青木氏氏 研究室
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  • 福管理人[副管理人]より -
    青木氏には未だ埋もれた大変多くの歴史的史実があります。これを掘り起こし、研究し、「ご先祖の生き様」を網羅させたいと思います。
    そして、それを我等の子孫の「未来の青木氏」にその史実の遺産を遺そうと考えます。
    現代医学の遺伝学でも証明されている様に、「現在の自分」は「過去の自分」であり、子孫は「未来の自分」であります。
    つまり、「歴史の史実」を求めることは埋もれた「過去、現在、未来」3世の「自分を見つめる事」に成ります。
    その簡単な行為が、「先祖に対する尊厳」と強いては「自分への尊厳」と成ります。
    この「二つの尊厳」は「青木氏の伝統」と成り、「日本人の心の伝統」に繋がります。
    この意味から、青木氏に関する数少ない史料を探求して、その研究結果をこの「青木氏氏 研究室」で「全国の青木さん」に提供したいと考えています。
    そして、それを更に個々の青木さんの「ルーツ探求」の基史料としたいと考え、「青木ルーツ掲示板」を設けています。
    どうぞ全国の青木さん、その他ルーツ、歴史に興味がある方、お気軽に青木ルーツ掲示板までお便りください。お待ちしております。

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      [No.243] Re: 周辺の環境写真(藤白墨)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/06(Fri) 16:09:14  
    Re: 周辺の環境写真(藤白墨)  (画像サイズ: 171×189 4kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照


    日本最古の藤白墨

    藤白墨には平安期から江戸期までのものであわせて10種あるが、このうちの一つである。
    表には「不朽千首新詩」と書かれ、その横には「紀州御墨所」と書かれている。
    その「紀州御墨所」と書かれているものは他に3種ある。
    この内2つは「源」の印紋が入っている。本品には「源」は無い。
    現品は約半分程度の使用中のものの現品である。

    他に、天皇家菊紋桐紋入りが2種あり、「一諦坊」、「二諦坊」と書かれていて多少大きさが違う。
    もう一つは「天皇家蔵墨」と書かれたものがあり、推測であるが、これが民の「払下品」となるのではと考えられる。計3種である。

    徳川家葵紋入り1種あり、裏には「徳川蔵墨」と書かれている。もう一つは年号入りがある。計2種がある。
    「年号入り」は「藤白御窪墨」と書かれている。そのものが2種ある。
    その「藤白御窪墨」の一つは裏に「那木葉 藤白窪墨」と書かれていて、「皇年寛保壬戌春紀城南湯浅縣鷹島瀕伴*製」とあり、記念品として紀州徳川家が勢作したと考えられる。
    もう一つは「那木葉藤白窪墨」と連続記していて裏には「紀城南湯浅縣御射小御」と書かれている。
    これが庶民に「払下品」と成ると考えられる。

    もう一つの「藤白御窪墨」と模様が書かれたものは室町末期から江戸期初期に続けて幕府に納めたものであろう。

    菊紋桐紋入りには、「清浄墨」と裏に書かれている。これは平安期に天皇家に納められたものであろう。

    葵紋入れは江戸時代のものである。他に1種は寛保の年号が入っている事から何らかの記念品として紀州徳川家に納めたものであろう。

    紋入りは無く「源」の印紋と「紀州御墨所」と書かれた2種のものは鎌倉期から続けて室町期のもので源氏系の幕府の納めたものであろう。「源印紋無し」は民に「払下品」と成るだろう。

    本品はサイズ25*12センチ程度あり、形状は葉状又は小判形をしている。
    裏には、波の中に大鳥の模様が浮き彫りに成っている。
    10種の全ては「墨拓」がある事から、当初はこれだけのものを完全に保存していた事を示す。
    (詳細は他の史料を提供して単独レポートする)


      [No.242] Re: 周辺の環境写真(藤白墨)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/05(Thu) 18:15:10  
    Re: 周辺の環境写真(藤白墨)  (画像サイズ: 105×235 4kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照


    日本最古の藤白墨(天皇家より拝領品)

    熊野古道の社領の第一の鳥居より藤白坂を1キロメータ登った当りで平安時代「馬の背」と言う呼び名で呼ばれた場所がある。その後、この一帯を「墨屋谷」と呼ばれた。

    この付近には姥目樫(うばめかし)と云う樫の種類の固い木が繁殖している。この木で紀州名産の敏長炭が出来る。現在はかなり少なくなっていて、当時は藤白山はこの姥目樫で覆われて居り紀北地方でよく採れた。その炭を生産する時に出るその煤を集めて固めて作る。
    その「藤白墨」は種類として10つほどある。
    平安期から江戸期まで生産された。この墨は時代毎の朝廷と幕府の専売品で、最も古いのは後醍醐天皇(天皇家蔵墨)の時代のものである。
    本写真の「藤白墨」は「天皇家蔵墨」で日本最古の現品の「藤白墨」である。
    「藤白墨」は全国で紀州徳川家の末裔か天皇家しか無い筈であり、本品(個人所有)が現存する唯一の「藤白墨」である。(初公開 他に使用中のもの5個保存 盗難紛失数個あり)
    何れも当地で産する「紫硯石」ともあわせて貴重な「最古現品」である。

    この紫硯石には「硯部」が存在し、今も下津町方「硯村」が存在する。そしてこの村は「硯氏」が定住している。しかし、藤白墨には「墨部」が発見されず、地名や村や氏も発見されていない。
    ただ、上記した「墨屋谷」の地名が残るだけである。
    何故存在しないのか研究を続けているが、未だ発見されていない。地名や村や氏が見つからないのは何故なのか大いに疑問である。
    紀州に関係する「部」では例えば鍛冶部(鉄製造 鉄砲の生産に従事していた雑賀族)の鍛冶氏なども姓として紀州には多く存在する。
    硯部が墨部を兼ねていたのではないとも考えられるが資料などは発見されない。
    その一つとして、古文書にこの墨を作っていた中国の氏は「方氏」と書かれている。
    この「方氏」が帰化して後に藤白墨の生産を天皇に命じられてここに移り住んだ。そこが海南市の下津町の「方(かた)」地域ではないかと考えられる。

    奈良時代の後期、奈良和束の松煙墨が最古とされるが、粒が粗くよいものでなかった事から殆どは中国からの輸入で賄われていた。

    しかし、有名な姥樫から採れる「備長炭」はこの地域で採れるのだが、熊野参詣の途中に、この炭から煤を集めて全国を調査していた墨部(渡来人の方氏)に命じてこの墨を作らせたところ良いものが出来た。そこで、後醍醐天皇が生産を命じた事から日本初の墨が生産される事に成ったのである。
    これだけの経緯があり徳川時代まで続いたのであるから、遺されていても不思議ではない。
    墨生産には作業を2つに分けていたと考えられるが、「墨部」は「方氏」ではないかとも観られるが、研究途中である。煤を作る仕事を「墨部」、墨の形にする仕事を「方氏」と成っていたことも考えられる。

    「方氏」を「方部」と呼ばなかった理由があると観られる。つまり、それは「墨の位置付け」ではないだろうか。この「方氏」が後に朝廷に納める「紫硯石」も生産するようになって「硯部」となり「硯氏」となったとも考えられる。


      [No.241] Re: 周辺の環境写真(亀の井)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/04(Wed) 13:10:32  
    Re: 周辺の環境写真(亀の井)  (画像サイズ: 353×235 26kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    亀の井である。
    この井戸から大変おいしいとされて熊野古道の藤白神社をほぼ毎年の様に訪れた天皇や上皇の一行から讃美を受けた「紫の水」の出所である。

    この井戸は本殿前の広場の中央に位置している。
    千年の楠の木に空が覆われてひんやりとした雰囲気である。
    特に夏になると、極めて涼しく、藤白の山や神社の楠の大木から出す酸素が余計に冷やしてくれる。
    昔、夏になると近所の子供や年寄りがここに集い大いに憩いの一時を経たところでもある。
    小さい子供達は直ぐ神社下の近くの干潟で海水浴をし、帰りには又裸になりこの水で頭からかぶるなどして昼寝の時を過ごしたものであった。
    中央には奉納相撲場(最近まで在った)があり、ここで再び遊ぶなどして過ごす賑やかな場所でもあった。
    平安の古でも同じであっただろう。
    古の熊野詣での旅人の讃美だけではなく、上記したような何時の時代にも地元の人々の生活の一部としてそれは全てこの井戸の水に引き寄せられるのが人の本能であろう。
    それを知り得た事も含めての天皇らの讃美も歌だけではなく人の営みの元と成っていた井戸のその意を汲んでのことであろう。
    況や万民の水であり「蟻の熊野詣」と言われるくらいに信仰の対象として一般市民も旅の疲れと喉の渇きを癒した場所の紫の水である。
    この地で産した紫色の藤白墨や紫色の硯もあり、藤紫の藤白山もまゆみの紫花の色も全て紫に包まれたむしろ「紫の地」でもある。


      [No.240] Re: 周辺の環境写真(亀の井の蓋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/03(Tue) 21:35:10  
    Re: 周辺の環境写真(亀の井の蓋)  (画像サイズ: 348×240 22kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    亀の井の蓋
    平安時代の発祥亀井氏の氏の名付け元と成った亀の井の蓋である。

    明らかに亀の形をしている。
    これが紀州名産の青石である。

    昔はこの蓋は亀の井の上に乗せられていた。今は藤白神社本殿の左横の社に祀られている。

    この亀井氏は初代亀井六郎は鈴木三郎とは兄弟である。
    昔この氏子の家は藤白神社と有間皇子の墓との50メータの間の有間皇子寄りの所にあった。
    多分、この神社養子となった鈴木三郎と亀井六郎の藤白神社氏子の奈良期の先祖たちは、蘇我赤兄に有間皇子が絞殺された時はいち早く助けに入ったと観られる。それ程に声も聞こえる近いところである。そして、その亡骸は彼ら近隣一族に依って丁寧に葬られたと考えられる。だから、この様に今でも彼等の子孫と藤白神社を中心に有間皇子の御霊を毎年祭祀して丁寧に保存されている。又、神社本殿右横には「有間皇子神社」の社があり墓と共に祀られている。そして、それを行ってきた二つの氏の発祥の地元では、彼等の先祖を敬う為にも、この亀の井の蓋が特別に本殿横に祭祀されているのであろう。


      [No.239] Re: 周辺の環境写真(紫硯石)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/03(Tue) 21:31:48  
    Re: 周辺の環境写真(紫硯石) (画像サイズ: 343×238 8kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    平安の古に使われていた紫硯石-3

    紫石の原石である。
    この硯石は黒紫である。

    勢作中であるのか、少し使用したのかは不明である。
    中央部に少し使った跡が観察できるが、あまり使わなかったのではと観られる。
    外形がある程度整えられているので使ったものであろう。
    ただ、平安のどの程度の人が使用していたかで少し違うのではと考えられる。
    写真の1のものとは原型主義とは云え余りに完成度は違うので、貴族ではなく民階級が使用していたとも思えるが、この研究は進んでいないし全く史料文献も無い。
    色と原型の違いは趣の好みや値段である事もある。
    保存している赤紫と黒紫の硯の違いがどのようなものであったのかも不明である。

    平安時代にこの紫石を使って日本最古の藤白墨と共にこの紀州の海南付近で生産されていた。
    藤白墨は現在の海南市藤白である。熊野古道の最初の出発点でもある。
    熊野大社の社領の入り口であり、その直ぐ阪の上には第一の藤白神社がある。鈴木氏のは称の神社である。

    この付近から現在の海南市下津付近までの間で紫の硯石が生産されていた。
    現在、この下津町の「方」(かた)と言う地名のところの硯村(すずりむら)と言うところがある。
    海南市を始めとしてこの村には今でも硯氏の姓の人が多い。
    硯村は、技能職人を一つにまとめた「部制度」のあった平安時代には、朝廷に納めるこの「紫硯石」を作る「硯部」が住んでいたところである。


      [No.237] Re: 周辺の環境写真(紫硯石)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/03(Tue) 21:08:21  
    Re: 周辺の環境写真(紫硯石) (画像サイズ: 350×240 14kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    平安の古に使われていた紫硯石-2

    紫石の原石

    使用されていたのか、生産加工中なのかは不明であるが、時代の時系変化で表面と右角上が剥れたと観られる。しかし、使用した墨跡が確認出来ないが洗ったかの可能性もあるが、中央に使用跡がかすかに確認出来る。
    形状は原石を出来るだけ生かして、且つ将棋の駒のような形が多い様に思う。何か意味があるのであろうか。研究が進んでいないので確定出来ない。

    この様にこの紫石は大きな磐から採れるのではなくこの様に板石程度の状態で主に採取される。
    この大きさは20*30センチ程度のものである。
    明らかに赤紫できれいである。
    他には青紫のものもある。
    昔使われていたと見られる赤紫の超仕上げ砥石の原石も保存している。


      [No.235] Re: 周辺の環境写真(紫硯石)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/03(Tue) 20:22:10  
    Re: 周辺の環境写真(紫硯石) (画像サイズ: 351×235 9kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    平安の古に使われていた紫硯石-1

    写真上はかなり使い込んだ為に墨で黒く成っている。(サイズ20*35c)
    この硯には紫石の中にはよく観ると瑪瑙の一種と見られる田瑙の様なものも含んでいるので、かなり高品質なものでそれなりの人(貴族)が使用していたものではと考えられている。
    元々この紫石は極めて硬い印象を受ける。(田瑙はダイヤモンドよりはるかに高価である。)

    写真下は原石に近い状態で使用されたもので紫石の紫がはっきりと残っている。(サイズ20*15c)
    紫の色は平安では高貴な色としてもてはやされた。
    この地では同時に日本最古の「藤白墨」も生産された。
    写真上はかなりハイレベルのものであろうし、下はある程度の汎用で楽しんだものであろう。

    「紫硯」と共にここでは紫石を使っての仕上げ砥石も生産されていたと見られ砥石も遺されている。
    50年前までは南紀日高地方では砂岩等の砥石の生産が行われていた。

    当時、平安の貴族は、原石を余り加工せず写真のように原型を残したままでその優雅な趣を楽しんだ。
    他にも保存している「紫硯」が石の原型を出来るだけ遺している。

    この紫石は現地付近の山で採取されたが現在は採れず貴重である。
    庭石は紀の国の特産物であるが、紫石の庭石は極めて高価なものとされる。

    この紫石の「紫硯」は、多分、日本最古で他に現存しないものと考えられる。


      [No.234] Re: 周辺の環境写真(まゆみの花木)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/22(Sun) 08:28:00  
    Re: 周辺の環境写真(まゆみの花木) (画像サイズ: 355×240 26kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    まゆみの花木

    この熊野古道の藤白神社周辺には平安の古に古道沿いに咲き誇っていたとされるが、現在では全国的にも絶滅種と成っている。
    この花と木は平安の世は「恋愛花木」とされ、古道を通る歌人が万葉歌として良く歌われていたと思われる。「詠み人知らず」とされているものが多い。

    大変微妙な環境で育つが、何とも言えない花の形と色合い、そしてその葉の形は真に恋愛を物語る趣がある。この「まゆみ」の語源は葉形が弓を一杯に引っ張った形から言われ、花は半年咲き誇るし、葉も秋から冬の2月まで紅葉を保つ。
    現在、この木は何とか保存しているが、この木は二種あり一方はまだ比較的多く残っている。
    (「まゆみ」花の拡大写真は青木氏氏ブログの「鈴木氏発祥地とその環境」の中ほどの「まゆみ」に掲載)


      [No.233] Re: 周辺の環境写真(千年の楠木)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/22(Sun) 07:53:38  
    Re: 周辺の環境写真(千年の楠木) (画像サイズ: 183×299 20kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    千年の楠  熊野古道口側の楠木

    この楠の木の右横を通って境内を横に縦断し、5、6段の階段を下りて更に藤白坂に上る。
    この階段を下りて直ぐに紫川がある。

    熊野神社の第1の神社 藤白神社は熊野古道の起点(鳥居地区)から1キロ半程坂を登った所にある。

    「蟻の熊野詣」でと呼ばれ、参詣者は後を絶たなかった。
    この神社で”やれやれと一息”とつきこの千年の楠木の下で憩いを取った。
    この楠木は境内に大木が3本あるが、境内の空はこの楠木と桜木で覆われている。
    大きくなるに連れて台風で折れるが再び大きくなる。
    周辺近所にはこの楠木を姓としている氏が多い。


      [No.232] Re: 周辺の環境写真(有間皇子の墓)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/21(Sat) 21:11:01  
    Re: 周辺の環境写真(有間皇子の墓) (画像サイズ: 355×243 24kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    有間皇子の墓
    中大兄皇子との皇位継承争いでこの藤白の地で命により蘇我赤兄にて絞殺された。
    精神の病気を装い白浜に逃れたが、帰りのこの途で死亡した。
    ここは藤白神社より50メータ程進んだ急勾配の坂を登った平坦な所である。
    この場所は神社から急坂を登りきり左にほぼ直角に曲がる角で、その道の右横の50坪ほどの三角地で盛り上がり、周囲は右側に下り坂に成っている。そこに御魂は葬られたのである。
    熊野古道はここから藤白山の左方向に山手に入る。
    現在は人家はここから無く成る。
    昔はここより10メータほど戻ったところに人家が存在した。

    辞世時前に遺した句
    家に居れば 飯井盛るしいの草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る。 


      [No.231] Re: 周辺の環境写真(鈴木三郎)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/21(Sat) 18:55:13  
    Re: 周辺の環境写真(鈴木三郎) (画像サイズ: 146×180 29kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    鈴木三郎重家の資料を元にした想像画である。

    藤白神社の宮司の日高氏の養子となり鈴木氏を発祥させた。
    宮司の日高氏は熊野詣で泊まった天皇や上皇に歌を添えて山から湧き出る冷水を振舞った。
    その歌の匠さと水の美味さに感嘆し、宮司に「鈴木姓」を賜姓し、冷水には「紫の水」となずけた。
    子供の居ない宮司は近所の氏子の三男を養子として鈴木姓を継いだ。
    これが初代の鈴木三郎である。
    弟六男は冷水の「亀の井」の名を採って「亀井」を姓として名乗り、兄弟は、熊野神社に庇護(弁慶)を求めて投宿していた義経の家来となり、全国に従う。
    南紀日高地方出身の弁慶はこの日高氏の縁者に当る。


      [No.230] Re: 周辺の環境写真(藤白峠寺)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/21(Sat) 18:40:30  
    Re: 周辺の環境写真(藤白峠寺) (画像サイズ: 429×199 24kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    藤白坂を2時間以上登った所が峠になる。
    この峠は「筆捨て松」より再び登り坂となり一時間程度登りきったところが峠で10軒程度の民家があり、ここに「藤白峠寺」がある。
    これより峠下りである。
    この寺の裏手には広い広場があり、和歌浦や天気の良い日は四国徳島が観える絶景の場所である。
    古来、ここには「塔下王子」があり、熊野詣での人たちはここで一泊して旅の疲れをとった。


      [No.229] Re: 周辺の環境写真(藤白峠の筆捨て松)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/20(Fri) 21:05:42  
    Re: 周辺の環境写真(藤白峠の筆捨て松) (画像サイズ: 204×127 9kB)

    > 鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    藤白神社よりやく2時間ほど登ると、中ほどに平坦で曲がりくねった道が続く。
    南は欝蒼とした森に囲まれて、北には「内海の浦」と国立公園の「和歌の浦」が見える眺望の良い所がある。
    丁度疲れが出るところである。
    ここには、絵師の「巨勢金岡」と少年の絵比べ物語がある。
    その地はここである。


      [No.228] Re: 周辺の環境写真(藤白獅子舞)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/20(Fri) 20:54:35  
    Re: 周辺の環境写真(藤白獅子舞) (画像サイズ: 211×132 10kB)

    > 鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    藤白獅子舞は藤白神社の奉納舞である。
    全国に鈴木三郎重家の末裔鈴木氏が全国的に広まると同時に熊野神社のこの獅子舞は広まった。

    むしろ、熊野神社の獅子舞の発祥地とも言える。現在も継承されている。
    奉納舞には色々な言伝えがある。


      [No.227] Re: 周辺の環境写真(藤白坂)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/20(Fri) 20:24:45  
    Re: 周辺の環境写真(藤白坂) (画像サイズ: 204×137 11kB)

    > 鈴木氏発祥の環境写真

    藤白坂である。
    藤白神社より1キロ程上った人家から離れた藤白山の入り口付近

    詳細は本文参照

    熊野神社の「第一の鳥居」熊野神社社領の始まりから、約1キロ程坂を上りそこより「馬の背」という平坦な道を行くと藤白神社に到達する。その神社より紫川を渡り直ぐ坂が始まる。
    神社より南100メータほど行くと山が始まる。これが藤白坂である。当時は8尺道(2.5m)であった。


      [No.226] Re: 周辺の環境写真(万葉の歌碑)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/20(Fri) 20:13:54  
    Re: 周辺の環境写真(万葉の歌碑) (画像サイズ: 175×178 12kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    熊野古道の熊野詣は「蟻の熊野詣」と当時は呼ばれた。
    この詣では、小栗判官などを始めとして多くの万葉歌人が歌を詠んだ。
    むしろ、旅をしながらこの歌を詠む楽しみも熊野詣でにはあったと思われる。
    この歌碑は「亀の井」の蓋と同じく紀州産「青石」で出来ている。


      [No.225] Re: 周辺の環境写真(紫川)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/20(Fri) 20:02:09  
    Re: 周辺の環境写真(紫川) (画像サイズ: 444×280 75kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    鈴木氏の発祥の元と成った「紫川と紫の水」

    詳細は本文参照
    鈴木邸と藤白神社の周辺に流れている山水で熊野詣の代々の天皇から褒められた名水である。
    この「紫の水」は「紫川」からの地下水であり、この井戸が神社中央にある。

    この井戸は「亀の井」と呼ばれて、その井戸の蓋は紀州名産の高級庭石の「青石」で出来ていて「亀の形」をしている。そして、鈴木三郎の弟の「亀井」の姓と成った物である。


      [No.224] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究 史料10/10(国、地方、氏別分布)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/13(Fri) 19:34:49  

    史料10/10(国別、地方別、氏別の血縁分布データ)

    詳細綜合(国別の詳細は下記参照)
    この総計のデータを観ると主要5氏の国別の血縁力、分布等多くの事が良く判る。

    (注):数値はデシベルである。主要5氏の家紋と関連家紋を国別にドットした。家紋は国別に跨る事がある。地方は北海道を除く9地方とした。国別は明治2年以前の割譲を含むものとした。

    綜合別(539)
    東北地方 関東地方 中部地方 北陸地方 関西地方 山陽地方 山陰地方 四国地方 九州地方
    14     103    180    13    88     57    03     42    39
    3.5%    25.9%   45.2%   3.3%  22.1%   14.3%   0.7%   10.6%  9.8%

    国別(67)
    陸奥12 常陸11 信濃28 越後01 山城04 備前01 壱岐00 阿波13 筑前07
    出羽02 下総17 甲斐22 越中01 丹波06 美作16 対馬00 伊予16 筑後06 
          上総15 伊豆04 佐渡01 丹後07 備中14 隠岐00 讃岐06 豊前10
          安房05 駿河26 能登00 但馬05 備後09 出雲02 土佐07 豊後10
          下野15 三河25 加賀03 播磨03 安芸11 石見00       肥前05
          上野16 尾張28 越前07 淡路04 周防03 伯鰭01       日向01
          武蔵14 美濃15 若狭00 摂津08 長門03 印旛00       大隈00
          相模10 飛騨01       和泉05                   薩摩00
                遠江31       河内03
                            大和05
                            紀伊02          
                            伊勢09
                            志摩06
                            伊賀02
                            近江19  
    綜合別に地方の血縁力を観て見る
    これを血縁力での「生残り防衛網」として観て見ると次ぎの様に成る。
    その重点の置き方はその領国の武蔵、下野(25.9%)より、前線部の中部(45.2%)に拠点を置いている。
    関西以西に向けて、45.2%から22.1%、14.3%、0.7%へと次第に血縁族分布を落としている。
    阿多倍一門の末裔の拠点とするところだけに、その勢力が拡げられなかった事を示している。

    その背後の北九州地域には9.8%とそれなりの「背後防衛網」としてのレベルを維持している。
    阿多倍の末裔子孫の多い関西以西、山陽地域を側面から睨む為にもそれなりのレベルを維持している。
    問題なのは東北、北陸地域がその藤原氏一門の勢力圏と見なされた地域でありながら、3.5%、3.3%と余りにも低い。
    阿多倍一門の血縁による「背後攻撃」の影響を全面的に受けている。
    初期に血縁地盤を築きながら、それが殆ど潰されている。その侵蝕力がいかに大きかったかを物語る。後方防御の戦力又は戦略の弱さが目立つものである。

    阿多倍一門の末裔の勢力圏の北九州地域にはそれ相当1割の勢力圏を築いたが、本来であれば東北北陸には2割近い血縁力を保持している筈であるが、これでは帳消しの状態であろう。
    これで敵対する阿多倍一門の末裔と互いに潰しあったことがよく判る。

    領国の関東地方の国々より中部地方の国々の「血縁力」、「氏力」の方が+45%のレベルで高い。
    この数字の家紋分布を観ると、領国に足を置き、中部、関西、山陽に向けてその勢力を次第に広げたことが読み取れる。「前面攻撃」の戦略上の前線戦力が固まっていることが判る。
    領国の手前に大きな厚い壁を作った様なものであろう。

    また、四国、九州地方にもそれなりに食い込んでいる。
    四国は京平家の末裔の多く居る地方であるにも関わらず云わば敵陣にその食い込みは高い。その生残りの積極性が観得る。
    室町期以降は阿多倍一門末裔は抑えられて讃岐籐氏の独断場と成った。
    京に近い事もあり、古くから代々利仁流も含めて藤原氏の讃岐籐氏一門(下がり藤紋を中心に片喰族、剣片喰族等)が抑えていた事もあり藤原一門で押さえ切ったことを示す。
    四国地方を完全に抑え切られた事が、関西以西の中国地方の阿多倍一門末裔に取って観れば、脇腹に刃物を突きつけられたようなものであろう。
    これが秀郷一門の大きな「側面攻撃」の戦略上の推進の原動力となったと観られる。

    九州は北部にその赴任地が存在した事にもよるが、それ以上に少し高い。これは、九州北部の豪族の3氏の分家筋(巴、扇、九曜紋:北九州血縁族3氏)が移動して関東にその勢力を築き、藤原秀郷一門との血縁を進めて生残りを図った事からその縁で九州北部には高くなっているのである。
    この3氏の移動が秀郷一門にとってこれも「背後攻撃」の戦略上の大きな推進力と成った。

    東北、北陸には鎮守府将軍としての赴任地であるが、地方に子孫を残すと言う「血縁戦略」としての結果程度である。この地方の血縁を受けた豪族子孫(小山、小田、花房(花山)武田等)の分家末裔が中部と東関東域に移動して勢力を高めた為に低くなった事と室町期以降に潰された事も言える。

    赴任地も無かったが山陽地方の豪族に支配されていた山陰地方には殆どその力を伸ばしていない。
    地理的な戦略上の意味も薄かったことも言える。

    国別では、駿河、遠江、三河、尾張に根を張っている。
    そして、信濃、美濃、甲斐の賜姓青木氏、賜姓源氏の勢力圏に勢力をも拡げている。
    母方同族として縁を頼りに固めている事が判る。
    又この地方には東北北陸から移動してきた血縁族の勢力圏でもあった事も左右している。
    丁度、この分布を観ると、中部で日本を南北に縦断する様に「防御網」の「勢力の砦壁」が出来ている。
    そして、その壁から西には、其処から関西では「前線網」を敷いていて、更に西には「第1背後攻撃網」を構築している。
    特に、伊勢(24)、近江域(27)は賜姓青木氏の勢力圏であり、その力とのバランスを採り血縁を敷いて固めている。これはいわば「朝廷の抑止力網」を採っているのである。

    東には確実な「領国安全網」を敷いている陣形網が観得る。これだけの血縁力では先ず背後から潰されることは先ず無いし、血縁力バランスが取れている。弱点が少ない。

    四国からは瀬戸内を含めた「側面攻撃網」を採用し、九州からは北部に「第2背後攻撃網」を築いている陣形である。
    これでは、他の勢力は攻め込めない。京平家、信長、秀吉が容易に潰せなかったのはこの「完璧な血縁網」が存在したからに過ぎない。
    これでは生き残りは確実であった事が納得できる。

    「完璧な血縁網」での陣形は次ぎの様に成るだろう。
    「北陸防衛網」 :第1独立北陸司令部域(出羽地域警戒 側面攻撃網)
    「中部防御網」 :本陣司令部地域
    「関西前線網」 :最前線司令部域
    「北九州第1背後攻撃網」 :門司博多背後司令部域
    「畿内朝廷の抑止力網」  :前線司令部域  
    「東部領国安全網」 :中央指令部域
    「四国側面攻撃網」 :第2独立四国司令部域
    「北九州第2背後攻撃網」 :敵陣司令部域

    これ以外にも、下記の個別のデータからも、これ等のデータは他にも色々な検証のツールとして使えるものである。

    国別(539)
    539  青木氏 172  永嶋氏 46    長沼氏 84     長谷川氏 174   進藤氏 63
    %   31.9%      8.5%        15.6%        32.3%        11.7%   

    これ等のデータを使って主要5氏の勢力関係を表す事が出来る。
    家紋分布から見ても、青木氏(31.9%)と長谷川氏(32.3%)は、兼光流と文行流との領袖として同じ勢力を持っている。
    継いで兼光流で長沼氏(15.6%)、文行流で進藤氏(11.7%)と成る。
    この場合、進藤氏は全進藤氏として観ている。秀郷流としては半分程度以下と観られる。
    最後は永嶋氏である。8.5%は後発の原因である。「関東屋形」として急激に伸張したのでこの程度の「氏力」を得たのであろう。ただこの「氏力」は新しい元気の良い「氏力」であろう。
    永嶋氏(8.5%)は、長沼氏、進藤氏(15.6、11.7%)との差はあるが、その氏力(勢力)はその後発の「若い勢い」と、伝統を重んじる長沼氏の「貴族的氏力」、「跡目の苦労」をしている進藤氏とは「実質の勢力」は同じ程度以上があると考えられる。

    血縁族で観た場合や他のデータでの分析でもこの程度の結果が出ている。
    この勢力で青木氏は「第2の宗家」として活動し、主要5氏は夫々の役割を果たした。

    ここでは「氏力」として考察したが、これ等のデータは色々な物事の判断材料にも使える。

    氏別と国別
    総計 青木氏  永嶋氏   長沼氏   長谷川氏   進藤氏
    東北地方 3 東北地方 3 東北地方 3 東北地方 3 東北地方 2
    12 陸奥 03 陸奥 02 陸奥 03 陸奥 02 陸奥 2
    02 出羽 00 出羽 01 出羽 00 出羽 01 出羽 0

    関東地方 33 関東地方 08 関東地方 25 関東地方 23 関東地方 14
    11 常陸 06 常陸 00 常陸 02 常陸 02 常陸 1
    17 下総 05 下総 01 下総 04 下総 04 下総 3
    15 上総 04 上総 01 上総 04 上総 03 上総 3
    05 安房 02 安房 00 安房 02 安房 01 安房 0
    15 下野 04 下野 02 下野 04 下野 03 下野 2
    16 上野 04 上野 02 上野 02 上野 05 上野 3
    14 武蔵 04 武蔵 02 武蔵 03 武蔵 03 武蔵 2
    10 相模 04 相模 00 相模 04 相模 02 相模 0

    中部地方 60 中部地方 16 中部地方 22 中部地方 66 中部地方 16
    28 信濃 11 信濃 03 信濃 03 信濃 10 信濃 1
    22 甲斐 07 甲斐 02 甲斐 02 甲斐 08 甲斐 3
    04 伊豆 02 伊豆 00 伊豆 00 伊豆 01 伊豆 1
    26 駿河 07 駿河 02 駿河 05 駿河 10 駿河 2
    31 遠江 11 遠江 02 遠江 04 遠江 12 遠江 2
    25 三河 08 三河 03 三河 04 三河 09 三河 1
    28 尾張 10 尾張 03 尾張 02 尾張 11 尾張 2
    15 美濃 04 美濃 01 美濃 02 美濃 04 美濃 4
    01 飛騨 00 飛騨 00 飛騨 00 飛騨 01 飛騨 0

    北陸地方 02 北陸地方 02 北陸地方 01北陸地方 07 北陸地方01
    01 越後 00 越後 00 越後 00 越後 01 越後 0
    01 佐渡 00 佐渡 00 佐渡 00 佐渡 01 佐渡 0
    01 越中 00 越中 00 越中 00 越中 01 越中 0
    00 能登 00 能登 00 能登 00 能登 00 能登 0
    03 加賀 10 加賀 10 加賀 00 加賀 01 加賀 0
    07 越前 10 越前 10 越前 10 越前 03 越前 1
    00 若狭 00 若狭 00 若狭 00 若狭 00 若狭 0

    近畿地方27 近畿地方12 近畿地方14 近畿地方26 近畿地方09
    04 山城 01 山城 00 山城 01 山城 01 山城 1
    06 丹後 02 丹後 00 丹後 01 丹後 02 丹後 1
    07 丹波 02 丹波 00 丹波 02 丹波 02 丹波 1
    05 但馬 01 但馬 01 但馬 01 但馬 02 但馬 0
    03 播磨 01 播磨 01 播磨 00 播磨 01 播磨 0
    04 淡路 01 淡路 01 淡路 00 淡路 02 淡路 0
    08 摂津 02 摂津 01 摂津 02 摂津 02 摂津 1
    05 和泉 02 和泉 01 和泉 01 和泉 01 和泉 0
    03 河内 01 河内 00 河内 01 河内 01 河内 0
    05 大和 02 大和 01 大和 01 大和 01 大和 0
    02 紀伊 01 紀伊 00 紀伊 00 紀伊 01 紀伊 0
    09 伊勢 03 伊勢 01 伊勢 00 伊勢 04 伊勢 1
    06 志摩 02 志摩 02 志摩 01 志摩 01 志摩 0
    02 伊賀 01 伊賀 00 伊賀 00 伊賀 01 伊賀 0
    19 近江 05 近江 03 近江 03 近江 04 近江 4

    中国地方18 中国地方02 中国地方11中国地方17 中国地方09
    01 備前 00 備前 00 備前 00 備前 01 備前 0
    16 美作 05 美作 01 美作 03 美作 05 美作 2
    14 備中 04 備中 01 備中 03 備中 03 備中 3
    09 備後 03 備後 00 備後 02 備後 03 備後 1
    11 安芸 04 安芸 00 安芸 03 安芸 03 安芸 1
    03 周防 01 周防 00 周防 00 周防 01 周防 1
    03 長門 01 長門 00 長門 00 長門 01 長門 1

    中国地方 0 中国地方 0 中国地方 0 中国地方 3 中国地方 0
    00 壱岐 00 壱岐 00 壱岐 00 壱岐 00 壱岐 0
    00 対馬 00 対馬 00 対馬 00 対馬 00 対馬 0
    00 隠岐 00 隠岐 00 隠岐 00 隠岐 00 隠岐 0
    02 出雲 00 出雲 00 出雲 00 出雲 02 出雲 0
    00 石見 00 石見 00 石見 00 石見 00 石見 0
    01 伯鰭 00 伯鰭 00 伯鰭 00 伯鰭 01 伯鰭 0
    00 印旛 00 印旛 00 印旛 00 印旛 00 印旛 0

    四国地方15 四国地方 2 四国地方 3 四国地方15 四国地方 7
    13 阿波 04 阿波 01 阿波 01 阿波 04 阿波 3
    16 讃岐 05 讃岐 01 讃岐 01 讃岐 06 讃岐 3
    06 伊予 03 伊予 00 伊予 00 伊予 03 伊予 0
    07 土佐 03 土佐 00 土佐 01 土佐 02 土佐 1

    九州地方14 九州地方 3 九州地方 5 九州地方14 九州地方 5
    07 筑前 03 筑前 00 筑前 00 筑前 03 筑前 1
    06 筑後 03 筑後 00 筑後 00 筑後 02 筑後 1
    10 豊前 03 豊前 01 豊前 01 豊前 04 豊前 1
    10 豊後 03 豊後 01 豊後 02 豊後 03 豊後 1
    03 肥前 01 肥前 00 肥前 01 肥前 01 肥前 0
    05 日向 01 日向 01 日向 01 日向 01 日向 1
    00 大隈 00 大隈 00 大隈 00 大隈 00 大隈 0
    00 薩摩 00 薩摩 00 薩摩 00 薩摩 00 薩摩 0


      [No.223] 青木氏ステイタス お仏像様 2
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/11(Wed) 08:34:27  
    青木氏ステイタス お仏像様 2 (画像サイズ: 283×213 29kB)

    Re: 青木氏ステイタス お仏像様 2
    副管理人さん 2007/06/24 (日) 09:45
    青木氏ステイタスの仏像
    (写真添付)

    「青木氏ステイタス お仏像様 1」の続き。

    小説やドラマのように直ぐ誰でもが商人に成って成功したではない。今の自由資本主義の社会ではないのである。異なる封建的氏家制度の仕組みの中での事である。兎角勘違いをする人が見られるが、決して誰でもが慣れる訳ではない。
    この様な条件を備わっている者は1%にも満たないであろう。

    そして、ここには、戦乱で衰退、離散、滅亡した一族が山や海岸渕などに逃げ込み村を形成して生活をしている。これ等の者の一族が生き延びるには裏社会の盗賊、山賊、海賊だけの潤いでは無理である。
    これ等の者達を養うだけの力が必要である。それを実行出来る人物が二束の草鞋を採った豪商である。
    彼らの経済的利益の幾分かは、彼らに回る仕組みが、事の善悪の問題ではなく、この当時の普通社会の仕組みなのである。
    そして、この仕組みが、血縁関係で成り立った各地の豪商間の連携が成立して、益々と拡大膨張して行くのである。
    これが伊勢青木氏を始めとして5家5流の青木氏とその24氏に広がり、更に藤原秀郷一門とその青木氏主要9氏と母方で連携が起こり、青木氏とその血縁族に関して、四国、中国、中部、関東、東北、北陸とその連携(シンジケート)は日本最大のものとして拡がるのである。これだけの仕組みを持つのは単独では他に無いのではないか。
    だから、上記した最大「危機」にも子孫を遺せたのである。普通では滅亡である。
    ここが、他の氏と異なる青木氏の古い歴史からなる所以でもある。

    現に、源氏一族は11家11流ありながらも単独では本流、支流、分流、係流は完全滅亡である。この仕組み(二束の草鞋策)を作らなかったことに依る。それは、余りにも高位というものを全面に押し出した事によるものであろう。
    むしろ、作ろうとしても出来なかった政治的なものがあったのであろう。
    (注 江戸時代に源氏一族と名乗る氏は殆ど偽である)

    その意味で、同じ同族であるが、伊勢の青木氏を棟梁として、5家5流の賜姓青木氏は、この一戦を踏み越えた決断があったからである。藤原氏も、この一線を越えて、同様である。

    例えば、藤原氏として有名な豪商、即ち、「讃岐籐氏」と「讃岐青木氏」一門は、四国一帯と安芸、美作一帯の血縁一族と、出雲大社の亀甲紋で有名な氏子一族を束ねていた。
    そして、その組織は、昭和20年ごろまで瀬戸内一帯の廻船問屋を束ねて続いて来たのである。
    このシンジケートが、摂津より西側を陰の圏域として押さえ、四国への賜姓青木氏の逃亡を助けたのである。
    むしろ、このシンジケートに組する人々が、「豪商」という大会社組織の社員として、構成していたとも言える。

    そして、思い返せば、現在の我々が生存し子孫を残しているのである。もし、このこと即ち、助け合う「横の繋がり」(シンジケート)が無ければ、滅亡であった筈である。
    敢えて、ここで「シンジケート」を力説したのは、余りにも現代感覚で簡単に生存を考えている人が多いかを憂いてのことであり、我々は青木氏に関しては、決してそう有ってもらっては困るのであり、敢えて史実を持ち出して力説して懇願しているのである。

    これは言い換えれば、”人は何故にこのシンジケートに参集するか、そのものは何か”と云う事であり、それは青木氏で言えば、この青木氏のステイタスの”「お仏像様」の元に助けられた”と言えると考えるのである。

    つまり、この「お仏像様」は、ただの木の物質では無く、古来よりの始祖、元祖、先祖の「御霊魂」そのものであり、そのステイタスの「お仏像様」は擬人化されたものなのである。
    だから、「共通のシンボル」としてここに「人は参集する」のである。この「旗の下」に即ち「お仏像様の下」にである。
    あくまでも、「お仏像様」は先祖人括りの「人」なのである。

    ここで、場違いの感があるが、より理解を深めてもらう為に、観念論では無く、科学的な根拠を次に示す。

    「人」とは遺伝子的に、脳の中で無意識の中に、その様な「深層思考」の原理が働き、その様な心根を持っているのである。
    人の脳は、無意識の中で、「3つの思考原理」が先ず連続的に必ず働く様に成っている。
    物事がおこった時、人の脳は、「計画」し、「判断」し、「実行」する様に必ず働くのである。
    この時、この3つを思考する時のパターン(思考原理)は女性と男性では全く異なっている。
    それは、夫々の「性」(さが)の目的に合ったように深層思考する。
    このことは長くなるので、後日レポートするとして、この「3つの思考原理」の下で、人の脳、特に男性の脳には次のような現象が起こる。
    現実に、現代医学では、上記のステイタス(お仏像様)様なものに執心する事が証明されているのである。

    人の頭の左の耳の上にある「線状帯」と言う所があり、この中に「中紀帯」という15ミリ程度の部分がある。
    ここで、男性だけに働く部分がある。この部分は、先の事を行動予測し、予期して、一つの心理の基に思考原理が働き、共感集中する働きを行う場所なのである。
    この脳の働きは、人類化した時から、他の動物以上に進化し発達した部分で、人類は生活の糧を得るために猛爆たる自然の中に入り狩をする。これは食うか食われるかの生存競争である。現代でも形は違ってはいるが同じである。
    従って、今起こす行動が、先にどの様なことをもたらすのかという事を予期する働きをして身を護るように成った。
    人類は他の動物に比して攻撃的能力は弱い。
    しかし、予期して、共感して、集中する事で対抗する事が出来ると無意識の内に考え、学習し、進化して本能化したのであり、線状帯(中紀帯)のここが働く様に成ったのである。あくまでも、この働きは、その様な目的行動をする男性にしか働かない。
    女性は哺乳動物として、その「性」から起こる元来の目的、即ち、「子孫を産み育てる」と言う事から、この脳部分の進化は起こらなかった。余り必要性がその生理上の構造からなかった事を意味する。

    ここは、情報を蓄積する左脳部分の上側面にあり、つまり、「学習の知恵」の蓄積部分である。人は弱い身を護るために、学習して知恵を出し、その働きを蓄積して進化したのがこの部分である。

    そして、その為に、次第にその局部が進化して、本能として、「先を予期」し「一つに共感、集中する」能力が付いたのである。
    では、この働きでは女性も多少なりともその行動をする事があるとすると、進化する筈であると考えるであろう。
    ところが、この働きが起こらないように脳は出来ている。
    この歯止めの働きをするのは、脳の後ろの大脳の上の左横(脳幹の左)に、丁度、餃子のような形をした脳部分がある。
    ここは、「脳陵帯」という部分で、男性と女性の「思考原理の違い」と、「体の機能差違」をコントロールしている脳である。
    従って、女性は男性に絶対に成れないのであり、当然に思考原理も絶対に女性は男性の思考原理を起こさないように出来ているところである。
    つまり、この「脳陵帯」で歯止めが効いて、この「中紀帯」は、その「性」の目的で、男性にしか絶対に働かないのである。故に、男性には間違いなく、”先を予期、予測して、先祖の「御霊魂」に参集する”と言う「無意識の深層思考原理」が働く事が証明されるのである。
    (注意 この事で、少しでも争いを避ける為に、女性と議論しても絶対に議論は、深層思考原理で管理されて、噛み合わないことを忠告する)

    それでは、トレーニングで例えば、この時に、上記の信長に対してステイタスを持つ青木氏に問題が起こったとする。
    その問題に付いて、3つの思考原理が無意識の内で起こる。
    先ず、脳の中で、その問題の処理に付いてどうするか「計画」する様に働く。(男性では「理想」に基づく)
    次に、その「計画」に基づいて、状況を見て如何に成せば良いか「判断」する。(男性では「合理」に基づく)
    そして、最後に、その判断に基づいて、精神を共感共鳴して「実行」する。(男性では「現実」に基づく)
    (男性は、「理想」「合理」「現実」で、3つの深層思考原理を無意識に脳は働かせる。)
    この3つのことは瞬時に働く。
    ここが「経験と頭のよさ」に基づくところで、それは早さ(脳の回転)に起因するのである。これが資質(個性 国民性)に拘る所となる。つまり、一番目が良く働く人、2番目が優れている人、3番目がすばやい人等が起こる。
    3つを持ち備えた者が、「有能な人物」となる所である。これを経験が補うのである。

    さて、「理想」には、武士として、尻尾を丸めて逃げる事はない。当然、抗戦する事が最善と決める。
    次に、「判断」には、闇雲に戦うのかを状況を検証する。政治、軍事の力関係は劣る。しかし、前哨戦の経済的な力は劣らず、むしろ、優れている。経済力で対抗すると決める。
    最後に、「現実」には、「経済力」の基と成っている「横の組織」(全国の血縁関係やシンジケート)がある。現実的には直ぐにでも「対抗力」として使える。しかし、「横の組織」の「共通意識」を求め無くては結集力にならない。
    現実に1000年も生き残って来た血縁者共通の「青木氏の始祖、元祖、先祖」の「一括り」の「御霊魂」がある。
    そこに、1000年も何よりも大事に護ってきた「お仏像様」がある。人の深層心理はこの下に結集しようと働く。
    「横の組織」の心に語りかける。各人の脳では、「共感共鳴」が起こって、一致結束して抗戦開始である。
    そして、この様に3つの思考原理は働き始めるのである。

    「横の連携、関係、繋がり、集まり」は元より本能であり、必然的に働くものである。
    現代化と多様化することで、人の脳は、この部分の動作が退化して、薄らぐのである。しかし、心根は本能として持っている。現代と異なり、氏家制度の社会の中では、この部分が敏感に働くのである。

    この様にして、史実として過去の歴史の事件の検証の全ては、この条件に適合しているのである。
    必然的に、これが人の「心で結ばれた勢力」であり、無意識の「心の集まり」になるのてある。この様に現代医学でもその行動思考パターンは証明されている。

    故に、この皇族賜姓青木氏24氏のステイタスの「お仏像様」の元に、横の連携を取り参集すれば、必然的に起こる現象から「最高権力者」と言えどもうっかりと手が出せない。

    話を戻す。
    更に、徳川と豊臣との戦いでは、伊勢青木氏(250で参戦 食料と武器弾薬等の物資の供給と搬送)を始めとする5家は徳川方に味方した。

    実は、家康はこの事を知っていた。
    秀吉から学んでいる。また、自らも、この失敗と経験を3度していて命からがら滅亡寸前まで行って助かっている。

    一つは、武田氏との三方が原の戦いである。武力による無理押しをして大軍に負けた。「楠木正成の戦略」を採らなかった。
    二つ目は、信長が死んだときである。堺の町に居た。直ぐに、逃げたが追っ手に追いつかれた。
    この時、堺のシンジケートと伊勢伊賀者が助けに入った。三河まで護られて何とか逃げた。この時、シンジケートの重要さ強さを知った。
    三つ目は、真田幸村(昌幸)の戦略と陣形が読めなかった事である。これは次に述べる。
    (幸村は信州の真田昌幸の子孫)

    軍事物資の調達、伊勢道、中仙道の通過経路の安全確保、食料の調達、ゲリラ戦の排除、などが勝敗を決めると知っている。戦場は伊勢より西である。伊勢シンジケートと伊勢青木氏(青木長兵衛 紙屋長兵衛)の圏外である。
    豊臣側はこの点について問題は無く成ったし、堺の豪商で大名の小西行長が居る。
    軍事勢力は小早川軍を取り込むことである程度バランスが取れるが、この伊勢−信濃ラインの経済とゲリラのシンジケートを味方に引き入れる事が勝敗の分かれ目であった。
    つまり、2つのキーワードがあった。
    軍事的には、小早川軍の取り込み如何。経済的には、伊勢−信濃ラインの確保如何。 この二つである。

    だから、家康は伊勢路の手前で名古屋で長期間留まったのである。江戸からの秀忠本軍の中仙道からの遅れを待つこともあり、この信濃路のシンジケートの安全確保の担保が遅れての所以である。
    この間、家康も、同じく伊勢の青木氏に3度も合力し参戦するように説得して名古屋で待っていたのである。
    というのも、伊勢青木氏の一部分家は豊臣側に参戦したのである。
    結果は、250をもって合力で参戦する事に決まったのである。
    (遅れながらも秀忠も成功して一つのキーワードは解決した事になる。)

    ここで、余談だが、気になると思うので、小説ではないが、その状況を史実を基に描いてみる。
    問題は、小早川の出方如何となった。しかし、ここで誤算が生まれた。それは真田氏の軍略であった。
    陣形と戦法に読みの違いが出た。

    青木氏の参戦で無事に伊勢路を青木長兵衛の伊勢シンジケートで側面保護されながら進んだ。そして、戦場に着いた陣構えをした。しかし、家康はこの二つの懸念が未解決で動けなくなったのである。
    この懸念は戦いで出た。鶴翼の陣構えに中央に長く一線状に突き出た長い柵で覆われた櫓構えである。兵の影は無い。この意味が判らなかった。(六稲三略の鶴翼の陣は普通はこの頭の部分は小さい。)
    徳川軍が攻めたが、崩せない。小早川軍を見方に引き入れて陣構えを崩した。一気に攻めた。
    ところが、ここで誤算の結果が現れた。徳川軍は相手の陣に深く進入している。しかし、中央の丘の上まで突出したこの中央の櫓構えから、突然に数十の騎馬の一団が幸村(昌幸)を先頭に疾風の如く手薄に成った家康のいる徳川本陣に突っ込んできた。瞬く間に目の前まで来た。徳川軍は突っ込み真田兵は逆に走る。合わせるとと50キロ以上の速さになる。とても周囲の護衛は護れないで潰された。家康の周囲は数人になった。家康は一人で慌てて逃げた。草むらに隠れるが見付かる。逃げたが幸村(正幸)の馬が目の前に現れた。万事急須である。刀は振り下ろされた。しかし、突然、幸村の号令の下に騎馬団の幸村(昌幸)等は引き返した。(伊賀と甲賀のシンジケートはこの時は間に合わなかった。)
    家康は、逃げた人家の納屋に潜んで隠れたが、戦いに負け勝負には徳川の戦勝となった。人が追いつき集まってきた。
    武田氏との戦いの結末の命からがらと同じ事が、又、自分に起こったのである。

    実は幸村は、家康を打つことが出来るのは2つの条件の時だけであると見抜いていたのである。
    その一つは、戦列を作って移動する家康の居所を押さえて、一局集中の各個攻撃で数十騎馬団で直角に側面を弾丸の速さで突くことで可能に成る。
    その二つは、戦場で徳川軍が総攻撃を掛けて全軍が突き出した櫓構えより手前に来たときに、敵の攻撃を防ぐ為に作られた柵道を疾風の如く走り、数十の騎馬団が櫓構えより走り出し、一局集中の各個攻撃で、手薄に成った家康本陣を着くことで家康を討ち取ること可能に成る。

    一に付いて、戦列を作って移動中の側面は弱いのである。従って、この側面を地元の地理を知り抜いたシンジケートの一団が、掃討作戦を敷きながら家康の居る側面付近を陰になって移動するのが戦いの前哨戦の常道である。
    この時は、伊賀、甲賀、伊勢シンジケートが司ったのである。
    これを、疾風の如く騎馬で抜く事で可能に成る。しかし、失敗の危険率は全く無い事ではない。
    二に付いて、戦略が見抜かれなければ、一よりは失敗危険率は少ない。周囲にはシンジケートは戦場であるので無い。
    この二つ以外は兵力差で殆ど不可能である。

    元々は幸村(昌行)は紀州九度山に居て、伊賀集団や甲賀集団や根来集団と雑賀集団の職業シンジケートと、楠木正成で知られる千早村などを含む青木氏等による伊勢シンジケートラインは地元であるので知っている。当然に、有名な真田十勇士を抱え、軍司でもある幸村(昌幸)は彼らの動きも逐次把握していた筈である。
    先ずは戦略として、この幾つかのシンジケートを騙し交わす事が先決である。成功した。そして、戦場でこの鶴翼の「櫓構え」編み出したのである。

    国元を九度山に配置換えされて冷遇された幸村の武士としての意地と目的は達成されたのである。幸村(昌幸)は、これからの時代は家康以外にないと思っていたから世の為に生かしたのである。生かさなければ更に戦乱は続くと見ていたからである。
    後に、幕府を開いたときには、この真田氏の兄の本家を引き立てたのである。

    家康は、反省して、後に堺や伊勢や摂津等の豪商の持つこのシンジケートを匠に使った。
    しかし、上記のシンジケートの集団を積極的には使わず、陰に存在した柳生集団を用いたのである。


    話を戻す。
    このことから本領安堵策で復興をとげ、伊勢松阪は紀州徳川氏の飛地領として特別にさだめられて、天領地であったために大商いを営みながらもここを護る青木氏の安堵が許された。

    以後、青木氏と紀州徳川氏とは初代頼宣より大正14年まで親交があった。徳川氏との関係では多くの口伝や逸話が遺されているし、多くの手紙などが遺されている。紙屋長兵衛、即ち青木長兵衛は、水墨画や漢詩を教授し、和歌や俳句や禅問答などの相手として親交を深めた。この為に長兵衛の一族に永年に12人扶持を与えられていた。(長兵衛は世襲)

    第5番目には、明治に入り、政治軍事は無くなった。その後、明治35年にこの紙屋長兵衛は倉庫の火薬に火がつき伊勢松阪の大火の出火元となり全財産を賠償に当て1000年以上続いた紙問屋は遂には倒産した。
    この時、紙屋は伊勢松阪の侍屋敷町90軒に大店を2店舗の権利を与えられ、隣の玉城町の80%を蔵群として保有し、別荘を新宮に置き、堺にも店を持ち、千石大船3隻を保有していたが、全部を吐き出した。
    出火時、家財道具や先祖伝来の宝物史料などは外に持ち出されたが、この仏像と数点の宝物のみを残し、再び火の中に入れさしたとある。
    それ程に、この「お仏像様」は青木氏にとって何に換えても最も大事なものであり、先祖を「無の一括人」として思考し、それに繋がる一族郎党を「有の一括人」として思考の原点に置いていたのである。
    この「無有」の思考は、仏教の浄土宗で言う「色即是空 空即是色」の教えにあり、大きな違いはないのである。

    大まかには、5つの滅亡に近い危機と遭遇しながらも復興している。普通は11家の源氏の様に完全滅亡しているはずである。しかし、生き残れたのは、この「お仏像様」の神通力にあった。
    青木氏のステイタスとしてこれを崇めて、この仏像を護ろうとして一致団結して一族が頑張った力事によりその神通力となって現れるものであろう。

    この「お仏像様」には言い伝えがある。
    この「お仏像様」の下に青木氏が集まることから、その祭祀を司ろうとして宗家に近い者が祭祀するとその者が祭祀に値しない人格を持ちえていないときは、必ず病気や家が傾くか死亡する等災難が起こると代々口伝で言われていた。
    私の知る範囲としては確かにその通りに成っている。

    この「お仏像様」の「戒め」に添って、実は何時の時代からか判らないが、青木長兵衛の「青木氏家訓10訓」が口伝で伝えられている。
    この「家訓10訓」も5家5流の青木氏の共通する家訓と成っていたのではと考えている。

    信濃と甲斐の道筋の途中に、現代でも伊勢町という地名がある。この伊勢町付近にも青木氏が存在する。
    これは、伊勢青木氏と信濃甲斐の青木氏との繋がりがあった事を意味する。
    当時の時代性から、「横の繋がり」があり、当然に、全く同じと言わなくとも、この家訓も伝えられて「お仏像様」の先祖の「一括人」の「戒め」(心の拠り所)と共に、その「一括人」が発言する「先人の知恵」即ち「共通する戒め」として護られていたと考えるのが普通ではないか。
    ここで、「お仏像様」と共に、「青木氏家訓10訓」を次の第2弾のレポートで紹介する。
    この「二つの戒め」を合わせて、初めて「一括人」(お仏像様)を「一括戒め」として理解が出来ると考える。
    「青木氏家訓10訓」(第2弾の次回のレポート参照)

    この様な意味合いも持った「お仏像様」に対して、これを護り通す力が私にもこの先祖が言う範囲には明らかに無い。依って、この取り扱いには、危険でもあるので慎重を極めていた。

    しかし、現代に於いて、20年昔までは考えられなかったインターネットと言う情報提供メディア−が存在する。
    これであれば、この「お仏像様」(一括人 ご先祖)「戒め」は当らないと考える。
    随分と躊躇したが、今、この青木氏のステイタスの「お仏像様」を過去に於いて繋がりの合った5家5流青木氏24氏と、母方で繋がる藤原秀郷流青木氏116氏に対しても、この存在の史実を知らしめると共に、インターネットを通じての過去の史実を理解し、そのつながりに近い親交を計るべきだと考えて、初めて紹介をしたものである。

    恐らく、江戸初期頃までは、この青木氏ステイタスの「お仏像様」の存在は知られていて、この下に危機に於いて青木氏は共感共鳴していたたものであると考えている。そこから約く400年を経って、再び、その存在を改めて知らしめたつもりである。

    実は、この「お仏像様」が江戸初期まで知られていた事が、判る証拠があるのであるのでそれを特に紹介する。

    江戸幕府樹立後、家康は、息子の頼宣を紀州に配置し、天領地の伊勢松阪を飛び地領としたときに、頼宣は松阪城で紙問屋青木長兵衛と面会している。この事は伊勢松阪の有力勢力者でもあり、上記の豊臣との合戦に於いての合力の謝礼も含めてもあった事からの面会であったが、この時の「口伝」が伝えられているし、多くの手紙が存在する。

    実は、この面会時に、それを示すハップニングが起こったのである。。
    青木長兵衛は城に上がり、家来の余りにも丁重なる”もてなし”で大広間にて待った。
    当時の作法では考えられないもてなしである。そして、一段高いところ上座の上段の間に頼宣は現れた。
    ところが、突然、頼宣はその上段の上座から降りて、手招きして下座して座って待った。
    驚いた青木長兵衛は、確かに家柄は数段に伊勢青木氏の方が上である事は知っているが、時の最高権力者である。
    「お仏像様」をステイタスとし、紋付裃に綜紋の笹竜胆の家紋を着けた青木長兵衛は処置に困った。
    その時、徳川頼宣は言った。”どうぞ上座にお座りください”と。青木長兵衛は赤面して慇懃に丁重に固持した。
    再び、頼宣は言った。”伊勢青木氏は御世から伝え持つ御印のある朝臣の皇子の祖に有らせる。どうぞ上座に”と。止む無く青木長兵衛は、妥協案を申し上げた。上段に同座する事を。
    そこで、頼宣も同意したが、これでも仕来りはまだあった。上段の上座をどちらにするかである。
    再び、”先祖が如何にもであるが、今は徳川氏の御世である”。そして頼宣に上座を進言した。これは解決した。
    しかし、未だ、変である。家来も押し黙って挨拶の礼から戻さない。頭を下にしたままである。
    青木長兵衛は”あっ”と気が付いた。それは、座布団である。上段の二人が座布団を敷いていない。つまり、面会の仕来りの儀礼は出来ていないから家来は挨拶の作法を戻さないのである。
    青木長兵衛はあくまでも下の者の儀礼を採っていたのである。しかし、相手は逆の儀礼を採っていたのである。ここが全て噛み合わないのである。
    そこで、青木長兵衛は座布団を敷いた。とすると頼宣も敷いた。家来は頭を上げた。やっと、面会の作法は完了したのである。
    この後、話好きな頼宣との話は弾み、以後、この作法に基づき親交を深めるに至るのである。この状態は大正14年までの、徳川慶喜と将軍の座を争った14代までの紀州藩主と代々親交は続いた。

    この間には、8代将軍に成る吉宗に請われて、紀州藩から伊勢松阪の紙屋長兵衛の商法を見込まれて、一族の者(六左衛門?)が御家人となり江戸に同行し、「享保の改革」の中心人物として吉宗を勘定奉行として補佐した事もあったし、紀州徳川家の納戸役(経理)としても、家来としてではなく特別扱いで伊勢青木氏(紙屋長兵衛一族)は協力したのである。
    江戸に同行した伊勢青木氏(紙屋長兵衛一族)は旗本として高禄を受けて代々納戸役として定住したと伝えられている。子孫は確認出来ないが、史料(青木氏の官位と職位の研究 参照)では勘定奉行、納戸役の青木氏が存在するが、この者であろうと推測する。

    この様に、この「お仏像様」に関わる事は、江戸初期までは、青木氏のステイタスとして知られていた事を示すものである。
    ここで、この「お仏像様」と書いたが、これは「生仏像様」であると考える。私の学力の無さで読み取れない。
    確かに、”お”と”様”が二つある事はおかしい。これは、上記した口伝の総意の意味から後者で有ろう。
    「一括人」の生きた先祖のステイタスを「生仏像様」と行書で記したと見ているのである。

    既に、このレポートの目的は上記したが、このレポートでは書くことをためらう口伝もあり、「生仏像様」のステイタスが持つ総意を伝えられたかは疑問の域を脱していない。
    次回は、この「生仏像様」に纏わる「青木家の家訓10訓」をレポートする事で、ご理解頂けるのではと推察する。

    「青木氏ステイタス 生仏像様」の第2弾(家訓)のレポートにご期待ください。

    写真添付


      [No.222] 青木氏ステイタス お仏像様 1
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/11(Wed) 08:27:01  
    青木氏ステイタス お仏像様 1 (画像サイズ: 936×1519 470kB)

    青木氏ステイタス お仏像様 1
    副管理人さん 2007/06/24 (日) 09:31

    青木氏ステイタスの仏像
    (写真添付)
    この仏像の由来は、「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」のところでその概ねの由来を書いた。
    (詳細は、「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」を参照)

    そもそも、この仏像は、大化改新の改革の一つとして、天智天皇(中大兄皇子)が、第6位皇子を臣下させる際に、皇族賜姓族の伊勢青木氏の「ステイタス」として、与えたものである。
    (1200年頃の「鎌倉新仏教」としての仏教像形式とは異なる)
    このステイタスの仏像は、「大日如来坐像」(大日像)で、台座を入れると背高約70センチ位で、横幅は60センチ程度の仏像で、材質は高級材の紫檀で出来ている。
    台座には見事な彫刻が施されていて、全体は磨かれて茶褐色で艶のある黒光りをしている。如何にも年代ものである印象と威厳を感じる。それを言葉にするのは難しいが、敢えて何とか表現すると次の様になる。

    国宝としての扱いは敢えて申請していないが、今までの見知る範囲の国宝仏像より決して見劣りはしないし、より優れている。大きさに於いても見劣りはしないし、総体的な美しさは、我が「大日如来坐像」の方が優れている感がする。
    国宝級仏像を見ても、”あー古い仏像か”の印象しか残っていないが、「お仏像様」は、見た瞬間、いつも何か圧倒され萎縮するものを感じるのである。青木氏のステイタスであるからかもしれないが、自然と頭が下がる思いがしてならないのである。直感的に言葉に表現できない”何かある”と脳に直撃するショックみたいなものを感じるのである。
    そのショックは、目と目の間に火の玉が直撃して頭が少し後ろに倒れる衝撃感である。

    この仏像は、伊勢の総宗本家の青木氏が、大化期から代々所有して、別地で平成10年10月15日まで代理宗家(子孫は絶える)で祭祀されていたが、その後、遠路移動して、基本家での保存の安全を考えて、ある適切な所で保存し時事適切な供養をする事にしたのである。
    この様に人に与える印象でも左様に、矢張りご先祖様も同じであった様である。
    だから、ただ、この仏像には、色々と口伝による代々「言い伝え」がある事がそれを物語っている。

    その事について、筆者なりに考えることが有るので、上記のレポート(「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」)から進めて、この「お仏像様」に対する特別な詳細を全国の皇族賜姓青木氏の方々と、母方を藤原氏で繋がる同族とされる藤原秀郷流青木氏に、お知らせしておきたいとしてここにレポートする。

    というのも、青木氏に方には、この「お仏像様」のステイタスとしての存在をご存知無かったと思われる。
    この仏像は、著名(司馬遼太郎氏や黒岩重五氏等の)な歴史家でなければその存在は余り知られていないからだ。

    実は、代々、我が家には、この仏像を”世に晒す事ならず”の厳しい言い伝えがあり、現在まで明らかにしていなかった。
    この言い伝えの根拠は、仏像は、”お仏像様”と呼ばれていて、1360年の歴史を経て、最早、”お仏像様”では無く、大化期からの「人括りにした先祖」としての「人」を意味している。
    ことの尊厳を考えての「戒め」の言い伝えがあり、”人を世に晒す事”の行為を誡めてたのである。

    別の意味として、皇族賜姓の「伊勢青木氏」だけの「ステイタス」と考えるのではなく、下記に示す全体の青木氏ステイタスとしての配慮もあったのであろう。

    まして、この種の大変な歴史的価値のあるステイタス等を所有する何処の宗家の氏でも、通常は、”その持ち主は世に晒す事はしない”のが慣例であると聞いている。
    これは、矢張り、青木氏の「戒めの考え」と同じ考え方であると言う事であろう。

    世に晒されているものは、”殆ど欺瞞で、室町期、江戸期、明治期の氏の混乱期の偽行為の発露のものである”と成っているからである。青木氏等の氏名の「搾取偏纂の行為」(第3青木氏)と同じものと見られるものを出しているだけである。

    実はこの種の話には、下記に示す危険が伴っているのである。
    現に、知り聞いている範囲として、祖父、父の間には、何度も各界から手を変え品を変えての話があったと聞いている。
    この話の殆ど、否、全部が言葉巧みであるが、腹の奥にある種の悪意の目的があっての話である。
    この様な話は”耳がたこ”になるほど聞いている。

    例えば、有名な歴史家が、大化期の歴史調査の為に伊勢の青木氏を調べ上げて、我家に辿り着いた。そこで、史実よりその仏像の存在を確認して、それをある種の対談の中で、匿名で間接的にその存在を発言しされたが、その対談をある歴史写真グラビヤで一部の話が掲載された。(掲載には問題はない)
    そのことを読み聞きつけた学者関係者や書籍企業関係の者と思われる者等が、調べ上げて「世に出す事」をいかにも大儀明文かの様に話を持ち込んできた事があった。当然断わった。

    ある時は、同じ大化期の祖先をもつ近江佐々木氏の宗家末裔の超有名大学の名誉教授の学者の方が、皇族賜姓佐々木氏と共に、皇族賜姓青木氏とこの仏像のことの研究論文を載せた不売品の書籍を出した。
    そうすると直ぐに、この種の関係者が押し寄せて来た。

    又、知り合いの旧家でも、かなりの価値のある宝物があった、これを調べてきた専門家の正真正銘の女性大學教授がやって来た。そして、その言葉と身分を信用して、この者にある種の史料を借用書共に提供して貸し出した。
    しかし、待ってもかえって来なかった。大學に何度も電話したが、その都度、”もう少し”の答えであった。
    次の電話ではもう転勤して居なかった。追求したが行方はつかめず、結局は、数年後にある歴史写真書籍に出ていて、京都の古物商の所有に成っていた。この様な話は幾つも聞いている。

    更に、この様なことが地元でもあった。
    つい最近に、地元の方の伝来の宝物を調べ上げて、近くの公的博物館から研究と展示話しが持ち込まれて貸し出した。帰ってこないので役所に異議を申し立てた。個人的に館長がやった行為なので知らないと突き放された。その館長に問いただしたが”のらりくらり”で埒があかない。結局、挙句の果てには、そんなものは借用した覚えはないとの事で、ツッパリである。裁判しても費用が嵩むだけで得策ではないと諦めた。この様に、全く同じ事が起った事を聞いている。
    この様なことを請け負う暴力的背景を持つ悪質シンジケートがあると聞いている。

    事程左様に、根拠が長くなったが、「世に出す事」の意味と意義は、現代に於いては大したものは存在しないのである。むしろ危険が伴う事を意味しているのである。

    しかし、現代のこのインターネットの時代では、写真転送という情報伝達手段がある。この手段を使って、全国の青木氏の方々にそれを伝えても、実物を晒すのではなく写真という手段で伝達する分には、厳しい言い伝えに反する事では無いと考えて、敢えて、その存在場所を伏せて公表する事に今回踏み切った。

    つまり、この青木氏の歴史的史実の情報伝達をして、現在にその薄らぐ史実を遺す事が、このHPの本来の目的であるからである。最早、私はその正しい史実のその時間的余裕と、進化する社会情勢では無いと見ている。

    さて、そこで、本論に入る。

    この仏像は、日本最初の仏師の「鞍作部止利」の作である。
    仏師の「鞍作部止利」は、渡来人の「司馬達等」の孫と言われている。

    そこで、この「司馬達等」とは、どの様な人物なのかである。これには大変な意味を持っている。
    後漢の「阿多倍」が引き連れてきた初期に上陸した技能集団で、且つ帰化した渡来人であり、「鞍作部の始祖」と言われている人物である。又、日本の「彫刻の祖」とも言われている。
    そして、彼は、正式な仏教伝来期よりやや以前に、大和国高市郡坂田原(天智天皇の高市皇子の里)で草堂を営み、仏像等を彫っていたが、この時に既に仏教を信心していたと言われている。彼の配下の者達や周囲の者も影響を受けていたのである。つまり、日本に最初に「仏教の私伝」を成し遂げた人物なのである。このことは余り知られていない。
    彼の生まれ故郷は、後漢の国の北東部(高句麗)といわれている。(現在の北朝鮮の遼東半島やや西に位置する所)

    司馬氏(馬具)は、秦氏(機械染色)や漢氏(軍事)と同じく同時期の初期の渡来人である。
    この渡来人であった3氏等の頃は、一箇所に集中して生活して、その技能を磨き大和の民にその技能を広めていた。

    この司馬氏は、馬具の鞍等を作る職人であったが、「司馬達等」は仏教を信心していた事から、同時にその技能を生かして仏像を彫っていたと見られ、その末裔(孫)の「鞍作部止利」は祖父に鍛えられて「仏師」となったと考えられる。

    ここで、お気づきと思うが、実は、上記に書いたその著名な歴史小説家の一人とは、司馬遼太郎氏の事であり、彼が伊勢の青木氏を探し尋ねて、何故その仏像の行方を調べていたかの理由がお判りと思う。

    司馬遼太郎氏のご先祖の「司馬達等」や孫の「鞍作部止利」等が残した仏像を、伊勢青木氏が所有している事の史実に基づいて、伊勢を訪ねて伊勢青木氏の宗家を探し当てたと言うことであろう。
    そして、その「お仏像様」を探し当てたと言うことであろう。
    その時の内容を対談の中に個人情報を匿名で話されたのであり、青木氏では、それの内容が漏れて上記の結果となったと見ている。(この様な似た事が3度あり、都度断わった。)

    では、”何故、長い間この仏像の存在を世間に公表しなかったか”の理由は、この様な事があったからである。

    その事に付いての前置きはこの位で、この「お仏像様」の事について述べるとする。
    そこで先ず、「鞍作部止利」の代表的作品として、法隆寺金堂釈迦三尊像、飛鳥寺釈迦如来像などの「北魏方式」の仏像彫刻などを多く手掛けた。

    念のために、「北魏方式」とは、中国南北朝の北魏の彫刻方式の影響を受けたもので、その特長は次の通りである。
    1「杏仁形の目」と、2「仰月形の唇」と、3「左右対称の幾何学的衣文」等の「3つの判別特長」を持っているのである。

    大化改新のNHK新説の反論の8でレポートした様に、多分、中国後漢から馬具等を作っていた「司馬達等」氏らにより持ち込まれ伝わった技法であろう。それを受け継ぎ研究して「鞍作部止利」が完成した技法である。

    青木氏のステイタスの「大日如来坐像」は、確かに上記のこの3つの技法様式を保持している事は確かである。

    「鞍作部止利」が入念して彫り上げたこの仏像だけに「不思議な力を宿す懐」が備わっているのである。

    「お仏像様」の神通力
    この「お仏像様」には、不思議な力というか、気迫というか、魔力というか、神通力というか持っている。

    この事に付いて述べる。
    皇族賜姓青木氏は1360年の長い歴史を持っている。この間には、一族の危機存亡の事件が起こっている。
    おおよそ、大きなものとして十数件が起こっている事が解る。
    危機存亡の事件にこの「お仏像様」が大きく関わっているのである。

    そこで、この「危機存亡の事件」を検証して見る。

    皇族賜姓伊勢の青木氏が発祥した大化期(645-647)から光仁天皇の時期までは5家5流の甲斐青木氏までは、少なくとも大きな発展期で初期の「第1期皇親政治」の基礎を築いた。
    (皇親政治は、第2期の桓武嵯峨期、第3期の醍醐期の3期ある)
    ここまでは問題が無い。
    しかし、その変化としては次のことが起こった。

    「軍事的影響」
    この時、、今までになかった制度であったので、青木氏は、その天皇家の皇子の親衛隊としての新しい軍事勢力となって行った。これが軍事的な発展であった。

    「経済的影響」
    今までは、天皇家の皇子として特別な役職と経済的な活動はなかった。むしろ、天皇家の経済的負担であった。
    大化改新の改革の一つとして、5地方の守護王として配置され、そこで、その開発した土地から上がる租税等の経済的収益増が発生して、むしろ、今度は天皇家のプラスの経済的効果として発展した。

    「政治的影響」
    もとより、上記の様に、皇子が軍事、経済の2つの影響力を持ち、更に、5地方の青木氏の皇族集団が出来た。
    それも主要国の国の守護王である。必然的に政治に対する発言力が増す。
    「皇子と2権と集団と守護王」の4要件が揃えば、嫌でも政治に対して影響力が生まれるのは当然の事である。
    周囲がそれを意識する事でもある。むしろその位置に押し上げられた。

    しかし、律令国家の完成を仕上げた第2期皇親政治の「桓武天皇」の時期になると、この発展に付いて次の事が起こった。

    第一番目は、先ず、政治に対しての影響力が「律令国家の完成」の障害とみなされた。
    また、桓武天皇の母(高野新笠で、後漢の阿多倍の孫)の勲功一族を引き上げるに障害となった。
    更に、軍事的支配を改善する目的から、阿多倍の長男の賜姓坂上氏をその中心に置く必要があった。
    これらの事などで、青木氏に対しての圧力として、国司を藤原藤成に変更して実権を外された。 
    親衛隊として大きな働きをしている青木氏に対して、政治の場から遠去けられた。

    これらの為に、政治、経済、軍事の3面で弱体となり、第6位皇子の賜姓青木集団の第一番目の衰退期が訪れた。

    第2番目には、桓武天皇の引き上げから始まったこれ等の伊勢北部伊賀地方の一族の時代が訪れた。
    それは、阿多倍の末裔、たいら族の伊勢衆、国香より始まり5代後の平清盛まで32/66国を支配した「たいら族」である。
    この時、衰退した青木氏に代わって、嵯峨天皇は止む無く皇族賜姓するとしても、青木氏を使えず、結局、この時から始まった同族の皇族賜姓の源氏一族と共に、次第に朝廷内を2分しての「承久平治の乱」が起こった。
    一族を遺す為に源氏も内部分裂した。
    その後に、青木氏と源氏にとって、再び、危機が訪れて朝廷から政治の場から外された。
    分裂による軍事的弱体化が起こった。
    経済的には赴任地を「たいら族」に奪われた。
    以上の様に3権共に無くす完全な衰退が進んだ。

    第3番目には、その後、ただ一人清和源氏宗家の頼光の末裔の源頼政が、朝廷内に三位(天皇と面会して会話が出来る身分)として生残り、力を蓄え遂には、「以仁王の乱」を起こした。
    これがきっかけで源平合戦が起こり、鎌倉幕府が樹立した。
    頼朝の2策(平氏没官僚と2度の本領安堵策)で源氏一族と青木氏は一時、息を吹き返した。
    数年後に北条氏の反対を押し切った策の為に、北条氏により抹殺された結果、清和源氏の分家筋(頼信系)の頼朝一族が完全に滅亡して北条氏の天下と成った。
    11代の源氏も完全に滅亡して再び衰退する。

    しかし、この時から、政治と軍事の衰退は起こったが、今度は強力であった。

    伊勢青木氏を始めとする青木氏一族は、「2足の草鞋策」を採り、その力と実績と軍事力を背景に「大商い」を営んだ。
    衰退しながらも伊勢青木氏は、伊勢伊賀地方付近で取れる古代からの歴史ある「伊賀和紙」を扱う紙問屋(紙屋長兵衛)を営んで、経済的には自立し発展期を迎えた。
    (参考 伊勢青木氏の系譜では明治までの血縁の相手は、小林氏、加納氏など殆ど2足の草鞋策を採っている家柄である)

    この時期には、信濃と甲斐との間にも伊勢町と言う地名があるくらいに互いに青木氏の連携が起っている。信濃青木氏も同様に信濃で生産される古代からの歴史ある「信濃和紙」を扱っていた。
    伊勢青木氏と信濃青木氏とは相互に商いの面でも連携を深めていた。

    伊勢の豪商の紙問屋の「紙屋長兵衛」は、紙だけではなく大船3艘を保有し弾薬など武器なども扱っていた。
    (この弾薬により明治35年に行灯の火が移り爆発、「伊勢松阪の大火」元となり賠償して倒産した。
    玉城町の8割はこの蔵群であった。他にもセンセーションとはして有名な「忠臣蔵」の浅野家の城引渡しの際の財産処分に関わった等の10件程度の日本の歴史上の史実に記録として残されていて、伊勢青木氏と信濃青木氏の連携関係も「日本書紀の記述」を最初にして記録として出てくる )
    この様に経済的な自立により、政治、軍事を動かすほどに成熟したのである。

    第4番目には、源氏支流一門の足利氏の室町幕府の樹立で、伊勢北部伊賀地方を除く「本領安堵策」が再び実行されて、政治的にも軍事力的も保持して復興した。
    この時は、室町文化の発展期で、紙問屋の伊勢の青木氏とそれと連携する5氏の賜姓青木氏は、以前の青木氏の力に較べて経済的には比較になら無いほどに力を付けて、政治、軍事を動かす程度の、否、それを凌ぐ力を付けていた。

    しかし、ここで危機が訪れた。
    室町期末期には下克上で織田信長らによる新興勢力が台頭し、信長の「三大伊勢攻め」が起こり、伊勢永嶋攻め(北畠氏)、天正の伊賀攻め(北条氏 平氏)、最後に秀吉による松阪攻め(青木氏)が起こり、伊勢青木氏は何れの戦いにも合力して軍事的、経済的に対抗したが、敗退して政治と軍事による力は完全に衰退低下した。

    この3つの戦いの状況を「お仏像様」を理解する上で必要であるので詳しく記する。

    「天正伊賀攻め」では、次の通りである。
    軍事的には名張の青蓮寺城から伊勢青木宗家の青木民部尉信定が出て伊賀衆(北条氏 平氏)を助けた。
    経済的には、一方では、伊勢青木氏の「二束の草鞋策」で別の顔を持つ紙屋長兵衛(青木長兵衛)が、材木や武器弾薬などの供給をブロックして、堺と松阪の2大店から他の豪商を指揮して長引かせる戦略を屈指して対抗した。
    (名張の小太郎 伊賀の小次郎の歴史小説でも詳細な戦闘史実が明らかにされている)
    戦いは長期戦になり、やっと出来た野戦城は、伊賀者と長兵衛のシンジケートに依って火薬で爆破されて火事で燃えるなどし、「二足の草鞋」の紙屋の青木長兵衛、即ち青木民部尉信定は側面から援護した。
    再び、建設しようとすると、材木が不足して高騰し、城が建てられない所まで追い詰めた。
    信長は激怒して息子の信雄と家来(滝川三郎兵衛一益)を無能者呼ばわりして排斥したことは有名である。

    ここで、伊勢北部の分轄領の伊賀地方の事について述べて置く。
    足利氏が執権北条氏を破ったときに、北条氏の執事をしていた者が足利氏の執事をしていたのである。
    伊賀北部はこの者の支配下にあった。
    この元北条氏執事は、北条氏に門前で拾われて育ち、その有能さから信頼されて執事となり政治の実権を握ったのである。この時、養子縁組で、北条氏から坂東八平氏の一つである「平(ひら)姓」を引き継いだ。
    ひら姓は、この裏切りの執事に与えられた氏である。
    しかし、日和見から足利氏に味方したのである。そして、足利氏の執事となったのである。
    この為に、足利氏は、北条氏を倒して足利幕府を樹立する事が出来た。

    本来では、伊勢北部伊賀地方は、本領安堵策で伊勢青木氏に安堵される筈であったが、この時、足利幕府は論功行賞でこの執事に、無理にこじつけてこの土地(阿多倍の末裔のたいら族 京平氏の土地)を与えたのである。

    その理由は、この土地は、昔、伊勢の国を割譲して阿多倍に与え、その末裔の平国香と貞盛親子から5代続いた清盛の太政大臣になった伊勢衆(阿多倍の末裔 京平氏 たいら族)のものであった。それを坂東八平氏(ひら族 天皇家第7世族)の同じ姓の「平氏」を名乗ったこの北条氏執事で、後に、足利氏の執事に成った者に与えたのである。
    しかし、伊勢青木氏はこれ等の元から居た伊賀衆の民を援護したのである。

    「伊勢永嶋攻め」では、青蓮寺城と他2つの山城から青木氏は、客員軍司として北畠に合力した。
    北畠氏と伊勢青木氏とは天皇家を通じて親交を暖めていた。
    北畠氏は天皇家の官職は「学問所」であった。伊勢青木氏は親衛隊でもあり天皇家の官職は「軍略所」であった。

    参考 日本書紀ではこの軍略所の伊勢青木氏の始祖(施基皇子)は、最も多く出て来る人物で、日本全国を飛び回り、紛争や施政執行のために働き18回にも登る。 天皇(天智天武)の相談役で代理執行人の役を果たしている。

    この様な関係から深い親交があったので、皇族賜姓族としては、天皇家を無視する信長に対して、伊勢国を信長に侵される事には絶えられないことであった。故に合力した。
    そこで、陰で紙屋長兵衛(伊勢青木氏 二束の草鞋策)は抵抗して、物資の供給などに障害を与えた。
    特に、戦いには戦陣を構築する為には材木は必需品である。
    当時は、材木は吉野、信濃、甲斐の産物でもある。伊勢の青木シンジケートは、これ等の土地の陰の勢力者で豪族5家青木氏と強調して、ブロックしたのである。
    そこで秀吉は、止む無く吉野を押さえ、その材木を切り出した。しかし、吉野熊野付近は前期した様に「楠木政成」の時の伊勢シンジケートの南圏域範囲であった。これを指揮してゲリラ戦を実行したのである。

    これを矢張りブロックした。しかし、信長の家来であった秀吉は、このことを熟知していて察知していた。
    そこで秀吉は材木を自らの兵を使って山から切り出して谷川から麓に流した。
    山では伊勢のシンジケートのゲリラ戦が始まった。陣形を組む事ができなければ攻め側としては裸同然で負ける。
    苦労の末に、軍事と経済的な大負担を強いられた挙句の果てに、時間が掛かったが、秀吉は、それを使ってなんとか陣形を組んだ事は有名な史実である。
    伊勢青木氏の合力(客員軍司)に拘らず4代続いた北畠氏は負けて、信長の徹底した戦後処理で北畠氏の子孫は滅亡する。

    しかし、一方では、信長の「天下布武」の戦いで、逆に、経済的には紙屋長兵衛を始めとする青木一族による大商いは「戦時景気効果」でむしろ更に拡大し力を得たのである。

    「伊勢松阪攻め」では、軍事と経済を挙げての秀吉との伊勢青木氏、即ち紙屋長兵衛との戦いであった。
    この時、この戦いを任されたのは、秀吉、家康などから天下の名将と称された「蒲生氏郷」であつた。
    何故に秀吉は、この蒲生氏郷を差し向けたのかは解る。
    軍事的には伊賀、永嶋は最早、敗戦で力が無く青木氏に対して合力はない。
    しかし、問題は2つあった。
    先ず、一つ目は、天下に対して、伊勢神宮の膝元の伊勢松阪(青木氏)を攻めることは、天智天皇の古来よりこの地に「不入不倫の権」が与えられていて、未来永劫犯してはならない掟があり、これを犯す事は全国の民の賛成が得られない。

    次に二つ目は、堺と松阪に大店を構え、大大名をはるかに超える1100年を越える力のある大豪商の紙屋長兵衛を相手にすることである。

    秀吉は経済に聡い人物であった。経済力が軍事を越えるどれほどの力を持っているかを知っている。
    この経済力の裏にはシンジケートが存在することは、過去に蜂須賀小六の子分時代に教えられて知っているので、信長に忠告したほどの秀吉であった。
    現に、史実では10万の軍に3千で立ち向かって、このシンジケートで10万の軍を餓死に追い立てて勝った「楠木政成」の軍史を知っている。(伊勢シンジケートが動いた)
    真に、経済的に全国を結んだその青木氏5地方の「伊勢のシンジケート」である。その大元の伊勢青木氏を相手にするのである。誰が考えても軍事的だけでは勝てる戦略ではない。
    そこで、天下の歌人でもあり、天下の武将でもあり、歴戦の戦上手でもあり、同族の源氏の血筋を引く「蒲生氏郷」を当てたのである。
    兎角、武力だけの戦いは小説やドラマで、軍事力でよく例えられているが、決してそうではない。
    軍事力は最後の手段である。信長と違い、秀吉はこのことを身をもって知っている。

    彼の歴戦の中で、武力だけで我慢できずに戦い負けた史実がある。敢えてシンジケートを理解する上で紹介する。
    陸奥地方の掃討作戦に対して、地元豪族が山城に3千で籠ったが、周囲の阿倍清水一族の残党シンジケートがこれを支えた。
    この時の数万の豊臣の武将は、蒲生氏郷であった。小豪族を相手に長引く事は世間に対して秀吉の権威が低下する。
    秀吉はシンジケートの強さと恐ろしさを知っているだけに焦った。シンジケートの為に軍事物資や食料水は押さえられて底をつく。秀吉は、絶えられなくなり氏郷に短期決戦の武力による無理押しを命じてしまった。
    氏郷は攻めたが山から丸太、岩石、糞尿、あらとあらゆる物が雨のように落ちてくる。怪我人死人は続出する。何度も繰り返すがだめであり、相手は無傷である。大軍だけに食料は直ぐに底をつく。疲れと怪我人と餓死者が出る。志気と意気は最低となる。梅雨になる。これはどこかで聞いた話である。そうである。南北朝の時代の楠木政成と執権北条の鎌倉幕府10万との戦いの戦歴である。
    (これが元で執権北条氏の鎌倉幕府は権威失墜で崩壊を始め足利氏が力を着ける)
    まさしく、その様相を呈してきた。秀吉は遂に無理攻めを諦めた。

    秀吉はこの身をもって知った学習から以後、2度と軍事力による無理押しの戦いはしなかった。
    この後の最後の「天下統一の後北条氏の小田原攻め」は、「小田原評定」と言う有名な言葉がある様に、10万の軍隊を全く使わなかった。
    大軍を動かせば動かすほどにこのシンジケートとの重要さは増してくる。それは当然である。
    大軍事物資や食料や水は運ぶには限界があるし、ゲリラ戦で奪われるや潰される。現地調達しかない。それにはこのシンジケートの経済力を味方に入れないと基の食料が底をつき戦わずして負ける事となる。
    大軍には反面この問題が付き従うのである。
    つまり、補給路の確保は最大の戦いの前哨戦なのである。現地のシンジケートを味方に入れる事は最大の条件である。大軍であれば有る程この必然性は増す。
    シンジケートの「武力」は大したことは無い。しかし、裏に潜む「経済力」と「陰の組織力」の恐ろしさである。それは地元に根づいた関連一族の何かに集中し、主にその一族のステイタスでの下に働く「横の関係」の強さである。

    秀吉は、このことを今更ながらに知った。そして、その後の最後の仕上げのこの伊勢の戦いである。
    ここでも、解るように、蒲生氏郷を差し向けた理由とその人的な深い配慮が見える。まして伊勢の国である。
    民はこの伊勢に対する思い入れは普通ではない。「伊勢詣で」の言葉でも判る。

    だから戦いは、実質は殆ど起こらなかったのである。伊勢を戦乱から残すことを前提に紙屋長兵衛の賜姓伊勢青木氏は、敗戦を前提として、一時、大店をそのままに青木氏は、名張から桑原の線上にある2つの山城から出て、新宮に軍を引いたのである。
    これで、蒲生氏郷は立場が立ち、源氏一族として伊勢を残す事が出来、秀吉の政治的立場が保たれたのである。
    問題は、伊勢青木氏の立場である。そこで、さすが蒲生氏郷である。
    伊勢青木氏を一年後に伊勢松阪に呼び戻し、紙屋長兵衛の大店を含む「本領安堵」の策を採ったのである。

    この時、ただ一つ蒲生氏郷は禁令を破った事があった。
    それは、松阪に有史来初めて「不入不倫の権」を破って松阪城を築いたのである。しかし、氏郷は優れている。この城は軍事中心の城ではなく、経済、政治を中心とする所謂政庁であった。
    その証拠に、町を編み目状に企画し、政庁中心には周囲に西10町、東9町の屋敷町を区画して、ここに政治に関わる上位の家来と町の経済の中心と成る大店を集めて、楽市楽座の制を敷いた。(信長も岐阜で同じ事を実行した 見習ったのではないか。)
    当時では、ヨーロッパの経済方式を採用した全く新しいシステムである。秀吉も信長のときにこの方式は賛成している。
    後に、豪商として多くの伊勢の「松阪商人」を育て有名を馳せたのはこの原因による。
    この時、伊勢青木氏の紙屋長兵衛は2区画与えられ、難波の堺には依然として大店を構えて、尚且つ、松阪の隣りの玉城町の8割を蔵群として権利を与えられた。
    (この状態は明治35年まで続く。)

    ここで、この3つの戦いで負けて離散した筈の伊賀衆一族や北畠氏の縁者一族や伊勢青木氏一族は結果として離散していない。江戸時代では再び末裔は忍者の伊賀者の様に同地域で活動している。
    これは何なのか。当然にこれを支える大きな力が働いているのである。
    青木長兵衛即ち、紙屋長兵衛の伊勢シンジケートが、一つのステイタスの下でこころの拠り所として、共感共鳴して集中して結束した結果によるのであった。
    普通は戦時の常識として親族縁者は殲滅するのが掟である。

    この様に、1000年もの間に多くの危機から不思議にも青木氏は生き残ったのである。

    その「不思議さ」は、この青木氏のステイタスの「お仏像様」の元に一丸となって結集する一族の「心の力」なのである。

    この一族は、日本でも最も古く高位の氏である。ピラミッドの系譜からしても多くの関係一族が結集する。
    更に、鎌倉幕府樹立で職を失ったとは言え、各地に依然として経済と軍事力で日本最大勢力を張る藤原北家一族と藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏の軍団116氏が存在し、間違いなく藤原氏の母方血縁で味方する。

    現に、この時代に信長に追われた皇族賜姓青木氏5家5流は、この藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏に、四国の阿波、讃岐、土佐、伊予、中国の美作、安芸国、関東の武蔵、下野、常陸、駿河、下総などで保護されている。

    この当時は、未だ、母方の藤原氏の系譜が、何処の賜姓青木氏の母方と血縁しているかと言う詳しい情報があり、そのことは「氏家制度を中心とする社会」では詳しく判っていたのではないかと考える。判っていなければ氏家を維持する事は出来なかったし、戦乱の中では実力を発揮して一族を護れる事は出来なかった。

    現代でも、田舎に行くと、5親等以上くらいまでは親族や縁者と判っている。一般的には次第には薄らいできているが、当時では、氏家制度の中では、宗家や本家を忘れては生きて行けない。事ある毎に宗家や本家にお伺いを立てる事や、又護ってもらうなどの事が起こる。現代では悪く見られている傾向があるが、「氏家制度」とはそう云う親族が助け合う社会である。
    少なくとも、7親等くらいは充分に判っていた筈であり、そのために家紋や系譜や菩提寺や氏神が重視され、親族血縁者が一つに結集する心の拠り所として、又、それを見分ける手段として存在するのである。

    (余談 現在では核家族化して、これ等全てのものが無くなっている。ここに、日本人が、我を忘れた現在の病魔が存在すると見ている。全てを戻さないにしても、{日本的な結合}を取り戻す必要があると考える。単一融合民族の日本と米国とは社会構造が異なっている。)

    だから、5親等程度の藤原秀郷方の東西各地の青木氏を頼ったのではと思われる。当然にこの時も、この全国に散らばる藤原秀郷一門のシンジケート網が彼らの逃亡を助けたのである。東西の逃避経路から見ると頷けるのである。
    信長の勢力権域の末端でシンジケートの境を移動している。
    そして、逃避はどの地域でも完全に成功し、史実は、後に土地の名手(郷士、郷氏、豪農、庄屋、名主)となって働いているのである。
    ただ、当時の社会情勢では相当な力を持った盗賊、山賊、海賊は普通の事である。むしろ職業としていた。
    逃げただけではこの様な成功実績は生まれない。どこかで彼らを統制する力が働いているからこそ可能なことである。
    何も持たずに走って逃げるとは異なる。女子供一族を引き連れて食料を確保しながらの大集団の逃避行である。
    現実に、彼らと戦う事は、土地に不慣れであるので不可能である。
    この様な逃避行を現実に東西に出来ていることは、この保護援助してくれるシンジケートが存在するからである。

    ここで、研究室でレポートしている様に、賜姓青木氏の5家5流の土地と、藤原秀郷流青木氏の各地の定住地を思い起こして頂きたい。全て、「主要路」で、「穀倉地」で、「要衝地」である。
    この3つの意味する所は何なのかが疑問として湧くと思う。

    そもそも、シンジケートが出来る「背景」として、又、「二束の草鞋」策を実行できるには、ある条件が成立しなければ成らない。それは次の条件である。

    第一に、政治、経済、軍事の実権を握るその地の守護王か国司かそれに近い身分である事。
    第二に、戦乱で各地の衰退したか滅亡し離散した一族とその統率者が存在する事。
    第三に、それと連携出来る一族縁者の何らかな血縁関係を持つ守護王が多くの主要地に存在する事。
    第四に、連絡網を構築できる力がある事。
    第五に、心の拠り所が存在する事。

    この事は、守護で有れば、土地の産物を「租庸調」の税で集めて民間に売り裁き、そして、それを護送し搬送する。これを日常業務としている。これを「二束の草鞋」で行えば直ぐにでも出来る。
    「産物を集める」、「売りさばく」、「搬送する」には、当然に、これを保護して行く「軍事的武力」が必要であり、各地の権力者との「政治的繋がり」を持っていることも必要であり、これらをただでは出来ないのであるから、それらを裏打ちできる大経済力が必要である。この要件をに叶う者は守護か国司かでなくては出来ない。

    一概に、「商人に成る」と言ってできることではない。
    例えば簡単に「米屋」を営むとする。しかし、その米を仕入れてくる事、否売ってくれる所が無い。
    米は統制されている。たとえ、横流しで入手しても、大量の米を山を越え海を渡りて安全に運ぶ事は、山賊、盗賊、海賊は当時では普通の事であるから、武力が無いから出来ない。まして、米は統制であり、役所の認可が下りなければ営めない。下りることなど普通の者にはない。
    この「3つの力」が完全に備わっていなければならないのである。
    「二束の草鞋」とは、その様な意味を持っている。社会の縮図でもある。


    「青木氏ステイタス お仏像様 2」に続く。


      [No.221] 温暖化の裏話
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/10(Tue) 06:44:35  

    温暖化の裏話(移動編集)
    副管理人さん 2008/01/30 (水) 09:21

    温暖化の裏話
    (Co2説の勘繰りとアメリカの苦悩)

    「温暖化」に付いては、「仮説 温暖化の疑問」でレポートしているが、このレポートの中ではCo2説には、「Co2の特性」から見て理論的な疑問が多くあると述べている。
    原因は「人口増加に伴なう地軸の変化」で温暖化等に依って起こっている全ての現象を理論的に説明できるとしている。(人口問題が大きな鍵であるとする説)

    そこで、ここでは、矛盾や説明のつかないその「Co2説」が何故に強調されていて、反論が少ないのかなど疑問が残るので、それを検証してみたい。(散文的に記述。)

    確かに、アメリカの副大統領のゴア−氏の「温暖化」の貢献でノーベル賞を貰ったが、この事に付いて欧米の専門の科学者から異論が出されて、ゴア−氏の映画出演の行為等を批判している事は確かである。

    そこで、私も同じ意見であるので、それをいろいろな面から披見させたい。

    この「Co2説」を強引に誘引している問題は、アメリカにあると見ている。
    その根拠として、次ぎのことが考えられる。

    1 化石燃料(石油)が38年で枯渇する事。
    2 アメリカ経済が行き詰まりに来ている事。
    3 アメリカの世界に対する勢力に対する陰り。
    4 オンリーワンのアメリカから中国、インド、ロシアの台頭に対する懸念。
    5 紛争などを見るとその世界の政治的バランスが崩れ欠けている。
    6 アメリカは環境問題での非難の集中をそらす必要がある。

    以上等の世界状況の中で「温暖化」に付いては考えられている筈である。「温暖化」だけのテーマだけではない。

    アメリカがこの様な状況に陥っているとすると、アメリカの国力或いは世界の政治バランスが崩れる可能性があり、由々しき事であり、アメリカとしては世界に対して当然に何らかの手を打たねば成らない筈である。

    つまり、アメリカの権威が低下する事になる。もし、これ等の事が「悪のスパイラル」に陥るとすると、この事で世界の政治、軍事、経済のバランスが崩れて、世界に「騒乱状態」が生まれる事は疑う余地がない。必定事である。
    そこで、上記の懸念材料を検証して見ると、アメリカの現在の立場が判り、その結果、対策の一つとしての「温暖化問題」の「Co2説」だけの誘引説が見えてくる。

    もし、1番のことを取り上げても、化石燃料が38年で枯渇するという事が起こる事さえでも、「騒乱」は間違いない。
    世界の国々に燃料が無くなると、生活程度と科学文化を元の原始社会に戻す事はあり得ず、必然的に各国の死活問題となり、その行動は経済力と武力による争奪戦へと発展する。
    既に、現在はアメリカの石油資本の利権は世界6割を占めているが、世界各地で石油に変わる代替エネルギーの買占めに入っていると言われている。又、「石油資源枯渇」の後の「利権支配の確保」のために、水資源に目をつけて、それに伴なう世界的な「水資源の確保」に走っていると言われている。
    多分、「話し合い」での争奪戦どころの話では無い。当然、自国民の死活問題であるので軍事力の背景を持って解決しようとするだろう。
    そのためには政治と軍事のバランスが必要になる。
    アメリカに限らず、中国だって同じた。中国は軍事力を上げている。台湾問題だけではなかろう。
    台湾が独立することで軍事的解決だけで済ます事は出来ない。この場合は牽制策として用いる事に成る。同一民族に対して軍事力で解決は犠牲が大きい。多分、香港の見本に見られる様に、政治同一経済独立方式を採る事は間違いないだろう。
    中国人というのは古来より過激な行動は採らない人民である。中国は多民族国家であり、毎日200位の騒ぎが村や郡単位で起こっているという。そう云う中で台湾に直接的攻撃をして戦争状態になれば背後が危ない。
    中国の政治体制は統一国家とする場合、三国史の物語の通り、共産国家でなくては持たない国なのである。

    つまり、この様な条件から他国(アメリカ)が介入しない限り軍事力は抑制力として使うだろう。アメリカは中国を認めている。しかし、本音は経済的にアジアで第2、3位の経済力と近代性を保持している台湾である。大事になるとアメリカとしてもアジアの政治バランス関係から見放す程の無関係ではなく得策ではない。
    この様に、中国の軍事力の増強は、38年後までの近い将来に於いて起こるだろうと考えられるエネルギー争奪戦に控えた増強である事は間違いない。ロシアや北朝鮮との国境紛争にではない。

    現に、日本の200海里線付近で、化石燃料となる天然ガスの採掘を強引に行っている。
    このガス田を護る為には軍艦を廻す必要がある。しかし、それは出来ない。日本の領海を通過しなくては成らない。
    日本がこの様な公然と軍艦がガス田を護るための通過行為を見逃すわけには行かない。
    だとしたら、潜水艦である。現実に潜行息の長い原子力潜水艦が横行していると言う。
    軍艦や潜水艦の通行を確保する為の硫黄島付近の中国の領有権の主張もこの一環であろう。

    中国ガス田開発の領域から北に進んだ千島列島までのライン上にもガス田が広がっている。中国の様に強引にではなく、これは日本とロシアが大共同開発で解決をしている。そして、都市圏に運ぶプロジェクトが進んでいる。
    (ロシアと言う国を理解すれば、今だ北方四島はとられている中では、予想としてガス田の経営権も盗られる可能性がある)
    中国は、経済成長をエネルギーの面で支える必要がある戦略の下で、単独でアメリカの採掘企業と提携して堀進んでいるのである。(一度は採掘企業が手を引いたがまた採掘している)
    中国の経済成長を支えるにはこのエネルギーの確保は最大の政治課題である。「38年枯渇」の石油には最早判っている以上は頼れない。
    ロシアは今は自国産油の石油の利益で国力を高めているのである。これからの38年は莫大に石油利益が上がるであろう。
    それにとりわけ、中国には化石燃料の資源は少ない。枯渇期には同じ政治経歴を持つ中国とロシアとの政治バランスが大いに崩れる恐れがある。
    (ロシアには科学力と資源物量がある。この事で中国は苦しい立場になりハンディとなる。)

    この様に苦しい中でのこのガス田は、科学力に頼れない中国の国の「生命線」と成っているのである。「国の生命」を護るには「軍事力」でしかない筈である。
    ところが、これを押さえたとしても、中国に更に大きなウイークポイントが2つあるのである。

    先ず一つは、現在の経済成長の内容である。

    中国の経済成長は60%弱の外資に依って成り立っている。この内、日本の外資は現在、毎年25-30%の引き上げが起こっているが、まだその内の40-45%は日本の外資である。つまり、中国の経済の25-30%を日本の力が占めている事になる。3年前の一時は60%にも成っていた。
    中国の経済成長率は最新では11%程度であるが、この実質は日本資本抜きで7%となり他の外国資本を差し引くと5%程度と見られている。
    (この為、中国は焦った。実績のある上海市長を抜擢し商務の責任者にした。この責任者は日本資本の引き上げを懸念して日本重視の提言をした。トップはこれを採用した。ガス田で中国は折れてきた。)
    つまり、この数字の物語るものは、中国独自の経済力は外国の資本を引いた場合、40%程度以下となる。
    そして、その40%の技術力はその40%の半分程度の20%程度と見られている。
    この数字から見ると、3年で20%低下したのだから、後2ー3年で中国の40-45%の日本外資は無くなると見られる。
    この時期はオリンピックと万博での建設ブーム景気が終わる頃と符合一致する。
    殆ど中国経済は外資とオリンピックと万博で支えられた3バブルである。

    この「附合一致」は一体何を意味するのか。
    先ず、中国は共産国という認識を念頭に考える必要がある。
    3つのうちの2つの企画は国が行うプロジェクトであり、この周辺に住む250万人の住民は全て立ち退きで、この為に、住まいとして団地を作る必要がある。限定した私有財産しか原則として認めていない中国の国が作り出した建設ラッシュである。自由主義陣営の民間の需要に支えられたラッシュではない。
    明らかに、100かそれ以上の速度で走った経済は自国力40%の経済の作り出された落差とでボトムが必ず来る。つまり、バブルである。
    そのバブル後の中国は石油枯渇が絡みかけているのである。
    どのように成り、どのように出るかは目に見えている。頼るは、経済(バブル)でも無し、政治(共産主義)でも無し、最後の切り札の軍事力の背景しかない筈である。

    比較として、日本のS30年頃から始まった経済成長は独自の開発力がその成長の鍵であったし、その鍵で、現在、アメリカの基幹産業の綜合産業の代表の自動車産業もGMに追い越すほどのトヨタであり、ヘルメットから始まりテレビ、電算機までアメリカのGEを始めとする電気産業を踏破したで家電業界であり、尚も現在にも於いて続いている。
    日本の成長はこれ程の中国の外資の力程ではなかったから、脅威の経済成長を遂げたのである。中国と根本的な違いである。

    では、”何故に高速で走ったのか”である。
    日本が中国に投資する理由の一つは人件費である。約10倍の経済力の差があり、中国で作り、日本に運んでも利益率が確保できる算段でこの数字が成り立っているが、年25-30%の日本への引き上げ理由はこの差が成長で縮んでいることを意味する。また、資本投資して軌道に乗ると工場の設備をそのままにしての強引な立ち退き命令が乱発された事も一因である。
    筆者の勤めていた会社もこの破目にあった。最新鋭のマシニング加工機10台をかすめとられたのである。
    ここで、日本外資が引き上げた場合は、下駄を外された中国となろう。それどころでは無くなる。
    経済成長を遂げると云う事は、元の為替レートの変更を余儀なくされる。益々と外資は引くであろう。
    技術力の物真似で逃げると云う事が出来るとして40%の力が為替力で低下して30%ともなる筈である。
    その様な国力でこの高速経済は持ち応えられるであろうか疑問である。中国経済バブル崩壊となるのだろうか。少なくとも、MAX18%もの高度成長率のツケは経済法則上で考えられる事は例外なく起こると見られる。

    それでなくても、この「エネルギー問題」を抱えているのである。つまり、本題の「温暖化」と言い換えても良い。
    もし、ここで中国経済が上記の検証から止まったとして見ると、「エネルギー問題」の消費力は低下して、「温暖化」は一呼吸つけると見られるし、人口増加の世界人口の10%を占める中国には歯止めが効く事になる。
    当然に、中国を最大貿易相手国としているアメリカとしても大打撃を受けることは必定である。これで温暖化主要国の2つ国は低下する事に成る。

    もう一つは中国の政治体制の共産国である。経済体制は資本主義で政治体制は共産主義である。矛盾がある。
    「中国経済バブル崩壊」又はそれに近い状態と成った場合に於いて、共産主義は維持出来るであろうか。
    年間200件も起こっている暴動や乱が大きくならないだろうか。現在は映像でも見たが暴動は殆ど射殺であるという。中国は日本を抜くだろうと言う上記のことを無視した過激説もあるが、矛盾を解決しない限り中国に「悪のスパイラル」が起こる可能性がある。今か゛ピークであろうから来年あたりから起こるだろう。こうなると、経済政治共に台湾問題どころの話では無いであろう。

    なんとしても維持しようと出る筈である。その生命線は上記した様に「エネルギーの確保」に掛かってくる。
    たとえ、40%程度の経済力でもこの「エネルギーの確保」さえできれば、生き延びられるし、大きくはならない計算となる。
    その「エネルギー問題」は下記に例をあげるが、先ずは中国としては高度の無公害のエネルギーよりも、当面、枯渇する化石念燃料の石油に代わる代替の天然ガスであり、直ぐに対応が可能となるエネルギー源である。

    日本やアメリカや先進国は高度の無公害エネルギーで対応して生き延びようとする筈である。
    中国は外資の影響の強い経済体制下では無理である。

    この天然ガス田開発はこの問題を抱えての開発の背景がある。だから、死活問題であるから軍事力なのである。
    中国にしても、日本の経済力と技術力には(経済成長と成長に伴なう生産と公害を改善する技術)喉から手が出るほどに欲しい筈である。そこにこのガス田の取り扱いを間違うと日本の支援は困難となり難しい背景を持っている事を知っている。
    ガス田問題の最中に、ロシアからロケットとその衛星システムのノウハウを受けて打ち上げたが、この目的も下記の高度な新システム(アメリカも出来ていないハイビジョン技術など)を日本から支援を得て獲得しようとする現われでもある。
    今から打ち上げても低い技術力では大したデーターは得られない。学問的、科学的データーならアメリカや日本からも取得できる。国民の意識の高揚を図ったとしてロシアの技術であり上記の事で大した事は無い。目的は高度な新システムである。

    検証する面を変えて、私は、日本のテロの対策として、インド洋域の燃料供給の問題も裏にはこの戦略があると見ている。
    この領域に日米が軍艦を廻すのは、同盟国との洋上訓練と中国へのこの領域への牽制でもあると見ている。
    ただアフガンのテロ支援や日本の喉元と成っている石油搬送ルートの警戒だけではない。
    中国の潜水艦や軍艦の軍事力がここに出てきてその影響力を独断的に行使されると、日本とアメリカにとっては好ましくない戦略となる。アメリカはアジアの軍指令を日本に移してきたことも、沖縄の軍をフィリピンに移すのも表向きとは違う38年後を狙う裏の戦略(中国の封じ込め)がある。

    中国が軍事力と経済力がこの地域で拡大するのは好ましくない。何せ共産主義である。
    それには、アメリカにとっては軍事的に日本の海軍力がこの域で拡大して欲しい。それには関連国の軍隊との訓練が必要である。これは、38年後の近い将来、エネルギー問題(枯渇と温暖化)で、軍事的戦略の影響力が大きく左右する時期が訪れるからである。
    イージス艦の情報漏れ問題もこの延長上にあると見ている。イージス艦の能力が将来の軍事力の決め手となるからである。
    その最も優れている国は日本である。日本で製造する日本のイージス艦の性能と能力は段突であるからだ。
    先日のハワイから打ち上げたテストミサイルを日本のイージス艦からの迎撃ミサイルで打ち落とし成功したことで証明している。
    この性能を誇る成功は、北朝鮮への抑止力にもなるが、私は北朝鮮はジリ貧であり、中国の北朝鮮への牽制もあり、日本に撃つことは無理であろうと考えている。撃つような姿勢が見えれば、動きがあれば、事前に中国が侵略して北を押さえるであろう。
    でなければ、難民などが押し寄せてくる。この例は西ドイツが東ドイツの崩壊で経済的に著しく苦しい状況となった事でも判る。今だ、ドイツはこの政治と経済の後遺症に引きづられていると言われている。
    中国は上記した国内事情にもある中で、この様なことが起こった場合、政治的には国内の大暴動の引き金にもなり、経済バブルも起こりかねない。
    資本主義のドイツはこの程度で済んだが、同様に同じ事が起こり中国が大変な事になるし、アメリカの北への侵攻の口実ともなれば、戦略上のバランスは崩れ、好ましくない体制が生まれる。一つの生命線でもあるのでアメリカが侵攻する前に情報を得て中国は絶対に押さえてしまう筈である。北朝鮮の北部は高句麗(後漢)と言う国であった。このことを全面に押し出して口実として侵攻する筈である。
    北朝鮮に関しては、経済的圧力によりジリ貧とし、核とミサイルを撃てないようなところに追い込む戦略が最も確実でリスクの少ない方法である。核とミサイルの維持には管理的に莫大なコストが掛かる。今やもうその能力は無いのではないか。

    この様に、一概に「温暖化」と言っても裏には軍事、経済、政治の裏がある。

    この裏の背景を念頭に「温暖化」の「エネルギー源」の問題の検証を試みているが、そうすることで更に別の面が見えてくる。
    「エネルギー源」に於いて、戦略的に、現在、それに対応できる総合的能力を持っているのは今や日本とアメリカであろう。
    世界第2位の経済力と世界のトップの科学開発力と世界実質第2位の軍事力である日本はその力を持ってこの問題の解決に当るであろう。この2国は2国だけの熱源確保は世界の政治不安定化を招くだろうから、地固めのできる程度にゆくゆくはG7(ロシア除く)に慎重に火種を起さないように移転して行く事になろう事が予想できる。

    その軍事力の切り札を証明する出来事が起こった。
    先日のアメリカのハワイ沖から撃ったテストミサイルを日本のイージス艦から迎撃して打ち落とした力を見て世界の各国はここまで進んだ軍事力を持っている事に驚いたであろう。第一アメリカ自身も複数回のテストで一回だけしか成功していないのに、それも洋上でイージス艦でのことである。諸にアメリカが驚いているのではないか。
    何せ世界で唯一4つの高性能の偵察衛星の持ち主の日本が、この進んだ迎撃技術を会得したことは偵察衛星と組み合わせればこれに追随できる国は無い。

    この情報偵察衛星の情報はアメリカに提供している。この打ち落としたイージス艦の保有は、スペイン1隻、アメリカ24隻、日本6隻(更に超高性能4隻が日本の造船技術で追加造船されている)であり、先ず、造船技術とその建造費で保有できる国は少ない。これからは科学の集積イージス艦である。空母や原子力艦ではない。
    この事はアメリカとして同盟国がこの様な力をもつ事が出来た事は、上記の1から5としての問題での手段の一つとして軍事力をここまで補完できた事で「熱源」のアメリカのハンデイを克服できる材料になるであろう。

    そこで、エネルギー源には沢山あるので、取り合えず最も熱源として使用されている「発電」と言うキーワードで更に検証して見る。

    「エネルギー源の種類」
    従来の方式としては1水力発電、火力発電、天然ガス発電、現在の方式としては2原子力発電、最近の方式としては3風力発電、ソーラー発電、 次世代の方式としては4水素発電、エコ発電、未来の方式としては原子力に代わる5太陽レザー発電、etc.に分類できるだろう。

    「水力エネルギー源」
    従来の発電1は何処でも設備されている汎用方式であるが、これらは自然環境に大きく影響を与えている。現在の温暖化の原因とも成っている。

    「火力エネルギー源」
    水力は山林を壊す事から自然を広範囲で破壊する事で好ましくない。火力は火力の燃料として化石燃料を大量に使い、更に上空に公害物質を撒き散らす事に成る。何れもCo2の排出の根源である。

    これが、温暖化の主原因説に利用されている本題である。

    「天然ガスエネルギー源」
    天然ガスはメタン(CH4)などを海中などから汲み採っているが、このガス源は地域的に限られている。
    国際紛争にも成り、化石燃料の石油に代わるものとして注目されている。しかし、これもロシアなどの数カ国に利権が集まり世界の勢力バランスが変わる熱源として警戒されている。

    これ等の設備は世界のたったG8国程度の開発能力に限られている。世界の汎用熱源とはならない。
    つまり、化石燃料の熱源が枯渇するとその解決策にはならない。この二つは先進国の熱源にしか成らない。
    中国はこの熱源の掘削に取り組んでいる。インドネシアやロシアなど多く産出するが、アメリカの熱源資本は世界各国で試掘して次の熱源とするべく懸命に成っている。日本もロシアと共同開発しているし、日本200海里経済区域の中国のガス田付近での試掘権を設定しているが、中国問題が出て国際紛争を避ける為に休止している。
    中国潜水艦がガス田付近を潜行している様に、政治問題と軍事バランスの問題を一番はらんだ熱源である。

    「原子力エネルギー源」
    現在の発電2の原子力は熱源効率が良いが、放射能による危険や核爆発の危険や、軍事力の核兵器の転用による飛散問題が起こっている。その飛散防止の大きな要素として、三次元測定器と言うものがある。これなくして核爆弾は造れないのである。殆どの人は馴染みが無いので紹介する。
    被検体を三次元的に測定が出来、それを数式図表化出来て、超高度な計算が高速で出来て、瞬時に高度の確率や統計などの計算の出来る優れもので、最高のものは人間の知能の能力をはるかに越えている優れものである。最高機では世界に10台程度(日本で5台)で操作できる人は数人と居ない。22度50%の恒温恒湿室で無埃無菌無振動の大部屋中にコンピーターがびっしりと設備されコンピーターの中に人が居るという感じである。測定のエラーは10万分の1と言うものである。
    核弾頭は八角形の筒の壁に電気衝撃を加えるガンを取り付けるが、この壁の穴の位置ズレと角度に小数点以下6桁のエラーがあってはならないのである。筒の中央の核物質に同時数万ボルトの衝撃を加えることで核爆発は起こる。一つでも狂えば爆発しない。その筒をこの測定器で調整しながら製作するのである。
    この測定器は日本の独断場で2つのメーカーで、汎用とは別に、この超精密機は1社でしか製造できない。
    日本のこの測定器が無ければ原子力設備や核弾頭はつくれないのである。
    しかし、核兵器は世界の軍事バランスの崩壊と人類の滅亡の危険をはらんでいる。ところが、一つの日本メーカーは汎用機の密輸で捕まったが今だ闇のルートがあるらしい。

    これが、現代の最大の世界政治の最大の問題である。

    「風力エネルギー源」
    現在の設備中の方式として、3の風力はあるが、熱源保持にはばらつきがあり、汎用方式とならない設備である。Co2等の自然に対する公害が無いとしているが、騒音公害が起こっているし、これも先進国程度のものである。仮に援助による仮設としても架設費用は莫大でそう大きくは進まないだろうし、補助的方式と見られる。自然の環境が左右して何処でも設備できる方式ではない。

    「ソーラーエネルギー源」
    ソーラーは開発途上であるが、現代は発電能力が低いし、自然気象でのバラツキがあり、それを直流から交流に変換する設備費用が掛かりすぎる問題も持っている。
    世界が汎用的に使う方式ではなく限定した目的での方式と成ろうし、先進国の方式であろうし、補助的で限定した領域に使用されるものと成ろう。

    補助的、限定的なものとしてのものであり、政治課題にはならない問題である。

    「水素エネルギー源」
    次世代の方式の4の水素発電であるが、無公害で、危険性が無く、無限的方式であるし、設備は大きくはならない。
    未来の汎用熱源として期待されている方式である。何処にでもある水資源を活用すれば熱源として活用できる便利なものである。
    水素と酸素を反応させる時に出る熱を利用した熱源であるので、リサイクルが簡単である。何処の国でも出来る汎用方式として現在の水力でローターを回転させて発電する方式から、水を分解し再び反応させる事で直接熱源とできる。
    水資源は地球80%を占めているし、分解であるが為に水はクリーンになるし、開発リスクは少ない。最後はコストのリスクの解決となろうが、もとは自然の水利用であるので、解決は現在の水力発電をこの設備に置き換える事も可能であるので現実には問題は無い。
    ただ、問題とするのは原理は百解でありプラント開発力に関わることであろう。
    そうなると先進国のその意思の有無の動向とその能力となろう。

    汎用的方式として期待される方式で現在、経済ベースに乗せる研究が先進国で進められている。近い将来、生産プラントは完成するであろう。

    その完成で開発した国がその利権を握るものとして注目されている。

    「エコエネルギー源」
    エコ発電は植物の熟成過程で起こる植物性エチ−ルアルコールを利用して石油と同じく発熱源として利用する方式である。
    植物の否利用材を活用する事で可能になり、無駄のないリサイクルの典型である。
    熱源過程では正常な燃焼過程を踏めばCH3CH2OHであるので完全に分解熱源化する為に公害は出ない計算に成る。

    つまり、木材や果実や他の植物の使い済み物、或いは切れ端等を粉砕して酵母菌を加えて熟成させて、この時に醗酵する発生Co2を分解させ、果糖化させ、ブドウ糖化し、最後にアルコール化するという酵母菌による糖化現象を利用しての方式である。即ち、酒類などの「醸造過程」を利用している事に過ぎない方式である。
    問題は、その原材料の選択と、その粉砕の研究と、その原材料の醗酵率の問題とである。
    原理は古来からの方式であるので問題は無い。システムプラントを作る事に過ぎない。

    仮に、この日本の各地で行われている各種の上記の方式のテストプラントが、現実化して生産過程に載せられる事が出来れば自然に対して実に易しい無駄の無い夢のある方式である。
    エチールはメチールと違い動物に害は無く、酒類の中にあるアルコールである。
    これを燃料にするのであれば問題は無い。

    ただ、この方式による現在の使用分全てをこれ全てに代替すると言うことは困難ではないかと考えられる。
    逆に、無為無策の状態で否利用材を使うという事であれば、絶対燃料を賄う為にこの方式の為に有利用の食物までも使うという現象が生まれることが考えられる。そうなっては元の木阿弥である。
    生産過程のこのため用の植林、又は農園を作り栽培し、既に枯渇した自然をより豊かに戻し、そこから計画的に醸造過程に移す方式であればリサイクルは可能に成る。当然人口増加に伴なう増加の炭素酸化物はトータル的に出ない。

    この方式は極めて世界各国の全ての国々の汎用的方式となろう。
    むしろ、先進国の熱源確保の為に枯渇した自然を開発途上の国々は取り戻せるし、生活環境のレベルに向いている方式となる。
    しかし、これは一重に日本、アメリカの科学開発力に関わることでもある。とりわけ日本の相肩に関わる技術である。
    アメリカは直接穀物から栽培しての方式であるので、否利用材の開発はあまり進んでいないのが現状である。
    直接栽培方式では結局は耕地面積の専有が起こり、その穀物の他への利用の分に影響を与える事になり、結局、別の形で「害」を生み出す事に成る。現在のトウモロコシの例に見る。

    そこがアメリカと違う日本の科学力の優位性なのである。日本に期待される問題である。
    その完成で開発した国、即ち日本がその利権を握るものとして注目されている。

    「太陽レーザー熱」
    さて、日本に於いて革命的な大変な技術が発明されたのである。
    恐らく「21世紀の大発明」と成ろう。物理学のエントロピーとエンタルピーの定理がある意味で根本から覆される発明である。太陽がなくならない限りはこのエネルギーは枯渇は無い。
    そして、その効率はこの設備の1基分が原子力の4基分に相当すると言うものすごいものである。全く危険は無く、無公害である。
    これは日本の科学総合力の優位性がもたらしたものである。

    では、その「21世紀の大発明」とはどう言うものか説明する。
    太陽は物理の原子周期律表(109元素)に書かれている物質が核爆発を起してその熱を生み出している。その時に発する振動波が地球に届き色として発し、その時に出る「光子」が飛び散りそれが地球まで届いている。
    そして、「光子」(光のもと:光の粒の元:原子と同じ扱い)は3*10の10乗の速さで飛来し、物体に衝突すると熱として発する。
    その熱は太陽の表面の温度ではその光の強さとして表現すると6000ケルビンである。余りにも温度が高すぎる為にケルビンと言う単位で表現している。それでは判り難いので、ほぼその温度は6000-7000度C程度とする。これが地球に光子として届いている。
    太陽は核爆発で最終は鉛となり放射能は無くなるが、当然、放射能も飛来して来ている。この放射能は地球に取り巻く3層の成層圏(0-95K、95-500K、500-1000K)にて遮断されて地球上に住む生物に支障が無い程度に弱くなっている。
    この飛来した「光子」を地球で捉えるのが、光(光子)に反応して電子を発する半導体を利用した「ソーラー発電」である。
    この方式は直流であり、低圧であるので交流変換と変圧が必要になる。変圧は12Vからの変圧であるので10ー20倍の変圧率となり、コンバーターとトランス上の設備が大きくなるので、これで以って配電するのは困難となり、論理的に局部的な使用の限界が起こる。
    しかし、これでは上記したように、完全実用には課題が多く、限定した部分利用となろう。汎用的ではない。

    これを解決したのが、「21世紀の大発明」である。
    これを仮に簡単に表現する為に「太陽レザー発電」とここで代名詞をつける。

    最も、この方式はつい最近にその原理によるプラント設備の成功が成されたのである。まだ、数ヶ月も経っていない。
    そして、これは、日本のロケット工学の実用に成功した事による。

    宇宙開発機構から三菱重工業が引き継ぎN型ロケットの実用衛星の成功に繋がっている。
    昨年、やつと4基の情報偵察衛星の失敗なしの打ち上げに成功して、世界のロケット産業の遅れて仲間入りをした。
    実は2基打ち上げ後トラブル失敗が続き、日本のロケット産業の将来を懸念されていた。
    その失敗の内容は技術的には大したことではなかったのだが、それは物理技術者としては常識の知識である筈で、それがなされていなかったと言うのである。
    念のために、というのは、”噴射口のところのスカート部分の溶接が剥離して度々損壊した”という事であった。

    余りにも、呆れる事なので特記する。
    その技術とは、溶接をすると、溶接された部分とされていない部分との境目に羽模様(樹枝状の組織)が出来る。この部位には急激に溶接の温度を上げるので、温度によるストレスが溜まる事と周囲との金属組織が異なる為に、力学的にストレスレイザーが発生する。
    この問題となる樹枝状の部分をボンド部というのだが、このボンド部に熱による繰り返しのストレスとロケットの振動が集まり疲労破壊が起こる。この場合の疲労破壊の破面は他の繰り返し破壊の破面と異なる。
    破壊破面は破面工学と言う学問があるくらいに必ずその特長を持っている。指紋と同じに。
    専門の人間が見れば直ぐ判る事なのであるし、技術者ならば常識であるのだが、それが原因で何度も失敗を繰り返したのである。

    その原因を見つけたのは、なんと”三菱の40年溶接専門の技能者が指摘した”ところから判ったというのである。
    指摘するのであれば、”初めから専門家であれば指摘せよ”と言いたいのである。
    この原因の対策は簡単である。”アニ−リング”(応力除去焼鈍)と言うものを施せばよいのである。応用物理をしている者ならば最初に習う事である。溶接による加熱温度の約60%程度のところで、溶接後バーナーで過熱し直せば無くなるのである。
    これをせずに図面に書いていなかった為にそのままにしたという事であろう。”実仕事をする技能者のプライドが無いのか”と思う。私は打ち上げが失敗し、”スカートが破壊した”と聞いたときに直ぐ判った事である。
    後のニュースで、でかでかと”三菱の40年の技能者が指摘した”と報じた。誰でも、技術者や技能者は知っていることである。国家予算を使った超高額のロケットの失敗を隠す為の言い訳、即ち世間の非難をかわし、且つ図面上のミスを隠す為の三菱のパホーマンスであった。三菱自動車のリコール問題と同じである。体質であろう。
    それを無くすることでロケット本体の失敗は無く成り、アメリカも出来ない世界初の最新鋭の4基の情報偵察衛星の成功
    に結びつき産業化は成った。この間1年間かかったのである。

    この様な経緯があり、N2ロケットは成功し、この「太陽レザー発電」のテストプラントに繋がったのである。実に無駄な失敗であった。
    さて、この「太陽レザー発電」とはどのようなものなのであろうかを簡単に書くと次の理論となる。

    上記した様に、太陽は6000ケルビンの光の強さを成層圏を通してコントロールされこの地球上にまっすぐに降り注いでいる。
    この6000ケルビンを何らかの方法で捉えて、効率よく地球にダイレクトで届ける方式を考え出せばよい筈である。
    光子(光)の量と強さの効率を下げるのは成層圏であり、特に0ー95キロの第1成層圏である。
    次に、光子を集めて光と同じくらいの速さの超高速で送る手段である。
    そして、それを効率よく受ける手段である。
    それを効率よく熱源に変化させる手段である。
    最後に、光子と反応を起さない同質の質を探ることである。
    これらの条件をかなえるものがあれば可能となる。

    それは二つのものを組み合わせることで解決する。
    一つは、上記のロケットと人口衛星である。
    二つは、水晶体に超高圧をかけ超振動を発させて起すレーザー光線である。
    水晶体の結晶を通す事で最も高い良質な光線を発する。

    昔45年前はこの水晶体からレーザー光線が出せるとは誰も知らなかったのである。
    その発見の経緯が面白いので余談として述べる。
    ある科学者が高圧をかける別の実験をしていた。そして、休憩時間に実験をそのままにして休んでいた。帰ってくると緑色の光が実験室のところで走っているのに気がついた。高圧機の電圧が側にあった水晶の着いた器具に当っている。つまり水晶に電圧が掛かっているのである。その緑の光を調べる為に紙を当ててみたところが紙に穴が空き局部が丸く燃えたのである。紙が燃えるような高エネルギーの光が偶然に作り出せたのである。この科学者は元の実験を取りやめてこの緑の光の研究に入ったのである。論文を出した。直ぐに取り上げて直ぐに利用する部門が出て工夫が出てきた。軍部の研究機関であった。それは軍事兵器への転用であつた。研究費は潤沢である。この研究はこの軍事関係に依って広がり進んだのである。

    そして、今やこのレーザー光線は工業界では各種に頻繁に汎用で実用化されている。
    レーザーは太陽光線の中にも含まれている光線であり、むしろ、光を一局集中させたものと考えられる。一般的には太陽光といった方が良いかも知れない。「人工太陽光線」とも言える代物である。

    昔、子供の頃に夏場にレンズを太陽の方向に向けてその光を紙に当てると黒紙が燃えると言う実験をした事を皆さんは覚えていると思う。簡単に言えばあれである。
    白い石英(シリコン)の結晶体の水晶の結晶は透明である。レンズと同じ働きをし、且つ特殊な超波の波長を出す。それを上記の水晶体で人工的にその光を作り出し集めて一つの緑の光線としたものである。レーザーは光の一種であるので光の速さと同じである。シリコン半導体も99.99%の水晶である。
    つまり、この硬い鉱物の水晶は電圧をかけると電気を通し、特殊な光を発すると言う事である。その電圧の高圧と低圧の掛け方でその特質は変わると言う事になる。

    この水晶は主に「ナメ石」という何処にでもある土壌体に存在する。「ナメ石」は山の土が雨風にて粉になり山の重力で加圧されて固まった土の地層で、斜めに手で押すとスベリが起こり簡単に脆く壊れる。山崩れの起こる地層はこの土壌体である。
    この中に不純物を多く含んだ石英(シリコン)がこのナメ石の地層に流れ込み加圧で結晶化したのがこの水晶である。その鉱物が珍しい特性を発揮するのである。
    このレーザーに限らず、半導体としても今ではなくては成らない近代化を推し進める珍しいが何処にでもある鉱物である。
    この物は人工的にも簡単に作れる。皆さんも日常この物に接している。それはかのガラスにも多く使われている汎用物質である。その主な水晶(シリコン)の採掘場所はカムチャツカの東岸壁には純度の高いシリコンが採掘される。ロシアの特産物でロシアはこのシリコン(と石油)で経済が活性化したのである。
    製造過程にはこの様な鉱物であるので公害は無い。

    その性質を利用して、例えば、そのレーザーの強さと量をコントロールして、精密に自在切断する所に、センサーの役目、精密測定器機、etc、精密部品なら先ずどこにでも使用されている無くてはならない石である。
    45年前ではまだ研究段階であった。45年前に私もその基礎研究の手伝いをした事がある。現在の使用には何の問題も無い。後はこのシステムをどのように組むかである。日本のソニーが開発したダイオード半導体から変わったシリコン半導体は今や人工ダイヤモンドや量子チップに代わろうとされているが、まだまだ益々利用範囲が拡大するであろう。

    さて、このロケットとレーザーの特長を述べて判断の一助として頂き、そのすごいシステムに入るとする。
    方法は、先ずロケットを打ち上げる。衛星を出す。この衛星で太陽からの光をパラボラのアンテナで受ける。この受けた光を集める。レーザの光線銃に光を乗せる。このレーザーを地球の発電ポイントに送る。地球の発電ポイントで6000ケルビンの光をジェネレーターに入れて発電する。簡単に言うと以上である。

    成層圏であるので、光の強さにはロスが生まれない。
    この光の6000ケルビンは太陽がなくならない限り無限に届く。
    レーザーであるのでピンポイントで受ける事が出来る。(0.5mm程度のエラー)
    地球で核の爆発を起させる発想の原子力発電ではなく、太陽で起こる核爆発で発生した熱量を地球に取り込む発想である。
    この場合、地球のでの原子力の強さは通常1500ケルビン程度のエネルギーであるので、この太陽光発電の1基で原始力発電の4倍に相当する。

    レーザーは太陽光線の一つであるので高温に絶えられるので設備的には簡単で済むし危険はない。
    つまり、簡単に言えば、地球で核爆発を起させてそれを制御して熱エネルギーを吸収して変換し発電ローターを廻す方法を、太陽でもともと核爆発して発生した熱エネルギーを地球にレーザーで送るシステムである。実に素晴らしい発想である。そのレーザーの光搬送エラーは0.5ミリのピンポイントであるので全く危険は無くなる。廃棄物等もまったく無い。

    何はともあれ、ロケットと衛星が出来たとしても、偶然の出来事で発見された太陽の光の一つのレーザー光線が開発されなかったらこの方式は生まれなかった。そして、段突のレーザー精密器機の優位性がこの方式を発見したのである。
    それも、下のコスト検証は日本的らしい。日本の最高技術力がこれを成したのである。
    将来、原子力艦船がこの方式に変わる事に成ろう。そうすると莫大なエネルギー源で走行距離の限界が無くなる。それを使ったイージス艦となればアメリカと肩を並べる軍事力ともなるだろう。
    最早、植民地政策が終焉して大戦は無くなり、局部戦となり、その軍艦保有台数では無く成りつつある時代である。世界が躍起になってイージス艦情報を集めているのはこの背景があるからである。

    (発電の設備的経費と廃棄物の管理経費と危険必要経費)*4>(衛星打ち上げ費と衛星費)*1で済むので問題に成らない。
    4倍というメリットと廃棄物の危険がないのが大きい。

    どちらもアメリカが先行したが、遂には月の探査衛星や4つの情報偵察衛星はアメリカを超えた技術力である。
    昔、アメリカが打ち上げた月探査衛星は日本の月探査衛星で全てのデータが塗り替えられ鮮明に成ったと言われている。
    そう云うことから、ロケット打ち上げ能力と衛星製作能力の技術力のある先進国の発電システムになろう。
    実質、現在では日本とアメリカでしか無い。後は先進国に技術指導となろう。

    さて、これ等の結果を検証してみよう。

    1 水力発電、火力発電、天然ガス発電  温暖化に影響あり 天然ガスは限定利用 生産国に限定保有 開発途上国が維持
    2 原子力発電        核不拡散問題あり 先進国 中国、インド等に適用 途上国に拡散中
    3 風力発電、ソーラー発電  温暖化に影響なし 発電能力から限定利用 先進国に適用 開発途上国は援助保有
    4 水素発電、エコ発電    温暖化に影響なし 発電能力から限定利用 先進国に適用 開発途上国は援助保有
    5 太陽レザー発電      温暖化に影響なし 先進国が専有 戦略上、技術上、価格上で適用は不拡散

    この内容から発展途上国は1以外に代替エネルギーとして温暖化防止の手段は無い事が分かる。
    後は、せいぜい、2の天然ガスの利用となるが、これも利用するまでの設備費などを考えると困難と見られる。
    これは、中国、インド等の経済発展している国と生産国に限定されるであろう。

    3、4に付いては、温暖化には効果抜群ではあるが、発電能力とその費用ととが問題であり、全面的解決にはならない。
    先進国からの支援での保有が条件となろう。しかし、全面的支援は莫大な資金が必要となり、先進国は排出ガス(炭素酸化物28-68、窒素酸化物30-58、硫黄酸化物48-80が温暖化に影響>空気28.8)の買取制度での範囲となる事は間違いないので温暖化防止の効果的対策にはならない事になる。

    5はあらゆる面から最も優れた方法であるので、仮に、何らかの方法で人間の利害を飛び越えた域で、世界に汎用されるとするならば、地球は元の自然環境に戻り、このあらゆる内容に絡んでいる温暖化問題は解決するであろう。
    但し、これは”世界人口を減らさないで”の前提条件が付く事になる。
    それは、世界人口が増える限りに於いて、その世界の国の各々の生存に関する利害が絡み、上記の検証でも判る通り人間が考え出す知恵や技術では限界があり、これだけ増えた人口問題(地軸の傾きも含む)の解決は困難であろう。

    人口問題の解決が、全てのエネルギー源の使用を制限する事が出来て、その結果、自然が保たれ、温室効果に関係する重量酸化ガス(28.8以上)の排出は押さえられて、自然が持つ絶対値的な光合成の能力の働きでこれ等が解決の方向に向かうだろう。
    そして、この結果、1940年頃の人口(50億ー55億)に戻り、「地軸の傾き」と「エネルギー源」の変化が起こる。
    温暖化の大元の地軸は22.8から22.5程度を維持し、太陽の光の当る域を赤道上に戻し、地球の太陽をまわる軌道の楕円化を戻す事が出来る事になる。

    ところが、2から5のエネルギー源は一重に先進国の国情に掛かっている事になる。
    この先進国のエネルギーの使用量が全体の60%を占めているとすると、これを先進国の努力(2から5)で解決すれば現状は維持出来るとなる。
    しかし、そう上手くは行かない。一つは、上記した戦略上の問題がある。二つは、人口増加率は後進国(中国とアフリカ等)にあるからだ。(先進国は減少している)
    この地域で人口が増え続ければ、結果として、エネルギー源の使用量は先進国の努力の使用分を食い尽くす事に成る。

    この人口増加は温暖化よりもっと大きい問題である。
    それは上記のような代替的な科学的解決は困難であり、人口が85億付近(詳細は「温暖化の疑問]参照)に達すれば地球そのものは駄目になる。後の絶対値は20億の残りしか遺されていないのである。人間が住める状態までの範囲であれば寿命は100年程度であろう。その前の半ば50年程度で「石油枯渇」がやって来る。
    「石油枯渇」が来れば生存を前提としての騒乱となるは必定である。そうなれば地球の「悪のスパイラル」が起こる。
    後進国は木々を燃やして「エネルギー源」の確保を行い、植物は食物として人口増加により瞬く間に食い尽くし、益々自然は減少し光合成の量は低下し、先進国は木々を燃やす生活程度に慣れていないことから、武力を以ってエネルギー源確保に当る方向へと進むだろう。そして、人間の本能は子孫を遺そうとしてより多く産み確率で子孫を遺す事に走る。既にアフリカは経済的に見合う子孫ではなく確率のこのスパイラルに入っている。
    この周りに与える相乗効果(人口増加、自然の破壊)でスパイラルが起こる事になる。これが「悪のスパイラル」と言うものであり、これが起こるともう止められない。
    私は既にこのスパイラルの入り口に入ろうとしている変化点又は分岐点に辿り着いていると見ている。

    人間だけがこの地球上で唯一知恵を持ち「無から有」に成った生物である。「自然淘汰」の定理に従わなくなった生物である。
    知恵でその生命の糧を作り出す事が可能と成ったが、ここで近代に入り「産業革命」が起こり予想外に科学的欲望が進み、その弊害が生まれたのであり、それがここに来て「温暖化」と言う問題に直面した。
    なんと急激に300年で45億から65億になったのである。この300年前の300年は各地での騒乱にて人口は現状維持か減る方向にあったと言われている。全体として今と比較すると未だしも「自然淘汰」の原理が働いていた時期でもある。
    その後、明らかに科学による文明の革命が起こった結果により、さらにその革命は双曲線で起こっている。一次の比例線から二次の微分線へ、そして、三次の積分線へと科学進歩は進んでいる。
    皮肉にも、その糧の確保の知恵と同様に、その科学でも上記の2−5の様な科学が生まれてきた。すごい生存に対する知恵と見るほか無しである。

    多分、この様な検証から、「エネルギー源」の1から5までの割り振りでは解決は困難ではないか。矢張り、地軸問題にしても、復原的に起こる「温暖化」問題にしても、元の人口を減らさないと無理と考えられる。
    つまり、その理由は、世界の人口増加に伴なう対応する科学の進歩は、生活の糧としての確保と違い、追いつかないのではないか。追いついたとしても限定した範囲のものとなる事が確実で、この格差はより拡大するだろう。
    科学技術国は益々科学で対応し、農業国(否科学国)は、先進国の科学の供与はあったとしても範囲と量は小さく、益々と自然に頼る生活となるだろうからだ。
    その前に地球は駄目になる時期が来る。
    人間(85億の人口)が、地球の引力と地球の回転遠心力との差で、宇宙へとロケットのように飛び出してゆく事に成ろう。そして、理論的には20億人が飛び出し終わると、再び地軸が戻り、楕円運動の軌跡が円運動へと戻り、元の地球の自然へ漸次に戻る事になる。急には悪くはならない代わりに急には戻らないので、犠牲は半分程度にもっと大きくなる。

    仮に、20億人を月世界に移すとしても、今度は地球の衛星の月が最終は重くなり、地球とのバランスが崩れて、地球との軌道は狂うので矢張り駄目である。地球と月のバランス関係は地球の自然に与える影響は大きく、特に人間の生理機能は崩れ滅亡のスパイラルとなる。
    日本とアメリカの火星探査衛星で大分判ってきているが、水分が地中深く潜って圧力で固体の氷となっている事から想像すると、火星はこのスパイラルの終焉ではないだろうか。

    ところで、この問題を洞爺湖サミットでの会議で解決する事はあるのだろうか。
    それはアメリカの出方一つでなかろうか。そこでアメリカの苦悩を次ぎに少し検証して見る。
    アメリカは化石燃料の利権を世界各地に持っている。この事がこの問題にあらゆる面で大きく左右している筈である。
    その利権は自国の分も含めて世界の60%だと言われている。これだけ持てば「化石燃料の問題」と「エネルギー源」はアメリカ次第となろう。

    そのアメリカは京都議定書に批准していない。何故批准しないのか。その温暖化原因の多くは中国、インドと先進国が大きく出している。その先進国のアメリカと途上国の中国の排出の原因とは違う。
    アメリカはその温暖化対策の技術力を日本と同じく持っている。かたや中国は持っていないで大きく排出している。
    当然、この二つには異なった否批准の理由がある。
    アメリカは、今、この排出量の批准をすると、その経済負担の為に、世界の経済のリード役の経済が大きく悪い方向に変化して「世界恐慌」の引き金になる。

    何故ならば、サブプライムローンの住宅問題でも判る様に、初めから無理に支払能力の無い購入者に対してローンをつけて販売をしなければ成らない程にあって、アメリカの下降傾向の経済の景気を底支えをした所以がある。当然、当初からリスクを負っていたものが此処に来て破裂したという事であろう。つまり、時間稼ぎをしたと言う事ではないか。
    もし、此処で、アメリカがこの批准をするとすれば、下降傾向に拍車をかける結果となる。その行く所は決まっている。世界の金融恐慌が起こると言う事になる。

    そこで、少なくとも”先ずは時間を稼ぎたい”と成ろう。そして、その間、下降景気の底支えをしたサブプライムローンの金融機関を救う事である。それを出来るのは今やただ一つである。
    ロシアが経済的回復を成し遂げている原因と同じく、枯渇間際の石油の高騰を操る事に依って潤っている石油利権からのこの金融機関の底支えをする事である。

    つまり、先ず、石油の値段を吊り上げて、そして、その利権グループで生まれたドルをアメリカに戻して経済と金融機関を支え、さらにアラブの石油利権から銀行(アメリカトップの銀行)に投資させて何とか維持させる。そして、金利を下げて市中経済を活発化させる。しかし、現実にはアメリカのこの目論見は消えた。遂に、日本の三井グループの投資をしなくては持たなくなった。
    更に、貿易第1位国の中国の金融機関が軒並みこのサブプライムローンの影響を受けている事が判り、メルリリンチの銀行を破綻させると風船の底に穴が開いたの如く間違いなく「世界金融恐慌」となる手前に来ている。
    その時に、この温暖化の批准は好ましくない。枯渇石油のアメリカの利権そのものが潰れる。支え役のリード役が潰れる。中国経済も巻き込んだ世界恐慌が起こり、中国投資国は破綻すると言うシナリオが出来る。その直前に来ているのである。

    「温暖化」と「世界恐慌」との間に追い込まれて動きが取れないのが現在のアメリカなのである。
    中国経済が外資に支えられ、自己技術の低い40%国力で大きなオリンピックと万博景気が支えられているバブル的経済成長の中で破綻すると、これが政治的バランスを招き崩れて、「世界恐慌」から「政治混乱」へと突き進み、「石油枯渇」の「悪くのスパイラル」に入ると予想される。

    もしここで、「温暖化」に対する排出量の枠組みに合意したとすると、その引き金を引く事になる。
    絶対に出来ない事である事が上記の事で明らかに判る。
    「温暖化」の対策は上記の分析でも先進国だけの対策となる事は明らかであり、その先進国のエネルギー源はこの後進国(途上国)の自然破壊で成り立っているのだから、最後には後進国から倒れ先進国が潰れて行くシナリオ事に成ろう。
    私の説はこの温暖化(3つの酸化物)だけでは解決しないとの説を採っているが人口を減らす事がないと科学的にも納まらないと見ている。
    人口問題に傾かず、酸化物、とりわけ、炭素酸化物、炭酸ガス(Co2)に話が傾いているのは、この枯渇化石燃料(石油)の利権、とりわけアメリカのリード役の国力の維持、できるだけ化石燃料の使用量を押さえて38年以上の年月をより長くに宣伝と喧伝と専念されて、人口問題を隠していると見ている。
    夫々の大陸で発生している28ー68/28.8gの炭素酸化物のバラツキがあるのに、熱帯地方の温度が上がれば生物は死滅するくらいの温度に成っているのに、そこで、科学的な理論に無理がうまれているのであるのだが、お構いなしに、話をそらしているのである。

    しかし、世界が仮に気がついたとしても、人口問題では、最も人口増加が大きいアフリカ大陸、インド大陸、中国大陸での問題となるが、中国は別の理由で「一人っ子政策」を推し進めている。しかし、人間の本能に基づくものであり解決は不可能であろう。兎も角、この二つの大陸の二つ国が世界でトップの経済成長を遂げている。この二つの国が「温暖化原因」と「人口増加」と「経済成長」を組みあせた場合はもう無理であり、更に、アメリカが炭素酸化物に原因を振り向けて本来の対策を”実行しない又は出来ない”では無理というものである。

    以上、
    「温暖化の疑問」でレポートしたが、さらに進めて「温暖化」にはこの様な裏の話がある。
    「温暖化」は「温暖化」だけでは動いていないのであると見ている。今の世の中のもの単独ものはすくないのでは無いだろうか。


      [No.220] 給付金の景気議論の無駄と恐慌の時事放談
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/30(Fri) 16:47:14  

    時事放談

    景気刺激策の給付金に思う事

    先ず始めに結論から云うと、”今国会でもめている給付金の議論は無駄である。”と言う事だ
    給付金が無駄ではない。議論が無駄だと云いたいのだ。
    ”他に廻せばもっと効果があるだろう”とか、そんな事云い続けたらきりがない。”景気に対して効くか効かない”とかは問題ではない。やってもいないのに主観で判るだろうか。
    「人、時、場所」の「三相」で考えたら、先ず実行する事に意味があるのである。そして、その「三相」で観て、仮に”あるか無いか”と聞かれたら、私は意外にあると観ているが、その理由は後に述べるとして、兎も角も、「恐慌」になりかけている現在何と馬鹿らしい事か呆れる。

    そもそも「恐慌」と云うものの人間社会に与える恐ろしさを知らないらしい。
    いや、96年も過ぎると人々の意思伝承からはそれを忘れてしまうらしい事だ。要するにバカに成るらしい。
    念のため、給付金は先ず後にして、その恐ろしさを認知して頂く事がそれをわかって貰える最も近道だろうか。この為に過去に起こった「恐慌」のその時の経緯を先にどの様なものかを述べる事とする。
    そうすれば、この給付金の議論が無駄である事がわかって貰えるだろう。先ずは実行するのみである。実行に価値があるのだ。2兆円等は問題では無くなるだろう。
    この2兆円がその「恐慌」のもたらす恐ろしい人間の「性(さが)」を抑えてくれるのだ。
    それで済むのなら安いものである。
    それを次に縷縷述べるとする。

    「100年一昔」と人は云うが、100年も過ぎれば何事もその恐ろしさが人々の脳裏から消えて忘れさられる。
    結論から「恐慌」のもたらすものは生活の貧窮だけではないのだ。それは、歴史が物語っている。
    では、その「恐慌」と云うものがどの程度起こっているかかが問題と成ろう。
    そして、どのような経緯から起こるのかも気に成る。
    どのような恐ろしいことが起こるのかも知りたいと思う。
    最後にその経済的なメカニズムはどうなっているのかも知っておく必要があろう。
    前回と較べて今回の起こりそうな「恐慌」はどのようなものかも、ここで知らねば「給付金の議論」の良悪の持つ意味が理解できないだろう。
    そこで、これ等の事に付いて経済論ではない可能な範囲で論じる。

    その恐慌は先ず日本では最近では3度起こっている。
    1890年の「企業恐慌」  (1)
    1894年の「資本主義恐慌」(2)
    1907年の「植民地恐慌」 (3)
    筆者らの年代であれば、当時と同じ生活環境にいたためにより実感としてこの程度の事はまだ聞き学んだ記憶として脳裏に残っている。

    1880年後半の「企業恐慌」は、何れも、1860年前後に西洋で「産業革命」が起こり、日本では第1次は日清戦争期、第2次は日露戦争の時期に2度の「産業革命期」があった。
    この時期はその産業革命を下にした生産を主体とした新しい体制の企業勃興期でそのブームが起こった。未経験のその企業が勃興してきた新しい「資本主義」の中で起こる「経済恐慌」を誘発した。
    初めての経験であるが故に対処に手間取った。
    つまり、「資本主義」では「産業革命」で大きな「生産活動」が起こる。
    そこに「生産の変動」が起こる。当然にそれに伴なって「消費の変動」が起こり、遂には「景気変動」は起こる。これは当然の人間社会が起す「経済メカニズム」である。
    何れも「需要と供給」のバランスが原因で起こる。
    しかし、ここで「資本主義」の中では大きな欠点が起こる。
    それは人間社会の生活から来る「消費の限界」である。
    どんなに人間社会がある一定の生活レベルで維持した場合でも、「産業機械」による「生産活動の増大」にあわせての「消費活動」の拡大は出来ない。そこである一定の限界が起こる。
    一方、科学、即ち「機械革命」による生産(供給)には限界が無い。ここに矛盾が起こる。
    つまり、資本主義には、次ぎの原理の数式が生まれる。

    「生産活動の増大」>「消費活動の増大」 「消費活動」=一定 「生産活動」=無限大・・・X 

    その矛盾が「社会変動」を起して、それが起因してこのギャップが大きい時に「恐慌」が起こるのである。
    「生産活動の増大」ー「消費活動の増大」=MAX=「恐慌(デフレ)」  A
    「消費活動の増大」ー「生産活動の増大」=MIN=「恐慌(インフレ)」 B
    当然に、ギャップの大きい時、ギャップの小さい時の2種類の「恐慌」が起こるだろう。

    そして、この「2つの恐慌」の連鎖の末に起こるもう一つの経済システムの崩壊現象の「第3の恐慌」が起こる。これはA、Bの何れもが駄目に成る沈底現象(反動現象)である。

    「消費活動の増大」<=0 「生産活動の増大」<=0 A-B<=0 :C 

    先ず、1880年末頃に起こった最初の「企業恐慌」は、「産業革命」による「機械革命」に依って「資本主義」では「企業の勃興」が起こる。当然に「供給」が大きくなり値段が下がり「デフレ」となる。株は暴落する。資産価値は低下する。勃興した企業は直ぐに倒産する。
    この為に経済メカニズムが狂い「恐慌」となる仕組みだ。

    人は、当然に、一度味わった「生活レベルの享受」を求めて下げる事をせずにその対応策を求めようと走る。それはその溢れた供給物を外に求めようとするのだ。これは人間の本能である。
    そして、それを産み出すその「エネルギー源」を維持しょうとして、「力」(軍事力)の増大を図りその武力で以って自国のものとするためにその「資源の確保」を外に求める。
    要するに、「資本主義」に起こる「必然のシナリオ」の「植民地政策」である。
    時には、「軍事力支配」、「経済支配」、「政治支配」、「資源支配」、「思想支配」と重複しても使う事と成ろう。この時は、「軍事力支配」の植民地であった。
    「植民地」と云う言葉はこの時代の「軍事力」における言葉でありいいイメージを起さないだろうが、現在に於いても、「軍事力」以外にも、実質、同じ支配を受けているのであって、消えたわけではない。
    何時の「時代」にも、どんな「思想主義」でも「人間社会」である限りこの「必然のシナリオ」から逃れることは出来ない。
    更に、この「必然のシナリオ」が起こった歴史を考察してみる。

    先ず、次に起こった1894年は、今まで経験した事のない始めての「恐慌」と云う「経済システム」に戸惑い、慌てて、維持しようとして、この「植民地政策」を基本とした「資本主義」の反動が起こる。
    つまり、「産業革命」以後に「新しい生活スタイル」が急に蔓延したが、今までの「古い生活スタイル」を捨てて一種の「+の拒絶反応」が人間には起こるのである。
    その行動が引き金に成って社会が沸騰し過ぎ、金融バランスが崩れて、折角に勃興した企業、銀行が倒産し、再び「恐慌」へと走ったのである。
    今まで苦労して得ていた資源は易々と手に入れられる事になり、商品も植民地でさばける状況が生まれる。この結果、「植民地政策」の勝利で得た海外からの利益で、国内は過激に景気沸騰して物が不足して物価は高騰して「インフレ」を起こし、「恐慌」へと向かうのである。(B)

    この資本主義の欠点でもある「需要と供給」のバランスにより、片方に行き過ぎてしまった時に「デフレの恐慌」と「インフレの恐慌」が起こるのである。
    この時までの未熟の資本主義はその産業革命の時から15年で「企業恐慌」(A)が、更にそこから11年間で「資本主義恐慌」であわせて26年間で「インフレ」と「デフレ」の両方がめまぐるしく起こり「恐慌」を起した。

    そして、その13年後の1907年の「恐慌」は、この「二つの恐慌」を解決清算する為に、上記2つの恐慌(「経済活動でのアンバランス恐慌」)を避ける為に、それ以外の経済活動外で行う「景気刺激策」やむ終えず採用した。それが「植民地政策拡大」に乗じて「軍事物資」の需要を喚起させ、特殊な限定した分野での「軍需景気」を誘発させて解決しようとしたのである。
    その活用地を求めてより海外に出て広める事に向かう「必然的な現象」が起こったのである。
    これが本格的な「植民地恐慌」(C)であった。
    植民地政策で世界は荒れ、資本主義を邁進する先進国は争って植民地獲得へと動いたので、各地で紛争が絶えず、先進国同士で、また、先進国と後進国(当時はこの様に呼ばれていた)との間で紛争と戦争が起こったのである。
    この為、生活は疲弊し、挙句は各国の経済活動は低下し輸出入が激減し、遂には農村部格差の問題、都会貧困層の社会問題を誘発させて、「需要供給」に無関係に「恐慌」へと突き進んだ。
    同じ事が殆ど同時に世界の先進国で起こっていたのである。

    (A)と(B)の連鎖による経済システムの崩壊現象(C)を誘発させたのである。
    これでは経済手法では手の打ち様が無く成ったのである。

    この様に人間社会に於いて資本主義の欠点とも云えるこの三つの循環性のある必然的な「連鎖的な恐慌」が起こるのである。

    最初に先ず「企業恐慌」が起こる。そして、反動として「資本恐慌」が起こり、最後には経済外の「植民地恐慌」までへと必ず走る性質の「連鎖反応」とも云うべき欠点を持っているのである。
    一度、何れの「恐慌」が起ころうとも「連鎖の恐慌」が起こるのが資本主義の欠点でもある。
    否、人間社会の「生活意識の欠点」ともいえる。
    それは、一度知った果実の味「安楽の享受」の本能である。この本能がある限りこの恐ろしい必然の連鎖は解消できない。

    そこで、しかし、この3つの「ただの恐慌」だけが怖いのではない。
    この「恐慌」の上記する「3つのスパイラル」が怖いのである。
    そして、その「3つのスパイラル」に陥る時に必ず起こり引き金と成る「煽り現象」、即ち「人間の性(さが)」が最も怖い事なのである。
    この中には目を伏せたくなるような熱動する「非人間的な現象」が内蔵しているのである。
    資本主義における「恐慌」とはこの様な「恐ろしい過程」を持っているのである。

    そこで、その時のことを認識を高める為に再現して見よう。
    直近の96年程前から昭和初期に掛けて「世界恐慌」が起こった。
    先進国はより植民地政策へと動いていた。その事が昂じて決着の為にその時はその解決策として武力に訴える戦争へと動いた。
    世界は、特にドイツは恐慌の嵐に喘いでいた。そこに、当初その発言と行動で異端児扱いされていたヒットラーが、国民は”何とかしてくれるのでは”と救世主として、熱狂的に幻想して引き出した。
    怖いのはここである。
    この様なときには人間の社会は現状の生活レベルを享受しようとして、「盲動的に、幻想的に」それを解決してくれるヒーローを仮想して作り出してしまう事である。
    そして、その現象が一度起こると「悪のスパイラル」が起こり止まらない。
    ドイツではこの「恐慌」の結果、この過ちを起してしまったのである。
    そのヒーローのヒットラーはそこで「最後の切り札」を直ぐに使った。
    ドイツを中心とした「統一ヨーロッパ」を作る事を名文に、本音はエネルギー源の確保を忍ばせて、先ず、フランス等ヨーロッパ域とロシアを侵略して「軍需景気」を起こし、ドイツは半年で恐慌から脱出して景気を回復させたのである。その狙いは意外に脆いフランスが落ちて半ば成功した。
    そして、その勢いで今度はその「科学力」を大いに発揮してドイツは今までに無い新型のロケット弾を開発し、それを対岸からイギリスロンドンに向けて攻撃した。
    無抵抗で戦わねば成らないイギリスは慌てた。
    そこでアメリカに助けを求めた。飛び火してアメリカは軍隊を送った。
    その反動でドイツとイタリヤは同盟、アメリカ、イギリスフランス、ロシアは同盟し、第一次大戦のへと突入。
    その頃、一方日本は「恐慌」から先ず、西アジアにそのエネルギー源を求めて侵略、植民地としていた。
    当然、そこを植民地支配していたアメリカとイギリスと衝突、対抗手段として相手は経済封鎖を実施した。
    そこで、ある2つの目的(白人社会に黄色人が伸し上がることを好まない事も含む)を同時に持っていたアメリカは「戦いで日本を潰す」事を狙った。

    もう一つは、同時に資本主義では15年程度で経済恐慌が繰り返し起こる経済政策では解決が困難と見て、経済外の政策として国民を煽動、喚起して「軍需」による景気回復で解決を狙った。
    そのアメリカはわざと真珠湾に海軍をわざわざと集積させながら、日本海軍が太平洋に出てきても無防備の近い状態にしていた。即ち外国製の「鶴翼の陣」とも云うものであろう。
    「経済封鎖」で窮地に至った日本は「勿怪の幸い」とその戦略に引っかかり日本軍は突出して真珠湾攻撃をしてしまった。つまり、懐を無防備に広げて相手に攻めさせて「戦い」の大義名分を得たアメリカ、イギリスの連合国側は「国民に反発の勢い」を着けて第2次大戦へと突入させた。
    そして、アメリカ側はその本来の目的としての先ず「軍需景気」を起して「恐慌」を克服させたのである。後は、白色人種の領域に侵蝕し成長して来た黄色人種の「日本潰し」である。
    日本は、次第にアジアから後退し昭和17年の4月18日の本土空爆から2年後に敗戦となった。
    これで、第2の目的は達成されたのである。
    しかし、敗戦占領後、直ぐに朝鮮半島で共産主義者の動乱が起こる。
    アメリカは始めは共産主義者を引き入れて、白人先進国の中にアジアの黄色人種の伸張の大きな力と成っていた戦後の日本の「国粋的思想」の一掃を試みた。
    しかし、朝鮮半島で共産主義が台頭して拙い事に成った。
    そこで、共産主義から日本を護るために、その「軍需景気」を日本で起こし「戦後復興」と「経済力」をつける作戦に出た。そのために驚異的に日本は戦後の荒廃から脱出して立ち直らせ国力を回復させてたのである。そして、弱い所に巣食う共産主義の浸透を防いだ。
    しかし、アメリカは日本の植民地であった朝鮮半島は失敗した。
    一方、ドイツは極寒ロシアで大失敗し、次第に後退し、ドイツ国内はアメリカの「財力の元」と成っているユダヤ人を警戒して「ユダヤ人抹殺」の「修羅の世界」と成ったのである。

    この様に、「恐慌」の結末は「窮鼠猫を噛む」の如き「最後のあがき」が起こり、必然的にその生きる「エネルギー源確保」のために、「歴史は繰り返す」の例え通りで、資本主義の経済活動の欠点を除くために最後手段の「軍需景気」で以って全ての国は「恐慌」から立ち直っているのである。
    そこに起こる弊害や修羅を無視してである。
    ここで、この様な時、「人間の社会」は「盲動的、幻想的」に「良悪を鑑みず」「ヒーローを仮想」して作り出してしまう事である。これが「恐慌」での最も怖い事である。
    しかし、日本でも第2次大戦へと突入していった時も日本軍陸軍はこの悪のスパイラルに入っていたのである。
    そのヒーローを「神国」「神風」に求めたのである。
    そして、ドイツの「ヒットラー」と同じく、日本ではそれを煽ったのは矢張り、記者上がりの当時のトップ評論家で「ヒットラー的なヒーロー」として、「神がかりした人物」として見られたこの人物の度重ねる発言であった。それは通説の東条や近衛の指導者ではなかった。(人物名は法に基づく為に匿名)

    日本も全く例外では無かった。全く同じ事が起こっていたのである。
    その者の云う事は国民は皆信じた。国では、「神国」「神風」で煽り、人ではこの人物の「煽り」の影響を諸に受けたのであった。
    この者の「煽り」が無ければ国民は盲動しなかっただろうと云われている。
    この人物は戦後、その「煽り」の反省や謝罪も無く煽られる方が悪いといわんばかりの強気で生き延びたという事である。第一この本人も自らが洗脳されて熱動していたのではと考える。

    真に恐ろしきは仏教で云う「縁無き衆生動し難し」とはこの事である。
    「人間の社会」とはこの様なものである。だから盲動するのである。
    今、恐ろしい「恐慌」の連鎖に真に陥らんとするこの社会では、この人物になる「煽り」人物は一体誰なのかとフトと考えることがある。
    何せ、歴史的に学ぶと、今、一番怖い事はこの「煽り」である。人間の性(さが)を突く事実に基づかない「煽り」である。

    そこで、資本主義が上記「3つの恐慌」の「連鎖の欠点」を反省して成熟し、それから96年経っているが、今度はその資本主義の自由市場を標榜する大元のアメリカ発の恐慌である。
    これは以前のものと違う。今回は特殊な原因である。

    2大国の冷戦時代は終わり、そこから、ブレーキが効かなくなったその一方に「無制限な自由の経済」の行き過ぎが起こり、走り続けなければ倒れる自転車の様な、貯蓄をしない連続の「消費経済」を作り出したのである。
    「貯蓄」は、「悪のスパイラル」の「消炎剤」「冷却材」と成るが、貯蓄なしの「消費経済」では論理的に欠点を解消する事はできない筈である。
    そして、そのために再び経済の証券、株、住宅などのものを、「自由」の旗の下でいじ繰り回し、それを「自由」と標榜して、その熱動のためにアメリカの「基礎的科学力」は軽視されてその反動の低下が起こった。これは恐らく現世代のコンピータによる管理が成せる技であろう。
    そして、アメリカでは、科学的な付加価値を怠り創造せずに「国力の低下」が起こったのである。
    この時、アメリカでは、データでは「インフレ」と「デフレ」の現象が同時に起こると云う今までに無い不思議な現象であった。資本主義の経済システムに無い現象が起こっていたのである。

    この現象は、時代の内容は違えど起こる条件は、1907年の恐慌の社会反動の状況に極めて類似する。

    そこで、この原因がその時点(2年前)では掴めなかったのである。
    中国の安い製品がアメリカに入っていて、「生産過剰」と成っていると前世代の論理で考えた。
    しかし、それであれば、インフレの現象は何なのか疑問であった。
    それは、原因追求せずに、トップの自負の下で、アメリカ政府が承知の上で、危険であることを承知で、大リスクの下で、無理に低所得層の住宅ローンを喚起させ景気を維持させようとした。
    そして、あらゆる手段でドルを自国に引き込んむ応急政策を採った。
    それでも駄目と成ると、世界の原油資本の6割を抱えるアメリカは、「先物市場」で「原油価格」の吊り上げに入った。しかし、この手も長く続けられるものでは無い。
    当然、住宅(サブプライムローン)、原油ともに無理が露見してしまった。
    そうすると、それに資金を出していた金融機関も破綻してしまったのである。
    そこで、予想もしなかつた「証券(派生商品)」の「捻くりまわし」の「からくり」が見えて来たのである。

    遂に、「生産活動」をせずに「濡れ手で粟」の「消費経済」が破綻し露見と成った。
    そして、歯止め策の無い「恐慌」へと向かう危機が進行しているのである。
    それも「貯蓄なしの消費経済」は自転車の如く止まらないのである。
    果たして、この「猪突猛進」と見えるものはどの方向に動くのであろうか。
    兎に角は、止めなければ成らない。貴方ならどうして止める?。過去に使われた秘策はある。
    普通なら、「特効薬」となるのであれば、「秘策」を使うのでは無いだろうか。

    上記した生産活動の歪みから起こる「3つの恐慌」の連鎖ではなく、全く別の「自由、資本主義経済」の盲点である「濡れ手で粟」の「行過ぎた経済」が侵蝕していた事に成る。
    その盲点はコンピータが起因した。
    だから、一種の「詐欺行為」(派生商品)をしてのけたアメリカの自由の行き過ぎた消費経済が、市場からの信頼が、絶壁から落ちるが如く一挙に落る事と成ってしまった。
    これが今回の一国から出たアメリカの失態の結末である。
    丁度、その時、国民の70%を占めるアメリカ社会の「白人優越主義」が崩壊の暗示をするが如く、黒人の大統領が生まれると言う、タイミングよくサプライズが起こった。
    この歴史的なタイミングをどう見るかである。

    そのタイミングで選ばれたその大統領の発言が、今までのアメリカとは違う歴史的演説をしたのである。
    しかし、他方の黄色人種の世界第2位に踊り出ているその日本では、必要以上に事実無根の「煽り」を目的として批判する評論家が続出している。
    今に至って、その間に日本は基礎的科学力の発展に力を注ぎ世界第2の力を持ち得たのである。
    其処に、証券、株、住宅、原油で生きたアメリカと、基礎的科学力の発展に力を注いだ日本との間に大きなギャップが生まれたと言う事である。
    そこをこのオバマの黒人大統領だからこそその拘りを捨てて日本を歴史上認めたということであろう。
    況や歴史的なアメリカの失敗を認める演説したのである。

    しかし、有史来、アメリカは国民の70%が白人社会であるが、白人の彼等は彼等の特長でもある「白人優越主義」からアメリカの経済運営の失敗を認めようとしなかった。この金融危機が起こったときにも。
    当然に、日本のその科学的なファンダメンタルな繁栄も認め様としなかった。否”したくなかった”というのが正しいだろう。
    ところが、黒人のオバマは就任1週間前の演説でこの2つの事をはっきりと認めたのである。
    白人社会の権位失墜を意味する70%の抵抗のある中でのこの大変な演説であると考える。
    日本の「科学に力を入れた政策運営」とアメリカを大きく凌ぐその「科学の発展」を認めたのである。

    つまり、「金融危機」を起したアメリカをその反対の「科学政策の失敗」で言い換えたのである。
    そして、それには何と「日本」を例に挙げたのである。
    今まで決して無かったプライドを許さない白人の「日本認め」をオバマは言い放ったのである。

    言い換えれば、アメリカ発の恐慌に成ろうとしている危機は、オバマが云うように、間接的にはその大きな原因は日本であるとも言える。
    もし、日本が次ぎに挙げる「科学のリード」が無ければ、アメリカは今回の危機を招いてはいないと考えられる。それ程に日本の科学政策の進展が大きいものである。

    それは次ぎに挙げる代表的な物品に例を挙げられる。
    二輪車ヘルメットから始まり、ホンダ、ヤマハの大型バイク、電卓、テレビ、自動車、原発、高能力エンジン航空機、テレビ、高性能測定機器、ソーラーなどのエコ機器など全てアメリカ発の主なものを日本のものとしてしまった。
    科学では、国をリードする自信を無くし、今回のような住宅、金融、原油の目先にあるものに走ってしまったという事であろう。本来、自動車に例を挙げられる様に「科学のアメリカ」である。
    筆者は技術系であるので、そこの所は良く判る。
    鉄鋼等の科学に絡む殆どの技術は「日本」の実感がある。少なくとも負けているものは無いのではとも思える。技術的視野から見て現在、科学の点では少なくとも先ず無いであろう。

    恐らくはアメリカ人の心の片隅に”日本にしてやられている”と感じているのではないか。
    アメリカはこの点で失政しているので、残るは証券、ファンド株、住宅となる。
    必然的に其処に走るが自然の摂理である。
    そして、「証券と住宅」で崩壊したのである。そこに残るのは「自由の根源」の「消費社会体質」(ファンド)が残るだけである。
    そうなると、さて、”特効役はあるのか?”と疑問が湧く。結論は無い。
    そんなに簡単にあるのであれば「人の冷えた心理」の挙句の「景気恐慌」は起こらない。

    普通は「恐慌」は、通常景気の平均株価(14000円)の半分に陥ると「恐慌」と見なされるが、現在、8000-7600円である。殆ど「剣が峰」である。
    「剣が峰」から落ちるには、アメリカはその景気を維持する為にドルを無理やりに自国に戻す為に、そして、ドルの信頼度を護るために、”金融、株、住宅、消耗品、原油”の全ての{切り札}を既に使ってしまった。
    これは、消費経済の享楽の上に胡座をかき、上記の「科学的ファンダメンタル」の低下を招き起して、アメリカの「国力の低下」から、更にドルの「信頼度の低下」へと「悪のスパイラル」が起こった。
    その結果から、アメリカは自国にドルを戻す事を無理やり起して景気を維持させていたのである。
    原油資本による原油相場操作などをしたが、結局は、その結果、持ち応える事は出来ずに景気は低下し不況に突入してしまった。
    其処に、自由資本主義の行過ぎた「経済の歪み」が起こり、一度味わった高い生活程度を求める人間の本質、アメリカの権位を護るために是が非でも何らかの手を打つ筈である。

    前の「恐慌」どおりにその徹を踏むしかない筈。人類が発達しても人の考える事に大した違いはない。余り騒がれていないが、上記に書いたとおり、技術者であった私の目からは、現在の人類の享楽の大元は「科学の進歩」によるが、アメリカの反面、逆に日本の「科学進行への投資政策」が円高を産み、ドルの低下を招いていると見ている。必然性がある。

    昔であれば、上記した様に、アメリカは日本の締め出しをヨーロッパの国と組んでしてくる筈であった。
    しかし、ここまで、ヨーロッパと「4倍の力差さ」が出てしまった「科学の日本」を締め出す事は無理であろう。むしろ、味方に引き入れて、その力を利用する方が得策であろう。
    いまやそれを決断するのはヨーロッパでは最早無い。アメリカである。
    アメリカは、戦略的に「日本」を無視出来ないところに追い込まれているのである。
    痛し痒しであろう。しかし、日本ではどうであろう。

    自民党による国政の運営は全体とて、オバマが認めるように、アメリカの資本主義の行き過ぎの徹を踏んではいなく、「高度な科学」による「生産」を主体とした経済運営であり、相対的に見ればM党の様な「失政の非難」は当らない。
    確かに、抹消政策のところでのゴタゴタはある。与党としての腐敗もあるだろう。官僚主義の行き過ぎもあるだろう。
    しかし、国政の方向は、高度科学による生産主体の運営は、上記の資本主義の欠点のスパイラルからは
    逸脱していないし、現在まではオバマが認めるように、極めて近い資本主義体制でありながらも、「アメリカの徹」を踏んでいないし、そこを認めたオバマであるが、日本のその政策は相対的には功を奏している。
    多分、未来のどの政権に於いても、”重箱の隅を突付けば粗は出る”である。
    その重箱を手の上に掲げて、”これ見よがし”に政権与党を”悪政”の如く「煽る」のは次元が低い。
    そんな、”オバマが褒める政権与党の科学政策”を隠しての「煽り」は、むしろ「搾取」行為であろう。

    一部の左傾の2つのマスコミが「煽り」を目的として、オバマの演説を隠して”アメリカは日本を無視”として毎日煽っている。挙句は「麻生氏の政権」の能力低さを喧伝する「煽り作戦」に出ている。そして、”M党に政権を”と狙っているが。
    これにも、”戦前のあの記者上がりの評論家”らしき類似する者が「煽り評論家」として熱弁を奮っているのである。

    丁度、ドイツのヒットラーの時と日本の戦争直前の状況によく似ている。
    一方への不満が片方の良悪(M党)に拘らず傾く「人の心理」に託けて6割の無責任者を煽っているのである。
    先の参院選では多くのこの6割の国民は”自民が悪い”からと云って、盲動、且つ、熱動してM党に入れて”衆参のねじれ”を作り出し、政治は滞る同じ現象で起こったのである。こんな時期に。

    この「6割の無責任者」のために「ねじれ」で政治が上手く行く事は無い事を知りながらも片方に傾いてしまったのである。
    所謂、「ヒットラー現象」とも言うべき日本製の現象が3年前から起こり始めたのである。今その過程にある。
    其処に来て、この危機である。この現象の条件は揃っている。96年前と類似する同じ条件が。

    さて、そこで、掘り下げて見ると、一番警戒して見て居なければ成らないのは、現在ドルに継いで円であるが、まだ世界をリードできるのはアメリカ、ドルであろう。
    日本の主導は憲法改正が成らなければ少なくとも無理であるし、トップである必要はない。
    むしろ、セカンドが好ましい。今回の様に”トップの過ち”を反省点として進む事が国力、体質、国民性から観て好ましい。

    とすると、後は残された特効薬は只一つ「軍需景気」で先ずトップ体質のアメリカを立て直す事にある。
    それで無ければ自転車は倒れる。
    そうすると、世界で見て観ると、連鎖の危険はあるが、秘策の「軍需物資」を使える紛争地はどこかであるが、3箇所ある。
    イラク、アフガン、北朝鮮であろう。イラン、パレスチナは小さすぎる。

    「軍需物資」を使える現実的なシナリオは只一つアフガンである。
    しかし、「大量の武器」を使うには「シナリオ」は不十分である。
    それには、イラクから軍を撤退、現イラクでは再び、テロリストが盛り返す。それに乗じて”テロリストの根拠地を潰す”を理由にアフガンに大量の武器を注ぎ込むだろう。
    これは、テロリスト撲滅は大義名分であり、本音は大量の武器を「雨霰の如く」に使う事を目的とするだろう。
    それには、先ず先立つ金が要る。それを日本に出させる。
    何故ならばEUの1に対して4の日本の効果があるからだ。

    アメリカはインド洋に軍艦を出す事と、日本はその燃料の提供、物資の輸送、ある程度の高性能艦を出す事に成るだろう。
    日本も「自衛艦海外派遣」の為のその前の「お膳立て」が必要である。
    これからは、アメリカの要求の来る事を読んで、政府はその前に「お膳立て」を別の目的でする事を合策すると見られる。要するに「既成の事実」作りに動くであろう。

    因みに、政治の主導は、官僚の「戦術」ではない、政治家の「戦略」である。
    つまり、あらゆる「戦略を読み取り」、いかに「お膳立て」をするかである。
    その戦略の読み取りの良悪に依って「国の方向性」が決まり、「国の発展」が定まる。
    今回の「アメリカの失敗」は、この「戦略の読み取り」に間違いを起したということであろう。
    アメリカ製自動車に代表されるように「白人優越主義」に拘り「エコや低燃費」の「科学による発展」を軽視した結果、短期間でトヨタホンダに市場の半分を食われてしまったたと言うことであろう。
    自動車に限らず、殆どの科学製品はこの例に従う。
    いまや医療関係もこの例になろうとしている。

    さて、そのお膳立て先の問題である。
    アフリカ紛争地、インド洋沖、インドシナ近海などへの「自衛艦隊派遣」をする法改正を検討する段取りが必要である。インド洋沖を目指して、ソマリヤ沖の海賊の事も絶好の名文が立つ。
    この様にして、止められるシナリオが無い今、恐らく起こる「恐慌」に対して、この様なシナリオとなると観られる。
    北朝鮮は難民の流入が中国、韓国で起こり、中国では「恐慌」で内乱が頻発しているが窮地に陥っている中国との摩擦が起こりやり方では大問題と成るので避けるだろう。
    韓国は国の外貨準備額が底をつき、IMFから断わられ2度目の日本からの「てこ入れ」(借金)で何とか国の破産を防いでいる最中にこの様なことを隣りで起されては困る。それこそ滅亡である。

    そこで、他に手は無いかと云うことだが、表向きはアメリカは大義名分は「グリーンニューディール」として「環境策」で回復させるとしている。
    上記した様に、「日本認め」からの「政策変換」である。それをオバマはこの様にタイトル化させた。

    この根拠は、就任1週間前に行った演説で、日本、ドイツ、スペインを例に挙げて、特に日本の科学の進歩に対して高く褒め景気を維持している事を挙げて、このことから、日本を見習いこの政策を進めるとしたのである。

    ハイブリット車、ロケット、航空機、原子力、エコ発電、など全て日本が完全に勝った。
    ハイブリットはトヨタホンダの事で衆知であろう。
    原子力のアメリカのNO2の会社を買収し、三菱とパナソニックがアメリカに参入し受注した。
    航空機はロッキードが次期の航空機を短距離発着のジェット機の完成機を作った三菱ートヨタ系列富士重に発注、
    今までアメリカに発注していた自衛隊の高性能次期輸送機と偵察情報機は川重のジェット機が受注。
    ロケットは三菱が20機受注、アメリカが真似の出来ない高精度の4つの偵察衛星保有の日本に。
    エコ機器は日本の独断場で、アメリカに架設されているエコの殆どは日本製である。ノーベル賞でも明らかな様に、この背景をオバマは日本を見習えと国民にけしかけたのである。
    それがグリーンニューディール政策としたのである。
    しかし、直ぐに効く特効薬では無い。今後の方針である。
    この様に、アメリカの威信を保つには、当面直ぐに「軍需景気」を使う以外に無い。
    それには日本を巻き込むことが必要である。
    問題なのは、上記した「恐慌」のスパイラルが起こる事である。
    しかし、その日本では、一部のマスコミでは、知らない煽られやすい6割の大衆を相手に”日本は無視されている”と上記の演説の事実を隠して煽っている。M党の政権奪取のために。
    マスコミは知らないはずが無い。筆者でも知っているのであるから。
    しかし、隠している。この歴史的、画期的な演説なのに。紹介したのは右傾の一つのメディアのみである。
    仮に上記のアメリカのシナリオどおりに進んだとすると、仮にM党が事実無根の「煽り発言」で政権を奪取したとしてもM党の政策では無理が来る。
    なぜなら、アフガンの日本の義務に対して、国連が認めたもので指名され場合の自衛隊の出動となり、アメリカ主導の今回のアフガンテロ攻撃では国連は動かない。
    とすると、アメリカと方針の違いが起こり、同盟関係にヒビがはいる事は必定である。
    多分、矛盾が生まれて短命に成るだろう事は判る。
    ここで、幾らM党の政党方針としても同盟を今壊す事は国策ではない。
    ましてや、給付金の是非を論じているくらいの党である。

    この様に給付金を論じること事態が今の状況、恐慌寸前では無意味である。

    そこで、まあ、兎も角も、この日本のこの給付金額はどの程度のものかと云うと、フランスの平均国民所得の1月の給与の1/3なのである。
    フランス人が新聞を読んで驚いていると書かれていた。”給与の1/3の金額を貰って何が不満なのか”と。その効果の有無は問題ではないのである。
    因みにアメリカは一律3万円であり、既に配布されたが「景気の効果有無」は論じていない。
    「恐慌」前の「出す事の無形効果」に意味があるのであって、実質の「景気の効果」では無いと。
    このことは誰でも、わかる事であろう。

    その”「恐慌」に対する「心構えを喚起」するだけでただ良い”であり、智る人は判るはずであろう。
    それを、M党は、政策如何で国会を止める騒ぎをしている。
    恐らく、真意は判っているのだが、政権をとる為に、国民の6割を占めている者を煽動する事にあり、あまり考えの持たない国民層を狙って煽っているのであろう。オバマの演説の「日本認め」を隠して。

    この「M党の煽り」がドイツで起こったヒットラーの如く「恐慌」の一番怖く弱い所である。
    戦前の一人の評論家の神国神風の「゜煽り」で戦争突入になった弱い所である。

    既に「衆参ねじれ」の盲動、熱動のスパイラルに入っている中では「M党の煽り」が最も怖いのである。

    第一、M党は国会で漢字テストを議論する位である。議論するところではない事は承知で、麻生氏を誹謗し、この層を明らかに煽っているのである。
    人間少しくらい漢字を間違えたからと云って、その人間の能力評価するとでも言いたいのか。では自分はどうなのか。胸に手を当てて自分に聞いてみよといいたい。
    総理だからと云って万能ではない。むしろ万能でない方が独裁者となるので困る。
    今はこの様な時期である。「適時適切に出来る人」ある範囲でその資質を持った人であれば良い。
    失言や漢字などは全く問題ではない。
    国会議員だからと云って、今や、明治のときと違う。普通人であろう。
    そんな議論を国会でする程度のM党の方がおかしい。
    第一そんな事で政権を奪取して上手く行くか疑問である。
    また、自民が悪いからと云って、M党が良いというわけは無いだろう。
    M党にどれだけの自民と違うすごい能力を持っているというのだろう。
    漢字テストをするくらいの党で、すごい能力があるとは到底思えない。
    むしろ無いとする方がより真に近いのではないか。
    給付金に70%が反対しているのであれば、その人たちは、M党は貰わないのか。
    ”反対するが貰う”では筋が通らない。
    反対するのであれば、”M党はその前に貰わないと宣言せよ”である。
    ”麻生は何もしていない。”と一割程度の人が云うが、それでは、M党やこの様な意見を出している人は麻生さんが出した以上に出来るのか。アレが精一杯のことであろう。
    よく考えて欲しい。この国は資本主義である。共産国ではない。”何でも政府”はいい加減にして貰いたい。”政府には湯水の如き金は出てくるのだろうか”。”それならば、もっと税金を払え。”と成る。
    社民党、共産党は「社会主義」で「資本主義」の日本社会の考え方ではないのだから、この「煽り」の考えに揺さぶられては困る。それこそ、ヒットラーの二の舞に成る。
    まして、マスメディアの「煽り」の最たるのは他にもある。

    例の国民から無作為RDDで意見を聞いているが、あれもおかしい。
    支持率等で大いに自説を喧伝する材料としている。ある事を隠して「煽り」の材料として。

    少し煽りを証明する為に論じる。
    統計学では国民1億2000万に対して1800人では信頼度は殆ど無いのである。
    統計学では、出た数字に「バイアス」と云うものがあり、そのデーターの信頼度を表す。
    又、他には、データー採取では標準偏差法と云う方法がある。
    これには平均値と偏差値が伴なう。この偏差値がそのデータ採取の信頼度を表す。
    通常皆さんが良く使われる「単純平均法」でも、本当は信頼度の一覧表があるのだ。
    皆さんは実際には使われていないが本当はあるのだ。

    では、その時、統計では信頼度(指数能力)CP=1.0以上なくては殆ど信頼できないと成っている。
    CP=1.33以上は全く信頼できる。
    CP=0.67以下は全く信頼できないと成る。
    マスコミやNHKなどが行っている電話でのデータは1800人ー2000人位であるから、信頼度は0.67以下03ー0.4程度に相当する。つまり、”殆ど信頼できない”と成るのである。
    皆さんは、この「バイアス」とか「CP」とか「積分偏差値」の事を知っていましたか。
    つまり、NHKは知っている筈です。しかし、この事を隠して発表していますね。
    つまり、騙されて煽られているのである。
    「知る知らない」では上記の「煽られる煽られない」の差が出るのである。
    しかし、この様なことを知っている人は10万人に1人或いはそれ以上であろう。
    だから声にはならないから隠しても問題に成らない。だから「煽り」が効くのであるが。

    統計学にはデーター採取方法は10程度あるが、全てに信頼度を表す方法があり、この条件が適用されるのである。常識です。
    でも、もし騙されていないと云うのであれば、「6割の人」はこの事を知っていましたか。”信頼度幾ら”と発言していることを聞いたことありますか。データ採取幾らと聞いたことがありますか。無いですよね。

    例えば、麻生さん支持率20%と出ます。このデータの採取量は2000を超えていません。
    先ず、電話で、信頼度のCP=1.00と成るには無理と思いますよ。
    それは電話を掛ける量が大変過ぎて時間が掛かり過ぎて、経費が掛かり過ぎて、国民から迷惑がられて多分出来ないでしょう。
    統計学には、「時間」がある一定を過ぎると、「環境」が変化して正しい資料が取れないのです。
    それが「時間の制限」と云いそれを超えてしまいます。
    せいぜい、やや信頼できる程度CP=0.67以上CP=1.00でも、最低10000以上は必要である。
    だから、RDD方式では無理なのである。

    皆さんがいつも使われる「単純平均法」でも、「データ採取量」が本来は表から決められているのですが使っていますか。例えばサンプル50個で採取は最低15個程度で信頼度80%程度ですよ。
    そして、統計的データ採取のデータとして扱える最低はサンプル15ですが知っていましたか。
    この様に、騙されているのである。
    更に、最も良い方法の適用はそのサンプルで異なります。
    その採取するサンプルの内容で、10程度ある統計法の中から最適な統計法を選ぶのが普通です。
    マスコミで扱っている統計法は適切であるかを疑問を持った事がありますか。
    専門的に観ると疑問が多いのである。
    どれでも使えるとしたら「標準偏差法」と「CP」ですね。
    しかし、マスコミで使っているものは最もエラー性の大きい信頼性の低い「単純平均法」です。
    これは、人、時間、場所から経費がもっとも安く簡単に出来るからである。
    マスコミやテレビではこのことを隠していることを知っていましたか。
    この様に、巧妙にし煽る事、怖いのは、この「煽り」なのである。
    「恐慌」の様な時には、この「煽り」の「悪のスパイラル」が起こるのである。
    それは統計的には「6割の無意識層」の存在がこの「煽り」で間違いを起してしまうのである。
    これがこの世の宿命であり、「恐慌」や「政権委譲」時などの「極めの所」で問題となるのである。
    では、この「6割の人」を少なくし無くす事は出来無いかと云うと出来ません。
    ここでは、詳しい事は説明しませんが、「脳の本能的な事」から起こってこの層を作り出しているのである。
    少なくとも絶対に5割以下は下がりません。人間が人間である限り。

    仏教でもこれを認めているのです。「縁無き衆生、動し難し」と。
    つまり、どんなに説法しても説法を受け入れる能力の無い者がこの世には居ると言うことなのである。
    それが「性」(さが)来るものだと云っている。

    M党はこの層6割を狙って「煽り」をしているのです。国会で漢字テストする様に。
    だから、データを取ると、”麻生は何もしていない”とする層が1割程度居るのである。
    アレだけの補正予算案や色々と出しているのにもう他に無いだろうと思えるのに、、”麻生は何もしていない”と答えるのである。
    これは「煽り」の「洗脳」と「盲動、熱動」から着ているのである。
    6割の中には1割の人は「煽り」でこの様な反応をしてしまうのである。
    この様な人たちは、直情激情型に多いとされています。感情主観の強い人たちである。
    逆に言えば論理性の低い人たちである。感情性と論理性で分かれるとすると、女性男性の本能に拘る事にもよる。

    統計学でも、この様な6割データはそのサンプルを表にすると、必ず先ずほぼ直線的に延びて比例直線が起こり、そして、変曲点があるところ(60-65%)で、表の直線は緩やかなカーブを示す事に成る。
    このカーブは変曲点以後は積分曲線と成る。
    これをSパターンと云う。
    その比例直線の傾きはそのサンプルによって異なります。その傾きが大きいほど信頼度は増します。
    この世の全ての統計データはこのパターンを示すのですが、さて、この1割はこの6割(60-65)の直線の初期にある。

    この様に煽られやすい層は6割も居るのですから、「煽れ」ばドイツのヒットラーや日本の第2次大戦のような(神国、神風)一種の洗脳状態が起こり、悪のスパイラルの方に走るのである。
    これが、3割とかであれば洗脳されても暫く時間をおけば解けて元に戻るのですが、日本人は更に、国民性があり、この傾向が強いのある。
    つまり、比例直線の傾きが小さいのです。表では比例のラインは縦に起きていると言う事です。7つの融合民族の為である。

    もし、この事から逃れられるには、6割ですから、一度、洗脳の風邪にかかると、時間経過での洗脳の解消は困難となり、何らかのショック療法が必要と成る。
    そのショックは多分、アメリカの「秘策の実行」となると観られる。
    しかし、どちらにしても、風邪を直して、向かう方向は悪のスパイラルの方向である。

    そこで、アメリカはどうなのかですが、今のアメリカのオバマ旋風では、多少この傾向が起こっていると見ている。
    そこで、「恐慌」の非常策のオバマのシナリオは成功裏に走ると観ている。
    しかし、オバマ本人はグリーンニューディール政策を唱えているのですから。
    日本の科学政策と比較対照して、実に冷静にアメリカの駄目な所の失政を認めて居るのである。
    そしてそれを方針として、日本のような”本来の高度な科学活動による生産活動の資本主義の経済活動に戻したい”としているのである。

    さて、そこで「剣が峰」から落ちる力、又は「決め手」は何なのかと云うと、それはアメリカの象徴が崩れる時だと見る。
    それは、明らかにアメリカの象徴である自動車産業のビッグ3の倒産であろう。
    アメリカの意識は完全に低下する事になりますからね。そうすると、間違いなく6割のアメリカ人はシナリオを求めるでしょう。
    従って、このビッグ3をなんとしても倒産から護ることを当面すると見られるが、永く続ける事はできないと観ます。高度な科学が遅れているからである。
    とすると、この救済策をアフガンとは別に日本に求めてくる事が考えらる。
    何とかトヨタ系列に入れてくれとか。トヨタも大変だが。何か条件をつけて、円高を利用しての策かと観られる。高度な科学を即座に吸収する手段として、同盟を全面に掲げて。運命共同体を全面にして。
    この辺が今後見ものである。

    さて、「給付金」は、この「世の摂理」の恐ろしい「恐慌」がその「剣が峰」に来ている時に、景気に効果の有無ではなく、必然に起こる「煽り」の「冷却材」に成り得るのである。

    アメリカの「軍需景気」の動向では、「悪のスパイラル」に入りつつある今、この「煽り」の「冷却効果」になると考えられる。
    政権与党は日本の舵を握っている。「煽り」等の低次元のことは言っている暇が無いだろう。
    アメリカの「軍需策」を待って、9月の任期ぎりぎりまで続けることが先ず戦略として考えられる。
    正しい舵取りの為に。さすれば、「6割の煽り熱」の解熱剤はこのアメリカの「軍需策」と成ろう。

    兎も角も、「煽り」の材料としての「給付金」の景気議論は是非避けてもらいたいもので、6割の人たちに、その「給付金」の先に起こる可能性の高い恐ろしい「恐慌」を示して、それを知らない若い人々に詳しく知らしめて少しでも冷却してほしいのである。政治性を超えて、故に、敢えて、時事放談をした。

    否、とすると、「給付金の景気議論」続けた方が良いのかな。戦略的に観て。

    一度、青木氏の先祖の時代の「部経済」にこの様な恐慌のような事が起こっていたのかをレポートしてみたい。そうすると我等先祖の「生き様」が又見えてくるかも知れない。
    今後の研究課題としたい。

    乱筆、乱文、散文の至り謝罪
    念のため、本当投稿はあくまでも「放談」である。


      [No.219] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究 史料 9/10(家紋分布の分析)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/25(Sun) 08:23:27  

    史料 9/10(道別、国別、地域別の家紋分布の分析)

    主要5氏の家紋の地域分布の状況
    (作成要領と注意は史料 7/10と同じ)

    A 全体綜合(道別の詳細は下記参照)
    東北地方 14  2.6%  
    北陸地方 13  2.4%
    関東地方 103 19.2%
    中部地方 180 33.5%
    近畿地方 88  16.4%
    中国地方 57  10.6%
    中国地方 3   0.5%
    四国地方 42  7.8%
    九州地方 39  6.9%

    合計   539
    各地に分布する秀郷一門の血縁族の家紋(青木氏121家紋を含む主要5氏家紋数361とそれに関連する家紋)を各地(66国)にプロット(B)し、それを上記地方(A)にまとめた。
    その時代を「氏家制度」の社会システムが崩れていない江戸中期までのものとして使用した。
    但し、同じ家紋が国地方を跨ることはあり合計537と成る。

    このデータで利用の仕方如何では秀郷一門の「生き様」のさまざまな事が判る。
    秀郷一門の主要5氏の血縁分布では、上記の様に成る。

    東北、北陸地方は代々鎮守府将軍として赴任した土地柄である。
    「秀郷一門の血縁戦略」即ち、その土地での血縁族を増やし、地固めをして行った結果によるがこの地方では意外に少ない。この地では小山氏、小田氏、等の多くの土豪と血縁氏しその血縁族が関東に出て勢力を伸ばした。
    その中でも代表的な氏として、足利、武田、小山、花房(花山)、小田氏等があるが、他の土地との比較からすると少ない。全体の5%に過ぎない。
    秀郷より発祥11代までで大体6ー7代頃まで続いたこの官職で、尚且つ、前発族である土地柄であって、宗家の土地柄血縁族である。その後も進藤氏や利仁流が引き継いで行った土地であるのに不思議に低い。
    このデータは一門の各地での勢力分布としても観られるデータである事から観ると、史実、殆ど疎遠だった中国地方の山陰地方のデータから比較しても「鎮守府将軍」として務めた土地柄とは思えない数字である。これは何故なのか疑問が大いに湧く。何か子孫を遺せなかった出来事が起こった事を物語る。

    つまり、血縁が進まなかった事になるが、末裔が広がるチャンスが無かった事を意味するのであるから、結論的には”時代の変化”に対応出来無かった事に成る。
    そうすると、末裔を遺せなく成るような事が次ぎの様な「時代の変化」によって起こっている事に成る。それはどのようなものなのか先ず史実を拾い出してみる。
    その中から何かが見えてくる筈である。

    陸奥地方の秀郷一門の子孫存亡の時代の経緯は概容は次ぎの様な事に成る。
    一つは鎮守府将軍から征夷大将軍に権力が転換した事にもよる。
    二つは源氏勢力と藤原勢力が勢力を後に二分した事にもよる。
    三つは鎌倉幕府樹立後の秀郷一門の失職離散と国換えなどの体制整理に基づくものによる。
    四つは室町幕府樹立後の「下克上戦国時代」「足利氏探題」として大きく勢力を伸ばした事による。
    五つは安土桃山時代の「全国平定」の変化(殺戮戦)に上手く対応する事が出来なかった事による。
    六つは江戸時代の安定期に仕官等の対応が上手く出来なかった事による。
    この程度であろう。

    そこで、この中から史実から観てみると、藤原秀郷一門の基盤をこの陸奥の地に固めた時期としては「鎮守府将軍」と成ろう。
    「鎮守府将軍」は多賀城に724年から軍政府を置いた時期からと始まる。
    802年に胆沢城、志波城に移して4等官制にして運営されたが、これ等の政治的支配を嫌った地元の「伊治砦麻呂の反乱」が起こり、更に「征夷大将軍」の坂上田村麻呂が藤原氏と合力して、当地域を支配していた「アテルイ(阿弓流為)」を破り811年頃までに征圧した。その様な土地柄である。
    その後、この「朝廷軍」の「征夷代将軍」の勢力が大きく成り、かなり静まったが依然としてその土地柄の「独立性の強い反骨性」は残っている。史実を細かく見ると各地で燻っているし、北海道の彼等の勢力は以前として維持されている。
    第一彼等の首魁アテルイを攻めて討ち取ったのでは実質ない。4度戦ったが勝負が着かなかった。そこで、「一時停戦」を理由に天皇に合わせると云い名目で引き出し、途中で「騙まし討ち」をしたのが史実である。この間約90年経っている。首魁を失った彼等は一時勢力を落としただけである。彼等には大した勢力の低下は無い。
    その中で、一方征夷代将軍を含む全体としての「朝廷の軍事力」の低下も起こり、各地で反乱が頻発する。朝廷は陸奥の反乱を何とか押さえ込む為に苦慮していた。
    一方の関東では、この5年も掛かっても誰も平定する事が出来ずに居た「独立国反乱」を打ち倒した秀郷に対して、朝廷は「威信低下」の窮地を救ったので最大の讃美を送った。
    940年に秀郷が、「独立国反乱」の「平将門の乱」平定後、その中で、その勲功からはこの陸奥の地の治安を「鎮守府将軍」としては藤原秀郷一門が再び担う事と成り結果は陸奥は盛り返した。そして、彼等との血縁族を広げて懐柔策にでて成功する。
    そして、この勢いは秀郷5代目「頼行」の処(1050-75頃)まで続くが、その間この秀郷一門は9人、利仁流は2人がこの役目を担ったのである。
    ところが、渕名氏の始祖と成った兼行(1080頃)のところからは一段下の官職の「押領使」に留まり、秀郷一門は関東以西赴任地の各地にシフトされる事と成る。この時期が事の「変曲点」と成っている。
    その後、官職は北陸道7国の「押領使」に変化していて、この地域は秀郷流が手を引き引き上げて信濃や甲斐や美濃や阿波などへと赴任地を移している。この時期から北陸東北地方を利仁流が担う事と成った。当然に、この時期、陸奥の血縁族の分家筋は秀郷一門の護衛として同行したのである。
    そして、中部山岳地方にその勢力を伸ばす事と成ったのが陸奥血縁族の花房氏の足利氏であり、同じ陸奥血縁族の小山氏の武田氏でありその後の常陸の小山氏でもある。
    ところが1185年の「鎌倉幕府樹立」で秀郷一門は足元をすくわれて失職離散で衰退したにも関わらず、頼朝に合力した秀郷5世孫の「朝光」が藤原秀郷一門の元の領国の常陸「結城」等を本領安堵(1192頃)され一門は下総結城の「広綱」の下で息を吹き返し復活した。
    その息を吹き返した朝光の孫の弟の結城の「裕広」が、この陸奥白河に移り「白河結城氏」として再び陸奥で勢力を盛り返した。150年後の1335年頃である。
    室町期に入り、更に秀郷一門、特に秀郷流進藤氏は足利氏の大老として活躍し「陸奥出羽国探題」に同行して再び陸奥出羽国に根を降ろす(1365)。陸奥は結城氏と進藤氏が固める事と成った。
    しかし、この後、この秀郷流進藤氏は跡目継承に恵まれず子孫をおろか本家の血筋さえもを拡大する事は出来なかった。
    そこで遺された陸奥の白河結城氏は南北朝末期(1370頃)に陸奥に下向した南朝(後村上天皇)に加担したにも関わらず、陸奥白河氏結城氏の秀郷一門は北畠氏の援護も受けて生き延びる事が出来ている(200Y)。ところが安土桃山時代(1573年頃)に成って全国平定の秀吉によって末裔末孫まで尽く潰される。これで陸奥には秀郷一門の息は途絶える(1590Y)。
    この時、結城の結城氏は足利氏に合力(伊勢長嶋北畠家を軍師として迎え入れた)し勢力を持ち返すが、更に窮地に陥った秀郷一門の残存勢力の陸奥の結城白河氏は、秀吉にとっても暦戦上ただ一つの汚点となる過酷な戦いとなり、秀郷一門陸奥の勢力挙げての必死の戦いにも関わらず「末孫まで尽く滅ぶ有名な過酷戦」をした。ここで子孫は滅んだのである。この時、天正17年(1590)義親の時であった。
    所謂「天正(17)陸奥の戦い」で有名であるが、秀吉は北畠氏をも「天正伊賀の乱」(伊賀攻め、長嶋攻め:1-3次)の「伊勢長嶋攻め」(1579-1591)で滅ぼしてしまった。
    (注 秀吉2つの失敗の一つで「焦った無理押しの戦い」で大きな犠牲を払ったがこの後この反省から秀吉は2度と「無理押しの戦い」をしなかったがその反省の基になった苦い戦いであった。)

    この時、陸奥では差し向けられた藤原秀郷一門の近江の蒲生氏と、陸奥白河氏の藤原秀郷一門との藤原秀郷一門同士が戦う悲惨な結果と成ってしまったのである。結果として秀郷一門の蒲生氏は陸奥と伊勢の「一門同士の戦い」を2度強いられたのである。
    このために、進藤氏の跡目継承問題を始めとして結城白河氏の秀郷一門の子孫を潰してしまい多く遺せる状況では無かった。「時代の変化」に翻弄され陸奥一門は滅亡したのである。
    950年から1591年に及ぶ「時代の変化」の期間である。この史実が低いデータと成っている。

    しかし、陸奥の血縁族の小山氏、花山(花房)氏、足利氏、武田氏、佐竹氏は、信濃、甲斐と、常陸では「関東屋形」と呼ばれるほどに勢力を伸ばし生き延びたのである。
    只、足利幕府と鎌倉公方との戦いで鎌倉方に味方し「関東屋形」は「永享の乱」(1439)でこの下総結城氏、下総小山氏ともに一時、「結城合戦」で没落した。その後、「政勝」の代で盛り返す。
    結城氏、小山氏、佐竹氏、宇都宮氏の4氏の「関東屋形」は反対に勢力高めたのがこの「時代の変化」の経緯である。この様に明暗を分けた陸奥と結城で血縁劇が起こったのである。
    時代としては、恐らく「鎮守府将軍」から「西域に赴任地を変えた事」が「子孫繁栄」に大きな基点を作り出した事が「時代仕儀の変わり目」と成ったのである。

    では何故、陸奥一門滅亡のきっかけの原因と成った「一門が戦略上で西域に移した決断」をしたのか疑問である。
    この決断が滅亡を導く事は誰でもが判るに、あえて決断したのは秀郷宗家とその一門に何かこの大きな事件が起こったからであろう。

    本文の史料を読むと理解されると考えるが、事前に少し背景を述べる。
    そのキーは「阿多倍一門」の知識であろう。未だ把握していない方は多くのレポートで記述しているので参照されたし。これを説けばその決断した理由が浮かび上がる。
    兎も角も、それは阿多倍の長男の坂上田村麻呂の朝廷軍の「征夷代将軍」と、藤原氏四家の最大勢力を誇った北家秀郷一門の「地方統治軍」(押領使)の違いにあろう。

    (参考概容 後漢末帝献帝の子(石秋王)の子阿智使王とその子阿多倍は200万人の職能集団を引きつれ大化期に帰化、66国中32国を無戦支配し政治経済で桓武天皇の律令体制を完成、日本の第1次産業の基礎を築く、朝廷政治の6割を官僚支配する。桓武天皇の母で阿多倍の孫娘高野新笠、阿多倍は敏達天皇の曾孫芽淳王の娘と結婚し、准大臣を拝命、3児、伊勢伊賀と大隈半島の半国を割譲、桓武平氏の祖、九州の「遠の朝廷」歴史上只1家の「錦の御旗」を正式に与えられた氏と呼ばれる、大蔵氏の永代太宰大監、中国地方の支配者陶族大内氏、関西以西支配者の桓武平氏と坂上氏、九州支配の大蔵氏、出羽支配の内蔵氏、伊賀阿多倍の末裔の阿倍氏等の一門末裔末孫大きく、藤原氏の勢力をはるかに凌ぐ一門。阿倍氏は政権では藤原氏と均等する勢力を保持した)

    当時は、この様に「3つの軍」に依って軍構成が成されていた。
    もとより、青木氏の天皇を護る親衛隊の「近衛軍」後には北面武士と呼ばれた、朝廷の征夷代将軍の「国軍」、と各国を護る「地方統治軍」(押領使や大監や探題や鎮守府将軍)に分轄されていた。
    (このシステムは室町末期まで実質的に維持された)
    そして、この朝廷の「征夷代将軍」は坂上氏の通り後漢の帰化人の末裔が担う軍であった。況や、その坂上氏ら3氏の末裔の66国中「関西西域32国」を支配統治する「平家軍」である。
    方や「関西以東域」に勢力を張る藤原秀郷一門の地方統治軍である。
    (北九州の大蔵氏の太宰大監や九州探題、中国地方の陶氏も平家一門)
    この「時代の変化」は室町期までその様に動いた。
    この勢力分布から、秀郷一門等にとっては「生残り」の為にも必然的にシフトを変えるが戦略と成ろう。まして、この帰化人末裔の平家を含む阿多倍一門の坂上氏等の末裔は朝廷の実権の3つ中2つまで(6割)握り、且つ、官僚の6割までを阿多倍一門を占める状況となり勢力を高めた。
    更に、ここに坂上氏の親族の内蔵氏血縁族一門がこの北陸道と東山道に浸透しその実権も握り始めた。
    鎮守府将軍としてアテルイ一族をほぼ鎮圧した形と成ったが、別の阿多倍の平家一門を含む大勢力が既に北陸道7国まで主に内蔵氏と阿倍氏が浸透してきたのである。
    32/66国の関西以西勢力圏域だけでは無い。
    これ等の勢力に依って秀郷一門は戦略的に「挟み撃ちの形」に填ったのである。
    この時の勢力圏の陣形を纏めてみる。

    言葉を整理する為に、次ぎの表現とする。
    平家一門を含む後漢帰化人の首魁阿多倍の末孫一門を阿多倍一門と呼称する
    坂上氏一族、大蔵氏一族、内蔵氏一族、阿倍氏一族、技能集団の首魁陶氏一族とその末裔の大内氏、そして、平氏(たいら族)一族等。
    (内蔵氏や阿倍氏の末裔子孫の詳細は別に記述する。)
    (秀郷一門(主要5氏)利仁一門は既に本文に記述)

    陣形
    A 関西以西勢力圏を阿多倍一門が保持 
    B 中部関東以東の秀郷一門の勢力圏を保持
    C 北陸道は秀郷一門に阿多倍一門の内蔵氏と阿倍氏が侵蝕進出。
    D 北陸道を秀郷一門から利仁一門と進藤氏に任す。
    E 中部地方以西域に秀郷一門進出 
    F 関西以西の阿多倍勢力圏を四国地方の讃岐籐氏等の秀郷勢力圏が中国地方の沿岸域を侵蝕進出
    G 九州北部地方の阿多倍一門の大蔵氏勢力圏に秀郷一門の永嶋氏(青木氏、長谷川氏)が侵蝕進出

    陣形の動静
    この2つの陣形の本拠地 阿多倍一門のA、秀郷一門のBは勢力圏安泰
    本来Cが秀郷一門の勢力圏域に阿多倍一門の内蔵氏と阿倍氏が末裔を広げて侵蝕して進出。
    本来Dが阿多倍一門の勢力圏域に秀郷一門の永嶋氏と青木氏と長谷川氏が末裔を広げて侵蝕して進出

    CとFで互いの末端勢力圏が侵蝕される「氏存続の戦い」となった。
    この様に、互いに侵蝕しあっていた。しかし、ここに愕然と勢力の違いがある。
    それは、支配国数から 阿多倍一門>秀郷一門*2 式に成る。
    この数式から、明らかに秀郷一門は領国を護るために陸奥を捨て中部関西東部域にシフトを余儀なくされたのである。この中心と成ったのが勿論護衛軍の青木氏であり主要5氏に号令を出して統治したのである。

    この侵蝕CFの結果、次ぎの事が起こった。
    A 北陸道の陸奥出羽から秀郷一門手を引く。後を進藤氏と利仁一門に任す
    B 阿多倍一門は秀郷一門の背後に北陸に二つの氏の基点を置き血縁子孫を増やす
    C 阿多倍一門は近江滋賀に坂上氏、伊勢伊賀地方に阿多倍末孫が進出する。
    D 秀郷一門は、阿多倍一門の北進を食止めるべくCの力をEに振り向ける
    E 秀郷一門は、関東以北の勢力圏を関東以西に方針転換する。
    F 阿多倍一門は秀郷一門の本拠地の関東勢力圏の北側の背後を突く。(内蔵氏、阿倍氏)
    G 阿多倍一門は秀郷一門の陸奥出羽の北端勢力圏域を侵蝕する。
    H 逆に秀郷一門は阿多倍一門の関西以西勢力圏の本拠地を四国の秀郷一門の勢力を以って瀬戸内沿岸域を突く。

    つまり、「時代の変化」に対する動静は次ぎの様に成る。
    1 末端勢力圏を両者が突く。
    2 中央域では北進西進で衝突。
    3 両者はその本拠地を側面から突き合う。
    この勢力の3つ動静の陣形が出来上がったのである。

    藤原秀郷一門と阿多倍一門の2つの陣営の勢力争いはこの様な形で動いた。
    しかし、これには未だもう一つの勢力が考察されていない。
    阿多倍一門から観た動静だけでは無く、秀郷一門から観た動静では無く、又両者二つから観た動静では無く、これにもう一つの勢力が考察されて加えられて真実の動きのある史実通説が生まれるべきである。しかし、現実の現在の通説はこの一方からが多い。それは、その3者の全ての血縁から含むあらゆる史実を掴まなくては出来ない。しかし、阿多倍一門の事や藤原秀郷一門の事にしても研究発掘の史料は殆ど無いのが現実である。
    幸い青木一族に関する史料と関連氏(秀郷一門と阿多倍一門含む)のは何とか網羅できる程度に保有した。依ってより正しい史料が出来ていると考える。

    さて、そこで、もう一つの勢力である。
    当然、近畿域圏を勢力範囲として持っている氏は、主に3氏である。
    既にお気づきと思うが、第6位皇子より発祥した皇族賜姓青木氏5代5家5流と、同族賜姓源氏11代4家である。16代の皇族賜姓族である。これ等の末裔末孫である。
    そして、天智天皇第7位皇子の賜姓族の佐々木氏、宇多天皇の第6位皇子の賜姓滋賀佐々木氏である。つまり、皇族賜姓族3氏である。
    この他に、清和源氏配流末孫大島氏と嵯峨期の皇族青木氏3氏であるが、史実上勢力圏を云々する程の氏力(子孫繁栄)を保持しなかったのでここでは除外する。

    即ち、上記の勢力式 阿多倍一門>秀郷一門*2の2を補う勢力と成った氏である。
    この結果、勢力式はまだ 阿多倍一門-0.5=>秀郷一門 式に成った。

    この阿多倍一門と藤原秀郷一門の2大勢力と、上記3つの皇族賜姓族3氏の1勢力との考察が加えられて始めて「正しい動きのある史実」が観得て来るだろう。
    既にこの皇族賜姓族の詳細はレポートされているので参照されたい。

    先ずそこで、この皇族賜姓族3氏の勢力が上2つの勢力図にどのような変化を与えるであろうか。如何お考えか。

    さて、この勢力圏は言わずもがな、当然、天智天皇からの親衛隊を担う近畿圏の中央である。
    皇族賜姓族3氏は賜姓青木氏は5国(伊勢近江を含む東山道中部)を勢力圏としている。
    源氏は当然、畿内5国である。実質は清和源氏が支配する。
    (11代の源氏の中、嵯峨、村上、宇多源氏が一時勢力保持するが後に消える)
    佐々木氏は近江滋賀を2勢力圏とし清和源氏の畿内5国と協調する。平家との軋轢で北陸道に移る。

    この近江伊勢2国と東山道中部3国の5国と、畿内5国が勢力圏と成る。
    以上を、「皇族賜姓族3氏10国」と呼称する。
    この地域は阿多倍一門と藤原一門の勢力圏外である。明らかにポケットに成っている。
    「皇族賜姓族3氏10国」には子孫は拡大していない。
    これは大化期よりの詔「不入不倫の権」の保持による原因と観られる。
    当然、この「皇族賜姓族3氏」(10国)藤原秀郷一門との血縁族と成っている。

    平安末期
    「阿多倍一門」(32)><「藤原秀郷一門」(24)+「皇族賜姓族3氏」(10)の構図と成る。
    上記の説明による勢力圏のこの陣形は平安末期まで続く。

    陣形
    末端勢力圏を両者が突く。
    中央域では北進西進で衝突。
    両者はその本拠地を側面から突き合う。

    鎌倉期に入り、次ぎの様な陣形と成る。
    1185年に平家が滅亡する。中央域の「皇族賜姓族3氏」(10)は安泰と成る。
    頼朝は「平家没官僚」策を実施する。関東域の平家領地は秀郷一門に本領5国安堵される。
    源氏と藤原氏への2度の「本領安堵策」を実行する。阿多倍一門は中国9国を失う。
    北九州の大蔵氏の支配は元寇の役で崩れる。阿多倍一門九州5国を失う
    北九州3国を藤原秀郷一門が支配する。
    大蔵氏と永嶋氏は血縁する。阿多倍一門と秀郷一門の末端勢力は共に崩れ始める。

    鎌倉期
    各時代の全国の大名の家紋から観た氏系列と土地の血縁豪族数から計算

    一門の末裔実効勢力の陣形
    「阿多倍一門」(13)<「藤原秀郷一門」(17)+「皇族賜姓族3氏」(10)

    室町期
    「阿多倍一門」(13)<「藤原秀郷一門」(19)+「皇族賜姓族3氏」(3)

    安土桃山期
    「阿多倍一門」(4)<「藤原秀郷一門」(9)+「皇族賜姓族3氏」(1)

    江戸期
    「阿多倍一門」(3)<「藤原秀郷一門」(7)+「皇族賜姓族3氏」(0)


    関東地方103を領国として、中部地方180はその主勢力を西に進めて「西固め」していた事が判る。最大の勢力圏を示している。
    当然であろう。上記の勢力分布を示している以上は当然にこの域を先ず固めることが必要である。
    関東が20%で固め、出先の勢力圏の中部地方は34%で最も勢力を割いている。
    秀吉に依って全国を完全に軍事統治出来た中でも、関東と中部は陸奥の様な衰退は起こっていない。
    室町期、安土桃山期のそれは「転封」と云う形で行われても、既に各地に分布する一門を率いて新興勢力の上級武士として仕官する体制に成っていた事により末裔を減らす事無くむしろ増やせる状況にあったからである。むしろ、新興勢力は藤原一門を挙って家臣の上位に据え、その勢力を根こそぎ集めて自らの勢力の安泰を図ったのである。
    徳川氏はそれを行ったその最たる氏ではないか。
    甲斐の諏訪族を中心とする武田軍や東国の藤原秀郷一門をごそりと雇いいれたから秀吉は関東にその勢力を強く伸ばせなかった事だし、江戸に追い遣ったのもこの事からである。
    私は、秀吉はこれが判断の失敗したと観ている。
    中部から関東に掛けての勢力を持つ藤原一門の根拠地である。信長も決して手が出せなかった地域である。それだけ主要5氏の一門で固めた大きな地に根づいた勢力を保持していたのである。
    北陸東北中部関東地域を観ると60%である。これだけ60%で主要5氏で固めた氏を最早「氏家制度」の中では余程失敗しなければ潰されないだろう。まして、陸奥では失敗している。
    秀郷流進藤氏では跡目の問題を持っていた進藤氏では維持出来ない事から利仁流進藤氏の血縁で固め様とした策を労したが時代では追い切れ無った事を提示する。
    その後もこの関東以北は大きく犯されなかった事が勢力を温存する原因に成っている。
    それが、新興勢力に入り勢力維持が出来子孫を遺せたものであろう。
    一門の6割を使って生残れたのである。

    近畿関西地方は88と16.5%と割いているのはもとより北家の地元からであり、皇族賜姓青木氏との連携もあっての事でもある。四国を除き姓の「藤」の字の着く一門の西限が紀伊半島の伊藤氏を始めとして以東地域である事も物語る。
    後は、中国地方は四国地方との連携に依って勢力圏が起こっているのである。単独ではない。
    藤原秀郷一門が中国地方に赴任して血縁を拡げたのは3国で周防3代と美作1代と安芸1代である。
    この地は陶族を始めとする室町末期まで最大勢力として第1の平家末裔一門の統治地域であった。にも関わらず、血縁を遺せない筈であるのに主要5氏の幾つかの氏を出している。
    これは一体何故なのか疑問がまたもや湧く。
    その答えは二つ挙げられる。
    瀬戸内を中心として「2足の草鞋策」を採った「讃岐籐氏」がこの海を廻船問屋として支配し続け抑えていた事である。
    そして、平家末裔の水上水軍と渡り合いながら、この経済力を背景に中国地方に神紋寺紋の連合集集団を形成していた事による。

    四国討伐は秀吉も手を焼いたが深追いはしなかった。地元から這い上がった四国を支配していた藤氏秀郷一門長宗我部氏に土佐の国を与えて最終統治した位である。
    もし最終まで長期戦で戦ったとしたら一門の動きでは時代はどう変わる判らない「経済力と武力」を持っていたのである。
    もし、長期戦となれば、私は秀吉は負けたと観ている。
    最大の敵の藤原一門を家臣に抱えた徳川氏が動くからである。又、四国全土に長期戦を行える「氏力」を持っていたからである。「讃岐籐氏」の青木氏を中心として瀬戸内の勢力を動く事に成れば秀吉とは同じ「経済力」を背景とするから戦いの実力の差はないので互角に戦える。
    あるとすると、動向に依って利点とする場合は「徳川氏の動向」であり、弱点とする場合は「単独攻撃戦」であろう。秀郷一門の「絆」がこの弱点を補っている。
    とすると、秀吉には不利と成る。その不利を招くのは長期戦である。秀吉もこの同じ考えに成っていた筈である。だから秀郷一門を潰さない形から勝利とする形式上ものとして処理したのである。
    両者それを納得して軍師の条件を呑んだ。だから四国は生き延びたのである。

    この二つの結果から、阿波の片喰族と剣片喰族、讃岐の青木氏、土佐の青木氏、愛媛の藤氏が海向こうに血縁族を広げて瀬戸内の水際に勢力圏を張った。この勢力は史料から昭和初期まで勢力が維持されていたと言われるくらいである。
    多く青木氏が中国地方瀬戸内に多いのはこの事から来ている。
    四国の7.8%と中国の10.66%と合わせると19%程度である。
    秀郷一門の2割の勢力をこの一点に絞って集められていたのである。
    中国地方の10.6%の数字が大きい。
    3国の赴任地であるにしては。これはこの結果から来るのである。
    四国の勢力からすると7.8%も低いのも2つの同じ結果ら来る原因である。
    その勢力は山陽地方57まで届いていた事が判る。山陰は殆ど届いていない。
    四国42と瀬戸内を武力と経済力で抑えていた「讃岐籐氏」の青木氏の支配下にあり固い地盤である。当然、平安期からの赴任地でもあり歴史的地盤もある。5氏の共通血縁族主要8氏の主力で領国から来た片喰族、剣片喰族の土地柄である。最も青木氏の強い勢力圏である。最終、秀吉に依って潰されたが、長曾我部氏末裔一門の土地柄である。

    特長あるのは、九州地方37は北九州の4地方であり、「飛び地勢力圏」で赴任地の影響でもあるが、この4地方の豪族が関東に移動し、秀郷一門と血縁を広げた九曜紋族の末裔の紹介で拡がったものでもある。
    北九州と西中国に分布する巴紋族と、下総上総等に分布するその末裔の秀郷一門の佐野氏、結城氏、小山氏の巴紋族から出た永嶋氏と、長沼氏の関係も働き、更に、近江の長谷川氏の支流族の「釘抜き紋」の移動末裔の北九州族もあり、この勢力圏から外れた土地に青木氏の「縁者血縁紹介」でこれだけの勢力を築いたのである。
    北九州3国赴任地の肥後、豊前、豊後には秀郷流青木村を形成するくらいに定住している。
    あわせて、大蔵氏の永嶋氏の存在もあり、約7%の勢力築いていた事に成る。
    この形の勢力圏を保持して現在の末裔子孫を維持したのである。
    子孫存続のあり得る条件が「時代の変化」に秀郷一門が一部では潰されたが、相対的にマッチングしていた事を意味するが、「氏家制度」の中で、青木氏の主導があったからこそあり得たのである。
    この様に史実に基づく「時代の変化」と「秀郷一門の血縁族」の研究とを比較するとその「生き様」を観得て来るのがおもしろい。これが「動き」のある「真実の史実」ではないかと思える。

    この様に本節本文を含み検証すると「通説の史実」と違うものが出て来る。それがおもしろいのではないか。
    上記の結果の主要5氏の勢力内訳は次ぎの通りである。

    B 個別綜合(地方別の詳細は下記参照)
    青木氏       永嶋氏      長沼氏      長谷川氏      進藤氏
    東北地方 3   東北地方 3  東北地方 3   東北地方 3    東北地方 2 
    北陸地方 2 北陸地方 2 北陸地方 1 北陸地方 7    北陸地方 1
    関東地方 33  関東地方 8  関東地方 25  関東地方 23   関東地方 14
    中部地方 60  中部地方 16 中部地方 22  中部地方 66   中部地方 16
    近畿地方 27 近畿地方 12  近畿地方 14 近畿地方 26   近畿地方 9
    中国地方 18 中国地方 2   中国地方 11 中国地方 17 中国地方 9
    中国地方 0 中国地方 0 中国地方 0 中国地方 3 中国地方 0
    四国地方 15  四国地方 2    四国地方 3   四国地方 15  四国地方 7
    九州地方 14 九州地方 3  九州地方 1  九州地方 14 九州地方 5

    主要5氏の地方別の分布を分析したものである。
    上記の史料8での役割もこの史料でも確認出来る。
    関東の入間を中心に神奈川横浜を半径に「青木氏116氏」の本家筋を螺旋状に置き護衛をし、武蔵下野に領国しながら、「青木氏」は中部地方を中心にピラミッド型の血縁族を築いていた。
    四国、九州地方は上記の綜合で記述した通りの特長である。それだけに他の主要4氏とは血縁力が高い。
    この「青木氏116氏」とほぼ同じ血縁力分布を示しているのは、矢張り殆ど同じ「氏力」111氏を持つ「長谷川氏」である。兼光流と文行流の主力領袖の所以である。
    丁度、「青木氏」と「長谷川氏」のその中間の血縁力の分布とレベルを示すを示すのは、長沼氏58である。やや関東よりの分布である。
    これは史料8/10-2の長沼氏の地元を固める「政治的役割」を明確に示すデータである。
    武蔵7党の「西党」を統括して地域の地侍の集団をまとめていたとすることを証明するデータでもある。
    ここには、秀郷一門の神紋寺紋の氏子檀家の連合集団体と相まって大きな秀郷一門の「血縁戦略」が観えて来る。
    血縁族を只羅列しただけではなく、この様に血縁をし、それを「組織化」してその「血縁の力」を最大に発揮出来る体勢も採っていたのである。
    同じく関東地方には「武蔵7党」、
    中部地方には「伊川津7党」等の「地方豪族の連合体」
    史料8の広域的な「氏子檀家の連合集団」との血縁族にて固められ、尚、本筋の「主要共通血縁族8氏」とがある。
    主に組織的にはこの「3つの集団」で守られていた事に成る。

    永嶋氏35は長沼氏48と違い中間の血縁力の分布を示すが、やや関西よりに分布である。
    青木氏と長谷川氏、長沼氏と永嶋氏とは対照的な特長に「戦略上の違い」がはっきりと出ている。
    そこで、進藤氏52は中部に主力を置きながらもやや関東よりであり、永嶋氏と同じレベルの逆に成っている。
    5氏の関係が不思議なほど戦略的に理屈が分けられている。「第2の宗家」の青木氏の「恣意的戦略」が働いているとしか観えない。
    このデータは色々な分析に使用できる。本文の考察を証明する最大の史料ものであろう。
    その内訳の内容は下記のデータを参照。


      [No.217] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-33(笹竜胆紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 10:01:15  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-33(笹竜胆紋) (画像サイズ: 2160×2061 37kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-33(笹竜胆紋)
    副管理人さん 2007/06/01 (金) 20:23
    第33/33番目の文様の「笹竜胆紋」である。

    この「竜胆文様」には47の文様がある。
    この内、「笹竜胆紋」は、家紋200選に菊紋の次ぎにトップに上げられている文様である。

    その中でも、「笹竜胆紋」は天智天皇から発祥し、光仁天皇までの5家5流の皇族賜姓青木氏と、同族の嵯峨天皇期から発祥し、花山天皇までの11家11流の源氏一族の「綜紋」でもある。
    (後日の説では源氏16代と成っているが、12代から16代目では源氏としての意味は全く無く、15代と16代は南北朝の時代の者である。後日の徳川氏を始めとして大名に成った者の系譜搾取偏纂の結果であり、実質11代目までである。)

    この皇族賜姓青木氏と、皇族賜姓源氏の二つは、次の経緯(概要)で発祥している。

    (これ等の以下の記述内容に付いての詳細は、研究室の右メニューから適切なものを選んで参照)


    [賜姓青木氏と賜姓源氏の発祥経緯]

    先ず、「皇族賜姓青木氏」は、天智天皇より光仁天皇までの男性天皇(間に女性天皇あり)の5人の天皇から出ている。
    各天皇の「第6位皇子」を、天皇の「親衛隊」として臣下(侍)させて、天皇より直接「青木氏」の賜姓を授けたものである。

    この5人の天皇は、「天智天皇」、「天武天皇」、「聖武天皇」、「文武天皇」、「光仁天皇」(施基皇子の子)である。

    「賜姓と臣下の理由と目的」は、概ね次の通りである。
    「大化改新」が起こり、「蘇我氏との反省」と「財政的改革」から、「天智天皇」は、手始めに天皇の「皇位継承制度の変更」を実施し、それまでの「第4世皇位第6世臣下」の「世」方式から、「第4位皇位継承第6位臣下方式」の「位」方式に厳しく変更した。
    そして、天皇家の「財政的軽減」を図った。
    この時、更に、66国に配置する「王位」に付いても、それまでの第6世(第7世は臣下 坂東に配置)までとしていたところを、第4世までとして厳しくして天皇家の負担軽減も図った。
    これが第1の目的であった。

    その理由として、天智、天武の両天皇の皇子は、総勢34人と、その他の皇子や上位王位を入れると、約50人以上にもなっていた。
    これ等に掛かる費用は、天皇家の財政的な大負担の状況であって、これが天皇家を弱くしていた原因であつた事と、施政に対する財源の捻出がままならず、「大化改新」の改革のネックと成っていた。
    つまり、天皇家の「内蔵」の財政が、朝廷の「大蔵」の財政を圧迫していたのである

    又、更には、天皇を護る自らの護衛隊が無く無防備であった事が、蘇我氏の助長を招き、渡来人の軍事集団の漢氏(又は東漢氏)を支配されていた事などで天皇家が圧迫を受け、思いのままにされていた事。この反省により皇子を臣下させる方策(天皇の親衛隊)に出た。
    これが第2の目的であった。

    当時、後漢の民である帰化人が持ち込んだ技能集団(即ち、第一次産業の「部制度」)による経済的収入源は、朝廷の財源(大蔵)を大きく占めていた。これが蘇我氏の管理下に置かれていて、経済の実権(政治、軍事含む)を完全に握られていた事。これを「公地公民の制」を敷く事で天皇家に実権を集めて解決し、これを上位の王位等の守護王に監視させた。
    これが第3の目的であった。


    [初代青木氏の発祥]に付いて
    それまで「伊勢王」であった「孝徳天皇」の皇子(2人の兄弟皇子は同日病死)から変えて、「第6位皇子」として、「中大兄皇子(天智天皇)」の皇子の「施基皇子」を臣下させて、伊勢国の王位を与えて護らせた。
    そして、この王位には賜姓として青木氏を与え、そのステイタスとして「鞍作部止利」作(日本最初の仏師)の「大日如来坐像」の仏像を与えた。
    (現在も青木氏宗家が保有 仏像は家紋掲示板に転写)

    (参考 その際、特別に第7位皇子(川島皇子)にも、近江の佐々木村の地名を採り賜姓し、近江の「佐々木氏」を与えた。 後に宇多天皇の滋賀の佐々木氏も発祥)

    「天智天皇」は、ここに天皇家の守護神として「伊勢神宮」を置き定めて、祭祀を行ってここを伊勢国の天領地とした。
    (その後、天武天皇が正式に守護神と定めてた)
    そして、「賜姓青木氏」を伊勢神宮(守護神)を護る伊勢の国の「守護王」としたのである。これが(藤原秀郷流青木氏を含む全ての青木氏)最初の伊勢の青木氏である。

    (参考 藤原鎌足から北家8代目の秀郷は、「平の将門の乱」で勲功を挙げて、貴族の身分と下野武蔵の国を与えられたが、貴族となった事により、自ら武力を使えない定めから、天皇家の青木氏に習って第3子の「千国」を侍として藤原一族の専門の護衛役の任を与えた。
    賜姓青木氏も母方に藤原氏の血筋を保持する家柄である事から、この時(900年頃)に、朝廷に対して禁令のある青木氏を使用する事を申請して同族と見なされて許可された。これが藤原秀郷流青木氏である。)


    「守護王の配置の経緯と理由」は概ね次の通りである。
    当時、隋が滅亡し、唐(618)が建国して中国全土を制圧したが、この時、後漢の「光武帝」より21代の末帝の「献帝」の孫の「阿智使王」と曾孫の「阿多倍王」(「石秋王」の子供と孫)等は、後漢の17の県民(200万)を引き連れて北九州に上陸した。
    この阿多倍らは、瞬く間に九州全土を制圧し、殆ど無戦の状態で支配下に治め、その後、争いを避けて朝廷に対して帰化を申請した。
    この後漢の民は、あらゆる面に於いて高度で進んだ技能集団で編成され居た。このために土地の者は、その進んだ技能を吸収して生活程度を向上させた事から各地で進んで支配下に入ったのである。そして、遂には、中国地方から関西の手前まで支配下になった。

    当時の国は66国であり、この内の32国を支配下に治めたのである。このため、朝廷は後漢の民(渡来人)の帰化を認めて、更に、続々と入国してくる帰化難民を中部地方にも配置させたのである。

    天智、天武天皇より後に、都として定めた近江国を除き、美濃と信濃と甲斐国は、未だ未開の土地であったが、この結果、進んだ技能により未開の地は、主に大きい外来馬の飼育等の目的で開墾が進み、大和国の主要国と成りつつあった。

    これ等の理由により、聖武天皇以降の天皇は、上記の賜姓青木氏による守護王を配置して、北部の未征圧の国の民族から彼等を護ったのである。

    又、この5つ国は、更に、「国防、交通、穀倉」の地帯の要衝地でもあり、5人の天皇は「第6位皇子」に賜姓して青木氏を与えて、これを護る「守護王」としても配置したのが「5家5流の青木氏」の経緯である。
    (後に賜姓源氏もこの5つの主要地の国司となる。)

    この初代伊勢の国に続き、近江国、美濃国、信濃国、甲斐国に国府を置き、上位(八色の姓制 朝臣)の「守護王」として配置し、その5つ国に国司を派遣したのである。
    これ等の国の賜姓青木氏は、後に5家5流は24氏と末裔を広げた。


    「笹竜胆紋を持つ2つの賜姓族(青木氏と源氏)」の経緯は次の通りである。
    この「光仁天皇」の次に一人空けた「桓武天皇」は、律令国家の完成を目指して国体を作り上げた天皇であるが、この時、政治に対する影響力を持っていた賜姓青木氏との軋轢が起こり、5国の国司などを変更し派遣して、この青木氏に圧力を掛けて勢力を弱めさせた。
    この結果、伊勢の青木氏をはじめとする賜姓青木氏は衰退した。
    (伊勢国は、国司を2年間藤原秀郷の祖父の藤原藤成に変更し派遣して、守護王の青木氏に圧力を掛けた)

    (この後、伊勢青木氏を始めとして、その守護王の力と実務の実績を利用して、土地の産物などをさばく豪商となり、「2足の草鞋策」を採った。
    伊勢の青木氏は、伊勢北部伊賀地方付近から産出する和紙を扱い、和紙を中心とする問屋を営み、明治35年まで1000年も続く伊勢の豪商「紙問屋の紙屋長兵衛」として栄えた。)

    「第6位皇子」の「賜姓青木氏」を中止して、これに変えて、「桓武天皇」は、自分の母(後漢の渡来人で、名は「高野新笠」 阿多倍の曾孫 伊勢国を分轄しての伊賀地方の半国国司 800年頃)の親族一族を引き立てて、「たいら族」(京平氏)として日本の氏を与えて賜姓したのである。

    (半国司とは、天領地などと成っている一国を、「守護王」を一人として、分轄して「国司」を置いて複数で管理させた方式を言う。 伊勢、薩摩などがある。この二つは何れもが、後漢の帰化人の阿多倍に与えた国である。伊勢は伊勢北部伊賀地方を分割し”伊勢衆”と呼び、薩摩は大隈を分割し”大隈の首魁”として呼んだのである。
    別に後には、伊勢は永嶋地方を分轄して3分轄として村上天皇の流を組む北畠氏を半国司として任した。)


    「伊勢の北部伊賀地方の住民の阿多倍一族と青木氏の関わり」に付いての経緯は次の通りである。
    後漢の首魁の「阿多倍」(薩摩半国の大隈国の首魁)は、これらの勲功により、都近くの伊勢の国にも半国を与え、更に、この後、「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけて、准大臣に任じられた。
    三人の息子の長男は、坂上氏の賜姓を受け朝廷の軍事面に任じせれ、坂上田村麻呂として征夷代将軍として北部民族を征圧する。(青木氏は天皇家の親衛隊として勤める)
    次男は、朝廷の3蔵の内の大蔵を担当し、大蔵氏(後に永嶋氏を名乗る)の賜姓を受ける。
    三男は、内蔵を担当し、内蔵氏の賜姓を受ける。
    (斎蔵は藤原氏)
    その後、政治部門でも律令制度の完成に貢献し、軍事、経済、政治の3権を実務に握る結果となり、それまで青木氏を中心とする皇親政治は彼等に取って代わられる事となった。
    この帰化人の阿多倍等の台頭が、先ず最初に訪れた5家5流の青木氏の衰退の苦難でもあった。

    上記の後漢の阿多倍の子孫の「国香、貞盛」の親子より始まった勢力拡大は、勲功を重ねて、5代後(惟盛、正盛、忠盛、清盛)には「平の清盛」の「太政大臣」までに上り詰める結果となるのである。
    しかし、「承久平治の乱」を経て、「源頼政」(孫の京綱による伊勢青木氏の跡目を受けた)の「以仁王の乱」(1180)をきっかけに「源平合戦」が起こり、「坂東八平氏」等の後押しで「平清盛一族」を倒して、取り戻し、再び、「皇族賜姓青木氏」と同族の「賜姓源氏」の時代となり鎌倉幕府(1192)が樹立したのである。

    この時、源頼朝は北条氏らの反対を押し切って「平氏没官僚策」や2度の「本領安堵策」を実施して、賜姓青木氏や賜姓源氏らの一族の復興を計ったことで、これらの皇族賜姓族は、再び、勢力を盛り返した。(これが原因で頼朝暗殺計画は進む)

    以上がこの間400年に起こった青木氏との概ねの経緯である。
    (京平氏のたいら族は、坂東に配置された皇族第7世族の「ひら族」(坂東八平氏)とは異なる)

    話は戻して。
    この後、この「桓武天皇」の施政に対する賛成派の次の「平城天皇」(桓武天皇の長男)が、病気で短期間で譲位し、次に天皇となった「桓武天皇」の子供(弟)の「嵯峨天皇」は、これを嫌って「賜姓青木氏」より「賜姓源氏」として変名して皇族賜姓に戻したのである。


    「皇族賜姓の経緯と綜紋」に付いて
    この時、第4位皇子の皇位継承方式では、対象者がこの時代では不足し、天皇の皇位を保てなくなる事態の問題が発生し、嵯峨天皇期に詔を発して、「第4世皇位第6世臣下方式」に改め、第4世までの間の皇子の内、臣下の賜姓は、第6位皇子としたのである。これが源氏一族である。
    これが11代の天皇に続いた11家11流(嵯峨天皇から花山天皇)の源氏一族である。

    そして、「青木氏」は、第4世までの皇族の者が、臣下又は下族したときに名乗る氏名とした。
    11代の天皇の中で17人の対象者が居たが、青木氏として氏名を遺したのは3氏に留まった。
    3氏とは、島左大臣(真人族)の青木氏と、丹治党の青木氏(朝臣族)と、橘諸兄(宿禰族)の青木氏である。

    天智天皇の伊勢青木氏から賜姓源氏まで合わせて16代の天皇から出て16家16流となる。

    これ等は全て同族で、その綜紋は「笹竜胆」紋である。

    5家5流の皇族賜姓青木氏は、後に、清和源氏との同族の血縁を結び、より一体化した。(1170-1185)
    (当時の慣習で同等身分の血縁が主流であり、純血を保つ為に同族血族結婚が主流)

    その中でも、初代の伊勢青木氏は、清和源氏の「源満仲」の嫡子の宗家「源頼光」より4代目の「源三位頼政」(以仁王の乱の首謀者)の孫の「源京綱(仲綱の三男)」が、宗家「伊勢青木氏」の跡目に入る。
    以後(1150年頃)、伊勢青木氏を含む賜姓青木氏は同族の源氏一族と一体化する。


    「笹竜胆紋の家紋」の経緯に付いて
    文様の竜胆紋の内、「笹竜胆」の文様は12文様がある。
    本来、賜姓青木、賜姓源氏の笹竜胆紋は、副紋、陰影紋、丸付き紋等は皇族系として使用していない。

    室町期以降の乱世からこれ等の文様が用いられて12文様までに成った。
    特に、家紋200選にも入る「丸に笹竜胆紋」は、源氏一族と名乗る者等がこの文様を多く使い増えた。

    笹竜胆紋を使える一門としては、5家5流の賜姓青木氏と11家11流の賜姓源氏が使用できるものと成る。
    特に、賜姓源氏は清和源氏の一族の頼信系一門が栄えて子孫を多く遺したが、後に、「京平氏」に圧迫されて子孫は衰退し殆ど抹殺された。
    (11家11流の内、子孫を遺し得る者としては全17人となるが。結果的に清和、宇多、村上天皇の3天皇が子孫を遺した。その他は門跡院や比叡山僧侶となって子孫を遺す事は出来なかった。)

    従って、史実から残存するこの直系5氏とは、賜姓青木氏、近江佐々木氏(天智天武)、滋賀佐々木氏(宇多)、伊豆大島氏(頼信系為朝)、伊勢北畠氏(村上)、摂津太田氏(頼光系頼政?)である。
    ただし、北畠氏は、伊勢を始めとして、4代で勢力を高めての織田信長に潰された一族であるが、青森、千葉の等の4箇所にあるが、丸付き紋の笹竜胆紋と表示する書籍が多い。

    これ以上の11の文様の笹竜胆紋は、源氏の何らかの支流、分派、分流の血筋を受けてることを理由に源氏一族と名乗っている氏が多いが、徳川氏の様に室町以後の「系譜搾取偏纂行為」(3期)による可能性が高く検証は困難である。
    その為に、竜胆の花と笹の間の軸を微妙に変化させて一見して見分けがつかない様な笹竜胆紋が多いのである。

    「笹竜胆紋の由来」に付いて
    そもそも、この家紋は、竜胆の花と葉で意匠したもので、葉が笹に似ている所から、笹竜胆と呼ばれている。
    竜胆は、秋に咲く花で花色が藍の高位の色とされ、賜姓青木氏などの皇族氏の花とされた所から用いられたとされている。
    この家紋の文様の記録は、村上天皇期ごろからの書物に出て来るようになり、その使用は、賜姓青木氏以外に、嵯峨天皇期の令により皇族系の者が、臣下する時の氏として青木氏を名乗る通例から、皇族方の公家や皇族賜姓青木氏などが用いる象徴文様とするものと成って行った。
    このためにこの象徴文様が、家紋として「大要抄」等の史書に出る事となった。その後、象徴文様は、この文様を使っている賜姓青木氏や賜姓源氏が、統一の家紋としての「綜紋」として扱われるように成った。
    (青木氏の元となる大化期からうまれた伊勢青木氏の総宗本家は、代々この家紋を維持して来た。)

    これは、次の「青木氏」の氏名の由来にも関わっているのである。


    「青木氏の氏名由来」に付いて
    この青木という氏名は、”青木”と言う常緑樹から来ている。
    樹の軸の色は濃青で、葉も同じく濃青であり、秋にも変色する事は無い。又、経年で著しく枝と葉は大きくなり茂り成長する。
    そして、この樹には真紅の10ミリ程度の実を多く着実する。そして、この真紅の実は長期間に着実する。
    この樹の特性から、榊などと同じく当時は「神木」として扱われていた。

    その理由は、樹の常緑と成長は、永遠を意味し、軸と葉の濃青は、健康の体を意味し、真紅の実は命を意味し、その真紅は血を意味するとされ、このことから全ての「永遠の命」の樹木として「神木」として崇められていた。

    天智天皇は、この樹の意味を採り、「第6位皇子」が臣下する際に氏名を青木氏として賜姓したのである。
    そして、この”青木”樹の「神木」から民を正義の下に導く高位の者である事を示したのである。

    次の嵯峨天皇は、賜姓青木氏を源氏として変名した事も、この意味合いを持たす事にあつた。
    つまり、源、即ち、全ての「みなもと」を示し、上記の「神の木」は、「全ての物の源」を意味する事から、同じ意味を持たす事で、変名の賜姓を源としたのである。

    今まで(八色の姓の制)第6位皇子を除く宿禰族までの皇位継承から外れた皇族の者が、全て門跡院や比叡山にて僧身したが、下族し臣下する際に使用する氏名が無かった事から、この時、「青木氏」は、これ等の者が、使用する氏名とする事を詔を発して統制した。そして、他の者が、使用する事を禁じたのである。
    このことは、原則的に明治3年の苗字令まで原則維持されていたのである。
    (ただし、室町末期と江戸初期の混乱期では、無視され、ルーツと家紋の持たない第3の青木氏が多く生まれた。)


    以上、2つの青木氏に関わる家紋として、史実から33文様がこの氏の家紋となる。
    本来は、総宗本家が維持する次の2つが綜紋と成る。
    皇族賜姓青木氏は、「笹竜胆紋」を綜紋とする。
    藤原秀郷流青木氏は、綜紋を「下がり藤紋」とする。

    これが、次の通りに末裔を広げた。
    「皇族賜姓青木氏」は5家5流24氏に血縁族を広げた。
    「藤原秀郷流青木氏」は主要9氏116氏に血縁族を広げた。

    この二つの青木氏の氏の家紋は、33文様になるが、この内で、「桐紋」(1)と、「職業紋」(3)としての家紋を持つ第3の青木氏の4家紋も特別に意味があるとして記載して含んでいる。

    家紋掲示板にも掲載します。


      [No.216] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-32(角紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:59:12  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-32(角紋) (画像サイズ: 1851×1839 14kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-32(角紋)
    青木研究員 さん 2007/01/11 (木) 20:18
    第31/33番目の紋様である。

    角紋である。

    この角紋様は全部で47紋様がある。この中で青木に関わる家紋は一つである。

    隅切り角紋である。

    角紋はそもそも幾何紋様を図案化したものである。

    主に正方形を色々と工夫して紋様化したもので、角持ち、中抜き、四隅切り、反り角、中抜き、がある。
    他に六角形、8角形、がある。
    4辺組合わせ、2長方形組合わせ、正方形と円形組み合わせなどがあり、多数である。

    この紋様は衣服や建物や家具に用いられたものが家紋化したものである。
    明治以降の建物にはこの紋様が多く用いられており特に商家や職人の家などには白と黒の漆喰でこの紋様が描かれている。
    玄関の入り口の板塀の上の壁とか「うだつ」等にもこの紋様が用いられている。

    つまり、この紋様の使用の習慣はその職業の関係するところに用いられている。
    この漆喰で形採る紋様を使用しているのはかなりの財産家の家などに見つけられるもので一般には余り見かけない。
    昭和では単純な紋様としての使用であったが明治初期前後付近からはその職業の集団のステイタスとを表すもので身分や位の象徴として用いられていた。
    現代でも、田舎の豪邸の家の壁にはこの紋様の漆喰壁が見られる。

    そもそも、漆喰は現代でも日本式建物でも佐官職がするが大変高価になりなかなかこの漆喰壁は見つけることは難しい。日本の気候に合ったこの漆喰の壁は昔はお城の壁などに用いられていて其れも財力のある大名の城であり、多くは城の側面は「焼き杉板」であつた。それだけに昔は更に高価でそこにこの紋様を描くだけでもそのステイタスはわかるものであった。


    この紋様と他の家紋を組あわせて紋様化したものでその下地になった紋様である。

    必ずしも、「合わせ紋」であるので角紋と血縁化したという事ではない。おもに上記した様に下地紋として用いられた。

    つまり、氏の発祥を意味する家紋には色々と意味を持たした紋様があるが、この紋様は単純な「文様タイプ」である。

    この紋様は江戸中期から明治初期に掛けて家紋化したものである。
    元より、室町期から出てきたこの紋様を利用した家紋があるがこの家紋から抜け出して一つの家紋化したもので、当然、明治初期の家紋ブームで生まれたものである傾向が強い。

    特に、この家紋はその図案化した元から見て「職業紋」とした傾向が強く、その元は家紋としてではなく、そま職業のグループの集団のステイタスとして使われ、はっぴばんてん類に染めこんだものである。

    この「はっぴ」や「ばんてん」等はその紋様を使えるにはその職業の匠などになれたときに使用を許されたものである。

    これが、一つの伝統となりその者が遂には家紋化したものである。
    そのグループを示すものとして正方形の形を変えて図案化したものをグループ化したものである。

    家紋はその紋様に意味を持ち持たしているが、この紋様47には意味はない。
    正方形パターンは26/47もある。

    この殆どの角紋にある文様の中に色々な紋様を入れて家紋化して「角に何々紋」としているが、このステイタスの職業紋は庶民がこの中の合わせ紋を外して外側だけを用いてステイタス紋として使用したものである。

    この隅切り角紋のタイプの青木氏は第3青木氏である。
    そのルーツは確認出来ない。
    その理由としてその職業の親方か或いは長者や責任者などがこの紋様の家紋を維持していたが、その職業を他人の弟子の優れた者に譲り又譲るという形式を維持してきているので、そのルーツは確定できないのである。

    一代限りという事もあるので、特定は困難である。
    この青木氏は家紋と一致すると言う事ではないので、第3青木氏を苗字令で明治初期に青木氏を名乗ったものである。

    「青字紋」等と同様に家紋の持つ意味が特異であるので、職業紋の例として記述した。
    家紋掲示板にも掲載します。


      [No.215] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-31(梶の葉紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:54:53  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-31(梶の葉紋) (画像サイズ: 1932×1950 51kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-31(梶の葉紋)
    青木研究員 さん 2006/12/30 (土) 20:55
    第30/33番目の紋様である。

    この紋様は59もの紋様がある。

    家紋200選には無い。(神紋系)

    家紋の基には沢山のパターンがある。
    例えば、神木を基とする笹竜胆紋(青木氏と源氏)等の神木紋、高位の色を基とした藤紋{藤原氏)等の色紋、元の職業を図案化した職業紋、土地がら植物を基とした植物紋、経緯と歴史を基とした歴史紋、寺等で使用した寺紋、古来使用されていた儀式紋、等がある。

    この紋様の違いで概ねの時代性とルーツがわかる。

    この神紋は神社が土地に対し権威を持つ時代にその末裔が武士に成り子孫を広げてた一族である。

    平安時代では皇族賜姓青木氏や藤原氏と藤原秀郷流青木氏は自らの寺と神社を持ち各地に移動した後にもそこに寺と神社を移動させた。
    そして、その寺や神社の住職や宮司は自らの一族の者が勤めた。
    そして、その一族が氏家制度のもとに家柄を保ち純血を保つ為に一族と縁者関係で血縁を行って来た。

    この立ち梶の葉紋の一族もこの氏家制度の中で行われて子孫の純血を保ってきた青木氏である。

    この59紋様の内青木氏に拘る家紋は1つである。
    立ち梶の葉紋である。

    史書によると諏訪明神の神紋とされていた事が覗える。
    つまり、梶は古代布や紙の原料として使用され、梶の皮は白和幣(しらにぎて)を作ったり神様の幣に使用したりしてしているところから平安末期ごろから神紋と成ったのではと考えられる。

    従って、諏訪地方の信濃と諏訪族が武田氏の系列に入った頃から甲斐地方の武士にも普及したものとされる。

    この家紋は主に各地の諏訪系一門が使用したが高嶋の諏訪氏、信濃の諏訪氏、甲斐の諏訪氏、平戸の諏訪族(松浦氏)や安部の安部氏の支流諏訪氏のこれ等の血縁を持つ支流一族が使用した。この支流で例えば、保科氏、下条氏、丹比氏などがある。

    この紋様は葉と幹と根から出来ている。葉は5葉が基本である。

    この立ち梶の葉は5葉であるがこの5葉タイプは12家紋ある。

    諏訪氏の三つ葉根有の梶紋とこの立ち梶の葉紋が主流である。

    この諏訪族には諏訪族青木氏の抱き角紋があるが、この諏訪族青木氏は信濃王を元祖とする皇族賜姓青木氏と信濃の「抱き角紋」の諏訪氏との血縁で発祥した青木氏である。
    関東地方の横浜、神奈川、栃木、群馬、埼玉、茨城などの各地にこの末裔が子孫を拡大している。

    「立ち梶の葉紋」の諏訪族青木氏は武田系列には入った後に甲斐に定住した甲斐の諏訪族と甲斐王を元祖とする皇族賜姓青木氏との血縁で発祥した諏訪族青木氏である。
    甲斐地方に子孫を維持している。

    研究室にもこの抱き角紋の諏訪族青木氏は数人投稿されているが、この立ち梶の葉一門は武田氏盛隆時の甲斐での諏訪族であるので比較的に末裔は少ない。

    この何らかの男系女系を問わず諏訪族の血縁を受けた梶の葉の一族では現代では30程度の家紋が確認出来る。


      [No.214] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-30(葵紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:52:57  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-30(葵紋) (画像サイズ: 1869×1869 42kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-30(葵紋)
    青木研究員 さん 2006/12/13 (水) 11:23
    第29/33番目の紋様である。

    この紋様は全体で85の紋様がある。

    この紋様の内青木氏に関わる紋様は次の一つである。

    立ち葵紋である。

    この紋様は家紋200選に選ばれている。

    元来、この葵紋は加茂神社系の神紋として用いられていた。
    葵は葵科に属する植物でこの紋様は主に花と葉を紋様化したものが多い。
    加茂神社は二重葵を神紋としているが元はこの神事に用いたのが始まりとされていて一種の信仰的植物として崇められていた。榊や青木等の神木と同じである。

    資料から観ると最初に家紋として使用したのは丹波の国の土豪の西田氏であるとされている。

    これを戦国時代に徳川氏の元祖の三河の松平氏が用いたと成っていてその使用の背景を探るとその先祖は三河の加茂神社の神官であつた事から出世の際にこの神紋を家紋としたと成っている。
    特にこの立ち葵紋は松平氏の一族の本多氏が最初に用いたとされ、その後に徳川氏の時代になってこの紋様が権勢の象徴と成って一族の家紋の綜紋となつたものである。

    後に松平氏や伊奈氏も含む一族縁者でもこの紋を使用する事を遠慮した。

    そして、この紋を理由許可なく使用する事を幕府は禁じたので流行はしなかつたが、関係する一門が統一して使用する事になり葉と花と芯の数で変化をつけて見分けがつくようになり85もの紋様となつた。
    (参考 皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏の綜紋の笹竜胆紋は嵯峨天皇期の朝廷より氏とこの家紋の使用を詔で禁じ概ね明治初期まで守られた。)

    徳川氏の子女の婚家や養子先や一部親族に特別に使用を許したが一代限りの家紋とされた。

    この立ち葵は本多氏の家紋であり、その出何処を調べると加茂神社の寺紋であるが信濃の善光寺の寺紋でもある。
    他にはこの立ち葵紋を使用しているのは平井氏、山田氏である。
    つまり、この本多氏はこの善光寺系の三河の神官の末裔であるから、此処でつながっているのである。
    立ち葵紋にも種類(7)が多いのでどの立ち葵紋かはよく見なければ判断が付き難いほどである。
    7/85種類ある。

    本多氏は丸付きの本多立ち葵紋である。更にこの分家筋もこの紋様に花紋をつけている。
    この本多氏の丸つき紋は結局は信濃の善光寺の支流分家を意味するものである。

    この青木氏の立ち葵紋は善光寺の寺紋や平井、山田氏の家紋と同じである。この平井氏や山田氏は江戸期中期ごろの氏でこの氏の出生元はこの信濃の出である事から本多氏と同様にこの寺の親族関係者から出た一族の氏ではないかと見られる。

    平井氏や山田氏はこの本多氏と葵の同紋種を使用していることから何らかの血縁関係にあるとみられる。
    よってこの立ち葵の家紋を持つ青木氏はこの信濃の善光寺関係の氏との血縁で生まれた青木氏となる。そうなるとこの青木氏は信濃の青木氏である。5家5流の皇族賜姓青木氏の一つの信濃王の末裔のという事になる。

    つまり、信濃には青木氏は3つの青木氏が北と中央と南に住み分けて存在する。
    北の国境付近の青木氏は皇族賜姓青木氏と足利氏との血縁で出来た足利氏系青木氏であり、中央は皇族賜姓青木氏の本家筋の青木氏が、南の国境付近は藤原秀郷流青木氏が村を形成して定住していた。

    一部諏訪地方には甲斐の武田氏系諏訪族青木氏となった皇族賜姓諏訪族青木氏が居るがこの氏は末裔を明確にしているのでこの青木氏ではないことは判る。

    上記3つの青木氏のどれかであるが確定し得るものはない。しかし、善光寺寺紋とする事からこの寺に関係の薄い青木氏は藤原秀郷流青木氏で地理的にも離れている。

    平井氏や山田氏は藤原秀郷流一門の116氏からは室町期前において見つけることはできない。

    だとするとこの二つの氏のどちらかとの血縁関係を結んだ足利系青木氏か皇族賜姓青木氏かのものと成る。

    足利系青木氏は3つの国境の所に分布しているし、本家筋は足利家の本家筋から追われて美作の国に移動している。

    (此処でこの足利氏は本家と藤原秀郷一門の後押しを受け跡目をいれた分家筋とで本家争いが起こり本家筋が負ける事になったので止む無くこの一族郎党は西国に逃げ延びた履歴がある)

    よつてこの事から考えて室町期から江戸期前にしてこの青木氏が山田、平井氏との血縁は確立として少ない。
    このことから残るは皇族賜姓青木氏の分家と善光寺関係の主要氏子の山田、平井氏のどちらかと血縁を結び、この青木氏が男系跡目が出来ずに一時2代続きで女系となり、家紋掟から養子先の家紋に変紋を余儀なくされたものと考えられる。

    (皇族賜姓青木氏の綜紋は大化期(647)より笹竜胆紋である)

    皇族賜姓青木氏5家5流の支流24氏の一つでは無いかと考えられる。この氏の血縁は比較的新しいので先ずは間違いはないとみられるが完全な確定は出来ない。

    この信濃では比較的少ない家紋の支流氏で新しいこともあり他の青木氏と異なり村的な存在は確認出来ない。

    信濃に於いては皇族賜姓青木氏を中心に足利系青木氏や前記した武田氏系青木氏の皇族賜姓諏訪族青木氏が目立つ。
    しかし、この立ち葵紋を変紋した家紋の青木氏が1つしかないのは青木氏は現在に於いても数少ない青木氏の子孫である事になる。

    家紋掲示板にもこの家紋を投稿します。


      [No.213] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-29(文字紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:50:21  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-29(文字紋) (画像サイズ: 2049×2040 18kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-29(文字紋)
    青木研究員 さん 2006/11/19 (日) 11:38
    第28/33番目の紋様である。

    この文字紋の紋様は全部で391もあり家紋類の中では最も多い紋様での一つである。

    この家紋類は家紋200選には選ばれていない。

    この紋様のうち青木氏に関わる紋様はただ一つである。
    其れは角字紋様の角青字紋である。

    この角字紋様は文字紋様の半分を占めるもので180もの家紋がある。

    この180の家紋の内の一つで「青」の字を角字で表現したものである。

    そもそもこの文字紋様は最も最初に史書籍から確認出来るのは南北朝の室町中期ごろの書物から覗える。
    この時に使用された文字は「一」(いち)で物事のはじめを意味するものとして尚武的に用いられたものと言われている。
    ここから「勝」を意味するものとして武具類の紋様として用いられ始めついには家紋となつた。
    この意味合いと同様に「三」も書籍に出て来る。

    この文字紋様には大別すると12程度のパタ−ンがある。
    一文字、三文字(2)、八文字、九文字、十文字、卍、大字、山字、丸字、亞字、角字となる。
    十文字紋までのものは古代から家紋とは別に紋様として家具類などに用いられたものてあるが、家紋化したのは室町末期からで江戸初期に掛けて頻繁に広まった。
    それ以外の家紋は江戸中期から明治初期にかけてであり新しいものである。

    特にこの青木氏に関わる角紋を含む180の角字紋は江戸後期から明治の初期に出てきたもので、初期には家紋と言うよりは屋号紋として用いられ始めたもので明治初期の苗字令から家紋化したものである。
    一種の職業紋として分類される。

    この職業紋の「角青字」の家紋は「姓」から家紋化したものというよりは職業の中で「青」に関わる職業、例えば木や野菜や染色や大工などの関係する職業から出たものとされている。

    30年前ぐらいまではよく大工職のハンテンの背中の紋様で見かけた。
    またこの角字は亞文字(ふつ文字)から変化した紋様であろうことは直ぐに判断がつく。

    この亞文字は中国の官服の袖などに使われていたが、日本では神社仏閣の欄間などの文様として一般的に使われるなどして用いられた。
    ついには明治ごろから一般の家屋の欄間や敷戸などにも用いられた紋様であるが、後に角文字紋としても変化を遂げたものである。

    この様に、角字の180の紋様は現代の相撲の四股名の字体と似ている様に庶民の家紋化の流行の流に乗ってでて来た物である事は明らかで、角字紋の角青字の青木氏は明治までの職業紋から苗字令にて「青」字から青木氏を名乗ったものである。

    28番目の釘抜き紋の職業紋と同じである。

    この青木氏は江戸を中心に関東に確認出来るが、現代ではその住み分けは職業紋であることで村を形勢する氏的かかわりがないことも含めて確定は出来ない。
    同紋であっても必ずしも縁者とは言えず氏を形成する家紋類ではない。

    一種の伝統を引き継ぐ職業であるので当時はこの角字の青紋はこのような庶民の伝統継承紋として扱われた。つまり、その職業の名誉紋でもあった。
    現代と違いその伝統的職業は一種のシンジケート的枠組みのなかにあり伝統紋として扱われたものである。

    明治以降には時にはその伝統の苗字を血縁的なもので無くても子弟的継承で名乗る事が多く起こったのである。
    よって、そのルーツ確定の検証は出来ないのである。

    実は筆者の祖父の職業の弟子が数人この慣習にて基の姓を捨てて青木氏を名乗り現代でもその子孫は多く広がりを見せている。

    そして、その子孫はその先祖を筆者の祖父を祖としていて、その出生場所も祖父の居た若い頃の土地を故郷としている。現代にてもその内の一人のその3代目の人と筆者とは面識がある。
    又、このサイトの来場記念欄に別のその一人の末裔が記帳している。

    このように、この青木氏は「釘抜き紋」と同様に確認出来る第3の青木氏であるが、氏としての意味合いよりその出生の意味合いが特殊であるので此処に記した。

    第3の青木氏にも「釘抜き紋」や「角青字紋」やこれからレポートする幾つかの職業紋としての特殊性のある青木氏として確定できるものもある事なのでも此処に記することとする。


      [No.212] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-28(釘抜き紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:48:34  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-28(釘抜き紋) (画像サイズ: 2010×2040 17kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-28(釘抜き紋)
    青木研究員 さん 2006/10/23 (月) 13:04
    第27/33番目の紋様である。

    「釘抜き紋様」である。

    この紋様には20の家紋種がある。

    この紋様は家紋200選に選ばれていない。

    この20紋様のうち青木氏に拘る紋様は1つである。

    この紋様は「釘抜き紋」である。

    この紋様は江戸時代に発祥したものである。

    この紋様を使用している氏として次の氏が挙げられる。
    松平大給氏であるが、滋賀の宇多源氏佐々木氏の末裔の木村、池田、横田氏の3氏も使用しているとされているが江戸期の搾取偏纂の多い時期であるので佐々木氏が何故に木村氏、池田氏、横田氏に変名したかはその真偽は確かでない。

    通常はよほどのこでなければ佐々木氏からの変名はない。
    佐々木氏についは近江の佐々木氏と滋賀の佐々木氏がある。
    近江の佐々木氏は皇族賜姓青木氏の第6位皇子の伊勢の青木氏と同じく、天智天皇の第7位皇子で特別に賜姓を受けた近江王の皇族賜姓族であり、地名の佐々木を採って佐々木氏と賜姓を受けた氏である。
    宇多天皇期には滋賀王として佐々木氏を賜姓した。

    この青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏との2つの流の青木氏とは異なり、江戸初期の家紋、系譜の混乱期に出た第3の青木氏と見られる。

    つまり、農民や一般庶民や下級武士の家紋系譜の確かでない者が戦国時代の世を経て武士となり身を立て家を興した者が御家人や中級武士となり仕官することで家紋と系譜を必要となり作り上げたものである。

    この現象は明治初期にも爆発的に起こる。

    青木氏や藤原氏などの氏を広く使われた。
    特にこの青木氏は皇族賜姓族として高位の氏である事から嵯峨期からの朝廷の禁令にもかかわらず無視して附けられた。
    この時、江戸幕府はこの使用を形式的に使用を禁止したが天皇家の象徴紋の桐紋と同様に守られなかつた。

    特に、その使用は特長として、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の地方の5家5流の皇族賜姓青木氏24氏の存在するところと藤原秀郷流青木氏のある24地方の所でも多く起こったものである。

    これはその地方から出てきた者が土地の有力家紋を使用して、いかにもその末裔であるかの如く装う事から、神社仏閣に高額な金品を送り搾取偏纂したものである。

    松平の支流の大給氏の家紋であるがこの一族と血縁して跡目を採り男系跡目が2代続きで女系となり松平の養子先の家紋と成ったとも考えられるが、この時期の家紋掟の遵守度合いから鑑みてわざわざ「笹竜胆」や「下がり藤紋」から変紋することをしたとは考え難い。

    更に、宇多源氏の末裔として滋賀の佐々木系青木氏の末裔とも考えられるが、
    その氏の分布状況からして考え難い。

    この青木氏はその分布が特定し難いが、あえて記すると江戸期の松平大給氏の分布する中部から関東付近に多い。
    故に藤原秀郷流青木氏の氏を搾取した傾向があり、家紋をその大給氏の家紋としたと考えられる。

    上記の2つの青木氏の特長としての青木村の存在が必ずあるが、この青木氏の族としての集団で住む青木村はない。また、室町以前の存在は確認出来ない。
    室町期の法秩序の乱れた戦国時代を除いて、民の移動は国の生産高の確保を図るために「国抜け」として堅く禁じられていたのであり、関所などを設けて自由に移動定住することは出来なかったのである。故に親族は固まって一箇所に定住する事になるのである。
    つまり、「釘抜き紋」の青木村が存在しないのはこのことから上記2つの青木氏でないことの証にもなる。

    又、当然にその村の青木氏には親族縁者関係の固定の宗派が出来る。この「釘抜き紋」の青木氏はこの浄土宗か浄土真宗(藤原秀郷流青木氏の一部)以外の
    宗派である事からも上記2つの青木氏でないことの証である。
    上記2つの青木氏は各地に夫々一族の自らの菩提寺を持っているのである。
    この釘抜き紋の青木氏には確認出来ないことも証に成らない一つである。

    宗派変えは伝統のある家柄を守る為に余程の事でない限り行わない。

    しかし、江戸幕府は特に特定氏の宗派であつた浄土宗を保護するために上級武士に対して入信することを許して奨励した。

    上記2つの青木氏の存在する青木村は合わせて集約するとその土地は史実と一致して70近い青木村を形成している。
    この「釘抜き紋」の青木氏はこの中に含まれない。
    この様にその根拠の検証を確定できるものがみつからない。

    この家紋は大工道具の釘抜きから家紋としたものであるが、この紋様から観てもその前身の出生を予想できる。
    他のこの20の家紋を使用しているご先祖にはその先祖はこの紋様に纏わる職種に携わる氏が明治以降の内容から多く確認出来る。

    この紋様には「九城抜き」として縁起を担いだとするものと、「釘抜き」として千金の意味をつけるものとして明治以降の言い伝えとしてあるが、全て後から託けてつけられた言い分とされている。

    「升紋」や「角字紋」や「隅きり角」などと同様の江戸時代の「職業紋」の一つである。
    この種の職業家紋は鎌倉期以前の上級武士の家紋を持つ氏にはないが、江戸期初期と明治初期の家紋類に多い事からもその出生は覗える。

    この氏の家紋の氏は比較的多いので此処に記した。


      [No.211] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:47:05  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋) (画像サイズ: 2232×2118 33kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋)
    青木研究員 さん 2006/10/11 (水) 16:45
    第26/33番目の紋様である。

    この紋様は全部で85の紋様もがある。

    家紋200選に選ばれている家紋である。

    この橘紋にかかわる青木氏は1つである。

    先ずこの橘紋の発祥の由来から述べる。
    この橘紋の橘氏は敏達天皇の5世の孫(美努王)の妻の県犬養の三千代が和銅元年(708)に「八色の姓」(皇族の血筋を受けた血縁者の氏を真人族をはじめとして八の階級に分ける制度)により宿禰の姓を賜った。

    そして、この時「橘」の氏を名乗った。つまり、「橘の宿禰」族である。

    この「八色の姓」とは
    真人族(まさと 皇族の第5位までの皇子で皇位継承権を有する身分の族)
    朝臣族(あそん 皇族の第6位の皇子で皇位継承権を有しない身分の族 青木氏と源氏 奈良期の臣になりうる氏)
    宿禰族(すくね 何らかの縁者や血縁を受けた氏の身分にある族で奈良期の連に相当する)
    忌寸族(いみき 渡来系の氏で皇族と血縁を受けた漢氏、東漢氏、直文氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿部氏などに与えた姓。国造や軍事や財政の官職を司る官僚の氏 皇族関係の娘を娶つた渡来系氏)
    道師族(みちのし 上記以外の皇族関係族とのなんらかの遠縁の血縁を受けた末裔族 実際にこの姓の氏は存在しない。越の道師などの名が古書に見られる。)
    臣族(おみ 道師と同じく又遠縁族で地方の大豪族で娘が何らかの形で皇族子孫を遺した氏であるが現実にこの階級以降は不詳で子孫は存在しない。)
    連族(むらじ 臣と同じくして、娘の身分にかかわる中豪族の階級)
    稲置(いなぎ 連に同じくして、娘の身分にかかわる小豪族の階級)

    以上が天武天皇が定めた身分階級である。

    橘氏は第7世の皇族関係者である美努王(みぬおう)妻の子供であるので「宿禰」となる。

    この子孫が葛城王と佐為王がこの橘姓を受け継ぐ。

    第6世まで皇族関係者として扱われ、第7世以降は臣下するか下族する事になる。関東方面に移される。これが平族(ひらぞく)後の坂東八平氏である。
    (本来は天智天皇から第4世以降をもって王を名乗ることを禁止した。)

    故にこの葛城王は後に諸兄(もろえ)と変名した。左大臣まで登る。
    しかし、この橘氏は藤原一門との勢力争いで潰され排斥されて滅び子孫は極めて少ない氏となる。

    後に嵯峨天皇期の令により、僅かに遺したこの一族の末裔が青木氏をなのったものである。平安末期のころである。
    この橘氏一族も非常に少ない氏の一つである

    この氏は別にある武蔵の武蔵7党の一つの丹治氏(左大臣の島王の青木氏)の「皇族青木氏」を含め身分が下がるが皇族関係者の唯一の賜姓族ではない「皇族青木氏」である。

    実際には鎌倉末期までに17人の青木氏を名乗れる皇族関係者がいたがこの二つ以外の子孫の末裔は確認出来ない。僧侶などにて終わった事による原因である。

    この橘は橘の葉や花を家紋化したものであるが、家紋の由来は垂心天皇の命を受けて「多遅間毛理」(たじまのもり)が中国に赴き持ち帰ったものである。

    この「たじまのもり」が「たじまの花」となり「橘」に変化したものと言われている。

    橘はみかんの原木である。別名「左近の桜」という。平安京の紫しん殿に植えられていたためになずけられた。

    橘氏の橘紋は江戸期に入って徳川氏の支流や御家人らがこの宿禰族の橘氏の家紋を真似て85もの紋様となつたのである。
    橘氏の橘紋の使用は橘氏と青木氏のみである。(第3の橘氏を除いて)
    桐紋と同じ様な経緯を辿っている。

    しかし、平安期には4大勢力として藤原氏、源氏、平家、橘氏であったが、後に平氏と共にこの橘紋は藤原氏に圧迫されて子孫が抹殺されて遺せなかつた氏としてつたわり、縁起が悪いとして後に使われなくなりこの紋の使用は消えていった。


    家紋掲示板にも同文を掲示します。


      [No.210] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:45:29  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋) (画像サイズ: 2028×2028 22kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋)
    青木研究員 さん 2006/09/29 (金) 22:25
    第25/33番目の紋様である。

    この紋様は全部で26ある。

    この紋様のうち青木氏に拘る紋様は次の1つの紋様である
    「丸に三つ鱗紋」である。

    この紋様は家紋200選にえらばれている。

    この家紋は鎌倉時代の執権北条氏の家紋である。

    この北条氏は前北条氏と後北条氏とがある。

    この北条氏の末裔の分流は平野氏、江間氏、岡野氏である。

    この北条氏は鎌倉幕府の執権として1333年まで維持したが、この北条氏は平家(たいらぞく)の清盛に追われ伊豆に流罪となつた清和源氏の源頼朝の引き受け先となつた氏である。

    この北条氏は「坂東八平氏」として関東千葉地方からこの伊豆付近までを勢力範囲とする8族の平族(ひらぞく)である。

    この「坂東八平氏」のルーツは奈良時代から天皇家の第7世以降の皇族から下俗した氏で、天皇が代替わりするたびにその天皇から数えて7世以降になつた者が坂東の国々に移動させられた者で土地に根付き氏を発生させた元皇族の者であつた。
    これ等のものは勢力を拡大して8つの族を形成した。この8つの族を「ひら族」と言う。つまり「ひら」に下がったことを意味する総称である。

    ひら族の坂東八平氏に付いては研究室の「京平氏と坂東八平氏」のレポート参照

    参考として、付帯すると
    では平清盛らの「たいら族」の由来とは次のとおりである。
    大化の改新の時代に中国北東部と朝鮮を勢力範囲として国を樹立していた中国の後漢国がありこの国が滅びた。

    後漢は、漢国が滅びたがこの中で光武帝という将軍がいた。この将軍は滅びた漢の民を集めて東部地域に引きこもり国を作りその勢いで三韓(馬韓、弁韓、辰韓)攻め落として後漢という国を樹立、この国は640年頃にまで21代続いた。「光武帝」より末帝の「献帝」までである。

    献帝には阿智使王の子と孫の阿多倍王がいた。
    この子孫を守る為に阿智使王と阿多倍王に後漢の国の17県の民(200万人)を引き連れさせて、北九州に上陸してきた。

    この一団には武力集団から始まり技能、官僚、など全ての国を構成するに必要とする高く進んだ集団から構成されていた。

    この集団の首長の阿智使王と阿多倍王は戦いを避けて帰化を朝廷に申し出た。
    この集団は瞬く間に九州全土を無戦で制圧し引き続き中国地方をも制圧した。

    大和国66国のうち32国を制圧した勢力をもち朝廷にその圧力を加えて認めさせます。

    しかし、殆どは無戦で進んでその配下に入る地方の豪族が殆どであった。
    その理由はこの集団の能力にあった。

    軍事、政治、経済での高く進んだ知識と技能を土地の者に普及させて生活力を高めさせたのである。
    現代の第1次産業の殆どはこの集団が持ち込んだものである。

    この集団の首長の阿多倍王らに付いては日本書紀にも度々出てくる。
    (大隈の首長の阿多倍)

    この阿多倍王は敏達天皇の曾孫の子の娘を娶り3人の子供を生む。

    阿多倍は准大臣にもなり、子供の長男は朝廷の軍事の長として坂上氏の賜姓を受けます。次男は朝廷の財務関係の長として大蔵氏を、三男は天皇家の執事としての内蔵を担い内蔵氏の賜姓を受ける。

    この当時の政治体制は「3蔵」と呼び2つまでをその高い進んだ官僚知識で担った。

    朝廷はこの阿多倍王に伊勢国を1/3にして伊賀北部の半国を与え「不入不倫の件」を与え半国司とさせる。

    この阿多倍より3代目の貞盛が武蔵国の押領使(軍事と警察)として任務についていた。
    この時、坂東平氏の5年間の「平の将門の乱」が起こり藤原の秀郷(下野の押領使)とともにこれを制圧します。誰もこの戦いにすすんで戦わず苦戦の末に鎮圧。
    平貞盛と藤原秀郷らは朝廷に2つの条件を認めさせた上で戦った。

    条件とは1つは貴族にすること。2つは武蔵と下野国を領国とすることであつた。
    貞盛は朝廷勤めになりその子供は国司になった。

    この勲功にて貞盛は出世して5代後には平清盛になり太政大臣まで上り詰めた。

    これが桓武天皇の賜姓族の「たいら族」(ひら族扱いの意)である。
    本来であれば第6位皇子を賜姓するのが慣例であるにも拘らず、桓武天皇の母(阿多倍王の孫娘)である実家先を引き上げて坂東の7世族「ひら族」に習って渡来人を「たいら族」として平氏を賜姓した。

    この集団の官僚の政治知識でやつと桓武天皇期に日本の律令国家が完成した。
    賜姓したのはこの勲功もあつた。

    この「たいら族」の賜姓に対し、嵯峨天皇期からの第6位皇子を賜姓源氏(桓武期の賜姓平家族に対して次の子供の嵯峨天皇)に変名して戻した。
    (この時、青木氏は皇族関係者が下俗するときに名乗る氏として詔を発す。)

    この嵯峨天皇から九代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が清和源氏の賜姓を受けます。
    この3代目の宗家頼光より4代目の源三位の頼政がこの伊豆国の守護となった。この時にここを護衛した賜姓伊勢青木氏の子孫の一部がこの地に定住した。

    また、頼光の弟の頼信が甲斐の国の守護を兄から譲られて守護となり、勢力を拡大するために坂東平氏を圧迫して、その4代目の子孫は此処伊豆東部に坂東制圧の拠点を起く。(坂東八平氏は関東東よりに圧迫される)
    この時にも、甲斐の賜姓青木氏の一部が護衛してここに定住した。

    この地より以東の神奈川横浜には藤原秀郷一族の青木氏が定住した。
    (1180―1195年代)

    後には、神奈川横浜には甲斐の諏訪族青木氏も織田信長の追求を避けて落ち延びてきた。(1560年代)

    この付近一帯には4つの青木氏が存在することに成る。

    そこで、この「丸に三つ鱗紋」の青木氏のルーツは次の検証する。

    鱗紋は三つの鱗を組み合わせたものが主要紋である。
    つまり、北条氏の「三つ鱗紋」です。「丸に三つ鱗紋」はこの分家ですから本家では有りませんので血縁するとしては氏家制度から本家筋かとの血縁に成るのがこの時代の慣習である。

    よって「三つ鱗紋」の青木氏がないのはこの慣習が乱れた時期であり、1330年代以降の10年余りの出来事と見らる。

    つまり、清和源氏滅亡した後の北条氏滅亡直前で足利氏に移る間の時期に血縁を結んだことが考えられる。

    上記上2つの賜姓族青木氏のいずれかがこの北条氏の末裔と血縁し2代続きの男系不継承で女系化して、止む無く家紋掟で養子先の家紋継承となったものと見られる。
    この青木氏の村を形成している定住地から見ても充分に頷ける。

    要するに北条氏の子孫が絶えない方策として滅亡の混乱期に血縁にて分家が賜姓青木氏を選んだと見られる。

    北条氏の血筋を引き受けた賜姓青木氏であると見られる。
    この家紋は鱗の数で紋様を変化させているが、北条鱗紋の三つ鱗が元である。


    家紋掲示板にも掲示します。


      [No.209] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-25(桐紋)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:43:10  
    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-25(桐紋) (画像サイズ: 1980×1920 46kB)

    Re: 青木氏と血縁族(家紋)-25(桐紋)
    青木研究員 さん 2006/09/13 (水) 12:26
    第24/33番目の紋様である。

    この紋様には162もの種類がある。
    最も多い家紋類ともいえる。
    (しかし最も少ない家紋でも在る筈なのである。)

    しかし、此れには特別の事情がある。

    家紋200選にはある。

    この紋様の青木氏はこの内1つの家紋である。

    「五三の桐紋」である。

    この家紋を主に使用している氏は次ぎのとおりである。
    主だったところでつぎのとおりである。

    讃岐京極氏、肥後細川氏、対馬宗氏、陸前伊達氏、長門毛利氏、米沢上杉氏、
    出羽織田氏、備中木下氏、土佐山内氏、金沢前氏
    挙げれば切りが無い位である。

    ただこれを見ると何か共通点が見える。
    有名な江戸期の諸国の大大名紋である。

    この桐紋のルーツを説明するにはこの桐紋を使用した経緯を先ず述べる必要がある。
    それでこの桐紋の持つ意味が判ってくる。

    そもそもこの「桐紋」が162も在るのに理由がある。

    この紋様は桐の葉と花の紋様に分かれる。

    桐に一般的に青桐と白桐がある。
    紋様に用いられたのはこの白桐である。

    この紋様は中国の諺から来る。中国の聖王の権威を誇張する意味でこの王が現れると瑞鳥(鳳凰)が飛来しその鳥のとまる木(嘉木の桐)とされ目出度い木とされていた。
    平安期と鎌倉期にはこの桐の木の意味を重んじて、瑞祥的な意義とも云うべき意味合いを持っていた。

    そこで当時の朝廷ではこの紋様を天皇の権威と合致する事を意図して天皇のみが用いる瑞祥として決定した。

    その瑞祥は他にもあるがこの「桐紋様」を「竹と鳳凰」と組み合わせて一つの紋様として用いられていた。

    しかし鎌倉期にこの桐紋様だけが取り出されて単独で使用するようになった。

    現代でも桐箱は祝い事の品箱にするし、竹紋は祝膳などのときにも器や丁度品の紋様に特別に用いる。鳳凰も同じ時に用いるものである。

    元来は天皇の着用する式服の袖元に紋様として居られていたものである。

    これが鎌倉期には初期には公的な行事の天皇の象徴紋として用いられる様になったのである。それが最終この期から天皇家の家紋となつた。

    ところがここで問題が起こった。
    天皇はこの象徴紋様を国の功績のあつた人物にこの紋様の使用を次々と連鎖反応的に許したのである。

    この紋様の使用を許された人物として有名なところで、豊臣秀吉、足利尊氏らがある。
    この二人はこの桐紋を更に特に功績のあつた人物の家臣や御家人にも天皇の象徴紋を与える事をしてしまつたのである。これが162にも増える原因の一つになつた。

    足利将軍より三好氏、松永氏、上杉氏、など、織田信長や細川藤考などに与えたのである。
    秀吉は上記の家臣に与えた。

    このために天皇家の桐紋と菊紋は結果として名誉紋となってしまった。
    その内に各大名が今度はかつてにいかにも天皇や将軍や太閤から授かったかの如く振る舞いこの家紋を用い始めた。

    江戸期には無法地の状態であわてた江戸幕府は禁令を発した。
    しかしこれで止まるものでなかった。それどころではなく幕末には大名、旗本
    をはじめとして下級武士までこの桐紋を用いることに成ってしまった。
    なんと大名と旗本はこの桐紋を使用したのは1/4―1/5にも成ってしまった。
    そこで、維新政府になった時はこの桐紋の使用の禁令をあきらめてしまった。
    禁令の諦めの令”この限りにあらず”を発した。

    維新には庶民の苗字を持つ事を許した事もあり、これと連動して家紋としても庶民までが使用することなってしまった。
    あやかって最も多く使用する結果となり更に手のつけようが無くなり諦めたのである。
    寺や神社などに高額の金品を積み上げて青木姓とか桐紋と系譜搾取を造り挙げてもらい偽証明してもらって届け出た。収拾がつかなくて全て黙認である。

    この時にも、嵯峨天皇の詔の禁令のあつた1000年以上続いた皇族系に与えた青木氏の使用も、この時を境に無法地となり多くの第3の青木氏が生まれたのである。

    維新政府はこれに困り果てて、結局、桐紋は天皇家の方の紋様を副紋扱いにせざるを得なかつた。そしてこのことをまたもや官報で発令した。

    これで一斉に庶民が自由にただで使える様になつたのである。

    これが桐紋の経緯である。

    桐紋には多少遠慮して桐紋を少し細工して変えて使う者もあつた。

    桐紋には、葉とつぼみを変化させて、五三の桐を主紋として、五七の桐、五四の桐、九七の桐、七五三の桐、十三七の桐などがある。

    桐紋は維新後の紋様であるので、この青木氏に拘る家紋の五三の桐紋は第3の青木氏であること以外は考えにくく日本全国に分布して大変多いのである。

    家紋の使用年代から見てもこの青木氏の系譜や出処や宗派などにも矛盾が多いので明確に判別できる。桐紋の青木氏にはルーツとしての根拠が無い事になるのでルーツの検証は困難である。

    何れも天皇家の禁令の五三の桐紋と禁令の青木氏の姓ではいかにも天皇家皇族筋としての家柄として見える事による。

    しかし、不思議に5家5流の皇族賜姓青木氏と11家11流の源氏の綜紋の「笹竜胆紋」の使用の搾取偏纂は少ない。
    原因は11家の源氏の直系子孫が殆ど絶えた事などそのルーツの理由付けが困難であつたことによるものではないか。
    5家5流の青木氏が「笹竜胆紋」を引き継いでいる現状である。

    (なかには太田氏、武田氏、足利氏、新田氏などが清和源氏の末裔としているが家紋類は異なり同様に支流血縁族が存在するのみである。)

    桐紋と同様に禁令中の青木氏も室町末期と江戸初期の混乱期にも戦国期にのし上がった者が家柄獲得の搾取偏纂で青木氏を名乗った者がいるのも事実である。
    しかし、青木氏の使用は比較的桐紋と違って守られていた。それは皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の発祥地などが明確に限定されていたことにより矛盾がでた事による。

    この「五三の桐紋」の青木氏が多い事によりここに掲載した。

    家紋掲示板にも投稿します。


      [No.207] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 8
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:54:32  

    Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:49:08


    Re: 皇族賜姓青木氏の背景
    青木研究員 さん 2005/06/24 (金) 12:05
    青木氏は誕生以来、150年程度政治の荒波にもまれることも無く成長を遂げ、青木氏の親衛体として軍略所としての役目を果たしてきた。そして、子孫を増やし、大化期から律令国家が成立する800年ころまでは太平の世であった。しかし、この影で、大きな時代の変化の「うねり」が気がつかぬままに押し寄せていたのである。その「うねり」は時代に伴う必然的なものであった。
    一つは渡来系一族がもたらしたの余りにも大きい津波の様な「うね  り」で、軍事、経済、政治の3面の「うねり」があった。
    二つは本来あるべき国家の姿が次第に出来つつあった。
    三つにはこの状況に上手く対応出来た二つの氏がいた。
    一つは云うまでも無く阿多倍一族のもたらしたもので、軍事の近代化や経済の部制度と生産技能の発達、政治では、財政や政治手法の知識の普及である。200万と言われる人民が進んだ後漢のノウハウを一度に持ち込んだのである。近代に於いても例を見ない速さと質と量であった。明治のそれに比較にならないものであったのである。そして、それが近代日本のまだ基幹産業になり、政治体制の基礎に成っていることは不思議である。それが明治以降の植民地時代をくりぬけられた一因ではないか。
    このようなものを持ち込んだ一族が動けば5家青木氏などひとたまりもありません。多分青木氏に於いてもこのことには気付いていた筈です。しかし、余りの力の差に手も足も出ない有り様であった事は間違いなく、それが桓武期まで引きずったと見る事ができます。
    当然、桓武天皇はこの神にも近い万能超勢力を国体に利用しない手はなく、当然の流れとして。自分もさることながらその勢いを天皇の立場からも利用した。利用せざるを得ずしていた。なぜなら、歴史が物語るように蘇我氏のそれと同じくなり大化期前に戻ることを意味するからである。
    当然にして、弱いながらも、天智天武から平安初期の未完の時期の働きから比較して、天皇の相談役の軍略所の役目は時代遅れの感あり、消え行く定めであろう。
    二つは聖徳太子の冠位十二階制度など国家の基盤を作ろうとしていた頃から次第に整いつつある律令制度への国体が見えてきた時期でもあり、周囲から青木氏に対する目も異なりつつあったのではないか。それでなければ、阿多倍一族を倒すまでも、何時の世も同じで不満を表す程度の反乱が起きるはずである。
    しかし、歴史を調べてもすくない。多分青木氏は政治と言う場面から孤立に近い立場に置かれつつあつたのではと推測する。
    そして、5家間も次第に隙間風が吹いていた。結束することで生き延びることも容易であった筈なのに、次第に弱体化していった。
    三つは先ず、藤原氏一族である。青木氏と同じくして誕生した藤原一族(4家)である。本来なら、朝廷の役職も阿多倍の子孫に軍事、政治、経済の3面を握られたのである。ただ一つ三蔵の一つは藤原氏が鎌足の頃からの役職であつた「斉蔵」を守った事。それに、2代目の不比等の活躍とその洞察力が生き延びるに一役をなした。
    それは天皇家との血縁を結んだことによる。これによる力が藤原氏を支えた。5代目位までは血縁を盛んに結んでいる。そして冠位を獲得し、不動の体制を作っていた。
    次レポートのテーマとなるのだが天皇家から外れはじめると15源氏中の10源氏位まで、今度は源氏との盛んな血縁関係を結び、天皇家と源氏と両極から固めている。
    それだけではなく、地方の押領使等の役職で一族を配置して地固めを進めているのである。
    現に、藤原氏の姓に付いて見ても判る。各地に配置した一族は姓を変えて、藤原の文字の前に土地の名を採って、例えば、伊藤、近藤、尾藤、武藤、加藤、遠藤等はそうである。殆ど全国に配置した。又、朝廷ないでも、役職の文字を付けて、斎藤、工藤、佐藤、左藤、進藤、内藤など小さい役職でも受けて子孫を守っている。
    そこで、地方武蔵の押領使であった鎌足から8代目の藤原秀郷である。この一族の青木氏はこのような政治的な行動でその一とその二の荒波から逃げることが出来たのである。むしろ逆手にとって子孫は成長した。賜姓の青木氏とは大違いである。次レポートで記することにするテーマであるが、しかし、810年頃を境として嵯峨天皇期からは逆転していくのである。それは、この頃は藤原氏も例外ではなく、賜姓青木氏との苦肉の策の政治的戦略であり、これが大成功に導き、1185年についに最大の超ライバルの渡来系一族を抹殺するのである。もう一つの氏は言うまでも無く、渡来系一族から名を変えて成長してきた平氏である。 4つ巴の子孫を残す戦いの次レポートに期待ください。


      [No.206] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 7
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:52:26  

    Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:48:10


    Re: 皇族賜姓青木氏の背景
    青木研究員 さん 2005/06/23 (木) 12:39
    上記のように青木氏には基本的な事柄の背景を持つていることを前提に次に記述を進めます。
    645年の大化の改新で誕生した青木氏であるが、正式には668年に伊勢王となり、臣下して賜姓を受け、次第に勢力をつけて天智天皇や天武天皇の所期の目的を達成しながら、他の4地方までに4代の天皇に引き継がれて青木氏を広げていきました。
    朝廷の軍事舞台の渡来系の坂上氏には達しないまでも、天皇家の親衛隊としての力をつけてきました。しかし、阿多倍一族との武装集団としての対抗が芽生えた。これがまた、青木氏の発展の障害となつたのです。世の常といえばそのとおりで、出る釘は打たれるのたとえ通りで、780年頃桓武天皇期にはこの荒波が押し寄せることとなりました。806
    桓武天皇はそれまで続けていた第6位の皇子の臣籍と賜姓青木氏を変更し、突然、次の様な4つの理由で賜姓を渡来系一族におこないました。では、その理由ですが、
    1 大化から引き継がれて拡大した4家青木氏の朝廷に対する勢力を律令体制を完成させた天皇としてはそぐ必要に迫られた。
    2 渡来系阿多倍王の一族の九州から始まり、関西まで及んだその
    32/66国の勢力。
    3 阿田倍王一族が持ち込んだ国内へ部制度による産業基盤の技能と彼等による国内の軍事平定と律令体制への完成作業など、過去にだれにも成しえなかったその超貢献度。それによる朝廷の経済的財政力と政治的安定性の獲得。平安遷都はこれにより成し得たのである事。
    4 慣例外の渡来人の豪族からの世間の風当たりなどの中で、桓武天皇の渡来系の母(高野新仁)とその義祖父への思い。

    桓武天皇前の各天皇はこの超大勢力の阿多倍王一族との融和策だけではすまない政治的な決断に迫られていた。
    皇族との結婚、子孫の朝廷内への主要役務の取立て、賜姓、特別地の支給と不輪と不入の権での保護を最大限に行ってきた。
    桓武期にはそれまでの伊勢王などの貢献に比して、更には引き立てを実行せざるを得ない政治状況に落ち至る。
    桓武天皇は次の施策を実行した。
    1 伊勢北部伊賀国の容認と国司の任命扱い800頃
    2 伝統ある伊勢の守護の青木氏からの剥奪と藤原藤成の任命820
    3 青木氏に対抗する阿多倍一族の賜姓(後の平氏)797
    4 藤原一族氏の重用(鎌足から4代目783頃から北家の台頭引上)
    5 青木氏を政治から遠去ける。806
     (天皇の相談相手としての軍略所の軽視)
    特に、青木氏の中心としての伊勢青木氏に対する締め付けは大で
    4家の青木氏は衰退の一途を辿る。
    伊勢松阪付近に集中して生き残る。そして、源氏との連携が始まる
    この桓武天皇の賜姓と渡来族の台頭に警戒感を持った次の子供の嵯峨天皇はこの動きを止めようとした。そして、詔を出した。
    次レポートへ


      [No.205] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 6
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:51:07  

    Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:47:12


    Re: 皇族賜姓青木氏の背景
    青木研究員 さん 2005/06/23 (木) 10:06
    追記と訂正
    天武期の王には春日王と信濃の三野王と美濃王と近江王と追加します。
    訂正は武富王と記していますが武家王です。
    天武期の皇子は継ぎの通りです。先頭数字は誕生順 末尾は皇位順
    1高市8、2大津2、3草壁1、4忍壁9、5長4、6弓削5、
    7舎人3、8新田部6、9穂積7、10磯城10、11施基6、12川島7
    建皇子と大友皇子は死亡
    11と12は天智天皇の皇子で、5と6は天智天皇の娘(大江皇女)の子供、7は天智天皇の娘(新田部皇女)の子供で、日本書紀の編者です。
    伊勢王と美濃王と信濃の三野王と竹田王と近江王の5家青木氏の守護先の王、
    初代の青木氏の元祖の伊勢王は天武期朝廷の仕事が忙しく国司を置く。国司(くにつかさ)は朝廷より派遣された守護代理の役人
    本来は天武天皇の葬儀は皇太子が行う慣例でありながら、絶大なる信頼があり、天智天皇の子供でありながら伊勢の王施基皇子が行うほどであた。
    王には皇位の高い皇子の王(6,7位)と5世以下の王とがあつた。
    当時は令で4世まで皇位継承権ありとして、6世は臣下し、5世は王にあれど王にあらずとされた。天智天武期は改革のために2世6位以下を臣籍にした。嵯峨天皇は弘仁5年に正式に4世6位以下を臣籍に改めた。このことにより、青木氏より変名して源氏が誕生した。途中の桓武天皇だけはある4つの理由でこの2つの氏の賜姓の臣籍をしなかつた。これが後に特に青木氏を含む源氏と藤原氏に大きな難題が降りかかるのです。そして。保元平治の乱などの多くの乱に繋がるのです。次の背景2のレポートに続く。


      [No.204] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 5
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:49:44  

    皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:46:15


    皇族賜姓青木氏の背景 5
    青木研究員 さん 2005/06/22 (水) 22:41
    皇族賜姓族の青木氏は5家5流ある事は前レポートで述べましたが、この背景についてもう少し詳しく検証してみます。
    大化改新によって青木氏は誕生したその背景のことは以前のレポートで書きましたが、その後の背景について述べたいと思います。
    天智天皇の最終の皇子は2人で、施基皇子と川島皇子ですが、弟の天武天皇はこの2人を皇子として扱い、12人中第6位と7位の皇子としました。この二人の母は施基皇子は越の道君伊羅都女、川島皇子は忍海造小篭色夫古娘です。母の身分は采女(うねめ)か宮人で地方の小豪族の娘で、人質として扱われていた身分は低かつた。この理由は天智天皇は后、妃、夫人、みめ、の妻(妻は20人)の4階級の子供は避けて、一般の女官(采女、宮人)を妻として扱い、その子供を皇子とした。この理由は上位3階級の妻は全て血縁関係にありこれを特に避けたのである。天智天皇の12人の皇女の内の4人は天武天皇の上位2までの妻である。
    この状況の中、第6位の施基皇子を伊勢の守護として配置した。伊勢は天皇家の天領地で伊勢神宮は守護神で、交通の要衝地で、主要穀倉地でもある。伊勢王として配置についたが、日本書紀に出て来る事14回で、天武天皇は自分の皇子たち全ての者より身分を高位にして頼った。
    施基皇子は浄大一位。草壁皇太子は浄広位一位で1ランク差になる。

    (参考として、伊勢には現在の松阪市京町(しき)、桑名市京町(しき)、四日市市京町(しき)、伊勢市一色町(しき)、津市一色町(しき)、四日市市一色町(しき)、河芸町一色(しき)、久古一色(しき)桑名市京(しき)、などの字は異なるが、名残として施基皇子(しき)の”しき”と読む地名が現在も数多く遺されている。)

    そして、伊勢王の身分のままに伊勢には代理として三宅連石床を国司として送った。日本書紀では伊勢王は天武天皇の代理として行動して、大和の国に起こる領地争いや、政治施策の実行等の状況やもめごとを解決するために全国を回っている。
    この伊勢王の青木氏は賜姓を受けるときにステイタスとして、当時、日本初の仏師 鞍作止利の作った65センチ大の仏像を与えられた。この後、子孫は桓武天皇まで伊勢の守護として勤めた。しかし、ここで青木氏の衰退となる大問題が起こった。(後述)
    この間には、近江滋賀、美濃、信濃、甲斐に天智天皇より後の4人の天皇(天武]、文武、聖武、光仁)もこの規則に則り、配置した。どの国も伊勢と同様の重要な領地である。そして、伊勢青木氏を中心に5家がまとまり、大化の目的を果たした。(前記)
    朝廷内で侍所として、その天皇を守護する宮廷守護の親衛隊としての役割を果たしていた。この時、伊勢青木氏は天武期の伊勢王の役所の「軍略所」(天皇の相談役)として勤めていた。

    参考 
    そもそも「侍」とは古代語の「さぶらう」の”常に側に居て付き従う”の意から「さむらい」と成ったもので天智天皇の「大化改新」による行政改革の一つで、第6位皇子が賜姓を受けて臣下して「侍」と成った。
    その役目から「さむらい:侍」と呼ばれる様に成った。
    それまでは、「武人」(たけるびと)として「物部氏」「漢氏」「東漢氏」などの渡来人による「部」としての職業軍人であった。しかし、これ以後、「公家」(政治家 斎蔵)に対して「武家」としての「氏」を構成する「侍」としたもので、「部」から「氏」に成り正規に伊勢青木氏を始めとして5家5流の皇族賜姓青木氏はその初代の「侍」に当る。
    「武家」は室町期末期から後に「一般武士」までを含むものとして呼ばれる様に成ったが、初期の初代は「侍」としての「氏」を構成したのは初代は「皇族伊勢青木氏」である。続けて平安時代は賜姓源氏がこの役目を担い名乗った。
    平安時代には宮廷の3門を護る「北面武士」と呼ばれて「官位官職」が付けられた。
    「民部」等の役職と、宮廷の守衛する門の「右衛門」や「左衛門」で呼ばれ、これに上下の「尉」と「佐」の階級が付けられて3つで呼ばれた。例えば、「青木民部上尉左衛門信忠」の様に。
    江戸時代には中級武士以上がそのステイタスとして朝廷に金品を渡し申請して「一代限り」のこの武家の「官位官職」を獲得して名乗った。

    嵯峨天皇は皇位継承制度は第4位まで継承権を保持、第6位を賜姓し臣下した。第7位は地名を採って臣下した。
    大化期の目的から財政上の改善目的のために第6世方式に準じず第6、7の皇子は王となって臣籍とした。
    ((第7位の川島皇子は近江滋賀青木氏を名乗ったとされる)

    嵯峨天皇は財政上の理由で弘仁5年の詔で正式に第6位方式に変更した。
    天武期の王は山部、高坂、石川、若狭、栗隈、三野、武富、広瀬、竹田、桑田、伊勢である。
    但し、王には高位王と低位王(5世)がある。

    次レポートへ


      [No.203] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 4
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 07:11:51  

    皇族賜姓青木氏の背景 3
    青木研究員 さん 2005/06/30 (木) 11:22

    嵯峨天皇と藤原北家一族の助けによって、伊勢青木氏をはじめとする5家の賜姓青木氏は再び息を吹き返した。
    嵯峨天皇は桓武天皇の渡来系一族を引き上げてその持つ力の絶大さを政治の場に多いに利用した。又その効果は抜群で律令国家の国体を完成させのである。それは、それなりの方法で3相を得ていたものであるので否定するものではない。時代は3相(人、時、場所の構成体)にて構成されなければ本当の目的効果は達成されない。
    この意味では、この800年頃は桓武天皇方式が正しいのであった。だから、効果があがった。しかし、何時の時代にも完全というものはない。嵯峨天皇はこの隙間に発生する問題を指摘し、これを修正しなければ天皇家はもとより朝廷も瓦解すると考えたのであろう。
    なぜならば、この事例が目の前に歴史的にあった。そして、天智天皇や天武天皇はこの問題に取り組んだ。蘇我氏の台頭による天皇家の危機であった。これも3相を得て乗り越えて守りきれた。そして、その効果は桓武天皇期前まで引き継がれた。桓武天皇は果敢に課題と取り組んだ。そして、嵯峨天皇も背景2で述べたように1から5までの対策を実行して効果を挙げつつあった。
    1−5の政策実行と次の二つの変更を試みたのである。
    引き上げた藤原北家は貴族である。従って、武力による行動はない。しかし、北家には関東の役武を与えた。必然的に武装する必要は生まれる。祖父や秀郷親子のように当初は自ら武器で統治した。
    もう一つは賜姓の源氏である。源氏は賜姓青木氏以来の天皇の親衛隊であり、侍を本文とし、政治に関与しない。
    しかし、この本来の役務に対して、政治に関与させた。それを主務とする源氏まで生まれた。(村上源氏や醍醐源氏であり、右大臣までなった。)参考に、伊勢青木氏は軍略所であつた。つまり天皇の軍事的な相談役で勅命の代理実行者である。村上源氏(北畠氏)は学問所である。事務、政治の相談役である。
    藤原氏には主務外に武を求め、源氏は主務外に文を求めた。
    これは何故であろう。結論はあくまで渡来系一族にたいするけん制のための一策で、彼等と同じ能力をつけることに先ず主眼を置きそして、勢力を付けさせたのである。そうでなければ、到底、超大勢力で万能の一族である彼等と同等の力を持ち得ない。
    策は成功した。しかし、依然として、彼等は益々大きくなる。
    それは何故なのか。そこには二つのことが欠けていたのである。
    嵯峨天皇はこのことに気がついた。
    それは、部制度(前記)による経済的な基盤である。もとより、彼等が引き連れてきた技能集団の力でそこから上がる経済的利益の基盤が彼等にあつた。朝廷の軍事力は渡来系一族の武装集団に頼っていた。(蘇我氏の二の舞である)
    「一紀一班の制」を施行し調査して、余剰の税の徴収をした。
    「健児の制」を敷き一般の有位者の子弟から徴兵し軍団を創った。(前記した渡来系統治の九州は除く)
    この政策を実行したことで、弱点は消えるとした。元に次第に藤原氏と源氏は勢力を付けて台頭し朝廷内では対等になった。背景2と背景3の政策が、1160年頃から渡来系一族と4者の団結で対等となった。1180年伊勢青木氏の跡目祖の源の頼政から乱が始まるのです。


      [No.202] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 8/10-2(時代の役割)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 20:16:34  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 8/10-2(時代の変化に対する役割)
    副管理人さん 2009/01/02 (金) 10:43
    史料8/10−2

    次ぎは史料2(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)の付いて考察する。

    「共通血縁族」
    史料2

         2氏の場合       3氏の場合       4氏の場合
    長谷川氏:15/22 68%   14/17 82%   06/7 86%  
    進藤氏 :03/22 14%   09/17 53%   07/7 100%
    永嶋氏 :02/22 09%   06/17 35%   03/7 43%
    長沼氏 :02/22 09%   02/17 12%   04/7 57%

    5氏の場合:「家紋4大血縁族」(7氏)
    長谷川氏:100%
    進藤氏 :100%
    永嶋氏 :100%
    長沼氏 :100%

    (氏の家紋数/全家紋数)=X%
    {但し、2(3、4)氏とは青木氏と他1(3、4)氏を云う}
    (史料5/10より統計による算出)

    参考
    「共通血縁族」「秀郷一門性」
    5氏共通:「家紋4大血縁族」=・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
    4氏共通:「家紋4血縁族」=・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。


    史料2
    4氏の内では、「長谷川氏」が「青木氏」と最も関係を深く持っていた事が判る。
    2氏(68)、3氏(82)、4氏(86)、5氏(100)の何れの場合もこれを証明している。
    特に、全体的に高いレベルであるが、「共通性」の高い方に行く程に高くなっている。
    つまり、「共通性」即ち「秀郷一門性」(「共通血縁族8氏」)が強く成ると、更に「長谷川氏」との繋がりが強く成っている。
    これは兼光流のリーダーの「青木氏(116氏)」と文行流のリーダー「長谷川氏(111氏)」の2氏が強く繋がっていた事を示す証拠である。
    2氏の場合(青木氏と他1氏)の「共通血縁族」までもが段突であると云う事は、「長谷川氏」と「青木氏」はそれも末端の氏とも相互に「血縁関係」が深く繋がっていた事を示す証拠でもある。
    何れもトップで高率であるので疑う余地はない。「青木氏」が「第2の宗家」であるなら、「長谷川氏」は「第3の宗家」とも云えるレベルである。実際、そうであっただろう事がこの数字の高レベルで想像出来る。
    況や「氏数」が「青木氏116」と「長谷川氏111」と同じである事からも、240年経ってもこの兼光流と文行流の二つのリーダーが間違いなくスクラム組んで共に一門のために働いていた事の証明と成る。
    本文で、北九州の「大蔵氏系永嶋氏」との繋がりに付いて仮設1−4で説明したが、その時、「長谷川氏」が介在したとの仮説を有力視したのはこの事からである。
    「青木氏」は「長谷川氏」との連携で、「永嶋氏」を一門の常套手段の「血縁戦略」で北九州に発祥させたが、その「青木氏」は、豊前と肥前に未勘の藤原秀郷流の青木村を形成している史実がある。(地名地形データ等に記載:豊前が有力)
    入間の青木氏宗家からの指令でこの「血縁戦略」を「長谷川氏」と進めるには充分な連携の数値であると観ている。この史料の最も明確な特長である。

    二つ目の特長は、「永嶋氏」、「長沼氏」はほぼ同率でレベルを上げている。従って「一門性」が高く成っている事である。ただ、「長谷川氏」とは少し違っている。
    その違いは、これは秀郷一門の主要な「家紋大血縁族4氏」(5氏)と「家紋血縁族4氏」(4氏)の「共通血縁族8氏」だけで主に強く繋がっていた事を示すものである。
    2氏の場合、3子の場合では、共に低い数字である。ところが4氏になって急に50%台に成り、5氏ではいきなり100%と成っている。
    これは、「青木氏」が、主要な「共通血縁族8氏」とで緊密に「永嶋氏」、「長沼氏」とより繋がっていた事を示すものである。どちらかと云えばやや「永嶋氏」の方の「繋がり」が強く成っている。
    その一つの例として、「関東屋形」と呼ばれる様に、「長沼氏」より、「永嶋氏」の方がより積極的に青木氏と「血縁戦略」の面で協調していたことを示すものである。
    例えば、上記した北九州の「永嶋氏」との血縁は、関西に向けて西域方向に勢力を伸ばしていたが、関西域を飛び越えて「永嶋氏」が北九州で血縁族を作る事で、一門にとって、戦略上、中国地方の「平家末裔の一門」と「其の他の勢力」を北九州の背後から牽制する事が出来る。この様に「第2の宗家」としての青木氏と「協調戦略」を採っていた。
    又、九州全土には、「平家(たいら族)」の先祖の阿多倍一門が率いてきた「後漢」の集団の帰化人の多く住む地域である。特に、これ等の末裔が統治していた北九州の大宰府には「太宰大監」として「遠の朝廷」が置かれていた所である。その「大蔵氏」との血縁に踏み切ったのである。つまり、大蔵氏系長嶋氏である。敵陣の本部の土地に楔(くさび)を打ち込み、敵陣の指揮官の家との血縁を成し遂げたのである。「背後からの牽制」どころの話ではない。敵陣の懐に入り、敵の「主」に成ったとほぼ同じである。既に、帰化から500年以上も経っているが、藤原秀郷一門の敵である中国地方の平家一門末裔の分断孤立が起こったのである。
    この「永嶋氏」の「歴史的な血縁戦略」が起こったのだが、後発の「永嶋氏」だけの勢力でこれを成しうる事ではない。この戦略には「一門総出」でなくてはこれだけのことは出来ない。
    ”戦わずして藤原一門の勢力の拡大と安泰の戦略が成し遂げられた”と云っても過言ではない。
    そうなると、当然、「一門総出」とは、一門の「第2の宗家の青木氏」と「文行流の領袖長谷川氏」がこの「裏打ち」をしたことには疑いない。
    即ち、この”「主要5氏の役割」をはっきりさせたこのデータがそれを物語っている”と述べている。
    しかし、データが示す様に「永嶋氏」にはその役割を生かした戦略が見えるが、「長沼氏」との間にはこの様なはっきりとした「協調戦略」が見当たらないのである。その様に歴史は数字通りである。
    この事に付いては、本文中にこの史料の分析結果が反映している。

    この「永嶋氏」や「長沼氏」の兼光流としては、本来はむしろ強く繋がっている筈と考えられるが、ところが逆に成っている。
    これは同流の「兼光流」と云う事が逆に左右した為に、「青木氏」の末端との「血縁性」を下げたことであろう。(下記 長沼氏には別の理由もあった)

    その中の最大の理由は「同属血縁」が強く成ることを出来るだけ避けたものであろう。
    その証拠に、文行流の「長谷川氏」と「進藤氏」は、逆に数字が、5氏は勿論の事、2氏、3氏、4氏共に高い。
    「長沼氏」はその中でも一番低い(9、12、57)のは、兼光流の中でも「青木氏」と先発組で同系列で、より「同属血縁性」は高まるので一門にとって子孫存続と云う点で危険である為に避けたものであろう。むしろ、「長沼氏」はより高い「近親血縁性」の危険があったと観られる。
    それだけに「主要共通血縁族4氏」に限定したのではないか。そして、文行流からの末端から入る他氏の血筋を入れる事で薄めていた事が云える。

    ところが、「進藤氏」は「主要共通血縁族8氏」との繋がりのこの傾向をより強くしている。4氏と5氏では100%である。
    この4氏、5氏の100%の意味するところは、特別に青木氏との何らかの繋がりを強力に持っていた事を示すものである。100%が2つ繋がっていることは、又、「長谷川氏」とは異なった繋がりを持っている事も示すものである。
    これは、「青木氏」と一門との何らかの「繋がりの役目」を果たしていた事を示すもので、この4氏5氏のところで100%で強く血縁して、それを背景に一門他氏との「接着剤的な役割」を果たしていた事を物語るものである。
    4氏5氏は青木氏の主要な「共通血縁族8氏」である。つまり、「青木氏」は「共通血縁族8氏」を総括する「第2の宗家」である。言い換えれば、4氏、5氏のデータは「共通血縁族8氏」の存在を証明するものでもある。
    「進藤氏」に付いては、役割を判りやすくする為に数式で表すと、次ぎの様な関係を維持していた事に成る。
    「青木氏」=「第2の宗家」+「共通血縁族8氏」=「進藤氏」=100% 
    と成る。
    故に、「進藤氏」=「第2の宗家」の代理
    と成る。

    この数式で表される「進藤氏」と「青木氏」とが強く血縁で繋がった「進藤氏」の発言は「第2の宗家」の「発言、指示」として「一門他氏」に伝わるであろう。
    「青木氏」はこの「進藤氏」を「接着剤的役割」として動かしていた事になる証拠である。
    「進藤氏」=「接着剤的役割」
    「長谷川氏」=「文行流領袖」+「第3の宗家」
    同じ高い数字を示す「長谷川氏」とは又別の意味の繋がりであろう。
    兼光流と文行流の「2つの流」の領袖であろう。勿論、「第3子跡目」の慣習を持つ「第2の宗家」は「青木氏」であるが、2つの一門の「流」を保つ氏、つまり、「2軍の将」が「長谷川氏」であろう。
    その「2軍の将」の「長谷川氏」と繋がりを強くする事は文行流一門を統括できる仕組みである。
    その役割の違いは、「進藤氏」の「接着剤的役割」と「2軍の将」の「長谷川氏」と成ろう。
    青木氏は文行流に対して、一門を固めるためにこの「2つの戦略」を採っていた事に成る。
    この事から、「進藤氏」は「青木氏」、「長谷川氏」の「2つの領袖」の「軍師役」と読める。
    だから、普通であれば世に言う「2軍の将 相立たず」の戒めの通りであろう。
    しかし、ここに「進藤氏」の「接着剤的役割」が存在する事により「緩衝効果」が働き成り立ったのではないか。このデータはそのような「数字配列」に成っている。

    もし、「長谷川氏」が逆に「接着剤的役割」であったとすると、2氏から5氏まで高率で繋がる必要がなかろう。その繋がっている必要性は「共通血縁族8氏」だけで済む事である。
    まして、2つの氏流の領袖の片方の「長谷川氏」が「接着剤的役割」として「青木氏」に「物申す」は、真に「2軍の将 相立たず」そのものに成る。
    それ程に「接着剤的役割」の役割であれば、無理に「長谷川氏」は子孫縁者を使って「青木氏」と血縁する余裕は無くそれを他氏の血縁に振り向ける方が得策であろう。
    現に「進藤氏」は「利仁流進藤氏」の方が末裔を拡大し、本流の「秀郷流進藤氏」は代々跡目を何度も他氏から採らなければ成らない程に末裔の広がりは本家筋だけで殆ど無い。
    故に、「進藤氏」は「長谷川氏」と違って「接着剤的役割」を果たす事に専念し、繋がりとして「共通血縁族8氏」に全精力(100)を注いだと見られる。
    又、これで「長谷川氏」が「接着剤的役割」の働きを採っていなかった事が判る。

    「長谷川氏」は111氏と大勢力を持つ氏力を保有している。必然的にその力は「接着剤的役割」に留まらず、「2軍の将」へと必然的に当然に進むだろう。又、その方が兼光流の「青木氏」と繋がって置く方が戦略上で補完関係を構築出来てより得策と成る。
    だから史料では「2軍の将」の「悪の結末」に成っていないから、藤原秀郷一門の末裔は遺したのである。
    故に、この「2つの領袖」の「青木氏」と「長谷川氏」と「進藤氏」は、数式で表すと次ぎの様な関係であろう。
    「青木氏(116)」>「長谷川氏(111)」+「進藤氏」−−−−「永嶋氏」
    「第2の宗家:兼光流領袖:第3氏家法」>「文行流領袖」+「接着剤的役割」−−「先鋒的役割」

    この数式が成り立っていて良かったから「悪の結末」に成らず現在まで末裔を遺したのではと考えられ、この数式を維持していたと必然的に成る。

    この世の「役割の違い」は、「氏家制度」では、その「氏力」が起因して「自然の摂理」で定まって行くものである。
    この「永嶋氏」、「長沼氏」、「進藤氏」も同様の「氏力の差違」、即ち「血縁の特長」で定まったものであり、この史料2のデータと成っているのである。つまり、「血縁の特長」で束ねていたのである。
    「進藤氏」と「長谷川氏」とのその「中間的役割」として、「永嶋氏」、「長沼氏」があるが、「関東屋形」と呼ばれるくらいに後発の「永嶋氏」の方の勢力が高まり、その勢力を戦略的に一門の防御の為には、「永嶋氏」との繋がりを強くしていた事を示す証拠でもある。
    「永嶋氏」が3氏の処で高い血縁数字を示しているのは、九州地域の豪族との血縁にその勢力を補完している事による。
    「戦略的役割」が在ってもその働き手が無ければ「絵に描いた餅」である。
    史実をよく観ると、この役割を実行している氏が居る。
    それは上記の「戦略的役割」の数式に、「永嶋氏」の「戦術的役割」が働いていたと観る。

    永嶋氏の本分でも強く述べてが、当時、永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれていたのがその証拠であろう。
    つまり、「戦略的役割」を実行し行動を起す「先鋒的役割」を担っていたと観る。
    現に、後発でありながら中部西域から関西西から中国地方に向けて勢力を伸ばし攻撃的に進出していたし、北九州の大豪族の「大蔵氏」との繋がりを持ち「永嶋氏」を発祥させた。「六韜三略」の「鶴翼の陣」の最先端部の役割を果たしていたのである。「永嶋氏」の家紋群から見てもその役割が観得る。
    しかし、長沼氏の事には不詳な点が多い。そこで、この長沼氏の系譜の事に付いて触れて置くことにする。
    まず、結論からすると、「長沼氏」はこの「戦術的役割」の補完を担っていたであろう。
    史実には強く出てこないし、血縁類も先発である事から、「先鋒的」な血縁類ではない。
    系譜から考察すると、かなりこの氏は「貴族的」な感覚を保持していたのであろう。
    しかし、主要5氏の一つであるのだから、長沼氏一門の誰かがこの役目を担っていたはずである。
    そこで、考察すると系譜からそれを物語る。
    結論から、「長沼氏」には「中沼氏」が存在する。
    従って、この(支流)の「中沼氏」が当然注目される。しかし、主要5氏に成り得る勢力を保持したのであるから「貴族的本家」に対して、中沼氏がその役目を代行していた事に成る。
    その氏が同系列の「中沼氏」である。
    この「中沼氏」は子孫末裔を大きく伸ばしている処から観ると先ず正しいのではと考える。
    現に、現在に於いても、歴史家の中では、実は、この「長沼氏」と「中沼氏」とは同じ氏とする説が大勢であるのはこの代行から来ているので誤解されていると観る。いや誤解ではなく解釈の違いであろう。しかし、この二つのルーツは「長沼氏」が出てそしてその系列から「中沼氏」が出ているし、始祖はずれているので系譜上は分派している。
    先ず、古い文献資料を考察すると長沼氏は次ぎの様に成る。
    1 長沼氏、
    2 中沼氏、
    3 仲沼氏、
    4 永沼氏
    1から4と4つ出て来る。

    この「長沼氏」は室町期まで観ると「9つの流」がある。
    藤原秀郷流をベースとして、次ぎの様に成る。
    長沼氏9氏である。
    渕名氏族、小山氏族、藤原秀行流、土岐氏族、日奉姓西党流、宇都宮族、桓武平氏族、島津氏族、織田氏族 
    以上9氏である。

    この中で、明確に「中沼氏」と称しているのは、次ぎの3つである。
    小山氏族と宇都宮氏族と島津氏族とがある。
    島津氏族は時代性と地理性から観て異なるだろう。

    明らかに、小山氏族と宇都宮氏族である。
    先ず、「小山氏」は「関東屋形」の1つであり中沼氏を出している。
    「永嶋氏」の「関東屋形」の「先鋒的役割」の「関東屋形」である。
    更に、この小山氏は秀郷一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任した陸奥での最大血縁族であり、関東に同行して来て大きく勢力を伸ばした野戦的一族である。

    同じ「関東屋形」の一つ宇都宮氏族の中沼氏もある。
    秀郷一門より分流した宇都宮氏である。

    「関東屋形」の結城氏系永嶋氏(長嶋氏)と合力して、秀郷一門を「先鋒的役割」を果たした小山氏、宇都宮氏の3氏である。

    上記の長沼氏族4氏の内の中沼氏はこの2つである。
    長沼氏一門が動くとしたら、この「関東屋形」の野戦的一族の経歴を持つこの「中沼氏」以外に無い。
    後は「渕名氏」を除き、6つは支流分派族でもあり、第3氏性も強く仲沼氏や永沼氏や又どちらともわからない一族でもある。

    この結論は上記の「渕名氏族長沼氏」である。
    6代目「渕名氏」(兼行:第2位発祥)の子の7代目考綱の「長沼氏本流」は秀郷一門第3位の発祥氏であるから、貴族的な傾向が強いので、正流長沼氏一門のこの二つの野戦的一族「中沼氏」(祖宗政)に任したのであろう。
    その方が、「永嶋氏」との関係からも同じ「関東屋形」として「先鋒的役割」の実行を円滑に行く。
    逆に云えば、この3氏だから、「関東屋形」であり、その「先鋒的役割」を果たしたからこそ云われる呼称なのである。
    つまり、ここに秀郷一門のその役目が隠されていたのである。「関東屋形」と云う呼称で。

    「関東屋形」=「先鋒的役割」=「野戦的役割」
    である。

    「繋がり」から観れば、夫々の役割は持っていたであろうが、血縁データから「青木氏」、「長谷川氏」、「進藤氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の順となろう。
    秀郷一門のを盛りたてる役割は次ぎの様な戦略を採用して一門を維持していたと考えられる。

    秀郷一門の主要5氏の役割
    青木氏の「第2の宗家」(兼光流領袖) 秀郷一門全体の指揮
    長谷川氏の「第3の宗家」(文行流領袖) 青木氏と綿密に血縁戦略を展開
    進藤氏の「接着剤的役割」(兼光流−文行流)「第2の宗家」の官房役 調整役
    永嶋氏の「先鋒的役割」(実践的活動) 「関東屋形」
    中沼氏(長沼氏)の「先鋒的役割」(永嶋氏の補完役) 「関東屋形」(小山氏、宇都宮氏)

    では、主要5氏と呼称される位であるのだから、長沼氏は”何もしなかったのか”と疑問が湧く。

    結論は”長沼氏は実は大きな「政治的役割」を果たしていた”である。

    実は、その証拠が活動の史実として在るのである。
    それは関東に「西党」と呼称される「土豪大集団」(20)が存在した。
    その大集団が更に「武蔵7党」と云う「土豪の結束連合集団」に属していた。
    これを「長沼氏」は20の土豪集団「西党」を率いて、この「土豪の結束大連合集団」を統括していたのである。

    中沼氏の本流の「長沼氏」は史料から読み取ると、青木氏に代わって、主に「政治的組織」の「統括役割」を担っていたのである。
    その理由として、関東の「武蔵7党」の「西氏」の「西党」の形成にある。
    長沼氏は関東一円の小豪族を一つにまとめて、「西党」なる集団を形成し、更に武蔵一帯域にこの様な集団を形成させて「武蔵7党」の「連合組織」を形成していたのである。その一つを統括していた。

    その「西党」とは20氏から成り立っている。
    西党の構成氏
    長沼氏、西氏、上田氏、小河氏、稲毛氏、平山氏、河口氏、由木氏、西宮氏、由井氏、中野氏、田村氏、立川氏、沼江氏、信乃氏、高橋氏、清恒氏、平目氏、二宮氏
    以上20氏である。

    「武蔵7党」の中の1つの「西党」は以上の20氏の小豪族で成り立っていた。
    つまり、秀郷一門の主要5氏の一つ長沼氏は、関東一円の地元の小豪族を宗家に替わってまとめる役目をしていた事を示すものである。
    それは、「青木氏」に継ぐ名門「渕名氏」の「長沼氏」であるが故に出来る事であり、「第2の宗家」の「青木氏」が各地に赴任する中で、地元から崩れないように政治的に固めていた証拠である。
    そして、「長沼氏」の一門の中で、「中沼氏」を秀郷一門の戦略に参加させていた事に成る。
    言わずもがな、これ等の集団と長沼氏を中心とする「血縁関係」を保持しての事である。
    他にも、更に証拠があるが、ここではこの程度しておく。(別途機会があればレポートする)

    つまり、長沼氏は本家筋は「西党」を形成して更に「武蔵7党」と連携しながら「政治的役割」を果たしていたのである。
    確かに、入間を中心に円を描く様に青木一門が取り囲んで固めても、元は下野の押領使である秀郷が最終、この武蔵下野を始めとする関東を統括するには、古来から居た土豪集団を治めねば成り立つ話ではない。家の中に爆弾を抱えているようなものである。
    当然、先ず領国とする以上はこの土豪を治める事から始めねば成らない。
    青木氏だけでは成り立たない。当然、その役目は青木氏に継いで第2、3位発祥の古参の氏と成る。「渕名氏」か子供の「長沼氏」かと成る。渕名氏族「長沼氏」がこの役目を担った。
    この渕名氏族長沼氏は、土豪を先ずまとめる事から入り、先ず自ら「西党」を構築し、次いで、各地で集団化を促し、最終、「武蔵7党」が形成されたのである。元々この地には丹治党などの幾つかの弱い集団が出来ていた。丹治氏系青木氏が存在するのはこの役目の所以の血縁である。
    一口で”関東一円の土豪集団をまとめる”と云うが大変な事である。軍事、経済的だけでは離反する。秀郷一門の懐だけに実に固く固めておく必要がある。それには、血縁で何重にも固めることが必要であろう。これが、主要5氏の1氏2氏の血縁族の家紋群である。
    血縁となれば、長沼氏だけでは一門との血縁もあり成り立つ筈が無い。
    故に、データでは、長沼氏が一番低い数字と成っているのである。この長沼氏の役目の方に振り向ける必要があった事を意味する。
    そこで、「青木氏」の指揮の下に、5氏の縁者を婿、嫁、養子を問わず振り向けて固めたのである。
    長沼氏(25%)と青木氏(33%)の血縁族には、これらの関東土豪氏(武蔵7党と西党等)との血縁氏が他氏と較べて段突に多く観られる所以なのである。(史料9、10/10参照)
    この様に、「長沼氏」は大きな「政治的役割」を果たしていたのであり、秀郷一門としての役割の責任は一門の「中沼氏」に委ねた。
    これが「関東屋形」と呼称されるものであり、秀郷一門の本来の役目を果たしたと成る。

    長沼氏はこの「2つの役目」(懐を固める「政治的役割」と先鋒的行動する「戦術的役割」)を果たしていたのであるから主要5氏としての地位を築いたのである。

    この様に数字に示すように4氏に対して一門を血縁でも、「自然の摂理」とは云え、この偉大な青木氏は「第2の宗家」として、これらの構成の役割を見損なわずに指揮する者が居たからこそ成し得る血縁構成を後世に導いたのである。それは「青木氏」であったのである。150万と云う一門を現在に遺した誉れ高き青木氏である。

    それにしても、この史料−8/10−1、2のデータから、後世の末裔の我々が驚くほどに、「世の摂理」を見抜いて「子孫を遺す」事に卓越した「人格保持」、況や「悟り境地」にあった事がこのデータと史実を照らし合わせて観るとよく判る。

    史実だけでの分析からでは読み取れないが、「統計分析」して、その沈殿物を集めて、その内容を分析すると見えないものが浮き出て来る。
    筆者の研究の本質は、史料をただ「突き合わせる事」ではなく「統計分析」のここにある。
    つまり、「史実を数値化」する事にある。「沈殿物」にこそその「本質源」が潜んでいる。「遺伝子分析」もたんぱく質を遠心分離して特殊光を照射する事で遺伝情報を引き出す様に。
    この史料は9/10、10/10とまだ続く。未だ未だ秀郷一門を浮き彫りに出来るだろう。


      [No.201] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 8/10-1(時代の対応)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 20:11:09  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 8/10-1(時代の変化に対する対応)
    副管理人さん 2008/12/26 (金) 19:11
    史料8/10-1

    この史料は主要5氏の”時代に対してどの様に血縁状況を適応させていたのか”を統計的に家紋を分析して、その姿を今に再現しようとするものである。
    そこで、その内容を次ぎの2つに絞った。

    (これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)


    この史料1(時代の変化に対しての推移)と、史料2(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)に付いて、「時代性」から観た青木氏と他の4氏との「共通血縁性」を統計分類したデータである。

    (作成要領と注意は史料7/10と同じ)
    (史料1−5/10を基本に統計分類しデータ収集 参照)

    平安(H)、鎌倉(K)、室町(M)、桃山(A)、江戸(E)の夫々の時代で、秀郷一門の「共通血縁族」(2氏から5氏)がどの様に、且つ、どの程度出来上がって行ったかを考察する。

    このデータは他に「一門の有様」の「色々な状況」を発見するのに使う事が出来る。
    今回は特に上記の2つの内容に絞ることで、秀郷一門の出来上がり具合(氏力の推移)を浮き出させる事にする。

    先ず、史料1(時代の変化に対しての推移)から考察する。

    「共通血縁族」
    史料1−1

    3氏合計の場合       4氏合計の場合         5氏合計の場合
    H:09  11%      H:13  11%        H:20  06%
    K:03  04%      K:04  04%        K:24  07%
    M:35  41%      M:45  38%        M:126  39%
    A:20  24%      A:27  23%        A:82  25%
    E:18  21%      E:28  24%        E:75  23%

    2氏合計の場合       全体の平均
    H:03  08%      H:36  09%
    K:07  18%      K:33  08% 
    M:13  33%      M:151  38%  
    A:09  23%      A:95  24% 
    E:08  20%      E:88  22%

    (時代の家紋数/全家紋数)=X%
    (但し、例えば3氏(4、5)とは青木氏と他主要4氏の何れか2氏(3、4)との合計を意味する。)


    史料の考察
    史料1に付いて。
    平安期に於いて
    主要5氏の「共通血縁族」は「5氏の場合」のレベル(6%)は意外に低い。
    これは平安期の「氏数」(40)が大きく育っていない為に少ない事が先ず云える。
    尚且つ、その中で「血縁相手」が幾ら各地での「血縁戦略」とは云え、土地の土豪程度であった。
    従って、「氏家制度」から藤原秀郷流主要5氏と他氏との「血縁の吊りあい」の取れる相手が少なかった事が云える。この2つ等が主な理由として挙げられる。
    特に、5氏の中で、青木氏だけは「第2の宗家」としての立場から難しかったのではないかと考えられる。その為に数字を下げていると観られる。
    更に、平安期での後発族の2氏(永嶋氏、長谷川氏)の血縁力はまだ拡げるに必要とする「氏力」が低かった事も誘引しているだろう。
    しかし、「3氏、4氏の場合」共に「共通血縁族」の数字は11%と一割を占めている処から観るとこの時代としては5氏の6%は妥当なレベルと考えられる。
    これは、上記の4つの理由からすると6%が妥当であるとするならば、赴任地24地方の相当な豪族との血縁を青木氏は進めていた事にも成る。
    それは他の4氏と異なり「移動性」が高かった事によるだろう。特に、「全体の平均」(詳細事例確認:9%)(11%と6%)から観て上記4つの原因と合わせて、次ぎの事柄で「5氏共通性」が低い数字(伸悩み原因)と成ったと考えられる。

    伸悩み原因
    1 青木氏の「第2の宗家」としての立場
    2 発祥の先発後発の関係
    3 地理的な関係
    4 立場、役目の違い
    5 由来の違い
    6 移動性
    7 平家と競合(末期)

    1−7により夫々の氏の「血縁戦略」は異なるだろうから5氏全てを以って評価するには問題がある。特に、2の「発祥期のズレ」が大きく原因しているだろう。これで考えると、秀郷が一門を構えてから、間隔は最大で240年、最低で130年はある。当時としては、平均寿命から4代から7代の代替わりがあった筈で「発祥期のズレ」(4−7)は史料とほぼ一致する。
    この秀郷一門は、この期間のほぼ中間に居る「進藤氏」を中心にして、
    1 青木氏と長沼氏の「先発組」、
    2 進藤氏の「中間組」、
    3 長谷川氏と永嶋氏の「後発組」、
    この3つの組にはっきりと分けられる。
    この間には、「進藤氏」を中心に左右2つに分けると、その片側の巾は平均90{(60-120)/2}年と成るので、この事から、盛んに血縁を進めていた3氏、4氏の「共通血縁族」の11%からすると(上記の理由(1-7)があるとすると)、左右に分けた1/2(先発組分)のその6%と同じに成る。
    故に、「5氏の場合」のレベル(6%)は「妥当」な数字6%なのである。特別に低い数字では無かったと考えられる。
    何か特別な原因が作用してでは無く、普通の結果(氏家制度の中で)に依って得られた低い数字である。
    更に2氏(8%)と、より「共通血縁性」が高い3氏、4氏も含めての評価とすると、5氏は妥当な「時代性ある血縁」と見なされる。
    それなりに”しがらみ(1-7)”の多い5氏ならではの数字(努力)である。
    つまり、平安時代には、別の見方をすれば、主要5氏の「共通血縁族」は200年程度経ってやっと一割を占めていたと言う事である。
    平安期では、「氏」には広がりが出てはいるが、「氏力」即ち「一門結集勢力」(共通血縁力)としては、この意味としては「氏力」の一割は既に出来上がっていた事に成るし、秀郷一門の「絆」は1割であるので固まり始めていた事にも成る。
    しかし、一門に末裔の広がりを見せても、必ずしも「結束(絆)」が固まるとは限らない。
    史実を観ると、むしろ「結束(絆)」は恣意的に成し得て、且つ、維持をさせて始めて成し得るものであろう事を教えている。
    「嫁取り」すれば「兄弟は他人の始まり」とも云う。それが世の現実であろう。
    まして、「主家、分家」等「主従関係」の厳しい「氏家制度」の社会の中では「結束(絆)」は別であり尚更であろう。
    従って、全く他人が入る「嫁取り」では無く、秀郷一門間を「血縁関係」で固める事は、ここでは「結束(絆)」と成ると観ている。
    その上で、「第2の宗家」の物心両面の一門への「思いやり」が「結束(絆)」を高めるものと成ろう。故に、このデータの「血縁」+「思いやり」は「結束(絆)」となると観た。
    つまり、数式論で言えば、次ぎの様に成る。
    「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割
    「氏力」(「一門結集勢力」:共通血縁力)=1割
    故に、「共通血縁力」=「氏力」=「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割 と成る。

    更に、この論理ですると、言い換えれば、青木氏の「第2の宗家」としての「指導力」は全体の平均から観ても一門の1割を固めるだけの力を発揮していた事にも成る。

    平安期
    時代の状況:「貴族の社会」「氏家制度」
    秀郷一門の状況:藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」=「7つの確認事例」

    鎌倉期について
    ところが、鎌倉時代(K)に入り、矢張り一族に「失職離散」が起こり、政治体制も「武士の時代」と成り、秀郷一門の「貴族」の下に「侍集団」が構成されていた時代とでは大きく異なり、又、「豪族集団」もその「氏種」が異なった事もあり、そのレベル(4%)は平安期6%よりも低く成っている。
    多分、この時代は「血縁」と言うよりは「当面の生残策」に翻弄されていた時代であったろう事を物語る数字である。
    従って、この時代の血縁は、「同族内の血縁」を主体として固めていたのではないか。
    その証拠にKの5氏の「共通血縁」が7%と高い。青木氏を中心として翻弄されながらも「横の関係」を必死に整えていたの事を示すものであろう。
    しかし、ところが主要4氏と共通血縁性が低い青木氏と他の1氏(2氏の場合)の場合が18%と段突である。これは平安期では地方24赴任地での青木氏と土豪との「血縁戦略」があったが、まだ、主要4氏との「横の関係」の血縁までの発展には至っていなかった事を物語る数字でもある。
    この18%(単独の血縁数字)は青木氏が先頭に立って進めている「血縁戦略」(平安期8%)が次第に延びて来ている証拠の数字でもある。
    「氏力」には未だ至ってはいないが、全体の26%まで延びてきているのは、”「当面の生残策」に翻弄されながら、「横の関係」を必死に確実に進める努力をしていた”と成る。

    この「単独血縁」と「横の関係」が次ぎの室町期の混乱期の時代に大きく支えに成ったのである。
    この時期、同時に「青木氏の単独血縁」の努力と合わせて、後発の永嶋氏や長谷川氏らが構成する5氏の6%(平安期)から7%(鎌倉期)と+傾向に成り、全体13%の数字が示す様に、やっと力を付けて延び始めた時期でもある。

    鎌倉期
    時代状況: 「失職離散」「武士の時代に変化」「氏種が変化(豪族集団)」
    秀郷一門の対応:「当面の生残策」(横の関係)「同族内の血縁」「青木氏単独血縁」「長谷川氏永嶋氏の台頭」

    室町期に付いて
    そして、室町時代ではなんとその努力が実り、丁度、高率の40%を占めている。
    この「地道な努力」の「冬の時代」から一挙にその努力が花を開いたことを意味する。
    況や、秀郷一門の鎌倉期の対応が正しかった事を示す数字と成っている。

    一門全体の「同族内の血縁」による「氏力」の半分がこの時代の混乱期に出来上がったことを示す。
    この時代の背景、即ち、「下克上、戦国時代」の攻撃を受けながらも、これだけの「氏力」(40%)を形成したのは、藤原秀郷一門は青木氏の「第2の宗家」を中心に一致協力して、「下克上」の攻撃には「受け」に入らず「攻め」の体制を採ったからであり、この数字はそれを物語るものである。

    普通は、「下級武士の台頭」を中心とした「下克上」「戦国時代」では、「伝統」を主体としてた氏は「受け」に入り衰退するのが現実の理屈であった。また普通はその様に予想するであろう。
    ところが、秀郷一門の現実の史実は、一門は「焼き討ち等の憂き目」を受けているが、「子孫」「血縁」と云うテーマで観た場合は、データの通り違うのである。
    つまり、この40%は「時代の生様」を具現化する見逃しては成らないデータである。
    果たしてこれは何を意味するのか。深く考察に価するテーマであろう。

    そこで、敢えて検証を進める。
    一体どの様な戦略で対応したのであろうか。そして、その「生き様」(経緯)はどの様であったのだろうか。
    「焼き討ち等の憂き目」が在ったためにそれを「警鐘」として受け止め、一門がそれまで創り上げていた「氏力」15%で先ず「横の関係」を図り、身を鎧の様に固め、24地方の一門は青木氏を中心に据え「一致結束」して「戦い、排除」しながらも、「24地方の血縁族土豪集団」をひとり立ちできるように「育成」してたのでは無いかと観ている。
    その為に、「下克上」の下級武士等の不満は、同じ立場に居た「24地方血縁族土豪集団」を「潰す」と云うところまで処せられなかったと観ている。

    現に、それには次ぎの証拠があるのである。
    それは家紋分類の史料(3/10)をもう一度参照されたい。
    ここに隠れた証拠が潜んでいたのである。それはある種の「集団防衛」システムである。
    各地の秀郷一門の土豪集団は、このシステムで動乱期に臨んだのである。
    後の安土桃山時代にはこれ等は一種のシンジケート化した集団として遺したのである。
    このシンジケートが、又、次の時代の生き抜く重要な力と成った。
    つまり、「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱に誘引されて「跡後」に訪れるそれは世の「必然の流れ」では無かったかと観られる。

    しかし、ここで、この対応策の「集団防衛」は「精神論」だけでは成り立たない。
    当然に「経済的裏打ち」が取れていてこそシステムなのである。
    既にお気づきと思うが、秀郷一門の「第2の宗家」青木氏の「2足の草鞋策」で「裏打ち」されていたのである。
    恐らく、青木氏はこの「裏打ち」の為に、「第2の宗家」として一門を支える為に採った「必然の策」であっただろう。
    「氏家制度」による「手弁当の掟」から観ても、「領地から得られる税収入」を以って一門を支えこの動乱期を乗り切るだけ力は無かった筈で、秀郷一門にはどの様に見積っても到底その財力は出て来ない。有史来、史実の中で「世中の動乱の動き」(必然の流れ)を押し返すだけの「氏力」の持った氏は何処にも無かった。
    たとえ、頼朝、尊氏、秀吉、家康にしてもその時代の「世中の動乱の動き」(必然の流れ)に上手く乗っただけである。自分の「氏力」のやり方で押し返したのではない。
    まして、24地方の赴任地に戦略として「血縁族」を作っている。室町期まで上記の通り育ててきたこれ等の「血縁族」に生き残らせる為に「軍事的支援」のみならず「経済的支援」を必要とする。まして、動乱期(有史来「世中の動乱の動き」:必然の流れ)である。尋常の「経済的支援」では済まないであろう。
    これ等の育ちかけた「抹消の血縁族」を生残らせ、尚更に、育てるには尋常を超えていると観られる。
    と成ると、「人の心」は、必然的にその財源を求めようとする。
    しかし、その「財源」は他氏を攻め落として領地を増やして得られる収入の範囲ではない。
    それに頼れば「犠牲」も多く成り、育てている「抹消の血縁族」は疲労し潰れ離れて行く事は世の必然である。
    だとすると、「人の心」に生まれる知恵は「地の利と理」と「役職の利」を先ず考える。
    税としての物資を裁くは「役職の利」そのものである。当然、それを「守る武力」も役職である。裁く「商いの繋がり」も一門の縁故を使える。
    この様に「2足の草鞋策」の「商い」の条件は整っていると成ると、むしろ、これだけの条件を使わない方がおかしい。「人の心」はその方向に間違いなく動く。これが「必然の動き」である。
    それは「24地方の血縁族」の力も使えるし、その24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせば商いは成り立つ。まして動乱期である。
    「動乱の戦い」のその「軍需物資」を扱う事が出来れば大商いは成り立つ。当時では、食料は当然の事、鉄や銅や金などの「鉱物資源」と成ろう。

    参考
    自然の摂理で、太平洋プレート、ユーラシャプレート、フィリピンプレートの3つのプレートが重なる地域には地殻の動きで比重の重いものが集まるのが冶金学的な特長である。
    信濃と上野と甲斐の境界点付近の3合流を基点に能登佐渡との中間を結ぶ線上帯に鉱物資源は集まる。

    さて、ここで、本文の進藤氏のレポートを思い起こしてもらいたい。
    大変な藤原秀郷一門の戦略が観得るのである。
    再度、概容として、進藤氏は秀郷一門が発祥であった。ところがこの秀郷一門の進藤氏は「秀世」のところで男系跡目に苦労した。そして、利仁流の「藤原為輔」と出羽国で出合った。そして、この進藤氏を為輔は引き継いだ。この進藤氏を「接着剤的役割」でリードした青木氏は利仁流との血縁関係を戦略上で持とうとした。
    この利仁流は北陸道7国を代々の勢力圏としている。何故、この北陸道に目を就けたのか。
    一つは、確かに藤原秀郷一門の「氏力」の「血縁戦略上の強化」であったであろう。しかし、それだけでは無いと観る。それは上記の資源帯のこの北陸道一帯に存在する鉱物資源である。

    既に、頼朝に潰された秀郷一門の「平泉三代」の栄華はこの鉱物資源(金)の確保から来ている。
    又、信長、秀吉の経済力もこの北陸道地域を抑えた事から全国を平定した。
    当然、この知識を知っていたであろう。同じ秀郷一門宗家が知らないはずが無い。
    (史実は足利氏、信長、秀吉、家康も先ずこに最も信頼できる人物を差し向けている。)
    「武力」だけではない「経済力の裏打ち」が必要であると、間違いなくこの事を知っていた筈で天下を取ろうとする者がこのことを知らない方がおかしい。
    だとすると、喉から手が出るほどに「経済的な裏打ち」を望んでいた筈。これを一門を維持するには戦略上見逃す筈が無い。
    しかし、直接、「武力」でこれを抑えるには室町期では藤原氏の「50%の氏力」では無理であろう。
    だとすると、「血縁戦略」以外に無い。まして、土地には藤原北家一門利仁流が土地に根付いている。直接支配は室町幕府の直轄であるが、現場の支配は利仁流一門が担っている。これを「商い」として結び付けば、相当の「経済的効果」は挙げられる。
    これに目を付けて進めた血縁戦略ではあった筈で、利仁流一門からしても当時とすれば3倍以上の程度の「氏力」を保持している秀郷一門からのこの「力」を借りて「経済的裏づけ」を持ちたいと云う立場にあった筈である。藤原北家一門でその恩恵を分かち合える事が出来る。
    秀郷宗家としては、貴族であり「武力」と「商い」は法度であるとすると、「第2の宗家」の青木氏としては、24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせる「大商い」と、「軍需物資」を扱う事が出来る「大商い」の2つを見逃す事は無い。
    これが、青木氏の藤原秀郷一門の戦略であった。
    この「必然的な流」の中でのその知恵が青木氏に働かせたのである。

    その「必然の流」(A−B−C)とは次ぎの様にまとめられるのではないか。
    (A)「下級武士の不満」「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱
    (B)「縦から横の関係」「一致結束」「24地方の血縁族土豪集団化」「2足の草鞋策の裏打ち」
    (C)「秀郷一門の集団防衛化」

    (A)が起こり、混乱から逃れ生きる為に「味方を呼び集め」、一心に「身を固め」、他に「生活の糧」を得んとして、必然的に人の心に(B)の「自然の流」が起こり進み、結果として(C)の生き延びられる「形」が生まれた。とする。

    この「必然の流れ」の中で青木氏は、それを(B)を得心し、一門をリードし、自ら「糧」を生み出しす役目を果たしたのである。

    一門の「2足の草鞋策」は史料から観てみると、年代は不詳だが由来書や系譜説明等の内容の経緯から、丁度、この時期(末期)から実行されている。

    史料から他氏の時期を記述する事には問題があるので、因みに筆者伊勢青木氏の紙問屋紙屋の青木長兵衛の事に例を挙げて記する。
    丁度、この頃、同じ苦境にあった青木長兵衛は「土地の利と理」(伊賀紙)と「守護の立場」を生かして1325-40年頃(鎌倉−室町期)に「2足の草鞋策」に挑んだのである。史実は秀郷一門の青木氏も同様の時期に「2足の草鞋策」を各地で採っている。(詳細下記)
    逆に、動乱期に於いては「2足の草鞋策」にも「経営と物資運搬」の防衛の為にシンジケートが必要である。この必然的な「相互依存の環境」にあった事がこの「システム完成」を助長した。
    「下克上、戦国時代」後の安定期には、これ等がシンジケート化して現存したのである。
    「比叡山などの寺社集団」や「2足の草鞋のシンジケート」のこれに苦しんだ信長以後の主導者の秀吉、家康は「戦わずして勝つ」と云う戦略上で挑み、史実上、逆にこの2つを味方に引き入れて利用し勝利した事に成る。
    つまり、2人はこの藤原氏一門の「戦い方の史実」としてこの各地の「防衛集団」種を充分に認識し承知していた事を示すものでもあろう。そのために戦いに有利としてこのシステムを持つ藤原一門はこの2人に大いに雇われ仕官したのである。
    その決定的な事例の「典型的事件」がこの時期に起こっている。それは「南北朝の戦い」で楠木政重(菊水紋)と北条氏10万の戦いであろう。

    この特長データから考察すると、各地に満遍なく、且つ、大変な量の集団が形成されていたかが判る。これでは、「下克上、戦国時代」では「勢いのある焼き討ち集団等の敵」に対して、何とか抗する事が出来たのではないかと容易に想像出来る。

    史料(3/10)の特長として、「一門の集団性」がある。つまり、「2つの種類の集団」が秀郷一門の家紋類に大きく存在するのである。

    「2つの種類の集団」
    1つは、地域に根ざした「土豪の集団防衛」である。
    2つは、地域の氏子の「寺社の集団防衛」である。

    この「血縁族」をまとめた「集団防衛」は他にレポートした「伊勢の青木長兵衛」のそれをはるかに超えた大きいものである。

    史料1−2(一門の集団性)

    主な秀郷一門「土豪の集団防衛」群
    中国地方では、亀甲族集団(8党)、鷹羽党(3党)
    関東地方では、武蔵族(7党)、関東屋形族(4党)、坂東族(8党)、矢車族(2党 荒川党)、大島族(2党)、根笹族(4党)、駿河族(3党)
    中部地方では、伊川津族(7党)、諏訪族(2党)、真田族(2党)、伊勢族(2党)
    関西地方では、河内摂津族(7党)、紀州一党(雑賀族、根来族、巨勢族、葛城族、紀族、平群族)、熊野神職族(5党)、上山党(2党)、伊賀族(2党)、菊水党(2党)
    四国地方では、讃岐族(讃岐籐氏4党)、阿波族(阿波藤氏2党)

    (注)史実上、秀郷一門の何らかの「流」を汲むもので、以上は動乱期前後までに何族、何党、何衆と呼ばれた共闘集団を構成したものを記述した。
    (注)史料3/10では枝葉氏の家紋まで記述していない。

    主な秀郷一門「寺社の集団防衛」群
    出雲大社氏子集団(亀甲紋神紋:美作、安芸、出雲の氏子)
    阿蘇大社氏子集団(鷹の羽神紋:氏子が中国地方に移動 菊地氏、浅野氏)
    伊勢大社氏子集団(柏紋神紋:久志本氏)
    熱田大社氏子集団(柏紋神紋:千秋氏)
    宗像大社氏子集団(柏紋神紋:宗像氏)
    吉田大社氏子集団(柏紋神紋:吉田氏、ト部氏)
    吉備大社氏子集団(柏紋神紋:大守氏)
    春日大社氏子集団(下がり藤紋:藤原一門)
    菅原大社氏子集団(梅鉢紋神紋:菅原氏系)
    天台宗檀家集団(摩多羅神の神紋寺紋:抱き茗荷紋:二宮氏系)
    加茂大社氏子集団(立ち葵紋神紋:西田氏系 丹波、信濃、三河)
    柊明神社氏子集団(抱き柊紋神紋:丹治氏、大関氏)
    諏訪大社氏子集団(立ち梶の葉神紋:諏訪氏)
    熊野大社氏子集団(やた烏紋神紋:熊野5氏)

    (注)史実上、秀郷一門の何らかの流を汲むもので、血縁関係が認められる集団で、以上は動乱期に共闘集団を構成したものを記述した。更にこの期間では、完成した「防衛共闘集団」になりかけのものも含まれている。以上、2つの「防衛共闘集団」に更に夫々小さい土豪の集団が枝葉する。
    (注)柏紋の大社神紋は主に三つ柏紋8種に分類される。

    これだけの「2種の大集団」を一つにしてシンジケート化すれば、「表の勢力」に比較できない程の「裏の勢力」が働く事は間違いない。「裏の勢力」であるが故に、室町政権から直接睨まれる事は無く、又大儀明文が無い為に出来ないであろう。

    上記の経緯から、この時代の期間では、「他の氏の入れ替わり」が起こったにも拘らず、全体としての一門の「氏力」の推移は、平安期10%の「氏力」(基礎力)から苦難の中で鎌倉期では15%と維持し、その努力が生きて室町期(39)では全体では55%と拡大に繋がったものである。
    これは平安期の藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」が、時代の変化にも拘らず鎌倉期の群雄割拠の侍時代(土豪達)に、効を相して血縁族が台頭したものである。
    それが室町期では、この台頭の血縁した土豪、地侍等が「勢力争い」に勝ち抜き一門が「氏力」を広げたと成る。
    勿論、この土豪、地侍に秀郷一門が積極的に「武力と経済」で「裏打ち」したのは紛れもない事実であるが、終局、彼等の集団は「共通血縁族の主要8氏」と大豪族と成り得たのである。
    この終局の室町期は「共通血縁族の主要8氏」がこの数字を作り得たものである。

    その室町期の「氏力」の出来上がり具合は次のように成る。
    2氏で59% 3氏で56% 4氏で53% 5氏で52%
    この数字から観ると、5氏だけに拘らず青木氏と1氏までも50%台であり、”一門と血縁族全体が均一に「氏力」を固めた”と云う事であり、”取り残しは無い”事に成る。
    ”赴任地24地方の血縁族が全て生残り、尚且つ勢力を拡大した”と云う事は、如何に秀郷一門が強かったかを物語る。
    この強さは当然に一門を指揮したからこそ強いのであるから、これは当然に青木氏の指揮如何に関わる事である。指揮のない「烏合集団」はやがて衰退するがこの「世の常道」である。
    つまり、秀郷一門は「烏合集団」では無かった事を証明する。
    これは後の時代に遺す「一門の絆」の強さを示すものである。
    青木氏と他4氏との関わり具合が均一である事は、明らかに「血縁戦略」即ち「青木氏の指揮」が徹底していた証拠にも成る。
    これでは、秀郷一門が時代に取り残されずに生抜けた事がこのデーターでも明確に解る。

    安土桃山期に付いて
    そして、その「氏力」が安土桃山時代ではその勢いが続き25%と氏力を維持させた。
    多分、室町期の40%が無ければ、この高い「氏力形成25%」は無かったであろう。

    この時代は「群雄割拠の時代」から「選別の時代」へと変化して行った時代である。
    その中で「選別された豪族」(「共通血縁族の主要8氏」等)との血縁が結ばれ、主要5氏が時代に即応した「氏力」を培ったと言う事に成る。この事は主に「分家筋」との血縁を優先させた事が頷けるし、その証明に成る。
    「共通血縁族の主要8氏」からそれを主軸として、更には「選別」により駆逐されてこれ等「枝葉の末裔末孫」の「横の血縁」を拡げたに他ならない。つまりは、鎌倉期に勢いのあった2氏(18%)のところまで主要4氏との血縁は進んだことを意味する。

    普通、この時代は時代のめまぐるしい変化に即応出来ずに古い氏は全て衰退し消えて行った時代でもある。その中で生残れたのは、「時代の変化」に拘らず、これもH、K、M(55%)と「氏力」を即応させた結果による。
    しかし、生き残れはしたが、秀吉には、史実上に記録されている氏として、豪族クラスでは、四国の讃岐藤氏一門、阿波の藤氏一門、伊勢の秀郷一門の青木氏、永嶋氏、伊藤氏、常陸の結城氏、小山氏、陸奥の結城氏等が多くの秀郷一門が潰された。数えられない程である。逆に、徳川叙封禄に記載されているもので、江戸初期には家康に依って潰された青木氏等の秀郷一門も多い。
    多少の戦いはあったとしても、殆ど「選別」に類する衰退である。
    (機会あれば何時か衰退した青木氏等のレポートもしたい)

    安土桃山期に付いては上記した室町期から桃山期初期の秀郷一門の「生残りシステム」が効かなかったことに成る。
    何故ならば、彼等二人はこの一門の「生残りシステム」を熟知し、真似をし、利用し、駆使したに過ぎない。
    同じ「生残りの戦略」で対抗されれば、「時の勢い」の持ったものが勝つのが常道である。
    違うものを持った同士の戦いであれば、「群雄割拠」であり、殺戮の少ない同じシステムの戦いであれば「選別」であろう。

    しかし、ここで、特記する事は、秀郷一門の生き方の数式論である。
    「生残りシステム」から「選別」が起こると差し引き残るものがある。
    {秀郷一門}=「生残りシステム」−「選別」={時代の趨勢}
    1 「生残りシステム」=「血縁戦略」+「経済(2足の草鞋策)」であった。
    2 「生残りシステム」−「選別」=「経済(2足の草鞋策)」と成る。
    3 「経済(2足の草鞋策)」は無傷である。
    4 そうすると、「全秀郷一門」−「選別」=「選別された遺豪族」と成る。
    5 故に、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」と成る。
    6 そこで、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」=「共通血縁族の主要8氏」と成る。
    結論は、”{力の着いた「共通血縁族の主要8氏」}が一門を支えた”と云う事になる。

    しかし、これが選別後の江戸初期以降では、時代に即応して、6の数式論が大きく左右して末裔を遺し得たのである。

    因みに、再び、筆者の伊勢青木氏を例に挙げると、この典型的な数式論が成立しているのである。
    「伊勢攻め」即ち「天正伊賀の乱」と「伊勢永嶋の戦い」で、信長、秀吉と戦った。
    この時、青木氏は名張城、青木山城、柏原城など3つの城と平城の松阪館から戦いを挑んだ。
    信長は伊勢の入り口に丸山城を築く為に信長の次男信雄と滝川一益を差し向けた。
    この時、伊勢の500年歴史を持つ豪商紙問屋青木長兵衛が陰で建築物資を抑えて高騰させ物資不足を作り出し伊勢シンジケートを動かしてゲリラ作戦を展開した。そして、高額築城費と長期間を費やさせやっと出来たその日にシンジケートに天守閣を爆破させて消失させた。信長は烈火の如く怒り、信雄を蟄居させる事になった。有名な史実である。一方この時、名張の城では、別の顔を持つ青木民部尉信定は無傷、紙問屋長兵衛の店も無傷で、次ぎの「伊賀攻め」に備えた。
    その後、秀吉を先ず伊勢永嶋攻めに差し向けた。青木氏の手の内を知る秀吉は青木氏の陰の手口を封じて、材木を兵が切り裁き筏を組んで流したりして伊勢永嶋を攻めて北畠氏を潰した。次ぎにこの伊勢の背景を知る秀吉は、戦わずして勝つ戦法を使ってきた。藤原一門で清和源氏血筋も持つ蒲生高卿の子の歌人で軍師の蒲生氏郷を差し向けた。伊勢青木氏とは遠縁関係にあり縁故を使った。青木氏の背景を知る抜いている。戦うと両者ともに「シンジケート戦」で大きな犠牲を払う事に成る。青木長兵衛を説いた。条件を飲んだ。一端新宮に青木氏は引き上げた。
    氏郷は有史来松阪に城を築いた。1年後に屋敷町に2区画を与えて青木氏を戻し松阪の一部と玉城町を与えた。そして、その経済力とシンジケートを氏郷は潰さずに利用した。
    伊勢は発展した。その後、家康は関が原の戦いにその「経済力」と「シンジケートの力」を利用して合力した青木氏を氏郷と同様に無傷で青木氏を遺した。

    この史実は、秀郷一門と同様に、上記の方程式の「必然の条理」の上にあった。
    これはこの世の「必然の条理」に従った最高の戦略ではないか。秀郷一門はこの戦略に到達したからこそ子孫を大きく遺し得たのである。何をか況や、青木氏の指揮の下の所以である。

    時代の状況:「群雄割拠の時代」から「選別の時代」
    秀郷一門の状況:「共通血縁族の主要8氏」成長と「選別された遺豪族」「横の血縁}(分家筋)

    江戸期に付いて
    江戸時代に成ると、そして、その「必然の条理」の下に、江戸時代の藤原秀郷一門の主要5氏は多くはその背景を持つ事を重用されて大名、御家人、旗本に成った。
    この時代は「戦国時代の終焉」を経て「江戸の安定期」に入ったが、逆に「氏と家紋」は爆発的に増加した。
    (参考 氏数変化は家紋200選を参照 N40-H200-K800-M400-A1000-E2000-m8000)

    この中には「家柄や身分」などが「出世や羽振り」等に必要と成り、こぞって自分のルーツの故古を持って名乗りを挙げた。この中には疑問のものも多いが20%台を維持して血縁関係を維持したのはこのブームの影響もあった。
    つまり、室町期まで培った「正味の努力」の血縁で拡げたものとは異なるレベルである。所謂、江戸の「安定期」に起こる過去の「家柄の誇示」に過ぎない。
    「安定期」のこの時代にはある意味では「戦略的血縁」を必要としている訳では無かった。
    むしろ、「社会的必要性」(家柄)からの血縁ではあった。
    しかし、ここで秀郷一門の「戦略的血縁」を必要としないからと云って、レベルが低く成っていた場合は、現在の青木氏等の主要5氏は無かったのではと考える。
    「戦略的血縁」ではその勢いは息切れしたであろうし、一種の「接着剤的働き」をしていたと考えられる。この血縁は現在の青木氏を始めとして藤原一門の存続に大きく影響させた時代でもあった。
    秀郷一門にとってはその「社会的必要性」(家柄)を元より踏襲する必要が無かった事によるもので、江戸の時代の「軽い風潮」に振り回されることが無かった事が幸いしたものであろう。
    むしろ、「羨望の目」が向けられたし、この家柄が安定した「氏力」を保持していると評価されて認識されて、幕府や大名に仕官し、平安期と同じく再び高い位置を得た要因の一つと成り得たのである。

    世間の中級以上の武士は、この安定期では、衰退した朝廷に媚入り金品を支払い、誰しもが一代限りの名前だけの官職や爵位を貰い獲得し名乗ると云う風潮がはびこった時代でもある。しかし、藤原氏はこの必要が無く元より永代の官職を保持している事から、鎌倉期の失職離散の憂き目や室町期の下克上での敵対視された時代と異なり、今度は逆に一門の末裔である事が効果的に働き続けた時代でもあった。このために末裔はその一門の「氏力」を期待されて、多くの新興勢力の大名に逆に抱えられて出世した時代でもあった。
    これは、青木氏を中心に的確に「時代の先取り」を間違える事無く一門を指揮した為に、平安期から室町期までの上記した「血縁戦略」がやっと働いた事に成る。データはそれを物語っている。

    そのA、Eでは、共に3氏4氏5氏の青木氏との「共通血縁」が同じ数字20%台と成っているが、青木氏から観ると、総じて”5氏間は70%台以上が同じ血縁族で占められていた”と言う事であり、平安期から江戸期まで次第に相互間の血縁を深めて行った事に成る。
    普通ならば、「安定期」では、世間と同様に5%台程度の数字を示すのが当り前であったが、何れも20%台と言う高く巾のある「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)を維持していた。
    「家柄の誇示」等の「社会的必要性」(室町期から江戸にかけての風潮)と、地道な「秀郷一門の血縁戦略」に支えられた「氏力」が世間に受け入れらマッチングして2つの「相乗効果」を発揮したものであろう。
    その典型的な時代は室町期の数字の通りであり、且つ「混乱期」にありながらより「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力:40%)を高めていたその時代性(難行苦行の努力)にあり、この事を物語る。
    これは青木氏の一門に対する「指揮力」が在ったからこそ成し得たものであった。
    そして、その「指揮力」は「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)の裏づけにあった。
    統一した指揮指導がなければ40%の「氏力」のこの様な数字は残せない。普通は5%台なのであるから。
    「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)とは云え、結束は緩むものであるのが世の常である。ましてや「安定期」である。しかし、25%程度の「血縁力」を生み出し、決して”緩んでいない”のである。誰かが中心に成ってリードしてこそのこの結果であろう。
    私はそれが、「第2の宗家」の青木氏であると説いている。つまりは青木氏を中心として秀郷一門は「混乱期の余裕の不足」と「安定期の気の緩み」に2つに依って緩みかねない中で「氏家制度」を厳然と護っていた事の証しである。

    そして、この90%にも達した(2氏3氏4氏5氏共に)「氏力」が突然ある磐が崩れる如く崩壊したのである。今度は、「2足の草鞋策」も全く効果がなく明治末期頃までに崩れ去ったのである。

    その後の時代の経緯として、この結束は明治前夜の動乱に依って、「武士の体制」が壊れ、西欧化した「政治体制」が敷かれて、その基盤の「氏家制度」は崩壊して最早「血縁戦略」の意味が無くなり始めて一門は完全に離散したのである。その後、明治以降昭和20年頃までは、そう強くは無かったが、「社会慣習」として「家柄」だけは重んじられていた。その契機は終戦による「アメリカナイズ」により完全に社会から消え去ったのである。
    むしろ昭和は「日本的伝統」さえも「自由主義」と「共産主義」とで社会に「罪悪感」がはびこり否定された時代であった。平成に入り世界第2位の経済力を確保して人の気持に余裕が生まれて「自然の確保」とそれに伴なってあらゆる「伝統」が見直される時代へと変化してきた。
    最早、平成では、藤原一門の「景」は完全に消え去ったのである。
    明治から100年を経ているが、後世から見た藤原秀郷一門の生き様はどの様に理解され検証されるのであろうか。多分、藤原秀郷一門青木氏などの歴史的史実は霧消しているだろう。

    そこで、現在の社会体制の中では「家柄」「伝統」が大した経済的意味を持たないが、「心の伝統」(誇り)の持つ事の意味は「7つの民族」で構成される「融合単一民族」の日本社会にはあると信じている。
    「7つの民族」「融合単一民族」=「伝統」と成る。これが「日本人」なのである。
    故に「日本人」=あらゆる「伝統」である。
    とすると、「三段論法」が是とするならば、故に、「日本人」−「伝統」=0であり、「日本人」から「伝統」を差し引けば何が残るだろう。
    そして、もし「伝統」が認められるなら、「伝統」=「先祖」=「自分」=「尊厳 感謝」=「日本人の心」へと進化する。
    もし、日本人を「骨抜き」にする事を目論むなら、数式から「伝統」をことごとく否定する事により潰せる事に成る。これが左傾主義者の「目論み」であろう。行く末「伝統」の破壊は「革命」であろう。故に我々「日本人」であり続けるためには、「伝統」の啓示にある。

    その「伝統の啓示」は最早、今の時代のみしか無く成っている。次世代では史料もさることながら「心の伝統」も蘇させる事は無理であろう。「時代の動きとウネリ」は計り知れないほど大きい。せめて、筆者は青木氏の子孫の一部にでも遺したいと考えていてこの史料関係の提供と成っている。

    (参考 子孫は血液型が同じであれば、遺伝子的には85−95%が同じなのである。故に、自分*0.85=子供 の数式が成立する。故に、先祖=自分=子孫 の数式が成立する。)

    さて、次ぎは秀郷主要5氏に関わる「共通血縁族」の比率である。
    青木氏とどの主要4氏がどの様に一番関わっていたのかの検証史料である。


      [No.200] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 7/10 (時代の特長)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 20:01:52  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 7/10 (時代の変化に対する特長)
    副管理人さん 2008/12/05 (金) 11:55
    史料 7/10(主要5氏の時代性の分析)

    青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様に変化しているか、その特長を分析する。
    この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。

    (これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)

    判りやすくする為に次ぎの記号を用いる。
    H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
    (一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。)

    「作成要領」
    主要5氏各氏の家紋群を上記5つの時代に分け、その家紋群の一つ一つの発祥を分類し、一つの家紋に1ポイントを与える。
    但し、一つの家紋が時代を跨るものもある。
    家紋になる過程は「家紋200選」にある様な主要な家紋は、象徴−ステイタス−物象−具象−宗匠−家紋などの過程を踏むが、いきなり家紋に成るもの等多種多彩である。
    又、また家紋の種類(瑞祥象徴等)もありかなり難しい。一つの家紋でも本家、分家、分流、分派等の家紋の変化と経緯と由来もあり、それらにも配慮してポイントを割り振った。

    (注)
    室町期(M)までの家紋群には上記の「経緯」とか「由来」を正確に持つが、安土桃山期、江戸期の家紋にそれらのものが殆ど無く「類似家紋」のものが多い。
    特に江戸期初期の家紋には、殆どこの「類似家紋」が多く時代性の特定は容易である。
    また古い滅びた氏の家紋を持ち出して「経緯と由来」に一致せず自前の家紋とした搾取偏纂も多い。
    この辺も考慮して割り振った。従って、このポイントは数値そのものに意味を持たないレベルを表すデシベル(dB)とする。


    史料
    「時代性から観て家紋の分布」
    長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
    H:4  11%   H:3  13%   H:2  08%   H:4  13%   H:7 03%
    K:1  03%   K:1  04%   K:1  04%   K:1  03%   K:20 10%  
    M:15 39%   M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%
    A:9  24%   A:6  26%   A:5  21%   A:7  22%   A:55 26%
    E:9  24%   E:4  17%   E:5  21%   E:10  31%   E:47 22%
    (謝:画面のズレはソフトの関係)

    「時代性」の考察
    先ず、H、Kの時代から考察する。
    「青木氏」は2代目の千国を元祖とする発祥であり、「第2の宗家」であったことを物語る様に、他の4氏とはHとKが比べ物に成らない程に8倍を有し全体の家紋数(27)を保持している。

    Hでは3%で低く、Kは特に10%と高い。
    氏数では多いのであるが、これは平安末期から鎌倉期にかけて秀郷一門の「失職離散」の時期でもあり苦しい時期でもあった中で、「第2の宗家」として、藤原一門の氏を守らんとして働いたことを示す苦しさを示す数字である。
    特に、逆にHの数字(3%)が低いのは、当時、青木氏との「血縁を進める相手」の問題があったと考えられる。
    ながでも「氏家制度」の「身分家柄の吊りあい」の取れた血縁相手が少なかった事にもより、又、純血を守る「同族(属)血縁」を主体とした「奈良時代の高位の習慣」が色濃く残っていた時代でもあった。
    これが青木氏に大いに働いたのであろう。何せ、「第2の宗家」でもある。宗家としての立場もあったであろう。他の4氏と同じようには行かない自由の効かない事情もあったのであろう。
    逆に言えば、他の4氏と「同属血縁」する事により、「間接的に新しい血」を取り入れていた事をも意味するものである。
    「共通血縁数」の数値が、他の氏と異なり8倍ほどに段突に高いのは、上記の理由から「同属血縁」を推し進めた証でもある。

    H、Kの時代は氏数も少ない中でも高いものである事から、Kの10%は全国の氏数が200から800に変化した様に、4倍の変化からするとこの10%は40%に相当する。
    これは、他の時期の数字から観てもピークに相当する数字であるので、大いに努力をし苦労した事を意味するものである。
    何をか況や、これは「第2の宗家」としての「本当の実力の本領発揮」を示すものである。

    全体的には、H、Kでは青木氏の努力の証明から勘案しても、全氏とも12−17%に入るが、これは5氏が「一致協力(絆)」して頑張ったことを示すものである。
    これはまさしく青木氏の秀郷一門に対する「体制固め」を主要5氏に対して均等に図ったことを示すものである。

    数字が示すもの
    「同属血縁」、「本領発揮」、「体制固め」

    しかし、その中で「長沼氏」と「進藤氏」は若干高めを推移している。
    これはどのようなことを意味するのか多少考察しておく必要がある。

    特長としては、「長沼氏」と「進藤氏」は「発祥」が「先発」で速いために矢張りHでは13%と高い。これが原因しているのであろう。
    「発祥」が早いと言う事は、それなりに「積み重ねた勢力」を築いていた事を示す為に血縁の機会を拡げる事が出来たのであろう。
    その証拠に、逆に「長谷川氏」と「永嶋氏」は「後発」であるので3%は高くは無い。論理が一致する。
    つまり、「発祥時期」即ち「勢力圏」がこの時期では大きく働いていた事を示すものである。

    では”その血縁はどのようなものであったのか”を考察する事も必要である。

    この時代の数字は「同族内での血縁」でも数字が出来ているのである。

    この時代はまだ、社会全体の「氏数」が低く、青木氏を除いて、4氏の数字としてはそれ相当の意味を持っている。
    鎌倉時代は進んで「氏数」も増えたが、ここでは平安期に較べても数字は低い。
    更に、このH期は、主要5氏共にH、Kと合わせて(12−17%)で「京平家」との軋轢の中でも氏を次第に固め始めている時期でもある。

    主要5氏ともに、鎌倉期Kは対抗する「平家が滅亡した」となったとしても、反面、矢張り、鎌倉幕府樹立で「失職離散期」であり「苦難の時期」で有った事には変わりは無い。
    本来なら「平家滅亡」で数字は上がる筈である。しかし、それ以上に「失職離散」のマイナス要因が大きく働いたと云う事であり、結果として、「氏数と血縁数」は当然に低くなった事を示すものである。
    「平家の影響」によるものより、矢張り、「失職離散の影響」の方が影響が大きかったことを示すこの数字は、この「失職離散」期の子孫を広げるどころか失う方が大きかったほどの「大苦労」が襲ったことが解る。しかし、この大苦労が後の「子孫繁栄の礎基」と成ったと観られる。

    「所感」
    私は今ある現在の苦労を考える時、この時期の先祖を理解して、この時期の苦労を思い起こして将来に鑑みて頑張っている。
    何時か未来の子孫がこの様に考察するとき、「平成期の先祖」としての印象に成る事を期待している。これが先祖に残す「先祖が居て現在の自分がある。先祖への敬いと伝統」との最大のメッセージであり、我々も平安鎌倉期の先祖の苦労を思い起こすように。私事ながらこれ等の史料を出来るだけ詳しく「青木家由来書」に書き記したものである。

    数字が示すもの
    ([失職離散」+「侍の時代」)「2重苦難の時期」−「平家滅亡」=「子孫繁栄の礎」

    さて、この事はさて置き、室町、安土桃山期の戦乱期でさえこの大苦労が実を結ぶのである。
    本来であれば、更に鎌倉期より氏の入れ替えが起こり、尚且つ、既成勢力の藤原一門を狙い撃ちにされたにも拘らず、「子孫繁栄」に大きく影響した「下克上、戦国時代」に、更に翻弄されて、数字は間違いなく下がった筈である。
    しかし、それにも拘らず違っているのである。

    M、Aの時代
    Mでは、永嶋氏と進藤氏を除く3氏は39%で「失職離散」の苦難の時代から脱出してやっとその勢力を伸ばし始めている。
    その中でも、「後発」の永嶋氏は「関東屋形」(結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏)と呼ばれる様に佐野氏流と結城流からと氏を二つに分けて勢力を「氏力」の半分を占めるほどに伸ばしている。

    これに対照的に、「先発」の進藤氏は秀郷流と利仁流からとこれも氏を二つに分けているが、「氏力」は他の4氏と較べると低い。これは他の4氏の間では「接着剤的働き」に専念し勢力圏を思う存分に広げる事が出来なかったである。
    また、秀郷流進藤氏はその「末裔の跡目」に代々恵まれなかった事が起因している。データーもそのように成っている。
    進藤氏は他の4氏に較べて、別の方へ勢力(接着剤的働き)を注ぎ、軍事、経済、政治的な「基礎的な戦略的」が徹底されていなかった事によるものである。この「3重苦難の時期」に主要5氏にさすがは「明暗の変化」を与えた。
    勿論「第2の宗家」青木氏の補完はあったのであり、主要5氏として遺し得たのであるが。

    数字が示すもの
    「2重苦難の時期」+「下克上、戦国時代」=「3重苦難の時期」 −「主要5氏に明暗変化」

    Aでは、5氏共に「戦乱の終焉期」でありながら、同率(21−26)でありよく氏力を固めている。室町期では進藤氏が、安土桃山期では永嶋氏が史実通りやや息切れ状態ではあるが。

    実は、この時、皇族賜姓青木氏、及び、藤原秀郷流青木氏は西軍と東軍に分かれて戦った。
    子孫を遺すにはやむ終えない仕儀であったと考えられ、それなりの「氏力」を形成している以上避ける事は不可能であった。例え中立で居られたとしても戦いが終わった勝者の戦後処理では子孫存続は不可能であった筈でこれはこの世の条理である。

    史実は、この二つの青木氏を見てみると真田氏の様に本家分家で仕儀無く二つに分けて戦っている。

    この時期は「戦いによる子孫存続の可否」もさる事ながら、どちらに味方するかの天下分け目の戦いに「選択による子孫存続の可否」も大きく左右した時代でもあった。

    生死を伴なう「戦いによる子孫存続の可否」+生死を伴なわない「選択による子孫存続の可否」の「2重苦の時代」でもあった。

    「戦う」と言う事ではその「戦術の駆使」で臨めばよいが、「選択」と言う事で「子孫存続」を決めると言う事は「至難の業」である。最早、殆ど「賭け」であっただろう。

    故に、高い確率で子孫を遺せる方法として藤原一門は「本家分家の選択」で臨んだのだ。
    だから、永嶋氏や長沼氏の様に分家筋が多いのはこの事の原因によると観られる。

    ただ、徳川幕府後の青木氏等の本家分家の比率を調査したが確実な答えは出なかった。
    しかし、感じとしては家紋類から観て矢張り「分家筋」が多い感じがする。
    確証は出来ないが数字としては青木氏は83/121=69%に成った。
    当時、感覚的には社会現象として、庶民の中では、強弱は別として「軍勢の差」と「豊臣政権に対する保守的思考」が働いていたのではと考える。
    大豪族は別として、全国各地の一般的な豪族の分家筋は自分達も室町期に立身出世したこともあり、「立身出世の星」の豊臣政権に期待したのではと考える。
    現実は小説や伝説などの説とは少し違うのではと観ている。家紋から観ると間違いなく通説と異なる。

    「通説」と「家紋説」のどちらが正しいかの検証は難しい。
    藤原秀郷主要5氏の家紋から観ると分家筋が60−70%と成り、通説と異なる。
    通説と異なるのは藤原一門だけが分家筋に偏ったととも考えられる。

    その理由は、商業に長けた豊臣政権ならではの「2足の草鞋」策が働いたと観ているのである。

    史実では、関西の堺、摂津、伊勢、近江、瀬戸内などの豪商は二つに分かれたと成っているし、藤原秀郷一門の本拠地の関東の豪商では徳川側に傾いたからである。
    つまり、関西では割れた事、「2足の草鞋策」を採った秀郷一門の豪商の多くは関西に在った。

    「戦い」は「武力」だけでは戦えない。「経済力」なくした絶対に勝利は無い。年貢だけではせいぜい生活が限度である。そこに、「戦いの戦費」と成ると、別の所から補う必要がある。
    当時の戦いの「手弁当の掟」から、”軍事費用(戦費)の「経費負担」はこの「2足の草鞋策」の豪商から出ていた”とし、その「豪商の発言力」が左右したのではと観られる。
    況や、この豪商の主体は「第2の宗家」の「青木氏の発言力」に有ったからである。
    「2足の草鞋策」を持つ「讃岐籐氏」の青木氏と、四国の豪族の藤原一門の長曾我部氏等の末裔は、四国では秀吉と戦っている事からも、藤原秀郷一門の特長であったと観られる。
    血縁を結んでいる伊勢青木氏を始めとする5家5流の賜姓族青木氏と、その「2足の草鞋策」の豪商の全ては徳川方に味方した。その為に、関西の5地方の港を抑えていた商業に長けた豊臣政権に対抗して、家柄、身分から観て、その「2足の草鞋策」の青木氏の豪商は、徳川氏に味方し、その発言力を保守的な本家筋を避け分家筋に向けていたと観られる。

    平安、鎌倉期の「失職離散、氏家制度の影響」と、室町期の「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」と異なり、この時の時代背景(2極体制下、「2足の草鞋策」の経済力、賭け)が数字に、即ち子孫繁栄に大きく左右した時代でもあった。

    平安鎌倉期は「失職離散、氏家制度の影響」
    室町期は「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」
    安土桃山期は「2極体制下、2足の草鞋策の経済力、賭け」
     
    Eでは、混乱から安定期に入り、青木氏は当然として、「後発」の2氏の長谷川氏と永嶋氏は20%程度である。江戸幕府の御家人、旗本に成り子孫を遺す為に勢力を懸命に維持した時代である。その苦労が数字で物語っている。
    ここでは進藤氏が高い「氏力」を示している。これはMでの伸び切れなかった「氏力」をここで伸ばしているのである。
    「接着剤的働き」がここに来て花を咲かしたと云う事になり、他の4氏と違う「生残り戦略」を採った結果による。
    進藤氏が室町期に足利氏に大老として入り各地、特に北陸道以北に領国を持ち、その戦乱の影響を最小限に抑えた結果、江戸期に入って、その力をその遺された力を遺憾なく発揮したのである。

    その証拠に、逆の現象を起こした中部にその勢力を温存していた先発の長沼氏は、低い「氏力」を示している。「生残り戦略」を前半に採った事に依る。
    つまり、平安鎌倉期の「高位の氏との血縁」を主体としていたが、江戸期には「戦乱後の立身出世の豪族」との入れ替わりの時代と成り、その時代の趨勢に乗れなかった結果でもある。

    「高位の氏との血縁」から「戦乱後の立身出世の豪族」に変化

    しかし、全体を観ても判る様に、青木氏は他の4氏の「標準的氏力」を示している。
    夫々の「時代性」に対応して「血縁戦略」を採っている事を物語っている。
    その苦労が読み取れる。
    これは、矢張り、藤原秀郷一門を指揮するその立場(第2の宗家)から来ているのでは無いかと観られる。極端な戦略は取れない立場で、且つ生残れなくては成らない宿命があった事に依る。
    しかし、時代を通じてところがこれが相して現代に我々子孫が現存する結果と成ったのである。

    このデータはその時の「時代の背景」とデータを突き合せてみると、先祖の生き様がこの様に良く見えてくる。
    史料7/10は、この様に他に多くのことの分析に使用する事が出来るので利用されたい。

    このデータは主要5氏の分析考察の確証となるものである。


      [No.199] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−進藤氏との関係
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:59:55  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−進藤氏との関係
    副管理人さん 2008/11/22 (土) 09:47
    先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。

    本文では、藤原秀郷一門の主要5氏の永嶋氏、長沼氏、長谷川氏と青木氏の関係を述べて来たが、最後は進藤氏である。
    夫々3氏は特長ある氏力を持って青木氏と関わって来た。そして、その中で、比較対象として進藤氏の事にも触れてた。ここでは、それ以外の特に主な役割に付いて述べるとする。
    次ぎの進藤氏も例外ではなく、極めてはっきりとした特長を持っている。そして、その特長はその「氏力」に合わした重要な役割を演じている。
    では先ずは家紋群から入るとする。

    文行流の進藤氏48家紋は次の様な血縁族となる。

    血縁族の家紋類
    (以下第3の進藤氏の家紋含む)
    (・印 家紋200選 23/48 48%) 

    ・上り藤、・下がり藤、左藤巴、かに藤
    ・笹竜胆
    ・橘、・丸に橘
    ・蔦、・丸に蔦、丸に鬼蔦、丸に陰蔦
    ・丸に剣片喰、・丸に片喰、隅切り角に剣片喰
    ・丸に桔梗、太田桔梗、五瓜に桔梗
    ・丸に梅鉢
    ・丸に立ち沢瀉
    ・丸に三つ柏
    ・丸に違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、藤の輪に違い鷹の羽
    ・抱き茗荷
    ・丸に二つ引き
    ・九枚笹
    ・九曜
    ・三つ鱗
    ・左三つ巴、・左二つ巴、左二つ丁字巴
    ・丸に雁金、丸に対噛合い雁金
    ・三階菱、丸に花菱
    ・五三の桐
    丸に釘抜き
    丸に横木瓜
    亀甲に三つ星
    茶の実、丸に茶の実
    丸に木の字
    丸に宋の字
    抱き柊
    組井桁に花菱
    井桁に違い扇
    丸に隅立て井筒
    浮線菊十六菊

    29氏の分類である。

    進藤氏の血縁族の考察

    さて、進藤氏の考察に付いては、青木氏を中心に主要3氏の考察をして来た中で、概ねは比較対照として述べて来たが、主要5氏は夫々の立場などを生かして特長ある血縁戦略を採っている。
    その中で、進藤氏は秀郷流から外れて利仁流にも進藤氏も発祥させている。
    これが最も他の主要4氏と違う所ではないかと考えられる。
    永嶋氏は兼光流の中での2流を発祥させている。
    青木氏には利仁流があるとされているが、これは室町期の混乱期の搾取偏纂である事が高い。
    長沼氏は中沼氏等を発祥させているが兼光流を越えていない。
    長谷川氏は自らの氏の勢力拡大と兼光流の3氏中でも青木氏との関係を強く維持したのである。
    勿論、文行流の主導者としての長谷川氏は、兼光流の主導者としての青木氏の立場と同様に、利仁流進藤氏(為輔)との関係も維持したのであった。(利仁流一族との血縁は直接は持っていない。)

    元々、進藤氏は下記に詳細を記するが秀郷流からの発祥であり利仁流との次ぎの様な縁で末裔が拡がったものである。
    この進藤氏は利仁流から進藤氏を発祥させている事の意味は大きいので特記する。
    単純に利仁流進藤氏と言う事だけではない。これは血縁戦略の重要な一つである。
    つまり、関東に勢力を持つ兼光流と文行流を持つ秀郷一門と、同じ地域に勢力圏を持つ藤原北家利仁流一門とを固める大きな要素に成っているのである。
    利仁流と秀郷流を両方の進藤氏の仲介で結びつける事は、より強固に北家一門が固まる事になり、その「接着剤的働き」をする事に成る。
    まして、利仁流は秀郷一門の「鎮守府将軍」も歴任する等「同じ地域」でも「同じ環境」に繁栄している。利仁流に付いての赴任地を見てみても2地域に限定はされているが秀郷一門と余り代わらない位である。
    「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」を参照して観てもかなりの多くの赴任地を占めている。それも代々の赴任地である。
    因みに、そこで重要な関係であるので、利仁流との関係に付いて先に少し述べる事とする。

    先ず次ぎの様に成る。
    赴任地とは云え「藤原氏の血縁戦略」として「土地に子孫を遺す」と云う事から、当然に次ぎの土地にも子孫を多く遺している事に成る。
    赴任地は「藤原氏の血縁戦略」の最たるものでもあるので、これ等の検証を先ず進めると何かが見えてくる筈である。

    利仁流の赴任地は次ぎの通りである。
    豊後2人、5、12代目
    豊前1人 5、(15)代目 
    筑前4人、19、20、20、21代目
    陸奥2人、1、2代目
    加賀8人、5、7、8、11、12、13、14、15代目
    能登2人、14、17、(26)代目
    越前7人、7、10、11、13、14、20、20代目
    越中4人、12、13、14、20代目
    越後1人、10代目
    相模1人、15代目
    隠岐1人、12代目
    肥後1人、22代目
    飛騨1人、22代目
    出羽2人、5、9代目(18、20)
    秀郷流24地方に較べて、14地方37人である。

    (注)出羽と豊前と能登は時代性より対象外とした。
    (注)「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。

    これで、「藤原氏の血縁戦略」であるので利仁流の概ねの「氏力」が判る。約半分であろう。
    氏数から観ては25%程度(下記)であろう。
    赴任地の大きさから、次ぎの様に成る。

    1 越前、越中、越後、加賀、能登、陸奥 の北陸道地方
    2 豊前、豊後、筑前、肥後 の北九州地方
    主に以上の2地域に限られる。

    北陸道は秀郷一門は特に赴任していないが、北九州地方は赴任している事は特長ある戦略である。
    これは明らかに秀郷一門の手薄な地方の北陸地方を利仁一門が補完した形態である。
    北九州地方の土地は秀郷一門が、阿多倍一門、即ち、京平家の大勢力圏を後ろから牽制する力を利仁一門に補完してもらった形態である。
    しかし、後に、この「敵対関係」は北条氏の鎌倉幕府に成ってからは、むしろ「同盟関係」を樹立した。それは念の為に記するが、秀郷一門の鎌倉幕府樹立による「失職離散」の憂き目と、阿多倍一門大蔵氏の「元寇の役」による責任「太宰大監の失職」の憂き目とが一致した「血縁同盟」であった。
    この事は、長谷川氏のところで詳細に論じた「大蔵永嶋氏との関係」で証明した事であるが、重要であるので概容だけを重複させる。
    これが秀郷−利仁ラインの主な「戦略的な関係」であった。
    そして、その繋がりと成ったのが「進藤氏」である。
    その意味で、「大蔵氏との血縁同盟」も然ることながら、北家一門の2氏の「接着剤役割」=「進藤氏」なのである。
    これは秀郷一門をまとめるには下記に述べる「大事な役割」である。

    先ずその前にこの内、その進藤氏の赴任地としては次ぎの通りである。
    豊前1人
    豊後1人
    筑前4人
    加賀4人
    能登1人
    越前6人
    越中4人
    越後1人
    隠岐1人
    出羽1人、

    但し、進藤氏は秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏とがあるが区別は無しとする。
    「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。
    陸奥の利仁本人と父の時長の2人であるので進藤氏ではない。

    この地域は同時に進藤氏の末裔の分布域である。

    北陸道の赴任地は主に昔の越国と出羽国域である。
    (注:後に、越国は越前、加賀、越中、越後と4分轄、出羽国は羽前、羽後と2分轄)

    利仁流の赴任地37人中で進藤氏は29人であり、78%を占めているのである。

    進藤氏でない赴任地
    相模1人
    能登1人
    肥後1人
    飛騨1人
    加賀2人
    越前1人
    出羽1人

    以上の7赴任地8人が進藤氏でない事に成る。

    残りのこの進藤氏が利仁流と血縁をし大きく交流を続けていたことが判る。

    利仁流藤原氏(8)と進藤氏(29)では、この赴任地から観ると利仁一門の働き(78%)は進藤氏が主役である事になる。
    この数字78%は2つの進藤氏の「接着剤的役割」の大きさが証明出来る。
    では”この進藤氏の中で秀郷流進藤氏の割合がどの程度占めているのか”が問題と成る。

    先に数字的には下記に示す7人で進藤氏の中では秀郷流進藤氏は24%(7/29)である。

    この内、先ず秀郷流進藤氏の内情を調べると、「下がり藤紋」より「かに藤紋」が主家主流と成っていて、この一族の末裔は出羽国(山形、秋田)の山形地方に広く定住した(現存:仙台岩切)進藤氏であった。
    この進藤氏の家紋から観て、血縁に依って北家の京、近江、丹波付近に定住する「上り藤紋」の進藤氏もあり、「下がり藤紋」の秀郷一門の本家筋も下野国付近に存在するが、長い歴史の中で「かに藤紋」の進藤氏が子孫繁栄には隆盛を極めたものと考えられる。
    これは利仁一門との関わりからその居住地(出羽)に定住した進藤氏が主流となったと考えられる。
    しかし、この多くの進藤氏は利仁流進藤氏が76%(22:7)で占める働きをしている事に成る。
    その比率は、利仁流の赴任地(37)の中での29人である事から観て、この29人の中で秀郷流進藤氏は、確定出来ないが、下記に示す血縁族の分布と史料、系譜から観ると次ぎの通り7人である。

    この7つの国域帯に秀郷流進藤氏の末裔が分布した。
    特に、分布域は次ぎの様に成る。
    出羽国域(延沢、里見)
    陸前国境域(宮城:大崎)
    越後国境域(出羽国境)
    越前域(主に斯波域)
    能登域(2人の域は判別できない。)

    出羽、越前域には両方の進藤氏が分布した。

    秀郷流進藤氏
    出羽1人
    越後1人
    越前1人(斯波域)
    隠岐1人
    能登1人
    筑前1人
    豊前1人

    以上7域の7人と考えられる。

    全進藤氏29人:秀郷進藤氏7人で約24%であろう。(4:1)

    そこで、秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏の系譜上の接点は何処にあるのかが次ぎに問題と成る。

    そもそも、元の進藤氏の始祖は秀郷−千常−脩行−行景の系譜で「行景」がその始祖と成る。
    先ず「脩行」が官職「進藤大夫」と成り、その子「行景」が「進藤左衛門尉」の官職と従五位下と成った。そこで、進藤氏の発祥の基が生まれた。発祥は明らかに秀郷一門である。

    この進藤氏は利仁流進藤氏では、次ぎの様に成る。
    これには斎藤氏が発祥の基と成っている。

    「利仁」の子の「叙用」(斎宮頭)が「流」と成り、下記の通り次ぎの9氏の「斎藤氏」が発祥している。この「斎藤氏」の内「疋田斎藤氏」から発祥している。
    この疋田斎藤氏から進藤氏に到達するには次ぎの事を理解する必要がある。

    藤原一門は全て2つの氏名の使い方をしている。
    1つ目は役職官職を藤原の「藤」の前につけて区別して氏名としている事。
    (役職を前に着ける。左衛門佐の左藤氏、佐藤氏 斎宮頭の斎藤氏等)
    2つ目は土地の名を藤の前につけて区別する何れかの方法である事。
    (24地方の国名の前だけを着ける。伊勢で伊藤氏 加賀で加藤氏等)
    北家は大変多くの藤原氏を出したが、「姓名」だけでは区別判別が難しいし、同じ「姓名」の者も多く居る。よって主に上記2つの方法を採った。
    3つ目は少ないが爵位より着けた氏名がある事。(爵位 諸臣の位6回階級の第6番目の「進位」でその進藤氏は藤原氏の爵位の「進」と「藤」とで進藤氏とした)

    参考
    宗家以外に藤原氏を直接「姓」として各地に名乗る氏があるが、多くは明治初期の村全体が或いは郡全体が名乗ると云う現象が、特に”藤原”姓に起こったが、この「第3の藤原氏」か「未勘の藤原氏」である。上記2つの方式で名乗っているのが本来の藤原氏である。
    家紋も同様で、藤原氏は丸付き紋の藤紋は使わず副紋を使う定めである。
    多い丸付き紋は「未勘氏」か「第3の氏」と成る。
    「藤原氏」そのものの「氏名」を名乗れるのは基本的に夫々の「宗家、本家」と「総宗本家」である。以上の知識を把握すると家紋類の分析が正しく出来る。

    元に戻して。
    役職官職では「斎藤氏」はそもそも朝廷の藤原氏の本職の「斎蔵」の官職「斎宮頭」に成った事により「斎藤氏」と号するように成ったものである。
    「斎蔵」は奈良期、主に大化期から「朝廷の政治機構」を3つに分けると「3蔵」と称し分けられた。
    この内、律令が進むに連れてその立役者と成った阿多倍の子の次男の「大蔵」の大蔵氏と、3男の「内蔵」の内蔵氏が2つを占めていた。賜姓である。

    律令体制が完成する桓武期にはこの高い知識を持った後漢の帰化人が官僚の6割を占めていたことが日本書紀に記録されており、天武期には一般からも官僚として採用するように命じている。
    この桓武期以降には史料から渡来人、帰化人などの言葉が消えている。この事から150年で融合同化したものと考えられる。
    (この日本書紀そのものが、舎人親王を中心に主にこれ等の官僚の編集組織で構成されていた。)
    この事を念頭に次ぎの事柄を把握されると概ね全体像が見えてくると考える。
    その全体像の中で、次ぎの事柄の流と時代背景(氏家制度の社会慣習)を思考されたい。

    天智天皇の大化の改新以降、「皇親政治」の祀り事一切(政治含む)を司る「斎蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、天皇家の財政を司る「内蔵」の「3つの機構」と「軍事(朝廷軍と親衛隊の2軍と藤原氏の押領使)」に分かれていた。
    朝廷軍は「阿多倍」の子の長男の「坂上氏」が征夷大将軍を司った。親衛隊は「北面武士」に語られるように宮廷の衛兵軍の近衛兵で天皇を護る「親衛隊」の役目から「青木氏」と、「斎蔵」の役目から各地の押領使役の「藤原氏」であり、この2氏には永代の左と右の衛門尉か佐の官職が与えられた。
    (宮廷門の左右の門の衛兵から来ている。2つの青木氏、即ち、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏はこの事からは民部尉か佐、右左の門(左衛門尉か左衛門佐)の役職と成る)

    この「斎蔵頭」の「疋田斎藤氏」が上記の越前の国の押領使(警察と軍の役割)に成った「藤原為延」から起こり進藤氏の祖と成った。
    そして、その子の4兄弟の一人「為輔」が史料から勘案すると進藤氏を名乗ったと成っている。利仁より6代目である。

    秀郷流進藤氏は「行景」で4代目、利仁流進藤氏では「為輔」で6代目である。
    秀郷の代から合わせると、利仁は「時長」の子であるので「為輔」は7代目に当る。
    では、秀郷流の相伝の「行景」の進藤氏の末裔の誰がこの「為輔」と関わったのか問題である。

    秀郷流の進藤氏系統では、可能性のある人物は次ぎの4人に絞られる。
    6代目では「脩俊」(隠岐八嶋冠者)
    7代目は「好治」(進藤太郎)
    8代目では「治卿」(左衛門尉、母は豊後守藤原安隆の娘)
    9代目では「秀世」(進藤左馬允)
    以上4人が可能性のある人物と成る。

    つまり、秀郷流より発祥した進藤氏は、利仁流の進藤氏相伝の「為輔」との血縁か縁組かをした事に成るが、上記の秀郷流の4人の内の誰かとの子孫と跡目継承か血縁をしたことを意味する。

    そこで、繋がるキーは「為輔」と繋がる関係を持つところを調べる事で判別できる。

    次ぎの通り検証した。
    同じ年代7代目の「進藤好治」では実質の進藤太郎で嫡子であるので難しいし、その親の「進藤脩俊」は源の頼朝から冠者として命ぜられて平家を西海に討ち紀州和歌山の地の領主となっているから血縁は無い。
    8代目の「進藤治卿」は豊後守の利仁流安隆の娘を母にしている。豊後と言う利仁流子孫の赴任地から血縁して可能性が高まるが、経歴から将軍宗尊の近臣を務めた事から山形にいる「為輔」とは関係は薄いので疑問である。

    最後は次ぎの「進藤秀世」である。
    この「進藤秀世」の親が利仁流と血縁関係を先ず母方で完全に繋がり、更にこの「進藤秀世」の経歴を調べると完全に繋がるのである。
    その経歴の一部から、元弘の建武の乱の時、北条尊時に属し勲功、その後、足利幕府家兼家に仕え、家兼の奥州官領の時、陸前の「大崎五郡」(現在の宮城大崎市)を知行するによって、その一部を知行とし、元の赴任地の「越前斯波」の一部加美郡保柳(現在の宮城加美郡 大崎市の隣り)2百余町を加え知行する。秀世大老として働く。
    その後、足利家兼の嫡男家督し大崎治部大輔になり継承する、次男が斯波修理大夫として延文元年に出羽探題(山形、秋田地方)と成り、最上地方(現在の山形北部最上郡)に移動した時、秀世は同行する、この代々秀世の末裔12代まで足利氏(最上家)に仕える。
    秀世はこの地の「為輔の知行」の一部「寒河江小国」(現在の山形中央部の寒河江市)を知行する。その後、「手の粉城主」(手の子城)となる。(山形と宮城の圏域地帯の藤原氏と最上家の知行帯)

    この事から、1秀郷流の秀世の母(利仁流)の豊後、
    2大崎の一部知行地、
    3利仁流の主な赴任地の越前、
    4「為輔」の斯波、
    5利仁流の「為輔」の官職知行の一部取得、
    6利仁一門の代々の山形居城の出城の「手の粉城主」
    から観て、明らかにこの「秀世」が関わったと観ている。

    その一族の履歴がこの経緯を示す重要な史料となるので次に記する。
    「為輔」の父は「疋田斎藤氏」の祖で「為延」である。
    「為延」は「越前押領使」で「北陸道7国押領使」も兼ねている。(重要)
    利仁より4代目の祖父は「伊傳」で越前押領使で官位は高い「民部小輔」である。
    伊傳の兄弟の一人嫡男「忠頼」は加賀守で加賀斎藤氏である。
    次男「重光」は豊後守で豊後の斎藤氏である。
    三男の尚忠は官位は「春宮小進」であり、爵位の進位の「進」の氏の役官である。
    四男は「文紀」で隠岐守、讃岐守である。
    他無役4人の男子が居る。

    そして、上記赴任地の北陸道一帯を勢力圏として納めていた一族の中で、「進藤為輔」には4人の兄弟が居る。

    「為兼」(疋田大夫)疋田氏相伝した
    「為頼」(越前権介)越前権介 総追捕使、7代目の利仁流跡目
    「行用」(無役無禄:妾子)
    「為輔」(進藤氏祖)居所最上に捨扶持知行地
    以上の4人となる。

    この事から残りの部屋住みの「為輔」と成る。

    つまり、”秀世との上記の6つの関係が興り、4兄弟の身内から身軽な「為輔」が秀郷流との関係強化の目的から秀郷流進藤氏の実質後継者の「進藤秀世」の「進藤氏」を名乗り引き継いだ”と考えられる。
    「秀世」と「為輔」は同知行地の地域で懇親を深めて部屋住みで斎藤氏を継げない所から秀郷一門からの働きかけにより「養子縁組(秀世の娘との血縁)」の形を採り進藤氏を名乗ったものと考えられる
    そこで、「為輔」の捨扶持知行地一部が何故「秀世」に渡ったかは確証は取れないが、次ぎの経緯からと考えられる。

    その経緯とは、朝廷より命ぜられた「秀世」の赴任地が「越前斯波と陸前大崎」に成った事から、この経緯から、恐らくは、「北陸道7国」を納めていた利仁流の父、祖父が、秀郷流一門との関係強化の目的から、「為輔」の知行地の一部の「寒河江小国」を同地に来た「秀世」に与え、その見返りに部屋住みの「為輔」に「秀世」の娘を嫁がせて「進藤氏」を名乗らせひとり立ちを進めたと観られる。つまり、秀郷と利仁の両方の一門の思惑がこの「秀世」の時に一致した事に成る。
    (秀世は跡目をなくしている 下記の「血縁の経緯」参照)
    同時に「為兼」には「疋田氏」を名乗らせ、「為頼には斎藤氏」を名乗らせて独立させいるから
    ”為輔には、進藤氏を”と成ったとしても経緯から自然である。

    (参考 斎藤氏主要9氏 加賀斎藤氏、広岡斎藤氏、疋田斎藤氏、河合斎藤氏、長井斎藤氏、勢田斎藤氏、吉原斎藤氏、豊後斎藤氏 他1氏)

    参考
    秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏があるが、他に未勘の進藤氏がある。

    乙部氏族の進藤氏
    源の頼政流の乙部氏族の未勘末裔が信長との軋轢から進藤氏に改名したとある。
    伊勢国の乙部郷に住する。

    綾姓羽床氏族の進藤氏
    讃岐の羽床氏が進藤氏を名乗る。
    以上2氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

    武田氏進藤氏
    吉良氏進藤氏
    近衛氏進藤氏
    以上3氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

    以上5氏が時代を経て室町末期以降から江戸期初期に発祥した進藤氏である。
    秀郷一門と関係があると認められるこれ等5氏は、進藤氏に何らかの血縁を先祖に持つ事から、後に何らかの理由にて縁先の進藤氏を名乗ったものと考えられる。

    出羽の進藤氏
    近江の進藤氏
    丹波の進藤氏
    安芸の進藤氏
    出雲の進藤氏
    他の13の未勘進藤氏がある。
    夫々の国に合わせて18氏(全部で23氏)の未勘進藤氏があるが確定できない。第3氏で無いかと見られる

    この様に、主流2氏の進藤氏は上記の経緯を以って一族固め戦略を7代目辺りで採った事に成る。

    進藤氏は他の主要4氏の血縁戦略とは違う中間的な血縁戦略の生残りを図ったのであるが、その一つとして、地域的な血縁戦略より、上記した9つの「地方の赴任地」で血縁を固め、且つ、「利仁流の勢力圏」を利用する2つ形で主要族に成った。
    それを補完した利仁流の勢力圏は14地方が秀郷流進藤氏(7)を創り上げた。
    この様に、秀郷流進藤氏は「接着剤役割」で青木氏からの依頼を受けて利仁流とのパイプ役を演じていた。

    参考
    長谷川氏のところで九州永嶋氏との関係の仮説4つのキー探しは、接着剤役進藤氏の役目柄、”青木氏に依頼されて、利仁流の北九州の赴任地との関係から、この進藤氏が絡んでいるのでは”と見ているが現在確証は出来ない。

    しかし、この「接着剤役」の文行ルートの進藤氏では、秀郷流兼光ルートの青木氏が主動していたが、一門の中で最も重要視していた血縁戦略であった筈である。
    と云うのも、この「接着剤の役目」が上手く働かなければ、戦略上、関東以北の同地、身内の中に爆薬を抱える結果と成るだろう。
    武蔵以西の事を主要3氏のところで、その戦略の合理性、完璧性を論じてきたが、しかし、武蔵以北が秀郷一門の弱点とも言えるところであり、武蔵以北と北陸道を抑えている利仁一門との関係が藤原秀郷一門の最悪の弱点であったでと観ている。
    それだけに両方の進藤氏の出方は秀郷一門を仕切る「第2の宗家」の青木氏の最大のテーマであろう。他の4氏との戦略的関係は上手く行っているとしてもである。

    その青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は、江戸期までの間で平安期は13%と血縁族を多く創り上げている。(普通は3%−5%程度)
    進藤氏の発祥は文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の3つに差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、上記の赴任地の内容から同時期、同地、同族、親族間の血縁連携をも図っていた戦略がはっきりと観える。

    利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
    進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。上記「接着剤的役割」はこの「身内戦略」から出たものである。
    永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
    ”広く求めなかった”と云うより”求められなかった”とする可能性が下記の系譜の所の史料で判断できる。
    赴任地は北九州の目的とは別に、主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ、鎌倉期以降の血縁族を広められなかった原因の一つではと考えられる。
    それと二つ目は本流の「跡目継承の子孫繁栄」が上手く行かなかった事であろう。
    それに依って、失職離散する前の成長期の平安期の血縁率(13%)が高く成ったと観られる。
    その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
    (詳細は進藤氏の本文考察参照)

    青木氏との共通血縁族を観てみると、進藤氏は下記の主要5氏の「共通血縁族」の「主要8氏」が殆どである。この事は進藤氏が独自に血縁戦略にて血縁族を拡げた傾向は少ないことを意味する。
    青木氏に指導に基づき「主要8氏」に留めていることに成る。
    その分、利仁流との関係を強化したと観られる。
    この事は上記の「為輔との血縁の経緯」を観ても、「第2の宗家」との相談で、むしろ、秀郷流進藤氏の「最大の役目」としていた事を物語る証でもある。
    つまり、腹の中に爆薬を抱えた秀郷一門の弱点を補う「接着剤的役割」に主眼を置いていた事に成る。
    室町期から江戸期にかけて発祥している未勘の進藤氏を含む進藤氏の上記データを観ても、秀郷一門の「西側防衛域」には全く進出していない。秀郷一門の戦略上の規定域内だけである。
    これも一つの「最大の役」即ち「接着剤的役割」を越えることの無い証であろう。
    この秀郷一門の血縁戦略から誰が見ても明らかに見えて来る「弱点」を進藤氏で補っている。これ程の完璧な戦略事は、自然にその戦略が出来上がったと云うことではないであろう。
    明らかに「恣意的な戦略計画」で実行されたものと考えられる。

    ”それは誰が主動したか”であろうか。当然「第2の宗家」の青木氏となろう。
    青木氏との「共通血縁族」とは、”大きな笊(ざる)に血縁族というものを入れて流れ落ちて残ったものが「主要8氏」である”と云う事に成る。
    と云う事は、この笊の原理からすると、「青木氏「=「共通血縁族」の条件と、上記「進藤氏」<「共通血縁族」の条件とで、共通項=「共通血縁族」と成り、結果、「青木氏」=「進藤氏」が残る。
    青木氏が主導の下で、進藤氏は「行景」より発祥後、6代目「秀世」のところで利仁流の「為輔」と「接着剤的役割」を果たしたと成る。
    しかし、ここで、「秀世」は秀郷流進藤氏の本家跡目を継いで子供の「脩久」に引き継いでいる事から、「跡目血縁」は無い事に成る。
    では、”どのような形の血縁か”と云う事に成る。

    「血縁の経緯」は次ぎの通りである。
    「秀世」には子供が4人居る。2男2女である。
    長男の嫡男は”秀世18歳の時の子供で実に聡明である事から足利将軍の寵愛を受け、2つ引き両紋の家紋を授与されるが、短命で死す。”とある。”次男が将軍に仕え「脩久」が跡目を継ぐが、これも若くして死す。跡目耐える。その暫時後、その跡目に養子を取る。養子「実理」成る者を跡目として進藤氏を継ぐ。”とある。”「実理」の実父は大崎家の家臣の四亀(伊予)氏で、「実理」はその次男で、65歳で没する。”と成っている。
    この大崎家は秀世の2度目の赴任先で大崎五郡の知行地のある土地で其処の豪族である。

    2女の”次女は里見に嫁ぎ、長女は山形の延沢に嫁ぐ”とある。
    長女の延沢は現在の(出羽)山形県尾花沢市で最上線が走る最上地方であり、隣りの寒河江市地域でもある。(延沢の進藤氏発祥)
    次女の里見は現在の(出羽)秋田県横手市である。(後に里見の進藤氏発祥)
    これは上記の「為輔」「秀世」の記述と完全一致する。
    このことから、「秀世」は跡目2人を若くして無くし、暫く跡目を探していたが、「為輔」も「4兄弟の部屋住み」である事から、長女を山形の延沢(「藤原為輔」居所)に嫁がせ進藤氏を絶えさせない努力をした。そして、この相伝「為輔」が形式上の養子縁組の形を採り進藤氏の姓を継いでもらった。(実質は延沢の末裔の吉継の継承)その後、秀郷流の進藤氏も耐える事の無い様に、支流で大崎家の家臣の四亀(伊予)氏から養子を取った。
    以上が血縁経緯であり、秀郷流進藤氏は「秀世」の子供の代で絶え、支流大崎家(秀世の知行地)より跡目養子の進藤氏となり、利仁流進藤氏は「秀世」の娘の女系進藤氏と成る。

    実は、この後も養子「実理」後の跡目末裔も48歳、30歳、39歳、38歳、その後も討死、親子腹切等があり、「跡目継承」は大いに乱れて大変苦労している。
    この秀郷流進藤氏の本流は殆ど枝葉の無い系図である。この系図から観ると、この様に、嫡子だけでも他氏から迎えるくらいで、嗣子と女子を外に出すほどの余裕は無く秀郷流進藤氏は子孫繁栄に極めて苦労している。
    ところが利仁流進藤氏の「為輔」の末裔は全く逆で枝葉を伸ばし多くの子孫を遺している。
    これは上記の家紋群29分類の48家紋の氏は「未勘氏」が多いことを意味する。
    未勘氏に対しては、上記の進藤氏家紋群の家紋と、進藤氏の上記の小さい地理性から観て殆ど繋がりは採れない。
    室町末期と江戸初期、江戸末期と明治初期の苗字令の混乱期の移動性から来た分布氏ではと考えられる。
    上記に記した「未勘氏18氏」(23)があるとしているが(他の主要4氏と異なり未勘氏が多い)殆ど枝葉の無い系譜から察するに「主要共通血縁族8氏」を除いては未勘氏と成る。

    進藤氏の利仁流一門との「接着剤的役割」は主に「主要共通血縁族8氏」に委ねられていた事を物語る。
    では、その「主要共通血縁族8氏」が働いた「接着剤的役割」の血縁を他の主要3氏と比較して観てみる。

    参考
    主要5氏の「共通血縁族」(青木氏と同じ家紋を持つ氏)
    主要5氏共通:「家紋4大血縁族」・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
    主要4氏共通:「家紋4血縁族」・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。

    「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
    (注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

    青木氏と同一血縁族の分類
    「共通血縁族」
    1・下がり藤、・上り藤
    2・笹竜胆
    3・橘、丸に橘
    4・丸に片喰、・丸に剣片喰
    5・丸に違い鷹の羽
    6・丸に梅鉢
    7・九曜
    8・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
    9・丸に桔梗
    10・丸に立ち沢瀉
    11・蔦、・丸に蔦、丸に陰蔦
    12・三つ柏
    13・三階菱
    14・丸に二つ引き
    15 丸に横木瓜
    以上15分類21「共通血縁族」

    参考
    長谷川氏           長沼氏            永嶋氏           
    1・下がり藤・上り藤     1 ・下がり藤        1 ・上り藤、・下がり藤   
    2・笹竜胆          2 ・笹竜胆         2 ・笹竜胆         
    3・桔梗           3 ・桔梗、・丸に桔梗    3 ・丸に隅立て4つ目    
    4・木瓜・丸に木瓜      4 ・九曜          4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰 
    5・橘・丸に橘       5 ・抱き茗荷        5 ・丸に沢瀉        
    6・梅鉢・丸に梅鉢      6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷      
    7・九枚笹・丸に根笹     7 ・丸に三つ鱗       7 ・丸に違い鷹の羽     
    8・片喰・丸に片喰      8 ・丸に橘         8 ・丸に桔梗        
    9・九曜・丸に九曜      9 ・丸に剣花菱       9 ・丸に蔓柏        
    10・蔦・丸に蔦        10 ・丸に剣片喰       10 ・丸に木瓜        
    11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉  11 ・丸に違い鷹の羽     11 ・梅鉢、・丸に梅鉢    
    12・剣片喰・丸に剣片喰    12 ・丸に梅鉢        12 ・三階菱         
    13・武田菱・剣花菱      13 ・五三の桐        13 ・五三の桐        
    14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷                 14 釘抜き          
    15・丸に蔓柏・違い柏     以上13分類15「共通血縁族」以上14分類17「共通血縁族」
    16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽                              
    17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き                       
    18・三階菱                                        
    19・松皮菱                                        
    20・揚羽蝶                                        
    21・五三の桐                                       
    22・丸に隅立て四つ目                                   
    23 横木瓜 丸に横木瓜                                  
    以上23分類40「共通血縁族」である。
    (謝罪 画面の乱れはソフトの関係)

    進藤氏は以上15分類で青木氏との共通血縁族は29に成る。
    分類/共通血縁族の分類比は、進藤氏52%に対して、長谷川氏58%、永嶋氏87%、長沼氏82%である。
    この比は、%が高い事は同じ家紋の文様が多いことを示し、他氏やその本流に限らず支流分流分派の末裔まで及ぶ広い血縁をしている事を示すもになる。つまり、「血縁活動」が高かった事を物語る。「血縁活動」が高かったと言う事は「氏力」が高いと云う事になる。

    そこで進藤氏は同じ文行流の長谷川氏と同じ程度であるが、永嶋氏と長沼氏とでは大きな差がある。
    進藤氏と長谷川氏とでは同率であるが元々体質が異なる。
    先ず、上記した様に未勘氏(18+5)が進藤氏に多い事で、これを勘案すると、上記した様に25%程度の分類比と成る。
    「家紋200選」では48%である。
    上記の考察の「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」とすると、この分類比25%と勘案すると、支流族などと殆ど血縁していない藤原一門外の「普通の氏の血縁力」と言え得る。
    故に、「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」=「接着剤的役割」の数式の結果と成る。

    つまり、秀郷流進藤氏の「氏力」(25)は「接着剤的役割」の一点に絞られていたことを示すものである。「氏力」(25)=「接着剤的役割」の数式と成ろう。
    そうでなければ、この他の役割を果たす以外に25%では氏力が小さく「氏力の余裕」は出てこないであろう。
    これでは、主要5氏に成る要素は無い事だし、自分の氏さえも護ることは難しい事に成るが、そこの「氏力の余裕の役割」の補填は利仁流進藤氏に頼ったという事であろう。それ以外に無いだろう。
    その事は、現実に主要氏と成っていることから、2つの進藤の交流が高かった事にも成るだろう。
    つまり、数式では、秀郷流進藤氏+利仁流進藤氏=氏力と評価される。
    但し、この「接着剤的役割」は藤原北家一門にとって無くては成らない何物にも変え難い「最大の役目」なのである。
    むしろ、進藤氏にこの役目が在った事からこの様な低い「氏力」と成り得た可能性がある。
    それに進藤氏の「氏エネルギー」を使い果たしていたと言えるだろう。
    その証拠に、この進藤氏の官位官職は八嶋冠者、左衛門尉、左馬允、右近蔵人、主税介、駿河守、程度であり、他の主要4氏と異なり高位高官は無く官職も少ない。
    これは政治的に活発に活動をしていない事に成る。上記した活動地域も出羽を中心とした利仁一門と同じ域の北陸道に限られるし、この役目に徹していたと言え、役割に専念したからこそ藤原秀郷一門はこれ程の子孫繁栄を果たしたと言える。

    この戦略的な主導的働きを進藤氏に与えたのは青木氏と成る。
    今までの永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、史料1/10−6/10の考察にも比較対照として進藤氏の血縁戦略を合わせて考察し述べて来たが、進藤氏にはこの様な大きな役割が存在したのである。
    以前のレポートに、長谷川氏の様に「野戦的血縁戦略」、永嶋氏や長沼氏の様に「篭城的血縁戦略」であって、世の中の諸事には、その役割が「外向き」と「内向き」とがあり、その両方をコントロールする「調整役」が居て上手く行くのであるが、この3氏は「外向き」で、進藤氏は「身内戦略」の「内向きの役割」を担っていたのである。所謂、「身内の女房役」とでもいう役割を演じた。
    そして、その「外向き」と「内向き」の「調整役」が「第2の宗家」の青木氏と言う事に成る。

    この時代は平安末期から室町末期までの混乱期であった事から、「外向き」と「内向き」の比率が3:1の形に成っているが、平安初期や江戸時代の安定期では1:3の逆の比率として戦略を採る事も必要であっただろう。それだけに、混乱期に「調整役の青木氏」にとっては「系譜に弱点」を持つ「氏力」の小さい「進藤氏」にこの役を担わしたのであろう。
    それだけに、青木氏は利仁一門との関係強化を目論んだと観られ、上記する「秀世」−「為輔」との関係を強力に図ったものと考えられる。
    それが、上記した「秀世」の跡目養子の縁組と「為輔」の婿養子の縁組(女系)の采配に現れている。
    秀郷流進藤氏に対して「調整役青木氏」が大きく関わった証として、「かに藤紋」の進藤本家と、殆ど「主要8氏の共通血縁族」だけの血縁枠にある。

    本来、進藤氏の家紋類には、綜紋の「下がり藤紋」が本家家紋の持つ家があるにも関わらず、出羽国域に居所する「かに藤紋」一族の分家筋を「主家筋」として扱った事。
    青木氏が推し進めた秀郷一門内での戦略血縁を推し進めた「共通血縁族」が進藤氏血縁族であった事。
    この氏家制度の中で青木氏だけが成し得るこの2点にある。

    この様に、氏家制度の中で、一門の運営を総括する「第2の宗家」としての「調整役の青木氏」は「内向き役」の「一門の弱点」の強化に大変苦労したと考えられる。

    「所感」
    何にせよ、主要5氏の血縁戦略を検証するに当って、感嘆することは、その「血縁戦略」が揺るぎないものと成っている事、戦略としての定法に欠けるものが無い事、強処弱処の押さえ事、攻め護りの定法事、等を「氏」の維持に必要とする戦略上の疑問が湧く点事を、尽く史料分析から証明されて「理」に叶い否の付く所が無かった事にある。
    実際、筆者の長年の検証が進むに連れて、その戦略が”定法ではこの戦略は何処に”と次々と疑問が湧く状況であったが、尽く潰された。
    日本書紀には大化改新より藤原一門と賜姓青木氏の天皇の相談役の軍略司の記述が多い中で、伝統的に確かに如何に青木氏が優れた「戦略師」であったかを思い知らされた検証事であった。

    「結」
    本論文は、元々は「青木氏」の調査の中での他の氏に疑問を感じて調べていると大変な繋がりがある事を知れ得て、更に青木氏の巾を横に広げたのが経緯であった。
    しかし、秀郷一門の「青木氏」と「主要5氏」、それに「主要8氏の共通血縁族」に付いては血縁族ではあるが、どのような関係で成り立っていたかを長い間で試みたが、あまり関係研究の資料が無い中で、苦労はしたが何とか網羅できたかとも思っている。
    その苦労とは、「史料調査−疑問−推論−史料探索−考察−検証−確定調査」の繰り返しでここまで到達する事が出来たが、今後、ルーツ探しなどに挑戦しようとされる方は、この手順を踏まれる事をお勧めする。
    中でも、「疑問−推論」のプロセスが大変大事であり、”「推論」が当らなければ又元に戻り推論を建て直す”とする根気の必要とする作業である。
    そして、その「推論」の当る秘訣は、当時の時代性の「氏家制度の社会慣習」の知識を習得する事にあり、「現代感覚」では決して推論は当らないことである。
    その「社会慣習」を習得するには、上記のプロセスは役に立たず、”只、一言「雑学」を試みる。”に以外に無い事による。この「雑学」が上がれば、「推論」も確率的に不思議に高まるのである。
    筆者は物理系技術者であるので、本職的に上記プロセス作業は専門であった為に比較的にこの作業は楽であった。しかし、「科学的雑学」は領域内であったが「文科系雑学」は特に大苦手で読む事さえも毛嫌いし苦労をした。従って、この「文科系雑学」に極めて努力を重ねたものである。
    それに、最後は、「男の社会経験」(ネゴシエイション)にあると考えている。
    この3つがあると、「魚釣り」の吊り上げる直前のググウと引き込まれる手に伝わる「感触感と歓喜」を味わえる。
    釣であろうと、何であろうと、上記「プロセス」は同じであり、それを補う「雑学」や「ネゴシエイション」も同じ「必要素」では無いだろうか。そして、其処に、「達成の歓喜」が生まれるのではないだろうか。その「達成の歓喜」が次ぎの「ヤルキ」に繋がるもと考える。
    況や、これは「人生学の摂理」ではないと考える。

    兎も角も、これで、他のレポートと合わせて、筆者は「歴史の伝統資産」を少しでも後世に遺す事が出来ると自己満足の域にある。今後、歴史に興味のある方は、大いに利用し挑戦して頂きたい。
    その為に、本文の後に、本文関係資料を続けて掲載する。


      [No.198] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長谷川氏との関係
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:53:07  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長谷川氏との関係
    副管理人さん 2008/11/08 (土) 18:32
    [本文の考察](長谷川氏)
    これより文行流主要2氏の考察である。

    念の為、兼光流主要3氏の結論は次ぎの通りであった。
    「秀郷宗家」=「青木氏の武力と氏力と勢力」で成り立っていた。
    青木氏の氏力=2倍の「兼光3氏の血縁族」の勢力で維持した
    兼光3氏の勢力圏=東関東を領国を足場に「中国−西関東域圏」を血縁族で抑えていた。
    青木氏=「長沼氏との共通血縁族」+「永嶋氏との共通血縁族」の「濃い絆の複合状態」であった。
    兼光流3氏の「氏力」=「総合力」を構築していた。
    2重にして「人の陣形」を形採った血縁族分布の理想的な戦略的勢力図であった。
    青木氏=確実な政治、経済、軍事の力を持つ「第2の宗家」であった。
    青木氏による恣意的な血縁構成を指揮していた。

    さて、次ぎは文行流2氏の事についてであるが、兼光流3氏に「氏力」にこの2誌の氏力が伴なって藤原秀一門の「氏力」がどのようなものであったか定まる。
    文行流と兼光流と定めているがこれ等相互に深い関係を維持していたのである。
    そこで、その関係を先ず家紋から検証して観るとする。

    文行流の長谷川氏111家紋は次の様な血縁族となる。
    兼光流青木氏(116)と並んで大きな氏力を持っていた。
    それを次に網羅する。

    血縁族の家紋類(長谷川氏)
    (以下第3の長谷川氏の家紋含む)
    (・印 家紋200選 54/111 49%)
    (*印 「家紋4大血縁族」と「家紋4血縁族」=青木氏)

    1・下がり藤、・上り藤、下がりばら藤、
    2・笹竜胆
    3・橘、・丸に橘
    4・違い鷹の羽、・丸に違い鷹の羽*、・右違い鷹の羽、・隅切り角に違い鷹の羽、丸に右違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、中輪に違い鷹の羽
    5・木瓜、・丸に木瓜、・四方木瓜、・織田木瓜、横木木瓜、丸に横木木瓜、三つ盛木瓜
    五瓜に剣片喰、五瓜に蔦
    6・片喰、・剣片喰、・丸に片喰*、・丸に剣片喰*、・亀甲に剣片喰
    7・丸に蔓柏、・丸に蔓柏、・違い柏、・三つ柏、丸に並び柏
    8・蔦、・丸に蔦、・丸に鬼蔦、中輪に蔦、鬼蔦、糸輪に蔦
    9・立ち沢瀉、丸に立ち沢瀉*、抱き沢瀉
    10・丸に根笹、長谷川筍、
    11・梅鉢、・丸に梅鉢*、・丸に剣梅鉢
    12・抱き茗荷*、・丸に抱き茗荷
    13・武田菱、・花菱、・剣花菱、・丸に松皮菱、隅切り角に花菱、丸に菱四つ目、丸に亀甲花菱
    14・桔梗、・丸に桔梗
    15・九曜*、・丸に九曜
    16・丸に三階菱、・三階菱、・松皮菱、丸に四つ目菱
    17・丸に三つ引き、・丸に二つ引き、・丸に一つ引き、隅切り三つ引き、丸に竪二つ引き、三つ星に一つ引き
    18・三階松、・左三階松
    19・丸に三つ葵
    20・揚羽蝶
    21・二つ巴
    22・九枚笹、・丸に九枚笹
    23・菊水、丸に菊の一枚葉
    24・五三の桐、丸に五三の桐
    25・丸に違い矢
    26・丸に梶の葉、梶の葉、
    27 三つ盛亀甲、丸に三つ盛亀甲
    28 白波
    29 下り出ばら藤、
    30 丸に隅立四つ目、丸に平四つ目
    31 並び扇、丸に四つ扇、佐竹扇、五本骨扇、檜扇
    32 下り藤に四つ目
    33 丸に井桁
    34 丸に平井筒
    35 右三つ巴、・左三つ巴
    36 丸に釘抜き
    37 一つ茗荷の丸
    38 切りに升
    39 弓矢
    40 隅切り橘
    41 隅切り角に本の字

    以上41分類である。


    長谷川氏の血縁族の考察
    藤原秀郷一門の宗家の流は、4代目から起こっている。
    兼光流と文行流であるが、長谷川氏はこの文行流である。
    秀郷より17代目の最も後発の発祥である。つまり24氏の中では最も新しい氏である。
    17代目と成ると、平安末期のぎりぎりのところの後発の発祥であろう。
    しかし、主要5氏の一つと成り得たのである。それは何故なのか疑問が湧く。
    既に、史料6でも考察しているが、一つの特長を持っているからである。

    これは、青木氏は兼光流の主導者であるが、長谷川氏は分行流の主導者である。
    青木氏は、兼光流と文行流の2つのブロックの5氏を束ねているが、長谷川氏としてもその一つのブロックのサブリーダーと成っていたのである。
    史料3で青木氏116氏が主導していることを記述したが、それに対してそれに相当する111氏を擁している。明らかに、1ブロックの主導者である。
    主導者で在るからこそ、逆に青木氏と同様に111氏に拡がったと云う事にもなる。
    青木氏116氏と同様に、111氏に声を掛ければ、大集団の末端までが動くのである。
    単純に111氏ではない。この家紋111氏の家紋に続く夫々の親族縁者が氏家制度の掟の中で動くのである。
    藤原秀郷一門の兼光流の主導者青木氏116氏と、文行流の主導者長谷川氏111氏と言う風に見事に戦略上のシステムが採れている。
    そして、「一軍の将二頭合い立たず」のたとえ通り、この長谷川氏と云えども秀郷一門の掟「第3子の家法」の下「第2の宗家」の位置付けで青木氏の主導下に置かれていたのである。
    この戦略も文句の付け様がない。

    ではその長谷川氏がどの様な家紋、即ち、氏で構成されていたかの疑問も湧く。
    疑問1 何故に秀郷主要5氏の一つと成り得たか
    疑問2 どんな氏で構成されていたか
    (疑問1と疑問2は重複する部分がある。)

    既に、史料6で考察したが、それをもう一度引き出してみると次ぎの様に成る。
    疑問1は「2足の草鞋策」を採っていた事
    疑問1は「血縁族の違い」が在った事
    疑問2は「戦略の違い」が在った事。
    疑問1と疑問2では「大豪族28」と「小豪族68」の比率が在った事。
    疑問1と疑問2では地理性が「狭く濃く」に対して「広く薄く(長谷川氏)」で在ったこ事。
    等が挙げられる。(詳細は資料6参照)

    では、41分類の家紋類を観てみるとする。
    先ず、最初に驚く事は、「家紋200選」の比は49%である事。
    これ程17代目と言う後発で、111氏という集団で在りながら、大豪族の50%程を占めている。他の氏はせいぜい10%程度で在るのに較べれば大変な集団である。
    まして、「下克上」と「戦国時代」に差し掛かって発祥した氏である。
    「家紋200選」ではないが、その一門(111)を入れて計算すると、73%にも成る氏である。
    「血縁族」としての「主要8氏」など家紋群の正式な末端族を調べて入れると、概ね、90%弱になる。
    「身内力」と成る90%となると恣意的に確実に固めに固めて創り上げた氏力である。
    平たく言うと”いざ戦い”と言う時に駆けつける軍団が、全て身内で殆ど占められると云う事である。他氏との連携での力を借りる必要は無い。
    これは「固い軍団」を意味する。これに、其の他の27%の血縁族が着くのであるから、疑問1の主要5氏になれるに違いない。成れないとおかしい。

    次ぎには、長谷川氏も同様、「下がり藤紋」宗家紋が控えている。
    17代目の発祥であるがこれは秀郷一門の直系子孫を身内にをまだ有していることを意味する事から、一門の中では肩身を広く持てる。これも疑問1の解答要素である。

    更に、笹竜胆紋である。
    皇族賜姓青木氏、又は清和源氏との血縁族を固めて、「家柄身分」の保全を続けている。
    これが、「家柄身分」の社会慣習の強い氏家制度の中では、秀郷24氏との大きな差となってその力を一門の中で誇り絶大に働いていた事に成る。疑問1の回答要素でもある。
    笹竜胆に限らず、橘諸兄の皇族宿禰族の橘氏との血縁も固めていることも、要素を重複させる。

    次ぎには、史料5考察の青木氏の共通血縁族の「家紋4大血縁族」と「家紋4血縁族」補佐役4氏の合わせて8氏とも血縁をしている。(下記)
    「家柄身分」の固めも然りながら、「家紋200選」の主要家紋の8紋の氏である「力、武力」の象徴族の固めも間違いなく戦略として取り入れている。
    これも疑問1の解答である。

    それも、他の秀郷主要4氏とは違うところがある。それは、この血縁族8紋の氏の支流紋とも血縁し加えての血縁を末端まで幅広く手堅く固めているところである。
    特に、「大豪族」と「小豪族」の類とに分けるとすると28:68との比率になり、「小豪族」に重点を置いていることに成る。
    同じ氏力持つ青木氏は「第2の宗家」であるが故に、長谷川氏の様に大きく偏る戦略を採れないであろうが、長谷川氏と異なる点である。
    これは疑問2の解答に当るで在ろう。

    参考
    「共通血縁族」
    5氏共通:「家紋4大血縁族」=・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
    4氏共通:「家紋4血縁族」=・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。

    「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
    (注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

    青木氏と同じく全く、長谷川氏の主要血縁族はこの家紋の2群(家紋4大血縁族+家紋血縁族)に振り分けられる。
    これも、疑問1の解答になるだろう。

    しかし、この2群以外にも、大豪族との血縁をしている。
    木瓜族、柏族、蔦族、桔梗族(土岐氏)、引両族(足利氏)、菱族(武田氏)である。
    そして、特長は、この6氏族は、本家宗家だけではないその族の支流族の末端までとの血縁を進めている事である。(鷹の羽族浅野氏含む)
    これは他の秀郷4氏とは大きく異なるところである。
    これは疑問2の解答にも成る。

    他の秀郷主要4氏の血縁戦略は宗家、本家、或いはその族の力のある家紋氏が特長である。
    これは”「いざ戦い」”の時はその支流族まで余程の事がない限り「氏家制度」の社会慣習に基づき馳せ参じるであろうが、長谷川氏は違うのである。
    この支流族までも「手堅く細かく」の血縁で固めている事である。
    戦いの中で”裏切”で足を救われる危険は極めて少ない。戦国時代の中を通り過ぎてこの「氏力」(111)を維持できたのもこの戦略に大きく関わっている事に成る。

    この戦略を採った理由は、矢張り、「最後発」の長谷川氏であるからであろう。
    他の秀郷主要3氏(青木氏、長沼氏、進藤氏)に対する戦略的配慮もある事ながら、その平安末期の時代性と室町期の「下克上」に晒された事の「時代性」で、生残るには、宗家本家筋だけでは「下克上」でどう出るか判らない。藤原秀郷一門はその最大の標的であった。
    だとすると、後発の長谷川氏としては、どうするか。
    つまり、「小豪族(68%)」でも判る様に、「支流族末端」まで確実に血縁で結んで「生残り戦略」を展開せざるを得ない宿命を論理的に帯びている事に成る。
    「広く薄く」の戦略を敷く以上、絶対必要条件で在ろう。
    参考に、同じ後発の立場の永嶋氏は、違う戦略を採った。つまり、「狭く濃く」の逆の戦略で身を固めて安全を図る戦法である。
    戦法で云えば、長谷川氏は城から出て「野戦戦法」、永嶋氏は城に籠り「篭城戦法」ではっきりするであろう。これが疑問2の明快な解答になるだろう。

    因みに、では、青木氏と長沼氏はこの理屈で言うと何に成るだろう。
    青木氏は「第2の宗家」で組織のピラミッドの上に立ち、且つ、組織(宗家)、武力(九州−関東)、経済力(2足の草鞋策)、政治力(シンジケート)にて押さえ込み、焼き討ちと打ち壊しのまとまりの小さい「下克上」を「力」で相手を綜合的に強圧した戦法である。
    長谷川氏と違う秀郷宗家(貴族)に代わり「宗家」としての威厳を保った戦略である。
    宗家が「篭城戦法」では話にならないだろう。又、大一門を率いているのだから現実に理屈上「篭城戦法」は出来ないであろう。
    要するに、青木氏は立場上、必然的に秀吉が採った戦法「圧力戦法」となろう。戦わずして圧力で押さえ込む血縁戦法を採ったのである。

    長沼氏ではどうなのか。
    長沼氏は先発氏である。本文史料の考察の8/10で記述したが、この「中間的戦法」を採った。
    だから、53氏であるのだが、長谷川氏の「野戦戦法」、永嶋氏の「篭城戦法」、青木氏の「圧力戦法」の「混合戦法」とでも云える。
    しかし、史実、この先発の上級族との血縁をした長沼氏の支流族は下克上や戦国時代に大きく潰された。
    この先発の長沼氏の失敗を反省して、戦略上採ったのが後発の永嶋氏なのである。

    長谷川氏から話を少し留めて、その長谷川氏の血縁の対比を浮き彫りにする為に、一門で起こったその弱点の例を暫く述べるとする。
    ここで、「長沼氏の弱点」(先発族の秀郷一門の弱点)を補う戦法を採った小さいながらも永嶋氏は大変な考えられない「篭城戦法」の弱点を補ったのである。
    まさしく、鎌倉幕府末期の南北朝の戦いの主役10万の兵に対して3000の兵で立ち向かい勝った戦法の主役の楠木政成で在ろう。この戦法を補った。戦法としては次ぎの2つにある。

    「篭城戦法」に対して、「シンジケート戦法」を加えた事、況や「ゲリラ戦法」である。
    もう一つは、「2面作戦の戦法」を加えた事、況や「挟み撃ち戦法」である。
    永嶋氏は「篭城戦法」+「ゲリラ戦法」+「2面作戦戦法」+「挟み撃ち戦法」を血縁戦略では採ったと成る。所謂「補足戦法」である。
    長沼氏はこの「補足戦法」を採らなかった為に「下克上と戦国時代」の影響を大きく受け子孫を弱くしたのである。

    先ずその一つ血縁戦略による「挟み撃ち戦法」として延べる。
    これは、当時、最大の関西九州域で勢力を張っていた阿多倍の末裔の大蔵氏との関係である。
    この子孫が、藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」と「24地方の守護職」の力に対して、「征夷代将軍」を担い、且つ、「遠の朝廷」と「錦の御旗」を持つ「太宰大監」として関西以西から九州全土の西側に勢力を張っていた。この大蔵氏の末裔が1250-1290年頃の鎌倉期に突然に、同名の永嶋氏に氏名を変更したのである。面白い現象である。
    仇敵でもある東の秀郷一門の永嶋氏に対して、大蔵氏を変えて同名の永嶋氏を西に名乗ったのである。
    秀郷一門の結城氏系永嶋氏(佐野氏系永嶋氏もある)は「関東屋形」と呼ばれてその勢力は中部東域である。
    まして、この時代には天皇から賜姓を授かることは殆ど無くなりつつある時期でもあり、その中で3百年近い由緒ある「賜姓大蔵氏」から「長嶋氏」を名乗ったである。
    当時の氏家制度の中で「賜姓」は大変な名誉の氏名で望んでももらえない特別で格別なものである。それを捨てたのである。
    放って置く訳けにはいかない程の血縁的史実のこの現象には何か政治的なバランス関係が起こったのであろう。

    それは経緯としては次ぎの様に成る。
    阿多倍王の直系末裔(12)の歴史上大豪傑の「大蔵種材」という政治、経済、軍事を納める3権を保持した「錦の御旗」を正式に与えられた唯一の人物が居た。平安末期「太宰大監」を努めた人物である。この「種材」は四天王彫刻(増長天、広目天、持国天、多聞天)のモデルにもなった日本唯一の文武に長けた豪傑人物でもある。
    賜姓大蔵氏は代々「太宰大監」を勤めた敏達天皇の曾孫の芽淳王の子の娘を娶り准大臣に列せられた家柄で、その阿多倍の次男が興した賜姓大蔵氏12代目(1090年頃)である。
    朝廷の財政を一手に担う「3蔵」の一つを任された氏である。後には太政大臣平清盛まで上り詰めた家柄の一族でもある。全国32/66国の関西以西に勢力を保持していた。
    この一族が大蔵氏から永嶋氏に突然に氏名を変えたのである。
    関西以西から九州全土の永嶋氏はこの末裔である。
    何故変名したのであろうか。それが「挟み撃ち戦法」になるのか疑問である。そこで史料を調査した。それが次ぎの内容である。

    「大蔵氏系永嶋氏」と「藤原秀郷系永嶋氏」との関係
    そこで、この「大蔵氏系永嶋氏」と「藤原秀郷系永嶋氏」との関係を調べて観ると、「繋がり」を否定出来ない史実が生まれている。

    「大蔵氏系譜」
    種輔−種貞−種有−種資−種秀−頼種−
    種輔−種貞−種嗣−義種−−−−種親−種武−
    種輔−種貞−種房−種重−

    (注釈 種有は右馬氏の跡目に入る。)

    まず、大蔵氏のことから検証する。
    この大蔵氏の末裔が永嶋氏に変えた時期である。その経緯は次ぎの通りである。
    変えた人物は、永嶋氏相伝の大蔵種秀(阿多倍王18代目 大蔵種材7代目)で、正式にはその親族の「種親」(19代目)である。
    (注意 大蔵氏長嶋が正しい氏名である。 秀郷一門の結城氏系永嶋氏は長嶋氏が正しい)

    系譜の経緯は次ぎの様に成る。
    親の「種資」の時に血縁し、その子「種秀」は長嶋氏を相伝し、その子「頼種」は子なし 「種嗣」の孫の「種親」を養子にして継承する。その子「種武」が子孫を広げる。
    (ここで始めて他氏の菊地氏から嫁を採り血縁)
    「種秀」は大蔵氏より「長嶋氏」を相伝し始めるが、その子供(頼種)に嫡子出来ず僧侶(覚心)となり身を引く。「種嗣」の孫の「種親」を養子に迎え、その子「種武」で長嶋氏は伝承する。
    この事から実質の長嶋氏は「種武」の継承である。

    「種武」は「種材」から9代目に当る。
    変更時期は1280(1275-1285)年頃前後に氏名を変えた事に成る。

    この時期に関する考察には、次ぎの様な国家的大事件が起こっている。
    1 鎌倉幕府の北条氏の執政で、丁度、2度の「元寇の役」が起こった時である。
    第1次1274年と、第2次1281年である。
    (北条氏の没落原因となった。)

    2 この時、大化期から大蔵氏は代々続いた朝廷の3権を保持する「太宰大監」を、鎌倉幕府の「鎮西探題」(1293年)に変更する直前に、「種秀」の前の「種資」まで続いた「太宰大監」を下ろされた時期(1280頃)でもある。
    「元寇の役」の責任をとらされた形で降ろされた事になり、大蔵氏は衰退の憂き目を受ける。

    (参考「太宰大監」(初代種材)「遠の朝廷」(「西の朝廷」)と呼ばれた九州全土を3権を持って納めた大宰府に府庁を置いた大監である。後に鎌倉幕府は「鎮西探題」に変える)

    秀郷の永嶋氏から観ると次ぎの様に成る。
    この時期に北九州の守又は官職を務めた人物は、10人居る。
    (大蔵氏の定住地域を前提とする。日向、鹿児島の肝付氏系大蔵氏と島津氏系永嶋氏は除く)
    (藤原利仁流は永嶋氏との血縁は薄いことから9人を差し引くと1人となる。)

    秀郷宗家一門の任官の人物
    豊後5人(12、19、20、21、23代)、豊前1人(15代)、筑前4人(19、20、20、21代)

    その1人目は、次ぎの通りである。
    豊前 貞宗 15代目 1270−1280年頃

    永嶋氏関係筋からの豊後に赴いた人物
    その2人目は、行光である。
    豊後 行光 16代目 1270−1285年頃

    永嶋氏は行長(14)が始祖である。しかし、正式には孫の武蔵守の行光(16代:1280年頃前後)である。秀郷一門の永嶋氏も孫の代で実質永嶋氏(長嶋氏)と成ったのである。
    「行光」と成ると1280年代であり、武蔵守であるので、可能性が大きい一人である。

    これ等2人は、大蔵氏系永嶋氏発祥の経緯と永嶋氏の経緯からは年代的には完全一致する。

    では、この接点の仮説である。
    上記の大蔵氏の永嶋氏の継承の経緯から次ぎの様に成る。

    「継承経緯」
    ”両氏は血縁関係を結んだ”つまり、”大蔵氏分家に秀郷流永嶋氏から男子跡目を入れた。””相伝した””2代続きで嫡子が出来ず完全女系と成った””養子先の氏名の永嶋氏の選択をし名乗った。”となるだろう。
    大蔵氏の系譜の経緯から仮説は一致し問題はなく、氏名の変更は可能となる。

    では、次ぎに九州と武蔵の地理的要因を仮説する。
    1274年と1281年に2度の「元寇の役」があった。全国より豊前、豊後、筑前に史実として全国の豪族の兵が集まった。

    ここで、仮説する。

    仮説1
    鎌倉幕府に一番早く合力し、藤原一門で最も勲功のあった「藤原朝光」はその為に下総の「結城の本領安堵」と「武蔵国の本領安堵」を受けた。
    この永嶋氏は佐野氏−結城氏−酒井氏−永嶋氏が発祥しているのである。
    この時、この佐野氏系から分流した結城永嶋氏(長嶋氏)3代目(孫)の行光が武蔵守に任じられた。
    この「行光」が2度目の「元寇の役」の為に、九州に赴いた。
    この時、大蔵氏は「太宰大監」を降ろされて窮地に陥っていた。
    そこで、この時期、最も勢力を伸ばしていた「関東屋形」と呼ばれるほどの勢力のある永嶋一門(結城氏系長嶋氏)との連合に踏み切った。
    そして、”両氏は血縁関係を結んだ”とする。
    以上の上記の接点に至る。
    そこから、この大蔵氏系長嶋氏は北九州3国から九州全土へと拡がる。(1300年頃)

    この「関東屋形」には、大変重要なデータが入っている。
    「関東屋形」とは、結城(永嶋)氏、佐竹氏、宇都宮氏、小山氏の4氏である。
    4氏は大変連携を持っていた。
    この内の1氏の佐竹氏は関東(分家)と北九州(本家)に一族が分布する。
    佐竹氏は「扇紋」である。まずこのことは大きなポイントである。

    しかし、この大蔵氏の跡目に入った人物は本人の「行光」なのか、その子か孫か、誰なのかの疑問が湧く。
    そこで、この「行光」の系譜を追うと、次ぎの様な人物が浮かび上がる。

    「結城永嶋氏系譜」
    行長−行重−行光−房重−重忠−重国−
    行長−行重−行光−行経−行房−行長−

    行長−行重−吉清−
    行長−重行−
    (行長は同名2人居る)
    「行光」には二人の子供が居る。
    一人は、「行経」で佐渡に定住した。
    もう一人は、「房重」である。

    この人物「房重」には、「行光」系譜の全ての人物は定住地、役職など書かれているが、詳細が全くない。
    普通では、詳細が無い理由は、大蔵氏に移動した為に系統外となり、系譜作成時に詳細は不詳と成った事からで、役職も無く成った事からである。

    そして、更に違う事がある。
    この「房重」は氏名の「行」の字(通名)を引き継いでいないただ一人の人物である。

    まだ、決定的と観られるものがある。
    それは、この「房重」の秀郷流永嶋氏の末裔子孫には役柄が着いているが、孫の「重国」には大蔵氏の役どころの「蔵人役」を司っている。

    全て系譜は「永嶋氏」であるが、この人物の「永嶋氏」は「長嶋氏」と成っている。
    これは系譜作成時に九州長嶋氏を「長嶋」で違いを出したものであろう。

    ところが、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
    「房重」はこの「行重」(永嶋氏)より直系3代目(孫:秀郷17代目)である。
    初代「行長」の子の「重行」と「行重」の二人兄弟の人物が居る。
    重行:長嶋氏であり、行重:永嶋氏を発祥継承している。

    「房重」のその末裔一族は長嶋氏である。内一人が永嶋氏の跡目に入っている。
    つまり、大蔵長嶋氏はこの「房重」の秀郷流長嶋氏で一致する。

    故に、この人物の疑問の答えは、この「房重」ではないかと観られる。
    この事は、下記仮説4の大蔵長嶋氏でも状況証拠として検証できる。

    仮説1-1
    つまり、「行光」と共に子供の「房重」が豊後の防備に同行した。
    大蔵氏はこの「元寇の役」で正妻嫡子を無くしたか、嫡子を遺せなかった。
    そこで、家の「存亡衰退の危機」もあり、共に戦った結城の永嶋(長嶋)「行光」の子供を跡目に入れて建て直しの政略血縁を図った。
    「大蔵種秀」がこの「房重」であると観る。「種資」の「子供養子縁組」で入る。
    そこで「子供養子」であるので「房重」の名を大蔵氏の通名「種秀」と変名する。
    後に、「種秀」=[房重」は「種資」の実娘との血縁をした。

    「種資」実子は廃嫡説
    「種資」の「実子頼種」は僧侶(覚心)と成り身を引いた
    「重房」の実子説
    「種秀(重房)」と娘との実子「頼種」に子が出来ず、僧侶(法名覚心)に成り身を引く。

    嫡子生まれず、親類より跡目(種親)を入れて長嶋氏(永嶋)を無理に継いで名乗った事に成る。
    実質は、その子の「種武」が始めて嫁取りの長嶋氏(永嶋氏)が発祥する。
    結局、仮説1−1は何れの説も結城長嶋氏(房重)の血筋は消える事に成る。
    無理でも長嶋氏を継いだところに長嶋氏との血縁を実行したい大蔵氏の強い事情がある事を示すものであるが疑問の一点と成る。

    (「親種」は「種資」の父の弟(叔父)の3代目である。)

    その後の経緯は、次ぎの様に成る。
    大蔵氏系の弁済使肝付氏(540年続いた。北九州中部から薩摩の一部まで勢力圏に納めていた)との血縁の肝付氏系永嶋氏が南九州に発祥した。
    遂には、この肝付氏は薩摩の島津氏に敗退(1591年)し肝付半島を残して島津家家臣(志布志阿多)と成る。この時、島津氏系永嶋氏も発祥する。
    この元は大蔵氏からの3系列の九州永嶋氏と長嶋氏が発祥した。(発祥元の大蔵氏は長嶋氏である)

    仮説2
    豊前 貞宗 15代目 
     
    大蔵氏の在所に役職として赴任していた1人(1270-1280年)が、上記仮説1(結城永嶋氏)の所を置き換えて、この大蔵氏との血縁した。
    この永嶋氏は佐野氏系永嶋氏と成るが、兼光流で佐野氏系秀郷宗家一門15代末裔である。
    兼光流9代目有綱系の青木氏と、兼光流9代目成俊系佐野氏とがあるが、佐野氏系永嶋氏(6代目兼行流)は後者である。(結城氏系長嶋氏は6代目行尊流)

    「永嶋氏と長嶋氏系譜」
    兼光−−有綱系−−青木氏

    兼光−−成俊系−−佐野氏−−兼行−−永嶋氏

    兼光−−成俊系−−佐野氏−−行尊−−結城氏−酒井氏−永嶋氏−永嶋氏

    兼光−−成俊系−−佐野氏−−行尊−−結城氏−酒井氏−長嶋氏 

    (注意;:上総の結城氏が一時酒井氏を名乗り、その後永嶋氏(長嶋氏)と成った。)
    (酒井氏には四国阿波の秀郷一門と大きく関わった剣片喰族の酒井氏が存在する。)

    「貞宗」は佐野氏系宗家の15代目の人物であるが、流としては永嶋氏と繋がりは取れるが、豊前に長嶋氏か永嶋氏が移動した史実が取れない。(扇紋の佐竹氏関係のみ)
    移動の護衛は青木氏であった事が確認出来るが、この時期の「元寇の役」の為に、青木氏と同様に佐野氏系永嶋氏も移動したとする仮説(100%)である。
    この「元寇の役」には全ての豪族が命じられたことは史実であるので間違いはないだろう。
    しかし、この仮説2では史実が取れない。今後の研究課題である。
    豊前は大蔵氏と長嶋氏共に間違いなく赴任しているので地理的にも問題はない。

    家紋としては、この地域は「扇紋」の大蔵氏の末裔支流と見られる佐竹氏と佐伯氏がある。
    大蔵氏は宗家は「三つ撫子紋」である。
    肝付氏系永嶋氏は「三つ雁金紋」である。
    大蔵氏系長嶋氏の家紋が正式には掴めないが、「三撫子紋」であろう。
    現在の所、秀郷流永嶋氏の家紋の中にはそれらしき九州地域の家紋は見当たらない。

    ところが、青木氏と長谷川氏だけに、この3地域(豊前、豊後、筑前)の「扇紋」は確認は出来る。
    そこで、大蔵氏系長嶋氏は、「扇紋」から観て、「貞宗」に同行した青木氏との何らかの繋がりにて長嶋氏が発祥したとも考えられる。

    仮説3(研究課題 仲介説)
    「青木氏の仲介説」
    賜姓青木氏と大蔵氏は奈良期(大化期)から宿敵であり、特に、桓武期の賜姓青木氏の衰退は、彼等の台頭と桓武天皇(阿多倍大蔵氏は母方親族:高野新笠)から官職剥奪の憂き目も受けての結果であり、藤原秀郷一門も同様に桓武平氏(阿多倍一族)台頭で勢力は低下した経験がある。
    この環境の中で、旧来の宿敵大蔵氏と繋がる背景が如何に在るのか大きな研究課題である。
    北条氏が間に絡んでいる可能性も高いと推測している。
    佐竹氏の扇族の扇紋と丸に扇紋の二つである。

    つまり、”北条氏から「元寇の役」の責任で「太宰大監の剥奪」を受け、「危機存亡」の窮策として先ず、「第2の宗家」秀郷流青木氏の「扇紋(大蔵氏系佐竹氏)」を仲介として、時の「関東屋形」と呼ばれる「結城氏系長嶋氏(永嶋氏)」が入った”とする説である。

    「長谷川氏の仲介説」
    もう一つは、最後発の長谷川氏の仲介説である。
    長谷川氏は史料6でも述べたが小豪族が全体の68%を占めている。これが「野戦戦略」の所以であるのだが、北九州の豪族の扇族との血縁を強く進めている。これは青木氏以上である。

    青木氏は、「扇紋」とその分家の「丸付き扇紋」の2つである。宗家紋筋である。
    長谷川氏は、「並び扇、丸に四つ扇、佐竹扇、五本骨扇、檜扇」紋の5つである。
    支流紋筋である。
    2つ合わせると、扇一門全てに成る。
    ここで「関東屋形」4氏の関東佐竹氏(北九州佐竹氏の分家)との繋がりが観られる。

    青木氏の「2つの扇紋」の「丸付き扇紋」は分家に成ったものと観られるが、長谷川氏は明らかに「5つの扇族」と血縁している。そして、それは佐竹氏を中心にして一族の全ての家紋群と個別に血縁している事である。
    その域は豊後に留まらず、真に北九州全域に血縁していることである。
    この事から、「第2の宗家」青木氏より長谷川氏の方が大蔵氏との血縁関係の可能性が遥かに強い事が血縁種や血縁数から観て言える。間違いなく「縁」が深い。

    何よりも、青木氏には「扇紋族」と血縁があると云う事は、真に「行光」と「貞宗」の2人に同行して豊前、豊後の2地域に赴任した証拠であり、藤原秀郷一門の戦略「赴任地の豪族との血縁族を造る」に一致する事である。

    青木氏には、「宗家護衛の役」があり、[第2の宗家の役」があるので、「繋がり」は納得出来易い。
    では、長谷川氏の方は、その「血縁の可能性」から大蔵氏との「繋がり」の経緯はどの様なものであるのか疑問である。
    長谷川氏は、”この「5つの扇紋」との血縁をどの様なことから起こったのか”と言う事に成る。
    兎も角も、私は、「5つの扇紋」の中に鍵があるのではとも考えている。鍵は「関東屋形」である。
    (1280年前後の関係史料が少ないので、「探り出し」は難攻となる。)

    後は、史料6でも詳しく述べたが青木氏の一門への指揮は大きく働いていた。故に、その「青木氏仲介説」の証拠の「接点探り出し」の今後の研究課題と成る。

    「長谷川氏仲介説」も「接点探り出し」で共通の研究課題である。
    「長谷川氏仲介説」には、「長谷川氏と永嶋氏との接点」(「大蔵氏と長谷川氏の接点」)も解明が必要である。
    この「接点1点」である。この1点の確証が取れれば、仮説1、2、3は一つに成り証明出来る。

    何にしても三相(人、時、場所)の状況証拠の条件は先ず揃っている。後は確証である。

    仮説4(青木氏抜き説)
    「房重」の「房」の通名では「種房」と云う者が「種資」の叔父に居る。
    「貞宗」の「貞」の通名では「種貞」と云う者が「種房」の父に居る。
    「関東屋形」の結城永嶋氏と連携した4氏の「関東の大竹氏」も一族の扇紋である。
    九州の大蔵氏の永嶋氏は長嶋氏である。
    2人の通名の持つ人物が大蔵氏に居る。
    時期、時代、地理、繋がりも佐竹氏で採れ一致している。
    「房重」と「貞宗」の豊後、豊前に関係した藤原秀郷流長嶋氏の2名の通名が使われている。

    この事から、次ぎの事が予想できる。
    「房重」は「種房」で、「貞宗」が「種貞」であるとすると、仮説1、2、3とは別に、次の事が仮説できる。
    同時期に関係は確認出来るが通名が一致するのは余りにも偶然過ぎる。

    この2人の繋がりは、「扇紋」の佐竹氏であり、「関東屋形」の「繋がり」より、九州の本家の佐竹氏に繋がりをつけて、血縁を結んだ。これで大蔵氏と藤原秀郷流の長嶋氏(永嶋氏)の「繋がり」は取れる。

    第一次の役(1274)の前後で、長嶋氏の「房重」は大蔵氏の本家と血縁したその人物が「種房」で、大蔵氏の通名の「種」と長嶋氏の通名の「房」とを採って「種房」と名乗った。
    「種房」は「太宰大監」を勤めた。
    しかし、その血縁は、そこに、再び第2次の「元寇の役」の事件が起こる。
    九州を納めていた責任を問われ本家大蔵氏は「太宰大監」の職を解かれた。
    相伝の「種秀」の親の「種資」のところでの出来事である。
    そこで、長嶋氏から跡目に入った大蔵氏は「危機存亡の窮策」として、「藤原貞宗」が再び大蔵氏と血縁した。
    そして、通名を大蔵氏の通名の字「種」と、藤原氏の通名の字「貞」とを合わせて、「種貞」とした。
    しかし、「種貞」の子の「種有」は直ぐに、右馬氏に跡目に入れた為に、「種貞」は跡目「種資」の子の「種秀」(孫)を長嶋氏の相伝に指名した。
    しかし、「種秀」の嫡子の「頼種」に子供が居なく、「種貞」のところでの長嶋氏を告がせるために長嶋氏の血筋を引く同系列「種貞」の子「種嗣」の孫の「種親」を養子に迎え、長嶋氏を引き継ぎ名乗らせた。この時、「頼種」は僧侶覚心と成って身を引き跡目を譲った。
    これで藤原氏の血筋が大蔵氏に入った事に成る。

    仮説1、2、3、の繋がりは仮説4の「関東屋形」(5氏連携)の扇紋の佐竹氏の九州の本家筋扇紋の佐竹氏で「繋がり」は採れる事が出来る。
    仮説4と合わせて、何れの説かは今後の研究課題である。

    さて、話は変えて、仮説1、2、3に付いては次ぎの様に成る。
    肝付氏は、1140年頃に朝廷上級官僚の弁済使の「伴兼俊」が土地の古い阿多倍らの血筋を引く無名土豪の跡目に入り始祖(1270頃)とされるが、丁度、この時期の氏である。
    雁金紋がキーポイントになる可能性が観られる。
    秀郷一門の永嶋氏の家紋の中に雁金紋があると決定であるのだが無い。
    しかし、青木氏がこの両家紋を持つ。
    何らかの方法で青木氏のリーダ役目柄この縁を取り持ったと言う事に成る。
    ”青木氏の雁金紋の者が長嶋氏に養子の形を採り入り、その後、九州の大蔵氏系長嶋氏に入った”とすれば解決する。この時期はこの方式が良く採られた。
    この形の血縁方式を採れば家紋は遺せる事で一致する。

    以上仮説1、2、3、4にて確証は取れないが、秀郷一門の永嶋氏(長嶋氏)と繋がっている事はほぼ間違いないと考えている。
    この様に仮説3で絡んでいる事もあり、”どの仮説か”の問題である。
    (今のところ仮説1が有力であるが、青木氏と大蔵氏と永嶋氏の関係を掴む事が今後の研究課題である。)

    話を元に戻して、九州長嶋氏の以上の仮説から、先ず間違いなく永嶋氏は西にその弱点を補った事が云える。
    「篭城戦法」に対して、「シンジケート戦法」を加えた事、況や「ゲリラ戦法」である。
    もう一つは、「2面作戦の戦法」を加えた事、況や「挟み撃ち戦法」である。
    先ずその一つ「挟み撃ち戦法」として延べた。

    つまり、関西より西側に親族血縁者を作り出し、”いざ戦い”と成ると、背後より縁者が駆けつけて「挟み撃ち」にしてくるという「圧力作戦」である。なかなか手が出せない事になる。
    大蔵氏は現行の役で窮地に陥っていたとは言え、引き続いて直ぐ後の時代には雁金紋の肝付氏等の末裔が依然として九州の最大勢力を誇った事から考えれば。その大勢力はへ保持され大蔵氏との血縁は秀郷一門の長嶋氏としては戦略上願っても無い血縁である筈である。
    だから、「挟み撃ち戦略」で後発発祥でありながら「関東屋形」と呼ばれる位の勢力を持ったのである。だから、主要5氏に成れた一因のである。

    次ぎは「シンジケート戦法」(ゲリラ戦法)である。
    堺から名張、松阪から桑名、員弁まで、更には美濃、信濃域までのライン上には伊勢シンジケートがあった。
    これは、伊勢青木氏の「2足の草鞋策」を護る「陰の力」である。史実このシンジケートの存在は確認出来るが、このシンジケートは東隣りの美濃、その隣りの信濃との繋がりを持っていた事も判っている。つまり、5家5流の青木氏との繋がりであり、その基点とするところには今でも必ず伊勢で無いのに伊勢町の地名が残るほどである。つまり、拠点の要所要所に一族を置いて連携強化を図っていた事を意味するのである。
    大商いをするには、その運搬や商品を護る必要がある。そのためには各地にその護る連合が必要であり、「下克上」で潰された氏や敗退した武士団をまとめて経済的な支援をしてシンジケートに入れる事で彼等は生き延びる事が出来るのである。これが氏家制度の「裏の慣習」なのである。潰された小氏は皆死んだ訳ではないのである。
    村の農民、小商人、野武士、盗賊、山賊、海賊、土地の小豪族、神社寺社の宮司や住職に身を変えてその役目を果たすのである。そして、それらの一族と配下はその下で働くのである。これ等の働きの歴史的な事件は山とある。
    有名なことでは、上記した南北朝の楠木正成と北条氏の戦いである。
    又は、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛と織田信長の「天正の乱」の「丸山城の戦い」で在ろう。
    物資補給を抑える事、局所戦で疲れさせる事等の戦術を採る事で相手は餓死し、眠れなくて疲労困憊で戦意は無くなる自然壊滅に成る戦略である。事実10万の兵が餓死寸前になったのである。
    この事を知る秀吉に忠告されながら信長も、足利氏に忠告されながら北条氏も、この「陰の力」を無視したから負けたのである。

    永嶋氏はその伊勢から始まる中部勢力圏を「第2の宗家」の青木氏が指揮する事で、このシンジケートに乗れる。当然、秀郷一門の青木氏は賜姓青木氏とは笹竜胆紋で血縁の繋がりを持っている。勿論長嶋氏もである。
    伊勢を動かすことは容易である。当然、広範囲に116氏もの血縁を広げているから、一声出せば各地が地震の様に動く。
    この二つのシンジケートに護られれば、うかつに手を出させない。先に出した方が相手を無傷にして負けるが定法である。
    目に見えない武力である。永嶋氏は賜姓青木氏との血縁によりこの「陰の力」を保持していたのである。だから「篭城戦法」が効くのである。
    だから、「丸付き紋」を多く血縁相手に選んでいるのである。
    菊水紋の楠木正成の様に10万の兵に勝てるのである。この楠木正成こそ紛れも無いこの「伊勢シンジケート」の一員なのであった。伊勢と紀州に跨る山里に住まう土豪集団の元締めであった。
    史料5の秀郷流青木氏には菊水紋がある事に思い出してもらいたい。
    大元締めの伊勢賜姓青木氏と秀郷流青木氏とこの楠木政成の土豪集団の元締めと血縁関係を保持していたのである。
    完璧な血縁戦略で固めていたと考えられる。だから、強かったのである。
    何れも二つは伊勢青木氏が指揮する「伊勢シンジケート」の活躍である。

    話を元に戻して、ここが、長谷川氏と異なる所である。
    これが、説明が長くなったが、「篭城戦略」の血縁族の「永嶋氏の補足戦略」であって、長谷川氏との違いである。
    だから、「野戦戦略」を採用した長谷川氏はその代わりにこの支流族まで細かく血縁で固めている事である。
    本来、永嶋氏のところで記述するものであるが、敢えて長谷川氏のところに移した。
    「接点探り出し」如何では、長谷川氏との結びつきが高くなることも在り得ることも含めてここに記述した。先にレポートした本文「永嶋氏との関係」を思い起こして頂きたい。

    家紋から推察出来得る長谷川氏の「氏を守りぬく戦略」の苦労は統一した戦略として血縁関係にも働いていた。
    その長谷川氏とは、「逆の戦略」で氏を守ろうとしていた事も覗える史実なので、ここで記述した。長谷川氏のこの「野戦戦略」をクローズアップさせる為にも、逆に永嶋氏の戦法「篭城戦略」を説明した。

    長谷川氏の「共通血縁族」の分類(青木氏)
    「共通血縁族」(長谷川氏) 「共通血縁族」(長沼氏)   「共通血縁族」(永嶋氏)
    1・下がり藤・上り藤     1 ・下がり藤        1 ・上り藤、・下がり藤
    2・笹竜胆          2 ・笹竜胆         2 ・笹竜胆
    3・桔梗           3 ・桔梗、・丸に桔梗    3 ・丸に隅立て4つ目    
    4・木瓜・丸に木瓜      4 ・九曜          4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
    5・橘・丸に橘       5 ・抱き茗荷        5 ・丸に沢瀉  
    6・梅鉢・丸に梅鉢      6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷    
    7・九枚笹・丸に根笹     7 ・丸に三つ鱗       7 ・丸に違い鷹の羽     
    8・片喰・丸に片喰      8 ・丸に橘         8 ・丸に桔梗      
    9・九曜・丸に九曜      9 ・丸に剣花菱       9 ・丸に蔓柏    
    10・蔦・丸に蔦        10 ・丸に剣片喰       10 ・丸に木瓜      
    11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉  11 ・丸に違い鷹の羽     11 ・梅鉢、・丸に梅鉢    
    12・剣片喰・丸に剣片喰    12 ・丸に梅鉢        12 ・三階菱     
    13・武田菱・剣花菱      13 ・五三の桐        13 ・五三の桐    
    14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷                 14 釘抜き   
    15・丸に蔓柏・違い柏     以上15の「共通血縁族」   以上17の「共通血縁族」
    16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽
    17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き
    18・三階菱
    19・松皮菱
    20・揚羽蝶
    21・五三の桐
    22・丸に隅立て四つ目
    23 横木瓜 丸に横木瓜
    以上40血縁族である。


    青木氏との長谷川氏「共通血縁族」の考察
    青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様な同変化しているか、その特徴を分析する。
    この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。

    H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
    一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。
    (史料7/10添付)
    以下の数値はdB的な数値として扱う。

    長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
    H:4  11%   H:3  13%   H:2  08%   H:4  13%   H:7 03%
    K:1  03%   K:1  04%   K:1  04%   K:1  03%   K:20 10%  
    M:15 39%  M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%
    A:9  24%   A:6  26%   A:5  21%   A:7  22%   A:55 26%
    E:9  24%   E:4  17%   E:5  21%   E:10  31%   E:47 22%

    このデーターから、次ぎの様な事が読み取れる。
    1 大別すると平安、鎌倉期 2 室町期 3 安土桃山、江戸期期
    この3つがこのデターの趨勢を物語っている。
    そこで先ず、最初の時代から観てみる。

    1 平安、鎌倉期 
    全体としては次ぎの様な事を物語る。
    平安と鎌倉期では12−17%で平均14.4%Bで主要5氏の大きな差はなく低率である。
    各氏とも平安末期までに発祥した氏であるが、発祥の時期には大した差は無い事になる。
    速ければ、隆盛期のH、Kが多くなるとも考えられるが、それだけに社会の氏の数も少ない事を意味するので、同率と成ったと観られる。
    後につまり、逆に言えば、最後発の長谷川氏にしてみれば、大いに勢力拡大に努めたと成る。その数値の比較として永嶋氏の数値で判るし同様である。
    青木氏は藤原一門が鎌倉幕府樹立で離職離散した苦しい時期にその氏力を他の4氏より段突に伸ばしておりその立場から来る努力の跡が観得る。だからリード役の「第2の宗家」がしっかりして窮地を守り抜いたから4氏が生き延びられたとも謂える。
    私はこの時点で「総宗本家」の「藤原氏」より「第2の宗家」に徹しながらも青木氏の方が信頼されていたのでは考えいてる。
    青木氏は鎌倉期では10%と矢張り他の氏と異なっているのはこの事を意味しているのではないか。

    鎌倉幕府樹立で失職離散したが、秀郷一門の氏を支える為に、源平合戦に生残った豪族との血縁関係を持ち連携を積極的に図って建て直しを試みたものであろう。
    平安期には各地での藤原氏特有の戦略的血縁も図ったが、未だその相手は小豪族であって、鎌倉期では生残った血縁氏が力を増して家紋200選に選ばれるくらいの大豪族と成った事を意味する。
    むしろ、室町期の39%はこらの血縁氏が力を付けた氏の数字であって、39%の家紋を調べるとその60%が平安期と鎌倉期のの血縁氏である。
    即ち、平安期は氏が少ない故に発祥したばかりの小さい氏を育て将来に種をまいて守ったといえる。
    それが鎌倉期を経て室町期で育ったと云える。
    別の面から観ると、「源平合戦」、「下克上」、「戦国時代」で青木血縁族は潰れた氏も多かったで在ろう。

    青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は13%と平安期に血縁族を多く創り上げている。
    文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、同時期、同地で同族と親族間の血縁連携をも図っていた戦略が観える。
    利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
    進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
    赴任地は主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ血縁族を広められなかったのではと考えられる。
    それに依って、失職離散する前の平安期の血縁率が高く成ったと観られる。
    その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
    (詳細は進藤氏の本文考察参照)

    5氏の平安鎌倉期のこの平均15%は、主に賜姓族(笹竜胆族)一門と皇族(橘族)一門と限定されている。
    秀郷一族のその「母方縁者関係」から血縁をした結果の率である。その当時の大豪族とは積極的な血縁をしていない事を意味する。していればもっと大きい数字となろうが、そうでは無い。
    つまり、5氏共に平安期と鎌倉期には全く他の大豪族とは記録に残り、且つ、子孫を遺す「正式血縁」をしていない事を意味する大きな特徴である。
    この時期は「象徴と権威の血縁」を主体に血縁戦略を進めたと観られる。

    ”ではどうしていたか”であるが、氏家制度の最も厳しい時代での血縁では、最も最上位の氏が下位の身分家柄との血縁は、この藤原としては「直接的血縁」では困難で、天皇家、公家、朝臣族、宿禰族かの相手しか無く成る。つまり、「同族血縁」を繰り返していた事が云える。
    又、娘を下位の血縁相手に出し「間接的血縁」を行っていた事に成る。
    上位は「直接血縁」(「同族血縁」)で「象徴と権威の血縁」、下位は「間接血縁」で「組織固めの血縁」(「力の地固めの血縁」)とする戦略を採っていたことを示す。

    この「同族血縁」の習慣は、現在社会では異常視されるが、当時は通常の血縁習慣であった。血筋家からを重んじる「氏家制度」の最も強い社会で「純血度」がその尺度に成っていた。
    その只、その社会は出来る限り「4階級の妻制度」を持ち、障害を克服する手立ては構じられていた。
    つまり、平易に謂えば、氏家制度の中で行為の立場の氏には、病気と戦時での死亡率が高い時期に、確実に子孫を遺す目的とこの弊害を無くすることも含めて、4人までの妻を作る事が慣習或いは義務として認められていたものである。
    その制度とは、純血の高い順に3位まで妻は高位の身分とし、4位(3位)は妥女(妾)であった。
    純血度の高い妻の子で障害の無い場合は嫡子として扱い、後は全て妾腹子になる。嫡子の直氏が産まれなければ妾子を嫡子とするシステムであった。
    嫡子外妾子は上記の下位の「間接血縁」(跡目)の道具として用いられると言うものであり、長男が必ずしも嫡子ではなく廃嫡と僧化する事は頻繁に行われていた厳しい社会でもあった。
    長男制度は江戸初期からである。

    話を戻して、別の見方をすれば、皇族賜姓族と天皇家との結束を重点に図っていた事になり、賜姓青木氏との血縁が強かった事を意味する。
    これは室町期末期の信長などにより敗退逃亡した時に、諏訪族を始めとする賜姓青木氏を各地の藤原秀郷一門が匿ったのはこの「強い縁と絆」の関係があったからである。ただ、頼っただけではない。この数字はこの事をも意味するのであり、この社会体制は豪族間の間で江戸時代まで続いた。
    (だから、3期の混乱期には特に江戸時代には、系譜などの「搾取偏纂」が起こったのである。)
    秀郷一門が匿う事で手が出せなかったのは、この「関係情報」は信長などもよく知っていた事をも意味する。
    もっと云えば、秀郷一門の中で、これだけの事をどこかで支配していないと出て来るデータではない事に成る。
    5氏らが勝手に動くだろう。そうすると5氏ともに率は散在する筈である。しかし、全ての比較データを見てもらうと進藤氏の1箇所を除いて殆ど同比である。(進藤氏のこの考察は下記)
    つまり、武力を持たない貴族の秀郷の総宗本家に代わり「第2の宗家」が居て、それが統率して細かく指揮していた事を物語るものである。そうで無くてはこのデータは出てこない。
    つまり、「第3子の家法」を持つ青木氏が居たからである。
    氏家制度の中で、藤原秀郷一門の氏はこの「第2の宗家」の青木氏に許可と指示を受けていた事に成る。
    2倍の勢力を持つ相手に背けば打たれるのは当時の「氏家制度の掟」を前提に組織は護られていた。宗家本家の末端までの口出しは「冠婚葬祭時」も含めてこの社会習慣は江戸中期まで護られていた。
    これが「氏家制度」であり、しかし、物身心共に困った時には助けてくれるなど良い事の多い制度であった。
    しかし、これは難しい事である。次第に他の血筋が入れば他人化して統率は取れなくなるは世の常である。史実が物語る通り武力だけでは無理である。
    しかし、それをクリヤーしたのは、2つの方法があり、その一つは他氏の豪族の血筋が入ればその氏との藤原一門間の「同族間の血縁」である。
    だから、「共通血縁」(普通10%程度)が50%程度と云う高い率に成っているのである。
    そして、史料でも記述したが、その5氏の「共通血縁」が80%台(第3氏未勘氏賜姓氏など除く)で同じと云う不思議とも云える現象を示しているのである。
    これは「他氏の血筋」が入るその「同族間血縁」で組織を固め、同族血縁の障害を排除している証拠でもある。草する事で当然に高い率の「共通血縁族」が生まれる事になる。

    このまだ「氏家制度」が厳然と残る平安期と鎌倉期は、これから起こる日本歴史上の未曾有の社会逆転現象と危機存亡期に打ち勝つ組織力を築く前哨戦でもあった。
    其処に、その試練の室町期が到来するのである。乗り越える力をこの「共通血縁方式」の藤原秀郷一門は持ち得ていたのであろうか。

    2 室町期
    長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
    M:15 39%   M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%

    この数字を観て驚く。
    進藤氏を除いても、40%である。
    室町期は下克上と戦国時代と云う混乱期で有名であるが、失職離散の憂き目でも、この数字は高い。

    当然に、室町期に大きい数字が出る可能性は高いが、現実に、混乱期で、農民などが武士となり立身出世をして、自らの存在を鼓舞する為に家紋化が次第に起こり、氏数も最大に増えた時期でもある事から、それを物語る結果である。
    この数字を観る事から、同族血縁間の弊害は克服している事を意味している。見事なものであるが、恣意的な指示があったであろう事を想像される。当然にその恣意的指示の出処は「第2の宗家」の青木氏である。
    これは藤原秀郷一門主要5氏が平安期の隆盛より室町期の隆盛の方が大きかった事を示すものであるが、鎌倉幕府が樹立し、秀郷一門は職を失い離散した時期でもあるから、一時期はこの影響を受けたことは否めない。その時期の鎌倉期は矢張り一段小さいデータと成っている。
    しかし、室町期では高く成っていて、その勢いは江戸まで続いている事は失職離散の憂き目を受けながらも、猛烈な勢いで氏を固め、勢力を盛り返した頑張りが観えて来る。
    その間の頑張りは、普通ではない。40%である。
    室町の「下克上」の時期の最も苦しい時期に最も高いのである。ましてや、その「打ちこわし」「焼き討ち」の相手は、殆ど弱り目祟り目の藤原氏だけに向けられたのである。
    それにもまして、延びている。倍の80の力以上を出して、40を確保した事を意味する。
    そうすると「戦う力」は倍の力を持っていたとは考えられない。離散失職しているのであるから、兵力も減っている。
    そうすると後は秀郷一門の結束以外に無い。その結束は精神的なものだけであったとは言い切れる程に世の中は理想的に出来ていないし甘くは無いない。
    上記から青木氏の「第2の宗家」の統率力と、その支配を裏打ちする「経済力」が無ければ、「下克上」と「戦国時代」で「政治と軍事」の力は低下しているのであるから無理である。
    それが、上記で説明してきた2つ目の「2足の草鞋策」なのである。

    私は、近江、伊勢、美濃、信濃の豪商の地として有名であるが、この4地方の皇族賜姓青木氏の「2足の草鞋」と藤姓秀郷流青木氏の豪商が支えていたのではないかと観ている。
    史実として残る伊勢の豪商紙屋長兵衛、讃岐籐氏の大廻船問屋、近江、堺、摂津の大貿易商人、藤姓の駿河の大海鮮問屋信濃の大産物商や大馬商等の青木氏がこれを支えたのである。豪商史実を挙げればきりが無い。
    平安鎌倉時期の水軍合戦の史実を紐解くと、これ等の「2足の草鞋策」の船団が軍船に早代わりして戦っている。最も有名な事として、源平合戦は水軍の戦いで勝敗が決まったが、この史実を探ると幾つも出て来る。先ず、平家の壇ノ浦の水軍の敗戦再結集で、軍戦の持たない頼朝軍の本拠地とする三浦半島の鎌倉沖まで迫り「万事窮す」の時、これを察知し救ったのが。伊豆大島と伊勢尾張間で水産物商い船団と伊豆の海賊船団に伊豆の源氏の大島氏が乗り込み、更に、伊勢の豪商の伊勢船団の水軍(賜姓青木氏)が加わり急いで三日で三浦沖に駆けつけ、平家軍と再び戦火を交えて頼朝の窮地を救った。
    この時、義経自身の身内船団で平家の瀬戸内の平家水軍を破った船団を構成する紀州海賊(雑賀、河内一族)、熊野水軍(新宮太郎)、伊勢水軍(伊勢三郎)瀬戸内水軍(讃岐青木氏)は関西にいて裏を掻かれた。
    この2つの史実の船団を裏で結び付けたのは2足の草鞋の2つの青木氏の豪商である。
    この様に、裏では「2足の草鞋策」の商船団が暗躍していたのである。
    故に、「2足の草鞋策」で「下克上」「戦国時代」の危機を乗り越えられたのである。

    これだけの力を持ち得ていれば、潰される事は無いだろう。武蔵、下野の領国は安泰であったのである。鎌倉幕府も故にその力を認めての2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」が降りたのである。
    その藤原氏を代表して朝光が頼朝の幕府に近づき、結城氏を再興したのである。そして、そこから永嶋氏や秀郷一門が底支えを受けたのである。「関東屋形」として力を発揮出来たのである。
    データーでもこの様に出ている。

    ここで、進藤氏と永嶋氏の数字が少し違う。これは何を意味しているのであろう。
    後発の永嶋氏46%と先発進藤氏31%である。
    他の3氏は40%であるが、永嶋氏に付いては史料6と前本論で記述したが、氏の血縁方法と云うか生き方に違いがあった。
    所謂「篭城戦略」で「狭く濃く」ある。長谷川氏は「野戦戦略」で「広く薄く」であった。
    この差が46%と云う数字と成って現れている。
    後発でもあったが、確実に主要8血縁族との血縁を固めている。室町期に誕生した豪族との血縁で身を護った結果を示すデータでもある。

    3者合計(N1:N2:H) 4者合計(N1:N2:H:S) 5者合計(N1:N2:H:S)
    H:09  11%      H:13  11%        H:20  06%
    K:03  04%      K:04  04%        K:24  07%
    M:35  41%      M:45  38%        M:126  39%
    A:20  24%      A:27  23%        A:82  25%
    E:18  21%      E:28  24%        E:75  23%

    主要5氏の合計でも観て見ると、3者と4者と5者とも高率と同率であり、主要5氏間の血縁は極めて濃厚さを示し且つ固い事を示すものである。主要5氏共に「家紋200選」の上位の家紋群で構成されている事を示すもので裏打ちされている。
    合計で観ても同率であると云う事は、”夫々が勝手に動いて血縁関係をしていない”事を物語るものである。
    文行流の同じ氏力を持つ長谷川氏でさえも「第2の宗家」青木氏の一門を統括する恣意的指示があった事をここでも意味する。


    本流長谷川氏の一族
    秀郷流長谷川氏 秀郷7代目公澄の末裔である。後に尾藤氏を名乗る。
    秀郷流長谷川氏 秀郷8代目行義の末裔である。後に下川辺氏を名乗る。
    秀郷流長谷川氏 秀郷の末裔長久の末裔である。長久は未勘
    利仁流長谷川氏 為輔を祖とする進藤氏の末裔である。
    利仁流長谷川氏 有国を祖とする末裔である。有国は未勘

    未勘の長谷川氏
    橘姓長谷川氏  
    菅原姓長谷川氏
    在原姓長谷川氏
    中原姓長谷川氏
    宇野氏族長谷川氏
    中臣姓長谷川氏
    源満政流長谷川氏

    未勘氏の末裔。
    岩代
    越後
    上野
    常陸
    羽後
    武蔵
    相模
    駿河
    尾張
    越中
    紀伊



    先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。


      [No.197] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長沼氏との関係
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:49:23  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長沼氏との関係
    副管理人さん 2008/10/21 (火) 06:44
    [本文の考察](長沼氏)

    永嶋氏に続いて長沼氏に付いて考察する。
    この主要5氏の一つ長沼氏は青木氏と同様に秀郷一門の兼光流である。
    発祥経緯も早く青木氏との関わりは深い。
    その青木氏とどの様に関わっていたのかを考察する。
    藤原氏の古い研究書籍では、これ等の主要5氏特に中でも長沼氏と永嶋氏は「青木一族」と位置付けられているものもある位に親密な関係にあった。
    「家紋」は当時の氏の特長を表す代表的な手段であって、その「氏の生き方」を示すバロメータでもあるが、その「家紋」を通じて検証してみる。

    兼光流の長沼氏は52家紋は次の様な血縁族と成っている。

    2 血縁族の家紋類(長沼氏)
    (以下第3の長沼氏の家紋含む)
    (・印 家紋200選 24/52 46%)

    1 ・下がり藤、・丸に下がり藤
    2 ・左二つ巴、・右二つ巴、・左三つ巴、右4三つ巴、
    3 ・中輪に抱き沢瀉、・丸に立ち沢瀉、・抱き沢瀉
    4 ・丸に立ち梶の葉
    5 ・桔梗、・丸に桔梗
    6 ・九曜、七曜
    7 ・抱き茗荷、重ね角持ち抱き茗荷
    8 ・五三の桐
    9 ・丸に三つ鱗、二つ輪に三つ鱗
    10 ・丸に橘
    11 ・笹竜胆、・丸に笹竜胆
    12 ・丸に剣花菱
    13 ・丸に剣片喰
    14 ・丸に違い鷹の羽、四方瓜に違い鷹の羽
    15 ・三つ柏、二つ輪に三つ柏、・丸に蔓柏
    16 ・鶴の丸
    17 ・丸に梅鉢
    18 三つ扇
    19 丸に竪二つ引き
    20 輪違い
    21 五つ矢
    22 亀甲の中に根笹、亀甲に五三の桐
    23 采配のぶつ違い
    24 折敷に変り七宝
    25 くつわ
    26 丸に頭合わせ三つ雁金
    27 丸に三ツ星に一引き
    28 丸に本の字
    29 丸に大の字
    30 丸に三つ盛り亀甲花菱
    31 黒田藤巴
    32 丸に鬼蔦
    33 丸に釘抜き、丸に延釘抜き
    以上33分類52氏の長沼氏である。

    長沼氏の血縁族の考察
    永嶋氏の27分類に対して、長沼氏は33分類にされるが、「家紋200選」に対しては24氏で全体の46%である。長沼氏の%は永嶋氏とほぼ同じ程度(46)である。
    氏数は永嶋氏35氏に対して52氏である。
    青木氏は「家紋200選」では(59/121)49%である。
    「家紋200選」の3氏とも同率で高く、主要族で血縁を結んでいる事を示す。
    「家紋200選」にある主要血縁族で観れば、青木氏と永嶋氏と長沼氏は同じ程度の血縁力を示している。しかし、全体的に観ると、其処には夫々の特徴が出て来る。

    先ず、次ぎにそれを示す。
    分類の関係では、分類比(27/33)=79%と、氏数の比(35/52)=67%から考察すると、永嶋氏と長沼氏は同門であるので二つの比が同率50として考えると、、「氏力」と言うものがあるとすると、長沼氏の方が「氏力」が20%前後高い事に成る。
    双方ともに同時に一般(10%程度)と較べて極めて高い「氏力」を持っている事を示す。

    因みに、青木氏(分類38)とでは、永嶋氏との分類比(27/38)71%、長沼氏との分類比(33/38)86%である。青木氏は長沼氏とよりよく似た血縁性を持っている事を示す。

    氏数比は「第2の宗家」であるので、次ぎの様に成る。
    永嶋氏との氏数比(35/121)29%、長沼氏との氏数比(52/121)43%で、青木氏の「氏力」は数段上である。

    又、同率氏数として計算すると(41-44)の氏数である筈であるが、(8-11)+となり永嶋氏より長沼氏の方が、「氏力」が高くなり、「氏力」=永嶋氏<長沼氏=1.2となる。
    つまり、その「氏力」の強さの差は、明らかに長沼氏の方が20%程度「氏力」が強いことを示す。

    分類/氏数の関係では、27/35=77% (1.3) 33/52=65% (1.5)から分析すると、長沼氏の方が分類は本来は44程度となる筈であるが、33であるので、ここでも20%(1.5−1.3)程度も凝縮して血縁している事を意味する。つまり、血縁の的を絞っていると言う事に成る。
    因みに、青木氏は(39/121)で31%である。
    青木氏は他の2氏と較べて、本家から分家分派分流からの子孫拡大でだけではなく、多くの氏と血縁を拡げていることを示す。本家分家の拘りは戦略上に余り無いことを示す。

    青木氏の結果は、二つの氏の比較から対比してみる事で判る筈ある。
    そこで、続けて2氏の比較をする。
    上記した様に、永嶋氏より長沼氏の方が、血縁に関しては、特定の大豪族との血縁はするものの「分家筋」を中心とした血縁をし、地域的にも限定した「戦略上の血縁」をしている。
    この様に永嶋氏もかなりの「絞込みの血縁」ではあるが、尚、長沼氏はそれよりも的を絞って”「氏数」を効率よく増やし「氏力」を高めている事”を示す。
    では何故、よりそう成っているのか疑問である。

    第1には、先ず「前発の発祥期」である。
    当然に、秀郷一門としては、長沼氏発祥は、永嶋氏は秀郷14代目で、長沼氏はそれより早く6代目である。この代差数8が大きく左右している事がまず一つ言える。
    その違いとは次ぎの様に成る。
    1 平安末期の時代性と鎌倉初期の時代性で起こる豪族の種類での違いである。
    2 貴族系から侍系への変化での違いである。
    3 平家の時代から源氏の時代への変化での違いである。
    4 朝廷社会から幕府社会への変化での違いである。
    この4つの違いで血縁族は異なる。

    第2には、次に「家紋群の違い」である。
    先ず、「丸付き紋」である。
    比率で観てみると次ぎの様に成る。
    永嶋氏 18/35=51% 長沼氏 16/52=31%で、これも20%違う。
    つまり、永嶋氏より長沼氏の方が「丸付き紋」が少ない。
    当然には、永嶋氏と同様に、「共通血縁族主要8氏」との大豪族との血縁は結んではいる。
    永嶋氏は、特長として「丸付き紋」の多い「分家筋紋」との血縁を選んで力を付けているが、一方、長沼氏は明らかに家紋数(氏数)から観て、「丸付き紋」の少ない「分家筋紋」が多い事を示す。
    明らかにこの2氏は「相対的」で「戦略的」である。

    これは発祥期(6)も早い事で「下克上」で分家が力を付ける前の血縁である事にもなる。
    むしろ、「戦略的」にそのように動いた事も云える。
    永嶋氏=「共通血縁族主要8氏」+「丸付き紋分家筋」
    長沼氏=「共通血縁族主要8氏」+「分家筋紋」
    家紋掟では丸付き紋にはほぼ6つの掟があるが、この時代では「氏の拡大」が起こって本家筋と支流筋の系譜が出上がって興った時代でもある。
    家紋種から観てみると、この場合の「丸付き紋」とは長沼氏の「本家筋の分家」と、永嶋氏の「支流筋の分家」との違いである。
    発祥期が違う事による結果であるが、青木氏を含むこの二つの氏もその焼き討ちの対象であったが、永嶋氏の場合は成長期がこのじきであり、「下克上」で勢いを得て「支流分家筋」が延びた事をも意味している
    そこで、この2つの氏の比較を更にしてみると次ぎの様に成る。

    第3には、更に「勢力圏の地域性」である。
    そこで主な血縁族で観てみると次ぎのように成る。

    「永嶋氏の主な血縁族」
    片喰族、梅鉢族、抱き茗荷族、鷹の羽族(紀州)、沢瀉族、木瓜族
    勢力圏は「関西以東中部」までに限定して小さくまとめて「濃い勢力圏」を固めた。

    「長沼氏の主な血縁族」
    剣片喰族、丸に梅鉢族、抱き茗荷族、丸に鷹の羽族(安芸)、抱き沢瀉族、丸に梶の葉族、桔梗族、鬼蔦族、
    勢力圏は、次ぎの様に成る。
    西は北九州から西中国の九曜族、西中国の亀甲族、
    中国地方の鷹の羽族、近江の茗荷族、
    東畿内から中部地方の梅鉢族、美濃の桔梗族、三河の蔦族、三河尾張の沢瀉族、
    西関東の剣片喰族、信濃の梶の葉族
    「幅広い勢力圏」を固めている。

    以上の様に長沼氏の勢力圏は、北九州から中国地方へ、更に近江に入り、畿内を通って、美濃に入り、三河へ尾張へと進み、駿河地方から信濃へと直線上に隙間無く血縁族を作り上げていて、その直線は安芸出雲の巾で行き、信濃駿河の「分布巾」を持つ「広域圏」である。
    (史料 家紋分布を参照)

    これで永嶋氏と長沼氏の勢力「(氏力)」が違う事が明確である。
    明らかに長沼氏の方が「氏力」は上記の吟味と合わせても上である事を証明出来る。

    第一に中国地方関西以西に勢力を張る事は阿多倍の末裔の京平家の勢力圏と、神紋寺紋系の中国勢力圏(集団勢力)に合致してしまう事に成る。特に、秀郷一門の四国勢力の讃岐籐氏が中国地方への浸透は見逃せない。
    (後に京平家が1185頃に滅亡したとしても、秀郷一門の独断場ではなく、依然としてその末裔(陶一族)は室町末期まで中国地方を抑えていたし、その後も、秀吉に潰されるまで陶族の村上一族等が力を持っていた。)
    関西以西では秀郷一門にとってはこれでは争いが絶えない事を意味する。
    長沼氏はそれに打ち勝つだけの勢力を持ち得ていた事を示すものである。
    藤原一門の長沼氏が京平家(桓武平氏)等と対抗して藤原氏の圏域を何とか維持して来た事を物語るものであるが、摂関家藤原氏は何もしなくて居たのでは無く、その北家でも最も勢力のある秀郷一門とりわけ青木氏と長沼氏が京平家や他の勢力に対して「血縁戦略」で固めて直接対抗していたことを示す史料でもある。

    実は、長沼氏は永嶋氏に無かったより強い「氏力」を増す血縁を次ぎの事でより広く行っているのである。
    それは、「皇族青木氏族」と「皇族賜姓青木氏族」と「公家族」との血縁関係にある。

    第4には、つまり、「皇族系勢力」である。
    先ず、宿禰族の橘紋、朝臣族の笹竜胆紋、鶴紋を代表する公家族(日野氏)と血縁をしている事である。
    そして、秀郷宗家(貴族)自らが公家最大の近衛家との血縁の連携をしている事にある。
    (近衛氏に秀郷宗家から跡目を入れて近衛氏は秀郷流となる。)
    つまり、この意味するところは、京を中心とした「朝廷の政治勢力」との結合を目指していることを示す。「政治」と「軍事」を絡めての「氏」の存続を掛けているのである。
    これら4つの違いは永嶋氏に無かった事である。

    そこで、”何故にこの勢力と血縁連携をしたのか”と言う疑問である。

    それは、当然に、上記の{幅広い血縁族の圏域}を護る為である。
    これだけ広ければ、「武力」だけでは無理であろう。
    側面から「政治抑止力」を着けて「氏力」を維持する大変さが覗える。
    当然に、京平家は単純に手が出せない。太政大臣にまで登ろうとしている京平家一門は公家の賛同を得なければ権力握れない。京平家は公家と連携している氏を相手にするわけには行かない。この事は真に「完全抑止力」になっている。
    特に、北九州から中国地方の関西以西は、京平家末裔一族(後漢阿多倍一族末裔等)の古来大化期からの勢力圏(32/66)である。
    この京平家一門一族にとってみれば、これは、”一部腹の中が虫食いの状態”であろう。その虫が取れない。痛し痒しである。
    つまり、京平家末裔一族に対抗する「政治抑止力」を狙ったものである。
    つまり、その抑止力の形は、この永嶋氏と長沼氏の2つの氏を合わせると、その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は2重複して強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である。
    丁度、人が足を踏ん張って立って、両手を横に伸ばし立ち、少し中心(領国)より右に寄って、立ちはだかっている姿である。
    この「氏力」は中国地方(32/66)を抑えている京平家末裔一族(所謂後漢一族)に対抗する陣形である。
    ただし、これは青木氏を除いての「氏力」と「陣形」となる。

    では、その青木氏との関係がどのように成っているのかを検証する。
    そうすれば、兼光流一族の3氏がどの様な「氏力」と成っていて「陣形」を採っているかが判る筈である。それは青木氏との「共通血縁族」を調べることに依って判明する筈である。

    長沼氏の「共通血縁族」の考察(青木氏)
    青木氏と長沼氏との同一の家紋類は次ぎの様に成る。
    (より判りやすくする為に兼光流の長沼氏と永嶋氏との比較をする)

    「共通血縁族」(長沼氏)        「共通血縁族」(永嶋氏)
    1 ・下がり藤             1 ・上り藤、・下がり藤
    2 ・笹竜胆              2 ・笹竜胆 
    3 ・桔梗、・丸に桔梗         3 ・丸に隅立て4つ目
    4 ・九曜               4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
    5 ・抱き茗荷             5 ・丸に沢瀉
    6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉      6 ・丸に抱き茗荷
    7 ・丸に三つ鱗            7 ・丸に違い鷹の羽
    8 ・丸に橘              8 ・丸に桔梗
    9 ・丸に剣花菱            9 ・丸に蔓柏
    10 ・丸に剣片喰            10 ・丸に木瓜
    11 ・丸に違い鷹の羽          11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
    12 ・丸に梅鉢             12 ・三階菱
    13 ・五三の桐             13 ・五三の桐
                        14 釘抜き              
    以上15の「共通血縁族」である。    以上17の「共通血縁族」である。    

    青木氏との長沼氏「共通血縁族」の考察
    この2氏の違い文様(大きい氏を対象とする)は次のように成る。
    長沼氏は、九曜族、三つ鱗 
    永嶋氏は、柏族、木瓜族
    この2つの家紋の違いがこの2つの氏の特長を示している。
    それは、駿河と相模の境を左に永嶋氏、右に長沼氏と成る。
    ここでも史料で示す結果が出ている。
    青木氏と長沼氏の「共通血縁族」でも、上記した「地域性から観た分布」の「氏種」と同じ結果が出ている。全く、永嶋氏も「地域性から観た分布」の氏種と同じ結果が出ている。
    つまり、青木氏は上記の長沼氏と永嶋氏との「共通血縁族」を合せた2つの分布の氏種である事に成る。
    つまり、青木氏の主要族=長沼氏との共通血縁族+永嶋氏との共通血縁族である。
    青木氏はここでも、この式からも青木氏を介して、この共通する血縁族で両者との接点を持っている事に成り、その2つの勢力「氏力」をまとめる事が出来るからであり、京平家に対抗する事が出来たのである。

    家紋から観た陣形を示すと次ぎの様に成る。
    上記に述べた陣形、即ち、”その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は重複して
    強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である”を、青木氏に依って「2重に重複」している形になることを意味する。青木氏は上記の両方を持っているのであるから。
    つまり、兼光流3氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏)で2重にして「人の陣形」を形採った「血縁族分布」で堅持して護っていることを意味する。
    還して云えば、青木氏は「永嶋氏の氏力」と「長沼氏の氏力」の合せた2つの力を持っている事に成る。いかに大きい勢力であったかを示す。これは「第2の宗家」そのものである。
    この「2重の陣形」で「他の勢力」と対抗していたことを意味する。

    秀郷一門の総宗本家は貴族であるから、自らは武力を用いる事は出来ない掟である。依って、その力、即ち、血縁族に裏打ちされた「武力」「氏力」は青木氏に頼る以外に無い。
    即ち、秀郷一門の総宗本家の力は「第2の宗家」青木氏の「武力」「氏力」である事を示し、兼光流3氏では2倍の力を持っている事を意味する。
    その綜合力、即ち、「氏力、武力、勢力(政治)」は中国地方から「西関東域圏」にあったことを示す。
    「秀郷宗家」=「青木氏の武力と氏力と勢力」=2*「3氏の血縁族」=「中国−西関東域圏」

    当然、「東関東域圏」は武蔵の入間を中心にして、神奈川横浜を半径とする円域が一門の領国であるから、陣形は両手を伸ばし立ち。左手は中国、右手は西関東に向き、そして、右足を開いて丸い陣地に足を掛けている人の姿である。
    これが、秀郷一門の兼光流3氏の「氏力」=総合力である。
    陣形から見ても京平家を含む他の勢力は先ずてを出せないであろう。
    史料関係でも述べたが、青木氏の「2足の草鞋策」が成す「経済力」はこの総合力を裏打ちしている事に成るから、この綜合勢力に打ち勝つ他の勢力は無いであろう。
    これだけではない。これにこれに、文行流2氏の力が加わる。

    では、文行流の主要2氏の事に入る前に、兼光流の3氏の2倍の「氏力」が急に力を得たのかを観る。つまり、この経済力に裏打ちされた「総合力」に一体「基礎力」が無いのか有るのかを観る必要があるので、その「3氏の基礎力」はどの程度なのかを検証する。
    と言う事は、この総合力が長持ちする総合力なのかである。

    それには、過去の由来性、地理性、時代性、他氏との関係、其の他について調べて見れば判るはずである。
    これは史料−3/10に示しているので参照されたい。
    青木氏は「永嶋氏と長沼氏」の両方の血縁族を持っているから、青木氏の上の要素を調べる事で判る筈である。これは史料−5/10等の事前史料に示しているので参照されたい。

    他には、事後史料の次ぎの史料でより判りやすくなると思われる。
    主要5氏の「時代性」に付いては数値化したデータの史料−7/10を参照されたい。
    主要5氏の「共通性」に付いては数値化したデータの史料−8/10を参照されたい
    主要5氏の「地域性」に付いては数値化したデータの史料−9/10を参照されたい。
    主要5氏の「分布性」に付いては数値化したデータの史料−10/10を参照されたい。

    以上の史料は現在は未掲載である。進藤氏の検証レポートが完了する時点までに掲載する。


    結論は、長沼氏を始めとして、間違いなく”「3氏の基礎力」はあった。”である。
    何をか況や、これが35+52+121(116)=208(203)氏に成った所以である。
    この様に青木氏は長沼氏の子孫存続に於いて相互関係に依って大きく関わっていたのである。

    では、次ぎは文行流の2氏に付いて考察して、ここで主要5氏を「青木一族」と呼ばれ、敢えて「青木氏一門」と云う族の関わった内容の検証を更に進める。

    参考
    本流の長沼氏
    秀郷流長沼氏
    秀郷流渕名族長沼氏
    秀郷流小山族長沼氏

    未勘氏の長沼氏
    土岐氏族長沼氏
    日奉氏西党長沼氏
    宇都宮氏族長沼氏
    桓武平氏長沼氏
    島津氏族長沼氏
    織田氏族長沼氏(中沼氏)

    未勘氏の末裔
    陸前国
    信濃国
    紀伊国
    淡路国
    駿河国
    以上5国の未勘氏がある。

    参考
    史実から観て長沼氏と中沼氏は同一である。
    しかし、「永沼氏」は完全に異なる。

    「永沼氏」
    長沼氏と類似して「永沼氏」があるが、この「永沼氏」に付いて別ルーツであるので、念のためにそのルーツを記する。

    確実に信頼できる「永沼氏」は「織田氏族系永沼氏」である。
    先ず、織田氏は家紋からも地理からも平家支流一門である。
    織田氏の先祖は「たいら族」の平氏の支流末裔である。
    北条氏などの「ひら族」の第7世族の坂東八平氏とは異なる。
    後漢の渡来人の阿多倍王の末裔の国香から始まり貞盛より出世して5代目の清盛までの賜姓の桓武平氏系である。(詳しくは研究室の阿多倍関係レポートを参照)

    この平家支流一門の信長より17代前の「親真」から始まった氏で、丁度この「親真」から17代目が「宗康」が「永沼氏」を始めて名乗っている。
    「永沼左馬進」からである。始祖となる。
    これは確認される歴史的史実である。
    ここでお気づきと思うが、「信長」と17代で同じですから祖父が兄弟と成る。

    そこで、可能な範囲まで系譜を記述する。
    個人情報が絡むので、この「永沼氏」の始祖の所までのものとする。

    親真−権太郎新基−孫太郎−太郎兵衛行広−三郎太郎兵衛末広−三郎基実−三郎四郎広村−三郎右衛門真昌−次郎四郎常昌−助次郎常勝−次郎兵衛教広−次郎兵衛常任−三郎弾正左衛門勝久−弾正左衛門久長−三郎伊勢守敏定−彦次郎定宗−「永沼左馬進宗康」

    信長は三郎伊勢守敏定−弾正忠信定−信秀−信長となる。

    この「永沼左馬進宗康」の始祖が全国の永沼氏となる。


    次ぎは長谷川氏である。


      [No.196] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:47:32  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係
    副管理人さん 2008/09/30 (火) 14:21
    [本文の考察]

    本文に入る前に、1/10−6/10の史料を提供して来たが、これらの史料を基に次ぎの本文を考察する。
    この本文は青木氏に対して、他の主要4氏との関係がどの様に成っていたのかを検証する。
    その事により青木氏の位置付けが明確に成るだろう。
    予備知識として史料のところで一定の考察を加えたが、それらの事がもっと明確に成る事を期待する。
    先ず、兼光流の青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流の長谷川氏、進藤氏が、藤原秀郷一門24氏の中で最も栄えたで氏でありその主要5氏であるが、先ずは永嶋氏から検証する。

    本文 永嶋氏との関係

    1 血縁族の家紋類(永嶋氏)

    そこで、先ず永嶋氏は35氏から成っている。それは次ぎの様な血縁族に成っている。
    (以下第3の永嶋氏の家紋含む)
    (・印:家紋200選 比 20/35 57%)

    1 ・上り藤、・下がり藤
    2 ・笹竜胆
    3 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
    4 ・丸に沢瀉
    5 ・丸に抱き茗荷
    6 ・丸に違い鷹の羽、丸に抱き鷹の羽、
    7 ・丸に桔梗
    8 ・丸に木瓜
    9 ・丸に蔓柏
    10 ・梅鉢、・丸に梅鉢、星梅鉢
    11 ・蔦、・丸に蔦
    12 ・三階菱
    13 ・丸に平四つ目
    14 ・五三の桐
    15 丸に隅立て一つ目、丸に隅立て四つ目
    16 折敷に三文字
    17 丸に巴の字
    18 扇に永の字
    19 丸に八一の字
    20 丸に抱き柊
    21 丸に五瓜に唐花
    22 亀甲に三つ柏
    23 井桁、丸に井桁
    24 釘抜き
    25 石持ち地抜き釘抜き
    26 七宝に花菱
    27 垂れ穂抱き稲

    以上27分類の家紋群である。

    永嶋氏の血縁族の考察
    永嶋氏にも矢張り「下がり藤紋」を堅持する永嶋氏の宗家が存在する。
    宗家はこの「下がり藤紋」の綜紋を堅持するのが宗家の役目であるが、なかなか長い期間を男系継承して跡目を保って行くのは難しい。氏家制度の中で家柄身分の下の氏と血縁すると嫡子得られない場合は家紋掟により変紋を余儀なくされる。依って、上位の同門一族の同紋から養子を迎えての仕儀となる。つまり、秀郷の「総宗本家」(貴族)か、又は総宗本家から「第3子跡目の家法」に基づく「第2の宗家」(武家)の「青木氏宗家」から跡目を入れる事になる。
    当然、兼光流の長沼氏の宗家からも考えられる。止む無くば、文行流の進藤氏や長谷川氏の宗家からもあるだろう。
    しかし、なかなか秀郷24氏宗家に跡目を入れる程に、総宗本家には跡目の数は絶対的に足りない筈で、それ故に、総宗本家の護衛役を前提とする青木氏に「第3子跡目の家法」を優先して定め「第2の宗家」としたのである。そこから、青木氏の嫡子外は永嶋氏と長沼氏に跡目を入れていたのであろう。

    藤原秀郷流の永嶋氏の血縁族は全体の57%が家紋200選に含まれている。半分である。
    永嶋氏35氏から「第3の永嶋氏」を除くと、恐らく、85%程度に達することが覗える。
    つまり、この数字は「主要族」との血縁を重視していた事に成る。
    特に、上記の家紋類を観ると、丸付き紋が全体(16)の65%に達する。(第3氏除く)
    つまり、分家或いは支流一族との血縁が多い事が覗える。

    家紋200選57%(70−85%)で、支流紋65%とは、次ぎの様に解析できるのではないか。
    永嶋氏は隆盛著しい一族と血縁して勢力を横に伸ばし、力を維持しているが、その相手の力は本流ではない元気一杯で身を起した本家を凌ぐ分家筋である事、
    これは本流(本家)の「家柄」では無く、「実力」の分家筋を選んだ「戦略的血縁」と観られる。
    つまり、これらの家紋の発祥時期から観ると、この時期は「下克上」が起こっている時期である。
    「下克上」にて下級武士が、家柄身分を持つ氏に対して、主君に対抗して、「焼き討ち」や「打ちこわし」を行い秩序が大乱れしていた時期でもあり、主君側にある永嶋氏は、この中で「生き残り」の為により勢いのある豪族の「分家筋」を血縁相手に選んだ戦略と観得る。
    つまり、主要氏の後発の発祥の氏としての当時の趨勢を配慮した血縁である。

    考察として、更に詳細に分析すると、永嶋氏は3つの氏種に分けられ、時期は3期で、「平安期」と「室町期」と「江戸初期」の3つである。
    先ずは、次ぎの3つ期間となろう。
    1つ目は下記の分析でも出て来るが、「笹竜胆紋」(源氏と青木氏と佐々木氏)との血縁もしているが、多分、これは永嶋氏の本家筋の血縁ではないかと観られる。これ等は平安期である。
    2つ目は、しかし、又、一方では「片喰、茗荷、梅鉢、沢瀉、鷹の羽」の一流の大豪族である血縁である。これ等の家紋は室町期に台頭した氏である。後に、これ等は大豪族に成った。
    3つ目は全く知名度の無い家紋の氏の血縁である。これ等は江戸初期前の混乱期である。

    この笹竜胆紋の勢力では先ず3つのルーツが考えられる。
    一つは、賜姓青木氏(5家)である。
    二つ目は源氏(清和)である。
    三つ目は佐々木氏(近江)である。
    この三つは何れも皇族賜姓族の同族である。
    この内、この「笹竜胆紋」は源氏、佐々木氏、賜姓青木氏と成るが、この3つの中で賜姓青木氏であると推測している。
    では何処の賜姓青木氏なのかである。
    結論から、先ず「伊勢青木氏」ではないかと考えられる。

    その考察は次ぎの考えから確認出来る。
    時期的な考察からは、平安中期から末期の永嶋氏が発祥した初期であろう。
    永嶋氏の発祥は、兼光流の秀郷13代目行政(四男)の子行長(四男)が伊予守に任じられた時である。
    この時代は、大勢力に成りつつある「平家」に対して、「源氏」と「藤原氏」と「賜姓青木氏」がスクラムを組んで対抗していた時期でもある。この3氏は藤原氏系の母方で繋がっている。
    一方、桓武天皇の母(高野新笠)方の「阿多倍一族」の「京平家(たいら族)」が誕生し、賜姓をうけ、成長し、反面、その圧力で皇親政治の賜姓青木氏は衰退に追い込まれた。
    源氏も同様に最終11代と子孫を広げながらも平家との戦いで「清和源氏」と「村上源氏」と「宇多源氏」と「嵯峨源氏」程度の源氏がやっと子孫を僅かに遺し生遺り低迷していた。
    その中でも、京では低迷していたが藤原秀郷一門の北家筋は関東に坂東平氏と戦いながらも秀郷王国を着実に東に築いていたのである。
    その一つが一門の先鋒として逆に関東とその西域に勢力を伸ばすきっかけを狙っていたのが永嶋氏である。京の京平家に対抗したその勢いで2つに分流した永嶋氏は「関東屋形」と呼ばれた。
    その証拠には西域に集中した血縁家紋群(・印)にある。東域には全く無い事にある。
    その一つとして、この血縁がスクラム網の一つとして、発祥順位では24氏中後発グループの第7番目になる永嶋氏が担ったのである。
    後発としては先ずは西域防御が求められ、そしてこの方法しか無った筈である。
    京平氏の「東勢力侵攻」の時期に対して、そう成ると、対抗するかの様に畿内の東の伊勢青木氏や美濃青木氏と連携して戦略的に「秀郷防衛網」を築く必要が秀郷一門に出て来る事に成る。

    戦略的には、この時期は、「道」に関係する戦略の展開をするのが常道であった。
    京に繋がる東海道や中仙道等で分けられていた。信濃や甲斐は東海道外であるので、永嶋氏にはその勢力圏外であつた筈で、信濃と甲斐は防衛網の戦力域外であり先ずは問題はない。
    又、近江は京平家域(阿多倍末裔一族圏)に入り過ぎるし遠すぎる。

    ここで余談だが、徳川家康は豊臣を潰すために名古屋城で一時3月ほど秀忠本軍を待った時期があったが、この期間は、本軍を待っただけでは無かったのである。大阪に通ずるこの「伊勢道」を確保する事が勝利に繋がると観ての待機であった。つまり、この「伊勢道」を奈良の西域まで抑えていたのは大シンジケートを持つ「2足の草鞋策」の伊勢青木氏であった。故に「伊勢青木氏」に対して合力参戦を促したのであった。
    南北朝の楠木正成軍3千が北条氏軍10万に対抗して勝ったのはこの伊勢シンジケートの背景を持っていたからである。家康はこの史実は当然知っている。「伊勢青木氏」の分家一部は豊臣側に味方した。しかし、伊勢青木氏本家は実戦250の「兵」で合力参戦する事と成った。
    家康の先遣隊が側面からこの勢力(武力と経済力とシンジケート)に突かれては、北条氏や今川氏の失敗の二の舞に繋がり、家康が潰れれば、豊臣軍は勢いづき徳川本軍の指揮は低下する最も大事な戦略事であったのであった。史実、今川氏も行軍で最も弱い欠点を信長にこの側面を突かれたのである。
    結局、「伊勢道」の安全通行の役を受けて「食事、経済面、運送、周囲防御」等を果たしたのである。実際は「伊勢道」にシンジケートを動かしたのであるから1万は超えていた筈である。
    この様に「戦い」は刀を振り回す事では無く、その前に「道」とそれを勢力圏としている「氏力」の確保が優先するのが戦いである。

    これは永嶋氏にとっても戦略は同じである。「道」を確保しない限り勢力は伸びないし、「氏の存続」は無い。それを保つには、この時期としては当然に必要なのは、先ずは「戦略的血縁」であり、その最適な氏として観ても、先ずは「不入不倫の権」を堅持し、最大勢力を誇る東奈良から員弁、桑名まで勢力を堅持し京大阪に繋がる「伊勢道」を確保している「伊勢青木氏」と成るであろうし、他に無い。
    そもそも、賜姓青木氏の元締めの伊勢青木氏との血縁をすれば、必然的に信濃、甲斐との「道」の確保と側面の防御が出来るし血縁をする必要が余りない。永嶋氏にとっては側面の憂いを無くすることが出来る。それどころではない。武力だけでは護れない。経済的裏打ちが確保できなければ全て成り立たないし、永嶋氏には税から上がる以上にそれ程の経済力を持っていない。
    伊勢青木氏の「2足の草鞋策」と繋がれば問題は無く成るし、長期的な勢力維持の展望が開ける。
    この様に、史料の「共通血縁族」の5氏の「共通血縁族」の考察でも判る様に、「笹竜胆紋」は同じ青木氏の始祖の伊勢青木氏でもあった。

    戦略上、西に勢力圏を重複する相手を選ぶのは当然であるし、平家との勢力争いを起しているのであるから、平家に対して、東の西はずれを強化するのは戦略の常道である。
    永嶋氏としてはこの勢力を無配慮に放置する事は少なくとも無い。
    先ずそんな事は出来ないであろう。その証拠の一つとして、伊勢の土地永嶋に一族を置いている。(地名:伊勢永嶋)

    源氏はこの時期、清和源氏(宗家頼光流一門)だけが戦える武力を保持していたが、河内、摂津、甲賀、信濃、甲斐、伊豆の域である。これは圏外であるし、血縁相手は主に同族の5つの賜姓青木氏であって、土地も、伊勢、美濃、信濃、甲斐であった。この事から、清和源氏ではない。

    地理的な考察から、中部を主体として延びた永嶋氏の拠点から観て、史料3の下記の皇族賜姓族5家5流と24氏の内容から美濃の一帯に勢力を持っていた美濃青木氏か、伊勢青木氏かであろうが、遠方の氏と血縁する事は、その勢力範囲が分断されて効果的では無い筈だし、城を築く様に血縁で固めるとすると勢力範囲内と成ろう。
    ただ美濃青木氏は勢力範囲が小さく子孫を大きく遺してはいない。
    これは、青木氏の家紋121氏(史料2)の群から判断出来る。
    つまり、他氏に較べて桔梗紋類は本家と分家の2氏と少ないことでもあり、故に勢力と権威の期間も短かった。
    現実には、少し後の桔梗紋族は信長の時期には、殆ど滅亡している位に小さい。
    滅亡している事は永嶋氏とは結んでいなかった事により、結んでいれば、信長期には秀郷一門は離散したとは言え依然その勢力は末裔に引き継がれていた。
    (注 藤原一門は源頼朝に本領安堵を2度受けている。独断で実行したこれが原因で坂東八平氏の反発を受けて幕府樹立後3年で清和源氏一族は尽く抹殺された。 北条氏は藤原一門と小競り合いを起すが、得策でないと見て結城氏が圧迫を受ける程度で終わる)

    故に、東の背後から永嶋氏の勢力に圧迫を受けていて、信長は動けなかった筈である。
    源氏(清和)は清和の宗家頼光の領国で主に関西の畿内域(河内)に集中している。永嶋氏の西端の域であるし、また近江の青木氏と伊勢の青木氏もあり、余り伸ばすと争いが起こる。確かに、西端の勢力は室町期の勢力圏域であるから、笹竜胆紋との血縁は平安中期から末期と観られるので、源氏ではないであろう。
    確かに、村上源氏の北畠氏が最も栄えた一族であるが、伊勢永嶋に永嶋一族があり、伊勢東部に勢力を張り始めていたが、時代は室町期末なので少しずれていると観られる。

    佐々木氏は、主に近江、滋賀と東北地方に勢力を張っていた事から、地理的には余り意味がないし、古来、奈良時代の役目から神官が多い事もあり、確かに大神領との考えもあるが「勢力」と言う意味から考え難い。

    (参考 近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子川島皇子、滋賀佐々木氏は宇多天皇の第6位皇子)
    佐々木氏は確かに圧迫を受けて、末裔の剣豪佐々木小次郎の近江佐々木氏などでも判る様に、滅亡の憂き目を受けているから永嶋氏との血縁は、桔梗の土岐氏と同様に考えられない。
    地理的にも、伊勢青木氏である。

    次ぎは氏からの考察では、清和源氏は確かに頼信分家一門が鎌倉幕府を開くが、平家傲慢の反発からの時代の趨勢によるものであって、上記した様にこの清和源氏の頼信末孫の一族は北条氏に依って鎌倉末期に絶滅させられている。
    平安期となれば源氏一族11家は一段と成って平家に圧迫を受けていた。
    結局は遺されたのは主に4つの源氏(清和、村上、宇多、嵯峨)だけであり、その中でも力を持ったのは実質戦い得る力のあった清和源氏だけであった。村上源氏も一時勢力を持ったが線香花火の様なものであった。
    佐々木氏も清和源氏に同調して戦ったが、矢張り平家の圧迫に耐えられなくて近江、滋賀付近と逃亡先の東北地方に分布するだけの様になった。又、主に平家の圧迫手段に対して生き延びる為に神官職に従事して子孫を維持した事も大きく影響している。
    (本論から外れるが佐々木氏の家紋から神官職が多い事が覗える。)
    藤原秀郷一門の各地に定住した一門の守護神や菩提寺の住職に佐々木氏の姓が多いのは離散後この保護を受けた事から来ている。
    (このことから後に清和源氏と佐々木氏末裔を名乗る氏が各地に現れるがこのためであり、先ずは未勘族である)

    兎角、源氏では清和源氏が最も生き延び方が長かった。それは、次ぎの戦略からである。
    一方、清和源氏は宗家の頼光系は伊勢青木氏に、土岐氏と土岐氏系青木氏に、そして、頼光は信濃守護代を最終は頼信に渡し、東の坂東への進出の足がかりを作らせて清和源氏の生遺り策とした。
    この為に伊豆、駿河付近に拠点を置いて、分家の頼信系は足利氏と足利系青木氏に、武田氏と武田氏系青木氏に跡目を入れる戦略を採って子孫を遺したのである。
    (この為、頼光系の源三位頼政は援護の為に伊豆に伊勢青木氏の一部を移動させた)

    伊勢青木氏の経緯は、伊勢青木氏の天智期からの領国で天領地の伊勢国は、伊勢北部伊賀地方を割譲させられて、この京平家(桓武平氏)の祖の後漢の末裔の阿多倍王に与えられた土地である。
    室町期には永嶋氏が抑えていた伊勢永嶋も室町期には北畠氏に割譲させられて、伊勢青木氏の伊勢国は3割譲の憂き目を受けた。
    この時期の事で伊勢青木氏は永嶋氏と連携した事も充分に頷ける。

    (桓武天皇の母の高野新笠はこの阿多倍王(高尊王)の孫娘である。青木氏と桓武天皇との間には軋轢を受け一時衰退した。しかし、桓武天皇に対抗して子供の嵯峨天皇がこれを解決し伊勢青木氏を救った経緯がある)

    史実からも伊勢青木氏と永嶋氏は連携を採っていたのである。(共通血縁族でも良く判る。)
    この様な状況から東に向かった頼信系ではなく、武蔵を基盤にした藤原秀郷一門の永嶋氏は、中部から西に勢力圏を求めた事から、畿内に勢力圏を持っていた清和源氏頼光系の跡目を受けていた伊勢青木氏(京綱)や後に美濃青木氏との血縁を結んだ事は確実である。

    そうする事で、史実、京平家に対抗して3者(5家5流の元締め伊勢青木氏と、河内摂津に拠点を置く清和源氏頼光一門と、武蔵下野以北圏に勢力を置く藤原秀郷一門)のスクラム体制が成立したのである。
    この体制網を組めば、平安期の事としては、京平家は東に侵攻することは出来ないであろう。
    現実に出来なかった。無論。室町期にも「2足の草鞋策」を採っていた伊勢青木氏は藤原一門とは連携を続けた史実がある。
    この「三者連合」は永嶋氏の35家紋と、その分析の青木氏との同一血縁族の家紋群(下記)でも判断出来る
    (参考 秀郷一門24氏の発祥順位は史料4を参照)

    笹竜胆紋から話を戻す。
    次ぎに一流大豪族の発祥から考察すると、この永嶋氏の血縁時期は、氏家制度の中で分家の権域が本家を凌ぐ「下克上」、「戦国時代」の頃であると観られる。

    「時代性」の点から観た分析では次ぎの史料から読み取れる。
    (史料7/10添付)
    H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
    一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。

    長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
    H:4  11%   H:3  13%   H:2  08%   H:4  13%   H:7 03%
    K:1  03%   K:1  04%   K:1  04%   K:1  03%   K:20 10%
    M:15 39%   M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%
    A:9  24%   A:6  26%   A:5  21%   A:7  22%   A:55 26%
    E:9  24%   E:4  17%   E:5  21%   E:10  31%   E:47 22%

    永嶋氏は室町期を中心にして、血縁は江戸よりにある。

    そして、その「地域の点」から観ては、次ぎの様に成る。
    最も西はずれの出雲大社の氏子集団の豪族亀甲族一団(1)を始めとして、安芸、美作域の鷹の羽族(2)、関西域の片喰族(3)、美濃域の梅鉢族(4)、尾張域の沢瀉族(5)、近江と伊勢域の茗荷族(6)と満遍なく血縁を固めていることが上記の説としても判る。
    これ等は全て「家紋200選」の名族である。

    さて、そこで、「家紋200選」の46%とは、多いのか少ないのかの判断がポイントになるだろう。
    藤原氏以外の氏の血縁は普通10%程度であることから、かなり多い事が云える。これは上記の「戦略的血縁」と「氏家制度の仕来り」で家柄身分の吊り合った血縁からこの%に成っている事が言える。
    藤原秀郷流永嶋氏では高位の家柄身分であるので、跡目継承を機会に政略結婚的な血縁の様相が覗える。
    「第3の永嶋氏」と見られる氏や家紋も20%程度を閉めている事は、他氏に観られない藤原氏と青木氏等に強く観られる現象である。この数字はほぼ平均である。
    この「第3の永嶋氏」の家紋は不特定の条件と系譜を持つために系統的に調査が難しく全ての確認は「家紋200選」では困難であったと観られる。
    従って、永嶋氏のこの特長を除けば、実質70%以上85%以内であると考える。況や殆どである。

    そこで、では青木氏121氏の血縁族の家紋と、永嶋氏35氏の血縁族との間にはどの様な関係を持っているだろうと云う考えが浮かぶ。
    そこで、次ぎに「共通血縁族」という点でそれを考察する。

    「青木氏と共通血縁族の分類」
    青木氏と永嶋氏と同一の文様を持つ家紋類は次ぎの様に成る。
    解析
    その答えは、先に次ぎの様に成る。
    35紋中17家紋となる。48%である。約半分である。第3氏を除けば、70%である。
    つまり、青木氏と永嶋氏は主要な血縁族としてはほとんど同じ相手である事になる。
    青木氏と同様の兼光流から出た永嶋氏は半分は同一氏と血縁をしている事に成り、実に血縁関係の繋がりが深いことを示す。

    「下がり藤紋」が存在することは永嶋氏の宗家が現存していることを示す。
    又、「上り藤紋」がある事は秀郷主要5氏外の北家一族との血縁を依然として維持している事も示す。
    中でも、「笹竜胆紋」の皇族賜姓青木氏との血縁が目立つが、ここで賜姓青木氏と繋がっていたことを示し、5家5流の青木氏と支流24氏(近江系、土岐氏系、諏訪族系、足利氏系、武田氏系。更には佐々木氏系)が信長に負われて逃亡した先が、各地の藤原秀郷一門のところを頼った事がこれでも良く判る。
    又、皇族賜姓青木氏24氏の家紋類(参考 皇族賜姓青木氏5家5流と24氏 参照)と、藤原秀郷流青木氏116氏とは家紋類が「笹竜胆紋」の綜紋で、もとより重複するところがあり、これも頼ることが出来た要件であったと見られる。
    (重複家紋は史料3に記する)
    両者共に、桔梗紋の土岐氏との血縁もあり網目の様に血縁を広げていた事を示す。
    特に、「片喰族」、「梅鉢族」、「抱き茗荷族」、「鷹の羽族」、「木瓜族」、「沢瀉族」と中部地方から中国地方手前までの氏と隙間なく満遍なく漏れなく血縁して、勢力圏を確保している事が判る。
    これ等の氏は「家紋200選(下記参考)」にある主要氏ばかりである。
    これ等の氏の発祥は、時代性から観て室町中期を境に2つに分かれ、如何に勢力を持ち得ていたかの判断材料に成る。
    これ等のことは共通血縁族の下記の解析でも更に証明している。

    ところで、永嶋氏には、関西より以西から九州地方全土にも、「大蔵氏系永嶋氏」の3氏が存在する。
    「大蔵氏系永嶋氏」、「肝付氏系永嶋氏」、「島津氏系永嶋氏」である。何れも阿多倍の末裔子孫の大蔵氏から出ている。
    ただ、秀郷流永嶋氏にも2つの流がある。
    「佐野氏系永嶋氏」、「結城氏系永嶋氏」である。秀郷一門兼光系である。
    この大蔵氏系永嶋氏と秀郷流永嶋氏とは繋がっているとを考察する。
    (大蔵氏は直系の阿多倍一族である。)
    これ等の事に付いては長谷川氏の本文で「戦略上の違い」として詳しく考察する。


    永嶋氏の「共通血縁族」(青木氏)
    (・印は「家紋200選」にあるもの)
    (青木氏の家紋の内容説明の由来、使用氏、時代、地域、特記は史料5参照)

    1 ・上り藤、・下がり藤
    2 ・笹竜胆
    3 ・丸に隅立て4つ目
    4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
    5 ・丸に沢瀉
    6 ・丸に抱き茗荷
    7 ・丸に違い鷹の羽
    8 ・丸に桔梗
    9 ・丸に蔓柏
    10 ・丸に木瓜
    11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
    12 ・三階菱
    13 ・五三の桐
    14  釘抜き
    以上17の「共通血縁族」である。

    青木氏との永嶋氏「共通血縁族」の考察
    釘抜き紋(長谷川氏支流族)を除いて、16氏全て「家紋200選」にあり、永嶋氏35氏の70%は青木氏と共通血縁族である。

    ここで、推論が湧く。
    この”17家紋の氏の使用氏と、青木氏と永嶋氏は個別に血縁したのであろうか”である。
    推論は、”青木氏と永嶋氏のどちらかの17の家紋を持つ氏が同族内で相互に殆どが血縁した”つまり、”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。
    これは、主要5氏の家紋の解析資料1から結論付けられる。(解析資料1参照)
    この17の家紋が主要5氏の4−5氏までの共通家紋群である事でも頷ける。

    結論は”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。

    その血縁は、先ず、何れかの5氏の内の一つが使用氏と血縁し、2代続きの「男子跡目継承」が出来ずに養子先の家紋と成り、男系の使用氏系列の永嶋氏と成った云う事になる。
    この永嶋氏が青木氏と血縁したと言う事である。当然にこの逆の事もあったであろう。
    つまり、”同族で固めている”と云う事である。
    青木氏は、秀郷総宗本家からの跡目を「第3子の家法」で入れて青木氏の宗家を保っているが、他の4氏はこの家法の方式の跡目ではない。だから自らの氏を自らの力で維持しなくてはならない。そこで、他の4氏はこの方式を採り、”より高い血縁一族で固めた”と云う事であろう。
    そして、一度は使用氏からの血縁を経て、その血縁先は多くは「第2の宗家」の青木氏から男系跡目が出来ない他の4氏に跡目を入れたと観られる。これは解析資料1で証明出来る。
    広く使用氏との血縁出来る可能性(これだけに広範囲に大豪族との血縁が出来る事の可能性)は、主に武力を持たない貴族である「秀郷宗家」に同行し、各地に護衛役として移動していた青木氏以外にない。それが(血縁で固める事)又、護衛役の役目でもあり、「第2の宗家」の役目でもあった。
    特に、24氏中の後発の発祥氏の永嶋氏にとっては、「総宗本家」からの血縁の繋がりは難しいとしても、常に「第2の宗家」と繋がっておく為には同族血縁は「生残る絶対条件」でもあったであろう。
    その青木氏との繋がりは17/35=50%(普通は10%程度)と大変大きい比率と成っているのである。
    そして、更には、青木氏と強く繋がる事で、それらは秀郷一門の主要5氏が「共通血縁族主要8氏」で構成されている事にも成ったのである。
    青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏の5氏が同じ「共通血縁族主要8氏」を持っていて繋がっている。実に「強い絆」で結ばれた「氏力」である。
    これ等のその「血縁戦略」、即ち、青木氏と繋がる事で35の家紋を持つこの35氏の後発でありながらも「関東屋形」と呼ばれる程に24氏の中でも「主要氏の永嶋氏」と成し得たのである。

    参考
    本流の永嶋氏(主流)
    佐野氏永嶋氏 剣片喰紋
    結城氏長嶋氏 丸に剣片喰紋 左三つ巴紋

    大蔵氏長嶋氏 扇紋
    肝付氏永嶋氏 三雁金紋 通名 兼
    島津氏永嶋氏 

    未勘の永嶋氏
    日下部族長嶋氏 一文字に左三つ巴紋

    未勘氏
    武蔵国 長嶋氏
    相模国 永嶋氏
    伊勢国 永嶋氏
    肥前国 永嶋氏
    肥後国 永嶋氏
    美濃国 永嶋氏
    越前国 永嶋氏
    三河国 永嶋氏
    8国に未勘の末裔が存在する。


      [No.195] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−序文(青木氏と主要5氏との関係)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:44:35  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−序文(青木氏と主要5氏との関係)
    副管理人さん 2008/09/17 (水) 19:53
    藤原秀郷一門の家紋から観た血縁関係の研究

    (青木氏と主要5氏との関係)
    史料1/10-6/10の内容と考察を基本に据えて、本文ではこの血縁関係がどの様に成っているかを家紋類から観た分析を行う。
    本文ではシリーズで、青木氏と対比させて、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏の順でそれぞれの氏が持つ家紋群を分析してから考察する。

    本文史料(7/10-10/10)は進藤氏の考察終了後に末尾に掲載する。

    (研究室の「藤原秀郷一門の生き方」(1-13)、「皇族賜姓族の背景」(1-3)等関連を参照)
    藤原秀郷一門の24氏の詳細は「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏」参照の事

    序文
    そもそも、藤原秀郷一門は最も勢力を誇った主要5氏から成っている。
    その主要5氏を江戸時代の書では、藤原秀郷流青木氏の中に組み込まれた”「青木氏一族」”として偏集されたものもある。
    そこで、では何故、そのような「青木氏一族」と成りえるのか広い範囲で検証して観る。それには先ずは、その4氏と青木氏とがどのような関係(即ち、「絆」や「氏力」等)にあったのかを考察する。
    下記通り「秀郷一門主要5氏」は、秀郷より4代目から分流しているので在るが、先ず系譜から入る方が理解が進むので次ぎにそれを先に記する。

    藤原秀郷一門の系譜は次ぎの様に成っている。
    鎌足−不比等−房前−魚名−藤成−豊沢−村雄−秀郷−千常−文脩−兼光−頼行−兼行−成行
    (兼光のところで文行流と分流して兼光流との2つに成る。)

    秀郷一門の主要5氏:青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏
    秀郷一門24氏(「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏」参照の事)

    先ず始めに、次の事を記して本文の検証を進める。
    秀郷一門の青木氏以外の氏では、以上系譜の頼行より次ぎの兼行と兼助から初めて藤原氏以外の氏名を発祥させたが、それが初代「渕名氏」としての「氏」の発祥であった。
    藤原秀郷一門24氏の内、分家、分派、支流系として、更に分流し、19氏(次ぎ主要5氏を除く)として引き継がれて行く。この初めに出た渕名氏でさえ主要氏とは成っていないのである。
    しかし、藤原秀郷流青木氏には宗家筋から第3子を跡目に入れて常に濃い血縁関係で氏を構成し子孫存続を維持し来たのである。
    これは下記にも示すが、「宗家一門を護衛すると云う任務」を担っていた事に関わる最大の検証点であり、ここが他の主要4氏の23氏と異なるところでもあり、この点に関わる事柄が検証の結果として大きく出て来るのである。これ等を明らかにする。

    秀郷一門主要5氏の一つの青木氏の直系(直流)の跡目(不継承時の跡目)としては、4代目の兼光流の宗家一門より引き継がれて行く家法の「定め」と成っているのであるが、この事に付いて、秀郷総宗本家の系譜の関係記録に残るものとして、25代目あたりまである。
    この内、判る範囲で跡目継承は6度あり、この内、記録として実名が判るのは3人である。
    (千国系青木氏系譜は法により不掲載)
    秀郷宗家一門から「宗家の護衛役」を一手に任されて護り続ける為には、他の氏から跡目を入れる事は他人化する可能性があり、その役目を正常に全うする事は困難となろう。
    そこで、”代々の不継承時には秀郷宗家筋一門の「第3子」を青木氏の跡目に入れ純血性を保ちする”とする「定め」を、藤原秀郷は子供の千国を初代として一門に対してこの家法(掟)としたのである。これが家法「第3子の跡目」である。
    これは他の主要4氏と異なる最大の差異である。

    「第3子の跡目」の掟には「氏の存亡」の最大の決め事であった。
    そもそも「跡目」とは氏の如何を左右する「氏家制度」の最大のテーマであり、現在の感覚では到底考えられない決め事であった。「氏家制度」は氏全体が一つの社会であり、万事に本家を中心に動いている社会であった。「自分の命」、況や「氏の命と存続」はそれを指揮する頭領の才能(能力)に関わっていたのである。それだけに、氏の拡大は「跡目」に左右されていたのである。
    青木氏116氏もの氏の拡大は単純に広がったと云うものでは決してない。何らかの決定的な掟があって成し得たものであり、それが「跡目」なのである

    これは、そもそも、次ぎの経緯からの決め事である。
    朝廷が坂東に起こった「平将門の乱」平定(坂東に独立国を主張)に苦労し長年誰も平定出来なかった。そこで、秀郷が武蔵の押領使であったことから、京平氏の平貞盛(押領使)と共に、秀郷は次ぎの「2つの条件」を朝廷に突きつけて名乗り出た。
    それは、秀郷が出した「平定後(勲功時)の朝廷に対する条件(貴族、武蔵下野領国の条件)」に基づき、「貴族の身分」と「武蔵国(下野)の領主」とを突きつけて成ったのである。
    そして、その結果、その条件(貴族は武力使用の禁令)を整える為に、自らの子供の第3子を自らの「護衛役」として臣下させて「青木氏」を名乗ることを申請し、嵯峨期の令「詔」に基づき朝廷より認可された。この役目を担った初代は秀郷第3子の千国であった。(6人の子供が居た)
    以後、秀郷宗家からの「第3子を青木氏に跡目」として入れる事を家法としたのである。
    つまり、皇族賜姓青木氏族の5氏の形式を採った。

    秀郷の6子は次ぎの通りです。
    秀郷=千常1−千種2−千国3−千春4−千時5−千万6
    千常、千時、文脩、千万は鎮守府将軍に任官
    千春は相模介に任官

    実系譜では千万は千常の子と成っているが、実弟である。
    (千常の本家の跡目に入ったが文脩が生まれたために跡目とはならなかった。)


    上記の通り、千国だけは朝廷の官職、冠位等が無く、無役であったとする説と、鎮守府将軍で従四位下の官職があったとする説があるが、状況からあったのであろうし「短期間」ではなかったかと見られる。
    兎に角も、ただ他の兄弟と少し違った重要な人生送っている。
    期間を前提として”無かった”とする説の根拠には、”それは「宗家の護衛役(侍)」に成った為に役に着けず6人の兄弟の中で千国だけであった。”とするものである。
    それなりにその根拠は理解できる。
    兄弟6人が全て「鎮守府将軍」であり、他の親族4人が「鎮守府将軍」に成っているのは合わせて10人居たが、この人数からすると成ったとすると実に短期間か名前だけの将軍となったとも考えられる。
    また、各地に赴任した宗家の護衛役を担ったとすると「鎮守府将軍」を全うすることが出来ないだろう。
    無かったとする説はこの「短期間」と「護衛役」から観てなかったと同じで「名誉的」なものであったことを根拠としているか、青木家の「系譜偏纂」から来るものと考察したのではないだろうか。
    但し、嵯峨期の詔からの青木氏の許可にはそれなりの「身分」が必要であり、官職より青木氏の賜姓を受ける時には事前に官位は必要であろう。
    従って、天皇に拝謁できる「従三位」以下の「従四位下」は必要であろうから、この官位はあり得る。他の者の「従五位下」と違い2階級上である事の意味は大きい。

    (参考 皇族系の賜姓青木氏と賜姓源氏は第6位皇子であるが為に、天皇に拝謁し意見を述べる事が出来る「従三位」である。)

    はっきりする事は、まして、官位と別に子孫では4代目までに藤原一門の領国の「武蔵守」に成っているのは千国だけである。

    長男の宗家の千常でさえ「武蔵守」ではなく「左衛門尉」「従五位下」だけである。
    親族の時長系の利仁の「従四位下」を除いて末裔は全て「従五位下」である。

    因みに、秀郷は「武蔵守」で「従四位下」で千国と同じである。この2人である。
    これは秀郷の後の宗家を実質継いでいる事になる。しかし、宗家は系譜上は千常である。

    つまり、官位から観ても千国の青木氏は「第2の宗家」である事を確実に意味する。

    何をか況や、朝廷はこの官位と官職を与えた事から観て、実質は千国を「秀郷の後継ぎ」と認めていた事を意味する。青木氏そのものを重視していた事を意味するものである。

    この経緯には大きな意味があった。それは当時の朝廷の認識である。
    それだけに、この「護衛役」を秀郷のみならず朝廷は重視したと言うことでもあり、総宗本家そのものの扱いであった事を意味する。総宗本家からは2人の任官は無いと言う事でもあろう。
    しかし、朝廷もこの千国に皇族賜姓青木氏なみに「青木氏」を賜姓したと言う事でその意味を充分知っていた。
    むしろ、朝廷は「無役」と理解するより「青木氏」が「最重要役」と認識していたのである。
    それは24地方の国府に赴任する宗家を専門的に「護衛する役目」は、言い換えれば陸奥一国の「鎮守府将軍」より千国の24国の「国府将軍」の方の意味が大きいからである。又現実に大きい。
    恐らく、当時は「征夷大将軍」なみの意味を持っていただろう。
    阿多倍の息子の坂上之人麻呂から正式に始まった「征夷」の意味からすると、「征夷大将軍」も「鎮守府将軍」の変役であるから、「国府将軍」的意味の方が大きいだろう。

    当時は朝廷政治(3蔵)は「斎蔵」の役から始まった藤原氏北家が勢力を占めつつあった事から、つまり、朝廷では「国府将軍」なみは真剣に認識されていた事である。
    (朝廷の政治機構の3蔵は内蔵、大蔵、斎蔵)

    そこで多くの史料から綜合すると、当時のその認識の根拠は、朝廷では大別すると次ぎの3つの様に認識されていたと分析できる。

    朝廷の軍役は「阿多倍子孫−京平家一族−たいら族」が担う征夷代将軍と、九州全土の政治「遠の朝廷」と呼ばれ3権委任の「太宰大監」の軍役も担っていた。
    後に末裔は坂東平氏と共に一部「西面武士」にも後に問題が起こったが成った。

    天皇の親衛隊の軍役は「5家5流皇族賜姓青木氏一族」が、主要で重要5国の天領地の軍役を担うと共に、645年から宮中を護る上位(上の尉、佐の左衛門、右衛門、民部)の「北面武士」の衛士の長として本来任務も遂行する事で認識されて呼ばれいた。(青木氏の冠位官職のレポート参照)

    政治をリードする軍役は「藤原秀郷流青木氏一族」が、24国の軍役を担うと共に、宗家は北域防衛の「鎮守府将軍」をも担った。嵯峨期詔の秀郷流青木氏は(尉、佐の左衛門、右衛門)「北面武士」も兼務し呼ばれいた。24国の軍役のみならず、賜姓青木氏と連携して親衛隊も兼ねていた。

    この3つのシステムで全国が3軍役で網羅されていたとする認識なのである。
    これからすると、千国から始まった青木氏の無役はこの様な3軍役の一つの位置付けの認識中にあったが、これ等の軍役は次ぎの様なことから始まった。

    これは、奈良時代の蘇我氏の専横の反省から、天皇家を強くする為に、「大化改新」後の天智天皇が始めた「第6位皇子を臣下させて天皇を護る親衛隊」としたのが始まりであり、天智天皇はこの臣下の氏には青木氏を賜姓し、ステイタスの大日像の仏像を与えて初代伊勢王(施基皇子)として始まった。これが秀郷にヒントを与えたのである。
    嵯峨天皇が第6位皇子を源氏と変名した為に青木氏は皇族出身の者が名乗る氏と下の者が使用する事を詔を出して禁じた。原則明治3年まで維持された。この間、3期の室町末期、江戸初期、明治初期での混乱期では護られなかった。
    藤原秀郷は、16代(源氏含む)続いたこの制度(皇族で朝臣、宿禰族が名乗れる制度)に基づき行ったものであるが、その後、賜姓青木氏は男子の4代の天皇に引き継がれて5家5流と24氏の賜姓青木氏が誕生したが、この時の「定め」(嵯峨期の詔)に従い、賜姓青木氏の母方を藤原氏としている事を根拠に、朝廷の特例(真人、朝臣、宿禰の皇族者)の許可を得て、藤原秀郷は960年頃に初代千国の青木氏を発祥させ、代々このシステムに習ったものである。
    (詳細は皇族賜姓族関係のレポート参照)

    この始祖千国(直系末裔)の系譜は、母方が坂東に勢力を張っていた元「嶋崎氏」を名乗る平家一門とされていて、この一族は後に支流一族として青木氏を名乗っている。
    この後、青木氏は先ず主要9氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏)と広がり、ここから秀郷一門116氏に広がっている事もあり、秀郷の宗家より直系の跡目継承を受けている事から起因している。
    現在の史料では、消失も含めて余りにも拡大して末裔系譜は途中までしか確認出来ない。
    しかし、この以下の解析レポートから青木氏の活動は他の4氏との関係からもある程度の傾向がわかるので、この辺の血縁関係のところ等をも「家紋分析」で検証する目的がある。

    所で、その前に、この116氏と言う「氏拡大」はどの程度の「勢い物」であるかを知る必要があり、これに依って青木氏に対する位置付けの判断が異なる。そこで事前に検証して観るとする。

    「青木氏の位置付け」
    先ず、実際は、秀郷一門の「氏家制度」の社会慣習の中では、青木氏への「跡目継承」は、上記した様に秀郷系譜から6度の確認できる記録があるが、一門24氏の佐野氏や秀郷一門外の利仁流からも青木氏が出ているところを観ると、、記録に残らないほどに頻繁に行われていたと先ず考えられる。
    青木氏の主要9氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏)と合わせて、116氏の末裔の「上位跡目継承」の慣習で考えると、直系直流5氏の本家筋には秀郷宗家より跡目は6度以上に充分にあったと考えられる。

    はっきりと判る跡目から観ると次ぎの事が判る。
    先ず、佐野氏は、秀郷より7代目成行(足利氏)−家綱と続き、その子の一人の成俊が佐野の庄司の役となり、更にその孫の基綱が佐野氏を名乗った初代の相伝である。
    その相伝の基綱より7代目の行久(二郎)が青木氏の跡目継承に入っている。
    次には、その前には、秀郷より直系10代目で青木氏本家筋に跡目を入れている。この時は第2子である。10代目で青木氏本家に跡目を入れた事に早くも成る。
    更には、その前には千国の母方(平家)の嶋崎氏から青木氏の分家支流に跡目が入っている。

    この他には、清和源氏の頼光系宗家筋より賜姓青木氏各5家5流本家にも跡目が入っているのだが、藤原秀郷流青木氏にも清和源氏の分家頼信系筋からも入っているのである。
    秀郷宗家から出せないので、この時は上位の朝臣族の賜姓源氏(母方継承)から跡目を入れて繋いだと観られる。
    記録を見つけることが出来ないが、主要5氏の家紋から共通血縁族(5氏共通)には笹竜胆紋の青木氏が入っている事から、皇族賜姓源氏のみならず皇族賜姓青木氏からも跡目継承が行われた事は確実である。
    特に、主要5氏の血縁分布から観ると伊勢青木氏からの跡目が濃厚である。
    秀郷一門となったこの笹竜胆紋の青木氏から他の主要4氏に血縁が広まって共通血縁族と成った考えている。
    更には、皇族宿禰族の橘氏の橘紋も共通血縁族である処から観て、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏の一つ橘紋の皇族宿禰族の青木氏からも跡目に入った事は確実である。
    つまり、何れも同じ青木氏の血縁であり、氏名は変わらない事に成る。
    これだけの史実から観ても十数度以上の跡目が青木氏に入っている事が判る。

    だから、歴史上、信長や秀吉に追われた賜姓青木氏が親族と成っている秀郷一門の青木氏のあるところを頼って逃げ延びて子孫を遺す事が出来たのである。全く無縁の所に逃げ延びたと言う事ではない。

    先ず、その一つの例を挙げる。
    藤姓足利氏(秀郷直系7代目:下野国足利郡開発足利庄:成行の護衛の直流青木氏)に清和源氏分家の頼信系の源義家(征夷大将軍)の孫の義康が跡目に入る。
    更に、1185年頃に平氏方(嶋崎氏)の藤姓(足利氏)末裔(直系青木氏)が没落し、ここに足利成行の一族の基綱の娘と源義国との間に出来た子供がこの青木氏の跡目継承をしている。
    (基綱は始祖佐野氏)
    (藤姓足利氏とは秀郷の直系子孫の6代目成行一族の事(実質青木氏である)。

    又、この足利氏ではもう一つの跡目騒動が起こっている。
    一方の元足利氏は藤原一門の5代目頼行が陸奥国の鎮守府将軍としていたが、信濃国に転勤し、その藤原秀郷一門(青木氏を含む)に同行して信濃国に定住した陸奥の住人である。
    この藤原氏との血縁を持つ分家陸奥の小田氏(小山、花山氏)の血縁族末裔が土豪と成って勢力を高め足利氏を名乗った一族である。(常陸の小田氏はこの末裔)
    この藤原氏の血筋を陸奥で受けた配下の小田氏系足利氏と、其処に赴任した藤原秀郷宗家の成行の藤姓足利氏の二つが存在した。その藤姓の足利氏は実質青木氏である。

    藤姓足利氏は上記系譜の兼行の子供の成行(弟の考綱は長沼氏)から始まり末裔が引き続いている。
    この「兼行」から「足利大夫」として足利氏を発祥させているが、実は「足利氏」に事件が起こった。
    陸奥から来た元足利氏の本家の嫡男跡目に対して、秀郷宗家はこれに異義を唱えた。跡目をなくした元足利氏の分家に対して、秀郷宗家より第2子の跡目をいれて、足利本家を潰して、この秀郷の宗家跡目を入れた元足利氏の分家を藤姓足利系本家とする戦略に出た。
    豪族となり地名から足利氏を名乗った元足利氏と、秀郷一門の成行との間で争いが起こった。
    跡目に関する足利での勢力争いである。
    結局、秀郷宗家の勝ちとなり秀郷一門が入った分家が足利氏の本家と成ったのである。
    この結果、陸奥から来た元足利本家は若狭湾沿岸沿いに逃亡して、鳥取米子と八頭当りに到達して定住した。これに同行した一部の賜姓青木氏の足利氏系青木氏はここに米子青木氏を発祥させた経緯があり、この時の事件の原因も跡目に関する廃嫡事件であった

    そこで、秀郷一門の跡目を観ると、主要5氏の兼光流2氏では次のように成っている。

    秀郷9代目の成俊の弟の有綱が足利氏を継ぎ、それより更に6代目の行長が初代永嶋氏をなのったのである。行久の跡目では青木氏とは基綱系の同族である。

    跡目系譜
    秀郷−成俊9・{佐野氏相伝}−(有綱-基綱-国綱-宗綱-宗行-行春-為行)−行久17・{青木氏}
       有綱9・{足利氏}−基綱10・{佐野氏}−(景綱-秀綱-行政)−行長14・{永嶋氏}

    秀郷7代目の成行の弟の考綱が長沼大夫となり、初代長沼氏である。

    跡目系譜
    秀郷−成行7・{足利氏相伝}−家綱−有綱9
       考綱7・{長沼氏相伝・長沼氏}−秀基−秀忠・{大屋氏}

    秀郷−行尊6・{太田氏}−行政−政光−宗政・{中沼氏}
                      −朝光・{結城氏}
                   −行義・{下川辺氏}
     
    注:{有綱−基綱}は有綱は兄の成俊の「跡目」に入り「後継ぎ」となり、基綱の子の景綱と国綱
    は、景綱は秀綱に繋ぎ永嶋氏に、国綱は宗綱に繋ぎ青木氏の跡目の行久に繋がる。
    成俊の嫡子を外して弟を跡目に入れると言うことが起こったのである。

    下記レポートには重要な判断の系譜であるのでこれを事前に特記する。

    このレポートからは宗家一門より「第3子跡目」(第2子の場合もある)で本家分家筋から116氏の上位の家筋に跡目を入れていた事が覗える。それ程に藤原秀郷一門の領国を含めて赴任地24地方への青木氏の護衛役の意味は大きかった事でもある。
    秀郷武士団の主要5氏の青木氏外の4氏は自らが護衛役を組織して赴任地を移動したものである。
    それだけに、比較的に末裔の広がりは小さく、夫々その血縁族の有様の特長を持っている。
    これに較べて、秀郷一門の宗家筋からの「第3子跡目」上位継承で跡目が入る事で、青木氏は、取りも還さず、「第2の宗家」とも考えられる。
    上記の「藤姓足利氏」のところでも、当時の史書は青木氏を本家扱いをしている。他の23氏と較べても「宗家からの跡目」であるから、立場上は上位であるからトップの位置に氏家制度の中では存在していた筈である。
    跡目系譜から観ても主要4氏も青木一族として含めた書籍もある位である。

    第1、2子は宗家筋としての跡目として定め、第3子は広まった青木氏の跡目に据え、この事は純血を保つ「忠誠心の高い護衛」と言う秀郷一門の大戦略であった。

    この「大戦略」には、次ぎの様な事が常に起こっていたのである。
    ただ”「跡目を入れる」”と云う簡単な事ではないのである。

    既に自前の跡目子孫が青木氏に存在しても、「護衛」と言う目的からその「嫡子跡目」は、場合に依っては宗家筋より強引に第3子を入れるという戦略上の目的を最優先していたのである。
    その場合とは嫡子の能力であった。
    「忠誠心の高い護衛」を目的とする以上、純血を保つ事になり、同族の血縁はそれだけに子孫に対して奇形児の危険性を持っていた事になる。それをも克服する手段として宗家筋の第3子を、青木氏に嫡男があるとしても廃嫡して、跡目を入れるという手段を採っていたものである。
    (それだけに当時は「系譜の編集」は難しく成っていた)

    そもそも「氏家制度」の封建社会では、この時代は「子孫存続」を前提として、嫡男が必ずしも嫡子になるという家法の慣習ではなかったのである。

    この嫡男(長男)が嫡子になると言う方式は、江戸の始めである。
    家康が徳川幕府樹立後に「2つの家法」の発言をした。武家社会ではこの一つとしての「長男方式」を採った事から始まったまだ新しい家法習慣である。
    以後、徳川時代を経て昭和20年までの法改正まで続き、当時は大名以下上級武士以上全てこれに従ったのである。
    それだけに江戸以降は長男に能力がないと何処でも跡目事件が起こったのである。

    例えば、この様な跡目騒動の例が秀郷一門にも大事件として度々起こっている。
    その内の一つを上げると、上記の「2つ足利氏」の藤原秀郷血縁族の「足利氏騒動」である。
    これは一つの事例であるが、当時はこの様な事が各地で盛んに起こっていた事である。
    同時に、青木氏にもその役目柄からかこの跡目に関しては宗家に6度も跡目騒動的なものが起こるという程に事は厳しいものがあったのである。
    この当時の「跡目」と言う事にはこの様な事が起こっていた。

    ここでは、上記の事を念頭にその血縁族の特長を次に検証して見る事とする。
    面白いことが観えて来る。

    先ず、その「氏拡大」であるが、ただ、青木氏116氏は余りにも大きい末裔集団である。
    宗家一門に付き従い24地方への護衛役で入り、土地の豪族との血縁戦略(秀郷一門の統一戦略)だけではここまでにはならないであろう事が考えられる。

    そこで、秀郷一門の子孫繁栄の隆盛期は4期が考えられる。
    先ず、平安末期までは北家筋として隆盛した。
    この間(958−1185)220年である。
    この期間は24地方への赴任で土地の豪族と血縁するとした主戦略で氏拡大を図った。自然拡大ではない。そうすると次ぎのようになるであろう。
    最大で24−30の氏の拡大程度でなかろうか。これを1期とする。

    ついで、鎌倉幕府の樹立で一門は各地に失職離散したが、武蔵、下野付近の坂東では源頼朝に合力して本領安堵され藤原朝光などは生き残りを図ったし、各地の一門は土地に名主や庄屋や大農や郷氏と成って、一段と隆盛は下げた形ではあるが子孫繁栄拡大を図ったであろう。
    赴任地に遺された子孫は守護、地頭、御家人などに圧迫されて血縁はなかなか難しいものであった筈である。
    この間は鎌倉幕府倒壊までの期間(1358-1185)173年とする。
    1期の30程度の拡大分を計算すると、最大で10−19の氏の拡大程度でなかろうか。これを2期とする。

    その後、室町幕府が樹立して各地の秀郷一門は土地の豪族となり、一部は仕官したとしても各地でもこの時、全国的に発生した下級武士の「下克上」や「戦国時代」の藤原氏の様な高位の家柄筋の打ち壊しと狙い撃ちが重なり、藤原一門が狙い撃ちにされて権勢は低下し隆盛の域どころではなく衰退域にあったと考えられるであろう。その期間(1358-1408)50年とする。
    当時の寿命からして最大で3−6の氏の拡大程度であろう。これを3期とする。

    その後、安土桃山時代では兵農分離や天下分け目の戦いで子孫の拡大は衰退期の横ばいが最大であろう。この期間(1408−1603)195年とする。
    子孫拡大分を計算すると、最大で12−23の氏の拡大程度であろう。これを4期とする。
    (江戸時代以降は家紋から観た氏の拡大は信頼できないので除外する)

    考えられる範囲としても、1期から4期までの合計は最大49−78となる。
    (ただし、子孫を一代3人として分家化する分は断絶家と他家化の分とで相殺する)

    この程度が普通ではないか。永嶋氏、長沼氏、進藤氏の拡大氏と同等程度(52と38)である。
    この様に考えてみると、116氏に対して、67−38の氏分が足りない事になる。
    (合計638年間)
    この足りない分はどの様に考えれば良いのか疑問である。(疑問1)
    この疑問1は本文で主要4氏との関係で個々に分析して解き明かす事にする。

    これらの事も次ぎのレポートの解析で判断出来る。
    上記の数字49−78は普通の子孫拡大で得られる数字と観ると、藤原秀郷一門にとっても、主要5氏の間でも、護衛役の青木氏の氏の子孫の存在が最大の問題であって、116氏に広がったところを観ると、これを何とかして必至に護ろうとしていた結果事が観えて来る。

    では、これ等の事に付いて解析して観る。

    藤原秀郷一門の主要5氏は次ぎの通りである。
    兼光流は青木氏、永嶋氏、長沼氏
    文行流は長谷川氏、進藤氏

    青木氏に付いては既に研究室の「青木氏と血縁族」(家紋)等と家紋掲示板に掲載しているので、特に示さない。(ただし、次の比較は第3の氏を含む)

    先ず、兼光流は次ぎの様になる。
    青木氏116氏に対して、
    永嶋氏は35氏に末裔を広げている。
    長沼氏では52氏に末裔を拡げている。

    文行流は次ぎの様になる。
    長谷川氏は111氏に末裔を広げている。
    進藤氏は48氏に末裔を広げている。

    藤原秀郷一門は、兼光流と文行流と合わせて361氏(不詳含まず)と成る。

    この数字を観ても如何に青木氏は大きい氏であるかが判る。
    普通はせいぜい多くても20程度以下である。
    歴史的長さと権勢の大きさもあるが、藤原秀郷一門の採った戦略が大きく左右していると見る。
    歴史と権勢で観れば、例えば、典型的な氏として源氏11代もあるが、直系氏孫は遺し得ていない。
    同じく、平安の栄華を欲しい侭にした平家も同様であり、隆盛を極めた割にはこの様にはっきりと氏を遺していない。
    子孫を遺すと云う事は何らかのそれなりのものがあって始めて成し得る事である。
    栄耀栄華は子孫を遺す前提ではない。そうすると、藤原秀郷一門は例外であると云う事になる。
    藤原氏四家(北家、式家、京家、南家)の中では北家が隆盛を極めたが、跡目が上手く行かず北家以外は子孫を多く遺していない。
    また、跡目を理由に他を潰したが、秀郷一門の中では、これだけ大きくなれば、「自然の摂理」により、秀郷一門は、時代と共に先ずは「烏合衆参」するかして、終局は再び「離散分裂」を起すが歴史の習いだが、しかし、起こっていないのである。
    これは何故なのか疑問が湧く。(疑問2)

    その「戦略」は先ずは、秀郷一門の中では、時の権威の朝廷との政治的繋がりは除いて、主に次の様な理由に成るだろう。

    「生残り戦略」(疑問2)
    「氏家制度」と「強食弱肉」と「権謀術策」の社会体制の時代の中での背景を前提とする
    1 「武力」身内から専門の護衛役の氏を造った事にある。
    2 「掟」宗家より「第3子の跡目」に入れる家法にある。
    3 「権威」万が一の事を考えて武力を持つ「第2の宗家」を造った事にある。
    4 「外防衛」赴任地24地方に血縁族を作り全国的防御網を張った戦略にある。
    5 「内防衛」武蔵国(入間)を中心に神奈川横浜を半径とした渦円に単独青木氏116氏の防御網を築いた事にある。
    6 「血縁」全国主要豪族氏との血縁を勧めた事にある。
    7 「権威と象徴」皇族賜姓族(源氏、青木氏)との血縁を重複的にした事にある。
    8 「組織強化」総宗本家と秀郷主要5氏との相互間の血縁族を作ったことにある。
    9 「宗教」神社、寺社の宗教勢力との血縁を勧めた事にある。
    10 「政治連携」積極的に北家一族との連携をとった事にある。
    11 「経済力」長期間に穀倉地の武蔵下野の領国を死守した事にある。
    12 「独立採算制」各氏は「武力と経済」の「2足の草鞋策」を積極的に採用した事にある。

    「生残り戦略(1−12)」を一言でいうと、「跡目血縁」を中心として「政治、経済、軍事」の要件の「相互関係」が上手く取れていたことを示すものである。

    本文を理解する上で、上記の序文を参考にしてお読み頂きたい。

    これ等の事が本文のデータの考察から観る事が出来るのである。
    主要5氏の氏の構成も判る史料も掲載するので、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏と、青木氏の関係からの影響も参考にも成る。


      [No.194] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−秀郷一門24氏中主要5氏の青木氏等の実力−6/10
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:42:26  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−秀郷一門24氏中主要5氏の青木氏等の実力−6/10
    副管理人さん 2008/09/06 (土) 20:16
    史料6

    秀郷一門24氏中で主要5氏に成る根拠

    [氏の発祥順位]

    (24氏の内、主な氏記述)
    (・印は主要5氏)
    (氏・秀郷より代・元祖)

    ・青木氏2(千国)
    −渕名氏5(兼行)−近藤氏5(脩行)
    −・進藤氏6(行景)−佐藤氏6(公清)−足利氏6(成行)−・長沼氏6(考綱)
    −太田氏7(行政)
    −嶋田氏8(景頼)
    −小山氏9(政光)−下川辺氏9(行義)−大屋氏9(秀忠)−伊藤9(基景)−後藤9(公郷)−首藤9(助清)−武藤9(景親)−波多野9(経秀)
    −佐野氏10(基綱)−中沼氏10(宗政)−結城氏10(朝光)−尾藤氏10(知広)−松野氏10(親実)
    −斎藤氏10(叙用)
    −・永嶋氏14(行長)
    −・長谷川氏19(宗重)

    考察
    主要5氏の発祥順位は1 青木氏、2 進藤氏、3 長沼氏、4 永嶋氏、5 長谷川氏となる。
    青木氏と進藤氏と長沼氏は2−6代目で速く、永嶋氏と長谷川氏は後発である。
    先ず、青木氏の発祥順位と氏数は段突で、「第3子跡目」の藤原秀郷の家法もあり、「藤姓の足利殿と呼ばれる青木氏」であるくらいに最大勢力であった事を物語る。
    私は、むしろ藤原宗家一門より、「第3子跡目の家法」と武力を持つ青木氏の方が実質勢力があったのではと考える。だから「藤姓の足利殿」と呼ばれていたのであろう。
    ただ、「護衛の役目」と言う一段下の立場であって、力があるからと云ってこれを崩す事は氏家制度の絆を破壊する事に成り、自らの首を締める事にも成るので、立場を保持させたのでは、又、「発祥と氏数」から観ても、その乱れを一門24氏に対して指摘する立場にもあった事に他ならない。
    何をか況や、24氏を抑える立場のその勢力を保持していた事を物語るものである。
    だから、藤原秀郷一門と北家一門は明治までの生残るほどに強かったのであると観ている。

    ただ、一つの弱点があった。それは朝廷を中心という体制の中での立場であった。だから、武士による鎌倉幕府が樹立すると失職離散の憂き目を受けたのである。
    恐らく大変な歴史転換点であって右往左往したであろう。
    しかし、この中で、青木氏は「武士」と「宗家同等の護衛」という立場から、「武力」をシンジケートと言う立場に作り変えて利用して、弱点を補う為に「2足の草鞋」策で生き延びたのである。だからこの氏数に成ったである。

    その史実は、幾つもあるので挙げる。
    伊勢青木氏の明治35年まで続いた紙問屋家業(伊賀地方の特産和紙)、瀬戸内に勢力圏を持つ讃岐籐氏青木氏の廻船問屋家業、堺摂津の青木氏の貿易家業、磯部氏を代表とする信濃の産物問屋家業、土佐、駿河の青木氏の遠洋漁業の海鮮問屋家業など、史実が地域に多く遺されている。
    多くは、1350年代前後の創業と見られる。室町初期からである。平家からの圧迫からやっと逃れたと思うと、今度は、北条氏の足利氏、青木氏の藤原氏一門、賜姓源氏、賜姓青木氏等への圧迫が強まった時期でもある。その時期を乗り越える為に、2つの青木氏一門は「2足の草鞋策」を採ったのであろう。これは長谷川氏、永嶋氏の活動時期と附合するのである。
    宗家に代わる青木氏の武力以外にも、シンジケートと同族大集団を維持する為にも、この「経済的裏づけ」が大きく左右したのではと観ている。

    特に、史料4「共通血縁族」でも記述したが、秀郷一門主要5氏の補佐役の主要8氏(片喰族、剣片喰族等)の四国勢を秀郷一門の主力に押し上げていたのは、廻船問屋家業の讃岐籐氏青木氏であり、この「経済力」に支えられていたと考えられる。

    だからその「武力」とその「経済力」を利用して鎌倉幕府に合力して本領安堵されたりして、地方にいる青木氏は各地方の豪族と成り、又、家臣と成って生き延びる事が出来たから、この大氏数なのである。それでなくてはこれ程の氏数を「武力」だけでは維持することは出来ない。
    この事は7/10以降のレポートの分析からも充分に云えるし、だから平安末期の後発の永嶋氏や長谷川氏でさえが勢力を保持したのである。
    後発が主要氏として勢力を持ちえるには「武力」だけでは決して成し得ない事である。
    だから、何れも主要5氏は全て「家紋200選」の比率では50%の高い率を持っているのである。
    第3の青木氏を除けば、70%以上に達するとことに成る。

    ところが、24氏中では永嶋氏と長谷川氏は最も後発である。
    これは、最も後発でありながら、永嶋氏(14)と長谷川氏(19)が、秀郷一門の24氏の中で、経済力を発揮したと言う事に他ならない。武力は武力の反発を受けて「悪くのスパイラル」が起こり究極は歴史が物語る様にジリ貧である。しかし、経済だけでも同じく成し得ない。
    「経済と武力」がバランスよく伴なわなくては長い歴史を成し得ない。
    現に、詳しく7/10の永嶋氏レポートと9/10の長谷川氏のレポートでそれを証明しているので参照されたい。
    それには、ただ「経済と武力」持てばよいと言う事ではない。其処には「戦略」が存在しなければならない。
    戦略には、更に、その「血縁族の違い」と、「戦略の違い」に依るであろう。

    それを次ぎに検証して観る。
    永嶋氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(19/35=54%)が大変多い特徴を持っているが、大豪族(49%)と小豪族(47%)との血縁バランスを平均に持っている。

    長谷川氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(35/111=32%)が少ないのが特徴であるが、大豪族(28%)より小豪族(68%)に重点を置いている。

    永嶋氏の「戦略の違い」では、「地理性」に重点を置き、畿内から中部地方の家紋族と血縁して重点を小さく絞っている。「狭く濃く」の為に35氏である。

    長谷川氏の「戦略の違い」では、北九州から東北まで満遍なく広げ、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の小豪族との血縁をして重点を広くしている。だから、「広く薄く」の為に111氏である。
    各地に小さく分布する長谷川氏支流族の「釘抜き紋」はその象徴である。

    これ等は他の2氏に較べて後発と言う立場にあり、逆の血縁戦略を敷いたが、先発の長沼氏と進藤氏は「血縁族の違い」(52氏-48氏)と「戦略の違い」はその中間である。

    長沼氏は北九州から中部地方にてやや西よりに、進藤氏は関西から関東地方にやや東よりで、両者とも中間巾を持っている。
    これは、先発、後発の違いで先発の地域は身内の地域争いを遠慮した結果、後発の2つの氏には違いが出たものであろうと先ず思うが、多分、先発の時代と後発の時代の藤原秀郷一門の勢力範囲が違って来ていたのではと考える。
    後発になるに従い、やや西よりに勢力分布が出来て来ていたと云う事であろう。

    その理由として次ぎの事が言える。
    1 藤原一門の赴任地が東山道から東海道、畿内、山陽道、南海道、最終は西海道へと移っている事。(その過程で各地に子孫を遺していった事の成果が出てきた)
    2 桓武平氏(京平氏)との勢力争いで、皇族賜姓族(伊勢、美濃、信濃、甲斐)と血縁連合を組んだ事。
    3 清和源氏頼光系一族との血縁連合を組んだ事。
    4 清和源氏頼信系一族と秀郷一門の勢力圏を神奈川を境にして組んでいた事。
    以上の事が挙げられる。

    この事に付いて、後発の永嶋氏と長谷川氏が誰かが主導してこの「勢い」に乗ったと云う事だろう。

    しかし、そう簡単には「勢い」で済まされないであろう。
    「遠慮、深慮」と言うが、現実は秀郷一門の調整による勢力圏の振り分けが出来ていたのではと考える。自然に出来上がったというには余りにも上手く出来すぎている。
    永嶋氏と長谷川氏の「狭く濃く」「広く、薄く」の関係、長沼氏と進藤氏の地域の「西より」「東より」の関係は自然にも出来上がらないし、相談しても出来難い「振り分け」である。
    まして、「氏数」でも永嶋-長谷川関係、「狭く濃く」「広く、薄く」に合わした35:111とその特長に合致、長沼-進藤関係 52:48とほぼ同数の「圏域の巾」に合わしてを維持している。
    明らかにこの「特長造り」は何処からか主導していると観る。

    私はその参謀は青木氏に在ったと観ている。
    主導するには「力」が必要である。少なくとも氏家制度の社会である。史料1−5でも解説しているが、青木氏は主要5氏の中でも、倍の力を持っている。力のないものが、主導してもこれだけの力の差があり、尚且つ、「第3氏の家法」に裏打ちされた「第2の宗家」に口がなかなか出せないであろう。
    秀郷総宗本家の後押しもあろう。護衛と言う実績もあろう。武蔵入間を中心に青木氏116氏の本家筋が秀郷宗家一族を守っている。これだけのの条件が備わっていれば文句なしである。文句をいえば、武力差がものを云う。この時代は宗家に逆らえば文句なしの潰しの社会の氏家制度である。
    先ず間違いないであろう。青木氏以外にない。
    秀郷宗家に代わって”青木氏が統制していた”と観ている。
    ある大學教授の「藤原氏の研究史料」では、一部「藤原秀郷主要5氏」を「青木一族の系譜」の中に入れているものもある。これはその程度に統制されていた事を物語る。

    だから、青木氏は江戸時代まで勢力を持ち得たのである。
    途中で鎌倉幕府樹立で朝廷職を失い各地の秀郷一門は離散した。しかし、取り敢えずは「頼朝」の2度の「本領安堵策」強行で息を吹き返し、領国と各地では主要5氏の末裔が大豪族、大郷氏、大豪農、大豪商、と大大名となって生残った。これを物語るのが、主要5氏の家紋なのである。
    しかし、後の北条氏とは大変な軋轢が起こっていたのである。
    地頭、御家人と対立しながらも、その代表的な氏として、幕府に入り、虎視眈々と狙っていた青木氏が守る秀郷宗家の足利氏がある。
    そして、後に、足利幕府を樹立する事になるのである。
    この足利氏が鎌倉幕府の重鎮として残り得たのは、頼朝の幕府樹立に最も早く合力して貢献した藤原宗家の朝光である。それが宗家足利氏に繋がったのである。この時、先ず最初に本領安堵されたのはこの朝光であり、その末裔の結城氏が先ず最初に北条氏に潰されたのである。そして、それを引き継ぐ足利氏も北条氏に圧力を加えられたのである。
    しかし、上記する藤原一門の底力がそれを支えたのである。何をか況や、真にこの青木氏が一門を総括して支えたのである。室町末期の信長から逃亡した時も、青木氏が匿ったのである。
    だから、信長は東には手を出せなかった。
    この力は記録では明治初期まで続いている。その記録では、江戸時代の中部、関東で多発し、明治の2度の大「一揆」までを含めて、その裏での主導はこの藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏との連合があった。
    我々子孫が今に残るは、この先祖青木氏の努力以外に何ものでもない。
    先祖の努力の理解が、これからの子孫の如何を左右する。
    そのためにも、後世の青木氏が我々の時代を評価した時に、その何がしかの努力を受けるためにも、史料を提供してそれを考察して、現世で理解を広げて頂きたいと考えている。

    次ぎの序文と7/10(永嶋氏の考察)からは秀郷主要5氏の本文に入る。
    先ずは永嶋氏から入るが、以上1/10−6/10の史料を参考にして、お読み頂きたい。
    そうすることで我々が習得した歴史の史実より、より深く理解が広まるものと考えている。


      [No.193] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏と同一血縁類の解析 −5/10
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:40:37  

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏と同一血縁類の解析 −5/10
    副管理人さん 2008/08/30 (土) 17:31
    史料5

    (解析資料1)

    青木氏と同一血縁類の解析(青木氏の「氏力」の解明)

    解析の目的
    青木氏の116氏の家紋類に対して、他の主要4氏と同一の家紋を持ち血縁している氏を調べ、その青木氏の「氏力」や秀郷一門の中での「位置付け」等を家紋データ分析で割り出し考察する。

    解析
    分類の為に次ぎの記号を用いる。

    藤原秀郷一門の主要5氏
    永嶋氏(N1)、長沼氏(N2)、長谷川氏(H)、進藤氏(S)
    (青木氏全121氏で調査する)
    (・印 家紋200選)

    「共通血縁族」(5-2)の4分類
    青木氏との共通血縁族

    青木氏と他主要4氏との同一血縁類(全5氏)
    ・下がり藤 (N1:N2:H:S)
    ・笹竜胆     (N1:N2:H:S)
    ・丸に片喰    (N1:N2:H:S)
    ・丸に剣片喰   (N1:N2:H:S)
    ・丸に立ち沢瀉  (N1:N2:H:S)
    ・丸に違い鷹の羽(N1:N2:H:S)
    ・丸に梅鉢   (N1:N2:H:S)
    ・五三の桐   (N1:N2:H:S)
    以上7家紋である。(五三の桐含まず)

    青木氏と他主要3氏との同一血縁類(全4氏)
    ・上り藤  (N1:H:S)
    ・九曜   (N2:H:S)
    ・抱き茗荷 (N2:H:S)
    ・丸に桔梗 (N1:N2:S)
    ・橘    (N2:H:S)
    ・丸に橘  (N2:H:S)
    ・丸に抱き茗荷(N1:H:S)
    以上7家紋である。

    青木氏と他主要2氏との同一血縁類(全3氏)
    ・丸に隅立て四つ目(N1:N2)
    ・桔梗(N1:N2)
    ・丸に蔓柏(N1:H)
    ・丸に木瓜(N1:H)
    ・三階菱(N1:H)
    ・梅鉢 N1:H)
    ・立ち沢瀉(N2:H)
    ・丸に横木瓜(H:S)
    ・蔦(H:S)
    ・丸に蔦(H:S)
    ・片喰(H:S)
    ・剣片喰(H:S)
    ・丸に陰蔦(H:S)
    ・橘(H:S)
    ・丸に二つ引き(H:S)
    ・九枚笹(H:S)
    以上17家紋である

    青木氏と他主要1氏との同一血縁類(全2氏)
    ・抱き沢瀉(N1)
    ・丸に三つ鱗(N2)
    ・丸に剣花菱(N2)
    ・木瓜(H)
    ・横木瓜(H)
    ・違い柏(H)
    ・丸に根笹(H)
    ・武田菱(H)
    ・剣花菱(H)
    ・丸に九曜(H)
    ・丸に一つ引き(H)
    ・丸に三つ引き(H)
    ・揚羽蝶(H)
    ・松皮菱(H)
    ・三つ柏(S)
    ・菊水(H)
    ・三階松(H)
    ・丸に三階菱(H)
    ・丸に三つ柏(S)
    ・釘抜き(N1)
     丸に陰蔦(S)
     三つ引き (H)
    以上22家紋である

    合計53家紋である。

    4分類の史料の考察
    この関係資料はどの様な意味を持っているのか、考察してみる。
    この考察は主要5氏がどの様な関係を持ち、どの様な「氏力」を持って藤原氏を支えていたかも判るので、下記にそれらを考察する。

    まず、上記の結果から、青木氏との共通血縁族の比率は次ぎの様に成る。

    1 共通比から観た考察  

    他の4氏比 共通数(主要4氏の氏数:比率)
    5氏 7 (246:3%)  13
    4氏 7 (246:3%)  13
    3氏 17(246:7%)  32
    2氏 22(246:9%)  42

    青木氏比 共通数(青木氏の氏数:比率)
    5氏 7 (116:6%)
    4氏 7 (116:6%)
    3氏 17(116:15%)
    2氏 22(116:19%)

    全体比(共通数/全体数)
    5氏 13%
    4氏 13%
    3氏 32%
    2氏 42%

    以上 合計53共通血縁数

    この共通比は、共通5氏から2氏までを、夫々青木氏(116)、他の4氏の全氏数(246)が締める割合である。

    青木氏の「氏力」の考察
    (0) 「第2の宗家」の証拠
    116/246(氏数比=青木氏/他の4氏)は、丁度1/2(47%)である。
    この数字から、青木氏の氏力は他の4氏合わせての半分であり、如何に大きい「氏力」を秀郷一門の中で持っていたかが判る。3氏あわせても青木氏と同じであるのだから、「第2の宗家」と云われる所以が判る。

    (1) 「第3氏の家法」「第2の宗家」の証拠1
    秀郷宗家は「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして全力を注いでいた事を示す1つ目の大きな証拠でもある。

    全氏共通数(共通比=53/116)の比46%とは、他の4氏に対して(無条件)全共通氏は、氏数比と同じく、丁度1/2(47:46)で同比である。
    全体でみても青木氏だけで見ても同比は大きい。

    (2) 「第2の宗家」と「第3氏の家法」の証拠2
    この2つの47%と46%とを考察しても、明らかに間違いなく、青木氏(116)に対して、これも秀郷宗家が「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして、全力を注いでいた事を示す2つ目の大きな証拠でもある。

    (3) 「親族関係」>「同族関係」の証拠
    青木氏の内部の氏は、「氏数比」47と「共通比」46とも半分を占めているのであるから、同族というよりは”「親族関係」にある”と云うことでもあろう。


    (4) 「5氏相互間血縁」>「個別間血縁」の証拠
    この数字から、一つ推論が湧く。
    青木氏が、例えば他の4氏外のある氏(X)と血縁して、そして、又、他の4氏がある氏(X)と血縁して、出来た個別の偶然の氏が出来たのでは無く、”5氏の内の何れかが他氏と血縁して、それが5氏と互いに血縁をした。”と云う事に成るのではないか。
    そうでなくてはこれ程(47、46)の大きい数字は偶然では示さないだろう。

    即ち、「個別間血縁」(イ)の結果では無く、「5氏相互間血縁」(ロ)である事を示す。

    偶然ではないこの様な2つもの高い比率は果たしてどうして生まれたのであろう。

    (5) 「恣意的血縁」>「互恵的血縁」の証拠
    では、確率的に互恵的な「相互間血縁」なのか、恣意的に戦略的な「相互間血縁」なのかの疑問が湧く。
    統計確率論からは50%偶然は無い。まして、5氏ともに定住地と行動範囲は別であるとすると、「氏数比」=47%、「共通比」=46%であり、5氏+4氏=26%、5氏+4氏+3氏=58%となるとすると、”恣意的に戦略的な「相互間血縁」”となるだろう。

    一門の1/3から1/2が同紋であると云う事は、「人、場所、時」の条件が違うのだから、互いの自由意志での「互恵」では余程の偶然が起こらない限り成し得ない数字である。
    つまり、誰かが仕掛けた「政略血縁」と成る。


    (6) 「青木氏」で「一族固め」の証拠
    では、”誰で、目的は何なのか”と推理は進む。
    先に、答えは、{青木氏}で、{一族固め}である。
    では、その根拠は、この数字は青木氏との関係数字である。従って、青木氏の内容を調べる事で判る筈である。
    上記の「共通血縁数」はと比率は、全て「家紋200選群」の家紋と成っている。
    青木氏の「共通血縁数」を構成している「家紋200選」の比を見る事で、大まかな事は判る。
    (詳しくは史料2と本文の考察で記述している)
    家紋200選比は49%である。(121)
    第3氏と未勘氏と賜姓族を除けば、藤原秀郷比は70%と成る。
    偶然では2氏=42%は無理には考えられるが、58%の共通比は難しく、この数字は70%の影響を受けている事に成る。
    では、その58%の氏を内訳を見てみると、「主要共通血縁族8氏」なのである。8家紋群でこの58%が占められている。(下記)
    従って、明らかに、「青木氏」が中心に成って、、”「恣意的」に戦略的な「相互間血縁」”をリードした事になる。

    (7) 「相互間血縁」=「絆」の証拠
    更に考察を進める。
    その、「5氏相互間血縁」(ロ)の内容は、次ぎの様に成る。
    5,4,3,2の順で観てみると、6,6,15,19%となる。
    判りやすくすると(6を1とする)1(13%),1(13%),2.5(33%),3(41%)と成る。

    ここで、「共通性」を大小二つに分けると、5氏と4氏(大)、3氏と2氏(小)とすると次ぎの様に成る。
    (大)は26%、(小)は74%の共通性と成る。
    つまり、1:3の関係である。

    この関係を5氏の「血縁力」(絆:強弱)と観て評価すると、全体(46、47)の3割が「強血縁力」で占められて、7割がそれを補足している形を占めす内容と成る。

    偶然(イ)ではない、「5氏相互間血縁」(ロ)は、3割もの強い「絆」で結ばれていた事を表す。

    (8) 「青木氏一門の長期繁栄」の証拠
    藤原秀郷一門の主要5氏は、2倍の力を持つ青木氏を中心として、極めて強い絆で結ばれていた事を物語り、それ故、藤原秀郷一門は他の藤原氏と異なり、総宗本家を中心に江戸時代まで各地でその勢力を堅持していたことを裏付けられる証拠である。

    (9) 「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏の証拠
    そして、このデータから、その一門のリーダーは青木氏で、宗家「下がり藤紋」を先頭に、それを補佐として5氏共通の・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族の「家紋4大血縁族」が固め、・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉の「家紋4血縁族」が2重固めをしていた事を示すデータである。
    「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏

    (注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

    「秀郷主要5氏」の中では、次ぎの様に成る。
    「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」
    ・丸に片喰・丸に剣片喰・丸に違い鷹の羽・丸に梅鉢族 
    ・九曜・抱き茗荷・丸に桔梗・丸に立ち沢瀉

    以上の青木氏が固めていた事に成る。

    (10) 「青木氏主要8氏」(武家)の証拠 
    秀郷一門の組織=「藤原秀郷総宗本家」(貴族)−「秀郷主要5氏」(武家)−「青木氏主要8氏」(武家)

    このデータが面白い事を示している。
    それは、上記の8氏の血縁力は地理的に明確な形(分布=勢力圏)を示しているのである。

    (11) 「大」の字の広域勢力圏の証拠
    それは、畿内と四国を中心として、西には東中国、東には西中部に手を広げた形を示し、それを緩やかにラップするかの様に北九州の東、東中国、中部中、西関東に勢力圏を保持している事に成る。
    勿論、拠点は坂東の武蔵を青木氏116氏の本家筋が螺旋状に固めている広域陣形がある。
    陣形から観ても隙が無いもので、偶然に創り上げたものではなく「戦略的」に行ったと考えられ納得できる。(家紋分布史料参照)

    ところで、「六韜三略」と云う攻守の戦法の基本があるが、これに合致した全く驚きいる隙の無い「氏の血縁力(内部)」と「陣形」を敷いている。
    秀郷一門の青木氏は余程の軍略司が居たと観られる。
    確か、これでは、歴史的に観て、信長、秀吉が中国関東の東西両方と四国の域に手を出せなかった事が言えるし、「手一杯」であった事を事実として物語る。
    だから、この隙を狙って、信長等に追われた諏訪族青木氏等の賜姓族青木氏は2つの域のここに逃げ込んだことが納得できる。つまり、秀郷流青木氏が護衛守備軍として宗家に変わって、血縁関係のある賜姓青木氏を迎え入れたのである。
    即ち、共通5氏の「笹竜胆紋」と共通4氏の「橘紋」の血縁関係、青木氏の「下がり藤紋」の血縁関係が成立していた事に依り、そして、そこには、上記の「血縁族8氏」と「血縁族」がスクラムを組んで存在したのであるから出来た事である。

    皇族笹竜胆族29氏(笹竜胆族と24氏重複血縁)と繋がった藤原秀郷宗家が入間に鎮座していたのである。逃亡先にした事が納得できる。

    当然、四国の讃岐籐氏の「下がり藤(副紋雁金紋)」の讃岐青木氏宗家と、それを補佐する「共通血縁族主要8氏である阿波、土佐東の青木氏の片喰、剣片喰紋の青木氏が率いる処にも逃避した事が理解できる。

    そこで、余談であるが、歴史を思い起こすと、賢かったのは「家康」である。
    この藤原秀郷一門の中に入り、その「氏力」を利用したのであるから。江戸初期以後は諏訪族を含む藤原秀郷一門は徳川氏の旗本と御家人になったがこれでは天下は確実に取れる。
    同じ秀郷一門の軍師真田氏分家は家康を一刀両断の刀振り下ろす所まで追い詰めたが、両断はしなかった。下ろすと天下は変わっていた。”天下は家康が”の考えと、矢張り、軍師である限り、同じ一族の藤原一門の邪魔をしたくないとの意があったと考えられる。むしろ、一族が未来永劫に栄える後者の方の現実的なことを優先したと考えている。私は上記のこの分析からそのように考え直したのである。

    2 綜合数の結果から観た考察

    青木氏との「関係の強さ」を表すデータである。
    「絆の強さ」である。

    (A)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/氏数=個別血縁比)

    永嶋氏19(35:54%) 長沼氏18(52:35%) 長谷川氏41(111:37%) 進藤氏27(48:56%)である。

    (B)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/青木氏116氏)

    永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)である。

    「考察」
    先ず、(A)の総共通血縁数の結果から観ても、血縁の比率は、青木氏に対して、(共通数/氏数)の関係の結果は次ぎの様に成る。

    永嶋氏と進藤氏は55%台で、長沼氏と長谷川氏は35%台となる。


    何かこの二つに分かれる原因があると観られる。この原因を調べれば主要5氏の「氏力」などが見えてくる筈である。

      「絆の強さ」

    総合的に観ると、この二つに分けられるという事は、青木氏(116)との付き合い具合(血縁具合の強弱)を示すものとも成る。ではどの様なものであったのか。

    つまり、永嶋氏と進藤氏は大変に青木氏との「絆」が強かった事が言えるが、長沼氏と長谷川氏はそれよりやや「絆」が弱かった事に成る。ただし、これは藤原秀郷一門の中での事である。
    しかし、藤原氏以外のこの数字は普通は10%前後である事から観ると、長沼氏と長谷川氏でも大変高い「絆」で結ばれていた事にも成る。

    もう一つは、この「絆の強さ」がどちらからのリードであったのか知りたいが、これは(B)の結果から大まかなところが読み取れる。

    永嶋氏と長沼氏の16%に対して、長谷川氏と進藤氏の30%前後の数字である。

    つまり、兼光流の同流族の2つは16%で青木氏のリードは比較的弱いが、必然的に弱くなる「絆の強さ」の文行流の異流の2つにはリードは高くなっている。

    (A)、(B)の結果から、即ち、異流であるので余計に青木氏側からは働きかけを強くしていた事を物語るものである。

    では、此処まで知ると、その「絆の強さ」の内容はどうであったのか興味がより湧く。

    これをデータを解析してより細分化して考察してみると、よりその「絆の強さ」の内容が判る。

      「絆の内容」

    (A)-aの結果(「部類分け」)

    (a) 血縁比:110>72 (b) 血縁数:46>59 (c) 氏数:83>163

    データを入力すると、以上の3つのデータが採れる。

    血縁比の(a)で観ると次ぎの式が成立する。

     永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1

    血縁数の(b)、(c)で観ると次ぎの式が成立する。

    血縁数のb及びcの関係式は不等号は逆になる。
    (cの氏数は元数と成るので除外)

     永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111  関係式2

    つまり、この3つのデータと2つの関係式の中には何かの事象を持っている事に成る。
    それを次ぎに考察して観る。

    (A)-bの結果(「部類分け」)

    bの血縁数(46<59)で観ると次ぎの様に成る。

     永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式3

    しかし、(A)-aの関係(相互氏数)には、夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つので、同率で比較する必要がある。

    補正を掛けると次ぎの様に成る。
     
     永嶋氏92 長沼氏48 長谷川氏39 進藤氏86

    補正値:((各共通血縁数/各氏数)*100))*(1+(1-(各氏数/116)))  
    (116:青木氏数)

    (A)-cの結果(「部類分け」)

     永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏  関係式4

     「部類分け」の関係式は成立する。(178:87 2.17)

     (A)-aの関係式1と関係式4は一致する。
       
     (A)-aの関係式1=(A)-cの関係式4

    この結果は、秀郷4代目から分流した「兼光流」と「文行流」との「血縁具合」には、違いは無い事を意味する。

    しかし、本来であれば、「流」から観ると青木氏と兼光流で同流であるから、「付き合い」としては、当然に関係式は次ぎの様になる筈である。

     永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏  関係式5

    しかし、「兼光流」と「文行流」が入り乱れて違っている。

    (A)-aと(A)-bとは逆に成っている。どちらがこれで正しいのかを(B)で考察する。


    そこで、(B)の関係(青木氏数)では観てみると次ぎの様に成る。

    (B)の関係(修正前)

    永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)

    夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つ。よって同率にして比較すると次ぎの様に成る。

    (B)の関係(修正後)

    永嶋氏32     長沼氏25     長谷川氏43     進藤氏41

    補正値: 共通数*((青木氏数−各氏数)/青木氏数)+1 

    ところが、この結果は次ぎの様に成る。

     永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式6

     (A)-bの関係式3と関係式6は一致する、
    エラーを取り除いて観ても次ぎの様に成る。 

      関係式3=関係式6 
     
    ややこしいので、これをまとめると、次ぎの様になる。
    永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏  関係式5(本来の関係式)

    永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1
    永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式3
    永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏  関係式4
    永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式6
    永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111  関係式2

    関係式1=関係式4
    関係式3=関係式6

    エラーを取り除いて観ても、本来の関係式に一致する関係式は此処までの考察では出てこない。


    青木氏との共通血縁数を各4氏夫々の関係では次ぎの様に成る。

    イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a 関係式1

    青木氏との各4氏の共通血縁数の関係では次ぎの様に成る。
    本来であれば、次のように成る。

      永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏     関係式5

    しかし、異なる。最終の関係式は矢張り次の様に成る。

    ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b  関係式3(関係式6)

    直接、青木氏との共通血縁関係を青木氏の氏数から観ると、本来考えられる関係式と逆になる。
      
    ハ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-c  関係式4

    本来の答え(関係式5)に対して、関係式1=関係式4 関係式3=関係式6の答えが出る。
    (これは個別分類の結果(「同族固め」)のところで解明する。)

    考察
    各4氏の氏数から観ると異なるのは、各4氏の氏数には共通血縁に入らないものを含んでいる。
    含んだままではこのエラーが入ってくる事になるので、イの関係式(A)-aとハの(A)-cと成る。
    それはそれで意味のあるデータであり、(A)-aと(A)-cで成立している位であるので別の意味を持っている事に成る。

    先ずより正確に観ると為にエラーを取り除く。

    エラー比は、永嶋46% 長沼69% 長谷川63% 進藤46%と成り、並び替えして関係式とすると、次ぎの様に成る。
    エラー比:100(各氏数−共通血縁)/各氏数


    永嶋氏54%と進藤氏54%>長沼氏31%と長谷川氏37%  関係式7

    一致して”それなりに意味”を持っているからこの関係式が出て来るのである。

    この”それなりに意味”は、下記の3の「個別分類の結果」でこれが証明されるのである。

    依って、関係式7(「部類分け」)から、ロの結果の即ち、(A)-bがより正しい関係式となろう。

    ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b

    しかし、これは何故なのか疑問が出る。
    それは、次ぎの様に成る。

    結論
    本来の考えられる一般関係式は、永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏と成るだろう。
    ところが、青木氏から観ると、永嶋氏と長沼氏は同族であり親族関係にある。
    しかし、長谷川氏と進藤氏とは同族であるが、親族とはいえない。系列が別で細分化しすぎている。

    故に、青木氏は、長谷川氏と進藤氏に少し比率を高めて血縁関係を深めたと考えられる証拠である。

    何をか況や、そのための「同族固め」の為の「共通血縁」である。即ち、強く「同族固め」を推し進めたと成る。だから、本来とは異なるロの(A)-bが出たのである。


    では、その「同族固め」がどの様な戦略で行っていたかの疑問である。
    次ぎのデータでもそれを証明している。


    3 個別分類の結果(「同族固め」)

    次ぎの様に分類する。

    分類 (A)共通5氏と共通4氏との和、(B)共通3氏と共通2氏の和の二つに分類する。
    前提 (A):共通性が強い (B):共通性が弱い

    (A)分類
    永嶋氏9(35:26%)  長沼氏12(52:23%)  長谷川氏13(111:12%)
    進藤氏14(48:29%)

    (B)分類
    永嶋氏10(35:29%) 長沼氏5(52:10%)   長谷川氏28(111:25%)
    進藤氏11(48:23%)

    これ等の氏数には共通血縁外の数を含んでいるので、これを排除して正味で比を観てみるとする。

    (A)永嶋氏は47% 長沼氏は67% 長谷川氏は8%  進藤氏は41%
    (B)永嶋氏は53% 長沼氏は28% 長谷川氏は68% 進藤氏は41%

    ここに一つ特徴が出る。
    (A)と(B)は長沼氏が67から28に、長谷川氏は8から68に変化した事である。

    (A)クループは、「主要8氏」で占めていて、大豪族の家紋類である。
    (B)グループは、賜姓族を除いて、(A)グループの力の落ちた本家筋か分家筋で、中小の家紋群である。

    分析
    長沼氏は上記の(A)グループの主要8氏との血縁関係に重点を置いているが、(B)グループに血縁力を下げている。
    逆に、長谷川氏は(B)に大重点を置いている事に成る。


    結論

    前論の疑問としては次ぎの様な戦略が浮き出て来る。

    永嶋氏と進藤氏は(A)と(B)のグループに均等に「血縁戦略」を進めていた。・「血縁戦略A」

    長沼氏は(A)グループに大重点を置いて、(B)グループに血縁力を下げている。

    長谷川氏は(B)グループに大重点を置いて血縁をし、(A)グループには力を注いでいない。

    長沼氏と長谷川氏は対照的な「血縁戦略」を進めていた。・・・・・・・・・・・・「血縁戦略B」


    上記の結論の「血縁戦略的な違い」(「血縁戦略A」「血縁戦略B」)が下記の関係式と成っているのである。


    イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a
    (47-53)と(41-41)>(67-28)と(8-68)

    長沼氏(67-28)と長谷川氏(8-68)の数字のバラツキが偏差となり上記の関係式(A)-aを構成していたのである。

    ”ふそれなりの意味”とは、他の2氏と較べて「同族固め」と「血縁戦略的違い」があったのである。


    以上、今までは、「共通血縁族」の考察であった。



    残るのは、青木氏の「単独の血縁族」の考察である。

    次ぎは「単独血縁数」に付いて考察する。

    ここでも面白い「戦略的血縁」の結果が出る。

    「単独血縁族」
    氏の内容に違いがあるので、正確にする為に、データの「単独血縁族」を分類し1−4の4分轄に分ける。


    青木氏だけの「単独血縁族−1」(家紋200選族群)

    (・印 「家紋200選」 15家紋)
    ・加藤藤
    ・上り藤
    ・抱き角
    ・丸に抱き角
    ・州浜
    ・割り菱
    ・丸に扇
    ・丸に日の丸扇
    ・丸に並び扇
    ・丸に三つ星
    ・陰蔦
    ・糸輪に陰木瓜
    ・丸に違い矢
    ・花沢瀉
    ・丸に三階松


    青木氏だけの「単独血縁族−2」(30家紋)
    「単独血縁族−1」(15)に属する一族紋
    「共通血縁族」(53)に属する一族紋
    この二つの内容の分類とする。

    四つ又抱き角
    隅きりに抱き角
    隅切り角に梶の葉

    丸に州浜
    三つ盛り州浜
    丸に三つ盛り州浜
    三つ盛り陰州浜
    五瓜に州浜


    丸に違い扇
    隅きり角に扇

    亀甲に三つ星
    扇に三つ星
    三つ星ひとつ引き

    隅入り平角に片喰
    子持ち亀甲剣片喰
    五瓜に片喰

    隅きり角に蔦
    八角に蔦
    二重瓜に蔦
    五瓜に蔦
    鬼蔦

    抱き茗荷菱
    丸に一つ目菱
    四方瓜に重ね菱

    加賀梅鉢
    牧野柏
    三階松
    抱き若松
    並び鷹の羽


    青木氏だけの「単独血縁族−3」(12家紋)
    「単独血縁族−1,2」に属さない家紋

    抱き柊
    蔓柊
    3枚笹
    二階根笹
    丸に六つ矢車
    隅きり角に四つ目
    丸に三つ目
    三つ銀杏
    二重亀甲に三つ銀杏
    二つ葉蔓柏
    五瓜に違い鷹
    立ち葵


    青木氏だけの「単独血縁族−4」(6家紋)
    第3氏及び未勘氏に属する家紋

    五つ木瓜
    丸に揚羽蝶
    八角に木瓜に二つ引き
    下がり対四つ藤
    丸に隅立て升
    隅切り角
    丸に青角の字
    (くつわ)
    以上68家紋である

    「単独血縁数」 68 (367:19%)
    (第3氏と未勘氏の青木氏含む)


    考察
    (1)「家紋200選」に対する比率は59/121で49%である。
    丁度、半分が「家紋200選」の家紋群と成る。

    (2)「共通血縁数」(53)に対して(53/68)1:1.3にある。
    「単独血縁数」(68)は青木氏数(121)に対し56%である。
    全体の約半分は「単独血縁数」と成る。

    (3)この「単独血縁数」(68)の内「家紋200選」は15家紋群で青木氏比12%(49%)である。
    (4)「単独血縁数」(15/68)では「家紋200選」は22%である。


    これらの内容に付いて考察する。

    先ず、特長は、次ぎの事が挙げられる。
    *「単独血縁族」(68)は上記4つの属に分類される。

    (注)
    「単独血縁族」−1,3に付いて下記に考察をする。
    「単独血縁族」−2は、「単独血縁族」−1と「共通血縁族」(53)に属する血縁関係を保持する。
    (注)
    氏家制度の中ではほぼ同行動を採ると観られるので考察より除外する必要がある。
    又、「単独血縁族」−4は第3氏又は未勘氏であるので除外しないと正しい分析には成らない。


    「単独血縁族」の特長の考察

    第1に、
    まず、諏訪族青木氏の「抱き角紋」とその「丸付き抱き角紋」である。
    この家紋の氏は藤原「共通血縁族」の秀郷主要4氏には全く無い家紋である。珍しい。
    信濃賜姓青木氏と諏訪氏(たち梶の葉紋)との血縁により発祥した大変古い青木氏で賜姓族である。他に武田氏系諏訪族青木氏がある。つまり、秀郷主要5氏との重複家紋の中では只一つ重複なしの皇族賜姓青木氏である。

    第2に、
    州浜紋の一族である。この家紋も主要4氏にはない。珍しい。
    有名な主要家紋であるが、不思議にない。
    地域的に観ても常陸と陸奥である。
    常陸は藤原秀郷宗家(朝光)の結城氏が定住する土地柄である。
    陸奥は鎮守府将軍として代々務めた地域であり、土地の豪族の武田氏、小田氏、小山氏、足利氏、花山氏等は秀郷一門から血縁を受けた。
    秀郷一門が赴任移動時に関東に移動してきて勢力を挙げた氏がいる地域でもある。この地域は「共通血縁族」が在っても不思議ではない。むしろ在るべきである。
    何故なのか疑問1が湧く。

    第3に、
    他の4氏に無い家紋として、角紋類、扇紋類、柊紋類、銀杏紋類がある。
    何故なのか疑問2が湧く。
    ではその疑問1、2を解明する。

    先ず、角紋族である。
    角紋は理解できる。諏訪族の個性的行動にあったからであろう。
    後漢阿多倍が引き連れてきた17県民200万の内の後期に帰化した馬部とその関係の職能集団がこの信濃の開拓に入り、開拓は成功し天皇より勲功を受けて土地に根着き力を着けた一族である。
    諏訪神社を守護神として固い結束で有名な集団の赤兜軍団で有名な一族である。
    この為、他の一族と血縁を余り進めなかった特長を持っていた。武田信玄との軋轢でも有名である通りこの一族は血縁を広げて守ると云う戦略を採らなかった一族でもある。
    只、信濃青木氏との血縁が取れた。入植開墾の過程で信濃王の末裔(青木氏)との二人三脚で成し得た事であったからである。
    日本書紀にも、呼び出しを受けた彼らは勲功を受ける時、この二人三脚で天皇に意見具申したと出て来る位である。その「気構え」のある一族である。
    朝廷には藤原氏もいるし、阿多倍の末裔も天皇血縁族としても、官僚ともなって働いている。充分に血縁は在り得る事であるがない。だとすると「気構え」と「誇り」ではないか。

    次ぎは、扇紋族である。
    発祥地域は筑後、豊後、豊前に在る。
    発祥時期は新しい。江戸氏初期後である。御家人旗本がごぞって家紋を持った時期に位置する家紋であり、他の4氏と「共通血縁族」に成り得なかったのは、この時期にあると観ている。
    他の4氏から観ると平安から室町期に在るとすれば可能性は高いが、安定期には入ったこの時期に、遠方に於いて大した防御の必要性が無かった事と、他の4氏の聖域とのズレに問題が多少あったとも考えられる。
    青木氏と「単独血縁族」に成り得たのは、共通血縁族の主要8氏の西末端に位置していた事に依ると観られる。「戦略的血縁」ではなく、「政略的結婚」に過ぎないと考えられる。
    青木氏は藤原一門の「第2の宗家」としての役割からこの地域も血縁で確実に固めたと考えられる。

    柊紋族である。
    発祥地域は関東地方、武蔵7党の一つ丹治氏系青木氏一門の家紋である。
    家紋化したのは以外に新しい江戸中期前の頃である。
    柊明神の氏子神紋である。
    藤原秀郷一門の領国であり、入間の地域、多治彦王の配流時の落子末裔が根づいた古い氏である。
    秀郷がここを領国とする前からの小豪族氏であり、家紋は家紋化の江戸時代のブームによりこの一門は家紋化したと観られるが、血縁はその前の時期に行われていたと成る。秀郷流青木氏と丹治氏系青木氏との複合血縁もあったと考えられる。
    武蔵7党としては土地と権域を奪われた事から、秀郷一門の他の4氏とは一線を架していたと観られるが、青木氏がこの丹治氏と代表血縁をしたのである。つまり、この武蔵は青木氏一門が螺旋状に取り巻いて守っていたからである。つまり、青木氏との対峙となろう。そこで、双方が戦略的血縁を図ったと観られる。何故ならば、この小豪族の戦力程度では、藤原一門とりわけ青木氏にとっては問題ではない。そこで、敵の力を生かす戦法に出たと観られる。その証拠に、この丹治氏一門と多く血縁をしているからである。丹治氏宗家だけではなく一門との血縁で押さえ込んだと見られる。
    それで、円の枠の中に閉じ込めた結果藤原の他の4氏との血縁は無かったのである。
    他の4氏の戦略は大豪族に在ったことは主要8氏でも判る。

    銀杏族である。
    地域としては関西以西の氏で、土方、水島、坪内、間部氏である。家紋化は家紋の持たない者の家紋ブームの江戸初期である。土地の10氏以上がこの家紋を使用している。
    青木氏の聖域の西端であり、土地の小豪族の相互間の血縁集団の家紋群である。
    主要4氏とは地理的に離れている。
    西端を固める為に土地の小軍団との血縁をした戦略的血縁であろう。
    血縁は速かったものと見られるがこの銀杏族集団の家紋化が遅かったという事であろう。
    この地域の西には、出雲大社の氏子集団の亀甲紋集団があり、この地域では讃岐籐氏の青木氏が血縁を成している。
    この小豪族の集団群は、他に関西以東の伊川津7党、武蔵7党等もあり、これ等との血縁も青木氏に任している。
    更に以東の上記の柊紋の集団も、柊神社の氏子集団でまとまっていた事も同じである。

    この事から観ると、疑問1、2は次ぎの様に成る。
    同じ小豪族の集団群であったので、主要4氏は敢えて血縁を進めず、「第2の宗家」の青木氏に任したと言う事であろう。
    そして、それは次ぎの考察で詳細の戦略が判る。

    「独立血縁族」−1に付いての考察

    家紋200選にある家紋は15家紋である。(詳細は史料3参照)
    ・加藤藤     加賀、越前  2種ある 藤原氏家紋
    ・上り藤     畿内長戸周防 藤原北家筋家紋 苗字が着く藤紋 賜姓族には無い
    ・抱き角     信濃諏訪   賜姓族 諏訪族青木氏 (諏訪氏と賜姓信濃青木氏との血縁)
    ・丸に抱き角   信濃甲斐上野 諏訪族青木氏の分家
    ・州浜      常陸、陸奥 重複 賜姓族にある
    ・割り菱     甲斐、北関東 重複 武田氏支流 賜姓族にある。
    ・丸に扇     北九州3   松平深溝氏分家
    ・丸に日の丸扇  筑後、豊後  佐多家氏支流
    ・丸に並び扇   筑後、豊前
    ・丸に三つ星   中国地方4  児島氏分家
    ・陰蔦      加賀越前越中 大岡氏
    ・糸輪に陰木瓜  尾張、遠江  岸氏 他7氏の分家
    ・丸に違い矢   中部、西関東 恒岡氏の分家
    ・花沢瀉     尾張、遠江  酒井氏
    ・丸に三階松   讃岐阿波土佐 五条氏分家 他11氏
    以上「家紋200選」の15家紋である。

    この15家紋だけから考察すると次ぎの様な事が観えて来る。
    先ず、江戸初期か少しそれ以前の比較的新しい氏族である。

    内訳を観ると、西海道の北側域(5)と、北陸道の西域(4)と、東山道の域(5)と、南海道の四国域(1)の4域の聖域を持つ家紋群である。日本8道の内の4道を血縁で抑えているのである。
    これは、「単独血縁数(15/68)」の22%の成せる戦略技である。
    その戦略は全体の戦略の2割の力を持っていることを示す。
    つまり、大豪族との単独血縁を「第2の宗家」として行い、それが単独血縁の2割を占めて力を注いでいた事を意味する。そして、それも無造作にするのではなく、「日本8道」を自分の拠点の東海道を中心に満遍無く恣意的に4道を固めている。

    諏訪族青木氏を除いて、江戸初期前に家を興した氏が主体で、共通血縁族の「藤原秀郷一門の聖域」(中部を基点に西は中国東から東は尾張、駿河がまでに広げ領国を関東に置いた域)以外の4域を満遍なくその域の豪族と「戦略的血縁」を「第2の宗家」の責任を果たすべく血縁をしている事を物語る確実な史実である。

    即ち、まとめるとこの大戦略は次ぎの様に成る。

    1 「共通血縁族」では「藤原秀郷一門の聖域」の保全(上記)

    2 「単独血縁族」では「4道域」を抑えた。

    この大戦略が観得る。

    そして、それは「成長著しい新興勢力」に依って固められているのである。
    当然に、古い伝統をもつ青木氏は秀郷一門主要5氏と「共通血縁族大主要4氏と補佐主要4氏」(「青木氏主要8氏」)で固められている。

    3 「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」

    4 真に「鉄の結束」である。 
    新旧の血縁族で、「第2の宗家」青木氏は総宗本家に代わって121氏をフルに活用して護っていた事を示す。

    この大戦略で青木氏は秀郷一門を「第2の宗家」として単独血縁で構築し役割を果たしていたのである。


    そこで、「単独血縁数(15/68)」外の78%(53/68)はどうしていたの興味が湧く。
    それでは78%族の活躍具合を考察する。

    名も知れない氏族である。その力をどの様に青木氏は活用して上記の戦略に加えていたのか観るとする。
    この場合、「単独血縁族」の15氏の系列の一族紋は30紋あり、氏家制度の中、力の有る宗家を中心に纏まり、余程のことがない限りその「氏戦力」となる。もし、従わなかった場合には、その戦い前に力のある宗家がこれを潰すことが慣わしであり、余程の事がない限り生きて行くことは困難である。
    故に、ここでは「単独血縁族」15家紋に従うとし、主要8氏の系列の一族紋の6紋も、これに従うとする。そして、第3氏の家紋6は戦力外で除くとする。

    そうすると、11(68-(15+30+6-6))家紋と成り、それを「単独血縁族X」として、この11家紋の氏の活躍具合を調べる事で解析できる。

    「11家紋」の解析
    この11家紋は「家紋200選」に無い為に、その内容を把握するのは困難であるが、近い形の内容として把握する。

    「単独血縁族」−3に付いての考察
    「11家紋の内容」

    1 抱き柊、蔓柊    柊明神の家紋 大関氏 武蔵7党の丹治氏系一門 江戸初期の家紋化
    2 3枚笹       野々山氏 江戸初期−中期の家紋化
    3 二階根笹      千葉地方 仁木氏、桜井氏 江戸初期−中期の家紋化
    4 丸に六つ矢車    荒川支流の小族 関東 江戸中期の家紋化
    5 隅きり角に四つ目  近江、滋賀の皇族賜姓族の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
    6 丸に三つ目     近江、滋賀、佐々木氏系の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
    7 三つ銀杏      関西以西の小豪族相互血縁集団の紋 江戸初期−中期の家紋化
    8 二重亀甲に三つ銀杏 上記の氏と、出雲大社氏子の連合体(亀甲族)の血縁族 寺紋
    9 二つ葉蔓柏     神職紋 
    10 五瓜に違い鷹    中国地方、渋江氏、五瓜族の副紋(神紋関係)   
    11 立ち葵       寺紋 丹波、三河 善光寺の寺紋 室町期 (松平、本田氏)

    この11家紋からは次ぎの事が観えてくる。
    全て、新しい江戸初期から中期の家紋の持たない者が江戸の家紋ブームに乗り家紋化したものである。そして、これ等は小氏が地域に連合して「相互間血縁」をして「集団化」したものである。
    もう一つは、「神紋と寺紋」に関わるものが8紋/11ある。

    「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」この2つが特長である。

    家紋化の時期を考えると、その必要性が青木氏にはない。
    しかし、これ等は室町期頃から家紋化前に集団化して、周囲の豪族から氏を守った。その時にその集団の旗印、又は標印として使ったものが、後に家紋化したものである。

    この集団化は相互間に血縁関係を作り一集団として行動を採る誓約の基に行動した。

    例えば、出雲大社の氏子連はこの代表的な属種であり、寺紋の亀甲紋を家紋化して、それに各氏子の独自の印をつけたもので、亀甲紋族と言われる。この亀甲族は藤原秀郷一門と青木氏との血縁族を結んでいる。特に讃岐籐氏と「下がり藤に結び雁金」の副紋を持つ青木氏9氏の直流一門との血縁をして中国地方を治めている。
    小氏集団は何らかの基に集まり、「相互血縁」し「集団化」して、後にその「集団印」を家紋化したもので、多くの地方の家紋の殆どは、この「相互血縁集団」の基にある。

    この考察の結論は、「相互血縁集団」とその基になる「神紋寺紋」の内容となる。

    青木氏は「単独血縁族」として、この2つのターゲットに戦略を集中させたのである。

    更には、上記の説明の「共通血縁族」=「青木氏主要8氏」との結束の戦略とを複合的にして「大血縁戦略」を展開した事に成る。

    総論
    この様に明確な二つの特徴(「共通血縁族」と「単独血縁族」)が読み取られ考察される。
    夫々には、上記の「大戦略1−4」に合わせて、上記内容の説明の通り、更に「小戦略」=「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」が存在する仕組みを持って行動していたのである。

    秀郷の総宗本家に変わり、武力を持つ「第2の宗家」として、この様な完全とも観える「血縁戦略」を採っていた事を示すものである。驚くに価する。

    本史料をよく調べると、この様に、我々の先祖の苦労が観えて出て来るものである。

    本文の考察では、この史料と考察を考慮に入れて、お読み頂きたい。


      [No.192] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−皇族賜姓青木氏29氏(詳細) −4/10
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:36:35  
    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−皇族賜姓青木氏29氏(詳細) −4/10 (画像サイズ: 540×516 6kB)

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−皇族賜姓青木氏29氏(詳細) −4/10
    副管理人さん 2008/08/26 (火) 15:28
    史料4

    綜紋 笹竜胆紋

    皇族賜姓青木氏(嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏も含む)はどの様な家紋と系列を持っているがと云う事を理解する必要がある。
    そこで次ぎにそれを示す。

    皇族賜姓青木氏5家5流と24氏の家紋類は次ぎのように成る。

    皇族賜姓族の笹竜胆紋 5氏(5家5流の青木氏:第6位皇子臣下族:朝臣族:浄大1−3位) 
    1 以下5氏
    伊勢の青木氏(笹竜胆紋:天智天皇)
    近江の青木氏(笹竜胆紋:天武天皇:摂津青木氏)
    美濃の青木氏(笹竜胆紋:文武天皇)
    信濃の青木氏(笹竜胆紋:聖武天皇)
    甲斐の青木氏(笹竜胆紋:光仁天皇)
    以上5家5流の青木氏は夫々の国の国府地域に定住している。末裔及び分家は現存している。


    2 以下24氏
    (皇族青木氏含む 未勘の青木氏5氏含まず)

    支流 笹竜胆紋 3氏
    佐々木系青木氏(笹竜胆紋:近江:近江青木氏と近江佐々木氏との血縁族)
    佐々木系青木氏(笹竜胆紋:滋賀:近江青木氏(分家)と宇多天皇の滋賀佐々木氏と血縁族)
    滋賀の青木氏(笹竜胆紋:滋賀:近江青木氏の一部が滋賀残留族の分家:注釈1)

    (近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子で賜姓族:笹竜胆紋)
    (滋賀佐々木氏は宇多天皇の第6位皇子で賜姓族:笹竜胆紋)

    皇族青木氏 4氏 (嵯峨期の詔で発祥した氏)
    左大臣島氏流青木氏(笹竜胆紋:島王:真人族)
    橘氏流青木氏(橘紋:葛城王:宿禰族)
    橘氏流青木氏(丸に橘紋:葛城王:宿禰族)
    多々良氏流青木氏(未勘:多々良王:朝臣族)

    皇族青木氏 5氏
    (多治彦王系青木氏:武蔵7党:嵯峨期の詔で発祥した氏:配流先子孫) 
    丹治氏流青木氏(丸に揚羽蝶紋:三頭巴紋紋)
    丹治氏流青木氏(三つ鱗紋:富士山)
    丹治氏流青木氏(丸に鱗紋:富士山)
    丹治氏流青木氏(花菱紋:九曜紋)
    丹治氏流青木氏(州浜紋:蔦紋)

    美濃 皇族賜姓支流 2氏
    土岐氏系青木氏の本家(桔梗紋)
    土岐氏系青木氏の分家(丸に桔梗紋)

    信濃 皇族賜姓支流 3氏
    諏訪族青木氏の本家(抱き角紋)
    諏訪族青木氏の分家(丸に抱き角紋) 
    武田氏系諏訪族青木氏(二つ引き両紋:甲斐)

    信濃 皇族賜姓支流 3氏
    足利氏系青木氏の本家(二つ引き両紋)
    足利氏系青木氏の分家(一つ引き両紋)
    足利氏系青木氏の分家(三つ引き両紋)
    (足利氏系青木氏の本家一部米子、八頭に移動し定住)

    甲斐 皇族賜姓支流 2氏
    武田氏系青木氏(割り菱紋)
    武田氏系青木氏(武田菱紋)

    越前 皇族賜姓支流 1氏
    信濃青木氏の分家(笹竜胆紋、丸に笹竜胆紋:越前北の庄、坂井郡の2家)
    信濃青木氏の本家一部は加賀、越前に定住(家紋不詳)

    清和源氏 4氏
    清和源氏系青木氏(丸に笹竜胆紋:日向:頼光流−注釈2)
    清和源氏系青木氏(笹竜胆、丸に笹竜胆紋:伊豆(駿河):頼光流−注釈3)
    清和源氏系青木氏(笹竜胆、丸に笹竜胆紋:駿河(伊豆):頼信流−注釈4)
    清和源氏系青木氏(笹竜胆、丸に笹竜胆紋:甲賀:頼光流−注釈5)
    (清和源氏は4地方の宗家に跡目を入れている−注釈7)

    未勘氏 4氏(注釈6)
    未勘源氏系青木氏(未勘:梅鉢紋:美濃:土岐氏系)
    未勘源氏系青木氏(未勘:剣片喰紋:信濃:足利氏系)
    未勘源氏系青木氏(未勘:花菱紋:尾張:頼信流:武田氏系)
    未勘源氏系青木氏(未勘:割菱紋:尾張:頼信流:武田氏系)
    (注釈7の分流族と考えられるが確証は取れない未勘氏)

    未勘氏 1氏
    伊川津党青木氏(未勘:沢瀉紋:三河:土岐氏系?)


    (注釈1 滋賀青木氏は同族佐々木氏(近江)との軋轢から近江青木氏が一時一族が滋賀に移動する。後に戻り摂津青木氏と成る。 滋賀に残留した分家が滋賀青木氏と成る。この滋賀青木氏が後に伊賀上山郷の出身の上山氏がこの絶えかけた分家を乗っ取り、衰退した分家娘と目される者を探し出し、これに上山氏男系跡目を入れて青木氏を奪い取った。後に本家と2度の争奪戦が起こり元上山氏は勝つ。この元上山氏の青木氏は、身分家柄を得て、結果10地方の国司を勤めるなどの大勢力を築く事に成った。)

    (注釈2)
    「日向青木氏」は源氏宗家の源頼光−頼政4−仲綱5の3子の2人(宗綱、有綱)と頼政の子の広綱の3人が「以仁王の乱」で平家との戦いに敗退し日向国に配流(以仁王の乱)となる。この時、土地の豪族廻氏との間に嫡男誕生し、その後押しで大隈国仁田尾城を築き、再び平家に対抗し敗退、嫡男を連れて薩摩の大口村まで逃走した一族末孫である。この時匿った寺の僧侶から嵯峨期の詔に基づき朝臣族jの配流末裔孫である為に青木氏を名乗る事を勧められ平家の追求を逃れた。九州唯一(日向から薩摩大口に分布)の青木氏でこの末裔 現存)

    (注釈3)
    伊豆(駿河)の青木氏は頼政(宗家頼光4代目:源氏再興:以仁王の乱)の清和源氏の守護領国であり、領国管理(甲賀、伊豆)の為に、頼政の孫の京綱(仲綱の子)が跡目に入った皇族賜姓伊勢青木氏(伊勢の一部)が護衛団として派遣されていた。この末孫が定住した所である。
    但し、この3国のその移動族には本家筋の笹竜胆紋が存在する。
    注釈2の日向青木氏の祖の有綱、宗綱と京綱(伊勢青木氏の跡目)とは3兄弟で同族である。

    (注釈4)
    頼光より信濃と甲斐の守護代を譲りうけた頼信が関東(伊豆、駿河)に進出したときに注釈2のこの伊勢青木氏を頼りに駿河のこの地点に拠点を置いた時の賜姓青木氏(信濃、甲斐)が定住する処である。伊勢の青木氏の支流伊豆青木氏と信濃青木氏、甲斐青木氏の支流駿河青木氏とこの2つの支流族が血縁し発祥した青木氏がこの伊豆と駿河地方に定住する。
    伊豆よりは伊豆青木氏(伊勢青木氏)、駿河よりに駿河青木氏(信濃青木氏、甲斐青木氏)この両方の地域に伊豆駿河血縁族の青木氏が存在する。
    尚、この東の神奈川よりに信長に追われて逃亡してきた諏訪族青木氏一部と、横浜よりに藤原秀郷流青木氏が定住する。この一帯に6つの青木氏が定住する。当然、この5つの血縁族が定住している事が考えられる。

    (注釈5)
    清和源氏源の頼光(河内、摂津、近江、甲賀、伊勢、信濃、甲斐の守護、守護代を務める)の領国で守護を務めた内の一つ甲賀国の青木氏である。
    この青木氏は近江青木氏で頼光に護衛団として同行した支流族である。

    (注釈6)
    未勘源氏5氏は史料から現在のところまで歴史的史実が取れない。研究過程に於いて判明する事で24氏に加える事とする。
    主に清和源氏の未勘の末裔としているが、源氏史料(行動)の史実が少ない為で確定できない。
    これ等は「嵯峨期の詔」に基づく「朝臣族」の青木氏と成っている。
    後に、各地に平家に追い詰められた清和源氏(木曽源氏等)には朝臣族として青木氏を名乗った未勘一族(木曽青木氏等)が幾つか存在する。

    (注釈7)
    清和源氏の青木氏跡目
    甲斐青木氏1 頼信の孫の義光(1055)より8代目源光(1195)が跡目
    甲斐青木氏2 義光より15代目義虎(時光系)が跡目(5流に分流)

    信濃青木氏1 頼信より2代目義康が足利氏に跡目(足利氏系青木氏)
    信濃青木氏2 義光より16代目義康が跡目 
    信濃青木氏3 義康より3代目実国が跡目(4流に分流)

    美濃青木氏1 義光より8代目時光(源光の弟)から11代目(不詳)が跡目
    美濃青木氏2 義光より9代目(不詳)が跡目(5流に分流)

    伊勢青木氏  頼光より4代目頼政の孫(仲綱の子)京綱が跡目(1184頃)(3流に分流)

    (注):上記24氏の支流族の主に分家筋の家紋が一部で江戸中期から明治初期までの間で僅かであるが「男系不継承」で家紋が変化していることもあり得る。
    (注):上記24氏の皇族青木氏と賜姓青木氏は原流と成ったものである。


      [No.191] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏121氏家紋に付いての研究 (分類)−3/10
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:35:03  
    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏121氏家紋に付いての研究 (分類)−3/10 (画像サイズ: 210×210 12kB)

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏121氏家紋に付いての研究 (分類)−3/10
    副管理人さん 2008/08/26 (火) 10:11
    史料3

    青木氏121家紋に付いての研究−分類
    次ぎの要領で分類する。
    「家紋200選」を対象とする。

    分類の記述事項とその条件は次の通りとする。
    1 由来は文様種と文様の起源等とする。
    2 使用氏は藤原秀郷流青木氏、並びに賜姓青木氏に歴史的に関連する氏で代表氏とする。
    3 時代は紋様化の時期と家紋化の時期を記する。
    4 地域は使用氏の発祥地域と末孫移動域とする。
    5 特記は家紋情報に必要とする事柄とする。

    「由来−使用氏−時代−地域−特記」

    「青木氏と血縁族(家紋)」のレポートと一部重複する。
    全体として本連載の本文史料7−10/10と4本文に関連する事項に対して参考となる事項を記述する。
    青木氏を研究するには重要史料である。

    各文様の主要紋を前提として分類する。

    分類
    1 ・笹竜胆 
    由来は、竜胆の花葉を組み合わせた文様化、花の青紫(藍:紫色は高位色)(象徴紋・瑞祥紋)
    使用氏は、皇族賜姓青木氏の綜紋(5家5流青木氏、佐々木氏(近江、滋賀)、11代の源氏)。
    時代は、奈良大化期から平安中期の家紋化。
    地域は、史料4参照(近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐、滋賀、甲賀、駿河、伊豆、河内、摂津、日向)
    特記は、この紫花を紋様化してステイタス(象徴の証)として、「大日像」と神木青木の樹木から「青木姓」と共に与え賜姓したのが始まりである。

    2 ・下がり藤 
    由来は、藤紫(高位の色)の藤の花と葉を図案化(瑞祥・象徴紋)
    使用氏は、藤原(北家)秀郷一門の綜紋
    時代は、奈良期の文様から始まり900年頃に家紋。
    地域は、24地方(詳細研究室レポート参照)
    特記は、笹竜胆紋に匹敵する歴史と権威を持つ。藤原氏四家は鎌足以来の下がり藤紋を嫌い上り藤に変紋した。秀郷一門9氏の家紋となった。

    3 ・州浜、・丸に州浜
    由来は、祝事の装飾具の「州浜の島台」を文様とした図案化(瑞祥紋)
    使用氏は、常陸小田氏の代表家紋
    時代は、室町初期
    地域は、常陸、陸奥地方
    特記は、陸奥から秀郷一門と血縁、同行して信濃甲斐地方に定住、常陸に大きく末裔を遺した。

    4 ・抱き角、・丸に抱き角
    由来は、兜の前立から尚武的な文様を図案化。(尚武紋)
    使用氏は、諏訪氏(諏訪族青木氏)
    時代は、戦国時代頃に家紋化
    地域は、信濃諏訪地方、相模、下野、常陸
    特記は、信濃青木氏と諏訪族が血縁し、諏訪族青木氏が生まれた。奈良期の時代に発祥。

    5 ・違い鷹の羽、・丸に違い鷹の羽
    由来は、鷹の勇猛、強靭な羽根を意味した文様を図案化(尚武紋)
    使用氏は、浅野氏、、松平氏、菊地氏
    時代は、鎌倉時代に家紋化、江戸初期に汎用
    地域は、中国地方、安芸から美作
    特記は、元は阿蘇神社の神紋、菊地氏より発祥

    6 ・蔦、・丸に蔦
    由来は、蔦の紅葉・唐草文様に擬似させて図案化(装飾紋)
    使用氏は、松平氏一門の代表家紋(高安、富田、椎名)
    時代は、江戸中期(享保・吉宗)
    地域は、松平氏(代表家紋)11氏の領国(三木、石川、形原、大岡、仁科、山本、志賀等)
    特記は、吉宗がこれを家紋化し高安家の家紋と成り一族に広がる。

    7 ・木瓜、・丸に木瓜
    由来は、御簾の布衿の帽額の文様が図案化、中国官服の文様(装飾紋)
    使用氏は、徳大寺氏の家紋で、越前朝倉氏、織田氏、関口氏、平賀氏、野村氏、竹内氏、岸氏等
    時代は、平安後期から室町初期
    地域は、尾張から遠江地域
    特記は、文様は古いが家紋化は1155年頃である。家紋中央に支流紋を入れた大変多い家紋群である。

    8 ・片喰、・丸に片喰、剣片喰
    由来は、鳩酸草とも云う優雅な形から図案化(草植・植物紋)、車文様。
    使用氏は、代表は長曾我部氏、中沢氏、長谷川氏、等 剣片喰紋は酒井氏、
    時代は、平安末期−鎌倉時代末期、 室町期−江戸初期
    地域は、四国地方全域 安芸美作域、関東地方全域
    特記は、四国は讃岐籐氏、関東は藤原氏の勢力圏、四国は助任、安芸の氏 関東は大胡、上泉、の氏 (酒井氏は秀郷一門下総結城氏が永嶋氏に成る前の一時使っていた氏名でその末裔)

    9 ・三つ柏、・丸に三つ柏
    由来は、古来、柏に職を盛り食す。神聖視し瑞祥信仰の対象 神職の家紋(瑞祥紋・神紋)
    使用氏は、伊勢神宮久志本氏、熱田神宮千秋氏、宗像神宮宗像氏、吉田神社卜部氏、吉備津宮大守氏
    時代は、平安中期の紋様化し、家紋は平安末期から江戸初期
    地域は、大神宮域に存在、全国に分社、血縁関係で全国的
    特記は、神紋で血縁から数え切れない氏である。主な氏は山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏

    10 ・梅鉢、・丸に梅鉢
    由来は、梅の花の写実、図案化の2種 老梅から衣服や調度品の文様(神紋・瑞祥紋)
    使用氏は、菅原氏系 代表は松任氏、筒井氏、平氏、斎藤氏、佐々木氏、前田氏、堀氏
    時代は、奈良時代から平安末期の文様から、家紋は室町全期
    地域は、菅原大社と、藤原氏の春日大社域にも比較的に存在する 畿内から中部西域に分布
    特記は、菅原道真系の末孫氏を中心として各地に分布、江戸時代に大名移動で地域外の氏もある。

    11 ・五三の桐
    由来は、桐の葉と花を形象化 聖王の出現で現れる瑞鳥の鳳凰止まる嘉木(瑞祥紋)
    使用氏は、特定できない。(特記)
    時代は、平安時代の天皇家の象徴紋から鎌倉時代 江戸初期前後と明治期に庶民
    地域は、特定できない。
    特記は、元は天皇家の象徴紋で足利尊氏、豊臣秀吉が使用許される。しかし、豊臣家は大名に下賜し、大名は家臣に下賜し、遂には出兵に出た農民にも使用を無秩序に許可した。時代を通じて3度も禁令を発したが護られなかった。庶民の使える家紋と成る。

    12 ・揚羽蝶、・丸に揚羽蝶
    由来は、鎧兜、車、調度品の文様を図案化(尚武紋・象徴紋)
    使用氏は、京平家(桓武平氏:六波羅党が車文様に使用した) 
    時代は、平安末期に文様化 江戸初期前後に家紋化(末裔が京平氏の家紋化)
    地域は大隈、中国地方、関西地方より西、四国地方、其の他は未勘平氏
    特記は、本来、京平氏の正式家紋ではない。池田家の家紋(車紋の象徴紋で末裔が家紋化した)

    13 ・九曜、・丸に九曜
    由来は、星辰信仰の対象で北斗七星の方角と時間の指針 (天象紋)
    使用氏は、細川氏 佐竹氏など(北九州の豪族)
    時代は、室町時代
    地域は、西中国地方から北九州地方
    特記は、九曜紋は細川氏系の10家紋がある。本家細川氏は細川九曜紋

    14 ・三つ星、・丸に三つ星
    由来は、妙見信仰から図案化(信仰紋)
    使用氏は、児島氏、毛利氏、吉川氏
    時代は、室町時代
    地域は、中国地方
    特記は、三つ星は将軍星と言われ好んで家紋化

    15 ・桔梗、・丸に桔梗
    由来は、桔梗の美麗な花を図案化 兜や薬効で出陣腹中にして戦勝したので後に家紋化(植物紋)
    使用氏は、土岐氏系一門(小柴、榊原、太田、遠山、恒岡、安藤)各氏
    時代は、平安時代の文様 室町期に家紋化
    地域は、中部地方
    特記は、着色文様では始めて 清和源氏支流

    16 ・武田菱、割り菱
    由来は、織文様で菱の形に類似(菱紋と唐花菱紋)、中国渡来の文様、(形象紋)
    使用氏は、武田氏系一門の代表家紋(武田菱6氏、割菱9氏、花菱5氏)20氏
    時代は、平安中期の文様 室町中期-江戸初期の家紋
    地域は、甲斐、北関東地方
    特記は、武田氏は武田菱(軍旗)と唐花菱紋(祭祀)を使い分。支流末孫が後に家紋群を広げた

    17 ・橘、・丸に橘
    由来は、橘の葉実の図案化 多遅間毛理が持参(垂仁天皇)「たじまの花」:「橘」 (植物紋)
    使用氏は、橘氏(葛城王:橘の諸兄)系一門 薬師寺氏、井伊氏
    時代は、平安時代初期の文様 平安末期の家紋
    地域は、畿内 江戸時代各地に分布
    特記は、皇族系で「源平籐橘」の4氏有名 藤原氏に潰され家紋嫌われる 

    18 ・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
    由来は、茗荷の花を図案化 「冥加」の同音で縁起  (植物紋)
    使用氏は、二宮氏系一門(伊勢の鳥羽氏、稲垣氏 近江の小沢氏、山下氏)
    時代は、室町初期(二宮氏)、江戸時代
    地域は、近江地方、伊勢地方(鳥羽、永嶋)
    特記は、天台宗の摩多羅神の神紋

    19 ・三階松、・丸に三階松、抱き若松、
    由来は、松の樹齢から慶賀、瑞祥の意味を持ち、調度器具に使用、松の形を図案化(瑞祥紋)
    使用氏は、讃岐籐氏系一門 讃岐の寒川、福家、飯田、新居、羽床氏、安芸-美作の松田氏
    時代は、平安時代の文様 江戸時代の前期の家紋化
    地域は、讃岐を中心とする四国地方
    特記は、この紋の氏は松、林を使った氏が多い、庶流の多い氏で20程度もある。

    20 ・菊水
    由来は、古来中国の菊と水の形象の瑞祥文様 延命の意がある 調度衣服の文様(瑞祥紋)
    使用氏は、楠木氏系一門の独占紋(和田、松村、内田、橋本、竹村氏)
    時代は、鎌倉初期の文様 南北朝時代の家紋化
    地域は、紀州九度山、三重、奈良地域
    特記は、楠木正成で有名

    21  釘抜き
    由来は、大工道具の「釘抜き」を図案化 後説では千金万金と九城を抜くの縁起の意 (形象紋)
    使用氏は、松平大給氏、長谷川氏支流(下川辺氏等)
    時代は、室町末期
    地域は、近江地方、関東下総の葛飾、駿河小川
    特記は、多説 (職能紋の説、宇多源氏滋賀佐々木氏の一門説、長谷川氏支流説、松平大給氏説)

    22 ・丸に根笹
    由来は、歳寒三友(松竹梅)桐鳳凰の文様から独立 家具や調度品の文様 公家紋(瑞祥紋)
    使用氏は、仁木氏、桜井氏
    時代は、平安末期の文様 鎌倉時代の家紋化 江戸時代の家紋
    地域は、上総下総地方 広くは関東地方
    特記は、公家が文様を多く使用し象徴紋とした。後に、家紋化

    23  立ち葵
    由来は、葉を図案化 加茂神社の神紋 信仰的意義がある。(神紋:権威紋)
    使用氏は、丹波国の神社氏子の西田氏が使用、神社神官(松平、本多氏)が家紋 徳川氏系
    時代は、平安-鎌倉の文様 室町期に家紋化
    地域は、丹波ー三河地域に分布
    特記は、善光寺の寺紋 葵紋の禁令で分布せず、松平氏系の一代限の平井、山田氏等が使用した

    24 ・丸に違い矢
    由来は、武勇を表す矢を家紋化 (形象紋)
    使用氏は、松平深溝氏系一門 矢の着く姓で武家紋として扱われた
    時代は、江戸初期
    地域は、中部地方-西関東地方
    特記は、矢紋では家紋名も明らかでない物が多く一定せず。

    25  丸に六つ矢車
    由来は、武勇を表す矢を家紋化 (形象紋)
    使用氏は、不詳(荒川氏)
    時代は、江戸中期
    地域は、関東地方
    特記は、小氏で主に荒川支流域に分布

    26 ・丸に隅立て四つ目、隅切り角に四つ目、丸に三つ目
    由来は、染物文様の図案化 衣服直垂の文様 
    使用氏は、佐々木氏(椎名氏含む)系の支流(高山、幸田、馬場、鍋島、千田、小島氏)
    地域は、近江、滋賀地方
    時代は、平安末期鎌期に紋様 室町期に家紋化
    特記は、4つ目は近江、滋賀皇族賜姓族一門、三つ目(磯部、由井氏)等の支流一族が使用

    27  抱き柊、蔓柊
    由来は、古代この柊木で矛を作った 後に悪魔退散の意味になった (植物紋)
    使用氏は、関東7党の丹治氏系一門の大関一門(末裔 山本、林、早川氏)
    地域は、関東地方
    時代は、平安末期の文様 江戸中期の家紋
    特記は、柊明神の氏で家紋化した(大名 下野黒羽藩大関氏)

    28 ・扇、・丸に扇
    由来は、末広の縁起から図案化 (形象紋)
    使用氏は、佐竹氏、大蔵氏系 (松平深溝氏系庶流)
    地域は、北九州地方(筑後、豊後、豊前)
    時代は、江戸初期
    特記は、使用氏の庶流は副紋使用している。

    29 ・立ち沢瀉、・丸に立ち沢瀉
    由来は、水辺の白い花を尚美的図案化 兜、直垂、車の文様に使用し家紋化(装飾紋)
    使用氏は、越中椎名氏、酒井、土井、水野、奥平、堀氏の徳川氏の重臣とその庶流
    地域は、主に三河、尾張地域、一部に豊後地域
    時代は、平安末期の文様 江戸初期に家紋化
    特記は、この地方によく沢瀉草が繁殖自生、

    30 ・牡丹
    由来は、中国で富貴な象徴で、衣服と車の文様 観賞用薬用花 (象徴紋)
    使用氏は、近衛家、九条家、鷹司氏、難波氏系の一門(公家)の家紋
    地域は、京都 畿内地方 特記各大名の地域
    時代は、平安中期の文様 江戸初期の家紋化 
    特記は、武士では縁戚により伊達、島津、鍋島、本間氏 

    31 ・丸に三つ鱗
    由来は、織文様から図案化 (装飾紋)
    使用氏は、北条氏の代表家紋 平野氏、江間氏、岡野氏 前北条氏と後北条氏の末裔
    地域は、小田原、鎌倉、駿河、遠江の坂東地域
    時代は、平安末期の文様 鎌倉時代に家紋化
    特記は、戦国時代に衰退 家紋(末裔隆盛なし)少ない。(一族紋は25)

    32  立ち梶の葉、隅入り角に梶の葉
    由来は、古代、梶は和紙の原料、諏訪社の神紋 ご幣に使用した (神紋)
    使用氏は、諏訪氏系一門、下条氏、山辺氏、西牧氏 保科氏 保科氏 松浦氏 有賀氏 安部氏
    地域は、信濃地方(諏訪) 会津地方 高嶋地方 平戸地方
    時代は、平安時代末期の文様 室町末期の家紋化
    特記は、隅入り角に梶の葉は向山氏 信長の追討で諏訪氏逃亡先に定住して末裔広げた

    33 ・丸に二つ引き、丸に一つ引き、丸に三つ引き
    由来は、軍旗の横に5段の布を色染め分けて着け大将の所在を示した。図案化(形象紋)
    使用氏は、足利氏一門 新田氏、今川氏
    地域は、信濃地方
    時代は、室町期初期
    特記は、足利幕府一門とその豪族名家の幕臣が使用した。一族は添え紋方式を採っている。

    34  三つ銀杏、二重亀甲に三つ銀杏
    由来は、銀杏の葉を図案化した 銀杏は長寿命樹 公孫樹とされ形象の美から家紋化した(植物紋)
    使用氏は、西郡氏 大石氏、大柴氏、長谷部氏、大柴氏、大岡氏
    地域は、中国地方から関東地方
    時代は、平安末期の文様 江戸初期の家紋化
    特記は、関西以西の氏では土方氏、水島氏、坪内氏、間部氏がある。

    35  隅切り角
    由来は、衣服、調度品、建築物の文様 正方形を変形させ図案化 (図形紋:職能紋)
    使用氏は、不詳、不定
    地域は、不詳、不定
    時代は、平安末期の文様 不定(江戸時代の中期)職能紋として発展
    特記は、職能(匠)による伝統継承の証として青木氏を与え家紋とを継承した

    36  枡、丸に隅立て升
    由来は、穀物を計る枡の図案化 (34の角紋と同様)(図形紋:職能)
    使用氏は、不詳 不定
    地域は、不詳 不定
    時代は、不定(江戸時代中期)職能紋として発展
    特記は、職能(匠)による伝統継承の証として青木氏を与え家紋とを継承した

    37  五瓜に違い鷹
    由来は、中国の官服の文様 木瓜紋に唐花が基本 (植物紋)
    使用氏は、渋江氏(浅野一門との血縁族)
    地域は、中国地方
    時代は、平安中期の文様 江戸時代中期の家紋化
    特記は、横木瓜を基本 木瓜紋の変形紋4-8の一つ 五瓜の中央に血縁紋の鷹の羽入り

    38  丸に青の角の字
    由来は、字を角紋様化したもの  (図形紋:職能紋)
    使用氏は、不詳 不定
    地域は、不詳 不定
    時代は、不定(江戸時代中期)職能紋として発展
    特記は、職能(匠)による伝統継承の証として氏(青木氏)を与え家紋とを継承した

    39  くつわ
    由来は、馬の口輪「くつわ」を図案化 (形象紋)
    使用氏は、不定 馬廻氏、馬場氏、大島氏 大草氏、馬上氏
    地域は、不詳 不定
    時代は、不詳(江戸時代−明治初期) 大名の馬周りの職能を引き受けた職人群の家紋化
    特記は、職能紋は農民では馬字を着く姓に集中 武士では馬役人(大草氏)家紋
     
    以上青木氏に関する家紋情報である

    (注)家紋は代表家紋を表す。又、第3青木氏以外に家紋、ルーツなど確認出来ない藤原秀郷一門と観られる未勘青木氏が九州北西部、北陸地方の数地方に村を形成して存在する。


      [No.190] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−藤原秀郷流青木氏の家紋類−2/10
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:33:01  
    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−藤原秀郷流青木氏の家紋類−2/10 (画像サイズ: 210×210 12kB)

    Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−藤原秀郷流青木氏の家紋類−2/10
    副管理人さん 2008/08/20 (水) 09:25
    史料2


    綜紋 下がり藤紋

    藤原秀郷流青木氏116氏(120)の家紋類

    (以下第3の青木氏の家紋、及び、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の家紋類含む)
    (詳細説明は家紋掲示板か「青木氏と血縁族」(家紋)のレポート参照)
    (各青木氏の家紋類は重複し合計121紋:不明紋含ず)
    (・印 家紋200選 59/121 49%)

    1 ・笹竜胆
    2 ・下がり藤、・上り藤、・加藤藤、上り藤上一、対四つ藤
    3 ・州浜、・丸に州浜、三つ盛り州浜、丸に三つ盛り州浜、三つ盛り陰州浜、五瓜に州浜、下り藤に州浜、
    4 ・抱き角、・丸に抱き角、四つ又抱き角、隅切りに抱き角
    5 ・違い鷹の羽、・丸に違い鷹の羽、並び鷹の羽
    6 ・蔦、・丸に蔦、陰蔦、丸に陰蔦、鬼蔦、隅切り角に蔦、八角に蔦、二重瓜に蔦、五瓜に蔦
    7 ・木瓜、・丸に木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、糸輪に陰木瓜、五つ木瓜
    8 ・片喰、・丸に片喰、・剣片喰、・丸に剣片喰、隅入り平角に片喰、子持ち亀甲剣片喰、五瓜に片喰
    9 ・三つ柏、・丸に三つ柏、・牧野柏、・丸に蔓柏、・違い柏、二つ葉蔦柏
    10 ・梅鉢、・丸に梅鉢、加賀梅鉢
    11 ・五三の桐
    12 ・揚羽蝶、・丸に揚羽蝶
    13 ・九曜、・丸に九曜
    14 ・三つ星、・丸に三つ星、亀甲に三つ星、扇に三つ星
    三つ星一つ引き、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、八角に木瓜に二つ引き、五瓜に丸に三つ引き
    15 ・桔梗、・丸に桔梗、
    16 ・武田菱、割り菱、・三階菱、・丸に三階菱、抱き茗荷菱、丸に一つ目菱、・剣花菱、・丸に剣花菱、松皮菱、四方瓜に重ね菱、・丸に花菱
    17 ・橘、・丸に橘
    18 ・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
    19 ・三階松、・丸に三階松、抱き若松、
    20 ・菊水
    21  釘抜き
    22 ・丸に根笹、・九枚笹、3枚笹、二階根笹
    23  立ち葵
    24 ・丸に違い矢
    25  丸に六つ矢車
    26 ・丸に隅立て四つ目、隅切り角に四つ目、丸に三つ目
    27  抱き柊、蔓柊
    28 ・扇、・丸に扇、違い扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・並び扇、・丸に並び扇、隅切り角に扇
    29 ・立ち沢瀉、・丸に立ち沢瀉、花沢瀉、・抱き沢瀉
    30  牡丹
    31 ・丸に三つ鱗
    32  隅入り角に梶の葉、立ち梶の葉
    33  三つ銀杏、二重亀甲に三つ銀杏
    34  隅切り角
    35  枡、丸に隅立て升
    36  五瓜に違い鷹
    37  丸に青の角の字
    38  くつわ

    以上38分類の121の家紋がある。
    (家紋掲示板は33文様 5紋様は削除)

    青木氏の家紋類と「家紋200選」に関する考察
    (「家紋200選」は1/10の史料1参照)

    青木氏の家紋類の全体の50%は「家紋200選」にある。
    青木氏にに拘らず他の主要4氏もほぼ同じ程度である。

    この事は青木氏が先ず大変隆盛を極めて子孫を大きく遺した氏である事が云える。
    普通の氏では10%程度である事から観ると、格段の違いである。
    これは「氏家制度」の血縁の慣習が原因していると見られる。
    つまり、血縁の家柄身分の慣習の「吊りあい」を前提としていた過去の社会慣習が左右していたと観られる。
    この慣習は昭和20年前の社会慣習では血縁と言う事では未だ多く遺された慣習であった。
    この青木氏の家紋類の多くは藤原秀郷流青木氏(70%:200選で35%)の比率となるが、その内容は「家紋200選」の中でも全て大豪族が血縁相手である。
    又、護衛と云う役目柄として大豪族と血縁する事でよりその任務が果たせるからに他ならないのである。この様に偏るのはあくまでも戦略的血縁(政略血縁)であり、決して恋愛的血縁ではない。
    現在では、華々しく恋愛的血縁であるが、当時の氏家制度の中では「吊りあい」の家柄身分の範疇で行われる政略血縁である。

    特に秀郷一門の「第2の宗家」と目される青木氏に関しては、一門(氏)が生き残るための条件を優先されるものがより他の4氏より強かったし、要求されたと観られる。
    だから、この様な「数と質」の血縁族との内容と成っている。(これ等は本文で説明)
    その「数と質」の血縁には特長があり、青木氏121の家紋から「第3の青木氏」の家紋6氏を除くと先ず全て本家との血縁をし続いて分家、分流、分派の血縁を行っている。
    これは採りも直さず、固めに固めていると言う事が観える。これだけ固めれば崩れることはなく一族挙って離反する事はなくなるだろう。これは青木氏本家と血縁先本家がその一族をまとめる事が出来る戦略そのものである。

    当時は、未だ群雄割拠の時代で、隙を見せれば潰される時代であり、青木氏の護衛の如何では藤原秀郷宗家の任務が果たせず、家の面子に関わる事でもある。
    この時代では理想的な言い分は通らない。実績のみである。この意味からして護衛と云う役目は宗家=青木家である。だから、宗家から跡目を入れて、身内で確固たる体制を築き、下記にも出て来るが、護衛で足利の騒動を守り抜いた「藤姓の足利殿」と呼ばれる事になるのである。
    (秀郷総宗本家は「平将門の乱」で武力を持たない貴族になった)

    地理的に観ても、その青木氏血縁相手の家紋の氏が、藤原秀郷一門の赴任地にほぼ一致するし、5家の賜姓族の土地柄に一致する。この意味するところは、藤原秀郷一門が戦略的に勢力を高め確固たる基盤を築こうとする「大戦略」に他ならない。
    つまり、藤原氏北家が最大勢力を築き、それを背景として政治を主導したのは、この事が大きく影響している。青木氏は秀郷宗家の赴任地に護衛役として同行し、そこで宗家と共に、上記の戦略を展開した主役である事を意味する。
    この事は永嶋氏を始めとする主要5氏の7/10−10/10の本シリーズのレポートでも記述するが、藤原秀郷宗家と同格に扱われていて、他の4氏と較べて「第3子の家法」に基づき「青木氏の跡目」も殆ど宗家から入れているくらいである。

    「第2の宗家」と当時は見なされていて、書籍では実力者「藤姓の足利殿」と呼ばれていた。
    この時期は足利に着任した秀郷7代目の成行の孫の宗家有綱七郎(二郎:秀郷10代目)から跡目を青木氏に入れて、足利に有綱が着任、その跡目を受けた青木氏が護衛役に着いた。実質の実力者である。実質は「足利殿」とは「青木氏」である。この表現は青木氏も宗家と見なされていたことを意味する。「流」から観ても子供であるのでそう云うに呼ばれるであろう。

    その後、宗家本流の有綱流より跡目が入り続け、更に有綱より8代目の行久(第2子)まで跡目は続いている。この青木行久が2代目千国から続いた直系青木氏を引き継いだのである。
    更に、宗家本流の佐野氏流と同系となり その後、総宗本家以外の本流佐野氏からも跡目が入り青木氏が繋がり、これより青木氏は兼光流の佐野氏を含む秀郷宗家一門筋から第1子を除いて第2子から第7子までの形で跡目は続いているのである。
    本論で記述するが、秀郷流とは異なる流の利仁流からも青木氏の跡目が入っている。

    これは青木氏の直流の一つに入れたものであり、利仁流の流を組む直流青木氏が引き継がれて行くのである。
    当然、直系青木氏からも直流青木氏へ跡目を入れているのであるが、この様にして青木氏は維持され且つ、主要9氏116氏の青木氏が拡大して行くのである。このことは本論で詳しく考察する。


    「第3の青木氏」についても、完全にこの氏の掌握は困難であるが、この青木氏(下記:30氏程度)にある氏は藤原一門と賜姓族の青木氏のほぼ勢力圏内での発祥紋と成っている。
    つまり、この史料外の史料とも合わせて観ると「第3の青木氏」は、赴任地24地方の域周囲に居た者が他の二つの青木氏に習って名乗った事をこの史料で裏付けられる。
    その時期は、家紋の出てきた時期から観て、第1期の室町末期、第2期の江戸初期、第3期の明治初期の内、この青木氏の家紋類から観ると、藤原秀郷一門が鎌倉幕府樹立で失職離散した時より以後の主に御家人、旗本等の発祥期の第2期の江戸初期が主になるであろう。

    皇族賜姓青木氏5家5流と24氏(史料3/10)にと、藤原秀郷流青木氏の主要9氏116氏との家紋が24家紋で重複する。そして、それは、藤原秀郷流青木氏116氏の中に全て25家紋(笹竜胆紋含む)は存在する。
    秀郷宗家が引き継ぐ綜紋「下がり藤紋」が、秀郷の青木氏宗家にも「下がり藤紋」を確認出来る。
    これは秀郷宗家と同じく青木氏宗家でも「第2の宗家」の維持を固くしている事を意味する。

    賜姓族の青木氏(信濃青木氏)の笹竜胆紋も重複していることは、秀郷一門の青木氏に跡目を入れていてる事を示すものである。つまり、藤姓の足利の青木氏(下がり藤紋)と相互に跡目血縁し2つの青木氏で何れも男系不継承で秀郷青木氏の方で家紋が笹竜胆、賜姓青木氏の方で下がり藤紋と成った事を意味する。

    その重複25家紋に付いては全て「家紋200選」にあり、その「家紋200選」の中でも主要氏の家紋類である。
    この青木氏の家紋には、「第3の青木氏」の職能紋(職能の高い伝統を護るために匠と成った者に与えた氏)が2つ含む。主な職能外の「第3の青木氏」は4つ含み合わせて6家紋が含んでいる。

    この「第3の青木氏(家紋6)」は、藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓族青木氏の家紋116氏(家紋は重複)に対して、上記の「地理性」から観て同じ程度の家紋の数(下記:MIN30-MAX35)の氏があると見られる。
    (秀郷一門20地方と皇族賜姓9地方:未勘と重複含ます゜:発祥していない地域もある)
    発祥した「家紋と氏」では地理的には30(25-35)程度だが、第3期の明治期では村全体が突然に集団で名乗った事や、未勘の氏もいれて、第1期と2期では個別で名乗った氏が多かった。
    この事から、個別の家紋化をして名乗りをした史実を考えると、(期間-氏-地方)の関係では、明治期を限界として(1125年-116氏:30地方=370年:?氏:30地方)の相対式の計算では?氏=38と成る。
    相対式から観ても35(BIAS 3)氏(繁殖と死滅は同等とする)の「第3の青木氏」が存在すると考えられる。(地理的30:相対的35 結論30−35氏)
    この結果、2つの結果を考慮すると、全ての青木氏は155−160の氏と家紋と成るであろう。

    現在の全青木氏の人口を考察推定する。
    全青木氏の数値を使うと、MIN95万-MAX100万(計算 155・5の5乗:家族5・5代=夜叉孫)と成る。これは概して日本の人口の1/120と成る。
    家紋数8000として観ると、多い氏と成ろうし、ave50家紋<200で「家紋200選」から観ても主要家紋の氏と成る。


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