> 青木氏の分布と子孫力−5末尾
>
> 注釈
> (反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
> ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
> 故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)
>
> ”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
> それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
> 更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
> 「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。
>
> この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
> 容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
> 当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
> 否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
> そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
> 当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
> つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。
>
> 「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
> そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。
>
> 「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
> 仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
> 「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
> 徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
> 結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
> 「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。
>
青木氏の分布と子孫力−6
・「伊勢の菩提寺と紀州」
徳川氏との関係の親密さは、紀州徳川氏の菩提寺が「伊勢松阪」にあって、且つ、「青木氏菩提寺跡」に建立し、「同じ青木氏菩提寺の寺名」を同じくし、古来よりの「賜姓族青木氏」の「伊勢」にあるこの「3つ要素」が最低でも裏付けてられている。
だから、”人はその権威を信じた”のであって、「紀州」に置いたとすれば、”人は無味乾燥と成り、「権威」の「故事の目論見」は消えうせた”筈で無理であった。
それが、「伊勢」であったからこそ、「故事に従った血縁関係」を「本流立葵紋」で成し得たのである。
否、成し得たから、「紀州藩の始祖」を祭祀する「長保寺」に「嵯峨期詔勅の禁令紋」の「笹竜胆紋」が使えたのである。
そして、家康の「浄土宗督奨令」(密教系と菩提寺方式を解除)に反して、わざわざ「密教排除の禁令」に反して、「密教浄土宗の寺」を建立出来たのである。
故に、この「二つの故事」の「禁令条件」を観て、その作り上げた権威を人々から信じられて使えたのである。
そして、この”信じられた影響が、徳川氏全体の行為に伝播して疑う者は居なくなった”ものである。
紀州の「民衆」、のみならず「家臣」までもが、全国の全ての民が、信じ疑わなくなったのである。
むしろ、「歴史の場」では、実際は、「徳川氏の出自」を暴かれているものの、以前は確かに「搾取偏纂」であったものであった。
しかし、それを払拭する様に、上記の「2つの故事」の事で、民衆を含む全ての人は完全に信じてしまったのである。
イ 「青木氏側」から観れば、この「本流立葵紋の青木氏」が、存在する限りは、最早、「搾取偏纂の域」を超えた「認められた正統行為」と成る。
ロ 「徳川氏側」から観れば、「本流立葵紋の徳川氏」を引き継いだ「頼宣」までの「一代限り」では、「搾取偏纂の域」を超えた手続き上では、確実に「正統な賜姓族」で「源氏の末裔孫」と成る。
このイとロの「二つの考察事」を捉えれば、徳川氏の他の直系一族(宗家と御三家)も、心情的には、「源氏末孫」を名乗る事は、「頼宣の事」を捉えて、”「仕方無い」”ともなろう。(前は藤原氏だったから。)
注釈
(「頼宣」の名は、そもそも、「清和源氏」の分家河内源氏の始祖「頼信」から来ている。
「頼宣」の「2つの故事の条件」を取得した事からこそ、「嵯峨期詔勅」に従って、始祖とする「頼信」から、「頼宣」の河内源氏の「通名」を使えたのである。
「頼将(よりのぶ)」から一度は肖って同名の「頼信」にしたが、最後には「2つの故事」の完成に憚って「頼宣」にした経緯である。
この経緯から観ても、上記の「調停工作」と「家興要領」での成功裏の「笹竜胆紋と密教浄土宗」の取得が、どれだけの影響を徳川氏に与えていたかはよく判る。)
「頼宣」の孫の「吉宗」が、「8代将軍」と成って「徳川宗家」に成ったとすれば、”一代限り”とは云え、形式上は「直系孫」となった。
その限りは、「二つの考察事」から観れば、「賜姓族」系と成ったと見做される。
形式的には「男系の血液上の繋がり」は無いが、「徳川宗家」(田安氏、保科氏等)は形式上からすると「未勘源氏」並みと云う事に成るだろう。
前は「搾取の藤原氏」であったが、今度は何とか「源氏朝臣」は名乗れるし、「青木氏」と「朝廷と天皇」はこれを確実に容認する。
これは「伊勢青木氏」等に対する親密な行動で動いた”「家康ー頼宣の戦略」”が功を奏したと成る。
これだけ、”「徳川氏の全氏」に影響を与えた功績”でも、「家光」は「頼宣」により嫉妬するであろう。
「征夷大将軍の権威」の条件が、「調停工作」の「家興要領」に基づく搾取的行為であっても、万民に信じさせて「将軍の権威」を創出したのである。
仕事でも「長保寺」の如くに、名声を挙げた事は、エレベータの様に押し上げられた「家光」には到底出来ない事であり、叶わない事であろう。
この「頼宣」は、「家康の意志夢実現」の為に、鍛えられたからこそ才能を発揮したのである。
(青木氏の上記した「経済学」は、それは其れなりにこの事とは別の行動であるが、「頼宣の才能」の条件が整ったからこそ吉宗までの成功を遂げられたのである。)
更に重ねて次ぎに考察する。
そもそも、”日本全国広し”と云えど、これらの「歴史的な事柄」を論じられるのは、「関係した氏」としても、「資料保全」からしても、「青木氏」だけである。
中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」とに限られる。
この5氏が保有する資料から、この様に考察して論じなければ、「歴史の表裏の実態」は、絶対に解明できないし、消え去る憂き目を持つ事に成る。
「青木氏氏のサイト」だけの「徳川氏の江戸初期の行動」を解明できる資料である。
更に、この事は、当に「青木氏の伝統」であるので、解明の為に論じる事を続ける。
「青木氏の分布と子孫力」のこれらの「青木氏の行為」は「大変な子孫力」に大きく関わるからである。
ただ、筆者は ”世に晒す事無かれ 何れ一利無し”の戒律の姿勢は崩さない。
(注記 この論文は青木氏の範囲に留める。その心算でお読み頂きたい。)
さて、そこで、上記の事で論じ得られた筈ではあるが、青木氏だけが成し得る事として、放置すれば消え去るのみであり、出来得る限りの論調を論じて置きたい。
・「紀州藩と青木氏」
更に、「長保寺」以外に次の事が更に証明している。
この時以来、「頼宣」との「再三の談合」が持たれ、「伊勢青木氏」は「頼宣」に対して、南画絵画、俳句、禅問答、歌、茶道、書、商学、殖産学」等を指導した。
又、「藩主の話し相手」として以後、接する事と成り、この状態は江戸初期から大正14年まで代々の藩主に続いた。
この為に「12人扶持米」の「礼米」を支給し続けられた。(明治期まで)
この時のこの「付き合い」の中で、「伊勢青木氏」は、”「頼宣」に、「家康」と同じく「蝦夷地開拓」の必要性”を解き推奨した様である。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」はこれに関わっていた事が文意から読み取れる。
故に、この話を1600年前頃に「伊勢青木氏」から受け、堺などで見識を広めた「家康」が、「松前氏」に「蝦夷地交易権」(1599年)を与えた。
そして、続けて「讃岐青木氏」には、「外回りの蝦夷地からの新規廻船」(1600年)を同時に許可しているのである。
注釈
(上記した様に、「伊勢青木氏」は、「家康との親交」は、資料とは別に、正式には「関ヶ原」(1614年)以来からであった。
信長が光秀に討たれた時にも、「大阪の堺」に家康は居て、「堺の青木氏屋敷と店」等でも親交を深めていた状況であったことが口伝にある。
その「光秀謀反」を知った「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」に連絡を取り、その後、伊賀上野経路で逃亡し、伊賀館まで何とか辿り着いた。
この時、「伊勢シンジケート」が周囲を固めて護った事が判っている。)
この後、幕末までこの「付き合い」から、伊勢青木氏の四家(伊勢郷流青木氏含む)は、 ”「紀州藩の勘定方を指導する事」”は何度も続いた。
しかし、上記した様に「家康の時」は勿論の事、「頼宣の時」、「吉宗の時」、「幕末の時」の3度の事は詳しくよく伝わっている。
筆者までは口伝でも物語風でよく伝わっている。
(「伊勢秀郷流青木氏」とは、「本流立葵紋の青木氏」「宗家葵紋の青木氏」の「伊勢末裔四日市殿」である。
「四日市殿」を含めて「四家」は「伊勢青木氏の総合商社」を一族で運営していた。)
この時の「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」の「徳川氏への貢献具合」のより詳細な資料が不足で掴めない状況である。伊勢青木氏側の遺資料だけで、消失した模様。)
「頼宣の時」には、「伊勢青木氏」の指導の下で「交易船」を建造している。
この事は「家康の意向」の基に「蝦夷地開拓」を含む交易を先んじて始めた事を意味する。
そもそも、「交易船」を作っても、創藩したばかりの「紀州藩」には、元々このノウハウが無い。
これを「伊勢青木氏と讃岐青木氏と信濃青木氏」が指導して直ぐに交易した事が商業資料から判る。
商業記録から、紀州と信濃と安芸ー讃岐の殖産物の取り扱いの記録から読み取れる。
指導した内容として、交易するには「海産物や農産物の買い集め」から、それを「大量に生産する殖産態勢」、「売買の交渉技術」、何よりも「大船の操船技術」と、その「運送技術」を獲得しなければ出来ない事であ。
これはノウハウと経験の無い紀州藩が、独自で一朝一夜で出来る事では無い。
況して他藩から来た官僚の家臣では尚更である。
この「3つの青木氏」が関わっても、この「システム作り」では相当に苦労する筈である。
この事は交易の事に付いては、「家康」も充分に知っていた筈で、これを「伊勢青木氏」から知り指導を受けたのである。
恐らくは、名義上は、「紀州藩」として「代表家臣」を載せ、「伊勢青木氏か讃岐青木氏や信濃青木氏」から送り込んだ「各種の職能集団」(青木氏か抱えていた「2つの絆青木氏」)が運用したと観られる。
「吉宗の享保の改革」の段階までは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」等の「四日市殿」を含むこの「3つの青木氏」は、商業記録などから「総動員」であった様子であった。
注釈
(この時の「伊勢秀郷流青木氏の宗家」の動きの記録が、「秀吉の伊勢攻め」の時と、明治の「伊勢の2度の大火」で消失していて掴めない。
ただ、天正期に於いて秀郷一門の同族で伊勢の「伊藤氏」との同族血縁関係を持っている事、更には、この融合の「伊藤氏」と「伊勢賜姓青木氏」との”「血縁の繋がり」の記録”が残っている事。
この2つ事から判断して、これらの”何回かの縁組”が起こっている事は、江戸中期以降も「伊勢秀郷流青木氏」とは、依然として緊密に繋がっていた事が判る。
実は、筆者の継祖母も、この伊藤氏の宗家の娘である。明治期までは何度も血縁していた事が判る。
この「伊勢秀郷流青木氏ー伊勢賜姓青木氏ー伊勢の伊藤氏」のより強固な関係が構築されていた事が判る。
何故、この「悠久の歴史」を持つ「2つの青木氏の関係」に同じ悠久の伊藤氏が入ってきているのかと云う疑問である。
そして、ただ、「伊藤氏」がこの「3者の関係」の中で ”どの様な働きをしていたか” は実のところそこまで研究が進んでいなくよく掴み切れていない。
若干の資料はあるにしても、推測の範囲として述べると、「信長と秀吉の伊勢攻め」の為に、互いに結束した事は記録から間違いない事が読み取れる。
「長嶋攻め」「北畠攻め」等の資料、青木氏のこの「伊勢攻め」の資料から互いに合力した事が判る。
その直後の上記した「家康の調停工作と家興要領」の完成遂行の為に、「関東の秀郷宗家との調整」の”「役目の一部」”を担ったとされる節がある。
実は、この事を物語る事として、ここにも「大きな繋がり」を持っていたのである。
前段で論じた「宗家葵紋の青木氏」の始祖母で、頼房の側室の「那那の実家先」(実家先では「弥弥」)の父は、「藤原准尊昭玄」 興正寺住職 顕如の孫 兄弟に「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺系同門の住職と成っている。
(寺名は個人情報により不記載とする。)
「藤原氏の格式」と、更には、「菩提寺住職」でも「青木氏との繋がり」が、重複してここでも繋がっていたのである。
つまり、何とかして、「朝廷と天皇」を納得させ文句の出ない様な縁籍を構築しようとした事が判る。
この「重複の繋がり」は、放って置いて出来上がるものでは決してない。
誰かが強力に押し進めない限りは起こらない。
では、伊勢の「2つの伊勢青木氏」と「徳川氏」だけでは、「格式」と「繋がり」から観ても、この「那那の縁籍」は成し得ない。
これを「押し進めた者」「取り持った者」が必ずいる。
筆者は、それが、”伊勢の伊藤氏であった”と観ている。
実は、伊勢の伊藤氏の出自関係を観れば良く判る。
「5家5流皇族賜姓族青木氏」の「菩提寺系の同門寺の住職」(萩)に繋がっていたのである。
「伊藤氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」から依頼されて、この「伊勢青木氏の菩提寺」の「同門寺系の住職」(萩)の弟を通じて、父の、「藤原准尊昭玄」 (興正寺住職)に「姉の婚姻先」として「徳川氏の頼房」に政略結婚先として嫁がせる話を通したと観られる。
伊藤氏はこの住職との繋がりを持っていた形跡がある。
「伊勢賜姓青木氏」は「近江賜姓佐々木氏」(勝姫)に、「伊藤氏」は萩の同門住職に話を推し進めたのである。
「伊勢賜姓青木氏」は、「菩提寺同門寺系とは云え、格式上はこの同門系寺は下位に位置していた事から勧められなかった。
そこで、「伊勢の伊藤氏」に仲介役を依頼したと云う事に成る。
輪の様に「繋がり」が出来る程に「調停工作」は進められていた事が判る。
(伊藤氏 :秀郷より 第1子千常系文行流 始祖9代目基景 詳細は別途 興正寺住職准尊は北家藤原氏文行流神職系)
(伊勢秀郷流青木氏:第3子千国系兼光流 始祖 秀郷祖祖父藤成ー秀郷ー千国ー兼光
(「2つの絆青木氏」に付いては、「神明社守護神」のところで詳しく論じている。現在の伊勢の玉城市の全域は青木氏のこれらの職能集団の長屋や家屋と蔵群であった。)
この様に、「伊勢青木氏と徳川氏の付き合い」は、「只の付き合い」では無く、殆ど一体化していると観られる。
「12扶持礼米」は「伊勢青木氏」に於いては「糧」ではないが、「礼米」の形で受け取っていた事に成り、「礼米」の「受給の意志」がそれを全て明らかに物語る。
「天保の飢饉」の頃には、「藩財政」を立て直すために幕末の時まで「勘定方」に、伊勢より人を廻して無給で専門に指導していた事が判っている。
この中でも面白い事が書かれていて、幕末に”「坂本龍馬の船」を「紀州藩の船」が「操船ミス」で沈めて「高額の賠償金」を払った事”が記されている。
(坂本龍馬の「海援隊の記録」からも同じ事が記載されている。)
それでも藩財政は立て直したと成っている。
「吉宗の将軍に成る経緯」には、上記の様に、「青木氏」と「紀州藩」が絶対とする「祖神・神君の家康の意志」を引き継いで、「藩財政の改革」を実行していると云う事があって、「幕政改革の議論」にも終止符を打ったのである。
これを裏では「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」等は、幕臣と成っていた関東の「藤原秀郷一門」らを味方に引き入れて、「吉宗」を「将軍の座」に押し上げたのである。
この「吉宗」は、「家康の意志」を次いで「改革実行」の為に、幕臣の6割を紀州藩から採用し、旧幕臣を徹底的に排除して、「藤原秀郷一門」の多くを上級家臣として引き揚げて、「計画実行の態勢」を固めた。
尾張藩も三井家等の「江戸の豪商」を背景にしていた事が、「尾張藩の町づくり」が越後屋を始めとして「民間の豪商」らの力によって成された事が記されていて、この事でも判る。
紀州藩は、「質素倹約」で「出」を抑え、「各藩の力」と「瀬戸内族の力」と「民間の力」との3つの力で、「蝦夷地等の開拓」を成して「開拓の利益」や「交易金」や「運用金」や「献納金」で「入」を高めて、収支の「出と入の収支差」を最大に高める「財政改革」であった。
家康はそもそもこれを目指していたものである。
(紀州藩と享保の幕府と伊勢青木氏等は「リフレ政策論」であった。
注釈
(デフレとインフレの丁度、間をくり抜ける経済政策論。
この江戸期は、丁度、地球の気候変動が大きくなる「300年周期」の中の「100年期」に入っていた。
江戸時代はこの気候変動に依る影響で大飢饉が多発していた。
この為に、物価が値上がりし、激しいインフレの状況に陥っていた。
経済力が低下する現象が起こる等のインフレ現象の中に、逆に社会は疲弊して購買力が低下するデフレ現象も片方で起こる等複雑な経済状況であった。
この為に、幕藩財政も悪化して崩壊寸前の状態に陥っていた。止む無く年貢の「五公五民の増税」に踏み切った。
これが「享保の改革」の「リフレ政策の効果」を低下させた大きな原因と観られる。
この「リフレ政策」とは、「出」を抑え「入り」を高める「中間政策」である為に「大きな増税」は「禁じ手」である。
この「入り」を高めるには、「増税」では無く、「交易や殖産能力」を高めての「入り」でなくてはならない。
それを「交易や殖産開発」をしながら、一方で「増税」もした為に、「入り」が高まり過ぎて、「出」の収支差が確かに良くなった。
一方で「出」の「質素倹約令」と「増税の令」とで、「フラストレーション(不満)」が社会の中に起こったのである。
そこで、「五公五民の弊害」に対して、これを何とかしようとして、吉宗は「米将軍」と称されるくらいで、自らの判断で、基幹の米相場の操作を実行した。
しかし、操作に依って起こるリスクヘッジに合い失敗した。
しかし、ここで疑問点がある。
「伊勢青木氏」は、増税は「禁じ手」ある事を知っていた筈であるし、「リスクヘッジ」も商人である以上は常識で知っていた筈である。
しかし、行われた。ただ、米相場のリスクヘッジは「相場の操作」を元に戻す事で解決するので問題は無い。
現実に慌ててその様にした。
問題は、「五公五民」の「増税」はありながらも、強い「反対勢力」を抑え込む為の「モデル実験の紀州藩」では成功した経済改革である。
”一体、何が幕政で違ったのか”である。
そこで「青木六左衛門」を始めとするグループは、原因を考えた。
一つは、「交易と殖産開発」の「入り」の違い差。
二つは、「出」の「質素倹約」のレベル差。
彼らが調査した原因は、「二つ目の累進性」であった。つまり、「出」の「累進性」であった。
江戸の「六左衛門グループ」は、「紀州の改革」に取り組んでいた「紀州班グループ」に問い合わせた。
その情報の分析で「出の累進性」の事を知った「六左衛門」は、その原因を吉宗に慌てて進言した。
その大元凶は、「女の園」の「大奥制度」であった。
「紀州班グループ」では、前段−5で論じた様に、「頼宣の比丘尼山の制度」が「仕来り」として引き継がれていた事であった。
「紀州班グループ」の指摘で、代々藩主の「女系家族」は、例外なく「還俗制度」を採用していた事であった。
「頼宣の比丘尼山」に習って「還俗制度」を「勘定方」を指導する立場として厳しく指導したのである。
この事を知った「六左衛門グループ」は、紀州と江戸の「大奥」の差が、藩と幕府との「出」の比例的な関係に無い事に気づいた。
「紀州:幕府」は「1:15」の関係にあった。しかし、大奥では「1:120」の関係であった。
当然に、これでは「比例関係」での「質素倹約」での効果は出ない。
(累進性は「比例線」では無く、「放物線」の形で働く。商で培った知識を持っていた「六左衛門」等はハッと気が付いた。
紀州の大奥は、30で、1:15とすると次の様な事に成る。
経済学では、比例30:450に成るに対して、先ずこの450に対して第一段階の累進性が働く。
ところが3500(450)で、本来あるべき数より約8倍である。
この関係から幕府大奥の出費は、累進性が働く為に、より450+累進率量以上の出費を、先ずは抑えなくてはならない。
しかし、更には、この8倍の数であるから、その累進性は放物線であるから比例線からその差は大きく離れて行く。
その8倍であるから「膨大な数字」と成る。
「紀州藩並」に成功させるには、この”「膨大な数字」の出費”に対しては絶対に抑えなくてはならない。
実質、”将軍7代までの全ての「女系家族」”が大奥に存在して貯め込んでいた。
これが元凶として大改革を吉宗に迫った。
吉宗は、「六左衛門の指摘」を猛烈な反対を受けながらも直ちに実行した。
そこで、吉宗は反対派に対して妥協して、1/3の1000人程度まで削減した。
(絶対条件は450以下必要)
しかし、紀州藩は「実質0ベース」である。この差を解決しなければ、「累進性」は解消しない。
そこで、困った「六左衛門グループ」は、「次ぎの手」(下記)を吉宗に提案した。
それは、大奥の「出」の元凶は、正室と男系の子供は別としても、「側室」と「姫娘」にあるとして、次ぎの提案を進言した。
イ 「無役の側室」を家臣などに転嫁する事。
ロ 「役済の側室」は「家」を興して「独立性」を持たせる事。
ハ 「将軍の家」は「別家」を興して「独立性」を持たせる事。
ニ 「役済側室と無役側室」を紀州藩に習って「比丘尼制度」を設ける事。
ホ 「上級武家からの側室」は実家に戻す事。
ヘ 「将軍に成る藩主」の藩は廃藩にして、全て家族も含めて「江戸詰め」にする制度を中止し,そのままに残す制度にして独立性採算制を敷かせた。
ト 「無位無官の側室」の姫娘は「許婚制度」によって家臣に婚姻させる事。
以上を実行したのである。
禁じ手の増税は、この様な累進性の改善で何とかバランスが取れて解決した。
(江戸時代の全ての改革は、この「享保の改革」の「リフレ政策」が見本と成った。
252年中に「8つの飢饉」があった事に依る。単純平均すれば何と1回/32年間の高頻度である。
回復したと思えば”又来た”と云う感覚であった。それだけに「専門的な改革」が必要と成る。
「吉宗」は「育親許」と成った豪商「伊勢紙屋長兵衛」の「六左衛門グループ等」を引き連れて将軍と成った。)
それだけに、これは、「六左衛門グループ」(累進性の失敗)の明らかな「沈痛な失敗」であった。
恐らくは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」は、その「裏調査と研究」に懸命と成ったと考えられる。
この事から得た知識が、吉宗大御所の専門家ブレーンとして「享保の改革」の「最後の詰め」として実行した。
この事が、江戸252年期間中の改革の中で、唯一成功裏に導いた最大の要因であった。
裏を返せば、、危険を孕みながらも「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」を江戸時代に子孫を遺せた最大の要因であった事に成る。
しかし、米相場だけは「吉宗の判断」であった事が、後から発見された「吉宗独自のメモ資料」から判明した。
これで紀州藩との比較の累進性は、改善に向かって「享保の改革」の幕府財政は改善された。
注釈
(公的に書かれている吉宗資料には、「伊勢青木氏の貢献」は出て来ないが、吉宗と関わった伊勢青木氏のものからは上記の事が判明する。)
そもそも、勘定方を指導したとするが、一族を総動員して家臣で無い為に「無償」で改革を進めた。
”世に晒す事ならず、何れ一利無し。”の戒律から、「不記録」を行動規範としているので、徳川氏の資料の中には出て来ない。
「青木氏の中」と「近江佐々木氏」の中にのみ断片的に記載配慮して遺される事に成る。
そもそも、”何故、「近江佐々木氏」がこの情報を青木氏と同じく掴んでいた”のかは「重要な事」でもある。(下記)
その接点があった。
前段−5で、「頼房」の「側室の勝」の出自は、同族大化期の「近江佐々木氏」であって、その「姫娘A」が「本流立葵紋の青木氏」の「発祥母」であった事を論じた。
ここで、繋がっていて同じ事が記録されたと考えられる。
「近江佐々木氏」の始祖「川島皇子」と「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」は兄弟で、共に第6位皇子、第7位皇子として賜姓を同時に受けた「皇族賜姓族」である。
故に、「近江佐々木氏」の資料には「青木氏の事」が多く遺されている。
「近江佐々木氏」の方から筆者の先祖が頂戴した非売品の資料本である。
兎も角も、そもそも、”改革を進める”と云っても、家臣の権限を持ち得ていない。
然すれば、幕臣を先ずは説得しなければ成せられないし、何事も成し得ない。
「吉宗の背景」があるとしても、「直接権力の行使」は反発を招く。
其れこそ、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”を間違いなく招く。
「六左衛門の能力」の「差配の能力の有無」が大いに問われていた筈である。
ところが、事件を招いている記録があった。
実は、「近江佐々木氏の資料」によると、”吉宗に同行したこの「六左衛門に近い人物」の「若い者」が、「享保9年」に、江戸で「小普請の役」の途中で、「不慮の事故」で死亡した。”と云う事が記録されている。
この”「不慮の事故」の記述”は、間違いなく ”反対派の襲撃を受けた”のではないかと筆者は判断している。
説得の為の調査や資料つくり等の事務方の仕事、交易などの準備の実質作業、上層部の説得の為の交際、時には実務の代行をしなくてはならない。
この作業に大変な危険を孕んでいた事がこれで充分に判る。
この「危険」のみならず、この為の「膨大な出費」、「一族の生活費」、「家人の人件費」を捻出するのに、恐らくは、伊勢青木氏の経済力(200万石相当)に「相当な歪」を興していた事が判る。
これは好き好んで出来る事では無い。
この時期の商業記録や遺産文書から観て、その「生き様」が読み取れる。
何故、近江佐々木似の資料にこの記述があるのかは、一つは、青木氏側には外の公に成った事に付いては戒律で記録を遺せない。
しかし、近江佐々木氏にはこの戒律事が無い。故に記録の遺した。
”遺した”と云う事は、一般市民は兎も角も「幕府内」では「有名な事」であった事に成り、「近江佐々木氏」と徳川氏との間に何がしかのパイプがあった事から同族の事件を記載されて記録として遺されたと成る。
では、その「パイプ」とは、”何処にあったのか”と云えば、上記する様に、「江戸詰めの頼房」の「側室の勝の方」(姫娘Aを出した)の「佐々木氏の家臣」から入手した情報である事に成る。
身内の「姫娘Aの嫁ぎ先」の末裔が事件に巻き込まれたのである。
恐らくは、この様な危険に満ちた改革を進める青木氏には徳川氏からの支援は公には当然に無い。
その中で、「宗家葵紋の青木氏」と「「本流立葵紋の青木氏」は、「江戸での人命や経済力」で”江戸での子孫拡大”に大きな影響を与えていた事が理解できる。
上記した様に、「紀州での礼米」(12人扶持)はあったが、「六左衛門」の「江戸での礼米」の「援助記録」が発見できない。
(吉宗は率先して「綿の着物」で通した。)
注釈
その後、「六左衛門」は、この後、”「享保の改革」を始末した後、息子の慶次郎に跡目を引き継いだ”とある。
これは吉宗が将軍を息子に引き継いだが、この「吉宗の世継ぎになった息子」には言葉の言語発言に問題があった。
そこで、大御所として実権を握っていたのだが、この為に、「六左衛門」は隠居したが、息子が引き継いで「大御所の吉宗」を支えたと記されている。
この六左衛門の息子慶次郎も役目を終えて、伊勢の記録では江戸に「末裔」を遺したと記されている。
しかし、「佐々木氏の資料」では、”江戸に子孫を遺して、江戸から離れて伊勢に戻ったと成って居る”と書かれている。
この意味合いが不詳であるので、調査をした。
筆者の調査では、江戸近郊に”笹竜胆家紋とする青木氏”は確認できない。
しかし、後刻、「調停工作の論文」で、調べ直した結果、江戸に残った末裔は、伊勢の記録では、「四日市殿の末裔」の事である事が判った。
つまり、親族の「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」とである事が判った。
その内容(江戸の歴史書)では、この末裔には、大御所時代に、引き続き”準家臣的な立場”と観れる扱いで続けて仕えたとある。
「「立葵紋の青木氏」は、「小普請組頭」で、「宗家葵紋の青木氏」は、”「小納戸役頭」として働いた”と記されている。
何れも「礼米300俵」を賜ったと記されている。
この事から、殺されたと観られる若者は、「小普請組」の「宗家葵紋の青木氏」の一族の者である事が判る。
何れも「御家人扱い」の「布衣着用の許し」を特別に引き続き受けていた事も書かれている。
「江戸の青木氏グループ」の組頭は、「布衣着用の高位の身分:将軍に対し発言権を持った大大名格以上」であった。
この事からすると、明らかに反対派の「他藩の大名藩主の命」を受けての「狙撃」であった事が判る。
この様に、危険ながらも「四日市殿末裔」は、江戸に残り子孫繁栄を果たした事が判るのである。
これは六左衛門の「笹竜胆紋の松坂殿」は、「不入不倫の大権」で保護されている事から別にして、「立葵紋の青木氏」と「宗家葵紋の青木氏」にはこの様な危険を孕んでいたのである。
「葵紋文様類」と云う事から来る反発:紀州藩を除く松平一族の反発が宿命であった事が判る。
「狙撃の原因」は、上記した「厳しい経済改革」が原因していたのである。
又、”狙撃される”と云う事は、”「改革」を裏で主導していた事”を物語る証拠でもある。
この改革は、資料には、”幕臣のみならず各藩の家臣までその「影響の余波」として浸透して行った”と記されている。
それだけに、”城に居る葵紋の者”と違い、”市中に自由に姿を現して出て来ている「葵紋系」”には、大きな危険を孕んでいた。
参考
(江戸時代300年はこの「300年周期」にぴったりと入っていた。この300周期の100年期間隔で大きな気候変動が起こるデータと成る。)
注釈
(「比丘尼僧」に付いて、これは梵語で「比」と「丘」を音韻で日本語にした言葉、意味は女子が僧に成る際に、あるいくつかの「戒律」を守らねばならないとした。
その「戒律」は「具足戒」と云うもので、具足=旅の意味 全国を「布施行脚」で生活に困った場合の「売春行為」等を「戒め」として禁じたものである。
日本では、この言葉は室町末期に使われ、「比丘尼」と云う言葉として全国に広まったのは江戸中期頃である。
しかし、「頼宣の比丘尼山」は江戸初期で、そま前からこの山は「比丘尼山」と呼称されていた。
「比丘尼」が使われた頃と一致する。
本来は、純然たる布施に頼る「行脚尼僧」の事である。
しかし、世俗から、江戸中期頃から生活苦から、この「売春戒律」を破る尼僧が出たのである。
そのことから、俗意は、”尼僧の姿をした売春婦”の意味として使われる様になった。
この「行脚尼僧」は、「山寺」にて密かに売春行為をした事から、比(戒)の丘(山)の当字となった。
この事から、この江戸初期の「頼宣の比丘尼山」から、この言葉が江戸中期頃に全国に広まったと観られる。
江戸初期は、未だこの「売春」の意味は無かった為に、「比丘尼山」と名付けられたと観られる。
しかし、その後に、「行脚尼僧」には飢饉から布施行為が無くなり、止む無くこの行為が目立ったために汚名の呼称と成ったと観られる。
故に、この「頼宣の比丘尼山」は布施行為による独立採算の寺でもあった。
その為に安定しない生活苦から売春に走らない様に、これを取り締まる為にも、厳しく下界とを遮断したと観られる。
その為に、わざわざ世話役の「寺元」を作り、「生活の保護」と「食の保護」を「地元の善意」で維持したと観られる。
江戸中期から末期まで、乞食の様に、「食と衣服」などはかなり瀕していたと地元の口伝で伝わる。
江戸中期以降には、「売春」は密かに行われていた事も考えられる。この尼寺は大正末期に無くなった。
この「山寺」は、藤白浜の入り江の突き出た先端の小高い丘の上にあった。
その丘の周囲は鯔場(いな)と云う小さい池程度の山の真水と海水の混じる湖に囲まれている「孤島」の様な地形のところに立っている。)
これも、「紀州藩の質素倹約の厳しい実行の例」である。
これを観ると、紀州藩は徹底していた事が判る。
これに比べて幕府は安易であった事を「六左衛門」は知ったのである。
祖父の尼寺として、吉宗もこの「比丘尼山」は充分に事の重要性を知っていたから、上記の提案に応じたのである。
そこで、「デフレとインフレの現象」が起こる中で、この「二つの経済政策」の間の「安定政策」を採ったのである。
つまり、「リフレ政策」を採ったのである。論理的には正しい。
デフレの方に舵を切れば更にデフレに、インフレの方に舵を切ればよりインフレになるは必定である。
問題は、その「政策の如何」に関わることであった。
そこで考えられたのは、その政策が上記した「前段−4」に論じたものであった。
しかし、この時、当然に激しい反対論が継友らの尾張藩から出た。
「将軍継承問題」の遺恨も重なって、幕臣を巻き込んでの収拾の就かない状況に成りかけていた。
そこで、吉宗は、紀州藩の勘定方を指導している伊勢青木氏に対して、指示をだした。
「吉宗と六左衛門」は、「リフレ政策の実証」を証明する「モデル藩」として、在藩中と同じ様に「改革」を続けて促進する様に督促したのである。
注釈
(伊勢青木氏等は、[総合商社]であった為に外国との交易から、この「気候変動説」を承知していたと観られ、尚且つ、この「リフレ政策」を採ったと観られる。)
そこで、「蝦夷地開拓」を各藩に対して奨励し、又、幕府自身も「新田開発」と「殖産開発」を積極的に行った。
(新田開発では、合わせて、より強化するために「流地禁止令」を採用した。)
「蝦夷地開拓」は、当に「新地」を開墾し、そこに「殖産」を根付ける両方の目的を持った「大プロジェクト」であったのだ。
家康が青木氏等から教えられて「目標」としていた考え方であった。
「新地開墾ー殖産事業」政策であった。
これを「吉宗」が”「幕臣」にせよ”と命じてもその経験とノウハウが無ければ動かないし動けない。
しかし、動いたとする事はその経験とノウハウを吉宗の「裏の背景」にあった事を示す。
又、吉宗もこの裏の背景があるから、自信を持って命じる事が出来る。
そして、吉宗にも、青木氏に商業を鍛えられて紀州藩でも「青木らの裏の背景」と共に「小さい改革」ながらも成功裏に治めていて、他藩から尊敬されていて「裏の背景」に「羨望の念」があった筈である。
大いに自信を以って臨んだと観られる。其れに周囲は圧倒された事が外に出ている資料からも覗える。
それを100年後に「吉宗の紀州藩」が率先して「家康の夢実現」に向けて、「範例外の御三家」では、無理を承知で、既に決まろうとしていた「将軍の座」を巡って果敢に挑戦して行ったのである。
結局は、周囲は、「尾張藩の継友」の考え方よりも「紀州藩の吉宗」が実現させようとする「祖神」や「神君」と崇められる「家康の夢実現」の方に突然に傾いたのである。
この「家康の夢実現」の為には、これを確実にする為に、経済学上は、吉宗等は「経済の流通の基幹」となる「3つの安定化策」(物価と米価と貨価=三価政策)を実行しなければならなかった。
この「3つの安定化策=3価政策」に対して尾張藩の継友は、将軍に成れなかった腹いせのことも含めて、猛反対して余りの口惜しさの捌け口として、藩主として「媚態行動」を取り、批判を受け信用を無くしたのである。
更には、「尾張藩の景気」は、「国政」でのレベルでは無く、「藩政」の範囲として跳ね除けられ、且つ、「紀州藩の改革実証」(青木氏指導)で、その論調の裏付けを失い、終局は立場を失って結局は蟄居となった。
この様に「将軍擁立」にも個人資料の「積み重ね説」として、記録の裏側では ”「青木氏の活躍」” があったのである。
この事から観ると、「青木氏の子孫力」は伊勢の一族一門の総力で、「一氏」が幕政を動かしている力を持つ「子孫力」であった。
・「瀬戸内族と讃岐青木氏」
瀬戸内族の「江戸初期の外回り廻船の開設」は1600年前後に家康の命に似て行われた事でもあり、その「技術の優秀さ」から「明治初期後の海軍の操船技術採用」があった事は有名で、「瀬戸内族」が全国に定住移動して、この「瀬戸内族の操船技術」も全国に普及された事を意味し、その「瀬戸内族の優秀さ」も認められていた事を明確に物語るものである。
「家康」も「瀬戸内族の優秀さ」は、「伊勢青木氏等」からも紹介されて承知していた筈で、且つ、歴史書にも「純友の乱」の事でも認知していた筈である。
それ故に、全国から「瀬戸内族の廻船技術」のみならず、それと連動した「瀬戸内の海産物の殖産技術」とその「商法・販売方法の優秀さ」の「総合力」が有名を馳せて認められていたのである。
むしろ、筆者は、関ヶ原から付き合いの中で、「伊勢青木氏ー瀬戸内族の関係」の「総合的な仕事」ぶりを観て知って、「家康」はこれを見本としたと観ている。
上記した、紀州藩が主張する”「殖産政策と新田開発」の連動策”には、この「家康の見識」を通じて優秀な頼宣から紀州藩に引き継がれて行ったのである。
故に、家康から一番に信頼されていた優秀な「10男の頼宣」を以てして「紀州藩主」にしたと考えられる。「頼宣」しか「家康の意志」を「示現できる人物」はないと考えた事に成る。
上記の「吉宗将軍擁立」には、簡単に将軍に成ったのではなく、この「瀬戸内族の事」は幕臣にも周知されていて、それだけに「紀州藩らの説得」は効力を発揮させていた。
「吉宗」には、「各地の青木氏や瀬戸内族」の「大きな後ろ盾」があることは「事前の周知」として受け取られていて、それだけに周囲は警戒してみまもつたのである。
政治とは、「表の姿」では無く、「裏の姿」を観る事が必要なので、「真の姿」が観えて来る。
「心ある者」は、この「裏の姿」を観て事に構える。
だから、「蝦夷地開墾・開拓」では、”いの一番”に特典を以てしても積極的に迎え入れられたし、幕府も継続してこれを政策として用いたものである。
「飢饉の時」も特別を以て救い、両青木氏らの天保期の「10万石問題」(上記)も幕府のみならず民間に於いてでさえ不問であったのである。
しかし、”青木氏に対する暴動”は一度も無かったどころか、この「青木氏一連の行動」も逆に賛同されていた。
これらは、この”「蝦夷地に関する一連の行動」”のみならず、”「青木氏の根本的な生き様」に賛同を得ていたのではないか”と考えられ、それが「青木氏の子孫力」に大きく影響を与えていたと考えられる。
・「青木氏の援助」
その証拠としてこの事を物語る次ぎの記録が残されている。
幕末の「天保大飢饉(1833−1839年)」の時、伊勢の「二つの青木氏」は、”私財を投入して中部地域一帯の飢えを救った”と記録されている。
この時、長く続いた飢饉であった事もあり、各地で不満を幕府に向けられ「一揆動乱」が起こった。
しかし、この時、「信濃青木氏」と共に「一揆動乱の経済的支援」(領民側に)をした事が記録されている。
これは幕府から観れば、これは明らかに動乱の「扇動行為」であり、「お家取潰し等の重罰」を受ける筈であるが無かった。
この時、幕府はこの中部地域一帯で起こった「一揆動乱」は、「長期間の飢饉」が原因であり、むしろ、その「飢饉の飢えを凌ぐ援助行為」として観た。
この様に観る行為には、それまでの上記した様に、「過去の青木氏の生き様に対する信用」があったからである。
まかり間違えば「援助」であっても、「出方次第」では、又、「過去の行為」の如何では、”流れに抗する事が出来ない事”から潰されていた可能性は充分にあった。
これが、当に ”積み重ねて来た「伝統のある子孫力」「目に見えない子孫力」”なのである。
このすごい生命力のある「子孫力」は得ようとしても簡単に得られるものでは無い。
(明治初期から9年まで起こった動乱にも同じ援助行為があった事が記録されている。)
上記した様に、江戸初期のから享保年代までの100年の間に起こった「5つの大飢饉」(中小飢饉も含めて8飢饉)でも同じ事が云えた筈である。
(江戸時代の飢饉 この「5大飢饉」を含み記録されているものでは8つの大小の飢饉があり、約32年毎に1回起こっている。)
話をもどす。
上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
衰退していたのでは決して無いのである。
普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。
> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域 異変の県 分布力
> > 九州地方 長崎、大分 5%
> > 四国地方 高知 2.5%
> > 中国地方 山口、岡山 2.5%
> > 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
> > 東北地方 秋田 7%
> > 中部地方 15%
> > 関東地方 45%
> > 北海道・沖縄 6%
> > その他 3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方 1.3
> > 四国地方 1.3
> > 中国地方 1.3
> > 関西地方 4.7
> > 中部地方 4.3
> > 関東地方 11.3
> > 東北地方 2.0
> > その他 11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
> > 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
> > 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
> > 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
> > 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
> > 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
> > 鹿児島 1 山梨 1
> >
> > 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
>
> > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡 5 青森 1 沖縄 1
> > 神奈川 21 山形 2 北海道 11
> > 東京 18 岩手 1
> > 埼玉 17 新潟 4
> > 群馬 6 秋田 0
> > 千葉 11 福島 4
> > 茨木 4 宮城 2
> > 栃木 8
>
> > 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
> 青木氏の分布と子孫力−7に続く。