> 「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神−神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
> (絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
> この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。
>それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます
>
> 「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。
「2つの青木氏」に依る「祖先神−神明社」の建立は「河内源氏の八幡社」の独自の行動に因って全国各地に特徴ある影響を受けました。然し、神明社は確固たる信念の下に「2つの青木氏の守護神」としても「生活の神」「物造りの神」を存在意義として等しく「民の守護神」としても全国各地でどんな環境の中でも受け入れられ何時しか「総神」として崇められました。
その神明社の建立地は「2つの青木氏」の定住地としても「完全一致の形」で成り得ているのですが、その定住地を広域で区分けして観ると「2つの青木氏」の特徴ある様々な「生き様」が観えて来ます。
「広域定住地」、又は「広域建立地」は「青木氏の歴史を物語る域」に成り得ていてそれは次の様に分けられます。
前段で論じた歴史的な生き様や他の論文でも論じて来た様々な事を想起して次ぎの数字を観てください。
その神明社の日本全国の分布は次ぎの様に成ります。
(Jの分布表)
特別賜姓青木氏の神明社分布
関東全域 7県−103−18.2%−本家域
「青木氏の歴史を物語る域」を語るには先ずこの「関東域」を語る必要があります。
この域は秀郷一門の「第2の宗家の青木氏」(116氏)としての本領であります。武蔵入間の秀郷宗家を中心に伊豆の手前の神奈川・横浜を半径に円を描く様にその中心から青木氏本家を基点に外枠に至るところまで螺旋状に取り囲み護っていました。その為に青木氏としては他の地域に比べて定住地としての密度が極めて高く、ここから他の地域に戦略上の指揮を発していたのです。
その面積密度の高いこの「武蔵と下野本領」(後に上野が加わる)には、その「神明社の建立」は全体の2割程度を占める程に建立されていて、藤原氏北家の守護神「鎮守神の春日社」の本領の本家域に於いてでさえ、「神明社」が深慮する事無く深く取り込まれて建立されています。
これは「第2の宗家」である事と、「特別賜姓族」である事と、「生活の神」「物造りの神」の「全て民の守護神」である事の3つの事としても、一門の影響力の大きく及ぶところには、即ち、この関東域全域では無条件で受け入れられていた事に成ります。
故にこの数字はこの「青木氏の影響力の範囲」、或いは「青木氏の定住地の範囲や人口密度や末裔分布力」等様々なパラメータとして使う事が出来ます。
この様に関東域には他の域と違う特別な意味を持っていて「特別賜姓族青木氏」の「生き様の根幹」が読み取れるのです。
(Kの分布表)
特別賜姓青木氏−34県−418−73.8%
北陸道域 4県−104−18.4%−北陸域
東山道域 6県−105−18.6%−東北域
東海道域 8県−154−27.2%−中部域
移動先域 16県− 55− 9.7%−分布域
(関東全域の103は418に含む)
上記同然に、前段で論じて来た「鎮守府将軍としての赴任地域」であり、この域の「血縁域」としての「北陸道域」、その「北陸道域」から「東海道域」に繋ぐ末裔分布域の「東山道域」、「関西域」手前までの勢力伸張域の「東海道域」、それと各地赴任地24地方域に藤原氏の戦略的手法として遺して来た各地の土豪血縁族の「移動先域」の4つに分けられます。
これ等の域は夫々に特長ある秀郷一門の「生き残りの戦略上の役割」を持っています。
当然にその役割には「神明社建立」と云う事が大きく関わってくる事に成ります。
他の論文や前段で論じて来た様に、その「神明社の建立数」は秀郷一門の勢力のパローラメータとしても読み取れますし、「第2の宗家」の「特別賜姓族の青木氏」の勢力分布や末裔分布のパラメータとしても読み取る事が出来ます。
これ等の域の更に下記の県域毎の詳細な内容を観れば、各地に分布する「特別賜姓族青木氏」の勢力分布や末裔分布も読み取れるのです。
県単位で観てみるとこの戦略の役割の大きさや末裔分布力が明確です。
各種のパラメータ 戦略上の役割
北陸道域は28/県 赴任地として勢力拡大の基点域
東山道域は18/県 基点と本領を結ぶ戦略拠点域
東海道域は19/県 移動先域と本領を繋ぐ補給拠点域
移動先域は 3/県 前線の情報収集拠点
関東全域は15/県 本領の戦略指令拠点
(関東全域は北陸道域と東山道域と東海道域を結ぶ要として存在する)
「各種のパラメータ」の数字や「戦略上の役割」の具合を下に他の事柄に置き換えて考察する事が出来ます。
特に注目すべきは「東海道域」であり、関東域、北陸域、東山道域が如何にも調整したかの様に同率の2割弱を示す中で、段突の3割弱を示しています。これは関西域の手前の伊勢や美濃域を境に強力な防衛線を敷いていた事を示し、且つ、本領武蔵との環道を戦略的に強化していた事にも成ります。
事程左様に様々なパラメータとしても見る事が出来ますが、賜姓族の元締めの「伊勢の賜姓青木氏」と緊密な関係保持をしていた「特別賜姓族伊勢青木氏」の置かれている立場も戦略上重要視している事が良く判り増すし、又、都京と伊勢神宮との連携戦略拠点に成っていた事が判ります。
「移動先域」は1割で一県としてみれば前段で論じた様に「4社の神明社」/県を均等に配置していた事も判ります。恐らくはこれが戦略的に配置する一門の基準と成っていて、主要地の「関東域」、「北陸道域」、「東山道域」等にはその4−5倍/「移動先域」の戦略拠点を配置するとの基準の様なものがあったと観られます。勿論の事、為政的で政治的な戦略としても「生活の神、物造りの神」の「民の安寧の守護神」としても「神明社」を建立する基準とも成っていたと考えられます
この「移動先域」はその県毎のデータを観ると、地方の他氏の守護神などとの関係から前線基地としての地域毎の特長があり、その建立の目的にはかなり重要性が潜んでいて前段で論じた様子が具に覗える数字と成っています。
その「移動先域」の中国・四国域と九州域は、秀郷一門の「特別賜姓族青木氏」としての地域毎の繋がりある「戦略的な建立」は観られず、「移動先域」の前線基地的な県毎の範囲の位置に留まっています。
下記の県毎のデータにその県毎の歴史雑学を重ね合わせて考察すると、個々の数字の持つ意味がよく読み取れます。
(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏−16県−148−26.1%
宗家主家域 5県−126−22.3%
移動定住域 4県− 10− 1.8%
二氏重複域 7県− 12− 2.1%
「1/4の原則の保守」
実は上記の特別賜姓族のデータで、”4−5倍/「移動先域」/県での戦略拠点を配置する基準”の様なものがあるとしましたが、「特別賜姓族青木氏」の主要41県全域の418に対して、「皇族賜姓族青木氏」の148は凡そその「4倍弱」と成っていて、これは「皇族賜姓族青木氏」の29氏に対して「特別賜姓族青木氏」の116氏の4倍弱(1/4)と同じであります。
この事は「神明社建立」には上記した「4社の神明社/県の基準」と合わせて「皇族賜姓青木氏」/「特別賜姓族青木氏」の「1/4の勢力」に合わせていた事が判ります。
(412+148/566に対して九州域の6社が含まず)
建立範囲として観ると、「皇族賜姓青木氏」の16県の内「二重重複域」は「宗家主家域」「移動定住地」とは重なる所があるので実質9県程度と成り、「特別賜姓族青木氏」の34県との比も矢張り「1/4の勢力」と成ります。
つまり、この事から明らかに「皇族賜姓族青木氏/特別賜姓族青木氏」の関係には「1/4の勢力」であった事が判ります。やはり勢力に合わせた建立以上には建立する事は実質上無理が絡む事を考えると、この「1/4の原則」を護っていた事が判ります。
更に、これらは実質の「神明社建立数」の%から観ても 26.1/73.8≒1/3 に成っていますが、この数字は上記の八幡社の論議でも明らかな様に「特別賜姓族青木氏」の域に於いて室町期中期以降後に合祀などの流れが起っている事から変更(7.8%)されていますので、それを加算するとここでも「1/4の勢力」(1/4の原則)が働いています。
先ず「1/4の勢力」は「勢力」のみに留まらず全ての事柄が「勢力」に左右される事からの「原則」に成り得ていた事は間違いないと観られます。
ところで、この「1/4の勢力」以外にもこの「1/4の原則」が一部の生活習慣の中にも遺されている様で、筆者の家の盆暮れや法事や日常生活の所作等に至るまでの様々な「仕来り」や「日常の生活習慣」にも遺されている事から観ると、この「原則」が当り前の事として日常生活の中にも良く浸透していたと考えられます。
この「1/4の原則の仕来り」は筆者の家の歴史から観ると、明治35年頃まで充分に遺されていた事か判りますが、ところが現在では周囲には殆ど観られない「仕来り」ですので、最早、周囲習慣とは違い(違和感)が有り過ぎる事から守れない事が起っていて、又その意味や合理性や根拠が今や強く感じられ無い事から、次ぎの世代には引き継ぐ事が難しく且つ出来ない事と成っています。
(何か要領書の様なもので ”この様な「古式所作と仕来り」があった” として末裔に先祖記録として遺したいと考えている。)
これには周囲の習慣を具に観ると其処かしこに伊勢青木氏の我家にのみ遺されていたと観られる事から、平安当時に「何らかな基本的な思想」が働いての事と考えていて、賜姓族には伝統的に”中国の「五行思想」の様な思想があった筈”と見ていますが現在は研究中で確認は取れません。
これは研究過程での検証誤差で「1/4の原則」と成っているのか「五行思想」の「1/5の原則」であるのかは確定できないのですが、「青木氏の思考原理」としての「祖先神−神明社」をパラメータとして観ると、その様な「1/4の原則」の関係を恣意的に構築していた事が判り、又、勢力に沿って無規則に「神明社建立」を実行していた訳では無い事が判ります。
「生活の基盤」の基と成っている「祖先神−神明社」の考え方からもたらされた「1/4の原則」であると考えています。
(特記 「五」を超える事は思想的にタブーとして敢えて「四」に抑えていた事も考えられるが、古来の皇室の格式習慣として、例えば、”皇位継承権は4位までとし6位は継承権外と明確にし、その間の5位は4位に近くしながらもどちらにも属する”とする「皇室の格式慣習」が奈良期から平安期まであった事から考えると、又「皇族賜姓族」であった事からそれに従っていたと考えられ、又その一部が「祭祀や所作」の中にも遺されていたと考えられ、故に「1/4の原則」は正しいと考えている。
又、皇族枠の点でも4世族と6世族はこの「仕来り」に沿っている事等、公家は「有品の制」でも従4位と従5位にはこの4と5との原則が働いている事、官位官職勲功叙勲に関してもこの4の原則が働いている事等からも先ず間違いは無いと考えています。
「青木氏の生活習慣の仕来り」の「1/4の原則」の「根拠の口伝」は当り前の事としていた事からか慣習や仕来りは多くのところで遺されているが、正式な「根拠の口伝」は「青木氏家訓10訓」の様には無く確認出来ない。
これは恐らくは、これ程に遺されているところを観ると、「青木氏の格式」で、つまり「令外規則」の「要領書」の様なもので、下記の「三大格式・三大儀式」に習った「賜姓族格式・儀式」であった事が考えられる。
「2つの青木氏」はこれを守っていた事が考えられ、上記の「河内源氏」は守らなかった事に成り生き残りの手段としてその差が出た事に成る。)
(「格式」とは令外規則の一種の要領書の事 大化期の律令の基と成った施基皇子が編集した「善事撰集」や桓武期の律令完成を法令補足する為に作られた嵯峨期の「弘仁格式・弘仁儀式」を始めとして「貞観・延喜式目」の等の「三大格式」や「三大儀式」がある。日本独自の法令形式)
この生活の中まで浸透していた「4−6の原則」「1/4の原則」「4の原則」は、「青木氏の賜姓族」に密かに脈々と引き継がれて来た「仕来り」であった様で、「氏を構成する平安武家」に引き継がれていたかは「下克上と戦国時代」で殆ど滅亡してしまった為に定かでは無いが多少の伝承があったと考えられる。
尚、賜姓族の「2つの青木氏」は神明社の観点からこの「1/4の原則」の慣習に従っていた事から観ると、秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏」は秀郷一門一族(藤原氏北家)の「第2の宗家」の役割を果しながらも「賜姓族側の立場」をより強くしていた事を物語ります。
「祖先神−神明社」の考え方から来た「賜姓族の行動規範」であってこれを守っていたからこそ等しく「民の信頼」を得ていた事の基に成っていたと考えられます。
故に秀郷一門は「特別賜姓族青木」に「賜姓族」として一目を置いていた事が判りますし、前段の「瀬戸内の純友の問題」でも論じた様に世間も信頼し一目は置かれていた事を物語ります。
言い換えれば ”必要以上の勢力拡大は反って逆効果である” として考えていた事であり、清和源氏のの「河内源氏」の様に無制限の勢力拡大をしたのでは無く、「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守り着実にある範囲に留めて勢力拡大に努めていた事も判ります。(個々に生き残りの大きな違いがあった)
と云うのは、「皇族賜姓族青木氏」は「3つの発祥源」としての範囲で武力を使っての勢力拡大は所詮のこととして無かったのですから、従って、「特別賜姓族青木氏」はその「4倍程度の勢力」の範囲に留めていた事が適当と考えていた事が判ります。
秀郷一門が拡大するに連れてその範囲を管理していた事を意味します。
「皇族賜姓族」が持つ組織力が成し得る統率を超える勢力拡大は無かった事を意味し、それは同時に「特別賜姓族」の勢力の抑止力を超えるものでは無かった事と成り、もう一つの抑止力の「伊勢−信濃シンジケート」も「2足の草鞋策」の範囲を超えるものでは無かった事に成ります。
これ等は「1/4の原則」に意識して沿っていた事が判ります。
「1/4の原則関係式」
青木氏の勢力拡大≦賜姓族の組織力≒「1/4の原則」←「賜姓族格式・儀式」
青木氏の勢力拡大≦特別賜姓族の抑止力≒「1/4の原則」
伊勢−信濃シンジケートの抑止力 ≦「2足の草鞋策」≒「1/4の原則」
∴「賜姓族の組織力」 ≦特別賜姓族の抑止力」×「1/4の原則」
比較対照として ”氏が生き残れるか否かの違い” は前段の「河内源氏」の中にこの様な原則が存在したかは定かでは無いが、「荘園制と未勘氏族との武力を背景とした関係」から観て無かったと考えられ、伸びるだけ伸びた様な「生き様」であった考えられます。
青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守らずに居た事が、これが前段で論じた”賜姓族にあるまじき姿”であって、 ”「賜姓族扱い」では無かった時期の姿を何時までも引きずった事から来ている”と考えられるのです。
源氏の名義だけを借りた「未勘氏族」にはこの「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)が無かった彼等に、更にその上に「清和源氏の賜姓未了の時期」に引きずられてしまったとも考えられます。
これは「たいら族」にしても「拡大する武力」に対してその裏付として「2足の草鞋策」を講じ戦略的には意識してバランスを採りながらも、「武力」に於いては”伸びに伸びた事”が滅亡を招いたと考えられます。
「伸びる事」を背景に無意識に「奢る態度」が必然的に生まれ、”平氏にあらずんば人にあらず” と世間から云われた所以では無いかと考えられます。
阿多倍一門で、且つ同じ「賜姓族の敏達天皇系」の「たいら族」にも「賜姓族格式・儀式」なるものが無かったと観られます。
前段で論じた様に「2つの青木氏」の原則に類似するものとして「ある程度の原則」は保ちつつも”奢れる者久しからず”の部分に引き込まれた滅亡であったと考えられます。
この引き込まれた原因は、”「諸行無常の世の条理」にあがなう事無く、知らず知らずの内に「河内源氏の生き様」に引きずられたものであった”と考えられます。
そう観ると、源平と同じ厳しい時代に生きた我等の先祖の「2つの青木氏」の「1/4の原則」に従っての「生き様」はすばらしいものであった事が云えます。
普通であるならば「源平」と全く無関係の立場には無かった訳ではないのですから、むしろ極めて近い立場にあった筈で、「諸行無常の世の条理」に引き込まれていた事は間違いない筈で、そうで無かったのはこの「1/4の原則」を懸命にして護っていた事ではないかと考えているのです。
ただ”偶然に生き残った”とするものでは無く「青木氏家訓10訓」と同じく「生き残りの戒め策」が「2つの青木氏一門」に働いていた事に成ります。
恐らくは、「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門と云う組織で護られていた事も別の面で強く働いていた事もありますが、特に「賜姓信濃青木氏」や「賜姓甲斐青木氏」も厳然として本流、支流がと生き残っている訳ですから、「賜姓伊勢青木氏」との「1/4の原則」で緊密に結ばれていた事が云えます。
前段でも論じた、”出る釘は打たれる、地に竿させば流される等”の例えの通り、これを「1/4の原則」で以ってぎりぎりの所を維持させていたと考えられます。
”出る釘は打たれる、地に竿させば流される”等だけでは、むしろ消極的に成りこの”厳しい近い立場”の中では生き残る事は逆に困難であった筈です。
必要以上に消極的で無かったのは、真に「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」を堅持していた事でも明らかです。
そうすると、この「1/4の原則」は 上記の”厳しい近い立場”に加え、前段の「2つの青木氏」の難しい立場、即ち「3つの発祥源」の立場に対して、この「2つの立場」の「2つの限界」を護る法則であったのです。
この上記の「2つの限界」(「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」)と「1/4の原則関係式」を護る「心の支え」が「祖先神−神明社」に置いていたからこそ「青木氏の思考」をコントロールする「1/4の原則」を護り得たと考えているのです。
「青木氏の生き様関係式」
「2つ源平勢力」<「2つの青木氏」>「諸行無常の世の条理」
「2つの青木氏」=「2つの立場の2つの限界」
「2つの立場の2つの限界」=「3つの発祥源」+「2足の草鞋策」+「2つの抑止力」
「2つの青木氏」=「1/4の原則」+「祖先神−神明社」
さて、次ぎに皇族賜姓族青木氏の「宗家主家域」は何度も論じている近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域で5家5流青木氏の主家域で、夫々は国府を中心として拡がっています。
そして、土地の豪族との血縁賜姓族の近江の佐々木氏系青木氏、美濃の土岐氏系青木氏、信濃の足利氏系青木氏、諏訪族系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、の支流族があり、夫々定住域を血縁氏側の国境方に拡げています。
美濃であれば西側の尾張域、信濃であれば北側の越中−越前域、西側の諏訪域、西域の尾張域、甲斐であれば東域と北域、諏訪族は東側の武蔵域に分布地を拡げています。
この地域の県域の分布域には神明社が必ずその末裔証拠として存在します。
(特記 比較的歴史的には不思議に知られていないが、事実は「信濃足利氏」は陸奥の斯波氏系足利氏で足利氏拡大の中心と成った足利氏で幕府を開いた関東の下野足利氏より勢力拡大とその貢献度は伯父に当る斯波氏足利氏の方が大きかった。室町期には11の国を治めたが「信濃足利氏」がその最大勢力を誇った。この信濃には斯波氏系足利氏のその血縁族は多い。
信濃諏訪族には甲斐諏訪族武田氏系青木氏があるが賜姓族ではない。足利氏系青木氏の一部は足利氏本家と秀郷宗家との血縁して後に主導権争いに破れ越前−米子−八頭に同行して末裔は移動定住した。斯波氏の足利氏は室町幕府衰退と共に衰退した。織田氏の主君に当る。)
「皇族賜姓青木氏」の「移動定住域地」は室町期中期までには西から・日向、土佐、・米子、八頭、・摂津、滋賀、越前、・越後、美濃、尾張、・伊豆、相模、下野、上野、武蔵鉢形、陸奥の北域(青森県北域)が記録として移動が確認出来る地域でありますが、移動して神明社を建立し末裔を大きく遺したとする主な移動定住域は・印の4県であります。(室町中期前の記録)
「二重重複域」は「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」の同士の血縁融合域でありますがこの地域にも神明社が建立されているのです。
・近江、・摂津、・伊勢(四日市)、土佐、・美濃(桑名)、・伊豆、・相模、武蔵(入間)、武蔵(鉢形)、・越後(新潟)以上の地域に「青木氏融合氏」が定住していますが、古くから神明社と末裔子孫を大きく明確に確実に遺しているのは・印の7県域です。。(室町中期前の記録)
(但し、室町中期までの移動先域でこれ以後混乱期に入る為にデータとしては信頼性は寛政記録や家紋分析等から「第3青木氏の発祥」などがあり信頼性が低下して割愛するが上記の地域から歴史的経緯に基づいて拡大を見せている。)
これ等の個々の地域の「祖先神−神明社」の実情は次ぎの表から読み取る事が出来ます。
(Aの分布表)
「神明社の県域順位表」(八幡社と対比)
神明社の分布(県域分布/全国比) 八幡社の差 分布域の圏域 八幡社順位 順位差
1 山梨72 −12.7% −69 2つの青木氏の圏域 29 28
2 新潟61 −10.8% −58 2つの青木氏の圏域 37 35
3 東京30 − 5.3% − 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 2 − 1
4 愛知33 − 5.9% −19 秀郷流青木氏と源氏の圏域 5 1
5 富山33 − 5.8% −28 賜姓青木氏の圏域 24 19
6 秋田33 − 5.8% −30 秀郷流青木氏の圏域 35 29
7 岐阜31 − 5.5% −19 賜姓青木氏の圏域 8 1
8 千葉22 − 3.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 4 − 4
9 静岡18 − 3.2% − 6 秀郷流青木氏の圏域 7 2
10埼玉15 − 2.7% − 6 秀郷流青木氏の絶対圏域 11 1
11山形15 − 2.7% − 8 秀郷流青木氏の圏域 17 6
12長野15 − 2.7% −13 賜姓青木氏の圏域 41 29
13栃木14 − 2.5% − 3 2つの青木氏の圏域 9 − 4
14宮城14 − 2.5% − 7 秀郷流青木氏の圏域 19 5
15群馬14 − 2.5% − 9 秀郷流青木氏の圏域 36 21
16青森13 − 2.3% −10 秀郷流青木氏の圏域 34 18
17神奈川11 − 1.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 6 −11
18兵庫11 − 1.9% 13 清和源氏発祥地と賜姓青木氏 3 −15
19岩手11 − 1.9% − 7 秀郷流青木氏の圏域 28 9
20福岡9 − 1.6% 30 八幡社発祥地と秀郷流青木氏 1 −19
21茨城9 − 1.6% − 2 秀郷流青木氏の圏域 20 − 1
22福島9 − 1.6% − 7 秀郷流青木氏の圏域 44 −22
23福井8 − 1.4% − 5 賜姓青木氏の圏域 38 15
24広島6 − 1.1% − 1 秀郷流青木氏(讃岐) 23 − 1
25三重5 − 0.8% − 4 皇祖神と神明社絶対神域 47 22
26宮崎4 − 0.7% 2 皇祖神 天岩戸神社神域 22 − 4
27高知4 − 0.7% − 1 賜姓武田氏系青木氏 33 6
28鹿児島3 − 0.5% 6 源氏未勘氏の阿蘇大社神域 13 −15
29徳島3 − 0.5% 0 秀郷流青木氏(阿波) 30 1
30滋賀3 − 0.5% − 1 賜姓青木氏と源氏圏域 42 12
31石川2 − 0.3% − 1 賜姓足利氏系青木氏 46 15
32愛媛2 − 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域 12 −20
33北海道2 − 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域 14 −19
34和歌山2 − 0.3% 6 清和源氏の圏域 16 −18
35京都2 − 0.3% 2 神明社の絶対的神域 27 −12
36大阪1 − 0.1% 10 賜姓源氏の圏域 10 −26
37山口1 − 0.0% 8 清和源氏の圏域 15 −22
38大分1 − 0.0% 6 清和源氏未勘氏の圏域 18 −20
39香川1 − 0.0% 5 秀郷流青木氏(讃岐)圏域 21 −18
40岡山1 − 0.0% 3 秀郷流青木氏(讃岐)圏域 25 −15
41島根1 − 0.0% 3 出雲大社絶対的神域 26 −15
42長崎1 − 0.0% 2 宗像大社の神域 31 −11
43熊本1 − 0.0% 2 阿蘇大社と宗像大社神域 32 −11
44佐賀1 − 0.0% 1 宗像大社神域 40 − 4
45奈良1 − 0.0% 1 神明社の絶対的神域 43 − 2
46沖縄1 − 0.0% 0 45 − 1
47鳥取0 − 0.0% 2 出雲大社の神域 39 − 8
(神明社566社) (八幡社354社)
「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」(「5つの連携した関連要素」)
ここで改めて上記の表から歴史的に観て特筆する圏域があります。それは九州域であります。
福岡9、長崎1、大分1、熊本1、佐賀1、宮崎4、鹿児島3でありますが、「特別賜姓族青木氏」としては末裔が福岡9を中心に、長崎、大分に拡がっています。末裔も神明社分布の程度であります。
「2つの青木氏」「祖先神−神明社」として、その建立域は特別な地位でありながら確実に古くからの建立根拠を持っているのです。然し、薩摩域3と日向域4は異なるのです。ここは改めて論じる事とします。
故にそもそも上記の経緯から論じた様に「神明社」は、「皇祖神」と「祖先神」の役割が「親子の関係」にある事から、その立場が何処の地域でも繊細で微妙で重要な処を保持しています。
そして、それが矢張り「神明社−2つの青木氏」を意味するものである事なので、それに繋がる史実が無ければなかなか以下のこの薩摩3と日向4の様に説明がつき難い事に成るのです。
今までの経緯から「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」の「5つの連携した関連要素」が成立しないと証明や説明が出来ない事に成ります。
前段でも論じ、又、他の論文でも論じて来た長嶋氏(ルーツ掲示板の九州長嶋氏のお便りも参照 長谷川氏も含む)が南九州で大きく出自している事が歴史的になんらかの唯一の繋がりでありますが、青木氏と長嶋氏や長谷川氏等の主要5氏が建てると成ると上記の戦略上の範疇から外れて「神明社」では無く「春日大社」が優先される事に成りますので難しい事と成ります。
確かに、日向4は「日向青木氏」として「神明社」か「八幡社」に繋がる歴史的史実がありますが、神明社を2社の説明が就くとして残りの2/4社を建立すると成ると相当強い関係がなくては成りませんし、前段で論じた様にそれ程建立する勢力は日向青木氏には無かったのです。
(特記 日向青木氏の経緯由来は、源頼光の4代目源三位頼政の孫で、仲綱の子の長男宗綱と次男有綱と伯父の高綱は、伊勢賜姓青木氏の跡目に入った三男京綱が伊賀平族に助命嘆して、平清盛に特別に許されて日向に配流となった。その地元廻村の廻氏に匿われ廻氏との子孫を遺すが再び日向警護の平族に挑み敗戦、その後、「薩摩大口村」の寺まで落延び、そこで住職の勧めで「嵯峨期の詔勅」により伊勢青木氏族を名乗り生き延びる事が出来た配流孫で、後に九州諸藩の農兵として生き延び「日向青木村」を形成した。1100年頃はある程度の勢力を保持したが薩摩の台頭で完全に衰退した。確かに伊勢青木氏の系列の賜姓族で「神明社族」ではあるが「神明社」を創建し維持管理するその勢力はなかった。大きく現存する)
(参考 日向青木氏は次ぎの地域に青木村を形成した。現存)
現在は鹿児島県北伊佐郡大口村・山野村・羽月村 の三村大合併した。
その大口村は更に次ぎの8村が合併した。この中に上記の青木村がある。
(大口村 ← 「青木村」,里村, 原田村, 大田村, 牛尾村, 木ノ氏村, 目丸村, 篠原村)
「日向の神明社4の考察」
そうすると、青木氏外に平安期の朝廷が「心の神」と「生活の神」「物造りの神」として建立したと考えるにも無理があります。ただ日向4の内の1社が年代は確定出来ないのですが平安初期前後頃の建立ではないかと観られる神明社です。
残りの神明社2社(天岩戸神社は除く)に付いて、日向の土地は「天皇家の皇祖神」に取って所縁の土地でもありますが、これに関係する何かの建立と観ることも考えられます。
「皇祖神の伊勢神宮」の分霊支社等の要件があるのかを調べましたが、何しろ南九州は資料の遺産と発掘が少ない土地柄であって困難を極めているのです。
この日向2社はこの「神明社1」が原因して分社したとも考えられますが、果たして誰が維持していたのかも現在までも判りません。
[天岩戸神社(1)]
そこでこれ等の解明は先ず日向4に対してその糸口とも成りますので4社の一つの[天岩戸神社]を考察をしてみます。
下記にその日向地域の神明社4を列記しましたがこれを調査すると次ぎの様に成ります。
云わずと知れた「天岩戸神社」は「天孫降臨」による地の「天皇家の神社」(国社)ですので先ずこの一つは外れます。
そこで、此処には「西本宮」と「東本宮」とがありますが、「西本宮」がこの「天孫降臨」の神社ですので、朝廷は、”この域には建造物成るものを建ててはならない”とする飛鳥の古来からの掟があります。
然し、この地の豪族の「大神族」が”夢のお告げにより建てた”とする神社があり、これを地元では「東本宮」と呼ばれています。
神社本庁は宮崎県西臼枡郡高千穂町にある「西本宮」のみを「天岩戸神社」、正式には「天磐戸神社」としています。この「天岩戸神社」では無い事は間違いありませんので残り3つの神明社です。
(「大神族」の「東本宮」と呼ばれる神社に付いては下記で関係する部分が詳細に出てきます。)
ところが、この同じ高千穂町にもう一つの神社があります。
それは「高千穂神社」(2)と呼ばれています。
[高千穂神社(2)と大神氏]
この「高千穂神社」は別名「十社大明神」と呼ばれています。この神社の祭祀する神は「神武天皇」の兄の家族10人を祭る「皇族神社」、つまり「神明社」です。
この10人を以って「十社大明神」と呼ばれているのです。この神社は神社本庁の記録の「別表神社」に登録されています。
「皇祖神」の「伊勢大社」系列の神社の「神明社」としては登録されている事を意味します。
ところが、ここで検証すべき問題が有ります。
この「高千穂神社」(2)にも上記の「天岩戸神社」の「東本宮」と呼ばれる神社を建てたと主張する地元土豪(豊後の大野郡)の「大神氏」がこの「高千穂神社」をも”管理していた”と主張しているのです。
その人物が「大神太夫惟基」だと主張しているのです。
さて、問題はこの豊後(日向)の「大神族」なのですが、氏発祥は地元の「地理纂考」の経緯より11世紀始め頃発祥した「姓氏」です。(大神氏は8世紀だと主張 疑問)
つまり、この「姓氏」は家柄を良く見せる為に過去に遡って系譜の搾取偏纂をして良く見せる様に造り上げた事で、それを現実化させる為に「天岩戸神社」の近くに掟破して「東本宮」を”夢お告げ”として掟を犯して建てて於いて信用させ、「高千穂神宮」をも如何にも「氏神社」の如く後(平安期末期)で仕立てた事になります。
これには矛盾があって平安期の末期の後の彼等の記述によると、「高千穂神社」を”建立した”とは明確には云っていないのです。”管理していた”と主張する部分もあり不可解な表現をしているのです。
もう一つは、「神明社」は「祖先神」で「青木氏か源氏」の「皇族賜姓族」か「特別賜姓族」の「朝臣族」しか建立する事は無いのですが、平安期の認証の「氏族」ではなく「姓氏」族であり、その「姓氏族」の豊後の土豪大神族には有り得ない事なのであります。
この為に「明治期の宗教改革(廃仏毀釈、神仏判然令等)」の混乱期の中で、明治政府は神社関係の整理を行った際に、この「高千穂神社」を「別表扱い」として「神明社」である事を判りながら、彼等の社説の言い分を聞き入れ「天岩戸神社」の「東本宮」と伴に「高千穂皇神」(後の高千穂神社)を上記する「氏神」の「氏社扱い」の中に組み込まれてしまったのです。
[高千穂神社の3説]
ところが、この神社の明治初期の整理の際に調べると書かれていた社歴にも”創建は1200年前”と書かれていて、そうすると812年頃と成ります。
そこでこの「高千穂神社」の説には次ぎの3つがあります。
A 垂仁天皇期創建−紀元前の神代の時代の天皇家の説
B 地元実話を基にした「続日本後記」「三代実録」より引用した10世紀後半頃の大神族創建説
C 神社資料古物の研究機関の分析より明治期1200年前の創建説
以上の3説があり現在はC説の1200年前説が有力
特に「大神説」の大神氏と神社が主張する社説に依れば、「高千穂神社」も「天岩戸神社」と同じの「天孫降臨の社」ともあり「天岩戸神社」だけであるのに矛盾します。
更には「東本宮」と呼称させたものは812年創建と主張して於いて、「高千穂神社」では947年頃創建としていて、”この氏は何時の発祥なのか”と成り矛盾しています。
もし812年とすれば700年頃にこの氏は既に存在している筈ですが史実では存在していません。
つまり「神明社」である事を認めながらも”管理者が大神氏であるかも知れない”として「氏神」の「氏社扱い」になり、神社本庁の「社格」は「別表扱い」とされ「東本宮」が「氏神社」(姓氏族)であるので「高千穂神社」も「氏神」とされてしまったのです。
現在でも「東本宮」は余り知られていないのですが、「大神族」は自らの資料に812年に建立したと主張しているのですが、これがもしそうだとすると矛盾が起こります。
812年とすると大神氏はこの次期には「姓氏」は全く発祥していません。依ってそれはそれなりの「姓氏族」では無く立派な由緒ある「氏族」と成りますので、当然に朝廷の「八色の姓の制」から日本書紀などの書物には認可された「氏」として明らかに出てくる筈ですが、当時の豊後(日向)の豪族にはこの氏は記録にはありません。
(後の搾取偏纂で多くの知識を誤った)
まして、当時は「大蔵氏」や「肝付氏」の大勢力圏でもあり、ここは朝廷の5大官僚の一つ「伴氏」の「弁済使」の勢力圏に入っていましたのでこの時代には「大神族」は有り得ません。
結局、この明らかな矛盾から健在の「高千穂神社と天岩戸神社」の公的機関の研究からこの「大神族」は11世紀初頭の「姓氏族」である事が判明しています。(筆者の調査でも11世紀初頭)
このことから結局、豊後の大神族(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)が「高千穂神社」であるとすると「神明社」で無い筈であります。しかし”「十社の明神」を祭祀する神社である”としています。これも矛盾しています。
そこで明治初期では神社本庁は「祖先神」ではなく「氏神」としたのですが、祭祀する神は皇族の十社ですので「皇祖神系列神明社」と成り明らかに矛盾します。
「高千穂神社」と「大神族」とをいろいろな資料の一説を引き出して結び付けて強引に作り上げた矛盾した自説である事が良く判ります。
「高千穂神社」も”「創建した」”と一方で示し、一方では”「村の守神」と崇めた”と記述していて、そしてその表現の言質を左右できる様に工夫している矛盾説であります。
中には「豊後大神氏」は「平家物語」に記している「緒方氏の祖、(緒方惟栄)」としていますが、ところが大和に全く別の由緒ある古氏の朝臣族の「大和大神氏」(おおみわし:「氏族」)があり、又、大和緒方氏もありこの家柄とを錯誤させる様に家柄を上手く利用しています。
11世紀初頭の「大神族」(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)には、「筑前青木氏」までの不明期間100年から150年の間の歴史的空白期間を搾取偏纂により上手く利用され狙われたと考えられます。
利用された理由の一つは「青木氏か源氏」の存在がこの日向の神明社だけには唯一無い事であります。
その間100から150年の間は地元に派遣された累代の官僚族により維持されたからであります。
この事は3説ともに期間の間の維持管理は認めています。
(累代官僚による維持管理を認める事は「式内社」である事を認めている事に成りこれ又矛盾する)
この事に付いては記録が多くあります。
10世紀後半からの一時期はこの九州3国地域の神明社と伴に藤原一門とその青木氏が管理(寄進して補助行為)した事、鎌倉時代以降には頼朝も寄進したと記録が多くある事、歴代の知行藩主或いは領主の管理と伴に多くの豪族の氏からも少なくとも寄進にて賄われていた事は明記されている事等の資料史実からも確実です。この事は止む無く彼等が主張する社説も認めています。
これを認める事がそもそも矛盾する所です。
室町末期以降から江戸末期には土地の延岡藩等の歴代藩主等が、「天岩戸神社」と同じく由緒あり庶民からも尊厳されていた事もあって、これを認めて引き続き管理していた事が明記されています。
(明治以降は結局は余りの矛盾のために神社本庁の「別表扱い」と変更され最終は寄進で管理維持となった)
豊後大神族の社説は矛盾が多いことが判っていて当初から疑われていて「別表扱い」とすると問題に成るので採用されていなかった事を物語ります。
つまり「社説」と「寄進行為」は矛盾しています。明らかに「創建主」ではなく隣村のこの神社を崇めた事を誇大に言い合わせて如何にも「創建主」で在るかのように末裔に「搾取誇示する作為」で造り上げたと観られます。
(社説は後の社の所有権や地域興しの利害関係からこの様な大矛盾だらけの説を故意に採ったと観られます。 この様な搾取偏纂の偏在は悪い典型的見本で「姓氏族」に多い事に注意を要するのです。地方史録はこの様な資料をベースに偏纂されているので特段に注意を要する。)
上記した様に神明社を建立する力は、日向国の隣の豊後の一地方一郡(大野郡)程度の土豪の大神族には隣の日向国に神明社を建立し維持する勢力は全くになかった筈です。
”大神族の「氏神」と定め村人はこれを崇めた”と室町期に於いて土地の「地理考」に書かれているが、「日向の西臼桁郡」にあるこの「高千穂神社」を「豊後の国隣の大野郡」の村人の「心の拠り所」の神社とした事を意味しますから、「豊後の大野郡」には適当な神社が無かった事を意味するか、”村人が「高千穂神社」を余りに崇めていたのでこの様な破天荒の矛盾だらけの姓説を作ってしまった”と考えられます。
現実に「豊後大野郡」にはこの時代までに創建された神社は2つであり、何れも時期は不祥とされていますが、平安中期頃で「八坂神社」と「西寒多神社」です。(高千穂の郷には多かった)
この建設地域は高千穂地域とは逆の東の臼杵地域側にあります。
「八坂神社」は850年頃に当社全国支社の本社神社として豊後に創建された事で有名な神社です。
(京の祇園神社で有名です)
実質の創建は平安中期頃と観られ、且つ「延喜式神名帳」に記されている事から927年頃前の平安中期創建されたと観られる「西寒多神社」(ささむた)は、豊後を支配した大友氏が応永15年(1408年)に別の場所に移したとあります。
「八坂神社」は「氏神社」(県社 式内社並扱い)であります。
「西寒多神社」は「式内社」で発祥は平安期中期頃であり、この何れの神社も臼杵郡側にあり早くても実質は平安期中期に成るが有名な神社と成りますので、”大神族の大野郡の神社”と云う事には成りません。依って、大野郡には「式内社」や「氏神社」や「別表社」は無かった事に成ります。
或いは、平安末期発祥の大神族が崇める神社は無くなってしまった事は、これは「豊後大神氏」が自らの力で神社を建立する力が無かった事を意味し、止む無く民は西隣国越えの日向国の西臼桁郡高千穂村の「高千穂神社」を崇める結果と成った事に成っていた事に成ります。
そこで、この「豊後大神氏」は平安末期に「直入郡」に発祥していますから、鎌倉期の後期頃にはこの大野郡を納めこの事から民を引き付ける必要性に迫られ、東域は大豪族の大友氏の反発を招く事から、西側の「天岩戸神社」を利用する意味から近くの洞窟に掟を破り「小さい祠」を造った事に成ります。
ところが、この「祠の策」は効果なく結局は民が始めから崇めていた「高千穂神社」を”自分の祖の氏神だ”として作為したと観られます。
(推測 矛盾のある社説がこれだけ主張する事は、上記の空白期間の戦乱混乱期をこの大神氏から武力的な保護を受けて護られていた事が予想できる。)
だからこの意を汲んだ「大神説を社説」とする神社は”建立した”とは充分に主張していないのだし「維持管理」の100年間を狙われたと観て正しいと観られます。
参考として「天岩戸神社」の近隣の「東本宮」の社屋は「祠並」で社領等一切無いのです。
(豊後大神氏は飛鳥大神氏の一部が豊後に移動してその後平安末期に末裔を遺したとする説がある。)
そもそも「歴史の紐解き」とは例外無くこの様な「矛盾・疑問」を如何に切り崩すかにあります。
しかし相当苦労致しましたが、「大矛盾の大神説」は削除されますので、この事から残り「2つの神社」は南端にありますし、建立年代が不祥で平安末期以降と考えられますので「栗隈王か武家王」の唯一青木氏の発祥と末裔の存在しない域での「神明社建設」はこの「高千穂神社」である事に成ります。
(注 明治維新4年には神社本庁はこの社説を採用し「氏神社」「村社」としながらも「別表扱い」として高千穂の郷の土地の土豪の三田井氏の名を採って「三田井神社」と改名し、その後、28年に変更し元の「高千穂皇神」を「高千穂神社」して戻した。そして「国の管理」の下に戻した。実質は間違いを訂正した形式に成っている)
事程左様で、この大神説は矛盾だらけで明らかに除外できますので、従って、上記の理由で「別表扱い」と成っていますが、由緒ある「高千穂神社」の「神明社」は年代の検証から大化期頃に立てられた「神明社」である事に成ります。
つまり、前段で論じた「19の神明社」の創建記録の通り「栗隈王」か「武家王」が「中大兄皇子」に命じられた「19の神明社」の一つである事に成ります。
この「時代考証」と「天岩戸神社の所縁の側域の建設」と「高千穂の地理考証」と「19神明社」と「祭祀の神の皇族系」と「肥後と日向と豊後の国境に建てられている事」や「3国北地域の守護範囲南端にある事」等や「戦略的な位置付け」等から「栗隈王か武家王」が建立した「神明社」である事がほぼ証明できます。
この「天岩戸神社と高千穂神社」の「分霊支社」としての伸張が”戦略上で何かあったのか”等を研究する必要が有りますが、この2社は「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」の要素関連が成立しませんが、青木氏に関係のない神明社関係の神社である事は間違いない事に成ります。
青木氏から観れば例外神明社の神社と成りますが、皇祖神から観れば「神明社の元祖社」と成ります。
そこで「宗像大社」や「阿蘇大社」の圏域や社領域の中で、”残りの日向2(下記下の2つ 江田神社 鳴戸神社)を含む薩摩3は一体何なのか”大いに疑問です。
この事に付いて青木氏としては神明社研究を進める必要が有ります。
日向国の神明社の4社
天岩戸神社(1) 西臼枡郡高千穂町 「式内社」
高千穂神社(2) 高千穂町 「村社」(別表扱い)
江田神社 (3) 宮崎市阿波岐原町 「式内社」
鵜戸神宮 (4) 日南市宮浦 「郷社」
上記の様に日向の残りの上記の江田神社(3) 鳴戸神社(4)の2つは確実に古い社である事は事実であり神明社に関わっている事も事実ですが、「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」の要素関連が成立しないし、全く青木氏には関わりが無いと観られ後に大蔵氏の影響を受けて「産土神」に変わっています。
この事から可能性として戦国時代に入り管理維持が困難と成り元より賜姓族の影響の低い九州域では鎌倉期末期から「祖先神−神明社」から九州中心とした大蔵氏の「産土神」に変えた事が充分に考えられますが確認は取れません。
「薩摩3の考察」
ただ薩摩3は下記のデータには0+3として記述していますが、筆者の研究の調査ミスかも知れませんが、上記大神氏の様に分霊である事の疑問の社で何か古く魅せている可能性があるのです。
そもそも薩摩と日向は、前段で論じた様に中央との間に「政治的隔壁」を奈良時代から明治維新まで長い間持ち続けた国柄でもあり、何事にも一段深慮する必要のある地域である事は間違いはないのです。
「賜姓族」という点ではこの隔壁のそのものであるのです。
故に日向の古いと観られる残りの2つの神明社は、平安期に皇祖神の伊勢大社の分霊により創建されたとはこの事情からさすが難しく、「祖先神の神明社」を建立したと考えられるのですが確定する資料は見付かりません。
もしそうだとして鎌倉期以降とりわけ室町幕府が管理維持を続けたのかと云う疑問もあります。
これを維持管理する豪族とも成ると肝付氏と島津氏以外には無い筈です。
阿蘇大社域では出来たとしても他社社領域と成り無理と観るのが普通であります。
(肝付氏26代はこの日向の諸県を支配しています。)
九州域、特に南九州域は江戸末期から明治維新の廃仏毀釈などの4つの令(神仏分離令、大教宣布、寺社領上知令)に基づく江戸末期から明治初期の激しい宗教改革で他県と比べ物にならない程に大嵐が吹いたのです。それ故に不明不祥と成っているのです。
この様に南九州域にはそもそも平安初期より「神明社域」ではありませんから室町期中期前には「神明社」は無かったと観て次ぎの論所に入ります。
「賜姓族の神明社の検証」
次ぎはもう一つの皇族賜姓族の指揮組織であります。
「皇族賜姓族」では次ぎの「3つの指令基地」の拠点が働いていたと考えられます。
(Bの分布表)
皇族賜姓青木氏−16県−148−26.1%
宗家主家域 5県−126−22.3% (Fの分布表)
移動定住域 4県− 10− 1.8% (Gの分布表) 16県
二氏重複域 7県− 12− 2.1% (Hの分布表) 11県
この「皇族賜姓青木氏」の本拠地は伊勢青木氏で、平安末期には「源平の争い」に巻き込まれて前段で論じた様に近江、美濃は衰退してその遂行する能力は最早無く成ったと考えられ、平安末期にはこの指令システムが一時崩れたと考えられます。
前段から論じている様に、そこで立て直す為にも領国から上がる年貢に頼る事無く乱世の中で経済的な自立の道を選んだと考えられ、「2足の草鞋策」を採用して再構築を成したと観られます。
武力に相当する抑止力等の構築の為にも「神明社の建設」を推し進めそれを基にシンジケートを構築して護ったのです。
ここでも、明らかに「心の神」「生活の神」「物造りの神」のもので有れば上記の「1/4の原則」から4社/県から観て16県の範囲で148もの神明社は多すぎると考えられ、何と神明社全体の1/3程度にも配置しているのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」により民衆を味方に引き入れる事と同時にこれ等を守る意味としての「戦略的な建設」でもあったとも考えられます。
これは秀郷流と若干異なる戦略目的であったと考えられ、「2足の草鞋策」に軸足を掛けての事であり゜殖産・商い」と成ると彼等の賛同を確保する事が絶対的な必須条件と成ります。
これ等を護るためにも「武力」を捨て「抑止力」に頼った運営とも成ればこれまた「民衆の力」なくして維持する事は出来ません。その意味で各地の民衆が結集したこの「シンジケート」は「絶対的な戦略的手段」と成ります。
「シンジケート構築」にしてもその「核」に成るものが必要であり、それが「神明社」と云うものであったと考えられるのです。
勿論、上記した”それは何なのか”で論じた絶対的条件も備わっての事であります。
「宗家主家域」のデータの5県で126もの建立であります。
つまり「5家5流」の5つの国であります。5家と云っても実質3家で有りますが、甲斐の青木氏は特に武田氏系青木氏は、別の論文でも論じている様に「神明社建立」を実行する能力が無くなっていて、自らの守護神さえも侭成らない始末であった事が史実から判っているのです。
(甲斐武田氏系青木氏の論文で論じている)
後は「賜姓族甲斐青木氏」で有りますが一族を護るに限界で有った事が記述から読み取れます。
そもそも甲斐には「賜姓族青木氏」1と、この賜姓族と武田氏との血縁で生まれた「武田氏系青木氏」2と、甲斐の賜姓族青木氏と血縁した「諏訪族青木氏」3(信濃諏訪族青木氏の一部の移動定住)と、この諏訪族青木氏と血縁した「諏訪族武田氏系青木氏」4と、これから分流した「武田氏族諏訪系青木氏」5の賜姓族の1氏とその支流青木氏の4氏の計5氏が定住しているのですが、1と3の賜姓族青木氏を除き、2と4と5の武田氏系青木氏は武蔵国と越後国と土佐国に逃亡して存続しているのです。
依って甲斐は神明社の基地としての機能は果たせなかったと観られ、伊勢青木氏(2氏)−信濃青木氏(3氏)との連携により成り立っていたのです。其処に126であります。
従って、この伊勢青木氏−信濃青木氏の関係が緊密なものであった事が判ります。
賜姓族青木氏の95%は武力に頼らないだけにこの2つの地域に集中しているのです。
全体の神明社の23%程度が集中しているのです。賜姓族の5県−126−22.3% 特別賜姓族の7県−103−18.2%−本家域とほぼ%で相似する内容と成っています。
何れも本家域の圏域の及ぶ範囲には「4社/県」と「1/4の原則」を確実に守っていて、「特別賜姓族」は武力を保持する事からこのややその割合を抑えています。
移動定住域 4県− 10− 1.8%(Gの分布表)
二氏重複域 7県− 12− 2.1%(Hの分布表)
このデータから見逃す事が出来ない事があります。
それは確かに「移動定住先10」で力を盛り返し10もの神明社を建立したと云う事であり、その力を発揮したと云う事を物語るデータであります。4社/県から観れば10は少ないのですが、移動域とすれば”勢力を盛り返し建立した”とすると妥当と考えられます。
「二氏重複域」(Hの分布表)は主に逃亡先での秀郷流青木氏と同地域で生活している中で12もの神明社を自らの力で建設しているのです。
力を盛り返し地主等に成り、その力で管理維持したもので主に「心の神」「生活の神」「物造りの神」を目的として建設されたものである事が覗えます。
これは「移動定住域」の10も同じであったと考えられますが、戦略的意味合いもまだ乱世が続いている事からその目的も見逃せない筈です。ただ主体が何れにあるかの問題であると考えられます。
ここで、「移動定住域」(16県)と同じ比を示しているこの「二氏重複域」(11県)には「融合青木氏」(賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の血縁族)が発祥していて、この存在がより「特別賜姓族」との連携を一層効果的に働かせたと観ているのです。
「移動定住域」があったからこそ「二氏重複域」が生まれた事に成ります。
その意味からすると計11県−22−4%は4社/県からすると2社/県は半分と小さいのですが、「移動定住域−二氏重複域」の意味合いからすると4社/県に相当する意味合いを持っている考えます。
そしてそれが「賜姓族」と「特別賜姓族」を特定地域に限らず”全体的なより強い絆で結ばれていた”と考えられます。親族以上のもので運命共同体とする関係を保持されていたと考えられます。
その意味で「二氏重複域」(11県)の神明社の2.1%は各地でかなり大きな役割を果していたことが判ります。姿としては「強い絆」「運命共同体」の象徴的なものと成っていたのです。
「宗家主家域」の神明社とは「強い絆」「運命共同体」の点でより強いものがあったと考えられます。
筆者はこの自然摂理と歴史的経緯から生まれた「移動定住域」−「二氏重複域」の関係が「2つの青木氏」の隠れた「生き残り」の基点(骨格)に成っていたと考えているのです。
4社/県に対して2社/県は「2社の肉の部分」を剥がした「骨格部分」の神明社であったと観ていて2社以下ではなく2社/県−2%であった事に意味があると観ているのです。
つまり、”この「2つの域」では「1/4の原則」に沿ってそれだけのものにしていた”と云う事なのです。
それは次ぎの地理性と青木氏の主要地から読み取れるのです。
実は「移動定住域」と「二氏重複域」がA:攝津、B:越後、C:美濃、D:伊豆、E:相模、F:武蔵の6県域で重なっていますが、この6県のそれは「融合青木氏」の子孫拡大が大きかった域を意味します。
即ち、これは前段でも論じた様に「賜姓族」と「特別別賜姓族」の何れにとっても重要で主要拠点であり、「賜姓族」と「特別賜姓族」の家柄身分の区別が最早この間の関係にはなかったと観られ、「完全な親族」としてその「仲介役的な働き」をしていた証拠であります。
それは地理性に応じた特徴ある次ぎの「血縁融合の仕方」に意味を持っているのです。
A 摂津は賜姓族を中心に特別賜姓族が血縁融合(1)と賜姓佐々木氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
B 越後は特別賜姓族を中心に賜姓族(1)が、特別賜姓族を中心に諏訪族系青木氏3氏と血縁融合(2)をした。
C 美濃は西域は賜姓族を中心に特別賜姓族(1)が、東域は特別賜姓族を中心に賜姓族が血縁融合)(2)をした。
D 伊豆は5家の賜姓族の同族の複合の血縁融合(1)と、この賜姓族を中心に特別賜姓族(2)が、この2つの血縁融合氏と複合血縁の青木氏(3)、清和源氏摂津源氏頼光系との血縁した青木氏(4)の5氏が存在した。
E 相模は甲斐武田氏系青木氏1氏と賜姓族を含む諏訪族系青木氏3氏間との相互の血縁融合(1)とこれらと特別賜姓族の相互の複合の血縁融合(2)をした。
F 武蔵は特別賜姓族を中心に伊豆−相模の賜姓族を含む諏訪族系青木氏との血縁融合(1)し、鉢形に移住した甲斐武田氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
(これらは歴史史実と家紋分析による総合判別の結果記録)
特に「融合青木氏」のメッカとして「伊豆−相模域」は複合血縁で伊豆よりは賜姓族を中心に、相模よりは特別賜姓族を中心に特別な複合血縁している傾向を持っています。
これは青木氏の歴史的な移動経緯に左右されていて、伊豆域は守護国であった事から頼光系清和源氏の嵯峨期詔勅による青木氏発祥と伊豆の賜姓3家の同族複合血縁族との青木氏が発祥しているのが特徴で「二氏重複域」の拠点にも成っているのです。全体の6%を占めています。
(この6県に付いて「神明社の県域順位表」を参照するとその特長が判る)
中には、土佐と滋賀が重なっていますが、土佐はその拡大が小さい事と全体の戦略的な位置付けは低い事もあり少し意味合いが異なる事が云えます。
滋賀は前段でも論じた様に近江青木氏が一時移動定住した地域でありますが、この滋賀青木氏は上山氏の青木氏であり、一部に近江−滋賀の秀郷一門との血縁族と観られる融合族が存在するが神明社とは別問題で時代性が室町後期から江戸初期に成る事から本論とは別にしています。
(この上山氏の青木氏の一部は江戸初期前後に三河駿河と流れ最終の千葉には子孫を遺している)
伊勢と信濃には秀郷流青木氏との血縁による「融合青木氏」が「仲介役」(接着剤)としても存在しているのですが、この「仲介役」の「融合青木氏」が全体の「2つの青木氏」の連携軸に成っていたのです。
(Kの分布表 家紋分析 参照)
そうすると、秀郷流青木氏の「4つの指令基地」に話を戻して、この「北陸道域」を戦略的前線基地とすると本拠地は陸奥域と成ります。
果たして、その様に神明社が配置されているのかと云う疑問が出ますし、もしなければ上記の説は覆されます。
そこで、陸奥域の神明社の状況を下記に示しますと次ぎの様に成ります。
(Cの分布表)
東山道−東北北陸 6県−105−18.6%
建設地域 社数 /地域% /全国%
青森(陸奥) 13 12.4 2.3
秋田(羽後) 26+7 31.4 5.8
山形(羽前) 15 14.3 2.8
岩手(陸中) 11 10.5 1.9
宮城(陸前) 14 13.3 2.5
福島(岩代) 9 8.6 1.6
秋田を除いて間違いなくほぼ同じ程度の分布状況に成っています。
陸奥域は平安期の本来の域は青森−秋田−山形の領域を以って陸奥域とされていました。
これは明治2年に陸奥を磐城と岩代と陸前と陸中と陸奥とに分離したもので、出羽は羽前と羽後に分離したものです。(平安期の陸奥域は広域なのです。)
ですから、秋田26+7は北陸域との連携からも特別に平安期の陸奥域の西域に主力を置いていた事が判ります。神明社分布と末裔分布はこれに一致します。4社/県の原則は県域としては8倍程度の建立数を維持していますので東山道域では主要域であった事が頷けます。
ですから、平安期から室町期まででは、61−58%で、全国的に観ると61/566=11%と成り、平安期の陸奥の勢力圏域から観ると105−19%と北陸道の前線基地と遜色ない勢力を保持しいます。
この陸奥域は当然に平安期から室町末期まで北家の藤原秀郷一門の絶対的権域で、室町末期には永嶋氏が陸奥に拠点を置くほどに重要な「戦略上の拠点」でもあり「穀倉地帯」としても重要な地域でもあります。
この前線基地と本拠地を合わせると(北陸道域 4県−104−18.4%) (東山道−東北北陸 6県−105−18.6%)で併せて「10県−209−37%」と成り、全体の1/3以上が集中しているところであります。このデータは青木氏の分布と一致する数値でもあります。
殆どは、秀郷流青木氏の分布域でもあります。
下記の東海道域に比べてやや落ちますがこれが特別賜姓族の勢力の置き方であった事を意味します。
この東山道の東北北陸のデータから秀郷流青木氏と一部の賜姓族とその系列の青木氏の分布域に合致するのですが、更にこれを裏付けるデータが東海道域のデータがこれを物語ります。
(Dの分布表)
東海道域 7県−154−27.2%
建設地域 戸数 /地域 /全国
茨城(常陸) 8+1 5.8 1.6
千葉(下総) 22 14.3 3.9
埼玉(武蔵) 31 20.1 5.5
東京(武蔵) 30 19.5 5.3
神奈川(相模 ) 9+2 7.1 1.9
静岡(駿河) 18 11.7 3.2
愛知(尾張) 33 21.4 5.8
特別賜姓族の本領であった武蔵域を中心に相模と常陸が両翼にしてやや下総側に伸びた神明社の分布状況となっているのは本領勢力圏の形に一致します。この本領から手足が伸びる様に街道沿いに本領勢力圏と同じ様にまた末裔分布圏と同じ様に伸びています。
上記の特別賜姓青木氏の神明社分布の関東全域 7県−103−18.2%−本家域(Jの分布表)は秀郷一門が領国とする関東域にして観たものですが、前記した様にこれに沿ってその延長線上の静岡と愛知は秀郷流青木氏が西の前線権域として大いに活躍した領域です。
全体比から観ても、この西域の静岡と愛知域は9%であります。
これに対して、A−103(関東域)、B−104(北陸道域)、C−105(東山道域)で312と成り合わせて55%と成り、これに静岡と愛知の分の51−9%を加算すると全体比では364と成り64%にも成ります。
東海道域と東山道域から観ると、街道沿いには209と成り、37%と成ります。
つまり、このデータの持つ意味は上記した様に戦略的な意味としては、街道沿いは皇祖神の神明社で4割は占めている訳ですから、藤原秀郷一門の秀郷流青木氏の特別賜姓族の勢力が街道沿いを中心に勢力を集めていてその勢力は如何に大きかったを物語るものです。
この神明社の勢力圏に加えて藤原氏の春日大社の勢力圏を加算すると8割程度の勢力圏を占めていた事が判ります。
この神明社の分布に依って藤原北家一族中でも「下がり藤紋」の一族がこの街道沿いの圏域を如何に大きい力で占めていたかを物語るものです。当然に末裔分布も一致しますので「勢力の内容」を実証するものと成ります。
”果たして、その様に神明社が配置されているのか”と云う上記の疑問はこれで配置されていた事が判り解消されます。
前記より東山道域圏と東海道の東域の主要街道域は、藤原一門で抑えられていて信長−秀吉−家康はこの勢力を無視できず信長−秀吉は現実に手を出せずにいました。そして、家康はこの秀郷一門の青木氏(「第2の宗家」)のこの力を無視できず、むしろ戦略的に積極的に家臣に取り入れた事が良く判ります。
故に、江戸初期の家臣団の初期の構成時には「武田氏の家臣団」と並んで「秀郷一門の旗本」が多い事はこの街道沿いの「秀郷一門の勢力」を取り込んだ家康の戦略から来ているのです。
これは家紋分析からもこの事が良く判ります。
そこで気に成る事ですが、”家臣そのものを取り込んだ”と云うよりは上記のデータで示す「街道沿いの勢力」、即ち、「賜姓族「神明社」も含む”「神明社圏域」を取り込んだ”と云う事が正しいと云う事なのです。
戦略家の家康であれば「家臣の人」より地に根付いたの考え方に基づいた「優れた組織」を取り込んだ筈です。当然にそうすると「祖先神−神明社」で構築された組織を取り込んだのです。
秀郷一門のみならず武田氏の赤兜軍団も「組織の取り込み」です。
武蔵鉢形に武田氏系の「青木氏全軍団」を根こそぎ村毎そっくり移住させているのもこの戦略の考え方から来ているのであり、この「2つの組織」を秀郷一門の本拠地の武蔵にわざわざ指定して移動させたのもこの「2つの優秀な軍団」を膝元に置き武蔵の江戸を固める事にあったのです。
つまり、この戦略である限り「人」では無いのです。
「祖先神−神明社」で「統率された組織」と「青木氏の思考原理」を取り込んだのです。
そして、その取り込んだ「祖先神−神明社の考え方」が江戸期以降の「武士道」の基盤と成り得たのです。
私はむしろ突き詰めると、”「祖先神−神明社の考え方」に重点を置いていたのではないか” と観ています。
それは江戸期の初期の侍社会を固めるには、農民から伸し上った下級武士や下克上からの武士を主体とする武家武士の多い社会を根本から構築する必要に迫られ、豊臣との戦乱後に幕府を開く以上は「社会の再構築」の「優先的な政治課題」に迫られていた筈です。
それには奈良期から日本の「民と武家の社会」に根強く根ざし受け入れられて来た上記で論じた「祖先神−神明社の考え方」を江戸期の封建社会の中に敷くには最適であると家康は観ていたと考えられます。
当然に「物造り神、生活の神」としても、「総神」として崇められてきた経緯を見逃す事は出来ない筈ですし、この「神明社の分布」が政治的にも効果的であり幕府樹立として利用しない訳には行かなかった筈です。他の守護神とはその位置付けは論じて来た様に大きく異なるのですから、「祖先神−神明社」に目を向けられた筈です。
その証拠には前段で論じて来た「八幡社」の「八幡大菩薩」を「下級武士の心の支え」として再び陽の目を見て掛け軸などにして床の間に飾る江戸期の下級武士の風習はこの証であり、その思考原理は「神明社」が室町以降に「未勘氏族」に依って「八幡社」に改宗された経緯もあり、故に総じて前段でも論じた「祖先神」に通ずるものとして扱われたのです。
つまり、江戸期には「下級武士には八幡社、上級武士には神明社」の仕来りの流れが起ったのです。
故に青木氏のみならず「神明社」も幕府の援護を受けて上記で論じて来た社会の主要なところに建立されていた「神明社566社 八幡社354社」が好都合として残り得たのです。
江戸期には「2つの青木氏」にはこの566社を充分に全て管理維持する能力が江戸期には遺されていたかは疑問でありますから、しかし現実に遺されている以上は江戸幕府の「祖先神−神明社」を「武士道の根幹」に取り込んだ事に因ると考えられます。偶然に残ったのではありません。それ程に江戸初期までは戦乱で甘い社会ではなかった筈です。それなりの遺し得る確実な理由があったのです。
「武士道の根幹」と「総神」
その証しの一つとして「祖先神−神明社」の青木氏族は「古代密教形式の浄土宗」を菩提寺とする事から、江戸初期の「浄土宗督奨令」の発布と江戸初期に行われた「寺社の宗教改革」はこの事から来ているのです。そして、その浄土宗は上級武士の宗派と成ったのです。
ですから、江戸初期に旗本と成った中には「祖先神−神明社」「浄土宗」の関係する青木氏の家紋群が多い事と、それに関連する類似家紋の支流分流分派の家紋が多いのはこの事から来ているのです。
前段で論じた江戸初期に発祥した多くの「姓氏族」の守護神の「氏神」が「神明社」と一部で間違われているのは、江戸初期の上記の経緯から来ているのであって、「神明社−総神−氏上−御師−総師」と崇められていた事から「氏神−総神−神明社」の流れが「下級武士の姓氏」と「民」の中に起ったのです。
これも「祖先神−神明社」を「武士道の根幹」のみならず守護神を離れて全民の「総神」として位置付けられていたのです。
この事の証拠に就いて前段で論じた様に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は江戸初期から明治初期まで徳川氏から「賜姓族」として「特別な待遇と保護」(例 下記特記)を受けていた事でも判ります。
特記 前段で論じた事ですが、伊勢青木氏には、紀州が徳川氏直轄藩と成り飛地治領としての松阪での「賜姓族特別面談扱い」や、紀州藩初代徳川頼宣からの手紙や拝領品等が多く遺されていて、家臣では無いが明治初期まで特別に十二人扶持を与えられていた事や、幕末14代まで特別扱いの下で「師」としての深い親交があった事や、伊勢松阪で吉宗を親族の加納家と共に育て上げた事や、その8代将軍吉宗の有名な「享保の改革」を布依着用(大名扱い)で勘定方で断行し、合わせてその時の財政改革の世間への見本として同時期の紀州藩の財政改革を特別依頼されて断行に成功し享保の改革の反対者を押さえ込んだ事や、且つ幕末の「坂本竜馬と船沈没の事件」で高額の賠償金捻出での有名な幕末紀州藩の財政改革等を断行した等が記録として遺されている。松阪にある賜姓青木氏の氏の総菩提寺が江戸期には紀州徳川氏の菩提寺に成っている。
これ等は「祖先神−神明社」の上記の証しと成るものと考えます。
私はここが「2つの青木氏」のみならず徳川氏の「天下分け目の決め手」であったと考えていて、もっと遡れば徳川氏には信長が甲斐武田氏を潰した時に甲斐の戦後処理を家康に任した事が決めてであったと観ています。それに依っての結果として「神明社」が遺されたと云う事も云えるのですが、これよる勝敗が逆であった場合は「神明社の運命」は恐らく焼き討ちにあい無く成っていたと考えられ、強いては「2つの青木氏」の存在や上記するその関係が破壊されていた事が考えられます。
この様にDとJの分布表の神明社から観れば、「神明社の存在」そのものが「2つの青木氏の命運」が如何に関わっていたかが判ります。室町期中期以降の生き残りはこの分布表からも読み取れるのです。
武蔵入間を中心に神奈川−横浜を半径とする総宗本家の勢力圏はAからDまでの主要街道沿いを7割で抑え、次ぎのデータの都の畿内圏域に結び付けていた事が判ります。
更に、この勢力圏はお膝元の畿内の神明社とどの様に結び付いているかを次ぎに検証します。
(Eの分布表)
畿内域 6県−14−0.2%
建設地域 戸数 /地域 /全国
三重(伊勢) 5 38.5 0.0
奈良(大和) 1 7.7 0.0
和歌山(紀伊) 2 15.4 0.0
大阪(摂津) 1 7.7 0.0
京都(近江1) 2 15.4 0.0
滋賀(近江2) 3 23.1 0.0
比較的にAからDの分布に対してEの分布表の数字は少ないと観られます。
つまり、この少ない原因は神明社の質的な意味合いがこのデータは異なっているのです。
特に奈良域は1と成っていますが、神明社の奈良期の19の神明社は室町期から観たものである事とその遺跡の有無から1としたもので、この域の「神明社の環境」は域全体が神明社であり分離したものでは無く当然のものとして存在しているので別格的扱いとしましたが、伊勢5は「分霊扱い」では無く「支社扱い」のもので「神明社の本拠点」と見なされ、量的な意味合いではない事に成ります。
天智天皇が実行した天領地の主要地19の第4世守護王の配置域に神明社を建立したものを加えて計算すると32−5.7%と成ります。しかし一部この19の守護地は5家5流の中部域の3国(美濃、信濃、甲斐)を外しますと29−5.1%と成ります。
この6県は「質的な神明社」であって、量的な判別は困難であり、32−5.7%に修正すると4社/県の原則から観ても5−6社/県と成りますのでこの神明社の古来からの聖域としては「1/4の原則」の範囲にあり妥当なものと考えられます。
(「皇祖神の聖域」であり「神明社」を建立する根拠は祭礼格式により無かった)
そもそもこの6県全域が「皇祖神−伊勢神宮」の90年−90社の遷宮域で「皇祖神−祖先神−神明社の聖域」そのものである事から考えると「皇祖神宮90社」を加算して122と成り、むしろ20社/県となり、「1/4の原則」から観れば20社/16社と成りむしろ多い事と成ります。
民衆から観た「生活の神」「物造りの神明社」とは別に上記した様に「戦略的意味合い」も強くあった事から伊勢を始めとして畿内域はその意味合いが無い訳ですから当然に量的分布は別物であります。
故にこの様な分布状況を示しているのです。
従って、その建立地も戦略的意味合いの位置の山岳国境には無く平地の主要地に位置しています。
この事が神明社布教を前提として純粋に「生活の神」「物造りの神明社」としての役割を果たす事に主眼が置かれていた事が判ります。
この畿内域は「伊勢−大和域−紀伊」8と「近江−摂津−都域」6の2域に分類され、「伊勢−大和域−紀伊」8は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の特別区域として管理運営されていた事が判ります。しかし「近江−摂津−都域」6は「賜姓近江青木氏」と「賜姓近江佐々木氏」の区域であり、平安末期には何れも衰退してその管理運営力を無くし室町期には朝廷の力も無くしていますので、室町期まで遺されていたのは「足利幕府の政治的な配慮」の畿内民衆の「生活の神」「物造りの神明社」の梃入れであったと考えられます。
「伊勢−大和域−紀伊」8は5家5流の賜姓青木氏との繋がりが問題であり、この繋がりは次のような傾向を示しています。
(Fの分布表)
賜姓青木氏−5県−126−22.3%(宗家・主家)
建設地域 戸数 /地域 /全国
三重(伊勢) 5 4.0 1.0
山梨(甲斐) 69+3 57.1 12.7
長野(信濃) 13+2 12.0 2.7
岐阜(美濃) 31 24.6 5.5
滋賀(近江) 3 2.4 0.0
この他の地域の賜姓族の建立状況をAの県毎の分布表からまとめ直してみると次ぎの様に成っています。
三重と滋賀は上記の通り「皇祖神の遷座地」である事から少ない事は納得できますが、中部3県の山梨69−3、長野13+2、岐阜31では、先ず山梨は5氏の青木氏内諏訪族系3氏の諏訪社を除くと2氏の賜姓族系で全国比13%程度の高比率を占めているのは高い神明社への信仰が高かった事のみならず武田氏滅亡の戦い以外に神明社の消失の原因が少なかった事が云えます。
特別賜姓族はこの山梨には存在しませんし、室町期中期以降武田氏滅亡以降に上記した家康の保護があった事と青木氏系列の柳沢氏の保護下にも成っていた事から存続の比率が高かったと考えられます。4社/県からすると12倍と成りますので多く建立した事もありますが、遺し得た事も一つの要因です。
長野は奈良期よりもとより賜姓族の拠点でもあり賜姓族2氏と前段と上記で論じた様に特別賜姓族の強力な存在もあり、また伊勢青木氏との強い連携もあり4社/県の3倍の神明社を残し得たと考えられます。特別賜姓族の存在は信濃足利氏のお家騒動に加担した事の大きな関わりであるので定住地では無い事からこの3倍程度は妥当なところで不必要な消失に巻き込まれなかった事が大きな要因とみなされます。それは「祖先神−神明社」が各階層から崇められていた事により護られ消失を免れて遺し得たと考えられます。
岐阜は賜姓族青木氏2氏と特別賜姓族系4氏流と融合青木氏とが存在する地域であり源平の戦いで土岐氏系の青木氏が滅亡した事もあって甲斐域に比べては少ないけれど特別賜姓族の支えにより戦乱の戦場と成った地域にしては遺し得たと考えられます。
4社/県から観ると8倍と成っていますので遺し得た地域とみなされます。信濃域とは少しその歴史的経緯が異なっていた事から特別賜姓族の存在からすると甲斐に比べて少ないと観られますが矢張り戦乱の戦場となり続けた地域でもあり消失は無視出来ないところであります。
下記の分布表でも判る様に、前段と上記でも論じた「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」(「5つの連携した関連要素」)が絡み、その地域県の「歴史的経緯と末裔分布と勢力図」の影響が特に左右して室町中期以降に「5つの連携関連要素」が緩んだ事で、その内容如何では「色々な形での消失」が働いている事は少なくとも否めません。
従って、上記の様に街道沿いの広域で相対的に論じているのですが、然し、多少のバイアスを持っている下記の県域に於いてでもその「歴史的経緯や末裔分布の生き様」等の息遣いの大まかな様子が垣間見る事が出来ます。
(Gの分布表)
賜姓青木氏−4県−10−1.8%(単独の移動定住先)
建設地域 戸数 /地域 /全国
鳥取(伯鰭) 1 10.0 0.0
島根(出雲) 0+1 10.0 0.0
高知(土佐) 4 40.0 0.0
宮崎(日向) 4 40.0 0.0
前段でも論じた鳥取は米子や八頭に移動定住した信濃賜姓族足利氏系の青木氏が勢力を拡大し島根との県境宍道湖周辺までその勢力を盛り返し信濃賜姓族の末裔として一族の結束の証しと象徴として建立したものです。
島根は讃岐青木氏の一門が2足の草鞋策で瀬戸内を越えて日本海に出て廻船問屋を手広く広げそれに伴って子孫末裔が宍道湖の西側域に定住地を確保して拡がったものでその証しと彼等の象徴として建立したものでは無いかと考えられますが、これには信濃賜姓族足利氏系青木氏が宍道湖を越えて西側にも拡がった事も家紋分析等から考えられるので、秀郷一門の讃岐青木氏との判別が難しいところです。
出雲大社域の中での神明社であるので余り西よりには建立は難しい筈であった事から、讃岐青木氏の定住地は宍道湖のやや更に西よりに青木村を形成している事から信濃足利氏系青木氏の米子域の青木村との2つの青木村の圏域の境界が判らないのです。
宍道湖付近で「融合青木氏」が存在していた事も考えられますが以前ルーツ掲示板のお便りからすると地主であったとして家紋分析からみると可能性があると考えられます。現在は確認が取れませんが家紋分析で研究中です。
宮崎は上記で論じた通りです。
(Hの分布表)力が良く判ります。
秋田4.1
重複域青木氏−7県−178−31.4%(移動定住先 秀郷流青木氏と重複域)
建設地域 戸数 /地域 /全国
秋田(羽後) 26+7 18.5 5.8
新潟(越後) 55+6 34.3 10.8
福井(越前) 8 4.5 1.4
富山(越中) 32+1 18.5 5.8
神奈川(相模)9+2 6.2 1.9
静岡(駿河) 18 10.1 3.2
栃木(下野) 12+2 7.9 2.5
重複域の特別賜姓青木氏 −166 27.3%
重複域の賜姓青木氏 −12 2.1%
{(126+10)+418}−566=−12
東山道域の広域で論じた様に、重複域から観ても矢張り新潟55+6を中心に北側の秋田にパイプを広げて戦略的に連携を採っている事が判ります。
新潟55+6を中心に秋田側26+7に重複域を拡げています。
西側には福井側8と、富山32+1 と成りますが、パラメーターを統一して4社/県として観ると、新潟15.3、秋田8.3、福井2、富山8と成り、更に 福井2を1として新潟7.6倍、秋田4.1倍、富山4と成り重複域の分布力が良く判ります。
地理的に並べて見ると 秋田4.1 新潟7.6 福井1 富山4で北側には特別賜姓族を主体に、西側には賜姓族を主体にして伸びている事に成りますが、この分布力から「1/4の原則」を当て嵌めて見ると秋田はこの原則に丁度一致し、新潟は拠点としてあるので8は拠点分4として相当して考えられます。
恐らく7.6は、この「4社/県」と「1/4の原則」が完全に適用されていたとして観ると、0.4分のマイナス分は、「神明社の分析過程」の+6の判定が室町期中期内の+の可能性と観ているので、+9とすれば7.6が8に成ります。「重複域」である事と「八幡社」の宗派変え分(宗旨変え)による+3分の判定エラーが起こっている事が考えられますが、凡そ4:8:1:4で分布力の関係が出来ていたのです。
富山の4は歴史的経緯から観て、鎌倉末期から室町期中期までの建立のものが多いので定住地の地理的な要素から観ると、甲斐の避難族だけではなく、信濃足利氏本家筋との賜姓族青木氏血縁族のものもと一部には未勘氏族も含まれている可能性が考えられます。
(純粋に融合の判別要素が無い為には難しい 福井と同じ程度か)
上記の広域で論じた様に、神奈川、静岡、栃木の3県で観ると、神奈川11 静岡18 栃木14は伊豆の複合融合最大域を中心に東西にバランスよく分布していて、2.8:4.5:3.5 として 0.7:1:0.8の関係に成っています。然し、静岡は複合融合データ域なのでこれを1としているので、若干低めに成る筈で東西に(0.4−0.5)のバランス関係を保持していた事が判ります。
東西に賜姓族の融合の重複域を採っていた事に成りますが、ここでも「1/4の原則」はほぼ守られていた事に成ります。
「重複と融合の戦略の存在」
総じて重複域での特別賜姓族と賜姓族との比が、166:12(社) 27.3:2.1(%)と成り、重複域のここでも特別賜姓族が27−28%台を持っていた事は重複域の「融合青木氏の存在の効果」が大変に大きかった事のパラメータに成ります。
重複域も例外ではなく、上記したエラーを重複域ではこの関係分を含みますので、これを考慮するとやや低めのほぼ「1/4の原則」が成立しています。
広域と境域の重複域の関係を観て来ましたが重複域期で起る「融合青木氏の仲介役、接着剤の役割」を改めて認識する事に成ります。
むしろ、これ等のデータから ”戦略的に恣意的に「重複域」を造り「融合青木氏」を発祥させて「2つの青木氏」の結束を強化していたのではないか” と考えられます。
だから危険を顧みず時代毎に起った歴史的な事件や経緯からの移動逃亡先の各種の青木氏を即座に迷う事無く受け入れたと観られます。
そして、その行動が関西−中部域は賜姓族側が、関東以北域は特別賜姓族側が中心となっていた事を物語ります。
上記の様に広域と境域共に重要なポイントの域には漏れる事無く「重複と融合」が高い割合で間違い無く行われているのです。
これは”「重複と融合の戦略」なるものが、「祖先神−神明社」の考え方を根幹にしてその存在意義を護る為にも、「3つの発祥源の2つの青木氏」にはあった”と考えているのです。
だから上記で論じた様に、抽象的なものでは無く、 ”この確固たる論理的な行動の戦略に基づいた「固い祖先神−神明社の組織」を家康は取り入れた” という事なのです。
だから「伊勢青木氏」に遺されている様な徳川氏が上座を譲るほどに「青木氏を崇める記録」が存在するのであって、「3つの発祥源の2つの青木氏」の古い賜姓族氏だからと云って簡単単純に江戸期に成って今更に崇める事はしない筈です。伊勢だけではなく信濃国府や武蔵入間の青木氏宗家にも何がしかの記録があると観ています。
(Iの分布表)
(移動定住先)
(関東以北の主要地を除いた移動定住地を除く 全24地域)
藤原秀郷流青木氏−16県−58−9.7%
建設地域 戸数 /地域 /全国
栃木(下野) 12+2 25.5 2.5
群馬(上野) 12+2 25.5 2.5
この2県域は移動定住地でもあるが本領でもある。しかし「祖先神−神明社」の特別賜姓族から観ると主要地と異なり「移動定住先」に成るのです。
因ってここに加えましたが、本領としてのそれなりのデータを示しています。
本領である以上は「4社/県」「1/4の原則」は完全に保持していて下記の地域とは完全に異なっています。
京都(近江3)5 9.0 0.0
岡山(美作) 1 1.8 0.0
広島(安芸) 2+4 11.0 0.0
山口(周防) 1 1.8 0.0
島根(出雲) 0+1 1.8 0.0
広島は下記の讃岐青木氏の勢力圏でもあり、本領の宗家からの赴任移動先でもある事からたの移動定住先とは若干異なりそれなりのデータを保持していますが、神明社の検証に+4は確定出来ないものであり、歴史的経緯と地理性からもう少し多いのではないかと考えられるのです。恐らくは、神明社が増える可能性よりも「八幡社の宗旨変え」(5 4社/県)が起っていると観られます。この地域の未勘氏族や疎遠の河内源氏が八幡社5を建立維持したとは考え難いのです
そうすると2+4+(5)=11と観ると、本領移動域の下野、上野域に比適する事と成り納得出来るデータと成ります。
徳島(阿波) 4 7.3 0.0
香川(讃岐) 1 1.8 0.0
愛媛(伊予) 2 3.6 0.0
高知(土佐) 4 7.3 0.0
福岡(筑前) 1 1.8 0.0
佐賀(筑後) 1 1.8 0.0
長崎(肥前) 1 1.8 0.0
熊本(肥後) 1 1.8 0.0
大分(豊前) 1 1.8 0.0
(京都は丹波などの3国とする)
以上の9県域は移動定住域としては納得出来るデータです。
(Jの分布表)
藤原秀郷流青木氏の神明社分布
関東全域 7県−115−20.3%−本家域
(Kの分布表)
特別賜姓青木氏−34県−418−73.8%
北陸道域 4県−104−18.4%−北陸域
東山道域 6県−105−18.6%−東北域
東海道域 8県−154−27.2%−中部域
移動先域 16県− 55− 9.7%−分布域
(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏−16県−148−26.1%
宗家主家域 5県−126−22.3%
移動定住域 4県− 10− 1.8%
二氏重複域 7県− 12− 2.1%
(JからLの分布表は上記で論じた)
以下はその末裔分布の融合青木氏の定住地域別にまとめて見ました。
(Kの分布表 家紋分析による)
融合青木氏−賜姓青木氏(A)と特別賜姓青木氏(B)との融合血縁氏
伊勢域 四日市域、員弁・桑名域 (A)賜姓族系1 (B)特別姓族系
美濃域 伊勢側域 尾張側域 (A)特別賜姓族系 (B)特別賜姓族系
信濃域 愛知国境域 越後国境域 越中国境域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
武蔵域 鉢形域 八王子域 (A)賜姓族系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
越後域 全域 越中側域 越前側域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
土佐域 伊予国境域 讃岐側域 阿波国境域 (A)武田氏系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
鳥取域 鳥取国境域 (A)足利氏系1 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
伊豆域 全域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
栃木域 全域と下野国境域 (A)諏訪族系2 (A)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
神奈川域 全域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
注 越後域は越後を中心に日本海側に広域で判定困難な(A)(B)複合が多く存在する。
・・系1、2の表示は・・系の氏の複数氏を意味する。
室町期末期と明治初期の第3氏系の家紋群は除く。
次ぎに祖先神の親神の皇祖神の遍歴に付いて改めて論じる事にします。
「祖先神−神明社」に至るまでの基の皇祖神の経緯などに付いて論じて基礎知識を拡大させたいと思います。
「皇祖神」は90年−90編座の大変な遍歴と経緯を持っていて、その為に色々な仕来りと掟が生まれています。それは同時に「祖先神−神明社」の存在意義にも左右しているのです。
「大化期までの鎮座地の遍歴」
1 「皇大神宮」は理想的な場所を求めて各地に移動します。この間2人の姫皇女に依って神霊を祭祀されました。
最初は「自然神」(「鬼道」)の為に皇居内に祭祀されていましたが、崇神天皇が畏怖し遍歴させ続いて垂仁天皇がこれを引き継ぎます。
この2代の天皇の姫皇女が斎王として祭祀して現在地に至ります。
2 この伊勢市の豊川に定まる前は最初の鎮座地は大和の国「笠縫巴」33年間です。
ここから鎮座地を86又は87の地に遷座しています。
国にして13国、年数にして90年の遍歴をしています。
現在も殆どの関連した神社は残っていますが、記録だけのものが5ケ所と成っています。
3「豊受大神宮」の鎮座地は丹波国3−伊勢国1として現在地に鎮座します。
4「皇大神宮」は次ぎの遷座地を遍歴した。
大和8−丹波4−大和4−紀国2−吉備6−紀国2−大和7−伊賀10−近江14−美濃3−尾張5−伊勢5−安野国(伊勢安野郡)1−伊勢19−現在地1
地域別に観てみると次ぎの様に成ります。
大和域 19
近江滋賀域 18
美濃尾張域 8
伊勢域 37
紀伊域 4
瀬戸内域 6
これから観ると、伊勢が特別に多く遷座地と成っています。然し、全体の年数90年間と云う年数から観て大和が全体の3割以上を占めています。
恐らくは、この事は当初から朝廷のある大和域にしたいと考えてはいたが、当時は未だ大和域は盆地で現在の「猿沢の池」が4世紀前半には大湖の中央付近であって盆地の縁の地形にあったのですが、後に次第に水が退き隆起して現在の様な完全盆地と成ったのです。
この事から「水利事情」や「地形状」から鎮座地としては問題があると悩んでいた事が判ります。
そこで、飛鳥を中心にして西域の寒冷地の「近江滋賀域」と、東域の中間平地の「伊勢域」と、南域の温暖な「紀伊域」が考えられたと観られます。
結局は東域の中間平地の「伊勢域」を選定した事をこの遍歴が物語っています。
この選定の悩みを示す事として「吉備の瀬戸内域の遷座」であります。ここにはある歴史的な大きな経緯があるのです。
飛鳥を中心として東西南北とは別の地域で「吉備」を選んだのは、「吉備」の当時の国域は瀬戸内全体を指し、吉備朝臣氏(下道氏 吉備真備)は「関西域の勢力」と対峙する位に勢力を張っていたのです。
それがこの遷座の現われなのです。
当時、藤原氏(仲麻呂 恵美押勝)との争いを起していましたが、矢張り地理的な原因で選定されなかったのではないかと考えられます。
ただ、この吉備は計画上の選定だけではないのです。現実に他の神宮と同じく建設して神宮として祭祀されているのです。
つまり、上記の「地理的要素」だけではなく「民の信仰」そのものに「歴史的な変化」があったのではないかと考えられます。
実はこの域は「出雲大社」の強い影響を受けていて、その為に「弥生信仰」の象徴の「銅鐸」が多く発掘される域でもあります。
この事から吉備域はこの旧来からの全ての「民の信仰の対象」であった「弥生信仰」が特に強かった地域でもありますが、其処に遍座していると云う事なのです。何かの特別な理由があった筈です。
当時、「邪馬台国の卑弥呼」の「占術」−「占道」−「鬼道」が大きく政治に影響を与え始め、「宗教王朝の出雲国」が主導する「弥生信仰」が低下していた時期でもありました。
その現れとして、それまでは「弥生信仰の象徴」の「銅鐸」が、丁度、この時期のものとして飛鳥地区で何と多く限定して破壊されていて、まとめて捨てられた状態で発見されているのです。
これは”「弥生信仰」に何かあった事”を意味します。その発掘の遺跡からこの時期のものとして多く発見されているのです。
この事は「神具の銅鐸」が飛鳥のみならず「廃却される現象」が関西近辺でも起っていた事を物語ります。
これは宗教的には大変異常な事です。普通ではありません。
実はこの「出雲大社」の御告げによる「弥生信仰」の「神具の銅鐸」が、大変数多く全て細かく破壊されて捨てられていた事に真の問題があり、特に更には歴史学的に珍しく「破壊」そのものに問題があるのです。これを紐解く事が歴史を解明できるのです。それも3世紀頃から5世紀頃の歴史をです。
「銅鐸の破壊のメカニズム」
そもそも、この青銅の銅鐸は鋳物で出来ています。この青銅の銅鐸を「細かく破壊する事」は青銅の金属的な粘りのある特性から無理であり出来ないのです。
科学が進んだ現在に於いてもある「冶金的な処理」を施さなくては絶対に出来ないのです。
但し、それを解決出来る方法がただ一つあるのです。
それは青銅を一度溶融点より下の7割程度以上の温度に先ずは過熱して、それを6割程度の温度に戻しある温度域で、ある一定の時間を保ち、それからある程度の速さで冷却をし、常温で一定時間保つと云う「熱処理」です。
この様な「熱処理」をしないと銅鐸や青銅品は「細かく破壊する事」は絶対に出来ないのです。
つまり、青銅の粘性のある性質を逆の脆い性質に変化させないと出来ないと云う事なのです。
遺跡から出てきた銅鐸の破壊された破面を見てみると道具を使って破壊されていないのです。何かで叩いて細かく破壊した「急進破面」と云う破面なのです。脆くなければ絶対に出ない破面です。
つまり、金属的に調べると間違い無く上記の熱処理を施しているのです。
現在でもこの熱処理は金属の特性を色々変化させるのに使用されています。
普通はこの熱処理は他の物質を粘りのある均一な特徴を出すのに使われるのですが、粘りのある青銅だけは逆に成るのです。これを「焼準 ならし」と云います。
3世紀頃にはこの技術が在った事を示すもので、それはそれで大変な発見なのですが、青銅の銅鐸をこの熱処理で破壊していた事にも大変な意味を持っているのです。
この進んだ冶金技術が飛鳥に合った事を意味します。これも「魏志倭人伝」に出てくる”100枚を送った”とする記述に就いても「三角縁神獣鏡」の「鋳造技術」が飛鳥に有った事にも成ります。
つまり”魏国から送られた”との記述は、日本で製造して゜総称の邪馬台国」に送った事に成ります。
魏国ではこの種の鏡の使用の習慣文化は無い事と、鋳造した場所が発見されていない事からも関西域での鋳造と成ります。
全国(関東域まで)からこの「三角縁神獣鏡」が発見されている事から、この100枚が関東域までの「鬼道信仰」で繋がる「緩い政治連合体」のあった事の印であり、魏国から政治連合の全国の国々に対して ”「魏国との国交」があった事を知らしめる様に”との記述がある事からも、緩やかな北九州域から関東域までの「緩やかな政治連合体」の総称とする「邪馬台国」の女王は指示通りに配った事を意味します。
そうすると、果たして、この「三角縁神獣鏡」にせよこの「銅鐸破壊」にせよ”何処からこの進んだ冶金技術を導入したのか”と云う疑問に到達します。
この3世紀の時期は北九州の朝鮮半島に近い博多付近に集中して進んだ冶金技術はあった事が判っていますので、ここから導入した事は間違いありません。
恐らくは多くの関西域の商人や職人がこの博多付近に「買い付けや技術習得の人々」は往来した事は間違いない事に成ります。
博多付近と朝鮮半島の先端には日本人の貿易商の「倭人」が常駐して住む任那国があり、この当時の先端技術が彼等に依ってもたらされた事は判っていますので、「緩やかな北九州域−関西域政治連合体」の充分な条件は揃っていますので、その大決断を「卑弥呼」は全国的な300年周期目の「大飢饉の解決」を目論んで「鬼道占術」で実行した事が充分に考えられます。
恐らくは、「女王」であった事がこの決断に踏み切らせたと考えます。その卑弥呼の前は「倭国大乱」と記述が「魏志倭人伝」にありますから、この事から「飢饉大乱」を解決する事からも論理的な「鬼道信仰」の普及で解決する事も込めて決断したと考えられます。
「銅鐸破壊から読み取れる経緯」と「冶金的技術から読み取れる経緯」から「邪馬台国の全体像」がはっきりとして来ます。
(特記 そのはっきりとした中からその真髄を捉えたこの経緯を踏まえて、その「自然神」−「鬼道信仰」が基盤と成って引き継いだ「皇祖神」は、90年−90ヶ所の遍歴を繰り返した後に、6−7世紀の大化期前後頃には「皇祖神−祖先神−神明社」の青木氏による推進と成って始まったと考えられるのです。
他氏には決してない「2つの青木氏」だけに取って「皇祖神−祖先神−神明社」の氏である限りこの歴史的経緯は無関係ではないのです。見逃す事の出来ない経緯なのです。)
この様な経緯から、ですから、この事は明らかに ”「恣意的に故意的」に「ある目的」を以って「事前」に「計画」して「熱処理」をして「破壊」した” と云う事に成ります。
一時的な感情からはこの面倒な熱処理はしない筈です。それも誰でも出来ると云う熱処理ではありません。
それも大量ですから何か「特定の目的」を持った「集団」が「計画的」に行った事を意味します。
それも「弥生信仰の最たる神具」です。
本来ならば、古来の信仰性からすると、宗教的には”罰が当る”として決して行う事の絶対に無い行為です。
然し、大量に破壊されて出雲ではない飛鳥の一箇所に廃棄されていたのです。この「場所」にも問題があって青銅の銅鐸が大量に破壊されている事も問題なのです。
つまり、この「破壊行為」は何を意味するかと云うと、”「飛鳥と云う場所」で「弥生信仰を否定した事」”を意味します。
では、これ程の専門的な熱処理をすると云う事は「一時的な感情的な行為」ではない事が判ります。とすると、この”「恣意的に故意的」に、何故、「弥生信仰」を否定したのでしょうか”大いなる疑問と成ります。
それも「一個人の行為」では無く、量的な「神具の破壊」と成ると”飛鳥の最高権力者からの命令”と云う事に成ります。ではそれは ”飛鳥の最高権力者に何かがあった事”に成ります。
実はそれには「弥生信仰」を否定される事件がこの次期に起っていたのです。
その「事件」と云うか「国難」と云うかこの丁度、同時期に起っているのです。
そして、その一方では北九州域では、その事件、国難を救う「別の宗教」が起こり、その宗教が多くのこの国難を救っているのです。それも国レベルです。対照的な宗教異変です。
その救っている宗教は実に論理的な根拠のある宗教なのであり、日本の宗教の根幹に成った宗教です。
現在もこの「宗教の仕来り」を「国の祭祀」(国事行為)の根幹として皇室に於いて定期的に維持されています。
それを次ぎに詳しく論じますが、それが本論の根幹なのです。
つまり、「皇祖神−祖先神−神明社」の根幹部なのです。(下記の「重要な特記」を参照)
大和の国の近隣の諸国では当初は「弥生信仰」で有ったのですが、3世紀後半から突然に北九州域に於いて「占術」−「占道」−「鬼道」が広がり、逆に「弥生信仰」は急激に衰退して行きます。
それを示す証拠がこの銅鐸の破壊と廃却の遺跡発見なのです。
これの大きな原因は、根本から検証すると、次ぎの様に成ります。
「300年大周期の気候変動」
この時期(300年頃)は歴史的に観る(気象学的に観る)と、「300年大周期の気候変動」と云うものがありその大気候変動期は第3期に分けられる特長を持っています。この時平準でない気候の為に「大飢饉」が起こるとされています。それによる「第1期の100年目周期の大飢饉」が丁度この次期に重なり続いていた時期に当ります。
世界的に「長期間の飢饉」が起こり農業や生産物に大影響を与えていたのです。
(詳細l理論は次段で論じる)
その為に全国的に祈祷などをするにも拘らず既に全国的に広まっていた「弥生信仰」の「占術の御告げ」が当らない事等の不満が民衆に起こりました。
この「弥生信仰」に向けられた「不満の政治的な行動」がこの「銅鐸の破壊」というセンセーショナルな行動と成って現れたのです。「飛鳥の連合王朝」の中に起ったのです。
ところが、一方では北九州では(邪馬台国)、「卑弥呼」が始めた「自然神」の中でも「自然現象」を中心とした「占術や占道の御告げ」が良く当るとの事で、北九州域から「鬼道信仰」なるものが広まっていたのです。
この出雲国の「弥生信仰」と邪馬台国の「鬼道信仰」との大きなギャップが「一つの流れ」と成って爆発的に起ったのです。
つまりは、「自然現象」の「占術や占道の御告げ」とこの「周期的気候変動期」とが一致した事が「鬼道信仰」が爆発的に広まった原因事に成ります。逆に「弥生信仰」は衰退した事を意味します。
そもそも「卑弥呼」が王と成ったのもこの「鬼道信仰」が基であり、国の乱れも「鬼道」の「占術の御告げ」を中心に置いた処 ”良く当り解決する”と言う現象が起こったのです。
その結果、周囲の互いに争って食料を確保しようとしていた北九州の豪族達は緩い「政治連合体」を造り、この良く当る「自然神」を中心として「鬼道占術」を採用した「連合体の政治組織」を北九州域で造り始めたのです。
「鬼道信仰」を政治の中心に置く事で飢饉の中での「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も「占術や占道の御告げ」で解決する事が出来るとして瞬く間に広がりを示したのです。
結局、この「自然現象」を読み取る「自然神」から来る「鬼道信仰」の「占術や占道の御告げ」を中心と成った事からその「占い師の卑弥呼」を「政治の連合体の王」と定めたのです。
その事が更により一層に九州域の緩い「政治連合体」にはまとまりを示し「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も円滑に解決へと進む様に成ったのです。
その流れは、同じ飢饉から逃れようとして「鬼道占術」に縋り次第に関西域にも飛び火の様に広がり、そこから飛鳥へと移動してきました。
(恐らく、博多には中国を経由して朝鮮半島から入る鉄や青銅や食料品や生活必需品の調達の為に全国各地から商人が買い付けに来ていた。この事からその「鬼道信仰」の噂が広まったと考えられる。関西域との緩やかな政治連合体もこれらの商人の働きがあったと考えられる。)
(「鬼道信仰」の詳細な論理的概論は次段で論じる)
重要な特記
この時の「自然神に対する祭祀」が「朝廷の基本行事」として遺されたものなのです。
この「祭祀の思考原理」が大化期の「皇祖神−伊勢大社」と成り、その基と成った「食料の調達」も「政治的な勢力争い」の祭祀のそれをも具現化したのが「物造りの神と生活の神」を根幹とする「祖先神−神明社−豊受大明神」であり、「政治的な争い」の祭祀が「国家鎮魂の八幡社」として祭祀されたのです。
この「根幹の祭祀」を各地に広げる為にも大化期に「皇祖神」の子神の「祖先神」を創造し、それに伴なう祭祀社を建立する政治的な事業を展開したのです。それを引き継ぐ「氏」として朝臣族の皇族賜姓族を基とし「青木氏」を継承させるに相応しく新しい「融合氏」として伊勢に発祥させたのです。
この任務を施基皇子に任じたのです。この時、この青木氏に祭祀に相応しい「3つの発祥源」としての任務も与えたのです。
これを補足する事として近江の佐々木氏が特別に同時期に賜姓したのです。
そして嵯峨期にはこの「2つの祭祀族氏」にも「五穀豊穣と国家鎮魂」と「物造りの神と生活の神」を祭祀し「拡大する神明社」を継承するに等しい力が不足し、これに変わる特別の賜姓族として皇族外遠戚の藤原秀郷の第3子の千国にこの任務を特別に与えて青木氏を発祥させたのです。
これが前段で論じた「神明社と八幡社」はそもそもその根幹(自然神−鬼道信仰)はここにあったのです。
然し、その一つの「八幡社」はその存在意義を「河内源氏と未勘氏族」に依って「武神」にして異にしてしまったのです。
そして、紀元300年代には、この卑弥呼の「占術や占道の御告げ」を基とし「自然の変化」を読み取る事に長けていた「鬼道信仰の流れ」が全国的(関東域にも緩やかな政治連合体)には派生して行った時代でもあったのです。
恐らくは、この関東にまで派生した「政治連合体」は「大飢饉」の解決が主な目的と理由であったと考えられ、緩やかなものであって、後に飛鳥期から奈良期に掛けて「ヤマト王権−ヤマト政権−大和政権」とに掛けて関東域までの「緩やかな政治連合体」は次第に踏破され征討されて大和政権化して行くのです。
その後、「卑弥呼」の死により「邪馬台国」が崩壊しこれが基で飛鳥を中心とする「鬼道占術の連合体」が勢いを増し、これが「出雲信仰・弥生信仰・出雲国」を中心とする連合体の衰退に繋がったのです。
(特記 ここで、「卑弥呼の鬼道信仰」は出雲域を越えて関西域まで緩やかな「政治連合体の拡大」が起り、それに依って「卑弥呼」は飛鳥に呼び寄せられてか「自然現象」の「占術や占道の御告げ」を中心として政治連合体と成ったとする信頼できる学説があるのです。
北九州の政治連合体と関西の政治連合体との緩やかな広域的政治連合が起ったと考えられます。
それには北九州域で起った「大飢饉の解決」と青銅文化から中国を経由して北朝鮮域(3韓)からもたらされる「鉄文化の発展」の供与が主目標として関西域の政治連合体が吸収すると云う事に成ったのです。
この時この「北九州域−関西域の緩やかな政治連合体」を「邪馬台国」と総称したのではないかと考えられます。
北九州域の「吉野が里遺跡」(山門)と関西域の「マキ向遺跡」(大和)から「魏国の魏志倭人伝」にはこの2つのヤマトを「邪馬台国」と呼称したのではないかと考えられます。
この関西域には、”「鬼道信仰」が「緩やかな政治連合体」の誼からどのような形で伝達されたのか”が問題ですし、当然に「卑弥呼」はどちらの域にいたのかの疑問も出て来ます。
「魏志倭人伝」に記されている「国王の印鑑」は日本では北九州志賀島で見付かっているのですが、中国の魏の国からの国交の使者が到着するとした場合、先ず北九州の山門の吉野が里遺跡の政庁に立ちより、続いて関西の大和のマキ向遺跡の方に移動したのではないかと考えられます。)
(特記 王印の印鑑は死去すると送られたものであれば返却する古式習慣がある。この倭王印の印鑑は竹島や志賀島等幾つかの特定の地域 即ち発見は4箇所で見付かっている為にこれは複製品と成るが、古来には複製品の仕来りがあった。つまり、北九州と関西域の「緩やかな政治連合体」(緩やかな政治連合体である為に各主要国が保持していた事を意味する)にこの印鑑を両方の側が所持していた事を物語る。つまり構成国であった竹島の任那国、邪馬台国や奴国等が所持 故にこの連合国家の総称として「邪馬台国」を物語る要素と成る。)
(特記 「魏志倭人伝」には「83ヶ所の記載」があり、北九州の地名の「壱岐国」「奴国」等の9つほどの国名と移動に所要した陸と水利の距離の表現の記載があり、この記載からこの北九州域と関西域の緩やかな政治連合体を移動した場合にはこの距離間が一致します。又、水利とは博多付近から吉野が里までは河に船の水路を開き両岸から人が引っ張る方式を採っていた事が判っていますから、この水利の距離は瀬戸内海を通った水路の距離と合わせるとほぼ大和までの距離間に成ります。陸は吉野が里から瀬戸内海に面した大分付近間での陸路の距離と摂津から大和路までの陸路の距離を合算するとほぼ一致します。)
(特記 陸路の記述1月は瀬戸内沿岸で陸行すると関西域間、水路は上記の牽き舟方法で邪馬台国には10日と、瀬戸内海路を関西域までの20日の二つが記載されている。この記述から北九州域 8国 関西−関東域までの凡そ22国の計30国の緩やかな政治連合だった事が考えられる。
投馬国だけが不明だが関西域の位置にある筈で、”出雲を含まない中国地方の当時の広域の吉備国を云う”と考えると、出発点が問題には成るが、最短距離で「関西域の政治連合」の入り口部吉備国に当り、最長距離で大和盆地の”ヤマト国”に成る。
「投」の呼称は馬にヤリで投げる姿勢から”ヤ”と呼称していた事が考えられ、「馬」は”マ”又は”マト”であるので関西域の政治連合の「ヤマトコク」の呼称に成ったと考える。但し、「邪馬台国」以外に緩やかな政治連合国家の中に「遠絶地」として書かれた「投馬国」を含む22国の中に「邪馬国」と云う国がある事に注意。 ”ハリマ・播磨・兵庫”を含む後の吉備国域の関西域の緩やかな政治連合体の入り口を総称として「投馬国」か。30国中に「馬」の入れた国は4国 「奴」の入れた国は8国あるのは「緩やかな政治連合体」の証しである。)
上記の特記事項も考慮に入れると、「自然神−鬼道信仰」の根幹を継承している「青木氏−皇祖神−神明社−神明社」の立場から敢えて考証すると次ぎの様に一応検証しています。、
根幹部の「鬼道信仰−邪馬台国」の検証問題は、故に上記の「銅鐸事件」や後の「皇祖神の遍座地」や奈良期までの「歴史的経緯」に附合一致する事に成ります。
後の問題は「卑弥呼の扱い」と「鬼道信仰の習得方法」と成ります。
「鬼道信仰の問題」は大和の習得はこの「銅鐸の破壊」で証明されますので、後は卑弥呼の問題です。
「卑弥呼」の死の前に既に飛鳥に呼び寄せられたか(イ)、「政治連合の形」で飛鳥にも出長していたか(ロ)、北九州に人員を派遣して「鬼道占術」を卑弥呼に師事したのか(ハ)のところは未だ解明されていませんが、この説は最近この銅鐸破壊の遺跡発見から俄に有力説として持ち上がり、飛鳥の邪馬台国の卑弥呼説(大和国=邪馬台国)と成っているのです。
(「政治連合体」の全国的な歴史的経緯は確認されている。)
この大飢饉の中での「鬼道信仰」と「政治連合体」から観て「卑弥呼移動説」(イ)が可能性が高いと観られます。ただ、(ハ)の説も北九州説と飛鳥説の疑問をバランスよく説明が就き易く、その為に捨てがたいのです。(本論の「祖先神−神明社」の論処からは(ハ)説に近いと考えています。
その証拠と云うか説明の根拠と出来る事として、更に史実として次ぎの事があるのです。
それは先ず一つは大化期より朝廷には「藤原氏の斎蔵」の配下にこの「祭祀と占術」を司る官僚として行う氏があるのです。それは阿倍氏です。阿倍氏は前段でも論じた様に阿多倍の子孫です。
つまり、後漢の「鬼道」を引き継いでいる職能集団の首魁であります。
その職能集団は「阿部」で「鬼神の鬼道」を行う部民の集団で、「阿」の語意は「鬼道の鬼神占術」の基神を意味し、インドの鬼神の「阿修羅」の「阿」でもあります。
更にはこの分派の「鬼道の占術」を行う職能集団の「卜部」(うらべ)があり古代鬼神信仰の占師です。
後に「阿部氏」や「卜部氏」の「姓氏」発祥しています。
前段で論じた陸奥の安倍氏は阿倍氏の末裔でこれ等の首魁です。前段で論じた阿倍氏や安倍氏はこの立場の背景があったのです。この様な立場や背景が大きく彼の幾つもの陸奥事件に影響していたのです。
そしてこの様に、その子孫は平安朝期の官僚の「鬼道師」の有名な「安陪晴明の陰陽師」です。
「鬼神」を占術の中心に据えたものですが、奈良期頃から官僚として引き継がれている「自然神−鬼道信仰」の国事行事の極めて古い職能集団です。問題の時期の「ヤマト王権」期頃からあったものと考えられます。
この様に邪馬台国の卑弥呼の「鬼道信仰」は「朝廷の祭祀」の中の一つの「占術の職務」としてとして引き継がれているのです。そして、それを引き継ぐその「皇祖神の祭祀」の根幹から「゜祖先神の考え方」が生まれ、且つその事からその一部が上記上段で論じた「神明社の祭祀行事」と成ったのです。
(特記 卑弥呼の死後は”弟が王となったが納まらず一族の宗女の壱与が立ち納まる”とある事から(イ)説にも疑問があり、この一節からも(ハ)説で納まりが就く)
この事を配慮すると(ハ)説が最も現実味を帯びて信頼度を増します。
それまでの「弥生信仰」からの決別と伴に、「北九州域−関西域の政治連合体」が成立して「卑弥呼」の移動に伴ない「弥生信仰」からのはっきりとした決別の意味を込めて ”銅鐸破壊の行為に出た”と考えられているのです。
この事により飢饉から免れた事を期に、飛鳥に「卑弥呼の常駐」が起ったと考えられます。
何か「卑弥呼の常駐」か、或いは「北九州域と関西域の広域政治連合体」を祈念しての儀式であったのでは無いかと考えられます。兎も角も「弥生信仰」から「鬼道信仰」への遍歴を祝う国家行事の大儀式行為であった事は間違いないと考えられます。
(特記 「緩やかな政治連合体」を祝う国家行事であるとして、 「関西域の緩やかな政治連合体」の祝事行為だけか、「九州域の緩やかな政治連合体」との総称「邪馬台国」の「緩やかな政治連合体」での国家の祝事行為であったかは難しいが、「銅鐸の破壊行為事件」から見て後者と判断出来る。そうすると九州域にもその祝事行為に当る何かがあった筈と観ているが未だ不明。)
ところで、この飢饉は次第に時代と共に気候変動も収束すると共に一時収まりより一層に「鬼道信仰」の流れは爆発的に益々高まりを示します。
ところが、この100年後(第2期の200年目 第2期 紀元500年頃)には、再び気候変動期が再来しましたが、この事は、この頃にむしろ”吉備に遷座した”と云うのは、”出雲信仰・弥生信仰・出雲国衆の勢力衰退”をより狙い、更には連合体に参加した「北九州域−関西域」の中間域から衰退した出雲域の中国域を安定化させようとする政治的意味合いがあったとも考えられています。
この事は歴史的な経緯としては確認が取れています。(出雲の国の無戦による崩壊劇)
この拡がる「飛鳥連合体」を配慮しながら鎮座する位置を見据えていたとも考えられます。
最終的に勢力圏の関西・中部域の中でその中間の位置にあった「伊勢域」が大化期に良いと決められましたが、その後に於いてでも「伊勢域」の中でも伊勢松阪を半径に飛鳥までの円域の領域を更に「適地」を選んで小遍歴を繰り返したのです。
(この時には中部域は飛鳥連合体と政治連合を組む事が成立していた。)
如何に悩んで神が鎮座するべき位置を、上記する気候変動の飢饉の繰り返しで弱体化した「政治的な環境」(A)や「自然や地理の環境」の条件(B)のみならず「自然神の占道での御告げ」(C)等のこの「3つの状況」を合わせて考えられていたかが判ります。
筆者は飢饉に依って混乱が続く「政治的な環境」(A)に重点が置かれ、中でも鎮座させ建立する事で「国体の安寧と安定化」を図ったのではないかと観ていますが、表向きは「民の心の拠り所」として「鬼道信仰」の「宗教的布教」の目的(D)も強かったと考えられるのです。
参考 詳細理論
地球の気候変動の周期理論
1 紀元0年頃が「300年の大周期の第1期」の気候大変動期で紀元頃の大飢饉
2 邪馬台国の卑弥呼期が「300年の大周期の第2期」の気候変動期で300年目頃の大飢饉
3 推古天皇期が「300年目の大周期の第3期」の気候変動期で大飢饉の600年目頃の大飢饉。
4 この300年大周期に対して100年小周期の気候変動期が繰り返し訪れる。
5 大化期頃(645年頃)は後50年で次ぎの100年周期の第1期気候変動期に入り飢饉が起こる。
6 つまり700年頃の平安遷都期に第2期目の小気候変動期が訪れ大飢饉や洪水などが繰り返された。
7 その邪馬台国の頃(300年頃)が第1期で300年目の大周期の気候変動期で大飢饉期があった。
8 この周期で必ず自然災害の飢饉が必ず起っている。
9 この周期では大気候変動期の周期では、900年−1200年−1500年−1800年−2100年の大周期が訪れる計算に成る。
A 丁度2010年はその100年目の小周期帯に入っている時期である。
B この気候変動は地球の回転運動と第一成層圏までの「空気層のズレ」が起す変動であって、当然に地C 球内の地殻変動にもタイムラグを起こしながら影響を与えるので、地震等の災害が強く起る。
D 地殻変動は更には地球の磁場の変動を誘発し更に相乗的に気候変動を引き起こす要因と成る。
E この変動期間は一定では無く、多少のバイアス変化を起すとされ確定は出来ないが±25−30年程度と観られ後は収束に向かうと考えられている。
F この「空気層のズレ」は「単純な空気層のズレ」と共に「地場の変動」に大きく左右されているのではないかと考えられている。
G この「ズレ」の「自然修正の変動」が成す「気候変動周期」と成って現れると考えられているのです。
因みに現在で云うと、2000年の100年の最後の周期とすると、1975年から起り始めて2000年頃にピークを向かえ2025年頃に向かって収束に向かい2075年まで徐々にある小さい巾で安定期に向かい、再び2075年頃から変動巾を大きくして荒れ始め2100年頃に大変動を起し始めると云うサイクルを繰り返すのです。
尚、この「変動幅の上下」の原因は、「地球の重量」の増加で「地球の公転」が多少の「楕円運動化」を起こしており、このために回転に必要とする地軸が450年程度の間に0.5度傾きが起っていて、これが更にこの「気候変動周期」と「気候変動幅」を大きくしているのではないかと考えられているのです。
そして、この気候変動のサイクルは、この世の全ての物質と全ての自然が織り成す変化の特性には、必ず其の特性変化を物理的に観ると、「SパターンとNパターン」を示します。
例外はこのパターン外には発見されていないのです。
Sパターンは、丁度、電波などの振動波などの様に半円状に近い形で上下に起す形状で均一的な変動特性を起す様な振動で、お椀を上下にひっくり返した特性変化です。
Nパターンは、2等辺三角形を長辺を下にして寝かした形が上下に起す形状で、不均一な変動特性を起す振動で、この気候変動がNパターンであります。
日本の歴史は上記する気象学的特性と併せて考える事が必要絶対条件で、其の当時の遍歴や事変の大きな原因の一つに成っているのです。それは日本の風土全体が政治や経済に大きく影響を与える体質であるからです。
この鎮座地を86又は87の地に遷座して、国にして13国、年数にして90年の遍歴は気象学的特性から逃れる事は出来ないのです。
「自然神」を崇める「鬼道信仰」は尚の事であり、この特長を何らかの「自然の異変」でその周期的な特徴を官能的で感応的に鋭く読み取っていたのです。
真に卑弥呼はこの特技を持っていた事を意味します。
この特技は女性の性の「直感力」に起因しますが、「自然神の鬼道信仰」はあながち無根拠な占術ではなく科学的(脳医学的)な裏づけがあるのです。
問題はその確率の問題であって下記に示す論理的な裏づけが取れるのです。
「論理的な裏付」
別の論文でも論じた事ですが、現在人は脳が大きくなった為に「動物的な本能」である「予知直感力」の部位は頭の奥深くほぼ中央に押しやられて、額中央にあった「複眼機能」が退化せずに持ち得ていた証拠であります。
「卑弥呼の鬼道」には周囲に特定の果物と野菜類が並べられていた事が判っていて、特長なのは「野生の桃」の種が何千何万と遺跡から発掘されているのです。
恐らくはこの「野生の桃」から発する強く甘い香りの成分の「アルコール系芳香性」の刺激成分が脳を集中させて「複眼」を再起させ休んでいる右脳を使いベータ波を出して「占術のお告げ」を出す能力を保持していたのではないかと考えられます。
(現在の中国の山岳民族の田舎でこの「鬼道信仰」が未だ残っていて桃が使われているし、この山奥深い山岳民族にはまだ「複眼機能」を有する女性が多く、道教に至る前の「鬼道信仰」は村人から信じられていると云う研究が発表されている。「複眼機能」を使う環境がいまだ多く遺されている所以です。
(次ぎの−19の根幹概論を参照)
故に気候変動を素早く察知してそれの基に「殖産の生産物」のみならず、それに併せての「政治的な行動」も才知を働かせて考え併せて「お告げの伝達」をしていたと考えられます。
300年の大気候変動期にこの卑弥呼の自然神を基にした鬼道による占術に人が集まる根拠が納得できるものです。
そしてこの「流れ」はこの大化期に定められるこの「皇祖神」の90年と90所の諸遷座と共に「神明社」の建立が同時期、同場所にほぼ起っているのです。
9世紀始め(100年目の小周期帯の気候変動期)の征夷大将軍の阪上田村麻呂の陸奥征圧(806)でも判る様に、その移動経路の「征圧地」には伊勢青木氏の遠戚の桓武天皇の命により「皇祖神」ではなく次々と「祖先神」の「神明社」(最終806年)を建立していっている事(神明社は分布は下記参照)
「皇祖神」の遷座域と成った関西・中部域の内の主要地の19地域(上記)には第4世皇子の守護王を置き其処に神明社を建立していっている事等です。
この「神明社の建立根拠」が、丁度100年目の気候変動の小周期に入っていたのであって、桓武天皇は平安都への遷都事情も然ることながら、「皇祖神」を各地に分霊建立する事のみならず「神明社建立」を征討地に建立を命じているのもこの事情の基にあったのです。
特にこの征討地の建立は東北北陸6県に主に集中しているのです。(神明社の付録データー参照)
恐らくは荒れて乱れた征討地の戦後処置として民衆に対して「生活の神」としての「神明社」を建立し安定を図ろうとした観られ、この背景根拠はこの6県は主に日本の穀倉地帯でもあった事から上記の気候変動期に合致していた事もあった為に積極的に政策として実行したと考えられるのです。
上記の複眼機能や気候変動の論理的な根拠に就いて−19では更にその議論を深く進めます。
青木氏と守護神(神明社)−19に続く。