[忠頼の考察]
100年の遍歴
武田信玄は信義から19代目です。武田氏は次ぎの20代目の勝頼で滅びますが、吾妻鏡や源平盛衰記にある小説的な事と違い、信義2代目次男忠頼は実質は上記の様な政治的経緯で謀殺されました。
要は源の義経や平泉藤原氏や大島源氏などと同じく潰しに架けられたのです。
(平家水軍を打ち破った大島源氏は謀殺直前で察知し難を逃れる)
11代の賜姓源氏の末裔が全く遺されていないのは北条氏による「徹底した殲滅作戦」のこの事によります。
同じ同族でありながらも、天智天皇の伝統の「不入不倫の権」に護られて5家5流24氏の賜姓青木氏(皇族青木氏を除く)は、桓武天皇と平家に圧力を加えられ衰退はしたけれども、生き延びて子孫を遺しました。
賜姓青木氏と同族の賜姓清和源氏も賢い「義経の戦略」に従っていれば充分勝算があり子孫を遺せたのです。
しかし、頼朝の本音は2度強行した「本領安堵策」と「平家没官僚策]で源氏一族を遺せると観たのでしょうが、北条氏の方が上であった事に成ります。
頼朝は当初より北条氏の勢力拡大は予想できていて、この程度の事は念頭にあって北条氏の反対を押し切って強行したが、裏では北条氏等の潰しに架かりそれが成功していたので、身の安全と源氏の幕府の存続を考えて、止む無く北条氏に従う以外に無く成った事に成ります。
史実、この事に付いて、史実として、義経、大島氏、新宮太郎の源氏一統等は頼朝を説得している記録が残っています。
しかし、当然に、同じ河内源氏の傍流としながらも、当時は武田氏の忠頼は北条氏と同等の勢力を持っていた事から謀略で甲斐武田氏までやられるとは計算していなかったのでしょう。
(兄弟の信光は安芸守に成り、忠頼謀殺後甲斐武田氏は衰退したが安芸武田氏が中心に成る)
この時、信濃足利氏も媚びながらも鎌倉政権には途中まで付き合いますが、後に圧迫を受け信濃に引き籠ります。
この時から足利氏は倒幕行動を開始したのです。執権北条氏の執事と蜜脈を通じて情報を獲得していたのです。結果、大きな怪我も無く倒幕するだけの力を蓄えていました。
後に、足利幕府が樹立した時には、この北条氏執権家の執事(平氏を与えられ名乗る)を足利氏の執事として成り立つように、元京平家(桓武平氏 阿多倍一族)に与えた伊勢北部伊賀地方(割譲地)を執事に与えたのです。
頼朝の味方と成る清和源氏宗家頼光系の跡目を入れて存続を狙っていた伊勢賜姓青木氏は、この時、鎌倉幕府(室町足利幕府でも)から「本領安堵策」で割譲された伊賀地方の変換があると考えていましたが矢張り無かった事に拠ります。(伊勢東部志摩地方も割譲されている 半国司)
鎌倉、室町時代ともに5家5流の賜姓青木氏を率いる伊勢青木氏等は大きく伸張する事は出来なかったのです。
頼朝は懸命に伊勢を含む摂津近江などの5家5流青木氏と、その血縁を持つ5地方の同族に対して三つの策(2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」)を強引に構じましたが、北条氏の強い抵抗もあり徹底出来なかった事が原因したと観ています。
この方向から検証すると、頼朝は一般に伝えられている程に北条氏に対して信頼をしていないという事が判ります。その戦略は当初は北条氏を含む坂東八平氏等を使って京平家を破り、その後に「本領安堵策」や「平家没官僚策」で立ち直らせて、「源氏政権樹立」をと考えていたと観られます。
しかし、甲斐源氏や関東に根を張っていた藤原秀郷一門をも含む反勢力を北条氏らに依って戦いに依らず殆ど裏工作で潰されて行ったのです。
その証拠に頼朝を始めとして一族末裔は3年後には源氏一族は全て根絶やしで抹殺されています。
これに反対する北条氏の味方であった「坂東八平氏」等さえも潰されたのです。
この事件が有名なのはこの「源氏の再興」を意図したこの象徴的な事件の一つとして甲斐源氏武田(一条)忠頼の事件があります。
他に潰された史実は沢山ありますが、これくらいにします。
忠頼が謀殺されただけでは無く、清和源氏支流の武田氏系青木氏を含む甲斐武田氏一門も例外ではなく圧力を加えられ、1200年ころから衰退を始め、その勢いを警戒されて室町幕府からも睨まれて武田信満の頃(1430)ころまで100年単位で浮き沈みを繰り返します。
しかし、義清や清光等が築いた14氏の縁戚族の持つ遺伝的な特異体質から、再び信虎の時代ごろから拡大を始め、信玄の頃(1550)ではその勢力は頂点に達します。
しかし、総じて何れも清和源氏系でありながらも、鎌倉幕府と室町幕府に執拗に圧力を掛けられたのです。美濃の土岐氏などは武田氏の様な強い体質が無く脆くもいち早く潰れてしまいます。
徳川時代には、青木氏から出た柳沢氏を除くと、それでも末裔は武田信興の八代郡500石で終わります。
「体質の分析」
この様な観点から検証すると、これは武田氏が「危険視された原因」であり、ただの大豪族と云う事では無く根本は、矢張り前編文で今まで述べて来たその甲斐の「土地柄」と「気風」と「異質体質」(発展的体質)に在ったのではないかと観られます。氏家制度の社会慣習の中では当時の為政者はそのように観ていたと考えられます。
賜姓青木氏5家5流の「系譜と添書と史料」と比較検証しても、甲斐武田氏には「浮沈を繰り返して来る力」が系譜からも観られます。
その証拠として最後の一族「柳沢吉保」(1688)の返り咲きです。
”元に戻すまでに周りが何を云われ様と形振り構わず頑張り、駄目と感じると形振り構わず素早く身を引く早さ”これが吉保の行動に現れています。
これが「甲斐の特異体質の原点」、つまり、内訳は「変わり身の早さ」と「頑張りたい異質」に在ると考えられます。
これは武田氏の遺伝であると考えます。
その元は武田始祖の義清(「武田冠者」)にあり、彼が「乱暴者」であったことから父義光の守護地となったとされている常陸武田郷(他説あり)に移し、そこで再び起こした土豪等(吉田氏等)との争い事件(乱暴な性格)で訴えられて、朝廷からその罪を認められて更に甲斐に配流され、そこで又再び受け入れを拒否されてしまったのです。
甲斐の土地の土豪(陸奥小田氏末裔)に助けられて、後に甲斐の土豪等と争勝ち、子供清光(「逸見冠者」)が甲斐14地方に子供を配置して土豪の荒くれを押さえ込み、この結果、伸張し地盤を築いた経歴を観るとその遺伝が頷けます。
河内で、京で、常陸で、甲斐でと排斥されたと成ると「乱暴者」の定評が出るのも史実として頷けます。
罪人として入りながら、土豪の反発を受けながらも、甲斐に地盤を築くなど生半可な荒くれの性格では成し得ません。つまり、むしろ乱暴者の一面に「軍略的」な一面を持ち、それが逆に「適所適時適材」の功を奏したのです。この遺伝が子孫に引き継がれて居るのです。
信虎と信玄の親子争いもこの「義清の血」に所以しています。
それだからこそ下記のような「甲斐100年遍歴」が起こるのではと観られます。
上記の様に「100年遍歴」を以って「盛り返してくる力」が在るのです。
0 1100年頃の平安末期に甲斐各地(14)に勢力伸張(義清、清光 子孫14氏)
1 1200年頃の鎌倉幕府樹立での衰退(忠頼 頼朝と対等勢力保持)
2 1330年頃の室町幕府樹立で復興(信光 安芸国に勢力移る)
3 1420年頃の室町幕府から圧力で衰退(信満 甲斐に勢力戻す)
4 1550年頃の信玄の復興(信虎、信玄 中部関東一円に拡がる)
5 1565年頃の勝頼の衰退(勝頼 甲斐に縮小)
6 1688年頃の柳沢吉保の復興(吉保 甲斐から郡山移封反転)
(小遍歴除外)
注 義清と清光の武田縁戚一族
第1縁戚族 逸見、武田、加賀見、安田、平井、河内、浅利、八代 以上8氏
第2縁戚族 一条、甘利、坂垣、秋山、小笠原、南部、三好 以上7氏
「武田冠者の説」
注 義清の「武田冠者」は常陸武田郷であるとする説(源氏検証説)があります。
これは藤原秀郷一門と血縁をした陸奥小田氏が藤原秀郷一門の赴任先の甲斐の武田郷に同行して勢力を高めて土豪武田氏を築いた後(1000)に、一部は秀郷一門の領地の常陸にも移動して(1050)室町期には「関東屋形」と呼ばれるまでに勢力を持ちました。この移動時に元の甲斐の武田の地名を採って常陸に武田郷を造り上げた事を捉えて、常陸の「武田冠者」(1100)としているものです。
しかし、義清の「武田冠者」と子供清光の甲斐「逸見冠者」もあり甲斐の「武田冠者」の説もあります。
常陸の武田、甲斐の武田どちらを採るかに依ります。
本当の所は手の付けられない乱暴者であって、父義光(義家弟)から常陸の管理を任すとの大義名分の理由を付けて常陸に移された程の人物に「冠者」が付くのは疑問でもあり、まして常陸の行状が悪くて罪人配流となった者に「武田冠者」が付くのかと云う疑問もあります。
この土地は藤原秀郷一門361氏の主要な土地柄なのです。まして、この国一帯の秀郷一門の頼朝に合力した結城朝光を始めとして末裔で占めていますから、鎌倉時代には「本領安堵策」で息を吹き返している事に成ります。この平安時代末期前後の条件を考慮されていない説ではと観ています。
つまり、源氏から観た武田氏、藤原氏と青木氏から観た武田氏の違いにより、その対象と成った史料の違いと信頼度の差に依ると考えます。
本文は元より「藤原検証説」に従っていますが、これら「源氏検証説」は、前節でも述べましたが、他の賜姓4家4流と藤原秀郷一門には見られない甲斐武田一族の「特有の体質」で、一条氏の呼称等に観られる様に「甲斐武田氏」の家柄を良く見せようとする後からの偏纂であろうと考えられます。むしろ、甲斐武田での成功に依って附帯した「冠者」であると観ています。
徳川幕府編集の史料が多い事から、徳川氏は源氏末裔(搾取偏纂で朝廷と揉めたは有名に事件 朝臣族)と名乗って「征夷大将軍」に成っていますから都合良く偏纂したと見られます。
従って、「源氏検証説」は義清らの行状を悪く書いていない特長を持っています。
この「体質源」は、「氏家制度」の中で、清和源氏の「河内源氏の傍流」であり、「配流氏末裔」であるとする「劣等感」から来るものと観られ、それに裏打ちされる「頑張り意識」「100年の遍歴」では無いかと考えます。
そこで比較対象として、この時、これに対して一方では、鎌倉幕府樹立で失職離散した武蔵国の「青木氏」(第2の宗家)を始めとして藤原秀郷一門が生き延びたのには3つの理由があります。
「鎌倉期の生き延び説」
1つは「2足の草鞋策」(大豪商 「地の利」「元職の利」「武力の利」)に出た事
2つは藤原宗家の朝光が地元の鎌倉幕府樹立に合力協力した事
3つは頼朝による2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」で域を吹き返した事
これを評価されて直ぐ第一次の関東領が本領安堵されて(結城の下総と上総と常陸結城等)一部が戻されて息ついた事と、そして第2次で関西各地の藤原一門の土地を少し遅れて「本領安堵」と成った事、この2つの事で宗家の基盤が確立して、後に藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏と共に、その「武力」と「経済力」で勢力を戻します。
この「3つの戦略」の差で、源氏と武田氏系は潰されましたが、一方では5家5流の賜姓青木氏と全国各地の藤原秀郷一門は大きく末裔を遺す事が出来たのです。
この様に武田氏と藤原氏とではその返り咲きの過程が異なります。
しかし、子孫を全く潰されていたとする説に対して、その潰された一条系、清和源氏分家支流の武田氏系青木氏(3氏6家)の一つ(花菱紋の本家筋(時光系)の末裔)が、今回の研究で現存する事等が判り疑問の解消が出来たのです。
(通常、皇族賜姓青木氏は特別な場合を除き「丸付き紋」を使わないのが決まりですが、この花菱紋の分家筋と見なされる「丸付き花菱紋」の分家筋も、「系譜添書」の分析から、今回その存在の確認は取れています。原則外の丸付き紋になった理由も確認出来ました。)(上記系譜参照)
家紋的に観ると3氏の武田菱紋、武田割菱紋、武田花菱紋、と、他3つの分家支流分派の武田氏系青木氏の「変紋菱紋」(武田菱紋の一部を変える)の6家青木氏があります。
1 「武田菱紋」と「割菱紋」は「源光系」で甲斐賜姓青木氏(青木氏主流の源光系)です。
2 1の「割菱紋」から出た「割菱紋副紋葉菱紋」の本家と「花菱紋」及び「丸に花菱紋」の別家は「時光系」で「皇族青木氏」です。
「家紋、系譜、添書」から観ると1から2を発祥させたことを意味します。これが源光系青木説の理由です。
源光系青木氏は賜姓系ですので、その存在は守護王として居ますので政庁の「国府」に起因します。
そこで、この甲斐の「国府」を調べますと次ぎの様な経緯を持っているのです。
普通は、何処でも「国府」は政庁ですので混乱を招く為に移動させませんが、甲斐は何度も移動すると云う敬意を持っているのです。それだけに甲斐の賜姓族の史実は元より史料も整わないのです。
尚、甲斐の「皇族賜姓青木氏」の守護王時代の国府は、次ぎの通りです。
1 7世紀末に現在の「山梨県笛吹市春日居町寺本付近」に「寺院」を建てて「国府」が置いていたことが判っています。
この付近に「皇族賜姓甲斐の青木氏の村」があった事が判っています。
更に、この付近に「甲斐賜姓青木氏守護神」の「甲斐奈神社」も置いていたとされています。
この事はつい先日(09-4)に予測されていた所から7世紀末の古代国府の「古代寺院跡」が発見されました。
2 この後、清和源氏の頼光、その後、頼信系6代目信義の子の忠頼の頃前に、守護青木氏に代わって守護代と成った頃(1185年頃)に「八代郡」に国府と氏神の「甲斐奈神社」を移したと見られています。
賜姓甲斐青木氏と武田菱紋と割菱紋の2武田氏系青木氏(源光系)より勢力が強かった観られ、忠頼等に依って菱紋武田氏が移動させた事に成ります。
そして、その後、常光寺も変名した事に成ります。
その証拠として、次ぎの事柄が挙げられます。
1 甲斐武田氏一条忠頼が頼朝に謀殺された時(1184)に「国府城」に居住していた事、
2 その直ぐ後にここを弟の時宗が一蓮寺の尼寺とした事
等が記されています。
この時(国府城が尼寺になると国府はなくなります)に移動させた原因として、衰退する中で一族間で何かあったと推測して研究していますが、原因はまだ見つかりません。同族親族間争いがあった可能性が否定できません。
ただ、上記した様に「甲斐皇族賜姓青木氏」の村で「国府」であろうとされるところが先日発見されました。これで「移動説」はっきりしましたので、後はその理由(時光系の勢力説)と成ります。
つまり、「国府の移動」はその「勢力の変化」と移動を意味しますので「国府の移動」は重要に成ります。
まとめると次のように成ります。
「国府移動」は3度で厳密には勝頼の事件を含めると4度と成ります。
「国府所在地」
平安初期 山梨県笛吹市春日居町寺本 市庁南横(09.4確認)(皇族賜姓青木氏定住跡 770)
平安後期 山代郡甲府国衛に移した。(武田氏発祥第1衰退期 後1185)
室町初期 甲斐の国国衛在「八代郡」国衛(笛吹市御坂国衛 信満没 武田氏第2衰退期 後1420)
室町末期 武田勝頼は韮崎市に新府城を建設。(武田氏第3衰退期 滅亡前 信定時代1575 )
江戸初期 甲府城 武田氏系柳沢氏(吉保)甲斐三郡の領主に成る (1688)
江戸初期 柳沢氏 奈良郡山に移封 (吉保、吉里 花菱紋継承)
江戸初期 武田宗家の氏(信満) 免罪となり八代郡500石に戻る。(信満 割菱紋柳沢を発祥)
「国府」と「国府寺」と氏神の「甲斐奈神社」が移動しています。
「国衛」とは「国府」を意味します。
「山代」は八代との説もあり。
以上が武田氏の衰退復興の政治的経緯です。
[ステイタス仏像の存在]
この皇族賜姓青木氏には象徴3物の「生仏像様」が在ります。その経緯は次ぎの通りです。
後漢の阿多倍王に率いられた渡来人の第1段階の帰化人技能団の司馬氏で、日本に最初に仏教を伝えた「司馬達等」という人物が居ました。
馬の鞍を作る職人集団の首魁でした。その集団を鞍造部と云いますが、又、仏教も伝えて信望していましたので仏像も彫りました。
多くの渡来人を含む日本人は好んでこの配下に入り学びました。その司馬達等の孫が「鞍造部止利」です。奈良時代の日本の国宝は彼の作です。この仏師「鞍造部止利」が天智天皇の命で作りました。
作家の司馬遼太郎氏はその子孫です。
この時代の書籍は日本書紀しかありませんが、韓国に「日本世紀」という書物が見つかりました。
そこには、天皇と朝廷が毎日行った仔細な行事や出来事を「日本書紀」よりも日記帳的に詳しく書かれています。そのものが発見されました。
遺したのは韓国より政治指導に来日していた天皇の相談役の人物です。
其処にも詳しく書かれているのです。
当然、賜物仏像の事は(筆者)賜姓伊勢青木氏の宗家の記録でも遺していたのですが、祖父の代の明治35年の伊勢松阪の大火で消失してしまいました。新たに祖父が記した忘備禄にも書き遺されています。小さい頃より口伝として、「由来事項」や「生仏像様」の事は安全な所に保管して伝わっていた事を当時の事を知る祖父から聞き及んでいます。
ただ、その他の賜姓青木氏4氏に仏像等の物を与えた記録は確認出来ていませんが、書物より、次ぎの様な事が書かれています。
一つは多くの平安中期から末期の書物から観ると未だ家紋が一般化していませんでした。しかし、「真人族」や「朝臣族」や「宿禰族」等にその身分を表す「象徴紋」の使用を許したと記されています。
この時から、「40程度」の有力各氏は挙って正式に「象徴紋(家紋化)」として使用し発展して行ったと観られます。
公家や皇族賜姓族や高位の身分を与えられた氏(日本書紀に記載されている豪族)がこれを用いていて、ですからこの身分の氏には後に目的に合わした紋(象徴紋、車紋、旗印、陣紋等)が3つくらい持つように成っています。
其の他、賜物で遺らないものとして、反物とか当時貴重なものを与えたと記録されています。
日本書紀には身分、家位、官位、職位などの位を与えた際には、賜物は絹などや中国の宝石(田嚢:ダイヤモンドより数倍もする貴重宝石)や中国珍物を与えています。
実は賜姓伊勢青木氏宗家にもこの与えられたと観られる田嚢(美嚢の一種)があるところに保管されていますので、この様な経緯から直接天皇より賜姓のあった4氏4家の青木氏宗家には何がしかの賜物が伝わっていると思います。
「田嚢」は極めて希少価値であり、当時としては天皇家一族しかもてないものでした。現在でもより難しい宝物です。持つ事そのものがステイタスに成りきれない程の超貴重物なのです。
伊勢と、近江、美濃、甲斐の賜姓青木氏とは江戸期初期ころまで付き合いがあった事が記録から認められますので、この伊勢青木氏に与えられた「生仏像様」で少なくとも3つの青木氏とその一族が衆参していた事が覗えます。
平安初期には甲斐賜姓青木氏宗家とは伊勢賜姓青木氏の始祖施基皇子の子供ですので親族として付き合いがこの「生仏像様」との衆参であったと考えます。この様な背景から少なくとも源光系の賜姓青木氏には何がしかの賜物があったと考えられ、兄時光にもあったと考えるのが普通ではないでしょうか。
因みに、清和源氏の第6位皇子の経基王は天皇からなかなか賜姓してもらえずやきもきしていることが遺された文書で判っていまして、賜姓を受けた時にはそれは飛び上がらんばかりの喜び様であったと記されています。それだけの賜姓に重みがあったという事でしょう。
ですから、光仁天皇も何がしかの物を甲斐賜姓族に与え、それを兄弟の時光の皇族青木氏にも伝授してし与えている事が考えられます。
時光系に賜物を与えていなくても弟の源光一族に見習ってそれに相当する一族を象徴するステイタスを準備したと考えます。
美濃は伊勢の隣り合わせで伊勢青木氏の員弁と桑名付近まで伊勢青木氏の国境に定住しています。
現在も青木村を形成して集中して住んでいます。ですから、この「生仏像様」との関わりは少なからずあった筈です。問題は甲斐です。
「嵯峨期の詔」に基いて名乗った皇族青木氏(時光系青木氏)には「仏像」なるものが天皇の賜物として与えられたかは判りませんが、何がしかのステイタスとして祭祀されていた事が口伝で明治期まで判っています。
この仏像らしき物は明治の「廃仏毀釈」令により、それが保管されていたその一族の菩提寺(浄土宗源空寺)が廃寺に成り、現在まで記録遺品関係が不明と成っています。
(賜物であるかは他の皇族青木氏には記録が無い事から疑問)
これ等が発見されると、この甲斐皇族青木氏で花菱紋の時光系青木氏の研究が更に進むと期待しているのです。恐らくはこの口伝経緯からステイタスは適切な処に現存すると見ています。
それは、武田氏滅亡で徳川氏に仕官して中部から最終関東方面に移動しましたので、その移動過程の添っていると考えられます。
源時光と源源光との青木氏のルーツの違いをはっきりさせる事でもこれらの人物(花菱紋の一族)は大切です。更に甲斐の国府、守護神、定住村、菩提寺、韮崎市、笛吹市、花菱紋、武田3氏6家、藤原氏との関係など甲斐の青木氏に関する事柄を史実として一つにまとめることもこの掲示板の大事な仕事です。
その意味で、甲斐にこれ等を物語る記録遺品関係が少ない無い中で、それに代って武田氏には諏訪族青木氏を含む「諏訪族赤兜軍団」を始めとして、「花菱紋」の青木氏を含む「武川衆12騎家臣集団」等も重要な要素であり考察する必要が出てきます。
先ず、これ等を分析する事で武田氏の中での花菱紋の位置付けが判ります。
先ず「花菱紋」の「丸付き紋」の件に付いては以下の通りの事柄を論じてきました。
武川衆青木尾張守主計、
氏神に保管の仏像と氏神の神紋の花菱紋、
甲斐の花菱紋のステイタスの仏像、
廃仏毀釈と源空寺、
柳沢氏と灯篭と青木氏
以上5検証等を研究して論じてきました。
これ等の事を念頭に次ぎの事を網羅すれば綜合的に読み取れると観られます。
次ぎは花菱紋の母体と成る[武川衆12騎家臣団]です。
この母体を探る事で花菱紋の青木氏の在様が観えて来ます。
その武川衆12騎家臣団は次ぎの通りです。
[武川衆12騎家臣団]
馬場氏、柳沢氏、折居氏、折井氏、山寺氏、横手氏、入戸野氏、山高氏、白須氏、横根氏、牧原氏、青木氏
(1騎とは足軽約50人従えた将で当時の責任範囲の基準とされ、兵50人を養えるだけの石高と戦いの際の行動単位と成った。これ以外に戦いのレベルに応じて要求され、この際は地元「農兵」を雇兵とした)
武田氏には家臣団の一つとして以上の武川衆の家臣団(600)が構成されていました。
この家臣団に青木氏(柳沢氏含む)は加えられています。
武田氏には、他には大別すると次ぎのように成ります。
「武田家臣団」
「御親類衆」、「譜代家老衆」、「他国衆」、「水軍衆」、「近習衆」、「譜代国衆」、「国衆」
以上の7衆に分けられます。
この武田系青木氏(花菱紋)が所属するのは「国衆」の中の武川衆です。
この「国衆」は次ぎの通りです。
「武川衆」、「津金衆」、「御嶽衆」、「九一色衆」、「西湖衆」
以上の5衆で構成されています。
参考として諏訪族や真田衆は「他国衆」に属します。
以上の事が武田氏系青木氏(花菱紋)の武田氏の中での位置付けです。
これを観て皆さんは疑問を感じたのでは無いでしょうか。
時光系でありながら「御親類衆」では無いのです。まして、青木氏が所属する「武川衆」は「譜代国衆」でもないのです。さすが「他国衆」では無い事は判りますが、これで「武川衆」の武田氏の中での位置付けが良く判ります。つまり、「普通の甲斐の土豪集団」として扱われている事に成ります。
何か、違和感を感じます。家臣団として最も低く更にはその中の一つです。
時光系からは武田氏の跡目に入った者もいる位です。とすると、まさか時光の時代から「国衆」で合った事に成るのか疑問です。
時光は信義から6代目で甲斐守で甲斐国主の時信の子供です。明らかに武田氏の直系子孫です。
「御親類衆」の上の「直系子孫」であるとすると、何処でこの様な扱いに成ったのか解き明かす必要があります。扱いを下げられる何か大きな事件があった事を示唆しています。
それが次ぎの様な事が引き金の一つに成っている可能性があります。
1 一条氏を名乗った事
2 青木氏を名乗った事
3 何度も中興開山した事
4 花菱紋に変紋した事
5 柳沢青木氏の発祥させた事
6 別家を興した事
7 柳沢氏発祥させた事
8 宗派争いをした事
9 信定と正定豊定らの争い事
10 養子系が続いた事
11 妾子一族である事
系譜を中心に史料と添書を考察して、この様な事に成る”どこかに「節目」に成る所が在るのか”を探す事が必要です。その中で最も「国衆」に成る「節目」(上記1-10)を発見する事と成ります。
これ等を洗い出した結果次の4つに成ります。
考察
A 時光2代目の常光が真言宗常光寺として中興開基した事
甲斐の3氏6家の青木氏の菩提寺として建立したものが常光が他氏の2氏を排除して中興開山してしまった事が引き金に成って「御親類衆」から外されて「国衆」に組み込まれてしまった。
(b、c、d)
B 時光から11代後までは常光寺に祭られている事
時光から11代の信安までは常光時に墓所を設けて割菱紋の氏として遺しているが、この10代には「系譜や添書や史料」から「事件性」のものは見当たらないのです。
(b、c)
C 11代目に落合氏から養子(信生)が入った事
割菱紋の分家を発祥させて武田氏の家臣落合氏から養子(時信が育てる)に入れて跡目を起てた。
この為に養子先の血筋分家と成った事から譜代ではなく通常の家臣で構成する「国衆」に組み込まれた。
(a、b、c、)
D 割菱紋から14代目で別家花菱紋を発祥させて分離した事(3と同時期)
信定が家臣高尾氏から養子信之を迎えて柳沢郡青木氏を、実子三男豊勝に分家割菱紋跡目(12代からの分家)を継がせ、実子嫡男を別家青木氏花菱紋を発祥させ、実子豊定には新家の柳沢氏の花菱紋を発祥させた親子での争いが起きたので血縁性も低くなった事もあり「国衆」に組み込まれた。
(a、b、c、d)
11代信生は武田の信虎(勝頼)に仕え、13代信正は信虎と信玄に仕え、14代信定は信玄と勝頼に仕え、15代正定は勝頼に仕えた。そして、1575年織田信長に負け、1582年滅亡する。
この期間までの「節目事件」が問題と成ります。
先ず、「御親類衆」から「国衆」に下げられるには次ぎの事が上げられます。
第1番目はa「血縁の低下」
第2番目はb「家柄の低下」
第3番目はc「名誉の低下」
第4番目はd「主家との争い」
以上4条件と考えられます。
(4条件を上記AからDに割り振りました。)
考察
上記AからDまでに条件を当てると、Dが最も可能性が高く、Cと続きます。
Dは勝頼の時代で起こった事で、その母方諏訪族が武田氏の中で勢力を占めていました。その様な立場からも、Dは更に有力です。
直接の原因はDの時に起こったと見られ、その背景はAとCの一族が大いに乱れていた時期が根拠に成っていて、採決する「御親類衆」「譜代家老衆」が最早当然と考えたのではないかと思われます。
つまり、「国衆」の中の一つ「武川衆」に組み込まれた時期が12代目(信正)−13代目(信定)−14代目(正定)の1期間(信玄ー勝頼)と成ります。
この時期は武田氏の48戦中、勝頼の2度の大戦があった最も戦いの多かった時期でもあり、軍編成上で変化を付けられたと考えられます。
確定するには問題は武川衆が何時ごろから発祥したのかと云う疑問です。
武川衆の発祥期は定かでは有りませんが、「1567年」に「武田信豊」に提出した「起請文」に一族名を列ねて「武川衆」と出て来るのが確認されている中では最初です。
この1567年前には史料より「武川筋」と呼称されていて、「西郡路から諏訪口」を云います。
信親−信時、信正−信定の時はまだ正式には武川衆とはなっていません。
「国境警備軍団的な土豪集団」として扱われていました。
「武川衆」の最終は徳川氏に仕官(1582)後、1590年に「武州鉢形」に「代替地」を設けられます。従って、1567−1582年まで(正定や豊定の時代)は、正式に「武川衆」と呼称されていた15年期間です。
それまでは、「武川筋」は最も古い時期としては1542年の桑原築城の文書に”武川筋は板垣信形の配下に入れる”と記されているので、1542年から1567年までの25年間が「武川筋」と呼称されていた事に成ります。
「武川筋」 1542−1567年 25年間
「武川衆」 1567−1582年 15年間
「武川筋」の当時は、広域的には「武川筋」と呼称し、むしろ「武河衆」又は「六河衆」と呼ばれていたのです。それが1567年以後は「武川衆」に変わった事に成ります。
信玄から勝頼までの期間では動向が史料から現在も不明です。
しかし、「長篠の役」(1575)13代目信定の時より6年前と成ります。
直接原因のD説に一致します。
しかし、一説では「甲斐国志」では「直参」と記されています。
この問題を解決する必要があります。
「直参青木氏の検証」(甲斐国志)
「武川衆」とは「国境辺境地域の土豪」で、武田氏に組み込まれてからは「国境警備」を任務としていた事が書かれています。
「国衆」の津金、御嶽、九一色、西湖の地名の土豪は国境域にあります。
「武川衆」は「北巨摩郡」の国境域です。
ここに定住していた前編の巨摩郡青木氏と云う事に成ります。
「北」の巨摩郡青木氏(現北杜市)は14代目正定の別家花菱紋(正定-正重-)の定住地です。
依って、「八代郡」に居た分家割菱紋青木氏(豊勝-・-・昌輝-)は含まれて無いと考えられますので、この武田氏割菱紋系の11代目養子信生系(信虎期)の本家割菱紋青木氏と他2氏(国衛、八代、甲府)が「甲斐国志」に記されている「直参青木氏」である事に成ります。
「甲斐国志」の説も正しいことを意味しますが、青木氏は3氏6家あるのですから、どれが「直参衆」かを明記すべきであったと考えます。ただ、3氏6家の青木氏がある事を承知していなかった文面です。(殆どの史料は判別できていない。)
「直参青木氏」は本家割菱紋(葉菱紋)青木氏(信安系)と分家割菱紋青木氏(信生系)
「武川衆青木氏」は別家花菱紋青木氏(別家柳沢氏含む)
豊定の柳沢氏も起請文(1567)には「国衆」に組み込まれた事が記されていますが、武川衆12騎の中には有りません。これは信生系青木氏から豊定の柳沢氏が発祥したばかりで引き入る一族も無い訳ですので小さい氏(50人以下)として兄の正定の「別家青木氏花菱紋族」の中に組み込まれたのでは無いかと見られます。
「柳沢郡青木氏の扱い」
そして、柳沢郡青木氏に付いては記されていない処を見ると、丁度、1567年頃に安芸国に移動した事から記されていないのです。これは添書と一致します。この養子続きの柳沢郡青木氏の移動時期(1567)とも一致します。
この時、起請文を武田信豊にわざわざ提出する事を行っているところを観ると、織田氏との戦いに向けて大掛かりな軍編成があり、其処にはこの高尾氏の子「信之」が「信定」の養子と成り柳沢郡青木氏を発祥させたばかりでもあり、「豊定」の柳沢氏発祥と同じ扱いを受けたのではと観られます。
しかし、「信之」の場合は義父信定が強引に進めた跡目側でもあり、別家を興さざるを得なかった正定と新たに柳沢氏を起こさなくては成らなくなった豊定側からすると、血縁のない信之を正定側は豊定の柳沢氏のような扱いで正定の隊に入れて行動を共にしたくない相手でもあります。
信之は実家高尾氏の「和泉守」を名乗っている事があります事から、正定は無冠であり余計に関係が上手く行かなかった事と見られます。
恐らくは、実家高尾氏の「和泉守」(標準四騎)である事から、少なくとも信之は一族一騎(50人)を以って「一騎合衆」(寄合衆)に加えられた事も考えられます。
結果として、これを不満としてか義母の実家先の安芸の毛利家家臣の桜井安芸守を紹介してもらい家臣を引き連れて移動したことに成ります。
上記した様に、「甲斐の武田氏」は衰退し、一時1330年代に安芸守守護として信光の「安芸の武田氏」に勢力が移っていた時期があります。
この末裔桜井氏が毛利氏の家臣となっていたところを頼った事を意味します。
信定は尾張守を称していた事から4ー5騎程度の兵を有していたことが考えられ、「武川衆」に組み込まれた事から一部は正定と豊定に宛がわれ、残りは信生系の三男豊勝の本家が有していたと観られます。(最終は正定の子供昌輝が跡を引き継ぎ、武川衆の中では全騎が正定の配下と成った)
信定(尾張守)-信之(和泉守)-豊勝と正定-豊定の軋轢の背景には、織田軍との戦いを前にして前編の「路線争い」と「宗派争い」の他に、添書の”終わりに臨して養子と成る”(織田軍との戦いに討死覚悟で養子にする)を憶測すると、「信之」の実家の兵(4-5騎)を期待したのではないでしょうか。
武田氏に対して「信生系」の青木氏の尾張守としての立場を意識したと考えられます。
そうすると、この考え方で行けば、曹洞宗改宗は多くは曹洞宗信者の多い農兵を集める一つの手段であった事にも成ります。
(建前は”曹洞宗の海秀玄岱商人に信心した”と成っているが裏にはこの目的があった事に成る)
つまり、織田氏との戦いを前にして、「戦況不利」で兵が集まらない状況に落ち至っていたことを示すものと成ります。上部からの命令で信定の一門は躍起と成っていた事を物語ります。
その証拠に、次ぎの様な事で証明できます。
武田氏主力軍の「他国衆」の編成は次ぎの通りです。
1 信濃先方衆
2 西上野衆
3 駿河先方衆
4 遠江、三河先方衆
5 飛騨先方衆
6 越中先方衆
7 成蔵先方衆
8 駿河、三河、信濃、上野一騎合衆
以上8衆です。
これでも判る様に、3と4と8は織田軍(徳川軍)に最早抑えられています。兵力は不足しています。更に、「他国衆」のみならず、「譜代国衆」も離反、謀反が相次いで起こり始めていた時期です。最終、戦い直前では国境を護る「国衆」の武川衆も離反したのです。
見逃しては成らないこの背景もあった事が考えられます。
何れにしても、「御親類衆」でなく北巨摩郡の別家花菱紋は「国衆」の武川筋の国境を護る衆に下げられた事は事実です。
注 巨摩郡は南北に分けられている。花菱紋の正定の別家を興したときには北に移動したことを意味します。豊勝の割菱紋側が南に留まったが断絶し、結局、正定の子昌輝が跡を継いだ事から南北は統一された事に成ります。
(1590年 徳川氏仕官後、正定花菱紋一族は武州鉢形の代替地に強制移住させられた。)
前編で記した家臣落合氏の子信生を養子にし嫁を迎えての系図であり血縁性が無く成った事は否めません。「信定」(1573討死)は肩書きが「尾張守」であった事を配慮すると、「長篠の役」6年前の1567年頃に「軍制編成会議」で子供の正定の別家が「国衆」に組み込まれ起請文を提出した事に成ります。
それらの事情も背景の上に「正定と信定との親子争い」はこの様な事に繋がっているのです。
これで「宗派争い」と「路線争い」と「身分家柄の低下」と「本家の跡目」問題が重なって起こり天地が変わる程の大変な争いであった事を意味します。
其処に武田氏の急激な衰退が起こりつつある中での事です。今で云えば、正定の青木氏は”左遷で格下げで窓際族で肩書き無しで給与ダウンで免職瀬戸際”と云うところでしょう。
普通では耐えられない環境です。一つ間違えば武田氏系青木氏滅亡も有り得た環境です。
結局、1582年の武田氏滅亡後に徳川氏に下級家臣として扱われ250石程度で仕官した事が逆に武川衆の青木氏の「命拾い」に成った事に成ります。その事で決着が着き氏は持ち堪えたのです。
「柳沢吉保」の出世で武田氏系が復興するまでの期間(1582-1688=106)と明治までの徳川譜代家臣団として期間(1688-1866=178)あわせて約300年存続出来たのです。
特筆する事は、「花菱紋の丸付き紋の青木氏」も添書で観ると、少し遅れて1582年武田氏滅亡後3年後に仕官し、以後、徳川氏に代々大番役で禄米200俵ながらも叶えられて存続したのです。
貧困に喘いでいた元親族の柳沢郡青木氏(後に丸付き紋に成る)も安芸で功を成し、それからその財を以って帰国(1584年頃)し曹洞宗常光寺の建て直しなどを行った事に成ります。その期間に帰国6年も遅れての事から300年の存続を成し得たと考えられます。
武田氏系青木氏は豊定系柳沢氏(花菱紋)が丁度よい時期(1688)に立身出世したお陰で丸付き紋までの武田氏系青木氏一族をも救出した事を証明しています。
この様に調べると、時光系から青木氏の発祥経緯に始まり、一条氏などの上記した「引金条件」の様な事が14代目まで続き、異質の一族家系の乱れが後世の子孫に大きな原因と成っていたことが判ります。(これらの事は前編で既に記述していますがより深く改めてここでも記録しておきます)
「丸付き紋の花菱紋」
この様な背景にある花菱紋ですが、そこで無い筈の「丸付き紋」に付いて、更に詳しく「丸付き紋」経緯の件で考察します。
この花菱紋の「丸付き紋」が更に又一族に問題を引き起こすのです。
賜姓青木氏5家5流と11家11流の賜姓源氏の綜紋の「笹竜胆紋」は慣習(歴史的な家柄、身分)から「丸付き紋」等を一切原則的に使用しませんでした。
同様に藤原秀郷一門も「下がり藤紋」の綜紋は「丸付き紋」を使用していません。
藤原秀郷流の青木氏は末裔が116氏に及ぶ為に副紋方式(藤紋の中に副紋を入れる方式)を採用しました。
(配流孫等によりその証拠が確認できる特別な場合は慣用的に「丸付き紋」を用いた。殆ど丸付き紋は未勘氏と第3氏です。)
これは、当時の「氏家制度」の慣習から、”「家柄」「身分」「純血」を護る事”を前提としていた事によります。
つまり、「丸付き紋」を使用しないのは多くの血縁外の氏が使用して仕舞う為に「血縁外青木氏」の拡がりを防いだのです。嵯峨期の「青木氏使用禁令の詔」を護ったのです。
この2氏のこの原則は明治3年まで3つの期間を除き原則長く守られました。
3つの期間とは次ぎの通りです。
「室町末期」 下克上、戦国時代の混乱期に、氏姓の持たない農兵や下級武士がその中に力のある者は武士として立身出世して氏姓を与えられ、又自ら主人の氏名を搾取して名乗った。
「江戸初期」 ある程度安定期に入り、「兵農分離令」で農兵の武士化が起こり、又末端の下級武士等が旗本、御家人等に成ると、自らの氏姓や家紋を改めてよく見せる為、又出世に必要とする為に家柄身分の良い氏姓を搾取して名乗った。
「明治初期」 維新革命の3年の苗字令やその8年の督促令に基づき、九割近い国民は苗字を持つ事に成ったが、近隣に居た身分家柄の良い氏姓を自由、無秩序に名乗り、それに伴なって家紋や系譜も搾取して名乗った。
以上の3混乱期です。
これ等は未勘氏や第3氏と云います。
そこで、「氏家制度」の代表的な「社会慣例」は、当初は特定の氏の「象徴紋」としての家紋でしたが、次第に氏姓に代るくらいの意味合いを持つ様に成りました。そして、其処に社会の中で規則が生まれ統一した使用方法が確立したのです。増加、拡大した氏のその紋に依って氏の家柄、身分等を判別できるシステムが発展し、「家紋」を中心とした「氏家制度の充実」が起こりました。
そこで、先ず、夫々の氏の紋、即ち「家紋」と云うものに対しての位置付けを改めて先に「家紋掟」の概容を取りまとめてみます(レポート済み)それは「家紋掟」にあります。
「家紋掟」
本来、丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7−8つ程度の役目があります。
(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全
これ等は「氏家制度」と「封建社会」の維持を理路整然として堅持する事を目的としていました。
ただ、これ等の事が江戸末期から次第に守られなく成りました。
当時の封建社会の社会慣習の緩みが原因です。
明治に入り、明治3年の「苗字令」と8年の「督促令」でかなり緩やかに成りました。これにより国民が無秩序に皆氏名を持つ事でその必要性が薄らいだのです。
昭和に入り全く護られなくなりました。むしろ、「家紋」の有無もある事すら衆知されていないことです。家紋は存在しながらも「家紋掟」どころではありません。
そこでまず、項目事に説明し考察します。
1番目は「純血」を前提とするので血縁も「吊りあい:身分合わせ」を採り厳密に云うと同族(同属)血縁関係を維持していたのです。
奈良期−平安期頃までは当時の習慣として同族血縁でした。奈良期では5親等族間での血縁でした。
その後、同属と少し緩やかな血縁と変化しました。日本書紀の記録では姪を妻とする事を正式に行っています。
(この純血遵守の慣習の弊害を除く為に、2つの方法を採用しました。
1 「妻の制度」を4つに分けていました。(身分により階級は異なる)
2 戦いや視察などを目的で各地に移動して「戦地妻」の仕来りに従いました。
この奈良期と平安期の時代には、血縁の大きな変化が無い為に家紋は全く同じものを使用しました。
同じ家紋同士の血縁と成りますので、この慣習が続いた為に「丸付き紋」を使用する慣習の必要がなかったのです。それが家紋が急激に多くなった鎌倉期まで続いたのです。
この鎌倉期ごろから氏の爆発的拡大が起こり、夫々の氏は家紋を持つ様に成り始めましたので、家紋を持てる上級の武士と貴族は1番目の方式(宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別)を採用して家紋を変える事をしました。
特に藤原北家一門は子孫末裔を大きく広げましたので区別する為にこの方式を代表として使用しました。
1番目に付いて、各氏によって違いますが、原則として末裔子孫が大きく拡大するにつれて、次ぎの様に変化して行きました。
家紋を認めるのは氏家制度ですので、夫々の枝葉末孫(ツリー)の本家筋が使用の許可を宗家(本家)に出しました。
本家筋は、「同紋採用」の方式と、家紋の「一部変化」させる方式と、もう一つの紋を付ける「副紋」を使う方式を採用しました。
但し、皇族賜姓青木氏、藤原秀郷一門、武田氏系はもとより武田氏系青木氏の宗家筋一門の綜紋は丸付き紋を使用しませんでした。
分家筋は「丸付き紋」にする方式と、「裏紋」にする方式にしました。
支流分派筋は家紋を変化させる「類似変紋」の方式にしました。
2番目(嗣子と妾子分類)は男系跡目を作る為、近親婚の弊害を避ける為に、妾方式を正式慣習として認められていました。大まかに分類すると次のように成ります。
上級では4階級(后、妃 賓 妥女)
中級では3階級(妃 賓 妥女)
下級では2階級(妻 妥女)
注 「賓」は使用字は賓の左に女辺が付き「ひめ」と呼ぶ。妥女(うねめ)は妾である。
そこで、正妻に男系が出来れば同紋の採用、嫡子外は本家筋方式(綜紋)に、妾子は分家方式に、嫡子が出来なければ妾子に同紋採用、嫡子外は分家方式にしました。
3番目(宗家の許可)は、夫々の本家がその家紋の使用の仕方を命じます。本家の宗家がその使用の仕方に異議があれば指摘し、従わない時は破門か武力で取り潰しでした。かなり強い決定権を持っていました。つまり、1、2番の規定方式外に宗家本家のチェック機構が働いていたのです。最も上は「総宗本家」と云います。このシステムで決めていた事に成ります。
4番目(配流子孫の区別)は配流子ですが、戦いで又は罪を得て島流しに遭った者に現地で子孫が生まれた場合です。
普通、その子供に嫡子である事を認知確認出来れば、妾子と成りますので2番目の方式を採用します。殆どは、配流ですので丸付き紋に成ります。認知外は原則別紋です。
「未勘氏」は確認出来ない何らかな根拠がある場合はこの「認知外」です。
「第3氏」は根拠無しで認知外(第3混乱期)です。「未勘氏」と「第3氏」は判定は困難です。
ただし、歴史的に史実が取れれば、原則丸付き紋と成ります。
(真人族、朝臣族、特別宿禰族に対する処置が多かった)
「配流」でなくても、正式に「戦地妻」の習慣がありましたので、認知、認知外の方式を採用する事に成ります。つまり、この未勘氏が殆どこれに当ります。
「戦地妻」は正式な慣習行為として認められていましたが、源氏や平家や藤原氏や橘氏や鈴木氏等の有力な豪族が自らの子孫を拡げ”いざ戦い”の時には、その子孫の一族郎党が駆けつけて自軍勢力を拡大する戦略です。又「戦地妻」の子孫が生まれればこの旗頭の配下に入り身の安全は護れると云う相互互恵の考えがあったのです。
(一族に”娘が居なければ妻を出す”という事も常識の範囲として平然と行われました)
最も有名なものとして頼朝の坂東八平氏軍を頼らず、強行突破して平家を2度も打ち破った「義経軍」(1万2千)の手勢はこれから来ているのです。
(義経自身は行わず、鈴木三郎、亀井六郎、駿河次郎、伊勢三郎等の戦地妻族です)
北条氏は摂津にどしどしと終結してくるこの「義経1万2千の手勢軍」に対して計算外で合ったことが記録されています。これ等に対して義経自身も摂津から河内、紀州、伊勢に掛けて説得して周り自ら兵を集めたとする記録が遺されています。
それほどにこの「戦地妻」方式が氏家制度の中で汎用化していたのです。
それだけに、この義経の「人的魅力、指揮能力、軍略、軍の有様」が怖かった背景と成ります。
5番目「男系跡目の継承」ですが、男子が正妻子、妾子の何れにも嫡子が出来なかった場合の娘の場合は養子婿を採ります。
この場合は、養子婿に嫡子が出来れば自家の家紋採用です。
妾子嫡子の場合は本家に伺いを申し立てます。原則そのままですが、本家との関係が悪ければ丸付き紋を命じられます。
嫡子が出来なければこの間養子婿先の家紋採用と成ります。或いは丸付き紋の許可を本家に求めます。更に娘がいて養子婿を採る場合は、嫡子が出来れば元の家紋に戻す事に成ります。
つまり、男系跡目が出来た事に成ります。
6番目の「養子縁組」ですが、5番に続いて、嫡子が出来なければ2代続きで女系に成りましたので、以後その最初の養子婿先の家紋採用と成ります。
子供ができない場合は、他氏から養子縁組をする事に成りますが、この時、原則家紋を引き継ぎますが、男系は切れていますので、1番の何れかの方式に成ります。通常、丸付き紋か変紋です。
ですから、家紋が変わるので、極力縁続き(分家、支流、分派、遠縁、縁者)の男子を必死に探し出して迎える事をします。普通この場合が多いのです。この場合は家紋はそのままで繋げます。
例として、実は花菱紋青木氏は正定から4代目信知に嫡子無く3女子であって、青木宗頼の次男を養子婿として迎えて跡目を継いでいます。
(享保の跡の寛保元年没 宗頼は縁者になし 上記系譜参照 末尾記述)
後に異議が出た「信之」の柳沢郡青木氏の場合は、”全く他人を養子に迎えて嫁を採り養子に子が無く、跡目として更に養子先母方の親族から探し出して養子を迎えて嫁を採り子が出来たが早世して、更に他人を養子に迎えて嫁を採り”と次ぎから次ぎへと繰り返している家系図ですが、花菱紋の家紋を変えなかったので正定系子孫から異議が出たものです。結局、原則使用しない事に成っている「丸付き紋」に成ったのです。
7番目の嫡子尊厳ですが、嫡子とは「後継ぎ」の事ですが、長男とは限りません。
最も跡目に相応しい人物と云う事に成りますので、男子が居ても6番の方式で探します。
普通は3親等範囲では問題はありません。跡目に成らなかった場合はその男子は1−5の方式を採用しますが、家紋は主に本家の許可を求めます。普通は1番の方式で処理します。
長男方式の習慣に成ったのは江戸初期からです。徳川家康が”長男を後継ぎとせよ”とした事が始まりです。それまでは「生残り」の為に長男とは限らず優れた者が嫡子の跡目に成ります。
自分の家に男子が居てもきわめて優れた者が親族縁者(原則3親等内だけれど文武にたけた人物が居る場合は)に居れば廃嫡して養子として迎えて跡目に入ります。但し、この場合は名家、豪族以上と限定されます。一族末裔郎党の存続に大きく左右する様な事とが無ければここまではしません。
この場合は、廃嫡子は親族縁者か他家に養子に出すか、僧侶にするか、家臣にするかの選択が必要と成ります。宗家が本家に対して注文を突きつけるなどをする事もあり、氏家制度の中では戦国時代はこの状況が頻繁に行われました。
正定(別家北巨摩郡青木氏)と豊定(別家柳沢氏)は、父信定との軋轢から信之(柳沢郡青木氏 准嫡子)と豊勝(本家巨摩郡青木氏-割菱紋 嫡子)に本筋青木氏を奪われてしまった為に、実質廃嫡に成った事から夫々別家を興したので割菱紋は使えません。
又信之の様に職位が無かった事もあり、そこで本文の事件では花菱紋に変紋した事に成ります。
8番目の身分家柄の尊厳ですが、「氏家制度」の社会の中では、極力「吊り合い」を採る血縁です。
下の家柄身分の血縁は極力避ける事に成りますので、普通は6番の方式(養子縁組-縁者)で逃げますので家紋はそのままです。場合によっては虚偽の遠縁を作り出し跡目に据えると云う事が横行しました。
定信と豊定は廃嫡になり家柄身分の継承が成り立つ分家では無く、「別家」(甲斐北国境の辺境地 北巨摩郡)を興していますので、信生の養子系(嫁採り)である為に血筋も無くなり、家柄身分も当然に無くなります。依って、親子争いだけでは無く氏家制度の「家紋掟」から観ても「国衆」に下げられた事に成ります。
信生の場合は、割菱紋から養子として分家を興している事に成りますので家柄身分は維持されます。
信之(嫁採り)の場合は、信定の采地巨摩郡(南)の青木氏(豊勝)対してもう一つの采地柳沢郡にも青木氏を興して分家扱いとした為に、それなりの家柄身分(和泉守の含めて)は維持されたと観られます。ただ養子続き(嫁採り)である事が問題と成ったのです。
注 氏家制度には、養子には「養子婿入り」(女系)と「養子嫁採り」(他人)があります。
注 「養子婿入り」には「遠縁養子」は家紋が変化しない。「他氏養子」は変紋義務が伴います。
[第3氏と未勘氏の存在と判別]
氏家制度の下では、家柄を良く見せると云う事が風潮として社会全体にありました。その為には立身出世した者は、下から上への血縁では、”上の潰れた分家等の家を探し出してそこに一族の者を入れて跡目を立てて名乗る”と云う事が頻繁に起こったのです。無ければ強引に造り出す事もしましたが、「戦地妻」と違い根拠の無い多くの「未勘氏」とされる氏はこの方式です。
滅亡した源氏などの氏が何故こんなに多いのか不思議です。こんなに多いのであれば滅亡ではないでは無いか、又滅亡する事は無いだろうと思う位です。
それは、拡大に伴なう「氏家制度の弊害」と云えるもので、「情報社会の発達」の初期の課程で起こる現象です。
一人が搾取偏纂するが、次ぎの様なことが起こります。
1 それに異議を唱えるだけの情報が無い事、
2 自らも搾取偏纂の同じ立場にある事、
3 情報網が未熟である事、
4 武力で戦う以外に中止させられる罰則が無い事、
5 期間を経るとそれが既成事実として歴史になる事、
6 元の氏末裔は死滅で異議を唱える者が無くなる事、
7 社会全体が搾取を暗黙で認めている事、
この様な経緯から源氏、青木氏、藤原氏の身分家柄を獲得するのにはこの8番目の方式を利用したのです。
この場合、有名な事件が大変多いのです。当然、家紋掟では家紋は異なる事に成りますが、同紋を使われた宗家本家との間で戦いが起こりました。
青木氏では、秀吉の立会いの前で、近江の青木氏の宗家と滋賀の分家残留組の断絶家を使われた為に
戦うと云う事件(250人が出陣した)が起こりました。近江の宗家本家の青木氏が負けました。(近江青木氏が一時滋賀に移動して再び近江に戻り後に摂津に定住するが、滋賀残留組が断絶した)
滋賀に多い青木氏は勝った方の青木氏です。
(この勝利した者は元は伊賀南部上山郷の農民出身の上山一族でそこからは多々良姓青木氏が出ている位で歴史が既成化したのです。
近江佐々木氏系(天智天皇第7位皇子の川島皇子が始祖)青木氏と、滋賀佐々木氏系(宇多天皇系)青木氏とは異なります。
(共に皇族で家紋笹竜胆で判別は通名と土地と系譜で判別が出来るが専門的で困難と観られる)
賜姓源氏と賜姓青木氏は綜紋は次ぎの通りです。
「笹竜胆紋」、
藤原秀郷一門は次ぎの通りです。
「下がり藤紋」
武田氏は武田菱紋です。
以上が綜紋です。
武田氏の様に直系の源氏を名乗っているのに家紋が笹竜胆紋でないのは「支流傍流氏」か「未勘氏」です。
賜姓源氏は11家の内で最終3家しか残らず、最終その3氏も滅亡して遺していません。特定の5氏に跡目策を採り遺しましたがこの5氏を除き絶滅しています。
笹竜胆紋からの他紋への変紋が慣習上は全く無く、他紋で名乗っているのは九割九分はこの未勘氏です。又、笹竜胆紋なのに青木氏と佐々木氏(他1氏)でない氏は未勘氏です。
(丸付き紋は特定の配流氏のみ使用)
何れも綜紋を引き継げるのは宗家か本家筋の一門だけです。
清和源氏を名乗る「未勘氏」は数える事が出来ないほどに多いのです。もしこれだけ源氏が多ければ潰れてはいません。この意味するところは家柄を良く見せると云う風潮です。
特にこの甲斐の国はその傾向と未勘氏が多いのには特別の感じがします。
笹竜胆紋は綜紋(一族一門の代表紋)ですから、宗家、本家筋が引き継ぐものですから、分家支流分派でありながら笹竜胆紋とするのは家紋掟の慣習を無視した「第3氏」か「未勘氏」です。
例えば、「藤原氏」を直接名乗る氏がありますが、藤原氏は地名官位官職を「藤」の前につけて名乗る事に成っています。藤原氏を名乗れるのは武蔵国入間の宗家だけです。しかし、直接藤原氏を名乗っている氏が如何に多いかです
同様に、「下がり藤紋」を家紋としている氏も大変多いのです。これも藤原秀郷主要5氏と2氏合わせて7氏の本家筋と宗家筋だけですがこれも大変多いのです。。”全て”と云っても「第3氏」で当るでしょう。
しかし、上記した伊勢伊賀地方の南の上山郷から出た上山氏の青木氏には、家柄を獲得した為に結果として10以上の守護、国司等の高官を勤めた氏ですので、最早第3氏ではありません。歴史伝統を証拠つける全ての条件が整っているのです。
滋賀残留組の近江賜姓青木氏、近江佐々木系青木氏、滋賀佐々木系青木氏の判別がつかなく成っています。既に分流族もありこの一族(元上山氏)から出た多々良姓青木氏もあるくらいです。
混乱期第1期(室町期)の青木氏に限り4ー5の元上山氏の青木氏の様な「第三青木氏」があります。
明確に史実として遺されている氏として、関西では2氏、中部では1氏、関東では2氏があります。これを筆者は「第三青木氏」と呼称しています。
問題はこの「第三青木氏」には宗派が浄土衆では無い事なのです。
恐らく室町期の浄土宗側の入信戒律が厳しいものがあった事から来ていると観られます。
浄土宗は、氏自ら実費で専属の氏寺、菩提寺として建立し、一族の者から住職を選び、許可して本山で養成していた事から特定以外の他氏は財力があるとしても許可が得られなかったのです。
賜姓青木氏と秀郷流青木氏は宗派は浄土宗です。これは分派まで同じです。
この様な理由から青木氏を名乗りながら浄土宗とは違うのは「第3氏」か「未勘氏」と成るのです。
この様に浄土宗は高位の身分の氏だけが入信できる宗派でした。と云うよりは、一族で自寺を建てて菩提寺として、一族の者から住職を作り寺を一族で浄土宗寺を運営していたのです。
ですから、室町期の上記の第三氏青木氏は知恩院、清水寺などの総本山からの派遣の僧侶の無い事、仮に浄土宗の菩提寺を建立する経済的な勢力が在ったとしても浄土宗総本山からの異議が出来て場合によっては戦いになる事も起こるのです。多分、宗教活動が出来ない事に成ります。
現在でも浄土宗は総本山から管理される運営システムです。勝手には出来ません。
これ等の2氏が下克上と戦国時代で衰退しましたので、浄土宗寺菩提寺を単独で維持できなくなり潰れて行くことが多発しました。そこで、江戸初期からは中級武士が入信させる「浄土宗督奨令」を出しました。
江戸初期からは総本山から管理され補助されながらも浄土宗寺は中級以上武士の「檀家衆」で寺を運営する様に成りました。この「檀家衆」は未勘氏を含む藤原氏系、平家系、源氏系、橘氏系、皇族賜姓青木氏系29氏等の流を持つ氏から成り立っていました。
この様に浄土宗には歴史的な経緯があるのです。
この歴史的経緯で以って、2つの青木氏も定住地が特定されていますので、宗派と特定先と違う土地の青木氏は「第3氏」か「未勘氏」と判定できるのです。
(明治期前の昔は「国抜け」で移動定住は許可なしにはできなかった。無宿者と成る)
他には、菩提寺の有無、過去帳の有無、過去帳の一番古い人、仏壇形式、氏神の有無、村の有無、伝統品の有無、本家分家の有無と判別が出来ます。
実際、2つの青木氏より第3の青木氏と未勘氏の方が数倍多いのです。
「第3氏」と「未勘氏」はこれ等の条件が一致しないのです。
特に、絶滅した源氏を名乗る氏は未勘氏が殆どです。
中には、九州地方と中国地方西域に源氏そのものの氏名で「源」氏を名乗る者がいます。
多分、これはこの地域に上陸した中国と韓国から渡来した「源」さんの末裔なのでしょう。
例えば、山口県に多い武部氏や武田氏は中国からの渡来人です。
(安芸には甲斐武田氏の末裔が定住 安芸武田氏)
毛利氏家臣で有名な毛利元就が取り立てた中国人の武氏がいましたが、この人物は後に武田、武部を名乗りました。中国地方特に西域に多い武田氏の多くはこの末裔です。甲斐の武田氏とは中国系で別です。
この様に、特に、この家紋掟から見て、史実と照らし合わせると、家紋はそれを見抜く事が出来る代表的な条件です。
特に、2つの青木氏関係の家紋は史実と照らし合わせ、又「家紋掟」から割り出して判っていますので、丸付き紋の有り無しが疑問に成るのです。
室町末期、江戸初期、明治初期の第3氏を含む未勘氏は、この2つの青木氏(源氏含む)の条件に一致しないのです。
皇族賜姓青木氏、皇族青木氏、藤原秀郷流青木氏等は「丸付き紋」は当時の氏家制度の社会の中で身分家柄(純血 下の身分家柄との血縁は原則しない慣習)の保持の為に丸付き紋は使用していないのです。
「丸付き」は”本来本流では無い事”を意味する手段として用いたもので、「象徴紋」から「氏の家紋」に変化して行った平安末期では「分家」などに用いられたものです。その意味が拡大解釈されて血縁が無くても”違うや仮”を意味する記号として変化して行きました。
それが「下克上」に依って「分家」や「支流」「分流」「分派」が本家に変わるなどの現象が起こった事から何時しかデザインの一つとして用いられる様に成ったのです。
特に、養子などによる変紋の「仮」の意味合いは昭和初期まで使用され一般に認識されていました。
そこで、問題に成るが、武田氏系青木氏3氏6家の一つの時光系の花菱紋に「丸付き紋」が史実に照らして存在するのかが研究課題なのです。第3氏か未勘氏の判別です。
では、この「丸付き紋」は「家紋掟」1番のどれに当るのかと云う疑問も出来ます。
それには花菱紋の氏には要件が一致していますが、その花菱紋の分家筋と見られる上記の条件の「土地」と「家紋」を除いて、他の要件に一致するかの研究が必要となります。
研究を進めると、「武田菱紋」の「系譜と添書と史料」を基に調べると、次ぎの事柄が発見されました。
この上記した武田氏が滅んだ天正3年の頃、毛利元就に仕官した甲斐花菱紋青木氏で柳沢郡青木村の者がこの「丸付き紋」を後にある事件で使用した事が系譜、添書で発見されました。
つまり、「丸に花菱紋」の武田氏系の皇族青木氏の存在が「第3氏」「未勘氏」でない事とその経緯が発見されました。
「花菱紋青木氏」では、氏神社、柳沢氏、仏像、尾張守、官職主計と、花菱紋、時光系、韮崎市の常光寺、丸付き紋なし、源空寺、吉田氏住職、巨摩郡青木村、柳沢氏が史実と完全一致しています。
ですので、理解を深めて頂き正しく判断して頂く為に「氏家制度」で用いられた上記「家紋掟」を今回詳しく紹介して検証しました。
「丸に花菱紋」は正定系の花菱紋末裔から全く血縁性が無い事を理由に異議申し立てがあり、協議の結果、信生−信正−信定−信之の系譜はそのままに、家紋の花菱紋を「丸付き紋」とする事を前提に妥協したのです。そして、これ等のことを系譜とその末尾に一文を入れる事で解決したと添書にあります。
花菱紋の系譜の「信生−信正−信定−正定」の系譜と丸に花菱紋の「信生−信正−信定−信之」の系譜は、後刻、寛政の頃(1800)信正にて添書き等を含む修正編集が加えられていますが、信之側の系譜には異系である事を誇張する故意的な編集が観られます。これはこの協議の時に成されたものか信政に依って成されたものかは確定できません。
問題は寛政時代の信政が信之側の系譜に携わることが出来たのかは不明です。
協議の時期も定かではありませんが、曹洞宗常光寺が丸に花菱紋に成っている処を考察すると武田氏滅亡後の信之(2代目襲名 元忠)の常光寺再興期頃(1585年頃)である事が考えられます。
何れの氏も徳川氏に仕官して3年くらいの時期ですので、多少の落ち着きが出た処と観られます。
この二つの氏がどの様にしてコンタクト出来たかも確定は出来ませんが、添書より次ぎの事が判ります。
正定側は”家康に仕える 旗本 采地250−450石、代々大番に列す”とあります。
信之側は”家康家臣本多佐渡守に仕える 禄200俵 代々大番に列す”とあります。
仕官初期の頃(1585年)であれば本多氏は家康側近である事から家康陣内で合う事は充分に可能と成ります。この頃はまだ武州鉢形に移動していません。時系列的に一致します。
依って、上記系譜は寛政期の信政の修正編集では無い事がほぼ裏付けられます。
ここで、もう一つ疑問があります。
それは、「信生」です。
「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
本来であれば、「信正−信定−信生−正定」と成る筈です。
この事に付いて後編で論じます。
さて、次ぎは「青木尾張守主計」の件ですが、史実を披露しますと次ぎの様に成ります。
清和源氏末裔の青木十郎時光から12代目に尾張守青木主計頭信正がいました。
この人物が花菱紋青木氏の祖祖父です。皇族青木氏の時光系青木氏その末裔と云う事に成ります。
この「信正」は官職は尾張守で、俗名は「与兵衛」と云います。法名は「深見」と云います。
「..兵衛」は賜姓青木氏の宮殿親衛隊の官位から特別につける共通名「..兵衛」なのです。
これは、元は天皇を護衛する近衛兵親衛隊で、宮殿の3つの門を護る官職名で2つの青木氏に天皇から与えられた永代使用を認められた共通通名です。だから、「..兵衛」(門を守る兵)なのです。
「北面武士」として有名ですが、これが青木氏なのです。(右衛門、左衛門も青木氏の通名です)
この「通名」でその「系列」を判別するように成っています。
(後に金品を朝廷に渡す事で得られる名誉官位、官職と成りました 天皇家の経済的根拠)
因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
割菱紋青木氏本家(義虎系)
信種(嫡子)の子の信親
信時(信親の子)の子の信安
信安の子の信就
信就、信幸、信峯の子の信祐
信祐の子の信任
割菱紋青木氏分家(義虎系)
義虎の子の信正(妾子:信種弟)
以上6人です。
注 信種は信正と同人物との説もある。
注 信種は信定と同人物との説もある。
注 信親は信立と同人物との説もある。
注 信親は信定と同人物との説もある。
注 信時は信定と同人物との説もある。
注 信立は系譜上正式に存在しない。
「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
始祖時光は甲斐守
時光系割菱紋の本家
A 時光-常光の子の「信連」
B 信連の子の「貞義」
C 貞義-義遠の子の「安遠」
D 安遠-嘉虎の子の「信種」
E 信種の子の「信親」*
F 信親の子の「信時」*
時光系割菱紋の分家
G 義虎の子の「信正」*
H 信正の子の「信定」
以上8人です。
注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信時で武田氏は滅ぶ。
以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がります。
1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋が引き継ぐ事となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
7 重複人物説の疑問がある。
以上を複合的見地から解明しなくてはならない事柄です。
これらの事は長文を要する為に後編で論じます。
次ぎに、「主計」は名では有りませんで、「朝廷の職位」です。
かなりの上の身分で事務の中の経理に相当する役職で「頭」が付いている為にその長である事を意味します。斎蔵(藤原氏 摂関家)の所属です。
本来の呼称は、「青木尾張守主計頭与兵衛信正」と成ります。
この青木氏は先ず「割菱紋と副紋葉菱紋」から「割菱紋」に変わり「花菱紋」と成り、後に武田氏「武川衆12騎」に成った事は確認出来ました。
発祥地は「割菱紋」は「甲斐国南巨摩郡青木村(南)」です。
後に発祥する正定の「花菱紋」は「甲斐北巨摩郡青木村(北)」です。
信正は武田信虎に仕えます。その後、子供信定は信玄、勝頼に仕えますが、天正3年長篠の役で討死します。法名は宗青です。
その子供豊定は家康に仕えます。法名玄栄。大番役500石 別家の柳沢氏を発祥させます。
豊定と共に別家を興した兄正定はこの跡を継ぎ花菱紋青木氏を発祥させます。
この2代目豊勝(正定の弟)が信正の主家を引き継ぎ、形式上正定の子供とします。
そして、3代目豊信のところで後継ぎなしで絶えます。
しかし、弟豊勝に主家を譲り、別家を興した分家となる正定の子供の昌輝が継承します。
13代目信定の嫡子であったが別家を興した正定−正重−信久(途中略)以降の代々末裔は徳川旗本として栄えています。(上記系譜参照)
これが正定からの花菱紋系譜です。
(徳川氏により仕官3年後に武州鉢形に強制移動させられる)
ところが、この14代目正定の次男の15代昌輝は大井家に養子になりましたが、後に実家の青木氏が豊信で絶えましたので、昌輝の嫡子に大井氏を引き継がせて後、自分昌輝は子供次男正寛を引き連れて断絶の豊信の割菱紋青木氏主家の継ぐ事に成ります。
(信定系割菱紋は結局、別家の正定の花菱紋系列に吸収される)
まとめますと、信生11ー信正12−信定13と続いた割菱紋より分家した青木氏は次ぎの様に分流します。
時光系青木氏の系列
A 信安系本家割菱 副紋葉菱紋 青木氏(本流)
B 信生系分家割菱紋 青木氏の4流
1 豊勝系(南巨摩郡青木氏 主家 割菱紋)
2 信之系(柳沢郡青木氏 別家 跡目養子 割菱紋−花菱紋−丸に花菱紋)
3 正定系(北巨摩郡青木氏 別家 花菱紋)
4 豊定系(柳沢郡柳沢氏 別家 花菱紋)
注 最終 1及び3は合流
注 柳沢氏は割菱紋 副紋葉菱紋柳沢氏、花菱紋柳沢氏 4つ割花菱紋 割菱紋の4流がある。
3の別家を興した為に家紋は「家紋掟」にてこの時点で「割菱紋」から「花菱紋」になります。
豊勝の主家は最終は正定系の系譜と成ります。(途中略)
以上が花菱紋青木氏の4家の系譜略です。
問題は元となる系譜の位置付けです。
1「信生」−「信正」−「信定」系列の「信生」の問題、
2「信正」の出生(信種)と尾張守重複の問題
3「信定」の出生(信親)と尾張守重複の問題
4「信立」の問題(花菱紋柳沢氏の系譜)
5「正定」の系譜の位置付け問題(信安、信生に列するのか)
前提と成っている上記系譜の為には元の系譜上の疑問を解決する事が必要です。(後編記述)
そこで、その前に先ず5の問題の「正定」末裔の系譜を確認する必要があります。
「正定の子供」
正定の子供がどの様に成っているかを検証します。
末裔が「丸付き紋の花菱紋」の可能性もある事から、「正定の子供」の研究は4つの系譜を付き合わせた結果、次ぎの通り解決しました。以下の通りです。
(正定は本来は嫡男で長男であった)
A 豊勝(割菱紋青木氏 主家 正定の弟で養子と成る)
B 正重(花菱紋青木家 別家)
C 昌輝(大井氏−青木氏)
D 忠世(犬塚氏)
E 元宣(木村氏)
F 大震(初宋友 松源寺住職)
以上6人です。
1 豊勝は兄正定に代わり父の割菱紋本家を継承し、3代目豊信に嫡子なしで4代目断絶、後に割菱紋から花菱紋に変わる。(13代目信定は割菱紋を継承したが子の3男豊勝がこれを継ぐ)
2 長男正重が別家花菱紋を継承する。
(正定は長男であるが、弟に本家を譲り、自分は花菱紋の別家を興す。)
3 次男昌輝は大井氏に養子後戻り、実家断絶の割菱紋主家を継承し、大井氏は昌輝の嫡男に譲り、昌輝次男正寛が主家青木氏の跡を継ぎ花菱紋に戻し継承する。
(大井氏は信玄の妻の実家先)
花菱紋青木氏は、別家と、割菱紋から花菱紋にかわった主家との2家に成ります。
後の子供は他家への養子となります。
これで正常に継承していますので家紋掟からの変紋を含めて正定系列の「丸付き紋」の可能性は消えました。
さて、次ぎは丸付き紋と柳沢氏との事ですが、信正の子信定で先祖を同じくしています。
正定の弟豊定が別家を興して花菱紋柳沢氏を発祥させ元祖と成ります。
家紋も兄と共に花菱紋の同紋を引き継ぎます。(柳沢氏の4系譜4家紋は上記検証済み)
柳沢氏の丸付き紋の可能性は家紋掟から観ても消えています。(信立の問題含む 後編)
[花菱紋の丸付き紋の原因]
この柳沢郡青木村が存在しますが、この青木村から青木氏が出ている事が判っています。
この柳沢郡青木氏派どの様な系譜であるのかを検証する必要があります。
次ぎの2つの問題を解決する必要が出ました。
この柳沢郡の青木氏は一体誰なのかの疑問があります。
その前にこの青木村から「丸に花菱紋」が出た経緯がこれも疑問です
この二つをまず研究しました。
本来は、花菱紋を初めとする武田氏6家紋には丸付き紋は有りません。
武田氏は清和源氏系(朝臣族 皇族系)である為に原則使用しません。
「丸に花菱紋」は「家紋200選」及び「全国家紋8000書類」にも掲載されていません。
しかし、「丸に花菱紋」が史料の中で存在し重要な歴史史実が存在します。
つまり、検証の方向はこの「丸に花菱紋」が「第3氏」又は「未勘氏」であるのかどうかの検証と成ります。
これはどう云う事を意味しているのかも研究が必要です。
そこで、系譜と添書や他の資料を細かく調査すると出てきました。
「系譜添書の内容」
甲斐青木氏の系譜には甲斐の「青木和泉守」なるものが居ます。
この甲斐の青木和泉守の子孫系譜には、次ぎの様なことが書かれています。
1 甲斐青木和泉守は柳沢郡青木村の青木氏の出自である。
2 義母実家安芸の桜井安芸守を頼る。(信光の安芸武田氏との関係)
3 和泉守の時に芸州の毛利元就に仕える。(1567)
4 同国尾引城に処している。
5 再び輝元公から再び元亀4年1月20日(1573)に和泉守に任じられた。
6 その後、和泉守は尼子氏との合戦に参加する。出雲国にて討死する。
7 墓は芸州吉田には無い。
8 更に、跡目を継承した次男志摩守與三は天正5年6月23日(1577)輝元公に従い四国に渡り讃州元吉城の合戦で討死する。
9 尚、志摩守與三の兄青木助兵衛元忠(二代目)の時、長州三田尻に移っている。その後、甲斐に戻る。(1582年頃)
以上とあります。
柳沢郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
注 この系譜は巨摩郡青木氏の系譜と対比すると、丁度100年全てずれています。
(編集者の寛政の頃の信政による系譜編集時の故意的行為と観られる。)
青木尾張守信正は添書は次ぎの様に成ります。
割菱紋 副紋は葉菱紋
正保4年12月跡目継承(1647年となり史実の1547年で一致)と成っています。
信正は与兵衛以外に幼名三十郎 清左衛門の名も記されている。信虎に仕える。
信正の子信定(藤九郎 主計頭) 信玄、勝頼に仕える。
信定は明暦3年12月家督継ぐ(1657年となり史実1557年で一致)と成っています。
「巨摩郡青木氏添書」
巨摩郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
信定は天正3年5月(1576)長篠の役に討死 法名宋青 妻は桜井安芸守の娘。(史実)
主計頭 常光寺を曹洞宗に改宗した人物である。花菱紋の正定の父である。
以上添書にあります。
この信正の子は実子正定(巨摩郡青木氏花菱紋)と豊定(柳沢郡柳沢氏花菱紋)が居るが「第3の子」なる者(養子信之)が居て上記の通り「柳沢郡青木氏」を継いでいる事になります。
安芸は信正の妻(義母)の実家先である。
(安芸守護の信光末裔武田氏 甲斐の新守護信元の前までは安芸の武田氏の勢力が中心 信光は頼朝に謀殺された人物忠頼の兄に当る。信光は安芸守 忠頼は甲斐守)
この者が武田氏滅亡前(1567頃)に義母の実家桜井安芸守を頼り赴いた事を意味します。
では、この者(第3の子)は一体誰なのか(疑問)です。
「柳沢郡青木氏添書」
柳沢郡青木氏系譜によると次ぎの様に成ります。
結論から先に述べると、”信定の終わりに臨み養子と成る”と添書にある本人で、高尾伝九郎久治の三男伝助 この母は多田次郎右衛門昌繁の女と書かれている者の「信之」と成ります。
添書を検証しますと次ぎの様に成ります
和泉守の時代は元亀から天正前半にかけての人物となります。(1570-1576)
この期間で毛利に繋がる人物は信定の妻の実家桜井安芸守である。
安芸は毛利家の国である。
この時代は毛利元就、輝元である。
この信正の子供(第3の子の存在)か又は関係者となる。
そこで、信正の子供を探すと4つの系譜から次のように出て来る。
「信正の子供」
正定(花菱紋、巨摩郡青木氏)、
豊勝(割菱紋、巨摩郡青木氏 正定の養子に成る 正定の子昌輝が継承)
豊定(花菱紋、柳沢氏)、
信之(割菱紋継承後に花菱紋、柳沢郡青木氏の養子)
「信之」なる人物が出る。この人物はどのような人物かを調べました。
「信之の継承経緯」
上記の通りこの「信之」は”高尾伝九郎久治の三男 信定(討死)の終わり臨み養子となる。”とある。
この者(信之)が柳沢郡の青木氏を継承した事に成ります。
それ以前に柳沢郡青木氏が発祥している史実はありません。
そして、長篠の役1575年武田氏敗北の前に何らかの事件か理由(後述)が起こり義母の実家の桜井安芸守(毛利氏の家臣)を頼り安芸守の配下として働いた。
何らかの理由とは上記に記述した様に織田軍との決戦の為に開かれた「軍編成会議」で国境警備の「国衆」に正定と豊定と共に組み込まれたが、その際に提出した「起請文」の中には無い事から正定隊に柳沢氏と同様に組み込まれた可能性があり、それを不満として信光系安芸武田氏のいる安芸に移動したと観られます。
其処での安芸での経過は以上の通りです。
この「信之」討死後、この柳沢郡青木氏筋の跡目は「信茂」と記されています。
この「信茂」で”多田新八郎昌興の三男久三郎が青木氏(柳沢郡)の養子に入る。”とあります。
多田新八郎昌興とは「右衛門」の肩書きが無い所をみると、「信之」の実母の実家先多田次郎右衛門昌繁の子供(母方叔父の子 従兄弟)であると観られます。
安芸にて「信之」本人と子度次男「与蔵」が討死した事から、甲斐では母方から跡目を入れた事を意味します。
この「信茂」の跡目時期に付いては記されていないので、安芸での別の毛利氏(柳沢郡青木氏)の記録を調べると次ぎの様に成ります。
「安芸(毛利氏)柳沢郡青木氏の記録」
安芸に赴いた”「信之」の次男志摩守「与蔵」は討死後、安芸当地で長男(兄)の青木助兵衛元忠には「2代目」”と特記しています。
その後に、”安芸と周防に墓は無い”とあり、”甲斐に戻る。(1582頃)”とあります。
「信之」の長男「元忠」が戻った時には既に武田氏が滅び、徳川氏の配下に入った時期と成ります。
この「元忠」は本来であれば、「信茂」に代って跡目を採る立場に有ったことが考えられますが、時代性が合いません。
「元忠」は長州三田尻に1577年頃まで居た事よりすでに出国後15年も経っていて「信之」と子嫡子と認められていた次男志摩守「与蔵」もが討死した為に、長男「元忠」は「2代目特記」の意味から「信之」(初代)を現地で襲名(1677 1577)した事になります。
甲斐に帰国後(1582)2年程度経過後、直ぐに”徳川氏に仕官し大番と成る。後に加恩あり200俵の禄(1694 1594)となる”とあります。
更に、それは武田氏滅亡1582年後の徳川氏の仕官は次ぎの4代目「信也」の系譜添書でも理解できます。
「信也」の添書によると「信也」は”久五郎 清左衛門 享保元年(1716 1616)年6歳にて後を継ぐ。享保15年(1730 1630)大番に列する。27歳で死亡”とあります。
これで、2代目から4代目(元忠−信茂−信也)までの時代差の考証は採れています。
ここで、戻った「信之」の長男元忠2代目襲名は本来柳沢郡青木氏に戻りますが、時代差考証から観ると上記添書から現地で2代目襲名した事に成ります。
この時代差から考察すると、元忠が帰国し仕官した時(1582-1594の前半)に祖母方親族より「養子信茂」(跡目養子)を迎えたことに成ります。
つまり柳沢郡青木氏は多田氏からの養子「信茂」3代目が引き継いでいる事に成ります。
この毛利氏の記録によると2代目元忠から10代目までの記録は無く10代目以降は明確に成っています。
武田氏の記録とこの二つの記録を付き合わせると系譜は次ぎの様に成ります。
「武田氏系青木氏と毛利氏の記録系譜」
始祖「信之」1-1代目「与蔵」2−2代目「元忠」(襲名)3−「信茂」4−「信也」5−「信考」6−「信睦」7−「信並」8−「信嬰」9−「住眞」10−「道」11−「健」12−・・
注 「信之」和泉守 「与蔵」志摩守 毛利氏が陶氏を滅ぼした際に泉州と志摩一部を領する
注 弟「与蔵」が跡を継いだが討死 1代目
注 兄「元忠」信之襲名 2代目 甲斐に戻る
注 「信茂」4は母方縁者多田新八郎昌興の三男 跡目養子
注 「信考」6は小野朝右衛門高壽の次男 九歳の婿養子
注 「信睦」7は「信考」の長男で早世
注 「信並」8は「信考」の三男 久米之丞 母は「信也」の女(叔母)跡目養子
注 「信考」6の次男「高達」は養子元の縁者小野平八郎高品の養子と成る
注 「信嬰」9は安太郎(嬰:えい)
注 「信考」の末裔は現存
ここで、甲斐に戻った柳沢郡青木氏の高尾氏から養子「信之」の長男「元忠一族」(信之襲名)の家紋に問題が出ます。
定住地は添書から”甲斐の国に戻る”とあり、一度柳沢郡の青木村に帰ったと推理出来ます。
その後、更に検証を進めると巨摩郡付近に移動している事が2つの事(常光寺再興と常光寺寺紋と丸に花菱紋事件)で理解できます。
多分、元忠の帰参一族の柳沢郡青木氏はこの常光寺に一時停泊したのではと思われます。
最終、武田氏が滅び武田氏系青木氏の時光系一族は徳川氏に下級武士として仕官した為に曹洞宗常光寺を維持する事が出来ずにいたと見られます。
そこで、帰参一族はこの荒廃した菩提寺曹洞宗常光寺の再建に取り掛かった事が、「丸付き紋」の花菱紋に成る切っ掛けに成ったと観るのが、当時の「寺」の持つ役割から普通では無いかと思います。
常光寺は割菱紋から襲名信之の頃から「花菱紋」に、続いて「丸付き紋」に変紋しています。
この史実によると次ぎの様に成ります。
「柳沢氏の発祥と時期」
信定の子の「豊定」がこの柳沢氏を発祥 法名は玄栄です。元は「正定」の所で兄弟です。
「信之」は義兄弟と成ります。
天正3年5月の時です。
系譜からは割り出すと天正の頃(1575)からの親族です。
ここで問題が出ます。
とすると、時代的には「柳沢郡青木村の青木氏」は「柳沢氏発祥」とは同時であった事を示すものと成ります。
そして、「豊定」の柳沢氏は、義弟(養子)「信之」が主家(信定)の意に添い柳沢郡の青木氏を継いだので、止む無くこの地名を採って青木氏を名乗らず柳沢郡の「柳沢氏」を名乗った事に成ります。
以上系譜、添書、史料等から信之の花菱紋(丸付き紋)のルーツは解明されましたので、次ぎは丸付き紋に成った経緯と時期が問題と成ります。
そこで「信之」の長男「元忠」系の柳沢郡青木氏の「花菱紋」が「丸付き紋」に成った事に対して調査の結果、青木氏と柳沢氏の系譜を照合すると末尾の添書に一致する内容が出てきました。
「5つの継承の意味」
この内容には、5つの意味があります。
1 父「信定」が「信之」を柳沢郡青木氏をこの養子に継がせた(発祥させた)。
「正定」の添書を観ると、別家を興して太郎右衛門正満の祖と書かれている事から、長男「正定」は北巨摩郡青木氏の別家を興し、子供「正重」にこの分家を引き継がせた。
そして、南巨摩郡青木氏を三男豊勝に主家を継がせた事に成る。
2 次男豊定は本来は筋目から柳沢郡青木氏を継ぐ事に成るが、養子「信之」の出現で止む無く地名より柳沢氏を発祥させた。
3 父「信定」の長男「正定」と次男「豊定」に対する対応がおかしい。
本来であれば、長男「正定」に本家巨摩郡青木氏を継がせ、三男「豊勝」に分家を継がせ、次男「豊定」には柳沢郡青木氏を継がせる事に成る筈である。
ところが、わざわざ養子「信之」を設けて柳沢郡青木氏を、三男に巨摩郡青木氏主家を継がせる事は長男「正定」と次男「豊定」は排除されたも同然です。
だから、反発した長男「正定」は別家の分家青木氏を興し、次男「豊定」も柳沢に別家柳沢氏を興した事に成ります。
そして、この2人は、兄「正定」は巨摩郡青木村に「浄土宗源空寺」を開山し、弟「豊定」は柳沢郡に「浄土宗光沢寺」を開山せざるを得なかった理由の一つに成ります。
更に家紋を割菱紋から花菱紋に変更を余儀なくされたのです。
参考(「浄土宗源空寺」と「浄土宗松源寺」)
寺については、通説「浄土宗源空寺」に対して「浄土宗松源寺」(正定の5男大震 初宋友 松源寺住職)では無いかとの仮説もあります。
これは、次ぎの様に考察しています。
正定は最終主家の割菱紋と別家の花菱紋とを引き継ぐ事になります。
1 「浄土宗源空寺」は主家の地の南巨摩郡に菩提寺として建立した。
2 「浄土宗松源寺」は別家の地の北巨摩郡に菩提寺として建立した。
2の寺は甲斐の巨摩郡には確認されないのは、徳川氏により武川衆は武州鉢形に代替地を与えられて一族郎党は強制移動させられた為に確認出来ないのです。
北巨摩郡には自分の子供を住職にして寺を建立した事に成ります。
4 父「信定」は常光寺を曹洞宗に改宗した、或いは改宗せざるを得なかった事に対して「正定」と「豊定」が反対をした。そこで父「信定」は対立の見せしめに養子を迎え、三男に本家を継がした事になった。
更には、武川衆の青木氏の採った態度(武田勝頼を見放す事)に対して、「正定」と「豊定」が見放す側に立った事等で父親と対立した事が考えられます。
「正定」と「豊定」の花菱紋の別家は「国衆」の国境辺境地の警備に廻され、「御親類衆」から外されて格下げされた。
5 しかし、結果は、正定が正しかった事が云えます。
巨摩郡青木氏主家も、別家した青木氏分家も、「正定」の末裔が跡を継ぐ結果と成った事を意味します。
柳沢郡の柳沢氏の立身出世と柳沢郡の青木氏の2分裂化と養子化で他人化してしまった事に成ります。血縁の無い他人化した丸付き紋の花菱紋の発祥を招いた事に成ります。
血縁上は第3の青木氏(「寛永青木第三の系図」の歴史書が示す通り)であり、系譜上は柳沢郡青木氏の2流が出来た事を意味します。
(現在も氏家紋書にも乗らない第3氏として扱われる所以です。)
以上歴史史実から考察すると、矢張り、父「信定」は曹洞宗改宗などの暴挙を行い子孫末裔にも大きな禍根を現在までに遺した事に成ります。
「花菱紋の系譜」
正定は別家を興す。小右衛門 太郎右衛門正満の祖
正定は花菱紋北巨摩郡青木氏別家 (正重派 副紋は九曜紋)
正定の次男昌輝青木氏主家継承 (昌輝派 大井氏養子後 割菱紋−花菱紋 副紋は九曜紋 )
豊定は花菱紋柳沢郡柳沢氏本家 勘九郎 勘右衛門
信之は割菱紋柳沢郡青木氏本家 和泉守−志摩守(花菱紋−丸に花菱紋 信定の養子 高尾氏三男)
信茂は花菱紋柳沢郡青木氏本家(多田氏より柳沢郡本家青木氏養子となる)
信之の長男元忠は柳沢郡青木氏本家(信茂と元忠の本家と重複 花菱紋−丸に花菱紋)
以上徳川氏に仕える。
注 「信之」の実母は多田次郎右衛門昌繁の娘 「信茂」多田新八郎昌興の三男 信之の母と信茂は従兄弟である。信之(元忠襲名)は割菱紋の柳沢郡青木氏を1577年に正式に継ぎ1585年に徳川氏本多家仕官1595年大番役を勤む。
柳沢郡青木氏の「信之」の割菱紋−花菱紋−丸に花菱紋の変紋の経緯は次の様な系譜添書が在ります。
「丸に花菱紋の経緯」
文章1
「寛政系図」の史書には 信正は通称与兵衛といい尾張守と称す。武田信虎に仕う。某年死す。法名深見。とあり、「寛永青木第三の系図」に載する処によると、信種、及び同書柳沢曲渕の譜に見ゆる信定と共に尾張守と称する。法名浄見と云う。
その事跡同じければ、この「信正」疑うらくは同人ならん。
文章2
これ寛永の時呈する処の譜なり。各々の家に伝わる処を誤りとするか、或いは、その名を異にするか、或いは、別人の如くするかは、何れその子孫に至りては、何れ兄、何れ弟たる事を詳細にせず、よりて各々のその見ゆる処を記して後勘に備え識する」と記されています。
「信之」の末裔青木助兵衛元忠が安芸国から甲斐に戻り、柳沢郡の信之系青木氏を継承し、家紋を義父の家紋割菱紋から花菱紋に変え、その後、正定の二つの巨摩郡青木氏の主家方から抗議を受け話し合いにより、花菱紋を「丸付き紋」(以後変紋している)として変える事で妥協した。しかし、「信定の系譜」は譲らなかった。”と成ります。そして、系譜に付いては”後勘に備える”としたのです。
上記の分析からこの特別な2添書で検証された事に成ります。
注 寛政期(1800)本系譜修正編集した信政の父信満は伝五郎 太郎右衛門 石川清右衛門 政辰の4男 母は山本新五左衛門正相の女 信保の終りに臨みて養婿子となる。寛政2年家を継ぐ。大番役に列し、寛政8年に新番に移る。250石 妻は信保の養女 信政は大助
異議の申し立ての時期は不明ですが、一説では系譜編集に当った花菱紋別家の末裔青木信政の時(寛政10年頃1800年)ではないかとも観られますが、それまでに曹洞宗常光寺が「丸に花菱紋」の寺紋と成っている事から花菱紋を使用する「正定」の別家青木氏と、後に正定の子昌輝継承の主家青木氏と「豊定」の柳沢氏と「信之」の柳沢郡青木氏(当初発祥期は割菱紋)の4氏と成ります。従って、必然的に常光寺の再建とも含めて、血縁の無い「信之」系の青木氏が「丸付き紋」に成る可能性がある事に成りますが、問題は時期と成ります。
上記に検証した通り、1584年(1585年)頃の徳川氏が甲斐を支配し始め仕官を集めた時期で、信之の青木氏が家康の家臣本多氏に仕官し協議出来る時期はこの期間と見られます。この後、本多氏は領国に移動した為に信之一門も移動、正定も武蔵鉢形に移動していますので、家紋のことや系譜の事もまだ新しいこの時期しかありません。
この「信之一族」は、武田氏滅亡後、青木氏離散、間際の曹洞宗改宗等で常光寺の維持管理は困難と成り、荒廃した為に、この寺の再興を図ったとされています。その為にこの常光寺の寺紋は本来の「花菱紋」から結局「丸に花菱紋」に変紋しました事に成ります。(1584年頃)
常光寺を維持管理する者が仕官で各地に移動し始めた為に荒廃したのです。
これも「丸に花菱紋の常光寺」もその証拠と成ります。
つまり、曹洞宗は信定の曹洞宗僧侶に帰依した事により改宗と成っていますが、その3−5年後に起こったこの「丸付き紋の事件」による事も考えられます。
更に検証すると、丸付き紋に成ると云う事には氏家制度の中ではそれなりの事件である必要があります。
次ぎの事が考えられます。
1 花菱紋の「血縁関係」の変化が変わった時
2 菩提寺等が改宗等の「事変関係」が起こった時
3 本家分家の「跡目関係」が変わった時
4 ある程度の「勢力関係」を保持した時
これ等の事が一時期に起こっている時と成ると「信定−正定の時期」と云う事に成ります。
A 菩提寺の真言宗常光寺が曹洞宗常光寺に改宗は「信定」(1575没)が行ったのでその直後の跡目の問題が出た時とすると[1575-1576年頃]。
B 血縁性の無い「信之」一族(元忠襲名 1577)に成る前には協議できないので帰国前の襲名後の周防三田尻の頃[1577-1580年頃]。
C 常光寺に最後頃に祭祀されている人物「信時」は信玄と勝頼に仕え尾張守であったので、「信定」(1575年没)が尾張守であり2人ともに信玄と勝頼(1582没)に仕えた事と、重複して尾張守を名乗ることは出来ないとすると、「信定」が常光寺を曹洞宗に改宗したので、その時期は1567頃年と成ります。
そうすると「信時」の尾張守は1575年に引継ぎ、没年は勝頼時代討死武田他氏滅亡(1582没年)と成ります。「信時」は武川衆と呼ばれたとされている時期(1567)の人物である事に成ります。(武田氏軍編成の起請文(1567)に武川衆が始めて出て来る)
最後の祭祀人物「信安」は(1573跡目)と成り、次の信就の跡目が1606年と成りますので「信安」は(1606没)と成ります。
D 正定の浄土宗源空寺建立と豊定の浄土宗光沢寺建立時期にまだその勢いがある事から信定が没後に正定等の別家を興して花菱紋を定めて信定の没後時期と成ると[1580-1585年頃]
E 長篠の役(1575)から武田氏滅亡時期期間と成ると[1582-1582年頃]
F 徳川氏仕官後では低禄でそんなことに拘っている余裕は無い事から仕官前とすると[1582年後頃]。
以上添書と史料から検証割出しました。
結論はAからFまでを考え合わせると、「丸に花菱紋」に成った時期は1585年前後頃と成ります。この年代であれば時代考証は採れます。
武田氏が滅亡した後に、”武川衆の離散と甲斐青木氏の逃亡が相次ぎ常光寺の荒廃が進んだが、花菱紋の2氏は徳川氏に仕えたとは云え、その生活は貧窮を呈し、この事態を解決できる勢力を最早維持していなかった事。其処にこの柳沢郡青木氏が毛利氏に仕えた事でその裏打ちで和泉守や志摩守などのその財力を持って甲斐に帰ってきた事(1582)。その財力で先祖の常光寺の再興を成した事。
これらを考え合わせると、その為、曹洞宗常光寺(1565-1567改宗)の寺紋を「丸に花菱紋)」に変紋(1584-1585)した”と云う事に成ります。
この柳沢郡青木氏信之派が義母桜井安芸守を頼ったのもこの時武田氏の行く末を推し量り、徳川氏等の勢力に対して何処に味方して生き残れるかを真剣に模索していた事を物語ります。
また、前述した「長篠の戦い」を前(1567)にして軍団編成の処置に対して起請文を提出させられ、扱いを「国衆」に格下げさせられた事も一因と観られます。
一つに偏る事は一族存亡を考えた場合得策ではないとして、当時中国地方を制覇しつつあった毛利氏を一時頼ったのではと考えられます。武田氏の大勢が固まった後(1582年)に甲斐に帰国後は徳川氏(1585年 1594大番役)に仕えたとなります。
その常光寺に付いては、次ぎの視点が起こります。
多少の疑問は養子にして「曹洞宗の常光寺問題」の扱いのこの「役目を担わした」と云う視点です。
1 別家を興すほどに「親子争い」に成っていた関係上、わざわざ信之を養子を迎えて「信定」が命じたものと考えられます。
2 武田氏滅亡後に信之派が曹洞宗常光寺を扱い始めた事に正定派と問題も起した形跡も無くすんなりと進んでいるし、常光寺寺紋も何の問題も無く割菱紋から丸付き紋の花菱紋に変更しているのも不思議です。
3 正定派に執って見れば、最早父親が改宗した曹洞宗であり、別家を興した時に自前の浄土宗寺を建立している事、祭祀している人物は時光系青木氏の割菱紋本家の人物に限られている事などからも信之派に任した事でも頷けます。
4 割菱紋本家の信安派もこの寺に執着していない所を観ると曹洞宗寺となってしまった寺に対して浄土宗を護る本家としての意味合いが無く成った事も考えられます。
しかし、この時、「信安」は、分家の信定が尾張守としての主導権を行使して曹洞宗に改宗していながら、最後の祭祀人物としてこの寺に祭祀されているのです。不思議な疑問点です。
「信安」と「信生」と「正定」と「信之」(元忠)と「豊定」等は同年代です。
自分(信安)を時光系本家の先祖の眠る寺に最後に祭祀する事を条件にして、信之や正定等に対して妥協を求めた事も考えられます。
現に、改宗した人物信定と父の信正はこの寺に祭祀されていない現実があるのです。
又、信安の義弟で信生も系譜上は年代の違う分家の先に死んだ信定の父に成っているのです。
分家が本家の寺を一族の指導者として成っている尾張守を背景に主導権を行使して改宗しているのですから、武田氏滅亡後に同年代の者が揃った短い時期を利用して、戦後処理として、徳川氏に仕官し異動する事の前に、「家紋や寺の事等を含めて一切の何らかな話し合い」が成されなければこれだけの問題は解決する事は無いと考えます。
家紋変紋や常光寺扱いや系譜の添書などの事は一度に解決する事はあり得ないと考えます。
5 その再興のもう一つは、甲斐の国の最大34%を占めるこの時代最も勢力を大きく伸ばした曹洞宗を使った事による事も見られます。(史料 後編)
曹洞宗は農民や下級武士の入信団でありました、この大多数で常光寺を青木氏だけの菩提寺だけのものとせずに開放したと見られます。
故に時光から11代「信安」での墓所と成っているのはこの事が原因と成ります。
武田氏の滅亡寸前で寺を「1氏で運営維持する事が難しく成った事」と「農兵を確保する手段」でもあったのです。つまり、豪農、庄屋、名主、郷士、豪商等の農兵指導者の確保に動いたのです。
この事に「親子の路線争い」が起こり「別家」を興すなどの事が起こったのです。
この様な中で常光寺に「信安11」の祭祀がされている事に疑問が解決します。(後述)
1567年頃に改宗したと見られますので、その後の改宗後の「信安」が曹洞宗常光寺に祭祀され最後の人と成っているのはこの事だも働いていると観られます。
つまり、それは曹洞宗改宗の意味が違ったのではと観られます。
信定の”特定の僧侶に帰依”だけでは改宗は、当時の生活に密着した宗教の慣習から相当強引に実行しなければ無理で、「氏家制度」の中では一族の総意でなくてはなりません。一人が変えても周囲一族が変えなくては成り立ちません。
一人の者の意思だけで成し得る「氏家制度」の時代では有りません。「助け助け合いの慣習」の中ではこの様な事をすれば無視され、場合に依っては廃領されしまい浮いてしまいます。
改宗は「象徴と伝統」そのものを壊す行為です。この様な”帰依した”だけでは済まないのが氏家制度です。
恐らく、非常に多い歴史結論に見られる現代感覚で思慮した説であると観られます。最近痛感する事柄です。短期間(6年)の間の出来事からこの事を誤って考証されたと見ています。
「跡目」などの「路線争い」が起こっている処から観ると、「織田氏との決戦」を控えての「政治的決断」と考えられます。だから、「改宗事件」があっても本流の後継者浄土宗信者の「信安」が祀られたと観られます。そして、滅亡後には「丸に花菱紋」の寺紋となって正味の下級武士とや土豪や庄屋や豪農等が入信する一般曹洞宗寺に成ったと観られます。
「柳沢氏の検証と石燈」
花菱紋の柳沢氏との関係の考証は、その「柳沢氏」から石燈を花菱紋青木氏の菩提寺浄土宗源空寺に贈られた事は史実とし柳沢氏の記録の中に記述がある事です。
この石燈は現在も廃寺浄土宗源空寺跡に保存されている事から確認出来ます。
又、同石燈は柳沢氏菩提寺浄土宗光沢寺(廃寺)にもあります。この二つは極めて類似します。
柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連にで源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
それは「豊定−信立−信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
「信生−信正−信定−豊定」の時光系の割菱紋 副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事に限定されてくる事を意味します。
この事は後編で論じますので、更に、ここではその裏付となるこの石燈を送られた時期等に付いて詳しく検証する必要が出てきます。
「石燈を贈られた可能性と時期」
次ぎの様になります。
分家の時代から観て、付き合いが見られた時期は、江戸の親族付き合いの慣習と系譜から平均45歳として4−5代とすると、5代目の吉保(1714没)が没した時期の享保元年位(1712-1716)までは親密に付き合いしていた事に成ります。
付き合い期間 (1582)−(1712−1716年)頃まで
武田氏滅亡1582年、約140年と成りますが、石燈を贈るとすると1676年頃以降と見ます。4代目位のところです。
石燈奉納時期 1676年以降−(1680-1688) 柳沢吉保期
そうすると、柳沢安忠の時代です。安忠は1602−1687年です。
徳川氏に仕官し、この時代は250石程度の貧困時代です。石燈を2つ贈る余力は有りません。
次の子供は柳沢氏最大の立身出世吉保の時代と成ります。
石燈を贈れる身分は1680年の小納戸役から吉保(1658-1714)が30歳1688年に大名格に出世した期間と成ります。
最終、吉保は1694年の川越藩72000石から、1704年の甲斐の国三郡(山梨、八代、甲府)15万石を知行地とします。
吉保(吉里)が奈良郡山に転封する前と成ります。この1688年の1年前は父親の享年です。
吉保の納戸役に成った時1680年頃か、1688年の大名に成った時の何れかです。
推理と一致するとすると、
第1説 1676−1680年。
或いは、「父親の喪中明け」に巨摩郡青木氏花菱紋正定系の浄土宗源空寺と柳沢氏の元祖豊定(正定兄弟)の光沢寺に2対を贈った事に成ります。
第2説 1688年
後者の大名に成ってから贈るには立場上に問題があり過ぎます。
送れる能力が出来た頃である筈です。氏家制度の社会慣習の中では「親族付き合いの義理」が重んじられる慣習(一族で力のある者は無い者を助け、無い者ある者の力と成る)から観て、これを欠くと人は付いて来ませんので贈れる事が出来始めた頃となると前者(1676-1680)の1680年と観られます。
結論 1680年の奉納
浄土宗源空寺石燈は間違いなく記録から柳沢氏からと観られます。
これは次ぎの証しとも成ります。
1 花菱紋青木氏の菩提寺検証の充分な証しと成ります。
2 別家を興した正定の花菱紋青木氏とその菩提寺浄土宗源空寺の建立、
3 弟の豊定も別家花菱紋の柳沢氏を興し光沢寺を建立の証しに成ります。
4 この石燈は、信興の割菱紋柳沢氏では無く、豊定系の花菱紋柳沢氏である事の証しにも成ります。(信立の事も証しの一つですがこの件は後述)
次ぎの証明です。
「氏神に保管の仏像」と「氏神の神紋の花菱紋」
この事は「花菱紋ステイタスの仏像」と「廃仏毀釈と源空寺」の事件に関わります。
明治の愚策として有名な維新政治を断行する「廃仏毀釈」ですが、歴史的に有名な貴重な寺など文化財が無くしてしまいました。この愚策も当時学者の愚論が成したもので甲斐の武田氏の貴重な「伝統」が消えてしまいました。この様な研究をして大変な努力でその史実を戻す必要があるのです。
花菱紋の祖の「正定」主家が建てた青木氏菩提寺浄土宗源空寺ですが、浄土宗の開祖「法然」の法名「源空」を採って名付けられたのです。その山は「法然山」として開山します。
甲斐青木氏の菩提寺の浄土宗寺ですので、ここに彼等のステイタスとするところの仏像が明治の廃仏毀釈まではあったと伝えられています。
現在、不明であり、一時、源空寺廃寺になった際に近隣の氏神社に保管されていたと伝えられています。
地元の口伝によれば、この源空寺を市当局が昭和の末に住民の申請に基づき調査し、その伝統の重要性を認め市の寺跡としては「文化財」として保管管理しているとの事です。
恐らくはこの「仏像の所在」が確認されれば、廃仏毀釈で壊された甲斐武田氏花菱紋の一部の「伝統」が子孫に遺される事になります。地元では期待されています。
源空寺には現在、過去帳や書籍記録などは不明であり、柳沢氏から贈られた石燈だけが遺されています。(上記検証済み)
廃寺と成った源空寺と住民檀家の意思で江戸時代に造られた嘉永年間の「釣鐘」が神社に保管されているとの事です。
これ等の遺品の所在が確認されれば、正定系花菱紋青木氏と豊定系花菱紋柳沢氏との関係の証しとも成ります。恐らくはその記録書籍にも明示されているものと思われます。
青木氏と柳沢氏が徳川氏に仕官して移動した経緯や、1590年の武川衆の武州(武蔵:埼玉鉢形)への代替地などでの移動で明示の廃仏寺に宗家筋に引き取られている可能性も否定できません。
従って、武川筋には花菱紋の青木氏や柳沢氏の子孫末裔は無く、全て徳川氏の命で鉢形に移動しているのです。
巨摩郡には両氏ともにその末裔は、江戸時代には極めて少なく、依ってこれ等に関する全ての史実が両方の土地では歴史が霧散しているのが現実なのです。
これ等が確認出来れば武田氏、青木氏、柳沢氏との完全な形の証拠が裏付けられますが、間違いは無いと考えますが、最早、個人の提供なしでは現状ではこの程度の検証と成ります。ここまで把握するだけでも大変な苦労を伴ないます。武田氏は兎も角も青木氏と柳沢氏に関しては進めたいと考えます。
「曹洞宗改宗の対応」
花菱紋の正定を元祖とする青木氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗源空寺を開基しています。
花菱紋の豊定を元祖とする柳沢氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗光沢寺を開基しています。
(時光より2代目常光は真言宗常光寺を中興開基しましたが、更に天正元年頃前(1567)に13代目信定が曹洞宗常光寺と中興開基したのもこの同時期です)
甲斐の賜姓族を含む皇族系青木氏(武田氏系青木氏)の一門3氏6家は独自の菩提寺と氏神を当初持っていたと考えられます。
その浄土宗寺を確認すると、甲斐には4寺のみです。
その内、甲斐巨摩郡付近の浄土宗寺は次の通りです。
1 定額山善光寺(甲斐)
2 岩泉山光福寺
3 功徳山尊たい寺
以上3寺があります。
甲斐の賜姓青木氏も青木村と寺社(国府跡)を持っていたことが史実として判明していますが、それが時間の経過に伴ない不明に成っていました。しかし、先日、寺本の庁舎南横がその寺であったことが判明しました。(皇族賜姓青木氏 国府跡)
その後、当然に、青木氏の慣習に基づき、当初は武田氏系青木氏の3氏6家(時光派、源光派)の「統一した菩提寺と氏神社」があったと考えられます。
先ず一つは、真言宗に改宗する前の常光寺であったと考えられます。
ただ、その完成から時光没までの期間が短いために、2代目常光が故意的に「中興開山」して新たな寺として、尚且つ、真言宗と改宗してしまったのではないかと思われます。(中興開基と開山と寺名の変更が記録されているので、建立当初は浄土宗であったと観られる証拠で、建立から極めて短期間のためにその寺名は不明となったと観られます。
この様に、この2代目常光の行動は不自然です。
源光系2氏としては、新たに開基、開山され、宗派が違えればこの寺を使う訳には行きません。
まして、念を押すように、時光派の自分の名を寺名に付けた極めて不自然な行動からすれば源光系2氏は引き下がる以外に方法はありません。
”そうする事で源光系2氏を排除した”と考えれば、常光の突然の「中興開基、開山」「真言宗改宗」「寺名変更」の理由は成り立ちます。
そうなれば、常光から真言宗、建てた親の時光だけは浄土宗の常光寺の理由は成り立ちます。
ここで、常光寺には11代分の墓がある事は上記した通りです。(疑問7)
時光より14代目正定と豊定が夫々浄土宗源空寺(松源寺)と浄土宗光沢寺を建立しましたので、以後の墓所は断定できます。しかし、12代目信正と13代目信定は何処に祭祀されているかの疑問11Aが残ります。(但し、信正、信定、正定等の代数は信生系譜説を前提 後述)
「信正と信定の祭祀場所」
先ず、時光より「12代目信正の添書」によると次ぎの様に書かれています。
与兵衛 尾張守 武田信虎に仕える。法名深見、
祭祀推定場所の浄土宗尊たい寺
寺記によると次ぎの通りです。
寺の創立は大永元年(1521)。
武田信虎が忠蓮社弁誉上人を開山に迎えて開いた。
初めは古府中の元柳町(武田3丁目)にあったが、文禄・慶長(1592〜1614)の頃、加藤、 浅野氏ら豊臣大名の甲府城築城にともない、現在地に移転した。
以上の添書が在ります。
考察すると、割菱紋の信定は浄土宗です。よって真言宗常光寺(曹洞宗になる前)になく、源空寺、光沢寺にもないとすると、浄土宗寺は上記二つであり、時代性、武田氏縁の寺でもこの寺のみです。信定は史実では何処にも移動していません。時光系の守護職「尾張守」であった人物です。
添書”信虎に仕えた”とすると、信虎が建てた尊たい寺と成ります。
ここに祭祀されている可能性があります。
「時光より13代目信定の添書」
藤九郎 主計頭 信玄と勝頼に仕える 天正3年長篠の役(1576)で討死 法名宋青 妻桜井安芸守の女
祭祀推定場所は浄土宗光福寺
寺記によると、次ぎの通りです。
甲斐源氏の祖である新羅三郎源義光が、「後三年の役」の時、奥州で戦死した人々を弔うために、嘉保2年(1095)に空源法印を開山として「寂静院」(横根寺)という真言宗寺院建立した。
その後、山崩れで寺は失われたが、天文16年(1547)に武田信玄が、先祖の由緒ある寺として再建し、その時に「光福寺」と寺号を改めて浄土宗となった。
考察すると、常光寺を曹洞宗に改宗したのは信定本人です。しかし、この常光時には時光から11墓ですから11代目と成ります。「信安」までです。つまり、12代目と自分13代目は祭祀されていないことを意味します。
記録から時光系の守護職「尾張守」であった信定は祭祀されていません
”では何処に”と成りますと、後は信玄が建立したこの寺しか有りません
何はともあれ、甲斐甲府付近には浄土宗は3寺です。甲斐善光寺は武田氏本家で青木氏は祭祀されていませんので上記2寺です。これが時代考証として「信虎」と「信玄」に夫々合致します。
もし、ここに無ければ他国と成りますのであり得ないと思います。
(一蓮(寺尼寺)と長禅寺の宗派のない単一寺で異なります。)
確かに、両者は時光系青木氏割菱紋 副紋葉菱紋の本家では無く妾子により割り菱紋の分家(葉菱紋無し)を興したわけですから、その意味でも本家筋が祭祀には拒絶すると考えられます。
しかし、信正と信定は当時は「尾張守」で時光系青木氏の主導権を握っていた人物です。
まして、信定は常光寺を主導者として10代まで祭祀されている寺を独断で曹洞宗に改宗してしまった人物です。この事から考えれば、まして親の信正と自分を祭祀させようとすれば簡単に出来る事です。
これだけの条件が揃っていながら、祭祀されていないのは、他に祭祀される寺があった事を意味します。まして、自分が入らずに甥に当る本家の信安が曹洞宗に改宗した後に最後の人物として祭祀しているのです。
常光寺は宗派は別として、信定が尾張守で甲斐青木氏の主導者であっても「時光系青木氏の本家」を祭る寺として扱い、そこで曹洞宗に改宗して時光系青木氏だけの菩提寺とせずに一般化した事で、以後青木氏の祭祀を打ち切るとして決断し、物事の「けじめ」を着け、親の信定と自分は上記二つの寺に祭祀される様に武田宗家に申し込んだと考えられます。
(信定は信玄と勝つ頼に仕え、この時は勝頼)
その宗家の許可の背景には、曹洞宗にする事の利益、つまり、甲斐全土35%の「宗派の力」とその曹洞宗信徒から来る「農兵の勢力」の確保にあったからに他なりません。(曹洞宗は下級武士、庄屋豪農、名主、郷士、を信徒とし、それに連ねて農民が帰依した。)
この時期は織田氏との戦いを前にして家臣が離散し、兵が集まらずに躍起と成っていた時期であります。これ等の条件が重なり過ぎています。
「常光寺前の経緯」
”時光は武田氏から離れ、清和源氏の朝臣族を理由に「嵯峨期の詔」に従い「皇族青木氏」を名乗り、弟の源光の「皇族賜姓系青木氏」の2氏と共に統一した甲斐の「青木氏の菩提寺建立」に着手した。”と成ります。統一した青木氏の寺を建立しようとしている位に青記氏に津からを入れています。
その時光は賜姓源氏清和源氏の充分な身分家柄の末裔でありながら、敢えて同族青木氏を名乗る必要性は有りません。そもそも賜姓源氏と賜姓青木氏は皇族系の同族です。しかし、名乗ったのですから、そこで、”何故青木氏を名乗ったのか”と云う元の疑問1が出ます。
「青木氏を名乗った理由」
”甲斐の本流の「皇族賜姓青木氏」と血縁した武田氏系青木氏(賜姓血縁族青木氏2氏)を持つ弟源光と、弟に合わせて兄時光系からも青木氏を発祥させる事にした。”とすれば証明が付きます。
そこで「全甲斐青木氏菩提寺」を建て始めたとする事で疑問の経緯は成り立ちます。
従って、全甲斐の皇族青木氏を含む武田氏系青木氏の当初の寺(浄土宗常光寺)は、2代目常光の行動により常光の代から天正3年前まで(1576頃)時光系の真言宗菩提寺として使ったとすれば(既にこれは確定していますので)、別に武田割菱紋宗家の青木氏(源光系)と武田菱紋の青木氏(源光系)の独自の末寺と氏神社が別にあったと考えられます。
(武田氏系花菱紋の青木氏(時光系)を除く)
では、それは何処なのか疑問11Bです。
(甲斐皇族賜姓青木氏宗家は寺本の古跡寺院跡)
この2氏は当然に浄土宗寺ですが。その浄土寺は上記した様に甲斐では2寺のみしか見当たりません。
12代目(信正)と13代目(信定)は時光系ですが、系譜通り家紋は割菱紋を使っています。
とすると、源光系の皇族賜姓青木氏の「武田割菱紋」一族もこの第13代目「信正」の祭祀されていると推理される「尊たい寺」と成ります。
源光系の皇族賜姓青木氏の「武田菱紋」も皇族賜姓族の清和源氏の祖を祭る事で「光福寺」であると考えられます。
もし、源光系の青木氏は賜姓系である事から、寺本の国府跡にあったとされる寺院に祭祀されていたとすると、「国府」が武田氏によって笛吹市に移動された時期と寺の消失時期が問題に成ります。
源光系の武田氏系青木氏の発祥は、武田氏が最初に国府移動させた後に成りますので、寺本の寺院は賜姓族本家筋のみであるとなり除外できます。(国府は甲斐では3回移動させている)
そうなると、この二つの浄土宗寺は次ぎの氏を祭祀してることに成ります。
時光系青木氏12代目割菱紋(尊たい寺)
時光系青木氏13代目割菱紋(光福寺)
源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田割菱紋(尊たい寺、光福寺)
源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田菱紋(光福寺)
その経緯からすれば、13代目の信定の曹洞宗に改宗する理由背景は”曹洞宗の僧に帰依した”とする単純な理由説で良いのかと疑問11Cが湧きます。
現在ではいざ知らず、「氏家制度」によって成り立っている社会です。
そんな事をすれば一族の「伝統と習慣」が壊れ一族郎党が大変な事に成りますし、信定本人や本家の存続が危ぶまれます。
上記で述べた様に、信定は実の3人の子供が居ながら次ぎの様な脅威の事を断行しました。
1 他家から養子(信之 高尾氏)を迎え柳沢郡の青木氏を継がせた。
2 嫡男(正定)に別家を作らせた。
3 次男(豊定)には新規に別家柳沢氏を発祥させた。
4 三男(豊勝)に兄正定の養子として分流跡目の割菱紋を継がせた。
5 信生(信時の養子 落合氏 信安の義弟)を本流(割菱紋 副紋葉菱紋)から迎えて分流始祖に据えた。
(系譜上、父信正の祖に据え義祖父とした。信生−信正−信定の説 後述)
と云う5事件が起きたのです。
更には、次ぎの様な事も起こっているのです。
1 曹洞宗改宗事件は天正3年前(長篠の役前)に武田氏が危ぶまれている時期に起こっています。
2 武川衆の去就(離脱)も左右している時期です。
3 真言宗常光寺の存続も危ぶまれている時期です。
4 真言宗は密教ですから尚更に運営維持は困難と成って居た筈です。
5 信定にとっては政治的に身動き出来ない事に成っていたと考えられます。
6 実子(正定、豊定)と「路線問題」の意見対立が起こっていたと見られます。
故に、「浄土宗源空寺」の経緯は、強引に又は止む無く「曹洞宗常光寺」に成った事により、浄土宗派(正定、豊定)が、常光(真言宗)や信定(曹洞宗)の採った処置を、元に戻そうとした行動と成ります。
当然に、ここで、武田系青木氏の中に「浄土宗派」、「真言宗派」、「曹洞宗派」が生まれるのは自然の摂理です。
「5つの浄土宗派」は次の通りです。
「甲斐皇族賜姓青木氏」1氏
「武田氏系青木氏(源光)」2氏
「花菱紋青木氏(正定、豊定)」2氏
以上5浄土宗派は、依然として勢力を持ち現存している中で、浄土宗派が元に戻そうとする行動は自然、必然の行為です。
では、次ぎに真言宗になった時点で浄土宗派はどうしたのかと言う疑問12が生まれます。
「浄土宗派の行動」
「光福寺」と「尊たい寺」の前身を堅持していたと見られます。
これ以外に甲斐には浄土宗はないのですから、「宗派伝統」を護るためにもこの二つの寺を堅持する以外にありません。
その武田氏系青木氏の経緯を観ていた「信虎」と「信玄」が、武田氏の本家筋の寺としてでは無く、改めて改宗をして全武田氏系青木氏の菩提寺として2つの寺を再建したと考えられます。
だから、「信虎、信玄」の時代、即ち「信正と信定」の時代に改宗しているのです。
又、だから真言宗常光寺も11代分(信定の前の信安)までの墓しかないのです。
信虎、信玄、(勝頼)は、特異な行動を採る常光寺を除外し、この二つの寺を再建して伝統の浄土宗の武田氏系の菩提寺としたと成ります。
5つの浄土宗当事者と本家の「信虎、信玄」を含む浄土宗派武田氏は「真言宗と曹洞宗の改宗」に対して対策行動を採った事に成ります。
この宗家の行動は自然で当然の行動と考えられます。これで筋道が通ります。
しかし、この行動も直ぐ後(天正3年1576、武田氏離散 天正10年1582 武田氏滅亡)で難しい問題に直面したのです。(史実としては1573年頃から崩れ出した)
この事で、これ等の寺を棄てて全武田氏系青木氏が各地の藤原秀郷流青木氏を頼って逃亡しました。
当然に、信虎や信玄の折角の浄土宗寺の再建にも檀家の青木氏が逃亡したのでは維持管理は難しく成ります。
(逃亡した武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏は逃亡先に御霊を移して菩提寺を建立した)
その後、この2つの寺も戦国時代で火災消失が起こりその記録などが無く成っているのです。
現在はその再建した寺ですので上記の事が記録として確認出来ないのです。
しかし、後にも先にも甲斐にはこの二つの浄土宗寺のみですので、浄土宗派には祭祀はここしか有りません。その意味でも花菱紋の源空寺の存在は重要です。
次ぎに、この花菱紋に「丸付き問題」が続きまたもや事件が起こったのです。
更には明治の「廃仏毀釈」が起こったのです。
「廃仏毀釈廃寺の理由」
全国の廃寺の寺は殆どが「末寺、檀家数、特定寺」によって廃寺処理されています。
明治政府にとって観れば維新政治を断行するには宗教勢力を弱体にする必要がありましたのでこれ等を基準に潰したのです
このことから考えますと、青木氏の源空寺と柳沢氏の光沢寺はこの条件に合致し末寺の花菱紋2氏の青木氏菩提寺であった事から、一般性に欠ける「特定寺」「小さい寺」として(本寺があるとして)廃寺されたものと考えられます。(松源寺は武蔵鉢形に移された 廃寺)
親族の末裔「柳沢曲渕」を元祖とする寺(豊定系)が甲斐(光沢寺−奈良に移動 永慶寺廃寺−末寺大泉寺)に別にあリますので、花菱紋の正定系の2氏も当然に独自の寺を持っていた事に成ります。これが源空寺と松源寺です。そして、源空寺の廃寺の際に花菱紋の一族のステイタスも含めて寺の物事を近隣の神社に移動させたとする口伝がありますので、大切なものであったとされます。
その花菱紋一族のステイタスが「仏像」であった事に成ります。
当時、伊勢を初めとする皇族、賜姓青木氏にはそのステイタスとするところの仏像を保持していました。
甲斐の皇族賜姓青木氏(源光系含む:慣習で仏像を与えている)には寺本の国府寺が消失しているので、そのステイタスの存在如何は今後の研究課題です。
しかし、甲斐の花菱紋の「仏像」が存在しているとすると、まして、その寺の寺紋が花菱紋の丸なしです。(現在、昭和60年前後以降この仏像の所在は確認されていない)
花菱紋の青木氏の氏神が現存すると云う事は、花菱紋のステイタスの仏像もある事に成ります。
藤原秀郷流青木氏主要9氏116家も同じ独自の寺社神社を持っていますので、家紋の事も含めて丸付き紋なしの花菱紋であれば間違いなくその慣習に従っています。
この研究が今後の課題です。
そこで、武田氏と武田氏系青木氏の家紋には「丸付き紋」は本来は採用していません。
まして、一条系(後呼称)とされている源時光系の花菱紋族となれば尚の事です。
藤原摂関家北家系の一条、九条、鷹司、近衛の公家4氏一族の母方です。名門中の名門です。
その名門に仮に「丸付き紋」が存在するとした場合、「家紋掟」1−8のどの原因で「丸付き紋」に成ったのか「原則が崩れる大きな問題」が存在し、それを研究することは甲斐の「武田氏系花菱紋青木氏」を解き明かす上で必要と成るのです。
そこで、以前より「丸付き花菱紋」を調べていましたが、花菱紋の系譜添書から観て、分家筋には丸付き紋になる原因が発見されました。この「丸付き花菱紋」は柳沢郡青木村の青木氏が「特定の事情」により「丸付き紋」を使用しました。この事は上記検証済です。
江戸中期以降はこの家紋掟の1−8が緩やかに成りました。
しかし、追記しておく必要がある事として、次ぎの系譜添書が発見されました。
天正の頃、その時代付近では、花菱紋の正定が別家を起こしました。そして、その別家末裔が発展し正定より享保の頃、5代目信秋のところで、養子縁組が起こっています。
当初、この下記青木氏が柳沢郡青木氏として考察していましたが異なりました。
詳細に調べた結果、次ぎの様な検証と成りました。
他氏の同姓の青木宗頼の次男「信秋」が花菱紋青木氏分家「信知」(正定系)に養子に入っています。
この養子先実家の青木市郎兵衛宗頼が何処の氏なのか疑問でした。
当初、柳沢郡の青木氏とも考えられていました。
今回、「丸付き紋」を調査していて、更に検証の結果、「丸付き紋」に成った背景が享保(1735年)頃と判断されていたがその可能性が乏しい事に成ります。
そして、天正の時期が最も適合するとの推理から、添書を更に徹底調査し史実を発見した事に成ります。
これも添書調査を行った結果、享保のこの養子先家紋は花菱紋を含む武田氏系では有りませんので、柳沢郡青木氏の可能性はなくなりました。
そこで、念のためにこの信秋を考察したところ、添書と史料を付き合わせると次ぎの事が書かれていました。
「添書と史料」
三五郎 太郎右衛門 実は青木市郎兵衛宗頼の次男 母は小栗平吉久弘の女 信知の養子となる 宝永6年大番に列する 享保20年組頭に進む 寛保元年51歳にて死す 法名常心 妻は松平勘十郎忠隆の女
史料
その元と成ったキーワードは「享保」「・・兵衛」「小栗氏」「江戸」です。
徳川吉宗の享保改革として、伊勢松阪の豪商伊勢青木氏本家(紙屋青木長兵衛)から吉宗に請われて紀州藩から同行 吉宗の享保の改革を勘定方として断行する。江戸に伊勢青木氏の分家2氏の末裔が出来る。吉宗は伊勢の紀州藩家老加納家に育てられる。吉宗と知友 加納家と伊勢青木氏とは数度の血縁関係にある。同時に伊勢青木氏は紀州藩勘定方としても奉仕する。
以上の伊勢青木氏の史料から享保時代の内容が出てきました。
享保時代の江戸の青木氏は史料から6氏程度と見られます。
この一つが「青木市郎兵衛宗頼」の氏と観られ分家の1氏と成ります。
以上の内容からこの伊勢青木氏の「通名等と時代性」と血縁性が酷似していますので、この氏とも考えられます。
(何れも徳川氏家臣ですが、この氏は1−8の家紋掟から観て「丸に花菱紋」に変わる根拠が発見されません)
つまり、別に享保時代に正定の武田氏系花菱紋青木氏の末裔と笹竜胆紋伊勢青木氏との血縁があった事が覗えます。(今後充分な検証要)
信正−信定系譜の高尾氏からの養子「信之」の末裔が丸付き紋の花菱紋を使った事が上記で検証しましたので、特記として正定の養子の「青木宗頼」は伊勢青木氏のルーツとの血縁がある可能性がある事も判りました。
「丸付き紋の第3氏の青木氏」
系譜を確認する際に於いて最も考察しなくてはならないのは、第1期、2期の「未勘氏」と「第3氏」ですが、賜姓青木氏や藤原氏一族主要5氏や賜姓源氏等の名家はその特定の定住した地域に多く発祥しています。
この「第3氏と未勘氏」には必ず「氏家制度の慣習」の矛盾が起こります。
前のレポーにも書きましたが、先ず、「菩提寺の有無」と「過去帳の有無」、それに先祖の「最も古い人」が江戸中期前の人である事などで直ぐに判ります。
幾ら系譜などで「搾取偏纂」しても氏家制度の社会の中では絶対に変更できない事が発生します。
中級武士、又は下級武士は寺に過去帳を作ります。
氏家制度の慣習の中では、姓を持たない者は時系列が取れませんので「過去帳」を作れず持ちません。又、庶民にはその社会習慣がありませんでした。一部苗字帯刀を許された者以外は例え持ったとしても江戸中期以前は認められなかったからです。
豊臣政権下の「兵農分離令」以降に於いて一部苗字帯刀を許された者として次の家柄が挙げられます。
A 庄屋、
B 名主、
C 豪農、
D 郷士、
E 郷氏、
F 豪商
以上です。
これ等の者はもとより鎌倉期−室町期初期では武士であった事と、「伝来の姓」を堅持していた事が「共通条件」です。「過去帳」も持っている事と、「墓所」も持っている事に成ります。
「それなりの伝統」を堅持しています。
しかし、これ等以外の庶民は宗派(改宗)は単独では変える事は出来ますが、特定の宗派(浄土宗寺)が受け付けませんし、姓を持ちませんので出自の確認は当然に出来ません。
個人一人が名乗ったとしても親族関係が変化していませんので判別できる事に成ります。
この様に江戸中期前は当時の「氏家制度の慣習」は厳しいものがありましたので、一つ一つを潰して行けば必ず矛盾が生まれます。
現在の感覚から判断して「第3氏、未勘氏」は差別的と考える人が居られますが、当時の「氏家制度」の社会慣習からは普通の事で、特に本サイトだけの事では有りません。
一つの青木氏の氏として系統的に纏め様と試みますが、何せ”「氏姓」を持たない”と云う事から物理的に、「不特定多数」である為に「系統化」出来ないのです。又当然、「特定の事件性を持った第3氏か未勘氏」6氏以外に古史料も有りませんので調べる事は出来ないと云う難点があります。
多くの明治以前の歴史書では「第3氏、未勘氏」の区別を明確にしています。当時としては区別しない方に社会慣習から異常感があったのです。
今回の系譜、添書、史料からの検証もこの系統的なものがある事から成し得たものです。
本サイトでも、「第3氏と未勘氏」に関してはすでに一部のデータもレポートしています様に、上山氏等の特定6氏の第3氏青木氏の研究データを保持しています。
将来、上記AからFまでの青木氏に関する研究を試みたいと思いますが、しかし、最早、武田氏系青木氏の研究も難しく成りつつある今、その史料と成るものの発見が困難と観られます。
注 「青木氏氏 研究室」「明治期に発祥した第3の青木氏」レポートに詳細の検証項目を列記していますので参照して下さい。
現実には、皇族賜姓青木氏29氏と藤原秀郷流青木氏119氏以外の「第3氏又は未勘氏」の方が格段の差で人口的には多い事に成ります。
さて、「信之」の「花菱紋」に関しては、系譜上は初代より養子の連続で「丸に花菱紋」は「第3氏」ではありませんが、血縁関係としては全く有りません。(上記済み)
「寛政史書」の「寛永青木氏第三の系図」の歴史書にみる様に、又「古書家紋200選」や「全国家紋8000の家紋集」にも掲載がない所をみる様に、ある意味の「第三氏」である事が検証の結果判りました。
しかし、この「第三氏」として扱われている青木氏にも、甲斐には上記したルーツ(系譜と血縁)を持たない「第3氏」(氏姓を持たない)が多く存在します。
上記の様に、武田氏系青木氏は殆ど完全に近い形で一族郎党が移動している現実があります。
武田氏滅亡により、関東に逃亡、徳川氏仕官、秀吉の甲府関係の築城で転地、徳川氏の代替地、で本家宗家を含む一族郎党、菩提寺氏寺、氏神も持って移動しているのですから、他の国の青木氏と違い甲斐としては特別な第3氏、未勘氏」の意味を持っています。
これ等は「個人の意思」とは別の「政治的な移動」であるからです。
「花菱紋」の浄土宗菩提寺源空寺には、この「花菱紋(浄土宗)」と「丸に花菱紋(曹洞宗)」の問題が後世に於いても面倒な遺産として遺しています。それだけに、家紋の変紋と共に、甲斐武田氏系青木氏には「浄土宗、真言宗、曹洞宗の改宗問題」が大きい物であるかが判ります。
しかし、この検証結果から「丸に花菱紋」(第三氏)の源空寺問題には差違を生じている事は否めません。
また、武田氏衰退滅亡(1573-1582)と共に、「丸付き紋」も含む第3の系図青木氏は例外なく武田氏系青木氏と見なされて全ては逃亡して本家分家ともに主に現在も関東の東に在住しています。当然に氏寺や氏神(御魂とステイタス仏像)を移動させているのです。
甲斐は織田氏に滅ぼされて、更には豊臣、徳川氏の支配下に置かれました。(1582信長死亡)
従って、1585年戦後処理の後には、一部身元引受人の藤原秀郷流青木氏の許可を得て再びその地に帰る事もあったとも考えられますが、徳川の家臣団に組み入れられましたので移動は現実には困難であったと考えられます。
「花菱紋の柳沢氏の出世」
特に、柳沢氏の吉保の出世に伴ない甲斐の武田氏系青木氏を初めとする出身家臣が多くなったと考えられます。
豊定を元祖とする柳沢吉保は概暦は次の通りの出世をしています。
1 綱吉の小姓 111石 1675年
2 小納戸役 500石 1680年
3 従五位下 6500石 1685年
4 側用人 12000石 1688年
5 従四位下 32000石 1690年
6 老中侍従 72000石 1694年
7 甲府藩 150000石 1704年
8 郡山藩 150000石 1709年
以上石高から観た概暦です。
(当時の慣習では史料からバラツキがあるが戦い時には1万石で平均4−5騎が義務付けられたとする。)
小姓時代は0人、小納戸役時代は1-2人、6500石時代で100人 12000石では300-400人 32000石では900-1200人 72000石では1800-2400人 150000石では3700-5000人
恐らくは、甲斐の武田氏系青木氏の者の内、親族の巨摩郡青木氏の「花菱紋族」はこの柳沢氏家臣団を構成したと見られます。
一騎50人を原則としていますので、身内から集めて石高に合わせて家臣団を作る必要があります。そうなると当然に先ずは身内から集める事に成ります。
「柳沢氏と家臣団と家紋の分布」
柳沢氏は35年の間に家臣を上記の推移で養っていたと考えられます。
これ等は主に甲斐の花菱紋を始めとする3氏6家と武田氏縁の家臣を集めて編成したと考えられます。これ以外に直接徳川氏の旗本と御家人に成っているものが殆どである事から、1688年の頃には武田氏系3氏6家は充分に一族郎党が吸収される能力を保持している事に成ります。
当然、吉保4代前の元祖豊定の兄弟の正定の花菱紋の親族を中心に家臣団を構成したと考えられるますので、花菱紋の末端まで吸収されたと観られます。
1 中部から関東にかけて藤原秀郷流青木氏に保護されていた源光系の武田氏系の青木一族
2 神奈川横浜、栃木、常陸に移動した諏訪族青木氏、諏訪族武田氏系青木氏
3 時光系の武田氏系青木氏の武蔵、上野の青木氏
4 武川衆の武蔵鉢形に代替地移転
5 讃岐、高知、阿波の藤原氏を頼った源光系青木氏
6 安芸を毛利氏を頼った武田氏分家一族
7 武田氏宗家 第1縁戚8氏、第2縁戚7氏
8 甲斐国隣接する国境の武田氏家臣の同心一団
以上に移転し、その後、柳沢氏や徳川氏の家臣団に加わる事に成ります。
各地から身内を呼び戻して家臣に加えたと観られます。
柳沢、八代、江戸、川越、甲斐、郡山へと花菱紋を中心とする武田系の家臣団は移動し、甲斐には柳沢氏の配下に成った者は1704年頃には殆どは故郷に戻った事に成ります。早い者は1688年に戻っている事に成ります。
問題はその5年後の奈良郡山郡への移動では家臣は戦時と異なり減少をしている事が考えられるので、減少すると見て、甲斐には僅かに一部残留組が留まったとも観られます。
しかし、「武士を捨てる云う選択」に迫られる事が起こるために土地家屋を失った所では青木氏の一族郎党は直に生活に困ると云う現実問題が伴ないます。
数として考えられない範囲の若者の個人単位であったと観られます。
この事から、江戸、川越、郡山にも花菱紋の青木氏の多くが定住し存在した事が考えられます。
柳沢吉保は武田氏として再び甲斐3郡(山梨、八代、甲府)の15万石の大名(1688)になり、再び花菱紋の武田氏が領地を取り戻した事に成ります。
逆には、甲斐に戻れたとした場合は、113年後には、関東の逃亡先からの武田氏系青木氏は戻った事も一部であるが考えられますが、但し、100年以上も経っている事から武士として戻る事は不可能と観られます。
既に生活基盤が出来ている年数ですし、住めば都です。100年(当時では3−5代)も逃亡先ではその生活も出来ている事もありますので極めて少ない事であろうと考えられます。
しかし、一族揃って徳川氏の家臣となりましたので、柳沢氏の家臣団の移動以外の武士の移動は国抜け脱藩となり罪人と成りますので、現在の移動とは比べ物にならない困難さであったと観られます。
この様な、動きを証明する事件が起きています。
柳沢氏以外にも、この事に対して、一派の家臣を救う次ぎの様な動き(8)がありました。
1 武田氏の家臣で徳川氏に仕官した「大久保長安」なる者(八王子8000石)が家康に「治安と要衝地防御」を理由に建言し、「八王子500人同心」を編成する事を許可され、離散した武田氏家臣を吸収しました。
2 又その後、その効果ありと観た家康は「八王子1000人同心」を追加指令して多くの武田氏浪人を救ったのです。この策を武田氏の家臣の分布する国々に「・・同心」を編成して治安を回復を進めたのです。
3 他には、武田氏宗家の生き残りは伊豆大島の流刑となり50年間滞在する事に成ります。
その代表的な事件として、武田信興は柳沢吉保の働きかけで、この流罪刑を解かれて戻り、一時、同族柳沢吉保に護られて生活をします。
4 更に許されて武田氏最後の地の八代郡に戻されて500石を与えられて旗本にし一族家臣を引き取りました。
恐らくは、これが最後の武田氏の救済作であったと観れます。
「武田氏の救済策」
徳川氏の仕官した一団、
八王子大久保氏に救済された一団
柳沢氏に吸収された一団、
八王子大久保氏に救われた一団、
四国讃岐籐氏に保護された一団、
藤原秀郷流青木氏を頼った横浜神奈川に定住した一団
伊豆の皇族賜姓族青木氏を頼った一団
下野、武蔵、常陸、上野に逃亡定住した一団
以上の様に、武田氏系花菱紋の柳沢氏の吉保は直接間接に武田家臣団を救済していたのです。
武田氏の家臣団全てが徳川氏に仕官したわけではありません。青木氏等の武田氏に縁のある一族が先ず仕官が適ったのです。
しかし、末端の家臣では盗賊山賊などのシンジケートに入りその集団は膨れ上がり治安悪化の原因と成っていたことが判ります。
多くのシンジケートには豪商などのその大元の頭目元締めが居て背後から経済的な支援をして大名以上の勢力を保持していました。
明治期までには、大豪商を維持するには、その財力の保全、取引の安全、運送の防御等の力が必要です。そうしなければ他のシンジケートから襲われる事がおきます。
その武力の背景をこれ等の戦いで敗れた者を引き取り一団を形成させて自治運営をさせて、その一団毎を列ねて束ねる経済的な支援の相互関係が形成されていたのです。
そして、今度はそのシンジケート間の連携を図ったのです。大きいシンジケートでは大名も到底おぼつかないものでありました。武力を背景とした大名と、連携の盟約の武力は勿論の事数段上であり更には、その比べ物にならない経済力です。
大久保長安はこのシンジケートを取り込み表向きは「同心」としていて、実態は裏大組織による治安維持であったのです。ですから、後に「長安事件」が起こったのです。
因みに、織田信長の3度の伊勢攻めに対して伊勢北畠氏、伊勢伊賀氏、伊勢青木氏(伊勢の豪商紙屋長兵衛)の「天正の戦い」(武田氏と同時期)で織田信長歴戦上の唯一負けたのが丸山城での伊勢賜姓青木氏(青木民部尉長兵衛信忠 青木紙屋長兵衛)との戦いでした。各地シンジケート連携による経済的な戦いでした。歴史上、有名な信長次男信雄の蟄居事件です。
武田氏一族は4度の衰退を繰り返し、最後は吉保が出世する事で立て直した事に成ります。
意外に、彼は悪役とされていますが、家臣団を救うことに情熱を高めていた事がこ考察から判ります。だから治安上から徳川氏はこれ等の動きと吉保の引き上げを図ったと考えられます。
武田氏家臣の大久保氏の建言が認められたことが何よりの証拠です。
「第3氏の発祥原因」
室町期と江戸初期と明治初期の3期に発祥した「第3氏」は実は上記の「1騎50人」の原因から来ている事が多いのです。
上記した家臣団を平時に維持する事は経済的負担が大きく、実際は「治安維持」と「年貢取扱」と「事務担当」と「資産管理」と「軍事」の家臣団の最低限の人数を維持しています。
いざ戦いと成ると、「割当」が来ます。相手により違ってきます。ではどうするかと云うと、4つの方法があります。
「徴兵の策」
1 プロの雇い兵を徴用します。
雑賀集団、根来集団、柳生集団、伊賀集団、甲賀集団、紀州集団、熊野集団、など例を挙げると限りが有りませんが、各地には多くの職業集団がありました。
2 野武士、海賊、山賊、土豪等、敗軍兵を裏で取り仕切るシンジケートがあります。
3 近隣の農兵でこれ等を束ねる地元家臣や土豪の集団 「武蔵7党」「伊川津党」等
4 堺、摂津、伊勢、近江、商業都市等の豪商
1は、信長が用いた武田氏滅亡の引き金に成った雑賀軍団鉄砲隊(3000)が有名です。
武田氏は「長篠の戦い」でなす術も無く無抵抗で殲滅されたのです。
三段撃ち戦法で間断なく発射する仕組みを使ったのです。最後は空砲で散り散りに成り逃走させたプロの射撃です。最も良い例です。
2は、各国各地で発生する敗残兵で国を追われた彼等は集団と成り、海賊、山賊、盗賊等と成りこれ等を経済的裏づけで取り仕切る豪商(武士で、2足の草鞋策を採る)に支援を求める。
秀吉の家臣の成った蜂須賀小六は元は山賊団で雇兵でした。秀吉は最初この小六団の一員で雇い兵だったのです。
3は、豊臣秀吉が各大名の勢力を削ぐ事の目的で「兵農分離」の令を出したものですが、殆どはなかなか守らなかったのです。古来からの戦いの慣習です。
農民がいざ戦いとなると土豪たちが農民と契約して借り集めて兵とする方法です。
秀吉の軍師の黒田藩や薩摩藩が最も有名ですが、この軍団を使いました。
明治維新の薩摩長州連合軍はこの兵でした。
これには、支度金と戦いで勝った場合の報奨金や討死した場合の家族への保証金、負けた場合の前渡金等明確に契約されていました。
彼等を雇う側(土豪等)では戦いでの戦利品がこの「裏付」でした。ですから、彼等は「落人狩り」を徹底して行い、又、関係する一族や農民の女子供を捕らえて人身売買をして「裏付」を確保したのです。戦利品として刀、槍兜、鎧弓、矢等を集めて金に交換するというシステムが出来ていたのです。大名はこれを黙認していました。禁止令を出す場合は自らが保証してやらねばなりません。しなければ次ぎからは兵が集まらないで負ける事に成ります。
4は、戦いは兵だけで出来ません。野戦城や櫓建築や安全に交通要衝の所を通過するための護衛と道案内や運搬や食料調達や給仕役をする事も必要です。これ等を一手に引き受ける商人が必要です。
その場合の兵とそれを護衛する護衛兵になります。
徳川氏が豊臣を攻める時、名古屋城で一時留まりました。名目は秀忠本軍を待つ事でしたが、本当は伊勢路の確保に時間が掛かったのです。つまり、実戦部代と違う上記の軍団確保に手間取ったのです。
それには、伊勢一帯を仕切る伊勢青木氏(豪商 紙屋長兵衛 伊勢シンジケート元締め)の合力が必要です。
最終、伊勢青木氏は表向きは実兵250名で合力したとありますが、裏ではシンジケート連携で「伊勢路の掃討作戦と警護」が役目で影の数万の者を投入して行われるのです。家康は信長伊勢攻めでこの勢力を知っていますので、これが決めてと観て交渉していたのです。家康はその手配に時間が掛かったと観られます。
さて、この3番目が第3氏を生み出す原因なのです。
戦いが数度と続くと地元の豪族の土豪との付き合いも出てきます。
大名は報奨金として、金品以外にも自分の家紋や氏名を使う事を許すことが多かったのです。或いは農兵の長等には「身分や権利」を与える事も行いました。
軍師黒田藩はこの方式を軍略上の主点として徹底しました。黒田藩が元は農民に近い貧困の薬売り浪人であり、武田氏一族の大系譜を持つ様な事は全く有りません。大大名に成ったのもこの「農兵システム」を使った事に拠ります。
黒田藩の農民が天皇家の象徴紋「五参の桐紋」を使っているのはこの事に拠ります。
守護、領主、大名、親族、重役、主家臣から実兵としての扱いを受けていた背景があり、場合に依っては武田氏の様に織田氏との戦いの前では兵は集まりませんので、そこで事前に苦しい選択として「農兵の長」等に家紋や氏名の使用を認めて「准家臣」扱いをして兵を集めていたのです。
甲斐に「第3氏、未勘氏」が多い原因でもあり、家柄身分を殊更に強い土地柄はこの関係から来ている事ともあるのです。源氏の傍流、系譜呼称一条氏、青木氏の強引な跡目系譜、数度の改宗事件等が起こっているのです。
この様な原因から室町期末期、江戸初期、明治初期に観られる様に、青木氏は殆ど他地に移動していながらも、甲斐には多くの「第3氏 未勘氏」が生まれた主原因の一つに成っているのです。
又、「明治期の第3氏、未勘氏」はこの傾向は少ないのですが、明治政府も「兵農の縁」から特に明治維新の功績から進んで名乗るように仕向けた事もありますし、又、なかなか明治3年の「苗字令」が行き届かなかった為に8年の「督促令」が出た事でも判ります。取り敢えず全国民が何とか苗字を持つ様にする為に、周囲の豪族の氏名を使う様に仕向けたのが原因の一つでもあります。
ある日突然に、村全体が、郡全体が藤原氏や青木氏等を名乗る現象が起こったのがその証拠です。
誰か大きな組織が主導していたから同時に成るという現象が起こったのです。
しかし、花菱紋に付いては、系譜上は兎も角も血縁上他人となった柳沢郡青木氏の「丸に花菱紋族」は氏家制度の慣習の中では、他の武田氏系青木氏と違い難しい選択に迫られ、武士を捨てて逃亡するか、武士のままでの逃亡を選択し得なかったのではないかと考えられます。
添書から観て、一時(3−5年程度)甲斐を離れて3代目で縁故を頼りに徳川氏又はその主な家臣に仕官した青木氏もあると成っています。
そして一部この者等は織田氏の過酷な追及を逃れて3年から5年程度で甲斐に戻ったとも考えられますが、家紋の分布が極めて狭く限定した小域にある事や現在も家紋8000の中に無いほどに個人家紋が多い事等から子孫繁栄は拡大出来なかったと見られます。
「丸に花菱紋」の青木氏の系譜を考察すると、先ず子供が少なく女が多い家系で、小録の扶持米200俵とあり、早世の家系にあります。これでは子孫を広げることは難しいと観られ1760年頃までで5代です。分家子孫などは1系統で殆ど増えていません。ぎりぎりに寛政(1800)まで来たと見られます。現存が確認されています。(これ以上個人情報により詳細不記載)
故に、寛政の歴史書(1800)の「第3氏」に書かれている事と、これを観て作った正定の分家花菱紋9代目の青木信政(寛政1800)が編集して作ったとされる「丸に花菱紋の系譜」(添書には信政作ると明記)の錯誤(丁度100年)も故意的にずらしたと観られますので、花菱紋からすると系譜上からずらす事で別系図の異なる氏と見せたのではないかと観られます。
この様な搾取偏纂の行為から見ても天正の頃から寛政までは「丸に花菱紋」は「第三氏」(第3氏では無い)と判断されていたと考えられます。
「丸に花菱紋」の「第3氏、未勘氏」が特定していない筈の甲斐甲府に限り集中しているのは、上記の「兵農の縁」とも重なり、この系譜と家紋を使用するに問題が少ないと観たと観られます。
「常光寺寺紋」
常光寺の寺紋ですが、この寺は3度変化しています。
1度目は寺の建立時は最初は浄土宗寺でした。(寺名不明 建立後時光死亡か)
甲斐武田氏系青木氏3氏6家の統一浄土宗菩提寺の建立を目的として計画は進められた。
(源光系菱紋、割菱紋青木氏の皇族賜姓青木氏と、時光系割菱紋葉菱紋青木氏 、割菱紋青木氏の皇族青木氏の菩提寺)
2度目は皇族青木氏2代目常光の時に「真言宗」に成ります。
建立間際前後に時光が死亡し、2代目常光は「中興開山」して自分の名を採り常光寺と命名 他の青木氏を排除する為に真言宗に改宗した。(時光系花菱紋青木氏 皇族青木氏だけの寺として中興)
3度目は時光より11代以降の13代目のところで、13代目信定(信定の子)が「曹洞宗」の僧の「海秀玄岱和尚」に深甚したと成ります。そして曹洞宗に「宗派変え」(改宗)をします。
信玄死亡後、武田氏衰退が始まり真言宗常光寺(11代目まで祭祀)の1氏菩提寺として維持管理が難しく成り、又青木氏の政治路線の違いから子(正定と豊定)側−父信定(子豊勝と養子信之)側の意見対立が生まれ、父信定は甲斐の3割以上を占める曹洞宗に改宗して門戸を開き「集兵と運営」の強化をした。
寺紋の「丸に花菱紋」の使用もこの様な「集兵と運営」の一つの表れです。現に韮崎の常光寺や源空寺付近には「丸に花菱紋」が多いと観られるのもその証しです。
(浄土、真言、曹洞宗の宗派争いに発展した 花菱紋青木氏の元祖正定と豊定は浄土宗派 豊定は花菱紋柳沢氏の元祖)
この様に3度変化していますが、甲斐武田氏系青木氏にはその菩提寺を巡って3宗派間争いが起こっていたのです。
これには、源光派の皇族賜姓青木氏(菱紋、割菱紋)−時光派の皇族青木氏(花菱紋)の対立が絡んでいたのです。
其れは兄時光より弟源光の方が家柄、身分、血筋、と武田氏の6紋(家紋)から観た立場は格段上です。これが大きく左右している要因です。
時光系派に取ってしてみれば、兄と云う立場もあり同等に成りたいとする心情がこの3つの変動から働いたと観られます。それは系譜から無理な一条氏の呼称にも観られるのです。
そもそも、初めは、1185年頃までは甲斐の皇族青木氏(浄土宗)の菩提寺でしたが、甲斐源氏武田信義より6代目武田時光は母方が藤原北家摂関家の公家(一条、九条、鷹司、近衛)であるとして甲斐一条郷の一条氏を名乗ったとされています。
これは皇族青木氏を名乗っているのにこれは疑問です。
信義より2代目次男の忠頼は一条郷のであるとして母方一条氏を名乗りました。甲斐一条氏元祖です。
それは公家一条氏が戦乱を避けて逃げ延びた所を甲斐一条郷としている所以であります。
そこで、賜姓清和源氏の分家頼信系の源氏傍流を名乗るより、又、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏を名乗るより、一条氏を故意に誇張して家柄身分血筋を良く見せる為にした事では無いかと推測しています。清和源氏は傍流であり、乱暴者都して河内、京、常陸、甲斐と各地で受け入れを拒否され配流扱いをされた人物義清を始祖としている事、賜姓族ではない前例の少ない嵯峨期詔の青木氏である事、土豪(小田氏末裔)との血縁族、時光系は宗家武田氏支流族等が、当時の氏家制度の社会習慣からは低く観られていた事で劣等感を抱いていたと観られます。まして、特に、比較対照として上位にある弟派に対して誇示したかったと観られます。現在では如何にも源氏名門と一般的に公表されていますが、当時では氏家制度の社会の中で左程の事は無かったと観られます。
ところがこの一条氏を名乗る根拠が系譜を調べると矢張り薄いのです。疑問です。
「一条氏の持つ意味」
一条郷の一条氏は信義の次男武田忠頼が元祖です。
武田氏は信義の嫡男武田信光(2代目)が継承し時光(6代目)に及んでいます。
忠頼は頼朝に謀殺されて絶えます。そこで、甥(信光の子)の信長に継がせます。
信長の子義長が一条氏を名乗ります。ここで再び絶えたために義長の弟信経の子(甥)の宗信が継ぎます。ここで更に一条氏は絶えます。この様に5度も血縁性は低下しているのです。殆ど無いと云っても過言ではありません。
一条郷の出自である忠頼は死亡し、その兄の信光は腹違いの兄ですので、一条郷のは母方一条氏の血縁性は元より有りません。そのルーツで名乗ります。
更には、つまり、時光の父時信の弟(叔父)の時に絶えてしまうのです。それ以後継承者は見当たりません。6度目にも絶えた氏名を更には時光系が名乗るのです。
結論は更に時光系が一条氏を名乗るのはルーツが異なります。
この様に一条氏を名乗った全員がルーツを殆ど無縁としているのです。
従って、6度もの断絶の一条氏ですから、まして、四国の一条氏や中国毛利の一条氏の様に一条氏の出自は明らかに無いのです。
この事からも明らかに何らかの目的を以って故意に名乗ったものであり、当時、高野山に於いて空海の真言密教が大変隆盛(20%)を極めていた時期でもあります。そして、それをいち早く取り入れたその公家衆の宗派の真言宗に甲斐源氏武田常光が宗派変えをしたのも、叔父の源光系浄土宗派をブロックすると共に、其処に目的を置いていたものであり、「宗派選択の意味」があったのではと考えられます。
研究の意味として、血縁性の無い甲斐の「第3氏、未勘氏」の氏姓の名乗りと、血縁性の殆ど無い武田氏系青木氏の「一条氏」の名乗りとは同じ土台の上にあると云う事です。
武士も庶民も甲斐では同じ行為をしている事を意味します。藤原秀郷一門や皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏にはこの現象は確認出来ない現象です。
まして、この「宗派対立」を全面に押し出しての争いは最早、「気宇」と云うべき事かなと思えます。
「宗派対立」
甲斐青木氏を揺さぶったこの宗派がどのような勢力範囲を維持していたかを検証しますと次のような結果が出ました。
(末尾 分析詳細史料添付)
真言宗は18寺 17%に成ります。甲府関係域では6寺です。
曹洞宗は36寺 34%、
臨済宗は24寺 22%
真言宗は18寺 17%
日蓮宗は14寺 13%
真宗は3寺 2.7%
時宗は3寺 2.7%
法華宗は3寺 2.7%
単一無派は2% 1.8%
以上のデータの様に、甲斐は大変宗派間の競争が高いところです。全部で9派が競っているところです。
しかし、甲斐賜姓青木氏の武田氏系青木氏2氏の跡目に入った同じ弟の源の源光は一条氏を名乗りませんでした。これで何故一条氏を誇張したのかはあらかた判ります。
本来は、青木氏は源の源光が主流ですが、兄の武田時光は一条氏を名乗りながら、嵯峨期の詔に従い青木氏を名乗ったのですから、ここに意味するところがあります。
一条氏を名乗るのであれば何も青木氏を「詔」を使って名乗る必要は有りません。
既に弟の源光が本流として皇族賜姓武田氏系青木氏を引き継いでいます。
それで、時光は皇族武田氏系青木氏は一条氏としながら11代続いたのです。
(11代後墓は途切れています。)
それと、常光寺前身の菩提寺そのものが青木氏です。わざわざ特別に11代の墓を列ねて並べる必要はありません。特に墓は青木氏でありながら名乗りは一条氏とは当時の氏家制度の慣習から考え難い行為であり、家柄を誇張したい所があったのでしょう。
又、2代目の青木常光が自分の名前を採って名付けるなどの特異な行動を取りました。(中興開山)
多分、この時(時光までは)寺紋は菱紋であったと観られます。
そこで、自分の家紋の割菱紋に変更したと見られます。
ところが、13代目あたりで曹洞宗に宗派変え(改宗)をしました。
「中興開山」と記されていますので新たに開山したことを意味します。
ですから、常光寺には11代分(12代目まで)しか墓がありません。
当然、宗派が違う寺に、尚更に本流ではない妾子の12代目と13代目からは並べる事は出来ません。(浄土宗−真言宗−曹洞宗と中興開基と改宗をした)
曹洞宗派甲斐全体で34%でもっともの勢力を張っています。甲斐全体で満遍なく分布しています。
これは中興開基と改宗は当時としては飛び上がらんばかりの大変な事件です。
「伝統」を重んじる氏家制度の中で、その身分家柄を示す宗派を変えてしまったのです。
真言宗は公家、浄土宗は皇族賜姓族と藤原秀郷一門の皇族系侍が入信できる宗派です。
それが、一揆そのものの良悪は別として、各地で一揆などを起す宗派で庶民か農民などから伸し上がった下級武士が入信する曹洞宗の宗派です。一族の者としては絶対に認める訳が有りません。
まして、源氏でありながら筋違いの一条氏を誇張する程の家柄を気にした一族11代です。
それも違いを出す為に一箇所に並べての仕種です。最早、これは彼等周囲にとって青天の霹靂です。
当然、武田氏本家も何らかの対策を講じる必要はあったと考えられます。
放っておく事は武田氏本家と一族にとって織田徳川今川北条との一戦の前に乱れるのは好ましくありません。武田氏系青木氏の路線と宗派の対立争いです
其れが、武田氏宗家が採った上記の「光福寺」と「尊たい寺」の再建であり、菱紋、割菱紋青木氏(源光系)の浄土宗派への対策であり、そして、正定の別家花菱紋青木氏の発祥と源空寺建立と、豊定の花菱紋柳沢氏の発祥と光沢寺の建立、豊勝の本家継承であり、養子信之の柳沢郡の青木氏の継承となったのです。
これは恐らくは信虎、そして、信玄の打った手であり、皇族武田氏系青木氏に対して圧力を掛けたものであろうと考えられます。
自然に任したものではなく恣意的に全体が上手くまとまり過ぎています。
添書”信定終わりに臨み養子となる”として高尾氏三男の信之を養子(柳沢郡青木氏)にした事が何よりの証拠です。これが明らかに恣意的行為です。
(これが後に花菱紋との協議の結果であり、系譜添書の一節に繋がるのです)
まして戦い前の臨終前の行為です。当事者間では無理で、仲介者が居て反対を抑えて上手く納めたこと以外にありません。(高尾氏と多田氏の氏は不詳)
武田氏滅亡後に起こっ112年に及ぶ「天保騒動」でその宗教の体質も家柄誇張体質も良く判ります。
後編に続く。