「青木氏の四家」では無く“「氏人の家の断絶や跡目」”が途切れて保護した等の事であろう。
考えられる「二つ目」としては、上記した様に江戸期初期の前後に「信濃の小県郡」等は「富裕な土地」として「幕府殖産地政策」の一環としてとして「幕府領」として接収されたがこの事に依るものであろう。

この二つの事に依って上記した様に、「信濃青木氏」が「4郡の連携域」が「7郷」から「12郷域」の5域に分散させられた。
そして、「自由な絆の血縁」が制限される結果と成った所以であろう。

この「5域」に対しては「地権」、つまり、「庄屋(郷氏)」が認められたかは定かではないが、「青木村付近」で興した「五つの大一揆」から観て「庄屋」ではなかった事が考えられる。
一揆の首謀者は全て村を藩から派遣された「組頭」であるからだ。

筆者の見解では、一揆の事も含めてこの「5地域の青木氏」を「家紋等や伝統」などで調べた範囲では広く認められていなかったと観ている。

「上田藩」に下げ渡された段階までは、「殖産の指導(和紙と養蚕と酒造り)」と云う範囲で認めてられていたが、「幕領地」から藩領に成った時点の頃から家紋が変化している。
「和紙と酒造り」は「7郷」でも主と成って殖産していたので「変化の境目」が出難い。

殖産をさせる為に分断された「青木氏の者」が「真田藩、上田藩、小諸藩、岩村田藩」の「四藩」に本来あり得ない筈の家臣化しているのである。
つまり、家臣化、即ち「姓の血縁化」が起こった事に成る。
この事は「庄屋」では無く成っていた事に成る。

故に、そうすると突き詰めるとした場合、信濃では分断されたことで「血縁」が「5、6、7の事」と成ったと考えられる。

(注釈 その後、「幕府の殖産政策」が「青木氏等の努力」で大量の生産態勢が立ち上がった事を契機に幕府は「上田藩」に下げ渡し、管理させて「殖産利益」をフィードバックさせていた。)

この時、「地権のあった土地」を奪われ、当然に貧した「信濃青木氏の氏人」の子孫を遺す為に、「伊勢の福家」は「7郷以外」の「女(むすめ)」を「伊勢の妻嫁制度」の「女(むすめ)」として引き取り、「伊勢」に保護したという事が充分に考えられる。
「信濃」は相当に貧していた。(全国唯一一か所に集中して五大一揆が頻発している。)
それが、農民では無く「組頭の武士」である。
これは大きな意味を持つ。
藩から派遣され「藩に味方する武士」が「一揆の首謀者」である。
如何に藩の治世が悪かったかは判る。
言い換えれば、「青木氏の氏族」は如何に貧していた事かを物語る。

(注釈 「正規な資料」が遺されていないが、その「経緯」が遺されていてその経緯からも充分に判る。
「幕領地としての接収」と「国衆の侵入」が大きい。)

「幕領地の接収根拠」は「4郡12郷」は「天領地」であった事が「接収の理由」と成っている。
江戸初期に全国の天領地の多くが幕領地として接収された。
「伊勢」も「青木氏の旧領地」と鎌倉期の「本領安堵地の地権」は江戸期でも認められたが、その「他の本領地」は「接収」と成り例外では無かった。
唯、前段でも何度も論じたが、「紀州藩との殖産共同体」や「勘定方指導」や「貸付金」や「朝廷への献納金」や「伊勢神宮の協賛」や「徳川氏との血縁族の四日市殿」や「莫大な財力」の等があった。
これで、「本領地地権を接収する事」は“却ってこの「ツケ」が自分に振り返って来る事”から幕府に「紀州藩」は働きかけたのである。
そもそも、「紀州藩の家臣」の殆どは、「伊勢青木氏」との血縁関係にある「伊勢藤氏」と「伊勢の秀郷流青木氏」等で占められていた事の経緯がある。
これが良い方向に動いたのである。
然し、周囲との手前から「接収無し」とは行かず「中伊勢域の接収」を形式上で行われた。
結果としては、その「管理元は紀州藩」と成り、「青木氏の財力」に依って結果として「殖産地・地権」として利用している事から実質は同じであった。

唯、ここに「山田奉行所管轄の幕府役所」が置かれていた事は事実であり、後にこれが「伊勢青木氏と揉める事」と成ったが、家康の“「伊勢の事お構いなし」”の「お定め書」で優位に立った。
つまり、「信濃」にはこの経緯が起こらなかった。

結局の処は、この「根本」は「伊勢」は奈良期からの「日本書紀」に書かれている「天智天皇の不入不倫の権」が伊勢では大きく左右したと考えられる。

これは「女系の妻嫁制度」のそのものの為に執られた範囲たけではないだろう。

この「5〜7の範囲の事」は、「執事」が専門的に判り得たとしても幾ら何でもそもそも「正式な記録」の中にこの様な事(「特別な事情」)は遺し得ないであろう。

注釈として 検証するとして論理的に「女(むすめ)」での「子孫の拡大力」と、男での「子孫の拡大力」はその比ではない。
前段の「人の遺伝論理」の通りで、「男性5」に対して「女性1」=「人の数1」であるが、「女性5」に対して「男性1」=「人の数5人」の以上と成り得る。

そもそも「人の形態」では、この摂理は「男性」は「女性の分離体」としてで出来ている所以でもある。
因みに、みみずは、雌が主体で、生殖時、メスが体を二つに分離し、雄を作り、生殖後は、その雄は再び雌に変化する。
この様に、「生物」に依りその生殖構造は異なる。

故に、注釈の通り、「5〜7の範囲の処置」は、「子孫拡大」には“「女(むすめ)」”を保護する所以であって、「女系の妻嫁制度」もその所以の一つでもあった。

そもそも、この「5〜7の範囲の事(特別な事情)」は、平安期から江戸期初期頃までの時代とは云え、そこまで解る範囲であったのかが疑問である。
然し、そこは伊勢も信濃も「執事の差配処」であったらしい。

(注釈 現在ではこの範囲は全く他人の範囲であって、精々、田舎では「口伝の範囲」であろう。
然し、平安期では「伝達手段」が低いにも関わらず少なくとも「5〜7の範囲の事」は「執事の範囲」では把握できていた事が「旧領地の家人の家の資料」の中に散見できる。
然し、それが「女(むすめ)」の範囲として「常時の範囲」では無かったであろう。)

そもそも、「時代の経緯」としては、平安期では上記の「尾張王女の例」の通り、確実には「伊勢の範囲」では「子域」、「孫域」、或いは、「曾孫域の範囲」で行われていた。
「玄孫域」は、「信濃」を除いては、当に、「5〜7の範囲の処置・「特別な事情域」」の事と成り得ていたのである。
それが、鎌倉期、室町期と時代の変化が進むに連れて、「玄孫域」までが、「通常の仕来り掟の範囲」として「女系の妻嫁制度」として採用される様に成ったのである。
当然に、「嫁家先」も、この「時代の経緯の環境」の中(四掟)にあった事は云うまでもない。
ところが「時代の経緯の環境」は、当初からの「5〜7の範囲」とは成らなかった。

然し、平安期では、「玄孫域」は、未だ“「特別な事情域」“で、室町期末期や江戸期初期では、それが変化して「5〜7の範囲」が“「特別な事情域」”と成ったとする経緯である。

当時は、「系譜」を「氏人の家」にも、当然に「青木氏」(菩提寺)にも備えてあって、それを突き合わせれば「容易な事」であり、全く問題は無かった。
「幼名、俗名、戒名、通名」などを読み込み書き記し、観るだけで大方は解る。
これはその証拠としてその「出自」等を読み込んだ「曼陀羅絵」や「過去帳」や「女墓」が出来る所以でもある。

(注釈 江戸期は、一般の系譜は何度も論じてはいるが「搾取偏纂の系譜」で信用は出来ない。)

唯、「玄孫」は筆者の代でも何とか確認できて知り得ていた。
故に、「玄孫域」では「専門に扱う住職の執事」は、「50の郷士の中の事」の域では、全て記憶の中にあって、即座に答えられ判断され全く問題は無かったと考えられる。


何故ならば、「伊勢青木氏」の「女系の妻嫁制度の権威」を、例え「女(むすめ)」の事に成るとしても、「位階」の持たない「伊勢郷士」の「氏人の男子の血筋」の入った「女(むすめ)」が嫁す事を容認したかである。
と成れば、「嫁家先の彼ら」はそれをそもそも「許容するか」である。
どんな理由で許容するかである。

その答えは、“「権威」”に関わらず、「伊勢」や「信濃」に“「根付いた範囲の氏族」と成り得る“と判断していたからに外ならない。
それは、郷士族であったとしても“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」”に他ならない。
伊勢も信濃もである。

“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」を”言い換えると、次の様な経緯と成る。

論理的には「女系の妻嫁制度」には、“「人の遺伝子」を引き継ぐという概念”があった。
これに対して、「四掟」で限定された「嫁家先」では、少なくとも“「ある程度の理解」(「1千年と云う歴史」の「血縁の力」)”を示していた事が云える。

そうで無ければ、「一方的な押し付け」と成り、幾ら「女系の妻嫁制度」を敷いているかと云って「押し付け」を可能ならしめるレベル状況では無かった筈である。
従って、その「理解の前提」は、上記の「外観差異の生態的な認識」の下にあって容認していた事に成ろう。

現実に、「四日市殿(秀郷流青木氏との融合族青木氏族)」が「四家外」に誕生している事がその証拠と成ろう。
又、幾つかの資料に依れば、この時の「四家の継承者の嗣子」には、「京の位階の低い公家」より「入妻」を配置している。

(注釈 公家の名は避ける。位階があったが、従五位下で「妻嫁制度と嫁家先」の「血縁頻度」は低い。
然し、光仁期から明治期初期まで三度もこの「公家族」と血縁をしている。
この「公家」の一つは、筆者の父方祖母の家で、その血縁の最後と成るのはこの祖母は血縁の三年後に明治33年災禍で死亡と成る。)

(注釈 「桓武期」から「嵯峨期」に掛けて「出自先の青木氏」の「取り扱い」に対して親子で政争と成る激しい論争が起こった。
然し、この時、「桓武天皇」の「青木氏賜姓」の「存続論」と、「嵯峨天皇」の「青木氏」を「賜姓族」から外す「除外論」が対立した。
この「論争の争点」の一つがこの「女系の妻嫁制度」にあった。

つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
“否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。

然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
結局は、「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
子孫が政争で絶えるとしたのである。

歴史的に後勘として観れば、これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
解決策の一つはこの「令外官」にあった。
「皇親族」を外されたのであるのだから「令外官」でない筈である。
然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は出自を前提としている事から外せない。
依って、「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。

此処には確かに歴史的に観れば「表」では「脱落家の氏族」であった。
そこでこれを160年後(円融天皇)は、「補完役の秀郷流青木氏」の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。

つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているを認識していたのである。
況や、これが唯一と成つた「氏族」の故であろう。
:

「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」


  [No.370] Re:「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/05/15(Wed) 10:07:04

> 「青木氏の伝統 49−1」−「青木氏の歴史観−22−1」の末尾。


> つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
> “否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
> これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
> 結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。
>
> 然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
> 結局は、二世族として「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
> この「醜い政争」で子孫が政争で絶えるとしたのである。
>
> 歴史的に後勘として観れば、この懸念は充分にあり得た。
> これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
> 解決策の一つはこの「令外官」にあった。
> 「皇親族」を外されたのであるのだから慣習仕来りの論理的には令外官」でない筈である。
> 然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は、出自を前提としている限り変わらないのだからこの事から外せない。
> 依って、難しい所ではあるが「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
> つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。
>
> 此処には確かに歴史的に観れば「表」では皇親族から外れたのであるから「脱落家の氏族」であった。
> ところが、そこでこれを160年後(円融天皇)には、「補完役の秀郷流青木氏」の出現の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。
>
> つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているのを「円融天皇」は認識していた事に成るのである。
> 況や、これが後に唯一と成った”「氏族」”の故であろう。



「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


さて、この「時の事」を血縁で観ると、その時の「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は止むを得ない「時の差配」であった。
つまり、「政争」から逃れる為に「四掟の純潔性」からシフトして、「パラメータの差2」で「血縁性を薄める事」で「出自族」から逃れようとしたのである。
これは「賜姓五役」の一部を緩めた事をも意味する。
「女系の妻嫁制度」は、「純潔性の男系制度を敷いている天皇家」との決別を意味した。

「青木氏族」に執っては「象徴」でもあり「権威」でもある“「賜姓五役」の一部を緩めた事”と云う事は、勇断でこれは「皇別族」の「四六の古式概念の仕来り」の「ぎりぎりの所」であった。
然し、「女系制度」を執ったとしてもこの時(血縁的には仁明期頃)までは「ぎりぎりの所」であるとするが、ところが「血縁弊害の限界」の「パラメータ3」(四の法則)に対する「確固たる自信」は未だ無かったと観られる。
結果としては、これを進めるには「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は「ぎりぎりの所」の外側の「外れる処」では未だ無かった事に成る。

従って、通常は、「パラメータ2」(三の法則)以下では、「仁明期頃」までは確実に行われていた。
然し、「女系」にすればすべてが解決するとは成らず、「女系」で観れば同時に「経験」に「改善」が加えられ乍ら、結果として現実には「パラメータ3」の「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)までの間を採った処と成り得ていた事にある。
それを叶えたのは「女系」だけでは無く「独特の妻嫁制度」にあった。

この間を詳しく観れば「パラメータ3」「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)に成るまでの間には、つまり、この「160年程度」の間は「過渡期であった事」を意味する。

ここで、この「過渡期であった事」から超えて、「経験則の160年後」は初めて「青木氏」としての本当の「四六の古式概念」は成立させて行ったのである。

「慣習仕来り掟」は当然の事として、つまり、「氏族存続の前提」の「血縁」に関しても「正常な概念」と成り得て行ったと考えられる。
それまでは、「パラメータ3」「四の法則」が「血縁弊害が起こらないとする限界経験値」と充分には成り得ていなかった事に成る。
これは「記録」から読み取れば、その間に“「嬰児の発生」”があった可能性が充分にあったからだ。

(注釈 そもそもここで「氏族」に課せられた「重要な慣習」があった。
それは”「嬰児」と云う習慣”である。
これは「習慣」と云うよりは寧ろ「掟」であった。
これは記録に乗せない習慣であった。
「奇形児等の弊害」の「嬰児の処置」には「決められた掟(作法)」があった。
「奇形児」とは成らずとも「精神障害の弊害児」が成長期に判ればこれも同様の処置が成された。
「嬰児」とは、「血縁弊害」に依って「障害のある稚児」が生まれた瞬間から「濡れタオル」で窒息させて、直ちに無かった事として始末する掟であった。
当時は血縁弊害に関わらず「死産」も多かったのである。
これは「氏族」に課せられた「絶対的な掟」であった。
「奈良期・平安期の天皇家」にはこの掟を破った為に後に問題が起こった史実が多くある。
その一つが我々の「青木氏族」に関わる始祖にあった。
始祖の「施基皇子」はその為に第六位でありながらも皇子順位は第七位と成り、その後に障害児の死亡に基づきに第六位に戻つた。)

「注釈の掟」の通りそうなると、「パラメータ3」「四の法則」では未だ駄目であり、「パラメータ3」「四の法則」では無くて「パラメータ5」(六の法則)が「正常な経験値」であった事に成る。
「パラメータ3」「四の法則」では医学的な論理的判断では問題がない筈なのだが、後勘から観れば「遺伝子学的な領域」であった事に成る。
「パラメータ2」「三の法則」までの環境の中から「パラメータ3」「四の法則」に移る過程では一つ起こる遺伝子的問題がある。
それは「血液型」と「隔世遺伝の法則」で「パラメータ3」「四の法則」でも出て来ると云うことである。
「パラメータ3」「四の法則」の環境が続く中では「パラメータ3」「四の法則」のこの「血縁弊害の現象」は起こらないと云う保障の事に成らないと云う事に成る。
それを解消できた期間が、「160年間と云う事」に成る。

つまり「160年」が「経験則」で獲得したと云う事である。
医学的には「隔世遺伝」が消滅して起こらないと云う事に成る。
その「時期の経緯(仁明期頃 「始祖施基皇子」より約100年後)」までは「安全な法則」に直ぐに切り替えられたとは判断できない。
従って、この時の「猛烈な経験」を得て「鎌倉期から室町期初期」に掛けて、「パラメータ2」から「パラメータ3」(四の法則)の「限界経験値」の方向へと切り替えられて行ったと考えられる。
当然に、「養育制度」の「女(むすめ)」の範囲もこれに従ったと考えられる。
恐らくは、「室町期初期から室町期中頃」まではその方向性が充分にあった。
としても、より「良い方向」の完全に「パラメータ4」、又は「パラメータ5」(六の法則)に切り替えられたかは疑問で、それは無理であったであろうと考える。

(注釈 「青木氏族の歴史的経緯」から観て「パラメータ3」「四の法則」は「ある程度の血縁弊害」が何とか除かれた時期の「限界経験値」であった筈である。
そして「パラメータ5」(六の法則)は「血縁弊害」の起こる時期の「限界経験値」と成っていた筈である。
その様に掴んでいたと考えられる。)

実質は別としても、資料から読み取る範囲では研究から来る状況判断として、筆者は「彼らの概念」としては”中間の「パラメータ4」(下記4)では無かったか”と云う印象を持っている。

「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)
以上の関係式から、従って、詳しくは次の様に成っていたと考えられる。

「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)

以上の範囲で留まっていたと観ている。
(伝統―40に記載 追記)

つまり次の範囲で区切られるのだ。

通常の範囲
1 子、
2 孫・
3 曽孫(ひまご)
4 玄孫(やしゃご)

特別の範囲
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

注釈の通りの「概念」としては次の様に成る。

「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)=1〜4

「通常の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける様に「概念」が働いた事と成る。

当面は「血縁弊害の管理」を厳しくして行けば以上の関係式でも良い事に成る。

「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)=5〜7

従って、問題が興れば「特別の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける為にも「血縁の概念」を変えようと働いた事と成る。

然し、実体は期間がかかっている事から観るとこの逆から努力するもなかなか逃れられなかった様であったらしい。
つまり、“「女系の妻嫁制度の改善」”が「確立する過程」までは「以上のプロセスの例」に物語るものが大きいと考えられるのだ。

つまり、「三つの血縁源の効果」が発揮するまでは、所謂、「氏族」が完全に構築できるまでは「大変な事」であった事が伺える。

実は、それを物語る証拠の一端が遺されているので論じて置く。
それに触れて置くと明らかに上記の「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来る事にも成る。

「青木氏族」(伊勢や信濃等)は、その為にも、これらの事の「知識」を“「女の得本(「血縁弊害の原理を獲得した事」)」”として纏めて持たせていた。

「三つの血縁源」に対しての「嫁家先」にも嫁ぐ「女(むすめ)」を通じて「同じ範囲の概念」である様に指導し教育し導いて行ったのである。
それには、これら全てを明記した「確たる内容の物」、つまり、“「女の得本」”が編集されていた事が判っているのだ。

「青木氏族」を健全に保つ上でも、考えると「光仁期から仁明期の立場」は非常に重要であった事に成る。
これらを「本」にまでして纏められたのは「他の青木氏族」には経験し得なかった「知識」であった筈で無理であっただろう。
前段から論じている様な「確たる制度を敷いていた事」からこそ得られた「知識や概念」を集約出来たのである。

(注釈 筆者は「商い」を通じて「貿易」も影響していたと観ている。又、500社から得られる神明社から全国の情報もあったと観ている。
そもそも「施基皇子の撰善言司」の家柄である。)

恐らくは、故に「嫁家先」には、この“「女(むすめ)の教育」”を受けた「嫁の立場(家の慣習仕来り掟に於いて)」は相当なものであったと予想される。
何故ならば、当然に、その「嫁家先」には、一族の「祖母(パラメータ2)」か「曾祖母(パラメータ3)」が存在し、古い彼女等は、元は「伊勢や信濃」の「女(むすめ)」であった筈である。
「嫁家先の四家の範囲」に「大きな影響の基盤」が出来つつあったと考えられる。

つまり、それには「経験則」か「何らかの医学的知識」を獲得して「影響」を与えたのは“「女の得本」”であったと説いている。

参考として、後勘から観ればそれはかなり綿密でそうとうな「医学的知識」を獲得している。
それを「養育時の作法の本」として使われ、且つ、嫁ぐ時の“「女の得本」”の所持品でもあった事も解っている。

実はこの“「女の得本」”は何とこの「現在の医学的立場」からも間違ってはいないのだ。
(下記に解いてみる。)
当然に「嫁家先」から「女」が嫁ぐ際には、恐らくは、この経験を積み重ねた「伊勢青木氏」の「女の得本」なるものの「写し」を持たした筈であろう。
又、それを熟知する「侍女」が付き従っていた筈である。
取り分け、「伊勢」とは血縁関係が深かった「信濃青木氏」も記録は消えているが同然であった事は間違いは無い。

とすると、「位階や四掟」を敷く「他の嫁家先(血縁源)」にも確実に広がって行った事が充分にある。
且つ、これが「女系の妻嫁制度」の「広がり」へと繋がって行ったとも考えられる。
少なくとも「最低限の基幹の制度」が広がった可能性がある。

そもそも、その「嫁家先」も「位階」を持つ故に何もないという事にはならない。
それは「嫁家先」が「位階」等を持つ以上は、何らかの「最低限の家の維持する確たる制度」を朝廷から「義務」として求められた事に成る。

それで無くては「朝廷の格式」に拘る「位階官位」は与えないと云う逆の事も云える。
何らかの「最低限の家の維持する確たる制度(氏族)」を持たなければ、朝廷から「位階」等は与えられないと云う事に成る。
現実にはそうであった。

それが制度として確立させたのが後段で論じるが”「縛り」と云う厳しい掟”があったのだ。
多くは「光仁期から嵯峨期」の間に定められたものである。
「朝臣族」とは云え「源氏族」はこの「縛り」に耐えられず「低い位階」のものであった。
この「縛り」を無視して与えればそれは「位階の権威」を下げる事に他ならないからである。
「朝廷の権威」が低下する所以とも成る。

(注釈 但し、江戸期には遂には{権威}では無く背に腹は代えられず{金銭}で与えて仕舞った。下記)

寧ろ、「女系の妻嫁制度」を執りながらも、「官位と位階」は元々は「福家と四家」は永代に持っているが、「福家」は「氏人の位階」を獲得する為には積極的にこの「女の得本」を求めた。
その為に「妻嫁制度」に依って「血縁をより深くする戦略」に出たと考えられる。
依って、「家内の慣習仕来り掟」はこれに従った所以と成る。
つまり、「伊勢や信濃」からこれ等のものが“広がった”と云う前提に成る。

然し、「近江」を始めとして「美濃も甲斐」も平安末期には朝廷から求められる格式ある「家内の慣習仕来り掟・縛り」を捨てて姓化して源氏化して行ったのである。
結局、ここで彼らの血縁に関わる「伝統」は消えた。

因みに、これらを始めとした“「青木氏の伝統」”は勿論の事、「青木氏の氏是」、「浄土密教の考え方」、「嫁家先の関係」、「冠位位階等」の事が「女の得本」のこれには纏められて書かれていた。
取り分け、”「密教」”であるが故に、「青木氏の捉え方」で「般若経の語句」の「意味の解説」なども書かれていた。
故に、これらを習得した「女(むすめ)」の「嫁家先」も「四掟の同宗」で無くてはならない事に成ったのだ。

例えば、ここには嫁ぐ身の「女(むすめ)」の「「女の心得」として重視しなければならない事が書かれていた。
因みに、「色即是空」とは、「女」として陥り易い”「拘りの性」”に付いて、“決して拘るな”と説いている事や、「色不異空、空不異色」は「彼世(空)、現世(色)」は“同じ”と敢えて説いている。
つまり、“極楽は在るとは思うな“と、「無」である事こそが「極楽」であると、「大日如来信仰の密教説」を説いている。
何故、説いたかと云えば、「血縁弊害の一助」にしようとしたと考えられる。(医学的に説いた理由は下記)

(注釈 下記で論じるが、これ等の教えは「四掟」に依って起こり得る「血縁弊害の軽度の精神疾患」と、「女系」であるが故の「強く成る性」を抑える為の「戒め」でもあった事も考えられる。)

これら「青木氏の密教概念」の「伝統」は、当時の「顕教の考え方(観音信仰)」とは著しく異なっていた。
故に、後の統治者の家康は、この独自性を持つ「密教」を完全に禁止し全て「顕教・顕教令」とした事に成る。

事程左様に、この「本の詳細」に至ると、又、それには、「血縁時の最たる証拠」となる「初夜の作法」の事までも書かれている。
当に「女系」であるが故の「女の得本」である。
本論に記される範囲でも下記の通りである。

風呂を浴びる事、
その時、体毛を剃る事、
湯殿女に処女検査を受ける事、
初夜時の白襦袢は洗わず「福家(寺)」に送り届ける事、
現在と違い暖房設備がない事からその体位が重要で妊娠するに必要とするその作法等の事、
生理の25日型、28日型の事、
月と関わる事、生理前の6日前の行為の事、
男性の3日の欲情生理の事、
生理道具や行為の道具の事等・・・等

以上の「青木氏の「女(むすめ)」の掟(作法)」が書かれていた。
(もう少し他面に渡り相当に詳しく概念として書かれているが、卑猥になるので記述しない。)

現実に、これらは江戸期の大奥や大大名家にも伝わったものであろう。
これは「性欲の括り」では無く「血縁」に繋がる「生殖の知るべき正式な作法」としてのものでもあった。
現実には現在でも通用する程に“「女の得本」”は相当に「人の摂理」を把握していたものである。
江戸期の大名家のそれは「青木氏の妻嫁制度」の一部の「古来の作法」が広まってそれを真似たものであろう。


さて、「女(むすめ)」の“「女の心」の持様を表した「得本」”からは論を戻して。
以上、実は更にこの“「女の得本」”で「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来るのだ。

そこで先にこの「同族血縁の弊害」とはどんな「論理的な理屈」で発生しているのかである。
これを説く。
これを先に論じる事で合わせて“「女の得本」の「目的」や「すごさ」が判るので”解明して置く。

注釈として、そもそも、現在医学では、結論として「同族血縁の弊害(奇形は除く)」は、これを「同族血縁」を繰り返す事に依り「脳」に次の様な問題を起こす。

それは基本的に「脳の自立」を保っている「ドーパミン」と「セロトニン」の「ホルモンバランス」が崩れる事にある。
そして、この「バランス」を保つ為に多く成りやすい「セロトニン」を食う“「トランスポータ」”と云う細胞があってこれが働く。
ところが、「同族血縁を繰り返す事」に依って、この「トランスポータ」がその「子孫の脳」に不必要に大量に蓄積される。
そうするとこの結果として、遺伝的に「セロトニン」が一度脳に放出されたものがこの“「トランスポータ」”に多く食われる事に依って「脳内」で低く成り、「ドーパミン」との「バランス」が崩れた状態が遺伝的に恒常的に起こる。
そして、実際には「脳内」には潜在する「セロトニン」と「ドーパミン」が増えてはいないが、「脳内の再取り込み」のところで「バランス」が恒常的に崩れた事に依って「ドーパミン」が増えた形の状態と同じパターンが起こる。

つまり、この「アンバランス」が「パニック症(不安)」や「躁鬱性症」、「自閉症」の「精神障害」等の「精神障害」を引き起こす事が判っている。
これを現在では「SSRI」と云う。
「自閉スペクトクル症候群」と云う色々な面倒な症状が出る。

取り分け、高齢化に依らずともある「事象範囲」でも起こるのだが、「年齢化の進行」により歳をとり「自立神経」に「低下の症状」が出始めるとこの現象が益々出る。
そうすると「交感神経」のみが低下して「副交感神経」との間に「隔離現象」が起こって仕舞う。
そうすると「スペクトクル・脳の神経連鎖反応」が起こる。

例えば、たった「三粒の雨」に濡れたとすると、其の事に依って「副交感神経」が過敏になり過ぎ、私は「風邪をひく−熱が出る−咳が出る−死ぬ」と云う風に連想する。
そうすると、「自立の副交感神経」である筈が過敏に反応して、「風邪」では無いのに実際に「熱(最大38度位 不安定)」を出し、「咳」を出し、「震える」と云う風に連鎖して行くのである。
この様な事が「弊害」として起こる。

これを医学的に一時的に直すには、唯一つある。
そもそもこれは「副交感神経」の「過剰反応体質」から来ているので病理現象ではない。
そこで、神経が過剰反応している事から来ているので先ずは”「安心させる事」”が「唯一の方法」で最も効果的で、無反応の「栄養剤等の点滴」を施し「安心させる事」や「医者の癒し」等の処置で全ての症状は10分程度で治まる。
「風邪の病理」ではないので薬は「ショック現象」を興すので与えられない。

つまり、”医者と云う専門家に依って看て貰っているのだ”として自分を脳内で安心させる結果と成る。
そうすると「過剰に反応した副交感神経」が”死なないんだ”として今度は逆に働き安心して直ぐに落ち着く。
ここで、ところが入院をさせたとすると、”あぁ、自分はそんなに悪いのだ”として、更に興奮状態のスペクトクルが起こる。

この「トランスポータの蓄積量」にも依り「症状に大きな強弱」があるが、何事にもこの様な現象が興す。
手の付けられない強いものもあり恒常的で完全な精神病と成る事もある。
「同族血縁の弊害」の多くはこの「パターン」が多いのである。
昔はこれを「精神が衰弱した」と判断していたものであろう。

(注釈 青木氏では「女(むすめ)」の過程で成長して判る場合は「女(むすめ)」の養育過程で見抜く事が必要になる。
然し、その前の過程で「掟」として選抜していたらしい。)

普通は「自律神経の低下」で「交感神経」も「副交感神経」も同率で低下して「認知機能」の全体が低下するのが普通で8割程度であるらしい。
例えば、同率で低下すると何が起こるかである。
「肺炎」を起こしてもこの「脳の認知機能の低下」で今度は逆に「熱」も出ないという事にも成る。

然し、この「トランスポータの蓄積」の場合は、「脳内」に取り入れた事に依って「副交感神経」が強く働きすぎ、”考えられない様な神経質”に成る。
中にはこの事で「脳の攪乱状態」を起こし「大声」を挙げたり、「不可解な行動」を採る事も起こる極めて取り扱いが難しい。

(注釈 「トランスポータの蓄積」はこの「血縁蓄積」だけでは無く、上記の状態が続くと、「トランスポータ」では無くその「ストレス」が脳に蓄積され、結果として「恒常的なストレス」にも大きく左右している事がある事も解っている。
最近は同族血縁は少ないのに若者にも軽度の症状が多いと考えられている。)

昔では「血縁障害(血縁の弊害)」の殆どは、このパターンの精神病や高濃度の場合は「亜子」が生まれる事も起こっていた。
現代医学から観れば、その「家柄のストレス」も代々に渡り引き継がれるので「血縁弊害の問題」だけでは無くても起こっていたのである。

(注釈 当時は「亜子」もこの「症状の延長」と観られていたが、最近の医学では亜子の場合は「卵子の老化(35最以上)」が原因と云う事が判っている。
然し、「青木氏」では同じと観ていたらしいが、前段でも論じたが「女(むすめ)」の年齢が18歳以下であった事から、この現象は少なかった事が判る。)

そこで、従って「トランスポータの蓄積量」の「低下対策」は、その「血縁源を増やす事」が必要と成る。
これで必然的に低下するのだが、この様な病理であるので、「遺伝子的な欠陥」では無く「一種の血縁障害の病気」と云える。
然し、「同族血縁する」と蔓延的に蓄積が起こるので結果としてなかなか消えないので「遺伝的欠陥」と見做されやすいのである。

これは「同族血縁の濃度」に大きく左右されるが、唯、一度、起こると「人遺伝子(女系継承原理)」として潜在して引き継がれる事に成る。
つまり、「血縁濃度を下げる事」で隔世的に無くなる論理である。
隔世であるので世代を跨るような上記の様な長時間が掛かるのだ。

上記の「青木氏の血縁弊害」は「青木氏族の初期」はこの論理の病理に悩まされていた事が判るのである。
「正常な血縁範囲」の血縁でありながらも「パラメータ3(四の法則)」でも無くせなかった時期はこの上記の原理に従い次第に減少しながらも長く続いた事に成る。
「(パラメータ4(五の法則)」で始めて完全に消えた理屈は上記の摂理に依っていたからである。
従って、「トランスポータの蓄積」の元が「(パラメータ4(五の法則)」で霧消した事に成る事は理解できる。
隔世であるが故にこれが最低で「160年と云う期間」を要した事に成る。
一代を「約25年」とすると最低でも「6代〜7代」を要した事に成るだろう。

故に、「女の得本」は各所から情報を獲得して、それを基に恐らくは医学的な合理性を感覚的に把握して、これを取りまとめたものであろう。
これに近い事を説いて「女の得本」で「弊害」に対応したのである。
これ等の事は「神明社か菩提寺」の「執事役」が纏めていた事が判る。

最終は「6代〜7代」を経て「女系」に依る「三つの血縁源の対策」からのその効果で遂に消えたと云う理屈に成るのである。

これは、現代の遺伝学では「人の遺伝子情報」は「女子」は直接的に直接遺伝し、「男子」は潜在的に隔世的遺伝する。

そこで、後勘から観ると、この論理で「女系の妻嫁制度」で成功したのだが、更に「男性」では果たしてどうであったのかを検証する。

そこには先ず「人遺伝子(女系継承原理)」は「男系の場合」は母親から引き継いだ「潜在的人遺伝子」は「隔世遺伝的・潜在的」に引き継がれる。
然し、「隔世遺伝」である為に「二代続き」で「女子」が生まれなければ「女系の持つ遺伝子」は遺伝学的には遺らないで消え去る。

これを「三親等から四親等の同族血縁」を繰り返すと、この範囲で三世代以上繰り返すと「トランスポータ」が蓄積されて徐々に「精神障害」が発症して来ると云われている。
古来は血縁は二親等もあった。

「男性の男系」ではこの「トランスポータ」の蓄積が「女系継承原理の人遺伝子」で潜在的である為に「血縁弊害の現象」を読み切れず改善出来ない事に成る。

従って、上記の遺伝原理に従い上記の数理論でも検証した通り「女系」で無くては成らないのである。

故に、近代学的にも「四六の古式概念」の上記の「青木氏の女系の妻嫁制度の策」で採った「青木氏」の「パラメータ3」(四の法則概念)が「血縁の弊害」を防止する事が出来る「限界値」であった事と成り得るのだ。
後勘的に観ればこの原理を「青木氏族」は知ってか知らずかこの方向に向けていた事に成るのだ。

依って、「不明な隔世遺伝的要素」を持つ「男の嗣子」を「四家の範囲」で固定して外に出さず、「女子」をある範囲で区切り、「出と入」を監視すれば「血縁弊害」の「持ち込み」は防げる事に成る。
何故ならば、この「三つの血縁源の監視」でその「血縁弊害」が「其のルート」の「表(女子)」に出ているからである。

「三つの血縁源」の中で「一つの氏族」を構成している「氏人の血縁源」は、要するに「女(むすめ)」で「氏族内管理(掟)」されているから「弊害(嬰児などで)」は排除出来ている事に成る。
この課題は「氏人の血縁源」から“絶対に男子を入れない事”である。

そこでその「難しさ」は、“四家の範囲で男子を調達する事”が出来るかである。

つまり、それが況やその「出来る範囲」が”「四家制度」”であるとしているのだ。
「青木氏の範囲」での「四家の男子の数」を「20人」として確保するとしているのだ。
そうするとこれには「妻の数と質」が前提と成る。


これをできるかどうか検証して観る。
前段でも何度も論じている事ではあるが、この「20人」を確保するには「妻」を「四人(実質3人)」としていれば「嗣子20人」は確保できるとしたのである。

[(福家1)・4+(四家4)・4]・3=60人の妻 と成る。
{60・(4〜2)}・50%(産)≒60〜120(子) の子供が生まれる。
この内、出産男子:50%≒ 30〜60人 と成る。
世継ぎまでの生存率≒50% 15〜30人≒23人 と成る。
計算バスアス10%最低≒6人 とすると
故に「20人」は確保できる事に成る。

実に適正であった事が云える。

「計算バスアス10%」が時系列で変化したと変化と成るだろう。

「青木氏」が、これ程の事を読み切れていたのは、この「医学的根拠(遺伝学)・経験則」を何らかの方法で見抜いていた事に成る。
どんな方法で知識を獲得していたかは判らないが、筆者は「貿易」とそれを「神明社」が解釈していたと観ている。

次はこの「見抜き」は果たしてどの様にして獲得したのかである。
それは恐らくは、「女(むすめ)」から養育時に教わった「外観上の男女の性の差異」の「人の生態摂理」で引き継がれていたと観ている。

元々、この事が「女の得本」に記されていたからでもある。
これが広がった「重要な原因」でもあって、「青木氏族が一つの慣習仕来り掟」に依って「血縁関係」が構築された原因でもある。
この逆はあり得なかっただろう。
「青木氏族の血縁弊害」の出ない「氏族」を周囲は凝視していたと観られる。

{光仁期−仁明期の経験>「女系の妻嫁制度」={女の心得本>嫁家先制度}  1
「弊害原因」<「慣習仕来り掟」>血縁関係  2
1+2=「青木氏族」

故に、 「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

この関係式を見抜いていたと云う事である。

以上の関係式が先ずは成立していたと考えられ、これを時系列的に時代に合わせて上手く使い分けていた事に成る。

この「通常範囲」と「特別範囲」を差配する事で上記の「青木氏族の関係式」は成り立っていた。

ところがこれでは「四家の範囲」では成り立つが、然し、「氏人を含めた氏族管理の範囲」では弊害は起こり充分ではない筈である。

その答えは、上記の検証の通りある範囲の”「氏人の伊勢郷士数」”が必要に成っていた事に成るだろう。

この「伊勢青木氏の例の考察」から観ても、「最大時の伊勢の50郷士」としても、この関係式の成立ではぎりぎりに成り立っていた事に成る。

「伊勢の青木氏」の「本領安堵の地権域」が、「遠祖地の南紀」までの範囲である事(a)
そして、その地域には、必ず、「家人や氏人」の「四家の絆青木氏」を含めて定住していた事(b)
恐らくは、この「元の郷士の数」の「50の郷士」まで、つまり、隈なく「伊勢の全域」まで「何らかの形での縁組」が出来上がっていた事(c)
これが1000年以上(江戸初期)で築きあげられていた事(d)
そして、「氏族」として及んでいた事(e)

以上の5つが働いていた事が充分に理解できる。

恐らくは最低限、「信濃」までは同然であった。

{「四家20」+「50郷士」}・X=「伊勢青木氏族」

{光仁期−仁明期の経験>女系の妻嫁制度}={女の得本>嫁家先制度} 1
弊害原因<慣習仕来り掟>血縁関係 2

二つの関係式の「1+2」=「青木氏族」 が「青木氏族」である事に成る。

故に、「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

これらの関係式で「パラメータ3(四の法則)」でも後半には少なくともほぼ完全に成立していた事に成る。

更に検証して観る。

単位年を「100年」として、「四家20家」で養育する「女(むすめ)」の数が「玄孫域」までとする。
例えば、男子/女子≒50%として、子=10〜12、孫域=5〜6、曾孫域=2〜3、玄孫域=1〜2とするならば、「玄孫域」で「15年単位の区切り」で観れると次の様に成る。

最低で「19の縁組」 最多で「23の縁組」 

これを「1000年」とすると、これの比例として「10倍」が嫁す。

(注釈 計算を容易にする為に「毎年の血縁」を一つの「区切り」として観る。)

そうすると、最低で「190の縁組」、最多で「230の縁組」が起こる。

「郷士数 50」では、最低で「3回周りの縁組」、最多で「5回周りの血縁」
以上の「血縁回り」が起こる事に成る。

「血縁回数」=3〜5回周り

以上と成る。

これで「原士」を含めて「伊勢郷士」が、完全に「青木氏の氏人化した事」は証明出来る。

「奈良期から平安初期」には「信濃や甲斐や美濃や近江」も同様の理屈がほぼ成り立っていただろう。

「伊勢王」として遙任してから「施基皇子(716年 四家形成期)」から「子孫拡大」を見せたとして次の様に成る。

「一回目の縁組」は、上記の検証の通り「最低で19、最多で23」として、「郷士との縁組(家人差配頭)」はこれの1/3〜1/5とすると次の様に成る。

「4〜8との血縁組」が“「780年頃」”に既に起こっていた

以上と考えられる。

この「4〜8の傾向」が、「15年単位(女子の血縁年齢)」で区切るとして「累計的」に増えていく事に成る。

「100年の単位」で、「単純比例」では、「28〜56」(一周り)と成る。

現実にはこれが次第に「累計的増加(1.3)」として観れば、次の様に成る。

「37〜73」=AVE55/50と成る。

「施基皇子没後の100年後」の“「816年頃」“には、“「氏人」”が完全に構築され「氏族としての条件」は完全に成立していた事に成る。

この「816年頃」は、何と「嵯峨天皇期の頃(嵯峨期詔勅)」で、丁度、「新撰姓氏禄」が出された時期でもある。

全く「青木氏の歴史観」と「数理計算」とは、「伊勢」では完全に符号一致する。

何度も云うが、この時期では「信濃、近江、甲斐、美濃」でもまだ全く同じ事が何とか起こっていた事に成る。
問題はこの後からである。

唯、「信濃」に於いて「郷士数」が「伊勢の5倍から9倍位」はあったとされている。
「新撰姓氏禄」に記載されている「原士(e)と郷士(d)〜(f)」とすると、次のように成っている。

(注釈 「伊勢の郷士数」は「不入不倫の権」で流入する事は無く少なかった。)

但し、鎌倉期から勃興を始め室町期に発祥を興した「姓族(イ)」や、「移動する国衆」等や「姓族から郷士と成った者(ロ)」等を除く。

(a)真人(48)、朝臣(101)
(b)宿祢(98)、忌寸(50)
(c)臣(66)、連(258)
(d)首( 93)、造(80)
(e)公(63)、直(42)
(f)史(28)、村主(20)、県主(12)

(a−1)の「真人族48」は「青木氏等数氏」を遺して全て下剋上で淘汰され滅亡した。
(a−2)の「朝臣族101」も殆ど淘汰滅亡したが、「傍系族」が地方に姓族化して土豪化して生き残る。

この記録から観て「郷士か原士」と成った「族階順表」は次の様に成る。

(b)=148
(c)=324
(d)=173
(e)=105
(f)=60

合計=810

この「810」が、「近江、美濃、信濃、甲斐」の「平安期の主要天領地」であったこの「四地域」に分布した事に成る。

矢張り、「日本書紀」にもよく活躍して出て来る様に「臣と連」(c 324)が多い。

これには歴史的に其れなりの理由があり、「臣と連」(c 324)は「中級官僚族」である。

この「族階順表」から更に検証する。

A 関西域と中部域の郷士予想数

国数=13/66とする。
当時、「天領地」は「810の約65%」が関西と中部域に集中していた。
810・0.65/13=41 郷士数/国

そうすると「平安初期の四地域」には、 正規な41の郷士数/国 と成る。

これに(a−2)の「101(朝臣族)」のBが加わる事に成る。


B 天領地に赴任族で姓族化した傍系族。

(a−2)の「101の朝臣族・傍系姓族」/4=25/国
41+25=66 正規な郷士数/国(近江 信濃 美濃 甲斐) と成る。

「平安期初期」には、矢張り、「主要天領地」では次の様に成る。

「伊勢」とほぼ同じ程度の「原士と郷士数(50〜66):(A+B)」

以上であった事が云える。

(注釈 重要 「伊勢」は、結局は室町期に北畠氏や織田氏等に侵されて乱れるが、結局は「元来の原士や郷士数」は変化しなかった事に成る。
「伊勢」は言い換えれば護られた事に成る。
「信濃」は国衆などに浸食されるが抑止力効果で所領地権域の1/4程度は護った。後段で論じる)

時系列として、平安期末期には、然し、「近江と美濃」は滅亡し、「甲斐」も大打撃を受ける。

(注釈 取り分け「近江」は「美濃」まで逃げた事が近江の全てを失った。)

これに鎌倉期から次第に増え室町期中期より「勃興の姓(イ)と(ロ)」が加わる。

然し、この「勃興の姓(イ)と(ロ)」は「新撰姓氏禄」に記載される正規な「原士や郷士」では無い為にこの計算には入らない。

(注釈 「正規」とは朝廷が認める族 「族階順表」の記載)

従って、「(a)〜(f)に記載されている族」が一族化して一部は「郷氏」に、多くは「郷士」に成り得ている。
依って、その「ルーツの位階や官位」は、「勃興の姓」の「武士の時代」に成っても「郷士>武士」であって彼らは「誇り」を持っていた。

江戸期には、従って、「勃興の姓(下記のイ)と(下記のロ)」の「姓族(第二の姓)」はこれを卑下して、この「郷士>武士の関係」を「郷士<武士」の関係に変えようと醜い論争が起こった。

基本的には重要な歴史観としてはこの「族階順表」からも読み取れる。

「(a−2)〜(f)の900」に近い「全国の郷士」は、そもそも「奈良期から平安期」の“「官僚族」”であって基本的には“「武士族」”ではない。

要するに、「官僚の務め」を全うする為に「武力」を行使していた“「官僚族」”である。
つまり、「補完役の秀郷流青木氏(初期)」の様に、地方の「押領使の令外官(警察や軍隊や治安)」の役務を果たしていた族である。
判りやすく云えば、「藤原氏や大蔵氏の傍系族の下位の官僚族」である。

“「官僚族」”の「位階」は「従四位下の以上の官僚族」である。
「最高官僚族」では「大蔵氏」の「錦の御旗族(大蔵氏・内蔵氏・安倍氏)」でもあるくらいである。
「源氏」と云えど「上記の縛り」から外れた限りでは位階・格式は数段で下位である。

(注釈 この様な意味で清和源氏分家の河内源氏系の頼朝が「摂津源氏の本家」でない限り幕府を開く資格は無かった。
そこで、平家討伐の「以仁王の宣下」を「頼政」は頼朝に通達は出していなかった事が公に史実として最近に証明され判明した。
「新宮次郎」がこの「宣下」を各地に通達したが、頼朝は受け取っていたとされていたが、これは幕府を開く為の「後付けの口実」であった事が判明した。
そもそも「縛り」を放棄している「姓化した河内源氏」には「以仁王の宣下」は権威上から出さなかったこ事が証明されたのである。
「以仁王の宣下」の「権威」に付いては「賛否両論」で、頼朝は軽く観た可能性が高い。)

因みに例えば、「九州鹿児島の本土末端」に派遣されて、その後、「島津家の郷士」と成った「市来氏」等も元はこの「朝廷の六大官僚族」の一つである。

歴史的に現在まで正式に「錦の御旗」を唯一与えられた「大宰府大監」で「九州全域の自治統治」を任された「阿多倍王」の末裔「大蔵氏」の「大蔵種材の末裔説」でもある。
殆どは九州では元は「大蔵氏系の官僚族の末裔」が「郷士化」したものである。
然し、この「大蔵氏」の彼らの「高位の官僚族は「郷士」とは成ら無かった。
例えば、「青木氏と関係」のある「伴造」から「九州全土に広がった豪族」と成った「大伴氏」もこの「派遣の官僚族」である。

この事前知識を前提に、元に戻して検証を続ける。

取り分け、前段で論じた様に「信濃と近江」では、奈良期までは「血縁関係」が相互間で起こっていた事から“「伊勢」と連動していた事”が資料からも判る。
又、この「族階順表」からも伺える。

この状況が、「100年単位」を一つの区切りとしてで観れば、江戸期初期まで「比例的」に血縁は10回繰り返されていた事に成る。

「比例的増加(2)」の「37〜73」=(AVE55/50)・10回≒550

以上と成りこの数は現実にはあり得ない。

但し、「平安初期からと江戸期初期」までは、前段でも論じた様に、「血縁の相手の数」が数倍に異なる故に比例計算は先ず論外で出来ない。

上記の「1000年での数理計算」の“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”では納得できる。
この間の「郷士数の変動などの歴史的経緯」の「変動値20%〜30%」を勘案して観ると次の様に成る。

550・「1/2〜1/3倍」=270〜180=3〜5

以上として成立する。

「室町期の下剋上と戦乱」に巻き込まれた元々「対抗する力の弱い官僚族・押領使等の令外官」であった「郷士の960」は、例えば、次の様に成った。

「真人族」の「(a−1)の48」は、1/5(≒5氏)程度に成った。
「朝臣族」の「(a−2)の101」は、「豪族の家臣(≒68士)」に成った。

(68士は滅亡して殆どが「傍系族」の姓化した。)

「郷士」に成ったとされる「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」は、「秀郷一門の庇護」を受けた。
その存在はその「主要地域の24地域」に観られる。

これはその「家紋分析」より凡そ確認出来ている。

イ 「郷士数」は(68士・1/3)≒「33士程度」と成った。(氏人族と成っている。)
ロ 「家紋分析」以外に「郷士」に成った「士・原士含む」には、「諡号の姓」を名乗っている。(「当時の地名」を使っている。)

この「イとロ」が彼らの「官僚族の判別できる特徴」である。

この「二つの特徴(家臣化と郷士化)・イとロ」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」が系統的に明確に読み取れるのだ。

この「読み取り」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り末裔 101」の内の「郷士の氏族化」は、次の様に成った。

“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”/(50士〜55士)

以上と成った。


平安期から比べれば、要するにこの「氏族・(50士〜55士)」の数は激減している。
然し、これが江戸期初期、又はその直前では恐らくこの範囲にあった事が頷ける。

(注釈 但し、上記の計算の「氏族化の変動値」は、これから「10%〜15%」と計算している。
前段の検証でも「一国・6〜7郡」の中で住める「郷士の数」も「50前後」とした。一致した。)

(注釈 前段でも論じたが、つまり、当時は、「天智天皇の川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」が住んでいた「神・神木」に関わる「佐々木郷(「斎斎の木」)」を以って賜姓したと「日本書紀」に在る。
又、「日本書紀」や「嵯峨天皇の詔勅の禁令」等の古書にも、「青木氏」の様な“「神木名」”を使った「皇族の朝臣族」が在ると記されている。
「青木氏の氏名」は「あおきの木」の葉は常緑で、木も浄木地で育ち緑で、実は血を表す赤で、奈良期は「柏の木」と共に最高級の「神木」とされていた。
「青木氏」は更にこの「神木の柏の木」も「神明社の象徴紋」として与えられた事が「日本書紀や三代格書」などにもと記されている。)

(注釈 従って、これらの「三つの族」の「諡号の姓化」には「神地名」と「神木名」と共に使用を禁じている。
「嵯峨期の詔勅の禁令」は「奈良期からの慣習」を追認して禁じたものである。
「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」は、「真人朝臣族」以外の族には、「地名の姓名」と共に、その「慣習仕来り掟」をも一切を使用を禁じている。
当然に、「48氏以外の朝臣族」、即ち「賜姓源氏」も含めて使用を禁じられているのだ。)

そこで、「嵯峨期」まで「上記の注釈の様な乱用」が無秩序にあった事から「新撰姓氏禄」では、それまでの「血縁」が無秩序に入り乱れて区別が付か無くなっていた。
この「状態の子孫拡大」を改善して国体の基礎として「正常な秩序ある判別性」を持たす為に次の事を行った。

これがそれまで無かった「910の族」の社会環境に”「縛り」”と呼ばれた「格式制度」を確立させたのである。

先ず、上記の「(a)〜(f)」を「12−6」に分類した事である。(縛り 1)

その上で、更に「真人族48氏」を除く「911氏」に付きこれを次の「3つの族」に分けた。(縛り 2)

(a)真人(48)、朝臣(101)
(b)宿祢(98)、忌寸(50)

(c)臣(66)、連(258)
(d)首( 93)、造(80)

(e)公(63)、直(42)
(f)史(28)、村主(20)、県主(12)

この「3つの族」は更に次の様に区分けした。(縛り 3)
(「皇別族」は含まず)

「朝臣族」
「神別族」
「蕃別族」

以上の3つに区別して「血縁性の確立(縛り 1〜3)」を押し立てたのである。

そして、更に、この時、この「区分け」を明確にする為に次の区分けを定めた。(縛り 4)

「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」の範疇にある族の全てに対しても縛りを掛けた。
(縛り 5)

「皇別族・皇族別48氏での判別」も、次の三つに分けるとした。(縛り 6)

「直系族別」 (判り易く云えば主家族 : 卑属と尊属に分ける)
「尊属族別」 (判り易く云えば親戚族 : 卑属と尊属に分ける)
「傍系族別」 (判り易く云えば縁者族 : 卑属と尊属に分ける)

以上、「3つ」が「6つ」に成り、この関係で「子孫」を区分けしては拡がらせる事を定めた。

この「六つの縛り」に依って「格式化」を促したのである。

これが更に「子孫拡大」に伴って{「2の2乗」*3}の法則で広がる。
然し、”拡がり過ぎる”と元の{「2の2乗」*3}の「元の状態」に戻させた。

つまり、この「一族管理」が出来る範囲の限度の「縛り」を設けたのである。

これが「総家−宗家−本家」の「区分けの原則」として戻されたのである。

「族内の一切の決め事」が「総家」が認めなければ、「宗家」が認めなければ、「本家」が認めなければの「認可制度」を確立させたのであった。
上え上えと”何事にもお伺いを立てる掟”である。

その「区切りの範囲」を「分家」と云う言葉で区切ったのである。

(注釈 青木氏は姓を持たない為にこの「総家−宗家−本家」が無く当然に「分家」は無い。)

つまり、この「分家の言葉」には大きな「格式の違い差」を持たせたのである。

極端に云うと、「総家−宗家−本家」までが”「家」”と云う範囲であった。

「氏族である秀郷流藤原氏一門・361氏」は、この「仕来り」を「家紋と家号」に表す程に徹底して強調した。
故に、「秀郷流一門一族」の「位置づけ」は「家紋と家名」で現在でも見抜けるのである。
当に、この「縛りの効果」であるが、「秀郷流藤原氏一門・361氏」はこれ等のことが評価されて「特別な縛りを護る氏族」として認められていたのだ。
「家紋や家号」からも「総家−宗家−本家」の位置づけが格段と違う。
逆に云えば、「秀郷流藤原氏一門・361氏」は常に比較対象と成るが、この「縛り」に従わなかった「源氏族」はこれが全く無いのだ。
ただ「単なる賜姓族」であると云うだけで、そこには格式を示す他のものは無いのだ。

(注釈 理解を深める為に「縛り」の例として次の事がある。
そもそも「源氏族」が「笹竜胆と白旗」を象徴としているが、何処に朝廷より与えられたとする記録があるのか、そんな記録はないのである。
在るのは「光仁天皇」に於ける「皇別の青木氏との繋がり」からの搾取に他ならないのだ。
そもそも、”「八幡宮社」”と”「八幡大菩薩」”の守護神と菩提寺を有する「源氏」が「笹竜胆である事・(神明社)」は無く、且つ、この事は同時に「密教浄土宗原理主義派」の印の「白旗」とも矛盾している。
14もあった「法然後の浄土宗の派別」から「宗派争い」が起こり「最小派の白旗組」の「密教浄土宗原理主義派・青木氏派」を”「浄土宗」”とすると突然に決めたのは「室町幕府」である。
「源氏」は「鎌倉期・1221年」までであり、且つ、「縛り」を無視した族であり、「顕教の浄土宗」である「源氏」が「白旗」である筈が論理的に無いのだ。
従って、「白旗」でない限りは「笹竜胆」でもない事に成る。
「白旗と笹竜胆」は一対のものであり逆の事も云える。
更には「賜姓紋」として与えられた「笹竜胆」であるとするならば、「青木氏」から観れば曾孫域の「嵯峨源氏だけの出自元」が「伊勢青木氏」であったとする事だけで精々云えるかも知れないのである。
従って、「嵯峨源氏の範囲」であれば何とか理解は出来るが、「嵯峨源氏」でさえも結局は「縛り」を護らなかったのである。
更に、これも一対としての「笹竜胆紋」に添えられた「賜姓守護像・ステイタス像」、つまり「鞍作止利作の大日如来坐像」を持つているのかという事に成る。無いのだ。
そもそも「如来信仰」は「青木氏等の密教」であり、「源氏」は「阿弥陀信仰の顕教」である。
前段でも何度も論じたが根本域に違いがあるのだ。
念の為に再記するが、「如来信仰」は彼世から「人に悟り」を求める密教で、「阿弥陀信仰」は釈迦を現世に下ろして「人に教え」を伝える「顕教」である。
「皇祖神の子神の祖先神の神明社」では無く、「八幡菩薩」で「八幡の神教」と「菩薩の仏教」を合わせた「信仰体」である限り、そもそもこれらはあり得ないのである。
上記した「以仁王の宣下」の事も含めて、これ等の矛盾を隠すために明らかに「頼朝の権威後付け」であった事に成る。
「摂津源氏」ならば未だしも「繋がり」は多少認められるが、要するに頼朝らはそもそも上記の「分家」である。
故に、この様に「歴史」とは、「権威の為の後付けの搾取」が多く横行し、よく調べないで公的な記録とされているのが現状で根本的な間違いを起こすのである。
「青木氏の研究」から観ると、この「頼朝の笹竜胆紋」は「搾取の矛盾」があり過ぎるのだ。
つまり、この朝廷が定めた「縛り」が無ければ問題はないが、論じている「史実の縛り」から観ればである。
故に、「摂津源氏の四家族の頼政」等は、”事を興す大義”を何とか造り上げる為にも「伊勢と信濃」に「子孫」を送り込んだとも執れるのだ。
これならば、「笹竜胆も白旗」も頷ける。
確かに前段で論じた様に”子孫を遺すと云う大義”もあったであろうが、この事も大きかったと観ている。
「正三位」がこれを証明し、「分家の頼朝」に”「宣下を出していなかった」”とする史実も理解できる。)

この「注釈の様」に「嵯峨期」までは無制限に無統制に成っていたものを「縛り」で統制しようとしたのである。
無制限は「天皇家の形態」が崩れる事に成り兼ねないからである。
つまり、思わずも「孝謙天皇の白羽の矢」から発している所以を以て「秩序ある国体」を造ろうとしたのである。
ところが皮肉にもその期待する結果はその後も嵯峨源氏や河内清和源氏の「自らの子孫」がこれを破った事であるのだ。

この様な事を無くす為にもこの「八つの縛り」を掛けて「血縁の範囲の明確化」をして「族の拡大を防ぐ制度」が確立する様にしたのである。(縛り 7)
「子孫の無秩序な拡大」がこの様な事を生み国体は乱れるとしたのである。

この「真人族の区分けの原則」も、「総家−宗家−本家」を「四家制度」にして採用して「分家・支流化・姓化」を食い止めて「格式の確立」を求めた。
「青木氏」では「四掟の原則と四家制度と女系妻嫁制度」に枠を固め「氏族」で統制した。
従って、「尊属族別」から「傍系族別」へと移行して行く過程を無くして「四家の範囲」で留めて行く原則とした。(縛り 8)

当然に、「朝臣族」「神別族」「蕃別族」の「3つの族」の910族もこの「血縁原則」のこれに従う事に成った。

これで「青木氏」では「血縁関係の乱れた原則」を統一したのである。
これが本来の「新撰姓氏禄の政治的な目的」であった筈である。
然し、「清和源氏の二代目満仲」がこれを壊して朝廷から蟄居を命じられたのである。
その「分家の頼信」の河内源氏も意地に成って徹底的に無視した。
「11流ある源氏」もこれに追随した。
結果としては、生きて行く為に「八つの縛り」を守り切れず「近江美濃甲斐の三流の青木氏族」も破ったのである。

前段でも論じた様に、「天皇三代」に渡り確立しようとしたが、然し、これ程に「910の諡号姓族」からも「猛烈な反発」を受けた。

つまり、所謂、この「八つの縛り」、これが“「氏家制度」”の始まりである。

(注釈 後にこの「氏家制度」が確立し始めて、江戸期で完成して世は「安定期」と成ったのである。
「第二の姓」がこれを成し遂げたとするは皮肉な事ではある。)

「910の諡号の姓族」に対して“「総家−宗家−本家」”を中心とした制度を確立させ、何はともあれその元と成る「血縁制度」を確立して、「血縁弊害」を無くし「良い子孫の国体」を造ろうとしたのである。

(注釈 最終は「氏」は「縛り」に耐えられず消え、限られた数氏に成った。
然し、「家」は810〜906の範囲で出来た。)

唯、そこでこの「縛り」の範囲で遺った「真人族48氏」には更に“「特別の義務」”を押し付けた。

「縛り1〜8」までは、勿論の事、更にこれを護らない以上は、“「真人族」とは認めない”と云う「厳しい縛り」である。

次の3義務である。

1 「四掟」の「縛り 9」である。
2 「氏族(姓化しない)」を形成する事の「縛り 10」である。
3 基準とする「位階と官位と格式」を授かる事の「縛り 11」である。

以上、3つを課せた。

「真人族48氏」は焦った。
そもそも、世間性の無い「真人族」である。

前段でも論じた様に、平安末期までに、鎌倉期では一時保護した事により増えたが、これで「真人族」は激減した。
「室町期の下剋上や戦乱?1333年頃から」では影も無く消えた。

然し、「青木氏族」は生き遺ったのである。

次にそれは何故なのかである。

何度も論じる処の“「商いの経済力 1」”とこれを使った“「抑止力 2」”と“「補完役の出現 3」”である。
当然に朝廷が示す「縛り」を護った。

(注釈 「補完役」そのものがこの「縛りに対する補完」でもあった。)

当然に、以上の上記の「3つの課題条件」は元より、上記の「血縁の縛りの制度」にも適応した。

そこで何が興ったかである。

「滅亡する事」は解っている「皇子皇女」は、「真人族に成る事」を避けて、「皇族賜姓朝臣族の五家五流青木氏」に流れ込んだのである。
これが「伊勢域」から始まった「青木氏族の所以」でもある。
これも「青木氏」を彼らの「逃げ込み口」にする「補完役の意味・960年頃 平安期の中頃まで」でもあった。
「伊勢と信濃」は「皇女」のみにして「血縁の弊害」を概観より取り除いた。
但し、何度も云うが、常に比較対象とされる「賜姓源氏・最終1008年・花山」はこの「全ての縛りや課題の条件」に適合できなかった。

(注釈 ここで、唯、興味深い事があるのだ。
故に、「新撰姓氏禄・815年」にはそもそも「嵯峨源氏・814年」が、この時、「嵯峨源氏」は「真人族48氏の中」には入れられなかった。
これはどういう意味か、賜姓して発祥させたにも、既に、定めた「縛り」を遵守されなかったと云う意味かである。
この「嵯峨詔勅」は814年である。
それまでは桓武期までは”「一世皇子制の賜姓」”であったものを、「賜姓青木氏」に真似て「賜姓源氏」と云う「氏名」を限定賜姓して「名誉」を与えるがその代わりに「経済的保護」をしないとする制度に替えた。
つまり、「桓武期の賜姓・一世での身分保障」と「嵯峨期の賜姓・否保障」と比べれば始めから”勝手にせよ”という事で突き放している事に成る。
故に、「縛り」には当初から彼らは守る意思が無かった事に成る。
だから、「新撰姓氏禄・815年」には載せなかった事に成る。
とするならば、「河内源氏」の「分家の頼朝」の「権威の後付け搾取」や「青木氏の家紋や旗の象徴搾取」は理解できる。)

唯、然し、「摂津源氏の3代目源頼光−7代目頼政」は「四家制度や四掟制度」を何とか敷きこの課題をある程度護る姿勢を示しているのだ。
「皇族の者」が「家臣の家臣」に成ると云う前代未聞の事の「仕来り破り」して逆道して、「北家藤原氏の道長に臣従して保身したのであった。
この事から「桓武期の賜姓・一世での身分保障」の制度を護ったという事にも成る。
変を起こす程の政争にも成った「桓武論説」と「嵯峨論説」の「桓武論説側」に着いたという事に成った。

この様な苦労をしてある時期まで「四家と四掟」を構築した為に「真人族並み・正三位」(「氏族」は形成できなかったが)に扱われたのだ。
そして、破格の「3天領地の守護代」を務め、朝廷より「伊豆の所領」までも正式に与えられた。
つまり、「河内源氏の武力による奪取」では無かった。
「嵯峨期の詔勅」は所領を与えないものであったにも拘わらず所領を与えられた。

(注釈 この事に乗じて朝廷は荒廃した神社の建て直しを摂津源氏に命じた。
ところが、なんだかんだと言い逃れして実行しなかった。
あまりの追及に「一社の改築・改修」をして逃げようとしたが出来ず、見放された事が史実として遺されている。
一国の所領の力では無理な事であった。)

ところが「頼信系河内源氏」は敢えて始めからこの「一切の縛り」に従わなかった。
一族が「姓化する事」は一見して血縁弊害が低下する様に見えるが、そうでは無かった。
寧ろ、「一族の結束力」を強化する為により近い血縁を繰り返して弊害を生んだ事が資料から読み取れる。

(注釈 寧ろ、逆らって姓化して武装化して奪取して領地を拡大させた 
故に朝廷から観れば河内源氏は何ら「第二の姓」と変わらないのである。
寧ろ、「810の官僚族」の方が当時は「権威性」はあると考えられていた。
「朝臣族」であるとは云え、後の徳川幕府と何ら変わらない事になるのである。
それ故に「分家」でもあり「権威と象徴」が欲しかったと考えられるのである。
朝廷が「縛りの制」を敷いた事は彼らは充分に知っていた筈であり、この為にも「後付け搾取」をやってのけたと云う事なのである。)
故に、「頼政の正三位」に比べて「真人族」では無く「朝臣族」に留まり「位階も官位」も低いのである。)


注釈として、この“「縛り」”の為に「賜姓源氏族の子孫拡大」は限定された。
「真人族の朝臣族」には組み入れられず、殆どは「傍系族別」に部類される事に成って仕舞った所以でもあるのだ。
従って、「賜姓源氏と名乗る族」の殆どは、本来はこの「傍系族別」以上は歴史論理的に起こり得ないのである。
 (世間の風評資料と記録は殆どは搾取偏纂)

「禁令と区別(縛り)」でこの結果として以上に分ける事が出来るとして、これに更に次の様な事が興った。

血縁の経緯から必然的に「(b)〜(f) 810」が次の様に成った。

「室町期の豪族」の「支配下に入り生き延びた武士」 姓化
「氏族」と共生する「誇り高い伝統を護り得た氏人」  郷士

この「二つに成り得た族」が興ったのである。

この「二つの間 810」には更に結果として“「格式を示す姓名」”に「違い」が起こったのである。

どんなに誇張搾取しても「禁令の差」と「格式の判別」と「縛りの判別」や「姓名の違い」で判別できると云う事なのである。

唯、ところが「真人族を入れた959」のこれ等に関わらない“「新たな姓族(新興族・第二の姓)」”が室町期に勃興した。
それが「第二の姓」であるのだが、これで「縛り」などの「社会の秩序」は大きく変わって仕舞った。
この為に「室町期中期頃」からは“「格式を示す姓名」”が遺り得てもこの「禁令」と上記の「身分格式制」が元より完全に無視された。
この「第二の姓」の「新興族の比率」が急激に逆転し、その比が室町期の中程(1500年頃)から急激に増し、遂には短期間(140年)でその「勢い」は室町期末期には8割以上までを占める事と成った。

筆者の調査で検証して観ると次の様に成る。
「武士(上級下級含む)」は「約130万人・士族」であった。
(明治3年苗字令の士族を基準に計算 徒士と家族含む)

130万/4人≒30万 4%(戦闘員)

「第二の姓」/「第一の姓(910族)」≒8:2
「第一の姓(910族)」は「6万人(家族含まず)」いた事に成る。

30万・0.8=24万 3.2%
24万/140年≒1714人/年

「増える事の無い姓」が庶民から毎年「2000程度(人、家、族」が「実質の士族」・「第二の姓」に成って増えて行く事に成る。
(軍は大半は「荷駄兵等の農民」や「傭兵」であるのでこれは除く) 

「室町期中期(1500年頃)」を境には、「第一の姓(910族)」を一挙に追い越し、既に、毎年4倍化して行った事に成る。

これでは、「縛り」も何もあったものではない。
これに合わした新制度を新たに構築しなければ社会は安定はしない事は充分に解る。
上記の「イとロ」の「第一の姓(910族)」の立場も殆ど無く成っていた事に成るだろう。
「苦しい環境」であった事に成る。
取り分け、「信濃」は苦しい環境にあった事が判る。

これが「第二の姓(24万」の上記の「氏家制度」を模倣し踏襲した江戸期の「武家諸法度」である。

(重要な注釈 歴史的に関係する令として出されたものを観てみると、「元和、寛永,寛文、天和、宝永、享保」の6令を以て出されている。
これが追加集約されて「武家諸法度」として確立し大名に一定の秩序を課した。
その内容を観て観ると、主に「元和」がその「縛りの趣旨」に近く「幕府許可制」で「幕府の思惑」で統制した。
「嵯峨期」の様な「縛り条件」を確定して明示せずにそれを参考に判断して許可を出した。
「幕府思惑」に外れた場合は「取り潰し」で厳しく処理した。
「裁量権」を強化して「複雑な血縁関係」を「柔軟」に対処したのである。
実は朝廷と繋がりを強く持った「豊臣政権」でも同じような事が模倣されていた。
これは「血縁の許可制」に重点を置いている事から「縛り」に近いものである。
矢張り、「血縁濃度」が高く成りやすい「一族の結束力強化」に懸念して「国体の在り様」が考えられていた事に成る。
当初は主に一万石以上の「大名」に対しての掟であった。
それは上記した様な血縁弊害から「痴呆の指導者」が出来る事で族内外で戦乱・混乱が起こり易く成る事を懸念していたのである。
特に「元和の令文」を読み取ると、「7つ縛り」の散文形式には成っているがこの内容が組み込まれている。
これを観ると、明らかにこの「監視の元」をこの「縛り」を見本にしたのである。
そして、「第一の諡号の姓」ではなく「第二の姓」の「氏家制度・血絵統制」として確立したのである。
享保期以降には「大名」に限らず「5000石程度の家」、つまり「第二の姓」の「家」が構成できる限界と観ていた。
彼等にもこの制度を適用して統制したし、後にはこの概念が末端の武士にも引き継がれて行った。
江戸中期以降には「縛りの変形」が要するに遂には「天下の宝刀」として怖がられたのである。)


(注釈 江戸時代に「西の政権・権威を与える朝廷」は金銭で「官位官職」を「幕府の推薦」で「武家(5000石程度以上の家)・第二の姓」に与えた。
然し、与えた「官位官職」を調べると一応これにはそれなりの朝廷側の「基準」があった。
「第二の姓」が「武家の証」を造り出す為に「搾取偏纂」で「第一の諡号姓・910」の「武家の系譜」を求めた。
そして、この搾取での「福家の証」として発行されたもので「国印状」を取得した。
この国印状で得られた「搾取の武家」でも良いから、先ずはこれの前提で上記の「縛り1」「縛り2」「縛り3」の基準で与えたのである。
「大名格の高位」の場合に依っては、更に「縛り4」「縛り5」「縛り6」)に適合しているかで「官位官職のレベル」の「振り分け」をして与えていた事が判る。
従って、「大名格の高位」の場合は「系譜の搾取」にボロが出ない様に絶妙に行わなくてはならなかった。
推して知るべしで、この「搾取系譜」が数代経過すると「尾ひれ」が着いて証拠も無いのに本物と思い込まれて行くのが歴史である。
「新撰姓氏禄」の中に全く時代の異なる、且つ、「慣習仕来り掟」の合わない「矛盾の第二の姓名」が記載されているのはこの事から来ているのだ。
「後付け」の最たる見本である。
この現象は「青木氏」にもあって、「上記の縛りの理屈」からも「青木氏」は「姓」を出さない「氏族」なのに「姓化した甲斐」では横行しているのだ。)

何事も多勢に無勢の論理から「嵯峨期」からの「禁令」と「身分格式制(縛り)」は上記の検証速度で崩壊して行ったのである。
壊したのは確かにその意思の無い“「新たな姓族(新興族)」”ではあるが、「縛り」を無視した「河内の源氏族」も自ら壊した張本人であろう。
「第二の姓」の「勃興の兆し」もあったのにこれに気づかずに「自分で自分の首を絞めた所以」と成ろう。

(注釈 「摂津の嵯峨源氏」も最終は耐えられず「清和源氏」の「初期の武力集団」に組み込まれた。)

然し、ここで云いたい事は、この様な環境の中でも「青木氏族」の中には依然として「青木氏の氏是」を護りながら「禁令」と「身分格式」は大変な苦労の末に「伝統と云う形」で、且つ「氏族と云う形」で維持していたのである。
求めない「身分格式」がありながらも現代的な”「共生共存共栄の伝統」”で生き抜いたのである。
明治9年まで続いた「青木氏」が主導した「伊勢騒動」はその「典型」では無いかと観られる。

(注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。

「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


  [No.371] Re:「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/06/19(Wed) 14:35:58

> 「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」の末尾。

(注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。


「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


「氏族」として、「福家(氏上)」として、「四家」として、“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”を興していた「郷士の氏人」としての関係は、「完全な相互関係(共生共存共栄)」が確立していた事がこの事でも判るし、前段でも論じた種々の内容でも証明される。

(注釈 筆者が幼児期にこの「南紀の縁者の何軒かの家」を父に連れられて旅した事がある。
その時に、何が何だかよくは判らなかったが、未だ“「福家の・・・の若様」”とか呼ばれた「薄らいだ記憶」がある。
この時、「伊勢北部の伊藤氏本家」の「縁者」で、“格式ある様な家構えの家”に泊まった記憶もある。「家人」であった「南紀の周参見の家」にも泊まった記憶もある。
更には、「南紀湯川の家人」であった大きな旅館業を営む家にも何度か訪れた記憶がある。
又、「南勢の尾鷲」の父が育った「加納氏出の祖母」が住んでいた家にも薄らいだ記憶として幼少時に訪れた事がある。
この様に「南勢の遠祖地」との関係は父の代まで続いていた。)

北部から遠く紀州南部域に定住していた「伊勢青木氏」と関係していた「郷士筋の末裔の家」(氏人)であった事から、この事は「昭和の20年頃」までは、未だ「50」とは云わずとも「20位の郷士との親交」が未だあった事が云える。

「北伊勢に本家」があった「伊勢藤氏」の「伊藤の分家」の「南紀勢」の“「旅記憶」”が未だ筆者にあった等の事からすると、「伊勢郷士衆」と共に「伊勢北域」の「櫛田川付近」の「郷士の射和商人」等との「親交」は充分にあった事が、「数字の考察」以外にも記憶で証明できる。

この“「親交」”とは、そもそも「氏家制度」のある程度の「古い習慣」が未だ遺っていた地域であり、この事は“「縁組」”を半ば意味する。
この事からも、正式な譜系が消失して無く成ったとしても「血縁の有無」は多少とも証明できるだろう。

上記でも論じたが、「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、資料で分かる範囲としては「伊勢域」では「18程度の郷士」(「氏人」は除く)の名が遺されている。

「青木氏」と「経済的契約」に於いては「大小の郷士」で組織されていた。
これらは全体で次の様に成る。
「伊勢全域」から「南紀」−「伊賀甲賀域」―「員弁桑名域」―「美濃域」―「木曽域」―「諏訪域」―「信濃小県域(後段で詳細に論じる)」―「小諸域」
以上の「縦の線」で結ばれていたことが判っている。

注釈として、前段でも論じたが「戦国時代で潰された豪族」を山岳部に「避難村」を形成させて、「経済的契約」に基づき支援をした。
これに対して、彼らは「抑止力、荷駄の搬送と保護、他のシンジケート」の「横との関係」に従事した。

筆者は、この「縦の線の関係」を持っていた「伊勢−信濃シンジケート」は、実は、奈良期から平安期に「青木氏族」と血縁を含む何らかの関係を持ったと観られる(a−1 48氏)(a−2 101氏)、或いは(b 148氏)であったと考えている。
そして、その「直系族別と尊属族別と傍系族別」の「原士や郷士」であった可能性があると観ている。

前段でも論じた「伊賀原士衆」や「甲賀原士衆」との関係の様に、だから、「山岳部の民」と成り得ていたとしても「900年以上」の「経済的契約の関係」だけでは無かった”「特殊な行動」”を執ったのであろう。
実は、その論処は、「真人族48氏」の内の「敏達天皇の四世族内」の「同祖同門同宗同位」で「春日王系の皇子族」の「真人族の末裔」の多くは、前段でも論じた様に「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだ歴史的史実がある。
「孝徳天皇との軋轢」や「斉明天皇重祚」や「壬申の乱」や「吉野の盟約」等で皇族内を含めて「政争」が起こった事で、彼らは「四掟の元先」の「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだのだ。
それが「平安期の仁明期頃(青木氏出自の直系尊属の終)」まで起こった。
又、これに関連する「(a−1)と(a−2)の910族」は、この庇護下に逃げ込んで生き延びようとしたのだ。
中には、少数であるが「讃岐、安芸、淡路」等にも逃げ込んで土着したとする記録もある。

前段で論じた様に「五家五流青木氏」以外の「(a−1)」は「郷氏、又は郷士」に、土着化した(a−2)は「郷士」と成って生き延びたとする史実がある。
本流論では無いが、これが室町期初期の「下剋上と戦乱」で激減し、その都度、「血縁性」が低いが一部は「青木氏族」に救われたとする資料もある。
(江戸初期の搾取偏纂か)
「近江佐々木氏の研究記録」には一部は少数であるが密かに「伊勢信濃のシンジケート」の組織に加わり、その「経済的な保護下」で生き延びたとする真偽性が低いが記録もある。

前段でも論じている様に、「五家五流青木氏族」内の「四家」に「初期の皇子皇女」に入った者等は、間違いなく「(a−1)の48氏」中の一つ「敏達天皇の春日王系」の「同祖同門同宗同位の四世族内」にあった「末裔」という事に成る。
何故に彼らは「青木氏」の「家人化」しなかったかと云えば、(a−1)(a−2)であったからである。
唯、結局は平安末期に「近江と美濃(源氏化)」は滅亡し、その地の「郷士 (a−1)(a−2)の族」は共に消えた。
「甲斐」も衰退しその地の「郷士(a−1)(a−2)の族」の殆どは消えた。

又、「伊勢青木氏」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇(聖武天皇 井上内親王)」を輩出し、追尊で「志紀真人族」に戻った。
血縁関係をより深めていた「信濃」と共に、そして「拡大する経済力」と共に、この地の「氏人の郷士」と共に、「(a−1)(a−2)」の「影の郷士のシンジケート」と共に上記した「縦の線上」で存在し拡大させたのである。

これが、筆者が考える「伊勢−信濃の縦の線」に出来た「シンジケート説」の経緯である。
前段でも論じたが、疎遠であった「甲斐」で「(a−1)(a−2)の郷士説」を証明する事件があった。
「武田氏」を滅ぼした「信長の甲斐視察」である。
つまり、「象徴権威」を嫌う「信長事件」である。

因みに、「(a−1)(a−2)末裔」の“「古式伝統」”を守っていた源氏化した「甲斐の一郷氏」が「白衣着用と白馬乗馬での殴打事件」である。
実は、別の面から観れば、前段でも論じたが「源氏化と姓化」していた「甲斐」がそれほどの伝統を守っていなかったのに、何故、“「古式伝統」”を態々「信長」に見せたのかが疑問なのである。
取り分け、「甲斐」は殆ど「信長の先祖が持つ格式」と「甲斐の源氏化と姓化の格式」には差異は無いのである。

それはそもそも「信長」も元を正しく辿れば「平家傍系族」である事は解っている。
一般化している“「象徴権威」を嫌う信長”と云う説の公説で説いているが、「青木氏の歴史観」から観ると「甲斐の源氏化と姓化の格式」と差異が無ければ、この説は崩れる。
この説の「甲斐の源氏化と姓化の格式」の前提は「上位の格式の源氏」であると云う事から来ている。
この「源氏化と姓化」をし更に「郷士化」した「甲斐の源氏」は果たして「格式ある源氏」であるかのと云う事である。

前段で論じた様に「格式」を保障する「縛り」から逃避したそもそも「河内源氏の傍系族」である。
「甲斐の格式」の前提は、そもそも「五家五流の賜姓青木氏」であったとする前提であり、「後付けの源氏説」で論じれば違うという事に成る。
寧ろ、「出自先」を辿れば「信長の方」が搾取偏纂が多少はあったとしても「揚羽蝶紋で木瓜紋」である事の方が搾取は少なく、且つ判り易い。

公説は「青木氏」から観れば「信長」の方が上である。
況して、「摂津源氏」と違い”「縛り」”から外れた唯の豪族の「姓化の傍系源氏」では無いかと云う認識があっての事であったと観ている。
その意味ですれば「織田家」の方が「桓武平家」と云う正統性があると云う自負が在ったと観ている。
つまり、”格式は上だ”とすればここで”白馬から引きずり下ろす”が常道と成る。
故に、「甲斐青木氏の態度」を必要以上に誇張する態度に感情を高ぶらせたと観ている。

(注釈 話は逸れるが、{格式の論}として参考に論ずる。
又、南北朝で活躍した「楠木正成」も実はこの「(b〜e)の影の郷士説」と云われている。
何れ存在は認められるとしても、「彼等との何らかの関係」を証明する記録は「大阪府南河内郡千早赤坂村」の「楠木正成」が「影」であった事は史実であり、この限りでは否定は出来ない。
実はこれを解く鍵はこの“「楠木」の姓”にあるのだ。
別論なので詳細は論じないが、紀州一帯でのこの「楠木姓」は実に多い。
これは「熊野宮司六氏の支配下」にあった「熊野神社に由来する土豪」が使う姓である。
そして、「900年頃以降」からこの子孫は拡大した。
その「土豪」は前段で論じた「b〜eの810の中」の「第一の姓」の「宿禰族等の上位の官僚族」に従った「低位の官僚族・家臣」の派遣子孫である。
900年頃以降に此の「現地孫の末裔」が土着し、「熊野神社の神姓」を名乗ったものである。
要するに「熊野神社族」である。
この「熊野シンジケート」が「伊勢シンジケート」や「雑賀根来の紀州シンジケート」との連携であった事が判っている。
「熊野シンジケート」はそもそも紀伊山脈に逃げ込んだ「平家の落人族(史実)」である。)

(注釈 紀州では「高野村」、「大峰村」、「有馬村」、「龍神村」、「十津川村」、「北山村」等は有名な史実である。
「楠木姓」と共にこの「村の土豪姓」も多い。
後に彼らは「シンジケート忍者」と成って「紀州徳川氏の媒臣」と成って「伊賀」と共に働いた。史実
前段でも論じたがそれが「熊野神社」と連携して生き延びたのである。
「青木氏に関わる伊勢紀州一帯の研究」からは紀伊半島では「一般的に成っている説」とは異なる。
「影の郷士説・シンジケート」は「彼等の実際の戦歴(シンジケート戦術)」の史実で証明できる。
「ジンジケート」とはこの様な経緯から興る)

そこで、前段でも論じたが、筆者は、「郷士」には次の様に分類されると考えている。(原士も含む)

(a−1)に依って「土地の郷氏又は郷士」と成り得た族で、僅かながらも「氏人関係」が成立している。
(a−2)に依ってある地域の「影の郷士」と成り得た族で、「氏人関係」が充分に成立し得なかった。

何れも、後に郷士やシンジケートと成り得た「(a−2)」は系譜上では次の様に成る。
1 元は祖「敏達天皇」の孫「芽淳王」と、同孫「舒明天皇」は「異母弟:(母のロ)」
2 「敏達天皇」の妃「春日老女子:イ」の「第二皇子(異母:ロ)」が「春日皇子(王)」
3 「舒明天皇」の子で「妻不詳」の子が「宮処王」、即ち、「春日皇子(王)」

以上、「(a−2)」の「始祖」と考えられるのは以上の「3系」であると考えられている。
ここで、これは「伊賀との関係性」を考察する上で「重要な事」に成る事があるのでそれを先に論じる。

先ず、この系譜では難解であるが、「敏達天皇」の「妻のロ」が「舒明天皇の妻(妻のロ)」と成った。
従って、系譜では「舒明天皇の子」と成る。(妊娠期で何れの実子かは判らない。)
即ち、この系譜の「天皇家の純血の慣習」は、「后(母)」を除いて「妃嬪妾」が“「次の天皇の妻」として引き継がれる事”が通例であった。

(これは「純潔性の保持」の「天皇家の当時の「財産的仕来り」であった。)

この場合は多くは慣例に依るが、この場合は“「妻不詳」”と記されている。(記録上の当時の仕来りであった)
この様な場合、「医学的進歩」が無かった時期では、“「妊娠期」”が何時であったかが問題と成り、且つ、未だ「比丘尼制度」が充分に整っていなかった時代では「比丘尼」として「天皇家」から外れる仕来りは無かったしその概念も無かった。

(注釈 後に「比丘尼制度」でこの「仕来り」を上記の「財産的純血性の保持の「仕来り」は廃止した。
矢張り、「血縁弊害」が大きく響いたと考えられる。)

従って、当時としては官僚が行う事務的処理は「不詳の記載」は「当然の事」であって、「子」であったり「孫」であったり「兄弟」であったり、時には「親」と成り得る事もあった。

後勘としては、この古き時代の「記録の不足する事」を勘案すると、「記録一致」を証明する「複数記録」が無い限り、どの説を採るかに依って変わり「多説」が起こる所以でもある。

(注釈 その意味で”「比丘尼の概念」”を獲得する事は重要と成る。
そもそも、「比丘尼の概念」は「仏教伝来」によるもので、「公的」に扱われたその時期は「欽明天皇期頃」である。
唯、「日本書紀・720年」には“「天皇信仏法尊神道」”と記載がある。
“天皇は「仏法」を信じ「神道」を尊ぶ”と記載されている。
この頃には徐々に浸透している事が判る。
つまり、これは「敏達天皇」の前に成るが私的には「仏教」は「職能集団の渡来人」の「密教」として伝来している。
この経緯からすると、「尼僧の概念」が確立したのは「仏教概念」が確立した「平安期795年」に入ってからであるので、「仏教の戒律」から「妻のロの様な慣習」は直ぐに見直された。
然し、未だこの奈良期では「普通の事」であった。
ところが「尼僧」が「比丘尼の概念」に到達するのは「後の事」である。
直ぐに概念化したのでは無かったのであり「尼僧=比丘尼僧」では無かったのである。
この返還の「経過過程」では、「比丘尼」は「巫女」と同様に「神社の役務」を務めていたのである。)

「敏達天皇の孫」の「芽淳王(後勘の渡来人の阿多倍王はこの別娘を妾に迎える)」から観ると、「舒明天皇」と「異母弟」である。
この「芽淳王の女(吉備姫王)」が「舒明天皇(斉明天皇)の后」と成り、「天智天皇」が産まれるのである。
つまり「異母弟」の娘が「異母兄の后」と成って、「天智天皇」が産まれた事に成る。
「異母」とは云いながらも「姪」を嫁にした禁じ手の「二親等血縁」である。
これには当時の「皇族内の血縁の概念」があった事に成る。
それは“「女の財産」”と“「異母」”である。
父から譲りうけた「女の財産」は継嗣の「女の財産」であると云う「基本概念」である。
これを前提に「血縁弊害を無くす事」が出来る「親等」では無く、無くす事の出来ない“「異母」であれば問題は無い”と云う「基準概念」である。
もっと云えば、「血縁弊害」より「純血優先」であった事に成る。
「純血優先」にしても「優先」とはそもそも「血縁弊害の理屈」が判っていて「優先」と云う考え方に成るので、「血縁に依る弊害」は判っていなかった事に論理的に成ろう。

現在から観れば、この「基本概念」は“異常ではないか”と考えられるが、未だその様な概念は殆ど無かったのであろう。
それより、“「純血で系統を維持させる」”のが「正統であった事」と、「血縁弊害の出る原因」が判らない以上は「人間の生殖行為」では「血縁弊害が出る事」は「当然の出来事」と考えられていた様である。

そもそも、その「基本概念」を変えさせたのが「仏教の概念」が「天皇家(720年前後)」に浸透した事であろう。

前段でも論じたが、「仏教伝来」は「公伝(538年頃)」を境に「公伝前(513年頃)/3説」と「公伝後(571年頃/3説)」に分けられる。

概念の経緯は「蕃神・神道」から「仏神・仏道」へと「概念」が変わって行くのである。

「800年頃(平安期初期・天台宗・浄土宗・真言宗)」に「3つの仏道」が出来て「蕃神・神道の力」=「仏神・仏道の力」へと移動して行き浸透する。
この「800年頃」を境に人々は「仏神・仏道」を概念の中に取り入れて云って、例えば「血縁の概念」も大きく変わって行ったのである。

その大きなきっかけが、上記の”「比丘尼」”である。
つまり、「血縁の元と成る女性」の「概念の変化」であった。

これは前段でも論じたが、行き成り「比丘尼の概念」に移った訳では無い。
「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の経過期間に沿っているのである。
「約290年程度の経過期間」があった事に成る。

「800年頃」に“「比丘尼」”で「約290年程度の経過を経ながら次第に上記の「女の財産」は「倫理悪」として、「血縁弊害」も「道義悪」としの概念へ変化して行ったのである。
この「比丘尼の概念」が「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の「両方の経過」の中にあったからこそ「概念の変化」が起こったのである。
そして、「比丘尼が女」であったからである。
そもそも、「概念の変化」と云うが長年に渡る染み着いた「人間の思考基準」であるからこそ簡単には変わるものでは無い。
それが、この“「二つの条件」”が伴い何と「約290年程度」で変わったのである。
現在でも「日本文化の概念」が未だ延々と続いている事を思えば短期間である。

さて、この「800年頃」を考えて頂きたい。
「青木氏の光仁期」の後の「桓武期」である。
この期を境に「青木氏」も同時に大きく変化した事を前段でも論じた。
取り分け、「四家。四掟。女系の妻嫁制度」等の多くの制度を敷いて「氏族の尊厳」を守りながらも「皇族」と完全決別した。

つまり、「皇族」も「概念の変化」をさせた時期、つまり、「仏教の概念」、「純血性の血縁の概念」とそれに対する「比丘尼の概念」に変換した時期でもあるのだ。
「出自元」が同じでありながらも、「青木氏の決別概念」と「皇族の概念変化」があったからこそ、その差が広まつたし、決別出来た事が「青木氏の氏是」にも成った筆者は分析している。
故に、「800年頃」に「賜姓五役」や「令外官の役目」からも決別して行く過程を観えたからこそ「影の役目」は成し得たと考えられる。
近づいていればそれこそ「墓穴」である。
「決別」を「氏族の目標(氏是)」であるのなら幾ら何でも本来は何もしない筈であろうし、余計なそんな事はしなかったと観られる。
それだけに「青木氏の氏是」であったのかも知れない。


次の問題に移る。
先ず、それらを判断するに必要とする知識として前段でも何度も論じている事ではあるが、下記の「注釈」で改めて記する。

(注釈 「春日皇子(王)」は、「異母弟の舒明天皇の皇子」であるとすると、「芽淳王」とは「異母弟」に成る。
つまり、「従兄」であって、「芽淳王」の「女の吉備姫王」と「春日王の父の舒明天皇」が婚姻する事で「春日皇子」は「芽淳王の義嗣」と成り得た。
「春日皇子(宮処王)」の実母「妻のロ」が「芽淳王」に絡んだかは確定は出来ないが、あり得るとした説も観られる。
そうすると、ここで「義詞子説」と「義兄弟説」が生まれる。
ところが「芽淳王の子説」は、「義嗣」では無く、「妻のロ」が絡んでいたとして「子」と明記している。
然し、これは”「妊娠期」”を証明できない限り確定は無理である。)

(注釈 この一方で、「芽淳王の別の女(四世族内の王女)」と「阿多倍王」とが婚姻し上記の妃(妾の説もある)の正式な三子を産む。
これが半国割譲で「伊賀」に住み着いた「阿多倍王」の「嬪妾」が”子供を産す”の記載に結び付く。
人数不詳で、 坂上氏、大蔵氏、内蔵氏の賜姓三氏外に 伊賀に平国香を生むの。記載に成る。
この「子供の子(孫・貞盛かその子の維衡か不明)」が「高野新笠」であり、「白壁王(光仁天皇)の妃」と成り、その子「山部王」が「桓武天皇」と成る。
この「桓武天皇の孫説」の「平高望―国香―貞盛・維衡」と成るが、「高望王(平高望?高尊王)」から時代考証が入り乱れている。)

(注釈 「国香の父」の「高望の名」は「阿多倍王」に与えられた「追尊名」を名乗ったとする説もある。)
「伊賀」に居た「阿多倍王」は、別名では「高尊王、平望王、高望王」の三名を持つ。
後漢名の「阿多倍王」は、伊賀で100歳近い長寿であったし、「桓武天皇」は「曾祖父」に当たる「阿多倍王」に、記録では「伊賀」に行幸して追尊して「日本の王位」として「平望王」等の王位を与え、「平姓・たいら」を賜姓したとある。
正式には「追尊」である事から「平姓・たいら」は「宇多天皇の賜姓」とされる説が生まれる。
「長寿・95歳以上」であった事、
「妃嬪妾」の「上記の入り組んだ慣習」である事
「孫や曾孫」と云っても現在の「累代性の概念」の中には無い事
当時の平均寿命が55歳の事を勘案すると、追尊時にはぎりぎりで生存していた事
以上が通説と成ろう。
筆者は前段からもこの説を採って論じている。)

(注釈 始祖と成る「春日王」には同名の王が「二世族の王」と「四世族の王」と二人いるので注意、
他に「施基皇子の春日王皇子」があるが、これは上記の「2の春日皇子」の「四世族の青木氏」である事から名づけられた。)

(注釈 「芽淳王のルーツ」の「伊賀の平姓・たいら」と「春日皇子・王」の「四世族の青木氏」の関係から観ると、「芽淳王」と「高野新笠」と「桓武天皇」の「三つの要素」で由縁があった事に成る。
故に、この由縁を以て「以仁王の乱」の「青木京綱」から「伊賀」に求めた「宗綱らの助命嘆願」は聞き入れられたと考えている。)

(注釈 この「桓武平氏・たいら」の「清盛」は、「伊賀」から播磨に一族全て移動するが、「遺された者」等が「伊賀原士」と成って「伊賀郷士衆」を形成した。
そして、遂には「伊勢郷士衆」に組み入れられた。
そのご血縁して「伊賀青木氏」(甲賀青木氏含む・家人)まで輩出した。)

上記の「注釈」から考証すると次の疑問が出る。
それでは、“彼らは一体誰達だったのか”と云う疑問が湧く。

その「桓武平氏」が去った後の伊賀に「遺された者等の系譜」は何なのかである。

この「重要な点」の解く鍵は、「高野新笠・桓武天皇の実母」の里から“「伊賀青木氏」”が発祥しているという事である。

仮に、「桓武平氏」との「伊勢青木氏との血縁族・伊賀青木氏」は、当然に「桓武天皇の母」の伊賀の「高野新笠」の「由縁」を以て間違いなく起こるであろう。
然し、「伊勢青木氏」が「女系の妻嫁制度」を執る以上は、「男系の青木氏」で無い限りはこの「伊賀青木氏」も「平氏」として播磨に移る筈である。

では、「移らない者」としての説はあり得るのかである。
検証して観る。それの答えは、“ある”と成る。

日本書紀に依れば「九州全土」を無戦で平定後に「薩摩大隅」にいた「阿多倍王」に対して、「朝廷の軍船団」が「薩摩での数度の戦い」で敗戦した。
そこで「朝廷仲裁」が成り立ち、阿多倍王は「呼び出し」に応じたとある。
そもそも、「薩摩大隅」から「伊賀」に移り、都に遙任して、「芽淳王の女」を娶り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の「3氏」を発祥させた。
その後に「伊賀の里」に戻り移るが、「妃嬪妾」を娶り、平氏以外に「子孫」を設けている。
この「平氏・たいらの母」と成った「妃」以外に、そこで考証としては「複数の伊賀の嬪妾」は、「伊勢青木氏の女」や「伊勢郷士の女」であった筈である。
これが前段でも論じた様に「青木氏の家人制度」に依って発祥した「伊賀青木氏」であると成る。

そうすると、前段で論じた「女系の妻嫁制度」で観れば、「伊勢青木氏」からは「伊賀の阿多倍」の別和名「高尊王、平望王、高望王」は位階の「王位」を授かった。
そうすると「白壁王−桓武系」に相当するので、「四掟」に適合する事と成る。
従って、「嬪妾」は「妃族」の「平氏・清盛系」とは根本的に「伊賀青木氏」は「族系」が異なる事に成る。
故に、「播磨」に行かずにその子孫は「伊賀」に残留する事に成り得たと観られる。

(注釈 これが「伊勢青木氏」と血縁に依る連携をして「伊賀郷士の青木氏(伊賀原士)」として播磨以後に発祥する事に成ったのである。
つまり、「四家外」の「伊賀の青木氏(甲賀青木氏もある)」という事に成る。
前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」より「伊賀郷士」に「女(むすめ)」が嫁ぎ、そこで「優秀な外孫嗣子」に「青木氏」を別に興させ、「家人」として受け入れる制度を使った。
そして「伊賀」を「氏族」として組み入れられたものである筈。)

(注釈A 上記した「春日皇子(560年頃)の族系」が、始めて「天武期の八色の姓制(684年)」で、年数からすると「120年後」に“「春日真人族」”を形成する事に成るのだ。
然し、ところがその間に「春日真人族」を形成したとする当時の記録は何処にも無い。
実質は、記録から「160年後」に「施基皇子(天智天皇の皇子)」に依ってこの「春日真人族」が発祥させた事と成る。
「天智天皇」はこのぎりぎりの「敏達天皇系」の「第四世族の春日真人族・2」であった事に成る。
恐らくは、既に、「四世族」から外れた「臣下族の朝臣族・賜姓青木氏」と成り得ていたにも関わらず、実質的には直前で絶えている。
この「春日真人族・2」を「元皇子」であった「施基皇子族」と云う形で形式上で興させたという事で成り得る。
筆者はこれは「孝謙天皇の策(白羽の矢)」であったと観ている。)

(注釈B、その後、この策で「孝謙天皇の白羽の矢」でこの「発祥の理屈」を造り上げて「光仁天皇(二代目の春日真人族の白壁王・朝臣族に)」が誕生したと成ったと観られる。
何故ならば「発祥の理屈」は、「大化の改新」の「定め」から外れる為に、これを無視する訳に行かず、既に「臣下族の朝臣族」と成り得ていた事に対する「定め」の「苦しい引き上げ策」を打ち出して於いてその上で「白羽の矢」と成ったと成るだろう。
更に「54年後(214年後)」に“「追尊」”で、この形式上(孝謙天皇の策)の「春日真人族」から新たに独自の追尊の“「志紀真人族」”を造り出して「正当化した事」に成ったと云う経緯と成ろう。
故に、追尊の「志紀真人族」と成った「青木氏の氏族」に「所属する者」等は、「八色の姓」に依って「真人族」以外の「姓」、つまり、別に「諡号の姓族」を発祥させてはならないと云う「皇族の掟」に組み込まれて仕舞ったのである。)

(注釈C 更に、この「二つの追尊(「春日宮天皇」と「志紀真人族」)」に依っての「天皇家の系に載った志紀真人族」に成って仕舞ったのである。
この事に依り、その「子孫」は本来はあり得ない「賜姓族」として授かっていた「青木氏(天智天皇)」だけが名乗れる所以と成って仕舞ったのである。
従って、同時に、これまで一時期まで「五地域」に散っていた「名の持たない皇族朝臣族(a−1 48氏)」であった者や、一時は「源氏(賜姓族ではない源氏)」に成った者等も「源氏」を外しても一斉に集結して「五家五流」に雪崩込み「青木氏」を「諡号」として公然として名乗って広まった経緯である。
「嵯峨期以降」の「源氏」には「賜姓の有無」の「源氏」がある事に注意。 
「11家/26家」と成っていて殆どは無賜姓である。この内15人が「五家五流」に流れ込んだとする経緯である。

(注釈D 記録に依れば「嵯峨期前」(施基皇子期)では「約240人と云われる皇子皇女」が当然の事として「五家五流」に流れ込んだとある。
「皇子族」は「近江美濃甲斐」(源氏化・姓化の原因)に、「皇女族」は「伊勢と信濃」(女系制が原因)に流れ込んだのである。
その後もこの傾向が続いた。)

以上の注釈に付いて「氏族の制度」以外に、「伊勢信濃」には前段でも論じたが次の理由があった。

市場放出権での経済力
都に近い地理的な優位性
「不入不倫の権」で護られての安全性
「祖先神の神明社」の救済策
「伊勢神宮」の膝下
「斎王や祭司」などに成った後の「館の救済策」(元々の役目)

以上の理由で流れ込んだ。但し、取り分け、「皇女」が一番多かったと考えられる。
この事は「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の研究記録」から判る。

但し、「伊勢」では「四家」に入れずに僅かに入った「皇子等」は「500程度」の「神明社の宮司・家人」に成った事も書かれている。
この読み取り記録から完全に「皇女族」だけでは無かった様である。
唯、「扱い方」が違った事があるのだ。
つまり、「伊勢と信濃」は「源氏化するような扱い方」では無かった様である。
これが「第二の象徴紋」の「神木の神紋」の”「柏紋の使用」”を許されている所以なのである。
この「扱い方の所以」は「青木氏の守護神」の「神明社の神職」は「柏紋の青木氏」であった事に依るだろう。
要するに「賜姓五役の役目」がその全ての立場にあった事が理由であろう。

「皇子の逃避先」は「日本書紀」や「他の歴史書の三古書」から観て「美濃」が多かったと観ている。
「信濃」は伊勢と同制度にあった事から「皇子」は多くは無理で有ったと観ている。
最近、記録から判った事であるが、「信濃」は「不入不倫の権」に近い侵してはならない「広大な神明社の聖域」を持っていた事が判っている。
西は「現在の青木村域」から東は「佐久域」までの「東西距離25k 幅は45k」の面積の「聖域」のものであった事が判っている。
これは平安期は「五大天領地」の一つであった事に依ると考えられる。
そこの「聖域地」として、つまり、これを「神明社域の聖域」として「信濃青木氏」が護っていた事に依るものであろう。
「江戸期の享保期」まであった事が判っている。
(後段で論じる)

(注釈E 「近江」はそもそもその力が無かったし、「甲斐」は独自性が強く山間部と云う事もあって「皇女」は少なくとも嫌った事が判っている。
然し、「皇子」は「醜い政争」から逃げると云う意味では都合は良かった筈である。
何にしても男女の「救済策」は伊勢が整っていた。)

(注釈FE 前段でも何度も論じているが、復習として、尚、念の為に歴史の知識として知る必要のある事は、何らかの資料に「志紀真人族」から「姓発祥」があるとするは、それは、室町期末期か江戸初期の「系譜への継ぎ合わせ」での搾取偏纂に他ならないのである。
この時代に横行した「プロの搾取偏纂者(神職や住職の復職として)」に依る仕業である。)

(注釈G 復習として、そもそも、“「姓」”とは、“「身分の区分秩序を分離する単位」”の事。
その「複数化した単位」を更に“「諡号(縛りの条件付帯)」”を使って判り易くした。
この「諡号」が「区別の名」と成り得て“「固有名」“として使われたのが、要するに”「姓名」“である。
その”「固有名」“を持つ族を”「姓族・(第一の姓)」“と称する事と成った。
従って、「真人族48氏以外」の「朝臣族等の七色(色で身分階級を区別)」は、「固有名の諡号」を持つ事を公然と許されて“「第一姓族」”が正式に誕生した。)

これらの「注釈」を前提として、そして、“「身分の区分秩序」”の「第一の諡号」の「真人族」を構成した中で「朝廷」が示す一定の「特定条件」を叶えた者を「真人族」と認定した。
「朝廷の認定」を受けたこれを「諡号」して“「氏族」”と定めたのである。
これが“「我々の青木氏族」”なのである。
其れの「特定条件・縛」が前段までに論じているものである。
簡単に云えば、「真人族系」の「青木氏の氏族」である事から「氏名」以外にはその他の「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持たない論理と成るのだ。
もつと云えば、この理屈からすれば「朝臣族系」の「特定条件」と「認可」を叶えた「氏族」は「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持っても良い事に成る。

その典型が、例えば“「藤原氏の四家」”であり、遺った北家主流は「25流137家」と、「青木氏族」と関わった「秀郷流 8流361家」に成るのだ。
この様に「藤原氏の氏族名」と、その「氏族」の内の「判別用の姓名」を特別に持つ事が出来るのだ。

つまり、唯、ここには「真人族系の青木氏の氏族」と「朝臣族系の藤原氏の氏族」には全く違う点が一つある。
「真人族系の青木氏の氏族」は「氏人との構成族である事」である。
つまり、「郷士族との構成族」である事である。要するに「絆族」である。
「郷士族との構成」は、“その数を限定し増やさない”で「女系で血縁構成する族」であり、「血縁性」は「数度の血縁」で繰り返す族でありながら、氏人は「独自の姓名」を持つ構成族である。
この限定される中での血縁である為に「血縁性は高まる形態」と成る。
況や、「主家(福家と四家)」と「氏の人(家人・氏人)」との関係である。
つまり、当に、「氏の中の人」である。所謂、「共存・共生・共栄」の族である。

「朝臣族系の藤原氏の氏族」は「血縁性の薄れる一族」を最大限に増やし、更にその「主流族」に更に「薄い血縁性で繋がる支流族」の「姓族」との「二つの構成族」の「枝葉形態」で構成する。
この「支流族」は「独自の姓名」を持つ「構成族」ではあるが、「男系の主流族」には拘束されない。
この「支流族(男系・女系を問わず)」は、従って、「拘束性の低い事」から「他の族との血縁族」とも成り得る。
要するに「傘下族」と云える。
この「笠の人」は「他人の笠に入る事」もあると云う事に成る。
この「笠の人」が「氏族の氏人」と云う事に成る。

「真人族系」と「朝臣族系」とには「氏の人」となる「独自の姓名」には意味が違う事に成る。
「家人の姓名」と「族人の姓名」には「氏族の構成力」が異なるのである。

この「二つの種類」の“「特定条件」”の「氏人−氏上が物語る特定の血縁」で結ばれて固められた族を”「氏族」”と云う。
この「真人族系」と「朝臣族系」の「関係の氏の人」が、「(a)、(a−1)、(a−2)」の「何れの郷士」もこの中に入る。
これが「氏族」として朝廷より「特別条件」として認められた「重要な要素」なのである。

要するに、「時代の経緯」に依って、「真人族の衰退族」や「皇族系に分別される官僚族(位階族)」の「郷士」と成った「氏人族」である。
況や、(a)、(a−1)の多くは「真人族系」に入った。
そして、(a−2)以下の地方に多く分散していた「官僚族」は「官僚族」であった「朝臣族系」に入った。
物理的に立場的にも“入った”と云うよりは入り易かったのである。

この地方に分散していない「氏族、氏人と成り得る族」の殆どは、先ずはその系の基が「真人族(48氏)であった事」を前提とした。
そして、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族」にのみが氏族に入り得たのである。
唯、この事から、「真人族(48氏)(a)」の全てが成り得たという事には成らない。
「真人族」となった「皇子の者」等でさえも、「力」が無ければ、「諡号」、つまり、“「一人立ち」”が出来ない限りは、「権威と象徴」だけでは「氏族」は成し得ない。
当然に、「朝臣族」以下の「皇別系」の「諡号の姓」の保持も尚更に無理であり、且つ、「賜姓」を授からなければ尚難しい。
故に、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族・氏の人」に入るしか無かったのである。

上記の「青木氏の諡号」を、「真人族系」と「朝臣族系」の「二つの青木氏」の各地に散っていた彼らは、「注釈A〜Gの経緯」により公然とその根拠付けられた。
この事で、「青木氏を名乗る事」が出来たと云う事に成る。

「日本書紀」によれば、天智期以降から桓武期までには、多くが「青木氏外の賜姓」を受けているが、現実に平安期末期までに生き延びて「諡号」を獲得した「姓」は、「新撰姓氏禄」から観れば、1/20にも満たないし皆無に近いのである。
「室町期」では、最早、皆無であり、全てを捨てて奈良や京の都付近域の土地(土豪)に根付いたか、絶えたかである。

況して、「平安期末期」では、「新撰姓氏禄」に記載されている「真人族」が、「族」として「諡号の姓」を守った「族系」は、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」を除いて、次の通りである。

「天智皇子族系」の「近江佐々木氏系族の2族」
「天武皇子族系の7族」
「春日族系の2族」

以上と成っている。

合わせて、「11族」で、「青木氏族」を加えると「16族」と成っている。

(注釈 「春日真人族系四世族の五家五流の青木氏族」は、「近江佐々木氏」と同じく本流では「天智皇子族系」と云える。
然し、上記に論じた様に、「初期の段階」で「賜姓五役の役目」を与えられた。
多くの「真人の皇子」を「族内」に抱え込んで「五家五流の青木氏族」が形成されているので、 「大括り」の「春日真人族」としている。)

さて、詳細にはこれから観ると、「新撰姓氏禄」の「真人族48氏」は、実際は“「16氏/48氏」”=1/3 と云う事に成る。

つまり、残りの”「32氏」”は、「五家五流の青木氏族」に入ったか、衰退し土地に根付いて「郷士」に成ったか絶えたかに依る。

そこで、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」に入った「真人皇子の数」は、確定は出来ないが、論理的には次の様に成る。

「伊勢青木氏に入った数」の内、「四家」そのものに入った数は、「5〜7人程度」と読み取れる。
後は前段でも論じたが、「伊勢郷士」として関わった数が「11氏」であろう。
合わせて、最大でも「伊勢」では、前段でも論じたが、その「賜姓五役の役目柄」で基本的な数としては「18氏」と成る。

そうすると、「伊勢外の四家四流」には、1家で3〜4人程度として、゜12〜16氏/32氏」と成る。
「平安末期」では、「近江と美濃」と、「甲斐」が滅亡したので、「信濃の3〜4氏」だけと成る。


「真人族」は、「公表の記録」には全国に散ったと成っているが、彼らの「皇子」の生い立ちから全国に散る事は先ずない。
そもそも、そんな力は無かった筈である。
論理的に欠ける。
精々、奈良や京を中心にして近畿か中部域である。
現実に「新撰姓氏禄」も「近畿か中部域」として限定しているのはこの事から来ている筈で歴史的に証明される。

「坂東に移動したとする説」は間違いである。
当時、「坂東」は「流人や罪人の配流地」であった事から、自ら進んでそんな地には行かない。
間違いなく「新撰姓氏禄」から外れた「地方の土豪」の「家の格式」を高める為の「後付けの搾取偏纂」である。

(注釈 同じ「真人族の位階等」を持つ特定の「氏族」で、態々、「逃避の受け口」が、あればそこに入るが世の常である。
「青木氏」から観れば、「坂東に散ったとする説」は、殆どは、この「真人名の系譜」を使った「搾取偏纂の説」にする為に過ぎないと観ている。
そもそも、「多治彦王説」と「島王説」があるのだが、これを名乗っている「関東の豪族・武蔵七党系等」がある。
ところが、これには矛盾がある。
それは、「・・彦」とは「彦・ひこ」は「神道の諡仕来り」で10歳程度の「少年期」の命名に使われる。
未だ「彦の少年」が子供を造れる能力の無い者に使われる。
従って、3〜5年では子孫を現地には遺せないのである。
然し、「軽罪」を得て3年後に未だ少年だとして都に返されるのだ。
この「多治彦王」は正式な記録では3年後に罪を許されて都に戻っているのだ。
例え、「子供」であっても「現地孫」と成り「子孫」とは公的記録ではカウントされない仕来りでもある。
これを「嵯峨期の詔勅」に従って30年後に子孫だとして系を造り上げているのだ。
矛盾が多い。)

これが、室町期初期には、「賜姓臣下朝臣族」と成った「真人族」では、「伊勢と信濃青木氏」を除いた族は最早無い事に成る。
「皇子皇女の朝臣族」の「逃げ込み先」として存在していた「近江佐々木氏」は、「近江青木氏」と共に「平家」に敗退し少ない傍系を遺して滅亡に近く衰退した。

(注釈 「近江佐々木氏の研究記録」には「青木氏の逃げ込み策」の「人数やその形態」まで論じていながら「自らの族」にこの「皇子皇女の逃げ込み策」の記録の記載は無い。
これには明確な原因があって後に論じる事になるが、「近江の環境に依る財力」の低さにあった。
「伊勢青木氏」と「額田部氏」の連携で派遣して干拓灌漑工事で彼等を救済した。後に論じる。)

ここで、更に付け加えて論じたいのは、この「新撰姓氏禄」に記載された「48の真人族」である。
これを今は「正しい」の前提として論じてはいるが、実はこの「48の真人族」の中に、「飛鳥王朝初期の天皇の真人族」だとする族数が何と「9族」も記載されている。
況して、「真人の姓の諡号」は、そもそも、「684年制定」で、この「神代時代」のこの主張する「真人族」は、「450年頃の事」で、「235年後に真人族だと名乗った事」である。
つまり、「235年後」に“どの様な根拠でその「天皇系譜の真人族」だ“と云っているのかは甚だ疑問である。
そんな「日本書紀」よりも相当古い「神代の時代の系譜」を示す資料があったら示すべきだ。
これは、「新撰姓氏禄」が「紛失した時期」を利用しての「自らの出自」をよく見せる為の「大胆な系譜搾取偏纂」の「始末の所以」であろう。
従って、「嵯峨天皇期」に編集されていた「真人族数」は少なくとも「41氏以下」と成ろう。

そして、更には上記した様に、この「41氏」の中には「室町期の第二の姓」が「真人族」だとして侵入している事は確実である。
「810の第一の姓族」には入らないその数は調べても少なく観ても「4姓」、多くて「11姓」が散見できる。
厳密にはもっと多いと観られ「後付け」である事は明白である。
この差し引き「30〜37氏の真人族」は、「歴史的な考察」から充分に論理的には理解はできるが、まだ完全に納得は出来ない。

筆者は、もっと少ないと観ていて、「近江佐々木氏の研究録」による数は、男子では「17皇子(20以下 皇女で15)」と記載されていて筆者も同じ意見である。
何故ならば、大化期から嵯峨期までに朝廷が「41氏の真人族(家族を入れると200〜250人)」を養えるのであれば、「嵯峨天皇の詔勅禁令(類聚三代格にも記載)」を出す事は無かった筈である。
大化改新期でも「六世族」を「四世族内」に狭めて「皇子範囲と数」や「王族範囲と数」を態々、限定したりしなかった筈である。

(注釈 これを記載している「類聚三代格」は、そもそも、「律令の書」である。疑問である。
その「律令の書」の中に「皇子の範囲と数と経費の事」の「詔勅」を記載するはそもそも「範囲外の事」である。
何か変である。
これは「世間の評価」に対する「時代性の変化」を敏感に反映して恣意的に手を加えられたとも考えられる。
それだけに、「皇子の範囲と数と経費の事」を減らしたいとする「天皇家の当時の意思」が大きかった事を示している。
「嵯峨天皇」が「詔勅」で現実に書いてもいる「48」を、「41や31」にしたところで「内蔵の財政」にはそもそも何の意味も持たない。
少なくとも半分以下にしなければ、その「天皇家の当時の意思」は解決したとは成らないであろう。
現に、「春日真人族」から「志紀真人族」に替わった「青木氏」さえもが、「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」と「真人の賜姓元族」が廃止されて外れているではないか。
何をか況やである。
そもそも「嵯峨天皇の出自元」であるのにも関わらず外したのである。
それだけの財政改革をしたのである。
だとしたら、「真人族 48(a−1)」の数字は多すぎる。
当然に、「朝臣族 101(a−2)」の数字も極端に多すぎる。)

(注釈 公表の“「皇子皇女(皇子17皇女15)」を「朝臣族」や「源氏族」にした”ところで「政務」に付ければ「大蔵内蔵の財政の負担」は変わらないではないか。
故に、「天皇家」が出来る唯一の「変える方法」はそれは次の一つである。
「出自元」を含めて「天領地」を守護領としている「五家五流(自活)」に入れる事であった筈だ。
つまり、上記で論じた「青木氏に吸収される機能」に入れる以外に無かつた筈である。
又、その為の「五家五流青木氏」に「嵯峨天皇」は、「政争の変」を起こしてまでも「桓武天皇との妥協案」の模索の上でそもそもしたのではないのか。
何度も云うが「近江佐々木氏の研究記録」は、故にその考証から“「皇子皇女(皇子17皇女15)」は「五家五流」に入った”としているのである。
但し、筆者は「伊勢」では「少数皇子説」は「家人」と成ったと観ている。
そもそも、「伊勢」では「四家制度や妻嫁制度等」を敷いていた事は、充分に「出自元」であるので知っていた筈である。
「出自元」でありながらも入り難い事に成ろう。
故に、「出自元」を根本して入った者は、“「家人覚悟」”で来ている筈であるし、「伊勢」も敢えて「家人制度」を敷いたと観ている。)

注釈からすると、殆どの皇子は「美濃と甲斐」に入って滅亡したと考えている。

そこで「出自元」ではない「美濃や甲斐」に入った理由は、次の事にある。

「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」までは「出自元」ではある事は認める。
然し、「縛り」を護らずに「源氏族化」して行った為に、「伊勢と信濃」には入り辛く、結局は「美濃と甲斐」に救いを求めた事に成ろう。
その結果として、「美濃と甲斐の青木氏」は、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれた所以でもあるのだ。
故に、「以仁王の乱」から「源氏族化した美濃と甲斐」は「清和源氏主体の戦い」に参加した所以でもあるのだ。
これが理由と成る。
そもそも決して我々「青木氏族」は「源氏族」ではないのだ。

本来、「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」 +「文徳系」+「光孝系」の「前の皇子族の集団」の「青木氏族」である。
「源氏族と称する集団」は嵯峨期からである事は云うまでない。

(注釈 下記に改めて検証するが、この「真人族の皇子皇女82」と「新撰姓氏禄の真人族48」との差の主因が、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれるはここにあると考えられる。
逆に云えば、「出自元」であって「前の皇子族」であっても、論理的にはそもそも「伊勢源氏と信濃源氏」はあり得ないのである。
将又、「光仁天皇」と「追尊の春日宮天皇」の「主家」と成っていたのであるからだ。
この「青木氏族」から観れば、論理的に「源氏族」は「分家族(分家の持つ意味が重要)」である。)

(注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)

(注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
そして11流も発祥している。
これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


「青木氏の伝統 51」−「青木氏の歴史観−24」に続く。


  [No.372] Re:「青木氏の伝統 51−1」−「青木氏の歴史観−24−1」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/07/18(Thu) 14:46:08

> 「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」の末尾。


> (注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
> 結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
> 従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
> この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
> 「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
> 故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
> 「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
> 故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
> そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
> この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
> 要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
> 然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
> それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
> 然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)
>
> (注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
> そして11流も発祥している。
> これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
> 故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
> この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
> もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
> 「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


「青木氏の伝統 51-1」−「青木氏の歴史観−24−1」

さて、前段の注釈を前提として、「真人族48氏」を基に論じてきた。
前段でも論じた通り果たして、“これが正しいのか”と云う疑問があるのだ。
上記した「真人族の数の疑問」である。

そこで問題と成るのは「真人族の定義」である。
当時は「大化改新からの定義」が世情では乱れていた。
その為に最終は「嵯峨天皇」はこの定義を明確にして「身分格式」をはっきりさせようとした。
その最初が「孝謙天皇期」であるが、この「孝謙天皇期」と云うよりは「藤原氏の孫」の「淳仁天皇期の事」である。
天皇家に男系継承者が絶えた事を見計らって藤原氏の「外孫王」を「天皇」に仕立てて「政権の奪取」を図った。
そうすれば「天皇家」は「藤原氏」と成ると見込んだのである。
その為にこの「定義」を「藤原氏」に有利に成る様に「姓氏の範囲」を統制する「族系図」を作成しようとしたのである。

その策は成功したかの様に観えた。
然し、女性の「孝謙上皇」はこれに気づき「淳仁天皇」を廃帝にし淡路島に流し、再び「孝謙上皇」は重祚して「称徳天皇」として即位し実権を握った。
この時の「族系図の編者」等は゜政争の恐ろしさ」を恐れてこの「系図の作成」に途中から放棄して「族系図」そのものを不明にした。

この「称徳天皇」(「孝謙天皇」)は今後の「藤原氏の策」に警戒して、この「乱れた定義」を「本系の天智天皇系」に戻そうとした。
この事で定義は安定すると見込んだのである。
ところが、「天武系」は聖武期には男系は断絶していたので、更に一代遡り「敏達天皇春日王系真人四世族」に戻せば本流に戻ると見込んだ。
ところがこの「天智系」は「二人系列・川島皇子系と施基皇子」を遺す事と成っていた。
その一つの「伊勢の施基皇子・716年9月没」も既に賜姓臣下して下俗していた。
ところが「近江の川島皇子・691年没」には「天智系」でありながらも「天武系」に近づき過ぎ、又、「天武崩御後の政争」で「密告者の汚名」と「人格的批判」があり、「称徳天皇770年没」は堅い意思から避けたとされる。
それは「施基皇子の中立性の生き方」に賛同していたと観られている。

当に、この「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は前段から論じている様に「人格的評価」も高く「青木氏の生き方(氏是)」に一致している。
「孝謙天皇・称徳天皇764即位」では、下俗し「商い」もしていたにも関わらず「皇子の末裔・二世族」に「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は拘り「白羽の矢・765年頃」を放ったのである。
既に「施基皇子没後の48〜50年後の事」である。二世三世時代の事であった。
当時としては、「二世代の寿命期間」でもあり「下俗」して相当後の「二世代か三世代」に入っていた事になる。
もっと云えば「四世代目」が生まれていた事が判っている。
既に「商い」も進んでいた時期でもあった。
この「白羽の矢」はこの「二世代目」に当てたのである。

この時の事は前段でも論じている。
当然に、この時、「天武系の自らの血筋」を「天智系に入れると云う策」を執ったと云う事である。
それわより確実にするには「姉の井上内親王・717年〜775年」を「施基皇子の二世末裔(青木氏・白壁王・実質の四男)」の「妃・745年」にする事であった。
但し、この「井上内親王」は727年〜744年の「17年間」は「伊勢神宮の斎王」であった。
その「伊勢神宮斎王」を退下させて帰京させての「血縁策」であった。

兎も角も、「施基皇子没後」の前段でも論じている様に「女系妻嫁制度等の体制・四家制度」を次々と強化している「最中の事」であった。
社会には「藤原勢力の意」を汲んで、この下俗した「施基皇子の末裔・伊勢青木氏」に対しての批判が高まるのを恐れたのである。
「社会」では「最早50年後の氏」と云うのは「民間人の何物」でも無かったし、「高位族の禁じ手」の「商い」もしている当に「民間人」に観えていた筈である。
この策は明らかに「下俗」と「商い」に対する「世情批判」を躱す目的があった。
兎も角も、これで「政争」を抑え込もうとしたのである。

「白壁王・光仁天皇」も、この「藤原氏の力の低下」を狙うと当時に、依然としてその根幹と成っている「族の定義の安定」が定まらず政争が続いていた。
そして、矢張り、「族系図」を定めて「定義の確定」を施そうとした。
この時は、その「偏纂の目的」は「淳仁期」、つまり「藤原氏系」の「外孫王」を「正統化する目的」に比べてやや異なっていた。

今度は「下俗していた50年後」の「施基皇子族系」を天皇家として「正統化する目的」で纏められようとしていた。
然し、又、この「族系図」は「編者等の反発」により矢張り失敗するのである。

この事から観ると「世情」は「青木氏」に対して完全には肯定的ではなかった事に成る。
正統な「井上内親王・717年〜775年」が「青木氏」に入ったとしても充分に認めていなかった事に成る。

その主因は次の事が考えられる。

1 「貴族」が「商い」をすると云う「禁じ手」が大きく働いていたのでは無いかと考えられる。
2 「50年〜54年と云う期間」が「施基皇子の記憶」に戻せなかった事も考えられる。
3 「世情の感覚」は「施基皇子」では無く「伊勢郷氏の青木氏と云う感覚」の方が強く働いた事もあり得る。
4 「族系図」の「最高位が青木氏である事」で「定義の確定」は成らなかったのかも知れない。

「1〜4の事」を勘案すると、それ故に、「追尊の春日宮天皇」の策を歴史的に始めて打ち出したのであろう。

この「追尊」に付いて幾つかの説があるので触れて置く。
その内の「主な二つ」に付いてである。
抑々、「追尊」とは“亡父に対して贈る尊の号”であると定義されていて利用されていた。

(注釈 念の為に「光仁期以前の過去(淳仁天皇期)」には「一人の追尊天皇の事例(父の舎人親王)」があり、桓武期には実弟の「相良親王」があるだけである。
平安期以降は「准・・」が着けられて「追尊である事」を明確にする「天皇家の仕来り」とした。)

「施基皇子没後716年」に「追尊」と成っている説もあるが、この説では「白壁王・709年〜775年」は54年後に「天皇770年即位・61歳」に成っていて論理的に「追尊」に成る事は無い。

仮に「追尊期」が「716年没」とすると、この期間は「元明天皇・715年10月〜724年3月期」の以外には無いのである。
「元明天皇」との間には「追尊の定義」に関わる事は何も無く、当に「追尊する程の高いもの」は無くそもそも「無縁」であるし、既に「臣下している者」でもある。
定義の「追尊の権利を持つ天皇」としては「光仁天皇」だけであり「父を追尊した説」が正しい。

恐らくは、この「716年追尊説」は「称徳天皇・764即位」時の「白羽の矢」の「根拠付」の「後付け説」である事が明白である。
この前に「注釈の通り」の「追尊の舎人親王の事(正式系図には無い)」があってこれを「後付け」で利用したと考えられる。
この「後付け説」で以て「伊勢系列」に繋がる様にした「江戸初期の搾取偏纂の可能性」が高く、大体予想が着く。

「追尊」から戻して、「世の族系の定義」を質す為に「族系図偏纂」に取り組んだ「三度目」は「嵯峨天皇」であるが、前段でも論じた通りである。
「族系図」は「編者等の反発」も同じようにあったが、その内容に対して周囲が反発をした。
今度はこの「族系図」に依って「身分格式が定まる事」への反発であった。
然し、「嵯峨天皇」は一策を講じて強引に押し通した。

この為に過去の二度とは違う処で造り始めていたのが、それが“「族系の縛り策」”であった。
この「族系の縛り策」でも、“「皇位継承」に問題を興すのではないか”と云う「光仁期」と同様に「疑念」が出た。
これが「政争の元」と成ったのである。
この様に「族系図」の実現の為に三度挑戦された。
これが「嵯峨期」の最終の「新撰姓氏禄」の基になるものであった。

つまり、それが「皇位継承の定義」が原因であった。
当時の政権は「孝謙天皇期」までは、“男系継承者が絶えた”とする主因と観ていたのは「皇位継承の定義」であって、その基の議論と成っていた。
何方かと云うと「族系図」では無く、引き継がれてきた「大化期の改新の定義」に在ったと観ていたのである。

それを検証して観る。

そこで、先ず「皇位継承の成す為の数」としては、そもそも「内蔵の財力」が問題であった。
「皇位継承族者」を「存在させる範囲」として、仮に「その財力」で出来るとしても「半分程度(家族 100人)」の「20氏の真人姓諡号」の程度の範囲であったろう。

その為に、「新撰姓氏禄」の基で「9つの縛り」を掛けた。
現実に最終的に「11流の賜姓源氏」も結局は、この「9つの縛り」に耐えられず「姓」に成ったそもそもの族であろう。
依って、「近江佐々木氏の研究記録」も正しいと観ている。

故に、当時としては、「編集」に当たって「三代天皇」の「編者等」そのものから「その矛盾(9つ縛り)」を突かれた事も「反対の一つ」であったのであろう。
つまり、「数と質の範囲」に「天皇家の誇張」の問題が興ったのである。
「純仁期の記録」では、世間だけでは無く「表向きの理由」として「編集者に選ばれた者」等から、“これでは編集しても意味が無い”と訴えたとする記録が遺されている。

(注釈 故に、「三回」ともに「編者」に指名されながら「編集途中」の侭で放置された等の事が起こった。
この「三回の放棄」は上記の通りに夫々理由が多少異なっていた。)

これは、つまり「嵯峨源氏」が生まれる前から「族系」の「縛り等に対する矛盾」が潜んでいた事に成る。
「嵯峨天皇」はこの為にもこの「縛りをより強化した事」と成ったと観られる。
それが遂には「詔勅の結果」とも成ったと観られる。

(注釈 これ等が記されているこの「類聚三代格」にしても「新撰姓氏禄」にしても、この後に弄られた書である事に留意する必要がある。
つまり、「公表されている記録」が全て史実とは限らないからで、その当時の政治環境に大きく忖度されている事が多いのである。)

筆者は「淳仁天皇、光仁天皇、嵯峨天皇」、取り分け、「嵯峨天皇」はこの「皇子皇女の数と質等の矛盾」に対して「皇族の反発」や「世間の反発」等に忖度して「数や質の格式身分」を合わしたのではないかと観ている。

つまり、そもそもの共通点は「天皇家の血縁範囲(真人族の範囲)」を「9つの縛り」で改めなくては「数と質」は変わらず「継承は不可能」であるとしているのである。
「編者の理由」は論理的で現実的であったと考えられる。

そこでこれを検証して観る。

「文徳系13」+「光孝系40」=「皇族15」
「嵯峨系9」+「淳和系9」+「仁明系9」=「皇族27」

以上から「842年没の嵯峨天皇」の間までには「正式な数」として“「42人の皇族」”が生まれた事に成る。

そうすると「新撰姓氏禄」の(a−1)の「真人族48」にはこの「皇族42」が少なくとも含まれている事に成る。
然し、この「5人の天皇」には公式に全て“「源氏族」”を「皇子皇女」に関わらず「賜姓」か「無賜姓」かで「朝臣の姓」で臣下させている。
従って、「(a−1)の真人族」は、計算上ではこの段階で(48−42)=「6人」だけと成っていた事に成る。

「光仁系13」+「桓武系22」+「平城系5」=「皇族40」
以上と成る。

「施基皇子の後」にでも「真人族の皇子皇女の数」は「82(42+40)」であったと史実として記されている。
然し、「新撰姓氏禄」は「真人族48氏」なのである。

「大化改新」で「施基皇子の前」は「第四世族内の第四位」までを「真人族の皇子皇女」としての「縛り」を掛けていた。それ以外の「第六世族」までは「王」、順次起こる「第七世族」は「王位」は無く成り、無位無冠で「坂東(坂東八平氏・ひら族)」に配置される。
従って、この「仕来り」から「天智天皇」からの「真人族」で「子孫」を遺していたのは次の通りである。

「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」

但し、「天智天皇の皇子」は「4人」であるが、2人は没で「施基皇子と川島皇子」は「賜姓臣下族」として「真人族」から外れた。

3回の「新撰姓氏禄の編集」に選ばれた編者から観れば、要するに“これは明らかに多い”と観たと考えられ「継承者」は絶えて“「質」も低下した”と判断していたと観たのであろう。

従って、結局は、この「真人族48」の中には上記の「5人」が含まれている事に成る。
然し、「文武」で絶え「女系」が続き、又、子供の「聖武天皇(文武の子)」から「皇子の真人族」は「女系」と成り絶えているので、継承のカウントはこの期では0である。

故に、ここでも検証の結果は、(82−48)=34(皇子皇女)が少なくとも「真人族の受け入れ口」であった「五家五流」に入っている事に成る。

この「34の内」、「青木氏の直系尊属」であった(「文徳系」+「光孝系」)+「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」)は、「賜姓の有無」は別として何れも「賜姓5源氏族」と成ってはいる。
つまり、「(34−5)=29」が「真人族」であった事に成る。

然し、これも「(a−2)の清和源氏」に組み込まれた「嵯峨源氏(縛りから外れた)」を除いて子孫を遺していない。

(注釈 殆どは傍系支流か搾取偏纂である。)

又、この「賜姓5源氏族」は「縛り」から外れているために「真人族」でもない。
もっと云えば、「縛り」から外れていて「格式」は低く成り、本来は唯の「武力集団」に過ぎず「朝臣族」の定義の中にでもない。

ここでも、従って、殆どはこの「真人皇女族の34」であって、これが「五家五流」に入っている事に成る。
「青木氏と近江佐々木氏の資料論文(皇子17皇子15の説)」は正しくその通りに検証されている。

念の為に「青木氏の歴史観」として、「平安期の応仁の乱(1467−1477)」の前までには「近江、美濃、甲斐」は滅亡しているので、ここでも「真人皇女族の最大で34(最低で28)」は「伊勢と信濃」に遺ったと云う事に成るのだ。

故に、「新撰姓氏禄」の「(a−1)真人族48」は、計算が合わず少なくともこの時は上記の「真人族 6」以上には無かった筈である。

そこで仮にあったとすれば、理屈上は何も「孝謙天皇の白羽の矢」は、「臣下族、朝臣族」に成って仕舞っている「施基皇子の子孫」に、飛んで来なかった事に成る。
その「48」もあるのであれば、「真人族48」の所に「白羽の矢」を飛ばす事にすればよかった事に成り、これは矛盾する。

又、伊勢に「白羽の矢・770年」を向ける前に、この時期は「川島皇子族(近江佐々木氏)・657年〜691年」とは、「春日王皇子四世族」と「安貴王の孫族」を共通とするほどの「完全な同族」であった。
だとすると、こちらに「白羽の矢」を向けても良かった筈である。
これも矛盾する。

(注釈 他に「川島皇子族(近江佐々木氏)」には、追尊王の「名張王女や尾張王女」等も伊勢から嫁している。)

抑々、この理屈からすれば「真人族48」も有るのなら「聖武天皇」の後の女性の「孝謙天皇」が即位しなかった事にも成るだろう。
つまり、この「論理矛盾している「(a−1)真人族48」はおかしいのである。
これが「3回ともの編者の反抗」と成った所以の一つであろう。

他の「三史書」も同様であろうし、要するにこれを認めた天皇家に対する「忖度書」である事に成る。

(注釈 但し、“「第二姓族」”は、これらの「諡号の規則(格式)」に一切関わりの無い「身分秩序の単位」の単なる「名」として室町期中期に発祥したものである。
この「応仁の乱」を契機に「(a−1)(a−2)の族・第一の姓」は衰退し、「第二姓族」が生まれるきっかけと成った。
それが「安芸地方域」に発祥した「渡来系海部氏」が記録に遺る最初の「第二姓族」であるとされる。

(注釈 逆にこれが契機に「末裔子孫」を引き出し「美濃額田青木氏」等を再興させた。)

では、この様に“明白な真人族の無い史実”もありながら、又、「編者の反発」も受けながらも、何故、「(a−1)真人族48」と成って仕舞っていたのであろうか。

これも「疑問」であるので検証して観る。

基本は、次の通りである。
一つは、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の扱い論争」にベースがあった。
二つは、「第1回目編集」は主に「質」に対する反発が興った。
三つは、「第2回目編集」は主に「質と数」に対する反発が興った。
四つは、「第3回目編集」は主に「数」に対する反発が興った。
五つは、「910の族柄と格式が確定してしまう反発が興った。

「第1回目編集(淳仁天皇)」では、次の通りである。
「絶えた朝臣族」を補う方法を「藤原氏の外孫王」に基本軸を求めて「真人族」を構築しようとした。
それには「数と質」には問題が無かった。
然し、ルート外での「藤原王朝」が出来る事に成る。
「指名された編者等」はこれを放置し、遂には問題を噴出させると云う行為(政争)に出た。
ところがこの議論に気づいた「孝謙天皇(上皇)」は、「外孫王の淳仁天皇」を「淡路廃帝」とした。
そして、「政争の後」に自らが「称徳天皇764即位」と成って実施実権を再び握り、上記の「白羽の矢」で事は治まった。

「第2回目編集(光仁天皇)」では、「第1回目編集」で纏まらなかった事を“「青木氏の追尊王」”を巻き込んだ「光仁天皇族・50年後」で「真人族」を構築しようとした。
「白羽の矢」で急に「光仁天皇」と成った為に周囲を固めるその「真人族」は無かった。
既に、「臣下族」で一族は治まっていた。

(注釈 この時、「皇親族」として「紙屋院の令外官」の「商い」に力を注いでいた。
「出自元」と成った「伊勢青木氏の四世族」までは何とか政争から逃げようとした。
「白壁王等」も必死に成って「闇愚」を装い「白羽の矢」から、その後の「追尊扱い」からも逃げようとした事が判っている。
「白壁王」は「王位」と成っているが、賜姓を受け臣下した「施基皇子の子」は「大化期の規則」でそもそも「王位」では無い。
それを「四家全体」の「三世族」までもが追尊で「王位」と成って仕舞ったのである。)

そこで、上記注釈の通りに、この「出自元(青木氏)」を追尊し再び格上げして、「大化改新の規則」に従い「第四世族」の一部まで無理に「王位」を与えて「真人族」を構築しようとしたのである。

「皇女」として扱われたのは正式には4人/5人である。
正式には「妾子」を入れると「9人」であった。
然し、実質は「妾子」を入れて「二世族9人」と「三世族まで13人」は「追尊族」、つまり、これらは「青木氏の女(むすめ)」であり、「皇族」では決してない。

この様に「彼女等」に依って「真人族」を強引に構築したが、これを権威づける為に「孝謙天皇」の姉の「井上内親王」を組み込んだ。
この「井上内親王」の反発(光仁天皇の后)・聖武天皇の子」を受けて「青木氏・実家」に「17人」は殆ど密かに保護を受けて逃げ込んできたとある。
つまり、この様に「内示の真人族」の内容に「数と質」に問題が興って反発が興った。
この為に編者は編集をサボタージュして放置した。

「第3回目編集(嵯峨天皇)」では、「第1回目編集」と「第2回目編集」で纏まらなかった。
この事から、「光仁期から仁明期」と「嵯峨天皇の目(光仁天皇の孫・施基皇子の曾孫 生存中であった)」の届く「文徳と光孝系」までを組み込んで、要するに「嵯峨一族」を以て「真人族48」とした事に成る。
この事に「編者の抵抗」を受けたが強引に「縛りの策」の一つとして発行した。

この時、「祖父の光仁期」では「青木氏」を組み入れたのに、「嵯峨期」では入れなかった。
この所以は上記の「基本の論争」にあったからである。
つまり、この時、「嵯峨天皇」は「政治路線の事」で「父兄」との間で激しい政争を起こしていた。

それが次の事であった。
「桓武論説(平城天皇派)」と「嵯峨論説」であった。
結局、「薬子の変(現在は薬子は間違いと訂正)」を起こした。

「桓武論説」で「真人族」を構築すれば「青木氏」がベースに成る事から、上記の検証から「真人族48氏」は成立していた事は確実である。
「五家五流青木氏(天智期からの皇子皇女族の集約系)」で「真人族(敏達天皇第四世族春日皇子系一門)」は確実に確立する。
「孝謙天皇の白羽の矢」も「天智系春日皇子系真人族」の「四世族」で繋がり「大化期の規則」にも従う事に成り、何の問題も無く成る。

(注釈 「四掟一門の近江佐々木氏」も含む。 要するに「青木氏族」で構築する考え方であった。)

然し、「嵯峨天皇」は我節を曲げずこの論説を執らなかったのである。
「幸い血筋(嵯峨天皇系)」としては、その後は「青木氏外の文徳と光孝」で「天皇家」は「男系」で繋がった事になった。
これにより、「青木氏族等の反発」を受けながらもこの議論は消えた。

つまり、「桓武論説と嵯峨論説の争い」は消え、「新撰姓氏禄の論争」も消えて治まったかに見えたのである。
この時を境に、更に「氏族としての制度改革」を進め「青木氏族(伊勢と信濃)」も上記に論じている様に「女系」で二度と「白羽の矢」を受けない様に「天皇家との乖離策」で一線を敷いたのである。

(注釈 「青木氏」から云えば、つまり「血縁的」に云えば「光孝系」であるが、その前の「女系的」に「仁明天皇」で直系的な尊属は終わっている。
「女系」に依らずとも「男系の天皇家との血筋」は切れた事に成る。
「青木氏(伊勢と信濃)」は、この時、既に「女系」に切り替えているので、既に論外と成っている。
「追尊の影響」を受けた「信濃青木氏」も「女系」を採りながらこれで乖離は可能に成った。
これも「商い」を含む「同じ路線を採る事」で「伊勢と信濃の結びつき」が更に強く成った原因である。)

「筆者」も「近江佐々木氏の研究記録」も、“「桓武天皇論説」の手前で、「論争の集結」を狙って「嵯峨天皇」は「折衷案」として最悪の場合は、「苦し紛れの真人族48(実質6)」で逃げようとした“と観ているのである。
故に「矛盾」が出るのである。
然し、「伊勢と信濃の青木氏族」では期待していなかった。
「近江、美濃、甲斐」は「9つの縛り」を護らないのに「源氏化」で「天皇家」に近づこうとしたのである。
つまり、「伊勢と信濃」は「女系」で「天皇家」から絶対的に離れて行き魅力は無かったのである。
彼等の「三氏の青木氏」は、“「氏の権威と象徴の力」を獲得する為に「源氏化」で近づこうとした”と云えるのである。
然し、「三氏の青木氏」の実体は「9つの縛り」から離れていたのである。
「嵯峨天皇」が定めた「皇族系」では皮肉にもなく成っていたのである。

これらは上記の検証の通りで証明できるのである。

そこで、そもそも「桓武天皇論説(兼平城天皇説)」とはどの様なものであったのかである。
それは次の通りである。

始祖の「施基皇子」は、「没716年」でその「二世族の子」は「女7人 男9人」を遺した。
「白壁王」を除き先ずは「四家」を形成し「四掟」を設けた。
これが「氏族」に統一した基本概念の「四六の概念の設置」である。

前段でも論じたが、「春日皇子系の真人族」は、青木氏の資料から次の通りである。
「春日王(745年没)」
「湯原王」
「榎井王」
「桑原王」(生没不詳)

以上の「四家」で先ずは構成していた。

これに次の二人が四家の下に加わっていた。
「壱志濃王」
「光仁天皇」(白壁王)

以上の「6人」とである。

(注釈 歳の順位から「四男」の「61歳の白壁」は、「四家」から外れている事から「白羽の矢」が当たった事に成るだろう。
「青木氏との鍔迫り合い」が在った事に成るだろう。
本来なら、「伊勢の四家の四人」に「白羽の矢」は行くであろう。
又、「近江や美濃や甲斐」にも「白羽の矢」が向けられても不思議では無い。

ところが「近江」は「始祖川島皇子」で天智系あるが問題があった。
又、「美濃」は「始祖三野王」で天智系では無い。
「甲斐王」も天智系では無い。

「日本書紀」等にも盛んに出て来る「三野王」は冠位が「浄広肆位」である事からそもそも「皇子並み・王位」である。
とすると「天武系」と成るが不詳で、可成り「有能な妾子」であった事が伺える。)

ところが、後にこれに「伊勢の三世族」が加わっていた。
「鴨王」
「神王」
以上の二人(父母不詳)であったとされている。

更にこれに妾子と観られる「1人・不明」があり、更に同じくこれに妾子外の「4人・宮人子」が続くとある。
計5人と成る。

合わせて”「男子合計13人」”が「青木氏の四家の継承者」が居たとしている(青木氏の資料)。

「青木氏の四家」を形成していた上記の「春日王(745年没)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)
「「壱志濃王」「鴨王」「神王」「不詳王」の「四人の二・三世族」は、議論の分かれるところではある。
然し、最早、この時には「春日真人族系四世族」からは当に外れていた。
「七世族」か「八世族」に成るだろう。

つまり、「皇族」の中から外れている「青木氏」の「氏族」である事から、「生没等の記録」はそもそも「公」には無い事に成る。
あるは「伊勢青木氏の記録」だけと成り、他の「四家四流青木氏」も同じ扱いと成ったと観られる。

上記に論じた様に公的に成っている系譜には次の四説がある。
A 敏達天皇−春日皇子−舒明天皇の敏達天皇の子供説
B 敏達天皇−・−舒明天皇−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
C 敏達天皇―・―芽淳王−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
D 敏達天皇―・―芽淳王=春日皇子の敏達天皇の孫説

これでは「施基皇子(伊勢王)」は、「敏達天皇」からは「五世族」である。
然し、「春日皇子の真人族」としてはでは「四世族」に入る。
「大化改新」に依って「天智天皇」から観て、「四世族内の皇子」の「近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」も「天智天皇二世族の施基皇子」と同様に「春日皇子の真人族」として扱われたと古書にある。

注釈として、これには「二つの事由」があった。
この様に「皇位系諸族」から外れていた。

イ 「多くの皇子皇女(34)」が逃避先として「五家五流青木氏」に入った事に依り「春日皇子の真人族」として扱われた事が云える。

ロ 「五家五流の相互間の血縁」にてその差が無く成り、「天智天皇四世族内」として認められた事が云える。

以上の「二つの事由」があった。

唯、問題は、「春日王(745年没・施基皇子の子)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)の「伊勢青木氏の四人」は「敏達天皇」の「春日皇子の真人族」からは原則外れる。

然し、「春日皇子の春日真人族」からは「青木氏」は次の様に成る。
上記のA〜Dは次の様に成る。
A−五世族
B−四世族
C−四世族
D−五世族

(注釈 前段でも論じたが、実質、「春日皇子の真人族」としての「奈良期の継承族」は、直接に「身分保障(a)」も無く、且つ、「生活の保障(b)」の得られない事だし、元より「生活力(c)」等が無いから、「賜姓臣籍降下」せずに其の侭に全て「五家五流青木氏」に入った。
依って、彼らはこの(a)〜(c)が基本的に無い事から「三世族扱い」とされた。
然し、この奈良期の時は未だこれも“「賜姓五役の務め」”であった。当然の務めであった。)

然し、平安期では、「17皇子15皇女 32(検証 34)」が降下したが,全ての「皇女」は「青木氏」に入った。
そして、「17の皇子」の多くは「賜姓源姓」を求めたが、叶わず「姓」を遺せずに没落して「近江美濃甲斐」を頼った。
これが「源氏化の元」に成る。

(注釈 この「没落皇子」を使って「系譜継合わせ」に依る「搾取編纂」に多く使われた。
又、「没落皇子」の名を「姓」にして「搾取偏纂」にも使われた。
この「二つパターン」がネット上の説明の「姓」に良く出て来る。
そして、「酷いもの」では「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」には、何と室町期の時代の異なるこの「姓名(第二の姓)」が記載されている。
そもそも、その理由は「新撰姓氏禄」の存在は、一時不明の時期があり、その為にあり得ない事を書き添えられた形跡があるのである。現在も内部は不明
現在も全てが網羅されていず「出自元」である事から「伊勢青木氏」では遺された資料より関係する様な「行」を読み取って研究して論じている。)

恐らくは、あるとすれば元は「神明社関係」のどこかに“「関係する資料・写本」”があった筈であるが、筆者もそれを基に調べていた。
「神明社」は「江戸初期」に全社を幕府に引き渡し、その後に「幕府の財政不足」から著しく荒廃している。
この時に「神明社」から「何処か」に持って行かれた可能性が高い。

そもそも、一般に判らない筈の「没落皇子」の名を「姓」にして江戸初期の「国印状の取得」の為に利用され「搾取偏纂」にも使われた位である。
筆者は「青木氏」の「神明社」にしか与えていない「神職の柏紋」を「神紋」としている「神明社」から流失していると観ている。
何故ならば、“「関係する資料・写本」”は「神紋」を与えられた「格式の高い神職」にしか扱えないものであった筈である。
それも「古く格式高い神明社」と成り、且つ、「伊勢域」と「信濃域」と奈良期初期からある「神明社(武蔵)」の「三つ域」である筈である。
且つ、その「神明社」は「大きな聖域」を持っていた「天領地の神明社」と云う事に成る。
元より「伊勢」では、「江戸初期」には無かった事が、「幕府引き渡し」で資料より「相当な騒動」が幕府とあった事から解っている。

その時の経緯ではね次の様に記されている。
「派遣された官僚(山田奉行所)」との間で「争いと裁判」までした事が書かれている。
結局は、「一切合切引き渡し」であった事が書かれている。
“「関係する資料・写本」”はこの時に「引き取る事」が出来なかったのである。
この時の「争い」で前段でも論じたが、紛争を治める為に”「家康のお定め書」”が伊勢に出された位であった。
これで「立場」は保たれたが、山田奉行はこれに従わず、「一切合切引き渡しの裁定」は変わらなかったとあるのである。

後は前段で論じている様に、又、「青木氏の掲示板」に論じている様に「信濃」と「武蔵」の“「四社の神明社」”で何れも奈良期からの代々の高格式の柏紋神職であった。
ここに“「関係する資料・写本」”があったと考えられる。
ここも「伊勢」と同然以上の「一切合切引き渡し」であったらしい事が判っている。
後に柳沢吉保・甲斐青木吉保が自費で再建したと記録がある。

「信濃」では相当に厳しいもので「幕府不満」が高かったらしく、「伊勢」は裁判で終わったが「信濃」では「一揆(宗教性の無い郷士階級らの騒動)」を起こしているのだ。
だとすると、幕府膝下の「武蔵の神明社・四社」から「旗本家臣」等に「国印状」の為に「ある官僚」が漏らしたと未だ証拠は無いが筆者は観ている。

(注釈 伝統36を参照 「甲斐の時光系青木氏」の「分家の次男の柳沢の青木氏」の「柳沢吉保」か、抑々、彼は「武蔵四社の内」の最も古い一つを「守護神」であるとして「自費」で修復している。
二度に渡り移封している地に「神明社」を創建修復しているのである。)


この事から「紛失」は江戸初期と観られる。
従って、このはっきりしている「搾取偏纂」なので、正しく世に出て来る見込みは無いだろう。

前段でも論じたが、もともと、「淳仁天皇」、「光仁天皇」の二代でも「編集化失敗」に終わっている。
これを更に「未完成」の侭で「嵯峨天皇」は、「縛り策の一環」を目的としていた事からも嵯峨期の「偏纂者の反対」を押し切って慌てて世に出した記録である。
ここの「不備」を不明期に狙われたのである。

これらの事(賜姓朝臣の姓化)が「類聚三代格の記載の詔勅内容」に“突然に無封降下させた事”が記載されている。
「嵯峨期の詔勅」はそのものは正しいが「内容」に忖度と観られる傾向があり疑問である。
何故ならば、「天皇と成り得た者」でさえ、単族で「諡号」としては何処にも属さない最高位の“「すめら真人族」”を形成し、退位後門跡したとある。

従って、「信頼性の高いBとC説」から観ても、「青木氏」は「春日王系(皇子)の四世族内」の「同祖同門同族同宗同位であった族」と位置付けられている。
前段でも論じたが、A〜Dの何れにしても「光仁期前」では明確に「真人族め50年後」から外れている。
その延長期として観ていて、その様な「生活(賜姓五役・令外官・市場放出権)」をしていたと考えられる。
然し、「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」が「生活」を大きく変えてしまった。
「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」は、これに依って前段でも論じた様に、「青木氏の縁戚族」と「皇女の逃亡先」としても公然と可能にさせて仕舞った。
且つ、奈良期では「近江、美濃、信濃、甲斐」も含めて、“「同族」”として「追尊の志紀真人族」の「間連族」に仕立て上げられた。

(注釈 平安期からは、彼らは「伊勢信濃」とは全く別の路線に入り、「近江、美濃、甲斐(「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の確保・男系」が起こり、結局は上記した様に「考え方の違い差」が出て分離して行った。
「近江、美濃、甲斐」に「源氏化と姓化」が起こるという事は、光仁天皇期で50年後、「源氏化」が深刻化した900年頃代から190年頃後には、「青木氏族」に対する「世間の目」が「真人族や賜姓族」としては既に低く成っていた事にも成る。
低く成っていたからこそ「近江、美濃、甲斐」は「過去の栄光」を取り戻そうとして躍起に成っていた事に成る。
「9つの縛り」を護らない人気絶頂の「単なる武力化勢力の河内源氏」に憧れた事に成るのであろう。)

その「伊勢と信濃」は、光仁期から完全に「A〜Dの何れの説」からも既に外れていたのにその「二世族、一部は三世族」までも含めて「追尊の志紀真人族」に巻き込巻き込まれる事に成って仕舞ったのである。

この事から逃れる為に、「近江、美濃、甲斐」とは全く反対の行動を執っていた。
つまり、「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く方針の“「反対策」”である。
況や、“「皇女引入策」”で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。

(重要な注釈 全てを捨てるのでは無く、「朝廷、天皇家」との「完全決別」を目論み乍ら、本来の「賜姓五役」の「令外官役」だけは「商いの為」に護ろうとしたと云う事である。(後に論じる)
この「氏族としての生きる概念」で考えれば、明治期までの「一切の行動」はこれに符号一致する。
筆者は、これを“「共生共存共栄の概念」”と判断している。
「青木氏の氏是」や「家訓10訓」をこの「共生共存共栄の概念」で考えれば外れている事は全くない。
恐らくは、「光仁期の混乱期」の時に「信濃」を含む「福家と四家と氏人」等は、一族を一同に集めて協議したと観ている。
この時に再確認し決めたの事が「青木氏の氏是」や「家訓10訓」であった。
そして、「総合的な考え方」として新たに「氏族の生き方」として、この“「共生共存共栄の概念」”であったと観ているのである。
そもそも「皇親族と賜姓族」を外されたとしても、「氏族の伝統」である「本来の消すことの出来ない役目」、即ち、“「賜姓五役」と「令外官役」”も護ろうと合わせて議論されて決められたと云う事である。)

「上記の注釈」から後勘からすると、「伊勢、信濃」と「近江、信濃、甲斐」の「生きる方向」は真逆であった事に成る。


そこで、この「真逆」であるとすると次の事はどの様に解釈するのかである。

然し、平安期の「近江の和紙殖産」の為に手を差し伸べた「額田部氏の干拓灌漑工事」と、「室町期末期の美濃を三河に引き出して復興させた事」の二つは、果たして「共生共存共栄の概念」によるものであったのかである。
筆者は違ったと観ている。後に詳細に論じる。
「8割程度」は「商いによる戦略」から来ていると観ている。
大まかには“「過去の繋がり」を利用したと云う事”であって、それが「彼らの利益」にも成るとしていたと観られる。

「美濃」に関しては元々「シンジケート」で繋がっていた事も働いたのが2割であろう。
結果から先に云えば、現実に、「室町期末期」に「徳川氏の国衆」から離れて彼らは「シンジケートの経験」を生かして「大運送業(伊勢と信濃の商いと連携)」を営んで自立している。
(後段で論じるが明らかに突き詰めれば「商い」である。
氏是を破って戦闘的な戦いで道を切り開こうとします。)

「近江」は平安期末期に滅亡している事から「傍系族」を引き出して「伊勢の支店」の「摂津」に定住させたとある。
然し、その「近江の行動」は「傍系」であるが故に、且つ、「美濃の様な連携」の中に無かった事で、生き方に落ち着きが無く、過激であって手を焼いた事が判っている。
これ等の「二つの救済策」は、当に、「共生共存共栄の概念」に合致している。


ここで再び検証に戻す。

この結果として、結局は、「初期の(a−1)」は「伊勢」は「18氏・皇女族」、「信濃」では「4氏・皇女族」が「郷士・家人」に入ったと観られる。

(注釈 前段でも論じたが、平安期初期までは「伊勢と信濃」の「避難してきた皇女族」は「女(むすめ)」として先ず入り、その後に「郷士・氏人」に嫁すか、「伊勢の多気の館」などに収容された。
又、先ずは「女(むすめ)」で養育された後に、「四掟」により「公家一門」に嫁している事もあり得る。
その後には、どの「郷士・家人」に入ったかは判らないが、「家人」に成っている「氏人」に入ったと観られる。)

それが、何れでも「子孫拡大」を興し、「伊勢」は「不入不倫の権」で保護された事で最終は減る事は無く、遂には最大の「50士(氏人)の郷士」に成った。
「信濃」では、前段でも何度も論じたが、江戸期まで「時代の変貌」に大きく振り回された。
それでもこの「避難族の4氏・皇女族」が「実質の関係郷士・家人・氏人」に入り、そして、それが拡大して「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」の「氏族」と成ったと云う事である。

つまりは、少なくとも「(a)(a−1)」と、多くしても「(a−2)の一部」が「何れの郷士」もこの中に入る事と成ったものである。
元を質せば、この「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」は上記で論じている様に「(a)(a−1)」で“「真人族の由縁」を持つ”という事には成る。
これが元の所で「血縁根拠」と成り、「信濃」では「郷氏と郷士の関係」が出来上がった事に成る。
「伊勢」とは少し異なるが、「信濃」にはこの形で「氏人と氏上の関係」や「郷氏と郷士の関係」が出来上がったのである。

要するに、上記でも検証した様に「最低でも82以上」の「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」と成ったのである。

(注釈 奈良期から平安中期(仁明期)までの間に、その可能性はあったと観られるが「234程度の皇子皇女」が入ったとする一説もある。
「234と82の違い」は「正式記録と実体との3倍差」であろう。
これは「妾子」や「宮人子」は実際には「朝廷の古書の記録」には載らない。)

この注釈の事は「青木氏の歴史観」に繋がる事なので論じるが注釈のその証拠がある。

「光仁天皇の族」とされた「正式記録」の中には、「青木氏族の追尊皇女」が記録の上でも「4人」は居る。
そして、更にそれには「妾」にも含まない“「宮人」”の子とする「子女の扱い(数は不明)」で多く含まれている。
つまり、ところが「天智期」からの他の天皇にはこの“「宮人・十二女司」”は含まれていないのである。
「光仁期」では主に「青木氏の三世族」までが「追尊王女」であった事が判っているが、この“「宮人子」”は記録には記載しないのが慣例である。
「大化の規則」では「第四世族〜第六世族の元王女族」、それと「お手付き」の「十二女司」の「女(むすめ)」の身分のその「女」が記録には入らない。(慣例)

つまり、「上記の検証に入らない女」が「234」にも及んでいた事を証明しているのである。
「后妃嬪妾」の子供、つまり「女(むすめ)」と、この記録外の“「宮人」”と記載されている「お手付き」の「女(むすめ)」の子供があるのだ。
数字的には、実質/記録=2.5倍であった事を認識する必要がある。

「五家五流の青木氏族」には「32(34)」では無く、「第四世族内」を前提としていた検証数字 34・2.5=85(82)でも解る。
この差が記録外の“「宮人子」”が入っていた事に成る。

(注釈 立場上は、この記録外の“「宮人子」”は「天皇家内」には居られる事は無い。
当然に「逃避受入口」が必要に成り、それを「伊勢と信濃」が務めていた事に成る。
「古書の一節」にもこの事が記載されている。
「中国の古書」にも“「宮人子」”の悲劇が遺されている。)

これを「第六世族」までとした場合は、「二世族」が増えるとすれば、凡そは、85(82)・2≒170はあり得る。
更に、これに上記の「妾と宮人」の「皇女扱い」されない“「宮人子」”を入れると、「234」はあり得る。
これが「青木氏の中での実態・皇女数」であったのであろう。

注釈であるが、「逃避受入口」の「青木氏」では「妾子」と“「宮人子」”は、「青木氏の中の呼称表現」では 、「記載」では「女(むすめ)」であって、「呼称」は「ひぅいさま」であったとされていた所以であろう。
「234皇女」が「氏人を含む青木氏族」の中に入り込み、その「青木氏の女(むすめ)」の「子孫」が「氏族全体に増えた事」による「体質」と成った所以と理解される。
故に、これが「女系による妻嫁制度」の「所以」とも成ったし、これらの「システム」に「氏族全体」が何の疑問も持っていなかった所以でもある。

この様に、“「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」”の論は、結局は故に「女系の妻嫁制度」、「女(むすめ)」の制度を構築したとする「青木氏の資料の一説」に成っている。
取り分け、「伊勢」と「信濃」に執つては「234皇女」は「青木氏に深く関わった皇女事件」であって、その関連しない「別の出来事」では無かった。

(注釈 「皇女」は上記の通りとして、念の為に論じると「皇子の受入れ」は「美濃や甲斐」のそれと大きく異なっていた。
上記で論じた様に、「近江、美濃、甲斐」は積極的な「皇子引入策」では「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く寧ろ方針・方策であった。
この反対策、況や、「伊勢と信濃」は「皇女引入策」で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。
「伊勢と信濃」の「皇子の受入れ」は、“「神木の柏紋の使用」を許された「神明社の神職」と「菩提寺の住職」で受け入れた“とする資料の説もある。
筆者はこの説に大いに賛成である。
「資料の説」がある位であるので当時は観えぬ処で受け入れたのであろう。
故に、「皇女族(皇子)」が「伊勢と信濃」の全体に組み込まれた組織体、況や「氏族」であったからこそ、「一氏族の血縁族」の「氏人の郷士や家人」までが、「青木氏の氏是や家訓10訓」は勿論の事、「四六の古式概念の制度(共生族の氏族)」等を護り、それが明治期半ばまでの長く護られたのであろう。)

(注釈 明治期に「伊勢と信濃」の「青木氏」に掛けられた“「社会や政治の圧力」”が無ければもっと長く維持していた可能性がある。
明治9年まで続いた「伊勢と信濃の青木氏」を影とした「氏人の伊勢騒動」はそれを顕著に物語る。)

(注釈 この「青木氏族」に向けられた「政治や社会の反動」は強く昭和の初期まで「密教」であった事さえも「敵視の目」で見られたのである。
明治期3年頃まで「献納」で朝廷を支えていたにも関わらず「青木氏」から観れば「天皇家」は「道義」を通さなかったと観える。
この時から「献納」は終わったとある。)

そして、更に、そこに、前段でも論じた様に、この「234人の皇女の入籍」を「女(むすめ)」として、又、年齢に依っては「多気の里館」等にも「青木氏」が受け入れた事が判っている。
それが上記で検証した様に、「複数回の女系の妻嫁制度」で「郷士」と繋がり、「氏人と氏上の輪」は更に広がりを見せたのである。
「伊勢と信濃の青木氏」はこの様な「特別条件」を成し得ていた「氏族」で長く形成されていたのである。

(注釈 これを「奈良期末期の朝廷」は、「真人の姓諡号」とは別に、「氏族」として特別に認定したと云う事に成ったのである。)

ここに、平安中期から「補完役」として「秀郷流青木氏」が「真人族」と同じ「冠位位階と賜姓臣下朝臣等」を一切同じとして与えて、この「氏族」と血縁的に結合させ、「青木氏族」の「氏族」として認定したのである。
「神明社」を守護神とし、「賜姓五役と令外官」を護り、この「二つの前提」で、「縛り」を護り「姓化せず源氏化せず」の態勢にいた。
この「伊勢と信濃」の二つに成った「原理主義族」を「天皇」は「補完役」で護ろうとしたのである。
元々、補完役は母系族であった。

(注釈 「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。)


此処からは、上記の「天皇家」に大きく関わる「234の立場」と「神明社」と「賜姓五役と令外官」を護ろうとしていた「伊勢と信濃の青木氏族」の「原理主義族」と、それを何とか維持させ様とした「補完役・秀郷流青木氏」に付いて論じる。

これには前段でも色々な面から論じたが、要するに「原理主義」であった事に成る。
この”「原理主義」”を利用しょうとする充分な”「朝廷(天皇)の計算」”があった。

敢えてこれに追加するとすれば、この時期は既に“「女系化が進んでいる」”ので「白羽の矢」の役は無く成っている。
とすれば、此処での「原理主義族の補完役」も排除できないのでは無いか。
そもそも、この「原理主義」とは「朝廷・天皇家」に執っては無くてはならない「基本概念」である。
これが崩れれば当然に「原理主義」で成り立っている「朝廷・天皇家」は崩れる。

つまり、「伊勢と信濃」の「皇女引入策」と「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした“「原理主義族」”を一応認めてこれを補完させようとしたとも考えられる。
この「補完役」は寧ろ「朝廷」から接近してきた事に成る。
元々、「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。
何も「補完役」とする必要が「青木氏側」には無かった筈である。
つまり、従って、「青木氏側」から観て「過去の経緯」からこれには充分な「朝廷(天皇)の計算」であったと考えられる。

(注釈 「青木氏」の「氏族を形成する制度」や「神明社の社」や「古代浄土密教の概念・白旗派」等の何を執っても全て“「原理主義」”に基づいている。
これから外れているものは無い。
「780年頃」の「光仁期」から「円融期」の「960年代の頃」までには、「氏族としての制度」が確立し、周囲から観ても完全に「原理主義族」と観られていたと考えられる。
そもそも、何時に成っても「原理主義の原点」の「神明社族」である事は変わらない。)

”「神明社族」”とは別に、それを物語るものが「青木氏族」だけが帰依する「古代浄土密教の概念・白旗派」であった。
前段でも何度も論じてはいるが、「14もの法然宗派」の中の「超最小派」であって、それも“「原理主義派」”として“「無視される立場」”にあった事が記録として判っている。
つまり、「円融期」の「960年代頃の以降」には、この「原理主義族」は「社会」はその存在さえも認めない風潮の中にあった事が云える。
取り分け、「原理主義族」を貫いている「伊勢と信濃」はその渦中にあったのである。
相当に世情は厳しいものが在ったと考えられる。

前段でも「特異な伝統」と説いたが、これが当に「原理主義族」と結びついているのである。
筆者は「円融期の補完役」の一面には「朝廷(天皇)の計算」があったにせよこの「原理主義族」を護ろうとしたものがあったと観ているのだ。

ここで「青木氏の総括的な生き方」、況や、敢えて“「原理主義族」“で考えて論じるとする。
この事を理解する事で「青木氏の歴史観」は大きく違って来る筈である。
何時の世も「原理主義」は良し悪しは別として融通性が無い為に排他される。

現実に、「嵯峨期」より「皇女引入策」は、そもそも「青木氏」が「皇親族」から外された以上は「皇室内」では何処も「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は無く成っている。
この現状は「天皇家」では遷都を二度もした現状であるしその「財政の面」では「皇子皇女の存在」は無視できないでは無いか。
それまでは「234人」もの「皇女引入策」であった筈である。
この数は「天皇家」では大変な事であり、それは「莫大な財力」と、その吸収し得る「組織力」に関わっている。
誰でも出来る事で無い。
「藤原氏北家」でもその立場からも却って政争の問題が興る。
どんな条件を執っても「青木氏」だけであろう。
だから全ての関係者が同じ立場であったからこの事で「政争」が起こらなかった事が云える。
「救済制度」としての「皇子皇女受入口」があったからに過ぎない。

これは「嵯峨期以降」であっても「234人」程度の「皇女」が出る事は間違いない。
この「救済制度」を急に無く成っては困るのは「天皇家」である筈だ。決して「青木氏」では無い。
幾ら「賜姓の有無」は別としても「賜姓源氏」で臣下させたとしても「皇女」である事には変わりはない。
「皇女」は「自活力」は無く、「皇子の様」に「源氏化」で救済してくれる訳には成らない。
「嵯峨期(820年頃)から円融期(960年頃)までの間の「140年間〜160年間」には仮に「234人」程度の「皇女」が出ていたとすると、その処置に問題が興っていたと考えられる。
しかし、ところがこの「140年間〜160年間」はこの「原理主義族」はこれをブロックしていたのだ。
それは「嵯峨論説」の影響であった。
「嵯峨論説」が世情にある以上は「青木氏」としても「血縁性」の無い「皇子皇女受入口」と成る根拠も必要性も義務も無い。

注釈として、「青木氏」での「234人の皇女、王女、宮人」の「扱い差」に於いての記録が相当探したが見つからない。

そこで、これを「青木氏の歴史観」で以て検証して観る。

「氏族」としては「234人の皇女、王女、宮人」を受け入れる以上は、そこに起こり得る「支障」と成る「仕来り」とも思えるものが無い。
これは「女系の妻嫁制度の概念」の「成り立ちの所以」かとも考えられるがそれにしても変である。
「支障」があってもおかしくはない筈である。
何処かの資料の一節の「行」に出てもよい筈である。
前段でも論じてきたが、それの答えは、“「女(むすめ)」”の「養育扱い(格式身分)」には“一切差はない”とする「掟」として存在していたではないか。
「光仁期」から「仁明期」までは少なくとも「青木氏の直系尊属・血縁族」である。

そこで、要は「皇女、王女、宮人」は「宮廷内の格式身分差」である。
それがその「尊属ルート」から「青木氏の氏族」に入る以上は論理的には「皇女、王女、宮人」の扱いでは無い。
全ては「青木氏」に執っては「四世族内(最大で六世族内)」の「女、又は「女(むすめ)」までに過ぎない。
つまり、これは言い換えれば、例えば“「子と曾孫」に格式身分として差をつけるのか”と云う理屈に成る。
当然に、「格式身分差」を着けないであろうし、着けるとしたらそもそも「女系の妻嫁制度」は崩れる。

「施基皇子前後」の事に就いては、「五家五流」では、次の様に成っている。

上記の検証で、「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」であった。

この記録に載る「皇女、王女」は出ていない。
そして、そもそもこれは「青木氏」では無く、出自元は全て“「藤原氏」”である。
「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は青木氏にはそもそも無い。

そうすると、「藤原氏」に関わりの無い「宮人(十二女司)」の「女」は、原則、地元(地方)に帰る事に成る。
ところが、この「宮人(十二女司)」の「女」に付いては、実は「伊勢と信濃以外の三家三流」は、積極的に「宮人(十二女司)」に関わっていた可能性があるのだ。
寧ろ、“出していた”とする事が「資料記録」から読み取れるのだ。
従って、「公的記録」に載らない「宮人(十二女司)」の「女」を「伊勢と信濃以外の三家三流」は引き取っていた事に成ろう。

「伊勢と信濃」は、家柄として「永代浄大一位・天皇次位」で「賜姓五役」である以上、皇室には“「皇女、王女」も「宮人(十二女司)」も出していない”と考えられる。

と云うよりは、「伊勢と信濃の二家」はどの「天皇」よりも「身分、格式、官位、位階」は上位であった為に出さないし出せない。
朝廷側からすると「面倒な氏族」である。
“「原理主義の概念」”が働いていた筈あるし、「天皇家の方」もその様に観ていた筈である。

従って、これを「救済する概念」の”「比丘尼制度」”が確立しておらず未だない時代でもあった事から、恐らくは、前段でも論じた様に引き取るとした場合は、「斎王や祭司王」等を多気の「斎王の館」を通して引き取る事に「務め」として成っていた筈である。
一種の「救済制度」としての「皇女受入口」(「多気の斎王館」)であった。
然し、この「管理維持」は伊勢青木氏であった。
「伊勢青木氏」は釈然としなかった筈である。

(注釈 「比丘尼の仏教戒律」が完全に世間に広まったのは「大乗仏教の宗派・法華経」が広まった同時期と成る。
従って、「最澄や法然の死後」の10世紀半ばであろう。
最低限は、この範囲であった事は納得できるが、この時期では「制度」として造り始めていた「女系の妻嫁制度」には[関わり]は無かったであろう。
「施基皇子没前後716年頃」の事に就いては、その「扱い」は単なる「神明社の巫女」の“「比丘尼という女」”に成っていた。
「光仁期」頃からは、精々、「仁明天皇」、或いは、「仁明天皇の皇子」の「文徳・光孝期 32(34)」までは、「神明社比丘尼」から「仏教比丘尼」への過渡期であったであろう。
それ以後は、“「9つの縛り」”があって「三家三流」にも“「源氏化」”で生きようとしていた為に「血縁性の無い者」までも受け入れて生き残りを図ったと考えられる。
これが平安期末にはこの「源氏化策(皇子の受け入れをした)」で「近江、美濃、甲斐」は「氏族」としては連なって共に平家に淘汰されて滅亡した。)

注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安期末の「皇女、王女、宮人」の「受入口」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事に成る。
それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
そもそも「受入口」をしていれば「原理主義」は崩れる。
つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
この事が「生き残り」に繋がったのである。

(注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていた。
その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後」からはその格式は「斎院」等であった。
「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
この事でもその後の「受入口」は「234」で終わっており判る。
「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
同様に、「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着く。
そして、最近その研究と記録が発見されている。)

「信濃の聖域の詳細」は今後の研究に成る。

取り敢えず「伝統46や伝統48等」を参照。


> 「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」に続く。


  [No.373] Re:「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/08/13(Tue) 15:28:16

「青木氏の伝統 51-1」−「青木氏の歴史観−24−1」の末尾

> 注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安末期の「皇女、王女、宮人」の「受入口」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事>に成る。
> それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
> そもそも「受入口」をしていれば「原理主義」は崩れる。
> つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
> この事が「生き残り」に繋がったのである。
>
> (注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていた。
> その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後」からはその格式は「斎院」等であった。
> 「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
> この事でもその後の「受入口」は「234」で終わっており判る。
> 「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
> 「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
> 同様に、「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
> 「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着く。
> そして、最近その研究と記録が発見されている。)
>
> 「信濃の聖域の詳細」は今後の研究に成る。



「青木氏の伝統 51-2」−「青木氏の歴史観−24−2」

さて、注釈として、理解するに「重要な事」は他にもあった。
それは、「皇女、王女、宮人」の「受け入れ」で興った事の「此処での違い」である。
つまり、「伊勢と信濃」と「近江美濃甲斐」の唯一つの違いは、「出自」は「氏族」でありながらも「姓の有無」であった。
「近江美濃甲斐」は「縛り」を護れなかった以上は「正式な氏族」ではない。「姓族」である。
何れもが「氏の名」は持つが、一方は「伊勢と信濃」は「郷士関係」とで、正式な氏族を構成されていた。
つまり、「氏人と皇位族の(a−1)・(a−2)」での構成であった事である。

他方の「近江美濃甲斐と(b・c)」は「姓関係の繋がり」にあった。
この「近江美濃甲斐と(b・c)」は「皇子・(皇女、王女、宮人)」の「受け入れ」を利用して興った「姓関係の繋がり」である。
これは判り易く云えば「源氏化の差(縛り)」と論じている。

当時は、「縛り」を護らなくても「皇族系であった朝臣族」であると云う「名誉の風潮」が社会に大きくあった。
世間には、“「平家」にあらずんば「人」にあらず”、されど、“「源氏」であらずんば「武家」にあらず”であった。
“「9つの縛り」”は守れなかったのに、世間はそんな「縛り」などは気にしないで囃子たてた。
逆に、この風潮に載り「近江美濃甲斐と(b・c)」は、「140年間〜160年間」の間に「家柄の格式」は低下していた事が起こった。

そもそも、「美濃の始祖」は「三野王」で「浄広四位の冠位」であって、「朝廷」きっての有能で「筑紫大宰率」を務め、その後に出世して「美濃王」に成る。
ところが其の後の末裔の功績は無く、永代で無い事から低下した。
そこで、元の様に「家柄の格式」を引き上げる為に「美濃末裔」は逆にこれ「皇子・(皇女、王女、宮人)」の「受け入れ」を利用したと考えられる。
それが安易な「源氏化と姓化の路」であった。

そもそも「社会」は嵯峨期から「賜姓源氏」は「花山源氏」までの「11家11流」の「盛流」の中にあった。
この「11家11流」は「9つの縛り」を無視して解放されて「自由な生活」を獲得して“飛ぶ鳥落とすの勢い”であった。
この「原理主義」と成る「9つの縛り」を守っていれば「源氏族」は「縛り」に潰されて存在し得なかったであろう。「美濃」も同然である。


ところが対比して「伊勢と信濃」は「9つの縛り」の「原理主義」を貫いたからこそ「生き抜けたと云う事」が逆説として云える。
唯、果たして“「原理主義」だけで生き抜けたか”と云うとそうでは無い。
何時の世も「原理主義」で生きている者は世情からは排他されるは必定である。
それは「人間の本能とする自由性」が無いからであろう。
比較すれば、この義務付けられた「原理主義・縛り」から「自由性を求めた源氏族」には「世情の人気」があって、それに頼ったのが「近江美濃甲斐」であった。

然し、「自由性を求めた人気族の源氏族」には何れも底が浅いものがあり、「強かな者」に見抜かれて、結局は300年程度で「滅亡の憂き目・1221年」を受けている。

(注釈 「円融期の補完役」はこの「不人気状況・原理主義・縛り」を観ての策で、それには「血縁と抑止力の強化」も一つの要因で在ったと考えられる。
「世情の源氏化」と「不人気状況・原理主義・縛り」は逆比例していた事に「天皇の危機感」を持ったという事であろう。)

「天皇家」とほぼ同じ「原理主義」を貫く「世情人気」の無い「伊勢と信濃の青木氏」は、“それを消し去る策”を持っていた。

そこには「氏族発祥期」からの「商いの裏付け・二足の草鞋策」があったからであろう。

これには、自由性を発揮する「商いの自由の裏付け」と「氏の維持概念の原理主義」は一見して矛盾する処がある。
然し、この「矛盾を解ける概念」が「伊勢と信濃」にはあったのだ。

それが「氏族発祥期」からの「共生共存共栄の概念」にあった。
この概念は次の関係式が成り立っていた。

「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」

この関係式がこの「原理主義」の「矛盾を解ける鍵」であったのだ。

更に注釈として、この「原理主義」を維持していた「aの族」を、三つに分けるとすれば次の様に成る。
「(a)、(a−1)、(a−2)」のこの三つに成ると前段でも説いた。
「a族」には三つ分けられる血縁的要素を持っていた。
これに繋がる「何れの郷士」も次の様な経緯を持っていた。

(注釈 嵯峨期の新撰姓氏禄はこの基準で格式の分離をしている。)

因みに、判り易い例として「伊勢」の「氏人の伊賀郷士(甲賀含む)」を例にすると次の様に成る。

前段でも論じたが、そもそも、「伊賀」は「伊勢の半国伊賀」であった。
後漢の「阿多倍王」は博多に入国して「32/66国」を支配し「関西の手前」までを無戦で制圧して、そして大隅に住していた。
朝廷は三度に渡り「制圧軍」を薩摩に派遣しも敗退する。
朝廷は結局は「調停」を選び「阿多倍王」を都に呼び出す。
そして「渡来人後漢の阿多倍王」に「伊勢の伊賀」を半国割譲する。
「阿多倍王」は「芽淳王の女」を娶る。
「准大臣」と成り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の賜姓を授かり三氏を輩出する。
其の後、「称徳天皇の白羽の矢」が伊勢王の「施基皇子の末裔賜姓族」の「青木氏」に当てられる。
この「伊賀の阿多倍王」の「孫女高野新笠」を「白壁王(光仁天皇)・青木氏」が妃として娶る。
「子山部王」は「桓武天皇」と成る。
「伊賀の桓武平氏(たいら族・賜姓)」を輩出する。
「桓武平氏」と「伊勢青木氏」とは「縁」では「光仁天皇」、「血縁」では「桓武天皇・甥」で繋がる。

注釈として、ところがこの経緯を持つ「伊賀」には、そもそも、「阿多倍王の入国前」には“「伊賀原士」”と呼ばれる上記の「(a)、(a−1)、(a−2)」の「一部の族」が存在していたと云う事である。

「阿多倍王の族」と「伊賀原士(a−2)・(一部の族)」とが共存共栄していたという事に成る。
記録的な確認は取れないが恐らくは血縁があった可能性が高い。

ここで、「伊勢青木氏」は、更に時代を遡ると、“「芽淳王の子(第三の説)」“の「第四世族春日王」を祖として、「系譜」ではこの「伊賀」の「芽淳王の女・阿多倍の妃」に繋がる。
全段でも論じた。

「桓武天皇」は、「阿多倍と芽淳王の女」との間に出来た子の「桓武平氏の祖」の「坂上田村麻呂(北陸域を統一した征夷大将軍)」とは、“兄弟だ“と公言したとする記録が残る位である。
そして、「施基皇子の四男」の「白壁」は「伊勢青木氏」である。
明らかに血縁性を保持している。

更に、「白壁王の光仁天皇」と「阿多倍王」の「孫の妃高野新笠」と血縁して、「子の山部王の桓武天皇」で繋がるとすれば、この系列からすると、「高野新笠の血筋」の「始祖 阿多倍王の桓武平氏」から「七代目の末裔」の「清盛(約300年程度)」と成る。
つまり、ここで全て「芽淳王」で繋がっている事に成る。

注釈 系譜は次の様に成る。

(注釈 平高望・高望王・高尊王には多説あり・矛盾説もある。)

高尊王(阿多倍)−平国香−平貞盛−平維衡−平正度−平正衡−平正盛−平忠盛−平清盛

「阿多倍」の処では「芽淳王」の「女」で「系譜」で繋がる。

「芽淳王」と「青木氏」は繋がつているのでここでも繋がる。

結局は「伊勢青木氏」と「光仁天皇」は「出自元」で繋がる訳であるから、「平国香−高野新笠」の処で、「縁」で「光仁天皇」で、「血縁」で「桓武天皇」と繋がる。


とすると「青木氏」から観れば、「伊賀」は次の様に繋がつている。

「白壁王−妃高野新笠のルート」と「春日王−芽淳王の子のルート」

「桓武天皇のルート」−「阿多倍と芽淳王の女のルート」−「桓武平氏のルート」

「血縁の関係性」は斯くの如しである。

要するに“「芽淳王」”を起点に短期間でこれだけの「血縁の輪」が出来ていたのである。

(注釈 上記注釈の通りで、従って、「春日皇子真人族の由縁」もあって「施基皇子の子」も同じ「春日王」を名乗っている所以なのである。
但し、「春日」の「皇子や王」を名乗る者は3人もいた事に注意)

そもそも、そうすると「伊賀」に於いては、次の様に成る。

「(a)、(a−1)、(a−2)」の一部から成る「伊賀原士(伊−イ)」
清盛移動後の「伊賀郷士」と成った「残存郷士(伊−ロ)」

「伊勢の族階」は伊賀では以上の二つに分けられる。(但し、鎌倉期の地頭足利氏は除く)

そして、下記参考の「(a)、(a−1)、(a−2)」の一部に族階する事に成る。

参考(前段記載)
(a)真人(48)、朝臣(101)  ・「三分類* (a)、(a−1)、(a−2)」
(b)宿祢(98)、忌寸(50)
(c)臣(66)、連(258)
(d)首( 93)、造(80)
(e)公(63)、直(42)
(f)史(28)、村主(20)、県主(12)

合計=810

この記録から観て「郷士か原士」と成った全国的な「族階順表」は以上の様に成る。
(注釈 「郷氏か原士」かの説明は前段で論じた。)

上記の「伊賀の経緯」の例で論じた様に、「伊勢」では「(伊−イ)と(伊−ロ)」の何れも「郷氏の青木氏」とは「血縁郷士」と成っていて「氏人族」であった事に成る。

(注釈 この事は間違いは無いが、この判別が今ではつかない。)

この「伊−イ」と「伊−ロ」の「郷士か原士」は、「(a)、(a−1)、(a−2)」で「伊勢青木氏」とは関わっていた事に成る。

「伊−イ」と「伊−ロ」の「何れの郷士」も、「室町期初期」まではこの様に「血縁の輪」を広げていたと考えられる。

注釈として、 資料が乏しいので証明は出来ないが次の様に成る。
「郷士」には大別すると2流あり、小別すると4流ある。
この大別は発祥時期である。
ここで云う「郷士」とは、「室町期から江戸期までの郷士」、即ち「第二の姓」から成った「在郷農士」とは別であり本論外である。
本論は、次の郷士を云う。
奈良期末から平安期末期までの「上記の族階表910氏」で示す「官僚族」として地方赴任、又は、特定地域に定住していた「官僚族の末裔」から成り立ち、「朝廷の衰退」に伴い「第一の姓」から成った「在郷武士」の事である。
その「官僚族の役立場」から「統治の為の武力勢力」を持つ事を許されていた「官僚族」であって、結果として「武士」と成ったのである。
元より「武士族」では無かった。
彼等は「aの郷氏」と共に生き、「特定地域」に定住して生きた者らを指す。
「郷氏の氏族」の「氏人家人」などを形成した「元官僚武士族」を云う。
中には「高位官僚族」、且つ、「武家の立場」を有する族も居たし、この「第一の族」の「下級官僚族)」とその陪臣は「農業」に勤しむ傍ら「郷士」を助ける「原士」とも成った。
これが「伊賀原士」や「美濃原士」等をいう。 )

そこで、故に、上記の「伊勢の例」でも判る様に、上記の注釈を改めて前提にして、前段でも「伊勢と美濃と信濃間」では「伊勢−美濃−信濃」の「縦の線のシンジケート」が存在下した。
それは要するに、「(a)、(a−1)、(a−2)」」の「三つの族」と「bとcの族・官僚族」とで構成されていたと説いた。

そして、この「縦の線上」にあったこの「伊賀の二つの郷士(「伊−イ」と「伊−ロ」)」とも含めて、「(a)(a−1)(a−2)」の”「影の郷士」”と成っていたのである。

(注釈 詳細は個人情報に関わるので匿名するが、「伊勢シンジケート」で関わった「伊勢での郷士」の姓名は確認できている。)

「上記の族階表910氏」の内の「(a−1)、(a−2)」の「101の族」で関わっている事は、組織化されて効果を発揮する。
「(a−1)、(a−2)」の「101の族」の「彼らの守護神」は、当然に「祖先神の神明社」と云う護り神を持つ事に成る。
「(a)族」を中心とした、「(a−1)、(a−2)」の族は「全国500社近くの組織」で全て統制されていたと考えられる。

「室町期以降の第二の姓の郷士」とは違い故を以て強かったと云えるのだ。

「経済的繋がり」は当然にあるしても、元を質せば、「(a)と(a−1)、(a−2)」の「古来の血縁の繋がり」も認められるし、「支払や指示や計画」などの全ては「神明社」を経由して処理されていた事に成ったとしている。

つまり、これが「伊勢−美濃−信濃の縦の線のシンジケート」であり、故に「シンジケート」が成り立っていた事に成るのだ。
ここには「神明社」が鍵であった事に成る。要するに「神明社族」と云われる密教の宗教概念の強い「原理主義」の「律宗族」である。
彼らはその様な「神明社概念」と云えるものを強く持っていたのである。

「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」と共に、「神明社概念」の実に「不思議な共同体」であった事が云える。

(注釈 唯、この関係を解明しようとしたが、ある所までは「家人や差配頭などの記憶」を辿り可能と成ったが、どの様に「系と譜」の詳細な関係を持っていたかの証拠は、「1716年の松阪大火(1614年の大火含む)」で消失してどうしても確定できない。)

そこで少し「伊勢郷士の詳細」たけが判っているのでこれを先に論じて看る。
最近、判って来た「信濃の歴史と伝統」も同然であろう。

この内の「伊勢の郷士」の「4氏」/50氏」が、”伊勢青木氏の末裔で郷士だ”と今でも公的にも主張している。
恐らくは、これはその位置づけからと口伝から観て、「伊勢衆の11郷士衆」であると観られる。
つまりは、「(a)と(a−1)、(a−2)」の説から観ればこの「裏付け」と観られる。


その「4氏」の内の「2氏」は、「土豪」として「玉城地区周辺」と「櫛田川沿い北域」の住んでいた様である。
この事から、前者は「絆の青木氏」、後者は後に絆を結んだ「射和の郷士衆の商人」ではと考えられる。
後の「2氏」は「南紀勢地区」で「青木氏の旧領地」であるので、「職能集団の郷士・家人」ではと考えられる。

この事から、現実に伊勢には、“「青木氏族」だ”と名乗っている「郷士」が今も居ることから、後から成った「射和の郷士衆」も含めて、上記の考察からも「(a)と(a−1)、(a−2)」で“間違いなく繋がっていた”と考えられる。

この事では上記の論と合わせて「4氏」は起こり得た事は充分にあり異論は無い。

そもそも「末裔」と云う事は、限定される「氏族と云うもの概念」の捉え方に依って変わるが、少なくとも「伊勢青木氏の四家の掟」から何れも少ない中の「皇子(a−1)」が「家人」と成って「郷士の跡目」に入った事か、「氏人」に成った事を意味している。
「氏族」である故に「総称」と捉えれば、「関わった郷士」は全ては「青木氏」である。

然し、「氏族の総称」とは云えど、明治期3年の「伊勢と信濃」での「苗字令」では「郷士や農民」は「青木氏」を名乗らなかった史実はある。

普通、「青木氏」と密接に関わった血縁性の無い農民などが、明治期3年と8年で「第三の青木氏」として区分される。甲斐などに多く発生した。

これは、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で結ばれた「信頼性が伴う氏族」であった「長い間の由縁」であろう。

(注釈 伊豆でも同然の事があった事が判っている。)

(注釈 最も「明治の苗字令」で「青木氏」を名乗ったのは、皮肉にも逆で「氏族」は崩れていた「甲斐」であった。
「嵯峨期の詔勅」を使った賜姓族の「源光」の兄の「時光系の第三青木氏」に関わった農民たちである。
つまりは、「甲斐」は「歯止め」が効いていなかった事を意味する。)

(注釈 後段でも論じるが「美濃」は「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の四家・伊川津・田原・吉田青木氏」と成って「国衆」で再興させた。
「近江」は「傍系末裔」が「摂津青木氏」として「商い」で再興させた。)


ここで、何度も論じたているが、「路線差」からもう一度観てみる。
「上記の事」から「伊勢と信濃」と「近江と美濃と甲斐」とにははっきりとした「路線差」が観える。
「伊勢と信濃」は血縁関係を強化して同一路線を採った。
故に、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の論争」では、上記の「芽淳王の論」から明らかに「桓武平氏側」に血縁関係があった事に成る。
「青木氏側」からは「二代目の甥域」であった「桓武天皇の論説側」に有った事に成る。
同じ出自元でありながら「嵯峨論説側」には無かった。

然し、論じている様に「近江美濃甲斐」は「多くの皇子」を引き入れて「源氏化と姓化」したし、従って、この「源氏化と姓化」を否定した「桓武天皇の論説」との繋がりは「近江美濃甲斐」には観えて来ない。
「源氏化と姓化」は「嵯峨天皇の論説」の側にあった事に成る。
然し、此処で「嵯峨天皇の論説」は「姓化」を決して認めていない。
寧ろ、「9つの縛り」で姓化を防ごうとした。

とすると、「近江美濃甲斐」は「直近の勢力・世情」に迎合した所以である事は明らかである。

「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」では無かった。

確かにこれで「近江美濃甲斐」は「約250年近く」は生き延びられた。

ところが「以仁王の乱」より「源平戦」が起こると、脆さが「近江美濃甲斐」に出た。

この時、「桓武天皇の論説側」のこれで「伊勢と信濃」は「9つの縛り」を護り中立を採った事は理解が出来る。

「以仁王の乱」の後、「近江」も「美濃」も「甲斐」も将又、「源氏」も滅びたが、この時、「伊勢」から出した「頼政の孫の助命嘆願」では「桓武天皇の論説側」に在った事が理解され受け入れられた。

(注釈 結果は日向廻村に配流と成った。)

「白壁王−妃高野新笠のルート」と「春日王−芽淳王の子のルート」
「桓武天皇のルート」−「阿多倍と芽淳王の女のルート」−「桓武平氏のルート」

以上の上記の“「芽淳王の繋がり」”を以て「日向廻村配流」の処置で「無理な嘆願」は聞き入れられた。

(注釈 後に再び九州平氏と戦うが敗退して薩摩に宗綱の廻氏との末裔と共に家臣5名が逃げ延びた。
「市来の浄土宗の寺」に辿り着き其処に「平氏の追討軍」が追い着いた。
そこで、「伊勢青木氏の裔」である事を名乗る様に住職に勧められた。
そして、「日向青木氏と大口青木氏」が発祥した。
後に「黒田藩の傭兵」と成り功績を得て子孫を拡大させた。)

筆者は何度も前段でも論じたが、ポイントは「伊勢と信濃の青木氏」が「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事と、上記の論説通りに「源氏との繋がり」が無かった事が大きく影響したと考えている。
直前の「頼政の京綱や国友の策」があったにも関わらず平氏に聞き入れられたのである。

これは「伊勢と信濃の青木氏」では「氏是」を破る初めての事で前代未聞の事であったが、「頼政の孫」を「伊勢(源京綱・四男妾子・多田)」と「信濃(四家の源国友・妾子・若狭)」を「青木氏」に入れて「源氏子孫」を遺そうとした。それが主目的であった筈である。

それなのに「無理な嘆願」は聞き入れられた所以は、強く「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった所以と観られる。


さて、ここで前段でも論じたが、次は「桓武天皇の論説側(平家側)」の面から論じるとする。
ここで疑問なのは次の事である。
この事を解かなければ前段までの論説は崩れる。

前段まで論じているが、「桓武天皇の論説側(平家側)」の論説で検証する。

そもそも、「桓武天皇の論説側(平家側)」では「京綱・国友」は矛盾した行為である。
何故ならば、上記通りの系譜からも「平家譜論」である。
なのに、「京綱・国友」は間違いの無い「源氏譜論」である。

これは一体どういう事なのだ。
当然に「青木氏の氏是」とも矛盾する。
この「二つの矛盾」を押し通した事に成るのである。認めて仕舞った事に成る。

当然に「二つの矛盾」を押し通すには、何かそれをしなければならない「絶体絶命の理由」があった筈である事は簡単に解る。
「伊勢と信濃の青木氏」としては見逃す事は出来ない事由である。
其処には、次の説があった。

「伊勢の京綱説・国友説の解明」

「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事にも関わらず、何故に同時期に「伊勢と信濃」は「源氏」を入れたかである。
頑なに護ってきたこれは始祖からの「青木氏の氏是」である。

(注釈 この”「共存共生共栄の氏族」”である事の為には「青木氏の氏是」として、
”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し 世に憚る事無かれ 何れにも一利無し”
以上の意に通じ、結果として、”「「共存共生共栄の氏族」であれ”と宣言している事に成る。)

明らかに「京綱説・国友説」はこの「源氏化」に繋がるような「矛盾する行為」である。
何の得にもならない策であるし、そんなに「摂津源氏」とは近縁でも無い。
寧ろ、「氏人郷士」に対して「裏切り」の「危険行為」である。

さて、そこでその「伊勢の記録」で辿ると判る範囲では次の様に成る。

先ず伊勢で判る事である。

「京綱」を「四家の福家」に入れている事。
そして、“血縁をさせていない”と云うか「嗣子」を遺していない事。
嫁いだ「女(むすめ・京綱の母)」は「四家」には入れていない事。
「女(むすめ)」の記録も無い事。
「京綱」は「四家」の「元」からいた人物では無く「福家」に突然に入った事。
そうすると、理屈では「福家」は空席であった事に成る。
以上と成る。

そもそもそんな事は無い筈である。
どの位の年齢であったかは判らないが、“若かった”とする記録がある。
年齢不詳である事で、恐らくは、「1〜2歳程度」と観られる。

公にしていたかは判らないが、「摂津側の資料」では次の通りである。
「源京綱・四男・妾子・多田」とする記録が遺されている。
「妾子」であって「仲綱の子」の「四男」とする記録と「六男」とする記録がある。

これは研究で解決出来た。
「頼政」には「仲綱」を始めとして以下の通りである。
「5人の実子、養子」が居た。
「四家一族」から5人が入っている事。
合わせて10人居た事に成る。
この他に「妾子」と「義詞」の存在は確かにあったかの証拠は判らないが、当時の慣習からいたと考えられるので、10人は超えていたと考えられる。

(注釈 当時の慣習として四家宗家には「実子、養子」以外に一族から多くの継嗣を引き取る仕来りがあった。
丁度、「女系の青木氏」の「女(むすめ)」と同じで「主家」で養育する仕来りがあった。
宗家の摂津源氏だけは「青木氏」と同じ「四家制度の縛り」を伝統として守っていた。)

ところが「頼政の子」の「仲綱の子」には「摂津源氏の四家」の「親族一族」から「三人の養子」を態々入れている事である。

つまり、先ず「宗綱、有綱、広綱」の「3正子(配流後死亡)」が居た。
それに「3養子(解除)と3妾子」が加わっている。
以上の計9人であった事。

従って、仲綱の子の「妾子の京綱」は男では「四男」、年齢的には「六男」と成る事。
問題の「嗣子」では「七男」と成る事。
「3妾子」の内の「2妾子・(伊豆か)」が存在しているが詳細は不詳である事。
これには更に「計算外の義嗣(外孫子・不詳)」が有った事

最終的には、仲綱の子には「12人の男子」が居た事。
(「頼政の子」を入れると22人以上いた事に成る。)
乱後は「嗣子」が「京綱」と成っている事

以上の事も判っている。
以上に成る。

そこで、「青木氏の氏是」として前段でも論じたが「四家制度を敷く摂津源氏」でさえも「源氏系」は入れない事に成っている。
前段でも論じたが、源氏は世情の人気の的であった。
「近江や美濃や甲斐」の様に人気中の源氏化をすれば、”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し 世に憚る事無かれ 何れにも一利無し”に反して媚びた事に成る。

「律宗族の白旗笹竜胆紋の密教原理主義」を唱えながら明らかにこれは大きな「氏是違反」である。

この解く鍵はこれにも関わらず「京綱を入れた事」として、どの様な経緯が考えられるかを検証する。

1 圧力に押された。

明らかに成っている事は、「以仁王の乱」をリードした「頼政」は初戦で先ず敗退するとして“「摂津源氏一族」を絶やさない事”の為に同じ「賜姓族朝臣族(四家制度)」であるとして「青木氏」に入れた。

上記で論じた様に、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で「氏族」で既に確立している「伊勢と信濃」である。
この段階では、この「京綱と国友の事」は、「伊勢と信濃」も「摂津源氏の四家」も「桓武平氏に敵対する事」は充分に解っていた筈である。

とすると、「伊勢と信濃の青木氏」はその「説得」に“無理にでも応じたと云う事”であろうか。
そうすると“応じた理由は何なのか”である。

「前例の経緯」を観れば「伊勢と信濃の青木氏」には“利益的なもの”は何も無い筈である。
寧ろ、「不利益」であろう。

そこで唯一つ考えられる事は、次の事に成るだろう。

それは「妥協案」として、「青木氏の女系の妻嫁制度」に従って「摂津源氏頼光の四家」に「女(むすめ)」を嫁家させた事が考えられる。

そこで検証としては、「清和源氏の頼光四家」は「青木氏の縛りの四掟」に入るかであるが、原則的には入らない。
前段でも論じた様にこの場合、「嵯峨天皇」が定めた「9つの縛り」には「四掟の二つ」は適合しない。
それを強引に嫁家させたと考える事が出来る。(強引は何なのか)

それ故に、先ずは「女(むすめ)」を「記録」の載らないで「伝統」の関わらない「妾」として「伊勢と信濃の青木氏」は「嫁家の形式」を執ったと考えられる。

「伊勢」の場合は、「乱の直前」にその嫁家した“「女(むすめ)」とその「子供(京綱)」と共に「伊勢」に戻させた”と考えられる。
それがこの「京綱の福家入りの狙い策」であったと観ている。

「信濃」は「国友の年齢」が記録から高かった事が判っている。
「信濃」も伊勢と同じ伝統を敷いているので同じような扱いと成ったと考えられる。

ではその「伊勢」の「女(むすめ)」は誰なのかである。

この「女(むすめ)の解明」に付いては調査したが判らなかった。
「女(むすめ)」は福家で養育するので、「執事の差配」で判るが室町期に消失している。

判らなかったと云うよりは、この「平安末期(1176年〜1178年)」までの間に「後家」に成って、又は「尼僧」に成っている事に少なくとも成る。
そして、「俗世」から「出家している事」であり、「俗名や履歴」を遺さないのが「仕来り」であるので、判らないのである。

時代的には「神明社の巫女・比丘尼」では無い筈で、且つ「多気の館」の「十二司女」でも無かった筈である。

問題はこの「後家の扱い」にあったと成る。

つまり、「伊勢(信濃も含む)」がどの様に扱うのかという事である。
「その場の状況判断性」が大きく左右したと観ている。
この「始末」を間違えば「大変な事に成る事」を知っての事であって、それは「頼政の思惑」の本音であろう。
最も裁量策はこの段階では「後家」だから「比丘尼の尼僧」としたかである。

前段でも論じている様に、「単純な事」であって「後家」として戻ったとすれば、「青木氏の嫁家制度」の「仕来り」にて「後家」として受け入れて、「多気の館」か「分寺」を含めた「三つの菩提寺の尼僧」に先ず成ったと観られる。

そうすると、その「幼児の子供(京綱)」は「四家」では無く「福家」に入れたと成る。
現実に「福家」であった。
“「四家」では無く「福家」であったと云う事”は「福家の強引さで行った事」があった事に成るだろう。

そもそも、これは「共生共存共栄の概念」からして「氏族を左右する事」で「四家や家人や氏人の納得」を充分に得られていたかは甚だ疑問で経緯から得られ難い事であった。

何度も云うが、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で「氏族」で確立している「伊勢と信濃」である。先ず無い。

それ故に、そこで“「福家」として充分に配慮して処置する様に”との「条件」を「氏人」から突きつけられたのではないか。
「仕来り通り」の“単純な事では駄目だよ”という事である。

それが、先ず嫁ぐ際は実記録として遺さない様に「女(むすめ)」を「妾」としての「嫁家の形式」で嫁がせ、戻す際は“「後家」として、その「子供(京綱)」と共に密かに「伊勢」に戻させる”の条件であったのであろう。
そして、戻した後は「後家の扱い」で、その「措置」は判らない様に「行動記録」を消す。
以上が条件であった筈であろう。
私ならそうする。
これでは「四家や家人や氏人」を何とか納得させられるだろう。
何はともあれ先決は“「四家や家人や氏人」の納得”であろう。
これが「絶対条件」であった筈である。

実は、“戻した後の「後家の扱い」のその「措置」”では、下記で論じるが、“ある出来事”が「信濃」にも起こっているのである。
つまり、「伊勢と信濃」はこの措置で連動していたと観ている。

「信濃」では少ない資料から、それは何と此処に“「伊豆」”が出て来たのであった。(記録下記)

そうすると、その前に“その時期が何時であったか”と云う疑問を解決する必要がある。

先ず、「四家や家人や氏人」の「反対する根拠」は「氏是」に反し「四掟」にあった筈である。
この「策の根拠」はこれをクリヤーする事に有って、それには「同宗と同位」をクリヤーしなければならない事に成った。

「9つの縛り」について完全に護っていなかった「四家の頼政」は「清盛」に媚び入り「1178年」に「正三位」に先ず成った。

(注釈 従三位・後に正の制度は無く成った。天皇に拝聴出来る立場)

これで「四掟」の「格式の位」では先ず一つクリヤーした事に成る。
後は「賜姓源氏」は特異な「八幡神社・八幡菩薩」の”「二神仏併用」”としている為に「青木氏の大日如来」と「神明社」では「同宗」とは成らない。

(注釈 「源仲綱」は「1179年」に「従六位」に何とか成って位階を持った。高位の官僚族の位階である。
「公家」は従四位以上である。)

(注釈 「浄土宗」でも「主流派(四派 14流)」に分かれていたが、最も「鎮西派」の一つの「原理主義」の「最小の白旗組(古代密教浄土の如来概念  原理主義 現在の浄土宗の祖)」と称する派に所属する「青木氏」であった。
「律宗」を基本概念とする「律宗族」と云う。
「摂津清和源氏四家」は「浄土宗進歩派の西山派」の「八幡菩薩・「二神仏併用」」の「主流に所属する源氏」であった。)

宗派では「同宗」では無かったし、記録から中には「天台宗」もあった。

この「原理主義」の「律宗の白旗組」は、「青木氏等」の「古代密教浄土如来の宗」で「密教浄土を概念」とする「真人族系」が帰依する「原理主義の概念」の最小派であった。

(注釈 そもそも念の為に記載して置く。
「源平合戦」で「源氏」が「白旗」を掲げたのは、この「青木氏等」の「白旗派」の印を真似て「戦いの権威」を付けたとされ、定説と成っているが現実には異なっている。
そもそも「旗印」を持たない「浄土宗進歩派の西山派」であるし、「律宗」ではない。矛盾している。
奈良期からの「当時の慣習」として「旗印」と「白印」を持てる事は「皇別派の真人族の証の仕来り」であった。
「真人族」では無い「朝臣族の源氏族」は「9つの縛り」を護らなかった事もあり朝廷より序されていない。故に本来は無い。完全な搾取である。
更には、序でに前段でも論じたが、「源氏の総紋」を「笹竜胆紋としているが、「源氏」にそもそも、この「律宗の神紋の笹竜胆紋」を「使える立場」には無く、「神紋族」ではない。
朝廷より「賜紋の記録」は無い。
況して姓化しているし、「9つの縛り」は護れていない事から「神紋」は使えない仕来りである。
「9つの縛り」を護らなかった「姓化」している族にはそもそも朝廷が認める「神紋」は使えない。
「神明社の神紋の象徴」である「笹竜胆紋」は「八幡神社」では使えないのである。
且つ、「八幡の神社」は格式外であって「笹竜胆紋」は使えないのである。
そもそも、「嵯峨期の詔勅」で「青木氏の慣習仕来り掟」の「一切の使用」を禁じることが明記している。
これは「桓武天皇と嵯峨天皇の論戦」の末の「結末策」であった。
要するに律宗族で無い限りは「白旗も笹竜胆」も使えないのである。
仮に無理に使えるとした場合は、「青木氏の出自元尊属」であった「嵯峨源氏」と「淳和源氏」と「仁明源氏」の三源氏までであろう。
後は「青木氏との直系尊属の血縁性」は無く成っている。
この「三源氏」は結局は「禁令や皇族朝臣としての縛り」に絶えられなかったが、「摂津清和源氏」の様に完全に「朝廷の縛り」を無視はしていない。
一応の初期では「四家」と「無姓化」と「四掟」は護っていた。
ところが「清和源氏が使える理由」があるのだ。
それは、「清和源氏」の「賜姓」を無理に受けた「経基−二代目の満仲(摂津)」が、この嵯峨の山奥にひっそりと土豪化して住んでいた「上記末裔の三源氏・「嵯峨源氏」と「淳和源氏」と「仁明源氏」を集めて「武力集団」を形成し「同族血縁」をした「確実な記録」がある。
三代目の「頼光の摂津源氏」がこの「武力集団」を引き継いだ。
従って、「完全縛り」から外れるが使えるとした理屈と成り得るだろう。
然し、「白旗」は明らかに同宗でないので無理であろう。
これも、理屈を捏ねれば成り立つがそもそも「時系列」が異なる。)

(注釈 それは、室町期初期に「浄土宗の宗派の争い」を無くす為に「室町幕府」は、この「弱小の原理主義の白旗派」を「律宗の浄土宗の本貫」として決定したのである。
以後、統一されたが「時系列」は違っているが、「傍系族と称する族」は「白旗」も「源氏」のものとし搾取した。
公にされている論説にはここを黙認して「源氏説論」は、「象徴紋」であり「神紋」の「笹竜胆紋」としている。
敢えて、「白旗に関わった事」なので、何度も論じているが、「縛り」と「四掟」とする本論には大きく関わるので論じて置く。
公論説は必ずしも正しいという事ではない。)

さて、これで「同位」の「四掟」がある程度が叶ったとして、これを結果としては押し切った事に成るだろう。
「伊勢と信濃の青木氏側」は“「源氏化では無い」”として妥協したと云う事に成る。
1178年頃から「以仁王の策 (1178年) 乱(1180年〜1182年)」は進んでいたとされているので、少なくとも直前に「頼政の説得」を受けて「1176年〜1178年頃」に「頼政子孫残存策」として「青木氏側」から嫁した事に伊勢では成る。但し、誰に嫁したかは解っていない。
「信濃」は女を嫁家せずに「国友」を入れた事に成る。
従って、伊勢の場合は「妾子の京綱」は最低でも「1歳か3歳」に成っていた事に成る。

そもそも「妾子」は「青木氏」の方が「官位格式位階」で何れもにも上位であっておかしい事から「当初からの策」としては「裏向きな嫁ぎ」であったと観られる。

つまりは「四掟を護る原理主義」の「伊勢青木氏側」では「影の策」で逃げたと考えられる。
「信濃」は「伊豆」をつかった別の策を講じた。
この「低年齢」での「頼政側」から観れば「青木氏への子孫残存策」と成るが、「伊勢青木氏側」から観れば、これで“「桓武平家」を納得させられる”と考えた事に成る。
つまり、“「源氏化・姓化」では無い”とする姿勢で表向きには見せた事に成る。
上記の「桓武平氏と青木氏との血縁の関わり」は、検証の通りで明らかに“「桓武平氏側」にあった”のであるから、「京綱の年齢」からも納得は得られた事に成るだろう。
現実に、この「2年後」には「以仁王の乱の敗戦」に依って「頼政の孫」の「宗綱・有綱等」の「助命嘆願」(廻村配流)を聞き入れられているでは無いか。



> 「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」に続く。


  [No.374] Re:「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/09/20(Fri) 10:14:07

> 「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」の末尾
>
> さて、これで「同位」の「四掟」がある程度が叶ったとして、これを結果としては押し切った事に成るだろう。
> 「伊勢と信濃の青木氏側」は“「源氏化では無い」”として妥協したと云う事に成る。
> 1178年頃から「以仁王の策 (1178年) 乱(1180年〜1182年)」は進んでいたとされているので、少なくとも直前に「頼政の説得」を受けて「1176年〜1178年頃」に「頼政子孫残存策」として「青木氏側」から嫁した事に伊勢では成る。但し、誰に嫁したかは解っていない。
> 「信濃」は女を嫁家せずに「国友」を入れた事に成る。
> 従って、伊勢の場合は「妾子の京綱」は最低でも「1歳か3歳」に成っていた事に成る。
>
> そもそも「妾子」は「青木氏」の方が「官位格式位階」で何れもにも上位であっておかしい事から「当初からの策」としては「裏向きな嫁ぎ」であったと観られる。
>
> つまりは「四掟を護る原理主義」の「伊勢青木氏側」では「影の策」で逃げたと考えられる。
> 「信濃」は「伊豆」をつかった別の策を講じた。
> この「低年齢」での「頼政側」から観れば「青木氏への子孫残存策」と成るが、「伊勢青木氏側」から観れば、これで“「桓武平家」を納得させられる”と考えた事に成る。
> つまり、“「源氏化・姓化」では無い”とする姿勢で表向きには見せた事に成る。
> 上記の「桓武平氏と青木氏との血縁の関わり」は、検証の通りで明らかに“「桓武平氏側」にあった”のであるから、「京綱の年齢」からも納得は得られた事に成るだろう。
> 現実に、この「2年後」には「以仁王の乱の敗戦」に依って「頼政の孫」の「宗綱・有綱等」の「助命嘆願」(廻村配流)を聞き入れられているでは無いか。




「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」

さて、次は「信濃」が関わった「伊豆の問題」である。

「1159年」に「伊勢と信濃」が「伊豆」を管理する事を目的として「頼政」に頼まれて入り、その後、20年の間に「融合族」と成った。
そして、「商い」で「伊豆」を治めようとしていた。

「信濃の国友策」
そうすると、殆ど同時期に行われている「信濃の国友策」も「経緯と事情」は同然であったであろう。

この「国友」の事では判る範囲としては、一部の記録では、「若狭」の生まれで「妾子」で表には出て来ていない人物であるとしている。
そのルーツは「摂津源氏四家」に在るとしている。
但し、別の「国友」に関する資料では時代性が大きく一致しない。
然し、「青木氏の資料」では「信濃は国友」と成っている。
恐らくは、実態は殆どは同然であったと考えられる。
唯、この別の「国友の資料の真偽性(時系列が余りにも違い過ぎる・300年程度)」が疑われるので参考にならない。

「信濃」のこの事に関する研究が難しい為に「経緯」が読み込めない。
然し、実は前段でも何度も論じているが、これには「頼政と仲綱の所領」の「伊豆」にあると観られる。

それはこの「伊豆」は、前段でも何度も論じた様に、「伊勢と信濃の融合族」で守護し固守したとする「青木氏の記録」がある。
筆者は、結論から先に云えば、此処の「信濃の跡目」に入ったのは「頼政の一族」で「若狭」から廻された「国友・妾子」が、ここから更に「伊豆」に入ったと観ている。

「京綱」の様に若くは無かった事も解っているので、先ず間違いは無いだろう。
「伊勢の京綱」と「信濃の国友」とには「措置」が少し違った事に成る。

(注釈 この時期の「伊豆」には「仲綱の子有綱」がいたとする説もある。
この説は「以仁王の乱」に参加せずに生き残ったとする説である。
この説では「義経」に従い北条氏に大和国で打ち取られたとしている。
これは間違いなく江戸初期の「搾取偏纂説」である。)

筆者は、記録のある様に「廻村配流説・日向青木氏説」を採っていて、「以仁王の乱」に参加して「平等院」に追い込まれ「伊勢の嘆願」で「配流」と成った説である。
現実に「廻青木氏・日向青木氏」を遺している。現存しているのである。

「伊豆守護の有綱説」の搾取は、「2年程度の相当準備した乱」を起こそうとしているのに、そんな時に「実子の次男有綱」の「伊豆偶然説」はおかしい。
そもそも、「摂津源氏」が「自分の勢力」で護れるのであれば、1159年に何も「伊豆」に「伊勢信濃融合族」が配置される事が無い筈である。
抑々、「頼政」は京に遙任しているのであるし、且つ、そこに「祖父の所領地」に「孫」が赴任する事がおかしい。
もし、「有綱」が奈良に居たとするならば平家は決して放置しない。

実は記録では「頼政」は「乱の2年前」に一度伊豆に出向いている。
そもそも、「父の頼光」でさえ「三天領地の守護代」で済んでいて「所領地」は持っていなかったのである。
確かに「頼政」は「正三位に成った事」から「清盛」に推薦されて「伊豆所領地」を与えられている。
これは「珍しい事」なのである。
つまり、「所領地」であっても記録からは「完全な所領地」ではなかった。

(注釈 「伊豆の守護代」は「1159年から数年間・遙任」で「藤原氏系の守護代」と「平家一門の守護代」で何度も変わっている。
「頼政より摂津一族の二人」で続けて務めていたが、乱後は頼朝幕府の家臣で務めている。
これは「所領地」としては完全に認めていなかった事に成る。)

そもそも、この事で、故に、「自らの軍」を置く事を禁じられていたのであって、「清盛」は「伊豆」を拠点に関東で反乱を恐れて、その「所領地」を「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせたのである。
この事に就いての記録が遺されている。
明らかに史実は完全な所領地では無かったのである。
其処に有綱説は可笑しい。

この「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせた理由は「伊豆を拠点に貿易」をさせて治めようとしていたのである。
つまり、平族は「伊賀」で伊勢青木氏と関係があり、青木氏出自の「光仁天皇」の妃の「高野新笠」が「伊賀出自」であり、平家の祖でもある。
その青木氏が摂津港で「宋貿易」をし、「殖産」をしている「伊勢信濃青木氏」に管理させようとしたのである。
「清盛」も同じ事で同時期に「湾湊」を造る等をして「商い」を以て「大宰府域・九州北部域」を現実に治めている。

(注釈 1025年頃には「伊勢と信濃」は「殖産」を通じて「宋貿易の大商い」をしている。
前段でも論じたが、「清盛」に「殖産」から「貿易」を教えたのは伊勢資料では「伊勢と信濃」であると語っている。
この「伊勢と信濃」はそもそも軍は待たない「抑止力」であった。
又、「960年頃」から始まった「補完役の秀郷流青木氏」との「繋がり」も「220年後」のこの時点には「大富豪の商い」で氏族は出来ている。
これの意味するところは、当然に「賜姓五役の莫大な献納金」が「天皇家」に入って来る事に成るのだ。
これを態々小さい事で目くじら立てて見逃す手は朝廷には100%無いだろう。
故に「記録通り」の“「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするのが正しい。
「武蔵」を拠点に全国的に子孫を広げていた「補完役の秀郷流青木氏」の意味を理解すれば充分にこの説は証明し理解が出来る。
“「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするは同時にこの「補完役の秀郷流青木氏」の力が背後にあると云う事でもある。
「伊豆」の隣は当に相模・神奈川であり、「補完役の秀郷流青木氏」の勢力圏である。)

この様に注釈での時系列が一致する。
上記の注釈の故に、「以仁王の乱」が起こっても「摂津軍」で無かったから攻められなかったのである。
仮に、「摂津軍」であれば「関東に常駐していた関東守護の平家軍・桓武平氏・たいら族」に今一番に攻められていた筈である。
「乱」を起こそうとしている時に「伊豆」に「主力軍の伊豆守護軍」を置く事の事態がおかしいし、「神明社一社も直せない摂津源氏」がどうして「摂津外の伊豆に軍を置けるのか甚だ疑問で、「有綱説の稚拙さ」の搾取が見える。

「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の資料」でも、その証拠に「融合族」を送ったとしている事と、現在も「伊豆」には現実に「信濃」の様に「村全体」に「青木氏・青木村」を形成しているのである。
「村」が遺されているこの事を理解すれば「伊豆の位置付け」は判り、これを明確に論じている。
この「伊豆の青木村」などの事は詳細に論じれば証明できる。

注釈の結論は、要するに「系譜」に出て来ない「妾子国友」にあるとしている。

恐らくは「有綱説」はこの「国友説」を混同したか利用して搾取したと考えられる。
利用して国印状取得の搾取説に間違いはない。
だから「論理の矛盾」が生まれているのである。

多分、「源氏傍系ルーツ説」を名乗る為の「江戸初期の国印状取得の後付け説」であろう。
これを使う事で得をした豪族が居た事に成る。
想像は着くがそれは議論が広がる為にここでは誰かは判らない事とする。

さて、「伊豆の事と国友」の検証から、更にこの「国友の出自と信濃」について検証を進める。
実はこの「国友の母(妾)」は「若狭(国友の出生地・妾の里)」である。
つまり、「近江の最北端・京の右横・福井の最西端」には「清和源氏系の源氏の勢力」がこの時代に一部存在したとする「記録説」があり、その「土豪の領域」があったとしている。

(注釈 史実はここには「嵯峨源氏の末裔」が土豪化して細々と住んでいた。この史実を利用したと観られる。
この土豪化した「嵯峨源氏の末裔」を摂津に呼び寄せて「清和源氏の満仲」は武力集団化を始めてしたのである。この「妾」もその流れから来ている可能性がある。)

ところがこの説に従えば、その「領域の若狭」には「幼少期の国友」は長くは居なかった筈で、恐らくは「妾の里」であろう。
従って、下記の検証でもこの「若狭」は直接の関係性は無いと観られる。

この「国友の母」の「妾」の事を考察すると、「摂津清和源氏の四家」の一つである「頼綱系」の「三男国房」の「妾」であった事が史実として判っている。
その「妾子」で、この「妾子」が「頼政」の「養子」か「義詞」としたとする説がある。
「頼政一族」には「実子の三人」の他に、「養子の三人」と、「義詞の数人」が居た事が判っている。
「国友」はこの「義詞」に成ったと考えられる。
「養子の三氏」は「四家の子供」が「頼政」に入ったと成っている。

筆者は、間違いなく「妾子」である事から、記録には大きく載らない所以はこの「義詞説」であると観ている。
「近江佐々木氏の資料」にも簡単であるが、「青木氏の資料」と共に「信濃青木氏」の段で、“「若狭国友の跡目記載」”がある。
間違いは無い。

さて、ここで「若狭」に遺された「郷土史」の「寺請文記録」の中に“「国友」”の名が出て来るので取り敢えずこの真偽を査定して置く。

これは、これには「河内源氏」とあって「源氏説」であるが、ところが此処はそもそも住み分けから「摂津源氏域」であって「河内源氏」では無いので先ず全く違っている。
昔は続柄や路線が異なると「争い」を避ける為に「住み分け」と云う手段で知恵を出していた。
これはこの答えから「郷土史の江戸期初期」の「後付け」の「間違い」であろう。
更に、又、一部の資料には「国友」は「群馬にいたとする説」もあり、何れも利用された「後付け説」であろう。

そこで、先にこの二つの事を始末検証する。
兎も角も、「群馬の事」は笑止で別として、もう一つの上記の「源氏説」の「国友の存在」を示すとする「寺請文」とするものがあって、これを証拠にしている。
これにはその證文は「大疑問」がある。

この「寺請文」とするものには、先ず、その「寺請文」をよく観察すると、これには“墨が掠れていて中央に縦に消した跡”がある。
これを「崩書」で「正安の四年」と「郷土史」では読み込んでいる。
そして、これを「1302年4月」と「別段後書き」で追記している。
そもそも「正安」は、実体は「1299年」までである事で何と“「4年」”も「後書き」の100%の間違いを起こしているのだ。
そもそも、西暦を「別段後書き」の「添書」で入れるという事は「明治後の事」である。
そして、ところがその「ずれ」は1年は未だしも「3年」も「ずれ」ているのである。
この「ずれと間違い」でも充分に「ある目的」の為に先ず「後付け」と「添書」の二つの方法で「郷土史に手を加えた事」が判る。

この時、時代は「改元」が時代的に珍しく少しずれて1302年12月に行われている。
それは「4月後の事」である。
この事を知らずに書き込んで仕舞ったと云う事だろう。
「郷土史」が相当後に成ってこれを説明するに及んで「西暦」に表示するのは「後付け説の証拠」でその思惑が判る。

次に、更に「決定的な間違い」を起こしている。
「源氏族」、「国友」は上記した様に「清和源氏」で「摂津源氏」である事は確実に判っている。
としているので、「源氏族」は、抑々どんなに生きていたとしても歴史的に、一切、“「1221年」”に完全滅亡している。
そうすると「1221/1299年」では「78年」、仮に「1221/1302年」にしても「81年の前」に「国友」も含めて滅亡しているのである。
「国友」の判る範囲の年齢から観れば、「120年のずれ」が起こる。
明らかに「後付け説」である。

更に、未だある。
この「寺請文」には「恣意的説」とも執れる「かすれ気味」にして、その中央を二本の太線で消している。
この様に成っている「崩書」を「正安」と読める様にした事が間違いである。

これは明らかに“「治承」”の記載である。
「治承」とすると、その四年は「1180年(頼政没)」であり、「治承寿永の乱」の通りに「1180〜1185年」である。
「治承」は「1177年〜1181年」である。
「治を正 承を安」と恣意的に、且つ偏纂して読んでしまった事の大間違いである。

「国友」に依らず、”「河内源氏族」”そのものが完全滅亡しているのに、搾取にしてもよくも「偽の寺請文」を造り上げたなと思う。

検証は未だある。
「国友」の“「寺請文記録(年貢と村統治に関する報告書)」”は間違いだらけのものである。
そもそも、“「寺請文」”とは「村寺の寺領」の「委託管理状態」に対する「寺への報告書」である。
「寺領」を管理してもらっていた「農民か村の代表の組頭か庄屋」が行う仕事である。

前の検証の通りの間違いだらけではあるが、これは「上塗りの間違い」で「源氏の国友」がそもそも行う事は100%無い。
「読む」と云う前の何かに利用された「後付けの搾取書(大変多い)」である事が判る。
「江戸期初期の系物」はこの様に「矛盾だらけの後付け」であるのだ。

これは、各地の「神職や住職」がプロとして裏業で行った江戸期初期に横行した「家柄証明の国印状取得」の搾取であろう。
「第二の姓」から身を興した者の「家柄証明の国印状取得」の為の搾取で、この「若狭の妾子」の伝記を利用したものである。
「河内源氏説」も都合よく合わしたのであろうが記録と違っている。

これ等の「搾取」は、“周囲が歴史的な事を知らないだろう”として「弱み」に付け込んでの行為であった。
「上野」のものは読むにも値しない「矛盾」があり「若狭」も斯くの如し同然である。


そこで、これらを前提にして、「信濃の国友の正しい経緯」は次の通りである。
「若狭」の「妾子の国友」を一度「信濃の跡目」として入れて、それを今度は「伊豆」に「頼政指示(義詞の理由)」で廻して「信濃青木国友」で護ったと考えられる。
これで「信濃」は「源氏化の影響」から「平家」からも「疑い」を持たれずに逃れられ、「伊豆」も「伊勢信濃と観られる事」で逃れられるとした。

現実に「伊豆」は「頼政守領地(遙任地)」でありながらも、この伊豆先の直近まで2度に渡り「平家軍」が来ているのに「全く攻める事」は無かった史実があるのである。
そもそも「伊豆」は平家軍に執っては「戦略的位置」としては先ず攻めて「関東の足掛かり」を着ける位置域にあった筈である。
上記した様に「国友」が居るとしても、「子孫存続策の者」で「防御の国友」では無かったので充分に協力は得られた筈である。
この時は「信濃青木国友」であった無関係であった筈である。

上記した様に形式的には「信濃青木氏の者」として扱われて「伊豆の信濃者」に成っていた事に成る。
「戦略的位置・拠点」とそうすれば「弱点」を突かれて「鎌倉軍」は手も足も出ない筈であった。
「平家軍」はでもそうしなかった。
「史実」はこの直接に、「鎌倉の浜」に目がけて直進した。(史実)
ここに三日後に「大島水軍・源氏方」が迫っても「伊豆の足掛かり」が有れば「大島水軍」も手も出せなかった筈である。
ところが逆に、戦後に「伊豆」はその後「大島水軍」に乗っ取られたのである。

(注釈 その後、「大島水軍」は「頼朝」と「そり」が合わず一週間で「大島」に引き返した。)

其の後の「国友の足取り」は判らないが「伊豆外」には出て行っていないので、遂には「伊豆青木氏」に溶け込んだと観られる。
この「信濃」に一度は入り、その後に「伊豆」に移った「妾子国友」を「実氏有綱」として「後付けの搾取」で「家柄搾取」で利用したと観られる説を造り上げた者がいた事に成る。

「頼政」の「義詞」で「妾子国友」で「信濃跡目の伊豆青木国友」では、「後付けの搾取」としての信憑性は、その「搾取の根拠」が低いし「現実」があり搾取は出来なかった所以であろう。
つまり、「伊豆国友」では「頼政と青木氏の範疇の事」で、これを搾取しても「国印状の認可」には直接繋がらなかったと考えられる。

(注釈 「伊豆」には「大島族の姓」が多く、「富岡・富田等」の「富」の付く姓名が多い。
 「伊豆青木氏」は「神奈川の秀郷流青木氏の庇護」を受けている。
尚、「国友に関わる情報」を獲得出来得るには、“「神明社か青木氏菩提寺」からの情報”検証すれば、“「信濃に関わる範疇」”と考えられる。
且つ、それが“「有綱」が奈良に入った”とするこの「有綱説の資料」を造り上げるのに都合の良かった江戸初期の者と成る。
「搾取の者の答え」は直ぐに出る。

それは「信濃の四藩」、つまり、「真田藩 上田藩 小諸藩 岩村田蕃」で奈良に関わった藩の者という事に成る。
この者が搾取して造った「有綱説の資料」と成ると「S藩」であって、且つ、多くの「国衆」で構成されて、且つ各地を廻った藩と成る。
更に、江戸期初期に大大名に成って数多くの藩士を抱えた藩で、自らも「国衆」であった「S藩」で、最も自らも「搾取の系譜」を持つ藩と成れば、矢張り「S藩」である。
系譜上でもあり得ない「搾取摂津源氏説」が公的に定説に成っていて、「搾取の藩」として「有名な藩」ともなれば矢張り「S藩」である。
つまり、「S氏」そのものである。

更に、江戸期初期に「信濃青木氏」は「地権地の大半」を幕府に「殖産地没収」と「新規四藩」に与える為の土地として没収されたが、この時、没収された地に定住していた「殖産能力の持った信濃青木氏」が「真田藩の家臣」に成った。
「青木氏の氏是」を破って「契約家臣」に成った事が記されている。
恐らくは、この「有綱説の資料」は「S氏」が搾取編纂した事に間違いは無いだろう。
これを以て定説と成っている「搾取の摂津源氏説」を唱えたとされる。
以上の経緯の条件に完全に100%符号一致する。)

恐らくは「平家」がこの「伊豆」を攻めなかった理由は、上記の「伊豆青木氏の事」、つまり「桓武天皇の論説側(平家側)」」もあるが、それを補完する「武蔵秀郷一門」を敵にしたくなかったのであろう。
又、「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事から「平家」は信用して「信義」を貫いた事に成るし、潰せば「献納金」は入らなくなり、「青木氏の影の抑止力」を敵に廻す事にも成る。
そもそも「最大の勢力」を張っていた全国の24地域に分散する「補完役の秀郷流青木氏や永嶋氏等の青木氏族」を始めとして、「背後」を突かれる恐れが充分にあった事で「戦線が拡大し過ぎる事の懸念」が強かった筈である。

この様に「伊勢と信濃と伊豆」は「上記の検証」で論じた様に「同族」の「同然の立場(血縁と絆から平家側)」であったからだ。
「伊勢と信濃と伊豆」は「難しい舵取り」を迫られていたのである。
これを失敗していたら現在は源氏族と同じに成っていただろう。
ところが、この後、伊豆は何度も危機を迎え、伊勢と信濃は「青木氏の氏是」を破ってまでも救出に懸命に成った。後段で説く。)

(注釈 上記の注釈の藩も真田藩だけでは無く搾取の源氏説を唱えているのだが、全て流れと時代と祖が異なるのだ。
然し、源氏化していない「信濃」には念の為に他説には「河内源氏」を祖とするとしている「源氏説」が「6流」あるとしている。
この説の地域は、「問題の搾取偏纂の真田藩」の「北部の青木村」とは反対の「南部信濃」である。
この全域かどうかは明記が無い。
この「狭い山間部の南部信濃」 (約190k平方)」に「6流(1流 35k平方≒1万坪)」の「祖が異なる河内源氏」が存在した事の説が異様である。
先ずこんな事は無い。
中には、「時系列」が異なるし、「6流の各始祖」とする「源流の始祖」は1221年に既に完全滅亡しているのに何故に存在し得るのかという事に成る。
中には「1600年代(江戸初期)の資料」とするものもあるし、「6流」とすると「河内源氏の傍系流れ」の丁度全てである。
一か所に「傍系の流れが違う族」が「住み分け制度」の中で存在する事は100%無い。)

注釈として、検証する。
「源氏」が生まれたのは824年で、全て滅亡したのは1221年である。
この間約400年と成る。
当時の寿命は50歳であるとすると子孫を興せる年代を25歳とする。
400/25=16代 仮に平常時で最大「4のn乗」の前提とする。
然し、これには時代性が共なうので、乱世としてこの1/2〜1/4成ろう。
現実に「河内源氏」は武力化したので、歴史的に観ても子孫の多くを無くしている。
前提の「4のn乗」は最低の1/4として「1のn乗」、最大の1/2として「2のn乗」と成る。
論理的にはこの子孫拡大式は「1のn乗」は成り立たないので、1/3とすると「3のn乗」とする。
次は、400/25=16代も「乱世の影響」を受けるので、最大の1/2で8代、最低で1/3で5代と成ろう。

先ず「2のn乗」では、最大の8代では516 最低の5代では64
次に「3のn乗」では、最大の8代では19613 最低のでは5代では729
従って、結論からすると「64と19613」は無いだろう。
抑々、歴史的史実からそれだけの子孫を養う力は無かった。



この代表するパラメータの一つとして「源氏の守護神」とする「八幡神社と八幡仏社」は格式は「村格」であるし、「独自の軍事力、」は「5000程度」で後は殆ど「合力」であった。
「壇ノ浦の源平戦」の「義経の一族の自軍」は2000とする資料もある。
仮に、「直系尊属と卑属」と「支流の尊属と卑属」と「傍系尊属と卑属」の「三つの族」を集めたとしても、「516〜719」が妥当と考えられる。
64は兎も角も、「2万の軍」を集めたとする資料から最大で「19613の計算」に付いては次の様に成る。
最大の「19613」はこの「三つの族外」の「源氏ではない縁者族」とする勝手に縁者を理由にして名乗ったとすれば成り立つ話であろう。現実には名乗っている。
「歴史上の軍力」とは殆どは「日和見の合力軍」である。

現実に「頼朝」が「以仁王の乱後」に「自軍」として集めたのは「500程度」と成っていた。
全て「日和見の合力軍」であった事が歴史が物語る。

「日和見の合力軍」の殆どは「源氏族」として名乗る事を許されての「日和見の合力軍」で歴史上の戦いの通例である。
負けると決まった時には、”蜘蛛の巣を散らす様に去る”が常道で、「平の将門の乱」もそうであった。
この事から「第二の姓族」の「源氏系と名乗る数」が殆どでそんな数は論理的にあり得ない数なのである。
「源氏でない族」を調べるのが難しい位である。

(重要な注釈 筆者工、そもそも江戸期初期の「徳川幕府の国印状の政策・権威醸成策」は歴史を歪めたと考えている。
「諡号族」では無い「第二の姓」の「徳川姓」は「上野の得川の土豪名」から来ている。
「得の川」を「三河」で勢力を獲得した時に変じて「徳川」としたのである。
この「得川」は、通常時は「農民」で働き「戦い」と成ると「傭兵業者」が村にやってきて来て「農民」から兵を集めた。
この時に「傭兵」に応じる「農兵の土豪集団」であった。
上記の「源氏の軍」もこの形式で拡大する軍力であった。
最後には、完全に「傭兵」を職業とする事にした「農民」が出て、これが「第二の姓族」であるのだ。
代表的なのは「黒田藩の全て」がこの形式から成り立っている。
江戸期に成っても同然で、「日向廻と薩摩大口の青木氏」は江戸期末期まで「黒田藩の専属の傭兵軍団」であった。
これは「家臣」を最小限にして「出費」を抑えて「財力」を蓄えた「黒田藩の戦略」であった。
この様に「源氏族」と誇示するのはこの「日和見の合力軍」の「戦いの原理」から来ているのだ。
例外は無い。)


その「始祖とする南部信濃への経路」を「証明する資料」は何処にあるのか、あるのであれば「源氏族の経緯」をもっと判る筈であるし、中には考えられないのもある。
「源氏」が完全滅亡した「1221年代滅亡」から何と「400年後」に信濃に「1600年代の資料」として見つけ出してそれを表に出して来たのかを明確にしていない。
その「6つの源氏説」は全く別系としている。
そもそも、この「系譜の途中」に突然に見慣れない人物を引き出して、それを「系譜繋ぎ」のその人物に上手く系譜を繋げている「プロ」が使った「江戸初期の最大の手」である。
「ある系譜」と「別の系譜」を接着剤的につなぎ合わせる架空の人物を入れて繋ぎ合わせるのである。これが常套手段であった。

更にもっと云えば“何で南部なのか”でもある。
「伊勢の源氏説」も同様であり流石に実によく似ている。
何故、源氏種が「6流」かと云うと、重なると偽である事が暴露するので「六流」に広げてごまかしたのである。

(注釈 そもそも、「滅亡」とは山岳を逃げ延びて「追討軍」の「掃討軍」に掃討されて「出自元の子孫」を含めて“「全ての物」”も事石滅しされる事である。
一切の寺などの資料も含めての事である。遺る事はないのである。
その掲げるその系譜をどの様にして「正当な経緯での系譜」に造り上げられているのかその真偽は疑われる。
こんな「信濃青木氏」には関係は全く無いが念の為に「矛盾を持っている信濃源氏」があるとして主張しているので説明して置いた。
この「6流」の「信濃源氏と呼称する系譜」は「江戸初期の国印状交付の系譜搾取の偏纂」である事は先ず間違いはないし、流石に「尊属」とはしていないで「傍系族と支流族」としている。)

(注釈 歴史を好む人間としては、この様な「江戸初期の搾取偏纂」は大変に時間を要するものでこれは愚痴であるが。
載せる事、信じる事は自由であるので“載せるな”とは言い難いが、何時も正しい歴史観で論じる為にはほとほとこれで苦労させられるのだ。
せめて “仮に・・・としたら”と書いてほしいものだ。
調べる時間がもったいないし、間違えば本元に辿り着けないのだ。)

「青木氏の氏是」として「摂津源氏」でさえも、「上記の論説」の通りであり、「四掟の範囲外」として「血縁族」の中に「源氏系」は入れない事に成っていた。
それ程に「原理主義」を貫く為にも“「源氏化を嫌っていた事」”を意味する。
それにも関わらず、「京綱と国友」の「搾取偏纂説」を取り除き論じているが、“「伊勢と信濃に入った事”として、検証した。

この“1の頼政の「圧力・説得」に屈した“の論説に対して、更に他にどの様な経緯が考えられるかである。
これを次に検証する。

2 「政争」から子孫を逃す事が出来る。注釈の通り「子孫遺策」である。

そもそも、「女系の妻嫁制度」を敷いている理由には、前段でも全ゆる面から論じているが、この「女系の妻嫁制度」のもう一つの「大きな理由」があった。
それが「天皇家」が「男系の定め」である。
「白壁王」に向けられた「孝謙天皇の白羽の矢」が二度と起こらない様にするには、「青木氏」の中を「女系の妻嫁制度」にすれば、「男系の定め」に適合しない事に成り、二度と「白羽の矢」は飛んで来ない事に成る。
要するに、“「桓武天皇説と嵯峨天皇説」の違い”である。

「桓武天皇説と嵯峨天皇説」のこの「二つの説」には「男系が前提」と成っている。
何方かと云えば「伊勢と信濃の青木氏」は上記している様に「桓武天皇説>嵯峨天皇説」に成ろう。
そこで、この「男系の前提」を崩し「女系の妻嫁制度」にすればこの「二つの争い」から逃れられる。
つまり、“「政争」から逃れられる”と云う事に成るのだ。
故に「子孫」は長く存続できる。

従って、「伊豆」に関する1178年頃は既には「女系の妻嫁制度」は完成している。
目的の通り完全に外れているし、「天皇家」は仁明期後は「男系」が続けられている。
最早、心配はいらない。

「経済的」にも「商い」は「日宋貿易」でも勝れ、「抑止力」でも「平家や源氏」に比べても「抑止武力」を裏付ける「経済力」でも勝れていた。
何れの世も「武力=経済力の関係」で成り立っている。
「経済力」の上に「武力」が成り立ちこの逆はない。
つまり、「商いの経済力」は「抑止力の裏の力」を物語るものであり、依って「青木氏」には「充分な力」は出来ている。
況や、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で出来ている「氏族」でありながらも、「世情」は“表裏のある恐れる氏族”と厳しい目でその様に観ていただろう。

「天皇家の血縁」でも「仁明天皇期」で「青木氏族系」は既に完全に終わっているのだ。
「伊豆の事」で、仮に「源氏力との繋がり」を持つとしても「血縁的」にも寧ろ「平家側>源氏側」と成っている。
「経済的」にも殖産で「平家側>源氏側」と成っている。

当初は「青木氏=源氏」であっても上記の通りこれは飽く迄も「仁明期までの事」である。
「1178年頃」では「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していた。
この「青木氏の扱い」に関する「政争」の「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の傾向が大きく「1178年頃」では答えが出ていた。

つまり、「扱い」をうまく遣れば「京綱と国友の件」は大きな事は起こらないとする「青木氏側の読み」であった。
つまり、「政争」から逃れられると云う事に成る。
「頼政」からすれば「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」での立場からそれを利用すれば、“隠す事が出来る”と観ていた事に成ろう。
仮に“隠す事が出来た”としても「源氏再興」には決して成り得ない。

つまり、「原理主義の概念」が大きく氏を左右させていた事に成る。

「平家側>=青木氏>源氏側」と「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の関係式から観たら「再興」は100%無い事は判る。
再興しなければならない「理由」は「青木氏側」には100%無い。
寧ろ、厄介な「潰すべき族」であった事に成る。

そもそも「原理主義」が元々そんな事は考えないから「原理主義」なのである。
とすると、「頼政」は“単なる子孫を遺す”と云う事に目的は在った事に成る。

これで「三つの血縁源」に迷惑はかける事は無いし、筆者は「平家」にしても「源氏」にしても、仮に「無縁の河内源氏」に敵対されても「三つの血縁源」で対処すれば勝てると観ていたと考える。
「武力」にしても「経済力」にしても「政治力」にしても「血絵で結ばれた補完役」が背後に入れば“「大義」”は獲得できると観ていたと考える。

現実に、それを証明する様に「信濃」でも「伊豆」ではそうなったではないか。

「平家」は、飽く迄も戦略上は「敵対する相手」は「源氏」に絞るだろうし、「源氏」も「女系の妻嫁制度」を執る「青木氏との関係性」は無かった事から敵対しなければ、「平家」は「戦線拡大」は敢えてしないだろう。
従って、「頼政の策の程度(妾子での子孫存続)の容認」と成ったのであろう。

「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「平家(4流or7流)」も「源氏(11流)」もありながらも、現実に平安期の「9つの縛り」から「四掟の血縁相手」には決してしなかった。

そもそも、「神明社」であって「古代密教」であったとすれば、この「原理主義」を敷く以上は「野心的」では徹底して無かったと云える。
「青木氏の氏是」(古書に遺る「施基皇子の生き様」)を考えればこれは当然である。

地理的な歴史観
そこで、「頼政の件」で、例えば、「伊勢と信濃」が「この状況」を乗り越えられるのには大きく「地理的要素」も絡んでいた。

そこで重要と成るこの「地理的な歴史観」を詳細に説明して観る。

先ず「伊勢」から先に論じる。(信濃は後段で詳細に論じる。)

伊勢の松阪地区以外の「北域」(員弁域、桑名域、四日市域、名張域を除く)には、上記した様に、「松阪」に隣接する「明和町」、「玉城町」、「多気町」、「大台町」、「渡会町」の東西に帯状に「青木氏」が定住していて現在も多く分布している。

これが「四家の松阪殿」の「福家の一族」が「北域のよりやや南側域」に分布する定住地であった。
この「松阪域の北側域」に隣接位置する「四日市殿」との「棲み分け」が成されていた。
従って、主に「松阪郡域」と「多気郡域」のこの二つの全域は「松坂殿と絆青木氏」が定住していた。

そして、その為に起こる事は「寺の在り様」であった。
この「寺の在り様」が系譜上から縁者関係にある「平家から疑われる要素」と成るのだ。

「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していて、「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の立場にあったにも関わらず、「平家から疑われる要素」は納得できなかった筈ある。

そこで、「松坂の本寺(総寺・清光寺)」(松阪市中町)と合わせて、この“「松阪市多気郡明和町佐田」(「斎王の里の館域」)”にも「分寺A」の「青木氏菩提寺」を建立したのである。

(注釈 「二つの寺名」は「来迎寺」と「清光院・寺」と記されている。
古くから存在する「清蓮寺」は「寺」を兼ねた「平館・集会所」で在ったと記されている。)

この事は、“「周囲の郷士」との「血縁族の青木氏族(家人)」”があった事からであり、「青木氏族一族一門の寺」として「分寺(B)」を建立し、“「松阪市中町の本寺(A)」”とは別に建立した事が伝えられている。
ところが、この「分寺(B)の存在」が疑われる事に左右したのである。


(注釈・「分寺の二つの寺名」は「分寺A」は「清光院」、「分寺(B)」は「来迎寺」で在ったと経緯から考えられる。)

(注釈 現在の「本寺(A)・清光寺」は、「青木氏の菩提寺」の元合った位置よりやや少し東寄り(2m)にずれている。
然し、「江戸初期の顕教令」に依って「密教」が「禁令」と成った事から、「本寺の菩提寺」の維持は難しく成った。
その後、この「本寺(A)・清光寺」は、三度目の「松阪大火」で焼失した。
更に、この「本寺(A)・清光寺」は、「顕教令」で江戸初期に「紀州徳川氏の支藩の伊勢菩提寺」として接収された。
この事から「現在の寺」は建て替えられたものである。
ところが「寺名」は紀州藩の配慮で同じと成ったものである。)

(注釈 特別に紀州藩が同じ寺名としたとする明らかな「紀州藩の記録」がある。
更に「青木氏族の墓所」もこの寺に特例として同じとして使用を許されたとある。
現実に一族の墓所は元のままで、相当な「墓構え」である。
「紀州支藩の墓所」より比較にならない程に大きい。
紀州支藩の菩提寺と成ってはいるが、関係者の墓所で主だった墓所は和歌山にある。
長方寺と報恩寺と東照宮の三寺に分かれている。
これは「顕教の檀家寺」では無く「菩提寺扱い」としても特別に許された事に成る。
実質は江戸期でも青木氏の菩提寺で現在も同じで「青木氏の歴史的宝物」を納められている。)

(注釈、但し、明治後「第14代の紀州徳川氏」が、「紀州」から「東京」へ、そして「伊豆」に移動後は現在も「徳川氏」から外れ「一般の顕教寺」として存在している。
賜仏像の根拠寺として存在する所以から「特別扱い」の「菩提寺扱い」と成ったと記されている。)

(注釈 ところが、この注釈の“「伊豆」”に好んで紀州徳川氏が移動した理由があった。
それは「上記の論」にあった。)

(注釈 家康の“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」に従い、故に、この「松阪本寺」は江戸期でも“状況を変えなかった”とされている。)

(注釈 ところが其の後も「松阪の別家筋の青木氏:四家」と「絆青木氏の寺」としても扱われていた。
この事は「本寺の経緯」から「勿論の事」として、「伊勢衆との血縁族 青木氏族」の「菩提寺の分寺(B)」もその後に「顕教」に成った。
然し、それでもこの「分寺(B)・来迎寺館」を上記の多気郡等にも建立出来たのである。
この「特例の事」は、「伊勢」に如何に強く結ばれ「青木氏血縁族(氏族の氏人)」が多かったかを物語っているのだ。
だが、「本寺の寺名(A)・清光寺」は前段では敢えて匿名としていたが、ところが「古代密教の青木氏族」だけの「密教菩提寺」は、江戸初期の「顕教令」に依って尚更に「表向き」には維持が出難く成っていた。)

(注釈 実は、これには鎌倉期から始まった「浄土宗派争い」で「密教浄土宗」は殆ど無く成って居た。
その処に、更に「顕教宗教派」が増加して「派争い」と「教派争い」が加わり、益々「青木氏の密教」は難しく成って行った事に成る。
西山派系 東山派、嵯峨派、西谷派、本山派、深草派、時宗派
鎮西派系 白旗派、石城派、藤田派、一条派、三条派、本幡派、一向派
長楽寺派系 
九品寺派系
「14派中」の「鎮西派」の中の「最小派の白旗派」の「原理主義」を概念とする皇位族が入信した「古代密教派」である。
尚更にその為に周囲からは完全に無視され「排除の圧力」を受けていた。
その後に、ところが「室町期初期」に「足利幕府」に依って「原理主義の白旗派(14派の中の最小派)」だけが強引に「浄土宗本貫」と決められたのである。)

「氏族の概念」を表す「宗教・宗派」にはこの様な大経緯があったのだ。
唯、結果としては「原理主義の白旗派の概念」が認められたが、それだけにすべての「派争い」と「教派争い」の「羨望を向けられる事」に成って仕舞ったのである。
遺されている「青木氏の資料」の一部にこの「行」がある。
それに依れば、此処から「原理主義の白旗派の密教」である事に対して、“「世間の羨望」”は「暴力的要素」を含んだ攻撃を示す様に成って行ったとある。

これは宗教でも「氏への尊敬」から「攻撃的羨望」へと変わって行った事になるのであろう。
取り分け、「信濃と伊豆」では大変であったらしく、「攻撃を受ける恐れ」がある様に「密教である事」をも極力隠す様に成ったと記されている。
信濃では昭和の初期まであったと聞き及ぶ。

「伊勢」も「多少の変化」は認められていたらしく、唯、「伊勢神宮」と云う「原理主義的な思想概念」と「神明社族の印象」が古来より根強くあった事からも、「菩提寺」が直接的に攻撃されると云う事は無かったらしい。
これが江戸期まで持ち込まれた。

ところが明治期にはこの「攻撃」は再燃したとある。
今度は「密教の原理主義的な思想概念」だけでは無く、奈良期から平安期初期までの「青木氏と云う象徴的な立場格式」と「巨万の富を獲得した氏への羨望」の「三つが絡んだ羨望攻撃」と成った。
恐らくは、これには「裏での政治的思惑」が働いていたと考えられる。

前段でも論じたが、そもそも「明治の民主化」により「天皇家」に継ぐ程度の「格式族の存在」は否定しなければ成らなくなった。
況して、「献納」を明治9年に中止した事で益々、険悪と成って行ったと観られる。

(注釈 この時、「紀州徳川氏の仲介」で華族制度に推薦されたが、「伊勢と信濃の青木氏」は断った。
この「断りの根拠」は徹底して「青木氏の氏是」であってそれを護ったと記されている。
その時の「天皇の側近右大臣からの手紙」と「徳川氏の手紙」が遺されている。
この事で、東京に出て直接に謝罪をし「紀州の景色」を書いた「南画」を献納している。
この時の「天皇家からの返納品」は「所縁の藤白墨」であった。現存している。
「臣籍降下の元皇親族」の“「皇親華族」”に列せられる推薦であった。)

(注釈 そもそも「華族」には「皇親華族」の他に「公家華族」と「大名華族」と「勲功家族」があった。
その「皇親華族」の格式は最高位であった。)

この「歴史的経緯の事」で「伊勢」では、「分寺 Bの来迎寺館の存在」は、この「使い分け策」として逃げた事も合わせて考えられる。
つまり、どう云う事かと云えば、「本寺(A)・清光寺」が「青木氏族の定住地」には先ず必ず“「菩提寺」”として在って、更に、夫々に“「ある目的」”を以って「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺」が存在させたと云う事である。

実は「顕教化する宗教界」に対応する事のみならず、もう一つここに「注釈の答え」があったのだ。
この「分寺(B)」、即ち、「来迎寺城館(分寺Bの寺名)」には、「青木氏族」に執って「多くの意味」を持っていたのだ。
唯の寺ではなかった。

これから先ず論ずる事に成るのだが、「信濃」や「伊豆」でも伊勢と寺に関する防備として「同然のシステム」を執っているのだ。
つまり、防備のこれは「青木氏と云う限定した族」に対する「攻撃」であった事に成る。
その原因が「密教と顕教の差」がその「引き金」と成っていた事に成る。

「室町期中期」から発祥した「第二の姓族」が「全体を占める社会」と成れば当然に「顕教の力」が強く成る事は否めない。
逆に云えば密教は認められないと云う事に成る。

それは後の「江戸初期の顕教令」が物語っている。
みんな同じにしようとする「社会の流れ」である。
それは「密教的要素の伝統」を発祥時から持たない「第二の姓族」社会であるらこそ起こる事である。
必然的に「密教」は浮き出る事は必定であって、その現象を社会が心豊かに容認しなかったのであろう。
これは「日本人の特性」と云っても過言ではないだろうか。

そこでこの事は、青木氏に執ってはその特別性の期が無くても社会は無意識に攻撃する。
その為に、「青木氏」は「菩提寺」にその防御の目的を持たせたのだ。
其の事が最も明確に出て来る「菩提寺」にである。
そこで夫々に“「ある目的」”を以って、「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」を存在させたと云う事に成る。
「平安期末期」にも「限定した地域」にもこの社会の「攻撃」が起こっていた事に成る。
そしてそれが宗教の「密教論争」と云う事まで興した。

上記した「白旗派の古代密教」の「浄土概念に基づく原理主義」を巻き込んだ「争い」が平安末期から鎌倉期を経過して室町期初期まで、遂には「他の宗派」も加わって醜い”「160年論争」と云う宗教争い」”が続いた。
勿論、室町中期以降も続いた。
これが上記した「浄土宗の分派」と云う形で手出来たのである。
何とかこの社会の攻撃に少しでも教義の中で修正して対応しようとした。
その最たるものが浄土宗から飛び出した「親鸞の浄土真宗」で完全に密教性を排除した。

「青木氏の伊勢と信濃と伊豆」にはこの影響は大きく働いた。
「密教から顕教」への変化が「氏存続」の「大きな脅威」と成っていた事に成る。
「密教」が「顕教」に替えられるかと云えばそれは無理であろう。
これには「青木氏の伝統の基礎」と成っているからだ。

そうとなれば、それを示すのが上記の伊勢青木氏が執った「分寺策」で在ったと考えられる。
同然に、「信濃」にも「伊豆」にも、将又、「美濃(後段で詳細を論じる)」にもこの「分寺策の形跡」がはっきりと遺されて観られる。

「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」では、従って、後者の「分寺(B)・来迎寺館」は「武力的攻撃への対処策」であった。
要するに「直接的攻撃防御策」であった。
前者の「分寺(A)・清光院」は、“「院」”に示す通り「天皇家への権威の象徴」であったので「権威に依る牽制策」であった。唯一、「院」を行使出来るのは伊勢青木氏である。
つまり「、間接的権威牽制策」であった。
この“「二つの策」”で対処し護った事に成るのである。
これで、“ある目的”の意味合いが判る。

上記している様に、世情の「青木氏への尊敬」から遂には社会の流れの変化で「攻撃的羨望」への変化に対して、「分寺B」を攻撃から逃れさせる為に“「来迎寺城館」”としたのである。

つまり、世情には“「密教寺」”ではあるが「寺」では無く“「館」”なのだ”としたのである。
「館」なのだが「寺」だとする苦肉の策である。
この「館」は「住まい」では無く、要するに「城壁を持つ平城」なのである。
これは平安期初期からあって「伊勢青木氏の清蓮寺城館」と同じである。

上記でも何時の世もこの密教の「原理主義・白旗派」を貫く以上は「世情」は厳しく成ると説いた。
世情の「顕教化する宗教界の社会変化」と、「攻撃的羨望への社会変化」に対応したのである。

「名張」の「清蓮寺城館」も「平安期初期の古来」に於いてこの「二つの事」に近いものがあったのでは無いかと考えられる。
つまり、それは「平安期初期」には上記で論じている「桓武論説と嵯峨論説の影響」があったという事に成る。
この「政争」からの「防御」と観える。
その証拠に、これに合わせて、平安末期の「薩摩域・大口青木氏・日向青木氏」までの「伊勢」を含む「青木氏族系の定住地」には、必ず、「同宗同派同名」の「ある寺(館)」(「来迎寺城館」)が少ないが定住地の近隣に必ず一つ存在しているのだ。
現在も存在する。
取り分け、南の端の「薩摩大口村」と「日向廻村」にも存在するのは典型的な例である。
この「薩摩の分寺(B)」も、本来は「青木氏の家城」で「城郭・館」と「寺」とを兼ねたものであった。

(注釈 「寺」では無く「館」として建立した。これが「表向きの策」であった。
後は「館」での「寺的な行事」の「集会所」とするだけで事は済んだとしている。)

この他にも存在は別として次の域にも現在でも存在する。
「美作国吉野郡」
「越後国古志郡」
「佐渡国賀茂郡」
「三河国渥美郡伊川津」
「三河国額田郡」
「因幡国八東郡」
「豊前国下毛郡」
「越前北ノ庄と坂井郡」
「加賀国」
「岩代国安達郡」
「磐城国袋内」
「伊豆国沼津郡内浦」

以上の地域、即ち、「青木氏の定住地」であるこれらの地域には、この「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が必ず存在した。(現存)

これは、「伊勢名張」の“「清蓮寺城館」”と同じ様に、この“「来迎寺城館」”にも“「ある意味」”を持って共通して存在させたのである。

研究中により{青木氏の所在地詳細}などは秘匿するが、「青木氏」と大きく関わっている事は間違いの無い事実である。
江戸期以前の「密教の浄土宗」の置かれていた環境から勘案して明確に判る。

この様に「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が「存在する共通環境」は、「浄土真宗の環境」の中に於いても「知恩院派の浄土宗寺(鎮西派系の白旗派原理主義派)」がぽつんとある事なのだ。

上記した様に、この「鎮西派系の白旗派原理主義派」は「青木氏の所以」そのものである。
「古代浄土密教の系列」であり、平安期初期以降では「青木氏」以外にはこれを引き継いでいない。
「信濃と伊豆」にもこの怪しき伝統は引き継いでいる。

更にそれは何故かである。
これが判れば先ず上記の「伊豆の事(「伊豆国沼津郡内浦」)」も解って来る。
伊豆の国友の件も読み込める

それから先に論じる。それは次の注釈で判る。

注釈として、先ず「伊勢」には「ある寺(分寺B)(館)」(来迎寺城館など)の「来迎寺」は、二つある。

一つは、「天台宗寺」で「伊勢」を侵食した「下級公家官僚」の「北畠氏の菩提寺」である。
他方は、「(a−1)(a−2)の郷士」と成った「菩提寺」である。

つまり、ここが過去には「浄土宗寺の城館形式」に成っていたのである。

従って、「来迎寺」のある所には、この「(a−1)(a−2)の郷士」があったと云う事に成る。
依って、「伊勢」からこの「来迎寺城館等」の「来迎寺の形跡」を追い求めて行けば、「(a−1)(a−2)の郷士」の「移動定住の跡」が判ると云う事にも成る。

これに依って何と「伊勢−信濃間の縦の線」、つまり「移動定住の跡」と云うものが生まれているのだ。

(注釈 美濃を経由して 且つ、伊豆の平安末期の生活も環境も判るのである。)

この事は「平安初期」には「氏族の存在」と「宗教の概念」が伊勢と信濃と伊豆はすくなくと一致していたと云う事に成る。
だから、「氏族」と云うのではあるが。

(注釈 美濃の詳細は別段で論じ、此処では論外とする。)

そこでそもそも、この「移動定住の跡」の“「来迎寺館」”とは、元々は、「上記(bとc)」の地方に赴任した「高級官僚族が入信する寺」でもあった。
依って、この結果、「高級官僚族」は次の様に分かれていた。

「天台宗(公家等の官僚族)」の派
「浄土宗(武家貴族の官僚族)」の派

以上の二つの「両方の寺」と成っていたのであった。

ところが、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」の「移動経路」は「線状」として全く成立せず少なく無いに等しい。
又、天台宗(公家等の官僚族)」の派はそもそも最澄概念から「館」では無かった。
つまり、天台密教を唱えながらも顕教として信者を多く獲得する戦略に出た。

(注釈 「最澄」は当初は「緩い密教」を唱えていた。その後、「顕教的密教の概念」に替えた。
この「概念の変遷」から「原理主義」では無いので「館の考え」は生まれない。)

つまり、これには「宗教概念の違い」があった事から起こっていたと観られる。
故に「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は「白旗派の原理主義の概念・律宗族」の経路と云えるのだ。
殆どは「(bとc)」と同様に、前段でも論じている様に、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」は平安末期の「戦乱の世」に出て滅亡したのである。(近江美濃甲斐の様に)

「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は下記の様に「館策を執った事」で生き残ったのである。

然し、「(a)族」と一部の「(bとc)」の「浄土宗派(武家貴族の官僚族)」は、「武力」を持って「赴任地」を統治し、「土地」に根付いていた彼らは「下剋上の戦乱」でもある程度生き延びられたのである。
ここに「違い」があった。
これが「館の所以差」であるのだ。
当に、「上記の薩摩」がその典型例であるのだ。

この事は「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」を帰依する故に「氏族の存在」と「宗教の概念」が一致していなかったと云う事に成る。
だから、彼らには「氏族」と云う「存在性」が薄いのではあるが。

つまり、宗教的には「(a−1)と(a−2)の郷士」と、「(b)と(c)」の「浄土宗帰依族」の「武家貴族の官僚族)」とが、この“「来迎寺」”の「寺」を「菩提寺」にし「館形式」にしたと云う事に成る。
この「菩提寺の在り様」が違ったのだ。

前者は「来迎寺城館等」の「館」で、他方は単に「来迎寺の寺」であったと云う事に成る。

そして、何方もその元を質せば、「朝臣族」の族の「身分秩序の諡号の姓」であった。
確かに「位階と諡号の姓の差」はあるが、“「高位の族」”に類するのである。

(a)族と一部の「(b)(c)族」の「浄土宗帰依派の武家貴族の官僚族」が平安期末期までは全国各地に分布し、赴任して現地に根付いた。

「鎌倉期」にはこの任が無くなり、この「元官僚族」が「時代の変化」に敏感に即応して館を基に「武力」を前提に「豪族・土豪」と成って生き延びた。
その彼らが現地に建てた、つまり「菩提寺」が、「武力集団」を収容する「来迎寺の城館」であったのだ。

唯、彼らの「来迎寺」は、「本寺A」が在る事が故に「分寺AB」で執った「来迎寺城館等」の“「館の形式」”では無かった。
然し、彼ら「(a)族と一部の(b)(c)族」は「高位族」である以上は、多くは「都の近隣の天領地等」に配置されていた。

ところが一方、平安期初期から室町期に架けての長い間に「生き延びるに必要とする力」を持ち得なかった「皇親族系(皇別)」の「(a−1)(a−2)の官僚族」は、生き延びる為に必要とする武力と財力が非弱であった。
この為に衰退滅亡し山岳地等に潜んで生き延びた。(美濃は別段で詳細に論じるので注目)

彼等には当然に「菩提寺(来迎寺等)」を建立する事は必要で、潜んでいる以上はそれは不可能であるし、その力は元より無かった。
然し、「古い所縁」を得て幾つかの種類の「シンジケート」に入って「経済的な裏付け」とその「抑止力」の傘下に入り「糧」を得て、「他に侵される危険性」が無く成った時、これらは始めて「シンジケートを支配していた青木氏族の協力」を得たのだ。

そして、元の帰依する「浄土宗密教の菩提寺(「来迎寺城館)」を建立し得るに至るのである。

唯、ここで注目すべきは、「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁で、彼等には「持ち得る伝統」があって、その「習慣仕来り掟の最低限」のものを持ち得ていた事であった。
中には、「官僚族の所以」を以て「学問処(事務方)の郷士」も居て、それが「シンジケートの力」に大きく幅広く反映した。
彼らの「学識の高さ」のそれが、「青木氏の神明社組織」をより高いレベルで生かす結果と成ったのだ。

この「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁の中には、一部「神明社」を「守護神として崇めた族」もあって、「シンジケート」と云うよりは、寧ろ、彼等を“「神明社族」「来迎寺城館族」”とも云っても過言ではない族と成っていたのである。

(注釈 唯、他氏と違って「青木氏族」「神明社族」「来迎寺城館族」に執っては“「影の組織である」”に意味があって、その「意味」を強調して筆者は“「神明社族」”と云うよりは敢えて筆者は「シンジケート」と呼称しているのだ。
この「シンジケート」とはそもそも「やくざや暴力や武力の集団」では決してなかった。)

(注釈 例えば、消失から遺された一例として、「青木氏に関係する資料」の中には、この「シンジケート」に付いては秘密にするものである為に明確には触れていないが、唯、「宗家の商記録」の方には、一定額が「神明社」に定期的に振り込まれている。
この事に合わせて、「護衛荷駄搬送等の勘定」で記載され、「送り先」が地名で「‥殿」とした記録が数多くある。
「尾鷲の差配頭の家人の資料」には、「・・・原士の事・・御任せ頂き候故・・」とある。
この時は、室町期末期の「秀吉の長島攻め」で、この「シンジケート」を動かして、「伊勢紀州の材木の買い占め」と「工人の雇攻め」と「山岳地のゲリラ活動」で対抗した史実がある。
この時の「伊勢の家人」と「尾鷲の家人」との「やり取り」が「影や原士・・」と云う隠語で遺されている。
この「影の作戦・伊勢長島の戦い」を知った「秀吉」は、やむなく「家来」を使って谷川から材木を自ら流した記録と成っている。
この記録は、「軍略組織」であって、“唯単なる「シンジケート」では無かった事”を意味する。)


(注釈 「伊勢攻め」の足掛かりと成った「松ヶ島城」の時も、「伊勢の家人」と「摂津の支店」との「やり取り」で、「・・の影」の隠語で「伊勢信濃の影組織の連絡」の一部が遺されているし、どこから漏れたか外記録にも成っている。
これが後に、この「時の事」が江戸期に物語化されている。
この種の“「その時々の秘密裏の云い廻し」゛での手紙が多く「伊勢の家人」の家にもある。
「九度」等の「地名」とを組み合わせた“「九度の影」”とか「影九鬼」「影員弁渡り」の隠語を使っている。)

(注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)

(注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏の浄橋と飽波の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
彼らは「額田一色」にその拠点を置いていた。
この「二つのルート」の「(a−1)(a−2)の原士」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成ったと観ている。
故に神明社を守護神とする族に成ったのである。
そもそも考え方として“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入ったのである。)


> 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」に続く。


  [No.375] Re:「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/10/16(Wed) 14:45:41

> 「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」の末尾
>
> (注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、これは「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
> これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
> 取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)
>
> (注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏」に嫁いだ「伊勢の浄橋と飽波」で生まれた゜伊勢の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
> 結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
> 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」の彼らは「額田一色」にその拠点を置いて伊勢と信濃の支援を得ていた。
> 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」に従ったこの「二つのルート」(「(a−1)(a−2)の原士」)には「氏族の氏人」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成って生き延びたと観ている。
> 故に彼等も「神明社」を守護神とする族に成ったのである。
> そもそも考え方として、“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
> 目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入って支援を待つ事を選んだのである。)


「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」

さて、そこで「伊豆の国友の件」に戻す。
丁度、この上記の時期の直前に、即ち「以仁王の乱」の前に「頼政の件」が起こった。
上記の「前知識の説明」で、「国友」は先ず「信濃」に入り、そこで「信濃の青木国友」と成ったとある。

この「青木国友」は「国衆」の多い「信濃」では危険であった。
そこで、「融合族の伊豆」に入り、「伊豆の青木国友」と成った。
これで「信濃青木氏と頼政の策」は「平家の追及」から逃れられ「危機」は無く成り成功する事に成る。

「皇族臣下族」としての護るべき「9つの縛り」を護らず、且つ、「四掟の範囲」を逸脱した源氏族に対して「信濃」はこの「迷惑な話」に対して上記の様に目論んで臨んだが、幸い現実にそう成った。

そもそも、そこで「頼政の所領」の「平安末期の伊豆」はどの様に成っていたかである。

この”「所領」”であるとされる「伊豆の青木氏」は現在では次の「通りである。

「所領」と成ったとして「頼政」に頼まれて「伊勢と信濃の青木氏」が「伊豆」に入った。
当初の大義は「所領の守護」であって入ったが、現実には少し「本来の所領」では無かった。

「頼政の所領」の「名目」の前は「藤原一族の守護代」が4〜5年毎に入れ替わって務めていた国であった。
「清盛」に「正三位」に推薦された事から、その位に相応しく「名目上の所領」を、急遽、「藤原氏の守護代」で治めていた国を与えられたものである。

そこに「伊勢と信濃」は「守備を名目として入った事」に成る。
ところが「名目守護であった事」から「伊勢と信濃の青木氏」は「商い」で”「融合して住み着いた」”と云う経緯であった。

(注釈 この時代は伊勢と信濃の連携で「宋貿易」も営んでいた。この「商いの拠点」の一つとして生きた。伊豆の地形上、湾が良く商いに向いていた。)

その結果として、「伊豆」には次の様な「青木氏の分布」が出来た。
この定住地は「商い」を前提とした定住地と成った。


イ地域
静岡県三島市青木 
静岡県富士宮市青木

以上の「二つの青木村落地」から「南部域(下記)」までに架けて存在したのであった。

そして、そこには記録から観てみると上記の「青木氏の条件」が存在する。
第二の「菩提寺の来迎寺館」は「沼津市」に存在していた。(現存する)

ロ地域
静岡県沼津市内浦青木 (来迎寺・分寺存在)

第一の「菩提寺の本寺A(清光寺から後に清光院)」は「賀茂郡の湾際」に存在していた。
(一度消失し室町期中期に清光院として再建した。)

ハ地域
静岡県賀茂郡東伊豆青木

その後、この「伊豆青木氏」は子孫を拡大し、次の通り駿河湾沿いに「東海道の西域」に定住地を広げている。

ニ地域
静岡県藤枝市青木
静岡県静岡市駿河区青木
静岡県藤枝市東町青木

以上の「三つの青木の村落地」は何れも「陸路の東海道の要衝地」である。

ホ地域
静岡県三島市青木 
静岡県富士宮市青木

以上の「二つの青木の村落地」は何れも北部域の「陸路の東海道の要衝地」である。

ヘ地域
静岡県伊豆市土肥
静岡県伊豆市八木沢

以上の「二つの青木の村落地」は何れも東部域の「水路の湾岸要衝地」である。

ト地域
静岡県賀茂郡河津
静岡県賀茂郡東伊豆(菩提寺・本寺・稲取湾)

以上の「二つの青木の村落地」は何れも「伊豆中央部域東の地」である。

チ地域
静岡県下田市青木
静岡県下田市吉佐美青木
静岡県南伊豆町青木

以上の「三つの青木の村落地」は何れも南部域の「湾岸水路の中継要衝地」である。

唯、「古書」では「南部域の三村落・下記 リ地域」にも「青木村」があった事が記されていて、その痕跡は確認できている。

(注釈 そもそも、何故この様な分布域に成ったかと云えばそれには次の様な理由があった。
そもそも「伊豆」は山間部を殆どを占める為に過疎化か最近の市町村合併で消えているのでは無いかと思われる。
筆者の若い時の訪問調査では、この「南部域の二村落」に限らず「北部域の六村域」や「中部域の四村域」や「東部域の二村落」の全てに「墓所や祠」や「館痕跡」等が「聞き取り」でも確認出来ていて、取り分け、判るのは全てに共通して「墓所の笹竜胆の家紋」で、「墓所全体」が「笹竜胆紋の青木氏」の墓所であった。
この「集落の大きさ」とその「村落の在り様・一族性」が「伊勢と信濃」を遥かに超えていて、「伊豆の国全体」が「青木氏の分布域」に成っている。
筆者の印象では、“笹竜胆紋の青木氏”が伊豆全体に存在したと云う印象であった。
「土地名」は勿論の事、「店名、宿名、会社名・・・」等、当たりを見渡せば「…青木」であった。
「伊勢」ではここまではないし、徹底していた。
守護神の「神明社」までもが、“「伊勢神明社の名」”が着けられている。
如何に結合性の高い伊勢と信濃の融合族であった事がこの事で判る。)

さて、そこで「伊豆」の「菩提寺の本寺A・清光院」も含めて何れも「商い」が出来る「沿岸の港町」に集中している。
此の湾港は「相模の秀郷流青木氏の拠点」と、三河の「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の吉田青木氏」のほぼ中間点に位置している。(両者の血縁族も存在か、商いで定着か)
「墓所」や「家」や「祭」や「祠」等には何れも「神明社と笹竜胆と白旗」を象徴としているのが確認できる。

然し、「伊豆」の「上記の地域・イ〜リ」には「頼政の象徴」を示す「八幡神社(神道)」と「八幡菩薩(仏道)」と「官位と位階(三位)」を示すものは何もない。
「伊豆」の全ての「八幡」は、鎌倉期以降のもので、且つ、殆どは「村社格」で格式低いのである。つまり「神明社」の様な「官弊社」は全くない。

要するに、「青木氏」が運営する「官弊社」の「神明社(賜姓五役)」では無く、況してや、「頼政」が経営する「源氏運営の八幡社」でもないのである。
青木氏以外に存在を示す最大の要素は無いと云う事である。

(注釈 そもそも「神社」には前段でも論じたが「社格」と云うものがあって、これは「延喜式目」で決められていて「三社格」に分けられている。この事を知って置くと研究は進む。
この「社格式」を分ければ、「官弊社・国」は次の三社類と成る。
官幣大社>国幣大社>官幣中社」
以上と成る。
一段下の「社格式」の「国幣社・地方」は更に観つつに分けられ次の様に成る。
国幣中社>官幣小社>国幣小社に成る。
最後は「無資格幣社」と成る。
そこで、「村格社」は「鎮守杜社(民間社)」等であり、殆どは「無資格幣社」に近く、その運営の「神幣料」は「民間の供進」に基づくものである。)

これで「伊豆」が「頼政の所領地」とされているが、現実には矢張り「守護代での遙任」であった事が判る。
つまり、当時よく使われた「名目守護」であった事が判る。

そこで、この「伊豆」に「国友」が「信濃青木氏」としても1178年頃に「潜り込んだと云う事」である。
この「所領地」であって「所領地」では無い「伊豆」に“「青木国友を入れる事」”は大いに「頼政の望む所」で「隠す事が出来る場所」であったと考えられる。

さて、一方そうすると伊勢の「幼い京綱」を「青木京綱」として「伊勢福家」に入れたが、問題はこの「母親の後家」の始末と成ろう。
「伊勢」にその「存在の形跡」が何処にも無いという事は、残る「最高の策」は「国友」の様に「伊豆に隠す事」であろう。
上記の通り「伊豆全体」が最早、「青木氏の村」である。

「経済的な問題」や「護衛の問題」も「住み方」も何の問題もない。
そうなると「後家」である以上は「菩提寺の二社に入る事」か「神明社に入る事」であろう。

そうすると、「隠す」と成ると伊豆の何処かの「神明社か清光院」と云う事に成る。
「神明社」は「伊豆」には現在は「四社」あるが、「伊豆の青木氏」の分布状況から次の様に成る。

1 静岡県伊豆市梅木   神明社 総社格
2 静岡県静岡市駿河区  伊勢神明社 分社格
3 静岡県静岡市清水区  神明社    分社格
4 静岡県富士市       神明社    分社格

「伊豆青木氏」が「イ地域」から「リ地域」の「9地域」に分布し住み分けていたとすると、「官弊社」の「神明社」、「賜姓五役・実質は「青木氏の財源で運営」は、この「四つ」に限らず少なくとも「9地域毎」に存在していた可能性があったと考えられる。

「伊豆」には「伊勢信濃」と共に「陸路と水路」で連携して「商い」を大々的に行い続けた事から江戸期直前まで荒廃する様な事は無かった筈である。
但し、調査しても「融合族」であるので「伊勢信濃の区分け」は出来ない状態であった。
筆者は「来迎寺等の分寺」と「本寺の菩提寺」もこれに沿っていたと考えていのである。
「祠の痕跡」等が確認できるが何故に亡くなったかは良く判らない。
恐らくは、主に江戸期の「顕教令」と「神明社の引き渡し」で荒廃したと考えられる。

そうすると、「引き渡し」と「顕教」で「伊勢以上の事(表と裏の事)」が伊豆にもあった筈である。
答えは何れも減少しているので資料の公開は無い。
「神明社や来迎寺(菩提寺)との資料」は室町期後期以降しか遺されていない。

この様な良好な環境を見逃す事は無い。
寧ろ、「伊勢以上」であったであろう。
「後家」を周囲の目に付かずに、且つ、早く運ぶには「水路」で運びここに匿ったと成る。
そうすると、「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」か、遺された「稲取湾」の近くの「賀茂郡東伊豆の本寺」という事に成る。
安全を期するとすれば「稲取湾」から「賀茂郡東伊豆の本寺」から「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」に運ぶとする手がある。

資料が無いので判らないが、この「本寺」が室町期中期に「寺」から「院」に変更している。
この「意味」は前段でも説明したが、その「格式」は同じとしてもその寺の持つ「特徴範囲を限定した事」を意味する。
取り分け、「院」は「天皇家の様な高位格」に繋がる「ある種の特徴」を前面に押し出す時に使う「号」である。
「天皇」が譲位して門跡僧に成るとその「寺格式」は「門跡の院」と成る。
この「院の格式」は「特別の者」に与えられる格式の呼称である。通常は「院格」と云う。
この「元寺」であった「清光寺」が室町期に「清光院」と成る事はある意味で限定して「寺の格式」が挙げられた事を意味する。

そうすると、この「伊豆」のこの「本寺・清光院」では室町期にこの「伊勢の総宗家」の「京綱の母」の「後家の比丘尼僧」が住んでいた事を以て「院」に変更したとも執れる。
院に変更する事は単に変更したのでは何かがあっての事と成り得る。

「イ地域」から「リ地域」の「9カ所」に「神明社が四社」で、且つ、「東部の本寺と北部の分寺」が二つとすると、「融合族」である以上は尚更に「伊豆族全体」が、元来の「神明社の神道」を貫いていた事も充分に考えられる。

この説を証明するには「墓所」には「寺か院」が在る筈である。
筆者の「イ地域からリ地域」の当地の調査から「笹竜胆紋の青木氏の墓所群」は多く確認できるが、
「寺院」は確認できなかった。
つまり、その意味する処は伊豆全体の青木氏族は「原理主義」の「神明社神道」であった事に成り得る。

そこでこの「神明社の神道」に付いて「神道の墓所」には仏教より前に「ある習慣」が古来よりあった。
それを観る事で「神道」であった事が判るのだ。

それを先ず解説して置くとこの「神道の事」が解明できる。

仏教の「墓所」に対しては「奥津城(おくつき)」
仏教の「戒名」に対しては「諡号(おくりな)」
仏教の「位牌」に対しては「霊璽(れいじ)」

以上と成る。

「神明社の神道」は「仏教の前」からの「習慣仕来り」であった。

この刻まれる「諡号(おくりな)」は次の通りである。

大人の場合は、「・・・・大人・おきな」(男性)、「・・・・刀自・とじ」(女性)
子供の場合は、「‥‥彦命」(男)」、「・・・・比売命」(女)

この「諡号」では年齢に依って異なる。

男で幼児では「稚郎子(いらつこ)」 女では「稚郎女(いらつめ)」
男で少年では「郎子(いらつこ)」 女では「郎女(いらつめ)」
男で青年では「彦(ひこ)」 女では「比売(ひい)」
男で大人では「大人(うし)」 女では「刀自(とじ)」
男で老人では「翁(おきな)」 女では「媼(おうな)」

これ等は伝統の前段でも論じたが場合にはよく使っていた。
この事を知っていなければ現地調査では役に立たない。

「二つの青木氏族(五家五流青木氏と秀郷流青木氏)」にはそもそも「神明社と春日社」を「守護神」としているので「神道」が多く「青木氏の歴史観」にはこの知識が是非必要である。

前段でも論じたが、「皇祖神の神木の神紋」である「柏紋の使用」を許されたと云う「最高格式の神明社」の「神職青木氏・神道」の「氏族」である。

「神明社」だけではなく「浄土密教」の「清光寺(五家五流青木氏)と西光寺(秀郷流青木氏)と来迎寺」の「柏紋の使用」も許された最高格式の「二つの氏族」である。

結論は、現地調査では、紛れもなく「神道」であった。
故に、「伊豆」では「密教系の菩提寺」はこの「二社・清光院と来迎寺」しかないのである。

「神明社」は「伊豆」では、1の「一社」しかないのである。(江戸期には荒廃している)
子孫拡大に依って東海道沿の「2、3、4の神明社」がこれを物語っている。
「2の伊勢神明社」はそれの証拠である。

さて、「伊豆に入った時期」である。
「伊豆」に「融合族」を形成したのは「頼政(1180年没)の所以である事」からすると、「従三位昇進期(正三位)」に成った事(1174年頃)で上記で論じた所領(形式上)を持てた事からである。
それまでの「遙任の守護代」の“「伊豆」を所領とした”(1159年)とあるので、この時の直前に「伊勢と信濃」は「伊豆」に入ったと考えられる。

そうすると、「守護代」とはそもそも3年から5年程度を「一期」として、一期ごとに一族の者に代わって9〜15年の「三期」務めるものと成っている。
そして「5年毎」に一度都に戻る制度である。
「頼政」の「伊豆国」の「摂津源氏族の初代の守護代」は「1159年」からで、その後に一時「仲綱」に引き継がれた。

少なくとも、その少し前は頼政は「従五位」であって、「1158年頃・平家守護」のこの時には未だ入っていない。
「1159年」に「従三位・正三位」の「伊豆の守護代」に成った事に成っているので、「伊勢と信濃」の「青木氏族」はその時に「伊豆」に入った事に成る。
そこから、そうすると「京綱の母の後家」は「1178年頃・仲綱遙任守護期」には、既に「伊豆稲取の清光院」に入っていた事に成る。

伊豆の青木氏が「神明社の神道」であるとすると、「東伊豆の稲取」の「清光寺(清光寺−清光院)」に一度は入り、其の後に「神明社の神道」の上記の「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「1の神明社」に入った事に成ろう。(境内と跡地ありね現在は「廃社跡」である)

ここが「現地調査」で分かった事として、この付近が過去は「伊豆の青木氏の勢力中心地」であったからだ。

(注釈 「神明社の設置条件」は「皇祖神の子神」の「神の社」なので「杜」として中心の南の山間部際に存在する事に成る。)

「伊豆の青木論」を更に展開する。

室町期に「伊豆」の「菩提寺清光寺」から「清光院」に変更した理由は、周囲が「八幡菩薩」と「八幡神社」を兼ねる「低格の村格社(14)」が多く「伊豆」に創建されて、「青木氏の菩提寺の清光寺」の権威が低下した事に依ると考えられる。
その「根拠」は「伊勢(賜姓五役の青木氏の権威・格式・象徴)」から「京綱の母の後家」が平安期末期に「比丘尼」として入った事を以て「権威・格式・象徴の差の特徴」を前面に押し出したと考えられる。
前段でも論じたが「美濃や信濃」でも全く同じ事が起こっている。
例えば、それは「光仁期」に「伊勢」から「追尊王の飽浪王女」が「美濃清光寺」に入り、その後に「清光院」に変更している。

この例に持つ意味が「伊豆」にもあった。
それは、危険な「下剋上と戦乱」の「室町期中期」に成ってもまだ依然として「伊勢の青木氏」が「仁明天皇期までの出自元」であり、「新撰姓氏禄で示す志紀真人族」で、「賜姓五役の数少ない氏族」であったと云う「認識」が未だ「民衆の記憶」の中に漠然として僅かに遺っていた事を物語るものである。
然し、これが後に「白旗派の原理主義」に対して「世情から攻撃」を受ける結果と成っていた。

これは「村格供進の源氏社」で創建して居た伊豆の中でも、未だ「清光院」にする事でその「権威と格式」を保たれた云う事に成る。
都に近い伊勢や信濃に比べて「伊豆」には最低限タイムラグがあった事に成る。
これは何を意味する事なのであろう。

これは“「伊豆」にも「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」をしたと云うことであろう。
それは「伊勢や信濃」の様に元からいた族では無く、1159年に突然に入って来た族で、それも「高位族」と云う立場の族である。
その様に受け取った「伊豆」であったからだ。それまでは鎌倉期の源氏族に関わった伊豆であったのに源氏が滅亡すると、其れより「院の号」を誇示できる「格式高い族」が来た事に驚いたのではないか。

その庶民のこの「驚き」が「排斥の様な形」へと向いたと考えられる。
その証拠に「村各社の八幡神社」が「室町期」に成っても実に多いと云う事で証明できる。
判り易く云えば、周囲は「源氏贔屓」で一辺倒であった事に依る。
「村格社」と云う事は、それには大きく「利害関係が働いていた事」を示すものであるからだ。
平安末期1159年に入り、応仁の乱で頼政は平等院の別院で死亡し、この事で1178年には定住根拠が無くなり戸惑った。
然し、鎌倉期の「頼朝保護」を受けて安泰であったが、それも「室町期の1340年頃」までには要所要所に「官幣社の神明社」が建立され、「清光寺・清光院」が建立されて来てた。
「幡万社」と「神明社」、「八幡宮と清光寺」の「攻めぎ合い」が激しく起こったと観られる。

然し、「神明社と清光寺」は勝利を得た。
それは格式が「八幡社と八幡宮」の上に居たからであった。
その証拠に、「八幡社関係」は全て「伊豆の最東部域」に移動集中し、又は、東部域を除いて「神明社域」と成っている。

この様に、「室町期」には「周囲との絆」は「190年後」であっても充分に形成されていたとは思えないのである。

そもそも、古来から”「伊豆族」”と云われる族は「海洋族」で占めていた地域であった。
「伊豆」は古来より「山岳部」が中央部に多く、「平地定住族」では少な無い。
「紀州熊野地区」と同様に地形も類似し、その「先住族」は長い間「海洋族」であった。
その意味で、此処に入った平安中期・800年代からの「国司・守護」は、その時の「都の勢力図」に従っていて,「統治」は難しく独立性の強い海洋族であったと云われている。
その為に守護代は「頼政」まで「約30の低位の官僚族」から成り立っている。

歴史の変異を観ると、「初代期の国司・800年」から「頼政」までの「約350年間」は、平均11年間/国司が務めていた事に成り、この「約30の低位の官僚族」の子孫・現地孫は「頼政」と同様にこの「伊豆」には大きくは遺し得ていない事に成るのだ。

丁度、「伊豆」は「紀州熊野神社の海洋族」と土地の支配年代も全く同じである。
「熊野一帯」は「神官族・海洋族の六氏」から成り立っている。
これから観ると「伊豆」も「現地族」は「六氏程度」と成っている。
都に近い「紀伊半島」と都から遠い「伊豆半島」の差を考えれば現地族が少ない事は当然に考えられる。

「他の伊豆研究」を観ると、「現地族」は「太平洋族」で、その基は「台湾族」であるとしていて、台湾語の古い言語が遺されている地域である。
つまり「伊豆」にはこれと云った土豪が勢力を張っていなかった事が云える。
これは「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」は周囲に対して可能であった事に成る。
熊野では成り立たなかった。隣の尾鷲で留まつた。
この事は寧ろ、「伊豆」の「伊勢信濃融合族」が「190年間の子孫拡大」で「一大勢力」と成り得ていたのでは無いかと考えられる。

但し、「伊豆」では「源氏の利害」と「海洋族の絆勢力」であった事から、「武力」では無く、「権威と商い」であったと考えられる。
それが「商いと云う手段」と「元皇親族と云う名声」の様なものがあって、「世情から攻撃」は相当遅れていた可能性が高い。

現実に、「イからリ地域」に観られるように「伊豆の上下、左右、中央域」とその前線域を「青木氏の定住地」としているのは何よりの証拠では無いか。
「武力」を持っていないにも拘わらずである。

従って、この様に「危険な誇示」を敢えてすると云う事は、「武力」に依る「危険に冒されない力」が地元にも背後にもあった事に成る。
その一つが「相模の秀郷流青木氏の抑止力」と「伊勢信濃との連携の商い力」が彼等を「後押し」していたという事であろう。
こけが大きい要素であった事は理解できる。

然し、この中でも室町期に建立された「源氏の八幡社寺」は上記した通り「村格式・民間」ではあるが全て東域に入り込んでいる。
それだけにこの時期はまだ「世情」は、源氏が1221年に滅亡したのに”「源氏」と云うもの”に人気があった事を意味している。

そこでこの難しい族の「伊豆海洋族」はこの「頼朝の源氏」に対して鎌倉期前期は従順に従っていたのかである。
この「東部域の村格式の八幡社」はこの「海洋族の末裔・六氏」が寄進供進元とするものでは無いのであり、「一財を持つ者」の営に基づく「村格社」である。
要するに、「利を観た個人経営」である。
それだけに、”八幡は利になるものであった事”を意味し、滅亡後でも世情には「人気があった事」が云えるのだ。

逆に、矢張り、「伊豆」でも「原理主義の青木氏・神明社」は人気が無かった事を意味する。
「世情の人気」は無かったが、「象徴権威の尊敬」は未だ潜んでいた事に成る。

それは源氏族等に無い上記で論じた関係式の「商いの力」に他ならないであろう。
「象徴権威の尊敬」よりは「商いの力の恩恵」が伊豆には及んでいた事に成る。
前段でも何度も論じている様に「紙文化」で室町中期は「巨万の富」を「青木氏族」は獲得しているのである。

(注釈 これで以て「伊豆との連携」を維持していたのである。
ところが実は後にこれを壊されそうになるが。)

これは「伊勢青木氏」が「天皇家」への「影の賜姓五役の献納」が「莫大であった事」の「裏返し」である。
幾ら1221年に完全滅亡した「縛り」も護らなかった「源氏力・八幡社寺」を「伊豆」に誇示建立した処で、最早、何物でも無かった。
「源氏族」では無い民間が「儲け主義」から世情に滅亡したとは云え人気のある「八幡社寺」を建立したのである。
「嵯峨期からの源氏」に「庶民の人気」があったからとしても“「天皇家・朝廷」から「高い格式」が得られるものは何もない。”
だから「認可」も何も得られない「民間の無資格社に近い村格社」なのである。

多少は伊豆でも「商いの青木氏」>「賜姓五役の青木氏」=「権威・格式・象徴の青木氏」の数式論が庶民の中に働いていた可能性は否定できない。
だから思い起こさせるように“「院に変更したという事」”にも成る。


そうすると、この「伊豆の背景」の中で、次に「伊豆の入り口・沼津市内浦」にある「北部域」の“「来迎寺の分寺の館」は何であったのか”という事に結び付く。

その「答え」は、その「氏の館」としての目的から「伊勢氏族の信濃融合族」の「家人館」であった事に成る。

(注釈 来迎寺論は依然少し論じたが、後段でも論じる。)

現地調査では、その証拠と成る「笹竜胆紋を主とする墓所・家人墓」が上記の各地にあった。

「伊豆」も「福家」を始めとして「四家」で構成していた事から、「福家(主家)」は「神道」、「家人」は「来迎寺館」としていた可能性があったが、現地調査でも矢張りこれを現実にしていた。

前段でも論じたが、そもそも、「福家」とは元は「古来密教系浄土宗の氏墓」の「差配頭の名称」であった。
それが後に四家の主家と成って行った。
その主家が「守護神の神明社」と「氏寺」を差配する事から必然的に「氏族全体の差配頭」と成って行ったのである。

それだけに共通する「神仏の概念」で結び付いていた事に成る。
「福家を務める者」は四家の中から選ばれる為に相当に「氏族全体を統制する能力」に長けていた者が成った事が判る。
青木氏の守護神の「神明社」は「社形式」の「神仏同源とする古来の信仰体」であったが故に、私的仏教伝来後もこれを融合させる氏族としての組織形態を執っていた。
これが「福家形式」である。
つまり「福家形式」を中間にして「神仏の同源」を維持した形式である。
これが後に「氏の組織形態」と成ったのである。

この形態は「藤原秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」だけである。
もっと云うと、前段で論じた「来迎寺館の形式」」もそれを明確にした「神仏同源の会所」としていた“「組織館」”であったのだ。

つまり、これは「青木氏族」に執ってはその立場から「氏の寺・分寺」であって、「氏の館(平城・家)」であって、「氏の社」であって、「氏の会所」の「四つの意味合い」を持たせた「建築物・城」とした云う事である。
これは周囲から観れば「古来の歴史」を持つ「特異・特殊な形態」であった筈である。
従って、「青木氏の存在する所」には「来迎寺」と云うこれらの「連携した形態」が必ず存在するのである。
伊豆の「来迎寺」もその証である。

そこで、「伊豆の現地調査」ではこの「福家の存在した位置関係」を調査した。
これで「伊豆の青木氏」の「存在の環境」を芋づる的に網羅できる事に成る。

これを検証して観た。
その結果、次の様に成った。
「福家」は北部域の「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊)」から「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「西よりの位置」にあった事が確認できた。

「沼津市内浦の来迎寺」より東南の「梅木の神明社」までは「約11k・2里の位置」にある。
此処から「稲取の清光院」までは「約20k・5里の位置」にある。
この位置から「福家の位置・湯ケ島」までは北西に「約20k・5里の位置」にあった。
この「福家の位置・湯ケ島」より「沼津市内浦の来迎寺」までは「約11k・2里の位置」にある。

丁度、この4点を線で結ぶと、「西北−東南」に長く「菱形の形」をしていて「便利な位置」にある。
約2里半から5里である。充分な「1日の生活圏」の中にあった事が判るし、計算されている。
「道路」は「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m)」まで通っていて地理的には「最高の位置」にあった。
伊豆観光名所の「浄蓮の滝の近く」であった。

「福家の館・湯ケ島」は、平安期には「約1万坪以上の土地」でこの隣に「元神明社(鳥居の形式)」と観られる「杜と祠社と鳥居と石垣」の「址」がある。

この東の後ろの「杜(約2万7千坪程度」(聖域)も含めて「域全体(約4万坪)」が「福家の館・湯ヶ島」であったと考えられる。
「聖域」がある事が神明社が在って、且つ、「福家存在地」の“「構え」”の一つである。

この「福家の館の湯ヶ島周辺」には「八幡社(半径10k圏内)」は全く無く、逆に「元神明社」と観られる「無名の神社(山を祭祀する神社)」が何と「六つ」も周囲を円状で「半径5k圏」で囲んでいる。

「山を祭祀する社」は、古来より“「山神」”と称して「神明社の存在」を証するものであり、且つ、この「六つの山神」が囲む範囲を「聖域とする証」でもあるのだ。
その様に陰陽で六つの方向の位置に存在させるものと決められていた。
従って、「神明社の聖域」が在る所には「山神社」は必ず存在する。
ところが源氏族の拡大で平安末期からは「伊勢と信濃」に「山神社の存在むが減少しているのだ。

(注釈 然し、「美濃」にもその「形式の址」が確認できるが現在は聖域の痕跡は無い。
「近江」にも「青木氏」の存在した「二つの地域」には夫々に「二つの神明社・祠社」が存在する。
山は約750k平方メートルの面積を有していて、「山神社」は一つである。
現在では「聖域の形跡」は見られないが六方向にあった事は「神明社」とその「面積」とその「位置」から確かであろう。
「甲斐」は信濃国境の北部域・北杜市に「五つの神明社」が集中して存在し、「一社の山神社」の社のみである。
これは実は「甲斐の聖域」は「信濃論の処」でも詳細に論じるが「信濃の大聖域の末端」でもあるのだ。
この「北部域の北杜市域」は古来、元々「甲斐青木氏の定住地」では無かったので判らない。
ここは信濃域の南部末端域であった。)

そこでこの事等を念頭に「伊豆」の「村格社、或いは無資格社」の「八幡神社」は上記した様に「北東部」に集中している。
この事は「室町期中期の混乱期」に成っても依然として「伊豆」には「伊豆青木氏」が「商業的な勢力」を保持していて、前段でも論じたが、どんな勢力も入り込めなかった事を示している。

この伊豆の「無名の神社(山を祭祀する神社)」の示す処はここは“「聖域」”であった事を示しているのだが。
更に、「福家の館の位置」を「拠点(0番地)」に「現在の番地」が周りに広がつているのだ。
明らかにここが「伊豆青木族の統治」の中心地の「福家の館跡」であった事を証明している。

(注釈 当然に伊豆は上記で論じた様に「武力的では無かった事」である。
「武力」で抑えるのでは無くて、その出来る方法は「伊勢」で証明している。
つまり、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」 である。
この「青木氏族」に執って「重要な関係式」が「伊勢と信濃」のこの「矛盾を解ける鍵」であったのだから当然に、「融合一族末裔」の「伊豆」もこの関係式を維持していた事に成る。
「武力」で「伊豆の9カ所の土地」を獲得したのでは無く、「経済力」、即ち、「地権」で時の幕府から獲得した事に成る。)

要するに「商いの地・地権」であり、「家人の館(青木氏の情報館)」である「来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m」の境内は、南東に54mで、北東に41mの「長方形の敷地」にあり、後ろを「広大な社領の杜」が控えている。

さて、そこで問題に成るのは次の「二つの所在地」である。

「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」

この「二つの湾」に近い「二つの最高の位置」から観ても、“船で伊勢と繋がる「商い」”が成されていた事に成り、「福家の差配」は「伊豆の湯ケ島」から行われていた事に成る。

(注釈 参考 「修禅寺(頼朝の子の二代将軍が北条氏に依って幽閉誅殺された寺)」は、「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」よりの「南西の位置」にあり、「R12に沿い7k」で、「R18 南西方向の1.5kの位置」にあり近隣である。
「神明社」からも近いし「福家の館」からも北西に直線で11k 路で17kであり「1日の範囲」にあり近い。
無視できる範囲では無いので「青木氏との関係」が無かったのか気に成る所である。
記録は無いが、「国友の存在した位置」が判らないので議論が発展しない。
唯、筆者は「国友」は「来迎寺館付近」に住んでいたと想像している。
何時でも船で移動させて隠す事が出来るし、「商い」をさせて移動させて晒さない様に出来る。
その意味でも「頼朝の子頼家」とは関係を持たない方が「摂津源氏であった事」から「鎌倉幕府との関係・北条氏」も含めて都合は良い筈であった。

「京綱」の様に「福家に入る事や四家」に入れる事は、最早、年齢的にも無理であり、「青木氏族」はそんな簡単な組織体では無く、簡単に「人」を「福家に入る事や四家」に「引気入れる事」は出来ない筈であった。
恐らくは「商い」を学び「船や陸路」で頻繁に移動する身元を隠した「営業マン(家人)」と成ったと考えられる。
「伊豆」に入ったとする「二つの記録」があるが、“その後の事が判らないという事“は「信濃青木氏・伊豆青木氏」に成りきっていたと云う事では無いか。)

伊豆の「福家の館」は「浄蓮の滝の東側」の「約390mの位置域」にある。
この「福家の館」から「修禅寺」まで通路を経由して「16.5k・4里の南西の位置」にある。

「清和源氏の分家」の「河内源氏の鎌倉幕府」と「伊豆青木氏」との関係である。
「本家の摂津源氏」の「妾子の国友」が「信濃青木氏」と成って上記の経緯で「伊豆」に入った。
これが「1178年頃」の事であった。
「頼朝の子頼家の没」は1204年であるとすると、「26年後の事」に成る。
「国友」が「伊豆福家」に成ったかは記録が無いので判らない。
唯、「青木氏の仕来り掟」からは「女系制度と四家制度等」を敷いていた事から無かったと考えられる。
「頼朝の子頼家」の幽閉没は1年間である。
「1203年修禅寺入り」であるので、「坂東八平氏との関係」は「福家の館」からの極力接触は避けたと考えられる。

(注釈 そこで「各地の青木氏」が存在する「現地調査」では、「事前調査」に伴って知っていなければ成らない「青木氏の歴史観」がある。
これで調べて行けば紐解けて行くのであり、また「資料や記録」では判り得ない「本当の意味の調査」は出来ないのである。
それは「時代の変異」が大きく変えてしまっているからだ。
それを基に歴史観を戻す事に意味がある。
上記の様な確率の高いと考えられる推理も成り立つ。
そもそも、この「頼政」の後に「仲綱(長男)」が「伊豆守護代」を引き継ぎ、「1180年」の直前まで「摂津源氏族(「頼兼(次男)」までが「遙任」で務めている。
従って、「信濃青木国友」も入り易く成り、「同時期(「1179年頃前」)」には既に入っていなければならない事に成る。この前後は無理であろう。
この様に現地を観て確率の高い推論が出て来て資料が無いか調べる。)

(注釈 実質、記録では「伊豆の守護」は「鎌倉の河内源氏(頼朝系)」がその後の「1185年直前」まで勤めている。その後は一般の守護に成っている。)

唯、これには一つ疑問があった。
確かに、「伊豆」は観ても明らかに「地域全体が地形防御の要衝地」である。
「相模の秀郷流青木氏の背景」はあったがそれが他家で済んだのかである。
「伊勢信濃の様な抑止力」の「シンジケート」が必要では無かったかと云う疑問である。
「商い」をする場合はこれは取り分け必要である。
此処を解決しなければならない「現地調査の疑問点」であった。
これには何かあった筈である。

それは何かである。
それが平安末期から室町期末期までの長期間必要なものであった筈である。
これは行く前からの疑問でもあった。
答えは現地調査の一寸とした事から見つかった。
それは「水軍」である。
その「水軍」は「伊勢水軍(7割株)」を持っているが「伊豆」には常駐は当然に無い。
然し、前段でも論じたが縁戚関係にあった「駿河水軍」が「駿河湾」を拠点としている。
上記している様に、陸は「天然の要害」であるとすると、少なくとも「伊豆半島の入り口を護る事」が戦略上で肝心な事に成る。それは湾湊である。

上記の「9つの地域」に「伊豆青木氏」は分布している。
これは仮に攻められたとしても一族は滅亡しない。
「イ地域の青木氏」が攻められても「内部の青木氏」が攻められていなければ時間稼ぎが出来、「秀郷流青木氏の援護」が背後から来る。
「背後」を攻められれば敵は殆どは全滅するは「戦略の常道」である。
「イ地域からリ地域」まで「要害の地」でありながらそれでも一族を「要所に分布させている事」が「答えの元」であった。
一か所に集中させても良い筈である。

一族を分布させている以上は、それは“「四家」が何処なのか”と云う疑問の調査が必要であった。
それは次の通りであった。

「福家」は「伊豆市湯ヶ島の聖地」
「四家1」は「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
「四家2」は「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」
「四家3」は「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」
「四家4」は「静岡県下田市青木の港湾地」

以上であった。

これ等の「発見のポイント」は要するに「青木氏の伝統」で生まれた“「伝統の構え」”である。

「青木氏族」と「神明社」は守護神とは前段でも論じてきたが切っても切れない関係があって、これから生み出される「特徴」、所謂、何事にも他氏と異なる“「構え」”と云うものがあった。
「青木氏の歴史観」から滲み出る「特異な形や現象の事」である。
この“「構え」”で見極める事に在る。

例えば、上記の「福家の所在の確定」である。

「福家の構え」

「所在地」にはある「面積(2万坪程度以上・長方形)」がある事
それが何らかの「囲い(石垣や土塁)」で回りを保護していて「館様式(痕跡の有無)」である事
「場所的」に「移動の良い処」にある事
周囲が「歴史的な風格」がある過去からの「土地柄(奈良期からの歴史性がある)」である事
必ず「背後」に必ず「神明社の聖域」が在る事

「神明社の構え」

その「神明社」には独特の“「神明造り」”の「鳥居や祠、社殿」等のものが存在する事
必ず「古びた石段・砂岩造り」があり、「平地」には「神明造」から無い事
この特徴ある「神明鳥居」は「社領の入り口(仮鳥居)」と「本殿の入り口(本鳥居)」の二つある事。
「祠、或いは本殿(神明造り)」の「南側」には「広大な杜(聖地・神が坐杜)」が位置する事。
この「聖地」を護るために「杜の六方向所」に「山」を護る通称、「山神の社」を配置している事。

現地調査には

この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。

注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。

取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。

従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。

上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


> 「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」に続く


  [No.376] Re:「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/11/09(Sat) 10:21:25

> 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」の末尾

> 現地調査には、 この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
> 時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。
>
> 注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
> 奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
> 中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
> 故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
> 「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。
>
> 取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
> 「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。
>
> 従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
> そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。
>
> 上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」


そこで「伊豆」の「伊勢美濃信濃との繋がり」の問題である。

先ず「伊豆」にその「関わり」の届くまでの経緯がどうであったかである。
それには「伊勢と美濃の間の事」を明確にして置く必要がある。
大きく関わっているのだ。

前段で「伊豆」には「抑止力のシンジケート」が及ばなかったと論じたが、実は「伊勢の桑名」から「美濃の土岐」までの間には、「シンジケート」は無かったと観ていて、それを補うには「神明社の存在」であったと観られるのだ。
「伊勢桑名」に集中する「神明社」は、この間には「小牧」から「知多」に向かって当に一線上(当時の正式な神明社はたった4社)に在った。
平安期中頃にはこの両サイドの「桑名」と「土岐」との両間には“「不思議 1」”な事に全くなかったのである。
この「美濃」に「神明社経路」が無く成れば「伊勢」から「伊豆」には当然に「青木氏の情報のルート」が途切れ「情報や物」が届かない。
ところが、「尾張」に何故か不思議に存在しているのだ。
そうすると「尾張―三河」と行けば「伊豆」に届く筈である。

では、“何故に、「美濃」に無く「尾張」では一線状に遺っていたのか“と云う素朴な疑問が残る。
やるなら、平安末期では「神明社」は全部潰すのが常道であろう。
然し、戦略上それは出来なかった様である。

「神明社」は、「青木氏の守護神」で「重要な連絡網」ではあるが、平安期やせめて鎌倉期までは「美濃―尾張」の全ての「民の信仰の対象」でもあった。
本来は「全滅」は其処を「治める者の責任」であり、失う事は「自らの領地」には負わなくてもよい「政治的な傷」を負う。然し、「美濃」には無く成っていた。
そもそも「民の信仰」の「最高の信仰対象・国幣社」が無い事は「民の信用を失う事」に成る。
然し、放置する訳には行かなかった筈だ。

では、どうするかである。
要は、その目的は「美濃―尾張間」の”「情報の遮断」”であった事が遺された資料の一部に記されていて判っている。
だとすると、つまり、その推理は「勢力者」は「青木氏の力」を削ぐ為には「伊勢―信濃」の間に「神明社の空白地」を作る事であったろう。
且つ、それを観察できる様にするには、両サイドから中間地に縦に固めて一線上に監視すれば「ある目的」は叶えられる。

これは平安期末期から室町期初期までに「力のある影の神明社の存在」が「美濃―尾張間」の「統治者」に執って戦略上好ましい事では無かった事に成る。

これが「不思議 1の策」と下記の「不思議 2の策」であった事に成る。

これは、「上記の経緯」から「平安末期から室町期」の「戦乱」で「神明社」が「戦いの城郭」と成った事で故意に潰されたのである。
それ故に「青木氏」としては「神明社連携」が以降採れなくなったのである。
その証拠が青木氏の資料の一説に下記の様に記されている事であろう。
明らかに「青木氏が持つシンジケートの力と情報の遮断」が狙いだったとみられる。

それには考えられる事として「青木氏」に対して「戦いの為の金・戦費」を要求されていたと観られる。
此の拒絶した事の結果として、後に「伊勢での青木氏との激しい戦い」と成った。
これは明らかに、次の「二つの事件」が「美濃―尾張間」の「神明社の破壊」を起こしているのだ。

先ず一つは、平安期の平家に依る「富士川の戦いと石橋山の戦い」で「戦い拠点」を破壊された事。
次の二つは、「室町期の伊勢攻め」の時の「織田氏の仕業」と「神教と仏教の力の排除」をした事。
更に三つは、「平安末期の美濃の源氏化」で「美濃側の方」で「伊勢の影響の強い神明社」を取り壊した事も考えられる事。

三つ目はこれに関する行の資料記載がない事と、民の為の格式を持つ「国幣社」である「神明社」を壊す事が自ら「源氏化を否定する事」に成り、且つ、「民の信頼を失う事」に成って仕舞う。
そうすると遣すとしても「直接的な破壊」は先ず無いだろう。

従って、以上の二つと主に云える。

(注釈A 平安期末期(1178年〜1180年)にも「神明社」が“「戦い拠点」”とされた為に現実にここでも「破壊」が起こった。
「伊豆」に流されていた頼朝は「以仁王令旨」で挙兵し、「伊豆の目代」の「館」を襲撃して殺害した。
ところが「石橋山の戦い」で頼朝は「平家」に惨敗してしまい「安房国」に逃亡する。
この時に「戦いの拠点」と成って「尾張―三河―伊豆の神明社」は消滅したと記録にある。
其の後の駿河の「富士川の戦い」でも「尾張東と駿河間の神明社」は消滅したとある。)

(注釈B 「比叡山焼き討ち」や「今井のシンジケートの排除」や「蓮如への攻撃」や「根来の焼き討ち」や「雑賀族の攻撃」や「紀州門徒衆の討伐」等でも遺ったのに「美濃尾張間の神明社」は消滅した。)

結局は、「伊豆の神明社」は鎌倉期に多くが消滅するのだが、これが原因して「伊豆」には「祠の神明社」が多い所以なのであって、上記した様に「遺跡」が多い所以でもあるのだ。
その後、「伊豆」に入った「青木氏の財力」で「神明社」は再興されたが、江戸初期の「神明社の放棄」で「幕府の管轄」と成った結果、「幕府の財力不足」で再び荒廃した。
殆どは、「江戸期の荒廃原因」ではあるが、「伊豆」では密かに伊豆青木氏が独自に「祠」で祭司していた。
この事は、「桑名から美濃の西域」は「祠の神明社」で「伊勢青木氏」は祭司していた事を示すのだ。
然し、「平安期末期」からは「美濃から駿河」と「伊豆までの間」は遂に対策が出来なかったのである。
つまり、「神明社を経由する情報網」と「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」は切れてしまったのである。
これが「伊豆」まで及んで「商い」で生きていた彼らには生きる死ぬかの大きな痛手であった。

その「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」の断絶を物語るものとして、「織田氏の膝下の岐阜」にあったのだ。
つまり、それの答えは「信長」である。

この「信長」は「過去の歴史の履歴」から「青木氏」が「戦い」に裏から絡んでいた事を知っていた。
それが「神明社の事(今井神社も敵視された)」に成る。(前段で記述・記録有)
室町期末期には、美濃域で僅かに遺し得ていた「神明社網」が「伊豆」までのその元を断絶された事に成るのだ。
「伊豆の命の綱」である「神明社」を遮断されたのである。

それには、「神明社の存在の実情」は、更に、室町期末期の「美濃」には、「不思議 2の策」の事に成るのだ。
それは「三つの野(青野、揖斐野、各務原野)・三野」にしか「神明社(一社ずつの3社)」は無いのである。(神社含まず)
これも、「情報網の遮断」であり同様である。

本来であれば「肥沃な三野である事」からその目的から最も多く有っても良い筈である。
全国に500社弱あったとする「神明社」である。
前段でも論じた通り「伊勢の桑名寄り」に集中してでも「19社」あったとすると、少なくとも平安期中期までには、この「三野」にも「天武期の五都計画」でそれなりの数の「神明社」が充分にあったと考えられる。

そこで「尾張―駿河」の域は再興し得る能力の持つ「青木氏族の存在する地域」ではそもそも無い。
従って、「美濃の事」でこれを論じて観る。
元より平安期末期以降は、この間は「神明社」は無かった事から、連携先の関係の深かった「今井神社の情報網」を何とか使っていたのであろう事は充分に判る。

筆者が行った「シンジケート族」のプロットも「縦の線上形」であったとは云え実はこの間で全く切れているのだ。
故に、筆者はここまでをこれが「伊勢シンジケート」としたり、「伊勢信濃シンジケート」と書いたりしている所以なのである。

これは明らかに、実は「信長」に依って「伊勢―信濃間」の「シンジケート」が遮断されていて警戒されていた事に成る。

これは裏を返せば、ここに「(a−1)(a−2)の様な族」が美濃を逃れ「信濃寄りの山間部」に逃げ込んだとする根拠ではある事になるのだが、これは同時に「信濃のシンジケートの根拠」と成り得ていた事にも成る。
資料でもそうなっている。
そこでこの「シンジケート」とは、単なる「経済的な契約」のみならず「青木氏族」とは切っても切れない関係にあった事を当時は一般に常識であった事に成る。

つまり,何故ならば上記した様に元々は「神明社の繋がり」のあった「美濃と尾張」である。
そもそも、「設楽」を除いて、この地域は「7世紀の古来」は全て元は「野」であった。
「古書」によると、その「尾張」は、“尾の張りたる地”と記され、“肥沃で土地厚く天領の国”と記されている。
その「裕福な農業生産力」で「機内への地理的な背景」から「天領地」として支えていた事が記されている。

その「尾張の名」の当初の語源は「ヤマト王権」の持つ東の「権力の端(野の尾)」を意味していた。
この様に「三野と張野」の「広大な野」は「逃げ込む所」は無いし、「野の富」を求めて「武力」が働く。
今昔共に、「平和」でない限りは、「生存競争」に依って「武力」に弱い「(a−1)(a−2)の様な族」が此処では単独では生き延びられる事は不可能である。

(注釈 “尾の張りたる地”とは、”元気な動物は尾がピンと張っている”と云う事で、「肥沃な土地」の事を意味する。)

故に、上記の通り、当然に「平安期末期の戦い」では遂には「両サイドの山間部」に逃げ込む事は必定である。

では、次に逃げ込んだずっと後の「室町期」のこの「断絶遮断の問題の解決の糸口」の問題である。
つまり、言い換えれば「室町期以降」は「伊勢と信濃の青木氏族」はどの様にしたのかである。
何かをしなければ「命の綱」が遮断されたのであるから「信濃の衰退」と「伊豆の滅亡」が目に観えている。

ところがそれには「最も安全な連携手段」があったのだ。
それは「神明社の断絶」の起こった「伊豆」でもそうであった様に要は“「船」”であった。

前段でも何度も論じたが、「伊勢青木氏」は、「紙墨硯筆」等の「宋貿易」で「大船」を平安期初期(925年朝廷の許可で「商い開始」)の頃から持っていて、「1025年頃」には「総合商社」をも営むとある。
更に「伊勢水軍(七割株)」も持っていた。

これは「伊豆」に「青木氏融合族」が入るほんの少し前(1159年)の頃の事である。
従って、「信濃」から「塩尻」の「木曽路」を経て「美濃の土岐」まで出て、そこから「山伝い」に真南の「駿河の渥美湾」に出れば事は事は済む。
これでここを抑えれば「船の策」は成立する。
「伊勢水軍」も配下にあるので「伊勢」からのこの「渥美湾」までの「暫定の経路・2時間」は成立する。

そして、この「美濃の土岐」からの「暫定の経路」の「縦の線状域」には「神明社」や「特定の寺」が「戦い」から逃れて僅かに遺されていて存在分布する。

後はこの「渥美湾」を海路で獲得するにはその域までの「縦の経路」に「守備隊」として誰を引き出すかであろう。
「信濃自身」が勢力を前に出して出て来るのか、或いは、「信濃シンジケート」を引き出すかの「二者拓一」であった。
何れにしてもリスクは大きい。
「武力」を持たない「信濃」も自らの聖域が「国衆」に依って脅かされている。
その答えは「何方のリスク」がより現実性があって柔軟に対処できるかであろう。

その前に、南に出て来る以上はその「縦の環境の如何」であろう。
この域の多くは、記録で観れば当時は未だ“「三野」”の名の通りに「土岐域の周辺部」は未だ「山間部」であったと観られる。

「日本書紀の記述」等に依れば、「木曽川」を境に現在の「岐阜県南部」と「長野県木曽郡」の中間地付近に歴史的考察から「三野王の拠点(美濃青木氏)」があったと読み取れる。

この「拠点」は「木曽川」を挟んだ「各務原野の右域」、つまり、「土岐域付近(土岐氏)」との間にあった事に成る。
従って、時系列的にここの「三野」に渡り、「(a−1)(a−2)の皇子族」も初期には点在して定住していたと考えられる。
平安期末期までは「三野王」を始祖とし「氏族」を形成していた「美濃青木氏」、土地の「土豪土岐氏」との血縁族の「土岐氏系青木氏(「各務原野の左域定住)」の「三氏」が住み分けしていた地域と観られる。

そこで「神明社」に替わる「情報網の復元」の為に「渥美湾の船の対策」には次の手を打っていた。

ここでこの「重要な注釈」として述べる。

前段でも論じたが、一説では 「土岐氏系青木氏」の「傍系の流れ」を汲むと考えられていた“「伊川津七党の青木氏族」”が、室町期末期に「三河国渥美郡の土豪集団」として集団化して勃興した事が「古文書や資料」にも記されている。
この「古文書(郷土史)」の説には実は「青木氏の資料」とは異なっているのだ。
そして、「三河徳川氏の資料」の中には室町期末期の「三河の戦記等」としての内容の一部に、更に、「額田郡」にも「山間部」から出て来て「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」を興したと記されている。
この後の説と「青木氏の資料」とほぼ一致する。

そこで内部を解明すると、「伊川津七党」の「内部の構成」は実は二つに分かれているのだ。
「伊川津の土豪の集団」には「古文書」が記する様に、干拓して入植して室町期初期の頃から定住した者等が豪族化して「4つの土豪」があった。
又、前段の経緯の通り、戦乱期の室町期末期に入った「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」があった。
この「二つの族」が互いに護りあう集団の「党」を構築したのである。
これが「伊川津七党」と呼ばれる集団である。
この内の「三つの青木氏」に関わる族が入り「伊川津七党」を構築したのである。
前段で論じた「a−1の青木氏」と「a−2の青木氏」とこれ等と血縁した「bとc族」の「三つの青木氏」が室町期末期に入り、そもそも「合計七党」を構築したのである。

(注釈 「郷土史」には「郷土」をよく見せようとして、この様に大雑把に表現して真実かの様に見せかけれる手法は目立つ。
この{江戸期の郷土史}は、信用性を高める為に”「古書」を前提として書いた”としているが、過去の経緯をよく調べないで記述している。
そもそも、この「郷土史」は「徳川三河の戦記集」には「三つ」あって、この「三つの三河記録の史実」と異なるのだ。この事を敢えて認知しなかった事に成る。)

「渥美湾」を境に真北に「額田郡」と真南に「渥美郡」がある。
全く直線的な「真北南の対岸」の位置にある。
実はこれは偶然ではないのだ。

そこで、何故、「美濃青木氏」が源氏化して、源平戦で一度、敗退してその裔の一部が「美濃の加茂−木曽の山間部」に逃げ込み「シンジケート」として生きてきた。
その彼らが、室町期末期に「真北にある額田郡」と「真南にある渥美郡」に恣意的・故意的に出て来たのかである。

そもそも「一郷士」が出たくらいでは無理であり、当然に「戦国の世」の戦場に出る位である。
それには、相当な「次の条件」を整っていなければ成し得ない。
これは「青木氏」にしか解き明かし判らない真実の経緯なのである。



話は若干逸れるがそれをここで解く。

一つは「相当な経済力」
一つは「相当な集団力」
一つは「相当な武力」

この「三つ」を裏打ちする事が先ず必要である。
その上で次の事が叶えられていなければならない。

「相当な背景力」
「背景力の権威」

以上が叶えられれば、「戦国の世」に突如出現する事が可能と成ろう。

況してや、「尾張の隣三河」である。
世にも有名な「戦国中の戦国の地域」である。

此の突如出現する元と成つた「情報網の切断の対策」は、先ず「伊勢と美濃」、「美濃と信濃」の「経路を立て直す事」であった。
そして、先ずはその上でその経路で「尾張の隣三河」と「伊豆」に繋がる「駿河を繋ぐ戦略」であった筈である。

「駿河」に繋がれば後は「藤枝、三島、富士宮の伊豆青木氏」に繋がる。
重複して「今井神社系シンジケート」との連携も可能に成る。
そうすれば、「伊豆」の「繋がり」は護れる。
然し、これは簡単な事では無かった。

それは「最後の決定的条件」は次の事であった。
それが矢張り、記録には無いが全体の経緯から観て「決め手」は”「船」”であった様である。

当時の「廻船の裏の仕組み」があってそれには、勝手に「出入り」は出来ないのだ。
その「海域」を統括する「商人の差配頭(船主組合)」との「繋がり」を持っていなければならない。
この「繋がり」は「組合株」を入手できるかにあった。
これらを入手できる事で、「商いの裏表」の「圧倒する力」で、以上の美濃の額田の「二つの国衆」が突然に出現出来上がる仕組みである。
先ずこの条件を叶える必要があった。

(注釈 「伊勢海路」での「摂津の組合株」は持っていた。
然し、未だ突如出現の前は「三河駿河域」の「組合株」は持っていなかった。
当時は、時の政権が財源を獲得する為に「太平洋側の海域・瀬戸内まで」に「4つ奉行所」を設けこれの管理を商人に任し、そこから「莫大な利権」を獲得していたのである。
「商人等」は「組合組織」を作り固め、その「組合人」に「株券」を発行して安定を図った。
「時の政権・武力」を背景にこの組合の差配頭等は政権に勝るとも劣らずの金の力を持っていたのである。)

室町期までの「紙文化」に依って「巨万の富」を獲得していた「伊勢信濃の青木氏」は、前段でも論じた様に「二足の草鞋策」で、これを当時の大大名以上等比べる事の出来ない程のこの「総合力」を持ち得ていた。

前段でも論じたが、1545年頃に「伊勢青木氏」は、源平戦に参加し衰退した「駿河域の株券」を持っていた「海運の駿河青木氏の支流族・血縁関係」を呼び寄せ、「伊勢水軍」で再び訓練させ「船一艘」を与えて「伊勢と信濃の商い用」の「駿河水軍」を復興させた。
つまり、この「駿河青木氏の組合株券」を以てして「渥美湾の利用権」を獲得したのである。
これで「伊勢」から「伊豆」までの「商いに依る航行権」を獲得した。

そこで問題に成るのは「渥美湾の中継点」の「確実な構築」であった。
これ無くして伊勢水軍と駿河水軍を繋いだルートは中継点が弱ければ成功しない。

そこで「伊勢信濃の青木氏」は「二つの国衆」の背後にいよいよ就いて「大戦略の準備」に入った。
記録に依ればこれも「1545年頃」に「準備」に入ったとある。
然し、これは「捉え方」に依っては「武力に関わる禁手」であった筈である。

その「青木氏族」が、要である「神明社とシンジケート」を遮断された以上、この「禁手」を止む無く外してそこで「織田軍の弱点」を突く事に成ったのである。

それだけに重要であって一族生命線の「伊豆」を救う為である。
唯、それは流石に直接に「禁手」を使えなかった。
そこで「額田」の「信濃シンジケートの族」にこの役目を持たせようとしたのである。

同時に美濃に居る信濃シンジケートを務めていた「伊勢の裔系」を「300年の時」を経て引き出すチャンスでもあった。

(注釈 前段でも論じたが「伊勢青木氏}の「額田の裔系・桑名殿の浄橋飽波の裔」にである。
「彼等」を再び興し、且つ、「伊豆」が救える一挙二策であった。)

その為には、この域に勢力を持つていた「織田軍」の「彼らの弱点」を突く事にあったのである。
つまり、歴史的にも有名な「水軍(弱体)」にあった事は有名である。
以前より勢力を拡大する為には「織田軍」は中部域を抑えるには「織田水軍」が必要であって、伊勢湾の「水軍伊勢衆・9衆」の“「仲間割れ」”をさせて一つの「小水軍」を味方に引き入れた事に奔走したと「三河の記録」にも記されている。

この事を充分に事前に承知していた元締めの「伊勢水軍」はその前に「伊勢青木氏」と共にここを当に突いたのである。
ここに「楔を打ち込んだ」のである。

(注釈 「熊野水軍の九鬼氏」に繋がる「志摩水軍の嶋衆・弥富族」があったとされ、これが伊勢湾の水軍衆の一員であったが、結束を裏切って信長に着いたが然し未だその勢力は弱かった。
現在も海運業として遺る。)

筆者は、この「記録」の「行の表現」から観て、「神明社の力」と「情報の遮断」で、相当にぎりぎりに困った末に採った手であったと受け取れる。

何故かである。それは「青木氏の禁手の氏是」にあった。
普通はこの「氏是」を破らないと成し得ない事は充分に理解できる。
要は「氏是」か「伊豆」かの選択で在ったと読める。
然し、そこで「伊豆」を選んだ。
つまり、歴史上初めての「実戦」を選んだと云う事に成る。

そう決まればそこで次の手を打った。
「信濃シンジケート、つまり、額田青木氏等・伊勢の裔系」を呼び出す前に、記録では、“「1545年頃」に「準備」に入った”とする「行」が直接表現ではないが読み取れる部分がある。
然し、これには「説得」から始まり「移動」までの「準備」が必要で在ったと観られる。
「約300年間」も「シンジケート」の中で生きて来た「二つの族」を一つにして「差配頭」を定めて結束させなければならないし、「国衆」としての訓練も必要に成る。
「訓練の指導者」を「秀郷流青木氏」に協力を求めなくてはならない等多くあった。
仮に“「1545年頃」に「準備」に入った”とすると、「実行」は三河の記録から「1560年頃」と成っているのでこれまでには「準備期間は15年間」かかった事と成る。

そこで、この「国衆」にとして仕上げて「呼び出し」には次の様な経緯があった。
それを複数の資料の時系列を纏めて観ると次の様に成る。

先ず、次の様に成る。
1 「木曽と賀茂」に潜んでいた「(a−1)(a−2)の美濃の額田青木氏」、つまり、「信濃シンジケート・とそれに付き従っていた「bとc族等」に力を与えて呼び出した。
2 そこで呼び出した「美濃の(a−1)」の彼等に「渥美湾」を挟んで「真北に額田郡」に配置した。
3 「真南の渥美郡」には「美濃の(a−2)の青木氏」と「bとc族」を配置した。
4 この「海の防衛ライン(渥美湾と伊勢水軍)」を「国衆の武力」で作り上げさせた。
5 「渥美郡の青木氏」には「伊勢屋信濃の青木氏」であると云う事を前提に”「四家」”を構成させた。6 「伊川津の土豪」等と「伊川津七党」を構築させた。
7 此処には奈良期初期の古来より神明社(古跡)があり、伊勢より「神官青木氏」が配置されていた。これを基に地元と結束させた。

(注釈 そこで「国衆の武力」にはある驚くべき誰も出来ない特徴を持たしたのだ。)

この「史実」に依って、筆者は“「伊勢から信濃までの連絡網」を再構築出来た”と考えている。

後は、「駿河水軍」と「船での横のライン」を造れば「神明社網」が亡くなった「伊豆」に到達する。
「陸の神明社替わり」の「船のシンジケート」は出来上がる。

(注釈 「記録」に依れば、この事に依って「三州街道 R153」を経て、もう一つは「R19」で、凡そ「200キロ」であるが、ここを「三河蒲郡」から「信濃塩尻域」に真っすぐ縦に入った可能性がある。
「三河の国衆の合力」を得て「武力」に依ってこの「縦のライン」を構築できた。三河三記録)

そこで、「三河の国衆の合力」の事である。
「伊豆」までの「海の横のルート」と「信濃」までの「陸の縦のルート」を確立させるに「必要な事」は「三河の松平氏の勢力」に何とか関わる必要があった。

この「時期の三河」は、主に「今川氏弱体化」と「徳川氏勃興」と「織田氏伸長」の「戦乱の混乱期」にあり、「各地の豪族」が入り混じって「国盗り合戦下」にあった。

そこで、この上記の「二つの戦略」を実行するには「青木氏族」は、「(a−1)(a−2)」として潜んでいた「美濃の額田青木氏族」を一つに「集団化(国衆化)」して表に出したと云う事に成る。
記録から「美濃国衆」の45衆の中に二つの「青木氏」が見える。

(注釈 これは一つは「300年前」からの「伊勢の裔系」の「準備段階の青木氏の美濃国衆」である。
もう一つは「土豪武蔵七党の丹治氏系青木氏」で、美濃に室町期に入り、森、長井、松平、豊臣、松平の臣に成り、次々と主君を替えて「国衆」を大きくした。最後は摂津1万石の大名と成る。)

それには、次に「三河松平氏の国衆」に先ずは成る事であった。
其れも飛びつくような「相当な魅力」のある「国衆」で無ければ成らなかった筈である。
そうでなければ「松平氏」は信用しない筈である。

現実に、三河国衆に成る事は出来たが記録に遺る処では「東の三河衆」は信用したが「西の三河衆」は信用しなかったとある。
その結果として「西の国衆」で在り乍ら「東の三河衆」に組み込まれた。
「東の三河衆」に組み込まれる事は、「青木氏の描いている戦略」には「違い」が生まれた事に成る。

「重要な事」は、”美濃から彼等を出す以上は「集団化を壊されない絶対的条件」”を付加しなければならなかった。
先ず、その為に、そこは「国衆同士」で、「必要以上の戦い」を避ける為に、肥沃な「活用野」ではない“誰も目に着けない「不毛の土地”」であった「二つの域(今川の土地)」に限定してここを確保する事であった。
「二つの域」と限定して記されている。

この「二つの域」が次の地域であった。
・現在の「蒲郡町付近」(未開の沼地)
・湾対岸の「伊川津町付近」と「田原・吉田町付近」(海を干拓した土地)
以上と記されている。

その為にこの訓練された「二つの美濃集団」は以上の地域に「直下で先ず南下」したとある。
当時の「蒲郡」は、未だ「額田一色側の山間部」に向かって地形的に食い込んでいて、何れも「小さい漁村と石切り場」であったらしい。
記録に依ると、“額田郡蒲郡の「横川(西田川の事)」より「引小舟」で北に遡った“と記されている資料もあり、従って「奈良期の美濃王の本拠」は現在の「額田の一色町」にあったとあり、これが「額田の事」に成る。



さて、ここで次にその前により理解を深める為にも、先に重要なのでこの「一色」の“「成り立ち」”を説明して置くとする。


そもそも、この“「一色」”の「地名」は、「伊勢」にもあって、「施基皇子」の「しき」を“「一志」“と”「一色」”との「二つの地名」に変化した事と成っているが、別の資料では「志紀」と「色」もあるとされ、現実にこの資料の通り、現在もこの後者の「二つの地名」も伊勢にある。合わせて「四つ」である。
この「資料の分け方」に意味があると考えられるが判らない。
然し、筆者は、語源から観て「地名・大字の古さ」に依るのではと観ている。(下記)

この「地名の呼称・本貫名」を「地名」や「第二の氏名」として使う事は、直接に「施基皇子名」を使う事には憚られ、且つ、「嵯峨期の詔勅」で禁じられている。
従って、そこで「施基皇子の権威」を誇張して良く見せようとする場合は、この「一色」等を使用した。
つまり、「額田青木氏」は「施基皇子」の「子の桑名殿」の「二世族王の裔系」であるとして、「額田の端浪の定住地」にこの「一色」をある理由で使用したのである。

注釈 この「本貫名」が「足利氏の裔系」に鎌倉期から室町期には乱用されたが、本来は中国から伝わった「古来の習わし」で、その「姓の発祥地」を「本来の姓」の「戸籍名」として、この「権威名の一色等」は、「本貫名」、又は「第二の姓名」と称し、「権威や象徴性」を「搾取的」に高める為に用いた。
「足利氏の裔系」には、そもそも、この「本貫名の由来」は全く無いが、恐らくは源氏支流性を誇張する為に搾取しても用いたものである事は判る。

さて、そこで「額田郡の事」に付いては、前段でも論じたが、「青木氏の記録」では「一色殿」、又は「額田殿」の「二つの記録」が遺る。

明らかに「蒲郡」と「伊勢の地名」と、同じ“一色”の「地名」を使っている事は、彼らは「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃の原士・信濃シンジケート」)であった事に成る。

そして、彼らは「伊勢信濃青木氏」と血縁性の強い平安期初期の「美濃の額田青木氏」か「土岐氏系美濃の青木氏」であって、平安期には「皇子皇女族」の多くが「三野王族系」に入った。
つまり、確かに過去には「嵯峨期の新撰姓氏禄」の「族区分け」の「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃の原士」)であった事には成る。
然し、ここに「天皇としての裔系」の無かった「光仁天皇・施基皇子の四男」は、止む無く「光仁期」に出自元の「伊勢の青木氏」を「追尊」をして受けて「二世族と三世族」が王位等を意思に反して追尊された。

この時、「桑名殿の女」の「浄橋と飽波」の「二人」がこの「美濃王」に嫁いだが、この「二人」は「氏としての路線の違い」を理由に「女系の裔系」を美濃の額田に構築した。
実質は、「伊勢青木氏」と「美濃王の青木氏」の「裔系差の争い」が「三野の内部」で興ったと見られる。
所謂、「源氏化の路線争い」である。

この「現れ」の一つの証が「一色の地名」であって、その中には、「“一色”の地名」と「“額田”の地名」まで遺した事と、“「一色殿」と「額田殿」”の「二つの記録」が遺る事を勘案すると、これはより「青木氏族」に近い「追尊皇女族の子孫(a−1)」が居た事を示しているのだ。
つまり、間違いなく「伊勢青木氏の裔系」であったのだ。
そもそも「三野王族系」には決して使えない「清光寺や清光院の存在」が明らかにこの事を証明する。

(注釈 念の為に「前段の記載」を重複すると、(a)は「皇族真人族系」で、 (a−1)は「皇子皇女の朝臣族系」で、(a−2)はその「末裔の朝臣族系」で、その「区分け」は「新撰姓氏禄」に依る。
「美濃の(a−1)族」は、「光仁天皇期」の「伊勢青木氏の桑名殿」の「追尊二世族」で「浄橋王女と飽波王女」による「直系の女系子孫」であり、「伊勢青木氏の裔系」である。
「(a−2)」はその「伊勢青木氏の裔系」の子孫族である。
(bとc族)はこの地に赴任していた「官僚族」であったが、(bとc族)は二派に分かれるも後に「(a−2)族」との血縁で繋がった族系である。
「源平戦」で「三野王の美濃族」が滅亡し、これに参加しなかった「伊勢青木氏の裔系」、つまり、「浄橋と飽波の女系の裔系族・a−1、a−2、bとcの族系」が「信濃シンジケート」と成って「額田・一色・端浪の以北の山間部」に逃げ込んで、「伊勢信濃」との「繋がり」を持ち生き延びた「伊勢青木氏の裔系の族」である。
但し、「早期説」としてとして云うならば「源平戦・1178年」より少し「早期の時期」に逃げ込んでいる可能性がある。)

注釈として、 何故なら歴史的な経緯から考察すると、平安期(関東屋形)に「秀郷流一門の結城永嶋氏」の「勢力圏の最西端」にあった事を前提にすると、この域を利用してこの「額田郡」と対岸の「伊川津」の「国衆としての獲得」はこの「勢力圏」を「梃子」に周囲を牽制する為に此処を選んで張り出して来ていた事をも示す資料でもある。
つまり、この域が一つの理由として「後の国衆」として「安全な戦略的域」としては都合が良かったと観られる。

要するに「上記の早期説の前段説」である。
後記でも論じるが、三河の三史の一つ「戦記物語」の一説に本格的な「国衆」と云うよりは「家族の様な集団族」が「美濃」から降りて来たような表現が観られるが、「物語」であるので事実は判らない。
「武力の国衆」として本格的に降りて来るのではなく、「足掛かり」として先ず降りて来たか、「伊勢の裔系族」が「源平戦の影響」を避ける為に一部を「渥美半島の古跡神明社・伊勢神官族青木氏」を頼って逃がしたとも採れる。間尺が一致する。

兎も角も「伊勢と信濃青木氏」は、「伊勢藤氏」やその一族の「伊勢秀郷流青木氏」や「秀郷流伊勢長嶋氏」を始めとして、この「情報遮断の事」に付いて、彼らに「戦略的な協力」を求めたとも考えられる。
とすれば、当然にこの域に影響力を未だ持ち得ていた「青木氏族秀郷流五氏の永嶋氏」にも協力は求めたであろう。
それは、「永嶋氏の丸に片喰紋」の「家紋」を、この「額田青木氏」の中に引き継いでいる事でも判る。

つまり、彼らの中に「美濃青木氏の笹竜胆紋(美濃の原士)」と、その「血縁族」の「揖斐氏と土岐氏(土岐氏系青木氏)」の「家紋」があり、この「土岐桔梗紋」である事から考えると、この彼らの中には「別系の秀郷一門」の「丸に片喰紋の家紋」が見えるのだ。
どの程度の裔系であるかは判らないが、確かに彼等の中に小さいながらも「現地孫」を遺していた事は判る。

(注釈 「州浜紋」もあるとする「近江佐々木氏の研究記録」に散見できる。
これは「秀郷流青木氏」がここまで張り出して来ていた確実な証でもある。
これ等の「歴史的な見地」からして、「秀郷流青木氏」、又はその一門の「永嶋氏」等が「伊勢域」まで張り出した時期は次の史実からも判るのだ。)

(注釈 「鎌倉幕府の頼朝」に合力した功績により特別に「秀郷流宗家の朝光・結城の出自」が、「平家の所領」として奪われていたものを、「結城等の永嶋氏所領」として認めて貰った。
この史実からであるが、結城氏が天智期に「山陽道の建設」に関わった事が「日本書紀等」にも記されている事からも、秀郷一門の前の氏族の元は奈良期初期のこの時期からである事に成る。
それが「将門の乱」でも判る様に「平家」に奪われていたのである。)

この上記の「注釈の事・結城域の奪還」から結果として、「青木氏族」の「永嶋族」は「力」を獲得し「関東屋形」と呼ばれる様に成って、その「勢力」は中部域まで確実な形で張り出していた事に成る。
ここ事から「四国等の守護職」までも務めているのだ。
この時に、この地域に一門の片喰紋と州浜紋の家紋が広がったのである。
この時期が鎌倉期から室町期までの「1245年〜1540年頃」までである。
故に、この事から「片喰紋や州浜紋」は、この時の「永嶋氏の印」であり、「三河国衆」の中に分布する「秀郷流青木氏一門」に「早期説の前段説」の”「準備段階」”で協力(国衆としての訓練)を得ていた可能性は否定できない。
先ず間違いは無いだろう。

戦略的には、この「美濃や信濃」の「山間部」に逃げ込んでいた「元美濃の浄橋と飽波の女系族・(a−1)(a−2)の信濃シンジケート」を国衆として三河に「単独で押し出させる」には僅かに残る「秀郷一門」の「地元の協力・地域の状況把握・繋」が必要であった筈である。
その「押し出した先の地域」が「古跡の神明社」がある「蒲郡と吉田・田原」であるとすると、「家紋」の通り「三野の洲域の植物」の「片喰族と州浜族」の定住地であるので、時系列的にぎりぎり符号一致する。

丁度、張り出していた「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期に、この前哨戦の「情報・運搬ルート奪還作戦・シンジケート」を敷いた事に成る。
「伊勢青木氏」等は「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期のこの時以外に無いと観た事にも成るだろう。
この時期を逃したら“相当の犠牲を負う”と観たと考えられる。
敢えて、戦乱期を選んだ方が成功率が高いと観たのである。
従って、既に「早期説の前段説」が事実であるとすると、その年代からも矢張りその「1540年頃の直前」であった事が判る。
現実に「奪還作戦の顧問役」として「伊勢秀郷流青木氏(秀郷流近江族の左衛門太夫高郷の末子の玄蕃梵純)」が「美濃三河」を経由して軍を移動させ「結城」を護る姿勢を示しながら、「秀吉の奥羽攻略」に対して背後から「奥羽結城を護る戦略」を「事前」に採っていて、確実に「動いた史実」があり現実はそうなっている。
そうする為には、この「三河の勢力圏」をある程度一族で抑えて置かなければ「玄蕃梵純の軍」は進められない筈である。

明らかに、それまでは「平安期末期から室町期」まで「加茂―木曽」の山の中で「美濃の原士」として静かに暮らしていた事で、彼等にはこの「秀郷一門との血縁」はこの間には先ず無い筈である。
それ以前の平安期と成っても、「時系列」と「家紋と永嶋氏の経緯」から観ても無いと考えられる。

単に「家紋」から観れば「秀郷一門」(「永嶋氏か小田氏」)が、確かにこの時、一見して「張り出してきた事」の様に観えるだろうが実はそうでは無かったのだ。

(注釈 つまり、「伊勢青木氏」が直にこれに追随するのでは無く、これは「信長との摩擦」を敢えて避けていた事に成ろう。
それの方が「美濃三河の戦略・国衆作戦」に執っては事を殊更に大きくせず都合が良かった筈である。風林火山である。)

唯、先ずは、この「初期の目的」は、「信長との敵対」では無く、「神明社の排除策」に対する策ではあった。
その為のこの「情報・運搬ルート奪還作戦」は周囲に対して「牽制の戦略」であった事は充分に解る。
然し、果たしてそれだけなのか、ところが“違うとしたらどの様な働きの役目をしたか”は分かっていない。
又、この「永嶋氏」が記録からそもそも「一族の伊勢の長嶋氏」であったかも分かっていないのだ。

唯、これは記録に頼らなくても次の「状況証拠」で判る。

仮に「伊勢長嶋氏」であるとすると、少なくとも「青木氏族」の「秀郷流青木氏族との血縁」は、直接の「原士との血縁」では無かった事から、「美濃の氏族と成り得ていた原士」はその「対象」とは成り得ず無かった事に成る。

この「情報・運搬ルート奪還作戦」の策として「額田と伊川津の青木氏(a−1)(a−2)」、つまり,約300年を経過して支援は続けていたが「美濃の原士」と成り得ていたのである事に対して、何とか“「青木氏族」”に難しい事ではあるが再び組み入れる様にした事にも結果として成る。

(注釈 「三野王の裔系の美濃青木氏」が「源氏化」で敗退し衰退し滅亡して完全に「青木氏」から離れた。
「伊勢青木氏の四家の桑名殿」の「二世族の浄橋と飽波」はこの「嫁家先の源氏化路線」に反対して敢えて自らの「女系の伊勢の裔系」で一族を造り離れ山間部に逃げ込んだのである。
この逃げ込んだとする説とは別に上記の「早期説の前段説」の如く「三野王族」とは離れたとする説もあり、これには「美濃木曽の山間部と渥美」には離れたとする論説に成っている事に留意。)

この為に、そこで「早期説の前段説」の事も含めて、兎も角も「伊勢と信濃の青木氏」は、「15年間の準備段階」として彼等を積極的に同時進行の形で「前段の妻嫁制度」を用いて、先ずは「伊勢の裔系」の彼等を「組織の強化・結束力の強化」をしようとしたのだ。
この事には変わりはないだろう。

元を質せば、その出自は「(a−1)(a−2)の族関係」にあったが、そもそも「伊勢」はこの「四掟の関係」を無視して「美濃の原士(伊川津七党の青木氏に成る)」に対しては、その為(源氏化防止)に急いで改めて敢えて「妻嫁制度に依る血縁」を進めたと考えられる。
要するに「300年の溝」を埋める為にである。
つまり、より「血縁」に依る元の「伊勢族にする策」を採ったと云う事に成る。
この「血縁」の一つが、「額田」から「三河の伊勢族」に入った「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)に成ったと考えられる。


(注釈 「美濃原士」とは「四掟範囲」では無かった為に本来は「血縁相手」とは成り得ず「300年の時」を経た。
然し、「準備段階の範囲」に於いて「国衆」として引き出すには、「絆関係」はあったとしてもこの「四掟」が「大きな隔たり」と成っていた。
そこで、「(a−1)(a−2)の族」が「伊勢の裔系」である以上、「美濃原士」を「伊勢郷士格」として見做し、「女系の嫁家先制度の血縁関係」を敷いたと考えられる。
それが上記の家紋に出ていると観ているのである。
「美濃原士」は「都の下級官僚族」であった事から「秀郷流永嶋氏の裔系」ではあり得ないからである。
唯、血縁するとして「嫁家先制度の前提」と成る妻嫁制度を敷いていたかは良く判らないが、「清光院・女墓」がある事からある程度の「妻嫁制度」を敷いて「女(むすめ)」を養育していた可能性がある。)

(注釈 「伊勢と信濃」は「賜姓五役」や「9つの縛り等」の「伝統」を護り「家紋・象徴紋」は「笹竜胆紋」以外にそもそも無く、「額田青木氏」にだけは「青木氏のこの伝統の縛り」を外して改めて「伊勢の血縁族」として「片喰紋と州浜門の青木氏」を「三河」で持った事に成る。
当然に上記した「氏是の禁手」も外したのである。
そして、一方で「古い伝統」を外しながら「矛盾」と成るが「伊勢の裔系を強める策」に出た事に成る。
「伊豆や美濃の原士」等を救う為に“柔軟に対処した事”に依る。)

そもそも、「(a−1)(a−2)の族関係」、つまり、「原士(伊川津七党の青木氏)」は「信濃シンジケートの一員」であったと云う事は、「伊勢と信濃の青木氏」は、最低限その「内部の続柄の変容」を掴んでいた事に当然に成る。
とすれば、「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)の「美濃族」に成り得ている彼らに対して、「妻嫁制度に依る血縁」は「周囲に目立たない最低限の範囲」で進めていた事が考えられる。
「内部の続柄の変容」を掴んでいる以上は其れの方が自然であろう。
だからこそ「情報・運搬ルート奪還作戦の策」に彼等を説得して引き出せる事が出来たと観られる。

唯、それには「大きな条件」があると上記で論じた。
それは、ある意味で「300年の時の安定」から「変化」を急激に与えるのである。
故にこの「説得」には現在と将来の彼等への「完全な保障」と「今後の戦略」が必要であった。


「完全な保障」と「今後の戦略」には大きな歴史があった。
多くの資料にこの事が記録として遺されているのだ。

それが、先ず、“「青木氏の商記録」”に依れば「信長」などにも出来ない「伊勢と信濃」だけが成せる「超近代的な保障」であった事が判る。

それが「受け取り方」に依っては、「商記録むは”「別の商い」”であるかも知れないが、この時期に「大量の銃調達の計上(300丁)」がこの商記録にあるのだ。
前段でも詳細に論じた様に、それだけの「近代銃」が大名の歴史史実の中にこの時期に抑々無い。
其れだけに未だ「銃の調達」は金額的にも汎用的では無かった。
記録としてあるのは「美濃の原士の国衆」にあるし、三河戦記の三記録にこの事が記されている。
これは「青木氏の商記録」と一致する。

これだけの「銃調達」を出来る大名は「信長」でも無理で、使うとすれば「銃の傭兵」の程度で、「雑賀族の銃の傭兵」を雇った史実もある事でも証明できる。
「銃」は松阪の隣の「和歌山の雑賀族・鈴木一族」で生産されていた。
「堺の支店」の隣である。


ここで更に先にその「答え」を明かして置く。

この「計上」は上記した様に後の「松平氏の戦記録」にも類似の記録が記載されているので「商記録」はこの事であった事が判る。
つまり、「額田青木氏の二つの国衆」が「銃隊の編成」であった事が記されている。

それは「額田青木氏等」に対する「超近代的な保障」は、この「経済力」に依る“「大量の超近代式銃の供与」”であった事に成る。
彼らを「引き出す保障」として、これは成立する条件であろう。
「国衆」は未だ見た事もない銃であり、それも超近代銃であれば驚くであろう。
その当時としては“「信長」でさえ持ち得なかったもの”であった。

(注釈 この事は詳しく前段で論じた。)

さて、元に戻して「秀郷流青木氏」との血縁であれば、武蔵まで行かずとも「伊勢青木氏」と「同族並みの血縁」を進めている「伊勢秀郷流青木氏」や「伊勢伊藤氏」や「伊勢長嶋氏」が近くに現存していた。
この「家紋」は「伊勢長嶋氏の家紋」でもある事には間違いないが、同紋で血縁を進んでいる「伊勢秀郷流青木氏」でも「片喰紋の家」もある事は同じであり当然である。

「情報・運搬ルート奪還作戦」は何も武蔵までは話を持ち込む必要は無い筈であり、第一、この策の話を持ち込んだのは「伊勢と信濃」であり、リーダシップを執るのは当然である。
従って、「伊豆」を含めた「青木氏族」を固めるのであれば、「伊勢の方」が良く充分に目的は達成出来る。

これに依って、この事を知れば「周囲の武力勢力」は、この“「美濃の原士」”だけの行動とは観なくなり、青木氏の国衆に対しても有名な「背後の抑止力の形成」が出来る事に成る。
中でも「伊勢秀郷流青木氏」はこの前後に「軍」を動かして「結城」を護ろうとしていた事は有名であった。歴史の記録にもある喰らいで、「信長も其の後の秀吉」も警戒していたのである。

そうすると、「周りの勢力」が「美濃の原士」等に手を出せば「青木氏族の影の力と背後の力」で、逆に潰されるか怪我をする事は誰でも知っている。
要するに「抑止力のシンジケート」である。
その上に「超近代式銃」で武装した特異な「国衆」であった。
従って、確実に安全を確保出来る。

もう一つは、「伊川津の七党(四土豪と額田青木氏等の裔系三氏)」が結束して、「一つの武力集団」を結成したのだが、この「七つの豪の族」の中身が全て「美濃の原士」だけであったのかは記録的には良く判っていない。
然し、それは下記の通り「状況証拠」で判る。

「古書」にも“「貝塚の事」”と、「古跡の神明社の事」と江戸期に“「伊川津の田原」”に港を開いた事だけが記載されているだけで他に詳細な記載はない。

(注釈 唯、「近江佐々木氏の研究記録」には、「伊川津七党青木氏の資料」はあり、「伊勢青木氏の商記録の資料」と一致している。)

そこで、然し、前段でも論じた様に、「武蔵七党」の例がある。
これから「手繰れ」ばそれは簡単に判るのだ。
そもそも、「力の持つ惣領」が「武士」を集めて「命令の武力集団」を結成するのに対して、「党」は、「弱小武士団」を「和合の集団」により集まり、互いに「同族的結合」を成し護りあう「共和的結合」を云うと成っている。
鎌倉時代末期から、室町期にかけて勃興した「地縁的血縁的集団」を云うともある。
中国地方の亀甲集団もある。

この定義からすると、「古書」にある「伊川津七党の青木氏の三氏」とは、次の事が云える。

第一は、「七党」は「青木」の「諡号の姓」を有している事。
第二は、「氏」と明記していて「姓族」では無い事。
第三は、「七党」の相互は完全同族では無い事。
第四は、「何らかの血縁性」を有している事。
第五は、「何らかの地縁性」を有している事。
第六は、「七党の勃興期」は同一であった事。
第七は、「和合集合」であった事。
第八は、「共和的な結合」であった事。
第九は、「平安期」では「武士相当(bとc族)・武力を持つ官僚集団」であった事。

この「九つの条件」を成立するに相当する集団は、何れも「美濃の原士」と成り得る。
然し、「渥美の四土豪」はこの「渥美を護る武力を持つ官僚集団」であったかは判らない。

そもそも古くは、奈良期末期から室町期初期まで、「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「(a−1)(a−2)の朝臣族」とその「官僚族の数族(一部bの族を含む)」と成り得る。
「美濃の原士」の其々は、「蕃族系」の「同宗同門の族」ではあるが、濃い血縁性を有していない限りは「同族」では決してない。
「約700年間の間」に興った「(a−1)(a−2)の101族」に従い朝廷から派遣された「下級地方官僚族」の「(bとc)の官僚族」に近い「美濃付近域」に集まった「同宗同門の族」と云う事である。

(注釈 この「下級地方官僚族」とは、況や、「(bとc)の官僚族」ではあるが、この「姓」には「2系統」があって、先ず歴史によく出て来る「地名」を「姓」とする「県主・村主」,又は、「稲置」などの土地の「領首的性格・政人と武人」を持つものと、余り知られていない「職名,部曲名」を「姓」とする「伴造的性格・職能部人」を持つものとがある。
これ等の官僚族は「首人・おびと」、又は「首」と呼ばれていた。
これ等が全国各地に「実務官僚」として配置されたが、多くは主に前者が武力で以て統治していたので取り分け「美濃域」には多く配置されていたと考えられる。
後者はその土地の産物や鉱物の発掘や家屋建設など「作業的な仕事」に従事していた要するに「部人」である。
「美濃国」は元より「天武期の五都計画」の地にあり、彼等の様な多くの「下級官僚族」は「三野王の配下」に置かれていた。
「三野王」は遙任して国司代を置かず自ら現地で統治したとある。
それだけに美濃は「現地性と内の色合い」が強いのである。
これは「平安期の末期までの前後の事」であるので、結局は「美濃側に味方する者」と袂を分かち合った「浄橋飽波に味方する者」に分かれた事に成る。
どの様に別れたかは判らない。
普通はこれ等の「官僚族の姓名」が地名に遺るのが庸であるが、「現在の地名・42」からはそれが読み取れない。
「五大都の制の地」であるので、「都の五大官僚族」の姓名が遺る筈であるが見つからない。
何故か、「戦乱の影響」から「地名に纏わる伝統」が消えたのであろう。
それだけに平安末期から室町期までの混乱と戦乱は激しかった事に成る。)


さて、そこで前段でも論じた様に、この官僚族は兎も角もこの「101族」の内、「皇族の皇子系朝臣族」は、「伊勢や信濃や近江や甲斐」に入り生き延びる事が出来た。
然し、「皇族の王系朝臣族(第五世族以降・官僚族)」は、この「美濃の地(美濃の原士)」に隠れた。
その他の王族系の多くは死滅した。

当然に、他の一説によると、上記の通り「平安末期と室町期初期」まで多くは滅亡したが、この「美濃の原士の族」が自発性であるかは別として、「300年の歴史」を経て「三河の末端近辺」に出て来て事前に「伊川津七党」と呼称して結束していたと成るとこの「事前説」が成り立つ事もある。
「七党説の根拠」からこの「事前説と云う説」も成立する事は確かである。

「美濃」は上記した様に、「地名に纏わる伝統が消えた」ほどに普通では考えられない程に「混乱と戦乱の影響」が激しかった事を考えれば、此処にも「子孫」を遺す為にも分けて逃がしていた事の「事前説」も納得出来る。
但し、問題は「出て来た後の呼称」と成るのか「事前の呼称」と成るかがこの他説で明確に成らない。

そうすると、この他説で行くとここで「額田郡の青木氏」とは「違い」がここで生まれる。

この先ず「大きな違い」は、「額田郡の青木氏」は、対岸の「伊川津」の様な「党」を結成していない。
「半島の伊川津」に対して、歴史の史実にも出るこの「額田郡の海」に面した「野」に出て来ている。
そして、この記録から考察すると、「本庄本貫の地名」を「商記録の添書」にも観られる様に、“「額田殿」”として、又は、“「一色殿」”としている。

これは明らかに「額田郡の青木氏・額田青木氏」であり「蒲郡青木氏」と呼称されている。
そうすると「蒲郡青木氏」は(a−1)族であった事に成り、「伊川津」は(a−2)族と(bとc)の血縁官僚族であって、「二つ」に分けた事に成る。
これであれば「室町期説の後期説」と「平安期説の事前説」も成り立つ。

とすると、対岸に存在する「伊川津七党・田原・吉田地区」は、「額田郡の青木氏・額田青木氏・蒲郡青木氏」の「二つの呼称」が明確であれば、必然的に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」との「二つの青木氏」で当時は呼称されたいた事に成る。

「渥美郡の伊川津」は、古来より「田原・吉田の地」の中央の森林地帯から「真北の湾」に向かって「伊川の流」とで湾海流に依って砂地が集まり「津」が進んで拓かれた地域である。
そもそも、「貝塚」のある古来より「津の開墾」が進んだ地域である。

前段でも論じたが、幾つかの古書に依れば飛鳥期から奈良期初期に改めて此処に「六つの郷・地域」に「住む者等(飛鳥期の磯部族)」に依って互いに護りあう「磯部族」の「郷」を形成したとある。
その後、此処に「北の山間部」から降りて来た族・「(a−2)と(bとc)の原士」がこの「六つの郷」に入り、「七つの郷」を造り、結社して「伊川津七党」と成った事に成ると記されている。

その証拠としては、「奈良期の最古の神明社」がこの田原地区の中央に「遺跡」として現存しているし、「貝塚」もある。

「日本書紀や古書」に依れば、「信濃や土岐等の地域」が古来から「山間部の物」と「塩や海産物」との交換をしていたと記されている。
それを仲介していたのが「後漢の渡来系」の「磯部族」と記されている。

(注釈 この「磯部族」の「六つの郷(六つの党名)」であったかは確実には良く判らない。
然し、「流れ」からして充分に有り得る事である。
「日本書紀」に依ればこの「磯部族」は中国系の「初期の渡来人」であったと明確に記されている。
後に子孫を遺しここに住み着いた可能性がある。
この域に遺る「磯部」の名が多い所以であり、海産物を加工する「下級官僚族の職能部人」の部類であった事に成る。
最終、古書に依る通り戦いに世判つた所以で逃れて磯部をしながら土豪と成ってここに住み着いたと考えられる。)

(注釈 更に詳しく「日本書紀等」に依れば「信濃」から「美濃三河」に物資を輸送し帰りに交換物資を「大型馬で搬送した事」が記されている。
それが「馬部」であったと記されている。
この「磯部」と「馬部」は共に交易をしたとあり、この東海地方の海の物を加工する事を命じられた「磯部族」と同じの「渡来人の馬部族」は「朝廷の命」で「信濃路一帯」に「牧場の開墾」を命じられている。
この「信濃一体の馬部族」と「美濃三河駿河一帯の磯部族」とは相互に物々交換をして血縁関係を保っていたとある。
故に、これが渥美の此処には「飛鳥期末期か奈良期初期」の朝廷に依って置かれた「古くからの祠」があった所以であって、ここに古跡に類する「初期の神明社」が存在したのだ。
伊川津には奈良期初期の「磯部」の活動した「貝塚古墳」もある所以であるのだ。
其の後、奈良期後期に「伊勢青木氏」に依ってこの「古祠」を護る為に「一族の専属の柏紋の神官青木氏」を配置して新たに「神明社」として創建し祭司したのである。
これが記録の読み解く由来である。)

上記の経緯や注釈の様な「史実の背景を持つ事」から「伊川津青木氏の経緯」が判る。
何よりも「神明社の古跡」とその隣に「新たな神明社」が存在する事は、時代性は兎も角も「美濃・額田」から出て来て「所縁の地」としてここに居を構えた証でもあるのだ。
ここに「神明社」が在った事は、賜姓(647年)を授かり「神明社を守護神とする事」と成った時期より、「神官族の青木氏の存在」を古くから証明するものであり、隣の「新神明社」も「神明社」としては古く、「神官族の青木氏の所以の地」であり続けた事に成るのだ。
それが何時しか「豊橋までの域」であったと考えられる。

(注釈 「豊橋の事」を物語る青木氏の資料が一部あって、これによるとこの「神明社の神官族の生活の拠点」としていた事を示唆している。
恐らくは、「647年〜660年」の当時はこの{田原の古跡神明社付近」は相当に「生活拠点」とすることが困難であった事を物語るもので、「豊橋」に生活拠点を置いて一定期間祭司に籠もり定期的に交代しながら務めていた可能性があるのだ。)

従って、この事から上記の「事前説」では、何も急に無関係な地の「渥美郡」に美濃から飛び込んで行った訳では無いのだ。それなりの由縁が在ったのだ。
注釈の通り「豊橋」までとすると「吉田まで所縁の地」の幅であった事にそもそも成る。
故に、現実に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」と二つで呼称されている所以なのである。

従って、この「上記の史実」から導き出した結論は、「奈良期後期」の「早い時期」の「事前説と云う説」は「美濃からの移住」は先ず論理的には無い事には成るが、問題と成るのはその後のその「二つの時期」であって、上記の「室町期説の後期説」と「平安期後期の事前説」は「注釈」から導き出せばあり得る事である。

下記の1の「奈良期後期説」は、現実には「伊勢からの神官族の活動説」と成るのである。
そもそも、奈良期の後半の桓武期直前の「浄橋飽波の子孫説」は未だそこまで「裔系」を派遣させられる程に拡大させていないであろう。

恐らくは、「事前説」が1を以てして根拠とするとすれば、奈良期に伊勢から派遣された「神明社の青木氏」の「神官族の史実」を以てして、この江戸期に記された「郷土史説」が史実を読み間違えて我説を造り生まれた可能性があるので否定出来る。

然し、「青木氏の由緒ある柏紋の神官族」は、「3年から5年」に一度、伊勢に帰り交代する掟と、青木氏の本来の掟として「現地孫を遺さない堅い掟」と成っている事と、「四掟の掟」と「神道の神官族」である事から合わせてあり得ない事である。
況してや、江戸初期の神明社の幕府に引き渡しの後に興り得る事であって、室町期には起こり得ない話である。
「青木氏」では「現地孫」は青木氏では無くなる。

この平安期初期前後までの早い時期の「事前説」は成り立たないのだ。
あり得るのは、下記の2の「平安期末期の説の事前説」と成るだろう。
この「源平戦の頃」では「浄橋飽波の伊勢の裔系」は「4Nの2乗」の論理から400年では充分に拡大している。
戦乱に巻き込まれない様に、「a−2の裔系」と関係する「bとc族等」をこの「神官族の要る所縁の地」に一部を避難させた事もあり得る。
然し、この場合、この「田原」は「圷の沼地」で大勢が住める地域では無かった。従って、移動するとすれば上記注釈の通り神官族の生活の拠点の「豊橋」と成り得るだろう。
2の事前説は、「伊豆の事」や「京綱の事」や「国友の事」から観て「2の田原」は先ずあり得ない。

次に、「国衆」と共に南下した「直前説」の更に前の「1540年の準備段階」の前の「事前説」はあり得る。

然し、「3の事前説」であるが、下克上と戦乱期初期は、寧ろ、額田から木曽路の山間部で生活していた方が安全である。
郷土史では、「田原の圷」は少し埋め立てられた記録があるので、生活はある程度可能であった。
全国の国衆が入り混じって戦っている地域である。
青木氏の記録から「南下の時期を見計らった事」が書かれているのでこの時期には必然性はない。

残るは4と5である。「事前説」は別として現実にはこの何方か、将又、両方かである。
答えから云うと、筆者ならは「移動のウエイト・主副」は別として「両方説」を採る。
それには「一色」の本貫名が左右すると観ている。

1 奈良期後期の浄橋飽波の嫁家した直ぐ後の源氏化路線での決別期
2 源平戦の頼政の事件の平安末期の混乱期
3 室町期の混乱期

4 国衆の準備段階の前期
5 国衆の南下期の直前期

唯、然し、この「5つの判断」には、そもそも“南に降りて来る拠点”と成った「一色」の「地名と族」に関してその「呼称」には二つあるが、これが大きく左右していると観られる。

そこで、これを検証しておく必要がある。

ここで、この「愛知県西尾市」の「一色」は、歴史的に1406年までは「一色氏・斯波氏系足利氏」の「本貫」とするものであった。
ところが、この「一色氏」は、本来は、「清和河内源氏」の「傍系足利義国の子」であり、「西尾の地」に「鎌倉幕府の地頭」で始めて派遣され住み着きそこで「本貫名」として「一色」を名乗ったとしている。
そもそも地容器で論じた様に「本来の格式を持つ一色」の「出自」では無い事から「時代性」が異なる。
「傍系足利義国の子」の「一色」は「9つの縛り」を護らなかった「源氏、取り分け河内源氏」には
更に、その格式と謂れは元より無く、そもそも「一色」は伊勢の「本貫名」であり、諡号ではない「姓名」である。

(注釈 守護職 1376年からの1476年間 変遷実質80年間)

上記で論じた「氏是の添書の書」に記載されている様に、本来のこの「一色」は、上記した様に「奈良期」からの「伊勢」から発祥した「一色・716年頃」である。
この「一色」が使われる理由とは「施基皇子・追尊春日宮天皇」を所以とする「伊勢の青木氏の格式」にあった。
それは何時からこの「一色」を使う事の「格式」が生まれたのかである。
そして、何処に「一色の地名」があるかである。

「一色の地名」
「三重」と「岐阜」と「愛知」と「京都」の四か所である。
つまり、ここは「五家五流青木氏の定住地」である。
ところが「信濃と甲斐」には無いのである。(それなりの理由があった。・源氏化)

「伊勢の青木氏 五地域・本貫地」
三重県伊勢市一色町。
三重県津市一色町。
三重県津市久居一色町。
三重県四日市一色町。
三重県桑名市一色町。

「美濃の青木氏 三地域・浄橋飽波の裔」
岐阜県瑞浪市一色町。
愛知県一宮市一色町。
愛知県稲沢市一色町。

「額田の青木氏 四地域」(三野の青木氏系4氏・伊勢の裔系)」
愛知県蒲郡市一色町。a−1の裔系
愛知県豊田市一色町。a−2の裔系
愛知県岡崎市一色町。a−1の裔系
愛知県豊橋市一色町。(吉田系・神官族・a−1の裔系)

「青木氏外の一色」(斯波氏系の足利氏 四地域)
・愛知県刈谷市一色町。
・愛知県西尾市一色町。 斯波氏系足利氏
・愛知県名古屋市一色町。
・京都府京都市上京区一色町。(斯波範光が京都所司代。)

以上の様に「一色の地名」は内容別に四つに分けられる。

「愛知県」は上記の通りの「北域の額田の一色」から「蒲郡の西域までの地域」に掛けての「北南の広域の地名」である。
「愛知県豊橋」は「吉田・田原の右隣」に位置し、「伊勢の神官族」と「伊川津青木氏(田原青木氏)」の領域であった。
この事で「額田の一色」が南に下がって行く過程がこの「一色の分布」でも解る。

但し、「愛知県西尾市の一色」は上記の通り鎌倉期に地頭として清和源氏傍系を名乗る「足利(斯波系)氏」が使った「一色」であり異なるし、及び「・印」は「西尾の一色の域」であり異なる。
中には彼の有名な一商人から出世した「美濃の斉藤氏」が「斉藤の姓名」がありながらも「一色氏」を名乗るなどの事が起こっている位であり、この時期から出自元を搾称誇示して「本貫名の搾取」が横行していった。

この様に、「一色の格式」を室町期に勃興した「諡号のない姓族・第二の姓族」は、この「本貫名」を利用して「権威と象徴」を搾取誇示する為に恣意的に搾取して用いて誇示しようとしたものなのである。

つまり、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、衰退したと云えども「美濃の青木氏を名乗る事」は出来ないのだ。
然し、そこで「美濃の青木氏族の様な氏名」を直接は使えない為に、この「権威や象徴に肖る」として「伊勢」からの「志紀、色、一色、一志」の「古来の地名」を利用して「本当の姓名」を名乗らず「一色の地名」を採って、如何にも「所縁」があるかの様に見せかける様に「地名・本貫」を「第二の姓名(第三の名)」として名乗ったのである。格式の搾取誇示である。
庶民から這い上がった「斉藤の姓等」はその典型である。全く無縁である。
「清和源氏河内系の足利氏の斯波氏」も直接的な所縁は全く無い。

(注釈 無理にあるとすれば、「青木氏を出自元」とする「仁明天皇」までの源氏であろうが、「仁明天皇」は未だ「桓武論説側」にあり故に「源氏制」を執らなかった。
源氏制は「嵯峨天皇の詔勅」からである。)

「志紀、色、一色、一志」の地名を使って「権威や象徴に肖る」為に、「第二の姓族」としては「藤原氏、菅原氏」等を始めとして「3氏族、3姓族」の「六つ」が使われているのである。

三重県は全て「四家の地域」であり、「伊勢市」から始まる。
「岐阜の端浪」は前段でも論じた通り「伊勢青木氏の領域」である。
「飽浪」の王名が変化して後に「端浪」と成ったとされ、「飽浪の飽の語源」と「端の語源」は意味合いとして一致する。

そもそも、この様に「伊勢の一色」の「格式」を利用して名乗った「第二の姓族」がある事が判る。
決定的には「(a)と(a−1)(a−2)と(bとc)」では無い族であって、600年以上の時代経緯の異なる「一色氏」を名乗る「諡号を持たない姓族・第二の姓族」には因みに次の「五姓族」が名乗っている。

上杉氏、斉藤氏、土岐氏、足利氏(斯波氏)、菅原氏の以上の五氏がある。

(注釈 上記の姓は氏是の添書に関わる「本来の氏族」とは異なる。
そもそも、「氏の族」ではなく、「諡号の無い第二の姓族」である。
後に、彼らは「氏の族」に成る為に系譜を搾取編纂して名乗れるようにしたまでの事である。
何故、この「五氏」が「本貫名」の「一色氏」を名乗ったかの「所以」は、三河の「本来の一色」は上記した「施基皇子」の“「しき」”の「色」による所以から来ているが、つまり、この「五氏」は“「地名の権威と象徴・格式」”で名乗ったのである。
そもそも、「嵯峨期」で改めて定めた「正式な氏族」と云うものでは無く、要するに「第二の姓族」であり、「諡号族」ではない。
従って、本来の「本貫名」の「一色」である事は100%無い。況してや「本貫」ではないのだ。)

(注釈 前段でも何度も論じたが、“「地名の権威と象徴」“を「姓名」とは別に「公的な呼称とする慣習・本貫名」が鎌倉期から興ったのである。幕府も緩やかにこれを黙認し許した。
「氏名や姓名」では無く、当初はその住んでいる「地名」に格式を与えようとする習慣であった。
そもそも、「朝廷の許可」に依って「名」を持てる「全ゆる族・910の諡の号」には、「名字、姓名、苗字、氏名」の「四つ格式」があり、これは「時代の経緯」で生まれた。
その結果、鎌倉期には其処に「名字、姓名、苗字、氏名」の「四つの名」の全てに「統治する権威」を保持する為に「地名」に「格式」と「意味」を与える必要に迫られたのである。
これが鎌倉期の「地頭制度の所以」である。
故に「地頭としての権威」の為にこれを最初に使ったのが「斯波氏系足利氏」であった。
そして、朝廷はこの「奈良期から仕来り」として「四つの名」には「意味と格式」を持たせたのである。
この「五氏」は本来は正式には古くは豪族・土豪であった事から「朝廷許可」の無い「名字か姓字」である筈である。)

ところが、室町期初期からは「戦国時代」で、「下克上」が起こり、この「地頭の族」に預からない者が生まれた。
この者等の「本貫名の乱用」に依ってこの「意味合いや格式」が異なるものと成って行ったのである。
逆に「正式な氏族」は「伊勢信濃の青木氏等」を始めとする「数族」に限られて仕舞ったのである。
つまり、この「時代の流れ」の結果として「存在」が限定される事に成ってその「氏の姿勢教義」から「白旗派の原理主義・律宗族」と呼ばれる様に成った。

取り分け、本来の「氏名を持つ者」は、何度も論じている様に、「嵯峨期」からは「縛りに適合する族」としては「青木氏」を始めとして「正式な子孫」を遺したのは「律宗族」しか無く成ったのである。
故に、字の如く多くの意味合いを持つが「律宗族」なのである。
この「本貫名」を使える「元の族の48氏の皇族臣下族」が遂には時代の変遷に依って淘汰されて行ったのである。
要するに、この原因は元を質せば「新撰姓氏禄の制度」では「958族」もあった族に与えられたその「各種の格式」が子孫に対しても決められて仕舞ったからである。

これを「嵯峨期の朝廷」が、「特別の範囲の身分格式の制度」を堅持する為に仕掛けた“「9つの縛り」”を、それ以降の朝廷は厳しく管理する事を放棄して仕舞い、その上で、これを護れず武力化した「姓化した源氏族」等は、これをどれ一つも護れずに厳密には「氏族」とは言い難い「無秩序な族」と成って仕舞ったのである。
そこで、護れない以上は止む無く彼らは「元の名(名字か姓名)」の何れかを持つ様に成ったのである。

然しながらも、そもそも元から“姓を持たない「名字・第二の姓族」は元から違った。
「一段上の諡号の姓」を持つ「姓名・官僚族」よりも、「地名」に「権威や象徴の格式」の影響力を持つ「本貫名」と、その「本貫名」に所縁のある“「苗字・朝臣族の名・氏名」”を搾取して名乗ると云う「習慣の流れ」が(一部は鎌倉期から)室町期初期から生まれたのである。

平安期と違って「武家社会」に成ってこれを「統治する政治力」は既に無く成っていたのである。
寧ろ、同じ立場を持つ政治家に執ってはこの「積極的なムード」を煽ったのである。
然し、流石に「青木氏」等の「真人族の氏名」だけは名乗れなかったのである。
搾取が見え見えで「効果」が無かったからである。
そこで、「施基皇子の一色等」の大田に名付けた「本貫名」なら何とか所縁があるのではないかと思われるかも知れないとして使ったと云う事に成るのだ。
「嵯峨期の詔勅の禁令」ではここまで禁じて居なかったからである。
この「禁令」では“「青木氏の習慣」”として禁じてはいるが、その「大田の字・あざの名」、即ち「本貫名」までは禁じていないとしたのである。

従って、これが「格式のある地名」などから「元の名・名字、姓名」を其の侭にし乍ら「公的な場」では勝手に誰にも文句の云われない「苗字・氏名」を名乗るという事に成って仕舞ったのである。
然し、流石にこれには「場所や人」に依って「使い分け」していたとする確実な記録資料があるのだ。

注釈 「大田の字・あざの名」、即ち「本貫名」までは禁じていない。
「場所や人」に依って「使い分け」していた。
この二つから明らかに「文句の出ない線引き」を「朝廷の暗黙の了解」があったと云う事に成る。
そうで無ければ「朝廷からの文句」が出ればその者は世間に対して「朝敵行為」として立場は無くなるだろう。
然し、「一色」を公然と使えているのである。
それは「鎌倉幕府」が「朝廷の許可」を得て「守護制度」の下に最初に「地頭制度」を用いたその最初は「斯波氏系足利氏の地頭」からであり、この所謂、「西尾一色」を使ったのである。
明らかに、権威性のある「一色の使用」には政治性が観られる所以である。


つまり、ここで話は元に戻るが、上記の通りこの代表的なのは「伊勢」の「志紀と一志と一色と色」に関わる「権威の一色」であったと云う事である。

つまり、行く就くところはこの「地名・本貫」に「格式」を持たせ、それを「名乗る慣習」が広まり「苗字、氏名」は「権威の場・朝廷の場での使用」と成って行ったのである。

中には、「農民・庶民」から「武士に成る者」が全体の大半を占め、更にこれが行く就くところまで行った事に成った。
これが「江戸期」には全く朝廷が認める「9つの縛り」の中に無い「第二の姓族」でさえ「氏名」や「本貫名」を勝手に名乗る者さえも出て来たのである。
完全に”「名字、姓名、苗字、氏名」の「区分け」”には、最早、「歯止め」が効かず無くなったと云う事に成ったのである。

「朝廷・西の政権」はそれでも飽く迄も「氏名」の「構成要件が整っていない」としては推薦された殆どを認め無かった。
ところが、それでも認められなかった「有名な件」では、前段でも論じたが、遂には「幕府の威力」を背景に勝手に名乗った典型的なものが「松平氏の徳川氏」であるし、「源氏の朝臣」や「藤原氏の朝臣」や「源氏の棟梁」等の「権威名」も名乗った。
それも「場所場所」で「使い分け」していた事が最近の研究で判ったのである。

この結果、最後には「西の政権」は「激しい経済的圧力」を掛け、「宮殿の塀」が崩れるまで締め上げて、「西の政権」は根を揚げる始末と成って妥協したのである。
然し、「源氏の棟梁」だけは決して認めず、「源氏の長者」で事を治めた経緯を持つ程であった。
上記の「五氏」も同然でもあったとされる。

(注釈 「江戸期の朝廷」は「西の政権」と呼ばれ、この様な「権威名等の格式の称号」を与える範囲で存在を認められた。
江戸中期には「西の政権」は遂に「経済的締め付け」を怖がり、結局は「幕府の推薦」で幕府に金銭を積み上げて猫も杓子も認められるまでに至った。
実質は「幕府の推薦」が「決定権」を持って「西の政権の存在」は無く成って仕舞ったのである。
「無用の長物」と成っていたのである。
この時、「伊勢と信濃の青木氏」だけが「幕府の黙認の許」で「献納」と云う形で朝廷を支援していて生活が成り立つ状況であったのである。
従って、明治初期には、政権を取り返した朝廷は「江戸期の全ての決定」を”認可していない”として破棄してしまったのである。
その最たるものが「藩」である。
これを抑えれば幕府の政治機構は無かったと云う理屈に成る。
[西の政権であった維新政府]は「藩」と「それに関わる全てのもの」は認めていないとしたのである。
従って、「江戸の期の藩」は”「政治機構」”では無く、あれは単なる”「家」”であったとして決めつけたのである。
現実には、「藩主と家臣」は契約に基づく関係にあり「家の中の関係」であったので、そうであろう。
この論理で「江戸期」に与えた「江戸幕府の権威」は全て「無」と成った。
依って、”正式な形で「西の政権」は続いていた”としたのである。)

「朝廷」は、そもそも、「嵯峨期の詔勅」と「新撰姓氏禄」と「9つの縛り」の「掟」に合わない「氏族」を構成していない。
それにも関わらず、そもそも「姓名を持つと云う形態」は論理的にあり得ず、「第二の姓族」である故に、「正しい氏族」は「諡号五姓の氏」のみであるとしたのである。

この様な例にもある様に、抑々、「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として使われたのである。

(注釈 「施基皇子」は「天皇に継ぐ浄大一位の格式」であった事から「春日宮天皇」と追尊されたが、「天皇の格式を有した者」でこの「本貫名」を使ったのは「四天皇」が居たが、結果的には最終は「施基皇子・追尊春日宮天皇」だけである。
「天皇位」は、明大一位・明広一位・明大二位・明広二位の四階級があり、この直ぐ下が「浄大一位」であり、「皇子」では「歴代最高位」であり「皇太子」より三階級も上位であり、この様な事例は歴代には無い。
それだけに「施基皇子の本貫名」は天皇に継ぎ「格式」が高いのである。)

注釈として これ等に関して伊勢に「書」がある。
この「書」の下記に論じる事は「青木氏の氏是」に添付されていた資料で、研究過程では全く難しくて歯が立たず判らなかった。放置していた。
それはそもそも筆者の苦手な「古代漢文」で記されてあって、当初は「般若経の添書」かと観ていた。
つまり、「施基皇子」が「伊勢王」と成って臣下した事に依る「賜姓青木氏の心得」を定める際の「経典」かと余りに解釈が難しい為に観ていた。
「漢文の解釈」は「漢字の語源の理解度」で大きく変わるからである。
其の後、筆者の研究が進み「青木氏の家訓十訓」の「解き明かし」とかが進む事で、この「書の意味」が違うと気づき始め、更に「漢文」を勉強し、「視点」を自由にして解こうとした。
最初に気づいたのは、「経典の解説書」では無い事は直ぐに解った。
それは、「青木氏の氏是」を定めた「施基皇子」はそもそも心根は「文化人」で政治家では無かったし、大宝律令の基本と成った「撰善言司」を務める研究者でも歌人でもあった。
これは当然にまだあまり普及していない「中国から入った経典の解読研究者」でもあった。
この事からその先入観を筆者が持っていた所以である。
然し、この「書らしきもの」がそこから芋づる的に「青木氏の氏是」を定める必然的な前提である事に気づいたのである。

その「書の成り立ち」はそもそも「理解の土台」の無い処に「青木氏の氏是」を急に定めても長い間には護られる事は補償出来ないとして、描き遺したものである事が解った。
そこで、「光仁期」か「嵯峨期」の所で、前段でも論じた様に「政争」から逃れる為にその「絶対的な必要性」を認識して、「施基皇子」の直ぐ後の祖の人物が「施基皇子の性格や生き方」から咀嚼して「青木氏の氏是」に付け加えて遺す事を考えたと観られる。
筆者は、この時期が「白羽の矢」の後の嵯峨期の政争期であったと観ている。
つまり、「桓武論説」と「嵯峨論説」の政争である。
この時から、伊勢と信濃は前段でも論じた様に「桓武論説側」に着き、「政争」から逃れる為に、二度と「白羽の矢」を受けない様に「女系の妻嫁制度」を執って「皇族」と一線を画したが、この時の戒めに在ったと観る。
そこでこの「書を書いた祖」は強く”「青木氏」は「青木氏」で行く”と云う「氏是」であると考えた。
唯、その時に、生きて行く上で「桓武論説側」である為に「伝統」として強く「氏是の前提」を遺す必要性に迫られたと云う事では無いかと考えられる。
「氏是の前提」を消えない為にである。
又、その「前提」を時代により変化しない様に子孫に「難しく書き記した」と云う事では無いか。

その「前提」で「書にある漢字の語源」を調べ一字一句を「足し算」の様に読み解いた。
これには「相当な歴史観」が必要とされた。
それが「下記の論説」の結果である。


さて、前段でも何度も各所で論じたが、「漢文」で書かれたこの「難解書」を改めて「氏是の前提」なるものを筆者なりに現代風に判り易く咀嚼して「要約する」とすれば、次の様に成る。

ただし、「漢文」とはそもそも「基本と成る解釈方如何」ではその「意味合い」が「古来の中国の漢字」の持つ「意味合い」で大きく変わる事が起こる。
そもそも漢字は時代の変遷で意味合いが異なって来る。
況して、この「書」は奈良期や平安初期のもので、「漢字」そのものが「古い語源の意味合い」を持ち、「現在の漢字の意味合い」とは一字一句相当に異なって記されている事に成る。
到底、完全解読は筆者では無理で「般若経の解読」とよく似ている。
依って、是非に「語源の習得」が必要と成ったのだ。
それでなければ「古い青木氏の書」から「青木氏の歴史観」を導き出し解明は殆ど無理である。

先ず、その歴史観の一つの「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として存在する。
それは次の理由による。

要するに、後にこれを「苗・なえの字・あざ」、つまり、この二つの漢字の意味を以て「苗字・みようじ」と云う事に成ったのである。
この「苗・なえ」はそもそも「縄・なわ」と云う意味があり、「なえ」は「なわ」に通じ、「苗のある域」、即ち、「縄の張る域」、即ち、「田の域」を確定する時に「縄張り」をしてその範囲を決めていた。
これがその夫々の「苗のある範囲」、即ち、「縄張り範囲」、つまり、これを「字・あざ」としての「単位」で区切られて名付けられた。

そもそも「大きな字・あざを持つ事」を前提として「氏・うじ」が存在し、許可され「氏の諡号」を賜姓された。
「大きな字・大字」を持たない事は「氏」を名乗る事は許されなかったのである。その前提である。
古来ではこの「大字」は「その者の功績」の大きさを意味していたからである。
「子字」以下では「氏」を名乗る事は許されないと云う事である。
それだけの「功績が無い」と云う事に成る。

そして、これを「格式の呼称」として区別する為に、判り易くするためにこの「氏の字・あざ」に「名を着ける事」が興こったのである。
これを「縄張り」の「苗の字・なえのあざ」、即ち、「苗字」と呼んだのだ。
そして、その「縄張りの範囲・字・あざ」が、「功績」に依って更に大きく成ると、遂にはそれが「地域」と成ってこれを「本貫の地名」と成って行ったのである。
故に、「本貫名を持つ事」は「大字の氏」である事が前提と成るのだ。

そこで、例えば、「氏の前提」の「字・あざ」には次の語源と由来があった。これを理解しなければ深意が判らない。
中国の象形文字から「字・あざ」は「ウの冠」と「子の脚」に依って構成されている。
「脚の子」は「男子の子供」の事で、「冠のウ」は「家」を指し、従ってその「家」の「ウの冠」は“高貴の先祖を祀る廟”を指していた。
この「廟の家」に「男児」が居る様を表したものである。
この合成象形文字で、この合成文字は「廟の家に男子」で「一つの族」を表し、この事から先ず「諡号の姓」の外にこの「族」を表す「「諱号」を「あざな」として「高位の者の習慣」として「字・あざな」を持つ様に成ったのだ。

それが更に進み、「ウの冠」は「冠位」を持ち、「脚部の子」は冠位を持つ者の尊称として使われる様に成った。
例で観れば、荘子,孟子、孔子の様にである。
荘子の荘は諡号の姓で国から与えられたものと成る。
従って、「字・あざ」は元来、「族位」、即ち「氏」と成り、この「氏」が持つ「田の縄張り」を「字・あざ」と呼称される様に成ったのである。
「大田の縄張り」が「字」であって、この「大田」を持つ「廟の家に男子」の「字・あざ」は「氏・うじ」である前提と成りこの逆も云う事と成って行った。
「字・あざ」は古来は「格式の初期の尺度」であった。

(注釈 古来の中国では「廟の家に男子」、つまり、「字・あざ」は「最大の誉」としたのだ。
この「慣習の流れ」が「字・あざ」・「氏・うじ」と成って儒教伝来されたものである。
「廟の家」に「男子がいない事」は「氏」としては成り立たない前提と成る。
要するにこれが「男系の理」である。)

故に、上記に説明する通り、「浄大一位」の「最高功績を挙げた施基皇子」がその「功績の表れ」としてこの由縁の「大字・おおあざ」を与えられ持ち、「氏に成り得る資格」を持ち得たとするのであるとしている。
これ等の「由縁の種」を以てこの我らの「氏是の根拠」と成り得ていて護らなければならい「絶対掟」であるとしているとこの「書」は説いているのだ。

古来、日本の飛鳥奈良期での経緯は「格式」を表現する手段として、「飛鳥期から奈良期初期」に於いては、その「者の功績」に依って「朝廷」より与えられた上記で意味する「田」の「縄張りの範囲」とそれを耕す「民の数」の「二つ」で以てその「者の格式」を表していた。
ところが、この「格式表現の方法」に限界が来た。
それが、「功績の積み重ねに依る拡大」と「官僚の増加数」にあった。
そこで、この「格式表現」の「田」の「縄張りの範囲」と「民の数」の「二つ」を基本にして「十二階」に分けて「格式の名称」を着けた。
これが、「推古期」の「冠位十二階の制度」であった。
その後、「大化の改新」を経て「天智期と天武期」には「官僚族」も著しく増大し、「功績に応じた褒章」も増え、「二つを基本」の範囲が広がった。
それで、これを「二十六階」、「四十八階」と増やされたが常にトツプの位置に存在した。
更に、それでは済まず、「格式」までのみならず”「服装の色」”までも決めて階の「格式の区分け」をしたが、「祖・施基皇子」は常に「濃い赤紫の色・黒紫」であったとされる。

そして流石にこの「グループ分け」のこれでは「格式の官僚機能」に「障害」が生まれ、これを「八の服装の色」で「グループ分け」をした。
これが「八色の姓制・やくさのかばねのせい」である。
後に更に「十二の草の色」に色分けされた。

中でも「浄位族・真人族・継承皇子族」は特別として区分けしたのである。
そこから、「天皇位の特別枠」の「明大一位から四位」と「明広一位から四位」に加え、この「浄大一位から四位」とか「浄広一位から四位」とかの以上の「十二階の冠位」が生まれた。
この時も祖は「浄大一位」であったとされる。
つまり、これは「祖の冠位」のみにあらず「永代の冠位」を示す。

従って、結論として、そこでこの「祖」の「施基皇子」の「浄大一位の格式の示す処」は、「最大の縄張りの範囲の字」と「民の数」を持つ者としての況や「苗の字」であり、つまり、それが我々裔の「青木氏」なのであると説く。

(注釈 その「八の草色」は「真人」。「朝臣」。「宿禰」。「忌寸」。「道師」。「臣」。「連」。「稲置」に曰くとある。)

(注釈 この書はこの事から「施基皇子期」に書いたものでは無い事に成ると筆者は読み取る。)

我々の「青木氏が持つ地権田」の「縄張り」がこの様に「広大」とすると、当然にそこには上記の通り「田の範囲を示す苗字・みょうじ」が生まれた事に成るのだ。
そして、それが余りに大きい為にこの「苗字」を「諡号の姓名」とするのでは無く、更に大きい特別の「氏名」として権威づけたのである。
故に、依って中でも「伊勢の青木氏」だけは「諡号の姓名」を持たない「氏の形で構成された大きさの族」なのである。
況や「正統な氏族」なのである。
これにより当然に「諡号の姓」は持たない事に成るのだ。
これが「浄大一位の族」である「特定の条件」なのである。
この「当然の事」に加え、所謂、「氏名の持つ族」である為に「諡号の姓名」の「識別紋」も無い事に成るのだ。
あるのは、所謂、「浄大一位」だけの「格式紋の象徴紋」と成るのだ。

況や、「浄大一位」であるが故に「神に仕える僕族」に必要とする「神木」をも持てる「唯一の氏族」であると成ったとするのだ。
それが「神木」の「青木の木・イ」であり、「神木の柏・ロ」であり、「笹・ささ・ハ」である。
そして、この「笹」は、「万の神々」の「百々・ささ」に通じ、「竜胆・ニ」は「八色の姓制の最高色」の「黒紫・浄大一位」の「浄・きよらか」に通じ、依って、これを「神に仕える氏族」が持つ由縁から「神の具」のこの色の持つ「笹竜胆」を「神の象」としているのだ。

故に、最早、これは「格式の家紋」では無く、「神に仕える僕族・氏族」の「象徴」としているのだ。
以上と説いているのだ。

(注釈 「具・とも」とは、その古来の語源は「とも」と意味し、古書に「神、宮の御人の唯一の供」としている。
つまり、「神明社の神供」にして「笹と竜胆」は「神の唯一の具供」である事を意味する。
平安期には遂には「牛車」などに乗り「高位の者」に左右に弓矢を持ち付き従う者を「具の者・ぐのもの」と呼び、これが「さぶろう者」・「侍・サムライ」と呼ばれる様に成った由縁でもある。
要約すれば、「神木の青木」、将又「神木の柏」に相当する木では無く、「神の草」の「笹と竜胆」は「神の具供」であるとしているのだ。
依って”「神草」”と云う事なのであろう。
況や、それが転じて「八色の姓・八草の姓・や草の姓」と呼称しているのであろう。
要するに、この「八色」は「神の草の色」であるとしている由縁である。
結論は、この「色を持つ者」は「神の子」であると定義づけている事に成るのだ。

つまり、それが故に「禁令」である「諡号の姓名」が無い為に、特別に「本貫名」として「志紀、色、一色、一志」と「大田の地名」として「裔の者が持つ田」には「苗の字」が「着けられる事」に成るのだ。
そして、これが余りに広大である為にこの「地権田の域」を「志紀、色、一色、一志」と名付けた所以である。

筆者の考えであるが、余りに大きかった為にこの「四つの本貫名」は「四つの田」に「個別の呼称」として名付けられたものと理解している。
故に未だ「伊勢」には現存するのだ。
この「四つの田の本貫」を合わせる「桑名」「松阪」「伊勢)」「多気郡」と「南勢旧領地の尾鷲域」を合わせると粗に「伊勢の全域」に近いのだ。

(注釈 別の資料に依れば「地域」だけでは無く、古書の中にはこの「田」そのものにも「権威」を持たせ「一色田」と書いたものもある。
これでこの「田」がどんな「田」か判る事に成る。)

「伊勢」には時の変化と共に地名が祖名の「志紀・施基」から「志紀」の「一志」と、「施基」の「一色」と、「浄大一位の役服」の「色」の地名と変化したのだ。

結論として、それが、その「伊勢の裔・青木氏」が「五家五流に拡大する所以」を以て、先ず、「伊勢の一色」は勿論の事として、桑名殿のこの「三野」の「伊勢の裔系」の「額田の地」だけに名付けられたと考えられる。

其の後の「他の一色」は、前段で論じた「三河等の子孫拡大」で広がったが、「青木氏外の一色」は搾取に依る。
従って、「9つの縛りの条件」には適合していない「三つの裔系」が、何時しか血縁して「土岐氏の一色氏」とか「足利斯波氏の一色氏」の系譜では、それなりの「所以」を持っている事では妥当であろう。
詳しくは「厳密な一色氏の考察」は論外とするが、これらの「一色」は元は一色では無く、干拓に依る「大きい田の表現」として用いられたと観られ、その「大きさ」が「字」より遥かに大きい「最大田」の「一の単位の大きさ」を「一つの表現」としていたと考えられる。

(注釈 兎も角も、然し、何度も衰退を繰り返した「足利氏斯波氏系一色氏」は、丹後に復興したが、「細川忠興」に依って1579年に完全に滅亡させられているので、この「一色の地名」は問題外でもあるし意味合いも少し違っていると考えられる。
既に、この時は「斯波氏」は「行動」を起こしている時であるので「時代査証」は違う。
「後付け説」とも考えられる。)

(注釈 前段でも論じたが、この様に「地名の一色」と同様に「権威や象徴」を持たせようとした他に典型的なものには、例えば「天皇家の式紋」の「五三の桐紋」を変紋して「秀吉の五七の桐紋」と同じ意味合いを持つ。この様な搾取は歴史的に無秩序に多くあるのだ。
この事は歴史観として留意する必要がある。)

依って、そもそも、この「書の説く処」は、この「祖」の曰く「青木氏の氏是の前提」は「浄大一位の諸々の由縁」を以て、その「裔系」は絶対的に護らなければならない「掟・前提・根拠」であるとしている。

(注釈 ところがこの後に「裔系の嵯峨天皇」に「賜姓族と令外官」を外された。
従って、この「書の前提・根拠とする処」は弱まったが、これを以て故に敢えて先祖はこの「一枚の書」を遺したか、その直前の「桓武期」に遺したかの何れかである。
直前では「桓武論説」と「嵯峨論説」が「醜い激しい政争」と成っている時期で、臣下間もなくの時期であるので、「皇族の影響」を何とか避けて生きようとしていた時期でもある。
この事からも筆者はこの「直前説」を採っている。
それは、この解きたく無くなる様な「難しい書の前提、根拠の書」の中で物語る”「神明社」”を裔系が守護神として護る以上は、それには”「賜姓五役」”が依然として「青木氏の施基皇子族の裔系の役務」として付きまとうが、この「役務」が遺されているからで故に「直前説」をとっているのである。)


唯、追記して置くとこの「書の前提、根拠」の「一つ」としての「一行」には、重要な事が記されいる。
それは「賜姓時の象徴」として授かった「大日如来坐像の所縁」が見逃すかの様に簡単に記されている。
ところが、実はこの「行」が大きく「青木氏の歴史観」に左右する程に問題があるのでここだけは「別書き」にする。


上記の「4と5の検証」の「一色の影響」の答えの前に、これを後にして先に「書」に関連するものとして「歴史観の繋がり」として:研究した事を追論して置く。

この「大日如来坐像」は、実は「最大の伝統物」として厳格に護られて来た現存所有するが「最大の形」として遺る「書の前提、根拠」のものに成るのだ。

これは「二尺の紫檀・宝木」で造られた「木像坐像、台座付」であり、「司馬達等の裔」の「鞍作止利」の作と刻まれていて、「作製年月日」が「大化1年末」と共にある。
本来は「木像坐像の仏像」としては「一尺六寸」が基本であるとすると規格外で疑問である。
これに「敷台、台座、光背、藍、如輪・・等」が付け加えられ相当大きいものに成る。
然し、「青木氏の鞍作止利」の「大日輪の木像坐像」は二尺である。
四寸(12センチ)も大きい。
「敷台」や「座台」や「光背」や「藍」や「如輪」を加えると裕に「七尺五寸程度」と成る。
全く規格外であり変である。

そもそも、「施基皇子の裔系」の「伊勢の青木氏」は「647年」に「第二世族第六位皇子」として「賜姓臣下朝臣族」と成った。
「仏師の鞍作止利」は「623年」に「30代の若年」で「仏師」として選ばれて「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「天皇の命」により作ったとされ、この時の「逸話」が幾つか遺されている。
そこから、「24年後」に「祖」は「賜姓臣下」して、この「大日輪の木像坐像」が「賜姓象徴物」として授かったとある。

それが、丁度、「作製年月日・大化1年末」のこの二年後に「天智天皇の大化改新」に依って「七色十三階の冠」が定められ、「天智天皇の皇子」の「祖」は「第六位皇子」として「臣下」して「朝臣族」と「最高冠位」を賜り、「賜姓」を授かる。
時が確かに一致する。

そうすると、然し、この時は未だ「伊勢の青木氏」は「神明社の神道」であった時期である。
当然に「仏教」に帰依していない。
帰依したのは記録から「嵯峨期の後」に「清光寺の菩提寺」を持った時である。

とすると、この「大日輪の木像坐像」は「仏像としての物」では無かった事に成る。
つまり、「書の行」にある様に、これは単なる「大日輪の木像坐像」は「賜姓象徴物」であった事に成る。
故に、「仏像木造の規定尺」が合わないのであるし、上記のこれに「付属する具物」が「仏像の体」を成していないのだ。

従って、「神道」であった頃の「青木氏の氏是の前提」としのこの「書の行の一つ」として書き込んだものとして採れる。
仏像では書き込めない筈である。
とすると、「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀・宝木」は「浄大一位(赤紫の冠位色)」と”「同じ格式」”を有しているのだとして書き込んだ事に成る。

恐らくは、この「書の伝えたい処」は、この「紫檀」は「最高の貴財木・宝木」で極めて高額で相当な天皇等の「高位の者」しか使えない、所謂、「貴財木」であった。近代や現在でも不可能である。
且つ、それが「天智天皇」が「大化の改新」で定めた”「七色十三階の冠」”が定める当に”「紫」”なのであるとしたのだ。

そして、更に、この「色階」に従う「七色十三階の冠」で「臣下」し「賜姓」を授かり、その後の「天武天皇」の「八色の姓」と「冠位十二階の制」で「最高位の浄大一位」と成ったとし、そして、「大日輪の木像坐像・紫檀」が是を以て根拠づけたと「書」は云いたいのであろう。

現在では到底得られない「高級な貴財木・宝木」であるのだが、「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀」は、「神とする大日」と「最高位の色を表す紫檀」と「仏師の最高位の鞍作止利」とを誇示したものと査証される。

何しろこの「紫檀」は極めて大木には成り難く当時では中国でしか僅かに植されず「貴重木」で、況して、この「大日輪の木像坐像」は「横幅」でも「台座」を含めても二尺以上の「紫檀の大木」から出来ていて何と夫々「一帳木彫り」である。
台座の表面の全体は兵站であるが、「長方形の陵」は「葉の葉脈」を形どっている。
台座の裏は完全に「神木の青木の葉形」か「神木の柏の葉形」の形状をしていて「葉脈」がくっきりと刻まれている。
そして、この「台座の敷座」は「長方形」ではあるが「完全な長方形」では無く、「葉形」である。

実は、筆者宅には、これ以外に、この「大日輪の木像坐像」に隋する「紫檀の敷座」は他に三つもある。
この「書」には、記載がないが、これ等を「一対」として保存していたと別の資料に記している。

先ず一つは、「畳一畳分の紫檀の大敷座」の一つと、その「半分程度の敷座」が二つがある。
「大敷座」は「6寸・約20センチ厚み」で中を「3寸・10センチ程度」に刳り貫かれ形は、「長方形の何かの葉の形・青木か柏」で、この「大敷座」はこの「大日輪の木像坐像」の「元座」であったと観ている。
この「紫檀の大敷座」の上に「大日輪の木像坐像」が鎮座していたと口伝で伝えられている。
今は「大日輪の木像坐像と台座」だけが安全な場所に別に保存されている。

そして、他の「紫檀の二枚の敷き座」は、「5センチの厚み」で「青木葉か柏葉の同形の半畳程の座」である。
この同形の「紫檀の二枚の敷座」は「大日輪の木像坐像」の「紫檀の大敷座」の上の左右に納めて、この上に「飾り」と見られるものを「置く台」であったと観ている。
この二つに付いては「口伝」では残念ながら伝えられていない。
現在は「紫檀の二つの葉形の小敷座」は「二尺半程度の大花瓶の敷座」として利用されている。
非常に大花瓶とマッチングしていて違和感は無い。その為の物としか見えない。
然し、この「二つの敷座」が「大花瓶の花の飾り」に使用されていたのかは記録が無いので定かではないが、「伝統」として「大花瓶の敷き座」としては用いられて来た事は判っているし観て来た。

そこで筆者は「大日輪の木像坐像と台座」を中央に「大花瓶の左右」にも象徴する何かを据えていたと観ているが発見できない。

実は、更にこの「大花瓶」は「大小の対」で共に同色の実に「綺麗な青磁」である。
「対の花瓶」に「一尺程度の青磁の花瓶」が「対」として存在する事に成りこれも伝統として観てきている。
この大きさは最早花瓶では無いだろう。
この「大花瓶」そのものが「飾り」であった事が伺える。
この「花瓶類」が「賜姓象徴物」であるかは今は「記録」が見つからないし口伝も無かった事から判らない。
後に売買で獲得したのであれば「商記録」に載る筈である。
実は、{古来の中国の歴史}を調べると、この「青磁」には「歴史的決まり」があるのだ。

そもそも、この様な「青磁」は元来、“持っては成らないしもの”とし、且つ、超々高額な「玉器」を持ち得ている者として扱われるとされる。
要するに、「持ってはならないとする事」は「ある種の象徴物である事」を意味する。
これは規律の厳しい「儒教の決まり」であるとしている。
これを「中国の儒教」もそれに準ずる「仏教」も「所持」を禁じ、且つ、「天皇」も禁じていたとすると「象徴物」である事に成ろう。

「花瓶の形状」から「年代」ものである事は素人の筆者が観ても判る。
筆者は物理学が専門でこの種はある程度の知識を有する。

その根拠を説く。
この「青磁」は、紀元前(新石器)からのもので、中国や北アジアなどで造られたもので、4種類ある。

「緑釉(中温性銅イオン・酸化第二鉄)」
「天青釉(コバルト)」
「果緑釉(高温性銅イオン)」
「青釉(アルカリ性銅イオン)」
以上で造られる。

これ等の四つはその金属の化学反応の炎色反応での発色で起こる事である為に「青磁の色合い」で見分けが着き、従って、その青磁の貴重度も解るのだ。
金属であるが故にその土の産地も解り生産地も解る仕組みであり、その金属である為に発色に必要とする「温度」も解り、「高い温度での発色」はそれだけに難しく,高低の温度でその「青磁の貴重度」も解るし、その金属の生産時代から時代性も解る事に成り貴重度に大きく左右するのだ。
当然に温度に左右してその「青磁瓶の形状」でも難しさが変わるのだ。


それぞれ「時代性」が異なり「生産地」も異なる。
日本には「平安初期」に貿易により盛ん入る。
日本の生産はかなり遅れて「江戸中期」の「有田」で生産が始まる。
ところが、この「有田の青磁」は、日本の土壌はケイ素酸が多い為に「色合い」も異なり「音」も違うし、形も「水仙型」が主流で低温性に近く「陶磁・無釉」に近く簡単に見分けは着く。
つまり、品質は低く中国の古来の青磁には数段劣る。

そもそも、「青磁」は中国では「儒教」だけで使われ、その「儒教」では「尊厳の象徴」として扱われそれを意味し、将又、「玉器」として扱われ、玉器、即ち、「貴族のみ」に用いられるものとして扱われた。
日本には「奈良期初期」に「渡来人の阿多倍等の後漢人」より青磁物が伝わる。

即ち、従って、「奈良期の大和」では、これを「持つ事」は「高位の貴族のステイタス」とされ他の者には禁じられていたのだ。

従って、「大日輪の木像坐像と台座」と同様にこの「青磁」は「大日輪の木像坐像と台座」とセットで用いられたものである事が解る。
恐らくは、セットとすると、「賜姓時の象徴物」であった事に成る。

筆者の家の「壺口狭型の青磁」は見立てではその色合いから間違いなく上記の「青釉(アルカリ性銅イオン)の青磁」である。
依って、時代的には4つの中で最も古い「青磁」と成り貴重度も品質も良い事に成る。
取り分け、「青釉の花瓶」の「瓶」の「壺口狭型」は古く中国の製である。

故に、「賜姓象徴物」であった可能性が高いのである。
(花瓶類は後に「遺品シリーズ」で論じる。)

この「花瓶」とは別に、この全ては「紫檀の三つ」も現存するが、仮に「仏像」では、そもそもこの様な「扱い事」、つまり、「三重の形式」は採らない。
「大日輪の木像坐像」を含めて明らかに「賜姓の象徴物」として授かった事は、この同じ「三つの紫檀の敷座」と合わせると、「仏像」そのものでは無かった事が「状況判断」できる。

仮に「浄土密教」であって、「大日如来」を崇めるとすると、顕教の「釈迦如来」の「仏像形式の様式」を抑々有していない事が問題として挙げられる。
様式的には何れにも明らかに違っているのだ。

(注釈 この「紫檀の賜姓象徴物」の「一対」はどの様な所に安置されていたかを述べる。
その事でも、凡その「祭司物」として扱われていたかは判る。
先ず、「民家」でも無く「武家屋敷」でもない事が判る。
筆者は全く記憶が無く、祖父の親族とその縁者から説明を受けその状況を再現した。
明治35年に家やこの家に保管されていた遺産などのものは消失した。
幸いに「福家の家」の細部に渡りよく覚えていた。
そもそも「家」と云うよりは当にそのものの「館」である。
氏と氏人の「政治館」の様な役割を果たしていたと云う事である。
その前に、この「館類」には前段でも論じたが、先ず一つ目は「松阪城」を中心とした「中町の侍屋敷群(現在の殿町・御城番屋敷)」に「蒲生氏郷」から「九番から十一番の三区画」の邸を与えられていた。
更に、櫛田川北側(松阪・現在の中町)にも「自前の館」を持ち、松阪(現在の京町)には「菩提寺と来迎寺」に近くに「福家の館」を持っていた。
そして、「松阪(現在の本町)」には「紙屋伊勢屋の本店」を持っていた。
その他にも殖産などに関する館を持っていた。
ここに述べるのは最も「青木氏を物語る福家の館」である。
他は夫々の目的を以て「館形式」は構成されていた。
取り分け、「九番から十一番の三区画」の邸は「伊勢の政治」に関わる決められた「間取りとの様式の体」であったとされる。
これを「三区画」に分けて「城との関係事務所」を三つに分けていたらしい。
一つは「城との殖産」、「城との商い」、「地権域の政治」であったと説明を受けた。
それだけに大きかったと云う事である。
「櫛田川の北側館」は殖産関係の事務所」であったとされる。
最も上記の状況証拠と成り得るのは矢張り「福家の館」であろう。
そして、ここは他と違って説明に依れば「大きな寺の様式に似ている事」は判る。
その説明を完全に表現できないが縷々述べるとする。
そもそも、上記した遺産のこれ等は当家の「仏間」と云う処に安置されいた。
その間は、右には相当大きな「仏壇」の安置の間と、左にはこの「賜姓象徴物」の安置の間に分かれていて、此処には紫檀の敷座の上に「青磁の花瓶」が据えられていた。
夫々、東西に「一間の幅」と「南北の奥行き」が「四尺の奥行きの安置場所」を持ち、ここに納められていて、「残りの二尺・後ろの北」は関係する物の収納庫であった。
その前は「板敷の間」であった。
この「板敷の間」は二間・一間の板間を持っていた。
この「板敷の間」に連なってこの南側には「二間・二間の大広間」があって、「祭司の際」は襖を全て外して、此処に一族が参集する仕組みとなっていた。
この南側の大広間は「大客間」と呼ばれ、東には南北に二つの床の間があった。
尚、客は、先ず、四畳半の「玄関の間」に上がり、次は四畳半の「控えの間」に移り、その次は「仏間」に移り、最後にはこの「大客間」に南向きに入る仕組みであって、「控えの間」では客に抹茶を持て成すのである、
此の控えの間が「書院造り」であり、常に「四季の軸」が掛けられ「茶道用具の漆器の茶箪笥」があり花瓶の壺に一輪の「所縁の花」が飾られていた。「接待の間」と呼ばれていた。
この「玄関の間」は二つに分かれていて、先ず、南から扉を開けて入る客は「石敷の四畳半の受付の間」に入り、ここで「正式な挨拶」をして、そこから「四畳半の玄関の間」に上がる。
この「玄関の間」と「受付の間」の高さは「半間」あり「二段の階段」で上がる事になる。
この「玄関の間」には東に低い棚があり、ここには所縁の物が置かれていた。
その後の北の間は、此処は「畳敷きの控えの間」に成っているが、合わせてここを「仏間」等の呼称で幼少の頃は呼称していた。
周囲は全て襖で仕切られていた。
二つの床の間には青木氏を物語る所縁の物(遺品シリーズ)が二つに分けて祭司されて、南床の間には軸が掛けられていて、全ての周囲の欄間には「横軸と額」が掛けられていた。
この「大客間の西側」には同じ大きさの間でここは「談間」と呼ばれていて、これが左右に在って、これを半間の廊下で連なり客は最後にはここに移り、庭の「枯山水」を愛で和歌や俳句等や俳画や水墨画を書いて楽しむ間であった。
最後は、更に南の西六畳の間に移り、枯山水の青石や紫石の石畳みを渡り裏門から帰る。
生活や家人や家の者は東別棟に住し、これらの間は更に北側と西側の四つの間に連なり、客は東門から入る者は同じ様な仕組みの間に入り団欒する。
客は自ら何れの客層かを判断して正門の南紋か西か東の門から入る事に成る。
北門は無かった。
北の間の四つには「控えの間」があり、此処に数人の執事が控えていた。
西別棟には弟子等の別棟があった。ここから執事が北の間に入る仕組みであった。
この別棟で内弟子等に絵画和歌等を教えていた。
一般の教養で習う弟子等もこの西別棟に入った。
「紀州の別低」も筆者の「記憶と口伝と調査」でもよく似ている事は判る。
全体としての印象は平等院の様な感じである。)

実はこれらの内、「賜姓象徴物」だけに危険が生まれた事から平成10年10月15日にこの「賜姓象徴物」だけは「安全な場所」に保存され祭司されている。
青木氏氏研究室 NO222 青木氏のステイタスの論に写真記載) 

(注釈 相当以前に前段でも論じたが、渡来人の「司馬達等の孫の鞍作止利」の像を、其の子孫である「歴史小説家の司馬遼太郎氏」が勤め先の「産経新聞」を辞した後に、予約を取り筆者の松阪の家を訪ねて来て、この「大日輪の木像坐像」を観に来た事があって、現存する彼の先祖の作を観て感心して帰った。
其の後にこの事に就いての「歴史の単行本」を限定して関係者に発刊した。筆者の家にもある。)

(注釈 「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「飛鳥寺の金堂」に入れる際に「規定尺の仏像」が入らず「鞍作止利の発案」で何とか入れたとする逸話が遺る。
当初、前段で「仏像・ぶつぞう」として論じてきたが、この論を論じると、訳が分からなくなる恐れがあって、此処で、敢えて”仏像では無い”と論じている。
この上記の「氏是の書の事」も同然である。
研究している過程で各所の歴史観が替わって行き修正に苦労努力している。
勿論、「書の解明」が可成り後の歴史観を得た研究結果である事も含めて、此処に記した。
この避けていたこの「書の研究」で「青木氏の歴史観」は大いに替わり全てを見直す羽目となった次第でもある。)

(注釈 一部前段で触れた事があるが、この「氏是の書」の後にも、更に別に「青木氏の由来」を書き記した「由来書」が在って、「平安期末期までの由来に関わる事」で、当然に、室町期の中頃の先祖に依って書されたものでその期日も書き込まれている。
この「由来書」も何しろ漢文の解読困難な草書で、みみずが這った様な「超難解極まるこの書」である。
又、この「書」からその一部を抜き出して「軸」にして飾られている。
何故一部を抜き出したのかは判らない。
極めて「達筆」で近所の「書道の心得」のある人に解読を依頼したが、この「漢文」は苦手と云う事から充分な読み取りは現在も出来ていない。
恐らくは、何らかな青木氏に関わる「歴史的由来」そのものより「達筆性を競った軸書・悟り」であると考えられ、「禅宗の僧侶との競い書」であったのではないか。
「数人の禅僧の書」もある故に、「書の競い・即ち、悟りの境地」の会のものであろう。
この頃、この「書」を通じてのこの様な「慣習の禅宗書会」が室町期にはあった事は歴史観として承知していて、「永平寺の高僧」の「書」を後に額にして欄間に架けられている。現在もある。
何度かの挑戦で凡その「読み取り」は出来ているが、充分な研究には至っては居ないが、其れなりにその一部は「歴史観」として本シリーズで活用して論じている。
何れにしてもこの「二つの難解の書」の解説の一つをここに記した。)



「美濃の経緯」に付いて元に戻して。
上記の残りの「4と5の検証」である。
(重複)

1 奈良期後期の浄橋飽波の嫁家した直ぐ後の源氏化路線での決別期
2 源平戦の頼政の事件の平安末期の混乱期
3 室町期の混乱期

4 国衆の準備段階の前期
5 国衆の南下期の直前期

この「4と5」の時期の検証には「一色の本貫名」が「決め手」として関わっていると説いた。
美濃の中で、額田に伊勢の本貫名を使う事は滅亡する前では普通は当時の家族制度の中では「仕来り」として「嫁家先」では許されず難しい事である。
桑名殿の子供の「浄橋」は790年没、「飽波」は787年没である。
少なくとも「伊勢の本貫名」である以上、この間に「一色」を名乗る事には成る。
当然に奈良期の末期か平安期直前までである。
其の後に、合わせて時期は別として「清光院と清光寺」が創建されている。
「追尊二世族の別居の家」としての「清光院」を建造するとした場合はこの期間内である。
「神道」であった時期から「仏教」にも帰依した「伊勢」のこの二人の「伊勢の裔系の菩提寺」の「清光寺・密教仏教帰依・律宗族」は嵯峨期の少し後に成る。

「美濃族の拠点」であった「額田」に「本貫名の一色」を公然として着けられるには「鎌倉期の西尾の一色」より前の時期と成るが、歴史に遺るのは室町期に入ってからに成るだろう。
「墓所」」を伴う「一色の清光寺」は、美濃の「伊勢の裔系」が拡大した「後の事・10代目頃・裔係数500人前後」に成り、「青木氏の伝統の掟」から「住職」も「伊勢」から求めなくてはならない。
そうすると、3は無理と成り4の直前期に成る。

(注釈 伊勢と異なり嫁家先の美濃では「墓所持ちの菩提寺」は「伊勢の裔系」の一族で最低でも初代から10代目位・約400〜500人で当時の平均寿命50歳から500年で成り立つとされていた。
子孫拡大率の数式論からもそうなる。)

そうなると当然、4と成る。
これ以前に渥美に大勢の伊勢の裔系が降りて「神明社所縁の地」の定住する事はそもそも危険である。
取り分け、(a−1)は先祖の清光院と清光寺を護らなければならないし、「裔の本筋」は動かす事は無理であり、(a−2)族とその関連族としても「大人数の大移動集団」で無力であり目立ちすぎ危険で無理であろう。

そうすると、4と成ると何にしても「a−2の裔系の家族」が「神明社所縁の地」に先に行く事に成るだろう。
これを護るために一部の「bとcの族」等一族郎党が付き従う事に成る。
そうすると、誰が考えても何らかの策が取れれば1540年とされている「国衆」としての「最終的南下の準備段階」の前に行うべき策と成る。
それが「国衆」としての戦士ではない者等(家族とその一統一門等)を先ず“「何らかの形」”で移動させるべきである。
それでなければ後にする策は武力の無い者が間違いなく犇めく他の国衆に晒される。
つまり、これ等の事から考察すると5では無い事は直ぐに解る。
5は飽く迄も「国衆の戦士の移動」であり、これを前期と後期に分けている可能性がある。

そこで問題に成るのが、“「何らかの形」”であり、つまり「大人数の大移動集団」を移動を完全に安全に解決できる手段があるかである。
どの様に目立たずに「額田」からどの様に移動させるかである。
然し、その経緯を記したものが何故か見つからない。焼失か。

そこで、筆者は前段でも論じた来たが、一つの過程を持つていた。
これは「伊勢」が執った特別な行為がある。
それは“「御師様 A」”とそれに関連した“「伊勢信仰 B」”と“「神明社の方針転換 C」”が物語るのだ。
これに関連して「浄土衆の白旗派の律宗の幕府の決定 D」であった。

これ等は前段で論じた事であるが、当時の状況証拠をもう一度考察して観る。

当時、「熊野信仰」に押されて衰退していた“「伊勢信仰」”がある事で復興しかけて未だ何とか下火で続いていた。
それは、要するに“「御師様」”と“「神明社の方針転換」”に関わった。

結論から言うと次の様に成る。
これが筆者が考えている「過程」である。

これ等の要素を利用して、一度、「伊勢シンジケート・伊賀」の「手引き」で護られてまず「伊勢」に行きそこから「伊勢水軍」で渥美に一挙に移動させたと考えられる。

さて、丁度、この頃、伊勢湾でも“「伊勢の水軍衆の混乱」”が「信長の指金」で起こっていた。
この「二つの混乱事」を利用した可能性がある。

先ず、「伊勢信仰の考察」である。
「足利幕府」に依って推奨され、下火に成っていた「伊勢信仰」は「熊野信仰」も凌ぐ程に成り、遂には「庶民の信仰」として許されるまで成って行った時期でもある。
これを契機に同時に「伊勢青木氏」は「御師・おし」と呼ばれる「神明社の神職組織・隠密情報組織」が全国を廻って“「庶民信仰」”を呼び掛けた当にその時であった。

それまでは「青木氏」が管理する全国にある500社弱に上る「神明社」はある一定の格式を有する族の「信仰対象」であった。
この時、足利幕府は浄土宗を青木氏の白旗派と定めた。
これを契機に「伊勢」はこの「神明社」を「庶民の信仰対象」に切れ替え「青木氏の神職」を動かして「大宣伝戦」を繰り広げた。
室町幕府の許で「庶民信仰」に切り替わった「伊勢信仰」と連動させたのである。
これに伴い「神明社信仰」も動いたのである。

そもそも、この「御師・おし」は「御師様・おんしさま」と呼ばれ「守護神としている伊勢青木氏」の支配下にあり、その様に呼ばれていた。
「御師組織」とこれに相まって「伊勢シンジケート・伊賀衆」と相まって「桑名」までの「約70kの距離(32里・3〜4日・徒歩15時間)」を「大集団の彼等」を保護した可能性が極めて高い。

注釈として 集団を幾つかに分けている可能性が高い事である。

(注釈 室町期初期に幕府の「原理主義の白旗派」を「浄土宗と決めた事」に対して、同時期に「御師制度」を態々、組織した事は「何らかの政治的な関係性」が在ったと考えられる。
そして、その「伊勢と信濃の青木氏」を「律宗族とした事」には「浄土宗の権威と象徴」の頂点を決めた事に等しいし、「律宗族」として呼称して「権威性」を持たしたとも考えられる。
その代わり、同時に「伊勢神宮」も「神明社」も「信仰対象」を「幕府」も「青木氏」も同時に「民衆の信仰対象」として決めた事は偶然では無いだろう。
それには青木氏側には、「この件の思惑」が働いていて「政治的行動」を幕府に働きかけたと観ている。)

注釈 弱体化するも「足利幕府」と「浄土宗徒」を味方に着けた可能性があるという事での駆け引きであったのではと考えている。
それを証明する記録はないが、歴史が物語る。
1467応仁の乱勃発
1470年頃から1490年頃まで一揆が各地で多発する。
1490年〜1532年間では移動通路と成る美濃ー尾張間は木曽川に挟まれた地で「一種の空白地」であった。
1540年松平家康は今川氏に人質。
1542年に斉藤道三は土岐氏を倒し美濃奪う。

当初は「暗黙の禁の地」に相模の国衆が尾張に入り「五藤家の居館」を建てた地域である。
ここにこの後の1532年に丹後の国衆の山内氏が入る。
五藤氏は山内氏の家臣と成る。
その後、山内氏は勃興する織田氏の家臣として「城代」と成った地域であった。
これ等から1542年までは「一種の空白期」である。
その後に遂にこの「空白地」には「美濃と尾張」を制した斉藤氏勢力下に置かれていた。

この「美濃ー尾張間の戦況」を「御師らの情報」を基に敏感に呼んだと観られる。
この事からも「移動」はこの「空白地と空白期」を利用したと考えられる。

(注釈 この空白地と空白期は朝廷の天領地から幕府の幕領地に替わり、肥沃な土地を荒らす事を周囲の豪族は避けた。ところがこの「暗黙の禁」を五藤氏が破ったと云う事である。
雪崩の様に争奪戦が起こった。
「庶民信仰」は元より「国幣社格」であり名目であった。)


ではどういう事かと云えば次の様に成る。
況して、「AからD」を以て「名乗り」を「一色の伊勢の裔系」とすれば「御師様のお墨付き保護」と「伊勢シンジケートの影の保護」で安全に移動できたと考える。

後は海運では最大規模の安全に武力の持つ「伊勢水軍」で「渥美」に移れば良いだけに成る。
誰も襲うも者はないだろう。
伊勢がその後の糧を保証する。
全く問題はない。これらの時期を見計らったのが4の時期であったと観ているのである。
これが何らかの形の策である。

これで「4と5の問題」は検証できたと考える。
1540年から始まつた「準備段階」の前の「渥美移動の準備計画」であった。


1159年に入った「伊勢と信濃の融合族」の「伊豆」に対してその後に「脅威」が三度起こった。
一度目は入りたての時期に「源平戦の影響」での「駿河伊豆間」の「神明社シンジケート」が遮断された。
二度目は信長により「美濃三河間」の「神明社シンジケート」が遮断された。
三度目は江戸初期の「神明社引き渡し」に依る荒廃で「神明社シンジケート」が遮断された。
以上の三つであった。

その大きな元は前段と上記とで「美濃」にあったと説いた。

「源氏化した美濃」が滅亡して、結果として美濃の「神明社シンジケート」が遮断された事にあった。
この事から「伊豆を護る」にはこの「早急な修復」が「一族の喫緊の課題」であった。
取り敢えずは「伊勢水軍」と「残存の駿河水軍」の「ルートの水路」で何とか「伊豆」を補完していた。
その為にも「伊豆」は必要な「三つの湾(内浦、下田、稲取)」に「一族の四家(福家 湯ケ島)」を配置して、そこから何とか細々と「情報を含む生きる糧」を内部(梅木等)に補充していた。
そして、「伊豆の入口(イ地域 三島等)」には「陸路の拠点」を置いて、「陸路の繋」と「水路の繋(藤枝)」として充分では無かったが取り敢えず急いでの「伊豆態勢」を整えていた。

ところが、「戦国時代」は益々激化して「伊豆」も「情報網」と「生活の糧」と「商品の入手」が困難に成った。
「伊豆」には「秀郷流青木氏」が後ろに控えていたとしても喫緊性に欠けていたので危なく成った。
「室町期末期」の「秀郷流青木氏族」の「主力の永嶋氏」も背後に「三つも戦い・織田軍と秀吉軍」を抱えていた。
「水路」があったとしても緊急には間に合わないし「抑止力」は小さい。
元の様に繋がった「シンジケートの強い抑止力」が何としても必要とした。

それが、上記で論じている「美濃の修復作戦」と「神明社の修復作戦」なのである。
これを「氏是」を破ってでも「上記の作戦戦略」で一度に行おうとした。

「陸路と水路の両面」から「大作戦」が「伊勢と信濃の連携」で開始された。
室町期は「紙文化」で「巨万の富」を獲得していて「財力」には全く問題は無かった。
「美濃作戦」はこれを生かした「伊豆救出作戦の経緯」の一つであった。


さて、上記の事を再び考慮して、そこで「断絶の元」と成った「美濃の件」の経緯を進める。

その後、この地を領国として治めていた「今川氏(駿河)」が滅亡し、三河松平の家康が“「1560年」”に信長に味方して「三河・遠江」を抑え獲得した。

(注釈 「伊豆」は関東官僚の上杉の統制下にあった。)

前段と上記でも論じたが、「伊勢と信濃の戦略」で、従って、「加茂木曽の山間部」に潜んでいた「三野王の子孫」の“「美濃の青木氏(額田青木氏)」、”、つまり、”「(a−1」(a−2)」”と「bとcの族・元官僚族」が、先ずこの「額田の地」にまでに押し出せた事に成った。

それには、それなりの「重要な経緯」があり、先ずはその時期は次の様に成る。
唯、実は歴史はこの前に動いていた事が判るのだ。

先ず、一案としては「1560年の直後(本能寺1582年)」である事に成るとした。
ところが「注釈」として、実際は“「1540年代後半の早期・準備」に進出していた”とする記録があるのだ。
恐らくは、これに従えば、“「国衆」”として「家康」に認められて組した時期が「1560年の前後の頃」と判断できる。
「準備段階」からすると「約20年後」である。

そこで、資料類を繋ぎ合わせて検証して観る。
つまり、「伊勢と信濃」は、先ず「額田青木氏」として「三河一色の地(額田一色)・松平の支配地」に下ろして来て入らせた。
この事は、既に、「加茂木曽の山間部・シンジケート」に潜んでいて、「伊勢と信濃」はその「子孫の成り行きの事」、つまり、「額田青木氏、一色青木氏、美濃端浪の青木氏」」を把握していた事に成る。

もっと云えば、存在していた「土地の問題」である。
「伊勢と信濃」は、この「一色の地」にこそ、源平戦で滅亡したがここは元は「美濃青木氏の地」であった事を知っていた事に成る。
そして、源平戦後にここを「額田青木氏の拠点」として「(a−1」の「浄橋飽波の裔系」が住んで「加茂木曽の山間部」に潜んでいた「(a−2)や(bc族)」に差配していた事に成る。

そうすると、下記の検証より「美濃青木氏」の始祖の「三野王」の「戸籍上の本貫」は、「北の揖斐域」と「真南の大垣」とを「縦の直線」で結び、この「真南の大垣」と「東の土岐」を結ぶ「直角の三角州の野」の中にあった事に成る。

つまり、この「直角三角州」の「北の斜線上」には「各務原の野 1」が在って、「大垣の野 2」と「土岐の野 3」を結ぶ直線上には「小牧の野 4」が存在すると云う「四つ構造の野」に成っていた事に成る。

これを紐解けば、「奈良期の美濃」とは、「額田」を入れたこの「5点の間(額田)」に、北側には「揖斐川」、中央には「長良川」、東側には「木曽川」と「土岐川」の「四河」を挟んだ領域に囲まれた「周辺一帯の地域」であったとすると、「古書の記録」と一致する事に成る。


更に、これを検証して観る。
「大垣と真東の土岐」との間は57キロ≒60キロ
「大垣と真北の揖斐川」の間は17キロ
この大垣を起点とした「三角形の面積」は、凡そ、510Ku
以上と成る。

そうすると、「古書の記録」とには、「額田の蒲郡」と「西側の一色」との位置には南側に少し“「ずれ」”が起こる事に成る。

「蒲郡」と「土岐入口」とは真北に70キロ
「蒲郡」と「一色」とは真西で真直角に20キロ
以上の位置にある。

この「古書」に依れば、結局、次の様に成る。
「入江」は「北の山側」に凸に食い込んでいた。
「圷の野」は大きく南方に広がっていた。
以上という事に成る。

これは「三野王の時代」から既に「700年後」である。
つまり、これは次の事に成る。
70キロの「圷の野」が広がったという事
つまり、100年で10キロ進んでいる事
以上に成る。

そして、これを「地形的」に観ると次の様に成る。
「土岐―蒲郡」の間は、「丘陵・山沿い(海抜200〜300m)」である。
「土岐」から「蒲郡」まで南に70キロと云う事に成る

これで「700年前」より東には地形的には変化していない事に成る。

そこで、その「丘陵」から真西に直角に20キロの位置に、この“「額田の一色」”があったとすると次の様に成る。
20キロ/60キロ≒1/3と成る。
美濃の「1/3の圷の野」は、「三つの河の影響(土岐川は丘陵・山沿いに流れる。)」で「尾張側」に広がった事に成る。
以上に成る。

とすると、「額田の一色」は、「三野王の頃」から最低でも「150年後」の「800年の平安期初期頃」、つまり、「施基皇子没後、85年頃」には、「額田の一色の土地」は、先ず、「土岐」よりの「山沿い側」に在った事と成る。

つまり、“「100年で20キロ」”と云う「圷の経過期間」を経て居る事である。
これで「額田の一色の圷」は、既に「野」として存在した事が充分に云える。
この事から「額田の一色」は「野」であった事から存在し得ていた事に成るのだ。

故に、上記した様に「施基皇子」の「伊勢本貫の格式」の「一志」「志紀」「色」、又は、「一色」の「地名」の「格式由縁」を以て、没後80年後はそれと同時に、「三河国」にも「しき」の「一色の地名」として、額田後に“「地名」”として名づけられたと考えられる。

これは「血縁族の美濃の青木氏」の「存在の由縁」であった事に成る。
そして、それが「滅亡した美濃青木氏」では無く、「額田の青木氏」であった事に成り、「伊勢の桑田殿の裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」であった事に成り得る。

「美濃青木氏の源氏化」に反対して「裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」で源平戦で別行動を執り「加茂木曽の山間部」に潜んで「伊勢の支援」を受けて「信濃シンジケート」として「300年間」を生きていた事に成る。
そして、その「拠点」が「端浪一色であった事」に成るのだ。

従って、上記で多くを論じた様に、「伊勢」の「一志」「志紀」「色」、又は、それに準ずる「一色の地名」は、少なくとも「当時の慣習」で「天皇名等の皇位の名」を「地名等」に使う事を禁じられていた。
その「光仁天皇」や「追尊春日宮天皇」の裔であった事から「本貫名」を使った事に成るのだ。

故に、「施基皇子没(716年 追尊770年)」後の「三野王の裔の美濃」としては「一色の地名の命名」は原則的には無かった筈である。
可能なのは「裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」が使える事に成り得て、この場合は「美濃裔系」では無く「伊勢の裔系」としての「独立した立場と格式」を執る必要があった事に成る。
それで無くては「地名一色」は使えない事に成る。

そう成ると、先ず、「美濃(額田)」でも「第一次源平戦終了・1180年」まではこの間は「一色の地名」の命名は避けた事と成るだろう。
「平安京の遷都期(795年)頃」には、「始祖で祖父の施基皇子没716年」で80年後である為に論理的には「一色の地名」の命名は可能と成るが、それ以前は「三野王の美濃族」には「桓武天皇」は認めなかった筈である。

つまり、凡そ「800年頃」には「一色の地名」は論理的には使えた事に成る事が、上記の様にこの検証から定められる事に成る。

要するに、「800年頃」のこの時期は、「青木氏族」に執っては取りも直さず前段でも論じたが、「賜姓族や皇親族」から外され、その結果として「四家制度、四掟制度、四六の概念、女系の妻嫁制度、嫁家制度」等が構築されて行き、「皇族との決別」して「政争」から逃れて生き残るために強力にこの制度が推し進められていた時期でもある。
この時期は「青木氏」を巡って「桓武論説と嵯峨論説の激しい政争」も起こっていた。

この時期は、言い換えれば「信濃青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、甲斐青木氏」とは、未だ「四掟の範囲」では血縁し得たが、然し、反面これに「女系の妻嫁制度」にして、朝廷に関わらない様にする為にも切り替えようとしていた時期でもあった。
「伊勢と信濃」を除いた「三つの青木氏」はどんどん「源氏化」を進めて「路線の違い」で、実質、「四掟」は無縁のものと益々成って行ったのである。

当然にして、「美濃」に嫁いだ「二人の伊勢の裔系」は、出自元が「源氏化」に組していない以上はこの時から既に「源氏化に組する事」は出来ず、嫁ぐ間もなく子孫を遺した後に「別の行動」を執った事に成るのである。
その「表れ」は「清光院と清光寺の存在」である。
「光仁天皇」や「追尊春日宮天皇」の「直系の裔系」であるからこそ使える「格式号」である。
上記で論じた「書の所以」が物語るものである。

つまり、「伊勢族」ではない「美濃族」には絶対に使えない「格式の院号」である。
そもそも、前段や上記で詳しく論じた様に元より「美濃族の青木氏」は「朝臣族」であったとしてもその「浄位の格式」の中には無い「青木氏」である。

恐らくは、「二人の伊勢の裔系」が生きてる間に「別の行動」を執った事により「院」に入った事を示す証拠でもある。
「何かの理由」があって「浄位の者」がその「役務や立場」から離れ院生を送る事の「習わし」である事から「清光院の院号」は「門跡院」と同然にある。
つまり、「浄橋と飽波の姉妹」は生前中に「美濃族の生き方」とは「別の行動(役務や立場)」を執って院に入った証でもある。
故に「本貫名の一色の地名」の命名はこの「短い時期の間」である事に成るのだ。

前段でも詳細に論じたが、この直後から「嵯峨論説派」が主導権を握り、それに沿って「嵯峨論説派」(824年頃)の「近江、美濃、甲斐」は「源氏化」を進めた。
「795年〜824年の間」の「30年間」が「一色の地名」の命名の間と云う事に成る。

(注釈 その証拠に其の後に「嵯峨期の詔勅の禁令」を出してまでも、この「浄位の青木氏」に関する「一切の慣習仕来り掟の使用」を正式に禁じたのである。
それだけに平安期以降はこの本貫名は無視される傾向が強かった事に成り、鎌倉期頃からは止められない程に横行していた事が云える。
それが更に、「新撰姓氏禄」と云う事に成った経緯であり、その族の範囲を「4−11」に区分けしてその範囲で定められた「古来の格式」を護らせようとしたのである。
それでも、「臣下朝臣族・源氏化」には止まらなくて「九つの縛り」を掛けて止めようとした。
然し、「初代の賜姓源氏」の「肝心の嵯峨源氏」そのものがこれを護らなかった。)

要するに、「嵯峨論説と桓武論説」の「桓武論説派」に在り乍らも「二つの青木氏」はこの何れからも逃れようとしていた時期でもある。
事態が「785年〜824年の間」の「30年間」が仮に「一色の地名」の「命名期間」で在ったとすると、「額田の一色の地名」がよく遺ったと云える。
「浄橋と飽波」は光仁期の「青木氏桑名殿二世族」であるので、「美濃」に嫁した年齢は「飽波王の祭司王」を務めた後であるので、最高で18歳と成る。
「浄橋と飽波」は記録から「82歳の極めて長寿」を全うしたとしているので、「785年〜824年頃の間」は最高でも83歳程度となる。
「浄橋」は2歳年下であったので、81歳程度と成り、未だ「清光院」に入ってから41年間は生存中であった事に成り得る。
充分に裔系に差配が可能であった年齢と成る。取り分け「飽波」は色々な役務を熟し「才女」であったとしている。
故に美濃の源氏化を防ぐ者として差し向けたのであろう。
故に、その後に於いて「浄橋と飽波」の子が「女系の伊勢の裔系」として大きく拡大させたと考えられる。
これは論理的に納得できる。

滅亡せずに「美濃」に「源氏化」が更に進んでいたとすれば「額田の一色の地名」が遺す事は無かった筈である。
「785年〜824年頃の間」に“「別の行動」”を執ってたとしても当然に美濃内部で「勢力争い」が起こっていた筈で生き残れたかは判らない。

それは「賜姓青木氏の一色」と「賜姓の源氏」の存在は「嵯峨期の9つの縛り」から観て「護っている側」と「護らなかった側」では「一つの族」の中では「相反する事」であるからだ。
この「9つの縛り」を巡って「伊勢や信濃」と「近江美濃甲斐」の間で「争い」が起こっていた可能性が高い。
源氏化を積極的に進めた「近江美濃族」等が「源平戦」で早期に滅亡した事によりこの「表向きの争い」は避けられたのである。


ここで追論として「源平戦」は「青木氏の歴史観」から観て世間で論評されるものでは無かったと筆者は観ているのだ。

「別の行動」と「相反する事」に関連して、ではそれはどういう事かである。
それは当に、「嵯峨期の9つの縛り」の「護っている側」と「護ら無かった側」の「代理戦争」であったと観ているのだ。
つまり、言い換えれば「桓武論説側と嵯峨論説側との戦い」であったと云う事である。

「護るべき源氏側」がこの「立場のストレス」に耐えられ無かった発露が心の中に強くあったと云う事であろう。
勿論、「桓武平家・伊勢平家」と呼ばれるその「母方の出自元・高野新笠・伊賀」が「桓武論説側」にあった由縁である。
「9つの縛り」を持つている立場の「伊勢信濃の青木氏側」は「抑止力」は在っても「直接武力」は持ち得ていない。
そこでこの決着を身内で着ける事が出来ず戦えないので、利害や出自も何もかも一致する「桓武論説側」の「平家」が「代理戦争」をしたと考えている。
要するに当事者の立場にいた「青木氏の歴史観」から観れば「単なる勢力争い」では無かったと観ているのだ。

だからこの「戦い」は「立場のストレス」の力に耐えかねて「源氏側」から「時の政権」を握つていた「平家・桓武論説側」に「戦い」を仕掛けたのである。
其れもある「程度の縛り」を護っていた「摂津源氏頼政」であるのだ。
これは「河内源氏の頼朝」に「以仁王の令旨」を出していなかった所以でもあるのだ。
「平家」が勢力が在ったのであれば寧ろ「平家幕府」を企てても良かった筈である。
でも「平家」は「朝廷」を護り反逆をしていないのだ。
これは「完全な桓武論説側に居た事」に成るのだ。
平安初期に興った「嵯峨期で起こった政争」の行方は、平安末期には「桓武論説側と嵯峨論説側との戦い」として再び起こった事であったのだ。

故に、是の「経緯の流れ」の中にあった「伊勢」は彼等を「信濃シンジケート」して「商い」などで支援しながら「300年の時」を経ていた。
然し、「伊豆の事」もあって遂には表に「伊勢の裔系」として時期を観て引き出した由縁でもあるのだ。

「美濃」に居た「伊勢の裔系」や「伊豆」を含む「伊勢と信濃との青木氏」を固める為にも採った「ある行動」なのである。
この戦国の時期は「信濃」も国衆が暴れ苦しかったが、それ故に一族が固まればだから「信濃」も生き残る為にも敢えてそれに力を貸した形なのである。

(注釈 何度も論じている「光仁天皇の子の桓武天皇・山部王」の「母方・高野新笠」は「伊勢伊賀の曾祖父」は「阿多倍」であり、「曾祖父は所謂、平家の始祖」である。
「桓武天皇・没806年・69歳」は「曾祖父(後漢の阿多倍王)」には態々、高齢乍ら「伊賀」に出向いて「高尊王や平望王」の「追尊王」を贈っているのだ。
定かではないが「桓武天皇60歳弱の頃」とされているので、計算から「曾祖父」は100歳位の極めて長寿であったとされる。)

(注釈 前段でも詳細に論じたが、「近江」の源氏化を防ぐ為に「伊勢」は私財を注ぎ「額田部氏」を頼んで干拓灌漑をし、研究を重ねて「和紙の生産」まで漕ぎつけたが、その為に「財力」が出来、「伊勢の恩」を裏切って「源氏化むに走って、この源氏化防止策は失敗した。
それまでの「同族血縁の絆」も全く消えた。
「美濃」も「浄橋と飽波の策」で源氏化を防ごうとしたが失敗した。
後は、これではこの「源氏化」が膨れ上がり果ては「同族争い」と成るは必定であった。
そこで、これに「歯止め」を仕掛けるべく「信濃との連携」で「出自元の親族の平家」に頼ったと観ていて、「清盛」に依る「頼政の正三位の特別昇格」はこの策の「第一段の手」であったとしている。
そして「伊豆」を与え、それを「伊勢と信濃」に護らせた上で「頼政」を誘い出して潰す戦略に出た。
現実に頼政は2年も経たないうちに「以仁王の乱」を起こした。そして、これを2年後に潰した。
ここまでは良かったが、「河内源氏」が「平家(たいら族・桓武平家)」の対抗馬の「元の平家(・ひら族・坂東八平氏・第七世族)」を便り。「旗頭」と成って「本戦」に発展してしまった。
平家と青木氏側は逆に出て又しても失敗であった。
この様に成るかも知れないとして「頼政」は源氏を潰さない為にも「頼朝」に令旨の辞を発していなかったのである。
結局は誤算は「第七世族の裔系」の「坂東八平氏の参戦」であったが、然し、頼朝源氏は2年後に無くなり11家11流の全源氏は「1221年」に完全滅亡する結果と成った。
結局は「頼政の嫌な予感」が当たった事に成った。
失敗では終わつたが無傷の「伊勢」では結果として目的通りに1221年で源氏化は終了した事に成って安堵していた可能性がある。
意図せずに「伊勢と信濃」が「一人勝ちした事の形むに成ったと観ている。
そうすれば、後は「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出す算段であって伊豆を救う事にあった。
其処に「室町期の戦乱」で“「伊豆の事」”が更に拡大し起こったと観ているのである。
それまでには、結果として「伊勢」は紙文化で「巨万の富」を獲得した経緯と成る。
つまり、「伊豆」を助け、且つ、「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出すに「充分な力」を着けたと云う事に成る。
これに無駄ではない「300年の時・信濃シンジケート」を経て仕舞ったと云う事に成る。)


然し、上記の通り、これは世の中の「当時の常識」から観れば、「伊豆」を助け、且つ、「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出す事は、「青木氏の立場」に対して「別の行動」「相反する事」が大きく左右して彼等を遺している事に成った経緯と所以と成ったのである。

これは一体どういう事なのかである。
筆者は、「青木氏」から観れば、今まで多くの経緯を論じてきたが、これ等の経緯が間尺に合わない事が多すぎる「世間の論評」と違っていて、その動きの元と成った「平家の動き」は違っていると観ているのだ。

その前に、「源氏化」を防ぐ「最後の策」と成った前段でも論じたが「美濃の経緯」は次の注釈の通りである。

(注釈 それは「近江、美濃、甲斐の青木氏」が滅亡したとされるのは、先ず歴史的には「近江の戦い」で敗退し、その後、「石橋山の戦い」と「富士川の源平の戦い」とで滅亡したとする記録に在る。
「甲斐」はその生き方として鎌倉幕府に対して「権威」を主張し過ぎて「鎌倉との軋轢」で更に徐々に衰退する破目と成った故に別格である。
元々、「平家」は、先ず、「以仁王の令旨」が「近江、美濃、甲斐の源氏化勢力」に出されたのを受けて「母方出自元の伊勢青木氏」の「密かな期待」に沿ってこれを「源氏化の勢力を削ぐ計画」であったとみているのである。
当然に「出自元」である以上、且つ、「桓武論説」を支持している以上は、世の常で密かに「平家と伊勢」が同じ利害と同じ路線上にある事から談合していた可能性が充分にあったと観ている。
その為に、先ず「播磨」の近くの「近江勢」と、そして「美濃勢」と「駿河勢」が「石橋山の戦い」で潰された。
立ち上がり間もなく「頼政」は宇治に逃げたからであるが、「摂津域の源氏の総元」を掃討するのでは無くて、明らかにこの「源氏化の三つ」を先に潰しに掛かっている。
つまり、これが、“「1180年8月の滅亡」”と成る。
この「五家五流」の内の「伊勢」と「信濃」は完全に「桓武論説側」にあって、且つ、「氏是」もあってこれに全く参加しなかった。
そもそも、この出来事は偶然と思えない程に「伊勢の京綱」と、「信濃の国友」が「伊豆」に移った直後でもあるのだ。
「伊豆」に「伊勢」と「信濃」の「青木氏」が入った時期は「滅亡の21年前」の「1159年」である。
然し、「摂津源氏系の源頼政」は、「河内源氏系の頼朝」には、この「令旨」を出していなかった事が最近に成って判明し「公的な論評」と成っている。
この意味する処は「青木氏の歴史観」も含めて大きく歴史を大きく替える。
学者により時系列的に研究された結果、「鎌倉幕府の大儀を獲得する為の後付け」であった事が判明したので、今後の歴史観は大修正が伴うだろう。同然に青木氏もである。
然し、届いているとして頼朝は日和見的に動いたのである。
この事が「平家の計算外」と成って「富士川の戦い」と成った。)

この疑問は簡単に解ける。

(注釈 この「800年頃」から「1180年」までは「血縁続きの氏族」として、「(a−1)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」は「美濃」に存在していた。
注釈の通り、「(a)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)の一部の関連族」はこの「源氏化」に賛成して完全に滅亡した。)

そうして、ところが「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」が「平家」に「桓武論説側」と理解が得られていないので、「美濃の血縁族」と観られて「逃げ込んだ族」は山間部で生き遺った。
然し、その「平家の疑い」は直ぐに「伊勢の努力」で解けた。
それは、「頼政の孫二人と叔父一人の助命嘆願」を「平家母方の出自元の伊賀」に頼み込んだ事があったが、この時、「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」の事を説明したと観られる。
それが前段と上記の経緯で理解を得たのである。
全く戦わずして早めに山間部に逃げた事が理解に幸いしたと云えよう。

そこで、では何故に表に出て来ずに、長く“山間部で生き遺った“と云う事はどういう事かと成る。
抑々、源平の「三度の戦い」でも“徹底抗戦して戦わなかった族”と成る。
つまり、{源氏化に反対していた血縁族}が他に美濃に居た事に成る。
つまり、それが残りの「血縁族の(a−1)と(a−2)の族」と「bとcの官僚族」であった事に成るのだが、ところが中でも「bとcの官僚族」は「美濃の青木氏族」で無い為に当然に「源氏化」には無関係である。
然し、「bとcの官僚族」の美濃族に関わりのある一部は参加したとする記録があり滅亡している。
これは「当然の事」であるだろうし、疑われるだろう。

とすれば、「血縁族の(a−1)」は兎も角も少なくとも「血縁族の(a−2)の族」はより近い位置にいた「bとcの官僚族」に引っ張られていた事に成ろう。
近いだけに血縁も進んでいた事は頷ける。
「伊勢の裔系である(a−1)」は兎も角としても、これ等の「二つの血縁族」が「平家」に疑われる可能性が充分にあったのだ。

「平家の動き」は「青木氏の歴史観」から観れば、「世間の論評」には間尺が合わないのである。
「頼政」が「正三位に成った時点」から始まり、「伊豆」に至るまでの期間は全ての出来事が余りにも唐突単純過ぎる。
「世の出来事」は一切唐突には起こらない。
原因があって結果があり、裏があって表があるのだ。
歴史の論評は、一つ一つを継ぎ足した様には起こらないのが人の世界の常道である以上、「平家の動き」も同じ「桓武論説側」に居た「青木氏の歴史観」には大きく影響していた筈である。
「論評の継ぎ足し」では無かった事に成る。
良く調べれは「頼朝」には出していない事の様に、「頼政の目的」が違っていた「以仁王の令旨」が大きく物語るのだ。
「後白河天皇の第三皇子」の「以仁王の令旨」は。そもそもその「令旨の資格」を持たず「権威」は低いのだ。

(注釈 筆者は「平家」は源氏の本元の摂津源氏等を先ず潰せば事は収まると観ていたと考える。
その為に急に「頼政」を潰す事は「世間の批判」を浴び得策では無く、先ず、「正三位・1178年(従三位)」に突然上げて置いて、「世間の批判・反勢力派」をかわし、その後に潰す計画であったと観ている。
そもそも綬位1年も経たない内の直後に「乱の計画」に入っている。
平家としては「源氏を潰す方向」にあるのにわざわざ昇格をさせる事はしない。
そして、これらが前段で論じた様に「伊豆」「京綱」「国友」にも影響して行くし、「美濃の裔系引き出し・別の行動」にも「室町期の事」にも繋がって行ったと観ているのだ。
重要な事はこの時、「河内源氏」は内輪もめしていたのだ。)

故に、「(a−1)族」が「額田の端浪の一色」の元の地に定住するも、それにより近い族の「血縁族の(a−2)の族」と、「三野王に縁」のある土地を管理していた朝廷の「bとcの官僚族の他の一部」が「山間府に逃げ込んだ族」であって、それ故に「山間部」で生き遺って、「信濃シンジケート」の「原士」を構築した事に成る。
そして、「(a−1)と(a−2)の族」の「主家末裔・額田一色」を中心に、「bとcの官僚族」の「原士」が「額田の青木氏」の支配下に入りこれを護ったと成る構図である。

仮に、この「三つの族」が「源氏化の末裔」だとしたら「伊勢と信濃の青木氏」は手を貸さなかったであろう。
それは又、「滅亡の憂き目」を見る同じ事が起こるからである。
全く「源氏化」の無縁の「血縁族の(a−2)の族」と「bとcの官僚族」で構築したからである。
それは、前段と上記した事が、矢張り、伊勢から「浄橋や飽波」が「源氏化の前」の「初期の美濃」に嫁いだ事に大きく関わっていた事から来ていると考えられるのだ。
要するに「別の行動」を早くから取った事を証明するものである。
遅ければ「伊勢の裔系」とは成り得ないであろうし、「伊勢も救いの手」を差し伸べなかったと観られる。
差し伸べると云う事は、嫁いで子供が出来ての直ぐの事であろう。
そして、この子孫を「女系の伊勢裔系」として育て上げて「別系」を「美濃一色に作り上げた事」に成る。
それが、「端浪一色」の「清光院」であって「本貫の一色」なのであろう。
ここを「伊勢の裔系の拠点」としたのである。
「創建の経済的支援」は当然に「伊勢」から出ていなければ無し得る事ではない。
桑名の直ぐ横にも「二つ目の清光院」を創建し、嵯峨期の後にも「清光寺の菩提寺」を桑名の隣に創建している。
蒲郡にも清光寺を創建している。
経緯に応じて物語るものが多い。

そして、その象徴として「源氏化の族」では無い「伊勢の一色の所縁」のある「伊勢の本貫名の一色」を「三野王の定住地」の「額田」に態々名付け直して「(a−1)(a−2)の族」の「主家末裔」を「差配頭」に据えてここに構築し直した事に成る。

前記したが「シンジケートとの関わり」を持っていた事はこの事を充分に「桓武論説側の平家」は後に承知していた事に成る。
彼等は「桓武論説側に居た裔系」であった事の「美濃の詳細」を光仁期より時代が過ぎていた事により何時しか何処かのタイミングで「美濃の詳細」を知っていた事に成り、それが乱後の「助命嘆願の時」かその前の「2年弱の前」の「京綱の時」であると観ている。

(注釈 「青木氏の歴史観」から「歴史」を組み立てなおして直せして観れば、「伊勢青木氏」の乱の前の「京綱の件」を以てしても、「頼政」は「源氏の天下」は期待していなかったし、「頼朝」に「令旨」も出していなかった事の由縁と成り、「乱の失敗」を予測していた事に成り、「追い込まれた末の結果」であった事を物語る事に成るのだ。)

「古書」や「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏の記録」から経緯を読み取れば、「五家五流の美濃青木氏」と云うよりは、“その末裔族とする”と記する事から“「一色青木氏(記述は額田青木氏)」”での呼称であった事が資料から判る。
決して他の資料では「美濃青木氏」とは記していない。

要するに、故に資料は「美濃青木氏」で無く、古い歴史を持つ由縁から「一色青木氏・額田青木氏」と「その血縁族」と記した所以なのであろう。
それが「伊勢を意味する一色」に存在した「額田の地名」から遂には「額田青木氏」と呼称されて行き、結果として。最後は「蒲郡青木氏」と呼称されて行った事に成る由縁と経緯なのである。
そもそも「源氏化の美濃青木氏」であれば「上記の氏是の書」で論じた様に「伊勢を意味する一色」は使わないし使えない。


地形から検証して観る。
その頃には、「美濃の圷」と「一色の地名」とには、「500年の経過期間」があり、「土岐−蒲郡の丘陵・山沿い」は、「圷野の速度」が上記検証から、真西に「100年−20キロ」とすると、5・20=「100キロ真西」に「圷の野」は確実に広がっていた事に成る。
従って、「一色の地名」の西には、最早、10キロ西に「知多湾域」にあった事に成る。

そうすると、「土岐―蒲郡の丘陵・山沿い線」から西に20キロ、そこから「知多湾域」に直線で10キロ、合わせて30キロと成り、「圷の進行速度」の「100年―20キロの数値」から計算すると掛かる期間は「150年」と成る。

つまり、「三野王」から「150年の頃」は、つまり、これでも「800年の頃」と成り、検証結果は一致している事に成る。

この「歴史的経緯」から観ても、「地形」から観ても、「一色の地名」の着けられる事の可能性のある期間は、地形でも「770年頃」から「嵯峨期の詔勅(823年頃)」までの間に着けられたと考えられる。

それが「約30年〜50年間程度の間の地名」で、即ち、この間に、「伊勢―美濃の間」での「妻嫁制度の血縁」がまだ進んでいた事が云える。(浄橋や飽波が嫁いだ。)
従って、これは「美濃」の「圷」が「野」に変化した「初期の頃」と成り得る。

これで「美濃の元の事」は検証が済んだ。

そうすると、此処で何で「甲斐」は兎も角も、「信濃」に「一色の地名の論」として無いのかと云う疑問が湧く。
「伊勢との充分血縁に依る事」からその格式は充分にあり得る。
何故かその確たる証拠が美濃の様に出て来ない。

そこで「考えられる事」として次の事が上げられる。
ここで本貫名一色の所以である。

1 「一色」は「美濃との関係(三野王)・上記の経緯」にのみに区別する為に使われた。
2 「伊勢と信濃の関係」から、最早、「一色の格式」は必要なかった。
3 「独自の生き方」をする「甲斐」にも無いのは「一色の格式」を敢えて拒絶した。
4 「信濃」には「足利氏系斯波氏・源氏傍系族」が室町期初期(1387〜1402)に赴任した。

筆者は、この「四つの事」が総合的に重なっていたと観ている。
主は肯定的な意味として1と2である。

副は否定的な意味として3と4である。
つまり、「信濃」は「一色の格式は当然の事として補完とする必要が無かった。
そもそも「伊勢」と同様に「源氏化を進めない方」の「桓武論説側」に当初より在ったからであり、その問題を誘発する事は無かったからである。
甲斐はそのもの拒絶してしたし、「伊勢の裔系」は嫁していない。
4の「足利氏系斯波氏・源氏傍系族」とは「信濃」はそもそもその「格式差」は比較対象の中には無かった事から敢えて「一色」で誇示する必要性は全く無かった。

「美濃との関係改善」を「伊勢と信濃」は「800年前後」に「伊勢の青木氏」から“「二人の女(むすめ)(浄橋と飽浪)」”を嫁がせて「血縁」も含めて懸命に図っていた「史実の経緯」がある。
前段でも何度も論じているが、これは「天皇家・光仁天皇と追尊春日宮天皇」の「皇女を引き取る事」により起こる「縛り無視」に対する「源氏化の策」であったと予想する。
然し、彼らは「浄橋と飽浪」と対立してその生き方を変えなかった。
又、あり得る事として「信濃から策」としても「美濃」に嫁した記録は見つからない。
「伊勢」と異なり「美濃」は「信濃」との国境を持つ族であるとするとあり得る事であるが、何故かかけらもない。

次の注釈が物語る。
それは確かにその元の経緯を当初から持っていた。

(注釈 「日本書紀」等の三古書でも、その意味で美濃始祖の「三野王」は「信濃王」が在り乍らも「天武天皇」の「五大都の制度の案」で命じられて調査に入り詳細に答申している。
一時、信濃に在して「信濃王」に成ったかの様に進んだが、無役の四世族王であった事からその守護の国は持てない王位であった。
然し、その「調査の功績」で何と「最も肥沃な三つの野」の「三野王」に任じられたものである。
「信濃在住」は調査の為として「三野王」と成った。
そして、結局は、この時、「激しく有能で野心的な三野王」に対しても「争い」を起こさなかった「おとなしい信濃王」が「信濃国」に落ち着いた経緯を持つのだ。
「五大都の制度の案」は、結局は、「伊勢」は「浄位の施基皇子」に、「近江」は「浄位の川島皇子」に、「美濃」は「四世族の無役の三野王」に、「信濃」は「四世族の在住信濃王」に、「甲斐」は「四世族の無役甲斐王」に、夫々任じられて発足した。
「近江と伊勢」は元より「五大都の制度の案」では「浄位」であった為に別格であった。)

(注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
中の良い関係を続けていた。
然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
その為に源氏化で生き残ろうとした。)


敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。

然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。

それには二つあった。(前段でも論じている。)
第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の危険性で既にあったのである。
この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。

「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」に続く。


  [No.377] Re:「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/12/20(Fri) 10:03:26

> 「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」の末尾

> (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
> 中の良い関係を続けていた。
> 然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
> 余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
> その為に源氏化で生き残ろうとした。)
>
>
> 敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
> この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。
>
> 然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
> 恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)・縦の陸路」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。
>
> それには二つあった。(前段でも論じている。)
> 第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
> 第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興の危険性」で既に存在していあったのである。
> この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。
>

「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」

続けて「伊豆ー美濃論」である。

さて、この「二つの事」が無かった事に依って、前段から論じている様に「信濃」には「一色の格式」は必要無かったと云う結論に成る。

そうすると、ここで先に論じて置かなくてはならないのは“「近江の事」”である。
その前にもう一度、お浚いをして置く。
前段でも何度も論じたが「近江」には、抑々、何度も論じているが「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」に「近江佐々木氏」の三氏が「同族の血縁族」として存在していた。
最初は「近江始祖の川島皇子」の裔の「近江佐々木氏」が発祥し、そこから皇子族が近江に移り「伊勢の施基皇子の賜姓」に倣って「青木氏」を名乗り「近江青木氏」が発祥した。
そして、この両氏が血縁して「近江佐々木氏系青木氏」が発祥した。

(注釈 筆者はこの説には疑問を持つていて、「伊勢の施基皇子」と「近江は川島皇子」の「異母弟族」は「同族血縁」をしていた事から、正式には「賜姓」は「伊勢」が受けているので、「近江」にも「伊勢の青木氏」を興したと考えている。
「伊勢」にも嫁家先に優秀な子供が生まれた場合には「青木氏」を興させるその仕来りはあった。
この事から近江の青木氏が生まれたと観ているのだ。
それが後に、「皇位族の五家五流」には「仕来り化」して「青木氏」を名乗る事と成ったと観ている。
そもそも、「美濃には浄橋と飽波以外には無く、「甲斐」には全く記録が見つからない処からこの二つはその後に「政治的な仕来り化」に依るものと考えている。)

上記の注釈からも記録からも「近江佐々木氏」は「青木氏族の一員」としても考えられる。
「近江佐々木氏」もその様に考えていたし、異母兄弟の「伊勢の施基皇子」の裔と相互血縁した様に「奈良末期の血縁」では間違いなくそうなる。

(注釈 「近江佐々木氏の研究記録」もその様に観ていて「青木氏族の定義}の中に入れて詳細に論じている。)

つまり、「青木氏族」はその所以を以て発祥している。

概要は次の通りである。
前段でも「血縁弊害の処」で論じている様に、奈良期の「伊勢青木氏からの血縁」で嗣子の一人に「近江の青木氏」を興させた。
これが「近江青木氏」で、この「近江青木氏」と「近江佐々木氏」との三つ巴の重血縁で「近江佐々木氏系青木氏」が発祥して子孫を拡大させた。
従って、この三つは「三つ巴の起点」の「近江佐々木氏」が主縁(リード)と成っている所以である。
故に、記録に依れば当時は「近江三氏族」と云われていたのだ。

この「近江三氏族」は地理的要因でその存続の「経済的な裏付け」が弱く、従って、「伊勢」は奈良期には「額田部氏や穂積氏」を投入してでも「干拓灌漑の工事」をして同族と観て「和紙の殖産」を促したのだ。
ところが、史実としてこれが「逆の効果」を生んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた「和紙」で経済力が着いた所以を以て「二つの青木氏族」は「伊勢と信濃」から離れて「甲斐」と同様に「自立の道」を選んでしまったのだ。
要するに「同族離れ」をした事を意味する。

「近江佐々木氏」にリードされた事から「伊勢」とは疎遠と成って仕舞った。
ところが、更に「嵯峨期」に入っても「縛り」の外れた「嵯峨源氏」が当に近江の地元で起こった。
当然に、その傾向にあった「三つの族」は更に「源氏化」が極端に進んだ。
「近江佐々木氏」に全て引っ張られていたと云う事である。
これが経緯である。

「近江」には「源氏化」で最早、当然に「伊勢の権威と支援」は必要なかった。
要するに「近江族」には、「信濃」と「甲斐」と共に、“「一色の格式」”に付いて「別の意味」を持っていた。
「近江佐々木氏」にも「源氏化」が起こった事に依って相反する意味を持つ「一色」を拒絶するそれを「他の近江二氏」と共に共有する事を成し得ていたのである。
これが「近江」に「一色の地名」の無い所以でもあるのだ。

従って、この「三つの青木氏族」は「経緯と云う過程」で「一色の地名」に於ける「権威」は必要とはしなかったのである。
況や、「近江族」に執っては当に論外であった。

(注釈 「近江」でこの「一色」を必要としなく成った事が、「神明社の情報紋の遮断の主原因」と成ったのである。
「近江」は「佐々木氏と経済力」が主因であった。)


「一色の論」から再び「美濃の論」の元に戻して。
然し、「美濃」は要するに、これ等の事と比較すれば、前段でも詳細に論じた様に主因は次の為の事であった事が判る。

前段で論じた事を「別の視点」からこれを観て観る。
「青木氏の歴史観」としては「興味深い経緯」が見えて来る来るのだ。

第一段は「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が起こったのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化」であった。

「第二段の事」はそもそも「青木氏」である限りは「神明社族」であり、然しながら「源氏化」に依って「八幡社族」と成って仕舞った。
結局は「神明社」と「八幡社」は「密教と顕教の差」にあり、その「教義」は相反するものと成ったのである。
故に、「神明社の存在否定する結果」と成ったと云う事である。

(注釈 「密教と顕教の差」は前段で論じた。
「9つの縛り」と「原理主義の白旗派・律宗」の意味する差である。
端的に判り易く云えば「水と油」であるだろう。)

これが「美濃域」にも「神明社」が少なく成った所以であって、それが「源氏化と姓化」に合って、それが「源平戦」と成って「神明社」が無くなり、上記した“「第一段の遮断」”が起こったのである。

これが当然に「伊勢と信濃」に大きく影響した。
前段で論じた様に「源平戦」で敗戦し生き遺った「所謂、一色族」は前段でも論じた様に「信濃までの山間部」に逃げ込んだと云う形である。
然し、此処で彼らの一部は「生遺路線」を選択して「源氏族」から逃れ「一色の青木氏」を旗印に「伊勢信濃のシンジケート」と成ったと云う経緯である。
この時、「青木氏の財力」を使って彼等を保護し「美濃−信濃間域」に「神明社の再興・情報網(第1期)」を成し遂げた。

(注釈 この時の「神明社再興」には“「神明造祠社」”が多かった事が「桑名の資料」には記されているし、現在も「桑名と美濃の西地域一帯」には集中してこの「神明造の祠社の神明社・9社」は遺されている。
その管理は「伊勢の青木氏神官族」で成されていたが、何方かというと「社」というよりは寧ろ此処に「青木一族」が集合して「情報交換・中継点形式」をしていた事が記され、その内容が詳しく判っている。
「室町期の御師制度」の「情報交換の中継拠点化」と成っていた事をも示す。
「全国から集めた情報」をこの「桑名域に集めていた事」にも成る。
つまり、「桑名殿」が「情報交換の係」を担当していた事にも成る。
これは「商いの情報」と「戦況の情報」であった事にも成る。
「美濃伊豆の戦況」も然る事乍ら「商い」も大きく成っていた所以であろう。
これは前段でも論じた様に「伊勢」では「桑名」に全て「神明社・9社・北東向きに26kの直線上」が一括集中させていた事でも判る。

それ故に、前段の「御師」から集めた情報から「移動時期」を見据えていて、「伊勢の裔系の集団移動・1500/5集団」は、先ずはここに辿り着けば先ず「第一段階」では安全であって、元よりそれは「桑名殿の裔系」であった事にも依る。
此処に美濃の「伊勢の裔系」の「二つ目の清光院」と「二つ目の清光寺」を木曽川長良川を隔てて戦略的意味合いで右に隣接する様に建立しているのである。
前段でも論じた様に「額田端浪の一色」から「現在のR19」で全く直線的に最短で移動した事に成る。
集団として「御師制度」での「お伊勢参りの名目」は当に疑われる余地は無かった。

前段で論じた「移動経緯」から「水路」では一時それなりに回復する「第2期」が起こった。
「伊勢−渥美−駿河−伊豆」と繋がった事に成ったのである。
次は、これを起点に「国衆の南下策」を促進させる為に「縦の陸路」の「伊勢−三河−美濃−信濃の情報網」を造り上げる事にあった。

ところが室町幕府との「白旗派の浄土宗承認」や「伊勢神宮信仰」に合わせた「神明社の庶民信仰・御師制度」等の「政治的策謀」や「御師制度」等の策で、「桑名と尾張」の間の「空白地・空白期」では「伊勢−美濃−信濃の情報網・R19」で一時的に無事に繋がったかの様に見えた。
然し、これも「15年程度の短期間」で「空白地」と「空白期」は同時に崩れたのである。

これで再び、「室町期の戦乱」で「信長勢力」に依って恣意的に「神明社の情報網・中継点形式」が遮断される結果と成ったのである。
要するにこれが「第3期」である。
これで再び「伊豆との連絡網の遮断」と成った。

然し、「平安末期の伊豆の結論」は、それぞれ違う経緯で「近江と美濃と甲斐」が敗退したのである。
その「時系列の経緯」では、この事から上記の通り「1159年」から「伊豆入り」し、「1221年の直前・源氏滅亡」までの「約60年間程度」で、それなりに「神明社の情報網・中継点形式」は回復させた事(第3期)が「人と神明社の構え」から判る。

いよいよ「国衆の南下策」を急いで動かそうとしていたその時に、然し、再び、記録から観てみると“「鎌倉時代」の「伊豆内部の混乱」”で「第3期の神明社焼失」の事と成っている。
要するに今度は「鎌倉幕府の滅亡の混乱」に巻き込まれて「伊豆の神明社の焼失」が起こって仕舞ったのである。
「伊豆」が滅亡寸前であった事に成る。
これらの「室町期前期」の「3期の経緯」を経て、結論は「1540年以降の室町期後期」に、再度、前段で論じた様に「国衆の南下策」で回復させた事(第4期の経緯)に成っている。

そこで、この時「3期の経緯」は、「室町幕府」が「法然浄土宗14派中」の「最小派」の「白旗派の密教浄土宗・原理主義・青木氏の律宗族」を「本貫本宗」として強引な決定を下した。
背後に「政治的な動き」が「伊勢との間」であった事は否定できない。
同時に「原理主義一体」のものとして「神明社(青木氏の守護神)」も認める等の決定を下し、「青木氏」を擁護した。
これがこの際の「幕府と青木氏の政治的策謀」であったと観ている。
これで、「神明社の情報網・中継点形式・水路」は「藤枝・富士宮・三島と駿河」までの再建立(第3期)が成し遂げられたのである。

これで「浄土宗」が「白旗派の原理主義の律宗族」と成った以上は、つまり、「伊勢と信濃の青木氏」の「政治的立場」が公に認められたも同然と成った。
これで「1560年期の松平氏・三河で独立」が「三河国衆」として認められより「国衆の南下策」が容易と成ったと考えられる。
当然に「国衆」に成るには単なる南下策だけでは成立しない。
「足利氏との政治的策謀・裏工作」と同様に「松平氏との政治的策謀・裏工作」は否定できない。
この戦乱の世の中でそんなに簡単に上手く行く事は無い。

(注釈 この第4期の「藤枝の四つの神明社」にはその「第4期なりの特徴」が出ているのである。
それは「神明社の社構え」であるのだが、この中に「特徴」を顕著に表している「神明社」がある。
それは「呼称」の一つだけに表れている。
その「社名の構え」が“「伊勢神明社」”と云う「神明社の情報網・中継点形式」を適格に表現しているものであるのだ。
実は、この「伊勢神明社の命名」は同時期に「信濃と美濃」にもあるのだ。
敢えて、「第4期」の混乱期であるが故に、「足利氏背景」と「律宗族・遺された皇族系族」であるとする「其れなりの意味・誇示」を持たして名付けたと考えられる。)

「伊勢と云う呼称」のその背後には「伊勢の抑止力」を「伊豆」にも宛がえたと観られる。
将又、同時に「仏教の象徴族」の「律宗族」であって、且つ、明らかに全国庶民信仰と成った「神明社・御師制度」の「神明社族」であるとして、その族の「神明社の情報網・中継点形式」の「拠点である事」をも周囲に誇示している事に成るのだ。

これは同時に、「神明社」を分散させるのではなく「伊豆」から離して「藤枝、三島地域、富士宮地域」の「三カ所」と隣の「駿河市東町」の「一地域」に集中させているのだ。

そもそも本来であれば「庶民信仰」であれば平等に「分散」させるのが常道である筈だ。
ところが極めて一か所に集中させているのだ。
明らかに「伊勢の呼称」と共に「ある種の目的」があっての事である。

この上記の「計四ケ所の神明社の創建期」と「伊豆内部の神明社の創建期・平安期」が現地調査に依れば、その「構えの内容・平安期の様式変化」から判断して大きくずれていて、前者が「室町期初期」である事が判る。
「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆」の経路を再興して「伊豆」を護ろうとした場合は、「伊豆の人」が先ず移動してそこに「守護神社・神明社」を建てると云う経緯を辿るだろう。
つまり、「室町幕府の擁護」もあってそれなりに補完出来た「第4期」でこれを実行したと云う事に成る。

それ故に、「伊勢の呼称」は「室町幕府の擁護」があった事も相まってあってその「格式」を誇示しての事もその一つであったであろう。
「室町幕府の擁護・白旗原理主義」が「全国の神明社」をも護った事もあったと考えられる。
つまり、普通ではあり得ない仏教の「菩提寺」が神教の「守護神」を護ったと云う事である。
これは、特定される”「律宗の氏族」”であるが故の事であろう。

この様に「室町幕府の権威」が失墜し始めた室町期末期までは兎にも角にも「神明社の情報網・中継点形式」は何とか維持出来た。
これが上記した様に「特別な変化」である。

(注釈 そもそも「神明社の建設」は、「社格」は「官幣社」で在り乍らも「賜姓五役・令外官」であるとしてその「財源と建設と維持管理」は「青木氏部」で江戸初期まで行われていた。)

さて、これで「伊豆側」の「神明社の情報網・中継点形式」は回復した様に観えた。
唯、ところが「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆の経路」は、「伊勢−美濃−三河」の間で上記した様に再び断絶したのである。

これは「戦乱期の信長」で「尾張域の神明社」は再び「神明社の情報網・中継点形式」の「神明社」が今度は「信長勢」に敵視され遮断される結果と成ったのである。
「室町期中期」には遂には「情報交換・中継点形式」は、又もや「伊豆」には届かなく成って仕舞ったのである。

今度は「青木氏の対処」は違った。
再び、「渥美への裔系の移動」は前段の通り成功した。
そして、次の段階として「1540年頃」から「ある行動」に移したが、今度はその戦略は゜青木氏の氏是」を破り「戦闘的」であった。

そもそも、この行為は奈良期からの「青木氏の氏是」に反する。
然し、問題は、何故、この「青木氏の氏是」に反する行為を執ったかである。

その理由は、実は「伊勢から伊豆」までの「情報交換(中継点形式)」には「大きな欠点」を持っていたのだ。
この「欠点」が「戦乱と云う状況」の中で「氏全体の致命傷」に成る欠点であったからである。
それまでは問題では無かった。

「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆の経路」を観ればすぐ判る。
それが「−三河−駿河−」には「青木氏」は存在しないのだ。
要するに、この間は「二つの血縁族」の「定住地」では無いのだ。
然し、それでもそれまでは「人間の血管」に当たる“「神明社」”と云うものがあって生きて行く事が出来ていた。

(注釈 歴史的にはこの域を支配する「今井神社系のシンジケートの連携」で何とか助けられて繋がっていた。)

ところが「戦乱と云う状況」では“これをも絶たれると云う事”が起こった。
適格に言い換えれば“「人間の血管」だけでは駄目”に成ったと云う事である。
要するに「体」を造らなくては成らなく成った。
その「体」が「氏の人」のものであって、其処に置かなければ効果は出ないと云う事である。
「神明社」が「血管」であって、「心」であり「体」と一体にしなければ成らなくなったと云う事である。
この「−三河−駿河−伊豆」の間に何らかな方法で「体」を置かねばならない。

そして、それだけでは無かった。
「伊勢−美濃−信濃・縦の陸路」が「信長」に壊されようとしていたのである。
現実に「体のあった美濃」が小さく成って「山間部」に逃げ込んだ事で「空いた隙間むを見事に壊された。
「神明社の血管の破壊」と「美濃氏の体の破壊」も興り「形」が無い事に成って仕舞ったのである。
「伊勢−(美濃)−信濃・縦の陸路」でも「信濃シンジケートと云う形」で繋いでいたが無理と成っていた。
それは「伊豆」が成り立たなく成っていた事を示すものであった。
この「空いた隙間」を何とか現地孫で埋めていた「伊勢秀郷流青木氏族」も補完して「美濃」まで僅かに張り出していたが、その「頼みの勢力」の一つと成っていた「永嶋氏」も衰退し「結城」に引き始めていたのである。

そこで「伊勢と信濃」は「戦闘的復興戦略」(下段で論じる)を採った。
つまり、此処に「陸路と水路」の「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築しなければ「廃墟と復興の第5期」が必ず起こると考えたのだ。
「伊豆の背後」の「頼みの綱」の「秀郷流青木氏」に“「助太刀」”を頼むとしても「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」が欠けていれば「即戦力」には成らず間に合わなく成っていた。

そこででは、どうするかであった。
簡単な事である。
「美濃」をもう一度興して「美濃」から「三河の湾岸域」に引き出して「青木氏の拠点を新たに作る事」と、破壊された「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を造りなおす事以外に無い筈である。
これで「血管と体と心」が「伊勢−美濃−信濃」と「−三河−駿河−伊豆」を造る事が出来る。
「伊勢−美濃−信濃−三河−駿河−伊豆」(駿河には第4期で構築した)は完成する。
これで「伊豆」は護れる。

前段でも論じた様に、問題は上記の“「美濃・額田一色」を「三河」に南下して来る事が出来るか”である。
つまり、「信濃シンジケート」と成っている「美濃の額田青木氏」を「シンジケート」では無い「三河の青木氏」にする事である。
これは「山岳民」を「湾岸民」にする事に成る。
これは「人,時、場所」の「三要素」が揃わなくては成り立つ戦略では無い。

それには「陸路と水路の両面のルート」を構築しなければならない。
「縦の陸路」は“「美濃」を「三河」に南下して来る事で出来る。
そうして、これが出来れば「三河の港」を確保していれば「伊勢と三河」までの「水路」は「伊勢水軍」と復興させた「駿河水軍」で成り立つ。
「水路」は「伊勢−(美濃−信濃)−三河−駿河−伊豆」の上記で論じた様に「駿河」には「第4期」で構築したので「駿河・駿河湾」と「内浦湾」では出来ている。
後は「三河と駿河間の完全な水路の構築」にあった。
未だ左程に「子孫力」の出来ていない仕立てた「駿河水軍」に「充分な力」を持たせる事にあった。
これには「伊勢」が地権獲得などの「経済的な支援」をして「子孫力」を「現地域」に回復させる事にあった。
当然に、その為には先ずは゜干拓灌漑開発の額田部氏に頼る事」に成るだろう。

(注釈 前段でも論じたが、「駿河」にはこれ等の経緯から「伊勢と伊勢水軍との血縁族」の「駿河青木氏」が存在した。現在も存在している。
「静岡県静岡市駿河区」に「青木の地名」が遺されていて、「約370334平方メートル・374反・11200坪」の面積を持っている地域である。
「青木公民館」もある位である。
凡そ「380人が養える地域」である。
ここは本流を「安倍川」とし、支流を「丸子川」で駿河湾に注いでいる。
何れも元は二つの川洲で西端には山が控えている。
記録に依れば、室町期中期にこの山から東に向かって川洲を埋め立てたとしている。
当然に「伊勢青木氏」に基づく「額田部氏の干拓灌漑開発」である。
つまり、「美濃域とほぼ同時期」に戦略的に行っていた事に成る。
安倍川の「西側の洲域」と「東の洲域」に分かれ、「東の洲域」にこの「丸子川の洲域」がある。
この「西の洲域」は8k平方メートルである。
現在の「青木地域の面積・380人・西1/4は森」では十分な子孫を養えない。
恐らくは、地形から、駿河湾に向かって「1.5kの距離」があり、湾口を使う以上は少なくともここまでの「地権域」を有する必要がある。
現在の青木地区は「居住域・山間部の陵域」であったと観られ、「田畑」を「南の湾口」に向かって開墾して「地権域」を得たと考えられる。
実はその「地形域」が現在も遺っていて、この「地形域」から「現在の湾口」までは「約0.5kの位置」にある。
この「0.5k」は其の後の江戸期か明治期に埋め立てられた事が判る。
その「地形域」が「約547反・547人」と成る。
これを合わせると「374+547≒920反」=「920人程度の駿河青木氏の人口」が室町期のこの「作戦期」には「伊勢の支援」を受けて「子孫力」を拡大させ存在していた事に成る。
当然の事として「約2k程度北の山手」には、現在も「賜姓族」では無い「妻嫁制度」に基づく女系の「伊勢との血縁族」の「駿河青木氏」の「青木神社・一族の集会所」があり、その右横には「額田部氏の分家の穂積神社・事務館」も存在するのだ。
伊勢より派遣して額田部氏一族に依って干拓灌漑されたのである。
「青木神社・一族集会所」あたりも「其の後・寛永期」の「地権域」であった事が解る。)

(注釈 この「青木神社」は「和気命・応神天皇」を祭祀する神社である。
「応神天皇」は実在天皇の初代で「飛鳥王朝の五大豪族連合国家の初代の大王」である。
「伊勢青木氏」の「妻嫁制度」に基づく「嫁家先の女系の駿河青木氏」で嫁家先で生まれた「優秀な男子」を以て「青木氏を興させる制度」である。
「上記の美濃論の経緯」より復興させた。
この「伊勢」の「神明社の祭神」の「皇祖神の始祖」の「和気命・応神天皇」を祭祀している事に成り、「駿河青木氏」は「神明社を主神とする事」は否である為に、守護神を「始祖の応神天皇」とした事に成る。
室町期の1540年〜1560年代に再興した事に依り、「青木氏の檀家寺」は禅宗寺派で臨済宗で地権域内中心より150m真西の山際に在る。
独自の干拓灌漑地である為に「菩提寺」にしていた可能性も否定できない。
当時は、「水軍などの海族・海人」は「鎌倉期以降の影響」を受け帰依は臨済宗か曹洞宗であった。)

そもそも、さて「水路」とは、その「圏域・海域権」が「水運組合と海運奉行」に依って昔から決められていて変わっていない。
要するに「伊勢水軍」が勝手に駿河に入る事は出来ないのである。

ではどうするかであった。
「伊勢の尾鷲」の「伊勢水軍の差配」の家に資料が遺されていて、この一節にこの事に付いての「行」がある。
要約すると、「摂津会所の・・・駿河殿の件の御差配に付いて承知致し候故に御安堵下される様に・・・尚、・・・を御手配お頼み申し候・・・」とある。
恐らくは「福家からの指示」があって「水軍」が何かをしたと考えられる。
この時期は「準備段階」に入った5年後の「1545年」と成っている。

同時に前段でも論じたが、「伊勢」が「千石船の大船」を更に一艘を建造し持ち、「熊野水軍」と「摂津の寄合組合」に対し「海路の水利権」を申し出て獲得している。
「商記録」にもこの「支払添書」の一行の事があり一致している。
これは恐らく「組合員の会員権の取得費」であろう。
「摂津」までの四艘目の「海路の水利権」を持った事が判る。

さて、そこで、前記の「駿河水軍の経緯の事」ではあるが、「駿河水軍」には「平家水軍」に対抗する為に「駿河源氏」に頼まれて参戦するが滅亡する。
この「駿河水軍」と「伊勢青木氏」と「伊勢水軍」は相互に血縁関係を持っていた事を前段で論じたがこの「源平戦」で「美濃族」等と共に滅亡する。

この「駿河水軍」が逃げ延びその「生き残り」の其の後の傍系支流が「海路の水利権」だけは依然と宝の様に傍系に預けて持っていたと考えられる。
筆者の分析では、「伊勢の福家」はこの時の「差配」を「伊勢水軍の差配頭」に考えを述べたのでは無いかと観ていて、上記の資料はその時の打診であったと観ている。

そして、「1540年の準備段階」の五年後から「伊勢水軍」に「駿河水軍の支流末裔の者(血縁族の駿河青木氏滅亡)」を呼び出して訓練し、其の後に「伊勢」が建造した「船一艘」を与えて、「血縁族の駿河水軍」を復興させようとする考え方を述べたのでは無いかと考える。
その為に取り敢えず、経済的に成り立ちさせる為にも「摂津会所(堺)」に先ずは「海路水利権」を申し込んだのでは無いかと観ている。
先ず直接は「駿河水軍としての申請」では無く「伊勢の申請」として扱ったという事に成る。
「伊勢の仕事」を彼らに与え「摂津支店」までの「荷駄の搬送」に従事させて経験を着けさせたと観ている。
この事を「血縁族」でもあった「伊勢水軍の差配頭」にこの事を相談し伝えて了解を得たという事ではないかと観ている。

(注釈 訓練の為に「熊野沖の荒波」と「淡路の早潮」を経験させたと考えられる。)

さて、その「後の事」ではある。
「駿河域の会所(府中)」に「駿河水軍」が組み入れられるかであろう。
唯、「組合の株券」は保持している筈である。
「源平戦」で負けただけで既に幕府は室町期にあるとすれば、「出自を証明」できれば「復権」は出来る筈で、後は「商人」である以上は「組合の株券」を買うと云う「名目の裏の手」で解決は可能である。
この「証拠」と成るものは無いが、「状況証拠」である。

(注釈 この「状況証拠」に付いて、現実に「其の後の事」ではあるが、「駿河湾」と「内浦湾」に「伊勢からの荷駄・商記録に四か所の記載有」が入り、「藤枝、三島」を始めとする「地域・八カ所の青木氏」の「青木氏の商い」が復活しているし、「下田」と「稲取」にもである。
当然に、「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築も復活しているのである。
これが何よりの状況証拠である。)


先ず、そうすれば「水路」では「三河・渥美湾」から「伊豆・駿河湾」まで成り立つ。
前段でも論じた様に「後の事」は「陸路の創設」が「戦い」を伴ったもので大変であった事が「松平氏の戦記等」の複数の記録で詳細に判っている。
この様な「多くの死者」を出した「実戦事」は「伊勢」と「信濃」の「青木氏の歴史」の中では初めてである。
それまでは全て「抑止力」で済んでいる。
ところが、この時の記録に依れば「額田青木氏の差配頭」等が「激しい銃弾戦・本戦」で戦死しているのである。

尚、注釈として、「伊豆の現地調査」の印象の一つは「イ地域からリ地域」までの「青木の地名」の「青木氏」には現在も「何らかの商い」を営む「青木さん」が実に多い事であった。
この事に「大きな意味」があって、1159年に「伊豆」に入ったが当然に其れまでには「伊豆の土地への繋がり」は全く無かった。
「伊豆」は実質は「頼政の所領地の守護の警備」としてではなく、「山岳地の伊豆」を豊かにする「管理人的な目的」で「頼政」に頼まれて入った経緯である。(清盛の圧力か)
従って、「伊勢や信濃」の様に「土地の郷士との繋がり」で「氏族」を形成していた訳では全く無かった。

「伊勢信濃の融合族」として「管理人的な目的」では「商い」が主体で管理するだろう。
「頼政」は遙任であって実質の格式は表向きは「伊豆守護代」である。
「地域の治安」と「地域を豊かにする事」の「二つが目的」であって、「武力的に統治する形態」ではそもそもなかった。
「平家」に執っては「源氏」が隆盛してくる事はそもそも好ましくない筈で「正三位」にして「伊豆守護代」を与えたが、これは「清盛の思惑・上げて置いて下げる戦略」と見える。
故に、「伊勢や信濃との繋がり」の中で「殖産を含む商い・伊豆楮や海産物」を興して統治する事が主眼であったのだ。
この産物が全て「伊勢」に送っていた形態であった事が記録に遺る。
これ等が「良質な為」に中には「和紙の伊豆楮」と呼ばれていた位である。
それだけに、「伊豆の商い」は、「独自路線での伊豆」では無く、飽く迄も「伊勢や信濃との繋がり」が切れれば滅亡するのである。

当然に「伊勢や信濃」はこの「命の繋がり・血管」を切る事は見殺しに成る事は充分に承知の上である。
前段でも論じた事柄は必死に成って「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築してこれを護ろうとした事の表れなのである。

「管理人」として入った当初は「土地との繋がり」の無い地域である。
故に「国友」を「信濃青木国友」として入って管理している者等に配慮し、且つ、「地元の者」には実は「頼政の孫」を隠して「信濃の青木国友の事」を誇示して上手く「バランス」を保ったとも考えられている。
その経緯が現在に成っても“「何らかの商い」を営む「青木さん」”の形に成って表れていると考えられるのだ。

(注釈 実は、前段でも論じたが、「伊勢」に、この時、「伊勢秀郷流青木氏」の出自元の「秀郷流蒲生氏郷」が入り、「近江商人」を呼び寄せて「管理方式」で「国を富ませ統治」に替えるとする考え方を採用した。
この方式が平安末期から鎌倉期にかけて芽を吹きだしていた。
「清盛」も「同様の形式」で「九州の北部域太宰府」などを統治しようとした。港の泊開港等)

当の「青木氏」から観れば約300年後の「宿敵の信長」も「楽市楽座・自由市場」の方針を示している。
つまり、「伊豆」は既に1159年にはその考え方を実行したその「先駆け」であった筈である。
「伊豆」に執つては300年経ってもこの環境下にあってこれまで上記した様に「四度の復興」で生き延びて来た。
ところがこの「管理方式の立場にあった事」がこれが「一種の弱点・欠点」でもあったのだ。
「伊勢と信濃」は「商いをしている事」からもこの「一種の弱点・欠点」を「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」で必死に補い救おうとした構図と考えられる。

然し、それが「四度の再興」で何とか逃げ延びられたが今度は簡単では無く成ったのである。
それが皮肉にも「同じ考え方」を持ちもっと進んだ考えの「信長」であったのだ。
唯、「彼の考え方」には「伊勢信濃の律宗族」に執っては「相容れない勢力」があった。
それが「青木氏」が「補完の手段」としている「神明社に依る情報交換点・シンジケート」の「寺や神社などの勢力」も含む「影の勢力」であった。
「伊勢」でも「影の勢力」として観られ、同時期(1568年〜1576年)の8年間に渡って「信長勢力(秀吉含む)」とも争っているのである。
然し、緊迫していたのは「伊豆」だけではなかったのだ。

当然に「伊勢」も対象として観られていたが、「伊勢シンジケート・ゲリラ戦」で対処して「伊勢の五つの戦い」で勝っているのだ。
ところが不思議な事に、この「勝った背景」には、前段でも論じたが「信長」から派遣されていた「信長の重臣」の「青木氏血縁族」である「蒲生氏郷」があったからだ。
何故に「信長」は敢えて「伊勢」にこの「寵愛する血縁族の氏郷」を配置したのかである。

普通ではしないであろう。
歴史では”優秀な戦略家であったから”と成っている。
然し、「青木氏側」から観れば、「表向き」は整えていても左程潰そうとは見ていなかったのではないと考えられる。
其れで無くてはいくら何でも「伊勢五戦」にゲリラ戦で勝つ事は無いだろう。
彼はそれを配慮し、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の「出自元・氏郷の曾祖父の兄弟」でもあり、故に彼は“上手く立ち回った”のであると観ている。
一部の資料では裏で情報を流し丁度良い処で事態を短期で治めたと考えられる。
「氏郷」は「美濃や伊豆の事」も配慮して「大きな傷」に成らない程度に収めたと観ている。
それ故に「伊勢の背景」が出来た事から伊勢では戦いながらも、早期でも「美濃と伊豆」に手を出す事が出来たのである。

前段でも論じたが、一説には、“「1540年頃」には動き出した”とする記録があり、これには「美濃」で起こった「斉藤氏等の争い(美濃尾張を制する)」に「シンジケート」が多少は何らかの形で関わったとする説では無いかと観る事も出来る。
然し、上記の時期では「伊勢」では「駿河水軍」を興す為に「船の調達」に関わる「伊勢水軍」との「やり取り」が「1545年頃」であった。
そうすると、この説ではこの「5年間」で並行して何か伊豆に関わる事も含めて既に「美濃域」で動いていたのでは無いかとも考えられる。

実際には「初期の戦闘行動」があったのは「1545年〜1560年代」であったので、この間の「25年程度」は時系列的に“準備期間であった”と云う事にも成る。
この「準備期間」は当然に「美濃尾張を抑えていた斉藤氏」に疑われる。
然し、記録から「斎藤氏との間での争い」に関するものは何も発見できない。

先ず、国衆南下の為の「三河の松平氏との調整」の前に、手順としては現場でのこの「斎藤氏との調整」を果たさなければならないであろう。

そもそも、この「斉藤氏」は「1432年」から始まり「1542年の最盛期」を経て最終は「1573年以降」は衰退し、そして江戸期には「米沢藩の平侍」までに落ちる事に成るが、これは「国衆」が南下して「一言坂の戦い」の「1年前」と成る。
そうすると、少なくとも国衆南下に入り「三河松平氏の国衆」と成った時期の「1560年以前」ではこの「美濃」では未だ「斎藤氏の影響・1567年」を受けていた時期である事は間違いは無い。
「超近代銃の集団」を訓練しているのに警戒もされず何も無かった訳では無いだろう。

(注釈 この「斉藤氏」が勃興する直前には「美濃の西端」から「尾張の桑名東域」に架けて天武期からの「五都計画の不入不倫域・天領地」であった。
その為にここは1542年頃までは「空白地」であって、相模より国衆の五藤氏がこれを無視して入ったのが始まりでここから雪崩の様に崩れ「不入不倫域」は護られなく成って、遂には丹波から「国衆山内氏」が入って来たのである。
「空白地」の「空白期」は崩れた経緯があるのだ。
この空白期を利用して「額田の青木氏」の「家族の移動作戦」が実施された事は論じた)。

その為には二つ考えられる。
一つ目の策は、一時的に「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」に入っていた事
二つ目の策は、斎藤氏に「裏の策(金策)」を使った事
この「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」は公的な記録に遺されているので現実である。

国衆として「美濃」を離れて「三河国衆」として南下するには「斉藤氏」に対してそれなりの策を講じる必要がある。
無事に南下するにはそれが「二つ目の策」であった筈である。
故に経過としては南下出来たと考えられる。
「1567年」に「稲葉城」を「信長」に依って滅ぼされ「1573年」に逃亡した事に成る。

(注釈 この「時系列の結果」から観ても、「犬猿の仲」の「信長が入る前の時期」に「上記二つの策」で南下している事(1560年説)の資料は間違いはない事に成る。)

「本戦の戦闘行動」は前段でも詳しく論じた様に「一言坂の戦い(1572年)」で始まり、続いて「三方ヶ原(1573年)」であった。
実は「額田の南下の国衆」はここまでは関わったのである。

実はこの時期は上記した様に「伊勢」でも「激しい戦い(1568年〜1576年 実質は1578年)」に成っていた。
ところが、記録を観ると、“「ある事(詳細は後段)」”で「其れ成りの目的」を完成してか「1574年以降」は「三河」から手を引いている形に成っているのだ。

唯、この「資料説」が史実とすると、“「1540年〜1560年の行動(準備期間)・(準備戦)」と「1568年〜1578年の戦い・(本戦)」がどんなものであったのか”は「詳細」は判らないが気になる事である。
後者は前段で論じた様に、「三河記録の通り」、当に「戦い」のそのものであった。
問題は「前者の期間の行動」である。

“「ある事(詳細は後段)」”が「伊豆」に関わる事であるとすると、この「信濃シンジケートの元」が「第4期の再興の事」と成り得る。
然し、この時の少し後には、既に「美濃」では「神明社の情報網」は切れていたので、「戦闘的復興戦略の作戦行動」の本戦とは異なる。
別に、要するに“「初期作戦」”が取られていた可能性は否定できない。
「伊勢(前半はゲリラ作戦・後半は本戦)」でも戦っている時期でもある。
この「環境の中」で「後者の戦い」にいきなり突入する事は無いと考えられる。

そうすると、「前半と後半」とには”「8年間の差の期間」”があるが、つまり、「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」である。
この期間が“「初期作戦・前哨戦・記録にない」”説としは正しい事に成る。
前段で、「1540年の少し前」には渥美への「家族などの移動作戦」が実行された事は論じた。
然し、この”「8年間の差の期間」”は何なのかである。
少なくとも何かが起こつている筈である。

では「どんな作戦」で「戦い」は繰り広げられたのかではある。
ところがこれには「青木氏側」にも「三河側」にも、又、他にも詳しい記録はない。
「三河国衆」に組み込まれた時期なので何かある。

そこでこれを読み解くには、「戦闘的な復興戦略の作戦行動」には何が考えられるのかである。
つまり、「シンジケートの額田青木氏」を「国衆」として「蒲郡」まで南下させて引き出して「土壌」を作るには「美濃」と「三河」に“どのような行動を取らす必要があるのか”である。

それを一応、次の様に考えて観た。

イ 「準備の財源」には問題は無い事を保障している事。
ロ 「伊勢と信濃」が説得に掛かっている事。
ハ 「一族の生活保障」を約束している事。

ではこの「三つの事」に就いてどの様に手配するかであろう。

0 シンジケートの目的と説得 (神明社復興 伊豆救出)
1 シンジケートの内部の意思統一 (「a族とb族」の利害統一)
2 シンジケートの「差配頭」をどうするか (美濃青木氏の末裔)
3 この「組織」をどの様に分けるかの決定 (「a族とb族」の二つに分けた)
4 その「組織の形」を何にするか (「国衆」として結束)
5 「戦略の提示」とその「作戦会議」 (最大の課題)
6 「軍師の決定」 (伊勢秀郷流青木氏)
7 「作戦実行」を何時に開始するか (美濃を出る時期)
8 「合力相手との関係性」の決定 (松平氏)
9 「松平氏(国衆)」との調整 (伊勢が担当)
10 「戦略実行後の処置」 (伊勢信濃が補完)
11 「土地の郷士との説得」 (国衆として入る地元説得 蒲郡と吉田)
12 「駿河青木氏」の復興 (駿河水軍の再興)
13 「駿河水軍と美濃族との関係性」の復活 (平安末期決別 水陸の経済的繋がり)
14 「渥美湾の利権」の取得 (美濃の陸運と水運の融合)
15 「駿河水軍」との結合 (伊勢湾−渥美湾−駿河湾の航路)
16 「神明社」の建設開始 (桑名−渥美−駿河−伊豆)

筆者ならば少なくともこれだけの事は事前に決めて係る必要があると考える。
その「問題の決め手」は、仮に「戦い」を前提とすれば「主要な事」は「5と6の事」であろう。
これを“1590年程度までに「最終目的・南下定着」に到達させる”とすると長くは無い。
何せ「伊勢」も「戦い」に入っているのだ。

「伊勢と信濃」が「実戦力」を持っていないと成れば、“「伊勢のシンジケート」の「抑止力」”をフルに使って側面から牽制して、且つ、「財力」で抑え込む以外には無いだろう。

前段でも論じたが、現実に「伊勢の松ヶ島戦い」の「二戦」では幾つかの記録には完全にこの「伊勢のシンジケート」の「抑止力」だけで勝利して「最小限の負担」に軽減している。
これに「秀吉の長島の戦い」を入れれば「伊勢五戦」である。
全てこの策で「伊勢」はとりあえず勝利している。
後は、これを「三河」に全力を投入するかと云う事に成る。

現実には、作戦通りに「伊勢信濃が出来る事」は、上記の通り見事に「伊勢のシンジケート」の「抑止力」を派遣してフルに使って側面牽制して、且つ、「財力」で抑え込んだ事に成った。

片方の伊勢で戦い、片方の美濃では国衆南下をさせたのである。
実戦に近い「伊勢シンジケート」の「ゲリラ支援」を受けて「南下国衆」を使って先ず“「三河の山間部・東側・東三河」”を獲得する事であった。

これは「松平氏」に執っても「東側の脅威」が無くなり、且つ、反発していた「東側の土豪」を味方に固定させる事に成り得策と成ろう。

それには「伊勢シンジケート」は次の事をした可能性がある。
「戦略物資の輸送路の遮断」
「戦闘物資や食料調達の買い占め」
「周辺域のゲリラ作戦の展開」

「伊勢」と全く同じ作戦」を「三河・東域」にも採った事が「商記録の添書・商取引・時系列」で読み取れる。
これが“「初期作戦の実行」”説の根拠に成っている。
「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」の事である。

(注釈 時系列で追ってみると、この時期は、武田軍は“「東三河」”に侵攻し、制圧し、東側の弱い地域に東から攻め入った。
要するに、「1571年の二連木城の戦い」であった。
この時、「南下の額田国衆の銃隊」を東域に配置して武田勢を牽制した。
と同時に、観た事も無い「近代銃の額田青木氏の国衆」を観て安心させ「東三河の土豪勢力の抱え込み」を図っていたのである。
「西三河」は「生粋の松平氏の旗本」、「東三河」は今川氏等の「残存兵で編成された2000程度の軍勢」であった。
それだけに不満などで一揆などが頻発していた時期である。
其処に配置したのである。
故に、前段でも論じた様に「松平氏」は、「西と東の二軍の軍制」を執る中、本来は西に所属する処、家康は「額田青木氏の南下国衆を「東軍・東三河」に配置した所以であろう。
最終は武田軍は「東三河」に侵攻し、先ず「二連木城から一言坂の戦い」へと始まる。
とすると、「一言坂の戦い」では、東軍域に配置された「額田青木氏の超近代銃の威力」を東域の「二連木城」の「小競り合い」の中で知っていた事に成る。
そして、その後の経緯は,「東三河の東軍の酒井政次の吉田城」を攻めてたが落とせず甲斐に戻つた。
つまり、この東軍に所属していた「額田青木氏の南下国衆」もこの城に入っていた事に成り、「300丁の銃」で抗戦した事に成り、結果として武田勢は“これは叶わぬ”として引き上げた歴史史実の事に成る。
故に、「一言坂」では「350の兵」に対して何と「坂下3000兵」と「坂中3000兵」で「武田軍・20000兵」の本隊から割いて「軍構え」をしたのである。
これは「額田青木氏の南下国衆の威力」を事前に知っていた事に成る。
結局は、前段で論じた通り「一言坂」でも「武田軍本隊」は戦いを諦めて兵を引いた結果と成つたのである。
これが、「上記の疑問の答え」であり、”「8年間の差の期間」”であったと観ているのだ。
“何故、簡単に引いたか”にこの「答え」があったのである。
この「東三河の二連木城め吉田城」は前段でも論じた様に「伊勢の裔系の青木氏」が多く定住する事に成った地域の「青木氏の地名」の遺る「豊橋の中心」に在る。
現在は「縦の陸路」を設定した所から「真西に2kの所」にある城で廃城と成っている。
当に、「信濃」までの「縦の陸路の設定確保」と「東三河の戦いの最前戦」に在ったのだ。
参考 この「東三河」は267000反の面積を有し、浜名湖より3.5kの位置に在り、西に渥美に繋がっている地域である。)

その「国衆南下のルート」は「本庄の額田」から「蒲郡」までの「真南に60k」の「圷と山間部の境目」を降りて来る事に成る。
降りて来るにはこの「縦の陸路域」を「国衆」として制圧する必要があったのだ。
この“「南下の初期作戦」”の目的は改めて次の二つにあった。

「国衆」と成って南下して「渥美湾域」を抑え此処に「伊豆」までの「陸路水路の拠点」を築く事
「伊勢の信長勢力」に絡み乍ら「三河」での「信長勢力への牽制」である事

この「初期作戦の二つの目的の達成」であった。
この「二つの目的達成」は「信長」に執って「戦略上好ましくない事」であったと考えられる。
然し、「松平氏」にはやっと「三河」を結果として「今川」から取れたもので、これを「信長」に取られる危険性は歴史が物語る様に充分にあって、それを「三河」に執っては「国衆の立場」から側面から牽制してくれるのには実に都合はよかったのだ。

それは誰も入手できない「超近代銃」を持つ事で「単なる国衆」とは見ていなかったのであろう。
それは「歴史的な史実」として「雑賀衆」に信長は入手を断られそれだけに困難さは知られていた筈である。

(注釈 商いで同舟の「雑賀族」に「伊勢」は手を廻した事も考えられる。)

(注釈 「雑賀衆と根来三千の銃傭兵」で取り敢えず解決した史実が在る。
そこで、「信長の松平氏への牽制」は、歴史的にもこれは「現実の事」として激しく動いていた事はこれは史実である。)

何しろ「ゲリラ作戦の国衆」で、且つ、“「超近代銃300丁(下記)」”で「武装する国衆」であり、後ろに「財力の青木氏」が控えていると成るとうっかりと手は出せない。
既に、少し前に「伊勢の事(伊勢五戦)」で「痛い目」にあっているのだ。
抑々、信長も「額田青木氏」と云えど「普通の国衆」では無い事は知っていた筈である。
何せ背後に「伊勢」と「秀郷一門」が控えているのだ。
「信長」に執つては直近に「武田氏との決戦」を控えている中では「三河の国衆側」から動かなければ取り敢えずは「黙視」が常套手段であろう。
現実に三河松平氏は「額田青木氏の国衆」を使って西の護りには動かなかった。東の護りに集中した。

家康は「戦い」も無く「蒲郡域」と「渥美吉田域・豊橋域・東三河」を「今川氏衰退(1560年・岡崎城敗退)」のすれすれ(「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」の記載)に手に入れる事が出来たのは、この「強力な背景・額田青木氏の国衆」があった事に間違いはない。

恐らくは、この「信長」は「岡崎城奪取のチャンス」を狙っていたと考えられる。
松平氏に執っては単独での「蒲郡と吉田の奪取」は目立ちすぎる事から得策ではない筈で、従って「松平国衆」としての「蒲郡と吉田の奪取」であれば、「信長」を含む「衆目の理解」が得られた筈であった。

(注釈 既に「額田青木氏の一族一門郎党の家族」は約30年前に「渥美の古跡神明社の存在・伊勢神官族」を前提にここに入っていた。伊勢の裔系が入る事には武力に依らずとも何の問題も無かった。
寧ろ、“彼等を護る”と云う「正統な名目」が成り立っていた。)

これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。

(注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)

つまり、「水路の戦略(1540年〜1545年)・第1期」と「陸路(1560年〜1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
それでも「伊豆−美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。

(注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56−1」で詳細に論じる。
「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)

その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。


「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」に続く。


  [No.378] Re:「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/01/23(Thu) 08:55:20

「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」の末尾

> これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
> 「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
> 「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
> これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
> 「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。
>
> (注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
> 何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
>
> つまり、「水路の戦略(1540年〜1545年)・第1期」と「陸路(1560年〜1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
> それでも「伊豆−美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。
>
> (注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56−1」で詳細に論じる。
> 「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
>
> その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。

「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」

さて、「戦闘的な復興戦略」を論じる前に、その背景を前段に続き少し論じて置く。
その事で「準備期間の戦略」の実行(第1期・第2期)も含めてこの「戦闘的な復興戦略」が大変なものであったかが判る。

「額田青木氏の存在経緯」に大きく関わるこの「一色の検証」は、「足利氏傍系の者(斯波氏)」が「三河の西域(西尾・上杉氏)」の「地頭守護」と成り、約通算80年の期間、ここに住み、「地名の一色・本貫名」を、“「格式の印象」”を挙げる為に名乗ったと云う結果と成る。

現実には「縛り」を護らなかった「河内源氏系の傍系族」で、且つ、その「傍系支流」が、元は「皇族系であると云う事」だけで如何にも「伊勢の青木氏族との所縁」であるかの様に「見せかけ」を以て“「一色」”を名乗ったと云う事なのである。
それを基準に「上記の検証」と成っている。

ところが、もう一つ「一色の地名・伊勢の本貫名」が、現在の豊田市の「真南の14kの位置」の「岡崎地区」に「一色・額田一色系の青木氏」の地名があるのだ。
これには上記の「西尾一色(権威利用)」と「端浪の一色(本命)」の「二つ以外」にこの様に「もう一つの一色」があるのだ。

これを先に上記の“「二つの一色」”と誤解を招かぬ様に解明して置く事が必要だ。
これから論じる「国衆南下」の後の「青木氏」に大きく関わって来る事なのだ。

さて、この「岡崎の一色(額田一色・青木氏)・本貫」が「戦闘的復興戦略の論」に関わるので更に検証を続けて置く。

そもそも、前段でも論じているこの「額田の一色」は、「伊勢の施基皇子の所縁・追尊春日宮天皇」・「追尊50年後」にこれを由縁に着けられた地名であるのだが、それは「伊勢の二世族・額田裔系」の「浄橋と飽浪」が嫁いだ「美濃青木氏の本庄」に嫁いだ所縁から「伊勢の本貫名」を付けられたものである。

ここ「岡崎の一色」の地名は「額田―蒲郡」の「間」の「丘陵・山沿い」の直線上にあり、真南の湾間地域の「蒲郡」とは直線で「20キロの位置」にある。
「額田」から真南14kで「蒲郡」から真北の位置にある。
要するに、この「一色」は「額田と蒲郡」の真南の線状の丁度、「中間の位置」にある。
これは余りにも恣意的である。
これは何なのかである。
答えから先に云う。

それは前段でも論じた「渥美湾から信濃までの縦の陸路」の跡なのである。
つまり、「中継地とした所」であろう。
「国衆」として「南下を果たして跡」のその「縦の南下陸路・陵道」であり、「信濃」を護る為に「一つの固定ルート」の「中間点」に「人」を置いて、そこを「一色」と名付け造った「山際の陵の拠点」である。
そして、「渥美」からも「豊橋−豊川−豊田」から「R1」で北に上ればこの「山稜線」に交差し、これを辿れば、後は「旧中仙道・R19」を「塩尻」まで上れば「信濃青木村」に達するのである。
現地調査でも現在も可能であった。
このルート上に入れば前段でも論じた様に、「土地開発(伊勢秀郷流青木氏)」と「殖産開発(伊勢裔系の青木氏)」とで入った「開発地域の真中」を通れる事に成る。
ここが「信濃」までの「縦の陸路」として造り上げた「固定ルート」なのである。
その為の「中継点」である。

さて、そこで「西尾の一色」とは、「岡崎の一色」へ斜線で東に30キロの位置にあり、「岡崎の一色・額田一色系」から知多湾に向けて「真西に18キロの位置」にある。
「西尾の一色」と「岡崎の一色」と「額田の一色・端浪一色」は、真西に10キロ、真南に21キロ、斜線で30キロの“「直角三角形の位置」”にある。

この「土岐域」から直線で「真東に45キロ」の「丘陵・山沿いの位置」にある“「岡崎の一色」”は、「圷の問題」は全くない地域である。
上記した「土岐―大垣―揖斐」の「三角洲の野」に“「三野王」”の「本庄」はあったとする「古書の記録」からは、可成り距離的に近い事が云える。
直ぐにでも「岡崎の一色」の「伊勢本貫名の地名」を着けられる位置にあった事が云える。

そうすると、愛知県の「西尾の一色(本巣郡)」と、同じ愛知県の「岡崎の一色(額田郡)」とには、“どんな違いがあるのか”である。
「斯波氏系足利氏の地頭」の「一色」との明らかな違いがあるとしても、他にもこれを知って於く必要がある。

北部の「土岐」から直線で真南に愛知県境まで7キロ、この県境から「岡崎一色」まで33キロ、 合わせて「40キロ(10里)」と成る。
「当時の生活圏」としては「丁度良い位置にある事」に成る。

先ず、地理的に観れば、次の様に成る。
「岡崎の一色(額田郡)」は、39キロから40キロの「丘陵山沿いの域」にあり、「三野の土岐―大垣のライン」から「40キロ」として「10里の真南の位置」に在る。
要するに、ここは「古書記録の三野王の本庄」があったとする位置には「古来の生活圏内」に在った事に成る。

「古来の生活圏」は、「9里(36キロ)から10里半(46キロ)」がその限界であって、この範囲で「宿」を取るのが普通であった。
これに合わして宿場があった。
従って、「三野王の本庄・美濃青木氏」と「額田青木氏・端浪一色」との「ずれ問題」は「許容の範囲」では問題は無かった事に成る。
「本庄の位置」と「端浪一色」は嫁いだ直ぐ後から、“丁度良い位置”に離れて生活をしていた事を暗示している。
この“丁度良い位置”に意味を持っているのだ。

(注釈 古来はこの「10里・40k」が「生活環境」における「考え方の基準」であった。)

つまり、ここの二か所に滅亡する前の「美濃青木氏」が「隣合わせ」に定住していた事に成る。
「伊勢の二世族」の「浄橋と飽浪」の嫁いだ地であるが、この「隣合わせ・距離観」の持つ意味は、「浄橋と飽波の源氏化での抵抗」の「距離観」であり、「源平戦の前」に既に「別行動」を起こしていた事を意味する。

そして、「40k東の離れた位置」のここに「伊勢の本貫名の一色と名付けた事」に成ると前段でも論じたが、この様な説が生まれた所以である。

次に「西尾の一色(本巣郡)」は、「三野の土岐―大垣のライン」から「71キロの位置」にあって、「18里の位置」にあって、ほぼ「二倍の生活圏の位置」にあった。

これは「古来の生活圏」としては、「この距離」は「円滑な意思疎通」は絶対に無理であり、「三野王の本庄・美濃青木氏」の可能性は無い事に成る。
当然に、この「二つの一色」では、「圷の有無の問題」があって、「西尾の一色(本巣郡)」には決定的な「圷のハンディ」があり、「古書記録」の「三野王の本庄の一色」では更にない事にも成る。

従って、鎌倉期の「西尾の一色(本巣郡)」は以後、前段でも論じた様に論外とする。

歴史的に観れば、この「圷の検証」から、ここには、「三野王の時代」から最低でも「150年〜200年後」までは“「本庄」”と云えるものは、この「西尾の一色(本巣郡)の地域」には無かった事が云える。

「三河の事」を書いた遺る「古書」には、「西尾の一色(本巣郡)」の「圷の野」を埋め立てたとする記録が見える事から、鎌倉幕府の正式な「地頭職設置令(1195年〜1232年)」までの間に、「荘園の埋立権」が「地頭のみ」に許されていて、盛んに行われ「地頭荘園の呼称」の「圏域」を当に広げていた事に成る。
つまり、それが「西尾の一色(本巣郡)」と云う事に成る。
そもそも、「西尾の一色」と「時代性」が「額田一色・岡崎の一色」とは異なるのだ。

これの「圷野の埋立」を行ったのが、記録から当時の「初代地頭」と成った「西尾一色の祖」の「足利公深」である事が判っている。

(注釈 室町幕府の時代には遂には、「嵯峨期の縛り」が無視され外れて、この「一色」を姓にして名乗る家臣まで出て来た事が起こった。注意する必要がある。)

其の内にこれ等は先ず全て共通して「清和河内源氏支流」にその系を求め搾取して、その上で「6つ」の「伊勢の施基皇子の本貫名」の「一色」を何と「姓」としているのだ。
そして、その「本人」では無く、「要領」を得て上手く「搾取者の裔系」が名乗っているのだ。

前段でも論じたが、調べ上げれば「主種の記録」から以下の通りである。

「斉藤義龍の裔」 「土岐頼栄の裔」 「吉良有義の裔」 「吉良定監の裔」 「上杉教朝の裔」 「唐橋左通の裔」
名乗ったのは全てこの裔系の以上の6姓である。

「本人」は世に憚るが「裔系」は信じて仕舞うであろう。

(注釈 但し、この姓を「明治3年の苗字令」でも名乗ったのだが、これは「第三の姓」と観られる姓は除く。
これだけに「伊勢」に無関係のそれも「第二の姓」が使うまでに「嵯峨期の仕来り・9つの縛り」が「室町期」では最早無視されて護られなく成っていた。
誰も彼もが例外なくこの「9つの縛り」を護らなかった源氏姓を名乗った。
名乗っている数だけに、「皇族」としての「縛り」を護れなかった「源氏族」にはそれ程に「子孫」を遺してはいないのだが。)

さて、「西尾の一色(“本巣郡”)」は、「30キロ以上」も離れた「岡崎の一色(額田郡)」の地名を使ったのだが、「三野王の本庄」、又は、「額田端浪の一色」の「権威と象徴」を連想させるこの「一色名」の「地名」を、勝手に「地頭所在地」のここに移した事に成るのかである。
或いは、「斯波氏系足利氏の目的」は、「地頭の所在地」に「統治」の為に「権威と象徴の一色名」を「本巣一色・鎌倉期初期」と、「額田端浪一色・平安期初期」との二つに態々分けたのか何れかである。
要は当時の呼称がどうであったかであるが、郷土史などでは、“西尾の一色”と記されている。
恐らくは、分けて読んでいた事を示すものである。
然し、「額田端浪一色・平安期初期」には無い。
「岡田一色」は室町期の中期後であるので別枠である。

余計な事かも知れないが、前段でも各所で論じたが、改めて「青木氏の歴史観」として釈然としないので、これを検証としては先に解決しなければならないだろう。

実は、この「疑問」を解決するものがある。

それは、「権威と象徴の一色名」を判別する「西尾の一色(本巣郡・鎌倉期初期)」と「岡崎の一色(額田郡・室町期末期)」には、それぞれ、「古来の状況」の物語を遺す“「字」”を持っているのだ。
前段でも詳しく論じた「字・あざ」が持つ意味からすると、“「地名」が全てを物語る”と云う事である。

当時は、「字の使い方」に於いてこれを「見抜く慣習」を庶民は知っていて何方が「本庄」とするかは知っていた筈である。

「岡崎の一色(額田郡)」には、「27の字・あざ」があって、「字名・あざな」は、例えば、「池神(1)、大神田(3)、神谷、奥添、入洞(各2)」等の全て“「神」”に纏わる「字名・あざの名」が殆どである。
「神に纏わる字名」は、当然に美濃では「始祖の三野王」を指す事に成る。

ところが、「西尾の一色(本巣郡)」には、「26の字」があって、「字名・あざな」は、例えば、「新田(3)、船入(1)、塩浜(2)、浜田(1)」等の全て“「圷野の埋立」”に関わる「字名・あざな」が殆どである。

これは「初代の地頭」がここを「荘園」とする為に「圷」を「野」にする為に埋め立てた所以でもある。

従って、この「字名・あざな」が遺る状況は、「岡崎の一色」と「端浪の一色」と、「西尾の一色(本巣郡)」の「三つの地名」を遺した事に成る。
間違い無く「古来より在る名」は「本巣一色・鎌倉期」よりは「端浪一色・平安初期」の方を「本当の本貫名一色」と“地元民”は字の存在で使い分けの呼称をしていたと考えられる。

そもそも、つまり、「平安期の頃」では庶民は、未だ「語源の意」が遺り、この「語源」からでも判別出来ていたと考えられ字名で意味合いを充分に知っていたと事に成る。
従って、「西尾の一色」には左程の興味を示さなかった状況であったと考えれ、故に足利氏も平気で使ったのではないか。
つまり、何を云わんかと云うと、“民に「守護の在所」を慣習として「権威付け」の為に「一色」とするものだ”と思い込ませた可能性があると云う事だ。

それは、先ず「額田端浪の一色」はその様な「守護的な高位の者」が居る処を民は「一色」とすると思い込んでいた事にも成る。
見方に依れば、「伊勢の一色も志紀も色も一志」の「字」も間違いなくそうであったし、「美濃の額田端浪の一色」もそうであったからであろう。

(注釈 前段や上記で検証した様に、「三野王の在所」から「浄橋飽波の在所・額田端浪一色」までは「40k真東の位置・10里」にあって、この「位置」は源平戦後は「当然の事」として「室町期の1560年の南下」までは厳然とここに定住しているのである。
年数にすれば、「800年近く」にこの「高位の立場」にあった「浄橋・飽波」の「在所・額田端浪一色」は、「守護的な高位の者が居る処」を指すものと成っていた事を考えると、寧ろ、それが自然であろう。)


さて、ここでこの「美濃や三河」に関わらず、そもそも「本巣」とは、“「元は洲」”と云う言葉から「新田開発の代表の言葉」とされて来た経緯があるのだ。
この「呼称」でも証明できる。

平安時代より各地の荘園等の「河洲の圷」を埋め立て、そして「野」にした「新田開発」の地には、必ず「‥洲」や「‥巣」とか使われている。
この“「巣」”も「洲」に繋がり「小鳥の住処・巣」の意味も含まれて使われていた。
「本」は「元」と同意である事から、「元の巣(元洲)」や「本の巣(本洲)」等の多くの形で「もとす」と各地では呼称されていた。

そこで次に「額田一色」に付いてでも証明できる。
「岡崎の一色(額田郡)」が「伊勢の裔系の室町期中期の本庄」とする「決定的根拠」が未だ他にも在るのだ。

(注釈 「三野王の本所」は前段でも上記でも検証した様に、「西尾の一色」の斜め右北側に在り、其処より東に「端浪の一色」の西側の「額田の40kの位置」にあった。)

実は、「伊勢の桑名」に「額田」の「大字の地名」が奈良期中期の古来より在るのだ。
これは「平安末期の美濃青木氏」が滅亡するまでに「桑名の額田大字」があった事は「伊勢青木氏の資料」でも判っている。

これは、然し、これはどちらが先かで変わって来る。
「三野王の本庄の額田」が先か
「桑名の額田」が先か
実は以上を決定づけるものがある。

その前に、「呼称の語源」として導き出した証が在る事を知って置く事がある。
古来より「額田の語源」は、「ぬかるんだ田(額るんだ田)」、又は、米の「糠の田」と云う意味で、要するに当時は“水利の良い土壌の良い「肥沃な田」”と云う意味を以て使われていた。

そこで、先ず「桑名の額田」は、「揖斐川の入江口」の直ぐ西(6.6キロ)に位置し、「員弁川(0.3キロ)」に沿い、その「揖斐川沿い」の「桑名(0.3キロ)」の直ぐ西に位置する。
前段でも論じたが奈良時代よりこの「額田の名」が遺す通り元から「良好な圷の野」であったのだ。
要するに「額田の意味」としては「良い意味」を持っていたのだ。

そこで、どちらが先かの問題を解決する為にこの“「額田」”を更に掘り下げる。

この「額田の諱号」を使っていた歴史的人物の「額田王」は、「鏡王の女」で、「天武天皇」の寵愛を受け、その子は「十市皇女」、この「十市皇女」は「天智天皇の後宮」である。
そして、更にその子は「大友皇子の妃」と成る。
「有名な歌人」でもある。

この地には「額田王」を祭る「額田神社」がある。
この「額田神社」は、一説では「額田部氏の祭神」(五世紀・允恭天皇期創建)であるとしているのだ。

そもそも、この「額田王生誕とその地」には諸説があるが、一概に「桑名」がその「生誕地」とは決められないのだ。

実は、「新撰姓氏禄」によれば、「彼女」を始祖とするこの「額田部氏の子孫」とは、この地の「桑名額田」の「守護社」とするとある。

唯、そもそもこの「額田の地名」は、“「額田王」に関係するか”は奈良期初期である為に古すぎてそれを証明する記録がない。(後付け説)

この為に、「史実」は別として、この「桑名王」の「伊勢青木氏」との「額田部氏との血縁」は否定できないのだ。

つまり、どういう事かと云えば、上記の通り「施基皇子」と「額田王の孫大友皇子」とは「異母兄弟」にあって、歴史的史実では“「吉野盟約」”で関係があった。
この事から、「額田王」と「桑名王」の関係性が見つかれば”「同門の高位族」”である事から関係性は否定は出来ない。
そうすれば、「額田神社」が「額田部氏の祭神」とする事には論理的道筋が生まれる。
前段でも論じたが、施基皇子との関係があって平安遷都に同行しなかった事から罰せられ、特別しゅせの与えられた「平群の額田神社」は廃社とされる。
そこから平群村から「伊勢青木氏の手配」で「桑名の額田」に匿った。
この時の廃社の額田神社は一時、御神体を桑名の鎮守社で嫁していた。
こういう経緯がある。

要するに、従って、この「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」と成れば、大きく「青木氏」と繋がって来る事に成り、美濃の額田青木氏と繋がる。
つまり、「青木氏の始祖」の「施基皇子」も同時代に生きた「同じ都の高位の歌人」でもある事からも、この「伊勢の桑名」は「美濃の額田」とこの経緯の下で重複的に繋がる事に成る。

では、そこで、検証の一つとして「桑名の額田神社」の他に、もう一つ「額田神社」がある。
「桑名の額田」、「美濃の額田」、「岡崎の額田」が在る事に成り、各々、「額田神社」が存在する。
この「三つの額田」には「伊勢青木氏」が深く関わっている。
これを検証して観る。

つまり、「岡崎地域一色近く」にもこの「額田神社」があるのだ。
この事で「古来の慣習」から鑑みれば大方は解決する。

そこで、この“存在の有無の問題”であるが、実は答えは、「桑名の額田」は別として、「両方の額田神社」には、後勘から観て、形の上では“「歴史的なズレ」”があって無かった事に成るのである。

とすると、この「岡崎の額田」の「一色」は奈良期から平安期に架けて、その「所縁」が存在していた事に成る。

そもそも、前段でも論じている様に、仮に「青木氏の重要な歴史的年代」である“「800年頃」”を設定して観て、この「岡崎」に既に何らかの形で“「一色の地名」”があったとすれば、当然に「古来の慣習」に依って「額田の地名」も同時に着いていた筈である。

「施基皇子の没年」が716年であるので、何らかの所縁が在れば「本貫名」の“「一色の地名」”を「岡崎」でも使え得る。
問題は、「岡崎」にその「所縁の有無」にある。
「浄橋や飽波」の様に「端浪一色」と「額田一色」の様に「根拠」が見つかれば問題はないが、現在はその「所縁」は室町期中期依然のもの依然とし見つかっていない。
「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」あるとして、それは「伊勢側」からのものか、「額田や端浪」のものかである事に成る。

現在の筆者の推測では、“あった”としてその可能性から「伊勢側」では無いかと考えている。

当時、古来より肥沃の地でここは藤原氏が治めていた。
ここを元に「藤原氏」は「勢力」を拡大したとする程に、“藤原荘園”とも呼ばれ、「藤原氏の土地」で奈良期以前からの「古墳群地」で、ここに「一色」なる「地名や名乗り」をする事は普通では出来ない。
出来るとすれば、ここの「藤原氏」に嫁して、その裔系が「一色、一志、色、志紀」の「4字名」の何れかを名乗る事以外にはない。

そして、それが「伊勢」とすると、「桑名殿の裔系」か、「員弁殿の裔系」かに成る。
「肥沃な美濃域」には「浄橋と飽波」が「美濃青木氏」に嫁した。
当然に、「肥沃な岡崎域」にも青木氏が無いがあり得る事であろう。
当時としては、未だ「四掟の範囲」で定まるので、嫁家先は「藤原氏」である。
其の後、「美濃の様」には成らず、「伊勢本貫名」が「岡崎」に遺らず「子孫の滅亡の憂き目」を受けたと考える事が出来る。

(注釈 当時の「四掟」は前段でも論じた様に、「妻嫁制度と嫁家先制度の掟」により嫁家先で優秀な者がいれば「青木氏」を興し「家人」として務める事が出来る。
それだけの格式を「女(むすめ)」には持つていた。)

然し、何らかの形で地元岡崎に記憶されていて、それを室町期に呼び興したとも考える事も出来る。
然し、それを物語る資料が見つからない。
従って、前段と本段では「下記注釈の後者のロ」として論じているが、最早、室町期中期に幾ら何でも「格式」を誇示して「額田青木氏」が、態々、”一色の地名”を着けるかにある。
無いであろうし、仮に着けるとしたら“元あった事からの所縁”に依るだろう。

その「所縁」とは次の通りである。
この「岡崎の一色」には、その町の中央には“「神明社」”が現在もあり、元は「額田郡」に所属し、この“「一色町・3里」”より「真西の13kの位置」に岩津地区の“「青木町」”があるのだ。
そして、上記で論じた“「額田の額田神社」”もあるのだ。
これで室町期や江戸期のものでない事は良く判る。
恐らくは、「神明社関係」で「神職青木氏の関係」が「一色の地名」を遺した「所縁」では無いかとし、ここが後の室町期に「地名」を引き興したものでは無いかと観ている。

(注釈 「額田」は、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」と、「青木氏の所縁の額田」のあり、「青木氏の所縁の額田」を仲介して他の二つと関係性が認められる。
但し、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」の間の直接的な関係性が、現在では「状況証拠」でしか証明できない。古来にはあってねそれが両者ともに子孫拡大が大きくなかった事で消えたと観ている。)

(注釈 三河東端の「山稜沿いの縦の陸路 イ」と、三河中央の「岡崎一色を中心に結ぶ縦の陸路 ロ」を論じている。
「前者のイ」は、「初期段階」、「後者のロ」は、「後期段階」と成る。
それは前段や上記でも論じている様に、「戦況の変化」により切り替えざるを得なかった。
前者は、第一次の武田氏の攻撃と第二次の攻撃で奪われ使えなくなった。
後者は、「陸運業」に転向してからの「縦の陸路」と成る。
最終は、両方を使った事が記されている。)

そもそも、この「額田端浪一色の地名」は「追尊春日宮天皇・施基皇子の二世族」の「桑名王の子」の「浄橋と飽浪」とが嫁いだ「美濃青木氏の本庄の地」から「10里東の位置」にあった。
それが「830年頃」に既に名付けられている。

従って、“何らかの所縁”があったとして、これが歴史的に消えたとすれば「鎌倉期までの事」に成るだろう。
「額田」には、少なくとも「天智期むからの「額田王、額田部氏、青木氏との三者関係性」があった事が読み取れる。

そもそも、「額田部氏」は飛鳥時代に遡るほどの「伊勢青木氏」より「古い職能族で官僚族・当時は連」であった。
そうすると、時代は異なるが、“共に何で「額田の地名(桑名と岡崎)」が着いたか”である。

考えられる事として、次の「三つの事」が考えられる。
イ 「伊勢青木氏(桑名殿)」(「一志・一色の地名」)との所縁。
ロ 「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」から呼称されただけ。
ハ 「職能集団の連」の「額田部氏末裔」が額田に移住した。

先ず、判り易いので「ハ」に付いて解決する。
彼らは次の様な経緯を持っている。

「穂積氏の臣」と「額田部氏の連」を祖とした同族である事
「穂積の語源」は、「額田の語源」と同じである事
「額田部の連(後に破格の昇格・宿禰に成る)」は、その「額田の役目」、つまり、「米」を作る為の「技能」を専門とした事
そして、共にその「役目」を負う「官僚族」であった事
同じく「穂積氏(額田部氏の分家)」は「部」が無い事から「米」の収穫と、その一切の管理を任された「事務官僚族」であった事
以上と成る。

(注釈 「穂積」が有っても「穂積部」は無いのだ。これは穂積氏が「連」の「姓・かばね」として認められていなかった事を意味する。)

つまり、「額田部氏」の許に共に、一族の「一連の米収穫の為の官僚族(本家分家の関係)」であった事と成る。
故に、史実は、これを以て“「祖」として「同族」である”としている所以でもあろう。
つまり、これは「額田部氏」からの末裔が「穂積氏」が出自したと考えられる。
要するに、「分家」である「穂積氏」も「連族」であったのだ。
後に、その功績を認められて、この「額田部氏一族一門」は「朝臣族」に継ぐ「宿禰族」に破格の昇格するのだ。

故に、「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」から「額田部氏」は、その「役目の神社を持つ事」を「朝廷(天武天皇)」から特別に許された「唯一の高位の官僚族」であったと考えられる。

「桑名」の「額田神社」が「豊作を願う神社」として「最高格式の国幣社」として許可され、それ故に、それを「伊勢神宮」の「伊勢・桑名」に平群(廃社)から置く事を許可した事が考えられる。
これは歴史的に観れば見逃す事の出来ない歴史的な「相当な所以」である。

「伊勢神宮外宮」の「豊受大御神」(五穀豊穣の神)と共に「伊勢桑名」に設置を許され、それも古来より最も「肥沃な土地」の「現地」に置いた事に成る。

従って、この論理から、これ程の「高い神格のある神社・額田神社」が「三野域」に二か所に建立される事は先ず無かった筈である。
それは「伊勢」であるからこそ認められたのである。

ここで「重要な事」で、当時の慣習から「不思議な事」は、“「額田部神社では無い事」”であり、“「社格では無く神社格」”である事だ。
「個人の村格式」と成る「額田部氏の神社」で在り乍ら、「公的な額田神社」の扱いに成っている事であるのだ。

そして、その結果、「額田部神社」は「額田部氏の分家」の「穂積氏」に依って「美濃西域」に「村格式の神社」として相当後に建設された事に成るのだ。

要するに、「額田部氏」は「格式の高い特例の国幣社」を名誉高く与えられ事の由縁を以て村格式社の「額田部神社」は掟上で最早、建てられない事に成るのだ。
故に、分家の「穂積氏」が「氏神社」の「額田部神社」を建てたと云う事に成る。

(注釈 「穂積氏の身分格式」が低いので、恐らくは、この「縛り」が緩んだ室町期では無いかと考えられる。)

(注釈 「朝臣族」か少なくとも「宿禰族」までの高位でなくては「氏神社」でも許可なく建てられない。)

「額田神社の額田部氏」は、「神明社の青木氏」にも劣らない各式を有する事を意味したのである。
この「違い差」は「社格式」と「神社格式」の差だけと成り得えたのである。

(注釈 その後、事件が起こった。
実はこの「額田神社」は当初から「桑名」に建立されたものでは無かったのである。
これは後段で記述する。)

次はロである。
「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」は、各地にこの意を持つ「古地名」では、殆どは“「糠田」”としている。
つまり、これは「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」であった事から「額田」を使っていないのである。
つまり、「奈良期の禁令の範疇」にあった。

この事も重要である。
そもそも、「糠」は「米糠」で「糠」が良く出る事は「豊作」を意味し肥沃な土地である事をする。
つまり、「糠の良く出る田」として余りにも「格式の高い額田」に替えて「糠田」としたのである。
これには、理由があって奈良期からの「慣習仕来り掟」で、前段でも論じたが、「神、天皇、神社,高尊族」等の「高位の品格を持つ名」を勝手に使用する事を禁じていた。
「嵯峨期の詔勅」でもこれを追認して徹底させた。

従って、前段と上記で論じている「一色」と同様に、この「額田」そのものも勝手には使えないのである。
そこで「同意の糠田」として使用したとされ、全国に多いのである。
そもそも、そこでこの「高位の格式」を持つ「額田の地名」があるのは、「桑名」と「岡崎」と「美濃」を除いて、次の通りである。

「奈良平群郡」
「近江野洲郡」
「出雲一意宇郡」

以上の「三地域」である。

これには「歴史的な意味」があるのだ。

これには「ある事件」が含んでいたのだ。
極めて限定されている。
そして、この「事件」の関わりで、「伊勢青木氏との深い繋がり」に成り、強いては「美濃の事」にも関わってくるのだ。
避けて通れない事件なのである。

上記の「三つの郡」は何れも「高位の格式」の何物でもない。
この何れもが合わせて「額田部氏の末裔の分布域」でもある。
且つ、「伊勢神宮」に関わる「神の品格の地」でもあるのだ。

これで、「額田の地名」の「存在有無」はこれで「決め手」に成るのだ。
そもそも、「桑名」は、上記の通り当然の事として、取り分け「岡崎の額田」は「三野王の地」として、又、「天武天皇」の「五都計画の朝廷の天領地」でもあった。
従って、「三野の米」の「五穀豊穣の管理」が必要であり、「豊穣の祭司」が伴う場所でもあった筈である。
これで、「額田の地名の存在有無」は、この「官僚族の額田部氏と穂積氏」が派遣されて、そこに「現地孫」を少なくとも遺したと考える事が出来るのだ。

唯、「特別高位の宿禰族」である限り「青木氏」と同じく「額田部氏」は「現地孫を遺す事」は許されなかった。
遺したのは故に「穂積の形」で遺したのである。

故に、ここに「額田神社」が無いのは、「五穀豊穣の祭司」を「伊勢神宮の子神」として「桑名」に古くから建立されている以上は、「二つもの同格式の神社」を「三野の天領地」と云えども創建は出来ない事に成る。

(注釈として、後は「呼称」を変えているので「嵯峨期の禁令」から「後付け」である事が判る。
ところが、実は歴史的にその様な時期があったのだ。
元禄期に神社経営を良くする策として盛んに禁令を無視して命名した史実がある。
「神明社」も「神明神社」として、又、神明社の前に地名を着けたもの等のものが出た。
これ等の「社格式」は「国幣社」では無く、何れも最低の「無資格社」である。
正式なものでは無く、商い的な格式でのものである。)

では、そこで最終的に検証して置かなれればならない事は、他の主要な「信濃と甲斐の天領地」にはどうなのかである。
答えは“無い。”である。

唯、何か「額田神社」に「替わる神格の持つ神社」が存在するかの疑問がある。
結論から云えば、答えは簡単である。

「五都」の二つの「信濃と甲斐」の「二つの天領地」には「額田の地名」と「額田神社」は“無い”である。

有りそうなものであるが無いのだ。
然し、ところが「五都」の一つ「美濃」には、「額田の地名」と「額田神社(額田地区 額田杜 本命」)」があったのだ。
この事は意味が大きい。
この事は「古書」より判っている。

その現在では、ここは「西美濃」」に当たるが、「平安期」までは「三重桑名の近接地区」にも、「本命の他」にも「額田神社(増田地区 員弁川沿い・「後付け」)」があるので問題は無いのだ。
これは古来は美濃と伊勢の線引きの位置が西側に寄っていたのだ。

「伊勢桑名」と現在名の「美濃増田」にと二つ並んで在るのだ。

この「美濃増田」が上記した「ある事件」を解決してくれるのだ。

(注釈 この「後付けの神社」に付いては「江戸初期の神社経営難期」があったが、この時、「増田」のある「村格式の神社」が、この「額田の格式権威」を使って呼称を変更した可能性がある。
これはある程度の何らかの「地名などの所縁」があっての事ではないかと考えられる。
これは後に解明する。
現在は「三重県の桑名」域であるが、古来は「美濃の西端域」であった。
その為に、この「額田地区と増田地区」の「二つの神社」の間は、“「1km程度 真南北の位置」”にある。
然し、愛知県に「三河額田地名」があるが、ここには「氏格と神格を示す神社」は一切無いのだ。)

唯、「美濃と甲斐」には、前段でも論じた様に、「石橋山の戦い」と「富士川の戦い」で巻き込まれて「額田部氏の子孫・穂積氏」は壊滅したとも考えられる。(源氏方に味方した。)

「美濃」はその意味で、後の「増田地区の額田神社」が「圷野の干拓灌漑」の感謝から祭司した「鎮守神社」であろう。
その意味で「古来の慣習」に従った「神社の位置づけ・北側」に「杜」を祭祀し、その麓に「社」を構えた形式に適合している。

そもそも、本来であれば「員弁川」から北の「128mの圷野」に「社」を構える事は先ずは無い。
従って、「額田神社(額田地区・桑名)」にある「額田の杜」にある「社」が「古書記載」の通り「本命」と目される。

(注釈 「増田地区の額田神社」との関係については後述する。ある事件の解明の処で論じる。)

然し、そこで「信濃と甲斐」に「額田の地名」と「額田神社」が無いのは不思議である。

これは、この「五都」の二つに「額田部氏が関与しなかった事」を示す事に成る。

然し、「信濃」には、「南佐久郡」に「額田部氏の子孫」である“「穂積村」”が存在しているのだ。
この“「穂積村」”は、「青木村」とは、直線で北西に「40キロの位置」にある事は、「額田部氏」に代わる「穂積氏」の「官僚族・米の管理」が明らかに配置されていた事が判る史実である。

但し、「役務」を“マンツーマンで行う同僚族”で、尚且つ、「穂積氏」は「額田部氏」とは「分家の同族」であるので、従って、次の様な分布を示している。

「伊勢の額田と穂積」
「近江の額田と穂積」
「美濃・三河の額田と穂積」

「信濃の穂積」(額田部氏無し)
「甲斐の穂積」(額田部氏無し)

以上である。

依って、「五都計画の天領地」は、結果として「伊勢、近江、美濃」を除いて、当時は「信濃と甲斐」(盆地)は「穂積氏」だけで管理されていたと云う事に成る。

では、そうすると「伊勢の額田と穂積」、「近江の額田と穂積」は当然の事として考えられる。
然し乍ら、「美濃・三河の額田と穂積」に、「額田部氏と穂積氏の同族官僚」の両氏が存在していたかと云うと疑問である。

それは、上記でも論じた様に、「四つの河(揖斐、長良、木曽、土岐)」に恵まれた無限に近い「圷の野」にあった。

上記の検証で論じた様に、この「四つの河」に依って「圷・あくつ」はどんどんと広がる。
当然に、この「圷」が出来てそれを「埋め立て」て行けば「四つの河」から運ばれる栄養のある「肥沃な五穀豊穣の野」が出来る。

従って、「圷」の「埋立」と、これを適切な「野」にして、「田」にする「灌漑技術」と、「豊穣の田」にする「経験と技術」、土壌に適合した「米種の選定」等をするには、当時としてはどうしても「総合的な専門技術」を持つ“「額田部氏」”が無くてはならい「絶対的要件」と成る。

そして、これだけでは未だ「米」には成らない。
「額田部氏が創った野田」から「稲穂」を収穫して、それを「米糠」を取り、使える様に「保存庫」に納め、「収穫量の管理」と、これを管理して「農民の分配とその手配」と、それを「都に搬送する手配と管理」の一切等も、これ又、「穂積氏の官僚の力」が試され無くてはならない存在と成る。
両者相まって成し得る「大事業」と成るのだ。

当時は、「職能部の者」が成り得ない「宿禰族」に「破格の昇格」を果たした事は、「額田部氏」では無くては無し得ない環境にあった事を示すものである。(後にこれが崩れる。)
「墳墓増築」や「干拓開墾」に関しては「独占的な部」であった事を示している。

其れも短期間ではない。上記で検証した様に、「100年―20キロ」として「揖斐川西域」までの「圷」は、東西90キロ、南北70キロの範囲が「圷」で次第に広がる。
計算では縦の南北で350年、横の東西で450年と云う年月を要する。

然し、これは、「100年―20キロ」としての「干拓灌漑事業」であって、「縦横の面積」が絡んでくる計算と成ると、そう簡単ではない。

この事は「額田部氏と穂積氏」が同時進行と成ると、「800年頃」から始めたとして、「干拓灌漑」が終わるには、「1250年頃以上」と成り得るのだ。(この時期が重要である。)

現実に、上記した様に、「本巣の一色氏」は、その後、地頭として鎌倉幕府に命じられて「圷の灌漑の埋め立て・鎌倉期・結城氏が開墾」をしたとある。
「足利氏系斯波氏・西尾氏・一色氏」が「地頭」として派遣され、ここに住み着いた(80年間)が、上記した様に「鎌倉期初期に地頭」を任じられた事から考えると、ほぼ一致している。

「朝廷の守護制度」とは別に「地頭制度」を朝廷に認めさせての「初めての地頭(「圷の干拓灌漑」の)」であった事が書かれている。
それだけにこの地は「重要な地」であった事を示していて、この時でもまだ「圷の干拓灌漑」はより進めていた事に成る。

参照
80年/縦の南北で350年、横の東西で450年≒1/(4〜6)
「100年―20キロ」/80年≒16キロ

故に、「額田氏部と穂積氏」の末裔を、「桑名」から近く「圷」に繋がる「美濃・三河」のこの地に子孫は遺した所以であり、「地名」の「額田」(一色)も同然でもある。

上記した様に、何れの「額田の地名」と「一色の地名」の「遺る位置」も、「北の土岐域」から「東の額田」の「丘陵線」にあるのも充分に頷ける事である。
つまり、「東の丘陵・山沿い」のここに「管理施設の事務所の館」を設けていた事に成る。

これで「干拓灌漑」は、「東の額田域」から「桑名の西」に向かって進行した事が伺える。

ここで重要なのは、上記で記した様に、「額田の地名」と「一色の地名」と“「飽波の名」と「端浪の一色」(端浪は飽浪の変意語)”も含めて史実を観るように検証される。

「伊勢桑名側の干拓灌漑」は、5世紀頃に「揖斐川沿いの300mの域」に「額田神社」が建立されている事から、「縦の干拓灌漑」では無く、「揖斐川沿い」から「員弁の北側の圷」を横方向に「青木氏の財力」と「額田部氏の技術」で「野」にして行ったと考えられる。

「五都計画の天領地」が拡大する事は、「朝廷」に執っては都合は良かった事から許可は出たのであろうし、当時としては「賜姓五役しての役務」から「当然の事」と考えていた筈である。
当然に、ここは現在の「濃尾平野の西域」である。

「額田前域」の「木曽川河岸の丘陵体」
「各務原」等の「三野の扇状体」
「圷野の本巣域」の「中央原地」
「伊勢湾三角州」

以上の「四つ圷野」で出来ているのだが、「伊勢の三角洲側」は「木曽川丘陵体」の域よりは「高い位置」にある。

従って、この「地理的要素」としての「伊勢三角州の野」は、「干拓灌漑」が容易で「氾濫性」が低く、「肥沃性の濃度」が高く、「東の圷」より古来より見込まれていた事が「史実の通り・額田神社の存在の所以」と成り得るのである。
ここは共に「桑名」から近く「圷で繋がる地域帯」であった。

それ故に、ここには、「額田部氏と穂積氏」が早くから配置されていた所以なのである。

更に、伊勢の「不入不倫の権」で安定して居た事から、安定して職務に取り組める環境があった。
これらは「伊勢神宮の遷宮地」である事も含めて、「額田神社」が「存在する大きな所以」とも成っていたのである。

然し、「穂積氏」も、「額田部氏の“額田神社”」と共に、古来より“「穂積神社(伊勢四日市・桑名南近隣・村格社)」”が祭司され、且つ、「額田神社」の真西の「16キロ(4里)」の「近隣の地(三重郡菰野 現在社跡)」に在る事も見逃す事の出来ない所以でもある。

但し、記録から“「穂積神社(村郷社格)」”に付いては「相当後の時代」に創建されたものであろう事に成る。
「1250年頃の干拓灌漑」が終わった後の室町期に「穂積氏の子孫」がこの「所縁の地」に創建したのであろう。

(注釈 「穂積氏」は「額田部氏」と違って「分家格」である為に、「朝廷」から正式に「氏神の神社建設」を認められる「管理族の格式」を有していない。
これは上記の検証の通りで、ここは「長期間の工事」の為に必要とする「館等の事務所」であった可能性が高いのだ。)

当時の「生活圏10里」とすると、「連絡の範囲(4里)」として「穂積氏と額田部氏」の間の同族が「事業の連絡の距離感」としては「社跡位置」は充分に納得できる。

この時期は、ここを「差配の基点」にして「天領地等の事業」を朝廷に代わって差配をしていたと考えられる。
それにはこの「距離感」は遠くも無く近くも無く絶対に必要であっただろう。

以上で、「額田部氏」が関わった「史実経緯」と「三つの額田神社」、「青木氏」と繋がる「額田王」との関わりが青木氏を経由して「状況証拠」では間接的には繋がる。

(注釈 一説にある上記で説明した様に、“「額田王」”が“美濃の「額田神社」で祭司される”と云う説があるが、それほどの「尊厳と権威」を持ち得ていたかは疑問である。
そもそも、「額田神社」とは、「伊勢神宮」の「外宮・大豊受神・五穀豊穣」の祭祀する「額田の神社」であって、これを、大きく「務め」としてなす「額田部氏」に「祭司」を専門に任したとする考え方であろう。
故に「宿禰族扱い」であって、それを成した五都の内の「伊勢と美濃と近江」に存在する故である。
「信濃と甲斐」には無い所以である。
「額田神社」は「額田部氏」であると云う事に成る。
丁度、「青木氏の神明社」に同義する事と成ろう。
又、「伊勢神宮の外宮の祭司」の経緯と成った「庶民」が淀川で祭祀する「稲荷明神社」も子神としては同義である。
その役目を果たす「額田神社」と「稲荷明神社」であって「奈良期初期からの時代性」も変わらないのだ。)


さて、「伊勢の計画の許」で進められている「額田部氏と穂積氏」が関わる中で、ここから、次にこの「美濃」の「浄橋・飽波の時期」に入り、「美濃青木氏の源氏化」で「浄橋・飽波の裔」は「別行動」を執って、その「拠点」を要するに前段で論じた様に、「額田部氏」に依って新たに「開拓された土地」”を「一色」”と名付け、「三野王の本庄」から真東に「10里の位置」に“「拠点・一色」”を置いた事を論じた。

(注釈 「出自元の伊勢」の「開拓地」である事から「一色」としたとも執れる。
新しい土地とすれば、これでは「三野王系」も文句は付けられないであろう。)

然し、ここで一つ解決して置かなければならない事がある。
それは、当時、ここは未だ「圷」であった史実である。
この「拠点」とするには、「干拓灌漑」をしなければ住む事は出来ないし「野」にする事も出来ない。
そんな「財力と技術」は「浄橋・飽波の裔」には当然に無い。
先ず、この事を解決しなければ「浄橋・飽波の裔」の”「別行動」”は出来ない筈である。

そこは、「伊勢の裔系」である以上、「桑名の東横」の「圷」を「干拓灌漑」した様に、「伊勢の力」を借りる以外には無い。
又、源氏化が進む以上は「伊勢」もそうするであろう事は判る。
上記した様に、この「伊勢」と深く関わっていたのが「額田部氏」である。

つまり、上記でも論じた様に「額田の地名」と「穂積の地名」が物語る様に「額田部氏と穂積氏」がここに入った事に成るのだ。
これは「穂積氏の裔」と「穂積神社」がこの地域に遺った事で示しているのだ。

更に、「室町期」に入り「額田青木氏の国衆」が南下して戦い、そして「三河国衆」から離れ、後に「陸運業」を始め、且つ、その後に子孫は「豊田・岡田の開拓業」と「豊川と豊橋の殖産業」を始めた。

未だ、この域も、「河川の圷」を埋め立て「野」にして全て「本格的な干拓灌漑工事」が伴うのだ。
然し、これにも「額田部氏」が関わらないと成し得る事ではないのだ。
故に、室町期末期迄には、「信濃までの縦の陸路 1と2」を確立させる為も含めて、ここには「伊勢の裔系」と血縁族である「伊勢秀郷流青木氏」の子孫が多く定住している由縁でもあるのだ。

「信濃の青木村」と同様に、「縦の陸路 2」に「青木氏の諸条件」を揃えて「三河の青木町・青木村」がその中間地点に現在でもあるのだ。
「神明社、一色、青木村、山神、額田等の諸条件」である。
現在も山間部で過疎地であり、此処に「古来の由緒」を求めて室町期に改めて「拠点」として住み着いたと考えられる。

「端浪と岡田の二つの一色」の持つ意味には、この「額田部氏の所縁」が含んでいるのだ。
この事を逃して決して語れないのである。

この「三野王・美濃」に関する「予備知識」を前提に、「準備期間」と「予備戦」が終わり、遂に前段でも論じた様に「本戦」と成って行ったのだ。

「額田部氏の詳細」は前段でも論じたが後段でも詳しく論じるが、この時期でも活躍していた事に成るのだ。
「国衆南下」に対して「額田部氏」がどの様に動いたかは未だ詳しくは解っていない。
恐らくは、「蒲郡と伊川津の埋め立て」に移動した可能性がある。
現実に、多くの移動に伴う糧確保の為に「記録」からも「蒲郡も渥美の伊川津」も干拓灌漑されている。
「伊勢の裔系」が住み着くのに額田部氏以外に頼む事は無いだろう。
其れも前段で論じた様に、移動の前では無いかと考えている。
それは「家族・1500人」が伊勢に移動した後に船で渥美伊川津に移動したと成れば、筆者ならそうする。
現実に埋め立てしているのである。



注釈として、ここで敢えて「額田と端浪の一色の地名」の「そもそもの成り行き」を論じる。

果たして、先ず「額田」や「一色」と名付けた「本貫名の字の大きさ」はどの様なものであつたかを記して置く。
「施基皇子」は「古書」に依れば、最終的に、その功績の大きさは「500戸」であった。

この「500戸の基準」は、次の基準で「税と格式」は計算される。

7世紀中の「口分田・班田収綬法」では「一里―50戸の基準」であった。
「6年1造戸籍」から、その後、申請方式の「1年1計帳戸籍」に替わった。
1戸は「15〜20人」とし、「3〜5人の男子」の基準であった。
そうすると、「500戸」は、「10里で40k」と成り、「民は1万人」居た事に成る。
そうすると、「一色の字」は「10里四方・40k四方」の面積と成る。
これを「伊勢」には、「一色」に相当する大字を「志紀、壱志、色、一色」の四つを待っていた事に成る。
つまり、{「10里四方・40k四方」の面積}・4倍と成る。
これに依って、凡そ「青木氏の地積」は「1616162反」・4=「6464648反」である。

そこで「伊勢の全面積」は古書の記録では「6034875反」である。
「6464648反」≒「6034875反」で明らかに「伊勢国一国相当」を示している。
故に奈良期には「伊勢守護王」であった事に成る。

奈良時代の「伊勢国の人口」は「幾つかの古書」の集積から研究計算された人口は「37300人」であったとされ、725年頃には「103200人」や「92600人」と成っていたとされる記録もある。

ここでも「伊勢人口」が「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」の貢献で、徐々に人口を増やしていた事がこれでも物語る。

故に、「額田部氏」は前段から論じている「宿禰の特別昇格を授かった事」がここでも判る。
逆に、「11100人」とした記録もあるが、「志摩域と熊野域を除く・青木氏の旧領地」とあるので、問題視しなくても良いであろう。

そうすると、上記から「一色の大字」の「500戸・1万人」で「伊勢」では「4つの大字」を持つていた事から、「4万人近い民」を有していた事に成る。
「40000人/37300人」は正しい事に成る。

(注釈 「伊勢の人口」が少ない理由は「不入不倫の権」で抑制されていた事から来ている。
然し、平安末期にはこれが緩み「約92600人」と増加させている。
前段で論じた様に、「伊勢青木氏と額田部氏による連携」で「桑名域の干拓灌漑開墾」によって「米策の生産量」と「殖産」とで「糧」がより生まれ増えた事に依る。)

因みに、「美濃」は725年頃には「163900人」で、奈良期初期は「103400人」で、次第に「115000人」から「126900人」と増加している。
そうすると、約100年で50000人増加した事に成る。

明らかに、これは「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」を「和紙殖産」から始まり、「源氏化阻止の対策」に切り替えて「伊勢一国並みの人口」を増やすだけの事をした事の証明に成る。
つまり、上記で論じた「500戸・1万人」で「大字の4つ分」に相当する。

故に、「美濃」の「伊勢の裔系」の頃、つまり、「伊勢青木氏と額田部氏の連携」に依って、「50年後頃の奈良期末期」には「25000人の人口」を増やし、「188900人」に迄に増やしていた事に成る。

これは、「糧=人口の自然摂理」から「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」以外には成しえず考えられない事を意味する。

さて、参考に「近江」であるが、前段でも論じた様に、当然に「額田部氏」を入れて難しい「真砂」の「圷の干拓灌漑の工事」を期間を架けて行って、「和紙の楮対策」を苦労して成功させたと論じた。
然し、その後に離反して源氏化に邁進して行った。
当然に、この「人口」は増加している筈であるが、実は増加していないのだ。

奈良期初期には比較的多い「112800人」であったが、平安期直前には「85700人」に次第に減少させているのだ。
何と「100年」で「27100人」もである。

この原因は、折角、「額田部氏の管理の手」が引き上げて「手入れ」を施さないままで「時間経過」と共に進む「真砂土壌の悪化」で「圷土壌」が悪化したのである。
そして、これは「米生産」では無く、「楮生産」での「和紙の生産と販売」であったからであった。

然し、これでも依然として「源氏化」を中止せず、何と「同族に近い血縁関係」で在り乍らも恩義を忘れ「伊勢」とは一線を企して仕舞ったのである。

逆に、この事が原因で「源氏化に走った事」もあり得る。
この事での「和紙の専売権」は当初より一手に“「紙屋院の称号」”を得ている「伊勢青木氏」だけにあった。
又、「造部支配・穀物等の販売権」と共に、「朝廷の商社権」をも授かっている「伊勢青木氏」から離反すれば「糧を失う破目」と成るは必定であった。
これが「人口」を減らす原因と成ったのである。

(注釈 前段でも論じた様に「屋の称号」と「院の称号」を与えられたのは「伊勢青木氏」が歴史上始めてであったし、歴史上無い。)

「美濃」は「浄橋・飽波の伊勢の裔系・桑名殿」の存在があった。
恐らくは、「三野王系」も「近江と同じ憂き目」を直接に受けていた可能性があるのだ。

故に、前段でも論じたが、「美濃西域(米原東域の隣接域)」で和紙生産されていた。
然し、矢張り、「源氏化」を中止しなかった事から、必然的に「近江」と同じ様に販売権を持たない以上は「生産」を中止せざるを得なかった。

そして、その「源氏化」が完全瓦解した事から、前段から論じて来た経緯から、室町期中期頃の後に「美濃北域の山間部」の”「長尾の域」”で「和紙生産」が再び起こった事もこの事から来ている。
これは「準備段階の経済的裏打ち」の「伊勢の策」であったと考えられる。
この直前に、この事にも乗じて「美濃の伊勢の裔系家族」を「額田」から下ろして「渥美」に移したと考えられる。

そもそも、「美濃人口」が増やせたのは、「前期・伊勢裔系」と「後期・国衆」の「額田部氏の干拓灌漑の長期間の結果」に及ぶのだ。
「東山間部の開墾」は、「楮生産」で、「西南の圷の干拓」は「穂積氏の存在」が示す様に「米策」であった事が記されている。
「信濃までの縦の陸路・初期路・1」に沿って「東西の地形」に合わせて「干拓灌漑開墾」が進められた事が判る。

これから判断すると、「額田端浪の一色の地積」は、「本貫名の字名」が「地名」と成った事から考えると、凡そ、これに「近い地積」を有していて、「一色」の一つの「字名」であるので、この約1/4程度であった事に成る。
上記の系さんの通り如何に大きかったかを示している。

然し、これが「元からあった野」を「一色の地積」としたのでは無く、当然にこれだけの大きさの地積を生み出すには「圷の干拓灌漑開墾の面積」で生み出したものである事が良く解る。

「源氏化の方針の違い」から「別行動」を執った訳であるから、これだけの「地積の分部」を「三野王の本裔」から貰える事は無い。
寧ろ逆であったろう。
それを「浄橋・飽波」が無し得る「力も技術」も無いとすれば、「出自元の伊勢」にして貰う事以外に無いし、そもそも「出自元伊勢」も当初より「源氏化阻止」を目論んでの嫁家であった事から「充分な計画」を準備していた可能性が高い。

恐らくは、その「名目」は「持参金」成らずとも「持参地」として「圷の干拓灌漑開墾」を手掛けていた可能性がある。
この「名目」には「持参地」のみならず「和紙生産の楮生産地」としていた可能性がある。
(然し、美濃西域の米沢東の楮生産地は別行動で消える。)

この時期、矢張り、「源氏化阻止」を目論んで「近江」にも「圷の干拓灌漑開墾」を進めていた事を考えれば、「美濃」だけの「圷の干拓灌漑開墾」では無かった事に成る。
これの為に「伊勢」から「額田部氏」を指し向けたと考えるのが普通であろう。
故に、「地名」だけが記録に遺ったのである。(現在は消えている。)

「上記検証」での「圷野」にする為の「圷の干拓灌漑開墾」は年数が掛かる事は論じたが、故に「工事中の額田」と「工事後の一色」の地名が遺され、所縁のある象徴の「神社」と「本貫名」が遺された所以とも成る。

古代の「額田の地名」には、「額田部神社と穂積神社・室町期」があって、「一色の地名」には「清光院と神明社」という事であったと云う事は史実であるのでこの事に成ろう。
「当時の慣習仕来り」からすれば「地名と神社」は同時に遺すのが「普通の習わし」であった。

「地名」では無く、現在の愛知県の「額田郡・字・50戸1里・4k」は、「岡崎」から真南に3k、「蒲郡」から真西に2kの位置にある。

ここは「歴史的な経緯」から考察すれば、「昔の圷の地域」であった地域を室町期末期に「干拓灌漑を行った地域」である。
それ故に、それが前段でも論じた「国衆南下独立後」の「圷の干拓灌漑開墾」を行った事から古来の由来を以て名付けられた「額田の郡域の広さ」である。

因みに、この「額田郡域の地積」は「約57平方キロメートル・(57500石・50000人/1年)である。
これで「100年50000人の理屈」は成り立つ。

上記の経緯より、この事から「端浪や岡崎の一色」は「伊勢の出自元」が「当初よりの計画」により「額田部氏」に依って「圷の干拓灌漑開墾」が先に並行して行われていた事が判る。


注釈として、更に追論すれば、この「額田部氏」が“何故に「美濃伊勢近江」の「三つの地域」に関わる事に成った”かには、「朝廷内の職能部官僚族の勢力争い」があったのだ。

そもそも、奈良期と平安期には「土木職能部の官僚族」には「3氏」があった。
先ず初期は、最も古い族としては「天智天皇」に重用された「結城族」で、「道路や築城」を専門としていた。
ところが、「天武天皇」には「額田部氏」が重用された。
「墳墓や干拓灌漑」を専門としていた。
そして、「桓武天皇」に重用されたのが「和気氏」である。
「水利事業」を専門としていた。

この三氏相まって「一つの土木事業」が成り立つ事に成っていた。

ところが、此処で衝撃的な「ある事件」が起こった。
それまで重用されていた「額田部氏」が、この「勢力争い」の中で「飛鳥」からの「遷都」に同行して行かなかったのだ。

この為に、「朝廷」より厳しく罰せられて「平群の里」にあった「額田神社」を廃社された。
管理していた額田部氏を罰して管理手が無くなり、朝廷は結局見せしめの為に廃社したのだ。
つまり、“額田部氏を認めない”と云う「厳しい罰」を受けて仕舞ったのだ。
この結果、「結城氏と和気氏」が遷都事業を熟す事と成って伸びた。

これを観ていた「伊勢青木氏」は、「皇親族」と「賜姓五役」と「令外官」の役目を名目にして、この「額田部氏」を救い上げた。
天武天皇と持統天皇期の葬儀に合わせて額田部氏は墳墓を創建したが、この時の「葬儀」で“「施基皇子」と「額田部氏」が会った”とする記録が「日本書紀」や帝紀や他の古書一冊に遺されている。

この結果、飛鳥の「平群の里」を追い出された「額田部氏一族」と密かに「平群の額田神社の御神体」を持ち出し、共に「桑名」に移して「伊勢青木氏」は擁護した。
そして、この「御神体」を「桑名の地元」の「鎮守社」に隠したのである。(後に判った史実)
そして、「伊勢青木氏の職能部」の「青木氏部」に「額田部氏」を組み込んで護った。

その「五都の干拓灌漑の働き」が上記の論であるが、その後、この働きの「伊勢青木氏との連携」が高く評価を受けて、「伊勢青木氏」を出自元とする「仁明天皇」に依り「額田部氏」に与えられていた「社格式」が戻されると云う事に成った。
つまり、「額田部氏の存在」が復帰し、「額田神社」は「桑名の鎮守社」から戻して「桑名の額田」に建立祭祀する事が認められたのである。
この事から大手を振って「伊勢青木氏」と共に働いた。
ただ、この時には最早朝廷には戻らず「伊勢青木氏」と連携して「民間の土建業」として独立した。

「官僚族の和気氏や結城氏」と違って、この時に正式に日本の初代の「造部の民間の土木業者」として独立したのだ。
「伊勢青木氏」と「同じ生き方」を選んだ事に成る。

そもそも、「造部」は「朝廷の中」にあり、「伊勢青木氏の統括(造・伴の二つの諱の号を持つ)」で「青木氏の殖産事業」と共に働いたのである。
この関係は明治期35年まで続いたとされる。

其の後の栄枯盛衰は、「和気氏」に付いては鎌倉期に衰退し、結局、「藤原秀郷流の永嶋一族」としての「結城氏」が残り「民間事業者」としても明治政府まで続いた。

尚、前段でも論じたが「伊勢青木氏」は、「鎌倉幕府期」には「旧領地の部分と北勢域」は「本領安堵」され、残りは「地権域」として獲得している。
ところが、「室町幕府期」には「本領安堵域」は「旧領地の多い南勢域」に限られ、「大字のある北勢域」は「全て地権域」と成っている。
これで「額田部氏」も「民間の土建業」の地位も確立する事に成った。
「信濃」は前段で論じた通り「伊勢青木氏」と共に生きたのである。

何れにしても、この「青木氏の在様」を示している「地権域」に付いては、「幕府の政治的施策」に依り「金銭の支払い」で「地権域を買い取った形」を示した事を意味する。
江戸期は殆どが「地権域」と成っている。
江戸期には「尾鷲の旧領地」だけが遺されていたと伝わる。

その意味で、「額田部氏」は「信濃」も含む「総合商社の形態」を執り、その三氏の内の「構成氏」と成って生き残ったのだ。

余談とは成るが、余り「額田部氏の活動」に対して意外に「子孫」を増やしていないのはこの変の事が影響してると考えられる。
且つ、「遷都時の行動」にも観られる様に「天皇家より古い格式伝統」を重んじ過ぎた所以では無いかとも考えられる。
当然に、「宿禰族」でもあり「四掟」としては問題は無いし、「青木氏部」に組していたとすれば「伊勢や信濃や額田」との間には、「嫁家制度に基づく女系に依る血縁関係」があったと考えられる。
然し、何故か「表」には出て来ないのだ。
「氏人の伊勢衆の郷士衆」との間にも確認は出来ないのだ。
「子孫」を大きく拡大させられなかったと云う事もあるが、「戦国時代下剋上」も「青木氏」と同様に組していないし、「抑止力」で護られていた事なので、”表に出ないと云う事に何かがある”様に思える。

「額田神社の神道・神職」に関わる「宗教」なのかも一つの疑問で研究を続けている。
それだけにその「伊勢信濃の青木氏」と共にする「行動」は徹底していたと云う事でもあるだろう。
その「伝統に類する氏」は「天皇家」までも含んで周囲には居なかった事に左右したのであろうか。
それだけに上記で論じた事は「五都に関わる地域」の「美濃域や三河域」への関わりは頷ける。

(注釈 尚、「施基皇子と額田部氏との付き合い」に付いては、「天武天皇崩御の葬儀祭司総裁に「施基皇子」が選ばれた時からの事である。
この時、「額田部氏」は「臣の造の身分」から本来は昇格は「造部・みやつこ」は「臣」まである。
この「仕来り」からあり得ない「三階級昇格で、且つ特別計らい」で「宿禰族・朝臣族相当」に引き上げて貰った「天武天皇へのその恩義と寵愛」から「墳墓築造一切」を任された。
この事を観ていた「二人天皇の葬儀主宰」の「施基皇子」から特別に命じられて、そこからの「付き合い」と成ったと書記にある。
「編者の舎人親王」がこの事を態々特筆しているのだし、「帝紀」にも記載がある。
「天武天皇墓」は「野口王墓 明日香村」である。)

「額田部氏」が「遷都」に同行しなかったのは、「天武天皇への恩義」と、それへの「墳墓の護り」にあって、「明日香の平群」から離れたくなかったとされる説もあり、更には、その「平群」には「彼等の守護神」とも云える唯一の「額田神社」が別に在ったとする「合体説」があるのだ。
「後付け説」であろう。

恐らくは、「額田部氏の伝統や格式」から考えて「付き合い」の深かった「伊勢青木氏」も確定資料も無いが、この「合体説」が正しいと考えている様だ。
唯一つ、前段でも論じたが、「桑名額田」には、現存するが「宮大工の会社」が二つあり、幾つかの土木業の会社を「額田」で営んでいたとする史実が「伊勢青木氏側」にもある。
“「青木氏部」も明治35年に解体したが、その後、員弁や桑名で「宮大工業」を営んでいた”とする「確実な言い伝え」が「口伝」で遺されている。祖父からも聞かされていた。
然し、「額田の姓名」は何故か「額田部氏」ではない。

「穂積氏」は大きく子孫を各地に遺したが、この事から考えると、その差は主家と分家の掟の差と云う事に成る。
「額田神社」は格式は高いが対象神社が三つとする範囲であり、最終は「江戸期の統制」の対象外と成って「額田部氏が護るべき神社」と成った。
従って、つまり、“「額田神社」を永久に主家が護る”と云う義務があり、これに「縛られての差」であって、「神道の宗教・神職・神道」に関わる事と成った。
それ故に、「子孫」は本家分家共に「姓違い」で遺せたが、「主家の神職」としての「由緒ある筋目の額田部氏」は正統に遺せなかったと云う説が生まれる。

「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。

恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
ここに差が出たのではと考えられる。
筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。

(注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)

「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。

だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


> 「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」に続く。