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京平氏と坂東平氏の説
青木研究員 さん 2005/06/21 (火) 22:18
平氏には二つの説があります。
1 京平氏と坂東平氏とはルーツが同じであるとする説。
2 京平氏は渡来系で坂東平氏は第7世以降の者とする説
以前は、1の方が採用されていました。最近は色々な史実から2の方を採用するようになりました。大河ドラマの義経では2の説を採用しています。
私は2の方が正しいと思います。
では、その2の説とは、京平氏、桓武平氏、伊勢平氏と呼ばれる平氏は、797年伊勢北部伊賀地方に住んでいたこの平氏の先祖の高望王、又は平望王に賜姓しました。
この高望王の生没は不明となっています。次の貞盛も生没不明です。
ところが、この土地には後漢の光武帝の21代末帝の献帝の子供石秋王の子供阿知使王と孫の阿多倍王が大和に帰化して、後にこの土地を与えられて住んでいました。(前述済)
後漢の17県民(200万人)の技能集団を率いて帰化しました。
第1次、第2次の入国があった。
技能集団は日本の第1次産業の基礎を成しました。
「律令国家」の政治体制の基礎を築きました。
朝廷の官僚はこの集団で6割を占めました。
日本書紀の取りまとめはこの官僚が舎人親王の下で仕上げました。
九州の大蔵氏、北陸の内蔵氏、坂上氏、阿倍氏等はこの阿多倍の末裔です。
この軍団は全ての技能を持つ職人集団で「部」(べ)と云います。海部、服部..等はこの末裔です。
全国66国中、32国を勢力下に納めました。関西より西域です。
室町期の中国地方の覇者陶氏はこの陶部の末裔で瀬戸内海の村上水軍はこの末裔です。
この阿多倍王は大隈の首魁と呼ばれ、薩摩の国の大隈を半国割譲を受け、伊勢の国北部伊賀地方を半国割譲を朝廷から受けました。
この阿多倍王の孫末裔の国香、貞盛、惟盛、正盛、忠盛、清盛と続きました。
朝廷より、この子孫に対して伊勢北部の「不入不倫の権」を与えられました。
この阿多倍王の事は前レポートに何度も詳しく書きました。
この阿多倍王はまたの名を、高尊王と言います。
この高尊王はかなり長生きしたと伝えられています。日本書紀にも8度も出てきます。「大隈の首魁の阿多」という名で、そして、この伊勢北部伊賀地方を与えられたと、この地を特別に保護したと書かれています。
賜姓は797年、この阿多倍王、高尊王は没は不明ですが、記録から計算して730年ころまで生きていた事がわかります。
797年と730年の67年のズレがあります。
しかし、このズレも判別します。
次に、桓武天皇はこの阿多倍王の孫かひ孫を母にしています。 「高野新笠」という名です。
阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り3人の子供をもうけて、国に貢献したとして準大臣の身分を与えられ、3人の子供は大和名の賜姓をうけました。朝廷の重大な役務「3蔵」の内、2蔵の大臣と軍事の大臣となりました。(以前のレポートで記述)
次の様に、附合一致する点があります。
1 伊勢北部伊賀地方の住人
2 高望王と高尊王の名が酷似
3 高望王は生没不明である事
4 日本書紀の記述
5 桓武天皇の母は高尊宇の孫(阿多倍の孫)
6 高尊王の妻は皇族の皇女
7 高尊王の子供は征夷大将軍の坂上田村麻呂(軍隊の長)
8 西国に32/66国の所領(清盛の所領と高尊王の所領一致)
9 忠盛、清盛の朝廷の役と高尊王の子供の役所が一致
軍事、大蔵、内蔵を所轄(斎蔵のみは古来鎌足より藤原氏)
10 貞盛は高尊王の子孫の大和国武勇一として名高い永嶋氏の祖の 永嶋種材では (「錦の御旗」を与えられた暦上唯一の個人)
貞盛の武勇と一致
史実を検証すると一致点が出て来る。
2は史実を書き写す時に字体が似ていることから間違えた。日本書紀などのにはよく見られる事。
あるいは、当時ではまだ渡来人の引き上げは慣例上難しい状況であるので、わざと本人の高尊王を使うのを避けた。そして、生没不明にした。まして、60年も後に母の祖で自分の祖である桓武天皇が引き上げて賜姓するので編者は変えた。
暦上、律令による国体を完成させた天皇として位置づけられている桓武天皇は、帰化して、国内全土に軍事術、経済術、部による産業術の持込、律令の知識と固体の官僚としての仕上げ、現代の日本をの基礎を構築した人物であるとする説は過言ではない。
数えれば限りないこの人物にたいする感謝の念が強かったのではないか。国体を仕上げた天皇として、否、普通の人間でもこの人物に尊敬の念があったであろう。
現在、つい最近にこのような史実から京平氏は渡来系とされた。
では、坂東八平氏はどの様なルーツなのかを述べる。
奈良時代末期から平安初期にかけて、皇族の低位の王の身分の者の4世(ひ孫)から6世王が、天皇の5年から20年程度で代替わりの度に起こる「7世族」が生まれる度に、臣籍して各地に分散して奥州地方への守りとして配置した。
これが「坂東平氏」で時代の変化と共に八平氏になったのである。
これが、1説の平氏で、呼び方を「ひら族」とし、”7世以降は普通の人”の意の”ひら”である。
坂東八平氏(ひら族)と渡来系の京平氏(たいら族)と混同している史書もある。
坂東八平氏は次の氏である。
1 千葉氏、
2 長尾氏、
3 上総氏、
4 秩父氏、
5 三浦氏、
6 土肥氏、
7 大庭氏、
8 梶原氏
関東の千葉から伊豆半島までの地名に残っているこれ等の土地の豪族である。
しかし、これ等から北条氏などの支流が出たが、北条氏が執権として実権を握ると5年以内に源頼朝の一族と他の氏は潰されてしまう。
話を戻して、桓武天皇は渡来系の高尊王の子孫をこの7世以降の皇族民の一族に並べて引き上げ、同氏とした。この一族と世間に思わせる手段にて慣例外の行為の反発を避けたと見られている。
ちなみに、渡来系の桓武平氏、伊勢平氏、京平氏を賜姓の「へい氏」と呼んだと記述されている。(外史の日本記に)
1説には矛盾が多いことが指摘されている。
その一例として、時代のズレがある。
平安初期700年ころにこの坂東にすでに7世族がいたこと。貞盛の賜姓平氏は930年頃である。急に坂東八平氏が関東に出来ることは無理。貞盛は将門の争い相手の国香の子としているが、賜姓は桓武天皇の797年であるから将門の乱は940年。140年位のズレ?
賜姓は高望王にとすると次貞盛まではまだ100年もある。
多分、阿多倍王の情報が歴史家に無かったか、国情から渡来人の貢献を暦上に認められなかった2つ事がある。後期に偏纂した。
2つの系統の青木氏にはこの2つの平氏が関っていたのです。
ちなみに、源氏の意は”大和の人民のみなもとの意”です
青木氏の意は”あおきの木は古来から神木の意”で常緑で赤い実(清血=子孫)をつけることから”「真正」で「神聖」にして清き正しい意”の「真の意」を持つとされた。その意を持つ氏として含んで名づけられた。この皇族一族のことを、青木氏を賜姓時に、天武天皇は”真人族(まさとぞく)”と言う事を決めた。(八色の制)
参考 八色の姓は次のとおりである。(説明は概説)
1 真人族(まさと) 第5位皇子までの皇族の姓
2 朝臣族(あそん) 第6位皇子の皇族賜姓族の姓 臣下した青木氏と源氏
3 宿禰族(すくね) 下俗した第7位皇子以降の皇族の姓
4 忌寸族(いみき) 6世までの臣下した族の姓
5 道師族(みちのし)7世以降の臣下下族の姓
6 臣族(おみ) 各国の大豪族の姓
7 連族(むらじ) 各国の中豪族の姓
8 稲置族(いなぎ) 各国の小豪族の姓