先祖と宗教(般若経の呪いの意-主題1)
副管理人さん 2007/10/09 (火) 12:11
先ずはじめに、青木さんから雑談掲示板に投稿されていました事に付いて、本サイトの一つの目的である「先祖」と言うキーワードに関連する事なので、特に広く論じて理解を得る必要があるとして投稿しました。
その経緯は、キリスト教徒の方から見て、仏教の教義に疑問が提起されました。それにお答えした論文でした。
その掲示板の内容は次の1−5の設問でありました。
そこで、青木さん以外の全国の皆さんにも広く観て頂きたく改めて、僧の説法を聞く側からの雑念の中での私観をまとめ直して投稿しました。
最近、日本人には、特にその「先祖」という言葉の意味、又は意義が薄らいでいると感じています。
「先祖」と言う言葉が我々の日常の生活の中に遺伝子的に無意識の中で浸透しているのですが、これを改めて認識してもらい本当の日本人に戻ってもらいたいと常々思っていました。
そこで、その方法として、何とか解りやすくする為に、その「先祖」を仏教とキリスト教とを対比させる事で明確に成るのではと考えました。
この対比事項としては、雑談掲示板に設問された次の内容5つが「先祖」を説く上で適切と見て限定して論じてみました。
そこで、早速ですが、本題に入りたいと思います。
投稿
先ず、掲示板の御意見を拝聴しましたが、私は少し違う考えを持っていますので、ご披露したいと思っています。
ご意見には突き詰めると「先祖」に関わりのある事が大いに認められ、それ故「先祖」という定義からその思考を述べる事でお答え出来ると思います。
ご意見の内で、抜粋した次の設問に対する内容(問題)として、(...)を大意として示しています。
設問
1「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)
3「行為と行動の逆進性」 (先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」は疑問)
4「キリスト経の教え」 (仏はキリスト教の教えと異なる)
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」 (根本的な違いの考察)
以上に付いて私観を述べたいと思います。
注釈
4−5の設問に付いては、本論はキリスト教との対比を特にします。
但し、このことは決してキリスト教を非難するものではなく、日本人には無意識の中で脳に対して染みこんでいる宗教に対する遺伝子的なものが存在し、それにキリスト教の教えがマッチングしないのではと考えているので、その差違を現したものです。
前置きとして、文内の表現の差違は、仏教とキリスト教との間にこれだけの違いがあるのかと言う程度にご理解ください。
注意
そこで、超論文に成りますので、シリーズで記述する事にしますのでご理解ください。
シリーズの途中から読まれる場合は、継続性がある為に理解が出来ないということも起こりえます。従って、この設問から講読下さい。
念の為、本論は観念論であるが為に、理解し難いことです。従って、文中で、多少の問題はありますが、各所で使用する数式は結論を何とか解りやすくする為に用いています。
本文
1「呪いの意」(般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
では先ず、文面で般若経にある「呪い」と言う事に対する「嫌悪感」に対する疑問の件です。
般若経の一説 「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等々呪 能除一切苦 真実不虚」
現代の言葉で「呪い」とは如何にも恐ろしげな行為であると観られますが、般若経で言う「呪い」とはいったいどう言うもので、どう言う事かと言う設問に入り、且つ、それを解明すれば我々の凡人は全体像の理解が出来ると思いますので以下に進めます。
では、それは一体何なのでしょうか。二元体の人の世界に起こる「呪い]です。よって、その人間の「心の動き」である筈です。
その「心の動き」の「呪い」として出て来るものは、私は次の「4つのみ」であると思います。
それは、仏教で云う、人として ”最も無くさなくては、或いは、少なくしなければならない「人間の性(さが)」”であると思います。そして、それは説法で言う「4つのみ」だと思います。
つまり、この性の「呪い」を構成しているものは「4つのみ」と言うことです。
数式で現せば、「呪い」=「心の動き」=「4つのみ」と成ります。 (1)
では、その「4つのみ」とはどのような「性」なのかと言う事ですが、それは次のものだと思います。
数式で現せば、「4つのみ」の構成要素 =「うらみ」+「つらみ」+「ねたみ」+「そのみ」だと考えます。 (2)
この人の「4つのみ」から誘引して「心の乱れ」を引き起こす結果、その映像として「呪い」が生まれるのです。
そして、この「心の動き」の一つの「心の乱れ」は「人の拘り」へと変わります。
数式で現せば、「心の動き」=<「心の乱れ」=<「人の拘り」=<[呪い」に繋がります。 (3)
数式で現せば、「4つのみ」=「心の乱れ」=「人の拘り」=「呪い」=「性」(さが)と成ります。 (4)
では、この「性」、即ち「心の乱れ」、「人の拘り」を人は無くせるのかという疑問です。
結論から私は出来ないと考えます。”それは何故なのか。”です。
もし、無くせたとしたら、この世に「宗教」というものが存在しません。
この「4つのみ」があるからこそ、世の中は乱れるのです。だからそれを少しでも救おうとして、人は「宗教」というものを考え出し頼ったのです。
ましてや、この「4つのみ」を無くせば、それは、「現世の人」では有りません。
この「4つのみ」をなくした者が、「仏」であります。ゆわんや「先祖」であります。
数式で現せば、「4つのみ」=「現世の人」 つまり、「仏」=「現世の人」−「4つのみ」 (5)
「先祖を理解する事」は、即ち、「4つのみ」が原因した「先祖の生き様を知る事」であります。
数式で現せば、「先祖を理解する事」=「先祖の生き様を知る事」+「4つのみ」 (6)
そして、それは「4つのみ」から少しでも軽減し、同じ苦しみを味わってきた「先祖」、即ち、「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」を見つめる事が出来る唯一の手段なのです。
現代医学では血液型を同じとすると85−95%の遺伝子が同じであります。これは殆ど「自分」という事になります。
数式で現せば、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」 (7)
つまり、「先祖の自分」に対して、そこに起こる「自分への尊厳」と「先祖への感謝の念」が、人の心を豊かにし、開放させられます。
そして、その心が「4つのみ」への「拘り」を理解する事が出来て、軽減さしてくれるのだと考えます。
何もしないで、「4つのみに拘るな」と云っても、拘わらない事すら難しいのに、「4つのみ」所の話ではありません。
それこそ「負担」であり、[苦」に成ります。
その「拘り」の救いは、先ずは「先祖」を知ることであり、強いては「4つのみ」から開放された「先祖」即ち、「90%の過去の自分」即ち「仏」を知る事になるのだと考えます。
それは(先祖とは)、「4つのみ」から発祥した育枝種にして分離した「108つの煩悩」から解き放たれた「魂」のみの「仏」なのです。
数式で現せば、「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=A 「仏」=「魂」−A (8)
但し、ところが仏教では、この「4つのみ」を”無くせ”とは云ってはいません。
むしろ「無くせない」と説いています。
仏教では、「無」(無くす事)を主張するのではなく、「有」(ある事)を認めていて、「有りのままに生きよ」と説いているのだと思います。
ただ、これだけでは「宗教の教え」にはなりません。
この「4つのみ」の「処し方」として、「拘るな」(気にするな)と説いています。
「拘るな」(気にするな)は、人として可能な行為であります。
そして、「拘り」を「捨てる」、或いは、「軽減する」ところから、”人の生きる世界から、又は、「性」(さが)から解き放たれる”と説いているのだと思います。
この事は、即ち、般若経の「色不異空、空不異色」と「色即是空、空即是色」であると思います。
この1節の理解の如何に関わるものだと考えます。
では、どの様に理解したら良いかと言うことですが、私は次の様に理解しています。
「色」即ち、この世のあらゆる物質は全て色(いろ)を有します。故に、その「色」(いろ)のある環境、つまり総意としての「現世」であると理解出来ます。
数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。 (9)
「空」即ち、物質として存在しない空(から)の世界とし、色(いろ)を有さない世界だから、つまり総意としての「彼世」(かのせ)であると理解できます。
数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。 (10)
そこで、「色は空と異ならない 空は色と異ならない」、故に「色は空であり、空は色である」と説いています。
つまり、言い換えると「現世は彼世と異ならない 彼世は現世とは異ならない」、故に「現世は彼世であり、彼世は現世である」と成ります。
究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であるとします。 (11)
つまり、、「現世=彼世」法の「理」は、”物事に色があるから無いからとどうのこうのと言い立てるな、空だから無いからと騒ぎ立てるな”と言っていると思います。
言い換えれば、究極は”「物事に拘りすぎるな」”となるのではないでしょうか。
では、何故この数式が成り立つのかと言う疑問が出ます。
それは、「現世」と「彼世」の間には「仏」が存在し、その「仏」は「4つのみ」から離脱した「先祖」であるとしているのです。
数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」の数式が出来ます。 (12)
上記の数式では、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」、故に、「現世=自分=彼世」 (13)
数式で現せば。「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」or「現世=自分=彼世」・・(B) (14)
故に、(9)から(14)までを合わせて解釈すると、その大意はいずれにしても「自分如何の世界」だから「拘るな」と成ります。
これでは合点し難い所があります。そこで「俗意」としては、次の様になると考えます。
[拘るな」とは、”「現世」「彼世」は自分が関わる世界であるのだから、地獄極楽も「現世」の仕業、だからこの「現世」の所業になんだかんだと理屈を立てて言い張るな。決め付けるな、考えし過ぎるな。気にし過ぎるな。そして、それより、先ずはこの「理」を悟れ、つまり、理解せよ”と成るのだと考えます。
数式で現せば、(B)数式の理を解する事は、「悟り」=「理を解する行為:理解する」=「拘りすぎるな」=「気にしすぎるな」 (15)
そして、これを理解すれば、この「呪い」の般若経の2行のくだりの最後には、「能徐一切苦」「真実不虚」と説いています。つまり、”一切の苦しみを除く事が出来て真実は虚にはならないから”と言う事だと思います。
仏教では、「一切の苦しみ」とは、「108つの煩悩」とされます。
つまり、そうする事(15)で、「4つのみ」で発展した「108つの煩悩」が「呪い」を引き起こします。その「呪い」が起した[心の動き」の拗れた「心の乱れ」が、納まり、そして、”「静かな心根」が得られ、その結果、「現世」の自分に「真実」(誠)が近づき、自然と「苦しみ」から逃れられる”としているのだと考えます。
「現世の理」を「理解する事」で、、「自分」に”「静かな心根」”が生まれると言う事が大切であるのだと考えます。
そして、”その判断が回りの茨の道に踏み出さない結果になる”のだと説いていると思います。
数式で現せば、「悟り」=「拘りを無くす事」=「現世の理」を「理解する事」=”「静かな心根」” (16)
そして、次の「苦しみ」から少しでも逃れられるのだと考えられるのではないでしょうか。
数式で現せば、「呪い」=「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=苦しみ 「仏」=「魂」−(苦しみ) (17)
次に、前節の「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等々呪」では、私は次の様に解釈します。
この行のくだりのお経を理解する事の大切なことは、般若経の「大神」と「大明」の意をどのように理解し解釈するかの如何だと思います。私は次の事と解釈しています。
数式で現せば、「大神」=「神」 「大明」=「仏」 (18)
そして、”その「呪い」とは、「神」や「仏」の「呪い」であり、それ以上の「呪い」は無く、それは、神仏の「戒め」であり、この上記の「理」を理解すれば、「呪い」は無くなるのである。”としているのだと思います。
そして、”一切の苦しみを除く事が出来て真実は虚にはならない”とし、つまり、そうする事で、”静かな心根”が得られ、「真実」が近づき、自然と「苦しみ」から逃れられる”と説いていると解釈します。
「神」とは仏の中の得心した「仏」であるのだから、次のような考えとなると思います。
数式で現せば、「呪い」=「神」、「仏」の「戒め」=先祖の「戒め」=自分からの「戒め」 (19)
仏教では、「呪い」即ち、自分からの「戒め」を知ることは、それは「悟り」と説いています。
その「”悟れ”の本質」は”静かな心根”で「理解せよ」”としています。
数式で現せば、「”悟れ”の本質」=”「理解せよ」”と成ります。 (20)
そして、本設問の「呪い」に対する「嫌悪感」の結論は、以上(19)、(20)の様になると思います。
そこで、”「理解せよ」”とは、他の一節「所業無常」(諸行無常)の反意では、”業と行は常(恒)ではない。だから所業(行)の全てを一度に理解するのではなく、日々の所業(行)の中で、所業の「理」を知り、積み重ねよ、そうすれば究極は悟れる”としています。つまり、”何時の時か「即身成仏」と成るであろう。それに近いものに成るであろう”であります。
”無常のない行と業の中での”「急ぎの理解」は「拘り」の所以である”ともしています。
数式で現せば、「急ぎの理解」=「拘り」 (21)
決して仏教では、キリスト教のように、”先ずは、「信じよ」(キリスト教)”とはいきなりに説いてはいません。
それは、ただ「信じる」ことだけでは、「根拠なし」のものとなるからです。
仏教の「理解」(悟り)は、日々の精進の理解を経て、この「根拠」を得て初めて「理解」と成ります。
これが、ご指摘のキリスト経と仏教の決定的な差であります。
般若経では、その字句のそのものの意味ではなく、その字句の持つ「反意、真意、深意」を如何に知るかに関わると思います。
私の経験では字句の意味だけではどうしても理解ができませんでした。
ここに書いている事は、この「3つの意」(「反意、真意、深意」)から得たものです。
「人」は「仏」では有りませんので、「呪い」から現世では逃れることは出来ません。
それを無理に排除しようとする所に無理(拘り)が生まれ、現代社会の問題の露出と成っているのだと思います。これは「仏」でなくては出来る事ではないではありませんか。
だから、仏教では万能の「神」との間に、人間社会の「4つのみ」から生きてきた躯体をなくした「御魂」となった「仏」を置き、理解しやすくしているのだと思います。
そして、この精進した「仏」から「神」へと進むのだと説いています。
突き詰めれば、「仏」は「神」であり、「仏」は「先祖」であり、「先祖」は「90%の自分」であるとしているのです。
そして、三段論法では、終局、「仏」は「90%の自分」、「90%の自分」は「神」の元であり、この世とあの世の間には、「躯体」と「4つのみ」の有無の差であると説いているのだと思います。
この論理の結果から、「神」の居る「極楽」は、「この世」という事になります。そして、それは
「4つのみ」の「理解」という行為のことから、自分の目前には「極楽」は作られると考えます。
その「不理解」の行為は、「地獄」という事になります。
数式で現せば、「4つのみ」の「理解」=「極楽」 「不理解」の行為=「地獄」 (22)
つまり、「4つのみ」の「理解の如何」の差が、「極楽」と「地獄」の差となって現れると般若経は説いていると思います。
そして、未だ「仏」でない躯体を持った人のこの「理解の差」に対して、仏教は「縁無き衆生 動し難し」と説いています。
即ち、「極楽地獄」は本人次第としています。”無理に導くな”と説いています。
その差は「仏」となった時に、次に「神」になれない「仏」であるとしています。
「般若心経」は、この「4つのみ」(色)と「躯体」(舎利子)の事のと取り扱いの考え方に付いて述べ、”「万事所業」は、この世では「無」ではなく「有」として「理解」して生きよ”と説いているのだと思います。
しかし、”「有」だから、「有」と主張するな”と説いています。それは結局は論理的には、”「拘り」の元となる”と説いている事にも成ります。
そして、その「心の持ち様」の秘訣は”あの世とこの世との差の「先祖」にある”のだと暗示していると考えます。
私は、故に「青木氏の先祖の研究」と言うものに取り組んだひとつのきっかけでした。
この「4つのみ」から起こる先祖の生き様が、良く判ったと思っていますし、今の「心経」の糧となったと信じています。
人それぞれにいろいろな考えがあろうと思いますが、「呪」の意は、以上の22の数式で表現した様な事だと思いますので、当然のこの世の事として、それ程に疑問を持っていません。
この22の数式は全て等号(=)で繋がると言う「呪い」の意であると思います。
故に、当然の起こりうる「結果」として受け取っています。むしろ、人間社会を維持して行く限りに置いてありうるべき「事柄」かなとも考えます。
ただ、それを出来る限り、避ける「理解」の修行を怠らないようにしています。
その修行とは、”「22法の理」”を知り、”先祖を敬い”と”心静かに”の「心根」(拘りのない平常心)を保つ事であろうと思っています。
現世では「4つのみ」から起こる「呪」は、別には「社会の悪」と対峙し炙り出すテストペーパーでもあり、悪い事ばかりでも有りませんよね。
数式の整理
数式で現せば、「呪い」=「心の動き」=「4つのみ」と成ります。 (1)
数式で現せば、「4つのみ」の構成要素 =「うらみ」+「つらみ」+「ねたみ」+「そのみ」だと考えます。 (2)
数式で現せば、「心の動き」=<「心の乱れ」=<「人の拘り」=<[呪い」に繋がります。 (3)
数式で現せば、「4つのみ」=「心の乱れ」=「人の拘り」=「呪い」=「性」(さが)と成ります。 (4)
数式で現せば、「4つのみ」=「現世の人」 つまり、「仏」=「現世の人」−「4つのみ」 (5)
数式で現せば、「先祖を理解する事」=「先祖の生き様を知る事」+「4つのみ」 (6)
数式で現せば、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」 (7)
数式で現せば、「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=A 「仏」=「魂」−A (8)
数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。 (9)
数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。 (10)
究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であると成ります。 (11)
数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」の数式が出来ます。 (12)
上記の数式では、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」、故に、「現世=自分=彼世」 (13)
数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」or「現世=自分=彼世」・・・(B) (14)
数式で現せば、(B)数式の理を解する事は、「悟り」=「理を解する行為:理解する」=「拘りすぎるな」 (15)
数式で現せば、「悟り」=「拘りを無くす事」=「現世の理」を「理解する事」=”「静かな心根」” (16)
数式で現せば、「呪い」=「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=苦しみ 「仏」=「魂」−(苦しみ) (17)
数式で現せば、「大神」=「神」 「大明」=「仏」 (18)
数式で現せば、「呪い」=「神」・「仏」の「戒め」=先祖の「戒め」=自分からの「戒め」 (19)
数式で現せば、「悟れの本質」=”「理解せよ」”と成ります。 (20)
数式で現せば、「急ぎの理解」=「拘り」 (21)
数式で現せば、「4つのみ」の「理解」=「極楽」 「不理解」の行為=「地獄」 (22)
本論は観念論ですので、できる限り論理的な証拠と数式的手法も取り入れて進めたいと思っています。
私は、元の職業柄か性格的な事からも、常々、観念的なものに「理」を求め、それを医学的や動物学的な「論理的証拠」で証明したいと常に思って取り組んできました。以降の論調はこの手法に基づいて論じています。そのつもりでご理解ください。
次回は、堅い話にはなりますが、本来無い筈の「時間の逆行」の私観を述べてみたいと思います。
上記の事にも関わりますので、ご留念下さい。