「達親」
序
さて、この言葉を聞いた事がありますか。
“たっしん“と呼びます。実は「青木氏」に大いに関係のある言葉なのです。
然し、この言葉は「歴史的な宗教の変化」で殆ど消えてしまったのです。
当然に「青木氏の慣習、仕来り、掟」の中からも消えてしまったのです。
そもそも、「青木氏と守護神(神明社)」の論文で「青木氏の慣習、仕来り、掟」が多くあって、それが何とか引き継がれて来た事を論じました。
その中の一つですが、今回から、その「青木氏の伝統」のシリーズで、この様な事柄を紹介して行きます。
その最初に紹介するのが、この聞き慣れない言葉「達親」(たっしん)です。
(この「達親」には、鎌倉期中期前にはその意味合いから両方に口辺が付いていた。投稿欄に中国の古い漢字登録が無いため受け付けない)
「青木氏」には切っても切れない言葉で、“「青木氏」を物語る言葉“なのです。
筆者は「青木氏の言葉」として位置づけています。
では、早速、“それは何故なのか“と云う事ですが、そもそも「青木氏」は、奈良期の頃から「皇祖神」の子神−「祖先神の神明社」と共に、仏道は「古代密教浄土宗」でした。
この「古代密教浄土宗」と共に、1400年もの長きに渡り伝えられて来た「伝統」の「仕来り」の多くは、その「密教」から来る「仏教作法」が多くあり、又、それに関連する「慣習」からも成り立っていました。
従って、殆どの文献には遺されていない言葉で、下記に示す様に僅かに鎌倉期の文書に見られるものです。
そこで、忘れ去られているこの「仕来り」ですので、先ず、その理解を深める為に、この忘れ去られた「達親」の「経緯と背景」に付いて説明します。
「言葉の経緯と背景」
そもそも、この「達親」と云う言葉は、インドを経由して中国から伝わった「仏教経典」の中にある「仏教用語」で、鎌倉時代に書き写された「節用文字」の書物の中にある言葉です。(中国では「梵語」にあります。)
その大意は、俗説として、「追善法要」の時に経を詠む数人の僧の中の「導師」に、「諷誦」(ふうしょう 暗誦して詠み唱える事)して貰ったことに対して、その「仏教作法」としての“お返し”をする事の「行為」を示す言葉でした。
その「行為」とは、普通は、作法としては「三宝」の高台瓶に載せた「布施物」を僧侶に渡しますが、それに対して僧侶は、「布施の趣旨」に代わる事物として、「仏の霊」を慰める「諷誦」の「読経・詠経」を行なった「仏教行為の事」を意味します。
(「達親」の「御導料」や後の「布施物」にも「渡し方の仏法作法」があって、「手渡し」は禁じられ、仏前に供えられた「三宝」に載せておく作法だけで、後は「仏前の供え物」を自らの意思で僧侶が「御裾分け」を戴くと云う形を採用していました。これは「青木氏」の「達親」の「御導きの意味合い」を、「御布施」にも”お返し”と云う形を打ち消す作法として引き継がれていた証拠です。筆者の家では現在でもこの作法に従っている。)
然し、この作法の「初期の趣旨」は、僧侶の「諷誦」に対しての「お布施」では無く、「お布施」に対しての「僧侶の諷誦」とする「仕来り」でした。
今の慣習は、この逆に成っていますが、この「布施行為」が始まった鎌倉中期以降の頃は「在家の者のお布施」に対する「出家僧侶の諷誦」でした。
「在家の布施」→「出家の諷誦」
この鎌倉期中期から始まった「布施」−「諷誦」の関係に対比して、然し、この奈良期から始まっていた「古代密教」の「仏法作法」の「達親」は、この様な「相対の関係」にはありませんでした。
「達親」と「布施行為」は、類似する「仏法作法」ではありますが、下記に述べる様に、「時代の経緯」と「仏法の背景」が異なっているのです。
そもそも、「達親」は、「青木氏」の「氏の中」の純然とした単なる「密教の仕来り」であって、身内の「僧侶の導師」、又は「僧侶の「諷儀」(ふぎ)に対する「お導き」の「返礼」と云う意味合いが強かったのです。
(慣習の中で「御導」と呼ばれる事もあった事から「諷誦」だけへの返礼ではなかった。)
「導師の御導」→「福家の返礼」
それは下記に説明する「達親」の「語源、語意」から判ります。
そして、鎌倉期中期以降に発祥した「在家−出家」の相対関係の「布施」に対して、奈良期から平安期末期までに発達したこの「青木氏」との関係は、「氏家制度」の中ですから、出家していない「身内の僧侶」である事と、「相対の関係」に無い事から、「福家」(ふけ)として呼ばれる者から渡される「達親」として位置づけられていました。
つまり、この「達親」の持っている位置づけは、「氏家制度」とその慣習下での「密教」である為に、「福家(ふけ)」と云う純粋無垢な「敬意の言葉」に対応しているのです。
「施主」と云う一般の位置付けでは無く、「福」を用いた「家」として上位の表現を採っているのです。
この「家」は、「氏家制度」下の「宗家的意味合い」を持っていたのです。
「仏法作法」から出たと考えられる事から、俗界の武家の呼称の「宗家の言葉」を使えなかったと考えられます。
奈良期−鎌倉期中期 「密教」 →菩提寺
「青木−福家」(身内)→「達親」→「導師」・「諷儀」→「追善法要」→「御導」+「諷誦」
鎌倉期中期−現在至 「顕教」→檀家寺
「施主−在家」(他人)→「布施」→「出家・僧侶」→「全仏教的行事」→「諷誦」
参考
:(「福家」(ふけ)の持つ意味は、「裕福な家」とする意味では無く、「青木氏の守護神」のところでも論じた様に、「青木氏」は、「賜姓族」である為に「本家−分家方式」を採用していませんでした。「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」でも、原則的には「本家−分家方式」を採用していましたが、基本的には「2つの青木氏」での組織の中では、家は「横並びの関係」であり、上下関係を表す呼称は取れませんでした。
そうかと云って「リーダ役の家」を何らかの形で呼ばねばなりません。
そこで、自らの氏の一族一門の「リーダ役」を「福家」(ふけ)と呼んだのです。
後に、この呼称が歴史を持つ「高級武士階級」にも伝わり、「宗家」に対して別の呼称として「福家」と呼んでいた記録があります。)
上記する関係相関図の共通する点として、その「仏教的行為」では、「諷誦の行為」と成りますが、つまり、暗誦した経文を声をあげて詠む事を「代償」とした「仏教の仕来り」でした。
ところが、当初は、この「密教の仏教的行為」は、主に、「密教の追善法要」の時の僧侶の「導師、又は「諷儀」(布儀)」に対しての「仏教作法」だけでした。
この「達親」には、「布施行為」の様に、「経済的関係」の背景は無かったのです。
これは、「密教の教義」と「氏家制度の仕来り」から来る制約で、「経済的関係」は生まれなかったのです。
然し、その後、この行為は、室町時代中期以後には、在家(主な檀家の意)の上記した「布施物」や「布施の趣旨」に対しても使われる様に成りました。
その理由は、一つは鎌倉期中期頃から「密教」を維持していた「特定の氏」が衰退し消滅して行った事と、二つ目は「密教の菩提寺方式」ではない「出家の僧」と「在家の民」の「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」(顕教)が各地に多く興った事の、この2つが理由でした。
(「密教の達親」は「地域限定」でした)
この「2つ事」の為に、この「達親」の「仕来り」とそれに伴う「習慣」は衰退して行ったのです。
取り分け、「密教浄土宗」に於いては一部の「特定の氏」にのみに遺された「仕来り」となりました。
これが室町期中期頃に入ると、一部の氏を除き主に経済的理由で「達親」から「布施」に全体に変化させて行ったのです。
奈良期から平安期に懸けては40から50程度の数の「特定の氏」に依って「達親」は維持されていたものですが、ところが平安末期には「3大密教(天台宗、浄土宗、真言宗)」の「密教論争」が起こり、この「密教のあり方」に付いて一部修正されて行ったのです。
(他の2つの密教は密教性を緩めたが、密教浄土宗は古代密教浄土宗があった為に緩めなかった。)
つまり、その密教性は最も「密教浄土宗」が最も強かったのです。
中でも、この時、「青木氏」は「古代密教浄土宗」の「担い手」であった事から、「密教浄土宗」の他氏と異なり、宗教論争後も頑なにこの「仕来り」を守ったのです。
然し、この「青木氏の仕来り」も、鎌倉中期以降からは、「民衆」を巻き込んだ「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」に圧倒され全体的に変化して行ったのです。
この「達親」は、細々と「古代密教浄土宗」の「青木氏」等に依って維持される「仕来り」と成りましたが、ところが、この「布施行為」に依る「仕来り」は、中級武士も含む民衆に依って維持される「慣習」へと変わって行ったのです。
「特定の氏」の「仕来り」から「民衆」の「慣習」へと変化したのです。
つまり、「在家」の「布施」に対して、返す「僧の(読経・詠経)」の「法施」の行為に成ったのです。
「密教と顕教」
そもそも、鎌倉期中期以前の「宗教の入信」は、ある「特定の身分階級」が入信できる「宗教」でした。
これを「顕教」に対比して「密教」と云いますが、従って、この時代の寺は朝廷の許可を得て、この「特定の身分階級の氏」が「独自の力」で「独自の寺」を創建して維持し、「独自の氏」から「身内の住職」を出し運営していました。この氏の「独善の寺」として存在したのがこれを「菩提寺」といいます。
(「氏の僧侶」のみならず寺を建造し管理維持するために必要とする「部:技能職人」までも氏内に抱え、その「技能頭」には「青木氏」を与えて「氏全体」を「密教集団」としていたのです。
「青木氏の守護神」で論じた様に、「血縁による2つの青木氏」と「絆による2つの青木氏」に依って構成していたのです。
従って、「血縁青木氏」だけではない事から「宗家的存在」を「福家」(ふけ)と呼ばれた所以でもあるのです。これは「氏内の呼称」であり、「氏外」からは「御師さま、(氏上さま)」と呼称されていたのです。)
特に、「古代密教浄土宗」は、仏説の「教義の秘密性」のみに至らず、上記した様に「寺の建立」などの一切の「仏法作法」を完全に独善化したのです。
当初は、「達親」は、この「菩提寺」の「特定階級」と「僧階級」の間の「仏教的慣習」であったのです。
その氏の「追善法要」では、その氏の者が務める「導師」は「身内の僧侶」ですが、周囲の寺からも集まってもらった「僧侶の諷儀」に対しては、儀礼上、「仏法作法」の慣習では ”「お礼」” と云う「作法」にはならない事から、「御導:(御導料)」の意味を持った「達親」(語意は下記に説明)と云う言葉を使ったのです。
この「密教−顕教」の関係は、本来は「教義の秘密性の有無」にあったのですが、これは主に「古代密教浄土宗」と「密教浄土宗」の「仏法作法」として独善的に強く引き継がれていました。
これは、「自然神」に繋がる「皇祖神−子神−祖先神−神明社」と、「古代密教」の「仕来り−慣習」の2つが融合していた事と、この「仕来り−慣習」を守る立場にあった「賜姓族」としての立場が大きく左右したのです。
ところが、その土台からの変化が起こったのです。
鎌倉期中期から室町期になって「下克上」が起こり、下級の身分の者も宗教に入信する事に成り、又、密教以外の宗教、つまり、「顕教」が勃興し、この時に、これらの身分の者と民衆たちの集団が集まって寺を建てて、集団の「檀家寺」を創り、一般の者が「出家」して僧侶に成り、これに対してそれを取り仕切る「在家」(総代)と云う者たちが現れました。
そして、彼等は、その「檀家寺」を「3つの布施」(法施、財施、無畏施)で維持し管理運営する様にしたのです。
この結果、「達親」は、当初は、「特定の身分階級」の「氏の菩提寺」の「仏教的な行為」でしたが、この「顕教」によるあらゆる宗派の「檀家寺」が生まれて来た為に、この「達親の作法」は一般化して大きく変化し、変質し、「達親の仏法作法」は、「達親」から「布施」としての質的な変化を起こしたのです。
この「3つの布施」は、同じ身分階級の中にある「在家の信者」と「出家の僧」との関係を保つ一つの手段となったのです。
当然に、「密教の達親」は、本来の「導師」への「仏教的行為」としても、「福家(ふけ)」の家柄では、未だ細々と遺されていたのです。
特に、現在でも稀に江戸以降の「顕教の浄土宗」において「「諷儀」に対する「御導:御導料(みどうりょう)」と云う形で遺されています。
注釈
この「仕来り」が遺されているのは少ない中でも関西地区に集中しています
ところで現在では、後の一般宗派の「顕教の檀家寺」では、「追善法要」時の「諷誦」に、「諷儀」を一段、二段と付けますが、この「諷儀」に対する”返礼作法”は「御布施」、又は個別に「諷儀料」と呼ばれています。
普通一般には「布施」で通っていますが、現在、一般の「民衆の葬儀・法要」では「諷儀」を付けない場合が多いのです。
況して、「顕教」であったとして、「下級武士」や「民衆」の「追善法要」や「葬儀」では、経済的理由から「諷儀」をつける事は先ず有り得ません。つまり、そもそも「風儀の慣習」(明治後、”風”を使っている)そのものが原則的には無かったのです。
川原や路傍の砂岩石を積み上げて土葬する民衆の習慣の中では、民衆には「墓石」を作る事そのものの慣習の概念が無かった時代に、「諷儀」を一段二段と付けて「追善法要」や「葬儀」を行なう事等有り得ません。
「墓所」を設けて「ルーツ継承の概念」が元々無く、「檀家寺」を持っていたとしてもその「檀家寺」には「先祖継承の過去帳」の習慣は無く、有ったとしても「檀家寺」ではその時に生きた人の「人別帳」しか無かったのです。
そんな「顕教の檀家寺」の概念の時代に、「諷儀」の「慣習の存在」はそもそも矛盾しています。
有り得る時代としては、江戸初期の家康の顕教の「浄土宗督奨令」からの事に成ります。
その時も、「上級武士階級」に限定していましたから、元々ルーツ継承の「過去帳の概念」の持っていた階級です。時代考証としては庶民では有り得ない慣習です。
乱世で功績を立てて、突然に出世して「上級武士階級」に仲間入りした者が多かった為に、この者等が過去帳を「浄土宗督奨令」に基づいて作った事に成ります。
まあ、出来たとして元は武士であった「庄屋、名主、豪農、豪商、郷氏」の範囲であり、もし、強引にやったとしたら、先ず周囲で「身分不相応」で周囲から阻害されて生きて行く事が出来なかった筈です。
例え、有ったとしても一般に「布施」の慣習に含めての行為であり、その中から「諷儀料」を分けて支払う事が多かったのです。
この様に、「諷儀」(風儀)とする慣習が、元々「顕教」の中に存在している事に疑問が残ります。
恐らくは、これらの「路傍の石」の言葉通り、この慣習が解けた明治以降の慣習かせいぜい江戸末期で出来上がった言葉ではないかと考えられます。
そこで 上記した事を配慮して、この「諷儀」の呼称には、「密教」の「古い地域」では、「ふぎ」と呼称し、又は、「顕教」の「新しい地域」では、「ふうぎ」と呼称する地域に分かれているのです。
そして、”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称には時代のブランクと差が有ります。
とすると、ここで”一つの何かを物語る特質”を持っています。
「密教浄土宗」では、全て法要は「身内・氏内の作法」である為に、そもそも「諷儀料」の概念が無かったのです。だとすると、筆者は、この事に疑問を持っているのです。
”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称の違いは何故に起こったのかであります。
そもそも、「密教」であるが故に、「導師」も「諷儀」も氏内の「身内の僧侶」である事。
とすると、”ふぎ”とする呼称があるのは、本来は、「布儀」であったのではないかと考えられます。
”「儀」を以って「布」する”と考えれば、「氏内の作法」と成り、「言葉の構成」では納得できます。
これが「顕教」に成った事に依って、仏法の根本的な状況が変わったのだから、この「布儀」が「布施」と云う言葉に変化したと考えられます。
つまり、「儀」と云う意味合いが、「顕教」に成った事により、「施」と云う意味合いに変えたと考えられるのです。「顕教」の他人が集まった「檀家方式」の作法の中では、「儀」の意は成り立ちません。
「儀」に依って「顕教方式」が成立っていたのではなく、他人の檀家の「施」(ほどこし)で成立っていたのですから、「儀」では無く「施」と成ります。依って、「布儀」から「布施」に変えたと考えられます。
「密教」では、「福家」が中心と成って「追善法要」や「葬儀」を取り仕切る仕来りで、「氏内の身内の作法」ですから、「儀」に従ったとする事で納得できます。(故に、檀家寺には「福家」の呼称は無い)
「達親」−「布儀」→「布施」−「諷儀」 (達親と布施には「密教−顕教」の仏法作法の違いがある)
「諷儀」の”ふうぎ”では、そもそも「言葉の構成」に無理があります。
”「諷誦」する事で以って「儀」する”とすることでは、「諷誦」の意味と「儀」の意味が合わないのです。
「顕教」では、「密教」の「布儀」が「布施」に変化したので、又、元々「密教」では「身内の僧侶」であるので、更には、「諷儀」の概念が無かった事から、この3つの理由から、「導師」の後ろで「諷誦」する「僧侶」に対しては、「顕教」では「諷儀」(ふうぎ)として呼称する様に新たに成ったと観られます。
「顕教」では、「他の寺」から同座して「諷誦」して貰っている「出家の諷儀僧」には、身内で無い事から、”「返礼」”をする必要が生まれます。
この時は、明らかに”「諷誦」を目的として同座して貰って輪唱”しているのであるから、合成語として「「諷儀」(ふうぎ)の呼称が生まれたと観られるのです。
従って、「密教」の総意の”「布儀」のふぎ”に対して、「顕教」の”「諷儀」のふうぎ”との、「2つの呼称」の違いが地域に依って生まれたと観られるのです。
故に、上記の様に、「密教」の浄土宗が存在した地域には、”ふぎ”、と成り、「顕教」の浄土宗の存在した地域には、”ふうぎ”と成っていると観られるのです。
筆者の家では、「布施」では無く、「達親」であった様に、勿論、「布儀」の”ふぎ”の呼称で伝えられています。
「古代密教」の「仕来り」の特異な「領域の言葉」である事から、この「経緯を確定する研究資料」が発見できないのです。
この「顕教の浄土宗」の中でも、元は「特定の氏の菩提寺」であったものが、特定の氏の衰退による経済的理由で「維持管理の背景」を失い、「密教」を早くから解き、「顕教」の「檀家寺」に成った浄土宗寺には、細々と「達親」の作法は遺されていました。
多くの「密教浄土宗」が経済的な支えを無くした為に「顕教の浄土宗」と成って行きました。
(筆者の調べた範囲では、因みに、平安期に勃興した源氏方の武士で、例えば、日本全国に大きく氏を広げた義経の家来であった鈴木氏等の菩提寺(浄土宗-明治後、「顕教の檀家寺」に成っている)等にも、調べるとこの「達親の作法」が細々と観られます。この様に「特定の氏」に細々と守られていた事を物語ります。然し、住職が世襲制がなくなった現在では、最早、伝統維持の時間はなくなっています。)
この「達親の作法」は、特に、「密教浄土宗」が「家康の宗教改革」で江戸期に廃止されて無くなり、複数の「高級武士」だけが入信できる「顕教」の「檀家形式」の「顕教浄土宗」に引き継がれたのです。
「福家」の役割を経済力のある「高級武士」の「武家」に特化(変化)させたのです。
(書物から観ると、この時に、「口辺のある達親」から「口辺の無い達親」に変わった模様です。
それは「密教」から「顕教」に変化した事により、「諷誦」の「仏法作法」の意味合いが少し異なったこと事から、口辺が取れたと観られます。この「口辺の有無」が「達親の意味合い」を物語っています。
「福家」(ふけ)の呼称も、「密教の仏法作法」に拘らず、この時に「高級武家階級」へ伝わり、それから「2足の草鞋策」の「大店の商人階級」へと深く浸透して行ったものと観られます。)
つまり、「密教の菩提寺」の言葉が、「顕教の檀家寺」と区別が無くなり、一般化した様に、この「密教」から「顕教」へ変化した「達親」も質を換えて一般化したのです。
「寺の創建権」
そもそも、江戸期まで、「寺の創建」は、誰でもが出来る行為では無く、時の権力者の許可を得た「特定の氏の特権」(青木氏等)でした。
従って、この「顕教」として「遺された達親」も再び芽を吹き出し、本格的になったのは江戸時代になってからの事でした。
「密教の浄土宗寺」が衰退して壊滅状態に成ってからで、江戸初期にこれを憂いた家康に依って、これをある「密教の慣習や仕来りや掟」をある程度緩めて、それに条件を付けて、「顕教による浄土宗」の「督奨令」を発したのです。
その条件とは、「特定の氏の財力」では無く、幾つかの「一般の高級武士の財力」を集めて管理し維持させようとしたのです。
更に、明治維新にも「苗字令」を出すと同時に、明治初期の「宗教改革」に因って、この一切の特権を完全撤廃したのです。
遂には、だれてもが入信できる「顕教」の「檀家形式の浄土宗」と成ったのです。
従って、この「達親の言葉」が使われない様になりました。
(「古代密教浄土宗」の「青木氏」だけは使っていた)
この様な経緯と背景を持った「達親」は、鎌倉期中期以前では上記した様に「御導料」の意味合いの「導師と「諷儀僧」に対する「特別の仏教的行為」での言葉でした。
「達親」の言葉の変化
そこで、因みに、この「達親」の言葉は、実は現在は、「普通の言葉」に変化しているのです。
それは、よく使われる “「達者」” と云う言葉がありますが、この語源と語意は「達親」にあって、上記の様に時代と共に、「達士」に変わり、「達者」に変わり、”「達者」”の様に何時しか別の意味に変化していったのです。
“あの人は何事にも達者だ“と云う風に使われる様に成りました。
変化した原因は、「達親」の「伝統的な諷誦」にあって、この「仏教行為」の、“暗誦した経文を声をあげて詠む事“から、人の前で僧の様に、 ”匠に朗々と歌ったり演説したり説法を講ずる者“を「達・者」(匠)と呼ぶように成ったのです。
そして、その「諷誦」を「法施」に見立てて、その者への何がしかの「報酬」としてお金(財施)を紙に包み、”おひねり”として、つまり、「布施行為」(財施)を提供した行為から、現在の意味に変化していったのです。
「達親」は、この「達者」の「達」の「匠」(たくみ)の意味と、「親」→「士」→「者」(導く者・導師・僧)の意味の「組合語」と成るのです。
そもそも、「親」(しん)の “おや“は、本来の語意はこの「士」の「導く者」の意から来ています。
この「組合語」が、この「仏教的行為・慣習」を「達親」と呼ぶ様になったのです。
口辺の有無は、“暗誦した経文を声をあげて詠む事”から来ています。
(口辺の無い昔の仏教書物もあります。室町期中期以降)
この様に、「言葉の変化」には、一つのが定型があり、取り分け、「仏教用語」が一般化したものには次ぎの様な規則性を持っています。
言葉の「4変遷パターン」
特別な階級に使われた言葉 -「特別な階級層の仏法作法」 -「原語」 -「奈良期から平安期」
武士階級に使われた言葉 -「上級武家層の習慣」 -「士」 -「鎌倉期から室町期中期」
富裕層に使われた言葉 -「中級武士と富裕層の習慣」 -「士・者」-「室町後期から江戸初期」
庶民に使われた言葉 -「庶民層の習慣」 -「者」 -「江戸期中期から明治期初期」
この様に:、「仏教原語」から「・・士」−「・・者」に一般化して変遷したものが多いのは、「時代の変化」を顕著に伝えています。
「青木氏の仕来り言葉の一般化」
さて、そこで、この「達親」が、庶民の中に「達士」に成り、「達者」と云う言葉に成り、に変化したと云う事は、この「密教の言葉」の「達親」が庶民の中に受け入れられる程の「言葉の力」を持っていた事を示します。
本来の言葉は「古代密教浄土宗」の「慣習、仕来り、掟」として継承する「青木氏」に依って細々と引き継がれている中で、一方では「高級武士階級」に引き継がれた「顕教の浄土宗」の中にもこの「習慣と仕来り」が引き継がれていて、それを江戸期の「高級武士階級」が「芸能文化」の中で、「諷誦」する「庶民の匠」に対しても「達士」と褒め讃えて経済的な支援や保護をした事から、更には、一般化した「庶民の技能」に対しても庶民がこれを真似て「達者」と云う言葉にして賛美して “おひねり“(財施)で支援した事から遣った言葉なのです。
因みに、他に「青木氏」の「仕来りや慣習」が、「達親」と同じ様に遺されている言葉があるのです。
次ぎに、青木氏の「達親」から起こる慣習として関わる言葉を紹介します。
・「御師」の浸透
それは先ず一つ目です。「青木氏」は、“「御師」(おんし)と呼ばれていた”と「青木氏の守護神(神明社)」の処で論じましたが、この「御師」の言葉は、江戸時代には、江戸幕府のいろいろな「技術や技能」を取り締まる役人の親方の「総括の最高幹部」を「御師 おし(御士もある)」と呼んでいた事が幕府の記録に遺されています。
この「総括の最高幹部」は「高級武士階級」でありましたから、これは「顕教浄土宗」の「慣習や仕来り」を引継ぎ、「顕教浄土宗の祖」の「古代密教浄土宗」の「青木氏」から学んでいた事を顕著に意味します。
恐らくは、「八代将軍 吉宗」の時に、この呼称が導入されたと観られます。
他の二人の兄弟に押しやられて、伊勢に流されて遠ざけられた吉宗は、幼少の頃、伊勢の「加納氏」と「青木氏」とが「親代わり」に成って育て、後に莫大な経済的支援をして「将軍の座」に押し上げたのですが、この時の経験を通して、この「御師システム」の「慣習と仕来り」を江戸に持ち込み採用したと考えられます。
「2足の草鞋策」を採用していた「伊勢加納氏」(伊勢青木氏と何度も血縁関係を結んだ)は、吉宗の「お側用人」と成り、この「伊勢加納氏」と共に「伊勢青木氏」は、大名扱いの「布衣の着用」を許され、財政面から「享保の改革」と「紀州藩の藩政改革」を依頼されて行なったのです。
この経緯から改革の基と成る「御師システム」が採用されて言葉が幕府のシステムの中に遺されたのです。
更に、この「御師」の言葉には、次ぎの様な形で庶民の中に浸透しているのです。
実は、「紀州の方言」には、純粋な「万葉言葉」が大変多く遺されているのですが、「万葉言葉」を研究する場合は、歴史研究者は「紀州の方言」を研究する事からはじめるのです。
それは「万葉言葉」の「方言」の中には歴史を証明する内容の言葉が多く遺されているからなのです。
そのひとつが、「紀州の方言」で、相手を最大限に尊敬して呼ぶ時は、“おんし 御師”と呼びます。
(後に、”口辺の達親→達親→達士→達者”の様に、 ”御師→御士→御者 おんしゃ”に変化して庶民化した。)
普通では“お前”に成る言葉ですが、平安時代の「万葉言葉」として、“お前”よりは、更に上の「尊敬の言葉」として、“おんし”と成るのです。(伊勢から南紀州を経由して北紀州間まで伝えられた)
現在では、かなり田舎に行かなければ聞くことは出来ない方言ですが、昭和30年頃までは一般に使われていた方言です。
この次ぎに上記した青木氏の宗家を意味する「福家」(ふけ)の言葉ですが、関西の江戸時代の言葉として使われていた言葉で、特に、商業関係の大店の店主に対して「福家」(ふけ)と云う言葉が使われていた事が判っています。
この時代の殆どと云って好いほど大店は、「2足の草鞋策」の高級武士階級の「裏の顔」であったのです。
これは、伊勢や信濃を中心として、甲斐や近江や美濃の青木氏が、「古代和紙」を殖産から販売までを大店として手がけていて、「2足の草鞋策」を採っていたし、「総合商社」をも経営していたのです。
その為に、「賜姓族」として明治3年まで、その立場と家柄が維持されていた為に、「本家−分家」の区別を採らず、その呼称を青木氏は周囲から「福家」(ふけ)として呼称されていた事が判っています。
その呼称の根拠は、大店から来るものなのか、上記した様に「仏教的呼称」から来るものかは未だ確定していませんが、恐らくは、その大元は「仏教的呼称」からまず浸透し、次ぎに商業で深く浸透したのではないかと観ています。
これが、江戸時代の資料から判断すると、関西地域で一般の商業の大店の呼称に商業関係者に多く依って使われていた事が資料から観て判っています。
「青木氏」に使われた事から「総宗本家」的な意味合いで、あらゆる階級に浸透して行った事から「商業」だけではなく、武士も含めた全体として指導的立場にある家のトップクラスの家に対してより敬意を表す総称として使われていたと観られます。
「25氏の青木氏」と「361氏の青木氏族」を通じて、「5+4地域」と「24地域」の大きな媒体から、先ずは慣習として広く伝播して行ったと観られます。
現在でも、関西の田舎の山村などには、昔の村の庄屋や名主や豪農方をこの様に呼んでいる様ですが、最早、この言葉も時間の問題で老齢化して消えてしまうでしょう。
現在は確認出来ない状況になっています。
大元は「仏教的呼称」からの浸透であった事から確認出来なくなっているのではないかと観られます。
そのきっかけは明治維新の宗教改革と庶民化が原因していると考えられます。
結
「達親」の言葉と「仕来り」とそれに伴う「慣習」は、「伊勢青木氏」に於いて明治35年頃まで遺されていたことが判っています。
筆者の祖父と父から「達親」と「布施」の違いに付いて教わった事があり、伊勢では明治35年まで確かに「達親」であったと云う事から、「伊勢青木氏の菩提寺消失」の時期を境に家での伝統は消えたのです。
従って、「2つの青木氏」に於いてもこの程度の頃まで継承されていた事が判ります。
入間の「総宗本家の青木氏」の存在が今も確認されている事から、この「達親の仕来り」が未だ遺されている可能性が高い事が考えられます。
関東各地の「菩提寺の西光寺」には、何がしかの記録がある事を期待したいのですが、「個人情報保護」で研究はこれ以上難しくなっています。
(全国の「西光寺の研究中」では「3つの種類」」に分けられ、この内の一つが「菩提寺」と観られる。後日解れば研究結果を披露したい。)
それだけに、筆者の「伊勢青木氏」に遺されているこの様な「青木氏の伝統」を記録として吐き出して遺して貴重な情報を広めて置きたいと考えます。
この様に「達親」の様に、「青木氏」の「仕来りの言葉」が、慣習化して一般化した言葉と成っている事の意味は大きいと思います。
「青木氏」が「民衆との達親の繋がり」をこの様な「仕来り」を通じて持っていて、その「仕来り」から興るあらゆる「慣習」が民衆に浸透していた事の証明にも成ります。
又、逆に「御師さま」や「氏上さま」と呼ばれていた様に、「青木氏」を民衆が親しく見ていた事をも意味します。
江戸末期や明治初期9年頃までに起こった「民衆の一揆や暴動」には、その裏に「伊勢や信濃の連携」や「近江」や「越前」や「甲斐」の「大店の青木氏」が経済的に関わっていた事実から、「民衆との達親との繋がり」は「青木氏の慣習と仕来り」を通じての証にも成り、これらの「言葉−慣習」で民衆にも引き継がれていた事にも成ります。
この様な「青木氏の仕来りと慣習」が、何らかの形で社会に深く浸透していた事が頷けます。
この様に、「青木氏の言葉」の研究は、「青木氏の伝統」を明らかにする事が出来るのです。
「達親」、「布儀」、「福家」、「御師」、「「諷儀」、等の「青木氏の言葉」の研究と、それに伴う「慣習、仕来り、掟」の研究を通じて、何か心がほのかに温かくなる気がします。
「青木氏の伝統」-「達親」
終わり