青木氏氏 研究室
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  • 福管理人[副管理人]より -
    青木氏には未だ埋もれた大変多くの歴史的史実があります。これを掘り起こし、研究し、「ご先祖の生き様」を網羅させたいと思います。
    そして、それを我等の子孫の「未来の青木氏」にその史実の遺産を遺そうと考えます。
    現代医学の遺伝学でも証明されている様に、「現在の自分」は「過去の自分」であり、子孫は「未来の自分」であります。
    つまり、「歴史の史実」を求めることは埋もれた「過去、現在、未来」3世の「自分を見つめる事」に成ります。
    その簡単な行為が、「先祖に対する尊厳」と強いては「自分への尊厳」と成ります。
    この「二つの尊厳」は「青木氏の伝統」と成り、「日本人の心の伝統」に繋がります。
    この意味から、青木氏に関する数少ない史料を探求して、その研究結果をこの「青木氏氏 研究室」で「全国の青木さん」に提供したいと考えています。
    そして、それを更に個々の青木さんの「ルーツ探求」の基史料としたいと考え、「青木ルーツ掲示板」を設けています。
    どうぞ全国の青木さん、その他ルーツ、歴史に興味がある方、お気軽に青木ルーツ掲示板までお便りください。お待ちしております。

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      [No.295] Re: 中国の新幹線脱線事故(潜在的欠陥)−2
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/22(Sat) 10:26:50  

    > [No.788] 中国の新幹線脱線事故(潜在的欠陥)
    > 投稿者:福管理人 投稿日:2011/07/31(Sun) 16:37:32
    >
    >
    > 中国列車事故に関してレポート
    > 福管理人
    > 2011/07/28 13:59 - パソコン
    >   中国の新幹線脱線事故
    > (潜在的欠陥)

    「研究課題」
    戦後から始まった新たな日本の成長は中国の「石は薬」「法より人」の思考規準と異なり「雑種の優秀性」を基に「研究開発」から始まった「物造り」であります。
    当初戦後10年程度は「安かろう 悪かろう」でありましたが「模倣」をベースにしてはいなかったのです。。
    「模倣」の裏には必ず「研究」が伴なっていたのです。ここが中国と異なる処です。
    それは、日本の「国民性」が大きく働いたこの金属の「質的変化と機械的な処置の探求」(2つのノウハウ)であり、「3つの問題点」(「3つの新たな研究課題」)を解決する事に動いた結果であり、本論を理解する上ではその認識が必要であります。
    これ等の「研究開発の積み重ね」の結果で掴んだ「最先端の総合的技術力の駆使」が必要であったのです。
    この開発経緯は、丁度戦後20年後から始まったものでその5年後には何と成功しているのです。
    戦後の「安かろう 悪かろう」の時代が10年間で、残りの10年間は「自国製」の開発研究段階に入っていた事に成ります。
    ブレーキに関してはアメリカのベンディクスがトップメーカーでありましたが、戦後25年後には早くもベンディクスを追い越して日本のメーカーの方が品質的に優れていた事に成ります。
    この時期20年後に高難易度の新幹線ブレーキの開発に入っていた事に成るのです。
    当時はブレーキ部品に使う鉄鋼板には特殊金属を組み込んだ規格品は未だ少なく、新幹線ブレーキに耐えられる上記に記する規格品は無かったのです。

    この高度な研究開発は列車のみならず自動車や他の高精度の生産機器などにも使える研究開発だっただけに「新幹線」の国家プロジェクトとして鉄鋼メーカの積極的な協力を得て進め成功裏に納めたのです。
    これ以後、この研究成果は専用鋼板として準規格化され、後半には順次細分化されて規格化されましたが、この開発の効果は瞬く間に他の産業にも広がりを見せこの開発の特長を生かした日本の高精度の高能力の製品が生み出されて行きました。
    (開発技術とその加工技術)
    中国は現在 ”どの鋼板をどの様に使えば良いか”の上記した専門的技術が無い為に規格品の選定の判断までにも至っていないのが現状では無いかと判断されます。
    選定できれば専用鋼板としてだけは日本から輸入で入手する事が可能です。しかし、現実に適切な鋼板を選べばそれで済む簡単な話ではありません。
    この鋼板を加工する技術(プレス技術や熱処理技術や生産加工技術)等のノウハウは中国にはありません。
    そもそも特殊金属が含有する鋼板は普通の加工技術では難易度が高く「加工ノウハウ」も大きく伴なうのです。
    概して云うと、含有する上記した特殊金属は加工する刃物先よりそれ以上の硬さや強靭性を有しているか、或いは同じ程度の硬さ程度である為に加工の刃物先が耐えられないのです。まともな品質では加工出来ないのです。(全ての刃物先にはこの同じ特殊金属の「タングステン」が焼き付けられている)
    依って、研究は次ぎに刃先角度や加工速度や加工温度を研究して見つけ出して、量産できるものに開発したのです。この開発にはトップ技術を駆使したのです。
    又、難加工の精度を上げるにはそれを0.01ミクロンまで測定出来て、且つ、加工面の画像解析出来る超高度の「三次元測定機」を使い加工面を画像にして解析して特長のある部分を特定し修正する技術も必要とするのです。
    この「三次元測定機」は日本の独断場で、よく違反問題になっている物で「貿易管理令」に触れて共産国は入手出来無いのです。
    鋼板を選定でき輸入する事が出来ても、この多くの「加工ノウハウ」はブレーキメーカー側のノウハウですので入手する事は不可能です。つまり「中国の戦略方式」では要するに不可能なのです。
    依って、知らない人や庶民を相手に虚勢発言を張っていますが、厳密に云えば「中国製のアセンブリー列車」の域を越えないのです。
    手芸品等の類似品や模倣品を作る事が出来ても、工業品を越えない範囲では類似品や模倣品は中国では未だ不可能なのです。まして、「高速化や寒冷地」などの難易度の高いものは「技術ノウハウ」と「加工ノウハウ」の2つのノウハウから類似品や模倣品は無理であります。

    重要参考 此処には「加工ノウハウ」等の上記「2つのノウハウ」とは別に、決定的な冶金技術のもう一つの無理があるのです。
    それは自動車(高速列車等にも)に使用する鋼板は「自動車専用薄板鋼板」(ラミネーション)と云って世界の自動車に使用されていますが、この「ラミネーション」は日本の独断場で外国では現在でも造れないのです。
    それは精錬過程で鋼板を圧延で薄くすると、鋼板の板圧の中央部分に「不純物の帯」即ち「バンドストラクチャー」と呼ばれる「ゴースト」現象が必ず出来るのです。
    それは鋼板に含まれる極少ない分散した不純物や攪拌され難かった炭素やイオウやリンやシリコンが薄板にする為に圧延しますが、この圧延の振動エネルギー(リミングアクション)で板圧の中央部に帯状と成って必ず集まる現象なのです。
    日本の自動車の発達や高精度の精密機器や列車の高速化等の必要性に迫られて苦労して同時に他のプロジェクトがこれを解決したのです。
    普通の材料として使う分には問題はありませんが、上記した本論の「高速化や寒冷地」などの仕様では破壊に繋がる振動や加速度のエネルギーが大きい為に影響してしまうのです。
    これが存在するとこの破壊エネルギーが欠陥となって働き始め、突然に自動車の鋼板が2枚に「剥離分解」して破壊したり、部分的に起こる「局所疲労破壊」に繋がる亀裂が多数発生するのです。
    (当然に高速列車でも使用されているので起こる)
    特には箱型の車体などでは別として、プレス加工の多い「流線型の形状」の自動車などに現れて「高速化や寒冷地」では大事故に成ります。(曲げたり絞ったりしたコーナー部分に出現する)
    この欠陥を解決したのが世界に冠たる日本の冶金技術なのです。
    このゴースト現象は精錬中に炭酸ガスなどを入れて溶融した金属の攪拌を行うのですが、この攪拌不良が主な原因で中にある炭素との反応で連動して起こります。大変に難しい精錬技術です。
    外国鋼板では自動車や高速列車に使用する薄板のものにはこの欠陥の無い鋼板を作り出す事が必要があるのですが、今だ難しくて出来ないのです。(日本製を使っている)
    一部では自動車や高速列車の「車体内部の鋼板」にもプレス加工して利用されています。
    ブレーキ部品も車体内部にも使用されている事で、もし欠陥と成って出た場合にはブレーキ部品にもその影響が出てくることにも成りますので、車体や外板にもこの日本のラミネーションを使う以外には本来はないのです。しかし、中国のものはこれを使っているかは技術知識が無い為に疑問であります。

    情報によれば”車体に「大きな振動」と共に「大きな亀裂」が発生した”と伝えられていますので、上記したブレーキ制動の欠陥が露出して起こったと考えますが、このラミネーションを使わなかった事から起こっていることも考えられます。兎角起こりがちな現象ですが、両方が「競合欠陥」を引き起こしたかも知れません。(破面工学で判定が出来る)

    (「2つのノウハウ」)
    この参考例でも、これで「日本の技術力」がどれほどのものであるか判り、逆に「中国の虚勢の発言」の意味合いがどの程度の虚勢かがよく判ります。
    勿論、中国の基礎技術力の無さの程度もこの発言や情報からも判るものです。
    これは日本の冶金金属工学の優れている程度の証とも成ります。
    これは決して「技術ノウハウ」のみならず日本の「加工ノウハウ」も同時解決して「高速化の列車ブレーキ制動」は始めて可能に成るのです。この「2つのノウハウ」は連動しているのです。
    兎角、「技術ノウハウ」だけで論じられている様ですが、中国が模倣するとしても「2つのノウハウ」を解決しなければ物にはならないのです。中国の事毎くの「模倣の失敗」は此処に原因があるのです。
    「2つのノウハウ」が絡む高速列車やジェットや自動車の様な高度なものには基礎力の無いままに簡単な期間や設備では元々が無理なのです。
    ”普通列車の延長が高速列車である”とする認識はそもそも間違いなのです。
    ここには論じている高い「2つのノウハウ」の溝が厳然として存在しているのです。
    高速列車は同じではなく別物なのです。
    高速列車は「レール」と「莫大な重量物」によって比較にならない「莫大な加速度」が働くからなのです。
    この加速度は”重量に対して2乗に比例する”のです。例えば50Kの物が加速度が働くと2500Kのダメージを受ける計算に成ります。

    列車の車体重量を考えてください。これに高速が働きますので、考えられないエネルギーであり、このエネルギーが悪い方向に働けば「一点のミスや欠点」も「時間の間隔」なしに瞬時に「拡大破壊」を起す要素を持っているのです。「破壊」ではない「爆発」に近いと云えるでしょう。
    ですから上記した金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいると破壊・爆発に成ってしまうのです。
    高速300K/Hは本当は怖いのです。
    日本は「怖い」は「品質の良さ」に裏打ちされて安心して乗っています。中国は「怖い」は「知らない」で裏打ちされて安心して乗っています。これそのものが「潜在的国家欠陥」では。
    「知らない」「知らせない」は本来あるべき姿ではありません。中国は「知らない」「知らせない」は「品質の良さ」に特化させるべきです。
    この事無くして中国の高速新幹線はまた大事故を招きます。本論の危険性を悟ら無ければ今その上記した欠陥が進んで行く事になります

    そもそも自動車の場合は、普通であり高速であり一帯で一連化していますが、しかし、現実にはありませんが自動車もレールの上を走り連結すると同じ事が起こるのです。
    中国にはこの自動車の延長・普通列車の延長の認識にあったと考えられます。
    そこにこれまた「認識不足」の中国の「潜在的欠陥」が存在するのです。
    つまり、「国家戦略の政治ミス」(政治環境)が事故を誘発させているのです。

    「開発技術の姿勢と方針」
    これ等の認識の基に、正しい政治環境下の基で、これを解決する為に柔軟な発想と思考が確保されて、次のような学問的に「極めの発想と思考判断」での技術が確保されたのです。これは日本ならではの仕事なのです。(中国では現政治体制下では無理であり模倣も困難と成ります。)

    日本のブレーキは急速に速度が上がり停車位置のかなり直前で高速で制動しても停車ポイントに5ミリとずれないのです。良く効くと云う事なのです。約400度くらいに成りますのでどんな機械的なブレーキの取り付け構造にしてもこの温度には耐えられません。
    これを日本はこだまの初期の新幹線開発の時にこれを金属的に冶金学的に解決したのです。(開発経験)この「特殊金属」には夫々特徴を持っていてそれを如何に使いこなすか、先ずその特長を作り出す金属の結晶の組成形状をどの様にするかの研究と、中に入れる特長を持っている「特殊金属」の選定とその配合割合をどの様にするかの研究で、この400度と云う難しい難題を解決したのです。
    因みにとりわけこの温度域には低温脆性現象(ステッドブリットネス)と云う厄介な問題が発生するのです。
    金属が中に含まれる僅かな不純物(セグレゲーション)とP(リン)やS(イオウ)と結合してそれに依って脆く成ると云う温度域なのです。

    これ等は普通の発想では出て来ないものでありますし、それを実現しょうとする気力も芽生えない筈です。

    (300度以下では分子運動、結晶運動が低い為にその変化するエネルギーが無く起こらない)
    この状態のものにブレーキを掛けるとその「繰り返しの動作」で「脆性破壊」と「熱疲労破壊」が顕著に発生します。先ず機械的な取り付け方法とは別にこの必ず起こる欠点を上の2つの研究で克服する必要があるのです。)
    (未熟な操作技術で劣悪な線路状態では不定期振動とそれによる加熱現象が倍加する為にこの物理的な破壊現象は数倍と言う形で起こる危険性が潜んでいます。最終、破壊して”ブレーキが効かない”と云う現象と成ります。恐らくはこの極めて危険であるとする知識もないと考えられます。)

    「技術課題の難問と国民性」
    上記の”金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいる”とする「怖い事」を続けます。
    最大の難関はこの欠点と研究課題は相反する矛盾する特質を持っているのです。
    つまり対策を講ずれば反対のこの欠点が増幅するというジレンマにあるのです。
    普通で考えれば「絶対無理」の答えなのですが、その何れにも入らない中間のところを見つけると云う根気のいる研究開発です。
    どんな金属にも必ずこの特性域の中に「中間域」の発生する「小さい域」(ポケットゾーン)を持っています。上記した「スパークーリング現象」の2ポイントと共にこれを見つけ出す事なのです。恐らくは共に自然現象の為に同じ「小さい領域」付近に出て来る事に成ります。
    これは日本人ならではの根気の要る研究です。脆くなれば逆にブレーキどころの話でなくなりますから、欧米は合理的思考が強いので危険性から観て”この領域に入らない方がベストだ”とする考えに到達するのです。納得出来るし一理はあります。
    要は上記した様にブレーキ制動の限界に立ち居るか否かの問題です。
    しかし、これは上記した中国人の国民性と異なる日本人のかなしきかな国民性のさが(性)です。
    この性の違いで何から起こるかは「青木氏と神明社」の中で詳しく論じている事です。
    本来、「物造り」の技術とその精神は6世紀始め頃から6世紀中頃に掛けて後漢の漢民の阿多倍王等の技能集団がもたらしたものでありながら、今やその立場は逆転しているのです。
    「石は薬」「法より人」の思考規準とそれを構築した「民族性結合」の継続の所以がこの差と成って現れているのです。

    「開発の判断可否」
    現在はこのブレーキ制動は当初の新幹線はMAX250K/HであったものがMAX320K/Hに常時制動できる様になっていますから、更に超限界に挑戦して改善され、技術開発されて完全に確立して無事故の35年は経過していますが、まだ諸外国は高度な総合力の為にこれに全く追いついていません。
    ョーロッパ諸国では多分無理でその内に問題を起こすのではないかと考えていた節があります。
    しかし、限界のブレーキ制動と高速化の2つを連動させて成功したのです。
    と云うのも、この時フランスは高速化のギリギリのところの500のK/H試験走行を成功させたと発表したのです。もちろん、ブレーキは普通の制動力の範囲です。ですから、高速後100K/H程度にスピードを落としての山形方式の制動です。
    この事から考えると、むしろ35年の経過でも、この領域の高速化の制動技術を合理的な判断として採用しないとしている可能性も確かにあります。それ程に難題なのです。判断の分かれる技術開発だったのです。
    当然にその根拠は列車や自動車はブレーキ制動力が命ですから、高速になれば成るほどに危険は増します。しかし列車が”1時間程度遅れても何の問題もない、安全であれば問題なし”とするヨーロッパ系の国民性からすれば”そんなに急いで何処へ行く。 その間、速いのだから問題なし”と成るでしょう。
    これの探究心は「良悪の問題」、「優劣の問題」から離れた日本人の「融合単一民族」の「雑種の優秀性」とその「性」から起こる「国民性」から来ているものであります。「究極を求める性」であります。
    ヨーロッパ諸国の列車の運用については「判断の違い」であると観ていますが、では中国人は何れにある国民性なのでしょうか。それに依ってもこの「潜在的欠陥」がどのような形で顕著に出てくるかはこれから見るべき問題です。
    筆者はこれまでの史実に基づかない中国の虚勢と国威高揚の発言から観ても、又伝統の思考規準の「石は薬」「法より人」からしても「潜在的欠陥」に成るとみているのです。

    因みに韓国は日本人の全体の3割を占めている縁戚の民族ですから、儒教の宗教観は異なりますが、全体として酷似していますから、この「ノウハウ」を吸収する方式で克服したと見られます。
    中国も韓国と同じく「ノウハウの吸収と克服」は可能と観ているのでしょうか。観ていると考えます。
    そして、その時期を”この新幹線で出来た”と見ていてそこで一挙に喜び勇んで「虚勢」を張り世界に「鼓舞」した節があります。それが脆くも崩れたのです。”そんなに甘くは無かった”と反省しているのでは。
    今回の事故の原因の出し方で判断できます。
    「雷と信号」で逃げれば原因究明どころか対策もままならない立場にあることを知り、”韓国の様には行かない”と悟った事の発言と成ります。この「雷と信号」の根拠を明らかにしないままに終わると観られます。
    だとすると、中国はこれを機会に多くの上記する「有形無形の潜在的欠陥」を持って居る事に成りその事に気が着き始めたのかも知れません。
    しかし、「中国の国民性と政治体制とその体質」がどの様に作用するかが疑問です

    そもそも韓国は日本の三菱グループから「製造プラント輸出」して獲得したものでありますが、このブレーキは列車メーカーではなくブレーキメーカーの領域ですので、韓国始めとして中国には当然にこのノウハウは渡っていませんし、中国自身この間これほどに難しい総合技術力の把握と操作技術は専門的に観て開発とそのノウハウの取得は到底に無理と成ります。そもそも部品調達のアセンブリー生産しかないのです。
    これは高速列車を走らせるという事とを考えると、ブレーキと云う事からするとそれは恐ろしい事になり、特に日本の高速列車を走らせるという事は「潜在的な欠陥」と成り、「基礎的な技術力不足」と成り得ます。
    ヨーロッパの形式も別の意味ではそれなりにブレーキ制動域のノウハウもそれなりに難しいことに成ります。この異なる二つの技術の習得は専門的な立場から見ても短期間で成し得るものでは決してありません。

    「人為的操作の必然性」
    さて、そうするとこの様な「劣悪な未熟の環境」の中であるとすると、戻して事故を検証すると、本来前方を走るべき列車が後方を走る管理システムはどこから生まれたのかと言う疑問が生まれます。
    実はこれが上記するブレーキ制動力に起因しているのです。
    全くの制動力の精度の違う高速の列車を走らせると成ると、何処かの駅のポイントでその違いを吸収させる為に、混成の為にかなり複雑な「入れ違い」を列車管理上で「人為的」に頻繁に起させる必要性が起こります。
    混成であるが為に完成された追加管理ソフトが改良されて持っているとは考えらず、ヨーロッパ方式でもヨーロッパでは充分に出来ていないという現状を考えると、多くは中国人の「人為的な操作」に委ねている事である筈です。
    本来前に走るべき川崎重工の列車が前を高速で走ると後ろのカナダの制動力の悪い列車との間に大きな間隔が発生してしまい、列車管理システムに大きな「タイムラグ」が起こりすぎて、追突の危険で運用できません。
    そこで、この危険な間隔を解決させる為にある駅の手前で後続の列車がスピードを落として次ぎの駅に向かいます。後ろにした制動力のよい高速の川崎重工の列車をこの駅でやり過ごしますと管理は可能に成ります。
    (日本の在来線に特急列車が走ると普通列車は最寄の駅で停車して「やり過ごし」をします。ブレーキ制動力による走行の速度変化の差ですが大まかにはこれと同じです)
    前方にいた列車はより正しく早く次ぎの切り替え駅まで到達しておく必要が起こりますが、何らかの理由で(雷か人為操作ミス)低速40キロであったとしていますから追突の危険性は最大に成った事に成ります。
    この直前で事故が起こった事に成ります。恐らくこの時にブレーキ制動の限界を超える「未熟な操作」が重なっていた可能性があります。

    「混成システムの矛盾欠陥」
    ところが、更に問題が生まれます。ここでETCヨーロッパシステムは「制動力の悪い列車群」と「異なる形式の各国列車」を一定としてこれを前提としていますので、川崎重工の制動力のよい列車が介在する事はこの「やり過ごし」方式には矛盾が生じることに成ります。
    事故が起こったとして後方にブレーキをかけますが、後ろは制動力のよい川崎重工の列車です。管理システムで後方に制動をかけても最早間に合いません。その管理システムの速度管理では走っていないのですから。この矛盾を避けるべき手立てとしての其処に「やり過ごし」現象のポイントが差し掛かったのです。二重の矛盾点が重なるべきポイントと成ります。

    「雷、サージ対策の欠陥」
    更に、3重の自然災害がここに加わったのです。雷です。雷により停止する可能性もある為に前方を走るカナダの列車は制動力が悪いので速度を落とす事になってしまったのです。
    ところが後ろは制動力のよい川崎の列車ですので、然程に速度は落とさずに走っていた事に成りますのでより追突の危険性が余計に増したことなります。
    更に雷対策(サージ対策)も諸外国に比べて日本は段突に良く出来ていますので速度を落とさずに走らせます。ところが、ここでも技術力の差が出たのです。

    実は日本製の列車は「サージテスト」と云う大変厳しいテストを課せられているのです。
    気象変動の多い環境のために外国列車と段違いのテストを通過させなければ成りません。
    これに更にメーカー独自の「過酷テスト」(パーチェイステスト)が掛けられますので、まず、サージつまり雷では信号や制御に問題は起こらなくなっているのです。
    ”雷で事故が起こる事は考えられない”との日本側の関係者の発言は此処から来ています。
    相当なサージに対するノウハウなのです。先ず回路上のノウハウですから中国では真似は困難でしょう。
    ただその分CPU回路等を強くする為に安全回路を幾つもの回路ラインに組み込む事に成りますので値段が多少高く成ります。
    半導体の耐力アップや、コンデンサーCの追加と、抵抗Rと、電磁コアーやサージチップ等の組み込みを行います。
    ところがヨーロッパの列車と列車管理システムは平地の多い比較的環境の良い所を走りますので、サージテストには比較的緩いのです。
    サージテストでは普通の弱いサージ対策なら列車には管理CPUソフト基盤が入っていますのでこれがやられてしまう懸念があるのですが、ところがこれでは基盤そのものが壊れてしまいますので制御回路が無くなりそれこそ列車は暴走しますので大変な事に成ります。
    そのためにサージ対策は主にこの回路入口にセットして内部の回路の中に入らなくするように設計しますし、仮に入っても内部にもサージチップ等の対策を施して最悪の状態が起こらないように基本的な設計がなされます。故に内部までサージのカレントの電流が入る事は有りませんが、仮に中に入ると回路が壊される前に基盤そのものがサージの電流が強い為に焼けてしまいます。
    事故を起こったものを見れば一目瞭然で基盤を観ればすくに判ります。そもそも基盤がバーンアウトする事の事態がおかしいのですから、中国はそれを見せる事さえもしない筈です。
    サージ対策とは主な方法としては、カレント電流を上記のサージ対策部品で主に電磁コアーを通して熱に変えてしまう仕組みに成っています。要するに判りやすく説明すると電子レンジの原理と同じなのです。
    サージが鍋と考えればよい事に成ります。磁場の中に電流を含む異物が入ろうとするそれを拒む形で異物に誘導起電流が流れて熱に代わる原理です。
    雷は電流ですのでこれを熱に変えるか、途中でコンデンサーに溜めてしまうか、別の非難回路に流してしまうか3つの方法の何れかを採れば問題はなく成ります。
    この原理を回路の色々なポイントに問題が起こらないようにセットする事なのです。この3つの方法の使用は回路の内容に依っても異なります。

    ですから、そもそもサージに依って信号が赤から青になるなどの内部の回路の変化の問題ではないのです。
    先ずCPU回路の入り口の問題で厳しいサージであれば殆ど手前の電源回路でOFFさせる事に成ります。当然にこのサージ対策にも高度なノウハウが伴なっているのです。何故ならばサージ対策をする事に依って逆にその弊害(バグ)が起こるので、セットする場所やその部品の選択などの極めて高度な電気設計のノウハウが必要なのです。
    中国がこの高度のトップクラスの設計能力をもった技術者が先ずいないと考えられます。
    中国としても仮にこれが原因であったとしても何ともし難いことに成ります。
    サージテストする専用の高度なテスター設備が必要なのです。このテスターに基のプリント基板を覚えさせ対策した回路をセットすると其処に問題点が検出させそれを解析しながら進めて行くのです。そしてそのテストをする専門の試験環境室チャンバーが必要と成ります。
    中国にそれがあるかの問題ですし、そのチャンバーとテスターの専門メーカーは日本が独占的に段突なのです。
    (高速化は始めて間もない時期ですからこのサージテストの高度なチェックシステムとノウハウは無い筈です。)
    そもそも大抵は電磁コアーかサージチップで熱に変えられますので問題は起こる事はありません。
    日本の全てのものはこの国の規格テストに合格していますので全く考えられないのです。
    (参考 4K程度から14K程度の差 外国のものは確定は出来ませんが4−6K程度か 日本は8K−12K程度)

    雷の中で前方のカナダの列車は「横ハシリの雷」のこのかなりきついサージに耐えられなかったとも考えられますが、しかし、サージ説はこれ以外にも考え難い事があるのです。つまり仮に入り口で耐えられなかったとしたら、当然に前方のカナダ製列車のCPUと列車内の搭載管理システムのCPUが破壊された事が考えられるのですが、ところが、しかし、列車は避雷針を保持し、且つ電線と線路の両方に上下並行に避雷針に成り得る伝導体が走っている構造と成っていますので、元々ヨーロッパの管理システムの回路でも殆どカレントの過電流を抑える事が出来る構造に成っています。
    仮にカレント電流が流れても上記のサージに対するある程度の保護回路があればこれをブロックする事に成りますのでヨーロッパのものにしろ日本のATCのCPUは破壊しません。
    諸外国のものも線路と電線ケーブルと列車は元々耐えられる構造ですが、中国が勝手に変えてしまったとすると別問題で耐えられるかのきわどい危険性が高まります。
    ところが回路上の変更はプリント基板で出来ていますので回路変更はまず出来ないと考えます。
    変更するとなると、上記のサージテストを繰り返して変更によるバクの問題が出ないか調べなくては成りませんし、プリント基板の回路内部まで把握できるかの問題が出ます。
    量産システムでプリント基盤は造られ手作りではありませんので変更は先ず無理です。中国が部品調達していることから考えると回路変更は無理であります。
    先ず、変更が出来得るハード回路ではありませんので、先ずその基盤の設計者程度の技術者でなくては専門的に観て無理です。依って変更は先ずは無理と判断できます。

    この3重の技術的矛盾が引き起こした事故と成ります。
    サージにたいするソフトに組み込む高い技術力も到底中国には無いと考えられますので、恐らくは中国で出来る範囲としては色々なCPUとCPUの間をソフトに依って繋ぐ回路程度の基盤程度と成ります。
    これを「中継基盤」といいますがこの程度でしょう。
    恐らくは、この少なくとも前記2つの矛盾は各所に必然的に起こる筈です。避けられない必然性のあるシステムと成ります。
    少なくとも異なる制動力とスペックの川崎重工の列車が2つのメーカーの列車の中で走る限りに於いて起こる事に成ります。
    現在の混成列車を編成する選択を採った中国に於いてこの4つの矛盾を解決するほどの技術力は専門的に観て有り得ない事でありますので潜在的に持つ欠陥と成ります。
    ましてヨーロッパでも日本並のものが出来ていないのですから。
    結論的には対策は「混成の列車システム」である限りは無い事を意味します。
    日本を除いて世界の技術力ましてや中国に於いては「無い」と成ります。

    ですから、終局は「雷」に原因を押し付けて対策が出来ない欠陥列車システムであるので慌てて証拠隠滅のために「埋める」と云う行動に出てしまったのです。と云う事は自らその原因究明と対策立案の能力が無い事を暗に認めている事に成ります。しかし、かといって日本などにその協力を求める事は虚勢を張っている以上は求める事は立場上出来ない事を物語ります。
    まして証拠が出る事がこの「4つの潜在的欠陥」が露出する事に成り、外国のメーカーに「おんぶに抱っこ」の何も出来ない姿を露見させてしまいますので、虚勢を張っている手前それこそ中国にとっては「恥じの上塗り」の国難で有ります。
    技術問題の解決というよりは最早一連の経緯から政治的な問題としての重要度がましている事に成っています。日本とヨーロッパの力を借りない限り「原因追求と対策」をも出来ない立場にあることが判ります。

    「真因対策の解決策の検証」
    そこで、では、本気で解決しようとすれば、中国に方法が無いのかと言う事ですが、論理的には問題の優秀な川崎重工の列車をラインから外す事で解決する可能性があり、列車種を統一する事で論理的に危険率は低くなる筈です。
    ヨーロッパの列車管理システムの良悪の中で起こる事故の可能性の範囲で留まりますが、しかし、このヨーロッパ(EU)の混成式の列車管理システムはヨーロッパでは現実に不完全なシステムとして上記した様にまだ管理しきれない混成の欠点が出て現実にはあまり採用されていないのです。

    そこで、では”川崎重工の列車を外す事が出来るか”の問題です。
    出来ない筈です。この性能の良い列車を以って高速としての中国の”鼻息ばかりの謳い文句”にしているからです。国威高揚の為に。
    川崎重工の列車を走らせるには本来は列車管理システムを日本のATCにする事と、列車主体を川崎重工を始めとする日本製の列車にする事で事故の起こる確率は極めて低くなり、制動力の悪い列車は早い日本製の列車を「やり過ごし」の方式でプールするソウトを日本製で組めばクリヤーする事が出来ます。

    第1は制動力の悪い諸外国の列車を主体とするから良い列車が原因してシステムに矛盾が生まれるのです。
    第2は制動力の悪い列車は時間帯に応じてある駅で「やり過ごし」の方式でカバーできますが、この逆は論理的に困難です。そもそもこの世の構成は第2の構成で成り立っています。この世に限らず分子構造の中までこの第1の構成で成り立っていますからこれは最早この世の自然の摂理です。
    第1と第2を混在させるから問題が起こるのです。
    第1を導入する以上は第1を主体として行えばそれはそれで第2と成る事に成りますから問題は無く成る筈なのですが、第1も第2も混成の主体は何れにも着かず問題を起すのです。
    中国の大きな判断ミスでありこれを続ける限り「潜在的欠陥」に結びつくものです。

    「時刻表のタイムラグ欠陥」
    ここで、更に問題が出てくるのです。列車の制動力の良悪の問題ですが、制動力が良いと云う事は「時刻表」をより正しく守れることを意味します。
    停車位置も定位置で停車する事が可能となりそれだけに「事故の確率」は低く成ります。
    ヨーロッパの列車の制動力であれば山形∧ですのでかなり手前から速度を落としてブレーキを掛けながら停車位置に止まろうとしますから「時間ロス」が起こり「時刻表」が正確に守れなくなります。
    これが走っている幾つかの列車群に起こりますので其処に起こる「時間のズレ」が重なると最悪「衝突と接近の危険性」が高まる事に成ります。
    (ヨーロッパのようにゆったりとした大きい「時間ロス」が発生してもそれを吸収し得る余裕ある「時間表」を作ればよいことに成ります。)
    更に其処に制動力の良い日本の列車が介在すると余計に「衝突と接近の危険性」は高く成ります。
    この現象が各区間で起こる事に成ります。依って、「時刻表」にも列車の前後が逆になるなどの問題が起こってくる事に成るのです。其処に過密が重なれば「衝突と接近の危険性」は更に増します。
    そうすると列車管理システムの信号の精度良い管理ソフトが必要に成りますが、これは混成システムですので、確実にしようとすれば列車の「完全な固体認識」が必要と成ります。
    しかし、先ず相当にこの「固体認識」はソフトと機械的に困難です。
    依って中国の現場では此処の部分を「人為的操作」で逃げる以外に有りまんので「衝突と接近の危険性」のズレが常に発生していたと考えられます。「人為的な潜在的欠陥」となります。
    依って、この技術力が無いがためにもともと人為的にする為により早く「やり過ごし」のポイントまで行かせる為に「青信号」であったのであって、「固体認識」の無さと「サージ対策」で赤に変え得るノウハウが無かった事を意味しますので、上記した「衝突と接近の危険性」の矛盾から衝突が起こったのです。

    日本の新幹線の様にくさび鍵形〔印の制動能力であると、直前でブレーキを掛けて停車できる同じ制動力と同じ速度と同じ時間帯が守られて初めて高速鉄道は維持出来るのです。高速化=ブレーキ制動の前提に於いて。
    この事も加えると中国の混成列車システムであると最終4重の矛盾を持つ事に成りますから、衝突を含む事故は”必ず起こるシステム”と云えるのです。
    ところがこの4重の矛盾の解消策は、中国では上記のこの解決案を実行する事は政治的に国民高揚を図る目的があり、且つと技術的に低く混成である限り無理であります。

    因みに、ところが、韓国の高速列車もフランスの方式ですので混生システムではない為にこの様な3つの矛盾の事故は起こらないのですが、もとより列車管理システムと制動力はヨーロッパ方式で走らせている限りは「時間のロス」と「小さい事故」は現在も起こっています。これを証明しています。
    ところが、これを補う為に韓国は三菱系の新幹線の列車を別に三菱OEM方式で製造して韓国製として輸出しようとしているのです。日本の三菱の製造単価を下げる目的です。
    何時か韓国は日本のシステムに変わる事を意味しています。車や家電の三菱プラント生産方式で日本のノウハウを模倣で獲得した時と同じ様に、又、三菱系のものを韓国製とするでしょう。
    因みに台湾は全て日本の新幹線ですので問題は起こっていません。
    しかし、この様に中国がどの様な列車を自国の物として喧伝しても絶対的に技術的に造り出す事が出来ないのです。

    「アセンブリー生産の弱みと欠陥」
    上記した様に現在技術力が進んだヨーロッパ諸国でも日本のシステムと金属関係の2つの技術力には追いついていないのです。ましてや中国にはこれを実行できる全てを賄えるだけの総合の基礎力の技術力と生産力はないのですから、部品は全て外国から買取調達する事に成ります。要するにアセンブリー生産です。
    その意味で列車一つを売るよりは部品単位で売却する方が欧米と日本のメーカーはより利益率は上がります。ですから、日本を含む先進技術の諸外国は損はしないのです。
    戦略的にも政治的な問題が起これば部品の供給をとめる事で「首根っ子」を抑える戦略が採れることに成ります。
    日本を含む諸外国は当初からこの「潜在的欠陥」を承知していて戦略的優位がある為に落ち着いて今回の問題に対処出来ます。
    この事は政治的に承知している中国は、つまり、国威高揚の切迫条件に迫られて慌てる余り中国は言葉で国民向けに大きなことを言っていますが、実は「首根っ子」を抑えられているのです。
    これを外国に輸出するも日本に執っては部品売却益が増える事を意味します。問題が起これば解決する能力の無いままに中国が責任を負う事に成ります。
    責任はまともには負えないでしょう。上記した様に対策力がそもそも無いのですから。中国の事ですから政治的にどの様な難癖を付けて来るかの危険はありますが、「首根っ子」の事から”事を荒立てる事”は決して出来ない筈です。
    専門的に観ればこれだけの決定的潜在欠陥を持っていれば導入する国は限られてきます。
    価格を落としての販売と成りますが、部品が先進技術国から購入する生産体制そのものが変わらなければ大きく価格を下げる事は困難です。況して売却先にこの欠陥システムの列車を運用する能力がある事が疑問視されます。あくまで「国威高揚の道具」に使う目的でしょうが、今回はその問題点をさらけ出してしまった事から難しく成ったと考えられます。
    そこで、中国らしく「雷」と「埋める」で「臭い物には蓋」で逃げようとしたのです。
    技術問題点を解明してもこの4つの矛盾をさらけ出す事に成り余計に中国としては問題を大きく広げてしまう事に成ります。
    仮に技術的問題として原因が解明されても中国では解決で出来ないのですから。下手をすると拗れて購入先と政治問題化して「部品の供給」が止まる事も充分に予想できます。それこそ中国にとっては基も子もありません。

    「過去の開発失敗の経緯」
    そもそも中国は国威高揚の為に1990年頃から10年間ほど独自の列車を開発し始めたのですが、結局、無理である事が判り4年間で今回の外国から購入しての混成システムと成ったのです。
    この事からでも潜在的な問題がある事が判ります
    ロシアの技術導入を基本にロケットや戦闘機開発も行いましたが全て失敗に終わっているのです。
    話題に成ったジェツト戦闘機はロシア式のもので19機作りましたが上空で激しい振動を起こして飛んでいられない有様で即時開発は中止したのです。表向きは成功したように国民に見せていますが。
    人工衛星のロケットもロシアのものを基本にして2段目を類似の自己開発をしたのですがこれも2段目爆発で失敗に終わっています。それだけにこの高速列車は後に引けない国威のものと成っていて何とか混成でもよいから成功したかに受け取り、喜び勇んで必要以上の虚勢を張り国民に鼓舞したのですが1月もしない内に上気する「潜在的欠陥」から決定的な失敗を招いてしまったのです。
    幸いに国民にはこの「潜在的欠陥」を見抜くだけの知識と理解力の不足と情報の不足があるから技術問題として発展しない事が伺えますし、補償と関係者への不満だけに収まると考えられます。
    まして、一般の中国人の「石は薬」「法より人」の思考規準から真因追究の要求までに発展しないと考えられます。
    上記の通り中国当局は真の原因追求は政治的に戦略的にもとより技術的に外国の力を借りない限り出来ない筈で見せ掛けの行為に終わると見られます。
    現に、そもそもこの様な列車事故の矛盾を指摘し解明できる国民が居ないことそのものが問題なのです。ここでもその技術力の無さが露見しているのです。日本では何もかも考えられない事です。
    日本では国民がメーカーと相当する以上に技術力を保持しているのです。それだからこの様な優秀な制動力とATCとが生み出されているのです。専門的な立場から見て中国にはこの「潜在的欠陥」の改善は急激に成される技術力ではありません。
    混生システムのアセンブリー列車です。原因が判っても対策を採る能力が備わっているかは疑問で、結局は原因究明は関係国の協力なしでは現実には無理と成る筈です。
    依って中国は戦略的に原因を雷説か信号説にする事以外に無い事に成ります。
    「サージテスト」の事実を無視して。しかし、混成システムは4つの矛盾を潜ませたままで。

    「今後の中国」
    現実問題として政治的に国民の知識力を高める事は現体制の共産党の言論統制や格差等に対する批判に繋がり、政府の不安定さに繋がっていく事に成り痛し痒しの問題となります。
    韓国の様に技術力を吸収して経済力につなげる事は喉から手が出るほどでしょう。しかし、急激に経済力を上げる事は「民度」が上がり国民意識も高く成りますので政府の倒壊にも繋がるのです。
    だからある意味で戦略的に混成にする必要に迫られた事も有り得ます。
    日本製の物に統一させる事は国家防衛に対する戦略的な意味で日本に技術支配される事にも成りますので、せめて数カ国にその支配性を分散させる事も必要です。この判断のミスが招いた事故といえます。
    何にしても他国の基本をベースにして自国製として見せつけ国威を高揚させねば成らない国情に至っているのです。今後も著作権の盗用問題に見られる様にこの様な状態が続くと見られます。
    しかし、それでもロシアの戦闘機や人工衛星を始めとしてベースにしてでも失敗している技術力の無さですから、その基礎力の範囲は見えています。
    故に原因追求はおろか対策までも成し得ず、たとえ成し得たとしても仕様内容が異なっていますので部品へのフィードバックは論理的に不可能ですし、また、下手をすれば部品の停止ともなれば国難と成ります。
    先ずは、専門家でなくては判らない「雷か信号」でお茶を濁す事の程度で真因の証拠を見せずに終わらせるつもりで有ろう事がよく判ります。
    その様な列車に乗らなくてはならない中国の人々の心境はいかばかりか。同情に耐えません。
    実情や真因を”知らない知らせない”の中ではその怖さも半分では何か矛盾を感じ割り切れないものがあります。
    共産主義の一党独裁の計画的市場経済の「潜在的欠陥」の一端を露見した事に成ります。
    本事故の一連の列車計画もバブル破綻経済を恣意的に起こしている延長線上にあるのです。
    中国経済全体がそうであるようにオリンピック以降の経済は「恣意的バブル経済」にして維持しています。
    政治も何もかもが共産党の一党独裁が「潜在的矛盾」を引き伸ばしている事に過ぎない事に気が付きます。

    兎にも角にも、それらを解決するには中国は先進国を見習ながら国民の民度を上げなくては成りません。これは中国の伝統的な思考規準の「石は薬」「法より人」の考え方が無く成るかに掛かっています。
    どの様に無くすのでしょうか。「知らない知らせない」の範囲では中国国民には事の問題意識も無いかも知れません。
    つまり、中国の「他民族性の国情」から日本の様な「融合民族性」の国情により近づく事、近づかせる事が「雑種の優秀性」を発揮させ、「石は薬」「法より人」の考え方が変える事に成ります。そしてそれが世界に通ずる認識力と物造りの国が生まれるものと考えます。
    しかし、反面それは現体制の崩壊に繋がる最大要因とも成り得ます。このシーソウの原理の中にある事が判ります。
    これからも「この種の事故」と「事故の処理」と「中国の国民への虚勢」がしばらく続く事が予想できます。
    要するに技術も然ることながらこの国情も「潜在的欠陥」を持っている事に成ります。
    今回の処置もこの思考規準と国情が根底にありそれが大きく左右されていると観られます。


    (中国の技術的な物造りの現状のレポートは「青木氏と神明社」の関連レポートとしてそれに基づき詳細を記述していますので不明なところは「青木氏と神明社」を参照してください。)



    完了


      [No.294] 中国の新幹線脱線事故(潜在的欠陥)−1
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/22(Sat) 10:20:03  

    [No.788] 中国の新幹線脱線事故(潜在的欠陥)
    投稿者:福管理人 投稿日:2011/07/31(Sun) 16:37:32


    中国列車事故に関してレポート
    福管理人
    2011/07/28 13:59 - パソコン
      中国の新幹線脱線事故
    (潜在的欠陥)
    序文
    現在、以前より強気の発言が話題に成っていましたが、中国の表向きの威信を掛けての事だっただけに衝撃的な問題と成っています。筆者は当初よりこの問題には危険なものが潜んでいると技術者として疑念を抱いていました。図らずも中国が何と”日本に進んだ新幹線の技術供与をしますよ”と虚勢と威しを掛けてきたその直ぐ後にこの事件が起こりました。真実味の無い無知な国民を騙す共産党の国威高揚が招いた事件です。恐らくは真因をぼやかした原因説を出す事は判っていますので、そこで筆者の前からの疑念を敢えてこの際に披露しようと考えました。なかなか特別な領域の技術問題ですのでこの様な真因を判断出来る技術情報を把握している人は少ないと考えて投稿します。
    多少、専門的内容を記述せさることに成りますが「潜在的欠陥」をより詳しく網羅させる必要からとご理解ください。
    本件は今投稿中の「青木氏と神明社」のレポートに記述した「物造り」に真に関係する内容の決定的な例としても取り上げられるものですので敢えて論じます。
    実はこの問題は歴史的な専門的立場からも観ると、明らかに「石は薬」「法より人」の中国の思考規準に影響した「潜在的な事故発生要因」が大きく潜んでいるのです。

    「事故の相関性」
    そもそも車や列車の高速化は常時ブレーキの制動力と相関していて命です。
    後のパーツは常時の直結の人命の事故には繋がる可能性は有りません。せいぜい複合要因にての結果と成るでしょう。しかし、この事故は明らかに高速化=ブレーキ制動力=命の関係にあります。
    それだけにこの事故には幾つかの要因がある中で、主に中国の「潜在的欠陥」の体質が働いた「ブレーキ制動力の事故」と云ってよいものです。
    従って、真因を解析して判断するにはかなり専門的な工学領域の高度な幅広い綜合技術知識が必要と成ります。それも開発担当域の限られた技術者のノウハウの領域と成ります。
    つまり、技術的に政治的に真因が解明され難い事故ともなり、且つ中国の置かれている立場と国民性が更に左右してしまう事故と成ります。

    そこで、「青木氏と神明社」の論文に「物造り」の事として記述している事が真に一つの事例として現れてしまいましたが、当初より何か起こると気にしていた事なのです。

    「高速化制御システム」
    さて、上記した様に、それは高速化を制御する「列車管理システム」と「高速列車のブレーキ制動力」との相関問題にあるのです。中国はこの領域までの知識は到底ないと考えますが、全体として外国技術を習得し切れていない「付け焼刃的な現状」にあると考えられます。
    中国はこの高速列車を主にドイツ、カナダ、日本の3国の列車技術の殆どの部分で導入しています。
    外国技術は高度であり、且つ寄せ集めの先端技術である為に余計に複雑化して充分に短期間(4年)では習得は出来ていないと考えられます。列車の操作力は勿論の事、列車生産に関わる3国の異なる技術的ノウハウ等の取得は皆無に等しいと考えられます。そもそも教える方もこの短期間では困難です。
    それだけの基礎力が元々無かったのですから、この短期間で扱いこなすにはこの複雑化した現場では習得し難いものと成り得ている筈です。「四苦八苦」が正しいのではないでしょうか。
    中でも本文の「列車管理システム」のノウハウと「ブレーキ制動力」のノウハウの2つは最も命に関わる事でありながら、それだけに理解し習得に至るまでには最高度の難しいノウハウと成る筈です。
    先ず無理であろう事が判ります。
    中国当局がどんなに「虚勢」を張って国内向けに発言しても我々技術部門に直接携わった者から見れば「空虚」そのものであります。
    先ずは、中国の「列車管理システム」はヨーロッパ統一の「ETC管理システム」を導入していますが、日本の列車(川崎重工)は異なる「ATC管理システム」で出来ています。
    何れも「自国製」と発言していますが、この「虚偽の発言」そのものが無形の「潜在的欠陥」ではないでしょうか。

    「高速化ブレーキ制動システム」
    次ぎに、事故の追突された列車はカナダ製です。後ろの追突列車は日本の川崎重工の列車です。
    ここでこの2つの列車には運用具合に依っては決定的な命に関わる違いがあるのです。
    それはカナダ製のブレーキの制動力は山形制動の方式です。日本の列車は全て楔鍵形制動です。( 〕印を左横に倒した楔形の制御)
    同じ線路上で、同じ列車管理システム上で、2つの列車の高速時のブレーキ制動力が著しく異なり、且つ、その制動方式も全く異なるシステムと云う極めて危険な運行状況です。考え難い組み合わせと成ります。
    今だヨーロッパも日本も開発しきれていない相当な極めて最先端の「列車管理システム」でなくては安全運行は出来ないのではないでしょうか。
    まして、この「2つの方式」の制動力の持つ中で、且つ外国から購入したこの混成列車の中国では、それまでは列車の管理は殆ど人為的に行われていたのですから、この複雑な条件をこなすシステムの開発は到底無理である事は云うまでもありません。

    そもそも、つまり高速に成るほどブレーキは制動力が落ちますが、「2つの方式」の制動力が同じと言うことで有れば問題ありませんが、諸外国製のブレーキは高速に於いてはそもそも効き(制動力)が悪いのです。その為によほど手前からスピードを落としながら制動しないと停車位置に止まらないのです。
    次第に速度を上げ最高速度に到達すると今度は次第に問題の起こらない速度まで落としてブレーキを制動して停める山形制動です。
    日本はすぐに速度をピークに上げてそのままに維持し停車直前でブレーキを制動して定位置に停める楔鍵型です。(くさびかぎ形)
    これは「方式」が違う、「制動力」が違うの話では無く、「技術力の差」なのです。
    これはブレーキの技術力の開発差から来ています。つまり、殆どは金属冶金工学の技術力の差で日本は段突に進んでいます。

    「摩擦熱400度と350K/Hの関係」
    そこで上記した「問題の起こらない制動ポイント」とは、技術的に「摩擦熱が400度」のところを限界としています。これは大変に重要な要素なのです。
    高速での制動は摩擦熱などによりかなり高温(日本は400度限界)に成りますので、普通の冶金学と機械工学の範疇では本来はブレーキそのものが造れないのです。ところが日本のブレーキはこれを解決していてこの相当な企業秘密ノウハウを占めています。
    ところでこの「400度と云う温度」が金属にとって非常に厄介で問題の多い温度域で、金属の結晶に大きく質的変化を与える温度域なのです。
    更に高速でブレーキを制動するとしますと当然に低速のものより摩擦熱が数倍に上がりますので、その400度の薄赤くなった金属には、溶接やボルト締め等の普通の機械的な処置が強度的に低下してしまい、使えないし加工は出来ない事になります。
    ではどの様にしてブレーキの「焼結パット」を取り付けるか、又列車本体に取り付け固定するか普通の既存の技術的な方法では通用出来ない範囲なのです。
    金属が温度が上がれば柔らかくなるのは当り前ですから普通の固定方式では成り立ちません。
    この400度と云う温度は、鉄系の金属にとっては金属の性質(特性)が変わる限界点で、これ以上高く成ると金属の結晶構造が変わるので、普通の金属では機械的強度は絶えられません
    鉄系の金属では500−650度の範囲までは「特性温度域(再結晶温度域)」と呼ばれ鉄系の中に含まれる炭素と融合(溶融結合)して「結晶構造」も変わり、それに伴ない更に別の性質(特性)に変わって行きます。この中間温度域(特性温度域)はそれなりに熱処理として多くの使い道があるのですが、ブレーキには柔らかくなる事も然りながら、絶対的に好ましくない「臨界的な温度域」であります。
    逆説的に云えば、「摩擦熱」などにより上昇するこの直前の「400度と云う温度」が「ブレーキ構造方式の限界域」で、これ以上に摩擦熱が上がりますと「臨界的温度域」(特性温度域)に達する為に、リニヤーなどの列車の走行方式等の別の方式に変えなければならない温度域と云う事に成ります。
    この「400度と云う温度」に達する速度とすれば350K/Hを限界としているのです。
    これ以上の速度でブレーキ制動するとブレーキは破壊する温度域なのです。たとえ350K/H以上出せたとしてもです。400度=320K/Hを順守する必要があるのです。
    ですから世界の先進国はより高速制動にする為には500K/Hのリニヤーの開発と成っているのです。

    「400度の問題点と解決技術」
    そこで開発の限界点とも云える高速350K/H以上の列車を開発するのは摩擦熱が上昇し著しい欠陥が露出する為に物理的(冶金学的)に困難ですが、この限界の手前の400度の温度域(高速320K/H以下)でブレーキ構造方式とするには次ぎの特別な解決手法の開発が必要となります。
    解決手法
    主に4つの部品に研究を加えなくては成りません。焼結金属のパッド、パッドを取り付けるプレート、このプレートを摺動移動させる案内プレート、この案内板を固定するプレートです。
    この「焼結金属の組成配合」と「3つのプレート」に「400度」の上下の熱影響を繰り返し受ける事に成りますので、この「4つの部品」を先ずはどの様にして固定するかとなります。「固定の問題」です。
    それと「金属的に、組成的に、機械的」にも解決する必要が出て来ます。
    溶接やボルト締めでは熱で軟らかくなり使えないと共に、且つ繰り返しの「高温の熱疲労」で直ぐに金属疲労破壊してしまう欠点を持っています。
    まして「400度」なので最も厄介な難問の「低温の脆性破壊」も起こります。
    (脆性の怖さ)
    鉄系の金属の脆性破壊には次ぎの3種類があります。
    A:−20〜−80℃の「臨界域脆性」、B:300〜400℃の「低温脆性」、C:850〜900℃の「高温脆性」
    Aは寒冷地で起こります。Bは本論 Cはこの温度域で加工して常温、低温域に戻した時に起こります。
    Cは「鍛造」や「鋳造」や「熱処理」や「圧延」の加工の時に起こります。
    Cはこの脆性をなくす為に上記した「特性温度域」(再結晶温度域)で熱処理を施してなくす事が出来ます。

    A〜Cは常温と発生温度域を繰り返し上下すると著しく脆性現象が強くなります。
    従って、「熱の繰り返し疲労破壊」と「脆性破壊」が同時にダブル発生してしまうのです。
    高速列車の「ブレーキ部品」はこの「3つの脆性域」に関わっているのです。(Cは処理済)

    「取り付け方」と「熱の繰り返し疲労破壊」と「低温域の脆性破壊」(A、B)の「3つの問題点」が露出して来ますのでこれを解決しなくては成りません。

    (「3つの問題点」と「3つの脆性域」)
    この「低温脆性」の温度の上限が400度(下限300度)ですが、制動していない時の低温の温度域が何度に成るのかは列車の「操作のノウハウ」に大きく関わることなのです。
    当然に操作が未熟であれば400度を超える場合が有ります。この温度を超えると云う事、「操作が未熟」と云う事はそれは単純な話ではありません。
    何度か走行中に常習的に繰り返すと上記の「3つの問題点」が露出して即「ブレーキ制動力の低下」のみならず「ブレーキ破壊」へと繋がるのです。
    今回この事が確実に起こっていて大事故と成った事も考えられます。
    例えば、「未熟」とは車で長い下り坂道でブレーキを踏み続けると熱を持ちブレーキが効かなく成ります。その為に上手くエンジンブレーキを加えながらスピードを落としてカバーします。この概してこの操作ノウハウと同じ理屈です。
    中国は未だこの「未熟の領域」にあると考えられます。
    場合に依っては「中国の国民性」が影響してここにも「潜在的な欠陥」とも成り得ている可能性も有り得ます。筆者はこの説を採っています。

    「3つの問題点」と「速度超過」
    当然に上記「3つの問題点」と同じ現象を示す「320K/H以上の速度」を超えての操作を繰り返し摩擦熱が400度以上を超えて上昇し過ぎた事でも起こる訳ですから、この「操作の未熟さ」と「限界速度オーバー」は同時に起こる事に成りますので両方から痛めつけられて「極めて危険な状態」が起こっていた事に成ります。
    (この「3つの問題点」は専門的な立場からすると金属面に特徴ある破面が出ていますので比較的簡単に目視でも解析できます。誰でも判る事では有りませんが専門の「破面工学」を取得した技術者であれば観れば直ぐに判ります。)
    中国は”常速 350K/H以上で走行する世界一の新幹線”と虚勢を張りと鼓舞していましたから列車のブレーキに「3つの問題点」のダメージを確実に与えていた事に成ります。証拠の事実です。
    中国のこの発言は、専門的に見ると”何時大事故が起こっても不思議でない状況である”と発言している事と同じなのです。

    「寒冷地仕様の欠陥」
    この摩擦熱の400度に加えもう一つ問題があるのです。
    それは自然環境です。中国は冬は極寒の地(−50度)がありますので、この400度との「温度差域」が500度以上に成ると技術的に耐えられない領域と成る特性問題を持っています。
    勿論、極寒温度でも上記したAの問題でもこの「温度差500」と並行してがダブルで起こる事に成ります。
    金属の組成上からの臨界点(−80度)に近くなり、この「熱差」と「繰り返し」による「金属疲労の発生率」が極めて高く成るのです。先ず本件の対策を加えないと全く使えないのが普通です。
    ところが全く鉄系の金属は、ある限界の範囲で「特殊金属」を加えないと使えないのですが、この特殊金属の添加が逆効果になるのがこの「寒冷地仕様」なのです。極めて難解なのです。先ず”諦める”が常識です。今は未だ発生していませんが、日本の環境とは違うために中国国内では事故の発生率は明らかに高い筈です。(日本では高速化の東北地域は−20前後ですから一応の対策は可能)
    この問題(高速化寒冷地仕様)も中国では到底解決していませんし、その開発手法と能力は中国には基よりないのですから確実な「潜在的な欠陥」と成っています。
    まして日本でさえも何ともし難い技術問題の「潜在的欠陥」が潜んでいるくらいなのです。
    日本では輸出用には自動車や生産機械でも「寒冷地仕様」として開発していますが、精度問題は別として、高速列車では中国では現在この「寒冷地仕様」の問題は未だ起こっていませんが、必ず冬には起こる筈です。その証拠に自動車は必ず起こっている現状なのです。
    この「寒冷地仕様」では、高速のみならず「ブレーキ制動前の時の寒冷地温度」から「ブレーキ制動後の温度差」が「500度差域」に成ると、鉄系金属では金属内の結晶構造が変化する為に応力差が生まれる為に、更に重複して避けられない欠陥に成るのです。
    車のブレーキの制動でも起こりますが、これと異なり高速列車の場合は温度差が余りにも大きくなるので必ず起こる問題なのです。
    そこに「未熟度のエラー」が加わると「寒冷地の欠陥」のみならず通常の「500温度差域による欠陥」も重複して平行して起こりますので事故に繋がる事は必定と成ります。

    (日本側は所定の期間1年の講習を要求したがたった10日間で打ち切ってしまったと発言していますので、習熟度は先ず「無い」事に成ります。つまり「未熟度エラー」は確実に起こっている事を意味します。)

    依って、詳記した「500温度差欠陥」、「400℃欠陥」、「350K/H欠陥」、「寒冷地欠陥」、「脆性欠陥」、「3つの問題点」「高速化ブレーキ制動システム」「サージ欠陥」等の充分な習得はまず無い筈ですからこれらの欠陥は必ず起こっている事は間違いありません。
    これに「高速化の習熟度によるエラー」が加わりますので疑う余地はありません。

    高速化に依って高温差化するとこれを繰り返すと「熱疲労と脆性の疲労破壊」が避けられないほどに極めて高くなるのです(逆に熱暑地仕様もあるが中国では問題ない)。
    自動車の領域で起こる問題と比べられない程に極めて危険な問題となるのです。
    因みにロシアの自動車が、あれだけ進んだロケットや人工衛星など高度なものを造れる国が自動車がまともに開発製造販売が出来ていないのです。
    中古を含む日本車90%に頼っている現状ですから、それは「寒冷地仕様」の対策が極めて高度な技術力を駆使しなければ成らないからで、それを充分に解決し得るノウハウの開発が出来ていないからなのです。「寒冷地仕様」は基より物理的に難しいのです。
    中国も奥地はこの「寒冷地仕様」に準じます。
    高速列車の「寒冷地仕様」は、今までに輸出と云う形態までに至っていなかった事から中国に輸出する分に対しては、日本での寒冷地仕様の範囲である筈で、明らかに「未開発の部分」では無いかと考えられます。やろうとすれば日本の輸出自動車は完全に「寒冷地仕様」は完成していますので直ぐに応用する事は可能ですが、中国用のものには未だ開発し適用していないと考えられます。

    (開発メーカーは列車メーカーではないし、開発と試験が難解で短期間である為に現在では困難)

    この「寒冷地仕様」が施されていない高速列車では冶金・金属工学上から観てブレーキ関係は云うまでも無く、本体そのものの鉄系車軸や伝道軸や鋳物や鍛造等の熱処理部品に対して上記の「3つの問題点」が顕著に現れることは必定です。少なくとも軸が折れるか変形する等の問題が出てくる筈です。
    これからは寒冷地の「潜在的欠陥」の露出として出てくる事が考えられます。
    より「潜在的欠陥」に対して厳しさが増します。
    この「寒冷地の欠陥」は冬場に部品に破壊が起こり潜在して、これを過ぎて気温が高く成る直前で事故に繋がる欠陥が露出して来る傾向があります。
    高速ブレーキ制動の分野に限らず全体で起こると考えられます。つまりこれも恐ろしい中国の「潜在的欠陥」であります。
    恐らくは、日本の寒冷地仕様より−30度程に厳しい環境にある事を承知していますから、日本側は何らかの条件を付加して「列車運行の条件」として伝えている可能性が考えられます。
    問題はそれを理解して護るかによると考えられ、国民性や国威高揚などの政治状況から観て疑問を感じます。
    しかし、もとよりこの「寒冷地仕様」によって起こる欠陥を見抜き解析して対策まで持ち込むノウハウが中国にあるかは大いに疑問です。
    確かに”日本の東北で走る列車仕様の前形式を技術移転した”と伝えられていますから、ある程度の寒冷地仕様が施されていた仕様になっているかも知れません。
    ただ問題は上記した「未熟操作」が更に「3つの問題点」の危険性を著しく高めますので安心できる範囲ではありません。
    又、何れにしても寒冷地による「脆性疲労破壊」がブレーキは元より列車本体までにも働く可能性が有りますので、それがブレーキ制動力にどれだけの影響力を与えるかの問題もあるのです。
    恐らくはこの現象は「激しい振動」と云う形で露見してくる筈で、それがブレーキの制動力とその部品構造に特化されてくる筈です。
    現象としては、主に「振動疲労」による「ミクロクラック」が発生して、最後には「疲労破壊」に繋がることが考えられるのです。
    (この欠陥は特長ある破壊破面を呈し目視でも確認出来る。日本の専門家に見せれば一目瞭然で判定できるので見せないでしょう。)
    それを防ぐ「高速化の管理保全」が出来ているかによりますが、短期間の間に成せる保全問題ではありませんから無いと考えます。

    「寒冷地の現象と欠陥」
    寒冷地は金属の分子運動が止まるか緩やかに成る為に金属の弾性力が低下して破壊に直接繋がるのです。最も怖い欠陥で、幾つかの技術的な方法が専門的にはあるのですが、何せ分子運動が止まるとなる事は金属の仮死状態を意味しますので、処置の施し様が暖めると云う方法以外に有効的な方法は無い事を意味します。

    (過剰にすると逆に成りますが、ニッケルを加えて結晶を細分化する方法や、500度から650度で熱処理を施して結晶を均一にして細かくする方法で加工して使う方法もありますが、完璧な方法とは云えず暖めて400温度差に保つ事が最も簡単で効果的なのです)

    この対策が中国に於いて成されているかは問題で先ず無いと考えられます。
    そもそも特に上記の高速の対策として用いた「特殊金属」は寒冷地に対しては金属の仮死状態が起こって「弾性力の低下」が起こりますので、「特殊金属の弾性力の低下」と合わさって逆の現象を引き起こすのです。従って高速列車のブレーキ制動力に主眼を置いているので「寒冷地仕様」は完全ではない筈です。
    日本に於いては寒冷地対策は車、列車、工作機械、等には施されています。東北新幹線と山陽新幹線の走っている列車が混在させずに異なるのはこの事から来ているのです。
    日本などでは一定率の「列車管理システム」を保つ為に「寒冷地の列車」には充分な仕様で設計されて管理されているのです。

    「部品の固定方式の開発」
    兎も角も、寒冷地に於いてでさえもブレーキ制動ではその最たる影響を受けますが、先ずは日本環境の範囲として「普通仕様」で考察すると、そうすると後は機械的、物理的に考えられるのは「圧入方式」か「焼バメ方式」ですが、「焼バメ方式」はもとより同じ400度ですので締まらず使えません。
    (温度差は500度以内が仕様限界)
    残るは「圧入方式」だけですが400度の温度に上がっては圧入は緩み効きません。
    この2つの加工技術の使用温度がこの400度であるのはこの領域を超えて加工すると金属の組成上(パーライト)の強度的問題が冶金学上で出るからなのです。
    この制動で発生する摩擦熱も偶然にも400度です。従って、高速350K/H以上でのブレーキの掛け方如何ではこの400℃は更に上がりますので、限界の制動領域を超え開発能力以上の限界を超えますので、著しい制動欠陥を露出する事に成ります。
    果たして中国の「未修得の操作能力」が低い場合はここでも「潜在的欠陥」を潜んでいるのです。
    実質1年程度のトレーニングという事で計画されていたすのですが、それを”10日程度で切り上げた”との情報を考えると、此処暫くは「未修得」が「潜在的欠陥」と成り得ます。
    (350K/Hの意味)
    日本の新幹線は350K/Hの下の320K/Hとしている一つの根拠はここにあるのです。
    何も350K/H以上を出せないとする訳ではなく、ブレーキ制動の限界点だからなのです。
    ”350K/H以上の高速で走った”として自慢下に誇示していましたが、この事の技術問題を知らない事を自ら露呈したのです。全体のノウハウの未熟度を自ら認めた見苦しい虚勢です。
    確かこの限界を超えた速度で走行して本体が耐えられない激しい振動に見舞われ列車に亀裂が入りなどして指定の速度に下げたとしているのです。
    まだまだ上記した「潜在的欠陥」が露出してくる事は間違いは有りません。日本からの早期に技術指導を受けない限りは大事故と成るでしょう。
    恐らくはこの振動の原因の一つはブレーキの制動を超えたところで摩擦熱が400度を超えて限界温度500度に達してブレーキ制動が空効きになり、その振動のパラセーションがタイヤ(車輪)に加わり車体本体を激しく刺激したと考えられます。
    恐らく、この時、摩擦熱500度以上に達して後続のブレーキ制動力が破壊するか等を起し効かなく成っていた可能性があります。
    謳い文句の350K/Hを取り下げてその高速をその事故の為に運行走行速度を250−300K/Hに下げたとしています。ブレーキ制動における設計限界である事を知らずに。とりあえずは一時的速度では欠陥を出さずに成った事に成りますがブレーキ制動のノウハウの未修得で起こる問題は解決していません。
    これは上記する高度な基本設計の冶金的知識の習得は先ず無く、感覚的に激しい振動が何かを引き起こすと考えたものと観られ、変更を余儀なくされたものであろう事が判ります。
    この行動は真に知識の底を露呈した愚かな醜態に他なりません。

    速度を上げれば何でも上げられると云う「石は薬」「法より人」の感覚から出た中国人らしい論理性のない発想です。
    恐らく、日本人から観ればこの雑な感覚は、直ぐには直らず今後も続くだろう事から、これからもこの様な国民性に潜む「潜在的な欠陥」の醜態を示す事に成ると観られます。
    兎も角も、ですから「潜在的欠陥」に関しては中国は「事故の情報」のそのものを隠す以外に方法が無い事を物語ります。

    「技術開発点」
    そこで、中国の怠惰な実情を気にかけながらも、兎も角も日本の技術開発の努力とその経緯から考察して観ます。
    中国に日本の次のような開発努力を知るまともな技術者が少ないのかも知れないけれど居た筈です。
    (筆者も冶金に関する実習留学生を承知しているが、小さい力のために基本の技術習得が無視され「政治力」が優先されたのではないか)

    上記する「3つの問題点」を解決するには次のような開発をしたのです。
    日本の開発はそれはこの400度の限界を超えない範囲で要は温度がどんなに上がっても緩まずむしろ締まるようになり、且つ金属に関する疲労、脆性等の問題を起こさない様にしなくては成りません。
    上記する金属的に起こる問題を色々な「特殊金属」(下記)を組成に加えて特殊金属板を造り熱に対する欠点を解決して、且つその加えた「特殊金属」によって逆に熱が掛かると一定以上の圧入力(取付力)が増加する様にしなくては成りません。この領域は真に自然物理の矛盾です。
    「特殊金属」の「種類とその配合率」と、「圧入代」と、「熱膨張係数の差」と、「耐熱性の向上」とこれ等処置による「組成上の競合欠陥の防止」を解決して、丁度良いポイントの探求が必要に成ります。途方も無い総合知識の研究です。
    その難しさはこの「競合欠陥」です。
    「特殊金属」はある種の特性を引き出す手段によく用いますが、この金属を加える事に依って「鉄系金属」には、同時に逆の事も起こる特質を持っています。
    この「鉄系金属」にはこの種の「特殊金属」は「人間の拒絶反応」と同じ現象を起す性質を持っていて、ある一定の範囲までしか受け付けないのです。一定を超えるとあらゆる機械的な強度や特性の低下を引き起すのです。

    (「特殊金属」とはマンガン、モリブデン、クローム、コバルト、マグネシューム、タングステン等でこれに対応してニッケルを補填して「特殊金属」の弊害を少なくする為に同時に適量を加えます。
    例えば、18−8ステンレスにクロームを加えて強く錆びなくしていますが、これに対してニッケルを加えて弊害を抑えているのはこの為です。この特殊金属は夫々特徴を持っているのです。)

    この「特殊金属」を適材適量に加えるだけでは解決しません。
    実はこの世の全ての物質には温度を上げ再び下げて来ると「スパークーリング現象」と云う特殊な現象を起す特質を持っています。同じ上昇したライン上を温度を下げると別のライン上で下がって来るのです。
    その為に「ズレ」が2ポイント発生します。この2つのポイントの一定の温度間隔域に金属の組成を納められれば下記の「研究課題」を解決する事が出来る事に成ります。

    (現象の発生メカニズム)
    この現象は”何故起こるのか”と云うと次ぎの様に成ります。
    温度が上昇するとある温度域で結晶構造が変化します。この為にその変化のために必要とするエネルギーが奪われて一時温度が下がります(ポイントA)。 そして変化が終わると又上昇します。
    今度は上昇したラインに沿って温度が下がって来ると元の上昇して変化した「ポイントA」で同じ現象が起こる筈ですが、ところが起こらずある温度範囲がズレて「ポイントB」で変化が起こるのです。
    そしてその変化が終わると再び元の上昇のラインに沿って下がって来ます。
    このポイントAとポイントBには一定の温度差域が出来ます。この温度差の領域を上手く使えば温度上昇に依って緩むものが締まる事にも成ります。
    本来は論理的にポイントA=ポイントBである筈ですが、このポイントが物質に依って顕著に出るものとそうで無いものがあります。
    且つ、この温度域にも大小のものがあります。特に金属には顕著に表れるのですが、この特性に着目してその「温度域の巾」を大きくすれば使えることに成ります。
    特殊金属(ニッケル等)を投入して結晶を微細化させるとそれが顕著に表れるように成りますので、そのポイント域(A−B)を上手く使えば上記した研究課題が成功するのです。(現場ではノックピン方式と呼称)
    このポイント域(A−B)では、上記した別の変化、つまり、その「金属の特性変化」でも「結晶の中間域」(特性の中間域)が発生しますので、金属は安定し変質化しないのです。
    この「ポイント域(A−B)」即ち「中間域」では上記した特殊金属の特性が効果的に働きます。そして「拒絶反応的な事」が起こり難いのです。
    つまり、「ブレーキ制動」に依って摩擦熱で温度が上昇し、又下降すると云う現象を繰り返しますので、この「スーパークーリング現象」が常に起こる事に成ります。
    鉄系で云えば普通はポイントAは500度付近で起こります。そしてポイントBは400度にズレます。
    ところが上記の特殊金属等を入れますとこのポイントが変わるのです。
    この特殊金属は鉄より溶融点が高い事等の理由の為にポイントAが下に下がり合わせてポイントBも下がります。
    そうするとポイントAを400度にし、ポイントBが300度の付近に持ち込めばこの研究課題は成功する基本に成ります。
    この熱エネルギーの「温度の変化の中間域B」と共に、上記した結晶構造が変化する過程でも「特性の変化の中間域A」が起こります。
    この「中間域A」でも特性変化する為に多少変化のタイムラグ域が起こります。このタイムラグ域も含めて「2つの中間域A,B」はほぼ同様の温度域で起こりますのでポイントAとポイントBを解決する事で「2つの中間域の活用」は解決する事に成ります。
    以上の様にかなり特域の専門的な冶金金属の技術です。

    (現在では、この「中間域A、B」の領域の特性を精密機器の部品によく用いられる様に成っていますが、「特殊合金鋼」として当時は未だ開発に依って「企業内規格化」される程度でしたが、現在は細分化して一般規格化されています。 故に、これによりブレーキに限らず今やこの合金鋼板を使って日本の全ての精密機器や工作機械は超高精度の品質や高速化や寒冷地の対策用として作り出せるのです。)

    (中国の国家戦略)
    何時、中国がこの「技術ノウハウ」等を盗み出して獲得できるかに掛かっています。
    つまり、自ら研究する事では無く他国のノウハウの盗作で日本や先進国に追いつこうとしている「中国の国家戦略」と成っているのです。
    真に「自国製」と言われるものは今だ少なく、列車やジェット機を始めとする超高度な綜合先端技術のものは事ごとく失敗をしている中で、本論の「新幹線」は盗用の成功例と思ったのではないか。 その意味での挫折は”又か”で大きかったのではないか。”いざ”と成って見れば原因追求の技術さえも無い事を知り焦った行為であったと観られます。
    要は「中国の狙い」は、この総合力の研究では、現在は未だ中国では明らかに無理でありますが、高速−制動力の関係を知っていて何時かノウハウを盗み出し自国の物にする事にあり、そのためにも故に優れている日本を代表する川崎重工のこの「制動ノウハウ」のある列車が中国には絶対に国家戦略上必要なのです。
    ところが、共産国には「貿易管理令」により「高度な電子部品機器」や「高度な精密機器」の輸出は禁止されていて、悪質と観られる様な裏ルートの方法で機器を入手して分解してノウハウを盗み出そうとしているのです。分解して解析して何かを見つけ把握しようとする為にも国家的課題としてもこの列車は国家戦略上で代表的なものとして必要なのです。
    その為には、中には日本の中小企業の倒産先からスクラップとして精密機器を頻繁に入手して持ち帰り研究しているとの情報もあり、又、中国に生産拠点を移転した中小企業が契約期間が過ぎると別の場所に移転させて生産設備を強引に奪い取り、言う事を聞かない時は移転先を認めないと云う荒手の裏手を使うと云う事まで起こっているのです。(経験談) ニュースに成っている”中古の空母をベースに自国製の空母を製作している”との情報もある位に、 「石は薬」「法より人」の思考規準に沿って、”何事何物も利用した者が勝ち”、”模倣や盗用はした者が勝ち”の考え方が徹底しているのです。
    これ程に況や”喉から手が出るほど”の中国の「国家戦略」は実行されているのです。
    先進国に追いつこうとすれば、韓国が日本のプラント輸出を受け、後に激しい労働争議で追い出し日本の三菱の車や家電製品のノウハウを盗み出したと同じ様にです。
    韓国には、同じ儒教でありながら、違うところは「石は薬」「法より人」の思考規準が無い事です。
    だから韓国の手法は成功しているのです。

    続く


      [No.292] Re: 伊勢青木家 家訓10
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/04/30(Tue) 11:13:31  

    伊勢青木氏の家訓10訓

    以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

    家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
    家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
    家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
    家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
    家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
    家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
    家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
    家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
    家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
    家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

    >家訓1は「夫婦の戒め」
    >家訓2は「親子の戒め」
    >家訓3は「行動の戒め」
    >家訓4は「性(さが)の戒め」
    >家訓5は「対人の戒め」
    >家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
    >家訓7は「品格の戒め」
    >家訓8は「知識経験の戒め」
    >家訓9は「和武の戒め」


    >家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

    さて、最後の戒めの「家訓10訓」(刹那の戒め)である。

    この家訓に付いては、「家訓9」(和武の戒め)で一部触れた。
    「家訓9」では、そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事であった。
    つまりは、「拘る」=「我 執」である。
    「青木氏の古代密教の教え」では ”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
    そうすると、「現世の本質」とは、それは「現世」(この世)では、「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成る”と説いた。

    >「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
    これを突き詰めれば、次ぎの様に成る。
    「人」がこの「現世」(うつせ)から「彼世」(かのせ)に移る時に「現世」に遺されたものは、その個人としての「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、「個人の肉体」は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」(煩悩の発露)は ”何も無く成る”を意味する。
    つまり、その「個人の煩悩」は、”現世では無く成る事”を意味する。
    故に、”「現世」から「彼世」に移る事は、「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
    只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[(色と空)即ち(白と黒)の摂理]”により無くした事に成る。そして、「分身の煩悩」が新たに生まれ遺される事にした事に成る。
    これが ”「現世」から「彼世」の「移動」は、「断絶」では無く「継続」である”とした「青木氏の古代密教の教義」であった。

    「阿弥陀仏の説」(青木氏の密教仏説)
    「仏」の上位にある「神」は、”この「現世−彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
    そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いた。
    確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
    だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が「現世」に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。要は何も変わっていないのだ。だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
    結局は、「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
    これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の古代密教の仏説」と成るであろう。
    確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10の意)

    それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、”子供が生まれた時の喜び”に対して比べものに成らない様な「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」に似たものが込み上げて来るが、この上記した ”子孫分身を遺した”とする「本能的な動物の安堵感」の感動であろう。
    つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
    その代わりに「神」は ”現世の最大の喜び”即ち、この”「安堵感」”を与えたのであろう。
    この「安堵感」は、その個人の経験した「現世の喜怒哀楽」とは異質の比べ物に成らない「喜び」として与えたと考えられる。その「喜び」には「対価の背景」は無い。ただ”子孫を遺した”とする”対価の無い””背景の無い”清らかな「喜び」を与えたのであろう。

    故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽」に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
    況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
    故に、”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
    この「本能に組み込まれた達成感(安堵感)」が孫を見て噴出すのである。これが「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」と成って込み上げて来るのである。
    結局、これを突き詰めれば、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
    それに依って、その人の「価値観」は変わるし、「人生観」も変わる。どちらを選ぶかに関わる。
    然し、「青木氏の古代密教派の教え」は、 ”分身を遺す事に主義を置く”と説いている。

    人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、「古代密教」の仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
    然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
    ”「拘るな」”としている「古代密教の青木氏の仏説」である限り、必要以上に ”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
    要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
    然し、可と云って「古代密教」では、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
    >の不等号の持つ意味がこれを示唆している。

    「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
    ”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
    ”「人」はこの「刹那」に陥りやす「動物の思考原理」を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
    つまり、「刹那」では、間違い無く「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。
    翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖の輪廻」が起る事に成る。
    故に、この「古代密教」では ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。

    (参考 筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。「喜怒哀楽の戒め」を物語る事として「伊勢青木氏の口伝」には「享楽の精神」と云う言葉で口癖の様に使われていたが、これも「密教の教え」として引き継がれて来たものであろう。全て口伝類はこの論理論調から生まれていると考えている。)

    「一点思考の本論」(「3つの背景」)
    ではどうすれば良いのかと成る。俗に云えば、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
    そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” とする「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
    この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。

    以上が「家訓9」で先行して関連して論じ、ここにそれを改めて重複させてたが、「家訓10」を続けて論じる。

    其処で、本論ではこれを更に掘り下げて論じる。
    「青木氏の守護神(神明社)」(1−22段)で「青木氏の生き様」がどの様な考え方で創造されたかを網羅する事が出来た。そうしてもう一つの「生き様の根幹」と成ったのがこの「青木氏の家訓10訓」(1−10)であった事に成る。
    真に、この「神仏の二つの考え方」が習合して「青木氏」即ち「青木氏の思考原理」を創り出したのである。

    そもそも、この「家訓10」の ”子孫を遺す事に一義あり、喜怒哀楽にあらず”の「子孫を遺す事」には、”どの様な背景”が青木氏にあったのであろうか。それを先ず論じる。
    それには次ぎの3つが考えられる。

    背景1 人間を含む一切の生物の最大の本能である「子孫」を遺す事から起因している。
    背景2 上記した「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」が起因している。
    背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。

    この「3つの背景」がこの「家訓10」を形成したと考えられるが、人間も自然の一物である事は間違い無いが、だとしたら、この事に依って判りきっている事であるのだから、何も家訓とする必要はない筈である。
    つまり、”「上記1の起因の条理」に主体を置いていたのか”と云う疑問が残るが、そうでは無い事は直ぐに判る。

    >「特異な立場」
    では、「上記2の起因の条理」に付いて、この”「特異な立場」が「子孫云々」と成るのか”と云う事に成る。
    この”青木氏に課せられた「特異な立場」”は、人間社会を構成する全て「事の起源(事の象徴)」である事を意味する。

    >特記 「事の起源(事の象徴)」
    「青木氏の守護神」や「家訓10訓」で論じた「武の象徴的立場」を此処では「事の起源(事の象徴)」と表現する。
    同じ「賜姓族・朝臣族・臣下族」であり、「武の象徴」としての11累代から構成される「源氏」とは、「3つの発祥源」と「国策氏」と「融合氏」である「3つの立場」の存在が、同じ「賜姓族青木氏」とは異なる。
    依って、「事の起源(事の象徴)」と表現しているのであって、この源氏等と異なるこの「3つの立場」(特異な立場)の違いは、上記する思考原理を大きく変えている事と成っている。
    (源氏とは根本的な思考原理は異なる事に成る。それは、源氏発祥時の「嵯峨期の詔勅」に依って朝臣族の範囲を限定した事に因る。)
    もとより、「官位官職」等の差もあるが、「2つの血縁青木氏」と「源氏」とには、”「青木氏」>「源氏」の関係式”が氏家制度の中では「慣習」としてあった。
    この「慣習」は、原則、「明治3年」まで維持されいた事が「伊勢青木氏の資料」から判断出来る。

    ({嵯峨期の詔勅」で「青木氏の氏名使用」を「皇族関係者のみ」に永代に限定した。但し、皇族関係者ではない「秀郷一門」に対してのみ「特別賜姓族」として「青木氏の使用」とその一切の身分、家柄、官職、官位の「品位の資格」を与えた。)

    因みに例として、既に論じた事ではあるが、理解を深めてもらう為に改めて記述すると、当時の最大権力者で為政者の徳川幕府・紀州藩初代から大正14年まで、その「上位の扱い」を受けていた事が「伊勢青木氏の記録と口伝類等で判っている。
    (「藩主より上座の礼」等や、「藩主からの書状」や、「十二人扶持米の礼扶持給」等)
    この事からも「事の起源・事の象徴」として区別して、本論をより正しく論じる必要がある為に敢えてこの語句を使用している。
    「天皇家の国家の象徴」に対して大変非礼でおこがましいが、「武の象徴」であった過去の「特異な立場」をより本訓の為に”「事の起源(事の象徴)」”の語句を用いて以下も論じる。

    >「青木氏の宿命」
    この「事の起源(事の象徴)」の「青木氏の義務」を全うするには、論理的に付き詰めれば ”「子孫を遺す事」”が「最大の務め」、又は「目標」と成るだろう。
    何故ならば、この「務め、目標」が仮に叶わなければ、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、「事物の起源と基点」が無く成る事に成るのであるから、必然的に「事の起源」なるものが霧消する。
    「現世の事象」のみならず、物理で云えば「核」に相当するもので「自然の摂理」に於いても例外は無く、この全てこの条理が存在する。
    依って、もともと霧消するものを「事の起源(事の象徴)」とはしない事に成る。
    「事の起源(事の象徴)」とする以上は、永代に「事の起源(事の象徴)」であり続けねば意味を成さない。「3つの特異な立場」に依って発祥時より「青木氏」はこの宿命を負っているのである。

    何故ならば、「家訓9」で論じた様に、そもそも「屯」を前提とした「人間社会」を構成する限りに於いて「起源と基点」は「絶対条件」である。(屯:たむろ)
    「屯」もそもそも「基点」に類する。「動物」のみならず「一切の生物」はこの「自然の条理」に従っている例外の無い条理と成る。
    因って、当然に、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、この「屯」に類する一つであるのだから、その「屯」の「基点」と成っている「氏」が、途中で霧消する事はあり得ない理である。
    この「屯の原理」が働くこの現世の社会では、如何成る事が起ころうと「事の起源と基点」の役目を課せられている以上は、この具体的な務めとして「子孫を遺す事」は第1義と成るのである。
    大化期から平安中期までは「青木氏の霧消」は、強いては最終は「天皇家の霧消」に結び付くと考えられていたのではないか。
    その証拠に平安中期の「青木氏の衰退」から嵯峨期の「源氏の出現」は、この「事の起源(事の象徴)」の復元であったし、南北朝前には形骸化したけれど源氏は11代も発祥し続いた。
    そして、「源氏形骸化」の後に「円融天皇」による「青木氏補完策」の「特別賜姓族の誕生」と成るのである。
    あくまでも歴史は、「屯の原理」を護る為に ”「事の起源(事の象徴)」の復元”を図って絶対条件のこの条理を導いているのである。

    故に、「家訓9」でも論じた様に、「子孫を遺す事」は絶対的な条理の「青木氏の宿命」であるのだ。
    即ち、”青木氏の意思如何に依らない宿命”であるのだ。
    この様に「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」は、他氏の「氏」を継承する目的の単純な「子孫を遺す事」とは全く意味が違うのである。
    ”「青木氏の子孫を遺す事」”は、「屯」を基盤とする人間社会を構成する「象徴的な目的」を持っているのである。
    この条理の働く「現世の生物」には、「屯性に強弱」はあるが、取分け、人間社会の中のこの「7つの融合単一民族」の日本の中では、「融合」に依って形成されている以上は「屯性」は極めて強い事が判る。
    況や、そこで、「融合」=「屯性」の完全な数式論が生まれる。
    因って、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」の「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」の意味は格別なものを持っているのだ。
    決して、先ずはこれで「上記1の起因の条理」だけではない事が判る。
    とすると、「上記2の起因の条理」の追求は、結果として、「上記3の起因」が「家訓9」で論じた様に「屯性」を極める為、且つ、「上記3の起因」が「屯性」を高める為に発露されたものであって、これを補完している事に筋道として成るのである。

    ”背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。”とするこの上記の「背景3の起因」はまさしく「准条理」と云えるであろう。
    何故ならば、「家訓9」で論じた様に、「神仏習合」の結果に依って「青木氏の密教の考え方」が構成されているのであるから、又、その考え方が「家訓10」の ”子孫を遺す事一義あり”を側面から補足補完しているとすると、「家訓10」を条理とすると「准条理」と位置付けられる。
    故に、「家訓9」では「和武の戒め」として、「3つの発祥源」の「武の象徴」でありながらも「武の精神」を採れない立場にあり、「禁じ手の商い」による「和の精神」を構築せざるを得なかったのである。
    この「神仏習合の考え方」が「准条理」の位置付けと成る以上は、「武の精神」ではあり得ない事が理解できる。そこで、「武」に付いて先ず論じる。

    >「武の精神」
    そもそも「武の精神」は、「武」である限りその立場を保てば、「武」を以って事の解決に当る事に成る。
    そうすれば「戦い」を否定出来ず、より「子孫存続の危険性」は高まり、”子孫を遺す事の一義”を完全に全うする事の可能性が低く成るからである。
    如何なる事があっても「屯」を構成する社会の「特異な立場」にある限りは、「子孫を遺す事の一義」は絶対なのである。
    可と云って、「和の精神」だけではこの「絶対の子孫を遺す事の一義」は保てない。
    「和」であるからと云って、”他から「武」で攻めらない”とする保証は全く無く、自らが「武」を以って他を攻める事は勿論無いにしても、この保証を自らが「和」で担保しなくては成らないのである。
    「武の象徴」でありながら「和」で以って担保しなければ成らない矛盾を孕んでいるのである。

    つまり、「特異な立場」とは単純に「特異」とするものでは無く、「矛盾」を持った「究極の立場」にある「特異な立場」なのである。
    これは、氏家制度の中で「融合氏」が多く居れども、又”日本広し”と云えども、唯一「青木氏」にのみ課せられた一般に理解され難い「究極の立場」と云える。
    然し、この「担保」の為にあからさまに「武の手段」を以ってしては出来ず、「抑止力」と云う手段を酷使しなければ成らないのである。(抑止力付いては{青木氏の守護神]で論じた)
    例え、この「担保」の為に「武の象徴」の「親の象徴」である「天皇家」から「不入不倫の権」を与えられている「唯一の氏」であるとしても、あくまでもそれはただの「象徴の権威」であって、他氏がそれの「権威」を認めなければ何の意味も持たないものである。
    この場合には、「不入不倫の権」は、他氏の青木氏に対する「信頼と尊厳」が裏打ちされている事が前提と成る。
    然し、そもそも、その「信頼と尊厳」は、通常は決して「武」に因って裏打ちされるものでは無く、「和」に依って得られるものである。
    然し、その「和」も「商い」だけで得られると云う決して生易しい前提では無く、むしろ、「青木氏の特異な立場」に執っては「商い」は「禁じ手」でもあるのだ。
    「武」であって「和」の「道理の矛盾」と、「和」であって「禁じ手」とするこれも、あからさまに究極の「道理の矛盾」である。

    では、この2つの”「究極の道理の矛盾」をどのようにして解決するか”と云う難題が横たわる。
    これを解決するには、”他氏からの「信頼と尊厳」はどのようにして獲得されるのであろうか”と成る。
    それは「上記3の起因」、即ち、「神仏習合の理念・考え方」と「その立場と生き様」に依って得られるものであった。決して、血なまぐさい「武に依る生き様」ではなかったのである。
    故に、「上記2の起因の条理」の追求には、この「上記3の起因」の「准条理」が必要条件であったのだ。

    (注意 「武の象徴で和」の「生き様」は、次ぎの投稿予定の「伝統品シリーズ」でこの辺を明確にする)

    それは次ぎの数式論で表される。
    >「1の起因」+[「2の起因」+「3の起因」(准条理)]=「信頼と尊厳」=「和の条理」
    >「和の条理」=「禁じ手」=「絶対的な順手」←「道理の矛盾」

    >「和の手段」
    そして、「和」の禁じ手の「商い」はこの「准条理」を「下支えする手段」であって、直接的な「和の手段」では無いのである。
    「禁じ手」でありながらも、これ以外に上記する「青木氏の和」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を達成させられる「合理的な手段」は無く、依って「絶対的な順手」でもあったのである。
    「武の象徴」でありながらも、「和の精神と立場と生き様」を絶対的に守らなければ成らない事の「道理の矛盾」と同じく、「和の商いも禁じ手」でありながらも、「子孫を遺す事の一義」、即ち、”「信頼と尊厳」を守る為には、「絶対的な順手」でもある”と云うこれまた「道理の矛盾」を孕んでいたのである。
    (3つの「道理の矛盾」と成る)
    「家訓添書」には、この「家訓10」(刹那の戒め)に対しては、”「道理の矛盾」”とは明確に説明してはいないが、”この「現世の道理」には、何も全ての「道理」は全く「矛盾」を孕んでいない”とする「完全無欠論」では無く、”この「矛盾する道理」も存在するのだ” とする説を「青木氏の古代密教」として説いている様に読み取れる。
    これこそが”「拘るな」”の教えであろう。

    >「道理の矛盾」=「子孫を遺す事の一義」→「青木氏の古代密教の教示」←「拘るな」
    >「道理の矛盾」=「武の象徴」><「和の精神」
    >「道理の矛盾」→「禁じ手」=「和の商い」+「信頼と尊厳」=「絶対的な順手」

    「道理の矛盾」(究極の立場)
    「青木氏に課せられた究極の特異な立場」の様な事がこの「現世」には時には存在する。
    その時、「完全無欠だけの考え方」に拘泥すれば事は成し得ない事が起る。
    そのままの「完全無欠の考え方」では「喜怒哀楽」に左右され、苛まれて遂には「煩悩」は発露する。
    その「煩悩」を排除するには「智慧」である。その「智慧」は ”「拘り」”からはその「善なる智慧」は生まれない。
    そこにこそ「無意識」の中の「善なる智慧」から生まれた”許された「道理の矛盾」”が存在し得る。
    ”この究極の「道理の矛盾」を悟れ。!” と「家訓10の解決策」を読み取るには、「家訓9の教え」を以って解釈すればでこの様に成るだろう。
    「先祖の意思と教え」とする「家訓10訓の添書」はこの事を暗示させているのであろう。
    この事そのものを添書で直に教示してしまえば、”それは文書から得た「単なる知識」に終り生きない。
    つまり、「無意識の脳」で思考して得た ”「拘り」のない「悟り」” は「経験」を得て「知識」と成り得て生きる。”としているのであろう。真に、この事は「家訓8」に教示している事である。
    況や、”善なる無意識から発露した「智慧」”は、「知識」+「経験」=「智慧」と成り得る。
    故に、事細かに何も添書で述べる必要は無いのである。
    先祖が教示する「神仏習合の考え方」から得た「家訓10訓」(1-10)を充分に理解し認識して後に ”拘りの無い「智慧」”で発露し、深層思考すれば、この「現世の諸事」は全てを解決し得る事を教示している事になるのである。(況や、「家訓9」の「ミトコンドリヤの無意識の智慧」である)

    筆者は、これを「道理の矛盾」と呼んでいて、「家訓9」で論じた様に、これが「般若心経」の「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の「拘るなの心経」=「道理の矛盾」 と信じている。
    この「道理の矛盾」こそが、「累代の先祖」が伝える「子孫を遺す事」(家訓10)、即ち「生き残る為の心経」であると観ている。

    >「道理の矛盾」=「古代密教の教示」
    >「道理の矛盾」=「子孫存続策」=「現世の心経」(拘るなの心経)=「青木氏の秘伝」=「家訓」

    この「家訓10」に示す「道理の矛盾」で、「家訓1」から「家訓9」を考え直して観ると「真の意」(深意)を読み取る事が出来る。
    これこそが「悠久の伝統」のある「古代密教」の教えを組み込んだ上記の数式論に成るだろう。
    「家訓9」に続けてこの「家訓10」を最終に配置した深意がより判る。

    >「教示の弱点」
    では、何故に「道理の矛盾」としているかは、この「家訓10(刹那の戒め)」の「刹那の戒め」とした事で判る。
    この現世に於いてこの「道理の矛盾」を唯一にして破壊するものが存在する。
    それは”「喜怒哀楽」に拘る事”である。 即ち、「心理の弱点」である。
    「道理の矛盾」は、究極の位置にあるが為に、この「現世の条理」として相対する「心理の弱点」には脆弱なのであろう。

    >「道理の矛盾」←「和の達成」→「心理の弱点」

    「家訓9」でも説いたが、「刹那」即ち、「現世の喜怒哀楽」に拘ると、”「煩悩」に苛まれる”事が起る。 そして、”「煩悩」に苛まれる”と「青木氏の特異な立場」を全うする事の確率を低下させ、強いては「子孫を遺す事」に支障を来たす事に成る。
    従って、「古代密教の先祖の教え」は、”この脆弱さを克服させる為に「刹那の戒め」とした”と考えられる。
    だが、然し、「現世の人間社会」に於いて完全に「喜怒哀楽」から離脱する事は不可能であり、”「喜怒哀楽」から離脱する事”に拘泥する事は、それこそが「密教の仏説」の「拘り」に至る。

    そこで、ではどうすれば良いのかと云う事に成る。
    「家訓9」と「本論の序」で記述した ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いている通りの「心経」を持つ事にあるだろう。
    この「刹那の戒め」とは、この事を意味している。
    つまり、要は ”「刹那」に捉われては成らない”としているのだ。
    これは普通に考えれば、 ”刹那に捉われては成らない”とするのであれば比較的簡単である。
    判りやすく云えば、次ぎの2つの「思考の視点」の通りであろう。

    視点 A 「今」だけに「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
    視点 B 「先」を強く観て「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
    以上のA−Bの「2つの差」である。

    一般的に云えば、この程度の事であれば、ある程度の「長としての資質」を持っていて、それを磨く事が出来ればその度量は獲得できるだろう。
    但し、その資質も「論理主観の範囲」に於いて成し得る。
    然れども、この「資質」とする前提は、この「長」として事を果せる「論理主観の持ち主」であるかどうかに関わるのだろう。
    然し、多くの「人様」で構成する「組織」(氏)には、この「論理主観の強い持ち主」では無くては弱い論理主観者が多い「現世の人様」の中では、「感情主観論」が横行するはこの世の常である、
    個々に異なる「感情主観論」を「組織」(氏)として一つの考え方に取り纏める事は、「至難の業」であり、先ずは不可能である。
    ところが、そもそも「感情主観」では「喜怒哀楽」に左右されやすい傾向があり、「喜怒哀楽」に傾けば必然的に「刹那主義」に成り安い。
    依って、多くの「人様」で構成される陣容の「組織」(氏)は「刹那主義」と成る。
    この「刹那主義の組織」では、「3つの道理の矛盾」を持つ「特異な立場」の「青木氏の組織・氏」を保つ事は不可能である。従って、「論理思考の組織」が必要と成る。
    この「刹那主義の組織」を「論理思考の組織」に切り替えて維持するには、そして、その「組織」(氏)を導く「長」には、「相当な資質」を持ち得ていなくては成らない理屈と成る。
    当然に、”相当な理路整然として整理された「論理主観」とその「説得力」” を持ち得ていなくては成らない事に成る。

    >「論理的主観的な資質」
    この様にそもそも単に組織に対応するにも「長」には誰でもが持ち得ていない相当な「論理的主観的な資質」を要求される。
    況して、何度も繰り返すが上記する「特異な立場」にある「青木氏」では尚更の事であり、相当な「論理主観の資質」を有する「長」で無くては務まらない事に成るのである。
    因って、故に、「長の資質」は少なくとも”「感情主観」で起る「喜怒哀楽」”に左右される「刹那主義」の者では駄目なのである。
    言わずもがな、これは「家訓4」(性の定)で論じている「訓戒」でもある。
    いずれにしても”「長]は前者Aでは駄目だ”と云う事である。
    もし、これだと結局のところ行き着く所は、”「子孫を遺す事」に行き着けない”という事に成ると説いている。
    要するに、「子孫を遺す事」には極めて確実性が低下する事に成り、それを戒めている事になろう。
    つまり、”「子孫を遺す事」は、簡単である様に観えて決してそう簡単ではない” と云いたいのであろう。
    その前提は、上記する「特異な立場」の組織であるからであって、「氏家制度」の中で「古代密教」に立地した「特異な立場を持つ組織」を抱えていたからであろう。
    この事から、世間が普通に考える程以上に、「青木氏」の者達は、「子孫を遺す事」と云う事が如何に難しい事であるかを知っていた。
    「累代先祖の経験」(a)と、「神仏習合からの教え」(b)を「家訓」とし、それを事前に認識して得た知識」(c)と、其処から得られた「子孫の自らの経験」(d) も通して認識していた事が判る。
    決して、家訓にある以上は「青木氏の者達」は、上記した”「刹那」に捉われては成らないとするのであれば比較的簡単”と云う様には考えていなかった事に成る。
    普通の「平安期までに認証された氏」に比べて、「青木氏」は ”大変で異質で特異な立場” であって、「青木氏の者達」に課せられた負担は如何に大きく難しかった事が判る。

    勿論、「主導する者達」だけでは無く「一族郎党」までがこの事を認識し、「一族郎党」が露頭に迷う事の無い様に、故に「長の資質」に付いても上記する「家訓の深意」に示す様な「長の高い能力」を要求していたと考えられる。
    そして、自らもその「家訓10訓」を理解し率先して実践したと考えられる。
    況や、「訓」に「戒」を添えて「長の心得」も併記したと観られる。
    この事に依って「長」と「一族郎党」が「同じ訓戒」の中で生きて行く道筋を明示させたのであろう。
    ここが「青木氏の特長」(「長と一族郎党の習合」)と云える処だ。
    普通の「氏」であるのならその「長」は、「特別な立場」にあるから「長の心得」の様なものを作るであろう。然し、この「特異な立場」で「特別な立場」の「長」が、この「家訓の書式」にも「青木氏特有の繊細な配慮」が成されていたのである。
    真にこれも「青木氏の神仏習合」と同じく「長と一族郎党の習合」であろう。
    「青木氏」を語る時、諸事事如く見事にこの論調である。感嘆する程に見事である。
    況や、「神仏習合」から発した「古代密教の教示」を「家訓10訓」に収め、其処から発する思考原理である事に成る。
    これは「青木氏一族郎党」は如何に結束していたかを物語るものであるし、他氏では決して成し得ない仕儀であろう。
    何故ならば、他氏には比べものにならない程に、青木氏には「和」に基づく「特異な立場」の「悠久の歴史」を持っているからである。

    >「精神的負担」
    然し、この状態を維持する事は容易い事ではない。そこには、逆に他氏には理解出来ない何かが伸し掛かっていた筈である。
    では、”どの様に考えていたのか、又、何が負担として感じていたのか”と云う疑問が生まれる。
    それは、”「武の象徴」でありながら「道理の矛盾」で生きなければ成らない「和」の「商い」で、生きる事が大きな「精神的な負担」と成っていたのでは”と推測している。
    そもそも、それは「禁じ手の商い」の「禁じ手」とする「社会の慣習」にあったと観ていて、その「禁じ手」とする「慣習」の出所は、次ぎの2つの場合が考えられる。

    出所1 「氏や民からの発言」なのか
    出所2 「公家衆などからの発言」なのか
    と云う事であろう。

    この2つ場合に依っては ”「禁じ手」から来る青木氏の「精神的な負担」”は変わる。
    「禁じ手の商い」を採用している「青木氏の行動如何」を批判するのは、後者の「公家衆などからの非難発言」であった筈で、「青木氏」のちょっとした行動や組織運営や発言がそれを捉えて「非難発言の根拠」に成り、それが当時の社会では ”子孫存続に大きく左右していた”と考えられる。
    故に、「家訓10訓」で上記する「特異な立場」に支障を来たさない様に、一族を「古代密教の教え」の方に導き管理していたのであって、”それを主導する「長」は「普通の資質」の者では成立たなかった”と考えられるのです。
    そうなれば「長の資質」があったとしても「青木氏の特異な立場の国策」を果す実力と、それ以外に「相当な精神力」が必要とする事に成る筈で、「公家衆」を相手にする以上は、 「繊細で戦略的な先見眼」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
    その要求されるこの「精神力」は、「公家衆」を威圧する位の>「度量と人格」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
    そうで無ければ彼の有名を馳せた「公家衆の知力」に左右されてしまう事に成り、「絶対的子孫存続」は当然に成し得ない事に成る。これは組織云々の以前の問題であろう。
    ”「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」”とも成れば、先ず若い者では経験が左右する事である為に無理である。
    つまり、「公家衆のあらゆる癖」を見抜き把握しておかねば成らない事に成るからだ。
    そして、その読み取った癖から先手を打って「緻密で戦略的な先見眼」で読み取った策を抗する事で機先を制する事が出来る。
    この「繰り返しの経験」に依って「公家衆」を威圧する事が出来る様に成り、恐れさせて「青木氏」に対するが姿勢が変わる事に成る。
    それが可能に成らしめる「長」に対して、その時”「度量と人格」は備わった”と云われる事に成る。
    これは青木氏の特有の「陰の力」、即ち、「抑止力」が必要である。
    これも「武の力」に依らずに ”相手を警戒させ威圧する強い印象力” 即ち、「抑止力」である。
    当然に、「シンジケート」に依る「抑止力」も加わって「公家衆」に威圧を与えて、「子孫存続」に不必要な負担を排除するのである。
    これ等の印象が「青木氏の時の長」に加わり、更に、「緻密で戦略的な先見眼」を持つ「繊細な長」に、この「2つの抑止力」に依って「造り上げられた人物像」が加わり、結果として「他者」に「警戒心」を連想させて「別の人物像」が造り上げられるのである。
    「公家衆」等には、これに依って ”優れた「大者」”と感じ取らせるのである。
    これが「青木氏」に許された「和の戦略」 なのである。

    >「特記 家訓の経緯」
    経緯A
    上記した様な背景を持つこの「青木氏の家訓」には実はすごい歴史を持っている事が判る。
    そこで、敢えて此処で「青木氏の家訓の経緯」を述べて理解を更に深める。
    「青木氏」の始祖の「施基皇子」は、「天智天皇」(父)と「天武天皇」(伯父)と「持統天皇」(妹)のこの「前3人の天皇」の歴史上希に観る「優秀な宰相」を務めた「淨大一位の最高軍略の司」であった。
    (「淨大一位」は天皇に継ぐ位である。)
    「前3人の天皇」には極めて信任厚く時の「皇太子」より立場、身分、官職は上であった人物で、故に、大化期の「始祖の様な人物像」を「伝統的な資質」として求めている事がこの経緯から判る。
    ところで、この家訓(原型)の「長像」を作ったのは、「始祖の施基皇子」自らか、或いは、その後の数代後までの末裔の「長」が「施基皇子」を「模範人物」として「長の姿」をここに求めたのでは無いかと考えられる。
    それには次ぎに述べるある程度の根拠がある。
    「始祖施基皇子」の子の「光仁天皇」や孫の「桓武天皇」や曾孫の「嵯峨天皇」のこの「後3人の天皇」は、この「繊細な人物」であった事が歴史史実として判っていて、3人に夫々その様な「繊細な性格」での問題処理の仕方や事件を起こしている史実がある。
    (遺された歌詞からも「繊細な性格」であった事が評価されている)
    此処では詳しくは述べないが「豪の者」では無かった事がはっきりと判る。
    (この時代の政局は豪の者では八方に敵を作って務まらなかった筈)
    歴史学会では「平安初期の研究」が最近富みに進みその全容が解明されて来た。
    そこでこの3人に付いて少し検証してみるが、明らかに「繊細な資質」の持ち主であった事が判る。
    事程左様に、この同じ血筋を持つ「青木氏」にもこの血筋が流れていた事が予想が付く。
    そして、”この様な人物像を模範にした” と考えられるが、其処で、「青木氏とその家訓」を知る上で次ぎの様な歴史上の史実を最低は知って置く必要がある。

    経緯B
    先ず「光仁天皇」(709-782)は,「施基皇子の嫡子」(8歳で父と死別)として生まれていながら「皇位継承外」(朝臣族で賜姓族で臣下族)でありながら、「色々な背景」から天皇に推された人物(61歳即位)である。その天皇に成るまでの間の「前53年間」と、天皇に成った「後11年間」は実に波乱に満ちた人生経緯を持っている事が判る。
    先ず伊勢に居た「前53年間」に、伊勢北部の隣人伊賀人の「高野新笠」を夫人としている。
    その夫人は、「薩摩大隈」に定住していた住人の「後漢阿多倍王」が、その功績により朝廷より伊勢北部を更に半国割譲を受けて移り住んだが、その「帰化人の孫娘」である。
    恐らくは、「白壁王」として伊勢にいた時に「隣人の阿多倍王の孫娘」と知り合っていたのではないかと予想できる。
    この「伊勢青木氏の嫡子」であって8歳の時に施基皇子の跡目を継いだ「白壁王」は、「賜姓族」で「朝臣族」の「臣下族」の王位外であるが、「4人の伊勢青木氏嗣子」の中で特別に「施基皇子」(永代品位の資格保持)の嫡子として継承した為に、この継承者「白壁王」は、「春日王」と共に2人は王位に任じられた。

    (参考 4世族までが王位に任じられるが、この5世族の「春日王」は「栗隈王」と共に九州に赴任定住した。後に両王一族は同族血縁している。
    「施基皇子」には「四左京人」と呼ばれる4人の娘が居た。この4娘は歌に優れていた。「万葉集」にも歌が選句されている有名な歌人達である。)

    後の兄弟2人は兄が「光仁天皇」に成るに従って、例外的に「特別な新王」(770年)に任じられた。

    (「親王」と期されている書籍もあるが、正しくは「新王」である。この年に亡父「施基皇子」に「御春日宮天皇・田原天皇」の称号を送る。この天皇称号授受には意味があった。下記)

    この「光仁天皇(白壁王)」には、正妻の「聖武天皇」の「井上内親王」との間に出来た「他戸親王」が居た。
    ところが、この「井上内親王」と「他戸親王」が「ただ一人の遺子で女系皇族血縁者」であった事からそれを根拠に特別に「光仁天皇」に成り得た人物である。
    (「下記に経緯を詳細に論じる。)
    その経歴は極めて波乱万丈に満ちた生き方をした。
    ”61歳で即位した事”や”愚者を装った事”等から成りたくて成った天皇では無く、政変続きで殆どの親王や皇位後継者に類する者が粛清されると云う「恐怖政治」の状況の中で、酒をのみ愚者を装って粛清の渦中から逃げようとした人物であった。歴史上有名な事件であった。
    この為に、在位中に正妻の「井上内親王」やその子「他戸親王」の2人が暗殺されるなど悲惨な在位であった。
    この様に、明らかに”愚者を装うほどの繊細な人物” で攻撃的な性格の持ち主では無かった事が判っている。

    経緯C
    この時代は激しい政変劇を繰り返していた時代環境であったので、周囲をよく見渡して繊細にして戦略的に生きなければ成らない社会環境であった。

    (「近江令」や「善事撰集」の例に観る様に、「素養・修養・人格・度量の低下」の社会環境がこの時代にも解決されずにこれが原因となっていた証拠である。下記に論じる。)

    この様な環境の中での僅かに遺された歌から観る人物像も繊細である。
    この様な乱れた政界の中で、10年も上手く戦略的に立ち回った「繊細な人物」であった事が記録として遺されているが、「繊細な人物」、且つ、「長としての資質」を有する人物で無くてはこの在位期間を保てなかった筈である。
    歴史的には、”始祖の「施基皇子」に似ての資質を持つ人物であった” と評されている。
    その子の「桓武天皇」の「平安遷都の前後の波乱に満ちた行動」や「律令国家の完成と公布の時の態度」からその「繊細な性格的な事」が歴史学的に「平安初期の研究」で解明されている。
    「桓武天皇」は有名な天皇であった事からその人物を語る史実や歌が多く遺されている。
    「青木氏の守護神(神明社)」のところで論じたが、実家先の青木氏を排斥する等の繊細で辛い事を敢えてしてこれに堪えてする事をしながらも、自らが「青木氏の職務の神明社の建設」を代行して神明社20社も建設した繊細さが覗える。
    「嵯峨天皇」も「平安初期の父の施政」に対して異論を持ち、父兄に対しても「身内の戦い」をしてでも「繊細な感覚」で「施政や社会の有り様」を見抜いた意見を持っていて、天皇後に成った時にそれの実現に向けて歴史上最も多くの繊細な政治的な行動を採った人物でもある。
    この時の状況を歴史学的に「最近の研究」で解明されている。

    (「青木氏」に変えて「第6位皇子」の賜姓を「源氏」にし、その「源氏」に対して「賜姓族と朝臣族と臣下族」「3族の格式」を限定して落として、同族としての「青木氏の優位性」を保った。)

    矢張り、この研究から平安初期前後の「施基皇子の末裔3者」とも「繊細な感覚の持ち主」であった事が判る。歌も遺されているが繊細な歌調と評されている。

    経緯D
    この様な環境の中で、少なくとも、「嵯峨天皇」は、「青木氏」に変えて第6位皇子を朝臣族として「嵯峨源氏」を始めて賜姓した天皇であるとすると、この時、祖父の実家先の「伊勢青木氏」と「4家4流の賜姓族青木氏」は、それまでが「青木氏」であった賜姓が、急に「源氏」と変名され、詔勅でこれまでの「朝臣族の扱い」と違っていた事を非常に警戒した。
    (「桓武天皇の仕打ち」もあり、更に自分達も「特異な立場」の務めを外されるのではないかと警戒した)
    況して、「光仁天皇」から続く「政変粛清」の中であるとすると、その時の「青木氏一族」は「粛清の荒波」を受けてその存続をさえも危ぶむ事に必ず成っていた筈である。
    当然に「律令国家建設」を目指した「桓武天皇」は、実家先の親族を含む「皇親政治の5家5流の青木氏」を排斥した事もあって、「嵯峨天皇」はその「危機感」から何とかして「5家5流の一族」を救い纏める必要に迫られていた筈である。

    (青木氏だけは「3族の格式の限定」をそのままにして置くべきと考えた。だから、「青木氏の氏名」は使用の禁令を発し、皇族の者が下俗する際に用いる氏名と限定したのである。況や「皇族青木氏」の5氏である。)

    「近江令」や「善事撰集」の目的が「素養・修養訓」であった様に、この様な粛清が連鎖的に起る事には、「皇族・貴族・高位族」に連なる者の「素養や人格」に常習的な「社会的問題」としてあった事に成る。
    その為にも、この問題を解決すべく「青木氏」としては、その「特異の立場」を護る為に何か「統一した行動指針」なるものを敷いて、「護り本尊」の「生仏像様」の下に結束を強めたと考えられる。
    この時、その「行動指針」と成るものを「施基皇子」が全国を歩き回って集め各地の「慣習や仕来りや掟」等を集約編集した「善事撰集」を原案としたと考えられる。
    ただ、「公布中止」と成っていた100年後に「善事撰集」を突然に引っ張り出して原案とするには無理がある。この原案とするには其れなりの過程があった筈だ。

    経緯E
    その「善事撰集」にはこれ等を裏付けるはっきりとした経緯がある。それを先ず検証する。
    始祖の「施基皇子」の大化期の時に「公布中止(689年)」と成ったが、「5家5流の賜姓族(青木氏一族)」には「施基皇子の善事撰集」を無駄にする事無く、「青木氏の末裔」には「賜姓族としての生き様」(特異な立場)に「参考」程度にする様に「施基皇子」に依って「青木氏一族」に配布されていた事が考えられる。
    「善事撰集」は689年廃止で「施基皇子」716年没からこの間28年間があった。

    この間に上記した様に、「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」があって、その為に苦労して作った「善事撰集」を放り投げて、28年間の充分時間があっても何もしなかった事は考え難く、又、「国策氏」などの「特別な立場」を持っている「青木氏」が ”知らん顔”は通らない事からも、既に一族のものとして配布されていた事が充分に考えられる。
    それが「訓戒」までに至らないとしても、「慣習・仕来り・掟」等として参考程度の経緯があったと充分に考えられる。「参考か要領程度」のものであったと考えられる。
    (状況証拠より「要領」と観ている)
    普通に考えれば「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、何とかしようとして苦労して作った「施基皇子の善事撰集」を、「大化期3代天皇」の「宰相」として務めた程の優秀で賢い繊細な資質の持ち主の「施基皇子」自らや、その血筋を引いた「5家5流の一族」が、絶対に放置する事は先ず無かったと考えられる。
    「純血血縁の同族血縁」を繰り返している一族としては、むしろ、「持統天皇の指示」もあり、背後で積極的に自信を持って「公布運動」を起こしていたと考えられる。

    実は、この事に付いて「歴史上の経緯」で証明出来る根拠がある。
    「日本書紀」の記述に、「天智天皇」「天智天武」「持統天皇」の「大化期3代天皇」の施政代行者として各地に発生する諸問題を「施基皇子」に解決させていた事が詳細に記述されている処から、その経験を活かして「最後の仕事」して「善事撰集」の「司」として編集を妹の「持統天皇」に命じられた経緯が記録されている。
    (注意 「善事撰司」は「撰善言司」と表記するものもある。「撰善言集」や「善言撰集」の表現とするものもあるが、筆者は添書からその中の一つ「善事撰」が内容から相応しいとして選択している。)

    実は、その皇族や貴族の高位族の子弟に対して、その「素養・修養書物」として編集したとされる「善事撰集」(689年)の「取り扱い」では、正式に法令化はされなかったが、この結果、その文脈から臣下した「賜姓族の青木氏」の「素養・修養書物」として「要領か参考」にした事が読み取れる。
    この直前に「天智天皇」に依る「近江令」(671年)が公布されている事を考えると、この「善事撰集」の存在の意味合いが疑問視されるが、「近江令」との間で何かあった筈である。
    「近江令」も評判は良くなかった事は判っている事から、それから10年しか経過していないのである。
    2つ重ねて「類似の法令」を出す事は社会も変化していないし、同じ結果を招く事に成り考え難い。
    実は、この「近江令」の「令」としての内容には疑問視されていて、実際に公布しているものの実行されたかは異論異説のあるところで、その原因は「民事内容」の「令」で「刑罰」の「律」の内容が含んでいなかった事から実効性は無かった事が一つ挙げられる事、もう一つは「令」の民事の内容が修養を中心とした内容であった事から、公布したものの「実行性と実効性」とに欠けていた事が法学の歴史学的研究で判っている。

    経緯F
    恐らくは、「持統天皇」は、この反省から更に内容を高める為に実際の各地の民の中から集めたものを「善事撰集」として編集して「実行性」と「実効性」のあるものに仕上げようとして編集さられたものであろう。
    「善事撰集」は一応「素養・修養内容」とされているが、「天武天皇」の子供の学者「舎人親王」が編集した歴史書の「日本書紀」の中の文脈から推測すると、「慣習、仕来り、掟」の内容も含まれていて「律」に近い内容(慣習・仕来り・掟の類)も存在していた事が判る。(下記)

    つまり、10年前に公布した「日本初の法令」とされる「近江令の欠陥」を修正して、「令と律」を含めた「法令の形」を整えようとした事が「抵抗と反発」を受けたと見られる。
    皇族や貴族や高位族の者等から、”始めての事であった事から” 又、”人を律令で制御する”と云う風な事に、「法より人 石く薬」の考え方に染まっていた為に、 ”猛烈な「抵抗や反発」”を強く受けたと観られる。
    ”人を法令で制御する事”、”始めての経験である事”では、現世では、何時の世も”当然の成行きである事”ではある。
    別の面で、この「抵抗や反発」の真因は、編集者が「施基皇子」の「臣下した賜姓族の朝臣族」であった事も原因していた事も考えられる。
    それは上記した「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、「公家衆の性癖」(口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”)が大きく働いていたと考えられる。

    そこで「抵抗、反発」「社会環境の低下」の原因と成った事が実は歴史史実としてあるのだ。
    ただ単の「抵抗 反発」を受けた訳ではない。それならば朝廷は公布を中止する様な事は無い。
    そんな事としていたら施策は何時までも実行出来ない。何時の世も利害などが働きある程度の反対はある。
    当然に、他にも「公布中止」に至った「抵抗 反発」の大きな原因があった事に成る。
    そもそも、この時代は「中国の思想」が色濃く反映していた時代であったが、この時期の中国には、次ぎの
    >「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)  と云う同じ様な法令訓例があった。(近江令の原案説がある。)
    この「中国的な思考原理」が日本にも伝えられて大きな影響を受けていたのである。
    つまり、この「書籍の発刊」から読める事は、中国でも同じ様に「法と人の問題」に就いて社会問題として議論に成っていた事を意味する。
    だから発刊してそれが日本にも伝わったのであり、多くの皇族や貴族や高位族等に読まれたのである。
    この「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)が飛鳥−平安初期に入っている事が史実として確認されている。
    ただ、中国の場合はその「考え方の思考原理」が少し異なっていた。
    その中国でも振り返れば、「三国志の時代」の中でも、「劉備」が、国を興す理由としたのは、民の「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」を憂いての事であった。
    ”何故低下していたのか。”である。それは「中国」と云う「国の体質」から来ている。
    中国では「三国志」の昔から ”法より人”とする同様の社会風潮の独特の問題があった。
    現在でも「中国の思考原理」には、この”「法より人」「石は薬」”の「二つの考え方」が色濃く残っている。
    我々に本人には理解され難い思考原理である。これが「中国の国民性」というものであろう。

    経緯G
    そもそも、中国は多くの民族から成り立っているが、その「民族の融合化」と云うものは起こっていないと云っても良い程度ある。
    その原因は、”国土が広い”と云う事があって、「民族」が重なって生活をすると云う必要性がない事に因る。従って、「広大な国土」と「多くの民族」と云う事に成ると、統一した「法」で縛って統制する事は不可能である。
    「一民族」の「広い国」の中は全て同族である。因って、同じ風習、同環境の中で育った者には考え方や感覚が慣習に依って統一化されている為に、「法」で縛って統制するよりは「人」で纏めて維持する方が国は安定する事に成る。
    (中国の一民族の国は廻りを城壁で囲ってその中で民族が生活をする。その事に因って同習慣や同じ思考原理を統一させて人で統制する方式を採って来た。)
    その為に最早、長い歴史の中で遺伝的な思考原理が各種の民族の中で、この「2つの共通する思考原理」が育ったのである。
    然し、統一政権が代わる度に国境間で雑種が増えた。そして中にはその一部には逆の考え方をするものも増えて来たのであった。
    中国の >”「法より人」「石は薬」” の考え方の中に、この影響で”「人より法」 「石は石 薬は薬」”の考え方が社会の中に蔓延って、社会問題と成っていた時期の事を物語る書籍の発刊であった。
    その .>”「法より人」「石は薬」”の思考原理で書かれた「古今善言」 である。

    然し、これに反して、日本人は世界に希に成る独特の「7つの単一融合民族」から成り立っている。
    (他の幾つかの論文でも詳細に論じた。青木氏の守護神(神明社)」も参照)
    「狭い国土と島国」の中で「7つの民族」を纏めるには「民族毎」に考え方が異なっていては国は統制出来ない。統制するには、先ず「民族」を「融合化」させて、一つにした考え方に集約する必要性が起る。
    その「融合化」に依って、考え方が一つに成った事から統一した「法」で縛り統制する方法と成る。
    その上での「人」の考え方に成る。(日本はこのプロセスを歩んだ。)
    つまり、”「法より人」「石は薬」”よりは、 ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の思考原理が働く。
    ところが、「法」で統制した国には「人」の「心」を纏める方策が必要である。
    それが「皇祖神−子神−祖先神−神明社」であって、それを行うのは「青木氏」であって、「民族の融合化」の基点と成ったのが「青木氏」であって、それを推進する「国策氏」が「青木氏」であって、「人」の「民」を束ねる象徴で「臣下族の基点」が「青木氏」であって、「民の模範」とする氏が「青木氏」であって、「国の象徴」の「天皇」に対して、「氏の象徴」の青木氏であった。
    況や、真に「法と人」の「人の部分」を荷っていた「青木氏」で「国策氏」なのである。
    要するにこれが>「特異な立場」 なのである。

    従って、「青木氏」は一般より余計に「人より法」「石は石」「薬は薬」の考え方が強かった。
    (これが「善事撰集」の根幹である。)
    依って、この時代は ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方の中に、中国の「古今善言」等の全く「真逆の思考原理」の「中国の影響」を色濃く受けて、”「法より人」「石は薬」”の考え方が細菌の様にも「奈良期−平安初期」の社会の中に蔓延った時代であった。
    特に「素養と修養」の為に、この書物等を読んだ「皇族、貴族、高位族」の者が、この上記した中国の考え方に染まり、”「真逆の考え方」で思いがけない「抵抗と反発」を受けた”と考えられる。

    経緯H
    既に「別論文」や「青木氏の守護神」の論文でも詳しく論じたが、この時期は後漢200万人の渡来人の「帰化人」が、洪水の様に入国していた事もあり、同時に彼等の「進んだ技能」と「仏教の伝授」と「進んだ生活習慣」等の享受を受けて、生活が向上し、全ての国民は「彼等の中国文化」に対して疑う事無く「信頼と尊厳」を向けていた。
    その結果、「阿多倍王」等は無戦で関西以西32/66を征圧すると云う勢いであった。
    先ず、民では誰一人疑う者や敵視する者は無かった筈である。「日本書紀」にもその事が詳細に記述されている通りである。

    (この勲功で薩摩大隈と伊勢北部伊賀の「2つの半国割譲」を正式に受けた。「人」の国策氏の始祖施基皇子の伊勢国の半国割譲であった。「青木氏」とはこの時からの隣人の親交が始まった。不思議な取り合わせであった。)

    然し、この現象を危険視した者が2人居たのである。
    「「青木氏と守護神(神明社)」で詳しく論じた様に、特に阿多倍一族一門の勢力に因って起こっていた「以西と以北の自治問題」と「守護神の考え方」や上記した「社会の思考原理」で”国が割れる”と警戒していた。
    それは、第一次の初期には「大化期3代天皇」、第2次の中期には「平安初期3代天皇」、第3次の後期には「平安末期3代天皇」の「皇親政治」を行った「天皇」であり、その下に働いた皇親族の「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」であった。
    この3期の何れもが危機感を持ち政策を実行したが、全てこの「後漢人の考え方」の違い事が原因であった。

    (上記した様に、”「法より人」「石は薬」”の彼等に対して、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の「青木氏」はこの「帰化人の立場」と「真逆の立場」にあった事を意味する。
    これまた「特異な立場」な立場を証明する事である。)

    経緯I
    其処に、この「日本書紀」に記述されている様に、「国政」を進める「官僚」の殆どは、この「進んだ知識の帰化人」で、その「知識」で仕切られていたのである。
    「古今善言の影響」のみならず、それを「受け入れる体制」そのものが完全に漏れなく出来上がっていたのである。
    この「古今善言」などの「中国の影響」は、「人格、度量」は別としても、「素養・修養の低下」として社会の中に当然の様に現れたと観られる。現れない方がおかしい位に当然の成行きであった。

    この現象が「近江令」にも現れていると認識した一次の「持統天皇」は日本らしい考え方の「善事撰集」として造り上げる必要があると考え、「人の国策氏」で「大化期宰相」の兄の「施基皇子」にその経験を通して編集する様に命じたと解析される。(名称も類似している)
    恐らくは、周囲を見渡しても、この事の全てを理解した信頼でき適材な人物は、「青木氏の始祖の施基皇子」しか居なかったと考えられる。
    故に、況して、この「中国の影響」を受けて、上記した様に「精神的な負担」に成る「皇族」や「公家衆」の「素養・修養・人格・度量の低下」の中では、当然にその上記する「資質低下」に因って起る”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が猛烈にあった筈である。
    取分け「反発と抵抗」も熱に犯されたかの如く大きかったと考えられる。
    (この現象が「人」の「国策氏青木氏」に取っては上記した様に除し難い「精神的負担」に成っていた。)

    そこで「持統天皇」と「施基皇子」は、「古今善言」の影響も考慮して、この編集に当っては画期的な方策を講じたのである。
    先ず「7人の編者・賢者」を集めての力の入れ様で、当時で云えば、その顔ぶれは文句無しの各界の「最高の有識者」(官吏一人含む)で構成され、「国策氏・青木氏」の「始祖施基皇子」が自ら集めたものを編集すると云う画期的な形式を採った。
    現在の民主主義の「有識者会議の答申形式」であった。大化期社会にあって驚くほどに”極めて斬新な形式”で纏められたものであった。
    「近江令」の様に多くは「帰化人の官僚」が作り編集したとするものでは決して無かったのである。
    「古今善言」に負けない信頼される「善事撰集」に仕上げようとしたと考えられる。

    (編集する「帰化人の官吏」の上記する「法より人 石は薬」の考え方が、「近江令」には強く働いていた事があってか、「有識者会議の答申形式」を採ったと観られる。)

    「日本書紀」の記述によれば、丁度、この時期には、この「官僚の6割」は「後漢の帰化人」が占めていた事が書かれていて、「天武天皇」は、特別に ”速く倭人の官僚を育てる様に”と命じている記述がある位である。
    これは「古今善言」に限らず、「中国の影響」が官僚の中にも深く浸透して広がっている事を認識していた証拠なのである。
    上記した ”「中国の古今善言」”なのか、”「法より人」「石は薬」”の考え方が働いていたのかは確証する充分な史実が不祥であるが、上記した様に状況証拠で、確実に何かの影響を受けていた事が考えられ、故に、「日本書紀」の「天武天皇発言」があり、それを”匂わせる記述”(舎人親王)と成ったと観ている。
    何も無ければわざわざ”日常茶飯事の発言”を書かない筈である。何かあるから書いたのである。
    その「善事撰集」の「編集責任者」は、上記した様に、そもそも「大化期3代天皇」に渡る大化期の最高功労者の「施基皇子」であり、従兄の「施基皇子」が自ら集めたものであった事、そして公布中止と成った事から、その”悔しさ、残念さ”を何らかの方法で表現して、”公布中止”と成った「裏の史実」を記録として遺したかったのであろう事が読み取れる。

    経緯J
    この様に、先ず人物や編集形式等に誰一人文句の付け様がなかった筈である事、”文句の付けようがない上で編集されたものであった事”を史実として公に遺し、他に”中止の理由”があった事を匂わしたと状況証拠から読み取れる。

    恐らくは、”文句の付けようがない上での編集”にして”「抵抗と反発」の論処の一つを押さえ込む戦術に出た”と考えられる。
    然し、公布は中止されたのである。中止されたのには「日本書紀」が匂わす何か大きな他にも大きな理由があった筈である。「舎人親王」の表現したかった事を「官僚」と云うキーワードで表現したが、赤ら様に彼は言いきれていなかった筈である。むしろ、”書けなかった”が正しいと考えられる。
    「日本書紀」の「編集スタッフ」は全て「後漢の帰化人の官吏」(史部:ふみべ 「部」の長は「阿多倍王」の父の「阿智使王」 その配下の十二人)であった事が判っている。
    首魁の「阿多倍王」や「阿智使王」の卒いる後漢人や官吏等の考え方で中止に追い込まれたとでも書けば、それこそ「日本書紀」も中止に追い込まれる填めに成る。そんな事は出来なかった筈である。

    「青木氏の守護神(神明社)」−22の段で論じた様に、「青木氏の由緒」は「皇族朝臣族の賜姓族」と成り「真人族」まで含めた「純血の同族血縁族の5家5流賜姓族」であった。
    「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」でありながらも、皇族、貴族、高位族等の一般に云う「公家衆」等には家柄・身分・官位・官職一切が上位の「5家5流族」であった。
    時の「真人族」であっても、「賜姓族」「臣下族」は下位ではあるが、しかし上位であると云う「不思議な立場」(逆転現象)、即ち、上記する「特異な立場」にあった。

    (参考 元々、「始祖施基皇子」は天武天皇の皇太子の「浄広2位」に対し「淨大1位」で3ランク上の立場にあった。このような「特異な立場」にあった為に、この「賜姓族の立場」の「施基皇子と川島皇子」の二人は「他14人の皇子」等と「皇位継承争い」をしない事を吉野で永代で盟約した事で有名である。 吉野盟約)

    周囲はこの「特異な立場」を繊細に認識していた事を物語るものであり、その騒ぎを抑える為にも、向後の粛清の混乱を防ぐ為にも盟約した。
    母違い弟の「第7位皇子の川島皇子」も特別にその勲功により「近江の地名佐々木」で天智天皇より朝臣族で賜姓を受け同立場にあった。日本書紀にも記述)

    経緯K
    この様な中で、この公布されなかった事には、当然に「特異な立場の青木氏」に関わる事にも何かがあった筈である。
    其処で、”その何か”を探る必要がある。
    この「近江令」にしろ「善事撰集」にしろ共通するところは、要は「皇族」「貴族」と「八色の姓」の「高位族」の者が対象者であって、特にその子弟に宛がわれる意味合いを持って編集されたと云う事である。ここに先ず一つの意味がある。
    上記した様な原因で起った「素養・修養・人格・度量の低下」で、その後の「平安初期3代天皇期」は「政変劇化の粛清の嵐」に成っていた事でも判る様に、「純血血縁族の5家5流の青木氏」に於いても、「皇位継承外」で「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」で「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」で、どれを取っても本来は継承外であった。
    そもそも、「侍」の「臣下族」に成っている「氏」を構成する一族である。
    「臣下族」は当然に継承外であっても論外の立場であった。
    然し、「真人族を含む純血血縁族」であり、「不思議な立場」(逆転現象)の「特異な立場」であった事から、「政変劇化の粛清の嵐」は永代盟約を結んだ上でも例外とは見られて居なかったのである。
    (男系皇位継承者が居ない状況の中で流れに牽きこまれて行った。)
    むしろ、「白壁王」の例に観る様に、平安初期の「粛清の嵐」は「男系皇位継承者」が居なければ、次ぎは「逆転現象の青木氏」に向けられていた事は当然の事と考えられる。
    ”「臣下族」だ”等や”「吉野盟約」がある”等と言っていられない状況下にあった。
    然し、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」である限り、その身元を保障する為に「真人族」より何を取っても上位の位置に居た。逃れられない宿命であった。

    (口伝の厳しい戒め・絶対遺訓:「世に晒す事なかれ」この事から来ていると考えられる。)

    上記した「白壁王」の経緯がそれを物語る。「白壁王」が駄目ならば「他の一族の者」をと成るは必定であるし、政敵に取っては、「男系皇位継承者」がいない中で、「真人族」より上位の「臣下族」が居ると成ると”目の上の瘤”であろう。そうなれば、政敵から粛清を受ける事は必定に成る。

    (政敵とは女系継承論者の事 7代も続いた女系天皇の社会 女系天皇で利を大きく持っていた族の事で、匿名にして「有名で大きな有力な政敵団」がいた。)

    其処で、「善事撰集」が公布中止されたものの、政界は兎も角も、「青木氏」にとっては「特異な立場の青木氏」(3つの発祥源、国策氏、融合氏)を何が起ころうが絶対に護らねば成らない宿命を永代に帯びている。

    経緯L
    とすると、これを護り抜くには、何かしなくては成らない。
    そう成れば、上記した様に、先ずは「青木氏」の「法の立場」では無く「人の立場」である。
    そこで、この「青木氏」は ”その「人」を形成する事で「特異な立場」は護れる”と考えるが普通である。
    (「古代密教の教示の立場」にあった「青木氏」は別の考え方をした。)
    然し、この時期は「中国の思想」を大きく影響を受けていたとすると、”「法より人]の考え方の中で「人」を育てて「法」を求める”とする一見して矛盾する計画であった事に成る。
    そもそも、考えても根本からこの理屈はおかしい事に成る。
    「素養・修養・人格・度量の低下」を防ぐ為に、「法より人」の考えを優先するのであれば、「法」を敷く為に「人」を育てても「法」は守られない事に成る。
    完全な「論理矛盾」であった事が「青木氏」の中で間違い無く起こっていた事に成る。
    然し、「人」を育てなくては「氏の資質」は上がらない。これは「国策氏青木氏」としての「長の命題」であった。(これが「長の有り様」を重視する「青木氏の所以」である。)
    「青木氏の長」は上記した3つの「道理の矛盾」の立場にあって、尚且つ、この4つ目の「論理矛盾」を抱えた事に成る。
    「善事撰集」は日本に適した「人より法 石は石 薬は薬」の考え方の下に纏められたものである。
    その国が公布しなかった「善事撰集」は、「青木氏」に取っては、最早、「始祖の遺訓」である。
    これを先ず「青木氏」は優先して護らねば成らない。
    とすると、”「青木氏」だけは「古代密教の教示」に従っている” と成ると、周囲の「一般の思考原理」とは前提が異なる事と成る。
    その「古代密教の教示」とは、”何事も次ぎの様に成せ”と説いている。

    >・「2つの教示」
    >「三相の理を得て成せ」
    >「人を観て法を説け」

    「遺訓」(「善事撰集」)には以上の「2つの教示」が働いたと考えられる。

    (この2つは「家訓3」と「家訓5」に遺されている様に最も「伝統的な教示」であって、現在の末裔にまで代表的な考え方として”耳に蛸”の様に色濃く伝わっているが、この「2つの教示」は、「施基皇子の遺訓」(「善事撰集」)の中の一つであったと考えられる。)

    経緯M
    この「古代密教」の「2つの教示」を前提にすると成ると、”「法」を「氏」に敷いて「氏」を先ず固める必要があると成る。そして、「人」はその強いた環境の中で育てる”と成る。
    つまり、「青木氏」は「法と人の関係」は、「古代密教の教示」の「三相の理」で先ず考えた筈である。
    ”「法より人」「石は薬」”と、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方に付いては、「古代密教の教示」(2つの教示)から、”何れも正しい”と先ずはした筈である。
    然し、それは、「古代密教の教示」から、先ず一つの”「人、時、場」の「三相の条件」に因って異なる”と考えた事に成る。
    そこで、「法>人」=「法<人」とすると、次ぎの様に成る。

    「人」の要素は、「抵抗と反発」の「素養・修養の低下」と「特異な立場の青木氏」
    「時」の要素は、「政争と粛清」の「混乱期と危険な立場の青木氏」
    「場」の要素は、「都」と「賜姓族地の5家5流地」

    この三相で勘案すると、思考の優先順位は ”「時」>「場」>「人」である”と成る。

    この「配列如何」に関わる結論と成り、これが「長」の判断する「資質の有無」の差に成って現れる。

    (故に、「氏の行末」は、「古代密教の2つの教示」がある限りは、「長の資質の如何」に関わると「家訓」ではしつこく説いているのだ。そして、その「資質」を何度も論じるが「繊細な資質の人物」等と厳しく戒めている。)

    「古代密教の青木氏の教義」として「青木氏の長」はこれを考える力を常に強く要求されている。
    これには上記した様に、「繊細な資質」から来る「情報の取得能力」が要求され、「論理的思考」が要求され、これに「堪えうる精神力」が要求され、「戦略的な洞察力」が求められるのである。
    この「2つの教示」に関っているのだ。
    ”「長」がこの「資質」を備え、この「三相の理」で事の判断を成せば「氏」は救われる。”とし、この「青木氏の長」は、この時に、「時」>「場」>「人」と判断したのである。
    そうなれば、先ずは、「人の資質策」で云々の策ではなくて、同族で「純血血縁族」の「氏を固める策」を講じる必要がある。「同族血縁族」である「氏」を固めると成ると、「特異な立場」で共通し、同じ「義務と目的」に向かって邁進している以上は、「法」を以って統制して”身を固める”とする策に出る事が最も効果的である事に成る。
    その策の「法」は、必然的に、「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」であり、それ以外には無い事に成り、それを固めるに必要とする「氏に合った編集」に関わる事に成る。

    ・「時」の要素が、先ず優先的に解決する事が急務であり、「氏の存続」に大きく関わる「混乱期」では、先ず”身を固める”が道理、然すれば、身が固まれば ”「場」>「人」の対策に入る”が常道と成る。
    そして、それが下記に示す”「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」の編集経緯−1〜6”と成ったと考えられる。(家訓は詳細には次ぎの「6段階の経緯」を経た)

    ・「場」の要素としては 時の要素 で”「法」で統制して身を固めた”とすると、「法の適用する範囲」を要求される。
    それは一次的な範囲の「5家5流の氏の範囲」で限定して効果的にする為に行う事と成り、他の「場」の要素としては「女系・縁者等の色々な範囲」に拡げて「法」を適用しても、「最優先する時の要素」に対応出来ない。
    そこで「2次的な範囲」はその結果次第で、「漸次暫時」で対応する事の判断と成り、直ぐに今求めない事と成る。

    ・「人」の要素としては、「時」と「場」の要素の対応が叶えば、最後は「氏の資質」を高める事に成るが、但し、この際、「時」>「場」を優先した戦略と成っている以上は、「一族一門」と「一切の郎党」に至るまでに、この全てに同じ論調で資質を高めようとしても、”それは無理だ”とと説いている。無理だと成れば、ここが、「古代密教の教示」のもう一つの「人を観て法を説け」に従う事に成る。
    そもそも、現世の「政治基本」は何時の世も「法と人の関係」に依って成立っている。
    その「法」に対しては「青木氏の基本の思考原理」は「三相の理を得て成せ」であった。
    そして、「人」に対しては「人を観て法を説け」であるのだ。

    (「始祖施基皇子」は「政治の基本」の「法」の為に「善事撰集」を造ると共に、公布中止と成った暁には、「人」の「国策氏」として「2つの教示」の理念の下に「氏」に「善事撰集」を敷いたのである。)

    経緯N
    つまり、この「2つの教示」は、「青木氏」に執っては少なくとも、生きる為の「一対の教示」、況や、生きる為の「経道」である。「生きる」を「心」とすれば、「心経」と成る。
    この「古代密教の仏説」の「2つの教示」は「政治の基本」である事のみ成らず、「青木氏の心経」であって、故に、政治の「人」に関する基本的な事を実行する「国策氏」と成るのである。

    >(1)「2つの教示」=「青木氏の経道」
    >(2)「青木氏の心経」=「青木氏の経道」=「国策氏」
    >(3)「古代密教]=「2つの教示」=「政治の基本」
    >∴「国策氏」=「2つの教示」
    >(1)=(2)=(3)
    以上の数式論が成り立っていたのである。

    何故ならば、それはそもそも、>”「人を観て法を説け」の「古代密教の教示」” がある様に、”「法」を優先して説く以上は、「人の如何」(人の有り様)を考えよ”と成る。
    この「三相の理」に従う事のみ成らず、この「人を観て法を説け」の教示でも、根本的な文の構成は、「法」を説く事を前提にしている構成である。
    況や、 ”「法」をベースにして「人」の要素を考えよ”と成っている。
    決して、「法を観て人に説け」ではない。
    あくまでも、”「法」を優先して基本として、「人の有り様の如何」を考えて「智慧」を駆使して適応して「一律の法」を説け”と云っているのだ。
    ”「法の有り様]は普遍であるべきだ”と云う事に成る。
    この様に「2つの教示」からも「青木氏」に執っては「法」が基本に置かれている事が判る。
    決して、「法」<「人」では無い。

    (上記した様に、日本のこの時代の「古代密教」でも、明らかに「人より法」の思考原理に従っている事が判る。当然に「古代密教の教示」に従っていた「始祖施基皇子」は「善事撰集」には「人より法の考え方」で編集していた事の証明でもある。この社会の考え方の中に「古今善言」は真逆の異質の考え方が蔓延った証明と成る。)

    経緯O
    其処で、そもそも、この考え方に付いて、普通に考えれば多少の疑問が起るであろう。
    そもそも、”人を観て” は「普通の仏教」(他の仏教宗派)では、”民を低く観て、人を差別している事”と感情的に取られるであろう。
    この様な「説法」を僧が説く事は先ずあり得ない。そんな「説法」をすれば、”私達信者を馬鹿にしている”と成り、人は集まらないし、信心そのもの等はあり得無く成る。その前に先ず宗派は成立たなく成るだろう。
    僧が僧に説法するにしても、先ず説かれる未熟な僧が人である以上、説く人の人格に疑問を感じるであろう。先ず考えられない教示である。
    故に、要するにこれが「密教の所以」なのである。「教示」そのものがこの「現世の真理」であっても「未熟な人」に説く以上「真理」として扱えないものがある。
    そもそも、「説く」とは、その人が「未熟」であるから”説かれる”訳であり、「悟りの人」であればそれは「説く」とは成り得ない。
    「未熟の人」に「説法の差」を付けて故意的、恣意的に接する事はあり得ない。
    然し、これでは説法の「本当の意」を伝え得る事は出来ない。それは折角の「説法」の努力の効果が上がらない事に成る。

    (「古代密教」を経た「浄土宗密教」から「密教」の部分を外して、「一般の人・民」に説いた「親鸞」等の説法は、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏できる。然れば汝は救われん。」とした所以はここにあった。・「説法方式」の必要性を特段に意にしない「説話方式」での布教である。)

    「特定の氏」では無く、「不特定多数の人」を相手にしての布教である場合とは、「密教」と云う前提とは自ずとその説法は異なり、「人を観て法を説け」や「縁無き衆上動し難し」の様な「現世の真理」も話せる事で、その「説法の深意」は伝わるし、理解が深まり、事に当りその応用は可能と成り、強いては「人の資質」は高まる事に成るは必定である。
    これが「密教の利」と云われる所以である。「法」と「話」との「布教の違い」である。
    (平安末期に起った密教論争と後の宗教戦争はこの事の「有り様」の如何を議論された。)

    ”「同族の氏」の中で「氏」を構成する為に、その「氏の人」の「素養と修養」を高めて、より「氏の資質」を高める為に、その人にあった説き方をして「適時適切 適材適所」に効果を上げよ。”としているのである。
    これに比して「不特定多数」の「民」の「布教」の場合は、この「適時適切 適材適所」は無理であるし、先ず、時間的にも、振り分けも、出来ない事から不可能である。

    この様に、「特定」と「不特定」とには、その「教示の如何」が左右されるのが「宗教の所以」であり、「有り様」である。
    然し、此処では「氏の資質」を向上させる為の「説法」であり、仏法(「仏」が説く「法」=「現世の法則」)を理解させて応用させて「氏人」を育て「氏力」を高めなくては成らないのである。

    ”そもそも「人」夫々には、夫々の「資質、能力、性格」等を持っている。それに合わせて易しくか、難しくか、感情的にか、論理的にか、に「説」を考えて説き、導かなくては何事にも効果は成し得ない。”としているのである。真に、”智慧を使え”である。
    そもそも、「法」は”のり”であり、あくまでも”決まりの理屈で事の筋道(法則)”であり、「智慧の発露」の結晶である。「話」には、それは無く短編的な「事象の例」である。
    この様な「様々な人様」がある現世に、「人」を中心にして「纏まり」を求めても、「様々な人様」で「様々な判断」が起るから「社会」は纏まらない。
    従って、最低の「法の理解」も様々と成り、意味を成さない事に成る。
    つまり「法より人」の考え方は成立たない。終局は、”腐敗と無法治な社会と発展の無い社会”と成り得る。

    ”「人」それぞれには夫々の「資質、能力、性格」等を持っている”とする前提の現実社会である以上は「法より人」は成立たない。
    少なくとも、特に日本では上記した様に、論理的に成立たない考え方である。
    そこで、律令は「共通の慣習、仕来り、掟」 の中で編成した「取り決め」とする「基準の考え方」を「法」として敷き、その「編集した範囲」の中で護らなけれは成らない「最低の義務」とするものである。
    故に、「氏」の者に、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏出来る、然れば汝は救われん。」とする事はあり得ない事に成る。

    「密教を前提としている氏」に説く以上は、「氏の総合力」を高める為に「資質の向上」の効果を期待しなくては成らない。
    「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」には尚更であり、”決まりの理屈で事の筋道”の「法則」での効果を要求される立場にあった。決して、「話」ではなかった。

    経緯P
    ここで、では、現実には ”「氏」と云えども理解出来ない者”が一族郎党の中にどうしても初期の段階では生まれる。
    ”では、その者をどうすればよいのか”と成る単純な疑問が生まれる。
    (念の為にその答えを余談として記述して置く。)
    これに対しても、「古代密教」は、ある「教示」を出しているのだ。
    その答えの「古代密教の教示」は、>”「縁無き衆上動し難し。」” である。
    この「2つの教示」に繋がる大事な「密教の教示」である。
    これを「低い意味」で受け取れば、”馬鹿にして”と成る。「高い意味」で受け取れば、”浮世の真理を突いている。”と成る。
    (「氏」の中ではこの差を無くさなくてはならない宿命がある。)
    上記する「人を観て法を説け」の教示も同じである。
    解釈には、大変意味の持った教示であり、且つ、「解釈の幅」を変えれば大きな意味を持つ。
    これまた、”「縁無き衆上動し難し。」の教示は、”なかなか「密教」では無い「他宗派の説法」にする事は不可能である。先ず無い。
    ”どの様に説いても理解出来ない者は、もとより無理である。必要以上に説く事を諦めよ。それ以上は「自らの努力」に期待せよ。必要以上に説く事は反って弊害を生むのだ。「説く事」で逆効果を避けよ。無駄に効果を下げるな。 ”と成る。
    この現世は、「自らの努力」無くしては何事も成し得ないのだ。゜「自らの努力」は「氏」と「社会」の原動力の根幹だ。”と説いている事に成る。
    感情的に受け取れば、”厳しすぎる。見捨てるのか。薄情な”と成る。
    然し、「感情主観論」のこれでは「現世の真理」の追求は成し得ない。
    故に、事程左様に、”「長」は「論理的主観の資質」を強く常に持ち得ていなくては成らない。”としているのだ。
    これは、あくまでも「特定」の「氏」である以上は、ある「目的、義務、宿命」を持って生きている集団である。
    「密教の氏の説法」であって「不特定の民の説話」ではないのであり、欺瞞的で偽善的な事を大風呂敷を広げて出来もしない事を言っている訳にはいかないのである。
    現世はその様には理想的で感情主観的に出来てはいないのである。
    ”その様に在って欲しい”とする感情主観はあるにしても、「家訓9」の論では無いが、「煩悩から解脱し得ない者」が殆どであるこの現世では、現実的な「現世の真理」を会得して「長」は「氏」を絶対に守らねば成らないのである。
    その中で、この「古代密教の教示」は、”「絶対に護らなくては成らない教示」であり、況や、「習慣」であり、「仕来り」であり、「掟」であり、要するに”「氏の法」なのである。「氏の律」なのだ。”と成る。
    それを理解出来る者こそが「長の資質」を有する者として評価されるのである。
    故に、上記した様に「論理主観」を要求されるのだ。

    上記する「2つの教示」と”「縁無き衆上動し難し。」”等の「古代密教の教示」が「青木氏」に現在も遺されている事は、「善事撰集」にはこの様に厳しい「戒・律」もあった事を物語っている。
    これらの「古代密教の教示」以外にも、「青木氏」の「慣習、仕来り、掟」も「律」と見なされる事からも証しと成るのだ。

    実は、筆者の祖父の禅問答の遺品の中に発見されたものであるが、この、”「縁無き衆上動し難し。」”で真言密教の「高野山の僧」と問答した事があった様で、これを”正しく理解出来る者こそ悟りを得た”とする内容の問答であった。
    つまり、表向きの「文意」そのものでは無く「深意」「真意」を理解できる事が、悟りを得た者、即ち、「氏の長」が求められる「模範の資質」である事が判る。これが「密教の所以」なのである。
    禅宗の信者ではなかったが、「禅問答の師」の祖父は「古代浄土密教の継承者」であった。
    ”事の真理の悟りを図り合う問答方式”は、「禅宗」が坐禅と共に専門的に人を導く「僧の資質」を挙げる方法として用いたが、そもそも、この「問答」とは、元々、主に「三大密教」が学僧に用いていたものである。
    これを禅宗が一般の信者にも坐禅と共に広めたものである。
    この「禅宗の呼称」は、「坐禅の宗派」と云われるもので、曹洞宗・達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗の5宗から成り立っているが、本山永平寺で、「中国禅宗5山」の影響を強く受けた宗派である。
    故に、ここで云う「問答」とは、大化期前後に中国から伝わり、その原型が”「古代密教」の手法”として用いられたものである。それが脈々として祖父の代まで「伝統」として引き継がれて来たものである。
    ここにも「古代密教」の「青木氏の慣習」の一つとして伝わっているものである。
    この「問答をする堂」があり、「青木氏」ではこれを「画禅堂」と呼ばれ、「青木氏の慣習」の「接客の作法」と共に「特別な解人」と話をする堂があった。この「青木氏の接客作法の形」が「茶道の武家様」に変化したものである。

    この様に、上記の「密教の教示」に限らず、本論に記述していないが、青木氏には「古代密教の教示」と考えられる「慣習、仕来り、掟」が数多くある。(何時か機会を得て論じる)
    恐らくは、初期の段階では「青木氏の古代密教の教示」として「書」に収められて「纏」められていて、それが後に、「時代の遍歴」を経て「慣習、仕来り、掟」の形で伝わった物であろう事が判る。

    (明治35年の前まではこの作法等の要領を「書」の形で纏められていた事が口伝で伝えられている。
    「菩提寺の焼失」が原因で「書物」は焼失したので現在は「口伝の形」に成っている。)

    経緯Q
    因みに、ここで例を一つ、「青木氏の家訓10訓」には無いが、”曙に成せ。” と云う口伝がある。
    何とも簡単な「密教伝」であろうか。これも考え方に依れば「曙」に大きな意味があり、夜明けの「あさぼらけ」から「朝焼け」の中間に存在する”「曙」”をどのように理解するかで幾通りにも理解できる「意味の深い教え」である。
    有史来、「曙」には数え切れない程の意味を持っているが、その意味毎に”成せ”の語句をあてがう事で沢山の意味が生まれる。簡単な「成せ」の動詞にも動詞だけに「理解の幅」が生まれる。
    此処では一度発想を試みて頂くとして、「特異な立場の青木氏」を配慮してその意味の成す事を考えると、上記した事の様な事も理解出来る筈である。
    恐らくは、これも「古代密教の教示」であったと考えられ、「善事撰集」にあったものであろう。
    実は、この幅広い文意は「武田信玄の”風林火山”」に類似するもの考えられる。
    筆者は、この「密教伝」は「皇族賜姓族の甲斐青木氏」の血縁族「武田氏系青木氏」を通じて「武田氏」に伝わり、その「文意の一部」を「武家様」に編集された可能性があると見ているが確証は無い。

    >「政治のシナリオ」
    話を元に戻すとして、大化期の時では、”社会は完全に「法>人」の傾向にあった”と成る。
    「近江令、大宝律令、養老律令」等は、「中国の律令の模倣」である事は歴史学的に既に証明されていて、その模倣先の中国の律令も明確に成っている。
    この事から明らかに「法より人」「石は薬」の考え方が蔓延していた事は明白である。
    (下記の*印に詳細)
    だとすると、一方の「危機感」を持っていた天皇の「国レベル」では、到底、この「論理矛盾」を吸収する事は不可能であった事に成る。
    因って、「公布中止」と成ったとも考えられる。
    だとしたら、「為政者」は考える事はただ一つである。
    「近江令」の事が意識に残っている中で、次ぎの様な「政治的な判断」(シナリオ)をしたと考えられる。
    それは ”先ずは試して見よう”と云う事に成る。
    ”では、誰に”にと成り、直ぐに浮かぶのは、”「国策氏の青木氏」に、況して、編者の「施基皇子」等の「朝臣賜姓族氏」に” と成る事は、危機感を共有する限りは間違いはない。
    そして、”成果が上がり成功の暁には、「国レベル」でもやってもらおう”と成る。
    当然、国レベルでやるには「天皇」に成ってもらう事に成る。
    幸い「青木氏」は継承外だが、”その最低の品位体裁の資格は理屈を付ければ成し得る位置に居る”と考えて、そこで「臣下族の青木氏」の若い2代目の跡目に目を付けた。
    この時、「国策氏」だから青木氏の「跡目と一族」等は手を打った。 ”ある程度観て試して見よう。”と成る。10年程も待つまでも無く完全に効果が出た。
    そして、所期のシナリオの通り、若い2代目跡目「白壁王」も「長」として育った。
    25年位経った頃合で 3代目跡目(井上内親王の子の他戸親王)も育った。
    為政者側は、予定のシナリオ通りに「青木氏の2代目跡目」の ”「白壁王」にやらせて見よう”との機運と成った。その時、「青木氏の長」の「白壁王」はもう61歳であった。
    「天皇」としては、”青木氏の「民からの信頼と尊厳」とその間の「法の経験」から「抵抗と反発」に抗する事が出来る”と考えた。
    その為には、先ずは、この「青木氏推進派」は、出来るだけ反対を防ぐ為に ”他の親王の粛清をしなくては納まらない”と成る。
    これは最早、50年も経っているから「国の存立」に関わるのだ。
    「氏」より「国の存立」が優先されるから、これでも条件を整えたにも関らず抗する者は排除しなければ「国の存立」は成立たない。最早、猶予は無い。
    然し、それでも”内親王の女系天皇の継続を推す反対者が出た。政局は混乱するだろう”と成る。
    ”最早、女系天皇は類代7代も続いた。女系直系族に成って一人しか居なく成って仕舞っている。”
    ”拙い、血筋は絶える。” と成る。
    然し、残るは、”正規には ”「井上内親王」だけだ”と成る。
    そして、「井上内親王」は「白壁王」の正妻である。
    其処に「女系皇位継承者」の唯一人の「他戸親王」が居る。
    どの様に考えても、”「白壁王」しか居ない。”と答えは出る。
    其処で、「特異な立場」の ”青木氏は絶えしては成らない。2代目は弟の湯原新王と榎井新王に継がせよう。” と成る。(第4世族外で臣下族は対象外)
    そして、”今は「臣下族」に成って居るが、新しい「王位」を与えて皇族系にして置こう。”と成る。
    其処で、反対派の女系継承者側は、当然に「素養・修養・人格・度量の低下」なのだから、”親王粛清””内親王抹殺””白壁王暗殺”の粛清連鎖が起った。

    以上、この様に「善事撰集」の公布中止の本波は、「皇位継承問題」と絡んで歴史的経緯で観て上記の様な「シナリオ」が生まれ続いた事に成る。

    >「5家5流青木氏の危機」
    このシナリオの余波は「5家5流青木氏」にも伝わり、上記した様に「粛清連鎖の波」が当然に押し寄せていた。
    この時、「5家5流青木氏」も ”「白壁王」の事もある。”、”「特異な立場」にあるのだから引っ張り出される”、”危ない。何とかして護らねば「氏」は絶える。”と成り、そうなれば、”「生仏像様」の下に青木氏は一致結束しか無い。”と考えた。
    (そこで、上記の「古代密教の教示」に従う事に成った。)
    同様に低下していた同族の「純血血縁族」の「青木氏」に於いても、国が律令を公布して「素養修養の低下」を防がねば成らない筈であったが、然し、公布しないのなら、「国策氏」である限り、せめて「氏の単位」でも果さなければ成らない宿命を負った事に成る。
    (然し、この後の息子の桓武天皇に排斥された為に絶体絶命に落ち至った)
    そして、幸か不幸か始祖が編集したものであるとするならば、尚更の事であり、採用しない方がおかしい筈で、”「資質ある青木氏の長」はこれを「氏」に「遺訓」として必ず宛がえた”と考えるのが普通であろう。
    だから、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて効果を上げている「施基皇子の嫡子」に「白羽の矢」が当てられたと考えられる。
    そして、上記のシナリオの様に、その「青木氏一族」に、長年の願いであった「素養・修養・人格・度量の低下」の現象を食い止めさせて、”律令の本当の完成”を期待したと考えられる。

    故に、「桓武天皇の律令国家の完成」であって、「神明社20社の建設」(青木氏の守護神に明記)であって、その模範と成った「青木氏」を、律令国家の中で放置する事は、「御師様」「氏上様」と民から慕われて「信頼と尊厳」をより勝ち取っていた処に、為政者は「民の反発」を受ける事に成る。放置出来ない筈である。
    更に、無理に人気の挙がった青木氏を放置する事は、逆に「皇親政治」を助長し、真逆の「律令政治」の完成の障害と成る。(桓武天皇は考えた筈)
    ところが、この事の逆の考えでの「桓武天皇の青木氏の排斥」に会った事に成る。
    だから、「光仁天皇」は「青木氏」等を「新王」として造り上げて律令の体制を作りながらも「皇親政治」を敷いたが、この「路線の違い」が、次ぎの「桓武天皇」と子供の「嵯峨天皇」の身内の「路線争い」へと繋がった事に成る。
    更には、この時、「氏社会」では「素養・修養・人格・度量の低下」が起こっている中で、人の「衆目の的」と成っている「青木氏」には、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて、そろそろ効果を上げていた時期でもあった。
    況して、「天照大神」と民の主神とする「物造り神」の「豊受大神」を祭祀し、且つ「皇祖神−子神−祖先神」を護っている「氏」であるとすると、民の「信頼と尊厳」を勝ち得ない方がおかしい事に成る。
    筆者は、むしろ、この状況を観て、平安初期の各天皇は、「国策氏」である事を理由にして、”青木氏を利用した”と考える。それが上記のシナリオと成ったと考えられる。
    実家先でも有り、「3つの発祥源」でもあり、「国策氏」でもあり、「融合氏の源」でもあり、「武」より「和」を尊ぶ等の「青木氏の立場」を「為政者」であれば、むしろ、身内であればこそ利用しない方がおかしいと考えるし、「国策氏」として当然に利用される立場にもあった。
    これは当然の自然の成行きシナリオであった事に成る。

    「善事撰集」を国として公布するのでは無く、「大化期3代天皇」更には「文武、聖武、光仁の男系3代天皇」等は、変更して「試行氏」として、先ずは「青木氏」に敷いた事も考えられる。
    そして、”時間を掛けてその成果を観た”とするのが普通ではないか。その上で、「近江令」の様に失敗する事は2度と出来ない事から ”将来の律令国家建設に向けよう”と考えたと観られる。
    (この間、2つの律令が発せられた)
    それを桓武天皇が引き継ぎ、大きく編集と修正を加えて「律令」を敷いて「法」を基本にする「律令国家」を初期段階として完成させた事に成る。

    >*「注釈書」の「令解集」
    上記するシナリオから完全な律令施行の桓武天皇期(781-806)までは、時間は約90年も掛けた事に成る。この間では「大宝律令」(701)や「養老律令」(718・757)が、公布されたが中国唐の律令「永微律令」を参考模倣にした程度のもので、矢張り「近江令」の域を脱せず「令」に付いて説明する「注釈書」程度の「令解集・令集解」であった。
    上記した様に、中国の「法より人」「石は薬」の考え方から「人」の「令」を優先し、「法」の「律」は一部で終わっているものであった。
    その「令」も一般に「令解集」と呼ばれるもので「注釈書」程度の様なものであった。
    「養老律令」も「大宝律令」の注釈字句を改定した程度のもので、完成後40年間も施行されなかった。
    内容は「近江令」(689)と殆ど変わらない状況で、「律」と「令」共に散逸していて、「令解」の一部を「令」に仕立てたものであった。
    「3つの律令」があったにせよ、この時代は全て「令外法令」の形で「令解方式」(注釈書・説明書・添書)を基本にしてで進んだ。
    桓武期に、これを何とか「律」を充実させ、「令」を「法令」の形にまとめ上げたもので、「律令国家の体裁」を整えたのであった。この「体裁」を作り出す元にしたのが、「国策氏青木氏の善事撰集の試行」のシナリオであった観ている。

    >「訓戒の6経緯」
    「第0次の訓戒」 「参考」
    然し、この間、上記した様に「善事撰集」を導入した「青木氏」には「大きな成果」が出ていたが、その根拠は、衰退前後から「2足の草鞋策の商い」に中心に置いて立ち上がり直したのも、この「善事撰集」の御蔭で一族一致して「氏の資質」を高め頑張る事が出来た事でも判るのである。

    「善事撰集」の試行は、「白壁王」を天皇に据える事もこの「国策氏」の者であった事も一因であったと観られるが、確かに粛清から逃れる為に「愚者」を装った事もあるが、「国策氏」であった事の方が原因は大きかったと考えられる。
    故に、上記した様に「施基皇子」の「28年間」を(第0次の訓戒 「参考」)とする前提としている。
    青木氏の「善事撰集」を基本とする「訓戒の経緯」は、状況証拠から、次ぎの「6つの遍歴」を遂げたと考えられる。

    (第1次の訓戒 「心得」)
    そもそも、国にまだ充分な律令が完成してい無かったものを、発祥して150年経ったばかりの「青木氏」に「行動指針」なるものが元よりある訳ではないし、始祖が作った優れた手本が手もとにあるとすれば、願っても叶っても無い事であり「青木氏」に限らず誰でもが原案としない筈はない。
    むしろしない方がおかしい。
    国に答申した「善事撰集」である以上はこれを原案とする意外に無いし、国も試行案として「特異な立場」にある「青木氏」に使わさせる事はむしろ育てる意味も込めて歓迎であった筈である。
    それをいき成りは「家訓」とはせずに、ある程度の整理をして次には「参考」から「心得」にしたと考えられる。
    恐らくは、国に既存の律令とする概念も充分に育っていない処で、「氏を取り纏めるの家訓」と云う概念は未だ育っていなかった。その時、曲りなりにも「令解集」を使って「令外法令」を敷き、国に次第に「律令の国家」の体裁を敷いた事をきっかけに「3つの発祥源」、「国策氏」、「融合氏」として、始めてその概念を氏に育てる為に合わせて敷いた事が考えられる。
    (第1次の訓戒 「心得」)

    (第2次の訓戒 「行動指針」)
    この時に、第4世第4位皇子以内の「真人族」が持つ継承権に対して、「皇位継承順位外」であった第6位皇子の朝臣族・臣下族となった「施基皇子の家」(中大兄皇子の第3位王、孝徳−天智天皇下の第7位子、1皇子死亡下で第6位子、天智-天武天皇下では第6位皇子)に対して、「第4世族第6位皇子系族の伊勢青木氏」の「嫡子」であった「白壁王」を、奈良期に女系天皇が続いた事もあって天皇家継承者不足に落ち至った。そこで、依って「光仁天皇」として迎える事と成った。
    (参考 第4世族で第6位皇子の第5世孫 光仁天皇即位に依って2人の兄弟は特別に新王・親王に任じられる。従4位下から従2位下に成る。)
    この事で空席と成った「伊勢青木氏の嫡子」を引き継いだ者(湯原新王・榎井新王)等が、父の成した「善事撰集」(撰善言司)を「父の偉業・遺訓」として、これを遺す為にも、これを「統一した行動指針」として広く一族の「5家5流青木氏」に働きかけて遺したと考えるのが普通ではないか。
    その為には拘束力の無い「心得」から、一族の「行動」を統一させる程度の拘束力を備えた形にし、一族全体に通ずる内容(指針)に修正し編集してより現実のものとして纏めたと考えられる。
    (この二人は歌人で学者で書籍を遺した人物 湯原新王の娘の尾張女王は光仁天皇と純血婚)
    (第2次の訓戒 「行動指針」)

    (第3次の訓戒 「家訓原型」)
    その時、「施基皇子の善事撰集」は「伊勢青木氏」に既に「心得」の様な形で敷かれていたと考えられる。これが次第に修正が加えられて「嵯峨天皇」に依って徐々に「第2期皇親政治」が始まり再び「青木氏」は蘇って来たのであるが、完全に再興を遂げたのは「特別賜姓族の補完策」であった事から、「嵯峨天皇から円融天皇」までの間には「氏の家訓」(原型)として体裁を整えたものに成っていたと考えられる。
    (第3次の訓戒 「家訓原型」)

    (第4次の訓戒 「訓戒完成」)
    此処から既に「5家5流の青木氏」とは「母方血縁族」であった「特別賜姓族青木氏」が跡目に依る「同族血縁」を繰り返し116氏にも子孫は拡がる。
    この段階で「5家5流賜姓青木氏」と「116氏の特別賜姓族青木氏」は最早、母方血縁族では無く完全な一族の血縁族に成り得ていた。
    同族血縁的としては「1系族」と成っていたと考えられる。
    「特別賜姓族青木氏」の発祥は960年頃であり、「5家5流青木氏」から観た「2足の草鞋策」は1025年頃とすると、少なくとも家訓内容からこの60年の間にこの同族の血縁関係は完成していた事に成る。如何に盛んに跡目血縁をして同族血縁を積極的に施策として推進していたかが判る。
    この時は、家紋分析から116氏の内、既に約6割程度に拡大していた事が判る。
    その地域は「特別賜姓族青木氏」の赴任地−末裔発祥地24地域の内、7割程度に成っていた。
    この段階では「商いの記録」から観て、特に親交が強かったと観られるのは「7地域」で、ここには「融合青木氏」が発祥している。この事から「1系族」と成っていた証しであろう。
    この段階で青木氏の家訓の全てが完成していたと考えられる。
    (第4次の訓戒 「訓戒完成」)

    (第5次の訓戒 「家訓完成」)
    この時、「参考」−「心得」−「行動指針」−「家訓原型」−「訓戒完成」の経緯を辿ったと考えられるが、「家訓原型」に至る処では「行動指針」の内容を「訓」「戒」「慣習」「仕来り」「掟」等に分類されたと観られる。
    「2つの添書」や「家紋掟」や「口伝」や「商記録」や「神明社記録」や「菩提寺遺記録」等を考察すると分類されていた事が判る。
    そして、「訓」と「戒」が一つに成ったのはこれより100年程度後の頃では無いかと考えられ、現在の形に整えられたと観られる。
    この段階で皇族賜姓族25氏、特別賜姓族116氏、末裔発祥地24地域は完了していた事が判る。
    (第5次の訓戒 「家訓完成」)

    (第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)
    「平易な表現」に編集されたのは室町期中期前ではないかと観られる。
    何故ならば、「室町文化」の「紙文化」と呼ばれる時期にはその殖産から販売までを1手に担う紙問屋の「2足の草鞋策」で「巨万の富」を獲得して青木氏は最大の力を有していた。
    この事から、「2つの血縁青木氏」のその「組織体が拡大」し、それに伴ない枝葉の末裔子孫の拡大が大きく成った事や、「神明社系建設」が一挙に進み、「氏や民」からの「信頼と尊厳」を更に維持しなければ成らなく成り、その事から一族全体隅々までその「特異な立場」を護る為に誰でもが理解できる様に表現を平易に編集したと考えられる。
    「家庭の末端」が乱れていては「信頼と尊厳」は低下し、「特異な立場」は霧消に終わり、「青木氏の存続」は保証出来ない事と成ろう。”実った稲穂は頭を垂れる”の例えである。
    「家庭」と「長」との「訓」と「戒」が「一つの繋がり表現」の中で同時に関連して認識させて理解させられる「家訓」に編集したと観られる。
    その為に「訓」と「戒」を一体化にした為にその絡みを「添書」類に説明書の様な形で書き添えたと観られる。
    その前の「添書」は「慣習」「仕来り」「掟」等に分類され「訓戒の設定経緯」等が主に書かれていた事が読み取れる。
    (第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)

    >「律」の状況
    「慣習、仕来り、掟」
    上記の様に、「6つの遍歴」を経て今日に伝えられたと考えられる。その「家訓」(訓と戒)と「古代密教の教示」類や「慣習、仕来り、掟」類のこの「3つの内容」は、「善事撰集」の内容の一部と成っていたと考えられる。
    ただ、この「3つの内容」にはどうも「律」に関する事がはっきりしない。
    この「律」に関する事は、明治35年の「菩提寺焼失」までは何らかの形で青木氏に書籍化して保存されていたことが判っている。
    そこで、この「律」に付いてどの様に「青木氏」では扱われていたかを遺された資料記録から検証して見る。
    それは、生活に直接結び付いている「慣習、仕来り、掟」の中に潜んでいると考えられる。
    何かを物語るものが必ずある筈で、その事を次ぎに論じる。
    先ず、「慣習」に付いては、特段には、盆暮、正月、彼岸、命日、冠婚葬祭などがある。
    これらに付いてはその「慣習」は現在遺されているものでも、これ等は明らかに周囲と異なっている事が判る。
    その異なりに答えがあると考えられる。何故ならば、この「慣習、仕来り、掟」には、その時代性の中で問題無く円滑に進めて行くべき「規則的なあるべき姿」が必ず潜んでいる。
    それでこそ「慣習、仕来り、掟」であって、「規則的なあるべき姿」を判りやすく生活の中に維持しているのであるのだ。
    つまり、「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」であって、伊達に特異な立場だからと云って形式張っている訳ではない。
    況して、現在では最早ない慣習であり、”「氏家制度」の大化期からの社会構造と時代性”なのである。現在の様に、「律」と「令」が完全に法令化して完成している訳ではない。
    上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が色濃く占めている社会の中では、「慣習、仕来り、掟」の中に潜ませて護る様にしているものであって、その「慣習、仕来り、掟」を犯せば社会からはみ出すのである。
    つまり、少なくとも「武家社会」に入る前の「平安末期」までは次ぎの様な数式論に成るのだ。

    >「慣習、仕来り、掟」=「律」
    >「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」
    >∴「規則的なあるべき姿」=「律」
    上記の数式論が成立つのである。

    となれば、その数式論を的確に表現しているのは、縷々上記した様に「特異な立場」の「唯一の氏」の「青木氏」である事に成る。
    青木氏以外に「慣習、仕来り、掟」の中に幅広く潜ませられる「氏」は他に無く、筆者の論理では、この青木氏の「慣習、仕来り、掟」が他氏へと広がって行ったと考えている。
    何故ならば、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」が「慣習、仕来り、掟の源」であるからで、「青木氏」よりこの立場を持つ氏は他に無いし、「善事撰集」の氏に敷いたのは青木氏である。
    この「慣習、仕来り、掟」は、その大元は上記した様に「善事撰集」にあるとしている。他にあるとするならば教えて欲しい。無い筈である。
    逆に云えば、この「律令の歴史事の経緯」を網羅するには「青木氏の努力」以外には無い事に成る。
    故に、難しいがその内容を牽き出して敢えて可能な範囲で先ずは「慣習」から例を以って網羅する。

    ・「慣習」
    (「接客の要領」)
    先ず、青木氏の「慣習、仕来り、掟」の中で、「日常の慣習」に付いても「接客の要領」(「面談の要領」)が格段に異なっているので先ずこれを紹介する。

    「接客の要領」であるが、「客」が訪れた場合の「客を導く方法」では、先ず、客を3種に分けていた。
    それは「常人、註人、解人」で、「人」の字句は「客」としている部分もある。
    要するに「下中上」の事ではないかと観られ、「常人」はいつも来る人、「註人」は注意を要する人、「解人」は解する人、つまり、理解しなくては成らない人で、「重要な人」の扱いである。
    先ずは、「接客する入口」では、「解人」は正門口から玄関、「註人」は正門横の戸口から横口玄関、「常人」は裏門から政処口(台所口)と成っていた。
    「客に対応する人」では、「解人」は家人、「註人」は書生(執事)、「常人」は男仕と成っていた。(男仕はおとこし、女仕はおなごしと読む 商用客は女仕で別)
    「接待の内容」もこの3種に依って原則異なっていたし、「茶」などの「持成し方」も違っていて、現在で云えば、「茶道の作法」に近い形に基づいていた。
    むしろ、この「茶道」はこの「接待時の茶の出し方の慣習」が室町期中期頃から「茶道」と成ったと観ている。原型であったと考えている。(ただ、「武家様」に簡略化されていると観られる。)
    「茶道」の「道」と成る前は、”上位階級の「接客の作法」”として存在していたのである。
    室町期中期以降の「茶道」は「上記の内容」や「下記の内容」を加えたこの慣習から道化させたのでは無いかと考えられる。

    (「千利休」は堺商人、堺には伊勢松阪の青木長兵衛の「紙屋長兵衛の3店舗」があり、何らかの繋がりはあった事から伝わったか、武家社会に成った事から無骨な武士の人間関係を解す為に、”上位階級の「接客の作法」”を「武家様」に改善してそれを一つの「社交マナー」に変身させたものであろう。つまりは、その大元は青木氏にあったと説いている。)

    つまり、上記の内容に従い、「茶の種類」と「菓子の種類」と「茶器の種類」の違いを付けていた。

    (この違いは残されて用具でも観られるが、この「古い茶器一切」は「遺品」として今も遺されている。茶と菓子には意味合いが大して無いので割愛する)

    「茶器」には武家の様に「器」を直ぐに掌の上に載せて飲むのでは無く、「瓶」とする「器台」に載せてそれを持って「一回廻しの3回半」で飲む作法である。この「瓶」は「高瓶」と「低瓶」と「茶座」と「茶敷」の4つに分けられていた。「座卓」では無い。「茶敷」は客人ではない「歌会」などで用いていた。(歌会では全て同位として「解人」の扱い。 僧侶は解人)
    この「3つの茶瓶」は上記の「客人の位種」に依って変えられていた。
    「高瓶」(高さ5寸で二重に成った3寸の薄椀の下に一握りできる程度の湾曲の足柱が着いていて裾広がりに成った器)は高位族と武家に解人、「低瓶」(3寸)は公家に解人、「茶座」(茶台1寸)は中位に註人、「茶敷」は一般に常人で「使用別け」される。朱色と黒色の漆瓶器で朱色金入は冠婚、黒漆器は葬祭に使い分ける。通常は木肌色か朱色の漆瓶器である。

    (公家は武家では無く慣習が「低瓶」が作法 低く観ていた訳ではない。)

    又、「上がる室」も異なり「3段の部屋造」で、上段間は「解人」、中段間は「注人」、下段の間は「常人」に通していた。
    「常人」は下段の「玄関間」止まりで床から2段で3尺(0.9M)の高さ、「注人」は中段の「控え間」止まりで玄関間より3寸の高さ、「解人」は上段の「本座敷」(座敷は正副があった)で更に3寸の高さにあった。

    (玄関間は座って客人と挨拶する時の目の高さが同じ様に成る位置にあり、部屋の大きさは畳2畳−一坪に「飾り棚や仕舞棚」などがあり、「氏の象徴」に成る品が置いてあるので6畳あり、玄関床も6畳−3坪)

    この接客には、順序があって、家の主人に面会する時は、「玄関間−控間−仏間−座敷」と何れも客間であるが、玄関間は「常人」、控間は「註人」、「解人」は玄関間から座敷へと次第に変化して進んで行く。ただ、この時は、必ず「仏間座敷」(北に位置し南向き)に通る事が前提で、ここで主人と話して終わる場合がある。
    本座敷(10畳)には、床間が東に位置し西向きにあり、3寸高い位置にあって、この前には客は座らない。主人は西又は南向きに座る。従って、「解人」は北側に位置して南向きに座る。西隣りは副座敷(10畳−控間がある)があり西には一切座らない。「解人」は結局は仏間を背にする事に成るので、失礼の無い様に仏間(2坪)の仏壇(2坪−生仏像様 横に安置)に先ず手を合わせる事の慣習に成る。
    北は「鬼門」と呼ばれ、決して犯しては成らない位置として決められていて、「神−天皇」の御住の方向として守られる。その為に、「解人」は北に向かって座らない事に成る。(全て廻りは襖)

    (鬼は決して怖い者では無く、神を護る人として3世紀より「鬼道」と云う「自然神」の信仰対象であって、平安末期まで神の一種の「鬼神」として崇められていた。
    「鬼」は悪い事をすれば神に代わって懲らしめる者であった為に、「人」は懲らしめられる鬼を怖がったものであり、それが今では「悪魔」の様に間違えられて考えられている。これも重要な慣習の一つである。日本書紀に雷神と風神と共に神として記述がある)

    主人との面談の対話には、畳一枚分を離して話す。
    (筆者の時代の記憶では毎日客列を成していた。過去の口伝もあった。)
    「床間」は家の一番高い位置にあり、この ”神が位置する座処”としての習慣であって、「神座」或いは「上座」と呼ばれていた。
    今では古い家でも無い所が殆どで、有っても飾り物を置く場所と成っている。室間が3段に成っているのはこの習慣からである。床間には家の者は絶対に背を向けては座らない。
    上記の慣習は「武家様」とはかなり異なっている。この家の間取りや慣習で古い屋敷を観ればどの程度の氏の家であったかは判る様に成っていて一定の形式が定められていた。
    上記の慣習には、家の「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として定め、上記の「接客の慣習」に限らずその中の要領に潜ませたと考えられる。
    「冠婚葬祭の慣習の要領」の中にも「青木氏の特異性」がある。(何時か披露の機会を得て投稿)

    鎌倉期からはこれ等の慣習は、「武家の有り様」としても用いられて、この大化期からの「特異な立場」の「青木氏の慣習」が、「武家様」に変化させて採用され伝わったものであると考えられる。
    現在に「古式豊か」として伝えられている様式は全て「武家様」である。
    その大元は、「武の象徴の青木氏の慣習」から伝播したと考えられる。

    >「善事撰集」(「注釈書形式」)
    そもそも、この大元は「善事撰集」と「古代密教の教示」にあった。更に云えば、「古代密教の教示」の考え方から「善事撰集」の内容項目と成っていたと考えられる。
    この上記した「接客の要領等の慣習」は、ただ単に「接客」と云うテーマでの「習慣の内容」と成っているが、恐らくは、「善事撰集」では、この要領の「青木氏の接客要領」とは無関係に「根本の考え方」を網羅させていたと考えられる。
    (「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として別の「具体的な表現」で以って書かれていた事が覗える。
    「青木氏」ではそれを「接客慣習」と云う形で、この「根本の考え方」を教え伝えたと云うことである。
    つまり、「国」を始めとして「組織」(氏家)を維持して事を処置するには、この「根本の考え方」が必要であった事を意味している。
    何故ならば、上記した様に、奈良期に編集された「3つの律令」は、全て”「注釈書形式」”の”「令解集」”であった事でも判る。
    何か一つの慣習に準えて、その「令」と少ない「律」を説明したものであるからだ。
    例えば、「接客」に例を求めたとして、”接客ではこの様に成るから、何々に付いてはこの様に考えて処置せよ。もしこの要領・作法を違えた場合は、組織を維持し守るべく規則を守らない事に成るから一族から阻害される”とする注釈を付けて「解釈書」を造れば、「令」と”阻害”の意味を以って「律」と成る。
    上記した様に、「養老律令」は、「大宝律令の表現内容」の「表現字句」を変更したとされる処から考えれば、例えば、”阻害”を「追放」に変更した等の「律」をより明確にさせて、増やしての「改訂」を実行したと云う事であろう。
    この「3つの律令」はこの様なものであった事に成る。これが「注釈書の令解集」方式であった。

    兎も角も、上記の「青木氏の慣習例」には「共通な事」として、全て、”「身分」と「格式」と「氏・家柄」と「品位」”が事の隅々まで組み込まれた扱いと成っている。
    大化期から「八色の姓(天武天皇)」を始めとして、「社会を階級制度」で「令外法令」を定めて構築を開始した。(日本書紀にも明記)
    この事から、「天武−持統期の善事撰集」にもこの「階級制度」を維持する内容が組み込まれていたと考えられる。
    それを「特異な立場」の「国策氏」の”「青木氏の慣習」の中に編集した”ものであろう。
    次にこの慣習よりも更に色濃く出ているのが「仕来り」である。
    上記の事(善事撰集の表現)をより証明するものと成る。

    (まさに「家訓10」を物語る慣習がある。それは「嫁取り」の考え方である。
    「嫁」は「嫁」として扱わず「自分の娘」としての考え方が強く、その嫁の「愛娘」に息子を託す。その「託し方」の考え方が世間と異なっている。自分達が育てていた「息子」を、今度はこの「愛娘」に母代わりとして引き継いで育ててもらうと云う考え方が強く、要は”「バトンタッチ方式」を採るのだ”とする考え方である。
    従って、息子達の子供、つまり、”孫と息子を子供”としての考え方で、孫が3人居るとすると、「4人の子供」として、この「嫁の愛娘」に育てる事を託す考え方で接すると云う慣習を採る。因って、孫は「子供」としての考え方をする。そして、この「4人の子供」の育て方は、”お釈迦さまの掌で育てる”と云う事を「愛娘」に教える。代々この考え方の継承を続けて現在まで伝えられている。
    「嫁の愛娘」もほぼ同じ「古代密教」のこの考え方の環境の中で育てられていた事からも円滑に進んでいた筈である。同じ「神仏習合の青木氏」である事から「冠婚葬祭の慣習」に付いても違和感は無かったと考えられる。
    明らかにこれらの考え方は「古代密教の考え方」で、「純血の血縁族」である所以から来ている「古代密教の古式慣習」である事が判る。
    「跡目継承」や「婿養子」や「貰子」等の「同族間の慣習」と同じく、この「嫁取りの慣習」も遠縁から「嫁」として迎えても「純潔性」が高い事から「愛娘」としての感覚の方が強かったと観られる。むしろ、強い感覚も然る事ながら「家訓10」を浸透させる上でも、この「バトンタッチ方式」に成っていて、内部の細部の慣習も氏のみならず、「特異な立場を保つ考え方」に成っていた事を物語るものである。
    「嫁の愛娘」に限らず「実娘の婿」に於いても、”「女・娘」が「夫」を「子供」として「釈迦の掌」で「家長」に育てる。「親」はそれを見守る” の慣習で、一見して「夫=子供」は矛盾するが、「釈迦の掌」の考え方がこの矛盾を解決する。
    「芽淳王女」の様に「・・女」と書いて”むすめ”と読むのはこの慣習から来ている。「郎女 いらつめ」の語も同じ慣習から来ている。
    この「釈迦の掌」をどのように理解するかはその「娘・女」の資質に関わるが、”これを補完するのが「親の守るべき立場・役目」であって、「娘・女」と「息子」に「直接の口出し」は「禁じ手」とする。” と成る。
    因って、「家の如何」は、家訓で「息子の長」の資質如何を強調しているが、そうでは無くて、「裏の戒言」では、 ”女が家を潰す”と成っている。
    この場合の「女:むすめ」とは、「親の女」と「愛娘の女」と「実娘の女」の事で、その「両者の出方如何」に関わるから ”女が家を潰す” 事の戒めに成っている。
    普通なら、”女が家を育てる” と成る筈であるが、これでは「訓」に成るのであくまでも「戒め」として言い伝えられたものである。「訓」では無く「戒」である事に意味を持っている。
    それは、「家訓1」と「家訓2」の言葉を置き換える事で、この両者のあるべき姿を説いている事に成る。
    この考え方は現在も引き継いでいるが、当初、息子の「嫁の愛娘」は、この様な考え方にびっくりしていたが、何はともあれ ”「4人の子供」” の考える事に驚いていた。今はすっかり馴染んでいる。実母より義母に些細な事でも何でも相談するし、嫁の実母も驚いている。
    一氏家の運営の事の真理を突いている慣習と考える。
    「古代密教の古式慣習」ではあるが、これらの伝統を失った青木氏ももう一度この考え方を一考しては如何。)

    ”子孫を遺す事に一義あり” はこの様な考え方の上に成り立って子孫を遺そうとしていたのである。

    ・「仕来り」
    「仕来り」に付いては、「慣習」よりより守らなくては成らない「規則」の意味合いを持っているが、従って、当然にその「規則」に故意的に違反すれば、「氏や家の秩序」を乱す事に成り、この様な事が頻繁に起これば、周囲に示しが付かなく成り放置出来無くなる。
    当然に何らかの形で罰せられる事が起る。そう成れば、何度も重なれば罰則に不平等が起こる事から「律」を幾つかの程度に応じて決める事の次第に成る。
    恐らくは「仕来り」には「罰則」がはっきりと設けられていたと考える。

    実は、「青木氏の古い商記録」から「シンジケート」の一員に「経済支援の遅延策」を処置した様な記録が書き記されている。何か「仕来りの秩序」を乱す様な事件があったのであろう事が判る。
    定められた「仕来り」に依って明らかに罰せられた事が判る。

    上記した様に、「青木氏の慣習」の共通概念は、「身分、格式、品位」を汚す事が無い様にする為の「重要な要領(作法)」であったが、「青木氏の仕来り」の「共通概念」を調べると、結局は「特異な立場」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を維持する為の「重要な規則」に限定されていた事が読み解ける。
    その内容から集約して読み取れる事は次ぎの様なものと成っている。
    何れもその罰則の「律」に価するものは、「仕来り」>「慣習」の関係にあって、「仕来り」は「明確で具体的に表現」で、「慣習」は「大まかで抽象的な表現」である事に気付く。

    >「律の4原則」

    >「慣習」 →「要領」→「抽象的な表現」
    >「仕来り」→「規則」→「具体的な表現」

    >「家単位」→「合議制」←「全員一致の原則」
    >「氏単位」→「衆議制」←「過半数一致の原則」

    恐らくは、「善事撰集」には、先ず慣習として上記の様な事を定める事を促していたと考えられる。
    「慣習」は、上記の様なルールで「衆議制」と「合議制」を採用していた模様で、記録は律に成るものとしては少ない。筆者伊勢青木氏は「四家と一家」で構成されていた事から集まって「合議制」で決していたのであろう。
    「慣習」に付いては5家5流間の問題は夫々の「長」が集まって「衆議」で行われていた事が読み取れる。
    かなり、今から観ても、「合理的で民主主義的」なものとして定めていた事に驚く。

    (上記した「善事撰集」編集者7人の人選も「有識者会議での編集手法」で画期的であった)

    大事な意味として、これは「武」でありながらも「和」で社会を構築しようと「善事撰集」では考えてその内容に強く反映させていた事を意味する。
    況や、これぞ「始祖施基皇子」の「青木氏」の ”「武の象徴」は「和」を以って尊ぶ”に一致している。(この事は「掟」でも更に証明される)

    平安末期以降の「特別賜姓族」も、何度も記述しているが、「格式、品位、官位、官職」等の一切を同じとして発祥した事から「伝統の慣習」も副ったが、藤原秀郷流一族一門との「横の関係」もあった事、「第2の宗家の立場」もあった事から「特別賜姓族」の中で「衆議制」を採り独自に行われていた模様で何かを物語る記録は発見されない。
    (菩提寺焼失が無ければ明確に成った可能性もあるが)

    (注釈 「特別賜姓族」は、当初は「皇族賜姓族」とは「母方血縁族」であったが、後には、「祖先神の守護神神明社建立」を通じて「跡目血縁」を盛んに積極的に続けた事から、最終は「完全な同族」に成っているし、「融合青木氏」も発祥する程に成っている。
    この事から、「初期の流れ」が異なっていたと云う差異程度と成っている。ただ、「横の関係」に「特別賜姓族」116氏には「藤原秀郷一門」と云う日本一の超大豪族361氏が繋がっていて、「第2の宗家」でもある事から、「論じる時の違いの正確さ」を出す為に表現を区別して出している。故に、上記の「律の4原則」に従って、「慣習の処罰」は独自に行っていたと考えられる。)

    然し、「仕来り」は青木氏全体に及ぼす問題であって、1家だけに及ぶ問題ではなかった事から、物語る資料記録が焼失で不明と成っているが、5家5流間での大化期からの「律」を「特別賜姓族」にも提示して調整していた事が考えられる。
    それは「特別賜姓族の伊勢青木氏」には、特別賜姓族116氏の中では「特別な経緯」があるのだ。
    それは「秀郷の祖父」の「藤成」が「青木氏衰退期」に「皇族賜姓伊勢青木氏」に代わって「伊勢の国司代」を数年務めた関係から、秀郷の「千国の青木氏」が正式に認められた時には、伊勢では既に藤原氏として繋がりを持っていて「残留族」を残していた。その直ぐ後の「特別賜姓族」を任じられて直後に伊勢に「千国の裔」を直に配置して、「特別賜姓族伊勢青木氏」を正式に発祥させた経緯がある。
    この様な「特別な経緯」から、依って、「慣習」「仕来り」の引継ぎは、直に済んだと考えられる。
    藤原氏の秀郷は北家公家に成り、「第3子千国」が父に代わって「藤原朝臣族で武家」を引継ぎ「宗家護衛団」(960)を担ったが、「朝臣族で臣下族」の「近衛護衛団」(647)の「青木氏」とは担うものは一切同じであった。
    「「特異な立場」も「特別賜姓族」と成った時点で同じ立場を持った事になった。
    これで「皇族賜姓族」が敷いていた「慣習、仕来り、掟」(313)の導入には、「同じ立場」を持った事により差した問題では無く成ったのである。
    ただ、先ず「一つの問題」は、”「秀郷一族一門との横の関係」”を「第2の宗家」としてどの様に扱うかである。且つ、「二つ目の問題」は、「最古の藤原氏」であり、青木氏の「慣習、仕来り、掟」のものと類似するものを持っていた。
    この「2つの問題」を「特別賜姓族青木氏」が解決しないと、同じ「慣習、仕来り、掟」を「同じ立場」を持っていたとしても敷く事は出来ない。
    立場は同じであり「皇族賜姓青木氏の補完」を任務としている以上は、「皇族賜姓青木氏」の「慣習、仕来り、掟」に順ずるのが「物事の道理」である。
    このどちらを優先するのかの問題と成る。
    その答えが、「特別賜姓族」と成った「伊勢青木氏」であった。
    そして、この「伊勢青木氏」は「武蔵入間の本家青木氏」(「第2の宗家の本家」)との「衆議制」(調整役)を敷いた事であった。
    上記の「慣習」の中の「接客の要領」に観られる様に、取分け「茶瓶」の「高瓶」(武家)と「低瓶」(公家)の両方を採用している事から、この「調整事」が行われた事が顕著に現れている。
    「特別賜姓族の伊勢青木氏」が懸命に本家との間を調整したと観られる。

    (「特別賜姓族伊勢青木氏」は、「入間本家青木氏」とは上記した様に発祥期と「品位、官位、官職」等一切では、「特別賜姓族伊勢青木氏」の方が上であった。この事から調整は比較的に円滑に進んだのである。)

    そもそも、元々「5家5流青木氏」とは「母方血縁族」であった事から「2つの伊勢青木氏」は「氏を構成する規則」を問題無く採用し遵守したと考えられる。
    「四日市の融合青木氏」の発祥もこの事を証明する物である。
    「本家入間青木氏との調整」が進ま無いで、”「慣習、仕来り、掟」を遵守しない”と云う事では「融合青木氏の発祥」はあり得ない事に成る。
    「融合青木氏の存在」が「氏家制度」の中ではこの事を全てを物語る。
    (「5家5流青木氏」には全て「融合青木氏」が発祥して入る事が証しである。)
    「四日市殿」と呼ばれていて、「四家」と同等に「合議」を採っていた事が伊勢長嶋の北畠氏の戦いの時の記録でも判っている。
    上記の「仕来り」より、次ぎの「掟」はその言葉の意味からも、更に、「律」に関して敏感に取り扱われていた筈である。

    ・「掟」
    「掟」に付いては、その呼称の意味からも「刑罰の意」が強い事が判る。
    「仕来り」の「規則(罰則)」に対しては、「罰則の律」が多く絡んでくる事はあったとしても、取り入れる事は比較的に容易であった。
    それは、「仕来り」は、”違反者に罰を科する為の規則”である。
    然し、「掟」は、”犯罪者に課せられる法律上の制裁”である。
    以上の様に、「氏家制度」の中では法学の歴史文献から定義されていた模様である。
    他の「仕来り」と「掟」の「内容の差」を観て見るとこの様に分類される。(現在でも同じ)

    ただ、難題は「掟」(制裁)のところであった筈で、「法より人 石は薬」の蔓延の中に「善事撰集」では、「氏家制度の確立」の為に、この「規則と制裁の内容の差」を持ち込んだのである。
    上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が蔓延する事による「社会構造の崩壊」に対する「朝廷の危機感」が在って、その対策として「氏家制度の構築」を促す事が「最優先の政治課題」であった。その為には、「律」を強化して、「規則と制裁の内容の差」を組み入れたのである。

    「慣習」=「要領」
    「仕来り」=「規則」=罰則
    「掟」=「制裁」=刑罰

    社会の傾向に反して、この事、即ち、「規則(罰則)+「制裁(刑罰)」が「善事撰集」に大きく反映していたから「公布中止」と成ったのである。
    恐らくは、「慣習の要領」や「仕来りの規則(罰則)」ではある程度納得せざるを得なかったのでは無いかと考えられる。
    然し、この「社会の根幹部の決り」を成す「掟」であるが為に、危機感を持つ「持統天皇と施基皇子」は、この「規則と制裁の内容の差」だけは譲れなかったのであろう事が判る。
    そもそも、その「掟」とは、あらゆる「組織」を維持する上で絶対に犯しては成らない「原理原則の決り」である。
    この「原理原則の決り」は、その「氏」に取って欠かす事の出来ない変える事の出来ないものである。
    とすると、これを犯せば「制裁(刑罰)」を受けるは道理で、要は「掟」には必ずそれに伴なう「厳しい律」が伴なわなくては成り立つものではない。
    即ち、「掟=律」の関係があってこそ組織は成立つ。
    そこで、その「掟」の一例としては、「皇族賜姓伊勢青木氏」に遺されたものとして代表的なのは、「家紋掟」である。
    要するに「氏の象徴」とする家紋には、”「氏」が何らかの影響を受けて変化”を余儀なくされる事が起る。「子孫の継承存続」に関する問題を円滑に進める為の「厳格な要領」を事細かく書いた要領書であり、当然に、それには「罰則」は元より「刑罰」に主眼を置いて定められたものである。
    これを放置すれば「氏」は構築されない。

    そもそも、「屯」を前提とする「氏家制度」の社会構造を構築しようとする時、これを守る「掟」が崩れれば社会構造は成立たない。況して、その初期段階であった。
    (詳細は「家紋掟」参照)
    恐らくは、その意味でこの事が「善事撰集」に最も重要な内容として、この「家紋掟の基本形」、即ち、「氏の継承掟」(掟=律)が書かれていたと考えられる。
    然し、大化期には「家紋」の概念は未だ無かった。
    「家紋掟」の名称は、「氏の象徴紋」として朝廷より許された「認証氏」が用いたものであり、従って、平安末期にその名称を変えたと考えられる。
    その名称を変えなくては成らない問題が「青木氏」に起った事に成る。
    (第5次頃の訓戒で呼称変更)
    そもそも、当初は、「氏家の象徴」と観られる場所に明示したもので、門柱、嘉門柱、上記の瓶器、牛車等に用いられたものである。これが後に「家紋」と呼称された。

    >「訓戒の編集」
    「平安期の訓戒の編集」はこの事からも証明出来るが、それは次ぎの事であった。
    「皇族賜姓青木氏」は、上記で論じた様に大化期から「純血血縁」を基本としていた事から、その「枝葉末孫」は全てその「血流の差」が無く、「宗家方式」採用であって「分家方式」は採用していなかった。依って、家紋は「賜姓紋の笹竜胆紋」に統一されていた。
    然し、「特別賜姓族」との血縁により960年代から980年代に「融合青木氏」が5家5流に発祥した。この事でこの「融合青木氏」には、「特別賜姓族側」のこの「掟」の「氏の継承方式」を採用していた模様で家紋は多様と成っている。
    ただ、「特別賜姓族」との間で「跡目、養子、貰いの継承方式」を「子孫存続」の為に多用して血縁関係を結んでいた為に、「笹竜胆紋」を採用せずに「皇族賜姓族の関係族」としても「綜紋」とはするものの秀郷一門の主要紋の継承が有った。
    つまり、「氏」は「皇族賜姓族側」に入り、「掟」の「氏継承方式」は「特別賜姓族側」に従うものと成っていた事を物語る。
    この事からも「掟」は、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の調整の下で「2つの青木氏」の間で検討され、両氏に調和する内容に調整されていた事を示すものである。
    「家紋掟」は、当初は「氏継承掟の内容」であったが、「特別賜姓族」の発祥に依って変化し、「皇族賜姓族側」と「特別賜姓族側」とに差異が僅かに出た。
    「皇族賜姓族側」にもこの時期に「枝葉末孫」(傍系)に「宗家方式」だけでは除し難い事が起こっていた事を物語っていて、結局は、ある程度の修正を加える必要が生まれた事に成った事を示し、その呼称であった。
    女系は兎も角も、「枝葉末孫の跡目継承」の判断に問題が生じたと考えられる。

    結局、これを筆者の「伊勢青木氏」で観て見ると、「四家」の直系からの末裔は「笹竜胆紋」を継承する事に成っている。
    「笹竜胆紋」ではないが、筆者の「伊勢青木氏」で信頼され、確認出来るところでは「傍系の5氏」が発祥している。(個人保護により氏名は匿名)
    事程左様に、5家5流にも同じ事象が起こり、同じ程度の傍系氏が起っていると観られる。
    筆者の「家紋掟」は、「5家5流青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の主要氏に採用されて入る事がこれで確認出来る。
    この事が記録の中の表現から「信濃や甲斐の青木氏」にも採用されて入る事が読み取れる。

    (近江青木氏と美濃青木氏は平安の源平の2つの戦いで滅亡し、枝葉末孫がその後に「青木氏」を復興した。)
    (「特別賜姓族」では、秀郷一門の論文で詳細に論じた氏名に「藤」の付かない主要豪族の「青木氏族4氏」がある)

    >遍歴の補足:「歴史的な背景」
    「参考」−「心得」−「行動指針」−「家訓原型」−「訓戒完成」−「家訓完成」−「家訓編集 添書編集」
    以上の様な「家訓の遍歴」を持ち続け、「青木氏」を興し維持して来たこの関係した数人の「伝統的な人物像」を、「武の象徴」でありながらも「和」を追い求めなければ成らない「特異な立場」の「長」に、”「青木氏の理想像」として追い求めたのではないか”と想像出来る。
    そもそも、大化期の「始祖施基皇子」からの引き継がれた「古代密教の教示」と「善事撰集」と「何らかの口伝類」と「慣習、仕来り、掟」の類が、上記の様に次第に遍歴を遂げ、数代後の桓武期の「青木氏衰退期」に「家訓」に反映したと考えられる。
    それは「桓武天皇」は「律令国家」を建設すべく「平安遷都」をして人心を一新した。
    この事に依って「律令国家」の真逆の「皇親政治」の一員であった「青木氏」は排斥されて衰退した。
    この時、「青木氏」は「氏の律令」に匹敵する「家訓の原型」と成るものを興したのでは無いだろうか。
    何故ならば、「青木氏と守護神(神明社)」、或いは「日本書紀と青木氏」でも詳細に論じた様に、「伊勢王の施基皇子」(この時の伊勢国司代は三宅連岩床) は、上記「3人の天皇」の下に「善事撰集司」(撰善言司)に任命されて、全国を飛びまわり日本に最初の「律令の基盤」の編集を行った人物である。
    「日本書紀」や「類聚三代格」等にも明記されている。その「施基皇子」の国許伊勢にもこの「律令の基盤」としての現在の「家訓の原型」成るものを設定したと考えるのが妥当であろう。
    ただ、「家訓」と表現したかは不祥であるが、伊勢の国許にも自分の造ったこの「善事撰集の原型」なるものを敷いたのではないかと考えている。
    ”国許と云う事だけでは無く、伊勢神宮を皇祖神とし、その遍座地として定めた時でもあり、そこを確実に安定した形で伊勢を護らなければ成らないと云う使命感から、自らが造った「善事撰集の原型」を敷いた”と考えるのが普通ではないかと考える。
    「善事撰集の原型」を使って「小さい氏の律令国家」を試行的に構築して試したとも考えられる。
    そして、後に「青木氏の守護神(神明社)−22」で論じた様な「青木氏の変化」と共に拡大する「氏の律令」として必要な物に編集し直したと考えられる。
    それが「訓」では10、「戒」では10に纏められた物であろう。
    これ以外にも「長の資質」等の上記する口伝類から推測すると、現在に伝わる口伝類の10類程度と50類程度の「氏の伝統」の「慣習や仕来りや掟」(「青木氏の守護神(神明社)に明記」が定められていたと考えられる。
    「家紋や守護神や菩提寺等の類」を加えると、凡そ100程度の「善事撰集」に成っていたであろう。その中から「訓と戒」類を「家訓10訓」として引き出したと考えられる。
    その時期は「特別賜姓族青木氏」(960年代頃)が誕生した事をきっかけに新たに一回目の再編集としたのであろう。
    この後(50年後)、直ぐに正式に「和の商い」に入る事から現在のものに成ったと考えられる。
    この頃から「特異な立場」は上記した「公家衆との経緯」論から厳しさは更に増したと考えられ、その厳しさから「2つの血縁青木氏」を「公家衆の攻撃」に対し遺漏無き様にする為に、その必要性は増したと考えられる。

    >「長の資質の全様」
    さて、話を元に戻して、上記の様に、「善事撰集と古代密教と慣習仕来り掟」を実行するこの様な(特記)の「歴史的な背景」を踏まえると、「長」という資質に大きく関わってくる。
    「青木氏」が云う「大者」とは、もとより「大者」でなくては成らない事は決して無いのであって、むしろ”「大者」であっては成らない”としている事が良く判るのである。
    この様に、何も”豪傑の様な大者”と云う意味合いでは決して無く、また必要無く、むしろ、”そうであっては成らない”と戒めているのである。
    これは「家訓1」から「家訓6」までにきつく厳しく訓戒している事でもある。
    何故ならば、「大者」とは、時にして ”自らを忘れて自らの枠を超えて暴走する性”を持っているからに過ぎず、”「和の姿勢」を忘れ「特異な立場」を永代に絶対的に守らねば成らない青木氏には相応しくない”と判断しているからである。
    然し、他が思う事には問題は無いし、自らが「繊細な人物」であればこそ、この「枠」を超える事はないとしているのであろう。
    ただ「神経質だけの者」でもあっては萎縮してしまう事に成る訳で、其処で”「緻密で戦略的な先見眼」の資質”を持ち合わせている事を求めているのである。

    この様に「青木氏の長」には ”緻密で戦略的な思考原理の資質”と云う「繊細な気質」が求められていたのである。
    この「繊細な気質」から発せられる事が、その結果として「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」で良いのである。これは真に「家訓2」で訓じている事でもある。
    「青木氏の長」には、何も”太っ腹の大物”と云う「長」を要求していない事に成る。
    これが「特異な立場」から来ている考え方であり、重要な事は「相当な精神力」や「繊細で戦略的な先見眼」は、「繊細な気質」の者が会得出来うる資質なのである。
    決して、「資質ある者」、即ち、「長」としてあるべき姿は、むしろ、決して「豪放な人物」「豪傑風」ではあっては成らない事を「家訓2」で戒めている。
    これは、「武の象徴」で「武」を以ってするのなら「豪傑や大者」で良い筈だが、「武の象徴」で「和」を以って「特異な立場」を全うしょうとする場合には、上記の様に「繊細な気質」で以って「2つの抑止力」で威圧して、「大者」と印象を与える事で「家訓10訓」が導く「長」の姿と成る。
    この事で「武の象徴」の役目は成立つし、「和の姿勢」も成立つ事で「公家衆」からの「非難の口実」を与えない事に成るのであり、家訓への矛盾は無く成る。

    >「相当な精神力」=「繊細で戦略的な先見眼」+「2つの抑止力」=「青木氏の家訓の長」
    >「青木氏の武の象徴」=「繊細な気質」+「2つの抑止力」=「青木氏の長の姿」

    (参考 この「考え方」は現在でも口伝で伝っている。”豪傑の様な大者(大物)を善しない”とする「家風の考え方」がある。よく親から”大者ぶるな”と口癖で戒められた記憶があるが、この「家訓の名残」であろう。
    「伊勢青木氏の家風」としては代々「大者」は禁句で、「善」とはしない考え方があったがこの伝統であろう。又、「刹那主義」「喜怒哀楽」を否定する「享楽ボケ」(刹那ボケ)の「伝統の言葉」も「家訓の名残」である。
    これは「神仏習合」から来た考え方が口伝として遺されているのだ。
    「善事撰集」と「古代密教」と「神仏習合」と「特異な立場」の「4つの考え方」の真に「習合思考原理」で培われたものであった事が判る。
    この事は「2つの青木」氏以外には起り得ない思考原理である。これが脈々として、然し、時代遍歴しながら伝わって来た「伝統」である。)

    上記の経緯から考えて、「口伝の様なもの」は何かの形で文書化されていた可能性があり、「慣習類」、「仕来り類」、「掟類等」の形で、今で云う「マニアル化」していた事が状況証拠で確認出来るが、残念ながら「松阪大火の菩提寺焼失」で不祥と成っている。

    「2つの伊勢青木氏」に何とか上記する様な事を検証出来ている事から、他の「4家の賜姓族」や主要な「特別賜姓族」にも「何らかの形」で「宗家筋」には遺されている筈であるが、発掘は困難と成っている。
    「冠婚葬祭」時の「3つの類の内容」が他氏と異なり過ぎている事から、これだけの事を口伝では無理であるので元はあった筈である。
    同じ程度であればそれは口伝でも可能であるが、周囲とこれだけ違っていれば1300年以上の継承は困難であった事も考えられる。
    気に成る一点は ”世に晒す事無かれ。 晒す事に一義無し。”の「伝統の戒め」である。
    これを宗家筋が守っている事も考えられる。(確かに、現在のマスコミは危険である事は否めない。)

    因みに、「青木氏の守護神」でも紹介したが、「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」で信長に勝利したが、この時の先祖はこの様な戦い方をしたが、この時の先祖の「従四位下青木民部左衛門上尉信忠」はこの様な人物であった事が口伝として伝わっている。
    何故、「伊勢攻め」の「3つの戦い」が事細かく物語の様に口伝されているのかは、この上記した「長の人物像」を模範とする為に物語風にして口伝として伝えられているのであろう。

    (参考 「丸山城の戦い」の様子では真に小説物語に成っていて、枝葉末孫の家から発見されたこの書籍は焼失から免れて遺されている。この事から他の戦いの様子を書籍で遺されていたが出火で焼失した)
    (これも「家訓2」を教える口伝であろう事が判る。他にもこの様な口伝が多くあるが、次ぎの「伝統品シリーズ」で紹介する。)

    何にも、上記する様な”比較的簡単”であったのなら、何もわざわざ「家訓の戒め」にする必要がない筈である。
    「家訓の戒め」とした以上は「青木氏の氏存続」に大きく左右する事であったから家訓としたのであって、”それが何であったのか”を当時の「青木氏の者達」は知って置く必要があった筈である。
    恐らくは、少なくとも公家社会が存在する頃までで、長くても南北朝の室町期中期頃までは、「家訓10の存在意義の原因」を認識して一族郎党に周知徹底されていた事が判る。
    然し、それ以降は資料や記録の解析検証の信頼度が極めて低く成ることから不祥である。
    ただ、江戸期から再び資料記録の信頼度は高まりつつあった事から、明治期初期の「商記録から読み取ると、この時期には「意識の形」を時代に合わせて変化させて、再びこの認識が蘇っていた事が判る。
    依って、「家訓10」の宿命的で絶対的に求められる宿命の「子孫を遺す事」の支障にならない様に、職務の遂行とは別に、一族を懸命に固めていたと考えられる。」
    (「商記録」は、「全国域の商い」と、この補完関係にあった「伊勢信濃シンジケート」と、各地の「豪商豪族の関係」の経緯等から記録としてのものが読み取れる。)
    それには、「公家衆などからの非難発言」は、一つは公家が蔑む「禁じ手」なのにその「商い」で「大きな財力」を固め「親政族として権力」を握っていた「青木氏」に対しての”怨嗟や揶揄や嫉妬”が強かったのであったと考えられる。
    この認識を青木氏に関わる全ての者は強く持っていたと考えられる。
    況して、「臣下族」でありながら、公家よりも身分、家柄、官位官職、何れに取っても上位にあり、且つ、その「青木氏の務め」が長い歴史を持ち「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」であった。
    とすれば、「公家衆」に執っては相当叶わぬ上位にあるからと云って、素直に「品位の礼」を以って退くよりは、陰で「嫉妬や嫉みや怨嗟や揶揄の声」の方に傾くはこの「現世の常」であろう。

    これに比して、「氏や民からの発言」は「氏上様」「御師様」と呼ばれる程に「信頼と尊厳」を勝ち得ていたのである。
    民が慕う「皇祖神-子神-祖先神−神明社」を建立し、”「氏上」として品位格式に違わない「青木氏」”であった事から広く民衆から「信頼と尊厳」を受けていた。
    「青木氏の守護神(神明社)」論参照
    その「禁じ手の商い」で得た財力は、「抑止力」としての「シンジケート」等を構築し、それが「氏や民」に還元し潤す構図に成っていたのである。
    「氏や民」に執っては「商い」は「禁じ手」でも何でも無く、むしろ極めて正統な生活活動であった筈で、蔑む「禁じ手」は論外であった。
    故に「商いをする青木氏」に対して「公家衆」の様に、「氏や民」からは ”嫉妬や嫉み怨嗟や揶揄”が起る筈が無かったのである。
    その「氏と民」が仮に ”嫉妬と嫉みと怨嗟や揶揄”を起すとすれば、自らに唾を吐くに等しい事に成る。むしろ、「賛同の声」があったと考えられ、その声に応えて「青木氏の商い」に依って得た利益が「氏と民」に還元されていたのである。
    又、この様な家訓で導かれていた「2つの血縁族青木氏」の結束や、「2つの絆青木氏」や「一族郎党」との親密な結束関係に対する「公家衆の嫉妬」もあった事は否めない。
    「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」が「藤原氏北家」の出自でありながら、品位は藤原氏の公家衆よりは上である事への「嫉妬や嫉み」もあったのでは無いかと考えられる。
    同族であり摂関家でありながらも、会えば正式に儀礼として「品位の礼」を取らねば成らない悔しい立場にあった筈である。
    この「品位や格式」のみならず「経済力や武力や抑止力等一切の「支配力」が叶わないのであるのだから、「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」の域は通り越していた筈で、警戒しなければ成らない「口性」であったと観られる。
    その様な「氏と民」から「信頼と尊厳」を勝ち得ていた「2つの血縁青木氏」に対して”口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が強かったのであろう。
    その”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”から起る「公家の讒言」が朝廷内に広まり、それが「特別賜姓族青木氏−皇族賜姓族への補完策」で保護を受けていた「天皇家」に対しても迷惑を掛けない様な「特別の配慮」も必要であったのであろう。
    結果に依っては、事と次第に依っては、この「讒言の流れ」が非常事態に陥る事は当時の平安期末期の社会では常であった。
    例として、近似する立場にあった彼の「源義家の没落」でも判る様に、この「讒言の流れ」が変位して、いつ何時「天皇の誤裁断」に依っては「源氏の没落道」を歩む事はあり得ると青木氏の者は認識していたのである。(家訓の深意が物語る)
    青木氏に執ってはこの「公家の讒言」でも「賜姓族」である以上は弱点の一つである事を認識していたと観られる。

    (参考 「利益還元」では明治9年までも伊勢−信濃近域や甲斐の100年騒乱で起った一揆や騒乱等の数多く事件に、一揆側の背後で経済的支援をしていた記録が遺されている。明確な記録では4度
    この等に対する「公家の讒言」が「氏や民への経済的支援」に大きく影響していたのであろう。)

    筆者は、この様な判断力(「繊細で戦略的な先見眼」)は「氏家制度の社会」で無くても、「青木氏の特異な立場」で無くても、組織を構成する限りに於いて「長に求められる資質」であると云えると考えている。
    その様な「長」に導かれている組織は安定し伸びる。これは「現世の条理」であろう。

    >「添書の示唆」
    ところで、”この難しい「戒め」が全ての子孫に宛がわれた事なのであろうか、”疑問が残る。
    「添書」では何も論じてはいない。”肝心な事を書いて置け”と云いたく成る。現実に当初は思った。 然し、”勝手に考えよ”の突き離す意であろう。本添書の癖である。
    然し、この「家訓10訓」の全体を通じて云える事ではあるが、それは「長」に対して特に求められる「戒め」である事が判る。
    「長」に示す事を考えての「添書」であるとすると、当然に考えさせて諭させて理解させる手法と思われる。
    特に、「家訓1」にしろ「家訓2」にしろ「深意」として考えれば「長」に求められるものと観られる。文章は平易であるが「家訓」の言葉や字句や語句の使い方の通りの「深意」では無い事は良く判る。
    特に「家訓8」までの全体を通しても概して「長」に求められるものと考えられる。
    例えば、”「家訓8」のような「戒め」を経に一族全ての者に求められるのか”と云えば、現実にはそれは無理であろう。それは「考えられる者」であるのであればそれはそれとして”尚善し”とするが、老若男女夫々に成し得る資質や能力や立場は異なっている。
    全体を通して敢えて出来るだけ言葉や字句や語句は平易なものを使って表現している苦労は読み取れる。
    従って、一族の指導する立場にある者が少なくとも「訓の深意」は兎も角も、この「戒め」に関しては「戒の意」を会得して悟り、一族を「子孫存続の道」に導けば良い事に成るのであろう。
    だから、わざわざ「訓」に「戒」を附添しているのであろう。
    普通なら「訓戒」という言葉がある様に「訓」は「訓」、「戒」は「戒」として扱うのが当り前と理解する。それを敢えて「訓」に関連する「戒」を添えているのは「長の義務」をも明確にする意思であったのであろう。
    ”「訓」は一族全ての者に、「戒」は「長」の者に、一族の者には「長の厳しい務め」を知らしめ理解させ、「長」には訓戒を悟らしめる”と云う工夫を長い歴史の中で凝らしたと考えられる。
    当然に、この「家訓10訓の配置」もこの事(「一族の者と長の関係」)を物語っているものであろう。
    真さしく「家訓1」であり「家訓2」であり、「家訓5」等であろう。
    家訓1 夫は夫に足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
    家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。

    因みに、家訓1として、 「長」は「長」に足れども、一族の者は一族の者にして足れ。
    家訓2として、「長」は賢なりて、その一族の者必ずしも賢ならず、「宰相」は賢なりてその一族の者賢なり。

    「夫と妻、父母と子」等の字句を「一族の者」や「長」や「補佐役・重臣」に置き換えて考えれば、何事にも事ほど左様に足りる訓である。
    故に、「訓」と「戒」を一つにし、「一族の者」と「長」の「心得や考え方」を統一させた事が判る。
    この様に、この「置き換え」で「家訓10訓の考え方」が、「青木氏の考え方」が、「善事撰集」強いては「古代密教の教示」の原型の「思考原理」で全て理解出来るのである。

    >「家訓10の発展」
    元に戻して、そもそも、「喜怒哀楽」に重点を置いた生き方を採れば、その末は「刹那主義」と成り得て「家訓1から家訓9」までが求める「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事は先ずは困難であろう。
    その前に「平易な深意」であっても「喜怒哀楽」程度の「刹那の理解」であれば「家訓の深意」の理解は困難と成ろう。
    そこで、”困難である”と云う事では、”子孫を遺す事に一義あり”とせずに、”子孫を遺す事”とすれば長い歴史の中で途切れる事が起こる。これでは上記する「青木氏の特異な立場」は果し得ない事に成る。従って、「一義」の字句に大きな先祖が伝える「深意」を持っていると観られる。
    この「平易な意」程度の心得では「青木氏」としては困るのである。
    「長」としては「道理の矛盾」を理解出来ずに「長」を外されるが落ちである。
    「家訓の添書」がある事がその事を物語っている。
    「平易な意」であるのなら「添書」は要らない筈である。この「添書」があると云うことは「深意」があると云う事に成る。
    故に、この様な ”長に足りず”の「廃嫡事」が青木氏の長い歴史の中では起る事から、「氏継承問題」では「本家分家方式」の格式を採らず、又、「純血血縁の弊害排除」と共に「一族宗家方式」を採っていた一つの理由であろう。

    「家訓1」は長い歴史の中で「廃嫡事」が会った事から「訓」と「戒」を第1に据えているのであって、これに対して何も無いのならそもそも「訓」「戒」にする必要はなかった筈である。
    何時でも広く一族からより上記する優秀な「資質」に富んだ者を一族を導く「長」に据える事が出来る様に、一族同位同格の「宗家方式」を採用していた理由の一つでもある。
    その事を物語る事が系譜を具に調べて観ると判る。
    その中で現実に頻繁に当り前の様に起こっている様である。
    但し、ここで上記した「資質」に付いてもう一つ注意しなくては成らない事がある。
    上記した「資質ある者」即ち「長」としてあるべき姿は「豪放な人物」「豪傑風」では無い事を「家訓2」で戒めているが、更にもう一つ読み取る事が出来る。
    それは、筆者まで伝わる家の口伝の一つに ”頭が良い事=資質がある事”では必ずしも無いのである。つまり、”頭が良い事≠資質がある事”であって、ここでも「世間一般の考え方」とは必ずしも違うと云う事である。
    若い頃は ”何事にも違う考え方をする”と何か「違和感」を感じていた。”ちょと変わっている家風かな”程度であった。
    この時も「家訓の有無」もその程度ものであって”殆ど無い”に等しかった。
    然し、後で家訓に意識をし始めてから、以前に親に依頼されていた「青木氏」を調べ始めた頃から、「自分の思考」が無意識のところで ”何かに無形のもので左右されている事”に気が付いたのである。
    それが、次ぎの様に成る。
    ”頭が良い事≠資質がある事”
    この思考で、”一時が万事が斯くの如し”であった。

    他に上記に関連して次ぎの様な事がある。
    ”「頭が良い事」は「賢い事」とは違う”である。

    >”「頭が良い事」≠「賢い事」”
    >”「頭が良い事」≠「資質がある事」”
    >∴ ”「賢い事」=「資質がある事」”
    と云う考え方なのである。

    これは「家訓2」でも云っている事であり、”何も頭が良い事”を求めていない事が判る。
    「賢い」であれば良い事に成る。ではどの様に違うのかは「家訓8」で答えを出している。
    それは「知識と経験」との事に関わり、”頭が良い”は「豊かな知識の習得」で成し得て、経験が無くても頭は良い事に成り得るが、”賢い”は”「豊かな知識の習得」があってもこれを基にした「豊かな経験の習得」が無ければ成り得ない”とする考え方である。

    依って、次ぎの様に纏められる。
    >”頭が良い”=知識>経験、”賢い”=知識+経験
    以上の数式論である。

    青木氏は斯くの如しで、諸論文で論じた「先祖伝来の考え方」が多く「名残」として遺されている。
    これらの思考に限らず「諸事の慣習や仕来りや掟」も世間一般と違う事に気付き始めた。
    (何でこの様に違う事に成るのかは、上記した通り「善事撰集」+「古代密教」+「神仏習合」+「特異な立場」に起因する。)
    この様な違いに気付き始めてからは、”何でその様な考え方の違いが出るのか”と疑問と成り、それを解明するに至り、益々「青木氏の研究」に熱が入った。御蔭でこの様な疑問を糸口として予想の様相がある程度就き易く成り、その方向で限定した調査が進む事で「青木氏の解明」に繋がって行った。(因みに、先祖の血液型まで判る様に成った。主流は突然変異型の血液方ABである。)

    「青木氏の守護神(神明社)」の研究で、次いで進めた「青木氏の家訓10訓」の最初の「2つの研究」で走馬灯の様に記憶が蘇り、”あーあの事がこの事から来ているのか”の様に無形の「古の慣習」に左右されていた事に気が付いたのである。

    (参考 復元を依頼された時から意外と親父に填められたかも知れない。明治35年に出火させて「伊勢松阪の大火」に成ったが、この時、由来書などの書籍や記録と共に、これ等の事を物語るかなりの伝統品が焼失、記録保管している「青木氏菩提寺」も焼失した。)

    その後、大戦などもあり、祖父後半の代、父の代では経済的な理由で「由来書等の復元作業」は成し得なかった。兄弟親族のある中で筆者に依頼があった。その為に遺された資料は筆者が保持、口伝も筆者が多く受けた。青木氏を物語る「生仏像様」の様な重要なものは伊勢青木氏四家に散在して幸い遺されている。

    (「信頼出来る状況証拠」を積み上げての「答え」も後で資料が見付かる等が在った。これらは、後刻、伝統の本家訓投稿が完了した後に、「伝統品シリーズ」として投稿する準備を始めている。恐らくこの「伝統品シリーズ」でもよりこれらの事を証明出来ると考えている。)

    >「家訓10の長の定義」
    兎も角も、事程左様に、口伝や慣習と共に、「家訓6」にも訓じているが「長」の定義として、言い換えれば、次ぎの様に成る。
    ”人を導く「資質と度量」を先天的に備わっている者”である事。
    その”素材を有する者”である事。
    それを磨く事で「長と成り得る者」である事。
    以上の3つが「長の定義」と云える。

    現在で云えば、決して、”学業の成績が良い”と云う事では必ずしも無いのである。
    ”良い事に越した事”は無い。最低の条件でもあるが、常日頃、親などが口癖の様に云うのは、要は、”世の中の事は 「頭が良い」と云う事では上手く行か無い。” ”資質と度量の有無を優先する。即ち、「賢い事」”であった。
    これが ”「伝統ある口癖の口伝」”であったらしい。
    恐らくは、これは「家訓10訓」の意味合いを汲んだ、取分け「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり”に強く反映されたものが、”「伝統ある口癖口伝」”として引き継がれて来たのであろう。

    因みに、筆者の父は、江戸時代に育った娘で、吉宗の育ての親でお側用人の伊勢加納家から若くして嫁いで来た祖母に厳しく育てられたが、この為に950年も続いた老舗の伊勢紙屋長兵衛の伝統的な影響を受けていた事からこの考え方が強かった。
    (伊勢加納家も「2足の草鞋策」の老舗「加納屋」を営む)
    筆者も「長」の定義の様に、「青木氏の家訓」と「青木家の口伝」の影響を受けているのか、「青木氏の遺伝」なのかこの考え方を強く持っているのは不思議である。
    この様に、「青木氏」はこれらの「口伝」や「伝統ある口癖口伝」からも「長と成り得る者の資質」を磨く事に、悠久の歴史の中で、常日頃、「磨く事への努力」を怠って居なかった事が判る。
    「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事への努力であった。

    (注記 斯くも「伊勢青木氏」では幸いに散在して、資料、記録、口伝、伝統品、商記録、慣習、仕来り、掟類等が遺されていたので、上記する様に考え方が斯くの如しで判明する。
    然し、この様な考え方は、取分け「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」と、「特別賜姓族青木氏116氏」の中でも「伊勢、美濃、讃岐、越後、尾張」の青木氏には古来より深い親交があった事から、残念ながら「資料の発掘」が不思議に少なく未だ出来ていないが、上記する「青木氏の家訓に纏わる統一した考え方」が浸透して共有していた筈である。間違いは無い。
    「特別賜姓族青木氏」の秀郷一門の主要5氏と成っている「青木氏族」(永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏である。又、「皇族賜姓族伊勢青木氏」は5氏の氏名の異なる「傍系の青木氏族」が発祥している。他4家4流の氏名の異なる「傍系の青木氏族」は一部不祥の資料と添書等からも存在していた事が覗える。
    この「7つの地域」には、「宗家青木氏」が現存する事は判ってはいるが、現在に至っても発掘出来ない。依って、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」からの内容で推測するしか無い状況であるので、全青木氏は少なくとも”斯くの如し”であった筈として事細かに論じて披露している。)

    (参考 、筆者の伊勢青木氏には、主家「松阪ルーツ」と「名張ルーツ」と「桑名ルーツ」と「員弁ルーツ」の四家の他に、「融合青木氏」の「四日市ルーツ」があった。
    現実に、系譜と資料記録等から筆者より6代前頃には「長」の座から次々と廃嫡された様な事が起ったとみられる。結果は筆者の「松阪ルーツ」方の三男が最終に松阪主家を嫡子嫡男となって引き継いでいる史実が遺されている。原因は「長の資質」であった模様である事が判る。その時の口伝物語で遺されている。実は、その詳細は、天智天皇から賜姓時に拝領した「青木氏の象徴」の「生仏像様」を巡って「名張ルーツ」家内がその「祭祀の権」を巡って争った事が原因で、一族から「青木氏の長」として相応しくないとして廃嫡され、次いで「桑名ルーツ」でも起った模様である。
    「祭祀権」は「長」が持つものであり、結局は「主導権争い」をした事を意味する訳であり、「長の資質無し」として外されたのである。
    その結果、筆者方の「松阪ルーツ」に戻り、その中でも三男ルーツが「長」に推されて納まった経緯である。「伊勢青木氏」には「四家」があり、その2家内で争った事に成る。
    この時の様子がその運送状況や罰を受けた事の様子などが物語り風で口伝で伝わっている。
    更に遡れば何度か起こっている様子である。「家訓」に添った「長としての重要性」の伝統事件である。同じ様な事が上記の青木氏の中でも起こっている筈である。
    この事から大化期からはこの様な事が何度もあった事が考えられる。それほどに「青木氏の宿命」の達成には「厳しい子孫の選択」が成されていたのである。)

    それだけに冷徹とも観られる他氏とは異なる厳しい生き方を青木氏に求められていたのである。
    その為にも、この「喜怒哀楽」に傾きすぎた「刹那主義」を「家訓10」で厳しく戒めているのである。
    この考え方は「青木氏の特異な立場」と成り得た時から求められていた筈で、少なくとも「大化期からの戒め」であった筈で、これは「古代密教の教え」でもあった事に成る。
    「青木氏の守護神(神明社)−22」でも論じた様に、本訓の”子孫を遺す事の一義”は、この大化期からの「真人族と朝臣族の単一融合族」(青木氏)と成り得た時からの守らなければ成らない「絶対的な宿命」であった事に成る。
    況や「刹那の戒め」は「家訓9」で論じた様に「原始仏教」−「古代仏教」の教義であって、「古代密教の青木氏の教義」であった事に成ると考えられる。
    故に、「青木氏の古代密教」に関わらず、その後の「三大密教の仏説」では、「刹那主義」の原型は否定されて来た所以であろう。

    >「家訓10の理解」
    この様に、「訓」を補足する様に「戒」として「刹那の否定」を添えたものであった筈で、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする密教の考え方は、「今」に重点を置くのでは無く、”先を見据えた落ち着いた考え方”が採られていた事を物語る。
    だとすると、その意味で、現代人とは「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕の差」があった事に成る。むしろ、現代では、”今に生きよ 今日は今日 今日を明日に繋げ”とする様な ”刹那主義が正しい生き方だ”とする傾向がある。
    この「家訓10」の様に、「刹那の戒め」として ”子孫を遺す事に一義あり”と今に主張する事は真に「異端児」と成ってしまうだろう。
    その「時代の背景」に依って、一個人一氏が大きく左右される現世では抗う事は不可能であり、況して「善悪の問題」ではなかろうが、筆者は、現世に於いて、”子孫を遺す事に一義あり”が何時の世も「絶対的な摂理」であると考えている。
    「氏家制度」で無く成り「個人主義」の現代でも、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」のバランスを配慮すれば、現世の”「涅槃への道」”はより「煩悩」に苛まれる事無く、より善く生きられると考えられる。
    筆者は、この「青木氏家訓」を遺していた「伊勢青木氏」の宗家の者である無しに関らず、この「家訓10訓」を「事の真理」を突いた「妥当で納得出来る訓」として信じている。矛盾の事象は無かった。
    取分け、「家の大事」の判断に迷う時には、この「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり””刹那の戒め”から最初の「思考の基点原点」として思慮を巡らして事を決める事にして来た。
    振り返れば「道」としては間違えて居なかったと自負している。

    (参考 筆者は技術屋であるので論理性の強い性癖もあるが、論じているのは真逆の無形の抽象論である。これも私個人の「道理の矛盾」である。)

    当然の事であろうと思う。何故ならば、”時代は変わる”は、これだけの家訓を遺して来たのであるから、我が「青木氏の先祖」が解らない訳は無いだろう。
    それも「伊勢青木氏」を例に取って観れば、明治35年(大正14年までは何とかこの伝統を引き継いでいた模様)までは少なくとも大化期からの「悠久の伝統」を頑なに護って来た史実がある。
    依って「氏家制度」が終り、既に60年も経った大正期でも「悠久の伝統」即ち、「古代密教」の影響を強く受けた「家訓10訓」と「守護神(神明社)」の「神仏習合」に裏打ちされた「特異な立場の伝統」は厳然として引き継がれていたのである。

    (江戸時代も時の政権徳川氏の紀州藩は、幕末までと大正14年ま上記の「家訓に従った氏の存在」として「青木氏の扱い」を認めていた史実が幾つもある。何度も論じた。)
    この事から考えれば、先祖は「時代の変化」の「具合や様子」は充分に理解し観て来ていた事に成る。それでもこの「家訓」は遺されているのだ。
    そもそも、”時代に沿わなく成った”と判断していれば霧消している筈である。
    累代の先祖や祖父は周囲からも、総称は”御師さん 氏上さん”、又は、個人別では、代々”梅岳さん”等の「雅号」でも呼ばれていた。この”「雅号」”も他氏には観られない「古式慣習」で、何れかで呼ばれ親しまれ尊敬されていた事から、それを理解出来ないほどの人物ではなかった筈である。「禅問答の師」でもあった。)

    (大正期紀州徳川氏を付き添いに「天皇家に挨拶言上」に参上した事が記録されている。
    歴史的に江戸初期にも「挨拶言上」があった事が伝えられている。江戸中期の吉宗の享保改革の財務担当として請われた時にも「挨拶言上」があった事が資料から判るし口伝でも伝えられている。
    この「3つの挨拶言上」以外にも江戸期前にもあったと考えられる。
    取分け、平安末期までは定期的な「参上昇殿」が成されていた可能性が読み取れる。
    鎌倉期から室町期中期には「商い」を通じて得た利益の還元として経済的に困窮していた天皇家に対して秘密裏に救援していた事が判る。
    数多く「一揆等への背後勢力」としてシンジケートを使って動いていたことが商記録から確認出来る事からも、「室町文化」の「紙文化」で巨万の富を得ていた事から、「永代の朝臣族、賜姓族、臣下族」である立場上、放置する事は先ずない筈で、裏で「天皇家救済」に動いていた事は確実である。
    天皇家である以上は救援の記録は遺し得ないが、時の政権も限度を超えない範囲であれば、暗黙の了解と黙認の立場を採っていたと考えられる。)

    >「家訓10の証」
    この事から「家訓10訓」は生きていた事の証しであり、その「家訓10」の証しは次ぎの一字が家訓として活かす事に成っていたと考えられる。647年からの「歴史の遍歴」の風雨に堪えて現在にあるのはこの「字句」が活かしたのである。
    それは、次ぎの遺訓である。

    >”子孫を遺す事に一義あり”
    この「一義」と云う字句にあったと考えられる。

    この字句の有無で大きく意味が異なる。
    上記した様に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中で、”子孫を遺す事”では断定的であるが、「一義」の字句が入る事で柔軟さが出る。
    この”「一義」の字句の有無で「時代毎の遍歴」に対応したのではないか”と云う事なのだ。
    この本論の「家訓10」を家訓とした先祖は、この「一義」を入れる事で、「子孫」とする「目的の定義の幅」と、「遺す」とする「行為の定義の幅」に、その大きさを持たしたのでは無いかと考えられる。
    「子孫」とは、「特異な立場」の強い慣習に縛られていた事から、「特異」であるだけに押し潰されてこの幅が無ければ遺し得なかったと考えられる。
    「時代の遍歴」では、先ずは「真人族や朝臣族」とする平安期の「同族血縁族」は少なくなり「子孫」をこの「純血による同族血縁族での慣習」で遺す事はかなり物理的に無理であった筈で、その「血縁族の幅」を広げる事でより可能に成る。
    取分け、平安期末期からの「母方血縁族」の「特別賜姓族青木氏」が116氏に拡がった出現はその最大の一つであり、又、鎌倉期には全て滅亡したが「朝臣族の源氏」との「血縁の幅」もその一つであり、「近江佐々木氏一族」との血縁も神仏関係(佐々木氏の資料から)の「縁」であったことが判る。
    室町期から江戸期に掛けてのこの「青木氏血縁族」は、「2つの血縁青木氏」の「融合青木氏」の存在が示す様に、「秀郷流青木氏」との「重複的な血縁」があり、更には、これ等の「特別賜姓族青木氏」の「秀郷流青木氏」と血縁を進めた各地の高位族の「連や宿禰豪族」の氏族の間接的な血縁も行われた。又、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた様に、神職関係で繋がる「近江佐々木氏」との各地での「遠縁の血縁族」との子孫存続の血縁もあった。
    この様に、「子孫の幅」が広げられた事がこの「家訓10」が守られた事に成る。

    次ぎにはこの「遺す」とする行為の字句の定義の幅である。
    「遺す」の定義の幅では、「血縁族を繋ぐ」と云う意味合いから「直接継承の存続策」と、上記した「同族間の子孫存続策」にて遺す事の「2つ存続策」がある。
    それと、「男系継承」が困難に成った場合には ”「跡目継承策」で遺す”とする「第3の跡目方策」の事も可能に成りその定義の幅は広まる。
    それには「嗣子」が多い場合は、通常は仏門や神門に入れるが、入れずに上記の血縁族に「跡目養子」や「婿養子」や「貰子」などで子孫を拡げて於いて、「自らの氏の跡目継承」が困難に成った場合には、「嗣子の血縁族」から「跡目養子」を迎えて継承させて行う等の行為の幅が拡大が成されいた。
    「青木氏」からは「神仏職」を本職として入る事は、自らの「守護神と菩提寺」がある以上は別であり、この職業間の血縁も進んだが、世に云う単純な”仏門に入る”は無かった。
    このルーツから跡目を取る事も充分に可能であった。(陸奥域まで広がっている。)
    これには、「青木氏の守護神(神明社)−22」で論じた様に、他氏と異なり「本家−分家」は採らず一家一流族の全てに「宗家方式」を大化期から採ったし、これが5家5流に採用されていた事から「跡目継承の対象族」の純血度は高く、且つ、均一性を保っていた。

    (この為に、「家紋」も一切の副紋等を採らず全て「笹竜胆紋の綜紋方式」である。特別賜姓族は附秀郷一門との関係があり「本家−分家方式」は採るものの、綜紋の「下がり藤紋」をベースとしてその家紋の藤の下部に副紋を組み合わせてそのルーツの出自を明確にしている。)

    本家訓にある様に、「有能な長」に重点を置いた「跡目継承方式」であって、全て一族からの優秀な者を輩出させる「嫡子方式」を大化期から採用して、他氏の様に元々限定した「嫡男方式」を基本とするものでは無かった。
    上記した「特別賜姓族」や「近江佐々木氏」の「子孫存続策」との血縁も相当に純血性が高く、日本最大を誇る「特別賜姓族青木氏116氏」に拡がったのも根本はこの事からであった。

    「佐々木氏族」は兎も角も、そもそも「特別賜姓族青木氏」とは、「平将門の乱」の「平定の条件」として藤原秀郷が提示した「2つの条件」の内の一つで、”「貴族に列する身分の保障要求」から「従五位下の貴族」の最下位”の要求が認められた。
    この時は、「皇族賜姓族青木氏5家5流の衰退」が懸念されていて、「国策氏」としても「融合氏」としても「3つの発祥源」としての存立も危ぶまれていた。
    況して、この為に「皇祖神-子神−祖先神−神明社の建立の遅滞」もあり、これを復興させる為にも、朝廷は、元来、「藤原氏北家族」で「皇族賜姓青木氏」の「母方血縁族」であった事から、貴族に列した秀郷一門に、更に、この衰退し復興を始めて来た「青木氏の補完の任務」を背負わせて「皇族賜姓青木氏」を復興させた。
    そして、それを永代で秀郷一門の「宗家の第3子」にこの任を与え、初代千国が秀郷一門の護衛軍と成る事を認めると共に、「皇族賜姓族青木氏」と身分、家柄、官位、官職等の一切の「蔭位の制」に基づきその任を追加して与えた。

    (「永代」とは、青木氏が絶える事が無い様に、「青木氏の跡目」が万が一欠けた場合は一門宗家から、その時の「第3子」を跡目として入れる様に義務を与えた。この結果、「青木氏族−永嶋氏等」の4氏が発祥した。)

    >「家訓10の定義の幅」
    この時、「嵯峨期の詔勅」に基づき「皇族の第6位皇子」に対して与えられる「朝臣族」と「賜姓族青木氏」の身分を、「詔勅の例外」として皇族外の「母方血縁族の秀郷一門第3子」にも累代に「朝臣族と特別賜姓族」に「永代による品位と格式の権」を与えたのである。
    結果として、秀郷一門宗家よりも「上位の格式」を持つ「従4位下」に列せられると云う事が起った。これが「第2の宗家」と呼ばれる所以である。
    「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の「2つの血縁青木氏」はこの「品位の制」を基盤として上記した様な血縁関係を強く結んだのである。
    これでは、最早、「同族血縁族」の何ものでもないのである。
    この様にして、「子孫」と「遺す」事の定義の幅を広げる「一義」の字句がこの家訓に附添されているのである。
    この事に付いて、大化期の初期からこの「家訓10(刹那の戒め)」”子孫を遺す事に一義あり”の家訓が存在し、且つ、「2つの血縁青木氏」はこの家訓10に従って上記する様な色々な「子孫存続の方策」を打って来た事が判る。
    のみならず、更には、朝廷もこの青木氏の「国策氏」を護る為に、この様な「縦横な血縁関係」の方
    策を容認していた事が判る。
    この様な方策を実行するには、「朝廷が認める氏」であるが為に「朝廷の認可」が必要とした。
    従って、この様な「血縁関係の輪」を作れた事は、朝廷が後押しをしていた事を物語るもので、そもそも、「特別賜姓族青木氏」の「発祥とその任」からしても、そのものが「朝廷の公的な推進策」であった。

    >「家訓10」の位置付け
    つまり、「家訓10」は最早、「青木氏の家訓」の域を超えて「朝廷の推進策」と成っていた事を意味するものであり。況や、これまた「国策氏」の所以であり、「国策訓」と成っていた事に成る。
    これは、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」「皇祖神-子神−祖先神-神明社」「古代密教氏」等の事柄が「国策の基点原点」であり、「象徴」であったからであろう。
    「朝廷」や後の「幕府」が、”「国家の天皇家」に継ぐこの「基点−原点−象徴」を無視し霧消させる事は「国家の尊厳」の軽視を招く事に成る”としたからである。
    この「2つの血縁青木氏」に対してのみに「朝廷と幕府」は、「嵯峨期の詔勅」の「青木氏の永代禁令」や「大化期の詔勅」の「不入不倫の権の永代付与」「祖先神−神明社建立の永代権」(江戸期初期から幕府が補完)「密教菩提寺の建立の永代権」を明治初期まで与え続けた事がこれを明らかに物語るのである。
    これ等は全て「家訓10」の「子孫を遺す事に一義あり」に起因する。
    恐らくは、上記した様に「刹那の戒め」は、上記する様に「国家の策」の一つにも成っていた「青木氏の子孫を遺す事」に対する「最大弱点」を「青木氏側の戒」として付加えたと考えられる。
    つまり、例え「訓」を理解したとしても ”この「戒め」が全てを左右する”と考えていた事を意味する。
    その意味で、この「家訓10」は「他の家訓」(1〜9)に根本的に影響を与えるものであり、この「訓」と「戒」が異なれば「他の家訓」(1〜9)は崩壊する。

    因みに、筆者の家に伝わる「口伝の伝統」は、この「訓」にでは無く多く「戒」にあった。
    記憶に依れば、父と祖父は口癖の様に、”刹那ボケは駄目だ””もっと先を観て考えよ””考え方に余裕と落ち着きを持て””享楽の老けるな””先憂後楽で無くては駄目だ”等の「刹那」の意に共通する叱咤を受けた。
    ところが若い時は ”何故この様に云うのか、一体意味が何なのか”は良く判らなかったが、子供を持ち子供が成長し孫を見るに連れて、ある時、ハッと気が付き「家訓10訓」との繋がりが良く判った。取分け「家訓10」の事に気が付いた。
    良く考えて観れば、「家訓1」や「家訓2」や「家訓4」や「家訓6」は家族に纏わる事が多い事から息子に話す事が多かったし、「家訓5」や「家訓7」や「家訓8」や「家訓9」は会社務めの部下の指導や相談事にも善く述べていた事を思い出す。
    然し、「子孫を遺す事」に対する「叱責や口伝や指導」は取り立てて無かったのである。
    そして、何時か子供には「他の家訓」(1〜9)の事を口癖の様に云っている自分に気が付いたのである。
    「子孫を遺す事」に対する発言が無かったのは、「他の家訓」(1〜9)の基本と成っている事から、”「結果として得られる目標」である”からと認識していた事に依る。

    >「涅槃への道」の数式論
    恐らくは、「家訓10」をそのままに直に説いたとしてもなかなか理解は得られない筈である。
    それは ”若い者の勢い”で「喜怒哀楽」に大きく左右されていて、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中では、受け入れる側の「心の収容力」の門の入り口が開かない筈である。
    筆者もそうであったが、”何を馬鹿な事を 今時、年寄り臭い”で一蹴されるであろう。
    実際に最初の頃に部下の相談に乗った時も一蹴であった。
    真に「家訓5」の「人を観て 法を説け」である。
    この様にして、考えて観ると、”「現世の生業生様」=”「涅槃への道」”は、全てこの「青木氏の家訓10訓」で説ける事が判る。
    祖父が禅問答を高野山や永平寺の高僧としていた事の書籍や記録を多く遺している事を考え合わせると次ぎの関係がある事が判る。

    >”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」

    この数式論は、祖父に依らずとも筆者でも理解できる。
    筆者でも理解できるとすると、「氏家制度」の中での先祖は、その社会の真っ只中で居たのであるから、尚更の様に、”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」の数式論は比較的抵抗無く受け入れられ進んでいたと考えられる。
    日常茶飯事の様に事程左様に、「大化期」からの累代の先祖はこの様にして子々孫々に言い伝えて行った事を物語る。
    「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」と「一族郎党」の中ではこの様にして「青木氏の家訓10訓」を比較的簡単に伝えて行った事がまざまざと目に映る。
    累代の先祖の時代性は、「武」による時代であった事から「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」の数式論を要求されるものであった。直に説いても直ぐに受け入れられたであろう。
    上記した様に「青木氏」は「武の象徴」の「特異な立場」にありながらも、「分身を遺す事」の意味は違っていたが、別の意味でこの数式論は直に受け入れられた筈である。

    然し、問題はこれからであろう事が疑う事無く判る。
    「時代性」や「社会性」は余りにも異なる事はもとより、今は上記の数式論は消え失せ、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に近い。
    然し、近代化や科学化が起こり人の現世がどの様に変われども”「涅槃への道」”の本質は人間である限りは普遍である筈だ。
    人間の内部の構造がロボットの様に変わらない限りは普遍であり、普遍である以上は「家訓10訓」も普遍である筈だ。
    然し、如何せん筆者の家に於いても説くにしても、残念ながら、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に左右されている事は否めない。
    「家訓10訓」の意が伝わらない事の危険性を大きく孕んでいる。
    然れば、少なくとも「文書にして遺す術」を選ぶ以外に無い事は判る。
    未だ古式古風豊かな一面の習慣を遺している筆者の家でも、斯くの如くの有り様であるので、「青木氏族」に於いてはその術が霧消していて、それが「0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」と云う事に成るであろう。

    >「投稿の現状」
    実は、多くの「青木氏族の現状」を観ると、「皇族賜姓族青木氏25氏」と「特別賜姓族青木氏116氏」とこの「2つの絆青木氏」と「皇族青木氏5氏」の主要氏の殆どの「宗家本家の実情」は、「守護神神明社」等は当然の如く、「密教の宗派」も然る事ながら「密教菩提寺」等の言葉さえ失し、所在も資料記録をも勿論の事で、焼失させて完全に判らなくなっているのが現状である。
    相当の宗家でありながらも、仏壇も戒名も判らないとする現状の様である。
    この中ではあらゆる「伝統の継承」は、最早、不可能であろう。
    筆者の調査した原因とその時期は、室町時代は第1期の戦乱の焼失期ではあるが、江戸時代にはかなり蘇る事が起ったが、これも主因となったのは第2次大戦の戦火と、その後の疲弊した生活にあったと考えられる。
    確かに明治期初期には、混乱は室町期と同様にあったがある程度の蘇りがあったし、記録資料は移動したに過ぎなかった。
    然し、大戦の戦火は「焼失」として起った為に消えた事と、その後のこれ等の宗家本家などが農地改正等の政治的な圧政で衰退してしまった事から伝統が完全に途絶えたのである。
    何故、斯くも簡単に霧消する方向に進むかは、「青木氏族」はその伝統から「密教族」であった為に「守護神」と「菩提寺」に記録保存を委ねていた事が大きく原因している。
    この「守護神」と「菩提寺」が焼失すれば消えるのみと成る。中でも特に藤原秀郷一族一門の菩提寺が不祥とする事がその典型的な事象であろう。(研究しているが確定は未了)

    (研究で「2つの血縁青木氏」の菩提寺には、ある「特定の条件」が歴史的にあった事が判った事から、ある程度特定出来るまで至っているし確率は高い。)

    この様に調査すると、この時期は昭和20年頃で完全に途絶えて前に進まない事が起る。
    大勢力を誇った瀬戸内の青木氏族でも最高で昭和20年で終わっている。
    筆者の家も何とか資料復元するに最低の資料が確保できても斯くの如しである。最早困難であろう。
    出来るだけ研究して投稿して遺す事に努力する。
    現在は、個人情報保護に基づき資料採掘や調査そのものが難しく成っていて消えるのみである。
    (判断に用いた資料記録等を公表する事が個人情報と悪用の危険性から避けた。)

    >最後に
    筆者の伊勢青木氏関連の資料記録から出来る限り網羅して、その上で「状況証拠」を出来るだけ積み上げて、”他の青木氏も斯くの如しであろう”とする論調で説明した。その為に何度も同じ事象例を揚げてより正確に理解を深める様に努力した。

    この様に、「青木氏の家訓10訓」は「悠久の歴史」を持つ伝統ある「青木氏の訓戒」である。
    「全青木氏の先祖の生き様」を表してものとして未来の末裔に語り続けて欲しい事を願うのみである。


    「青木氏の家訓10訓」 完


      [No.291] Re: 伊勢青木家 家訓9
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/22(Fri) 11:37:20  

    >家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
    >家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
    >家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
    >家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
    >家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
    >家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
    >家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
    >家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
    >家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
    >家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

    家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)

    >家訓1は「夫婦の戒め」
    >家訓2は「親子の戒め」
    >家訓3は「行動の戒め」
    >家訓4は「性(さが)の戒め」
    >家訓5は「対人の戒め」
    >家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
    >家訓7は「品格の戒め」
    >家訓8は「知識経験の戒め」

    「家訓9」は「煩悩」である。「和武の戒め」
    「家訓8」までは人間の外に出て来る性(さが)であった。然し、この「家訓9」は人間の内に秘める「性」で何とも難しいものであろう。
    なかなか理解に苦しむ家訓である。仏教で云う「煩悩」を説くのであれば何も家訓にしなくても仏教の教えを説く文献を見れば済む事でもある。
    それをわざわざ家訓にするのは変である。何かの意味を持っているからこの「煩悩」と云う難しいものを家訓にしたのであろう事が判る。
    果たして「煩悩」を家訓としているのだろうか。率直に疑問を持つ。
    それをこの家訓書から読み採る事が必要であり、家訓書に添えられた短い添書から一時一句逃さずその字句の持つ本質と云うか語源と云うかを理解して本来の先祖が言いたかった事を読み取らねば成らない。
    それには、その家訓とした時代背景や過去の社会環境や青木家の慣習や仕来りや掟を充分に知り理解を進めねば成らない事に成る。一朝一夕では成し得ない事を匂わしている。
    実は、この「家訓9」には若い頃は、時代背景や過去の社会環境や青木家(氏)の仕来りは充分に知り得ていなかった為に、”何を大げさな、意味の無い事を”と思っていた。
    然し、青木氏の慣習や仕来りや掟等の雑学や、自分の人生経験を重ねる内に何となく判る気がして来た。それでも、”変だな”云う感覚が頭の何処かにあった。
    当然に、筆者の性格上から「仏教」と云うものを勉強し始めた。何も入信した訳ではない。入信したからと云って「仏教」が判る訳では無い筈である。
    兎も角も、”「仏教の教典」がこの様に説いているからこの様に理解しろ”で終わる事に成るのが普通である。それは筆者には絶えられない疑問なのである。
    技術屋の性癖から ”この様な背景や、この様な人間の性が、この様に脳では働くから、この様に人間は行動するから、人はこの「仏説」を信じろ” で有れば納得する。
    それはその仏説が完璧では無くても良く、何らかの「筋道」かその論理的な傾向程度が示されれば、一応は納得するのだが、多くはこれが無い。(従って、人の書いた文献のものでは無く、字句の意味や語源や仏教の持つ意味などの雑学からこれを紐説いた。)
    其処で、自分で「論理的な追求と勉強」をする意外に無く、「勉強」と云う事では無く「解析」に近い方法で自分を納得させる。例えば、其処で、その苦労の一端をご披露する。

    先ず、「人の生きる道」を説いている教典の「般若心経」に焦点を当てた。その教典の漢字の言語が持つ普通の意味では無く「中味の意味する処」を知ろうとした。漢字の語源等から探求した。
    例えば、「色即是空」「空即是色」である。この仏説の漢字の意味だと”何が何だか判らない”事に成る。
    其処でこの漢字を解析する事で理解が深まる。以外に論理的であった。
    そこで、但し、自分の仏説ではあるが、これを解いた。
    そもそも、「色」はこの世の「全て物」には「色」がある。「色」とは物理的には筆者の専門であるので論理性が判る。其処から導き出すと、従って、”「色」とは太陽から生み出されたこの万物(「世の物」)”と云う事で理解が出来る。つまり、「現世の物」、突き進んで「現世」となるだろう。
    「即是」には助動詞であるので解析は不要で、次ぎの問題は「空」と云う事に成る。
    其処で「色」と同じく漢字の解析に入ると、「空」は”空っぽ 無い”のであるから、「色」からすると反意語で「色」の集積は「黒」を意味する。
    ”黒は暗闇、暗闇の中には何も無い。”とすると、「黒」が「無い」とすると「暗闇」と成り、「色」のある「現世」に対して「空」は「彼世」と成る。
    そもそも、「空」は「黒」で「彼世」とすると、「黒」は論理的には全ての「色」を混ぜ合わした時に起る「色」である。
    然し、この世には太陽光の波長光が物に当ると発色する「物の色−1」(BGR)に対して、物に当らないで波長光として残る「光の色−2」(YMC)もある。
    彼世から来た「3つの光」は現世の物に当って、「3つの色」と成って発する。これを「補色関係」と云う。
    そして、この結果、この世の中は、「物の色−1」(BGR−黒)と「光の色−2」(YMC−白)とで構成されている。
    この「補色の関係」にある「色」を構成する「光」に対して補色の全ての光の交わった色は「白」と成る。
    (B:青 G:緑 R:赤→ 黒) (Y:イエロー M:マゼンタ C:シアン→ 白) 
    とすると、「色」の「現世」は「白」、「空」の「彼世」は「黒」を基としている事に成るから、この世は「全ての物」が存在する「世」である事に成る。
    この二つの解析から「色」は「現世」で「白」、「空」は「彼世」で「黒」とすると、「黒」も持つ意味は”何も無い”を意味し、「白」も汚れの無い”何も無い”を意味している事に成る。
    ”何も無い”では「色」も「空」も同じと云う理屈に成る。つまり、「現世」も「彼世」も同じと云う事に成る。
    「色」も「空」も”何も無い”と成り、論理的には”その「本質」が異なる事だけ”に成る。
    さて、此処までは解析が出来た。此処からが問題だ。
    どちらも、”何も無い”なのだから、「色」=「空」と成り「即是」(=)の言葉で繋がる。
    だから、同じ名のだから、”「色」は、即ち、これ「空」成り 「空」は、即ち、これ「色」成り”と訳される。
    「現世」に於いて「彼世」とは「白」と「黒」の ”何も無い” の「本質の違い」だけで繋がる事に成る。
    この違いは、ただ単に「補色の関係」のみだけだから、「現世」での「本質の違い」に因って起る事柄には、”何も無い”であるのだから、「この世 あの世」ともに同じである。
    依って、同じなのだから、同じものを比較して ”事を事更に拘るな” と云う意味を持つ事に成る。 
    ”「色」がある、「色」が無い 「空」だ、「空」で無い等と、事を事更に言い張って「拘る事」に意味はないのだ。そもそも「拘る事」に問題があるのだ”としている事に成る。
    俗に云えば、”「煩悩」を、「煩悩」として起る「諸行の喜怒哀楽」に、事を事更に拘るな” と云うと云っている事に成る。

    そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事に成る。つまりは、「拘る」=「我 執」である。
    つまり、”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
    と成れば、そうすると、「現世の本質」とは”何なのか”も解析出来る。
    それは「現世」(この世)では「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成るだろう。
    「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
    突き詰めれば、「人」がこの「現世」から「彼世」に移る時に、「現世」に遺されたものはその個人としては「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、肉体は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」は ”何も無く成る”を意味する。
    故に、”「現世」から「彼世」に移る事は「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
    只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[「色と空」、「白と黒」の摂理]”により無くした事に成る。
    現世から彼世の「移動」は「断絶」では無く「継続」であるとして「即是」と繋いだ事に成る。
    故に、「仏教・仏説」では、助動詞の ”即是”の言語を使ったのであろう。

    「阿弥陀仏の説」(青木氏の仏説)
    「仏」の上位にある「神」は、”この「現世−彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
    そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いたのであろう。
    確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
    だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれるのだから、要は何も変わっていないのだ。
    だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
    「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
    これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」と成るであろう。
    確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10)

    それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、子供が生まれた時の喜びに対して比べものに成らない様な異質な喜び、嬉しさ、安堵感に似たものが込み上げて来るが、この”子孫分身を遺した”とする本能的な「動物の安堵感」の感動であろう。
    つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
    故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事にあり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
    況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
    ”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
    故に、この「本能に組み込まれた達成感」が孫を見て噴出すのである。異質な喜び、嬉しさ、安堵感と成って込み上げて来るのである。
    結局、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
    人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
    然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
    ”「拘るな」”としている仏説である限り、”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
    要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
    然し、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
    「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
    ”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
    ”「人」はこの「刹那」に陥りやす動物の思考原理を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
    つまり、「刹那」では間違い無く、「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖」の輪廻が起る事に成る。
    故に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。
    (筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。全てこの論理から生まれると考えている。)

    俗に云えば、では、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
    そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” と「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
    この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。


    これは青木氏が「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の信者である事に依って起る仏説と解釈できる。
    故に、下記に記す様に、平安期の「宗教論争」の据えに究極の「阿弥陀蔵論」の ”「煩悩」は否定しない”の仏説と成ったのである。
    「仏教の原点」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)に戻って見直されたのである。
    平安末期からの仏説では人を救えなかったからこそ、”「煩悩」は否定しない” として見直しが起ったのである。
    言い換えれば、「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)を実践している「3つの発祥源」の「青木氏」が、悠久の歴史を経て此処まで生き延びていた事を宗教界は見抜き、上記の古代密教の仏説を体現実戦している ”「阿弥陀蔵論」でなくては無理である。”と悟った事に成る。

    この”「煩悩」は否定しない”の教示に成った事は、青木氏の「伝統」や「生き様」や「仕来り・慣習・掟」や「皇祖神−子神−祖先神」や「守護神の神明社」の事柄に影響を受けて大きく繋がっている事に成る。
    そもそも、「青木氏の教示」は、既に、奈良期から”「煩悩」に勝るべし”であった。
    つまり、”「煩悩」は否定しない”= ”「煩悩」に勝るべし”と論じている。

    (”「勝る」と云う事は存在を認めてそれに打ち勝て” と云う事であるから「煩悩」を否定しいない事に成る。この事に付いて下記に縷々と論じる)

    「青木氏の守護神(祖先神)」の「神」と、「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の「仏」の「2面性を持つ氏」ならではの事である。
    この「2面性に関わる氏」は、どんなに「氏」が多いと云えど、即ち、「融合氏の発祥源の青木氏」だけなのである。

    この「宗教論争」が、最終は「阿弥陀蔵論」と成った事は、論理的には「神」−「仏」の2面性を持つ「古代密教系の浄土宗論」に落ち着いた事に成る。
    青木氏が持ち続けた「古代密教の仏説」の教示が、「最終の仏説」と成り得た事を示唆している。
    この様に、「般若心経」の一時一句を解析して行けば「青木氏式の仏説論」が生まれる。
    この「青木氏の仏説論」が ”煩悩は否定しない”の仏説の「阿弥陀蔵論」に成ったと云えるのである。

    「仏説−煩悩」
    其処で、この「般若心経」にはこの「煩悩」の「仏説」がある。
    この「煩悩の仏説」を解析して、「青木氏」が説くこの「家訓9」の「解析の糸口」になる事が判る。
    そこで、仏教には多くの宗派があり、この「煩悩」の「仏説論」が「質と量の深み」が異なっていて一概に解析出来ない。
    「青木氏」はその奈良期からの「悠久の歴史」を持つ事から、「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教浄土宗」−「浄土宗」−「阿弥陀仏」の伝統を持つ事に成る。それを前提として生きて来た。
    そして、この「古代密教」と「祖先神」の考え方が融合して一つの「神仏習合の原型」が出来上がって行った。この「神仏習合」の動きは後に3度起こっているが、恐らくは、この「青木氏」の「古代密教−祖先神」の「融合の考え方」が原型と成っていた事が判る。
    何故ならば、「仏教と神教」が融合させていたのは唯一「青木氏」だけだからである。
    そして、それは「青木氏の菩提寺」と共に、奈良期から始まった「皇祖神-子神−祖先神−神明社」の486社もの各地の建立にあった事によると判断される。
    故に、「氏上様、御師様、総師様」と呼ばれていたのであって、民から崇められ慕われていた事が、その「青木氏」の「仏教−神教」(神仏習合」)の生き方、即ち、「青木氏の考え方」に「民の強い賛同」があった事をものが物語っている。
    当然に、「武」に頼らず「和」に頼る「生き様」がより「民の賛同」の前提に成っていた事を示し、「氏家制度」の中でも「上下の差」をできるだけ無くした「一族一門とその一切の郎党の生き様」に、「民」は万来の信頼を寄せていたのであろう事が判る。

    (この事は研究室での論文で各所で論じているが、「青木氏の守護神」(神明社)では詳しく論じているので参照)

    其処で、その事を念頭に置いて、この「古代密教」とする処に何か意味する事があり、この「煩悩」の「家訓9」の解釈の場合に、重大な「隠された意味」がある事が判断出来る。
    そもそも、「原始仏教」に通ずる「古代仏教」−「古代密教」は、平安期の「法然」による「浄土宗」が生まれる前の「浄土宗派の原型」と成る密教である。

    「煩悩」
    この事を前提に次ぎに「浄土宗」の説く「煩悩」を解析する。
    この事に付いては「密教」を前提とする「3大密教」(真言宗、浄土宗、天台宗)は自らの仏説を説いて「宗教論争」が起った。
    夫々の密教の「有り様」が、その宗派の「歴史的経緯と立場と背景」からその説が異なっているのである。その中でも、「浄土宗派」だけが「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の歴史を持っている。
    然し、他の2つの密教宗派とは当然にその仏説が異なる為に「密教の有り様」に付いて、中でも仏説の根本の「煩悩」の取り扱いに関する「宗教論争」は起った。
    この「古代密教浄土宗」を継承して来たのが唯一青木氏のみであるのだ。
    それだけに消え失せ易い仏説とも成るが歴史的に観ると、「青木氏」に細々と遺されているのは幸いであった。
    然し、現在に於いてはこの「家訓10訓」と「守護神−祖先神」の伝統の中にのみである。
    その意味で、この「家訓9の短い添書」は意味を持っているし、「青木氏」としてはこの時点で是非に解析しておかなければ成らないものであった。
    故に、その基の一つと成っている「青木氏の守護神(神明社)」の論文には全力を注いだ。
    もう一つの基と成っている「家訓10訓」の取分け「家訓9」に対しても全力を注いで、現代の浄土宗の根源と成った「原始仏教」の影響を色濃く引き継いでいる「古代密教浄土宗」の一端を、仏説ではない方法で網羅したいのである。

    「煩悩の種類」
    浄土宗系が説く仏説の「煩悩」とはそもそも次ぎの通りである。
    年末には「108の鐘」の音を打つが、これは人には「108つの煩悩」があるからと云われるが、これは次ぎの様に成っている。
    「除夜の鐘・百八つの謂われ」である。
    人間には、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の「六根」がある。
    普通は、人間の「五官」(五観と説くものもある)と云って「眼・耳・鼻・舌・身」でものを感じる。然し、仏教の世界では、「意」を加えてこの「六根」の感じ方があるとしている。

    先ず次ぎの「三通りの感じ方」があると云われている。
    「好・平・悪」
    以上の「三通り」とされている。

    つまり、判りやすく云えば、善く感じる「好」、普通に感じる「平」、嫌味で感じる「悪」がある。
    そして、この「三通りの感じ方」には、次ぎの様に分けられる。
    「染・浄」
    以上の「二通り」とされている。

    つまり、判りやすく云えば、染まった感じ方をする「染」、純粋無垢な汚れの無い感じ方をする「淨」があるとされる。
    「好・平・悪」と「染・淨」は厳密にはその説の論調では少し違うかも知れないが、大方この様に解釈される。此処では仏説論そのものを論じている訳ではないのでこの様にして置く。

    さて、そうすると、人は、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根から「好・平・悪」と「染・浄」の違う「煩悩」が起る事になる。
    従って、6根の3倍の「18の煩悩」が先ずある事に成る。
    次ぎに、当然に「染・淨」があるとするから、18の2倍の「36の煩悩」が起る。
    其処でこの「煩悩の現象」が、上記の「色即是空・空即是色」の「仏説」の通りで云えば、「過去・現在・未来」の「三世」に渡り「悩みや苦しみの煩悩」が続く事に成る。
     計算: 6×3×2=36 36×3=108 
    以上の数理的計算で「108の煩悩」が生じる。

    故に、除夜の「108の鐘の音」は、過去・現在・未来の「三世」の「煩悩の数」だった事になるのである。 
    基本的には、「仏説」では「質」を換えて、”人の魂は3世に生きる”としての前提であるので、「108の煩悩」と成るが、この域(過去と未来)は不証明であるので108は、兎も角も、実質は「36の煩悩」がこの世にある事に成る。

    (参考 もし「3世」の内、「過去」と「未来」があるか、どうかは、この「世の物理論」では、現在の「光の速さ:3×10の8剰」より少しでも速い「光の様な振動波:光子粒」が存在すると成れば、在る事に成り、「過去の世界」や「未来の世界」に一時的にも観る事や渡る事が出来る理論と成る。光より速く極小の物質が太陽系外から飛んで来ている事は判っている。この事は宇宙には「光より速い世界」がある事を物語っている。「3世」が無いのか、或いは3世を自由に渡れる世界が在る事も考えられる理屈にも成る。)

    そもそも、上記で論じた「般若心経」では、「現世と彼世」は「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」と解いているのならば、「108つ煩悩」の宗教界の論調はおかしい。疑問が起る。
    何故ならば、「3世」少なくとも「現世と彼世」の2つの世には、上記に論じた「般若心経の説」であるから、「彼世に於ける煩悩」は論理的にない事に成る。
    その理由は”、「質的変化の移動」の世の移動であり、現世に「分身」を置く事による「煩悩の消却」が起る”としているからである。
    況して、そもそも、「平安期の仏説」では、”「質」を換えて”としているのだから、「彼世」に移った際には「現世」にあった「煩悩」は「質」が「分身」に成ってそもそも変っているのだから、その自己の「現世の煩悩」は消却されているのであるから「彼世」には「煩悩」は無い事に成る理屈に成る。

    因って、奈良期に入った「般若心経の教典」と「平安期の過激に成った教義」とは矛盾している事に成る。
    従って、「108つの煩悩説」は平安期以後の仏説と成るが、「108の煩悩」ではなくて、「般若心経」の説では少なくとも「36の煩悩」と成るのが正しい事に成る。
    故に、「平安期前の仏説」は少なくとも「36の煩悩」であった事に成る。

    そこで、そもそも、下記で論じるが、”「煩悩」に「好・平・悪」と「染・浄」の違いがあるのか”と云う疑問もある。
    この様に分けて何の意味があるのだ。
    仏教界の独善的な数理論に依る行き過ぎた「学問的発想」であると観ている。
    筆者は明確に無いと考えている。
    「原始仏教」は兎も角も「古代仏教−古代密教」の時代には、「6根の教義」も無かったと観ていて、下記に論じるが、”「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の「3つ煩悩」であって、「我執」から来る「愚痴」が「煩悩の主因の定義」と成っていた” と観ている。
    少なくとも、「36の煩悩」が、「密教」としていた頃には「青木氏の教義」であったと考えている。
    「古代仏教−古代密教」も、「青木氏の教義」は兎も角も、「36煩悩説」を教義として採用していた事を物語る。

    何故ならば、「青木氏」が「自ら建立した浄土寺」に「自らの氏の者」を「住職」として仕えさせ、「自らの氏」に対してその「氏の教義」を「密教」として説くのである。
    依って、必然的に「古代仏教−古代密教」は、「青木氏の住職」が「仏教の教典」を「青木氏」らしく理解し、青木氏外には帰依し伝導し得ない密教の体制であったから、「古代密教」は「青木氏の教義」と言っても過言ではないのである。
    それが、上記で論じた「般若心経の解釈」の一説と成り、下記に重複する内容と成るのである。

    (参考 ”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。依って、要は何も変わっていないのだ。だから事を事更に拘るな”と説いている事に成る。
    これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」である。次ぎの家訓10で論じる)

    「36の煩悩」
    そこで、この上記「6根」の「36の煩悩」には、果たして、”どの様なものがあるのか” と云う事に成る。
    この「六煩悩」は「六波羅密」とも云われるが、次ぎの様に項目として定義されている。

    (心所区分 A 副煩悩)
    隠の行   表−・話−・編−・歴
    遍の行   作 - 触 - 受 - 想 - 思
    別の行   欲 - 勝解 - 念 - 定 - 慧
    善の行   信 - 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

    (心所区分 B 本煩悩)
    本煩悩   貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

    (心所区分 B)の内訳
    小随煩悩  忿 - 恨 - 覆 - 悩 - 嫉 - 慳 - 誑 - 諂 - 害 - 驕
    中随煩悩  無慚 - 無愧
    大随煩悩  掉挙 - 昏沈 - 不信 - 懈怠 - 放逸 - 失念 - 散乱 - 不正知
    不定    悔 - 睡眠 - 尋 - 伺

    以上の定義と成る。

    これはなかなか漢字の字句の意味や語源を理解しないと難しい区分であるので、簡単に云うと次ぎの様に成るだろう。

    「6根の煩悩」は次ぎの様になる。
    煩悩    貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

    大まかには以上としていて、これを小中大に分け、これに何れにも含まないものとして「不定の煩悩」と分けられている。
    この「6根」を後付けで、前2つを「貪欲」、中2つを「瞋恚」、後2つを「愚痴」の「古代仏教-古代密教」の説の「3つの煩悩」と定義しているものもある。
    この説では「愚痴」が「煩悩」の「諸悪の根源」と決め付けていて、その原因は「我執」だとしている。

    「3つの煩悩」
    「貪欲」「瞋恚」「愚痴」
    「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」

    (これが「古代仏教」の仏説で、古代密教の青木氏の教示の原型と考えられる。)

    兎も角も、その解く説は、「独善的な仏教」を前提とし過ぎて普通の論理では一概に納得出来ないが、個々に説明するのは本文の目的ではないので、別の機会として関係するところを概して解いて観る。

    平安期の「6根説」は、兎も角としても、「煩悩」に悩む者に説く内容として ”本来、大中小に分ける意味と必要があるのか、聞いてどう使用せよと云うのか” 甚だ疑問である。

    この区分の内容を観ると、次ぎの様に分類される事に成る。

    「密教説の仏説」(添書内容の解析)
    1 人間が本来動物として持ち得ている「先天的な煩悩」
    2 人間が進化する事で持ち得た「後天的な煩悩」
    以上の2つに区分されるのではないか。

    そして、更に、この2つを分類すると次ぎの2つに分類される。
    A 1に付いては「我執」から生まれる煩悩
    B 2に付いては「知恵」から生まれる煩悩

    そして、その「Aの我執」から生じる「煩悩」は次ぎの様に解釈出来る。
    「我執の煩悩」 
    イ 貪欲系の煩悩 
    ロ 瞋恚系の煩悩(しんひ:自分の意に反すれば怒る心)
    ハ 愚痴系の煩悩

    これが上記の「煩悩」、即ち、「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」の「平安期の6根の本煩悩」とされるものに成る事を意味している。

    従って、仏説では「6根の本煩悩」と記している以上は、(心所区分 A)は副とは記していないが「副煩悩」と成り得る。
    上記の「心所区分」の前の4つを(心所区分 A)とすると、この区分域が「副煩悩」として次ぎの様に「知恵」から生まれた「煩悩区分」と成る。

    「智慧の領域区分」
    1 隠の行 (表: 話−編−歴)
    2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
    3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)
    4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

    (注意 (・・)の個々を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

    1の区分 「智慧」の「隠」の区分は、ある一つの事を表したり、話したりする単純な思考
    2の区分 「智慧」の「遍」の区分は、「単純思考」が集約し思・想の固まりと成る思考群
    3の区分 「智慧」の「別」の区分は、「思考群」が更に増幅して「形・型」に成る念想・思想
    4の区分 「智慧」の「善」の区分は、「智慧」本来の善行で成せる煩悩解脱の行為

    「隠」は「表」、「遍」は「意」、「別」は「欲」、「善」は「信」の語意で表す。

    この「古代密教説の仏説]では、”「智慧」は「善」であって、「善」は「煩悩」を解脱させ霧消させる唯一もの(行)である。” と定義している。

    即ち、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする位置付けである。

    ”「智慧」は「煩悩」の裏返しで、「煩悩」の為に「智慧」が有り、「智慧」の為に「煩悩」がある。”としている。
    ”「智慧」は陽、「煩悩」は陰の「陰陽の関係」(表裏一体説)だ”と解いている事に成る。

    つまり、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」と「煩悩」は「智慧」が勝れば「煩悩」は消え、「煩悩」が勝れば智慧は低下する。”と云う事である。

    そもそも、”「智慧」と云う本能は、「仏」では無く、上位の「神」が人間に与えた「本能」であって、元来、生きる為に備わったものである”と説いている。(守護神をも持つ氏の説である)
    故に、”「智慧」は「煩悩」に勝る事を優先している事に成る。

    その上位の「神」が「人」に与えた「智慧、慈愛」を「仏」が何だかんだと云うのはおかしい。「神」は「善」として与えたもので下位の「仏」が、”「善の智慧や悪の智慧、悪の愛や善の愛」がある”と解説する事がおこがましい。
    況や、そもそも、この説は、”「神」は「人」に「悪」のものは与えていないのだ。”とする事を忘れて思い上った「平安期の仏説」の矛盾なのである。この「平安期の仏説」の「矛盾の教義」の理屈を認めてしまえば、「守護神」と「密教菩提寺」の「神仏の教義」を合わせ持つ「氏の教義」(青木氏)としては「神」と「仏」の教義は分離して合致し無く名成り、「氏」その者の存在は破壊霧消する事に成る。
    因って、「青木氏の古代密教」では、「平安期の善と悪を持つ煩悩説」では無く、「神仏習合」の説、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする説であった事が判る。

    然し、元来、常に勝るべき「智慧」が、時には病やストレスや考え違い等で低下する事は否めない。
    従って、”この低下する現象を仏教は救うのだ” ”これが一義である” と云う「古代密教の仏教説」を説いているのである。
    言い換えれば、”「仏教」は「智慧」を想起させる位置にあって、「仏説」はこれを補う”と記している。
    この「古代密教説の仏教説」は云わば「装具説」である。
    明らかに平安期の「人道説」では無い事が判る。
    故に、”「智慧」を使えば「勝る事」が出来る” と説いている事に成る。
    本訓の ”煩悩に勝るべし”は”智慧を使え”と云う事で理解が出来る。
    (注釈 この「智慧」を使う場合の条件がある。それは”「和の道」で在らねば成らない”としている。)

    流石に「青木氏の特典」を活かす事の出来る教えの「密教」であり、「精神論」の判り難い説法より「具体的な教え」である。
    そもそも、精神で悩んでいるものに対して、「精神論」で説いている「平安期の宗教論」は納得が出来ない。
    「精神」で悩んでいる者に対して、”もっと人間の本質の智慧を出して乗り越えよ。怠けるな、それで無くてはこの世は乗り越えられぬ。これに打ち勝てぬ者は死を待つ以外に無し、これが「諸行無常の条理」なのだ。”の説法の方が納得出来る。”智慧を出せ”である。
    そもそも、「智慧」は「神」が与えた「人間の本来の姿」である。
    この世は「智慧」をより出さなければ生きて行けないのである。
    故に、”「智慧」が解決してくれる”である。”生き抜く為に「神」は「人間」に「智慧」を与えたのだ。” と解釈できる。

    (注釈 此処で云う「神」とは、「皇祖神-子神−祖先神−神明社」の事である。)
    ここで重要な事は、「青木氏の守護神」(神明社)のところでも解いた「豊受大神」の「物造りの智慧論]と繋がる。

    後の「煩悩」の4つは(心所区分 B)とすると、この区分域が現在で云う本来の「本煩悩」として「我執」から生じる煩悩区分と成るだろう。

    この「古代密教説の仏説」は、依って、「智慧」と「我執」としている。
    そして、その「我執」(本煩悩)から齎される「本煩悩」を「3つの煩悩」(上記イロハ)に分類している。
    この「3つの煩悩」の内は、上記の数式論の関係 「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」であって、
    上記の「2の後天的煩悩」はこの「智慧」から生まれるが、”この「智慧」は、上記の「陰陽の関係(表裏一体)」に依って「煩悩」としては霧消する”と説いている。
    ただ、この一節を要約すると、”「智慧」<「煩悩」の関係が生まれた時は、「1の先天的煩悩」と「2の後天的煩悩」の「2つの煩悩」に強く苛まれる。”と説いている。
    その時は、”「6根の煩悩」に苛まれる。”と説いている。

    さて、そこで゜平安期の仏説」は、「知恵」に関わるものを「副煩悩的な扱い」としている。
    この事は、下記に述べるが、時代の変化で ”「煩悩」を否定しない”とする仏説(阿弥陀蔵論)も存在したが、これは「知恵」に関わる ”「副煩悩」を否定しない” 、”(心所区分 A)を否定しない” と云う仏説である。

    この事は「青木氏の生き様」と、この事から来る「青木氏の家訓9」に大きく関っているので、特に留意が必要なので特記している。

    以上の様に、この「古代密教説の仏説」で解析すると何とか解釈出来る。
    (この仏説が青木氏に多いに関わる)

    「6根の本煩悩」
    さて、”「煩悩」とは如何なるものか” を「古代密教説の仏説」で対比して検証して見たが、此処からの問題は、「平安期の6根の本煩悩」の6つが判れば更に概容が掴める。

    その前に、筆者はこの「6根の本煩悩」は、平安期末期の「宗教論争の結果の産物」と観ている。
    恐らくは、当初は上記の「古代密教説の仏説」であったと観ていて、「煩悩論争」の結果、上記の「我執の煩悩」(イロハ)に付いて、宗教界がヒートアップして、 ”「1の先天的煩悩」の「Aの我執煩悩」では説明が付かない” として、以下の「本煩悩説」を付加えたと観ている。

    つまり、「古代密教」前(原始仏教−古代仏教)の仏説では、宗教界は荒れ始めた時代性から考えて納得出来なかったのでは無いかと検証する。”穏やか過ぎる”と観て採ったのであろう。
    これは宗教界の中の範囲の「学説的煩悩説」で、この「6根」に分けたからと云って、宗教界外では意味の無い事である。
    ”「煩悩」はあくまでも「煩悩」であって、その「煩悩」が3つあって、その「3つの煩悩」の内の「愚痴」が「煩悩」の「悪の部分」であって、それが「我執」から起る。そして、それを「智慧」が勝れば「煩悩」は霧消する。”で充分な仏説である筈である。
    それが6つに成っても、幾つに成っても、「煩悩」は「煩悩」と捉えるのが「民衆の思考の範疇」である。
    所謂、「平安期の仏説」では、現在で云う実行性の無い「学説論」と観える。
    要するに平安末期以降の「後付け論」である。
    同じく、「本煩悩と副煩悩」も同じ平安期の「後付け論」である。

    兎も角も、「6根」に付いて一応概容を論じて置く。
    「6根の本煩悩」
    「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」
    「貪」は、「貪欲」に代表される様に、「貪」は”むさぼる”の意として”非常に深い”の意を持ち悪意に批する語である。
    「瞋」は、人の「慎」で”つつしみ”に通ずる意で、人としての”つつしみ”を超える欲に左右されて仕舞う本能である。即ち、つつしみから外れ「攻撃する本能」である。
    「癡」は、人に「猜疑心」を持ち、その事に全てが左右され病的に陥る本能である。
    「慢」は、「自慢・傲慢・慢心」に通ずる意で、人として、”わきまえ”を超える欲に左右される本能である。
    「疑」は、人は「疑心暗鬼」と成り、必要以上に人を「疑う心」に左右されて仕舞う本能である。
    「悪見」は、人を「善」と見ず「悪」と観て思考を何事に於いても構築しようとする本能である。

    この「6根の仏説」の俗説解釈では以上と成る。

    其処で、注意しなければ成らない事がある。
    これ等の仏説は、時代の背景毎に変化して行く事から一概に定説や定義とし難いが、平準して現代的表現からはこの様に成ると考えられる。

    (平安期−鎌倉期の時代を背景して、社会環境の中に「宗教力」が強く持った為に、この「独善性」を持つ仏教説では、独善性に陶酔して上記の様に無意味な論説が蔓延り、論説が何が何だか判らない。他の宗派の仏説はこれ以上であり、学僧で無い限りは解らない。)

    恐らくは、代表的な時代とすれば、平安末期から鎌倉期を通じ、更には室町期末期までの「下克上−戦国時代」には、この6つの全ての「煩悩」が左右して1期に「人の心」に露出して「世の乱れ」と成ったものであろう。
    この様に「時代」に依って、これ等の「解釈や教義」は、変化して宗派毎にもその重きを置く教義が異なりより深く追求されるように成り、人の階層毎に「仏説の変化」を大きく遂げた。

    (上記の「古代密教の教義」は「青木氏」によって延々と伝承された。換えなかった、むしろ、”換えられなかった” と云って良いのではとも考えられる。
    「3つの発祥源」の立場と守護神との「習合の状態」であった事から、換える事は「習合」が破壊する事、即ち、分子結合を破壊する事と同じ作用を起し、「氏」が解体する事が起るからである。
    そもそも「氏の根本的な考え方」が違っていた事が基に成る。)

    「共通する教義」
    事程左様に「煩悩」とは、異なる宗派の教えるところを種々の文書から研究すれば次ぎの様になるだろう。

    その慨しての「共通する教義」では、その論調から考えると次ぎの様な共通項が生まれる
     ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の言葉で定義される。
    これが常識と成るであろうことが読み取れる。

    因みに「禅宗」ではこの様な問答が多く成されている。「禅問答」で検証されていて納得出来るところが多い。
    この「共通する教義」の「智慧」の「知恵」とは、そもそも、”「知恵」には「正悪の知恵」がある” とした時代が平安期以降にあった。
    この「悪」に区分される「知恵」の扱いが、時代毎の諸行の変化に合わせて異なっている事に成る。
    それが宗派の違いとして露出しているのであろう。
    むしろ、この「知恵」に関する「悪」を「煩悩」としない教義もある位で、「知恵」とするものでは「善」としているのは「古代宗派」に共通する考え方に近い。
    この「古代宗派」には、「知恵」には「悪」(煩悩)の「知恵」は定義されていない。
    故に、この「知恵」は「古代宗派」では「智慧」として表現しているものである。
    そもそも、「恵・慧」の語意には、仏教では夫々「施」と「慈」との意を持ち、「恵」は主に”めぐみ・ほどこす”に意を持ち、「慧」は「慈」に意を持ち「愛」に通ずる語意であろう。
    然し、平安期の仏教では、”「愛」は現在の「愛の語意」とは異なり、「悪の愛」の意味も持っていて、「愛」は必ずしも「善」としてはいない” の事に注意が必要である。(「悪の知恵」もある事にも注意)
    「乱世の時代性」が「知恵と愛の考え方」に大きく影響しているのである。
    この「愛」には「悪愛」があるのは「平安期末期の教義」に観られる。

    従って、この「時代性の影響」を受けて、「恵と慧」は全てを「善」とせずに、この「恵・慧」の使い方は古い時代の傾向に「慧」、新しい時代には「恵」が用いられている傾向があり使い分けていたのであろう。
    従って、「古代仏教」(古代密教が妥当)の「智慧」の方では、「慈と愛」に通ずる事から「悪」とする教義は成立たなかった時代と観られる。
    少なくとも「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」までの時代には「悪」とする教義は無かった事に成る。
    恐らくは、「3大密教の宗教論争」後の宗派、取分け「浄土宗」と成った頃からではないかと考えられる。
    故に、平安期の宗教論争の中で「共通定義」とした ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の「知恵」を「智慧」と書き記したと考えられる。
    この文脈からは「智慧」は「善」としている事が判る。
    そもそも、”妨げる”の語句は、「善」なるものを”妨げる”から使われる語句で、「悪」で有れば”妨げる”は使わ無い筈で、妥当な語句の文脈と成るからだ。
    裏を反せば、後の教義の「知恵」では、「悪」の「知恵」を「煩悩」とする上記の(心所区分 A 副煩悩)の教義も、敢えて使い分けしている事から考察しても、平安末期頃には「悪の知恵」の考え方は徐々に芽生えていた事を物語る。
    これは時代が乱れ始めていた、つまり、「人の心」が「煩悩」(猜疑心)に依って「持ち様」が大きく乱れ始めていた事を示すものであろう。
    「人」は「人」を信じられなく成っていた。況や、「人」の発する「知恵」(策略・詐欺)を「猜疑心」で危険視していた事を物語る。
    この「平安期の仏説」の「悪の煩悩説」(愛、知恵)は、上記で論じた「青木氏の添書内容 古代密教説」の 「2の後天的な煩悩」から発し、「我執から生まれる煩悩」では無く、「Bの知恵から生まれる煩悩](添書の時期は「煩悩」を悪としていない)を、この説に「愛」と置き換えて、”「悪の愛」(悪の知恵)がある” とした論理であり、この場合の「煩悩」は「悪」とする前提に成っている。
    これは「平安期の(心所区分 B)」の内訳の「大中小の煩悩説」で観られる様に「悪の煩悩説」であり、最終的に宗教論争の据えに落ち着いた ”「煩悩」は否定しない (煩悩を悪としない)” としての時期までの間の仏説である事が良く判る。

    「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」
    さて、そうすると、「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」ではどの様な表現で定義されていたのかを知る必要がある。
    密教の古い仏書の私書籍に因れば、次ぎの様に解釈されている。

    ”「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え、「解脱」による「涅槃への道」が求められていた”

    この密教古書でのこの「解脱」に付いては、”煩悩に勝るべし”とした「青木氏の密教教示」(添書)では、”「勝解」と定義する” と同時期に書かれているのである。
    この”「勝解」は「智慧」に因る”と「古代密教の教示」と成っているから、要するに、その差は「智慧」では無く、「人苦」に重きを置いた定義である。

    上記した「平安末期の共通教義」である
    ”「心身」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き”

    この言葉の「智慧」の一節は、古代密教の「智慧」であった事に成り、この「智慧」は「煩悩」とは定義されていず、むしろ、「善」である「智慧」を”妨げる”とあるのだから、「智慧」は尊いものであるとして「智慧を薦める教え」に戻りつつあった事に成る。
    そうすると、密教古書の「人の苦」は、平安末期のこの仏説の「心身」と「類似語」と成る事から、明らかに「類似文」と成る。
    文章は違えども、「古代密教」の説への ”「戻り説」に近づいた” 事に平安末期の説は意味している。
    そうすると、次ぎの様に時代毎の共通定義は分類される。

    [煩悩の共通定義]
    A (奈良期)−平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
    B 平安末期説−(鎌倉期) 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

    「共通定義の変化」
    この変化は「奈良期から平安中期」までの期間では、徐々に潜在する「Bの変化」の方向に移動しつつも主の「Aの変化」を維持した。
    但し、その「Aの変化」は「Bの変化」の胎動の影響を受けながら「比例的な変化」では無く緩やかな「双曲線的な変化」を来たしていた。
    然し、その「Aの変化」がある時期に急激に低下し、それに代わって「Bの変化」が平安末期には突然に勃興して、明らかに「Bの変化」に変身してしまった事に成る。
    この「Aの変化」が逆に潜在し、主と成った「Bの変化」は鎌倉期までは維持された。
    その変化は、今度は急激な乱世の為に「双曲線の変化」では無く、「放物線的な変化」を描きつつ落下する事無く高い状態で変曲点を維持した。
    鎌倉期後ではこの「Aの変化」は低迷し、「Bの変化」は最早、現世に置いて可能な限界に達する際限の無い最大と成った事を物語る。

    ところが、この時に、突然に、この最大の「Bの変化」の「ぶり返し」が室町期中期前後に起った事に成る。この時の教義では、「Bの変化」に押し潰されていた「Aの変化」の「Aのぶり返し運動」が爆発・噴水の如くに宗教界の中で起ったと記されている。
    恐らくは、宗教界の書籍の記録の変異を調査しているので、一般の武士階級も含む民衆の中にも起こっていた筈である。
    これが最終は、上に記する「Aタイプの教義」でも無く、「Bタイプの教義」でも無いと云う形の ”煩悩は否定しない” と云う教義に成ったのである。(これをAxタイプと記す)
    「AとBのタイプの教義」では無いとしたのは、「Aタイプの教義」であるのはその通りなのだが、違う一点があるからである。
    それは、Aタイプでは、上記の様に、”「解脱」” とする字句を使っているところである。
    そもそも、「解脱」の本来の意味とは、”「煩悩」のある事を悟り、この「煩悩」を「人」として無くして克服する事”である。
    然し、この「Axタイプ」では ”煩悩は否定しない”と成っている。
    この”否定しない”は、”肯定もしないが、「煩悩」の有無に拘らない”とした事に成る。
    ”「煩悩」があるからと云って、それに拘り、あーだこーだと無理に「解脱」する必要はない”とした事に成る。
    要するに ”有無に拘るな 事をあるが侭に捉えよ” と説いているのだ。

    ところが、そもそも、平安初期から中期頃に密教浄土宗外の宗派が説く「Aタイプ」の「解脱説」には矛盾がある。
    そもそも、”解脱し得る「資質」がその者にあるのなら、「煩悩」に苛まれない筈だ。 「解脱する資質」が元来、無いから「煩悩」に苛まれるのだ” それなのに”解脱せよ”とはおかしい説に成る。
    矛盾している説の様に観得る。

    然し、この矛盾は上記の「解脱」を、「青木氏の密教説」の「勝解」と解釈すれば解決する事に成る。
    (この「解脱」の反意として「勝解」の意味を持たしていたのかも知れない。「漢文」は「隠意」を旨としているので筆者の能力では苦労する。然し、「青木氏」の先祖がこの書籍を読んでいる筈として考えると、この矛盾点を「青木氏の密教」として「勝解」と正しく定義していた事かもしれない。)

    恐らくは、「民への説法」では無く、平安中期頃までに勃興し始めた源氏や桓武平家等の「武家」の台頭に対しての「武」の「煩悩」を見据えた説法であろう。
    故に、矛盾が起ったが、民にこの説法をしても受け入れられる事は無い。
    「武家」の「密教の説法」である事が判る。

    つまり、この「Aタイプ」では無い「Axタイプ」の説法は、上記した「般若心経」の一節の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」のまさしくそのものの「教えの解」である。
    重ねて「色不異空 空不異色」に特別な意味を持つものである。
    そもそも「般若心経」は古い「原始仏教−古代仏教−古代密教」の教典である。
    完全に「Aタイプ、Bタイプ」では無く、日本に「仏教伝来期の教典」の時期の教義に戻ったのである。

    では、「Aタイプ」に対して、”何故、この様な「ぶり反し宗教運動」が起ったのか” と云う問題がある。
    又、”どの様な階層にこの「ぶり返し宗教運動」が起ったのか” の「2つの疑問」を説いておく必要がある。

    「2つの疑問」(「ぶり反し宗教運動」)
    結論から云えば、「7つの民族」の融合過程で起った夫々の民族の「守護神の五大守護神」の共通化・集約化が起こり、”仏教(「仏説」)の中に神教(「神説」)が入って来た事” が原因と観られる。
    所謂、「第1期の神仏習合運動論」が影響した事に成る。(青木氏の守護神{神明社]参照)
    上記の「Bタイプ」が究極に達した結果、「人」はその極限に達すると本能的にその極限から逃れ様として、その「捌け口」「逃げ道」を求める。その「捌け口」「逃げ口」を「仏」では解決し得ない事から既に存在する上位の「神」に「助け」を求めた事に成る。
    そして、「仏」を否定せずに、「煩悩」を否定せずに、「神」と「習合」させて「神仏」に助けを求めたのである。
    これは明らかに ”否定していない運動” であり、これでは、何れの「民」も、況や、何れの「教義」も抗する事は出来なかった筈である。
    故に、「究極の行動」として、突然に勃興した「Axタイプ」に反する物が無い事から ”突然に勃興した”と云う事が起ったである。
    当然にこの事から「2つ目の疑問」は解ける。
    それは「煩悩」に慄く「全ての民」と云う事に成る。

    「浄土宗の経緯」
    そこで、この「全ての民」が信心していたこの「原始仏教」が伝来したのは、つまり、「原始仏教」を私伝で普及させたのは、奈良期の「後漢の渡来人」で「阿多倍の職能集団」の第1陣に渡来した「鞍造部の首魁」の「司馬達等」である。
    奈良期に大和国高市郡坂田原の草房から「在来民」に布教した事が史実として判っている。
    そして、それが「職能集団の技能」の享受をうけた「在来民」を経由して急速に西日本全国に伝播して行ったのである。
    そして、その彼の教えは瞬く間に天皇家の「朝臣族」までも広がり、「蘇我氏と物部氏の神仏戦争」と云う乱に至ったのである。そして、蘇我氏と天皇側が勝利し、これをこの直ぐ後の奈良期の皇族賜姓族が自らの宗派と捉えて「密教の菩提寺」を建立して、「原始仏教(飛鳥)−古代仏教(奈良)」を護ったのである。
    これが「古代仏教」→「古代密教」として引き継がれ、更には、これが「平安期の浄土宗」の原型としての「古代密教浄土宗」と成り、「阿弥陀仏」を信仰する「朝臣族の皇族賜姓族」の「独善的な密教」として発展したのである。
    後に、これを「法然」により体系化されて「浄土宗密教」として確立したのである。
    この時には、まだ「密教」であり、「法然の浄土宗密教」は、「独善的な菩提寺」を建立して「特定の朝臣族・宿禰族の密教」として拡がったのである。

    (朝臣族系賜姓族の「氏の事情」を鑑みて「古代仏教」を基盤にして「独自の教義」を確立させて、これを「古代密教」なのである。これが更に「古代仏教」−「古代密教」を基盤とした「法然浄土宗」と連携して「浄土宗密教」が確立したのである。)

    そして、「浄土宗密教」の法然の弟子の「親鸞」により民の領域まで布教させる為に、この「密教方式」を取り除き、「浄土宗の教義」を緩やかにして「真宗」として、鎌倉期に勃興した「上層階級の武士階級」にまで先ずは拡がった。(後には民にまで広がる)
    然し、此処には「原始仏教」−「古代仏教」の司馬達等に依って布教された「初期の民の信心」は消えた訳では無かった。
    「民の信仰」は、地に深く潜行して維持された。そして、細々と「原始仏教−古代仏教」は民に依って700年近く維持されていたのである。

    (この時期の「民の信仰」は、神に対する「食(ミケ)神」と原始仏教の「仏」とが一体に成った信仰であった。現在の「稲荷社信仰」の原型とした、「神仏」を分けるのでは無く一体として崇めて維持した。
    この「神仏一体させた民の信仰」は飛鳥−奈良期の丹波−難波の付近に広がっていた事が遺跡から判明している。)

    この民に依って引き継がれた「原始仏教−古代仏教」の信心は、今度はその真宗が類似する教義であった事と、その緩やかに説いた「親鸞の教義」が「民の信心信仰」に合致し、「真宗」の方に流れ至ったのである。
    この「教義の根源」(民→「神仏一体」 氏→「神仏習合」)を同じくする「朝臣族の古代密教」と「民の古代仏教」の「2つの力」が、「Axタイプ」の「教義の力」として世に再び噴出したのである。

    民→「神仏一体」 : 古代仏教信仰   食神系社信仰  稲荷社信仰の原型
    氏→「神仏習合」 : 古代密教信仰   神明系社信仰  

    この時、根源と成った「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の伝統を持つ「朝臣族の密教」は、今度は「民の信仰」に代わって、逆に「皇族賜姓族」に世に潜行して細々と引き継がれて行ったのである。
    逆に「民の古代仏教」は地に潜行していたが、700年後に芽を吹き出し始め世に出たのである。
    この噴出した「民の古代仏教」は「親鸞」の「緩やかな教義」に変えて「真宗」へと変化して行ったのである。
    何時しかそれが国を動かすほどの「宗教勢力」と成って室町期の為政者(信長−秀吉)を悩ました。
    「民の古代仏教」と「真宗勢力」が合体した一大勢力と成って「民」と「下級武士階級」の「信仰体」と成り得た。

    (上級武士は浄土宗、武家階級は密教系浄土宗、公家階級は密教系天台宗、武士は密教系真言宗、一般武士と土豪階級は密教としない真言宗等の別派を信仰体とした。密教系派は一族の独自の菩提寺をも各地に建立した。) 

    この「Axタイプ」が ”煩悩は否定しない”を前提に変化させて ”「阿弥陀仏の念仏」さえを唱えれば「安楽の彼世」に逝ける”と説いてリードしたのである。
    「解脱」とか「煩悩」とか「智慧」とか「悟り」とか「拘る」とか説かずに ”ただ一つ 「南無阿弥陀仏」の念仏一つを唱えるだけで良い。 他に何もするな ただ信ずればよい。”としたのである。これが「民への教義」としたのである。
    (他の密教系宗派も「即身成仏」等のほぼ同じ教義である)
    「煩悩」を「人の苦」、「智慧を阻害する」として「解脱」(解決・逃避)したいのであれば、その方法は”ただ信じて、念ずれは出来る”と説いたのである。

    原始仏教−古代仏教−(神仏一体)−古代密教−古代密教浄土宗−(神仏習合)−三大密教−宗教論争−宗教改革−(教義見直運動)−(大神社信仰 守護神信仰)−部派仏教−浄土真宗−(密教消滅)−(ぶり返し運動)−宗教戦争−大乗仏教−(一般神社信仰)−神仏併呑−神仏連携−神仏合体

    「武家への教義」
    但し、これでは宗教ではないとして、「法然」−「親鸞」は ”人を観て法を説け 縁無き衆生動し難し”とする「仏法の教え」は曲げずに武家階級には教示したのである。
    この「武家への教義」では「民への差別」の事に成る。然し、この時代の前提は「身分制度」の概念があり、何の疑問も無い「仏説の教義」で合った。
    然し、これでは「武士の煩悩」に対する教義には成らない。
    其処で、親鸞はこの特定の武士階級に対して、”人を観て法を解け” の「仏説の教え」をより進展させて、より厳しい「武士の道」というものを説いた。
    この「武士の道」を説く事で「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」の解決策としたのである。
    「武士」に対しては、その「武」に対する「立場や役目柄」から、”ただ念仏を唱える”だけではその立場役目は果せない。むしろ、”「武士」の「人の道」として、この”「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」”に耐える事こそに意義があり、耐えてこそ「煩悩」に勝る事に成る”と説いて、”それを成す事が出来ないのであれば、それは「武士」としての立場役目は成し得なかった事を意味する事に成る。
    依って、最早、それは「死する事に価する」”と説いた。
    (後に、武士の本分を全う出来ない時に採らねば成らないものとして、これが「武士の切腹」と云う戒律として生き続けた。)
    そして「人の苦」、即ち「我執」から来る「煩悩」を克服出来なかった時のその死する事は「恐怖」では無く、”{現世と彼世]とは上記の「般若心経」の「心の道」の「色即是空 空即是色」であり、「色不異空 空不異色」の一節”と説いた。
    その「心の道」は「人の道」だ「武士の道」としたのである。
    そして、その戒律を厳しくした”武士に対してのみ「菩薩様」は護る”と仏説を説いたのである。
    この時、武家には真に「神仏連携の運動」が起こり、「八幡社」と合体させて「八幡大菩薩」を「信仰体」として作り上げた。
    (朝臣族賜姓族の青木氏−「阿弥陀如来信仰」 朝臣族賜姓族の源氏−「観音菩薩信仰」−後に全ての武士の「八幡大菩薩信仰」となった。)

    「朝臣族の青木氏」の古代密教系浄土宗派は、”「煩悩」に勝るべし”として、”勝るにはそれには智慧」を出せ”と説いた。
    此処でも「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は「信仰体の教義」が異なっていた。
    「浄土真宗」は、「浄土宗の教え」を護り、”煩悩に勝るべし”としながらも、”勝るには「武士の道」を”と説いた。「民」には「念仏三昧」を説いて救われるとしたのである。
    然し、この流れは既に平安末期にも起こっており、清和源氏の河内源氏とその未勘氏族に依って広められた「八幡社信仰」が武家階級に起こっていた。[青木氏の守護神(神明社)]を参照
    (この「武家」とは「公家階級」に対して「武家」である。)
    そして、この武家階級は神教の「八幡社信仰」と仏教の「菩薩信仰」を連携させて「八幡大菩薩信仰を確立させたのである。
    この流れが、更に確立されて、「煩悩」から解脱する「人の道 武士の道」の「武士道」を構築して鎌倉期以降多く発祥した「武士の信仰体」が出来上がったのである。
    所謂、これが「神仏併呑説」である。

    この段階で、次ぎの「4つの信仰体」(宗派ではない)が既に存在した事に成る。

    「4つの流れ」
    ・「青木氏」等による朝臣族の「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」(阿弥陀如来仏)を信仰体とし、「皇祖神−子神-祖先神−神明社」とする「神仏習合」の流れ 奈良期から平安中期

    ・「原始仏教」を信じ潜行していた「民」の信仰体とする流れ(類似する真宗に最終帰依)
    「食の神」(ミケの神 トヨウケの神)に通ずる信仰体と合わせ持っていた。飛鳥−鎌倉期

    ・武家階級の「八幡信仰」と「菩薩信仰」の「神仏併呑」の流れ 平安末期から室町期初期

    ・武士階級の「真宗信仰」と「武士の道」を説く「八幡大菩薩」「神仏連携」の流れ 室町中期から江戸初期

    「4つの神仏の集約運動」
    「神仏習合」 神教と仏教が独立しながらも寄り添う様な考え方 奈良期−平安中期
    「神仏併呑」 神教と仏教が一部融合しながらも統一させた考え方 平安末期−室町期初期
    「神仏連携」 神教と仏教が連携して融合し合う所を一つにした考え方 室町期中期−江戸期初期
    「神仏合体」 神仏と仏教が完全融合して一つの形にした考え方 江戸期末期−明治初期

    以上「4つの流れ」の時代毎の背景には「神と仏の教えの歩み寄り」が大きく影響した流れが起った。

    当然に「我執」を基とする”「煩悩」は否定しない”の考え方がこの流れの主流であった。

    この「4つの流れ」は、その基を質せば、「青木氏等の朝臣族・宿禰族」の「古代密教」が基盤として拡大したものであって、その中でも、最終は「賜姓族」の「2つの血縁青木氏」とその「2つの絆青木氏」が主体とした信仰体が基盤と成っているのである。
    何故ならば、”爆発噴水”として勃興したのには、「何がしの起爆剤」があったからこそであり、「爆発噴水」の様に、”煩悩は否定しない” とする説の信仰体が突然に生まれる事は無かった筈である。
    その「内圧」と成った、「起爆剤」と成った「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」の「青木氏の存在」と「その考え方」が、世間に潜行し浸透して行って、「内圧」が高まったところで「爆発噴水の様」を成したのである。
    当然に「民の原始仏教−古代仏教」(神仏一体 稲荷信仰の原型)の潜行する動きが根底にあったからこそ起った事である。
    その「起爆剤」の大きな「引き金」に成ったのは、「青木氏の守護神(神明社)」に論ずる事であったのである。
    況や、486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神−神明社」の「神教の教え」が基盤と成ったのである。

    「2つの教義」
    日本全国各地に存在する「密教の菩提寺」、即ち、「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」の「阿弥陀仏」を「信仰体」とする教義
    486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神−神明社」の神教の教義

    この「2つの教義」が上記の「4つの流れ」を作り上げたのである。
    この一つと成った「朝臣族・賜姓族」が「2つの習合」を成し遂げていた事が以上の流れを起したのである。
    これが日本に於ける「原始仏教−古代仏教−古代密教」が基盤とされる仏説である。
    この様に、「家訓9」の「煩悩」を解析して理解する上で、この「4つの流れ」は無視出来ない。
    この様に「青木氏に存在する神仏習合の考え方」は、”「煩悩」は否定しない” であっても、当然に平安末期とそれ以降の共通する仏教の定義・教義とは異なっていた事が判る。

    ”「煩悩」は否定しない”には、「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」、「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」の教義を採らず、「和に対する心得」を堅持した結果、「神明社」に対して「八幡社」等の大きな差異が当初から存在したのである。
    従って、「煩悩」に関する定義も ”煩悩は否定しない” を前提に、「家訓10訓」は基より「家訓9」は異なっていた事に成る。
    では、何処が、どの様に異なっていたかを次ぎに解析する。

    「教義の経緯」
    そこで、この時代に青木氏は「3つの発祥源」の「融合氏」として発祥した「始祖氏」であるから、そして、「皇族賜姓族」としての50程度の大まかな「慣習・仕来り・掟」にガチガチに縛られていた事からも、ただ単に「新しい時代の仏教の定義や教義」だけにて、この「家訓9」を論ずるには上記の様な問題が多く、真の「家訓9の意」を解析する事は危険である。
    別の論文の「青木氏の守護神(神明社)」取分け−19から22に至る段の検証からでも、この「煩悩」対して「智慧の領域」の教義にあった事は納得出来る。
    況して、仏教の「古代密教」を継承し、「自然神−鬼道神」に近い「皇祖神-子神−祖先神」の神明社をも「氏の教義」として両方を持ち合わせていたのであるから、「新しい時代の仏教の定義や教義」ではそもそもこの「家訓9」を論じ得ないであろう。

    平安時代の「部派仏教」の時代になると、上記した様に、時代に合わせてその解釈を巡って「煩悩」の深い分析が行われた。この事で「宗教論争」が起こり「宗派」が増えたのである。
    更に進んで「大乗仏教」の時代でも、この分析は続けられ、特に「唯識」(唯物視論)が示した「心と煩悩」の精緻な探求が行われ、これが「仏教の煩悩」に対する到達した究極点と成った。

    (この段階では最早、「仏教の独善性:宗教の力が社会を牛耳る」が強くなり一般的な思考では難解である。宗教界内部の専門教義に委ねる。)

    又、この時代には最終、”「煩悩」は否定しない”と云う所まで到達する仏説も生まれ、それまでの仏教には無かった発想も生じて来た。
    (所謂 これが世に云う「如来蔵論」である 「青木氏」は「阿弥陀如来信仰」)

    「如来蔵論」
    この両者の思想はその後の「大乗仏教」の仏説に大きく影響を与えた。
    この様に「煩悩の観念」は時代を経るに従い、様々な意味を付加して深化して云えるのだが、問題は「古代密教」、取分け「浄土宗」では無く「浄土密教を教義とする青木氏」で「阿弥陀様を主信する氏族」の「煩悩に対する考え方」は、他の氏と大きな異なりを示していた筈である。
    日本全国8000氏の中でも、ただ1氏の「青木氏」のみが「古代密教の浄土密教」を継承していた事に成ると云える。
    とすると、果たして、「古代密教の浄土密教」とはどの様なものであったのかは「青木氏」そのものを研究しなければ、この「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」−「浄土密教」の「煩悩の教義」が明確には成らない事に成る。
    それを解明する事が出来るのは、この「青木氏の家訓10訓」、取分けこの「家訓9」に隠されている筈である。
    それを上記した共通した「煩悩の教義」を先ずは参考にして導く事で、その差が読み取れて、その結果、この「家訓9」の本意が読み取れる筈である。
    当然に、「青木氏の守護神(神明社)の論文」とも大きく関わる事に成る。それは悠久の歴史の中の「青木氏の生き様」を通して明らかに成る事を意味する。

    (余談 故に、「家訓8」で投稿を一時止めて、「青木氏の守護神(神明社)」の既に作成済みの論文を再編集して投稿を先行させた。)

    「家訓9」
    家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩悩)

    「智慧の領域区分」(重複)
    1 隠の行 (表: 話−編−歴)
    2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
    3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)
    4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

    (注意 (・・)を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

    「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」
    「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」を採らず
    「和に対する心得」を堅持
    「神明社」に対して「八幡社」
    以上の様な大きな差異が当初から存在したのであるが、更に詳細には差異がある。

    そこで、先ず、”「煩悩」に勝るべし”とある。”煩悩から解脱せよ 悟れ”とは当然に云っていない。それは、”「煩悩」は否定しない”の前提にあるからだ。
    字句は、”勝るべし”と云っている。
    これは、”「煩悩」がある事は人として当然の事である。「般若心経」の一節 「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示であるから 拘るな”である。
    ”勝るべし”とは、”「煩悩」に拘るな”である。

    この「煩悩」に拘らない為には、”「煩悩」に対しては別に「何らかの術」を以ってそれを乗り越えよ”と成る。それで無ければ、結局は、”煩悩から解脱せよ”と同じ事に成る。

    「煩悩」は人間が持つ本能である。それを押さえ込む事の苦労は、「煩悩」から受ける苦労(人の苦労)より遥かに大きい。それを押さえ込む事によるリスクは遥かに大きく、押さえ込んだからと云って人間の質が向上したとは言い難い。むしろ、大きすぎて「捻くれる事」のリスクの方が大きい。
    ”押さえ込む事”が出来てその質を向上させたとするそんな人間は「神」以外に無い。
    そもそも、その「神」とは「全ての煩悩に解脱した万能物」を云う。
    ”「煩悩」を無くせ”は、”「神」に成れ”に等しい。そもそも”「神」で無いから「人」なのだ”
    ”「煩悩」を無くせ”の教義は、そもそも「人」に云う教義では矛盾している。
    然し、”「煩悩」に勝るべし” とすれば「人」に云う教義としては正等の教義である。
    兎に角も、「神」に成る前にそもそも「人の変化」(へんげ)の「仏」がいる。
    では、その「仏」は仏説では、”「過去、現在、未来」の3世に生きる”と明言している。
    真にそれを「般若心経」に主な教えとして明言している。
    真に、「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示である。
    「人」は3世に生きるのであれば、「人の変化」の「仏」は4世に生きている事に成る。
    そして、この「煩悩」はこの「仏の教え」としているとすれば、論理的には、やっと「人の変化」の「仏」の「4世の世界」で「煩悩」から解脱出来る事に成る。
    これはそもそも論理矛盾でおかしい。
    更に「仏教の矛盾」がある。「4世」でやっと悟った「仏」と同じ事を「現世の人」に課せる事には矛盾が起る。
    古代の「般若心経」では ”拘るな”と説いていながら、「平安期の前後の教義」では上記した様に「人」に大也小也に「解脱」を要求している。これでは平安期前後の宗教界は「般若心経」を無視している事に成る。
    「仏」が「仏」に云うので有れば問題は無い。然し、生の「人」に説いている。
    あまりに独善的で学説的な過剰な宗教理論を展開した為に、上記の様な「平安期の仏説」には疑問や矛盾が目立つ。

    A (奈良期)−平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
    B 平安末期−(鎌倉期)説 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

    「般若心経の教示」からすれば、「人」に出来る事は ”「煩悩」に勝るべし”以外に論理的にあり得ない。
    筆者は、この ”「家訓9の説」(古代密教説)が正しい” と考えていて、更に、日本に渡来伝来した時の「原始仏教−古代仏教」の仏説教義では、”煩悩に勝るべし”の近い言葉であったと考えているのである。
    それは、「般若心経」の教示の通り、当初は ”「煩悩」のある事を知り、然し「煩悩」に拘るな”であったと考えられる。これであれば平安期末期頃の仏説の様に矛盾は起こらない。
    況して、”煩悩に勝るべし”では、「勝る」には何かが必要であり、それは必然的に「仏」より「上位の神」が与えた「智慧 知恵」を必要と成る。
    大事な事は、”「智慧」は「下位の仏」では無く、「上位の神」が与えた” と云う事だ。
    「神」は無意味に与えた訳ではない筈である。「何かの意味」の為に与えたのだ。
    答えは決っている。その為に、「神」は「煩悩」を持つ人のみに「解消の具策」として「智慧」を与えたのだ。
    この時、人は ”どうしたら勝る事が出来るか”考える。当然に「智慧」を働かせる。
    上記した様に「智慧・知恵」は「神」から授かった「人間特有の術」である。
    その「智慧の術」を使って「煩悩」に対峙する事で「人」は進化する。
    「進化する事」で、少なくとも動物本来の有する「煩悩」からは「解脱」とも成らずとも少なくとも「妨げの助け」(軽安減)と成るであろう。
    要するに「軽安減」と成る。つまり、「智慧の術での軽安減」とも成れば「拘り」とは成らない。
    これは「自然の流れ」の中にある。むしろ、「人」である限りは「煩悩」とも限らず「当然の仕儀」であり、斯くあるべきとも成る。
    だから、次ぎの「心所区分」として「智慧」に付いて論議されているのだ。
    ”平安期に「心所区分」として定義されている” と云うことは、これは ”「智慧」が何らかの「煩悩」に関わるもので在る事” を認識していた証拠である。
    然し、此処では ”「智慧」は「煩悩」を起す要素の一つだ” と説いているのだ。
    「智慧」は「煩悩」の「解消の具策」とはしていないのだ。
    ここが ”大きな勘違いであった” と「古代密教」は論じているのだ。

    ここで、それをもう少し詳しく論じて観る。
    上記の(心所区分 A)の4つの「智慧」から齎される「煩悩」
    (重複)
    1 隠の行 (表: 話−編−歴)
    2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
    3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)

    4 善の行− (信):
        「解脱系」   精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡
        「勝解系」   軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

    ”「智慧」は「煩悩」である” とする「平安期の教義」の上記「4つの煩悩」の中に、「4の善行」の項に ”軽んじる”と”安んじる”の「軽・安」が定義されている。
    然し、「4の善の行」の他は明らかに「6根の煩悩」である。
    又、「3の別の行」の項には、 ”勝る事から解する” の意の「勝解」が定義されているし、上記した「慈の愛」での「慧」も定義されている。「慧」もあるとすれば同意の「念」もあり得る。

    これは「家訓9」では ”勝るべし”としていた事から、「3の別の行」と「4の善の行」の教義に該当しているが、「智慧」を出す「術」を、1の「隠の行」と2の「遍の行」の内容とすれば「家訓9」に該当する事になるだろう。ところが良く考察すると、”該当していない”のである。
    その前に、先ず、この「1から4の定義の扱い」を ”違える事” があるからとして、「平安期の学問教義」では「煩悩としての扱い」にした可能性がある。
    「平安期の仏教学的教義」では、”「智慧」は「煩悩」である” と認定した上で、「古代密教の教義」では、元は一つであったものを「智慧」をこの様に先ず分類して、「1から3の内容」で”違える事”があるから、だから”違える事”に依って、”「4の善の行」の「煩悩」と成ると、強引に誘引して「仏教学」として説いたものであった”と考えられる。
    「4の善の行」の「信」に分類される「前6つ」は、真に「6根の煩悩」類で「解脱系」であり、「後4つ」は「勝解系」とに分類される。
    そして、この「4の善の行」の「信」は、”「違える事」”に成るかどうかは、この「信」(信じる事)に関わるとしていて、”「信じる事」の如何に依って「善の智慧」も「煩悩」と成り得る”とする論理としたと観られる。

    要するに、”「違える事」にする為の「論理的な理由付け」を見つけ出した”と考えられる。
    この無理な「論理的な理由付け」の「後付け論」を観て、そうしなければ成らない「時代の状況」に追い込まれていた事が頷ける。
    恐らくは、「古代密教」では、「4の善の行」のみの中に「1から3の内容」を組み込んでいた教義であったと予想できる。
    何故ならば、”「1から3の内容」はそれは「智慧」に到達する為の「プロセス」に過ぎない”からである。
    現に、「古代密教」を継承している唯一の「青木氏の家訓9」から読み取れる教義では、「3の別の行」に ”勝るべし”、即ち、「勝解」が入っている事が、これを証明している。
    確かに、「智慧」はこの「1から3のプロセス」を経て発せられる事は確かである。
    然し、それはあくまでも「智慧」の「4の善の行」を成し得る為のプロセスに過ぎない。
    このプロセスを経て始めて「智慧」と成り効果を発揮し得る。
    即ち、「古代密教」、即ち、「青木氏の教義」では、「智慧」=「4の善の行」 のものであった事が判る。
    当初の「古代密教の教義」には「解脱系 6つ」は無かったと考えられる。

    そもそも、この未だ「智慧」と云う形に至っていない「プロセス」のものを引き出して ”違える事” として「煩悩」とする説には飛躍が有り過ぎる。
    故に、”実用化しない傾向の在る「仏教学の学説論」だ” と、「古代密教 説青木氏の教義内容」の検証と、合わせて「平安期の仏教学的教義」を論評している。
    故に、”大きな勘違いであった”と成るのだ。

    仮に、この”違える事” がこのプロセスの中であるとしても、それは「一時的な期間の現象」で「煩悩」として見えている事であって、「智慧」の「目標とするある期間の末」にその「智慧の効果」が発現すれば、「一時的な期間の現象」は問題は無く、それは「智慧」とする範疇の中に在る。
    そもそも、「智慧」とは、”ある「期間」と、ある「状況」と、ある「人様」の「本質の領域」を持ったものである。
    ”「智慧」を出したからと云って、直に効果が出なくては成らない”とする定義は仏教にはない筈であるし、そんなものはそもそもこの世に無いだろう。
    この世の「森羅万象」の全てものには「醸成領域」と云うものを持っている。例外は無い。それがこの「世の条理」である。当然に、「神」が創造した「人の脳」から発する「智慧」も例外では無い。
    これを「一プロセスの過程」で ”「違える事」” 事があるからと云って、「煩悩」とするは「醸成領域」の「世の条理」を無視した事を意味する事に成る。

    現に、仏説に「三相の理」と説いているではないか。この「智慧の醸成領域」は、「人時場」の「3つの理」に合致している。「期間、状況、人様」の「智慧の本質領域」である。
    況や、”この「世の善成るもの」には必ずや「三相の理」が伴なう。 「三相の理」無くして「善の結果」は得られない”とする仏説汎教でもある。
    「古代密教」(青木氏の教義)では、云うまでも無く、「醸成領域」を持つ ”「智慧」は「善」”である。故に、”「善」は「4の善の行」の「勝解」と成る”とする所以である。

    「平安期の仏教学的教義」の「煩悩説」には「拘り」が過ぎて他の「重要な仏説」を忘却してしまった説と言わざるを得ない。
    真しくこれこそが「般若心経」の「拘り」の見本である。犯しては成らない事を仏説自らがこれを犯している。
    況や、「三相の理の仏説」も含めて、”「拘るな」”とする「根本の仏説」をも無視している事に成る。

    然しながらも、兎も角も、古代密教の「青木氏の教義」は ”勝るべし”(勝解) としたが、これには何か意味がある。

    「家訓9の添書」の文脈から読み採ると、次ぎの様に成る。
    「智慧」には”「煩悩」と成り得る「慧」”と、”「煩悩」と成らない「慧」”があるとしている。
    「煩悩」と成らない「慧」は問題は無い。(但し、「慧」を「煩悩」とは決め付けていない)
    むしろ、この”「煩悩」に成らない「慧」”は、”「煩悩」に成る「慧」を賛く”として断じている様だ。
    依って、”煩悩に成らない「慧」”は ”煩悩に成る「慧」”を”減殺する”と論じていて、終局は”「智慧」は「煩悩」と成り得ない”と結論付けている。
    依って、文脈の要約を採り纏めるとすると、次ぎの煩悩の数式論的な事が成立するとしたのである。

    「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
    「煩悩」に成らない「智慧」−「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
    「進化」=「勝」

    この「3つの数式論」が成立つところに「家訓9」の”煩悩に勝るべし”と成るのだ説いている。
    この世は現に進化しているのだから「進化」=「勝」はこの「現世の理」であるとしている。
    そして、ここには、一行”「智慧」の「慧」の「慈」を忘却ならず”と付加えている。

    この「3つの数式論の智慧論」はどの様な背景であったのかはこの数式論を検証して直ぐに判る。
    それは、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた「物造りの神」「豊受大神」が証明している。
    「物造り」は「智慧の発露」の結果であるからだ。
    ”「人」を豊かにする「智慧」は、「人」を苦しめる「煩悩」とは到底成り得ない” としているのである。
    故に、上記の通り、”「豊かにする智慧」は「善」であり、「慧」は「善」とする「慈」である”としているのだ。
    依って、「青木氏の伝統ある教え」は、”「慈」は「愛」であり、「悪の愛 煩悩と成る愛」は存在し得ない”としているのである。

    「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」 
    ∴「智慧の煩悩は存在せず」

    平安期以降の「愛は必ずしも善と成らず、「悪の愛」があるとする」の教義とは明らかに異なっている。

    ここでは、明らかに「教義の前提」が異なっている。
    故に、「平安期以降の各種の宗派の仏説」の「智慧の煩悩」(4つ煩悩 心所区分 A)とは論説は異にする。
    故に、「青木氏の伝統ある教え」は、「平安期前の密教の教義」である事に成り、この論説は、”「原始仏教−古代仏教」の源説であった” と観ているのです。

    「伝統の教え」
    「青木氏の守護神」 「皇祖神−子神−祖先神−神明社」の「親神 豊受大神」の「物造りの神」の教えと、上記する「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の教示とが「青木氏」の中で習合して、平安期初期前後頃には、この「家訓9」の ”煩悩に勝るべし” の「伝統の教え」が完全に確立されていて、子孫に脈々として伝えられて来た事が判る。
    この「家訓9」の「伝統の教え」は、単独で伝えられる事は有り得ず、伝えるには其れなりの「伝達力」を必要とする。それで無ければ今日まで伝えられ無かったと考える。
    その「伝達力」に成り得るものは、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の「確固たる組織の団結力」に依って支えられて、この「青木氏の教示」たるものが延々と換える事無く引き継がれて来たからに他ならない。
    それは、「口伝」のみ成らず、「青木氏の生活基盤の支え」としての「教え」として信じられて来たからこそ「家訓として遺しえた教え」であった筈である。

    そして、”この「伝統の教え」には「伝達力」としてのもう一つの力が働いていた”と考えられる。
    この「伝達力」無くしては「教えの伝統」に成り得なかった筈である。
    そもそも、「伝統」と成るものは、”何でも伝えれば伝わる”と云う話では無い。
    「伝わる幾つかの条件」が備わっていたからこそ伝わるのである。
    「正しい伝統」に成り得るものは全てこの条件を備えている。

    (筆者の物理系技術者の論理では、この世の万物は例外無く「伝統伝達」(この言語に類する全て物)の条件が備わっている。所謂、これは摂理である。
    (例えば、分子の構造理論でもこの伝統に類する物を「伝達する条件」が定理で存在する)

    その意味から、上記の「青木氏の守護神」の「物造りの考え方」が、この「家訓9」を導いた事は云うまでも無いが、「神仏習合」に至るまでには「物造りの考え方 智慧の発露」以外に「習合」と云う形に至る前に「接着剤」と成る何ものかが無くては「習合」に至らないのでは無いかと考えられる。

     「接着剤」
    では、”その「習合」に至る「接着剤」とは何ものか”を検証する。
    そもそも、何かと何かが一致したからこそ「習合」と成り得た筈である。
    それは、「仏教」と「神教」の間にある共通する「何かの教え」があって、この「世の摂理」として何事もそうである様に、「陰と陽の関係」の様に引っ張られて其処で「習合」が起ったのであるから、それを見つけ出せば良い事に成る。
    但し、恐らくは、祖先が「習合」と限定して書き記している以上は、「陰と陽の関係」では無い筈で、「習合」の意味からすると「神仏」の何れのにも「共通する教え」であった事に成る。
    そして、それはほぼ「同じ意味する処」を持っていたからであろう。
    故に、直ぐに「生活の中の教え」として取り上げられて、”青木氏の大きな組織に「伝統の言」(家訓)として引き継がれて来た”と考えられる。
    そして、その「考え方」が「神教側」にも、「仏教側」にも主に「教え」を伝える氏の中に「専門の者」が存在していた事が云える。
    そうでなければ、長い間に迷路して違う形に成っていた筈で、「家訓9」の形では遺し得なかった事に成る。
    それが青木氏だけに脈々と備わっていた事を示唆している。
    従って、その ”「伝達司」(接着剤)と成ったものは何なのか” と考えれば良い事に成る。
    答えは、ここでは「神仏」に関わる「青木氏固有の特長」であるのだから、最早、議論の余地無しである。

    「伝達司」(伝達子)
    「神教側」では、「青木氏の守護神」の神明社の「神職」は「自らの氏」から出している。神職宮司である。
    「仏教側」では、「青木氏の密教菩提寺」の「住職」は密教であるから「自らの氏」から出しいる。住職僧侶である。
    この条件は完全に備わっている。
    この「2つの伝達司」(伝達子)は、何れも「青木氏」にこの教示を説いていて、青木氏に関する全ての「記録と伝達」を職務としている。
    当然に、この「2つの伝達司」(伝達子)は、「神教側からの教示」と、「仏教側からの教示」の中で、この「記録と伝統」を同元として教示している事に成る。
    そう成ると、この「2つの伝達司」(伝達子)の云う事が異なる事は、「混乱」と成り伝達に値しない事に成る。「神仏の社」を独善的に共有している以上は、異なっていれば「氏」その物が存立しない事に成る。
    「青木氏」としての ”「統一した記録と伝統」が双方にある” と云う事に成る訳であるから、「習合する部分」に於いては、「統一した教示の伝達」がこの「2つの伝達司」依って成された事に成る。
    つまり、「氏の教示の統一」を神仏双方で教義し議論された筈である。
    少なくとも、「青木氏」の「守護神」と「密教菩提寺」が存在する以上は、「伝達司」(伝達子)による「統一した教示の伝達」は成し得た事に成る。
    依って、「統一した教示の伝達」の記録より明治期初期までは確実に起こっていた事に成る。

    (筆者の「伊勢青木氏」では、歴史上、「奈良期からの不入不倫の権」で明治初期まである程度保護されていた事から、一部では明治35年の焼失もあったが大正14年までの各種の記録が遺されている事でも判る。)

    さて、「2つの青木氏に依る伝達司(伝達子 接着剤)」がいるとして、次ぎはその習合するその教示の解明である。

    この「家訓9」では ”煩悩に勝るべし” として「煩悩」から逃れられる「術」を会得した。
    要は ”「智慧」を使って勝れば良い事”に成る。
    そして、その「智慧」は「善」であって「煩悩」では無い事であった。
    そして、改めて記するが、次ぎの「3つの数式論」が成立つと説いた。

    「3つの数式論の智慧論 仏説論」
    「煩悩」を消すには「智慧」として「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
    「煩悩」に成らない「智慧」−「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
    「進化」=「勝」

    「勝」=「現世の理」=「進化」
    「智慧」=「慈」=「愛」

    ∴「智慧」>「煩悩」=「勝解」

    「3つの数式論の智慧論」=「青木氏の守護神(神明社)」=「物造りの神」「豊受大神」
    「物造り」=「智慧の発露」

    「神仏習合論」
    ∴「物造り」>「煩悩」=「勝解」

    「神仏習合の附帯条件」
    「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」
    ∴「智慧の煩悩は存在せず」

    以上の9つの数式論で、「神仏の教え」は習合した事に成る。

    さて、これでは「神仏習合の方法論」では成立つが、「神仏習合の条件」としては充分では無い。
    次ぎは、解決して置かなければ成らない事は、この附帯条件の「智慧=慈=善=愛」と成す「智慧の発露の仕方」であろう。
    これを解決しておかねば「絵に書いた餅」の論と成る。

    「智慧の発露の仕方」
    然し、もうお気づきと思うが、これも既に解析済みである。
    先ず、「神教」の答えは、「青木氏の守護神(神明社)」−21、22の段で充分に論じた。
    「自然神−鬼道神」を起源とした「皇祖神-子神−祖先神」の「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)を ”「心頭を滅却」して、「人間の善の意思」を獲得する事だ”と論じた。
    (「善」論は附帯条件)

    そして、「仏教」では、「原始仏教」−「古代仏教」の教示は本文の上段で論じた。
    「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」
    この解析は、簡単に云えば、”俗説 拘るな”であった。
    では、”どの様にして拘らなくすればよいか”の条件を解析する。
    そもそも、”拘り”は「我執」である。
    「煩悩」の元は、「我執」としている「仏説」としては、”「拘り」は「煩悩」ではないか”と云う疑問が生まれる。
    然し、密教の「我執説」の「6根」にはこの”「拘り」”は定義されていない。

    6根:「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」

    平安期のこの「6根」から観ると、「拘り」とは、この「6根」では、 「瞋」と「慢」に類似する。
    然し、次ぎの様に定義される。
    「瞋」は、「攻撃する本能」即ち「怒り」として定義されている。
    「慢」は、「わきまえ」を超えた「欲」として定義されている。

    そもそも、「拘り」は「攻撃、怒り」では無いし、「わきまえ」の限度ではあるが、必ずしも「欲」に値しない。
    従って、平安期末期以降の仏説では、”「拘り」は、必ずしも「煩悩」ではない” 事に成る。
    然し、「般若心経」には 「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”となるから、 疑問が生まれる。
    何故ならば、全ての仏説の基と成っているこの「般若心経」とはこの「平安期の仏説」は異説であるからだ。
    この疑問を解決して於かなくては「神仏習合の条件」の答えは出ない事に成る。

    其処で、これを論じて解決する。
    「拘り」が、「平安末期以降の煩悩」として定義されていない事に付いての疑問と、或いは、”「拘り」は「我執」としたが、「我執」ではないのか”、この疑問の「2つの前提」を解決する必要がある。

    「2つの前提」の検証
    先ず、「拘り」の言語は、俗説としては、”ある事に「必要以上」に「自分の良悪の判断領域」で、この事はこうあるべきだ” と「限定」して、”「自分の心」を一時的に「洗脳」して「固着」してしまう状況” で訳される。
    然し、此処には、「必要以上」、「自分の良悪の判断領域」、「限定」、「洗脳・固着」に問題がある。

    この4つの中、前の2つの「必要以上」と「自分の良悪の判断領域」は、次ぎの様に成る。
    ”その限度がどの範囲で適切であるのか”
    と云う事に成る。

    後の2つの「限定」と「洗脳・固着」は、次ぎの様に成る。
    ”個人の性癖で起る現象”で、その個人の”人格技量の形成範囲を問われている。”
    と云う事に成る。

    この4つは、「人」として、「大人」としての「未量と未熟」に起因する事を意味する。
    さすれば、この「未量と未熟」を会得解決する事で、 俗説の”拘り”は解決する。
    この「未量と未熟」を大人として獲得すればこの「拘り」は解決する。

    とすると、上記で「煩悩」とは、”人に持っている「潜在的・先天的な性」”と上記で説いた。
    従って、”「未量と未熟」は年齢を経て、「経験と知識」を獲得する事で霧消する事に成る。” のだから、この「拘り」は何時かは霧消する事に成るから「煩悩」の定義から外れる事に成る。
    故に、「平安末期以降の仏説」では「煩悩」として定義されていない事が判る。
    当然に、「拘り」は「我執」として扱われない事に成る。
    これで上記の「2つの疑問」(2つの前提)は解けた。

    そうすると、次ぎにでは、 ”「俗説の拘り」は、「仏説の拘り」では何と表現するか” の問題を解決する。
    「般若心経」の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”は、上記の「拘り」の言語の定義から、「未量と未熟」を解決すれば、「大人」として事に過敏に反応する事は無くなり、その「心の安定」から、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を獲得出来る事に成る。
    そして、これを先ずは、 ”人として会得せよ” と説いている事に成る。

    (俗説と仏説の「拘り」−「未量と未熟」は、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を阻害する最大の障害である。)
    要するに、「泰然自若の心得」が必要と成る。(家訓の「長の心得])

    要するに、俗説の「拘るな」では無く、「教典」であるのだから、「泰然自若」の ”「無意、無心、無念、無想の心境を会得せよ」”と成る。

    この教示とすると、上記での(心所区分 B)の「智慧の領域区分」に、この事に相当する事が定義されている。
    注釈
    (心所区分 B)
    智慧の領域区分
    1 隠の行 (表−話−編−歴)
    2 遍の行 (意− 触− 受− 想− 思)
    3 別の行 (欲 − 勝解−念− 定 )
    4 善の行

    特に、、”「無意、無心、無念、無想」”は、上記の 「2 遍の行」の(意 - 触 - 受 - 想 - 思)に相当する。

    更に、故に、「3の別の行」の「勝解」から、「家訓9」は、”勝るべし”と表現した事に合致した事に成り、納得一致出来る。

    「無心」は、「3の別の行」の「念」に成る。
    「思」は「無想」に通じ「無思」に通ずる。
    「定」は、「拘り」の定義の「限定」、「洗脳・固着(定着)」にあり、「無定」である。
    「1の隠の行」は、「智慧の本質」の行であり、「智慧」は「無意識の潜在性」から発する「脳の働き」を「隠」として区分けしている事に成る。
    この「隠」とする4つは、歴は「(記録)」、編は「(工夫)」、「話」は「(調聞)」、「表」は「(開研)」に依って生まれる。

    確かに、「智慧」は、”歴の「記録」”から引用して発露し、何かを”編の「工夫」”して発露するし、話の”調”べたり”聞”いたりして発露するし、表の”開発”したり” 、”研究”したりして、発露する事は確かであり納得出来る。
    確かに、この「1の隠の行」は ”「4つの諭し(智し:さとし)」” であり、「人」は自然の営みとして理解し脳を働かせる事が直ぐに出来る。
    そして、”これ等の「1の隠の行」は、「2と3の行」の「智慧の発露」(「無意、無心、無念、無想」)に依って達成する事が出来る” と説いている事に成る。
    (4の「善」は上記で論じた)

    「1の隠の行」→「2と3の遍・別の行」=「智慧の発露」=「無意、無心、無念、無想」→「4の善の行」

    以上の検証で、分類方法は別として、平安期末期を前にした「浄土宗密教系の仏説の教義」は、「平安末期後の教義」と論理的に一致して納得出来る。

    とすると、次ぎの様に成る。
    平安前後の「2つの仏教の教義」の終局の解析は、「無意、無心、無念、無想」に通ずる事に成る。
    況や、”これを会得する事(大人に成る事)で達成出来る”と解ける。

    「神教」の教義では、「無意識の智慧」を引き出す事にあるから、「無意、無心、無念、無想」して「俗世の邪念」を廃し、「無意識の領域」に到達出来る”と説いた。

    故に、この「仏教」と「神教」の「共通項(「智慧の発露の仕方」)の教義」は、”「無意、無心、無念、無想」で一致する事に成る。 
    (”「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)” ”「心頭を滅却」して”)

    故に、「神仏習合」は、この究極の「無意、無心、無念、無想」で一致しているので成せる事に成る。
    この「無意、無心、無念、無想」は、上記した様に、「未量と未熟」を解決して会得できれば、況や「大人」としての「人格」(経験と知識 1の隠の行)を身に付ければ、”事は成せる”と成る。

    (注釈 これ等の事柄は、「青木氏の家訓10訓」(「人格」の経験と知識は「家訓8」)に記載しているが、「青木氏の密教」では、「心所区分 B」の内容は「家訓」に反映していた事を物語る。
    筆者は、この平安期の煩悩教義の「心所区分 B」はこの「古代密教の考え方」を継承する「青木氏の家訓10訓」からの引用(影響)では無いかとも考えている。)

    「大人としての人格」は、逃れる事無く、等しく全ての者に課せられる「最低限の義務」である。
    課せられる「最低限の義務」を果し得ない者に「神仏の加護」は与えられない。そもそも「煩悩」云々の例外である。
    況や、仏説の「縁無き衆生 動し難し」、「人を観て法を説け」の説法である。
    「最低限の大人としての責務」の獲得に努力しない者には「神仏の加護」は無いのが当然であり仏説云々の以前の問題である。

    「習合策の根拠」
    これは、「守護神」と「古代密教」の考え方の両方を保持している「青木氏」ならではの「神仏習合」である事が判る。
    では、”何故、習合としたか”の疑問を検証する。
    他に、歴史上にもある様に、「併呑」、「連携」、「合体」(民の一体もある)等の形があるにも関らず、上記する様に、上記の様に「発露の仕方の教義」では一致しているのだから、少なくとも、「併呑」か「合体」でも有り得た筈である。

    先ず、「神教側」から観れば、「皇祖神−子神−祖先神−神明社」として独立してその役目を果していた。(青木氏の守護神(神明社)」の論文参照)
    「神教」は、「青木氏の守護神」である事以外に、「青木氏」のみならず「民の領域」までを導く「心の拠り所」としての存在であった。
    そして、この「神教」は「政治・軍事・経済」の「3府の国策」であった。

    一方、「仏教側」は、「密教」を前提としている以上、「青木氏のみの仏教」であり限定されている。
    その教義も、「青木氏」と云う「立場・役柄・身分・家柄」に限定した「3つの発祥源」の範囲での教義であった。
    むしろ、「青木氏の密教教義」を確立させなければ「3つの発祥源」などの「立場・役柄・身分・家柄」を維持させて行く事は不可能であり、「必然必須の条件」であった筈で、当然にして「密教の影響」を受けた「家訓」も「必然必須の条件」の中にあった事は否めない。
    況して、「青木氏の守護神」も存在すると成れば、最早、「必然必須の条件」を超えていたと考えられる。

    (筆者は、その意味でこの「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」は「一対の教具」であったと考えている。故に、「国策氏」で「融合氏」として公然としていた事は世の史実であり、特に「神仏の宗教界」の中にはただ一つの「神仏の牽引する密教氏」としても存在していたのであるから、「平安期の煩悩仏説」には、この「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」(青木氏の生き様)を当然に見聞し、その「青木氏の生き様」を目の辺りに観ていた筈であり、因って、「引用影響説」を採っている。むしろ、平安期には守護神の「青木氏の神職」(486)と密教菩提寺の「青木氏の住職」(141)が神仏の宗教界に君臨していたのである。”影響を受けていない”とする方が疑問である。)

    その典型的な事として「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の「青木氏」の独特の経緯を経た「密教菩提寺」がこれの全ての「有り様」を物語る。

    そもそも、「密教である浄土宗 菩提寺」は、その「氏」の菩提を祀う「菩提寺」を独自に建立する。
    同時に、其処に密教としての「独自の教義」を確立させる。
    「皇族賜姓族青木氏」で有れば25氏ある事に成るので、その出自の慣習から分家分派分流を起さない前提であるので、少なくともその土地毎に「一つの氏」の「密教菩提寺」を建立する。
    「特別賜姓族青木氏」であれば116氏あり、24地方に分布する。
    藤原秀郷一門に習って一部は分家分派分流するので、最低でも「116の密教菩提寺」が存在し其処に「青木氏の密教教義」を統一させて少なくとも24の各地に存在する事に成る。

    特記
    研究中であるが、「西光寺」:密教系の強かった知恩院系浄土宗 秀郷一族一門の定住地に必ず同名で存在する。60以上のこの共通名の寺が定住地に必ず存在する。
    この寺は平安時代の「空也」(僧侶)が建立したと云われている。然し、「空也」が、そもそも、これ程の60以上もの寺と30程度の地域に同名の寺の建立は、財政的にも、物理的にも、時間的にも、地域的にも絶対的に建立する事は無理である。そもそも、寺社建立権は、一族一門の許可無しで建立は叶わず、平安時代は朝廷の許可無しでは建立出来なかった許可制であり、江戸時代まで許可制で規制されていた。室町期中期までは「特定の氏族」に限定されていた。
    又、秀郷一族一門の土地に一族一門の許可無しに勝手に建立できる社会ではなかったし、この時期は未だ密教であり、密教で無い浄土宗の檀家寺を建立する事の事態が時代考証が成立しないし、この時期の「民の信仰」は、この時期は浄土宗帰依は未だ無理であり、民の信仰対象の浄土宗の檀家寺は明治3年以降のものであった。
    江戸初期に密教体質を払拭して「家康」が「浄土宗督奨令」を出し、「高級武士の帰依」を始めて認めたもので、その後、中級武士にも広げられたものである。
    「平安期の空也建立説」はこれ等の事を完全に無視している。
    且つ、況して、平安期では、「建立権」を保有している氏は限定されていて、「青木氏」の様な、「朝臣族」に限定されていた事から、「空也の建立説」は不確定で良くあるある思惑に左右された搾取偏纂した「後付け説」である事が判る。
    仮に、「空也」とするならば秀郷一門が「空也」(僧侶)の名の下に建立し、説法としたと考えられ、この「西光寺」は明らかに秀郷一門の菩提寺と観られる。
    この寺は一族一門の領国付近に多く、この60以上のリストの中以外にも一族一門が定住していた地域に15程度の「西光寺」がまだある。現存している。
    「秀郷一門菩提寺説」を裏付ける「西光寺の寺名」にはある意味を持っていて、「朝臣族賜姓族」の「菩提寺の寺名」と共に「ある共通するもの」を持っている。内容は個人情報に関わるので不記)

    従って、「神教」の守護神の486社もの「神明系全社」が、「全青木氏の共通の神社」と成り得るが、「仏教」に於いては全青木氏の「密教の菩提寺」とは必ずしも成り得ない。各地に定住していた「青木氏の菩提寺」であるが、教義は共通するが「全青木氏の共通の菩提寺」とは成らないのである。
    青木氏の守護神の社とは異なるところである。ここに大きな「解離」と成る事が生まれる。

    又、この「解離」があるが、「習合」には、「3つの発祥源」である限りは、「神教と仏教」の何れにもその「象徴」であり、必然的に「象徴としての立場」は厳しく存在するので、「併呑、連携、合体の有り様」には問題が生じる。
    「武家の象徴源」であるからとしても、「武」を以って「氏家」を立てる事には成らず、必然的には「武家の象徴」である限りは、「和」で以って生きる事以外にはその存在の意義は無い。
    そもそも、元来、「象徴」と云う「立場と役目の手枷」がある以上は、これは「神教側」に於いても、「仏教側」に於いてもその「立ち位置」は変わらない事に成る。
    故に、「神教側」も「仏教側」も「3つの発祥源」を護る立場がある限りは、「併呑、連携、合体の有り様」は不可能であった。

    とすると、”教義が共通する事”と成っても、「併呑、連携、合体の有り様」とは成り得えない。
    その夫々の役柄から絶対に逃れる事から出来無い。
    神仏両社が共に ”寄り添い合う”と云う形の「習合」で纏める事が以外に無い事に成る。
    これがむしろ、「青木氏」に取ってはこの「立場と役目柄」から平安期中期までとしては「理想の形」であったのである。

    「家訓9」の ”「煩悩」に勝るべし” の教えは、「神仏習合」に依って「無意、無心、無念、無想」で一致し、”時に当り、この「無意、無心、無念、無想」の極意を得て、「人格」を磨き「煩悩」に勝り、「長」としての立場を全うすべきである” としている。

    「添書要約」
    添書には、要約すると、つまり、”勝るべし”の極意「無意、無心、無念、無想」は、”「武」にあらず” と言い切っている。 ”「武」に対して「和」を以って成すべし”として諭している。
    しかし、文脈からは「武」そのものを誡めている様ではない。”「武」は子孫存続には必要な人間に与えられた「必要不可欠な処世術」”として説いている様に漢文の語意から読み取れる。
    ”「武」を戒め、「武」は術” には、「武」に対する捉え方にあると考える。
    「武」を誡めれば「和」を尊ぶは条理である。
    しかし、これも又、”煩悩を否定しない”と同じ論法である。

    (漢文の解釈にはこの論調が多いので苦労する。「般若心経」の上記の解釈と同じで読んだ通りの文意では答えは出ない。事程左様に、仏説の「般若心経」を解釈できるまでの若い時はさすが解釈出来なかった。直接表現を善しとする現代に生きる人間の苦労の一節である。況して技術屋である筆者には「含み文意」を文章の常識とする古代文には正直疲れた。「脳力」が極めて消耗する。)

    これを ”どの様にして理解して「和」に到達させれば良いのか” 苦労する。
    ”半ば「武」を否定し、半ば「武」を肯定している。” と成れば、「武」の解釈に「何か」ある筈である。
    ”その「何か」は何なのか”の疑問が残る。
    「3つの発祥源」の「融合氏・国策氏」で、「古代仏教」−「古代密教」の「教義」を「氏の主体」として、且つ、「皇祖神−子神−祖先神」の「古代神教の教義」と慣習を持ち合わせ、「悠久の歴史」を持つ「氏の家訓」である。
    従って、「何か」があるのは当然であるのだが、それを解くには「氏の全体の歴史の経緯や変異」を事細かく掌握しなければ出て来ない筈である。
    それには、神教側の方に多く答えがあると考えられ、「青木氏の守護神」を解明が必要であった。
    故に、見直しの為にも「青木氏の守護神」に関する論文を投稿を先行させたのだが、答えは出た。

    「抑止力」
    それは、次ぎの答えであった。この答えの論調で説けば附合一致する。
    「武」は、最終は「武」の「武具」を以って「殺戮」に及ぶ手段である。
    しかし、「武」の「武具」を無くす事、或いは、使わない事で「武」を果せば、「神教」と「仏教」の煩悩の「最悪の殺戮」(煩悩)は無くせる。つまり「抑止力」である。
    「抑止力」であれば未だ「武」である。

    その「武具無しの抑止力」を達成させれば、上記の「3つの発祥源」の立場は矛盾無くして保てる。
    「抑止力」で「氏の保全」は可能に成る。
    青木氏以外の氏が全て「抑止力」だけの「武力」であるとすれば、何も「武」に拘ることは無い。
    然し、他氏の多く、殆ど、全ては「3つの発祥源」と云う立場を保持していないし、当然に「神教と仏教」を併用して持ち合わせる氏では無い事、青木氏の様な「古代仏教−古代密教」や「守護神 祖先神」の立場では無い事から、「極意: 無意、無心、無念、無想の教示」は無関係であり縛られていない。
    依って、「武」は「武具」を持つ「武」であっても不思議ではない。
    この他氏から攻められたとした場合は、青木氏の自らの氏は護れない。
    然し、「武具」を有する「武」は使えないとすると、「抑止力」を大きくする事で事前に相手を警戒させて押さえ込めて護れる。(現実には、青木氏にはこの「抑止力」で3度護った)
    「武具無し抑止力」では、”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示は保てるし、「3つの発祥源の立場」は保てる。
    (そう成ると、「武具」に頼らない「抑止力」と成り得る大きさは必要で、それを補うのは「商いの経済力」が必要不可欠の条件と成る)

    「武の疑問」
    さて、そうすると、”「武」は青木氏に執って良くないのか” と云う疑問である。
    「武」に関する教義としては、浄土宗密教の「煩悩の教義」に次ぎのものが有った。
    もう一度思い起こして頂きたい。

    重複して記すると、”「煩悩」は、「我執」から起るものであって、その「我執」は「貪欲」「瞋恚」(自分の意に反すれば怒る心)「愚痴」の煩悩があるとして、中でも、「愚痴の煩悩」を主な事としての教義”であった。

    然し、「武」の行使は、この「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の連動に依って起る。
    この教義に「武」を当て嵌めて観る。

    「武」の行使の理由は、”他氏の領地等の奪取”等の「征服欲」に使われ、これは真に「煩悩の貪欲」の極みである。
    「武」の行使の発端は、「自己の慎み」を超えて「怒り」を発する時に起り、「煩悩の瞋恚」の極みである。
    「武」の行使の原因は、「自己の人」としての「未量と未熟」から来る「判断力の低さ」の時に起こり、「煩悩の愚痴」の極みである。

    つまり、「武」は「煩悩の最悪の見本」の様なものであり、「人としての幸せ」(善、慈、愛の結実)を根底より破壊する。それのみならず、死に至らしめる手段(武具)を有する。
    仏説で云えば、「武の煩悩」は、「3世の破壊」を意味し、「死の恐怖」を拭う「教典と教示」を前提から否定するものである。
    故に、浄土宗と真宗はこの「武」を使命とする「武士」に対して教典に反することである事から「武の道」を説いて「武の煩悩の悪弊」を取り除く「道」を説いたのである。
    これが室町期末期頃から「武士道」として確立したのである。

    以上と成るが、これを青木氏が「3つの発祥源の象徴」であるとすると、「青木氏」に執っては「武」は「発祥源の象徴」であって、この理屈から観ても「武士道の象徴」とも取れるが、「武の道」では無く「和の道」でこれを払拭したのである。「武の道」は「「破壊、消滅、死」を意味する。
    「和の道」は、故に、「破壊、消滅、死」を意味する事とは「反意」である。
    この「和の道」は、即ち、「家訓」と厳しい「慣習と仕来りと掟」で構成されているのである。

    「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」≠「武の道」(武士道)

    さすれば、「武家の発祥源」でありながらも、「武」の実質の役職を持ち得ない「象徴」とも成れば「武」であっても「武力」は持ち得ない事に成る。
    況して、”「融合氏」の「融合」は「万物発祥の起源」”である。
    依って、到底、「武」は「青木氏が保有するの神仏の教義」に合致せず、「煩悩」の最たるものとして排除しなければ成らない立場に有った。

    その為にも、「神教と仏教の教え」の究極は絶対条件として、”神仏を習合一致させる”事に成り、「守護神」と「密教寺」を有する「青木氏の絶対的教示」としたのである。

    「和・武の戒め」「抑止力の欠点」
    故に、「武の煩悩」を含む「全ての煩悩」に対して、”煩悩に勝るべし”であり、その「勝る」に至る極意は、”極意「無意、無心、無念、無想」の教示である”としているのである。
    これが「3つの発祥源」の「立場、有り様」なのである。
    そして、添書の ”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示が、故に、「家訓9の戒めの言」と成っているのである。
    これが「家訓9」の「和・武の戒め」である。

    故に、「武」は「抑止力」で成らなければ成らないが、然し、この戒律には大きな欠点がある。
    それは、「世に晒される事」である。

    そもそも、「抑止力」とは、”本来、見えないから、不透明だから、その力に「懐疑」が起こり、「自らの力」との差異を計測出来ないところの不安を利用する戦術” である。
    これが「世に晒される事」で、不透明さが判明すれば「懐疑」が無くなり、この「力の差」は判明して、自己の力>抑止力の「時」には「武」が採用されて「和」は消滅する。これは「現世の条理」である。
    故に、「和」>「武」の形が保てるところに「青木氏」は存在しなければ成らないのである。
    そして、この「和の力」を大きくする術、「戦略」が絶対条件として必要と成る。
    その戦略とは、「商い」である。
    「商い」は「善」であり、「物造り」に通じ、「人の正なる生き様」になり、「神仏教義の極意」でもある。

    「和の数式論」
    「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」
    「商いの利」→「抑止力」=「和の力」
    「和の道」=「商の道」≠「武の道」
    「和の道」=「和の力」(和力)
    「武の道」=「武力」
    「武力」=<「和力」→「抑止力」
    「青木氏の武の道」=「青木氏の抑止力」

    この「商い」が「和の力」、即ち、「武力」に対して「和力」を生み出す。

    以上の「和の数式論」とその「相関関係式論」が生まれる。
    これが、「家訓9の数式論」である。
    この「家訓9の教示」は「家訓10訓」の全ての教示に通じその根源と成っている。

    この現在まで続く口伝の ”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”はこの一点にあった。
    故に、「青木氏」は悠久の歴史を持ちながら、その「和の力」は「3つの発祥源」の立場にありながら、源氏の様に、「武の皇族としての立場」はもとより「世に出た豪族の立場」は持たなかったのである。
    それが故に、「和の力」と「世に出る事の無い立場」を護った事から、「青木氏」は足利氏−豊臣氏−徳川氏から特別庇護を受け安堵されるに至ったのである。
    これこそが、上記で論じた「青木氏の教示」の、この「世の人生の目的」とする「子孫存続策」の極まりであったのである。
    「青木氏の最大の戒め」
    ”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”

    注釈
    (その「和力」(総合力)は、「伊勢青木氏」の場合で計算すると100万石以上の力は充分であったし、これに「3つの発祥源」としての「象徴としての権威力」が備わっていた。
    それだけに世に出る事には利用される危険もあった。然し、この戒律を護らなかった例外はあった。
    室町期に信長−秀吉に利用された青木紀伊守と伊賀守の2人が歴史上の舞台に踊り出た。故に、この皇族賜姓族は滅亡した。ただ1度「伊勢青木氏」は、信長に対して「名張りの戦いの伊賀攻め」で旧来の隣人伊賀人を救う為に奈良期からの「氏の禁」(武力)を破り「信長の虚」を突き伊勢を護った。又、「伊勢丸山の戦い」では完全な「抑止力」で勝利した。)

    事程左様に、「家訓9の数式論」は「青木氏の生き様」の前提に成っている。

    ”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」としているが、その意味は実に深い。
    添書は簡単に要点を記述しているが、「添書文脈」が持つその真意を汲み取ると、この「家訓9の教示」は実に大きい。
    この「家訓9」を理解するには「守護神の事」を研究する事からその意味する事が判る様に成った。

    「家訓10訓」の汎用
    「家訓10訓」は、総じてその「家」の中の事に置き換えて「戒め」として説いている。
    然し、この言葉の置き方を「家」より「氏」や「企業」等の「大きい組織」に置き換えての「訓」としても用いられる筈で、恐らくは、本来、古来の「氏家制度」の中にあった事から「氏としての「訓戒」であったのです。
    これを、”より判り易くする為に、より多くの者が理解出来る様にし、「家庭」「家」に焦点を置いて言い聞かせた” と考えられる。
    そうする事で、”一族一門とその一切の郎党の全員が、「心の底」から「共通する思考原理」で立ち向かえる事が出来、結束をより強くする事が出来る ”と考えての事であったと観られる。
    それが「青木氏」と云う「特異で特殊な立場」にあったからこそ、他氏に比べてより一層の「正しい結束力」を求められていた。
    故に、他の「家訓8」までのものとは、その「戒め」が、「異質の基本訓」と成る様なものと成っている。
    そして、敢えて、添書には詳しく論じる事をせずに、各人に「考えさせる手法の家訓9」と成っている。
    それは、”「考えさせる事」に意味があった” と観ている。
    当然に、その「悟り具合」に依っては議論が起るであろう。
    「家訓9」を考えさせる、つまり、”「議論の想起」を「根本の的」としていた”と考えられる。
    一族一門の議論の中から、修練されて、「互いの心」に「訓意」が留まる事を狙ったと考えられ、そして、その「長」は、その「議論の修練の方向性」を「主導役」を求められたのであろう。
    それが ”「長としての資質」である” と考えられていた筈である。
    その務めを果さずして組織は維持出来ないのであるから、この務めが果せない場合は、上記の「密教の仏説」の教義の通り、「未量と未熟」と成り果ててその「長」は失格と成る。

    それだけに、「氏家制度」の中では、「和武の戒め」は「武」が主体とした社会であって、その中で「和」を説いて素直に「納得」は得られる社会では無かった。
    況して、「3つの発祥源」と云う立場は一切の他氏には無いのである。
    だから、到底、理解は難しい。”難しい”では無く、”理解は無い”が正しい。むしろ、”狂気か”と疑われるが道理である。
    そこに、「和」を説いた。当然に一族には「異論百出」である。其処で、先ず、”「煩悩」と云うテーマを敷いた。”「武」は「煩悩」の最たるものである”と説いた。
    そして、”そのテーマから「和」に導かせて悟らした。”と考えられる。

    普通ならば、「3つの発祥源」であれば「武の象徴」なのだ。疑う事無しで「武」である。
    然し、”「武の象徴」であるが故に「和」なのだ”。そして、それには、”「禁じ手」の「商い」なのだ”と説いた。”「武の象徴」が「武」だ”と叫べは世の中は戦乱である。
    「和の象徴」が「青木氏」と同列のところに別にあるので有れば、それも叶うだろう。然し、歴史上には無いのだ。
    そもそも、「武」は「和」を求める手段として「神」が「智慧」と共に人間に与えたものである。
    決して、「武」を求める為に「和」があるのでは無い。あくまでも「和」が「主」であり、「武」は「副」の立場にある。故に、「主」を求める為には、「武の象徴」は「和」(抑止力)でなければ成らない。
    この世に「副」を「主」として求める世界は「神」は与えていない。

    以上の論調で、青木氏一族一門とその一切の郎党に懸命に説き続けたのであろう。
    その結果として、理解が得られて「家訓9」は「青木氏の家訓」として成立して強く地に根付いて現在までに引き継がれて来たと考えられる。

    「和」は、「抑止力」だけでは無く、「禁手」の「商いとする前提」も考え合わせると、この「説得のリスク」は計り知れないものがあり、”「長に求められる資質」は相当なものを要求された” と考えられる。
    もし、この「武」で有れば、”「武の象徴」は「武」だ”と普通の者は考えがちである。
    真に、これを「否定」として、”「和」だ”する真逆方向で纏める事は「至難の業」であった筈で、故に、この時のこの家訓を遺した「青木氏の長」は「相当な逸材の人物・傑物」であった事が判る。
    (1025年から1125年の100年−3代の前半の人物 匿名)
    一族一門の「生活の糧」を護りながら、その「立場の堅持」する者が「普通の資質と度量の長」であれば「矛盾で狂気」と成るであろう。
    恐らくは、この時に一族一門から「嫡子の選択問題」が必ず起っていたと観ている。
    選択した者もそれを見抜く力の保持者で素晴らしい人物であったのであろう。

    (参考 伊勢青木氏の口伝に依れば隔世遺伝にて「何らかの傑物」が出ている。 この時の人物は戦略家であったとする口伝 始祖施基皇子は天武天皇の参謀役の「軍略司」を務めた事が日本初期に記録されている。血筋であろうか)

    「一氏の長」が悟ったとしても、従う者にも理解が無いと「強制の命」で組織を動かす事に成り、「氏力」は当然に働かず、滅亡が起る。
    一族一門が、”何がしかの悟り”、或いは、少なくとも「同意」を得ていなければ成し得ない。
    故に、”未来永劫に子孫は続かない。” 非常に難しい{家訓9]であった事に成る。

    「青木氏の独自の教義」
    青木氏が、仏説の本来の「煩悩説」に従うのでは無く、「密教の教えを旨宗」とする「氏」で有りながらも、”勝るべし”としたところに大きな意味を持たしたのである。
    これも「密教」とする処に無し得た「青木氏」ならではの論調であり得た。
    この「古代仏教」−「古代密教」の考え方に、この ”勝るべし”を「青木氏の独自の教義」として加える事で、”「和」を求める「武の象徴」”の「有り様」を一族一門とその一切の郎党には納得させたのである。

    この「青木氏の教義」(家訓9)を奈良期から脈々と引継ぎ、数百年後には”煩悩は否定せず”に成って一般の社会の中に蘇ったのである。
    これは、「青木氏の教義」の正しさとその「教義」を追い求めてきた「賜姓族」を社会は認めた事を意味する。
    それだけに「賜姓族」、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神−子神−祖先神」の「青木氏」の一族一門とその一切の郎党の動きは、社会からその「有り様」として見詰められていた事が、この”「煩悩」は否定せず”の一つの仏説でも良く判る。

    「家訓順の疑問」
    ここで、一つ最後に疑問がある。
    では、”何故、この「家訓9」を「家訓1」にしなかったのか”である。
    それは、この「家訓9」を前面に押し出す事は、”家訓が仏説と成る”の配慮があったのであろう。
    況して、”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」である。難くて家訓としては馴染まず、家訓の活用に疑問を持ったのであろう。
    そもそも、仏説なら教典を読めば良い。しかし、「家訓」なのであるから、のっけからこの論調は理解されない。それならば、「家訓1」や「家訓2」のような「家庭的な戒めの表現」は前に以って来ない筈で、家庭的な言語の家訓にはしなかったのではと考えられる。
    漢文であるにしても、この「家訓9」の配置には ”何かの履歴”があった可能性がある。
    時代の遍歴に依って、”先祖の誰かが変更した”と観ている。
    平安初期頃には全ての家訓とは言い難いが、この様な「家庭的な戒めの表現」の家訓にするかは甚だ疑問である。
    かと云って、鎌倉期以降では無い筈で、「商い」の本格的なスタートは平安末期の1125年頃と観ているので、その100年程度前には既に「青木氏の態勢」を換えつつあった事から観て、この100年の間に、「家訓配置と表現変換」を実行したと考えられる。
    変更するにしても、960年頃の「特別賜姓族の秀郷流青木氏の発祥」から観て、「皇族賜姓族」を支えた頃の間の1125年頃前では無いかと考えられる。
    即ち、平安初期の衰退から立ち直り始めた頃に一族一門とその一切の郎党に向けて改めてこれから生きて行く「青木氏の有り様」を明示したと考えられる。
    つまり、この時の「青木氏の立ち位置」を反映させたと考えられる。
    況や、「和」の「商い」を主軸として「3つの発祥源」の立場を守りつつ生きて行く事を宣言したのである。
    「特別賜姓族青木氏」にも理解を求め、取分け特別賜姓族の「母方血縁氏の伊勢青木氏」にも示すにしても平安初期前の「皇族賜姓族の家訓」では提示し難いものがあった筈である。
    特に、「家訓9」は「密教系の色合い」を強くし、仏説とは少し離れる「独自の教示」は特に憚られたと考える。恐らくは、この100年の1125年よりの時期で有ろう事が判る。
    これ等は、「青木氏の守護神(神明社)」の「神明社の建立とその経緯」と大きく関っていたと考えられる。
    この家訓全てが整っていたかは定かでは無いのだが、「添書」があると云う事はある途中で先祖の誰かが家訓に付いて疑問か何かがあって書き添えられた事は間違いないところであろう。
    奈良期からこの「添書」があったのかはも解らない。それを2度程で「書き直し」か書き足していると観ている。(何かと添書で補足する独特の「氏癖」がある事から、かなり早期に添書と成るものが有った可能性が高い。筆者もこの性癖をどうも引き継いでいる。)
    恐らくは、上記の時期、”「100年の間の1125年より」の時期までに「家訓全体」を改めた”と考えられる。
    恐らくは、少なくともこれ以降の年代では無い事は「漢文形式」が物語っている。
    この「100年の間の1125年より」が衰退から立ち上がり全ての「青木氏の有り様」と「青木氏に関わる周囲の環境」を換えてしまった事が何よりの証拠である。

    この「家訓9」は事程左様に、「青木氏の遍歴」大きく物語る源と成っている重要な家訓である。

    特記
    兎にも角にも、「氏家制度」の中では「賜姓族」であるが為に「4つの青木氏」は、「全ての柵」に縛られて「家訓10訓」に示す様な「氏の生き方」しか「生きる道」は遺されていず、不自由な環境にあった事は否めない。そもそも、家訓を定めると云う事は、この家訓の範囲の中で生きて行かねば成らないからわざわざ其処から外れない様に定めているのであって、少々外み出ても生きて行けるのであれば定める事はしない筈で、「2つの青木氏」はこの「柵」の中にいた。
    だから、”世に晒す事無かれ、晒す事に一義無し” ”然れども世に憚る事なかれ” とまで厳しく戒めている。
    「関係する青木氏」には、現在の「家訓の存在の有無」如何に関らず、この道以外に最早、「生きる道」は無かった。頭の中に沁み込んだ「伝統の思考原理」であった。
    それが、幸いにして「伊勢青木氏」に遺されていたと云う事であった。これは「生仏像様」が「全青木氏」に遺されていた事と同じ意味を持っている。

    ともあれ、本家訓は幸いに「伊勢青木氏」に遺された「家訓」をベースに論じているものであるが、明治の始め頃まで「和紙商い」では、親密に親交を持っていた現存する一族の「賜姓族信濃青木氏末裔」にも、何がしかの相当する家訓類が、「商い記録」等から読み取ると間違い無く遺されて居た事が判る。
    ただ、一族の「賜姓族足利系青木氏」等が「秀吉の計略」に陥り、立場を利用されて「武」の世界に足を踏み入れてしまった。結局、家康に依って叙封され滅亡した事(一部末孫が退避地に逃避)等から全体として「信濃青木氏の衰退」が起こり、「商い部分」を遺したのみで「氏としての遺産」を遺し得なかった。
    現在に至っては「商い」以外にはこれ等の記録資料関係が少なく遺されていない。
    伝統の”世に晒す事無かれ”が「資料記録の不開示」の原因に成っている事も考えられる。

    同様に「特別賜姓族青木氏」にも確認が出来ない。
    取分け、「特別賜姓族の伊勢青木氏」とは明治35年までの親族としての親交があり、伊勢四日市には「融合青木氏」を持つ等の深い血縁関係もある。
    「家訓」に対しては統一した行動を採っていた事は、「明治9年の伊勢騒動」の時の「援助記録」(伊勢青木氏保存)等でも明らかである。
    この事からも何らかのものが「武蔵の青木氏宗家」にもあった筈で、ある事に付いては研究中の中では添書の内容から判っているが、それがどの様な内容なのかは判然としない。
    ただ、「主要5氏の菩提寺」には「氏の記録」等がある筈で、この「青木氏の菩提寺の確定」の研究中である。(現在は家訓等の正式なものに付いて研究中で明確には成っていない。)
    然し、「信濃青木氏」も「融合青木氏」を持っていた事から、これ等を通じて、武蔵宗家の「特別賜姓族青木氏」との繋がりから何らかのものが間違い無くあるのではと考えられる。
    「主要5氏」の中で、「秀郷流伊勢青木氏」だけは本論の家訓等に添った生き方をした事からも、「武」にありながらも「和の生き様」をしたので記録資料は遺されている可能性は極めて高い。
    取分け、「信長の北畠氏攻略」の時に、「2つの血縁青木氏」は共に「合力」している事から、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の添書等の「何らかの記録」を確認出来れば、宗家にしてもある筈である。

    「武」に組した「近江青木氏」と「美濃青木氏」の記録は、早期に滅亡して一部支流末孫が遺されたが、平安期頃の記録は完全に焼失している筈である。

    「甲斐青木氏」もその支流末裔は現存しているが、親交が「和紙殖産」ではあったが、親交が少なかった事もあり、又、「甲斐青木氏の論文」の様に、室町期には、内部での「青木氏同士の混乱(源光と時光の争い)」や「信長の甲斐進攻」もあって、極めて「焼失」の可能性が高い。
    依って、「伊勢青木氏」には甲斐に関する有効な資料口伝類は遺されていない。
    何れも「古代和紙」等の「商い」を通じての親交が明治期まであった事から、文書的なものより口伝的なものとして明治35年頃まで遺されていた事が強く感じられる。
    もとより、「伊勢青木氏」は「青木氏」の中でその中核にあった事から、甲斐では室町期から明治初期の頃までは最早「口伝」でのものであった可能性が強い。依って、現在では「伝統意識」が低下して霧消したと考えられる。

    「生仏像様」の様な物体遺産は比較的に遺される可能性が高いが、無形の遺訓文化等は文書画像等にしない限りは古来では極めて難しい。長い歴史の中で文書画像は、尚更、相当な記録保存できる体制の取れた安全な氏(密教菩提寺と守護神が現存)で無けれ成し得ない事である。「伊勢青木氏」でも斯くの如くである。伝統に対する意識の変化が何よりも左右する。現在に至っては「個人情報に関わる問題」があるので研究調査が最早、極めて困難である。依って、個人の家の領域まで入り込まなければ成らない「無形伝統」の維持と記録保存と研究は最早、次第に霧消する過程にある。その中での研究であった。

    以上が家訓9の検証である。

    次ぎは、最終の「家訓10」である。


      [No.290] Re:青木氏と守護神(神明社)−22
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/12/10(Mon) 11:32:56  

    「真人族と朝臣族」の血縁関係
    序文
    改めてこの「歴史的経緯」に付いて詳細に検証して本論の基本的な判断材料とします。
    特に、「真人族と朝臣族」の血縁関係に付いては「一般の氏家の族」とは異なる慣習が敷かれていたのです。この事を事前に承知していなければ「青木氏の正しい氏発祥」を理解する事は出来ないのです。
    当然にこの事が「青木氏の生き様」に大きく左右していたからです。
    そうでなければ、前段で論じた「神明系社の建立の責務」を遂行する「真意」が判らない筈です。
    それには取分け、”「血縁関係の慣習」がどの様なものであったのか” が大きく左右する知識と成ります。
    そこで、この「血縁関係の慣習」の事柄に付いて、限定して各種の資料の文面内容から読み取る作業を長い期間続け研究しました。そして本論の様な「朝臣族と賜姓族の慣習」を纏め上げました。
    この本論が「青木氏の生き様」(消えてゆく伝統)を描き直す前提に成っています。

    そもそもこの様な「真人族」を含めて「朝臣族」又は「賜姓族」の「血縁関係の慣習」に付いては、充分に確立してまとめ上げた資料が無く、先ず、「古い事」や「特異な家柄」が原因していて、僅かに遺されたものとしては「日本書紀」以外には無く、万葉集などの歌集の歌詞や家紋文様関連の歴史雑学等からも引用して纏め上げるものでした。その意味で「青木氏の伝統」の一端を後世の為に再現出来たとも考えています。
    結局、これは研究の別の目的で調査している中での作業であり、あらゆる「資料の文脈」から「論理的」に、或いは時には「主観的」に読み取る作業でした。

    この「読み取り」とは、”この文脈や歌詞からすると、この時の「慣習」はこの様であった筈だ”と云う風に幾つかの「慣習パターン」(10パターン)に纏めて、それを積み上げて「一つの慣習群」に仕上げたものなのです。”その大元の「基慣習」は「血縁関係の慣習」から着ている筈”と観ているのです。
    先ず、その基本と成るデータを「19守護地」と「85遷宮地」と「486社の神明系社」に定め、この「3つのデータ」に繋がる「読み取り文」の「慣習パターン群10」を、個々に合理的に宛がう事が出来るかの「査定の検証」の繰り返しで得られた結果です。宛がう事に論理的に無理がなければその「検証」はより正しい事を意味します。それが本論の結果なのです。
    これ等の1から22までの内容を咀嚼して頂き「青木氏の伝統」を夫々の個人の中で作り上げて頂きたいのです。

    この研究結果を次に論じます。
    前段の「退避地」等の内容と合せてお読みください。

    「基本データ1」
    「主要な初期の19守護地」(4世族王)
    (「神明社の初期建立地」)

    5家5流皇族賜姓地
    伊勢
    ・ [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
    近江
      [雅狭王](滋賀県 近江−若狭地方)
      [山部王](滋賀県 草津−東近江−守山地方)
    ・ [近江王](滋賀県 ・国府)
      [栗隅王](京都府 宇治市 山城国−久世郡地方) 
      [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
    美濃
    ・ [美濃王](岐阜県 ・国府)
      [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
    信濃
    ・ [三野王](長野県 ・国府 信濃)
      [高坂王](長野県 更級地方)
    甲斐
    ・ [甲斐王](山梨県 ・国府)

    賜姓末裔地(賜姓族保護地)
      [石川王](石川県−福井県 加賀−能登地方 )

    遷都地  (特令地)
      [竹田王](大阪府−京都府 竹田地方)      
      [難波王](大阪府 摂津地方)
      [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
      [泊瀬王](奈良県 桜井市−朝倉地方 長谷寺)

    特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
      [弥努王](愛知県 尾張−信濃側地方)
      [桑田王](愛知県 豊田市地方)

    大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
      [春日王](福岡県 春日市地方)

     (・印は国府のあった地域所)

    以上、「国数 10」と「社数 19」(守護数 19)から成り立っています。 
    (全国数66国)

    大化期の同時期に行われた「神宮の遷宮地の決定」と、この「第4世族王の19守護地」との「2つの政策」は無関係ではないのです。

    そこで、前段でこの「2つの政策」に付いて論じて来ましたが、もう一度此処に列記します。
    そうすると、この「2つの政策」には大きな事が潜んでいる事が解ります。
    先ず、「神宮の遷宮地の決定」には次ぎの様な事が潜んでいます。

    「基本データ2」
    (前段−21 詳細資料 参照)

    「地域別」から「国別」に別けて観ると、次ぎの様に成っています。
    「遷宮の遍歴数/国」
     「伊勢23」 「大和21」 「近江13」 「伊賀10」 「吉備6」 「丹波4」
     「尾張4」  「紀伊3」  「美濃3」

    「地域別85」から国別にすると以上の「9国」と成ります。

    この「2つの基本データ」は何れも・「9国」で構成されています。

    これを更に当時の「主要地域別」に別けて観ると次ぎの様に成ります。

    「5主要地域」
    (大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
    (伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
    (近江+丹波)     17 「近江域」
    (尾張+美濃)     7  「美濃域」
    (広域の吉備)      6  「吉備域」

    (注意 奈良期−平安期初期の「吉備国」は都に匹敵する位の勢力圏を張っていて、他の4主要国の範囲に匹敵する位のものであった。)

    「国数 9」と「主要地域5」と「社数 85」から成り立っています。

    (基本データ3は前段の「神明社の分布表」)

    先ず、上記2つの「基本データ1、2」の分析からこれを「地域別」に分けると次ぎの様に成ります。

    この何れも「9国」で一致し、「遷宮地の5主要地域」と「19守護地の5地域(・印)」とで一致し、それが「3つの地域」(伊勢域、近江域、美濃域)でも一致しています。
    この「5地域」の「異なる地域」としては、それは「飛鳥域」と「吉備域」とですが、その歴史的な意味のある「2つの古の地域」が、「違い」として出ています。
    この「2つの古の地域」に「違いの意味」があるのです。

    つまり、次ぎの様に成ります。
    A 「2つの古の地域」の「飛鳥域 吉備域」 24 6
    B 「2つの賜姓族地」の「信濃域 甲斐域」
    以上AとBの違いです。

    飛鳥は古都域、その間の吉備は「朝廷−阿多倍」の境界域です。

    A、B 共にほぼ同時期(大化期前後)に打ち出された政策なのに、この様に、”何故違うでしょうのか”、これには、”どのような意味があるのでしょうか” この事が重要な意味を持っている事に成ります。
    これを下記に順を追って論じます。

    このA、Bそれぞれに付いては前段で「地域性」で論じて来ました。
    詳しくは前段を想い起しながら参照して頂くとして、概要としては次ぎの様に成ります。

    A 「飛鳥域」24は衆知の旧都、「吉備域」6は奈良期から平安中期まで都に匹敵する位の国柄、「吉備真備」でも有名、共に「旧来の地域」

    B 「信濃域」と「甲斐域」は共に「日本書紀」にも出てくる後漢の帰化人の「新規開拓の天領地」で開発に依って「主要国化した地域」、共に「新規の地域」

    恐らくは、本来であれば、「5地域の賜姓族地」は「Aの形」だけと成る筈です。
    ところが、「Bの形」が起こっているのです。

    これには何かあった筈です。これを指数化として観てみると、「30/85 35%」も占めている地域であるのですから、本来であれば「賜姓族地」にするのが当り前の事です。
    然し、これが「Bの形」と成ったのです。

    この「35%の状態」を覆す事は「相当な政治力」が必要と成ります。
    つまり、朝廷の中では何らかの「大きな要素」が働いた筈です。
    その要素が何なのかと云う事です。

    つまり、「Aの形」から「Bの形」に変化している訳ですから、大化期に於いては、「Aの形」は「旧来の地」として大化期の「天智、天武、持統の3天皇」に依って先ずはこれは判断された事に成ります。

    これは、明らかに先ず一つは「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)とを天秤に掛けた事を意味します。
    そして、最終、「新規の地域」(B)を選択したのです。

    では、”何故、「新規の地域」にしたのでしょうか。”
    総じて云えば、これが「大化改新」なのですが、これでは論文に成りません。

    当然に、前段で論じた様に、「賜姓族」には「3つの発祥源」の「諸々の責務」を負わしての「国策氏」であった以上、”「新規」(新しい語意)” だけを採って選択した訳では無い筈です。

    最低限に上記の3天皇(「天智、天武、持統」)は「軍事、経済、政治的な判断」を下した結果である事は云うまでも有りません。

    では、この「Aの形」と「Bの形」とに「軍事、経済、政治、地理、宗教的な判断」が働いた事に成りますが、下記の「神明系社の数式条件」(前段記述)と「同じ条件」がこの時も働いていたと考えられるのです。

    「神明系3社の建設条件の数式」
    圏域内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
    圏域外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

    そうすると、問題は「仕来り、決り事、規則慣習」が、「皇祖神の子神」の「祖先神−神明社」では働いていたのですが、”この「Aの形」と「Bと形」にも働いたのか”という事に成ります。

    結論は、”全く働いていた”と観ているのです。

    この「基本データ1と2」の間には「近江の最古の神明社」が「接着剤」の様に既に介在しているのです。
    つまり、「基本データ1と2」の両方に ”「神明社」” 云う考え方が共通して継続して存在していた事に成ります。
    そもそも「祖先神−神明社」の考え方が、「基本データ2」の処から起ったと考えがちですが、上記の事から「基本データ1」の大化期直前にも、既に”「神明社」”なる考え方があった事に成ります。
    (末尾に「最古の神明社」に記述)

    「基本データ1と2」の「実施時期の境界」の処で「大化改新」が起ったのですから、「真人族」と「朝臣族」の慣習の中には ”「仕来り、決り事、規則慣習」”が、強弱は別としても厳然と存在し介在していた事を物語り、ある程度の範囲で判断のこの「思考原理」が皇族の中では支配されていた事を意味します。

    「圏域内」は、その”「圏域内」”に定住しているのは「朝臣族」と「真人族」ですから、これを「朝臣族と真人族内」、或いは「皇族第4世族内」と置き換えても同じ事に成ります。
    つまり、上記の「神明系社の数式論」はまさしく主に「朝臣族の数式論」と置き換えてもよい事に成ります。

    「真人族と朝臣族」は「八色の姓制」(684年)にて大化期の中期頃で正式に定められたのですが、この「制の根幹」は、大化期前(飛鳥期半頃)からも多少の違いはあったとしても既に存在していて「社会慣習」として定着していた事に成ります。
    それを制度として「天智天皇」がまとめ造り上げ、「天武天皇」はこれを正式に是認した事に成ります。
    「基本データ1」から観ても「朝臣族の賜姓族」の「賜姓地の周辺」には、「皇族第4世族内」の「朝臣族」と「真人族」が定住していましたから、「基本データ1、2」のこの数式論が成立していた事に成ります。

    「朝臣族の社会慣習の数式論」
    第4世族内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」

    第4世族外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

    とすると、、「基本データ1、2」の考察と検証は、この関係数式論を前提に論じる必要があります。
    当然に、「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)の「選択の結論」は、この関係数式論から導き出されなくては成らない事に成ります。
    「青木氏」に取っては切っても切れない重要な関係式論と成ります。
    他氏には観られない関係式論でこの慣習(環境)の中で賜姓族の国策氏の青木氏は生きていたのです。

    この関係式論を導く以上は、この関係式の左辺の項の「5つの要素」に関わる全てを揺るがす様な大きな事が、この時期に歴史に残る史実が起っていなければ成りません。
    朝廷では、「真人族や朝臣族」のみならず前段で論じた様に、「5つの要素」を何らかの良好な形で維持出来る様にと何とか右辺の諸々の「仕来り、決り事、規則慣習」をその都度定めて、それに依ってこの賜姓族の組織が維持されていたのです。
    「時代の変化」に依って「5つの要素」の左辺の夫々のウエイトの組み合わせが大きく変化して来ます。
    当然にそれに基づいて「後決め」で右辺が決められて来るのです。
    時代が進めば進む程に、上記の数式論から引き出される「賜姓族の慣習(環境)」に取っては厳しく成って来るのです。
    つまり、この「賜姓族の慣習(環境)」は「保守的な環境」と成っている事は必定で、「大化改新」の「改新」を行われたとしても、「天智天皇」の即位が23年後であり、そう関単に「改新」が進んだ訳では無かったし、その意思を継いで「天武天皇」に「改新」が引き継がれて50年と云う期間が掛かったのです。
    「改新」は「変化」であって左辺の「5つの要素」の組み合わせが変わる事なのですから、”新たに右辺に「数多くの慣習」が継ぎ足されて行く事を意味します。

    そもそも、そうなれば出来得る事ならば、賜姓族の立場にいたものは、 ”この立場から逃れたい”と思うのが普通であります。
    然し、「賜姓族」にはそれが決して許されないのです。それを背負っての「賜姓族」であって、”「民」への「3つの発祥源」”の象徴としての最早「国策氏」なのであり、この事無くして「賜姓族」は「賜姓族」では無くなり成り立たないのです。
    そもそも「賜姓族」とはこの様な意味を持っているのです。その「辛さ」を物語る上記の関係式論なのです。

    つまり、「賜姓族」=「国策氏」であり、”「個人の意思」をも持ち得ない氏である” としても過言ではないのです。
    これは「皇族賜姓族」として決して浮かれている立場ではなく、むしろ、子孫とすると「先祖の生き様」に対して同情し、尊敬し、むしろ、どちらかと言えば心の中では ”憂いている”のです。
    当時としては、先祖は「賜姓族」に生まれた事に「宿命」として、「務め」として理解していたであろうが、「先祖の生き様の厳しさ」が如何ばかり重い馳せられます。
    筆者としては、この場に居たとするならば、絶えられたかは疑問で恐らくは耐えられなかったと観ているのです。下記にする皇族としての慣習に縛られた厳しい慣習下での生き様であった事が想像できます。

    (参考 この慣習(環境)から急転直下のごとく全てに開放されたのは、祖父の代の幕末からでは無いかと観られるだけに、筆者に取っては多少なりとも遺された長い慣習(環境)の中で培われた「人間性」や「性格的なもの」には「賜姓族」としての「隔世遺伝的なもの」が残っている感じがしており、それから逃れられずにいます。年を得て今想い起せば、”金銭に無頓着な貧乏”ではあったが、大屋敷の部屋には一輪花の香りと御香が常に漂う雰囲気で何となく格式高く、俳句会や歌会が常に行われていると云う高雅な生活慣習が遺されていてました。筆者の脳裏にはそれが浮かんでくるのです。それが”周りとどうも違う”と思い出したのは成人に成った相当後の事であったのです。
    故に、未だ伝統が無く成る事に「憂いている」と成るのですが、然し、最早、次世代では、”そんなものだったのか”と成るでしょう。現に子孫では既に格段の差が生まれ、僅かに宗教的行事に僅かに遺されている程度で、それも筆者の代で終りとなるでしょう。全く「普通の慣習」に於いては既にそう成っています。
    祖父の代には、950年続いた商いも明治35焼失倒産で、それまでの営々と引き継がれて来た伝統は、「生活行事や作法や宗教的行事や作法」にはかなりの慣習が残っていたとされ、それが父の代には家には上記の様な「生活の慣習」と共に、未だ典型的な伝統を物語る事として、昭和20年代には床の間には未だ「名刀」が「10刀」もあったのです。その「刀の目利き本」の様な室町期頃の本が未だ遺されているのです。父の代ではかなり通常化した様で、かなり長い間にたった2代でこの「大化期からの慣習」が著しく無く成っていって、丁度、平成の現在、周囲と異なる「異質な慣習」は無く成ったのです。
    如何に「伝統や慣習」と云うものが無く成るのが早いか思い知らされています。父もその意味で宗家としての務めとして「総括した伝書もの」を筆者に託したのだと考えています。それだけに今が語り遺すべき時期と捉え、「未来のロマン」として語っています。)

    その ”「改新」が行われている” と云う難しい「保守的な環境」の中で、「Aの形」から「Bの形」に変化するには ”「朝廷の存在」そのものを揺るがす程の出来事”が、この全ての「5つの要素」に関っている必要があった筈です。
    もうお判りと思いますが、前段で何度も論じて来た次ぎの出来事があります。

    それは「後漢の阿多倍王」、「200万人帰化」、「先進の職能集団」、「九州全土と関西以北の征圧32/66」、「朝廷官僚の6割占有」、「敏達天皇一族との血縁」、「准大臣」、「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、「行政機構3蔵内2蔵を占有」、「九州全土自治」、「遠の朝廷」、「錦の御旗」、「太宰大監」、「瀬戸内大監」、「産土神」等の様に挙げれば限りない位の大化期前後を中心に起った事柄なのです。

    前段で論じた様に、上記「5つの要素」の全てに大きく関わる事件が、この「国策氏」(賜姓族)に伸し掛かり起ったのです。
    ”AやBを揺るがす”と云う程度の事ではありません。”揺るがす”ではありません。”全てを変えた”のです。直前の「蘇我氏3代の専横」どころの程度ではありません。
    上記の様に慣習毎に厳しい立場にあった「賜姓族」のみ成らず、「朝廷や天皇の存在」そのものを危うく無くす出来事が起ったのです。
    とすると、”「朝廷や天皇」はどうするか”です。
    これも、もうお判りです。
    「打つ手」は必然的に決っています。この「打つ手」はどの様なものであったのでしょうか。これをこれから次ぎの「5つの要素」で検証して観ます。

    ・「5つの要素」の「戦略的要素」
    先ず上記の関係式論の数式から「戦略的」には次ぎの様であった事が判ります。

    「阿多倍一門の勢力圏」にある「吉備域」には「賜姓族」を配置する事は困難であり、配置してもそれなりの「賜姓族」としての「皇族への力」を発揮させる事は期待できないのは必定です。
    それでなくても、「軍事力」を主体とした「賜姓族の態勢」を組まねば成りません。
    戦略的に「人、時、場所」の「3つの条件」(三相)から観てもこれは到底不可能です。
    そうなれば、摂津より以東に配置する必要が出て来ます。摂津以東に勢力を結集して「皇族朝臣族の力」を集中させて発揮させ、以東に「3つの発祥源」の国策を果させる必要が出て来ます。
    そして、そこで「融合氏」を拡大させ以西勢力に対抗する「近衛の皇族力」を構築する必要が出て来ます。「天皇家の権威」だけでは到底に「彼等の勢力とその伸張する勢いと民の支持」には勝てず、行く末は「権威の低下か消失」が明確に見えています。
    その為の「天皇家、あるいは朝廷の強化策の戦略」としては、「天皇家の権威の強化」の「一軸強化策」だでは最早、天皇家を超える「強者」が出現した以上は現状では成り立ちません。
    さすれば、もう一つの「天皇家の軸」を別に作り、”「2軸による倒れ防止」の「門形体型の構え」”を構築する必要が出ます。そもそもこの策はこの流れは「自然の摂理」です。
    ”「2軸」にしなければ成らない” と云う事は、「蘇我氏の専横」で「1軸の天皇家の存在」が危くなり、「大化の改新の発端」と成った事件を起したのです。
    「主軸」が倒れても「他軸」の「副軸」がこれに代わる事が戦略的に可能であり、「副軸」が「総合力」を持つ事で「主軸」を支えて「防御軸」(近衛軍)として成り得ます。

    「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」
    これは生物や動物、況や人間、或いはその集合体での組織や集団は、先ずは最初に採る「姿勢と行動」としては ”身を竦めて硬くして身を護る” 事が本能です。
    そもそも、この世の「全て動物、況や人間」は「ミトコンドリヤ」の生き延びる為のこの「4度の進化過程」を経て来ているのです。その「進化過程」の最終に辿り付いた「第4の進化」は次ぎの様な「進化の理」を達成させたのです。
    況や、「強者側」では、”子孫を勢いのある木々の枝葉の様に放出拡大させる進化を採る”のが「自然の条理]であります。
    ところが「弱者側」と成った限りは、”身の内を集中させて固め「陰陽の相対」の「姿勢と行動」を採るのがこれも「自然の条理」であったのです。
    これが「ミトコンドリヤ」が作り出した最終の「生存の理・進化の理」なのです。
    ある「姿勢と行動」の「意思」を持つ「意思の根源」、即ち、「ミトコンドリヤ」で成り立つ体躯を有する生物である限りは、「遺伝子の働き」以前のものである「無意識」の中で、この「防衛本能」として「弱者の姿勢と行動」を無意識的に起すのです。
    ところが、この「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」が、「無意識の姿勢と行動」を止め「有意識の姿勢と行動」を優先させて「自然の条理」を見失うと、その体躯は「衰退と消滅と滅亡の憂き目」を招き来たす「絶対的な宿命」を本来持っているのです。
    これは「ミトコンドリヤ」で「生」を得ている事が「自然の条理」であってこの例外はないのです。
    ところが、この「自然の条理」の続くあまりの「進化」の結果、「人族」は「知恵」という「自然の条理」を超えるものを獲得したのです。
    つまり、ある限界を超えない「知恵」を有する動植物には「無意識の自然の条理」が組み込み与えられているのです。
    ところがある限界を超えた「知恵」を得た「人族」は、「無意識の姿勢と行動」<「有意識の姿勢と行動」の異変を遂げてしまったのです。
    其処に「自然の条理・摂理」に沿わない「知恵」による「憂き目」と云う現象を生み出してしまったのです。
    この「知恵の人族」にのみ発生する「心の変化」、即ち、「喜怒哀楽の現象」が「有意識」の中で強く起るように成ったのです。
    この「自然の条理」を見失った事に因って起る「衰退と消滅と滅亡の憂き目」は、「知恵」が「無意識の姿勢と行動」よりも「有意識の姿勢と行動」を優先させて、「見失う間違い」を起す為に引き起すのです。
    そこで、この事を知った「知恵の人族」は意識を「無念無想」にして「無意識の自然の条理」に戻し従える様に試みたのです。
    そして、この結果、「ミトコンドリヤ」の成す「無意識の自然の条理」に到達させてくれるものを「神」として思考し崇めたのです。
    ところが、この過程で「思考し崇める方法」、即ち、「無意識の自然の条理に到達する方法」、況や「神に近ずく方法」に「人族」の間には「知恵の違い」が生まれたのです。

    それが前段までに論じた「自然神」から発祥した「5つの守護神」であって、それが我々「青木氏族」にとっては、「皇祖神−子神−祖先神−神明社の守護神」であったのです。

    強者側に立った「阿多倍一門」とその支配下は「産土神の守護神」を創造したのです。

    そして、根幹と成った「ミトコンドリヤの無意識の自然の条理」に到達するものが、前段で論じた「無念無想」に到達出来る「自然神」であり、「鬼道」と云う「最初の根幹と成る手段」であったのです。

    (参考 前段で論じた事ですが、「邪馬台国の卑弥呼」はこの「自然神の鬼道」を会得し、自らをこの「無意識の自然の条理」に到達すべく「占術」を行ったのです。この時、「卑弥呼」はその手段として「占術の部屋」を締め切り、其処に何千と云う「熟した桃の実」を敷き詰め、その中で「自らの脳」を「豊熟した桃の実」から発する「芳香性のガス」により陶酔させる事で「有意識」を抑え、「無意識状態」を引き出し、自らの体躯から発する自然の「ミトコンドリヤの意思」を受け取り、それを上記する「自然の条理を得た判断」として「神のお告げ」として「占術」を行ったのです。
    ただ、この「占術」に付いては前段で論じた「卑弥呼の複眼機能」の所以も伴なっての事であります。
    より「無意識状態」(無意識の自然の条理)に近づき「ミトコンドリヤの意思」を獲得し伝達するにはこの「複眼機能の予知能力」との連動が不可欠であったと考えられます。

    [御告げの数式論]
    「ミトコンドリヤの意思]=「無意識状態」+「複眼機能」=「御告げ」
    「御告げ」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
    「ミトコンドリヤの意思」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
    ∴「無意識状態」>「有意識の知恵」

    故に、「知恵の人族」の本来あるべき数式論は次ぎの様になる筈です。
    「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)>有意識の知恵」
    であるべきで、次ぎの様な数式

    「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)<有意識の知恵」
    であっては成らない事を論理的な数式は示します。

    この3世紀頃は未だ「人族の知恵の進化」は「有意識の姿勢と行動」には然程大きく影響を与えるものでは無かったと考えられます。
    この「知恵の進化と複眼機能」は逆比例の相関にある事から、この時期の「人族」には「野生本能」である「複眼機能」は多少なりとも多くの民に遺されていて、現在も中国北方山岳少数民族の中にこの「複眼機能」を未だ強く持つ「原始の鬼道信仰」を「心の支え」としている女性が多い事が報じられた事が、中国の研究資料からも判っています。
    従って、「卑弥呼」は取分け「複眼機能」を強く持っていた事が判ります。
    この「卑弥呼の占術」が事如く当り、瞬く間に全国の評価を獲得し、それまでの「弥生信仰」を排除し、各地の「政治連合体」の招きを受けたのです。

    (参考 「卑弥呼」の跡を親族が引き継ぎますが、同じ「鬼道の占術」を採っても当らず、結局は邪馬台国は民から信任を得られず滅亡します。)

    現在医学では人間の体内に存在する「ミトコンドリヤ」が、人間の体躯に異常を来たすとこの「ミトコンドリヤ」が出て来て元の本来あるべき「自然の状態・条理」に戻そうとして働き、強い「異質の物」と戦う働きを持っているのです。そしてそれを脳を通じて体躯に伝える仕組みに成っているのです。
    これが人間に「無意識」の内に備わった「治癒力」である事が判っていて、「ミトコンドリヤ」はその「体躯の状態」を観察し、元に戻そうとする「意思」を持っている事が判って来たのです。

    例えば、判り易い例として、過剰と成った脂肪やコレステロールや糖分等などが体躯を蝕み始めると最後に出て来て、これ等を自ら食い尽くす様に働き始めるのです。しかし、この結果、過剰に働いた疲労したミトコンドリヤは、体躯に「警告信号」として「活性酸素」を発生させて「刺激信号」を「有意識」に発して警告します。
    「過剰な有意識の知恵」は、これを無視した場合、体躯全体の機能を「活性酸素の酸化力」に依って破壊させる事を起こして体躯そのものも破壊するのです。

    例えば、それが肺で云えば「膠原病」等で肺の酸素を取り込む粒を酸化させて蜂の巣の様に成って仕舞い短期間で滅亡させるのです。
    従って、この様な病魔から逃れる為に、つまり、より敏感に「ミトコンドリヤの意思」の信号を早く獲得する為に、そこで「知恵の人族」は「無意識と有意識の思考のバランス」を取る事が求められる様に知恵の進化の過程で必然的に成ったのです。

    「無神論者」がこのバランスを保持している限りは「ミトコンドリヤの意思」に依って体躯は維持され保障されるが、一度、「有意識」の方に傾くと直ちに奈落の底に陥させられるのです。
    かと云って、逆に「有神論者」と成り過ぎると、即ち「ミトコンドリヤの意思」に頼り過ぎると「有意識の体躯の意思」(健康保全)が低下して、「他力本願」と成り「ミトコンドリヤの精力」を失い、これまた奈落の底に落ちる憂き目と成るのです。
    即ち、この「知恵の人族」に課せられた「バランスを保つ事の行為」を受け持つのが「自律神経」であり、この「自律神経」を正常に保とうとする「心の動き」が「無意識の中に起るミトコンドリヤの意思」であり、そこに到達しようとする「心根」それが「宗教の本質」であります。
    その「宗教の本質」の「場と機会」を与えようとする行為、それが本論の「守護神」の「祖先神の神明社」であるとしているのです。
    故に「知恵の人族」が「弱者」と成り得た時には、「知恵の人族」は
    「無意識と有意識の思考のバランス」=「宗教力の条理」
    から絶対的に逃れることは出来ないのです。
    (但し、ここで云う「宗教」とは「特定の宗教教団」等を意味するものではありません。)

    故に、「場と機会」を与えるべく「政治の長」であり「自然神の祭祀」を司る天皇は、全ての「民」に対してこの「場と機会」を与える為に、「皇祖神の子神」としての「祖先神−神明社」の建立を「賜姓族:2つの青木氏」に義務付けたのです。
    これが本論の核とする究極の論拠なのです。
    その為には「天皇の務め」として、この義務を果す「賜姓族」(後に特別賜姓族策が加わる 2つの青木氏)の「子孫存続策」は揺るぎの無いものにしておかなければ成りません。
    因って、「宗教の本質」の「場と機会」を作り出す「賜姓族」が「無神論の氏族」では有り得ない訳であり、その「賜姓族」も上記の数式論の論理の中におく必要が出て来るのです。

    「子孫存続策の血縁」(「純血性の血縁」)
    それが前段の論じた「退避地」等の論所でもあり、その手段としての「主な根幹策」は「子孫存続策の血縁」と云う事に成るのです。況や「純血性の血縁」であります。
    そこで、この本論では、前段では「退避地対策で子孫存続策」を論じましたが、それと合せてこの「血縁テーマ」(「純血性の血縁」)では、”どの様な対策を講じたのか”と云う事を本段を論じています。

    当時は「ミトコンドリヤの意思」の「無意識の姿勢と行動」の原理は知り得なかったにせよ、逆に「自然信仰」に対する信心は「有意識」の殆どを占めていた筈で、「卑弥呼の鬼道信仰の占術」が3世紀から4世紀半ばまで「政治の場」に於いて最優先されていた事そのものが証拠なのです。

    ・「5つの要素」の「政治的要素」
    次ぎに「政治」とは、「有意識」の中で起る族間の問題を解決せんとする最たる行為であり、「宗教」が「政治の場」で使われる事こそが、真に「無意識の行為>「有意識の行為」の証しであります。
    恐らくは時代を遡れば、「有意識」≒0 「無意識」>+「有意識」=100%の数式が成り立っていた筈で、この数式の中で生活が成されていたのです。
    とすると、その「生活環境の根源」を成す「血縁」は、「長と成る立場の者」に於いては同じ「ミトコンドリヤの意思」を保持する為に、言い換えれば同じ体躯に近い物を獲得する為に、「一族の純血性」を選択するは道理であります。
    そして、”混血に因る意識のブレ”をより少なくする為に、「純血によるより統一したミトコンドリヤの意識」を引き出す事が「自然の条理」として必要と成ります。
    この「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から得ようとするにしても「知恵を得た人族の姿勢と行動」は「純血が基本」となる事は「必然の理」と成り得ます。

    この「政治の策」として発祥した「賜姓族」は「純血」を求められる事もこれもまた「必然の理」と成ります。
    むしろ、逃れる事の出来ない「宿命」であります。
    天皇は何も好き好んで単純な思慮で賜姓する事は有り得ない訳であり、わざわざ自らの分身である「第6位皇子」を「賜姓臣下」させる限りには、其処には「目的達成」の為の「幾つかの宿命」を課せている事は当然の事であります。
    その一つは先ずは「純血」であるとしているのです。
    その「純血の宿命」は、”皇族だから”と云う事では無く、”「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から授かる役目(1)として、且つ、その「場と機会」の創建者(2)であり、前段で論じた「3つの発祥源」の「融合氏」(3)でもあったからであります。
    つまり、「賜姓族」とは「皇族」だから「青木」と云う「氏」を単純に与えたと云う事では無く、ある一つの大きな「政治的な目的」の為に与えたものであります。
    与えられない皇族が殆どでもあり、「比叡山や門跡寺院の僧侶」で終わるのが大方なのです。
    この時、この「無意識の条理」の中で「天智、天武、持統」の3天皇が、「自然神」の占術で得た「ミトコンドリヤの意思」として下した幾つかの「子孫存続策」(下記)を打ち出したのです。
    そして、この「弱者」と成った時の「根本戦略」を「光仁天皇」までの5人の累代天皇がくまなく継承したのです。

    (注釈 現在、「無意識の意志」というものの実態の生理学上の解明が進み、多くの「無意識の意思」はこの「ミトコンドリヤの意思」の「総合意」ではないかと云われいて、その集中した「総合的な意思」が体躯を左右させていると観られています。)

    「意識の数式論」
    「ミトコンドリヤの無意識の意識」>−「知恵の有意識の思考のバランス」=「宗教力」の条理

    況してや、「知恵」を授かった人間に於いても生き延びられる「宿命」を帯びている限りの「弱者」は、「無意識」の内にこの「自然の条理」に従って「姿勢と行動」を「無意識」の内で採って仕舞うものなのです。
    これが基本的な「弱者の自然の戦略」とも云うべきものなのです。
    ところが「強い有意識の知恵」を得た時の「弱者の長」である者は、「有意識」の中で「思考の歪み」を持つとこの限りでは無く成り、この「自然の摂理」に違う有意識の中で滅亡するのです。
    依って「思考の歪み」は「知恵」が引き起す所以なのです。
    故に、この「有意識」が引き起こす「思考の歪み」をより小さくする為に、人は「ミトコンドリヤの意識」即ち「自然の条理」即ち「宗教の条理」に従おとするのです。
    この行為が「古の社会」には強かったのです。そして、極端に云えば、それは「知恵の有意識の思考」=0であったと云えるのです。この事の次第は「上記数式論に委ねた社会」でもあったのです。

    そして、この「数式論で得た意識」を再び「有意識の思考」(自然の知恵)として蘇らせて認識する事を繰り返したのです。
    「天皇家」はこの時、思考を「無意識の域」に到達させて、そこでこの「自然の条理の戦略」に従ったのです。
    「この時」とは、「弱者」と成り得た時であり、「ミトコンドリヤの無意識の思考」として、”「副軸」を造らねば成らない”とした時であります。
    「ミトコンドリヤ」が進化した過程の様に、「弱者の知恵」が生まれたのです。
    況や上記の数式論が働いたのです。
    「この時」の判断は、つまり、「弱者」と成った時の「長の知恵」は、”「有意識の姿勢と行動」を「無意識の姿勢と行動」より優先させて見失う” と云う現象を起こさなかったのです。

    現在から検証して上記の「意識の数式論」に成っていた事は、況や「思考に歪みの無い長」であった事を示し、その「自然の条理」を会得した「長」であった事を物語るのです。
    一見して当時の情景を思い浮かべると、現在風に観ると、如何にも「宗教的行事」に頼っていた様に観られがちですが、決してそうでは無く、上記の「意識の数式論」に到達する為の「環境作りの無念無想の業」であったのです。極めて人間として自然の「業」であったのです。

    (特記 筆者は「本来あるべき宗教の姿」(数式で表す宗教論)とは、その「発生」に付いては上記の「意識の数式論」であると考えているのです。そして、その「環境」に付いては「朝臣族の社会慣習の数式論」で起こり、その「会得の姿」に付いては「御告げの数式論」であると考えているのです。
    この後者の「2つの数式論」が「意識の数式論」を裏付けていると考えているのです。)

    「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」

    以上が奈良期から平安期までの言い遺して置きたい「先祖の姿論」なのです。

    これ等の「賜姓族青木氏」の初期の構築(平安期)に関わった「8人の天皇」の「無意識と有意識」は、「ミトコンドリヤの遺伝子的な潜在的意思」に従ったのです。

    (特記 この様に同じ環境に居た筈の「賜姓源氏」との「生き残りの違い」は、上記「3つの関係数式論」を、「国策氏」として護ったかの違いであったのです。「賜姓源氏」の中でも上記した「真人族、朝臣族の融合」で「賜姓族の青木氏」に融合して生き残り、「国策氏の中で生き残り戦略」を採った賜姓源氏も居たのです。
    だから、現に悠久の歴史を得ても我々「青木氏関係族」はここに生存しているのです。
    「枝葉よる子孫存続策」と「融合賜姓族の子孫存続策」の2流が「朝臣族」の中に存在した事に成ります。結局は上記する関係式論の厳しい環境におかれた「国策氏」が生き延びたのです。)

    これ全て「上記数式論」即ち、「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の過程の結果なのです。
    「賜姓族」は「上記数式論」に救われたのです。

    (況や「青木氏家訓10訓」は特に「長の戒め」としての内容に成っているのもこの事から来ていると観ているのです。)

    戻して、更にそれには次ぎの「無意識と有意識」に沿った策として、次ぎの様な戦略を構築したのです。
    先ず、「八色の姓制」として、「皇族」を二つに分離して身を固めたのです。、
    「皇族」の「真人族」を継承する「主軸」、
    「第4世族皇族」までの「朝臣族」を「副軸」
    以上としたのです。
    この「主軸と副軸」の「2軸」に依って「弱者」と成り得た末に於いてでも、「皇族の権威と強化」を目的として行動したのです。そして、更にはこの「朝臣族」の中にも「第3の本軸」(宗家・宗軸・賜姓族)を造ったのです。
    この「主軸−副軸−本軸」の「3つの軸」を先ず構築したのです。

    戦略1
    その「第3の本軸」を「賜姓族」として、「子孫存続の補強策」の為に、王維継承の出来なかった「真人族」と、「本軸」と成らなかった「朝臣族」との「二つの族」を積極的に「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を高めたのです。
    それが所謂、「本軸」の「賜姓族」の血縁状況であり、この「真人族」と「朝臣族」の「融合族」であるこの「賜姓族」を敢えて臣下させます。

    戦略2
    然し、此処で疑問があり、何もわざわざ「賜姓」だけで良い筈で、「臣下」させる必要性は本来は無い筈です。然し、「臣下」をさせたのです。否、臣下させなければ成らなかったのです
    それは、”させるべく必然的な理由”が、上記の数式論の「ミトコンドリヤの意思」としてあったからです。
    そして、それが「皇族の慣習」により「真人族」には成し得ない「子孫存続」のための「生き延びる力」(経済力と軍事力と政治力)を授ける理由があったからなのです。

    更に「主軸」を護るように「副軸」の「本軸根拠地」、即ち、「賜姓族地」を定めました。
    この「賜姓族地」を中心に、所謂、「19守護地」に配置したのです。

    戦略3
    そして「第6世族以下」を一般の「臣下族」(宿禰族)にして以東(坂東)に配置してその「主軸と副軸」の門構えを支える「土台仕組み」にしたのです。

    この「3つの戦略」が大化期の「3人の天皇」により先ず構築されたのです。

    ・「5つの要素」の「経済的要素」
    「賜姓族」の「姿勢と行動」
    「主軸−副軸−本軸」の「3つの軸」と成った「皇族賜姓族」に取っては、「無意識のミトコンドリヤの意思」を示現するには、「経済的立場」を主体とした「姿勢と行動」が絶対に必要なのです。
    ところが、この戦略が「皇族賜姓族」に取っては「最も厳しい戒律」なのです。
    それは何かと云うと、「武力と利潤の追求」は「皇族関係族」には「禁じ手」だったのです。
    その矛盾とも取れる「経済的戦略」でありながら、「本軸の賜姓族」には実行しなくては成らない「厳しい宿命」を及びていたのです。
    ただ、仮に、この「禁じ手」の「経済力」を確保した「皇族としての力」だけでは「3つの発祥源」の責務を実行する勢力とは成り得ません。
    そうなれば、「富裕の地」に「賜姓族」を定住させる必要性が出て来ます。
    然し、どの様な「富裕の地」であるべきなのかと云う問題が出ます。
    その問題を解決するには、上記する「3人の天皇」が考えた「無意識の意志」をより効果的に繁栄させられる地域であるべきで、”何処でも良い”と言う事には成りません。
    この「富裕の地」であっても、現在が「富裕の地」であるべきなのか、これから新規に「富裕の地」にするべき地域でよいのかは検討を要する処です。

    当初、「遷宮地85」の一つであった「吉備域」が、大化期に入り「強者の迫り来る地域」である事から危険であり、除外され事は必定であります。
    この「吉備域」より以東の地で、「最近の地の富裕の近江」、「神宮の地の富裕の伊勢」、「中核の富裕の地の美濃」には、「賜姓族」を置く事には問題は無く規定の地であります。

    とすると、他に戦略的にも「吉備域」に代わる「富裕の地」を定めて、そして、其処に「国難」とも成っていた余剰と成っている「帰化人」を投入してでも新たに作り出す必要に迫られます。(分散戦略)
    当然、新たな決められた「天領地の重要な地」なる事から、其処には「賜姓族の守護王」を配置する必要が起こります。
    そして、新規の「富裕の地」から「経済力の根源」の「税の収入」を確保する事にならなければ成りません。さて、そこで新規の「富裕の地」に付いてどの様にして進めるかが問題です。(下記記述)
    仮に、其処が新規の「富裕の地」に成し得たとして、然し、この新規の「富裕な地」の「税による経済力」だけでは困難で、「周囲の変化」(責務の遂行と勢力的な環境変化)に追随して行く事が何時かは限界が来る事は必定です。そして、現実には限界が来て行き詰まったのです。
    それだけでは無く「光仁天皇」までの「5人の天皇」は、奈良期の「3人の天皇の初期の意思」を継承していたにも関らず、9人目の「桓武天皇」と10人目の「平城天皇」はこの「初期の意思の賜姓族青木氏による継承」を拒んだのです。
    予想通りに「周囲の変化」が起こり「政治的環境の変化」(政治抗争)を来たしたのです。
    それどころではなく、「律令国家建設」を理由に「8人の天皇の初期の意思」を宿命として果たしていた「力」の持った「賜姓族の親政族」を排除したのです。
    更に、抗争に打ち勝った11人目の「嵯峨天皇」は、「8人の天皇の初期の意思」で築き上げた「国策氏」で「融合氏」で「副軸」の「賜姓族青木氏」を止めて、何と「源氏」を賜姓してしまったのです。
    (この時、「青木氏」は下俗する皇族者が名乗る氏として他に使用を禁じた)
    ところが、その「賜姓源氏」が「8人の天皇の初期の意思」を、最早、継承せずに「荘園制の名義貸し」を利用して潤いを得て一人歩きしだしたのです。

    厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の中で「国策氏」として使命を果そうとする「青木氏」を横目に、「賜姓源氏」は「荘園制の名義貸しの潤い」の「楽な環境」を選択し、「朝臣族」としての「国策氏」の立場と氏名を放棄したのです。
    この後、この「楽な環境」を「生き残り策」として選択した「賜姓源氏」は11代続きますが、10代目の「円融天皇」は、これでは皇族は立ち行かんとして「8人の天皇の初期の意思」に立ち戻り、「賜姓源氏」とは別に「特別賜姓族」として藤原秀郷一門に「青木氏」を発祥させたのです。

    (現実に前段で詳しく論じた様に、「阿多倍一門」は更に力を付け強者として以西九州域と以北陸奥域に自治を迫ります。)

    前段でも論じた様に、この皇族外から発祥させた「特別賜姓族青木氏」(朝臣族に指定)に「皇族賜姓族青木氏」と同じ「身分、家柄、権利、官職」等の一切の条件を揃えて「賜姓族」を補完させる役目を与えたのです。つまり、当時の「8人の天皇の初期の意思」を「藤原母系族」に継承させたのです。
    そして、遂には、この「2つの青木氏」の「融合血縁」を果させた事で、再び「皇族賜姓族」は蘇り「元の力」を取り戻したのです。

    この時、「賜姓族の空白期間」の反省からの「税に頼る経済力」や、彼の「賜姓源氏」が失敗した「荘園制の利用」を踏襲するのではなく、「自らの力で切り開く為の経済力」の方法、即ち、「禁じ手」の「2足の草鞋策」の「商い」を「特別賜姓族の後押し」をバネに正式に決断し採用したのです。

    そして、自らの体躯を整える為に「過剰な軍事力」を排除し、「特別賜姓族の抑止力」に頼ったのです。
    当面の最低限の「自らの間接的防御力」を獲得する為に「賜姓族」は、「商いから出る経済力」を使って「強力なシンジケート」を網目の様に構築して、空白期間を経て生き残った「3つの賜姓族」を護ったのです。
    これに因って「3人の天皇の初期の意思」と成る「与えられた宿命」(前段)を果す事ができる様に成ります。
    この様に「賜姓族」に「経済力」をつけさせる事に依って上記の「戦略」は動き出したのです。
    この上記の戦略は、この「賜姓族」が「自らの力で切り開く経済力」に依って裏打ちされているのであって、決して「軍事的な事」に依って裏打ちされる「戦略の本質」ではありませんでした。

    前段で論じた様に、この事を「近江と美濃」以外の「賜姓族の3氏」は決して間違わなかったのです。
    この「禁じ手」を決断する事で、厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」から開放されたのです。
    決してこの「開放」とは「放棄した事」では無く、その「賜姓族」としての「厳しい環境の立場を保ちながらも、「商い」と云う「別の顔」を持つ事で大息を就ける様に成ったのです。
    最早、これは「特別賜姓族の御蔭」の何ものでもありません。この「2つの青木氏」は「融合青木氏」をも持った「一身胴体」の「青木氏」とこれ以降成り得たのです。
    然し、室町末期までの生存競争が厳しい社会の中に於いて、決して「軍事力」は無視する事は不可能です。

    (特記 賜姓源氏は荘園制を利用してこの軍事力に頼った。 「8人の天皇の初期の意思」は無視した。「朝臣族の賜姓族の役目と立場」を保全しなかった。「純血血縁」は「賜姓族」に「跡目」をいれたもののこれを軽視し「朝臣族の象徴と権威の保全」に集中させた。
    選択された「近江と美濃」の「賜姓族」は「8人の天皇の初期の意思」を平安中期まで維持させたが平安末期には「賜姓源氏」と同じ立場を採った。
    故に、上記の数式論に基づく「論理的矛盾」が起こり、「賜姓源氏」と「近江美濃の賜姓族」は共に滅亡した。)

    そこで、「3家3流の賜姓族と特別賜姓族」は、「経済的」な事で裏打ちされた「軍事力」に取って変わる、前段でも詳しく論じた、上記の「2つの抑止力」を構築したのです。
    これは「経済力」と「軍事力」の「2本建て戦力」ではなく、「生き延びる力」を「経済力」のみに絞って、より小さい弱体な「氏力」を集中させて効率を上げたのです。
    然し、ここに問題が生まれたのです。
    「皇族の朝臣族」が、”「自らの武力」も持たない”とする「皇族の慣習」の中で、「3家3流賜姓族」は「生き延びる手段」を「商い」に求めそれを全面に押し出したのです。
    「皇族」と「商い」は「皇族社会の慣習」の中では決して寄り添う事の出来ない「真逆の生き方」で禁じ手であります。
    恐らくは、その経緯は青木氏の資料・添書等から読み取れるものとして、この「商い」の「初期の段階」では、当初は「米や地元の産物の税(和紙)」を単純に裁く事から収入を確保していたのを、先ずその「税」をより高く裁く事に舵を切ったと考えられます。
    次ぎにその「余剰利益」で「自ら産物」の「殖産」(和紙)にも廻して手掛け、遂には、これを一人立ちさせて、別の顔として「店舗を持つ商い」に発展させたのです。
    ところがこの「店舗」を持つだけでは充分ではなく、より「賜姓族」を強化安定させるには「国策氏」としては不足であり、これを全国各地に展開する必要があります。
    それには「大量で安全な輸送搬送」が求められ、これに「対応する組織」を確立する事が必然的に求められます。
    それが「利益の効率的な運用と分配」であり、それを各地に溢れ出る「荘園制の戦い」に因って敗退し衰退し滅亡する「敗走氏」に援護して自立させ、その役目を与え契約して「伊勢−信濃シンジケート」を組織したのです。(明治九年まで続いた伊勢-信濃域一帯に起った騒乱にも活躍した事が判っている)

    これが「3家3流賜姓族」の「強力な抑止力」とも成り、遠距離の「大量で安全な輸送搬送」を確実にし可能にしたのです。
    この時、「3家3流の皇族賜姓族」を援護する「特別賜姓族の抑止力」も加わり、「2つの抑止力」が有機的に「2つの賜姓族青木氏」を保護したのです。

    更には、これ等の態勢を維持する為には「大量の生産体制」を確立する必要が出て、他の「4家4流の賜姓族」に「殖産−製造−販売」を一手に手掛ける「古代和紙」を「本軸の伊勢青木氏」は完全始動したのです。(1025年頃)
    然し、広域の「殖産−製造−販売」には危険が伴ないます。これを「広域性を持つ抑止力」が保護し安定した「広域体制」が保たれる事に成ったのです。
    そして、遂には、「堺港」と「摂津港」に店舗を儲け「瀬戸内の讃岐青木氏の大廻船問屋」と連携して「アジア貿易」を展開したのです。
    結局は、最終は「総合商社」(1125年頃)と成ったのです。
    平安初期の806年頃には衰退し、段階を於いて経済力を主体に徐々に盛り返し、1025年頃から勢いを増し、1125年頃には「広域商い」を確立させたのです。
    その証拠に、室町末期には「商いの主」と「守護の主」と別人にしていた「伊勢青木氏の記録」が遺されているのです。

    (特記 「殖産和紙の技術の伝授」を授けた事も含めて「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」との血縁関係から同じであったと考えられる。)

    厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」を持つこの「賜姓族」は上記する経緯を辿ってこの関係式論を淘汰したのです。

    そこで、この「商業基盤」を採用した時にどの様な事が起っていたのかが疑問です。
    上記の戦略を発案した「3人の天皇の意思」は「賜姓族」のこの「商業基盤策」を驚天動地で、考えても観なかったのではないかと観られ、普通であるならば「3人の天皇」は皇族の禁じ手である限り、立場上からも猛反対したと考えられます。
    ところがその後、継承した「5人の天皇」は「時代性の変化」に伴ないこれを「賜姓族の立場」と「商いの立場」とに2分割する事で黙認に近い形で容認したと見られます。

    前段で論じた様に、その後の資料から読み取れる「正式な商業基盤」としては1025年頃に、そして 「豪商」としては1125年頃と成っているのです。
    この状態が室町末期まで続き、その後はある範囲に於いて公にしていた事が読み取れます。

    特記 
    平安末期の「以仁王の乱」(1180年)の敗退時には主謀者の源頼政と仲綱は、経済力で裏打ちされ跡目に入った「京綱の伊勢青木氏」を頼り逃亡しますが、遂に力尽きて宇治の平等院で果てます。
    この時の「伊勢青木氏」は隣りの「伊賀の平家の里」とも500年もの間「古代和紙の生産」で親交を深めていた事もあり、「経済力と抑止力」からも手が出せなかったと考えられます。
    通説は信じ難く、青木氏から観ると、「逃亡の方向」と「道筋」から判断すると此処に逃げ込む戦略であったと考えられるのです。
    もし伊勢に逃げ込んだとすると、「真人族との純血融合族」の「副軸」として存在する「3家3流賜姓族」を敵に回す事に成り「逆賊」と成りますし、そうなると「京平族」も一族の断絶も含めて全ての関係を放棄せざるを得なくなります。且つ、「特別賜姓族青木」(藤原秀郷一門)も相手にしなくては成らなくなり、「源平の戦い」から「国家騒乱」の様相を呈する事態とも成りかねません。
    まして、「伊勢や信濃の賜姓族」に対する「不入不倫の権」や「副軸・主軸の立場」も無視する事に成り、結局は「京平族」であっても、下手をすると「逆族の汚名」を受けて「朝廷との戦い」を覚悟する事に成ります。
    そうなれば、当然に「逆賊」は「民の賛同」も得られませんし、両極の武家の「源平の戦い」から意味の異なる事と成り、到底に伊勢を攻める事はあり得ません。
    この事の意味する事は 「嵯峨期詔勅の賜姓族」である源氏に対しては、特に「河内源氏」に対しては 同じ「賜姓族」であったとしても ”「逆族となる事」”を考えていなかった事を示していて、”「大化期の賜姓族」とは違う” と観ていた事に成ります。
    故に、清盛は伊賀隣人の伊勢松阪青木氏の京綱の祖父頼政を源氏の中で「三位」に推薦し引き上げたのです。源頼政は清和源氏宗家の摂津源氏四家の長でありますが、頼政を唯一「副軸の親族」として観ていた事を意味し、故に、頼政の孫の有綱や宗綱の助命嘆願に応じた根拠の一つに成ったのです。
    その違いは「副軸」と「和の中立」である事に成ります。

    この時、「3家3流賜姓族と特別賜姓族」の青木氏は、既に同じ「商業戦略」(宗貿易)を採る「伊賀和紙」で繋がる「500年の隣人 平清盛」に匹敵する位の「有形無形の総合力」を持っていたと考えられるのです。
    この時、前段でも論じた様に、「平清盛」は「有綱と宗綱と高綱:[日向青木氏]」の「伊勢青木氏の助命嘆願」に応じたのですが、この史実からも「賜姓族の力」がどれほどのものであったかは理解できますし、どれほどの親交を維持していたかも判り、これは(助命に応じた事)内心で「国家騒乱」を避けたい気持ちがあった事をも示す行為でもあります。
    因って、「平清盛」は「以仁王の乱」で、 ”頼政親子を伊勢に入れない事” を戦略の最大のテーマであった筈なのです。この段階で「伊勢と信濃と甲斐の賜姓族」は「武力を背景とする賜姓族の総合力」で無かった事が攻める事が出来ない大きな理由でもあった筈です。

    (特記 この当時の武家の慣習として、「武」に対して「武」の精神が「武家の法度」であったのです。)

    現に「近江と美濃の賜姓族」は武力を中心とする「賜姓源氏」と同じ「生きる態勢」を敷いていた事から”「武は武」の定め”の理屈から「平清盛」は攻め滅ぼす事が出来たのです。
    この様な「伊勢−信濃−甲斐の皇族朝臣族の政治的スタンス」が「生き残りの秘訣」であったのです。
    この「平清盛との関係」から観ても、ある程度の範囲で既に「商いは公」に成っていたと考えられます。

    (特記 むしろ、筆者は、皮肉にも「賜姓族青木氏」に代わって「桓武天皇」の「皇族外賜姓族」に成った「たいら族」が「蘇った隣人」のこの「青木氏の生き様」を見て、「清盛の商いの宗貿易」はそれを参考にしたのではないかと見ているのです。「敵視」ではなくむしろ「隣人視」であったと観ているのです。
    当然に、「賜姓族青木氏」に対しても当然な事として、乱の首魁の頼政親子に対しても伊勢青木氏との親族であるとして「敵視」<「隣人視」と観ていた可能性が強いと考えているのです。
    青木氏側からの経緯から観ると、通説とはどうしても異なるのです。)

    この時、「平清盛」は記録から「藤原摂関家」より「商い」を同じく揶揄された事が記録に遺されているのです。
    然し、同じ北家筋の秀郷一門は一方では「特別賜姓族青木氏」を通じて「2足の草鞋策」を公然と敷いていたのです。

    (「摂関家」として「荘園制」を最大に利用していた筆頭であったが「商い」の出来ない立場を僻み悔しさの発露として「揶揄」したと観られる。)

    その証拠として、「信長との戦い」(丸山城の戦い等)で勝利した以降は、引き継いだ豊臣秀吉も「伊勢攻め」ではこの事を知って、「材木の自らの伐採と調達」の事、「蒲生氏郷の配置と差配」の事から観て、この時期には為政者には「青木氏の商い」は、「既成の事実」(背後関係)と成っていた事を物語ります。
    江戸期には、家康が紀州藩に頼宣を配置し、松阪で伊勢青木氏と面会した時の対応、吉宗幼少の伊勢での養育親に成っていた事、請われて吉宗の「享保の改革の立役者」と成っていた事、同じ時期に請われて紀州藩の「勘定奉行として財政」を立て直した事、更に請われて「幕末の紀州藩の財政」を立て直し役を「商人の青木氏」として演じた史実から観ても、幕末まで「2本立て戦略」は強力に続いていた事が判ります。

    (特記 明治9年までの「伊勢-信濃騒動」にも背後から縁者の伊勢加納氏と共に「商人」として「経済的支援」をしていた事が記録として遺されている。 明治35年松阪大火で焼失)

    この様に詳細は前段で論じた通りですが、この「経済的基盤戦略」は、上記する「賜姓族」として務めを果たす為に、その根幹と成す「融合血縁の子孫存続策」の主軸に置いていた事を物語ります。

    ・「5つの要素」の「政治的要素」
    次ぎに「政治的」には、以西と以東のバランスの取れた状態を作り出す事が必要です。そして、その「政治力」が朝廷との間に間断無く届くようにしなければ成りません。その為には余り距離的に離れず一定の距離の中に配置する必要があります。そして上記する「経済的基盤戦略」を確保した上で、この「5つの賜姓族地」を使って「親政政治」を敷き、勢いの強い「帰化人の以西勢力」に対抗する「有機的な政治体制」を構築する必要が出てきます。
    当然にこれ等の「賜姓族」にはそれなりの「戦略的」にも「経済的」にも裏打ちされた「武力」或いは「抑止力」を伴わせなくては成りません。
    「5つの賜姓族」の中でも一つでもこの力に掛ける「賜姓族」であっては対抗する「有機的な政治力」を発揮させる事は不可能です。
    その為にも「伊勢賜姓族」を中心として指揮を統一させ「5つの賜姓族地」を統括する事が何よりの「戦略的政治力」を発揮させる事に成ります。
    これには是非にも「5つの賜姓族間の血縁関係」を構築して「血縁による絆」を高める事が「必修の条件」と成ります。
    「単なる枝葉を広げる血縁関係」だけでは無く「政治的に統制された血縁関係」が必要です。
    それは「融合血縁」(純血性保持)による「氏家の構築」にあるべきであります。
    ただ「枝葉末孫」を多く蔓延らせるものでは無く、「5つの賜姓族」の中に「強力な血縁の芯」を創造する事が必要です。
    この「経済的基盤戦略」に裏打ちされた「政治力」は、以西勢力とは「朝臣族の利」を生かした「真逆の政治戦略」と成り、彼等に対抗する力を確保する事が出来て「潰されない対抗手段」を構築出来るのです。

    (当然に彼等から観れば図りがたい「抑止力」を背後に散ら付かす事で「政治力」はより効果を発揮しますが、「賜姓族としての政治力」だけでは効果は期待できません。)

    200万人の職能集団を抱えた勢力に対抗するには、「特別賜姓族の抑止力」を加えたとしても「賜姓族側」の「枝葉末孫策」で彼等に対抗する事は、天文学的な枝葉の抹消子孫を拡大させる事と成り不可能ですし、その為には必然的に上記の「経済力」とそれを護る「軍事力」が莫大に必要と成ります。到底太刀打ちできません。
    その「経済力」を担保するには、まして「抑止力」ではなく「正規の軍事力」が必要と成り、その為に限られた領地を無理に拡大させなければ成らなくなります。この結果として「経済力−軍事力−政治力」の「無限の輪廻」が起こります。
    これはまさしく「彼等の戦略」と同じです。短期間で出来得ない「同じ戦略」を取れば「弱者」の方が滅びるはこの世の条理です。又、「賜姓族」に持ち得ない彼等には民を引き付ける大職能集団を持っています。
    これはあり得ない選択です。
    既に、前段で論じた様に、彼等はこの「3つの力」と「進んだ職能能力」と「200万の武力」を持っているのです。今新たに発祥した「賜姓族」では到底対抗する事は論理的にも物理的にも明らかに不可能です。
    「枝葉末孫策」は論外の対抗手段です。

    それには、先ず、上記する天皇の「賜姓族の戦略」を造り、次ぎにそれを実行する「経済力」を付け、更にそれを裏打ちさせる「抑止力」を背景にし、最後に「親政族の政治力」で、「祖先神の守護神」を確立させて対抗する一翼を構築する必要があるのです。
    これ以外の戦略は最早「賜姓族」には与えられていないのです。
    この「対抗手段」の為にはこの「過程の順位と順序」を決して違えては成らないのです。
    そして、これを実行するには一族一門が「結束する前提条件」があり、それが「ミトコンドリヤの意思」に統一させる為にも目的以前の問題として「純血血縁」が必要であったのです。

    決して「皇族賜姓族の身分」や「皇族としての象徴」だけを確保する為の「純血手段」ではなかったのです。
    必然的に「賜姓族としてその役目」を果すべく逃れ得ない「生き延びる為の宿命的な純血手段」の道筋であったのです。(家訓の論調でも判る)

    前段でも論じた様に、彼等が支配する「200万人の職能集団」と「32/66国の無戦支配地の在来民の賛同」に対抗する何れの策もない筈です。
    あるとすると「朝臣族」に課せられたその打つ手はただ一点に絞られます。
    それは「天皇家」とは別の位置に「純血性」を保った「同族の結束力」を保持出来得る密度の高い「5つの融合血縁集団」を構築する事にあります。それはあくまでも「統制の取れた政治的行為」でその前提は「純血の血縁集団」であるべきであります。
    この為には「朝臣族の族間範囲」では限界があり、返って「同族血縁の弊害」による「弱体化」が起る事にも成り得ます。
    ”では、どうすれば良いのか”です。それは ”「全ての真人族」をも巻き込んだ「血縁集団」”にするべきです。「賜姓族」を「一本の血縁芯」としての「骨格」を作り、それに「肉」を付ける体格の「血縁族」を造り上げればよい事に成ります。
    これには「賜姓族の跡目」には「真人族と朝臣族」から「より優秀な能力の持った嗣子」を据える事が必要と成ります。
    「賜姓族の子供」である事に関り無く「真人族と朝臣族」から「賜姓族の跡目」を据えて行く事が必要です。これにより「より高い純血性」が保たれ「天皇家」に代わるもう一つの「准天皇家」(副軸論)が構築され、それに依って「象徴としての権威と尊厳の敬い」を民から獲得する事が可能に成ります。
    この事で「帰化人の民からの賛同」に対抗する事が可能と成ります。
    先ずは、「賜姓族」も「民からの賛同」を獲得する事に成り、戦略的な一端はこれで解決する事が出来ます。
    そして、その「象徴としての権威と尊厳の敬い」は、「民の心の拠り所」として「皇祖神の子神」の「祖先新−神明社」が裏打ちされるのです。
    「祖先神-神明社」は政治的には彼等に対抗する唯一の「戦略的な手段」であったのです。
    つまりは、これは、「強者側」から「技能の享受」を担保として「帰化人」は「民からの賛同」を獲得し、「弱者の賜姓族側」は「民の心の拠り所」としての「祖先新−神明社」との「2つの均等な競合」と成るのです。
    これに加えて「賜姓族」は、「技能の享受」に対抗する為に「物造りの神」の「豊受大神宮」を据えて「民の願い」を一点に集めたのです。
    これにより彼等との政治的な勢力関係が先ず維持出来るのです。

    「技能の享受」で「民からの賛同」→「強者の帰化人」

    「祖先神−神明社」で「民の拠り所」→「弱者の賜姓族」
    「物造りの神」で「民の願い」」→「弱者の賜姓族」

    「強者の帰化人」≒「弱者の賜姓族」

    ・「5つの要素」の「地理的要素」
    話を原点に戻して、戦略的、経済的、政治的、軍事的な上記の事柄からは、遷宮地の「吉備と飛鳥」の「旧来の古の地」では上記の数式論の方程式は決して成し得ません。
    絶対的に「新規の地」である必要に迫られます。
    「旧来の古の地」でないとすると、その「地理的条件」には、この「新規の地」であるべきとして、「吉備と飛鳥」に代わる「信濃と甲斐」と云う「中部山間部」の「未開の地」をわざわざ選んだのです。
    然し、わざわざ「未開の山間部の地」にしなくても「美濃」に続く東の「開発された沿岸部の坂東」の地でも成し得るのではないかと考えられます。
    然し、「坂東の地」には、既に「皇族第6世族以下の臣下族(ひら族)」の定住地があります。
    普通に考えれば、坂東域は「皇族関係族」として有機的に働く筈です。
    この様に観れば「中部山間部」の「未開の地」の策は一見してかなり乱暴であるかの様に観えますが、実はそうではないのです。
    そもそも、この「沿岸部坂東地」には「阿多倍の職能集団」が次ぎの様な集団が配置されています。
    「磯部、海部」の海産物に従事する集団
    「機部、鍛師部、金作部」の生産機械の製作に従事する集団、
    「服部、織部、布部、麻績部」の織物に従事する集団
    「秦部、絹部、桑部」の織物の殖産農業に従事する集団
    (鍛冶部は北九州、播磨安芸域、紀州北にも分散)

    以上の職能集団が関西と九州から移設して配置しました。(これは室町末期頃の「姓氏」の発祥から観て選択しました)
    「海部」などは関西以西の瀬戸内地域が発祥地域としているのですが、この「海部」の一部をこの坂東地域に、「瀬戸内の海産物適地」からわざわざ「磯部」と合せて配置したのではないかと考えられます。

    (特記 「海部」は前段でも論じた様に、「純友の乱」でも最大の職能集団としての力を持っていたし、姓氏に成ったのも最初はこの「海部族」でした。この事から観ても当時でもこの「海部族」は力を持っていてその職能集団の力をある程度削ぐ戦略もあった事が伺えます。
    「技能の享受」で「民からの賛同」→「強者の帰化人」の関係式は強者の首魁が統括している事が前提条件と成ります。この「前提条件」を崩す事でこの数式は弱く成ります。それには彼等を関西より以東の各地に散在させる事で可能と成ります。又、彼等の「進んだ技能」を以東にも移す事で以東の民は「技能の享受」で豊かに成り、且つ、「民の賛同」を弱者側が獲得できます。「一挙両得の戦略」と成ります。)

    この「4つの職能集団」が「坂東域」に配置されている事から観て、ある範囲に限定した関係集団を配置したのであって、必要以上にこの集団を移すとこれ等の集団も力を持ち、且つ、この集団を使って坂東の「第6世族臣下族」が力を付け過ぎる事も考えられるますし、「後漢の民」である限り彼等の首魁である阿多倍一門が再び最終的に支配する事も有り得ます。
    どの様に観ても、「3人の天皇の初期の意思の戦略」を実現するにはこの「坂東域の地」は明らかに「不適合地」であります。

    (然し、最終的に現実には矢張り予想通りに平安末期には首魁の一族の「桓武平氏」(「たいら族」)がここに国司として赴任して支配した。第6世族以下の皇族を祖とする「ひら族」と桓武平氏の「賜姓たいら族」が共存した地域。この事が通説では同族として誤解を招いている。)

    ここに「賜姓族」を配置したとしても、「阿多倍一門」は兎も角も「第6世族臣下族」との軋轢を発生させる事にも成ります。
    この「沿岸部坂東地」は関東からの美濃域までを通して「東海山道」(古代の街道は信濃−甲斐より接続山間部にあった)として主幹道路であります。
    この地に「第4世族 朝臣族」と「第6世族以降のひら族」の2つの皇族方が存在する事は、「3人の天皇の初期の意思」を構築する事では、「第6世族」が排除された形に成り、反発して不可能であります。
    況してや、「8人の天皇」が累代するに従い「ひら族」として皇族より切り捨てた「賜姓なしの臣下族」であります。”共に力を合わせよ”と命を下しても成り立つ話ではありません。
    そうなると、関東は都より遠阻域でもあり、「3人の天皇の初期の意思」の実現は困難であり、論外域となります。
    そうなれば「沿岸部の坂東域」と「関東域を結ぶ東海山道」より「北域の地域」が選択地となり、且つ、「阿多倍一族一門」や「既成の臣下族」の柵(しがらみ)の無い「中部山間部の未開の地」の「新規の地の選択」と云う事に成ります。

    更に、「中部山間部の未開の地」には、この「3人の天皇の時代」は、都に通ずる主要な幹線道路が無く、「関東地域」はもとより「広域陸奥域」からの「東山道」に繋ぐこの「東海山道」か「北陸道」しかなく、それ故に「未開の地」であったのです。
    元より「中部山間域」として果実などの農産物がよく育つ農業域帯でありながらも、幹線道路の不通が理由で未開で放置されていた地域でもあったのです。
    この「中部山間部の未開の地」に朝廷は次ぎの様な職能集団を配置したのです。
    馬部、鞍造部  山間部を利用した放牧飼育に従事する集団
    山部、鵜飼部  山間部の山川の産物加工に従事する集団
    弓部、矢作部  山間部の材木を利用する武器作り等に従事する集団
    工部、石作部  山間部の石や材木を加工し家具生産に従事する集団
    以上のような職能集団を関西以西から移動させて配置させたのです。

    (以上、室町末期頃からの「家紋分類の分析」と「姓氏の地理的な分析」と「地理的な荘園分類」から判別分類)

    この配置の事でも判る様に、「中部山間部の未開の地」にも坂東域と同じ戦略(「一挙両得の戦略」)で、この地に適した職能集団を配置しています。
    これは明らかにある「政治的で地理的な戦略」に基づき計画的に配置した事であって、其処に「沿岸部坂東地」と比較してどちらが適切かは「賜姓族」を配置する事でも合せて検討された筈です。
    この検討の結果、「中部山間部の未開の地」に「賜姓族」を配置する場合は、これらの「8つの職能集団」を関西以西から移設するのが適切であると考えたのです。
    しかし、ところがこの「職能集団の配置」に問題があるのです。
    それはこの「中部山間部の未開の地」には生き延びて行くには欠けているものがあるのです。
    それは「海の幸」であり「ミネラル」であります。海で生息していた「ミトコンドリヤの環境」であります。
    海から上陸した「人族」に取っては欠かせない「生命の源」です。
    この「ミネラル」を獲得するには最も近接域としての「沿岸部坂東地の海産物」が必要に成ります。
    故に「磯部と海部」が配置されているのです。

    (特に「海部」はこの意味でも後から瀬戸内から補強するために移設した事が判ります。
    「磯部」だけでは「沿岸部坂東地」の供給量しかなく「中部山間部の命」を維持させるだけの生産量に届かなかったと観られます。
    「磯部」は海浜域、「海部」は海上域を主とする集団であった。「海部」と「磯部」は瀬戸内が発祥地)

    この様に考察すると、「沿岸部坂東地」の「4つの集団 12部」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団 8部」には生きて行く為の補完関係が出来ている事が判ります。
    明らかに「政治的、地理的な恣意的に組まれた戦略」で「生きる事」のみならず「経済関係」が補完されている事なのです。
    この補完関係を構築させて有望な「未開の地」を切り開き、此処を「天領地」として造り上げ、「柵の無い地域」にし、「賜姓族」を配置しようと決めたのです。
    そして、これ等の補完関係を円滑にする為に、陸奥から近江までの「東山道」を切り開いたのです。
    明らかに闇雲に決めた事では無い事が判ります。これ等は全て同時期に行われたのです。
    「強力な賜姓族地」を構築しようとした事が明確に判ります。

    (参考 初期の「東山道」:陸奥−羽前−羽後−陸中−陸前−磐城−岩代−下野−上野−「信濃−甲斐−飛騨−美濃−伊勢−近江」であり、「下野−上野」から「東海山道」に繋がる街道を「下野−上野」から新設の「信濃−甲斐−飛騨」ラインと伊勢街道の「美濃−伊勢−近江」ラインを繋いだ。)

    この事から、これでも「賜姓族」が「3人の天皇の初期の意思」を実現させるには未だ不足であったとされ、「一つ別の策」が賜姓族独自で構築された事が判ります。

    それは上記でも前段でも何度も論じた「伊勢青木氏」が殖産開発し、近江、美濃、信濃、甲斐に「伊賀の古代和紙」を移殖した事であります。
    確かにこの職種は「沿岸部坂東地」の「4つの集団」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団」にはありません。
    これがより経済的に強くした事になるのです。「文化のパロメータ」と云われる「紙」は時代に合致していたのです。恐らくはこの「紙」を扱う事で、 ”「賜姓族」は「軍事力」に頼らない「強力な独自の力」を持つ事が出来る”と読んだ計画であったのです。
    それを上記した様に、この「和紙」で、更に「より強大な経済力」を付ける事の為には、”「商い」が必要だ”と判断し、「賜姓族」は次第に恣意的に「皇族の禁じ手」でありながらも「殖産−商いの方向」に導いたのです。(詳細後述)

    そもそも「皇族賜姓族」としては本来「商い」は「間逆の立場」にあり、当時としては「皇族」(朝臣族」)という「戒律の厳しい環境」の中では、最高の「禁じ手の慣習」であったのです。
    「権威と権力」を支える「氏の生きる為の絶対力」の「軍事力」さえも「完全な禁じ手の慣習」にあったのですから、最早、「商い」は「民の生業」であり論外であったのです。
    それなのに次第に「氏族の力」に組み入れて行く「副軸の賜姓族」に対して周囲から激しい揶揄が飛んだ筈です。
    ”何の為の副軸か! 恥知らずめ!”と揶揄された筈です。

    (参考 「平清盛」でさえも「揶揄」は摂関家に限らず身内からも飛んだのです。)

    この時、「賜姓族」は「四面楚歌」の苦しい環境にあった事は間違いなく、故に、遂には最終は「近江と美濃」はこの環境に絶えられず脱落したと考えられます。

    (特記 5家5流賜姓族の中で、この「2つの賜姓族」には周囲に「複数の皇族関係族」が存在した事もあり、その軋轢は絶え難いものであった事は否めません。「伊勢」は「不入不倫の権」で守られ古来より室町中期まで「皇祖神 神宮」のお膝元と云う事かもら青木氏外の皇族関係族及び他氏の豪族は存在し得ない土地柄です。
    「信濃」と「甲斐」は前記の通り環境下の「新規の地」であり、これまた揶揄される皇族関係者や公家の存在し難い土地柄であった。)

    「賜姓族」に取っては、「3人の天皇の初期の意思」、況や「弱者に課せられた生き延びる為の戦略」としては絶対に避けられない「生業」の「商い」であったのです。
    それには「賜姓族」が一氏では無理であり、一族一門の結集結束しての所業でなければ成りません。
    それに耐えられる「唯一の手段」は「思考と意思」「姿勢と行動」を「血」と云う手段で根本から統一させて「血筋」を守り維持する事が「絶対条件」であり、況や、その「血」を更に「純血」まで持ち上げて血縁すると云う「二重の仕組み」なのであります。
    「男系の純血」と「女系の皇族血縁」で賜姓族を小さく濃く固めたのです。

    「弱者の戦略」=「朝臣族・真人族」+「副軸の賜姓族]=「純血血縁」
    「純血血縁」=「経済力」+「抑止力」=「商い」
    「抑止力」≠「軍事力」
    「経済力の商い」≠「皇族の戒律・慣習」
    「弱者の戦略」=「3人の天皇の初期の意思」=「副軸の賜姓族」=「土壌の地・信濃甲斐」

    以上の5つの絶対的な逃れ得ない数式論が働くのです。

    この一見矛盾する様な数式論を叶えるには、その「土壌の地(地理)」を無視する事は出来ないのです。
    その「土壌の地」はこの”「信濃と甲斐」意外には無い”と云う事を意味しているのです。
    「3人の天皇」はこの数式論が成り立つ施策を次から次えと打ち出し構築して行ったのです。
    その一つが前段の「日本海側3県」の「退避地の設定」や「8部の職能集団の配置」や「不入不倫の権」でもあったのです。

    ・「5つの要素」の「宗教的要素」
    さて、厄介なのは”「宗教的」にはどうであるか”です。
    これはそもそも「宗教」は「民・氏族の心」に通ずるものであり、「思考原理=思想」に通ずるものであります。
    「心、思考」である限り、それを違えての「賜姓族の配置」は根本的に危険であり、上記で論じた事が全ての「環境条件」が適切で整っていたとしても「3人の天皇の初期の意思」は叶うものではありません。
    政治的にこれを抑圧しても古来より「強い抑圧」は「民・氏族の心」の反発を招き、遂には「政治的な反乱」が引き起こされるのが条理で、この例外は無いのです。
    為政者は「賜姓族」を配置して最も避けなければ成らない事は「民・氏族の心の抑圧」なのです。
    常に、「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」 の数式論であらねば成らないのです。

    前段でも論じた様に、日本は古来より「自然神」を始めとして「5つの守護神」の考え方が存在し、それがある地域を限定する様に、「宗教(「心、思考」)」に対して「地理的要素」が働いていたのです。
    「人族」はミトコンドリヤの時代から「心、思考、意思」を同じくするもの同士が集う「屯の習性」を持っています。それが「民・氏族」であり、その「民・氏族」には「民・氏族」=「宗教」の数式論が成り立つのです。
    これは「宗教」として成立したのは、「5つの守護神」の発祥以前の「弥生信仰」の時期から始まっているのです。
    (筆者は「民・氏族」=「宗教」=「屯」(たむろ)が前提に成っていると考えています。)

    この「屯」が成立した頃の「弥生信仰」は、未だ「氏族」の無い頃で、その頃の「民」の「心、思考、意思」に反して(「食」に原因する「宗教手段の占術」が主体)、離反した為に(100年周期の異常気象で食料不足)先ずは「民の信頼」を失います。(占術は当らなかった)
    そして、結局はそこに新たに発祥したこの「5つの守護神」の台頭で、更に「民の信頼」を失い、その為に「5つの守護神」の根源の「自然神」の「鬼道信仰」に取って代わられたのです。
    この「弥生信仰」が排除された事を考慮しても、「賜姓族」で「皇族」と云えど「屯」を前提とする以上は「異質の信仰」の中には本来は存在し得ないのです。

    「民・氏族」=「宗教」(占術)=(「心、思考、意思」)=「屯」

    つまり、以上の数式論が成立しない環境の中以外には「賜姓族の配置」はあり得ないのです。

    この現象期は、即ち、「弥生信仰の衰退期」は「7つの民族の融合過程」の中で起ったのです。
    「7つの民族」が融合するには「上記する数式論の環境」のこの過程を経る事が必要であったのです。
    その為には前段でも論じた様に、「3人の天皇の無意識の意思」は、この「7つの民族の融合過程」を読み取った上で、「皇祖神の子神の祖先神−神明社」に「最終の形」を導こうとしたのです。
    この「7つの民族の融合過程」の進み具合如何に因ってはこの「最終の形」は不可能と成ります。
    それを見極める要素は「5つの守護神」の「成り立ち」、或いは、「成熟度」であるのです。

    「7つの民族の融合過程」=「5つの守護神」

    (参考 「7つの民族の融合」に付いては「日本民族の構成と経緯」の論文で詳細参照)

    そもそも、一つの国に「5つの守護神」の考え方が存在する事は「国乱」の元であり、その為には先ず、「初期段階」として、否定する事から入るのではなく、先ずは「5つの守護神」を認めて上で、その「5つの守護神」の頂上に「皇祖神」を定め、それを推し進めるべく役割として「子神」の「祖先神」を導いたのです。
    そして、何時しか「皇祖神−祖先神−神明社」が「全体の守護神」に代わる事を期待したのです。
    然し、当初は「弥生信仰」に変わる「鬼道信仰」がこの役割を荷っていたのですが、この「鬼道信仰」を「皇祖神」の基本に据える事で排除せずに存在させたのです。
    その上で、「祖先神−神明社」に主体を置き換えて行ったのです。

    (特記 「鬼道信仰の発祥地」北九州域には「神祇信仰」の「八幡信仰の原型」が生まれた)

    然し、”主体を置き換えて行く” としても「鬼道信仰」を「皇祖神」に据えている限り、立場上「置き換え」は「天皇の権威」では成し得ず、且つ、命ずる事は出来ず、その「天皇」に代わり得る「氏族」にしなければ「他の守護神と民・氏族」は納得出来るものではあり得ません。
    それが、前記する「主軸の天皇」に代わって「賜姓族」を「天皇の副軸」にしてこの役目を与えたのです。
    この様に「副軸」は「賜姓族」に取って「必須の必要条件」であったのです。
    特記すべきは、 この「副軸」を強くする為に「朝臣族や真人族」を「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を保持させ、同族で「芯」の周りを固めたのです。
    この事が「重要な要素」なのであって、それを「純血」と云う手段で「主軸」に違わない「副軸」を構築したのです。
    然し、「役目」と云えど「普通の役目」ではありません。その役目は「国の存続」「国の根幹」を成す役目なのです。この役目の失敗は「国の混乱と滅亡」に関わる事に成るのです。
    この逃れ得ない「宿命の役目」を担った「賜姓族」であったのです。
    この「宿命の役目」を担った「賜姓族」が「弱者の戦略」と「宗教」の上記の数式論の環境の中で生き延びて行かねば成らないのです。
    「祖先神−神明社」の「建立の責務」と共に生きて行かねば成らないのです。
    それの「行動源」(エネルギー源)と成るのが「絶対禁じ手」の究極「商いの活動」と成るのですから、実に難しい生き方なのであったのです。
    まして、次ぎの様な数式論の中に生きているのです。

    「宿命の役目」=「賜姓族」=「祖先神−神明社」≠「商い」
    「賜姓族」≠「軍事力」

    以上の矛盾点を持っているのです。

    果たして、「他の守護神と民」は「天皇の意思」であったとしても、この有り得ない「矛盾点」を許す事ができるでしょうか。普通であれば決して出来ない筈です。
    つまり、「主軸−副軸としての象徴感」が消失するのです。
    ところが、あな不思議に、然し、許したのです。
    「賜姓族」にあっては成らない「矛盾」を許したのは、”それは一体、何故なのでしょうか。”

    「民の賛同と許容」
    「賜姓族」が「祖先神−神明社」の務めを果す時、必ず行っていた事があります。
    それは前段でも論じた様に、「皇祖神」の「天照大神」と「豊受大神」を分霊祭祀した事にあります。
    「祖先神−神明社の建立祭祀」の中心にこの「2つの大神宮の分霊祭祀」を据えたのです。
    決して「祖先神−神明社」だけの「単独の建立祭祀」では無かったのです。
    恐らく、「単独の建立祭祀」では「民の賛同と許容」は得られなかった筈です。

    (前段で論じた様に、「大神宮」24 「皇大神宮」17を「486社の核」として据えたのです。)

    上記の懸念は、「486社の核」に据えたからと云って許される条件ではありえません。
    「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」は、「天照大神」の「分霊祭祀」(17)で払拭されますが、中でもこの「民の賛同と許容」の「誘引の基」と成った問題は「豊受大神」を建立した事なのです。
    それは、前段でも論じた様に、そもそも「豊受大神」(24)は「物造りの神」であります。
    「物を造る」は、「物を造って得られる利得」に繋がります。
    「物を造る事」に依ってそれを売り裁き、「生活の利得」即ち「食」を得るのです。
    「物」を造って売り裁か無ければ造る事の意味は半減します。
    「自給自足」でない限りは「物を造る」は「物を売る」を前提としています。
    「物を売る」や「利得」は現代感覚では「金銭感覚」を想起しますが、決してそうでは無く金銭を主体とした「貨幣流通期」までの「平安末期」までは「物」=「食」を意味した社会であったのです。
    「縄文時代の自給自足の社会」は既に通り過ぎて「弥生時代」も過ぎているのです。

    既に、「後漢の民」(645前後頃)が職能を持ち込んだ時期から加速して「流通社会」が謳歌し始めたのです。つまり、「部制度の社会」が構築されていたのです。
    この「部制度」とは前段でも論じた様に、「自由市場経済」の前段形式で、「職能集団の部」に依って生産された品は、一度、「税」として「朝廷」或いは「荘園主」に具納し、「税」の必要分を取り除いた上で、残りを市場に放出し物々交換を主体とした一部で換金する仕組みであり、間接的な市場経済であったのです。

    「物を造る」=「売り裁く」=「商い」の循環が働くから「利得」
    (食:御饌 ”ミケ” と呼称されていた)

    以上の数式論が得られるのです。

    「豊受大神の祭祀」=「物を造る→売り裁く→商いの循環]

    以上の数式論が働きます。

    ところが、この数式論だけでは未だ「民の許容と賛同」を獲得する事には成らないのです。
    そもそも、この時代の社会感覚の「利得」は、「市場経済」と「貨幣経済」で無かった事から、全て「食の感覚」に通じて強く、その事を表す「御饌:ミケ」の言葉が「古代語」としてあったくらいなのです。

    (特記 民の神は「ミケの神」「食の神」が主体であった。)

    現在では消えているが平安末期までは使われていて「万葉集」にも「感謝の意味」を含む「日常用語」として出てくるのです。
    況や、当然に奈良期からはこの「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」があったのです。
    そして、「豊受大神の発想」の根幹はこの「古代神」にあったのです。
    それが「豊受大神」の「基神」と成ったのです。

    「民・氏族」はこの上記の数式論の中に生活していたのです。
    だからと言って、”「賜姓族の商い」は認めない”はあり得ません。それは「皇族」に課せられた「戒律・慣習」の事であって、「賜姓族」とする限りは「公」に認める事は憚れる事であります。
    それが、「民・氏族」が期待する「物造りの神」の「豊受大神」を祭祀する責務を果す為にあるとするならば、むしろ「民・氏族」に取っては「歓迎するべき行為」である筈です。
    「民」にとっては、”「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」” の否定は不可能である筈です。

    従って、結局は、”「揶揄」するのは、出来るのは「公家・摂関家」だけ”という事であります。
    従って、その「揶揄」は何時までも続く事は無かったと考えられます。
    何故ならば、北家筋で最も勢力と経済力を保持していたのは「秀郷一門」の方で、その「第2の宗家」である「特別賜姓族青木氏」が「皇族賜姓族」と共に「2足の草鞋策」を推進しているのです。
    況して、その「牽引役」は「伊勢の特別賜姓族の青木氏」なのです。
    そして、その「権威」は上記する様に「副軸」として位置付けられた「賜姓族」であって、その「副軸の賜姓族」に匹敵する全ての立場を与えられていた「特別賜姓族」なのです。
    「揶揄する摂関家」を遥かに凌ぐ「皇族賜姓族」と同じ「官位、官職、身分、家柄、特権」を保持しているのです。況して、この「2つの青木氏」の「融合青木氏」も存在していたとすれば、これ程強いものはありません。
    前段で論じた様に、平安末期の「後三条天皇の荘園制禁令」から「白河院政」まで摂関家は政治的にも経済的にも弱体化していたのですから、この「北家摂関家」と云えども何時までも「揶揄する事」は得策ではなく出来ない筈です。

    (参考 荘園制禁令に因って藤原氏摂関家も荘園制から得る利得が激減し、賜姓源氏も名義貸しと利得が無くなり弱りつつあった。揶揄を続けるだけの意欲は阻害されていた。)

    その否定を含む「揶揄」を続ければ、何時かは「北家一族」を揶揄する事に成り、自らに唾を投げかけるに等しい事に成ります。秀郷一門との激しい軋轢が生まれる事は確実です。
    「揶揄の意味」が「軋轢から来る損失」より大きくない事は誰でも判る筈で、「一族北家の摂関家」がそれを判らない筈はありません。それこそが追い落とした「南家、式家、京家」の二の舞に成ります。
    この様に考察すると、結局は、「物造りの神」を信望し、利害の一致する「民・氏族」の「許容と賛同」と、「揶揄」を得策としなく成る「摂関家」は認める事に成る訳ですから、「賜姓族の商い」は「戒律・慣習」であったとしても、終局は暗黙で認められた事に成ったのです。

    (特記 「2足の草鞋策」として「賜姓族」である事を伏せた上で妥協の「暗黙の了解」が働いたと観られます。「織田信長」が「丸山城の戦い」で「松阪の紙屋長兵衛」が「伊勢青木氏」である事を知らなかったこの史実から、室町末期までは「暗黙の了解の秘密」であった事が判ります。「伊勢青木氏の記録」から、この後の「豊臣秀吉、蒲生氏郷、徳川家康」は知っていたのです。「丸山城」の時は「堺の店」から出没した。)

    この様に、「賜姓族」の「祖先神」の「異質の宗教的要素」が働く中に於いてでも各地で認められ、「御師様、総師様、氏上様」と崇められ認められて行った事が何よりの証拠です。

    当然に、この「宗教的な基盤」が「出来上がっている地域」よりも「無い地域」の方が別の意味で苦労は伴なうが適合している事は間違いありません。
    だとすると、「既成の地」の「近江、伊勢、美濃」に「近い地域」で、且つ、戦略上の上記「5つの要素」に適合する地域と成れば、「未開」と云うリスクがあるにしても「中部未開の地の信濃と甲斐」の2国しかなくなる筈です。
    むしろ、戦略上の「5つの要素」を叶えるのにはこの「未開リスク」を積極的に求めたのです。
    況してや、「皇祖神の子神」としての「祖先神の神明社」は、「他の守護神」とは別格であり、「2つの青木氏」で「朝臣族と真人族」の守護神でありながらも、全ての「民の守護神」(「心の拠り所の天照大神」と「物造りの神の豊受大神」)としても位置付けられていたのですから、受け入れられる筈です。

    そうなると、では、”「天照大神」は兎も角も「商い」に付いても「民・氏族の賛同」を獲得した「豊受大神」にはどの様な経緯があったのでしょうか。”気に成るところです。
    実は「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」を引き継いだ「豊受大神」には次ぎの「由来」と云うか「経緯」と云うものがあったのです。

    「豊受大神」の経緯
    真偽の程は、神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」付いては常に持っていますので、別にして、一説には、「止由気(トユケ)宮儀式帳」という「朝廷文書」があり、この中で ”「雄略天皇」の夢に現れた「天照大神」が、「豊受大神」を「御饌の神」としてそばに呼んでほしい」と告げ、そこで「雄略天皇」は、「丹波国(京都府)」から「豊受大神」を迎えて「伊勢の地」に祀った”とあります。
    「夢の事」の真偽はさて置き、”何故「丹波国」なのか”という疑問があります。
    その一説として考えられる事として、そもそも「豊受大神」は「天照大神の御饌の神」(ミケのカミ)として時期は別にして「伊勢」に祀られたのですが、朝廷はその由来を造り上げる為に、その「丹波国」には飛鳥の頃から「奈具社(ナグのヤシロ)」の様な「穀物の女神」(食の神)を祀る社が多かった事から、ここに由来として結びつけられたものと考えられます。
    (他説には、「丹後国風土記」逸文にある「天女の話」等があり、「歴史資料説」として根拠とは成らない。)

    地方で発祥した「地方神」の「民の神」の「奈具社の神」等と云うものがあって、その中の「自然神」として「民」の中で発展した「穀物の女神」(食の神)の「豊宇賀 能売神(トヨウカ ノメノ カミ)」とするものがありました。

    (参考 豊:豊作を祝す 宇賀:自然を賀する 能売:物を能く売る 自然に賀して豊かに成り能く売却さしてくれる神。)

    この「神名」が物語る様に、「古代の感覚」は ”この世の森羅万象の「全ての物」は自然から与えられるもの” ”つまり「農産物」や「加工品」にしろ「鉱物製品」にしろ、強いては「人の喜怒哀楽」も含めて、あらゆるものは「自然の神」から与えられるもの”とする「宗教概念」を主体としていたのです。 
    この「古神」は、当時(奈良と飛鳥時代)の関西域の「民の信仰」を一心に集めた「古神」であったのです。
    一説では、この「古神」が伊勢に迎えられて「豊受大神」として祀られる様に成ったと考えられるのです。
    つまり、この「豊受大神の原像」は、「穀物の女神の豊宇賀能売神」の様な当時の「民の信仰体・主神」、 ”民の「農民信仰の食神」であった”と考えられます。
    これを「伊勢」に迎え入れて「国」の公的なものにする為には、朝廷は「何らかの手だて」が必要です。
    そこで「地方神」から「民の信仰」を伊勢に集め「天照大神」と共に祭祀し「全国神」にする事で成立します。そうなると、”迎え入れた”のでは無く、”伊勢にも造り上げた”が正しい事に成ります。
    そもそも、神には厳格に「神格」と云うものがある為、「豊受大神」とする為には「民の地方神」の「豊宇賀能売神の迎え入れ」には「神格の差」「豊受」(トヨウケ)>「豊宇賀 能売」(トヨウカ ノメノ)が必ず起る筈で、”「丹波」にもあるのであれば名も類似させて「伊勢」にも造る”とした筈です。
    ”闇雲に創造した事では無かった”との理由付けの為に ”神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」”として位置付けた「後付」であったと考えられます。
    それが「天照大神」を祀る「伊勢信仰」の拡大と共に、「穀物の神」(食の神)から発展させて、”「食」に限らず「食」に通ずる全ての「物造り」の「物造りの神」(物造り総合神)としての「豊受大神」として確立させ、結果として「天照大神」の内宮に対して「神格式」を挙げて「外宮」としても広く祀られる様に様に成った。”と考えられます。

    (特記 この頃、「阿多倍の職能集団」が到来し「在来民」は進んだ「職能」の享受を受け始め、「物造り」に目覚めた時期であったのです。食以外に生活を潤す糧、即ち、「物造り」がある事を知り、「食神」以外にも「物造りの神」をも創造し出したのです。)

    その結果、「民の農民信仰の稲荷神」(食神)と並ぶ「国の大神」として発展させたとするのが、現在の「マニア通説」であり筆者の検証説にも成ります。

    ところで問題なのは、この天皇豊受説には「時代性」が明確ではありません。その「時代性」、況や「豊受大神」の正確な時期が、上記した「賜姓族の宗教への合理的根拠の時期」であったと考えられます。
    「賜姓族」の「民・氏族」からの容認」の頃に創始し、それに伴なう「商いの暗黙の了解の取り付け期に確立」した時期であったと考えられます。
    つまり、「物造りの神」とした「豊受大神」の伊勢併合時期は、”「3人の天皇期」に伊勢に祭祀を始め、「5人の天皇期」に確立させた頃”と成るのです。
    そんなに古くは無く、「647年から655年ころの間に創始」と考えられます。
    結局、この「後付問題」は、「3人の天皇」(持統天皇まで)までの業績を纏め上げた「歴史書」「日本書紀」編纂(720年完)を実行した「文武天皇期」前である事は間違いないと少なくとも考えられます。

    「天智、天武、持統」の「在位期間中の業績」を整理整頓する際に、この「豊受大神の祭祀の由来」の根拠も「天照大神」(高千穂の峰)と同様に「神代の事」として「後付」で造り上げたと考えられます。
    まさか、「賜姓族の宗教への合理的根拠」として「朝廷文書」の記録として遺せなかった筈です。然し、「日本書紀」(下記)にはそれと読み取れる事件を間接的に公の記録したのです。

    (参考 「日本書紀と青木氏」の論文参照 古代歴史書の六国史:日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録)

    「遷宮地85」の最終の「伊勢の地」の「正式な決定」は「大化の天智−天武天皇の時期」であり、「雄略天皇期」では決して無く、この時期は未だ「85地−90年」の「遷宮中の時期」であった筈です。
    時期には「神代の伝説手法」が働いており矛盾が潜んでいるのです。
    「朝廷の夢と雄略天皇の根拠説」が明らかに何時もの通りこれも「後付」である事が判ります。

    では、”その時期は何時頃か”と云う事に成ります。
    それが、上記の様に、「賜姓族」が「民・氏族の賛同」を獲得する必要性に迫られた頃からであると見られます。
    「丹波」に発祥していた「民の信仰の神」(「豊宇賀能売神」:食の古神)を、「伊勢」にも「大神の全国神」(「豊受大神」)として創造した時期(大化期初期)と一致すると観られるのです。
    そして、この事、即ち、「物造りの神」の豊受大神」に依って「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた事であった筈で、この事が「宗教的課題の最大の問題」であったのです。
    これがクリヤー出来た事からこそ、「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族」は進んだのです。
    この事無しには「賜姓族の存在」と「皇祖神の子神で守護神の祖先神−神明社」の建立は有り得なかった筈です。
    言い換えれば「2つの青木氏」の存在根拠は無かった事に成り、且つ、生まれていなかった事に成るのです。
    「2つの青木氏の基点」は何処にあるのかと成れば ”此処にある”と云う事に成ります。

    故に、実は「日本書紀」に、「信濃賜姓青木氏」と共に「信濃諏訪族の首魁」が破格の扱いで「施基皇子」等が列座する宮殿に於いて「天皇」に謁見し、更に「謁言」を許された事が詳細に書かれているのです。
    (「日本書紀と青木氏」の研究論文参照)
    その時、この「信濃の一豪族の首魁」(諏訪族)が、何と天皇に直接向かって、「未開の地の開拓の勲功」に免じて ”税をもう少し安くして欲しい”の旨を言上したのです。この時、「信濃賜姓青木氏」は共に「沿え言葉」を付加えた事が書かれています。天皇はこれを聞き入れた事が記載されています。
    これは明らかに、上記の「賜姓族への配慮」が天皇にあった事を物語ります。
    そもそも「天皇への謁見と謁言」は「正三位」以下は許されていません。「宮廷への昇殿」は正四位までとされていました。その事から観ると、「信濃賜姓族」は昇殿は許されたとしても「謁言」は出来ませんから、一地方の豪族の「信濃の首魁」の「謁見と謁言」は破格の扱いであった事が判り、更に、この「天皇の日常業務」の一つが「大きな出来事」として「日本書紀」に記載される事の事態が異例中の異例であったのです。
    この事で「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族に対する配慮」は「政治の域」を既に越えていた事が判ります。
    「日本書紀」への記載の意味は ”「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた「宗教的課題の最大の問題」”の「賜姓族の歴史的苦労」を間接的に表現したと考えられます。
    この事を成し遂げた「施基皇子」は天皇に継ぐ「最高位の勲功位」 「淨大正1位」を他の皇子連よりも数段上の誰も成し得ない勲功を受けたのです。
    (故に、日本書紀にこの事が詳細に記載されているのです。「日本書紀と青木氏」参照)

    この上記で論じて来た「5つの要素」の総合の結論は、「賜姓族態勢の構築」「3つの発祥源」「皇祖神の子神」「祖先神−神明社」「融合氏」等の前段で論じた様な「打つ手」と成ります。

    そこで、上記に論じて来た「8人の天皇が推し進めて来た意思」の「賜姓族の根幹骨格」と成っている「純血血縁」がどの様な経緯を辿ったのかをもう少し検証する必要があります。

    先ず、その前に「基本データ」をもう一度、観てから下記の(注意1〜5)を先にお読みください。
    本論の冒頭の「基本データ1」と「基本データ2」を参照して下さい。
    基本データ1は「主要な初期の19守護地」(4世族王)(「神明社の初期建立地」)
    基本データ2は「遷宮地」85の詳細の表

    (注意1 [5家5流皇族賜姓地]
    この・印の国府に存在した「5地域の守護王」が始祖と成り、「5代の男系天皇」が累代で賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させた。つまり、この時(光仁天皇までの8人の天皇)の「賜姓臣下」は「5地域の守護王」と成る事を意味したのです。

    その後もこの「5つの守護王の氏族」には「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れたのです。
    花山天皇までの累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、特に平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承したのです。

    (注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」の”みの”は他の書籍等では混同している為に史実が歪んでいて間違っている。)
    (注意3 「遷宮地」85では、主要地域は次ぎの5地域の「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」と成っている。
    (注意4 「賜姓地」5では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」の5地域と成っている。
    (注意5 注意3と注意4を比較するとここには歴史的な異変のある大きな意味を持っています。)

    「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証」
    (19守護王地の意味する処)

    「5家5流皇族賜姓地]
    この・印の「5地域の守護王」が先ず「始祖」と成り、そこに5代の男系天皇が慣例に基づき「第6位皇子」を「賜姓」し「臣下」させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させたのが始まりです。
    これが「5家5流の皇族賜姓族」の始まりであります。

    然し、この5地域には「国府域」とそれを護る「守護域」とで構成されていて、1つの守護地には2から3の守護の「朝臣族」を配置しているのです。
    1国1守護王ではない構成と成っているのです。当然に、史実の内容から政庁を置いていた「国府域」を「主庁」とし「守護域」を「副庁」としていたのです。

    (特記 ところがこれが後の700年以降にはこの「守護王」にその「行政代理官」を派遣した。その階級には「中央官吏の国司」には「守」、「守代」、「介」、掾(じょう)、「目」(さかん)、「地方官の郡司」には大領、少領、主政、主帳、そして「村司」に里長[郷長]、村主と変化した。
    唐の制度を模範に「国郡里制」から里は「郷里制」に変更し再びた「国郡郷制」に戻した。
    「賜姓族地」の「5天領地」には上記した様に「賜姓族の国策遂行」の難しさからこの700年頃から770年頃に掛けてこの「代理行政官」を置いて「税等の一般行政」を強化し補完した。)

    然し、「行政に依る安定」は図るにしても「賜姓族としての国策遂行」にはこれだけでは済まず、自らの「賜姓族としての足元の強化」も成し得なくては成りません。
    前段の初段で論じた様に、大化期前の「朝臣族の配置」では朝廷が全てその裏打ちをしていたのです。
    ところがその事が天皇家と朝廷の力を圧迫し弱体化させ、蘇我氏にそこを付入られた事から大化事件が起ったのです。そして、それを改革したのが「大化改新」であり、その目玉としての「賜姓−臣下」であって、その「賜姓族」には「大化改新」の「最大の改革」として「国家形成の国策の根幹部分」の「遂行責務」を背負わしたのです。
    当然に、「大化改新の象徴」として民に誇示し宣言する為にも ”「自らの存立は自らの力で果す事」(野に放たれた野鳥の様に一人歩きの姿)”を課せたのですから逃避する事は不可能なのです。
    大化期に発祥した「賜姓族と云う言葉」にはその様な意味を持っているのです。
    「大化期賜姓族」=「自立自存」
    「3人の天皇の初期の意思」として上記で論じた様な「5つの要素の基本的補完」(「税等の行政事業の基本的補完」等)の「道筋」は示したものの、この「道筋」だけでは事は進まないのが「現世」であります。
    先ず根幹と成る事を「行動」(融合血縁)に移してこそ成し得るものであります。

    それが次ぎの事であったのです。
    特に、この「5天領地」の「第4世族内朝臣族の守護王」の「5家5流の皇族賜姓族」の地には、次の様な「跡目・養子・融合の血縁の歴史的な経緯」が起こっていたのです。

    大化期の「守護王」として、上記した様に「賜姓族」として「厳しい国策遂行」を背負わして配置したその後も、配置するだけでは「国策遂行」は成し得ず、先ずは「賜姓族・守護王」として永代に確固として自ら「氏族」を存続させねば成りません。それには「副軸の本軸」の根幹を造り上げる為に先ず「融合血縁」が先行されます。「3つの発祥源の務め」の「融合族」でありながらも先ずはその根幹を強固なものにする為に「副軸−本軸」は固めて置かなければ成らないのです。自らが「融合末梢族」には成り得ないのです。
    飽く迄も、真人族と朝臣族と宿禰族の皇族から齎される血流の融合の中で融合策を進めねば成らないのです。それには「賜姓族の母方族・女系族」が広く世間に対してその「融合氏の役割」を荷っていたのです。

    (特記 その「融合氏の役割」を果す嫁に行く「女系族」と、嫁として入って来る「母方族」の為に、その大役から「通常の慣習」には無い「賜姓族」としての慣習があるのです。それは「女墓の慣習」なのです。
    この「女墓慣習」は通常の「先祖墓」に対して別の墓所を隣に設け、其処に先祖代々の全ての「女系族」(娘)と「母方族」(嫁)の「俗名と戒名」を一列に書き記した「大型の碑石」を墓の中央上部に設け、その前に祭壇を敷設する形式です。賜姓族の独特の「祖墓と女墓」の慣習があるのです。
    男は「純血による融合血縁」、女は「混血による融合氏」の「子孫拡大の務め」を共に果たしていたのです。この様な慣習から「呼称の慣習」では「娘」は”・・のひい様”と呼ばれ、「嫁」は”・・の妃様”と呼ばれていたのです。後に武家では「ひい様」は「姫様」と成ったのです。何れも「ひい様」も「妃様」(ひめさま)も語意の基の呼称は”ひめ”であり、女辺に家、己、臣、賓等の字句は「人の集合体の基本単位」を示し語源は「融と合」の語意を持っているのです。)

    (特記 上記の「ミトコンドリヤ」のところで記述した様に「ミトコンドリヤ族」の基は「雌」であり、4段階目の進化で「雌」から「雄」の役目を分離したのです。その証拠に人間の人遺伝子は母方に引き継がれているのです。その外見から生態学上の一つの例として挙げると、男の「乳首と臍」は役には立っていません。これは基は雌であった証拠です。本来、「古来の賜姓族の慣習」では ”女子が枝葉子孫を拡げ、男子は血筋・血流を護る” 事が務めとされていたのです。これは「男子の血筋血流」の考え方から「母方の人遺伝子継承」の理から明らかに逆の慣習ですが、「融・合」と云う点では「女子の枝葉子孫拡大」は一致しています。
    この特記の事から判る事は、「古代の賜姓族の慣習」として「融合として子孫拡大」の実質の務めは「女系」にあった事を意味します。
    そもそも、前段でも論じましたが、他氏の様に、”男系も女系も両方で血筋・血流を融合させて混血させると云うのでは無く、男系だけは「純血」を守り、片側の女系で混血させて他の血筋を入れて行く” と云うと「賜姓族の慣習」であった事に成ります。皇位継承権を持つ「真人族の皇族」はこの両方の純血を原則として護ったことに成ります。これでは「子孫存続」が成り立たない事から「嗣子の内容」を見て「妥女の制」を採用していたのです。)

    (特記 「男系の純血」でも多少の他の血筋が入る。現代生態学では血液型が同じであれば80−90%遺伝子が同じと云う事に成る。この事からすると、上段で論じた「男系の純血」の慣習は「血液型」が同じと云う前提が成立した筈ですが、当時は血液型は判らない事がロマンの慣習である。血液型は遺伝である事から確率としては2乗に比例して行く事に成ります。故に、「賜姓族の慣習」では「分家方式」を作らず「宗家方式」で継承さして行くので1/2の純血確率で継承させて行くのです。
    これに上記の「真人族と朝臣族から跡目と婿養子と貰養子の制度」と、宗家外の一族からも「跡目、婿養子、貰養子の制度」も併用する事で更に純血確率を高めているのです。故に1/2を超えて同じ血液型が統一して維持される確率は非常に高く成ります。 本論の血縁論はこの前提に立っています。)

    平安期初期までは「5家5流の皇族賜姓族」の「皇族系の跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」(詳細下記)を入れました。然し、累代(天智天皇より平安期11代)の「男系天皇」(6代 女系5代)以降の平安期中期以降には、「第6位皇子」が居なかった場合には、「嵯峨期の詔勅」から始まった「賜姓源氏」(11代 嵯峨天皇から花山天皇)等の「各地」に定住する「朝臣族」を跡目に入れて継承したのです。

    (特記 7代も女系天皇が続き皇子数が激減したことも大要因  嵯峨天皇はこの問題に着手した。)

    この場合、”「跡目」が欠けた”と云う時のみならず、その後の系譜や添書等の資料から読み取ると、実は「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れているのです。
    ところがこの経緯の内容をよく検証すると、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」、「近江」、「美濃」の全てに、近隣に定住していた「第4世族の真人族」や累代の「第6位皇子」と「賜姓源氏」の「朝臣族」が「跡目相続」しているのです。
    そして、それには必ず上記する「真人族」が「跡目血縁」と云うよりは「跡目融合」の言葉が妥当な「融合血縁」をしているのです。
    これは「融合氏の発祥源青木氏」である事を大きく物語っているのです。
    つまり、”「真人族が形成する氏」と「賜姓族が形成する氏」が同族血縁した”と云うよりは、”「真人族」のある者が「賜姓族」の跡目に直に入った”と云う表現が適切なのです。

    と云う事は、不思議な事として、先ず、一つ目は、この「5地域の賜姓族地」には、上記の表の通り「真人族」と「第4世族内朝臣族」が「国府外」に居たにも関らず、この「朝臣族の氏族の末裔」が近隣に不思議に存在しない事なのです。

    (室町期末期から江戸初期に掛けて下克上と戦乱で伸し上った所謂「未勘氏族」なる者が「末裔」であると名乗っているが極めて矛盾を孕んでいる。)

    更に、二つ目の不思議な事としては、”上記の「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れている事” とであります。

    この「2つの不思議な事」を考え合わせると、これはこの「5賜姓族」がこの地域の「真人族と朝臣族」を吸収した事(融合血縁)を意味します。
    それが「平安期末期頃から鎌倉期頃の資料」ですが、「平安初期頃」まで行われていた可能性が高い事が論理的に読み取れます。
    これは奈良期の「3人の天皇」か、或いは、後半の平安期前の「5人の天皇」の「初期の意思」であるとかとも考えられます。
    実は、前段でも論じた様に、「平安遷都」や「京平氏賜姓」等を実行した「桓武天皇」を境に政治の態勢は急変します。前段で論じた様に「皇親政治」から「律令政治」に変革したのです。
    「皇親政治」の「8人の天皇」の政治履歴を考察して分類して観ると、前半の大化改新「3人の天皇の政治改革」と、後の「5人の天皇の政治改革」には大きな違いがあり、概して「初期段階の政治改革断行」と「仕上げ段階の政治改革断行」に分類されます。

    この傾向から観て、継続性は全体として存在するも、筆者は、”「3人の天皇」の「初期の意思」であった”と考えているのです。
    恐らくは、この「桓武天皇」を境に「融合血縁」にも侭ならない程に大きな影響を与えたと考えられます。
    これが「青木氏の衰退の空白期間」のきっかけと成ったのだと観ているのです。
    「桓武天皇」が「国策である賜姓」を母方の族に対して「たいら族」を賜姓したのです。
    これでは、到底、「皇族賜姓族青木氏」は「融合血縁」を推し進める事は不可能です。

    当然に「融合血縁」のみならず「国策遂行」も否定された事に成った訳ですから、表向きに一時は何も出来なかったと考えられます。
    「150年で8人の天皇」が継続して推し進めてきた「国策」が「律令」を理由に途絶える事に成る訳ですから、天皇家や朝廷内はおろか為政者や公家等は「驚天動地」であった事が覗えます。
    史実、朝廷内はこの事で二分し争いが起こります。
    「桓武天皇と皇太子派」と「第2皇子派」が対立して骨肉の争いが起ったのです。
    結局、この為に「桓武天皇」は譲位して皇太子の「平城天皇」が即位して収拾を図りますが、この「平城天皇」も悩み病気(うつ病)に成り2年で退位して、第2皇子の「嵯峨天皇」が即位せざるを得ず争いの態勢は収束に向かったのです。
    この収束過程でも前天皇の「平城天皇」は依然として抵抗したのです。結局、「嵯峨天皇」も妥協して「嵯峨期の詔勅と宣旨」を発し、「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」と変名し、その「賜姓源氏」には「国策遂行の責務」を外し、ただの「賜姓臣下の氏族」とします。
    この時、「青木氏」は「真人族」と「第4世族内」に限らず「全ての朝臣族」が「還俗や下俗」する際に用いる氏名として使用を禁じます。
    先ず全皇子の内8人が臣籍し、その後には17皇子と15皇女が臣籍降下させたのです。
    これで、「5家5流の賜姓族」は国策氏として復活するのです。

    「累聚三大格」と「弘仁5年八月八日付けの詔勅」にこの事が記録されていて、その令を下記の様に記載されているのです。
    「嵯峨期の詔勅」
    「男女梢や衆く、未だ子の道を識らず、還って人の父の為に、辱く封色を累ね、空しく府庫を費す。朕、懐に傷み、親の号を除き朝臣の姓を賜い、編して同籍と成し、公に従事し、出身の初め、一に六位に叙せんと思う」

    要約すると、「天皇には皇子皇女が多かったためにいちいち親王家を立てる事に成ると人民の負担が多く成るので、皇子には(源)朝臣の姓を賜って臣籍に降下し、公務に従事させて、その身分を六位に叙した。」

    これからも判る様に、「弘仁の詔勅(嵯峨期の詔勅)」では「5家5流の賜姓族青木氏」の「国策氏」「3つの発祥源」「象徴の賜姓族」「皇祖神の子神の祖先神−神明社」等の役目などの事は一切書かれていないのです。
    書かれていないと云うよりは「賜姓源氏」には与えていないのです。与える事によって「5家5流の賜姓族」の様に力を持ち、「親政族」として再び「律令政治体制」を壊し「皇親政治」に陥るとする反対者側の意見に妥協して与えなかったのです。
    ここにある「公務」とあるのは、「5家5流の賜姓族」と同じく「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の指揮官」で「本来の官職」であったのです。然し、現実には当然の様には与えられなかったのです。
    それは何故かと云う事なのですが、文面にある様に「従六位下」だからです。
    この「従六位下」の位には大きな意味を持っています。
    本来通りに直ぐに与えられるには、上記に記述した様に「皇族第4世族内の朝臣族」の場合は、最低でも「従四位下」でなくては成らないのです。
    平安中期の「藤原秀郷流青木氏」は、藤原北家一門の中でも1ランク上の上位を与えられたのですが、「皇族賜姓青木氏」の5家5流を特別に補佐する為に叙された「特別賜姓族青木氏」であるので、「従五位下」が与えられています。つまり公家上位と同じ位です。
    朝廷では五位を境に扱いは全く異なるのです。
    ここでは経済的な負担軽減を前提として詔勅に明記している様に、それでも、”六位を与えられた事を善し”としなければ成らないのですが、当時の皇族の朝臣族の扱いからは低すぎる扱いであった事が判ります。これでは皇族外の昇格で朝臣族に任じられた氏と同じです。

    (参考 奈良期と平安期の「八色の姓制」の「朝臣族」と、「天皇の臣」であったので「朝臣」と誇示している室町期後期や江戸初期の「勃興氏」とは異なるので注意)

    「守護神と神明社−4」の冒頭の表(位田、職田、功田、賜田、俸禄)を参照しても「六位」はこの食封田の対象にも掛からないのです。
    この様にこの文面の一字一句を捕らえて考察すると、「平安期の慣習雑学」と比較すると多くの事が読み取れます。
    更に続けて考察すると、当然にこうなれば「真人族」や他の「朝臣族」との「同族血縁」のみならず「純血による融合血縁」や「跡目血縁」すら不可能と成ります。

    この文面では ”編して同籍と成す”とありますので、”特別に「同族血縁」や「純血血縁」等の慣習に縛られないのです。”要約すれば、”勝手にせよ”であります。
    この様な血縁が不可能となれば到底に「国策遂行」や「祖先神の信望−神明社建立」さえも出来かねない立場に陥った事に成りますし、その経済的な裏打ちも当然に有り得ません。
    まして、”公に従事し”とありますので、特に指定していませんし、”出身の初め”と繋いでいますので、特に初めから指定せずに ”自らの勤勉な努力に因って切り開け そして官職を得よ”と成ります。
    「守護王」どころかその勤めさえも自らの努力次第で「国司」の「国守」も成り得ず、頑張ってもせいぜい「介」か「掾(じょう)」の官職しか与えられない事に成ります。
    下手をすれば官職も与えられないか、能くしても「目(さかん)」の官職しか獲得できない事の意味を含めています。

    (参考 清和源氏の始祖の経基王は努力の末に「介」に任じられた。昇官する為にかなり無理をして周囲と争いを起す)

    史実から、「清和源氏 宗家」の当主「摂津源氏の源頼光」が「国司代」が最高位で「知行領主」に過ぎなく成ります。「自領や本領」は到底に覚束ない事を意味しています。
    現実には例えば、「経基王」から発祥した「清和源氏」の場合、摂津と伊豆は本家筋の所領、河内が本家からの「分前部」(分封)として頼信に与えられた所領で、後の8つの地域は「本家頼光の知行地」であります。本家の努力次第で獲得しそれを本家の裁量で「分前部」(分封)としか与えられないのです。
    (「分前部」(分封)は源平の平安末期頃から盛んに成った。)
    現実に資料から、頼信は兄頼光から藤原道長の執り成しで河内と伊豆の一部を「分前部」(分封)として与える事を許されています。この両者の親の満仲(経基王の子)は、”これ等の扱い事を不満”として反発をして拗ねています。
    こう成れば、清和源氏2代目の「満仲」が採った戦略は、朝廷から大きな非難を受け最後には阻害されましたが、結局は「武」に頼り「荘園制」を利用し、それをベースに各地に乱立する「武装土豪集団」を「賜姓の朝臣源氏」の旗の下に終結させて組織を構築して、その組織を使って他の土地を奪取して生き延びる以外には無い事に成ります。

    (特記 組織化する為に源氏族に入る為の「名義貸し」をして引き付けた。その担保が「荘園制」から得られる税の利潤)

    その結果、「天皇や朝廷」や、はたまた「民と氏族」からの受ける評価の宿命は決っています。
    それは、「集結した武力集団」からは誉めそやされ、「奪い取られた土豪」たちからは「怨嗟の嵐」で、天皇や朝廷からは「国や地域」を乱した「氏族」となります。これは逃れ得ない負わねば成らない宿命です。

    (参考 通説と云うよりは世間説では清和源氏の分家河内源氏は「武士の鏡」で「武神」で「源氏の棟梁」とも言われているが、青木氏側とマニアから観れば、「賜姓族の朝臣族の逆臣」と観えるのです。
    現に源氏は11代もあるのです。源氏は皇族朝臣族であるので宗家方式で本来は上下関係はないのです。然し、分家方式を採用したのです。
    まして、清和源氏の分家河内源氏とされる位置に居たのです。清和源氏の宗家の本家とされるのは「宗家の四家」と呼ばれる頼光系の本当の清和源氏の棟梁が厳然と居たのです。
    この「河内源氏の棟梁の呼称」は「未勘氏族」が祭り上げた氏家制度の中では「搾取誇張の呼称」と成るのです。
    「賜姓5家5流青木氏」と同じような生き方をした「宗家頼光系」と。武装組織を利用して争奪戦を展開した「分家頼信系」との差で、目立った方に「上手く利用された棟梁の呼称」であります。
    「賜姓源氏」とすれば正式には第初代の「嵯峨源氏」が総宗本家と成る事に成りますので、本当の正規の棟梁である筈です。この「嵯峨源氏の末裔」は現存していてある財団運営で有名です。
    そもそも、「賜姓」の有無に関らず、「源氏は16代」で、「賜姓源氏では11代」で、「賜姓族」は「青木氏」ともで「16代」ある事の世間の知識は殆ど無いのが現状です。
    「青木氏の戒言」の”世に晒す事無かれ”はこの事からも来ている可能性があります。)

    11代の「賜姓源氏」が発祥しても、この「詔勅」から飛び出て勢力を確保したのは、主に「清和源氏」(河内源氏)しかなかったのです。納得出来る結果です。それだけに「嵯峨期の詔勅」は厳しかった事を物語ります。
    「軍事、政治」にはそれ程に厳しくは無かったにせよ「氏族」が生き延びるに絶対的に必要とする「経済力」が規制されていれば、河内源氏の様に、「経済力→軍事=武力」に向かうが必定です。
    只、反面、「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は「国情の安定」に混乱を招きますので「非難」を招く事も必定です。
    他の源氏の様に「適度の武力」と「低位の適度の政治力(荘園制と税)」で穏やかに生き延びるもこれまた「非難」は免れますが、「生き延びる」には不安を伴ないます。
    「11代の賜姓源氏」は、終局は「平族」との「武」の世界に”2軍の将相立たず”の喩えの通り、「河内源氏」に引きずられて滅亡しましたが、彼等にしても”2軍の将相立たずの喩え”を承知していた筈で、当初から「生き延びる」には「不安と疑問」を感じていた筈です。
    これに対比して、上記前段で論じた「3つの発祥源の象徴の立場」と「国策遂行」と「祖先神−神明社建立」等を背負わされた「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、如何に大変であって「嵯峨期の詔勅賜姓族」の比では無い事が判ります。
    「禁じ手の商い」に走って「皇族方の謗り」を受けるか、国情を乱して「武」に走って「民・氏族の非難」を受けるかは、この「2種の賜姓族」(敢えて余りに異なる賜姓である為に表現)の上記した置かれている厳しさの「立場の差」から必然的に決まっていたのです。
    最早、「2種の賜姓族」(大化改新期と嵯峨期詔勅の2賜姓族)には既定の逃れ得ない「完全な宿命」であったのです。

    この「典型的な生き様」を呈した例が「河内源氏」の「源頼信」の孫の「義家」であります。
    「義家の生涯の生き様」を「天皇や朝廷」からは「私闘」のレッテルを貼られてしまって、「武家集団や未勘氏族」等には”「武家の頭領」”(棟梁ではない)と持て囃されながらも、失意と喪失の内に没したのです。
    ”「武家の(棟梁)・頭領」”と持て囃されても、「総宗本家四家の清和源氏」が現存する本家を中心とする「氏家制度」の中では、分家義家に取っては実に空しい事であります。
    そして、まして、その「総宗本家四家の清和源氏」は「5家5流の賜姓族」の中に穏やかに生き続けていると成れば「義家の失意と喪失」は図り得ないもので同情の極みと成ります。
    これが「後世の武士」に同情を引き付けた所以謂れであります。

    (特記 義家の私闘)
    この様な事情を承知する当時の為政者から「義家の私闘」と何故決め付けられたのか疑問が浮かびます。
    そもそも「私闘」とは、「私闘」の言葉が発する限り、その逆の「公の闘い」(公闘)があるから、それを基準に評価されてその差の悪さを非難されるのが常道の筈です。
    天皇が何も感情的に成って「私闘」と世間に発表する事は「国の長」である限り先ずあり得ません。
    「天皇の裁断」には周囲には分厚い摂関家があって協議しているのですから、「私闘」とする以上は当然にこの「私闘」に比する「公闘」に成るものが当時の環境の中に厳然として存在した筈です。

    この「私闘」とした根拠は、そもそも上記の「河内源氏の義家」の ”「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は、「国情の安定」に混乱を招く事”ですから、これに対する「公闘」は、「2種の賜姓族」「2つの立場の差」にあった「2つの青木氏」が採った行動と云う事に成ります。
    身分家柄が違えば其れなりに「公闘」と扱えぬ事も起こります。そうではない同等の逆の「公闘」が存在したからこそ「公闘」が成立したのです。
    この「賜姓族の行動」に対して、全く反対の「5家5流の賜姓族」は荘園制に因って敗退し離散する土豪を経済的に救い組織化して仕事を与え、「賜姓族の国策遂行」に従事させて「シンジケート」として確立させて安定化させたのです。
    この様に全く正道な「真逆の行動」を採ったのですから、誰が見てもこれは「公闘」であり、それも「義家が犯した私闘の尻拭い」です。
    この「公闘」が厳然と存在すれば「為政者」は、「義家」に対してどんな同情的な理由があろうと、「私闘」と断じる以外に無く、そうでなければ、「政治的な矛盾」が生じさせ「為政者の立場」は無くなる筈です。
    天皇と朝廷はそんな単純なミスは犯さない筈です。
    そもそも「政治の語意」とは、その言葉の意の通り「正しい方に至らしめる」が源語です。
    如何なる理由があろうと「私闘」を容認すれば「政治」は「民の信頼」を失い成り立ちません。
    「義家の私闘」を「公闘」とする、又は不問とするかによって、上記した様に「嵯峨期の詔勅」時の「賜姓のリスクの談合」があって、それを「国策」として遂行した「2つの青木氏の行動」を逆に否定する事にも成り、「向後の政治の信頼」を失い兼ねません。
    「影の力」として働く「2つの賜姓青木氏」の「やる気」をも喪失させて「私闘」を容認させて仕舞います。
    「容認」の其処に見えるのは「私闘の阿修羅の世界」と義家の朝廷をも犯しかねない「勢力増長の世界」です。現に、「蘇我氏の例」に見える通りで、為政者はこの事を知らない訳はありません。
    同じ「賜姓族の立場」にいた者が「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を世間に知らしめてしまえば、何時か「私闘側」は死滅させられる筈です。
    この誰でもが判る条理を「河内源氏側」が何故理解しなかったのかであります。
    当然、知っていて「武装組織化」したのですから、”朝廷を牛耳る事も有り得る”と猜疑が働く事も又必然であります。
    朝廷の本音は各地に「散在する武装の土豪」の状態であった方が好ましい政治状況であり、これが組織化すればする程に朝廷の為政は武力を前面に押し出し云う事を聞かなく成りますので、政治には困難を極める事に成ります。
    ところが土豪が散在している方が各地で揉める事は起るかも知れないけれど、朝廷を脅かす程には無い事からリスクはあるにしても都合が良いのです。
    云う事が聞かなければ大儀の旗の下にこれを以って潰せば良いという事に成ります。為政はより安定します。
    しかし、「集団化や組織化」は一見整理するという点では理想的ですが、一度間違えばそのリスクが大きすぎるのです。
    それを統括する事はその「集団の長の資質」に関わるの事に左右されます。況して義家は「第4世族内の朝臣族」なのでから、朝廷に執って代わる事も有り得るのです。
    (大化期からの「2つの青木氏」はこの事は十分に承知していた事であり、然し、この方向に走らなかったのです。走ろうとすれば上記の条件を持ち得ているのですから、義家の段ではありません。
    「国策氏」として邁進する「賜姓族」であったからこそ「累代の天皇」と「朝廷」と「民と氏族」は青木氏を信頼し容認したのです。「義家の私闘」はこの経緯で断じられたのです。

    現に「他の源氏」と「摂津源氏」はこの間違いを犯さなかったのです。この様に「相対の位置」に居た「2つの青木氏」の「歴史的な経緯」から断じると見えないものも観えて来ます。
    前段で論じた様に、「源平の戦いや陸奥の私闘」は、「2つの源平の賜姓族」でありながら何れもよく似た「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を持った「生き様」を示した事により、「共に相倒れる」の「私闘の運命」を背負って仕舞ったのです。逃れきれない宿命とでも云う以外にはありません。
    更に云えば満仲−頼信−義家の持って生まれた「長としての資質」にあったと云えます。
    「青木氏家訓10訓」がこの事を物語っているのです。

    特記から話を戻します。では、「他の賜姓源氏」はこの詔勅を受けてどの様にしたかと云えば、上記した様に皇族朝臣族の「純血血縁」や「同族血縁」等の非一般的な厳しい慣習に縛られ、自然消滅するか、「5家5流賜姓族」に融合するか、低位の地方官吏族で小さく穏やかに生き延びるか、比叡山に逃げ出すかの「4つの選択」以外にはありません。
    結局は、この「4つの選択」の「生き様」で大化期賜姓族の「5家5流青木氏」「近江源氏」と、嵯峨期詔勅の賜姓族の「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「清和源氏」が何とか氏族として単独で生き残ったのであります。
    「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」は国司代の官職を経て発展し最後には氏族を換えて「5家5流賜姓族に融合」し現存し、各地に分散した「河内源氏」は頼朝後に事如く滅亡し、「宇多源氏」は伊勢青木氏と同じ古代朝臣族で賜姓族の「佐々木氏」に融合し現存し、「村上源氏」は伊勢の北畠氏に融合し織田信長に調略されて滅亡し、「嵯峨源氏」は「5家5流賜姓族」と同族血縁して遺し、宗家は「始祖の意思」の「嵯峨天皇の詔勅」を守り室町中期までは穏やかに生き延びる事が出来たのです。

    この「嵯峨期の詔勅」の一節等を見ても、同じ「第4世族内の朝臣族の賜姓族」であったとしても、「4史略」や「日本世記」等に書かれている「5家5流の賜姓族」との扱いは雲泥の差であります。

    当然に、「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の左衛門佐の指揮官」等は本来であればこの立場にあるのですが、現実には「摂津源氏」の「本家源頼光」 「分家源頼信の河内源氏」の「源義朝」等がやっと成り得たのです。然し、直ぐには任命がされなかったのです。
    「嵯峨天皇」は同じ「賜姓族」でも、最早、源氏の場合は抗争相手に妥協して「親政族」から外していますし、むしろ、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”とある様に「経済的な負担」を理由に臣下させる事が目的と成っています。
    ところが、此処で嵯峨天皇は「政治的矛盾」をこの時犯しているのです。
    この「嵯峨期の詔勅」では ”「経済的な負担」を理由”にしていながら、”「皇位継承者」が少なく成った事を理由に”皇子の王位を大化期前の第6世族に戻しているのです。
    大化期からの8人の天皇には余りに厳しい改革を実行した為に女系天皇が5人も譲位し、桓武天皇の直前の「光仁天皇」は第4世族内の皇位継承外の第6位皇子の施基皇子の嫡子であり「第5世族の朝臣族」で「真人族」ではなかったのでした。特例例外天皇であったのです。
    この事を憂いた「嵯峨天皇」は「天智天皇」の「大化期詔勅」の変更を余儀なくされ、元に戻す宣旨を発します。
    この事に依って王数を増やしました。王数を増やせば、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”事に成ります。”一方で増やし、他方で減らす”と云う手品師の様な「詔勅と宣旨」を発しているのです。
    これでは「朝臣族の詔勅の賜姓族」は、王数が増えて競争相手が増え、王数が増えて「経済的な封食」は低下し、「分封の可能性」は無くなります。

    事程左様に、この「詔勅」の扱いは厳しい為に「賜姓」を「朝臣族」は期待しなく成り、遂には、「朝臣族」から「宿禰族」に格下げして賜姓する様に成ったのです。
    結局、この賜姓は「清和源氏の頃」がピークで上記した人数の「朝臣族」は比叡山の僧侶に成る者が殆どと成ったのです。
    (上記する「悲哀の義家の生き様」から「5家5流賜姓族」に融合する事に漏れた殆どの「皇子」は「世捨て人」を選んだのです。)

    然し、第4世族外の「ひら族」と成った者の中で「宿禰」の身分家柄を獲得しました。
    その「宿禰族」に賜姓した特例として、朝臣族の「美努王」(敏達天皇5世の孫 第7世)の妻の「県犬養三千代」が和銅元年(708年)に「橘宿禰」の姓の賜姓を受けたのに始まりますが、天平8年(738年)にこの母方の姓を子供の「葛城王」と「佐為王」はこの橘氏を継承したのです。
    (「葛城王」は「橘諸兄」として左大臣に昇格)
    第4世族ではなく第7世族、本来王身分ではなく直系王孫ではない王、例外の女性の妻が賜姓を受け、「賜田」の既定外で、父系継承ではなく、論功のない者の賜姓で、「蔭位の制」に該当せず、「恩田の5制」を受けず、等の例外賜姓であったのです。
    これを契機に80年前後の「たいら族」の賜姓があり、「嵯峨期の詔勅」では、最早、形骸化して左大臣等を初めとする官職を獲得する等の昇格手段としての「身分確保の賜姓」に成って行ったのです。

    (特記 何とか「3人の天皇の初期の意思の賜姓」を維持したのは「8人の天皇」の最後の光仁天皇までであります。嵯峨天皇が元に戻そうとして厳しい詔勅を発するが、流れは変えられず逆に違う方に変質してしまったのです。 結局、賜姓のシステムや目的をきっぱりと換えて再び「特別賜姓族」として「青木氏」に戻し、「5家5流賜姓族」の「全ての資格、身分、官職」などの条件を与えた上で「5家5流賜姓族」を「補完する義務」を付与して、藤原秀郷一門に与えて完全に戻そうとしたのが「円融天皇」であったのです。
    そして「3つの発祥源」である「5家5流賜姓族」との「融合青木氏の発祥」に誘導して「国策氏」に戻したのです。尚且つ、衰退していた「5家5流賜姓族」を復興させたのです。
    これだけの事を変革して政治的に導くのは、朝廷の中では「形骸化の流れ」もありそれを留めて流れの方向を清正流に戻すのは「至難の業」であった筈です。「嵯峨天皇」と「円融天皇」は賜姓では功績を上げたのです。)

    「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」は「国策」などを遂行する「朝臣族」では到底無く成って仕舞っていたのです。
    そして、遂には「第6世族」までを王位として戻したものが、「第7世族」も王位を勝手に名乗る等の形骸化が起り始めていたのです。

    (特記 この時期の王位には2つあって、嵯峨期の宣旨の正式な王位と、”宿禰族の末裔だ”と誇示して王を勝手に呼称している者が増え始め、全体に「賜姓」そのものが形骸化し変質したのです。この「橘氏」は上記の経緯(身分確保)で急に伸し上った事も、後に「嵯峨期の賜姓族」もあった事もあり、結局、血縁も拡がらず、勢力抗争の末に後に藤原氏北家に潰されます。丸なしの「橘紋」 丸付き紋は未勘氏族)

    (注意 以上の此処までの事は、前段でも充分に論じましたが、改めてより詳細に嵯峨期以降の「賜姓族の違い」を浮き彫りにさせる為に重複して論じました。)

    つまり、この様に、「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、「嵯峨期以降の朝臣族の賜姓族」とが如何に違うかが判りますが、この事を考えると、「賜姓族への融合血縁」の意味が、単純に ”融合血縁した”と云うよりは ”重要な「国策」であった” 事が検証を進めると判って来ます。
    前段で論じた様に、此処にその根拠があり、真にこれが「融合氏青木氏」なのです。
    そして、これが上記の「注意5」の「違いの差」の原因に成っていたのです。

    平安期の初期までは、「天智天皇」の上記の「5つの国府」に配置した「守護王」を始祖として、これを始めとして、この「5つの国府地」外の守護王(6王)も「融合血縁」を行います。

    (特記 1国に2人か3人の守護王を「半国司」として置いた。)

    更には、「天武、文武、聖武、光仁の5天皇」等が「第6位皇子」をこの守護王の跡目に入れています。
    その後、平安期の嵯峨期からの「賜姓源氏11代」からもこの守護王の「5家5流の賜姓族」に跡目を入れました。特にその中でも、「清和源氏」の「摂津源氏の宗家四家」が徹底した「融合血縁」を「5つの守護地」の「賜姓族」に行ったのです。

    ところが、この「源氏11代」をよく調べてみると、この「源氏11代」には、何と「賜姓源氏」と「無賜姓源氏」とがあるのです。
    実は、この「無賜姓源氏」の場合の多くは「横滑りに跡目」だけに限らず、この上記の「5家5流の婿養子や貰養子」になる事が多かったのです。
    この傾向は系譜添書を良く観ると判ります。
    つまり、当時の賜姓族の慣習では、この「婿養子や貰養子」は生まれた「本系の系譜」には出てこず、「養子先の系譜」に子孫として出てくるのです。これは平安期の「皇族朝臣族の血縁慣習」から来ているのです。
    「賜姓族」に入った「跡目養子」ではなく、「貰養子」や「婿養子」の場合は、「本系の系譜」から消えて「養子先の系譜」に残こす慣習があったのです。
    この慣習の意味する処は、「賜姓族」が第4世族内の朝臣族の中でも上位である事を意味します。
    「上位の朝臣族の賜姓族」である以上「下位の朝臣族」の系譜に存在させる事は「上位の朝臣族賜姓族」の方には立場が立ちません。
    つまり、「下位から上位」と「上位から下位」とでは「系譜の扱い」が異なるのです。
    特にこれは「同族血縁」を主体とし、尚且つ、「純血性」を保持する皇族の慣習の中では、他の「朝臣族」の子孫は殆ど他人ではなく「身内の子供」同然でもある事を意味しているのです。”「身内の子供同然」”が慣習の基本的な普通の考え方に成っていたのです。

    (参考 この慣習は室町時代の上級武士の間でも採用されていたのです)

    従って、系譜を上位に移す事の抵抗はないのです。故に、「同族純血慣習の朝臣族間」で付ける差は
    「賜姓族と云う上位の立場」が先ずあるのです。その上で次ぎの事が重ねて存在するのです。

    「皇族賜姓族16流16家」の中でも「5家5流の賜姓族」は「国策氏」である事
    「国策遂行の役目と責務」を持つ「3つの発祥源」の「賜姓族」である事、
    「奈良期からの真人族の融合血縁」も組み込まれている訳である事

    上記の「賜姓族上位」と云う立場と共に、以上の「3つの差」から「系譜上の扱い」を変えている慣習があったのです。

    (参考 この慣習は少なくとも皇族外を含む全朝臣族から伊勢と信濃の青木氏の記録資料から読み取れる範囲として江戸中期頃までは少なくとも存在していた模様で、口伝に依れば明治末期頃までその族環境の範囲では存在していたと観られます。特に目立つのは菩提寺等での扱いも異なっていた。)

    逆に云えば、「系譜や添書の内容の変化」は「5家5流の賜姓族」の上記の事柄が引き出されるのです。前段で論じた様に、例えば「伊勢青木氏」の「源頼政の孫の京綱」が系譜上に入るのはこの慣習から来ているのです。
    (清和源氏宗家の四家の本家の源の頼政系譜には出て来ません。然し、頼政の子供仲綱の子供としては出来ます。)
    従って、「蔭位の制(有品の制)」に基づき「無又は有位の資格」のこの「朝臣族の2つの養子」の場合には、原則として実家先系譜上から消えている事が多いのです。
    その様な「朝臣族の2つの養子」の場合は系譜を養子先に移す仕来り慣習であったのです。
    ところが「賜姓源氏」の場合は「跡目養子」を主体としていたので系譜から消える事はありません。
    「単なる養子」か「跡目養子」かの決定は、「氏の継承の有無」に関っています。
    「単なる養子」の場合は、特にこの奈良期から平安期の養子は主に「成人」に成る前の「幼児」の頃からの場合が多くあり、然し、必ずしもこの「養子」が「嫡子」に成ると云う前提ではありませんでした。
    それは前段で論じた様に、「4段階の夫人制度」の中でのその順位に沿って「同族血縁の仕来り」で純血を保つ為に「養子縁組」が行われたのです。
    上位の夫人から嗣子に成る子供が生まれなかった場合に備えての「同族の養子縁組」が行われる事が主流であったのです。
    上位の本流から正常な男子(嫡子・嗣子)が生まれると養子の身で終わる場合が多かったのです。
    但し、それは「単なる養子」の場合には主に上記の純血を護る為の「同族血縁の弊害対策」でもあったのです。この「単なる養子」も親族関係からの養子ですが、同族血縁による「弊害子」(亜子)で無い事が幼児の頃から判別が出来る訳ですから、子供の多い親族から引き取る事に成るのです。
    この「同族血縁の弊害対策」は「朝臣族」の氏全体で頻繁に相互に行われた慣習なのです。
    そうでなかった場合には、「真人族や朝臣族」の嗣子は「比叡山」や「門跡院」や「菩提寺」の「僧侶」や神明社系5社の「神職」として預けて身を立てられる様にする慣習がありました。
    娘の場合の多くは「同族血縁」として嫁入りするのが普通で、中には「神明系5社」の斎王として生きる慣習も存在しました。
    「跡目養子」は明らかに本人のこの「弊害の有無の確認」が出来ての「跡目」である事から両方の系譜に載る事に成るのです。
    「跡目養子」は当然に「当主」に成る事を前提ですが「跡目養子」の形で一旦入り、一定期間後に「正式跡目」と成ると云う事もあったのです。
    従って、「養子」には「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」の慣習が「賜姓朝臣族」には敷かれていたのです。
    「跡目養子」の場合は、娘が居る場合と外から嫁を取る場合の2つの方法がありますが、主流は「娘の婿養子」の形が多かったのです。娘の無い場合は「跡目養子」の「嫁取り」には原則として「4段階の夫人制度」により他氏の血を入れる為に「嬪」(みめ)として族外から取る事が多かったのですが、上位の二階級(夫人や妃)は縁者(3親等外遠縁)から娘を「養女」に迎えて「跡目養子」を取る事も起こったのです。
    この時は、「縁者の養女」は「純血性」をあくまでも主体としていた為に「第3親等」から「第4世族」までの娘を迎えた事に成っています。
    「純血性の高い血縁」としては「第3親等」(従兄妹同士の血縁)であって、この平安期までは「従兄妹血縁」は慣習範囲の常識で問題は無かったのです。
    (現在に於いても法的には認められているが弊害も確立的に起る事が解っている)
    この場合は「跡目養子」や「婿養子」と云っても平安期までの「賜姓朝臣族」の中では「同族血縁」が主流で、殆どであるので必ずしも「跡目」とか「婿」「貰子」とか云う概念は低く当り前の「氏存続の慣習行為」であったのです。
    「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」に依って先ず多くの「嗣子」を作り出し、その中から「氏」の「家」を継ぐ「嫡子」を決める慣習であったのです。
    「より優秀な嗣子と嫡子」を選択し、且つ、「純血性の弊害除去」から考え出された「朝臣族の賜姓族」の慣習であったのです。当然に、この慣習の強さは「宗家、本家、分家、分流、分派」の枝葉順位によって異なっていたのです。

    (特記 分家、分流、分派の慣習の本格化は、源平が実権を握った頃に勢力を広げた地域を守る為に嫡子外を「分封」して地方に移して護らせた事から「分家等」が盛んに作られた。又、「荘園制での名義貸し」で荘園に配置された事から、「分封」と「分家」と「地名から採る苗字(名字)」の慣習は、同じ時期の慣習で始まった。「大日本史」に例 )

    ですから、「4階級の夫人制度」の直系孫であったとしても、元々「親」自体が「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」かである事が多く、必ずしも「嫡子」に成れると云う事ではなかったのです。
    この「4つの継承システム」は「純血性の高い同族の者」である事から”母が異なる子供”程度の感覚で、要するに、”兄弟感覚 ”の中にあったのです。
    ただ、異なる事は其処には順位による「身分の差」だけであったのです。
    「縁者の養女」と「縁者の嫁取り」と「縁者への嫁入り」の「3つの縁者血縁制度」に於いても同じ目的で行われ、「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」の「4つの継承システム」と合せて「強い純血性を保持」し、「より優秀な嗣子と嫡子」を作り出して「より強力な賜姓族」を構築し強化していたのです。

    そもそも「跡目養子」や「婿養子」の「養子」の場合は、前段で論じた様に平安期の48氏程度から鎌倉期の200氏程度に「氏」が一度に増加した時期からの「社会概念」であって、それは鎌倉期末期からの「概念の進化」であったのです。この2つの「養子の慣習」は「氏」を増加させ、下克上と戦乱で伸し上った「高級武士」が「武家」の呼称を獲得し始めてからの「武士の慣習」へと変化して行ったのです。

    (特記 上記の「荘園制」と「勢力拡大」により「氏家制度」の中で発展した「分家制」で子孫が各地に移動して所領を護ろうとして移動し新たに氏族を造った結果で増加した。後に室町期には「下克上と戦乱」での「勃興氏」と「職能集団の姓氏」の発祥でも「氏族」と「姓族」は増加した。)

    当然の様にこの「養子の慣習」が武家社会の中に定着して行ったのは室町期末期からで最終は江戸期初期の事であったのです。これも前段で論じた様に「氏の拡大」と「武家の社会の確立」からの「社会慣習の変化で」あったのです。
    この時には既に「朝臣族」と「賜姓族」と「公家に対する武家」の「慣習概念」は皇族の特定の一部の社会環境の中にのみ無く成っていたのです。
    一部「伊勢」と「信濃」の賜姓族に対する幕府の認識の中にしか存在しない社会と成っていたのです。
    一般庶民の中では「伊勢」と「信濃」の特定地域の中に、「氏上様、御師、総師」として親しみを込めた尊敬の呼称として慣習に成っていたのです。
    それまでは「純血性」を優先する「朝臣族の賜姓族」の慣習の中では「跡目融合」と云う血縁形態ではあったのです。
    この様に、その「氏の跡目」は分家、分流、分派、支流、母方縁者から取るので、「同族血縁」の為に殆ど息子、嫡子、嗣子は同然の扱いの概念に近い状況にあって、今の現在の概念とは異なるものであったのです。
    「養子」にしてもこの上記の範囲から幼児や子供の頃から迎えて育てると云う嫡子同然のものであり、結局は養子に成るか成らないかはその母の順位に大きく左右される事に依って決っていたのです。
    当然に養子先に於いても朝臣族である限りは、「4段階の身分夫人制度」が存在して其処の家にも子供が生まれ同じ嗣子の現象が起こっている訳ですから、「養子」が直ぐに「嫡子」と云う事には成らないのです。

    そもそも、男系の嫡子が嫡男、又は長男とした慣習は江戸初期からで、それまでは、武家の中でも朝臣族の氏では嗣子の中からより優れた者を嫡子にすると云う慣習が強く存在したのです。
    それは「家」と云う小単位の範囲ではなく「氏」と云うより大きい単位の中での範囲の概念の慣習であって、従って、「氏」をより強固なものにする為に相互に氏内の家の嫡子を「跡目養子」や「婿養子」や「貰養子」等の方法で配置して固めようとした慣習であったのです。
    当然に「朝臣族」は他の氏と異なり「純血性」を保つ為に長い「同族血縁の慣習」を引き継いで来た為にもその欠点も補え、且つ欠点を避ける手段として当り前の事であったのです。
    ここが他氏から観ると、「奇異な慣習」であったと観られていた筈です。
    この「2つの目的」(「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点退避行為」)の為に生活はこの一点に左右されていたのです。
    これが「八色の姓制度」に裏打ちされた「氏家制度」の慣習の代表的な営みであったのです。
    取分け「3つの発祥源」の立場に置かれていた「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)に取っては、この「純血性同族血縁」の血縁は最大の目的であったのです。
    そうしなければ一門を率いて「神明社の建立維持管理」などの「重要な国策の責務」を果す事等は不可能であった筈です。

    特記 
    筆者は、その意味で「青木家 家訓10訓」がこれを遂行するマニアルとして存在していた、と考えているのです。それは「5家5流賜姓族」は「純血による融合血縁の慣習制度」を持ち、その為に何れの一族も同じ立場に存在しなければ格式が生まれ「融合血縁」が終局成立たなくなります。
    因って、一族同じ格式を持つ「宗家制度」を敷いていたので、「行動規範」を持ち統一させる必要があったのです。
    そこで「行動規範」と成る「家訓」と「口伝」を含む「戒言」と上記する「独特の慣習」を持っていたのです。
    中でも特記すべき事は、「特別賜姓族青木氏」は、秀郷一門の中では「分家方式」を採っていて「第2の宗家」と呼称されていたが、その「第2の宗家」の中では116氏に及ぶ中で「主要8氏」と呼ばれる「青木氏」は「5家5流賜姓族」と同じ「宗家方式」を採用していた事が添書等の文脈から判るのです。
    何故ならば、一族の慣習等の特長を良く示す事として次ぎの様な事がその何よりもの証拠として挙げられます。

    ・秀郷一門「主要5氏」を361氏の中で「青木氏族」として特別に呼称されていた事
    ・「家紋」に付いては「綜紋を主紋としてた副紋方式」を採用している事
    ・「秀郷一門の361氏」も「本家−分家方式」に「宗家」を設けている事
    ・「5家5流賜姓族」との「親族関係、国策氏の関係」から、両家の接点部分は「宗家方式」を採用していなければ連携は不可能と成る事
    ・「特別賜姓族」の「宗家役(リーダ役)」と成ったのが、「5家5流賜姓族」の「宗家役伊勢青木氏」の連携の為にも「特別賜姓族伊勢青木氏」であったと云う事

    以上の事が証拠に成るのです。そして、現在確認はとれませんが、この事から、この「2つの青木氏」のこの「行動規範」は同じであったと考えられるのです。
    従って、「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)を論じる場合は、この事(共通する行動規範の存在 慣習・家訓・口伝・戒言)が避けて通れない論点であって、この「慣習事」を前提に本論を論じる事に成ります。

    特記 
    本論の「皇族賜姓の青木氏」として論じている時は、特に960年以降では、「特別賜姓族青木氏」も合せて論じている事をご配慮下さい。それは論じる論処の遺されている慣習に関する資料が「皇族賜姓族の資料」を多く基盤として用いている為です。これは上記した様に一切の「家柄、身分、官位、官職等が全く同じ扱いと成っていた事に因ります。それは「融合青木氏」の発祥期からは全く同じと成っていたのです。
    論じる点で判りやすくする為に、「2つの青木氏」や「皇族賜姓族・特別賜姓族」や「5家5流賜姓族」等の語句を使って敢えて分離して詳細にして判り易く論じています。
    尚、前段で論じた「2つの絆青木氏」は、他氏とは異なりその「絆」は1000年という「悠久の歴史」を持ち強力なものであって、「2つの青木氏の基盤力」と成っていた事から本論を読む時には常に脳裏に納めておいて頂きたいのです。他に例を見ない「1000年の悠久の歴史」を持つ「2つの絆青木氏」は最早、「2つの青木氏」と「一心同体」なのです。況や、他の歴史上に上る大豪族のどの氏よりも2倍以上の歴史を持つ「2つの絆青木氏」以上の氏はそもそも存在しないのです。
    本論の「青木氏の守護神(神明社)」の「社寺の建立維持管理」の実務はこの「2つの絆青木氏」の為す処と云っても過言ではないのです。
    そして、その配下に居て延々と悠久の中でその職能を親子や徒弟制度で引き継いだ「2つの青木氏の部の職能集団」の「明治苗字令に基づく青木氏」は、前段で多少論じましたが、本論では資料が少なく詳細に論じる事は出来ないが、忘れては決していけない事なのです。他氏の家臣や職能群とはその生きている長の持つ特別の「生活環境」と上記する「慣習」が異なっていたので、それに合せて生きねば成らない宿命があり、その「上下の絆」は全く別な強いものであったのです。
    そもそも、「長の一族」が「賜姓族の慣習」から上下関係に無「く宗家方式」で合ったのですから、当然に「青木氏の家臣団や職能集団」もそれに習い「身分・上」の関係」と云うよりは前段で論じた様に「徒弟制度の関係」であったのです。
    恐らくは、「退避地」、「486社の神明系社」、「伊勢−信濃シンジケート」(抑止力)等の前段で論じた「組織形態」をも持ち「国策遂行」と成る事を考え合せると、「武力」を前提とする厳しい「本命虚脱の上下関係」では無く、「宗家方式」と「絆」を基盤とする「徒弟制度」で無くては維持出来なかったと考えられます。
    その前提は「1000年の悠久の歴史」を保持していた事にあったと考えられます。
    況して、「殖産」を基盤とする「商い」の「2足の草鞋策」を「経済基盤力」とする限りは「宗家方式」と「徒弟制度」でなければ論理的に見ても成り立ちません。
    その上で、後発の「職能集団の明治期の青木氏」は、「2つの絆青木氏」と同じく他氏とは比較にならない程に固有の歴史を持つ「青木氏固有の慣習の中での姓氏」であって、ただ「姓」を持ったのが明治期と云う事だけなのであります。本論に於いては複雑すぎて総合的に論じる事が出来ない為に、この前提で血縁慣習等の論処をご理解ください。

    (特記 「共通の行動規範」の「慣習内容」を取り纏めた書が伊勢青木氏に有った様で松阪大化焼失、「家訓」は復元して遺されている。「口伝・戒言」は一部生活慣習の中に遺されている。「賜姓族慣習」は本論の論ずる処で復元を本論としている。中でも「宗教的慣習」と「生活慣習」に付いて復元し纏められているので、家訓の投稿が完了した時点では何時か投稿用として整理し投稿したいと考えています。)

    そうすると、上記の「主要な初期の19守護地」と「遷宮地」の「2つの表」から次ぎのある事が読み取れるのです。
    当然に、そうなれば、「朝臣族間の慣習」のみならず、「真人族間の慣習」もあった筈です。
    「真人族」と「朝臣族」はその皇子の順位が4位と6位の差のみであり、「賜姓族」に成ったか成らなかったの差でしかないのですから、上記する「同族の血縁慣習」だけではなくかなり積極的な「融合血縁」も当然にあった筈なのです。
    何故ならば「真人族」は「子孫存続」に対しては ”「自らの力が卑弱」であった”のですから、その人間の本能として何らかの存続策が考えられ慣習事としてあった筈です。
    当然に、「卑弱」とすれば必然的に強くなった「朝臣族の賜姓族」にその「融合血縁」の矛先を向ける筈です。その方法としては「真似る」か「融合するか」に掛かります。
    「真似る事」はその「生き様の前提」が相当であれば可能です。しかし「卑弱」であるのですから、融合以外には論理的にも有り得ません。
    例えば、枝葉を広げる「通常血縁」をしょうとしても「皇族の慣習」(純血血縁と同族血縁)に縛られ、更に、最上位の身分とも成れば下位に「枝葉の跡目血縁」をする事は不可能であります。
    それは「自らの氏の終焉」を意味します。
    そうなると、残されるは「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)であり、「真人族」から観れば、「朝臣族の賜姓族」では下位であったとしても、元より「純血融合」を繰り返してきた「5家5流賜姓族」で、その「身分、家柄、官位」等は天皇に継ぐ2段階上の永代位を持っているのです。
    (伊勢と近江の賜姓族は淨大1位 真人族の皇太子は淨広2位)
    累代の「単体の未融合の真人族」からすれば、既に「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」なのですから、この「5家5流賜姓族」は実質は上位に見えているのです。
    況してや、「8人の天皇の初期の意思」を実行する「国策氏」であり、「民と氏族に賛同・容認された氏」であり、全ての「臣下族の象徴」の「3つの発祥源」でもあるのです。
    その力は「武」に頼らない生臭味の無い「賜姓氏族」であり、第1期の「皇親政治」を司る程の「影の力」を持った「氏族」の「賜姓青木氏」なのです。
    累代の「真人族」は躊躇無く「融合血縁」に臨む筈です。生き延びる為にはこの「融合血縁」しかなかった事が云えます。
    平安期に入り「5家5流賜姓族」には衰退期があったとしても、「融合血縁の真人族」にとっては「天皇家」が続く限りは厳然として存在して行くのですから、「真人族」の生き延び先は変わらないのです。
    それは間違い無く「5家5流賜姓族」なのです。

    (参考 その上記した「家筋の伝統」は伊勢青木氏菩提寺にも現在でも伝わっていて認知されている事。大正14年まで紀州徳川家でも認知されていた記録が遺されている。)

    前記した「嵯峨期の詔勅」から観ても、この「融合先の5家5流賜姓族」の扱いに付いては「宣旨」は別として触れていないのです。
    それだけでは無くて、全ての向後を含めた「真人族」と「朝臣族」の「下俗」「還俗」に使用する「青木氏」の「氏名」として他に永代に使用を禁じたのです。(明治3年直前まで原則守られた)
    この意味する処は、先ずは現存する「5家5流賜姓族」を容認し、その上で過去の「融合慣習」を認めている事に成ります。
    つまり、暗に「全真人族と全朝臣族」に対して「嵯峨期詔勅の賜姓」や「比叡山入山 僧化」以外にも「5家5流賜姓族」への「積極的な融合」を「副軸強化策」として促しているのです。

    「嵯峨天皇」は、「桓武天皇」と抗争する程に、「嵯峨期詔勅の賜姓」と「5家5流賜姓族への融合」の「二本立て策」を実行したのです。
    これには、「嵯峨天皇」が詔勅で「5家5流賜姓族の存在」を否定しなかった事は、永代の「不入不倫の権」の容認と、前段で論じた「退避保護地の容認」と、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神の子神の祖先神」の「容認と継続」を宣言した事にも成ります。
    何はともあれ「5家5流の賜姓地」から全く追い出してはいないのです。
    「詔勅の文脈」から判断すれば、賜姓臣下させる前に先ずは「5家5流賜姓族」を廃絶するか何らかの手を打つのが「政治の策」で常道です。

    (特記 嵯峨天皇にとっては「祖父の家筋」であり、目の前に厳然として存在しているのです。それを源氏としてしまうのですから、意識しない方がおかしいのです。「嵯峨期の賜姓族」には「大化期の賜姓族」との間には「嵯峨期詔勅」の賜姓には大きな違いがあったからこそ、慣例慣習に倣って「賜姓青木氏」とはせず「に賜姓源氏」とした事を意味します。別であるからこそ「賜姓青木氏」を詔勅に触れずに暗黙で存続させたのです。それでなくては「特別賜姓族青木氏の出現」は無かった筈です。「特別賜姓族青木」の出現」が何よりの証拠なのです。)

    況して「宣旨」ではなく「詔勅」なのです。「命令書」ではなく「宣言書」なのです。
    これは明らかに暗にして「容認の宣言」の何ものでも有りません。
    「桓武天皇の律令政治」には「皇親政治の5家5流の賜姓族」は邪魔であった為に「政治の場」から排除したのですが、この時、「嵯峨天皇」も一応はこの排除は認めます。
    然し、これは「皇親政治のイメージの強い賜姓族」が政治に関わる事に依って「律令政治」を容認している姿勢に疑いを起こされる事を懸念しての事であって、しかしながらも、その「嵯峨天皇」は「律令政治」をベースとする「第2期皇親政治」を実行した張本人の天皇でもあるのです。
    ただ、かと云って、「5家5流の賜姓族」を敢えてこの「第2期皇親政治」に引き込まなかったのです。

    それは上記の「律令政治の継承」の件があった事と、「5家5流の賜姓族」を「政治の場」から外して「真人族」と「朝臣族」の「存続の融合先」に定めて「政治抗争」から外して温存し、上記した「8人の天皇の初期の意思」の「副軸としての立場」をより負担無く安全に構築させる狙いがあったのです。

    然し、その後の経緯が「嵯峨天皇の思惑」の通りには進まず、「嵯峨期の詔勅」の「11代の別種の賜姓族の出現と政治抗争」と「5家5流賜姓族の衰退」とでなかなか元の状態に復興させる事が出来ず、神明系社建立などの「国策遂行」に支障をきたし始めたのです。

    そして、結局はその流れを変えたのが前段と上記で論じた「特別賜姓族の補間策」であったのです。
    この「5つの衰退期間」を通じて生き残った「3家3流賜姓族」は、この間に「禁じ手の商いの基盤」を確実に手に入れて、「特別賜姓族の補完策」で息を再び吹き返して来るのです。
    「3家3流賜姓族」が「政治の場」に無かった事が、より比較的には「禁じ手の商い」は厳しい中でも、「民の容認と賛同」を獲得出来たのです。
    そして、「11代の賜姓源氏」、取分け、「清和源氏」の荘園制をベースとした勢力拡大に因って、潰され敗退した土豪の武力集団を「3家3流賜姓族」の「商いに基づく経済力」でこれを吸収して組織化して救済したのです。

    最も、重要な事として、「嵯峨期の詔勅」の賜姓族の源氏(清和源氏)が構築した「武力集団」に対して、その一方では「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)が存在して行ったのです。
    これは真に「影」の実質の「国策氏」であります。

    「嵯峨天皇」は、「詔勅」と「宣旨」を発する時にこの事も予想して、「5家5流賜姓族の温存」の為に暗に容認する態度を採ったのです。

    厳しい「嵯峨期詔勅」の「賜姓臣下策」を実行すれば、何時か ”溺れる者は藁をも掴む”の喩えの通り、「人間の窮地の本性」の上記の「屯」が起こります。
    優秀で聡明な「嵯峨天皇」でなくてもこれは誰でもが判る事です。当然に、「宣旨」ではなく「詔勅」と成れば「民の長」である限りはこの為の「秘策」を講じて置かねば成りません。

    (+)の「屯」は最大の「清和源氏」 「満仲が構築した武力集団」 
    (−)の「屯」は「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)
    ∴ (+)+(−)=0

    元より「5家5流賜姓族の発祥源」は、「3つの発祥源の象徴」としての「国策遂行の氏」であり、「天皇を護る親衛隊」でもあります。
    そうすると、(+)が発展して他に拡大する事は有り得て、国、又は天皇家を脅かす事にも成り得ます。
    ”東漢の軍を背景とした蘇我氏の例”に観ずとも、「民の長」である限りは、火の粉は小さい時に潰して置くが常道で「常套手段」であります。
    況して、「大化期の反省」であります。
    当然、そうなれば、これは元より「国策氏」としての「5家5流賜姓族の務め」でもあります。

    然し、”「武」には「武」を以って制する” は「5家5流賜姓族」には法度であります。
    とすれば、(+)*(+)=0の数式論は、「5家5流賜姓族の滅亡」を意味しますから、これよりは(+)+(−)=0の数式論の選択に迫られる筈です。
    政治の「常套手段」としては、「「屯」と「屯」との戦い」に依って起こる「屯」が飛散しさせた「火の粉」を「一定の条件」で集め直す事が必要に成ります。その「一定の条件」を整えた上での「常套手段」と成ります。
    それが、「商い」+「抑止力」=「影の力」の数式論にする事に成ります。
    この様にすれば、「屯」の「火の粉」は散りません。

    真に「空白期間の商い」に向かった目的は此処にあったのです。
    だから、「禁じ手の商い」の「皇族の容認」と「民と氏族の容認と賛同」は、この数式論の背景を社会は充分に理解していたと考えているのです。
    ”何を論じたいのか”と云うと、「嵯峨天皇」は「嵯峨期の詔勅」を発する時、この「祖父の実家」の「伊勢青木氏」を通じて、事前に ”「5家5流賜姓族との談合」を行ったのではないか”と観ているのです。
    そもそも、副軸の宗家の「祖父の実家」に対して何もしないで「詔勅や宣旨」を発する事は、「光仁天皇」や「施基皇子を」無視する事に成る訳ですし、余計に事を荒立てる事に成りますし、収拾が付かない事にもなって仕舞います。
    そもそも、「嵯峨天皇」は「大化期の国策氏の賜姓族」を容認しているのです。その容認している「親族の賜姓族」に対して黙っている事は普通はないと考えられます。
    「国策氏」として懸命に働いている「大化期の賜姓族」(5家5流賜姓族)に黙って無視する事は賢明なで聡明な「嵯峨天皇」がする事は先ず無い筈です。
    もっと云えば、「桓武天皇との抗争」の時に、「5家5流賜姓族」が衰退に追い込まれて行く事を踏まえて、既に、談合が成されていて、抗争に勝利した時に「打つべき手段」(常道の常套手段)を話し合っていたと考えているのです。(中大兄皇子が蘇我氏打倒の談合寺の密談にある様に)
    その ”「談合の内容」が「上記の数式論」であった。”と論じています。

    談合策は、「一石五鳥の秘策」であったのです。それをその後の「賜姓の変質」で事態を憂慮した「円融天皇」がこれを読み取りこの秘策を蘇生させたのです。
    この「一石五鳥の秘策」の中に「皇族存続の秘策」の「真人族と朝臣族の融合血縁策」が存在していたのです。要するに、「嵯峨期の詔勅」に因って引き起こされるマイナスのリスクの解決策の一つが「影の武力抑止団」(シンジケート)でもあり、もう一つは、詔勅に依ってはみ出されて弱体化するリスクの「真人族と朝臣族の融合血縁策」を「一石五鳥の秘策」の中に組み込んだと云う事なのです。

    「5家5流賜姓族」は影に居たのではなく「皇親政治の場の一氏」として目立つところに存在したのです。
    平安期前は小さく「影」に居たのではないのです。小さく「影」に居たとするなら無視も有り得る事ですが、むしろ、上記した様に副軸として段突に目立っていたのです。それも皇族の社会と民と氏族の社会の中に「和の氏」として目立った存在であったのです
    そもそも「桓武天皇」の父は「伊勢の賜姓の始祖施基皇子の嫡子」なのです。「嵯峨天皇」には祖父の家なのです。要するに父方ルーツなのです。
    これでは ”影で居て無視”はあり得ません。「嵯峨期の詔勅と宣旨」で触れなかった事は、真に真逆の賜姓制度を施行するにしても、秘策の為に敢えてその存在を「公に容認する事」では無く、「暗に黙認する事」にした事を意味するのです。
    そして、それを強く印象付ける為に「青木氏」を皇族者が下俗する時に使う「氏名」として他に使用をわざわざ禁じたのです。
    詔勅にて、”新たに源氏として賜姓するけれども” ”国策氏の賜姓族青木氏が既に存在しているのだよ” と「5家5流賜姓青木氏」が「民と氏族の賛同と容認」を得ている事を念頭に、「民と氏族」に向けてきっぱりと宣言したのです。

    (特記 桓武天皇の「母方たいら族の賜姓」と「大化期の賜姓族の排斥」に対する「民の氏族の懸念払拭」に向けて宣言したのです。)

    「3つの発祥源」「皇祖神子神の祖先神−神明社」等の「国策氏」を無視否定は、朝廷の国策を否定する事にも成るのです。桓武天皇の「行き過ぎ」を修正したのです。
    その為の「政治抗争」でもあったのですから、「嵯峨天皇」の主張を取り入れ自ら「神明社の20社」を建立したのです。

    (特記 実家先の務めとして、その嫡子として建立したのか、国の務めとして、その天皇として建立したのかは何れも確認出来ない。恐らくは両説併用説であろうと思いますが、筆者は希望的観測を入れて「実家先・嫡子の説」を採っている。)

    「真人族と朝臣族の融合血縁策」はこの様な経緯の中での策であったのです。
    これを更に詳しく論じると次ぎの様に進んだのです。

    「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」に付いては、次ぎの様な事に因って起っているのです。
    それがこの場合、大化期の当初から上記の表の「国府」外の「14の守護王」からも跡目を入れる態勢を構築していたのです。
    この事の表れの一つとして上記の「信濃 甲斐」と「飛鳥 吉備」との「国策の変更」が起ったと観ているのです。
    その「真人族の血縁融合」と上記の「国策変更」とに付いて検証して観る事で判ります。
    その結論から先に応えるとすると、”「5家5流皇族賜姓地」の・印外の「6守護王」からも「跡目」を入れていた。”と云う事なのです。

    つまり、先ず、上記の表を良く観ると、「5家5流皇族賜姓地」の「近江」と「信濃」と「美濃」には国府外に「複数の守護王」が存在しているのです。
    (1つの国に複数の守護王配置 主は政庁のある国府に定住する)
    この「国府外の6守護王」の務めには、「守護範囲」を細かく分けて「統治性を高める目的」もあったのですが、「国府の守護王の異変」に臨機に対応する目的もあったのです。
    何故、この様に一地域に「複数の守護王」を置いたのかと云う事ですが、これがポイントなのです。
    ただ、複数にしたと云う事では無いのです。これには、この「2つの目的」、即ち、「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点回避行為」が先ずあったのです。
    この為にこの「2つの目的」を維持する為の態勢を維持する上で、「養子、跡目」を盛んに行って「融合血縁」を図ったのです。
    ”互いの「氏家」を「同族血縁」で維持する”と云う事でだけでは無く、”より強力な氏を維持している賜姓族に融合して行く”と云う体制を採用したのです。

    上記で論じた様に、「朝臣族」は元より「真人族」もこの「3つの国府外の守護王」にとっても同じくその様にしなければ生き延びて行く事は、「賜姓族」の様に「独自力」を保持していない以上は困難であったのです。
    むしろ、この行為は、単なる「血縁」と云う行為ではなく、”氏家ごと溶け込んで行く”と云う言葉が匹敵する「融合の形態」を採ったのです。又、採らねば成らない環境に生まれてから陥至っているのです。
    それ程に、「真人族、朝臣族」の「氏家」として「政治的、経済的、軍事的な力」が不足していて、生き延びて行く事には難しい事を痛感していたのです。
    「真人族」や「朝臣族」の皇族の中で育って、”モヤシの様な皇子”にはこの厳しい「下俗の環境」の中では到底無理で皇族保護無では無理であります。

    (特記 累代の天皇が代わる度に第4世族は第6世族から7世族に成り、賜姓無に坂東に放り出される訳であり、厳しい嵯峨期の詔勅賜姓族よりもっと過酷な下俗と成ります。先ずまともに生き延びる事は無理であります。従って、融合族に成れなかった多くは比叡山に入り僧化して世捨て人と成る事を選んだのです。)

    この「判断の根底」には「真人族、朝臣族」として逃れる事の絶対に出来ない慣習、即ち、「純血性の慣習」に宿命として強く縛られていたのです。
    「賜姓族」を始めとする「真人族」と「朝臣族」の「絶対的な宿命」であったのです。
    一人立ち出来ない者にこの「慣習の縛りが」あるのですから、そうなると「絶対的な宿命」の欠点が「氏家」を維持して行く以上は付いて廻ります。

    この事を解消しなければ「氏家」そのものが論理的に成り立ちません。
    これは「純血性」を保持する為の「同族血縁の弊害対策」の処置でもあった事は云うまでもありません。
    「真人族 朝臣族」は「氏家の慣習」「純血性の慣習」「絶対的な宿命」「慣習の弊害」「融合血縁」と柵に囲まれ「賜姓族」に溶け込んで行かねば成らない「絶対的な環境」にあったのです。
    その為にもその「受け皿」を造る必要があり、その複数の守護王がそれに成り得なかった場合は自らが「賜姓族」に溶け込む以外には無いのです。
    元より成り得ない「第4世族内の王の生い立ち」なのですから、力の持った「第4世族内王の国府の賜姓族」に溶け込んで行くしかないのです。

    「5賜姓族との関係王」
    次ぎの「5賜姓族地」には次ぎの王の末裔が「跡目、養子」などで奈良期−平安初期に補足する形を採っていました。「皇族」と云う「血流の保全」(国策氏、副軸)の為に「必要不可欠な対策」でもあったのです。
    ではこの守護地にはどの様な国府外の守護王が存在していたのかを検証してみますと次のように成ります。
    「地理」と「王の経緯」から観て次ぎの状況にあったと考えられます。
    伊勢は、奈良の[宮処王]の守護王の末裔が補足
    近江は、滋賀の「雅狭王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡
    信濃は、長野の[高坂王]の守護王の末裔が補足
    美濃は、岐阜の[広瀬王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡 
    甲斐は、愛知の[弥努王]の守護王の末裔が補足  (広域甲斐)

    上記の「19の守護地」を地域別に分類すると地理的に賜姓地と完全に一致しています。
    特に下記に状況を記しますが、「19の王の経緯」の中でこの「5王」に集約されます。
    完全一致したと云う事は、はっきり云えばこの「5王」が上記で論じた様に「融合血縁」で生き延びた事を意味します。
    そこで、この「5王」が融合したのか、或いは何処かに移動したのか、他に何かあったのかを歴史的に追跡可能な範囲で調査してみました。

    「4世族内19守護王」の履歴
    先ずこの「5王の履歴」は次ぎの4つに分けられます。
    (これ等の大化期の王の詳細は不祥で他説が多い。)

    A 滅亡したか B 末裔を遺し得たか、C その地で末裔が住み続けたか、D 除外
    以上の様に本論では4つに分類出来ます。

    経歴
    1 雅狭王、山部王、高坂王
      山部王は壬申の乱で没(A)
      雅狭王と高坂王は生き延びた(BC)。
    2 泊瀬王、広瀬王、竹田王、難波王
      泊瀬王は天皇没(A)、竹田王は没(A)、難波王(D)、
      広瀬王(春日真人族:BC)と竹田王と難波王は学者、官吏(BC)。
    3 春日王、宮処王、弥努王、桑田王
      桑田王は長屋王事件没(A:B)、春日王(D)
      弥努王(中立:BC)、春日王と宮処王(春日真人族:BC)
    4 栗隈王(D)、武家王(D)
      「栗隈王」(難波王の孫)、「武家王と美努王」は「栗隈王」と親子(B)

    (注意 春日王、栗隈王、武家王 弥努王 4王は九州地域に勤務定住 除外)
    (注意 難波王は栗隈王の祖父 除外)
    (注意 春日王と栗隈王の末裔間で血縁 九州筑紫 除外)
    (注意 竹田王は蘇我氏系 特令地遷都王 若没 竹田王も特令地遷都王 除外)
    (注意 泊瀬王は崇峻天皇 厩戸皇子(聖徳太子)、難波王、春日王と同時代の同格 除外)

    「4つの血流」
    この1〜4の「4つの分類」には大きく分けて「3つの血流」があります。
    A 春日王−広瀬王、宮処王、        (春日真人族)
    B 難波王−栗隈王−武家王、美努王、高坂王 (特令5世族王 3世代一族)
    C 長屋王−桑田王、弥努王         (長屋王:19王外 高市皇子の子)

      山部王 雅狭王             (不祥王 地理と履歴から一族の可能性大)
      泊瀬王(天皇)         
      竹田王(母方蘇我氏)

    (注意 「山部王」は桓武天皇の別名 この「山部王」とは別人 同名の王が多い事に注意)

    「関係外守護王」
    以下は「4世族内19守護王」の内で「特令地の王」であり、「皇族賜姓族の関係外守護王」であります。
    (京都の[栗隅王][武家王]は例外地の特令王 北九州に赴任)
    (大阪の[竹田王][難波王]は特令地の遷都王  遷都により王位無し)
    (愛知の[桑田王]は特令地王 美濃王の末裔に吸収)
    (福岡の[春日王]は筑紫宰府王 例外地の特令王が引継)
    (石川の[石川王]は吉備、播磨に移動赴任 伊勢−信濃に引継)

    (注意 この事から「三地域の違い」はこの経緯があった為に「三野」と「美濃」、「弥努」と「美努」「御野王」は他の書籍等では混同している。  何れもこの5出自地と5王の人物は別である。)
    (注意 筑紫宰府の「難波王」と「春日王」の関係族は「特令王外」として九州にて子孫を遺した。)

    「存続王」の経緯
    結局は、「4世族内19守護王」が生き延びて子孫を遺し得たのは以下の「5王」と成ります。
    「雅狭王」と「高坂王」と「宮処王」と「広瀬王」と「弥努王」
    以上の「5王−5地域」であります。
    結局、この王と地域の検証ではこの「5王−5地域」に問題が無い事が判ります。

    この事柄から、生き延びて周囲の「真人族」と「朝臣族」の「同族血縁の習慣」に従って皇族子孫を何とか遺そうとすると次ぎの様に成ります。

    奈良期から平安期に掛けての全ての事件に巻き込まれず、確実に「氏存続」を強く推し進めたのは、上記「19守護地の王」の内、上記の5地域の「5家5流皇族賜姓族」のみであります。
    つまり、5地域の国府外の周囲の王は子孫が遺していないのはこの「5家5流賜姓族」に融合して吸収した事を意味します。
    そうすると、どの様に融合したのかと云う事は次ぎの様に成ります。

    「5賜姓族」の守護王 「伊勢王」「近江王」「美濃王」「信濃王」「甲斐王」
    「5存続王」の守護王 「宮処王」「雅狭王」「広瀬王」「高坂王」「弥努王」

    この「朝臣族の5賜姓王」は奈良期から平安期までの歴史上の事件に一切関っていません。
    「真人族の5存続王」は事件、乱にほぼ中立維持しました。
    依って「5王−5地域」の検証には問題はありません。

    問題が無い事が判ったとして、これを「地域毎」に組み合わせると必然的に次ぎの様に成ります。
    伊勢は、奈良の[宮処王]
    近江は、滋賀の「雅狭王]
    信濃は、長野の[高坂王]
    美濃は、岐阜の[広瀬王] 
    甲斐は、愛知の[弥努王]

    「皇族の同族血縁の慣習」
    上記の「5地域−5王」の「真人族と朝臣族」の「皇族の同族血縁の慣習」を守り子孫を遺そうとすると、当然に先ずは直ぐ隣りの「地理性」が優先される事から、以上の組み合わせから血縁が進む事に成ります。

    結局、結果として「5家5流の賜姓朝臣族」が「真人族の5王」の子孫を上記した「跡目・養子等の血縁方法」で吸収した事に成るのです。

    (特記 「5王の真人族」の末裔子孫は確認出来る範囲で平安末期までに地域内に存在しない。)

    つまり、この「4世族内19守護王」は「真人族と朝臣族」に分けられ、「5地域の朝臣族」は「賜姓」を受け「臣下」し「青木氏」を名乗り、これに「真人族」が吸収された「融合の氏化」が起った事に成ります。

    それは「族制」「有品制」に無関係に「総合的に氏力の強い方」に吸収されて行くのが「自然の摂理」でありそれが働いた事に成ります。
    それの大きな要因は「純血性を護る同族血縁の慣習」に因るものであります。
    「真人族」と「朝臣族の賜姓族」との差は、まさしく「融合氏」の「3つの発祥源」の「有無の差に」因る事に成ります。
    (注意 上記した様に実質は賜姓族が上位と成る)

    故に「真人族」は「賜姓族」に融合して「直系子孫」を遺せなかったのです。
    ”遺せなかった”と云うよりは、「時代の厳しい背景」とこれに抗う「真人族5王の力」の差を強く認識し、積極的に力を獲得して行く「朝臣族の賜姓族の5王」に ”自らの方から融合して行って、「融合」と云う方法で子孫を遺そうとした” と考えられるのです。
    これが「皇族内の自然の摂理」であります。
    そして、この事の行為が、「純血性を護る同族血縁の慣習」の「思考規準」が、この時期にはむしろ「正当化」していたと考えられるのです。
    これが「氏存続」に付いて「皇族と臣下族」との思考の大きな違いであったのです。

    「八色の姓の制」の影響
    その証拠としては、「八色の姓の制」の制定に現れているのです。
    そもそも、この「皇族と一般の臣下族」との間に「大きな思考規準」の差が無ければ、「八色の姓の制」をわざわざ定める必要性はない筈です。
    「身分の差」のみを定めるのであれば、「八色の姓の制」を定めても護られない筈です。
    大別して「氏を構成」出来る範囲の民に存在する「八階級の身分」の間には、生きて行く上での「社会的な思考規準の差」が厳然としてあったからこそ、それが大きな「社会の隔たり」として表れたのです。
    そして、この社会を秩序良く維持して行くには、「八色の姓の制」を定めて「氏姓や身分毎の行動規範」を社会の中に作り上げようとしたものです。
    それは各身分間には「融合氏の発祥」が多く成っていた事を物語るものであり、その「行動規範」を「氏族」の中で常識として守らせる事で、「氏家制度の初期段階の構築」を目指したものであったのです。
    その「構築の規範例」として、5つの地域に「3つの発祥源」を責務とする「皇族賜姓族」を作り上げたのです。
    「社会の模範例」とする為に「賜姓」と云う方法で「氏族」を固めて発祥させたのが此処で云う「青木氏の賜姓族」であります。
    つまり、「氏融合の初期段階」では、この「八色の姓制の行動規範」に基づく「氏家制度の社会構築」を目指したのであります。「八色の姓制」は此処に意味があったのであります。

    「真人族」(まさと)、「朝臣族」(あそん)、「宿禰族」(すくね)
    「忌寸族」(いみき)、「臣族」(おみ)、「連族」(むらじ)、「稲置族」(いなぎ)

    (特記 宿禰族までの3族と、稲置族までの4族との間には実質の「行動規範の大溝」があり、結果として「融合化の溝」に成った。宿禰族は稲置族よりの中間族 政治思想の思惑を込めた「八色の姓制」を否定する説もある。)

    「真人族と朝臣族」の融合化
    「真人族と朝臣族」が「八色の姓制」に縛られているとすれば、「真人族」は独自色を高めて社会を引っ張って行くには全くの力不足であり、必然的にこの「社会の融合氏の規範例」となった「朝臣族の賜姓族」に「自らの存在」を融合させて行く事が「最良の生きて行く方策」と成り得たのであって、故に上記した経緯と成ったのです。

    この「融合化し始めた社会」が「5つの思考規準」に分かれていたのですが、その根幹は「夫々の守護神の考え方」にあったのです。
    その互いの「5つの考え方」を主張しあう事は、結果として「社会の混乱」を招く事に成り、「自ら神の考え方」を押し通そうとすると、必然的に「生存競争の争い」が起こる事に成ります。

    これを解決しようとしたのが「八色の姓制」であって、その「考え方」と「行動規範」を定めて争い事に成る「思考の巾の領域」を封じ込んだのです。(現実に多発していた 「日本書紀」に記述)
    そして、「5つの守護神の5つの考え方」を統一させたのが「皇祖神」であって、その統一した「皇祖神の考え方」を伝達させる為には「皇祖神」の「子神」を定めたのです。
    その「子神」には「祖先神」を定め、その「祖先神」に「規範神の役目」を与えたのです。
    その「規範神の社」を「神明社」として全国に普及し建立し続けたのです。
    この建立を「国策氏」として存在する「5家5流皇族賜姓族」に命じたのです。(後に特別賜姓族に補完させた。)
    つまり、その役目(「祖先神−神明社」)を上記する「朝臣族の賜姓族の5王」の「融合末裔子孫」に委ねたのです。その「真人族と朝臣族の融合氏」の統一化した「賜姓族」にその任務を与えた事に成るのです。
    これであれば「皇祖神の子神」たる立場は完全に構築された事に成ります。
    あらゆる民は異議を唱える事は有り得ず、自然と「5つの思考規準」(5つの守護神)は多少は存在しても混乱に繋がる事は無くなり、「皇祖神−祖先神−神明社」に導かれて行きます。

    「皇族の純血性血縁」
    前段でも論じた様に、この奈良期から平安初期の時期には、完全な「皇族の純血性血縁」を守る為に「3世族の従姉妹や叔母姪」と「4世族内での血縁慣習」を敷いていたのです。
    この「皇族慣習」に従っているので間違い無く血縁をしていたのです。その為に他の血を入れる為に、「4段階の夫人制度」を敷いていたのです。

    「夫人制度」 [皇后、后、妃(ひめ)、嬪(みめ)、妥女(うねめ:例外夫)]

    (参考)
    「3世族の従姉妹や叔母姪」の純血婚から外れて、原則、[嬪]域からやや「他流血」が入る。
    「妃域」までは母方の地位により決められる。
    「妥女」は地方豪族から人質として取り、一種の「奴隷女官」で完全な「他流血」である。
    「妥女」の子供の王位は最も低い。
    「奈良期の大化期頃」は「亜子」の誕生が多く「若没」であった為に「王」には「妥女」の子が多かった。

    「同族血縁の弊害」には「亜子」等の子供が生まれる確立が高いので、「嫡子」としての基本的な能力に欠ける場合が多かったし、「隔世遺伝の影響」が強かったのです。
    且つ、極めて死亡率も高かったのです。逆に極めて優秀な子供も生まれる事もあったのですが、その為にも「嗣子の有無」に関らず関係族から「跡目」や先行して積極的に皇族間で「養子」を取る「当り前の習慣」が皇族にはあったのです。
    この習慣は「真人族」、「朝臣族」(記録では橘氏の様な「宿禰族」も一部含む事もあった)までの習慣であったのです。

    この様な「5家5流の賜姓族地」には、殆どの近くの「王族の真人族」が「融合化」して行き、「賜姓族化」し、平安期初期には「力のある賜姓族で1流化」して行ったのです。
    そして、平安時代中期には「賜姓源氏」がこの「5家5流賜姓族」に「跡目」を積極的に入れて子孫を移して遺して来たのです。

    (参考 「嵯峨期の詔勅」の「賜姓源氏」には上記の様な厳しさがあった。皇族朝臣族の同じ賜姓族でありながらも「国策氏」等の重責の立場も無いところから、「国策氏」に融合して行く事で同じ立場を保全して行ったのです。ただ河内源氏はこの道を採らなかった。)

    「嵯峨期の詔勅」により発祥した11代11家の「源氏」と、阿多倍一門の「賜姓たいら族」(桓武平家)との間には ”2軍の将相立たず”と成る事は必定であったのです。
    この2氏ともに何時か雌雄を決して戦う事を事前に予測し、源氏は戦略として幼児の時から「跡目養子」を例外無く「5家5流の賜姓族青木氏」に移していたのです。
    それは何故かと云うと、「5家5流賜姓族」は、「3つの発祥源」「皇祖神の子神」としての責務を保つ為にも、常に如何なる場合に於いても「和の中立」を保っていたからであります。

    (注意 「武の中立」もあるが朝臣族である限り「武」は禁じ手慣習)

    むしろ、「和の中立」を保たなければ成らない立場を宿命的に義務付けられていたのです。
    従って、「和の中立」を保障する為に「5家5流皇族賜姓族」にのみ与えられていたのが「不入不倫の権」であり、それを物語ります。(賜姓源氏には無かった)
    故に、「真人族」「賜姓源氏」は、如何なる場合にも子孫を遺す事を目的として、この「和の中立と安全」を保障され、その上で、先ず「商い」で「生存力」を持ち、「3つの発祥源」の立場を守り、「国策氏」として勤めもあり、「退避地」を持管理運営し、「祖先神−神明社」を建立し、民から「御師」等と呼ばれて「氏族」から慕われる象徴等の役目を持つ「5家5流賜姓族」には、「同族血縁の慣習」の下に「和の中立」を委ねたのです。むしろ委ねない方が異端であります。

    「真人族」はその「非力」から、「源氏」は「武家の危険性」から「同族血縁の融合化の習慣」を事前に採用したのです。
    この平安末期から始まった混乱期の時代では、「河内源氏」を除く源氏の多くは「自らの氏の存立と子孫存続」(枝葉末孫の拡大)と云う形だけを主体とはせずに、「3つの皇族の融合化」と云う形をも併用したのです。

    (注意 「枝葉存続策」のみと考えられがちであるが、この説は朝臣族の前提を欠けている)

    その「融合化の対象」と成ったのが「5家5流の皇族賜姓族」であったと云う事であります。
    むしろ、「3つの発祥源」と「国策遂行」を完遂する責務を与えられていた事から起った「融合化の慣習」であったのです。
    「5家5流賜姓族側」からすれば、むしろ「国策遂行」の為にも皇族が一本化する事で強固にも成り、子孫数の確保の面からも歓迎する事でもあったのです。

    (特記 伊勢青木氏や信濃青木氏や伊勢特別賜姓青木氏の資料から観て見ると、平均的に1賜姓流では4から6流程度であった模様で、2次流まで観るとこの2倍程度と成っていた模様。 平安期の5行思想の「4−6の原理」を守ったと考えられそれに合せて「一族の統一性」を守ったのです。そこに「宗家方式」を敷いた。「純血融合を」守ったのです。)

    それを証明する行為が「皇祖神の子神」「祖先神−神明社」の「建立の責務」であったのです。

    「真人族」にしろ「11代賜姓源氏」にしろこの様な責務は、これらの氏には与えられていない事が逆にこれを証明します。
    彼等には「皇祖神の子神」とする「独自の守護神」を持ち得て居なかったのです。
    「源氏」が建てたとする「八幡社」は、「11代賜姓源氏」の中の9代目の「清和源氏」のその一部の「分家河内源氏」の「独自の行為」であって、11代の賜姓源氏全体の責務ではなかったし、その「八幡社建立」の主体は「名義貸し」の「荘園制」から来る「未勘氏族」の仕業であったのです。

    (特記 そもそも、「八幡社の根源」は、北九州に発祥した「神祇信仰で」あって、その信義を大仏建立の「国家鎮魂の国神」とした事から始まったが、何時しか荒廃して「摂津源氏」に復興の任を命じた事が始まりであったのです。
    それが「河内源氏の義家」の時に「未勘氏族」に依って「武神」に変えられて、源氏の守護神かの様に喧伝されてしまったのです。
    従って、「八幡社」には「摂津源氏」等の和を求める多くの源氏が任とした「国神」としての「国家鎮魂の八幡社」と、「河内源氏」の未勘氏族の「武神の八幡社」の2流があるのです。 八幡社にはこの2種の社があるのですが、11代賜姓の源氏の守護神の様に誤解されている。)

    (特記 賜姓を受ける事は、「荘園制の名義貸し」(未勘氏族)に「賜姓と云う権威」を背景に出来る事から「貸利益」に大きな効果があったし、それらの「未勘氏族」を集めての「武力集団」を最初に組織化した「清和源氏」[河内源氏]には「賜姓」は絶対的に必要であった。
    元々、経基王は、「清和天皇」の皇子ではく、「陽成天皇」の子であったが父が愚能であった事から、祖父の賜姓を受けるべく長年懇願し続けた。始祖の経基王は長い間の念願を果した程であった。
    「清和天皇」も外祖父の藤原良房が政務を執った初の「人臣摂政」で清和天皇の意思ではなかった。)

    (例 「伊勢青木氏」には「清和源氏」の「源頼光系四家」の宗家「頼政−仲綱」の子の3男「京綱」を「跡目」に入れた。「以仁王の乱」前である。そして「11代の源氏」が全て滅亡して行く中、「源氏宗家」を「青木氏」の中に融合させて遺した。)

    「特別賜姓」の補佐と任務
    その結果、「融合化に」依って平安末期には最終的に「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」の「皇族賜姓族の3家3流」に集約されたのです。
    「滅亡した2家」は「近江域」と「美濃域」で「皇族融合化」を進めたにも拘らず、時代の荒波に抗する事が出来ず、あくまで「和の中立」を護らなかった「近江青木氏」と「美濃青木氏」が、結局は平安末期には平家に潰されて滅亡したのです。この時に坂東以西の「武の源氏」は事如く潰されて滅びたのです。

    (注釈 近江青木氏の支流一部が戦いの場の美濃から逃げ遂せて摂津に戻り子孫を小さく遺した。)

    この「2つの生き様の差」は「不入不倫の権」等で護られていたとは云え「生きる為の戦略上の違い」が「氏存続の差」と成って現れたのです。「和の中立の保持」
    その「氏存続の差」とは、「嵯峨期の詔勅」によって起った「衰退時の蘇り策」から「武」に頼らない「和の抑止力」と「経済的な裏打ち」と成った「2足の草鞋策」であったのです。

    (特記 この生き延びる為の上記の数式論の基は「商い」が前提条件にあって、「禁じ手の商い実行」と「5家5流の賜姓族の存続」と「国策氏の務め遂行」と「詔勅リスクの解決策の実行(シンジケート)」等を「嵯峨期の詔勅」前に、「総合的な経緯」から観て、”「嵯峨天皇」とは談合されていた” と考えられ、「暗黙の了解」があったとしているのです。大化期の中大兄皇子の談合に類似する。)

    結局は、「16代の朝臣賜姓族」と「真人族の5守護王」の合せて「21代の皇族」が「融合血縁」に依って、最終は上記の「3つの発祥源」の「国策氏の賜姓族3氏3家の子孫存続」と成ったと云えるのです。

    然し、平安中期には、「5家5流の皇族賜姓族」では、上記した数式論が成り立たなくなったのです。
    つまり、「賜姓族力」<「国策遂行負担」=「国策の責務遂行の限界」の現象があらゆる面で起ります。
    これを判断した「円融天皇」により、藤原氏北家から秀郷一門の第3子に「特別賜姓」して、皇族の融合血縁した「皇族賜姓青木氏」と同じ「全ての権限と権威と立場」を与えます。
    「完全同格」としてこれを補佐する任務を与えたのです。(皇族外朝臣族の藤原氏北家一門 母方系族)

    (特記 皇族賜姓の母方族を根拠に特別賜姓した。そして、同一族化させる為に「5家5流の賜姓族」の地に「融合青木氏」の血縁策を推し進めた。 従って、「真人族と朝臣族」−「5家5流賜姓青木氏」−「特別賜姓族青木氏」−「賜姓源氏」(河内源氏除く)]の5賜姓族地に「和の中立」の「完全総合の真人族・朝臣族賜姓族」の「融合青木氏」が誕生した。「和」の5賜姓族には「武家の分家方式」は採用されていない。)

    この為にも、この「秀郷流青木氏」に対しての「跡目継承の断絶」を避ける為に「宗家一門から第3子」を常に補足する「決まり」を与えます。
    「特別賜姓族」には、「真人族融合化」した「賜姓族」を含む「親衛防衛集団の義務」を与えたのです。

    (参考 北面武士 親衛隊の右衛門佐上の最高位の指揮官の任を特別賜姓族青木氏宗家永代授与)

    この「特別賜姓族の出現」で、それが「皇族賜姓族」の生き延びる為に必要とする「絶大な抑止力」に成り、「3家3流賜姓族」は他の「2家2流」と異なり生き延びられた源と成ったと云えるのです。
    恐らくは、この「3家3流」と「2家2流」とは「特別賜姓族」との「付き合い方」が違っていたのではないかと観ています。

    (特記 「和の中立」より「武の中立」に偏っていた為に、即ち、「生き延びる考え方」が違っていた為に特別賜姓族側は親交や血縁は避けていた事が考えられます。)

    この世は「特別賜姓族」が補佐したとしても、あらゆる柵に依って必ずしも上手く行くとは限らない訳ですから、地理的に観ても「近江、美濃」には「特別賜姓族」が配置定住している訳ですし、疎遠であったとする事には成りません。
    「地理的要素」から血縁でも充分に有り得た事でもあり、決定的な事は「河内源氏との付き合い方」にあったと観ています。

    (特記 「和の中立」が保ちきれず、「武の中立」から遂には「武」に傾いてしまった。)

    こ「の2つの青木氏」の任務は、上記した「皇祖神の子神」としての「神明系社の建立義務」を遂行するにしても、「宮司職」や古代密教の浄土宗の「菩提寺の住職」の配置も重要と成っていて、多くの子供「子孫の養育」が必要と成っていたのです。
    その為にも、上記する「源氏、真人族の融合化」が急務と成っていた環境にもあったのです。
    「同族血縁、純血血縁」を前提としたものであった為に、「第4世族内の5家5流賜姓族」には、武家の「本家概念」ではない「副軸」としての「宗家の概念」に基づいて「分家の概念」が無く、何れも「本家」なのです。
    因って、「真人族、朝臣族との融合血縁」するにしても「家の格式の差」が無い事から何れの家にも「跡目養子」や「婿養子」や「貰子養子」の血縁を自由にする事が可能であったのです。

    (特記 「伊勢青木氏」の資料から観ると、松阪殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿、名張殿、脇坂殿、伊賀殿、青蓮寺殿等の定住地の地名を付けた呼称で区別していた事が資料から判ります。
    分家などの「格式の差」が「宗家」を除いて無い事が判ります。
    只、全体を協議するリード役があった事が記録されています。この「宗家を構成する慣習」は、藤原秀郷流青木氏は元より秀郷一門主要8氏にも適用されており、「役職と地名」の2通りの使い分けをしていて、役職を持つ宗家筋は藤の前に役職名をつけて呼称していたのです。
    24地方に赴任し定住した家筋は藤の前に地名をつけて呼称する習慣であったのです。
    その内に枝葉孫が拡大してこの慣習では成り立たなくなり、宗家−本家−分家−分流−分派−支流末孫まで361氏の「家の格式差」が生まれまたのです。
    然し、秀郷流青木氏に於いては皇族賜姓族との融合氏を構成している事からこの「家の格式差の概念」が薄く家を構成していた事が判ります。)

    そもそも「神明系社486社」とすると少なくとも3家3流賜姓族の単純な子孫量では成り立たなかったのです。

    (特記 上記の通り、「第4世族内の皇族賜姓族」は慣習として「分家方式」を持たなかったのです。
    従って、家紋は全て「綜紋の笹竜胆紋」であり、格式差が出る「副紋方式」や「丸付き文様」や「類似文様」の方式は持たなかったのです。然し、「臣下族」の「武」の「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」は持ったのです。この事でも生き様の違い差が判ります。家紋の此処にも大きな違いが出ています。)

    因って、この為にも、「純血性の慣習」を前提とする「5家5流賜姓族」にしかない「夫人制度」と「真人族との融合化」を、この様な上記するあらゆる皇族慣習を持つ「国策氏」に問題が起こらない様にする為に、「少ない賜姓族」に対しこれらの「務め」を強いたのです。

    (特記 上記する「特記の慣習」により厄介な「格式差」がないのですからに「国策氏としての勤め」を円滑に進められるが道理です。この「宗家方式は」「真人族と朝臣族からの融合血縁」を行うにしても、どの凡そ20から30から成る「5家5流賜姓族一族」とも格式無く平等に行う事ができます。「国策遂行」に於いても「融合血縁」で成立った20から30の一族が格式で争う事無く平等に務める事が出来ます。
    この様に、「宗家方式」=「5家5流賜姓族」の数式論関係で無くては成らなかったのです。この数式論は絶対条件なのです。)

    ところが、この「宗家方式に」は大きな欠点が合ったのです。
    その欠点は国策遂行するには「子孫量の確保」と「維持管理」をする事が難しかったのです。
    この「宗家方式」は、枝葉末孫を広げる事に因る欠点を避ける事に重点を置いて恣意的に採用されているのですが、この為にも「2つの絆青木氏」を創設したのです。
    その為に、この建立を進める486社に宛がう「青木氏の代宮司・代住職」や「職能集団の長代行」等を増強したのです。
    これは、「子孫存続の枝葉拡大」の為ではなく、「国策遂行」の為の「子孫拡大確保」の為の血縁であり、縁組であったのです。
    そして、それらの為にはこの枝葉末孫拡大に因る「家の格式」が、担当した「国策の格式」に繋がる為に「氏家制度」の分家、分流、分派の「支流格付け」を行わなかったのです。
    この様にどのような場面から観ても苦しいながらも「宗家方式」が絶対条件であったのです。
    国策氏として課せられた「宿命」、課せられた「慣習」であって、上記した「血縁慣習」とこの「宗家方式」は連動し、これを保守する為に細部に至る多くの「慣習や戒律や仕来り」が生まれ、「氏と家の細部」に至るまで浸透していたのです。上記する様に、これがマニアル化していたのです。

    (参考 その細部の慣習や戒律や仕来りが明治にその役目が終わったとしても、大正末期の頃まで引き継がれて来たのです。平成の現在で宗教行事の作法に僅かに遺されるのみで殆ど霧消しています。)

    然し、この平安末期にはそれでも衰退も原因して、この「あらゆる力」と「子孫供給力」が「朝臣族」の「皇族賜姓族」に欠けて仕舞い、「特別賜姓族の誕生」の一原因にも成ったのです。

    「近江佐々木氏」の縁故の援護
    ここで「宗家方式の欠点」を補う一つとして、決して見逃しては成らない経緯があるのです。
    ところが、これでも資料から観ると、この「特別賜姓族の補強」でも未だ「子孫量の補充の力」は欠けていたと観られます。それには「近江青木氏」と「美濃青木氏」の2氏滅亡により極端に低下して待った事が原因と見られます。
    天下の北家藤原秀郷の「青木氏補強策」とは相当な補強であったにも関わらず、それでも「子孫量」が不足していた事は「神明社建立・維持・管理」には言語に絶する相当な欠点であった事が判ります。
    それには「純血融合血縁」が「足枷」に成っていた事が原因で、その「足枷」は平安末期に真人族と朝臣族が少なく成った事と、「真人族と朝臣族」の多くが「世捨て人」を選んだ風潮が皇族内に蔓延していた事を物語ります。
    「国策氏」と「3つの発祥源」の立場から、これを維持するには「宗家方式」が「絶対条件」であった為に絶対に「分家方式」に切り替える事は出来なかったのです。
    勿論、「2つの絆青木氏」の策はそれを補うものでは基本的に無かった事を意味します。
    「5家5流賜姓族」の「跡目継承の子孫量」は根幹であった為に「特別賜姓族の補強策」で一応は満足していたのですが、「486社にも成る神明系社」の「神職」と、「古代密教浄土宗の菩提寺」の「住職」とに配置する陣容が成立た無かった事に成ります。
    ここで多少の疑問があるのですが、「古代密教浄土宗の菩提寺の住職」であればせいぜい5家5流で20寺程度で不足の原因となるには疑問であります。
    とすると、「特別賜姓族青木氏」が一切の氏の格式や身分官位官職等を同じくする以上は、「古代密教浄土宗の菩提寺」も同じくする必要に迫られます。
    最終、116氏にも成ると「特別賜姓族青木氏」に宛がう「菩提寺の住職」には子孫量的に困難であった筈で、ここに配置する能力に欠けてしまった事に成ります。
    「神明系社」と合せると、寺社関係だけでも、何と最低630(486+116+20)人と云う「子孫量」が必要に成ります。
    これに「跡目継承」の「子孫量」と成ると「2つの青木氏」で150人、計800人以上の「子孫量」を確保しなければ成りません。これでは論理的に横の縁者関係が生まれない「宗家方式」では物理的に困難です。
    況してや、そこに、「純血血縁の仕組み」です。
    そこで、考えられたのが大化期の旧縁の賜姓族「近江佐々木氏」の救援です。

    天智・天武天皇の第7位皇子「川島皇子」を始祖とする「近江の賜姓族」の「近江佐々木氏」の旧来縁故の援護を受けた事が記録として遺されています。
    その記録から推定すると、時期的には源平の争いの前の900年前頃ではないかと考えられます。

    (特記 主に北域には神明系社のこの「近江の佐々木氏の宮司」が実は非常に多いのです。
    これは平安期中期の頃からの対応と観られ、平安末期以降も続けられていたと観られます。
    「摂津源氏」が「国家鎮魂」の荒廃した「八幡社復元」を命じられて、「神職」を「5家5流賜姓族」に求めて来た事も一因であったとも考えられます。
    「摂津源氏」にはもとより「寺社建立の職能集団」を持っていなかった事から依頼して来たのです。
    より一層不足したがこの「摂津源氏復元作業」は「基礎的な氏力」が欠けていた為に長続きしなかったのです。後は「河内源氏」が「武神」に変えて「未勘氏族」を使って「独自の八幡社」を復元していったのです。)

    この「佐々木氏の援護」の事は重要で、天智期の「施基皇子」の弟の第7位皇子の近江の佐々木に住していた「川島皇子」の「賜姓近江佐々木氏」までも頼り、その「佐々木氏の子孫」が青木氏の「神明社」の宮司に成っている事は、如何に「皇族関係族間の融合化」が起こっていた事かを物語っているのです。

    (特記 青木氏側からの佐々木氏の研究は残念ながら未だ進んでいないのです。近江佐々木氏の援護で885年前後頃に「近江佐々木氏自身の子孫量」が侭らなく成ったと観られ、「宇多天皇」は「滋賀佐々木氏」(北滋賀)を賜姓臣下してを発祥させました。この時、この「滋賀佐々木氏」には「近江佐々木氏」の同じ通名の「・・綱」(盛綱・高綱)を使っているのです。
    この「宇多天皇」は在位が885年から888年と短いのですが、この間に賜姓している事は急務の策であった事を物語っています。「近江佐々木氏」から初代として跡目を取り、北近江域に子孫を拡大させる為に「宗家方式と純血主義」から離れた「滋賀佐々木」を急いで発祥させたと考えられます。
    「嵯峨期の詔勅」からは賜姓は源氏、皇族者の下俗は青木氏と成っていますから、そこで「近江佐々木氏」から跡目を入れて「滋賀佐々木氏」を別に新たに賜姓する事で、「賜姓族慣習」からの縛りを外し「嵯峨期の詔勅」の源氏と同じ「分家方式の慣習」を採用する事が出来、且つ、直ちに「子孫量」を確保させて行く事が出来ると判断したと考えられます。これであれば「賜姓の原則」は守れます。
    「宇多天皇」の在位期間3年の間に第6位皇子を賜姓する事は実質上は無理であります。
    因みに、生867年、没897年、在位885年、退位889年であり、18歳で天皇。
    この平安期では15歳で成人で婚姻が許される慣習ですが、在位期間中に皇子はいなかったのです。
    30歳没ですので、この時の「跡目末裔」とするただ信頼し得る1族のみが存在し、これが「佐々木盛綱」であります。この者は源平の戦いには以北の神官職としていた為に生き延びる事が出来、1203年から1221年にかけて北陸と越後に子孫を多く遺したとされるのです。佐々木氏の研究と青木氏の研究とはこの点で一致します。因って、以北に配置された補強策の「佐々木氏」には「近江佐々木氏の神官」と「滋賀佐々木氏の神官」の2流が以北の佐々木氏と成ります。何れも神官系であるのでまったく判別は困難です。
    基を質せば、大化期の「近江佐々木氏」と成りますが、「滋賀佐々木氏」は一度宇多天皇により賜姓を受けていますので形式上は別と成ります。
    ただ、「近江佐々木」の「跡目継承」から「盛綱」までは源平の戦いで衰退した為に不明です。
    この賜姓の遣り方であれば「近江佐々木氏の後押し」も可能となり、”安定しての子孫量の確保とその存続の目的” を果す事が出来ます。
    本来であるのなら、源氏、或いは青木氏を賜姓するだけの皇子も居なかった事からも、急務としての策を講じたのです。故に、「滋賀佐々木氏」は「宇多源氏」と別名では呼ばれているのです。

    (注意 この経緯から「近江佐々木氏」と北近江域の「滋賀佐々木氏」とを混同している書籍が多い。滋賀佐々木氏の不明の部分を突かれて名乗る「搾取氏」が実に多い。近江佐々木氏系青木氏からも検証出来る。恐らくは室町期の下克上から主君の氏を搾取したと観られる。不明の部分もこの事に因るとも考えられる。)

    話を戻して、しかしながら、「出自不祥」とされる近江の「山部王と雅狭王」は、近江の「川島皇子の佐々木氏」の領域である事から「山部王と雅狭王」との「純血性の慣習」による「皇族間の融合血縁」をしていた事を物語っています。
    「山部王と雅狭王」は事件等に依り歴史的に「没」に成っていないにも拘らず、「子孫存続」が明確でない事から、この「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族」と「融合血縁化」していたと考えられます。
    その証しに、この近江地域には「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族青木氏」との血縁族の賜姓族の「佐々木氏系青木氏」が発祥して居るのです。
    この2氏に「山部王と雅狭王」は必ず融合化した筈です。
    同じ近江国の中に出自の異なる「4つの4世族の皇族」が居て「純血性の慣習」の中で血縁しない方が異常であります。
    故に、「近江賜姓青木氏」と「佐々木氏系青木氏」と「佐々木氏」とには「2人の真人族」を含む「縁故血縁関係」にある為に、賜姓族同等である事を理由に「神明社宮司」に血縁族として「佐々木氏」を用いたのです。
    「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」は、「源氏の血筋」も入っていて「佐々木源氏」と呼ばれ家紋は綜紋の「笹竜胆紋」であり直系族であります。

    (特記 「滋賀佐々木氏」の本家紋は「丸に揚羽蝶紋に木一文字紋」です。笹竜胆の綜紋ではないのです。基の始祖は同じであっても、皇族慣習に因って「氏族」が違う事を意味します。「たいら族」の支流族を物語ります。この家紋からも血筋の所以が読み取れます。宗家方式と賜姓族慣習と純血慣習等の慣習に束縛されていない事が判ります。当初の出自から「宇多源氏」と呼ばれていながら、家紋は真逆の平家の「揚羽蝶紋類」であり、副紋を「木一文字」としているのです。如何に一般の分家方式であり、それもかなり家紋200選」にも出て来ない姓族の家紋です。一方では賜姓族慣習を守りながら、他方では、この事で如何に急務に仕立てたのかであり、形振り構わず一挙に子孫量を増やし神職住職を宛がったかが判ります。)

    (参考 佐々木氏には滋賀佐々木氏があるが上記特記の通り別氏で宇多天皇系であるが他氏と融合血縁している。)

    将来の研究課題ですが、佐々木氏側からの青木氏の研究は進んでいて、その研究内容から読み取れる事は、「近江賜姓青木氏」を通じて天智天皇の皇子としての「伊勢青木氏との縁故関係」から前段で論じた「古代和紙の殖産」は兎も角としても、資料から読み取って目立つ事は、「寺社の職を通じての協力関係」があり、従って、「同族血縁」の関係にも「近江佐々木氏」とはあったと観ているのです。
    史実、「寺社関係」には「神明社系社の神職」と「古代密教浄土宗の住職」には青木氏と共に佐々木氏が多いのです。それも「5家5流賜姓地」の寺社と、「特別賜姓族地」の北域の寺社に集中して多いのです。
    これは「5家5流賜姓族」と「特別賜姓族」の「融合関係」が大いに進んでいた事を物語り、そのルーツを通して、「近江賜姓青木氏」−「近江佐々木氏」−「伊勢賜姓青木氏」−「特別賜姓族」との繋がりが「神明社建立」の事のみならず出来上がっていた事を示す事でもあります。

    もう一つは、「佐々木氏の研究」から読み取れる事は、「5家5流賜姓族の横の連絡関係」はこの「寺社」を通じて基本的に行われていた事を物語ります。
    前段でも論じた様に「神明系社486社」と「古代密教浄土宗の各地に存在する菩提寺」が、この「横関係での問題処理」に当っていた事がよく読み取れます。
    「横の連絡関係」と云うよりは、「賜姓佐々木氏一族」と「5家5流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「秀郷一族一門」、更には「賜姓源氏」と上記した「真人族や朝臣族」との全ての横関係が「寺社」を通じて執っていたと考えられるのです。
    言い換えれば「真人族と朝臣族」が、皇族慣習に基づいて構成された「氏家制度」の中では、「寺社の存在」が大きな重要な位置役割を持っていた事なのです。
    そこが他氏と大きく異なっていた点であります。
    その意味で「祖先神−神明系社の役割」は絶大であった訳で、「2つの賜姓青木氏」の全てと云っても過言ではない程に、重要な位置を占めていたのです。

    その重要な位置を「最古の神明社」が象徴していた事を意味します。
    下記の「最古の神明社」を象徴に置く「2つの青木氏」にとって重要な位置を占めていた「寺社」を各々には全て「独自の寺社」を持っていますし、上記した様に「神職住職関係の融合血縁」も進んでいる訳ですから、これらの「寺社」をパイプ役に「連携関係」を保持していたと考えているのです。
    この「寺社の存在」とその連携なくして「2つの青木氏の存在」は成り立たないものであったのです。
    所謂、「人間の血管」の役割を持っていたのです。
    そうであるとするならば、「皇族賜姓青木氏が構築した退避地の策」も「寺社」で成り立つものと考えられるからで、それが「佐々木氏の研究資料」(寺社)からも大いに読み取れるのです。

    特記
    「退避地運営」に付いての「佐々木一族の関り具合」がどの様であったのか気に成りますが現在は詳細は不祥です。近隣に「賜姓青木氏」の存在が無いところから佐々木氏の何らかの関わりもあったのでは無いかと推測できます。「賜姓近江佐々木一族」は「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」(河内源氏)との非常に微妙な中間的な生き方を採った事が読み取れるからです。源平でも源氏方に味方しても生き残るのです但し、衰退したが上記した様に寺に大きく関っていた事が「子孫存続」で難を逃れ、鎌倉時代にはこの子孫が勢力を盛り返したが、戦乱の室町末期からが江戸期には衰退させるのです。
    矢張り、寺社で宗家と共に子孫を復活させる特長を持っていたのです。恐らくは、宗家が生き延びたとするのは「寺社」を故意的に「隠れ蓑」にしていた戦略を採っていたと観らるれからです。
    現在でも寺社に佐々木氏は多い。従って、佐々木氏の研究論文はこの論調基調に成っているのだと考えられます。「和の中立」と「武の中立」の「和武の中立」の生き方を採り、それの基調を寺社に置いていたのだと考えられます。恐らくは伊勢青木氏とは大化期の第7位皇子として特別に天智天皇より賜姓を受けた同族であり、「伊勢青木氏」の「皇祖神の子神の「祖先神族」としても同じである事から−伊勢青木氏の生き様を観ての寺社でなかったと推測しているのです。「神明社建立」には「神職としての役目」を果たしていたのではないかと観られます。

    寺に関しても「古代密教浄土宗」は「5家5流賜姓族」と同じですから、住職としての役目を果たしていたと観られます。この点では「伊勢青木氏」とは同様の行き方を戦略として採ったと考えられます。
    ただ判らないのは血縁関係が不祥と成っている事なのです。伊勢青木氏との繋がりがキーポイントではないかと観ていますが判りません。研究の論調から「特別賜姓族との関係までの青木氏」の論文資料と成っているのです。

    前段でも論じた様に、「日本海側3県の退避地」の処で ”「寺社」が主軸に成っていた”と論じた事も、矢張り、近隣に居た「賜姓族の佐々木一族」を含むこの「寺社」が関わって「横関係での問題処理」が出来上がっていた事も、「寺社」と云うキーワードでは符合一致します。
    つまり、「賜姓近江佐々木氏」もこの「退避地の管理運営」に寺社で関っていた可能性が高く成ります。

    そうすると、「第4世族内の真人族と朝臣族」の事なのですが、「賜姓青木氏」を頼りこのルートを通じて直ぐには「退避地」に逃げ込める筈ですが、ところが平安末期から「真人族」は、上記の「融合化」よりも「比叡山の僧化」や「門跡院僧」と成って、子孫を遺す「融合化」による「氏化」はしなく成ったのです。

    (注意 退避地に直接逃げ込こまず、その前に僧化したのです。)

    「還俗、下俗」する際は3家の「皇族賜姓族」と24地方の「特別賜姓族」を頼り「世捨て人」と成った者が殆どであったのです。この時も直ぐにではなく「世捨て人」に成った後で、「伊勢−信濃青木氏」が管理運営する「富山、石川、福井の退避地」に入った事が判るのです。
    前段でも論じ、又、上記の「賜姓佐々木氏一族」も加わった可能性もある「賜姓族退避地」(保護地)に「世捨て人で僧化した真人族」を保護した事が、「退避地等の表現」が無いにしても、「佐々木氏の研究資料」の文脈からも読み取れます。朝臣族の「還俗僧」がこの地域に一般氏化した表現が採られているのです。

    (特記 「嵯峨期の詔勅」では「第4世族内の真人族と朝臣族」の「還俗僧」は青木氏を名乗れますが、「還俗僧の青木氏」は確認出来ないのです。名乗れる権利を有する者は全て把握している中で「嵯峨期の詔勅」を使って名乗った「皇族青木氏」は5氏でその中にはないのです。)

    「佐々木氏」が「寺社と神職・住職の存在」からこの「皇族の退避地」を認識していた事が少なくとも読み取れます。
    この「皇族者の世捨ての変化」は、先ずは、賜姓源氏、賜姓平家の「武家の台頭」が強くなり、次には逆に「真人族」の存在価値が低くなった事と、最後には「藤原摂関家」(北家)もその勢力を低下させ母方血縁による「真人族と朝臣族」が少なく成った事、この「3つの事」に因るのです。
    その主な原因は、何よりも「真人族や朝臣族」が「賜姓」を受けて「武家」(公家に対する武家を意味する 室町末期からの武家の呼称ではない)に成るだけの気力を失っていた事に依ります。
    それは「源平の軋轢」と、”それに抗して「生き延びる価値」を見出せなかった”と云う所ではないかと考えられます。
    皇族者は、「源平の生き様」の「武家としての厳しさ」を観て「気力の喪失」を起したと観られます。
    そして「僧化」を選んだのです。その僧化後には”「俗人」になる事の意味”を僧として悟ったのではないかと考えられます。
    ところが、その為には、”何処でも何時でも俗人に”と云う訳には行きません。生きて行く為には「無力の僧」や「無力の真人族と朝臣族」が簡単に成し得る世間の事ではありません。
    その為には、生きる為に世の中を知り何かを身につけなくては成りません。それに皇族者に限っては何かの「後ろ楯」が必要です。
    最後はこの条件が備わっている「皇族者の退避地の存在」の有無であります。
    そのパイプに成るのが「寺社」であるとすると、その同じ「住職(神職)の僧」であったのですから「寺社の関係」が大いに働く筈です。
    これは明らかに「寺社」を通じて「退避地」に入った事を示しているのであって、「佐々木氏の資料」と共にこの状況が一致し、それを如実に物語っているのです。

    特に、この時代は「藤原摂関家」との遠戚のない「後三条天皇」−「白河天皇」−「堀河天皇」と続き、「白河院政時代」と第3期の「親政時代」が続き、その事からその傾向は無くなったのです。
    この時、社会には荘園制を維持し運営する為に他氏を攻め落とし、その敗残兵や住民を奴婢にして連れて来て荘園を開墾維持管理させる等して、荘園から来る弊害が生まれ、荘園制を禁止する等の締め付けをこの3人の天皇は遣って退けたのです。
    結果として荘園制で「軍事的」と「経済的」に台頭する「武家」に対する締め付けが厳しく成ります。
    これを実行した「3人の天皇等の寝室等の間近の身辺」も危く成って、わざわざ本当に信頼できる「皇族朝臣族の3家3流賜姓族」(一部源平含む)に身辺警護の役を再び命じたのです。
    「身辺警護の護衛隊の北面武士」の制度(大化期にあったこの「本来の役目」)が再び始まります。

    「蘇我氏の専横」から反省して大化期から平安初期まで続いた天皇を警護する「皇族賜姓族」が、再び平安末期に呼び出された事に成るのです。

    (特記 平安初期から末期直前まで桓武天皇が賜姓した阿多倍一門の賜姓坂上氏が朝廷軍として君臨し天皇の警護も兼務した。その後は同じ一門の桓武平氏の「たいら族」と藤原氏が継続した。)

    荘園制を利用していた源氏と平氏と藤原氏を信用できないとして遠ざけたのです。逆に「天皇護衛」が大化期からの本来の務めである「2つの賜姓青木氏」がこれに代わって呼び出され、「源平の影」で益々本来の「賜姓族の基礎力」を付けて、復興し回復して来たのです。

    (特記 添書から主に29(24+5)の各地に定住する「2つの青木氏」の賜姓族が都に派遣されて果した事が判ります。添書から見えるこの時の賜姓族は、「左衛門上佐」と「民部上佐・民部上尉」の「2つの永代官職位」を持っていたのです。つまり「近衛護衛隊」と「近衛警察隊」の最高の指揮官位職であったのです。)

    その為に「天皇の身辺」が危険に成っても何も出来ない、まして”自らの身も護れないの”では「真人族の存在価値」は低下し、更に荒波の中での「氏」としての存立は不可能と成ったのです。
    (「2つの青木氏」の存在が逆に目立った)
    更に、この直ぐ後の「鎌倉期」には「皇族の勢力」が天領地が奪われ生活もままならない程に弱まり、多くの子孫を遺す事は無くなり、「真人族、朝臣族」は現実は少なく無くなったのです。
    当然に「真人族」と「朝臣族の源氏」からは「同族血縁による融合化」は無くなったのです。

    (特記 「2つの氏賜姓青木氏」は空白期間を通じて「大商いの組織化」を進めていて弱体化の影響は小さかった。むしろ、「紙文化」が起こり「下克上と戦乱」が起こり「総合産業」としての「大商い」は更に益々その勢いを増したのです。「荘園制からでる敗残兵の吸収」から、今度は「戦乱により社会に溢れ出る敗残武士」を組織化した「大商い」は成功の上に成功を納めると云う「社会の乱れる流れ」とは逆の流れを掴んだのです。恐らくは、この時点で「平安期までの力」を遥かに凌ぐ力が増築された筈なのです。)

    「最古の神明社」
    上記の19の「第4世族の皇子王」が守護地に配置されたのですが、この時、守護地に「皇祖神の子神」として「祖先神の神明社」を建立しました。この時の神明社が最も古いとされるのですが、この直前に「遷宮遍座地」として各地に85社(90年)をも建立して「皇祖神の神宮」を建立したのです。
    然し、この「85社」の中にただ「1社の神明社」があるのです。この「神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在します。
    つまり、「19守護地」の「神明社」より「遷宮遍座地」は古い事に成る事から、「天智天皇」がこの「19守護王」の配置する直前に、此処に先ずこの「神明社」を「遷宮社」と「同位同格」を示す為にも「皇祖神の子神の祖先神の象徴」として建立したと考えられます。
    その後に「19守護地」に「祖先神−神明社」を配置建立した事に成るのです。

    「最古の神明社」の意味
    前段で論じた様に、この事の意味する処として、どれほどに重要な主要地にも85社をも建立する事で「皇祖神の存在」を先ずは高めます。
    次ぎはこの「皇祖神」を最終的に伊勢に定めたのですが、これでは終わらずに、これを征討した地域まで全国的に広めるには、朝廷としては「経済的な問題」、「軍事的な問題」、「政治的な問題」を考慮すると、大蔵として困難であったのです。
    その為に、「3つの発祥源」として立身した「皇族賜姓族」に「国策氏」としてその役目を与えたのですが、与えた以上はこの「皇祖神」を何らかの形でこの役目柄を「国策氏」に遂行させる必要があります。
    その為には、「皇族賜姓族」に「祖先神の守護神」を先ずは与え、一つの「融合氏」を構築させ、その「社」を「神明社」として扱い、これを「皇祖神の子神」としての「役目柄の最高格式」を与えて普及させる目的があったのです。これで「国策氏」は役目の上での目的は果たせます。
    それには、「朝臣族」の「皇族賜姓族」に上記した様に「真人族の血流」を積極的に流す事で「家柄としての最高格式」も与える必要があったのです。
    それは「血縁する事」ではのみだけでは無く、「朝臣族」に「非力な真人族」を「融合化」させる事でもあったのです。
    その証拠に「皇族賜姓伊勢青木氏」の始祖の「伊勢王の施基皇子」には、前段で論じた様に大化期の改新に勲功が高く、天智天武天皇の14人の皇子中で皇太子よりも3階級も上で天皇に継ぐ位を与えたのです。永代の「淨大正一位」の位を与えたのです。
    (近江川島皇子も賜姓佐々木氏を受けてその位は最終「浄大正2位」の家柄と成ります。)

    A「役目柄の最高格式」
    B「家柄の最高格式」
    C「身分の格式」
    以上の3つの最高格式に加えて、
    D「蔭位の制」の「正一位の有品待遇の最高格式」
    「4つの格式」を与えたのです。

    この「4つの格式」に付加えて次ぎの事が力に成っているのです。
    E「親衛隊最高指揮官の軍事力」
    F「58万石の経済的背景」
    (平安末期以降は「商い」にて復興 総合力は4〜6倍以上の力を保持)
    以上の「2つの賜姓力」を持っていたのです。

    この「6つの賜姓力・権威力」を保持していたのです。
    その根底を支えていたのは次ぎの「無形の力」です。
    G「不入不倫の権」
    以上のどの氏族も持てない「特権」を持っていました。
    「有形と無形の力」としては以上の「7つの賜姓力と権威力」と成ります。

    この他に、無形の「特別賜姓族の抑止力」「神明系社の寺社力」等を加えると相並ぶ者は無かったと考えられます。全て天皇に継ぐ「最高位」の立場を保有していたのです。
    然し、これだけの「力」を保有していながら「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」(義家など)の様に世に有名を馳せたのでは無く、一般的な見方からすれば、 ”知る人ぞ知る”の立場に居たのは何故かであります。
    これは「皇族賜姓青木氏と特別賜姓族」の「2つの青木氏」に付いてであります。
    それは以下の事柄があって「世に出る事の効果」や「世に出ることの大儀」を著しく損なうからで「和」の下には何事に於いても「清・静・正」であらねば成らない世界に居たからであります。

    第1は「武」に頼らない「和の中立」の世界に居たからであります。
    第2は「国策氏」として「影の役目」の世界に居たからであります。
    第3は「3つの発祥源」の「象徴の立場」の世界に居たからであります。
    第4は「商い」をする「2足の草鞋策」の立場に居たからであります。
    第5は「御師・氏上・総師」として「慕われる立場」に居たからであります。
    第6は「皇祖神子神の祖先神−神明社」の氏族に居たからであります。

    どれを執ってしても「清・静・正」に居て初めてその「立場の保全」を全とう出来るのです。
    これ等の事柄(賜姓力・権威力)を一つの言葉にして「伊勢青木氏の口伝」として引き継がれて来た「伝統的な言葉」に ”世に晒す事相成らず”の「戒言」があるのです。

    ”世に晒す事に全て何事にも善き事なし””世に晒す事に大儀なし”と戒められて来たのです。

    これでは ”「清・静・正」だけで「動・活」が無いのか”と云うと、そうではないのかと云うと、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と説いていて、 ”「動・活」の中に真の「清・静・正」はない。”としているのです。この「真」と云う言葉に意味を持っています。
    然し、”これも「善」とすればそれも善し”と説いているのです。と云う事は、それも ”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とあって、”その咎は自らが負う。”と結んでいます。

    特記
    「河内源氏」は、この”「動・活」の中の「清・静・正」。”を採った事に成ります。然し、”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とありますから、「河内源氏」は分家の立場にあるとしても、少なくとも「嵯峨期の詔勅の賜姓族」でありますから、「2つの青木氏」から観れば間違っていた事に成ります。
    「満仲への怨嗟」や「義家への私闘・叱責」や「頼朝への軋轢」の政権側からの結論から観れば、「2つの青木氏」と同じ見解を当時は持っていた事を物語ります。
    史実は、「源平の覇権争い」と成っていますが、実際は河内源氏の「頼朝の鎌倉幕府」が出来上がりますが2年後にトリカブトで毒殺され、一族は4年以内に全て抹殺されます。
    通説では「源氏の幕府」とされていますが、青木氏側から観れば、行き詰まりにあった考えられます。
    結局、利用されて滅亡の憂き目を受けたのですから、「真」の「清・静・正」では無かった事に成ります。
    これは恐らくは「嵯峨期の賜姓の詔勅」は「経済的軽減の賜姓」のみにあった事を意味します。

    「2つの青木氏]からすれば、”それでも朝臣族ではなかったのか”と、”「朝臣族]であるのなら賜姓如何に関らず、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と成る筈です。
    この「戒言」はこの事を観ても、より子々孫々に伝える口伝としたのであると観られ、且つ又、「青木氏家訓10訓の精神」に成っているのです。
    要は賜姓族の生き様は家訓に示すその一族をリードする「長の心得」で決るのです。

    (参考 正直に若い時はこの意味が良く解らなかったし、逆の考えをしていた。青木氏を研究しだして次第に理解が進んだ。これは禅問答の域であるし、千利休の茶道の「侘、寂の極意」であろうし、「山川草木の枯れ山水の極意」であろう。)

    兎にも角にも、これ以上(A〜G 第1〜第6)を与えられると、普通ではあり得ないし”「動・活」の中の「清・静・正」。”となるのは必定です。然しそれでは生き延びられないと誡めていたのです。
    「朝臣族」で「賜姓族」であるとしても、最早、何れの「真人族」であろうとこれ以上の者はあり得ません。
    あるとすると、それは「天皇」なのです。然し、「臣下族」であるのです。誡めに誡めなければ成りません。
    然し、「国策氏としての宿命」として「真人族との融合化」を図らねば成らないのです。
    この行為は上記の戒言からは矛盾です。
    つまり、「真人族」にとっては、「賜姓族の朝臣族」(青木氏)であるとしても上記した様に実質は遥かに上位なのですから、上位(真人族)から下位(賜姓族)への血縁であっても「真人族から朝臣族への同族血縁の融合化」は正常なのです。皇族の慣習破りではないのです。

    その証拠が一つあるのです。平安初期直前に「第6位皇子」の「伊勢王の施基皇子」の賜姓族の青木氏の嫡子(長男)である光仁天皇が誕生したのです。本来は「4世族内第6位皇子末裔」には「皇位継承権」はありません。
    奈良期では大化期642年から始まった「女系天皇」が780年までの間に累代14代の天皇が生まれ、その内、重祚を含めて女系天皇7代も続いた事から、正規の「皇位継承者」は無く成り、歴史上唯一の「例外天皇」と成ったのです。
    然し、ところが上記の通り実質例外ではないのです。どんな「皇位継承権者」でもこれ以上の家柄を持った「皇族の同族融合血縁族」の「皇族氏」は歴史上には出て来ません。
    そして、この「賜姓伊勢青木氏」とタグを組む他の「4家4流皇族賜姓族」の青木氏は、「皇族の融合化」をも推し進めたのです。
    この様な力の持った真に「皇族の副軸」と成った「賜姓族」に対して、つまり、その「皇族の統一融合族」の「血縁氏」と成った「青木氏」に、天智天皇から始まる歴代天皇は「皇祖神の子神」としてその責務を与え各地に「神明社」を建立させたのです。
    その「象徴社」の「基点社」としたのが何とこの「最古の神明社」であったのです。
    故に、神宮に相当する「遷宮社」85の一つなのです。
    天智・天武天皇は上記の意味を込めて「遷宮社」でもある「最古の神明社」を以ってして「子神としての神明社」を先ずは世に強く宣言をしたのです。

    (特記)
    前段でも論じ前記でも論じたましたが、逆に、この勢力の持った「賜姓族」は、天皇を助け「皇親政治」の「親政族」としても活躍をしていたのですが、「賜姓族青木氏の象徴祖」の「光仁天皇」の子供の「桓武天皇」(青木氏の遠戚天皇)は、この「5家5流の皇族賜姓族」を「律令政治国家建設」を建前に排除し、「親政族」、即ち、[力を付けた賜姓族]は憂き目を受けたのです。
    故に、「桓武天皇」はこの「青木氏」に代わり自らが「神明社建立」20を実行したのです。

    とすると、”何故に父の実家の親族の伊勢青木氏に圧力を掛けたのか”と云う疑問です。
    実家先だからこそ、”世に対して「律令政治国家建設」を宣言する”効果があって、且つ、逆の「親政政治」の主導者でもあった筆頭の実家先を追い落とす事で、天下にその姿勢・意思を強力に示したとも受け取れます。「律令政治国家建設」の為に”青木氏に犠牲を負って貰った”と成ります。
    「実家先の親政族」をそのままにしておけば「律令国家建設実行」の民の印象は、””どっちにするのだ”と非難され低下し、「律令国家建設実行」を敷かなければ「国体の形成」は無く成り、「親政政治」を敷き続ける事になります。
    「親政政治]≠「律令政治」と「青木氏」=「桓武天皇」の関係式論の柵からから起った宿命であって、「親政政治」≠「青木氏」≠「桓武天皇」であれば何の問題も無かった事に成ります。
    「5家5流賜姓族」は、この時 ”身内から天皇が出た 更に発展するぞ” と喜ぶべきか、”最早、滅亡か衰退するぞ” と警戒すか、如何ばかりであったか想像すると先祖の生き様の様子が目に映ります。

    筆者は、上記の様に、賜姓一族の「宗家主義」≠「子孫量」の大問題を抱えて苦悩している時に起った事件です。”これで解決するぞ” と一時思った瞬間に ”朝廷内の様子が変だ 争いが起こっているぞ” そして、”これは大変な事に成ったぞ 何とかしなくては” 反対派に八方手を尽くすが形成不利に成った。 
    ”生き延びる方法を考えなくては” と成って、”そうだ、「商い」だ 紙だ” と成ったと観ているのです。
    ”そうだ 隣りの帰化人の伊賀者に相談しよう” と云う本論で論じている経緯が起ったのです。
     
    「8つ目の力」と「空白期間の意味」
    この為に「3家の皇族賜姓族」は「8つ目の力」として生き延びる為に、下記の空白期間を利用して律令制度の中で「商いの基礎力」を培います。この「2足の草鞋策」は伊賀の「古代和紙の殖産」を採用したのです。そして、それを信濃と甲斐にもこの「古代和紙の殖産」を移したのです。

    (参考 近江と美濃にも移植 和紙通では「近江和紙」は”トリノコ”の呼称で有名 「美濃和紙」は”ミノシ”で有名 近江・美濃和紙は平安末期衰退する。近江や美濃や信濃や甲斐の「古代和紙」の歴史には凡そ1000年とする記録がある。「古代和紙の伊賀和紙」1350年歴史とする記録と移殖時期と一致する。)

    「近江」と「美濃」の2家は、「古代和紙の殖産」に同調するが、この平安期のこの時期には殖産するも「税」として扱う程度で、本格的に追随(商い)しなかったのです。

    衰退の原因が「排除軋轢」とすれば、「桓武天皇20年後没」(806年)頃で賜姓青木氏は復興する筈であったのですが、その後、「賜姓青木氏」に代わって勢力を持った「賜姓源氏」(嵯峨天皇の政策方針・詔勅)が台頭し、難しく成ったのです。
    その間、「神明社の建立」は止まり、期待していた代わりの11代の多くの「賜姓源氏」も「真人族化」し非力であり、前段でも論じた様に、挙句は神明社を建立せずに成長したと思った清和源氏(876年没)の河内源氏が「八幡社の建立」(国家鎮魂から武神に)の方向へと荘園制を利用して勝手に走ってしまったのです。(「私闘」と「公闘」の差)
    朝廷としては「賜姓青木氏」に代えての「賜姓源氏」がとんだ思惑違いであった事に成ります。

    (特記 「摂津源氏」の宗家に対して「国家鎮魂の荒廃した八幡社の修復」を命ずるが進まず。全ての面での「修復能力」は無かったと考えられる。)

    「3つの発祥源」ではなく「賜姓族の本質」を忘れ「武の勢力」に走った事に成ります。これが、蘇れなかった「空白期間の原因−1」であります。

    (特記 「八幡社」は豊前国の宇佐郡の「神祇信仰」(860年頃)から始まり、その後、奈良に移り、奈良では朝廷に取り入れられ、本来「国家鎮魂の神」として崇められたのです。(神仏習合)
    これが後に「河内源氏」(義家の頃1106年没)の守護神となり、その荘園制による名義氏「未勘氏族」に依って「武の神」として換えられてしまったのです。
    その後、賜姓有無に関らず源氏は復興し始めた頃(1125年代頃)の「5家5流の賜姓族青木氏」に跡目を入れた。)

    (特記 数少なくなった荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を朝廷は憂い「摂津源氏」に命じて修復させ、この「摂津源氏」の赴任先のこの「融合血縁族」でもある「神明族の皇族賜姓信濃青木氏」に「国家鎮魂の八幡社の神官職」を依頼し務めた。その後、「摂津清和源氏」衰退で「国家鎮魂の八幡社修復計画」も消滅した。経済力も然る事ながら、寺社建設の匠の職能集団も持っていなかった。特別賜姓族は一門の中に建設工事を専門とする工頭の結城氏が居た。)

    しかし、その後、再び全国に「神明社」を建立する役目を更に遂行させる「政治的状況」が強く成ったのです。これを憂いた「円融天皇(984年没)の政治的な裁断」で「特別賜姓族」(970年頃)を発祥させて「皇族賜姓青木氏」を支えさせて再び引き上げます。
    且つ、「2足の草鞋策」(1025年頃)で勢力を盛り返し始めるまでの間、衰退(786年)から動きだしまで(880年頃)には100年程度を経過したのです。
    「特別賜姓族の援護」を得て少なくとも「元の勢力」(「7つの権威力」の程度)に戻るまでには年数としては、累計約200年(970年)を経過した事に成ります。

    その上記した「7つの勢力」と「平安中期以降との衰退落差」は激しいものがあった事が判り、「桓武天皇(806年没)の青木氏締め出し」がどれほど厳しいものであったかは判ります。
    その「締め出し策」は、その後の復興を勘案すると、E「親衛隊最高指揮官の軍事力」とF「58万石の経済的背景」を外された事の為に起った「経済的な締め出し」であった事が判ります。
    これが「空白期間の原因−2」であります。
    (返ってこれが立ち直りの起爆剤と成り「商い変革」を起した。)

    「伊勢青木氏」と同様に「他の皇族賜姓族」も同じ仕打ちを受けたのです。
    後の「5つの勢力」は「永代」であった事から外す事は出来ず、依然、その後も生かされていた事が記録から判ります。(上記)

    (特記 その後の賜姓伊勢青木氏の祖先の官職名には室町末期まで(右衛門)・左衛門・兵衛・民部が付いている。永代官職名であったからである。「特別賜姓族伊勢青木氏」にも付いている。)

    実は、筆者は「衰退期間 空白期間100年(786−880年)」は本来であるのなら長過ぎると考えていて、「皇族賜姓族」の中には、特に衰退中は「伊勢青木氏」の中にはこれを指揮するだけの「長の能力」と「職人数などの建設能力」に欠けていたとも見て居るのです。
    せいぜい「桓武天皇20年後」の「第2期の親政政治」を採用した「嵯峨天皇」に代わってから20年程度で戻せる筈で、残りの50年程度は「経済力の低下」を含めて「賜姓青木氏側」にもこの「2つの問題」があったと考えられます。これが「空白期間の原因−3」であります。

    実は、この「衰退期間」、或いは、「空白期間」100年の「後半の50年程度」の期間の「神明社建立」の記録が殆ど発見できないのです。「八幡社の時期」(1030年頃)でもありません。
    その後の100年後の「後の50年の範囲」(150年)では、徐々に発見できるのですが、調査の神明社記録から100年−1社/15年程度(凡そ社数5社程度弱 維持管理か)での創建年数しか発見出来ないのです。(維持管理する程度の能力が限界か)
    この時期は「紙文化」までの切り替え時期でもあった事から、先ず「紙文化」に大きく左右されていた事が覗えます。つまり「復興する基盤」が未だ充分に成熟していなかったのです。
    ”梃子と成るまでには「紙文化」は成熟していなかったか、文化に対応する「殖産能力」が未だ完成していなかったか”の何れかであります。筆者は両方であると観ています。
    これが「空白期間の原因−4」であります。

    この間は「青木氏の世代数」としては2代程度に成り、この間、「皇族賜姓族」から立場を変えて急に「商い」をする訳ですから、「2足の草鞋策」を遂行するだけの「商い能力」(「長としての商いの器量」 試行錯誤・孤軍奮闘の時期)が充分ではなかった事も伺えます。
    当然に「大商い」とするだけの「紙の殖産態勢」の成熟が「伊勢と信濃」に於いて間に合わなかった事が覗えます。これが「空白期間の原因−5」であります。

    「商い」に伴なう態勢の内、「輸送力とそれを護る態勢の構築」にも時間が掛かった事が覗えます。
    つまり「シンジケートの構築」であります。これが最も時間が掛かったのではないかと考えられます。直ぐに構築しょうとしても出来る組織ではありません。
    それには、まずそれを支えるには「充分な財力」と「シンジケート構成要員」が必要です。
    この「2つの条件」と「時代の環境変化」とのマッチングが合わない事には構築する事は出来ない筈です。その「時代環境の充実」と「充分な財力」と「大量殖産態勢の構築」の「大商いの3つの条件」が合致してこそ「シンジケート構築」(嵯峨期の賜姓詔勅のリスク)が出来るのです。
    財力が伴なうに連れて嵯峨期より少しづつ構築して行ったのです。(退避地の構築と維持管理等も伴なう)
    「空白期間の原因」の内で最大に時間が掛かり難しい問題です。これが「空白期間の原因−6」であります。

    確証出来る幾つかの資料の記録からはこの様な原因を読み取る事が出来ます。
    何にしても”「100年の復興」は長過ぎた”と本来では考えますが、考え方に依れば、この「6つの空白期間の原因」からすると「未来の子々孫々の形」から考えればむしろ短いとも取れます。
    考察してみますと、そもそも、この「100年の期間」の「当時の商い方法」は、未だ時代的に「殖産量産態勢」(一貫生産販売態勢)と云う形は青木氏が初めての記録ではないかと観ています。
    現在で云う「総合商社」であったのです。それまでは「部制度による生産と市場経済」(計画生産と残余放出市場)であったのですから、「殖産−量産−販売の態勢化」は当時の社会の別の「新システム」であったのです。それだけに時間が掛かります。
    恐らくは、「商い」を得て賜姓族を復興させるには普通の「商いの仕方」では賜姓族に与えられた「国策の責務」を遂行する事は不可能です。そのために考え試行し一つの形に確立させるには相当な時間が掛かります。この「商いの革命」とまで云える事が本来の考え方ではなく完成までの200年は短いと考えているのです。上記で”本来であれば”とした事は、”長くは無く短かった”のです。
    当時としては、恐らくは、「殖産−量産−販売の態勢化」は発想外の「商いシステム」で社会の体制の全体が現在の様にその様に成っていないのです。取分け、「商いの安全」と云う面で考慮すれば雲泥の差で「不可能」の結論が出る筈です。
    次第に「嵯峨期の賜姓詔勅リスク」を果す中で、この「シンジケート策」の「商いとの連動」を模索し確立させたのだと考えられます。シンジケートを確立させるだけでも「至難の業」であります。
    それを成し遂げ、遂にはその新しい画期的な「殖産−量産−販売の態勢化」の「商い」に連動させると云う考えられない「離れ業」を成し遂げたのです。
    そして、それに加えて、「総合商社的な大商い」に改革を進めたのです。

    (特記 伊勢青木氏の記録に遺されている。この為に「海陸の運送改革」も実行されている。千石船3隻と瀬戸内の海鮮業と廻船問屋を営む讃岐青木氏との連携を構築する。)

    「寺社建築」と「紙」を主としますが、記録によるとそれに伴なう関連品、火薬、武器、家具、骨董、絵画、食料、材木、建築材、リサイクル品、花火などの商品と「手配師」(口入業 青木氏が抱える職能集団の手配)をも扱っていた事が資料から判ります。「商い」の始めは神明社建設に伴う関連品と紙を主体としていたのですが、徐々に間口を広げていった事が判ります。真に貿易も行う「総合商社」でした。

    (参考 因みに、中には面白いものとして資料から、”元禄の浅野家開城の際に瀬戸内に船を廻し、千石船三艘を出して、浅野家家財を買い取った”とする記録が遺されています。廻船業の讃岐青木氏の協力を得た。)

    この後半の成熟期の頃の1160年代に隣の伊賀の「たいら族の清盛」が「宗貿易」を「瀬戸内の産物」で構築して巨万の富を得ています。
    この事から、この時期には青木氏は「2足の草鞋策」(1125年 青木氏の記録)には既に成功している時ですから、清盛(1181年没)は隣りの伊賀和紙で繋がるこの青木氏からこの商法を間違い無く学んだと観ているのです。

    (特記)
    「伊賀和紙」は「清盛の実家」の産物でこれを扱うのは「青木氏」、和紙を作るのは阿多倍の職人伊賀人、伊賀は大化期に阿多倍に与えた「伊勢の半国割譲地」、「530年来の隣の住人」、「伊勢青木氏の跡目京綱」から「以仁王の乱」の兄弟の「源の有綱と宗綱の助命嘆願」に応じた事等の関係から、間違い無く、「青木氏の商い」を間違い無く学んだ筈で間近に観ていた筈です。これを「平清盛」は「源の義経」に教えたとする記録もあるのです。

    (参考 摂津源氏四家宗家三位源頼政の子仲綱の子の有綱、宗綱は日向に配流 その配流孫は日向青木氏 伊勢青木氏京綱と兄弟)

    この特記の史実からしても、凡そ「1025年」を境に「前半150年の復興期」と「後半の150年の成熟期」とに別けられます。そして、「前半の200年頃が衰退空白期」、「後半の200年頃が絶頂期」と成ります。

    「200年」は「特別賜姓族」の援護を受け「紙文化」の進行で上記の6つの原因が解決され「2足の草鞋策」が軌道に乗り、「神明社建立(4社/5年)」を再び続けられる能力を復帰させた時期を意味します。
    この期間と時期は納得出来るのです。その意味で、この「2足の草鞋策」がEとFを補った事から復興し、Eの力は無くしたものの「円融天皇」により再び本領安堵され、それをベースにこのFの数倍に代わる力を保持した事に依ります。
    Eの力はその後、平安末期後の時代の変化と共に必要としなく成ったのです。
    むしろ、必要としなく成った事の方が、「皇族賜姓族」に執っては幸いしたと云えるのです。
    反って、「6つの問題」を解決し「子々孫々の形」が充分に整えられ、その結果、「生き様」に余裕が出てたのです。
    そして、その「生き様の形」が「武」の勢力を捨て「和」の勢力へと「生き様」を完全に切り替えする機会を得た事に成ります。
    それがあらゆる面での負担減と成り、それが益々「2足の草鞋策」を推進する「足場」と成ったのです。そしてこれ等の基盤が平安期を越えて「神明社建立」と云う形で室町期まで続いたのです。
    これ等全ては、まさしく「特別賜姓族の援護」を得た事に因るのです。
    そして、それを裁断した「円融天皇」の御蔭であると云えます。
    これで平安末期以降の「新時代の神明社建立の責務」に邁進出来たのです。
    この「神明社建立」が「民の賛同」を得て「氏上様、御師、総師」と崇められ、それが「青木氏の態勢」を勇気付けさせたのです。
    この状態は明治35年まで続いたのです。

    (参考 その後、室町期の混乱期を経て、「神明系5社」は江戸幕府の財産として引き継がれ、青木氏の浄土宗寺の保全」と「浄土宗督奨令」と共に、寛永の頃から神明系5社の「復元修復作業」が幕末まで続いたのです。)
    (伊勢松阪の大火で出火元 全財産をなげうって賠償 菩提寺も焼失 この時点で「伊勢青木氏」の分家が大阪で紙商(現存)を営み、「信濃青木氏」(現存)も商いを縮小した事が記述されているのです。信濃青木氏とは明治35年を境に親交関係は途絶える。)

    これ等は重複して何度も前段でも論じて来ましたが、この「最古の神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在しますが、この「最古の神明社」の持つ意味は青木氏そのものの始まりなのです。青木氏の象徴なのです。
    その「青木氏」は冒頭の「基本デ−タ1」と「基本データ2」から始まったのです。
    当時(平安期)の「皇族関係者の同族血縁慣習」に基づいて「副軸」として「氏家」は構築されて来たのです。
    この様に「最古の神明社」と云う視点から其処から伸びる枝葉を改めて論じてみました。
    現在も研究を続けていますが、なかなか難しくとりわけ資料の発見が個人情報の法的枠が働き困難と成っています。
    本論の22までの中で更に巾を広げて研究しなくては成らない事がありましたが、青木氏に関する子孫に遺す事の出来る研究範囲は、”最早、この辺が限界かな”と感じています。
    後は本段の様に、「存在する資料」に対して「別の視点」からの考察に成るのでは無いかと観ています。


    参考資料等
    日本書紀 古事記、六国史、氏族志、新撰姓氏録、尊卑分脈、寛永諸家系図、伝諸家系図纂、寛政重修諸家譜、中臣氏系譜、武蔵7党系図、大日本史、累聚三大格、 他20史録と地方史録と外国の研究資料、五大歴史小説家の資料と論文、伊勢青木氏信濃青木氏等の資料と添書と口伝、佐々木氏研究資料、国史資料等、 並びに関係協力者の知識と多くの資料と雑学の提供

      [青木氏の守護神(神明社)]  完


      [No.289] Re:青木氏と守護神(神明社)−21
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/09/28(Fri) 06:46:09  

    「社名つき神社」

    神社   ・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3
         ・計15/418=3.58%

         *山梨3*長野1*富山1*石川1
         *計6/148≧4.05%

         +宮崎3(皇祖神発祥の特別地)

         −鹿児島3−北海道1
         
         −印は虚偽地

    ・印に付いて、「新潟6」を除き、後の3県は特別賜姓族とは直接に移動定住地等の関係はありません。
    本拠地周辺に神明社17、神明神社15を建設し、神明宮21を合せて53社も建設して呼称しているのにわざわざ「・・神社」系等を建てる、呼称する必要性があるのかと云う矛盾が起こります。
    まして、周囲には220社も建立していて、「仕来り、決り事、規則慣習」で「神明宮」を支流一門に建立させているのです。この様にきっちりとした態度で「3つの神明」を建立している中で、果たして、「・・神社」にしなければ成らない理由があるのでしょうか。無い筈です。
    あるとするならば、その地域独自の「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いて、「仕来り、決り事、規則慣習」を凌ぐ事と成ったと考えられます。圏域内ではこれを押さえ込む力が働いていた事を物語ります。
    この関係を数式に表すと次ぎの様に成ります。

    「建設条件の数式」
    A 圏域内→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
    B 圏域外→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

    そもそも、「皇族賜姓族」、「特別賜姓族」にしても全国組まなくこの、「仕来り、決り事、規則慣習」を押し通す事は不可能です。
    せいぜい、「讃岐籐氏の讃岐青木氏」の圏域まででその広島付近までですから、従って、「佐賀」や「徳島」はこの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いた事は確実です。
    それ以外に「神明系社」でありながら、一般呼称の「・・神社」にしなければ成らない理由が先ずは見付かりません。そこで地域毎に検証してみます。

    「佐賀1」
    先ず、・「佐賀1」に付いては、「大蔵氏の勢力範囲」の中心地です。「遠の朝廷」の自治区の「太宰大監」の大宰府の隣で有ります。隣と云っても現在の県域ですから、大宰府の中心と云っても過言ではありません。
    確かに、長崎と佐賀域には秀郷一門が赴任地定住としていた地域があります。唯一、「北九州地域」として「青木村」があった事も確認出来ますし、末裔の存在も確認出来ます。
    然し、 ”「大蔵氏勢力圏・産土神」と「小さい青木村」のことから「神明系の社の建立と呼称」は果たして可能なのか” との疑問が生まれます。
    仮に「2つの青木氏」と「秀郷一門末裔と藤原北家筋」等が建立したとしても ”「神明社系」としては許可は出なかったのではないか” と考えられます。
    鎌倉期、室町中期では、「平安期の自治」が無く成ったとしても、依然それに相当する勢力を張っていたのですし、まして「大蔵氏勢力圏・産土神」の真ん中では「大蔵氏の自治」や「勢力統治」の中では許可は、反対が各所から起こり出なかったと考えられます。
    まして、出雲社と同じく宗教界の重鎮の「宗像神社」の社域圏でもあります。
    それを押し通す勢力は先ず有り得ず、遠い地域のところに「神明社」としての「建立と呼称」は明らかに無理であります。
    そこで、争いを避ける為に ”「一般呼称の神社」として「建立と呼称の許可」が下りたのではないか” と考えられ、 ”北九州の一門の関係族の独自の許可申請での建立であった” と観られます。
    故に「・・神社」になったのです。
    つまり、「心の問題」の領域であり「政治的、宗教的抗争」の所以ではない事が判ります。
    従って、福岡ではなく隣の青木村のある{佐賀1社]なのです。
    「政治的、宗教的抗争」であれば1社では抗争には成り得ませんし、継続して北九州に及ぶまでの圏域にも「建立と呼称」を続けてこそ目的は達成される筈です。
    この「佐賀1」は明らかに秀郷一門の定住地九州末裔の「心の拠り所の建設」であり、それ故に一般的な「・・神社」としたのです。
    然し、その「建設様式等の要件」では「神明形式」を維持しているのです。つまり、これは ”寺社匠を関東の本領から呼び寄せての建設であった”と考えられます。
    一門だからと云って神明系の弱い地域に専門の「寺社匠の調達」は難しい筈ですから、上記の事に成るのです。
    当時は「自由市場」の現在とは違うのです。低下したとは云え「賜姓族社会の領域」では「部経済」が半ば存在したのです。
    前段で論じた様に、現に「自らの氏」が「自らの抱えている職人集団」で「自らの力」で「寺社建設」をすると云う社会の中では、尚更、「神明系社」と云う特異な環境では、前段でも論じた様に、未だ「2つの青木氏」が独自に職人家人との間に「2つの絆の社会」を構築し、「絆青木氏」名乗るなどの徒弟制度を構築する果ての建立であったのです。
    故に、「・・神社」は上記の「建設条件の数式」(A、B)が成り立つのです。
    依って、「佐賀1」の結論は、「環境タイプ」の「社名付き神社の呼称」であるのです。

    「徳島3」
    ・「徳島3」は、確かに秀郷一門の主要一族の剣片喰族の阿波青木氏の移動定住地ですが、ここには秀郷流の遠戚の関東北と北陸東域に勢力張っていた「利仁流藤原氏」が大勢を占める地域でもあります。
    実はこの「徳島3」は、この同族血縁の「二つの融合族」の多い所でもあります。
    この「阿波青木氏」と「利仁流藤原氏」が「神明系社の建設」に及ぶには、その勢力は充分であり、四国と云う「地理的な独自性」を保有しながらも、「・・神社」はおろか「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」の建設でもその要件は充分であります。その建設要件は充分で欠ける事はありません。

    この「剣片喰族」は「神明社と神明神社」の多い「愛知」にも同族を固めていて「建設条件」のみならず勢力的にも一門の主要8氏の一つなのです。
    然し、問題は「特別賜姓族の青木氏」とその「利仁流大遠戚族」であるのですが、讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と同じく、四国は「賜姓族系地域」としても当時は「別扱いの中」にあったのです。

    兵庫以西には「讃岐青木氏」の「瀬戸内の広島」は考えられますが、前段でも論じた様に、広島と讃岐は充分な「別扱いの地域」です。原則、四国を含む兵庫以西は「指定された神明地域」とは「別扱い」と成ります。
    因って、「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」としての「建立と呼称」は、「仕来り、決り事、規則慣習」が成り立たず、これを無視してまでも無理に建立する事をせず「・・神社」とする以外になかったと考えられます。
    上記の「建設条件の数式」Bで云えば右辺が0という事に成るのです。
    つまり、秀郷一門の「縁阻地」(指定外地域)には、元より「社名付き神社の呼称」が採用される「仕来り、決り事、規則慣習」があった事を物語ります。(「縁阻地」(決−38)
    無視すれば、宗家からの厳しい処置が働きますし、現実に青木氏宗家からの「職人調達」は困難であります。それを押してまでもの独自性ではなかった筈です。
    それだけに、「仕来り、決り事、規則慣習」を一族の者がこれを破られば「第2の宗家」たる「特別賜姓族」の立場はありませんし、強行すれば放置できずに糾弾される筈です。
    そんなにまでして「同族争い」をしてまで護らない事はありません。それ程に「呼称」には重きを置いていた事を物語るものです。

    「縁阻地」(指定外地域)の他に「神明系3社外」に適用する「呼称」であった事が判ります。
    当然に数式の「右辺=0」以外にも、「縁阻地」(指定外地域)=0の条件で「建設条件の数式」のA、Bが共に「左右辺=0」と云う環境の時にも「・・神社」の「呼称」が適用されていたのです。
    これは「神明系」である事の有無に拘らず平安期の朝廷に依って決められていたのです。」
    (否神明地」(指定外地域) 決−39)
    結論として、徳島3は「縁阻地」(指定外地域)タイプの呼称であったのです。

    「岩手5」
    ・「岩手5」は、上記でも論じている地域ですが、「元広域陸奥圏」ですが、「神明社4」のみの地域であり「神明神社と神明宮」はありません。
    合せて「9社」しかない地域で「4−6の規則」から「2社/県」で観ても少な過ぎます。
    ただ、この地域には秀郷一門の主要族が定住していません。「支流血縁族」です。
    要するに、Aタイプの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」が成立するものの、「支流血縁族」と云う形では、一種、「徳島」と同様の「縁阻地」の部類でもあります。
    まして、「狭域陸奥域の末端圏」ですので「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社建立と呼称」は困難で、この「神明社4」は、この地域の神社社歴から観て建立年代は明確ではありませんが、古い事を主張しているのが多い事なのです。
    この事から、桓武天皇期の征夷征討期の「20社」の内の「国家事業の2」と「特別賜姓族の2/31」の合せて「4社の建立」であったと見られます。「社歴の古社」の主張はある程度納得出来ます。

    そこで、社名付きの「・・神社」とするには、本来、補足する事は「支流族の勤め」としても、この地域にはそれを実行する充分な能力のある「支流族」は定住していません。当然に青木村も全く存在しません。
    つまり、「Aタイプ」ではあるのですが、極めて、指定外地域ではない単なる「縁阻地」です。
    そうすると、どの様にして「5社」も建てたのでしょうか。誰が何時、建てたのでしょうか。
    実はこの「・・神社」は特定の他氏が建立できる権利を有する「普通一般の呼称」の「・・神社」ではないのです。

    何とも聞き慣れない「天照御祖神社」呼称(あまてらすみおや神社)の5なのです。
    本来であれば「其の他」に入れるところですが、ある種の意味を持つので社名付きの「・・神社」の呼称に入れました。
    正式呼称に「天照大神宮」が有りますが、これに似せての呼称と成っていて、これは「岩手のみの呼称」です。
    この「御租」(みおや)は「天照」の別呼称で、この名は摂社等123社の中にもあり使われています。
    つまり、「天照」を2度重ねて呼称している事に成ります。「青木」であれば「青木青木」と呼称している事に成り馬鹿げています。
    39もの「仕来り、決り事、規則慣習」の「権威や威厳」を重んじての呼称でありながら、これでは「権威、威厳」がありません。明らかに正規のものではない事は良く判ります。
    「分霊の許可」が取れなかったか、何らかの理由で変名したか、青木氏外の建立なのか、等推測が立ちます。そもそも「血縁支流族」の無い「広域陸奥の南端域」です。
    秀郷一門の建立するに必要とする「勢力圏外」ですし、その意味では「建設不可能な地域」です。
    それが下記の5社ですので、これには何らかのシステムが働いています。
    それは、この神社の中に「親社」があってその「子社」の系列社である事も考えられます。
    そうすると、この「5社の建立維持管理」となると相当なこの地方の豪族と成ります。
    ところが、この5社外に正規の「分霊社」2社が陸奥北端と南端に存在するのです。
    これ等の重要な史実からは明らかに疑問です。

    次ぎの「疑問社」があるのです。

    「疑問5社」
    天照御祖神社  大船渡市三陸町綾里田浜
    天照御祖神社  釜石市唐丹町片岸
    天照御祖神社  陸前高田市高田町松峰
    天照御祖神社  気仙郡住田町世田米
    伊勢両宮神社  遠野市上郷町細越   

    「正規2社」
    天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田   広域陸奥北端域
    天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井  広域陸奥南端域

    前の「疑問5社」は、岩手県の最南端太平洋側の宮城に隣接する「5地域」(リアス式沿岸部の北側)から「釜石、大船渡、陸前」が並び、この「3地域」の内側に隣接する「気仙、遠野」の「2地域」に集中しています。
    戦国時代は、ここは次ぎの3氏が支配しています。
    葛西氏、国分氏、大崎氏、 以上の3小藩の地です。
    江戸時代は、次ぎの3氏が支配しています。
    伊達氏、板倉氏、相馬氏  以上の3藩の地です。

    明らかに、この室町期と観られる「疑問5社」は1氏が、建立は兎も角も、祭祀した事が云えます。
    と云うのは、「伊勢両宮神社」と云う禁令を破る同じ「疑問名社」の遠野の「社」がある処から観ても、統一して何れかの1氏に依る祭祀と考えられます。

    「禁令」を公然と破るだけの「異端児、異端氏」、そうなると、能力から観てこの3小藩では無い事が云えます。そうすると自然と答えは出ています。

    この様な「5社」を建立、又は呼称する事が出来たのは、この「5地域」を支配した室町期から勃興した「江戸期」の大藩「伊達氏」だけです。
    但し、”建立を伊達氏が行った” かは疑問で、「社歴と様式」からは上記した様に少なくとも「伊達氏」より古い事から、「広域陸奥域」の時に「特別賜姓族」によって建立されたと考えられ、その後に、”伊達氏がそれを政治的、戦略的目的の為に維持管理した” と成ります。

    つまり、そのやり方に付いては次ぎの様に成ります。
    先ず、その内1社を「親社」として「社名」を「伊達氏の建立」とし、社名を「変名」して「伊達氏」が「分祀」か「分社」により5社に広めたと考えられます。
    要するにここの「正規社の親社の権威」を利用したのです。
    ではその「親社」の「1社」とは何処にあるのでしょうか。実は確実で納得出来る地域に建立されているのです。
    その内の「親社」が「正規2社」の内の広域陸奥最南端の「大船渡の正規社」であったと「社歴や様式」から判別する事が出来ます。

    後の「正規社」、即ち「分霊社の2社」(正規2社)の内の1社は、青森に隣接する2地域(岩手町と葛巻町)岩手郡に存在します。
    この地域は「支流血縁族」のある秀郷一門と「特別賜姓族」のぎりぎりの勢力圏内です。
    この地域は平安期で観ると、秀郷一門が平安期から支配する「峡域陸奥域」の岩手側で確実な勢力圏にあります。

    戦国時代前半からは、この地は「陸奥斯波氏」(信濃足利氏)と「南部氏」ですが、江戸時代まで支配したのは「南部氏」だけです。

    (戦国時代−室町期末期の11国を支配する日本一最大の大名で室町幕府足利氏の本家の創健氏で「信濃足利氏」です。守護代の織田氏の主君で、この斯波氏を倒して尾張を獲得した)

    当然に、この「分霊社の正規社」は秀郷一門の「特別賜姓族」の青木氏の平安期の建立である事が社歴からも判ります。
    そもそも、この地域は江戸時代直前まで秀郷一門の本家筋の下総結城氏の長い間の支配地であったのです。
    (末裔が陸奥白河の自領に移動して「白河結城氏」と成るが、前段でも論じた「有名な陸奥の戦い」で天正17年に豊臣秀吉に滅ぼされる)

    結局、「秀郷流青木氏」、「信濃足利氏」の「陸奥斯波氏」、秀郷一門宗家筋の「永嶋族結城氏」、そして、戦国末期から江戸末期まで「南部氏」に引き継がれた地域です。
    つまり、建立者の「特別賜姓族」から江戸時代末期までこの戦国大名に引き継がれた事に成ります。

    もう一つの大船渡の南域の「分霊社の正規社」は、宮城の北地域に隣接する大船渡の太平洋側沿岸部の三陸町にあります。
    これが上記「疑問5社」の親社と成ったと観られる分霊による「正規社」です。
    ここに伊達氏による「疑問5社」と「正規社」との2社が存在していた事に成ります。

    では、この「正規社」は誰が何時、建立したのでしょうか。
    この地域は上記「岩手」でも論じた様に、「広域陸奥」の平安期末期以降は極めて「不安定地域」であった事から、「歴史的経緯による消失」や「3つの災難」を免れたとすると、秀郷一門と「特別賜姓族」の圏域外でありますので、その前に建立されていた事に成ります。
    室町の時期と場所から観て、少なくとも「特別賜姓族」が落ち着いて建立する事は困難であった事を意味します。
    そうすると「社歴」等を信用するとして「様式」から平安期初期から中期頃と成ります。
    この時期には、「蝦夷征討」で「広域陸奥」の宮城の「多賀城」を基点として岩手の「担沢城」、「志波城」が建設され、ここを「政庁の拠点」として「広域陸奥域31郡」を統治していたのです。

    然し、この時期の国司には、この「31郡の広域陸奥」には「100社」あると云われる低格式の「村社」を毎年巡る義務を負っていました。
    ところが、これが国司に執って経済的にも時間的にも大変な事なのです。
    この為に、陸奥国司はこの「多賀城」の近くに「総社宮」を造り、此処1ヶ所で「参拝祭祀の業務事」を済ましました。
    ところが、この方式が各国の国司には爆発的に人気と成り、この「総社」方式が全国に一気一斉に広まってしまったのです。(記録に遺されている)
    然し、この「100社の格式」は「村社」なので「神宮分霊社」とは「格式」が数段に異なっています。
    「神明系3社」は「別扱い」で、上記で何度も論じた様に、要するに「御魂入れ」であり、元々「分霊社」は「神明系3社」の「総社的存在」でした。(決−39)

    下記でこの事に付いて論じますが、要所の地域には必ず神宮の何れかの分霊地を建立していますが、「正規社」の此処が「総社的な役割」を荷っていたのです。
    この「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじた方式を、この地域の「陸奥国司」が、この「村社」の100社に真似て最初に適用しただけなのです。
    その事で「参拝祭祀の業務事」を理由としていますが、何かと揉める「村社間争い」をこの方式で逃げ切ったのです。つまりは、「総社の威厳と権威」で押さえ込んだのです。

    本来であれば、国司がこの様な勝手な事をすれば朝廷は黙っていない筈です。然し、「分霊」−「神明系3社」の格式上の「社」が行って効果を挙げていれば文句の附け様がありません。
    むしろ、「広域陸奥域」であるが為に積極的に指導したと考えられます。

    この「大船渡」に建立された「正規社の分霊社」は、この平安期初期から中期の時点では本来は「皇族賜姓族」の青木氏の建立によるものですが、「桓武天皇」に圧迫を受けていた青木氏は衰退期にあり建立は出来なかったのです。
    そこで「桓武天皇」(光仁天皇の子で施基皇子の孫 伊勢青木氏の始祖)自らが「青木氏」に代わって、兄弟の様にしていた「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」(多賀城724年などの3柵城を建設 広域陸奥域を制圧)に命じて、建立した「20社の神明社」と共に、この「陸奥域の岩手」に「20社の神明社」の基点(総社)として「2分霊社」(岩手郡と大船渡に分霊地)を設けたのです。
    「陸奥100社の村社」の幾つもの古株の「村社」と共に、この「2分霊社」も”「廃絶処理」を逃れた”とする意味合いで記録されています。
    恐らくは、この古い「村社格」の「社」だけが一部に遺されたとしていますので、岩手の「担沢柵城」(802年)と「志波柵城」(803年 廃城)と共に最も古く権威のある「高位の有格社」としては「廃絶処理」は逃れられたと考えられます。
    上記の「3柵城」と共にこの時期にこの「正規社の分霊社」が建立されたと観られます。
    記録では広域陸奥域の最南端に「神明社」が白石市益岡町に807年に「坂上田村麻呂」に依って創建されていて、「分霊社」(”「伊勢の御魂」を移して祭祀・・”と表現)の創建も間接表現ながらも記録されているところから、この同時期前に2社が建立されたと観られます。

    と云うのは、この神明社建立前の806年に桓武天皇が崩御しています。一説を採用すれば4年3月後に「坂上田村麻呂」が没しています。(上記の神明社建立後の3月後の807年没の説もある)
    従って、この「広域陸奥域」の青木氏に代わって行った「平安初期の計画」は桓武天皇崩御により終わっている事に成ります。
    この後、「柵城や城郭」等のなどの修理造営は860年代で終わっています。
    一時、この「広域陸奥地域」の治安等の理由で「何らかの建造」は歴史的に「停止状態」に成っていた事と、「皇族賜姓族青木氏」に依る「神明社系5社」の建立も衰退期に入っています事から、「特別賜姓族」の援護(960年代後半)を受け、且つ、自らの「2足の草鞋策」による財力がつくまでの間の一定期間には、この地域の建立は「停止状態」でありました。
    因って、この「正規社の2分霊地の建立」は上記の期間にのみ可能なのです。

    結論として、「建設条件の数式」から岩手はAではありますが、左辺の政治的、地理的な環境条件の要素が大きく、右辺より僅かにレベルが低かった事によるもので、「偽呼称タイプ」と云えます。

    つまり、「社名付き神社」は、上記の「建設条件の数式」の論理から、左辺と右辺のバランスが均衡するか、右辺が0に近くなるに従い「社名付きの神社」の呼称は高く成る事に成ります。
    この数式論が明らかに働いているのです。
    当然に、左辺が0に近くなるに従い神明社を始めとする「神明系3社」の「建設条件」は整う事に成ります。

    ・東京に付いて特記
    実は、東京にも「其の他」の呼称に分類した「天祖神社」18もあり岩手とよく似ています。
    この2つの「異質の呼称」は「岩手と東京」だけです。
    ただ、東京は「建立と呼称の背景」(「神明系社」の確認と「時代性」がはっきりしません)が少し違いますので其の他の項に入れましたが、此処でも考察して観ます。

    問題は伊勢神宮の「摂社関係」等は、上記した様に、凡そ「伊勢近隣に123社」(2市4郡 特令地除く)あるのですが、その確認ですが、東京の場合はその関連社である「神宮分霊社、支社関連」の建て物でもありません。

    この18社の「建設の時期」ですが、色々な資料からは平安期及び鎌倉期にはこの「2つの呼称」は出て来ません。
    恐らくは、鎌倉期は、平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」を強く引きずっていましたので、「神明系3社」の「3つの神明」の呼称としては有り得ますが、然し、この「2種の神社 疑問社名」の「・・神社」は、少なくとも鎌倉末期から室町期初期以降の呼称である事が判ります。

    実は「皇祖神−伊勢神宮」関係と「祖先神−神明社」の「3つの呼称」の社の一部は、大変重要な事ですが、一時「廃絶処理」を社会から受けた史実(A)があるのです。
    古い神社関係社に取っては有名な事件です。
    他に歴史的に観れば次ぎの様な事が起こっています。

    B それに「下克上と戦乱」の「焼き討ち」にも会っています。
    (「焼き討ち」と「廃絶処理」とは宗教的な行動として別扱いにする)
    C 明治初期の「廃仏毀釈」「神仏併合」−「神仏分離令」の洗礼も受けています。
    (「廃仏毀釈」と「神仏併合」とは目的が異なる行動として別扱いにする)
    D 室町中期から明治の10年頃まで続いた「一揆」(農民・下級武士の反乱)などの拠点にも成っていますので「消失」の影響を受けています。

    (神明系社の「消失」には、「戦乱反乱」での火事と「年数」から来る廃社と「経済的運営」の廃社がある。)

    この室町期の「廃絶処理」に付いては、ほぼこれ等は「江戸幕府の政策」の「神明系3社の復元修復事業」として、「寛永年間から明治初期」までに多くは戻されているのですが、この災難の影響を受けている事は確実です。
    この「2種の神社」の「建設様式」は筆者の調査から疑問ではあるのですが、「神明形式」である可能性が高いと判断しています。
    そう成ると、問題はこの続け様に起った次ぎの「3つの災難」の影響を受けていた事に成ります。
    「焼き討ち」(消失も含む)
    「廃絶処理」
    「廃仏毀釈」「神仏併合」
    以上、「3つの災難」と呼びます。

    この事から、”何故、遺したのか。残ったのか”疑問です。
    この東京の「2種の神社」の「創建年代」も確定は困難で疑問でもあり不祥ですが、室町中期前後と観ています。様式の確認は取り合えず「神明系様式」として考察します。
    実は、東京18に付いては、この「3つの災難」の内の前二つに対して「呼称変更」「社歴変更」「祭神変更」等の「対策処置」で逃げたのではないかと考えているのです。
    それが「天祖神社」の呼称であったりしたのではないかと考えています。

    この様に、「天照皇大神宮と豊受大神宮」に似せた社名を使う事で、上記の岩手の記録からも判る様に、この ”「特別の高位の有格式社」” で逃れられる事が世間では判っていたのです。
    この逃れられた理由、原因としては次ぎの事であったと考えられます。
    先ずは、「最高位の格式」の「威厳と尊厳」です。
    これを無視する事は最早、「国のあり方」を変える「革命」に外成りません。そこまでは「廃絶処理」は行われたかの問題です。
    それは次ぎの「皇大神宮と大神宮」の呼称の検証でも判るのですが、其処までではなく岩手の様に遺し得ているのは、この下の「格式社」に対する「廃絶処理」であって、主には「郷社、村社」の格式レベルのもので、中には、「神明系3社」も地域に依っては厳しい「廃絶処理」を受けた事が記録から確認出来ますが、受けたとしても「神明神社と神明宮」の2社系が被害を受けたのです。
    現に、「神宮を含む伊勢の125社」と「遷宮85社」の全てと「神明社148社を含む180社」と「特令地の社数」は完全に遺し得ているのです。これが「3つの災難」を受けなかったとする証拠です。

    その根拠を検証しますと、「神明社180、神明神社139社、神明宮125社」から観て、「4−6の規則」の中にありますので、「3つの災難」を受けたとして「神明神社」の10−15社、「神明宮」の20−25社程度ではないかと考えられます。
    それは何故かと云う事ですが、次にこれを検証します。

    「建立地」は、概ね「神明系3社」としての建立地は、27−29地域であります。
    そうすると、次ぎの様な計算が成り立ちます。

    神明社180/29=6.4 神明神社139/29=4.8 神明宮125/29=4.3
    以上と成ります。

    これを29の全地域に、上記の平均5.2以上の影響度を加算して5.5として観ると、次ぎの様に成ります。
    「神明神社」は20社/(10-15社) 「神明宮」は35社/(20-25社)と成り、合せて55社と成ります。
    これは真に全体比10%(55/556)です。

    個々の3つの社の数字には、これは「単純平均」ですので、バイアスを持っています。
    依って、(6.4 4.8 4.3)から観れば、実態はこれより何れも少なくなる事が考えられます。
    それを考慮すれば、「神明神社:10−15社」 「神明宮:20−25社」は妥当な数字と云えます。

    (「単純平均」は必ずしも「クラウドの中心」を表さない為、「積分係数」の計算で「クラウドの中心」は出る。
    依って、この場合のクラウドの中心は低めに出る。)  

    そこで、次ぎに全体で「神明系社 566社」として、果たして、これ以上の神明系社数を建立出来たかと云う問題です。

    そこで、「歴史的な切目」としては、次ぎの様に成ります。

    イ 「朝臣族の賜姓源氏」が建立したのは、上記で論じた様に、「八幡社」ですが、ところが記録から「国家鎮魂の八幡社」を「清和源氏の本家(頼光系)」が天皇に命じられて、先ずは支配地内に於ける「移設による修復建立」を命じられています。
    つまり、「八幡社」を最初に手掛けたのが ”摂津の領国内に移設修復した” と記録があり、国司として赴任した信濃に於いても「信濃青木氏」に「神官職」を依頼している記録が遺されていて、現実に家紋分析からその末裔信濃青木氏は関東以北−陸奥域に現存するのです。

    ロ そして、この計画は「摂津源氏」の「支配地内の修復」で計画は終わっているのです。
    つまり、数は少ないですが本来の「神祇信仰の国家鎮魂の八幡社」(摂津源氏−神明族の信濃青木氏)と大半を占める「武神の八幡社」(河内源氏−未勘氏族)とがあるのです。

    ハ しかし、河内源氏の分家頼信の孫の義家が「武運長久」「武家の神」の「八幡社」を河内に建立しています。(1100年頃 未勘氏族の建立  八幡社にはこの2流がある。)
    この「武神の八幡社」は後に「未勘氏族」に依って「神仏習合」に偏して「八幡大菩薩」に変化したのです。

    ニ 「たいら族」には「神社建立権」は身分家柄から与えられていません。
    この「たいら族」は「朝臣族」では無いので、「太宰大監」として九州自治を司る一門の「大蔵氏」を除き、その権利を有しておらず、「京平氏の清盛」が「摂関家と朝廷の反発」を押し切って禁令外で、最初に「海の守護神」の「瀬戸内の厳島神社」を最初に修復拡大事業を手始めに神社建立を行いました。
    (1170年頃 「たいら族」  平安期は青木氏や藤原氏等の高位の指定の家柄氏以外は神社は建立出来ない慣習があった。朝廷の許可が下りなかった。)

    ホ この時、期前の1125年頃には、何とか「皇族賜姓族」も「2足の草鞋策」から勢力を盛り返し、「特別賜姓族」も「960年後半」には建立に参加しています。
    この頃から徐々に「神明系5社建立」が再び始まり、室町期前半の室町文化の頃に建立の頂点と成ります。

    ヘ 前段でも論じた様に、「紙文化」と呼ばれる「室町文化」で「伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族の青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」がどの守護にも遥かに勝る「莫大な財力」と「武力」とその背景と成る「シンジケートの抑止力」を確保しました。

    ト そして、然し、「下克上戦乱」に入る中期頃には、建立能力が充分にありながらもその社会情勢から建立は難しく成り、各地で「3つの災難」が始まりますので、せいぜい「修復程度の範囲」に留まったと考えられます。

    この事で検証すると、次ぎの様に成ります。
    イからトまでのこの間、「皇族賜姓族」から「特別賜姓族」の発祥までの「衰退期の100年間程度」を除くと「500年間程度」と成り、平均的に観れば、566社/500年とすると「1年に2社程度の建立」と成ります。
    1社の建立期間を3年から5年程度と観れば、丁度、無理の無い建立数である事が判ります

    中には、記録によると長いので10年程度とありますが、財政的な問題は「2足の草鞋策」で問題は無いとしても、「2つの賜姓族」が「絆職人の関係要員」の手配等が他の維持管理作業等もありますので、難しいと考えられます。
    それから観ると丁度よい社数建設です。

    因みに、前段で論じた様に、「伊勢青木氏の記録」によると、奈良期からの古い絆で結ばれ、「絆青木氏」を名乗るほどの代々の内々の「徒弟制度」で引き継がれた「250人の専門職」と、その「関連要員」をシンジケートの中で確保していた事が判ります。
    この要員で「148社建立」と成っています。

    (伊勢丸山城の信長との戦いで「伊勢−信濃シンジケート」の大工要員が関わった事が記録されている。建築終了後に城に火付けした。)

    恐らくは、信濃青木氏も同じ程度の能力を保持していた事が「神明系3社」の建設数から判断できます。
    全国の賜姓族関係地域に「建立する能力の418社」から観ると、「宗家の特別賜姓族青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の「2つの能力」も総合的に勘案すると、4倍の「1000人程度の要員」を抱えていた事が判ります。

    とすると、この能力から、「建立数 2社/年」 「建設期間5年」 「維持管理148社」 とすると、青木氏から配置する各職人の「頭要員」を、「50人/1社で100人」、「全国29地域」の建設地に「5人/1地域」に配置して「150人」、これを「シンジケートの各種の職人」で補い、「20職種」程度と云われる「工程を5年間」で回転して行けば成り立ちます。
    昔のある資料から垣間見ると、一般の「武家屋敷建設」で「頭級で5人」と云われているので、その10倍として観れば、「50人」と成ります。
    不足の時は「伊勢−信濃シンジケート力」から各地のシンジケートに呼びかけて「援護要員」を増やす事が柔軟に出来ます。

    これを行える「財政力と政治力と運営力」があった事が「伊勢丸山城の戦い」の記録で判ります。

    (「伊勢丸山城の戦い」 材料の調達の失敗や建設ミスを繰り返させて、なかなか進まない様に城の建設期間を引き延ばせ、挙句の果てに短期間で建設するように命じられますが、これに応じます。この時に信濃からシンジケートを通じて要員の職人を配置した事が記録されているのです。建設用材の調達は「2足の草鞋策」で本職、材料高騰策も行った。莫大な利益を挙げて信長の財力を押さえ込んだ。有名な信長烈火事件発生。歌舞伎にも成る。結局は、「信長の伊勢攻めの3戦」は5年も延びた。)  

    「特別賜姓族」の方も上記で論じた様に「約4倍の社数」と前段で論じた様に「4倍の勢力」を保持しているのですから、同じ論理で証明する事か出来ます。
    結論としては「4−6の規則」で「建設する能力」はぎりぎりのところであった事が云えます。

    上記で論じて来た現存する「神明系3社」の「4−6の規則」はほぼ原則として建立したのですから、「3つの災難」に依る10%減でこれだけ護られている社数がある事は、上記の能力試算からこれを証明しています。

    故に、「江戸幕府の神明系3社の修復復元処理」が「10%−55社」の範囲であった事から可能であったのであって、直しきれない社もあった事が記録されているので、この程度が江戸幕府の能力の限界であった事を示しています。566社に相当する社を「高位格式社」の「修復復元処理」は財政的に無理であった筈であります。

    恐らくは「神明系3社」で論じた様に、上記の通り「10%程度以内」と考えられます。
    これであれば上記の試算から江戸幕府の「250年間掛けて1社/年・5年」を「修復修理復元」は可能です。

    この様に、「威厳と尊厳」から少なくとも「3つの災難」に付いては、「神明社」は殆ど影響を受けず、「神明神社」と「神明宮」に対して多少の影響は受けた事が云えます。

    (上記した様に地域のバラツキはあるとしても、一般確率論から10%内は自然消失廃社率)
    (「天照」の内宮に「みおや」と云う天照の別呼称で二重呼称と同じで この天照の天と皇祖の祖で「天祖」と呼称した。)

    「創建年代」や「社歴」や「祭神」等に「不祥や疑問や矛盾」等が多く観られるのは、東京の18に付いてはこの事の影響ではないかと観られます。途中での歴史が途絶えたからです。
    「焼き討ち」や「廃絶処理」は、要はある範囲の「権威や象徴」に対する「社会的な反抗」でしたので、この地域レベルの「権威と象徴」を一時、”消す事、隠す事”で難は逃れたのです。

    問題は、”他の地域はどうであったのか”ですが、地理的にこの「3つの災難」の状況は、その「地理的要素」やその地域の「人の気質」から著しく異なっているのです。
    殆ど「神社」が無く成ってしまった県(九州圏、東北圏、東京圏)等もあり、穏やかであった県(北陸圏、中部圏、)等があり、その中でも「岩手と東京」は真にこの「3つの災難」の厳しい地域に当り、且つ、何れも周囲の県に比べて「神明系3社」の社数が不思議に少ない県です。大きく「4−6の規則」外にあるのです。
    この「岩手と東京」は、この影響を大きく受けた地域で、「高位格式社」を充分に遺し得なかったし、且つ、寛永年間以降明治期までに完全に戻し得なかった結果であり、何とか遺し得たのはこの「疑問社名」の「対策処置」であったと観られます。
    まして、この東京は秀郷一門の武蔵の領国内の一部です。この領国の一部に集中した18社ものが到底「分霊社」とは考えられませんし、在り得ない事で、「分霊許可」も幾らなんでも「特別賜姓族」の青木氏でお膝元であったとしても下りる事はあり得ません。
    自らがその様な厳しい39もの「仕来り、決り事、規則慣習」を護ってきたにも拘らず破る事等も在り得ません。
    そうすると、遺されたのは岩手と同じく、「郷社格」「村社格」の神社一般の廃絶などに向けられた「3つの災難」から逃れる事への「神明系3社の対策」で在ったのです。
    だから、「神宮の神明系2社」の「威厳と尊厳」を使っての「東京18社の社数」であって、「分霊社」に見せかけたものであったと考えられますし、故にこの「18の社歴」は不祥なのです。
    そうすると、東京の「神明系3社」の ”「神明社」は6、神明神社は2 神明宮は3” は、主要国の新潟、愛知などと比べて本領でありながら少な過ぎる事を考えると、18は補える「社数」と成ります。

    「神明社」は上記した様に「神宮の神明系分霊2社」と同じく「威厳と尊厳」で「3つの災難」の影響からある程度(10%)逃れられましたから、そうするとこの「東京18」は元は「神明神社」であった筈です。

    「神明宮」は上記した様にその「呼称の仕来り」から、この広域武蔵域の本領の一部の東京には支流族は少なかった筈ですので、「神明神社」で「社名付き・・神社」の呼称と、「郷社格式」や「村社格式」の「一般神社」と「・・神社」で類似するところから間違われて「3つの災難」の影響を神明系でありながら大きく受けたと考えられます。
    何れも秀郷一門の宗家のこの処置であって、故に「特別賜姓族」の暗黙の了解を得られ採った処置と考えられます。

    結局は、「東京18」は、岩手と少し違い、政治性と地理性が余り働かない基からの神明系3社で「退避処置タイプ」なのです。

    東京の「社名つき神社」も「・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3」の4県の様に、「東京1」で少ないのはこの事の影響を受けた事から来ていると考えられます。

    ・新潟に付いて
    ところで、「佐賀と徳島」は別としても、「仕来り、決り事、規則慣習」の影響を強く受けている「岩手」は上記の通りなのですが、では果たして最大の難問の「新潟6」は何なのでしょうか。
    「建設条件の数式」には全く問題がありません。代表的な地域圏です。
    それは「新潟6」には地理的要素と秀郷一門の要素が大きく働いたのです。
    上記数式の不等号が成立するも、Aの左辺の「地理条件」が大きく成り、右辺のレベルを越えたのです。
    特に上記の「建立限界値」の問題が、ある一時の「時代的な影響」を大きく働いたのです。
    「新潟6」は次ぎの通りです。

    新潟
    1  西奈弥神社  村上市羽里町
    2  (能崎神社   西頚城郡能生町)
    3  (羽森神社   柏崎市 1489年)
    4  (船江神社   赤塚) 垂仁天皇期
    5  (羽黒神社   村上市羽黒町 桃山)
    6  (菅谷宮    新発田市)

    先ず、この「6つの社」は北から南に分布し「地理的要素」が働いている訳ではありません。   
    創建時代は「平安末期から室町中期前の建物」であり、その「創建年代」が「羽森神社1489年」を代表する様に、特別な歴史的な経緯を明確にしている状況でも有りません。
    社歴からは確定するものは見付かりません。
    創健者は「建設様式」から「西奈弥神社」以外は疑問もありますが、次ぎの「共通項」を持っています。

    1に付いては、「神明社」であったが、「保食神」として、「日子刺肩別命」を祭祀
    2に付いては、「神明社」であったが、「一般神社」に変更
    3に付いては、「神明社」であったが、「産土神」を祭祀、合体祭祀
    4に付いては、「神明社」であったが、「神明宮」を合体、垂仁天皇期と古さ記載 
    5に付いては、「神明社」であったが、「保食神」を合体祭祀
    6に付いては、「神明社」であったが、「神明系宮」に変更

    全て、”「神明社」であった事、それが「何らかの理由」で「別の神」を祭祀する。” とする共通パターンです。
    この共通の社歴から考察するに次ぎの様に成ります。

    1と5は「保食神」を祭祀、「生活」「食料事情」を重視し変更
    2は「特定の性格を持つ神明社」では運営が困難化し、特定性を除去し「一般神社」に変更
    3は考え方の全く異なる「産土神」を祭祀、合体は矛盾 「柔軟性」、「一般性」を強調
    4と6は「神明社」だけでは無く「神明系」を誇示して祭祀の対象を広げた。

    全て、先ず共通な事として、”「神明社」では時期的な影響を受けて運営が困難、色々な「生き残り策」を模索している。”と成ります。
    つまり、これは共通する室町期の時期から、”「下克上、戦乱期、3つの災難」に突入して、平安末期の北家摂関家の衰退が起り、その朝廷が崩壊し、「創建者の主権者青木氏」は「衰退と空白期間」に「弱体化」した為に、「神明系社」として何とか生き延びる為に、越後地域の「特別賜姓族」の神職の一部の青木氏は「主家の援助と支持」も侭ならず ”背に腹は代えられない”の事から「社名付き神社」に変身した” と云う事に成ります。
    真に、これが「・・神社」の結論なのです。

    本来は、「社名付きの・・神社」は、”「神明系3社」から変身した時に使う「呼称」”なのです。(決−40)

    上記で論じた様に、「特別賜姓族の最大勢力圏」でさえも、何らかの理由や社会的な現象で「神明系3社」でも「消失、廃社」にまで至らなくても、例外では無かった事を物語ります。
    主に「3つの災難」と云うよりは一時的な「財政的な困窮時期」が原因していた事を物語ります。
    これは「2つの青木氏」の「2足の草鞋策」で財政的に強くなっても、室町中期頃を境に一時「566社」を維持するにはぎりぎりであった事を物語ります。
    「社名付きの・・神社」はこの ”ギリギリ維持の現象” の象徴であった事に成ります。

    上記の「建設条件の数式」はあくまでも「社名付き神社」に対する数式論ですが、「神明系3社」の「建設条件の数式論」は、A、Bに対して、左辺側に「戦略的」と「経済的」の2項目が入ってくるのです。
    合せて「5項目の条件」が左右する事に成ります。

    「神明系3社の建設条件の数式」
    A 圏域内→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
    B 圏域外→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

    この5項目もの条件が絡んで来ると、色々な社会情勢が生まれます。
    そうなれば必然的に右辺の強さとの関係がより敏感に成り崩れ易く成り、時にはABに拘らず右辺のレベルが左辺を超えてくる事もあり得ます。
    その超える状況は、「時間的な速さ」に関り、急に起る事もあり得ますし、緩やかに起る事もあり得ます。
    当然に、「人の強さと量」、「場所の良悪と距離」等も同じ事が起こり得る事に成ります。
    この「人、時、場所の現象」が余計に「神明系社」に強く拘ってくる事に成ります。

    (A、B)+「時間的な速さ」+「人の強さと量」+「場所の良悪と距離」

    これが他氏と異なる「特異な立場」にあった「2つの血縁青木氏と2つの絆青木氏の歴史」であり、その「時代毎の生き様」として映し出されるのです。
    従って、「青木氏の守護神」(神明社)を論じる事は、真に、この数式論によりその「生き様」を論じる事に成るのです。

    この「5項目の条件」で次ぎの「皇族賜姓族地域」の「・・神社」の考察を続けます。
    ここには根本的な基盤のような事が潜んでいるのです。

    「*山梨3*長野1*富山1*石川1」も同様ですが、この4県にははっきりとした特長を示しています。
    それは、次ぎの様に成ります。

    「甲斐3と信濃1」の「皇族賜姓地」
    「越中1と若狭1」の「移動末裔地」
    以上の2分類と成ります。

    この「2分類の地域」は、上記の「建設条件の数式論」から、真に「例外無のAタイプ」が存在する地域です。
    そこで、「賜姓族地の伊勢」はお膝元で「神宮摂社125社」、その周囲地域は「85社の遷宮地」であり、そして「神明社の総社」が存在し、古代神明社の「神明社19社」が都を中心にびっしりと防御網を張り取り囲んでいたのです。
    その為にこの地域には神明系社の「社名付き・・神社」等は存在し得ない「特別地域」でありますので、「神聖地域」の伊勢周辺には「社名付き神社」の「建立と呼称」は成り立ちませんし、その存在意義が成立する事はあり得ません。

    残りの賜姓族地の「皇族賜姓族地」の「近江、美濃」は、前段でも論じた様に、「衰退滅亡地域」でありますので神明系社の「・・神社」はあり得ません。

    ・山梨3には、前段でも論じた様に、ある特徴を持っているのです。
    「甲斐青木氏(花菱紋)」でも論じた様に、この地域の「寺社」に関しては極めて複雑であります。

    「源光系の甲斐皇族賜姓族」と「時光系の皇族青木氏」の2流がありますが、下記のこの内の2つは「時光系」の「社名付き神社」ではないかと考えます。
    「時光系青木氏」は「嵯峨期の詔勅」による「源氏系の青木氏」であると云う事で名乗った ”「河内源氏傍系支流末裔族」である” としていますので「神明系3社」の「建立と呼称」は出来ません。
    因って、明らかに「・・神社」の呼称と成ったと考えられます。    

    山梨3は次ぎの3社です。 
    1  神明浅間神社
    2 (伊勢神社  中巨摩郡田富町臼井阿原)     
    3 (伊勢神社  北杜市)

     天照大神社   釜額
     天照大神社   伊沼

    従って、残る1社に付いてはある程度納得出来るのです。
    つまり、「神明」と「地名」付きの「・・神社」ですが、この不思議な社名が問題です。
    「神明神社」なのか「浅間神社」なのかと云う疑問ですが、これには実は一つ根拠があるのです。
    それは「浅間山」でその「山」に意味があって、それは「5つの守護神」の基神の「自然神」の「山信仰」なのです。
    「神明系3社」は「自然神−鬼道−鬼神」を基とする「皇祖神」の子神の「祖先神」なのですから、「神明」と「浅間山信仰」とは「同一で同格の祖」を持つ表現であります。
    この表現には理屈が通っている事から、「甲斐の源光系の皇族賜姓族」の建立と成ります。
    これは「源の源光」が「甲斐の賜姓族青木氏」を引き継ぎますが、この建立と考えられます。

    2付いては、問題で上記に論じた「呼称の禁令」を破っています。
    「伊勢」は特定の賜姓族以外(下記)に使っては成らない厳令です。それを敢えて使ったのです。
    「賜姓族」はこの厳令だけは絶対に破る事は何があっても出来ません。自らの出自を否定する事に成ります。
    それを破った呼称は朝臣族では出来ない事であり、しかし、何とか建立は可能とする氏となれば「皇族青木氏」以外にはありません。
    この甲斐の時光系の源氏系の「皇族青木氏」は4流があり、1流は無血縁族ですので建立は財力がありましたが出来ません。
    荒廃した甲斐青木氏の菩提寺の常光寺を再建維持したのもこの無血縁族の青木氏(養子嫁取り)です。
    そこで、建立が可能と成ると時光系本家の本流青木氏だけと成ります。残りの3家青木氏は貧困の中にありました。
    この青木氏が「神明系社の建立権」は直系の朝臣族ではありませんので建立権は無く不可能です。

    そこで、「伊勢」を使ったのです。そして、それを「神明系社」に見せかけながらも、「伊勢=神宮」の印象も与えようとした策謀です。
    この「本家の甲斐の皇族青木氏」は、「公家ニ条氏」の末裔と清和源氏の本流であるかの様な「家柄誇張」の策謀を繰り返した氏なのです。事実は偽称の疑問である事は判っています。
    その一環として神社建設も「誇張の呼称」をした事に成ります。一事が万事です。
    この「建設地域」が一つは南信濃に隣接し、もう一つは国府に近い所です。
    この「2つの建設地域」はこの本家氏の集落地域でありこれを物語っています。

    後の2流は貧困を極めて武田氏からも冷遇され、山奥の奥巨摩山間部に半農武士として生活をしていました。菩提寺の常光寺さえも維持管理出来ずに放置したのです。この「2つの社建立」は元より建立は不可能です。
    (「甲斐青木氏の研究」(花菱紋)の論文参照)
    社歴などは不祥で疑問ですが、建設時期は建立に必要とする勢力を持った武田氏系青木氏の勢力は武田氏が勃興してきた室町中期前の頃です。
    その後、このこの「時光系の青木氏」は始祖の時光の時から内部抗争をして弱体化しますのでその能力は全くありません。
    見かねた宗家の武田氏がこの青木氏一族の為に別に菩提寺を建ててやると云う事まで起こっていますし、まして挙句は浄土宗から曹洞宗に宗派換えをすると云う武家に有るまじき前代未聞の争いを起こします。
    最早、この4流の青木氏はガタガタで生活も侭成らない状況であった事が記録に遺されています。
    従って、恐らくは「常光寺建設期」と同じ頃ではないかと考えられます。
    この時期の前後以外に神社などの建設能力は全くありません。
    この「伊勢神社の2社」は「時光系青木氏」の家柄誇張の「偽称行為」です。

    ところが、対照的に次ぎの「長野の伊勢」とは別のものなのです。
    甲斐にはこの「長野の伊勢」の環境はありませんでした。
    対比する為に論じます。

    ・長野1に付いては、次ぎの社です。
    「伊勢宮神社」 長野市伊勢宮町
    「伊勢社」   長野市東之門町

    信濃は前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」との連携は「政治、軍事、経済」等の全ての面に於いて完璧なくらいに親密な関係保持をしていました。此処「信濃」には「伊勢村」と云う村まで造り「伊勢」と「信濃」の「青木氏の融合氏」が興り定住していた地域なのです。
    この「社の伊勢」は「神宮」の呼称の「伊勢」では必ずしもなく、「信濃伊勢村の伊勢」でもあるのです。
    むしろ、「信濃の伊勢、伊勢の信濃」の一族的な血縁関係をも含む「親族的関係」にあったのです。
    そもそも、この「伊勢の呼称」を正規に使える氏は、ただ一つで「伊勢の守護」、「伊勢神宮」の「護り役・御師・総師」の「施基皇子」を始祖とする「皇族賜姓族の伊勢青木氏」だけです。
    この「伊勢青木氏」と「伊勢村」を作り「融合族」を形成する「皇族賜姓族の信濃青木氏」は、この「伊勢の呼称」の使用は「準使用氏」と見なされますし、現に本来の「青木村」にせずに「伊勢村」の呼称を使っている程なのです。
    (天智天皇による「第4世族神明王の19の守護王」を始祖とする「5家5流」の5地域の「信濃王の青木氏」 「氏名」を「村名」とする慣習は皇族賜姓青木氏にのみ許されたもので、他氏は全て「地名」とする習慣があったのです。これは「嵯峨期の詔勅」により「青木氏の氏名」の使用と、その尊厳と権威と格式を護る為に「氏名」を「地名」とする事を禁じた事に依ります。)
    従って、「神宮=伊勢」の呼称の禁令から、この信濃の「伊勢の呼称」は他の呼称とは別なのです。
    「青木村」を使わず一段格式高い「神宮=伊勢」の「伊勢」の呼称を「村名」としたのです。
    勿論、「神明系3社」に匹敵する社でもあるのです。
    故に、「伊勢宮」の呼称であろうと、「伊勢神社」の呼称であろうと問題はないのです。
    つまりは、この「2つの社」は真に「神明神社」であって「神明社」なのです。
    神宮の「伊勢の呼称」であろうと「村の名前」であろうと、この氏は何れも使用可能な氏なのです。
    況や、「準使用氏」であり、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」であるのです。

    敢えて、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」のこの事を論じる為に其の他の項目にこの一つを入れたのです。
    ところがここで、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」に匹敵するもう一つの「準使用氏」があるのです。
    それは、「特別賜姓族の伊勢青木氏」です。(決−41)

    「皇族伊勢青木氏」とは伊勢四日市で融合氏の血縁関係を構築する事のみならず、両氏の「融合氏」も「信濃の伊勢村」と同様に形成し、「伊勢四日市」に「青木村」を形成して定住しているのです。
    (信濃青木氏との3氏の血縁性も高い)
    従って、この「伊勢の特別賜姓族の青木氏」は武蔵の「宗家の特別賜姓族青木氏」と並んで、「神明系社」に対する指揮権は大きかったのです。
    故に、「特別賜姓族」は「神明系3社」の建立を厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」40を護りながらも「418社」もの建立が可能となり、且つ、「皇族賜姓族」を支えながらも、「4−6規則」で計画的に行えたものなのです。
    それを実行する「2つの絆青木氏」もその行為に対して尊敬しこれに従ったと考えるのです。
    だから、前段と上記でも論じた様に、「神明系社:566社」なのであって、民は「3つの災難」等にも拘らず「神明系3社」を原則除外し「2つの青木氏」を崇めたのです。
    もっと広く云えば、事程左様に「第2の宗家の青木氏」との「親族」であると云う事等からも家柄身分に拘わらず「青木氏族の秀郷一門の永嶋氏を始めとする主要5氏」も同時に、「民の為に566社」も立ててもらっている事から、民から「尊敬の念」を抱かれ崇められたと考えれるのです。
    結局は、この「伊勢の社名付き神社」は特別な慣習(決−41)なのです。

    さて、そうすると、次ぎの「伊勢・・社」は何なのかと云う事に成ります。
    実は、信濃の「伊勢・社」と同じく大変に重要な「青木氏の生き様」を物語る特別な「伊勢呼称」なのです。

    この事に付いて次ぎに論じます。

    石川
    「伊勢神社」 輪島市
    富山
    「伊勢玉神社」永見市伊勢町

    この「2県の神社」(実態は福井が入る)は、「一部信濃青木氏」、「信濃足利氏系青木氏」、「近江青木氏」、「近江佐々木氏系青木氏」、「甲斐武田氏系青木氏」の末裔等が「室町期の戦乱期」を逃れる為に、或いは一部は「平安期の動乱」を逃れる為に「石川や富山や福井」の「日本海側3県」に、神奈川、栃木、新潟に逃亡した「諏訪族系青木氏」の様な「一族集団的な逃亡」ではなく、「混乱期」を避ける為に、或いは「子孫存続」を図る為に、「事前退避」した者の末裔(退避族・家族親族)が定住した地域なのです。

    中には8万石(青木紀伊守)や4万石(青木伊賀守)の青木氏が「加賀の戦い」で秀吉に敗れ、「敗残兵」としてこの「退避族」を頼って逃れた者もいるのです。

    では、”何故この3県(富山、石川、福井)を頼ったか”と云う疑問ですが、実はこの奈良期の「越国」は「皇族賜姓伊勢青木氏」(越道君)の「古代故郷」なのです。
    実は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は災難を受けている「賜姓青木氏一族」の「退避先」をここに誘導したのではないかと推理しているのです。その根拠があるのです。
    その「2足の草鞋策の財力」や「シンジケート力」を使って ”「確実な安全地域」に誘導して護る” と云う義務が「氏家制度」としてあった筈で、その力を使って安全に退避させたと観ているのです。
    それが青木氏族を護り生き残らせる「最大の義務」で、それがあってこそ「皇族賜姓族の務め」であり「3つの発祥源」の本来の基本の務めなのです。従って、「3つの発祥源の青木氏」が ”子孫が絶える” と云う事があってはそもそも「政治的」にも「国民の安定と安寧」を図る「象徴」として、又、「皇族一門を支える戦略的配慮」からも朝廷は困るのです。

    (次段で論じる事として、ある「決定的な特別な根拠」が「伊勢と信濃の2つの賜姓青木氏」に課せられていたのです。 青木氏の守護神−22参照 最後の論点)

    まして、”この程度の事が出来なければ青木氏なんておこがましい。と云う”「青木家家訓10訓」の全ての教えなのです。

    と云うのは、幾ら退避するとしても安全な地域に届けるには移動中の危険が大きく潜んでいて戦乱の中では極めて困難です。
    勝利者側が「掃討作戦」を必ず敷きますので、家族等に「武力の防備」がなければまず殆どは無理です。そして、幾つもの歴史的に異なる「混乱や戦乱」にも全てこの3県に集中しているのです。
    そして全ての各地の「皇族賜姓族地」の賜姓族の末裔家族が、時代が異なるにも拘らず全てこの3県に移動している不思議な事なのです。
    定住しても一人2人ではありません。そうするとその生活に必要とする「経済的裏付」が必要ですし、ある程度の保護力も必要です。これはそう簡単な事ではありません。
    これは「何かの力」が大きく働いての事であります。
    それを実行できる力量を持った「皇族賜姓族の一族」と云えば「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の連携であります。自らの「伊勢の3戦い」以外に一切の戦いに組しなかったのはこの「2つの氏」であります。
    又、この目的、責務を達成させるには本音では ”出来なかった” と云うべき事だったのです。
    ですから「誘導する全ての条件」が整っています。”整えた”とするのが正しいのです。
    「皇族賜姓伊勢青木氏」の「母方ルーツ」はこの「越の国の3県」です。ここを選んだのです。
    そして、「退避の家族の安全の情報」や「心の拠り所」を確保するには「神明系5社」、3県で42社 全体の28%/148 7%/566 32社/42が神明社 集中地域させているのです。
    この為にもこの「神明系社の力」が必要であったのです。

    全ての「神明系社の建立地」は「賜姓族地」だけですが、「賜姓族地」でもないのに、ただこの地域だけは例外地なのです。其処に「3割近い神明系社」を集中させて適切に分布させ建立しているのです。
    「何か、特別な思惑」があった事を物語ります。それでなくては「2つの賜姓青木氏の勢力圏外」でこの日本海の片隅の地域に集中させる事はあり得ません。
    148社もギリギリの建設戸数であった事は前記しましたが、そんな中での3割です。
    そして、其処に「全ての青木氏の末裔子孫」がこの3県地域に不思議に混在しているのです。
    そして、その末裔は主に「商家」として生き抜いているのです。 これ等の事に ”絶対に何かある” と思う筈です。
    更に、これまで20段で論じて来た中で、一つ「大きな疑問」を感じませんか。
    ”賜姓族、賜姓族としつこく言いながら、 ”何か論じていない事が抜けている” と感じませんか。

    「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」ですね。
    では、「第4世族内の皇子王族の真人族」はどうしたのか。何もしなかったのか、末裔はどうなったのか、遺せたのか、彼等の守護神は何なのか、等の青木氏で論じた数々の事の問いが浮かんで来ますね。
    実はこの全ての疑問に応える回答が此処にあったのです。
    それが、この「地域と退避地」に答えがあったのです。
    (長論と成る為に、次ぎの−22で「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証 (19守護王地の意味する処)」で論じます。)

    「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」でありますが、その「退避家族」が末裔を此処に遺し、此処に至るには「至難の技」それを成し得たのは”伊勢青木氏と信濃青木氏の力以外には絶対にない”と断言出来ます。
    では”その退避方法は”と成りますが、陸路は各地のシンジケートの連携、海路は「伊勢青木氏」の伊勢店の大船と堺店と攝津店の大船だと思います。其処までシンジケートの保護であったと考えられ、途中の宿泊は神明系5社であったと考えられ、そして私は大船で運んだと観ているのです。
    一番安全で確実です。だから日本海側の港の持つ3県なのです。
    そして、故に、ここに「28%の神明社32社」と、「神明神社8社」と、この「・・神社」2社を「神明地」ではない「賜姓族地」ではないこの3県に故に集中させたのです。
    無駄に「賜姓族地」ではない地域に42社もの神明系社を建立する理由はありません。
    この為の布石なのです。
    この「退避族」(家族)はその里を頼っての地域であったと考えられます。
    他の地域を頼る事は反って小単位の家族集団には危険を孕んでいて、逆に旗頭に担ぎ挙げられる等の事が起り、戦乱に巻き込まれる可能性が高い事に成ります。(現実に滋賀等で起っている)

    この3県の「広域越の国」の南域には上記の氏の祖先(天智天皇、天武天皇、持統天皇)の母方実家先の末裔族が住む地域なのです。この地域は[全青木氏の始祖の地]であり、平安期−鎌倉期−室町期にはその先祖の末裔が「広域に小豪族化した郷氏、郷士の地域」なのです。
    従って、この「青木氏の基ルーツ」の「郷氏、郷士の里」を頼った事に成るのです。其処に退避族の安定定住地を社会的にシステムとして構築したのです。
    退避した武力を持たない小集団の家族の末裔は地主などに成っていない事等もこの事を物語っているのです。「氏再興」を果たした栃木などと大きく異なる処です。

    4万石、10万石の「大名の末裔」と「敗残兵」がここを頼ったという記録は、ここが「皇族賜姓族系の青木氏の逃げる地域」である事を口伝で知っていた事を示します。
    そして、代々奈良期からそれが「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「仕儀」であった事も知っていた事にも成ります。(敗残兵が本当に逃亡したのかの矛盾と疑問がある。)
    「皇族賜姓青木氏の氏家制度」が室町期末期まで続いていた事を証明する事にも成ります。

    因みに、これを証明する事として、実は明治9年までに続いた「隠れ浄土宗系の宗派の集団」が起した「伊勢周辺の武士と農民の大一揆」に背後で「経済的支援」をしていたのは「伊勢青木氏」と「伊勢加納氏(加納屋)」であった事も記録として残っている事からも、明治初期までこの「態勢力」を維持していたのです。

    実は本論のこの調査で判った傾向として、”この「退避地の末裔」の多くは傾向として「商い」をしている”と云う事なのです。重要な事なのです。
    この「3県の神明社42社」の「境内の碑」に記された内容を観ると「・・屋」とする「商人の寄付」が多いと言う事です。これは明らかに「伊勢と信濃の商いの影響」を受けていた事を示しているのです。

    これは「退避地での自立」に向けて、「武」ではなく「和」の「商」を選んだとし、それを「伊勢と信濃の商い」がこれを誘導した事を物語るものです。「和紙」に限らず地場産業の殖産販売として「支店的な活動」をさせて自立を促したのです。

    「5家5流25氏の青木氏外」にも「丹治氏系青木氏」等の「嵯峨期詔勅の皇族青木氏」も「夏冬の戦い」で退避しているのです。確認は取れないが、家紋群から「花菱紋の存在」が確認出来るので、「甲斐の武田氏系皇族青木氏」の一部末裔家族が事前退避している可能性があるのです。
    敗退後の甲斐の皇族青木氏は、「埼玉鉢形に集団移転」させられているが、「青木氏の退避地」がある事は口伝で事前に承知していた筈なので、確実に子孫を遺す意味で、戦い前に事前に戻る事も承知で女子供の一部家族を「退避地」(保護地)に移動させている可能性が高いのです。

    そもそも戦いで負けて逃げ込む場所の「敗退逃避地」ではなく、ここは「事前退避地」の意味が強かったのです。それは「敗退した兵や族」が逃げ込めば「敗残兵の掃討作戦」を勝利者側は確実に行いますので反って戦いに巻き込まれる事もあって「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」は許可しなかった筈です。
    上記の「紀伊守と伊賀守の末裔と敗残兵」の「逃亡の記録内容」には問題があると観ていて、家族に付き従った「家人」では無かったかと観ていて、確認は出来ませんが「記録表現の誤り」と考えます。
    先ず、この「逃避地3県」に安全に事前に移動させるにも「伊勢青木氏」「信濃青木氏」の了解が必要であり、且つ、退避する手段の「船や陸送」もシンジケートを使って頼らなければ成らない訳ですから、「兵」が付き添っていては「巻き添え」に会います。 ”勝って気侭に退避する” と云う事には成らない筈です。
    退避後の「生活と安全」も看て貰わなくては成らない訳ですから、必ずお願いする立場からは「信義」を護る筈です。
    戦いに勝利する事で、又、元に戻る手段もお願いしなければ成らない訳ですから、「決まりや信義」を必ず守った筈です。退避しての「当面の避難所」もこの「42社の神明系社」である訳ですから間違いはないと考えます。

    ここで、前段からの情報として、間尺にあわない一つの疑問が湧きます。
    この疑問の検証は、”この「退避地」が何時ごろから始まっていたのか” と言う事をも説明する事にも成ります。
    それを物語るのは、平安中期に起った次ぎの信濃の事件です。
    信濃には陸奥から秀郷一門との血縁族の「花房氏」が一門の赴任先の移動に伴ない移動し、勢力を得てここで豪族(土豪)となります。然し、ここには「信濃足利氏系本家」が定住していました。この二つの氏が血縁します。
    ところが、秀郷一門は「内部争い」から一門の言う事の聞かない「信濃足利氏系本家」を潰しに掛かります。そして、この「血縁族の花房氏系の分家」に「秀郷一門から跡目」を入れて、こちらを本家として立てて援護します、そして挙句は「元の本家筋」を追い出します。この「元本家筋」は「皇族賜姓信濃青木氏」と血縁していて「信濃の賜姓族」の「足利氏系青木氏」が発祥しています。
    そこで、この「元本家筋」は信濃から逃げ出します。この時、゜賜姓族の足利氏系青木氏」の一部が付き従います。そして、逃避して遂には、鳥取の「八頭と米子」に辿り付き定住します。
    ここは「賜姓族地」では全く無く、むしろ「出雲大社族」の領域の所領境です。
    諸々の勢力の「緩衝地帯」とも言うべき地域でした。
    秀郷一門はこの「陸奥血縁族の花房氏」を「土地の豪族」として大きくし、「信濃足利氏」と血縁させて分家とし、其処に一門から「跡目」を入れて甲斐を挟む勢力圏を構築する狙いがあったのです。
    そうする事で関東域と古代の東海道域圏を押さえ込む事が出来ます。
    その覇権争いの前哨戦であったのです。
    「信濃足利氏」にして観れば、まだ室町幕府の栃木の足利氏と共にまだ然程大きくなく、結局、この分家の足利氏が最終全国11国を制する程に大きくなります。
    然し、「栃木足利氏」との勢力抗争も起り、遂には衰退を始め11国の尾張の守護代を頼り、その守護代の織田氏に乗っ取られて足利氏の斯波氏は滅亡します。
    「足利幕府の基盤」を作ったのはそもそもこの「信濃足利氏」であったのです。
    (11領国の一つ陸奥斯波の地名を採り斯波氏を名乗る)
    この平安期の前身の本家筋の事件での逃避地です。
    上記のデーターでも判る様に、ここは鳥取は全く「神明系社」が無い地域です。ここに逃げ込んだのです。
    以上がこの事件の経緯ですが、この事、何か不思議ではありませんか。

    先ず、何故、この「青木氏の退避地」に定住しなかったのでしょうか。
    この「退避地」(保護地)とこの「足利氏本家」と「足利氏系青木氏」の元の定住地は、「信濃」と「美濃」と「越中」の「国境地域周辺」に元々住み分けし定住していたのです。
    富山、石川、福井の3県とは直ぐ北西の隣接域です。
    最も逃避しやすい地域ですのに、然し、「若狭の福井」を越して「因旛の鳥取」まで逃避しています。

    この経緯の中には次ぎの重要な事が潜んでいます。
    1 この退避地の設置時期とその完成度期(退避地の歴史的経緯)
    2 この退避地に留まらなかった理由(退避地の受入条件)
    3 この時期の3県の「神明社系」の建立社数の程度(退避地の保護能力)

    では、この事に付いて、考察し検証します。
    この事件の起った時期ですが、平安中期前後の1000年頃です。
    この頃の「2つの青木氏」の状況は、先ず、「皇族賜姓族」はやっと大化期の頃から始まった「古代和紙」の「伊賀和紙」を信濃に移して900年前半代に「信濃和紙」が殖産出来ました。
    「伊勢と信濃の青木氏」は守護としてこれを売りさばいていた頃ですが、「平安期の初期」に始まった「衰退期」から何とか脱しようとして、これを契機に1000年の前半初期に本格的な「商い」(1025年頃)としての販売に移り始めた時期の頃です。年代が一致しています。
    この「2足の草鞋策」は、前段でも論じた様に、丁度100年後の頃の1125年頃に「豪商・大店」としても「本格的な力」を発揮し始めた時期に成ります。
    「鎌倉文化」(1200年代頃)を経て「室町文化期の紙文化」(1340年代頃)と呼ばれ時期には「巨万の富」を獲得します。
    記録によると、「地主」としての土地の大きさだけで換算すると、「50−60万石の以上の力」で、「商い分」を勘案すると「100万石以上 伊勢は58万石 最終は5万石の地主」(元は伊勢守護)を持っていた事が判ります。
    一方「特別賜姓族」は、「千国の青木氏の賜姓」が940年代前半です。ここから「特別賜姓族」は急激に力を増します。
    そうすると、力の付けた秀郷一門(秀郷958年没)が仕掛けたこの1000年前後のこの事件には、この「二つの青木氏」も共に再び「相当な力の持ち始めた時期」に成ります。
    (この時代の状況判断から此処に逃げ込めた筈です。)

    そこで、「神明系5社」の建設状況では、特にこの3県での「建設社数」ですが、「賜姓族地」ではないこの3県の「賜姓族退避地」(保護地)の「42社」の社歴を調べた範囲では、その「建立時期」を考察する事が結局は困難でした。
    本質、これ等の「社」は、「古さ」から来る「威厳、尊厳、荘厳さ」等を重視される為に、敢えて「社歴の年代年数」を正確に明示しない傾向があります。
    然し、この隣の「越後−信濃−美濃」域の「周囲の神明社」から状況判定すると、この1000年前の頃に既に建立されていた可能性のある「神明系社」は、県の国府に付近に集中している筈ですから、場所的要素から判断すると、未だ「20社程度/3県」であったと考えられます。

    前段で論じた様に、「4−6規則」からと「平均4社/1郡」の事から判断すると、「1県4郡」と見ると、比較基準としては「平均16社/県」と成ります。
    そうすると、当時の「6社/県」(「20社程度/3県」)と比較すると、この「賜姓族退避地」に対しては、「混乱、戦乱、騒乱、内乱、事件」等の「退避条件」からのその「必要性」から「1/3」程度と成り、この社数は妥当な処と観られます。
    (受け入れ条件は一応整っていた事が判ります。)

    確かに、この「6社/県」(「20社程度/3県」)の内には、明らかに奈良期から平安初期までのものと観られる「建設様式」と、「社歴」を信用するかしないかは別として、この2条件から観ると「半分程度強」と観られます。特にその傾向は「富山側」にあります。
    この「富山の理由」は、「越後と信濃と美濃」の3国境を接していた事によるのではないかと考察されます。
    特に、「古い」と観られる社が「石川」に離れて「2社」あり、これは前段でも論じた「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王 下記付録)に記している「石川の王」の「天智天皇の19守護王」の時の「神明社」であると観ています。

    (参考 福井県西の「若狭」には「守護王」として「雅狭の王」が配置されていたが、この「雅狭王」は北滋賀地域の王 奈良期−平安期の「近江国」は「北域」と「国府域」と「南域」との「3政庁区域」に分けられていた。)
    (参考 「大化の守護王」は守護地の地名を名乗る慣習があった。
    例えば、施基皇子 伊勢の施基: しき :後に施基の地名が色又は一色等に変わる。他に奈良の磯城:しきの磯城皇子 川島皇子:佐々木の川島:佐々木皇子 全てこの慣習に従う。)
    (参考 「石川王」はこの後、「吉備」、更に「播磨」と赴任するが最初の王名が通名の慣習と成る。出自地が「王名」と成る)

    そして、この「2社」が上記の「石川の2社」(神明社1含む)であると考えられます。
    この事から、明らかに大化期から「賜姓族地」を離れていても、この地名の石川には高位の「4世族王」の「守護王」を置いていた事の意味が出て来ます。
    つまり、「石川」はこの意味で「重視していた地域」であった事を意味するのです。
    「神明社」「神明神社」がある事自体が重要度を物語るパラメータなのです。
    つまり、「奈良期と平安期」では、「神明社の存在」は一つの「重要地」である事の証しなのです。
    「3つの発祥源」の責務を担った「皇族賜姓族の青木氏」を政策上つぶす事は絶対に出来ません。
    その為に、「皇族者の子孫存続」を目的として「事件や乱」等から守る為の天智、天武天皇が最初に考えた「退避地的な地域」(保護地域)であったのです。(決−42)

    この為に3県に対して、北側に隣接する「近江」には、南北の縦に「3つの守護王」を置いて補足態勢を採っていたのです。
    そして、この「近江」から南域に隣接する「伊勢」を基軸にして挟む様に左右の5地域に「高位の賜姓族王」(融合氏)を配置したのです。
    そして、”イザ”と云う時の退避地(保護地)として最も「美濃−信濃」に近い「石川」を基軸に左右に「2つの地域(福井、富山)」をその範囲領として「退避地」(保護地)としたのです。
    要するにより確実で安全な「防護戦術の鶴翼の陣形」を敷いたのです。
    無意味に1つの国にこの様に3守護王を配置する事はあり得ません。

    この「戦略的配置」とは別に、次ぎの様な事を実行しています。
    1 それを「不入不倫の権と神宮」で固く護ります。
    2 「青木氏の守護神」を「皇祖神の子神」と定めて権威を高めて保護します。
    3 「祖先神」と云う「独善の神」を持たせ上で、この「保護システム」の采配を「祖先神−神明社建立」と云う手段を駆使します。
    4 指揮に対する権威を高める為に「最高位の王」として「融合氏の祖」の「伊勢王 施基皇子」を初代「指揮王」として定めたのです。
    (「主要な初期の19神明社建立地:4世族王」 下記付録参照)

    (参考 奈良期から王は「4世族」(宿禰族まで)までとし、「八色の姓」制度で変革したのです。
    それまでは「6世族王」であった。「伊勢王」は最高位の2世族の「第6位皇子」「朝臣族」「淨大正1位」 「王位」にも順位があり重要地に応じて順位通りに配置された。)

    従って、この事件の1000年頃の「退避地の神明系社の数」は一応「22社」とします。
    最初の建立期は、大化期の「石川王の2社」(吉備、播磨の「石川王」別)であります。
    これを一応645年とします。
    事件の1000年の前の950年として計算すると「250年間」、「古代和紙」の信濃は900年頃として、この間に前記した様に「最小の衰退期間100年(MAX150年)」として、「100年間」−「22社」とすると、建設能力は次ぎの様に成ります。
     [ (22社/100年)*5 ]で、 建設は5年に1社程度と成ります。

    これは上記で論じた「建設能力」に類似します。
    5年に1社程度で退避地(保護地)に神明社を建立し始めた事に成ります。
    その最初が「19地域の守護王の神明社建設」であったのです。
    (その中でも上記した特令地の神宮の遷宮遍座地の一つで滋賀の「神明社」がもっとも古い)

    結論としては、これで1と3は解決しました。
    この3県に建立されていた事件前の神明系社は22社と成ります。
    退避地(防護地)の「受け入り態勢」は時代と共に進み、「1社/5年」のペースで充実させて行ったことを物語ります。

    さて、2の検証を次ぎに進めます。
    この22社もある退避地(防護地)に、”何故、この「足利氏系青木氏」が伴う「足利氏元本家の集団」は留まらなかったのか” と成ります。上記した様に、「退避地」としては留まられた筈です。

    この事件は戦乱ではありませんので「掃討作戦」がある事の危険はありません。ただ逃避するだけです。荷駄を引っ張りながら一族の集団が山道を越えて米子・八頭に逃避し到達したのです。
    明らかに「退避地の充実度」で留まらなかったわけではない事から、次ぎの事柄が考えられます。

    「足利氏元本家」は ”皇族ではない” と云う立場があり、「賜姓族分家の足利氏系青木氏」の一部の薦めにも拘わらず「賜姓族地」と云う概念に拘ったのです。
    それ程、この時代には未だ平安期である事から「賜姓族」と云う「権威、尊厳」があり、これに対して「一信濃の土豪の立場」から遠慮したと成ります。(理由の1)

    秀郷一門から危険を感じてその「影響力」の及ばない所の「鳥取」のこの ”「緩衝地帯」に逃避したかった”とする推測も成り立ちます。
    皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏の関係からこの退避地は余りにも秀郷一門の影響力の及ぶところであったからでもあります。(理由の2)

    ”この鳥取の八頭の「緩衝地帯」であれば未開の山間部を開墾して、一族を護る事が出来る” と考えた事もあり得ます。
    その他の土地では、「土地の豪族」との間で「受け入れ」を断わられる事もあり得ます。
    故に、この未開の誰の圏域でもない様なこの「緩衝地帯の山間部」を選んだ事が考えられます。
    (理由の3)

    何れにしても、「3県の退避地」に留まらず、逃避行を続けた理由はこの「3つの状況」を配慮した筈なのです。

    つまり、その配慮の根幹は、「再興」のことより「子孫存続」に重点を置いた生き方をした事を物語ります。
    その証拠に、鳥取には神明社系は全くありません。本来であれば賜姓族の足利氏系青木氏が付き従っていますから、「神明社系社」を建立できる立場にはあった筈ですが、宗家に対して建立するに必要とする条件を揃える事が出来なかった事が考えられます。それ程に「衰退した環境」の中にあった事を物語ります。
    この「賜姓足利系青木一族」はこの米子域から東西に南北に末裔を大きく広げていません。本来ならば「青木村」を作る権利も与えられている訳ですがありません。
    信濃を立つ時の「賜姓足利氏系青木氏」の”宗家に対しての苦しい立場”が目に映ります。それだけに上記の「3つの配慮」をしたのです。

    一部、宍道湖の右側に青木氏の子孫が点在存在している事は家紋群でも判りますが、これ以外にはありません。この事からかなり閉鎖的に氏を護った事に成ります。
    この状況証拠から、「2の問題」は検証出来たと考えます。

    「元本家筋の足利氏」に付いての研究は進んでいませんが、「信濃足利氏系青木氏」から考察すると、上記の「3つの理由」から留まらなかった事が判ります。むしろ”留まれなかった事”に成るでしょう。

    結局、この事件の検証からは、この「3県の退避地」は奈良期からある程度の能力を保持していた事が判ります。 
    「神明系社」が22社から42社に成ったのは、「室町期の下克上と戦乱期」の要素から青木氏はよりその退避地の受け入れ能力を高めた事が判ります。

    奈良期から平安期では、「1社/5年」で構築し、鎌倉期からは戦乱期の直前まで1330年−1200年で130年間 これで42社−22社で20社→20社/130年から 「1社/5年」と成ります。

    「時代の混乱性」を「奈良期−平安期」に比して「鎌倉期−室町期中期」は2倍として考察すると、2倍のハイペースで建設を進めた事が判ります。
    この「20社」は、上記で論じた「建設の能力」から可能な範囲であります。

    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、懸命にこの「退避地の補足」を「時代の状況」に応じて「神明系社の建設」に邁進した事が判ります。そして、最終的には全国比3割を占めるまでに至ったのです。

    「2足の草鞋策の財力」とその「抑止力のシンジケートの能力」には問題が無かった事は上記した明治期の「一揆のバックアップ」の史実の事からも判ります。
    特に、この「シンジケートの能力」は鎌倉期−室町期中期間では極端に高まったと考えられます。
    それは「シンジケートの母体」は、「戦乱で敗退した氏族」を「経済的に援護」してこの「組織」に組み入れて保護して、”イザ ”と云う時にその代償を発揮するシステムです。
    この ”イザ ”は「抑止力」のみならず「諸々の経済活動」にも寄与したのです。
    伊勢青木氏−信濃青木氏が企画する「全ての経済活動」に働いたのです。
    大商いの「荷駄の輸送と安全確保」、「神明系社建設の職人や下働人」等のありとあらゆる仕事に対して適時適切に指揮してシステムを動かしたのです。
    「室町期の戦乱期」には、真に「政治、経済、軍事」の三面に対して忙しく働いた事が記載されています。
    「伊勢シンジケート」が効率よく働いた史実の「南北朝の楠木正成の働き」がこれを物語っています。
    混乱期の「敗残兵」の多くは逃亡して「山間部や海沿い」に移り住み、「山族、野族、海族」の様な形で生活をしていました。
    普通は、前段の「陸奥安倍氏」のところでも論じた様に、当時の戦いの慣習では、「敗残兵」が捕まると「俘囚」として奴隷となり、女子供の家族は人身売買と成ったのです。
    資料から室町期までこの悪習は続づいていたのです。
    その悪習の中で、青木氏はこれらの青木氏に関係する「敗残兵」のみに拘わらず、全ての氏の「敗残兵」を、「退避地」ではなく、「伊勢−信濃シンジケート」の中に組入れて保護し、「集団組員」として生活保護を含む様な経済的な支援をしたのです。
    これには兵だけではなく被害を受けた「村の農民」や「全ての職種の職人」等も「影の姿」で吸収したのです。
    「今宮社系の遠州シンジケート」の蜂須賀氏や、「神明社系の伊勢−信濃シンジケート」の楠木氏などはこの一員であったのです。
    単に「抑止力」の言葉で表現していますが、実は「シンジケートの構成内容」はこの様な「一種の退避地」の役目も果たしていたのです。
    「3県の退避地」は「一族の子孫存続」の為の策であり、「伊勢シンジケート」はそれらの「関係族の救済手段」の為の策でもあり、この「2つの策」を構築していたのです。

    この様に、考えてみれば、全ての「青木氏の存在」を影で関わり支えた「伊勢−信濃シンジケート」はなくては成らない存在であった事が改めて判ります。
    そして、この「2つの策」に関わった無くては成らない前段で論じた「伊勢シンジケート」と本段の「神明系社 556」は切っても切り離せない関係にあった事が判ります。
    そして、「4−6規則」と「決−41」はこれ等の関係を維持すべく「最大の条件」であったのです。

    (参考 「4−6規則」は1地域に於いて「4−6社の建立」とする根拠の一つには「退避屋社」の距離にもあって、一つの地域を「50キロ程度、15里」が「昔の国の距離」の単位ですが、これを4−6社で割ると(3里)〜4里で(12キロ)〜15キロと成り、「休憩−宿泊」の丁度よい範囲と成ります。
    これは「退避地」だけに関らず「29の賜姓族地」に於いても”いざ”と云う時の要件でもあったのです。
    「4里」は、資料から一旅の「平安期−室町期代の移動範囲」とする記載もある。)

    結局、「賜姓族地」に無関係なこの3県のこの2社はこの「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏と信濃青木氏の建立」と云う事に成るのです。
    だから「32の神明社」と「8の神明神社」と、「分霊社」を招く事の出来ないこの地に「社名つきの神社2」なのであって、「伊勢の呼称」は特定しないこの「退避族の末裔」の為に建立された事を意味するのです。
    だから、総じて「伊勢」なのです。故に、ここが「全皇族賜姓族のルーツ」(越道君)なのです。

    「武と和」
    そこで、この3県の「社名付き・・神社」で論じたのには、次ぎの特記すべき事があったからなのです。
    それは、前段で論じた様に、「2つの賜姓青木氏」は「武」の「発祥源」でありながらも、その存続は「神明社」に関り、「武による存続」ではなく、総じて「和の存続」であった事なのです。
    その証拠が「和の象徴」の「神明社」であって、それに纏わる此処に記する「退避地の存在」なのです。
    そして、直接、「武」を使わず、「シンジケート」と云う「影の力」の「抑止力」を活用し「善或いは和」として子孫を確実に遺し生き延びて来たのです。
    他氏が行っていない「青木氏の退避地の存在」の意味する処は真に此処にあると考えているのです。
    真にこれは「3つの発祥源」を果たす為の戦略であったのです。
    その戦略が「神明系社」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」と「退避地」で有機的に働いていたのです。

    因みに、この事に付いての次ぎの象徴的な事件があったのです。
    「信長の伊勢攻め」に継いで、「豊臣秀吉」は「青木氏の生き様」のこの事を「今宮社系遠州シンジケート」の一員であった「蜂須賀小六」に教えられ充分に承知し、「伊勢攻め」の際は「武」に依らず、自らの兵を使って吉野から材木を切り出し、谷から流し、兵による大工をさせ、前線の拠点城を建てる事をしたのです。(青木氏の影響を避けた)
    そして、この様に「丸山城戦」の様に、直接「武」により戦わず、学者で歌人で智略家であり、「伊勢の特別賜姓族」の「遠戚族」でもある「蒲生氏郷」を廻して「伊勢青木氏」と談合させ、戦わずして勝利させる為に、一時、「伊勢青木氏」を新宮に移動させて「勝利の形」を作り、無傷で1年後に戻し、「5万石の本領を安堵」させ、「2足の草鞋策」も促進させる為に「松阪城造り」後には「侍屋敷の2区画」をも与えて、「和」で「伊勢」を解決させたのです。

    これは何故なのかであります。
    真に、「退避地と神明社」と「シンジケートと2足の草鞋策」に観られる様に「和の生き方」であり、人の心を動かし、「秀吉」はこれを認め、この「青木氏の賜姓氏」を潰さず生かす形で処理をしたのです。
    「秀吉の立場」からすると、この「権威の象徴」の様な「目障りな氏」を先ず最初に潰す筈です。
    然し、そうしなかったのです。
    故に、賜姓源氏を含む「皇族賜姓族」16代16流16氏の中で、唯一正規に直系子孫を純粋に現在に遺し得たのは「笹竜胆紋の綜紋」を家紋とする「伊勢青木氏と信濃青木氏」だけなのです。
    前段で論じた「3つの発祥源」の役目は真に達成されたのです。
    それがこの「青木氏の守護神」=「祖先神−神明社」の論で判るのです。そして、この「退避地の存在」がそれを大きく物語ると説いています。


    「大神宮と皇大神宮」
    さて、次ぎは大神宮と皇大神宮を二つにして考察して見ます。
    何度も同じデータを比較として使います。

    神明社
           ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8 ・東京6・岩手4・神奈川4
           ・埼玉3 ・福島2 ・栃木2 ・茨城2 ・広島2 ・山形1・青森1・静岡1
    神明神社
           ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2 ・千葉10・東京2  ◎ ・神奈川2
           ・埼玉9 ・福島2 ・栃木1 ・茨城1 ・岡山1 ・山形9  ◎ ・静岡7
           ・群馬3
    大神宮
    皇大神宮
           ・ ●  ・ ●  ・新潟2 ・宮城2 ・千葉1 ・東京2 ・岩手2・神奈川2
           ・埼玉1 ・福島2 ・栃木3 ・茨城1 ・広島1 ・山形5 ・青森1 ・静岡1
           ・熊本1−北海道1

    上記の「神明系4社」を総合して観るとその「建立根拠」が良く判ります。     

    神明系
    4社総合
           ・秋田25・愛知21・新潟19・宮城14・千葉19・東京10・岩手6・神奈川8
           ・埼玉13・福島6 ・栃木6 ・茨城4 ・広島4 ・山形15・青森2 ・静岡9

    「神明系4社」に神明宮を加えて総合的に観ると更にその「建立根拠」が歴然と証明されます。

    神明宮
           ・ ●  ・愛知12・新潟34 ・ ●  ・千葉3 ・東京3 ・ ●   ・ ● 
           ・埼玉2 ・福島3 ・栃木8  ・茨城8 ・ ●  ・ ●  ・青森12 ・静岡9
           ・群馬9
    神明系
    5社総合
           ・秋田25・愛知33・新潟53・宮城14・千葉22・東京13・岩手6・神奈川8
           ・埼玉15・福島9 ・栃木14・茨城12・広島4 ・山形15・青森15・静岡18

    先ず、「神明系4社総合」ですが「神明社+神明神社+大神宮+皇大神宮」を加算すると上記の通りの表と成ります。
    この表の「大神宮+皇大神宮」の考察表で「秋田」と「愛知」が何故ないのでしょうか。この疑問が湧きます。これを解明すれば、「建立根拠」が浮き上がってくる筈です。

    実は、これには「明確な根拠」があるのです。それを次ぎに論じます。
    この表は先ず、次ぎの「4つの地域」に分けられます。これは地域としての分類ではなく秀郷ラインとしての分類です。(県別や国境別ではない。広島と岡山は同一とした)

    1 青森2 →秋田25  −山形15 −岩手6 −宮城14    北陸ライン
    2 新潟19→(山形)  −福島2  −栃木3           東北ライン
    3 埼玉1 →茨城4   −東京2  −千葉19          関東ライン
    4 神奈川8−静岡9  −愛知21 −広島15          東海ライン

    前段で論じた様に、「特別賜姓族の勢力」の伸張方向で観るとこの様に見事に分類出来ます。
    この「4つの地域」に沿って「建立の根拠」が配慮されたと考えられます。
    この「建立の根拠」は「仕来り、決り事、規則慣習」と「威厳を尊ぶ格式」と「神明社と神明神社の建立数」とで「4つの地域」に依って配慮さられたと観られます。
    問題は下記に考察する様に、この県域通りに勢力圏が成り立っていた訳ではなく、下記の注意に記した様に「県別」が昔の「国別」に成っていなかった事等の事から「秋田の様な事」に成ったと考えられます。

    (注意 県別も然る事ながら、国別も、国境別にくっきりと判断されたわけではなく、何事も国境を越えた勢力圏で判断されていたのです。)

    そもそも、この●印の秋田25と愛知21は社数としては段突です。
    先ずは多い事も一つの「建立の根拠」ですが、多ければ必ず「大神宮と皇大神宮」が建立されると云う前提ではありません。何故ならば、其処には「皇祖神」の子神の「祖先神−神明社」と云う「社格」と云うものが働き、それに加えて上記で論じた厳しい賜姓族への「仕来り、決り事、規則慣習」があり、又、上記した「勢力圏」も大きく働きます。
    「社」の事のみならず、何事にも「格式」を「社会の基準」として重んじた「氏家制度」です。
    その中でも、特に厳格に守られていた「心の拠り所」の「社」に名をつけない格式等が厳格に守られていた環境なのです。
    従って、其れなりに「高い権威」が「4つの地域」毎に保たれている地域に建立された筈です。
    そうなると、「1の北陸ライン」であれば、このラインの主役、指令基地、つまり、最大の「権威と威厳と格式」の条件を保っているのは、「陸奥国の青森」と成ります。
    前段で論じた様に、この陸奥は、秀郷一門の「鎮守府将軍」としての赴任地であり、関東以北の最大の血縁族を有し、秀郷一門の血筋の多くを占め、且つ、関東にはその陸奥の豪族末裔が「関東屋形」等と呼ばれる程の小田氏や小山氏や花房氏等の主要な関東豪族の出身地域でもあります。
    況や「武蔵の本領」に対して陸奥は「準本領」と呼ばれる程の地域であり、この地域は江戸期まで一門の領国として維持された息の長い国でもあるのです。
    ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する事は最適で先ず一番に建立された地域と成ります。
    この青森を基点として、ラインの国々に建立されて行った筈です。(神明社も同じであった)
    そうすると、”秋田も”と云う事に成ります。この秋田の域の範囲は県別を前提した数字です。

    然し、実はこの「秋田」が存在していた地域は、県別ではなく、「国境別の影響」を強く受けた地域なのであって、更には勢力圏が最も強く働いていた地域なのです。県別=国別ではないのです。
    この勢力圏には「強い方向性」或いは「地理性」を持っています。(前段でも地域性を論じた。)
    従って、この「秋田」は陸奥国(出羽の一部北側を含む国内)の勢力圏内であった事から、建立の適用除外された地域なのです。
    既に、「青森」に建立されているとなると、「強い方向性」或いは「地理性」を持っている事から、陸奥の一部の「秋田」には建立は無理であります。

    更に、前段で詳しく論じた様に、この地域は平安末期には「阿倍氏−安倍氏」と「内蔵氏」の阿多倍一門の「産土神の勢力圏」と成り、越後に近い「出羽の南部(山形)」と、「陸前の西側域」と「岩代の北側域」との「3つの地域」が支配していた地域でした。
    この「3つの国」に挟まれた地域にはその影響力は当然に及びません。
    この様に「支配地域外」と「守護神の違い」が強く働いていたのです。
    上記した様に勢力圏にはこの様に「方向性・地理性」が働くのです。
    当然に「建立の根拠」もこれによって支配されます。
    この「秋田」はあらゆる面(国別、勢力圏、守護神、「立地地形」等)から影響を受けていた事に成るのです。それだけに、この「陸奥域」を後方から支援補足する必要性があり、それを実行する「新潟」に執っては「喉の刺」であったのです。
    (別の意味で、故に秋田は大変に変動し苦労した歴史を持っているのです。)

    この「広域陸奥域」を補足する立場の「新潟」は、「2のライン」の広域の「越国の根拠地」であった事から建立され、そこを基点としてその「2のライン」の他の地域に次第に建立されて行ったのです。
    この「秋田」と同じくこの難しい位置にあった北陸域にも接するこの「山形」は、越後の支援を強く受け、「秋田」の他氏の支配域の伸張防止も含めて「陸奥の出羽国の根拠地」であった事から建立されたのです。

    「県別、国別」以外にも要するに「勢力圏」とその「方向性」をも「建立の根拠」に影響を強く与えていたのです。
    そして、「2のライン」は、武蔵の本領域を繋ぐ広域陸奥域の主要の国々、「3のライン」は広域武蔵国の本領域であった事から建立されたのです。

    (現在の「県別」で考察しているので、昔は次ぎの「注意」の通りであった事から誤解を招き易い。下記の「注意」を特に本論には考慮が必要で、雑学としても是非お読みください。この「注意」に勢力圏が働きますのでその根拠で論じています。)

    [注意1  「広域陸奥国」は、元は「磐城」(福島)、「岩代」(福島)、「陸前」(宮城)、「陸中」(岩手)と出羽の「羽前」(秋田)、「羽後」(山形)とで以上6域で構成される「陸奥国」であった。]

    [注意2  「広域越後国」は、元は山形の一部を含む「越後」(新潟)、「越中」(富山)、「佐渡」、加賀(石川)、越前(福井)との4地域で構成される「越国」であった。]

    [注意3  「広域武蔵国」は武蔵(埼玉)、武蔵(東京)、上野(群馬)、下野(栃木)と神奈川 (相模)の一部と千葉(下総)の一部との6地域で構成される「武蔵国」であった]

    [注意4  「峡域陸奥国」は、現在の青森県をベースに、岩手県の北の30%を南に伸び、秋田県の30%を南に伸び、日本海側より60%、太平洋側より30%程度内側に入った地域を国境としていた。
    つまり、秋田と岩手の国境を挟んで突出した形状であった。

    [注意5  「峡域越後国(越国)は、現在の新潟県をベースに、北側の県境より山形県側に20%北に伸び、山形県の日本海側に糸状に秋田県に繋がっていて、福島県の県境に20%を東福島側に伸び、栃木県と群馬県の県境をそのままにし、富山県の西県境付近まで伸び、長野県と富山県との3県境の地域を長野県側に延びた地域を国境としていた。
    山形県と秋田県に繋がる日本海沿岸沿いの糸状域は陸奥に繋がる補給通路として抑えていたと考えられる。]

    [注意6  茨城県、岩手県、宮城県、福島県、千葉県も昔の国境とは大きく異なっている。
    現在の県境は地理的要素に依って決められ、昔の国境は歴史的経緯(勢力)に依って決められていた。
    国境を走る北陸道、中央の山道を走る東山道 茨城と福島の太平洋国境から発し中部地方との県境を走る東海道との幹線道路とは別に、福井西側より日本海沿岸沿いに陸奥まで走る古代の通路があった。茨城を発し太平洋沿岸沿いに陸奥まで走る古代通路があった。
    何れも幹線道路ではなく生活道路や補給路的な通路的なものであった模様。
    これを特別賜姓族は勢力的に抑えて戦略的なものに使った模様が記録から読み取れる。]

    「4のライン」の愛知21は、隣国は伊勢神宮の摂社等123社の三重であり、ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する根拠は薄く、又、「権威と威厳と格式」を重んじる「伊勢神宮」は分霊を直ぐ隣に移す事は許可しないと考えられます。
    それよりは普通の判断配慮ならば、”「子神の神明社」を多く建立する「配慮の地域」である”と考える筈です。故に、秋田25と同じく愛知21と2番目に多いのです。
    特に、伊勢は天領地として「不入不倫の権」を奈良期から与えられた「三重」であって、国境は不動であったのです。、それに依って「愛知の伊勢」との西側の国境は当然に不動と成ります。
    その区別そのものは、現在感覚であって、昔は国別はあったとしても勢力争いから常に流動的であって、その地域は殆どは「勢力地域」に相当していたのです。
    「愛知21」はその意味ではこの不動の勢力地域に合致していたのです。
    この事から秋田と愛知は建立の適用は除外されたのです。

    これ等の事は更に「神明系5社総合」の表が上記の考察を完全に証明しています。
    この表は神明のパラメータのみならず「特別賜姓族」のあらゆるパラメータにも使えるのです。
    改めて、重要なデータであるので再記します。
    目的順に並べなおして使用すると便利でパラメータは発揮します、ここでは数値順(役目柄)に並べ直します。

    神明系5社総合(数値順)
         ・新潟53・愛知33・秋田25・千葉22・静岡18・青森15・埼玉15
         ・山形15・宮城14・栃木14・東京13・茨城12・福島9 ・神奈川8 
         ・岩手6 ・広島4(岡山)

    「神明系社域の役割」
    筆者の感覚では見事に総合的な指標と成っています。
    「一門の戦略上の主役新潟」53    −陸奥域の補給拠点 一門最大の拠点 賜姓族の保護基地
    「主神無の伊勢補佐の愛知」33    −西域の前線基地 西域の守り玄関口 他氏との調整役地
    「陸奥の西補給路の秋田」25     −陸奥から南域の前線基地 神明系社建立最大地域 
    「宗家筋の結城一族の千葉」22    −本領東の拠点 補給基地 「京平氏」との競合地域 
    「武蔵と京の中継地点の静岡」18   −東海圏の要 愛知−静岡−神奈川の戦略ラインの確保
    「広域陸奥の勢力拠点の青森」15  −全北域圏の要 武蔵−陸奥間の南北2大戦略拠点
    「北青森と西愛知の中心点の埼玉」15−本領−総作戦指揮本部 「振り子の原理」役
    「陸奥基地と本領の西壁役の山形」15−南北の勢力圏の防護壁−他氏を挟撃壁の盾役
    「陸奥基地と本領の東壁役の宮城」14−南北の勢力圏の防護壁−他氏を挟撃壁の盾役
    「本領北の防御の栃木」14      −北域の伸張拠点 賜姓族の保護基地 勢力盛り返し地域
    「本領周辺防御の東京」13      −青木氏の集約拠点−青木氏116氏の本家本領地域
    「本領東の防御の茨城」12      −本領の補給基地 血縁豪族の集約地域
    「前線基地の福島」9         −賜姓族の保護基地−北前線の戦闘部隊 不安定域
    「本領西の防御の神奈川」8      −伊豆賜姓族との連携地域 関東勢力圏の入口
    「陸奥の東補給路の岩手」6      −南の前線基地 不安定地域 一門の最大苦難地域
    「讃岐籐氏の勢力圏」4        −軍事、経済の独立性を保持した西の最大勢力地域

    全国24地域の特別賜姓族のそれぞれの役割は武蔵本領より与えられていたと考えられます。
    又、その様に、戦略的に地理性に合せて勢力地を拡大し、その勢力をある目的方向に進駐させ全体の防御網を構築していたと考えられます。
    その印として「戦略的拠点」と「政治的拠点」としても「神明系5社」を巧みに配置していたと観るのです。
    その指揮を「第2の宗家」が行っていたのです。
    何故ならば、「神明系5社の建立と呼称」と「仕来り、決り事、規則慣習」の実行権を「特別賜姓族」として天皇家から与えられていたからで、これだけの大権を与えられていたからこそ成し遂げられる勢力圏です。それを「神明系5社の呼称」と云う手段で証明している事を意味しています。

    つまり、この”「役目柄」の範囲で「神明系の5社」は配慮され計画的に建立され、呼称が決められた。”と云う事に成ります。

    (神社の呼称群とその他の群を入れると、その「建立と呼称の根拠」に濁りが出て真のパラメータは出ません。)

    「分霊の根拠」
    さて、此処で「皇族賜姓族」はどの様に貢献してこの「分霊」を行ったのかと云う問題です。
    既に、「神明社と神明神社」で「147社」を建立しています。記録では148社と成っていますので、せいぜい「分霊」として建立したのは2社止まりと考えられます。
    (一社は最古の神明社、もう一社は特令地京の神明社)

    その「主神の建立」は下記表の*印は三重の本宮を除いて「8社」です。この内、特令地の「大阪1」と「京都4」を除くと「長野1と山梨3」と成ります。
    「大阪1」と「京都4」は、「2つの青木氏」にとって建立し呼称する権利と義務はありません。
    これは恐らくは「朝廷の命」による建立と観られます。
    そこで、「京都4」の1/4は、「皇大神宮」です。
    下記の遷宮10が存在しますが、Cの「大」の字を「太」に変えて建立し、敢えて「伊勢神宮の仕来り」に従い呼称したと観られます。

    この建立期から判断すると、「平安期遷都」と同時に京の都に分霊したと見られ、「桓武天皇」による建立と考えられます。遷都していて皇祖神を祭祀しないのはおかしいものです。
    先ず最初にする行為の筈で、当時の慣習では遷都に「御魂」を入れる事が「遷都の第一の行為」です。
    まして、「桓武天皇」は上記し前段でも論じた様に、遷都後に自らも神明社を20社建立していますので間違いはないと考えられます。

    残りの「京都4」の2/4は「豊受大神宮」です。
    これも「桓武天皇」である筈で、「内宮 外宮」を対として分霊している筈ですので、下記の「京都4」のAと成ります。

    「京都4」の3/4は一地域に2社は「威厳と権威」を厳格にこの仕来りを守っていた事から分霊と成る事はないと考えられますので下記の「遷宮の10」のものと成ります。

    従って、下記の「遷宮の9と11と12」は、この建立が「伊勢神宮の遷宮」の時のものであり、社歴が古い事は確認出来るし、「社の記録」は平安期初期には特別に伊勢4郡外123社外に「摂社」格扱いと成っている処から神明系社とは別扱いと成ります。

    「京都4」の4/4は下記の「京都4」のDであり、同地域に2社建立は仕来り外ですので、「皇大神宮」に「神明」を付けて仕来りを守ったのです。

    現実に、奈良期には次ぎの遷宮が行われていて、結局は、下記の2つの表から、「京都全8社」の内、4社建立で「大神宮」1と「皇大神宮」3と成り、「皇大神宮」は遷宮1と分霊2に成ります。
    これで一致し、「太」と「神明」を付けて奈良期の遷宮10に対応した事に成ります。
    故に、この「遷宮と遷都」に因って建立された社は大変珍しい呼称も4つとなる訳です。

    京都の遷宮地
    9  真名井神社(摂社)  京都府宮津市江尻      
    10 皇大神社        京都府福知山市大江町内宮
    11 笑原神社 (摂社)   京都府舞鶴市紺屋
    12 竹野神社 (摂社)   京都府丹後市丹後町

    確かに、仕来りの「社名」の付いていますが、この遷宮中の奈良期では未だ決められていません。
    従って、「京都4」の神明社は、本データ「祖先神−神明社」では次ぎの様に成っていますので下記の「京都4」のBに成ります。

    「京都4」
    A  日向大神宮   山科区  東山神明社 7大神明社・
    B  朝日神明社   此花区・
    C  天照皇太神社 京都市左京区原地町
    D  神明皇大神宮 宇治市神明宮西

    この京都の遷宮社(皇大神宮)の9〜12と神明系A〜Dの間には「社名と地名」が異なっています。
    このAとBは後に「神明社」に成っています。
    特異な社格として、Aは大神宮と共に後に「7代神明社」の一つと成りました。

    「遷宮神明社」
    実は、此処で大変な史実があるのです。
    それは「祖先神−神明社」の発祥に関わる事が「遷宮の遍座地」85「社」の中にあったのです。
    それは次ぎの「神明社」です。

    ・ 特令地 遷宮地 神明社  滋賀県湖南市三雲

    つまり、「神明社」として「最も古い神明社」の位置付けに成るからです。
    そもそも、前段でも縷々論じた様に、再度、概ねに書き記しますと「神明社の歴史的経緯」は、次ぎの通りです。
    「皇祖神」として定める前には、「遷宮遍座地」として85社と90年の歳月を掛けて遍座します。
    そして「天智天皇」の大化期には「伊勢」の現在の地を最終遍座地として定めます。
    ここを「皇祖神の地」と定めます。
    そして、それを「天武天皇」がこの「伊勢社」を「正式な神宮」として祭祀に伴なう「仕来り、決り事、規則慣習」等の「式目と格式」等を定め、「国神」としての位置付けを定めました。
    この時、この祭祀を行わせる為に「皇女」に「伊勢神宮」などの「高位格式社」の「斎王」として任じます。
    そして、「神宮を皇祖神」の「子神」として「祖先神」を定めます。
    これを「第6位皇子」に賜姓し臣下させて、この「祖先神」を「賜姓族の守護神」と定めます。
    この賜姓族に全国に「祖先神−神明社」の布教を図らせ、その為に「神明社」を建立をします。
    この時、「第4世族」までを「王」とし、この王を19の主要地の守護王に任じます。
    先ず、その守護王に「19の守護地」にこの「神明社建立」を命じます。
    「この皇族賜姓臣下族」は、天皇を護る「親衛隊の任務」と共に、「賜姓族」の「初代伊勢青木氏」は「伊勢の守護王」として「伊勢神宮」を守護する役目を司ります。
    施基皇子を天皇ノ補佐として働かせ、伊勢には「三宅連岩床」に伊勢国司代として派遣を命じます。
    「天智天皇」はこの時、同時に「遷宮遍座地」85の中から、先ず、「特令地」として滋賀に「遷宮神明社」(滋賀県湖南市三雲)を最初に定めたのです。
    この「滋賀の地」はこの「遷宮地」として最有力地、(遍歴数/県 下記データ・印)であったのですが、「伊勢」に定めた為に此処に「皇祖神の子神」としてこの「神明社」を建立します。
    次いで「19の守護地」に「皇祖神の子神」の「祖先神」の「神明社建立」を命じました。
    ここで天皇家に依って累代に「3つの発祥源」に関わる皇族子々孫々の一つの「政治的戦略」が展開されます。(−22で論じる。)
    その後、累代の男系天皇の「第6位皇子」の「5家5流賜姓族青木氏」と共に、「特別賜姓族」として「藤原秀郷の第3子の千国」にこの「青木氏の氏」を与え、「皇族賜姓族」と共にこの任に当らせます。
    この結果、最終は566社を建立します。
    この中で神明社は148社と成りました。(詳細は本段)
    その最も歴史的な経緯を持つ「古い神明社」がこの「遷宮の神明社」なのです。
    「特令地」の此処から「神明社」は始まったのです。

    「遷宮と19守護地」
    そこで、「遷宮と19守護地の2つの資料」には「青木氏」にとって根幹を示す大変に重要な意味を持っていますので、これに付いては考察してみます。

    遷宮の遍歴数/国
     伊勢23  大和21 ・「近江13」  伊賀10  吉備6  丹波4  尾張4  紀伊3  美濃3

    国数 9
    社数 85

    「5主要地域」
    (大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
    (伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
    (近江+丹波)     17 「近江域」
    (尾張+美濃)     7  「美濃域」
    (吉備)          6  「吉備域」

    「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王)

    5家5流皇族賜姓地
    伊勢
      [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
    近江
      [雅狭王](滋賀県 近江−若狭地方)
      [山部王](滋賀県 草津−東近江−守山地方)
      [近江王](滋賀県 ・国府)
      [栗隅王](京都府 宇治市 山城国−久世郡地方) 
      [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
    美濃
      [美濃王](岐阜県 ・国府)
      [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
    信濃
      [三野王](長野県 ・国府 信濃)
      [高坂王](長野県 更級地方)
    甲斐
      [甲斐王](山梨県 ・国府)

    賜姓末裔地(賜姓族保護地)
      [石川王](石川県−福井県 加賀−能登地方 )

    遷都地  (特令地)
      [竹田王](大阪府−京都府 竹田地方)      
      [難波王](大阪府 摂津地方)
      [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
      [泊瀬王](奈良県 桜井市−朝倉地方 長谷寺)

    特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
      [弥努王](愛知県 尾張−信濃側地方)
      [桑田王](愛知県 豊田市地方)

    大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
      [春日王](福岡県 春日市地方)

    (注意1 [5家5流皇族賜姓地]
    この・印の「5地域の守護王」が始祖と成り、5代の男系天皇が賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承した。
    その後も「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れた。累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承した。

    (注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」は他の書籍等では混同している)

    (注意3 「遷宮地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」
    (注意4 「賜姓地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」
    (注意5 注意3と注意4を比較すると大きな意味を持っています。)

    (「注意1から注意5」と「19守護王地」の関係の意味に付いては−22で論じる)
    以上19人/66国

    そこで、この2つのデータを使って考察を進めます。
    「長野1」は信濃青木氏の建立に因るものと観られます。ここには「特別賜姓族」は存在しません。148社に入りますので問題は他と同じく「調査諸条件の合致」では問題はありません。
    此処までは問題はないのです。ところが、次ぎの4地域には問題を持っています。

    「大阪1の問題」
    (特筆)
    大阪1に付いては、「皇大神宮」 大阪市城東区今福南にあります。
    然し、この記録は不明確なのです。賜姓族とは無関係の地でありますので「分霊」は困難であります。
    「伊勢青木氏」の圏域は奈良の名張までの領域ですし、伊勢から「分霊」を大阪にするには問題があり、大阪に「難波宮」があるとしてもその経緯から「分霊許可」が出ないと考えられます。(次段−22で論じる)
    従って、室町期中期までに建立されたものとしてはなかなか難しいところであります。

    又、「皇大神宮」としては「遷宮の地」でも有りませんし、東大阪は未だこの地は淀川と寝屋川に挟まれた砂地の湿地地帯でしたので建立は可能かは疑問です。
    恐らく、そうなると青木氏による建立ではないとすると「分霊」ではない訳ですから、室町期中期は考え難く、少なくとも江戸期以後の社で「分霊」ではなく何処からか移設したと考えられます。
    移設でなくては「地理」と「歴史」と「皇大神宮の呼称」の関係から困難であります。
    移設する事の出来た権力者はこの地では一人「豊臣秀吉」と成りますが不確定不祥です。
    そうすると、”何処から移設したのか。”と云う問題が出ます。
    移設出来ると成ると、「関西圏の遷宮地」から移設する以外にありませんが、現在は不明です。

    (参考 調査等に依れば、この「大阪1」は、”ある地域(匿名)に存在し、「平安時代末期」に摂津国の今福村が開発された時に、「天照皇大神」を祭祀したとする地元の言い伝えがある。大正末期には稲荷社を旧大和川堤から移設した”とする資料もある。
    これを調査するが「社歴詳細不祥、社殿格式不祥、様式等不祥、建立者不祥」で「建立期も根拠無」、「地理環境に矛盾」 「建立理由の希薄」。
    この本宮36社中、この大阪「皇大神宮」だけが調査内容の全てが不明確、不祥で、勝手に建立できない「仕来り」に対しても、「一農村開発」、又、「稲荷社」がある処からも威厳から矛盾多し。「仕来り、決り事、規則慣習」が霧消した明治以降の建設とも考えられる。本宮唯一の不祥社で記録が不思議に消されている。秀吉が「伊勢の慣例」から逃れる為に一切の記録を消したか)

    「山梨2の問題」
    「山梨2」の一つは「外宮の分霊の大神宮(大明神)」で、「甲斐青木氏」の建立に因るものと観られます。
    ここにも「特別賜姓族」は存在しません。残りの「山梨1」は「皇大神宮の建立」と成ります。
    最後の一つは甲斐には嵯峨期の詔勅に依る「皇族青木氏」が存在しますので、この一族の主家が建立したのではないかとも考えられます。
    然し、「皇族賜姓甲斐青木氏」が「皇大神宮」を2社も同地域に建立する事は「威厳と権威」を重んじ、格式を尊ぶ「皇大神宮」を2つも建立する事は不遜に当り分霊不許可に成りますので無い筈です。
    「皇族青木氏の建立」としても考え難いものですし、その権利は無い家がらです。
    そもそも、この「皇族青木氏」は内輪もめして建立するに等しい力があったかと云うと問題ですし、その出自も疑問なのです。元々建立する呼称する力は無かったと観られます。(甲斐青木氏の論文参照)

    更に大疑問なのは、次ぎの事です。
    ・「天照大神社」2の ・「天照」は「皇大神宮」の呼称でありながら 「大神宮」に重ねて使うと云う呼称が起こっています。「皇」を「天照」に変えた事も考えられます。これが「山梨2社」にあります。
    因って、この一つは大阪1と同じかとも考えられますが、「分霊」による建立権利のない「皇族青木氏」が敢えてこの様な呼称を使ったとも考えられ、「時代性」「建立形式」などの諸条件は整っていますので「大阪型」とは異なると考えられます。
    異なるは「呼称と2社」の問題があり、これに付いて確定出来ない状況である為に「皇族青木氏型」かは現在は判定出来ません。つまり、不祥の疑問社です。
    実は甲斐は何事にもこの様な疑問点の多い所なのです。

    「近江と美濃の問題」
    ここで、何か不思議ではありませんか、「近江」と「美濃」のデータが「神明系5社」には出て来ません。
    滋賀3の「神明社」としてありますが、この近江は昔は、「丹波、丹後の西域の近江」と、「美濃に接する東域の滋賀」との2域に成っていて、此処では「西域の近江の東域の滋賀」の地域にあります。

    (注意 国別は現在の県別とは大きく異なる事に注意 更に平安期−鎌倉期の国数も異なる。
    地域として記述すると次ぎの様に成ります。
    A 兵庫−播磨、摂津域、        「2域」
    B 滋賀−近江、滋賀、丹後、丹波域、「4域」
    C 大阪−摂津、難波、和泉域     「3域」

    この「近江と美濃」は平安末期に衰退し滅亡した事は前段で論じました。
    もう一度簡単にお浚いして見ると、次ぎの様な敬意を辿っています。
    「近江青木氏」は、「天智天皇」により「伊勢青木氏」と同期に第7位皇子も特別に佐々木の地名より近江佐々木氏が賜姓され臣下して発祥しました。
    その後、「文武天皇期」には青木氏の無い近江に近江王として賜姓青木氏が継承発祥させたものです。
    その後、直ぐにこの2氏の同族血縁が生まれ「佐々木氏系青木氏」が誕生したのです。
    然し、「近江佐々木氏」と「近江青木氏」との「同族争い」が起り、戦いを避ける為に「近江青木氏」は赴任もあって一族挙って美濃に接する「東域の滋賀」に移住したのです。
    「近江青木氏」は再び「西域の近江」に戻るのですが、「東域の滋賀」(地名域)には一部の娘だけの分家が残るが結局は絶えます。西域に戻った「近江青木氏」は更に兵庫摂津域に移動定住します。
    然し、「近江青木氏」が衰退した事を狙いその断絶分家を乗っ取り、伊賀上山郷から出て来た上山氏が「滋賀青木氏」を名乗ります。
    その後、、矢張り「佐々木氏系族」との軋轢が起り兵庫(摂津側)に移住したのです。
    その後、「源平の戦い」で近江佐々木氏一族と共に賜姓近江源氏に味方して滅亡するのです。
    残った「近江青木氏」は美濃に移動して「賜姓美濃青木氏」と賜姓族の「美濃土岐氏系青木氏」と共に美濃、尾張源氏の「美濃源平戦の富士側の戦い」に参加します。
    「近江青木氏一族」と「美濃青木氏一族」は、近江、美濃、尾張の源氏と共に完全滅亡するのです。
    平安末期の事であります。
    桃山期に秀吉面前で、この「上山氏の滋賀青木氏」と摂津の「近江青木氏」の残存支流の「末裔集団」とが「青木氏の名籍」を奪ったとして決着を付ける為に何れも「250の兵力」で戦います。
    結局、「上山氏の滋賀青木氏」が勝利して名乗る事を許されます。摂津の「近江青木氏の残存末裔」はますます衰退して仕舞います。

    以上がお浚いの経緯ですが、この「皇族賜姓近江系の青木氏」と「皇族賜姓美濃系の青木氏」の2氏は、「皇族賜姓伊勢青木氏」と「皇族賜姓信濃青木氏」と「皇族賜姓甲斐青木氏」の3氏とはその生き方を異にしていたのです。
    後者3氏は「源平戦」に参加せず、衰退を食い止める為に「古代和紙殖産」を商いする「2足の草鞋策」を採って生き延びて何とか「親政族の勢力」を保持したのです。
    この為に、当の前者2氏のその一門は平安末期の滅亡はもとより「桓武天皇」の「平安遷都」とその「軋轢」により平安初期からその勢力は衰退傾向に既にあったのです。
    恐らく、この「2つの皇族賜姓族」は「2足の草鞋策」を取る事に大きな抵抗を示したと考えられます。
    要は、”その「使命」を果す事”への認識度とその態度が異なっていて上記する様に「武」と「和」の「生き様の差」と成っていたと考えられます。大議論が5家5流の賜姓族の間で起こりそれが元で疎遠に成っていた事も考えられます。1025年頃の事で古代和紙の殖産がこの5の地域に拡がっているが商いとしてのその扱い方が異なっている事から観ると、何かして経済的な裏打ちをしなくては成らないとする認識が有りながら「商い」のところの判断が異なっていたと考えられます。
    特にその「2つの賜姓族」(「近江と美濃」)の「背景族(佐々木氏と土岐氏)の浮沈」を観ても、これ等の族を巻き込んだ大議論が起ったと観られます。そして背景族と共に衰退するのです。

    「近江考察」
    さて、この歴史的経緯から当然に「皇族賜姓族」としてその責務を果たす必要があり果たしたと考えられ、一部の記録にはその痕跡が遺されているのですが、実はその建造物はないのです。
    何故ないのであろうか疑問が残ります。
    それは平安初期からの衰退の原因もあるとは考えられますが、そもそも、その原因には前段で論じた寺社には別の面で大きな役割を持っていたのです。
    それは、”いざ戦い” となるとその「前線基地の拠点」と成る役目を荷っていたのです。
    また当時としては人が大勢に集まるところで「社交場」でもあった事から「全国の情報収集の拠点」でもあって、今と異なり「寺社」の持つ意味と役割は「心の拠り所」だけではなく、現在の多目的コミニティスホール以上のものであったのです。
    それだけに、「勢力争いの拠点」と成り、先ず最初に叩かれ焼き討ちなどに会うのはこの寺社であったのです。そのために戦略的にその建立の位置や地理的な条件は山手に成り、国境や勢力の境界地点に頑強に建立されたのです。一種の「城的要素」を持っていて、「建て方」もそれに見合う城壁など巡らし「城郭的建築」と成っていましたし、長期の生活も可能な様に蔵群が要しての大勢を保有していたのです。
    ”いざ戦い”とも成れば、相手側は先ずはこの前線の「拠点潰し」にかかるは「戦略の常道」で、その為に消失が激しかったのです。
    この「近江や美濃」は、「天智、天武、持統天皇」が主要拠点に配置した奈良期の「神明社19」にはこの地域(近江、美濃)も記録の通り含まれていたのであり、「祖先神−神明社」があれは当然に主神の内宮外宮の分霊もあったのです。然し、これ等はありません。
    無い事は、当然の如くこの影響を大きく受けたのであって、「神明系5社の痕跡」がないのです。
    記録があっても無い事は消失意外に何者でも有りません。
    それを防ぐ「武力的な力」と「経済的な力」と最後に「戦略的な力(柔軟な知恵)」がこの「近江青木氏」等にに無かった事が大きな原因です。

    筆者は上記の「大阪1の移設説」もこの弱体化した主権者の無くなった「近江」からのものではないかと考えているのです。移設が新しくても「社」本来は「古い社」であってここに記載したのであり、「大阪1の社歴」にも書かれている平安末期はこの「近江の歴史的な履歴」の時期と一致します。
    何故ならば、「近江青木氏一部残存末裔」は兵庫摂津域に移動しますが、そこで嵯峨期詔勅による賜姓族「摂津源氏」の「後楯力」で、ある程度盛り返し「神明社」5社と「神明神社」6社も合わせて11社をも建立しているのです。
    摂津に移動してからの期間で勢力盛り返したとは云え、この11社も建立し維持する能力(武力、経済力、職能力)は無かった筈です。特に建設する職能人の確保は出来なかった筈です。
    例え、八幡社を信望しない「祖先神」を「守護神」としている「摂津源氏」に借りたととしても11社は多過ぎます。
    神明系2社(神明社と神明神社)があれば当然に本宮の分霊を興して建立する筈です。それは現実には兵庫摂津域にはないのです。おかしいです。
    ”「社」を造り御魂入れず”のこの「有り様」は矛盾しています。
    つまり、この近江は奈良期より格式から云っても伊勢に継ぐ地です。伊勢の本宮に継いで最大の「所縁の地」ですから、「神明社」はもとより「本宮分霊」が「いの一番」に行われるが必定です。
    故に、「近江青木氏」と「近江佐々木氏」系列の一族が衰退し滅亡して、維持する主権者が無くなれば、この格式高い社を同族又は他氏は放置する事は有り得ず、西域「近江」から「本宮分霊」と共に移設したと考えているのです。その後に滅亡後その主権者が無くなり、結果として他氏が「本宮分霊」だけを兵庫の摂津、又は西域近江から摂津の国であった現在の大阪東域に移設したのではないかと考えているのです。(移設には攝津源氏の協力を得た)

    上記大阪の「移設説の根拠」はここにあるのです。それを”実行できる摂津の人物は”と成ると「足利氏」か「豊臣秀吉」かに成り得ます。この城東地区は淀川と寝屋川に挟まれた河州であって安土桃山時代に埋め立てられたところですから、当然に「移設」に価する地理環境と其処に在する人口(農村を開拓したばかり)と元は少なかった事もあり豊臣秀吉に因って移設されたと観られます。
    又、秀吉が大阪を政治の中心に据える以上は、「近江か兵庫摂津からの本宮の移設」は何としても行わなくては成らない政治課題の筈です。
    上記した寺社の持つ意味からも政治の中心地として人口を集めるには最大の手段です。
    人口のみならず政治に欠かせない情報収集の手段としても全国民の寺社の意味を持つ神明系社を移設建立するのが最初の課題であった筈です。
    足利氏は京に政治拠点を置きましたが、逆に「近江」に集めなくては成らない政治手段で在った筈です。故に、その「移設者」は豊臣秀吉と考えられます。
    稲荷神社併設は大正期ですので、その、歯止めとする「仕来り、決り事、規則慣習」は完全に緩んだ時期でもありますので問題ではありません。

    「美濃考察」
    これに必然的に絡んだ美濃も奈良期の天智天皇の神明社19の「所縁の地」です。
    この地は、前段でも論じた様に、此処は「勢力バランスの緩衝地帯」であったのです。微妙な勢力関係が維持されていた地域であります。
    ここには天智天皇は「美濃王」を置き「神明社建立19社」の一つを先ず最初に建立した地域であります。その後に於いて「特別賜姓族」はここに神明神社30社を建立しました。合せて神明系31社を建立した事に成ります。
    然し、「滋賀3」と同様に「皇大神宮」と「大神宮」は建立されていないのです。
    この近江(滋賀)にしても美濃(岐阜)にしてもこの二つの地域は「令制社域」であり、「天智天皇19社」(青木氏の守護神−19に記載)の国域でも奈良、京都に継ぐ「最大の令制国」であります。そもそも無い事そのものがおかしいのです。
    「皇祖神の子神」の「神明系2社(神明社、神明神社)」を建立する以上は「親神の本宮」を建立するは上記の近江で書いた様に「仕来り」であります。
    真に分霊の”魂入れず”の事に成って仕舞います。必ず建立した筈です。では何故、無いのでしょうか。
    それは、「勢力バランスの緩衝地帯」であったからです。
    「緩衝地帯」である以上、「歴史的なちょっとした遍歴」にも左右されるのです。
    まして、近江で記した様に「社」は「戦略上の拠点」にも成り得るし、「城郭」でもある事からまず最初に影響を受けます。
    「源平戦」を始めとして、下克上、戦国時代、土岐氏滅亡、美濃青木氏滅亡、美濃源氏と尾張源氏滅亡、岩手の様な「3つの災難」「長期間の各種の一揆」等、挙げれば暇が無い程であります。
    微妙な「緩衝地帯」だからです。これでは遺し切れません。
    江戸時代末期まで行った「廃絶処理」の「分霊の復元事業」があったにも関わらず遺し得なかったのです。「令制国の古参美濃」でありながらこの地域だけが外されています。
    これは「長期間の各種の一揆」の影響であったからです。復元しても「一揆の拠点」として使われてしまえば政治的にも逆効果です。

    そもそも上記した様に「南隣の愛知」にも有りません。此処は多少なりとも「緩衝地帯の影響」を受けていた事を物語りますが、ここは「特別賜姓族の地」です。その勢力の差は前段で論じた様に4倍以上の勢力を保持していた事から「神明系社33」を遺し得たのです。
    岐阜は、三重と国境を接する地域でもありながら、皇族賜姓族の東隣の「信濃15」、「甲斐71」とし、何れも「分霊本宮」を持っているのに対し、美濃は存在しないのです。明らかに消失です。
    少なくとも「地理性」から考察すれば、多少なりとも「信濃と甲斐」も影響を受けていたと考えられます。
    然し、「信濃と甲斐」は「2足の草鞋策」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」を「伊勢青木氏」と共に持っていた事から、この「緩衝地帯の影響」を排除出来たのです。
    肝心な要因は「微妙な緩衝地帯の影響」に直接関与したかどうかの差です。
    「信濃と甲斐」地域とは違いは、美濃は「2足の草鞋策の有無」「シンジケートの有無」「抑止力の有無」「直接間接の関与の差」が働いたのです。これだけ働けば「分霊本宮」どころか生存も侭成らない筈です。はっきりしています。(甲斐も「100年一揆」があったが遺し得ている)
    「特別賜姓族」と「皇族賜姓族」の「建立と呼称問題」に付いて考察しましたが、かなりの「2つの青木氏」の「生き様」の「有り様」が出て来ます。     
    そこで、更に詳細に考察し検証する為に、もう少し「建立分布の問題」を通じて続けて考察します。その表は上記の基データですが次ぎの通りです。

    「神宮の基データ」
    大神宮  ・青森1・新潟2・宮城2・栃木2・茨城1・埼玉1・東京2・広島1・熊本1
         ・計13/418=3.11%

         *三重1*長野1*山梨1
         *京都1(都の領有地 例外地)
         *大阪1(皇祖神遍歴の特別地)
         *計4/148≧2.70%

         −北海道1

    皇大神宮 ・山形5・福島2・栃木1・神奈川2・岩手2・千葉1・静岡1
         ・計14/418=3.34%
         
         *三重1
         *山梨2
         *京都2(都の領有地 例外地)
         *計5/148≧3.37%

    上記の神社のところで考察した伊勢神宮は合計125の全社宮を「神宮」と呼称する事は衆知の事ですが、この内、正宮を除く123社「摂社」等の所在地は三重県内の4市2郡に存在するのです。
    例外として「奈良期の遷宮」の中に「摂社」の呼称を許された「神宮社」があります。
    この「神宮社」には格式を守る為に「・・神宮」(神社)の・・の名が付かない「仕来り」があるのです。

    (参考1 度会郡大紀町、玉城町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町。)
    (参考2 正宮2 別宮14 摂社43 末社24 所管社42 から成り立っています)  

    従って、「皇大神宮」は「天照大神」、大神宮は「豊受大神」ですが、この「2つの呼称」は呼称の前に「・・大神宮」とか格式を守る為に「呼称名」を付けないのが威厳を守る為の「仕来り」です。
    又、内宮の「皇大神宮」、外宮の「大神宮」の「皇祖神」は、前段で論じた様に、「祖先神」を「子神」としています。従って、その「社の建設様式」は「神明造り」の様式であり、「内宮外宮の呼称」の前に、矢張り、格式を守る為に「神明」をつける事は「仕来り」としてしないのです。
    同様に、「伊勢の内宮」、「伊勢の外宮」の呼称にも「伊勢」を「固定の呼称」として指定し、他の社は「伊勢」の呼称をしては成らないとする「神宮仕来り」と成っています。
    最も、大事な青木氏に関わる「神宮仕来り」が定められているのです。
    それは上記した様に「神明社」等の「神明系5社」は「2つの青木氏」外にはその「建立と呼称の権利」を認めていないのです。
    他にもその「威厳」を守る「仕来り」が複数あり、下記に都度説明します。
    要するに、何れも「複数の呼称」を禁じていて厳格に「格式」を重んじている訳です。
    (ここでは神社と神宮を同じとして扱う。)
    そこで次ぎに一覧して考察して観る事とします。

    大神宮19 皇大神宮17 合計36社

    その結果は次ぎの様に成ります。
    大神宮    格式−社名  有 15 無  4
    皇大神宮  格式−社名  有  0 無 17

    上記の格式の「社名の仕来り」から考察するに、「大神宮の外宮」に付いては、15/19と成り、正規の伊勢神宮系列に属さない神明系の「社」15もある事が判ります。殆どです。
    「皇大神宮の内宮」に付いては、0/17と成り、全て系列の神明系の「社」である事が云えます。
    つまり、これを判断するのには、「延喜式神名帳」と「延歴儀式帳」に依って、参考2の様に直径系列125社がありますが、実はもう一つの「神明族に与えられた特別の権利」があるのです。
    それは、前段で論じた様に、「皇祖神」の子神は「祖先神」であり、その社は「神明社」で有ります。
    依って、この関係から「分霊方式」と云う「伊勢神宮の霊」を分けて「神明族の関係の主要地域」のみに「豊受大神宮」と「皇大神宮」の分霊をして「分霊社」を建設する権利を有しています。
    従って、上記の表の中にこの「分霊社」を見抜く事が必要です。
    この為には、「伊勢神宮の格式の仕来り」をこの表に当て嵌めて選別する必要があります。

    「豊受大神宮」の「格式・仕来り」を守った「分霊社の4社」は、「三重の本宮」を除いて、「青森1」 「山梨1」 「新潟1」 の「3地域の社」と成ります。「3地域の社」は大変に重要な意味を持っています。 

    (新潟1は 大神宮に神明 「二重社名の呼称の問題」がありますが、この場合は問題は無し。)

    とすると、「格式・仕来り」通りに呼称をしなかった「社名付きの15」に対して、先ず、”どの様に考察すれば
    良いのか”と云う問題があります。
    そもそも、この権利は、神明族外で建立する事は、上記でのデータでも判る様に当時の「仕来り、決り事、規則慣習」が徹底して守られていた事は判りますので、他氏が建てる事は社会慣習からその可能性が低く、仮に建てるとしても「社会の目」は「朝廷の逆賊」として社会はその「他氏を排除」する事は必定で、且つ、藤原秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれ、「特別賜姓族」でありながらも藤原氏の唯一の大武装勢力の護衛団を持った藤原一門を指揮する青木氏で、この「特別賜姓族の勢力」で以ってしても潰されるは必定です。
    とても他氏はこの「仕来り、決り事、規則慣習」を破る事は先ず不可能です。
    奈良時代から平安時代を通し室町期中期まで先ずは不可能です。
    故に、「神明社、神明神社、神明宮」の「系列神社」の「建立地と呼称」には他氏と他地域は全く無かったのです。この「物語らずの圧力・暗黙の圧力」が社会全体に、「仕来り、決り事、規則慣習」を守らせていた事を明確に物語ります。
    とすると、この15の「社名付きの大明神社」は、一体どの様な理由で分霊して建立したのでしょうか。それには実は前段で論じた様に「最大の根拠」があるのです。
    「正規の純粋な分霊」と云うよりはこの根拠に因る建立であった事が15の地域を観れば直ぐに判ります。
    「豊受大神宮」即ち、「豊受大明神」です。要するに、それは「生活の糧」の「物造りの神」なのです。
    「物造りの神」として「分霊」を受けた為に、「仕来り」を重んじて「社名」をつけた事を意味します。
    現に、同じ「分霊」でも「皇大神宮」17は全て「仕来り」を完全に重んじています。
    内宮「皇大神宮」は全ての民の「心の拠り所の神」として崇められている「万人の唯一神」であります。
    つまりは、「祖先神−神明社」の主神、「親神の内宮」の「皇大神宮」の「分霊」を先ず迎え、民の「心の拠り所」として据え、その上で、「物造りの神」として外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊」を迎えた事に成ります。これも「建立と呼称」の「作法の仕来り」です
    この「内宮と外宮」の「仕来り」を厳格に守り、「社名付きの大明神社」としたのです。
    故に、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の「仕来り」通りの「社」は「3社」(青森1 山梨1 新潟1)のみであったのです。
    上記で考察したその「36の建立地」がこれを良く物語っています。
    外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の方は、内宮「皇大神宮」の「分霊地」とは重複していません。つまり、必ず、どちらか一方にする「建立と呼称」の「仕来り」が存在した事を物語ります。

    陸前域まで含む「広域の青森」は、前段で論じた様に、「陸奥の本域」で、秀郷一門の鎮守府将軍の地であり、一門の「最大血縁地」でもあり、最大移動定住地でもあります。この状況は江戸期まで続いた「準本領地」と云っても過言ではない地であります。
    故に、北陸東北地域(広域陸奥域)の要として、先ずは青森に「格式・仕来り」通りに分霊地として建立と呼称を許可したのです。
    其処に、15の「社名付きの大明神社」を「物造りの神」として配置したのです。

    (明治2年まで広域陸奥は青森を基点として磐城、岩代、陸前、陸中、羽後、羽前の7つの国を呼称した。広域越後は越後を基点として越中、越前、加賀の4つの国に分割呼称した。奈良期では石川福井富山までを「越国」であったる。)

    越前まで含む「広域の新潟」は、これも前段で論じた様に、陸奥域に続きその補給基地として存在した陸奥域を凌ぐ程に勢力を確保した地域であり、真に最大の「物造りの要の地」でもあったのです。


    (皇族賜姓族地では下記参考の通りで、「皇大神宮」の「分霊」の「山梨2」には下記参考の「呼称問題」がある。後は「例外地の京都1」の3地域です。山梨は「偽称」で除外する)

    では、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のこの「仕来り」通りの「社」の「3社」(青森1 ・山梨1 新潟1)を ”15の「社名付きの大明神社」と同じとしても良いのでは。” と云う疑問が湧きます。(山梨2は除外する)

    (偽称 参考 ・山梨2には、2つは次ぎの「呼称問題」がある。
    ・”「天照大神社」”の「内宮の天照」は「皇大神宮」の呼称であって、その呼称を「外宮の大神宮」に使う。両方の神宮を一つにした呼称とした。明らかに「偽称」である。
    因って、山梨は、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のみの1とする。因って、重複は「岩手」のみと成ります。)

    (偽称 参考 ところがこの「岩手」は偽称等の問題等が多すぎるのです。 
    ・岩手には著しい「偽称問題」が存在する。それは「皇大神宮」の呼称です。
     「天照御祖神社 4」と「伊勢両宮神社 1」のこの「2つの偽称呼称」です。
    然し、「御祖」(みおや)は「天照」の別呼称です。「二重重複」の呼称をしています。
    完全に「分霊の仕来り」を無視しています。明らかに「偽称」です。

    (偽称 参考、「伊勢両宮神社 1」の呼称です。
    「伊勢」は「本宮2神」、「皇大神宮」、「豊受大神宮」の2つを以って「伊勢」とする事は前記した通り使用を禁じています。明らかに「分霊の仕来り」を無視しています。更には、威厳と格式を重んじる ”「両宮」”と云う「不遜な呼称」です。因って「神明系5社」から除外した。)

    「偽称行為の持つ意味」
    果たして、この「偽称行為」に付いて、”一体誰がやったのか” と云う疑問です。
    「特別賜姓族」が、自ら全ての「皇大神宮」、「豊受大神宮」が持つ「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじて建立を続ける事に、”自らが侮辱する様な事をするか”の疑問が湧きますが、これは絶対にあり得ない事です。真に、”自分の顔に唾”です。
    そもそも、総じて、この「山梨」と「岐阜」と「岩手」と「群馬」と「大阪」は「神明系5社」の「建立根拠」と「呼称根拠」に問題が多いのです。

    そこで、この「5つの地域」を観て見ると、一つ共通するものが有ります。
    既に上記でも記述していますが、先ず、”歴史的に諸々の「不安定地域」である。”と云う事です。
    「不安定地域」では「自らの優位性」を誇張しょうとしますからその結果、「偽称の経緯」が起こります。
    地域が不安定に成った結果、建立された神明系社は「消失」の憂き目を受けます。
    当然にその建立の「主権者」も滅亡の憂き目に会います。そうすると”何が起るか”です。
    当然に、その後に勢力を得て豪族と成った者は、「民の支持」を獲得する為に、その「民の支持と信仰」を強く集めている ”「神明系社」を何とか作ろう”と動きます。
    然し、その権利は「仕来り、決り事、規則慣習」上に縛られて出来ません。無理に作ろうとすれば「逆賊のそしり」を受けます。
    その残された手段はただ一つで有ります。それは「神明系社」に似せて偽称の「社」を建立する以外にありません。それがこの「5つの地域」に起こっているのです。これが「偽称の経緯」と云う物なのです。

    ・問題の山梨は、前記した様に「皇大神宮」の「分霊の偽称問題」があり、70社に近い「神明系社2社」の「建立と呼称」が有りますが、”これだけの社数を建立する能力が「皇族賜姓甲斐青木氏」にあったか”と云うと、「不安定地域」であり、「三つ巴の同族争い」や「菩提寺の放棄問題」や「民の反発」を受けての「100年一揆」等が起れば神明系社の保存と維持と復元は難しかった為に”無かった”と明らかに判断できます。そもそも、「4倍の勢力」「最大勢力地」の「特別賜姓族の新潟」でさえ61です。
    この社数から観れば、甲斐はせいぜい20社程度であり、「不安定地域」として観れば、「建立と維持」の能力は10社に満たない社数となる筈です。
    それが70社、その70社の内訳は神明社33、神明神社29と大半を占めています。
    この様な社数に成った理由が問題です。何かある筈です。
    「特別賜姓族の新潟」に匹敵する勢力を保持していた室町中期までの「甲斐の勢力」とは、清和源氏の「河内源氏」の傍系と呼称する「武田氏」であります。
    そして、ここには当の建立者の「皇族賜姓甲斐青木氏」の跡目を継いだ「河内源氏」系の「源の源光」の青木氏が存在し、その分家の賜姓族系の血縁族「武田氏系青木氏」が存在します。
    更に、「源光」の兄の「源の時光」が「賜姓族の青木氏」を名乗る権利が無い為に「嵯峨期の詔勅」を使って「皇族青木氏」を名乗ります。
    これが「河内源氏」を標榜する武田氏と血縁し末裔を広げます。この武田氏と3つのルートを持って深く血縁している「賜姓甲斐青木氏」は武田氏の援護を受けたのです。
    ただ武田氏は前段でも論じた「河内源氏の八幡社」です。
    武田氏は、”それを押してまで援護したか”の疑問が在りますが、同じ「清和源氏」とも成れば助けた可能性があります。現実に助けたのです。皇族青木氏に対して寺を建ててやると云う事もしています。
    そうなると、どちらに重点を置いたかの問題です。
    それを一つ補足する事が武田氏の行為にあるのです。それは上記の「寺」です。
    武田氏は「時光系の皇族青木氏」を援護して彼等の2寺を建立してやっているのです。

    (自ら建立した菩提寺の常光寺も同族争いを起こし維持管理がままならず挙句は宗派を曹洞宗に「宗派変え」しついには放置すると云う事が起こっていて、最後には無血縁の養子系青木氏常光寺を立て直すと云う事が起こっているのです。)

    この事からすると、「源光系の賜姓青木氏」にも「神明系社の維持管理」に、或いは、「建立」に援護した可能性が在ります。この援護は「100年一揆」にも観られる様に、同時に混乱を極めていた「甲斐の民の支持」を得られ安定させ得る最大の政治課題でも戦略的課題でも在った筈です。
    「不安定地域」ならではの事情が在った筈です。それが秀郷一門最大の補給基地で最大の勢力圏の「新潟」にも匹敵する「社数」と成って現れたのです。(「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」の論文参照)

    ・岐阜の問題は前記でも論じた様に、同じ山梨と賜姓族地域であり、共に不安定地域で在りますが、やや政治的、戦略的な事情は異なります。他氏から甲斐武田氏に匹敵する程の「土岐氏」が存在しましたが、武田氏より早く滅亡しました。ただ、この岐阜は一つの逃げの対策を講じているのです。
    それは”神明社1に対して、神明神社30”としています。その代わり分霊社はありません。消失した可能性が高いと考えられますが、この分家支流一族関連一統の力を借りて「神明神社」の呼称で成し遂げて「不安定要因」を交したと考えられます。神明社に対して消失は在ったにしても、”「下克上、戦国の戦火消失」からは多少は「神明神社」が免れた。”と考えられます。
    そりは「神明神社」で論じた様に、一族一統とその郷氏まで含む「関連末端縁者一統」の力を借りていた事が、”下の者が上を潰す”と云う「下克上」から逃げられたからです。自ら下の者等が建てた神明神社を潰す事はしない筈です。自らを潰す事に成るからです。それを証明するのが「神明社1」なのです。少な過ぎます。この「神明社1」だけが彼等の力を借りた「社」であったのではないでしょうか。美濃青木氏は平安末期に滅亡しましたが、それは前記した様に、「生き様」の「有り様」で在ったのですから、その力はこれだけの社数を建立維持する能力は無かったのです。奈良期から賜姓族としての名籍の責務を果たすには、「一族一問一統の総力」を挙げての結果であったのです。
    「神明社1」「分霊社なし」が全てを物語っています。

    ・岩手の問題は、上記で論じた通りで、陸奥の南の激しい「前線基地」としても、「3つの災難」のメッカとも云われる土地柄であって、当然に其処に上記した「偽称の経緯」が起こります。
    この岩手の不安定地域は、その為に全ての「偽の発祥地」とも「偽の縮図」とも云われるところであったのです。そこに、昔からの「4つ目の災難」即ち、「地形上の変異の縮図地」でした。
    常に緊張しながらの「前線基地」の「勢力の災難」と合せて、「5つの災難苦難」の地であったのです。これでは、その「維持管理」には「相当の力」を他地域と異なり必要です。鹿児島と同じく明治期の「廃仏毀釈」(神仏併合)の激しい様子から、筆者はこれに「土地の人柄」も左右したと観ているのです。前段で論じた「広域陸奥の俘囚事件の問題」等の「苦難の末の人柄土地柄」と成ったとも考えられます。
    (この地は秀吉の蒲生氏郷に命じた「糞尿の戦い」で有名な城攻め、苦戦の「ごり攻め」をした「秀吉の最大の失敗攻め」と云われるこの戦いを最後に戦乱は終わります。)
    先ずこれでは、”無理”と云う以外にはありません。”「神明社4」と「大神宮」1をよく遺し得た”と云えます。

    ・群馬の問題です。 上記でも何度も問題にして来ました「群馬」は「上野」ですので「下野」と合せて「秀郷一門の武蔵本領」の一つです。
    此処には先ず、上記でも論じた様に、不思議なのは「神明社」が無いと云う事です。
    その反面、逆に「神明宮」9と多いのです。「神明神社3」は納得出来るとしても、上記で論じた「神明宮」の位置付けです。
    西には信濃、東には下野、北には越後と国境を接しています。この3つの隣接国は安定地域です。
    確かに西の信濃には「信濃足利氏」の分家を立て跡目を入れて本家筋を弱体化させ、”米子に追い出す”と云う事をしましたから、この隣接国は領国並です。「不安定地域」とは成り得ません。
    下野、上野には、神奈川の秀郷一門青木氏を頼って「信濃の諏訪族」が入り、この一部が下野の北側の「前線基地」に送り込みます。そして、下野を北側に伸張させた諏訪族はここを拠点に勢力を盛り返し、越後との連絡ルートを作り上げます。この為に上野は岩代との境界を強化したために結果として安定な地域に成るのです。この諏訪族は秀郷一門青木氏の後ろ盾で「上野−下野−岩代−磐城」の国境沿いに勢力圏を構築し子孫を拡げたのです。この「戦略配置図」から周囲は神明社がなくては成らない筈です。
    現にこの栃木にも神明社と大神宮があるのです。諏訪社も多く建立されているのです。
    ”これは一体何故なのでしょうか。”
    それは「群馬の歴史的経緯」から観て、県別、国別、勢力別、勢力伸張圏別の違いが起っているのです。
    県別、国別では「無し」と成りますが、上記の賜姓系1氏を含む武田氏系諏訪族(2氏の合計3氏)などの「勢力別」と「勢力伸張別」(伸張方向)から判断して、「群馬の南側」には「神明社」は「武蔵の国範囲」として扱われ、後に建立されなかったと観られます。
    北域はその意味で「諏訪族に与えた勢力圏」であった事から「産土神の諏訪社の圏域」とも成っているので、「神明社の存在」はあったとしても諏訪族伸張時の「戦い因る消失」で復元を結果として控えたと考えられます。
    その代わりに下野と上野には特別に「神明宮」(8+9)の建立と呼称が多いのはその為であると考えられます。因みに新潟34、信濃7、常陸8の隣接国ライン状に多いのです。
    前記した様に「神明宮の呼称の仕来り」による方法で明らかに処理したと観られます。
    「産土神の諏訪族」であり、且つ、「信濃の神明族」でもある諏訪氏との調和を図ったのです。
    信濃には「皇族賜姓諏訪族系青木氏」も存在する事から観ても、「仕来り、決り事、規則慣習」を守った全くバランスが採れた裁量であったと観ています。
    諏訪族が秀郷一門の中に異質の氏が入って勢力を盛り返したとは云え、「やり方如何」に因っては極めて「不安定地域」で在ったのです。このライン上には実は「諏訪社」が大変多いのです。

    この諏訪族を、”「賜姓族の分家筋、支流筋」等が独自に守護神を建立し、その呼称を「仕来り、決り事、規則慣習」から「宮」とした。”のことから、この分家、支流一族と見做し「宮」としたのです。
    当然に庇護の下に在ったのですから、「社の呼称」を「宮」とするも「やり方如何」の最良方法は矢張り「血縁」であり、武蔵を青木家本家を中心に外に向けて分家、支流一族が「円状に囲む戦略」を採っていたのですから、群馬は「特別賜姓族」の分家、支流筋との血縁もあり、「分家、支流」として扱われるのには問題は両者に執って全く無い筈です。

    ・「大阪」の問題は、「皇大神宮の移設説」のところでも論じた様に、昔は難波、摂津の土地柄で、短期間ではあったが奈良期には「遷都」も一時あり、摂津は当時の最大の港でもあり清和源氏の本家の頼光系4家の土地柄でも有りました。然し、その後、この大阪の主役は兵庫摂津に移り、淀川の影響を受けて湿地帯が多く繁栄に問題を抱えていました。
    此処には「賜姓族」、「特別賜姓族」とは「無縁の地」であり、因って、「神明系5社」には「無縁の地」であります。従って、「歴史的経緯」に於いても「神明系5社」に於いては皆無に等しいのです。
    「近江−播磨−丹波−伊勢−紀州」に囲まれた中心の地でありながら、地理的環境(湿地帯でもあり河の氾濫)も多発する地域でもあったのです。それが原因で発展しなかったのです
    決定的な事は、「近江−播磨−丹波−伊勢−紀州」の真ん中に囲まれていながら、それは「85地域−90年」の間に於いても「神宮の遷宮」にも入っていないのはこの為でしたし、「日本書紀」にもこの事が記録されている位です。それが室町中期まで続きます。
    しかしこの反面、水に恵まれていた事から沿岸部は船の出入りが良く港が栄えていたのです。
    後に「堺」が貿易港にも成るのです。その為に仮に「2つの賜姓族」の末裔がこの地に仮に住み着いたとしても「神明系5社」を建立するに相応しい土地が無く、あったとして「社」の持つ政治的、戦略的な目的を果す事は不可能でした。
    そもそも、大阪とは「難波の象徴」であり、摂津は「兵庫の象徴」でした。
    「難波」の語意の通り沿岸部の荒れる土地であり、裏意では難しいの”使えない土地”の語意を持っていました。
    その証拠に「難の波」の地は、奈良期のある事件に使われました。
    その中大兄皇子の「難波遷都」(孝徳天皇 失脚事件)はある政治的な目的を持って移し、宮廷も日本書紀には「荘厳な宮殿」とありますが、別の説では「草葺の板敷きの仮小屋的建造宮殿」(内裏・朝堂院・倉庫だけ)なものであった事も記録されています。
    その目的が果された場合に、1夜の内に密かに直ぐに引き上げると云う離れ業を後の天智天皇は行ったのです。もとよりこの地の環境事情を知った上での計画行為であったのです。

    (後に「聖武天皇」がこの悪い状況から此処を整備し、宮殿とした後期の「難波宮」がある位で、 前期宮殿は現在の大阪市中央区の大阪城の位置にあったのです。  大阪城は一部は津に近い湿地埋立地で、城東区今福とは湿地帯の隣接区ですから、後期の「遷都時の皇大神宮分霊説も」考えられるが記録は無いのです。)

    「摂津」は「西端の津の港」とするだけに良港としての土地柄でした。歴史は名の通りこの「西端の摂津」に集中します。
    歴史的には他の地域とは別に、大阪はこの様にある意味で「不安定地域」であったのです。
    そもそもこの様な地域であった為に「神明系5社」と「遷宮社」が建立される事は無かったのです。
    移設説は此処から来ていますし、故に、その移設元は歴史的経緯を踏まえ「難波」を中心に対比的に発展した「西の摂津」か「北の近江」かの2隣接国と成るのです。

    「皇大神宮と大神宮」の分布表
    北海道 1  (山上大神宮    函館市)          ・移設
    青森1     大神宮       三戸郡三戸町        ・広域陸奥の拠点社    
    岩手2     天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田  ・皇大神宮 分霊2社/県
             天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井山形
    山形5     皇大神社     鶴岡市大淀川川端      ・皇大神社 同地域に分霊4社 疑問
             皇大神社     鶴岡市羽黒町町屋
             皇大神社     鶴岡市山田
             皇大神社     米沢市中央
             天照皇大神社  鶴岡市小淀川        ・「天照」の有無
    宮城2     天照皇大神宮  仙台市宮城野区蒲生
             桜丘大神宮    仙台市青葉区
    新潟2     神明大神宮    新潟市潟上         ・大神宮に神明 二重社名の呼称
             船江太神宮    新潟市東堀通一番町     ・大が太に変化
    福島2     天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木浅田 ・同地域に分霊2社 疑問
             天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木宮前
    栃木3     天照皇太神社  鹿沼市上永野        ・特別賜姓族の建立 
            (伊勢山大神宮  佐野市相生町        ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
            (伊勢山大神宮  佐野市伊勢山町)      ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
    埼玉1     天照皇大神宮  久喜市上清久
    茨城1     内外大神宮    筑西市小栗)
    東京2     東京大神宮    千代田区富士見
           芝大神宮     港区            ・7大神明社
    神奈川2   (伊勢山皇大神宮 横浜市西区宮崎町)     ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
             (伊勢山大神宮  海老名市国分南)      ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
    静岡1     天照皇大神社   伊東市芝町
    長野1     伊勢林大神宮   佐久市新子田        ・伊勢林の呼称は栃木に 諏訪族建立元
    山梨3     ・天照大神社   釜額            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
             ・天照大神社   伊沼            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
             (大神宮      甲府市貢川本町)      ・

    三重2 伊勢市宇治館町  正宮 内宮
              豊受大神宮    伊勢市豊川町    ・正宮 外宮・

    京都3     日向大神宮    山科区 東山神明社      ・7大神明社 合祀
             朝日神明社    此花区  
             天照皇太神社   京都市左京区原地町     ・大が太に変化 (特令分霊地)
             神明皇大神宮   宇治市神明宮西        ・皇大神宮に神明 二重社名の呼称

    大阪1     皇大神宮     大阪市城東区今福南     ・移設 西近江か西摂津
    広島1     (伊勢大神宮    府中市府中町)      ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁
    熊本県1    (伊勢大神宮    人吉市紺屋町)     ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁


    「皇大神宮と大神宮」の分布表の考察

    注記 1: 「伊勢山」は神奈川と栃木 「伊勢林」は長野と栃木の呼称の社名は何れも「諏訪族系青木氏」の移動に伴なって建立した。
    注記 2: 「伊勢」呼称は「禁止の仕来り」 「広島」と「熊本」に関連は無し。 熊本には青木氏関係地域ではない。「禁令破り」の「広島」は前段でも論じた様に、「讃岐青木氏の勢力圏」で、「亀甲族の圏域」(出雲社氏子防衛集団)の中です。その国府に建立していますが疑問で更なる研究が必要です。

    この表から多くの地域には呼称問題が潜んでいます。それは返して云えば、其処には「青木氏の生き様」として色々な意味の事が潜んでいる事を意味します。
    先ず、前段でも論じた様に、注記1では、「諏訪族の武田氏系2氏」は、「信濃諏訪族青木氏」は武田氏に攻められた末に武田氏に組込まれ、その武田氏が信長に滅ぼされて、長野−甲斐−神奈川−栃木と移動しました。
    上記では「栃木」の「苦難の生き様」を記述しましたが、この移動定住するまで故郷の「心の拠り所」を忘れずに勢力を盛り返し、何とか移動する毎の定住地に一族の祖先神の親神の「神宮」を建立し続けた事に成ります。そして、その呼称を神宮の「分霊の仕来り」を守り故郷の地名の「伊勢山」「伊勢林」として移し続けた事に成ります。
    定住地毎に「特別賜姓族」の力を借りながらも、その地で建立出来る程度に力を盛り返した事を意味します。又「特別賜姓族」の配下に入り勲功を挙げた事をも意味しています。
    前段でも論じた様に、「信濃」とは「伊勢青木氏」との極めて深い同族としての親交があり、その地名として「伊勢町」の地名がある位なのです。
    恐らくは、そのルーツ故郷の「伊勢町の山や林」を忘れない様に、「三重伊勢との縁地」(血縁関係があった)としても、その末裔には「信濃から来た賜姓族系の諏訪族」である様に、諸々の先祖を思い出す様に、この「伊勢の呼称」を引き継いで来たものである事が判ります。そして苦難を乗り越えて建立を移動定住の都度続けて行った事に成ります。
    さすればその「分霊の源」は「信濃1」から移した事に成ります。
    そして、この5県の諏訪族の「住んでいた地域」が「建立地や所縁の地」から観ても良く判りますし、その「特別賜姓族」の背景を受けて「下野−上野の北域の国境域」を力で獲得して土地を切り開き、その力で復興したその苦難のレベルを物語っています。
    この事は”「建立−維持−管理」(6社+神明系3社)の能力があった”事を物語ります。

    ・広島は、前段で論じた様に、「讃岐籐氏の瀬戸内」の勢力圏で、政治の柵と勢力争いに巻き込まれた地域です。この「広島」は「出雲社の亀甲族防衛集団」の膝元でありながらも、彼等を味方につけ、其処の国府に内宮か外宮の何れか判断の付かない呼称で分霊として禁令を破り建立しています。
    「讃岐青木氏」は本領に対し独自性を発揮して勢力を高めていますし、「瀬戸内」を上手く利用して「2足の草鞋策」を採用する等の柔軟性を持っています。果たしてこの「讃岐青木氏」が禁令を破るかの問題です。
    本領に対して極めて「独自論戦」を敷いていた「讃岐籐氏」「讃岐青木氏」が本領宗家から積極的な強力が得られたかは疑問です。そもそも香川には神明系社が一切無いと云う事から考えるとこの圏域の及んでいる地域の建立も疑問と考えるのが普通では無いかと考えられます。
    (香川は伊勢−信濃青木氏との関係を使って「分祀」で建立した)

    「どちらとも採れない神宮」や「呼称の禁令破り」から判断して、彼の「讃岐籐氏」が主体と成って「讃岐青木氏」の名を借りて(「香川の分祀方法」)で建立したとも考えれば成り立ちます。
    ”それは何故か”です。答えは、此処は ”出雲社の「亀甲族防衛集団」の膝元”だからです。
    前段で論じた様に、この「瀬戸内の沿岸域」は武力に因って征圧している地域ではないのです。
    「海族等の信頼」と「経済的な結びつき」で構築されている地域なのです。
    其処に行き成り「分霊の神宮建立」は絶対に無理であります。
    まして、4世紀の昔から「出雲社の社領域」でれっきとした「亀甲族の出雲族」であります。
    前段で論じた「純友神社」建立の様に、直には無理であり、建てるとしても、「物造りの神」として建立する事以外にはあり得ません。
    「海族」であり「廻船問屋」を営んでいる程の「各地との交易」と「海産物の瀬戸内」であり、昔から両沿岸部内陸には昔から「鈴と銅と鉄の鉱石採掘地」を保有している地域なのです。
    明らかに「物造りの地域」でありそれを商いとする「2足の草鞋策」を採っているのです。
    これだけ条件が揃えば、何れの人心もこの生活環境を維持させる為に「物造りの神」を求めます。
    その発露が「社格」の権威付けから「伊勢大神宮」として「大明神」なのです。「豊受大明神」なのです。
    「讃岐籐氏」の「北家藤原氏秀郷一門の政治力」(経済力を使った可能性大)で「伊勢の分霊」を赫々様になく行ったのです。これが「広島の神宮」の実態なのです。
    故に、敢えて「禁令」を知り得ての建立と呼称なのです。

    ・熊本は、何れにしても此処は神明族には無関係な地域です。
    「熊本」は ”「伊勢呼称」二重社名 伊勢使用禁”がある事から、 この「禁令」が緩んだ時期に建立したと観られますが古いとしているのです。
    兎も角も、”では一体誰が建立したのでしょうか。” 建立するにしても伊勢の「分霊許可」が出ないとしても「相当な財力」を必要とします。
    この記録を辿ると、此処には「日向青木氏末裔」が黒田藩や細川藩の「兵農」(「雇兵」 「五七の桐門」の使用許可 組頭はこの桐門の羽織袴で登城許可が与えられていた。)として一部に移動定住して「末裔の分布」を室町期中期以降に広げている地域です。
    然し、この「歴史的経緯」(末裔現存)があるのですが、その「権利と建設能力」には疑問です。
    ”室町中期までの建立した”とする「歴史的な経緯」の記録はありません。
    「傭兵」で建てられる事はありませんので、経済的には藩主以外に無いと考えられるのです。然し、神社建立の権利には問題があります。
    あるとすれば、その問題を解決するには、何れかの廃社や荒廃社を見つけての「修復復元の方法」しかありません。この時期では戦乱の後ですので、各地に神明系社の廃社や荒廃社が多くその方法は充分に可能です。幕府は「廃絶処理の復元作業」を始めている時期ですから認可は直ぐに下りますし、職人も修理であれば集める事は可能です。
    何れ2藩共に土地の豪族の大名ではありません。この江戸期前の時代は最早戦乱は納まり、戦略的意味合いは低下しています。従って、後は「人心」を集める意味で、全国民から崇められている「神宮」を建立する事で戦乱後の対策としたと考えられます。
    その証拠にこの「五七の桐紋」には「歴史的な所以」があって、これを秀吉から与えられて、積極的に活用した代表的2大名です。

    (そもそも「桐紋」は「天皇家の式紋」で「五三の桐」を類似紋として秀吉に与えたもので、それを更に勲功のあった大名に与えたもので、その大名が傭兵や農兵の勲功のあった者や家臣や農民に与え、使用を許したもので一種の手形として文様紋です。)

    「桐−天皇−皇祖神−神宮」の印象を強くする政策を展開し、挙句は「登城許可」もこの桐紋付の羽織袴を手形として許可することを認めているのです。
    そして、本来、「墓所」を持たない農民に「墓所」を許可しただけでは無く、更に、この「墓石」には「五七の桐紋」を入れる事をも許可しているのです。本来、明治初期まで墓所を持つ事を許されていない慣習の中で、この農民の各村の名主等には「氏子衆」を結成させ、藩が財政的な責任は持つとして「祭祀行事」と「社の維持管理」も特別に任したのです。
    江戸時代には幕府が行う「廃絶処理の復元作業」とは別に、上記の大名に任せる方法を併用したのです。

    「神明社系5社」は「2つの青木氏」が、「総師・御師・氏上様」と呼ばれ、「寺」で云う「菩提寺」と同じ様に、「社」の全て一切を取り仕切っていたのです。その為の一切の「部の匠職人」を家人として昔から抱えて566社に及ぶ社を維持管理していたのです。

    この熊本は真にこのシステムによらず、「桐−天皇−皇祖神−神宮」の威厳、尊厳を利用する形で農民まで巻き込んだシステムを始めて構築し始めたのです。それが江戸期に入り全国的に広がりを示したのです。これが、江戸幕府の初期から始まった2つ目の「神明系社の復元修復作業」であって、この方式を採用した事から全国にこの黒田藩、細川藩の採った方式が広まったのです。
    「2つの青木氏」が採っていた「寺」の菩提寺方式に似た「社」の「総師、御師、氏上様」のシステムは、少なくとも「伊勢丸山城の戦い」1687年頃の時には未だ「2つの青木氏」はこの方法を続けていた事が判ります。
    それは、「丸山城の建築」は伊勢−信濃のシンジケートの資材一切の調達を含めて家人の職人が行っていた事が資料から判っているのです。

    (安土桃山時代 丸山城が出来た瞬間、伊勢青木氏の長兵衛の命で火災で落城した。筆者の家資料から規模は小さく成っていたが明治中期までは未だ続いていた事が判る。)

    この意味で、この新システムの「分霊に依らない大神宮」の見本が、この熊本1なのです。
    (この事は「其の他」の処でも論じる。)
    江戸期には規模は小さく成っていたが、援助を受けながらも「神明系5社」方式との2本立てで維持されていたのです。故に「総師、御師、氏上様」の呼称が生まれたのです。たいら族」清盛の宗貿易の様に、平安末期頃から始まった「青木氏の2足の草鞋策」もこのシステムを支える一つの手段であったのです。

    この「2つの大神宮」の存在する地域は同一地域にはありません。
    且つ、ある特定の地域に分けられます。この2つも「神宮の仕来り」です。
    そこで、次ぎの表を作成して見ました。

    「地方の分霊地」
    ・栃木3・茨城3・埼玉1・東京2・千葉1・神奈川2  関東    計12  2.0/県
    ・青森1・新潟2・岩手2・山形5・福島2・宮城2    東北北陸  計14  2.3/県
    ・静岡1*三重2*長野1*山梨3           中部    計 7  1.8/県
    ・広島1                        中国    計 1
    ・熊本1                        九州    計 1 
    *京都4*大阪1                    関西    計 5  2.5/県 

    「神宮分霊地」は、「平均2社/県」 程度と成ります。
    「神明社」は、   「平均7社/県(」105+75/26)
    「神明神社」は   「平均6社/県」(65+73/22)
    「神明宮」は、  「平均9社/県」(103+22/15)

    こ「の神明系3社」は凡そ6〜9社 概して、AVE8社とすると、約4倍と成ります。
    「4−6の規則」が成り立っていますので納得出来ます。

    これは、「皇族賜姓族と特別賜姓族」が、相互に連携をとりながら建立し、呼称別にし、管理されていた事が判ります。
    「伊勢と武蔵間での連絡」を取り合っていた事を意味しますので、「寺社大工匠の職人」の「互いの連携」や「職人の融通」もあった事が、「建築様式」などの統一もありますので云えます。
    この事から双方の職人の血縁も起り得たと解釈出来ます。
    「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の元気な掛け声として、その「生き様」がまざまざと目に映ります。


    ここから「神明系5社」に組み入れる事が疑問視されるものを「其の他」にしました。
    神明系社の歴史的経緯がこの「其の他」から読み取る事が出来ます。
    排除せずに歴史的経緯をより詳細に引き出す為に検証します。

    其の他  ・福岡9・東京17・神奈川3・新潟2・群馬2・島根2・広島1・香川1
          ・計37/418=8.85%

          *長野2*富山1*三重1
          *計4/148≧2.70%
         
         +宮崎1(皇祖神発祥の特別地)
         −大分1(皇祖神発祥の隣接地)
         
    (以上の・印と*印の合計41は「其の他%影響」と大神宮の「重複地域」がある為に100%を10%程度超える。)

    先ず、この「其の他」は上記「神明系5社」に対して、組み入れる事はデータの純粋性から真の考察を引き出す事にはエラーを多く含み正しい答えを引き出す事が困難と考えられ、敢えてこの「其の他」に入れる事にしました。
    それには次ぎの様な事があります。

    A「神明系5社」を八幡社に変えた「社」
    B「八幡社」から「神明系5社」に変えた「社」
    C「時代性」に大きな疑問のある「社」
    D「呼称」に問題がある「社」
    E「他社」の可能性がある「社」
    F「地理性」に疑問の「社」

    以上の「疑問、問題の社」である事から「其の他」に組み入れたものです。
    多くは「呼称」に対する「仕来り」を破っているものです。
    ところが、この「其の他」を一つに纏めると、”ある「意味」”を持っているものがあるのです。
    では、次ぎの13県−45社に付いて考察してみます。

    三重  大宮神明社 四日市市日永
    福岡
    大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
    宮崎  鵜戸神宮   日南市宮浦
    新潟  (菅谷宮  新発田市)
         (春日山神社 上越市西部)
    群馬  (伊勢宮 吾妻郡中之条町伊勢町)
         (伊勢宮 吾妻郡中之条町)
    長野  (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
         (伊勢社 長野市東之門町 )
    富山  (伊勢玉神社 氷見市伊勢大町)
    島根  (下の宮 出雲市大社町杵築北)
    広島  (伊勢宮神社 東広島市西条)
         (伊勢両宮社 竹原市西野町)
         (伊勢大神宮 府中市府中町)
    香川  (伊勢宮 さぬき市大川町田面)
    東京  天祖神社  足立区小台
         天祖神社  板橋区南常盤台
         天祖神社  江戸川区平井
         天祖神社  江戸川区本一色
         天祖神社  葛飾区新小岩
         天祖神社  葛飾区東新小岩
         天祖神社  葛飾区高砂
         天祖神社  葛飾区堀切
         天祖神社  江東区亀戸
         天祖神社  新宿区西早稲田
         天祖神社  新宿区原町
         天祖神社  新宿区早稲田鶴巻町
         天祖神社  杉並区高円寺南
         天祖神社  墨田区業平
         天祖神社  目黒区上目黒
         天祖神社  港区六本木
         (上小松天祖神社 葛飾区奥戸)
         (奥戸天祖神社 葛飾区奥戸)

    神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
         明神社   川崎市幸区戸手本町
         神明大神  川崎市中原区中丸子


    東京の18社に付い既に論じたので此処では除外します。

    長野と富山に付いても退避地の処で論じましたので除外します。

    では先ず、伊勢です。
    大宮神明社 四日市市日永

    この伊勢の「其の他」には根拠があります。
    此処は、「伊勢の神域」ですから呼称の問題とするものは無い筈です。
    神明社に社名を付けないのが慣習ですが、「大宮」が付いています。
    実は、この四日市は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の「血縁融合族」が定住してい地域なのです。
    其処に建立したのが神明社であり問題はありませんが、何れも伊勢神宮を護る役目の氏です。
    他の神明社と異なる事を主張する為に ”大神宮のお膝元の神明社” として「大宮」を付けたのです。
    この三重には神明社1と神明神宮1があり、これと「融合青木氏」との区別を付ける為にも「大宮」を付けたものです。つまり、「融合青木氏」の建立である事を物語っています。

    大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
    宮崎   鵜戸神宮    日南市宮浦

    この二つの神明社と観られる社は前段で論じた処であります。
    「天岩戸の神域」に建立された社で「祖先神」の祖とする神を祭祀するもので賜姓族が建立する「祖先神の神明社」では実質ありません。この主権者は時代により変化しています。
    鎌倉以降は頼朝や時代の幕府や土地の豪族などの寄進ににより支えられていた記録が残っています。
    この為に、明治の「全国の神社の社格決定」に際してはその主張を取り入れて一時は「社格」を神明社並に引き挙げ経緯があり、後に「社格「」は村社」並に引き下げられました。

    新潟 (菅谷宮  新発田市)
        (春日山神社 上越市西部

    何れも「神明造り」でありますが、上記のEに分類される「他社」であります。
    1900年代に建てられたもので、神奈川等にある合祀系社の「菅谷神社系社」であります。
    そもそも「春日山」の呼称は、上杉謙信を祭る神社で謙信に関わる地域に分霊されている神社です。

    以「下は「信濃伊勢宮」の系列社の「分祀社」です。

    長野 (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
        (伊勢社    長野市東之門町 )

    群馬 (伊勢宮    吾妻郡中之条町伊勢町)
        (伊勢宮    吾妻郡中之条町)

    広島 (伊勢宮神社 東広島市西条)
        (伊勢両宮社 竹原市西野町)
        (伊勢大神宮 府中市府中町)

    香川 (伊勢宮    さぬき市大川町田面)

    長野は前段で論じた通りで、歴史的経緯の中で起ったもので呼称には問題はありません。

    長野と同じく、群馬は前段でも論じ、前記した様に、この「伊勢宮」は信長に滅ぼされた武田氏系諏訪族の青木氏末裔が逃亡先にて復興を遂げ故郷の守護神を建立したものです。

    広島は前段でも論じたと同様に、伊勢青木氏と信濃青木氏のとの親密な関係から「信濃伊勢宮系社」を分祀して「讃岐籐氏の讃岐青木氏」が建立したものです。
    香川も伊勢−信濃青木氏との関係から「信濃伊勢宮系社」の「分祀社」で、この讃岐籐氏の讃岐青木氏が建立したものです。
    この讃岐青木氏は領国に並ぶ勢いを持ちその経済力は瀬戸内を利用した「2足の草鞋策」(廻船業)を背景に建立したものです。
    これ等の「伊勢の呼称」を使った根拠は「長野の伊勢宮」にある「伊勢宮神社の分祀」を求めたものとです。
    讃岐青木氏と信濃青木氏とは伊勢青木氏を介して互に「商い」に於いて繋がりを持っていた事に依ります。
    実はこれには讃岐青木氏と伊勢青木氏は「商い」で互に廻船であった「讃岐青木氏の船」を運送に使っていた事が記録に遺されており、この関係から信濃青木氏との繋がりが強かったのです。

    (前記した浅野家開城の際の財産買取の海上輸送の便宜を伊勢青木氏は依頼した事が記録されている。瀬戸内の圏域は讃岐青木氏の圏域)

    (海を持たない信濃青木氏は商いの輸送に日本海ルートを利用してこの讃岐青木氏の廻船を利用して全国に輸送していた。讃岐青木氏は瀬戸内の産物を輸送販売し、伊勢と信濃青木氏とは互いの利点を生かしてはこの商いの面で強く結ばれていた事が「商い資料」から読み取れる。)

    この関係から血縁関係も考えられ、又、神明系社の建設には「伊勢青木氏」の便宜は建前上難しく、「信濃青木氏」の便宜(分霊・分祀)を受けたと考えられます。
    讃岐にはそもそも神明系5社は1社もないのです。この事の意味が”「讃岐」”の一門の中での立場を物語ります。
    この事は普通の事ではありません。それには理由があるのです。
    前段でも論じ、前記でも論じた様に「讃岐青木氏」を含む「讃岐藤氏」は、一門の中でも「独自の行動」を採りそれに見合う「財力と武力」を含む勢力を確保し、それに依って「本領の宗家」とは一線を画していたので、当然にそうなれば宗家との間に軋轢が生じます。
    それは「讃岐籐氏一門」には当然の結果として、”「神明社建立の権限」を与えらないか、与えられてもなかなか認可が下りない” と云う事態も当然に起り得ます。

    資料によると讃岐籐氏は直接摂関家との接触をしていた事が記載されていて、「純友の乱」に観られる様に同じ身内の摂関家からも「瀬戸内の利権]を剥奪するような行動も史実として遺されている位です。
    中には、「讃岐籐氏」は ”藤原北家一門の単独の藤氏である” とする史実に反する独自の主張も遺されているのです。(「純友の乱」も同じ背景にある)
    秀郷一門の特別賜姓族しか名乗れない「讃岐青木氏が」存在しているにも関わらず、「独自性」を強く主張したのです。
    これが一つの軋轢の形と成って建立権が確保出来なかったのです。このままでは ”「讃岐青木氏」は秀郷流青木氏116氏の中でただ1氏建立権がない。” と成ると世間に対して全く立場がありません。
    そこで、「商い」を通じて「伊勢−信濃青木氏」のパイプを構築し、この関係を通じて正式なルートとでは無く、又、正式な呼称ではなく「伊勢宮」や「伊勢宮神社」の「信濃伊勢宮系社」等や「3重複呼称の神明系社」を「讃岐青木氏の圏域」に建立したのです。
    これでは、武蔵の青木氏宗家は何も云えません。
    しかしながらも、幾らなんでも平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」42で護られた中で、この時、伊勢や信濃からの「神明系社の正式」な「分霊」では出来ません。その為に「分祀」と云「う祭祀方式」で処理したのです。6つの社の中の資料には「分祀の表現」が成されているのです。

    神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
          明神社   川崎市幸区戸手本町
          神明大神  川崎市中原区中丸子

    「神明」の呼称を「明神」と呼称した「社」でありますが、「みょうじん」と云う呼称は特に異常ではありません。関東域では一般の呼称、或いは愛称として「みょうじんさん」で呼ばれていたのです。
    一方では「神明大神」として正式な呼称もあるのですから特段の理由があった訳ではありません。

    「一般呼称」に社名を合わしたと考えられますが、厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」42からすると呼称だけは時代的な緩みの起った時期ではないかと観られます。
    資料からこの呼称が出て来るのは室町末期から江戸期初期頃です。
    神奈川には「正式呼称」の神明社4と神明神社2と皇大神社2があります。
    この3つは川崎に集中していますので、「分祀」と云う方法が一般に起った時期にこれ等の社がこの頃に分祀したものではないかと考察されます。
    分祀の表現方法にはいくつものパターンがあります。社歴等からは確認出来ませんが、これも便宜系の「分祀表現」の一つなのです。格式を換える祭祀呼称方法です。
    讃岐の分祀方法は資料から観て鎌倉期から室町期前期に観られます。

    この他には便宜系の「分社」と云う方法もありますが、この場合は分祀と同じく呼称は格式に変化を及ぼしますので別のものと成ります。
    更には、神明系社以外の「合体系」の色々な種類の神社を一つにまとめた「合祀」や「合社」や「併社」等と云うものもあり、「摂社、末社」等の「系列系」を表す呼称方法もあります。

    神明系社には室町期中期以降はこの「合祀や合社や分社や末社」等が多く出てきます。これは室町中期以降の生き残りを掛けた神社の戦術であったのです。
    この事は本論とは論じる論点が異なる事から信濃関連の「伊勢宮系」と神奈川の明「神社系」以外は原則除外しています。

    別枠のの「福岡の8社」に付いては、神明系社である事は判っているのですが、後に八幡社に変更されている事が観られますので、その他に入れました。

    「八幡社」は前段でも論じましたが、そもそもその前身は「神祇信仰」から発展したものです。
    豊前宇佐郡から発祥したものです。奈良の大仏建立等でその信仰が大きく発展し朝廷もこれを取り入れて「国神」として一時取り入れ「国家鎮魂の神」として崇め祭祀していたのですが、次第にその勢いは低下して一時は荒廃をしました。
    そこで清和源氏の宗家摂津源氏の頼光等に対して命じてこれを修復させる命令を発した記録が残っており、これに対して修復する際に、「荒廃の国家鎮魂の八幡社」の殆どが摂津源氏の宗家の守護地であったのです。
    それまで神社建立の経緯が無かった事等から自らの「寺建立の職人」や自ら「神官職」を持っていなかったのです。伊勢青木氏や信濃青木氏の協力を得なければ成し得ない修復の勤めです。
    そこで、「血縁融合族」の神明族「皇族賜姓信濃青木氏」の一族が「寺建立の職人」「神明系社の神官職」の能力を借用したのです。この事から、記録にも残っているし、神明社や守護神外の「八幡社神職の青木氏」が現存するのです。
    この「国家鎮魂の八幡社の神職」を依頼して維持させたのです。

    (三つ柏紋の神官職の神明族の信濃青木氏の一部がこの国家鎮魂の八幡社の神職を司る事と成ります。陸奥域までこの信濃青木氏の「国家鎮魂の八幡社」の神職が広がっています。)

    神明系社地外の八幡社にもこ神明族の信濃青木氏の神官職の珍しいパターンが生まれたのです。

    一方、前段で論じた様に、分家頼信系の「河内源氏」はこれを荘園制を利用して名義族の未勘氏族に八幡社を建立させて「武神としての八幡社」に換えてしまったのです。
    従って、「八幡社」には「皇族賜姓族信濃青木氏」が維持管理した本来の摂津源氏の「国家鎮魂の神の八幡社」と、「武神」と変化させて「未勘氏族」に維持管理させた「八幡社」の2流の系列があるのです。
    然し、時代の流れに押されて殆どは未勘氏族の維持管理させた「河内源氏の武神の八幡社」と成ってしまったのです。この「福岡の八幡社」は発祥地域であった事から元は神明系社の変化したものなのです。
    この様な歴史的経緯の持った「神明系の八幡社」なのです。


    「元伊勢の分布 遷宮地詳細」
    (大化期前)
    「元伊勢社」とは三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮の内外宮が伝承地に成る前に遍歴した各地に遺した鎮座地の神社を云う。

    13の古代国に約80−85の地域に90年に掛けて遍歴した。

    遍歴数/県
    大和21 丹波4 紀伊3 吉備6 伊賀10 近江13 美濃3 尾張4 伊勢23

    大和国
    1 檜原神社(摂社)         奈良県桜井市三輪 
    2 巻向坐若御魂神社        奈良県桜井市穴師
    3 巻向坐若御魂神社       奈良県桜井茅原
    4 笠縫神社(末社)         奈良県磯城郡田原本町秦庄
    5 志基御県坐神社(末社)     奈良県桜井市金屋
    6 笠山荒神宮            奈良県桜井市笠
    7 天神社               奈良県桜井市小夫
    8 飛鳥坐神社            奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
    丹波国
    9 真名井神社(摂社)       京都府宮津市江尻      
    10 皇大神社             京都府福知山市大江町内宮
    11 笑原神社             京都府舞鶴市紺屋
    12 竹野神社             京都府丹後市丹後町
    大和国
    13 笠縫神社三輪山        奈良県桜井市三輪
    14 伊豆加志本宮与喜神社    奈良県桜井市初瀬字与喜山
    15 伊豆加志本宮長谷寺     奈良県桜井市初瀬
    16 伊豆加志本宮          奈良県桜井市初瀬
    紀伊国
    17 奈久佐濱宮濱の宮神社    和歌山県和歌山市毛見
    吉備国
    18 名方濱宮伊勢神社      岡山県岡山市北区番町
    19 名方濱宮内宮         岡山県岡山市南区浜野1丁目
    20 名方濱宮穴門山神社     岡山県倉敷市真備町
    21 名方濱宮穴門山神社     岡山県高梁市川上町高山
    22 名方濱宮神明神社      岡山県総社市福井字神明
    23 名方濱宮今伊勢内宮外宮  広島県福山市神村町
    紀伊国
    24 伊勢部柿本神社        和歌山県海南市日方
    25 国主神社            和歌山県有田郡有田川町長田
    大和国
    26 弥和乃御室嶺上宮高宮神社    奈良県桜井市三輪字神峯
    27 弥和乃御室嶺上宮三山       奈良県桜井市三輪
    28 伊豆加志本宮           奈良県桜井市初瀬
    29 弥和乃御室嶺上宮高宮神社    奈良県桜井市三輪
    30 宇多秋宮阿紀神社         奈良県宇陀市大宇陀区迫間
    31 佐佐波多宮篠畑神社        奈良県宇陀市山辺三字篠畑
    32 佐佐波多宮葛神社         奈良県宇陀市山辺三
    33 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀郡御杖神末
    34 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀市室生区大野
    伊賀国(伊勢国)
    35 隠市守宮宇流冨志弥神社    三重県名張市平尾
    36 隠市守宮三輪神社        三重県名張市箕輪中村(合祀)
    37 隠市守宮蛭子神社        三重県名張市鍛冶町
    38 隠市守宮田村大明神       三重県名張市東田原
    39 隠市守宮名居神社        三重県名張市下比奈知
    40 穴穂宮神戸神社          三重県伊賀市上神戸
    41 穴穂宮常福神社         三重県伊賀市古郡
    42 穴穂宮猪田神社          三重県伊賀市下郡
    43 敢都美恵宮都美恵神社     三重県伊賀市拓殖町
    44 敢都美恵宮敢国神社       三重県伊賀市一ノ宮
    近江国
    45 甲可日雲宮垂水頓宮       滋賀県甲賀市土山頓宮
    46 甲可日雲宮大神宮社       滋賀県甲賀市土山町
    47 甲可日雲宮皇大神宮       滋賀県甲賀市土山町大河原
    48 甲可日雲宮高宮神社       滋賀県甲賀市信楽町多羅尾
    49 甲可日雲宮桧尾神社       滋賀県甲賀市甲南町池田
    50 ・神明社             滋賀県湖南市三雲
    51 日雲神社             滋賀県甲賀市信楽町牧
    52 日雲宮              滋賀県甲賀市水口町神明
    53 甲可日雲五十鈴神社       滋賀県甲賀市水口町東林口
    54 甲可日雲ほう山神社        滋賀県甲賀市水口町高山
    55 甲可日雲川田神社         滋賀県甲賀市水口町北内貴
    56 甲可日雲田村神社         滋賀県甲賀市土山町北土山
    57 坂田神明宮            滋賀県米原市宇賀野                   
    美濃国
    58 伊久良河宮天神神社       岐阜県瑞穂市居倉
    59 伊久良河宮名木林神社      岐阜県安八郡八町
    60 伊久良河宮宇波刀神社      岐阜県安八郡八町
    尾張国
    61 中島宮酒見神社          愛知県一宮市今伊勢町
    62 中島宮浜神社           愛知県一宮桜一丁目
    63 中島宮御園神明社        愛知県清須市一場
    64 中島宮坂手神社          愛知県一宮市佐千原
    伊勢国
    65 桑名野代宮野里神社        三重県桑名市多度町
    66 桑名野代宮神戸神館神社      三重県桑名市大字
    66 桑名野代宮尾野神社        三重県桑名市大字
    67 奈既其波志忍山宮布気皇館太神社 三重県亀山市布気野尻
    68 奈既其波志忍山宮忍山神社     三重県亀山市野村
    安濃国(伊勢国安濃郡)
    69 壱志藤方片樋宮加良比野神社    三重県津市藤方
    70 藤方片樋宮阿射加神社       三重県松阪市小阿坂町
    71 藤方片樋宮雲出神社        三重県津市雲出本郷町
    72 飯野高宮神山神社         三重県松阪市山添町神山
    73 飯野高宮神戸神社         三重県松阪市下村町
    74 飯野高宮牛庭神社         三重県松阪市下 路町
    75 飯野高宮久弥都神社        三重県松阪市郷津町
    76 飯野高宮滝野神明社        三重県松阪市飯高町
    77 飯野高宮花岡神社         三重県松阪市飯高町
    78 佐佐牟江宮竹佐々夫江神社     三重県多気郡明和町
    79 伊蘇宮磯神社           三重県伊勢市磯町
    80 伊蘇宮相可上神社         三重県多岐郡多岐町
    81 大河之滝原瀧原宮         三重県度会郡大紀町
    82 矢田宮口矢田の森社        三重県伊勢市楠部町
    83 家田々上宮神宮神田南の忌鍬山   三重県伊勢市楠部町
    84 家田々上宮大土御祖神社      三重県伊勢市楠部町
    85 奈尾之根宮皇大神宮末社      三重県伊勢市宇治中之切町
    85 五十鈴宮皇大神宮         三重県伊勢市宇治館町     

    青木氏と守護神(神明社)−22に続く
      
    (基データの考察検証の段 2/2)

    >   
    > (基データの考察検証の段 2/2) 


      [No.288] Re:青木氏と守護神(神明社)−20
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/08/25(Sat) 14:27:24  

    「基データの注釈」
    以下は本文のデータの基礎資料としたものです。
    この基データには次ぎの様な事柄の注釈が付いています。
    この事を配慮して頂き、データの考察と検証の論文をお読みください。
    この本段は、前段と異なりデータそのものの持つ諸々の「意味」を引き出したいと考えています。
    これにより「青木氏の守護神」の「祖先神−神明社」が持つ意味の本質が見えて来て、それに因って先祖の「青木氏の生き様」により深い感情を持たれると思います。
    最終の本段は「青木氏の守護神」(神明社)−20、21で終わります。
    注釈
    面倒ですが是非お読み下さい。
    これには個人情報の保護を目的に番地等を控えています。
    尚、地名町名は変化している事が考えられますので参考として下さい。
    「独自の調査方法」で整理されたもので、室町中期までのものとして列記しています。
    室町中期の選定方法は「独自の判別方法」で行っています。
    この調査には、数十年の長い期間を費やして行い、多くの各種のマニアの同好会の協力を得て基礎データ収集を行いました。
    記載には、「個人情報保護」の観点から、既に何らかの公的に公表されているものに限定しています。
    選別した中に限定し外したものには付いては「判別方法」に一部入るものもありました。
    中には「記載依頼」を断わられたものや、判別ができなかったもの、社歴に疑問矛盾のあるもの等は割愛しています。
    当然に「祠関係」や「合祀関係の無理」や完全に「個人所有」、「郡社、村社」等と成っているものは削除しています。
    これ等に調査期間中に法律が改定された為に大変な時間を所用しました。

    各地方公共団体が公表している物、各種寺社関係の機関雑誌等で公表されている物等を加え、データの主体は、地方毎の同好会等に依頼して調べ上げた物などを一つにまとめ、それを別の複数の県毎の各種の同好会に「調査の一定条件」を提示し、「写真と聞き取りの情報」を集め、それを「ある判別条件」に当て嵌めて記録したものです。
    個人関係を主体とした「マニア形式の同好会」を主体とし、「団体形式の会」は「思惑や利害関係」や「思想関係」が介在しましたので正確さに保証がありませんので原則避けました。
    鉄道の同好会、寺社の同好会、歴史の同好会、旅行の同好会、歴史人物の同好会、城郭の同好会、古道の同好会等の縦横の関係を利用して、各種の同好会が夫々の目的で活動する際に、これ等本件の調査も合わせてお願いすると云う方法で集められました。

    これ等の神明社の由緒や歴史などの情報が明確にしていない、或いはしない傾向が多く、調査対象側からの創建年代は確証は殆ど得られなかった状況で、あったとしても疑問や矛盾があるなどして正確な年代は使えない状況でした。
    県別に分類している事に付いては昔の国と現在の県との違いがある等の難しい事もあり、先ずは現在の県に合せました。
    「社」と「神社」と「宮」等の呼称は個別の呼称として区別した。
    原則として合祀と一部別の分霊と併祀等は含みません。
    固有の名称が付いている「社」はある意味がある為にそのままとしました。
    地名は判る範囲で新しくしました。
    並べ方は順不同です。
    社名は地名で呼称されるが、地名で無い場合は固有名詞で記載しています。
    無格社、郷社、村社は原則除きました。

    さて、データの前置きは別として、この「青木氏と守護神(神明社)」の基と成ったデータに付いて未だ論じなくては成らない事柄がある様に感じられます。
    前段で論じた「青木氏との歴史的経緯」とは別に、”何か知って置かなくては成らない事柄”がこのデータには潜んでいる様なのです。
    そこで、基データを敢えて提示して考察分析してみる事とします。
    そもそも、「祖先神−神明社」の呼称は一つではないのです。
    室町中期までのデータとしては「祖先神−神明社」に関わる「社」は、何と次ぎの「7つの呼称」と成っているのです。「7つの呼称」別に何か特別な何かを持っている様なのです。
    そこで、この「7つの呼称」で基データを分類してみますと次ぎの様に成ります。

    (但し、「其の他」の呼称は「特定の呼称」を付けるには、分類に「多様性」がある為に難しく誤解を招く事と成りますので、「其の他」として一括します。
    「皇大神社」の「皇祖神の伊勢神宮」と「神明社」とは間違われやすいのです。「祖先神」は「皇祖神」の「子神」である事には違いはないのですが、これを祭祀する「守護神」は「祖先神−神明社」の関係にあるのです。)

    「7つの呼称」
    「祖先神−神明社」は次ぎの様に大分類されます。
    「神明社」  「神明宮」  「神明神社」  「大神宮」  「神社」  「皇大神社」  「其の他」

    「基データ」
    北海道  (山上大神宮 函館市)
           (蘆別神社  芦別市)

    神明社 0 神明宮 0 神明神社 0 大神宮 1 神社 1 皇大神社 0 其の他 0

    青森 浦町神明社 青森市橋本
        神明宮    黒石市 1592−95年
        神明宮    八戸市廿六日町
        神明宮    平川市高畑
        神明宮    平川市館山板橋
        神明宮    弘前市大久保
        神明宮    弘前市下湯口
        神明宮    弘前市富栄
        神明宮    弘前市東城北
        神明宮    上北郡七戸町字町
        神明宮    北津軽郡鶴田町菖蒲川
        神明宮    北津軽郡鶴田町大性
        神明宮    西津軽郡深浦町深浦
        大神宮    三戸郡三戸町

    神明社 1 神明宮 12 神明神社  大神宮 1 神社  皇大神社  其の他 

    秋田 神明社  秋田市河辺戸島七曲
        神明社  秋田市下北手宝川
        神明社  秋田市添川字古城廻り
        神明社  秋田市豊岩石田坂
        神明社  秋田市仁井田本町
        神明社  秋田市土崎港中央
        神明社  男鹿市払戸小深見
        神明社  男鹿市船川港本山門前
        神明社  男鹿市船越
        神明社  潟上市飯田川飯塚字中山
        神明社  大仙市協和小種
        神明社  大仙市協和船沢
        神明社  能代市扇田
        神明社  能代市河戸川大塚
        神明社  能代市鰄渕四ッ屋
        神明社  由利本荘市赤田蓮池
        神明社  由利本荘市吉沢上林
        神明社  横手市神明町
        神明社  南秋田郡井川町北川尻
        神明社  南秋田郡井川町北川尻中村
        神明社  南秋田郡井川町浜井川
        神明社  大館市中神明町
        神明社  秋田市湊川
        神明社  大仙市協和上淀川
        神明社  男鹿市船川港船川
        神明神社 秋田市飯島長野中町
        (高岡神社  秋田市河辺高岡)
        (岩戸神社  秋田市手形田中)
        (岩玉神社  秋田市岩見)
        (白幡神社  秋田市旭川)
        (大浜神社  秋田市大浜)
        (豊岩神社  秋田市豊岩)
        (土崎神社  秋田市土崎) 

    神明社 25 神明宮 0 神明神社 8 大神宮  神社   皇大神社   其の他

    岩手 神明社      東盤井郡藤沢町
        神明社      二戸市浄法寺町
        神明社      盛岡市中ノ橋
        御嶽神明社   一関市花泉町
        天照御祖神社  大船渡市三陸町綾里田浜
        天照御祖神社  釜石市唐丹町片岸
        天照御祖神社  陸前高田市高田町松峰
        天照御祖神社  気仙郡住田町世田米
        伊勢両宮神社  遠野市上郷町細越   
        天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田
        天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井

    神明社 4 神明宮   神明神社   大神宮   神社 5 皇大神社 2 其の他

    山形 富神明神社  山形市柏倉
        神明神社    山形市 7大神明社
        神明神社    最上郡舟形町
        神明神社    山形市南館
        神明神社    上山市高松
        神明神社    東根市猪野沢
        神明神社    西村山郡大江町 1622年
        神明神社    山形市錦町
        神明神社    山形市鮨洗和泉
        神明神社    山形市錦町
        皇大神社    鶴岡市大淀川川端
        皇大神社    鶴岡市羽黒町町屋
        皇大神社    鶴岡市山田
        皇大神社    米沢市中央
        天照皇大神社 鶴岡市小淀川

    神明社 1 神明宮   神明神社 9 大神宮   神社   皇大神社 5 其の他

    宮城 神明社   白石市益岡町 807年 坂上田村麻呂創建
        神明社   仙台市青葉区上愛子
        神明社   仙台市宮城野区蒲生字町
        神明社   岩沼市押分志引
        神明社   岩沼市早股      
        神明社   遠田郡美里町字西館
        神明社   宮城郡利府町加瀬
        長谷条神明社 岩沼市早股 1686年
        二の倉神明社 岩沼市押分字須加原    
        神明神社    仙台市太白区秋保町
        神明神社    仙台市太白区四郎丸
        皇太神社    栗原市川口鍛冶屋   
        天照皇大神宮 仙台市宮城野区蒲生
        桜丘大神宮   仙台市青葉区

    神明社 10 神明宮   神明神社 2 大神宮 2 神社   皇大神社   其の他

    新潟 神明社  長岡市
        神明社  花井町
        神明社  牛池町
        神明社  三条市神明町
        神明社  与板町
        神明社  東新町
        神明社  燕市大保
        神明社  新潟市神山
        神明社  新潟市北場
        神明社  新潟市天野
        神明社  三条市大島
        神明社  新潟市升潟
        神明社  糸魚川能生町
        神明宮  阿賀野市
        神明宮  新潟市網川原
        神明宮  新潟市茨島
        神明宮  新潟市浦村新田
        神明宮  新潟市大潟村古新田
        神明宮  新潟市大関村古新田
        神明宮  新潟市大野
        神明宮  新潟市嘉瀬
        神明宮  新潟市蒲ヶ沢
        神明宮  新潟市小針
        神明宮  新潟市十五間
        神明宮  新潟市新通
        神明宮  新潟市新保新田
        神明宮  新潟市田潟
        神明宮  新潟市俵柳
        神明宮  新潟市釣寄新
        神明宮  新潟市並岡
        神明宮  新潟市新津本町
        神明宮  新潟市西長島
        神明宮  新潟市引越
        神明宮  新潟市兵右衛門新田
        神明宮  新潟市巻大原
        神明宮  新潟市矢島
        神明宮  新潟市鷲ノ木新田
        神明宮  燕市庚塚
        神明宮  燕市佐渡山
        神明宮  燕市富永
        神明宮  西蒲原郡弥彦村えび穴
        神明宮  船内市熱田坂
        神明宮  長岡市堺町
        神明宮  三条市神明町
        槙神明宮 新潟市関屋
        槇神明宮 新潟市巻甲
        下町神明宮  新発田市大手
        神明神社    新潟市坂田
        神明神社    横枕町
        神明神社    川辺町
        神明神社    上越市貝野川
        神明大神宮  新潟市潟上
        船江太神宮  新潟市東堀通一番町 
        西奈弥神社  村上市羽里町
        天照大神    新潟市西笠巻新田
        (能崎神社   西頚城郡能生町)
        (羽森神社   柏崎市 1489年)
        (船江神社   赤塚)
        (羽黒神社   村上市羽黒町 桃山)
        (菅谷宮    新発田市)
        (春日山神社 上越市西部)

    神明社 13 神明宮 34 神明神社 4 大神宮 2 神社 6 皇大神社  其の他 2

    福島 神明社    福島市
        神明社    二本松市根崎
        神明宮    福島市大笹生大倉
        天照神明宮  伊達市保原町宮下
        天照神明宮  伊達郡国見町森山
        神明神社   福島市腰浜町
        神明神社   二本松市太田字松山
        天照皇大神社 南相馬市鹿島区南柚木浅田
        天照皇大神社 南相馬市鹿島区南柚木宮前

    神明社 2 神明宮 3 神明神社 2 大神宮  神社   皇大神社 2 其の他

    栃木 
        神明社      小山市 
        神明社      栃木市 1404年
        神明宮      足利市百頭町
        神明宮      足利市瑞穂野町
        神明宮      小山市南和泉
        神明宮      小山市
        神明宮      佐野市赤見町
        神明宮      佐野市飯田町
        神明宮      栃木市旭町
        神明宮     小山市平和
        神明神社    足利市羽刈町
        天照皇太神社  鹿沼市上永野
        (伊勢山大神宮 佐野市相生町)
        (伊勢山大神宮 佐野市伊勢山町)

    神明社 2 神明宮 8 神明神社 1 大神宮 3 神社   皇大神社   其の他

    茨城 神明社   潮来市
        神明社   坂東市
        神明社   神栖市矢田部
        神明神社  古河市
     神明神社  結城市
        神明神社  神栖市波崎町高野
        神明神社  古河市長谷町
        神明神社  結城市小田林
        (内外大神宮 筑西市小栗)

    神明社 3 神明宮   神明神社 5 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他

    千葉  神明社   舟橋市高根町
         神明社   舟橋市薬円台
         神明社   舟橋市金杉  930−941年
         神明社   千葉市中央区亥鼻
         神明社   市川市鬼越
         神明社   市川市本行徳
         神明社   市川市本行徳
         城山神明社 君津市久留里市場
         神明宮   木更津市佐野
         神明宮   銚子市高田町
         神明宮   君津市西原
         神明神社  館山市新宿
         神明神社  館山市那古
         神明神社  館山市北条北町
         神明神社  千葉市中央区神明町
         神明神社  千葉市花見川区横戸町
         神明神社  市原市山田
         神明神社  勝浦市吉尾
         神明神社  鴨川市江見
         神明神社  流山市南
         神明神社  富津市小久保
         天照大神社 君津市大井

    神明社 8 神明宮 3 神明神社 10  大神宮  神社   皇大神社 1 其の他

    群馬  神明宮  渋川市上白井
         神明宮  渋川市白井
         神明宮  渋川市中郷
         神明宮  渋川市横堀
         神明宮  高崎市倉渕町三ノ倉
         神明宮  沼田市材木町
         神明宮  沼田市高橋場町
         神明宮  沼田市西倉内町
         神明宮  みどり市大間々町大間々
         神明神社 吾妻市長野原町
         神明神社 利根郡みなかみ町
         神明神社 利根郡猿ケ谷
         (伊勢宮  吾妻郡中之条町伊勢町)
         (伊勢宮  吾妻郡中之条町)

    神明社   神明宮 9 神明神社 3 大神宮   神社   皇大神社   其の他 2

    埼玉  神明社  深谷市西島(別名 瀧宮神社)
    神明社  所沢市中富
         神明社  川越市神明町
         神明社  所沢市
         神明宮  川越市鹿飼
         神明宮  さいたま市岩槻区釣上
         神明神社 飯能市
         神明神社 さいたま市西区塚本町
         神明神社 朝霞市田島
         神明神社 加須市川口
         神明神社 川越市今泉
         神明神社 志木市柏町
         神明神社 新座市野火止
         神明神社 ふじみ野市亀久保
         神明神社 南埼玉郡菖蒲町上栢山
         天照皇大神宮 久喜市上清久

    神明社 4 神明宮 2 神明神社 9 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他

    東京  神明社    西多摩郡檜原村本宿笹野
         神明社    日野市神明
         神明社    日野市栄町
         神明社    世田谷区祖師谷
         神明社    多摩市
         神明社    福生市
         天祖神社  足立区小台
         天祖神社  板橋区南常盤台
         天祖神社  江戸川区平井
         天祖神社  江戸川区本一色
         天祖神社  葛飾区新小岩
         天祖神社  葛飾区東新小岩
         天祖神社  葛飾区高砂
         天祖神社  葛飾区堀切
         天祖神社  江東区亀戸
         天祖神社  新宿区西早稲田
         天祖神社  新宿区原町
         天祖神社  新宿区早稲田鶴巻町
         天祖神社  杉並区高円寺南
         天祖神社  墨田区業平
         天祖神社  目黒区上目黒
         天祖神社  港区六本木
         神明神社  昭島市拝島町
     神明神社  日野市程久保
         深川神明宮 江東区森下
         元神明宮   港区三田
         東京大神宮 千代田区富士見
       芝大神宮   港区     7大神明社
          (上小松天祖神社 葛飾区奥戸)
         (奥戸天祖神社 葛飾区奥戸)

    神明社 6 神明宮 3 神明神社 2 大神宮 2 神社  皇大神社   其の他 18

    神奈川  神明社    三浦郡葉山町下山
          神明社    横浜市保土ヶ谷区
          神明社    横浜市緑区新治町
          田越神明社 逗子市桜山
          明神社    川崎市川崎区塩浜
          明神社    川崎市幸区戸手本町
          神明神社   川崎市宮前区有馬
          神明神社   鎌倉市
          神明大神   川崎市中原区中丸子
          (伊勢山皇大神宮 横浜市西区宮崎町)
          (伊勢山大神宮   海老名市国分南)

    神明社 4 神明宮   神明神社 2 大神宮   神社   皇大神社 2 其の他 3   

    静岡  伊勢神明社   静岡市
         神明宮      磐田市鎌田
         神明宮      磐田市福田中島
         神明宮      浜松市西区神原町
         神明宮      庵原郡富士川町北松野儘下町
         御薗神明宮   浜松市北区三ヶ日町岡本
         東神明宮     浜松市西区篠原町
         蒲神明宮     浜松市東区神立町
         若宮神明宮    焼津市大
         浜名惣社神明宮 浜松市北区三ヶ日町三ヶ日
         神明神社     磐田市見付
         神明神社     下田市須原
         神明神社     浜松市北区細江町広岡
         神明神社     袋井市梅山
         神明神社     袋井市太郎助
         神明神社     賀茂郡松崎町明伏
         神明神社     賀茂郡松崎町岩科南側
         天照皇大神社   伊東市芝町

    神明社 1 神明宮 9 神明神社 7 大神宮   神社   皇大神社 1  其の他

    長野  神明社       茅野市泉野中道
         神明社       松本市笹賀下二子
         神明社       大町市常盤須沼
         神明宮       大町市社旭町
         神明宮       塩尻市宗賀牧野
         神明宮       松本市並柳
         大宮神明宮    大町市本村
         橡原御厨神明宮 長野市戸隠栃原追通
         仁科神明宮    大町市宮本 国宝最古 7大神明社
         五十鈴山神明宮 上伊那郡辰野町下町
         伊勢林大神宮   佐久市新子田
         神明神社      諏訪郡富士見町境葛窪
         神明三島社     東筑摩郡生坂村北陸郷草尾    
         (伊勢宮神社    長野市伊勢宮)
         (伊勢社       長野市東之門町 )

    神明社 3 神明宮 7 神明神社 1 大神宮 1 神社 1 皇大神社   其の他 2

    山梨 
         神明社  山梨市江曹原
         神明社  甲州市塩山上小田原
         神明社  甲州市塩山上萩原
         神明社  三郷町
         神明社  甲府市中央
         神明社  甲府市塚原
         神明社  甲府市塩部
         神明社  甲府市阿原町
         神明社  甲斐市
         神明社  山梨市窪平
         神明社  上野原市桑久保
         神明社  松留
         神明社  新田
         神明社  鶴島
         神明社  切戻木
         神明社  西島
         神明社  丸滝
         神明社  清子
         神明社  南アルプス市下高砂
         神明社  戸田
         神明社  上高砂
         神明社  落合
         神明社  韮崎市
         神明社  笛吹市
         神明社  上野原市松留
         神明社  山梨市江曽原
         神明社  南アルプス市飯野新田
         伊勢神明社   須玉町
         伊勢神明社   明野町下神取
         伊勢神明社   高根町
         伊勢神明社   明野町
         伊勢神明社   長坂町
         伊勢神明社   武川町 
         神明宮      甲斐市二葉町宇津谷
         神明宮      身延町上田原
         神明宮      宮本
         神明神社     山梨市牧上町
         神明神社     甲斐市下今井
         神明神社     甲斐市境
         神明神社     甲斐市団子
         神明神社     甲斐市新原
         神明神社     甲斐市竜王
         神明神社     山梨市牧兵町牧平
         神明神社     山梨市牧兵町北原 
         神明神社     甲府市逢沢
         神明神社     甲府市高橋
         神明神社     上野原市
         神明神社     一宮町
         神明神社     境川町
         神明神社     石和町
         神明神社     道志村
         神明神社     南アルプス市
         神明神社     穂坂*3
         神明神社     竜岡
         神明神社     甲府市上阿原町
         神明神社     甲府市塩部
         神明神社     甲府市西高橋町
         神明神社     甲斐市竜王町富竹新田
         神明神社     甲斐市竜王町竜王
         神明神社     韮崎市大草町下條中割
         神明神社     韮崎市龍岡町若尾新田
         神明神社     笛吹市一宮町市之蔵
         神明神社     笛吹市石和町窪中島
         神明神社     笛吹市石和町東高橋
         神明神社     南アルプス市野牛島
         神明浅間神社
         天照大神社   釜額
         天照大神社   伊沼
         (伊勢神社    中巨摩郡田富町臼井阿原)     
         (伊勢神社    北杜市)
         (大神宮     甲府市貢川本町)

    神明社 33 神明宮 3 神明神社 29 大神宮 1 神社 3 皇大神社 2 其の他

    岐阜  杉箇谷神明社 高山市神明町
         神明神社    池田町八幡
         神明神社    粕ケ原
         神明神社    舟子
         神明神社    中津川市子野
         神明神社    中津川市苗木
         神明神社    飛騨市古川町上野
         神明神社    美濃市乙狩
         神明神社    岐阜市茜部本郷
         神明神社    岐阜市宇佐東町
         神明神社    岐阜市島田西町
         神明神社    岐阜市藪田西
         神明神社    各務原市鵜沼三ツ池町
         神明神社    各務原市各務おがせ町
         神明神社    各務原市前渡西町
         神明神社    各務原市前渡東町
         神明神社    郡上市白鳥町千田野
         神明神社    郡上市白鳥町向小駄良
         神明神社    郡上市八幡町五町
         神明神社    郡上市八幡町初納
         神明神社    郡上市美並町高砂
         神明神社    下呂市小坂町赤沼田
         神明神社    下呂市小坂町門坂
         神明神社    下呂市小坂町坂下
         神明神社    高山市朝日村浅井
         神明神社    高山市丹生川村駄吉
         神明神社    川佐
         神明神社    春日
         神明神社    高山
         上ノ島神明神社 各務原市川島
         久田見神明神社 八百津町

    神明社 1 神明宮   神明神社 30 大神宮   神社   皇大神社   其の他

    愛知 神明社    安城市石井町石原
        神明社    安城市小川町志茂
        神明社    安城市古井町
        神明社    岡崎市中伊西町
        神明社    岡崎市島坂町
        神明社    岡崎市桑原沢町
        神明社    一宮市定水寺
        神明社    刈谷市小垣江町大道西
        神明社    小牧市入鹿出新田
        神明社    高浜市碧海町
        神明社    常滑市栄町
        神明社    知立市西中町西街道
        神明社    豊橋市
        吉浜神明社 高浜市芳川町
        椿宮神明社 下青野町
        鳥羽神明社 幡豆郡幡豆町
        吉浜神明社
        安久差神戸神明社 豊橋市 
     河田神明社     一宮市浅井町
        赤塚神明社     名古屋市東区 (重文)
        安久美神戸神明社 豊橋市八町通
        神明宮    安城市河野町藤野郷
        神明宮    大高味町
        神明宮    元能見町
        神明宮    生平町
        神明宮    豊川市金屋本町
        大岩神明宮 豊橋市
        東田神明宮 豊橋市御園町
        高取神明宮 高浜市神明町神明町
        縣神明宮   安城市安城町県木
        神明神社   知多郡知多町
        神明神社   安城市高棚町中敷
        神明神社   刈谷市小垣江町
        神明神社   知多郡美浜町布土平井

    神明社 21 神明宮 12 神明神社 4 大神宮   神社   皇大神社   其の他

    富山 神明社  富山市水橋伊勢屋
        神明社  富山市水橋市田袋
        神明社  富山市清水町
        神明社  富山市水橋金尾新
        神明社  富山市水橋辻ヶ堂
        神明社  富山市水橋中村
        神明社  富山市水橋肘崎
        神明社  高岡市大野
        神明社  高岡市伏木古府
        神明社  砺波市五郎丸
        神明社  砺波市庄中
        神明社  滑川市三ケ
        神明社  滑川市辰野
        神明社  滑川市中川原
        神明社  南砺市飛騨屋
        神明社  射水市本町
        神明社  魚津市大光寺
        神明社  魚津市三ケ
        神明社  魚津市住吉新
        神明社  魚津市本江
        神明社  砺波市庄川町天正
        火の宮神明社 魚津市友道
        白山神明社  高岡市石瀬
        神明宮  富山市千石町
        神明宮  高岡市吉久
        神明宮  射水市八幡町
        神明宮  射水市本町
        神明宮  南砺市北市
        神明宮  南砺市野能原
        神明宮  南砺市戸板
        出町神明宮 砺波市中央町
        (伊勢玉神社 氷見市伊勢大町)

    神明社 23 神明宮 8 神明神社  大神宮  神社 1 皇大神社  其の他 1

    石川 金沢神明社 金沢市   7大神明社
        (伊勢神社 輪島市石休場町臂が谷)

    神明社 1 神明宮   神明神社   大神宮   神社 1 皇大神社   其の他

    福井 神明社   敦賀市松島町
        神明社   鯖江市水落町
        神明社   鯖江市水落町
        神明神社 福井市
        神明神社 福井市宝永 924年
        神明神社 鯖江市田村町
        神明神社 大野市大和町
        神明神社 敦賀市津内町

    神明社 3 神明宮   神明神社 5 大神宮   神社   皇大神社   其の他

    滋賀 神明社  高島市今津町
        神明社  伊香郡西浅井町
        神明社  長浜市新庄寺町
        (特令地 遷宮地 神明社  滋賀県湖南市三雲)

    神明社 3  神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

    三重  伊勢神宮    伊勢市
         皇大神宮    伊勢市宇治館町
         豊受大神宮   伊勢市豊川町
         大宮神明社   四日市市日永
         神明神社    四日市市南川

    神明社 1 神明宮   神明神社 1 大神宮 2 神社   皇大神社   其の他 1

    奈良 神明神社 天理市川原城町

    神明社   神明宮   神明神社 1 大神宮   神社   皇大神社   其の他

    京都 日向大神宮   山科区 東山神明社 7大神明社
        朝日神明社   此花区
        天照皇太神社 京都市左京区原地町
        神明皇大神宮 宇治市神明宮西

    神明社 1 神明宮   神明神社   大神宮 1 神社   皇大神社 2 其の他

    大阪 露天神社    北区           7大神明社
        皇大神宮    大阪市城東区今福南

    神明社  神明宮  神明神社 1 大神宮 1  神社   皇大神社   其の他

    和歌山 神明神社 和歌山市堀止西
          神明神社 東牟婁郡勝浦町

    神明社  神明宮  神明神社 2 大神宮   神社   皇大神社   其の他

    兵庫   神明社    姫路市夢前町
          神明社    穴粟市一宮町
          神明社    穴粟市波賀町
          犬飼神明社 姫路市香寺町
          湊川神明社 神戸市中央区多聞通
          神明神社   姫路市亀井町
          神明神社   姫路市香寺町
          神明神社   穴粟市山崎町
          神明神社   加西市山枝町
          神明神社   小野市神明町
          神明神社   南あわじ市南淡町

    神明社 5 神明宮   神明神社 6 大神宮   神社   皇大神社   其の他
        
    鳥取  無し

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

    岡山  神明神社  総社市

    神明社   神明宮   神明神社 1 大神宮   神社   皇大神社   其の他

    島根  (下の宮 出雲市大社町杵築北)

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 1

    広島  神明社   呉市倉橋町
         神明社   府中市栗栖町
         伊勢神社  廿日市一宮
        (伊勢宮神社 東広島市西条)
        (伊勢両宮社 竹原市西野町)
        (伊勢大神宮 府中市府中町)

    神明社 2 神明宮   神明神社 2 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他 2

    山口  神明宮  柳井市阿目

    神明社   神明宮 1 神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

    徳島  伊勢久留麻神社  淡路市久留麻
         伊勢の森神社    淡路市中田
         伊勢神社      南あわじ市志知難波

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 3 皇大神社   其の他

    香川  伊勢宮 さぬき市大川町田面

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 1

    愛媛  神明神社   今治市波止浜
         神明神社   北宇和郡鬼北町畔屋 

    神明社   神明宮   神明神社 2 大神宮   神社   皇大神社   其の他

    高知  神明宮  高知市比島町
         神明宮  高知市一宮徳谷
         神明宮  高知市はりまや町
         神明宮 (五所神社) 室戸市室戸岬町

    神明社   神明宮 4 神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

    福岡  無(八幡社 元神明社)

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 9 

    佐賀  伊勢神社  佐賀市伊勢町

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 1 皇大神社   其の他

    長崎  神明社   諫早市高城町

    神明社 1 神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

    熊本  伊勢大神宮 人吉市紺屋町

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮 1 神社   皇大神社   其の他

    大分  「西寒多神社」  大分県大野郡

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 1

    宮崎  江田神社  宮崎市阿波岐原町
         天岩戸神社 西臼枡郡高千穂町
         高千穂神社 高千穂町
         鵜戸神宮  日南市宮浦

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 3 皇大神社   其の他 1

    鹿児島  (伊勢神社 鹿児島市伊敷町)
          (伊勢神社 霧島市国分中央)
          (伊勢神社 南九州市知覧町郡)

    神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 3 皇大神社   其の他

    「基データの検証」
    以上が前段で検証し論じた神明社の「基データ」です。
    この「基データ」には上記の様に、「神明社」は大別すると「7つの呼称」に分けられるのです。
    この「7つの呼称」の内容を良く考察すると、前段で論じた「歴史的経緯との関係」とは別に単純に幾つかの疑問が湧いてきます。
    そもそも、”何故、この様な「7つの呼称」が生まれ分けられたのでしょうか。”

    「青木氏の守護神の祖先神−神明社」を充分に理解する為にも、青木氏としては前段の検証とは別にそれを分析する必要があります。
    次ぎにそれを判りやすくする為にこれ等を呼称表−1に一つにまとめてみました。
    そうすると、この「7つの呼称」には、”何か「仕来り、決り事、規則慣習」が合った”事が判ります。

    先ず、大まかに考察するに、
    (1)青木氏に関する「特定地域の特長」と次ぎのデータとの間に何か関係性がある様に観られます。(場所の要素)
    (2)「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」との間にも「仕来り、決り事、規則」の何かの関係性がある様にも観られます。(人の要素)
    (3)「時代性による呼称の変化」が起こっているようにも観られます。(時の要素)

    真に、きっちりと「三相」がこの「呼称の疑問」に働いていると云う事は、「呼称概念」と云うものが長い歴史の中で「ある仕来り・規則」に依って粛々と働いていた事を物語ります。
    そもそもこの世の森羅万象にはこの「三相」が揃っていない「事象」には虚偽、偽装、矛盾の持ったものに外ならないからです。
    つまり「三相」がないという事は「確固たる概念」の無い事象なのです。判りやすく云えば”骨組みの無い蛸の様な事象”なのです。何も私が主張し物語る事では無くこれは「仏教の教え」なのです。

    さて、そこで、消えてしまったこの何れ(1)(2)(3)の要素が一体どの様に働いていたのかをこれから検証してみる事にします。

    それに依っても前段の論調に加え、それを物語る何物かが出で来る様に考えられます。
    前段で論じた事柄を思い出して頂き次ぎのデータを観てください。
    (「地名/地形データベース」も合せて配慮してください)

    呼称の表−1
    「県の分布の実数」
    地名  社数   神明社  神明宮   神明神社  大神宮  神社  皇大神社  其の他
    北海道 2                           1     1 
    青森  14     1      12            1     
    秋田  33    25              8
    岩手  11     4                    1     5     1
    山形  15     1              9                 5
    宮城  14    10              2     2
    新潟  61    13      34      4     2     6            2
    福島   9     2       3      2                 2
    栃木  14     2       8      1     3
    茨城  14     2       8      1     3
    千葉  22     8       3     10                 1
    群馬  14             9      3                        2
    埼玉  15     3       2      9     1
    東京  32     6       3      2     2     1           18
    神奈川 11     4              2                  2      3
    静岡  18     1       9      7                 1
    長野  15     3       7      1     1     1            2
    山梨  71    33       3     29     1     3     2
    岐阜  31     1             30
    愛知  37    21      12      4
    富山  33    23       8                  1            1
    石川   2     1                          1
    福井   8     3              5
    滋賀   3     3
    三重   5     1              1     1           1      1
    奈良   1                    1
    京都   4     1                    1           2
    大阪   2                    1     1
    和歌山  2                    2
    兵庫  11     5              6
    鳥取   0
    岡山   1                    1
    島根   1                                             1
    広島   7     2              2      1                 2
    山口   1             1
    徳島   3                                3
    香川   1                                             1
    愛媛   2                    2
    高知   4             4
    福岡   9                                             9
    佐賀   1                                1
    長崎   1     1
    熊本   1                          1
    大分   1                                             1
    宮崎   4                                3            1
    鹿児島  3                                3  

    地名  社数   神明社  神明宮   神明神社  大神宮  神社  皇大神社  其の他


    合計 564
    神明社 180 神明宮 126 神明神社 143 大神宮 24 神社 29 皇大神社 17 其の他 44

    (前段の評価566と「其の他」の処の取り扱いで一部異なる)

    前段で論じた「地域性による分布量」は明らかに違うのですが、この「7つの呼称」に付いても直ぐに判るデータと成っている事が判ります。
    関西以西では分布量はもとより「神明社」そのものの呼称も少なく成っています。詳しくは下記に分析します。

    この「7つの呼称」は次ぎの順位で並んでいます。

    呼称の表−2
    「神明社」180>「神明神社」143>「神明宮」126>「神社」29>「大神宮」24>「皇大神宮」17
    (「其の他」44は上の6つと意味が幾つかあり異なるために比較は困難 別扱いとする。)

    「神明社」、「神明神社」、「神明宮」の「3つの呼称」(神明系3社)は明らかに他の「4つの呼称」とは数値的に異なっています。当然にその持つ意味も異なっている訳です。
    これは一般的には概して、「神明系3社」として ”「社」=「神社」=「宮」とは同じ” と民衆から考えられていた事を物語ります。
    但し、「人、時、場所」の要素を加えて考察すると、一種の触媒の様に、「歴史的」な使い方、「語意的」な使い方に因っても異なって来るのです。基の持っている姿が見えてくるのです。
    只、「場所的な事」は言葉である限り、又、特定の氏の守護神である限り、「祖先神の神明」と云う事からすると、論理的には「異なり」は無い筈であります。然し、上記のデータはあるのです。

    地名/地形データの「青木村」のある場所を考慮すると一つの特長を持っています。
    (「地名地形データベース」の参照)
    「青木村」のある場所には、「神明社」と「神明神社」(神明系2社)の”「呼称の社(やしろ)類」”が必ず存在するのです。
    そして、その「2つの呼称」は先ずは次ぎの様な傾向を持っています。
    (A)
    「皇族賜姓族青木氏」が建設した関係村には「神明社」
    「特別賜姓族青木氏」が建設した関係村には「神明神社」
    以上の傾向を持っています。(一部は異なる 下記)
    (B)
    「2つの青木氏」の50以上に近い「移動の地方定住地」には「神明宮」
    以上の傾向が存在するのです。

    前段でも論じた様に次ぎの建立数を建築しました。
    「皇族賜姓族」は148
    「特別賜姓族」は418(一部其の他の文も含む)
    以上の「祖先神−神明社」を構築しました。
    この数字から「7つの呼称」別に上記のデータを整理し直して観ると、上記(A)(B)の事が良く判ります。

    呼称表−3−イ
    神明社
          ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8・東京6・岩手4・神奈川4・埼玉3・福島2・栃木2
          ・茨城2・広島2・山形1・青森1・静岡1
          ・計105/418=25.1%

          *山梨33*富山23*兵庫5*福井3*長野3*滋賀3*岐阜1*石川1*三重1
          *京都1(特令地 領有地)         
          *計74/148≧50.0%     

          +宮崎1(皇祖神発祥の特令地)  

         ・印は 「特別賜姓族」の本領地と移動定住地
         *印は「皇族賜姓族」の本領地と移動定住地
         +印は「皇族の皇祖神」の地
     考察
    この「神明社」の呼称群は、次ぎのことから成り立っています。
    全て例外無く・印は「特別賜姓族の関係地域」(決−1)であります。
    同じく、これも例外無く、*印は、「皇族賜姓族の関係地域」(決−2)であります。
    要するに「2つの賜姓族の関係外地域」(決−3)は見事に存在していません。
    つまり、外の地域には、「社」を建てられたとしても ”「神明社」呼称としては建立されていない。存在しない”と云う事であります。
    これも重要な「祖先神−神明社」の社会に存在した「仕来り、決り事、規則慣習」です。
    この下記にも論じる「仕来り、決り事、規則慣習」(決−0)が本論の重要な意味を持ってくるのです。
    これを知るか知らないかで”判断が出来ない、或いは、判断が間違う”と云う事に成ります。

    要するに前段で論じたことも含めて「青木氏雑学」なのです。
    更に、・印と*印の何れも次ぎの関係が成り立っています。

    「場所的」には、「移動定住地」と「本領地」から構成される。(決−4)
    「量的」には、「移動定住地」>「本領地」の関係が成り立つ。(決−5)
    以上の事も「仕来り、決り事、規則慣習」として出来上がっています。

    そして、
    その順位は・印では、次ぎの事が云えます。
    「東京−埼玉−神奈川」の「本領地」を囲む様に全てその「勢力分布の強弱」に比例させています。(決−6)
    これもつまりは、「仕来り、決り事、規則慣習」ですが、”本領地を雁字搦めに護る”と云う慣習ではなく”外域を厚くする”と云う慣習でした。(決−7)
    つまり、「祖先神−神明社」を建立する以上は「国家事業」として優先させた事を意味します。(決−8)
    但し、「広島」だけが特異なのは、前段でも論じた様に、要するに本領地を凌ぐ勢いのある「独立性」を発揮した「讃岐籐氏の青木氏」の最大の「勢力伸張地域」であったからです。
    「特別扱い」をしていた事に成ります。(決−9)
         
    *印の「皇族賜姓族」の半数が「神明社呼称」(74/148)を占める事。(決−10)
    ・印の「特別賜姓族」の関係地域は、前段で詳しく述べた様に、全て「歴史的経緯」のある*印の「皇族賜姓族5家5流」との強い関係(移動定住等)を維持した地域のみに建立されていた事。(決−11)
    以上の事は全て例外はありません。
    これは青木氏の「融合氏の始祖」、「3つの発祥源」の役目から「神明社建立」が成されていて、それを”「特別賜姓族」が補佐する”と云う役目柄が構築されていた事。(決−12)
    以上の事を上記のデータでは物語ります。
    (次ぎの「神明神社」と比較すると良く判別できる)     

    結論は、「神明社の建立と呼称」は、「皇族賜姓族の関係地域」と「特別賜姓族の関係地域」に建立された「祖先神−神明社」である事が判ります。(決−13)
    つまり、「皇族賜姓族の関係地域」には「神明社の建立と呼称」であった事が先ず判ります。(決−14)
    そして、・印の「特別賜姓族」が建立したこの「国家的な関係地域」には「神明社」とした事が判ります。(決−15)
    「国家的な関係地域」とは、前段で論じた秀郷一門一族の関係した主要な「移動定住地と本領地」で「国家的な意味合いを堅持した地域」を意味します。(決−16)

    「秀郷一門の移動定住地と本領地」は”その「統治力」とそれに因る「繁栄」”から必然的に国としてもその地域は「国家的安定地域」と成り得ます。
    故に、その「統治と繁栄」を維持する目的から「国家事業」として「皇族賜姓族」とそれを補佐する「特別賜姓族」にその象徴として「神明系社」の建立の責務を与えたのです。(決−17)
    上記の「呼称の表−2」の数字と対比するとこの事が良く判ります。

    そうすると、次ぎの「神明神社の呼称」は、一体どの様な位置付けにあったのでしょうか。
    この「神明社」の事と次ぎの「神明神社」と比較して観て下さい。

    「神明神社」
    呼称表−3−ロ
    「神明神社」 
           ・千葉10・埼玉9・山形9・秋田8・静岡7・新潟4・愛知4・群馬3・福島2・東京2・神奈川2
           ・宮城2・岡山1・栃木1・茨城1
           ・計65/418=15.6%

           *岐阜30*山梨29*兵庫6*長野1*三重1   
           *奈良1*福井5
           *計73/148≧49.3%

           +大阪1+和歌山2(移設地 皇祖神遍歴の特別地)

     考察
    *印の皇族賜姓族の関係地域に付いて先ず考察してみます。

    「神明社」
             *岐阜1 *山梨33*兵庫5*長野3*三重1
             *福井3 *富山23*滋賀3*石川1
    「神明神社」
             *岐阜30*山梨29 *兵庫6*長野1*三重1
             *福井5 *奈良1

    上記の「神明社」の「皇族賜姓族の関係地域」のデータを「神明神社」に合せて並べ変えて観ますと良く判ります。 
    「神明神社」には、*印の「皇族賜姓族」の5家5流地外の主要な「移動定住地の末裔地域」(富山、滋賀、石川)がありません。
    そもそも、*富山23*滋賀3*石川1*福井は「越前」に含まれ一部に「特別賜姓族の末裔地域」で混在地域でもあります。
    そして、「皇族賜姓族」の5家5流の地の中で、「神明神社の岐阜30」だけは「神明社の岐阜1」に比較して特別に多く成っています巳、奈良1が神明神社に入っています。
    これは大きく何かを物語っています。それは一体何でしょうか。考察してみる事にします。
    そもそも前段でも論じた様に、「美濃域」(岐阜)は、その「生き様の違い」から「源平の戦い」前後から衰退し既に滅亡していますし、平安末期には5家5流は「青木氏の衰退期の後期」に既にあって正式に「神明社」を建立できる事は困難な状況でした。中でも「近江、美濃、甲斐」の「賜姓地域」は殆ど建立は不可能な状況でした。(賜姓地の甲斐は乱れていた)
    この時期に他の賜姓族(美濃、近江)と同じ様に、特に「2足の草鞋策」を積極的に採らなかった「美濃青木氏」は特別に衰退していました。
    その経緯の概ねは、「近江」は「佐々木氏系青木氏」との争いが起こり、滋賀(東域)に移動し、遂には美濃に加担して共倒れしたのです。
    この「末梢子孫」でさえも生き残ることさえも困難な状況の中で、「建立」そのものがそもそも困難でした。
    下克上と戦乱期に因って消失したのです。(「社」が前戦の「戦いの城郭」として使われた)
    この「岐阜30」の大変多い数値は、「特別賜姓族」に依って、それ以後の鎌倉期以後に建立されたものである事がよく判ります。

    次ぎに上記の「神明社」の”*福井3*富山23*滋賀3*石川1”のこの「4つの地域」は、「皇族賜姓族の末裔地域」(近江佐々木氏系、美濃土岐氏系、信濃足利氏系 福井は特別賜姓族の一部をも加えた混在末裔地域 戦いで敗れた逃亡地域)であります。
    この末裔地域は平安期中期頃以降に成ってからの地域であります。
    然し、「神明神社」の「呼称表−3−ロ」の方にはこの地域はありません。
    つまり、「神明神社」は「皇族賜姓族」が建立していなかった事を物語ります。(決−18)
    「特別賜姓族」も当然にこの「皇族賜姓族の末裔地域」まで「神明社」は勿論の事、「神明神社」も建立する事は有り得ず、必然的に呼称も無い事に成ります。
    従って、前段で論じた様に「皇親勢力」が低下した「皇族賜姓族」に代わって、この時期にこの地域に「特別賜姓族」がこの事業を継続した事に成りますので、「時代性の差」と「特別賜姓族の建立」の事から「神明神社の呼称」は「特別賜姓族」に因る呼称と成ります。
    「特別賜姓族」はこの場合は「神明神宮」と呼称したと云う事に成ります。(決−19)

    前段で論じた様に、「皇族賜姓族3家」(伊勢、信濃、甲斐)の「2足の草鞋策」が成功して勢力を盛り返し、後に「2つの絆青木氏」と共に「神明社」を建立し続けた事に成ります。
    つまり、この「神明神社」の*印のデータ73は「特別賜姓族」に因って5家5流の「皇族賜姓族の地域」に建立されたものである事が判ります。(決−20)
    「福井」は特別賜姓族の一部をも加えた混在末裔地域ですが、当然に、「神明神社」も「福井」にも建立されている事から観ても時代も少なくとも「鎌倉期以降」と成ります。

    従って、「皇族賜姓族の祖先神−神明社の148」に対して「神明社」は50%、「神明神社」は49.3%と成り、合せて99.3%と成ります。
    この事からも「神明社」と「神明神社」(神明系2社)で殆ど「仕来り、決り事、規則慣習」で成り立っていた事を意味します。(決−21)
    これで(A)と「時代性の疑問」は解けます。

    ・印と*印共に「呼称表−3のイ」と同じく「ロ」にも「2つの賜姓族の関係外地域」が全く含まれていません。
    これは、ある一定の「仕来り、決り事、規則慣習」が完全に働いていて”勝手気侭に呼称した”と云う事では無いと云う事が判ります。(決−22)
    当然、「建立と呼称」も無い訳ですから、「皇祖神の子神」の「祖先神−神明社」であると云う「敬い、尊厳」の発露から「関係外地域」は”勝手気侭の行為”は避けた事を意味します。
    これも「建立」も然る事ながら「呼称」も避けると云う「仕来り、決り事、規則慣習」が厳然と働いていた事を意味します。(決−23)

    更に、・印の地域でこの「神明系2社」の2つを考察すると、次ぎの様に成ります。
    「神明社」
            ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8 ・東京6・岩手4・神奈川4
            ・埼玉3・福島2・栃木2・茨城2・広島2・山形1・青森1・静岡1
    「神明神社」
            ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2 ・千葉10・東京2  ◎ ・神奈川2
            ・埼玉9・福島2・栃木1・茨城1・岡山1・山形9  ◎ ・静岡7
            ・群馬3

    神明社/神明神社=105/65=25.1%/15.6%     

    この二つのデータを上下で比較しますと・印の地域には大きな違いが出ています。
    神明社のデータに比べる為に、この様に並べ直してみると良く判ります。

    その中で、◎印の2地域の「岩手」と「青森」には「神明神社」はありません。
    つまり、ここは古い「広域の陸奥域」であります。
    これは不思議です。前段でも論じた様に、この2つの「広域の陸奥域」は「鎮守府将軍」としての秀郷一門の「最大の知行国」であり、秀郷一門の骨格の一部を成した「血縁族の最大地」です。
    然しながら、「仕来り、決り事、規則慣習」があるとして考えれば当然の結果です。「神明神社」はないのです。呼称問題なのでしょうか。建立が無かったのでしょうか。はたまた何らかの原因で消失したのでしょうか。ところがはっきりと原因はデータに出ていて判っています。

    その前に、それには次ぎの事を考える事が必要です。
    そもそも「神明社」と「神明神社」は、前段でも論じた様に、次ぎの役目を持っています。(決−24・7)
    A 「皇祖神の子神」である事
    B 「国家事業」の一つである事
    C 「民の安寧」と「国家安定」の為の「城郭」である事
    D 「行政府庁」をも兼ねる事
    E 「2つの賜姓族青木氏」の「守護神」でもある事
    F 「青木氏を護る戦略上の拠点」でもある事
    以上の6つの役目を荷っていたのです。

    前段で論じた様に、「桓武天皇」と「征夷大将軍の阪上田村麻呂」の「20の神明社建立の策」でも判る様に、要するに「神明系2社」は「青木氏の守護神」でありながらも、「青木氏の役目」の「国家事業」であるのですから、当然に「広域陸奥域」には「神明社」の「建立と呼称」は当然の事として可能です。
    そこで、「特別賜姓族」のものとして、この「最大知行地と最大血縁族」で「桓武天皇建立20神明社」であるこの地域に独自にこの最大主要知行地域(東北ライン)で「社」を建てると成ると「神明社」ではなく「神明神社」と成る事に成ります。(決−25)
    「特別賜姓族青木氏」が護衛軍として赴任し血縁し指揮を執っているとは云えあくまでも秀郷の宗家地であります。「宗家」として「春日社」が「本来の建立地」であるのですから、それが「神明神社の量」として少なく出たのです。それが何らかの理由でこの「岩手と青森」の地域が「神明神社 無し」と出たのです。(下記)
    ここが「特別賜姓族の青木氏の本領」とも言っても過言ではない「新潟」と違うところです。

    次ぎに、もう一つ上記の「逆の現象」が出ている地域の「群馬」だけが不思議に「神明社」は無く、「神明神社」があります。
    「群馬」は「特別賜姓族の本領地」(武蔵、下野、上野)の古い一つです。
    この「群馬」は室町中期以降には、逃亡して来た「甲斐の武田氏系青木氏」や「諏訪族系青木氏3氏」が「特別賜姓族」と共にこの地域で「再興」を目指して仙台の手前まで伸張しています。
    この事から勢力拡大が起こり「神明社」が建立され、呼称もあったと普通は考えられるのですが、「神明神社」3です。
    「群馬」は前段でも論じる事が少なかった地域でもあり、明らかに「皇族賜姓族」が「建設、呼称」に及ぶ程に殆ど「所縁の地」ではありません。況や「無縁の地」です。
    この事から「神明社」の「建立と呼称」は無かった事が充分に伺えます。
    つまり、それ程に「仕来り、決り事、規則慣習」が「無縁の地」が強く働いていた事を物語ります。
    「神明社建立」だけは ”「皇族賜姓青木氏」のみ成らず朝廷の「無縁の地」には建立はしない” と云うものがあった事を物語ります。(決−26)

    故に、「特別賜姓族」は建てる以上は「仕来り、決り事、規則慣習」を護り、その「呼称」を「神明神社」とした事に成ります。
    つまり、この3県の「青森−岩手−群馬」だけが無いのは、その原因の一つの先ず「地理的要素」であり、それは「東北ライン」だからです。
    「北陸ライン」は前段でも論じた様に、大変に強力な「特別賜姓族の移動定住地」ですが、「東北ライン」は進藤氏が僅かに伸張した地域です。
    従って、「特別賜姓族」として「神明神社」を建立するに及ぶ程には、先ず「広域陸奥域」の「岩手の南域」には「勢力伸張」は無かった事を意味します。むしろ、歴史的経緯から観ると ”難しかった。” と云えます。

    この事は「神明系2社」は ”他氏が勝手気侭に建立し呼称する”と云う事では無く、きっぱりと「仕来り、決り事、規則慣習」が厳然と働いていた事が判ります。(決−27)(歴史資料の記録にも記載)
    明らかに、「建立と呼称」には、次ぎの事が云えます。
    イ 「皇族賜姓族は神明社」
    ロ 「特別賜姓族は神明神社」
    以上の「仕来り、決り事、規則慣習」が厳然と存在していたのです。(決−28)
    (「皇族賜姓族の衰退期」に「神明社32」の「神明社建立代行」を行った。下記)
    但し、「特別賜姓族」が「皇族賜姓族」に代わって「神明社」をも建立した時期があります。
    然し、これも ”「特別賜姓族」が「皇族賜姓族」を補佐し支える” と云う強い「仕来り、決り事、規則慣習」の中での「建立と呼称」であったのです。(決−29)

    それは次ぎの「建設と呼称の量」の比較で判ります。
    「神明社」     ・計105/418=25.1%
    「神明神社」   ・計 65/418=15.6%

    全国的に観た場合、(全国を100とした場合)次ぎの倍数に成ります。
    イ 「神明社」は100に対して4倍の比率
    ロ 「神明神社」は100に対して6倍の比率
    両者の関係には明らかに「4−6の規則」が働いています。
    計画的に建立された事が判ります。

    明らかに次ぎの通りこの2つには「量」が規則的に異なります。
    又、その中でも次ぎに記す「移動定住地」の「主要地」の量がこれも「規則性の内容」で異なっています。

    埼玉の本家の領国は当然の事として、「神明社」に比べて「神明神社」の方が高い事は納得出来るのですが、次ぎの比較表は逆転しています。
    「神明社」     ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10 の「神明社」
    「神明神社」   ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2  の「神明神社」

    この「特別賜姓族」の「主要4地域」なのにその量は比して逆に「神明神社」は1/4です。
    (前段で論じた様にその勢力比は逆に「皇族賜姓族」が1/4なのです。)
    ここでも、当時の鎌倉期までは、過去の資料等の記録で観る通りの、矢張り、「4−6の規則」が働いていた事が判ります。これは偶然にこの様に成ったのではないのです。
    皇族賜姓族/特別賜姓族の「勢力比」は1/4
    皇族賜姓族/特別賜姓族の「社数比」は4/1
    本来であれば通常は「勢力比」に比例する筈です。
    然し、「4の数字」で逆転している事は、何れのデータから観ても「仕来り、決り事、規則慣習」に完全に厳格に従っている事なのです。
    (室町期の「下克上と戦乱」で「人心が荒廃」し、この「4−6の規則」が薄らいで行った)

    これは上記した「青森−岩手−群馬」の検証で述べた様に同じ事が云えるのです。
    つまり、「仕来り、決り事、規則慣習」が成り立つ中では、「特別賜姓族」のものとして独自にこの「最大主要知行地域」(東北ライン)で建てると成ると、「神明社」ではなく「神明神社」と成る事に成ります。
    従って、あくまでも原則として、「国家事業」としての「神明社」は多く、「神明神社」は少ない事なのです。
    これもあくまでも、結果として「呼称の仕来り」を護ったに過ぎないのです。

    その「少ない神明神社」が1/3と成った分に付いては、何らかの理由で更に消失した事を意味します。
    (詳細は下記 「3つの災難」による。)

    ここにも前段で論じた「1/4(「4−6」の法則 )の原則」が成り立っている処から、「準国家事業」として、意識的に「特別賜姓族」が「神明神社」を建立し、呼称を変え、「仕来り、決り事、規則慣習」に従い、呼称も「神明社」の呼称を避け「神明神社」と恣意的にした事を物語ります。

    この様に「仕来り、決り事、規則慣習」から少なくとも次ぎの事が云えます。

    ”「神明神社の建立と呼称」は「特別賜姓族」の暗黙ルールに従い「国家事業」でありながらも何らかの特別な独自事情が存在する場合の呼称である” 
    と云う「決まり事」が出来上がっていた事を物語ります。(決−30)
    その「何らか特別な事情」とは、上記の「建設地域」が物語っています。
    つまり、主に、”「藤原氏一門の戦略的事情」が色濃く働いた場合の呼称、” と成ります。

    故に、「量の問題」として「平安期の1/4の規則」(決−31)なのであって、この「特別賜姓族」の行動は符合一致しています。
    要するに、次ぎの事が「仕来り、決り事、規則慣習」としてあった事を物語ります。
    イ 特別な事情が少ない、又は無い場合に、「特別賜姓族」が行う場合は、「国家事業」としては「神明社建立と呼称」を行った。
    ロ ある程度の政治的な戦略的な意味を持つ「独自の事業」として建立し、呼称するには必然的に「神明神社」とした。
    以上と成ったと考えられます。(決−32)
    (注意 室町期を除いて「神明社」/「神明神社」の「建築物」としては判別するほどの差は無い)

    そうすると、「特別賜姓族」は独自に「神明社」を「皇族賜姓族」に代わって正式な「国家事業」として建立した「数量」はある事を意味し、その量は上記の通り180−148で「神明社数」は32と成ります。

    後は、「特別賜姓族」は、「170−40%」の「神明神社」の呼称にした事に成ります。
    依って、170+32で、「特別賜姓族」は「神明社数の32」と合せるとは「国家事業」と「準国家事業」として正式には「202」を「神明系2社」として建立した事に成ります。
    そうすると、残りの418−170=248 60%の内、「神明宮」はどの様な位置付けになるのでしょうか。
    「神明系3社」の一つの「神明宮」の内容がどの様に成るかが気に成ります。
    これを検証しないと完全な答えとは成り得ない筈です。

    ところで、その前に一つ気に成る地域があります。これを考察しておく事が必要です。
    上記したそれは「群馬3」ですが、これは何を意味しているのでしょうか。
    ”神明社に無くて、神明神社にある”と云う事です。
    上記の「仕来り、決り事、規則慣習」からすると、「準国家事業」で”「上記のイとロ」が働いた”と云う事に成ります。
    群馬、凡そ「上野の地域」ですが何かあったのでしょうか。”「神明社」が建立出来ずに「神明神社」にした”と云う何かです。
    それは上記の「賜姓族の無縁の地」以外に他に実は2つあるのです。
    ”「領国」である事”にしてはきっぱりとし過ぎているからです。
    ここには次ぎの事情があるのです。

    1つは、県別と国別との「判別の範囲」の違いです。
    2つは、上野北側の「国境域」の「勢力の範囲」の違いです。

    A 「武蔵の国の範囲」が県別より上野よりに広くあった事。
    B 「広域武蔵」の平安期中期から混乱地域であった「上野北側の範囲」を「武田氏系諏訪族2氏」に平定させ、「武田氏系諏訪族2氏」が「氏復興」の為に上野より北側(福島側)に更に侵食した地域までのこの「2つの範囲」を「諏訪族の支配地」(「祖先神−神明社族」であり、「産土神−諏訪社族」の重複族)として与えられていた事。

    この2つの事から平安期中期から室町期に掛けて「不安定地域」とみなされ「神明社」は建立できずに「神明神社呼称」と成ったと云う代表的な「仕来り、決り事、規則慣習」が適用された地域なのです。
    「特別賜姓族」としては本領でありながらも「止む終えない仕儀」であった事に成ります。
    特に、平安期中期から末期に掛け、且つ、室町期初期から中期に掛けて「不安定地域」であったのです。
    下記にも詳細に「不安定地域」(分霊地)として論じるところですが、その代表的な地域なのです。
    故に、この「神明神社」の3なのです。
    この「群馬の有り様」(「無縁」含み「不安定地域」)が「神明宮」の考察にも働いているのです。 (決−33)

    そこで、次ぎにこの「神明系3社」の一つの「神明宮」は建立と呼称にどの様な立場や役割があったのでしょうか。そして、どの様な者が建立したのでしょうか。次ぎの「呼称表−3−ハ」でに考察します。
    「神明系2社」には33(決)もの「仕来り、決り事、規則慣習」があったのですから、必ずある筈です。
    それを考察し検証します。

    呼称表−3−ハ
    神明宮  
           ・新潟34・青森12・愛知12・静岡9・栃木8・茨城8・千葉3・福島3
           ・東京3 ・埼玉2 ・群馬9
           ・計103/418=24.6%

           *富山8*長野7*高知4*山梨3
           *計22/148≧14.9%
         
           +山口1(皇族逃避の特別地)

    この「神明宮」には次ぎの2つの事がはっきりと浮き出ています。
    イ ・印の建設地域は、
    「関東の本領地」(埼玉、東京、群馬 14)
    「その周辺」(福島、栃木、茨城、千葉 22)
    「主要移動定住地」(青森、新潟、愛知、静岡 67)
    以上の「3地域」103に分けられます。

    ロ *印の建設地域は、
    「移動定住地域」(富山、高知 12)
    「本領地」(長野、山梨 10)
    以上の「2地域」22に分けられます。
       
    (平安期の都の影響を大きく受けた「伊勢、近江、美濃地域」は無い。)

    *印の地域から観て、「皇族賜姓族」がこの「神明宮の建設と呼称」に直接関わっていない事が云えます。
    これは当然の事であり、「仕来り、決り事、規則慣習」では次ぎの事が定められているからです。
    イ 「皇族賜姓族」の「3つの発祥源」の立場
    ロ 「皇祖神の子神」として「祖先神−神明社の建設」の責務・任務

    以上の2つから敢えて「社」を「宮」として変えて建設する事は「威厳と尊厳」を護らなければ成らないと云う意味から到底出来ない事です。

    この事は、*印の富山や高知を観ても明らかです。「所縁の地」では本来ありません。
    後刻、この「2つの地域」は、その末裔が「下克上や戦国時代の影響」を受けて末裔が飛散しここに落ち着いた地域です。(逃亡地)
    当然に、この地に「神明社」や「神明神社」を建立する程に余裕は無く、「国家事業」、「準国家事業」として建立するに及ぶ程の「所縁の地」ではありませんし、上記の「神明社や神明神社」の「国家事業」等の「仕来り、決り事、規則慣習」(上記 決−32のイ ロ)から成し得ない筈です。

    つまり、「所縁の地と無縁の地の判別」が働いているのです。」(決−34)

    前段でも論じましたが、次ぎの様に判断されます。
    *印の高知は明らかに「讃岐籐氏の讃岐青木氏」の所業であり、「賜姓族支流一族の逃避族」を補佐し建設した地域であり、「仕来り、決り事、規則慣習」から「神明宮」とした所以であります。
    「特別賜姓族」の「直接的な指揮」ではない「移動定住地の独自行為の建立」の場合は、「神明宮」とした事が云えます。(決−35)
    むしろ「建立の諸条件」から観て、本家筋は”その様に指揮した”と考えられます。
    氏家制度の中で、「支流一族」が苦労して建立しようとしているのに「本家筋」が黙って見ている事はあり得ません。それは最早、「氏家制度」ではないからです。支流一族に執って「社の建立」には諸条件があって、はっきり言えば支流一族に執っては「戦略上の事情」、中には」政治上の事情」があっての事である筈です。何も無いのに高額費用で取り組む「氏挙げての事業」に ”気侭に建てる” 事は無い筈です。
    建ててその侭では済まない建立物であるのです。特に「念入りな維持管理」が必要な「社」なのです。
    これは本家宗家筋も黙って見ている訳には行かない筈です。
    無視する事は何時かその「負の債け」が本家宗家に戻ってくる事に成ります。
    この事から、本家宗家筋が支流一族にある程度の援助をしてでも建てさせた「社」であると見ているのです。
    その時には「神明系2社」の呼称は、厳しく護られた35にもなる「仕来り、決り事、規則慣習」上から使えません。そこで、”「神明宮」と呼称させた”と説いています。
    それを物語るのが、前段で論じた様に、「歴史的経緯」から、次ぎの事情が働いたと考えられます。
    要するに、上記の「・印の3地域103」と「*印の2地域21」の「地域と数」なのです。

    次ぎの比較表でも良く判ります。

    *印の富山は前記の通り「枝葉末裔の混在地」(室町期にはこの地に移動した)でありますので、ここも「仕来り、決り事、規則慣習」から「神明宮」としたのです。その建設者は「枝葉末裔」であります。
    「神明系2社」の35の「仕来り、決り事、規則慣習」には適合しません。

    他の*印の「長野」と「山梨」は次ぎの様な建設と呼称別に成っています。
    長野 13+2 神明社 3  神明宮 7  神明神社 1  大神宮 1 神社 1 皇大神社   其の他 2
    山梨 69+2 神明社 33 神明宮 3  神明神社 29 大神宮 1 神社 3 皇大神社 2 其の他

    *印の山梨は47県中その量はトップです。然し、その大半は「神明社と神明神社(33+29)」で占められていますから、他の呼称も多い事に成ります。
    満遍なく他の呼称(6つの呼称)は9社ありますので、「仕来り、決り事、規則慣習」からも「神明社と神明神社」の呼称を使えない事情も多い事に成ります。長野も同じ様に満遍なく「5つの呼称」を使っています。

    では、”どの様な理由で、誰が建てたのか” と云う事に成ります。それははっきりとしています。
    この「皇族賜姓族」の伊勢を除く「2家2流」(信濃と甲斐)には「美濃と近江」と違い多くの支流末裔一族があります。

    長野では、賜姓族系として詳細には6氏の支流一族(内2氏は移動、内1氏は秀郷一門との血縁氏)
    山梨では、賜姓族系として詳細には8氏の支流一族(内2氏は信濃から移動、内皇族青木氏3氏)

    この事から、「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじたとすれば、この「支流一族」が建立したと考えられ、その支流のどの一族かは正確には判断は付きません。
    しかし、これだけの「支流一族」が存在するのに何もしないと云う訳には行きません。
    然し、「歴史的経緯」としての状況判断から絞り込むとすれば、その影響を受け易いより「宗家に近い支流族」と考えられます。
    この(・ ・)内の支流は、周囲の宗家本家をさて置き勝手に建てる事や呼称する事は「氏家制度」の中では争いを覚悟の上での余程の事でなくては出来ない事です。
    宗家本家筋は、前段で論じた様に多くの職種の「部職人」として「宮大工等の職人」をそっくりと抱え、それを実行する為の協力集団などのシンジケートの力(材料調達 運搬 護衛)と共に「神明社」を建築しているのです。
    この(・ ・)内での支流族の建設ではそんな事は先ずは無いし出来ないと考えられるので、協力の得られる「宗家本家の分家筋」と考えられます。
    何れ、2県共に「枝葉一族」では職人などを抱える財力はないし、それを継続的に実行する為のシンジケートの協力が得られる事は考え難いし、その「調達力」や「財力」や「武力」からして殆ど困難です。

    長野の信濃では信濃青木氏の分家か一族の足利氏系青木氏と成ります。この2氏の何れかです。
    山梨の甲斐では甲斐青木氏の分家か一族の武田氏系青木氏と成ります。この2氏の何れかです。
    上記の経緯から2県ともに分家筋がその財力、武力等から観て建立したと考えられます。

    と云う事は、結論として、この「神明宮」は「賜姓族の分家筋、支流筋」等が独自に守護神を建立し、その呼称を「仕来り、決り事、規則慣習」から「宮」としたと考えられます。(決−36)
    「特別賜姓族」も同じで、「仕来り、決り事、規則慣習」を守り「宮」としています。

    神明系3社の比較
    神明宮 103
         ・ ●    ・愛知12 ・新潟34 ・ ●    ・千葉3  ・東京3  ・ ●   ・ ●   
         ・埼玉2  ・福島3  ・栃木8  ・茨城8  ・ ●    ・ ●    ・青森12 ・静岡9 
         ・群馬9
    神明社  105
         ・秋田25 ・愛知21 ・新潟13 ・宮城10 ・千葉8  ・東京6  ・岩手4  ・神奈川4
         ・埼玉3  ・福島2  ・栃木2  ・茨城2  ・広島2  ・山形1  ・青森1  ・静岡1
    神明神社 65
         ・秋田8  ・愛知4  ・新潟4  ・宮城2  ・千葉10 ・東京2  ・ ◎    ・神奈川2
         ・埼玉9  ・福島2  ・栃木1  ・茨城1  ・岡山1  ・山形9  ・ ◎    ・静岡7
         ・群馬3

    神明宮  103  神明社  105  神明神社 65

    「神明宮と神明社」と比べて観ると、矢張り「歯抜け」であり、「神明社」の様に「国家事業的要素」が無い事が判ります。それも主要国の秋田、山形、岩手、宮城、神奈川、千葉、と讃岐籐氏の広島が欠けています。これには訳があります。
    秋田−山形と陸奥−新潟間の北陸ラインは支流一族の末裔の少ない地域です。
    岩手−宮城も青森−武蔵間の東北ラインは支流一族の末裔の少ない地域です。
    何れも、「特別賜姓族」の他氏との競合地域であり、定住−末裔存続が難しく支流一族が少ない事から「神明宮」も少ないのです。
    上記の「建立の筋書き」の通りには行かないのが当然です。

    特に、瀬戸内の広島は別としても、上記の「皇族賜姓族」と同じ様に、・印の「特別賜姓族の支流族」が「現地の勢力」に応じて「神明社105」、「神明神社65」の合計170に対して、「神明宮は103」を建立しています。合せて「273の建立」であり、平均すると16県で17社/県と成ります。
    前段でも論じた様に1県4郡として4社です。
    矢張り、この数字から観ても前段の建立根拠の数値と一致しています。
    つまり、必要以上に無理してはいないことを示しています。原理原則に沿っている事を意味します。

    むしろ、「神明宮」は「4−6の規則」を護る為にも、 ”分家・支流一族に補足させた” と考えられます。
    それも、「移動定住地の末裔地域」の全ての「分家支流一族」に建立させたと云う事では無く、「歯抜けの現象」は、それを実行する事が出来る勢力を保持している一族に建てる事を命じた、或いは許可したと観られます。
    ●印の全てには「ある一定の条件下」で外れているのです。勝手気侭ではないのです。実に計画的なのです。
    その証拠に、「青森12−新潟34」、「栃木8−茨城8」の4県は「神明社、神明神社」に比べて3〜4倍に多いのです。少ない地域を補足しています。
    そして、この4県は前段での通り「特別賜姓族の勢力」として明確に重要な地域として2地域に分けられます。
    ・青森で観てみると、「神明社+神明神社」で1、これでは「1郡4社/県の原則」には程遠いのです。
    然し、「神明宮」を加えると「13社」となり、「1郡3社/県」と成りほぼ原則を守っています。
    (中には「消失分」もあり「4社」の原則は守られていた事が考えられるのです。)

    ・新潟で観てみると、「神明社+神明神社」で17、これで原則は丁度守られています。
    ところが、「神明宮」の34をこれに加えると51社と成ります。過剰と成っている様に観えます。
    然し、この地域だけは前段で論じた様に「国家事業」の最大地域でした。
    「桓武天皇」が青木氏に代わって建てた20社と、この4県は「特別賜姓族」の地方定住地の最大メッカ地ですし、「皇族賜姓族」系の3家の青木氏が逃避し受け入れて、群馬−栃木と同じ様に、「諏訪族系一門の勢力」を現地で盛り返した最大地でもあります。
    この「諏訪族系賜姓族の密度」からすれば「祖先神−神明社」の守護神の建立数は問題には成りません。

    (特記 「群馬」はここでも特長あるパターンを示しています。”「神明社」が無く「神明神社」と「神明宮」がある” と云うパターンです。、「仕来り、決り事、規則慣習」36から観て、問題があった事が云えます。
    秀郷一門の本領でありながらも北側国境には気に掛かる問題を持っていた証拠です。逃亡して来た「諏訪族系青木氏」を差し向けた事が良く判ります。逆に云えば諏訪族はこの大変な地域をよくも抑えて定住地としたその「生き様・苦労」が目に映る程です。この地域の「諏訪社数」からも「勢力復興力」が判ります。この地域には昔地主であった賜姓族系末裔の武田氏系を含む諏訪族系青木さんが多いのです。)

    そこで、この数値は現在の県域での評価ですが、青森−秋田−山形−新潟として観れば「神明宮」は秋田は0ですので、秋田の「神明社+神明神社」で33、其処から10/20(桓武建立社)を差し引いて23とすれば、「1郡4社」とすれば「4−過剰6の規則」の中に入ります。

    更に、この「青森−秋田−山形−新潟」のラインの「特別賜姓族」の広域陸奥−北陸の勢力地域の範囲として総合的に観れば、次ぎの様に成ります。
    [(青森13+秋田33+山形13+新潟51)−20]/4×(4-6)=5.6〜3.8社
    見事に、「4-6の規則」の関係が成り立っています。

    結論として、「神明宮」は「4−6の規則」を護る為にも、分家支流一族に補足させた事が見事に検証出来ます。(決−36)
    従って、「仕来り、決り事、規則慣習」として、「神明系3社」の建立実態は次ぎの通りです。
    「皇族賜姓族」(神明社)と、「特別賜姓族」(神明神社)と、その両者の「支流一族」(神明宮)」は次ぎの建立実績を遺した事に成ります。

    「正主体を「神明社」とし、   「*74−・105」とした事
    「準主体を「神明神社」とし、  「*73−・ 65」とした事 (特別賜姓族 神明社32の代行)
    「補足体を「神明宮」とし、   「*22−・103」とした事
     (*印は皇族賜姓族  ・印は特別賜姓族)
    以上で建立し呼称した事の以上3つ事が判ります。

    「皇族賜姓族」は、「神明社74」と「神明神社73」と「神明宮22」の3つで、「169社建立」と成ります。
    「特別賜姓族」は、「神明社105」と「神明神社65」と「神明宮103」の3つで、「273社建立」と成ります。

    此処で、問題と云うか、検証課題と云うか、突き詰めなければ成らない事が次ぎの検証・研究中の課題事項です。
    「皇族賜姓族 169社建立」は前段で論じた「1/4の勢力比」から考えて多すぎる筈です。

    課題−1
    但し、「皇族賜姓族」の「神明社」の「社数の実数」は、 (74+19+20+32+1+2)=148社と成ります。「記録上の148社」です。
    そうすると、「神明神社73」と「神明宮22」の実数95は、”「特別賜姓族」の「神明社32」以外に建立の援護の比率が判明しない。”とする検証課題が生まれます。 検証・研究中)
    果たして、”この95社の実数を全て「皇族賜姓族の自力」で建立したのか。” と云う事です。

    この課題に付いては、次ぎの様に考えて検証・研究中(確証固め)です。

    「分霊地に関わる地域」の「神明神宮」と「神明宮」は「皇族賜姓族の建立」と考えられます。
    それは「神明社」や「神明神社」を建立した地域には、必ず分霊するのが、「仕来り、決り事、規則慣習」です。
    当然の事として、「神明系2社」は「皇祖神の子神」の「祖先神」の「社」である訳ですから、「神宮の分霊」が行われなければ、「社」を祭祀する処に「御魂入れず」に成って仕舞います。
    従って、「神明神社」は、「仕来り、決り事、規則慣習」に因って「呼称」は異なるとしても、「神明社」である事には違いはありませんので、少なくとも「分霊地」の「神明神社の建立」は少なくとも「皇族賜姓族の建立」であると考えます。はっきり云えば「分霊関連地域」となると観ています。
    この事に付いての ”何らかの表現をしている「資料の読み漁り」” を行っているのですが、確実な表現のものは見付かりません。
    恐らくは、「昔の慣習」から”当然の事”として考えられていた事に因るものではないかと推測しています。

    そこで、「5家5流の5地域」とその「賜姓族関連地域」の「神明神社の社数」は次ぎの様に推測しています。
    「分霊地関連地域」としては、(地域は下記で論じる) 「9社」 と成ります。
    「分霊地」までの建立は幾ら何でも「特別賜姓族の援護・支援」を請ける訳には「3つの発祥源」の立場上行かない筈です。

    「賜姓族関連地域」としては、地域は「末裔地」と「逃亡地」と「移動定住地」と「融合地」と「特令地」と「重複地」で14地域、この14地域の「神明神社数」は全てで49社あります。(下記)
    この中には「特別賜姓族」との重複地域もあり、この内、重複地域は1/4として計算し、其の他は少なくとも「歴史的な経緯(復興力)」から積算すると、最低値 20社〜25社/49(50%〜60%)は「皇族賜姓族の建立」と考えられます。

    「分霊地関連地域」(9社)の分と合せると、「皇族賜姓族の神明神社の建立」は次ぎの様に成ります。
    最低値  「29社〜34社」/73 (平均 32)
    以上と成ります。

    最低値 :「神明神社73社」の内、32社は自ら建立し、 41社は「特別賜姓族」の援護を受けた事に成ります。
    結局は、 「特別賜姓族」からは「神明社」では32社、 「神明神社」では41社 以上の援護を受けた事に成ります。

    吟味
    そうすると、「特別賜姓族」の建設分としては、実質(65+41)106社と成ります。
    この「106社」は、「特別賜姓族」が建立した「神明社分の105社」に相当しますので、その「特別賜姓族」の「建立能力」としては、大きく外れてはいないと観ています。
    そこで、” この「援護社 41社」が「5家5流地」の「何処の建立」に影響を受けたか。” と云う問題です。

    それは下の表の「美濃の地域30社」で主に援護を大きく請けたと観ているのです。
    これは、前段や上記でも論じた様に、「美濃の歴史的経緯」と「愛知に近い地理的経緯」に因ると考えられます。

    (「30社−41社」の「量差」は、「最低値」(22)として観ているバイアスの影響。 「甲斐」29は「特別賜姓族の影響力」は歴史的に低い。「バイアス11の主因」は「下克上戦乱」と「3つの災難」の原因消失説)

    「伊勢−信濃−甲斐」は、前段と上記でも何度も論じますが、「建立に関する建立力」は充分に備わっていたのです。(「古代和紙」で「2足の草鞋策」の財力とシンジケートなどの抑止力を保持していた)

    賜姓族関連地域(神明神社)
    「逃亡地・重複地」    新潟4 栃木1 群馬3  神奈川2          10 −3 (25%) 
    「移動定住地・重複地」 静岡7 福島2 千葉10 愛知4            23 −6 (25%)
    「末裔地・移動定住地」 富山0 石川0 福井5                  5 −5
    「融合地・特令地」    奈良1 大阪1 三重(四日市)1            3 −3
    「移動定住地・重複地」 兵庫6 滋賀0 和歌山2                 8 −5 (60%)
    「逃亡地・融合地」    高知0 鳥取0 島根0                  0
        合計                                      49 −22
    「5家5流地」       近江0 伊勢1 「美濃30」 信濃1 甲斐29     61/73


    次ぎは「神明宮」ですが、同様の計算で推測すると「神明宮22」は、「末裔地」と「逃亡地」で「22社」と、
    ・印の内の「諏訪族系一門」の勢力分布から、関連地域の「新潟34、神奈川0、栃木8、福島3、群馬9」の「3地域54社」の内、その「勢力比と復興力の諏訪社数」の2つで観てみると、「5社〜9社程度」と推測します。この2つを合せると、次ぎの様に成ります。

    「皇族賜姓族の神明宮の建立」は、「27社〜31社」/22 (平均 29) と成ります。
    つまり、22社は全て「皇族賜姓族の建立」と考えられます。

    ところで、「29社/22」のこの「+現象」には、ある特別な理由があるのです。

    「2つの賜姓青木氏」以外にこの「神明宮」を建設する権利を有している「族」が実は他にも居るのです。
    それは「朝臣族」です。第6位皇子外の4世族皇子です。「宮様」と呼ばれる者です。(決−37)

    この「宮様」が、次ぎの様な経緯を持っています。
    A 何らかの「政治的争い」から逃亡した皇子
    B 僧と成り下俗した皇子
    C 皇族青木氏の始祖「配流王」
    D 賜姓外源氏で青木氏を名乗った皇子
    E 門跡院を離脱した真人族

    以上の者が「宮」を建設する事が出来るのです。

    この皇子等は「皇祖神の神明族」です。「祖先神」ではありません。
    建立するとしても自らが建立する財力と勢力は全くありません。
    保護されている豪族が、この「権利」を利用して建立した「宮」があり、「祖先神」では無い「皇祖神−神明宮」が数箇所あるのです。
    建立したとする記録として、山口(長門)、香川(讃岐)、埼玉(武蔵)、静岡(伊豆)、群馬(上野)、にあるのです。(山梨にもあるが疑問) これが29−22の差の一部なのです。
    つまり、記録の内の埼玉2、静岡9、群馬9の「3つの地域」の「特別賜姓族の建立」の「神明宮」20社の中に、この「宮」が存在している筈なのです。(山口、香川は「神明宮」には入れていない。其の他にカウント)

    現存するとしての計算では、この推論では、「7社」程度/20と成ります。

    これが「+現象の差」として出ているものと観られます。

    課題−2 「神明社148」は、74と32と3「1+2」の109社は確認現存するも、「天智天皇期19と「桓武天皇期20」の計39に付いては、極めて古い為に確認する事が出来ず、「消失、移設、変名の遍歴」を受けていると考えられる。 検証・研究中、確証固めで判明次第 追記掲載)

    (注意 1+2の1は、「遷宮神明社」の1、 2は「特令地の神明社」の2 何れも148社中、最も古い神明社で「皇族賜姓族の建立」である。 「神宮分霊」の処で論じる。)

    (注意 以上は「神明系3社」での結論で、「神社」と「神宮分霊」と「其の他」の検証項目の次段−21で論じる。) 

    「神明系3社」の建立では、完全に、「仕来り、決り事、規則慣習」37が護られている事が検証出来ました。

    そうすると、次ぎは総称的にどこでも使われていた一般的な「神社」はどの様な「仕来り、決り事、規則慣習」と「祖先神−神明社」の守護神に関わっていたかの疑問が生まれます。
    実は、この「・・神社」が曲者なのです。難解です。

    > 青木氏と守護神(神明社)−21に続く
      
    (基データの考察検証の段 2/2)


      [No.287] Re:青木氏と守護神(神明社)−19
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/06/11(Mon) 17:34:51  

    > 青木氏と守護神(神明社)−19に続く。


    前段で「自然神」を含む「5つの守護神」の中の一つの「氏神」と「祖先神の神明社」の「総神」が一部に同じと考えられていた事を論じましたが、それをもう少し詳しく論じておこうと考えます。
    又、前段で論じた内容の補足や関係する事柄(若宮神社との関係、他神社との関係、佐々木氏との関係)等に付いて論じます。


    「氏神」と「総神」の経緯論
    そこで、「祖先神」の「神明社」を今まで通称として一部の特定の地域で「氏神様」と呼ばれてきました。
    凡そ、最初は「5つある神様」を祭祀する「神社」を総じて「氏神様」と呼んでいたのですが、次第に時代が大きく変化する事に因って「氏の形態」が変わり、その為に呼称は変化を来たし減少し、ある一部の複数の保守的な地域では、中でも以北地方では「神明社」を特定してその様に呼んでいたのです。(前段でその経緯を論じた)
    これは一つは、「祖先神」は天皇家の「皇祖神」に繋がる「神」であり、”万系一途に通ずる”の言葉通り国民総じての「神」と崇められていた事からも其の大きな原因でもあるのです。しかし、もう一つは前段の上記してきた「皇祖神−祖先神−神明社」との色々な青木氏との関わりから来る原因もあるのです。

    そこで、全国に拡大した神明社の ”「氏神様」の呼称は、何故「氏神様」としたのか、3の「氏神」とはどの様に違うのか”と云う疑問が起こります。この疑問が青木氏を物語る史実なのです。
    そもそも、”通称(俗称)「氏神様」”と呼ばれる様に成ったのは、前回までに前段の上記した様に「神明社」は「物造りの神」としても平安の古より民から信仰対象とされ、それを守る青木氏も”「物造りの氏上」(御役−御師)として崇められていた”と論じてきました。
    特に、この傾向は鎌倉期の「鎌倉文化」から引き継いだ室町期の「室町文化」の著しい発展で「物造り」は飛躍的に発展しました。その発展に伴ない「民衆の心」も ”より豊かで安寧と安定の維持”を願ってその「心の拠り所」として神明社に求めて来たのです。
    そして、その「文化の発展」も武士階級の「下克上と戦国時代」の乱世の中に引きずり込まれる事が起こります。しかしながらも、「文化の発展」も戦乱に反発して根強く引き続きます。
    そのしぶとく続く中で ”より豊かで安寧と安定の維持”の「庶民の望」と云う事だけでは無く、戦乱の世の中の反動として庶民の中に「必然的な願望性」が帯びて来たのです。
    華やかで雅な「平安文化」等の他の時代の文化と異なり この文化は ”しぶとく粘り強く強い個性の持った文化である”と云えます。
    その為かそれを遺そうとする意思や表現力の明文化として、取分け「文化の基礎」となる「紙」が大いに発展し、「紙文化」と呼ばれる位に「紙」が全ての「文化の基本」に成って進展したのです。
    この頃の「紙」は「現在の紙の位置付け」では無く、貴重で高額でより「高い位置付け」にあったのです。
    前段でも強く論じた様に、その「紙」は更には「5家5流皇族賜姓青木氏」が、庶民の快適な生活の為により進む文化の為に「2足の草鞋策」として一族一門が挙って殖産し主導する「紙」でもあり、その「青木氏」は更に「皇祖神−祖先神−神明社」の主氏でもあり、又「物造りの氏上」と「生活の神の守役」でもあった事から、「神明社」を ”「氏神様」”と室町末期以降に何時しか「尊厳と親しみ」から「民」からその様に呼ばれ様に成ったのです。
    その力を以ってして、且つ、前段で論じた特別賜姓族の主要な地域での「祖先神−神明社の建立」と「藤原氏の領主様・氏神様」としての「立場と責任」を同じく果しましたが、この「2つの青木氏」は、「祖先神−神明社」を566も建立し、民の「生活の神」としても崇められ「民の信仰」を一心に集めたのです。
    ですから、「神明社」に裏打ちされた守役の「氏上様」の呼称は、「時代の流れ」の「必然的願望性」とも一致し、「崇めと信頼」を背景に著しく高まったのです。
    況や「3つの発祥源」の「然るべき立場と責任」を全うしていたのです。

    この「氏神様」に類似する守護神の「3の氏神」は、この「下克上と戦国時代」に依って勢力を拡大した「姓氏」の神で、一族一門が一致結束して「一所懸命」の意味の通りの「結束する象徴神」として考えられた「神」なのです。そして、その「姓氏」はその文化の「職能人としての作り手」でもあったのです
    つまり、「3の氏神」と「2の氏神様」との出自と呼称は同時期に起こったもので、「3の氏神」は「姓氏」の「下級武士階級の守護神」であり、他方のこの「2の氏神様」は「民の階級」の「総神の守護神」でもあったのです。
    この後者の「氏神様−総神」は、全ての守護神の根幹を成す「自然神」に通じ、更には「朝廷と皇室」が行う「国事行事の祭祀」としても「皇祖神−祖先神−神明社」に通ずるものでもあったのです。
    ですから、「2つの青木氏の神明社」は他に秘して比べ物にならない程に格別のものであったのです。

    それまでの平安期からの「氏」は、次ぎの様に成ります。
    1の守護神の大蔵氏や平族等の「民族氏」の「産土神」(阿蘇大社、出雲大社等)、
    2の守護神の青木氏の「皇族融合氏」の「祖先神」(神明大社・八幡大社)、
    4の藤原氏などの「古代大豪族氏」の「鎮守神」(春日大社等)等が「下克上」で衰退傾向する中で、新しく勃興してきた中小の豪族氏とその配下であった「姓氏」が興した「神」が3の守護神の「氏神」であったのです。

    そして、そこで大社を作る事の出来ない「民衆」は「皇祖神の神宮大社−祖先神の神明社」に「心の拠り所」を求めたのです。それが故に、「民衆」はその呼名を「様」を付けて勢いのある「3の氏神」に対して「氏神様」と呼んだのです。この呼称が現在まで引きずられて来たのです。
    「姓氏の氏神」と「融合氏の神明社」の「氏上様−氏神様」とが混同されてしまった事に因ります。
    むしろ、「姓氏」も元は「職能集団の民」であったのですから、「氏上様−氏神様」と崇め信頼していた「神明社」の「物造りの神と生活の神」を信仰しその行方を信望していた民でもあった処に、前段で論じた様に彼等はその力を互いに集団で結集して「氏」としての独立を果たし、その末にその力で独自の守護神を創造したのです。因って「民の時代」の「氏上様−氏神様」は彼らに執っては守護神としている「氏神」が出来たとしても何ら変わらないのであり、且つ拘らないのです。
    2の守護神の「皇祖神→祖先神」の関係と、3の「氏上様−氏神様」→「氏神」との関係とほぼ同じ位置に置かれていたのです。
    それは「物造り神−生活の神」の「祖先神」である限りは、「姓氏」となっても「心の拠り所」としては何ら変わらないのです。殆どは「呼称の差」だけなのです。
    それだけに「氏神の守護神」は室町中期以降では爆発的に発祥しその「姓氏」が如何に多かった事を意味しますが、逆に「祖先神−神明社」の「氏神様」は1割にも満たない程であった事を意味します。
    むしろ彼等に取っては対比的な守護神ではなかったのです。氏神様は氏神様と旧来から崇め信仰し、自らの新しく創造した守護神の「氏神」はあくまでも「氏神」なのです。

    明治の混乱も収まり始めた頃の10−15年頃には「皇祖神−祖先神−神明社−青木氏」の存在そのものも忘れ去られ始めた事が伊勢青木氏の記録と口伝から読み取れます。
    これは江戸末期から明治初期にかけての「宗教改革」や「廃仏毀釈」などの「権威と伝統の廃棄運動」の原因も否定出来ません。
    故に明治期の「8000の民衆氏」の中に「祖先神−神明社」のは最早3%にも満たない氏となってしまった事から「姓氏」のみならず8割以上の庶民までもが「氏神−氏神様」が混同してしまった事に成ります。
    一部の伝統を保持していた階層(元は士分の上級武士階級以上−浄土宗階層)では大正15年頃から昭和の始め頃までは覚えられていた事が判ります。
    第2次大戦後は完全にその混乱から一層忘れ去られてしまった事に成ります。
    この様な伝統や知識等の消失事はより完全に進んで現在に至りますが、科学による近代化が進むに連れて尚一層忘却の憂き目を受ける事に必然的になるでしょう。3%の話どころではありません。殆ど0%と成るでしょう。
    故に、人の世は全ての事柄の森羅万象の伝統により繋がっていると考えられる限りは、この「伝統」と云う事を重んじて、ここにその詳細を遺そうとしているのです。平安期の多くの歴史記録の人の努力と同じように何とかせめて青木氏に関わる歴史記録としてだけでもよいとして遺す意義はあると考えます。
    そして、この蘇がえさせ様としている「祖先神−神明社の記録」の中に遺そうとしています。

    次ぎの「鬼道信仰」も同じ憂き目を受けて資料や記録も一部の学者の範疇にしか遺され無い状況の中で「民衆の知識」としては無くなる中で何とか「雑学の詳細概論」として遺そうとしています。
    この「祖先神−神明社」の概論も。これが「青木氏」として「歴史マニアの責任」として。
    その中の努力として一見青木氏に無関係かと観られる「鬼道信仰」に関わる事をも青木氏として独自の研究を続けているのです。
    恐らくは「鬼道信仰」を追及し議論し研究する出来る「氏」があるとしたら、それは神明社−青木氏以外にはあり得ません。故に「青木氏遺産」として独自の見地から是非に遺す意義があるのです。

    「鬼道信仰の雑学概論」
    「氏姓」(僅かな氏)が始めて発祥した時期の4世紀以降では4神ですが、4世紀前の神は「氏」の概念が無かった事からすべて各種(7つの民族)の民族は「自然神」を信仰し、その「神の意思」(「神の御告げ」)とする伝達手段を「占い」として用いました。
    この「自然神」の伝達手段の「占い」(占道・占術)が体系化して最初は「鬼道」と云うものであって、それは「宗教の原型」にも成ったのです。この「鬼道」で「絶対的な神の意思」を具現化したのです。
    これが中国では「占道・占術」−「鬼道」−「道教」−「儒教」へと変化と進化して行きました。
    しかし、大和ではこの「鬼道」の使い方が「国情」に左右されて異なった「宗教の変化」を起しました。
    3世紀頃から7世紀頃まで大まかには ”この世は「自然の神」の懐に包まれ「万物万能の神」の「意思」がこの世に降り注ぐ” と信じられていました。依ってそれを受け止めてこの世に誰がどの様な方法でどの様に具現化するかによるのですが、ところがこの「自然神の考え方」が「7つの民族」によって異なっていたのです。
    特にその「考え方」をこの世に伝える「媒体」に違いがあり、初期には植物や各種の動物(生物)を媒体としていたのです。この「植物・動物媒体」は民族の植物・動物に関わる関係度から千差万別と成っていました。例えば、日本では「在来民」とする「こな族・熊襲・アイヌ」(魏志倭人伝に記載)は「熊」が媒体であった様に、亀、狐、烏、鼠、鹿、蛇、馬、狗等があります。そしてこの信じる神の伝達媒体を国名にしている国が多かった事が「魏志倭人伝」の記載の国名の30国に色濃く出ています。
    しかし、「7つの民族」が混在している4世紀頃はこの「自然神」の媒体がこの様に異なっている事からまとまる事が難しかったのです。
    そこで、その「媒体」の考え方が進化して「人」として「神の意思」を告げる事となれば「共通の媒体」と成ります。そこで”より真実に明快に確実に言葉で伝わる”と信じられて「自然神」のお告げを表す「鬼道」と云う「占い形式」(祈祷)の体系化した信仰が生まれたのです。
    それが「鬼道占術」の特長として、次ぎの様に「具現化の媒体」の違うところが(他の占術とは)次ぎの3つのところにあったのです。
    一つは「気候と気象変動」を神の御告げとして読み取る事
    二つは太陽の軌道を読み取る「方位学の原型」を採用した事
    三つは御告げする伝達人に科学的な刺激を与える脳特性を利用した事
    この3つ事が他の占術と異なっていたのです。

    そして、このある意味でこの「3つの要素(人、場、時)」を加えた合理的な伝達手段が、人の「食」に大きく関わる繰り返す飢饉(下記)に対応する事が出来たのです。ですから、「鬼道信仰」は飛躍的に信頼され信仰されて行ったのです。
    そして、逆にこの{3つの要素]の事が無かったか、或いは低かった事から前段で論じた様に「弥生信仰」に代表されるように他の占術は衰退して行ったのです。
    この「3つの要素」が現在でも通ずる様に体系化し具現化した事から、今も「国事行為の形式的行事」として生きているのです。そしてその一部を青木氏は「神明社」と云う方法で伝播させていたと論じているのです。
    ゜卑弥呼の鬼道」には1000人程の者がスタッフとして存在していた事が判っています。
    恐らくは、この「3つの要素」を体系化し具現化する為に、卑弥呼に「3つの要素に対する情報収集や提供」を任務として伝えていた事だと考えられます。
    この中には前段で特記した来た九州域や関西域や関東域の「緩やかな政治連合体」からの派遣要員が居て「鬼道」を学んでいたと考えられます。
    そして、卑弥呼も中国から渡来した人々からこの元の「中国の鬼道」に要する知識の「3つの要素の学識」を学び周囲のスタッフの人々に教え指導していたと考えられます。
    恐らくは卑弥呼はこれを研究して日本の風土に置き換えて自分のものとし、「日本の鬼道占術」としていたと考えられます。

    (特記 中国のこの鬼道信仰は道教と進化する以前の形で現在も遺されていて、その中国の研究資料と比較すると基本的なところは一致しますが少し違っているのです。上記の「3つの要素」に重きを置く事の位置付けで差異が認められます。中国の鬼道は人間の複眼の女性の野生本能に重点を置きこの「3つの要素」は副的要素であるのです。特に中国の鬼道信仰を信ずる人々には、神の前で行う「仕種の決まり」に違いがあって、「迷信的な行為」が多いと感じられます。桃の実を撫ぜると神の加護があり御利益があると信じられていますが、日本の鬼道信仰にはその様な迷信的な行為を認めては居ません。
    現在のその原型を留めている天皇家が行う国事行為と比べると違和感かあります。)

    この「鬼道」の占術の有り様が真に「鬼」の様に立ち振る舞い、人の感覚を無くし、周囲には自然物を飾り火を炊き、丁度、神と人との中間の様な物体に化して無想無念の域から発する印象を言葉にして表現する「占い形式」(占術)が生まれたのです。この時にこの占師は事前に一つ目と二つ目の知識を記憶して三つ目により無念夢想の中で右脳に桃果の芳香性の刺激を与え複眼機能を蘇させて左脳の知識を引き出し御告げとするものなのです。

    現在科学から観ると、これにはある程度の医学的根拠があるのです。必ずしも「迷信」と片付けるには問題があり過ぎるのです。それは特に現代人の生態の退化から観ると「迷信」以外の何物でも有りません。
    しかし、古来より人間には野生時に持っていた額中央にあった「「複眼」(予知機能)」と云う物があって、それを使って、それをより「強く遺し持った者」が、使用頻度の低くなった「右大脳」を「無心の状態」にして使う事で「野生の予知本能」を強く引き出し、右脳から「ベーター波」を発して「未知」との繋がりを保持する野生の能力なのです。
    これを「人の邪念」を取り除いた言葉(人の言葉ではなくなる)としてこの世に伝達する仕組みなのです。
    現在ではこの「複眼」は「前頭葉」の進化で「前頭葉脳」と「大脳」が大きくなり大脳の真下の「脳幹」の側に追いやられ「休止状態の脳」となっています。現在でも特に女性に遺されているのです。
    それは子供を産み育てるという本能からその野生的な複眼機能がいまだ消えずに遺されているのです。恐らくはこの生み育てると云う行為が続けられる限りに於いて遺される事が考えられます。
    ただ、近代化により女性の性(さが)が異なってきた事から一部では消失している女性も増えているのです。合理的に思考する状況が増えた事から男性化して来た結果と成ります。
    その証しと云うか相対的に女性ホルモンの低下が観られるのです。

    中国の山岳民族の一部に未だこの「複眼機能」が大きく働く民族がいて、この民族が住んでいる地域では未だこの「鬼道」の習慣が宗教として現実に強く残っています。
    中国ではこの「鬼道と複眼の関係」の研究論文が発表されていて現在も研究は続いているのです。
    この「複眼機能の特性」は強弱はあるにしても「感情主観の女性」にまだ強く残っていて、それは「母性本能との連動」から来ているものとされています。
    仏教でもこの「複眼機能」の原理を説いています。(お釈迦様の額中央の瘤はこの複眼なのです)
    現在人の顔相の額中央に10ミリ程度のややふっくらとした膨らみを持つ人を時々見かけますし、民族に依ってはかなり強く膨らみを持っている民族があります。
    恐らくは整体上遺伝的にナゴリを遺しているのではないでしょうか。
    この「複眼」(予知)と同じく同じような働きをしていた「鬼相」(鬼眼・鬼顔)と云うものがあります。
    これは逆に「論理主観の男性」によく観られ、額の両目の端からやや斜め逆ハの様に1線上に10ミリ程度に伸びて髪の生え際までふっくらと膨らんだものが見えます。
    これはある状況におかれた男性の顔相に今でも現れます。例えば、仏像の「四天王」の顔相や「仁王像」の顔相に見られる様に「鬼の目」の様になりその左右に縦斜めに膨らみが刻まれています。
    これがある「目的」に徹した「無心の顔相」なのであり、其の目的は神仏を護る事にありますから、仏教ではこの「鬼相眼」(鬼眼:現在も”おにめに成って”と言葉が遺されている)が「善悪を見通す力」として「複眼」と若干異なりますがほぼ同じ目的を持っているのです。
    この「鬼相眼」と合わせて「鬼道」と呼ばれたものと考えられます。
    男性の「野生本能」として保持していた「性」からのもので、現在でもこの本能は恐らくはこれは余り退化していない本能機能と見られます。原野にて動物を容赦なく捕獲出来る本能、現在も続く戦いにおいて人を分別を超えて殺傷できる本能はこの「鬼眼」の所以と観られています。
    野生の肉食動物に持つ本能に類似するもので、人間のものはその脳の使い方が進化に依って変位したです。(肉食動物の顔相はこの鬼顔(両目の端から逆ハの膨らみを持つ顔相)に全て成っています。)
    現在でもこの「鬼顔」が出てきた男性は危険とされる「昔からの言い伝え」が色濃く遺されています。ここから”鬼は怖いもの”と成ったものなのです。
    兎も角も、本来はこの「男性の鬼眼」として使えば「女性の複眼」に相当する筈なのです。
    仏教でも「複眼」と対比して「鬼相」(鬼眼・鬼顔)に付いても戒めとして説いています。
    依ってこれを「鬼道」と呼ばれた所以のものなのです。
    古代では決して「鬼」は「悪」と云う扱いではなく、「鬼顔」はむしろ「善」を見通し「悪」を滅ぼす「神通力」を保持しているものとして扱われていて、「悪」の姿はむしろ「美顔」として信じられていたのです。
    それが鎌倉期以降に仏教の普及が急速に進んだ結果「鬼」は「悪」として扱われるように成って行ったのです。
    「鬼」は人間が神と人間との間に居てその鬼の行動が仏教の教えに合わない事、つまり一部の庶民宗派が「占道」が仏教の教えに合わない事から「悪」とされたものと考えられているのです。
    古代では「鬼道」は”悪を払い「善」を招く”「占道」と捕らえられていたのです。

    とすると、中国から伝わった鬼道の原型が ”何故卑弥呼にだけ成し得たのか” と云う疑問が残ります。
    多くの占師が居たと考えられますが、”何故、卑弥呼なのか”です。
    それは、上記の複眼機能が特別に遺されていた事を意味します。この鬼道は3つの要素を組み入れての占術でありますから、それを最も生かすには、この「複眼機能」の強さと有無が左右されますし、左の脳の情報力、つまり、「3つの要素」の「記憶力」を生かすには右の能のベータ波の出す能力の強さが左右します。このベータ波は女性に於いて極めて差異があるのです。母性本能が出ると同時にこのベータ波が強く成るのが女性ですが、その個人差が大きいのです。
    卑弥呼はこの条件を兼ね備えていた事がある事で判るのです。
    それは卑弥呼が死んだ後に卑弥呼の兄妹の兄が王に成りますが鬼道の占術は殆ど当らず王から引きずり降ろされます。結局は、前段で特記した事なのですが、この史実として「卑弥呼の宗女」がこの卑弥呼の跡目と成り占術が当り緩やかな政治連合体の国は治まりが着く事に成ったのです。間違い無くこの宗女は卑弥呼のこの女性本能の特異な遺伝を引き継いでいた事を意味します。

    この様な上記の「鬼道占術」を使って邪馬台国の卑弥呼には、「自然神」の中でこの「複眼機能」を強く持ちその「予知能力」を使って「多種民族」を纏め上げ「連合体」を作り上げたと考えられます。
    中国の「鬼道」と根幹で一致していた事から「卑弥呼の占い行為」は「鬼道」と呼ばれたと考えられます。

    「気候変動と卑弥呼の経緯論」
    上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。
    実はこれには次ぎの様な上記の3つの内の1の経緯の気象が働いていたのです。
    上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。

    実はこれには次のような経緯が働いていたのです。
    当時としては絶対に知り得ない知識でありますが、”自然が織り成す何らかの「神の行為」”として軽度に把握していたと考えられます。
    現在でも”西風が強く吹く年は天気は崩れ雨に成り水飢饉が起る””食物の成長は裏と表の年があり裏は不作で飢饉が起る”等の事等の言い伝えがありますし、これには完全な根拠がある事は解明されている事です。実は桃や梅等の果物の木、特に野生の果物の木にはその気候の影響を大きく反映して次ぎの年の気候を顕著に反映して確実に読み取る事が出来るのです。他にも田舎に行けば今だこの種の超能力の様な知識として伝わっているのです。
    恐らくは、「卑弥呼」はこの「自然の変化」と「気象的な関係」を知識として把握し、且つその「自然の変異」を素早く確実明快に読み取り具現化する超感性能力(超能力)を誰よりも保持していたと考えられます。
    そして、この超能力を駆使し合わせて上記する人間の野生本能を誰より高く持ち得ていて、それらのデータを総合的に且つ有機的に瞬時に取り纏め判断出来得た人物であったと考えられます。
    卑弥呼の鬼道の祭壇には桃などの自然の恵みの物が配置されていた事が遺跡からも発見されていて、これを1000人のスタッフにこれ等の情報を把握させる事もさせていたと考えられます。
    現在の天皇が行う国事行為の毎日行う祭祀行事もこの穀物などから読み取る行為を具現化し形式化したものです。

     「100年の気候周期性」(300年大周期)
    この時期に顕著に起っている気象学的変異があるのです。
    それは、地球の自転の回転で其の周囲の空気の層が同時に廻るのではなく地球の磁力(引力)に依って反時計回りの回転に対して空気の流れの「ズレ」を起こします。
    その時、少しづつドーナツ型(環状)の空気の層の「遅れひずみ」が起こります。
    円の形だと円滑に廻るので歪みが起りませんが、この「歪み」が強い時の波と弱い時の波とが起こり、これが連続して「強弱の波」を引き起こして発生します。
    ところがこの「強弱の波」であるが為に、その波の僅かな「ズレ」が球の上下側に2つの「輪状環」が起こります。
    その波は遂には空気中の浮遊物の影響により5つに成ったり3つに成ったりするのです。
    それに依って起こる真円ではない「変形した輪状環」の波の現象と成るのです。
    この3つから5つの波の発生が北極側では空気の流れの「位置ズレ」を少しずつ起こします。
    この「波の位置ずれ」に対して変化して「変動の周期性」が起こるのです。
    其の為に北極南極の冷気の層が赤道に向かって引っ張られて極端に寒暖さのある気候変動が発生する事になります。
    真円が最も気候変動の差が少ないことに成ります。この地球の気候変動の大きな差の周期が概ね100年に1回起こるのです。
    判りやすく云えば、キリストの頭の上にリングがありますね。あのリングが3つ乃至5つの星の様に成っているのです。その様に頭の上に出来たリングまたは鉢巻の様な「空気の流れの星形輪」が起こります。其の「星形輪」が地球の回転に沿って左に回る周期性を持っていて、その「星形輪」が真円ではなく極端な場合は3角形から5角形の形になります。この為にその角の為に空気抵抗が起こり円滑に廻れなくなり回転に対して「ひずみ」を起こしやすくなり、本来の位置から少しずれるのです。
    このズレを修正しないと空気の星形輪状の層は地球から外れてしまいますが「エネルギー保存の法則」により絶対に元に戻ろうとします。
    この「最大のズレ」が太陽から受ける熱エネルギーの差と成って現れます。それが「気候変動の寒暖の差」に成って現れます。
    このズレが元の状態に戻るのが100年間掛かることに成ります。
    これが赤道軌道を中心にして北極側と南極側に顕著に出るのです。
    ですから円から最も崩れた時、丁度、3角形に近い状態に成った時が「最大の歪み」に成りますから「寒暖差」が極端に出るのです。これが「寒さの飢饉」と成ります。
    そして次第に又5角形に近い状態へと戻り始めたほぼ円状へと近づいて行き寒暖さが少なくなり、次ぎの歪みの時期は「暑さの飢饉」と成るのです。これがほぼ100年周期にあると云う事なのです。
    ところがしかし、現在、地球は地球の自重の増加により円運動から多少「楕円状の公転軌道化」を起こしていて、この現象がより顕著に出る様に成っているのです。
    星形輪に依ってエネルギーの差が生まれて「寒暖差」が生まれている処に、「楕円状の公転軌道化」が起り始めた為に余計に太陽から近い時、遠い時の「エネルギー差」が起こりますのでこの「2つの差」が更に「寒暖差」が生まれるのです。
    「楕円状の公転軌道化」が起ると地球の回転に慣性力の影響が出て「星形輪」が発生しやすく成るのです。そしてこの「楕円状の公転軌道化」でも起こった「周期ズレ」がエネルギー保存の法則で戻そうとして同じ上記した原理で300年に一度の大周期性を持つ様に成るのです。この法則で100年周期の2回までの直しきれなかったエネルギーを3回目で修正する為に大きなズレの吸収性が働くのです。
    100年周期で3回起こり最後周期には300年目の超寒暖差が起って大飢饉が発生するのです。
    そして次第に元に戻って行きます。

    因みに「楕円状の公転軌道化」は地球の重力増の変化により加速性が増した為に起っています。
    これは地球上で「人口」のみが自然増を生み出して重力が増しているのです。
    他の動植物や鉱物は自然環境の影響を受けてその輪廻で一定と成ります。その増減は地球の回転に影響を与えません。
    江戸時代は世界の人口は40億人とされていましたが現在は70億人と成っていて現在は1日に4000人の人口が爆発的に増加しています。
    もしこの状態で人口が増加し続けますと地球の回転に加速度がより起こりますので、その加速度に対して地球の引力に依って引っ張られている力とのバランスが均衡する時が必ず来ます。
    この均衡が破れる時には人は地球を離れてロケットの様に宇宙に飛んでいく事に成ります。
    この限界値が計算上では85億人で均衡とされていますが多少の+誤差が起る筈ですので、100億人以上で飛び出す事に成ります。恐らくはこの直前で地球に回転とそれに伴なう気候変動により食料は不足し激減する事になりますし、地軸が27.8度傾いた形で回転している事により楕円が強く成る事で隕石などの衝突が起こり始めます。その為に人口や動植物等は激減する筈です。
    そしてその様な現象で地球重量が元に戻りはじめますが、元の85億人程度の重量と成った時に楕円の公転は元に戻り始めます。
    当然にこの時には地球の表面の8割は水で覆われていますので、そうすると加速度が働きますと先ず水が蒸気と成って90−100キロの第1成層圏の宇宙に吸い上げられて行く事に成ります。この結果、乾燥と水不足が起り人間を含む生物が死滅する事には成ります。
    従って、これにより再び人口が減少して元に戻るか一切の生物は死滅してまう事に成るかですが、自転公転の上記する「歪み」が再び戻り、生き残った生物は繁殖を起す筈です。
    既に70億人と成った現在では灼熱のアフリカ大陸では原因不明の水が消えて無くなる水飢饉が起っています。従って、85−100億人の前には人口増加は止まる可能性がある筈です。
    先ず地球の太陽から公転による楕円運動がこれ以上に大きくなると生物は死滅する筈ですから地球と太陽系がバーンアウトするかしないかの勝負に成ります。
    然し、重力計算による研究はあるとしてもこれを立証する研究は未だありません。その前に水が「人・生物」ではなく「地球」を救うことに成ると考えます。「人・生物」はその後の話ですね。

    話を戻します。これを歴史的な資料で現在から逆算すると丁度、3世紀半後から4世紀前半に掛けてこの300年周期の第1期の「100年飢饉むは起こっている事に成ります。
    つまり邪馬台国の時代です。これに依って下記のシナリオが証明されるのです。
    これが大体100年に一度の割合で訪れるとされる「気象変動・異常気象」が起こった時期とされ、飢饉により民族間が生存競争で争いが絶えず混乱していたと考えられます。
    そこにタイミングよくこの「鬼道」が現れ「占い巫女」であった「卑弥呼」が「複眼の予知能力」と「3つの要素」を組み入れてそれを使って予知した事が確率よく当たり、100年周期の終焉期と一致すると共に、飢饉がより占術予知により避けられ無くなり、其の内、国々では「卑弥呼」の「鬼道」で政治を行う事を民族間で合意し、結局、「卑弥呼の占い」を中心とした「民族間の政治連合体」が生まれたのです。
    そして、その結果、その占い師の「卑弥呼」を九州地域5地域の「国の王」と定めたと考えられます。
    その卑弥呼の占術予知による北九州域の政治連合の結果、この話が全国に伝わり主な他の20−40の王国の民族もこの「卑弥呼占術予知の鬼道」を招き、複数の「政治連合体」の国王として30程度の国が絡んだ「緩やかな大政治連合体」が出来上がったものと考えられるのです。
    恐らくは推理ですが、この時に「卑弥呼」は九州佐賀から連合体の中心付近の奈良大和付近に出張等での移動をしたのでは無いかと筆者説の一つの推理を立てているのです。(3つの仮説 イロハ説)
    この大気候変動の大飢饉を互いに逃れる為に良く当る事を前提に「卑弥呼の鬼道占術」を基本とした政治的な連合体であった事から”緩やかなもの”として、比較的に簡単に各地域に起った緩やかな政治連合体の組み合わせ総合の政治連合の国家が出来上がったと考えられます。
    当然にその総合の政治連合体の元と成った北九州の政治連合体の邪馬台国(女王卑弥呼)が主導権を握り、合わせて「卑弥呼」を総合の連合国家の「大女王」と決めたのではないかと考えられるのです。
    そしてその国の総称も「邪馬台国」としたと考えられます。
    (魏志倭人伝の30国の一つの「奴国」は邪馬台国の事)
    「30の連合国家」の中には故に、「奴」の付く国(ナ)、馬の付く国(マ或いはマト)、中には「邪馬国」(ヤマトノクニ)とするものが多いのは総称の政治連合体の「邪馬台国」から来ていると考えられます。
    北九州域の主導国の奴国(ナノクニ 山門)と関西域の主導国の「邪馬国」(ヤマトノクニ 大和)から「邪馬台国」の総称としたと考えられます。
    中国との関係から北九州域の「奴国」に「緩やかな政治連合国家」の「政庁」を置いたと考えられます。
    卑弥呼死亡後は関西域の主導国の「大和」にある「邪馬国」が主導権を握ったと観ています。

    この「自然神」の信仰は一概に無根拠とされるものではなかったのです。
    この「自然神」は消滅して変化したのでは無く、この「自然神」から分離して行ったのです。
    従って、現在に於いてもこの「自然神」は遺されているし、上記する「4つの神」の母体と成っているのです。現に、朝廷の祭祀はこれを引き継ぎ全てこの上記した「自然神」による祭祀です。
    又、仏教もこの「自然神」を基盤としていますし、日本書紀にも「広瀬大忌神」と「竜田風神」の事が再三に出てきます。(「風の神」、「雷の神」:風神・雷神は鬼の顔と成っています)
    中国は多種民族から「鬼道」から「道教」へ、そして「儒教」へと変化して行きましたが、日本はその国情(7つの民族と自然環境)から「神に対する概念(人の思考原理)」は次ぎの様に変化して行ったのです。

    「神のフロート図」
    「自然神」−「鬼道」−「神道」−「仏教」−「神道・仏教」−「産土神」−・「祖先神」−−「鎮守神」−「氏神」−「4つの神・融合神・自然神」

    「民族氏」→(「民族氏」+「融合氏」)→(「融合氏1+融合氏2」)→「融合氏1−5」

    上記した「皇祖神の鎮座地の遍歴」はこのフロート図の違いの強弱が各地に未だ顕著にあり、新しく生まれてきた「祖先神」の考え方に見合う土地柄を選んでいたのではないかと考えられます。
    つまり「国情(7つの民族と自然環境)」が大きく左右していたのです。「神明社」の各地の分布の数でもそれがよく判ります。(資料参照)

    この様に前記した様に「民族氏」から「融合氏1−5」へと政策的変換を遂げた結果、「自然神」から発した信仰は上記する経緯に左右されて「4つの神」が生まれ、それが「氏家制度」の社会を壊し「身分・家柄」の垣根が取れた事に依って何時(明治初期)しか「完全融合」の時が起こり始めて現在に至り、遂には自然神を加えて「5つの神」の混在現象が起こったのです。

    明治初期の「維新改革」で「融合氏1−5」が更に「高度な融合現象」と成って、150年後の「平成の完全融合」へと進んだ結果、現在では「5つの神の混在現象」が起こっているのです。
    最近では、「自然神」が信仰とは云えずとも「自然の偉大さへの憧れ」に近いものとして認識されてきています。
    これは制度的に民の間には完全に垣根が無くなった為に起こっている現象と見ていて「民族の完全融合」の「証」と成るのでは考えているのです。
    最早、将来、未来にこれ以上の「融合」が起こり得るのか、「5つの神の混在」がどの様に変化して行くのか興味の湧くところであります。
    アジアやヨーロッパの民族人種が帰化する現象が自然増より以上に更に日本に起こるかは、上段で論じて来た種々の政策と共に「民族融合政策」を協力に実行した未来の「中大兄皇子の政治判断」が大きく左右すると考えられます。
    故にそもそも上段で論じた色々な歴史的経緯があったとしても、「7つの民族融合」は「5つの守護神の融合」そのものであり、それを主役となって主導して来た「自然神−皇祖神−祖先神−神明社−融合氏−青木氏」でもあるのです。この事無くして現在の完全融合の日本は存在しないのです。

    現在ヨーロッパの全ての国で起こっているアラブやアフリカの移民問題が日本においても起こるのか、起こった場合はどうするのか、日本人の特性で「融合氏」が更に進むのか、「民族氏」が「完全融合氏」の中に再び起こるのか、疑問が大いに広がります。
    兎に角にも、現在の移民現象は「貧」から「富」への移動であり、日本に於いても「貧」から「富」への移民は「融合」を促すのかは疑問のあるところです。前段で論じた移民の経緯が日本では全く異なっているのです。
    ”移民をすれば直ぐに融合する”かは別問題で、この「融合」には「其れなりの条件」が伴なうと云う事を論じているのです。
    明治以降の後期の朝鮮人との融合は100年経っても余り進まない現状を観ると、「移民の問題」には矢張りこの条件と云うものの有無が左右していると観て疑問を感じます。
    アジアからの現在では「看護移民」や「農業移民」がありますが、「文化の高さ」で取捨選別されてと成功していない様です。
    恐らくは「民族氏」の「産土神」、古代の「自然神」ならば起こり得たと考えられますが、「融合国民」と成った現在ではその溶け込むハードルが平均化されて高く、他民族には入りにくい環境にあるのではないかと考えられます。これこそが最早、「融合単一民族」の所以であります。
    「融合民族」の潜在的に持つ「本能的な拒絶反応」が浮かび上がり働くのではないでしょうか。
    大化期から平安期に起こった現象が再び起こるかは前記した「融合の経緯」と「神のフロート図」とその数式が成り立つからこそ融合が起こったのであって、その大変さから観ても現在版の「俘囚スラム」等を生み出す事は間違いないと考えられます。


    「自然神の概念論」
    そこで、現在版の移民が起こった場合は共通する概念感覚は「自然神」のみにある事に成ります。そこで更に詳細にこの「自然神」をベースとして進んだ「神」はどの様な変化の経緯を辿ったのかを検証を進めます。

      「氏神の変化」
    この「4つの神」にはその時代の変化、即ち、「氏融合の変化」に即応してその特徴ある性格を持っているのです。
    「時代の変化」と共に「氏の融合」も進み、且つ、「人心」も変化してその「心の拠所」とする「神の形」もそれに合わせて進化してして行ったのです。
    従って、この事からも「氏融合の経過」を観る事が出来るのです。
    そして、其の事からその「人」の氏が上記する「4つの神」のどの神を守護神にしているかに依ってその人の「氏の出自」が判る事にも成ります。
    では、その「4つの神」に付いて先ず個々に検証を進めます。
    先ず「産土神です。

    「産土神」の定義
    その人の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」

    先ず其の前にこの「4つの神」の「進化」はどの様な経緯で変化して行くかを検証します。
    古代、3世紀−4世紀の当初は全て「7つの民族」の個々の集団で生活圏を構成していました。それ故に集団の首魁を中心としてまとまり、「民族」と云う形だけの定義で集まり、血縁性の不明確な形で「民族氏」を構成していた事から奈良期前には1の「産土神」が主体でありました。

    これはあくまでも「7つの民族」が不定不確定に外から「渡来」と云う形で上陸した為に上陸点の付近にその上陸した集団単位で生活圏を競って獲得していました。
    その為に同じ民族が同じ場所に集団を形成すると云う事では全てでは無かったのです。
    同じ民族の集団が”あちらにもこちらにも”と云う形に成っていました。
    この時代は未だ生存に充分な食料や生活環境が整っていませんでした。従ってそれを獲得する為にこの個々の集団の内、「争い」に勝ち得たものがその集団を吸収し奴隷として囲い、大きくなりその集団の首魁の民族を中心とする「民族氏」が出来上がって行ったのです。
    丁度、饅頭の様な構造をしていたのです。中身には血縁性が無い人の単位なのです。
    依って、「土地」とそこから得られる「食料」が生存の基盤と成っていた事から、其の守護神はその「生まれた人の土地の神」「土地」を「神」と崇め、永代の「自分の神」とする習慣が生まれたのです。
    これが「土神」即ち「産土神」なのです。
    古代「自然神」を基盤として生まれたこの「産土神」は生存・命を保障するその自然の一つ「土」に対する感謝の心から「神」と崇めたのです。
    個人個人が生まれた「土地」が異なる「民族氏」では1の「産土神」と成るのです。
    「外国」で生まれていればその「外国の神」が「自分の神」と成るのです。
    元々は「小さい集団の集合体」として「民族氏」と成った事から起こる現象です。
    特に、中国系渡来人の「神」はその民族の根本的な「思考原理」から、元々この1の「産土神」の考え方にあったのです。「鬼道」から進んだ「道教」は「産土神」の考え方に近いのです。
    「渡来人」が多く押し寄せ始めた4世紀後半から7世紀中頃までに、日本に定住し始めた民族中でも中国・朝鮮族が持ち込んだ道教・儒教の「考え方」に対して、それに「自然神」を崇めていた「在来民」はその「物造り」を通じて吸収され影響を受けてこの「土に対する神」の「信仰心」が拡大したのです。
    この当時の「物造り」は土地から生まれる産物の第1次産業でしたから彼等の持ち込んだ「物造り」は道教・儒教の「土の恵み」の恩恵を強く受けた思考原理に成っていたのです。

    4世紀後半から「100年周期の気候変動」が改善されて行き食糧生産も当時の人口に見合う量まで回復傾向にありました。人は食料を産む「土」と個人が生き残る生存競争による「人・個人」概念の考え方から同時に次第に開放されて行きます。
    ここで地域的変化が起こったのです。ここでまず中国地方で起こっていた弥生時代からの銅鐸などを使った「自然神」の信仰が3世紀から4世紀には全国的に広まっていましたが「100年の気候変動」に依って飢饉が起こり「銅鐸を使った自然神の信仰」が信用を失い排斥されて、「産土神」に近い「自然神」の「鬼道の信仰」が今度は全国的に「銅鐸を使った自然神」に入れ替わって広がったのです。
    従って、初期は九州域に限定されていた「土・人」の「鬼道信仰」が広域的に信仰基盤が広がったのです。つまり、「産土神」の信仰基盤が広がった事に成ります。

    弥生時代からの「銅鐸を使った自然神」古代信仰→「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰

    「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰→「土・人」の「産土神」の基盤

    しかし、幾ら回復傾向と云っても、当時の人口が450万人と推測されていて、そこに中国から200万人、朝鮮(同盟国の百済崩壊)から100万人が難民と云う形で入国したのです。
    これではほぼ倍となった人口に対して生存に適する食料が別の原因で再び不足します。
    当然に「自然神」を相対的に崇めると云う形には成りません。
    「土からの恩恵」を重視する考え方に偏る事は当然の成り行きであります。
    回復傾向であった為に300万人が生産に寄与する事で何とか不足傾向では在りますが生きて行くにぎりぎりの生産量であったと考えられます。
    日本書紀には大化期初期には不足していて食料問題に成って居た事が書かれていますので、先ずこの状況であった事は間違いありません。
    其れだけに入国民の扱いの問題にしても、入国民の神に対する感覚概念にしても、入国民の食料問題にしても、他の軍事、経済、政治の面からも「改新」を進めなければならない絶対的な環境に在った事に成ります。
    その前の4世紀前後の頃はこの状態がやや顕著に現れ、且つ100年周期の気候変動期に入り飢饉が続発し食料不足から民族間の全てで生存競争が起こり纏まらなかったです。
    この為に民族間で話し合い「卑弥呼の鬼道」に依って「占いを中心とした政治体制」を作り上げ保ちこの「占い政治」(鬼道)を中心に「緩やかな政治連合体」を形成したのです。

    「産土神」の傾向を持った「土・人」の「鬼道による自然神」から、「土・人」の考え方の強い道教の人々が入国して来たのですから、自ずと今度は限定して「産土神」に限定した信仰が進んで行ったのです。
    「原始的な自然神」を経て「食料を理由」に変化した「鬼道の自然神」から「人の理由」で「土と人」の「産土神」へと条件が整って大化期前まで感覚概念が変化して行ったのです。

    ところが、約100年程度の間に続々と入国して来る300万人の人口増加に依って「民族の集団化」が起こって血縁性の薄い「多くの民族氏」が勃興することに成ります。
    この「民族氏」が成長しほぼ淘汰(20−40程度)にされて「民族氏」の熟成期に入り増す。
    大化期前後にはこの為に「産土神」を主体として「民族間の思考の違い」が大きく露出して、その為に「民族間の争い」が多発して纏まらなくなったのです。
    天智天武天皇は「既存の政治体制」の中に、この「産土神の考え方(「土と人」)」が蔓延する事は”既存の体制維持が困難”と危険を感じ無かった筈はありません。
    これを解決する妙案が「融合化」であったのです。それには各々の民族が抱える守護神の考え方を先ずは融合化させねば成りません。
    それには融合民族の皇祖神を全体の中心に置き、その分身と成る祖先神を推し進める必要があると考えたのです。当然に、その2つの条件を持ち得る氏を天皇自らの身内から出す必要が生まれます。
    それが先ず皇祖神の遷座地の伊勢の青木氏だったのです。それに伴ない19の地域に対して祖先神の神明社の建立を推し進めたのです。然し、次第に時代の変化に対応させる事が出来ず、その力を留保する外戚の藤原一門秀郷の3子にその全役目を背負わせたのです。つまり、外戚の特別の賜姓族であります。それが「祖先神−神明社」なのです。
    上記した様に「民族氏」−「占い政治」−「政治連合体」の経緯の中で鬼道信仰の影響を最も色濃く持つ「祖先神」を次ぎに論じます。


    「祖先神」
    「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

    上記の「産土神」の蔓延に危機感を覚えこの事を学習していた奈良期の大化期では”「産土神」に基づく考え方、即ち、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」”の考え方では ”良くしても「土神」「単独の神」は「民」を一つにまとめての安寧は在り得ない” と考えたのです。
    つまり、”「民」の全ての「共通する神」が無くては国の存立は在り得ない” と考えたのです。

    「単独の神」<「共通する神」=「国の安寧と安定」
    「土の神」<「自然の神」=「神の恩恵」

    この大化期直前に「自然神」の「鬼道」から進化した「神道」と「仏教」との対立が生まれ「仏教」を国の信仰の根幹に据える否かで争いが起こったばかりです。
    結局、「仏教」を選んだものの依然として「神道」は基盤と成り続けている現状の中に「産土神」が浸透する事は国体基盤にとって好ましくないと云う背景があったのです。
    この時期、「自然神」と「神道」と「仏教」と「産土神」の「4つ信仰」が混在する状況で中でもこの渡来人に依って「産土神」の拡大が目立っていたのです。
    そこに「急激に増加した国民」の国情を観て、”これを一つに束ねて安寧な国を構築する”にはこの現状は困難と観たのです。
    むしろ筆者は、高い技能を持ち在来民の信頼を得ている増加した国民、即ち帰化した阿多倍の率いる「200万人の技能集団」(200/650 30%)もこの「産土神」と同じ考え方であって、”この「産土神」が国民に蔓延すれば天皇家はおろか、最早、朝廷のあり方自体の存続が危うくなると考えていたのではないか”と観ているのです。その「産土神の考え方」からすれば「共和性の国家」に近い政治体制に成ると考えたのです。阿多倍がこれ等の「集団の首魁」であったとしてもこの「技能集団」は最早、後漢王国が崩壊して(220-618)数百年も支配体制が緩んでいたのです。ただ「同じ漢民族」だとする程度の集結性で、この初期の段階では阿多倍はその「象徴程度の範囲」の経緯であったのです。どちらかと云うと”各技能集団の首魁の指揮に任していた”と考えられます。
    その証拠に大化の事件の時に、中大兄皇子軍と蘇我入鹿軍との飛鳥丘で対峙した時、蘇我軍の雇軍の職能集団の首魁の東漢氏は自分の判断で即座に軍を牽く事件が起こりました。この事は普通なら帰化人に左右する事柄です。事と次第では決着戦に成る事も考えられた筈で指揮を仰いだ筈ですが、入国後20年の「阿多倍」は介入しなかったのです。
    これはこの段階では「職能集団の首魁」の判断に任していたと考えられます。また20年の混乱状況の中で詳細に指揮する状況は未だ確立されておらず無かったと考えられ、恐らくは敏達天皇の末孫との血縁で准大臣に成り、長男の坂上田村麻呂が朝廷軍の指揮官に成った期間が混乱期からやっと立ち直り一番に阿多倍の指揮能力が高まった時ではないかと考えられます。しかしこの時は最早、天皇家との血縁族と成り得ていたのですから、この時点ではこの共和制の危惧は無く成っていたと考えられます。
    ただ、皮肉にも「邪馬台国」のあった北九州域の「自治の要求」問題は逆に高まっていたのですが。

    その様なやや進んだ状況の中で、そこで”生まれて来た”のか、否”作り出した”と云った方が適切であったと見られますが、「邪馬台国からの鬼道信仰−産土神信仰」の「2つの問題」を解決する方策、それが「祖先神」なのです。
    丁度、「産土神」の「自分の単独神」を「祖先神」の「自分の固有神」に変化させ、それに自分の組する「集団の神(氏の神)」を付け加えて両者の「妥協の産物」と見られる「神」を天皇と朝廷は創造したのです。
    勢いづいた「産土神」に「祖先神」を加えた「2つの神」を融合させる事で「民族氏」から脱却し、「祖先神」が求めるそれまでに無かった「氏」の概念を取り入れて、”「7つの民族」が「一つの氏」(融合の氏)にさせる事で「国の安寧」は起こる”と考えたのです。
    その政策が”「青木氏」を発祥させて天皇家自らが「融合氏」を作り出して行く”のであって、実に巧妙に政策転換したのです。驚くべき素晴らしい政治判断であったと考えられ、”現在にそのような移民の問題が起ったとしたら果たして現在の為政者はこの様なすばらしい政治判断と政治力を発揮できるでしょうか” 、筆者は断言して無理だと考えます。それだけに大化期から嵯峨期までの天皇能力には素晴らしい政治力があったと観ているのです。
    「鬼道」による「自然神」は「朝廷の祭祀」の中には現存として遺しながら、それを強く引き継ぐ「産土神」を完全否定するのではなく、より「融合性」のある「祖先神」の集団性を有する「氏の概念」を創り上げたのです。
    その「氏の発祥源」が我等「青木氏」であり、天皇家自らも「天皇家」のみに通ずる「皇祖神」とする神の概念を創造したのです。

    「天皇家の皇祖神」→「伊勢神宮」→「神明社」
    「青木氏の祖先神」→「神明社」
    「伊勢神宮」→「皇祖神」+「祖先神」
    「伊勢神宮」→「自然神の祭祀」
    「産土神」の「自分の単独神」→「祖先神」の「自分の固有神」

    この「関係式の概念」を天皇は「産土神」を意識しながらも社会にその新しい概念を行動で強く示したのです。
    その概念を広めるために「青木氏」の育成と「祖先神−神明社」の建立を急いだのです。
    これに依って社会の中には次ぎの様な信仰対象が出来上がったのです。

    「自然神」+「皇祖神」+「神道」+「仏教」+「産土神」+「祖先神」

    以上の「6つの信仰」が大化期には混在する事になります。

    しかし、ここにはこの「祖先神」は「全国民」を対象とした「固有神」としながらも、一方では「民の領域」の神(物造りの神 生活の神)だけでは無く、あくまでも特定領域の未だ存在しないこれから生まれる「氏」の「神」でもあったのです。
    そもそも平安期までは百姓(おおみたから)はまだ「氏」を構成出来る社会では無かったのです。
    (当時は宿禰族を含む皇族以外の良民を「おおみたから」と呼んだ。 良民以外に賤民や奴婢や脾民や囚民などがあった。)
    ここに「国の安寧と安定」には「民」の「共通する神」を創造する事を目途としながらも、他方では「融合の氏」の発祥を創造したのです。天皇の考えている事が良く判ります。

    ところが、この時期の国民を信仰範囲毎に分けるととして次ぎの様に成ります。

    百姓層(おおみたから)は「自然神」「産土神」「仏教」
    支配層は「自然神」「産土神」「仏教」
    皇族層は「自然神」「祖先神」「仏教」
    朝廷は「自然神」「皇祖神」「神道」「仏教」
    以上の様に信仰対象は家柄身分制度の中ではこの様に異なって行ったのです。

    百姓層(一般の民)は「氏」を構成しません。構成する概念そのものが無かったのが現実です。
    むしろ、そもそも大化期前後は、これから「氏」そのものを作り出して行くと云う過程域であったのです。
    4世紀後半には「民族氏」で出来上がった地名からの「氏名」がやっと生まれ始めた時期から未だ200年程度しか経っていないのです。
    (現在の時間列:時間感覚と異なる 現在では25−50年以下程度感覚)
    信仰の対象神が上記の様にくっきりと分けられてはいますが、だからと云ってこの範囲内で信仰すると云う概念では無かったのです。(曖昧思考原理の時代)
    そこには「天皇−民」との繋がりを持つ先ずは「優先の社会概念」があって、「天皇が信じる神」は「民の大元の神」とする概念であったのです。

    「天皇が信じる神」=「民の大元の神」=「自然神」 (「万系一途の法」の概念の時代)

    「天皇-民の共通する神」はあくまでも「自然神」であり、その「自然神」の中に「産土神」や「祖先神」などの神があり、「民」の各自は「夫々の神」を求めながらも天皇が祭祀する「自然神」に通じていると云う概念なのです。
    当然に”天皇個人にも「固有の神」(「皇祖神」)がある”とするのがこの時代の概念なのです。

    事程左様に、”それが「皇祖神」であり「祖先神」であった”と云う事なのです。
    そしてこれを社会構造の政策の中心に置くと云うメッセージなのです。
    従って、直ぐに「祖先神」そのものを信仰対象とする事はありませんが、だからと云って ”信仰の対象としない” と云う考え方は現在の考え方であって、当時は上記した様に合理的に物事を割り切ってスパッと思考を固めると云う概念では無く、物事の境目は”「ラップ思考」で考える”と云う概念でした。
    ”どちらに属する” 場合に依っては”どちらにも属しない” と云う「曖昧思考」が通常の思考感覚だったのです。
    「ラップ思考」+「曖昧思考」=大化期の思考原理
    むしろ、スパッと割り切って考える方に対して「悪」「邪道」であるとする思考原理だったのです。
    従って、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理であったのです。
    故に、”その「媒体」として「占術する者」が必然的に思考として存在し、当然にその「伝達手段の占術」が必然的に当然の如くに存在する”と云う事が何の疑いも無く信じられていたのです。
    現在でも筆者はこの思考の方が社会構造からして正しいと考えていて、然し、科学が近代化するに従い生活環境が激減している中では「相対の二次元思考」の傾向になると考えられます。
    まして現代では上記の「予知能力の複眼」が低下した中では、余計に人は二次元思考と成りがちです。
    然し、人は本来は曖昧思考として生まれて来ているのです。

    古代の人間の営みの中では、生活には「神の意思」を知るには「占術」は無くてはならないものであったのです。それだけにこの時期の「気候変動の飢饉」は「神の意志」であると捉え、余計にこの「飢饉」で苦しめられる”「神の意思」が何であるのか”を当然の事として知りたがるのです。
    それだけにより正しく伝えられる占術を選ぼうとする事に人は必然的に成ります。
    それが「弥生信仰」から「鬼道信仰」へと変化した経緯の原因であって、終局は”人が生存して行くには「緩やかな政治連合」へと進んで行かねばならないと”自然的と云うか必然的と云うか「人の発露」の流れの中にあったのです。
    そもそも「現在人が考える政治連合体」と、「古代人が考える政治連合体」とは、その過程は質的には大いに異なっているのです。つまり上記で論じた思考原理が異なっているのです。
    上記の通りこの時代の”政治的に収束して行く流れの中の一つの必然的な現象”であったのです。
    だから、「北九州の緩やかな政治連合体」と「関西域の緩やかな連合体」との「広域の政治連合体」を成し得たのです。
    「魏志倭人伝」に記載されている様な「血縁性の無い民族的な古代国家集団」30がこの為に政治的な連合体を構築したのです。「大飢饉の解決」を前提にして「神のお告げ」として。そしてその「御告げの手段」は「弥生占術」から素早く決別し「鬼道占術」に切り替えたのです。
    その趙著の無い切り替えの素早さは、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理が働いたからなのです。
    これは「宗教的な信念」に依るものではなかったと云う事なのです。
    宗教的な事でないが故に、「広域の緩やかな政治連合体」が成し得たのです。
    利害は「大飢饉」の事から逃れるを目途として、その「食」を一点にして「鬼道信仰」の「卑弥呼」に賭けたのです。その「心の切り変え」として「銅鐸の破壊」なのです。

    当然に、「総称の邪馬台国」の飢饉から「気候変動の300年周期」を経過し脱出した「気候変動」の緩やかな大化期の時期に成った事から、17県民−200万人の後漢の帰化人を受け入れられる食糧事情と成り得ていたのです。当然に、これ等の人口を支え得る全ての分野に進んだ職能を持ち込み、それが一つの補完要素となっていた事は否めません。「食」に対して「生活の質の向上」に対して急激な経済的な変化を遂げたのです。勿論、政治的な質の向上も彼等が持ち込んだ知識で遂げたのです。(冶金技術や木工技術などの上記した事等も現在でも驚くべき基礎技術であるのです。

    この「思考原理」に依って6−7世紀の奈良期末期からは「氏家制度」の完成に向ってその対策として「融合氏政策」を推し進めていたところです。
    ”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理の社会の円熟期には、「緩やかな政治連合体」をより確かな「政治連合体」に発展させるには上記の「人」のあるべき姿を変え「民の構成」を変える必要性が課題として生まれて来たのです。
    それは「人のあるべき姿」「民の構成」は「7つの民族」を完結に融合させて一つにする事であり、それには「融合氏の発祥」であった筈なのです。「民族氏の解消」が「緩やかな政治連合体」から「緊密な政治連合体」へと進められる条件であったのです。
    邪馬台国の卑弥呼が亡くなり「気候変動の飢饉」が収束に向かい始めた時期のヤマト王権−ヤマト政権−大和朝廷、そして次ぎの時代のステップとして、つまり大和にその主導権が移った時からこの課題に取り組み始めたのです。
    (その一つが青木氏−皇祖神−祖先神−神明社−3つの発祥源であった事を本論の主幹点であります。)
    前記した様にその取り組みは、 ”天皇の下に「氏」が存在し「姓」が存在し、百姓の下に賤民が存在する” と云う身分と家柄制度を敷いた社会であったのです。
    「民の象徴」としての天皇が存在し、その天皇が信仰する「皇祖神」「神明社」に対しては「民」にとっては大本の「民の神」とも成るのです。
    皇族系、外戚系の「2つの青木氏」には「神明社」は「祖先神」と成りますが、百姓や支配層の「人民」にも直接は「産土神」を信じながらもその「大本の神」とも捉える思考概念となるのです。
    もとより天皇は根本と成る「自然神」を基盤に祭祀し、更には「仏教」を信仰の対象と置いている訳ですから、尚且つ何れにも配慮した中間的な形にした「皇祖神」−「祖先神」の「神明社」を持つ事に成る訳ですから、この「大本の神」とする概念には矛盾が無いのです。
    まして、「人民」が一人々に「産土神」を持つ様に、「天皇」も又一人として「祖先神」を持つ事には何の不思議は無いのです。
    この「祖先神」の概念は、上記の様に支配層にも配慮しましたが、「氏」の先祖は「仏」である事から「仏教」にも通ずる配慮もしている事に成ります。故に「神仏融合の神」と捉えることが出来るのです。

    「祖先神」=「神仏融合の神」

    これでは仮に作り出した概念であるとしても「祖先神」に抗する者は出ない事に成ります。
    この配慮を考える時、天智・天武の天皇は「大化改新」の驚きを超える膨大な数の改革を行いましたが、この論文に記していないものに次ぎの様なものがあります。
    1 「国内の国防システム構築策」(水城・山城・防人・・)
    2 「国発展の列島内に網の目の様に廻らしたインフラ整備(駅舎・烽火情報伝達・・)
    3 10M以上の広幅の真直線道路(現在より広幅軌道で真直線・現在に劣らない土木工学)
      (高軌道の東山道・高軌道の山陽道・高軌道の東海道・高軌道の南海道・高軌道の西海道等)
    4 「貨幣経済・和同開珎」(銅と鉄の生産を本格開始 驚くべき冶金・金属技術)
    5 「部による市場経済」(説明済み)
    6 「物造りの殖産政策」(説明済み)
    7 「仏像などに観られる文化政策」(仏教を使って信仰対象を「仏法」にも求めた)
    8 「政治機構の改革」(律令の基盤構築)

    以上を個々に調べると現在の土木建築工学で観てもその施行原理は劣らない程で驚くものです。
    この様な「物造り」は急に大化期に発展したのでは無く、勿論、阿多倍等が率いる後漢の民の職能集団が持ち込んだものなのです。
    この混在する「神」の中で ”彼等の全面的な協力を勝ち取った”と云う事だけでもそれだけでも為政者としては十分な能力です。そしてこれだけの発展とこれだけの政策を何と50年間で一挙に行ったのです。
    これだけの実績を持つ為政者は現在までに於いて誰一人いません。先ず、出ないでしょう。
    恐らく、民はこの2人の天皇に対するものには「神格的な感覚」を持っていたものと見られ、確かに税に対する不満は日本書紀からも伺えますが、国のリーダーとしては「神格性」が生まれたのではないかと考えられるのです。
    恐らくこの大化期のこの「神格印象」が後々まで残ったのでは考えています。その「神格天皇」の下に融合氏として青木氏が発祥したのです。
    (その「2つの青木氏」がその立場を認識して守り通したと云う事に成ります。上段でも論じた様に、同じ立場にいた賜姓源氏は八幡社を汚し、荘園制を乱し、当然に上記の立場を汚したのです。)

    「自然神」−「神の意思」−「神格化した天皇」−「民の神格対象者」−「国家政治」

    「自然神」−「鬼道」−「卑弥呼」−「神のお告げ」−「連合政治」

    この上記する「邪馬台国」の「自然神」から来た「鬼道」による「占い政治」の感覚が大化期にまで緩やかに引き継がれて来ました。そこに「2人の天皇」の上記する驚くべき政治の改革実績を成した事で、”「神のお告げ」の正確な伝達能力を保有する「神格的な特別の人物」”と「民」は観たのでは無いかと考えられます。
    従って、「人民の不満」は何時の世も大なり小なりあるとしても「ラップ思考」+「曖昧思考」=「大化期の思考原理」が働き、「天皇への不満」と云う形では無く、その下の「為政者・皇親政治族」に向けられていたと考えるのが妥当と観ているのです。
    確かに、上記の全国網のインフラ整備だけでも「税と労役」(租庸調)の民の負担は限度を超えている事は確かであり、これに上記の大化の政治改革が成されたとすると「税と労役」では無理であります。
    何か特別な政策がこれに付随して計画的に実行されないと出来るもので無い事は明々白々です。

    ”ではそれは何であったか”と云う事に成りますが、私は前記している様に「部による物造りの経済」と「貨幣経済の導入」の連動策にあったと考えています。
    これをよりにこの策を効果的にするには基盤と成る「公地公民」制度を敷く事ですから、その財源的裏付が論理的に完全に組まれていたのです。
    そして、その改革に依って「民」に「大きな恩恵」をもたらした事で民は重税に納得したのではないかと考えられます。既に阿多倍一門がもたらした職能を民は教わり潤いを得ていた教訓があり、其処に目に見えるように急激に進歩し変化して行く社会のこの「政治改革の実績」を庶民の前に見せられたのです。
    百姓は”生活と社会は良くなる”と受け取っていた筈です。

    資料や日本書紀の記述からこの「民の印象」を観て見ると、全国から上記のこの建造されつつある広軌道の「直線幹線」を通って「税」を運び、「労役」の為に「伴造」と共に移動するのに「手弁当」であった事が書かれています。又、「税の耕地面積」を広げる代わりに負担対象者が6歳に下げられた事等を見ると、この「手弁当」と「税負担と耕地面積」に意味が隠されています。
    悪く捉えれば”過酷で不満たらたら”と成り、良く捉えれば”社会が良くなる。頑張る”と成ります。
    現在の学説は前者ですが、私は後者です。前者であればこれだけの改革は困難です。
    一つの改革なら未だしも驚くべき改革とその数が実行されているのです。前者である事は無い筈です。
    ”社会が良い方向に変わる事を夢見て民は苦しいけれど頑張った”と云うのが現実の映像であったのです。
    そして、その「民の不満」の「心の拠り所」の手当策として「自然神」に加えて「皇祖神」「祖先神」−「神明社」を創設・建造して行ったのです。

    ”いつの世も楽して良く成る”は有りません。奈良期の民がこの条理を理解できない「知力」だったのでしょうか。そんな事は有りません。この「インフラ整備の技術」は「現在の土木工学」と寸分違いが無いのですよ。この学説によくある事ですが、何か別の意味が隠されている気がします。
    そもそも日本に8000の氏姓が居るけれど、我々「4つの青木氏」だけがこの「後勘の評価云々の渦中」にいますので、”正しく史実の解析結果を子孫に伝えるべきだ”と考えているのです。

    学説・通説は直ぐにトップの責任として説を作り上げているのですが、まして、当時の「社会慣習」や「社会構造」や本文の「5つの神」や「大化期の思考原理」(「ラップ思考」+「曖昧思考」)やこの様な「偉大な政治実績」や「神格性を持つ社会」から観て”異なる”と云う感覚を持っているのです。
    むしろ、現在から見てもこれだけの改革を成し遂げられる人物は ”「神」に相当する神人の成せる業”と考えられます。まして大化期です。現在より「神格性の強い社会」の中です。

    前記した様に、故にこの「2人の天皇」の「偉大さ」が後の天皇の「桓武天皇・嵯峨天皇」と「後三条天皇・白河天皇」に引き継がれて其の「意思の実現」に立ち上がったのだと観ているのです。
    この「2人の天皇」そのものを後の天皇は「神格化」に近いものとして扱っていたと考えているのです。真に「自然神」−「お告げ者・神格天皇」−「天智・天武」であったのです。
    これが後々まで「自然神」−「鬼道」−「お告げの卑弥呼」から始まりこの2人の業績により「天皇の神格化」の世論が生まれた原因と観ているのです。

    事程左様に、「祖先神」を定めた事には反対者は居なかった筈です。しかし、この50年以降には「民族氏」が勢力を拡大して反抗する勢力が出て来たのです。それが「産土神」を信仰対象とする朝廷外に居た後漢の民の阿多倍一族一門とその職能集団なのです。(前記)

    この様に「民族氏」を「融合の氏」にする必要性を感じて「氏融合政策」に主導し体制を変えようとしたのです。依って其の為に天皇家が率先して行う事を決めたのです。
    そしてその形成された「融合氏」の「氏発祥源・皇族賜姓青木氏」や、同じく「氏発祥源・賜姓藤原氏」等が各地で発祥するに連れて、「民族氏」の「産土神」が混在する中で新しい「融合氏」はそれぞれの「独自の氏」の「安寧と結束」を願って「氏の神」を定めました。
    この為に朝廷は天皇家の「守護神」を決める必要があるとして、上記の「天照大神」を祀る神社を「皇祖神−祖先神」としてそれを「神明社」と定めたのです。
    そして、皇族から出た「融合氏」の「発祥源」の青木氏に先ずこれを祭らせ護らせたのです。
    この事に依って皇族系族は天皇家の「皇祖神」を「祖先神の考え方」で守護神とした事に成るのです。
    この役目を負った賜姓青木氏は「神明社」の「伊勢神宮」、そこから守護王が存在する天領地の19の土地に分霊される様に成ります。
    それに連れて「融合」が進み、より強く「2の祖先神」が各地に伝播して「産土神」に対抗する形で変化して行ったのです。
    この変化は「守護神」が代わったと云う事だけでは無く、「考え方」そのものが変わって行ったと云う事になるのです。
    天智天皇は「融合氏」を増やす事そのものを目的としたのではなく「融合氏」を増やす事で「民の考え方」を変え様としたのです。其の考え方が「祖先神の考え方」なのです。
    これに依って「産土神の考え方」から来る「共和の世の形」を防ぎ、この「考え方」を増やして「国の安寧と安定」が図られると考えたのです。
    其の為には論理的に次ぎの「2つの事」が必要に成ります。
    第1策
    先ず一つはそれはその「祖先神の考え方」を持つ「氏」を多く速く作り出す事、”皇族系の純血を護ってきたが最早その場合では無い”として、それを率先して天皇家から出自する事が「融合の政策促進」と「民の合意」が得られると考えたのです。
    当然に、皇位継承問題で大蔵と内蔵ともに経済的負担が大きいとする通説の理由は勿論の事、上記の「産土神の考え方」の蔓延で危機感を感じていて「体制維持」が困難と観ていた事も大きく理由の一つとして占めていたと筆者は考えているのです。
    これは放置できる問題では明らかに無い筈で彼等の進んだ技能と知識を享受している在来民は「産土神の考え方」になると「天皇家の存在価値」は薄らぎ明らかに低下する筈です。
    そこで、皇位継承制度を次ぎの様に変更したのです。
    それまでは「第6世族までを順位に応じて次ぎの1から4の権利を有する」としていました。
    1 第4世第4位皇子に皇位継承権
    2 第6位皇子を賜姓臣下させ近衛府軍に
    3 第6世族を「ひら族」にして坂東防衛に
    4 第4世族までを守護王位にして配置

    これが2番の第6位皇子の「融合氏の青木氏」であり、3番の皇族系の「第6・7世族の融合氏」であり、第4番の各地の天領地の「第4世族守護王の融合氏」なのです。
    第6世族で皇族・純血の枠の中に閉じ込め下族を許さなかった制度を大化期には一挙に開放している事が判ります。
    決して通説の「経済的負担」だけを主とするものでは無く、「体制維持の危機感」から「融合氏の排出」が国策として必要であったのです。
    「経済的負担」とするのならば、第6世族のままで1から4を実行すればよい筈です。何も分ける必要は無い筈です。
    現に、「嵯峨天皇」は150年後にある一定の危機が去ったとして、嵯峨期の詔勅・「弘仁の詔」でこの制度を「第4世族」を「第6世族」まで緩めているの事でも証明出来ます。


    第2策
    第1策を実行した上で、次ぎにはそれの「象徴物」を造り、そこに「民の心(不安定な心)」を引き付ける為の「産土神の考え方」を抑えて「祖先神の考え方」を象徴する物体を造る事に成ります。
    つまり、これが「神明社」なのです。
    この「神明社」の「伊勢神宮」の元と成った宮社の鎮座地は下記に示しますが、実は元々からこの伊勢松阪には鎮座していなかったのです。
    元は「自然神」の祭祀であった事から大和の皇居内に鎮座していたのです。
    しかし、崇神天皇が皇居内に鎮座する事は好ましくないとして13の国と81の鎮座地を遍歴させて90年後の天智天武期(670−675年頃)にこの伊勢松阪の位置に定めた経歴があるのです。
    とすると、この81もの遍歴は”皇居内の祭祀は好ましくない”とした通説には多少疑問が残ります。
    兎も角も遍歴地と国と年数に疑問が出て来ます。
    後漢の民が渡来した時期の第1陣は618年を境に100年間と見ますと次ぎの様に成ります。

    大量に入国した時期
    渡来開始期は後漢から魏に成った時230−35年頃
    第1陣は570−80年頃
    第2陣は670−80年頃
    阿多倍の帰化時期は645年 孝徳天皇期

    天智天武期670−675年から逆算すると90年間では580-585年から開始し、675年頃で比定地に定まったと成ります。
    経緯
    洛陽の東の住していた後漢民が唐に圧迫された隋が東に逃れ後漢の民を圧迫(高句麗遠征)し、隋滅亡期の618年頃前後に後漢の民の大難民と隋建国581年とほぼ一致します。

    第1陣の前には隋に圧迫され始めて徐々に難民として上陸した時期は10年程度と見られますが、「後漢」が「魏」に引き継がれた時期235年前後頃にも後漢の民は一部北九州に押し寄せます。

    この事から鎮座地の遍歴は何も”皇居内の祭祀は好ましくない””「適地探索」”の通説だけでは無かった事を意味します。
    つまり、高句麗遠征に依って「後漢の民」が難民として入国し、上記した国内の「産土神の考え方の蔓延」に対してこの時期から既に懸念されてい他のです。
    この対策として大和の近隣国の13の国々と80の地域に「自然神の皇祖神の祭祀宮」を建てて「産土神の蔓延」をこの地域だけには留まる事を狙って押さえにかかったのではと考えられます。
    そして、その対策の考え方が引き継がれて天智天武の「伊勢神宮を皇祖神」として正式に決め、上記する「融合氏の国策3策」を展開したのです。
    引き続き「皇位継承制度」に基づく1から4の地域を鎮座地として定め、19の地域に「神明社」を建立して、合わせて「100の神明社」の分霊を急いで建立したと考えられます。
    この間約30年間で実行したのです。
    この説からすると、合わせて「100の鎮座地」の「神明社」を「120年」(30+90)で天領地とされる全ての地域に建立した事に成ります。
    これが天智天武の大化期に於いて成された事に成ります。
    何と1年に1社の速さです。この時期の建設速度の能力からすると現在でも神社仏閣は1年程度弱と見られますので如何に早い事が考えられます。
    通説とするのであればこの様な速さと行動は取らない筈です。
    間違いなく「産土神」への危機感を抱いて「融合氏3策」(1)と「神明社建立策」(2)と「祖先神の普及」(3)を懸命に図ったと観ているのです。
    何時の世も世の中の事は通説のような簡単な事では動いていない筈です。

    ですから、この上記「3つの策」(1〜3)が政策的に連動して行われ、皇族系の「融合氏」が守護を務める全ての地域には、その象徴として「祖先神」の「神明社」を建立して行ったのです。

    ですから、「第6位皇子の5つの天領地」と「第4世族内の朝臣族・宿禰族の定住域」と「第6・7世族のひら族の配置した地域」の「3つの地域」には、前段で論じた様に強く「祖先神の考え方」と多くの「神明社」が存在する事に成ります。
    「関西全域」と「5家5流の土地」と其の周囲、「坂東域」とに多く観られ、この「3つの地域」の「氏の融合地域」(出羽・新潟等)に確認できるのです。(神明社の分布と資料参照)

    しかし、この坂東域は「坂東八平氏」(ひら族)として「融合氏」を拡げます。
    更にこの坂東には皇族の者が罪を得た時に配流先と定められていた為に、そこには「配流孫」と云う「融合氏」が発祥しているのです。
    しかし、ここには平安中期から末期に阿多倍一族一門が勢力を拡大し「坂東八平氏」の「融合族」は一時衰退するのです。
    後に、平安末期にはこの「配流孫」は最初は地域の土豪の氏名を名乗り、「嵯峨期の詔勅」が発布されるに基づき「青木氏」を名乗る事になります。
    「多治彦王の配流孫」の「丹治氏系青木氏」 「真人族島左大臣」の「配流氏の青木氏」の「2つの皇族青木氏」が発祥しています。

    前記した様に阿多倍一族一門とその支配下の技能集団の分布が出羽・陸奥の地域まで進出している事から観ても、「産土神の伝播」は西北の広範囲に及び、国土の大占有は元より感覚概念の点でも蔓延していたのです。(前段で内蔵氏−阿倍氏−安倍氏の段で論じた)
    筆者は、”関西関東域の範囲で戦略的に固める戦略戦術の作戦を先ず採って、西と北を各個攻撃で潰して行き、そして潰したところから皇族系に近い融合氏を配置し、そこに関西域と同じ様に「神明社」を建立し、「産土神」を排除して「神明信仰」を浸透させる戦略を採った” と観ているのです。
    しかし、九州域だけは国内に「荘園制の行き過ぎ問題」が起こり、「土地の私有化問題」も出てしまい、阿多倍一族一門の本領の「関西以西の神明社化」が果し得なかったのです。
    蔓延が進み、最早、「九州域の自治」を認めるしか方法は無かった状況であったのです。

    「神明社の分布」は全くこの政治的経緯のパターンに成っているのです。
    因って、建立できる状況ではなかった事を意味し、兵庫西域から九州全域に掛けて分霊による神明社は見事に全く無しであります。
    (詳細は資料参照)

    この神明社の分布域は完全に「全ての青木氏に関わる地域」(A)と「皇族系の何らかの縁の地域」(B)にあります。
    その分布数も「縁の大小」に比例しています。又、建立時期もその「縁の古さ」に比例しています。

    特に分布の低い地域の特長としては、「産土神の地域」と「阿多倍地族一門の地域」を中心とする出雲大社域、厳島神社域(たいら族)、住吉大社域、阿蘇神社域、宗像神社域、熊野神社域、八幡神社域(源氏)、春日大社域(藤原氏)の社領域に一致しています。
    この領域には当然の事として「神明信仰」は余り広がらなかった事を物語ります。

    「神明社の縁の地」
    A「5家5流皇族賜姓族青木氏24氏」
    B「嵯峨期の詔勅の皇族系青木氏と配流孫青木氏5氏」
    C「藤原秀郷流青木氏24地方119氏」
    D「皇族系第6・7世族のひら族 坂東八平氏」
    E「上記の歴史的史実の縁の地」
    F「一部の近江佐々木氏 始祖川島皇子」

    この様に其の出自に依っても「産土神」や「祖先神」に付いても、当然に”その「氏姓」の「信仰対象」が何であったか””その出自地が何処であるか”でもそのルーツがよく判る事に成ります。
    当然に、「2つの青木氏」は「独自の神明社」を持っている事に成りますので、この「青木氏の神官職」も多い事に成り、その「多さの分布」もこの「神明社の分布」に比例する事に成ります。

    下記の分霊地の神明社には「神官職」と共に、その建造に当たる「職人の襲名青木氏」も必ず存在しているのです。
    ただ、この場合は派遣する形を採るので、初期は伊勢を始めとする「5家5流の地」と「武蔵の地域」と成っていましたが、それ以外にも秋田、新潟、等にも定住しているのです。
    この「神明社分布」は「青木氏」を物語る指標にも成るのです。

    (「民族氏」=「産土神」)→(「祖先神」=「国の安寧と安定」)→(「融合氏」+「神明社」)
    「人の単位」→「氏の単位」

    上記しましたが、改めて県単位での建立地とその数を重記します。

    「神明社の分布」
    北海道 2 青森 13 秋田 26+7 岩手 11 山形 15 宮城 14 新潟 55+6
    福島 9 栃木 12+2 茨城 8+1 千葉 22 群馬 12+2 埼玉 15 東京 30
    神奈川 9+2 静岡 18 長野 13+2 山梨 69+3 岐阜 31 愛知 33 
    富山 32+1 石川 1+1 福井 8 滋賀 3 三重 5 奈良 1 京都 2 和歌山 2
    大阪 1 兵庫 11 鳥取 0 岡山 1 島根 0+1 広島 2+4 山口 1 徳島 3 香川 1 愛媛 2 高知 4 佐賀 1 長崎 1 熊本 1 大分  宮崎 4 
    鹿児島 0+3

    以上「566戸数」に成る。

    以下も前段で論じたものです。

    「分布域の分析」
    東山道−東北北陸 6県−105−18.6%
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    青森(陸奥) 13   12.4  2.3
    秋田(羽後) 26+7 31.4  5.8
    山形(羽前) 15   14.3  2.8
    岩手(陸中) 11   10.5  1.9
    宮城(陸前) 14   13.3  2.5
    福島(岩代) 9     8.6  1.6

    東山道−中部域 6県−145−25.6%
    栃木(下野) 12+2  9.7  2.5
    群馬(上野) 12+2  9.7  2.5
    山梨(甲斐) 69+3 49.7 12.7
    長野(信濃) 13+2 10.3  2.7
    岐阜(美濃) 31   21.4  5.5

    北陸道域 4県−104−18.4%
    新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
    富山(越中) 32+1 31.7  5.8
    石川(能登) 1+1   1.9  0.0
    福井(越前) 8     7.7  1.4

    東海道域 8県−154−27.2% 
    茨城(常陸) 8+1   5.8  1.6
    千葉(下総) 22   14.3  3.9
    埼玉(武蔵) 31   20.1  5.5
    東京(武蔵) 30   19.5  5.3
    神奈川(相模)9+2   7.1  1.9
    静岡(駿河) 18   11.7  3.2
    愛知(尾張) 33   21.4  5.8

    畿内域 4県−13−0.2%
    三重(伊勢) 5    38.5  0.0
    奈良(大和) 1     7.7  0.0
    大阪(摂津) 1     7.7  0.0
    京都(近江) 2    15.4  0.0
    和歌山(紀伊)2    15.4  0.0
    滋賀(近江) 3    23.1  0.0

    山陽道 4県−19−0.3
    兵庫(播磨) 11   57.9  1.9
    岡山(美作) 1     5.3  0.0
    広島(安芸) 2+4  31.6  0.0
    山口(周防) 1     5.3  0.0

    山陰道 2県−2−0.0%
    鳥取(伯鰭) 1          0.0  
    島根(出雲) 0+1        0.0

    南海道 4県−11−0.2%
    徳島(阿波) 4    36.4  0.0
    香川(讃岐) 1     9.1  0.0
    愛媛(伊予) 2    18.2  0.0
    高知(土佐) 4    36.4  0.0

    西海道 7県−13−0.2%
    福岡(筑前)1      7.7  0.0
    佐賀(筑後)1      7.7  0.0
    長崎(肥前)1      7.7  0.0
    熊本(肥後)1      7.7  0.0
    大分(豊前)1      7.7  0.0
    宮崎(日向)4     30.8  0.0
    鹿児島(薩摩)0+4  30.8  0.0
             
    北海道   0
    沖縄    0

    (+は分霊に疑問 大化期以降の神明社 県と国の違いあり 建立時期は参拝に影響する為に明らかにしていない調査不能 一部に室町末期と伊勢詣の江戸期含む可能性あり 原則室町中期までの建立物とする 建築様式から判別 祠は含まず 県域と国域は一致せず存在地優先 分霊外と支社外は含まず)

    さて、上記でも論じましたが、次ぎに再び「氏神」に付いて追記します。

    「氏神」
    「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

    実は上記した経緯の数式には一時突然に変異が起こったのです。
    実は現在までの間に、特に鎌倉期にはこの「4つの神」が混同されて同じ扱いや間違いを起こし始めたのです。(上記で論じた)
    3つ目の「氏神」は ”「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」” であるのですが、これが「祖先神」から「鎮守神」までもいれて「氏神」と呼称された一時期があったのです。
    これは平安期の「仕来り」が崩れ、「民族氏」が1018年以降に他氏との「融合」が進み、「融合氏2」(第2の融合氏)と変化し「融合氏1」との差が見えなくなった事と、多くの品部が「姓氏」と成り、中には「氏」と成って勢力を拡大した事で「氏」の見極めが困難と成った事から同じ扱いと考えられたのです。
    「融合氏2」(第2の融合氏)
    「融合氏1」(2つの青木氏)
    「姓氏」(職能集団 等)
    しかし、鎌倉幕府の政策が「平安期の社会体制」を基盤として「武家の体制」を作り上げて行った事から次第に夫々の「神」を守護神とする様に戻って行ったのです。
    そして、鎌倉末期から室町期に入ると激しい「下克上」が起こり、「姓氏族」が支配していた多くの「氏族」は平安期の中期の状態まで減少して潰されて行きます。
    「民族氏社会」−「氏族社会」−「武家社会」−「下克上社会」−「姓氏族」
    逆に家長・家人・郎党であった者等の反乱で「姓氏族」を興した一族が増えて行ったのです。
    「姓氏族」から「氏」を興した者が結局、「産土神」や「祖先神」でも家柄身分の差から「守護神」と出来ずに、結局、総称的に呼称されていた「氏神」を「3つ目の氏神」としたのです。
    つまり、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」の考え方です。
    従って、「氏」としての歴史が無い為に「独善の神」としたのです。
    この「姓氏族」が結果として大半を占めた事から既成の事実として「3つ目の氏神」が生まれたのです。
    しかし、この「神」は「時代の変化」と共に変化して行きます。

    天智天皇に依って賜姓を受けた「藤原氏」は「春日社」を定めました。
    当初、奈良期前は「民族氏」であった事から「民族性」が強く、その「信仰の概念」は血縁以前に「人」の単位で考えられ、個人自らの1の「産土神」の「神」としての位置づけであったのです。
    しかし、奈良期の大化期からは「融合氏」の初期政策が進むにつれて「氏族社会」(氏家社会)が起り、「人の単位」と血縁の「氏の単位」へと変化する過程の中で、「人の単位」と「氏の単位」とが重複融合された2の「祖先神(祖霊)」の「神」へと変化して行ったのです。以降この過程の変化であったのです。

    「人の単位」+「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」

    しかし、平安期初期に成ると、「第1の融合氏」が拡大し、それに伴って「人の信仰概念」は「民族氏」を保持する阿多倍一族一門の「産土神」の概念を遺しながらも「人の単位」の考え方が徐々に消え失せて完全に「氏・姓の単位」に移行してしまったのです。

    (「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」:氏家制度)

    平安中期に成ると「氏の単位」+(「姓の単位」)=氏家制度と成ります。
    これが新たに生まれた3の「氏神」(うじがみ)の信仰と成るのです。
    但し、民の領域では土地に恩恵を受けて生きる環境から「自然神」−「産土神」が依然として残っていたのです。
    そして、平安中期からでは「渡来人意識」、平安末期1020年頃を境に人々から「民族氏的な概念」がほぼ一部(九州南部)を残して消えて終います。
    大化期2始まった「氏の融合策」の浸透に依って「姓氏」の初期の発祥も伴い、「融合氏」が「普通の集合体」として「荘園制の拡大」の影響と共に各地に分散します。
    そして、その分散が氏の更なる枝葉の「末梢子孫の細分化」が起こり定着します。
    その定着地の土地・地域全域に対する愛着から「氏神の考え方」に観られる様に「土地・地域に対する概念の信仰」が強まります。
    大元の「氏神」が存在する中で、平安期中期頃から末期にかけて「土地の神」の4の「鎮守神」(ちんじゅのかみ)の信仰が初期の信仰として起こり始めたのです。
    そして、平安末期後半には「氏の融合」と同じく、「氏神信仰」と「鎮守神信仰」との「神の共存」と「神の融合」が起り、遂には、「神の競合」も起こる状況と成ったのです。

    つまり、「神の共存」と「神の融合」か起ると、「民族氏」の社会の中では「人」であったものが、次ぎの”「人」→「融合氏」”の変化の社会の中では、「氏」は”集団の「氏」→多集団の「氏」”の社会と成り、その中では「人」→「土地・地域」へと変化して行ったのです。

    例えば、
    「皇族賜姓青木氏」は「皇祖神−祖先神−氏上信仰」の「神明社」伊勢神宮の1つの信仰対象
    「藤原氏一門」は「春日社」の「鎮守神」と「祖先神」の2つの信仰対象
    が生まれたのです。
    これはそれぞれの「氏の持つ特殊性」が左右しているのです。
    「皇族賜姓青木氏」は5家5流から成りますが、限定された「小地域」(5)であり「融合氏」と「皇祖神−祖先神」であるが為に、藤原氏の様な「重複の信仰」は不義として成し得なかったのです。
    それに引き換え、藤原氏、特に「秀郷流青木氏」は「各地」(24)に氏を融合させ119氏とも成り、枝葉の末梢子孫が生まれたことから「自由性」「特異性」が拡大します。
    この為に「各地の事情」を含有して「重複で複数の信仰対象」が生まれたものです。
    つまり、その「氏」の置かれた「人と土地」の「環境下」では下記の「4つの信仰対象」が異なり、1や2の「古い神の信仰の温存」や「神の共存」などが起こったのです。
    その意味で藤原氏の一部には下記の様に「初期の鎮守神」を守護神とする「春日社」もあるのです。
    奈良期から悠久の歴史を持ち最大の末梢子孫を持つ藤原氏北家ならではの事です。
    その「鎮守神」の経緯について追記しておきます。

    「鎮守神」
    「現在住んでいる土地・地域の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、人はその土地・地域に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

    鎌倉期以降、「氏神」はそもそも、「融合氏」の枝葉の末梢子孫が各地で生まれ、その土地・地域に根着き、そこに「氏」の守護神と成る「独善の神」を祭祀したものなのですが、更にその「氏」の枝葉の末梢子孫が細分化されて「姓単位」の「土地・地域」に根着いた土豪が生まれたのです。
    この多くは「百姓」から身を興して土豪となった者達で、傍ら農業も行うとする今で言う「兼業姓氏」であったのです。村単位の土豪姓が生まれたのです。その為に特に「土地・地域」に拘る守護神を求めたのです。

    「姓氏」の種類
    「品部」から発祥した「姓氏」(1)
    「融合氏」の末梢集団から発祥した「姓氏」(2)
    「民族氏」から発祥した「姓氏」(3)
    (1)(2)(3)とは異なりこの土豪等が集まり血縁性の無い集団を構築します。
    「連合防衛集団」の「姓氏」(4)
    以上の「4つの姓氏」が各地で出来上がったのです。

    ”「氏」でも無く「姓氏」でも無く、百姓でも無い”とする集団が自らの農耕の土地・地域に対して「守護神」を求めたのです。これが元来の「鎮守神」なのです。
    ところが、これ等とは異なり藤原一門の「鎮守神」(2)−Aはこの各地に定住した藤原氏の枝葉の末梢子孫が守護神としたのです。確かに藤原氏の各地方の土着の枝葉の末梢子孫であり「土地・地域」の特長も持つ為に藤原氏の役職上も兼ね備えた「鎮守」を併せ持つ守護神が生まれたのです。
    秀郷一門では陸奥域に於いて「鎮守府将軍」と成って長い間赴任し、その地域に枝葉の末梢子孫を遺しますが、この関東以北の「鎮守府将軍」系列の枝葉の末梢子孫(2)−Bが「土地・地域」に拘らない本来の「鎮守神」とした「守護神」も存在するのです。
    そもそも後には、「鎮守の森の神様」と歌でも歌われる「庶民性」のある「神」なのですが、その性格から各地に分散する「小域の土地」の「鎮守神」と成ります。

    (2)−A、Bの元来の「鎮守神」と異なり、(1)(3)(4)にしても多くは藤原一門一族の何らかの大小の血縁性を持つ一部に引き継ぐ「姓氏」でありますので、その縁と絆を下に「元来の鎮守神」に小さい単位の「人・土地・地域・農耕」の「4つの思考要素」を加えた「守護神」を造り上げたのです。
    当然に、多くは農耕に携わるそれらの者達は血縁性が有っても「戸籍概念」が元より無かった為に近い範囲の親族・縁者・村人の範囲の「神」とも成る「守護神」であったのです。
    この為に「4つの思考要素」の共通点を持つ事からそれらが集まり(4)の小集団の「相互防衛」の連合組織を鎮守社の旗の下に構築する為に独自に「鎮守神」を造ると云う事も各地で起こったのです。

    ここで、初めて「自然神」が上記した様に変化して、「融合の最終の結果」は(4)の様に再び「民の神」として「産土神の考え方]に近い”人・土地に根着く「神」”へと戻ったのです。
    これ等の枝葉の末梢子孫が後には農業に関わる「庄屋・名主・豪農」と成って「鎮守神」を護っていったのです。所謂、「村の鎮守様」であり江戸期には何時しか「鎮守神」は「農民の守り神」にも成り得ていたのです。

    ここに一つ変化が起こります。
    姓氏の(1)は「産土神」
    姓氏の(2)は「祖先神」
    姓氏の(3)は「氏神」
    姓氏の(4)は「鎮守神」

    (3)の姓氏は「民族氏」が基であった為によりその出自がはっきりしません。そこでかれらはその周囲の神社の氏子として集まり「氏子集団」が結成されていったのです。
    ですから、この「氏子集団」には「氏神の氏子集団」と上記する「鎮守神の氏子集団」とが生まれた事に成ります。
    特に(3)には、阿多倍一族一門の「民族氏の末裔」と観られる「氏姓族」が多い九州地方と中国地方に限定して存在するのです。
    「古い神社」にはこの集団が結成されて「広域の土地地域」を一つのエリヤーとして(3)(1)の「氏神」と成っています。
    それらは主なものとして次ぎの大社を創り出しました。
    阿蘇大社、宗像神社、出雲大社、住吉大社、吉田神社、宇佐神宮、吉備津神社、厳島神社、等

    中には(1234)を全て兼ね備える「神」とするものも有りますが、これ等は歴史的な建立時期が殆ど明確にされていません。恐らくは室町末期から江戸期に掛けての神社と見られますので、正しい検証出来る期間を超えています。
    「鎮守神の姓氏族」と観られていても巨大豪族も中には有り、(3)(4)を兼ね備えていて「祖先神」の様に明確に線引きをする事は困難です。これ等の豪族は概ね室町末期からの族であります。
    室町末期の「武士」として観た場合は「一所懸命」の言葉通りに判断すると「鎮守神」と考えられます。

      「神明社 祖先神」
    さて、「祖先神」とする氏が限定されている中では、当然にそのルーツも明確でありますが、特にこの「祖先神」の「青木氏」に限りその氏の「氏上」と「氏人」(家長、家人、郎党)と「百姓」と「品部の職能集団」等がこの「祖先神」を「氏上の神」として集団で崇める事に成ります。
    「神明社」はこの「祖先神」の「4つの青木氏」の「氏の神」なのです。
    前段で論じた「2つの血縁青木氏」に「2つの無血縁青木氏」「(2つの絆の青木氏」)が存在すると論じましたが、この「2つの無血縁の青木氏」も「氏人 家人」として主筋の神明社を崇めたのです。
    例えば、判りやすい例として先ず一つは信濃皇族賜姓青木氏(神明社)の分家の諏訪族青木氏は、「諏訪神社」を「祖先神」としてその氏一族郎党・諏訪村民がこの諏訪神社(産土神)を守護神としますが、賜姓族の「氏人、家人、郎党」であるので「神明社」が主の守護神と成ります。
    その二つ目は「2つの青木氏」にはその「3つの発祥源」の役目を支える職能集団が存在しましたが、この職能集団も神明社を崇めたのです。

    (信濃の賜姓族系の諏訪族青木氏・と武田氏系諏訪族青木氏は、賜姓信濃青木氏の分家が2代続きで男系跡目が出来ず女系となり養子先諏訪族の系列に入った氏、その諏訪族青木氏の分家が武田氏から養子を取り同じく男系跡目が叶わず武田氏系列に入った氏が武田氏系諏訪族青木氏 諏訪族は後漢の民の馬部の末裔1400年以上 元は「産土神」 日本書紀記述)

    そこで、「神明社」は「氏」と「民」を「安寧と安定」に導いてくれる「神」ではあるのですが、そもそも”「安寧」・「安定」とは何を以って安寧・安定とするのか”と成ります。
    当時としてはその社会環境からすると、その答えは生きている者の「安寧」・「安定」とは「子孫存続・生活の安定」である筈です。現在とはこの様に少し違っていた筈です
    そうすると”その「子孫存続」と「生活の安定」とは何に依って叶えられるのか”と成ります。
    この世の生きている世界に於いてその根幹は「食」を得ずして成せるものではない筈、そうすると人の行動としては”何かを生み出しそれを糧にする事”にある筈です。
    それは上記した様に「7つの民族」に依っても上記した様に大化期前はその思考原理が異なっていたのですから、「融合民族」の日本人と成り得た平安期の嵯峨期頃では何になるのかと云う事に成ります。

    それが、”古来より天智天皇期の頃から「物造り」にあった”と考えていて、それを”「守護神の神明社」にあるとしていたのではないか”と云う事です。
    つまり、だから人は ”「物造り」の祈願を神明社の神に願いをかけていた”と云う事に成ります。
    ”果たしてそうだったのだろうか”検証してみる事にします。

    「部曲(かきべ)」等に依って生み出される産物は当然の事として、この産物だけでは「生活の安定」と云う定義には成りません。そもそも「市場経済」が未発達な物々交換を主体としていた時期の判断としては無理が伴ないます。勿論「生きる」という定義では成り立つ事ですが、これは仏教の範疇です。
    そうすると仏教の思考ではないとすると、「神」に祈願するとなると「生活の安定」と成ります。
    「自然神」の「自然の恵み」を得て得られる産物から、それを加工する「物造り」(付加価値)、つまり「第1次産業」がこれに連動しなければこの時代の定義とは成り得ない筈です。

    「生きる」−「自然神の恵み」(「産土神」)→「生活の安定」−「物造り」(「祖先神」)

    そこを天智・天武天皇が考えて「物造り」(付加価値品)を「経済生産の根幹」に据えたのです。
    それを「自然神」から生まれた「祖先神」に課せ、「大化改新」の政策の実現の為には当然に物造り(付加価値品)が必須条件でそれは上記の関係式であった筈です。

    「皇祖神」として「自然神の祭祀」を天皇家が受け継いで300年、それを”神明社で全て執り行う”と云う形に進化させて構築したのです。「自然神」を根幹とする「鬼道信仰」の「占術の御告げ」の具現化を「物造りの神」として創造して、「自然の恵み」に「付加価値」を付けて「神の恵み」が民に現実のものとして伝わるようにしたのです。ただ御告げで天候に注意して農耕だけをするのではなく、より高い「神の恵み」を「付加価値品」で与えようとしたのです。この政策の為には「豊受大明神」を伊勢大社に鎮座させる必要があったのです。
    この様に「五穀豊穣の祈願−(自然神)」と、「物造りの祈願−(祖先神)」の両方を祈祷・祈願する「祖先神−神明社・皇祖神−伊勢大社」を造り上げたのです。
    前段で論じた様に、「皇族系の融合氏・祖先神」の「各地の神明社」がこれを執り行う祭祀と一致させたのです。


    「五穀豊穣・自然神」+「物造り祈願・祖先神」=「神明社の祭祀」=「自然神・伊勢神宮・皇祖神」
    ∴(皇祖神・自然神)=(祖先神・神明社)
    以上の関係が成り立ちます。

    この時期に「祖先神」を創造した時に「皇祖神」との親子関係から「神明社」に於いて「物造りを願う行為」を祭祀の一つとして加えたのです。依って結局は「祖先神」は「物造り」と同様に政策実現の必須条件と成り得たのです。故に「桓武天皇」が以北地方に政策として「20箇所の神明社」を稚友の坂上田村麻呂に命じて建立した事を物語ります。

    故に「物造り」(政策 付加価値品)は必ずしも「自然神の農耕の恵み」と云う事には成らないのです。
    「農耕の恵み」+「付加価値」=「物造り」

    大化期では「自然神−鬼道信仰」をより具体性のある占術だけではない信仰に変化させたのです。
    「国家の信仰」としての「祖先神−神明社」で祭祀を執り行う以上は具現化の必要性があったのです。
    しかし、一方ではその「鬼道信仰」の形を遺す為に斎蔵の中に阿倍、卜部等の鬼道に関わる職能官僚を朝廷内に作り、平安期には陰陽師なる役職を残したのです。
    これは「鬼道信仰」の内容を細分化してそれを担う部署や役職や社種を造り上げたのです。要するに上記した具現化であり政策化であります。その中で最も主点であり重点を置いたのが「皇祖神−祖先神−神明社−青木氏」の役割であったのです。
    それは又、上記した天智天武の天皇の鬼道や産土神の考え方から来る危惧の政策実現でもあったのであり、信仰としても占術に頼らないより現実味のある一段上位の信仰を狙ったとも考えられます。
    この具現化、政策化だけでは「民の生活」との繋がりに欠けるところから神明社には「生活の神」を付加したのです。
    これは「豊受大明神」の御利益には「物造りに依って得られる豊かさ」と「生活の安全安心がもたらす豊かさ」の二つに分けられます。この「2つの具現化」でもあったのです。「鬼道信仰の具現化」に付いてこれ程に深化し尽くされている事に驚きです。
    それまでは「生活の安定」=「家内安全・氏の安全の祈願」は、「祖先神」の定義である”「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」”の思考原理から考えると、これは上記の関係式と一致する事と成ります。
    「物造りの神」と「生活の神」の「祖先神−神明社」の存在意義の実現にはこの思考原理に真に一致しています。

    現在に於いて各神社に於いて普通に「家内安全・氏の安全の祈願」をする習慣・感覚・概念は、次ぎの「時」に起こった習慣であった事に成ります。
    「祖先神」と「皇祖神」が創造される前はその根幹は「自然神」であるのですから、特定に「氏」や「民」が「社」を構えて各地で盛んに自由に祭祀し祈願すると云う習慣ではなかった筈です。
    それは「特定の場所」、「特定の人物」に依って代理的に一箇所で「鬼道」として「祈祷」されていた習慣であったのです。
    依って「祖先神」−「皇祖神」として明確に確立した「仕来り」として、”広域の各所で夫々の祭祀者が「祈祷・祈願」を行う” と言う形式は自然神の限定した特定の場所に於いて行う自然神と異なり「天智天武天皇の決断」に依って起こった事に成ります。
    依って、「物造りの政策」の実現は「皇祖神−祖先神−神明社」に特別に委ねた行為であった事に成ります。確かに「物造り」は前段で論じた「自然神の思考原理」からすれば自然の行為の壱物である事は否めませんが、これを発展させた政策として一つのものに確立して「祖先神−神明社」に課せた行為は自然神とは成り得ません。
    大化期には自然神から学び、その自然を活用する行為を確立して、それを宗教的理念として、更には政策として、神明社の一つの存在意義として確立させたのです。
    当時としては、前段で論じた宗教の位置付けから考えると、異常とも思える宗教目的であったと考えられます。それだけに、「民」は「神明社」に新鮮さを感じ崇め信頼したのです。
    そしてそれを各地に建立して行ったのですから、「民」はそれまでの「自然神」の延長の「鬼道信仰」から脱却し ”新たな宗教体が誕生した”として、それを観て「弥生信仰」を見放し「鬼道信仰」へと進んだ様に、更には「神明社信仰」へと「心の切り替え」を果たさせたのです。
    この意味で天智天武の政治的な政策目的は最終的には果たせたのです。

    (特記 この政策実現に関わったのが日本書紀にも詳しく記載されている青木氏の始祖施基皇子であったのです。日本書紀と青木氏の論文参照)

    そしてそれは次ぎの時期から起こった事に成ります。
    (神明社の神官に青木氏が多い事もこの事を証明出来るのです)

    「大化改新」の政策決定が成された時
    「祖先神」が創造された時
    「融合氏」が発祥させた時
    「賜姓青木氏」が発祥した時
    「皇祖神」が発祥した時
    「神明社」が建立された時
    「武家」が発祥した時
    「侍」が発祥した時

    「生活の安定」=「家内安全・氏の安全祈願」=「物造り祈願」(付加価値祈願)

    天智・天武天皇の改新の政策は以上の数式が成り立つと事を基盤にしていた事に成ります。
    そして、これを次ぎの数式の政策数式に創り上げた事に成ります。

    「皇祖神」=「神明社」=「祖先神」=「融合氏」→「物造り祈願」(付加価値祈願)+「生活の安寧祈願」


    「神明社」の祭祀の様子を観察すると、「農業」とするより「物造りを願う行為」と観られる祭祀動作が名残として沢山確認出来ます。
    その一つとして農産物・海産物の「御供え」そのものに限らず、それらの加工品や酒、味噌、醤油、中には木製加工品、鉄金属製加工品、等の地域の殖産物のお供えと祈願行為はこの名残から起こったものである事が判ります。付加価値品の表現なのです。
    (「祈祷」と云う言語はこの「鬼道」の言語の変化では無いかと考えられています)

    この様に「神明社」に於いては「自然神の祈願」のみならず大化期の政策の「物造り祈願」」(付加価値祈願)の反映が大きく確認出来るのです。
    勿論、「生活の安寧祈願」も御利益の一つであります。

    この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成り、そこにこの「皇祖神」の支社と祖先神の神明社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。
    この「皇祖神」の支社の「神明神社」、又は「神明社」が奈良期と平安期に於いて先ず何処に「分霊」されたのかを記します。(前段で論じた)
    これ等はある一定の「括り」がありその内容からまず記述します。

    これはなかなか面倒な研究で、規模から観てざっと拾い出してまとめると1万5000位あり、中には祠や併社などがあり、時代性から観てもその殆どが1500年代以後のものが多く所謂「お伊勢参り」の流行から広まったものです。
    皇祖神の神明社の「神明信仰」の広まりを観察すると、次ぎの3つに分けられます。

    奈良期
    先ず第1期は、上記した19人の第4世族の守護地に伊勢神宮の分霊を近畿圏に朝廷は行った時期の奈良期。

    平安期
    次ぎに第2期は、日本全国を統一した征夷大将軍と鎮守府将軍と太宰大監が東北、九州に掛けて日本全国を統一し其処に民衆の信仰の対象を神明信仰に求めた時期の平安期

    この二つの時期(奈良期と平安期)には合わせて他に近畿では「熊野信仰」、北九州では「阿蘇信仰」、「宗像信仰」、宇佐信仰、中国では「出雲信仰」、「厳島信仰」、関西では住吉信仰、広田信仰等も最も盛んに成ったのです。

    この「皇祖神の伊勢神宮」と「祖先神の神明社」がありながらそれをそっちのけで、近畿に起こった天皇等が毎年通い続けた「蟻の熊野詣」と称される「熊野信仰」が起こります。
    それも熊野神社の身内の勢力争いが原因して衰退し(1180前頃:原因は平家衰退)、結局は元の「お伊勢詣」での「神明信仰」が再び蘇り始めたのです。

    次ぎにその蘇りの流行を示す第3期の時期が始まったのです。

    室町期、江戸期、明治期
    その第3期は時期は更に室町期、江戸期、明治期で分けられます。
    最も広く広まった時期は「お伊勢参り」の流行から江戸期で、次ぎは室町文化の反映として室町期、そして、廃仏毀釈の影響を受けての明治期と成る様です。

    ところが、この内、「祠関係」の規模の小さいものや「併社関係」を除くと5000以下位に成ります。この5000の「神明社又は神明神社」の内、次ぎの様に成ります。

    室町期が2割
    江戸期が7割
    明治期が1割
    程度に分けられます。

    当然にこの中から鎌倉期、平安期のものを拾い出そうとするのですが、多くはその由来と創建期が明確にしていないのです。恐らくは、より古の頃からある様に見せかけ権威付ける目的から問いあせても明確にしないのです。
    しかし、そこで判らないものに付いては何らかの判別方式を確立する為に調査すると、ある程度の確立で
    「鳥居の形式」(A)や「本殿の建物形式」(神明造、大社造、住吉造)(B−1)から判別して観る事が出来るのです。
    建物は「延喜式」(B−2)であるか、その「配置形式」の違い(C)や、又、鳥居の形式は「神使」を象ったものですので初期の頃から時代毎に変化しています。この特質を読み取ります。
    その建物は主にこの「3つが目的の変化」と「時代の変化」によりデザイン化しているのです。
    この3つから判別する事が出来ます。

    さて、そうなると、青木氏との関係から時代性では奈良期と平安期のものが意味を持ちます。
    上記の「3つの要素」(A、B、C)で調査すると、全国各地の「神明社、又は神明神社」は50程度に絞られてきます。多少のエラーを持つ可能性がありますがほぼ確定します。
    この殆どは歴史的に観て、「賜姓青木氏」と「皇族青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の二つに関係する地域又は国に当て嵌まる傾向を持っています。中には青木氏と政治的史実が存在する地域にも観られます。
    この青木氏とのある傾向関係が把握できれば良いのでこの範囲で進めました。
    これに依って伊勢青木氏を始めとして全青木氏の守護目的の伊勢神宮との繋がり関係がどのように各地に及んでいたかを網羅する事が出来ます。前記した予備知識を基に其の背景を描きながらお読みください。
    当然、下記に示す主となる19地域の第4世族皇子王の守護地を含んでの事です。
    残り主要な30/80程度が藤原秀郷流青木氏との関係する地域や国に存在します。
    中にはある筈の「社や杜」が無いというところも観られますが、恐らく、室町期の下克上、戦国時代、江戸期の一揆や明治期の廃仏毀釈の騒動や第2次大戦で消失したものと考えられます。
    この傾向は上記の原因から主に現在の都会に位置する社や杜が存在する森全体が消失したと見られます。
    特に、中でも、現在呼ばれている社や杜名は「神明社」とされるところが古い傾向を持っていて、平安期のものには傾向として「神明神社」と成っています。
    これには明治期の廃仏毀釈などにより途中で変名している事も覗えます。
    その主要な50/80程度の「神明社や神明神社」には多くは伊勢本宮の「分霊社」と成っています。
    中には「支社」とするものもあります。江戸期、室町期、明治期のものについてはこの特定が困難です。

    この主要な50/80の「神明社や神明神社」の地域との政治的な由来が判り、第4世族以外の皇子の神社の「若宮神社」との関係も判り、当時の神社関係の勢力関係も表す事が出来ます。
    「神明社」と「若宮神社」の関係から平安期の「朝廷の政治性」が見えてきます。

    そこで、先ず第4世皇子族の「神明社や神明神社」関係を記述します。
    その前にそれを面白く理解する為に当時の社会慣習などを列記してみます。

    「第4世皇子族の守護地と神明神社」
    これらの第4世王の皇子王はそれぞれの生まれた土地の古代地名を採り名乗っています。
    多くはその母親の在所を名乗る習慣がありました。
    この事に依って土地の豪族(母親)の身分が判り、皇子と王の身分(順位)が確定する制度が敷かれていました。つまり、王名は「守護地」であり「古代地名」であり「身分」である事になります。
    当然にそうすると皇子と王には順位があり、その順位に依って守護地は配置されます。
    その順位は先ず第1世から第4世までとされています。
    中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新を実行する前までは第6世までを皇子王としていました。
    改新後は天皇が代わる度に起こる第4世までを皇子王とし、第5世族の皇子王はその時の皇子数のあり様で皇子王とするか臣下して皇子王扱いから外れる仕組みです。
    古来はこの考え方が規準と成っていて、上記した様に四角四面に竹を割った様に右左に分けるという感覚は当時の社会慣習から有りませんでした。ゆったりとしていたのです。むしろ、合理的、現実的な慣習が敷かれていた事に成ります。
    次にこのままでは序列が出来ませんので、その皇子王には身分の順位が決められていました。
    その時の天皇に最も近い者から、先ずは「母親の身分」により決まります。身分が同じであれば生まれ来た順序に従います。

    母親の身分は先ず4段階に分けられます。
    妻の身分
    第1位 皇后:きさき (正妻)
    第2位 夫人:つま ふじん
    第3位 妃:ひめ、
    第4位 嬪:みめ、
    第5位 妥女:うねめ (階級外の女官)
    以上です。

    しかし、現実はこの時代は「完璧な純血性を保持する習慣」ですので、第3親等以内の者が妻に成る事が殆どです。依って同族血縁の弊害の危険を避ける為に皇后から第3位の妻までに子供を設ける事に成っていたのです。
    しかし、産まれては仕方がないのでトップに定められますが、この当時は極めて乳児や子供の死亡率が高かった事から、又、血族結婚であり元々問題が多いので育たないと言う事が起こります。
    育っても殆ど役に立たない子供と成りますので扱いを敢えて皇子としないか僧侶にした様です。
    そこで、優秀で良い子孫を遺す為に、序列外の無血縁の「女官」を選んだのです。
    この「女官」と云っても全国の土豪の娘を「人質」に取ります。しかし、この「人質」も殆ど人質ではなく「女官奴隷」としての扱いです。
    これは4段階の妻の身分制度が厳然としていた為に宮廷の女人社会の掟から起こっていのたものなのです。
    そして、その「女官」もその土豪の身分の序列に従います。子供を産みますと「妥女」と呼ばれる様に成ります。従って、産まれた皇子や皇女には必然的に序列の決定的な身分が定まります。
    これにより、天智天武期に定められた皇位継承制度により4世族内で皇子は第1位から第6位までと定めます。
    そして後の第7位からの皇子は賜姓などの特別の扱いを受けません。第4位までを皇位継承権を保持しますが、その時の皇子数により第6位も皇位継承権を保持する場合があります。
    依って、第6位皇子は皇子数が足りている場合は賜姓を受けて臣下して天皇の護衛団の家柄に入ります。基本的にこの第6位皇子は第4世族までとします。
    例えば、青木氏がこれに当ります。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の長男でしたが、当時女性天皇であった事から男子皇子が居なかった事から急遽、最も順位の高い賜姓伊勢青木氏の施基皇子の2世が光仁天皇に成りました。
    特例として、第7位皇子の川島皇子も賜姓を受けて近江の佐々木の地名から取って佐々木氏を受けました。(近江佐々木氏も青木氏を研究している)

    その4世族の皇子王は次ぎの地域・天領地・主要地の王と成り、此処に「神明社」を先ず建立し「神明信仰」の布教に務めました。
    平安時代の国66の国の区割りとは守護地と異なる。

    伊勢王(三重県 松阪市 国府)、
    近江王(滋賀県 国府)、
    甲斐王(山梨県 国府)、
    山部王(滋賀県 草津−東近江−守山地方)、
    石川王(石川県−福井県 加賀−能登地方)、
    高坂王(長野県 更級地方)、
    雅狭王(滋賀県 近江−若狭地方)、
    美濃王(岐阜県 国府)、
    栗隅王(京都府・宇治市 山城国−久世郡地方)、
    三野王(長野県 国府 信濃)、
    武家王(京都府・但馬国 若狭側地方)、
    広瀬王(岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)、
    竹田王(大阪府−京都府 竹田地方)、
    桑田王(愛知県 豊田市地方)、
    春日王(福岡県 春日市地方)、
    難波王(大阪府 摂津地方)、
    宮処王(奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)、
    泊瀬王(奈良県 桜井市−朝倉地方 長谷寺)、
    弥努王(愛知県 尾張−信濃側地方)
    (三野と美濃と弥努は他の書籍では混同している)
    以上19人/66国

    これ等の地に神明神社が建立され民の安寧と信仰の基としました。
    信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から「神明信仰」を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、普及を図りました。

    そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社の大社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
    この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
    この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
    (伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)

    天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
    孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
    この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
    (日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
    このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。

    この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
    後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
    上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
    これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
    現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
    この「神明信仰」にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の「観音信仰」の伝導にも関わっているのです。
    この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。

    この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
    平安時代は伊勢神宮の「神明信仰」が始まり、後半では熊野神社の「熊野信仰」へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
    天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
    後に鎌倉、室町時代を通じて「五穀豊穣」を願って多く建立されたものなのです。
    「神明信仰」は「鶏」が「神使」で「五穀豊穣」の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし「人の癒し」を信仰対象と成っていました。

    伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
    この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、「観音信仰」の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
    その信長の徹底した「既成勢力の排除」で「観音信仰」の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで「神明信仰」の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその戦いの基点とする処の「丸山城の建設」を行います。
    「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
    「伊勢青木氏」は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
    そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
    この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷(伊勢の特別賜姓族の遠戚)は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
    家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
    そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
    それと同時に、青木氏の菩提の浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
    そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる「観音信仰」や「阿弥陀信仰」の著しい発展が起こりました。
    平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。
    以上が「祖先神−神明社」関係の補足の概容です。

    次ぎは「祖先神−神明社」を論ずる上で見逃してはならない重要な事柄が幾つか存在します。
    これらに付いては充分に研究して関する事柄がクローズアップ出来ておりません。これからの研究課題ですが、判ってきている事柄に付いて論じます。

    「古代密教との関係」
    次ぎは「観音堂」です。つまり仏教との関係のとりわけ「観音信仰」との関係に付いてです。

    618年頃に後漢が滅びその時から後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。
    その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
    これが始まりです。
    その後、この後漢の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
    この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
    更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
    この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
    そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
    次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。
    そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。
    三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
    このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
    これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
    これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って「観音信仰」が彼等に因って始まったのです。
    「神明信仰」とほぼ同時期に仏教の「観音信仰」も始まったのです。
    関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に「観音信仰」は広まります。そして、「観音信仰」と「神明信仰」も合わせて同時に伝導されたのです。
    この”「2つの信仰」が平行して進む”と云う事は「祖先神−神明社」にとって”どの様な影響を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
    そして、その「観音信仰」は青木氏に大きく関わる「古代密教の浄土宗」と発展して行くのです。前段で論じた様に「古代密教の浄土宗」の最初の信者の氏は「青木氏」といっても良い程のものです。
    奈良期の仏師で仏教伝導の祖の子孫でもある「鞍造り部止利」の作である「生仏像様」を戴く立場にあった訳ですから「仏教の正式な最初の信者氏」であると云っても過言ではない筈です。

    一方では「神明信仰の担い手」、他方では「観音信仰の担い手」と云う立場にあった事に成ります。
    両方の担い手であった事は無関係ではなかった筈で大きく相互関係を保持していた事が云えます。

    「神明信仰の担い手」+「観音信仰の担い手」=「2つの青木氏」

    この「2つの青木氏」が担う「観音信仰」は「古代密教」であるが為に「祖先神−神明社」の様な全国的な建立とまでは行かなかった筈で、「古代密教の浄土宗の分布」が前段で論じた様な「祖先神−神明社」分布には至っていないのです。「2つの青木氏」の主要定住地に分布が限定しているのです。
    この事から観ると、「祖先神−神明社」に対する関わり具合は相当とまでは行かなかった筈です。
    前段で論じた様な国策としての貢献度としては「祖先神−神明社」程ではなかった事を物語ります。
    「古代密教の浄土宗」が庶民の所までは至っていない宗教であったからだと考えられます。
    後には3大古代密教の宗教戦争が起こり、鎌倉期には日蓮宗を始めとする他宗から著しい攻撃を受けた事等があり「祖先神−神明社」の貢献度に大きく寄与したとは云い難がたい処があります。

    まして、これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の「神明信仰」と蘇我氏の「観音信仰」とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしたのですから暫くは冷却期間があったと考えられます。
    (聖徳太子の時−天智天皇)
    結局、蘇我氏の「観音信仰」が勝ち、その「観音信仰」の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある「神明信仰」を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
    しかし、「観音信仰」も朝廷は取り入れ、且つ、「神仏融合の策」をも取り入れて共に発展させ様としたのです。
    これも農耕民族の所以です。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも「農耕の神」としても位置付けて融合を図ったのです。
    物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
    (飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)

    実は「観音信仰」の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
    この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの「鞍造部止利」の作です。
    恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの{観音信仰]をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
    それを観音仏像を彫る事の出来る「鞍造部]の首魁の「司馬氏」に委ねたと見られます。
    多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
    そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に「観音信仰」の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。

    「観音信仰」の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて「六堂伽藍方式」として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
    「六堂伽藍方式」には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
    観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。

    次ぎはその毘沙門天です。
    「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
    毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
    多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。
    伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
    所謂、「六堂伽藍方式」です。

    菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
    そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった大人物が居るのです。
    それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
    この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世自治1018を任されます。
    朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
    阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事経済の3権の一切を任された人物です。
    「遠の朝廷」と呼ばれていました。
    官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
    日本の彼等が成した豊かさの為に避難民が津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
    又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。仁王像のモデルと成った人物です。
    現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
    ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
    経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
    この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
    実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。

    この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
    毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
    恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
    その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
    仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の「阿弥陀如来信仰」が起こり、鎌倉時代からは「毘沙門天信仰」(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。

    「観音信仰」→「阿弥陀如来信仰」→「毘沙門天信仰」(四天王信仰)

    そこで、前段で論じた様に、この「3大信仰」は「祖先神−神明社」との関わりとして重要なのです。
    「観音信仰」の青木氏に対して人物で血縁関係するこの「毘沙門天信仰」(四天王信仰・毘沙門天を「侍の鏡」とされた人物)の大蔵種材(9代目)の祖の後漢の渡来人・帰化人の首魁阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王・高望王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。この桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
    この光仁天皇は施基皇子の子供で長子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が特例で天皇を継承しました。伊勢青木氏はつまり、血縁的には光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。
    この「3大信仰」は、先ずは「観音信仰」は「初代の融合氏」であるので「初代の信者」であり、「阿弥陀如来信仰」は「古代密教の初代の信者」であり、「毘沙門天信仰」(「侍の鏡」)は「3つの発祥源・侍の祖」であるので上記「血縁関係の初祖」であり、何れも「皇祖神−祖先神−神明社」の青木氏がその根源と成っているのです。

    そこで、この「毘沙門天」の祖の阿多倍王の3代目後の末裔の平の貞盛が、独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに親族の立場で鎮圧しました。(藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。)
    平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。この清盛は敏達天皇の末裔にして上記した様に桓武天皇の末裔でもあります。当然、阿多倍王の子孫とも成ります。
    この事から「たいら族」は「桓武平氏」と呼ばれ、「桓武天皇」より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の「坂東八平氏」に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
    大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏や安倍氏は血縁族です。
    その祖先の毘沙門天のモデルと成ったのもこの一族なのです。
    余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
    伊勢青木氏は天正の乱の時に上記の血縁の経緯から、この伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。(然し、突き詰めると、織田氏も美濃域の「たいら族」の末裔ですので同族争いとなります。反面青木氏は「過去の絆」を守った氏であったのです。)

    「権威の象徴の危険」
    伊勢には松阪の「神明信仰」と、隣の伊賀地方には「観音信仰」が共存し、伊勢青木氏には「神明信仰と」古代密教の「観音信仰」(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
    「毘沙門天信仰」(四天王信仰)も上記の通り「侍の祖」として「祖の立場」にあるのです。
    しかしながら、皮肉にも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の「観音信仰」を推し進めた阿多倍末裔子孫に圧迫されて一時衰退します。
    (「過去の絆」を守り続ける信念の持った青木氏を同族と血縁関係社が圧迫 非条理なのか)
    「神明信仰」(イ)の上にこの「3大信仰」の「信者の氏の祖」(ロ)としての立場があり、「3つの発祥源」の立場(ハ)を保全していて、尚且つ、平安期前後の「3人の天皇」の「親政族」(ニ)としても極めて大きい立場(権威の象徴の立場)に成っていた事等を考え合わせると、律令国家建設の世界としては危険視されて一度政治の立場から、為政者達とは「過去の絆」があっても、どうしても「権威の象徴」を外す必要があって押さえ込まれたと考えられます。
    この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の「観音信仰」と、古代浄土密教の「阿弥陀如来信仰」が対立した事も原因と考えられます。
    現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起こっています。
    それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、「観音菩薩信仰」、「阿弥陀如来信仰」の密教の位置づけについて論争が起こりました。恐らくはこの論争と建立競争の宗教戦争の元と成ったのはこの「神明信仰」と「3つの信仰」に関わる「青木氏の立場」が疑問視されたとも考えられます。実はその証拠が遺されているのです。
    後に日蓮宗日蓮が、鎌倉幕府の北条執権の問いに対してこの「神明社」−「観音菩薩信仰」−「阿弥陀如来信仰」の「密教浄土宗の背景」(権威の象徴の有様と背景)を痛烈に批判している提出した文書が遺されているのです。
    (この事が原因して外国から攻められる事を予言 この文書や発言が原因して罪と成り配流 然し予言当り許される)
    この事は、平安の桓武期から「賜姓族青木氏」は押さえ込まれていたが(この「権威の象徴の姿」は政治の世界から排除されたが)宗教界では400年以上も厳然として維持していた事を物語ります。
    この事は日蓮の文書からも明らかな様に上記した「権威の象徴の立場」にあった事と「庶民」(百姓:おおみたから)はこの「青木氏の権威の立場」を容認していた事を示します。非難される立場に無かった事を物語ります。言い換えれば崇められ信頼され愛され続けた氏であった事が判ります。
    そして、更にこの事から同族の「桓武天皇等の青木氏への圧迫」は、明らかに「親政族」そのものの「政治的形の否定」(「親政族」≠「律令政治」)に対する「政治的立場からの圧迫」であった事を意味し、少なくとも「苦渋の選択」であった事を物語ります。
    現に、桓武天皇自身がこの圧迫した青木氏に代わって「神明社建立20」も行っているのです。青木氏全体の存在を否定するのであれば天皇自ら「神明社建立」は行わなかった筈です。
    又、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、その桓武天皇の「親政族を否定する政治の有り様」に反対し父子戦争を起す程に、この桓武天皇の朝臣族ではない皇族外の賜姓(たいら族)に対して反発して、再び第6位皇子を源氏として変名し直して「賜姓源氏」として戻したのです。これが嵯峨源氏です。
    これでも上記(イ)から(ニ)までの「青木氏の権威の象徴」は否定されていなかった事を意味します。
    これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下俗する際に使用する氏名として他の者の使用を禁じたのです。この青木氏が「皇族青木氏」です。
    何よりもこの直ぐ後に円融天皇は秀郷第3子の「特別賜姓族青木氏」を発祥させている事はこの「青木氏の権威の象徴」を否定していなかった事に成ります。「否定」と云うよりは「肯定」の「あるべき姿」であったのです。「嵯峨天皇」以降は「親政政治」を3回にわたり採用して政治的効果を挙げたのです。
    そもそも天智天武天皇の国策の「3つの発祥源」、「皇祖神−祖先神−神明社」、「(イ)−(ニ)の関係」から「政治の根幹に関わる役目柄」を実行している青木氏に対して政治的に排除する事が論理的に異常であり、その行為は自らの政治を根幹部分で否定している事に成ります。
    要するに”桓武天皇は青木氏を圧迫した事は政治的間違いであって、嵯峨天皇は正しかった、間違っていなかった”と考えているのです。
    たとえそれが政治的なパフォマンスで「苦渋の選択」であったとしても”行うべき行為では無かった”と観ているのです。現に、民は400年以上もその「青木氏の立場と存在」を容認しているのです。
    青木氏の自画自賛になるかも知れませんが、この平安期まで約200年も「過去の絆」を重んじて来たし、「3つの発祥源」を守り続けてきた氏が「親政族」だからと言って政治の場に口出しする氏であるかは判る筈です。
    まして、桓武天皇の自らの実家の氏に対してです。はっきり云えば”洞察力が不足する”といいたい所です。前段の”河内源氏と違うのだ”と云いたいのです。
    これらの青木氏が自ら「神明信仰」と「古代密教浄土宗」を下に伝導の手段の少ない時代の各地に「神明社」と「浄土寺」を建立し「観音信仰」等をも広げ、四天王の天神様のみを信仰する事」(四天王信仰)の基にも成りそれを広げた氏なのです。(大阪にある四天王寺はこの対象です。)

    「若宮神社」
    次ぎは「祖先神−神明社」を論ずる際に軽視してはならない重要な事柄です。
    それが若宮神社との関係です。
    祖先神の神明社、八幡社、そして若宮神社は「祖先神の3大神社」なのです。

    次ぎに「第4世族の皇族」の守護神としたと云われているのがこの「若宮神社」です。
    「祖先神−神明社」とは実はその関係に於いて重要ですが研究は余り進んでいません。
    これはこれに関係する氏や人が少ない所に原因がありますが、ただ「2つの青木氏」にとっては「祖先神−神明社」に関するところからこれを研究する氏は青木氏と佐々木氏以外にはないと考えています。
    本来は神明社と共に同じ立場での歴史的経緯を経ていなければならないのですが、史実は確定して居る訳ではなく詳しくは判っていません。
    本来は八幡社と共に若宮社も神明社と同じ立場に在った筈で、八幡社は未勘氏族に因って牛耳られた事で史実が判っていますが、この若宮社は実はシンジケートを持っていた事が判っていますので、その働きとしては影の働きをしていた事が考えられます。充分にどの様な皇族としての役割であったかは不明です。又、「不明」である事が本来の姿ではなかったかとも考えられます。

    (特記 室町中期以降には裏のシンジケートとして暗躍していた事が資料から判明しています。そのシンジケートは資料の経緯から観て駿河から以西京都までのルートと観られ、東海道線上の神社ルートかと観られます。駿河は皇子王の皇族関係者の配流先であり、秀郷一門の本領域でもあり政治的な重要な地域でありますので、 ”配流者の情報を都の摂関家に送る密命を若宮神社の神官は帯びていた”と考えられる。
    鎌倉期−室町中期としては下克上・戦乱の関東域の情報を朝廷に・室町幕府に送っていたとも考えられます。この隠れ蓑として存在していたのではないでしょうか。四国域は4世−5世族の「逃避先・逃げ込み先」として「都の情報」を送っていたとも考えられます。どうも神明社の様なはっきりした役目柄が観えて来ません。
    一応表向きは若宮を祭祀する神社であり、本質は神官は都の吉田氏等の神官官僚が勤め情報拠点としての役目を果たしていたのではないでしょうか。下記の分布域から観て更に強く感じるのです。
    熊野神社の神職の鈴木氏の様に、全国の吉田氏の分布はこの事から来ているのではないでしょうか。吉田氏の「柏の葉」と「槲の葉」の文様の家紋分析からも頷けるところです。。)

    そこでその若宮神社の信頼できる建立地を網羅します。
    室町中期以降も例外無くこの若宮神社は「未勘氏族」や「下克上」で伸し上った豪族等に依って「家柄誇張の道具」に使われたのです。

    「若宮大社との関係」
    参考
    若宮神社
    ・岩手県 盛岡市上太田
    ・東京都 北区豊島、
    ・新潟県 三条市柳川新田 燕市雀森家生
    ・山梨県 山梨市上ノ割 韮崎市
    ・長野県 塩尻丘入道
    ・石川県 金沢氏若宮 羽咋郡志賀町
    ・静岡県 清水区蒲原 熱海市網代 賀茂郡南伊豆町青市 賀茂郡南伊豆町大流 賀茂郡南伊豆町湊
    ・滋賀県 草津市芦浦町 草津市岡本町 東止江市新堂
    ・奈良県 桜井市馬場 奈良市(摂社)
    ・山口県 山口市秋穂一島 大岡市豊浦町棚 防府市佐野
    ・徳島県 徳島市沖浜町 南佐古二番町 阿南市那賀川町手島 仲多郡琴平町
    ・福岡県 柳川市西浜武 糟屋郡新宮町 糸島郡志摩町
    ・大分県 大分市木上
    ・宮崎県 宮崎市青島
    ・愛知県 北名古屋市
    ・岐阜県 飛騨市
    ・愛媛県 西予市明浜町高山 松山市河野別府 南宇和郡愛南町増田 南宇和郡愛南町手婆 須ノ川 西条市 今治市
    ・長崎県 佐世保市竹辺町
    ・京都府 綾部市上野町藤山
    ・神奈川県 川崎市川崎区大師 
    ・和歌山県 田辺市湊 伊都郡葛城町
    ・鹿児島県 鹿児島市
    (以上21県は室町期中期以前の若宮神社と観られる資料)

    一部調査した上記の若宮神社の事ですが、実は神明系の神社として各地に多いのです。
    特に有名な「若宮」とする高知土佐の神明系の神社にはどの様な由来があるのでしょうか、何かあるから天皇家・朝廷と直接に由来する殆どの県にもあるのです。
    若宮神社は「皇族系の神社」として「八幡社」と共に青木氏に関わりが有るとして少し研究した事がありますので、(その位置付けや由来やその土地にある理由など大体把握しているのですが)、「若宮」は皇子或いは皇族の子供の神社と成っている事は先ず間違いないところです。
    とすると、ここで問題が生まれます。
    それは「嵯峨期の詔勅」から皇族の者が下族する場合は青木氏を名乗ると云う仕来りから青木氏を名乗っている筈です。所謂、「皇族青木氏」ですがところが上記の場所から神社やその神社に関わった関係者に青木氏は全くないのです。これはどの様な意味を持つのでしょうか。
    矢張り、この神明系の由来に関わる神社となるのでしょうが、しかし神明社の様にどれほどに関わっていたかはこの様に不明なのです。

    「青木氏−神明社」の関わりから調べたところでは、この「若宮」の若宮神社は讃岐には特別に多い所で調べた範囲では6つの神社があります。祠まで入れると10以上はあるのではないでしょうか。(何故祠が多いのか不明 意味があると考えられる。)讃岐に続き徳島と静岡がこれに続きます。
    この事は「剣片喰族」と「州浜紋」の藤原秀郷一門の勢力の最も強かった地域ですので何かかかわりがあると観られます。
    これは愛媛・讃岐は全国に比べて段突です。しかし、神明神社は皇族信濃青木氏とその支流の信濃足利氏系青木氏の末裔が讃岐の青木氏に保護されて逃げ込んだ国の土佐だけにありますが、讃岐には特記するべきほど(1)には有りません。
    とすると、讃岐には天皇家の「皇祖神−祖先神」の「神明神社」が不思議なくらいに少ないだけに、これは、「讃岐籐氏」の藤原氏と天皇家との繋がりが強く、血縁に依って藤原北家系の皇子皇女が多い所から、とりわけこの若宮を祀ることの強い習慣があった事を物語るものではないかと思います。
    藤原北家筋の秀郷一門としては前段でも論じた様に讃岐青木氏は特別な発展を遂げますが、この背景を独自に持っていたからであると観ています。
    つまり、讃岐は「讃岐青木氏の神明社」より「讃岐籐氏の若宮社」の意向から地元讃岐は「神明社<若宮社の関係」が強かった事を示していると考えられます。
    歴史的に見て四国は、政変にて多くの皇族系の皇子筋が頻繁に逃げ込んだ歴史史実がある事を考えると、「讃岐籐氏」との何らかの強い関わりがあると観られます。
    当然、若宮の皇子と神社には藤原北家筋、平家筋、11代の源氏筋、少ないが橘氏筋等の4つの種類がありますので、中でも讃岐籐氏派がより祭祀したと見られます。
    もし、あるとすると、その証拠として、「二条院門跡」の子供等の祭る神社とも成ります。それが「二条院讃岐氏」とどう繋がるのか大いに興味が沸きます。もしかすると、「二条院」との間に出来た若宮を祭祀する神社かとも観られますのでそうすると更に讃岐と繋がります。

    現在、推測の域を越えませんが、神明神社の「皇祖神−祖先神」は天皇第4世族皇子までの守護神として扱われ、第5世以降の元皇子には、若宮(皇族関係者や還俗僧)としての守護神の神社としたのではないでしょうか。(多くは比叡山門跡院に入るが還俗した場合は若宮として四国域に入ったと観られる。)
    この様に考えると間尺が合います。配置されている土地柄を見ますと納得出来ます。確定する記録を探しています。
    (ただ江戸期以降の若宮神社とその祠はの2種は除く 「祠は」ダミーでは無いかと考えられる。)
    ただ、多くは本来の役目柄と異なり変質して「厄除けの神」として江戸時代に創建されたものが多く、創建と云う域まで達しない小さい祠の様なもの2種を除きますと、この推測に成るのではと研究しています。
    ただ若宮神社には「祠」が多いと云う事には問題がありますが、これはそ「の建造能力」と「維持する能力」とそれを支える「子孫力」とが無かった事から「祠の利用」と成ったとも考えられますが、判り次第レポートします。
    現在のところ、この2種を除いて観ると、「第4世族までの皇祖神の神明社の分布」と、「第5世族の皇族系の皇子族の若宮神社の分布」の2つは、平安−鎌倉期までのものとしては重複しているところは見当たりません。
    この事は、天智天皇は第6−7世までを皇子としていたのを大化改新で逸早く実行したのは財政難から皇族と皇位継承問題のこの改革から来ているものと考えます。
    その改革では第7世族(6世族もある)は主に坂東を守護する臣下として配置しました。
    第4世族では各地に配置するだけの人数が足りませんので、そこで6世族までを天皇が代わる度に出て来る皇族の処置として、「若宮」としての言葉で括り各地に配置して、そこに「皇祖神−祖先神」の「神明神社」に代る皇族の第5世族皇子の「若宮」の「若宮神社」としたのではないでしょうか。
    それが何時からかは判りませんが、天智天武の伊勢神社創建からそう遠くは無いのではと推測します。
    「人、時、場所」について文献などを調べましたが明確にしているものは有りませんので青木氏で関係する部分については更に研究します。
    全国殆どの県に2社から3社あり、恐らくは小さい祠も含めて100程度ある様に思います。
    現在調べただけでも70近くありますが、平安期からのものとすると20−30程度内に絞り込めるのではと考えています。
    検証の結果は上記の分布表の21県から観ると、多い順では静岡>愛媛>徳島>滋賀>山口>福岡>石川の7県と成りますが、滋賀の都を除いてこの6県は明らかに平安期から室町末期にかけて歴史的な史実から考察すると皇族4世族の逃亡先所縁の地と成っています。
    広域で観ると、

    地域  県数−社数 社/県 
    九州    5−7    1.4
    中国    1−3    3
    四国    2−11   5.5
    関西    3−8    2.6
    中部    5−7    1.4
    関東    3−8    2.6 
    東北北陸 2−3    1.5
    の21県と成ります。21県−47社と成ります。

    この県−社数のパラメータからすると次のように成ります。
    A 関東−中部−都へのラインが出来ている事
    B 四国と中国は上記の逃亡先で明確な本命地である事
    C 九州は大宰府自治と朝廷の影響地である事
    D 関西は朝廷−荘園制の未勘氏族の社である事
    E 東北北陸は秀郷一門の勢力地-朝廷の関係地である事

    この5つのパターンに明確に判別できます。
    この5つパターンから上記で論じた様な若宮社の活動が証明できます。
    この事から”「祖先神−神明社」との関係は希薄であった”と考えられます。
    表向きは別にして矢張り諜報機関の役目があったと考えられ、且つ皇族の者が政変等に逃げ込む為の朝廷の機関神社であったと考えられます。これが激しい戦乱になる前の室町中期までの役目であったと考えられます。その後は「厄よけの神」に生き延びる為に変わったと考えられます。
    以上、神明社に関係すると考えられる若宮神社に付いて雑学として参考に記述しました。

    参考 全国各地の熊野神社の神紋は次ぎの様に成っています。
    神紋 烏紋(からす)
    (神使 三本足のやたがらす紋も使用)
    神明大社と若宮神社と関係しているのは熊野大社である。
    熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。
    必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。
    依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
    それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
    それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。
    夫々の神社の歴史的な関係を調べたが、不思議な一点が浮かび上がる。
    それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。
    東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住してたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この全ての県でも云える事である。
    京都は天皇家との関係からのものであろう。
    鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
    不思議である。現在研究中である。
    ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
    皇祖神−祖先神の神明神社との関わりからであろうか。
    「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。
    これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
    矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。
    この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。
    「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。そこで同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
    その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
    これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。
    「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
    勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。
    或いは、江戸幕府の奨励もあり江戸期の「お伊勢参り」で熊野神社は押されて建て直しのために昔の藤原氏との親交から各地に熊野神社普及を面倒な正式な系列方式としないやり方で試みた事かもしれない。研究している。)

    これ等の神社には神紋と言う紋があります。これ等の神職は相互に血縁関係を結び互いに一族化を図り神社、寺社の結束を図っていたのです。
    神明社は氏神として多くは賜姓青木氏や賜姓佐々木氏、藤原秀郷流青木氏が神職を務めました。
    若宮神社関係は藤原北家一族が神職を務め、藤原氏の春日大社の氏神とを護っていたのです。

    結論から元は柏ではなく、槲(かしわ)の葉で蔓が付いていました。
    槲は関西地方に生息する茨の一種で丸いハート形をして大きさは人間の掌程度の大きさです。関西では「かしわの葉」と云えばこの葉の事を云います。この槲葉には蔓紋と同じ形の蔓があります。
    この葉は神様や仏壇等に食べる物を備える時にはこの葉の上に置いて供える習慣があります。
    この神事の名残として、5月の子供の日等にはこの2枚の葉で「あんこ」の入った柔らかい団子餅を挟んで蒸して供えたものを食べる習慣があります。
    まだ関西の高級料亭等ではこの神事の習慣が残っていて、会席料理の食べ物の下に敷く食器代わりのものとして使われて遺されています。最近都市化で少なくなりましたので苦労している様です。
    この葉の事を「さるいばら」方言で(さるびたち)と云っていましたが少なくなった事で忘れられてしまいました。関西(平安の習慣が遺されている主に紀州奈良伊勢)ではこの葉を使う習慣が多く遺されていて、柿の葉、からす瓜の葉、紫陽花の葉、あけびの葉などまだまだ沢山あります。
    従って、蔓の付いた槲なのです。しかし、鎌倉時代頃からは関東にないこの槲葉は関東に生息する柏の木の葉に成っていたのです。そして、家紋も「柏の葉」に変わっていったのです。
    槲の紋は平安の時代から丸く書かれ、柏は鎌倉の時代から細く書かれているのはこの結果から来ているのです。太紋はこの紋に成ります。この例として熱田神宮の傍系末裔の山内一豊の家紋は三つ柏の細紋です。
    「柏の葉」と「槲の葉」
    上記の習慣から太古の世には朝廷の食事を用意する夫を「膳夫」(かしわで)と云いました。
    この事から神事に御供えするものにこの「槲の葉」を使われたことから、槲の柏を「杜の神」として神聖視されたのです。
    以後、朝廷の伝統として神事にはこの葉を使用された事から、神職の家がこの槲と柏の葉を紋様化して家紋としたのです。
    「柏の葉」と「槲の葉」は「神紋」というよりは「神官職紋」と成ったのです。
    その由来は古来、神社は旅する人にとって無くてはならない旅の基点の役目と何かの非難の場所とも成っていました。その時、古来の旅の習慣として食事の皿の役目とおにぎりを包む包装紙の役目を持っていました。
    特にその手助けをする神社では宿も別の棟を作り簡易宿の提供もしていたのです。これを「・・王子」と呼びましたが、この王子では泊めるだけで手弁当か自炊でした。その為に近隣の氏子の家からおにぎりを造ってもらってこの「柏の葉」と「槲の葉」に包んでもらっていたのです。
    その経緯から何時しか「柏の葉」と「槲の葉」が神官文様と成ったのです。

    現在でも地元(関西域)の老舗の料理には「柏の葉」と「槲の葉」は料理の皿としてこの名残として使用されていて、奈良期からの古い慣習が一つの形として遺されているのです。「柏の葉」と「槲の葉」は神社と切り離せない物なのです。この事は万葉集や奈良期の歌に多く詠まれています。

    (参考 雑学として、銀杏の黄葉、烏瓜の黄葉、むかごの葉、笹、紫陽花の葉等が良く使われていた模様で、特に紫陽花の葉は虫も食べないほどに極めて強い殺菌作用が葉にあり、料理の皿代わりに使われていたのです。現在でも使われているのですが、実はこの葉を人が間違って食べると激しい腹痛を起す程に葉には強いシアン系の毒素を持っているのです。保存剤、冷却材、殺菌剤、冷蔵庫のない時代の知恵で旅には無くてはならないものでした。紀州では「なれ鮨」といって鯖寿司を殺菌性のあるアセ・暖竹笹で巻いて保存し発酵させて保存食にし旅の食料にしたものが現在も残っています。奈良の「柿の葉鮨」も同じです。
    これ等の慣習が「姓氏」の家紋にも成っていて、この夫々草木にはこの様な歴史的な意味を持っているのです。その草木の古来の特長を調べるとその姓氏の出自が判るのです。
    家紋は必ずそれを家紋とした「歴史的経緯」があるのです。それを知る事は歴史の縺れを解く秘訣なのです。それは必ず「古来の慣習」から来ているのです。この「古来の慣習雑学」を知る事が秘訣です。
    草木紋には必ずその草木の古来の由来がありその家紋の根拠と成っているのです。 家紋200選の半分は草木紋です。その100の家紋群が更には江戸初期には遠戚の者等が類似家紋として10倍位に拡がっています。)

    従って、神木の「榊」や「青木」(青木氏の「氏木」でもある)と並んで「柏の葉」と「槲の葉」は天皇家の皇祖神の神明神社の伊勢神宮を始めに、熊野神社系の神職の氏も使用するように成りました。その後これに習い、熱田神宮、宗像神宮、吉田神宮、吉備津宮等の神明系が「柏の葉」と「槲の葉」の紋を神官職紋にしました。
    伊勢神宮の宮司久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神宮の宗像氏、吉田神宮の吉田氏と卜部氏、吉備津神宮の大守氏がこの家紋を使いました。(草木の由来を知る事は氏の出自も判る)
    当初は上記の様に「柏の葉」だけではなく「蔓も付けた槲の葉紋」でした。これを元は「三つ葉槲(柏)」と呼んでいたのです。
    その後、時代が平安から関東に移りこの蔓がなくなり、今の柏の三葉紋と成りました。ですから、神職紋としては「柏紋」より「蔓柏紋」の方が古く正しい文様なのです。

    そこで、平安初期から上記したこの神官職の間では相互に血縁関係を結びました。
    神明関係の神社は当然に氏社ですので、その仕来りから自らの氏から神官を出すので大変青木氏が多いのです。
    伊勢神宮は伊勢青木氏の守護地でこの伊勢神宮を護っていた氏ですし、皇祖神は自らの氏神でありますので身内から神官職を司ったのです。各地の主要神明社の多くは青木氏で綜紋を笹竜胆紋として家紋及神官職紋を「蔓付きの槲紋」としたのです。
    吉田氏も奈良の古くから朝廷の祭祀を司る神職官僚でした。
    室町期の山内氏は熱田神宮系の傍系です。
    この柏紋を類似変紋して家紋とする氏は、これ等の末裔血縁氏が多いのです。
    山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏等あります。150位はあると思います。
    多くは江戸初期に旗本や御家人等がこの変紋を使用したのです。
    そこで、原型の「三つ蔓柏紋を」家紋としているのは当然に多くは青木氏で、朝廷神職官僚の吉田氏と、それらの神明の血縁関係のある末裔と見られる山本氏や長田氏です。
    古い氏の青木氏には、「二つ葉」と「三つ葉」の「蔓柏紋」があります。

    全国神明関係の神社は今は数えられないほどにありますが、始まりは伊勢賜姓青木氏から近江、美濃、信濃、甲斐の地に、他に19の天領地にある主要神社は多くは青木氏です。この青木氏が各地の神社と血縁関係を結んでいるのです。平安期からは特別賜姓族系の青木氏の神官職が出自しましたので、「柏の葉」と「槲の葉」の文様の他に秀郷一門の青木氏の119の家紋の神官職紋が出て来ます。
    従って、神職関係の「柏の葉」と「槲の葉」の神官職紋には「2つの青木氏」の血が流れている事が云えるのです。
    吉田氏や宗像氏や千秋氏とは恐らくはつながっている筈です。少なくとも吉田氏とは朝廷内での同じ環境下にいたのですから血縁関係はあったと考えられます。
    前段で論じた諏訪神社系(三つ立梶の葉紋 神紋)の諏訪青木氏(抱き角紋)の氏は皇族賜姓信濃青木氏の末裔ですのですので諏訪神社とも繋がりがあるのです。
    二つ柏紋(柏の葉を向かい合わせた紋 抱き柏紋)はこの抱き角紋の諏訪族青木氏と繋がっています。

    当然に蔓柏紋の藤原秀郷流青木氏ですが、この氏も赴任地の24の国に自らの氏神を持って神官職を務めていますので、もとより母方で繋がり、朝廷とつながっていますので、賜姓族の青木氏と三つ巴に相互血縁関係が成立しているのです。ですから、この藤原氏北家筋ルーツは蔓槲紋または蔓柏紋なのです。

    「繋がり」という意味からは諏訪族青木氏の宮司青木賢清(抱き角紋)は蔓柏、柏紋と神職関係で繋がっている事にも成ります。藤原秀郷系青木氏ルーツとして。
    蔓柏紋が神職関係に元あった事が確認出来れば、皇族賜姓信濃青木氏系の諏訪族青木氏とも三つ巴に繋がっていることにもなります。
    賜姓族の神明社関係の神社の神職は殆どが青木氏ですが、実は ここで重要な事があるのです。
    それは前段でも何度も関係族として論じてきました「近江佐々木氏」が、特別賜姓族の神明社関係の神職の青木氏の中でも多く、特に地域性としては関東以北に多いのです。
    566の神明社の神職を青木氏で賄う事には物理的に難しさがあったと観られます。
    経緯としては第6位皇子の施基皇子と、特別に賜姓を受けた第7位皇子の川島皇子が近江佐々木の地名から賜姓名を授けられた経緯から、又、「近江青木氏」とも同族でもあり血縁関係があるところから「賜姓青木氏族」として見なされて特別賜姓族の神明社関係の神職に補充されたのではないかと考えられます。
    実は「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋の佐々木氏の神職が多いのです。
    家紋を蔓柏紋とし「綜紋」を笹竜胆紋とする佐々木氏です。これは近江佐々木氏の系列なのです。
    先ず間違いはないと考えられます。
    (「近江佐々木氏の研究論文」の「青木氏」に関わる部分で神職に付いて同じ様な論文が記載されている)
    この「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋は藤原秀郷流青木氏の綜紋の「下がり藤紋」から神職になった時点で「蔓柏紋」に成って男系跡目に依って変紋なく、それを引き継いでいることを物語ります。

    この事から、特記すべきは「祖先神−神明社」は依って「賜姓青木氏−賜姓近江佐々木氏−特別賜姓青木氏」の関係の連携で進められていた事が良く判ります。
    この近江佐々木氏も源平での戦いでは近江で敗戦し美濃にて決戦して近江青木氏とともに衰退しているのです。恐らくは神官職であった末裔が無事に戦いから生き残り再び子孫を拡大させたのです。
    また清和源氏木曽義仲と共に戦い敗戦して衰退させています。この事から青木氏側からの研究が難しく成っているのです。

    (参考 佐々木小次郎は近江佐々木氏の出自で本家筋の者で家を再興するために旅に出た事は判っています。本家筋は現存 綜紋は笹竜胆紋 この事で良く判ります。)
    (注意 宇多天皇系の滋賀佐々木氏がある 別であるがにこの宇多佐々木氏に付いては不明)
    この様に近江佐々木氏との関係は神明社のみならず特別賜姓族青木氏と同様に関係は深いのです。

    (神明社外のこの関係に付いてはむしろ近江佐々木氏の研究論文とその資料でかなり判別している。)
    (神明神社は天照大神を祀る皇祖神で伊勢神宮が本社宮 伊勢青木氏  No706の函館の青木さんのご質問に詳細記述)

    参考

    宗像大社
    鎮座  福岡県宗像郡玄海町
    祭神 田心姫神 市杵姫神 
    神紋  梶の葉
    神格  旧官弊社
    社数  5000
    神職  宗像氏
    氏子  菊地氏
    神歴  平安中期
    関係  藤原秀郷流青木氏

    はこ崎宮
    鎮座  福岡県福岡市東区箱崎 
    祭神  応神天皇 神宮皇后 玉依姫命
    神紋  三つ巴
    神格  旧官弊社
    社数  
    神職  
    氏子
    神歴  
    関係  八幡宮

    宇佐神宮
    鎮座 大分県宇佐市南宇佐亀山
    祭神 応神天皇 神宮皇后 比売大神
    神紋 旧官弊社
    神格 尾長巴
    社数 40000
    神職 
    氏子
    神歴
    関係 八幡宮総本宮 

    さて、参考として青木氏に関わる歴史的な事として「青木氏の立場」から記述しましたが、他社の一般的な学問的で宗教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。
    本データーの採集とその検証と研究は各種の同好会の長年の計画的な協力を得てたもので、あくまでも青木氏の歴史的な立場からの研究論文です。

    青木氏と守護神(神明社)−20に続く


      [No.286] Re:青木氏と守護神(神明社)−18
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/05/18(Fri) 19:20:00  

    > 「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神−神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
    > (絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
    > この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。
    >それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます
    >
    > 「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。

    「2つの青木氏」に依る「祖先神−神明社」の建立は「河内源氏の八幡社」の独自の行動に因って全国各地に特徴ある影響を受けました。然し、神明社は確固たる信念の下に「2つの青木氏の守護神」としても「生活の神」「物造りの神」を存在意義として等しく「民の守護神」としても全国各地でどんな環境の中でも受け入れられ何時しか「総神」として崇められました。
    その神明社の建立地は「2つの青木氏」の定住地としても「完全一致の形」で成り得ているのですが、その定住地を広域で区分けして観ると「2つの青木氏」の特徴ある様々な「生き様」が観えて来ます。
    「広域定住地」、又は「広域建立地」は「青木氏の歴史を物語る域」に成り得ていてそれは次の様に分けられます。
    前段で論じた歴史的な生き様や他の論文でも論じて来た様々な事を想起して次ぎの数字を観てください。
    その神明社の日本全国の分布は次ぎの様に成ります。

    (Jの分布表)
    特別賜姓青木氏の神明社分布
    関東全域  7県−103−18.2%−本家域 

    「青木氏の歴史を物語る域」を語るには先ずこの「関東域」を語る必要があります。
    この域は秀郷一門の「第2の宗家の青木氏」(116氏)としての本領であります。武蔵入間の秀郷宗家を中心に伊豆の手前の神奈川・横浜を半径に円を描く様にその中心から青木氏本家を基点に外枠に至るところまで螺旋状に取り囲み護っていました。その為に青木氏としては他の地域に比べて定住地としての密度が極めて高く、ここから他の地域に戦略上の指揮を発していたのです。
    その面積密度の高いこの「武蔵と下野本領」(後に上野が加わる)には、その「神明社の建立」は全体の2割程度を占める程に建立されていて、藤原氏北家の守護神「鎮守神の春日社」の本領の本家域に於いてでさえ、「神明社」が深慮する事無く深く取り込まれて建立されています。
    これは「第2の宗家」である事と、「特別賜姓族」である事と、「生活の神」「物造りの神」の「全て民の守護神」である事の3つの事としても、一門の影響力の大きく及ぶところには、即ち、この関東域全域では無条件で受け入れられていた事に成ります。
    故にこの数字はこの「青木氏の影響力の範囲」、或いは「青木氏の定住地の範囲や人口密度や末裔分布力」等様々なパラメータとして使う事が出来ます。
    この様に関東域には他の域と違う特別な意味を持っていて「特別賜姓族青木氏」の「生き様の根幹」が読み取れるのです。

    (Kの分布表)
    特別賜姓青木氏−34県−418−73.8%
    北陸道域   4県−104−18.4%−北陸域
    東山道域   6県−105−18.6%−東北域
    東海道域   8県−154−27.2%−中部域
    移動先域  16県− 55− 9.7%−分布域
    (関東全域の103は418に含む)

    上記同然に、前段で論じて来た「鎮守府将軍としての赴任地域」であり、この域の「血縁域」としての「北陸道域」、その「北陸道域」から「東海道域」に繋ぐ末裔分布域の「東山道域」、「関西域」手前までの勢力伸張域の「東海道域」、それと各地赴任地24地方域に藤原氏の戦略的手法として遺して来た各地の土豪血縁族の「移動先域」の4つに分けられます。
    これ等の域は夫々に特長ある秀郷一門の「生き残りの戦略上の役割」を持っています。
    当然にその役割には「神明社建立」と云う事が大きく関わってくる事に成ります。
    他の論文や前段で論じて来た様に、その「神明社の建立数」は秀郷一門の勢力のパローラメータとしても読み取れますし、「第2の宗家」の「特別賜姓族の青木氏」の勢力分布や末裔分布のパラメータとしても読み取る事が出来ます。
    これ等の域の更に下記の県域毎の詳細な内容を観れば、各地に分布する「特別賜姓族青木氏」の勢力分布や末裔分布も読み取れるのです。

    県単位で観てみるとこの戦略の役割の大きさや末裔分布力が明確です。
    各種のパラメータ    戦略上の役割
    北陸道域は28/県  赴任地として勢力拡大の基点域
    東山道域は18/県  基点と本領を結ぶ戦略拠点域
    東海道域は19/県  移動先域と本領を繋ぐ補給拠点域
    移動先域は 3/県  前線の情報収集拠点
    関東全域は15/県  本領の戦略指令拠点
    (関東全域は北陸道域と東山道域と東海道域を結ぶ要として存在する)

    「各種のパラメータ」の数字や「戦略上の役割」の具合を下に他の事柄に置き換えて考察する事が出来ます。
    特に注目すべきは「東海道域」であり、関東域、北陸域、東山道域が如何にも調整したかの様に同率の2割弱を示す中で、段突の3割弱を示しています。これは関西域の手前の伊勢や美濃域を境に強力な防衛線を敷いていた事を示し、且つ、本領武蔵との環道を戦略的に強化していた事にも成ります。
    事程左様に様々なパラメータとしても見る事が出来ますが、賜姓族の元締めの「伊勢の賜姓青木氏」と緊密な関係保持をしていた「特別賜姓族伊勢青木氏」の置かれている立場も戦略上重要視している事が良く判り増すし、又、都京と伊勢神宮との連携戦略拠点に成っていた事が判ります。

    「移動先域」は1割で一県としてみれば前段で論じた様に「4社の神明社」/県を均等に配置していた事も判ります。恐らくはこれが戦略的に配置する一門の基準と成っていて、主要地の「関東域」、「北陸道域」、「東山道域」等にはその4−5倍/「移動先域」の戦略拠点を配置するとの基準の様なものがあったと観られます。勿論の事、為政的で政治的な戦略としても「生活の神、物造りの神」の「民の安寧の守護神」としても「神明社」を建立する基準とも成っていたと考えられます
    この「移動先域」はその県毎のデータを観ると、地方の他氏の守護神などとの関係から前線基地としての地域毎の特長があり、その建立の目的にはかなり重要性が潜んでいて前段で論じた様子が具に覗える数字と成っています。
    その「移動先域」の中国・四国域と九州域は、秀郷一門の「特別賜姓族青木氏」としての地域毎の繋がりある「戦略的な建立」は観られず、「移動先域」の前線基地的な県毎の範囲の位置に留まっています。
    下記の県毎のデータにその県毎の歴史雑学を重ね合わせて考察すると、個々の数字の持つ意味がよく読み取れます。

    (Lの分布表)
    皇族賜姓青木氏−16県−148−26.1%
    宗家主家域  5県−126−22.3% 
    移動定住域  4県− 10− 1.8% 
    二氏重複域  7県− 12− 2.1% 

    「1/4の原則の保守」
    実は上記の特別賜姓族のデータで、”4−5倍/「移動先域」/県での戦略拠点を配置する基準”の様なものがあるとしましたが、「特別賜姓族青木氏」の主要41県全域の418に対して、「皇族賜姓族青木氏」の148は凡そその「4倍弱」と成っていて、これは「皇族賜姓族青木氏」の29氏に対して「特別賜姓族青木氏」の116氏の4倍弱(1/4)と同じであります。
    この事は「神明社建立」には上記した「4社の神明社/県の基準」と合わせて「皇族賜姓青木氏」/「特別賜姓族青木氏」の「1/4の勢力」に合わせていた事が判ります。
    (412+148/566に対して九州域の6社が含まず)
    建立範囲として観ると、「皇族賜姓青木氏」の16県の内「二重重複域」は「宗家主家域」「移動定住地」とは重なる所があるので実質9県程度と成り、「特別賜姓族青木氏」の34県との比も矢張り「1/4の勢力」と成ります。
    つまり、この事から明らかに「皇族賜姓族青木氏/特別賜姓族青木氏」の関係には「1/4の勢力」であった事が判ります。やはり勢力に合わせた建立以上には建立する事は実質上無理が絡む事を考えると、この「1/4の原則」を護っていた事が判ります。

    更に、これらは実質の「神明社建立数」の%から観ても 26.1/73.8≒1/3 に成っていますが、この数字は上記の八幡社の論議でも明らかな様に「特別賜姓族青木氏」の域に於いて室町期中期以降後に合祀などの流れが起っている事から変更(7.8%)されていますので、それを加算するとここでも「1/4の勢力」(1/4の原則)が働いています。
    先ず「1/4の勢力」は「勢力」のみに留まらず全ての事柄が「勢力」に左右される事からの「原則」に成り得ていた事は間違いないと観られます。

    ところで、この「1/4の勢力」以外にもこの「1/4の原則」が一部の生活習慣の中にも遺されている様で、筆者の家の盆暮れや法事や日常生活の所作等に至るまでの様々な「仕来り」や「日常の生活習慣」にも遺されている事から観ると、この「原則」が当り前の事として日常生活の中にも良く浸透していたと考えられます。
    この「1/4の原則の仕来り」は筆者の家の歴史から観ると、明治35年頃まで充分に遺されていた事か判りますが、ところが現在では周囲には殆ど観られない「仕来り」ですので、最早、周囲習慣とは違い(違和感)が有り過ぎる事から守れない事が起っていて、又その意味や合理性や根拠が今や強く感じられ無い事から、次ぎの世代には引き継ぐ事が難しく且つ出来ない事と成っています。
    (何か要領書の様なもので ”この様な「古式所作と仕来り」があった” として末裔に先祖記録として遺したいと考えている。)
    これには周囲の習慣を具に観ると其処かしこに伊勢青木氏の我家にのみ遺されていたと観られる事から、平安当時に「何らかな基本的な思想」が働いての事と考えていて、賜姓族には伝統的に”中国の「五行思想」の様な思想があった筈”と見ていますが現在は研究中で確認は取れません。
    これは研究過程での検証誤差で「1/4の原則」と成っているのか「五行思想」の「1/5の原則」であるのかは確定できないのですが、「青木氏の思考原理」としての「祖先神−神明社」をパラメータとして観ると、その様な「1/4の原則」の関係を恣意的に構築していた事が判り、又、勢力に沿って無規則に「神明社建立」を実行していた訳では無い事が判ります。
    「生活の基盤」の基と成っている「祖先神−神明社」の考え方からもたらされた「1/4の原則」であると考えています。

    (特記 「五」を超える事は思想的にタブーとして敢えて「四」に抑えていた事も考えられるが、古来の皇室の格式習慣として、例えば、”皇位継承権は4位までとし6位は継承権外と明確にし、その間の5位は4位に近くしながらもどちらにも属する”とする「皇室の格式慣習」が奈良期から平安期まであった事から考えると、又「皇族賜姓族」であった事からそれに従っていたと考えられ、又その一部が「祭祀や所作」の中にも遺されていたと考えられ、故に「1/4の原則」は正しいと考えている。
    又、皇族枠の点でも4世族と6世族はこの「仕来り」に沿っている事等、公家は「有品の制」でも従4位と従5位にはこの4と5との原則が働いている事、官位官職勲功叙勲に関してもこの4の原則が働いている事等からも先ず間違いは無いと考えています。
    「青木氏の生活習慣の仕来り」の「1/4の原則」の「根拠の口伝」は当り前の事としていた事からか慣習や仕来りは多くのところで遺されているが、正式な「根拠の口伝」は「青木氏家訓10訓」の様には無く確認出来ない。
    これは恐らくは、これ程に遺されているところを観ると、「青木氏の格式」で、つまり「令外規則」の「要領書」の様なもので、下記の「三大格式・三大儀式」に習った「賜姓族格式・儀式」であった事が考えられる。
    「2つの青木氏」はこれを守っていた事が考えられ、上記の「河内源氏」は守らなかった事に成り生き残りの手段としてその差が出た事に成る。)

    (「格式」とは令外規則の一種の要領書の事  大化期の律令の基と成った施基皇子が編集した「善事撰集」や桓武期の律令完成を法令補足する為に作られた嵯峨期の「弘仁格式・弘仁儀式」を始めとして「貞観・延喜式目」の等の「三大格式」や「三大儀式」がある。日本独自の法令形式)

    この生活の中まで浸透していた「4−6の原則」「1/4の原則」「4の原則」は、「青木氏の賜姓族」に密かに脈々と引き継がれて来た「仕来り」であった様で、「氏を構成する平安武家」に引き継がれていたかは「下克上と戦国時代」で殆ど滅亡してしまった為に定かでは無いが多少の伝承があったと考えられる。
    尚、賜姓族の「2つの青木氏」は神明社の観点からこの「1/4の原則」の慣習に従っていた事から観ると、秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏」は秀郷一門一族(藤原氏北家)の「第2の宗家」の役割を果しながらも「賜姓族側の立場」をより強くしていた事を物語ります。
    「祖先神−神明社」の考え方から来た「賜姓族の行動規範」であってこれを守っていたからこそ等しく「民の信頼」を得ていた事の基に成っていたと考えられます。
    故に秀郷一門は「特別賜姓族青木」に「賜姓族」として一目を置いていた事が判りますし、前段の「瀬戸内の純友の問題」でも論じた様に世間も信頼し一目は置かれていた事を物語ります。

    言い換えれば ”必要以上の勢力拡大は反って逆効果である” として考えていた事であり、清和源氏のの「河内源氏」の様に無制限の勢力拡大をしたのでは無く、「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守り着実にある範囲に留めて勢力拡大に努めていた事も判ります。(個々に生き残りの大きな違いがあった)
    と云うのは、「皇族賜姓族青木氏」は「3つの発祥源」としての範囲で武力を使っての勢力拡大は所詮のこととして無かったのですから、従って、「特別賜姓族青木氏」はその「4倍程度の勢力」の範囲に留めていた事が適当と考えていた事が判ります。
    秀郷一門が拡大するに連れてその範囲を管理していた事を意味します。
    「皇族賜姓族」が持つ組織力が成し得る統率を超える勢力拡大は無かった事を意味し、それは同時に「特別賜姓族」の勢力の抑止力を超えるものでは無かった事と成り、もう一つの抑止力の「伊勢−信濃シンジケート」も「2足の草鞋策」の範囲を超えるものでは無かった事に成ります。
    これ等は「1/4の原則」に意識して沿っていた事が判ります。

    「1/4の原則関係式」
    青木氏の勢力拡大≦賜姓族の組織力≒「1/4の原則」←「賜姓族格式・儀式」
    青木氏の勢力拡大≦特別賜姓族の抑止力≒「1/4の原則」
    伊勢−信濃シンジケートの抑止力 ≦「2足の草鞋策」≒「1/4の原則」
    ∴「賜姓族の組織力」 ≦特別賜姓族の抑止力」×「1/4の原則」 

    比較対照として ”氏が生き残れるか否かの違い” は前段の「河内源氏」の中にこの様な原則が存在したかは定かでは無いが、「荘園制と未勘氏族との武力を背景とした関係」から観て無かったと考えられ、伸びるだけ伸びた様な「生き様」であった考えられます。
    青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守らずに居た事が、これが前段で論じた”賜姓族にあるまじき姿”であって、 ”「賜姓族扱い」では無かった時期の姿を何時までも引きずった事から来ている”と考えられるのです。
    源氏の名義だけを借りた「未勘氏族」にはこの「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)が無かった彼等に、更にその上に「清和源氏の賜姓未了の時期」に引きずられてしまったとも考えられます。

    これは「たいら族」にしても「拡大する武力」に対してその裏付として「2足の草鞋策」を講じ戦略的には意識してバランスを採りながらも、「武力」に於いては”伸びに伸びた事”が滅亡を招いたと考えられます。
    「伸びる事」を背景に無意識に「奢る態度」が必然的に生まれ、”平氏にあらずんば人にあらず” と世間から云われた所以では無いかと考えられます。
    阿多倍一門で、且つ同じ「賜姓族の敏達天皇系」の「たいら族」にも「賜姓族格式・儀式」なるものが無かったと観られます。

    前段で論じた様に「2つの青木氏」の原則に類似するものとして「ある程度の原則」は保ちつつも”奢れる者久しからず”の部分に引き込まれた滅亡であったと考えられます。
    この引き込まれた原因は、”「諸行無常の世の条理」にあがなう事無く、知らず知らずの内に「河内源氏の生き様」に引きずられたものであった”と考えられます。
    そう観ると、源平と同じ厳しい時代に生きた我等の先祖の「2つの青木氏」の「1/4の原則」に従っての「生き様」はすばらしいものであった事が云えます。
    普通であるならば「源平」と全く無関係の立場には無かった訳ではないのですから、むしろ極めて近い立場にあった筈で、「諸行無常の世の条理」に引き込まれていた事は間違いない筈で、そうで無かったのはこの「1/4の原則」を懸命にして護っていた事ではないかと考えているのです。
    ただ”偶然に生き残った”とするものでは無く「青木氏家訓10訓」と同じく「生き残りの戒め策」が「2つの青木氏一門」に働いていた事に成ります。
    恐らくは、「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門と云う組織で護られていた事も別の面で強く働いていた事もありますが、特に「賜姓信濃青木氏」や「賜姓甲斐青木氏」も厳然として本流、支流がと生き残っている訳ですから、「賜姓伊勢青木氏」との「1/4の原則」で緊密に結ばれていた事が云えます。
    前段でも論じた、”出る釘は打たれる、地に竿させば流される等”の例えの通り、これを「1/4の原則」で以ってぎりぎりの所を維持させていたと考えられます。
    ”出る釘は打たれる、地に竿させば流される”等だけでは、むしろ消極的に成りこの”厳しい近い立場”の中では生き残る事は逆に困難であった筈です。
    必要以上に消極的で無かったのは、真に「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」を堅持していた事でも明らかです。
    そうすると、この「1/4の原則」は 上記の”厳しい近い立場”に加え、前段の「2つの青木氏」の難しい立場、即ち「3つの発祥源」の立場に対して、この「2つの立場」の「2つの限界」を護る法則であったのです。
    この上記の「2つの限界」(「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」)と「1/4の原則関係式」を護る「心の支え」が「祖先神−神明社」に置いていたからこそ「青木氏の思考」をコントロールする「1/4の原則」を護り得たと考えているのです。

    「青木氏の生き様関係式」
    「2つ源平勢力」<「2つの青木氏」>「諸行無常の世の条理」
    「2つの青木氏」=「2つの立場の2つの限界」
    「2つの立場の2つの限界」=「3つの発祥源」+「2足の草鞋策」+「2つの抑止力」
    「2つの青木氏」=「1/4の原則」+「祖先神−神明社」

    さて、次ぎに皇族賜姓族青木氏の「宗家主家域」は何度も論じている近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域で5家5流青木氏の主家域で、夫々は国府を中心として拡がっています。
    そして、土地の豪族との血縁賜姓族の近江の佐々木氏系青木氏、美濃の土岐氏系青木氏、信濃の足利氏系青木氏、諏訪族系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、の支流族があり、夫々定住域を血縁氏側の国境方に拡げています。
    美濃であれば西側の尾張域、信濃であれば北側の越中−越前域、西側の諏訪域、西域の尾張域、甲斐であれば東域と北域、諏訪族は東側の武蔵域に分布地を拡げています。
    この地域の県域の分布域には神明社が必ずその末裔証拠として存在します。

    (特記 比較的歴史的には不思議に知られていないが、事実は「信濃足利氏」は陸奥の斯波氏系足利氏で足利氏拡大の中心と成った足利氏で幕府を開いた関東の下野足利氏より勢力拡大とその貢献度は伯父に当る斯波氏足利氏の方が大きかった。室町期には11の国を治めたが「信濃足利氏」がその最大勢力を誇った。この信濃には斯波氏系足利氏のその血縁族は多い。
    信濃諏訪族には甲斐諏訪族武田氏系青木氏があるが賜姓族ではない。足利氏系青木氏の一部は足利氏本家と秀郷宗家との血縁して後に主導権争いに破れ越前−米子−八頭に同行して末裔は移動定住した。斯波氏の足利氏は室町幕府衰退と共に衰退した。織田氏の主君に当る。)

    「皇族賜姓青木氏」の「移動定住域地」は室町期中期までには西から・日向、土佐、・米子、八頭、・摂津、滋賀、越前、・越後、美濃、尾張、・伊豆、相模、下野、上野、武蔵鉢形、陸奥の北域(青森県北域)が記録として移動が確認出来る地域でありますが、移動して神明社を建立し末裔を大きく遺したとする主な移動定住域は・印の4県であります。(室町中期前の記録)

    「二重重複域」は「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」の同士の血縁融合域でありますがこの地域にも神明社が建立されているのです。
    ・近江、・摂津、・伊勢(四日市)、土佐、・美濃(桑名)、・伊豆、・相模、武蔵(入間)、武蔵(鉢形)、・越後(新潟)以上の地域に「青木氏融合氏」が定住していますが、古くから神明社と末裔子孫を大きく明確に確実に遺しているのは・印の7県域です。。(室町中期前の記録)

    (但し、室町中期までの移動先域でこれ以後混乱期に入る為にデータとしては信頼性は寛政記録や家紋分析等から「第3青木氏の発祥」などがあり信頼性が低下して割愛するが上記の地域から歴史的経緯に基づいて拡大を見せている。)

    これ等の個々の地域の「祖先神−神明社」の実情は次ぎの表から読み取る事が出来ます。

    (Aの分布表)
    「神明社の県域順位表」(八幡社と対比)
    神明社の分布(県域分布/全国比) 八幡社の差  分布域の圏域     八幡社順位 順位差
    1 山梨72  −12.7%       −69  2つの青木氏の圏域      29     28 
    2 新潟61  −10.8%       −58  2つの青木氏の圏域      37     35 
    3 東京30  − 5.3%       − 1  秀郷流青木氏と源氏の圏域   2    − 1 
    4 愛知33  − 5.9%       −19  秀郷流青木氏と源氏の圏域   5      1 
    5 富山33  − 5.8%       −28  賜姓青木氏の圏域       24     19 
    6 秋田33  − 5.8%       −30  秀郷流青木氏の圏域      35     29 
    7 岐阜31  − 5.5%       −19  賜姓青木氏の圏域        8      1 
    8 千葉22  − 3.9%          1  秀郷流青木氏と源氏の圏域   4    − 4 
    9 静岡18  − 3.2%       − 6  秀郷流青木氏の圏域       7       2 
    10埼玉15  − 2.7%       − 6  秀郷流青木氏の絶対圏域   11      1 
    11山形15  − 2.7%       − 8  秀郷流青木氏の圏域      17      6 
    12長野15  − 2.7%       −13  賜姓青木氏の圏域        41     29 
    13栃木14  − 2.5%       − 3  2つの青木氏の圏域        9    − 4 
    14宮城14  − 2.5%       − 7  秀郷流青木氏の圏域      19      5 
    15群馬14  − 2.5%       − 9  秀郷流青木氏の圏域      36     21 
    16青森13  − 2.3%       −10  秀郷流青木氏の圏域      34     18 
    17神奈川11 − 1.9%          1  秀郷流青木氏と源氏の圏域   6    −11 
    18兵庫11  − 1.9%         13  清和源氏発祥地と賜姓青木氏  3    −15 
    19岩手11  − 1.9%       − 7  秀郷流青木氏の圏域      28      9 
    20福岡9   − 1.6%         30  八幡社発祥地と秀郷流青木氏  1    −19 
    21茨城9   − 1.6%       − 2  秀郷流青木氏の圏域      20    − 1 
    22福島9   − 1.6%       − 7  秀郷流青木氏の圏域      44    −22 
    23福井8   − 1.4%       − 5  賜姓青木氏の圏域        38      15 
    24広島6   − 1.1%       − 1  秀郷流青木氏(讃岐)      23    − 1 
    25三重5   − 0.8%       − 4  皇祖神と神明社絶対神域    47      22 
    26宮崎4   − 0.7%          2  皇祖神 天岩戸神社神域    22    − 4 
    27高知4   − 0.7%       − 1  賜姓武田氏系青木氏      33       6 
    28鹿児島3  − 0.5%          6  源氏未勘氏の阿蘇大社神域 13    −15 
    29徳島3   − 0.5%          0  秀郷流青木氏(阿波) 30      1 
    30滋賀3   − 0.5%       − 1  賜姓青木氏と源氏圏域     42     12 
    31石川2   − 0.3%       − 1  賜姓足利氏系青木氏       46     15 
    32愛媛2   − 0.3%          7  清和源氏未勘氏の圏域     12    −20 
    33北海道2  − 0.3%          7  清和源氏未勘氏の圏域     14    −19 
    34和歌山2  − 0.3%          6  清和源氏の圏域          16    −18 
    35京都2   − 0.3%          2  神明社の絶対的神域       27    −12 
    36大阪1   − 0.1%         10  賜姓源氏の圏域          10    −26 
    37山口1   − 0.0%          8  清和源氏の圏域          15    −22 
    38大分1   − 0.0%          6  清和源氏未勘氏の圏域     18    −20 
    39香川1   − 0.0%          5  秀郷流青木氏(讃岐)圏域    21    −18 
    40岡山1   − 0.0%          3  秀郷流青木氏(讃岐)圏域    25    −15 
    41島根1   − 0.0%          3  出雲大社絶対的神域       26    −15 
    42長崎1   − 0.0%          2  宗像大社の神域          31    −11 
    43熊本1   − 0.0%          2  阿蘇大社と宗像大社神域    32    −11 
    44佐賀1   − 0.0%          1  宗像大社神域           40    − 4 
    45奈良1   − 0.0%          1  神明社の絶対的神域       43    − 2 
    46沖縄1   − 0.0%          0                      45    − 1 
    47鳥取0   − 0.0%          2  出雲大社の神域          39    − 8
     (神明社566社)       (八幡社354社)

    「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」(「5つの連携した関連要素」)
    ここで改めて上記の表から歴史的に観て特筆する圏域があります。それは九州域であります。
    福岡9、長崎1、大分1、熊本1、佐賀1、宮崎4、鹿児島3でありますが、「特別賜姓族青木氏」としては末裔が福岡9を中心に、長崎、大分に拡がっています。末裔も神明社分布の程度であります。
    「2つの青木氏」「祖先神−神明社」として、その建立域は特別な地位でありながら確実に古くからの建立根拠を持っているのです。然し、薩摩域3と日向域4は異なるのです。ここは改めて論じる事とします。

    故にそもそも上記の経緯から論じた様に「神明社」は、「皇祖神」と「祖先神」の役割が「親子の関係」にある事から、その立場が何処の地域でも繊細で微妙で重要な処を保持しています。
    そして、それが矢張り「神明社−2つの青木氏」を意味するものである事なので、それに繋がる史実が無ければなかなか以下のこの薩摩3と日向4の様に説明がつき難い事に成るのです。
    今までの経緯から「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」の「5つの連携した関連要素」が成立しないと証明や説明が出来ない事に成ります。
    前段でも論じ、又、他の論文でも論じて来た長嶋氏(ルーツ掲示板の九州長嶋氏のお便りも参照 長谷川氏も含む)が南九州で大きく出自している事が歴史的になんらかの唯一の繋がりでありますが、青木氏と長嶋氏や長谷川氏等の主要5氏が建てると成ると上記の戦略上の範疇から外れて「神明社」では無く「春日大社」が優先される事に成りますので難しい事と成ります。
    確かに、日向4は「日向青木氏」として「神明社」か「八幡社」に繋がる歴史的史実がありますが、神明社を2社の説明が就くとして残りの2/4社を建立すると成ると相当強い関係がなくては成りませんし、前段で論じた様にそれ程建立する勢力は日向青木氏には無かったのです。

    (特記 日向青木氏の経緯由来は、源頼光の4代目源三位頼政の孫で、仲綱の子の長男宗綱と次男有綱と伯父の高綱は、伊勢賜姓青木氏の跡目に入った三男京綱が伊賀平族に助命嘆して、平清盛に特別に許されて日向に配流となった。その地元廻村の廻氏に匿われ廻氏との子孫を遺すが再び日向警護の平族に挑み敗戦、その後、「薩摩大口村」の寺まで落延び、そこで住職の勧めで「嵯峨期の詔勅」により伊勢青木氏族を名乗り生き延びる事が出来た配流孫で、後に九州諸藩の農兵として生き延び「日向青木村」を形成した。1100年頃はある程度の勢力を保持したが薩摩の台頭で完全に衰退した。確かに伊勢青木氏の系列の賜姓族で「神明社族」ではあるが「神明社」を創建し維持管理するその勢力はなかった。大きく現存する)

    (参考 日向青木氏は次ぎの地域に青木村を形成した。現存)
    現在は鹿児島県北伊佐郡大口村・山野村・羽月村 の三村大合併した。
    その大口村は更に次ぎの8村が合併した。この中に上記の青木村がある。
    (大口村 ← 「青木村」,里村, 原田村, 大田村, 牛尾村, 木ノ氏村, 目丸村, 篠原村)

    「日向の神明社4の考察」
    そうすると、青木氏外に平安期の朝廷が「心の神」と「生活の神」「物造りの神」として建立したと考えるにも無理があります。ただ日向4の内の1社が年代は確定出来ないのですが平安初期前後頃の建立ではないかと観られる神明社です。
    残りの神明社2社(天岩戸神社は除く)に付いて、日向の土地は「天皇家の皇祖神」に取って所縁の土地でもありますが、これに関係する何かの建立と観ることも考えられます。
    「皇祖神の伊勢神宮」の分霊支社等の要件があるのかを調べましたが、何しろ南九州は資料の遺産と発掘が少ない土地柄であって困難を極めているのです。
    この日向2社はこの「神明社1」が原因して分社したとも考えられますが、果たして誰が維持していたのかも現在までも判りません。

    [天岩戸神社(1)]
    そこでこれ等の解明は先ず日向4に対してその糸口とも成りますので4社の一つの[天岩戸神社]を考察をしてみます。
    下記にその日向地域の神明社4を列記しましたがこれを調査すると次ぎの様に成ります。
    云わずと知れた「天岩戸神社」は「天孫降臨」による地の「天皇家の神社」(国社)ですので先ずこの一つは外れます。
    そこで、此処には「西本宮」と「東本宮」とがありますが、「西本宮」がこの「天孫降臨」の神社ですので、朝廷は、”この域には建造物成るものを建ててはならない”とする飛鳥の古来からの掟があります。
    然し、この地の豪族の「大神族」が”夢のお告げにより建てた”とする神社があり、これを地元では「東本宮」と呼ばれています。
    神社本庁は宮崎県西臼枡郡高千穂町にある「西本宮」のみを「天岩戸神社」、正式には「天磐戸神社」としています。この「天岩戸神社」では無い事は間違いありませんので残り3つの神明社です。
    (「大神族」の「東本宮」と呼ばれる神社に付いては下記で関係する部分が詳細に出てきます。)
    ところが、この同じ高千穂町にもう一つの神社があります。
    それは「高千穂神社」(2)と呼ばれています。

    [高千穂神社(2)と大神氏]
    この「高千穂神社」は別名「十社大明神」と呼ばれています。この神社の祭祀する神は「神武天皇」の兄の家族10人を祭る「皇族神社」、つまり「神明社」です。
    この10人を以って「十社大明神」と呼ばれているのです。この神社は神社本庁の記録の「別表神社」に登録されています。
    「皇祖神」の「伊勢大社」系列の神社の「神明社」としては登録されている事を意味します。
    ところが、ここで検証すべき問題が有ります。
    この「高千穂神社」(2)にも上記の「天岩戸神社」の「東本宮」と呼ばれる神社を建てたと主張する地元土豪(豊後の大野郡)の「大神氏」がこの「高千穂神社」をも”管理していた”と主張しているのです。
    その人物が「大神太夫惟基」だと主張しているのです。
    さて、問題はこの豊後(日向)の「大神族」なのですが、氏発祥は地元の「地理纂考」の経緯より11世紀始め頃発祥した「姓氏」です。(大神氏は8世紀だと主張 疑問)

    つまり、この「姓氏」は家柄を良く見せる為に過去に遡って系譜の搾取偏纂をして良く見せる様に造り上げた事で、それを現実化させる為に「天岩戸神社」の近くに掟破して「東本宮」を”夢お告げ”として掟を犯して建てて於いて信用させ、「高千穂神宮」をも如何にも「氏神社」の如く後(平安期末期)で仕立てた事になります。
    これには矛盾があって平安期の末期の後の彼等の記述によると、「高千穂神社」を”建立した”とは明確には云っていないのです。”管理していた”と主張する部分もあり不可解な表現をしているのです。
    もう一つは、「神明社」は「祖先神」で「青木氏か源氏」の「皇族賜姓族」か「特別賜姓族」の「朝臣族」しか建立する事は無いのですが、平安期の認証の「氏族」ではなく「姓氏」族であり、その「姓氏族」の豊後の土豪大神族には有り得ない事なのであります。
    この為に「明治期の宗教改革(廃仏毀釈、神仏判然令等)」の混乱期の中で、明治政府は神社関係の整理を行った際に、この「高千穂神社」を「別表扱い」として「神明社」である事を判りながら、彼等の社説の言い分を聞き入れ「天岩戸神社」の「東本宮」と伴に「高千穂皇神」(後の高千穂神社)を上記する「氏神」の「氏社扱い」の中に組み込まれてしまったのです。

    [高千穂神社の3説]
    ところが、この神社の明治初期の整理の際に調べると書かれていた社歴にも”創建は1200年前”と書かれていて、そうすると812年頃と成ります。
    そこでこの「高千穂神社」の説には次ぎの3つがあります。
    A 垂仁天皇期創建−紀元前の神代の時代の天皇家の説
    B 地元実話を基にした「続日本後記」「三代実録」より引用した10世紀後半頃の大神族創建説
    C 神社資料古物の研究機関の分析より明治期1200年前の創建説
    以上の3説があり現在はC説の1200年前説が有力 

    特に「大神説」の大神氏と神社が主張する社説に依れば、「高千穂神社」も「天岩戸神社」と同じの「天孫降臨の社」ともあり「天岩戸神社」だけであるのに矛盾します。
    更には「東本宮」と呼称させたものは812年創建と主張して於いて、「高千穂神社」では947年頃創建としていて、”この氏は何時の発祥なのか”と成り矛盾しています。
    もし812年とすれば700年頃にこの氏は既に存在している筈ですが史実では存在していません。
    つまり「神明社」である事を認めながらも”管理者が大神氏であるかも知れない”として「氏神」の「氏社扱い」になり、神社本庁の「社格」は「別表扱い」とされ「東本宮」が「氏神社」(姓氏族)であるので「高千穂神社」も「氏神」とされてしまったのです。
    現在でも「東本宮」は余り知られていないのですが、「大神族」は自らの資料に812年に建立したと主張しているのですが、これがもしそうだとすると矛盾が起こります。
    812年とすると大神氏はこの次期には「姓氏」は全く発祥していません。依ってそれはそれなりの「姓氏族」では無く立派な由緒ある「氏族」と成りますので、当然に朝廷の「八色の姓の制」から日本書紀などの書物には認可された「氏」として明らかに出てくる筈ですが、当時の豊後(日向)の豪族にはこの氏は記録にはありません。
    (後の搾取偏纂で多くの知識を誤った)
    まして、当時は「大蔵氏」や「肝付氏」の大勢力圏でもあり、ここは朝廷の5大官僚の一つ「伴氏」の「弁済使」の勢力圏に入っていましたのでこの時代には「大神族」は有り得ません。
    結局、この明らかな矛盾から健在の「高千穂神社と天岩戸神社」の公的機関の研究からこの「大神族」は11世紀初頭の「姓氏族」である事が判明しています。(筆者の調査でも11世紀初頭)
    このことから結局、豊後の大神族(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)が「高千穂神社」であるとすると「神明社」で無い筈であります。しかし”「十社の明神」を祭祀する神社である”としています。これも矛盾しています。
    そこで明治初期では神社本庁は「祖先神」ではなく「氏神」としたのですが、祭祀する神は皇族の十社ですので「皇祖神系列神明社」と成り明らかに矛盾します。
    「高千穂神社」と「大神族」とをいろいろな資料の一説を引き出して結び付けて強引に作り上げた矛盾した自説である事が良く判ります。

    「高千穂神社」も”「創建した」”と一方で示し、一方では”「村の守神」と崇めた”と記述していて、そしてその表現の言質を左右できる様に工夫している矛盾説であります。
    中には「豊後大神氏」は「平家物語」に記している「緒方氏の祖、(緒方惟栄)」としていますが、ところが大和に全く別の由緒ある古氏の朝臣族の「大和大神氏」(おおみわし:「氏族」)があり、又、大和緒方氏もありこの家柄とを錯誤させる様に家柄を上手く利用しています。

    11世紀初頭の「大神族」(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)には、「筑前青木氏」までの不明期間100年から150年の間の歴史的空白期間を搾取偏纂により上手く利用され狙われたと考えられます。
    利用された理由の一つは「青木氏か源氏」の存在がこの日向の神明社だけには唯一無い事であります。
    その間100から150年の間は地元に派遣された累代の官僚族により維持されたからであります。
    この事は3説ともに期間の間の維持管理は認めています。
    (累代官僚による維持管理を認める事は「式内社」である事を認めている事に成りこれ又矛盾する)
    この事に付いては記録が多くあります。
    10世紀後半からの一時期はこの九州3国地域の神明社と伴に藤原一門とその青木氏が管理(寄進して補助行為)した事、鎌倉時代以降には頼朝も寄進したと記録が多くある事、歴代の知行藩主或いは領主の管理と伴に多くの豪族の氏からも少なくとも寄進にて賄われていた事は明記されている事等の資料史実からも確実です。この事は止む無く彼等が主張する社説も認めています。
    これを認める事がそもそも矛盾する所です。
    室町末期以降から江戸末期には土地の延岡藩等の歴代藩主等が、「天岩戸神社」と同じく由緒あり庶民からも尊厳されていた事もあって、これを認めて引き続き管理していた事が明記されています。
    (明治以降は結局は余りの矛盾のために神社本庁の「別表扱い」と変更され最終は寄進で管理維持となった)
    豊後大神族の社説は矛盾が多いことが判っていて当初から疑われていて「別表扱い」とすると問題に成るので採用されていなかった事を物語ります。
    つまり「社説」と「寄進行為」は矛盾しています。明らかに「創建主」ではなく隣村のこの神社を崇めた事を誇大に言い合わせて如何にも「創建主」で在るかのように末裔に「搾取誇示する作為」で造り上げたと観られます。
    (社説は後の社の所有権や地域興しの利害関係からこの様な大矛盾だらけの説を故意に採ったと観られます。 この様な搾取偏纂の偏在は悪い典型的見本で「姓氏族」に多い事に注意を要するのです。地方史録はこの様な資料をベースに偏纂されているので特段に注意を要する。)

    上記した様に神明社を建立する力は、日向国の隣の豊後の一地方一郡(大野郡)程度の土豪の大神族には隣の日向国に神明社を建立し維持する勢力は全くになかった筈です。
    ”大神族の「氏神」と定め村人はこれを崇めた”と室町期に於いて土地の「地理考」に書かれているが、「日向の西臼桁郡」にあるこの「高千穂神社」を「豊後の国隣の大野郡」の村人の「心の拠り所」の神社とした事を意味しますから、「豊後の大野郡」には適当な神社が無かった事を意味するか、”村人が「高千穂神社」を余りに崇めていたのでこの様な破天荒の矛盾だらけの姓説を作ってしまった”と考えられます。
    現実に「豊後大野郡」にはこの時代までに創建された神社は2つであり、何れも時期は不祥とされていますが、平安中期頃で「八坂神社」と「西寒多神社」です。(高千穂の郷には多かった)
    この建設地域は高千穂地域とは逆の東の臼杵地域側にあります。
    「八坂神社」は850年頃に当社全国支社の本社神社として豊後に創建された事で有名な神社です。
    (京の祇園神社で有名です)
    実質の創建は平安中期頃と観られ、且つ「延喜式神名帳」に記されている事から927年頃前の平安中期創建されたと観られる「西寒多神社」(ささむた)は、豊後を支配した大友氏が応永15年(1408年)に別の場所に移したとあります。
    「八坂神社」は「氏神社」(県社 式内社並扱い)であります。
    「西寒多神社」は「式内社」で発祥は平安期中期頃であり、この何れの神社も臼杵郡側にあり早くても実質は平安期中期に成るが有名な神社と成りますので、”大神族の大野郡の神社”と云う事には成りません。依って、大野郡には「式内社」や「氏神社」や「別表社」は無かった事に成ります。
    或いは、平安末期発祥の大神族が崇める神社は無くなってしまった事は、これは「豊後大神氏」が自らの力で神社を建立する力が無かった事を意味し、止む無く民は西隣国越えの日向国の西臼桁郡高千穂村の「高千穂神社」を崇める結果と成った事に成っていた事に成ります。
    そこで、この「豊後大神氏」は平安末期に「直入郡」に発祥していますから、鎌倉期の後期頃にはこの大野郡を納めこの事から民を引き付ける必要性に迫られ、東域は大豪族の大友氏の反発を招く事から、西側の「天岩戸神社」を利用する意味から近くの洞窟に掟を破り「小さい祠」を造った事に成ります。
    ところが、この「祠の策」は効果なく結局は民が始めから崇めていた「高千穂神社」を”自分の祖の氏神だ”として作為したと観られます。
    (推測 矛盾のある社説がこれだけ主張する事は、上記の空白期間の戦乱混乱期をこの大神氏から武力的な保護を受けて護られていた事が予想できる。)
    だからこの意を汲んだ「大神説を社説」とする神社は”建立した”とは充分に主張していないのだし「維持管理」の100年間を狙われたと観て正しいと観られます。
    参考として「天岩戸神社」の近隣の「東本宮」の社屋は「祠並」で社領等一切無いのです。
    (豊後大神氏は飛鳥大神氏の一部が豊後に移動してその後平安末期に末裔を遺したとする説がある。)

    そもそも「歴史の紐解き」とは例外無くこの様な「矛盾・疑問」を如何に切り崩すかにあります。
    しかし相当苦労致しましたが、「大矛盾の大神説」は削除されますので、この事から残り「2つの神社」は南端にありますし、建立年代が不祥で平安末期以降と考えられますので「栗隈王か武家王」の唯一青木氏の発祥と末裔の存在しない域での「神明社建設」はこの「高千穂神社」である事に成ります。

    (注 明治維新4年には神社本庁はこの社説を採用し「氏神社」「村社」としながらも「別表扱い」として高千穂の郷の土地の土豪の三田井氏の名を採って「三田井神社」と改名し、その後、28年に変更し元の「高千穂皇神」を「高千穂神社」して戻した。そして「国の管理」の下に戻した。実質は間違いを訂正した形式に成っている)

    事程左様で、この大神説は矛盾だらけで明らかに除外できますので、従って、上記の理由で「別表扱い」と成っていますが、由緒ある「高千穂神社」の「神明社」は年代の検証から大化期頃に立てられた「神明社」である事に成ります。
    つまり、前段で論じた「19の神明社」の創建記録の通り「栗隈王」か「武家王」が「中大兄皇子」に命じられた「19の神明社」の一つである事に成ります。
    この「時代考証」と「天岩戸神社の所縁の側域の建設」と「高千穂の地理考証」と「19神明社」と「祭祀の神の皇族系」と「肥後と日向と豊後の国境に建てられている事」や「3国北地域の守護範囲南端にある事」等や「戦略的な位置付け」等から「栗隈王か武家王」が建立した「神明社」である事がほぼ証明できます。

    この「天岩戸神社と高千穂神社」の「分霊支社」としての伸張が”戦略上で何かあったのか”等を研究する必要が有りますが、この2社は「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」の要素関連が成立しませんが、青木氏に関係のない神明社関係の神社である事は間違いない事に成ります。
    青木氏から観れば例外神明社の神社と成りますが、皇祖神から観れば「神明社の元祖社」と成ります。
    そこで「宗像大社」や「阿蘇大社」の圏域や社領域の中で、”残りの日向2(下記下の2つ 江田神社 鳴戸神社)を含む薩摩3は一体何なのか”大いに疑問です。
    この事に付いて青木氏としては神明社研究を進める必要が有ります。

    日向国の神明社の4社
    天岩戸神社(1) 西臼枡郡高千穂町 「式内社」
    高千穂神社(2) 高千穂町      「村社」(別表扱い)

    江田神社  (3) 宮崎市阿波岐原町 「式内社」
    鵜戸神宮  (4) 日南市宮浦     「郷社」

    上記の様に日向の残りの上記の江田神社(3) 鳴戸神社(4)の2つは確実に古い社である事は事実であり神明社に関わっている事も事実ですが、「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」の要素関連が成立しないし、全く青木氏には関わりが無いと観られ後に大蔵氏の影響を受けて「産土神」に変わっています。
    この事から可能性として戦国時代に入り管理維持が困難と成り元より賜姓族の影響の低い九州域では鎌倉期末期から「祖先神−神明社」から九州中心とした大蔵氏の「産土神」に変えた事が充分に考えられますが確認は取れません。

    「薩摩3の考察」
    ただ薩摩3は下記のデータには0+3として記述していますが、筆者の研究の調査ミスかも知れませんが、上記大神氏の様に分霊である事の疑問の社で何か古く魅せている可能性があるのです。
    そもそも薩摩と日向は、前段で論じた様に中央との間に「政治的隔壁」を奈良時代から明治維新まで長い間持ち続けた国柄でもあり、何事にも一段深慮する必要のある地域である事は間違いはないのです。
    「賜姓族」という点ではこの隔壁のそのものであるのです。
    故に日向の古いと観られる残りの2つの神明社は、平安期に皇祖神の伊勢大社の分霊により創建されたとはこの事情からさすが難しく、「祖先神の神明社」を建立したと考えられるのですが確定する資料は見付かりません。
    もしそうだとして鎌倉期以降とりわけ室町幕府が管理維持を続けたのかと云う疑問もあります。
    これを維持管理する豪族とも成ると肝付氏と島津氏以外には無い筈です。
    阿蘇大社域では出来たとしても他社社領域と成り無理と観るのが普通であります。
    (肝付氏26代はこの日向の諸県を支配しています。)
    九州域、特に南九州域は江戸末期から明治維新の廃仏毀釈などの4つの令(神仏分離令、大教宣布、寺社領上知令)に基づく江戸末期から明治初期の激しい宗教改革で他県と比べ物にならない程に大嵐が吹いたのです。それ故に不明不祥と成っているのです。
    この様に南九州域にはそもそも平安初期より「神明社域」ではありませんから室町期中期前には「神明社」は無かったと観て次ぎの論所に入ります。

    「賜姓族の神明社の検証」
    次ぎはもう一つの皇族賜姓族の指揮組織であります。
    「皇族賜姓族」では次ぎの「3つの指令基地」の拠点が働いていたと考えられます。

    (Bの分布表)
    皇族賜姓青木氏−16県−148−26.1%
    宗家主家域  5県−126−22.3% (Fの分布表)
    移動定住域  4県− 10− 1.8% (Gの分布表) 16県
    二氏重複域  7県− 12− 2.1% (Hの分布表) 11県

    この「皇族賜姓青木氏」の本拠地は伊勢青木氏で、平安末期には「源平の争い」に巻き込まれて前段で論じた様に近江、美濃は衰退してその遂行する能力は最早無く成ったと考えられ、平安末期にはこの指令システムが一時崩れたと考えられます。
    前段から論じている様に、そこで立て直す為にも領国から上がる年貢に頼る事無く乱世の中で経済的な自立の道を選んだと考えられ、「2足の草鞋策」を採用して再構築を成したと観られます。
    武力に相当する抑止力等の構築の為にも「神明社の建設」を推し進めそれを基にシンジケートを構築して護ったのです。
    ここでも、明らかに「心の神」「生活の神」「物造りの神」のもので有れば上記の「1/4の原則」から4社/県から観て16県の範囲で148もの神明社は多すぎると考えられ、何と神明社全体の1/3程度にも配置しているのです。
    「心の神」「生活の神」「物造りの神」により民衆を味方に引き入れる事と同時にこれ等を守る意味としての「戦略的な建設」でもあったとも考えられます。
    これは秀郷流と若干異なる戦略目的であったと考えられ、「2足の草鞋策」に軸足を掛けての事であり゜殖産・商い」と成ると彼等の賛同を確保する事が絶対的な必須条件と成ります。
    これ等を護るためにも「武力」を捨て「抑止力」に頼った運営とも成ればこれまた「民衆の力」なくして維持する事は出来ません。その意味で各地の民衆が結集したこの「シンジケート」は「絶対的な戦略的手段」と成ります。
    「シンジケート構築」にしてもその「核」に成るものが必要であり、それが「神明社」と云うものであったと考えられるのです。
    勿論、上記した”それは何なのか”で論じた絶対的条件も備わっての事であります。
    「宗家主家域」のデータの5県で126もの建立であります。
    つまり「5家5流」の5つの国であります。5家と云っても実質3家で有りますが、甲斐の青木氏は特に武田氏系青木氏は、別の論文でも論じている様に「神明社建立」を実行する能力が無くなっていて、自らの守護神さえも侭成らない始末であった事が史実から判っているのです。
    (甲斐武田氏系青木氏の論文で論じている)
    後は「賜姓族甲斐青木氏」で有りますが一族を護るに限界で有った事が記述から読み取れます。
    そもそも甲斐には「賜姓族青木氏」1と、この賜姓族と武田氏との血縁で生まれた「武田氏系青木氏」2と、甲斐の賜姓族青木氏と血縁した「諏訪族青木氏」3(信濃諏訪族青木氏の一部の移動定住)と、この諏訪族青木氏と血縁した「諏訪族武田氏系青木氏」4と、これから分流した「武田氏族諏訪系青木氏」5の賜姓族の1氏とその支流青木氏の4氏の計5氏が定住しているのですが、1と3の賜姓族青木氏を除き、2と4と5の武田氏系青木氏は武蔵国と越後国と土佐国に逃亡して存続しているのです。
    依って甲斐は神明社の基地としての機能は果たせなかったと観られ、伊勢青木氏(2氏)−信濃青木氏(3氏)との連携により成り立っていたのです。其処に126であります。
    従って、この伊勢青木氏−信濃青木氏の関係が緊密なものであった事が判ります。
    賜姓族青木氏の95%は武力に頼らないだけにこの2つの地域に集中しているのです。
    全体の神明社の23%程度が集中しているのです。賜姓族の5県−126−22.3% 特別賜姓族の7県−103−18.2%−本家域とほぼ%で相似する内容と成っています。
    何れも本家域の圏域の及ぶ範囲には「4社/県」と「1/4の原則」を確実に守っていて、「特別賜姓族」は武力を保持する事からこのややその割合を抑えています。

    移動定住域  4県− 10− 1.8%(Gの分布表)
    二氏重複域  7県− 12− 2.1%(Hの分布表)

    このデータから見逃す事が出来ない事があります。
    それは確かに「移動定住先10」で力を盛り返し10もの神明社を建立したと云う事であり、その力を発揮したと云う事を物語るデータであります。4社/県から観れば10は少ないのですが、移動域とすれば”勢力を盛り返し建立した”とすると妥当と考えられます。
    「二氏重複域」(Hの分布表)は主に逃亡先での秀郷流青木氏と同地域で生活している中で12もの神明社を自らの力で建設しているのです。
    力を盛り返し地主等に成り、その力で管理維持したもので主に「心の神」「生活の神」「物造りの神」を目的として建設されたものである事が覗えます。
    これは「移動定住域」の10も同じであったと考えられますが、戦略的意味合いもまだ乱世が続いている事からその目的も見逃せない筈です。ただ主体が何れにあるかの問題であると考えられます。

    ここで、「移動定住域」(16県)と同じ比を示しているこの「二氏重複域」(11県)には「融合青木氏」(賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の血縁族)が発祥していて、この存在がより「特別賜姓族」との連携を一層効果的に働かせたと観ているのです。
    「移動定住域」があったからこそ「二氏重複域」が生まれた事に成ります。
    その意味からすると計11県−22−4%は4社/県からすると2社/県は半分と小さいのですが、「移動定住域−二氏重複域」の意味合いからすると4社/県に相当する意味合いを持っている考えます。
    そしてそれが「賜姓族」と「特別賜姓族」を特定地域に限らず”全体的なより強い絆で結ばれていた”と考えられます。親族以上のもので運命共同体とする関係を保持されていたと考えられます。
    その意味で「二氏重複域」(11県)の神明社の2.1%は各地でかなり大きな役割を果していたことが判ります。姿としては「強い絆」「運命共同体」の象徴的なものと成っていたのです。
    「宗家主家域」の神明社とは「強い絆」「運命共同体」の点でより強いものがあったと考えられます。

    筆者はこの自然摂理と歴史的経緯から生まれた「移動定住域」−「二氏重複域」の関係が「2つの青木氏」の隠れた「生き残り」の基点(骨格)に成っていたと考えているのです。
    4社/県に対して2社/県は「2社の肉の部分」を剥がした「骨格部分」の神明社であったと観ていて2社以下ではなく2社/県−2%であった事に意味があると観ているのです。
    つまり、”この「2つの域」では「1/4の原則」に沿ってそれだけのものにしていた”と云う事なのです。
    それは次ぎの地理性と青木氏の主要地から読み取れるのです。

    実は「移動定住域」と「二氏重複域」がA:攝津、B:越後、C:美濃、D:伊豆、E:相模、F:武蔵の6県域で重なっていますが、この6県のそれは「融合青木氏」の子孫拡大が大きかった域を意味します。
    即ち、これは前段でも論じた様に「賜姓族」と「特別別賜姓族」の何れにとっても重要で主要拠点であり、「賜姓族」と「特別賜姓族」の家柄身分の区別が最早この間の関係にはなかったと観られ、「完全な親族」としてその「仲介役的な働き」をしていた証拠であります。
    それは地理性に応じた特徴ある次ぎの「血縁融合の仕方」に意味を持っているのです。

    A 摂津は賜姓族を中心に特別賜姓族が血縁融合(1)と賜姓佐々木氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
    B 越後は特別賜姓族を中心に賜姓族(1)が、特別賜姓族を中心に諏訪族系青木氏3氏と血縁融合(2)をした。
    C 美濃は西域は賜姓族を中心に特別賜姓族(1)が、東域は特別賜姓族を中心に賜姓族が血縁融合)(2)をした。
    D 伊豆は5家の賜姓族の同族の複合の血縁融合(1)と、この賜姓族を中心に特別賜姓族(2)が、この2つの血縁融合氏と複合血縁の青木氏(3)、清和源氏摂津源氏頼光系との血縁した青木氏(4)の5氏が存在した。
    E 相模は甲斐武田氏系青木氏1氏と賜姓族を含む諏訪族系青木氏3氏間との相互の血縁融合(1)とこれらと特別賜姓族の相互の複合の血縁融合(2)をした。
    F 武蔵は特別賜姓族を中心に伊豆−相模の賜姓族を含む諏訪族系青木氏との血縁融合(1)し、鉢形に移住した甲斐武田氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
    (これらは歴史史実と家紋分析による総合判別の結果記録)

    特に「融合青木氏」のメッカとして「伊豆−相模域」は複合血縁で伊豆よりは賜姓族を中心に、相模よりは特別賜姓族を中心に特別な複合血縁している傾向を持っています。
    これは青木氏の歴史的な移動経緯に左右されていて、伊豆域は守護国であった事から頼光系清和源氏の嵯峨期詔勅による青木氏発祥と伊豆の賜姓3家の同族複合血縁族との青木氏が発祥しているのが特徴で「二氏重複域」の拠点にも成っているのです。全体の6%を占めています。
    (この6県に付いて「神明社の県域順位表」を参照するとその特長が判る)
    中には、土佐と滋賀が重なっていますが、土佐はその拡大が小さい事と全体の戦略的な位置付けは低い事もあり少し意味合いが異なる事が云えます。
    滋賀は前段でも論じた様に近江青木氏が一時移動定住した地域でありますが、この滋賀青木氏は上山氏の青木氏であり、一部に近江−滋賀の秀郷一門との血縁族と観られる融合族が存在するが神明社とは別問題で時代性が室町後期から江戸初期に成る事から本論とは別にしています。
    (この上山氏の青木氏の一部は江戸初期前後に三河駿河と流れ最終の千葉には子孫を遺している)
    伊勢と信濃には秀郷流青木氏との血縁による「融合青木氏」が「仲介役」(接着剤)としても存在しているのですが、この「仲介役」の「融合青木氏」が全体の「2つの青木氏」の連携軸に成っていたのです。
    (Kの分布表 家紋分析 参照)

    そうすると、秀郷流青木氏の「4つの指令基地」に話を戻して、この「北陸道域」を戦略的前線基地とすると本拠地は陸奥域と成ります。
    果たして、その様に神明社が配置されているのかと云う疑問が出ますし、もしなければ上記の説は覆されます。
    そこで、陸奥域の神明社の状況を下記に示しますと次ぎの様に成ります。

    (Cの分布表)
    東山道−東北北陸 6県−105−18.6%
    建設地域   社数  /地域%  /全国%
    青森(陸奥) 13    12.4    2.3
    秋田(羽後) 26+7  31.4    5.8
    山形(羽前) 15    14.3    2.8
    岩手(陸中) 11    10.5    1.9
    宮城(陸前) 14    13.3    2.5
    福島(岩代)  9     8.6    1.6

    秋田を除いて間違いなくほぼ同じ程度の分布状況に成っています。
    陸奥域は平安期の本来の域は青森−秋田−山形の領域を以って陸奥域とされていました。
    これは明治2年に陸奥を磐城と岩代と陸前と陸中と陸奥とに分離したもので、出羽は羽前と羽後に分離したものです。(平安期の陸奥域は広域なのです。)
    ですから、秋田26+7は北陸域との連携からも特別に平安期の陸奥域の西域に主力を置いていた事が判ります。神明社分布と末裔分布はこれに一致します。4社/県の原則は県域としては8倍程度の建立数を維持していますので東山道域では主要域であった事が頷けます。
    ですから、平安期から室町期まででは、61−58%で、全国的に観ると61/566=11%と成り、平安期の陸奥の勢力圏域から観ると105−19%と北陸道の前線基地と遜色ない勢力を保持しいます。
    この陸奥域は当然に平安期から室町末期まで北家の藤原秀郷一門の絶対的権域で、室町末期には永嶋氏が陸奥に拠点を置くほどに重要な「戦略上の拠点」でもあり「穀倉地帯」としても重要な地域でもあります。
    この前線基地と本拠地を合わせると(北陸道域 4県−104−18.4%) (東山道−東北北陸 6県−105−18.6%)で併せて「10県−209−37%」と成り、全体の1/3以上が集中しているところであります。このデータは青木氏の分布と一致する数値でもあります。
    殆どは、秀郷流青木氏の分布域でもあります。
    下記の東海道域に比べてやや落ちますがこれが特別賜姓族の勢力の置き方であった事を意味します。
    この東山道の東北北陸のデータから秀郷流青木氏と一部の賜姓族とその系列の青木氏の分布域に合致するのですが、更にこれを裏付けるデータが東海道域のデータがこれを物語ります。

    (Dの分布表)
    東海道域 7県−154−27.2% 
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    茨城(常陸)  8+1   5.8   1.6
    千葉(下総)  22    14.3   3.9
    埼玉(武蔵)  31    20.1   5.5
    東京(武蔵)  30    19.5   5.3
    神奈川(相模 ) 9+2    7.1   1.9

    静岡(駿河)  18    11.7   3.2
    愛知(尾張)  33    21.4   5.8

    特別賜姓族の本領であった武蔵域を中心に相模と常陸が両翼にしてやや下総側に伸びた神明社の分布状況となっているのは本領勢力圏の形に一致します。この本領から手足が伸びる様に街道沿いに本領勢力圏と同じ様にまた末裔分布圏と同じ様に伸びています。
    上記の特別賜姓青木氏の神明社分布の関東全域 7県−103−18.2%−本家域(Jの分布表)は秀郷一門が領国とする関東域にして観たものですが、前記した様にこれに沿ってその延長線上の静岡と愛知は秀郷流青木氏が西の前線権域として大いに活躍した領域です。
    全体比から観ても、この西域の静岡と愛知域は9%であります。
    これに対して、A−103(関東域)、B−104(北陸道域)、C−105(東山道域)で312と成り合わせて55%と成り、これに静岡と愛知の分の51−9%を加算すると全体比では364と成り64%にも成ります。
    東海道域と東山道域から観ると、街道沿いには209と成り、37%と成ります。

    つまり、このデータの持つ意味は上記した様に戦略的な意味としては、街道沿いは皇祖神の神明社で4割は占めている訳ですから、藤原秀郷一門の秀郷流青木氏の特別賜姓族の勢力が街道沿いを中心に勢力を集めていてその勢力は如何に大きかったを物語るものです。
    この神明社の勢力圏に加えて藤原氏の春日大社の勢力圏を加算すると8割程度の勢力圏を占めていた事が判ります。
    この神明社の分布に依って藤原北家一族中でも「下がり藤紋」の一族がこの街道沿いの圏域を如何に大きい力で占めていたかを物語るものです。当然に末裔分布も一致しますので「勢力の内容」を実証するものと成ります。
    ”果たして、その様に神明社が配置されているのか”と云う上記の疑問はこれで配置されていた事が判り解消されます。

    前記より東山道域圏と東海道の東域の主要街道域は、藤原一門で抑えられていて信長−秀吉−家康はこの勢力を無視できず信長−秀吉は現実に手を出せずにいました。そして、家康はこの秀郷一門の青木氏(「第2の宗家」)のこの力を無視できず、むしろ戦略的に積極的に家臣に取り入れた事が良く判ります。
    故に、江戸初期の家臣団の初期の構成時には「武田氏の家臣団」と並んで「秀郷一門の旗本」が多い事はこの街道沿いの「秀郷一門の勢力」を取り込んだ家康の戦略から来ているのです。
    これは家紋分析からもこの事が良く判ります。
    そこで気に成る事ですが、”家臣そのものを取り込んだ”と云うよりは上記のデータで示す「街道沿いの勢力」、即ち、「賜姓族「神明社」も含む”「神明社圏域」を取り込んだ”と云う事が正しいと云う事なのです。
    戦略家の家康であれば「家臣の人」より地に根付いたの考え方に基づいた「優れた組織」を取り込んだ筈です。当然にそうすると「祖先神−神明社」で構築された組織を取り込んだのです。
    秀郷一門のみならず武田氏の赤兜軍団も「組織の取り込み」です。
    武蔵鉢形に武田氏系の「青木氏全軍団」を根こそぎ村毎そっくり移住させているのもこの戦略の考え方から来ているのであり、この「2つの組織」を秀郷一門の本拠地の武蔵にわざわざ指定して移動させたのもこの「2つの優秀な軍団」を膝元に置き武蔵の江戸を固める事にあったのです。
    つまり、この戦略である限り「人」では無いのです。
    「祖先神−神明社」で「統率された組織」と「青木氏の思考原理」を取り込んだのです。
    そして、その取り込んだ「祖先神−神明社の考え方」が江戸期以降の「武士道」の基盤と成り得たのです。
    私はむしろ突き詰めると、”「祖先神−神明社の考え方」に重点を置いていたのではないか” と観ています。
    それは江戸期の初期の侍社会を固めるには、農民から伸し上った下級武士や下克上からの武士を主体とする武家武士の多い社会を根本から構築する必要に迫られ、豊臣との戦乱後に幕府を開く以上は「社会の再構築」の「優先的な政治課題」に迫られていた筈です。
    それには奈良期から日本の「民と武家の社会」に根強く根ざし受け入れられて来た上記で論じた「祖先神−神明社の考え方」を江戸期の封建社会の中に敷くには最適であると家康は観ていたと考えられます。
    当然に「物造り神、生活の神」としても、「総神」として崇められてきた経緯を見逃す事は出来ない筈ですし、この「神明社の分布」が政治的にも効果的であり幕府樹立として利用しない訳には行かなかった筈です。他の守護神とはその位置付けは論じて来た様に大きく異なるのですから、「祖先神−神明社」に目を向けられた筈です。
    その証拠には前段で論じて来た「八幡社」の「八幡大菩薩」を「下級武士の心の支え」として再び陽の目を見て掛け軸などにして床の間に飾る江戸期の下級武士の風習はこの証であり、その思考原理は「神明社」が室町以降に「未勘氏族」に依って「八幡社」に改宗された経緯もあり、故に総じて前段でも論じた「祖先神」に通ずるものとして扱われたのです。
    つまり、江戸期には「下級武士には八幡社、上級武士には神明社」の仕来りの流れが起ったのです。
    故に青木氏のみならず「神明社」も幕府の援護を受けて上記で論じて来た社会の主要なところに建立されていた「神明社566社 八幡社354社」が好都合として残り得たのです。
    江戸期には「2つの青木氏」にはこの566社を充分に全て管理維持する能力が江戸期には遺されていたかは疑問でありますから、しかし現実に遺されている以上は江戸幕府の「祖先神−神明社」を「武士道の根幹」に取り込んだ事に因ると考えられます。偶然に残ったのではありません。それ程に江戸初期までは戦乱で甘い社会ではなかった筈です。それなりの遺し得る確実な理由があったのです。

    「武士道の根幹」と「総神」
    その証しの一つとして「祖先神−神明社」の青木氏族は「古代密教形式の浄土宗」を菩提寺とする事から、江戸初期の「浄土宗督奨令」の発布と江戸初期に行われた「寺社の宗教改革」はこの事から来ているのです。そして、その浄土宗は上級武士の宗派と成ったのです。
    ですから、江戸初期に旗本と成った中には「祖先神−神明社」「浄土宗」の関係する青木氏の家紋群が多い事と、それに関連する類似家紋の支流分流分派の家紋が多いのはこの事から来ているのです。
    前段で論じた江戸初期に発祥した多くの「姓氏族」の守護神の「氏神」が「神明社」と一部で間違われているのは、江戸初期の上記の経緯から来ているのであって、「神明社−総神−氏上−御師−総師」と崇められていた事から「氏神−総神−神明社」の流れが「下級武士の姓氏」と「民」の中に起ったのです。
    これも「祖先神−神明社」を「武士道の根幹」のみならず守護神を離れて全民の「総神」として位置付けられていたのです。
    この事の証拠に就いて前段で論じた様に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は江戸初期から明治初期まで徳川氏から「賜姓族」として「特別な待遇と保護」(例 下記特記)を受けていた事でも判ります。

    特記 前段で論じた事ですが、伊勢青木氏には、紀州が徳川氏直轄藩と成り飛地治領としての松阪での「賜姓族特別面談扱い」や、紀州藩初代徳川頼宣からの手紙や拝領品等が多く遺されていて、家臣では無いが明治初期まで特別に十二人扶持を与えられていた事や、幕末14代まで特別扱いの下で「師」としての深い親交があった事や、伊勢松阪で吉宗を親族の加納家と共に育て上げた事や、その8代将軍吉宗の有名な「享保の改革」を布依着用(大名扱い)で勘定方で断行し、合わせてその時の財政改革の世間への見本として同時期の紀州藩の財政改革を特別依頼されて断行に成功し享保の改革の反対者を押さえ込んだ事や、且つ幕末の「坂本竜馬と船沈没の事件」で高額の賠償金捻出での有名な幕末紀州藩の財政改革等を断行した等が記録として遺されている。松阪にある賜姓青木氏の氏の総菩提寺が江戸期には紀州徳川氏の菩提寺に成っている。
    これ等は「祖先神−神明社」の上記の証しと成るものと考えます。

    私はここが「2つの青木氏」のみならず徳川氏の「天下分け目の決め手」であったと考えていて、もっと遡れば徳川氏には信長が甲斐武田氏を潰した時に甲斐の戦後処理を家康に任した事が決めてであったと観ています。それに依っての結果として「神明社」が遺されたと云う事も云えるのですが、これよる勝敗が逆であった場合は「神明社の運命」は恐らく焼き討ちにあい無く成っていたと考えられ、強いては「2つの青木氏」の存在や上記するその関係が破壊されていた事が考えられます。

    この様にDとJの分布表の神明社から観れば、「神明社の存在」そのものが「2つの青木氏の命運」が如何に関わっていたかが判ります。室町期中期以降の生き残りはこの分布表からも読み取れるのです。
    武蔵入間を中心に神奈川−横浜を半径とする総宗本家の勢力圏はAからDまでの主要街道沿いを7割で抑え、次ぎのデータの都の畿内圏域に結び付けていた事が判ります。
    更に、この勢力圏はお膝元の畿内の神明社とどの様に結び付いているかを次ぎに検証します。

    (Eの分布表)
    畿内域 6県−14−0.2%
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    三重(伊勢)   5    38.5   0.0
    奈良(大和)   1     7.7   0.0
    和歌山(紀伊)  2    15.4   0.0
    大阪(摂津)   1     7.7   0.0
    京都(近江1)  2    15.4   0.0
    滋賀(近江2)  3    23.1   0.0

    比較的にAからDの分布に対してEの分布表の数字は少ないと観られます。
    つまり、この少ない原因は神明社の質的な意味合いがこのデータは異なっているのです。
    特に奈良域は1と成っていますが、神明社の奈良期の19の神明社は室町期から観たものである事とその遺跡の有無から1としたもので、この域の「神明社の環境」は域全体が神明社であり分離したものでは無く当然のものとして存在しているので別格的扱いとしましたが、伊勢5は「分霊扱い」では無く「支社扱い」のもので「神明社の本拠点」と見なされ、量的な意味合いではない事に成ります。
    天智天皇が実行した天領地の主要地19の第4世守護王の配置域に神明社を建立したものを加えて計算すると32−5.7%と成ります。しかし一部この19の守護地は5家5流の中部域の3国(美濃、信濃、甲斐)を外しますと29−5.1%と成ります。
    この6県は「質的な神明社」であって、量的な判別は困難であり、32−5.7%に修正すると4社/県の原則から観ても5−6社/県と成りますのでこの神明社の古来からの聖域としては「1/4の原則」の範囲にあり妥当なものと考えられます。
    (「皇祖神の聖域」であり「神明社」を建立する根拠は祭礼格式により無かった)
    そもそもこの6県全域が「皇祖神−伊勢神宮」の90年−90社の遷宮域で「皇祖神−祖先神−神明社の聖域」そのものである事から考えると「皇祖神宮90社」を加算して122と成り、むしろ20社/県となり、「1/4の原則」から観れば20社/16社と成りむしろ多い事と成ります。

    民衆から観た「生活の神」「物造りの神明社」とは別に上記した様に「戦略的意味合い」も強くあった事から伊勢を始めとして畿内域はその意味合いが無い訳ですから当然に量的分布は別物であります。
    故にこの様な分布状況を示しているのです。
    従って、その建立地も戦略的意味合いの位置の山岳国境には無く平地の主要地に位置しています。
    この事が神明社布教を前提として純粋に「生活の神」「物造りの神明社」としての役割を果たす事に主眼が置かれていた事が判ります。
    この畿内域は「伊勢−大和域−紀伊」8と「近江−摂津−都域」6の2域に分類され、「伊勢−大和域−紀伊」8は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の特別区域として管理運営されていた事が判ります。しかし「近江−摂津−都域」6は「賜姓近江青木氏」と「賜姓近江佐々木氏」の区域であり、平安末期には何れも衰退してその管理運営力を無くし室町期には朝廷の力も無くしていますので、室町期まで遺されていたのは「足利幕府の政治的な配慮」の畿内民衆の「生活の神」「物造りの神明社」の梃入れであったと考えられます。
    「伊勢−大和域−紀伊」8は5家5流の賜姓青木氏との繋がりが問題であり、この繋がりは次のような傾向を示しています。

    (Fの分布表)
    賜姓青木氏−5県−126−22.3%(宗家・主家)
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    三重(伊勢)  5      4.0    1.0
    山梨(甲斐) 69+3   57.1   12.7
    長野(信濃) 13+2   12.0    2.7
    岐阜(美濃) 31      24.6    5.5
    滋賀(近江)  3      2.4    0.0

    この他の地域の賜姓族の建立状況をAの県毎の分布表からまとめ直してみると次ぎの様に成っています。
    三重と滋賀は上記の通り「皇祖神の遷座地」である事から少ない事は納得できますが、中部3県の山梨69−3、長野13+2、岐阜31では、先ず山梨は5氏の青木氏内諏訪族系3氏の諏訪社を除くと2氏の賜姓族系で全国比13%程度の高比率を占めているのは高い神明社への信仰が高かった事のみならず武田氏滅亡の戦い以外に神明社の消失の原因が少なかった事が云えます。
    特別賜姓族はこの山梨には存在しませんし、室町期中期以降武田氏滅亡以降に上記した家康の保護があった事と青木氏系列の柳沢氏の保護下にも成っていた事から存続の比率が高かったと考えられます。4社/県からすると12倍と成りますので多く建立した事もありますが、遺し得た事も一つの要因です。

    長野は奈良期よりもとより賜姓族の拠点でもあり賜姓族2氏と前段と上記で論じた様に特別賜姓族の強力な存在もあり、また伊勢青木氏との強い連携もあり4社/県の3倍の神明社を残し得たと考えられます。特別賜姓族の存在は信濃足利氏のお家騒動に加担した事の大きな関わりであるので定住地では無い事からこの3倍程度は妥当なところで不必要な消失に巻き込まれなかった事が大きな要因とみなされます。それは「祖先神−神明社」が各階層から崇められていた事により護られ消失を免れて遺し得たと考えられます。

    岐阜は賜姓族青木氏2氏と特別賜姓族系4氏流と融合青木氏とが存在する地域であり源平の戦いで土岐氏系の青木氏が滅亡した事もあって甲斐域に比べては少ないけれど特別賜姓族の支えにより戦乱の戦場と成った地域にしては遺し得たと考えられます。
    4社/県から観ると8倍と成っていますので遺し得た地域とみなされます。信濃域とは少しその歴史的経緯が異なっていた事から特別賜姓族の存在からすると甲斐に比べて少ないと観られますが矢張り戦乱の戦場となり続けた地域でもあり消失は無視出来ないところであります。

    下記の分布表でも判る様に、前段と上記でも論じた「皇祖神−祖先神−神明社−2つの青木氏−特定地域」(「5つの連携した関連要素」)が絡み、その地域県の「歴史的経緯と末裔分布と勢力図」の影響が特に左右して室町中期以降に「5つの連携関連要素」が緩んだ事で、その内容如何では「色々な形での消失」が働いている事は少なくとも否めません。
    従って、上記の様に街道沿いの広域で相対的に論じているのですが、然し、多少のバイアスを持っている下記の県域に於いてでもその「歴史的経緯や末裔分布の生き様」等の息遣いの大まかな様子が垣間見る事が出来ます。

    (Gの分布表)
    賜姓青木氏−4県−10−1.8%(単独の移動定住先)
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    鳥取(伯鰭) 1     10.0   0.0
    島根(出雲) 0+1   10.0   0.0
    高知(土佐) 4     40.0   0.0
    宮崎(日向) 4     40.0   0.0

    前段でも論じた鳥取は米子や八頭に移動定住した信濃賜姓族足利氏系の青木氏が勢力を拡大し島根との県境宍道湖周辺までその勢力を盛り返し信濃賜姓族の末裔として一族の結束の証しと象徴として建立したものです。
    島根は讃岐青木氏の一門が2足の草鞋策で瀬戸内を越えて日本海に出て廻船問屋を手広く広げそれに伴って子孫末裔が宍道湖の西側域に定住地を確保して拡がったものでその証しと彼等の象徴として建立したものでは無いかと考えられますが、これには信濃賜姓族足利氏系青木氏が宍道湖を越えて西側にも拡がった事も家紋分析等から考えられるので、秀郷一門の讃岐青木氏との判別が難しいところです。
    出雲大社域の中での神明社であるので余り西よりには建立は難しい筈であった事から、讃岐青木氏の定住地は宍道湖のやや更に西よりに青木村を形成している事から信濃足利氏系青木氏の米子域の青木村との2つの青木村の圏域の境界が判らないのです。
    宍道湖付近で「融合青木氏」が存在していた事も考えられますが以前ルーツ掲示板のお便りからすると地主であったとして家紋分析からみると可能性があると考えられます。現在は確認が取れませんが家紋分析で研究中です。
    宮崎は上記で論じた通りです。

    (Hの分布表)力が良く判ります。
     秋田4.1 
    重複域青木氏−7県−178−31.4%(移動定住先 秀郷流青木氏と重複域) 
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    秋田(羽後) 26+7  18.5  5.8
    新潟(越後) 55+6  34.3 10.8
    福井(越前) 8      4.5  1.4
    富山(越中) 32+1  18.5  5.8
    神奈川(相模)9+2    6.2  1.9
    静岡(駿河) 18    10.1  3.2
    栃木(下野) 12+2   7.9  2.5


    重複域の特別賜姓青木氏 −166 27.3%
    重複域の賜姓青木氏    −12   2.1%
    {(126+10)+418}−566=−12

    東山道域の広域で論じた様に、重複域から観ても矢張り新潟55+6を中心に北側の秋田にパイプを広げて戦略的に連携を採っている事が判ります。
    新潟55+6を中心に秋田側26+7に重複域を拡げています。
    西側には福井側8と、富山32+1 と成りますが、パラメーターを統一して4社/県として観ると、新潟15.3、秋田8.3、福井2、富山8と成り、更に 福井2を1として新潟7.6倍、秋田4.1倍、富山4と成り重複域の分布力が良く判ります。
    地理的に並べて見ると 秋田4.1 新潟7.6 福井1 富山4で北側には特別賜姓族を主体に、西側には賜姓族を主体にして伸びている事に成りますが、この分布力から「1/4の原則」を当て嵌めて見ると秋田はこの原則に丁度一致し、新潟は拠点としてあるので8は拠点分4として相当して考えられます。
    恐らく7.6は、この「4社/県」と「1/4の原則」が完全に適用されていたとして観ると、0.4分のマイナス分は、「神明社の分析過程」の+6の判定が室町期中期内の+の可能性と観ているので、+9とすれば7.6が8に成ります。「重複域」である事と「八幡社」の宗派変え分(宗旨変え)による+3分の判定エラーが起こっている事が考えられますが、凡そ4:8:1:4で分布力の関係が出来ていたのです。
    富山の4は歴史的経緯から観て、鎌倉末期から室町期中期までの建立のものが多いので定住地の地理的な要素から観ると、甲斐の避難族だけではなく、信濃足利氏本家筋との賜姓族青木氏血縁族のものもと一部には未勘氏族も含まれている可能性が考えられます。
    (純粋に融合の判別要素が無い為には難しい 福井と同じ程度か)

    上記の広域で論じた様に、神奈川、静岡、栃木の3県で観ると、神奈川11 静岡18 栃木14は伊豆の複合融合最大域を中心に東西にバランスよく分布していて、2.8:4.5:3.5 として 0.7:1:0.8の関係に成っています。然し、静岡は複合融合データ域なのでこれを1としているので、若干低めに成る筈で東西に(0.4−0.5)のバランス関係を保持していた事が判ります。
    東西に賜姓族の融合の重複域を採っていた事に成りますが、ここでも「1/4の原則」はほぼ守られていた事に成ります。  

    「重複と融合の戦略の存在」
    総じて重複域での特別賜姓族と賜姓族との比が、166:12(社)  27.3:2.1(%)と成り、重複域のここでも特別賜姓族が27−28%台を持っていた事は重複域の「融合青木氏の存在の効果」が大変に大きかった事のパラメータに成ります。
    重複域も例外ではなく、上記したエラーを重複域ではこの関係分を含みますので、これを考慮するとやや低めのほぼ「1/4の原則」が成立しています。
    広域と境域の重複域の関係を観て来ましたが重複域期で起る「融合青木氏の仲介役、接着剤の役割」を改めて認識する事に成ります。
    むしろ、これ等のデータから ”戦略的に恣意的に「重複域」を造り「融合青木氏」を発祥させて「2つの青木氏」の結束を強化していたのではないか” と考えられます。
    だから危険を顧みず時代毎に起った歴史的な事件や経緯からの移動逃亡先の各種の青木氏を即座に迷う事無く受け入れたと観られます。
    そして、その行動が関西−中部域は賜姓族側が、関東以北域は特別賜姓族側が中心となっていた事を物語ります。
    上記の様に広域と境域共に重要なポイントの域には漏れる事無く「重複と融合」が高い割合で間違い無く行われているのです。
    これは”「重複と融合の戦略」なるものが、「祖先神−神明社」の考え方を根幹にしてその存在意義を護る為にも、「3つの発祥源の2つの青木氏」にはあった”と考えているのです。

    だから上記で論じた様に、抽象的なものでは無く、 ”この確固たる論理的な行動の戦略に基づいた「固い祖先神−神明社の組織」を家康は取り入れた” という事なのです。
    だから「伊勢青木氏」に遺されている様な徳川氏が上座を譲るほどに「青木氏を崇める記録」が存在するのであって、「3つの発祥源の2つの青木氏」の古い賜姓族氏だからと云って簡単単純に江戸期に成って今更に崇める事はしない筈です。伊勢だけではなく信濃国府や武蔵入間の青木氏宗家にも何がしかの記録があると観ています。

    (Iの分布表)
    (移動定住先)
    (関東以北の主要地を除いた移動定住地を除く 全24地域)
    藤原秀郷流青木氏−16県−58−9.7%
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    栃木(下野) 12+2   25.5   2.5
    群馬(上野) 12+2   25.5   2.5

    この2県域は移動定住地でもあるが本領でもある。しかし「祖先神−神明社」の特別賜姓族から観ると主要地と異なり「移動定住先」に成るのです。
    因ってここに加えましたが、本領としてのそれなりのデータを示しています。
    本領である以上は「4社/県」「1/4の原則」は完全に保持していて下記の地域とは完全に異なっています。

    京都(近江3)5     9.0  0.0
    岡山(美作) 1     1.8  0.0
    広島(安芸) 2+4  11.0  0.0
    山口(周防) 1     1.8  0.0
    島根(出雲) 0+1   1.8  0.0

    広島は下記の讃岐青木氏の勢力圏でもあり、本領の宗家からの赴任移動先でもある事からたの移動定住先とは若干異なりそれなりのデータを保持していますが、神明社の検証に+4は確定出来ないものであり、歴史的経緯と地理性からもう少し多いのではないかと考えられるのです。恐らくは、神明社が増える可能性よりも「八幡社の宗旨変え」(5 4社/県)が起っていると観られます。この地域の未勘氏族や疎遠の河内源氏が八幡社5を建立維持したとは考え難いのです
    そうすると2+4+(5)=11と観ると、本領移動域の下野、上野域に比適する事と成り納得出来るデータと成ります。

    徳島(阿波) 4     7.3  0.0
    香川(讃岐) 1     1.8  0.0
    愛媛(伊予) 2     3.6  0.0
    高知(土佐) 4     7.3  0.0

    福岡(筑前) 1     1.8  0.0
    佐賀(筑後) 1     1.8  0.0
    長崎(肥前) 1     1.8  0.0
    熊本(肥後) 1     1.8  0.0
    大分(豊前) 1     1.8  0.0
    (京都は丹波などの3国とする)

    以上の9県域は移動定住域としては納得出来るデータです。

    (Jの分布表)
    藤原秀郷流青木氏の神明社分布
    関東全域  7県−115−20.3%−本家域 

    (Kの分布表)
    特別賜姓青木氏−34県−418−73.8%
    北陸道域   4県−104−18.4%−北陸域
    東山道域   6県−105−18.6%−東北域
    東海道域   8県−154−27.2%−中部域
    移動先域  16県− 55− 9.7%−分布域

    (Lの分布表)
    皇族賜姓青木氏−16県−148−26.1%
    宗家主家域  5県−126−22.3% 
    移動定住域  4県− 10− 1.8% 
    二氏重複域  7県− 12− 2.1% 

    (JからLの分布表は上記で論じた)

    以下はその末裔分布の融合青木氏の定住地域別にまとめて見ました。

    (Kの分布表 家紋分析による)
    融合青木氏−賜姓青木氏(A)と特別賜姓青木氏(B)との融合血縁氏
    伊勢域  四日市域、員弁・桑名域 (A)賜姓族系1 (B)特別姓族系 
    美濃域  伊勢側域 尾張側域 (A)特別賜姓族系 (B)特別賜姓族系 
    信濃域  愛知国境域 越後国境域 越中国境域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
    武蔵域  鉢形域 八王子域 (A)賜姓族系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
    越後域  全域 越中側域 越前側域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
    土佐域  伊予国境域 讃岐側域 阿波国境域 (A)武田氏系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
    鳥取域  鳥取国境域 (A)足利氏系1 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
    伊豆域  全域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
    栃木域  全域と下野国境域 (A)諏訪族系2 (A)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
    神奈川域 全域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系

    注 越後域は越後を中心に日本海側に広域で判定困難な(A)(B)複合が多く存在する。
      ・・系1、2の表示は・・系の氏の複数氏を意味する。
      室町期末期と明治初期の第3氏系の家紋群は除く。

    次ぎに祖先神の親神の皇祖神の遍歴に付いて改めて論じる事にします。
    「祖先神−神明社」に至るまでの基の皇祖神の経緯などに付いて論じて基礎知識を拡大させたいと思います。
    「皇祖神」は90年−90編座の大変な遍歴と経緯を持っていて、その為に色々な仕来りと掟が生まれています。それは同時に「祖先神−神明社」の存在意義にも左右しているのです。

    「大化期までの鎮座地の遍歴」
    1 「皇大神宮」は理想的な場所を求めて各地に移動します。この間2人の姫皇女に依って神霊を祭祀されました。
    最初は「自然神」(「鬼道」)の為に皇居内に祭祀されていましたが、崇神天皇が畏怖し遍歴させ続いて垂仁天皇がこれを引き継ぎます。
    この2代の天皇の姫皇女が斎王として祭祀して現在地に至ります。

    2 この伊勢市の豊川に定まる前は最初の鎮座地は大和の国「笠縫巴」33年間です。
    ここから鎮座地を86又は87の地に遷座しています。
    国にして13国、年数にして90年の遍歴をしています。
    現在も殆どの関連した神社は残っていますが、記録だけのものが5ケ所と成っています。

    3「豊受大神宮」の鎮座地は丹波国3−伊勢国1として現在地に鎮座します。

    4「皇大神宮」は次ぎの遷座地を遍歴した。
    大和8−丹波4−大和4−紀国2−吉備6−紀国2−大和7−伊賀10−近江14−美濃3−尾張5−伊勢5−安野国(伊勢安野郡)1−伊勢19−現在地1

    地域別に観てみると次ぎの様に成ります。
     大和域      19
     近江滋賀域   18
     美濃尾張域    8
     伊勢域      37
     紀伊域       4
     瀬戸内域      6

    これから観ると、伊勢が特別に多く遷座地と成っています。然し、全体の年数90年間と云う年数から観て大和が全体の3割以上を占めています。
    恐らくは、この事は当初から朝廷のある大和域にしたいと考えてはいたが、当時は未だ大和域は盆地で現在の「猿沢の池」が4世紀前半には大湖の中央付近であって盆地の縁の地形にあったのですが、後に次第に水が退き隆起して現在の様な完全盆地と成ったのです。
    この事から「水利事情」や「地形状」から鎮座地としては問題があると悩んでいた事が判ります。
    そこで、飛鳥を中心にして西域の寒冷地の「近江滋賀域」と、東域の中間平地の「伊勢域」と、南域の温暖な「紀伊域」が考えられたと観られます。
    結局は東域の中間平地の「伊勢域」を選定した事をこの遍歴が物語っています。
    この選定の悩みを示す事として「吉備の瀬戸内域の遷座」であります。ここにはある歴史的な大きな経緯があるのです。
    飛鳥を中心として東西南北とは別の地域で「吉備」を選んだのは、「吉備」の当時の国域は瀬戸内全体を指し、吉備朝臣氏(下道氏 吉備真備)は「関西域の勢力」と対峙する位に勢力を張っていたのです。
    それがこの遷座の現われなのです。
    当時、藤原氏(仲麻呂 恵美押勝)との争いを起していましたが、矢張り地理的な原因で選定されなかったのではないかと考えられます。
    ただ、この吉備は計画上の選定だけではないのです。現実に他の神宮と同じく建設して神宮として祭祀されているのです。
    つまり、上記の「地理的要素」だけではなく「民の信仰」そのものに「歴史的な変化」があったのではないかと考えられます。

    実はこの域は「出雲大社」の強い影響を受けていて、その為に「弥生信仰」の象徴の「銅鐸」が多く発掘される域でもあります。
    この事から吉備域はこの旧来からの全ての「民の信仰の対象」であった「弥生信仰」が特に強かった地域でもありますが、其処に遍座していると云う事なのです。何かの特別な理由があった筈です。
    当時、「邪馬台国の卑弥呼」の「占術」−「占道」−「鬼道」が大きく政治に影響を与え始め、「宗教王朝の出雲国」が主導する「弥生信仰」が低下していた時期でもありました。
    その現れとして、それまでは「弥生信仰の象徴」の「銅鐸」が、丁度、この時期のものとして飛鳥地区で何と多く限定して破壊されていて、まとめて捨てられた状態で発見されているのです。
    これは”「弥生信仰」に何かあった事”を意味します。その発掘の遺跡からこの時期のものとして多く発見されているのです。
    この事は「神具の銅鐸」が飛鳥のみならず「廃却される現象」が関西近辺でも起っていた事を物語ります。
    これは宗教的には大変異常な事です。普通ではありません。

    実はこの「出雲大社」の御告げによる「弥生信仰」の「神具の銅鐸」が、大変数多く全て細かく破壊されて捨てられていた事に真の問題があり、特に更には歴史学的に珍しく「破壊」そのものに問題があるのです。これを紐解く事が歴史を解明できるのです。それも3世紀頃から5世紀頃の歴史をです。

    「銅鐸の破壊のメカニズム」
    そもそも、この青銅の銅鐸は鋳物で出来ています。この青銅の銅鐸を「細かく破壊する事」は青銅の金属的な粘りのある特性から無理であり出来ないのです。
    科学が進んだ現在に於いてもある「冶金的な処理」を施さなくては絶対に出来ないのです。
    但し、それを解決出来る方法がただ一つあるのです。
    それは青銅を一度溶融点より下の7割程度以上の温度に先ずは過熱して、それを6割程度の温度に戻しある温度域で、ある一定の時間を保ち、それからある程度の速さで冷却をし、常温で一定時間保つと云う「熱処理」です。
    この様な「熱処理」をしないと銅鐸や青銅品は「細かく破壊する事」は絶対に出来ないのです。
    つまり、青銅の粘性のある性質を逆の脆い性質に変化させないと出来ないと云う事なのです。
    遺跡から出てきた銅鐸の破壊された破面を見てみると道具を使って破壊されていないのです。何かで叩いて細かく破壊した「急進破面」と云う破面なのです。脆くなければ絶対に出ない破面です。
    つまり、金属的に調べると間違い無く上記の熱処理を施しているのです。
    現在でもこの熱処理は金属の特性を色々変化させるのに使用されています。
    普通はこの熱処理は他の物質を粘りのある均一な特徴を出すのに使われるのですが、粘りのある青銅だけは逆に成るのです。これを「焼準 ならし」と云います。
    3世紀頃にはこの技術が在った事を示すもので、それはそれで大変な発見なのですが、青銅の銅鐸をこの熱処理で破壊していた事にも大変な意味を持っているのです。
    この進んだ冶金技術が飛鳥に合った事を意味します。これも「魏志倭人伝」に出てくる”100枚を送った”とする記述に就いても「三角縁神獣鏡」の「鋳造技術」が飛鳥に有った事にも成ります。
    つまり”魏国から送られた”との記述は、日本で製造して゜総称の邪馬台国」に送った事に成ります。
    魏国ではこの種の鏡の使用の習慣文化は無い事と、鋳造した場所が発見されていない事からも関西域での鋳造と成ります。
    全国(関東域まで)からこの「三角縁神獣鏡」が発見されている事から、この100枚が関東域までの「鬼道信仰」で繋がる「緩い政治連合体」のあった事の印であり、魏国から政治連合の全国の国々に対して ”「魏国との国交」があった事を知らしめる様に”との記述がある事からも、緩やかな北九州域から関東域までの「緩やかな政治連合体」の総称とする「邪馬台国」の女王は指示通りに配った事を意味します。

    そうすると、果たして、この「三角縁神獣鏡」にせよこの「銅鐸破壊」にせよ”何処からこの進んだ冶金技術を導入したのか”と云う疑問に到達します。
    この3世紀の時期は北九州の朝鮮半島に近い博多付近に集中して進んだ冶金技術はあった事が判っていますので、ここから導入した事は間違いありません。
    恐らくは多くの関西域の商人や職人がこの博多付近に「買い付けや技術習得の人々」は往来した事は間違いない事に成ります。
    博多付近と朝鮮半島の先端には日本人の貿易商の「倭人」が常駐して住む任那国があり、この当時の先端技術が彼等に依ってもたらされた事は判っていますので、「緩やかな北九州域−関西域政治連合体」の充分な条件は揃っていますので、その大決断を「卑弥呼」は全国的な300年周期目の「大飢饉の解決」を目論んで「鬼道占術」で実行した事が充分に考えられます。
    恐らくは、「女王」であった事がこの決断に踏み切らせたと考えます。その卑弥呼の前は「倭国大乱」と記述が「魏志倭人伝」にありますから、この事から「飢饉大乱」を解決する事からも論理的な「鬼道信仰」の普及で解決する事も込めて決断したと考えられます。
    「銅鐸破壊から読み取れる経緯」と「冶金的技術から読み取れる経緯」から「邪馬台国の全体像」がはっきりとして来ます。

    (特記 そのはっきりとした中からその真髄を捉えたこの経緯を踏まえて、その「自然神」−「鬼道信仰」が基盤と成って引き継いだ「皇祖神」は、90年−90ヶ所の遍歴を繰り返した後に、6−7世紀の大化期前後頃には「皇祖神−祖先神−神明社」の青木氏による推進と成って始まったと考えられるのです。
    他氏には決してない「2つの青木氏」だけに取って「皇祖神−祖先神−神明社」の氏である限りこの歴史的経緯は無関係ではないのです。見逃す事の出来ない経緯なのです。)

    この様な経緯から、ですから、この事は明らかに ”「恣意的に故意的」に「ある目的」を以って「事前」に「計画」して「熱処理」をして「破壊」した” と云う事に成ります。
    一時的な感情からはこの面倒な熱処理はしない筈です。それも誰でも出来ると云う熱処理ではありません。
    それも大量ですから何か「特定の目的」を持った「集団」が「計画的」に行った事を意味します。
    それも「弥生信仰の最たる神具」です。
    本来ならば、古来の信仰性からすると、宗教的には”罰が当る”として決して行う事の絶対に無い行為です。
    然し、大量に破壊されて出雲ではない飛鳥の一箇所に廃棄されていたのです。この「場所」にも問題があって青銅の銅鐸が大量に破壊されている事も問題なのです。
    つまり、この「破壊行為」は何を意味するかと云うと、”「飛鳥と云う場所」で「弥生信仰を否定した事」”を意味します。
    では、これ程の専門的な熱処理をすると云う事は「一時的な感情的な行為」ではない事が判ります。とすると、この”「恣意的に故意的」に、何故、「弥生信仰」を否定したのでしょうか”大いなる疑問と成ります。
    それも「一個人の行為」では無く、量的な「神具の破壊」と成ると”飛鳥の最高権力者からの命令”と云う事に成ります。ではそれは ”飛鳥の最高権力者に何かがあった事”に成ります。
    実はそれには「弥生信仰」を否定される事件がこの次期に起っていたのです。
    その「事件」と云うか「国難」と云うかこの丁度、同時期に起っているのです。
    そして、その一方では北九州域では、その事件、国難を救う「別の宗教」が起こり、その宗教が多くのこの国難を救っているのです。それも国レベルです。対照的な宗教異変です。

    その救っている宗教は実に論理的な根拠のある宗教なのであり、日本の宗教の根幹に成った宗教です。
    現在もこの「宗教の仕来り」を「国の祭祀」(国事行為)の根幹として皇室に於いて定期的に維持されています。
    それを次ぎに詳しく論じますが、それが本論の根幹なのです。
    つまり、「皇祖神−祖先神−神明社」の根幹部なのです。(下記の「重要な特記」を参照)

    大和の国の近隣の諸国では当初は「弥生信仰」で有ったのですが、3世紀後半から突然に北九州域に於いて「占術」−「占道」−「鬼道」が広がり、逆に「弥生信仰」は急激に衰退して行きます。
    それを示す証拠がこの銅鐸の破壊と廃却の遺跡発見なのです。

    これの大きな原因は、根本から検証すると、次ぎの様に成ります。
    「300年大周期の気候変動」
    この時期(300年頃)は歴史的に観る(気象学的に観る)と、「300年大周期の気候変動」と云うものがありその大気候変動期は第3期に分けられる特長を持っています。この時平準でない気候の為に「大飢饉」が起こるとされています。それによる「第1期の100年目周期の大飢饉」が丁度この次期に重なり続いていた時期に当ります。
    世界的に「長期間の飢饉」が起こり農業や生産物に大影響を与えていたのです。
    (詳細l理論は次段で論じる)
    その為に全国的に祈祷などをするにも拘らず既に全国的に広まっていた「弥生信仰」の「占術の御告げ」が当らない事等の不満が民衆に起こりました。
    この「弥生信仰」に向けられた「不満の政治的な行動」がこの「銅鐸の破壊」というセンセーショナルな行動と成って現れたのです。「飛鳥の連合王朝」の中に起ったのです。
    ところが、一方では北九州では(邪馬台国)、「卑弥呼」が始めた「自然神」の中でも「自然現象」を中心とした「占術や占道の御告げ」が良く当るとの事で、北九州域から「鬼道信仰」なるものが広まっていたのです。
    この出雲国の「弥生信仰」と邪馬台国の「鬼道信仰」との大きなギャップが「一つの流れ」と成って爆発的に起ったのです。

    つまりは、「自然現象」の「占術や占道の御告げ」とこの「周期的気候変動期」とが一致した事が「鬼道信仰」が爆発的に広まった原因事に成ります。逆に「弥生信仰」は衰退した事を意味します。
    そもそも「卑弥呼」が王と成ったのもこの「鬼道信仰」が基であり、国の乱れも「鬼道」の「占術の御告げ」を中心に置いた処 ”良く当り解決する”と言う現象が起こったのです。
    その結果、周囲の互いに争って食料を確保しようとしていた北九州の豪族達は緩い「政治連合体」を造り、この良く当る「自然神」を中心として「鬼道占術」を採用した「連合体の政治組織」を北九州域で造り始めたのです。
    「鬼道信仰」を政治の中心に置く事で飢饉の中での「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も「占術や占道の御告げ」で解決する事が出来るとして瞬く間に広がりを示したのです。
    結局、この「自然現象」を読み取る「自然神」から来る「鬼道信仰」の「占術や占道の御告げ」を中心と成った事からその「占い師の卑弥呼」を「政治の連合体の王」と定めたのです。
    その事が更により一層に九州域の緩い「政治連合体」にはまとまりを示し「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も円滑に解決へと進む様に成ったのです。
    その流れは、同じ飢饉から逃れようとして「鬼道占術」に縋り次第に関西域にも飛び火の様に広がり、そこから飛鳥へと移動してきました。

    (恐らく、博多には中国を経由して朝鮮半島から入る鉄や青銅や食料品や生活必需品の調達の為に全国各地から商人が買い付けに来ていた。この事からその「鬼道信仰」の噂が広まったと考えられる。関西域との緩やかな政治連合体もこれらの商人の働きがあったと考えられる。)

    (「鬼道信仰」の詳細な論理的概論は次段で論じる)

    重要な特記
    この時の「自然神に対する祭祀」が「朝廷の基本行事」として遺されたものなのです。
    この「祭祀の思考原理」が大化期の「皇祖神−伊勢大社」と成り、その基と成った「食料の調達」も「政治的な勢力争い」の祭祀のそれをも具現化したのが「物造りの神と生活の神」を根幹とする「祖先神−神明社−豊受大明神」であり、「政治的な争い」の祭祀が「国家鎮魂の八幡社」として祭祀されたのです。
    この「根幹の祭祀」を各地に広げる為にも大化期に「皇祖神」の子神の「祖先神」を創造し、それに伴なう祭祀社を建立する政治的な事業を展開したのです。それを引き継ぐ「氏」として朝臣族の皇族賜姓族を基とし「青木氏」を継承させるに相応しく新しい「融合氏」として伊勢に発祥させたのです。
    この任務を施基皇子に任じたのです。この時、この青木氏に祭祀に相応しい「3つの発祥源」としての任務も与えたのです。
    これを補足する事として近江の佐々木氏が特別に同時期に賜姓したのです。
    そして嵯峨期にはこの「2つの祭祀族氏」にも「五穀豊穣と国家鎮魂」と「物造りの神と生活の神」を祭祀し「拡大する神明社」を継承するに等しい力が不足し、これに変わる特別の賜姓族として皇族外遠戚の藤原秀郷の第3子の千国にこの任務を特別に与えて青木氏を発祥させたのです。
    これが前段で論じた「神明社と八幡社」はそもそもその根幹(自然神−鬼道信仰)はここにあったのです。
    然し、その一つの「八幡社」はその存在意義を「河内源氏と未勘氏族」に依って「武神」にして異にしてしまったのです。

    そして、紀元300年代には、この卑弥呼の「占術や占道の御告げ」を基とし「自然の変化」を読み取る事に長けていた「鬼道信仰の流れ」が全国的(関東域にも緩やかな政治連合体)には派生して行った時代でもあったのです。
    恐らくは、この関東にまで派生した「政治連合体」は「大飢饉」の解決が主な目的と理由であったと考えられ、緩やかなものであって、後に飛鳥期から奈良期に掛けて「ヤマト王権−ヤマト政権−大和政権」とに掛けて関東域までの「緩やかな政治連合体」は次第に踏破され征討されて大和政権化して行くのです。
    その後、「卑弥呼」の死により「邪馬台国」が崩壊しこれが基で飛鳥を中心とする「鬼道占術の連合体」が勢いを増し、これが「出雲信仰・弥生信仰・出雲国」を中心とする連合体の衰退に繋がったのです。

    (特記 ここで、「卑弥呼の鬼道信仰」は出雲域を越えて関西域まで緩やかな「政治連合体の拡大」が起り、それに依って「卑弥呼」は飛鳥に呼び寄せられてか「自然現象」の「占術や占道の御告げ」を中心として政治連合体と成ったとする信頼できる学説があるのです。
    北九州の政治連合体と関西の政治連合体との緩やかな広域的政治連合が起ったと考えられます。
    それには北九州域で起った「大飢饉の解決」と青銅文化から中国を経由して北朝鮮域(3韓)からもたらされる「鉄文化の発展」の供与が主目標として関西域の政治連合体が吸収すると云う事に成ったのです。
    この時この「北九州域−関西域の緩やかな政治連合体」を「邪馬台国」と総称したのではないかと考えられます。
    北九州域の「吉野が里遺跡」(山門)と関西域の「マキ向遺跡」(大和)から「魏国の魏志倭人伝」にはこの2つのヤマトを「邪馬台国」と呼称したのではないかと考えられます。
    この関西域には、”「鬼道信仰」が「緩やかな政治連合体」の誼からどのような形で伝達されたのか”が問題ですし、当然に「卑弥呼」はどちらの域にいたのかの疑問も出て来ます。
    「魏志倭人伝」に記されている「国王の印鑑」は日本では北九州志賀島で見付かっているのですが、中国の魏の国からの国交の使者が到着するとした場合、先ず北九州の山門の吉野が里遺跡の政庁に立ちより、続いて関西の大和のマキ向遺跡の方に移動したのではないかと考えられます。)

    (特記 王印の印鑑は死去すると送られたものであれば返却する古式習慣がある。この倭王印の印鑑は竹島や志賀島等幾つかの特定の地域 即ち発見は4箇所で見付かっている為にこれは複製品と成るが、古来には複製品の仕来りがあった。つまり、北九州と関西域の「緩やかな政治連合体」(緩やかな政治連合体である為に各主要国が保持していた事を意味する)にこの印鑑を両方の側が所持していた事を物語る。つまり構成国であった竹島の任那国、邪馬台国や奴国等が所持 故にこの連合国家の総称として「邪馬台国」を物語る要素と成る。)

    (特記 「魏志倭人伝」には「83ヶ所の記載」があり、北九州の地名の「壱岐国」「奴国」等の9つほどの国名と移動に所要した陸と水利の距離の表現の記載があり、この記載からこの北九州域と関西域の緩やかな政治連合体を移動した場合にはこの距離間が一致します。又、水利とは博多付近から吉野が里までは河に船の水路を開き両岸から人が引っ張る方式を採っていた事が判っていますから、この水利の距離は瀬戸内海を通った水路の距離と合わせるとほぼ大和までの距離間に成ります。陸は吉野が里から瀬戸内海に面した大分付近間での陸路の距離と摂津から大和路までの陸路の距離を合算するとほぼ一致します。)

    (特記 陸路の記述1月は瀬戸内沿岸で陸行すると関西域間、水路は上記の牽き舟方法で邪馬台国には10日と、瀬戸内海路を関西域までの20日の二つが記載されている。この記述から北九州域 8国 関西−関東域までの凡そ22国の計30国の緩やかな政治連合だった事が考えられる。
    投馬国だけが不明だが関西域の位置にある筈で、”出雲を含まない中国地方の当時の広域の吉備国を云う”と考えると、出発点が問題には成るが、最短距離で「関西域の政治連合」の入り口部吉備国に当り、最長距離で大和盆地の”ヤマト国”に成る。
    「投」の呼称は馬にヤリで投げる姿勢から”ヤ”と呼称していた事が考えられ、「馬」は”マ”又は”マト”であるので関西域の政治連合の「ヤマトコク」の呼称に成ったと考える。但し、「邪馬台国」以外に緩やかな政治連合国家の中に「遠絶地」として書かれた「投馬国」を含む22国の中に「邪馬国」と云う国がある事に注意。 ”ハリマ・播磨・兵庫”を含む後の吉備国域の関西域の緩やかな政治連合体の入り口を総称として「投馬国」か。30国中に「馬」の入れた国は4国 「奴」の入れた国は8国あるのは「緩やかな政治連合体」の証しである。)

    上記の特記事項も考慮に入れると、「自然神−鬼道信仰」の根幹を継承している「青木氏−皇祖神−神明社−神明社」の立場から敢えて考証すると次ぎの様に一応検証しています。、
    根幹部の「鬼道信仰−邪馬台国」の検証問題は、故に上記の「銅鐸事件」や後の「皇祖神の遍座地」や奈良期までの「歴史的経緯」に附合一致する事に成ります。
    後の問題は「卑弥呼の扱い」と「鬼道信仰の習得方法」と成ります。
    「鬼道信仰の問題」は大和の習得はこの「銅鐸の破壊」で証明されますので、後は卑弥呼の問題です。
    「卑弥呼」の死の前に既に飛鳥に呼び寄せられたか(イ)、「政治連合の形」で飛鳥にも出長していたか(ロ)、北九州に人員を派遣して「鬼道占術」を卑弥呼に師事したのか(ハ)のところは未だ解明されていませんが、この説は最近この銅鐸破壊の遺跡発見から俄に有力説として持ち上がり、飛鳥の邪馬台国の卑弥呼説(大和国=邪馬台国)と成っているのです。
    (「政治連合体」の全国的な歴史的経緯は確認されている。)
    この大飢饉の中での「鬼道信仰」と「政治連合体」から観て「卑弥呼移動説」(イ)が可能性が高いと観られます。ただ、(ハ)の説も北九州説と飛鳥説の疑問をバランスよく説明が就き易く、その為に捨てがたいのです。(本論の「祖先神−神明社」の論処からは(ハ)説に近いと考えています。
    その証拠と云うか説明の根拠と出来る事として、更に史実として次ぎの事があるのです。
    それは先ず一つは大化期より朝廷には「藤原氏の斎蔵」の配下にこの「祭祀と占術」を司る官僚として行う氏があるのです。それは阿倍氏です。阿倍氏は前段でも論じた様に阿多倍の子孫です。
    つまり、後漢の「鬼道」を引き継いでいる職能集団の首魁であります。
    その職能集団は「阿部」で「鬼神の鬼道」を行う部民の集団で、「阿」の語意は「鬼道の鬼神占術」の基神を意味し、インドの鬼神の「阿修羅」の「阿」でもあります。
    更にはこの分派の「鬼道の占術」を行う職能集団の「卜部」(うらべ)があり古代鬼神信仰の占師です。
    後に「阿部氏」や「卜部氏」の「姓氏」発祥しています。
    前段で論じた陸奥の安倍氏は阿倍氏の末裔でこれ等の首魁です。前段で論じた阿倍氏や安倍氏はこの立場の背景があったのです。この様な立場や背景が大きく彼の幾つもの陸奥事件に影響していたのです。

    そしてこの様に、その子孫は平安朝期の官僚の「鬼道師」の有名な「安陪晴明の陰陽師」です。
    「鬼神」を占術の中心に据えたものですが、奈良期頃から官僚として引き継がれている「自然神−鬼道信仰」の国事行事の極めて古い職能集団です。問題の時期の「ヤマト王権」期頃からあったものと考えられます。
    この様に邪馬台国の卑弥呼の「鬼道信仰」は「朝廷の祭祀」の中の一つの「占術の職務」としてとして引き継がれているのです。そして、それを引き継ぐその「皇祖神の祭祀」の根幹から「゜祖先神の考え方」が生まれ、且つその事からその一部が上記上段で論じた「神明社の祭祀行事」と成ったのです。

    (特記 卑弥呼の死後は”弟が王となったが納まらず一族の宗女の壱与が立ち納まる”とある事から(イ)説にも疑問があり、この一節からも(ハ)説で納まりが就く)
    この事を配慮すると(ハ)説が最も現実味を帯びて信頼度を増します。

    それまでの「弥生信仰」からの決別と伴に、「北九州域−関西域の政治連合体」が成立して「卑弥呼」の移動に伴ない「弥生信仰」からのはっきりとした決別の意味を込めて ”銅鐸破壊の行為に出た”と考えられているのです。
    この事により飢饉から免れた事を期に、飛鳥に「卑弥呼の常駐」が起ったと考えられます。
    何か「卑弥呼の常駐」か、或いは「北九州域と関西域の広域政治連合体」を祈念しての儀式であったのでは無いかと考えられます。兎も角も「弥生信仰」から「鬼道信仰」への遍歴を祝う国家行事の大儀式行為であった事は間違いないと考えられます。

    (特記 「緩やかな政治連合体」を祝う国家行事であるとして、 「関西域の緩やかな政治連合体」の祝事行為だけか、「九州域の緩やかな政治連合体」との総称「邪馬台国」の「緩やかな政治連合体」での国家の祝事行為であったかは難しいが、「銅鐸の破壊行為事件」から見て後者と判断出来る。そうすると九州域にもその祝事行為に当る何かがあった筈と観ているが未だ不明。)

    ところで、この飢饉は次第に時代と共に気候変動も収束すると共に一時収まりより一層に「鬼道信仰」の流れは爆発的に益々高まりを示します。
    ところが、この100年後(第2期の200年目 第2期 紀元500年頃)には、再び気候変動期が再来しましたが、この事は、この頃にむしろ”吉備に遷座した”と云うのは、”出雲信仰・弥生信仰・出雲国衆の勢力衰退”をより狙い、更には連合体に参加した「北九州域−関西域」の中間域から衰退した出雲域の中国域を安定化させようとする政治的意味合いがあったとも考えられています。
    この事は歴史的な経緯としては確認が取れています。(出雲の国の無戦による崩壊劇)
    この拡がる「飛鳥連合体」を配慮しながら鎮座する位置を見据えていたとも考えられます。
    最終的に勢力圏の関西・中部域の中でその中間の位置にあった「伊勢域」が大化期に良いと決められましたが、その後に於いてでも「伊勢域」の中でも伊勢松阪を半径に飛鳥までの円域の領域を更に「適地」を選んで小遍歴を繰り返したのです。
    (この時には中部域は飛鳥連合体と政治連合を組む事が成立していた。)
    如何に悩んで神が鎮座するべき位置を、上記する気候変動の飢饉の繰り返しで弱体化した「政治的な環境」(A)や「自然や地理の環境」の条件(B)のみならず「自然神の占道での御告げ」(C)等のこの「3つの状況」を合わせて考えられていたかが判ります。

    筆者は飢饉に依って混乱が続く「政治的な環境」(A)に重点が置かれ、中でも鎮座させ建立する事で「国体の安寧と安定化」を図ったのではないかと観ていますが、表向きは「民の心の拠り所」として「鬼道信仰」の「宗教的布教」の目的(D)も強かったと考えられるのです。

    参考 詳細理論
    地球の気候変動の周期理論
    1 紀元0年頃が「300年の大周期の第1期」の気候大変動期で紀元頃の大飢饉
    2 邪馬台国の卑弥呼期が「300年の大周期の第2期」の気候変動期で300年目頃の大飢饉
    3 推古天皇期が「300年目の大周期の第3期」の気候変動期で大飢饉の600年目頃の大飢饉。
    4 この300年大周期に対して100年小周期の気候変動期が繰り返し訪れる。
    5 大化期頃(645年頃)は後50年で次ぎの100年周期の第1期気候変動期に入り飢饉が起こる。
    6 つまり700年頃の平安遷都期に第2期目の小気候変動期が訪れ大飢饉や洪水などが繰り返された。
    7 その邪馬台国の頃(300年頃)が第1期で300年目の大周期の気候変動期で大飢饉期があった。
    8 この周期で必ず自然災害の飢饉が必ず起っている。
    9 この周期では大気候変動期の周期では、900年−1200年−1500年−1800年−2100年の大周期が訪れる計算に成る。
    A 丁度2010年はその100年目の小周期帯に入っている時期である。
    B この気候変動は地球の回転運動と第一成層圏までの「空気層のズレ」が起す変動であって、当然に地C 球内の地殻変動にもタイムラグを起こしながら影響を与えるので、地震等の災害が強く起る。
    D 地殻変動は更には地球の磁場の変動を誘発し更に相乗的に気候変動を引き起こす要因と成る。
    E この変動期間は一定では無く、多少のバイアス変化を起すとされ確定は出来ないが±25−30年程度と観られ後は収束に向かうと考えられている。
    F この「空気層のズレ」は「単純な空気層のズレ」と共に「地場の変動」に大きく左右されているのではないかと考えられている。
    G この「ズレ」の「自然修正の変動」が成す「気候変動周期」と成って現れると考えられているのです。

    因みに現在で云うと、2000年の100年の最後の周期とすると、1975年から起り始めて2000年頃にピークを向かえ2025年頃に向かって収束に向かい2075年まで徐々にある小さい巾で安定期に向かい、再び2075年頃から変動巾を大きくして荒れ始め2100年頃に大変動を起し始めると云うサイクルを繰り返すのです。
    尚、この「変動幅の上下」の原因は、「地球の重量」の増加で「地球の公転」が多少の「楕円運動化」を起こしており、このために回転に必要とする地軸が450年程度の間に0.5度傾きが起っていて、これが更にこの「気候変動周期」と「気候変動幅」を大きくしているのではないかと考えられているのです。
    そして、この気候変動のサイクルは、この世の全ての物質と全ての自然が織り成す変化の特性には、必ず其の特性変化を物理的に観ると、「SパターンとNパターン」を示します。
    例外はこのパターン外には発見されていないのです。

    Sパターンは、丁度、電波などの振動波などの様に半円状に近い形で上下に起す形状で均一的な変動特性を起す様な振動で、お椀を上下にひっくり返した特性変化です。
    Nパターンは、2等辺三角形を長辺を下にして寝かした形が上下に起す形状で、不均一な変動特性を起す振動で、この気候変動がNパターンであります。

    日本の歴史は上記する気象学的特性と併せて考える事が必要絶対条件で、其の当時の遍歴や事変の大きな原因の一つに成っているのです。それは日本の風土全体が政治や経済に大きく影響を与える体質であるからです。
    この鎮座地を86又は87の地に遷座して、国にして13国、年数にして90年の遍歴は気象学的特性から逃れる事は出来ないのです。
    「自然神」を崇める「鬼道信仰」は尚の事であり、この特長を何らかの「自然の異変」でその周期的な特徴を官能的で感応的に鋭く読み取っていたのです。
    真に卑弥呼はこの特技を持っていた事を意味します。
    この特技は女性の性の「直感力」に起因しますが、「自然神の鬼道信仰」はあながち無根拠な占術ではなく科学的(脳医学的)な裏づけがあるのです。
    問題はその確率の問題であって下記に示す論理的な裏づけが取れるのです。

    「論理的な裏付」
    別の論文でも論じた事ですが、現在人は脳が大きくなった為に「動物的な本能」である「予知直感力」の部位は頭の奥深くほぼ中央に押しやられて、額中央にあった「複眼機能」が退化せずに持ち得ていた証拠であります。
    「卑弥呼の鬼道」には周囲に特定の果物と野菜類が並べられていた事が判っていて、特長なのは「野生の桃」の種が何千何万と遺跡から発掘されているのです。
    恐らくはこの「野生の桃」から発する強く甘い香りの成分の「アルコール系芳香性」の刺激成分が脳を集中させて「複眼」を再起させ休んでいる右脳を使いベータ波を出して「占術のお告げ」を出す能力を保持していたのではないかと考えられます。

    (現在の中国の山岳民族の田舎でこの「鬼道信仰」が未だ残っていて桃が使われているし、この山奥深い山岳民族にはまだ「複眼機能」を有する女性が多く、道教に至る前の「鬼道信仰」は村人から信じられていると云う研究が発表されている。「複眼機能」を使う環境がいまだ多く遺されている所以です。
    (次ぎの−19の根幹概論を参照)

    故に気候変動を素早く察知してそれの基に「殖産の生産物」のみならず、それに併せての「政治的な行動」も才知を働かせて考え併せて「お告げの伝達」をしていたと考えられます。
    300年の大気候変動期にこの卑弥呼の自然神を基にした鬼道による占術に人が集まる根拠が納得できるものです。
    そしてこの「流れ」はこの大化期に定められるこの「皇祖神」の90年と90所の諸遷座と共に「神明社」の建立が同時期、同場所にほぼ起っているのです。

    9世紀始め(100年目の小周期帯の気候変動期)の征夷大将軍の阪上田村麻呂の陸奥征圧(806)でも判る様に、その移動経路の「征圧地」には伊勢青木氏の遠戚の桓武天皇の命により「皇祖神」ではなく次々と「祖先神」の「神明社」(最終806年)を建立していっている事(神明社は分布は下記参照)

    「皇祖神」の遷座域と成った関西・中部域の内の主要地の19地域(上記)には第4世皇子の守護王を置き其処に神明社を建立していっている事等です。

    この「神明社の建立根拠」が、丁度100年目の気候変動の小周期に入っていたのであって、桓武天皇は平安都への遷都事情も然ることながら、「皇祖神」を各地に分霊建立する事のみならず「神明社建立」を征討地に建立を命じているのもこの事情の基にあったのです。

    特にこの征討地の建立は東北北陸6県に主に集中しているのです。(神明社の付録データー参照)
    恐らくは荒れて乱れた征討地の戦後処置として民衆に対して「生活の神」としての「神明社」を建立し安定を図ろうとした観られ、この背景根拠はこの6県は主に日本の穀倉地帯でもあった事から上記の気候変動期に合致していた事もあった為に積極的に政策として実行したと考えられるのです。

    上記の複眼機能や気候変動の論理的な根拠に就いて−19では更にその議論を深く進めます。

    青木氏と守護神(神明社)−19に続く。


      [No.285] Re:青木氏と守護神(神明社)−17
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/04/10(Tue) 15:34:03  

    さて、そもそも日本には次ぎの守護神があります。
    日本に於ける守護神はその「7つの融合民族」の構成に由来します。
    この「7つの融合民族」(◆日本民族の構成と経緯 - 01/21-15:25 [No.117])に付いては研究室のレポートでも詳しく論じていますし本論でも述べています。詳しくはそれを参照して頂くとしてここでは読んで頂いたと云う事で進めます。
    この7つの夫々の「民族性」が下記の0〜4を造り上げているのですが、この「民族性」が社会の中で「身分や家柄」を発生させて、加えてその「身分や家柄」から来る「氏の構成」に分類されているのです。
    この「氏」(後の「姓氏」も含む)のその立場から来る「生き様」に合わした考え方を生み出し、そこに「守護神の存在」を想像したのです。勿論、これ等は0の「自然神」を根幹としているのですが、この「自然神」に対するその立場からの「多種多様な考え方」が生み出されたのです。
    言い換えれば、この時代に於いても「氏の構成」から来る「氏の多様性」と共に「生き様の考え方」(「思考原理」とする)もこれだけもあった事を物語るものです。突き詰めれば、「現在の人」の「生き様の考え方」とあまり違っていない気がします。ただ違いはその「生き様」の中に占める「守護神」の割合です。
    前段で論じた様に政治的な事までも「神に占う」と云う習慣であり、次第に時代が進むに連れて低下したとは云え生活の中に溶け込んでいた事は間違いは無く、その氏の行動に大きく左右していた事は間違いはないのです。

    丁度、前段でも論じた様に昭和と平成の時代に「氏の構成」から来る「身分や家柄」(士農工商)の縛りが明治維新に解けて150年経ってやっと人々の「自由な交配」が今起っているのです。
    その意味では、未だ”この「5つの守護神の考え方」が解けた”と考えられる時期でもあり、そう古い事でもないのです。つまり、この今、新しい「生き様の考え方の自由化」が起っている時期とも云えるのです。
    この「考え方の自由化」の時期から約600年以前に遡った事を「祖先神の神明社」として論じているのですが、2000年の日本の歴史から考えると約600年以前から約1600年以前までの1000年の間として、この「瀬戸内」の時代(1000年頃)はその「生き様の考え方」の真っ只中に有った事が云えます。
    恐らくは、その「生き様の考え方」の違いが社会の中に「大渦」として渦巻いていた考えられます。
    その一つとして、各地の大神社がこの時期に系列の神社を各地に挙って「建立競争」をしているのです。この時期では「熊野神社」の「熊野蟻の詣」(本論付録末尾にデータ添付)と呼ばれた事でも有名で、「姓氏の発祥」とも重なって「自らの氏や姓氏の生き様の考え方の象徴」を荘園制に乗じた勢力拡大に伴なってその領域を各地に広げていった時期なのです。

    現在ではその「生き様の考え方」は「個人の自由」として何の不思議も無く容認されていますが、この1000年の後半の「大渦」はその「生き様の考え方の是非」を巡っての争いと成っていたと考えられます。
    言い換えれば、この時代の社会の中では、「5つ守護神の自由性」は無く、”どの「生き様の考え方」が「生残れるのかの戦い」”でもあったと考えられます。
    従って、「累代の天皇」や「2つの青木氏」の苦闘は、「皇祖神」に繋がる「祖先神の神明社」の有り様として、「生残れるのかの戦い」の中での「祖先神の考え方の創建」であった事が云えます。
    つまり、言い換えれば「祖先神の青木氏の考え方」で生残れる事が出来るのかの戦いであったのです。
    その為にも、「3つの発祥源の青木氏」として何としても生き残り「祖先神の神明社の建立」を成し遂げなくては成らなかったのです。
    油断すれば「祖先神−神明社」と云えどもその考え方として抹殺されていたとも考えられる程であったのです。発祥当初は問題は無かったとしても、この頃は皇族系・賜姓族系として限られた小さい氏の構成の中での考え方と成っていたのですのでありますから、多勢に無勢で多くは「3の氏神」と「4の鎮守神」の環境の中でです。埋没してしまって神明社を建立しても忘れ去られていた事に成っていた筈です。

    前段でも論じた様に「祖先神−神明社」の生き残りは「3つの発祥源」の生き残りに成るのです。
    その意味で、この「八幡社の問題」やこの「瀬戸内の問題」は根底にはこの「守護神の大渦」(ブラックボックス)に呑込まれる現象でもあったのです。
    「神明族」としてはその意味でも「源氏の協力」は是非必要な時でもあったのです。然し、「河内源氏」は「八幡社」に走ってしまったのです。それだけに「2つの青木氏」の「祖先神−神明社の建立」に取っては大きな痛手でその立場は困難であった事が覗えます。
    恐らくは、「氏家制度」の厳しい観衆の中では 源氏に対しては ”何にをやってんだ。皇族賜姓族でありながら”の批判が渦巻いていた筈です。一方「未勘氏族側の立場」からすると ”良くやった。 古い体質から脱却して大したものだ。 武家の鏡だ”と囁かれていた事でしょう。だから「武家の棟梁」の呼称が生まれたのですがこれには大きな代償を払った事に成ります。
    この意味で、この「5つの守護神」に付いても前段で論じた来ましたが、改めてこの問題を大きく潜ませている「瀬戸内事件」を鮮明にする為に論じます。
    ただこの事件に付いては上記の背景(守護神の大渦)が社会の中の根底に渦巻いていた事は特に留意して頂きたいのです。

    人は「行動規範」の根底には、この”「生き様の考え方」が無意識の内に大きく左右しているものである”と云う事なのです。その一つの表れが今では無くなった「守護神」と云う事に出て来るのです。
    現代人はこの感覚を無くしていますので、通説などを考察すると ”上辺の判断や理解” と成ってしまっていますが、当時の人々の思考の中には無くてはならない「人の芯」の様なもので在ったのです。
    その「5つの守護神」の考え方の”「人の芯」のぶつかり合い”がこの「瀬戸内の事件」の背景にあるのです。
    (守護神そのものの詳細は下記でも論じます。)
    この「0から4の守護神の考え方」は「氏」を考える上で非常に大切な事で、決して思考の中に除外してはならないものなのです。現在では「氏」そのものを同一として論じられていますが、そもそも「氏の考え方の根幹」が異なるのです。
    「祖先神の神明社」は”単なる「神明社」ではない””単なる神社の違いだけではない”と云う事なのです。
    何度も云う様ですが「生き様の考え方」が異なると云う事なのです。そうなると、当然にそこには”民族の違いの軋轢や争い”が生まれのは必然です。
    まして、ここにあたらしく発祥してきた「姓氏」が加わると、同じテーブル上で論じられた場合には、「氏家制度」の中で当事の歴史の出来事を正しく評価判断できなくなるのです。
    「青木氏」は「皇祖神」に繋がる唯一の「祖先神の神明社」ですが、神社そのものを論じているのではなく「考え方」の歪を無くて正しく論じて「真の生き様」の掘り下げ遺そうとしているのです。
    当然に、その時にはこの考え方に更には「八幡社」が関わってくるのですが、本段ではそれがどの様に関わて来るのかを掘り下げて行きます。
    「姓氏と八幡社」と人の根底と成る思考の「5つの守護神」が絡んで来ると論じるのには大変です。
    そこで先ずはその「守護神の違い」から論じる事にします。

    「日本の守護神」
    「守護神の種類 5神」は次ぎの通りです。
    0「自然神」(しぜんしん) 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿るものを神とし「否特定の神」

    1「産土神」(うぶすながみ) その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」

    2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

    3「氏神」(うじがみ) 「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

    4「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

    そもそも前段でも論じましたが、0の「自然神」は全ての共通する「守護神の根源」となる「神」で、全ての民の「思考の基準」と成るものです。
    ただ、「後漢の民」の帰化人の末裔(阿多倍一族一門)には若干違和感がある筈です。しかし、その違和感もそもそも後漢の帰化人は「道教」を根源としているのですから、「産土神」であっても前段でも論じた様にその「道教の根源」も結局は「自然神」を根源としている事には違いは無い事に成ります。
    この「5つの守護神」の中でも特に「産土神」がその考え方としては異質です。然し、この考え方が阿多倍一族一門によってすごい勢いで全国に伝播して行ったのです(前段で論じた 32/66国)。
    (この時、職能集団の鞍造り部の首魁の司馬達等に依って仏教も同様に私伝されていたのです。)
    中でも関西以西では彼等から「職能の享受」を受けていた民に取ってはこの「産土神の考え方」に当然に牽かれて行ったのです。また牽かれなければその職能の享受と豊かさを授かる事は不可能であった筈です。
    それだけにこの「瀬戸内」の事を語る時この「産土神の考え方」を度外視出来ないのです。
    その「産土神」の柵のあるところに「祖先神」は兎も角も「八幡社」で「源氏の自分の世界」を構築する事はかなり困難な環境下にあったのです。瀬戸内の事は、血縁で地元に根付いた「讃岐籐氏」であり、彼等の伝統である持ち前の柔軟さからこそ成し得た事であったのです。
    まして、当初、清和源氏は「産土神」や「祖先神」ではない「海の神の住吉神社」に傾注していたのです。もとよりそもそも策謀を労しても難しい事であった筈なのです。

    「産土神」
    先ずは、その1の「産土神」は「瀬戸内」の問題でも「純友神社」に大きく関わって来る重要な要素なのです。依ってここでは先ずは「産土神」に付いて特に掘り下げて論じます。
    上記の1の通り、”その人が生まれた「土地の神」を「その人の神」とし、同じ「氏」の者でも生まれた土地が異なれば「その人の神」は異なる”とするものです。
    当時の社会は同じ族を成す者等が集まり集団で身を護る習性を持っていたのですから、人は確かに多くの者は集団で住む事に成りますから必然的に同じ神を守護神とする傾向が起こります。
    しかし、これらの末裔が時間と共に広がり融合し枝葉化すると、当然にその生まれた「土地と環境」が異なって来ますから、「守護神」と云う意味ではこの場合はある程度の「自由性」を保持している事に成ります。
    従って、親と子供が守護神が異なると云う事が起こるのも当然ですから、親や支配者や氏との守護神が異なり考え方が違うと云う事も起こる事に成ります。つまり、「自由性」と「個人性」を強く持つ守護神なのです。
    つまり「その人(単独)の神」であって、「祖先神」の様に「氏の神」は「氏」に属する自分であるから当然に「自分の神」は「氏の神」とする「集団性を持つ守護神」では絶対性は無いのです。
    依って「産土神」では「祖先神」の様な「拘束性」が無い事に成ります。

    「氏の神」=「自分の神」と、「自分の神」≠「氏の神」の考え方の違いなのです。

    前者は「氏の神」は「直接的な神」となり、後者は「氏の神」は「間接的な神」と成ります。
    そうすると、後者は「自分」と「周囲の者」はある場所に於いて同じに成り、又そうで無い事が起こります。
    それは「産土」(うぶすな 生まれた土地)ですから環境が変われば「周囲の者」は必ずしも同じとは成り切りません。
    末裔の先祖は当初は「氏の神」=「自分の神」が成り得ていたとしても「人と場所の変化」は勿論の事として「時の変化」に依ってもこの関係は崩れる事に成ります。
    「瀬戸内」で生まれたとすると家族・親戚は「同じ神」を信じる事に成りますが、家族構成の範囲である場合が殆どと成ると「氏の神」が「自分の神」と云う事には成り切りません。
    前段で論じて来た様に、この考え方の主は、そもそも奈良期に彼等の全ては後漢から来た阿多倍一門の「職能集団」の考え方であり、この瀬戸内の沿岸に住みついた「後漢の民の帰化人」のものであり、且つ、その民を海の上に起こる海事から護る「阿多倍の海の兵能集団」のものでもであるのですから、「民族氏」であり「海部氏」等の様な列記とした「品部の姓氏」(かばねうじ)のものでもあります。
    然し、この考え方はこの間、既に600年近く経過しています。

    この間にこれ等の「海の兵能と職能集団」が「姓氏」として独立したのが「海部氏」であるのです。
    そして「陸」では「陸の兵能集団」の「武部氏」と、「職能集団の陶部」の「陶氏」が「姓氏」として独立して勢力を拡大したのです。
    この「海部氏」や「武部氏」や「陶氏」などはそもそも元来の地は「職能集団」であり、武力を持たない集団であったのですから、「姓氏」として成り立ち勢力を持つには「海の兵能集団」と「陸の兵能集団」の協力が不可欠で絶対的必要条件です。
    瀬戸内で発祥した日本最初の「品部」から生まれた「姓氏」で、これ等の「姓氏」に成り得たのはこのまさしく「海の兵能集団」(海部)に護られていたからであり、その海から得られる富を背景に勢力を拡大し「姓氏」と成り得たものなのです。
    陸の「姓氏」の「陶部氏」も「武部氏」もこの「海の兵能集団」に護られていたからこそ室町期には中国全土を支配する「陶氏族」となったのです。
    ただ、互いの部の異なる者達の間には、問題は上記する”産土神の関係がどの程度思考の中に遺されていたか”と云う疑問が湧きます。

    「産土神の影響」
    「場所の要素」は瀬戸内である事は帰化当初からは同じとすると、「人の要素」は”海族””海部族”として存在しているとこから多少の変化を起していたと観られますが、この族の「産土神」は依然として存在していたと考えられます。しかし、この各海族の「族間」は「海部族」を「姓氏」として「海の兵能族」として生存し維持し互いに相互保護していた事から多少希薄には成っていたとしても存在していた事は確実です。
    多少の希薄に成っていた分は、職能関係で ”相互間には「経済的条件の関係」の要素で補われ成り立っていた”事と観られます。
    「海部氏」は他の「海族」から身の安全を保つ「武力的な保護」を受け、「海族」はその見返りとして「経済的な保護」を受けて成り立っていたのです。特に上記した様に「産土神の考え方」がこの「相互関係」、即ち、「自由性」と「個人性」−「否拘束性」を持つ事から、この「経済的な相互関係」を強く持つ事が特徴とするのです。各海族の族間の「希薄の分」は「経済的な結付き」で補完されていたのです。
    つまり、「祖先神」が持つ「経済的な相互関係」は「当然の義務の事」として優先的に成立するのに対して、「産土神」では「義務の事」は「補助的な要件」として存在するのです。つまり「相互依存の関係」で成り立っていた事です。

    経済的な相互関係→祖先神・・義務的要件  「産土神」・・補助的要件(相互依存)

    実は、戦略上の常道として、「陸戦力」は海からの攻撃に弱いのです。その弱点を「瀬戸内の兵能集団」が護っていたから「陸での勢力伸張」が可能だったのです。
    例えば、ここにその事例があるのです。前段で論じた事ですし、上記の義経が平家水軍を瀬戸内で破った直ぐ後、平家は最終決戦を挑む為に、「敗残兵」を集め水軍を建て直し集めて密かに頼朝の根拠地の鎌倉沖の海に三々五々終結したのです。水軍の持たない慌てた陸戦軍の頼朝軍は弱点を突かれて逃げ始めたのです。ところがこの事を察知した伊豆沖の大島群島の大島源氏の水軍が黒潮を乗り越えて不眠不休で3日で到達したのです。既に頼朝は海から攻められて敗走しているところであってこれが一日遅かった場合は鎌倉幕府は無かった事に成ります。
    大島水軍が伊豆沖を通る船の多さに疑問を抱きこれを「察知」した上で、且つ「3日」以内で到達しなければ頼朝軍は滅びると観たのです。そこで来るとは予想もしなかった計算外の平家水軍は今度は船団の背後を突かれて、これを観た勢いついた陸戦軍との挟撃に合い殲滅してしまったのです。
    大島水軍が動く事と頼朝軍の掃討は5日と見込んでの「秘密戦略行動」であったと記録されているのです。これが本当の源平の最終結末なのです。

    事程然様に、「瀬戸内の海族の背景」が無くしては「陶部氏」にしろ「武部氏」にしろ自らの力ではその勢力の拡大は例え「海の富」があるとしても「姓氏」には成り得ないのです。
    この「海の族」即ち「海族」の力が伴っている事が「姓氏としての絶対条件」なのです。それは現在の軍備においても戦略上同じです。
    この証拠に室町期には「瀬戸内の兵能集団」は「陶部氏の配下」に入ります。
    瀬戸内の「陸の兵能集団」は「武部氏」、「海の兵能集団」は「海部氏」等です。

    (注釈  他に奈良期に蘇我氏と戦い滅亡した「兵能集団」として「物部氏」がある。実は「海部氏」と「磯部氏」の職能の境界が不祥で、「海部氏」は兵能と海産物の職人、「磯部氏」は海産物と兵能の職人の両方が記録から出て来る。先ず「海の領域」が異なっていた事ではないか、「海部氏」は外海側 「磯部氏」は内海側 従って「海部氏」は外海から互いに内部で役割分担して兵能役に重点を置いて居たとも考えられ、同様に「磯部氏」は内海であっても職能に重点を置いていたとも考えられる。 恐らくは「海部氏」の場合は家族が海産物の扱いも演じていたと考えられる。時代の変化と共に「生活の糧」の為に区分しなく成ったと考えられる。)

    (注釈  前記したが、「武」と「兵」の違い 「武」の”もののふ”は「氏家制度」に依って発祥した武装集団でその「氏の宗家・武家」を主とする組織の支配形態化にある「武の士」を云う。
    「兵」の”つわもの”はその集団の首魁の下に兵能職として集合し集団の首魁の直接的支配形態にはなくほぼ「兵能請負形態」に近い軍団の「兵の職人」を云う。
    後に「武の士」は「武士」と呼ばれその「武の道」としての規律を養い育成した。下克上が起り主家宗家が逆転した事から江戸時代にはこの「武士」までを「武家」と呼称する様に成った。
    「兵の職人」は奈良期に後漢の民の職能集団が帰化してからこの中の兵能の集団が「兵」”つわもの”として職能者として定着したもので、歴史的には漢氏や東漢氏や物部氏がこれに当る。室町期には雑賀集団、根来集団、柳生集団等の兵能集団がある。室町後期には”もののふの武士”と”つわものの兵”が「農兵」も加わり一つに成って行きます。)

    この「二つの海と陸の兵能集団」を配下にしたからこそ室町期の下克上では陶部の「陶氏」中国域全域を制覇出来たのです。
    この「海部氏」は「海の兵能」と共に沿岸部の末裔一族やその家族集団等が営む「海産物全般」をも取り仕切って販売しその富を得てその船団の輸送力(造船力含む)と武力を使って勢力を拡大したのです。
    これ等の意味も考慮に入れて「産土神の純友神社」と云うものの存在はただの”神社”の意味だけでは無い事がよく判り、大いに生活に関わる事でもあります。
    そもそもその行動は上記する「思考の根幹」にも通ずるものであって、その「純友神社の存在」の判断は「思考」と「生活」とに直接に関わる事であり、彼等の共通する「集団の象徴」でもあります。
    現在、我々が感ずる神社・”お宮さん”のそのものの単純な事では無いのです。
    (通説ではこの様な時代考証が無視される傾向がある)
    これは上記した様に「祖先神−神明社]も「氏の神」=「自分の神」の関係にあった訳ですから、尚更に同じ以上により強いものであった事に成ります。
    そして、この様な事の記録資料が彼等の「産土神」の「純友神社」系を含む神社に所蔵されているのです。
    この絵巻などを含むいくつかの所蔵資料を総合する事で「海族」としての「海の族の活動具合」が読み取れるのです。

    又、全く同じ時期で同じパターンが美濃から駿河の海域でも起こっており、上記した「駿河水軍」に護られて「海の族」の「磯部氏」が「海部氏」と同時期に中部地方の「姓氏」として勢力を拡大したのです。
    又、やや異なるかも知れませんが、前段で論じた「伊勢-信濃の賜姓青木氏」も「伊勢シンジケート」の一つの「伊勢水軍」を背景にしていたからこそ「2足の草鞋策」が成し得たもので、生き残りの大きな背景に成っているのです。
    当然に「瀬戸内の水軍」の「産土神」の「純友神社」(仮称)と同じく、「祖先神の神明社」は関西以東のその陸海の「シンジケートの象徴」でもあったのです。
    そもそも何処に於いても「氏」の生き残る構成は突き詰めれば同じなのです。”ある物に共通する象徴を求める”と云う人の「本能的習性」があるのです。
    勿論、「神明社の特別賜姓族の青木氏」に於いても前段でも論じている様に寸分違わぬ構成に成っているのです。これは最早、「氏家制度の古氏の条理」ともされる絶対条件なのです。
    (この判断要素が通説には多く欠落している。)

    その彼等の「瀬戸内と云う海域」に祭祀する伝統的な守護神は「瀬戸内の産土神」であります。
    対比して「祖先神」は環境には無関係で遠くに居ても「氏の守護神」は「自分の守護神」でもある事に成ります。従って、「瀬戸内の産土神」の環境の中に於いてでも「祖先神−神明社」の存在は「生活の神」「物造りの神」である為に彼等に受け入れられる事が可能と成り得ますので、この「瀬戸内」にも「神明社」が存在している事に成ります。
    (その反面、八幡社は上記した問題があり彼等に受け入れられ難い環境にあった)
    そもそも前記したように「神明社の存在意義」は「祖先神」と云う括りがあったとしても、「豊受大神宮」を祭祀しているのですから「物造りの神」「生活の神」の「存在意義」があり、「産土神」に限らずどんな「守護神」の中に於いてでも「民の生活の営み」が存在するところには敬愛され信心される事が可能という事に成るのです。これは「産土神」と「未勘氏族が作り上げた八幡神」との融合とは異なるところなのです。

    さて、そうすると、「瀬戸内の産土神」を守護神とする環境の中に、「讃岐籐氏」の「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」としての「祖先神の神明社」は少なくとも抵抗無く受け入れられる事を意味しています。
    つまり、「藤原純友」の周囲(讃岐籐氏護衛団の秀郷流青木氏)には彼等の「海族」を説得出来得る条件はもとより「思考原理」としても備わっていた事を意味します。
    この事は ”純友が海族に成ったとする通説”には「純友−海族」の生きる世界の間には”「大きな隔たり」が存在している”とする前提条件が論理的に付いている筈です。
    ”解離しているから同じに成ったとする事が変質である”としていて、それを非難されているのですからこの事から考えてもこの「海賊の通説」は全くおかしいのです。

    (特記 上記の矛盾考証以外に、伊予住人、伊予三等官、有品官位保持、令外官追捕使、一族讃岐籐氏、特別賜姓族護衛団、瀬戸内利権、瀬戸内血縁族、父は大宰府少弐−上野守国司、藤原北家秀郷一門等のこれ以上無い「絶大な生活環境」を保有する人物であり、一転してこの環境を捨てて「海賊」に成り得なければならな利点が無い。むしろ「瀬戸内海賊」をその環境の一つに加えての「全瀬戸全域の利権」と「血縁絆」をも収めてしまった事による為政者側(朝廷)の「怨嗟」と「危険視」の発露であった。つまりは”出る釘は打たれる”の例えの通りなのです)

    然し、「産土信徒」の海族側と「神明社信徒」の同じ瀬戸内に住む「讃岐青木氏」等の純友側には「物造りの神」「生活の神」としての「共通項」が存在していたのです。この「共通項」が触媒と成って海族側の「拒絶反応」が霧散した事を意味します。

    「瀬戸内の讃岐青木氏」
    「讃岐籐氏」を支えていた「第2の宗家」の「讃岐青木氏」が下記の「融合条件の関係方程式」に大きく関わっていたとしているのです。
    「讃岐籐氏」の護衛団は「讃岐青木氏」です。この「瀬戸内の海族団」との交渉に無くてはならないのはこの護衛団です。仮に「海族団側」と談合が付いたとしても「彼等を護る力」が純友側には保障として絶対に必要です。

    (特記 丁度、真にこの時期に秀郷一門の「武士の護衛団」は秀郷第3子千国を長として「特別賜姓族の青木氏」として朝廷より「青木氏」を賜りその任務に任じられる。秀郷は「将門の乱」を平定する条件として「2つの条件」を朝廷に提示 [貴族に任じられる事 武蔵下野を領国とする事]。 「公家の藤原氏」に成る事により自ら「秀郷正規軍」はもてない事から千国にその「正規軍」の任務を与え、その「護衛軍」に成った「武家の青木氏」の賜姓を特別に受けて「貴族の護衛団」らしく権威付けた。公家は護身用の武士は持てたが戦い用の武士団は持てない慣習がある。この経緯より「秀郷流青木氏」は939年から940年の発祥と観られる。純友事件の直前に「純友の護衛団」は「特別賜姓族」の名誉と「青木氏」の名籍を獲得して純友は「追捕使の任」と共に彼等を説得する事に勢い付いたと考えられ、同時に「瀬戸内の民」も信頼する条件が生まれた筈です。当初は朝廷も「秀郷勲功」と「祖先神−神明社建立」に配慮した事が「純友任務」にも影響を大きく及ぼしたのです。 余りの影響に「朝廷怨嗟」が生まれた。
    この時期の朝廷は「将門の乱の鎮圧」に誰も手を挙げなかった程に信任を落としていた。結局は平貞盛と藤原秀郷の2人が条件付で手を挙げた程であった。体裁を保つ為にやっと経基等の「追討軍」を編成して関東に送ったが既に鎮圧後の対面策であった。)

    (特記 上記した様に「特別賜姓族」に任じられた理由には皇祖神に繋がる「祖先神−神明社」の普及建立など幾つかあるが、筆者はその一つとして「朝廷内の勢力争い」の中で北家筋は瀬戸内に勢力を伸ばしていた「讃岐籐氏の純友」を背後からバックアップする意味で、全国の藤原氏北家の中でも最大勢力を誇っていた「讃岐籐氏」のその「護衛団」に「特別賜姓族」とする「権威付け」をさせて事を上手く図れる様にこの期をわざわざ選んだと見ているのです。政治的経緯から観て全国的にもその権威付けの必要性の機運は北家筋としては高かった。「令外官追捕使」の任命もその一つであった。)

    「令外官追捕使」の純友にはもとより彼等を護り抜くだけの兵力は与えられていない訳ですから、護衛団の「讃岐青木氏の武力」が絶対的に必要です。
    そして何と云ってもこの「讃岐青木氏」はただの護衛団ではありません。
    「特別賜姓族」と云う「朝廷のお墨付き」を持っています。「物造りの神」「生活の神」の「神明社」を各地に建立し続けている特別賜姓族です。彼等海族も「物造りの職能集団」の末裔です。
    瀬戸内沿岸と山陰までの土豪との血縁による「幅広い血縁族」を有しています。
    更には、秀郷一門の116氏の中でもトップクラスの「2足の草鞋策」の「経済力」とそれに伴なう「廻船力」を有しています。
    これだけの「裏付と権威」があれば「瀬戸内の海族」に取っては信頼は出来て文句はなかった筈で、武力に依る彼等の「身の安全」の確保と「海産物の販路」の拡大の点に於いても彼等の「生活の安定」に繋がります。一方「讃岐青木氏側」に取っても「瀬戸内の富と利」に大いに繋がる事です。

    貴族の「讃岐籐氏」はとりわけ「藤原北家」の「下がり藤紋」の一族は自らが武力を保有せず「秀郷流青木氏」(朝廷より特別賜姓族としての特権を与えられている)を「武力の護衛団」とするのが朝廷より認められた氏であり貴族です。
    依って、「瀬戸内の海族」との交渉には、少なくとも彼等には「秀郷流青木氏」(特別賜姓族としての特権を与えられている)が背後にあるとして「純友」を観て居た筈です。
    「瀬戸内の令外官の追捕使」として、又、「純友の個人的な信頼」も然ることながら「特別賜姓族としての特権」を背後にあったからこそ交渉に応じたと考えられます。
    「純友の個人的な信頼」は直ぐに醸成され得ないし、「令外官の追捕使」はその役目柄から海族側に取ってみれば「敵対の立場」にある訳ですから直ぐに容易に交渉に入れる事は先ず在り得ません。
    其処には、何かかれらを交渉の場に入らせた何かが在った筈です。
    その背景には”それが「讃岐青木氏」の存在だ”と考えているのです。
    この「讃岐青木氏」のこの「瀬戸内の活躍」にあり、四国はおろか山陰までの血縁による広い関係保持が「瀬戸内の彼等」を信頼させたと観ているのです。
    安芸や美作の「瀬戸内の沿岸族」との枝葉血縁の中には彼等との血縁もあった事が「讃岐青木氏」の枝葉の家紋分析から考えられるのです。この安芸と美作の瀬戸内の沿岸部には上記した海部氏や武部氏や陶氏等の「姓氏」を始めとする「土豪の集団防衛態勢」が特に起っていたのです。そしてその連合体と「讃岐青木氏」は血縁関係を結んでいるのです。
    これが「讃岐籐氏」の特筆する事柄なのであって、”この血縁によるこの深く浸透した人間関係が直ぐに交渉に入れた背景だ”と観ているのです。
    更には古来より天皇から信任を得ていて「特別賜姓族青木氏」として「祖先神−神明社」の「物造りの神」「生活の神」を民の為に建立する氏であったからこそ信頼して「瀬戸内の海族」の兵能集団の彼等は話し合いに応じたのです。
    何時の世も何も無しには幾ら何でも難しいのは”この世の定め”で、其処には「信頼と絆」とが先ずは醸成されていてこそ交渉事は成り立つものです。
    それだからこそ何よりの証拠としてこの「瀬戸内の関係」は時代の荒波の遍歴にも関わらず四度も蘇る事が出来たのです。
    突き詰めると、その「思考原理の根幹」は「瀬戸内の産土神」にあったと考えているのです。
    この瀬戸内の彼等にはこの「産土神の思考原理」であったからこそ下記する関係式が成り立ったのです。
    「産土神の思考原理」が無ければこの談合は成り立たなかったのです。

    (特記  前段で「亀甲集団」など論じた様に、「讃岐青木氏」の讃岐宗家の家紋は「下がり藤紋に副紋雁金紋」としている事でも明らかで、秀郷流青木氏116氏の主要紋には亀甲文様を副紋としている青木氏は3つもあり、亀甲紋に限らずその枝葉の支流文様からはこの安芸−美作の土豪や姓氏の家紋を副紋としているものが実に多いことでも判る。 特に平安時代中期頃から用いられた古い文様群であり、「亀甲文様族」は中国地方の全域で「集団防衛態勢」を古くから強いていた事で有名で、それの文様の3つもの「亀甲紋様族」と血縁し、尚且つ、四国側沿岸族の「雁金紋」との血縁をしていることは「瀬戸内沿岸族」と網の目の様に血縁族で結んでいた事が判る。 「雁金紋様類」は瑞祥紋である為に「神紋」としては奈良期からあり、「象徴紋」としては平安初期からあり、「姓氏」としての文様としては四国よりこの平安末期頃に発祥し、問題の「瀬戸内沿岸族」の海部氏一族や海野氏一族や亀田氏一族等がある。海野氏や亀田氏等は「瀬戸内の兵能集団」の「海族末裔」かは確実な確認は取れていないが「武力と経済力の姓発祥条件」から観て可能性が極めて高い。
    瀬戸内の兵能集団を獲得して「絶大な武力」を保持し「瀬戸内の利権」と「青木氏の名誉」と「産土神族」を味方にした伊予讃岐の三等官の完全な聖域を超えてしまった)

    「融合条件の関係方程式」
    海族=産土神
    讃岐籐氏+讃岐青木氏=神明社
    産土神=共通項(「物造りの神」「生活の神」)=祖先神−神明社
    共通項=触媒
    「産土神」+「触媒・共通項」+「祖先神−神明社」=「純友神社」

    「大蔵氏と瀬戸内海族との関係」
    そうすると、讃岐籐氏との「純友神社」として関係が成り立つ事が判ったとして、元主筋に当る九州の「大蔵氏」と彼等の「瀬戸内の海の族」との関係はどの様に成るかの問題です。
    当然に確かに阿多倍一門の大蔵氏は主筋であっても、何れも「産土神」である事から考え方に関しては両者とも異なり縛られない考え方に成ります。
    当然に、「場所、時、人」の要素は長い間に変異している訳ですから、同じ「産土神」でも異なってしまう事に成ります。まして「産土神」には血縁に関する「家柄、身分、血筋の縛り」が希薄で在りますから、融合する範囲は変異すると、”「産土神」で繋がると云う関係”は希薄に成る事は必定です。
    ただ、この「大蔵氏」の場合は他の「3つの守護神」と異なり「産土神」とする考え方には、つまり周囲の土着民の考え方には融合し難い所があった事は現実には九州に於いて史実から観て否めません。
    当然、そこで、九州に居ても大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていればそれはそれで主筋として「瀬戸内の民」はたとえ「兵能集団」であるとしても「儀」を護るでしょう。
    しかし、そうでなければ時代を経て「瀬戸内」で生まれた者達は「産土神」の考え方から、「瀬戸内」で生まれた異神の「純友」であり主筋としては「身の安全」を護ってくれる「讃岐藤氏」である事に成りますし、彼等の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられれば、大蔵氏の「主筋の儀」を捨てても良い考え方に成ります。

    「神明社」の考え方ではそれは不可能で「不儀」と成ります。ですから「河内源氏」の「八幡社の行動」に問題が出てくるのです。「河内源氏」が「産土神」であれば問題はありません。しかし、「皇族賜姓族」である限りでは「祖先神」でありますから永遠に不可能であります。しかし、「河内源氏」の「未勘氏族」とした者達の多くは九州の土豪が多いのです。
    つまり、「産土神」の考え方を「思考の根源」に持っている「後漢民の末裔」の土豪なのですから、彼等からすると「未勘氏族全体の守護神」を「八幡社」としてもそこには何等問題は無い事になります。
    そうすると、「河内源氏」が守護神の処で「賜姓族の生き様」として問題を起している事に成ります。
    だから「未勘氏族」が「国家鎮魂の八幡社」を自らに都合良く「弓矢の八幡社」に変異させて、勝手に自らの守護神であるかの様に吹聴しても何ら問題が無い事に成りますから、自由奔放に全国に広まった事に成るのです。「河内源氏」はこの現象を承知して故意的、恣意的に放置して利用した事に成ります。
    その利用した「河内源氏の目的」は「未勘氏族の武士団の形成」にあって、それに依って得られる利益・利得を享受する事にあったのです。それが「瀬戸内の利権」を獲得出来なかった「腹癒せ」と云うか「見返り部分」で、「たいら族」と異なり源氏は「産土神」を守護神とする同民族の「兵能集団」を元から持ち得ていた訳ではなく、「賜姓族」として武力を持つには「未勘氏族の武士団の形成」以外には無かった事に成ります。従って、「武力」を優先する限りは「賜姓族」としての「祖先神」を不義であっても捨てる以外になく成る事に成ります。
    これは「河内源氏」がこのジレンマに落ち至っていた事を意味します。当然その結果として、朝廷や天皇から「3つの発祥源」としての勤めを果せなく成る事から排斥や軋轢を甘んじて受けなくてはならない羽目に陥ります。因果応報で在ります。
    同じ立場にあった「2つの青木氏」は「3つの発祥源」の立場を護り、このジレンマから脱する為にも「武力」ではなく、前段で論じた「抑止力」とそれを経済的に裏付ける「2足の草鞋策」を採ったのです。
    「たいら族」に取ってみれば「武力」に対する苦労は「産土神」を守護神とする「兵能集団」を当初から備わっていた事に成る訳ですから、後は経済的裏付を採る事(宗貿易)で一族一門の発展は直ぐに成り立ちます。故に更には大蔵氏等の一族一門の背景も「官僚の職能集団」として朝廷内にあり、たった5代で太政大臣に上り詰めた事に成ったのです。ここに源氏との大きな違いが在ったのです。「氏発祥の差異」とも云うべき違いです。

    (特記 「阿多倍一門」(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏系)は敏達天皇系の女系の血筋と光仁天皇−桓武天皇系(たいら族、阿倍氏系)の女系の血筋を引く賜姓族の出自 大化期より兵能・職能集団が配下にある。「産土神」グループである。
    「源氏一門」は嵯峨期以降の累代天皇の第6位皇子の臣下賜姓族 その内、「清和源氏」は例外皇子順位の賜姓臣下族の出自 兵能・職能集団は配下になく、荘園制を利用して「名義貸しの未勘氏族」を組織化して配下に治めた。「祖先神」グループである)

    そうすると、今、論じている各地域の「未勘氏族」が九州から関東域まで存在しますから、当然に「未勘氏族」の考え方は「産土神」だけではなくなる事は起こります。
    「産土神」では西の分布域は兵庫県の西域までです。ですからそこから東域は「産土神」ではない「未勘氏族」と成ります。殆どは「姓氏の守護神」の「3の氏神」ですから、当然に同じ「未勘氏族」であっても「心の考え方の根源」は異なります。
    この事が上記で論じて来た様に地域による「八幡社の建立」の「位置づけと差異」と成って現れてくる事に成ります。
    西域では「弓矢」でも東域では「家内安全や身の安全や生活の神や物造りの神や国家鎮魂」と変異し、北域では最早”総神の神明”と成り得てしまうのです。
    しかし、因みに中部域の駿河域や信濃域や甲斐域では「産土神」であった阿多倍の職能集団が一度中国地方に配置され再び直ぐにこの「3つの域」に配置移動させられているのです。
    「磯部」や「馬部」や「鞍作部」等の関係の職能集団が移り住み「放牧を中心とする開拓」等に従事しています。
    前段で論じた様に信濃では彼等は後には日本書紀に出てくる「諏訪族」等と成っています。
    当然に「産土神」と成りますが、少し違うのです。確かに「諏訪神」はその「心の思考の根源」は排他的傾向である事では幾らかは明確に産土神の考え方を遺してはいますが、例えば信濃の馬部や鞍作部の彼等の多くは「諏訪神」と成っているのです。つまり、これは「産土の考え方」そのものなのです。
    先ずは「生まれた土地の神」を前提に成りますから、恐らくは奈良期にはつまり移動配置時には「産土神」であった事が考えられますが、「産土神」は何時しか「諏訪神」としてその土地の生活環境から「独自の守護神」「諏訪神」を創建して変異したのです。それはここには「阿多倍一門の主筋」が無くなっているからなのです。
    彼等の「理解」と「利害」と「安全」が当初より叶えられ無く成った環境下に置かれた結果なのです。
    故に「中部域」は「瀬戸内」とは違い、「八幡社」は勿論の事で、全て「別の歩み」を起こしたのです。
    この事の様に「時代考証」を良く配慮した上で「純友神社」の「歴史的な民族的な経緯」を論じなくては正しい答えは出て来ないのです。
    ですから、その考え方の上で上記の様に「中部域の変身した諏訪神の諏訪社」や「北陸東北域の変身した祖先神の神明社」と同じ様に、「瀬戸内域」の彼等は「産土神」を変身させた「仮称 純友神社」をこの期に建立したのです。
    この建立した「純友神社」の意味が「産土神」の考え方と融合して「純友や讃岐藤氏」に対する姿勢が理解出来るのです。
    新たに「彼等の考え方」では心から主筋を「純友や讃岐藤氏」に決め、その決心としてその「主筋と守護神」を合致させた事を意味するのです。だから身命を賭して戦い、敗れても乱れること無く何度も再び集結し「瀬戸内」の「海の族」を歴史的に長く護り通したのです。他の地域には観られない独特な産土神の考え方の生き方であります。
    そして、その結果が多くの遍歴を受けながらも持ち直して昭和20年までの「瀬戸内の利権」を保守したのです。
    大蔵氏500年という長い期間を経てはその意味で九州に住する限りに於いて「氏」とは成り得なかった事に成りますし、又、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられ無かった事は歴史上に於いても史実です。しかし、上記した様に遍歴を得て後に阿多倍一門の伊勢伊賀の宗家筋の末裔の「たいら族」がこの「海域支配」と「生活の基盤」をこの「瀬戸内」に置き、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられた事に依って「産土神の彼等の条件」は全て叶えられ、「たいら族」の支配下に戻る事は抵抗無く当然の結果と成り得たのです。その中でもそこには結果として「瀬戸内の彼等」の「変異し融合した純友神社」が彼等の産土の守護神として祭祀続けられたのです。
    何もこれは偶然の事ではないのです。要するに源平で戦った有名な彼の無敵の「平家水軍」なのです。
    ”元の鞘に納まった”と云う事だけなのです。
    そこでこれだけの「産土神の考え方」の中で「儀・義」を通していたこの「海族」の末裔の100年後の「平家水軍」は果たして「海賊」でしょうか。
    この「産土神」の「平家水軍」の元は「純友」がまとめた「産土神」の「海の兵能集団」の「海族」なのです。
    これ等の行動に「儀」に近い「産土神の考え方」の「一貫性の義」が働いているし、それを100年も持ち続けているのです。そして「たいら族」滅亡後は阿多倍の職能集団の「陶部」の支配下に入った室町期に於いても、その更には室町期末期の「村上水軍」にしても、この「義」に類する「儀」を堅持しているのです。
    凡そこの間1400年間です。”これが何処が「海賊」なのでしょうか。”陸の土豪族に勝るとも劣らずであります。
    この様に現実にはこの「純友」にまとめられた「海の土豪」は1200年代までその主筋の「たいら族」の支配化に入っていて、「たいら族」滅亡後、その末裔は後の「瀬戸内」を再再編して制した歴史にも出てくる「村上水軍」に成るのです。
    この事に関しての出回る通説がこの歴史経緯の「民族的な判断」の欠落で大きな間違いを起こしているのです。

    「瀬戸内と大蔵氏」
    まして、話を戻しますが、その意味でこの事を熟知する阿多倍一門の次男の同族子孫の「大蔵春実」はこの「純友問題解決」に指名されているのです。
    その立場にある「大蔵春実」は「ある意味での見事さの功績」で、天皇から万来の信頼を受け「海賊問題解決」にしては考えられない程の「破格の勲功」であって、それは「錦の御旗」「天国刀授受」と「太宰大監」「太宰大貫主」「対馬守」の役職「瀬戸内の追捕使」の役を獲得しているのです。
    現在に於いてでさえも個人に「錦の御旗」「天国刀」等を与えられた者はいないのです。まして、「地方の事件」に等しい問題に対する「一度の勲功」にです。
    単なる「地方の事件」であり別に国や朝廷を揺るがす程の問題でもないのです。
    その「瀬戸内の海賊の問題」に「国が滅ぶかどうか」で与えられる勲功を周囲に判る様に”これでもか”と云う風にわざとらしく与えているのです。
    上記した様にこの「時代の社会の慣習」から「海族と海賊との違い」と「社会の成り立ち」を承知していれば、もし「海賊」とすれば何時の世も社会の巷に起こる単なる「盗人か盗賊」に過ぎない問題です。これに朝廷や天皇や大蔵氏や藤原氏が出て来てそもそも騒ぐ問題ではありません。
    何か他に意味を含んだ異常としか考えられない勲功なのです。それも「大蔵春実」だけにです。
    つまり、史実を辿れば、元々「経基」が欲していたのは ”「北九州から瀬戸内と南海海域の圏域の確保」”だったのです。勲功は別にしてもそれを「純友」を倒したならば普通ならこの「地域の支配権」を「讒言讒訴の経基」に与える筈ですが、ところがその様にせずにただの「豊後水道」から「紀伊水道」までの「海域の警察権」のみを「大蔵氏」に任せ、「瀬戸内全般の警察指揮官」だけを命じる結果と成ったのです。

    大蔵氏は勿論の事、天皇朝廷が上記した「海賊」と看做する「彼等の歴史的な経緯」と「産土神の考え方」と「彼等の主筋との支配関係等」の事と「彼等の不満解消」事等を、彼等の末裔6割を占める官僚が存在しているのですから、この情報は充分継承されて事前にも承知していて判っていた筈です。
    従って、事前に「解決シナリオ」は出来上がっていた事は充分に考えられます。それに沿った解決が出来た事に満足して、且つ「向後の憂い」がなくなった事に満足して、一挙に九州自治、北陸の問題、関東の問題も解決に向けて拍車を掛けたのでないかと考えられます。

    つまり大蔵氏に「讃岐藤氏の圏域の利権」は与えなかったのです。実態には変化は無いです。
    つまり、この事件の決着方法を間違えば「藤原氏」にも「大蔵氏」にも一門の勢力を大きく左右する事であったのです。それだけにこの「海域の利権」(藤原氏)の大きさと「警察指揮権」(阿多倍一門)の重要さが物語るものであったのです。

    「瀬戸内の経緯」
    ここで大筋の経緯をまとめて論じたいと考えます。この大筋の経緯が「神明社と八幡社」の根幹の判断に大いに関わる事なので取り纏めて論じます。
    この「二つの権利」を一時、「純友問題」に代表される様に「讃岐藤氏」が持っていた事に対して、それを獲得する為に清和源氏が合策したのです。何度も前段からも論じますが、中国域の南沿岸部全般は奈良期からの「阿多倍一門とその支配下にある姓族・品部」の無戦に拠って得た支配地域でした。
    そこに「讃岐藤氏」が得意とする「血縁手法」で食い込みその圏域を脅かしていた時期でもあったのです。そしてこの「瀬戸内」はほぼ「純友」が圏域に納める事を成し得た丁度その時に、これを契機にこの「圏域の奪取」と「経基の讒言讒訴」が起こり、阿多倍一門の大蔵氏も「圏域の奪還」を図る良い機会と狙ったのではないかと思われます。
    しかし、朝廷や藤原摂関家に執っては清和源氏にこの「瀬戸内の圏域」を引き渡す事は政治バランスや経済的打撃等から好ましく無く、結局は朝廷の官僚の6割を占める阿多倍一門の末裔からすると面と向かって政治的に軍事的に藤原氏と対峙する事が得策なのか選択を迫られたものと考えられ、結局は藤原氏と大蔵氏の両者は懐の痛む「痛み分け」で談合したのです。
    当然に経基王の野望目論みは排除とする談合がなされたものと観られます。この事により天皇と朝廷の政治的経済的な痛手は無くなります。
    当然にこの成り行きのキーマンは九州全域と豊後水道と中国域を制する大蔵氏であり、その出方如何では天皇と朝廷と藤原北家とその主家の摂関家の運命は決まる事にも成ります。
    当然に経基王の今後の命運も決まるものであった筈です。
    結局は、経基王はこの圏域の野望から排除されその富の獲得の為に禁止されている「荘園制」に走ってしまったのです。
    そこで天皇朝廷は先ずキーマンと成っている大蔵氏を納得させる為にも何か特別のものを与えなくては納まらない事に成ります。
    そこに先ずこの「事件の勲功」として、「2つの水道域間の警察権」のみを与え、「瀬戸内の圏域の利権」は「純友の捕縛」を条件に据え置きにして「讃岐藤氏」に与え、それ以外に「九州域の自治権の内示」と「破格の勲功」をプレミヤとして与える事で「向後の決着」を図ったものと考えられます。
    この事の決着内容に付いて天皇は大蔵氏の姿勢に対して信頼し納得してこの決着案に同意したと考えられます。
    場合に依っては「九州自治」から更には「中国自治」にまで主張を広げてくることに成るのではと懸念したのです。
    この瀬戸内の圏域を大蔵氏に奪われたら、”瀬戸内を制するものは国を制する”と云われている事から、”中国域の自治まで与えてしまう事に成りかねない”と心配していた筈で、まして独立国を標榜している「将門の乱」と重なると、場合に依っては国は分裂する可能性を秘めていたのです。

    この時、前段で詳しく論じていますが、北方域では「蝦夷地での問題」、関東では「平将門の乱」と「たいら族の伸張」、「西では大蔵氏の自治問題」、朝廷内では「藤原氏と阿多倍一門との軋轢問題」と「荘園制の行き過ぎの問題」が起こっており、天皇にとっては「四面楚歌の状況下」にあり、かなり「神経質な環境下」にあったのです。
    しかし、歴史的な時系列で観てもこの事件を機会に一挙にこれ等の問題は解決の方向に向かうのです。
    恐らくは天皇はこれ等の問題を解決の方向に進めるには ”この時が好機”と捕らえたと観られ、その証拠に前段で論じた「後一条天皇」から引き継いだ「後三条天皇」(藤原氏と無血縁天皇)の命を掛けた「政治的な粛清」に入り「白河天皇」と「その後の院政」がこれを引き継いだのです。
    真にこの事件を契機に上記した問題は全て解決して行きます。
    勿論、藤原氏系ではない天皇系が誕生したのですから、母方で繋がる清和源氏も摂関家も衰退し排斥されてしまいます。
    そして、この期に乗じて東では「たいら族」の貞盛が父の国香を犠牲にしても同族の異端児の将門を討ち果たし、朝廷内で徐々に基盤を築き始めるのです。
    それに併せて大蔵氏がこの海域の警察権を保持した事と、朝廷内の大蔵の権限を専有し、朝廷内の軍事の権限では同族の坂上氏が掌握し、内蔵の権限は同族の内蔵氏が専門官僚として占める状況の中で、伊勢伊賀の一族一門の本拠地からは遅れていた賜姓「たいら族」がこの事件を契機に台頭して行くのです。
    そして、阿多倍子孫の賜姓を受けた「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、天皇の補佐役を手中にした親族の阿倍氏、そして遅れて賜姓を受けた桓武平氏の貞盛の「たいら族」等は、「瀬戸内の海族」を次第に弱まった讃岐籐氏から一部を奪い反し、「海賊掃討」を理由に帰化以来に戻りその「兵能の職能集団」を再び配下に入れてしまうのです。
    これで「瀬戸内の海族」の彼等は本来の帰化当時の本主筋の伊勢伊賀の本拠地の「たいら族」の下に戻ったのです。これが解決の道筋なのです。
    殆ど朝廷内は阿多倍一門一族に依って占められたも同然です。院政の一局態勢が確立して思うような制改革が断行できる事に成り懸案事項であった事柄が解決して行く流れに成ったのです。

    本来であれば朝廷は「たいら族」のこの行為(海族を支配下に戻した事)を容認する事は藤原摂関家との関係から無い筈です。しかし、この摂関家もこの頃は弱体化していて強く主張する事が出来ない状況にあり、源氏と摂関家の勢力を押さえ込み朝廷の権力(院政)を最大限にする狙いがあり、この為にも大蔵氏への勲功を必要以上に大きして「九州自治」の下地を構築したのです。
    そして大蔵氏からその「瀬戸内の圏域」を任せ、それが同族の「たいら族」に移動するかは院政に採ってみれば大した問題では無くむしろ好都合であった筈です。「たいら族」を引き上げ力を持たせ一門体制を確立しようとしたのです。
    だから、「大蔵春実」のこの事件の解決に対して「院政の意」を汲み取ったとして上記の様な勲功と成り得たのです。
    「大蔵春実」が「国内解決の道筋」を作ったとする満足感が院政にあったのです。
    東北の問題も「内蔵氏」、関東の問題も「たいら族」、九州の問題も「大蔵氏」、朝廷の勢力も源氏と摂関家が弱体化させられた事から前の「3つの問題」の同族大元の大蔵氏を取り込めば一挙に解決に向かう事は間違いありません。
    この大蔵氏を始めとする阿多倍一門一族の勢力を引き上げてこれを支配すれば源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込めると観たからであり、且つ、彼等阿多倍一門一族の勢力圏は中級官僚にまであり、それを掌握出来る訳ですから、親政族の源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込める事は確実であったのです。
    軍事は坂上氏、政治顧問は阿倍氏と成れば全て朝廷と「院政」の周りは阿多倍一門一族で占められた事に成ります。
    この態勢が出来上がれば「院政」は”鶴の一声”の政治体制が出来上がる事に成ります。
    「大蔵春実」の功績は、事件をきっかけに「院政による政治体制」を完全に構築する事に成った事を意味します。そしてこの後、直ぐに「遠の朝廷」の「太宰大監」の「九州自治」を宣言する事から始めたのです。
    これで国が二分する事無く解決に向かうことに成ります。
    親政の源氏や摂関家の藤原氏を頼る事では複雑な柵みの中ではこの危機の回避は不可能であり、阿多倍一門一族を朝廷側に取り込む事により前段で論じた様に危機は去り、朝廷・天皇・院政は安泰と云う事に成る訳です。

    この先の見えた状況の中で、この期に乗じてこれで「たいら族」は一挙に「圏域と利権」を獲得し「武力と経済力の氏発祥条件」を備わり勢力を伸ばし続けるのです。そして逆にこの圏域と利権獲得に失敗した「河内源氏」は「荘園制の方向」に走り、「白河院」の前段で論じた「軋轢」を受ける事に成るのです。
    源氏、取分け「河内源氏」と対比して「たいら族」は真逆の方向へと進むのです。
    「河内源氏」は危険な「荘園制」に、「たいら族」はこの「利権の宝庫」の「瀬戸内」を基点として「宗貿易」に進み富を獲得します。危険な「荘園制」に向かった「河内源氏」は朝廷と院政から「軋轢」を受け、一方の「たいら族」は朝廷と院政から「信頼」を勝ち取るのです。どれを捉えても真逆です。
    この様に「瀬戸内の海域」には「圏域と利権」が大きく絡み、且つ「政治的な動きの起点」に成っていた地域なのです。
    これ等の「瀬戸内の経緯」が「河内源氏」の「八幡社−神明社」の判断に無視出来ない大きく関わる問題なのです。
    丁度、この期の直ぐ後に「2足の草鞋策」を敷いた「祖先神の神明社」の「2つの青木氏」も「賜姓族」、「親政族」として影響を受けない訳には行かなかった筈です。
    然し、「2つの青木氏」の元締め「伊勢青木氏」と秀郷流の元締めの「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢伊賀の阿多倍一門一族の本拠地「たいら族」と和紙で繋がり、隣国の親密な関係を保持し最悪の状態を免れたのです。

    (「2つの青木氏の立場」 この後に起る源頼政の「以仁王の乱」では伊勢青木氏[頼政の孫の三男の京綱が跡目]と秀郷流伊勢青木氏[朝廷に働きかけた形跡あり]は頼政の孫の2人の助命嘆願に成功した事からも明らかです[日向青木氏]。
    「伊勢青木氏」は摂津に2店を構え3艘大船で「瀬戸内の利権」を一部「たいら族」から認可を受けての「中国貿易」の記録有り。初期には和紙 後期には総合商社 恐らくは少なくとも伊勢青木氏等5家5流の青木氏は「荘園制の方向」に走っていた場合は「たいら族」は保護し切れなかったと考えられます。
    「隣国」で「和紙」で繋がり「商い」で「たいら族」と同じ方向に向いていたからこそ親近感を醸成していたと考えられ、又、政治的にも「朝廷の信頼」を「親政族・賜姓族」として勝ち得ていたのでと考えられ、「たいら族」も擁護し助命嘆願に応じられたと考えられます。
    その「象徴の姿」が「皇祖神」の「祖先神−神明社」の「創建と維持」に懸命に働いていた事が、「朝廷と天皇」と時の権力者の「たいら族」と政治家の「摂関家」と官僚の「大蔵氏」から共感を得ていたと考えられます。
    それは「親政・賜姓族」が「2足の草鞋策」を採用する事が本来であれば ”親政・賜姓族が何事か あるまじき行為だ”と罵られた筈でありながら「共感」を得ていたのは不思議な事であった筈ですし、”反乱者の孫を助命嘆願など以っての外だ”と成った筈です。
    又、「瀬戸内の利権」の一部を譲渡されて瀬戸内に入り「商い」をする事が許されていたのです。
    しかし、現実にはこれ等全てが認められているのです。まして「慣例や仕来り」の厳しい社会の中です。
    これ等は特別な信頼があったからこそで、それが「皇祖神」の「祖先神−神明社の努力」で在った事が判ります。その「神明社」の「経済的な裏づけ」を取る為の「2足の草鞋策」は容認されていたと考えられます。だから「助命嘆願」の無理も聞き入れ潰さなかったのです。そして生き残れたのです。
    「2つの青木氏」はだから天下を2分した「源平の戦い」にも合力していないのです。普通本来であれば源氏側に合力するのが同族である限りは本筋である筈です。
    筆者は、「青木氏家訓10訓」や「生仏像様」の処で論じた様に、”世に晒す事無かれ”の「遺戒」がこれらの「氏の姿」、つまり「在様や生様」の全てを物語っていると観ているのです。「意味深い遺戒」と観ているのです。「世に晒す事無かれ」に付いては家訓10訓の10で論じる)

    再び話を戻して、そして遂には大蔵氏はこの「2つ水道の警察権」と共に「九州自治の下地」(孫の種材の代で完全自治:1018年)を構築したのです。
    この時、讃岐・伊予を押さえていた「藤原氏の圏域」は警察権は大蔵氏に奪われたけれど、結局は元の「海域の利権」は護られ「純友」は終局捉えられ抹殺されましたが、その一族一門は依然として「讃岐藤氏末裔」は抹殺されていないのです。この事は本来であれば朝廷が云う罪状であれば一族一門は罰せられた筈で「純友個人」で行動した訳ではなく「2つの役職」を以って動いた訳ですから免れなかった筈です。
    然し、「純友」だけなのです。朝廷のこの罪状の付け方から観てもその目的は明らかに違っていた事を意味しますし、「純友の行為の正当性」も認識して居た筈です。
    「純友の非」を敢えて云うとすれば、真に”世に晒す事無かれ”で在ります。
    俗世に云う ”河に竿させば流される” ”雉も鳴かずば撃たれまい” ”前に出過ぎれば潰される” ”出る釘は打たれる”の例えの通りであります。”現世は諸行無常”であります。”上手く纏めすぎた”と云うところであったと考えられます。
    (関東の争い事を調停役を買って出て懸命になって働いた「平の将門」に付いても同じ)
    それが「瀬戸内の利権と圏域」を独り占めの形に成る事を造り上げて、それを恐れたつまり経済的にも然ることながら「海族」の力も手中に入れる事が出来たとすると、最早、”「瀬戸内」に叶うもの無し”であります。この「勢力拡大」を朝廷、源氏、同族の藤原摂関家、阿多倍一門から怨嗟の声が上がり渦巻いた事は間違いない事であります。(この頃朝廷内ではこの体質が渦巻いていた)
    それを”この海域の利権を目論んでいる「経基王」に言わしめさせた”とするところであり、要するに”出すぎた”のです。それ程にこの「瀬戸内」と云う地域は、”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉通りで重要な所でそれだけに難しい地域でもあったのです。
    この様に重要で難しい地域で、この「海域の利権」を「讃岐藤氏」から奪って仕舞えば、中国地方と四国の対岸では結局は百々のバランス条件は崩れ、とどのつまりは再び「覇権争い」を起こす事に成り、却って「大蔵氏は警察権の務め」が果たせなく成る事に成ります。この瀬戸内問題の「落し処」が重要で在ったのです。

    「経基王」に勲功を与えず、考えられない程の勲功を「大蔵氏」のみに与える事は、朝廷は「経基王」の目的を知っていた事を物語ります。それ程にこの「瀬戸内の圏域」は政治的に重要な意味を持ち、朝廷はこの「讃岐藤氏」のこの「圏域の体制」をある程度の範囲で崩したくなく、ここから挙がる「租税の恩恵」と「政治体制」を乱したく無かった事を意味し、そもそも朝廷が「九州自治」で苦しんでいる時にわざわざ源氏に与えて問題を大きくする事はしない筈ですし、その行動で「荘園制」で睨まれている清和源氏(河内源氏)には決して与える事はしなかったのです。まして祖先神の神明族として本来の責務を果たさない清和源氏に対しては尚更であります。(清和源氏の出自と行動に蔑視と懐疑の念が朝廷にあった)
    (前段で論じた様に「経基-満仲」はその意味でも「荘園を利用した武家の集団化」を始めて図って朝廷に圧力を掛けていたのです。)
    それを天皇と朝廷は政治的にはっきりさせる為にも大蔵氏に破格の勲功を与えて、”これでもか”と清和源氏の「経基王」を押さえ込んだのです。
    そもそもこの人選を天皇に進言したのは藤原摂関家であったのです。この時の海賊問題は形の上での処理であってある意味で無傷なのです。
    そもそもこの「瀬戸内」を挟んだ四国域と中国域の圏域に絡んだ複雑な勢力バランスで構築された地域を「純友の乱」の処置等で崩す事は出来ない筈です。
    更に前段でも論じて来ましたが、そもそもこの中国域は阿多倍一門の32/66国の「たいら族」「大蔵氏族」「陶族」等の一門の圏域でもあるのですから、「大蔵春実」に「警察権」等を与えたとしても何の不思議も無い事なのです。
    むしろ「讃岐藤氏」の純友等に「警察権」そのものを与えていた事の方が問題です。先に「有品の制」の官位を与え、且つ任命した「令外官追捕使」に「令外官追捕使」を送り込む事の矛盾をどの様に言い訳するのかが問題に成った筈で、その為には”海賊に成った”とする以外に言い訳が無くなるし、それを天皇が言い訳する事が 出来ないので、「将門の讒訴」の件もあり、又、「経基王」に言わしめる様に仕向けたのです。(瀬戸内の利権を狙っていた経基は関東で失敗した後だけに飛びついたと観られる)
    前段で論じた「平の将門の乱」が”独立国(前段がある)を標榜した”として、丁度、この時に起こっていて、「平の国香」や「平の貞盛」の「たいら族」はこの乱を契機に俄かに勢力を拡大し始めた時期でもあります。
    依ってこの地域はまだ「たいら族」の支配地域には成っていない丁度その中間域にあって、特にこの海域は「讃岐藤氏の圏域」の中に未だあったのです。
    「大蔵氏」に代わって「たいら族」がこの「海域の警察権行使」は難しいところだけに未だ難しい勢力化にあったのです。
    この事件を契機にこの瀬戸内全般を「大蔵氏の警察権」として取り戻し「たいら族」が勢力を拡大するに伴い大蔵氏は「たいら族」にその警察権を移して行くのです。
    そして「平貞盛」より4代目の「平忠盛」(清盛の父)の代頃からこの「海域の利権」が「讃岐藤氏」と「たいら族」の「2局体制」に成って行くのです。
    所謂、この様に「産土神族」と「出雲神族」の中に「春日神族」の「讃岐藤氏」が「血縁的」に「経済的」に食い込んだ微妙なバランスで成り立っている地域なのです。
    前段でも論じた「美濃の源平の勢力バランス」と良く似ていて、この「瀬戸内」でも同時期に藤原氏と大蔵氏の勢力バランスの坩堝の中にあったのです。
    まして、藤原氏北家は当然の事として「たいら族」と「大蔵氏」はこの様な状況の中では「経基王の伸張」を絶対に許す事は政治的な戦力として無い筈です。ましてこの瀬戸内の坩堝の中に一分家の河内源氏の源氏勢力を入れる事はしない筈です。(入れる事そのもの行為は最早政治ではなく成り政治家ではない)
    その後も勲功で大蔵氏が警察権を持ったとしても上記した「たいら族」が伸張して来るまでは暫くは「讃岐藤氏の圏域」であった事は朝廷にとっても”政治的にも、戦略的にも”最も重要な地域である事を物語っているのです。
    つまり、「経基王」はこの「瀬戸内の圏域確保」に結局は失敗し、関東に於いても行く先々の所で問題を起こし、結局は行き詰まり、「勢力拡大」に必要とする「財力源」は無く、止む無く「後一条天皇」(1018年)から「後三条天皇」(1068年)までの「荘園に関する禁令と抑制令」を無視して、「荘園制」を逆に煽る「荘園の名義貸し」の「財源・利権獲得」の方へと動いたのです。
    これが「経基−満仲−頼信−義家」と続いた経緯なのです。
    「瀬戸内の覇権」を狙っていた取分け「経基−満仲」の親子は「海の神の住吉大社」を信心していた事でも判ります。
    (「経基王」が「瀬戸内の覇権」に失敗したことから「源満仲」は途中から「たいら族の兵能集団」に対抗して「荘園制の未勘氏族」を摂津から移動して河内で組織化して武家集団を構築したのです。
    途中まで出世したが、晩年この為に満仲は朝廷から危険視され無視され軋轢を受ける破目と成り摂津に帰り蟄居する。)

    (特記 ) 「源経基の経緯」(八幡社問題と瀬戸内事件の根幹)
    武蔵介として赴任(938)し、直ぐに検地を実行しようとして地元土豪の地方官の郡司武蔵武芝に慣例により拒絶された為に争を起した末にその財を略縛した。経基は危険を感じて京に逃げ戻り、逆恨みして仲裁者の平将門等を讒訴。その2月後に平将門は事実無根として告訴、経基は拘禁されるがその更に半年後に朝廷の態度(勲功の評価に対して)に将門は不満を持ち朝廷に圧力を掛けた。その結果、真面目で評判の良い将門は決起して本当に乱を起したので、逆に「怪我の功名」から「経基讒訴」を認められて「有品の制」の最下位の「従五位下」に任じられた。朝廷はこの失敗を経基に官位を与える事で取り敢えず対面を繕った。
    (本来、賜姓源氏は有品の制では賜田を受け従四位下に任じられる筈)
    (将門は関東の各地で起る「地方豪族と国衙との争事」の「調停者」を積極的に務めた人物であったが、逆に経基に「逆恨み」」を買い讒訴、反乱者とみなされてしまった。この後直ぐに起った事件でも「純友」も将門と同じ「勲功の闘争」を朝廷に起したのです。伊予の三等官で瀬戸内の追捕使として、難しい上記の瀬戸内圏域を纏め上げたが、矢張り将門と同じく勲功に対して評価しなかった。これを「国衙怨嗟」の為に朝廷は勲功否認したので軋轢が発生 「将門の乱」と全く同じ周囲の地方豪族と国衙を追捕使の立場で掃討して朝廷に圧力を掛けたが、矢張り将門の件と同じく「朝廷の怨嗟」で逃げた。
    (この「2つの怨嗟の讒訴」は経基が演じた。)
    そして経基は「平将門追討軍」に参加するも既に鎮圧済み、仕方なく京に戻り、今度は「純友の行状」を又もや讒訴(941)し、その功から「西国追捕凶賦使」に任じられて、「純友の乱」の平定に向かうが又もやこれも既に鎮圧済み、挙句に果てに豊後の純友の家来「桑原生行」を襲い、これも又その財を略暴したが黙認された。(この略暴行為は歴史上有名な事件)
    (「2つの経基讒訴事件」は出陣の際は既に「鎮圧済み」の後に出陣した事に意味がある)
    その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には「鎮守府将軍」に昇進するも、後にその出自と上記の事柄等が問題に成り「臣籍降下」の処置を受ける。
    (経基も本人資料の中で不満を述べている。藤原氏と阿多倍一門の巻き返しに遇った為。 後に「将門や純友の勲功」に対して正等に評価しなかった事への朝廷の修正[次期の円融天皇]が起った。)
    この事は清和天皇の第6位皇子の孫(上記説明 ゜六孫王」の呼称があるが当時の正式記録には出て来ない 未勘氏族による後付)で無かった事から第4世第7位皇子王以下は規定に基づき臣籍降下された事を意味するが、「正規の源姓(賜姓族)」に付いては、発見された摂政の実力者「藤原実頼」の遺した「日記記録資料」から判明し、現在では経基の源姓は「跡付け」と考えられていて、経基王は「嵯峨期の詔勅」(青木氏 源氏)を利用した「非賜姓の源姓族」(清和天皇第9位と12位の皇子が非賜姓源氏族)と見なされた事に成る。つまり、これは清和天皇の賜姓源氏族(第6位皇子)ではなく「狂気の陽成天皇」の皇子で賜姓族外の例外皇子王であった事を意味する。
    その後の頼光からは資料からは「賜姓源氏」とみなされた資料が残っている。これは仕えた藤原氏の歴史上の最大実力者藤原道長の執り成しである。
    (経基王は上記した”賜姓を強く望んでいた”とする事はそもそも賜姓に関しては規定外の例外王である事の証であり、この事からも判る。依って「蔭位の制」「有品の制」の「賜田」等の扱いの正式確認が取れない。)

    (青木氏と源氏の様に「賜姓」であるかどうかは家柄・身分や官位官職や経済的な扱いや世間の扱いは大きく異なったのです。
    「嵯峨期の詔勅」に基づく非賜姓の「青木氏」と「源氏」は清和天皇系と陽成天皇と冷泉天皇系が殆どで、この時期の「賜姓」の有無には皇族や世間の目は特に異なっていた。)

    (その意味で上記の立場から陽成天皇の皇子の「経基王」は”焦りから来た波乱”に満ちた人生を送り子供の満仲もその経基王の影響を受けて同じ様な波乱に満ちた生き様を示した。然し3代目の頼信の頃からは兄の頼光の勲功と主君の藤原道長の計らいで憧れのやっと正式な「有品の制」の扱いも受けて立ち直りの傾向にあった。)

    この過程で「瀬戸内の圏域」を狙っていたこの「河内源氏」は、その為に信心していたそれまでの守護神「海の神の住吉大社」から「荘園本領策」に方針を切り替えてからは、今度は「荘園の神」とも云っても過言ではない「八幡社」にのめり込んでいったのです。
    少なくとも3代目の分家の頼信の頃までは時系列的には本来の「国家鎮魂の神」であった事が資料から読み取れるのです。
    つまり、この後に「八幡社」が何らかの理由(未勘氏族との絡み)で「荘園の神、武家の神」と次第に変質させられて行く事に成ります。
    この「八幡社」(国家鎮魂)が「神明社」の様に管理氏が明確で無かった事からと、朝廷の財政的な理由も伴って荒廃していた事が記録に遺されていて、この修復に「清和源氏の宗家」摂津源氏に対して修復を命じています。
    全国の「八幡社」(国家鎮魂)に対してまで修復は財政的に困難であった模様で遂次と進まなかった事が記されています。恐らくは「田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯」−(前段4)の処で論じた様に「賜田」等の禄を充分にその出自から多く受けられなかった「摂津源氏の宗家」に対して、「河内源氏」が「荘園制」を利用して「名義貸し」を行い「武家の組織化」と「財源確保」に走ったのです。
    この荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を何時しか「組織化の象徴」(弓矢の神)として宗家に取って代わり利用して八幡社修復を代わったと考えられます。
    そして手段としてその「組織化の未勘氏族」(無血縁の非賜姓河内源氏族として)に修復を命じた事から、その結果として本来の「国家鎮魂」から「荘園制の神、武家の神」として勝手に変質させて行ったと観られます。
    後勘からすれば上記した発祥時の経緯から「蔭位の制・有品の制」に恵まれず「武力と財源」の無い「賜姓族・神明族・親政族」の「清和源氏」にして観れば、”「宿命の自然の流れ」”とも考えられ、”止むを得ない仕儀”とも考えられます。然し、何度も云う様に「生き延びられる道」は全く無かった事では無いのです。
    この「八幡社の経緯の背景」にはこの「瀬戸内の圏域」の大失敗が背景にあったのです。

    (「経基−満仲」の経緯と「頼信−義家」の経緯とそれに伴なう「八幡社の問題」があったから各地の神明社の建立がこれ程進み、取分け「産土神」の環境の中でこの難しい「瀬戸内域」での「神明社の建立」が可能と成ったのです。)

    「神明社」の「2つの青木氏」は「2足の草鞋策」と秀郷一門青木氏の「抑止力」で生き延びましたが、最終、大蔵氏から「2つの水道域の圏域」を引き継いだ「たいら族」もこの「瀬戸内の圏域」を大いに使って「2足の草鞋策」から更に発展させて前段で論じた「瀬戸内水軍」を使っての「宋貿易」へと進め、その莫大な「財力源」を生み出したのです。「院政」はこの「たいら族」から上がる「潤い」を受けます。
    この意味では、「清和源氏の武力の背景と財源の背景」には、上記の「たいら族」に比べて元々リスクが大きかった事は否めませんし、「朝廷への潤い」でもその貢献度は大きく異なっていたのです。
    それが阿多倍の一門の一方の関西域を基盤とした伊勢伊賀の後発の「たいら族」が5代で伸張し上り詰めるだけの勢いがあって拡大に繋がったのです。これも「瀬戸内の圏域」のお蔭なのです。

    (重要参考 義経は清盛よりこの「宋貿易の経済学」を教えられていたとする資料が遺されている。 
    これによると「経基−義家」と引き継いだ「荘園制よる財力源」と、清盛から教授された「貿易による財力源」の考え方の違いが清和源氏の中に起こったのです。
    後者を選んだ同じ賜姓族で神明族で親政族の「2つの青木氏」と藤原氏北家筋は生き残り、後者側に主力を置いた「たいら族」と、前者側に主力を置いた「清和源氏」は互いにその考え方の違いから生き残りを掛けて火花を散らし両者共倒れに近い形で滅亡したのです。
    しかし、前段で論じた様に、「瀬戸内問題」と同時期に「同族の関東での不始末」を起した「たいら族」は、結局は「源平の緩衝地帯」の「美濃−尾張域」まで後退し、そこで「緩衝」のバランスが崩れ源平の本格的な争いが起こりました。
    (美濃−尾張地域は「源氏」と「たいら族」と「秀郷流青木氏」との3氏の緩衝地帯であった)

    同じ様にこの「瀬戸内地域」でも、大蔵氏は「讃岐籐氏の圏域」にあった「瀬戸内の問題」を藤原氏との争いを避けて上手く解決し、一時、瀬戸内警察権を大蔵氏の支配下の中に入れて次第に同族の関東問題で弱っていた「たいら族」にそれを移して行きます。
    この結果、「たいら族」は関東からこの瀬戸内へと伸張し財力と政治力も確保しながらも美濃−尾張での初戦に続き「瀬戸内の源平の争い」で敗退したのですが、この「瀬戸内のお蔭」から来る「商いと物造りの基盤」から基礎力は生かされて、前段でも論じた「たいら族」の織田氏の「末裔の美濃・尾張」で蘇り復活に繋がったのです。
    (全国に分散した阿多倍一族一門の生き方が時代をうまく捉えている。 陸奥安陪氏が犠牲。)
    しかし、前者の生き方を採った「八幡社族」の「河内源氏」は遂に復活しなかったどころか近江−木曽−美濃−尾張の戦いで11代{中4代の源氏は生き残る}の源氏一族を滅亡に引き込んでしまったのです。遺したのは名義借りの「無血縁の未勘氏族」ばかりなのです。
    この残った源氏の「未勘氏族」が「八幡社」を別の方向へと誘導し「河内源氏」を殊更に誇張し史実と異なる誤った印象を後勘に与えてしまったのです。
    「未勘氏族」が別の方向へ誘導していなければ「河内源氏の悪名」は生まれなかったと考えられます。
    「河内源氏の義家」はこの「未勘氏族」を「軍事力と経済力」の為に配下にしていた事から止む無くも煽られた事から源氏一門を巻き込み滅亡に追い遣ったと考える事が出来ます。
    そして「神明社族」は生き残り「八幡社族」は滅亡したのはここに根源があったのです。
    確かに、直接原因は経基王のこの「海域の奪取」の間違いに始まるのですが、間接的には「未勘氏族の八幡社の煽り」(後付論)にあったと考えられます。

    ”何もこの「海域の奪取」に関わる事なくしても「2つの青木氏」の様に「2足の草鞋策」と「神明社」で生きる道を選んでいれば全源氏は滅亡に走らなくても良かった”と考えられ、後勘として源氏と同族血筋を汲む「4つの青木氏」の立場から観ると 上記の様に時系列的に考察すると”判断の無理が大きく存在していた”と現在でも構成する一人として結論付けているのです。これが「青木氏家訓10訓」に表されているのです。と云うのはこの期にその論者が居なかった訳ではないのです。
    現にこの義家の孫の義経は上記した様に遺された資料の文書の一節から観ても青木氏と同じ論者であったのです。
    頼朝が鎌倉会議の際に「義経の方向」に舵を切っていれば第7世族の「坂東八平氏」に頼らなくても生き残れたと考えられます。
    (舵を切っていれば確かに「坂東八平氏との戦い」に成った事は否めません。秀郷一門を味方に引き込んでいれば同じ関東の勢力図から観て先ず負ける事は無かった筈です。)

    「義経」はこの「瀬戸内」の「海域の利権」を「たいら族」から全てを奪取しているのですから最早、何も「坂東八平氏」に頼らなくても「純粋な源氏の力」で「武家の幕府政権」も造れていたのです。
    現に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と言われていたこの「瀬戸内」を基盤に「たいら族」は栄華を誇ったのです。
    当然に、関東以北に勢力圏を持つ「藤原北家秀郷一門の協力」(平泉・入間・常陸・陸奥越前等)を得ているのですし、資料からも弱体化し衰退していた摂関家も同調していた事が判っている訳ですので、政権の大本は義経は構築していたのです。同じ「神明族、賜姓族、親政族」である「2つの青木氏」も「2足の草鞋策」でこれを補完する事に成る筈です。
    (院政側も利用するつもりであった事は否めませんが院政の利害からも義経に同調していた。)
    この「義経の戦い」の瀬戸内の海域の成果は「最大の幕府樹立の条件」にも成っていて、義経が目指す「神明社族」としての方向性は決まっていたのです。
    ともあれ、全国に「566の神明社」を建立して配置していた事からも「河内源氏の八幡社」や闇雲に「未勘氏族」や第7世族の「坂東八平氏」に頼らずとも「神明族」としてこの「瀬戸内の海域」はもとより全国の「民の心」は掴めていた筈です。
    (義経は「八幡」を決して名乗らなかった。頼朝は鶴岡八幡宮を信仰し八幡を主神とした。)

    「四国域・中国域」
    さて、この様に「瀬戸内の圏域」を挟んだ「四国域・中国域」の「神明社と八幡社の建立時期」に起ったものとして、後勘から観れば「象徴的な事件」が2つも起こっていたのです。
    そんな環境の中でも根強く「祖先神の神明社」は瀬戸内の民に招かれて建立されていたのです。この意味は「祖先神−神明社」を理解する上で大きい事であり、特段にその状況を論じたのです。
    それ故に、この「事件の背景」からも判る様に河内源氏の深く関わる「弓矢の神の八幡社」のこの地域での伝播は本来無い筈なのです。(氏家制度の環境下では以下の「5つの要素」が不備 )
    「産土神」の環境の中で「祖先神−神明社」が認められているとすればこの様な背景を持つ「弓矢の八幡社」が認められるかという問題です。殆ど有り得ないと考えられます。
    この時の上記する讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」の「勢力の如何」を物語る事件であったのです。
    その意味でこの数字考察には一考しなければなら無い大きな意味を持っているのです。

    従って、故に、此処には下記の「5つの要素」
    A「地理性」
    B「経済性」
    C「歴史性」
    D「圏域性」
    E「武力性」
    以上の「5つの要素」の条件が影響しますが「祖先神−神明社」に関しては相互に連動して達成構築されているのです。
    なかなかこの「5つの要素」全てを連動して構築している氏は少ないのです。

    そうすると、「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」が「生活の神明社」を建立し、一方で逆の「弓矢の八幡社」を建立する事が「信義的に可能な行為」であったのかと云う疑問です。

    ”「弓矢は武士の守護神」とする事であり、ましてや「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」とするものに、「皇祖神」の代わりに「祖先神の神明社」の「特別賜姓族」が建立する事が信義的に可能なのか”と云う信義的な矛盾が生まれます。
    この事は関西域・中部域・関東域・北陸東北域でも特別賜姓族と賜姓族の衰退期間に於いて勅命により明確に可能です。
    そもそも「特別賜姓」は前段で論じた「3つの国政の遂行」の為に衰退していたこの時期に「賜姓族青木氏」に代わって「勅命での行為」そのものであったのです。

    この四国には上記する様に、「讃岐と阿波の2氏」を除き14氏の豪族にはこの「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」の「八幡社」を守護神とするのは「三好氏」の1氏しか存在しないのですから、この三好氏が゜秀郷流青木氏」の圏域をはるかに超えて建立する事は可能かと云う事に成り、”何も源氏に媚して八幡社を建立する事”は無い筈ですし勢力的にも不可能です。

    (愛媛9に付いては、「清和源氏の経基と頼信」は若い頃に短期間「伊予」に赴任していますが、未だこの頃は「八幡社」は朝廷の命に基づく「国家鎮魂の八幡社」であった事と、この頃は頼信は「海の神」の「住吉社」を信仰していたので無関係と成ります。
    ただ経基王と頼信が赴任していた事もあり源氏性が強い地域であった事は否めませんが、領主と成り得る未勘氏族が無いのです。上記の「純友の乱」での経緯で「河内源氏の勢力圏」をこの地域に伸ばす事が出来なかったのです。)

    まして、その環境の中で”「讃岐と阿波の青木氏」が建立するのか”は信義的な面から観て大いに疑問であります。
    しかし香川6 徳島3 愛媛9 高知3で建立されているのですから、考えられる事は他の地域で観られる”「八幡社の存在意義」の如何”に関わる事以外に無い事に成ります。
    当初、「讃岐、阿波の2氏」により平安期の内に、全てこの21の「八幡社」が「神明社」として建立され、その後の四国に於いてそっくり室町期中期以降に豪族が入れ替わりますが、この時にこの21の「神明社」が「八幡社」に変えられてしまったとすると、鳥居やお社の形式は平安期のそのままでも成り立ちます。
    因みに江戸初期の四国の豪族は讃岐3氏、阿波1氏、伊予7氏、土佐2氏の戦国の立身出世の豪族に入れ替わりますし、当然にこの中には「清和源氏頼信系」はありません。
    どちらかと云うと室町期中期とはそっくり入れ替わった7割近くは、何らかの直間の縁の藤原氏北家の流れを汲む戦国時代の豪族であります。
    しかし、この「戦いの神」の意味合いの強い「弓矢の神」の守護神から、時代を経て源氏が滅亡し「下克上と戦国時代」を経た室町期中期以後は「戦いの神」の影は潜み、”単純に「武士の守護神」としての「総合的な守神」や「武士の魂」だけを守護する神に変異したものとなった”と考えられます。

    その為に、この”「後詰めの豪族14」が「神明社の30の内21」を「八幡社」に変えた”と考えられます。
    この証拠と成るものが現在発見されないのですが、上記する状況証拠から他に建立できる能力とその義務か必要性を持った氏は讃岐と阿波の青木氏以外にはこの四国域には見付かりません。
    「7つの域の神明社と八幡社の関係」は上記する「5つの要素」で特徴ある関係が出来上がっているのですカラ、この四国・中国域の八幡社との関係は「歴史の雑学」の判断の重要な基礎になるデータとも成ります。

    「神明社」
    従って、此処より「神明社」に付いてより理解力・判断力を深める為に更に研究を進めます。
    そもそも「八幡社」が「弓矢の神」を主神とする以上、「河内源氏」は「皇祖神」の「祖先神−神明社」の賜姓族としての義務は無関心であった事が覗えます。
    この四国・中国域の圏域も平安末期までのものであり、僅かに鎌倉期のものも含まれている模様で室町期初期の「下克上と戦国時代」へと突入する前兆現象であったのです。
    「弓矢の神」に信心する「侍社会の風潮」がここから読み取れます。
    恐らくは「祖先神−神明社」の「生活の神」「物造りの神」は「民の信心」と成り、侍階級は「生活の神」「物造りの神」からこの「八幡社」の「弓矢の神」に鎌倉期に向けて浸透して行ったと考えられます。
    そこで、これが「第1次の空白期間」の始まりに成った原因点であったと考えられ、次ぎの「4つの経緯」に繋がって行くのです。

    (1)上記した様に「祖先神−神明社」と「祖先神−八幡社」の「最悪の事態」の「競合合戦」が無かった事が次ぎのデーターで顕著に表れています。
    (2)「神明社−八幡社」の「競合合戦」が無かった事は、「八幡社」が初期には「国家鎮魂」であった事と、後に「特定の氏と未勘氏族の守護神」と変質して行った事(2)は「2つの証拠」でもあります。
    このデーターから「賜姓源氏」(河内源氏も含めて)は、同族である「賜姓青木氏」や「特別賜姓青木氏」が行う「3つの発祥源」としての責務と「政治的、戦略的」な「国策の神明社」には、ある程度の理解を示していた事とも考えられます。
    (3)「賜姓源氏」が置かれている立場、即ち「たいら族」との「勢力争い」から目を逸らす事が出来ずに「清和源氏頼信系の一族」(河内源氏)だけは「勢力争い」にのめり込んで行った事が覗え、最終は11代の源氏を巻き込む事(4)に成り、遂には滅亡を招いてしまったのです。
    (4)「2つの青木氏」が行う「生活の神」「物造りの神」の「神明社建立」域には「弓矢の神」の「八幡社建立」は明らかに避けている事が判ります。言い換えれば「2つの青木氏」が定住する地域には「八幡社の建立」は避けている事にも成ります。これは「同族争い」だけは敢えて避けたと観られます。

    「神明社と八幡社の2つの差」
    「八幡社の県毎の分布」と「神明社の県毎の分布」のデーターです。
    この「2つの差」が表示しています。

    「八幡社 354社」 「神明社 566社」に対して%は全体比です。
    (八幡社から観たデータはこの表 神明社から観たデータは次表記)

    「神明社−八幡社の対比表」
    八幡社の分布( 県域分布)   神明社の分布(県域分布) 差 分布域の圏域
    1  福岡  39 −11.1%    9 − 1.6%     30  八幡社の発祥地
    2  東京  29 − 8.4%   30 − 5.3%    − 1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
    3  兵庫  24 − 6.9%   11 − 1.9%     13  清和源氏の発祥地
    4  千葉  23 − 6.7%   22 − 3.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
    5  愛知  14 − 4.1%   33 − 5.9%    −19  秀郷流青木氏の圏域
    6  神奈川 12 − 3.5%   11 − 1.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
    7  静岡  12 − 3.5%   18 − 3.2%    − 6  秀郷流青木氏の圏域 
    8  岐阜  12 − 3.5%   31 − 5.5%    −19  賜姓青木氏の圏域
    9  栃木  11 − 3.2%   14 − 2.5%    − 3  2つの青木氏の圏域
    10 大阪  11 − 3.2%   1  − 0.1%     10  賜姓源氏の県域
    11 埼玉  9  − 2.6%   15 − 2.7%    − 6  秀郷流青木氏の圏域
    12 愛媛  9  − 2.6%   2  − 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
    13 鹿児島 9  − 2.6%   3  − 0.5%      6  清和源氏未勘氏の圏域
    14 北海道 9  − 2.6%   2  − 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
    15 山口  9  − 2.6%   1  − 0.0%      8  清和源氏の圏域
    16 和歌山 8  − 2.3%   2  − 0.3%      6  清和源氏の圏域
    17 山形  7  − 2.0%   15 − 2.7%    − 8  秀郷流青木氏の圏域  
    18 大分  7  − 2.0%   1  − 0.0%      6  清和源氏未勘氏の圏域
    19 宮城  7  − 2.0%   14 − 2.5%    − 7  秀郷流青木氏の圏域
    20 茨城  7  − 2.0%   9  − 1.6%    − 2  秀郷流青木氏の圏域 
    21 香川  6  − 1.7%   1  − 0.0%      5  清和源氏未勘氏の圏域
    22 宮崎  6  − 1.7%   4  − 0.7%      2
    23 広島  5  − 1.4%   6  − 1.1%    − 1      
    24 富山  5  − 1.4%   33 − 5.8%    −28  賜姓青木氏の圏域 
    25 岡山  4  − 1.1%   1  − 0.0%      3   
    26 島根  4  − 1.1%   1  − 0.0%      3   
    27 京都  4  − 1.1%   2  − 0.3%      2  神明社の絶対的神域 
    28 岩手  4  − 1.1%   11 − 1.9%    − 7  秀郷流青木氏の圏域  
    29 山梨  3  − 0.8%   72 −12.7%    −69  2つの青木氏の圏域  
    30 徳島  3  − 0.8%   3  − 0.5%      0  
    31 長崎  3  − 0.8%   1  − 0.0%      2      
    32 熊本  3  − 0.8%   1  − 0.0%      2   
    33 高知  3  − 0.8%   4  − 0.7%    − 1    
    34 青森  3  − 0.8%   13 − 2.3%    −10  秀郷流青木氏の圏域
    35 秋田  3  − 0.8%   33 − 5.8%    −30  秀郷流青木氏の圏域
    36 群馬  3  − 0.8%   14 − 2.5%    − 9  秀郷流青木氏の圏域   
    37 新潟  3  − 0.8%   61 −10.8%    −58  2つの青木氏の圏域 
    38 福井  3  − 0.8%   8  − 1.4%    − 5  賜姓青木氏の圏域
    39 鳥取  2  − 0.5%   0  − 0.0%      2  
    40 佐賀  2  − 0.5%   1  − 0.0%      1   
    41 長野  2  − 0.5%   15 − 2.7%    −13  賜姓青木氏の圏域
    42 滋賀  2  − 0.5%   3  − 0.5%    − 1  賜姓青木氏と源氏の圏域 
    43 奈良  2  − 0.5%   1  − 0.0%      1  神明社の絶対的神域
    44 福島  2  − 0.5%   9  − 1.6%    − 7  秀郷流青木氏の圏域   
    45 沖縄  1  − 0.1%   1  − 0.0%      0
    46 石川  1  − 0.1%   2  − 0.3%    − 1  
    47 三重  1  − 0.1%   5  − 0.8%    − 4  2つの青木氏の圏域
          A:354 (/354)  B:566 (/566)   (A−B) 


    「賜姓源氏」の重要拠点には「八幡社」が、「2つの賜姓青木氏」の重要拠点には「神明社」が建立されている事がこれ程に明確に成っている事に驚きです。
    これを「神明社」から観たデータ(下記の表)からも読み取れる事から、上記の表の八幡社データからは「賜姓源氏」の姿勢が読み取れます。
    彼等は朝廷が行う国策に逆らいながらも、賜姓族の立場にも逆らいながらも、自らの力で建てたかは別にして「八幡社の建立」を何と「354社」も建立している事は一つの大きな意味を持っています。
    彼等にしてみれば、この数字から観れば、確かに皇族ながら「朝廷の意向」を無視し、立場を違えながらも「彼等の主張」をそれなりに持っていた事が判ります。
    それは ”時代に即応した「弓矢の神」を普及させる事で台頭する「侍集団の集約」が国策として肝要だ” と主張していた事に成るのではないでしょうか。(朝廷は「公家社会」から「武家社会」の到来を危惧)
    然し、矢張りそれが「自らの存続」を危うくさせ、且つ、「侍の力」を強くしてしまう結果を招いたのです。
    結局は、この流れは「鎌倉幕府の樹立」と成ってしまうのですが、しかし、天皇側や朝廷側からすると、むしろ、”国全体として「生活の神」「物造りの神」を全面に押し出し、”国民を豊かにする事で「侍の集団の必要以上の台頭」を抑えて安定した「国造り」をするが大事な事なのだ。”と当然に主張するでしょう。
    そもそも「侍集団」と云うものが台頭するのは、”その「生活の安定」と「身の安定」に対して不安があるから集団化する”のであって、これは「人間の本能」であります。
    それを「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の政治的、戦略的な上記の様な主張となるは必定であり、「源氏側」からすると、「身の安全」を優先にして「武」に頼る主張と成るでしょう。
    一見して「二者択一」と観られますが、何時の世も”「武に頼る安全」”は長く続けられる手段ではありません。元来、「武に頼る安全」は「第二次的な手段」であって「第一次的手段」で無い事は衆知の史実であります。
    当然に「武」の位置に居ない「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の「神明社」であり、「源氏側」にすれば「弓矢の神」の「八幡社」と成ります。
    これを「源氏」は時代性を長く観過ぎた事から ”「第2次的な手段」を「第1次的な手段」と考え違いをしてしまった” と解釈出来ます。
    何時の世も「武に頼る安全神話」は例外無くよくある議論です。
    然し、「2つの青木氏」は明らかに”何も「神明社」側だから”と云って天皇の推し進める「神明社」に関わっただけではないのです。その証拠はこの時期に作られたと観られる「青木氏家訓10訓」にあると説いています。
    この「青木氏家訓10訓」に於いて「2つの青木氏」は「同族の源氏の主張」に賛成していない事をはっきりと物語っているからです。
    賛成ではなく否定に近いもの感じます。それはこの「家訓」のみならず1125年頃に「2足の草鞋策」を実行した事でも証明しているのではないでしょうか。
    「弓矢の神」の「武の力」に頼らず「経済的な力」、即ち、「生活の神」「物造りの神」に舵を切っているからです。つまり「第1次的な手段」を採用しているからです。然し、「第2次的な手段」も無視してはいないのです。
    それは前記に縷縷述べてきた「伊勢−信濃シンジケート」と「藤原秀郷流青木氏、特別賜姓族の抑止力」を使っているからです。
    現に、この「武の力」に脅かされた時、この「第1次的な手段」と「シンジケートと特別賜姓族の抑止力」を使って撃退しているのです。(幾つかの史実がある)だから生き延びられたのです。
    それを「青木氏家訓10訓」として ”真の生きる様は此処にあり” として子孫に遺したのです。
    その「生きる様」は「祖先神の考え方」に沿った”「祖先神−神明社」”に凝縮されているのです。
    そして、その結果が上記の表の数字的な証拠として出てきているのです。

    今や歴史は「清和源氏の分家頼信系源氏」を「武家の鏡や魂」の様に持て囃されていますが、「2つの青木氏側」から観ると、「最悪の同族氏と八幡社」と観えるのです。
    これが「1650年近い悠久の歴史」を持つ青木氏の変わらざる一貫した姿勢であり「生き様」なのです。
    凝縮すると、上記した「源義経の主張」と「源頼朝の主張」の差であります。
    「源義経」は上記した様に青木氏と同じ道を歩もうと「鎌倉会議」で主張したのです。
    ”「清和源氏宗家頼光系四家」の様に「祖先神−神明社側」として生きよう”と主張したのです。然し、この考え方は「八幡社」側には生かされなかったのです。
    「源義経の主張」は単に空論では無く身近に上記前記する「青木氏の生き様」が見えていたのです。
    「たいら族の清盛」さえも「武の力」に対して「安定の社会」に疑念を抱き「宋貿易」を開始しているのです。
    資料の記録では ”義経は清盛の教訓・遺訓を受けた”と記録されていますから、当然に前記で論じた様に義経は「伊勢伊賀の清盛」と隣の同族の「2つの伊勢青木氏」の「生き様」も見ていたのです。
    義経は「弓矢の八幡社」を「生活の神」「物造りの神」の「神明社」に変えようとしていた事も考えられます。
    「商と殖産」に力を入れていた「平泉の都」を頼った「真の根拠」はここにあったのではないかと観ているのです。

    そもそもその「侍集団」は、天皇自らの子供を「融合氏」として臣下させて国策としてそれを推進し天皇自らが作り出した政策であります。
    その「3つの発祥源」として自らの分身から「2つの青木氏」を作ったのですが、その「2つの青木氏」はその立場を良く護り”良好な国策だ”と見えたのです。
    ところがこの「青木氏の親政族」を、「桓武天皇」が完成させた「律令国家の完成に障害」と成るとして「皇族系の賜姓族」を取りやめ、帰化人の大集団の阿多倍族を「たいら族」として賜姓したのです。賜姓したのは阿多倍の孫娘を母に持つ本人の「桓武天皇」なのです。
    (伊賀の阿多倍は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶る。 光仁天皇 第6位皇子であった伊勢の施基皇子の長男 青木氏始祖)
    「阿多倍」には天皇家と血縁させて大蔵氏等の他「4つの末裔」(民族氏: 大蔵氏、坂上氏、内蔵氏、平族、阿倍氏)を作り出した事が、余りにも大きくなり過ぎて、結果として彼等阿多倍一族一門は青木氏と同じ立場を採らなくなってしまったのです。
    挙句は、この「侍集団の統制」が取れなくなって、累代の天皇が危険視していた「行過ぎた荘園制」に結びつき、自らの天皇家の足元さえも危うくさせてしまったのです。その事に気づいた時には”事は遅し”であります。(荘園制の問題は前段で論じた)
    藤原一門の血縁を受けていない唯一の「一条天皇」から「後三条天皇」−「後鳥羽上皇」まで必至になって彼等の経済源に成っているこの「荘園制」を潰しに掛かりますが事は最早抑えきれ無く成ってしまったのです。
    時系列的に観て見ると、「大化改新」「賜姓制度」「帰化政策」「民族氏政策」「阿多倍と血縁政策」「融合氏政策」「祖先神−神明社政策」「皇祖神-伊勢大社政策」「生活の神、物造りの神政策」「侍集団政策」「弓矢の神政策」「荘園制政策」「律令国家完成政策」「藤原氏摂関政策」「親政族 青木氏排除政策」「源氏賜姓政策」「祖先神−八幡社政策」「たいら族賜姓政策」「九州自治政策」「荘園潰し政策」等、これ等に付随する政策が次々実行されました。
    そして、政策そのものは「適時適切」であったと考えられるのですが、「後三条天皇」が身の危険を顧みず「荘園制の制限と中止」を思い切って断行した事でも判る様に、当時の政治的権力者との”しがらみ”から”天皇が「政治的欠陥の有無」を承知しながら「政治的欠陥」を取り除く勇気が無かった事による”と筆者は考えているのです。(前段で論じた)
    この発端を作り出したのが「桓武天皇」であって、それを悪化させてしまったのが「清和天皇」であって、それを直したのが「後三条天皇」であったと読み取れます。
    (適時適切に特別賜姓の青木氏を発祥させた円融天皇、瀬戸内問題や阿多倍一族一門問題を解決に導いた判断力の一条天皇等の英断が「皇祖神−祖先神−神明社」を遺せたのです。)

    この渦中にいて清和源氏は歪んだ政治状況の中で、その立場から「弓矢の神」を”床に油”の如くで勢力を拡げてしまったのです。その勢力を使って「八幡社」を建立して行った事を物語っています。
    それは11代の源氏が定住していない地域に多くの「八幡社」がある事なのです。
    そしてその由来を調べると、「源氏姓」を名乗る「未勘氏族」が多く関係している事なのです。
    データから観て全体の8割程度がこの「八幡社」です。
    つまり、データでは354社ですが、”自らの「弓矢の神」としての彼等の主張”とすると、”少し違う”と云えるのでは無いかとも考えます。
    その「八幡社の建立」は「未勘氏族」が、”自らの立場(源氏族)を鼓舞し自らの荘園を護ろうとしてのもの”であった事を意味します。それが8割のデータです。
    場合に依っては「源氏」が「未勘氏族」に対して「名義貸しの条件」であった事も考えられます。
    「名義」だけではその宣伝効果は低い事から「目に見える形」として、その「象徴としての八幡社建立」であったと考えていて、一部の地域の「未勘氏族」の資料の中にそれと観られる記述があるからです。
    恐らくは、”「荘園」の周囲にその勢力圏を誇示し縄張り範囲を明確にする目的”で「戦略拠点」を ”これ見よがしに”「名義主からの許可」、或いは「条件」として建立したと考えられます。
    むしろこの目的の方が強かったのではないかと観られます。
    結局、「源氏」の主張する”時代に合わせた「弓矢の神」”の理屈は、この事(侍集団と源氏姓の名乗り)に反発する天皇家に対する取って付けた「大義名分」であった事が云えます。
    ここが「神明社」と実質的に異なる点で「生活の神」「物造りの神」は「民に直結する神」である事から、その「建立の行為」は「天皇の施政に対する国策」に合致し、「3つの発祥源」の立場と責任にも合致する事から信任を得え、尚且つ「民の信望」を深めたからこそ民から自然発生的に「氏上様」の呼称が生まれたと考えられます。

    「弓矢の疑問」
    そこで、”天皇が「弓矢の神」を推奨する事が政治的にあり得るのか”の疑問です。
    確かに、「融合氏」を国策とし、「賜姓族」を臣下させたのは天皇であった事は否めませんが、そもそも天皇は「臣下−侍」の政策が「弓矢の神」まで祭祀する程の目的として実行したのではない筈です。
    「侍の神」を祭祀する事は「侍集団」に結びつき、それは同時に天皇家の実権を弱くする事にも成ります。
    「侍集団」は、「朝廷軍」(坂上氏等)が既にあり、青木氏の「六衛府軍」の「近衛軍」がありさえすれば政治的には成り立つ範囲で無用であります。
    むしろ「侍集団」が闊歩すればするほどに「朝廷軍」と「六衛府軍」を強化せざるを得なくなります。
    「侍集団」と「朝廷軍」+「六衛府軍」の勢力バランスは物理的に逆転して朝廷権力、強いては天皇の施政権は低下する事は必定の条理です。
    どんな愚脳な天皇でもまして側近(藤原氏)もあればこそ、この程度の条理は即座に判る範囲の知恵であります。つまり、「弓矢の神」「侍集団」はもとより望んでいなかった事に成ります。
    そうなれば、必然的にも「源氏」に対して、特に「清和源氏」に、更には「河内源氏」に軋轢が加わる事は目に見えています。
    故に「河内源氏」と「未勘氏族」が作り上げた「変質の八幡社」は望まれて期待されていなかった事に成ります。
    その証拠に「桓武天皇」は、わざわざ父方の実家先を衰退させた青木氏に代わってでも、「神明社」を天皇の自力で20社も建立しているのです。「弓矢の神の八幡社」は建立していないのです。
    (確かに清和源氏宗家に修復は命じている。)
    この事は、実の所は「青木氏−神明社」は期待されていた証拠であります。
    ここで際立ってくる事は「青木氏の行為」が「賜姓の本来の姿勢」であって、”天皇が望んでいた事の「侍の姿」である事”に成ります。
    だから「桓武天皇」の「神明社建立」であって、現実問題として挙がった事として、「賜姓族青木氏」の末裔の数に対して、「神明社建立推進」には不足の状態となり、又「河内源氏」等の「侍集団」の増加に対応する為にも母型族の「特別賜姓族を賜姓」(940年頃 円融天皇 藤原秀郷流青木氏)したのです。
    まして、「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は「青木氏族」を増やそうとして賜姓を「源氏」として慌てて立てたとしてもそれが「清和天皇」の頃には「侍集団」を逆に大きく造り上げる始末と成ったのです。
    まさしく”火に油”であります。其処に問題と成っていた”「荘園制」が悪用されてしまった”と成れば ”冬の大火事災害”です。
    (清和天皇のところでおおくの問題が噴出する)
    然し、それも「清和源氏」までの源氏では「2つの青木氏」と同じ道を歩んでいたのです。
    中でも「清和源氏」の宗家の「頼光系宗家の四家」は頑なにも青木氏と同族血縁してまでも「同じ道」を歩んでいたのです。
    その藤原道長に使え国司を多く務めた「頼光」に付いては「資質剛健」の性格であった事が資料として遺されていて「河内源氏」のような行動を取る人物では無かった事が判ります。
    又4代目の「頼政」に付いても「保元平治の乱」後も一人源氏の中でも朝廷内に残り何とか源氏を立て直す事に努力しなかなか昇格出来ずにいたのです。
    その時、清盛の計らいでやっと正三位まで遂には上りますが、然し、資料には清盛は彼を酷評しています。この頼政は強く出られない難しい立場であった事からと考えられます。
    「源平の戦い」のきっかけと成った「以仁王の乱」を起した事を聞いた清盛は”あの頼政が!”と驚いた事が遺されています。この事から4代目頼政は「頼光」(宗家)に似て資質剛健であった事が覗えます。
    恐らくはこれ等の資料から、この「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」側と次男の「大和源氏」側と、三男の分家の「河内源氏」側とを朝廷や清盛等が対比していた事を物語り、この「河内源氏」は清盛等から危険視されていた事が判ります。
    全てはこの様に歴史の姿を顧みると、”頼信系の分家が事の道を違えてしまった”のが原因であった事に成ります。
    この下記のデータをも含めてより詳しく観てみるとこの事を裏付けています。

    「遺戒の意味」
    何度も延々と前記から繰り返しますが、「青木氏家訓10訓」はこの”「道の採り方」を間違えてはならない”として ”人のあるべき姿”を、むしろ、進む道を指し示す ”「長」としてのあるべき姿”を説き誡めているのだと考えます。丁度、この頃に「2足の草鞋策」は採られ、家訓の根幹は造られたと考えられます。
    「青木氏家訓10訓」そのものが「清和源氏の滅び行く姿」を物語り、それを観て危機感を感じ頼政の孫の京綱とその末裔は「青木氏家訓10訓」としたのではないかと観ています。
    恐らくは、この家訓はこの清和源氏の四家の宗家頼光系頼政の孫京綱が「伊勢青木氏」の跡目に入り生き残った事から、この家訓を最初に作ったのではと考えているのです。

    (この時かなり緊迫した状況に「2つの伊勢青木氏」は追い詰められていたと考えられます。場合に依っては伊勢手前名張辺り(伊勢は「不入不倫の権」で保護されている)まで攻めてくる事も考えられ、その時は「特別賜姓族の伊勢青木氏」も深く血縁を結んでいる以上は秀郷一門を背景に「たいら族」と一戦を交える事を覚悟していた筈です。然し、さすが「たいら族」は伊賀和紙で青木氏と深く繋がった古い深い絆を配慮して攻めて来なかったのです。それどころか”主謀者の孫の助命嘆願に応じる”と云う前代未聞の態度を採ったのです。)

    宗家側は河内源氏の破天荒な生き様を批判していた事を物語るもので伊勢青木氏のみがこの事を証明出来る事なのです。
    そして、その「行動の現われ」として「力みのある力」に頼らず、「2足の草鞋策」を採り「特別賜姓族」との極めて親族以上の親密な交わりを採ったと考えています。
    そして、賜姓族29氏と特別賜姓族116氏とは結束を強くする戦略構築に邁進したのです。

    (参考 特別賜姓族青木氏の賜姓族青木氏に対する援護働き 
    前段で論じて来た事ですが、四日市には「賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」の「融合族」が定住している。この助命嘆願の恩義に対して「信長の伊賀攻め」の時、「2つの青木氏」は伊賀一門末裔と民を名張から側面を突いて出て助ける。 然し、信長は「たいら族支流末裔」で伊賀一門もその支流末裔の同族だが血縁の意識は薄らぎ攻めた。 それは「たいら族」は忠盛の時、摂関家に対して伊賀一部の知行を具納した事から血縁意識は薄らいだと考えられる事と、室町幕府初期に元北条氏の執事に対してこの伊賀の知行を味方した勲功により与えたなどの経緯があり薄らいだと考えられる。 美濃−尾張では「源平の戦い」で「美濃の特別賜姓族青木氏」は一部生き残った「美濃青木氏」と「近江青木氏」を残そうとして奔走するが失敗する。又、室町期に美濃−尾張では織田軍に対して「美濃の特別賜姓族青木氏」が仲介を採り「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と一部生き残った「美濃青木氏の末裔」を護った。武田氏滅亡時の諏訪族青木氏と武田氏系青木氏の逃亡を各地で助けた等の一心同体の様な関係の歴史史実がある事に留意。)

    前段で論じた「4つの青木氏の結束」はこ「の祖先神−神明社」の強い絆の経緯事から生まれたのです。そして現在に生き残れたのです。
    そして、その生き残れた思考の根源はまさしく「祖先神−神明社」にあったと考えているのです。
    この「祖先神−神明社の考え方」だからこそ ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」は遺され、護られた、又は護らせたと云えます。
    実は、前記しましたが、「生仏像様」の処で書いた ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」はこの「河内源氏の失態」を「青木氏家訓10訓」とは別に「総訓」として言い残したものと解釈しているのです。
    恐らくは、清和源氏頼光宗家の4代目頼政の孫に当る青木氏の跡目京綱は分家の行状を観て「誡めの言葉」を「青木氏末裔」に残したと観られます。
    つまり、どう言う事かと云うと、宗家側はこの「河内源氏の行状」を強く批判していたのではないでしょうか、しかし、反面では”世に晒された為に道を間違えた”とも観ていて、(”「未勘氏族」に「源氏の棟梁」と煽られた”として) ”世に晒す事の危険や意味の無さ” に疑問を持っていたと考えられます。
    現在でも、”世に出る事”が”何か発展に繋がる”と考えれがちですが、当時でも同じであったと考えられ、この事に疑問を持っていた事が判ります。
    そもそも、源氏は清和源氏だけでは無く11代もの源氏があり、決して「源氏の棟梁」でも無く「武家の棟梁」でもないし、まして上記した様に「経基王」は賜姓にも問題があり、「賜姓族の源氏」で無い事でもあり、まして、「河内源氏」は三男の分家筋であり、この「呼称の意味」は空虚で世の中の勝手な利益に振り回された事であり、まさしく”世に晒された事”を物語ります。
    仮に、「源氏の棟梁」とするのであれば、筋論からすると初代の源氏で最後まで残った「嵯峨源氏」が「源氏の棟梁」である事に成ります。
    更に強いて云えば、青木氏を加えた同族16代として見ると、「3つの発祥源」で皇祖神に繋がる「祖先神−神明社」であり、「氏上様」の呼称があり、「御師」の呼称があり、大化期からの「融合氏族」の末裔であるのですから、「青木氏」が「棟梁」である事に間違いはありません。「生仏像様」「笹竜胆の象徴紋」「象徴の青木神木」等を以ってすれば「分家の河内源氏」が”源氏の棟梁”などとする事は極めて論外です。
    それどころか、”棟梁族でない”とすれば清和源氏の分家の「河内源氏」が最も無い同族であるのです。
    基より青木氏から観れば「遺戒」の通り ”棟梁”とする事には!”以っての外”であります。
    この事は当時で在れば「衆知の事実」であった筈で、まして「清和源氏」には上記した様に賜姓と出自に問題を持っていた事も衆知の事で在った筈です。この様な世の中の様子を「嵯峨源氏」や「2つの青木氏」からすると苦々しく思っていた筈です。まして現在と異なり一族一門が集結している氏家制度の中ではこの掟を守る事やこれ等の「情報の伝達」は社会の重要な要素であった筈です。
    しかし、つまりは”「源氏の棟梁」”と世の中では勝手に自らに都合良く「河内源氏の未勘氏族」が中心に成って晒されてしまったのです。「八幡社」もこの流れの中での事だと考えられます。
    この事を宗家側の京綱は伊勢から河内に向けてつぶさに観ていたのです。
    助命嘆願の日向の宗綱と有綱の兄の二人も同じ印象を持っていたと考えられます。研究を進めば日向青木氏にも何か遺しているのかも知れません。
    当然に、同じ行動を採っていた「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、極めて親族付き合いにあった「信濃青木氏」にも何がしかの遺訓が遺されているのではと考えられます。この事は青木氏ならではの判る事であります。
    伊勢青木氏の宗家にこの「遺戒」の言葉が現在までも長く口伝されている事はそれを明らかに物語っています。大した意味の無い事は「遺戒」として代々に口伝されることは無い筈です。意味の無いものは何時か消えるものです。
    このデータを分析してみた時に数字からもその事を物語っている事に驚いたのです。
    「神明社−八幡社」の上記の関係表からもこの「生き様」が読み取れのです。

    「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」
    「源氏の棟梁」の呼称や「八幡社」の弓矢の守護神の事は、強いて云えば、上記で論じた経緯から見ても「河内源氏の頼朝」までのものであって、その後は「河内源氏の未勘氏族」に依って自らの系譜や出自を正当化しようと利用した「源氏の棟梁」や「八幡社」であった筈です。
    (「荘園制の名義借り」の「未勘氏族」からすればこの「2つの事」は生き残りのためには止むを得ない仕儀であった事は否めませんが。)
    上記に述べた結論より、その為に明らかに「八幡社」を政治的・戦略的な事として利用されたのであって「祖先神−神明社」の「生活の神」「物造りの神」としての普及には明らかに寄与していなかったのです。
    青木氏側から見れば、河内源氏は要するに”世に晒された、又は世に晒した”のです。
    どちらかと云えば、筆者は”「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」の「2つの事」を使って全国の「無血縁の未勘氏族」に依って世に晒された”とする説を採っています。その理由は上記した様に”この「2つの事」は何れも根拠が無い”からです。
    とすると、場合に依っては「源平の勢力争いと決戦の必要性」は無かった事に成りますし、当然に同族賜姓族の源氏と近江青木氏、美濃青木氏を滅亡に追いやる必要性は無かった事に成ります。
    「無血縁の未勘氏族」がこの「2つの事」を殊更に利用しなければ生き残れたのです。
    それは「無血縁の未勘氏族」が形の上では「源氏の主力戦力」であったからです。義家の時も義経の時も頼朝の時も”イザ衰退”と成ると”蜘蛛の子散らす様に”彼等は霧散したのです。そして、その後はこの根拠のない「2つの事」を喧伝する「後付態度」を示したのです。真に世に晒される事の無責任さであります。
    場合に依っては、この「無責任な大きな渦」に青木氏も巻き込まれていた可能性があったと考えられ、そうでなかったのは「秀郷一族一門の抑止力」と「特別賜姓族の青木氏の絆と背後」と「青木氏のシンジケート」があったからなのです。

    (注記 「未勘氏族の存在」は専門的に研究している人か書物以外に一般には意外に知られていない。
    源氏と云えば河内源氏が源氏だと思われているし清和源氏でも8氏もあるし、まして源氏は11代もあるとは思っていない傾向がある。公的な情報機関のドラマでも「河内源氏」を「源氏の棟梁」としていた程である。「桓武平氏や京平氏や伊勢平氏」として知られている「たいら族」と「皇族第7世族末裔」の「坂東八平氏」の「ひら族」との区別が付かない事とは「不思議の大間違い」です。酷いものには伊勢の秀郷一門の藤原氏の伊藤氏を「たいら族」とした歴史ドラマがあった。
    この「2つの事」はテレビ、簡易書物、ネット解説等の情報機関でもこの充分な「時代考証」が出来ていない事が実に多いレベルであり、これが少なくとも青木氏に関係する「通説と云う本質」なのです。)

    データから観ても「八幡社の弓矢の神」としても「河内源氏」が純粋に建立したと観られるのは、全体の2割程度弱に過ぎないのです。
    後の八幡社は「未勘氏族と荘園制との結びつきの建立」に過ぎない事なのです。
    彼等の「弓矢の神」の役目があったとしても国全体では「神明社+八幡社」920社の中で僅かに7%に過ぎないのです。
    これでは河内源氏を除く11代もの源氏が氏を成した事として考えても、「祖先神−神明社の建立」に対して賜姓族として、”その責務や目的を充分に果たしていない”と成ります。
    その様な果しているとする資料が多くが見付からないのです。
    そもそも11代の源氏の内、室町期まで豪族で直系の氏として生き残ったのは「嵯峨源氏」、「宇多源氏」、「村上源氏」、「清和摂津源氏」の4氏(他に醍醐源氏と花山源氏は豪族・直系氏の要件が低く未勘氏族の可能性が強い)に過ぎない事から良く言えば ”賜姓族らしく質素に生きた”、又は、別に言い換えれば、多くは「武力と経済力」の運用の無さが「河内源氏」の様に「適時適切」ではなかった事に成ります。!”その「生き様」に弱さが在った”から「賜姓族源氏の4氏」は”直系子孫を青木氏の様に現在に遺しきれなかった”と考えられます。

    「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神−神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
    (絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
    この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます

    「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。


    青木氏と守護神(神明社)−18に続く。


      [No.284] Re:青木氏と守護神(神明社)−16
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/02(Fri) 08:10:36  

    :「北陸東北域」の続き
    >八幡社の分布順位(地域分布・重複)
    >1 関東域    7県−94−26.5%(全体比)−平均13/県 清和源氏勢力圏域
    >2 九州域    8県−70−19.8%(全体比)−平均 9/県 未氏族の圏域
    >3 関西域    6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県 氏の出自元の圏域
    >4 中部域    8県−52−14.4%(全体比)−平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
    >5 東北北陸域 8県−38−10.7%(全体比)−平均 5/県 反河内源氏の圏域
    >6 中国域    5県−24− 7.9%(全体比)−平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏圏域
    >7 四国域    4県−21− 5.9%(全体比)−平均 5/県 讃岐藤氏圏域・源氏空白域
    >(詳細データは本論末尾添付)

    「3つの守護神の神明社」
    前段で論じてきた論処の通り、この「八幡社38+神明社97」=135と成る数字は疑う事無く「神明社」そのものなのです。しかし、では”何故に「八幡社」としているのか”についての疑問です。
    それは「4の中部域」では「神明化八幡社」と発展させてましたが、この「北陸東北域」では「八幡化神明社」と成り得たのです。そしてこの八幡化した「八幡社」はこの地域では最早「弓矢の神」では無く、「4の中部域」の「農兵」の「身の安全を護る神」から、更に発展させて「家内安全の神」の守護神として考えられていたのです。
    それは、「神明社」の「生活の神」「物造りの神」は勿論の事、前段で論じた様に「400年に及ぶ苦難」の末にこの地域では弓矢に変えて民は「家内安全の神」を求めたのです。
    それは「合祀」ではなく「神明社」そのものに「3つの守護神」を求めたのです。
    この「3つの守護神」を持った神明社の一部が鎌倉期に成って「家内安全の神」を強く主張する「神明社」が現れ、その「神明社」が室町期に入っての「下克上と戦乱」を背景に「創建主の勢力」が衰退し「管理維持」が困難に成り、「神社経営」の為に「神明社」と区別して「八幡社」と呼称されるように成ったものなのです。
    これは呼称の範囲のものであってその元は「3つの守護神の神明社」であり続けたものなのです。

    「3つの守護神」
    >神明社の存在意義=「生活の神」「物造りの神」+「身の安全を護る神」→「家内安全の神」→「万能の神」

    「八幡社呼称の経緯」
    地域の「八幡社」の現在の呼称の経緯としては、鳥居の形や社屋の形状は多くは「神明造り」であり、元は「神明社」としての建立であった傾向が有り、室町期に入ってからの呼称と観られるのです。
    その結果、「3つの守護神」の傾向が更に進み「家内安全の神」をそのものを求めたのです。
    この地域は「生活の神」「物造りの神」として上記したように古くから神明域であった事から、当然の事として「時代の背景」が影響して武士も民も全ての民が「生活の神」を発展させて「家内安全の神」を「主の守護神」として民は求めたのです。
    その為に「神明社」が一部「八幡社」に単純に変名したと云う事なのです。
    「八幡社」と云っても此処では「弓矢の八幡社」で無い「神明社的な家内安全の八幡社」であった事から変名の抵抗は最早無かったと観られます。
    「生活の神」「物造りの神」に、そして「家内安全の神」に、遂には八幡社の本来の「国家鎮魂」を加えた神を創造したのです。そしてそれは「神明社」のみならず「八幡社」との距離感を殆ど無くし、何れも「民の守護神」として崇める風習が生まれたのです。
    その証拠に次ぎのような事がこの地域に限って起こったのです。
    そして、そもそもこの地域の「神明」とする呼称は、「3つの守護神」の意味を持ち、それを単純に”「神様」を「神明」”と古くから呼称されていて、”神明”と云えば”神様”の総称の事であったのです。
    それには「雄略天皇の八幡社」の意味合いも含んでいて、一応は「八幡社」の呼称はあるとしても根本的に「応神天皇」の「神明」であったのです。
    >「民の”神様”」=「民の守護神」=「”神明”の呼称」
    つまり、全ての守護神の総称を”「神明」”と呼称したのです。
    「神明社」「八幡社」に分ける事に大した意味は無く全て大まかに”「神明」”であって、その”「神明」”は「神明社」なのです。
    神社の経営的な意味のみであるのであって「民の心の区分け」を意味するものでは無かったのです。

    北陸東北域の「神明社-八幡社の関係式」
    >「神明社」≒「八幡社」→「神明社」+「八幡社」→「神様」=「神明」=「民の守護神」
    >「生活の神」+「物造りの神」+「家内安全の神」+「国家鎮魂」+「身の安全神」=「八幡社+神明社」

    実は「神明社」には「2つの通説」があるのですが、この中の一つの「神明=神の説」は此処から来ているのです。強ち、関東以北ではこの「神明=神の説」は間違いないのです。

    ところが関西以西では八幡社、神明社、鎮守社、春日社、住吉社、出雲社等の前段で論じた自然神に繋がる「5つの守護神」を祭祀する社はその存在意義は又明らかに別なのです。
    特に「氏の神」の神に代表される春日社等は区別化は当然の事として、上記した様に以西に行くに従い「八幡社の区別化」は明確に成って行くのです。
    それは「荘園と未勘氏族」のあり方に起因しているのです。
    「荘園に依って酷い苦しみを受けた地域と未勘氏族」と、「荘園に依って利益を受けた地域と未勘氏族」との「パラメータの差」が「八幡社と神明社の区別化」を促しているのです。
    そして、その「荘園と未勘氏族」の有様は、平安期中期、平安後期、鎌倉期、室町期初期、室町期中期、室町期後期の「6つの期」になって現れ、それは「政治的な施策」と「戦乱の影響」に依って変化して行くのです。それが関西を中心に「以西と以北との変化」に差として生まれて来たのです。
    この「八幡社と神明社の区別化」の差が次ぎの様な関係を示しているのです。

    >”「以西・大>関西>以北・小」の関係”
    が生まれて行ったのです。

    この事は「4の中部域」で論じた様に、「圏域の勢力数」の関西を基準にした関係表(冒頭の表 上記の重複表)でもこの傾向を顕著に示しています。

    実はこの事が次ぎの数にも表れているのです。

    「北陸東北域のデータの検証」
    「4の中部域の論説」の通りこの「北陸東北域」はそもそもそれ以上の地域であり、それからするとこの下の数は更に少な過ぎるのです。

    関西域に対して1.8倍は低すぎるし、神明社3.9も低すぎると考えられます。
    つまり、「関西域の八幡社」が概ね15%であるとすると、この地域の八幡社38は多すぎ、全国比1割を占める事は考えられずもっと低い筈です。
    当然に神明社は「関東域115」に対してこの地域での「神明社97」は少なすぎ、「関東域の全国比20%」に比べて「北陸東北域の全国比17%」は低すぎると考えられます。
    もし、このままの数字であるとするならば前段で論じた様な事件が ”歴史的に何も無かった”と云う事に成ってしまいます。
    既に関西から関東に掛けて「八幡社」は勿論の事、「神明社」もその「歴史的な経緯」による変化を起こして来ていて、その様にデーターの変化を起こしています。”何も無かった”はあり得ずそんな事は絶対に無い筈です。
    この「北陸東北域」に於いて現実に厳然と「特異な歴史的な経緯」を持っているのに ”何も無かった”と云う事をこのデータは示している事に成ります。「八幡社」だけならいざ知らず「神明社」も歴史的な状況に一致しないデータなのです。

    ”現世は移ろい去り行く”の例えの通りの如く歴史につれて「人の営み」は変化するものです。
    つまりは「八幡社」の数は(+)であり「神明社」の数は(−)である事から、これは明らかに「時間の経過」に伴い「神明社→八幡社の変化」を起こした事を意味します。

    そこで、では、どの様なデータならこの地域のデータに成り得るのかを検証します。
    次ぎの表を参照して下さい。

    >総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
    >1.8倍    3.9     0.7

    >八幡社 7県−38−10.7%(全体比)−平均5/県
    >神明社 7県−97−17.1%(全体比)−平均14/県 

    >関西域八幡社 6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県  源氏の出自元の圏域
    >関西域神明社 6県−14− 0.2%(全体比)

    >八幡社 秋田3  山形7  宮城7  青森3  岩手4  福島2 北海道9
    >神明社 秋田33 山形15 宮城14 青森13 岩手11 福島9 北海道2

    上記する経緯から、「以西・大>関西>以北・小」の関係から考えると、”中部域の「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」”に匹敵する位の「神明社の数」である筈です。
    この「八幡社38」を加えて135として観ると24%となり、関西域を基準として観ると5.4倍と成ります。
    「関西域25」を基準としたこの地域の神明社の97の倍率3.9ですので、5.4はそれなりの比率と観られます。
    しかし、「地理的要素」と上記の「歴史的要素」を考慮した場合、少なくとも秀郷一門の「関東域の数字」位は少なくとも保有していると考えられますので、因って「関東域の倍率4.6」に対し「5.4」は納得出来る倍率と考えられます。
    そうすると、比較すると次ぎの様に成ります。

    >関東全域 神明社 7県−115−20%(全体比)−平均16/県 本家域
    >北陸東北 神明社 7県−135−24%(全体比)−平均19/県

    神明社の全体比として考えれば20%/24%は、遜色なく相当として納得出来る数字と成ります。
    それに「関東域」と「北陸東北域」の人口比(1/2と試算)から考えれば、48%程度と成り「中部域46%」に匹敵することに成ります。
    これを下の表の通り「県分布」で考察すると、この地は”越後域から陸奥域に掛けて神明社の勢力圏が移動し構築されている事”が良く判ります。
    他の6県域ではほぼ一定で変化が無い事等は、真に「歴史的な青木氏の経緯」と一致します。
    つまり、この地域の「八幡社」は全て「神明社」と観て検証する必要があるのです。
    そうすると次ぎの様な「北陸東北域の総合分布」に成ります。.

    「北陸東北域の総合分布」
    >神明社 秋田36 山形22 宮城21 青森16 岩手15 福島11 北海道2

    以上と成ります。

    「統治経路と末裔分布経路」
    上記の事は秀郷一門のこの域の「統治経路」か「末裔分布の経路」を調べる事で判る筈です。
    これはこの域の「八幡社」を「神明社」として観てしまうと、明らかに「青木氏の末裔分布、又は勢力分布」に極めて酷似しています。
    前段で論じたこの地域の立役者である「特別賜姓族」の「越後青木氏」は、歴史的な幾つもの戦乱から「賜姓青木氏を保護」し受け入れて護り、且つ陸奥への「戦略的ルートを構築」し、陸奥域の「青木氏の基盤」を護った地域でもあり、越後はその拠点と成った所であります。
    そして、その陸奥より南下の岩手に勢力圏を伸張して同門の「進藤氏などの力」を借りて「山形の勢力圏」を築いたのです。つまり、次ぎの表の経路を示しているのです。

    >「新潟の拠点」→「青森域」→「岩手域」→「山形域」→「秋田域」→「宮城域」

    以上の順で勢力圏を拡大しそれに伴って「神明社の分布」は拡大したのです。

    本来であれば、「北陸ライン」を北に採って、統治経路を造るのが戦略上では理想的です。

    >「新潟の拠点」→「山形域」→「秋田域」→「青森域」→「岩手域」→「宮城域」

    以上と成る筈です。

    しかし、この圏域全般は阿多倍一門の「産土神」の「内蔵氏」や「阿倍氏」の「末裔の勢力分布域」であった地域です。この域を抜くのは大戦闘を意味しますので戦略上得策ではありません。

    この事から「鎮守府将軍」として秀郷一門が先ず「陸奥域」に赴任して、その地を統治するには「越後」を拠点とするも「出羽の山形域と秋田域」は直ぐには「越後域の一門」と結ぶ事(北陸ライン)は困難であったのです。
    そこで先ず「陸奥域」の「東北ライン」の「岩手域」を統治し、そこから左隣国の「山形域」を「越後域」の拠点と結んで統治し、その勢いで上の領域に伸張して「秋田域」を制圧して、最終には「宮城域」の北側を統治する勢力圏と成ったのです。それに伴い「神明社」が分布するのです。
    この経路で「神明社」が分布する事は、前段でも論じた神明社の第2の別の目的の「戦略拠点」なのですから、この「分布経路」に沿って「統治経路」の戦略を採った事を意味します。
    つまり、これには平安初期からのこの地域は阿多倍一門の「内蔵氏」等の勢力圏でも在った事から、未だこの地には「産土神の地盤」でもあったのです。「敵対地域」だけではなかったのです。
    それが200年の間に秀郷一門の統治により阿多倍一門の末裔は、思考の根底には「産土神」の考え方も在っても次第にこれを変化させ、「秀郷一門の青木氏」の影響を受けて「祖先神−神明社」へと変化させて行ったのです。
    返して云えば、「産土神」から「祖先神−神明社」に変化させるだけの「秀郷流青木氏の影響力」が実に大きかったかを物語るものです。少なくとも大なり小成りに ”思考の根源を変えさせた”と云う事を意味します。これはある条件が揃わなくては成し得る事ではありません。少なくとも争いの連鎖を生む「武力」ではない筈です。
    本来ならば、上記した「統治経路」は進藤氏や一部長谷川氏等の協力を得ているのですから、間違いなく「春日社」と成る筈です。
    ところが、それどころか「春日社」勢力圏に成らず、のみならず「産土神」さえ殆ど消え去り「祖先神の神明社」と成って行ったのです。そうなると人の思考を変え得るのは唯一つです。考えられるのは「血縁力」と成ります。

    (参考 明治2年 陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中の東北圏に分ける 出羽→羽前、雨後の北陸圏に分ける それまでは北陸東北域は陸奥と出羽であった)

    「進藤氏の活動経緯」
    特にこの地域の「神明社の分布」の発展は、真にこの「進藤氏の活動経緯」と一致しているのです。
    前段で論じたこの”進藤氏の歴史に残る秀郷一門の中での活動行動”が無くして「神明社の分布発展」は無かったのです。
    これは”神明社を直接に進藤氏が建立した”と云う事ではなく、建立に必要とする「秀郷流青木氏の勢力保持」をこの地域に於いて側面からバックアップしたと云う事なのです。
    恐らくは、この地域に於いて上記した「歴史的経緯」があったからこそ「秀郷流青木氏の力」だけではなく陸奥域から関東以北全般に掛けての「進藤氏の圏域」が必要であって成し得たものであります。
    「人の心」は武力に頼らない「鎮守府将軍」の方に向いた事を物語ります。
    その中心と成って働いたのが「第2の宗家」と成っている「特別賜姓族」で「秀郷流青木氏」であります。
    又、一門の中でその「調整役の立場」にあった「進藤氏」は為政の為に自らの氏を犠牲にしても積極的に出て来た結果であると考えられます。
    上記の”ある条件”とは、民から慕われる神明社建立の役目を担う「特別賜姓族」と「進藤氏」と「血縁力」の3つにあった考えられます。故にこの様な総合分布の分布データを示しているのです。

    一族一門が束に成って掛かって初めて成し得るもので、「特別賜姓族」だけではたとえ「勅命」があったとしても、平安時代の「氏家制度」の柵の中ではなかなか簡単に成し得るものではありません。
    そもそも「神明社」とは「生活の神」「物造りの神」「家内安全の神」「身の安全の神」とは云えど、別の面で前段で論じた「戦略的拠点の役目」も担っていた訳ですから、”これだけの広範囲の中に「神明社」を建立する”と云う事は他氏との関係から観て無理やりに建立する事は不可能です。
    しかし、ただ一つ可能な方法と云うか戦術戦略と云うか解決する方法があったのです。
    それは他氏との大小濃淡に関わらず「血縁関係の輪」を構築する事です。
    それが氏家制度の社会の中では最も大事で効果的な手法である筈で、断りきれない柵に填まる筈です。それを演じたのが”進藤氏だった”と云うのです。
    勿論、前段で論じた様に小田氏や小山氏や花房氏の様に秀郷流青木氏の努力はあるのですが、「武力的」、「経済的」、「政治的」な手法に因らない進藤氏の「人間関係の構築」によるものなのです。
    秀郷一門の中で主要5氏の系譜・添書を調べても、進藤氏ほど上下左右に血縁関係を広げている一門は無いのです。
    例え一門の取りまとめ役の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏でも進藤氏程ではないのです。
    前段で論じた様に自らの氏の跡目を犠牲にする位に分家・分派・支流の末端の処までを使って大小の血縁関係を結んでいるのです。
    秀郷流青木氏は116氏に対して進藤氏は48氏で1/3なのですが、「進藤氏の血縁関係」は殆どが相手先に出す「養子縁組」なのです。
    (この養子縁組枝葉を入れれば青木氏と遜色ない氏数になると観られます)
    これは「進藤氏の影響力」を強めることには効果的でありますが、自らの本家の氏は逆に跡目が無くなり一門から跡目を入れて継承すると云う形であって、本家のこの方針に対して内紛が度々起こる程であったのです。
    これは一門の中で「自らの役目」を認識しての事で、「添書」を観ると、実に詳しく記述されているのです。
    「系譜書」と云うよりは「添書綴り」と云うものと成っていて、他の一門と比べ物にならない程でその役目の一端の認識具合が確認できます。
    恐らく、それだけにこの「添書の形式」は、一門の中で「自らの氏の役目」の必要性を末裔に理解させる為に、又、”その務めを先祖がどの様に苦労して来たのか”を知らしめる為に添書に書き記す事に重点を置いていたと考えられます。
    「自らの氏」は「自らの力」で護るのは普通ですが、血縁関係を推し進める為に進藤氏はこのぎりぎりの所にあり、「秀郷流青木氏」に護ってもらっていた事が添書から読み取れます。
    その証拠に冠位等のものが他の一門に比べて少ないのです。役目に徹していた事が良く判ります。
    その役目の血縁は主にどちらかと云えば「小党との血縁関係」が主流と成っているのです。
    血縁を豪族や貴族や公家に結んでいれば更に自らの氏の発展に繋がっていた筈ですが「小党との血縁関係」に徹していたのです。(青木氏の様に「賜姓」と云う特別の立場にない進藤氏にとっては難しかったかも知れないだけに役目に徹したと観られます。)
    陸奥域から関東域では「武蔵7党」、「丹治党」等、西は美濃域の「伊川津7党」等までの秀郷一門が定住する地域の「土豪の自衛集団」との関係保持が目立ちます。
    (この事は中国域に於いても亀甲氏子集団等に観られる)
    これは「中部域」とは異なる”「神明社の建立」に関わる「基盤づくり」”であり、特に北陸東北域の特徴を大きく反映した一門の戦略であったのです。
    (「神明社建立」は「統治拡大」に伴う「民の人心の掌握戦術」や「戦略的拠点」と共に同じく「統治戦術の象徴」でもあった)
    恐らく、他の地域と異なり「関東以北-北陸東北域」に掛けての「歴史的な経緯」から観て秀郷一門には戦略的にこれ以外には無かったと考えられます。余りにも惨く辛い醜い仕打ちを受けていたからです。
    そして、この地域の「民の心」はこの穏やかに応じる特別賜姓族青木氏に向いて行ったのです。
    故に血縁も成し得たのであってこの「血縁の輪」がまた「民の心」を神明に向けたのです。
    進藤氏の成す「血縁の輪」と特別賜姓族の成す「血縁の輪」が連動して民の「心の輪」に波状しその象徴とする「神明社」の「生活の神」「物造りの神」に向いて行ったのです。
    それだからこそ”神明=神様 神様=神明の言葉”が生まれたのです。
    >”神明=神様 神様=神明の言葉”
    これは「2つの血縁の輪」 がこの呼称のみに終わらず「民の心の有様」全てに波及して云った事を物語っているのです。
    筆者は、”秀郷一門に朝廷が特別賜姓族を委ねた”その要因の一つには、一門が持つ各地のこの「血縁の輪」と「戦略的な背景」を見込んでの施政に対する「賜姓」であったと考えているのです。
    返して云えば、実質12代も「鎮守府将軍」が続いたのですが、青木氏を始めとする「鎮守府将軍」の役目に対して朝廷は信頼評価していた事を物語ります。
    その「最高の手段」が ”「賜姓青木氏の神明社建立」を担わせる事にあった”と観ていて、総合的な力を保持しているし真摯な姿勢で対応すると見込んでいたのです。
    故に”全く賜姓青木氏と寸分違わない冠位、官位、官職の諸待遇の全てを同じとした”と観ています。
    ”全て同じ”と云う事は総簡単な事ではありません。そこには ”それだけに相当に秀郷の行動に対して信頼していた”と云う事に成ります。
    桓武天皇が推し進めた神明社20の上に、さらに特別賜姓族が推し進めた神明社97−135が存在するのです。この信頼は「2つの心の輪」と結びついた神明社の数に依って評価されるのです。

    秀郷第3子千国の秀郷流青木氏が入間の秀郷宗家以上の扱いを受け「家柄、身分、官位、冠位、官職」が全て上と成っているのです。”宗家以上”とは宗家の立場もあり一門で問題を起こす事もあり得ますが宗家もこれで納得したのです。
    これだけ与えて河内源氏の様に振舞われては「朝廷の権威」にかかわる恐れがありますが万来の信頼で与えて行った事に成ります。
    「11代の源氏」の「やり過ぎ」と対比して「賜姓青木氏の生き様」が「民の心」を捉え、そしてその特別賜姓族青木氏がそれに勝るとも劣らずの氏であった事が「民の心」を和ませ信頼して行った結果であると観られます。それを自らの身を削って補完して行った進藤氏が居たからこその成し得た功績であったと云えるのです。秀郷一門「青木族」の一つ「進藤氏」ならではの行為であります。
    (我々青木族は末裔として同族の進藤氏に対して尊敬せねば成りません)
    その意味で、神明社もこの様な非常な努力の上に成り立つものであり、初期の「国家鎮魂の八幡社の建立」を担う「皇族賜姓族」が元々無かったのは、「朝廷の勅命」に頼る以外には建立する方法が無かったのであって、それだけに神社建立は一筋縄ではいかない非常に難しい事であった筈です。
    (源氏の様にカーとならずに沈着冷静に人の道を外さずにそれを成し得た事の結果なのです。)
    まして、後の「弓矢の神の八幡社」とも成れば、武士階級に限られ歴史的な辛い経緯から観て少なくともこの地域に於いては全く不可能であった筈で、そもそもこの地域には余りにも「民の心」にすっきりと浸透して行った神明社があったのですから、「国家鎮魂の八幡社」さえをもそもそも建立する必要性は無かった事が云えます。
    ここが重要で、奈良期から「神明社」がどんどん建立が増えて行きながらも、同じ奈良期からの「八幡社」の方は「再建などの勅命」が無ければ荒廃して行ったのです。
    「神明社と八幡社の明暗」はこの北陸東北域に於いて顕著に出たのです。論じている7つの地域には「神明社と八幡社の明暗」はそれぞれ又違う明暗を示しているのです。
    「神明社」と「八幡社」の大きな違いはここにあるのです。「2つの賜姓族青木氏」と「11代の源氏」との明暗と極めて類似しているのです。

    「神明社」は「2つの青木氏」が「皇祖神−祖先神」のつながりの中で建立する、「八幡社」は豪族への勅命による建立と成っていたからなのです。その違いの大本は「守護神の存在意義」であって、「生活の神」「物造りの神」としての民に直結する意義であり、八幡社は国家的な「国家鎮魂」の意義であって民に直接的な意義ではなかった事にあります。なかなか勅命とは言え豪族にその建設を命じる事は何かの適宜な根拠か理由が無ければ難しい事に成ります。普通ではあれば朝廷自らの財力で建設する以外には無いところです。せいぜい出来たとしても修理が関の山ではないかと考えられますし、現実にはその様であったのです。
    河内源氏や未勘氏族がこれに目をつけたと考えられ、その「存在意義」を歪曲して ”国家鎮魂は武士の弓矢により成し得るものだ”とする理屈を付けて、”八幡社を自らの氏の守護神”の様に扱ったとする傾向が見られるのです。
    そうかと云って”自らの氏の守護神”と宣言豪語するには「皇族系の祖先神」の立場にある以上難しかったと考えられます。

    それは「神明社」がその役目を同じ立場にいた「皇族系の祖先神」の「2つの青木氏」が担っていて、且つ「桓武天皇期の建立」(伊勢青木氏の末裔-光仁天皇の父施基皇子の皇孫)に観られる様に天皇自らが積極的に担っていたからです。

    「八幡社の現実」
    この事から逆に言えば「河内源氏」の大きく関わった地域のみに「弓矢の八幡社の建立」が可能であった事が云えます。
    現に調べて観ると、因みに河内南隣の最も近い紀州では上記した様に「八幡社」は極めて少ないのです。「弓矢の八幡社」は限定された局部地域に於いてであり、室町期後期以降の後付のものである事が傾向として云えるのです。矢張り相当後ろめたい気を使っていた事を物語る事象です。
    そもそも隣国である紀州であれば「河内源氏の荘園」が出来ている筈です。すぐ隣で都合が良い筈です。
    しかし、出来ていなくて「藤原北家筋」(藤原脩行)の荘園」と「熊野大社の系列」が殆どです。
    返して云えば「神明社建立」で成り立つ事であるからです。
    前段で論じて来た様に、紀州はそもそも古来より「皇祖神の遍歴地域」でもあり、ここに「河内源氏」が食い入って「荘園や八幡社」を建立する事は朝廷に対しても歴史的にも皇族の立場上も難しかった事が考えられます。これ以上朝廷との軋轢を悪化させられなかった背景が観られます。
    地形的にも紀伊半島と云う地理条件と温暖な環境からすると荘園としては最高の立地条件であります。
    ”喉から手が出るほどで”あった筈です。しかし、ここにはこの「弓矢の八幡社」は極めて少ないのです。
    殆ど無いと云っても過言ではありません。
    「熊野大社の社領」と云っても主体は南紀であり、北紀は平安期は藤原北家の所領で、現在でも特に「春日社」が多い地域なのです。「伊勢神宮の社領域は勿論の事と、この神宮を中心とする一定の円系内には一切の社物は禁止されていた事もあって、少なくとも北紀州の領域は「皇祖神遍歴地域」であった為にいくら「河内源氏」でも出来なかったと考えられます。
    少なくとも平安時代には伊勢を中心として「南に向かっての太陽の昇る方向の地域」に対しては避ける配慮があって「不入不倫の権」の解釈拡大で護られていた事もあると考えられます。
    故に太陽の昇る方位地域の「熊野詣で」の30年間の間に65回も累代天皇が詣でる地域であった南紀も然ることながら、”八幡神社”の呼称すら余り聴かない地域なのです。
    事程然様に、紀州の如くにそもそも「勅命による国家鎮魂の八幡社」はいざ知らず「河内源氏の弓矢の八幡社」としての建立は極めて難しかった筈です。
    それは、上記のように「古来からの環境」がある中でも紀州の様に難しいものであっただけでは無く、別には「神明社の氏上様」は「賜姓青木氏」でもあったからです。
    つまり、「神明社=青木氏」と観られていた地域であって、且つ「3つの発祥源」であったからで、元々「神明の意味」を普通に解せば、「生活神」「物造神」「家内安全神」「身安全神」「国家鎮魂神」「武神」は「皇祖神」に繋がり、「自然神」に繋がり、「応仁神」に繋がり、「雄略神」に繋がり、あまつさえ「皇祖神」の「天照大神」の「伊勢神宮」の2神に繋がる「総合神」としての「祖先神の神明社」であるからです。
    だから、この関西域の”「神明=青木」”と同じく、北陸東北域の ”「神様」と云えば「神明」、「神明」と云えば「神様」”の呼称が生まれ慣わしと成っていたのです。この「呼称の意味」が神明社を大きく物語ります。
    何も「国家鎮魂・弓矢の八幡社」に殊更に信心する必要性は無かったのです。

    「神明社は総神」
    隣国国境の北紀州に於いてでさえも「国家鎮魂や弓矢の八幡社」は無かったのですから、北陸東北域に於いてでは、上記の通りの「環境と歴史の経緯」から観ても ”「神様」=「神明」”以外には無かった筈です。
    まして、上記した様に、歴史的な民族の経緯に因って「産土神の思考原理」が奥深く潜んでいる「祖先神の神明社」です。
    こう成るとこの地域の「祖先神」には、「皇祖神」は勿論の事として、「産土神」「八幡神」、強ち地域性から観ても「春日神」や「鎮守神」の「存在意義」も潜んでいる事を否定出来ないのですから、最早、「慣わし」の域を超えて当然の「総神」である事は否めません。
    そもそも平安期から「氏家制度」は「社会の慣習」を「伝統」として重んじる社会構成である中では、突然に「勅命」による為政の「国家鎮魂の八幡社」も、あまつさえ「弓矢の八幡社」は相当な事で無いと新規建立は出来ない慣習です。
    筆者は「氏家制度」が強く慣習として護られていた室町紀中期・下克上・戦国時代以前の社会の中では慣習的にも論理的にも有り得ない”と観ています。

    この考え方からすると「弓矢の八幡社」は殆どは「未勘氏族」による「後付の行為」であって、それは「氏家制度」が緩んだ室町期後期からの事であり、徳川家康-家光の3代に渡る「宗教改革の一環」として「武士の社会」を安定化と固定化するために打ち出した「八幡社奨励令」(浄土宗督奨令)にて拡がったものと考えているのです。

    この考え方と上記した「藤原一門の組織形態」が関東から北陸東北の神明社建立に大きく貢献しているのです。何も「八幡社」に拘る必要性はこの地域では、上記の通り「総神」である以上、最早、無かった事を意味します。
    この様な背景の中で秀郷一門の行動が上記した「神明社-八幡社の関係式」を作り上げたのです。

    「神明社の分布進路」
    それが「以北方向」からと他方「関東方向」からの2つの方向から進み、宮城では常陸や武蔵から下野、上野へと北に伸張し、保護した諏訪族青木氏の立ち直った力を借りて仙台の直前までその勢力圏を伸張したのです。
    つまり「神明社の分布進路」の経路は2つの方向から起こったのです。
    その意味で、「北陸東北域の総合分布」の表は、”「秀郷流青木氏の活動」があったからこれだけの建立が出来た”と云うのではなく、何時の世も「特段の事」を成すには何がしかの「特段の要素」が働いて成し得るものですが、この「特異な経緯」を持つこの地域では、前段で特筆している「進藤氏の活動」があっての事であって、その行動とこの総合分布の結果と真に一致するのです。
    青木氏と進藤氏の「活動分布」とこの「分布の比率」が一致するのです。
    つまり、「秀郷流青木氏(特別賜姓族)」の真にこの「勢力分布」と「青木氏末裔分布」に「神明社建立分布数」が相対しその進路さえも相対しているのです。
    とりも直さず、「越後を前線基地の拠点」として働き、「特別賜姓族」「第2の宗家」「秀郷流青木氏」の夫々の「3つの役目」が的確に進められていた事を物語ります。
    戦略的に観て、これには「進藤氏の活躍」と「越後の前線基地」としての働きが大いに功を奏したと考えています。
    そして、それは「桓武天皇期の20の神明社」と「義家事件の直後の時期」の条件が合致した結果(566)と考えられます。
    この様な確固たる基盤に護られていたからこそ「関東域」にも勝るとも劣らず、「最大勢力圏8.5の中部域」にも逼迫する分布が成されたものであります。

    「6の中国域」
    ・「6の中国域」は「7の四国域」と共に「たいら族」の圏域でもあった事や「出雲大社」の圏域でもあり、「源氏の勢力圏の外」にありますが、「荘園制」による「未勘氏族」の多い所で在った事から日本海側の北域の多くは「未勘氏族」に依って建立されたものと成ります。
    この域は神明社のデータを観ても「神明社の完全な圏域外」でもあります。
    しかし、極めて微妙な地域でもあり、「瀬戸内」に限っては日本最大の利権が潜む地域を有しているのです。
    ”「瀬戸内を制する者は国を制する」”と云われて来た地域でもあり、その影響を受けて日本海側の北域にも少なからず影響を与えた地域なのです。
    古来より醜い政治性が渦巻く地域を有しているのです。その中に「神明社と八幡社」が存在しているのですから無影響である筈はありません。
    関東域と北陸東北域の状況と大きく異なる処があるのです。その意味で対比して論じる必要が出てきます。

    >6の中国域は「八幡社24+神明社9」=33

    >総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
    >0.4倍    0.4     0.5

    >6 中国域 八幡社 5県−24−7.9%(全体比)−平均5/県
    >  中国域 神明社 5県− 9−1.6%(全体比)−平均2/県

    >八幡社 山口9 広島5 岡山4 島根4 鳥取2
    >神明社 山口1 広島6 岡山1 島根1 鳥取0 

    「県別分布の現実」
    この域の青木氏は前段で論じた様に、平安初期から「讃岐藤氏」の「秀郷流青木氏」の絶大な圏域で、「讃岐」は元より「瀬戸内」、「土佐の一部」、「安芸や美作」には土地の土豪との間に血縁族を作り、「出雲大社の氏子集団」の「亀甲衆団」との血縁も進め、その勢力を宍道湖のところまで伸張して、其処には「2足の草鞋策」を足懸りに「讃岐藤氏の勢力圏」を構築したのです。
    その為に県別分布では広島域が神明社が最も多い事でも証明できます。
    ただ「亀甲衆団」との血縁族で広げた圏域は、「神明社」を一つ作る勢力が精一杯のものであったと観られ、広島は八幡社でも神明社も同じ勢力ですが、ここの「神明社」は「讃岐青木氏」が「未勘氏族の八幡社」の中に食い込んだ事で、室町末期の中国域の豪族から「八幡社勢力」と成ったと観られます。

    「八幡社」の山口9、つまり「長州の八幡社」は納得出来ます。
    実はこの中国域には、因みに「源氏の未勘氏族」は3氏があり、この3氏とも清和源氏頼信系で小笠原氏(山口9)と安芸武田氏(広島5−安芸4)と山名氏(島根4)ですが、この「3氏の圏域範囲」のみに「八幡社」の分布と成っています。
    島根と鳥取の神明社は、此処には秀郷一門に追い出された土豪足利氏の本家一族とこの一族と血縁した「足利氏系青木氏」の賜姓族の一部末裔が秀郷一門に追い遣られて八頭と米子に移動定住し、その後、宍道湖東まで定住域を広げていますが、この末裔が神明社を1社程度建立する勢力圏を構築していて、その「勢力分布」と「末裔分布」であった事を示しています。
    神明社の広島6は「讃岐青木氏の血縁族」を広げての「勢力分布」であり「末裔分布」で在った事になります
    この地域は「神明社」の「生活の神」「物造りの神」の守護神であり、「八幡社」は単純に「弓矢の神」の「八幡社」であったのです。
    この中国域は奈良期から「阿多倍が引き連れてきた職能集団の土地柄」で室町末期までその最大勢力を誇り、中国域全土を制覇した「陶部」の「陶氏族の土地柄」です。
    依って、元より阿多倍一門の西の九州は大蔵氏、北の北陸東北には内蔵氏、中部北には阿倍氏、この中国域には「たいら族」の圏域と成っていて、他の勢力が食い込む事はなかなか困難な土地柄で、そもそも、”蟻の隙間も無い”くらいに「神明社や八幡社」が食い汲む事の事態が珍しい事なのです。

    このデータは、其処に「讃岐藤氏」がうまく「血縁による戦略的な方法」で食い込んだ事の意味や、問題と成る「清和源氏頼信系義家」の「荘園制拡大で未勘氏族を広めた事」の勢力のパラメータの数字としても吟味できるものなのです。
    まして、この「中国域」には古来より「出雲大社」と「厳島神社」の「2つの神域」でもあります。
    其処にこれだけの「神明社9と八幡社24」の33は「関西域77」に匹敵する位の意味合いを持っています。
    それだけに中部域の「神明化八幡社」や「北陸東北域」の「八幡化神明社」の様な「存在意義の変異」は起こり得なかったのです。
    むしろ「弓矢の八幡社」をより鮮明にしてその背景に対峙したと考えられます。
    「神明社の存在意義」も元より「陶氏」に観られる様に「職能集団の地場」であった事から「生活の神」「物造りの神」はそのままに新鮮に受け入れられたのです。それは真に「陶部の陶氏」が物語ります。
    この中国域は「瀬戸内」を四国域と挟んでいる限りには分離して論じる事には危険があり、次ぎに合わせて「瀬戸内」を中心に論じる事にします。
    それだけに「瀬戸内」は両域に取って大きな意味を持っていて「接着剤の役割」または両域の特徴の重複する部分なのです。

    「7の四国域」
    ・先ず「7の四国域」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」と「阿波の阿波青木氏」で何れも秀郷一門の「秀郷流青木氏」の土地柄です。ここに特別賜姓族の青木氏が建立した「神明社」より「2倍の八幡社」が建立されているのですが、この「神明社」が建立されている背景は、この「讃岐青木氏」の香川1と愛媛2と高知3の6神明社で、この建立地の範囲が「下がり藤に雁金紋」の「讃岐青木氏」の丁度、その勢力圏でもあります。
    徳島3は「剣片喰族」の「阿波青木氏の勢力圏」です。讃岐と阿波の6対3の比率に相似する末裔分布でもあり、この「2つの青木氏」は秀郷一門の中でも主要な青木氏で、「主要8家紋」の一つでもあり、かなりの「第2の宗家」としての「発言力」を占めていた事が判ります。
    特に「讃岐青木氏」は家紋に示す様に綜紋である「下がり藤紋に副紋付き」の家柄で「第2の宗家」の本家筋に相当する力を持っていたのです。
    平安期の関東の「平将門の乱」と呼応して起こった「瀬戸内」の「海賊騒動」の「藤原純友の乱」(多説あり)に観られる様に、「清和源氏の祖の経基王」に「海賊の嫌疑」を掛けられたほどに、「瀬戸内の制圧権と利権」をめぐる「朝廷との軋轢」はすさまじいものがあり、その中での「神明社建立」とそれに伴なうその「讃岐藤氏」の「勢力伸張」は警戒されていたのです。
    藤原氏北家の中では「田舎の藤原氏」と蔑まれ、しかしその田舎者が「瀬戸内」と云う地域で「利権と権力」を拡大させていたのです。その中で瀬戸内の「海の族」を纏め上げて行ったのです。


    >八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
    >神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
    (下記重複)

    この高知を除いた香川と徳島と愛媛の計「神明社6」は「関西域の25」に対してその「立場と勢力」から観て小さいと考えられます。しかし、「讃岐青木氏1氏」の実力から観ると、「中国域9の神明社」も合わせると「15の神明社」と成りますので、関西域は3氏として観ると25/3対15/1と成り、「讃岐青木氏」は他の秀郷流青木氏と比べて約「2倍の力」を持ち得ていた事が「神明社」を1つのパラメータとして観ると良く判ります。「瀬戸内の富」を背景に「田舎者藤氏」は「入間の宗家」に匹敵するくらいに財力と利権と勢力を拡大していたのです。「妬み」が生まれるのはこの世の常です。警戒をしなくてはなりません。
    この事から観ると、「武田氏滅亡」により「讃岐青木氏」を頼って逃亡して来た土佐に住み着いた「甲斐賜姓族」の「武田氏系青木氏」を匿う能力が十分にあったとされます。
    依ってこの高知3の神明社はこの「讃岐青木氏」の援護の下に建立された事が判ります。
    恐らくは、他の地域の逃亡先の「神明社自力の建立能力」は「神明社1程度」が相当と成っていますので、高知3の内の1は青木村を形成している事も考え合わせると「土佐の青木氏」が建立したと成ります。

    この様にこの四国地域の「神明社の建立」は良く判るし、室町期中期頃までの守護神の社を建立出来る豪族となると、藤原氏を除くとこの四国域では14の豪族と成ります。
    この14の豪族の内、藤原氏の血縁族は家紋分析から6割を占めます。
    しかし、この中で「八幡社」を建立する「清和源氏頼信系の豪族」はただ1氏で「阿波の三好氏」だけであります。
    徳島3はこの三好氏に因って建立されたと考えられますが、「八幡社」では愛媛9の伊予とすると4氏の豪族、香川6の讃岐とすると3氏の豪族、高知3の土佐は6氏の豪族と成ります。
    これは”平安末期に「清和源氏頼信系一門」の影響(主に荘園制)を受けた豪族は少ない”と云える事に成りますし、或いは海を越える地理的な要素を勘案すると、「讃岐藤氏」の「瀬戸内」を跨ぎ中国域も勢力圏に納める大圏域の影響等から考察すると、この域では「河内源氏の荘園名義貸し」の難しさが大きく働いていたのでは無いかと考えられます。

    「八幡社の疑問」
    そうすると、では”誰が八幡社を建立したのか(イ)”、又”「弓矢の神」を守護神にしたのか(ロ)”と云う疑問が出て来ます。現実には吟味したデータでは21社が室町期中期までには建立されている筈です。
    この「建立する能力」を持った豪族は藤原氏宗家と讃岐と阿波の秀郷流青木氏16氏とすると、残るは「2つの秀郷流青木氏」と「小さい未勘氏族の集合体」以外には無い事に成ります。
    幾らこの讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」が建立したとしても「春日社」、「神明社」、「八幡社」の ”「3つの守護神」を建立する事は可能なのかどうか”(ハ)です。

    そこでこの3つの疑問(イ)(ロ)(ハ)に付いて検証する必要があります。
    先ず、下記の通り「八幡社と神明社」の合計31と「春日社」を合わせても、下記の関西域との比の総合倍率0.4をパラメータとして使ったとして、「春日社」は30社と成りますから併せて61社と成ります。
    これに「中国域の建立分33」と「春日社」の同じく総合倍率0.4ですのでこれを積算したとして66社となります。
    これを合わせて全127社と成ります。
    上記の「2倍の勢力」(15)を持つ「讃岐青木氏」と、徳島3の「阿波青木氏」の勢力を同倍率からほぼ0.3と観て、2.3倍率と成ります。
    これを合わせたとしての127社の建立は、他の域のデータと比較すると、「関東域の115社」と「北陸東北域の135社」の丁度その中間の勢力を保持していれば可能と云う判断に成ります。
    そうすると下記の表の通り「関東域の勢力」2.7と「北陸東北域の勢力」1.8と成ります。

    >           総合倍率  神明社倍率 八幡社倍率
    >A 関東域      2.7     4.6     1.8
    >B 北陸東北域   1.8     3.9     0.7
    >  (A/B)     (1.5)   (1.2)    (2.5)
    >C 四国域      0.4     0.4     0.4
    >D 中国・四国域  [2.3]   (0.8)    (0.9)   

    以上の表より次ぎの関係式が成立します。

    >「関東域の勢力」(2.7)>「四国域の勢力」(2.3)>北陸東北域(1.8)

    丁度、「関東域の勢力」と「北陸東北域」との「中間の勢力」を保持している事が云えます。
    中国・四国のこの総合調整倍率[2.3の勢力]と云う事のみでは、”建立する能力はあるか”と云う事に成ります。
    そこで、個別の「神明社倍率」と「八幡社倍率」の(A/B)の比1.5から観て「神明社倍率」もほぼ同比率1.2である為に1.5≒1.2と成り「建立可能」と成ります。

    次ぎに「八幡社倍率」は2.5/1.5ですから確かにハンディーがある事は認められますが、この「中国域の八幡社建立」は、山名氏や武田氏や小笠原氏の大豪族3氏の清和源氏頼信系の豪族と、その「未勘氏族」に依って建立されているので、このハンディーは抹消されますので問題はなく成ります。
    むしろこのハンディー(2.5/1.5)は「余力」1.0と観る事が出来ます。
    そうすると次ぎの要件がこの地域にありますのでこれを吟味する必要が出てきます。

    >7の四国域は「八幡社21+神明社10」=31

    >「関西域基準比」
    >四国域                    (中国域)
    >総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率  (総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率)
    >0.4倍    0.4     0.4      (0.4倍    0.4     0.4)

    >「全国比」
    >7 四国域 八幡社 4県−21−5.9%(全体比)−平均5/県
    >  四国域 神明社 4県−10−1.7%(全体比)−平均3/県

    >「県域数」
    >八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
    >神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3

    この検証の問題には次ぎの「5つの要素」が働きます。
    A「地理性」
    B「経済性」
    C「歴史性」
    D「圏域の広さ」
    E「武力」
    以上の「5つの要素」が影響します。

    「5つの要素」
    この「5つの要素」は次ぎの様に成ります。
    ・Dの「圏域の広さ」は中国域5+四国域4で9県であり、ほぼ一致しますので問題は無いと観られます。
    ・Cの「歴史性」は比較は難しいですが、平安末期は「関東の動乱」と「瀬戸内四国の動乱」は一致しますし、その後も「下克上と戦国戦乱」は同じであったとほぼ考えられます。
    ・Eの「武力」は「神明社」と「八幡社」を他氏から侵食を防ぐには必要な要素ですが、平安中期からのこの地域での「長期間の経緯」を背景にすれば、この「2氏の秀郷流青木氏一門の勢力」を持ってすれば可能と考えられます。(下記 藤原の純友の乱以外は現実に護られて来た。)
    ・Bの「経済性」は日本海側まで出た瀬戸内全体の廻船業の権勢を誇っていますので「2足の草鞋策」から全く問題は無い事に成ります。

    そこで筆者はこの「5つの要素」のキーポイントは最後に残る大きく「地理性」に関わっていると観ているのです。
    この「地域の特徴」は”「地理性」そのものにある事だ”と考えていて、それは”「瀬戸内」”と云う要素だと云う事なのです。
    この”瀬戸内”は10国の沿岸部を持ち、これに依って「姓氏」の始祖の「海部氏」等に代表されるように「海鮮業」が盛んに成り、当然にこれに伴い「造船業」や「廻船業」も起こります。
    ましてこの海は古来より中国域を制していた陶部の「陶氏」に代表される様に「物造り」の盛んな地域でもあったのです。「総合産業域」といっても過言ではない「瀬戸内」圏で、その圏域や勢力が廃り侵食される事は100%無い事が判りますし、現在でも健在です。
    現実に昭和20年までこの圏域は「総合経済圏」で保たれていたのです。
    因って、この海域を制することは「莫大な経済的な富」(a)と「海利権などの威力」(b)を獲得します。
    この「2つの富」(a)(b)を以って勢力圏を高めれば上記する関係式の[2.3]の「勢力の基盤」の構築は可能と成ります。
    この「経済的な基盤」(a)(b)の裏打ちが可能と成る事に依って「八幡社の建立能力」は出て来ます。
    それは「武力」に依って得られる「税的な経済的基盤」だけではなく、自ら営む「商業」、つまり「2足の草鞋策」に依っても充分に成り立つものです。
    この「讃岐青木氏」と「阿波の青木氏」はこの”「瀬戸内の海域の廻船業と造船業」”を営み、取り分け「讃岐青木氏」はこの力を以って安芸、美作を越え石見、出雲の北の海まで伸張しているのです。
    それは「商い」のみならず「血縁関係」までを構築して末裔を定住させると云う実に「高度な戦略的手法」に観ても「三相の理」を得る「完璧な戦略」を駆使しているのです。
    この結果、記録によると昭和20年頃までこの廻船業・造船業を営んでいるのです。
    又、「阿波青木氏」も史資料によると、その末裔も淡路までの範囲で「廻船業・造船業」を営み「紀伊水道域」を征し手広く北の海まで出かけている事の資料が多く遺されています。
    この2氏はこの様に「2足の草鞋策」を手広く営んでいたのです。
    これらの検証から(イ)(ロ)(ハ)の疑問は説明できます。

    「瀬戸内」と「2つの鍵」
    「讃岐と阿波の2氏の青木氏」が「瀬戸内」と「紀伊水道」を制していた事は「政治的・戦略的」に観て「清和源氏頼信系の八幡社」の勢力伸張は難しかった事が判ります。
    筆者は前段で論じた清和源氏の祖の「経基王の讒訴」「藤原純友の乱」の「海賊嫌疑」はこの「勢力圏の拡大」の「嫉み」に依るものと観られ、裏を返せば ”この地域の利権の獲得を狙っていた”と観ているのです。それは清和源氏の「勢力拡大の基礎力」にしたいとする狙いであったと考えられます。

    実は「瀬戸内」のこの「海賊(海族)の正体」と「勢力伸張の難しさ」とを顕著に現れている事件があります。
    それはこの「瀬戸内」で起った「源平の2つの戦い」の「義経の行動背景」にあるのです。
    ここにはこの「瀬戸内」と云うものを説明する「2つの鍵」が隠されているのです。
    その「2つの鍵」とは一つ目は「海賊・海賊」と云うものであり、二つ目は「財力・利権」なのです。
    それは関西域の海域圏の東側の沿岸沿いにこの「摂津水軍」と「紀伊水軍」と「熊野水軍」と「伊勢水軍」と「駿河水軍」が制していて、これに対して義経は「源氏への合力」の為に半年を掛けて懸命に数度の談合を試み、遂にはその合力を獲得する事が出来た歴史史実があるのです。
    この「談合」にはその「合力の目的」として「2つの鍵」が義経の腹中にあったのです。
    その「2つの鍵」は「平家側」には存在し「源氏側」には無かったものなのです。
    この「2つの鍵」に必要とするものは、つまり「海族」を意味する「水軍」なのです。

    (資料に因れば、「たいら族」の忠盛は密かにこの水軍を使って禁令の「宋貿易」を始めていて莫大な利益を獲得していて清盛に成って本格的に貿易を行った。朝廷からも疑われていて藤原氏もこの事は讃岐藤氏からの情報で承知していた。大蔵氏も承知していた。)

    先ずは勝利の為には「水軍の獲得」であり、その水軍を獲得した暁には勝利し、そして遂には当面の目的として2つ目の「財力・利権」を平家から奪取し、その「財力・利権」に依って最終目的として「清和源氏の繁栄」と「生き残り」であったのです。
    それには先ずは「平家と同じ戦力」に到達させる事であり、「同じ戦力」に到達させた上で相手の弱点を突く戦術を構築して戦いの前哨戦を制する事であって、その後は同等の戦力で常套作戦で挑む戦略を描いていたのです。
    その元と成るのは「水軍」であったのです。その為には平家と同じ「兵能水軍」ではなく弱点を突ける水軍でなくては成りません。それを持っているのが上記の「5つの水軍」であり、弱点を突ける共通する武力を保持していたのです。
    この「5つの水軍」の中でも「紀伊水軍」はその能力を最大に持った水軍であったのです。
    中でも、瀬戸内に明るい「摂津水軍」(摂津を中心とする大阪湾海域の水軍)と最大の能力を持った「紀伊水軍」(大阪湾から淡路から紀伊水道海域)に対しては「合力嘆願」には苦労を重ね、記録によると時には義経が襲われると云う事の中から得られた強烈で強力なものでした。
    この「弱点を突ける能力」とは「海族」の中に潜む「海賊の戦闘術」であったのです。
    この「5つの水軍」にはそれぞれの地域の海域の違いにより大小があるにしてもこの「海賊の戦闘術」を必要性として保有していたのです。
    平家水軍は職能集団の海の「兵能集団」でこの海賊性はもとより保有していないのです。「陸の兵」に対して高度で常套な操船術を保有した「海の兵」なのです。

    「義経の行動と瀬戸内」
    平安時代は「武」に従事する者として、「源氏」の様に「武家」を組織して兵とする集団と、「平家」の戦力の様に組織化されない「兵能」の兵とする集団との2つが混在していたのです。
    「源平の戦い」は別の意味でこの2つの異なる覇権をめぐる「兵の集団の戦い」でもあったのです。
    義経はこの「2つの違いの弱点」を突く発想であったのです。
    この事に付いてはその「2つの水軍」の末裔の「私史資料」が発見され、共通する事としてその中に詳細に記録されているのです。
    その2つの資料に共通する事は「義経の人柄、将の力量」とこの「源平の海上戦」の「義経勝利の秘訣」であって、そのつまりはその「戦い方」にあるとして、それは「水軍の野戦的戦法」(海族的戦法)と記録されているのです。
    この「瀬戸内」と「紀伊」の「2つの水軍」は不慣れな「平家水軍の通常戦の常套的戦法」(後の村上水軍)様な戦い方を嫌い ”海族的な「野戦的戦法」なら合力する”との双方の考え方の合意が得られたからなのです。この様に記録されているのです。
    「義経の人柄、将の力量」を見抜くに時間を掛けたとする「末裔の忘備禄」が発見されたのです。

    「八幡社・神明社」を論じる時にこの「瀬戸内」に於いては、この「義経の行動」が「瀬戸内」を語る上で欠かす事が出来ない事なのです。
    上記した様に”「瀬戸内を制する者は国を制する」”の事に大いに関係してくるのです。
    そして、その「義経の戦略」が平家を倒し「源氏体制」を確立する為には「絶対条件の瀬戸内」であったのです。
    そして「義経」はその「2つの鍵」を念頭に綿密にその様に行動したのです。そして”その判断(2つの鍵)に賛同したからこそ合力した”と記されているのです。
    紀伊水軍は”この「2つの鍵」が理解されていないと合力しても敗退し却って自らも滅ぼす”と考えていた事に成ります。
    そして彼等の水軍は”それを理解できているか”の”「将としての力量」があるか”の「瀬踏み」をした事に成ります。
    そしてその「瀬踏み」では、実に「用意周到な性格」で「勇猛果敢」で実に「沈着冷静」の「源氏の将」と記録されているのです。資料から観て筆者の印象も同じです。
    そして、戦いでは、特に「紀伊水軍」は真に「海族的戦法」で奈良期からの阿多倍の「職能集団の平家水軍」を戦いの勝負が決まる前哨戦で打ち破ったのです。
    そして、この「紀伊水軍」は海戦終了後、恩賞を受け取らず直ちに紀州に戻った事が記録されているのです。
    他の合力した「3つの水軍」は一つは前段の青木氏の「伊勢シンジケート」の水軍、後の2つは「熊野源氏」と「駿河源氏」方の水軍です。
    この「2水軍の戦力」と「5つのライン上の5水軍」が整えられていれば「神明社と八幡社」の勢力圏を揺るぎ無いものにしていた事が判ります。

    (参考 紀伊水軍の「海賊的野戦戦法」と3つの水軍の「常套戦法」の「2段構え戦法」であった事が記録されていて、この戦法に「海賊的な紀伊水軍」がやっと賛成し「義経個人」を信頼して個人に合力したと記録されている)

    日本全国何処の海域でも上記した「5つの水軍」の様な「海族」が「陸の土豪」と同じ様に存在します。
    これ等が「海の支配権」を持ち「海域」の「勢力バランス」を保っているのです。全く陸と同じなのです。
    「海・陸」何れにしても、この「海域支配権」「領地の支配権」を無視し、或いは軽視する場合は攻撃されるは当たり前の事で、これを「海賊」とすれば、陸の土豪・豪族も「山賊」と成ります。世に俗に云う「一所懸命」なのです。
    もし「海賊」がいるとすればそれはこれ等の「海族」が掃討し自らの海域を護るのです。これは海と陸は同じであって、それに依って船舶の「航行の安全」がより保てる海域となるのです。
    そして、何時か多少の荒くれがあるとしても海賊の類は結局は掃討されて、秩序としてこれ等の「海族」の支配下に置かれるのです。
    現在の契約社会から観れば「海賊」であっても、当時の時代考証からはこれ等は当然の事であって、「一定の支配権」の下にその「安全の契約」を「暗黙の社会のルール」の中で保てばむしろ逆に安全な手法となるのです。これは陸も同じです。
    前段でも論じてきた「大規模な商い」を行おうとすれば、この「安全の契約」が必要に成り輸送などの事が行えるのです。多くは「自らの経済力」にてシンジケートを構築すればよい事に成ります。
    これも一つの「安全の契約」で現在でも同じ「安全の契約」は必要であるのと同じです。

    「安全の契約」と「水軍・海族」
    現在と過去の「安全の契約」の違いは直接的に保障されるのか、はたまた間接的に保障されるのかの違いであります。
    過去の場合はこれ等の海の「海族」と陸の「山族」を一つの組織の中に取り込み、各地の勢力の届く範囲でそれをシンジケートとして構築する直接的な「安全の契約」の保障制度を採用していたのです。
    要するに現在の様に「律令制度」(契約社会)が未だ完備されていない中では、「氏家制度」の中の「社会の秩序」を保つ為の当然の「安全の契約の保障制度」であって、この「シンジケート」にして纏め上げる「慣習システム」は一つの「社会の暗黙の慣習制度」なのです。
    これを現在感覚の契約社会感覚で「海賊や山賊」と見てしまえばそれはそれまでの事であり、少なくとも明治以前の社会は「シンジケート」はある意味で「社会の暗黙了解」のある「治安維持機構」であり、「警察機構」でもあり、「職業更正機構」でもありして、本質的に「善悪の考え方の量と質」が違うのです
    要するに「純友」は海の族を「海族と海賊」を一つにまとめ「水軍」として統括し、これを武力に頼らず義経の様に「政治的」に行っただけの行為であったのです。
    むしろ、当事の世情と時代背景から考えると、武力による解決は武力の連鎖が起こり、この結果の「恨み辛みの怨念」が渦巻く社会世界が生まれます。
    しかし、純友の様にして要するに「海のシンジケート」を構築する事は「恨み辛みの怨念」は霧消します。
    彼等にも家族先祖伝統の普通の社会生活があるのですから、むしろ、「理想的とするべき処置」でもあったのです。
    その行為がより伊予・讃岐の土豪の藤原一族一門の「安全の契約の保障制度」になっていたのです。
    当然にこの「安全の契約」によってそこには「莫大な利権と勢力の圏域」が生まれるは何時の世も同じです。
    上記した「2つの鍵」を紐解く「義経の行動」を述べましたが、実は下記に述べる様にこの事には大きな意味を持っていたのです。

    注釈 「水軍と海族の論処」
    これには多くの通説があって大別すると、土豪が海賊に味方して首領に成ったとする説と、筆者が採用する上記の「シンジケート説」の2つに成ります。青木氏から観たシンジケート説です。
    遺された資料からよく調べると、「海賊」と云っても「1000艘以上の大船団」を持ち、当事としては全国トップの勢力を誇り、「複数の自港」(日振島等)を持ち、その船団の組織化された首領格には正式な「藤原氏」が多く存在し、船団以外にも「地上戦」も行い強く各沿岸部の地域を奪取していて、北九州から紀州域までの海域と陸地も豊後や伊予や讃岐や安芸や紀伊の「地域を領有する豪族」と成り、「純友神社」や「純友城」等も有する「海と陸の両方を有する豪族」で、「叙位従5位下の下級貴族」なのです。
    更には”周囲の沿岸部の民からも慕われていた”とする「神社の記録」複数が残されていて、その記録を信じるとして、「純友」が納めている間は「穏やか」であったとしているのです。
    上記の「恨み辛みの怨念」は”何処吹く風”でむしろ”民から慕われていた”のです。
    これはどう観ても「海賊」ではありません。上記した様にまさしくこの地域の荒くれをまとめて組織化し成し遂げた「海族」なのです。
    まして「自らの神社」(大きな意味を持っている)を持つ者など陸にも少ないのです。これは下記に論じますが本論の本質を意味しているのです。
    この純友の「神社・城」はただの「神社・城」の意味だけではなく、「神明社・八幡社」で論じている様に、これには「歴史的な生き様」が遺されているのです。絶対に見逃してはならない要素なのです。
    つまり、そこには「神明社の青木氏」と同じく ”それは組織から崇拝されていた事”を色濃く示す事にも成ります。
    その「組織の局部」を捉えれば荒くれである以上は「海賊的な要素」も見え隠れするでしょうが、それを捕らえればそれはその様に見えるかも知れません。しかし、「神社・城の存在」は「神明社」で論じている様に”「何がしかのその儀」”を有している事に成る訳ですから、それを基下に組織化している限りは「陸の豪族」とは内容は異なりません。
    その「何がしかの儀の如何」と「局部の荒くれ」であるかどうかの違いだけです。「局部の荒くれ」であるからと云って”「海賊だ」”とするにはそれをその様に決め付けた側の ”何か「裏の意」”が感じられます。
    その”「裏の意」とは一体何なのか”です。
    そもそも「海賊説」とそれを発端とする「出自説(複数)」等を良く調べると、兎も角も、先ずは当時の社会の「時代考証」が不十分なのです。これらの「海賊説」は古くは無く「跡付け」と観られる近代の説であります。(通説にはこの類が実に多い)
    これをもし「海賊説」とすると上記した駿河、伊勢、熊野、紀伊、大島、伊豆等の「主要な水軍」も同じ要素を大なり小なりに持っているのですから、この論理で行けば全て「海賊」に成ってしまいますし、その大きさもトップで組織化されているのですから、日本の古来水軍は全て「海賊」に成ります。
    この事を知り得ていて「海賊説」とした「朝廷の記録」には、「政治の世界での政争」に使われる「醜い常套手段」の「大きな裏の意」がある事を匂わせています。
    何時の世も盗人、盗賊、山賊、海賊の類はありますが、上記した様にその内容と時代の社会構造の慣習はそもそも違うのです。
    古来より”勝てば官軍 負ければ賊軍”の日本人の「悪い慣習」がこの様な通説を生み出して、史実を歪め、「正しさ」を記録として遺さない「日本人の性癖」には「歴史の掘り起こし」に於いても充分注意しなくては成らない事なのです。何等現在でも変わらない性癖です。

    本論でも何度かこの事に付いて論じていますが、その意味で「公的な資料」に類するものには「判断の参考」とする場合は、ここが雑学フィルターを通して観て特に「注意する点」なのです。
    又、「本論の神明社」に関わるとして論じている「八幡社」の場合も「未勘氏族の資料」には”身内を良くする背景や経緯を作り出し、はたまた搾取偏纂しているところを雑学を駆使して見抜き矛盾点を掘り出す事が大切なのです。
    「青木氏の歴史」の「生き様の掘り起こし」にはこの作業の繰り返しに時間がかかるのです。
    特に筆者は先祖たちの性癖を受け継いでいるのか”勝てば官軍 負ければ賊軍”が肌が受け付けれないと云うか嫌悪を感じるのです。”判官びいき”とまでは云わなくてもその元の本質の姿を知りたくなるのです。

    「”瀬戸内を制する者は国を制する”」
    古来から言い伝えられていたこの言葉には瀬戸内の地域の「神明社と八幡社」を論じる時には大きな意味を持っているのです。全てはこの言葉に事象は左右されるのです。
    故に、「純友海賊説」に関わるものも例外ではないのです。
    恐らくは「源経基の讒訴」は、藤原氏等が制するこの”「5つのライン上の絶大な圏域」を清和源氏側に獲得しようと画策したものであった”と観ているのです。
    そもそも古来に於いて”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉がある様に、この「地域の利権と安定の確保」は無視できる話ではない筈で、その状況を「為政者」や「利権者」の側は上記した様に本音では純友に変えられては困る訳です。
    ましてや民に人気があり人が出来ない事を成し遂げたと成ると、”人は嫉妬の念にとらわれる”は「仏説」の通りであります。
    この世に於いて例外なくこの情理を脱した者は居ない筈です。
    まして「為政者と利権者」とも成ると「自己顕示欲」の強い者でありますから、、”人は嫉妬の念にとらわれる”は必定であります。それが朝廷とも成ればこれ等の者の集合場所でもあります。要するに巣窟であります。
    そこで、何時の世も海賊や山賊の類の存在は有るのがこの世の無常の定めであり、それを声高に剥きに成って事に当たるは「為政の範疇」ではない訳で殊更に取り掛かる政治問題では無い筈です。
    むしろ”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉の通り「海域の利権」が大きく絡んでいれば、「海賊」を懐柔して纏め上げられれば、「利権者」と「為政者側」取り分け「為政者」にとって見れば困ることに成ります。
    それは純友側にこの”瀬戸内を制する者は国を制する”の権利を与えてしまう事に成ります。
    まして「民を味方」にして「何がしかの儀」を重んじ「民の暮らしを安定にし安寧にする守護神」を持っている以上はこの権利を確実に保障する事を意味します。本音では放置できません。
    表向きでは「海賊の騒動」は困るが、本音のところで「海賊」を懐柔されて「利権」が「純友」の方に全て移れば、「為政者」にとっては ”この世の無常の定め”どころの話では無くなり死活問題であり、更に実に困るのです。
    これがそもそも「大儀と本音」の政治です。口では態度では”海賊が騒ぐのは困る”と云いながらも、本音は”利権がなくなるのはもっと困る”のです。この2つは最早、天秤にかける問題ではないものです。
    そこで、困る側の為政者側は、国、即ち天皇や朝廷から観れば「大儀」を自分の方に引き寄せるには ”純友を「海賊」の仲間とする”事に決め付ける事が必要に成り、「表向きの海賊問題」を解決して、且つ、「邪魔な純友」を抹殺して、「地域の利権と安定」を確保するには「海賊」と決め付ける方が都合が良い訳です。むしろそれしかなかった筈です。
    ”そう成るとどうすれば良いのか”と成りますが、簡単な事です。
    上記した”勝てば官軍 負ければ賊軍”を行える立場に為政者が特権として持っている訳ですから全く問題は無い訳です。そしてそれを世に知らしめる為には、まずそれとして「勅命」や「宣旨」や「院宣」を発し、且つ、為政者側には資料や証拠類や風説をそれに合せた様に搾取し偏纂して遺す事に務めるのが偏纂役の務めでそれを密かに命じれば事は済みます。
    それにはその事の内容を公文書外にも関係する役所や神社や寺等に遺させる手立てを講じる事だけです。「公文書の類」に密かに書けばそれで充分なのです。利権者もこれに習うでしょう。これで大儀は利権者や為政者に移ることは必定です。
    そしてそれが史実の形として後勘に触れてそれを信じ史実が歪み、公文書を正として通説が生まれるのです。
    (しかし、事の真偽を歪めているのですから矛盾と疑問が必ず生まれるのです。これを正すのが「後勘の役目」です。「青木氏の歴史」はこの事に努めている。)
    これは上記した様に「未勘氏族問題」でも同じで、「自らの側」の良い様に後勘に遺す事は当たり前の事なのです。
    問題はそれを雑学で「見抜く側の読解力」に関わる能力なのです。現代でもこの世に於いてはこの事は同じです。
    前段で論じた「陸奥の安部氏の奴婢の問題」でも安部氏等には非は無く蝦夷・征夷として処理されたのもこの「純友問題」と全く同じです。その意味で「河内源氏」の”義家に対する白河院の策謀説”も殆ど同じです。”安部氏に無常な嫌疑を掛けた上で義家に陸奥での利権を潰させておいて今度はその義家を潰す”これが「為政側の常套作戦」なのです。(前段でも論じた様に義家にも禁令を無視した無理があった。)

    「為政者側の矛盾」
    この”瀬戸内を制する者は国を制する”の「2つの圏域」はデータでも上記した様に「河内源氏」のみならず「清和源氏の圏域外」(荘園本領・未勘氏族)にあったのです。
    経基が、平安期に伊予まで及んだ讃岐藤氏の藤原氏を讒訴に落としいれてそれを獲得しようとした画策であったのです。
    これは「3つ巴、否4つ巴の事件」なのです。讃岐藤氏・清和源氏・大蔵氏・朝廷天皇の利権争いそのものの事件であったのです。結局、下記に論じます様に純友が旨く”勝てば官軍 負ければ賊軍”の策に掛けられたのです。
    その証拠に詳細に調べれば上記した事も含めて矛盾が多すぎるのです。上記した様に「矛盾が多い事」が何よりの証拠なのです。
    因みに、先ずこの「瀬戸内の海族問題」(純友・伊予国司代・瀬戸内追捕使の令外官)を朝廷が解決させたのは、前段で論じた”阿多倍一門の九州自治”を狙っていた「大蔵春実」(小野好古・藤原正衡・橘遠保:源経基も参加説もある)であります。
    そもそもこの「海域の問題」を最初に特別に朝廷から任命され派遣された「治世権と警察権」を与えられた者は「令外官の純友」なのです。その「純友」を討伐する又令外官を送る事のそのものの事態がおかしいのです。
    (この順序と任官そのものを ”あやふやにした記録”を根拠とする為政者・利権者側の説もある。 「海賊」とするには矛盾を消す為にした偏纂行為と観られる。)

    これ等の資料に基づくと、為政者側の特権で色々な資料が遺されていて複数の説が生まれているのですが、この説の中で先ず信頼できる史実は、「純友」はこの地域(伊予・讃岐)の「瀬戸内の政治」を任された国司代(3等官・伊予掾)で、且つ、当初は「海賊問題解決」の「令外官」(特別問題解決の為に任命された官)であった事ですから、「3等官・伊予掾」と「瀬戸内海賊掃討追捕使令外官」の「両方の任務」を持っていた事に成ります。
    この事の意味は「伊予と讃岐」と中国域を含む「瀬戸内沿岸域」の「為政に関する全権」を任された事を意味します。先ずは”任した”とする矛盾があります。普通は任す以上は純友の事は承知している筈です。
    摂関家と同じ一族一門で藤原氏北家なので「讃岐藤氏」と呼称されるくらいに都にも聞こえた一族です。
    知らないとは云えない筈です。この事件の前に別件で仕事をしていますし、国司代(3等官・伊予掾)です。何も経基に云われなくても知っているのです。事件直前に令外官追捕使として任じられているのです。
    それが急に「海賊呼ばわり」とは笑止千万はなはだしい事であります。
    つまりそもそも瀬戸内の「全権大使」であり、そうすると、その「全権大使」を「海賊」と決め付けるには「朝廷側の失態」が表に出てきます。
    そこで「順序と任官」の部分の記録を”あやふや”にして置く必要が出てきます。その処置を朝廷側と利権者側は行った事を証明します。
    ですから、「純友」は「全権大使」として、「令外官の任務」の「海賊掃討」だけを任務とするのであれば「武力」により解決して根絶やしは無理としても押さえ込める事は可能であり任務は全うします。
    しかし、地元の為政権を持つ「3等官・伊予掾」で、地元の住人の讃岐藤氏でもあります。
    彼等はこの富を生む瀬戸内の国策に対して大貢献しているのです。

    「海賊」と看做されている「瀬戸内沿岸地域の民」とは敵対している訳では無くむしろ絆を持っているのですし、「藤原氏の戦略」の「血縁関係」で中国域までその圏域を広めている訳でもあり、尚且つこの海域の「廻船業や造船業」やこれを基にした「大商い」の「2足の草鞋策」を敷いている土地柄でもあります。
    そうなると、解決方法は唯一つ瀬戸内の住民が無傷に解決できる方法は決まって来ます。
    純友にしてみれば「絆」を基に「談合」により解決するしか無い筈です。
    しかし、この「談合解決」は本音のところでは、「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」からすると、最も好ましくない解決方法です。
    何故ならばますます純友を大きくしてしまう結果になる訳です。
    大水軍を控えて「政治」「経済」「軍事」の「3権」を掌握した訳ですから、上記した「瀬戸内を制する者は国を制する」事と成りこれに対抗する者は無く成ります。放置する訳には行きません。
    ”早い内に何とかしなくては”と「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」は考えるが必定です。
    それには「純友」から「大義名分」を無くす事で潰すしか無く成ります。それが「海賊」なのです。
    そして、「為政者」と「利権者」は自ら手を汚さずに、それを「利権」を欲しがっていて「清和源氏の勢力」を伸ばそうと野心に漲っていた「敵対勢力側」の経基に言わしめた事に成ります。

    「純友」もこの事は充分に読めていた筈です。しかし、解決方法は一つです。
    ”「絆」を採るか” ”権力側3者に迎合するか”の二者選択を迫られた事に成ります。
    何れにしても後は出方を観る仕儀と成ります。
    そこで「絆」を選んだのです。現実には彼にはそれしかなかった事に成るでしょう。
    「純友」にすれば、後者の「権力者3者」を選ぶ事は、信義の上で ”死に値する”事に成り、結果しても「権力者3者」は ”彼を生かす事”は解決には成らない筈で、”向後に憂いを残す事”に成りますから、機会を観て ”何らかの嫌疑を作り出して葬る事”にする筈です。
    何れにしても ”死を決意しなくては成らない事”に気が付いては居た筈です。
    周囲の者達もその事は”百も承知”であり、だとすれば”「絆」を選ぶ事”を勧めたと考えられます。
    ”では、どうすればよいのか”と云う事に成ります。考える戦略は唯一つです。
    「絆」を選ぶ限りは ”例え純友死しても絆は遺す。”であり、その為には ”絆の中に「讃岐藤氏」を遺す。”つまり言い換えれば、”「絆組織」の「次ぎの継承者」を生き残らせる事”にあります。
    そして、それを盛り立て蘇させるには「結束の象徴」を造る事に成るでしょう。
    それが、”「純友神社」であった”のです。だから1度ならずも2度、否5度の蘇りを興して昭和まで生残れたのです。仮称の「純友神社むは神社だけの意味ではなかったのです。
    何時の世も、現世の事象(事件、問題、乱、変など)森羅万象には、「諸悪」(5悪)が巣食うのです。
    仏説の通りです。「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」と「無関心者」と、そして「被者」です。
    (被者は「純友」ですが、仏教では”一分の非がある”と説いています。”「完全無欠」ではない”と云う事です。「諸行無常」です。)
    この”「5悪」の何れに「大儀」が来るか”は、”その「5悪」の「質」に因る”と解いています。
    ”決して「権利や富の大小」ではない”とするのです。
    では、この海賊問題は真にこのパターンに填まります。この場合は「質」を得ていたのは憤死した「純友」にあったのです。”純友に大儀があった”事を意味しています。
    後勘から観れば、「被者」の純友以外の「3悪」(「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」)は200年後には滅びているのです。
    浄土宗を思考の原理としている平安期の武家では、純友とその周囲と讃岐藤氏はこの事を承知していた筈です。
    とすると、現世は「諸行無常」であって憤死しても「絆」を護れば「後勘」は「大儀の者」となる事を覚悟して次ぎの行動に出たのです。「純友の志」は昭和まで「海の族」として引き継がれたのです。

    「純友」は「争いの連鎖」を起こす「武力」に因らず、無数の海賊団と談合し説得してこの問題を見事に解決したのです。
    そしてこの無数の大小の海賊団の民とその瀬戸内地域の民衆から信頼され崇められて神社が建立されたのです。その神社の建立時期は不明ですが状況証拠から生前の前後の直前と観られます。
    「純友神社」(産土神)と云うよりは当初は「海族」と成った集団の「心の拠り所」と、その集団結束の「象徴の守護神」であって、没後に地域住民に慕われて「純友神社」と呼称されたと観られます。
    純友は乱後の暫くしての後に捕まり斬首に成りましたが、純友の憤死没後に難を逃れた「讃岐の藤原氏末裔」が再結成してからもこの”瀬戸内は穏やかであった”と記されていて、明らかに海賊ではなかった事が良く判ります。
    それを讒訴して”海賊に成った”と告訴され、現在発見された資料よりその資料を基にすれば「経基王に讒訴密告された経緯」となるのです。
    但し、ましてこれは「海賊」では無く「海族」であり、古来よりこの瀬戸内に住する「海の土豪集団」であったのです。そもそもその末裔は、つまりこの「海族の末裔」は「後漢の阿多倍の海の兵能集団」で「奈良期初期の帰化人の末裔」(陸は東漢氏・物部氏などがある。)であります。
    その特徴は「海利権」を護らない場合は襲う事がある土豪なのです。この事は「陸の土豪」も「陸の支配権」を護らないと同じ目にあう事は同じであって、そもそもこの「海利権」を護らない側からするとその見方は「海賊」と成るでしょう。
    当然にこの「海利権」を護らない側は伊予と讃岐の分布する讃岐藤氏と「瀬戸内で覇権争い」をしている大小の中国と四国と北九州の集団となるでしょう。

    「兵能・職能集団」の主筋
    ここで面白い現象が起こっている事に成ります。
    それはこの「瀬戸内沿岸の海族」の多くは上記した「阿多倍の兵能集団と職能集団の末裔」です。
    しかし、利権を護らない覇権争いをしている主要集団はこれも阿多倍一門中でも最大の大蔵一門です。
    500年経過後の「兵能・職能集団」の主筋に当たる訳です。
    彼等は ”忘れられたのか忘れていないのか”は不明ですが、室町期のこの「瀬戸内水軍」を保有し中国域を制した「陶氏」と、「海部氏」や「武部氏」等の彼等の職能集団の末裔が現存している事から考えると忘れていなかったと考えられます。
    彼等の守護神は「産土神」であり、その考え方からすると不思議な現象が起こっていた事に成ります。
    そもそも官僚を専守している為政者側と利権者側にある「大蔵氏の主筋」に味方せずに「讃岐藤氏」の「純友に合力」した事に成ります。
    この事には大きな意味を持っているのです。本来であれば「儀」と「利害関係」から観ても普通は主筋の大蔵氏を選ぶ筈です、しかし敢えて利害関係にある「讃岐藤氏」をわざわざ選んだのですからここには何か大きな意味がある事に成ります。
    それもこの瀬戸内の全ての海の族の大小の集団が挙って集まり「儀と利害」を捨てるだけの何かが在った事に成ります。
    ”それは何であったのか”解明する必要があります。
    それは色々な資料から「2つの共通するもの」としての答は出ています。
    それは一つは「純友神社」であり、二つは「純友個人」だけではなく「讃岐藤氏の一族」がこの水軍の「海族」には入っていると云う事です。
    そうと成ると、彼等への「理解」と「利害」と身の「安全」を護ってくれる「者」、或いは、「氏」は「大蔵氏」か「讃岐藤氏」かと云う事に成りますが、彼等は「讃岐藤氏」を選んだと云うことに成ります。
    勿論、その「氏」を支配し統治する「讃岐藤氏」の実質の信頼できる支配者・頭の「純友」の「個人的魅力」に魅かれた事をも意味します。
    「好みや利害」ではいざ知らず単に複数の「海の族」が集ったのではないのです。
    瀬戸内の全ての海の族が挙って集ったのです。ここに意味があってこれはまさしくそれを護ってくれる「氏の選択」とそれを指揮する「棟梁の魅力」が伴っての命を懸ける彼等の「選択」を主筋から替える大決断をした事に成ります。
    当然に少なくとも大小の多くの「瀬戸内の海の族」が集って協議した結果でなければこの様な事には成りません。故にこの「意思表示」を「純友神社」と云う形で表し且つそれを「集団の象徴」とした事に成ります。
    この裏を返して云えば”大蔵氏に対する何がしかの共通する不満が在った事”を意味します。
    古来からの主筋の大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていれば「儀」を捨てて主筋を外すような事は「氏家制度」の社会慣習の中では絶対に無かった筈です。
    そうすると奈良期から500年の経過が主筋感覚が薄れたのかと云う事に成ります。
    実は違うのです。原因は彼等の守護神「産土神」にあるのです。
    守護神の「産土神」に付いては前段で論じてきましたが、後段でも改めて詳細に論じます。
    ここでは「海の族」の「行動の根源」となる「産土神の位置づけとその考え方」に付いて次ぎに論じます。


    青木氏と守護神(神明社)−17に続く。


      [No.283] Re:青木氏と守護神(神明社)−15
         投稿者:福管理人   投稿日:2012/02/02(Thu) 11:13:16  

    「青木氏と守護神(神明社)」−15
    >筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
    >その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
    >この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
    >「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
    >従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。

     「賜姓源氏の祖先神の役目」
    ”他の関係する処”として、源氏があります。
    「嵯峨天皇」(809〜823 52代)から11代続いた「花山天皇」(984〜986 65代)まで同族源氏がありますが、「祖先神」を祭祀した5代続いた「賜姓青木氏」の後に、”何故に「賜姓源氏」(八幡社)にはその「祖先神」を祭祀するこの役目を与えられなかったのか”と云う疑問が湧きます。
    或いは、”「賜姓の役目」があった筈なのに何故実行しなかったのか”、反して云えば、”何故、秀郷流青木氏にこの役目を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
    この「2つの疑問」の解明に付いて青木氏として答えは出していません。そこで「神明社」を論じる処でこの疑問を解き明かす必要がありますが、実はこの事に付いては不合理な疑問・矛盾が実に多いのです。

    既に前段で論じたその「背景と経緯」の様に、”実行しなかった、又はさせなかった”事の理由は上記しましたが、そもそも「源氏」と云えば一般的に「清和源氏」 (858〜876 56代)と思われがちです。
    しかし「青木氏の賜姓」に続いて2代の天皇(桓武、平城)をあけて、再び嵯峨天皇(52代)から始まった11代の「賜姓源氏」が発祥します。中でもその源氏そのものと思われている56代の「清和天皇」の「朝臣族の源氏臣下」の「賜姓方法」にだけそもそも問題があって、この一部の「清和源氏の行動」が”皇族としてのあるべき行動(「3つの発祥源」の象徴)を採らなかった”と云う事に問題があるのです。
    この事が「青木氏の生き様」と、又「神明社」「八幡社」にも大きく影響を与えたのです。
    但し、この「清和源氏」筋でも主に「3つの源氏」があって、「宗家の頼光系源氏」(摂津源氏)と「分家の頼親系源氏」(大和源氏)と「分家の頼信系源氏」(河内源氏)があるのですが、その「宗家の頼光系源氏の四家」は「特別賜姓・賜姓青木氏」とほぼ同じ行動を採ったのです。採らなかったのは「分家頼信系の一門」だけなのです。
    但し、「清和天皇」は「源氏の賜姓」に於いても「天智天皇」からの「令慣例」に従わずに「朝臣族・第6位皇子」を賜姓臣下させずにこれを無視し、子供の第11位と第12位の第2世族皇子の賜姓源氏を幾つも発祥させたのです。本来で有ればこの2人の第7位以降は「宗道」として比叡山に入山する仕来りです。
    又、皇位継承権を保有する「清和天皇」の第3位皇子の子(孫)が源氏を名乗った事、「宗道」の位置に居た第9位皇子の子供(孫)が「源氏」を名乗った事があり、この二人の「賜姓の有無」は記録から明確ではないのですが、「嵯峨期の詔勅」を上手く運用して「青木氏」ではなく「源氏」にしたと観られます。
    ですから、上記の「3つの清和源氏」以外に余り知られていない事なのですが「4つの清和源氏」もあるのです。
    但し、問題の清和源氏の始祖の「経基王」は長い間賜姓を望んでいた事が資料でも見られるところで、「讒訴や讒言」とも録られる様な功績でその勲功を配慮されて「令外慣習」として特別に「清和天皇」から朝臣族ではないがやっと賜姓を受けた記録と成っています。
    この経緯は次ぎの「陽成天皇」が暴君であった事からこれを忌み嫌い、これ等の上記の皇子が「経基王」に習い前の「清和天皇」の皇子として「賜姓族」ではない「源氏」を名乗った為と観られています。
    (第3位の子、第9位の子と、第11位、第12位皇子が該当 「経基王」もこの一人との説あり)
    「経基王」(しかし経基王だけは賜姓を受けている説もあるが逆説もあるが逆説が納得出来る)もこの皇子の中に居たと観られていて、「清和天皇」からすると「第5世王」と成る事から令外で「宗道の立場」にもあり、”皇族でない”とする説が生まれたのです。下記参考の令規定より強ち否定は仕切れない説であります。

    (参考 第4世王以上は皇位継承権 皇子位と王位権者、守護職位、第6世王は賜姓臣下、第7世以下は単純に臣下し、第5世王はその中間の立場で継承者が少ない場合は継承権を持つ、現実の運営は第5世まで継承者が無かった事から第6世王が継承した事もある。第4世王以上で第6位皇子は六衛府軍親衛隊として賜姓臣下 第7位以下は令外賜姓 上記の2人の清和源氏と天智天皇の川島皇子の近江佐々木氏が例外賜姓有り)

    そして、清和源氏の頼信系一門の守護神である事についてのこの「八幡社の根拠」は、後の「八幡社」の「石清水八幡宮」の神職の私氏資料の中にこの事が書かれている事を根拠としているのですが、しかし、250年以降の神官職の氏の私氏資料である事から「未勘氏族」の搾取偏纂の一物の可能性も高いのです。

    (これは定説には成っていない−又、下記の「八幡社の守護神説」と「八幡神説」もこの「未勘氏族」の私氏資料を根拠としている。)

    「青木氏」にもある様に「賜姓青木氏」と「嵯峨期の詔勅」の「皇族青木氏」と同じく、これらの「賜姓源氏族」又は「皇族源氏族」は特段に問題を起さなかったのですが、問題を起こした賜姓「基経王」は清和天皇第3世王皇子の「孫身分」(通説)であり、”子供の第2世族の朝臣族・第6位皇子(貞純親王)を賜姓臣下させずに「清和天皇の孫」(第6位皇子の子供の経基王)にさせた”と云う経緯なのです。

    (第6位皇子の貞純親王は清和天皇に信頼され政治に欠かせない人物であったとして臣下しなかった事を理由にしている)

    そもそもこの「経基王」の賜姓の実態は「第2世族の朝臣族」の「令外慣習」の「令外賜姓族」であったのです。
    つまり、「令外賜姓族」の「孫身分」の末裔の「分家頼信系一族」の「義家一門」も「経基王」と同じ様に「政治的な問題」を起し、”皇族にあるまじき行動” として朝廷と天皇と上皇の「巧妙な策謀」に掛かり「源氏全体の滅亡の引き金」と成ったのです。
    (頼光系は「源平の争い」が原因で青木氏に跡目を入れて滅亡する)
    そしてこの研究が進み確定はしていませんが、現在では上記の経緯から”「経基王」は「第4世族皇子王」内ではなかった、皇族ではなかった。”と云う新しい資料からの研究説が生まれているのです。
    確かに「令外賜姓」であり、”皇族で無い”と云えばそういう事にも成ります。
    ”天智天皇からの第6位皇子の賜姓臣下する慣例にも拘らず第6位皇子が賜姓臣下しなかった「貞純親王」の子供として第4世王外の「経基王」を第3世王として宛がい「貞純親王」の代理賜姓として明文を付けその為に天皇は渋った為に遅れて受けた”とし、この事から「経基王」は賜姓を”待ち焦がれた”とする説と”いやいやに賜姓を受けた”とする両方の研究説が生まれたのです。
    (いやいや説は経基王の歴史的行動から矛盾がある。)
    しかし、現実は「経基王」の史実の行動から”待ち焦がれた”が正しい事が定説に成っています。
    (筆者もそのように判断している)

    「清和源氏の経緯」
    念の為に八幡社に繋がるこの事が神明社にとってどの様な影響を与えたか、又はどの様な経緯に成っていたのかを知る必要がある為に概要の筋目だけを述べて置きます。
    それは2代目の「満仲」は荘園制を悪用して「名義荘園主(本領)」と成り、その代わりに「無血縁の源氏姓」を名乗らせる方式で、各地の豪族(未勘氏族)を組織化して平家に対抗する「武装集団」を形成したそもそもその張本人であり、その為に朝廷と天皇から疎んじられて一時河内に身を潜める行動を採った経歴を持ち主です。
    後に開き直って無冠、無官、無位で攝津に戻ると云う反発行為を採っているのです。その後も「経基王」と同じ様に2代続いて疎んじられるのです。
    この事で衰退した清和源氏の3代目は発奮し、先ず長男の宗家頼光は摂関家の実力者藤原道長に仕官し出世して各地の守護、国司を歴任し、資質剛健で皇族としての立場を重んじ宗家としての「清和源氏の立場」を高めたが、反対に弟の頼信は真逆の行動を採り、矢張り父の築いた[荘園制の武装集団の組織力」を使って勢力圏を河内から伊豆を経て関東に武力に依って奪い取りその勢力を拡大させたのです。
    これを孫の「義家」が継承して更に「荘園制の拡大」を図り陸奥勢力を争奪して、その行き過ぎに遂には天皇や院から「排斥の令文」を発せられて嫌われる以上の政治的な処置を受けてしまい、挙句は4代続いて再び疎んじられる羽目に成った経緯なのです。
    この様に世を乱す「争奪戦」を繰り返せば国は不安定に成り、民の不満はつのり朝廷側の立場は無くなるし、「荘園制行き過ぎ」に対し、「後三条天皇」の時からも既に「禁令」も出ているのにそれを無視して拡大させる行為を犯せば誰で「排斥の令文」を発せられるのは必定です。
    此処にも「経基王」の「異端児的行動」から始まり「満仲」と続き、「頼信」と「義家」の「不名誉な仕儀」と成り「氏の不尊名」は4代と続きます。:
    結局は「皇族に与えられた責務」を全うせずに「破天荒な行動」を取らなければ成らなかった「経緯と背景」の一端が継続して見え隠れしています。
    これ等の事柄は「祖先神−神明社」や「八幡社」の検証に大きく影響して来るのです。

    次ぎにデータで論じますが、本文では「源氏・八幡社」に対して上記の「背景・理由と経緯」が判っていますので大きく論じる事はしません。
    ただ「源氏の守護神」は通説は「八幡社」と成っていますが、筆者にはこの「八幡社説と八幡神の通説」には多少疑問があるのです。
    この疑問については下記に論じますが、何しろ上記の行動もさる事ながら「疑問と矛盾」が多過ぎるのです。ところが最近の各研究家の間でやっとその疑問の学問的解明が進み始めたのですが、まだ社会の中では「祖先神-神明社」の義務も放置し、挙句の果ては八幡社を建立する等の行為を繰り返しながらの根強く「義家贔屓説」として通っているのです。
    ところで、では「源氏」11代はどの程度の「祖先神の八幡社普及」に取り組んだのか、そのデータから先ず論じます。(「八幡神」の説もあるが後付け行為)
    その「八幡社」も調査すると下記にその内容を論じますが、結局は既に青木氏等に依って建立された「神明社」そのものを利用しているだけで「純粋な八幡社」と観られる多くは彼らの「未勘氏族」に依って建立維持されているのです。

    そこでそもそも「賜姓青木氏」に続く「賜姓源氏」の11代は次ぎの通りです。
    嵯峨源氏、 純和源氏、 仁明源氏、 文徳源氏、 清和源氏(上記経緯)、 陽成源氏、 水考源氏、  宇多源氏(滋賀佐々木氏)、 醍醐源氏、 村上源氏、 (円融特別賜姓青木氏)、 花山源氏

    (注釈 これ以外に「平城源氏」や花山天皇以降に5代の源氏があるとして徳川氏が征夷大将軍の称号を獲得し幕府開幕する為に造り挙げたものがある。
    「清和天皇」と「陽成天皇」の間は賜姓が大きく乱れた。
    「平城源氏」はそもそも皇族に賜姓する事を辞め阿多倍一門に「たいら族」の賜姓をしこの事で嵯峨天皇と醜い政争をした経緯がありますが、「嵯峨天皇」後にその事を忘れた様に源氏を名乗った。
    「円融天皇」は清和源氏の皇族としてのあるまじき行為に反発をして「賜姓源氏」とせずにその皇族としての義務を果たさせる為に藤原秀郷の一門に「特別賜姓族青木氏」(秀郷流青木氏)賜姓した。)

    「八幡社と弓矢の根拠」
    その前にそもそも「八幡社」の呼称は、「筑前宇佐神宮」が「譽田天皇廣幡八幡麻呂」、即ち、実質飛鳥の「ヤマト王権」(5族の連合政府)の初代「応神大王」の事で、つまりは実質の初代の「応神天皇」の事ですが、「護国霊験の大菩薩」と「御託宣」があったとして「八幡の麻呂」(ヤハタ)から後に「八幡社」と別名呼称されるように成ったとされています。
    「神明社」は前段でも記しましたが、実質4代目「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」の「御託宣」を受け建立したものですが、その「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、ほど近い伊勢の「山田の原」に「天智天皇」が迎えたとされるものです。
    これが「神明社」の「豊受神」、「豊かさを受けられる神」、即ち「生活の神」「物造りの神」の所以ですが、「八幡社」は「応神天皇」、「神明社」は「雄略天皇」とし何れも「夢の御託宣」です。
    そして遅くともこの筑前の宇佐の地の「八幡社」の社殿建立は和銅元年(708年)頃とされ、「社」としての正式な建立は728年とされています。
    この頃は「弓矢の神」ではまだ無かったのですが 「石清水八幡社」が860年頃に建立されたとします。
    その年に「清和源氏」は860年に発祥されています。
    後に「宇佐のヤハタ社」が支社と区別する為に後に「宇佐八幡社」として変名した事から、その後下記の考察から1010年頃の時代の背景を受けて「弓矢の神」として徐々に凡そ50年くらいを掛けて各地の「未勘氏族」に信仰される様に成って行ったと観られます。

    源経基  *  −961
    源満仲 912 −997   
    源頼信 968 −1048 
    源頼義 988 −1075
    源義家 1039−1104

    そもそも全国の荘園を営む武士団を「源氏の名義貸し」の基に「組織集団化」させた「源満仲」は「住吉大社」を信心していた事が資料より判っていますので、この頃は「八幡社」はまだ清和源氏の守護神とは成っていません。勿論、「祖先神の神明社」も守護神とはしていないのです。
    次ぎの代の三男の分家を興した「源頼信」の頃は「大神氏」から引き継いだ「姓氏」の土豪宇佐氏が神職を務めて膨大な社領を有していて、「自前の力」で運営されていてまだ「清和源氏の勢力」の範囲にはありませんでした。つまりまだこの頃は「源氏の守護神」とは成っていません。
    次ぎの「源頼義」は「頼信」が1048没とすると60歳と成り、まだ「頼信の世」ですので1048年以前には「清和源氏の守護神」には成り得ていません。「頼信」は西ではなく東の関東に進出したのですから西にある「八幡社の勢力」との関わりは強く無かったのです。
    また「頼信」は上記した「満仲的戦略」を父「満仲」から託されて踏襲し、本家の「兄の頼光」の援護を受けて関東の手前の「兄の頼光の所領」の伊豆を拠点に伸張してゆきますので、「八幡社」とは無関係でそもそも「住吉大社」を信望していたのです。
    「満仲」の長男宗家の跡継ぎの「頼光」は父の「満仲的戦略」に乗らず摂関家の実力者の「藤原道長」に仕えて「祖先神-神明社」を信望しています。(勅命で神明社の再生を命じられている)
    飛鳥の大神一族(下記神明社で論じる)が大和朝廷より筑前宇佐の地に赴任し定住し「神仏習合」を行い「八幡神の創出」を行ったされていて、後の平安中期頃に肥前に定着した大神一族は衰退しやや後に神職を土豪の宇佐氏に代わる事と成ります。
    この時(980−1000年)、豊前、豊後、日向の「3国7郡640反」を社領とし、「18荘園」を保有していたのです。

    ここ筑前の地を「源頼義」(短期間「源義家」も務める)が定住して「筑前の守護職」を務めています。
    又、この影響で「頼義」は「義家元服 7歳」(1046年頃)の地を京の「石清水八幡神社」(3大八幡社の一つ)で行います。この事から”後に「八幡太郎」と呼称されるように成った”とされています。
    頼信1048年没と義家1046年の元服が一致しますので、この時期より境に「住吉社」から「八幡社」に移行して行った事が判ります。
    つまり、「住吉社」を信仰の神社とするならば、この時、「住吉社」で「義家7歳の元服」が行われても不思議はありません。
    この「義家元服」の前に「肥前の役務」を務めていますので、この時に「住吉社」から「八幡社」の切り替えのチャンスがあった事に成ります。
    恐らく「頼信」から「頼義」に「代代わり」を契機に全国的に「荘園の名義主(本領)」が拡がり「未勘氏族」を集結させ統率する為にも「八幡社」に切り替えた事が判ります。

    この時期が「没後の1回忌の法事」等が済んだ「1050年」が「当時の社会習慣」から判断できます。
    実は「神社の習慣」には先ず ”80日過ぎるまで関係者は神門に入っては成らないし、「3年-2年以内」の法事が過ぎるまで全ての「新しい行動」を「氏」として起こしては成らない” と云う「神社の仕来り」があります。現在でも神社に限らず「武家の伝統ある旧家」でもこれらの「仕来り」は護られています。

    「1046年の義家元服」は15歳にせず7歳の早い「元服行事」を執り行い、それに限らず、「清和源氏の分家」としての「頼義」のその「意思表示」を「未勘氏族」に対しても「全国の武士団」に対しても「宣告の行事」として行ったのです。
    「神社と皇族家の仕来り」により正式にはこの「元服の時」は「頼信」が未だ生きていた事から、それを見計らって行った「前倒しの祝辞」であり、故に丸3年後の「没後の1050年」が「河内源氏-八幡社」の「行動開始の年」に成ったと観られます。
    その正式な宣告は「義家の元服」と「頼信の1周忌法事」の2つの行事を利用したと考えられます。
    周囲の「未勘氏族と武家集団」は氏家制度の中では、この「古来からの仕来り」は充分に承知していて「暗黙の了解」があったと考えられます。(1周忌は3年であるが1年以内の前倒しは可能)

    この宇佐神社の神領は「1410戸」と「18の荘園」と「640反の社領」と「24000の支社」であったとされ、この神域は1190年から1199年頃に掛けて殆ど周囲の土豪に一挙に侵食されて無く成っています。
    この間、「社の運営」がままならず荒廃した時期が50年ほど続きそれを観て周囲の土豪から侵食され始めたのです。(社説)

    とすると、1180年が頼政の「以仁王の乱」、1180年の「富士川の戦い」、1185年が「頼朝勝利」、1192年が「開幕」、で1199年−50年=1149年と成り、1050年から100年間が「河内源氏−八幡社−未勘氏族」の関係は隆盛期を先ず迎えていた事に成ります。
    その後は1149年頃からは「後白河院の院政」、「荘園整理」、「皇室権力の強化」、「保元平治の乱」、「源氏の衰退」等が起こり、「源氏と未勘氏族」の著しい衰退と「組織の崩壊」が起こり始めた時期であります。
    1050年はこの事から「河内源氏−八幡社-未勘氏族」の関係式は間違いない時期と成ります。

    (その後、中世に掛けて黒田氏1601、細川氏1632、松平氏、徳川3代将軍家光に依って寄進があり、宇佐八幡社は3000石に再復活します。これを期に全国の主要八幡社は徳川幕府の再建策で復活する)

    つまり、清和源氏の「荘園の本領の保護」(1050)があってこれらの神域を保っていて、義家の勢力が低下してそれが最終(1199)切れた為に侵食されて無くなるという現象が起こったのです。
    (河内源氏滅亡-頼朝没1195年)

    その後、再び中世から江戸の初期に掛けて上記した様に全国の多くの八幡社は「徳川幕府の梃入れ策」で地元の大名等の寄進で復活したのです。

    これらを時系列的に観れば、「清和源氏」の「源頼義」が「筑前の守護職」になった事をきっかけに「18の荘園」の「名義貸し」の「本領」とその「他の神域の保護」をしたと観られます。
    そして、この「頼義-義家」の没後の1140年頃からこれを守り切れなく成り、50年程度の間に徐々に侵食が起こり始め、遂には1190年頃から雪崩の様に1199年に掛けて「侵食崩壊」が起こった事に成ります。
    従って、この経緯から、「弓矢の神の八幡社」と「清和源氏の守護神」の「2つの風説」は24000社を通じて一挙に広がり、”全国の「八幡社」が清和源氏の頼義等の勢力に依って護られている”と云う風説と成って1010年後の頃から起こった事に成ります。

    (むしろ24000社の八幡社の支社を護る為に広めたと観られます。但し、24000社は室町期中期では調査からこの1/5程度であったと観られます。)

    この説からすると、実質は「八幡神」は「清和源氏分家頼信系4代目義家一門」の「守護神」とされている事に成りますが、「皇族賜姓族青木氏」の「祖先神−神明社」と同族である上記11代の源氏も「皇族第6位皇子」の「臣下族」である事から、「祖先神の一族」である事には令の定めるところでは変わりは無いのです。
    だから同じ下記参考の「守護神」の「令義」からすると彼等も「祖先神」と成る筈です。
    この「令義と風説」との”ずれ”が起こったと考えられ、結局は清和源氏の「満仲の戦略的路線」を引き継いだ「頼信-頼義-義家」はむしろこれ(風説)を利用した事が考えられます。
    この根拠は全国にその「荘園制」を利用して作った「未勘氏族の武装集団」を組織化した事で、その勢力をひとつに取りまとめる為にも、その「集団の守護神としての象徴」をこの「宇佐の八幡社」に求めたものと考えられます。
    同時にこの「八幡社の持つ組織力」も手中に収めた勢力拡大を図ったと考えられます。
    そうすると結局は、「八幡社」の「守護神」は「未勘氏族の集団の守護神」であって、清和源氏頼信系一門の「本来の守護神」では無かった事を経緯の時系列分析からそれを物語ります。
    すべての八幡社に関するこれに伴う要素の組み合わせは符号一致します。
    故に、この「象徴」として「祖先神-神明社」を使うことは、「他の同族の青木氏」や「他の源氏」や「特別賜姓族の青木氏」等に対して迷惑が掛り、そもそもその路線が異なる事から賛同を得られることは無く、神明社の圏域を全く戦略的に使えなかった事を意味します。
    それは「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」である事を社会の中では成っていたし、賜姓族全ては「令慣習」に従っていた事を物語るものです。
    これに逆らう事は既に「後三条天皇・白河天皇期に禁令」(1069-荘園整理令等 前段で論じた)が出ている事でもあり、それを無視して無理に推し進めて「荘園制で勢力拡大」を図る手前上も出来なかった事にも成ります。

    「八幡社の守護神」=「未勘氏族の武装集団の守護神」→「清和源氏頼信系一門の名義上の守護神」

    そもそも「満仲-頼信」はその守護神を本来あるべき「祖先神-神明社」では無く、まったく別の「住吉社]であったのですから、これは ”本来走るべき軌道外の事を追い求める癖” で頼信等一門の「家の伝統」とでも云えます。
    これは当初、「満仲」は関西範囲の「未勘氏族の武装集団」の組織化を行った為に、その「象徴とする守護神」を地元の「住吉大社」に求め、且つその神域を利用する為にもこの戦略に求めたと考えられます。
    そして、未だ拡大途中であった頼信の頃もこの「住吉大社」の「象徴戦略」を継承したと考えられます。
    しかし、「肥前の赴任」の頃をきっかけに「荘園制の未勘氏族」の組織化が全国的に拡大し、それに伴い同じ路線を採る「頼義-義家」は 河内は基より相模守、伊予守、出羽守、下野守、陸奥守、越中守、筑前守等を務めた事から ”「全国的な八幡社の神域」に切れ変えた” と考えられます。

    (頼信は常陸守、伊勢守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守を務めた。これ以外に国司、介、追捕使、押領使等の令外官等の為政権を持つ赴任先は多くある。 神明社から調べた赴任先は上記の赴任先以外にも添書などに見られる。 義家は圏域を拡げる為に主要国の美濃守の任官を強く望んだ経緯もある位である。それが荘園の名義主の領家・本領に成れる事に繋がる。)

    (参考 2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、「自分の集合」である「一族一門の子孫」(皇族・朝臣族)の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」)

    しかし通説として「祖先神−八幡社」又は「八幡神−八幡社」の「守護神の形」が現実に出来上がっているのです。
    この「八幡説」からすると「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡社」ですから「清和源氏宗家頼光系四家」は「八幡社」では無く「祖先神−神明社」と成る事に成ります。また他の源氏も「八幡社」ではない事に成ります。
    これは文献から観れば、「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡太郎」の「義家」の呼称がある事から「八幡社」を「守護神」とした事は間違いない訳であり、更には「筑前赴任の経緯」「元服地の経緯」からも明確には「義家」からと成ります。
    まして「八幡神」の「守護神」まで出来上がっています。
    仮に「分家頼信系義家一門」(河内源氏)が「八幡神」だとすると、上記参考の一行の「皇族の令慣習」から明らかに ”第6位皇子の朝臣族の皇族でない”と云う事に成ります。
    中には「河内源氏の守護神」と書き記した説もありますが、本来は賜姓族には(皇族系には)「上記の令慣習」に縛られて居ます。
    且つ、身分は「天智期の正令」と「嵯峨期の詔勅」で決められていますから、ですからこの令外の皇族以外の「氏と姓」族は ”その氏の信じる考え方を守護神に求めて独自に創設する”と云う自由な仕来りです。
    それと同扱いの説は「時代考証」がよく取れていない説と看做されます。(通説にはこれが多い)
    例えば、藤原氏であれば「鎮守神」、「大蔵氏」であれば「産土神」の様に決める事が出来ますが、「第6位皇子の朝臣族」である限りでは「青木氏」と「特別賜姓族」と同様にその「由来経緯の考え方」から「祖先神」である事に成る筈です。
    とすると、この「河内の八幡神」はこの「令慣習」を知らないで藤原氏等と同じ感覚で「八幡神」を創設した事を意味します。つまり、この事から,この「八幡神」のみならず「八幡社」は「後付け」であると云う事に成ります。
    言い換えれば、少なくとも「跡付けの時期」までは、恐らくは義家前(1046年)までは、「世の中の常識」は本来は、又は形式上は「祖先神−神明社」であった事に成ります。

    (現実は満仲-頼信は住吉大社ですので、知っていた上で敢えて逆らった事を意味します。そして、社会が「武家の棟梁の風潮」が高まるに連れて次第に「世の中の常識」は薄らぎ変化して「八幡社」へと変化して行ったし、むしろその風潮を「未勘氏族」も「頼義ー義家」も利用し「既成の事実」としてこの際敢えて振舞った事に成ります。)

    (この義家の終末段階では「令慣習」等”どこ吹く風”で開き直った。−ここで白河院は耐えかねて{権謀術策}を労して潰しに懸った。− その後は源氏は潰れ支えが無くなった実質の荘園主の「未勘氏族」によって煽られて”一人歩きした経緯”と観られる。)

    結局は荘園も無くなり、上記した状況は次の様な事に成ります。
    A ”「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」”の関係式
    B ”「八幡社」=「未勘氏族」であって、「神明社」=「賜姓族」の関係式
    A→Bに戻った事に成ります。

    他の「賜姓源氏」と「皇族源氏」も含めて賜姓・特別賜姓族は「祖先神−神明社」と成りますし、現実に資料よりその経緯を辿っています。
    そうすると、「八幡神」等はこの決め手は「跡付けの時期」と云う事に成ります。
    実は、この疑問から「経基王」は「皇族の範疇」に無かったとする最近の研究説が生まれているのです。「第6位皇子の臣下」では無かったと云う説です。
    確かに上記した様に「清和天皇」の「第6位皇子」は「父親の貞純親王」で「経基王」はその孫であり「陽成天皇」の皇子との説もあるくらいですから、孫が臣下して賜姓族の源氏を名乗る事の事態が特異であり、ある事情から「貞純親王」の賜姓の権利を”子供に譲った”とする経緯と観られます。
    それならば前提と成っているその皇孫が6人居て”「六孫王」と呼ばれた”とされていますが、この「六孫王」の呼称の記述は当時の何処の文献にも出て来ないのです。これも明らかに「未勘氏族」による「跡付け」です。
    ここら辺が天皇や朝廷からその出自とそのあるべき行為の反意を咎められての疎んじられる根拠に成っていたとも考えられます。
    兎角、何事も「白河院の横暴」と決め付けられていますが、もしそれであれば「賜姓青木氏」を潰す事にも走っている筈ですし、わざわざは「白河院」を含む「累代の天皇や朝廷」がこの時期に天皇家が「秀郷一門」に対しこの「賜姓青木氏」の跡目の「特別賜姓青木氏の行動」はそもそも無かった筈です。
    現実に潰されていませんし、むしろ前段でもその活躍を期待され源平の時代に明確に果たしているし、下記に示すデータから「神明社建立」は更に進んでいるのです。つまり国策に対して大貢献しているのです。

    「白河院」は「清和源氏分家頼信系義家一門」に対する「圧迫」と「同族で戦わせて」の巧妙で戦略的な「源氏潰しの策謀」をも実行しなかった筈です。

    (注釈 世間の「白河院の悪名」の通説らしきものは、この「皇族としての道」を正そうとした「権謀術策の所以」であろうが「日本人の忌み嫌う所作の所以」から来ていると、源氏に対して青木氏から観るとこの様に考えられる。)
    (義家10年の蟄居期間後、許して北面に任じるがこれは「院への世間の叱責」から逃れる一つの戦術であって、その立場において「同族の行状の悪さ」を理由に「掃討の命令」を下して「同族潰合」をさせた。
    その原因は上記した様に「河内源氏の皇族にあるまじきの行動」にある。)

    そもそも仮に「白河院の横暴」であるならば「清和源氏宗家頼光系四家」も他の「10代の源氏」も「潰される憂き目」にあっていた筈ですがそうではなかったのです。
    それは何度も論じていますが、上記の「祖先神−神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていたからです。
    この上記の「八幡社」が象徴する様に義家以降の義家一門の行動が、上記の「祖先神−神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていなかったからで全てこの一点に集約されているのです。
    ”皇族の者にあるまじき態度” ”荘園制で国策を乱した”と判断されて潰される羽目に陥ったものであり、”「白河院の横暴」”と「未勘氏族」が作り上げたむしろ策謀である事が伺えます。

    (為政者がこの事を許せば皇族としての自らの立場をも人民から信用も脅かす事に成る事は必定です。)

    この事から考えると”「義家の立場」を改善しよう”とした「後付けの意味合い」が判る気がします。
    世間が思っている様に「清和源氏」だけが源氏であるとするならば「白河院の横暴」説もある面では理解も出来ますが、ここでもう一度確認していただきたい事は、源氏は上記他に10代に、賜姓青木氏は5代29氏に、特別賜姓族青木氏は116氏もあるのです。これ等は全てその立場を守ったのです。

    「八幡社」や「八幡神」や「八幡太郎」や「八幡義家」は間違いなく「後付け」の「搾取偏纂の行為」と見做されます。では”誰がこの「後付け」の搾取を実行したのか、何故実行したのか”疑問です。
    これ等は後の八幡社から発見された私氏資料の中の記述を正としての前提での全て説なのです。
    この私氏資料が間違いとすれば前提は崩れて「祖先神−神明社」になる筈です。
    ところが未だそこまでは研究は進んでいないので「八幡社説」が通説に成っているのです。
    しかし、上記した様に漠然と判ります。
    この論調は少なくとも清和源氏のみの事であり、皇族としての令慣習を無視していて、他の源氏の守護神とする根拠も全くありません。源氏は清和源氏のみとする酷い思い違いの風説のみであります。
    「河内源氏の守護神」などの説は「皇族外の氏と姓の扱い」と同じにしていますので青木氏などが護ってきた「令慣習の存在」を無視していますので論外です。

    そこで、更にこれらをデータ分析で以って検証を進めます。
    そもそも「八幡社」の建立期の728年頃には未だ源氏は発祥していません。
    1代目の52代嵯峨源氏発祥は809年頃以降であり、56代清和源氏の元祖の経基は858年頃 義家は7歳で「石清水神社」(八幡社3社)で元服したとして1046年頃以降に「八幡太郎義家」と成ったとされていますが、諸説があるので1050年頃が妥当な「呼称の開始年数」となりますと、322年後と成ります。
    しかし、筆者はこの呼称は「跡付け」と観ていて、義家が「武家の棟梁」として祭り上げられた時期に「後付け」として呼称されたと観ています。
    この「後付け」は「後三年の役」の後と観ていて現実には1087年頃では無いかとも考察しています。
    「360年後の後付けの呼称」となると「八幡社」が「源氏の守護神」であるとする事に問題があります。
    だから、「清和源氏宗家頼光系四家」とは「祖先神−神明社」として「3つの発祥源」として行動が違っているのです。
    つまり「満仲-頼信」までの行動は範疇内ぎりぎりの行動と見做され、「義家」の父「頼義」の頃からはっきりと「道」が外れた事を意味し、遂には”皇族としての「令慣習の限界」を超えた”として朝廷から疎んじられる羽目に成って行ったと観られます。
    もし仮に「祖先神−神明社」で無いとするならば、第3世族の孫、或いは第4世王外の者における令外慣習による賜姓と成ればこれは別に守護神を求めても問題は無い事に成ります。
    「祖先神−神明社」は上記の経緯より「朝臣族」で「第6位皇子」による「臣下族」の「守護神」として「皇祖神」に代わってその務めを果たす「生活の神」「物造りの神」とされています。
    この厳密な定義からすれば異なる事を意味します。
    「弓矢の神」「八幡社」でその「守護神」は「八幡神」でも問題は無い事に成ります。
    つまり、青木氏の「嵯峨期の詔勅」により発祥した「皇族青木氏」と同じ扱いと成り得ます。
    上記に述べた様に所為を「清和天皇」の「第6位皇子」外の5人の源氏は守護神は「八幡社」で「八幡神」でも問題はない事に成ります。
    但し、この5人外の他10代の源氏は「祖先神−神明社」の枠組みの中に伝統はあります。
    「経基王」の末裔の「清和源氏宗家頼光系四家」と「分家頼親系の清和源氏」が先祖の伝統に従い「元来の皇族孫」としての「祖先神−神明社」を採用した事に成ります。
    それは「八幡社」が4代目からの仕儀であった事から「元来の皇族孫」としての伝統を守った事に成ります。
    「経基王」から観れば「義家」まで丁度100年位経過していますから「八幡社」が義家からとすると100年の期間がある為に「祖先神−神明社の守護神の伝統」は護られていた事に成りますし、継続されていた事にも成ります。
    つまり「乱世の時代の背景」も受けての”「義家の末裔」の守護神であるかの様に成って行った”事に成ります。
    武士である事は事実であるので「氏の守護神」であるかは別にして「弓矢の神」「八幡社」は必然的に「武士の守護神」である事には間違いはありません。
    ただ ”義家から直ぐに「氏の守護神」の伝統を「八幡社」に変えたのか”は下記の「八幡社の建立状況」からやや先の「未勘氏族」によるものではないかと考えているのです。
    恐らくは、この時期に「六孫王」の呼称も「未勘氏族」によって搾取され「八幡社」の記録に書き込んだと考えられます。
    「朝廷の記録」にも無くこの「八幡社」に「六孫王」の呼称や「八幡神」等の「義家」に関する記述が遺されているのも不自然です。
    後に「武家の棟梁」などと持て囃された時期に「弓矢の神」の「八幡社」を「荘園名義主」の「本領・義家」に宛がい、その根拠を「六孫王」として作り上げて祭り上げたと観られます。
    これを正当化する為に「八幡社」に「氏資料」として恣意的に記録を残したもので、それを正しいとして根拠に論理立てたその立場にいた研究者が「八幡社」と「八幡神」と「六孫王」を装具立てたものと考えられ、そうでなければ360年のタイムラグは大き過ぎます。
    「疎んじられた義家」を主とする「未勘氏族」に取って観れば、「名義借りの行く末」が利害に大きく関わってくる事から、有利に成る事柄を記録として「八幡社」に遺し後世の末裔に遺したのではないかと考えられます。
    「未勘氏族」の圏域を周囲から護り誇る為にもこの「義家」を宛がい「八幡社」「八幡神」を装具立てたと見られます。
    上記した様に ”「源氏義家系の「未勘氏族」の守護神の八幡社”であって、必ずしも”源氏そのものの守護神であると云う定義ではない”と云う事です。
    結果、遺した「八幡社の氏資料」で後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待した” と云う経緯と観ています。

    「八幡社」=源氏頼信系義家一門の守護神=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

    これ等の経緯を念頭に次ぎの検証をお読みください。これ等の上記内容をデータで下記に論処します。

    その八幡社の分布域を次ぎの7つに分けて観て見ます。
    但し、これらは神明社と同じく室町中期までのものとして選別したものです。

    八幡社の分布順位(地域分布)
    1 関東域      7県−94−26.5%(全体比)−平均13/県  清和源氏勢力圏域
    2 九州域      8県−70−19.8%(全体比)−平均 9/県  未勘氏族の圏域
    3 関西域      6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県  源氏の出自元の圏域
    4 中部域      8県−52−14.4%(全体比)−平均 7/県  清和源氏・秀郷一門圏域
    5 東北北陸域   8県−38−10.7%(全体比)−平均 5/県  反河内源氏の圏域
    6 中国域      5県−24− 7.9%(全体比)−平均 5/県  源氏空白域・讃岐藤氏の圏域
    7 四国域      4県−21− 5.9%(全体比)−平均 5/県  讃岐藤氏の圏域・源氏空白域

    「1の関東域」
    ・「1の関東域」の八幡社が最も多いのは、源頼信が平安期末期に信濃−伊豆を拠点に「京平氏」の平族が勢力を張っていた関東にその勢力圏を拡げた事が原因しています。
    故に京平氏の平族との争いが上記の「源経基」から起ったのですが、だから他の域と比べて一番多い事に成ります。当然にこの事に依って「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」との摩擦も起る事が考えられますが、「分布の内容」から観てこの領域はある程度の「墨分け」をしていてた模様です。
    その「墨分け」は次ぎの様に成っています。、
    特に「武蔵、下野」域、次ぎに「上野、常陸」域、多い所で「神奈川、下総」域、「甲斐、駿河」域
    と成っています。
    これは一見すると、「秀郷一門の圏域の強い地域の強弱」、逆に云えば「清和源氏の頼信系の所縁の地域の大小」に依って分布している傾向を持っている様に観えます。
    ところがむしろ「秀郷圏」−「頼信圏」の「圏域の分布」と云うよりは、その「圏域の境」が重複している処を観ると、これは「神明社+春日社」−「八幡社」の「社領域の分布」であろうと考えるのが妥当と観られます。
    そもそも神社を考察する場合は、「圏域」のみならず「荘園と社領」の関係を考える必要が有ります。
    この平安期から室町期には「荘園制の影響」を大きく受けて「社領」が大きく認められていてこの影響を見逃す訳には行きません。
    どちらかと云うと、その「社領」を保護する土豪の「未勘氏族」か「氏子衆団」に依ってその圏域は守られていた時代です。
    つまり、「荘園−本所−未勘氏族−「神社」−社領」の緊密な相互関係を保持していてこれをばらばらにして無視して論じる事は出来ないのです。中でも「神明社」と「八幡社」に限っては「皇祖神」に結び付く「祖先神の神社」であり、他社と異なり「荘園の名義主」(本所・本領・領家)とも結び付く「社会構造」であったのです。
    当初は「荘園の名義主」と成った源氏は幾つかの荘園を固めその一つの大きい領域は1国から2国になる程の大きさを持ち、その圏域の領域に幾つかの「八幡社」を建立して「圏域の誇示」を図ったのです。
    その「八幡社」に広大な社領を与えて「未勘氏族」に護らせたのです。

    (本論末尾のデータに記載してる様に「熊野古道」の世界遺産の「熊野神社」は和歌山県の殆どの主な領域を社領[海南市から熊野市]としていた事でも判ります。研究室の「鈴木氏と青木氏の関係論文」でも記載)

    しかし、「実質荘園主」の「未勘氏族の勃興」に左右され、その後は「未勘氏族」の大小の「氏子衆団」に取って代わったものまで生まれたのです。
    この「社領」が縮小される江戸期から禁止される明治初期の「寺社領上知令」までは大きな力を持っていたのです。
    先ずその経緯は、平安期は主に「清和源氏の力」に依って建立され、末期以降頃は「荘園制」を利用して「未勘氏族」に「源氏の圏域」を誇示させ、そこを「戦略拠点」を主眼としてそれを護る為にも「八幡社」を建立させたのでは無いかと考えられます。
    そこで関東域の「94の八幡社」を分類すると、これを「家紋分析」や「神紋分析」や「未勘士族の家紋分類」や「氏子集団の神紋系家紋」から総合的に分析すると次ぎの様に成ります。
    先ず「家紋分析」から観ると、平安中期から「源義家」が天皇から疎んじられた時期までの平安末期直前までは「源氏力」に依って建立され、源氏衰退と滅亡の後の鎌倉期以降はこの力の持った「未勘氏族と氏子衆団」に依って建立が進められて行った事が良く判ります。

    (源義家の主な朝廷の処罰:「義家に対して関係族と兵の入京禁止令」「義家への土地の全面寄進禁止」等 殆ど身動きが取れない令で10年間押さえ込まれるが、その後、「院政の横槍」で一時許されるが「同族争い」を仕向けられ衰退する)

    「未勘氏族」と「氏子衆団」の形態は、当初は「実質荘園主」の「未勘氏族」で建立されたと観られ、時代が下克上・戦国時代の室町期に入ると互いに「未勘氏族」の潰しあいが起こり細分化した結果、大小の生き残りの「未勘氏族」や土豪達の「氏子衆団」がこれを護ると云う形に変化して行きました。

    (参考 名義荘園主(本所・本領・領家):源氏などの名家に名義を借りて「開拓荘園主」に成ってもらい名義料を支払い見返りに名家の名籍を名乗る事を許され武士団を形成する方式でその基と成る名義上の荘園所有者と成って保護する。実質荘園主(庄司):実際に開拓した土地の豪族で名義を借りてその名籍の氏を名乗る事を許された武士団であり、これを「名籍族」と分けて「未勘氏族」(庄司等)と呼ばれる。「氏子衆団」:これ等の「未勘氏族」が戦国に依って細分化して、その結果、再編成が起こりその荘園内に建立された各社の「氏子衆」の集団が集まり「氏子衆団」を形成して「社領の圏域」と「身の安全」を護った。室町期末期では「未勘氏族」が「氏子衆団」と「戦国豪族」との入れ替えが起こった。)

    「圏域の分布」<「社領の分布」⇒「荘園制」
    「名義荘園主」⇒「未勘氏族」⇒「氏子衆団」
    「平安期−源氏建立」⇒「鎌倉期−未勘氏族」⇒「室町期−氏子衆団」

    これ等(分布域や建立者)の事は「未勘氏族の家紋」や「八幡社の神紋」に依ってその変化が良く判ります。「八幡社」神紋は「皇族賜姓族」である為には本来は「笹竜胆紋」と成りますが、源氏自ら建立したとなれば「神紋」は「笹竜胆紋」ですが、そもそもその「神紋」とは必ずしも「寺の紋」では無く主に建立した氏(氏上)の家紋を「神紋」とする傾向がある為に、その「家紋・神紋」の出自分析をすれば「分布域・土地柄・変化・経緯」が判別できるのです。
    「家紋・神紋の分析」から観ると、先ず検証できる事は秀郷一門(春日社・神明社)と大きな争いに成らない様にその建立地域は分布していて見事であります。恐らくは秀郷一門との関係もありますが、殆どは”「未勘氏族」が建立して管理していた事から併設を避けた事によるものと考えられ、この傾向はその「神紋」が具に物語ります。「笹竜胆紋の神紋」は極めて稀であります。
    ところが、この判別で解釈の判断が付き難い地域があるのですが、秀郷圏の中に居る「土豪」つまりは「未勘氏族・氏子衆団・武蔵7党等」の土地柄であって、秀郷一門としても血縁関係等もありなかなか文句を付けるところまでには成らなかった事が観えて来ます。
    (秀郷一門の中ではこれ等との問題の関係調整役は主に進藤氏の役目柄である)
    次ぎに「笹竜胆紋」を神紋としているのは平安期のものだけで室町期には無い事ですが、中には疑問のものもあり鎌倉期と室町期の建立で有りながら「笹竜胆紋」を神紋としている「八幡社」があります。
    「地理的な条件」」から観て荘園制に絡む「未勘氏族」による建立である事は確実であるのですが、果たして神紋を正当に使用しているかは疑問で、江戸期の神社間の競争激化で搾取変更したのではないかと考えられます。
    そもそも関東域の秀郷一門の圏域の中では故意に変更する事はいくら名義を借りているとしても「未勘氏族」でも不可能であった筈です。
    「源氏自力建立」(未勘氏に命じた社も含む)と見なされる神紋を含む「笹竜胆紋」の「八幡社」は全体の3割弱程度で頼信系源氏が根拠地としていた「武蔵の北東一部」と「甲斐や駿河」や「神奈川西域」と「下総の一部」(神紋の疑問社は除く)に限定して観られます。

    もとよりこの様な背景と経緯の中で、この秀郷一門は元来の彼等の「人生訓」に対して観ても、この事柄に於いても「柔軟性を保有する氏」で有った様で、彼等の圏域の中でも「弓矢の神」の「八幡社」に対して頑なに拒んだ姿勢を示さなかった模様です。
    当然に「弓矢」と成れば秀郷一門の「護衛軍団の青木氏」(武家)との摩擦とも成りますし、一方では「特別賜姓族」としての「神明社建立の責務」をも負っているのですから少なくとも放置出来るレベルではない筈で利害関係は有った筈です。
    多くの一門との軋轢も生まれていた事が覗えます。しかも、最も多い94もの「八幡社」をも建立しているのです。下記のデータがそれを物語ります。

    総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
    2.7倍    4.6     1.8

    関東域は「八幡社94+神明社115」=209   

    関東全域 八幡社 7県− 94−26.5%(全体比)−平均13/県
    関東全域 神明社 7県−115−20.3%(全体比)−平均16/県 本家域

    八幡社 東京29 千葉23 栃木11 神奈川12 埼玉9 茨城7 群馬3
    神明社 東京30 千葉22 栃木14 神奈川11 埼玉15 茨城9 群馬14
     
    その勢いとしては、「神明社」は115社−20.3%(全国比)です。「八幡社」も「神明社」共に最高値です。この数字から観ても拒まなかった事や受け入れに柔軟であった事が証明出来ます。
    これは圏域内をうまく収める為に一門とも多少の血縁性のある「未勘氏族」と「進藤氏」と「青木氏」との充分な調整が取れていたと考えられます。

    (進藤氏は未勘氏族に限らず細部の土豪の領域まで何らかの血縁性を張り巡らしていた事が進藤氏の系譜添書に詳細に出ています。それが原因してか自らの跡目は連続して一門からの養子跡目と成っているのです。それだけ与えられた一門の「氏としての調整役」の役目を全うした事を物語ります。その添書の中に書かれている血縁氏と姓の地理的な分布を観ると、「坂東八平氏」や「武蔵7党」や「関東屋形族]等の大小の土豪集団等との関係を持っていて「関東域」にかなり集中していますが、北の陸奥から西の近江までに及んでいます。これほどの事は他の主要5氏一門の中には見られないのです。このデータの八幡社の所以は進藤氏の功績に依って成されたものです。これが秀郷一門の長く生き残れた基盤に成っていたと考えられます。その役目の為に自らの氏は可也綻びの多い系譜と成っているのが「氏の定め」の物悲しさを誘う。対比して上記の八幡社に代表される「河内源氏の生き様」は同じ賜姓族の青木氏から観ると賛成できないのです。故に敢えてここに進藤氏の生き様を記す。)

    この”柔軟さと云うか戦略的と云うか”のこの秀郷一門の「生き様」が「生き残り」を果した要因にも成っているのですが、平安末期に鎌倉幕府が興り秀郷一門は失職しながらも室町期には勢力を盛り返し関東一円の大豪族と成り得ているのです。
    この根幹を見失わずに”柔軟さと云うか戦略的と云うか”の生き様があっての事であります。このデータが河内源氏の八幡社に対比してこれを顕著に表しています。
    因みにその勢いとしては、八幡社の94に付いては、平均13/県と云う事は郡には2社/郡の割合で建立している事になります。
    上記した印象からすると、「弓矢の神・八幡社」としては郡に1社有り無しの程度とも思えますが多く建てている方です。
    「弓矢の神・八幡社」は「弓矢の神」である限りは”多くて良い”と言う訳ではありません。これは取り敢えず”「墨分け」はしている”と云っても普通の感覚では秀郷一門側としては無視出来ない数の建立と成ります。
    当然にこれに対して、「神明社」115で平均16/県で郡では3/郡の割合と成ると郡に5社とも成れば1社/村となり、ここに「八幡社」と「春日社」が加わるのですから3〜4社/村に成ります。

    これでは村のいたる所に神社があった事に成ります。「八幡社/神明社」の信者獲得合戦も起こり得る数字と成りますが、この数字は信心とは別に当然に上記した「戦略的意味合い」が色濃く出ていた事が挙げられます。
    平安期では2〜1/社と成り妥当とも思える状況であったと観られ、この傾向は鎌倉期から室町期に掛けて「戦乱の世」に成るに連れて「未勘氏族・氏子衆団」に依って建立されて次第に増えて行った事に成ります。

    「生活の神」「物造りの神」の「神明社」はいざ知らず「民」に取っては「弓矢の神」の「八幡社」は直接は無縁であります。
    この事が、”「八幡社/神明社」の争い事を避けられていた”と考えられ「神明社」に匹敵する「八幡社」が建てられた事に成ります。
    平安期末期から室町期中期に掛けては「八幡社」は「民」に取っては「弓矢の神」としてだけでは無く、関東域に於いては「清和源氏の勢力拡大圏」である事から、特別に「神明社」の「祖先神」としての「補助的な信仰対象」と成り得ていた可能性があります。
    ”それは何故なのか”の疑問ですが、特に前段で論じた”「民の農兵制度」が「補助的な信仰対象」と成り得ていた”と考えられます。
    平安期末期に於いては「末端兵」は「農兵制度」に依って調達され一つの「徴兵の慣習システム」と成っていたのですから、「八幡社の建立」は「源氏力」(総合的な意)に依って成され、「民」に取っても充分に「補助的な信仰対象」と成り得ていたと考えられます。
    しかし、鎌倉期に入り「立役者の源氏」が滅亡しながらも、「武家の世」と成り皮肉にも「武家」の「平家や源氏」が全て衰退し「未勘氏族・氏子衆団」を除く「八幡社建立」の主は無くなった事に成ります。
    又、民の「農兵制度」も「武家」の世と成った事から「農兵」が「兵」として身を興す傾向が生まれます。
    そしてそれは遂には「下克上」のところまでこれまた到達する変化を起したのですから、「補助的な信仰対象」は「2分化」して行く事に成ります。

    「八幡社」は次ぎの様な2分化を起こします。
    1 「平安期中期から末期の変化」
    「高位の武家」の「守護神・弓矢の神」 →「源氏の力」

    2 「鎌倉期以降の変化」
    「武家」の「弓矢の神」(侍としての守護神) →「未勘氏族の力」
    「農兵と兵」の「弓矢の神」(戦いから「身の安全を護る神」) →「氏子衆団の力」

    以上の2分化を起したのです。

    平安期の「建立の目的」と鎌倉期−室町期の「建立の目的」とは異なり、前者は「源氏族」が、後者は「未勘氏族」が主体と成って建立していった事に成ります。
    関東域ではこの二つの「2分化の胎動」が起ったのです。
    確定は困難ですが、関東の94の「八幡社」の内、初期の大半は「清和源氏の建立」(河内源氏)と見なされます。未だ「未勘氏族」が建立を充分に成す力と環境は、勃興する氏の家紋分析から観て充分に無かったと観られ、その力のある「未勘氏族」は数は多くなかったのです
    主に鎌倉期以降に世の乱れ行く状況に沿って「未勘氏族」が台頭し依って建立(神明社合祀・守護神替え)が進み、再び「農兵制度」が更に活発に成り故に円滑に受け入れられたのです。
    特に秀郷一門の勢力圏の関東に於いては”顕著に成り得ていた”と云う事が云えます。
    それは各地に「青木村」を形成しての環境下です。つまり「青木氏-進藤氏」の調整下でその「受け入れ状態」が「4つの青木氏」の「共存共生」の「生き様」の土壌がこのデータの状態94を成し得たのです。

    「青木氏-進藤氏の調整」+「受け入れ状態の環境下」→「八幡社94の建立]
    豊臣秀吉がこの「農兵制度」を禁止するまでは充分にこの環境下にあったと考えられます。

    (「農兵制度」に付いて  「武家」とは「公家」に対しての身分呼称で、江戸期の「武家」の総称とは異なる。平安期は「武士」(侍)と「兵」の身分階級があった。
    「武士」は「組織の上下」を持つが、「兵」は「職能集団」で「組織の上下」の関係を持たない。
    鎌倉期以降はこれが無くなった。 関東域は平安期は藤原秀郷と清和源氏頼信系の勢力圏域で、「たいら族」は後退し美濃域に引き下がる 前論記述)

    「2の九州域」
    ・「2の九州域」は「基八幡社の発祥地」でもあり北九州が殆どで、福岡の総社宇佐八幡社の圏域から分社が拡がったので多く成っているのです。この地域は「民族氏」の「産土神」の地域柄でそもそも「神明社」の少ないところでもありますが、「3国地域」の「神明社」が「一社分布」と成っていますのでその争い(産土神と祖先神)は無かったと観られます。
    ただ源義家は筑前に赴任していますので「八幡太郎」の呼称もありますが、この筑前(福岡)の数字を観ても全体の6割近い八幡社が建立されています。明らかにこの影響を受けての事でありますが、この地域は関東域のこの時代の影響を全て受けた複雑な「経緯と背景」と異なり比較的簡単な「経緯と背景」を持っている事が判ります。
    先ずは何と云っても大蔵氏等の絶対的な「民族氏の圏域」であり、前段で論じて来た様に一言で云えば「遠い朝廷」「錦の御旗」「太宰府」の真にその地域です。
    丁度、有名な大蔵氏の「春實」から「種材−種輔」まで著しい勢力拡大を九州域に図った丁度その時期でもあります。
    この場所、この時期、この氏、の所に「源氏自力」による「八幡社の建立」は難しい筈です。その中に70もの八幡社は何故かの疑問であります。そして、この時期に問題の人物の八幡太郎源の義家が筑前に赴任しているのです。何か匂うものがあります。
    九州域は、”「関東域の藤原秀郷の氏」と「清和源氏」の掛け合い”があった様に、同じく”「大蔵氏」と「清和源氏」のこの二つの氏の掛け合い”に成ります。この面では極めて類似しています。
    更に、藤原氏の「春日社の氏神」があったと同じくここには「宗像神社」や「阿蘇神社」等の「氏子衆団」の豪族がひしめく地域でもあります。藤原秀郷一門主要5氏が鎌倉期以降にやや遅れて大蔵氏と血縁して勢力拡大をして九州に食い込んで来た時期でもあります。
    ただ違う点は下記の通りで「神明社の数」が絶対的に異なる事です。(詳細は下記の神明社で論じる)
    それは「関東域の経緯と背景」から観て「八幡社に関わる事件性」や「源氏に対する事件性」がここにも存在し、且つ、この地域は奈良期の早い時期からの「神明社の神域」(詳細下記)であった事が挙げられます。
    1と2の地域を比較して観ると次の様に成ります。

    2の九州域は「八幡社70+神明社13」=83

    総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
    1.1倍    0.5     1.3

    関東全域 八幡社 7県− 94−26.5%(全体比)−平均13/県
    関東全域 神明社 7県−115−20.3%(全体比)−平均16/県 本家域

    九州全域 八幡社 8県− 70−19.8%(全体比)−平均 9/県 沖縄含み
    九州全域 神明社 7県− 13− 0.2%(全体比)−平均 2/県 西海道

    八幡社 福岡39 鹿児島9 大分7 宮崎6 長崎3 熊本3 佐賀2 沖縄1
    神明社 福岡9  鹿児島3 大分1 宮崎4 長崎3 熊本1 佐賀1 沖縄1
      
    九州域の源氏中でも清和源氏のそのものの勢力がこの地域に大きく及んだ事は「義家と足利氏」の巻き返しの基盤地域と成った地域でありますし、返して云えばその基盤は「荘園制の名義主(本領)」の土地柄でもあります。つまり清和源氏の「未勘氏族」の地域でもあります。
    この「未勘氏族」の数を示すデータでもあります。
    1番目の関東域は「清和源氏の数」であります。
    2番目の九州域は「未勘氏族の数」と成ります。
    これは「清和源氏」は西に大きく「荘園名義主」を伸ばした事を示していて、当然に「未勘氏族」の多い事に成ります。関東の足利氏が南北朝の時に一度北九州に敗退して退きますが、この時の「未勘氏族」の勢力に依って勢力を持ち返し再び勝利して幕府を開きます。
    この事からも「未勘氏族」の地域である事は理解できます。
    筆者はこの地域の「未勘氏族」が”後の「義家の偶像」を作り上げた”と判断していて、上記した様に彼等の守護神の「八幡社」を少し後に「義家の八幡社」と装具立てたのでは無いかと観て居ます。
    清和源氏の足利氏が返り咲く根拠もこの「義家の八幡社」の下に「未勘氏族」を参集させたと観ています。兵騎を参集させるには呼びかけだけでは兵騎は集まらない訳で何かの「共通する旗」の下に参集するのはこの「世の常道」であり「戦いの基本戦術」であります。
    従って”清和源氏そのものが建立した”と云うよりは「清和源氏の未勘氏族」が自らの集団の纏まりを「八幡社」に求め、その「八幡社」を「各未勘氏族の圏域」に建立して行ったと考えられます。
    ここが関東域と違う所ではないかと考えられます。
    この風潮が源氏の中でも最大勢力を誇った清和源氏の「分家頼信系義家一門」の「守護神」と思われて行った原因であると考えられます。むしろ”思わせて行った”と考えるべきです。
    「源氏の棟梁・武家の棟梁」と持て囃された風潮の所以の一物です。
    対比して「神明社」がこの地域に極めて少ないのもこの大きな風潮の中に入り込めなかった原因であろう事が判ります。
    何はともあれこの地は「八幡社」にしても「基八幡社」の北九州宇佐神宮大社の地域、「神明社」にしても日向の「天岩戸神社・高千穂神社」の基社であり何れも「総社」であります。
    この事から日向が神明社の基社でありながらも建立は殆ど無いわけであり、「八幡社の総社」であるから建立は多いと云う訳だけではない事が判ります。
    それを立て様とした必要とした者の数である事に成ります。
    つまりその立場に居たのが「未勘氏族」であります。
    しかしながらこの九州行きに於いて「総社」である「神明社」は風潮にならず、総社の「八幡社」が風潮に成った如何は、その違いは”「八幡社」と「神明社」の「未勘氏族」の有無の違い”にあったからです。
    言い換えれば「未勘氏族」を造らなかった賜姓族と、「未勘氏族」を造った賜姓族の違いであり、皇族としての「立場とその役目」を護ったかどうかの違いであり、「旗頭」に成ったかどうかの違いであり、究極は氏の「生き様」の如何に拠ります。
    このデータはこの事を顕著に証明しているデータであると観ているのです。
    その意味でこの九州域は八幡社の「持つ意味」や「全容」や「有り様」を示す地域なのです。

    「3の関西域」
    ・「3の関西域」は11代の源氏の「出自元の集積する地域」でありますが、「神明社」との建立地の混合はありません。”「天皇家の神域」を「弓矢の神」を主神としている為に避けた”とも考えられ、「神明社−八幡社」の争いを避けたとも考えられます。「同族としての争い」を避ける事を一応は配慮していたと考えられます。もしこの争いが起る事も考えられますが、最悪の信義は護った事を意味します。
    そもそもこの地域は860年の「石清水八幡社」の関係八幡社が殆どで比較的古い建立と成っていますので、その「八幡社の存在意義の有様」を検証するのに重要な地域です。
    下記のデーターでも判る様に思いの外少ない事が判ります。
    関西域の京都の「石清水八幡社」が九州の宇佐の「宇佐八幡社」より格上であるとする説もあり、八幡社には三大八幡社のもう一つの「鶴岡八幡社」がありますが、「鶴岡八幡社」は時代性と建立の由来から別にして内容を精査するとどうも「2局の系統」に八幡社は判別されると考えられます。
    それは上記した「宇佐八幡社」を中心とする「未勘氏族の八幡社」系列と、「石清水八幡社」の「河内源氏一門の八幡社」系列とに分類出来るのです。だからこの「二つの八幡社の格上論」が出てくるのです。
    確かに時代性から云って宇佐八幡社が僅かに先であり、それを都の京に分霊して天皇家が祭祀しやすくした事は経緯は否めません。
    「清和天皇が「石清水八幡社」を建立したのを慌てて宇佐の八幡社は「ヤハタ神社」から「宇佐八幡宮」と名称を変更したのもこの「系統の本筋」を争っていたからで、宇佐は朝廷が飛鳥からわざわざ赴任させた「神職官僚の大神氏」と後に引き継いだ「土豪の宇佐氏」の氏神的扱いの「ヤハタ神社」で、一方は「石清水八幡社(ハチマンシャ)」は「天皇家の国家鎮魂の祭神」と定められ、その八幡社から下記に示す「関西域の分霊社」が天皇家に依って増設されて行った為に系統の本筋が関西域となる経緯は当然の事であります。
    この事が後に「国家鎮魂」から「弓矢の神」へと、「天皇家の守護神」であったものが「河内源氏の守護神」と観られる様に、或いは利用される様に成っていた起点に成るのです。
    そしてその経緯の副産物が「鶴岡八幡宮」であり、鎌倉期以降の「未勘氏族」と云うよりは「武士の神」(武神)としての守護神の八幡社とはっきりと変化して行った象徴の八幡社と考えられるのです。

    この3大八幡社は次ぎの変化を起こします。
    「石清水八幡社」→「国家鎮魂の八幡社」→「天皇家の守護神」⇒「河内源氏の守護神」・「弓矢の守護神」

    「宇佐八幡社」→「氏神の八幡社」→「未勘氏族の守護神」⇒「九州武士の守護神」・「「弓矢の守護神」

    「鶴岡八幡社」→「弓矢の八幡社」→「河内源氏の守護神」⇒「関東武士の守護神」」・「弓矢の守護神」

    (注:「氏神」は下記に定義する枝葉の広い関係族の氏姓の護り本尊の意味)

    源氏滅亡の鎌倉期直前からこの3つの八幡社の系列は「未勘氏族の弓矢の八幡社」で結びついて行くのです。(地域に依っては「弓矢の八幡社」→「家内安全の守護神」と変化を遂げます。)

    この関西域の八幡社は「石清水八幡社系列」である事は勿論ですが、「河内源氏」と関わっている事から「弓矢の八幡社」と考えられがちですが、実は上記で論じた様に歴史的に860年を起点に祭祀されていますので、「八幡社の本来の初期の守護神の形(存在意義)」が判るのです。
    「神明社」の「豊受・五穀豊穣」(生活の神・物造りの神)の守護神」であった様に、当初は「八幡社」はそれは「国家鎮魂の守護神」であったのです。
    それが時代背景から八幡社は変化して行った事なのです。
    「国家鎮魂」は、飛鳥の「ヤマト王権」の日本の国を始めて一応の「5族連合」の「統一政権」を造ったのは「応仁大王」で、「天皇制」から観ては初代の「国家生誕の統一国家の王」を天皇として定めそれを祭祀する社である事から「国家鎮魂の守護神」と崇められたのです。
    平安期に京に都を置く事により「石清水八幡社」は「国家鎮魂の守護神」として累代の天皇から天皇家が祭祀する守護神として扱われてきたのです。

    3の関西域  「八幡社52+神明社25」=77

     総合倍率   神明社倍率  八幡社倍率
    基準 1-77  基準 1-25  基準 1-52

    この地域の「八幡社」と「神明社」のを比較してみると次ぎの様に成ります。
    関西域  八幡社  7県−52−14.7%(全体比)−平均7/県    源氏の出自元の集積圏域
    関西域  神明社  7県−25− 4.4%(全体比)−平均4/県

    この「八幡社の数」は1或いは2の地域と異なり「未勘氏族」ではなく真に「源氏の力」(主に河内源氏)による建立と観られ、その「源氏の定住地」に建立されている事であり、「戦略的要素」のある「八幡社建立地」は少ない事が挙げられ比較的に平地に建立されているものが多いのです。
    しかし、上記した11代の源氏が各自建立したと云うよりは次ぎの県別で観ると殆どは清和源氏の「摂津地域」、「河内地域」、「大和地域」、に主に建立されているのです。

    八幡社  兵庫24 大阪11 和歌山8 京都4 奈良2 滋賀2 三重1
    神明社  兵庫11 大阪1  和歌山2 京都2 奈良1 滋賀3 三重5
    (大和は和歌山と奈良に跨る地域)

    この事から観ると清和源氏外の源氏10家は「弓矢の八幡社」に深く関わっていなかった事がこれでも判ります。「武家」であっても弓矢に直接関わらない「武家貴族」であった事が伺えます。
    10代の源氏の「武家貴族」はそもそも「皇祖神」に繋がる「祖先神−神明社」であって「武家貴族」である事から積極的に「弓矢の八幡社」の方に帰依し変更する根拠は無い筈です。

    しかし滋賀2は佐々木氏系宇多源氏 三重1は北畠氏系村上源氏、京都4は「石清水八幡宮」に代表する様に上記した背景から一門に依って源平期に「義家系の一門」に依ってその勢力誇示から建立されたものと観られます。(近江には賜姓佐々木氏がある)
    そうすると京都4と滋賀2の数は、次ぎの様な事を物語っています。
    上記した八幡社の定義として、”「源氏義家系の未勘氏族の守護神の八幡社」”であって、必ずしも”源氏そのものの「守護神」であると云う定義ではない”と云う事です。
    結果、「未勘氏族」が遺した「八幡社の氏資料」で、後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待し利用した”と云う経緯”とすると、上記した様に此処でも矢張り次ぎの関係式が成り立ちます。

    「八幡社」=「源氏頼信系義家一門の守護神」=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

    この京都4・滋賀2には主な「未勘氏族」が存在しない事から「義家一門」が建立して”利用した”を物語る数字です。但し、自分の意思で建立したかは検証を要する事と成ります。
    そこで、先ず歴史的に観て、殆どが「清和天皇」が860年に建立したとされる「石清水八幡社」の関連社(離宮八幡社等)の由来のある八幡社ある事です。
    中でも、「河内源氏」の問題の「源頼義」が「後冷泉天皇」(1045-1068)からの勅命にて「石清水八幡社」からの霊験を自邸に移して建立したとされる「若宮八幡社」があり、又、同じくこれを河内に勧請した「壺井八幡社」があります。
    この記録の通りこの頃(860年〜1000年-1045)は未だ「天皇の勅命」による建立であって、その目的は何れも「国家鎮魂の為」とする記録がありその「存在意義」であって、それを勅命により「河内源氏」が積極的に建立した事がこの「京都4と滋賀2の八幡社」である事が判明するのです。
    実は諸々の資料から1010−1050年の間の50年程度には、「天皇家の勅命」とは別に社会にはこの経緯から如何にも「河内源氏の守護神」であるかの様な漸次の風評期間があった事が確認できるのです。
    結局は、1000年直後までは「弓矢の神の八幡社」では無く「国家鎮魂」の「天皇家の祭祀神」として存在していたのです。
    それまでは「弓矢の神」の存在意義は全く無く、その後の上記した様に”この経緯を利用してこれを発展させた義家”の行為と見做されるのです。そして、それに大きく関わったのが河内源氏の「頼義-義家」であった事に成ります。
    この「経緯と記録」からも明確で、「勅命」に依って建立された「石清水八幡社関連の八幡社」でそれを「清和源氏」(河内源氏)が「勅命」を受けてその守護地に建立したものが殆どなのです。

    「摂津地域」と「大和地域」は「宗家頼光一門」と「分家頼親一門」が「勅命」で「国家鎮魂」の目的で建立したもので「氏の守護神」とした建立では無かった事がこの関西域の考察で良く判ります。

    そうするとこの「八幡社の環境下」の中で果たして「神明社」がどの様な事に成っていたのか気に成ります。恐らく建立には何らかの関係があった事が考えられます。つまり直接八幡社として新規に建立したのかどうかの検証です。
    「神明社」に付いて三重5は「皇祖神」の地元であり前記「19の神明社」を建立した経緯からこの数字は納得できるものですが、しかし、兵庫11は「近江青木氏」が建立したとするには問題があります。
    何故ならばそれは”神明社を建立するには近江青木氏の経緯”に問題があるのです。
    そもそも平安初期に「近江青木氏」は近江にて「近江佐々木氏」やその系列の「佐々木氏系青木氏」との同地域内での「勢力争い」のような事が起こり、その為それを避ける目的で近江青木氏は一時滋賀に移動していて、後に近江に戻ると云う経緯があるのです。その後、「摂津源氏」の保護の下に摂津に移動定住します。この背景があり「源平の戦い」で合力して潰され、その後、美濃に逃亡し同族の「美濃青木氏」と共に「富士川の激戦」で敗退して滅亡し一部末裔が攝津に逃げ延びた経緯を持っています。

    この様に源氏と共に最も早く滅亡に近い衰退を起した事から、この兵庫11を興す勢力は無かったと考えられます。
    これは「摂津源氏」の「清和源氏の宗家頼光系四家」により建立されたか、或いは「近江佐々木氏」かその「佐々木氏系青木氏」かが何らかの事由(勅命)で建立した可能性が高いのです。そしてその神社は「神明社」の可能性が高いのです。
    現在ではその判別は、社遺が古すぎる事から「初期の創健者」が不明な神明社が多く困難なのですが、ただ「八幡社」としては共に頼光系宗家筋が建立していた事を示すデーターが6〜8の八幡社と成ります。
    実はこれ等は記録があるもので観ると、極めて古く750〜1025年までのもので、「創建」と云うよりは「朝廷の命」により「管理・維持・建て直し」を命じられたものが多いのです。
    その多くは「摂津源氏」の「荘園」、或いは「領地」の中に存在するものが多いのです。

    前段で論じた大化改新の「19の神明社」と共に、
    奈良期から平安初期に建立された[自然神の祭祀社屋」や、「産土神の祭祀社屋」や、日本書紀にも書かれている「風神雷神の祭祀社屋」を、平安期初期から平安中期には「神明社」に変換し、その後の平安末期から平安後期には更に神明社から「国家鎮魂の八幡社」に変換させる事の勅命がこの2つの氏の何れかに下されそれを護ったものと観られます。
    これは時代背景が大きく左右したと考えられますが、記録が一部を除いて完全に消滅しているのです。
    ただ古くて幾つかの遍歴を遂げている事が「断片的に遺されている社資料」などや「伝統行事の内容の検証」など「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」を対比考察すると判る範囲です。
    この平安期には社殿の建立は全て中国から伝来した「方位学や陰陽学」等を使って建立されているのです。ある程度の条理を以って無秩序には建立されていないのです。それから観ると、「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」は重要な要素なのです。
    記録が消失していると観られる他の社殿にはこの「方位学や陰陽学」の何がしかの関係がある事が伺えるのです。
    そうすると、次ぎの遍歴がある事が判ります。
    「祭祀社屋から神明社」に
    「祭祀社屋から八幡社」に
    「神明社から八幡社」に、
    この「3つのパターン」がある事が判ります。
    しかし、何がしかの条理があった歴史的な祭祀社屋からのもので、新規に「八幡社の建立」は室町期中期前には確認できません。
    又,この「3つのパターン」がどの神社に当てはまるかは古くて資料記録が無く断定できる程に確認が取れません。
    しかし、その証拠としてこの中には「地域内の他の社殿」として明らかにこの「経緯」を辿り「勅命」で修復や再建した事の記録が残されているのです。

    因みに「八幡社」と成ったものとして「魚吹八幡社」、「宗佐厄神八幡社」、「多井畑八幡社」、「柏原八幡社」、「松原八幡社」、「波豆八幡社」等があり、これ等は上記の「勅命・条件・経緯」を持っている事が記録から出て来ます。(詳細は論外の為別途)
    従って、他の八幡社も多くは古くありながらもその経歴が消滅しているものが多く、形式上は現在は「村社、県社」扱いに成っているのです。つまり「氏社」は全く確認出来ないのです。一般の「氏の守護神」では無かった事を意味します。記録が無いだけで「村社や県社扱い」に成っていると云う事です。

    とすると、この関西域の「八幡社の兵庫24」と「神明社の兵庫11」は、少し違う事と成ります。
    そもそもこれ等の「弓矢の八幡社」は「義家」後の「八幡社」である事から、この「八幡社の兵庫24」は主に当初は「神明社」として建立されていたのではないかと考えられます。
    併せて「神明社35」であった可能性が考えられます。
    その意味で「兵庫の八幡社」は、その後、朝廷はもとより「戦国の世」と成って行って「建立者」や「維持管理する氏」が滅亡していった事から、当時の幕府は時代の背景から一部「神明社」を「弓矢の八幡社」に変更して行ったと考えられます。
    その根拠としているのは、「八幡社」の3大八幡宮の「宇佐八幡宮」、「石清水八幡宮」、「鶴岡八幡宮」と共に、これ等の35の社は「合祀−八幡神」の経緯の中で変更された可能性が充分あり、「関西域の八幡社」には他の地域には少ない「合祀」が多いのはこの傾向があった事を物語ります。
    「合祀」に依って「生活の神」「物造りの神」と「弓矢の神」の2つが合祀される事で全ての民からの信仰を集める事が出来る事に成り、「建立主」と成っていた「清和源氏」の衰退滅亡後の寄進による神社経営を救ったと考えられます。
    ここが「未勘氏族」が主体と成った建立地域ではなかった「特別な神社経営の事情」がこの地域にはあったのです。
    そうなると、「源平合戦」の初戦「以仁王の乱」(1180年)の主謀者の「頼光系宗家4代目源三位頼政」までの期間の建立・再建と成ります。
    「八幡社」としては「1050年頃」からとすると、「乱後の130年間」と「乱前の200年間」で「合計330年間の神明社の建立期間」と成り、「兵庫の神明社35社」は1社/10年とすると充分に建立は可能と成ります。

    「大和源氏」の頼親系は兄の頼光に慕っていて同一歩調を採ったとされているので、大阪11、和歌山8、滋賀2の八幡社は神明社では無かった可能性が高く、52の内の21は八幡社で有った事に成ります。

    依って、この関西域に於いての31(52−21)の「八幡社」は元は「神明社」であり、純粋な「神明社25」と併せて56/77は「八幡社1050年」を基準として基準前の「250年間の神明社」(嵯峨期809年 前期2)と「大化期から嵯峨期までの150年間の神明社」(前期1)の「400年間の神明社」−この2期間を「前期」とすると神明社は「前期25の建立」と成ります。

    「150年間の神明社」(前期1)−「250年間の神明社」(前期2)-・「八幡社1050年」→「神明社-25」

    ・「八幡社1050年」−室町期中期までの400年間(後期)→「神明社−31」

    「八幡社1000年」→「守護神」の風評開始  
    「八幡社1050年」→「守護神」の風評定着→「弓矢神」の風評→「河内源氏」
    「八幡社1090年」→「弓矢神」の風評開始
    「八幡社1099年」→「弓矢神」の風評定着


    そうすると「八幡社1050年」の基準後から室町期中期までの400年間を後期とすると、この後期は神明社は31/52に分けられる事に成ります。つまり純然とした「八幡社は21/52」と成ります。
    関西域に於いては「八幡社は21」であり、清和源氏分家頼信系義家一門の「勅命」による「自前の建立」と成ります。
    従って、「神明社」はこの地域では頼信系を除く「源氏」や「2つの青木氏」の「賜姓族」による「56の建立」(25+31)と成ります。
    「神明社」はこの関西地域では全体の丁度1割を占める建立をした事に成ります。
    この関西域の検証は時系列的に観ても上記の経緯を辿った事が充分に証明できます。

    「4の中部域」
    ・「4の中部域」は関西域とは少し違った経緯を辿って言います。
    この「4の中部域」は「賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の重要拠点でありますが、ここは「清和源氏宗家」の「頼光系四家の国司代の圏域」でもあり、この宗家筋は「3つの発祥源」として”同歩調を採っていた事”や「濃い同族の血縁関係」がある為に「神明社−八幡社の競合」は起らなかった土地柄です。
    むしろ”起らなかった”と云うよりは”起る事はなかった”と云った方か正しい事でしょう。

    総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
    3.5倍    8.5     1.3

    この4の中部域の状況は次ぎの様に成っています。
    4 中部域 八幡社 8県−52 −14.4%(全体比)−平均7/県
      中部域 神明社 8県−212−37.5%(全体比)−平均27/県

    八幡社 愛知14 静岡12 岐阜12 富山5  福井3 山梨3  長野2  石川1
    神明社 愛知33 静岡18 岐阜31 富山33 福井8 山梨72 長野15 石川2

    この中部地域の「八幡社」と「神明社」のデータを比較すると、上記1、2、3の「3つの地域」とはその比率が完全に逆転しています。八幡社<神明社の状況です。その差も大きいのです。その大きい理由がこの中部域にあるのです。
    この地域は先ず「皇族賜姓族」と「特別別賜姓族」の「2つの青木氏」の勢力圏であり、尚且つ秀郷一門の勢力圏であったのです。その中で全ての「頼光系四家の国司代の圏域」でもありました。
    しかしながらこの地域の「八幡社の数」を観てみると左程に「源氏の勢力圏」では無かった事を物語ります。
    更に云えば、前記した様に「頼光系四家」は「八幡族」では無かった事を述べてきましたが、清和源氏力が最も強かったところです。「八幡義家の祖」である「頼信」は兄の「頼光」からこの地域の勢力を借りて坂東に伸張していって伊豆に第2の拠点を設けて勢力を拡大した基拠点となったところです。
    摂津を発祥拠点として「藤原道長」の四天王と呼ばれた程にその勢力を背景に中部地域に清和源氏の勢力拠点を築いていた所です。その守護職はこの圏域の11の地域を務めた地域でもあるのです。
    しかし、その割には「八幡社の数」が少な過ぎます。
    真に「源氏の勢力圏」ではなかったと観られる程度にそれを物語ります。
    頼信系が「八幡族」として勢力を持ちえたと云えどもその勢力を遥かに凌ぐ清和源氏の宗家の「最大の拠点と成る地域」であります。此処なくして頼信系の関東の勢力圏は軍事戦略上、「摂津拠点」から関東の間の中間を抜かれた戦略形態と成り「伊豆拠点」と「関東拠点」は成立しません。
    (伊豆は頼光系四家宗家の最大所領地 この東隣に頼信の伊豆前線拠点を設けた)
    それ程の戦略上の最重要拠点地域でもあります。
    ”では果たしてこの「八幡社」は何なのか”と云う事に成ります。
    この中部地域は「神明社」に於いて全体の4割に近い勢力を誇っており、県内平均27とすると郡内に5前後の「神明社」が存在し、村には1社必ず存在する地域と成ります。
    そこに「八幡族」でない「八幡社」が郡に2社程度とすると2村に1社がある事に成りますので、この2つを合わせると1郡に7社で1村では2社程度の勢力圏と成ります。
    ここに秀郷一門の春日社が建立されていますので1村で3社〜4社は必ずある事に成ります。
    1村に3社〜4社の守護神がある事は、当時の人口が現在の1/4とすると守護神が過飽和状態に近い状況であった事を物語ります。とすると、この状況からそもそも「弓矢の八幡社」の「存在意義」は「村民」に採って意味を成さない筈です。
    兎も角も、そもそもこの地域は、飛鳥から奈良時代に掛けて日本書紀にも書かれている様に、後漢の阿多倍王が率いてきた職能集団が入植した最大の地域なのです。
    従って、「生活の神」「物造りの神」に対する「心の拠り所」としての「守護神の意義」は他の地域とは比べ物にならない程に高い意識があったのです。その様な環境の中に「弓矢の八幡社」が平安末期に入り込む余地は少なかった筈で、あったとしても「弓矢の意味」では無かった事を意味します。
    その証拠にこの地域は「神明社」が全国比4割を占めている環境なのです。
    民は「生活の神」「物造りの神」の意識が特別強かった事からこの「日本一の数字」を示しているのです。

    そこで「上記の環境下」ではこの212の4割は少ないと考えられ、5割程度前後の神明社が集中していなければならない筈です。(下記の「圏域の勢力数」の表から計算できる 計算では神明社47%が妥当)
    この状況の中で、上記データでは「生活の神」「物造りの神」が主導し「弓矢の神」は1/4程度と極めて勢いは無かった事を証明しています。
    では”この「八幡社」は一体何なのか”の疑問は、そうなると”八幡社であって八幡社でなかった”と云う事に成ります。”「八幡社」の形を整えていたが「八幡社」ではなかった”と云う事に成ります。
    では、”どの様な「八幡社」なのか”と云う事に発展します。
    この地域の「八幡社」は「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「頼光系源氏」と10源氏の内の「4つの源氏末裔」の勢力圏の中にあり、「弓矢の頼信系源氏」とその「未勘氏族」が「弓矢の神」としての「八幡社の守護神」を公然と建立する事は出来たかは大いに疑問で、論理的に不可能と考えられます。
    従って、結論はこの地域の「八幡社」は”弓矢の特徴を下ろしていた”と云う事に成ります。
    故に、この中部域の「八幡社」は、「弓矢の神の守護神」だけではなく、全体化していた環境の「生活の神」と「物造りの神」の「守護神」の中では、「中間の曖昧な機能」を果たしていたと考えられるのです。
    つまり、「合祀」乃至は”「神明社化した八幡社」”であった筈です。
    何故そうなったかは上記する環境下にあった事は勿論の事、それは多少は”「民の必然性」がそれを後押しした”と考えています。
    つまり、平安末期以降(1023年以降 農奴と部曲の開放)に前段で論じて来た「民」とりわけ「農民の役割」にあったのです。それは”「農兵」が新たに出来上がって行った時代”であったのです。
    それまでは、「戦いの担い手」には「2つの身分階級」があったのです。

    それは「武家」の呼称と「兵」の呼称とに依って構成されていたのです。
    「武家」を構成する「武士」は、組織化して上下の関係を保有した武装集団。
    「兵」は上下関係を有さず組織化せず職能集団化した「武装兵団」
    以上2つに分けられていたのです。

    「源家勢力」は「武家」軍団側で「融合氏」集団で「未勘氏族」を従えた組織集団です。(祖先神)
    一方は「平家勢力」は奈良期から阿多倍一門が率いてきた「兵の職能集団」(漢氏、東漢氏、物部氏等)を配下に従えた側で「たいら族」や「大蔵氏」等の「民族氏」集団であったのです。(「産土神」)
    「源平」は外見から同じ様な「武装集団」と見られがちですが、実は前段でも論じてきました様にそもそもその「基盤構成」は異なっているのです。
    然し、時代は次第に乱世へと突入し何時しか世は「下克上 戦国時代」へと突入して行くに従い、この「武士」と「兵」の「2つの集団」では間に合わなくなり「農兵」が生まれて来たのです。
    この半職業化した「農兵」は「弓矢の場」に赴くに従い彼等の「心の拠り所」の「生活の神」と「物造りの神」の「日常の神」に、”「弓矢」から身を護ってもらえる「神明社」”を要求して行ったのです。

    そこで、「神明社」は次ぎの何れかの守護神の形を採る様に成ったのです。
    ”「八幡社」を合祀する形を採る「八幡社」(合祀八幡社)”
    ”「神明社的な形を採る八幡社」(神明化八幡社)”
    以上の形として変異させたかの何れかの守護神の形を採ったのです。

    これがこの中部域の「37%程度を占める神明社」と「15%程度を占める八幡社」の実態なのです。

    そこで地域8県を検証すると次ぎの様に成ります。
    1 愛知14と静岡12は特別賜姓族の「専圏区域」、
    2 岐阜12と長野2と山梨3は皇族賜姓族系列と頼光系源氏の「融合区域」、
    3 福井3と富山5と石川1は4つの源氏末裔族と皇族賜姓族の「共存区域」
    以上の様に中部域の小地域(県)に依っては「八幡社の分布」は「3つの区域」に分類出来るのです。

    当然に、この特色の持った「3つの区域」の「八幡社」は上記する「合祀八幡社」か「神明化八幡社」の傾向が明確で全てとは云い難い所はあるが一つの傾向を示しているのです。
    A 「1の専圏区域」−「合祀八幡社」      
    B 「2の融合区域」−「神明化八幡社」
    C 「3の共存区域」−「合祀八幡社+神明化八幡社」

    Aは富士川の激戦地で「美濃賜姓青木氏と土岐氏系青木氏」、「近江源氏と近江賜姓青木氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」が終結して敗退し滅びた区域でもあります。
    この地域には「秀郷一門」と「特別賜姓青木氏」が残りその勢力は最大勢力を誇っていた場所である事から「神明社」を建立すると共に、秀郷一門の「春日社」も共存する柔軟な圏域でもあった事から「八幡社」をも公然と建立し、その運営を柔軟にする事から「生活の神」と「弓矢から護る神」のどちらかのご利益が働く「合祀」の形の「八幡社」が多く観られるのです。

    Bは奈良期から平安中期(800年頃−桓武期)まで「賜姓青木氏」の守護地であった事と、その後に「清和源氏宗家頼光」が各地(11)の守護代、国司を務めた政治的、戦略的な重要な区域であったところです。
    「3つの国」の「賜姓青木氏」と同族血縁して「清和源氏宗家」と、奈良期から居た「賜姓青木氏3家3流」が融合した区域であって、此処には「特別賜姓青木氏」も「秀郷一門」も強く勢力圏を保持しなかった中間区域でもある事から、「神明社化した八幡社」の融合の形を採っていた区域であります。
    特に「弓矢」そのものより戦乱の世から「家族身内の身」を護ってもらえる「守護神」でもあり「生活の神」「物造りの神」の守護神でもある形を採っていたのです。
    その後のこの「地域の形」が室町末期から江戸期には「八幡社」は「神明化八幡社」が共通の形と成って行ったのです。
    「世の中の安定」と他の「守護神との競合激化」も合わさって一種の「総合神社」の様相を呈して行ったのです。

    Cは他の賜姓源氏と嵯峨期の詔勅に基づく源氏族が「源平の争い」から逃避して定住した地域でもあり、「賜姓族青木氏」の「足利系青木氏」や「武田氏系青木氏」や「諏訪氏系青木氏」等が平安中期から室町中期にかけて「争い」から遠ざかる為や「戦い」により逃亡して来た地域の「移動定住地」でもあったのです。
    この「移動賜姓族」と目される末裔は「融合」を起さず「自然衰退」や「断絶」や「滅亡」が起った地域でもあるのです。
    中にはこの区域から鳥取米子から島根東へ移動した一部の「賜姓族青木氏」や「讃岐籐氏の青木氏」を頼って高知に移動する等の流れが起りました。又、北には更に越後の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びている通過経路とも成っていたのです。
    ここに定住した賜姓源氏の逃亡末裔や嵯峨期詔勅の皇族源氏が「地元の血縁性のある未勘氏族の力」も得て「神明化八幡社」か「合祀八幡社」を建立して生き残りを図ったと観られます。
    実はこの地域の「神明社」や「八幡社」の神職には青木氏と佐々木氏が実に多いのです。
    実はABCの判別にはこの「神職のルーツ」が判別要素の一つとして用いたのですが、この区域は特にこの傾向が顕著であったのです。
    この「Cの区域」は他と異なる点は「地元の血縁性のある未勘氏族の力」を利用した形跡があり、恐らくはこの力を利用し切れなかった一部の青木氏や源氏の賜姓族が西と北に更に定住先を求めて移動して行ったと考えられます。

    問題はこの「地元の血縁性のある未勘氏族の力」なのです。
    1000以上もあると云うか数え切れないと云うか、この「未勘氏族」と観られる族を全国各地に振り分けて、これに家紋群で貼り付けそれを「賜姓源氏」と「皇族源氏」と其の他の本領と成った豪族毎に分けて行く作業を行い研究し考察すると、その全体の傾向が掴めてきます。
    その内、清和源氏の占める割合は全体の8割弱を占めますが、この研究(何時か論文で発表)からこの「Cの区域」の「未勘氏族」を観ると、次ぎの様に分けられます。
    「清和源氏外の源氏の未勘氏族」(A)
    「賜姓青木氏族の未勘氏族」(B)
    前段で論じた「2つの絆族」の「薄い外縁未勘氏族」(C)
    或いは「家臣による青木氏未勘氏族」(D)
    以上4つで占められているのです。

    然し、これ等(A)(B)(C)(D)の「未勘氏族」は平安末期の源平の戦いと、室町期の「下克上と戦乱」で滅亡衰退して行き、或いは裏切り、結局はこの「Cの区域」に逃げ込んだ賜姓族は西と北に再び移動せざるを得なかった事が判ります。

    この事からもこの区域の「八幡社」は殆ど”「合祀八幡社」”や”「神明化八幡社」”と云うよりは、”「八幡化神明社」”と最終は流動的で室町中期から室町末期には成ったと考えられるのです。
    恐らくはこの区域での傾向として
    賜姓源氏系は佐々木氏で「合祀八幡社」、
    賜姓青木氏系は「神明化八幡社」
    以上にとに判別できるのです。
    それはこの神職青木氏が越後−陸奥にまで大きく血縁して全国的にも「神職青木氏」の多い所だからでそれを証明しているのです。
    全体としてもこの傾向は観られるのですが、この「中部域の神職」は相互に重層な血縁関係を結んでいる事が上げられます。
    この意味からもこの「中部域の八幡社」は全国最大の「神明社帯」とも云える神明社群の中で「合祀八幡社」と「神明化八幡社」の成行きは納得出来るものと成ります。
    この事は前段でも論じた「青木氏の職能集団」との関わりも大きく影響していた事が云えます。
    この事は下記の神明社の処でも論じる事に成る重要な事柄です。
    (前段の論説には大きく関わる領域ですので想起して下さい)

    結局は、このこの中部域は「神明社地域」と観ていて、元来は「神明社」と「八幡社」を合体合計した「264の神明社域」であったと考えています。
    中部域の「神明社の数」が「神明社」と「八幡社」のこの合体合計264とすると、上記する「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」と成り予測とほぼ一致して納得出来る論説に成ります。

    この地域では「弓矢八幡社」系の「頼信系源氏」とその「未勘氏族」は全て平安末期の「源平の初戦」の「富士川の激戦」で滅亡衰退している事から「弓矢八幡社」の意味合いはそもそも著しく無く成っているのです。
    前段で「平家織田氏の処域」で論じた様に、後に室町中期以降の勃興した武田氏が通説と成っている「頼信系源氏の河内源氏」の傍系を主張しているがその自説由来の経緯は疑問です。
    つまり、「頼光系源氏」と「4つの賜姓源氏末裔」と「皇族賜姓青木氏3家3流の勢力」と、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の「特別賜姓族の勢力圏」であった事が良く判ります。
    依って、筆者は”264(212+52)が中部地域の神明社の実質の勢力である”と観ているのです。

    鎌倉期から室町期中期には「源氏力」、又は「未勘氏族の力」がここまで及んでいなかった事が判り、「関東の戦略的前線」としての地域には「頼朝の源氏幕府」が元来より「浮き草」の上にあった事も良く判ります。
    その意味で「美濃」での「源平の初戦」は大きな意味を持ち、「近江源氏」と「美濃源氏」と「駿河源氏」と「木曽源氏」等の周辺の源氏主力が此処に終結して、敗退して滅亡した事は大きな意味を持っています。
    つまり「源平の勢力圏」の丁度、「間」に合ったことに成り、その「間」は同時に「神明社」の最大勢力圏であった為に平家側には富士川で大乱と成り、源平共に崩れて行った地域であったのです。
    「八幡社の勢力」と「神明社の勢力」が合体して戦ったとしたら互角の勝負に成る事は良く判ります。
    「八幡社族の源氏」と「其の他の源氏」と「3つの地域の神明族」がこの時に史実として参戦しているのです。その「八幡族」と引きずり込まれた「3つの神明族」は滅亡してしまったのです
    それを証明するこれが「八幡社と神明社」の対比データです。
    しかし、それにしても「神明社212」に対して「52の八幡社」は少ないのですが、「関西域の52」と同じ規模の「八幡社」をこの地域で有しているのです。
    この「地域の規模」を「八幡社+神明社」の「数」をパラメータとするならば、「源氏11家」と「皇族賜姓族、特別賜姓族」の本拠地でもあった「関西域77」に対して、「中部域」は何と264と成り、「約4倍の勢力圏」であった事に成ります。
    「都地域の約4倍」にも成る如何に大きな力を秀郷一門は持っていたかが判ります。

    そこで「神明社と八幡社」を全体で観てみると、「関西域の77」(都域)を1として観て見ると次ぎの「勢力分布」を観る事が出来ます。
    関西域は「神明社と八幡社」の「成立ちや有り様」が標準的な要素として存在していた事からそれを基準として全国のデータを観て観ると事は客観的な判断に成ります。

    そうする事により「2つの青木氏」の「全ての姿」を物語る極めて重要な結果が出るのです。

    圏域の勢力数                        総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
    1の関東域は 「八幡社94+神明社115」=209    2.7倍   4.6    1.8
    2の九州域は 「八幡社70+神明社13」=83      1.1倍   0.5    1.3
    3の関西域は 「八幡社52+神明社25」=77       1      1      1
    4の中部域は 「八幡社52+神明社212」=264    3.5倍   8.5    1.3
    5の東北北陸域は「八幡社38+神明社97」=135   1.8倍   3.9    0.7
    6の中国域は 「八幡社24+神明社9」=33       0.4倍   0.4    0.5
    7の四国域は 「八幡社21+神明社10」=31      0.4倍   0.4    0.4

    (この神明社の詳細分析は下記に論じる)
    前段で論じて来た青木氏に関する内容の根拠はこのデーターを引用するところが大きいのです。
    そして、この「最大の勢力圏」を誇る中部域は、更にはこれに留まらず東の後側に本拠地の「1の関東域」2.7倍を控えているのです。更には「5の東北北陸域」1.8倍を控えていて、都に比べて約合計8倍の如何に「絶大な勢力圏」を保持していたかが判ります。

    「神明社」だけでその勢力圏を観た場合に、都に対して矢張り中部域に8から9倍の主力があり、その後ろに本拠地の4倍の勢力を控え、東北北陸域には4倍の勢力圏を保持していた事が判ります。
    これは何を物語っているかという事ですが、この分布は「2つの青木氏」の「勢力分布」にも成り、青木氏の勢力外の「末裔分布」の状況・在様をも示している事に成ります。
    この傾向は八幡社を加えた総合倍率から観ても全く同じ倍率分布を示しているのです。

    次ぎの関係式が成り立ちます。
    総合倍率≒神明社倍率=「青木氏の勢力分布」=「青木氏の末裔分布」

    「神明社の勢力分布」は「青木氏の末裔分布」に完全に合致し、更にはその「青木氏の勢力分布」をも示し如何に正しい事かを意味します。

    「八幡社倍率」から「八幡社」だけで観た場合に都に対して大きく差が無く、ほぼ均等に勢力圏を広げ、その力は「神明社」の力に対して25%(1/4以上)以下の差があった事に成ります。
    「八幡社の分布力」は「頼信系清和源氏」の「勢力分布」であり「末裔分布」をも示しています。
    それは九州域−(中国域)−関西域−中部域−関東域が1〜2の中に在りここに「清和源氏頼光系四家」の勢力圏が入っていない事が判ります。八幡社を守護神にはしていなかつた事を証明しています。
    仮に入っていたとすればその勢力圏であった基圏域の関西域の1とする「基数字77」は高くなり最大の勢力圏域の中部域はもっと1.3から1以下に低くなる筈ですし、北陸域も一部勢力圏であった為に0.7より0.4程度にそもそも成っている筈ですがそうでは無く、「義家の歴史の行動史実」と数字は一致します。
    つまり「清和源氏頼光系四家」は「八幡社」を守護神にしていなかった事を示します。
    その分「神明社倍率」の数字は「賜姓族と特別賜姓族」の「2つの青木氏」の成す倍率以上のものがあるのは「清和源氏頼光系四家」の神明社の分が組み込まれているからです。
    これは次ぎに論じる「神明社の処」の論処で更に詳しく物語ります。

    「頼信系清和源氏源氏」とその「未勘氏族」の勢力と、「2つの青木氏」と「他の源氏力」の勢力には4倍の差があった事を物語ります。

    「頼信系清和源氏源氏力」+「未勘氏族の勢力」<「2つの青木氏力」+「他の源氏力」=1<4
    「八幡社」<「神明社」

    しかし、この神明社の勢力には弱点が在った事を示しています。
    中国と四国と九州域(0.4〜0.5域)には殆ど勢力は無かった事が示されています。
    「青木氏」、つまり「神明社」は”勢力が東に偏っていた事”を物語ります。これが弱点です。
    この0.4を勢力と観る場合、四国の讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」と一部「土佐青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
    同じく、0.4の中国は讃岐籐氏の「出雲青木氏」と鳥取米子の「足利氏系青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
    0.5の九州は北九州3県の分布の秀郷一門の「肥前青木氏」の「末裔の勢力」と見る事が出来ます。(下記に論じる)
    又、「青木村」を形成した「日向青木氏」は下記に論じますが「神明社」を建立する勢力は無かった事が判っています。
    以上「2つの青木氏」が分布する地域がこのデータに漏れる事無く完全に合致し、その「末裔分布力」、又は「勢力分布」として数字的に表現出来るのです。

    この結果、「八幡社の役割」は、「清和源氏分家頼信系義家一門」の「八幡社」であった事で、地域的にも、勢力的にも、期間的にも、「神明社」のそれに比べて1/4程度に小さく、元より大きな働きは無かった事が云えます。
    明らかに「弓矢の八幡」としての役割に終わった事が云えます。
    源氏滅亡以降は各地の武士、特に九州域と関東の南域による「未勘氏族」により支えられていた事を物語ります。

    「中部地域の八幡社」は、結論として「合祀八幡」乃至は「神明化八幡」であった事に成ります。
    「八幡社」のその「存在意義」は次ぎの様な変異を地域的に遂げている事が判ります。
    これは次ぎに論じる「神明社の論処」でも証明する事が出来るのです。
    西から北に掛けて次ぎの変異の存在意義であったのです。

    地域に於ける「存在意義の変異」
    「八幡社」(九州域)→「混在社」(中国域・四国域)→「合祀八幡社」(関西域)→「神明化八幡社」(中部域)→「八幡化神明社」(関東域)→「神明社」(東北北陸域)

    注:「混在社」とは「八幡社」と「神明社」が同率で変異せずに低率で混在していた事を示す。

    上記のフローから「九州域の八幡社」から「東北北陸域の神明社」へとその「有様」が次第に「地域変化」を起こしています。真にその中間が「関西域の有様」であったのです。
    そして、「九州域の未勘氏族」から「北陸東北域の民衆」の「有様」で合った事なのです。
    これは「地理的要素」と「歴史的要素」の「2つの違い」から来ているのです。
    上記の「存在意義の変異」を参考に殆ど「神明化した北陸東北の八幡社」に付いて次ぎに論じます。

    「5の北陸東北域」
    ・「5の東北北陸地域」の状況は次ぎの様に成っています。
    そもそもこの地域は歴史的経緯として「親神明社」と云うだけでは無く、更に強烈な「反八幡社」の土地柄なのです。
    この「民の心情」は歴史が長く古くは奈良期から始まり「蘇我馬子」の攻められ「蝦夷」と蔑まれ、その平安期初期(802)には「アテルイ騙し討ち事件」が起り、平安初期に掛けては「国家戦略」としてこの地域を征討し、その安定化の為に「朝廷の威信」を掛けて「神明社建立」を推し進めた地域でもあります。
    この「未開の蝦夷地の征討」とそれに合わせた「安定政策」が実行された苦い経験を持つ土地柄です。
    前記した様に「皇族賜姓族の神明社建立」から代わって「桓武天皇」による「皇祖神」に変わる「神明社建立」がこの地に推し進められ、「征夷大将軍の坂上田村麻呂」(806年)の丹沢城建設と共に勅命による「神明社」を20社程度も建立した特定の地域なのです。
    平安中期に入りこの地域は「阿多倍一門」の「内蔵氏一門」と「阿多倍」の末孫の「阿倍氏」の末裔圏域であって、その安定した地域を八幡太郎と呼ばれる「源義家」が未勘氏族発祥の基と成った「荘園制」を利用して、これ等の末裔子孫の「安倍氏」や「阿倍氏」や「清原氏」等の末裔子孫を制圧して、そこから「敗残兵」や「土地の農民」を集めて「奴婢」として各地の「未勘氏族」の「義家の荘園」の「働き手」として送り込んだのです。
    これ等の「やり過ぎ事」が原因で「朝廷」や「北陸東北の民」からも「源義家」が疎んじられ排斥された経緯を持っている土地柄です。
    この事が全国的な暴動に発展した度重なる苦い経験を持った地域なのです。(この経緯は前段で論じた)
    この様な「反清和源氏」に対する激しい反発感情の土地に「弓矢の神」八幡太郎の「八幡社」などは到底建立する事等不可能です。
    弓矢の「武士や兵」は勿論「民」までが700年に近い苦い経験の下に興った「反八幡社」なのです。
    しかし、「神明社」は「桓武天皇」の征討後の「政治的で戦略的な神明社建立の目的」ではあったが、「神明社」から主導する「生活の神」「物造りの神」としての働きが「民の心」の中にやがて浸透し「心の拠り所」として受け入れられたのです。
    そしてその立役者がこの地の為政を任された「藤原秀郷一門の鎮守府将軍」としての「政治的な働き」が有って「親神明社」へと傾いて行ったのです。
    その主役が「秀郷流青木氏」であり、「第2の宗家」でもあり、即ち「特別賜姓青木氏」としての「3つの立場」が「神明社の役目」を全うし民の心を安寧に導いた地域でもあるのです。
    そもそも「特別賜姓族」はその「土地の豪族」(小田氏、小山氏、花房氏等)との「重層な血縁関係」を作り、その「血縁族の一部末裔」が青木氏と共に関東に移動し足利や武田の土豪族と成り、遂には大勢力を誇り、それが室町期には「関東屋形」族と呼ばれる程の秀郷一門として関東から中部全域に掛けての大豪族にも成っているのです。
    これは全て「特別賜姓族の主導」(神明社建立)によるものであって、故郷の末裔は反旗を翻すどころか「親神明社」の領域を超えて「神明社」そのものとなったのです。
    この地域には関西域の「賜姓青木氏」も神職として赴き「神明社建立」の「職能集団」の定住も起こった位なのです。室町期末期には「関東屋形」の永嶋氏(結城)が陸奥域に移り住むと云う事まで起こったのです。この北陸東北域は関東域との深い関係を持つ神明社であって、この地域における八幡社は関東域の関係の背景を無視して論じることは出来ないです。八幡社=神明社としての論処に成ります。


    青木氏と守護神(神明社)−15の北陸東北域は次ぎに続く。

    「青木氏と守護神(神明社)」−16 に続く。


      [No.282] Re:青木氏と守護神(神明社)−14
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/12/25(Sun) 13:25:09  

    「青木氏と守護神(神明社)」−14

    本文
    「神明大社」との関係
    先ず、神明社又は神明神社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
    「神明社」とはそもそも、「天照大神」(「豊受大御神」)を祀る神社です。
      「経緯」
    「豊受大御神」(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は、「皇大神宮」「天照大神」の内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも云います。
    「皇大神宮」「天照大神」は言わずもがな国民等しく日を照らす神であり「太陽神」であり「自然神」であり後の「鬼道」の基に成ります。つまり要するに「民の心の神」であります。

    祭祀する経緯由来は、「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」のご託宣を受け「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、内宮にほど近い「山田の原」に迎えたとされるものです。
    この真偽の程は別として「雄略天皇」の「御託宣」とは、「心の神」に対して民には「生活の神」「物造りの神」が必要であるとしての行為であったと考えられます。人はこの「2つの基神」があってこそ「人の世の生の神」でありますが、当初は「心の神」だけを祭祀する事で「人の世の生の神」としていたのです。
    しかし「夢のご託宣」の「丹波国」からわざわざ祭祀の場所を伊勢国に移して「天照大神」(内宮)と共に「豊受大御神」(「外宮」)を正式に合祀して「皇祖神」として「2つの基神」を祭祀した天皇家では、その最初に伊勢国の現在地に於いて祭祀し始めました。
    その祭祀したのが「大化改新」(645年)の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この「2つの神」を「皇祖神」として祭祀しました。
    ところが、この」「天照大神」の「皇祖神」として長い間の遍座(90社90地域90年)からやっと伊勢神宮に遷宮したのですが、ただこのままにしては政治的に、国家戦略的に布教を進めるには問題があるとしたのです。
    (参考 伊勢大社建立期は他説あり 「大伯皇女」が「泊瀬の斎宮」に籠り、674年に伊勢大社の「斎王」として入るので、最終伊勢の周囲で更に遷宮した期間と建設期間と遍座期間と天智天武の在位期間内から判断すると650年頃と成る)

    その原意となったのはそれは後漢の人「阿多倍王」が率いる技能集団の帰化人等がもたらした「技能」に依っての事であります。その結果は「物造り」が盛んに成り、「民の生活の豊かさ」が増し、この「豊かさ」を享受することで国家が安定し安寧に進んだのです。それまでは前記した様に、3世紀から始まった「邪馬台国」から「大化期」までは国内での騒乱が続き、その中で100年周期の「著しい気候変動」によって飢饉が発生して民は大疲弊していたのです。其処にこの「技能」に依る「豊かさ」に依って民を安寧に導く方法がある事を「大化改新」の立役者の中大兄皇子は知ったのです。
    それまでは「自然神の鬼道」(邪馬台国の卑弥呼の「占い術」)が示す様に、民は「心の神」と「五穀豊穣」が叶う様に神に信心していたのです。
    然し、そうではない事を「為政者」も「民」もこの「技能から来る豊かさ」を知る事に成ります。
    この事が天智天皇の悟る処と成り、丹波国に「豊受大御神」を鎮座していたのですが「天照大神」と共に祭祀する必要性に目覚めさせたのです。
    「やまと王権」の応仁大王から始まる神代の時代の3代目の雄略大王を引き合いに出し「夢の御託宣」として古さを誇示し「天照大御神」に継ぐ「2つの基神」として考え方を変えた事を意味します。
    そして、この「皇祖神」に「天照大御神」を加えて「伊勢大社」に内宮と外宮として合祀する事になったのです。日向高千穂の地の「天岩戸神社」から発した90社90遍座を繰り返した「皇大神宮」「天照大神」を最終伊勢の地に遷宮する事を定めますが、この際にこの「2つの基神」をも伊勢に遷宮したのです。
    伊勢豊川を中心に近隣地域にこの「2つの基神」を「皇祖神」として125社の分霊を行いますが、ここで政治的に国家統一の戦略的な意味合いから、この「2つの基神」の「皇祖神」だけでは成り立たなくなったのです。
    「2つの基神」とは次ぎの様に成ります。
    「自然神」+「鬼道」⇒「皇祖神」=「天照大御神」+「豊受大御神」=「心の神」+「生活の神」「物造りの神」
    「生活の神」「物造りの神」=「豊受大御神」=「祖先神」=「神明社」
    「祖先神」=「代替神」=「皇祖神」
    ∴「皇祖神」=「天照大御神」+「祖先神」


    それは、前記で論じて来た様に「民の声」が「豊かさ」を享受してくれる「生活の神」「物造りの神」の要求度が大きくなった事によります。
    その為には天皇は急務として「大化改新」の一つとして「皇祖神」に繋がる「代替神の創設」が必要と成り、別の国策「3つの発祥源」としての「賜姓臣下」の「融合氏」の青木氏に、この「代替神」を創設させる事に成ります。そして上記の関係式の通りのその「代替神」を「皇祖神」に継ぐ「祖先神」としたのです。
    その「祖先神」を祭祀する「代替社」を「神明社」としたのです。

    「3つの発祥源」+「皇祖神の代替神(神明社)」=「青木氏の象徴」⇒「4つの発祥源」

    この青木氏が「守護神」とする「神明社」は上記の経緯から、「豊受大御神」を主神として「生活の神」「物造りの神」として「民から信仰」を集めたのです。
    この「皇祖神」の「伊勢大社」のある伊勢国に「神明の社」を創設して松阪の地に定めました。
    この時、「伊勢大社」の125社と同じく近隣地域に先ず19社の神明社を建立します。
    そしてそこには「皇族第4世王皇子」を配置して守護させました。
    後にこの天領地の主要守護地(5地域:東山道域+東海道域)には「第4世王内」の「第6位皇子」を賜姓臣下して配置したのです。
    然し、ここに至るまでには「皇大神宮」は大変な経緯と遍歴(90年−90箇所)が伴ない、最終的に天智天皇が伊勢を鎮座地として定めるには簡単ではなかったのであり、かなりの時間と複雑な経緯を要したのです。

    そこで、この事に付いて「皇祖神の伊勢大社」と「祖先神の神明社」との関わりに付いて理解を深める為にも先に触れて置く事にします。
    先ず、日本人に於ける「神」は悠久の歴史の中で一つであったと考えがちですが、ところがそうではないのです。
    日本は、”世界に稀な「7つの融合単一民族」だ”として、その「由来や経緯」に付いて今までいろいろな角度から詳細に既に延々と論じてきました。
    そこでそれらの「神の事」に付いて取り纏めますと次のように成ります。

    「氏神の種類 4神」(下記に詳細説明)
    0 「自然神」(しぜんしん)
     山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿る神とし「否特定の神」

    1 「産土神」(うぶすながみ) 
    その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」

    2 「祖先神(祖霊)」(そせんしん)
    「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

    3 「氏神」(うじがみ) 
    「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

    4 「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 
    「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

    (注 0は1から4の基本に成る。 不特定にて独立して祭祀されている部分もあり 其の一つとして「天皇家の祭祀」はこれに当る。)

    「氏の神の種類 4神の経緯」
    上記の説明を前提に次ぎの経緯・背景に付いて先に論じます。
    上記の”一つでは無い”と云う事のその大元は「7つの融合民族」が原因しているのです。
    先ず最初にはこの「7つの民族」の「融合過程」から起る「ある程度の集団化」が起こります。
    それは先ず最も血縁する一族一門の「小さい集団化」の「氏の形成」であったのです。
    その「小さい集団化」の形が「氏家制度」(氏の形成)と云う形で「規則化」が起こった訳です。
    その「氏の形成」が奈良期から室町期までの事として、大別すると幾つかの氏の種類が起るのですが、最初は「7つの民族」の小さい範囲で「集団化」が起ります。
    それが先ずは「民族氏」Aであったのです。
    次ぎにこの「民族氏」Aのある種の弊害の事由により政策的に推進して「融合氏」Bが発祥します。
    要するにその「融合氏」Bの最初は青木氏であります。
    更に、この「民族氏」Aと「融合氏」Bとの血縁化による「血縁氏」Cが誕生します。
    次ぎにこの「融合氏同士」の血縁化による枝葉化した「枝葉氏」Dが誕生します。
    これ等の支配下にあった者等が勢力を勝ち取りそれらの血縁化が起こり「姓氏」Eを構成します。
    この「5つの集団化」(A〜E)が当然に遺伝子的に各々の立場から来る考え方で”自らを守護し信じる神”を構築し祭祀する事に成ります。
    この立場から来る「守護神」が上記(下記にも詳細記述)に示す「5つの神」であります。
    これが一つに纏まらなかった経緯なのです。
    ところが、この「5つの神」(0→4)は「支配する族側」の「守護神」であり、「民衆の守護神」ではなかったのです。
    それは「支配される側」の民衆は「氏家制度」と言う「身分制度」の中で拘束されていた事から生まれ得なかったのです。しかしながら彼らもそれなりに「心の拠り所」としての「何がしの行動」を採ったのです。
    民衆の「心の拠り所」としての「神」に対する考え方には「2つの形」があるとしています。
    1つは”人は迷うものである”とする仏教の教えから来る救いの神を「心の神」としてこれを「神仏」に求めたのです。−(「心の神」)
    2つは”安寧と安定はその生活の豊かさにある”として「五穀豊穣と物造りの願い」として「生活の神」を求めたのです。−(「生活の神」)
    この「民衆の支え」(「心の神」+「生活の神」)は”国の安寧と安定に繋がる”として「支配する側」はこの「2つの神」の形の実現を目指したのです。
    彼等の民衆は大まかには「部曲と民部」に分離され、その「部曲と民部」の「支配される側」の民衆は「殖産」と云う形で「共通項」(接点)を持ち得ていて、そこにその「共通項」(接点)の「共通の神」を求めたのです。
    「共通項」(接点)=「殖産」
    「支配される側」の民衆には、「守護神」」(「心の神」+「生活の神」)を単独で維持管理する勢力は当然に到底持ち得ていない訳ですから、単独では無く「支配する側」の「神」にその神を定めたのです。
    中でも下記に記述する様に、「国の神」でもあり「万世一系」に通ずるとして天皇家の「皇祖神」に信心しそれを「心の神」としたのです。

    (”万世一系に通ずる”は「7つの融合民族」である限りあり得ない事で全ての万民を皇祖神に結び付ける為の「政治的方便」であり、「皇祖神」=万民の「心の神」とするものであった)
    そして、「皇祖神」=万民の「心の神」とする以上はその「皇祖神」に繋がる「祖先神」に対して、「共通の神」「共通項」(接点)としての「生活の神」即ち「殖産の神」を求めたのです。

    「2つの基神」
    「皇祖神」=万民の「心の神」
    「祖先神」−「生活の神」(殖産の神)

    「支配される側」の民衆は「心の神」の「皇祖神」と、「生活の神」の「祖先神」とに分離して信仰し祭祀を重ねたのです。
    これが平安期までの「神の姿」であり、国民は総じてこの「2つの基神」に信心する形が出来上がったのです。
    そもそも平安期末期までは、朝廷により「八色の姓制度」などで「氏規制」され制限されていた為に、初期には20からせいぜい末期80までの「氏」での構成であり、「氏毎の守護神」を作るまでには至らず、国民全ての「共通の神」は「自然神」であり、帰化人が持ち込んだ「産土神」と、「融合氏」を始めとする「在来民」の「皇祖神−祖先神」との構成に成っていたのです。
    「民の共通の神」は「自然神」⇒「皇祖神−伊勢大社」

    ところが鎌倉期に入り平安末期の「融合氏」の青木氏を始めとする「武家の台頭」により朝廷からの許可規制と八色等の法の規制が外れて、氏数が200に乱立し到達し、その氏は「武家の独善の守護神」を求めるに至ったのです。その結果、次ぎの様な類別される守護神の考え方が出来上がったのです。

    「武家の守護神」の誕生 →「自然神」「産土神」「皇祖神」「祖先神」に変化

    此処で、「支配される側」の民衆は「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対して無視する事が出来ず、上記した様に「2つの基神」の使い分けを試みたのです。

    「自然神」→「支配される側」の民衆→「心の神」の「皇祖神」→「武家の守護神」

    然し、「支配される側」の「生活の神」の信心は強く、「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対してはその信心は強くは生まれず、結局は旧来からの悠久の歴史を有する「皇祖神−祖先神」に対して”霊験新たか”の心を捨てる事はしなかったのです。
    それは、全ての神の「共通神」の「自然神」に通ずる「神」である事、更には台頭した氏の歴史の無い「守護神」には「生活の神」までの「霊験」を主張する事は出来なかったのです。

    (守護神 阿蘇大社、宗像大社、出雲大社、住吉太守、熊野大社等を背景として氏子集団が台頭して「姓氏」が乱立した)

    結局は「支配される側」の民衆は「生活の神の祖」としての「皇祖神−伊勢大社」、現世の「生活の神」の「祖先神−神明社」に信心を求め続けたのです。

    「生活の神」の「皇祖神−伊勢大社」⇒「祖先神−神明社」

    その時代の経緯の中でも、台頭する他氏と異なり、われ等の「融合氏の青木氏」は身分の別があるにせよそこに「溝」を求めずして「4つの青木氏」を構築し、「支配する側」と「支配される側」が一体と成って民衆が求める「祖先神」を祭祀し続けたのです。(詳細下記)
    その一体化は国民は皆等しく「生活の神」の「皇祖神−伊勢大社」⇒「祖先神−神明社」に求めたからであって、「3つの発祥源」としても求められた事に由来するのです。
    その求めに応じて働いたのが「神明社」の「管理・建立の職能集団」や「青木氏の神職」等の前回より論じている青木氏の「部」との掛け合いであったのです。

    青木氏=「2つの血縁族の青木氏」(賜姓族、特別賜姓族)+「2つの絆族の青木氏」(未勘氏族、職能族)

    この行為が下記する「物造りの氏上」と成った所以なのであって「氏神様」の呼称の所以でもあるのです。

    (室町期以降の書物には”「氏神様」”と呼称の字あるが、筆者は上記する「4つの青木氏」の事から平安期までは”「氏上様」”の呼称であったと考えていて、江戸期前には「御役」(御師)の呼称もある処から間違いは無いと考えています。この変化は平安期まであった「民族氏」と「融合氏」は衰退し室町期に多くの「姓氏」が発祥し、その結果、彼等の「守護神」とする「氏神」の呼称と「物造りの氏上」の呼称が重なった事から次第に間違われて行ったと考えられます。)

    「二重の信心構造」
    他氏の支配下にあった「部曲と民部」の民衆は、支配される「守護神」に信心する事は当然としても「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」にも信心すると云う「二重の信心構造」を持っていたのです。
    何れに重点を置いていたかは”「5つの神」の何処に所属するか”とか、「氏家制度」の中でその氏の「勢力」「環境」「身分・家柄」に依って異なっていて判定が困難ですが、大別すると筆者は「心の神」は其の「氏の守護神」に求め、「五穀豊穣や物造り」等の「生活の神」には最終的に平安期末期頃には「皇祖神−祖先神」に置いていたと考えられます。
    「皇祖神」の天皇家では「自然神」から来る新嘗祭等の祭祀を司り、全国に125社の伊勢大社の分霊を置き、「祖先神」の青木氏の「神明社」(566社程度)には朝廷もこれを推進し、中でも「桓武天皇」は積極的で全国を征討する旅に「神明社」の建立を命じて行った背景があります。
    平安期末期までには「式内社」として凡そ500社−600社に上る支社・分霊を置いて民衆の「生活の神」に応えています。室町期末期では「式内社」外の「氏社」として1000社、江戸末期では5000社位にも成っています。各土地の累代の守護や領主が神明社のないところや新たに村の形成で必要となった領域には「民の安寧と安定」を願って積極的にその資力で建立して行ったものです。
    特には江戸期全般を通じて「他教の布教」が目立つ事もあって「神仏分離令」などを発して奨励したのです。
    「伊勢信仰」と「神明信仰」を始めとして「熊野信仰」や「諏訪信仰」や「阿蘇信仰」や「出雲信仰」や「宗像信仰」や「住吉信仰」や「八坂信仰」や「八幡信仰」や「大神信仰」等多くの「大社信仰」を競わせて各地に布教を奨励したのです。(末尾の付録データ参照)

    そもそも神社は其の信仰の利害を配慮して”神社は本来古いもの”として信じさせて、各地の「神明社」の由来を明確にしない傾向があり、正しいカウントがなかなか出来ない処があります。
    しかし、「鳥居や社舎の建造形式」や「建設地の地形」や「古い土地の豪族」や「神紋」などから判定する事が可能であり、その判定方式からすると凡そ566社として全国的には以上の様に成ります。
    (下記 素データは付録記録参照)
    しかし、これには正式な支社・分霊社かどうかは判別できないし、室町期末期の以降頃に各国の豪族は「心の神」は氏の「氏神」に求められるが、「生活の神」には出来得ない事から「象徴と権威」の「祖先神の神明社」に求め、青木氏が建てるのではなく上記する様に江戸期には土地を支配する大名大豪族自らが独善的に建立すると云う現象が起こったのです。
    (依って本文はこの室町末期から江戸期のものに付いては除外した)
    その前兆は「氏の拡大」と「姓氏の発祥」で、その家柄、身分、由来などを誇張し搾取すると云う現象が起った事で、その影響を受けて平安末期頃から徐々にその「社寺の由来や寺社歴」に対して「搾取偏纂の横行」が起ったのです。中でも「皇祖神」125社に繋がる神明社600社が多く狙われたのです。
    その原因は「平安末期の混乱」と「武家社会誕生」に依って「2つの青木氏」の勢力が一時混乱し衰退した事でその「150年程度の間隙」を狙われたのです。
    青木氏のそれを阻止する勢力はこの時期には最早無くまた方針も意思も無く、むしろ黙認し放置していたのです。
    青木氏に於いては「氏の存続」に対してその「利害の損傷」は余り無かったと観られるのですが、その傾向は広く主に関東域と関西より以西の地域で起りました。(付録データ参照)
    その意味で「神明社の検証」はこの搾取に付いては深慮な考察が要求されるのです。
    これは鎌倉幕府以降から室町期中期までは「武家の社会」となり「関東域の豪族」が勢力を拡大させた事によると観られ、武家社会の家柄身分の誇張現象の風が吹いたのですが、その影響で「民の信任」を引き付ける為に「民の生活の神」としての「神明社」を独善的に建立したと考えられます。
    この傾向が調査により131社−全国比 23%にも成ります。1/4もです。無視出来ない勢いです。

    では”その豪族は何氏なのか”と云う事に成りますが、「神明社」を建立すると云っても「維持管理」に対してそれだけ「財力と勢力と維持力」が必要であり、豪族と云うだけでは過去の慣習から建立は不可能であります。又、其の建設に必要とする「職能の保持」と「神職が氏に有する氏」ではなくては困難であり、「氏家制度」を確実に構築している豪族が可能と成ります。
    「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」ですし、他氏(殆どが氏神)が建立すると成ると、「青木氏」の「祖先神」の「神明社」としても矛盾が起り許可を得る事の必要性もあり、皇族や朝廷の許し無くしてはなかなか難しい筈です。勝手に進めれば「朝敵」の汚名を受ける事にも成りかねないし下手をすると衰退の道を歩む事にも成ります。
    少なくとも天皇朝廷との強い繋がりを有する豪族氏である事に成ります。依ってその氏は必然的に限られます。
    当然に、この領域は平安期からは北家筋の藤原秀郷一門の領域ですから、この地域の支配者としての建立に必要とする条件は藤原秀郷一門には全て備わっている事に成ります。
    この様な背景がある以上はこの室町中期前、又後期に於いてもこの「神明社の建立」は間違いなく「藤原秀郷流青木氏」による建立と考えられます。(下記のデータでも証明)
    藤原氏は「鎮守神」の「春日大社」であり、この関東領域に「祖先神の神明社」を建立する事が出来るのは中でも青木氏のみであります。
    「特別賜姓族」であり「賜姓族」と全く同じ「家柄、身分、官位、官職」を持つ氏であるからです。
    もし他氏が建立するとしても争いが起こりますし、青木氏の存在する領域に建てる事は上記の慣習に伴なう条件を備える事はなかなかに難しいと考えられます。
    ただ群馬北域に付いてはこの室町期中期以前には特別賜姓族と賜姓族の青木氏の定住は少なく建立する条件が備わっていたかは疑問でありますが、隣接する国境域の建設は有り得ると考えられ確認したところ「神明社建立地」は越後、信濃、甲斐、武蔵、下野に隣接する国境の領域が殆どです。依って群馬域は可能であったのです。
    この隣接する国域は全て「2つの青木氏」の領域であり、その領民は「4つの青木氏」のスクラムの所以であります。
    このデータから観ても「4つの青木氏」のその「スクラムの強さ」をも証明する事が出来ます。
    依って、特別賜姓族で藤原秀郷流青木氏の影響から観ると、117/566と成り、全国比21%を占めるものと成ります。仮に群馬を外したとしても、103−地域比 79%−全国比 18%も占めます。
    全国の1/4の神明社を伊勢ではなく武蔵の領国に建立すると云う事は「秀郷流青木氏」は「特別賜姓族青木氏=賜姓族青木氏」の考えを以って心魂からその責務を果たそうとしていた事に成ります。

    更には下記のデータから顕著に出ている事は、「/地域」でも「/全国」でも「神明社の分布比率」は特別賜姓族で「秀郷流青木氏の末裔分布」の比率に完全に沿っています。
    (これは賜姓族の末裔分布比率も同じ 下記])

    「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
    「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」

    そして武蔵国だけでも全国比10.8%強の高い比率で関東域の中心に成っています。
    「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」と呼ばれる所以がこれでも良く判ります。

    本来で有れば「春日大社」の完全領域ですが、61にも成る「神明社」がある事は、「心の神」は「春日大社」にあるとしても、「生活の神」「物造りの神明社」としての特長が色濃く出ています。
    藤原一門としても「神明社」に対する「心入れ」は相当なものであった事が云えます。
    これは「戦略的意味合い」と云うよりは「政治的な民に対する姿勢」であった事が云えます。
    「秀郷流青木氏」と「特別賜姓族」の立場を持ちながら「第2の宗家」としての立場をも揺るぎ無いものにしていた事を物語ります。
    恐らくは本領にこれだけの「祖先神」の考え方を入れられては「鎮守神」の考え方が霞む事も在り得て一門から反発は本来であれば出る筈ですがむしろ積極的な姿勢とも読み取れます。
    更には藤原一門の「春日大社群」の中で「秀郷流青木氏」は「2つの青木氏」側にその軸足を強く置いていた事が良く判ります。又、これだけの「神明社」がある事からもこのデータから甲斐の青木氏が「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んだ史実の事が良く判ります。
    「春日大社群」の中では逃亡生活も躊躇する事もあると考えられますが、これだけの「青木氏の神明社」がある事が身を寄せる気に成った条件でもあったと考えられます。
    又「氏家制度の青木氏」という仕来りを「秀郷流青木氏」は厳格に護っていたことを意味します。
    むしろ藤原氏よりは青木氏側に軸足が掛かっていた事が伺えます。
    しかし、其の中でも「第2の宗家」と呼ばれていた事は相当な一門からの信頼を受けていた事も判ります。

    (Aの分布表)
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    関東域  5県−103−18.2%  
    茨城(常陸) 8+1    6.9  1.6
    千葉(下総) 22    16.8   3.9
    埼玉(武蔵) 31    23.7   5.5
    東京(武蔵) 30    22.9   5.3
    神奈川(相模)9+2   8.4   1.9

    この傾向は次ぎの地域(Bの分布表)でも同じで一層「2つの青木氏」(皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏)の結びつきを証明しています。(特別賜姓青木氏とは藤原秀郷流青木氏である)
    ”埼玉入間を中心に半径神奈川で円を書いた領域に青木氏が螺旋状に取り囲んでいた”と云う記述は良く証明されています。この数から観ても分布から観ても切れ間無く神明社を建立していた事が観えて来ます。
    「生活の神」「物造りの神」と当時に藤原秀郷一門の戦略的な役目も充分に果たしていた事が観えます。
    「祖先神」「鎮守神」の二つが混在する中で一種不思議な現象とも取れますが、これが藤原氏の「生き残りの戦略」であって ”何事にも融合する”と云う適合性をこの「融合氏」は遺伝子的に天性として持ち得ていた事が云えます。
    明らかに「赴任地戦略」として”血縁子孫を赴任地に残してくる”と云う事を採用している事にこの事からも伺えます。故に源氏と異なり状況に順応して生き残れたと考えられます。
    これは秀郷一門の性格を物語る大事なデータであります。
    「生きる為の考え方」に付いて「2つの考え方」をしていた事に成ります。なかなか難しい事であります。
    それは”人は物事に拘泥する性質を持っている”と仏教では教えていますが、この「融合氏」はそれを克服して”2つを一つにする思考原理”を造り上げていた事を意味します。
    故に”不思議”と云っているのですが、その先頭に立っていてその両方を責務義務として生き抜いている特別賜姓族の秀郷流青木氏がいるのです。
    どちらかと云うと、「賜姓青木氏」より難しい世の中を難しい考え方で行き抜いたと云えるのではないでしょうか。
    大化前の蘇我氏の専横の為政者の蘇我氏の行き方よりは遥かに優れていて為政を担う立場に於いては数段に優れていると筆者は断じているのです。
    むしろ「日本の政治史上」に於いて最も優れた為政族であったと考えます。
    日本の現在の「物造りの下地」と「律令の下地」を作った「産土神」の「民族氏」の「阿多倍一門」と、それに勝るとも劣らずその2つを上手く運用した同じく「政治的な下地」を構築した「融合氏」の「藤原氏北家」がこの「日本の基礎」を造ったと考えられます。
    この「縦横無尽な性格」の所以であり日本の歴史上の喜事であります。

    (Bの分布表)
    北陸道域 4県−104−18.4%
    建設地域   戸数   /地域   /全国
    新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
    富山(越中) 32+1 31.7  5.8
    石川(能登) 1+1   1.9  0.0
    福井(越前) 8     7.7  1.4

    ここには「秀郷流青木氏」の中に「3つの青木氏」(皇族賜姓美濃青木氏と信濃青木氏と甲斐武田氏系青木氏)が逃亡した地域でもあります。
    「豊臣−徳川の戦い」と「織田−武田の戦い」の「2つの戦い」に依って敗走して秀郷流青木氏を頼ったのです。中でも「越後」は平安期から朝廷の蝦夷地域の征圧の[前線基地]として力を入れていたところでもあり「神明社」の建立は政策的課題・戦略拠点として盛んであったのです。
    鎌倉期−室町期に入っても秀郷一門が「鎮守府将軍」として9代に渡り「北の勢力圏」として勢力を保全する「戦略上の前線基地」でもあった事から、次ぎに論じる「東山道域」(Cの分布表)に継ぐ「神明社地域」でもあったのです。
    関東域の比率(18.2%/18.4%)に勝るとも劣らず同率であります。
    これは大きな意味を持っています。
    越後の青木氏は「武蔵の領国」の「総宗本家」と同じくらいの力を持っていた事を意味します。
    これは別の面で言えば「発言力」に起因する事に成る訳ですから”一軍の将、2頭相立たず”の例え通りもめるが必定です。然し、揉めていないのです。
    現実には武蔵の青木氏は「第2の宗家」として君臨しているのです。
    恐らくは、陸奥域の前線基地としての役割上、宗家の青木氏はこの越後との関係を強化していた事を物語ります。むしろ宗家の「出先機関」であったと観ているのです。
    だから、「関東」と「越後」のこの2地域は賜姓族の青木氏の逃亡を助け保護したのです。
    その証拠に此処越後には秀郷の遠戚族の藤原利仁流が東域よりに定住していて、少ないですが、利仁流青木氏が血縁の結果生まれているのです。山形福島の県境東域に分布しています。
    これは越後を戦略上の最大重要拠点として位置付けている事を意味して、当然そうなると武蔵の宗家の青木氏も出張る事は必然です。

    「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
    「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」
    当然に、この関係式は例外無く全国的でありますが、ここでもより上記の関係式が成り立っているのです。
    (下記で詳しくデータで論じる)
    「関東域」の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んで保護された事のみならず、其処にも上記の「3つの武田氏系青木氏」が逃げ込んで定住した事からも、「秀郷流青木氏」の勢力が関東のみならずこの地域にも頼られるだけの力と土壌を有していた事を物語ります。
    その勢力は上記の密にしてむしろ関東域を凌いでいます
    それは逃亡して来た賜姓族系の青木氏の「諏訪大社」が全国的に見ても関東域を凌いでいるのです。
    本来であればこの時代の慣習からはあり得ない筈なのです。
    その「秀郷流青木氏」の姿勢がより「神明社の信仰」が相乗的に益々活発化したと考えられます。
    其の証拠に「賜姓諏訪族青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」がここに「諏訪大社」をも建立していて、全国的に観ても諏訪大社の最も多い所なのです。
    それを許す「秀郷流青木氏」のその度量のある勢力が観えて来ますし、賜姓族側の「軸足の置き方」を更に証明します。戦略上危険である筈で氏家制度の中でそれを許す事が出来るのは矢張り武蔵の宗家が出張る以外にはないのではと考えられます。
    つまり、全国の24の地域の指揮系統をどの様にしていたのかが問題です。
    果たして、氏家制度の中で(「秀郷流青木氏」の中で)”何処の青木氏が指揮を採っていたのか”が疑問と成ります。
    そもそも集団の逃亡者を保護し、他氏の守護神をも建立させる事を許す事は場合に依っては秀郷一門としても戦略上簡単に許す事は出来ない筈で、そうなると当然に武蔵入間の宗家の許可無しでは出来ない事は間違いなく、その宗家を説得していたのは”何処の秀郷流青木氏か”と云う事なのです。
    果たして”入間の青木氏の宗家”なのか、”地域事の個別に指揮を得ていたのか”、はたまた”他の地域からの働きかけで指揮を得ていたのか”が疑問です。
    筆者はそれには下記にも神明社のデータから論じられる様に、”「2つの青木氏」の「2つの指揮系統」が互いに連絡を取り合い秀郷宗家の指揮を得ていた”と考えているのです。

    この保護の史実は、「関東域」、「北陸道域」のみならず「東海道域」、「南海道域」にもあるからであります。九州域を除いて秀郷一門のどこも例外なく青木氏の逃亡者を保護しているのです。
    これは「神明社の建立」の比率にも沿っているのです。
    戦略上からすれば、5地域では強いところ弱いところはある筈で受け入れは困難とも成る事は当然に起る筈です。しかし、全て受け入れているのです。
    この事から考えれば、”「2つの指揮系統」が連絡をし合って指揮を受けていた”と判断出来るのです。

    それは「皇族賜姓族」の地域が神明社の数の全体の1/3を占めていて、残り2/3は「秀郷流青木氏」と成ります。
    この時代に「連絡の取り合う事の出来る条件」と「保護する事の条件」が兼ね備わっていなくては決して出来る事ではありません。
    では ”それは何なのか”と考えれば、先ずは「第1要件」としては次ぎの様に成ります。
    「第1要件」
    1 「保護する事ができる武力」
    2 「情報を伝達する情報網と設備」
    3 「保護収用する設備と経済力」
    4 場合に依っては「医療等の介護能力」
    先ずは以上「4つの要件」が確保され充実されている事が必要です。

    「第2要件」
    次ぎは「第2要件」としてはこの時代のみに必要とする要件です。
    A 当然それに対する「ケアー能力」等の「総合力」が絶対的条件として必要です。
    B 又、「民衆の賛同や土豪の同意」も必要と成ります。

    この第2の「2つの要件」(A、B)は下手をすると争いとも成り得る難物で、何時の世も充分に警戒する事柄です。安易には出来ない事である事は一族の悲惨を招く結果とも成ります。

    では、藤原秀郷一門の青木氏が実行し得た上記する要件・条件に合致したものとは、”何なのか”−”それが「神明社」である”と云う事に成ります。
    実は、当時、「神社仏閣」はその建立する目的にはもう一つの「戦略的意味」を持たしていたのです。
    それは「領国の防衛上」の「前線基地」Aでもあり、「情報収集の拠点」Bでも有ったのです。

    これ等は上記した様に、戦略上重要な拠点で主に「国境」に位置する「地形的に良好な位置する山岳部」を選んで建立されているのです。(室町末期と江戸期建立の大きな相違点 :平地の要衝地点)
    当然、例外なく「祖先神の神明社」もその意味を強く持たしての建立であり「建立地域の地形」から観て例外はありません。これは一種の「城郭」でもあり「櫓城」で有ったのです。
    この「城郭」の社には神官住職以外に必ずその神社仏閣に所属する「警護侍」を配置していたのです。
    そもそも「武士」つまり「侍」は「寺の人」と書きます。”さぶろう”の寄り添うの意から”さむらい”呼ばれる様になったものであり、「社の人」も同じく「神社侍」と呼ばれていたのです。
    この逃亡の受け入れの設備としての「神明社」が「皇族賜姓族側」には1/3の148と、「秀郷流青木氏側」には2/3の418があり、この設備を使う事で上記する全ての絶対的条件は備わります。
    つまり、「皇族賜姓青木氏側」から「秀郷流青木氏側」にこの「連絡網」を通じて「各種の情報」Bが入り、宗家との談合により決断を夫々地域の拠点に指揮する体制が出来上がっていた事を物語ります。
    この「2つの青木氏」の割合(1/3-148)がその「総合的な氏力」を示していたと考えます。
    これは「政治力、軍事力」だけではなく「2足の草鞋策」や「4つの青木氏」の力の「総合力」であったと考えられます。
    賜姓青木氏=148−1/3−組織力・経済力・職能力
    特別賜姓族=418−2/3−政治力・軍資力・総合力
    ”「賜姓青木氏」に足りないものを「特別賜姓族」が補う”と云う態勢が確立していたからこそこの様なデータが出たのではないでしょうか。
    こんな素晴らしいシステムを”食うか食われるか”の時代の「生き残りの手段」として使わない方がおかしい訳であり、使わないのは愚能そのものであり得ない事です。必ず使ったと考えられます。
    この「2つの青木氏」がスクラムを組めば先ず打ち叶う氏は「大蔵氏」を始めとする「阿多倍一門」を除いて無かったと考えられます。
    この「4つの青木氏」の弱点は「情報力とその収集能力」であり、これを破ればこのシステムは崩れるのです。
    云わば人間の欠陥であります。その為には政治的にも戦略的にもその「総合力」を背景にしてそれを生かすには何よりも先ず「情報力」が優先されます。
    「総合力」=「情報力」
    その為にも、現実には「戦いの作戦基地」を山城から出してこの「神社仏閣」にまず移したのです。城で作戦する時は最早、非常時の篭城作戦の前兆であり、作戦展開するには城は活動や情報収集には不便なのです。
    特に「4つの青木氏」に取っては互いの連絡も他の変化の情報も全ての情報は「生命線」であり「神明社」は単純な神明社だけでは無くその「組織体の要」とも成っていたのです。
    (「組織体の要」のツールが必ず必要です。一種「人間の血管」に価する物が「シンジケート」と説いている)
    この様に「神社仏閣」の建立の目的は「心の神」「生活の神」「物造りの神」だけでは無いのであります。
    平時の時ではいざ知らず乱世であります。”使えるものは何でも工夫して使う”の精神が必要なのです。
    そこで、更に考察しますと、関東域の秀郷一門の宗家を入間にして青木氏が本家分家筋を主体として螺旋状に横浜神奈川を半径として取り囲み護っていたのですが、「心の神」「生活の神」「物造りの神」にしては103は多すぎると考えられます。宗家付近の武蔵だけでも61もあるのです。
    「心の神」「生活の神」「物造りの神」であるのなら”多ければ良い”と云う物ではありません。
    間違いなく「戦略的な防御体制の代物」の意味があった事を物語ります。
    この傾向は全ての拠点に云える事であります。

    筆者が論じて来た「青木氏のシンジケート」はこの「神明社システム」が機能していた事を意味しているのです。そしてこの全国の神明社のデータから読み取れる全ての事柄を論所の一つの基礎にしているので有ります。

    「皇族賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が5家5流を統括し、「特別賜姓族青木氏」では入間の「宗家青木氏」が116氏を総括していたと考えられます。何れも賜姓族の「青木一族」の「2極体制」であります。
    特にその中間の位置にして「仲介役」として機能さしていたのが平安期より「伊勢秀郷流青木氏」(伊勢特別賜姓族青木氏)が担っていたと考えられます。
    何故ならば、それは九世紀始めから秀郷の祖祖父の従4位下の宗家の「藤成」(820年頃−嵯峨天皇期)がこの伊勢の「半国国司」を務めていた事からも良く判ります。
    (「桓武天皇」没年の806年頃で神明社創建は一時止まる。15年後に衰退した青木氏の建て直しに「嵯峨天皇」は「藤成」を差し向けた。)
    この人事から観ても、「入間の青木氏」よりはより「特別賜姓族的な青木氏」の傾向を累代にこの「伊勢秀郷流青木氏」が持ち合わせていたと考えられ、秀郷以降は双方の賜姓族の「立ち位置のズレ」を調整していたと考えられます。
    物事の進行は当事者同士だけでは成り立つものではなく、何時の世もこの調整役を演じる「仲介者」がいて成り立つものです。ましてこの様な難しい事を実行するには危険が伴ない危険が生じた時には双方が円滑に連携して対処して解決できるものであり、悠久の歴史を誇る「2つの青木氏」ならではの事で有ります。
    因みに「特別賜姓族の青木氏」は関東域外に次ぎの様な戦略的な指揮を演じる根拠地を有していた事が系譜添書や主要家紋の如何で判ります。(詳細は下記)
    武蔵入間を本拠地として「特別賜姓族」としては次ぎの「4つの指令基地」があった事が検証できます。

    特別賜姓青木氏−34県−418−73.8%
    北陸道域   4県−104−18.4%−北陸域 (Bの分布表)
    東山道域   6県−105−18.6%−東北域 (Cの分布表)
    東海道域   8県−154−27.2%−中部域 (Dの分布表)
    移動先域  16県− 55− 9.7%−分布域 (Iの分布表)
    (詳細地域は下記)

    4つの各域には神明社100を超え全国比で一地域2割近い分布状況です。
    1県に付き20〜25の神明社を有しています。
    当時の人口から観て現在の1/3〜1/4程度ですから、郡制でしたから1県に4〜6の郡数として一つの郡に4〜6の神明社があった事に成ります。
    当時としては「心の神」「生活の神」「物造りの神」の目的だけであればやや多すぎる感が否めません。
    郡の大きさに依りますが、当時の人口(1/4×2万)として観れば、千人に1社の割合程度と成ります。現在の郡の構成から観て1郡に平均で4〜6つの村があったと考えられ、1村には200人±50程度の人口と成ります。
    この事から筆者の主観ですが、郡に対してせいぜい神明社1〜2つ程度と観ますと、これに「戦略的拠点」としての目的を加えたとすると納得できる数と考えられます。
    これだけの数を維持管理するには矢張り当域を指揮する青木氏が存在している筈で勢力から観て次ぎの青木氏と考えられます。

    「各分布域の指揮拠点」(藤原秀郷流青木氏)
    北陸道域は越後青木氏   (陸奥前線基地)
    東山道域は陸奥青木氏   (鎮守府基地)
    東海道域は武蔵青木氏   (宗家本拠地)

    移動先域は次ぎの4域がありますが各域の事情が異なる為に次ぎの域に分けられます。
    関東域は下野青木氏          (隣接国境より勢力拡大 東北の北前線基地)
    中国域は讃岐籐氏の讃岐青木氏   (宗家に肩を並べる位に勢力保持)
    四国域は讃岐青木氏(阿波青木氏)
    北九州域は筑前青木氏         (九州域の西前線基地 後述)

    [関東域]
    この4域に秀郷流青木氏が定住しているのですが、室町期までの社会は氏家制度の強い社会であった事からその「勢力圏分布」から観て以上の指揮拠点である事に成ります。
    この勢力は青木氏の分布する「地域の家紋分析」と「その村形成」などの「支配地の大きさ」と「ルーツ拡大の要素」と「地理・地形考纂」と「郷土史実」に依って判別したもので、家紋に関しては秀郷流青木氏の家紋群の主要家紋とその系列で判別したものです。

    特記する事として「下野青木氏」は武蔵域から北に勢力を伸張した結果、ここに「下野青木氏」で勢力を固めその勢力は磐城の仙台の手前まで子孫の定住地を拡大しています。
    この仙台地域は江戸初期まで戦いに明け暮れていた土地柄であってかなり難しい伸張で有った事が伺えられ、その意味での「神明社」の役割は「心の神」「生活の神」「物造りの神」のみならず戦略的意味合いは大きかったのです。
    又、栃木(下野)には「賜姓族系の諏訪族青木氏系の2氏」が神奈川に落延び、更に一部は下野に移動した一族でありますが、「藤原秀郷流青木氏」の「下野青木氏」の勢力拡大に沿って「諏訪族青木氏」も合力して土地を確保したと考えられ、下野に多くの「諏訪大社」を祭祀して豪族で青木村を形成し土地の地主と成っています。
    この時にこの「下野青木氏」も「神明社」を14も建立し、入間との連絡網の拠点を構築していたと考えられます。
    (参考 武田氏系青木氏は皇族賜姓甲斐青木氏と武田氏と血縁して跡目継承が女系と成った事から武田氏に組み込まれた賜姓族系青木氏です)
    後に「結城永嶋氏」と共に「宇都宮氏」や陸奥出自の「小山氏」や北九州から秀郷一門と血縁して移動して来た「戻り族」の秀郷一門と血縁した「佐竹氏」や豊後の「竹田氏」等も再び勢力を拡大して「関東屋形4氏」と呼ばれる位に秀郷一門は勢力を北に向けていたのです。
    その意味で神明社の存立理由は他国と異なり「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「心の拠り所の拠点」と「戦略的拠点」の2つの目的は一段と高いものであった事が覗えます。
    その意味で伸張したこの地域の「人心の把握」として「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「神明社」と、この前線基地の地域を確固たるものとする為にも「戦略的意味」も含めて28もの「神明社」を構築したと考えられます。
    従ってこの勢力は江戸期に成っても衰退する事は無かったのです。
    「秀郷流青木氏」は武蔵の国境を越えて上野にも伸張して「上野青木氏」として同様に14の神明社を建立しています。
    何れにしてもこの「神明社」の「数」は乱世の世である限り「数」そのもの意味だけでは無くその青木氏の「勢力の大きさ」とその「権域の広さ」と「存続期間の長さ」や「存続の強さ」を意味するものなのです。

    [中国、四国域]
    特に中国、四国域の移動先の拠点の基地はこの中でも長期間に及び最大勢力を誇った「讃岐籐氏」の「秀郷流青木氏」であったと考えられます。
    四国の東域の「阿波青木氏」は「北家藤原利仁族」が主体を占めていた事もあり、「阿波青木氏」の「剣片喰族」は秀郷一門の中でも主要家紋の一つでありますが、北域の「讃岐青木氏」(下がり藤に雁金紋の主家柄)のその勢力は東の宗家に匹敵する位に瀬戸内一帯と安芸、美作を縦に経由して中国出雲域までを支配していた「讃岐籐氏の青木氏」には及ばなかったと考えられます。
    この「讃岐青木氏」は「武田氏系青木氏」の逃亡を手助けし最終高知に移住させて「土佐青木氏」の青木村を形成するまでに保護していますが、同じ青木氏が定住する阿波国は逃亡先と成っていないのです。
    この「武田氏系青木氏」は「讃岐青木氏」の背景を基に「青木村」を形成するだけの勢力を保ち賜姓族の守護神の「祖先神−神明社」を建立したと考えられます。
    神明社の数は1でありますが、逃亡先での「青木村形成」と「神明社1」はそれなりの勢力を保持したと云う事を意味します。戦略的意味合いではなく「生活の神」「物造りの神」としての「氏の守護神」の「祖先神」としての「神明社」であったのです。

    つまり、「神明社の数の1」は「青木氏の勢力の基本単位」であり、「村を形成する力」と「土豪地主」と成り得た事の単位である事を物語っているのです。
    例えば、上記した様に当時の人口から観て、神明社4(戦略拠点2含む)とすると、次ぎの様に成ります。

    A 「1つの郡」程度
    B 「人口−千人」程度
    C 「4つの村」程度

    以上の力を保持していた事と成ります。

    石高にしてみればバラツキはありますが、1国を平均40〜60万石、1国は4〜6郡として試算すると次ぎの様に成ります。

    a 1郡では7〜8万石程度
    b 1村で1万石強程度
    c 米の石高だけでは約半分の4〜5千石程度

    以上と成ります。

    これで本分析の基礎判断とする事が出来ます。

    「青木氏の概略の勢力判断数値」
    「神明社1」とは次ぎの勢力を持っている事に成ります。

    イ 「郡の半分程度の支配面積」
    ロ 「2つの村程度の人口」
    ハ 「2万石程度の経済力」
    ニ 「米石高−1万石程度の食料」
    ホ 「1万石の小大名程度」(江戸時代)

    ABC、abc、イロハの以上の判断基準と成ります。


    [北九州域]
    北九州域は「元寇の乱」以後九州全域を絶対支配していた大蔵氏との血縁を進め、肥前のここに秀郷流青木氏の拠点を置き大蔵氏との関係保全を保っていたのですが、大蔵氏は青木氏や永嶋氏や長谷川氏や進藤氏とも血縁関係を結び秀郷一門の子孫を拡げていたのです。
    秀郷一門側から観ればこれを仕切ったのは護衛団として同行していた秀郷流青木氏で、一門の主要氏を仕切れるのは「第2の宗家」としての立場であります。
    家柄・身分・官位官職・勢力圏・武力・賜姓族・朝廷を経由しての大蔵氏との繋がり等どれを採っても青木氏に及ぶ一門一族はありません。
    特に「菊地氏」や「佐伯氏」(九州佐竹氏、九州酒井氏は元は関東から移動)等の北九州の大蔵氏系の豪族は秀郷一門と血縁し、その関係取引の中で「物資の運搬」などの往来で関東に頻繁に赴いたとする記録資料があり、現実に関東の常陸、下総にはこの4氏の子孫が定住しているのです。
    関東の「菊池氏」や「佐伯氏」、「竹田氏」等、「関東屋形」の一つとも成った上記に記した「九州佐竹氏」があり、北九州の小さい秀郷一門の勢力圏の中でも夫々の領国の5つの国では下記の1の「神明社」は納得できるのです。
    其の為に、平安期に秀郷宗家の赴任地として「秀郷流青木氏」が護衛役として同行した「筑前青木氏」の指揮の下で肥前から子孫拡大を図り、「神明社」を建立または維持管理できる程に勢力を得て「神明社」が建立されています。
    (筑前) 1
    (筑後) 1
    (肥前) 1
    (肥後) 1
    (豊前) 1
    以上の「維持の状況」と成っているのです。

    この地域は、つまり当然に「秀郷流青木氏」の九州に定住した分家筋末裔の分布域でもあります。
    これは「戦略的な勢力の伸張」のみならず「祖先神」を神と崇め「神明社」を祭祀する者、即ち神職神官は青木氏であるからで、本来「青木氏の独善的の社」として身内から神職神官を出す仕来りであったのです。
    「祖先神」は「皇祖神」に繋がるものとして青木氏と源氏宗家の守護神だけであります。
    源氏宗家筋は完全に絶え未勘氏だけと成っていますので「祖先神の神明社」は青木氏だけの守護神と成りますが、其の神職神官からも必然的に青木氏末裔が広がる事を意味します。

    前記したように、”「神明社」のあるところには「青木氏」が、「青木氏」の有るところには「神明社」がある”と云う事に成るのです。
    それがこれ等のデータと云う事に成ります。

    その「神職神官」とその「神社侍」は拠点基地と成る青木氏から指揮し配置される事に成りますので末裔が枝葉にて広がるのです。
    九州では「筑前青木氏」がその指揮と配置をしますので少なくとも九州域に於いては「筑前青木氏」の末裔であると成ります。
    この末裔分布は、秀郷一門宗家筋と血縁した上記の北九州の豪族であり、肥前の「秀郷流青木氏」も同じくこれ等の豪族と血縁した事から興った青木氏であります。
    これは家紋分類から観て「筑前青木氏」の室町期中期までの末裔分布によるものと考えられます。

    「人心の把握」共にこの地域は「大蔵氏」の地元である事からも日本最大の「物造り拠点」でもあった事から、少ないながらも「神明社建立と維持」は他の地域と異なり絶対条件であったと考えられ、遠い関東との情報の「連絡拠点」としても重要であったと考えられます。
    其の上でこの「神明社の1」の数字は他の地域の4〜5の意味合いを持っていたと考えられます。
    平安中期には「太宰大監」として「遠の朝廷」として「錦の御旗」を全面に「九州全域の自治」を任された大蔵氏の絶対的支配領域の中で、この5国で関東並の120〜125の役割を果たしていたと考えられます。
    中でも「永嶋氏」は「大蔵氏系青木氏」と「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」を継承し薩摩域では肝付氏を継承する程に勢力を拡大させました。

    そこで問題なのは薩摩3、宮崎4の神明社です。”この地域の神明社は何を意味しているのか”と云う事です。
    このデータには「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」に直接繋がるものが歴史的に少ないのです。
    実は、”少ない”と云うよりは”消えた”と云った方が正しいと観られます。
    確かに、「天智天皇」から「桓武天皇」までの朝廷は北九州との関係を歴史的に大きく持ちました。
    然し、それが ”「神明社」として南九州に繋がるもので有ったか”は疑問でありますが、実は九州北半分に関してはそれなりの経緯があるのです。
    この経緯が南九州に繋がっているかは難しいのです。
    確かに「令制後」には薩摩がこの経緯に入り込んできますが、”「神明社建立」までは関係があり得たか”は疑問です。

    そもそもその経緯とは、天智天皇の「白村江の戦い」の準備として「神明社」を建立したと考えるにはそれを裏付ける朝廷の「歴史的な経緯」が必要であります。
    その充分な「歴史的な経緯」とするものが次ぎの事にあるのです。
    「中大兄皇子」による「大化改新」の一つとしてそれまでは第6世王までとしたものを第4世王までを皇子とする改革を行いました。その時、其の皇子の指定に関して特別の事由により第4世王として「栗隈王」を指定します。
    大化期の「第4世王」のこの有名な「栗隈王」が「天智天皇」の命に基づき「守護王」として「九州筑紫国」に赴きます。
    その後「令制前」はこの日向国から「北地域3国」(「筑紫国−豊国−肥国」→「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後」)が組み込まれ、この「北地域3国」の守護王として任されております。
    「令制後」は薩摩の北域も組み込まれています。
    この時に「天智天皇か天武天皇」に命じられて建立している可能性が大いにあると考えられます。(その記述が下記)
    日向の古い一つとされる「神明社」はこの時のものではないかと考えられます。
    且つ、上記の「北地域3国」(筑前)1(筑後)1(肥前)1(肥後)1(豊前)1は「日向の神明社1」を含めて、この時の「神明社」ではないかと観ています。
    「北地域3国」と「神明社分布の域」とは全く一致します。
    そして、その後に上記する特別賜姓族(960-970年頃)に成った筑前の「神明族の秀郷流青木氏」がこれを引継ぎ護ったと観ているのです。

    実は「栗隈王」は「大海人皇子」と「大友皇子」との争い(壬申の乱)で「大友皇子」が出した命令書の脅しに屈せず「大海人皇子」に味方した為に「天武天皇」の時世では九州で大勢力を収め末裔の一人は「筑紫氏」(武家王)として、もう一人は「三野王」として美濃と信濃粋域に子孫を拡げたのです。
    この「栗隈王」は「美努王」の父で王の中でも秀でて優秀で中大兄皇子はこの歳を得た「第4世王」の「栗隈王」を主要守護王19人の中から外さず九州半域を任した程の人物で信頼していた人物なのです。
    (日本書紀 6大皇子守護王と呼ばれる王)
    「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「甲斐王」、「美濃王」、「栗隈王」で中でも高位王として4王 「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「栗隈王」が上げられている)

    この「栗隈王」の末裔は古い九州出自の「筑紫氏」で有りますが、九州全域特に日向より北域の氏は何がしかの血縁を有していると考えられます。
    後漢からの帰化人の阿多倍一族により7世紀から九世紀にかけてこの一族に折檻されこの血縁筋の旧来の土豪族は衰退したのですが、新しい「民族氏」にも何らかの血縁関係を持っていた事が考えられます。
    九州は後漢の阿多倍等の軍勢に依って無戦征圧であった事から恐らくは在来民との婚姻関係を重ねての事ですのでその可能性は高いと考えられます。
    依って10世紀初頭に「筑紫の秀郷流青木氏」に引き継がれるまでの間は朝廷の管理の下で150年程度はこれ等の血縁関係(筑紫氏等)のある豪族に依って護られていた事が考えられます。

    この「栗隈王」の子供の「三野王(美努王):美濃王」は奈良期の19の神明社の一つを三野(美濃)に建立しているのです。 (三野王は橘諸兄の賜姓族橘氏の祖であります。)
    「天智天皇と天武天皇」は「皇祖神」を「伊勢大社」とすると同時に、関西域から中部域にかけて19の神明社の建立をその19の守護王に命じているのですが、現実に例外的にこの19の第4世守護王に命じた「神明社の建立」の中に「筑紫」の「栗隈王」「武家王」が入っています。

    参考(重複)
    第4世族内の19守護王−19の神明社の建立地
    伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、・栗隅王、・三野王(美濃王)、・武家王
    広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王)  以上19人/66国

    この「栗隈王の守護国」と現在の「神明社建立地」とが一致し、「大化期の19」の「神明社建立地」の中に「栗隈王」の守護地が入っている事のこの2つの「歴史的な史実」から、当然に”「栗隈王」に九州の半域に「神明社建立」を同時に命じた”と考えるのが普通である筈です。
    「天智天皇」は防人制度、九州から飛鳥までの直線広軌道の建設、煙火システムの確立、伴造制度、租庸調の見直し、戸籍制度など数多くの改革を実行していて、前記して来た様にこの一環として北端の陸奥域を含む国全体に「神明社建設」を行ったのです。
    「陸奥域」には神明社建設の計画があって、「桓武天皇期」は「陸奥丹沢城」の建設と伴に征圧域に「神明社建設」を「坂上田村麻呂」に命じ、「桓武天皇」と「坂上田村麻呂」の稚友で同没年でその806年に「陸奥域の計画」は完成しています。

    この「九州域」は「栗隈王」の子供の「武家王」の時代までに建設が進み、「令制後」に「日向域」まで組み込まれている事から、日本書紀の記述の「五畿七道」の完成期(天武天皇の時代に成立)の記述通り700年前後に基本的な配置(第1期期間)は終わっている事に成ります。
    この間、日本列島約100年の神明社の建設期間(第1期)であった事が覗えます。

    この様な史実を組み合わせて考察すると、当然に上記する信頼する「栗隈王」に”「九州域の神明社の建設」を命じた”と考えるのが普通と考えます。

    「伊勢大社と神明社の関係」
    そこで、”何故、神明社なのか”、”何故、伊勢大社ではないのか”、”何故、秀郷流青木氏に命じたのか”、”何故、「賜姓源氏−八幡社」ではないのか”、全国に戦略的に配置するのであれば、この様な「4つの疑問」が出てきます。そこでこの「4つの疑問」を解き検証します。
    これ等の検証は下記の神明社で論じる事をより理解を深めるものと成ります。

    「4つの疑問」
    そもそもこの場合は、「皇祖神」の「伊勢大社」を創建するのが筋とも考えられますが、あくまでも「天皇家の守護神」として威信を鼓舞するには必要ですが、「戦略的な意味合い」を持たすという事には「伊勢大社」では抵抗があり、「皇祖神」である以上は「純然とした伊勢大社」で祭祀する必要があり、”「戦略的意味合い」が「皇祖神−伊勢大社」を汚す”と考えたと観られます。
    そこで、その系列の「神明社」を「伊勢大社」125社以外の「戦略的拠点」に、”皇族賜姓族の「青木氏の祖先神」の「神明社」を設置した”と考えるのが普通では無いかと観ます。
    筆者は、天皇家は「皇祖神の伊勢大社」の建立に不適当な地域の所の代わりに「祖先神」として「守護神」を造り、その「守護神」を「神明社」とし、それを「皇祖神」の系列に置き、「伊勢大社」の代わりに「神明社」を「戦略上の拠点」に配置させる政治的配慮があったと考えていて、故に「第6位皇子」を設定し臣下させ、「親衛隊の六衛府軍の指揮官」にして力を持たせ、5代の「5家5流の賜姓族」を創設して各地の「主要地」に「神明社」と共に配置した経緯と考えているのです。

    (上記の記述した設問のその先鞭を付けたのが「藤成」の伊勢の松阪の「半国司」の布石であったと観ている。− 下記の第4期の最後の神明社建立時期806年で其処から神明社を建立する青木氏は衰退した為に次ぎに賜姓青木氏に代わって神明社を建立させる青木氏を発祥させなくてはならない筈で、そこで藤原氏の秀郷の祖祖父の「藤成」を嵯峨天皇はその目的の布石として先ず松阪に赴任させた。この時が820年頃赴任であり、此処に藤成の末裔を遺した。それまでは半国司は三宅氏であった。然し、青木氏に代わった賜姓源氏が神明社を建立する姿勢を採らなかった。同時に「嵯峨期の詔勅」で発祥した皇族青木氏も到底天皇の意に沿わなかった。結局、空白期間を生んでしまった。150年後のその後、秀郷の第3子(千国)にその任を与え「特別な賜姓の待遇」(賜姓族と同待遇)を採った。この特別賜姓族青木氏が960年頃に発祥させて松阪の末裔の跡目に入れた。以上の経緯となったと観る。)

    そうすると、では「賜姓族青木氏創設」と「神明社の戦略的、政治的配慮」の順序は ”どちらが先なのか”の問題が生まれ、この順序の如何では「青木氏と神明社」の関係の意味するところが代わる事に成る筈です。そこを充分に吟味検証しておく必要があります。
    この「2つの順序」は時代性から観て極めて短い範囲の政治的な実行課題であったのです。

    前記に縷々と論じて来た様に、当然に「賜姓族の青木氏創設」が先であります。
    この経緯は日本書紀等からも読み取れますが、その時間的な差は「伊勢大社の遍座遍歴」(飛鳥期−90社−90年−大化期前期)と、「19の神明社の創建」(大化期後期 670−686年頃)から観ても大化期の前期と後期の差であります。
    そうすると「賜姓伊勢青木氏」は647年頃「伊勢王」−「伊勢大社の鎮座地の警護」として発祥していますので、大化期直前でありますので約40年の差があります。
    ここから光仁天皇781まで5家の賜姓青木氏が発祥します。
    この間に伊勢大社は90社から125社に向けて35社を建立して行きます。
    (35社は遍歴経緯で記述 近隣4市2郡に存在)
    同時に、「神明社」は19社から566社に向けて建立して行くのです。
    (詳細は下記 賜姓青木氏は126社建立 桓武天皇は20社建立)
    この時、第6位皇子を賜姓する青木氏の制度は、桓武天皇期で一時途絶えますので、桓武天皇は自らの力で神明社の建立を続けて行きます。
    「桓武天皇」は「律令政治」を完成させ、結果、それまでの青木氏等の「皇親政治」は後退させて「桓武天皇」の圧迫で「5氏の青木氏」は衰退し「神明社の建設」は困難と成ったのです。
    この間、代わって「律令政治」を主導して各地に「戦略的、政治的な目的」の為に「神明社」を建立し、最終、「桓武天皇」による「神明社建立策」は陸奥の「丹沢の神明社(806年)」の建立で終わります。

    「祖先神−神明社の建立期間」
    区別の期間         建立者        建立時期   建立数  建立時期
    第1期神明社の建立期間 天智天皇      大化期初期  19社  天智天皇 政治的な期間
    第2期神明社の建立期間 賜姓族青木氏   大化期後期  80社  天智天皇−天武天皇の期間
    第3期神明社の建立期間 賜姓族青木氏   奈良期後期  46社  文武天皇−光仁天皇の期間
    第4期神明社の建立期間 桓武天皇      平安期初期  20社  桓武天皇 戦略的な期間

    ・第1次の空白期間 :嵯峨天皇期−花山天皇期−賜姓源氏発祥−祖先神八幡社  809年〜986年

    第5期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 平安期中期  90社  村上天皇−花山天皇の期間

    ・第2次の空白期間 :賜姓族青木氏の衰退期間 近江−美濃脱落 祖先神神明社 806年〜1125年

    第6期神明社の建立期間 賜姓族青木氏    平安期末期  22社  1125年頃開始−室町期中期
    第7期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 鎌倉期全期  15社  藤原一門の勢力低下期間
    第8期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期前期 148社  秀郷一門の勢力挽回期間
    第9期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期中期 165社  秀郷一門の勢力拡大期間

    (注釈)
    期間の設定は「2つの青木氏」に関わる「政治状況の変革期点」を区切りとした。
    期間中の年数(期間年数/2)に対して守護国数の増加分を指数(全国数/増国数)を乗じてそれを全体比(126/全年数820)(418/全年数820)を乗じた数をその期間中の建立数としその時代の勢力状況を観て加減調整したもの。
    つまり”「勢力状況」に応じて神明社を建てた”を前提とする。

    この間に「神明社」がどの程度建立されているのかを考察しますと、その「桓武天皇」の「政治的な征討域」から割り出すと、「征討地に関わった地域」に一社建立したとして主に以北地域とすると、20社程建立している事に成ります。
    これまでの「神明社」と合わせると「桓武天皇期」までは全社150社/566程度と成ります。
    (781〜806 35年間−20社程度)
    凡そ室町期中期まで160年程度の間に27%建立されていた事に成ります。
    全体の1/4程度が無建立されていたのですが、年数比で20%(160/820年)とすると27%−20%となり、政治的で戦略的な建設はハイピッチであった事が云えます。
    神明社建立が国の絶対的課題であった事を物語ります。それだけに青木氏に期待していた事が良く判ります。
    天皇家が「3つの発祥源」を象徴として前面に押し出し国策を推進していた事をもこの数字が物語るのです。突き詰めれば「桓武天皇」は「律令政治」を推進する上で「皇親政治の青木氏」と「3つの発祥源」が壁に成り、然し「律令政治」を推進せざるを得なかった事で衰退させてしまった青木氏に代わり止む無く自らが建立する立場に追い遣られたと云う事を示しています。
    父光仁天皇の実家先や自らの親族の5家5流の「賜姓青木氏」を追い遣るのですから苦渋の選択を迫られた事に成ります。
    だとしたら、”何故、母方の伊賀の「たいら族」を賜姓して青木氏を賜姓しなかったのか、苦渋ならばこの賜姓の仕方が矛盾しているのではないか”と云いたくなります。
    現実に、この事で「桓武天皇」は親子・兄弟の「骨肉の争い」を起したのです。
    「桓武天皇」と後の子供の「嵯峨天皇」、後の兄の「平城天皇」と「嵯峨天皇」の争いであります。
    「嵯峨天皇」は「律令政治」を推進するとしても「皇親政治」の体制は残すべきとしたのです。
    この時、青木氏の5家5流は「嵯峨天皇派」に付き「桓武天皇」と争う事に成ったのです。
    結果、「賜姓青木氏」は「神明社」を建立出来ずに衰退します。
    然し、「嵯峨天皇期」で賜姓族としての立場は安堵されますが、「嵯峨天皇」は「青木氏」の賜姓を中止し賜姓を変名して源氏とします。
    此処で、青木氏を除いた「皇親政治」と「律令政治」の両立させた態勢が出来て必然的に「5家5流の賜姓青木氏」は途切れ、「青木氏の皇親政治」も後退して「神明社建立の根拠」とその「力」そのものも無く成ります。それに代わって同族の賜姓源氏が起る事に成ります。そしてここの同族の賜姓源氏に賜姓族としての「国策の推進」(神明社の建立等)を期待します。
    この時、「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」はその「生き様」「生き方」が違ってしまって、同族間の連携は無くなってしまったのです。
    つまり、「3つの発祥源」と「皇祖神」に繋がる「祖先神−神明社」の「青木氏の立場」と、「荘園制」を利用した「勢力拡大」に主眼を置いた「賜姓源氏」(祖先神−八幡社)との間には歩く道が全く異なってしまったのです。
    この事に依って「青木氏の神明社建立」も無くなり、「政治的−戦略的」な国策の「神明社の建立」は空白期間を発生させてしまったのです。
    つまり、「桓武天皇」は「自らの責任での矛盾」は含むが「苦渋の選択」の上でも「神明社の建立」は推進させたのですが、これに対して「嵯峨天皇期」は「皇親政治」に戻しはしたが、「賜姓源氏」にはこの国策に充分な理解を得られずに「皮肉な現象」を起してしまた事に成ります。
    「賜姓青木氏」の「祖先神−神明社」は「生活の神」「物造りの神」であり、「賜姓源氏」は「祖先神−八幡社」は「弓矢の神」であります。必然的にその「氏の発祥源」が異なってしまったのです。


    大化の「天智天皇の国策の真意」、つまり「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は「生活の神」であり「物造りの神」であり、つまりは、 ”人に豊かさを授ける神”であります。
    「賜姓青木氏」の「祖先神−神明社」は、この「国策」の「本来の真意」を守り通したのです。
    故に「桓武天皇」も「律令国家の完成推進」であったが、敢えてこの「皇祖神」の「国策の真意」を押し通す義務を果たしたのです。
    確かに矛盾を青木氏に露出したが、筋が通っていて「合理的な判断」をした事を意味します。
    青木氏に執っては「苦渋の選択」であって賜姓族としての本来の立場に大きな矛盾を含んだ事でものであった事が云えます。
    それは「律令国家の完成と推進」は母方の「伊賀のたいら族」の如何に拘っていたからです。
    なぜならば「立案と推進」を担う官僚の6割は彼等の一族一門郎党で構成されており、軍事は彼等の一門の宗家「坂上田村麻呂」が荷っていたのです。父方の青木氏は「六衛府軍」の「天皇親衛軍隊」であります。軍事的に圧力を掛けるにしてもこの勢力バランスでは太刀打ち出来ません。
    これでは「国策の推進」を進める以上は、「桓武天皇」は、”好む好まない”にしてもこの路線を執るしかありません。だとしたら、勢いから「たいら族」が祭祀する「産土神」と成るかもしれませんが、其処は「皇祖神」を貫く意志が固かったのです。
    「皇祖神」は「祖先神」でありますから、「神明社の建立」は敢えて譲らなかったのです。
    だからこの厳しい辛い政治的環境の中で”筋を通した”と云えるのです。
    この時の「賜姓青木氏」は「大事の中の小事」であった事に成ります。
    我々末裔としては”納得すべき遠戚天皇の「桓武天皇」である”と考えるべきです。
    (既に126社程度が賜姓青木氏5家5流で建立していた。下記で詳細を論じる)

    実は後世の累代の天皇家はこの事(神明社国策推進)を忘れていなかったのです。
    それは、結論から先に云いますと、最も大事な要点の”「特別賜姓族青木氏」の発祥経緯”なのです。
    そして、”「祖先神−賜姓源氏-八幡社」は何もしなかった” ”その立場の責任を果たさなかった”のです。
    (正しくは、「祖先神−賜姓源氏-八幡社」は「皇祖神−祖先神−賜姓源氏-八幡社(八幡神)」と成る。)

    次ぎの「嵯峨天皇」(809年〜823年)は抗争の上に再び「皇親政治」に戻し、賜姓を「青木氏」から「源氏」に変名します。(前記で論じた)これより花山天皇(984〜986年)まで11代−177年間の「賜姓源氏」が発祥します。
    (但し、その後の宇多天皇[887〜897]は「滋賀佐々木氏」を賜姓した。「佐々木氏」は天智天皇が伊勢青木氏を賜姓したが、「第7位皇子の川島皇子」に対しても特別に地名から賜姓した「賜姓近江佐々木氏」がある)

    ここで上記の「4つの疑問」の”「源氏−八幡社」がどの様に動いたのか”です。(既に先に結論は述べた)
    と云うのは、”「特別賜姓族の青木氏」が「賜姓青木氏」に代わって「神明社建立」に入った”のは早くて「円融天皇期」、遅くても「花山天皇期」からであります。
    つまり。この177年間は「神明社の空白期間」なのです。
    従って、「賜姓青木氏」は衰退し、賜姓は「源氏」に成りましたので、この「神明社の建立」の「政治的、戦略的な国策」は引き続き「賜姓源氏」が「花山天皇期」までの間、つまり「特別賜姓族青木氏」が誕生する同時期まで果たして続けたのか”と云う事なのです。結論は前にも述べた様に果たさなかったのです。
    当然に、この場合は「祖先神の神明社」ではありません。「祖先神の八幡社」に成ります。

    何度も云いますが、そもそも「皇族賜姓族」でありながら「賜姓源氏」はその立場を護らなかったのです。
    「祖先神−神明社」は「生活の神」「物造りの神」−「豊受大御神 豊受大神宮」「3つの発祥源」
    「祖先神−八幡社」は「弓矢の神」「戦いの神」

    「皇祖神」の「祖先神」を祭祀する系列神でありながら、文頭の「伊勢大社」の守護神 「皇大神宮 天照大神」(「心の神」)と「豊受大御神 豊受大神宮」({生活の神])を積極的に祭祀する立場を採らなかったのです。

    (参考: 八幡宮の主神:全国の武士から「武運の神」[武神]「弓矢八幡」として崇拝され「誉田別命」[ほんだわけのみこと]−「応神天皇」と呼ばれた。別名では後に「八幡大菩薩」とも呼ばれた。大分県宇佐市と滋賀県大津市の宇佐八幡宮があるが大分を総社とする説がある。)

    「賜姓源氏」とりわけ「清和源氏の時代」には時代の荒波に翻弄され、その「立場と責任」を果たそうとはしなかった事をこの祭祀する「神」でも異なっている事が判ります。
    又、「弓矢の神」「戦いの神」では「政治的、戦略的な国策」としては天皇と民は納得しませんし国策としては成り立ちません。まして、「弓矢の神」は「侍の神」であり「民の神」ではありません。
    「弓矢の神」「侍の神」では「生活の神」「物造りの神」強いては到底「心の神」には成らず「自然神」に基づく「心の拠り所」とは成り得ません。4つの神は本来は自然神に基づいているのですが賜姓源氏はこの自然神に基づいていないのです。、「弓矢の神」「侍の神」は到底「自然神」に基づくものではないのです。
    皇族であり賜姓族でありながら「稀有な現象」が起ってしまったのです。
    当然にこの事からもとより「皇祖神の祖先神」に基づく立場には完全に成り得ていません。

    その稀有な現象が11代も続いたと云う事は政治そのものに直し押し切れない長い期間の状態が続いていた事を物語っています。天智天皇からの賜姓のあるべき姿を学んでいた累代の天皇の心には本来あるべき姿に戻せない遣り切れない空虚な空間が生まれてしまったのです。それが朝廷内の乱れの原因とも成って行ったのです。(第1次と第2次の空白期間の発生)
    そもそも、「村上天皇」から「円融天皇」までには賜姓源氏は発祥しています。
    しかし、この期間には「賜姓源氏」を差し置いて「藤原秀郷一門」に対して「特別賜姓青木氏」を「嵯峨天皇期の詔勅」に基づき「母方族」として敢えて重複して再び発祥させています。
    「賜姓源氏」がその責任を果たしていれば、何も「特別賜姓青木氏」を177年後に再び持ち出して賜姓する必要は無い筈です。
    それも「3大源氏」と云われた「嵯峨源氏(809〜823)、清和源氏(858〜876) 村上源氏(946〜967)」の「村上源氏」の時代にです。(村上源氏は伊勢北畠氏 後に信長に滅ぼされる)

    そもそもこの賜姓に付いて矛盾しています。
    本来、皇族の賜姓は「3つの発祥源」の象徴として、「皇祖神」の「祖先神−神明社」−「生活の神」「物造りの神」として、「政治的、戦略的な国策」として「第6位皇子」を賜姓して臣下させて働かせようとしているのですから、”その役目を全く自覚せずに「弓矢の神」を吹聴して果たそうとしていない「源氏」を11代も何故賜姓するのか”大いなる矛盾行為です。
    これは天皇側にも問題があります。

    資料から拾い出すと次ぎの様な事が浮かんで来ます。

    1 何時か護る賜姓族が出る「期待感」があった。
    2 天皇に「観る目」が無かった無能であった。
    3 仕方無しに「惰性」で賜姓してしまい続けた。
    4 政治的に「負担軽減」に主眼を置いた。
    5 渋り続けたが慣習に押された。
    6 自らの「身の安全」を守ろうと臣下させた。
    7 「弓矢の神」の必要性を感じた。
    8 「神明社の必要性」を感化されなかった。
    9 「源氏の武力」を恐れた。
    10「たいら族台頭」のバランスを取ろうとした。

    明確に記述しているものはありませんが言葉端や文脈から以上の事が読み取れます。
    この内容を分析すると時系列的に2つに先ず分類出来ます。
    1〜5と6〜10です。
    清和天皇前までは1〜5で11代のほぼ中間位から様子が変わってきます。
    この前後から天皇は賜姓を渋り始めます。「時代性」も「事件性」が出て変化しています。
    「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」の「政治課題」が大きく左右していると考えられます。
    これは1〜5に大きく政治的に影響を与えたと考えられます。

    「神明社の空白期間」+「賜姓源氏」⇔「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」

    確かに、「清和天皇」の前後頃から天皇は「源氏の賜姓」に対して賜姓する事を渋っていたのです。
    特に11代の中でも最も後にこの役目を果たさなかった異端児族の源氏は「清和源氏」であったのです。
    そして賜姓に対して顕著に出たその一連の事件が起こります。
    それが「平将門の乱」とそれを終焉させた「藤原秀郷」とその子の「特別賜姓青木氏の誕生」へと繋がって行くのです。(前論で記述) それが再度、「神明社建立」に繋がって行きます。
    この間「たいら族台頭」は一方で進みます。しかしこの「渦の流れ」の最後には「源平」の真に「ビッグバーン」が起るのです。
    しかし、何と不思議に再度起った「神明社建立」はこのビッグバーンに影響しなかったのです。

    その「清和源氏」の賜姓には「清和天皇」の孫の第3世族の第6位皇子「経基王」にはその行状の悪さ(前記した平の将門の乱の経緯)からも躊躇して賜姓をしなかったのです。
    やっと賜姓したと思ったら、「経基王」の子「満仲」は全国の武士に対して「荘園制」(前記の論)を利用して「荘園名義主」と成り勢力を高め、由緒ある名家名籍の源氏の「名義貸し制度」を無秩序に拡大利用して多くの「未勘氏族」を作り上げ「源氏武士団」を構築してしまったのです。(たいら族に対抗する為に)
    さすが「満仲」は”天皇家と皇族の印象を汚す”として本来なら賜姓族である為に前記した「冠位の制」や「有品の制」などの「4つの規定の官位官職」(前回で論じた)は与えられず天皇から疎んじられます。

    (再注釈:前記した様に、各豪族が開発し、或いは奪い取った荘園を護る為に皇位名籍の氏名を借りて「名義上の荘園主」に成って貰い、それに見合う代償を支払い荘園を護るシステムで、その為に今度は「名義荘園主」は「名籍氏」を名乗ることを許し、「無血縁の名籍氏」を作る方式で、”いざ戦い”と成った時は”馳せ参じる”と云う契約です。中には大荘園の場合は「遠縁の娘」を何処からか探し出して、或いは作り出して間接的な遠戚を作り出す事もあった。これを「未勘氏族」と呼ばれるもので「源氏姓」や「平家姓」や「藤原姓」等を名乗る氏の95%族がこの族に部類するのです。
    その「未勘氏族」の系譜を観ると、その一手法は、その「名義荘園主」の系譜のある代の処に一人架空の名籍人物を作り、その架空の人物から自らの氏の末裔が拡がった様に系譜を繋ぐ方式です。この偏纂は概ね「3つのパターン」に分類されます。)

    この注釈の行状を”天皇家と皇族の印象を汚す”とし、”第6位皇子の賜姓の源氏が何処まで本当の源氏か判らなくなっている事を憂いた”のです。
    当然、”同じ対比する氏が無ければ左程の憂いでは無かった”と考えられますが、厳然と「賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」が「3つの発祥源」「祖先神−神明社」のその象徴としての「立場と役目」を全うしているのですから、累代の天皇は無関心ではいられないのが普通です。
    これが前記した「一条天皇」から「後三条天皇」−「白河天皇」−「堀河天皇」−「鳥羽天皇」(院政含む)の累代天皇政治の「粛清政治」(「荘園性の行き過ぎ論)と成って行ったのです。

    (結論はビッグバーンで「源平の問題」は解決したが、もう一つの「荘園制の行き過ぎの問題」は上記した累代粛清を実行した天皇6人が命を賭けて解決に取り組んだのです。残ったのは室町中期までの何と無傷の「神明社建立」だったのです。)

    この「源氏行状」(下記のデータで論ずる)は止まらず、次ぎは3代目の三男の頼信は嫡男頼光の援護を受けて関東を支配下に攻め込んで獲得する有り様で、祖父の思惑を実行して国策の真逆の行動を採ったのです。
    (援護の宗家頼光側にも問題は無かった訳ではない。)
    そして、分家頼信4代目の義家では陸奥を攻めて獲得した事はしたのですが、遂に天皇は痺れを切らし「白河天皇」から「鳥羽天皇」まで完全に疎んじられて全ての彼の行為は「禁じ行為」の「私闘」と決め付けられ排除されます。
    義家と頼信系清和源氏は一挙に衰退して行き、頼朝で5年間程度持ち直しますが共倒れで11代の源氏は完全に滅亡してし仕舞います。(義経−頼朝の争いはこの路線争いであった)
    (この事は前記で一条天皇から鳥羽天皇の処で「国難」で論じた)

    しかし、一応は調べる事として、そこで「177年間の空白期間」(第1次空白期間)の「祖先神の八幡社」の建立状態を調べる必要が出てきます。但し、”「戦略的、政治的目的」の為に”であります。

    確かに「嵯峨天皇期」(809〜823年)から再び「皇族賜姓族青木氏」は次第に回復する期間に入りますが、未だ「皇族賜姓族」は衰退して「神明社」を建立する勢力は無かったのです。
    しかし、父桓武天皇に依って「賜姓青木氏」が衰退させられたのであれば、桓武天皇の様に”自らが神明社の建立者と成っては良いではないか”と云う疑問が当然出て来ます。
    確かに、筆者は「2足の草鞋策」(1125年頃)を「賜姓青木氏」が採り始めた時期までその勢力は無かったと観ています。衰退した事も「2足の草鞋策」を採ったのですが、経済的な問題だけではなく源平の間にあって採り難い事情も考えられます。
    そうすると「特別賜姓族青木氏」が「神明社建立」を始めた時期(970年±10前後)までの「160年間の空白期間」(第2次空白期間)があります。
    もしこの「2つの空白期間」に「源氏−八幡社」が神明社に代わって”「戦略的、政治的目的」の為”に建立していたとするならば、この「2つの空白期間」は解消する事に成ります。(しかし無かったのです。)
    その時の「4つの経緯」を下記にします。

    「4つの経緯」
    「180年間の空白期間」(第1次空白期間) 809年〜986年 11代の賜姓源氏の時代 
    「225年間の重複期間」(第1次重複期間) 970年〜1195年 特別賜姓族青木氏の誕生
    「160年間の空白期間」(第2次空白期間) 970年〜1125年 2つの青木氏の不連携 
    「70年間の空白期間」 (第2次重複期間) 1125年〜1195年 賜姓青木氏と賜姓源氏

    つまり、「源氏11代目花山天皇在位末」986年と「特別賜姓族青木氏の誕生期」970±10年がほぼ一致するからです。
    残った「清和源氏」の頼朝没までの1195年に対して1125年の70年間 賜姓青木氏の重複期間、と970年の225年間 「特別賜姓青木氏」の重複期間がどの様に成るかが決ります。

    しかし、この様に「桓武天皇」による「律令国家」と共に「国の征討」が進み「5家5流の賜姓青木氏」だけではこの「国家戦略」の「神明社建立」は維持する事が叶わ無くなった事も史実です。
    更に推し進め様とした「村上天皇期」(946〜967年頃)には、そこで勲功の高かった「北家藤原秀郷」にその「第3子」を「特別賜姓族」に任じて、「賜姓青木氏」と全くの同格の扱いである身分、家柄、勲功、官職、官位、叙勲を与えて「嵯峨期の詔勅」を使って「特別賜姓族青木氏」としたのです。
    その「由来の根拠」を「母方同族氏」として「賜姓血縁族」である事を前提に引き上げたのです。
    この時に特記すべき事は、「青木氏の子孫存続・維持の方策」として天皇は、秀郷に、”「秀郷宗家より第3子を以って「青木氏の跡目入れ」とする”とわざわざ命じて定めたのです。
    この意味は大変大きいのです。つまり天皇家が「青木氏」をどのように見ていて、どの様に扱い、天皇家の意向を汲み、”「3つの発祥源」と「祖先神−神明社」の責任を果たしてくれる唯一の味方”と云う事が読み取れます。それは関東での「平の将門の乱」の引き金に成った一連の秀郷の頑固なまでにも天皇家に対して「律儀な性格」を見抜いて「白羽の矢」を建てた事も読み取れます。
    その為には「空白期間の焦り」と「源氏の行状の憤慨」と「源氏への幻滅感」を払拭するが為に「秀郷の末裔」に期待していた事が判ります。
    それ程にこの「空白期間の失政」を反省して天皇家は「2つの青木氏」に対して政策的に重要視していた事を物語ります。
    それにより ”「拡大する征討地の守護」として、その「政治的、戦略的な拠点」として、「祖先神」の「神明社」を創建配置した”と考えているのです。
    故に”「賜姓族」は神明社1/3であり、「特別賜姓族」は2/3であり、その守護範囲をこの様に分けた”と観ているのです。この数字の持つ意味であります。
    そして”伊勢の皇祖神の伊勢大社のお膝元に、「賜姓族伊勢青木氏」と共にこの「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」を配置して、この「2つの青木氏」を結んで「一つの青木氏」とした”と観ているのです。
    「伊勢秀郷流青木氏」を置き真っ先に伊勢に「特別賜姓族」としての役割を果させ様としたこの事が重要な事なのです。
    (この事は前段で何度も論じて来たが、「5家5流の青木氏」の「青木氏の建直し」をも狙っていたのです。
    それには、急に配置したとは考え難く、「事前の布石策」が天皇家にあったと考えているのです。)

    秀郷の祖祖父の「藤成」を九世紀初頭(秀郷から150年前:800年頃 桓武天皇期末期)に「伊勢の半国司」と配置しているのです。これは嵯峨天皇が青木氏衰退を承知していて、「将来の布石」として政策的人事として手を打ったと観ています。依って、恐らくこの伊勢に「藤成」は末裔を遺したと考えているのです。
    なぜならば、”赴任地に末裔を遺して定住させる”の戦略は秀郷一門のみならず北家藤原氏の例外の無い「赴任地の基本戦略」です。これにより一門の拡大を図ったのです。(前記で論じた)
    秀郷末裔の「基景」が伊勢長嶋の地の「半国司」に成った時に「伊勢の伊藤氏」を継承しています事(この時も護衛団としての青木氏が同行している事)から”「藤成」は末裔を少なくとも遺していた”と考えられます。(この時は未だ秀郷流青木氏は発祥していない。3代後)
    これが後に史実として秀郷一門の「近江蒲生氏」との跡目血縁をしていますので、その末裔が伊勢四日市に定住していて、その事から「秀郷流青木氏の始祖」となる秀郷一門(「藤成末裔」)が古くから定住していた事が判ります。
    又、清和源氏の宗家頼光系四家は5家5流の青木氏に跡目を入れている事からも「賜姓青木氏」を側面から援護していた事が判ります。宗家側では何とか皇親族の青木氏を残そうとしたのです。
    それに応えた事件があります。それは「以仁王の乱」の首謀者の頼光より4代目の頼政の孫等の「助命嘆願」にたいら族に対して「賜姓伊勢青木氏」が動いた事なのです。
    これ等の一連の事からも清和源氏宗家頼光系が青木氏に対して援護していた事が判ります。
    片方では分家頼信系は「勝手気侭な行動」を採ったと観えるのです。

    筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
    その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
    この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
    「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
    従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。


    「青木氏と守護神(神明社)−15 (「賜姓源氏の祖先神の役目」) に続く。


      [No.281] Re:青木氏と守護神(神明社)−13
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/12(Sat) 08:54:05  

    「青木氏と守護神(神明社)−13

    以下は「青木氏と守護神(神明社)−12の末尾前文
    >青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。
    >青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
    >この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
    >しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
    >「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています


    「融合氏」と「物造り」の雑学(「3つの脳の思考訓練」:特技)

    参考
     「3つの脳」の「思考訓練」
    第1番目に、何でも良いから「雑学量」を増やす事。
    第2番目に、それを「系統的」に分別して覚える訓練をする事。
    第3番目に、覚えた事の幾つかを引き出し「組合せ」をする事の訓練をする事。
    (詳細は「青木氏と守護神(神明社)−1」に記述 参照)

    そこで、少し脱線のついでに話題を拡げます。前記にも論じましたが、更にここでも掘り下げて下記に論じます。と言うのも真に本論を集約する様な事件が矢張り中国で起こったのです。それは「中国の新幹線脱線問題」ですが、この事件に関する論文を敢えて追加して投稿しました。

    その中国の発展と進出に対して昨今の問題として日本では「中国進出」に大変懸念を抱いています。
    それは「日本の物造り」の中でも「熟練技能」が流失してしまうのではないかと云う懸念です。
    ”日本の「熟練技能」を取得して日本を空洞化させ「物造り」が再び中国に脅かされるのではないか”と云う問題です。
    然し、筆者は”その中国が確かに過去が過去であっても幾ら進んだとしてもこの「熟練技能」の「日本の領域」にはまず到達する事は不可能な事だ”と主張しています。
    (過去とは5世紀頃から7世紀に掛けて後漢の帰化民族から「物造り」を教わった)
    それは「日本の領域」は偶然に到達したものではないからです。それは後漢の200万人を含む「7つの民族の融合」から来る「日本人の遺伝的特技」(日本人の遺伝的な思考原理)から来たものなのだからです。
    それは「時間による要素」ではなく、現在までの中国の「国民性」と「綜合力」がこれを阻んでいるのです。
    それは、「時間」に依って「技能・技術の習得」が仮に成されても、上記する「3つの脳」の「思考訓練」の特質は、外国人には無理であり、日本人の「雑種による優位性」から来る「遺伝的特質」を保持している為に困難でなのです。これは外国人には有しない「7つの融合単一民族」(雑種の良質)の日本人ならではの「特技」なのです。
    (付属論文「中国の新幹線脱線問題」での論文は研究室に投稿済み 是非参照)
    筆者は多くの外国人技能者や技術者を見てきましたが、この「特技」は日本人ならではのものと観られます。彼等にはこの「脳の思考原理」の癖が遺伝的なものとして苦手と見られ簡単には習得できないと思えるのです。

    「日本人の遺伝的特技」=(日本人の遺伝的な思考原理)=「3つの脳の思考訓練」

    ですから、中国人は質の低い類似品は作りますがそれを超えるものは余り見かけません。
    その逆にその証拠として科学や医療分野での先進技術を開発しノーベル賞を日本人は多く取得するのです。又、過去の日本人が確かにアメリカの類似品を作りましたが、それは中国人のそれと異なり米国等で開発されたものを日本人がそれ以上に良い製品に開発させてしまったものです。
    それに取って代わる現象もこの特技から来るものです。今や先進国を超えてどの分野でも先導する立場に置かれています。
    勿論、序文の鉄鋼製品と云う範囲で考えても上記する8つの専門分野が全てトップでなくては到達する事は不可能でもあります。(「中国の新幹線脱線問題」がこの現象を顕著に表す。)
    そこで、逆に問題に成っている「技能・技術の海外流失問題」(主に中国)ですが、この事からすると日本の生きて行くべき道は上記した経緯から自ずと観えています。
    それは、”「汎用的な技能・技術」(熟練技能)の移転はやむ終えない”としても、この上記する「3つの脳」の「思考訓練」で得られた領域の「技能・技術(熟練技術)」は日本に残すべきです。
    又、必然的に日本人の特技である為に日本人が日本人である限り残ると考えます。
    仮に流失しても「融合民族の遺伝的な特技」である限り、「流失後の特技」に対してもまた日本の中にそれを土台に再び「進んだ特技」を飽くなきまでも作り出すという行為に出る事は必然です。
    もし、「新たに特技」を作り出さなかった場合はそれは日本人では無い事を意味します。
    それが「遺伝的特技」である限りに於いて「遺伝性」が突然に無く成る事を意味します。
    そんな事は遺伝学では存在しないのです。”無くなる”と云う事はそれは遺伝では無い事に成ります。
    「7つの民族の融合」が事実でありますので必ず向後の特技の開発は起こります。
    まして、過去の融合を見れば、これでも「明治前の身分制度による障壁」に依って充分に「完全融合」が起こっていなかった筈で、明治後150年が経ち3乃至4代目に至る現在が「完全融合の時期」となった筈であります。
    これからが最も「完全融合の遺伝的特技」が最も発揮される時期である事に成ります。
    (「流失」が起こったとしての仮定ですが”起こらない”と断言しているのです)
    それがより「高品質で高付加価値品」が生み出される事に成り決して流失したとしても心配には当らない事なのです。
    ”「3つの脳」の「思考訓練」で得られた領域の「技能・技術(熟練技術)」”のこれを日本に残し、”他は外国に移す”と云う戦略を採ればイギリスの様な「技術斜陽国」には成らない筈です。
    そもそも「日本人の特質」なのですからここを間違えなければ、前記して来た「青木氏の1125年代の判断」と同じく日本は生残れる筈です。
    自動車等の海外生産問題の技能・技術問題でも真にこの判断を適用すればよい事に成ります。
    ただそこで、よく間違われる事は”「高度な熟練技能」は別だ”と云う事なのです。
    「普通の熟練技能」のこれは「時間」が過ぎればそれなりに得られるものであり、これにしがみついていては生残れないのです。「熟練技能」は自然に任せてむしろ「自然の放出移転」をさせるべきものと考えます。それに依って”「熟練技術」の全体は生きてくるものである”と考えているのです。
    ”水は高いところから低い所に流れるもの”の例えの通り、日本の「普通の熟練技能」が「外国の熟練技能」より高ければ「自然の摂理」で低い方へ流れて行く筈です。当然に日本の方が低ければ流れ込んでくる筈です。
    とすると、日本の「高度な熟練技能」は外国が低ければに流れて行く可能性があります。
    然し、そうではないのです。この「自然の摂理」には「歯止め」が効いているのです。
    その「水の環境」には、「地形と水量と勢い」の「環境条件」が備わっています。
    その「環境条件」が低い側に受け入れられるものが無ければ流れ込みません。
    受け入れ側の「地形と水量と勢い」が整っていて初めて流れ込む事に成ります。
    これが本当の「立体的な自然の摂理」です。「一元的な自然の摂理」の例えはこの世の摂理ではありません。この世は「立体的な環境条件」に依って成り立っていて起る筈です。
    とすると、低い地形の方に「地形と水量と勢い」を受け入れられるキャパシティーが無ければ、幾ら低くても流れ込む事はありません。一時的な現象で留まります。
    つまり、「高度な熟練技能」には「普通」ではない「高度」と云うある範囲を超えている限りこの「環境条件」が働く筈です。
    そしてその受け入れられる「環境条件」は「高度」と云う事から何かと関係して”高度”という扱いに成っている筈です。それが”「熟練技術」と連動している”と云う事に成ります。
    そして、これが”ある範囲を超える”と云うパラメータに成ります。

    「ある範囲を超える条件」=「熟練技術」

    つまり、次ぎの数式が成り立ちます。
    「地形と水量と勢い」とは、流失先の産業力・産業形態(地形)と、消費力(水量)と、経済力・国力(勢い)と云う事に成ると考えます。

    「立体的な環境条件」=「地形と水量と勢い」+「熟練技術の環境]

    相手側にこの数式の条件が成り立たない限り流れ込まないことを意味します。
    「家訓8」でも論じましたが、そもそも「熟練技能」と「熟練技術」は違います。
    「技能」とは、「経験」を主体としてそれに「知識値」を以って補う技。
    「技術」とは、「知識」を主体としてそれに「経験値」を以って補う技。
    これを定義とすると、全ての殖産物はこの「技能」と「技術」を以って成せるものと成ります。

    「技能」+「技術」=「殖産物」

    この数式論から、「普通の熟練技能」とは、”殆ど「技術」を伴なう事の無い「技能」の領域のもの”になる筈であります。「殆ど」の意味を仮に0と置き換えると、次ぎの様に成ります。

    「技能」+0=「殖産物」、即ち、「技能」=「殖産物」と成ります。

    世の中の「殖産物」には定義の「技能」の領域で出来上がるものが恐らくは5割程度は占めている筈です。なぜならば、「技能」の定義に、”ある程度の「技術」(知識)”を含有しているからであり、それで5割は賄えると云う理屈に成ります。
    この「普通の熟練技能」に拘っていては生残る事さえも何も出来ません。
    上記する「高度な熟練技能」とそれに連動する「熟練技術」の流失を抑える事が慣用です。
    (「熟練技術」の基準の判断は下記)
    その「高度な熟練技能」とは、上記の定義より、「技能」が高度なのですから「技能」+Aと成ります。

    「技能」+A+「技術」=「殖産物」

    このAのこの数式から来る意味は、「技能」+「技術」=「殖産物」で数式は成り立つのですから、Aは「余剰値」と成ります。
    この「余剰値」Aは「技能」と「技術」とを”より結び付ける力”、即ち、「接着値」と成る筈です。

    「余剰値」A=「接着値」

    「高度な熟練技能」は、定義から、”「経験」を主体としてそれに「知識値」を以って補う技”としていますから、最早、この「技能」の「知識」は「経験」=「知識値」となり「補」では無くなっている事に成ります。
    この場合の「知識値」は「経験」の中に特化した事を意味します。
    従って、この「経験」は「Aの部分」を特化していますので、「経験+A」と成ります。
    故に「高度な熟練技能」とは、Aが介在する事に依って「経験」と「技術」とは引き離せない関係にある事を意味します。
    要するに、科学で言えば「触媒」と成ります。

    「余剰値」A=「接着値」=「触媒」

    「熟練技能」と「熟練技術」を使って「技術立国」として物を海外に売るとしても、売る相手側にそれなりの「受け入れられる土壌」が醸成されていなければより売る事は出来ません。
    まして「高品質で高付加価値品」であればこそであります。
    それには、外国に受け入れられる最低の土壌の発展を促す必要があり、日本としてはそれが「普通の熟練技能」であるとしているのです。
    残った「高度な熟練技能」は上記の数式から「技術」が付加される事に成り、次ぎの関係式によって成り立っている事に成ります。

    「高度な熟練技能」+「熟練技術」=「高品質で高付加価値品」

    この数式は、触媒を取り除かない限り、「高品質で高付加価値品」なものを獲得するには、絶対条件として「高度な熟練技能」と「熟練技術」は常に連動していなくてはならない事に成ります。

    真に皮肉にも昔、奈良から平安時代に掛けて日本が中国から受けたのはこの「熟練技能」であったのです。それはこの上記の数式が成り立つ条件の全てを受け取ったのです。
    然し、時代は進み、「日本人の融合」からもたらされる「遺伝的特技」に依って、その結果、中国は現在の日本の「高度な熟練技能」+「熟練技術」=「高品質で高付加価値品」のより進んだ数式のレベルにまで到達出来なくなってしまったのです。

    全く同じく「産業革命」をリードしたイギリスもこの一点を間違えたと見ているのです。
    「国力」を大きくする手段の「植民地政策」の手段として「熟練技能」と「熟練技術」の両方を海外に出してしまったのです。
    問題は流失させる相手の如何です。むしろ日本などに「遺伝的特技」を生かされて盗まれた事の方が問題であって、当時の日本をイギリスは他の諸国と同じと見ていた事の現れで其処に問題を持っていたのです。昭和の始め頃には「猿」と表現していた事も事実です。
    つまり、この「2つの放出」のみならず、「相手の評価」を間違えた事にも成ります。
    そして、今日本はそのイギリスの産業革命の成熟期の立場と同じ境遇の所に達しているのです。
    この立場にあるとして日本の採るべき「流失の方法」は「ある範囲の基本」の「熟練技能」(普通の熟練技能:下記)を自然体で流失させ「ある範囲の高度」な「熟練技能」と「熟練技術」(下記)を残す算段が正しい判断になると考えます。そして、「相手の評価」を間違えない事だと考えます。

    海外への「人材の流失問題」も仮に誘いがあったとはしても、外国ではこの様な優れた「熟練技能」+「熟練技術」の「学問的環境と土壌」が無い事から、先ずまともな技能者・技術者は、「技能・技術屋魂」で環境を選びますので外には出ませんし、出たとしてもその頭脳を生かす環境は有りませんし整いません。
    米国などの先進国への「熟練技能」+「熟練技術」の2つの流失は高いレベルに於いて「相互依存関係」にありますので「2つの放出」と「相手の評価」には問題では無くなる筈であります。

    つまり上記した数式の通り「高品質と高付加価値の環境」を日本に保全する事が唯一生きる道なのです。それは日本人の大量の「移民的な海外流出」が起らない限りは保全される筈です。
    全ての「熟練技能」とその「技能者」を残すべきとの強い意見がありますが、一見正論かの様に観えますが、この論議はある種の思惑を以って利害関係者に依って論議されているもので、その環境に居た者として賛成できません。

    兎も角も「普通の熟練技能」は「外国人の実習」と言う形で十数年の経験を得て流失する事に成るでしょうし、その取得する者の資質にも大きく関わってくるものです。
    つまり、此処にはこの流失問題には「タイムラグ」と「資質」と云うリスクを有していますので、日本にとって「自然流失」は問題には成らない範囲の事を意味します。
    然し、「技能者」のそのものの「人の流失」はその「遺伝的特技の環境」の中にいてこそその「技能」は培われ生かされるものであって、ある「範囲の技能・技術」の技能・技術者の「単独の流失」だけでは外国に於いて生かされ得ないのです。
    上記の数式論から、あくまでも「熟練技能」だけはある範囲の「複合的な流失」で無くては意味を成さないのです。
    又、その海外に於いて「熟練技能」のそれを受け入れられる「充分な環境」が存在し得なければ直ぐに「効果的な活用」は望めないのです。
    此処にもその「環境」が海外に整えられる為の「タイムラグ」が存在します。
    又、その流失した技能者にも働ける寿命・時間があり、その「寿命の範囲」は「熟練取得」と云う期間を既に使い果たしている事に成ります。
    だとすると、流失して生かす期間は極めて少ない事を意味しますので、「熟練技能」を海外で伝達する時間の「タイムラグ」が起こります。
    この結果、「伝達時間」が少ないと云う問題が起り、これも成り立つものではない事に成ります。
    (筆者は発展途上国の取分け中国はこの熟練技能の取得を最早期待していないと観ていて次ぎの論じるものを期待していると説いています。)

    実はそれと決定的な流失の可能性が低い事が有るのです。それが本文のテーマの一つであります。
    それは、この「熟練技能者」とその「技能そのもの」には「物造りの神」即ち「神明社」と云う「精神的な心の拠り所」が付き従っている事なのです。
    これが日本の「熟練技能者」の彼等には外国人との間に違う大きな相違点であるのです。

    「熟練技能者」+「物造りの神」=「精神的な心の拠り所」

    それは外国人に決して理解され得ない事なのですが、日本の場合、「熟練技能」の「物造り」には「精神的な技能」を目標としていて「心技一体」の「修練取得」がその「熟練」を成し得るのだと定義つけているのです。つまり、「人間的成長」がその熟練を支えているのだとしているのです。
    「技」だけで存在するのではなく「心」と合致して初めて成し得るものであるとする「技能者の信念」です。

    「技」+「心」=「物造り」

    以上の数式が成り立つ技能なのです。
    そしてこの数式の維持は過去に於いては上記で論じた「4つの青木氏」の「品部と部曲」の様な「徒弟制度」に依って護られていたのです。
    最近に於いてもこの「徒弟制度」は多少の変革はあったにせよその根幹の「弟子と師匠」の関係は「技」+「心」=「物造り」の中に生きているのです。
    その「物造り」の「究極の頂点」を「神明社」に置き「弟子と師匠」の組織は「物」を「物」と見るのではなく「物」を「上」(神)からの「授り物」として崇める対象としたのです。
    この考え方は今も高い「熟練技能」には遺されているのです。

    これは古来に「後漢の民」がその技能を伝えた時、同時に彼等が持ち込んだ「仏教」と「道教」が併せ持って伝えた事が、「融合民族」の「遺伝的特質」から日本人は「技」+「心」=「物造り」の精神を醸成してしまったのです。
    何を作るにしても其処に”「心」=「神」が宿っていなければ「物」ではなく、それを成す「技」は「技」ではない”とする考え方が存在するのです。
    古来の鞍作部の「仏像や神物」の製作過程を観ても明らかであり、「作り手」(熟練技能者)と「仏神」とが一体に成ってこその「仏像や神物」であって、其処に”神や仏が宿る”と信じ、宿った「仏像や神物」に対して人は信仰するのです。

    「作り手」(熟練技能者)は「水ごもり」や「座禅」等の行為をする事に依って「汚れ」を取り除き「人と神仏」との間に「架橋の筋道」が宿り「神仏」が人の手に往来すると信じているのです。

    これは「仏像や神物」に限らず「刀剣」に於いても同じであります。
    筆者は物理学が専門で中でも冶金・金属学を得意とするものでありますが、この刀剣の製作については「技」+「心」(神仏)=「物造り」の事は良く判るのです。
    砂鉄を溶かし鍛造で固め何度も炭の煤を溶融させ鍛え刃先に焼きを入れて固くし最後に強靭さを出す為の熱処理をします。昔のように計器のない時代に「極めて狭い範囲の温度」のところで的確に工程処理をして行くには「神仏の加護」なしでは殆ど無理であります。精神を研ぎ澄ますには「神仏の加護」なしには成し得ない領域の「技」であるのです。
    現代の計器に於いてでさえ難しい温度域にあるのです。真に「神業」であり上の2行の事なしでは成せる物ではないのです。
    「日本人の遺伝的特質」を「物」で例えるならば、この「日本刀」の全製作過程に代表されるのであります。

    「日本人の遺伝的特質」=「日本刀」=「日本人の魂」

    これが「日本刀」は真に「日本人の魂」と言われる所以であります。
    日本の全て「物造り」には過去現在に於いて強弱の差はあるにしてもこの「技」+「心」(神仏)=「物造り」の「考え方」は変わっていないのです。
    そして、「神仏」とりわけ、その日本の「5神」の中でも「神」は「自然神」を祭祀する「皇祖神」に結び付く「祖先神の神明社」に求めたのです。そしてそれを人は「物造りの神」と崇めたのです。
    又、この「心」=「神」の精神が「融合民族」に裏打ちされた「日本人の遺伝的特質」をより増幅させているのです。
    「心」=「神」の精神が「神の加護」を得て ”より良い物を造ろうとする飽くなき追求心」”を引き出しているのです。依って、”より良い物を造ろうとする飽くなき追求心」”は「高品質と高付加価値」の環境を止め処なく追求する精神が生まれているのです。
    「高品質と高付加価値」の環境はこの「熟練技能」の「心」=「神」の精神から生まれているのです。
    つまり、この領域の「高度な熟練技能」は最早、「日本の文化・伝統」の範囲にあるのです。
    況や、その「物造りの神」の「神明社」は青木氏に委ねられていて、依って、「3つの発祥源」のみならず「神」とは行かずとも「物造りの氏上・始祖」とも衆目から観られていたのです。
    この無形の神明社の青木氏に対する衆目の印象は、資料に遺される事は無いので証拠付ける事は出来ませんが、「青木氏」に関わった「品部、部曲」の「民」の有り様(4つの青木氏)や、全国各地に広がる「神明社」の有り様や、「3つの発祥源」や「2足の草鞋策」の有り様等から観て、ひしひしと伝わるものがあり「物造り氏上・始祖」と観られていた事が良く判ります。
    故に、「物造りの氏上・始祖」であったからこそ違和感無く衆目からも排他されずに、青木氏は物を初めて作り出す「殖産の2足の草鞋策」を追求出来たし、追求したと考えているのです。

    他国に於いてこの「熟練技能」に関わる上記の「環境条件」即ち「高品質と高付加価値」の環境が叶えられるのであれば「技」と「人」は制止しても海外に自然流失して行くものでしょう。然し、私はそれは無いと考えているのです。
    宗教、生活環境、国民性、気候、技能環境、技能の置かれている立場、等が整えられているとは到底考え難く、ましてそれを押し通してまでも流失させようとする考えが生まれるとは思えないのです。仮に押し通してもその「技」と「人」はこれ等の「環境条件」を整えるまでに時間的余裕は無くなる筈です。
    「熟練技能」=「環境条件」は「絶対条件」であって、「熟練技能」+「環境条件」=「高品質と高付加価値」の数式が故に成り立つのです。

    「熟練技能」×2=「高品質と高付加価値」
    「環境条件」×2=「高品質と高付加価値」
    以上の2つの数式が成り立ち、「×2」の意味する様に容易い事では無い事が判ります。

    つまり、「熟練技能」の「技と人」は「日本と言う環境条件」の中にいてこそ成就するものであると云う事ではないかと考えられます。
    当然に同じ外国の土壌の中にも外国の土壌にあった「熟練技能」が生まれ醸成されて行くものであるとは考えられます。
    其処に日本の「熟練技能」が入り込んでもそれを100%生かすだけの「熟練技能」は生まれないのが道理です。
    従って、外国が環境を無視してまで好んでこれを得ようとする場合ただ一つの方法しかない筈です。
    それは日本の土壌の中で会得する以外に無い事を意味します。もちろん「技と人」に付いて会得する事に成りますから、「実習」と云う手段以外に無い事に成ります。
    この場合、上記の数式条件をクリヤーする必要があります。
    特に「心技一体」をクリヤーする事が出来るかが問題ですが、「技」は”ある処まで”は可能としても「人」即ち「神明社」に繋がる「心」は殆ど無理であります。

    それは筆者の経験でも「実習生」の研修を経て彼等と議論を重ねると、この「心」の領域の部分はどんなに説明しても無理で理解され得ない事なのです。「激論」を交しても「国民性」と云うか「遺伝性」と云うか彼等の脳が全く受付けないのです。その様に考える「思考原理」が無い事を痛感するのです。
    従って、”ではどの程度か”と云う事に成りますが、彼等の取得出来る「技」は、「熟練技能」×2はおろか「熟練技能」×1の領域にさえも到達しない範囲でのものに成ってしまうのです。
    それは「技」の領域ではなく普通の「記憶の領域」に留まるものであって高く広く応用し維持させ、より良いものにする領域に到達しないものなのです。
    つまり、「高品質と高付加価値」を生み出す領域までも到達し得ないのです。
    これを「小技」と呼称するならば、次ぎの数式と成ります。

    「小技」+「心」=「技」
    「技」+「心」=「物造り」
    「小技」+「心」+「心」=「物造り」

    ∴「小技」+「心」×2=「物造り」

    以上のこの「3つの数式」が成り立つのですが、「心」×2である様に「心」が「物造り」には大事である事をこの数式は意味しています。
    そして、「心」×2の一つは技能者の「心」であって「心域」であり、もう一つの「心」は「神」「仏」であって神仏の加護であり、これを信じる「心」であり崇める「心」なのです。
    この「2つの心」が得られて初めて「技」と呼ばれるものに成り、「熟練技能」の領域に到達できるのです。
    これが「物造り」の真髄なのです。この事をこの数式は物語っています。
    これが「日本人の遺伝的な思考原理」なのです。
    「日本人の宗教心」は「観念論」のみならず、上記全ての数式に基づく「論理性」を心の奥底に持ち得ているのだと考えます。
    故に彼等には当然に論理的にこの数式が理解出来ずあくまでも”「技」と「心」は別物である”と主張するのです。然し、彼等には言わせれば”日本人そのものが同じアジア人ながら「奇異的な人種」に観えている”と云うのですが、これには日本の現在の成長の根源と成っていると観ていて、それはむしろ”「尊敬の念」を抱いて観ている”と云っているのです。
    つまり、”「日本の物造り」は「科学」と「文化伝統」が融合している”と感じ取っているのです。
    そして、その事が”「奇異」”だと表現しているのです。
    これが彼等の結論であって、現代の”世界の物造りのトップを行く根源だ”と云いたいらしいのです。
    最後に付加えた彼等の発言は”だから、これからの日本は衰退しない”と付加えたのです。

    「日本の物造り」=「科学」+「文化伝統」

    我々「遺伝的特技」を受け継いで持っている者にとって「心」の無い時に、「心」乱れる時にその者の「体」を通じて高い「技」のものを作る事は不可能と考えます。
    「心魂一滴にして何事も成らざらん」でありますが、しかし彼等は”其処まで深く考える必要性はない”とするのです。(”自国の環境の中では”と云いたいらしい)
    そこで ”では敢えて深く考えれば納得するのか”と云うと、”自らの頭と体に無理が伴なうもの事は良くない事だ。常で無い事だからそれは維持出来ない”と云う論調です。
    更に ”では「高い物」を会得する必要がある時には如何にするのか”とたたみかけると、”高い物を会得する必要性はこの世には低い事だ。誰かがするだろう。それで世の中は成り立つ”と最後は成るのです。再々に ”その誰かが貴方であったならどうするか。その為に実習をしているのではないか”と議論を覆い被せると、”常である事が最善であるのだ。私には常以上の事は求められていない”と答えたのです。

    そこである実験を試みた。「高度な熟練技能」を要する試作品を作る事にした。そしてその為にほぼ同じ経験を有する数人の「日本人の技能者」と共に同条件で試作品に挑戦さした。実習生の彼等は直ぐに諦めたが、日本人の技能者は諦めない。何とか工夫してものにしようと悪戦苦闘する。やはり結果は思う物には成らなかった。そこで彼等に問うた。”この事で会得したものは何か”と、すると彼等はこの様に答えた。”出来ないと思ったら直ぐに止める事が大事な事でリスクが少なくなる。最も肝心な事だ。”と。
    日本人は”未熟さを恥る。何時か何とかしたい。”と答えた。
    そこで、次ぎに最も信頼できる年老いた「高度な熟練技能者」にこの試作品の製作を頼んだ。そしてその試作品を作るまでの3日間の間中、製作中と生活も共にし彼等を密着させた。
    そこで彼等に聞いた。日本人の彼等は”仕事に入る前の熟練技能者の有り様”と”製作中の熟練技能者の有り様”に対して2つの答えを出した。仕事に入る前には、工場の隅にある神棚に向かって精神を統一させた事、仕事中には、”まるで「脳」が「体」を道具の様にして「脳」が機械を動かしている様で、「体」で「脳」を使って作っていない様に感じた”と答えた。
    ”自分と製作技に一線を超えた何かの違いがある様だ。と言い結んだ。
    ところが実習生は、仕事に入る前には、”熟練技能者の行動には意味が無い、判らない。”と答えた。仕事中には、”単純に経験の差だ。自分達も経験を得られれば可能な事だ”と答えた。
    日本人の方は、勿論に出来上がった製品の素晴らしさに感嘆すると共に、”目に留めた事は3つあった。”と答えた。一つは”仕事前の段取りと道具などの下準備の綺麗さ”、二つは”製作中、仕事中の製作補助剤と切削屑(キリコ)の綺麗さ”、三つは”仕事後の後始末の綺麗さ”の3つの綺麗さがどこか自分達と違う事を付加えた。
    実習生は自国でもそれなりの経験があったのだが、答えはこの3つの違う点には答えは無かった。無かったと云うりは”無関係だ”と云いたい様であった。
    更に日本人の方に聞いた。”ではこの三つの違いは何処から来ているのか”と。すると”良く判らないが、全ての違いは「仕事に入る前の熟練技能者の有り様」に起因しているのでは”と答えた。
    矢張り、実習生と日本人の若手との間には答え方まで違っていたのです。
    筆者は、”「脳」が「体」を道具の様にして「脳」が機械を動かしている様で、「体」で「脳」を使って作っていない。”が”「日本人の遺伝的特質」の悟りである事を物語るものである”と云いたいのです。
    この悟りに到達するには”神仏と一体化すること以外にはこの状態はあり得ない”と考えられます。
    何も、「神仏」に手を合わせお経や祝詞を上げるばかりのご利益の形ではなく、その「心意気」、「心域」「心境」に到達する事が必要である事を意味するものです。
    現在に於いても「神仏」に手を合わせる事は少なく成ったとしても、この「心域」「心境」に持ち込み”「汚れ」を取り除き「人と神仏」との間に「架橋の筋道」が宿り、「神仏」が人の手に往来する時にこそ生まれる”と信じる「遺伝的思考癖」は無くなっていないのです。
    実習生との違いでも判る様に、この「遺伝的思考癖」が外国人が真似のできない「熟練技能」を醸成している根源となっているのです。
    そして、この「遺伝的思考癖」が「3つの脳の思考訓練:特技」だとしているのです。

    筆者はこの「心」を伴なわない「小技」の領域のものは自然流失しても問題はないと考えているのです。
    「小技」は応用力を伴なわないからで「技」から一つ超えた新しいものを作り出す事は出来ないからです。彼等にはこの「技と人」「技と心」が別物とする思考原理がある以上は日本の様なより良くして且つ新しく超えたものは「自らの力」では成し得ない事を意味するからです。
    ただ一つ彼らにこれを成し得る方法が在ります。
    それは”良くして且つ新しく超えたも”を日本から一つ一つを導入して階段を上げて行く方法が残されている筈です。
    筆者はその「小技の領域」や「階段を上げて行く方法の領域」のものであれば問題は無いと考えられますし、また彼等にはこの方法が無理なくして適していると云えるのです。又、そうあるべきです。「高品質と高付加価値」の物を効果的に広める事に依って、日本人の「生きる糧」としても、人間社会の「文明の進化」に貢献する為にも必要な事である筈です。
    この点では実習生の発言の”誰かがするだろう”は一面では真理である事が云えます。
    日本人が他に比べて特異に「遺伝的特質」を有しているのであれば、”「文明の進化」を日本人が先頭に立って主導すればよい。”と云う事に成ります。”神が日本人に命じているのだ”といいたい筈です。
    だとすると、”外国の全ての者が「熟練技能」の領域のものは保有する必要性はない”という事に成ります。実習生の言い分や主張は「文明の進化」と云う観点から観れば”正しい”と云う事に成ります。つまり、この理屈で云えば、”日本人の「遺伝的特質」は宿命だ”と云う事に成ります。
    ”無い者がある様に立ち振舞うより、有る者がある様に立ち振舞う事が自然で道理である”と云う事に結び付きます。
    突き詰めると、実習生は心の中で主導する日本人を尊敬していた発言であった事を意味します。
    上記した様に「技と心の一体化」は「日本人の宿命」であるとし、その拠り所が「神明社」にあるとするならば「神明社の位置付け」は「3つの発祥源」に匹敵する「象徴的重み」を持っている事に成ります。筆者は、先祖が「2足の草鞋策」を通じて外国貿易をしていた事から、この辺の事を悟り「神明社の氏上・始祖」の青木氏の「家訓10訓」の「家訓1及び2と家訓8」にこの事を繁栄させたのではと考えているのです。取分け「家訓8」に対して本文を組み込んだと観ています。
    この「青木氏と神明社」に関わる「文化と伝統」の範囲の「物造り」は遺すべきと考えているのです。

    「高度な熟練技能」の範囲=「高品質と高付加価値」の環境=「文化と伝統」の範囲

    筆者はこの様に「3つの発祥源」(青木氏)と「物造りの氏上・始祖」(神明社)を多面から論じているのです。そこで「神明社」を「青木氏の守護神」とする事のみならず、その根源に付いても論じる事を試みています。つまり、”青木氏にはもう一つ「物造りの氏上・始祖」と云う使命が課せられていた”と観ているのです。それが”神明社なんだ”と云いたいのです。

    「熟練技能」と「マシニング」
    続けます。そこで彼等つまり外国は”彼らにこれを成し得る方法が在る。それは良くして且つ新しく超えたもを日本から一つ一つを導入して階段を上げて行く方法”と論じましたが、”では一体それは何なのか”です。それをこれから論じます。
    と云うのは、「流失拒否論」ですが、これにはこの様に”熟練技能は流失はない”とする明確な理由、”小技の領域は流失しても良い”とする明確な理由があるのですが、これを隠してか知らないかの議論なのです。日常その環境にあるのだからその論者であってそれの背後やその環境に居る者等がこの事に付いて知らない筈は有りません。
    そこで更に進めます。
    実は、工業界の現在では「マシニング」と云う超ハイレベルの「コンピーター」で動き、人間の持つ「高度な熟練技能」と「高度な熟練技術」はコンピーター化されて記録されていて、且つ、それも人が介在しないで自動的にプログラミングされコンピーター化される工作機械が既に日本の末端まで一般化されているのです。
    今や「人間の熟練技能」を「その品質とその安定度」に於いて遥かに超えているのです。
    当然に中小企業の中に於いてでも容易に獲得できる環境にあるのですが、それにも拘らず「流失拒否論」なるものが述べられているのです。少し変です。
    更に、仮に製品に「熟練技能」が必要であったとしても、それを調べ再現できる超コンピータの塊の様な「3D測定機」というものがあるのです。
    この「3D測定機」のコンピータ機は他国を寄せ付けない程度に「日本人の特技」を生かしたもので日本の独壇場の市場です。一般の人には馴染みではないと思いますが、工業会では最先端の機械なのです。「機械」というよりは「人間の頭脳」かそれ以上のより「高度な再現力」を持っているのです。
    この工業界の範囲に於いて「人間の脳域」を遥かに超えて再現出来て、且つその精度域は10万分の1まで確実に検出出来るのです。オペレータが外からこの頭脳にデーターを入れる事も出来るし、コンピーターが自分でその物を計測して解析してデーター化する事も可能な測定機なのです。
    測定機と言うよりはコンピータ人間と云うべきものかも知れません。測定機の中に人間が入ってオペレートするのです。
    20℃50%RHの無菌無埃の完全空調の部屋全体がコンピータに成っていて、その中の一角にオペレータが座りCRTを見てキーボードやジョイスティクを操ると云う形です。一度操れば後は自分で状況判断して全てを遣りこなしてしまうと云う優れ物です。
    これを「ティーチング」と云うのですが、この様な高度な熟練技能と熟練技術を併せ持った人間の頭脳に代わるCPU機なのです。
    この日本国内だけで汎用化されている「3D測定機」を使えば、これ(「熟練技能」と「熟練技術)を簡単に汎用的に何処でもコンピーター化できるのです。
    現在ではこの「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動して組み合わされて使用し使用されていて、日本では最早20年前位から「熟練技能」の依存域では既にないのです。
    (ある一面に於いて重視されて需要が高く”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”に取って代わられない領域があるのです。今後「高品質で高付加価値品」に成れば成るほどに必要とされるでしょう。)
    これは「日本の特技」の「高品質で高付加価値品」の「代表的な極め」であります。

    (因みにこの”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”が無くしては8角面から原子核目がけて完全同時に電子衝撃信号を発して原子臨界反応を起こさせる事さえも出来ないのです。つまり、原子力発電や原子爆弾も作れないのです。原子力の必需品なのです。)

    「熟練技能」の多く潜在する零細企業に於いてもこの「熟練技能」をコンピーター化されるシステムが既にとっくに備わっており、各県に存在する工業試験所や、高精度のものに応じては頼めば直ぐに企業の協力体制出来上がっていて「3D測定機」で解析して修正してプログラム化してデーター化して、それを「マシニング」に移して高度な物を作る事が簡単に出来る体制に成っているのです。
    この領域は現状では、主に「試作段階」に於いて設計化できない高度な部分をこの「零細企業の特技」とする「高度な熟練技能」で先ず補い作り、それを「3D測定機」で10万分の1の精度でコンピーター化し画像解析出来て、目で確認しながら不具合ヶ所を自動解析しながら自動修正して、それを同時に「3D測定機」で「プログラミング」しながら工作機械の「マシニング」にセットして量産的にする事が簡単に汎用的に出来る環境に日本は末端までに成っているのです。これが上記した”ある一面”なのです。
    ただ高度な熟練技能を要する様な試作品を作る場合に、先ず第1段階の試作品を「マシニング」で作り「3D測定機」で解析して、更に「マシニング」で加工修正してこれを2度乃至3度繰り返す事で満足し得る「高度な熟練技能を要する様な試作品」を造り上げると云う手段もあります。
    これを一挙に「熟練技能者」に依って試作品を造り上げてしまうと言う手段が実際には多いのです。
    それは設計者が考えている事を直接会話を通じて反映させられると云うメリットがあるからなのです。
    なかなか設計値や図形に表現出来ない事があるからで、金属やプラスティクの温度や機械的強度等の加工特性に依って設計寸法通りに成らないものや、設計どおりにしても実際には使えないものがあり、これを「熟練技能者」と対話しながらより現実味のある物に仕上げて設計に反映させる必要があるのです。
    これを試作段階のものにはなかなか読み込む事は実際には困難なのです。
    それを神業の持った上記した「熟練技能者」に先ず作ってもらい、その上で「3D測定機」でデター化して設計値に反映させるのです。そうする事で「3D測定機」と「マシニング」には高度な学習機能が両方に備わっていて2度目からはかなりのものが出来ます。
    「マシニング」でも加工温度、加工速度、バイト切削角、切削剤等の諸条件を決める必要がありますがこれも学習化して数値化してしまうのです。
    後はマシニングが勝手に自動的に量産化してしまうのです。
    高度な熟練技能は「3D測定機」にデータ保存されるのです。
    この「高度な熟練技能」を”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”化すればするほど人間の熟練技能の領域を遥かに超えるのです。
    普通の程度の「熟練技能」程度の領域では「マシニング」のそのものだけの高能力がこれを簡単に補える事が出来るのです。故に「熟練技能」の海外流失はリスクを負わないのです。
    ”基本とする「熟練技能」が日本に無く成るではないか”とのご指摘があろうと思いますが、この事でそれも違うのです。無くならないのです。
    何故かと云いますと、次ぎの事に成ります。
    先ず第一にマシニングのコンピーターに「日本人の繊細な思考」から出た技能を既に多くは記憶化されているのです。これは上記した「日本人ならではの遺伝的特技」であって下記の数式に示す様にこの領域を他に追随を許さないのです。

    「日本人の繊細な思考」=「日本人ならではの遺伝的特技」=「高度な熟練技能の試作品」
    「3D測定機」+「マシニング」=「高度な熟練技能の試作品」=「高品質と高付加価値」

    その記憶は次ぎのものに成ります。
    第一に「学習」として生かされるシステムにコンピーター上でマシニングは出来ているのです。人間の持つ学習能力が「日本人の遺伝的特技」で出来上がっているのです。
    第二に「3つの脳」の「思考訓練」に依って得られた「熟練技術」は既に一段上のレベルの「新熟練技能」を学習に依って生み出しているのです。
    上記する前者の「熟練技能」を「基本的な熟練技能」とすると、後者は「熟練技術」に裏打ちされた「応用的な熟練技能」と呼ぶべきものに現在は進化しているのです。
    「時代は進む」の諸事に合わせて「熟練技能」も進化するべきでその姿に日本は既に成っているのです。これは”「技能−知識−技術−新技能」のサイクルは繰り返す”の「青木氏家訓8」の誡めに真に合致します。
    第三に中国はこの「熟練技能」に期待をしていないという事です。そんな時間的余裕が無い筈です。
    此処が「彼等の狙いどころの方法」でこれさえ獲得してしまえば「熟練技能の入手」は何の問題も利点もないのです。ところが此処に彼等にとって厄介な一つの障壁があるのです。

    中国はこの「2つの機械」(マシニングと3D測定機)は共産圏には「貿易管理令」で輸出は抑えられている為に、これを獲得しようとして上記の「2つの機械」を悪質なあの手この手で搾取しているのです。
    「時間」で解決できる「熟練技能」そのものより、最早、中国はこの「2つの機械」があればどんなものでも出来る事を知り、その入手方法の獲得に躍起になって走っているのです。
    「高度な熟練技術」を持った企業とその協力工場を人件費という餌で誘致し、工場を提供し、「2つの機械」を設備させて、その間に合わせてそれを動かす人を育てさせて、最後には「2つの機械」を設置したままに「工場移転」を迫り、云う事を聞かない場合は移転先を紹介しないと脅すのです。
    移転すれば又同じ事を繰り返す事になり日本企業は撤退としてしまう「国家的戦法」を堂々と行っているのです。
    又、日本国内で倒産した中小企業のこの「2つの機械」をスクラップとして購入し見るからにスクラップに見せかけて解体し、中国に持ち帰って何とか自分達で修理し組み立て直し、中国国内企業に売りさばく戦術の何れかです。これは「国家戦略の領域」なのです。部品の生産のみならず原爆や原子力発電機を作れるのです。
    後の問題は「元による経済力」で、この様な零細企業を買収して自国に移動させて人共に使用する戦術で既に実績をあげているのです。

    この「3つの彼等の無法な離れ業」は私の現役中に目の前で何度も起こった驚くべき現実の日常問題です。伝達に時間が掛かりと資質が左右する「熟練技能」の海外流失は最早、彼等には最早無関係なのです。未だこの手法は続いているらしいのですが、最近はこの種の誘致には乗らない傾向が出てきたとの事ですが、この事の方が問題なのです。
    しかし、これらは中国の貨幣「元の引き上げ」に依らなければ解決は不可能です。しかし、米国はドル防衛の為に日本の貿易摩擦のような積極的な行動には出ず腰は何故か牽けています。まさかオバマ氏の親族が中国人であるからかでは無いでしょうが。

    確かにこの様な背景下である為に、この「熟練技能」の「海外流失」の懸念はある部門に於いて認められます。それは主に3次元的に「流体力学」が大きく働く部門に於いては有り得るかも知れません。其処まで「3つの彼等の無法な離れ業」でこの部門領域が犯されているとは考え難いのです。
    つまり、端的に云えば、皮肉にも古来中国より教わり発展させた「日本人の特技」の有名な「ケサギ」と云う作業があります。
    これは「高品質と高付加価値」を成すために必要とする「高度な熟練技能」である事は否めません。
    中国後漢から司馬達等氏が持ち込んだ「鞍造部の技能」を使って、「仏像を彫る技能」即ち3次元的な立体像を完成させるのは「ケサギ」作業が無くてはなりません。奈良時代、平安時代の仏像の例に観られる様な「幾何学的流線型」であります。
    専門的には「コーキング」と云いますが、多分コンピーター化が難しいと見られる物は他には無いと考えます。しかし、これは余りにも「熟練技能」域にあるが為に「人的要素」に安易に頼りすぎて「コンピーター化」を怠って来た部門域である事に依るものです。
    現在では上記した様に「3D測定機」も高度に進み「ナライ機構」と云う装置でこれを充分に量産的に再現出来て、「マシニング」も「ナライ機構」で三次元的(3D的)に再現させ稼動する事が出来る常態に成っているのです。
    ただ、「人的」に依存し過ぎて「コンピーター化の努力」を怠っているに過ぎないのです。
    如何なる遺すべき物であろうと「努力」を怠るものには日の目は当らないのがこの世の定めです。
    むしろ、この様な物であるからこそ「コンピーター化」を施すべきなのです。

    上記した金属的な作業を含めて、仏像に然り陶器等の「伝統品、工芸品」を含めて機械らしきものが無い時代の古来より全ての作業はこの手作業の「ケサギ作業」から発しているのです。
    そして文明が進むにつれて「機械化」や「道具化」が進み、「ケサギ」は最後に残った難しい流体的な物の「特技」としての代表的な位置にあるのです。
    この事から「特技」としての「長い歴史」があるが為に、妙な誇りの様な事に拘りが生まれているに過ぎないのであり、つまり「ケサギ」は「作業の伝統」そのものである事は否めませんが、本来は脱却すべきでものなのです。逆に、これが「日本人の遺伝的優秀性」の「特技」に対する”「3つの脳」の「思考訓練」(「熟練技能」「熟練技術」)”の努力を怠る欠点に成っているのかも知れません。それだけに何としてもこの一点から脱却すべきなのです。
    古来中国や産業革命後のイギリスの二の舞にならぬ様に、「作業の伝統」だからと云ってそれに胡座を斯く事では無く、時代の進歩に合わせた形(コンピーター化)に変化させて記録保存すべきものと考えます。出来ないのではなく出来るのです。難しくなく易しいのです。
    兎も角も中国でのこの種の脅威は中国が共産主義的市場経済である限り何時かその壁が訪れると観ます。それは「私有財産」を認めない事です。”使用権は認めても所有権は認めない”事です。
    人はより良いものを作ろうとする本能を有しています。日本人はその遺伝的にも飛び抜けて持っています。とすると、その努力が結果として自分のものとして所有権が認められるから人は頑張って努力して進化させようとするのです。
    この「所有権」がないと云う事に成れば必ずや自由圏の外国企業は何時か人件費的魅力(元の引き上げ)が無くなり「所有権」が無ければ、更に再び他国の「所有権」が認められる低賃金の国へと移転して行く筈です。そのキーは「元の引き上げ」だと見ます。雪崩の様に引き上げる渦が起ると観られます。
    既に上記した「追い出し戦術」と共に「所有権」が原因して起りつつあると聞いています。
    この「熟練技能」と「熟練技術」の連動はこの様な環境下にある事を知って頂き下記の「本文」をお読み頂きたいのです。この意味で序文のところでくどく述べたのです。

    「青木氏の伝統」(家訓8)
    現在に於いては「日本人の遺伝的特質」の「3つの脳」の「思考訓練」は、その努力の行き着くところの結果として「コンピーター化」を促し、それが更には「高品質で高付加価値品」を造り上げ、遂には「日本を再生」をさせる起爆材である事を意味する事であると本文はしています。
    これは、「日本存続」でなくても、「青木氏に於いての子孫末裔の存続」は「青木氏の家訓」の「家訓8」で既に戒めとされていて、平安末期頃にこの事を見抜いていたのです。
    それ故に、「全青木氏」に於いては、この”「3つの脳」の「思考訓練」”の「日常の努力」は古より「課せられた生き方」なのだと云えるのです。
    終局、「家訓8」の「技能−体系化−技術」の体系化の作業をより具体化、具現化するとすれば「3つの脳」の「思考訓練」でしか無いと云えます。

    「日本人の遺伝的特質」=「3つの脳」の「思考訓練」=「高度な熟練技能」=「高品質で高付加価値品」

    そこで、このその基と成っている「3つの脳」の「思考訓練」の話に戻しますが、つまり、筆者もその環境下にあって、年中、上記の云う所謂「受験勉強」時代での「知識の習得」の環境が要求され、上記の「3つの能力」の向上が要求されていました。
    考えてみれば、「家訓8」である事に気が付き日夜実践していた事に成ります。
    実は「技術屋」としての仕事の悩みで、”どの様にしたら仕事の能力を高められるのか”を悩んで「脳の勉強」をしたのがこの切っ掛けでした。
    (「熟練技能」「熟練技術」も含めて「青木氏家訓8」の意味に気付いた)
    この技術職業病なのか必要以上にこの論理性が強く成り過ぎて人生観が少し捻れて世の中のことが読み取れなくなり悩んだ時期がありました。その反動で技術系ではない文科系の”「歴史に関する趣味」を持つと云う事で解決できるのではないか”と幸い気が付いて、他方この方向にも上記1から3の「3つの能力」を駆使したのです。
    その始めは親からの依頼で始めた「ルーツの復元:青木氏の研究」であったのです。
    一番最初に取り掛かったのがこの伊勢の「神明社」でした。ところが調査が進むに連れて”「神明社」が「神明社」であるだけではなく何か納得出来ないものがある”と感じていたのです。
    家に残る色々な慣習や、青木氏の資料や、遺産品から見えるものや、各種の神明社資料や、「2足の草鞋策」の記録帳簿や、「家訓10訓」の添書や、紙屋長兵衛の最後の人物であった当事者の祖父からの口伝の内容等から「3つの発祥源」以外に「特異な立場」があったのではないかと感じ採っていたのです。

    「神明社」の祭祀の際に「始祖のような立場の役目」を果たしていた事が各所に出てくるのです。
    そのことに付いては調査して行くと、伊勢神宮にも「御役」と云う役目等があり「神明社」にも同じ役目(「御役」と書かれている)がある事が判ってきました。そして伊勢神宮では当初は伊勢青木氏が務めていたらしく、それが江戸期に入ると「神仏分離令」や「大教宣布」等の宗教改革が行われ「民の心の拠り所」とする「神社や寺社」を一氏が独善的に専有する事等を禁じて、且つ更に「寺社領上知令」を出しその勢力を排除したのです。
    その結果、伊勢神宮は幕府管轄になりましたので幕府直轄任命の「御役の村役」が大きな権限を与えられて治めていた事が判って来ました。
    (明治以降は神明社をはじめとして全ての大社関係は県の神社庁の管理管轄に置かれました。)
    伊勢神宮と合わせて「物造りの神」でありながらも「民の心の拠り所」とも成っていた特に5家5流の守護神で「祖先神の神明社」の祭祀には、青木氏一族一門郎党と主な秀郷流青木氏が各地から参集していた事が書かれています。筆者は「神明社」になのか「祖先神」になのか、はたまた「祖先神 神明社」になのかの完全な判別が現在研究中で付いていませんが、兎も角もそれが「物造りの氏上・始祖」と云う立場であった事が判ったのです。
    「物造りの氏上・始祖」としての明記した確定する資料が見付かりませんが、江戸末期の宗教改革の令があったにせよ全体の状況判断から明治期前までこの立場が在った事が確認出来ます。
    明治初期頃10年頃までには伊勢神宮(125社)の各地の青木氏の寄贈が確認出来ます。伊勢神宮の膝元の伊勢賜姓青木氏と伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏と信濃青木氏と甲斐青木氏の江戸期からの寄贈の記録が遺されています。
    (これ以外にも伊勢神宮街路灯には青木氏の大街路灯が現在でも5燈が確認出来ます。特別であった事が覗えます。)
    この様に青木氏全体を繋いでいる神明社を調べる事でルーツの根幹が徐々に判る様に成ったのですが親は「ルーツ復元」の目的よりむしろ筆者に「家訓8」を悟らすために実践させたかったのではないかとも後で解った次第です。と云うのは「家訓8」は「ルーツ解明の作業」そのものであって其処から人間として学ぶものが多かったのです。)

    この「神明社」のテーマで入れば、ある程度の私資料が有ったにせよ祖父の代の明治35年の伊勢松阪の大火(出火元)で消失してはいますが、「70年後の復元」としては”青木氏に付いて解るのではないか”と考えて「伊勢青木氏」の守護職であった「伊勢神宮」のスタートからそもそも安易に入ったのです。5家5流の青木氏関係と伊勢秀郷流青木氏を基点に秀郷流青木氏へと進みその「調査と研究」は年数と経費と労苦と大変苦労しました。特に資料の信頼度に関しては雑学が無かった事もあって当初は判別力をつけられるまでは遅々として進みませんでした。「宗教と歴史」、「家紋研究と地理性」等を研究する事で判別力がついて来たのです。
    それらの研究過程では中でも「青木氏と佐々木氏」の「賜姓族の親族関係」が判り、佐々木氏も同じルーツ解明で研究している筈と観て、更に進めると青木氏の事がある範囲で研究されている事が判ったのです。
    当時はまだコンピーターは無く勿論インターネットも無く、資料文献も少なく、「ルーツ解明」のみならず、「ルーツ」そのものの「世間の意識」は全くないと言う現状でした。むしろ、「ルーツ」を解明する事、「ルーツ」を述べる事さえもタブー視され、伝統を否定し、酷い時には蔑視される時代だったのです。
    確かに筆者の代でもこの程度でしたので親の代では「ルーツの復元」は難しかったことは頷けます。
    原因は戦後から昭和の末頃まで世間には社会主義が蔓延し、「伝統」を否定し社会革命を目指す為に左傾化していた事によると思います。
    そこで、あるのは「自分の解明努力」のみで、結局はルーツ解明方法は特別には無く筆者の技術手法を取り入れて進める方法で研究の糸口を開きました。その切っ掛けは昭和の5大歴史小説家の特別単行本でした。非売品や対談本や簡単な単行本には彼等の独特の調査方法が書かれていたことでした。
    (5人中の2人の小説家が青木氏の事に研究し触れていました。大化期と平安初期の研究)
    そこで私なりの利点を生かした解明方法を編み出す以外には無かったのです。
    資料の信頼度が高ければそれ程でもなかったのですが、如何せん難しい物でした。
    (現在においては益々資料関係や遺された情報が無くなり、又法的な規制の中ではかなり難しいと観られ”無理”の領域に到していると考えられます。まして個人の領域ともなると一つの例として筆者の様な何らかの手法を用いなければ闇雲には不可能です。)
    そこで、参考に筆者手法を紹介致します。

    それは次ぎの様に成っていたのです。

    「筆者の5つの手法」
    解明プロセス(PLAN1)⇒集約プロセス(PLAN2)
    ⇒推理プロセス(DO1)⇒処理プロセス(DO2)
    ⇒検証プロセス(SEE)

    解明プロセス(PLAN1)
    1「文献資料探求」
    2「電話調査」
    3「講演受講」
    4「足取調査(聞取調査)」
    5「現地調査(写真)」
    6「資料整備」
    7「読取検証」
    8「考察整理」
    9「書込整理」
    10「保存文書」
    以上の順序で進める。

    集約プロセス(PLAN2)
    そして、これ等から得られた結果を
    1 「人、時、場所」に先ず集約して纏める。
    更にそれを
    2 「理由、目的、手段」に分類する。
    例えば、ルーツ解明で重要な位置を持つ家紋で観たい場合は
    A 家紋分類集、
    内容の重要性に応じて
    B 宗派集
    C 地理集
    D 慣習集
    E 歴史(史実)集
    以上等で分類する。

    推理プロセス(DO1)
    集約し纏めたものを「世の中の動き」はある種の行動パターンに分類出来る、即ち「三つの戦略」と「6つの戦術」に照合してある種の「推理立て」を行い、「拾い出し」を行う。
    「拾い出し5点(イからホ)]
    イ「推理点」
    ロ「疑問点」
    ハ「問題点」
    ニ「矛盾点」
    ホ「調査点」
    以上を定める。

    処理プロセス(DO2)
    この3つのプロセス(PLAN−DO)を何度も繰り返して前に進める努力を行う。    
    普通は2回(多くて3回程度)でイからハを解決し確率の高い答えが観えて来る。
    中には不明不詳は多く残るが、これは「雑学」が拡がると意外に解消する。
    (雑学を得て何十年後に解明したと云う事もある。)

    検証プロセス(SEE)
    これを「他の研究論文」や時代の「社会慣習や史実(雑学)」に照合して「矛盾の有無と修正」をして検証を行う。

    この「5つのプロセス」に「3つの脳」の「思考訓練」が働くのです。
    特に、「解明プロセス」と「推理プロセス」にはこの「思考訓練」が大きく働きます。

    「解明プロセス」には「単一要素に対する思考訓練」
    「推理プロセス」には「綜合的な思考訓練」
    以上が要求されます。

    ここが一番楽しい所です。これが上記した「無意識の思考」であり何時でもイからハの事が頭の中に残っていて「無意識」の中で(下記の庭仕事等の癒しの中で)考えているのです。

    上記した「筆者の5つの手法」であるこの「3つの脳」の「思考訓練」の御蔭で「雑学」が格段に広がりを見せたのです。いよいよこの”「3つの脳」の「思考訓練」”の手法で元気付き研究はどんどんと広がりを見せました。
    この「特技経験」を活かして「青木氏の研究」がかなり広範囲と成り48年後の今だ余生の課題として続けているのです。
    この様な事から得たものを「青木氏氏のサイト」の「青木ルーツ掲示板」や「青木氏氏研究室」等にこの「研究結果」を公表したのです。
    恐らくは、”ルーツ解明にはお膳立てされてそれを見ればルーツが判る”と云う程に世間に資料があり、資料がまとめられている程甘くありません。この「3つの脳」の「思考訓練」即ち「特技経験」が無ければ「ルーツ解明」には到達できなかったのではと思っています。
    有っても各種資料の「相互関係」が採れていなくて「矛盾」が殆どです。

    「青木ルーツ掲示板」の様にお尋ねの「歴史の世界」を思い浮かべて「雑学の記憶」を引き出し「まとめる努力」が必要です。「雑学」が増えれば増えるほどに「歴史の真実の世界」が浮かび上がると云う気がしますが、そこではこの「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)だけでは駄目で、それらを「書くと云う方法(レポート化)」への工夫が別に必要に成ります。
    昔の「技術レポート」の書き方ではすらすらですが、「サイトの投稿」はそう上手く行かず、そこで、考えたのは筆者流”まず一度少し書いて留める”と云うやり方です。
    青木氏氏には管理人室がありそこに色々なツールがあります。その一つに「原稿書き」するところがありますので、そこで投稿用原稿を作っています。

    そうすると”書かねば成らない”と云う意識が緩やかになりますが、頭のどこかで不思議に”無意識に考えている”。と云う事が起こるのです。
    テレビを見ている時、庭仕事をしている時等に”フッ”と何か浮かび上がるのです。
    長い間の経験と云うか、出来上がった習慣と云うか、この歳に成ると、この瞬間がスロービデオの様に判る様に成っているのです。”アッ来た”と云う感じです。
    そうすると、この関係の記憶が蘇って来ます。そうなれば、テレビを見ながら、庭仕事をしながら不思議に「2つの事」(意識の思考行動と無意識の思考)を出来る様に成るのです。手や目を動かし一方で「蘇る記憶」を考え合わせて「書く事の内容」の「関係や答え」が自然に湧いて出てきます。
    この「2つの脳」の動作の割合が7:3位のような感じがします。
    庭仕事のここを切ってここを伸ばす等の「思考7割」と、全く違う事の脳の記憶の思い出しと緩やかな組み立て動作の「思考3割」とが連動しているのです。
    そして、この現象が起こると、後は書くことには問題が起こらず繋がってずすらすらと書ける様になります。
    これは、長い間、技術屋としていつも問題を抱えていて、いつも「考える癖」がこの様な「連動癖」が出来る様に成ったらしいのです。
    恐らく、「左頭の記憶脳」と「右頭の発想脳」と「後頭の運動脳」が同時に使える癖が出来上がったのではと考えています。
    ただこの時の条件がある様で、嫌なこと、見たくない事、腹の立つ事、聞きたくない事等の事(高いストレス)がある場合は起こらないのです。
    要するに”好きな事を見聞きしている時”の様です。卑猥な話ですが、意外に便所に入っている時に起こる事があるのです。何も考えない目的だけを達成させるだけの瞬間、つまり、”脳が楽になっている時”でしょう。好きな事で脳がリラックスしている庭仕事や細工物の時にも多く起こりますが、これも「樹木の香り」が「心、即ち脳」を和ませるのだと思います。
    恐らく森や林の様な「より広い自然」の中での環境に左右されているのだと思います。酸素やオゾンの豊富さとそれによる温度の格差断層が脳を休ませている気がします。
    後はゆっくりと別の時に”書く事”のみです。意外にこの時間が経っていても、”その時に思い出した事、考えた事”は不思議に忘れていないのです。此処がつまり「印象の特技」なのです。

    実は、この現象を脳科学的に調べて観てみると、女性にはこの特有な遺伝子的な「思考連動」を持っている本能がある事が判ったのです。
    当然、訓練以外には男性には持ち得ていない「特技」だと云う事も。”料理をしながら他の事を考えて目が届いている”という風に、これは子供を育てると云う「母性本能」の一つらしく「前頭葉」と「右脳」と「左脳」のシナプスの「感情主観」による「連動本能」と云うことなのです。
    この事が「論理主観」の男性にも長い訓練や習慣で本能ではないこの「連動作用」が出来上がるらしいのです。つまり「女性の本能」と「男性の訓練」の違いでしょう。
    男性には本能ではないので必要とする「書くと云う方法]に対する「絶対条件」と云う事ですね。

    先日、体調不良でおかしくなって倒れた時に、私の脳の異常の有無を徹底的にMRI、MRA、CT等で2度にわたり解析調査してもらいましたが、この時、偶然にも病理検査の結果で偶然にこの「特技」が証明されたのです。
    幸いにも病理欠陥は無く、年齢から観た脳の若さについてどの様な生活をしているのかとの質問で話題に成ったほどに脳神経外科医のお墨付きでした。
    実は脳の各部の容積が年齢から見て全く縮小していない事と、特に記憶装置の「海馬」が若い者と同じ大きさかやや大きいと云う事で、普通は年齢から観て65%位に萎縮しているらしいのですが極めて元気とのお墨付きを貰いました。頭の良し悪しは大した事がないのですが、自覚する事では「海馬」の印象力が繊細且つ敏感に動作している事を示していて、この結果「記憶力」がかなり人より秀でている事が証明されたのです。(実は記憶力は人より確かに良いと自認していて自慢なのです。)
    結局は、若い外科医との話中で、「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)と「書くと云う方法]に対する「絶対条件の繰り返し」が「脳の活性化」を起しているとの結論に達しました。
    (脳外科医もこの、「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)を肯定)
    (海馬は記憶するか否かをその時の印象力にて判断し取捨選択する機能を持っている。)
    実はこれは学業ではそれ程でも無いのだけれど、記憶だけは同じく孫が驚くほどに飛びぬけて良いので、この特技が遺伝されている事でも証明できる様です。
    内心、何時かこの孫等もこの青木氏の歴史を記憶で引き継いでもらえると喜んでいるのです。

    さて、その為にもこの「記憶力」で青木氏の歴史を更に紐解き、何とか「青木氏の範囲の伝統」を護り後世の青木さんに遺そうとしています。現在のところインターネット等を観ても他の氏は殆ど氏の歴史は遺されていない模様です。
    そこで、「3つの発祥源」と「神明社」の「物造りの氏上・始祖」である事も意識して、歴史資産の元として張り切って、今度は青木氏に大いに関係する「神明社」関係の研究の記憶を「特技」で全て吐き出そうと考えました。
    では、前置きが長くなりましたが、未完成ですが完成を待っているとアウトするかもしれないので先ず遺すことの意味の方があると考えて「神明の記憶」を吐き出し遺します。
    後は後で判った事は随時に書き足す手段に出れば良いと考えますのでそのつもりでお読みください。

    先ず青木氏と守護神との関係がどの様に成っていたのかを研究室やルーツ掲示板のご返事のところ等で色々なレポートに散在して書き記してきましたが、此処で一つにまとめてとおきたいと考えて整理する事にしました。元々昔調べたものである程度の論分と資料として保管しているだけのもので完全に整理されずにいたものです。
    それを今回現在に合わせて論じ直して綜合的にまとめて本タイトルでレポートしています。中には既にお答えした文章を引用して重複するところもあります。
    但し、資料データも他の文献と内容が青木氏に関係する事と歴史的な期間の限定等に依って整理している為に異なります。それはそれで面白いとお考え頂いてお読みください。それを前提とした研究論文に成っています。

    付録1
    「中国の新幹線脱線問題」 ルーツ掲示板(後刻に研究室レポートにする予定)参照

    付録2
    「肝付氏の氏姓族」
    1 明確な出自
    救仁郷氏、北原氏、検見崎氏、萩原氏、前田氏、岸良氏、野崎氏、川南氏、小野田氏、三俣氏、鹿屋氏、橋口氏、山下氏、川北氏、頴娃氏、出水氏、井口氏
    2 支流の出自
    梅北氏、馬瀬田氏、安楽氏、津極氏、加治木氏
    3 同族の出自
    薬丸氏、波見氏、小城氏、内之浦氏、榎屋氏、窪田氏、慶田氏、富山氏、二方氏、中村氏、山口氏、永嶋氏
    以上 支流族の末裔34氏
    大蔵氏系一族 合わせて42氏

    分流、分派、縁者を加えるとこれ以上に数倍程度はあると観られる。
    123の分類が不明であるが第2次の支流一族が数え切れない程にある(下窪氏、板敷氏、豊留氏)
    これ等の出自の仕事役処を見ると「税の徴収と産物、土地の管理」に類するものである。
    これ等の氏の通名には「兼」が前に付いている。
    家紋は肝付氏123は「三雁金紋」 支流に「丸に桔梗紋」が多い。

    次ぎは神明社の分類と検証です。
    「青木氏と守護神(神明社)−14に続く。


      [No.280] Re:青木氏と守護神(神明社)−12
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/10/13(Thu) 11:02:46  

    以下 神明社の12に続く
    >「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
    >これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

    >それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
    >全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」−「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。
    (前文末尾)

      「指導階層の融合:2階層の融合」
    主に「民族氏」に所属していた「180もの職能集団」から「姓化」による「姓氏」が上記した様に起こっていたのですが、一方の「融合氏」にも一つではなく2階層に分離した「融合」が起こっているのです。そこで少しこの事にも触れて置きます。
    そもそも「指導階層の融合」とは、平安末期の頃に最終的に「氏の優劣」は決まり鎌倉幕府へと移行しますが、「完全な氏融合」は更に「細分化」の途へと変化して行くのです。
    (「第1融合氏」と「第2融合氏」)
    そして、一方「民の融合」は鎌倉期からその「融合技能集団」の首魁を長として上記の経緯と背景から一大勢力を持つ様に成り、その勢いで「正式な姓氏」への過程を歩み始めるのです。
    この様に日本には「指導階層の融合」(融合氏、民族氏)と「民の融合」(姓氏)の「2つの異なる経緯の融合」が分離して起こったのです。
    それは「氏家制度」即ち「身分家柄制度」による結果から分離したのです。
    「指導階層の融合」=(「融合氏」+「民族氏」)=「第1融合氏」+「第2融合氏」
    「民衆階層の融合」=(「職能技能集団」の「姓氏」)=(「品部」と「部曲」の2つの融合)

    前記した「移動、移民、難民、帰化人」の第0期から第5期までの経緯により頑なにその属性を護っていた「民族氏」が、鎌倉期以降は「第1融合氏」との血縁を積極的に進めた事から「第2融合氏」(融合2)へと変化して、国内では「完璧な2種の雑種融合」が起こったのです。
    これは九州全域を勢力圏に置く阿多倍一族一門の「大蔵氏」が「自治」を獲得した事、又一門の「たいら族の滅亡」を切っ掛けに、「民族氏」としては先読みして最早このままでは生きて行く事は困難と観て「盤石な勢力」(「融合力」)を固める為に、その「自治の特権・自由性」(「融合要素」)を生かして、特に関東以北を征圧している藤原北家筋秀郷一族一門との血縁に踏み切ったのです。これに依って「民族氏」は「第2の融合氏」へと変化して行ったのです。
    この「指導階層の2つ融合」(第1融合氏、第2融合氏)と、「民の融合」(「品部」と「部曲」の2つの融合)に分かれて行った事が後に「完全融合」を成した要因であったと考えられます。
    もしこの「4つの階層」が混在一体と成って融合していたとすると、身分階層の境界が薄らぎ鎌倉期以降の社会体制は全く違ったものに成っていたと考えられますし、「共和国的な社会」に成っていた可能性があります。
    これらの「融合」が「上層部の2つ」と「下層部の2つ」に分かれてそれなりの特徴を生かして「融合」が進んだ事と成ります。
    ところが、この階級社会の中で「上層部」と「下層部」の間には、実は積極的な「融合」は起こらなかったのです。この状態は「士農工商」の身分制度と「氏家制度」の家柄身分の「吊り合い慣習」により歯止めがかかり原則として江戸時代中期まで続きました。(室町期の下克上、戦国時代の混乱期を除く)
    況や、これは「下層部」の「民の融合」が国民の最低8割以上を占めていた事から、彼等の全てが「職能集団」の「品部の民」と「部曲の民」で主であった事から、「物造り」を「絆」にして「融合」が起こった事が原因していたのです。
    「上層部の2つ」は身分家柄制度があった為に「横関係」で相互間の「融合」は進み、「下層部の2つ」では身分家柄制度が希薄であつた為に「縦横関係」で相互間の「融合」は進みましたが、「上層部」と「下層部」の間には「身分制度の垣根」が強く「融合」を起すだけの「力」つまり「融合力」とその基と成る「融合要素」が無かったのです。
    「融合力」+「融合要素」=「異種間融合」
    しかし、「下層部」の「品部」と「部曲」の間には「融合」を阻害するこの「身分制度の垣根」と成るものが無かった事に依って「自由性」(「融合力」)が発揮されて「限定した領域」で「融合」は進んだのです。
    上記した「部曲の融合」は「品部の融合」に比べて「異なる融合の発展」を起こしますが、然しながらその「融合要素」となったのが、「部曲」は農業の傍ら「物造り」の「一つの工程」(原材料生産)をも一部で荷っていた事なのです。つまり、「融合要素」=「物造りの工程」であって、その「限定した領域」とは「物造りの工程」に関わった「重複部分での血縁融合」であったのです。
    「物造りの工程」が縁と成って血縁して行ったのです。
    総じて云えば、「品部の民」即ちその先祖は「後漢の民」と「在来民」(部曲)との「血縁融合」と云う事に成ります。
    その証拠に平安期に使用されていた「百姓」(おおみたから)と云う「百のかばね」の言葉は、本来は、正しくは「皇族」と「賤民」を除く良民一般(公民、地方豪族含む)の総称(奈良大化期から平安末期)であったのです。「農」を意味する言葉ではなかったのです。
    これは「品部」と「部曲」との階層の間には上記の「物造りの工程」の「融合」が有った事から一つとして見なされて区別せず相称して「百姓」と呼称されたのです。
    (「品部」や「部曲」の中には姓を構築した「豪族」・「豪農」も存在していた。)
    「百姓」の呼称が「農民」(部曲)のみと使用し限定されたのは室町末期から江戸期初期に掛けての事なのです。正式には「士農工商」の「封建社会の身分制度」が確立してからの呼称なのであって、平安期から室町末期までは「氏家制度」の下では「士農工商」の「士」の上層部「氏」を構成する「武家」階級を除く総称であったのです。「士」にも下記に述べる「3つの階層」(123)があって「農工商」に類する
    結局、奈良期・平安期から室町末期までの「農」と、室町末期から江戸期中期までの「農」ではその質は異なるのです。
    従って、因みにルーツ探求から観てみると、藤原秀郷一門が鎌倉期に成ると失職離散して「農」に携わった事は江戸期の「農」とその持つ意味合いは異なるのです。
    鎌倉期以後から室町期末期の「農」は「兵農方式」が未だ主流の時代でもあった為に一時的に主体をどちらに置き変えたかの違いだけであったのです。身分的要素の低い呼称なのです。
     鎌倉期以後から室町期末期の「農」(兵農民)≠ 室町末期から江戸期中期までの「農」(農民)
    (これ等の雑学はルーツ探求で資料を考察する時に特に注意する必要があり、時代考証に於いて大変な判断の間違いを起す。)

    ところがこの「農」に関わったものとして分類するとそもそも次ぎの「4つの農」があるのです。
    1 「武士」で有るが生活の糧として「農」も兼ねる者(兵農)
    2 「農民」で「農兵」を兼ねている者(農兵)
    3 「農民」で若者が「傭兵制度の組織」に組する者
    4 「農民」として純然として「農」を営む者

    そして1には次ぎの階層があったのです。
    A 下級武士で姓名・家紋を保持しない「兵農民」である者
    B 下級武士で地元の地侍の「郷士」である者(姓名・家紋を保持)
    C 中級武士で土豪(郷士長・首魁)である「庄屋、名主」である者(平安期に豪族であった)
    D 上級武士で豪族で「郷氏」で「大豪農、大地主」である者(室町期前期に守護等の氏上)

    1のAと2と3が室町期の末期に「農兵」として働き「武士」として名乗りを挙げたのです。
    1のAと2と3は元々姓名や家紋や氏を形成せず、江戸初期に成って仕官し改めて姓氏、家紋、等を持つ様に成ったのです。
    因みに青木氏における「農の青木氏」と成るルーツは、1のB、C、Dで、多くは記録からCとDが主流と成りますが、「4つの青木氏」の「家臣団」の「未勘氏」と、前記した青木氏に所属する「部民」の「絆結合」の「第3氏」と、青木村の「4の農民」の3つが明治期に「姓氏」として発祥しているのです。
    皇族賜姓族青木氏にはこの「農兵」は原則として存在しません。
    皇族青木氏と特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏の一部には「農兵」は存在していた事が添書などから僅かに観られますが、そもそも秀郷流青木氏には護衛集団(武装集団)を平安期から室町末期までそれを本職とする集団であって特段に「農兵」を傭兵する必要性が無かったのです。
    (皇族青木氏の甲斐武田氏系青木氏や丹治氏青木氏の2氏は除く)
    5家5流の賜姓青木氏は、源氏と異なりその「生様」は前記した様に抑止力(シンジケート、秀郷流青木氏、経済力)を全面に押し出し「戦い」を前提とした「農兵」を必要とする事に組しなかったのです。

    上記した「品部の姓化の氏」と、上記1から3の「農民(部曲)の姓化の氏」が別系列で興った事に成ります。
    実際は「百姓」の呼称は「農民」だけではなく山民や海民等を指す「調庸の税」の「被支配民一般」の用語として正式には平安期(現実は室町期)までに用いられた言葉なのです。
    「農民」が「百姓」と限定して呼称され始めたのは資料の表現から観ると鎌倉末期から室町期に入ってからの事なのです。(タイムラグがありここでは奈良期−平安期の意味を採る)
    これは、奈良期から鎌倉期末期(平安期)まで農業の傍らこの「品部」の集団に組み込まれて「物造り」の一工程(素材生産)を担っていた構造に成っていたからによります。
    「物造り」の「原材料の生産と加工」、一部はそれを本業の農業として彼らに委ねられていたからなのです。
    依ってこれ等の「物造り」の関係から「品部」と「部曲」の関係は切り離せない関係にあって「品部」と「部曲」の「融合」も当然に起こったのです。
    しかし、実は平安期では「氏家制度の根幹」と成っている「身分制度」を護る為には5つある階層間の血縁を朝廷は嫌ったのですが、「下層域」では護られず「税の徴収体制」が崩れる事を恐れた為に法を定めて護ろうとしました。中でも「部曲」と「品部」の血縁には注意を払ったのです。この状況は鎌倉期まで維持され、室町期に入り群雄割拠が起こり次第に崩れ始め、この結果「下克上、戦国時代」の混乱期を招き、安土桃山からは引き締め始め、遂には江戸時代に入り再び「氏家制度と税の徴収制度」の根幹部分を護る為に「士農工商」ではなく「士・農・工商」の身分制度を確立しました。
    この制度の中でも「物造り」の勢いが強く「融合力と融合要素」が働いて上記した限定部分で「品部と部曲」との間では血縁が続いたのです。
    そもそも「後漢の品部」が渡来してその技能を最初に教わり吸収したのはこの「部曲」なのです。従って、そのような絆から血縁融合は止める事は出来なかったと観られます。
    即ち、日本の「民の融合」は名付けて「物造り」を媒体とした「物造融合」であった事に成ります。
    ですから、日本は「融合」と「物造り」は無縁ではないのです。
    「民の融合」(品部、部曲)=「物造融合」=「雑種の優秀性」
    この国民総出で「物造り」が進んだからこそ積極的な「融合」は起こったのであり、その「融合」が進んだからこそ「物造り」が顕著に進んだと云えるのです。そしてその「物造り」は当然に「雑種の優秀性」を生み出し増幅させて行ったのです。この「民の融合」即ち「物造融合」が自然の「サイクルの流」を生み出したのです。
    しかし、其処にはサイクルから出る弊害も見逃せず、「荘園制の行き過ぎ」等前記する様に色々な角度から論じて来た様に「天智天皇」等数人の優秀な天皇が「国策3策」を命を賭けて「弊害の苦難」を乗り越えて遂行したからこそ成し得た優秀性をベースとする「物造り国家」が完成したのです。
    そしてその「物心両面からの策」が後世から観ると理に叶っていたのです。此処に本文前節の力説部分があるのです。

     「現在が完全融合期」(「民の融合2つ」「指導階層の融合2つ」)
    遂には、日本は「自然の摂理」により「渦中の芯」に向かって、室町末期では「下克上」と「戦国時代」の混乱に合わせて、次第にこの「民の融合2つ」と「指導階層の融合2つ」は更に一つに成る為の「完全融合」を重ねる過程へと辿るのです。
    しかし、ところがこの過程を辿るものの「完全融合」を成す過程は「氏家制度」と「封建制度」の社会により「身分家柄」の「縛り」が起こり、その「縛り」により「指導階層の融合2つ」には更に階層に階層を何段も造るという「吊り合い」による血縁現象が生まれ、結局、江戸末期か明治初期まで緩やかな変化と成ったのです。
    ですから重要な事は、「完璧な2種の雑種融合」の論理的な「完全融合」と言う定義では、未だそう遠くない100年程度前の明治初期(平等の契約社会)の過去に始まり起こって居るのです。
    この過程で見る限りは様々な「縛り」が取れて「完全融合」は丁度、現在であるかも知れません。
    論理的に云えば、日本に於いては現在が最大の「雑種による優秀性」が顕著に出て来る時期と観られます。
    つまり、この様に明らかな様に、「日本人の優秀さ」は動物に見られる「雑種による優秀性」が顕著に出た事に依る結果以外には有りません。
    そして、その「根源・基点」は天智天皇の「青木氏」から始まった「融合氏」(国策3策)の厳しい経緯から起こっているのです。我々「4つの青木一族一門」はこの「根源・基点の象徴氏」なのです。
    「根源・基点の象徴氏」青木氏から始まった「融合氏」の現在の発展は天智・天武天皇の先見性に関わっていたとするも過言ではありません。

    「研磨剤」(「3つの脳」)
    論理的に云えば、現在がその「雑種による優秀性」が出る時期であると観られる事に成ります。
    では、”その「優秀性」はどの様な処に出るのか”と云うことですが、特に、それは「融合」に切り離せなかった「物造り」と云う場面にあると観ていて、その「優秀性」を引き出す原石を磨く「研磨剤」(「3つの脳」)は家訓8にもある様に下記の事だと見て居るのです。
    宝石(融合氏)も磨く事(思考訓練)なしでは成し得ませんが、故に其処に「力説点」を置いているのです。

    「民の融合2つ」→「雑種による優秀性」←「3つの脳」→「物造り」←「指導階層の融合2つ」

    「力説点」
    その「融合氏」の「優秀性」(特技)が、”「3つの脳」(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)の努力”の「遺伝性特技」に現れたものであると青木氏の歴史的史観からの研究結果から主張しているのです。

    「3つの脳」=(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)=日本人の「遺伝性特技」
    ”「物事」についてよく考え、それを何かに「応用」し卓越し、それを「文明の形」にして生かす。”
    この特質です。

    逆に云えば、「三国志」の中にも出ている様に劉備が立ち上がった理由の「中国の国民性」ですが、中国では今でもその気風は消えていません。
    それは「法より人」「石は薬」「雑は良識」の中国の諺に物語ります。
    日本の「遺伝性特技」=「3つの脳」の「思考訓練」の「物事に真面目に考える国民性」と、「法より人」「石は薬」「雑は良識」の考え方とは逆なのです。
    此処に「中国との違い」があり決定的要素として差が出ているのです。
    それは「7つの民族」の「融合の所以」であって、「民族氏」の「個人の志向」を重視するより「集団性」を重視する「融合氏」」(2+2=4の融合)から起こった「国民性」なのです。

    その昔は中国は世界でも「物造り」は先進国であった筈ですが、それが1/10の国力も無い小さい日本が「物造り」の先進国に成って行ったのは、中国の支配民族がころころと変わった事でもあり、取分け主にその「物造り」を進めたのは、中でもそれをリードした「優秀とされる漢民族」で有った事によります。
    日本には大きい意味で「支配民族」は無く「7つの融合単一民族」で支配されていた処に差異があります。しかし、其処に「漢民族」が日本に流入したのです。
    「漢民族」は中国西側域(ヘトナム)にも武力難民と成り流れ「西国の民族」は押し出されて北九州と南九州に渡来する事と成ったのです。

    その優秀な漢国が滅び16国に分散してしまい、その結果、中国では「物造り」の精神は衰退したと観られます。しかし、その「漢民族」の東の国を統制していた将軍の「光武帝」が東に勢力を伸ばし朝鮮半島の3韓を制圧して統合して「後漢国」を建国しました。
    矢張り、この優秀な後漢の民は「物造り」を伸ばし、結局21代末帝の献帝の時に滅びます。その後、後漢は隋に徳化して行き618年に滅びますが、それまでは「物造り」は「180の職能集団」に分類されて強く政策的に継承され続けていました。
    現在から観てもこの時代までには後漢の民は素晴らしい優れた文化財を遺しているのです。漢民族の「物造りの優秀さ」が証明されます。
    その618年の時に末帝末裔の子「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が後漢の民の17県民200万人を引き連れて日本に渡来し、帰化して来たのですが、青木氏の関係論文で論じている様に彼等がこの「物造り」の技能の下地を日本にもたらすした事でも明らかです。
    しかし、この様に「三国志」頃から観ても、中国の国を支配した「民族同士の融合」は一つの融合民族を構成する程に起こって居ないのです。これは中国人は「個の意識」が強くその延長の「民族意識」も強くそれが下で中国の長安を中心として「民族の住み分け」で済ました事に依ります。
    日本に帰化した彼らの神は「道教」−「産土神」であった事でも判ります。
    つまり、「意識問題」として云えば、この頃の「民族の縛りの意識」は”一民族はその民族の中で暮らす”と云う事が常識であった事なのですが、日本では「7つの民族」が集まっていて不思議にその「縛り」は低かった事が「融合」を促進させたのです。
    確かに、彼等が渡来した時は、色々な資料を観ても、上陸時の初期から奈良期の前半までは遺跡からこの傾向が観られましたが、大化期を境にそれなりの「縛り」はあるにしても中国の様に生活圏の全周囲に城壁を構えその中に「民族」を防御するまでには至っていません。
    大化期付近から変化したしたのは数々の「天智天皇の施政」からも観ても判る様にこの「民族」の「縛り」を無くす「公地公民」等の「中央集権政策」を矢継ぎ早に実行した事が原因しているのです。
    つまり、これ等の政策は全てその「融合政策」に通じているのです。
    その「融合の象徴的代表」が「青木氏」なのです。つまり「青木氏」そのものが「民族の縛り」を無くす「象徴策」であったのです。
    恐らく日本は山岳部の多い「国土の地形」が「縛り意識」を起す環境下に無かった事も原因していると観ます。
    中国では、”一族が住む地域の周囲全域を城郭で広く囲み、その中に同一民族が暮らす”と云う、つまり、”城郭内に住む民は皆少なからず親族”と云う形の中国の都市構成を観ても解ります。
    この「民族状態」では、地形から「民族の縛り」が起こらず開放された状態の日本の様には、中国では大きな「雑種交配」は起こりません。
    「山岳地形による集団生活」と「平地での城郭による集団生活」との差が融合をより容易にしたのです。
    とすれば、この住み分けと云う事等から考えれば、中国では「民族」、日本ではより小さい単位の「氏」の「住み分け」であった事であります。

    中国=「民族」=「平地での城郭による集団生活」
    日本=「氏族」=「山岳地形による集団生活」

    この「氏」の社会の中に「異民族」が混入し来たのです。ましてや「国土の地形環境」の違う中に入ってくれば「自然の摂理」で「人心の拒絶反応」が起こるのは必然です。
    しかし、この「拒絶反応」が「技能伝授」と云う形で「在来民」に福をもたらし事で大きく起こらなかったのです。「拒絶反応」−「技能伝授」=「在来民に福」
    しかし、「拒絶反応」が起こらなかったとしても「民族性の思考原理」は依然として残っていたのです。何とも不思議な現象です。
    「拒絶反応」と成る原因の基の「民族性の思考原理」がそのままに潜在したままで「技能伝授」がそれを押さえ込んだと云う事です。
    普通ならば「拒絶反応」が起こり「民族性の思考原理」を排除してくれる筈です。
    しかし起こらなかったのですから「民族性の思考原理」は社会の中にそのままに存在してしまったのです。丁度、「日本」の九州に「中国」が出来た事に成ります。
    これでは中央の為政者は慌てます。”何とかしてこの「民族性の思考原理」を解消しないと危険だ””何か起こる”とする危惧を抱いた筈です。
    それが前記した様に「民族氏」と「7つの民族融合」を成した「融合氏」とのその2つに問題が起こったのです。
    当然に初期的に「7つの民族融合」が折角進んだ社会の中に腫瘍の様に再び危険な火種の「民族性」が出来てしまった様相です。こうなればもう一度中期的に「融合政策」を推し進める必要性が出てきます。
    初期は恐らく「地形的環境」から自然淘汰が起こり「自然融合」が起こったと考えられ、中期は「自然淘汰」では行きません。政策的な解決策の実行が必要と成ります。
    それが「大化の融合政策」であったのです。それには為政的にはシンボル的なものが必要と成ります。
    つまりそれが「青木氏」で有ったのです。シンボルに位置づけられた「青木氏」にとっては国体の成否の如何を左右する任務であり宿命でありますが、嵯峨期(弘仁の詔勅)から発祥した源氏に取っては既に165年も経過してその任務の認識度は低下していた筈です。
    前記した様にこの2つの賜姓族グループの間には根本的に認識度が異なっていた事に成り、清和源氏分家頼信系の義家等が採った「愚かな行動」はこの国体如何を左右すると云う「認識欠如」がその任務を全うする事も無く、更には「源氏滅亡」までを招いてしまったのです。

    「融合氏の血縁性」
    更には、日本では「国民思想」として「氏間の融合」を「子孫存続」の「血縁の前提」としていた事でもあります。
    飛鳥、奈良、、平安期の記録から「融合」という観点で分析して観ると次ぎの様に成ります。
    例えば、「氏の象徴」の天皇家で観てみると、現在では考えられない極めて高い「純血」を護りながらも一つのルールに従っていた事が解ります。
    そのルールを検証すると、奈良期の子供の作り方で観ると、前半は2親等から4親等の近親婚を行って極めて高い純血婚で保持していたのですが、後半は大化の改新により、天智天皇が「氏の融合」とこの「近親婚の弊害」をより無くす為に、次ぎの様な改革を行ったのです。
    例えば、純然たる「融合氏」の「発祥源」と成った天智天皇と天武天皇の間では、天智天皇(中大兄皇子)の子供は地方の豪族からの娘(いらつめ 郎女:妥女 人質)を仕組みとして入れて子供を作り、その子供(姪)を天武天皇の妻に迎えて「純血」を護ると云う慣習が採られています。
    そして、その地方の豪族も同じ慣習に従っているのです。特に「八色の姓」族までの身分家柄の氏を構成する宗家、本家筋ではこの「純血」が維持されていたのです。
    そして、この「妥女の制度」(うねめ)は「氏の融合」を推し進める為に全ての一般地方豪族からの郎女(いらつめ)を「人質」として朝廷に仕えさせ、その性質は「女官奴隷」とし、「純血」の中に制度的に「混血」を行う為の正式な「妻の制度」(皇后、妃、嬪)の補助身分として「妥女」(うねめ)制度を導入したのです。
    その為に、妻は4段階にして、先ず、皇后と妃は2親-4親等の親族 嬪は大豪族とし、妥女は地方の小豪族の他氏の郎女とし、この前2段階で産まれた子供の中から近親婚の弊害を受けた皇子を除き4段階の妻の身分に順じて皇子順位が定められ、4世族王までそのルールに従う形を採っているのです。
    そして4世族までも上記した「純血保持」のルールに従に従います。(大化期前は6世族まで)
    皇子数が少ない場合は第5世族、場合に依っては第6世族まで引き上げてその皇子を定める皇族身分の継承を行い、「子孫の融合」を天皇家に入れる仕組みにしたのです。
    この意味で「皇族関係者」のみならず「八色の姓」の範囲の各豪族の氏等はこの「仕来り」に従いますが、決して「性的目的」や「権力継承者」の保全目的からの「妻4段階の慣習」を保持したのでは無いのです。近親婚は定められた「仕来り」であって異常とされる慣習では無かったのです。
    つまり、「氏融合」の政策が進むに連れて薄れる「純血低下」に対する「権威の低下」の防止策であった事に成ります。
    「純血」は当時の社会体制から民を除く為政者の立場にある者の「権威保全システム」で有った事に成ります。
    平安期までの「氏」はこの意味で鎌倉期以降の急激に増えた「氏」とは「純血保全」と云う点と、「氏として朝廷の承認」(「八色の姓制度」と「氏姓制度」で縛られていた)の有無も含めてこの2点が異なっているのです。
    平安期に於いては無法治に「氏姓」が発祥したのではなく「血縁性の縛りや制度」に依ってある一定の「品格、資格、家柄、身分、勢力」などの条件に依って管理されていたのです。
    「日本の民」も「中国の民」の様に「民」の段階に於いても、初期は地域を限定して「民族間血縁」であり、ある種の「近親婚」で有ったのですが、それが崩れて日本では、第2期頃(飛鳥期-大化期)からやや早く完全な「混血婚」と成って行きます。
    少なくとも、平安末期までは「純血の保全」と「子孫融合」又は「氏の融合」を本来の目的としていた慣習だったのです。しかし、第4期の鎌倉期以後、爆発的、飛躍的に「氏の融合」が進んだ結果その目的が変化して「権力継承者の保全」へと変化していったのです。

    「純血の保全」と「子孫融合」(「氏の融合」)⇒「権力継承者の保全」

    その意味で第2期頃この「仕来り」と「慣習」で生まれた第6位皇子の皇族賜姓族を始めとする青木氏は「氏の発祥源」であった事を意味します。
    平安末期の賜姓源氏(10代目頃)には、「氏の融合」よりは「武家」(公家に対する武家の意味)の「権力継承者の保全」に変化して、この意味合いは少し異なって行きます。
    反して云えば、「氏の融合」が進みそれに連れて「純血保全」は低下して、その意味合いが社会の中で低下した事に成ります。

    この様な「仕来り」で生まれた平安初期までの「氏の融合」に付いては、若干、この時には記録では「渡来人」と云う言葉が存在している事から観て、未だ確かに「幾つかの民族」を意識していた事に成ります。
    日本書紀にも”蘇我入鹿が「中大兄皇子」のグループに粛清された時にこれを聞きつけた「古人親王」が[渡来人が殺された]と叫び奥に逃げた”とするその発言が記録では遺されています。恐らく、蘇我一族類縁の「古人親王」は「中大兄皇子」の宿敵であり、この粛清がどの程度に及ぶか判らない為に恐れて逃げた事が伺えます。
    その時に発した言葉が30年後(675)の「舎人親王」の日本書紀編集時に記録されるという事は、その時の発言の意味が大きく「朝廷内の意識」の中に未だ残っていて継承されいた事に成ります。
    つまり、この記録から観ても、皇族の一部が応仁期に渡来した蘇我一族の類縁でありながらも自らも「渡来人」の意識を持っていて、然りながら一方では「渡来人」で無いとする「不思議な過程域」(重複期)であった事を物語ります。
    丁度、何年も経たないこの時期に「青木氏」が賜姓され発祥をした事もこの「不思議な過程域」即ち「融合意識」が「氏意識」へと「移行する時期」の中にあった事にも成ります。
    そうすると日本書紀に”この記録を遺す”と云う事は50年後の700年頃にはかなり「氏への融合」が急激に進んでいた事を物語ります。
    そして70−130年後頃には全体の書物の記録から「渡来人」の言葉が消えているのですから、「氏の融合」は爆発的に進んだ事を物語ります。「氏融合意識」で「渡来人意識」を消え去られる程度に融合が急激であったことに成ります。
    この「不思議な過程域」が「氏融合の急激な変化」に依って「渡来人意識」が人心から消え去った事に成ります。
    奈良時代末期は「初期の民族融合」が進む中で未だ在来民の「民族の意識」は多少残っていたことを物語り、「氏の融合」は上記した様に20程度の「民族氏」の中で、同じこの時期に発祥した伊勢青木氏や近江青木氏がその「氏の融合」の発祥基点と成った事を証明します。
    (当時の一般の民は「民族氏」又は「氏」の構成員の立場にあり、「部」の職能集団での構成員でもあった。)

    古代の「物造り」の「部」を管理統括する国の長官を「国造」(くにのみやつこ)、管理者「伴造」(とものみやつこ)と云う呼称であった事はこの政策を優先したと観られます。
    (この下に現地で実務管理をさせた「伴造]: とものみやつこ、労役をする民を伴って朝廷の税外の仕事に出仕した事からの呼称)
    ”「物造り」即ち「部制度」を「国造」(国つくり)”としている事は、明らかに奈良期から朝廷は「優先政策」として「物造り」としていた事を物語ります。
    これは「国造り」=「物造り」から来ています。
    「国家の安定」とその根幹を成す「物造り」の政策を推し進める為には、日本の人民を一つにする必要があり、その為に「民族氏」から「融合氏」へ政策的に移行させる必要に迫られていたことを物語ります。
    「物造り」は「国造り」であり「氏造り」(融合)であることに成ります。
    逆に云えばこの事は「7つの民族」の「異民族国家」の認識が未だあった事に成ります。
    この意味でも大化期から平安末期では、「国造り」=「物造り」を成すには「民族氏」から「融合氏への政策転換」に迫られていた事に成ります。

    「国造り」=「物造り」=「氏造り」(融合)⇒「シンボル賜姓青木氏」〓(3つの発祥源)国策3策

    そもそも筆者は「青木氏」を研究している中で、とりわけ本論の神明社の研究で”「青木氏の持つ意味」は何であったのか”と云う事に拘り研究して来ました。
    それは、中大兄皇子は第6位皇子を臣下させる目的の「天皇自らを護衛する集団の構成」の目的と、もう一つの目的は「7つの民族」で構成される国からより民族同士での争いを無くす為により安定した国、又は「日本人」にするには「氏の融合」と云う「政治的テーマ」が有ったのだと考えて居るのです。
    それを裏付ける次ぎの11の事柄が考えられます。

    1「不思議な過程域」(融合意識が氏意識への移行期)であった事。
    2「氏の発祥源の青木氏」と「嵯峨天皇による青木氏から源氏に変名」と云う「源」の氏名の賜姓を使った事。(青木氏から源氏まで16代も賜姓を続けた理由)
    3「天皇の皇族」をしてこの「臣下」と云う手段を採った事
    以上の主要3点に観られると考えているのです。

    何も臣下せずしても護衛集団の目的は果たせる筈です。確かに皇族は「武力を持たず」の皇族の仕来りはあったにせよ第4世王の有名な「栗隈王」らは自ら武器を持っていた事は日本書紀の中の大友皇子と大海人皇子との争いの場面でも出てきますし、他の記録を観ると徹底されていなかったと見られます。わざわざ「臣下」という手段に出たのもこの「氏の融合」政策を押し進める目的があったと強く考えているのです。
    更には、次ぎの事柄でも検証出来ます。

    4「第6世族」までを皇族王としていたのを第4世族までとした事、
    5「第7世族」を都より遠路の坂東に配置した政策の「坂東八平氏」と名づけられた事、
    6「准賜姓」を許し彼等に地名の氏名を名乗らせ坂東守護を許した事、
    7「嵯峨天皇」の以後の皇族が下族する際に使用する氏名を「青木氏」と詔で定めた事、
    8「後漢の阿多倍王」の渡来子孫に坂上氏、大蔵氏、内蔵氏等の賜姓をした事、
    9「敏達天皇」の孫の芽淳王の末裔をこの渡来人に娶らし融和策を講じた事、
    10「後漢渡来人」等を「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え九州全土の政治を任せた事、
    11「本文の神明社」の配置策などから観れば明らかに「氏の融合策」で有った事
    以上の事が覗えます。

    故に、この平安期初期までの「氏融合」の積極策が効を奏して、”「氏の融合」は爆発的に進んだ(100年間)”のだと観ているのです。
    その「氏の融合」は文化・由来の括りで分ければ次ぎの「6つの族」に分類されます。ここでは「A〜Dの族」を中心に論じています。
    EからJまでは個々に異なる文化・由来の経緯を持っています。

    青木氏の関係族の構成(守護神別分類)
    A 皇族賜姓族の氏の発祥源青木氏(朝臣族 5家5流青木氏 25氏)
    B Aの母方で繋がる藤原秀郷流青木氏(藤原秀郷流青木氏:嵯峨期詔勅の特別賜姓族青木氏116氏)
    C 室町期と江戸初期にA、Bの縁類として発祥した青木氏(未勘氏 家臣団 徒弟制度)
    D 明治初期の苗字令で発祥した青木氏(第3氏 村民 絆結合 職能集団)
    E 宿禰族橘氏(葛城王始祖)の青木氏(石清水社社家 皇族1氏 A族別系)   
    F 嵯峨期詔勅にて発祥した皇族系青木氏(多治彦王・島王配流孫青木氏2氏 甲斐青木氏4氏)
    G 嵯峨期から花山天皇期までの賜姓源氏(賜姓同族源氏11氏 源氏系配流孫青木氏1氏)
    H 皇族賜姓族佐々木氏(天智天皇賜姓氏 近江佐々木氏1氏 同族血縁氏青木氏1氏)
    J 宇多天皇佐々木氏(嵯峨期詔勅氏 滋賀佐々木氏1氏)
    K 上山氏系滋賀青木氏(近江賜姓青木氏の遠戚青木族1氏)
     
    「4つの青木氏族」(A〜D族)
    (2つの血縁氏)−神明社
    Aの5家5流25氏を発祥源とした青木氏
    Aの藤原氏の母方で繋がる嵯峨期の「血縁的類」の116氏の青木氏、(神明社・春日大社)
    (2つの絆結合氏)−神明社
    A、Bの青木氏116氏に何らかの間接的な縁者関係にあったとされる「縁者的類」の青木氏、
    A、B及びCの青木氏と郡村で「生活を共にした民」の「社会的縁類」の青木氏、

    E族は、A族の慣習に基づき本来は朝臣族が務めるところ橘諸兄(葛城王)の母橘三千代が藤原不比等に嫁した為に橘諸兄は朝臣族となり、その末裔が橘氏の守護神の石清水社社家を務めた事からA族の慣習に基づき青木氏を名乗った橘系青木族1流 (石清水社)

    F族は、関東丹治氏系青木氏1流と島氏系青木氏1流 甲斐の源源光系青木氏2流 源時光系青木氏3流

    G族は、 Aの皇族第6位皇子の同族賜姓族の青木氏より変名した賜姓源氏族(Aと同族) 九州源有綱−高綱配流孫の源氏−廻氏系青木氏1流

    H族は、天智天皇の特別賜姓族川島皇子始祖系近江佐々木氏1流と、近江賜姓青木氏との血縁族青木氏1流

    J族は、嵯峨期詔勅に基づく賜姓族の滋賀賜姓佐々木氏1流 青木氏を賜姓せず同属H族に倣って佐々木氏を宇多天皇は賜姓した。

    K族は、近江青木氏が滋賀に移動した時の遠戚末裔廃絶孫の名籍を伊賀上山郷の上山氏が盗籍し興し滋賀青木氏を継承氏1流(継承は戦いの末に承認)

    つまり、AからKの「10の族」に対して「縁と云う関係」から観ると次第に緩やかな「縁的関係」を保持する青木氏に分類されるのです。

    中でもA〜D族は「悠久の歴史」が血縁に勝るとも劣らず強い頑強な「絆結合」を構築したのです。
    (4つの青木氏)=(2つの血縁氏)+(2つの絆結合氏)←「縁的絆関係」
    「悠久の千年歴史」→「縁的絆関係」

    そして、「天智天皇」から「光仁天皇」まで、「桓武天皇」と「平城天皇」の続けて2代の天皇を除き、「Aの同族」としての「嵯峨天皇」から「賜姓源氏族」と変名して続けられたのです。
    (この2代の天皇は賜姓を皇族にせず、自らの母方阿多倍王の孫娘の実家先を賜姓した。後の「たいら族」の「賜姓平氏」で5代後の太政大臣平清盛の一族一門である。)
    この2代の親子の天皇の反動がもし無ければ、本来であれば皇族賜姓青木氏は続いていた筈なのです。
    ただ、「律令国家」の完成を成した天皇としては実家先の青木氏等の「皇親政治族」の存在で国の運営が左右される事には問題であった事は確かに考えられますし、その完成を成し遂げ官僚を牛耳っている母方の阿多倍一族一門を賜姓して引き上げて”律令国家体制を軌道に乗せる”とする事も充分に考えられます。そうも物事が上手く進まないのもこれも「浮世の現実」でありますが、現実には賜姓青木氏源氏と云う氏名では続いているのです。
    問題は上記した様にこの”賜姓源氏の採るべき態度が間違えていた”と云う事なのです。
    源氏に観られない「4つの青木氏」の数式が物語る様に、「血縁の前提」(縁的絆関係)の考え方なのです。

    「家紋の意味」
    その証明する最たる「血縁の前提」の考え方は、主に平安期から顕著に始まった「氏の象徴」の「家紋」に重点を置いていた事で証明できます。
    大別すると、2期に分けられます。
    先ず1期目は、未だ「民族意識」の存在する中での「氏の融合期」、即ちこの平安期の時期「民族融合」の終了期(桓武期 1次800年頃-2次900年頃)です。
    次ぎに2期目は、「民族意識」が無くなり其処からは鎌倉期からは積極的な純然たる「氏の融合」へと変化して行くのです。
    つまり、日本は「民族融合」⇒「氏の融合」=(氏家制度)の過程を辿ります。
    これに伴って上記数式の「氏家制度」は「数多くの仕来りが」生まれ確実に「氏の集団互助システム」として充実して行きます。そして、これには「氏の象徴」である「家紋」も連動して「数多くの仕来り」が生まれが並行的に増加して行くのです。(特に藤原氏は最も多い「仕来り」を持った。)
    これらは時代毎の「氏の数の変化」(最大1500)と「家紋の数の変化」(最大8000)でも証明出来るのです。(研究室参照)
    要するに「家紋の持つ意味」として、「民族融合」⇒「氏の融合」に依って「融合の単位」が「民族」からより小さい「氏」に変化した事に依って、その「氏」を判別する目的として「家紋」が用いられたのですが、この「家紋」が「融合」を助長する役目を大きく果たしたのです。
    「氏の境目」がはっきりしなくて判別が出来なければ社会組織「氏の集団互助システム」の「氏家制度」は成立しなかったからです。「家紋」はその醸成された仕来りで「氏の境目」を明示させたのです。
    はっきりとした氏間の「血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)が判別出来た事に依ります。

    ところが「民族性」の強い中国は現在に於いてもこの「氏の融合」が積極的に起こっていない事によります。つまり「家紋化」が起こらなかった事で、「血縁の前提」(縁的絆関係)の判別が観えなかったのです。自然発生的な「氏家制度の構築」が成されなかったのです。
    結局、日本では突き詰めると「氏融合」が「家紋」に依ってより「雑種の優秀性」が助長されて発揮される様に成り、その優秀性は「氏と部曲、品部」との連携により「殖産・物造り」へと変化を興し、この「物造り」への変化は今度は「家紋」の変化に象徴される様に成って行ったのです。
    そして其処に「家紋」のより「大きな役割」が生まれ、「家紋の持つ意味合い」が追加醸成されて行ったのです。
    この様に当初は「家紋」は「3つの発祥源」の青木氏の「象徴紋」であったものが、何時しかそれが「氏の家紋」と成り、その「家紋」が「血縁雑種の優秀性」から「物造り」へと結び付き、又その事が逆に経路を辿る事で加速性のある「著しい融合」が進んだのです。
    この様に「家紋」に於いても、「物造り」に於いてもその根源は「青木氏」に無関係ではないのです。従って「物造りの象徴紋」は「青木氏の笹竜胆紋」と云っても過言ではないのです。

    「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」

    ただ、同族の「賜姓源氏」の「笹竜胆紋」は賜姓族として青木氏と並んで使用したのですが、本来、前記する「愚かな行動」からすると「笹竜胆紋」は相応しく無く単純な無味乾燥の「家紋」に過ぎないとしているのです。”その認識が薄かった”と考えているのです。
    賜姓源氏は家紋に持つ「物造り」や「3つの発祥源」の崇高な意味合いに欠けていたのです。
    此処に「青木氏の笹竜胆紋」は「家紋」とするよりは元来は「象徴紋」であって、その意味合いも次ぎの関係式が成り立つともしているのです。

    「氏融合」=「物造りの象徴紋」=「青木氏の笹竜胆紋」(象徴紋)

    当然、この「氏融合」は「祖先神」の「神明社」に繋がります。
    「氏融合」=「神明社」(祖先神)となり、「神明社」(祖先神)=「物造り」の以上の数式の関係が生まれたのです。

    1・・・「氏融合」=「神明社」
    2・・・「神明社」=「物造り」
    3・・・「3つの発祥源」=「賜姓青木氏」
    4・・・ ∴「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」=「神明社」=「3つの発祥源」

    そして、この数式の過程を辿る中で次ぎの関係式が続けて起こります。

    5・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「4つの青木氏」

    この幅広い関係式が成立し「氏家制度の成長」が氏の代表の青木氏の中で醸成されて行ったのです。

    6・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「氏家制度の成長」
    7・・・ ∴「4つの青木氏」=「氏家制度の成長」

    以上の7つの連立する関係式が起こり、その「氏家制度」には社会組織の必須条件の「物心両面の基盤」が醸成されて行ったのです。

    上記7つの数式が中国と異なる処であり、これが「国民性の優秀さ」となって現われ、「物造り」は基を正せば中国でありながらもこの「国民性」が「物造りの基盤」の差異と成って現れたのです。

    この頃から後漢からもたらされた「物造り」の経済活動と共に、後漢渡来人と彼等に育てられたと日本の民等の「技能集団」等が力を持ち、「氏」と「姓氏」を構成し、「2段階の氏家制度」を拡大させ、その「氏」と「姓氏」の家紋を象徴紋として拡げて行く経緯を辿るのです。

    「氏名の持つ意味」
    この様に「物造り」は「青木氏」と「家紋」に無関係ではないのです。
    それは初代「青木氏」は647年頃に日本で初めて「皇族賜姓族」として発祥した「氏としての発祥源」ですが、この時に「象徴紋」として「笹竜胆紋」を氏の正式なものとして定められたものです。
    それまでは「大和政権」時代の紀族、巨勢族、葛城族、平群族、物部族、蘇我族等20程度の族は「単位氏」では無く、「ヤマト政権」の初代「応仁大王」等の出自に観られる様に夫々は大半は南北の「韓民族」(3韓の中の集団名)の渡来人の「民族集団名」であり、むしろ、上記した「民族」の「小単位の氏名」であったのです。
    応仁期(応神期)以前は「正式な民族」の「固有の氏名」はそもそも無かった事は歴史的に認められている事なのです。(以後 これを「民族氏」と記する)
    しかし、この事から純然とした「正式な氏名」として分類すれば伊勢の「青木氏」から始まったとしても過言ではないのです。(以後 これを「融合氏」と記する)

    その後の奈良期末期から平安期に掛けてこれに見習って主に地名や役職名等から採った氏名が自然発生的に「豪族の氏名」として広がりを示し、それらが朝廷の認可(八色の姓制度)の下に20から40程度に成ったものなのです。
    この頃は「氏名」と言う確固たる習慣ではなく、「ヤマト政権」時頃の「族呼称」の20程度を除いてその「族の存在する位置関係」を固有名詞的に用いていたのです。「民族氏」
    例えば、青木氏で云えば「越道君伊羅都女ー施基皇子」と成るのです。
    「越」「道」「君」「伊」「羅」「都女」(「郎女」:「伊羅都女」は終局「妥女」の意味を持つ)

    この「6つの要素」で、国、出自、身分、家柄、官職、立場、母筋などを明確にし「施基皇子」の位置関係を表していたのです。
    奈良期の大化期からはこの「6つの要素」を「氏」として表したのです。後にこれに「象徴紋」を付け加えて「青木氏」の「氏名」で表現する様に成ったのです。
    つまり、平安期以前の「氏名」にはこの「6つの要素」を持っていたのです。
    平安期までは人は「青木」と聞き取る事に依って上記で述べました様に「青木の神木」の持つ意味から「氏の源」と云う事が判り上記「6つの要素」の意味を読み取ったのです。
    そして、「八色の姓制度」と「有品の制」(蔭位の制)が加わりこの「6つの要素」の意味合いと共に「有品」「朝臣」の2つが付け加えられて正式な呼称として「青木三位朝臣・・・」と称する事に成ります。
    これに永代の冠位官職を加えると「浄大1位 六衛府軍上佐 青木三位朝臣 民部上佐 左衛門佐信定」
    (源氏で云えば青木氏に跡目に入った清和源氏頼光系4家の宗家では「源三位朝臣頼政・」と成る。)
    これが「青木氏」の固有名詞として「呼称の氏名」とされていたのです。
    人々は"「青木氏」"と名乗れば「八色、有品の祖」と「3つの発祥源」の「氏」である事を悟り理解したのです。
    その慣習は現在は全く消えていますが、明治初期頃まで上層階級の人々の常識の中に遺されていたのです。当然に「青木氏」呼称の他に、「賜姓族」としてはその「象徴紋の笹竜胆紋」や「生仏像様」、中には江戸中期までは「伊勢紙屋長兵衛」等でも「氏」を物語るものとして通じていたのです。
    特別賜姓族(秀郷流青木氏)としてもこれに順ずる「氏族」との認識が高く、且つ、藤原氏北家筋名門「第2の宗家」として人々の認識の中に深く遺されていたのです。
    特に賜姓族と特別賜姓族の「2つの伊勢青木氏」には口伝によれば大正半ば頃(14年)まで遺されていた事が伝えられています。
    (平成15年頃まで神仏職関係者にとりわけ菩提寺の住職には認識が遺されていた)
    しかし、上記する呼称「青木氏」は1125年頃に「2足の草鞋策」を採用しますが、当時の人々は「3つの発祥源の青木氏」との認識が強かったところに、突然に「2足の草鞋策の青木氏」が現れたのです。
    恐らくは、一時、「青木氏」と「殖産・物造り」(2足の草鞋策)との繋がりに戸惑ったものと観られます。
    当然に、青木氏の中でも「笹竜胆紋」と「生仏像様」と「祖先神・神明社」の「青木氏」を物語るステイタスが厳然として存在しているのですから切り替えに戸惑ったと考えます。
    人々はこの印象・認識がどの様な変化を示したかを記録から考察すると、次ぎの4段階に分かれている模様です。

    「印象・認識の経緯」
    第1期(平安期末期)
    平安末期50年前頃は知る者と知らない者との区別がはっきりしていたと観られます。
    和紙に関る者が知る範囲であったと観られます。恐らくはこの時期には「2面作戦」に出たと考えられます。時代は「融合氏政策」を実行している中で、「青木氏」が「2足の草鞋策」を採ったとすれば世間の批判は無条件で「青木氏」に向けられ、強いては朝廷への批判となり国策推進に影響を及ぼす事に成ります。もし、そうなれば終局、愚かな行動を採り朝廷から疎んじられ民から見放された滅亡に向かった源氏一門の様に存続そのものが難しく成っていた筈です。
    丁度、「荘園制の行き過ぎ」による粛清がなされていた時期でもあり、平族の繁栄期でもあります。先ずは納まらなかったと考えられます。
    同じ平族も伊賀和紙の殖産紙に共に関わり海外に殖産貿易を行っていた時期でもある事から、内々で黙認されていた筈です。依って恐らくはこの事態を避ける為に「2面作戦」で挑む以外には無かった筈です。
    その証拠となる事が起こっています。丁度50年後に「以仁王の乱」が起こって主謀者の源頼政が敗退に依って滅亡を避ける為に事前に「平族」との親交のある伊勢青木氏に京綱を跡目として入れて遺します。
    この事は5家5流の賜姓青木氏が「清和源氏宗家」を武力では無い形で継ぐだけの力が備わっていた事を意味します。
    それは和紙などで繋がっている事で「平族」に潰される事が無く、且つ裏面の「2足の草鞋策による経済力」に裏打ちされていて安定していたからです。
    「商家と青木氏」(2足の草鞋の家筋)が表立っていてはっきりしていれば、家柄前提とする氏家制度の中では「清和源氏宗家の跡目」を継ぐ事は出来ませんが、あくまでもこれは賜姓族「青木氏」だけであって出来る事です。取りも直さずこの行動は、つまり「商家」は衆目には未だ「陰」であった事を物語ります。

    第2期
    しかし、鎌倉中期から室町期初期にはこの「2面作戦」は長くは続けられる事は有りません。
    北条氏の執権により青木氏の守護地は本領安堵されたとしてもその職務は地頭等により管理される事に成ります。「2足の草鞋策」が続けられるとしても守護職は失職しますので「殖産・商い」に主力を移す事に成ります。平安期と比べ限られた本領の中での事に成ります。まして、伊賀の平族は滅亡して伊賀一族は武装放棄の状態で取り敢えずは残りますが、「青木氏」と同じよう「殖産・和紙」で生き延びなければならない状況に陥りました。
    この時期は「2面作戦」の一面は縮小した状態で「3つの発祥源」のステイタスを保た無くてはならない状況と成っていたのです。しかしこの時期でも「氏家制度」は保たれながらも「武家社会」と云うより「2足の草鞋策」は平安期にまして厳しいものと成った筈です。
    その証拠として残されているものとして「青木氏の家訓10訓」の内容で、その家訓はこの時期の影響を色濃く繁栄していると見ているのです。
    しかし、この「2面作戦」は「本領の一面」は縮小した分だけ「殖産・商い」は「鎌倉期」−「室町文化」のハシリから「紙文化」が拡大して行き大きく繁栄拡大を果たした事に成ります。
    「3つの発祥源」のステイタスと「本領安堵」の中では「2面作戦」は続けねば成りません。
    「本領安堵」により当然に為政者領域では認知の範囲と成ります。
    拡大する「商家」は衆目には”知る者は知る、知らぬ者は知らぬ”の状態の「半陰」であったと観られます。

    第3期
    室町期初期から江戸初期前までには「2足の草鞋策」も「室町文化」の発展で「2面作戦」の「武家の一面」が弱く成ったもののそれを補い超える力を持つ様に成ります。それは「殖産・商い」の経済力を補完し、その「青木氏」を防御する為の目的で採った対応策が厳然として「陰の力」(シンジケート)として働き始めたのです。何とその力は10万の軍をも餓死させ敗退させるだけの「陰の力」と成っていたのです。
    それは和紙の「殖産・商い」で生きる5家5流の青木氏(背景には特別賜姓族の青木氏が存在)の連携を守ったのです。
    それはシンジケートなのです。「大商い」には「陸海の利権と安全」の問題が伴ないますが、他の既存の勢力に頼らず自らがその経済力を背景に創り上げた「絆」に依って成り立つ、真に「2面作戦」による「陰の軍事力」なのです。
    例えば何度も例に挙げていますが、この下記の2つの事件は「青木氏」にとってその「生き様」を如実に物語るものであるからです。
    南北朝の北条氏と楠木正成の戦いでも3千の軍が10万の軍を餓死に追いやり勝利したのはこの青木氏が持つ伊勢−信濃の「陰の軍事力」が楠木軍の裏に控え「ゲリラ作戦」で勝ったのです。
    周囲の食料調達網の遮断作戦、深夜の局地的攻撃による兵の疲労作戦が働いたのです。
    織田信長が「伊勢の3乱」で青木氏が採ったこの「陰の軍事力作戦」で織田信雄と軍監滝川一益の2万軍を敗走させるだけの力を持っていたのです。
    この時、信雄はこの青木氏の「陰の軍事力」を知らなかったのです。しかし秀吉は知っていたのです。その為に信長に叱責され蟄居させられる事件まで起こります。
    何れも戦場と成る周囲の村全域がこの「絆による陰の力」として協力したのです。
    この「陰の力」(シンジケート)は「絆で結ばれる互助組織」であり、これは「氏姓」や「血縁性」や武家や身分家柄に無関係の新たな「氏家制度」に変わる「絆互助制度」を広域に構築したのです。
    この段階では、この例に観る様に、既に衆目の知るところでありながら、未だ公然としたものではなかったのです。衆目は「3つの発祥源」の「青木氏」と認めながらも「2足の草鞋策」も積極的に認めると云う不思議な印象と認識を持っていた事に成ります。
    それは公然とした目に見える「いかつい軍事力」を背景にするのでは無く、武士から一般の民衆(衆目)の「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」を構築したからだと考えられます。真にこれが「青木氏の家訓10訓」に観られる真意だと考えられます。
    「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」の「長の戒め」を解いたものなのです。その「青木氏は」もとより「悠久の絆」で結ばれた「4つの青木氏」なのです。
    この様に最早、特定の範囲ではなく一般の範囲での「半透明な陰」であったと観られます。

    第4期
    江戸初期から明治期までには「半透明な陰」では無くなり、それは衆目全てが衆知する「2足の草鞋策」と成っていたのです。
    そして、それは5家5流の土地の「殖産・和紙」を含む「商い」と「総合商社」を兼ねた「大商い」で摂津堺に大店を構える「海外貿易」をこなす豪商に成長していたのです。
    むしろ、最早、小さなながらも本領を護りつつある「3つの発祥源」の「青木氏」から「豪商青木氏」の印象の方が勝る処まで繁栄していたのです。
    しかし、衆知の史実と成っていたにも関わらず「3つの発祥源」の「青木氏」は「2面作戦」の形は守っていた様で、「菩提寺」と「青蓮寺」等「3つの寺」を維持していた事と「4つの城」を維持していた事がこれが物語ります。この「3つの寺」と「4つの城」は本領だけでは維持困難であり「商い」には無関係の拠点でありますが、この維持は商いからの補完で成り立っていたのです。
    この目的は「2面作戦」の「青木氏の結束の拠点」であった模様である事が記録から判断出来ます。
    例えば、これも何度も例として記述していますが、大阪の陣の時、徳川家康は名古屋城で本陣秀忠の東山道掃討軍を待ちますが、この時、この青木氏に対して「合力参戦」を促します。
    軍事力としては保持しない「青木氏」に対してわざわざ正式に促したのです。これは明らかに第3期、第4期の記述する「2面作戦」の計り知れない「両方の力」を期待したのです。
    3日後に合力を伝えますが、この時、伊勢−信濃のシンジケートと250の手勢(兵ではない)で信濃−伊勢−近江までの進軍路(東山道と伊勢路)の安全確保と食料の補給調達を担当したとあります。(青木氏の分家は豊臣軍に参戦した事実もあり、伊勢より以西は豊臣軍の勢力範囲で極めて危険で真田軍等の戦略が働いていた地域であった)
    「軍による力攻め」をするのではなく「青木氏の陰の力」で押さえ込んだのです。
    (1) 秀郷一門近江の「蒲生氏」本家
    (2) 伊勢の蒲生氏郷
    (3) 末裔の特別賜姓族でもある秀郷流伊勢青木氏
    (4) 賜姓伊勢青木氏の「2つの青木氏」の融合縁戚力
    (5) 東山道は藤原秀郷一族一門の勢力ライン(第2の宗家青木氏の指揮下)
    (6) この近江−東山道ライン上に働くシンジケート
    以上を確保した事に成ります。
    この「6つの勢力」の確保は「2つの青木氏」の「2面作戦」の「陰の力」をオープンに相当に評価していた事を示します。
    この後、家康は次男の頼宣を遣わし伊勢松阪で代表の伊勢青木氏と会見をしたと記録されています。
    この後、「2足の草鞋策の商い」の「青木氏」は、8代将軍吉宗の「享保改革」の勘定方の協力貢献(吉宗の親代わり伊勢加納氏と伊勢青木氏は縁戚関係で育てる 伊勢加納氏も「2足の草鞋策」で伊勢加納屋を営む)、徳川紀州家の財政建て直しに勘定奉行として協力貢献している事(大正14年まで親交)等を挙げると、これは最早、衆目は”知らない者はない”「透明な陰」と成ります。

    ここで、だとすると当然に青木氏の由来や経緯の中に、この「2面作戦」の「殖産・物造り」の何がしかの軌跡があったと考えられます。
    それが、上記した通り、即ち「青木氏の家訓10訓」全体の真意であり、とりわけ「家訓8」が、何故に家訓と成っているかはこの事で理解出来るのです。
    「家訓8」は武家的でもあり商家的でもありその誡めは両面に渡ったものと成っているのはこの軌跡であると観ています。(家訓8の詳細に付いては「青木氏の家訓10訓」を参照)
    特に印象的な事として上記した青木氏の「3つの発祥源」の立場を特別に恣意的に強調していない事です。本来ならばその立場を意識して守ろうとして家訓とするのが普通の常識ですが、そうではなく確かに「立場」に重きを置いている事は認めますが、それが「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めているものに成っています。
    「3つの発祥源」そのものを戒めとするのではなく、突き詰めるとその中の共通する真意である「長:人間的成長の姿」を戒めとしていると観ているのです。
    平安初期の頃であれば真に「3つの発祥源」の立場に重点が置かれていた可能性があったと考えられます。平安初期から中期頃に家訓があったかは確認出来ませんが、「象徴紋 笹竜胆紋」と「生仏像様」の「青木氏の遺産の存在」とがある事は何がしかの「戒め」的なものがあったとするのが普通であると考えます。青木氏から光仁天皇が出ていることも考え合わせると無い方がおかしいと観られます。
    しかし、明治35年に家訓的なものの資料や口伝や物語る遺品も消失し全く確認は出来ません。
    恐らくは1125年代頃に「2足の草鞋策」を採った事に依って、それまであった家訓的なもの(古代家訓とする)が合わなくなった事から見直されて、「殖産・物造り」が加わり「3つの発祥源」を基とする「古代家訓」は論理的に意味を生さなくなったと考えられます。
    子孫存続に厳しい時代を生き抜いてきた先祖からすると、この時かなり思い悩み、終局、”「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めた”ものと成ったと考えます。
    この時、同じ立場にあった他の4家4流の皇族賜姓青木氏は「和紙の殖産・物造り」でより強く結び付き連携し、「3つの発祥源の古代家訓」らしきものは霧散して、伊勢青木氏に遺されていた「家訓10訓」が「笹竜胆紋、生仏像様」の下に「青木氏の共通認識」に成って行ったのではと考えられます。
    伊勢青木氏以外の賜姓族に補足的な個別の家訓的なものがあったのかは確認出来ませんが、「青木氏」の上記1〜4期の経緯から察するところがある限り「伊勢青木氏」に遺された「家訓10訓」が同族全青木氏の家訓に成っていた可能性が高いと観ており、生活基盤の「殖産・物造り」と思考の規準とする「皇祖神・神明社」を共通認識に成っていて、「3つの発祥源」の立場、「笹竜胆紋と生仏像様」のステイタスを持つ家柄からすると大きく異なる家訓的なものは考え難いのです。
    一致結束して「悠久の1千年」を共に全く「同じ道と同じ糧」を求めての「4つの青木氏」と生き抜いてきた事からしてもあり得ないと考えているのです。
    伊勢−信濃−甲斐では「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」に関わる関係資料が多く遺されているのですが、ただ近江と美濃に於いてはそれを物語る資料が「和紙と殖産」以外には佐々木氏の関係資料以外に信頼出来て裏付けられるものが矢張り見付からないのです。
    逆説的に考えれば、同族賜姓族である源氏11代は上記した本道を通らず異なる道を歩んで400年で滅んでいるのです。5家5流がばらばらに源氏の様に異なる道を歩んでいたとすると厳しい環境の中では滅亡は必至であったと考えられます。

    「美濃青木氏の疑問」と「紀伊守の検証」
    ただ、秀郷流青木氏は兎も角として、5家5流が全て上手く行っていたかは保障が困難なのです。
    実は「美濃賜姓青木氏」の末裔が少ない事には多少の疑念を持っているのです。
    上記した様に同じ道を歩んだ事は事実であるのですが、少ないとする原因が何なのかを研究したのです。この事から、前回での「たいら族」の「織田氏の研究」にも論じましたが、美濃は不安定地域であって、美濃での源平の激しい戦いに巻き込まれた可能性が一応は高いと観ているのです。
    ”源氏のような体質的な何かがあったのであろうか”と疑問が湧きます。
    此処では最後に遺された3つの源氏(近江、美濃、尾張源氏)さえもが滅んでいる事からして一部の「美濃青木氏」も源氏方に味方した事が原因しているのではないかと考えられるのです。
    美濃と近江の賜姓青木氏は、何れも清和源氏の宗家根拠地として近江摂津源氏、全11流源氏の集積地域として美濃−尾張源氏であった事から大きな影響を受けていた事があるからです。
    源平の初期の戦いで平族に滅ぼされて近江源氏の一族郎党が美濃−尾張に逃げ込んでいますし、他の関西中部域の圧迫された源氏は美濃の富士川決戦に備えて集結・集積していますので、同族として近江美濃青木氏も同行していて壊滅に近い状態で滅亡した可能性が高いのです。
    「近江−美濃」と「伊勢−信濃−甲斐」との間には「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」、「家訓10訓」
    の多少の「生き様に温度差」があり、「同族源氏との親交差」があったと考えられます。
    これは「藤原秀郷流青木氏との親交さ」に起因していると考えられるのです。
    数式に纏めると平安末期には次ぎの様な関係式にあったと結論付けています。

    「伊勢−信濃−甲斐」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」>「同族源氏との親交差」
    「近江−美濃」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」<「同族源氏との親交差」

    「伊勢−信濃−甲斐」→「シンジケート」+「2足の草鞋策」+「藤原秀郷流青木氏」=「抑止力」
    「近江−美濃」→「2足の草鞋策」+「同族源氏」=「抑止力」

    「伊勢−信濃−甲斐」→「神明社」+「伊勢社」+「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」
    「近江−美濃」→「八幡社」>「神明社」>「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」

    この「3つの関係数式」から「源氏力」が低下すれば「近江−美濃」は崩れることに成ります。
    その意味では「不入不倫の権」で護られていた事から「伊勢と信濃と甲斐」はその「源氏力」の影響力が少なかったのです。有ったとしても「分家頼信系」ではなく「清和源氏本家頼光系」の守護代地であった事、「2足の草鞋策」、「伊勢−信濃シンジケート」等から独立性が高かったのです。
    (甲斐とは無冠の源時光系武田氏系2流ではなく、賜姓信濃青木氏と血縁した別当蔵人の源源光系賜姓青木氏2本流の事)
    此処美濃には「秀郷流青木氏」が「源平の緩衝氏」として武蔵を背景に以西に対して最前線でその総力を傾けていた地域であります。その緩衝環境の中で「秀郷流青木氏」以外に一方の源氏に肩入れをする事はそれだけに危険性を孕んでいます。
    「源平の緩衝地帯」として止む終えない仕儀であった事とは考えられますが、氏性の「源平の緩衝氏」と地理性の「源平の緩衝地帯」との2つの事を考えると、戦略上”生き延びる”と云う最大使命からは「氏性の緩衝氏藤原氏」に組する事は兎も角も、”「伊勢−信濃−甲斐」−「近江−美濃」の関係強化を「2足の草鞋策」のみならず図るべきではなかったのか”と云う疑問が湧きます。
    結果的には、”「藤原秀郷流青木氏」との関係強化”と云う事にも成りますが。
    近江には秀郷一門の蒲生氏の定住地であり藤原一門が無かった訳では無く、この蒲生氏は伊勢青木氏と血縁性を持つ「伊勢秀郷流青木氏の祖」でもあるのであり、当時は伊勢にも勢力を伸ばしていたのです
    (後に大河内、松ケ島、松阪と3ケ所に勢力圏を伸ばす)。
    近江は「たいら族」の東勢力圏内であった事もあり、逸早く「たいら族」に抑えられる宿命を背負っていた事は否めませんが、美濃に引きずられて滅亡の憂き目を受けた事はその「生き様」に間違いがあったと考えられます。むしろ「不入不倫の権」の領域の「伊勢青木氏」に逃げ込むべきであったと考えられ、「たいら族」は伊賀本拠地と青木氏との親密な関係もあり手は出せなかった筈です。
    (現実に以仁王の乱の時には手を出さなかったし、主謀者頼政の孫の2人を助命嘆願を受けているし攻めなかった 頼政さえも松阪に向けて逃亡しているし、孫京綱を伊勢青木氏の跡目に入れた事は「たいら族」は攻めないと観ていたからだ)
    では、”何故逃げ込まなかったのか”疑問と成ります。
    それは美濃に集結した事で、未だ、「美濃−尾張−甲斐」などの青木氏と源氏と坂東勢力の秀郷一門も味方して美濃域で「たいら族」と戦い支える事が出来ると観ていた事に成ります。確かに坂東八平氏を背景に支えて勝利しますが、その前に現実には「富士川の大激戦地」となり、集結した近江−美濃−尾張−木曽−新宮等の多くの源氏と近江−美濃の青木氏は潰されてしまうのです。
    源氏に大きな犠牲を払い過ぎてその5年後に頼朝は勝利します。
    結局、殆どの源氏が滅亡して立ち上がることさえ出来ない程に勢力低下を起こし、その2年後に全源氏族は皇族第7世族の坂東八平氏に抹殺されるのです。
    「近江−美濃」の青木氏は何とか、”「伊勢−信濃−甲斐」の青木氏と秀郷一門の伊勢秀郷流青木氏と近江蒲生氏の援護・保護の下にて本流は滅亡しましたが末孫は生き延びる事が出来たのです。

    この一帯には「皇族賜姓美濃青木氏」とその流れの「土岐氏系青木氏」の2流が定住している筈ですが、この2つの系統では明確には存在は確認出来ないのです。土岐氏は、未勘氏や第3氏は別として、史実として明らかに完全滅亡していますので、同系列と成った賜姓族の土岐氏系青木氏も先ずは滅亡としたと考えられます。

    「皇族賜姓美濃青木氏」の確認
    問題は「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れないのです。筆者は存在していると確信しています。
    それは「和紙」の関係調査から「みの和紙」は平安期から明治期まで「有名な和紙」で和紙に関係する人であればよく知っている和紙です。「みの和紙」の商人の青木氏は確認出来ていますのでまず間違いはないと考えられますが「笹竜胆紋」の「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れません。
    家紋などの氏家制度の仕来りから考証には一部に疑問が残る事と、この地域は「下克上、戦国時代、一揆」など混乱の大きかった事から伝統や資料や遺品や記録が青木に関して存在しないと云うのが現状です。土岐氏系の伊川津7党の青木氏等がありますが未勘氏とも観られます。
    そこで戦略上で観て岐阜と愛知の国境域に賜姓美濃青木氏の末裔が現存していると観られる事から、本流は別として、伊勢と美濃と尾張の秀郷流青木氏の影響が背後に働いていたので支流末裔が生き延びられたのではないかと考えられるのです。

    実はこの域には前記した「皇族賜姓美濃青木氏」と「秀郷流青木氏」の血縁氏の「融合青木氏」現象の強く起こっている地域でもあるからなのです。
    家紋から観ると、多くの「秀郷流青木氏」が最もこの地域に集中している事もあり、その結果、つまり判別が付かなくなっている事もあるのです。
    「皇族賜姓美濃青木氏」は集中する秀郷流青木氏に吸収されていて「融合青木氏」と成っている地域であると観ているのです。
    むしろ平安末期から鎌倉期に生き延びる為に大勢力の秀郷流青木氏の中に戦略的に溶け込んで行った、或いは最も生き延びるには厳しい地域であった事から秀郷流青木氏が保護したと観るのが妥当では無いかと考えていて家紋考証からこの説が納得できるのです。

    もう一つ美濃には、西側で隣接するは「員弁や桑名」には伊勢青木氏が集団で多く存在しています。
    場合に依っては「源平の混乱期」に末裔が伊勢青木氏を頼って逃げ延びて来た事が充分に有り得ます。それは平安末期からのシンジケートの存在がこの事を裏打ちしている筈です。最も肝心な事にシンジケートが動かない筈は有り得ません。又伊勢−信濃の青木氏が動かすのが普通です。
    特に、信濃青木氏や近江青木氏との繋がりが「和紙」と云うキーワードで調べると明治期まで強く確認出来ることから連携はかなりのものであったと考えられます。
    江戸中期から明治初期に掛けて起こった伊勢−美濃−尾張の大一揆には、「2足の草鞋」の青木氏と伊勢加納氏が経済的背景としてシンジケートとして関わっていた事は記録から明らかですので、上記の2つの説は何れも同時に動いたと考えられます。
    美濃の青木氏は和紙に関わっていた青木氏である事は間違いはないと考えられます。

    調査の疑問点は「融合青木氏」の特長ですので生き延びていた事を実証出来るのではと考えます。
    美濃−尾張では源氏系列は滅亡していますが、矢張り「殖産・物造り」の青木氏は生き延びていた事に成ります。明治35年まで美濃−近江との「和紙」で付き合いがあった事が確認出来ていますので、この相手が美濃と近江の「賜姓青木氏の末裔」である可能性ありますが、青木氏に関わる「家臣団の未勘氏」か「絆による第3氏」か「徒弟制度の青木氏」か「融合青木氏」かの判別が付かなくなっているのです。
    家紋からある程度の判別が就きますが確定は困難な状況です。

    問題は室町末期の美濃境に定住していた伊勢青木氏とも観られる「青木紀伊守一矩 従五位左衛門佐」が確認出来ます。秀吉に任じられて越前府中北の庄8万石の領主(徳川除封禄記載 末裔は若狭−越前−越後−陸奥等に逃亡)の存在から観て、この本家筋の問題は兎も角も支流としては確認出来ますので、伊勢青木氏の「融合青木氏」の可能性も高い事が認められます。

    (青木紀伊守一矩の検証)
    (紀伊守には諸説あり搾取偏纂に多く利用されていますのでここで青木氏として一度整理しておきます)
    先ず丹治氏と言う説もありますが、丹治氏系青木氏は徳川方に味方して麻田藩摂津4万石を獲得しているのでこの説は搾取偏纂説であることは間違いありませんし、この丹治氏はこの従五位左衛門佐の冠位官職位は得られません氏、家紋も丹治氏は青木富士山に三鱗主紋(霧紋もある)で異なります。

    筆者は鎌倉期以降に美濃境の員弁域に定住していた「青木紀伊守」は、その冠位官職の「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職を持っています事から、これを前提とすると伊勢青木氏系以外には無いと考えますが、美濃青木氏は宗家本家は滅亡していますのでこの冠位官職は本来は継承できません。
    伊勢青木氏一族で、豊臣方に分家筋の形で「紀伊守」として合力したとした青木氏の資料には記録があり、これと同時に伊勢青木氏の「青木伊賀守忠元」が合力し越前坂井郡丸岡4.6万石を領し豊臣に味方したと記録もあります。また「青木民部上尉信定」が徳川方に合力したと記録があるところから、伊勢青木氏本家筋は徳川方、伊勢青木分家筋として忠元が豊臣方に合力し、伊勢−美濃青木氏(融合青木氏)が豊臣方に味方した事に成ります。
    つまり、信長の時は伊勢青木氏本家筋は「3つの発祥源」の立場から千年もの間常に中立を保っていたが攻められ、秀吉が柴田氏を滅ぼした時には秀吉に「紀伊守」と「伊賀守」は合力しました。この時、立場上、伊勢青木氏本家筋は二つに分けて「青木民部上尉信定」は中立を保ち、天下分け目では徳川方に味方したと事に成ります。

    又、別説の清和源氏の義光流系青木氏がありまして、近江甲賀郡照養寺には義光より16代青木下野守祐清は足利幕府に仕え、その末裔青木紀伊守8万石は豊臣に仕えたとする説もあります。、
    更に別説では近江甲賀青木氏の女がいて、その女は武田勝頼の嫡男信勝の妾となり、懐妊して近江に甲賀に帰り青木新五郎を産み、この者は豊臣に仕えて四国に任じられたとする説もありこれを紀伊守だとしています。

    この3つ説には系譜の繋がりの確証が取れない事と家紋が異なります。
    義光流青木氏の場合、武田氏の系譜には多くの疑問矛盾が定常的ありますのでの俄に信じ難いのです。特に義光系青木氏とは何なのか不明です。義光系青木氏には源の源光なのか源の時光なのかはたまた誰なのかはっきりしません。
    青木別当蔵人は確かに源の源光ですが、源光ルーツは明確ですので「紀伊守」は疑問ですし、もしそうだとしたら家紋は笹竜胆紋ですが、「丸に揚羽蝶木一文字」と違っています。
    これは源氏と青木氏の家紋継承の慣習に一致しません。当然に搾取偏纂で寛政系譜や寛永史でも第3氏とされています。
    時光系は無官の青木氏ですので、上記の冠位官職は得られませんので異なりますし、時光系青木氏も武田氏系ルーツが完全に解明されていますので異なりますので搾取偏纂は明らかです。
    「紀伊守」の末裔と観られる子孫が越前を中心に各地に分布していますが家紋は全て異なっていて統一していませんが、その中でも越前の末裔が主家と見られます。この家紋が「丸に揚羽蝶木一文字」です。
    (越前には「丸に違い鷹の羽」系もあります。)
    「紀伊守」は新五郎説とする説は余りにも唐突で家紋、冠位官職、発祥地、出自、生没も全て合いません。この手は搾取偏纂には良く使われる手で全く信用根拠がありません。
    「青木紀伊守」が持つ史実を無視しての我田引水のこの様な多くのルーツ説が室町末期から江戸初期にかけて実に多いのです。
    恐らく当時の社会がそれを「チェックする機能」や「人心の無関心さ」があったものと観られ、搾取偏纂する側も”ある限定した範囲での家柄搾取が通ればそれでよい”とする安易な感覚もあったと考えられます。
    「寛政系譜」等では比較的この点を厳しく査定している様で当時としては珍しい書籍です。
    社会のこの様な風潮が充満しこれを厳しく批判していたのではないでしょうか。
    その証拠に信頼出来うる史書や書籍には疑わしきは”「後勘に問う、後勘に備える」”と記述追記しているか「添書」を添えています。

    (何度も論じている事ですが、例えば、個人の系譜を自分の家柄に都合良く見せる為に搾取偏纂した。それを暫くは一族に隠して公表せず何代か後に遺品整理していたら箱から出てきた。子孫は身内を疑う事も当然に無く、疑うだけの歴史雑学の知識も無く、これを信じ切って後生大事に更に末裔に伝える。これでこの系譜は末裔にとっては実しやかに史実と成る。「姓氏」の処まで系譜が掴めない情報量の無い社会であったのに、まして菩提寺や守護神も持たない「姓氏」のルーツをどの様に管理できたのかも考えずに、江戸期を越えて鎌倉期までこの様に系譜を搾取している状況を観る事が多い。
    現在では中には最たるものとしては書籍やマスコミも時代考証と検証をも行わずそれを信じて演出しているものも多く見かける。「姓氏」は最古でも海部氏と室町期後期発祥であるのに。 云いたい事は近江青木氏と美濃青木氏はこの搾取に惑わされてしまった事なのです。これを元に戻すには資料も無くなりつつある中で最早自らの努力で青木氏が行う以外に無くなっているのです。)

    そこで、伊勢−美濃青木氏の「融合青木氏説」を採る筆者の説では、”では何故、親族の「紀伊守」がいる伊勢青木氏を信長は「伊勢丸山攻め」をしたのか”が唯一疑問と成ります。
    美濃域の伊勢−美濃青木氏(紀伊守)の定住地は美濃の織田氏との国境域である為に織田氏に家臣と成り合力体制を採っていましたが、この攻めると云う事は、信長が「紀伊守」を「伊勢青木氏」とは見ていなかった事を意味します。
    然し、実際は直接に伊勢青木氏を攻めてはいないのであり、丸山に前線基地の城を築き伊勢一帯の征圧に乗り出したもので、伊勢青木氏側も伊勢−信濃シンジケートがゲリラ戦でこれに対抗した戦いであったし、「伊賀攻め」も「永嶋攻め」も「北畠氏攻め」も「松阪攻め」も伊勢青木氏は「シンジケート」による「間接的参戦の合力」であったのです。最終、信長没後に秀吉の命にて蒲生氏郷による「松阪攻め」の「直接戦」も伊勢の秀郷流青木氏は氏郷末裔であり、且つ、伊勢秀郷流青木氏は伊勢青木氏とは親族関係にあることから「一時無戦撤退」の形を採り1年後に戻され5万石程度の本領安堵されています。
    信長−秀吉の「伊勢攻め」に関しては実態は「直接抗戦」は無かったのです。
    そもそも信長に取ってみれば伊賀は信長のルーツの「たいら族」の根拠地でありながら攻めたのですからそのような関係には無頓着な戦略を採っています。織田氏親族をも意に背けば滅ぼすのが彼の常道でまして家臣の親族ともなれば論外と成ります。
    (「伊賀攻め」の際には実戦は落城寸前に名張の側面からシンジケートの軍が側面を突いたのみ)
    依って、この疑問は解けます

    「紀伊守検証」(纏わる諸条件)
    次ぎはそもそも「紀伊守」の家紋とする「丸に揚羽蝶木一文字」は主紋の揚羽蝶は伊賀を根拠地にする「たいら族」の綜紋ですが、「丸付き紋」は家紋継承の慣習では「たいら族」は採用していません。類似副紋方式を採用していますので疑問です。そうなると、美濃−伊勢域の「たいら族」の血筋を一部に受けて家紋掟にて変紋を余儀なくされた事を意味しますが、この時、「たいら族一門」ではない為に「丸付き紋」とした事が考えられます。
    「笹竜胆紋」は、美濃青木氏が滅亡して傍系支流分流の血縁末孫(木一文字紋)の伊勢青木氏との血縁氏であった事から継承できずに、「たいら族」の血筋の揚羽蝶の家紋に丸を付けて類似副紋を木一文字として採用したとすれば「伊勢−美濃の融合青木氏」の家紋とする事が出来ます。
    「紀伊守」は織田氏(信長)にも仕えた事から織田氏の綜紋「たいら族」揚羽蝶紋とも何らかの血縁による因縁があったとも推測されます。
    柴田氏の領地(49万石)の府中8万石、北の庄の20万石を秀吉から与えられる身分であった事等のこの因縁は否定出来ません。同様に伊勢青木氏の青木伊賀守忠元も越前の坂井郡丸岡4.6万石を秀吉から与えられている事を考え合わせると、「青木紀伊守一矩」は伊勢−美濃の青木氏以外にはこれだけの領地を2度に渡り与えられる事はあり得ません。織田家家臣一統の中でも相当な立場と軍功が無くては有り得ない事です。依って揚羽蝶の家紋は織田家との因縁は完全否定は出来ません。少なくとも何らかの関わりがあった事を意味します。
    それには「住域は伊勢伊賀のたいら族隣」、「美濃のたいら族の織田氏」、「員弁桑名の伊勢−美濃国境域の住人」、「美濃南域の木一文字の土豪の家紋分布域」、「丸付き蝶紋は織田揚羽蝶の使用」、「祖先神神明社」の伊勢−美濃に纏わる条件が附合します。
    (判別条件)
    揚羽蝶紋の見分け方はその「足の数」、「輪郭」、「姿勢」、「羽根模様」の4つで判別しますが、この丸付き紋にはこの「4つの判別条件」をいろいろ組み合わせた文様が多くあります。
    そこでこの「丸に揚羽蝶紋」は「織田蝶」ではなく「伊賀たいら族」の文様そのものでして「判別条件」の4つが全一致採用しているのです。
    正真正銘の「伊賀たいら族宗家筋の揚羽蝶紋」なのです。
    このところから「丸付き紋」はそもそも直系孫ではありませんが、何らかの関係性を持つ青木氏である事が云えます。
    (丸付き紋)
    丸付き紋使用は「家紋掟」により「6つのパターン」があります。
    例えば、「笹竜胆紋」も「丸付き紋」は使用しません。然し、「丸に笹竜胆紋」が存在する理由として次ぎの事があります。
    青木氏宗家のその末裔が直系孫ではないとして次ぎの4つがありえます。
    A 嗣子であるが罪などを犯して除籍された者の場合
    B 妾子や配流孫である場合
    C 血縁子であるが一族として認めがたい事情がある場合
    D 5つは未勘子や第3氏や明治期の不特定氏の使用の場合です。
    以上の場合に宗家本家が「丸付き紋の使用」を強制する事に成ります。

    この場合のその青木氏の見分け方は竜胆の花の下の軸の部分を正紋と区別する事に成ります。
    同様に、丸付き紋の揚羽蝶紋もこの掟に従いますので、「4つの判別条件」が揃っていますし、それが「たいら族」の一門の者では無く「伊勢青木氏」ですから、Cの場合に成ります。

    「伊勢青木氏の分家」が経緯として「伊賀のたいら族の分家」から養子を迎えたが嫡子が出来ずに女系と成り、結局家紋掟により変紋を余儀なくされた。しかし、「青木氏」と「たいら族」は平安末期に敵対関係にあり、一族の手前上、養子先の「たいら族宗家」は「揚羽蝶の家紋」の使用は認める事が出来ないと判断し、妥協案として「丸付き紋使用」を許した事に成ります。(当然許さない時もあり得る。)
    この場合は普通は「4つの判別条件」のどれか或いは全てを変える事に成ります。
    然し、この「紀伊守」の「丸付き紋」は4つ共に全く変えていないのです。
    これは相当な信頼関係が成り立っていた事を意味します。
    「紀伊守」は”「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職”の平安期初期からの青木氏だけそのものの冠位間職位を保持している事からもこの「血縁関係」の仕儀は納得出来得ます。
    伊勢青木氏の宗家筋の者であればAからCに関わらず「笹竜胆紋」を継承し続ける掟ですが、変紋は名張や伊賀や員弁や桑名や脇出や四日市の分家筋一門と云う事に成ります。
    これに上記の「伊勢−美濃に纏わる条件」を加味すると、伊勢−美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
    (「冠位官職位」を継承)
    そうすると、伊勢青木氏の宗家嫡子が「冠位官職位」を継承する事に成りますから、もう一つ”「従五位左衛門佐」を名乗っている事はもう一つ先祖伝来の「冠位官職位」を継承しているものが伊勢青木氏系の中にある事を意味します。つまり、これが伊勢青木氏系の美濃青木氏(「融合青木氏」)が継承していた事を意味します。と云う事はこの事から、美濃青木氏が「源平の戦い」の「富士川の激戦」前で「美濃青木氏」の一族が滅亡したのですが、この中から「伝統の永代冠位官職位」を継承し得る「嗣子の者」が隣の伊勢青木氏に逃げ込んだ事を物語ります。伊勢青木氏だけが「源平の戦い」の追手から逃れられます。
    (信濃青木氏に逃げ込むのも一策と考えられますが、知行国越前より「美濃のたいら族」を助けに主力が南下して来ていますので帰る方向の信濃方向には危険であったのです。)
    当然に信長の8−20万石を領する家臣に成り得る勢力を持ち得ていたのですから、この時この嗣子を護って美濃青木氏のかなりの数の重臣も同行していた事に成ります。向後、伊勢青木氏と同族血縁をして伊勢青木氏の中に組み入れられ鎌倉期から室町期中期まで生き延びていた事が判ります。
    そして、前記で論じた織田氏の勢力経緯で美濃尾張の守護代と成った時に美濃境界に住していたこれ等の家臣団は嗣子を押し立てて織田氏に合力して独立した事に成ります。
    恐らく、伊勢青木氏に逃げ込んだ時から織田氏に合力した時の家臣や兵力までも伊勢−信濃シンジケートに擁護されての事であった事が考えられます。
    この「融合青木氏」は鎌倉期から室町末期まで350年間は「伊勢青木氏」の扱い受けてその保護下いた事に成ります。伊勢青木氏は前記で論じた様に当然に伊勢秀郷流青木氏と美濃秀郷流青木氏の抑止力を受けて護られていた事からこそ、故に「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏」や「伊勢秀郷流青木氏」の資料に何らかの形で遺されているのです。(「伊勢青木氏」に組み込まれていた事を物語る)
    そうなるとこの記録からは、「伊賀たいら族」と関係性を強く持っていたのは唯一伊勢青木氏でありますので、他に関係性を持ち得るのは後は「美濃青木氏」ですが、「源平の美濃戦い」で滅亡しているし、「美濃青木氏」の「生き延び方」としての「たいら族との独自の血縁」は、一食触発の緩衝地帯でもあったし、厳しい敵側であったのでこの血縁は難しいことに成ります。依って家紋検証と記録との矛盾が起こりこの件は消えます。
    故に、これが筆者が伊勢青木氏系に入れている根拠の一つなのです。
    つまり「員弁−桑名域の伊勢青木氏系」と成りますが、「系」としたのは「伊勢青木氏」は、この家紋は直系孫では慣習上あり得ませんので、南の四日市の秀郷流青木氏との「融合青木氏」と同じく、「家紋掟」により家紋は近隣豪族の家紋と成っています。依って慣習に一致しない事から「美濃青木氏」との「融合青木氏」である事に成ります。家紋から観た場合美濃に纏わる条件に完全に一致するのです。

    (「皇祖神の神明社」)
    そこで他氏と判別でき得る絶対条件として、「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」の存在です。
    美濃青木氏は後述しますが「美濃の源平の戦い」で神明社を消失しています。
    依って鎌倉期から室町期末期までの間は美濃の神明社は建立する事はその勢力、能力、立場からもありえません。伊勢の四日市の神明社の2社と本宮伊勢神宮3社が守護神になっていた筈です。
    そうすると、その後、信長に合力したのは尾張守護代の頃1545年代から北の庄の時代30年間程度、北の庄から関が原までの間20年間程度の何れかに成ります。
    後述するデータから全期30年間の定住地にはこの年代に立てられたと観られる神明社は発見できないのです。次ぎは後期20年間の北の庄でこの時代までに建立された北の庄には分霊神明社は2社確認されます。
    (現在の福井市域に祠を含む神明社関係大小23社あり、建立地域は5ブロックに分けられている。 この時代までの福井市近効で主な分霊社は8社と観られ、該当するのはこの2社のみ。 データは後述)
    建立する能力としては後期20年間にしかないと考えられますが、5年程度を建立に要します。
    この2社の内一つは924年代の平安期に建立されています。(福井市宝永)
    もう一つは明確ではないが建物形式より1585−1595年代と見られます。(福井市・)
    関が原は1600年ですからせいぜい豊臣方の趨勢は見えていた筈ですから、1590年以降には立てられない事が判ります。北の庄に赴任して直ぐに建てたと成ります。1585年はぎりぎりの年代と成ります。
    2者択一で難しいのですが、そうすると”何故同じ所にもう一つ神明社を建てたのか”と言う疑問が重要に成ります。
    924年代の越前のこの分霊神明社は、陸奥に865年に陸奥征圧を記念して阪上田村麻呂が桓武天皇に命により、桓武天皇と阪上田村麻呂の同没の直前に建てたものに継ぐ最も古い神明社で、これ以後その全国統一した証しとして主要各国に建立したものです。この50年後に建立した分霊神明社は、伊勢神宮の正式な分霊による朝廷の命による下克上の洗礼や戦国時代の焼き討ちにも逃れられた有名な「越前神明社」です。歴史上に遺された「祖先神の神明社」です。
    依って、この分霊神明社を紀伊守の美濃青木氏が「氏の守護神」として復活して使う事には問題が出ます。
    そうすると、守護神として同地域内にもう一つ建立する事以外に無く成りますので、1585年代の神明社が紀伊守の美濃青木氏の分霊神明社と考えられるのです。現在では「不祥扱い」にされている為に最終の確認が採れませんが間違いはないのでは無いかと見られます。
    (しかし、神社はなかなか建立者や建立年代等を明確にしないのが慣習なのです。又古社はそれまでの歴史的混乱にて殆ど不祥に成っている事由もあるのです。)
    そうすると、紀伊守説を搾取引用している多くの他説の氏は「姓氏」ばかりですから、現実に「祖先神」ではありませんので搾取で完全排除出来ます。
    (青木伊賀守も坂上郡丸山に同時期に分霊神明社を建立している)
    ところが、氏として観られる佐々木氏系の「滋賀丹波青木氏説」に付いては、この様な検証は行われず、且つ重要な青木氏のみが持っている情報がありませんので、家柄搾取偏纂の行為の説に成ります。
    特に、「祖先神の神明社」の条件を検証する事で以下の全ての説には青木氏にとっては「紀伊守の件」では検討するに値しません。

    (搾取偏纂の真意)
    神明社の事でも明らかですが、これには次ぎの別の意味を持っているのです。
    秀吉立会い面前にて200の兵を以って近江青木氏と滋賀青木氏が「滋賀青木氏の名籍」をめぐって「争いの決着」をつけました。勝利した側の青木氏が滋賀青木氏の名籍を獲得継承する事が出来る事としたのですが、結局、滋賀青木氏を名乗る側が勝利します。これは元上山氏の青木氏と近江青木氏との戦いで近江青木氏は滋賀の断絶名籍を奪われる事となったのですが、この戦いが秀吉との関係からこの青木氏が「紀伊守」と間違われているのです。否、ある目的を以って恣意的に間違っているのです。
    又、豊臣側系譜作成上で「従兄弟説」に付いても恣意的に上手く利用されて搾取偏纂されたのです。何れも弱味につけ込まれたのです。
    これは豊臣家をより良く思わせる為の工作劇であったと観ていて、鎌倉期にあった過去の事件に模して戦わせて、”「青木氏の名籍」が豊臣家のルーツの中にあるのだ”と印象付ける演出であったのであって、その為には「戦い」をわざわざゲームの様に仕立て自らが立ち会うと云う演出までしてのけたのです。
    何処にでも常に起っている「名籍争い事件」であれば秀吉自らが立ち会う必要など全く無い筈です。
    其処が「朝臣族青木氏」と云う所に意味があったのであって、それを縁者と見せていた家臣の元上山氏にさせたのです。この時点では上山氏は衆目の知る範囲ではなったのであって、”縁者”と衆目に思わせてる為に足軽であった者を秀吉に取り立てられてわざわざ現地の丹波に住まわせて準備万端にして「青木美作守家頼」と名乗らせていたのです。
    (上山郷の農民であった事は「丹波志」の資料から判明 丹波青木氏は元は上記した佐々木氏系近江青木氏)
    これに更に柴田氏の所領跡にわざわざ「青木紀伊守」と「青木伊賀守」の青木氏ばかりを宛がい与えて、更には上記の滋賀丹波には上山氏の青木氏を与え宛がえて演出して強く青木氏を衆目に印象付けたのです。主だったところに皇族賜姓族と衆目から見られている青木氏を配置したのです。その上で皇族に繋がる系譜上の演出の為に、又、秀吉は、天皇の子供を湯殿女であった母が懐妊して里に戻り産んだ遺子であるとする系譜さえ作る程の搾取偏纂に徹していたのです。周囲の親族も近江青木氏や近江佐々木氏等の断絶名籍を狙って系譜の中に入れる事は当たり前の仕儀であったのです。
    ここに紀伊守が持ち込まれて美濃青木氏の鎌倉期滅亡後の後の出自がややこしくなってしまったのです。

    (注 滋賀青木氏の名籍は近江青木氏が滋賀に移動定住した時の断絶名籍であった。滋賀青木氏を元上山氏を名乗る者がこの名籍を奪った事件 よく似た事件が鎌倉期にもあり、近江青木氏と美濃青木氏に限りこの「断絶名籍」を狙った事件は室町期から江戸初期までに数度起こっている。
    実は、平安末期からこの類似事件が起こっていて、元上山氏が美作守家頼の時に丹波にて青木氏を名乗った搾取事件があり、その後には関西のこの元上山氏の青木氏と関東の元上山氏のこの青木氏が名籍争いも起している。他に元上山氏の青木氏だけによる本家名籍争いも他に2件も起こっている。)

    この青木氏は佐々木氏より出自した佐々木氏系青木氏で、佐々木氏が北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見等11の守護地を建仁3年から承久3年の19年に掛けて守護職歴任、この時に各地に同行したこの佐々木氏系青木氏の一族の末裔一部が残留したものでこの中には名籍断絶もあります。丹波氷上郡友政城はこの末裔青木久政の居城ですが、この様な名籍が四国地方に多く残されているのです。この佐々木氏系青木氏の一族からは更に枝葉として「多々良姓青木氏」が出自しています。
    この佐々木氏系青木一族が各地で実に「名籍争い」を起こされていて、記録から室町期末期から江戸初期に架けて他に5件も確認出来ます。秀吉面前での近江青木氏の名籍争いはこの中の一つであります。
    紀伊守の「秀吉の従兄弟説」があるのはこの事件より拡大解釈した搾取偏纂説で賜姓青木氏か特別賜姓青木氏以外には名乗れない「従五位左衛門佐」と、この氏の家紋は「丸に揚羽蝶に木一文字」である事から従兄弟説等は、”みえみえの明らかな搾取偏纂説”であるのです。”みえみえ”を承知の上で搾取偏纂しているのです。
    (川島の皇子を祖とする近江佐々木氏の事で、宇多天皇系の滋賀佐々木氏より青木氏は出自なし これも間違われている)
    依って、この家紋などからも明らかに「青木紀伊守」は伊勢−美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
    青木氏としては乱され搾取された部分を自らこれ等を紐解きなおして解明しておく必要があると考え、敢えて分類では、今まで筆者は「伊勢青木氏」として論じていますが、「青木紀伊守」は青木氏資料からも佐々木氏資料からも「源平の戦い」で滅亡又は衰退した美濃としての青木氏と観る事が出来るのです。
    敢えて、ここで論じました。
    (加賀前田氏を頼った越前にて本家現存 分家筋は越後、陸奥、土佐、讃岐、阿波、安芸、中には肥前に避難 主に鎌倉期以降の近江佐々木:近江佐々木氏系青木氏の守護職の赴任移動先に叙封後逃亡している)

    (近江青木氏の背景力」)
    「美濃青木氏」と「近江青木氏」とが組み込んだ搾取偏纂説が多く起るほどなのですが、何れも一族か衰退して「断絶名籍」が起りそれを狙われたのです。しかし、近江は近江で別なのです。
    「近江青木氏」の方は、上記した様に「名籍争い」が多く起こり、合わせて「名籍の搾取偏纂」も多く起こっています。
    親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「近江佐々木氏」の助けで宗家である「近江青木氏」の名籍を護ろうとした事件です。現実には一時は平安期には「近江佐々木氏」と「近江青木氏」が同族争いを起し、滋賀に一族が移動しますが再び戻ったのです。この後、摂津に定住しますが、「近江佐々木氏」が「近江青木氏」を護った事件なのです。この滋賀移動時の「断絶名籍」を巡って元上山氏に食いつかれて搾取の事件が幾つも起こったのです。

    「徳川氏の源朝臣」の搾取
    この様に「断絶名籍の搾取」はみえみえの搾取偏纂であっても、”時代が過ぎるとそれは正当化する”と云う傾向があります。
    因みに徳川氏は、幕府樹立の条件として「源氏」か「青木氏」の朝臣族で無くてはなりませんが、これを獲得する為に南北朝の第6位皇子を作り出し、その皇子が比叡山門跡僧侶となり全国托鉢の旅に出て三河の松平氏の門前に立ち逗留して娘との間に子供が生まれた。それが16代目の源氏遺子だとしていてその3代後子孫が家康だとしているのです。このストリーは明らかに搾取偏纂である事は判ります。
    そもそも源氏は11代目花山天皇までであり、その以後の第6位皇子は皇子数が少なく無く天皇に成る者等も少なく苦労している時で、まして「南北朝」でもめている時です。且つ、松平氏と「時代性」をあわす為に採った苦肉の策で源氏賜姓の意味は最早この時期は南北朝では無く成っていたのです。
    その為には12代から16代までの賜姓源氏を作り出す事が必要に成りますが、この12から16代までは現存しない人物で、幕府樹立際にこの旨を申請して天皇家から搾取である事が明らかであるので却下されます。
    これに対して天皇家に対して生活も侭成らないほどに徹底した経済的圧力を掛けて認めさせます。
    嵩に掛かって、更に2つ目の条件の「武家の頭領」も認めさせようとしますが、さすが天皇家も頑としてこれを認めませんでした。そこで徳川氏は「武家の長者」で妥協して認められ幕府は樹立します。
    時代が過ぎると、この事は人々の意識から遠ざかり恰も「源氏朝臣」が「搾取」から「事実」の様に成ります。これが世の常であり、現在に於いては「時代考証力」の低いマスメディアはこの「搾取の時代遍歴」を信じて「正」として「源氏朝臣」と徳川氏が成っているが現状です。
    注 然し、この事に付いては少し違うのです。
    徳川氏側はこの搾取偏纂には自らは酔ってはいない事実があるのです。その証拠を伊勢青木氏だけが掴んでいるのです。
    実は、家康の次男扱い頼宣が紀州徳川氏と成り、飛地領伊勢松阪で伊勢青木氏と面談した時に頼宣は上座から下座し座布団を外し儀礼の挨拶を伊勢青木氏に採ったと伝えられていて、この慣習は筆者祖父の代の大正14年まで続いたと聞かされています。
    普通なら「源氏朝臣」であると信じていれば、否、信じていなくても、「時の最高権力者」であり、天皇家に認めさせた直後でもり、まして唯一遺されている青木朝臣族の賜姓伊勢青木氏で有っても、むしろ逆に無理にでも「源氏朝臣」を威圧的に認めさせて世に知らしめたい処です。正式な面談ですから少なくとも同位であるので、同座か又は”無礼者”で処理される筈です。家臣も黙ってはいなかった筈です。
    しかし最初から家臣も平伏して「上座下座の問題」が解決する長い間を頭を上げなかったと伝えられていて、面談の間までの家臣の扱いは”極めて鄭重過ぎた”と伝えられているのです。
    家康が最も信頼した紀州藩初代次男扱い頼宣がそのようにしたのです。それも伝え聞く一癖のあった頼宣がその様にしたのです。これは頼宣個人の思惑では無かった事を意味しています。兎も角も先祖は少なくとも座布団を外し同座を主張して押し問答と成ったとあり、この間、列座する家臣は平伏のままであったと伝えられていて、結局、同座で落ち着いたとあります。
    以後、先祖は頼宣以降15代まで、南画、禅問答、俳句、漢詩、和歌、茶道の師を務め、政道の話し相手を祖父の代まで累代で務め、この時の慣習が引き継がれたとあります。
    つまり、完全に違って逆だったのです。だから、筆者先祖も驚き「稀有と尊敬の念」を抱きその事を後世に伝えんとしたのだと思うのです。
    また特に、8代将軍吉宗の代には伊勢青木氏と伊勢加納氏は「育ての親代わり」(伊勢青木氏と伊勢可能氏は親族関係にある)として関わった事もあり、また吉宗の「享保の改革」の裏方(直接の経済学の相談相手 御側用人扱い 加納氏と同等)として江戸で経済改革を主導したと伝えられ青木氏と紀州家に記録に残っていますし、吉宗の郷里の「紀州藩の財政改革」も平行して伊勢青木氏が依頼されて断行したと記録にあります。これも「2足の草鞋策」の所以であり、徳川氏の家臣でなかった為に家臣面前でも「布衣」をつけての特別待遇であったと伝えられています。謝礼として「十二人扶持」を5万石の大地主で紙問屋を営む襲名伊勢青木長兵衛は代々受けていたと記録と口伝で伝えられています。
    この「享保の改革」の時に伊勢青木氏と共に信濃青木氏も協力して江戸にその子孫を送り遺しています。

    この様に吉宗も「伊勢−信濃の関係」をも掌握していた事が判ります。(江戸6流の青木氏が定住 有名な青木六左衛門は筆者の先祖)
    この事(徳川氏の上記経緯:源朝臣)は「幕府樹立」と云う「国の安定」の為の「権威擁立手段」に過ぎなかった事を意味します。「源朝臣」と成った以上は源氏11代は滅亡しているので、上位は傍系化した近江と美濃を除き伊勢、信濃、甲斐の賜姓青木氏と藤原秀郷流の特別賜姓族青木氏のみがそのルーツを保全維持していた事に成ります。
    逆に言えば、上記の事は、徳川氏は、源氏の様に武力的権威に溺れず「家訓10訓」を護り「表の氏」に成るのではなく「3つの発祥源」として「神明社」を護り「悠久の年月」を「地道」で歩んで生残った「特別賜姓族」を含む青木氏の立場を認めていた事を物語ります。
    故にこの儀礼を敢えて江戸時代末までに成っても徳川氏は守った事を意味します。特に頼宣と吉宗の代が最もその関係が強化されていた事が判ります。

    「時代の慣習癖」
    この様に「時代の慣習癖」を見越した上で、各氏は室町末期から江戸中期頃まで恣意的、故意的にこの「時代習性癖」を悪用して家柄呼称や系譜に搾取偏纂が横行したのです。そして、現在では何がほんとで何が嘘なのかも判らない様に成ってしまっているのです。
    特に「系譜」に付いては「個人所有の系譜」は殆ど搾取偏纂であり、本来はその「氏の菩提寺」が所蔵保管しているもので過去帳と共に個人が書き記して行くのではなく寺が間接的に書き記して行く方式が本来の形なのです。「姓氏」の不特定の姓の「檀家寺」ではなく「氏」を形成し「氏の菩提寺」か青木氏の様に「氏の祖先神の神明社」を保有する処に保管されている系譜は信用できるのです。
    「個人書き」には当然にその書き記した「人物の思惑と歴史知識」に左右されてしまいます。「個人書き」には過去に遡るだけの資料の保全が当時には無い訳ですから「過去に遡った系譜の作成」は論理的に有り得ません。まして上記して来た「姓氏」には江戸初期にやっと系譜の人物故人が出来る程度であり、人数的にも慣習的にも平安期まで遡っての系譜は物理的、論理的に有り得ない訳でありますのに、実しやかに「系譜」を全面に押し出して家柄を誇張する「氏」や「姓氏」が殆どです。
    そもそも「氏」は下克上、戦国時代で滅亡して遺されている氏は1%にも満たないのです。全て室町期末期の「姓氏」であります。その事から考えて、「氏の菩提寺」と「氏の神の社」を持ち信頼できる系譜などを保有する氏は青木氏や藤原氏一門など全国20にも及ばない筈です。(8000の姓氏の中で)
    「姓氏」に於いても「個人書きの系譜」で信用し得るものには、必ず、”「個人書き」した者の明記”と”後勘に問う”と”歴史上の箇条添書”が存在しています。信用出来ない推測領域には書き及んでいないのが定番です。この様な系譜「3つの条件」に合致しない系譜には必ず「搾取の系譜3つのパターン」があり史実雑学に照合すると間違いなく「矛盾」が生まれます。
    事程左様に、信用できない「時代の慣習癖」を経た系譜の多くの通説では、例えば「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」との様に混同していますし、又、同じく「佐々木氏」も「天智天皇(川島皇子)系近江佐々木氏」と「宇多天皇系の滋賀佐々木氏」とも混同している傾向を持つのです。
    (近江と攝津にて2家青木氏の末裔家現存 摂津は「近江青木氏」 近江は「近江佐々木氏系青木氏」 滋賀は「上山氏系滋賀青木氏」)
    (家訓と神明社)
    奈良期から始まった「青木氏」は平安期の藤原氏系の「青木氏」へと繋がりそして明治期の「青木氏」へと広がりを示し変化して行く過程から、この佐々木氏や秀郷一門に支えられて互いに助け合い地道に生き抜いた青木氏の行動指針の「家訓10訓」は大きな効果を発揮しました。
    これは「祖先神の神明社」と「家訓10訓」が連動していたからに他ならないのです。
    (源氏とはここが異なっていたのです。 同じ賜姓族の「近江佐々木氏」も「近江青木氏」を支えていた事から観て、青木氏側からは近江佐々木氏に付いてその研究は大きくは進んでいませんが、青木氏と同じ様な生き方をしたと観られます。  近江佐々木氏資料から平安期の全青木氏の事が多く出てくる事は鎌倉−室町期には藤原一門と同じ位に同族の関係性を強く維持していたのではないかと推測していて、今後の研究課題と成っています。  
    その証拠が多くあるのです。例えば神明社の神職に佐々木氏、春日社にも佐々木氏、八幡社に佐々木氏、青木氏菩提寺に住職として佐々木氏、青木氏の村主に佐々木氏等が資料から観られるのです。 於佐々木氏資料より考証)

    青木氏とほぼ同じ時代経緯や祖先神や宗教や由来や末裔の地域性や藤原一門の特別賜姓族との関係などほぼ一致している佐々木氏の資料などからも考証すると、上記した様に「氏の融合期」の初期頃(平安末期:「民族融合」の終了期後 1125年頃)にこの家訓は定められたと考えて居るのです。
    幅広い関係性の中で定められたと考えられます。
    恐らく、奈良期に「中国後漢の民」からもたらされた第1次産業がこの頃に飛躍的に進化して日本全土に拡大し、そして質的にも醸成され始めた「初期的な物造り」の「社会の気風」が起こり、それが更に強くなり民にその意識が高まったと観ています。この頃からむしろ「平安文化」「鎌倉文化」「室町文化」の「3つの文化」(紙文化)の発展に支えられて「生活の糧」の目的から「文化」の目的に質的量的にも拡大進化して変化を遂げます。
    この「文化の基盤」が出来た「殖産・物造り」は基盤と成った「文化」の「心の余裕」がより「神明社信仰」へと結びつき、「神明社」は「青木氏の祖先神」から「庶民の神明社」へと変質して行きます。
    結果として「民は生活の糧」のよりよい発展を期待して「民の物造り」の「神」の対象として崇める様に成って行くのです。
    この時、「神明社」の変化は「氏から民まで巻き込んだ信仰体」と成って行った事から「3つの発祥源」の青木氏はその正しい行動とより高い規範の維持を要求されて来たのです。
    その結果、平安期末期の「源平の戦い」で衰退し「青木氏」として生残るには家訓10訓の中でも特により高い「家訓8の考え方」が物心両面で大きく左右して行ったのではないかと見て居るのです。
    その結果、「神明社」の維持と相俟って、「殖産・物造り」を最初に「5つの和紙」を扱う青木氏の「2足の草鞋策」は(青木氏口伝からも含めて)伊勢の青木長兵衛(民部上尉)が主導して互助組織の氏家制度を通して、この時に各地の秀郷流青木氏を巻き込んで一族一門を通して一斉に「商い」を起したのではないかと観ています。(1125年頃)
    「物造り」とそれに関係する「民の信仰対象」と言う要素が付加されて青木氏の「2足の草鞋策」は前記したように「色々なしがらみ」が1125年頃に一度に増え続けて絡み、結局は「時代の渦と流れ」が青木氏を「2足の草鞋策」へと押しやったと考えます。
    ここを的確に「渦と流れ」を捕らえたからこそ生き残れたのです。
    しかし、ほぼ同じ環境にあった同族の嵯峨期からの11家の賜姓源氏はこの「渦と流れ」を短絡的に履き違えて捕らえ「滅亡の道」へと押し進んだのです。(荘園制)
    そして、その異なる要件の一つとして、彼等の源氏の守護神の「八幡社」に「物造り」=「八幡社」の構図が出来ず「民との絆」が生まれなかった事なのです。
    前記した「絆」に基ずく「4つの青木氏」の関係に類する様な「11つの源氏」には生まれなかったのです。
    青木氏と対比対象となる同族の「源氏の生き様」は”「皇族」と云う身分家柄に始終し民との間には溝を構えた為に「絆」は出来なかった”のです。
    (渦と流れの入り口で最早如何ともし難くなり頼信系に引きずられて止む無く清和源氏頼光系4家は伊勢−信濃−甲斐の賜姓青木氏に跡目を遺したのです。)
    つまり、源氏には「重厚な生きる力」=「絆」は生まれなかった事に成ります。
    (近江佐々木氏との関係)
    特筆するは研究が進んでいない「近江佐々木氏」が「源平の戦い」に巻き込まれて「近江青木氏」と共にこの時から衰退し、一時は江戸期には滅亡を危惧されるまで衰退を起しますが、然し、末裔は生き残り拡大して現在に至っています。(近江佐々木氏末裔の剣豪佐々木小次郎の頃 )
    「近江佐々木氏」は「2即の草鞋策」−「祖先神」を連動させたのか等は不祥で、青木氏から観た事では判る事は「神職住職」が大変多い傾向を持っていて、全国各地にくまなくその子孫を遺している特長を持っている事なのです。
    「神職住職」が青木氏と藤原氏の寺社神社にも多い事が気に成るのです。「祖先神の神明社」を論じる場合内心は欠かせない事ではないかと危惧している処です。未だ其処まで研究が行っていせんが今後の課題とします。
    つまり、何故かと云いますと、皇族と藤原氏の両方の血縁族を得ている事から「祖先神」と「鎮守神」を守護神とし、「神明社」と「春日社」を護ってきた事が生き残りの根幹と成っていたのではと観ているからです。更に源氏滅亡後に同族であった事から「八幡社」も「近江佐々木氏」が祭祀続けたのではないかと考えられます。(特に近江攝津に拠点を置く頼光系清和源氏系の八幡社に対して)
    結局、江戸期に入って「神明社」と「春日社」と「八幡社」の信仰が盛んになった事で、各地に存在するこの3つの全国の社を合わせると3−5万社と成り、この内の2割程度から3割程度が佐々木氏で有ったとすると、全国各地に末裔が広がる事の大きな要因に成ります。
    (明治期の神明社で観ると大概に3割程度弱 特に関東以北に多く観られる)
    まして、当時の神職の慣習は「氏の守護神」(「氏の菩提寺」)であった事から、上記した様に「4つの青木氏」の職能集団を抱え、その神職は室町期までは青木氏、佐々木氏、藤原氏が多く、他氏の誰でもが成れると言う慣習ではなかったのです。(住職も同じ。)

    (注 江戸期から明治期にかけては神社仏閣の宗教改革は幾度と行われたためにこのシステムは消えた。浄土督奨令 神仏分離令 大教宣布 寺請制度 廃仏毀釈 寺社領上知令、地租改正等で「特定の氏」の「独善的排他性の組織体制」は国体に好ましくないとして解体されて行った。 これに対して反発の混乱が長く続いた。これ等に関する一揆も含む混乱は江戸初期から始まり明治9年頃にほぼ納まった。この終息期の明治3年の苗字令から明治8年の督促令がこの「仕上げの政治」であった。「特定の氏」と「宗教」は深く関わりあっていたので「特定の氏」の「特権とその勢力」を削ぐ為に「宗教分離」と「土地の剥奪政策」を明治6年までに実行した。これで氏家制度の氏は根本から解体された。)

    青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
    然し、この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
    しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
    「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。
    青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています。

    青木氏と守護神(神明社)−13に続く。


      [No.279] Re:周辺の環境写真(墨部・硯部・方部の行方)
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/09/29(Thu) 18:58:42  

    藤白墨と藤白の紫硯石の研究
    墨部の存在

    先ず藤白とは熊野古道の第1番目の鳥居のあるところが和歌山県海南市藤白でありますが、鳥居の有った所の北域を鳥居地区と呼びます。その南側の山手が古い藤白地区であります。
    紀州南紀に行くには先ずこの地域を通る事に成ります。
    奈良の古都或いは京都の平安京から熊野に向かうとするとほぼ此処までは平坦な街道を通って来ます。
    そして、海南市の鳥居から山の手に入ります。つまり、熊野神社の社領(神社の領地)の入り口であります。此処からが熊野古道と言う事に成ります。
    この熊野古道入り口からその最初の緩やかな藤白坂を登ると1千猶予年の歴史を持つ一番目の藤白神社があります。弁慶の親族の日高氏が宮司を務めた神社です。
    この1180年頃の日高氏には子供が居なく、後醍醐天皇から賜姓を受けて鈴木氏を拝命したのですが、近隣の氏子の農家の子供の3番目の子供を養子に貰い受けて鈴木氏を継承しました。
    此処が鈴木氏の発祥地です。この鈴木の三郎は、源義経と弁慶が熊野神社に平家から追われていたので熊野神社の庇護を求めに行く途中この親類の神社に立ち寄りました。
    そこで義経を預けて紀伊半島の端の熊野神社まで弁慶は旅を続けました。
    この時、この鈴木三郎は弟の九郎と共に世話をしました。
    義経の人柄を慕い2人は2番目の家来になったのです。
    鈴木三郎重家を名乗りました。これが始祖であります。
    弟の九郎は神社の「紫の井」の青石の蓋の形が亀の形をしていたところから亀井氏を名乗ったのであります。これが亀井氏の始祖であります。
    この2人が全国に移動して行き各地に子孫を残したのが鈴木氏や亀井氏の子孫が多くなった原因です。
    そんな環境ですがこの環境の付近には日本最古の藤白墨が生産されていました。
    さて、この付近には姥目樫から作る備長炭の炭焼きが古来よりありました。
    今でも土を掘ると炭の欠片や昔の生活の廃品などが出てきますが、この炭から採れる煤を固めたのが日本最古の姥目樫から採れる「藤白墨」です。
    当時は優れた技能もなく良い煤も見つかりませんでしたので中国からの輸入に頼っていました。
    奈良期には何とか炭を生産しようと試み奈良の和束付近で松の煤から作る墨が何とか取れるように成っていました。しかし、到底中国墨より優れたものは出来なかったのです。
    松の煤は粒にばらつきが多く荒いし墨の色や光沢も良くありませんでした。
    朝廷や宮中ではもっぱら中国の高価な墨を使っていました。
    この時、何とか自国で良い墨を作れないかと考えていた後醍醐天皇は全国に日本で墨を生産できるように調査を命じていました。そして、この調査に携わったのが高い技能を持った渡来人の技能師の「方氏」で、わざわざ中国から招き入れました。
    熊野参詣の途中、案じていた後醍醐天皇がこの付近で採れる炭の煤の細かさと均一な品質から墨に適するのではと考えて全国を調査していたこの「方氏」にここで墨造りを命じました。
    ここで、本レポートの研究テーマであります。
    当時は物の生産は全て朝廷が命じて生産する方式を採っていました。
    これが「部制度」であり、この職に従事する職人を仕事名の後ろに「部」を付けて墨であれば「墨部」と呼ぶ事に成っていました。
    彼らは殆どは、中国の後漢国が滅んで全国17県の200万人の民が、その首魁の阿智使王とその子供の阿多倍に引き入れられて、日本に亡命して来た一族です。
    奈良時代初期から平安末期まで続きました。この技能の民が朝廷の命で各地に配置しました。
    従って、墨を生産していたのですから当然にこの専売品の藤白墨には墨部の姓を持つ一族がこの付近に定住している筈ですが全く発見されません。不思議です。

    そこで、何度も研究しても出てきませんでしたが、この墨に付属する硯に着目したのです。
    実はこの藤白では特産の紫石が採れるのですが、朝廷に納める紫石から作られる高級硯石が生産されていたのです。この「硯」から研究を進めました。
    この地域には朝廷で使われる高級な「紫石硯」は、この地域で産出する紫石で作る特産品でしたし、紫の石で作る仕上げ高級砥石も奈良時代から昭和の始めまで生産されていました。
    この砥石と合わせて紫石の硯石も生産されていたのです。殆どは朝廷の専売品でした。
    飛鳥奈良時代にはこの地域はこの当時の5大豪族の連合体(平群、巨勢、葛城、物部、紀)で政治が行われていました。その一つ紀氏の勢力下にありました。この紀氏は平群氏や蘇我氏等の様に武内宿禰から出た一族の者でありますが、この子孫が多く住むこの地域では炭や砥石や硯なども特産品として生産されて紀氏の財源とも成っていました。そして、それを朝廷に納めていました。
    この様な歴史的な背景を持つ伝統的な硯石には、この「藤白墨」の「墨部」の背景が潜んでいると研究していました。
    事実、この「硯」の姓と地域の研究から、この地域には「硯氏」の姓を持つ大変に多く子孫が定住している事が解明出来たのです。
    そこが、和歌山県海南市下津町「方」と云う所で、そこに「硯村」が存在している事が判明したのです。そしてこの海南地方には「硯」と名乗る姓の人がこの地域に今も住んでいる事が判りました。
    そこが何と中国の墨の技能師の「方氏」と同じ「方」(かた)と言う地名です。
    この下津湯浅地方には姥目樫から採れる墨が最も多く採れていましたし、今も備長炭の名で有名な炭の名産地の場所です。この藤白から下津、湯浅の地域までこの炭と墨の生産が行われていました。

    現在、この下津町の「方」(かた)と言う地名のところの「硯村(すずりむら)」と言うところがあるのですが、海南市を始めとしてこの村には今でも硯氏の姓の人が多いのです。
    つまり、「硯村」は、技能職人を一つにまとめた「部制度」のあった平安時代には、朝廷に納めるこの「紫硯石」を作る「硯部」が住んでいたところであります。
    この「紫硯石」には「硯部」が存在し、今も下津町方「硯村」が存在するし、そしてこの村は「硯氏」が定住しているのに、どうしても「藤白墨」には「墨部」が発見されず、地名や村や氏も発見されていないのが不思議であります。
    ただ、上記した「墨屋谷」の地名が僅かに残るだけで今は忘れられた地名です。
    何故存在しないのか研究を続けていたのですが、未だ発見されていないのであります。

    そもそもこの藤白墨は明治の始めまで生産されていたのです。その地名や村や氏が見つからないのは何故なのか大いに疑問であります。
    そこで紀州に関係する「部」では、数多くありますが、例えば鍛冶部(鉄製造 鉄砲の生産に従事していた雑賀族)の鍛冶氏なども姓として紀州には多く確実に存在するのです。この有名な長い期間生産されていた藤白墨の墨部の姓の持つ末裔だけが見つかりません。

    「硯部」が「墨部」を兼ねていたのではないとも考えられるのですが資料などは発見されないのです。その一つとして、日本の古文書や中国でのものにはこの墨を作っていた中国の氏は「方氏」と書かれています。日本全国墨に適した土地の調査をしたのが「方氏」である事も判っています。
    調査した結果、「方」の地名での「方氏」でその子孫が住んでいた地域と観られる地名があり、現在もそこには上記した「硯部」の「硯氏」が定住している事が判りました。
    この「方氏」が帰化して後に藤白墨の生産を天皇に命じられてここに移り住んだのですから、その移り住んだ土地が、そこが藤白ではなく海南市の下津町の「方(かた)」地域として最終残ったのではないかと考えられます。

    奈良時代の後期、奈良和束の「松煙墨」が最古とされますが、粒が粗くよいものでなかった事から廃れて殆どは中国からの輸入で賄われていました。
    しかし、有名な姥樫から採れる後の「備長炭」はこの藤白から下津、湯浅地域で採れるのです。

    熊野参詣の途中に、炭から煤を求めて全国を調査していた墨部(渡来人の方氏)に命じてこの墨を作らせたところ良いものが出来た。そこで、後醍醐天皇が生産を命じた事から日本初の墨が量産される事に成った事は確認されています。
    これだけの経緯があり徳川時代まで続いたのでありますから、遺されていても不思議ではない筈です。
    調査から、どうも「墨生産」には作業を2つに分けていたと考えられます。
    そうすると、この「墨部」は方地方に定住した「方氏」ではないかとも観られるます。
    元からある炭のその煤を作る仕事を「墨部」、墨の形にする仕事を「方氏」と成っていたことも考えられます。
    この墨の原料は元からこの地域の姥目樫から此処で作った炭の煤を集める事で出来ますので、墨部の氏は発祥しなかった事が理解できます。
    そして、その煤を集めて練り膠(にかわ 牛の皮を煮詰めた物 古代の接着材)で固める作業は「方氏」が行っていた事に成ります。
    そうすると渡来人の墨を作る技能職人「方氏」を「方部」と呼ばなかった理由があると観られます。
    つまり、それは「墨の位置付けか後の移動」ではないと考えられます。今回の研究からでは「移動」と観ています。
    「方部」として呼んでいた事も考えられますが実は主に次ぎの理由で変化した経緯があります。
    この墨職人の「方氏」(方部)が後に朝廷に納める「紫硯石」も生産するようになって重点を硯に変わり「硯部」となり「硯氏」となったと考えられます。
    その原因は油から採る煤で作った「油煙墨」の出現です。粒が細かく黒く品質は一定で量産に適していますので、この炭から採る墨に高級品の藤白墨は押されたのです。
    この事がはっきりとした事が書かれているのは室町文化の頃からです。
    この庶民文化に押されて油煙墨が伸び、姥目樫の墨は長い期間の生産が裏目に出て、この時期から姥目樫の木が藤白から下津湯浅地域に生息が少なく成ったと記されています。
    そこで、硯石の生産に振り向けたのではないかと考えられます。時期と状況が一致していますので先ず間違いはないと観られます。
    現在もこの地域から日高地方には未だ炭も当然の如く一部で硯や砥石をも作っています。
    そして、その「方氏」の一部は廃れた墨を作る為に再び奈良に移り、松の多い奈良和束の松煙墨が再び続けられたのではないか言う事が判ってきました。
    室町時代に庶民の室町文化が隆盛が起こり庶民も墨を使う習慣が生まれて需要が増えて庶民が使える松煙墨の墨造りに「方氏」の移動が起こったのだと観られます。だから墨部の存在が確認出来ないのです。
    藤白墨は最終は徳川末期まで専売品として続きましたが、姥目樫が藤白に少なくなりこの生産は硯村のある下津、湯浅地方にのみ移動しています。紫硯石も同様です。
    この藤白墨の墨屋谷の地域には今でもこの「紫石硯」の片辺が見つかっています。これが墨作りと同じく硯石の生産も方地方に移動した証拠で、方氏の墨と硯は同じ氏にて生産されていた事を意味します。

    そして、この藤白墨は姥目樫が無く成ると同時に硯石に生産を向けた事に成ります。
    その理由で藤白墨の墨部は藤白から下津、湯浅に無い事になったと観られます。
    奈良地域にこの「方氏」の姓の着く氏または地名がないか調査研究しているところです。
    これが確証されればこの研究は確実になります。

    因みに、他に部の付く氏は思いつくままに、
    朝廷に属する部は山部、海部、鵜飼部、鍛冶部、鍛師部、金作部、鏡作部、石作部、玉作部、工部、土師部、陶部、弓削部、矢作部、服部部、綾部、錦織部、倭文部、麻積部、依縫部、赤染部、茜部、舎人部、膳部、靭負部、佐伯部、来米部、織部、磯部、馬部、鞍造部、司馬部、秦部、漢部、物部、硯部、墨部 方部等

    氏の発祥は次ぎの7つに分けられる。
    地名などの自然形成の血縁的同族が形成して付けた氏名
    大和朝廷の上記の部制度による氏名
    朝廷の名田制度から起こった名字による氏名
    皇族から臣籍に降下し賜姓をうけた氏名
    賜姓族と官職役名を一部加えた氏名
    自分の知行する土地の名称を加えた氏名
    これ等から分家した惣領家と別にした氏名

    これ等は「藤白墨」や「紫硯石」の詳細は「鈴木氏発祥とその環境」や他のレポートでも記述していますが、墨に関することもレポートで写真つきで紹介しています


      [No.278] Re:青木氏と守護神(神明社)−11
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/09/10(Sat) 15:54:01  

      「青木氏の利点」

    >阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。
    >つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香−貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。(前回の末尾)

    逆に、その点で全青木氏390氏は朝廷の奈良期と平安初期の「2つの詔勅」で発祥しましたが、青木氏の古代密教に導かれた「菩提寺」や「心の拠り処」としての「祖先神の神明社」が遺された事に因って書物が残り、している事から比較的にルーツが明確に成っていて、後に於いても「氏族の発祥源」が管理されて引き継がれて行った事が「子孫存続」の「生き残りの団結」(伝統の継承)に結び付いたと考えられます。
    これは真に前記した通りの「4つの青木氏」の存在が起因しての事であります。
    これは言い換えれば「青木氏の伝統の継承」が成されて行った事にも成ります。
    「3つ発祥源の古氏」であり「高位の氏」であるが為に、「直接的な氏の融合」を主体としては少ないけれども、「間接的な氏の融合」にも力を注がれていた事に成ります。
    取分けこの「紙一重の乱世」の中で「融合氏」として生き残れたのは「賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が29氏を主導し、藤原秀郷一門では特別賜姓族の「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」として361氏を主導して「氏の融合」を成した事です。
    その「氏」を室町期末期まで「管理統括」し、この「氏家制度」の管理統括された「2つの青木氏」390氏が氏家制度の根幹を守り、強く「相互間の助け合い」をしていた事の差によります。
    そして、その基点となったのは「心の拠り所」の「祖先神の神明社」であり、「行動規範の拠り所」の奈良期からの「古代密教(浄土宗)の教え」であった事は云うまでもありません。

    「2つの青木氏」の「3つの拠り所」
    1「心の拠り所」=「祖先神の神明社」
    2「行動規範の拠り所」=「古代密教の教え」(浄土密教)
    3「人生の使命感」=「3つの発祥源」

    この「3つの拠り所」の下での「相互間の助け合い」(互助・絆・氏家制度)では、武田氏滅亡で武田氏系青木氏と諏訪族青木氏を武蔵入間を中心に神奈川横浜の半径上に接続する勢力圏内に保護した事や、四国讃岐籐氏の勢力圏に保護した事、新潟−陸奥で保護した事等の例から観てもこの「氏の管理統括」が確実に成されていた事が証明出来るのです。
    他にも鎌倉末期に「元寇の乱」の時に秀郷主要一門の青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏等は北九州に赴き、そこで一族の連携を採り互いに助け合い大蔵氏や肝付氏や北九州の主要豪族の菊池氏、宗像氏、佐伯氏、酒井氏等と積極的に血縁して一族の末裔を阿多倍一族一門の根拠地に遺しているのです。其の時の青木氏が主導して血縁をした資料が残されています。
    北九州に地域的には限定されて少ないのですが、青木氏や永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏が秀郷一族の末裔が存在するのです。中でも秀郷流青木氏と大蔵氏系永嶋氏が大きく末裔を遺しています。この事が何よりの証拠と成ります。
    これが「元寇の役」を切り抜ける為の「第2の宗家」の「青木氏主導の戦略」であったのです。

    では、この「氏の管理統括の有無」とはどう云う事かと考えると次ぎの結論が出て来ます。
    上記(3)の ”争いを伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”とは、それは「氏の民の心を一つに纏める政策」でした。
    そして、次ぎの数式が成り立ったからこそ「3つの発祥源」(氏の発祥源、侍の発祥源、武家の発祥源)が成し得て江戸期までに氏は2000までに成り得たのです。
    この数式条件を整えず「青木氏」が「平族」や源氏の様な「生き様」をしていた場合は、現在の様な「氏の融合」は有り得ず、「氏融合」が成されなければ「雑種の優秀性と融合性」は成し得ず、「物造り日本」も有り得なかったと考えます。
    では、この「第2の条件」を時代を通して維持させたのは、全て「青木氏の家訓10訓」の「教え戒め」に他ならず、遂には次ぎの「数式条件」を成し得たと考えます。

    「3つの発祥源」=「氏の発祥源」+「侍の発祥源」+「武家の発祥源」
    「青木氏家訓10訓」=「氏融合の第2の条件」
    「氏融合の第2の条件」=「氏の管理統括」=「氏の民の心を一つに纏める政策」

    この「数式条件」が本論の核心部分と成りますので、本論1より前記した事柄を前提にここより次第に本文に入ります。


      「氏の民の心を一つに纏める政策」
    そこで、ではこの政策を更に詳しく検証して見る事にします。
    そもそも、青木氏にはその政策として次ぎのような事が採用されています。

    1「氏神の創設と創建」(神明社・祖先神・皇祖神・守護神)
    2「氏寺の創建」   (菩提寺・浄土宗古代密教)
    3「氏象徴の創設」  (象徴紋・綜紋・お仏像様)
    4「氏の神木」    (青木の木)
    5「氏の掟」     (総則 掟 家訓・添書 累代忘備録)
    6「宗家の設定」   (一族一門を管理 総括者)
    7「経済的背景」   (2足の草鞋策 経済的繋がり 古代和紙)
    8「軍事的独立」   (皇族:近衛府軍、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍、民部府を統率)
    以上の8つの「青木氏政策」がありました。

    これだけ「纏める政策」を整えている融合氏は他には全く見当たりません。

    ・8つの「青木氏政策」
    1に付いて、「氏の人心を集める象徴−1」 「氏神」「神明社」(皇祖神)
    特別賜姓族を含め賜姓青木氏はその賜姓に依って伊勢「皇祖神」の守護として成り、「氏の発祥源」の象徴として「神明信仰の対象」を定め、「人心」を集めて、その後に発祥した「賜姓地」(「氏融合地」)の各地にこの「神明社」を建立し、普及させて「神の加護の象徴」(19地域)を定めました。
    奈良期の当時は、現在と違い「宗教に対する認識」は「生きる事」=「宗教」程の意味合いを持ち「絶対」であったのです。
    「氏」が安寧に融合し存続して行くには「神仏」に「人心を一つに纏める事」が必要でした。
    青木氏には伊勢神宮から発祥したそれが青木氏の「氏神」の守護神・「祖先神の神明社」であったのです。
    平安期には、各地の安定域に成った天領地を始めとして、陸奥域を征討し鎮圧する毎に「神明社」を建立し、そこに青木氏が守護神を護る為に住職として移動定住しています。
    この「皇祖神」と「祖先神」の「神明社」があるところには「青木氏」が、「青木氏」が定住しているところには「神明社」があるのです。
    特に北陸関係には同族の近江皇族賜姓佐々木氏(天智天皇第7位皇子川島皇子始祖)もこの「神明社」と共に住職として移動定住しています。
    青木氏だけでは務めきれなかった事から賜姓近江佐々木氏も奈良期の慣例に従い平安期にも「同族祖」として務めたと観られます。
    平安期の古い「皇祖神と祖先神」の神明社には「社木」として「青木氏の神木」があり、又「神紋・笹竜胆紋」の幕が多いのはこの事から来ています。
    「神明社」の多くは1400年以降の「社」が多く、このものに付いては特に天皇家が建立したのではなく主に当時の幕府か主要豪族が建立したものが殆どです。
    領国の民を安寧に導く為に「伊勢宮の分霊社」として建立されたもので、平安期の目的とはやや異なっています。
    奈良期−平安期の「氏の融合」が達成された目的とは別に、祖先神の「神明信仰」の色合が強いものでした。
    荘園制に依って大豪族と成った「融合氏」等が「神明社」の慣習に習って別に「土地の守護神」を建立して「氏神社」を立て自らを氏子として並行して進んだのです。
    そして守護神はただ一つではなく次ぎのような特徴ある歴史を持っているのです。

    守護神は次ぎの形式に分けられます。
    1 「自然神」
    2 「産土神」
    3 「祖先神」
    4 「氏神」
    5 「鎮守神」
    以上「5つの神」に分けられます。(本文で詳細記述)

    この「5つの神」は「神に対する考え方」が異なります。「4つの青木氏」は3の「祖先神」です。
    各氏はぞぞれの上記の「5つの神」の内その「氏の成立ち」によりどれかを「神」として信仰しているのです。
    そもそも、守護神は次ぎの形式に分けられます。
    1 「神明」
    2 「大神」
    3 「大社」
    4 「住吉」
    以上の「4つの形式」に分けられます。

    夫々の形式には「時代」と「宗教性」と「氏子対象者」の異なる「3つ要素」を持っています。
    従って、夫々の「融合氏」と「姓氏」に依ってこの「4つの形式」のどれに入るかが決まって来ます。
    「青木氏」は「皇族・賜姓族関係」であり、奈良期からの時代性を持ちますので「神明形式の守護神」と成り「祖先神」と成ります。
    秀郷流青木氏は4番目の「氏神」でありますがこの神は別名「春日神」とも呼称されます。
    秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」により発祥した氏でもあり、同時に賜姓青木氏を受けた特別賜姓族でもある事から皇族賜姓族の「祖先神」と藤原氏の「春日神」の両方を有する立場にあります。
    勿論、「絆結合」の「2つの無血縁青木氏」も家人として郎党として「氏上」の守護神を「神」とします。
    皇族賜姓族のみに限られた「守護神」の「祖先神」と成ります。

    特に青木氏に関しては上記した様な他氏には決して観られない「血縁融合」−「絆結合」の関係で出来上がっていますから、「氏上−氏人−氏子の関係」を保持し同祖先神の守護神と成るのです。
    「神」に対する考え方も次ぎの様に成ります。

    「祖先神」
    ”自分と氏族の先祖を神として祭祀し、累代子孫までの守護神の性格的教義を持つ”。
    以上と成りますので「2つの絆結合」も同じ守護神と成るのです。

    この考え方に沿う為に「2つの血縁結合」の青木氏と「2つの絆結合」の青木氏、即ち「4つの青木氏」は他氏とは全く別の「氏の結合構成」をもとより持っているのです。
    青木氏とそれを構成する族民は共に「祖先神」を守護神として崇める事になるのです。

    例えば阿多倍一族一門は「民族氏」でありますので、「神」に対する考え方は次ぎの様に成ります。
    「産土神」(うぶすなかみ)
    ”其の個人の生まれた土地の神で一生その個人の守護神として持ち続け子孫に伝播しない性格的教義を持つ”。
    以上と成ります。(但し、現在では「氏神」と混同されている)
    「産土神」ですので上記の「大社」形式と成ります。
    (出雲大社、阿蘇大社、熊野大社、宗像大社等これに類する)

    「5つの神」の「自然神」、「道祖神」、「皇祖神」を「祖神」として、「祖先神」(青木氏)と「鎮守神」(血縁氏)が「4つの青木氏」を守護したのです。

    ・8つの「青木氏政策」
    2に付いては、「氏の人心を集める象徴−2」「氏寺」(秘匿)
    そもそも「氏」は現在では親族を構える者は氏として扱われますが、氏家制度の中では鎌倉期以前は「氏」と「姓」に家柄が分けられていて、「武家」を構成する身分の者が「氏」として扱われ、武家を構成しない者を「姓」と呼称されていました。
    「武家」とは「公家」(有品5位以上の貴族)に対しての「侍の呼称」で限られた「身分家柄」を認められた「氏」を云うもので、「公家の社会」から「武家の社会」に移った事で室町期からは「武士」を一般に「武家」と呼称するようになったのです。
    本来は「武家」とは「有品の5位」以上身分を永代保証された者の一族に与えられた家柄でした。
    この「武家」にはその一族一門を祭祀する「独善・排他的自営の寺」を営む事を許されてたのですが、これを「菩提寺」と称し、「3大密教」の「古代密教」の3宗派に限定されていました。
    (青木氏は奈良期より古代密教を崇拝し、その考え方を継承したの浄土宗に帰依)
    後の江戸初期にこの「密教方式」を解除して一般に開放奨励したことから「独善・排他的自営の寺」が無くなり「菩提寺」の呼称は一般的に適用されるように成ったのです。
    本来は、「3大密教」外は「檀家寺」と呼称されていました。
    室町期の「下克上・戦国時代」に発祥した「姓氏」には「独善排他的自営の寺」は持ちませんので、全て「檀家寺」と成ります。
    従って、「姓氏」の祭祀は江戸初期の「密教方式解除」と「奨励督促令」を含み3宗派外の宗派の「檀家寺」と成ります。
    3大密教の天台宗は「公家貴族」を対象とし、浄土宗は「氏」を構成する「上級の有品の武家」を対象とし、真言宗は「中級の武家」を対象としていました。
    これ等の身分家柄階級は平安時代の身分家柄を定める令に従います。

    中でも「2つの血縁青木氏」の「神仏の加護」として、「氏の発祥源」に対して初めて「氏の象徴寺」(氏寺)と云うものを正式に定めました。
    これが「氏寺」であり賜姓族は当初伊勢松阪に「菩提寺」を建立し、「仏の加護」の象徴を定めました。
    天智天皇から賜姓時に「氏融合の発祥源の象徴」として授与された「生仏像様」と称される「氏寺」の「護り本尊」として仏像を祭祀したのです。
    その後、「護り本尊」の「生仏像様」を伊勢に置き「菩提寺」は分霊されて「神明社」と共に5家5流の国府に建立されました。(「青木氏ステイタスと生仏像様」のレポート参照)
    「2つの血縁青木氏」の一つの特別賜姓族の秀郷流青木氏は、「有品4位」であり、母方の特別朝臣族でありますから「古代密教浄土宗」の氏寺の「菩提寺」を有することに成ります。
    依って、「藤成−基景」にて発祥させた「伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏」は4日市に「菩提寺」を有していましたが、後に「2つの血縁青木氏」の結合の「融合青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」と同じ「松阪の菩提寺」にも祭祀されていました。

    「氏の発祥源」=「氏の象徴寺」(菩提寺)=「氏の信仰対象仏像」
    これが全青木氏の「守護仏像信仰」即ち「人心を集める象徴」だったのです。

    (注 「青木氏の氏寺」(菩提寺)を”秘匿”としたのは、江戸初期から明治35年までの間、青木氏とある特定氏の2氏の排他的な「専属の氏寺」であった為に、現在は青木氏外の「特定の寺」と「一般の檀家寺」とも成っている為に迷惑が掛かる事を避ける為)
    (信仰対象の「象徴仏」の「お仏像様」に付いての詳細は「青木氏ステイタスと生仏像様」レポートを参照)

    ・8つの「青木氏政策」
    3に付いて、「氏の人心を集める象徴−3」「綜紋」「笹竜胆」
    青木氏はそもそも大化期より「3つの発祥源」(融合氏、侍、武家)です。
    それ故、「青木氏の氏名」「氏の証のお仏像様」(大日如来坐像 皇祖神天照大神)を始め「氏の象徴の紋」を天皇より賜紋を授かり「正式な象徴紋」として世に定められたです。
    この「象徴紋」は後に公家も使用する様に成り、平安期末には限られた朝廷より認可された数少ない「融合氏」等には、その証として「武家の家紋」として使用を許されたのです。つまり「武家の綜紋」です。
    (同族である源氏11氏もこの象徴紋に準じる)
    平安初期の「象徴紋」から「公家」や「武家」の「家の象徴紋」、即ち後には「家紋」(平安末期)と成ったもので、「笹竜胆紋」は「融合氏」の「最初の家紋」として全青木氏(4つの青木氏)はこの家紋を敬い、この家紋で「姓族」等をまとめる「綜紋」として「3つの発祥源」の誇りを以て結束したのです。
    「象徴紋」を有するのは全ての8000氏の中でも青木氏だけです。
    「笹竜胆紋」は「家紋」とする扱いよりはむしろ「融合氏発祥源」の全武家の「象徴紋」としての扱いが強かったのです。
    これは「皇族賜姓族青木氏の綜紋」でもありますが、且つ、「融合氏の武家の綜紋」「笹竜胆紋」でもあるこの「象徴紋」の下に、その「母方血縁族 藤原秀郷流青木氏」としても自らの「融合氏」の「藤原秀郷一門」の「下がり藤紋」をも「綜紋」としていました。
    この「2つの綜紋」を持つのが「血縁族の藤原秀郷流青木氏」なのです。
    (秀郷青木氏は守護神も春日社の「氏神」と神明社の「祖先神」の2つを有する)

    この由来は「藤花」の形に囚われて一般には余り知られていない事なのですが、「2つ目の綜紋」の「藤花の色の紫」をその「象徴紋の基調」としているものなのです。
    その所以は、平安期は「紫」は「色の最高位」でもあり、「公家、武家、僧家」の「身分の色分け」にも使われたものです。ですから「下がり藤紋」は藤の花そのものより、その「紫」を以って「笹竜胆紋」の権威に続く「藤原朝臣族」の「最高権威の象徴紋」でもあるのです。
    「花形」よりも「紫色」に意味を強く持つものなのです。
    「氏家制度」の中ではなくては成らない「象徴紋」として、この様に「一族一門の人心」を「綜紋」に求めたのです。
    これは他氏には無い「4つの青木氏」の誇りであり、且つ「人心」を集める「拠り処」であったのです。

    「象徴紋」=「綜紋」→「家紋」→「人心の拠り処」

    ・8つの「青木氏政策」
    4に付いて、「氏の人心を集める象徴−3」「氏の神木」
    「青木氏の神木」のその由来は樹木の「青木」の木の性質にあります。
    「青木」の木は常緑樹で常にその幹も枝も葉も青く、その木の勢いは他の木に見られない常に強い勢いを持ち、青長枝は1年に50−100センチにも伸び、その実は真紅の10ミリ程度の大きな実を付けます。
    その葉には色調豊かに白、黄色、緑を有し四季に変じてその色合いを変化させます。
    この事から、常に常緑で四季に応じた「色変化の特質」は「長寿」を意味し、「青い木」は体躯を表し、その「枝葉の成長」は子孫繁栄を成し、その「実」は健康な体の血液を表すとして、古代飛鳥より「神木」として崇められてきました。この「神木」を「3つの発祥源」の象徴としてこの木の持つ象徴の意味から、青木氏の「氏名」を賜姓される時に天智天皇から「臣下名」として授けられたものなのです。
    そして、この樹木を「青木氏の神木」とする事を定めたのです。
    この事から、この青木の「神木」は「神社の神木」から「青木氏の神木」として使われ、平安期末には「神社の神木」は「榊」と変化して行ったのです。この神木は仏教の仏木「槇の木」に当たります。

    この様に他氏には言い伝えの様なものがあったにせよその「融合氏」を護りする正式な「神木」と云う習慣が無く天皇が認める青木氏に関わるものだけなのです。
    「氏家制度」の中では他氏には認められなかった習慣です。一種の飛鳥期からの「自然神」の「自然信仰」の楠の様な「唯心の樹木信仰」でありました。
    それだけにこの樹木には伝統的な「人心」の思いが込められているのです。
    (「氏の神木」の詳細はレポートを参照)

    ・8つの「青木氏政策」
    5に付いて、「氏の人心を集める象徴−4」「氏訓」「家訓10」
    1365年以上とする歴史を持ち、この中で全青木氏が乱世を一致して生残る為には、その「生き様」から遺された経験を生かす事のみにしかありません。
    家訓の内容からその時代に刻まれた苦難を省みると、少なくとも平安初期頃からの戒めであったと考えられます。青木氏に於いて大きな試練毎に追加されてきたと考えられ、凡そ1100年前半(1125年頃までに)に完成されていたものと観られます。
    この事は経済的とも取れる内容もあり「2足の草鞋策」を採った時期に符号一致していると考えられます。普通「3つの発祥源」の「融合氏の祖」とすればがちがちの「侍気質の家訓」と考えられるのですが、そうでない内容と考えられます。かなり柔軟で「人の本質(性:さが)」を求めています。
    特に「3つの発祥源」であった事から全融合氏のその「模範氏の責任」が求められていたと観られますが「侍、武家」と云うよりは「人として、氏長として」の責任を追い求めたと考えられます。
    「3つの発祥源」の青木氏が「2足の草鞋策」を採ると云うことは当時としては世間では「奇想天外」な事であった事が予想できますが、青木氏5家5流がほぼ同時期に同商いで全て「古代和紙」を営んだ事から観て家訓の様にかなり「柔軟な考え方」を伝統として持っていた事が云えます。
    この「柔軟な考え方」が生き延びられた原因の一つで他氏とは全く違う体質であった事が云えます。
    それを示す端的な事件として、「武家の祖」であるにも拘らず「不入不倫の権」で護られた「貴族侍」と観られていた青木氏が「天正伊勢の3乱」「丸山の戦い」「伊賀の戦い」で信長を打ち破った「天下布武」を唱える「信長ただ一度の敗戦」(戦わずして負ける)のその時の「青木氏の戦略戦術」がこれを証明するものです。(伊勢のシンジケート戦略:青木氏に関わる全ての民の活躍)
    言い換えれば、上記した「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)の強さはこの「家訓10訓」に観られる「柔軟な考え方」が原因している事を証明します。他氏には観られない家訓で結束されていたのです。

    ・8つの「青木氏政策」
    6に付いて、「宗家の活躍・設定」(一族一門を管理 総括者)
    初期の「民族氏」として肥大化した大集団が「融合氏」化して行く過程では、必ずこの世の「万物万象」に観られる様に、その集団の「核・中心」と成るものが相互の「連絡の不足・絆の薄れ」に依って忘れ去られて無くなるという現象が起こります。
    「濃い血縁関係」に依って集団化するのでは無く、「民族」と云う広義で「薄い血縁関係」で結ばれていたとすると、必然的に余程のリーダーシップの勢いが無くてはなかなか「中心・核」と成るものが生まれるものではありません。つまり、「民族氏」が「核家族化」ならぬ「核民族氏化」を起こすのです。

    この摂理で行くと結局は、「核民族氏化」した集団が拡大過程を採り、「中集団化」を起し、「大集団化」へと繋がり、再び、「核民族氏化」が起こり「大集団化」へと繰り返し、あくまでも再び「核民族氏化」が起こり一つの「超巨大集団化」でまとまることは無くなる事になります。

    「核民族氏化」→「中集団化」→「大集団化」→「分裂破壊」→「核民族氏化」」→「中集団化」→「大集団化」=「民族」の「薄い血縁関係」
    このサイクルを繰り返すことに成ります。

    「民族氏」では、氏の「細胞」の増殖が起こるがその細胞間の「同胞性」が無くなって遂には成長が留まり、時には「同胞」が戦い死滅する恐れさえ起こるのです。
    つまり、ある大きさで収まりその「相互間の絆の薄れ」が起こる現象を繰り返す事に成ります。
    これが阿多倍一族一門と呼ばれる「民族氏」の典型的な「経過形態」なのです。
    本来、「民族性」を持つ渡来人であって「小集団」の渡来であれば少なくともその「民族性」も周囲に感化されて「時代の経過」に依って「民族性」が薄れて遂には「融合氏化」への方向へと進むのですが、この点に進まない原因を有していたのです。

    「阿多倍一族一門」は当初から後漢「光武帝」と云う滅亡した漢国の一将軍が逃亡中に中国東地域を制圧し新たに「後漢国」を創建し、21代後に16国に分散しその中の「滅びた隋」と「建国した唐」に圧迫されて遂には後漢の漢民族は崩壊して、その国の「全17県民 200万人」と云う「国レベルの集団」が大和に渡来しているのですから、もとより「民族性」を強く持っていた事は否めません。
    そして、それらは「血縁と云う結び付き」が希薄で「組織的な命令系統」を中心に依って形成されていた集団であったのですから、その「組織または国の首魁」が「核・中心」と成る「集団構成」であったのです。
    「民族の坩堝」と呼ばれる中国大陸に於いて「優秀果敢な漢民族」とは云えど、それは全て「漢民族」で成り立っていた訳ではなく、「洛陽・東中国人」「中国系朝鮮族」等の民族が多く主に3つの「民族の混成集団」からそもそも成り立っていたのです。
    そして、それらが既に約400年が経ち「民族氏」の「経過形態」が既に終わった超大集団であったのです。
    (民族氏は中国の構成形態 前漢29−220:後漢220-618年滅亡 隋581-618滅亡 隋唐に圧迫)
    その「構成形態」を以って「国レベル」で渡来したのですから「民族意識」は変えられる事は無理であったと考えられます。
    彼らが良いと信じていた「民族氏の概念とその組織形態」を”「大和国」を「融合」と云う手段で一つにまとめ「国の安寧と安定」を図るのだ”と聞かされても、直ぐに換えられる事もなく渡来したとして「帰化」−「独立」も考えるところであったとも考えられます。
    故に「朝廷の国策」の「融合氏3策」には根本的に馴染まなかった事を意味します。真に”何かが起こる”の所以であります。(例 「大隈隼人の戦い」)
    しかし、反面、青木氏の「融合氏」は「集団化」してもそこには「血縁」を中心にした「核・中心」と成るべき生き抜くべき形態を保持していたのです。

    「生抜形態」=「総宗本家」-「宗家」-「本家」-「分家」-「支流」-「分流」-「分派」
    以上の氏家制度の管理された「組織形態」を造り挙げていてたのです。

    「部曲・品部」←「生活絆」→「生抜形態」←「絆」→「無血縁結合」
    この組織に「無血縁結合」の「絆」を基とする「姓氏」が夫々の枝葉に結合すると言う網の目の様な「組織形態」を造り、これに殖産(物造り)を加えて「生活絆」で結ばれた「部曲・品部」が土壌を支えていたのです。

    この細部までに結び付いた「生活環境」中で一族一門が生きて行くに必要とする事を「相互扶助」で「護り合う形態」を作り上げていたのです。要するに「氏家制度」の形態の完成であります
    そして、この「核・中心」と成る「氏の長(氏上)」の指揮命令系統を定めて「氏人」−「家人」−「部曲」「品部」「雑戸」の「融合・結合の結びつき」で「支えあう社会」、末端の民に至るところまでの「相互扶助」の組織、即ち「氏家制度」(一族一門を管理し総括し扶助する社会形態)を構築していたのです。
    阿多倍一族一門との間には、ここに大きな違いがあったのです。
    とりわけ、青木氏はその「悠久の歴史」が「血縁の力」を超えてむしろ「絆の社会優先」で結ばれていた「融合氏」であったのです。
    「3つの発祥源」として範たる形態を敷いていたのです。「氏家制度」の範と成っていたのです。

    (例 明治35年まで続いた皇族賜姓族5家5流の「紙の殖産と販売網」の組織 昭和20年まで続いた讃岐特別賜姓族の「回船問屋と殖産業網」の組織がこれを物語る。)

    ・8つの「青木氏政策」
    7に付いて、「経済的背景」(2足の草鞋策 経済的繋がり)
    阿多倍一族一門はその配下には実質「180品部」の大集団を持ち「公地公民」と成りながらもその売却益を「経済的な支え」として成り経っていました。
    「公地公民」に成ったとは云え、彼等の「民族性」、「旧来からの支配形態」を直ぐには壊すことは出来ません。そこで、一度朝廷に納める方式を採るにしてもその収益の一部を彼等の集団に納め、その「部民」に関する詳細な指示配命令形態は彼らを「伴造」(ともみやつこ)に任じて管理させていたのです。
    この「伴造」を管理する為に地方の行政末端役所の「郷戸・房戸」と行政局の「国造」(くにのみやつこ)を置いていたのです。
    ところが次第にこれ等(伴造)が独自の「墾田」を造成して私腹を肥やし「私有財産化」へと進んだのです。
    阿多倍一族一門はこの様に莫大な「経済的背景」を持っていたのに対して、「融合氏」らの経済的背景が主に「土地からの収益」があったにせよ「氏勢力拡大」に相当するものでは無く、阿多倍一族一門の「民族氏」の勢力に圧迫を受ける状況と成っていたのでした。
    そこで、集団化した主な「融合氏」は「三世一身法」「墾田永代私財法」を境に徐々にその「守護の立場」を利用して「殖産・土地の産物」を商いとする「2足の草鞋策」を実行して行ったのです。

    1 「守護王」の「行政権」     :(阿多倍一族一門:「行政担当」の「官僚権」)
    2 「国造」の「権益」       :(阿多倍一族一門:「伴造」の「権益」)
    3 「2足の草鞋策」の「経済的背景」:(阿多倍一族一門:「品部」の「収益」)
    以上の「3つの権益」を獲得して彼等の「民族氏」の勢力に対抗する事が出来たのです。

    「3つの権益」1と2は「相当の力」を保持していますが、3の「品部の収益」に匹敵する力を初期には保持していなかったのです。
    それを拡大する「民族氏の勢い」に押された朝廷は、止む無く「公地公民制度」を緩めて「三世一身法」「墾田永代私財法」を発布したものですが、「融合氏」の頂点に立っていた青木氏の様な氏の一門は、これを逆手に取って「土地の産物」の「殖産と増産」(物造り)を営みそれを「商い」とする対抗策に出たのです。
    「5家5流賜姓青木氏」は全て「古代和紙」の土地の殖産産業を興してこれを商いとして相互間の連絡を取り、後の織田信長(2万)との戦いに観られるように「1、2、3の総合力」で勝つ程に「大商い」としていたのです。
    これで「民族氏」=「融合氏」と勢力均衡のバランスが成り立ち生残れたのです。

    この「3つの権益」がとりわけ「2足の草鞋策」の「経済的背景」の努力が無ければ現在の青木氏は生残る事は100%考えられず、同族の賜姓源氏の様に11家もありながら「滅亡の憂き目」を受けていた筈です。(阿多倍一族末裔の平族の清盛さえも「2の特権」を生かして「宗貿易」も行った事でも証明出来る)

    同族血縁族の藤原秀郷流青木氏も赴任地24地方では「3の商い補完対策」を大いに構じています。
    資料の中には昭和20年まで続いた「讃岐安芸土佐の土地の殖産」とそれと結びついた「大廻船問屋」の「讃岐青木氏」様な「融合氏」が存在します。
    「讃岐青木氏」の分布状況を観るとその商いの大きさが判ります。
    讃岐を出て関西以西中国地方全域に小さいながらも「讃岐青木氏」の末裔が存在しているのです。
    家紋から観た分布でこれは支店を設けていた事を物語ります。

    因みに筆者の伊勢青木氏の宗家の商いは外国貿易の堺に2大店舗、松阪に2大店舗 玉城町8割を占める蔵群 千石大船3隻を有して明治35年(祖父)まで営み分家の商いは大阪で現在も続いています。

    当時の平安期の環境からすると「民族氏」勢力=<「融合氏」勢力の判別関係式が成り立たなければ「弱肉強食」の中では生残る事は絶対にあり得なかったのです。
    「3つの発祥源」「皇族」「賜姓族」の置かれていた立場からは”商いする”と云う事は「奇想天外な発想」であった筈です。これを成し得たのは悠久の歴史を持つ事から生まれた「4つの青木氏(血縁+絆)」の環境が他氏と違うところを作り出していた事に他ならないのです。
    これは「2つの青木氏」の「祖先神」の考え方を「心の拠り所」として、一致結束して他氏に観られない「青木村」を形成して「2つの絆結合社会」を構築していたからに他なりません。

    ・8つの「青木氏政策」
    8に付いて、「軍事的独立」(皇族:近衛府、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍を統率)
    皇族賜姓青木氏の臣下の目的は、そもそも天皇家の問題にあったのです。
    それまでに皇族を護る「親衛隊」が無かった事が「弱体化の問題」と成っていて、それを解決させる為に”皇族の者に「臣下」と云う形で「武力」を持たす”と云う事を、天智天皇が「政策大転換」をさせた事です。
    当時は皇族、貴族は”「武力」を持たない”と云うのがステイタスでした。
    従って周囲の「民族氏」の豪族が力を持つとこれを背景に「軍事力、経済力」を高め挙句は「政治力」をも獲得すると云う方向に進み、「権威」のみに依って保護されている「皇族、貴族」をも凌ぎ、その立場を脅かすと云うところまでに発展してしまいます。恐らくは「貴族武力保持政策」は仰天倒置の騒ぎで合った事でしょう。
    (「臣下の仕来り」は皇位継承順位と供に天皇の皇子順位が第6位皇子に当る者に任じる事を定めた。)
    蘇我氏の例に観る様にこの弊害を無くす事から、更にはそれまでの身分制度(臣、連、君、直、造、首、史、稲置)の姓を見直し、弊害と成っていた飛鳥時代の大王家(天皇家)に繋がる「民族氏」の「臣族(蘇我氏等)」やそれに相当する勢力を保持している「民族氏」の「連族」等を解体して「八色の姓」の制度に依って大変更しました。
    そしてその制度に基づいて新たな「皇族臣下族」を作り上げて「氏」の姓を与え、「皇族、貴族」でありながらも「武力」を持たせ、前記した「5つの俸禄制度」(功田、賜田等)を制定し「爵位」と「冠位」と「職務」を与えたのです。
    それが「朝臣族」の「浄位」であり、「左兵衛門尉佐」「右兵衛門尉佐」「民部尉佐」の冠位と、総括「近衛軍六衛府軍」の指揮官の職務と成ったのです。

    これまでの「臣連」を指揮官とし全国から「伴の労役」に従事する民を集めての朝廷軍(後に阿多倍一族軍が加わる)を編成していましたが、それとは別に天皇の身辺を護り任す「近衛軍」を創設したのです。
    これを任されたのが「皇親政治」」を担った初期の賜姓族5家5流の青木氏一族一門であり、900年ごろからは「同族賜姓源氏」と「同族母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の特別賜姓族青木氏」もこれに任じられたのです。
    これに依って、それまでは「臣連」の「民族氏」の参政による「政治体制」から、彼らに揺さぶられる事無く、天皇家の身内による「独自の軍事力」を背景に身を護り、青木氏等による「皇族貴族」が主導する「皇親政治」を敷き、当時としては全く新しい「画期的な政治体制」を確立したのです。
    今までに無かった「政治体制」が樹立したのです。
    従って、恐らくは奈良期社会はこの時「天変地異」の出来事であったと観られ、周囲は相当に紛糾し、反対者も多く天皇と云えども身の危険は保証されていなかった筈です。
    蘇我氏が潰れたとしても従兄弟の蘇我氏一族「蘇我仲麻呂」や「蘇我赤兄」の「民族氏」の豪族は温存されていて脅威の一つであったのです。
    天皇家の中でも彼らと利害を一致し血縁性があり、その代弁者とする「反対皇族者」は居て、天皇の身内であっても事件後(日本書紀にも書かれている様に)これは粛清されて行きます。
    当然に反対する「民族氏」の飛鳥時代の「臣」「連」の豪族等も「蘇我氏」と同様に潰されて衰退してゆきます。
    歴史的には「皇位争い」を「通り一辺」と位置づけられていますが、この様に周囲の政治的な変化を考察すると、筆者は「皇位争い」はその「最終の始末の方便」であって、正味はこの「大化の異変の経過措置」としての「争い」と云う「決着の手段」であったと観ているのです。
    この「決着の手段」の「捉え方」に依っては其処に起こる「見える画像」に対して著しく観方は違ってくる筈です。
    「孝徳天皇」の皇子の「有間皇子」の例の様に、”「皇位争い」で抹殺する事”が、「中大兄皇子」から観れば”反対者には「抹殺の大義明分」に抗する大儀は無く程遠い”と考えていた筈だからです。
    「中大兄皇子」はその順位からしてもトップであり何の問題も無く、まして蘇我氏を自らの刀で刺し自らの指揮下で蘇我氏の護衛雇い軍の東漢氏と交渉し蘇我氏の軍を解体させ、自ら「大化の政治改新」の具体策を発案し実行した唯一の人物なのです。
    これだけの条件がそろっていれば、周囲の反対者がそれに取って代わると云う風に考える事そのものが異常とするものです。仮に取って代わったとしても他の周囲はそれを容認する事は100%有り得ず、「民」も天皇としてのそれを認めることは出来ない筈です。
    まして、「中大兄皇子」が下した「抹殺を含む処置」をどうするかの問題もこれだけの条件が揃っていれば反対者が取って代わっても政治の実行は元々不可能です。
    「有間皇子」(従者一人)は、家来一人を伴い同行し、蜜命を帯びた「蘇我赤兄」に直接後ろから熊野古道の藤白神社の直ぐ側の民家の横で考察されますが、その直前に(海の見える山越えが終わった実に神社横の一息つきたくなる様な景色の良い角の場所)座り民家から水を貰い飲み、そして読み遺したとされる「時世の句」から観ても「皇位継承争い」だけでは無いと観られます。
    反対派の裏工作と知らずに会合に参加した事が原因(失敗)と観られます。
    父の「孝徳天皇の弱体化」から観ても、「有間皇子」は皇位につける条件下に無い事ぐらい判って居た筈です。「天皇家の復権」を自らの力で成し遂げた「中大兄皇子の絶対優位の立場」から観ても取って代わる事が不可能である事くらい判る筈です。まして反対派も同様に「大儀」は失って居た筈です。
    通説の「皇位継承争い」は立場を変えてみれば違う事に成ります。
    「抹殺の殺意」とは別の”無意識に「事の流れ」に偶然に取り込まれていた”と成るのではないかと観られます。この世は意識、無意識に無関わらず「自然の流れ」に抗しきれない「流れ」に呑まれる事が有ります。

    この様に大変厳しい政治環境の激動の「流れ」の中で、「生仏像様や神明社の加護」の下に巻き込まれることも無く護られ、平安中期には「2つの血縁青木氏」は天皇家の同族を護るために「自らの軍」を保持したのです。その「流れの自然渦」に巻き込まれる危険性は充分に有りながらも自立への道を歩んだのです。「融合氏の青木氏」が「3つの発祥源」を護り「氏」を育てる始めての持つ「自衛軍」であったのです。
    そして、「天領地の守護王」として護る事も行ったのです。
    ただ平安期にはこの「自衛軍」のみならず「4つの青木氏との絆結合」と「5家5流の連携」「4つの青木氏との絆結合」と「母方同族 特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」の力を背景に、「近江−伊勢−美濃−信濃−甲斐」の線上に存在する「融合氏の小集団との連携」、所謂「シンジケート」とが組合わさって「実数の軍事力」より遥かに大きい「巨大な相互防衛網」を構築して行ったのです。

    1 「自衛軍」
    2 「4つの青木氏との絆結合」
    3 「5家5流の連携」
    4 「4つの青木氏との絆結合」
    5 「融合氏の小集団との連携」所謂「シンジケート」
    この「5つの防衛線上」に途切れも無く「商いの経済力」が乗っているのです。

    「5つの神」
    「守護仏像信仰」
    「象徴紋の基調」
    「唯心の樹木信仰」
    「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)
    「3つの発祥源」
    「2つの絆結合社会」
    「3つの権益」
    「5つの防衛線上」

    以上8つの「青木氏政策」の基に「9つの政策基調」を持ち得ていて、これ等が有機的に働いて生残れたのです。
    これ等の「9つの政策基調」を「心と物」に分けて、「物」に付いてもう少し掘り下げて観ます。
    とりわけ先ずは「物」の「防衛力」です。
    その「防衛力」は次ぎの数式で成り立っています。

    「青木氏の総合防衛力」
    「近衛軍」+「4つの青木氏との絆結合」+「5家5流の連携」+「シンジケート」=「自衛力」
    「自衛力」+「実数の軍事力」+「商いの経済力」=「巨大な相互防衛網」

    そして、970年頃からは次ぎの防衛網のラインが構築されます。
    1 伊勢青木氏−信濃青木氏の防衛網ライン
    (伊勢秀郷流青木氏と信濃に隣接する美濃秀郷流青木氏が加わる)

    2 「母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の青木氏」の「尾張−常陸」までの「東山道の防衛網ライン」
    (武蔵入間を中心に片側相模の2幅)

    3 「賜姓5家5流の青木氏」の「近江−甲斐の防衛網ライン」
    以上3つラインが結合し「東山道」を常陸から近江の都まで繋いだ勢力圏を構築したのです。

    4 「伊勢路防衛網ライン」
    これに伊勢青木氏が奈良期から独自に持つ「近江−摂津−堺」までの「伊勢路防衛網ライン」が加わります。このラインは、「神明社」を伊勢神宮から近江まで円域の19の地域に建立し、そこに第4世族の「守護王」を置き、伊勢神宮からの神明社圏域を固める為に作り上げられた天皇家の独自の伊勢青木氏が護る防衛網ラインです。
    そしてこの防衛網ラインに沿って平安期末期には「青木シンジケート」が敷かれているのです。

    5 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏の秀郷流青木氏が独自に瀬戸内に構築した防衛網ラインで室町期には南北に日本海側まで延びたライン)

    この事は青木氏の事以外にも歴史上ではなかなかこの「シンジケート」の事は扱われません。
    しかし、平安期中期頃からでは戦いに敗れた「融合氏」や「姓族」や「民族氏」は生き延びなければ成りません。敗者は集団で家族共々逃亡する訳ですから、簡単に全て奴隷(「部曲や品部や賤民や俘囚や浮浪人」)には成り果てる事は出来ません。
    当事(平安期から室町期末期までは)は有名な武田氏の有名な事件の様に打ち破った相手側の者を奴隷や戦利品として扱い売買すると言う歴然とした戦国の厳しい慣習があったのです。しかし、武田氏や上杉氏はこの慣習を禁止します。
    これは室町期だけではなく平安期の安部氏の「前九年の役」「後三年の役」でも明らかの様に「俘囚民」(920年頃と1020年頃に公の仕組みは一時廃止される)と呼ばれ「奴隷」として「荘園の労働者」に送り込むという「陰」ではなく社会全体の正式な仕組みの一つに成っていたのです。
    鎌倉期(豪族間の戦い)から江戸期中期(除封・移封)までにも「戦いや叙封」であふれ出た家臣や領民は下手をすると「醜民族」(明治末期まで残る)と呼ばれ「社会の陰の労働力」として扱われていたのです。
    これから逃れる為に、敗退した氏や姓とその家臣領民は上記した様に山に逃げ込みこのシンジケートに入り生き延びると云う「陰の社会構造」が出来上がって行ったのです。
    これが豪商などから経済的支援を受けて生き延びた「陰の力」の「シンジケート」なのです。
    この様にそこで敗者は「海賊、山賊」、「山郷の隠れ土豪」、「兵の請負業」の様な事をやりながら、傍ら豪商からの「経済的支援」を受けて”いざ”と云う時には「互助の掟」で連携して役目を果す事をして生き延びたのです。(徳川家康はこの陰の力を戦略として大いに使った)
    室町期の「下克上、戦国時代」には敗者が多く溢れ出て更にこの組織が拡大します。
    鎌倉期の800あった融合氏は平安期の状態(80−200)まで減少するのですから、溢れ出た「融合氏」の家柄のある者等は家長・家人・郎党等が山を切り開き村を形成してこの組織に入ったのです。
    「シンジケート」が山間部や山伝いにあるのはこの事から来ているのです。
    (最たるものでは前回に記述した平家の落人がこの各地の「陰の仕組み」のシンジケートに入った)

    平安期から江戸初期までの「氏家制度」の「陰の縮図」で、この「陰の縮図」が成り立たなかった場合は「氏家制度」も成り立っていなかったのです。
    このシンジケートは「物心両面」の「陰の相互扶助」を「掟の旨」として存在し、況や、「氏家制度の縮図」で「陰の氏家制度」なのです。
    「表の氏家制度」+「裏の氏家制度」=「社会構造」

    「表の氏家制度」のみでは決して社会は成り立っていなかったのです。
    そもそも論理的に成り立たないのです。
    800あったものが80−200の1/4に成れば3/4は浮いてしまいます。
    3/4は何らかの社会の「救済仕組み」が無くては社会が成り立ちません。
    それが「俘囚民」、「醜民」の「悪い仕組み」であり、「良い仕組み」として「シンジケート」が「必然の理」に基づき「氏家制度」の社会の「救済の仕組み」「陰の仕組み」として公然として生まれてたのです。

    因みに、南北朝の有名な楠木正成等は伊勢の集団の「青木シンジケート」の首魁の一人ですし、紀州九度山の真田氏も伊勢のこの「青木シンジケート」に組み込まれた一員で経済的な裏づけを採っていたのです。上田氏は信州上田郷の土豪が「夏冬の天下分け目の戦い」に生き延びる為に親子が二つに分けて両陣営に合力し親は九度山に配流され、生き延びる為に伊勢の「青木シンジケート」に加わります。しかし、真田幸村は豊臣側に付き「青木シンジケート」から外れ「滅亡」を選んだのです。
    何れも軍師でありますが、「シンジケートの陰の力」を全面に受けての戦いに参加します。
    結末も軍師を請われての同じ結末を辿ります。楠木正成は陰の力を背景にゲリラ戦を敷き10万の軍を餓死に追い込み勝利し、真田幸村は騎馬と軍馬を補助され、原野に配置した「陰の力」(シンジケートの野戦ゲリラ戦)2面の支援を受けて本陣の家康を完全孤立させる事に成功し討ち取る直前で止めて家康を生かして去りました。

    この様に何れも本来外に出る事のない構成員が何れも表に出てしまった構成員です。表に出た以上は最早、構成員では無く成ります。何れ滅亡するしか無い事を意味します。表に出た構成員がシンジケートに戻ればシンジケートの「有り様」が変化してシンジケートは自然崩壊します。

    この勢力圏は明治初期まで維持されたとする青木氏の記録と公開された史実が有り、「青木シンジケート」を使って各地に起こった殆どの一揆に対して「経済的支援」を行っていたと観られる記録が青木氏側の資料にも遺されています。

    敗退した小集団の「融合氏」や「姓氏族」はこの様にして「シンジケートの陰の力」を背景に生き延びたのですが、これを用い保持しなかった大集団の源氏や平家は消え去ったのです。
    しかし、阿多倍一族一門の平家(たいら族)の支流族は各地でこの真にこれを地で行く様にシンジケートの一員として生き延びたのです。

    青木氏は次ぎの「4つのシンジケート」に関わっています。
    「青木氏の3つの防衛網ライン」に構築されたシンジケート
    1 「東山道の防衛網ライン」(藤原秀郷青木氏の勢力圏 東山道東側シンジケート)
    2 「近江−甲斐の防衛網ライン」(皇族賜姓青木氏の勢力圏 東山道西側シンジケート)
    3 「伊勢路防衛網ライン」(伊勢青木氏の勢力圏 伊勢路シンジケート)
    4 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏秀郷流青木氏の勢力圏 瀬戸内海族シンジケート)

    この「4つの青木シンジケート」に付いて歴史史実に残る証の事件が全てに有ります、表に出た主な有名な事件として次の様な事があります。
    徳川家康は「天下分目の戦い」の為に甲斐武田氏系青木氏の3氏を殆ど家臣団に加えたのはこの1のラインの「勢力圏の確保」が目的であり関東とのその繋ぎ目を獲得します。
    (柳沢氏もこの時の家臣団の一つです。「甲斐武田氏系青木氏]のレポート参照)
    「関が原の戦い」を前にして家康は名古屋城にて本隊を待ちます。一方秀忠本隊は家臣と成った藤原氏秀郷一門の「防衛網ラインの東山道」を使い西に下りながら周囲の掃討作戦を展開している時、家康は名古屋で伊勢青木氏が抑える「伊勢路防衛網ライン」の獲得に動きます。
    この時、伊勢青木氏は250の兵とシンジケートで護る伊勢−堺までの通行の保障作戦を展開することで約束します。
    つまり、名古屋城に入る本隊の通行の安全を保障する「東山道西側ライン」は5家5流賜姓青木氏のシンジケートが保障したのです。
    この「防衛網獲得作戦」でこれで大阪関西域の東は完全に押さえたのです。

    又、武田氏が滅びた時、藤原秀郷流青木氏が諏訪族青木氏を含む甲斐武田氏系青木氏3氏の受け入れに成功したのは織田信長がこの「東山道防衛網ライン」に手を出せなかった事によります。
    この時、甲斐のラインは一部崩れますがこの地に残る甲斐皇族賜姓青木氏が修復します。
    他には次ぎの様な有名な事件がありますがこれ以外にも数え切れない記録が遺されています。
    「壇ノ浦の源平合戦」、「楠木正成の南北朝の戦い」、「藤原純友の乱」、「甲斐の100年一揆」、「江戸末期から明治期の動乱一騎」、「信長の伊勢天正の3乱」等々。

    それにはこれだけの「相互防衛網」を維持するには矢張り「経済的背景」が絶対に必要とします。
    又、この様にどの場面から考察しても「奇想天外な近衛軍の政治改革」と「奇想天外な2足の草鞋策」の実行は歴史の必然として絶対的に必要であったのです。

    「青木氏生き残り」→「3つの発祥源」→「シンジケート・防衛力」←「経済的裏づけ」←「2足の草鞋策」

    「融合氏の青木氏の秘訣」
    そこで源氏の様に「単一の軍事力」を必要以上に大きくするのではなく、「経済的背景」と「総合防衛力・軍事力」を組み合わせた「生き残り策」を構築する事であって、これが「融合氏」の「青木氏の秘訣」なのです。
    その「青木氏の秘訣」を「戒め」として遺したのが、実に「柔軟性」に富みで「戦略的」な「青木氏家訓10訓」であると考えているのです。
    何度も主張している様に「3つの発祥源」でありながらも、上記の様な「判別式の数式」から来た「侍、武家」らしくない家訓と成っている所以であると考えます。

    多倍一族一門「6割統治」
    この事から筆者の認識では「氏融合」と云う血縁で観ると、後漢の阿多倍王は、帰化以来、平安時代末までには遂にはその子孫を以って「政治(律令制度の完成)」、「経済(部経済制度)」、「軍事(朝廷軍制度の主力」)の3権の主要職の末端までを荷っていたのです。 (天皇近衛軍は青木氏と藤原氏)
    実質、武力に依らず良い意味で他民族の「渡来人」が自らが民族の域を越えて積極的に「氏の融合」政策を推し進めて成功させ、「日本書紀」の”天武天皇の発言と舎人親王の編集に関わった官僚記述”にもある様に、少なくとも日本を「6割統治」し征圧していた事に実質成るのではないかと観ているのです。

    「10割統治」では「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成りますが、帰化後の早い時期に於いて阿多倍一族一門の「6割統治」では「反乱」とまでは行かなかったのではないでしょうか。
    日本で生き延びる以上の「理解できる限界」であった事に成ります。
    それ故に、阿多倍一族一門の「民族氏」の行動が、地域的に観て一族の「理解し難い行動」と成っているのではないでしょうか。
    もしこれがどの地域で同じ行動を採っていて全て同じとした場合は「10割統治」の「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成っていたと考えられます。
    それを「民族氏」の主張をある程度通しながらも丁度良い所で押さえて「日本に融合」し「半自治」を勝ち取った事(1018年)に成ります。
    故に「以西」−「中央」−「以北」の一族の行動に矛盾が生まれたと考えられます。

    これは実に不思議な現象で、次ぎの様な現象が起こっているのです。
    A 「九州の南北基地」の「南基地)(肝付氏)」では「融合氏」政策3策に「絶対服従せず」の態度
    B 「北基地(賜姓大蔵氏)」では「自立」を主張した態度
    C 「中国関西基地」は「本部基地に従う」という姿勢を採る態度
    D 「伊勢本部基地」(賜姓平族)では官僚と成り「3策の立案推進する」の態度
    E 「以東の関東」では「独立を主張」し「将門の乱」で終局引き上げる態度。
    F 「以北の末裔(賜姓内蔵氏・阿倍・安倍・清原氏)では「犠牲に成る」と云う状況

    以上、AからFと云う「シーソウの支点」を中心に「左高−右低」の傾きの「政治姿勢の戦略」を採っていたと成ります。日本人の「一族」と云う思考原理から見ると、実に理解し難いと云うか不思議な現象が起こっていたのです。真に「シーソウ」の「傾き程度の有利性」を表現しています。

    筆者は「伊勢基地本部」から「都」を中心に「地理的要素」を配慮して帰化当事の方針の「6割統治」を執拗に成し遂げようとしていたのではないかと考えているのです。
    EやFの様に多少の犠牲があったとしてもそれを切り捨てでも、”「目標達成」に拘った”のではないかと考えるのです。 「目標達成」>「義・大儀」 
    日本人で有れば「義」「大儀」を重んじて「統一行動」して助けてでも”「目標達成」は二の次”とする行動に出る筈です。 「目標達成」<「義・大儀」
    例えば、国家観に於いても同じ事が云えるのです。
    阿多倍一門の「民族氏」は、「国家の目標達成」>「個人の目標達成」を重視する。
    在来民の「融合氏」では、「国家の目標達成」<「個人の目標達成」であり、「個人の目標」の集約が「国家の目標」の集約となり行動する。
    「民族氏」では、「国家の目標」又は「より大きい集団の目標」が成し得ない時は”「個人の目標」も成し得ず”と成ります。
    「融合氏」では、「個人の目標の集約」が成し得ない時は”「国家の目標」も成し得ず”と成ります。
    ここに「民族氏」と「融合氏」との「思考原理の違い」があり、尚且つ、それは「道教・儒教」と「仏教」の違いにあったのではないでしょうか。
    更には、「産土神」と「祖先神」の「神様の有り様」の違いと観られます。

    故に阿多倍一族一門と言う「大集団の目標」は、安部氏らの「小集団の目標」より多少の犠牲が出ても優先される事に成るのです。
    その彼等の「民族氏の戦略」として「シーソウの原理」を採用したと見ているのです。
    偶然にしては「民族氏」の「シーソウの原理(地理性戦略)」に一致し過ぎていると考えているのです。
    この「考えの背景」には”「後漢系」の「民族氏」の「思考原理」にある”と決め付けているのです。

    現在にも観られる彼等の姿勢、”カーと成るかと思いきや根気良く戦略戦術を実行する性癖・国民性”や、
     ”「三国志」にある様な゜中国人の姿勢」 ”や、”「六稲三略」の思考原理”、や”「法より人」「石は薬」”。
    これは日本人に理解しがたい思考原理です。天智天皇が”「何かが起こる」”と観たのはここにあるのです。
    筆者はこの「思考原理」に「彼等の行動原理」が加わり、彼らの行動を理解する上で大事な忘れてはならない「思考原理」と観ているのです。
    それ故に、阿多倍一族一門の採った態度は”「これは偶然ではない」”としているのです。

    彼等「民族氏」は朝廷内の「3蔵の政治機構」をも官僚の末端域まで、先ずは蘇我氏に代わって、「日本人」として牛耳り、取りも直さず、天皇家にも「桓武天皇」の母親の「高野新笠(阿多倍王の孫娘)」がは入り天皇を、そして「阿多倍王」の孫(曾孫)の「国香」と「貞盛」より始まって「清盛」までの「平氏(たいら族)の血縁」を天皇家の中に敷きます。蘇我氏以上の遥かな「専横の食込み状態」であったのです。
    ただ彼等は「天皇の力」の「搾取や弱体化」を侵し脅かさなかった事にあります。
    どちらかと云うと「協力体制」を確立したのです。
    この2段階のルーツ(天皇ルーツと平族ルーツ)で「氏融合」をさせているのです。
    これは「大集団の目標」の「帰化当初の目的達成」の為に行動していたものであって、「長期戦略」を執拗に採っていたのです。
    これは別の面から観れば、真に”「後漢国」が日本に移動した”と観られるほどに、その200万人の末裔達の「氏の融合」は上から下まで完成させた事に相当するのです。
    ただ問題は「九州南北の基地」(大蔵氏、肝付氏)の「民族氏」の「融合氏化」が900年頃から始まったが上記した様な背景(目標達成)で1018年頃まで100年間程度解決しなかったのです。
    かなり腰の据わった粘り強い「目標達成」であった事が云えます。
    「三国志」にもある様にこれも「民族氏の特徴」とも云える性質であります。
    現在に於いてもこの中国と日本の「国家観の違い」如いては「思考原理の違い」による「摩擦」は歴然として発現しています。
    これは別の面から観ると、阿多倍一族一門の200万人から拡大した融合末裔の3割近い人口の日本人は完全に「融合氏」と成り得ている事の証明でもあります。
    この状況は、平安期中期950年頃から「渡来人」の言葉が書物より消え、その350年後の鎌倉期末期(元寇の役)では、最早、「民族氏」は完全に「融合氏」と成り得ていた事を物語ります。
    その中間期が1020年頃(九州自治期)で、これを境にして「物心」の「心の部分」の「融合化」が起こり、上記した「考え方」の変革期でもあったと考えます。
    「九州自治」を境にして彼等の「心の開放」が起こり、急速に「融合」が進み、故郷の中国から攻め込んできた「元寇の役」では、最早、生死を賭けて供に戦い、永嶋氏や青木氏や長谷川氏や進藤氏の大蔵氏との血縁に観られる様に、「心の開放」は頂点に達し爆発的な融合が進んだのです。
    つまり、彼等の「心の開放」は「融合氏化」をも促進させたのです。
    ”何かが起こる”の天智天皇の645年の心配は1335年頃には霧散した事に成ります。

    この意味で、筆者は「純友の乱」の時の自治約束の決断と1018年の大宰府の大蔵種材への自治決断は国家の存亡を救うに値する優秀な決断であったと見ているのです。
    阿多倍一族一門の採った彼等の執拗な「民族氏」の「6割の目標達成」は「彼等の目標」だけではなく「日本の目標」と成り得た事を意味するのです。
    同時に「民族氏と融合氏の軋轢」は間違っていなかった事をも意味します。
    これは全て「産土神と祖先神」の「心の融合」を意味します。
    大きく云えば、「祖先神」に導かれた「青木氏の生き残り策」は「物心両面」で「国家の進行方向」と合致していた事にも成り故に生残れたのです。

      「民の融合」(2階層の融合)
    勿論、一方民「(民)品部」と観られる領域でも、彼等(阿多倍一族一門)の努力による「民の融合」は実は完全なのです。
    「一般の民の領域」での「融合」(民の融合)は、2期に渡り入国した「後漢の民」の技能集団「部」が国内に広まります。これを朝廷は政治的に「部制度」政策(物造り政策)として主導して構築して行った為に、これらの配下に入り技能を享受した「国内の民」(在来民)は、「後漢の民」との障壁の無い「民の融合」が積極的に行われて行ったのです。
    この為に「身分制度」を基調としていた朝廷は、慌てて「税や身分の混乱」を避けるために秩序ある融合を配慮して次ぎの3つの法を定めたのです。
    1 「男女の法」
    2 「五色の賤」
    3 「良賤の制」
    危機感を感じて以上「3つ身分法」等を定めたのですが、ところがこの法は次ぎに掲げる理由で902年で廃止されます。
    この開放は一度に行ったのではなく混乱を避ける為に898-923年の25年間に徐々に行っています。
    上記した様にこの点でも900年と云う一つの「荘園制の節目」や「融合の節目」が出てきます。

    そして、平安期の「荘園制度」の確立に依って「朝廷の政策」のみならず「荘園内」での小単位の「部制度」が活発化して、「民の融合」は荘園に関わる「内外の民」の「2階層の融合」が起こったのです。
    「民の域」では全ての「民の末端」まで行われましたが、その「部」単位(職能部の単位数 180)で起こった融合は、荘園に関わる「内外の民」の判別が困難な程に、「内外」を問わない緩やかな「完全融合」が起こりました。
    「氏」としての構成では無いが「部の氏」と見なされる「単位集団」(日本の融合職能集団:「物造り集団」 「姓氏」)が誕生し構築されたのです。

    「姓氏」の発祥
    これが上記した初期に生まれた「海部氏」等の「姓氏」の「融合集団」なのです。
    (丹後国 籠神社資料 海部氏の平安末期の「姓氏」の最古の記録 後に「融合氏」として拡大する)
    この「融合職能集団」が室町時代初期から、この「民の集団」を背景に「部の姓氏」が正式に「姓氏」として乱立する結果(180−250)と成ったのです。

    「組合職能集団化」の編成
    これらの「民の融合」は当初は、「姓氏」として集団化したのではなく、室町文化(紙文化)発展によりその「職能域」をまとめるために「集団化」して行ったものなのです。
    しかし、鎌倉期から室町期に成って「部制度」が解けて「部民」は自由開放と成り、この元の「部単位」での「組合」の様な「職能集団化」が起こり、その集団の内で「血縁融合」を繰り返す段階で有る程度の「緩い血縁性」が生まれます。
    その「組合職能集団化」により実力のある者はその首魁と成り、鎌倉期−室町期の「文化の発展」に依って次第に「経済的潤い」を得て、「部」から発祥した彼等の呼称を「部民」として呼ばれ、集団化同士間の「無血縁の民」の「組織化」が起こりました。
    「無血縁」で「異職能」の「集団」を取り纏めて行く必要からから「目標とルール」とを定めた「組織化」が起こったのです。
    次第にそれが拡大化して勢力を持ちそれを背景に職能集団による「姓融合の集団化」(例:海部氏・陶氏)が起こったのです。
    つまり、最終の形としては「氏融合」を主体としていた社会構造の中に職能集団の「姓融合」が食込んで行ったのです。この為に「既成の基盤」の上に胡座をかいていた「氏融合」と、新たな職能による「経済的潤い」を背景にした「姓融合」との間で「勢力争い」が起こります。
    結局、”下が上を潰す” 「配下」であった「姓融合」は「主家」の「氏融合」を脅かし遂には乗っ取ると云う現象が起こったのです。
    「氏融合」の「主家」に取って代わる事に因って「姓融合」は「融合氏化」への経緯を辿る事に成ったのです。この豪族となった「姓氏」を主体とする社会構造が出来上がり、「融合氏」は殆ど潰されて社会に対応出来得た数少ない「融合氏」のみが「姓氏社会」の中で「姓氏」と融合を繰り返す事で生き延びて行く結果と成ったのです。「融合氏」を主体とした「氏家制度」の中で上下逆転の社会が起こった事に因って「氏家制度」は「自然崩壊」へと進み、「姓氏」と「融合氏」とが入り乱れて「生存競争の戦い」へと突入して行く事に成ったのです。
    況や「自然力」(流れの力)による「力と知恵」を駆使した「取捨選別の戦い」即ち「戦国時代の到来」が起こったのです。これは即ち「自然の摂理」(自然の流れ 時流)が起こった事なのです。

    「融合氏の発祥源」(3つの発祥源)でもある「4つの青木氏」は、「知恵」は「2足の草鞋策」、「力」は上記した「陰の力と抑止力」と、それを支えるで「神明社・生仏像様」と供に、「自然の流れ」に逆らう事無く上手く「時流」に乗ったのです。その成し得た高度な英知は「青木氏家訓10訓」と秀郷流青木氏の上記して来た「戦略的知力」に有ったのです。

    姓氏発祥の経緯(姓融合)
    →「部制度」」[無血縁組織] (奈良期−平安期中期)
    →「部民の開放」 (平安期末期)
    →「職能集団化」[組合化] (鎌倉期初期)
    →「血縁融合」[自由]→「経済的潤い」
    →「部民」→「組合間の組織化」 (鎌倉期中期)
    →「拡大勢力化」→「姓化」 (鎌倉期末期)
    →「姓氏化」」[無欠縁組織]→「下克上」 (室町期初期)
    →「融合氏化」」 (室町期中期)
    →「融合氏の集団化」→「豪族」(「姓氏」)
    →「戦国時代」
    →「融合氏3」 (室町期末期)

    「職能集団の青木氏」(無血縁)の誕生
    この中には、前期の「4つの青木氏」以外に実はもう一つのこの「職能集団の青木氏」(無血縁)が存在しているのです。
    前記まで「氏」は次ぎの様に論じて来ました。

    「融合氏の種類」(鎌倉期以降の変化)
    1「融合氏」−「融合氏間の血縁」→「血縁性を有する同族集団」(第1の融合氏) ⇒「融合氏1」
    2「民族氏」−「血縁性の薄い民族集団」→(「融合氏1」と「姓氏」との血縁) ⇒「融合氏2」
    3「姓氏」 −「無欠縁の部組織」→「血縁性の無い組合集団」 ⇒「融合氏3」

    「部民」と同じ立場にあった「百姓」(おおみたから:部曲等)にとっては、「姓氏」に成る事は「下克上と戦国時代」の「立身出世による機会」によるもの以外には社会的に無かったのです。

    これは次ぎの事によります。
    1 「百姓の法制度・税制度」により土地に縛られそこから離れられない事
    2 その基盤と成る「核・組織・集団」が無い事
    3 「融合氏」「姓氏」に成る利点が無い事
    4 更に「氏家制度」の「仕来り」や「仕組み」の中では反乱(一揆)と看做される仕儀となる事
    以上から「4つの社会的拘束」により基本的には不可能であったのです。

    しかし、「品部の民の解放と組織化」(898-923年)に感化されてその発展を観て、「百姓」(おおみたから)等は何とか「組織化」を図り、「意見の集約と主張」を前面に押し出そうとします。
    この為に平安期の「元慶の動乱」に観られる様な「郡司」まで巻き込んだ事件が各地で頻繁に起こったのです。
    そして、これが上記したシンジケートの経済的支援を受けた「百姓や賤民等の動乱」から、鎌倉期から室町期には今度は「一揆」と云う形に変化して起こします。
    この一揆は、武士が起した゜乱や役や謀反や事件」と云った長くて5年程度の程度のものでは無く、100年間と云う途方もない「為政者に対する戦い」が甲斐や陸奥や美濃や伊勢や駿河に起こったのです。
    中には”政治的権力を奪う”と云う所まで起こりました。
    中でも「元慶の動乱」等は各地に飛び火して郡司等の地方の下級官僚の援護を得て組織化が起こったのですが、この一揆は「百姓」のみならず背後には「豪商や下級中級武士等」が控え援護して組織化を促していたのです。
    どちらも「偶発的な動乱」「不満の爆発」等ではなく、援護関係が明確な「組織的な動乱」であったのです。
    この動乱の目立ったものとして「徳政」、「播磨」、「正長」、「嘉吉」、「長禄」等の「百姓(商人・職人・武士等)」による「一揆動乱」がありますが、当初は資料や趣意書を調べると本来の目的は、「組織化(不満)」を目途としていたものが、通説と成っている「為政側」からは結果として「反乱・一揆」として扱われたものなのです。

    上記の「部民」に認めたものが、”「部曲」(かきべ)には認めない”と云う不満から”おおみたから”達の「爆発的行動」と成ったのです。
    地方行政官の「郡司(こおりつかさ)」が、中央行政官の「国司(くにつかさ)」に逆らってまでも「部曲」に賛同支持して動乱を起したのは、単に「賛同支持」と云う事だけでは命を賭けてまでの事には成らない筈です。
    資料や趣意書などを具に調べると、其処にはその行動は「具体的信念」に基づいたものであり、其処には、「人間性の発露」が観られ、要約すれば”社会における部曲のあるべき姿”に疑問を抱き、”変革しなければ国の行く末は暗い”と考えての行動で有った事が云えます。
    まして、豪商等が「商いの利益」の為に支援したのであれば100年など続きません。
    動乱を100年も続けるには、其処には「豪商の理念」が存在していて、その「理念の実現」に経済的支援をした事を物語ります。
    100年とも成れば、その経済的な支援額は彼等の生活を保護する事にも成りますので、天文学的な額に成る事は必定です。更に100年とも成れば、指導する人もされる人も3代も変わる事に成ります。
    途中で頓挫する事も充分に有り得ます。しかし、続けたのです。これは「理念」の何物でもありません。
    然し、歴史書の通説では「騒乱動乱」や「反発一揆」として「為政者側の言い分」をそのままに決め付けられています。(通説はこのパターンが大変多い事に注意)
    然し、「騒乱動乱」と決め付けられても「2つの血縁青木氏」は歴史的に歴然として明確に「2足の草鞋策」を以って支援したのです。
    特に「伊勢一揆や暴動」は上記した「4つのシンジケート網」を使って「戦術戦略」を指導し彼等の安全を護り、加納氏の「加納屋」と供に「青木長兵衛の紙問屋」は支援していた事が判っています。
    (大きいもので6つ程度の事件が起こっている)

    この事は”何を意味するのか”であります。
    「3つの発祥源」の立場もある事も然ることながら、「家訓10訓」の「長」としての戒めを「為政者側」に着く事をせずに忠実に「戒めの真意」を悟っていた事を意味するのです。
    上記した「時流」に押し流される事無く、冷静に「英知」を働かせたと同じく、ここでもその「英知」を働かせ本来あるべき「百姓」「部曲」の「社会に於けるあるべき正しい姿」を追い求めて支援した事を意味するのです。「利益追従」であれば「為政者」側に着く事が最大の効果を発揮します。
    しかし、「郡司」と同じく「2つの血縁青木氏」は「為政者側」に居ながら「部曲側」にも居たのです。
    上記した「陰の力」の「4つのシンジケート網」を使えば少なくとも「為政者側の無謀な行動」を抑える事は可能であった筈で、後は「経済的支援」を図る事で彼等を護る事が出来た筈なのです。
    部曲の「組織化の要求」を実現させられるかは、革命を起さない限りその「決定権」は「為政者側」にあり、この点に対する青木氏には「決定力」は無くその「影響力」も無かったのです。
    ここが「弱点」でもあり「青木氏の立ち位置」でもあったのです。
    上記した「4つの社会的拘束」を開放し「組織化の要求」を実現するには其処に矛盾があったのです。
    為政者側にとって観れば、「組織化の要求」だけを認める事は上記の「4つの社会的拘束」の秩序を崩壊させる事に成るからであります。
    この事は「氏家制度」と「封建社会」や「身分家柄制度」等の「社会秩序」を変える事を意味するからです。
    「部民の開放」はしたけれど「部曲の開放」までも認める事は「社会秩序の崩壊」と成るからであったのです。
    果たして「4つの青木氏」は”この「時流」に正しく載り得ていたのか”の疑問と成ります。
    平安期を経由して鎌倉期−室町期の「時流」は、「荘園時代−群雄割拠−下克上−戦国時代」の乱れた社会の中では、武家社会の「氏家制度の変異期・経過期間」であったのです。ですから本来であればこの「時流」は少なくともその「理念の根底」は「氏家制度の互助精神」であった筈です。
    しかし、それは「武家」のみに対する「互助精神」であって「部民−部曲」のものではなかったものです。
    それ故、其処に「品部」による上記した「姓氏の経緯」が起こった為にこの「社会構造」に矛盾が芽生えたのです。それは当然に「姓氏の経緯」が起これば必然的に「部曲の経緯」も起こる筈です。
    しかし、偏向的に「武家社会の互助精神」はこれを許さなかったのです。大きな不平等な矛盾です。
    そこで問題が起こったのですから、「時流」としては”「部曲の経緯」も認めるべきだ。”が社会の中に渦巻き始めたのではないでしょうか。
    趣意書以外に確固たる確定する資料記録を見つける事は出来ませんが、「部曲の暴動」が「品部の開放」の経緯の期間中で現実に史実として連続して各地で起こっている訳ですから、この「時流」は渦巻いた事は確かなのです。
    そして、この渦巻く現象を観て、「4つの青木氏」は「青木氏の理念・家訓」から”そうあるべきだ。それが正しいあるべき「時流」だ”と考えたのではないでしょうか。そして、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”と主張したのです。
    しかし、それは100年も続く戦いと成ったのです。この「時流」は「時流」で正しかったのです。
    この、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”の「流れ」は、最終的には、薩摩、土佐、長州に依る「明治維新」の「時流」に繋がって成功するのです。
    しかし、その後「4つの社会的拘束」の社会は急激には変化を遂げられず、「2つの青木氏」と別に加わった伊勢の豪族の加納氏等の「2足の草鞋族」は、明治1−9年の近隣県を巻き込んだ「伊勢一揆」(櫛田川−真壁−小瀬−伊勢暴動 他3件)まで続ける事になり、遂にその「理念の暁」を見る事が出来たのです。
    「2つの血縁青木氏」の観た「時流」は矢張り間違いなく「時流」であったのです。
    (加納氏は吉宗の育ての親 紀州藩の家老 2つの伊勢青木氏と血縁)

    「時流」
    では、一体その”「時流」とは何なのか 「質的」なものは何なのか”と成りますが、筆者は”仏教が説く「三相の理」である。”と観るのです。
    つまり、”「時、人、場所」の要素を複合的に一つにした形の流れ”を云うのだと考えているのです。
    それには「時」の要素が強い場合、「人」、「場所」の要素が特質して強い場合があるが、それを見誤ること無く、事の「質と状況」を「見抜く力」が「長」には要求されたのです。
    これ即ち「青木氏の家訓」の教えであります。故に青木氏は「時流」と見て利害を超え理念を信じ執拗に援護したのです。

    さて話は戻してもう少し「時流の中味」を論じておきます。
    その時代に起こる「時流」の「顕著な現れ」にはこの「3つの要素(3相)」が必ず持っているのです。
    「部民の組織化」に対比して「部曲の組織化」は歴史の記録に載らないまでも明確になっていない地方動乱は数え切れません。ところが、通説では”単発的な一揆 不満の爆発”と云う形でしか論じられていないのです。平安期中期から底流に「時流」としての「部曲の組織化運動」が澱みなく流れていたのです。
    中には甲斐の最長150年間も続いた百姓(おおみたから 商人・職人・下級武士の事)の「組織化した動乱」もあった位のものなのです。各地では短いものでも5年、長くて20−50年というものもありました。
    この「150年動乱」と成ると最早一揆ではなく武田家の「偏狭・山岳の武士団」(武川12衆など)が参加する「政治体制」に対する反発の完全な「組織化集団」でした。
    この「150年動乱」は「部曲」から「下級武士」まで「全ての身分の人」が参加する「人」の要素が大きく働いたもので、下地には「生活の困窮」などの事がありますが、この「時流」は「人」の「本来有るべき姿」即ち”人は皆等しく同じ扱いを受けるべし”とする理念を押し通そうとしたもので、この”特定階級に牛耳られる社会への反発”であったのです。
    現在の完全な「平等論」とまで行かずとも、「身分制度」の社会の中でも最低限の「人としての扱いの等しさ」の「時流」は、この平安期から既に「明治維新」までの「流れの動き」の中に起こっていたのです。
    上記した平安期中期の「男女の法」、「五色の賤」、「良賤の制」の「3つの身分法」の例に観られる様に、「天皇」から始まり「奴婢」の者までの幅広い階層に、その「人としての扱いの偏重」が余りにも大き過ぎたと考えられます。
    これは根底に「仏教の教え」に影響していたのです。法然や親鸞の資料を観ると、この事に悩んだ事が書かれています。
    特に「親鸞の悩み」は、庶民の中に入り余計に矛盾を感じて、その結果の彼の激しい遍歴を観ると判ります。
    「宗教論争」で有名な法然、最澄、空海の3人による「密教論争」からも「密教の有るべき姿」の論争は、反して云えば「人の等しさ」を論じていることを意味します。
    平安期から既に論争に成っていた事を物語ります。
    ”社会全体の体制の否定”ではなく、これを”もう少し緩やかにすべし”とする主張で有ったのです。
    それの証拠に前回に論じた荘園制のところで「後三条天皇・後白河院」の頃に掛けてこの「身分法の見直し」が現実に危険を顧みずこの2人の天皇の決断で行われるのです。
    「荘園制の行き過ぎ」に因ってこの問題が露見しそれに連動して1070年頃までに掛けて「法的修正」が行われています。

    その一つが180にも及ぶ「大集団の階層」を持つ「品部の開放」の経緯なのです。
    しかし、この時、「百姓」はこれでも納まらず「部曲の開放」「商職人の開放」「下級武士の開放」と次第に「全体の階層の偏り」(3つの開放/4つの開放)の修正も要求して行くのです。

    (注意 「百姓」とは「おおみたから」と呼称され、その字の如く「百」は「全ての意」と「姓」の「民の意」から「全ての民」となり、「おおみ」は「百の古代語の意」、「たから」は「宝の意」となり、これも「全ての民」の意味に成り上級侍以上を除く民の事です。
    現在の「百姓」とは江戸期の「士農工商」の身分制度から「百姓」は「農」の意味となった。)

    (室町期までの「下級武士」とは、「農兵」の大意で「農業と兵」を兼ねた階層を云い、多くは氏姓、苗字、家紋等を持っていなかったのです。「甲斐武川12衆」は「氏姓、家紋」も持つ武士ではあったが「農」も兼ねていた「農兵」に近い身分として扱われていた。)

    「富と扱いに対する不満」
    これも「富と扱いに対する不満」の対象で弱者が集団化して子孫を護り対抗しょうとした現れです。
    この様に鎌倉期から室町期末期まで「・・・衆」が全国的に拡大したのは「富と扱いに対する不満」の「流れ」を引き起こし始めた一つの現われなのです。
    通説の様に、”「戦乱の世に身を護るだけの目的」”では無く、「富と扱いに対する不満」の表現であったのです。むしろ、「150年」も続いた「甲斐の騒乱」でも判る様に、甲斐の中での事であり他国から攻められてて「身を護るだけの目的」の必要性は無く、、「富と扱いに対する不満」の「150年間の表現」であったのです。
    ですから各地の騒乱は長く50−100年というものが多かったのです。150年は例外ではないのです。
    ただ、江戸期のものとは「時代」が「流れ」が進行して進化して年数は短くなる傾向にあって、その分「身を護るだけの目的」の必要性は無く成っている訳ですから、「富と扱いに対する不満」が増大し全てこの傾向にあったのです。この「流れ」の傾向が留まらずに結局は明治維新に繋がったと云う事に成るのです。

    江戸期の時流=「身を護るだけの目的」→「富と扱いに対する不満」→(3つの開放)

    「時流」=「身を護るだけの目的」+「富と扱いに対する不満」(平安期)→「身を護るだけの目的」(室町期)→「富と扱いに対する不満」(江戸期)→「明治維新」

    鎌倉期から江戸初期までの集団化の形の一つの「・・・衆」を状況証拠から調べると、「身を護るだけの目的」よりは「富と扱いに対する不満」の方が8割を占めているのです。ただ室町期末期の「・・・衆」は「富と扱いに対する不満」は少ない事が認められますが、元々この時期の「・・・衆」の結束は最早事が遅く、数的には少ないのです。
    上記する数式の武士階級の「身を護るだけの目的」の組織化に連動して、「氏や姓」を構成しない「農民−職人−商人」も集団を結成して、この2つが合体して「富と扱いに対する不満」のみのものとして主張した「時流」だったのです。

    これを解決しようとしたのが江戸時代初期の身分制度「士農工商」なのであって、上記する「下級武士」(農兵)は「苗字、家紋、帯刀」の保持を正式に許されて、「武士」として正式に扱われて「家臣」として引き上げられたのです。身分が定められた結果、生活もある程度の範囲で確保され、その不満は解消されて行きます。
    1 「品部の開放」(平安期末期)
    2 「下級武士の安定化」(江戸期初期)
    以下4つの内の2つが解決された訳です。

    「品部の開放」
    「部曲の開放」
    「商職人の開放」
    「下級武士の開放」

    然し、百姓等の「富と扱いに対する不満」は結局は江戸に成っても解消されなかったのです。
    (上記2に依って農兵は解消され江戸初期に多くの「家紋と苗字」が生まれた)

    これを成したのが「明治維新」であり、「百姓問題」と「富と扱いに対する不満」」を解決し、且つ、一挙に「武」も解体したのです。平安中期から明治維新とすると凡そ「1000年の悲願」であった事が云えます。

    「明治維新」は兎も角として、この「中間の経過処置」として、豊臣秀吉は、「兵農分離制度」を敷き、この「農兵制度」を禁止します。
    然し、この禁止の目的は開放ではなく、「農兵」の主張を叶えたのではなく、「禁止する事」に依って各大名の勢力を削ぎ、「常設兵力」の削減と大名の「経済的な負担」を高めさせて弱体化を図ったのです。
    然し、これも現実には殆ど護られず、「農民の命」を賭けた高額な「現金収入」が無くなる事に成ります。
    むしろ、当然の結果として「陰の農兵制度」が生まれたのです。
    この「陰の農兵制度」では、「農兵」を登録し集めて臨時に集団化して、終われば解体するシステムが陰で構築されて行くのです。それを職業とする集団や土豪が各地に生まれたのです。(雑賀族、根来族、柳生族、伊賀族、甲賀族、・・・)
    そして、この一躍を担ったのが上記した青木氏の様な「2足の草鞋策」を敷く各地の豪商と繋がるシンジケートなのです。
    本来は「戦いの負けた武士団の就職先」の様な「陰の集団」であったものに「農兵の臨時集団」が加わり更に拡大して行きます。
    「2つの血縁青木氏」はこの「農兵の臨時集団の役目」と、「富と扱いに対する不満」とを結合させて「シンジケート」と云う手段を「時流」の上に載せたのです。

    「敗戦の武士団の就職先」+「農兵の臨時集団の役目」=「シンジケート」(室町末期−江戸初期前)

    現実の「農兵、農民の集団」に、別の「農兵の臨時集団」とを連結させ、これに「下級武士の集団」
    と、「2足の草鞋策の殖産」と繋がる「職人商人の集団」の「4つの集団化」を促し、「時流」を更に勢いを付けさせて押し流そうとした「2つの賜姓青木氏」「2つの血縁青木氏」の「戦略」で有ったのです。
    他氏の資料まで研究は及んでいないので正確には判りませんが、下記の数式の「4つの集団化」を成し遂げられる勢力図を持ち得ていて「シンジケート」を構築していたのは「2つの血縁青木氏」以外には無かったのではないかと考えられます。
    それは「2足の草鞋策」を敷きその必要性から多少の「シンジケート」を持ち得ていた事は他の資料からも観られる事ですので否定はしません。然し、下記にも示す勢力(石高5万石)を有する「2足の草鞋策」の他氏とも成ると数的にも多くありませんし、青木氏の様に「3つの発祥源」程度の「社会的立場」を持つ武家とも成ると10本の指に入る程度でしょう。
    その中でも、「陰の力」「シンジケート」に入る彼等の集団にとって観れば、「氏姓」を構成し「武士」である限りは「陰」とは云え、其処には「こころの支え」としての「大儀」が必要です。
    「皇祖神と祖先真の神明社」と「3つの発祥源」の「2つの賜姓青木氏」が行う「富と扱いに対する不満」”下記で論じる「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」に挑戦する姿勢を観て、これに協力する事は彼等の最大の「大儀」と成ります。
    故に平安期から明治期まで彼等はこの「2つの賜姓青木氏」が管理運営する「シンジケート」に加担していたのです。極端に云えば”「錦の御旗」を得た”とも思っていたのではないでしょうか。
    この様な「大儀」を保持出来る得る「氏」ともなれば、「2つの賜姓族」の「2つの血縁青木氏」以外にはありません。
    (故に同族縁戚の蒲生氏郷も徳川家康も「2つの賜姓青木氏」を上座に上げるほどに崇め擁護したのです。家柄身分が高い云うだけではなかったのです)

    「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」

    「甲斐の騒乱」には源光の賜姓族青木氏が関わっていた資料は確認出来なません。甲斐の源光の賜姓青木氏の力が「甲斐の騒乱」を後押しするだけの勢力は無かったのです。
    然し、無冠無位の皇族青木氏の時光系青木氏も困窮に喘ぎ農兵に近い状態であった「武川12衆」として自ら関わっていた事が資料からも判っています。

    実は「甲斐の青木氏」に付いては、これまた通説には不思議に載らない甲斐らしい「複雑な問題」を持っていたのです。
    甲斐青木氏は「青木蔵人別当」の冠位官職を持つ清和源氏 「源の源光」の「青木氏」が主流で、賜姓族に相当し、兄の時光系は無冠無位であったので武田氏の中では低く扱われたのです。
    その石高も系譜添書より観ると、200−250石程度でありました。農業をしながら山間部に追い遣られ住まうと云う「極貧の生活」であったのです。”華やかに甲斐の青木氏の名家”と通説では囃し立てられていますが、これも武田氏の特質の資料に惑わされて信じて、通説は「源光の青木氏」と「時光の青木氏」と判別出来ていないのです。武田氏が書く嘘の多い資料をベースにして通説が造り上げられていて全く異なっています。
    この虚偽の通説には留まらず、更には青木氏を名乗りながらも、且つ南北朝で山口や高知に逃げた貴族の公家一条氏をも”母方氏だ”として名乗ると云う家柄身分の搾取も公然として名乗られているのです。公然とした矛盾1です。それでいて山間部で農業をしていた「武川12衆」とて供に150年の「甲斐の騒乱」に加わっているのです。これも公然とした矛盾2なのです。
    まだあるのです。上記した源光系賜姓甲斐青木氏は国府付近南に定住し本流として甲斐賜姓青木氏の子孫を拡大させているのに、兄の時光は弟の役職を使い「無位無官の青木氏」を勝手に届ける事も無く名乗っているのです。これも公然とした矛盾3なのです。
    この様に下記にそれに必要とする勢力2.5万石等は到底無く、「後押しするだけの勢力」は時光系青木氏には元来から当然に無かったのです。
    常光寺や源空寺や松源寺などの簡単な菩提寺を作りましたが、長く持たず室町末期には直ぐに維持に耐えられず荒廃し廃寺と成ってしまうのです。
    (時光の子の常光が親との争いで獲得した常光寺は養子一族の青木氏が曹洞宗の力を借りて再建して維持した)
    「富と扱いに対する不満」を実現させる為に「シンジケート」と云う手段の「時流」の上に載せるどころか自らが「時流」の中に入ってしまっている「自滅状態」であったのです。巻き込まれている状況です。

    美濃の資料からは賜姓青木氏は出てくる事もなく、衰退していて「殖産と美濃和紙との関係」から僅かに資料に残る程度と成っています。(女子供の末裔は隣の桑名や員弁の伊勢青木氏の居留地に逃げ込んだ可能性が高い (ただ一つ「伊川津7党の青木氏」がある完全滅亡した土岐氏系青木氏か)
    その分美濃は前回信長のところで論じた様に特別賜姓族の5つの秀郷流青木氏の独壇場です。ほぼ入間の「第2の宗家」の援護を受けて5万石程度の綜合勢力を以って一致結束して何とか「富と扱いに対する不満」を実現させ様として働きます。それだけに一揆などは国内で最も多かった地域でもあります。それ故に美濃から駿河の5つの秀郷流青木氏は地元の信任を得て大地主として明治期までその勢力維持させたのです。

    近江も「近江和紙」で資料に出てくる程度の勢力であり甲斐との生活はほぼ同じですが、一時一族挙って滋賀に移動定住するなどして、再び近江に戻り、更には摂津に移動定住するという移動の遍歴を繰り返します。これは「源平の美濃の戦い」に源氏と供に参加して敗れ「完全滅亡の憂き目」を受けた事が原因しています。「完全滅亡の憂き目」から美濃と近江は「和紙の殖産」を通じて伊勢青木氏や信濃青木氏は賜姓族として何らかの血縁を通じて生き延びさせようとしたと観られます。(添書には美濃や近江の地域を示すものがある)

    前回より論じている青木氏と源氏の歴史の歩調論が異なる事を論じましたが、その歩調の違う源氏と一時の判断ミスにより合わしてしまった事が大きなミスであります。
    前回織田氏のところで論じた近江源氏滅亡後に伊勢−信濃の「2つの血縁青木氏」の援護(殖産和紙で支流援護)を受けながら何とか「完全滅亡」を避けられ、賜姓族ではなくて再び「和紙と殖産」の範囲で末裔を広げたのです。
    (伊勢秀郷流青木氏は近江の日野の秀郷流蒲生氏の跡目が入っていて近江青木氏とは無関係でない)

    下記に数式から解析している様に、伊勢−信濃の「2つの血縁青木氏」の綜合勢力は10−12万石を有する勢力を保持していますから、近江+美濃+甲斐の賜姓青木氏を援護し「殖産和紙」で支える勢力は充分にあり、「シンジケート」で護り「商いの利益」を補填すれば子孫を拡大させられる事は容易でったのです。武蔵入間の「第2の宗家」の支援を受けて、特に近江−美濃は秀郷一門の大居留地でありますのでその末裔を遺してきます。

    信濃−伊勢間の一揆には「2つの血縁賜姓青木氏」はこの「4つの集団」との関係を保ちシンジケートを使って援護したのです。凡そ、この「時流」の初期の頃平安末期から観ると700年程度援護した事に成ります。
    この年数から判る様に「氏」として25代以上援護している訳ですから、これは「理念の何物」でもありません。
    「2つの血縁青木氏」は、、「3つの発祥源」の氏で有りながらも、片方ではほぼ近代の「平等主義」を意味する「富と扱いに対する不満」を援護すると云う一見して相矛盾する行動をとって来た事を意味します。
    恐らくは、「平等主義」と云うよりは、”もっと「公平」とまで行かなくても「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”と云うものであったと観られます。”「体制破壊」までの考えは無かった”と観られます。
    果たして、天智天皇や村上天皇はこの様に成るとは考えても居なかった筈です。
    然し、天皇側にしてみれば3つの発祥源」の末裔であり潰す事は望んでいなかった筈です。しかし、源氏が”親の心子知らず”で独走してしまって「事の流れ」最早止める事も出来ずに11代も続いた賜姓源氏は滅亡の道を辿ります。
    この源氏滅亡でも判る様に、「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」=「時流」の数式を構築する努力をしなかったからなのです。
    「3つの発祥源」の立場を護り子孫を生き延びさせるには「時流」を観て行動する以外にはそもそもなかったのです。これが「正しい青木氏に課せられた姿」であったのです。
    決して、”「時流」に迎合する。利益を挙げる”と云う事では無いのです。
    もしそうだとしたら、「時流」に載る事だけすれば。、最もリスクの少ない商いである筈で、「時流」に載り、、「時流」を支え、「時流」を押し上げ、「時流」を護るところまでする事は、余りにリスクが大きすぎ危険であり、且つ、経済的負担は「商いの利益の範疇」を超え母体そのものが持たない事に成っていた筈です。
    700年も続ければ、幾ら「陰の力のシンジケート」を持っていたとしても、「体制側からの潰し」が働き、場合に依っては「直接の戦い」ともなり得た事もあった筈です。

    (「楠木正成の戦い」(半間接)と「天正の3乱」(直接)と「伊勢大社移転反対運動」(直接)以外は記録から発見出来ない。)
    然し、一揆に類するものとして古い記録の確認が出来ないが、各種の関係する添書類などの状況判断からすれば、「4つの集団化」=「時流」は「陰の力」に留めた全て「間接的な行動」であったと観られます。
    ”「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”であったから、「陰の力」に対する攻撃戦いは無かったと考えられます。
    まして、一方ではその「陰の力」のシンジケートを使って同じ程度以上に”「殖産」を促進させる”と云う逆の行動もあったのですから、体制側からの直接攻撃は論理的に無い事も考えられます。
    当時の体制側にとっても敗残兵の俘囚現象は好ましくなく、「4つの集団化」=「時流」は利益の上がることであり、「陰の力」は社会としての規制の事実とし承知した「救済手段」でもあったのですから、否定する事は不可能であった事に成ります。
    もし、この「陰の力」を否定するとなれば、社会に3/4に相当するの「多くの難民・俘囚民」が生まれ、「国の崩壊」にまで繋がる国難と成って居た筈です。どの面から考えても有り得ない攻撃であったことに成ります。
    筆者はむしろ、表彰される位の立場に置かれていたと考えています。
    それを物語るものとして何度も記述してきましたが、伊勢3乱の「蒲生氏郷」からの特別厚遇や家康の次男頼宣との直接面接と300年間の親交、吉宗の「享保の改革」や「紀州藩の財政建て直し」に家臣ではない青木氏が請われて関わる事等は無かった筈です。
    然し、一つ間違えば逆に成る事も有り得て「事の大儀」を無くし、かなり「難しい立場の操作」が必要であったと観られます。それだけに歴史を通して「長」の「有るべき姿と資質」を「家訓10訓」で青木氏に求めたと観られます。その「家訓10訓」の理念を守り通す力と成ったのが「祖先神」であり「神明社」であったのです。「陰の力」でありながらも「4つの集団化」=「時流」はこの「祖先神」・「神明社」の理念に護られていたのです。いわずもがな「賜姓源氏」と違うところであります。
    ”三相に依って時代時流の良悪は異なる”ので、[良悪]ではなく「利益」を追い求めた賜姓源氏と「人間の理念」を追い求めた「青木氏との差」によります。

    (参考 後に武田氏が滅んだ時、現地の戦後処理の指揮官の家康は、この「山岳武士団」を武蔵国鉢形と八王子に移住させて解決します。この中に武田氏系皇族青木氏の支流一族が含まれます。
    逆に、この事で武蔵領国の秀郷流青木氏とこの武田氏系皇族青木氏との「融合青木氏」がこの地域で発祥しています。 甲斐−武蔵の国境と下野−常陸−磐城の国境に発祥)

    しかし、この様な厳しい状況の中でも、この様に着実に「融合」は進んで行きますが、実はこの百姓(商人・職人・下級武士等)の「組織化」が明治期まで「姓氏化」には進まなかったのです。(「部民」は集団化・組織化・姓氏化であった。)

    この各地で開放された「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」を起こるのを観て、「百姓集団」は「氏家制度」の中では「反体制の組織」となる為に「姓氏化」は起こらず衰退します。
    これはその「集団化」が起こるには「経済的背景」が低かった事が原因しています。
    体制側にとっては「経済的潤い」を常時獲得する事は好ましいことではない事から「政治的」に故意に低くさせられていた事の方が正しいと考えられます。
    「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」には「殖産物造り」と云う「経済活動」が背景にあり、その「経済活動の底流」に存在する事が、これが豪商等との繋がりを強く生み動乱を通じて「姓氏化」の融合が起こったのです。
    しかし、この事から学習した「百姓の集団化」は室町期から明治期に掛けて豪商等の「経済的援護」と「シンジケート勢力」の2つを得て再び盛り返します。

    ここで「百姓の集団化」と異なるのは、一方の「品部」の「姓族」が「姓氏化(集団化)」したのは、上記した「荘園の問題」が主因で有ります。898−923年の「身分の開放策」に依って「部組織」から「改めて職能集団」としての「組織化」を成し、繋がりのある豪商等の「経済的援護」に基づき、それが更に複合的に「姓氏化」→「融合氏化」へと繋がったのです。
    この点が異なっているのです。つまり「部民の集団化」には「融合のサイクル」を興したのです。

    つまり、この「2つの集団の融合化」の違いは次ぎの有無が異なりました。
    第1は集団化の経緯の中での「身分の開放」の有無が大きく左右したのです。
    第2は援護関係に「豪商とシンジケート」の有無が左右したのです。
    これが江戸期までの「農と工商」の「自由性の違い」に繋がったのです。

    そこで部民に付いて、家紋等から確認できる範囲として、この事(「組織化・集団化」)に依って興った青木氏は大別すると次ぎの様に成ります。
    A 「宮大工の青木氏」(氏)
    B 「仏具・彫物、襖絵・天井絵・仏画・絵画の青木氏」(氏・姓氏)
    C 「紙殖産の青木氏」(姓氏)
    以上の青木氏にかかわる職能集団の「絆融合」による「氏・姓氏」が現在も確認されて居ます。

    これは「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の2氏が独自の「氏神」と「氏寺」を有する事を許され、「浄土密教宗」であった事から、「独自の氏」から「宮司、住職」を出して運営していたことに始まります。
    その配下の職人を職能の跡継ぎとして指名し「青木氏」の「氏名」を与えたのです。(姓氏ではない。)
    多くは「氏名」を与えるだけではなくて、正式に[別家養子縁組]をして一族の氏の中に取り入れたのです。
    その為、「神社仏閣」の建設や彫り物、仏像等の内部の装飾品の類一切までを伝統的に保全する必要性が求められました。そこで自らの神社・寺社の青木氏に関わる集団が結束して(5家5流賜姓族、藤原秀郷流青木氏24地方)これ等の「職能者」を養成する為に「経済的援助」をし、その職能を継承する首魁には伝統ある「青木氏」を名乗らせ「4つの青木氏」の「氏の集団」に組み込んだのです。
    (別家の養子縁組が基本であった模様 中には青木氏縁者娘と血縁させる事もあった。)。

    上記した「品部の職能集団」による「姓氏」とは別に、青木氏には祖先神の「氏の神社」、密教の「氏の寺社」関係から、保全・管理・運営の為に独自の職能集団を抱えていた。この為にこれらは「物造りの神」でもある「祖先神」であるが為に「姓」ではなく氏上の「氏」を名乗ったのです。

    「品部」の職能集団→「姓氏」→「融合氏」
    「青木氏」の職能集団→(別家養子縁組・氏)→「融合氏」

    つまり、上記した長い1000年以上に及ぶ他氏には決して観られない「祖先神の独自の考え方」に依って築かれた「歴史的な絆」があるからこそ生まれた「無血縁の絆結合」の青木氏の一つなのです。
    この様に「祖先神の神明社の存在」が「4つの青木氏」の根幹に成っていて、「絆」を作り上げる強い「接着剤的働き」を果たし、「より良い融合」が興り生き残りを果たせたのです。
    その「より良い融合の発展」は何と「4つの青木氏」同士の「融合青木氏」をも生み出すところまで発展したのです。
    高位の身分家柄を持ちながらもこれを守る中で、これに拘ることなく更なる「融合」を果たしたのです。
    これは全て「4つの青木氏」のみが持つ「祖先神の考え方」に由来するのです。
    その「祖先神」の教義が「殖産・物造り」に基づいている事のそのものが、「4つの青木氏」の中で接着剤・潤滑済として働き、更なる発展を遂げたのです。
    結局はその「4つの青木氏」の「集約する拠り所」は「祖先神」を祭祀する「神明社」にあったのです。
    そして、更にはその「神明社」が「皇祖神」の「伊勢神宮」に直接に繋がっている事が「衰退することの無い推進力」を生み出していたのです。

    「神明社」+「皇祖神」=「推進力」

    (部の氏の類に付いては研究室に詳細レポート)
    この外に、「2足の草鞋策」として「物造り」を「殖産」して、それを販売し商いとする為に、上記の同じ根拠で職人を養成してその者には「青木氏」を与えたとする記録も残っていて、特に先ず「古代和紙」から発祥した青木氏が確認できます。これも「無血縁の絆結合」の一つです。
    これ等の「職能に関わる青木氏」は室町初期と江戸初期に多くが発祥しています。
    何れの時代も「紙文化」が発展した時期であります。

    「紙文化」+「殖産物造り」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

    記録では、「神明社、氏神、氏寺」の「建設と保全」の為に必要とするこれらの青木氏の配下にある職能集団が、伊勢や信濃から陸奥や越後にまで「青木氏の神職・住職」と共に出かけて定住もしています。
    (皇族系のこの様な「特定の民」を「民部」と云う)
    各地の「天領地」にある「神明社」を含む神社仏閣の「建設・保全の職能集団」が「青木氏の配下」にあったのです。
    この「職能集団の青木氏」の優秀な若い中心と成る配下等も、その集団の首魁から宗家の許可を得て「別家養子縁組」をさせて「青木氏」の襲名を許し名乗らせた事が記録されています。(孫襲名にまで)
    氏上宗家筋の娘との縁組血縁と成ったその頂点にいる職能の頭領「大首魁の青木氏」が更に信頼できる配下にも「別家養子縁組」を行い、一つの職能によるピラミッド型の「青木氏の集団化」が興ったのです。
    「添書や忘備禄」などから具に調べ辿ると、氏上宗家筋の遠縁の縁者からも娘を探し出して一度宗家筋に養子とし入れた後に、首魁・頭領に嫁がせて血縁関係を築き青木氏を襲名させる努力をしています。

    (これ等の子孫の方からのお便りも「ルーツ掲示板」には多く寄せられています。 筆者の家にも職能による3氏の「別家養子縁組」の青木氏を承知し、宗家筋よりむしろ多く子孫を遺している 現在、筆者の家を本家と発言している。)

    添書から辿ると「孫襲名」までの確認は何とか出来るのですが、恐らくは、曾孫・夜叉孫までも職能による「青木氏襲名」は興っていたと考えられます。

    ここが他氏と大いに異なるところであります。
    これは青木氏の排他的な「氏神・氏寺」と「祖先神」の考えに基づく「神明社」にあり、「氏神の管理保全」や「紙の殖産」の「職能集団」を保持していた事が長い歴史の間には極めて「強い絆」で結ばれた「4つの青木氏」が構築された得たのです。血縁以上のものがあったのではないかと考えられます。

    何度か記述しましたが、因みに例として、青木氏の「表の規模(勢力)」に付いて、次ぎの通りです。
    他の青木氏に付いては個人情報の領域に入りますので、筆者の伊勢松阪の紙問屋で見て観ます。
    伊勢青木氏の「表の規模(勢力)」
    250名の店子と、玉城町の8割を占める蔵群、2つの寺と1つの神社所有、3隻の大船、松阪、堺、攝津に5つの大店、5つの城館、装飾職人、専属の宮大工、紙職人等を有し、運送職人、保養地、これ等の職人・店子の住居群が玉城町にあって、これ等に全て各種の店子・職人が付いていたことが明治35年までの記録と口伝と祖父からの伝聞とで存在していた事が確認出来ます。また、松阪、名張、四日市、員弁、桑名の線上には一族一門が地主として青木村の居を構えていた事が判っています。
    恐らくは商いに伴なう支店や大地主で土地管理などの施設があったものと考えられます。

    伊勢賜姓青木氏の勢力の経緯
    当初は平安期初期に56万石程度、寺社領で51万石 中期には北部伊賀割譲で41万石、名張西部域割譲で39万石 末期には志摩領割譲で37万石 伊勢東部長島地方割譲で19万石、室町期には伊勢南部地方割譲で8万石、他秀郷一門伊藤氏等の所領の割譲で5万石、と変化して行きます。合わせて51万石割譲と成っているので、江戸期初期には最終5から6万石弱が伊勢賜姓青木氏の石高・支配地と成り、大地主として活躍、明治7−9年の地租改正で2割程度に縮小、明治35年には「松阪の大火」の出火元として上記の資産権利等全財産の売却で賠償し解散、大店倒産 新宮の許容地のみと成った。
    伊勢秀郷流青木氏は蒲生氏郷の跡目にて15万石の内12万石が氏郷支配下に成っている事から実質3万石程度有していた模様です。(2足の草鞋策の「経済的利益」と「シンジケートの力」は除く)
    (徳川氏は伊勢賜姓青木氏が遣って行けるぎりぎりの石高を選んで決めたと観られる。)

    「調査要素の項目」
    (地主、豪商、郷氏、豪農、庄屋、名主の存在 系譜の添書、菩提寺の有無、神明社の数、鎮守神の数、城館、城郭寺、地名、家紋種、資料記録から調査 各地域性でその調査の項目が異なる 所有する資料は以上の項目毎で下記数式の条件を加味してそれを1として石高を割り出した 非公表の添書にも家臣としての石高は記述照合して判定 )

    明治以降の履歴は兎も角として、この一つの例からも伊勢を含む5家5流の賜姓族青木氏と24地域の特別賜姓族の「2つの血縁青木氏」に就いても「添書や資料」を解析すると読み解く事が出来ても、、5家5流は天領地でありますので天皇家の室町期から江戸期に掛けての困窮状況から観て、少なくとも同じ割譲状況が大小起こっていた筈です。

    信濃と甲斐は豪族足利氏と豪族武田氏が存在していましたので、添書や資料・記録では青木氏の勢力を読み取れませんが、1−2万石程度の融資産で有った模様です。

    美濃と近江は源氏側に合力して「平族との戦い」で滅亡に近い勢力低下が起こりましたので、正味0.1から0.5万石程度のものであったと観られます。
    特に美濃は激しい「源平の戦い」の場と成った事で(土岐氏の滅亡等が興った事で)賜姓族の石高は無いに等しいか低かった模様で、「大地主の青木氏」を確認する事は難しいのです。
    この後、この地で勢力を高めた秀郷流青木氏が美濃の地盤を固めました。
    美濃と駿河西域には主要5氏の系列の「5つの秀郷流青木氏」が住み分けています。
    (然し、「2足の草鞋策」を採用していない青木氏も居て判定は難しい。採用していれば5氏の総合を1と見なす事が出来るが2氏が確実 豪商の家紋から判定可)
    これ等の石高が(0.1)−0.5万石(1氏分)と観られます。当然、この程度の構成で存在していたのです。
    5家5流近隣の秀郷流青木氏と24地域の秀郷流青木氏(116氏にも及んでいることから不明)も細分化していて判断が難しいが、判る範囲の歴史の史実として残っている秀郷一門の「豪族の石高」から観て伊勢秀郷流青木氏のは平均(0.5)−1万石程度の融資産であったと考えられます。

    (当時の石高は米だけでは無く海産物などの産物も石高に換算して合わせて土地の石高を表現していた)

    上記した様に、つまり、「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合青木氏」とには「首魁青木氏」を通じて結ばれていて「4つの青木氏」が「1つの青木氏」と成り得ていたのです。
    これが生残れた団結力の「強い基盤」に成っていたのです。

    余談ですが、研究の当初、忘備禄に簡潔に書かれていて何気なく読み過ごしていた事なのですが、調査しているある時、「4つの青木氏」の「系譜添書」に「通名」でない「異質の名」が出てきて疑問が湧き、ハッと気が付いて忘備禄の意味が判り調べて行く内に繋がり始めて、「職能による孫襲名」まで判明する事に成り、その仕組みを読み解く事が出来たのです。(伝聞では承知 強い意識化は無かった)
    そして、これが特別賜姓族青木氏(秀郷流青木氏)にもあり、その「2つの血縁青木氏」を繋ぐ「融合青木氏」が存在する事までが判ったのです。丁度紐を解くように。
    この傾向は「賜姓族の血縁関係」と「職能集団」と「和紙の殖産」と「シンジケートの存在」で通じた信濃、近江、甲斐、美濃にもこのシステムが及んでいる事が紐解けたのです。
    何れにも其処には「特別賜姓族青木氏」と「融合青木氏」が「伊勢と同条件」で存在している事が判ったのです。
    「神明社」+「建設・保全」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

    青木氏の官職の一つ永代の「民部上尉・民部上佐」はこれ等の集団の統率者であったのです。
    これは「伊勢神宮」の「皇祖神」、「祖先神」の「神明社」を「守護神」とする「融合氏・2つの賜姓族」であった事からこそ「永代民部府」の責任者になったのです。
    (伊勢青木氏は他に永代「左兵衛門上佐・上尉」と永代「民部上佐・民部上尉」の官職名を持ってい
    ます。其の為に「世襲名」として宗家は「長兵衛」を継承しています。
    分家は「右兵衛門」・「次左兵衛門」、支流は「作左衛門」を世襲している。
    信濃青木氏には「右兵衛門上佐・上尉」が観られる。同様に特別賜姓族秀郷流青木氏も「左・右兵衛門上佐・上尉」の官職を担っている)

    ( 注:江戸時代に朝廷の経済的裏づけとして家柄、身分、出自に無関係に一代限りのこれ等の官職名を金品と引き換えに朝廷から名目上の上で名乗る事を許された経緯がある事に注意。後に誰で無許可で使う様に成った。)

    遺されている資料・記録の上では初期には次ぎの様な「姓氏」と成った族が確認できます。
    阿多倍一族一門の品部の「姓族」
    「九州地方」では「鍛冶族」「佐伯族」(和歌山に一部移る)
    「中国関西地方」では「海部族」「陶族」「武部族」
    「関東中部地方」では「服部族」「磯部族」
    「関西地方」では「秦族」、「司馬族」、「土師族{設楽氏}」、「鍛冶族」、「綾部族」

    以上等が早く平安期末期頃に遺された資料で「姓氏」として勢力を持った事が判ります。実際は記録で確認できない為に判断が付きませんが「小さい姓族」としては存在していたと観られます。

    鉄鋼関係、海産物関係、衣料関係、食器関係の「姓族」が記録として残っているところを観ると、矢張り市場性から必需品の関係族に下記した数式条件を持つ大きな勢力が付き「集団化・融合化」が起こっていた事に成ります。
    当然に、これ等には青木氏の様に「商い」を「2足の草鞋」としている「融合氏集団」が、「殖産」・「物造り」から来る「産物の安定供給」を目論む背景もあって、それらの後押しで「姓氏化」したものと考えられます。
    「品部」が物を生産するだけでは経済力が着きません。販売してそれも大きく商い出来なければ成り立ちません。それには「商いの強力な背景」を持つ必要があり、これを搬送するにもある程度の「武力を持つ強力な背景」の「2つの背景」が絶対条件として「姓化」には必要となります。

    「商いの強力な背景」+「武力を持つ強力な背景」=「姓氏化」

    「氏族」と異なり単独で「姓氏」を構成する事は「経済的、武力的」に困難です。
    恐らく「シンジケート」との繋がりが必要で、これ等を獲得した職能集団が「姓氏化」が出来たものと成ったのです。
    「シンジケート」つまり、「氏族」の「2足の草鞋策」と繋がりに成るのです。

    「2足の草鞋策と繋がり」+「シンジケートとの繋がり」=「姓氏化」

    「姓族」+「氏族」(「2足の草鞋策」)=「姓氏」

    ですから、この数式から「姓氏」が発祥している地域が特定できるのです。
    「2足の草鞋策」を採った「氏族」を特定すればそこには必ず「姓氏」が存在するのです。
    そうなると、平安期からの「氏族」で「2足の草鞋策」で室町期を乗り越えて生き残れた「氏族」と成れば限定されてきます。80-200の氏族の中からこの氏族を特定するのは簡単です。
    「2足の草鞋策」には広域の「シンジケート」と「運送運搬」と「適度の武力」を持っているのですから、阿多倍一族一門の「2足の草鞋策」を採った「氏」の発祥している地域には、その配下の「姓氏」が発祥している事に成っているのです。その「姓氏」はその「職能種」に依って「地域性」が強く出ている事に成ります。
    「姓氏から地域」、「地域から姓氏」、「姓氏から職能」、「職能から地域」、「地域から歴史」等の判別が可能に成ります。当然に「氏族」との関係もありますが、その「氏族」もほぼ同じ関係性を保持しているのです。
    例えば、鍛冶部の様に鉄と水と港の所、綾部の様に染料と水の地域、土師部や陶部であれば良い粘土、と云う風にルーツ探求の判別には雑学として大変重要な要素と成ります。
    180と言われる部でそのルーツや歴史や由来など判別が出来ます。
    他に瀬戸内から起こった最も早く「姓氏」に成ったとされる「海部氏」が記録上で最初とされるのも「海産物の生活品」のものであったからと考えられます。

    「青木氏と関係した部」
    この様に「青木氏」で有れば「2つの血縁青木氏」の存在する近隣地域には必ずその特長を持った「姓氏」が発祥しているのです。
    工部(くべ) 土木職人・建築職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏  
    紙梳部(かみすきべ) 紙職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
    楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
    土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏 
    金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人  ・伊勢、信濃の青木氏
    玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人  ・伊勢、信濃の青木氏
    服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
    倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人  ・近江、伊勢の青木氏
    馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 飼育馬職人・輸送職人  ・伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
    麻績部(おみべ) 麻布紡績職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
    赤染部(あかそめべ) 染色職人  ・近江、伊勢、甲斐の青木氏
    茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人  ・近江、伊勢の青木氏
    鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏
    弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
    矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
    山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人  ・近江、信濃の青木氏
    舎人部(とねりべ) 付人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人 ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
    佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏 
    硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
    墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
    作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏


    以上が平安期から室町期までの遺された資料から発見できる青木氏の定住地で関わった職人集団で全てではありませんが確認出来る「部民」と成ります。
    ・印の職能集団が確認出来る地域です。
    但し、近江、美濃は平安末期に衰退し滅亡していて記録は無く成っているが、佐々木氏の資料などから奈良期から平安期初期の各種資料から存在を判断したものと、室町期以降の伊勢青木氏との関係資料から判断したものです。甲斐の資料は少なく又搾取偏纂が多いので推測域を出ません。
    秀郷流青木氏は各地の青木氏の系譜の添書からと、伊勢青木氏と信濃青木氏の親交からの繋がりからと、源氏の関係資料や佐々木氏の関係資料から割り出したものです。
    藤原氏は荘園制度に大きく関わっていた事からこれ以外にも職能集団との関わりは最も大きく持っていたと考えられます。その中の青木氏に関するものを抜粋したものです。
    伊勢青木氏と信濃青木氏と伊勢秀郷流青木氏とは共に深い連携をして生き残りましたので、同じ職能集団を持ち、且つ、中には共通する職能集団としていた事が覗えます。

    「部」の本来の職が時代毎に少しづつ関係する職種に変化しているので上記した内容から広範囲な関係職種に成っているのです。
    これ等は「5家5流の商関地域」と「秀郷流一門の24地域」に関わる地域と成ります。
    これを観ると、青木氏の「2足の草鞋策」の「商い範囲」と「商い規模」と「商い組織」と「氏と姓」が観えて来ます。上記で論じた「4つの青木氏」の「絆の成り立ち」もなるほどと観えて来ます。
    又、「3つの発祥源」としての役務を務めた奈良期からの舎人部、佐伯部、倭文部、史部もあり青木氏の旧来からの絆が観えます。
    「神明社と菩提寺」を物語る職能集団が青木氏の部の多くを占めています。
    これで観ると、奈良期からの「部」が「絆」と成って「青木氏の別家養子の徒弟制度」に繋がっている事等なるほどと理解できます。
    未勘氏の青木氏の家臣団、姓化した青木氏の家臣団、室町期末期、江戸期初期、明治初期に発祥した「姓名」が良く判ります。
    この内容を観ると、奈良期から江戸期までの「青木氏の総合的な立場」を物語る職人集団である事が良く判ります。又、奈良期と平安末期頃までの青木氏の置かれていた立場や勢力がよく観えて来ます。

    (青木氏ルーツ雑学に大きく影響する基礎資料に成るので都度調査続行している。 「部」や「阿多倍一族一門」に関する資料と研究資料が殆どないので苦労している。最近では墨部の氏、硯部の氏、作部の氏と方氏のその所在と歴史上の史実が判明した。)

    工部(くべ) 土木職人・建築職人
    この職能集団の「工部」の存在は、青木氏にとって大変重要な歴史上の史実の判断要素に成るのです。特に、「神明社との関係」が密接に繋がっているので、その各地の5000にも及ぶ寺社の建設と維持管理にはこの職能集団が青木氏の神官や住職と供に移動しますのでその広がり状況を判断する事が出来るのです。
    奈良期から平安初期に「古代密教と祖先神の神明社」を崇拝し、その後、平安中期の密教浄土宗と神明社を、青木氏に関わる地域に青木氏の自らの力で建て育てていた事を物語ります。、
    その「神明社や菩提寺」の「建立と維持管理」に専門的に携わっていた事を意味しこれを物語る記録が多く遺されています。
    この「部」は伊勢青木氏に記録されているので、全国各地の全ての青木氏には持ち得ていなかったと観られ、記録は信濃以外には見つけ出す事がまだ出来ないのです。
    武蔵の秀郷一門宗家にもこの職能集団を持っていたと観られる記録があります。
    伊勢青木氏と武蔵秀郷一門の宗家がこの集団を抱えていて要請に応じて派遣していたと考えられます。特に、武蔵では平安期末期から永嶋氏一門がこの集団を統括していて朝廷の官職も務めていました。
    永嶋氏は兼光系3氏一族青木氏と長沼氏と永嶋氏ですが、その最初の氏を発祥させた「第2の宗家」と言われ千国を始祖とする特別賜姓族青木氏から、平安末期に朝廷の官職を譲って永嶋一門に委ねたと考えられます。それまでは添書から観ると「大工頭」」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)は青木氏に書かれていて、ある時期からこの官職を成長した永嶋氏に成っていますので譲ったと考えられます。永嶋氏は元は「結城氏」を名乗り「酒井氏」を名乗り、次に「永嶋氏」と名乗っています。
    (青木氏発祥から結城氏は朝光7代目、長沼氏は考綱5代目 永嶋氏は行長12代目)
    「結城」の字の通り、最初はこの役職を一族の青木氏から譲り受けてそれを「氏名」にした事が判ります。秀郷一族一門の組織が余りに大きくなり、且つ、「特別賜姓族青木氏」は、賜姓族と同じ「官職と身分家柄」と「3つの発祥源」の役目を与えられ、且つ、賜姓族青木氏を護る為にもそれを全うする目的から、戦略上担当域の整理を行ったと考えられます。時期がほぼ一致しています。
    その後、鎌倉期の後もこの職域を護り、他氏との建設も請け負っていて九州の大蔵氏の末裔永嶋氏も土木建設業を営んでいた記録が残っています。
    問題の未解決な点は、伊勢青木氏外に信濃の青木氏から東北北陸各地に神官、住職、工部を移動させている記録があります。この末裔が工部に関しては徒弟養子制度で青木氏を名乗って新潟、陸奥(青森、岩手)に定住している事が判っています。(この3つの末裔の方からもお便りがあります)
    つまり、伊勢青木氏とはこの「工部」に就いてどの様な仕分けであったのかが明確ではないのです。
    その記録の内容から読み取ると次ぎの様に成るのではと観られます。
    ”総元締めは伊勢青木氏、神社は伊勢大社分霊と神明社関係は伊勢青木氏、寺社の密教菩提寺浄土衆は信濃青木氏が主に担当し建築維持管理するシステムを採っていた。神官と住職の派遣は総元締めから移動辞令を各地の神社・寺社に命じていた。工部の管理は2つに分けていた”と読み取れます。
    これ等の細部の事務管理は下記の舎人部と佐伯部が専門に行っていた事に成ります。
    当時、記録保管管理は氏の神社、寺社が行っていた事から比較的に下記にあるような事が青木氏の場合はよく把握されているのです。

    紙梳部(かみすきべ) 紙職人 
    楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人
    紙関連職人の存在は、奈良期から楮や三叉の植物を育てて殖産し、それを加工して紙を梳き、紙製品としての一環した殖産事業を成し遂げ、平安期にはそれを販売し、商いとしていた事が証明出来ます。この事は5家5流の皇族賜姓青木氏が5古代和紙の生産地として殖産していた事を意味し、平安末期には「2足の草鞋策」を採用していた事をも意味します。
    この職能地域は甲賀−伊賀−松阪であった事が記録から判断できます。
    同時に伊勢の伊賀地方は奈良期末期に阿多倍に割譲しますが、その後も続けて殖産され続けていた事に成りますので、阿多倍一族「たいら族」との深い交流も有った事を意味します。
    「紙屋青木長兵衛」としていますので、先ずは紙が主要製品・商品であった事と成ります。
    5家5流の青木氏を繋ぐ和紙であった事に成ります。伊賀・伊勢和紙から信濃、近江、美濃、甲斐とこの職能集団を移動させて殖産を拡げて行き戦略的に青木氏の基盤を確立させて行った事に成ります。

    土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人
    この職能集団は近江青木氏と美濃青木氏の資料から観られる事ですが、奈良期から器類の職能集団を抱えていた事は「2足の草鞋策」の商品に成っていたことを意味します。平安末期からはこの2つの青木氏の衰退滅亡で地元に根付いた産業(信楽焼きとして)として育って行ったと観られます。
    ただ、神明社や菩提寺の仏具類には欠かせないものとして伊勢−信濃青木氏はこの集団を室町期まで抱えていたか援助していた事を物語ります。信濃にも焼き物や陶器類が現在も生産されていますが信濃青木氏が関わっていたかは不明です。それの元は奈良期から近江青木氏の土師部であったのです。「信楽」は元は「土師」なのですが、この土師部が源平の戦いで近江と美濃の青木氏が衰退滅亡した事等により土師部は主を失い「地元産業」として生き延びてきたと考えられます。

    金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人・金具職人
    この職能集団は、「皇祖神の伊勢大社」と「神明社や菩提寺」の「神器・仏具類」には欠かせないものとしてその職能集団を抱えていた事に成ります。平安末期からは「2足の草鞋策」としての商品としても扱っていた事を物語ります。伊勢青木氏の資料と、越後(陸奥)の青木氏に遺された仏教資料から覗えます。

    石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人
    玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人
    この職能集団は、「金作部」と同じ事で、伊勢青木氏と信濃青木氏と美濃秀郷流青木氏に観られる事です。55地域にも及ぶ各地の青木氏の定住地の神明社菩提寺の建立と維持管理に携わっていた事に成ります。

    服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人・(情報収集職人)
    この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に必要とする事でかなり大量に生産していた事を物語ります。間違いなく、「2足の草鞋策」の商いの主用品としていた事を意味します。近江青木氏と伊勢伊賀地方と美濃秀郷青木氏の私有古文書や神社の古文書に観られる記述です。伊勢伊賀はルーツの服部氏の発祥地ですが、伊賀氏と伊勢青木氏との関係資料から観察できます。
    下記の織物職人等の織機関係を担当していたのです。織機そのものを商品として扱っていたのです。
    青木氏の部の職能集団の中で来米部の影響受けて情報収集職人(忍者)もかねていた事を意味します。
    服部に関わらず部の相互間でも有機的に働いてい事を物語ます。
    服部が何故情報収集の役目を担っていたかは不明ですが、織機器の販売輸送から各地を移動すると云う事から来米部の手助けをしたと考えられます。各地に平均的に服部の「姓氏」が多いのはこの事を物語ると考えます。(信濃が目立ちます)

    錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人
    この職能集団は、近江に多い所で近江青木氏が抱えていた職能集団であったと見られ、この職能は「神器・仏具類」の製作・装飾に用いられるもので、伊勢青木氏が神明社・菩提寺の建立と維持管理の為には必要として平安期末期頃に移動させた物ではないかと考えられます。近江青木氏の平安末期の衰退滅亡に関わっていると考えられます。服部部に織機を作らせて「2足の草鞋策」の商いの一つに成っていたと考えられます。

    倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人
    史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人
    この職能集団は、奈良期から江戸期末期までの「神明社・菩提寺の建立と維持管理」の事務職・記録保存・家系図・祭祀等の職務に付いていたと観られます。製本や印刷技術や果てはお守り札類・暦までの一切を担当していたと考えます。全国の青木氏への「神明社・菩提寺」に関わる膨大な量の事務・雑務を担当していたと観られます。伊勢青木氏の資料に観られますが、「2足の草鞋策」の商いに関係していたかは不明です。無関係であったと観ます。

    来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人
    この職能集団は、実は重要な内容なのです。本職は鉱山開発の山師ですが、全国を歩き回り鉱山を発見し開発する職人なのです。しかし、別の面で各地の「戦略上の情報」や「商いの情報」なども集めて逸早く対応する体制を採っていて青木氏の生き残りに重要な役割を果たしていたと見られます。
    平安期初期より既にこの「2つの面」を持っていたと記録されています。
    鉱山開発では、秀郷流青木氏の越後青木氏の職能集団として関わっていた事が記録されています。
    伊勢青木氏や信濃青木氏にもそれらしき鉱山開発の表現が見られますので、鉱山開発はしていたとしても、むしろ、伊勢青木氏と信濃青木氏が鉱山に大きく関わる明確な資料が見つから無い事から、古くから主に「情報伝達収集」の職能として活躍していたと観られます。
    この事等から秀郷流青木氏と伊勢・信濃青木氏との間で「情報伝達収集」のやり取りをしていたのではないかと考えられますが、それを物語る何らかの確実な記録が現在発見出来ていません。
    「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」の両面を支えていた「情報伝達収集」の職能集団で、職務上の役目履行の為に「忍者」の様な能力も持ち合わせていたものと考えます。これは鉱山開発に必要とする能力であったと考えられます。この「忍者的技能」は青木氏の「来米部」が始祖と考えられます。
    伊勢青木氏の「来米部」は、日本書紀の中にも全青木氏の始祖施基皇子が天智天武から命じられて全国各地を争い事の調停や平定や国情調査で飛び回っていた時に、警護役や先行掃討役で動いていた事が書かれています。
    平安初期と中期の古い資料からもそれなりの表現で警護役で動いていた記述が観られますが、伊勢の伊賀地方と隣接する滋賀の甲賀地方は、後にこの「忍者」でも有名なったのはこの青木氏の職能集団の「来米部」のところから来ていると観られます。これは鉱山開発で培った各地の地理を含む知識や技能や各地の豪族やシンジケートとの繋がりから、その上記する役目に合わせて任じたと考えられます。
    その証拠に施基皇子は、持統天皇に命じられて「律令制度の基本」と成るものを作る為に、上記の経験から彼等からの話も聴集して全国各地の細かい国情から見た「人の行い」を纏めた「善事撰集」の編集をしています。これが日本最初の律令の「大宝律令」の基礎に成ったと云われています。
    この時に陰で活躍したのが鉱山開発の「来米部」であった事が文面から観て判っています。
    全国を駆け巡った「伊賀忍者の服部半蔵」は服部の織物器機製作職人の古来からの青木氏の「部」でありますが、同じ伊勢青木氏の職能集団の「来米部」の影響か血縁を受けてか「情報伝達収集」をも兼ねていた事と観られます。
    そもそも忍者には3つの階層があり、上忍は「郷氏」と中忍は「郷士」であるので「来米部」より姓化した「姓氏」です。上忍の郷氏は青木氏の徒弟制度の別家養子制度の「来米部」の首魁の氏、中忍の郷士は農兵の地侍であるので姓化して姓氏を名乗った配下の中の来米部、下忍は農兵組の来米部と成ります。
    忍者の階層から観ても伊勢青木氏−信濃青木氏の「来米部」は「情報伝達収集」の役目を荷っていたのです。この事は伊勢−信濃「シンジケート」との結びつきでも証明できます。
    平安期末期から「2足の草鞋策」の一つとして「シンジケート」が考えられるのですが、筆者はこの「来米部」から考えると、既に奈良期から、近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流の間では各氏が抱える「来米部」の役目としてシンジケートに近い状態のものが存在していたと考えているのです。それが平安末期から「2足の草鞋策」となった事から「来米部」の役割は大きくなり「情報伝達収集」の役目に重点を置く様になって行ったと観ています。
    奈良期末に滋賀の甲賀に接する伊勢北部は、阿多倍の伊賀割譲と室町期に室町幕府執事の所領となった経緯がありますが、その後も青木氏の「来米部」として続けられていました。
    そして、室町末期からは「シンジケート」が戦乱で拡大し、その役目も激しさを増し、更に急激な「情報伝達収集」の役目が増して、所謂「忍者」成るものとして一部が活躍するように成ったのです。この時に服部が借り出されて忍者と成ったと観ています。甲賀、伊賀が後にこの影響で「忍者村」となったと考えられます。
    伊勢青木氏の勢力圏域は室町期には名張−松阪−玉城−四日市−員弁−桑名のライン上(伊勢の中央より北部域)にあり、この「来米部」の末裔居住地は名張付近ではなかったかと観ています。
    玉城の8割は蔵群と家臣や雇い人や職能集団の居住地と仕事場であった事は記録から判っています。
    即ち、「来米部」の役割は青木氏にとって無くてはならない「抑止力」であり「商いの手段」の「シンジケート」の維持運営管理を担ったのです。

    綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人
    この職能集団は、綾編職人・布織職人である事は事実でありますが、実はこの綾部(あやべ)の存在は歴史上である事を意味しているのです。それは「シンジケート」なのです。シンジケートの者はこの綾織の手作業をして綾紐などを「家内工業的」にしていたのです。勿論、伊勢−信濃青木氏の商いの一環として戦略上繋ぎの仕事なのです。シンジケートの一員で信濃甲斐の国境の真田郷より配流になった九度山の真田氏の「真田の綾織」でも有名ですが、「綾織」はその伊勢シンジケートの一員の証しなのです。
    倭文部や史部や来米部等と連携しながら情報収集のシステムを構築していたのです。
    忍者の来米部と供にこのシンジケート間を駆け巡っていたのです。

    馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 輸送職人・飼育馬職人
    この職能集団は、当時の陸上の輸送手段として、戦いの騎馬として、移動手段として最も重要であったのですが、その大量の馬の飼育と管理を専門にしていた職能で、「戦い」には馬の貸し出しも行い、飼育も請け負うなどの商いと、その商いの物資の輸送手段にも用いました。当然にシンジケートのイザという時の戦力にもなったのです。この部は信濃青木氏、伊勢青木氏、近江青木氏に確認され、特に信濃青木氏の馬部は日本書紀の記述にも出て来ます。

    麻績部(おみべ) 麻布紡績職人
    衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人
    赤染部(あかそめべ) 染色職人
    茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人
    この4つの職能集団は神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わっていたのですが、青木氏に大きく関わる事では無く、主に商いの殖産と産品の一つとしての意味合いもあったのです。もう一つはこの職能は伊勢−信濃シンジケートの殖産にも関わっていたのです。
    シンジケートは経済的裏付とを受け、そして、それを商品化していたのです。
    自らもこの職能集団の能力を受け生きる糧ともしていて、それを青木氏の商いの「4つの元締め」に収めると云う仕組みを持っていたのです。一種の家内工業の組織であったのです。縫い−染めるの連携組織です。表向きは「家内工業」で、裏は「シンジケートの一員」で構成されていたのです。

    鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人
    弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人
    矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人
    この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる根幹に成る職能で、その技量の範囲を生かして神社や仏閣の欄間や仏像等を彫る事をしていました。
    弓削部や矢作部は武器を作る傍ら、鞍造部に協力して細工物を作り「神器・仏具類」の製作にも関わったのです。これ等のものは商いの商品としても扱われていた模様でその殖産は山部と供に連携していたのです。これ等も上記した麻績部等と同様にシンジケートの組織に載せて彼等の家内工業的な生産をし収め商いの商品として販売し経済的な潤いと糧としていました。

    山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人
    この職能集団は、山や山林の維持管理が主体ですが、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる素材を提供するのが目的です。上記した色々な殖産に関わる材料の育成管理も行います。青木氏は信長の伊勢攻めの際に材木の買占めなどをこの山部を使って行い丸山城の戦いを征しました。また楠木正成の南北朝の戦いにもこの山部の山を知り尽くした力を使って山の山道通過阻止や飲料水の阻止をし10万の軍に対して勝利を導き出しました。
    山賊の排除などにも役立ちました。この山部を通じてシンジケートとの連絡を図る等の役目も荷っていたのです。山部そのものもシンジケートの一員でもあったのです。伊勢−信濃青木氏の天正の3乱でもこの働きがよく出てきます。

    鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人
    この職能集団は、信濃青木氏の関係資料の中に出てくる事ですが、鵜飼だけの職能ではなかったのではないかと観ています。それは「河川の輸送」に対する役と各河川の道案内役ではなかったかと観られるのです。単純に鵜飼では河川産品だけでは青木氏に執って大きな意味を持ちません。山部と同じ様な役目をも持たしていたと観ているのです。山部−鵜飼部の連携を構築していたと考えます。

    舎人部(とねりべ) 付き人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人
    佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人
    この職能集団は、上記した職人を抱えて有機的に「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」と「氏神の祖先神 神明社」と「氏寺の菩提寺」を持つ「青木氏」を支えていたのですが、青木氏の氏上の長一人が全体を仕切る事はそもそも困難です。そこで参謀本部や司令部の様なシステムを構築し、其処から指揮する体制を敷いていたのです。それには多くの番頭が必要となりこれを専門的に行っていたのです。
    指揮、作戦に関する専門的知識や情報収集分析能力を要求されますし、当然に長に対する身の危険も伴ないますのでそのガードマン的働きも併せ持つ警備本部の役割も果たしていたのです。
    「2足の草鞋策」の両面に必要とする最も重要な能力です。
    この本部の仕事を「舎人部」(指揮)と「佐伯部」(警備)に分けていたのです。この2つを複合的に青木氏は統括していたのです。全青木氏との連携なども此処から行っていたと考えられます。
    上記した一揆などへの援護等もこの本部機構を動かしていたことに成ります。

    硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人
    墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)
    作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人
    この職能集団は、青木氏の商いの「和紙」に関わる職能種です。
    この集団は近江と奈良と紀州と信濃に存在し、主に奈良から紀州に掛けての産品が良品とされ平安初期から生産していた事が判っています。当初は紀州の産品は累代の幕府の専売・販売品で紀州は徳川時代まで徳川氏に納めていました。この4つの地域は時代毎にその産出量が異なり、又品質も異なっていました。この3つ共にその職能の産地は紀州だけで後は墨だけでした。
    伊勢青木氏紀州産品は累代の幕府から平安時代からの歴史もあり伊勢を中心に生産とその販売権を確保していたのです。奈良は松煙墨で荒く粒にばらつきがあり色合いが悪いとして、その品質から紀州に劣る事から途中で専売を解除されています。紀州産(藤白墨)は万葉集にも出てきます。
    近江、奈良、信濃は専売から外れていて紙と合わせて商いの対象と成っていたのです。
    紀州産の硯石や砥石は高級紫石として平安期は朝廷に納めた後に市場に出回るものとして重宝されていました。
    当時墨は大和では生産できずに輸入に頼っていました。そこで朝廷は作氏・方氏を平安期にわざわざ中国から呼び寄せた専門の墨職人です。朝廷の資料にも出てきます。最初は近江、信濃、次ぎに奈良、そして最後に紀州となり輸入品より優れたものが生産できるように成りました。調査に依って、その定住地は紀州の「下津」という港の近くで「方」という地名にも成っています。姓氏として硯氏や(作氏)・方氏として現在でも末裔は村を形成しています。
    実は伊勢青木氏には、平安時代の朝廷の専売品であったもので、明治の末期に天皇家よりその時代の「藤白墨」をその所縁で拝領していたのですが、然し、平成の世までこの3つの職能集団の末裔の行方が不明でした。青木氏の職能集団であるので、その責任上調査を進めていましたが、つい最近判明しました。(研究室にレポート済み)


    青木氏の職能集団の疑問
    以上の青木氏の職能集団に付いては記録から確認出来るのですが、凡そどの様な商い(商品や営業方法)をしていたかはこの部でも判ります。然し、幾つかの疑問点があり、先ず海の部が確認出来ないのです。(生活上の職能集団の膳部等は除いた)
    つまり、「海部」・「船部」等です。「海上輸送」は伊勢青木氏では堺、摂津の港で4店舗を持ち貿易をし、輸送手段として千石船3艘を有していたことは判っていますし、越後、尾張、三河、陸奥には大きな港があります。「2足の草鞋策」を敷く以上は無くてはならない職能集団です。
    ただ、瀬戸内の秀郷流青木氏には廻船問屋を営んでいるので「海部」・「船部」(海族・海人族)等が確認出来るのですが、5つの地域は港を持っていますのでなくては成らない筈です。
    尾張と三河では「磯部」が確認出来ますが、歴史的な職能域が少し異なります。
    考えられる事として、「海産物」の商いは別として、「海上輸送」は讃岐籐氏の秀郷流青木氏がその専門職の廻船問屋を営んでいる事から、「貿易」ともなればかなりの操船の専門域となり合わせて海利権の問題もある事からこの瀬戸内の青木氏に一切契約して任していた事が考えられます。確かに、江戸末期の浅野氏滅亡時に伊勢青木氏の3隻と瀬戸内の秀郷流青木氏とが連携して浅野氏等の骨董品などの買取をした事が記録で判っています。
    連携していた事は確認は出来ますが、常設する程の連携であったかは不祥です。
    そこで、不思議にこの記録が無い事に付いて、考えられる事として「2足の草鞋策」で殖産と商いをしたのが1125年頃ですから、部の職能集団は985年から1025年頃の身分制度は開放されています。しかし、法的な「身分制度の開放」であって部の職能集団を解体した訳ではありません。
    部の職能集団はこれ以後集団化して行くのですが、その所属する氏での中での職業の継続は雇用人としてされているのです。この時に青木氏に所属する職能集団は雇用人として法的開放から丁度100年位立っています。これ等の集団の雇用を支えて行くにも「2足の草鞋策」でこの職能集団の生産する産品とその技能を保持し、且つ、乱れの生じてきた社会の中で逸早く「青木氏の衰退滅亡」を防ぐにも、「商い」以外には無かったのではないかと考えられます。
    つまり、その時に抱えていたのが上記の集団であってその時には疑問点の海上に関する職能集団は抱えていなかったと考えられます。そもそも和紙を主体として始めた「商い」であった為に海上に関する職能集団は必要なかったと成るのです。それほどまでにこの商いが大きくなかったと考えられます。陸上輸送の範囲で事足りていたのです。
    然し、鎌倉時代と室町時代には「紙文化」の花が咲き、真に「青木氏の商い」そのものの文化が開いたのです。そこで「商い」は大成功を遂げて拡大し、更に職能集団の体制をこれに合わせて「組織化」して確立させたと考えられます。その中には「氏の徒弟制度」もあって、「家臣による未勘氏」と「絆による第3氏」の「4つの青木氏」が出来上がって行ったのです。
    (上記青木氏の部の職能集団では家臣に成った部、絆で結ばれた部に構成されて行ったのです。)
    この時に拡大した「商い」の輸送手段に問題が生じ、海上手段として大船を保有したと考えられますので部としての職能集団が記録には出て来ないと観られます。
    「神社と寺社」は青木氏の独自のものを保有していたのですから、各地55地域の青木氏の記録は遺されていた筈です。然し、見つからないのです。
    当時は「神社と寺社」が「氏の記録と保管」の職能を荷っていたのですが、平安末期の「源平の戦い」から室町期の「下克上、戦国時代」によりその戦いの最前線となった「神社と寺社」の城郭としての役目の為に焼き討ちに真っ先に会うという憂き目もあり、記録の多くは消失してしまっているのです。
    江戸期から明治期にあっても「一揆」の拠点として使われた為にも記録は消失と成った為に、特に海上に関する史料関係が発見出来ないのでは無いかと考えられます。
    何か海上に関する「特別な慣習」があって遺し難かったのではないかと観られます。「海利権」と「独特な慣習」に有るのではと観られます。
    「陸上のシンジケート」は旧来からの経緯で育て克服出来たとして、「海上のシンジケート」、つまり、各地に存在する「水軍」です。駿河、三河、大島、伊豆、伊勢、熊野、紀伊、瀬戸内、村上、陶、豊後、(青木氏が関わった水軍)等の主要な水道には水軍が存在していて「シンジケート」を構成していたのです。即ち、「海賊」までも抑えた「海族」(海人族)です。(源氏は前8つの水軍で、後3つの平家水軍に勝利した)
    この「海族」に「繋がり」を持てたとしても支配に及ぶまでの力は勢力は無かった事を意味します。
    (同族の源氏は平家との戦いの際に義経は前4つは源氏に味方し、中の4つは義経が再三出向いた味方する様に働きかけ最終的に味方した位で勢力圏に無かった記録がある事から全く青木氏も無かったと観られる。)
    それ故に、「讃岐籐氏」の秀郷一門の讃岐青木氏はこの瀬戸内水軍を支配し、横の水軍にも「繋がり」を効かせられる事が出来、日本海側にも進出していた「廻船問屋」として「大商い」を営んでいた事から、他の「2足の草鞋策」を採る青木氏は大口の商いにはこの瀬戸内の青木氏に「海上輸送」を一括して委ねていたと観ているのです。


    そこで、これ等の「青木氏の基盤の支え」になった青木氏が一体どのくらいの「勢力」を保持していたのかを検証して観ます。
    これには次ぎの数式論が成立する筈です。

    A(固定条件)=「殖産」+「地場(土地)」+「広域シンジケート」+「運送・運搬」+「適度の武力」
    「2足の草鞋策」=「商い」+「A」
    「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「2足の草鞋策」+「A」

    ∴「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」

    「神明社・菩提寺密教の維持」
    上記の数式から果たして「神明社・菩提寺密教」を維持しょうとすると、どの程度の力が必要に成るのかは疑問です。
    それは上記の数式から判ります。
    それは「商い」と「職能集団」を維持し、固定条件の2倍の力が必要という事に成ります。
    独自の「守護神と氏寺」を所有する事は大変な勢力が必要である事が判ります。
    では、”どの程度のものか”と成りますが、次ぎの様に成ります。
    因みに、この数式論を展開すると、伊勢青木氏は「神明社・菩提寺密教」を持っていたのですから、2「A」以上に相当する「綜合的な力」を有していた事を意味し、これが上記する5万石程度と成ります。
    2「A」ですので固定条件の「A」(固定必要経費に相当)は2.5万石程度は少なくとも最低で必要で、この程度の場合は「商いの利益」だけでは”「神明社・菩提寺密教」は維持出来ない”と云う事に成ります。
    伊勢と信濃以外の美濃や甲斐や近江は、単独では室町期以降には「神明社・菩提寺密教」は持てない事に成ります。現実には単独では持っていなかったのです。
    A=2.5万石として、”「商いによる利益」で「職能集団」を何とか維持する事が出来る”と云う判断も出来ます。
    秀郷流青木氏は「地域の幾つかの同族の青木氏」を綜合することで持てる事に成りますので、現実にはその様に成っているのです。
    又、「2足の草鞋策」=「商い」+「A」では、「商いの利益」と供に少なくとも2.5万石を保持する勢力を持っていれば「2足の草鞋策」を続ける事が出来ます。
    「3つの発祥源」を護り、「A」(シンジケート等)を維持し、「商い」を維持するには2.5万石程度の勢力が必要という事にも成る訳です。
    この様に「神明社・菩提寺密教」の有無を確認すればその石高を知り勢力を知る事も出来るのです。又逆の事も知る事にも成ります。菩提寺があり、神明社が近隣にありとすると2.5万石以上の勢力を持っていた事を示し、「2足の草鞋策」を採っていた事も判る事に成ります。
    この雑学の判別式はルーツ解明に大変役立つものです。
    この事から2.5万石は大名か大郷氏、大豪族・大地主・大庄屋の扱いと成りますから、その氏ではそれに見合う遺品が存在する事にも成ります。この勢力では一軍(4−5騎 1騎50人)を指揮する事に成りますので、「軍配」、「馬盃」、「床机」等の指揮官が持つ物が遺品としてある事にも成りますし、宗派、仏壇や墓形式、戒名、邸、館、門構え等も全て違ってきます。

    推して知るベしで、この数式以外にも上記した幾つかの数式条件を満たす為にはある一定の「上記した勢力」が必要と成ります。これらの「数式論の解析」で色々な状況を判別検証する基準にも成ります。
    奈良期から明治期までの筆者が論じて来た菩提寺など「青木氏の力」に付いての多くの判定要素はこの様な「数式論の解析」から「史実の数値」などとを照合し駆使して割り出しているのです。

    資料が遺されているので判断基準にしている「伊勢青木氏の経緯」として、平安期初期には伊勢北部、平安期中期には伊勢東部、平安期末期には東南部、室町期末期には伊勢松阪の一部の割譲、江戸期初期には「青木氏の5万石」の土地を残して細部地域の割譲が起こりますが、江戸期中期の5万石でこれを維持するのに限界で有った事に成ります。
    56万石から上記の様に「伊勢青木氏の勢力」の時代事の推移を観る事も出来ます。
    各地の天領地の青木氏は、天領地割譲が天皇家の衰退の経緯を示しています。依ってほぼこの推移と類似していますので、各国の「特別な国情」を加味して全体の石高を当て嵌める事で判断が可能です。
    伊勢国のみならず各地の史実からも(データーの少ない近江、美濃、甲斐等も)割り出せますし、判れば逆に判別して行く事も出来るのです。この数式解析論をよく採用して判断に用いています。
    算数論の様に1+1=2には成らずとも、より多くの判定要素を組み入れて行けば感覚的に観るよりは史実と真実に近い「類似性の答え」が出て来ます。

    (近江、美濃、は上記した「源平の戦乱の有名な激戦地」で滅亡状態になります。甲斐は戦国の戦乱で滅亡状態に有った事から消失や衰退で独自で保有する事は出来な区成っていました。
    従って、和紙を通じて伊勢−信濃から経済的援助を受けていたと観られる)

    「神明社・菩提寺密教」を基本として「和紙」と「職能」と云う事で繋がっていた「5家5流青木氏」と「秀郷流青木氏」にはそれなりの上記の「数式条件」の「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」が備わっていなければ連携も成り立たない事を意味します。
    筆者の計算では、室町期から江戸期の55に近い地域の青木氏各氏の勢力領を観て見ると、石高で表現すると少なくとも1万石程度の勢力を持ち得ていなければ「2つの血縁青木氏の関係」は成立しない事が云えます。

    「青木氏のパラメータ」
    つまり「2つの血縁青木氏」には青木氏の添書等の資料から平均的に次ぎのパラメータが出来るのです。
    「姓氏の発祥地域」=1万石
    「青木氏の地域」=1万石
    「1万石の地域」=青木氏
    「1万石の青木氏」=「2足の草鞋策」
    「2足の草鞋策」の地域=「姓氏の発祥地域」
    「姓氏の発祥地域」=「青木氏の地域」

    (平均1万石:バイアスB=±0.2万石で、R=0.01〜5万石)
    以上等の論調が成立する事に成ります。

    (基準を1万石(0.5)の多くの氏の勢力を調べて平均化してそれを1として、「青木氏の勢力」を計算した。この数式論に「調査要素の項目」を照合して「青木氏の表の勢力」を検証調査した。)

    大体青木氏1氏の1万石は「40人の家臣団」(常設期、 戦乱期は常設・5、 4−5騎)と成ります。
    そうすると、勢力圏の程度を考察して観ると次ぎの様に成ります。

    「美濃一帯」では5氏の同族の秀郷流青木氏がいましたから、5万石の勢力を保持していた事に成りますので、「200人の家臣団」で「1000人の集団」となります。

    「伊勢」では秀郷流青木氏は3万石でしたから「120人の家臣団」で「600人の集団」と成ります。賜姓青木氏では1氏で5万石でしたから「200人の家臣団」(実際の記録は250の家臣団)で「1000人の集団」と成ります。伊勢では合わせて「320人の家臣団」で「1600人の集団」と成ります。

    「信濃」では4氏から構成されていて5万石ですから、「200人の家臣団」で「1000人の集団」と成ります。
    「近江」では3氏で構成されていて0.5万石程度でしたから「20人の家臣団」で「100人の集団」と成ります。

    秀郷一門青木氏24地域の中では次ぎの様に成ります。
    「関西−中国域」では「讃岐籐氏」の秀郷流青木氏は大勢力でしたので讃岐、瀬戸内・(土佐)、阿波、安芸、伯鰭の勢力(8)を合わせると10万石程度の勢力圏を有し、「400人の家臣団」で「2000人の集団」はあったものと考えられます。(8地域/8は「2足の草鞋策」の確認地)

    「武蔵・関東域10と東北北陸3」では根拠地ですので、各地域毎に5〜8万石程度の勢力圏/地域(13)で「320の家臣団」(常設)で「1600の集団」であったと観られます。(8地域/13は「2足の草鞋策」の確認地)

    九州は肥前、筑前、豊前の3地域では土地柄から資料は少ないし末裔の拡大は低いが、北九州の豪族の酒井氏、佐竹氏、菊地氏、佐伯氏等の武蔵・関東域との秀郷一門青木氏との度々の交流(荷駄等)の痕跡資料があり、この結果として、この4氏の末裔が関東の秀郷一門地域に認められjます。
    この事から秀郷流青木氏の「2足の草鞋策」の痕跡が認められます。
    石高は算出は困難であるが平均値に等しいと考えて3万石程度とすると、「120人家臣団」で「600人の集団」と成ります。

    これに「商いの勢力」と「シンジケートの勢力」が加算されますので、上限は別として、この程度が「最低限の勢力圏」を常設保持していた事に成ります。
    「シンジケートの勢力」は別として、「商いの勢力」を全額計算する事は出来ませんが、上記の「常設勢力」の「10倍位の勢力」を以って「非常時の勢力」と見なされます。

    その根拠は「関が原の戦い」の時に家康より伊勢青木氏は(信濃青木氏と共に)合力を打診された時の資料として”250の兵(食料調達と安全確保)と信濃−伊勢−京都路の進路の安全確保を担保した”と記されていますので、「非常時兵力」(警備傭兵)の1000程度の兵(暗に示唆)と1万人程度以上の進路側面確保に「伊勢−信濃シンジケート」(暗に示唆)を動かしたことが判っています。(これにより伊勢と信濃は本領安堵された)
    恐らくは、「信濃」と共に「近江」と「美濃」の青木氏はこれに加わり「援護兵」「1000の兵」としたのではないかと観られます。(上記Aの要員を加えていた可能性がある)
    (ぴったり1000の兵としたかは当時の書き方として漠然とする習慣がありますので不明ですが2000は超えていなかったと考えられます。依ってほぼ8−10倍と見られます。250は記録にある)
    一般の他氏の大名クラスも非常時は農兵の傭兵役10倍にしてを集める慣習が出来上がっていた事に成ります。

    「武士の生活費」
    そこで、その根幹の武士の生活し得る最低の石高が問題に成ります。
    江戸時代初期前後の武士の生活は次ぎの様に云われています。
    1石高/人/年で、一般諸経費はこの最低5倍/人され、家族5人の生活費は25石/年必要 雇人5人を要するとされ 150石。これに一般管理費に相当する維持費50石加算で最低の200石/年 その他の雑費の最低出費50石 総合の250石が江戸時代初期の限界石高ですので、これに多少なりとも余裕を持たせるには兼農となります。
    故に上記した甲斐の武田氏系青木氏は巨摩郡山間部で農業を営んでいたのです。

    これからすると、上記伊勢青木氏は250人の雇人があったので、「商い」では最低で2A=5万石以上の収入であった事が云えますので、少なくともこの10〜15倍の商いの実績がなくては成りません。
    依って最低で50〜75万石以上の実質勢力があったと観られます。(上限は判らない)

    上記した経緯から平安期末期(1125年)に「2足の草鞋策」を実行した立ち上がり時期にはこの程度の勢力が必要であった事に成りますので、この事からその時の実績46万石/56万石に相似します。
    伊勢青木氏は割譲が続く状況の中で、41−46万石に成った衰退時点で不足分を補う事で和紙による「2足の草鞋策」に踏み切った事が伺えます。同様の運命が近江、美濃、信濃、甲斐にも起こっていた事に成ります。しかし、この過程で近江、美濃と甲斐に「時流」に押し流されてしまう判断ミスを起こしてしまった事を物語ります。
    伊勢と信濃の賜姓青木氏は何とか助けようとして余力を作り出すために「2足の草鞋策」に連携して力を入れた一つの理由にも成ります。
    それ以後、「鎌倉文化と室町文化」の「紙文化」の花が運良く開きましたので次第に大商いを拡大させています。遂には、室町期には「総合商社的な商い」も認められますので、充分に美濃、近江、甲斐を援護し、上記の数式は元より「理念追求の行動」は可能に成った事に成ります。
    室町期にはいち早く火薬を扱っていた事が記録で判っています。

    (実は伊勢の松阪の大火の火元になった原因はこの火薬庫の爆発によります。明治期には一応は「花火」とされていますが、鉄砲や発破の原材料の火薬であったと観られます。)

    この事から、長く続く「紙文化」と「戦国鉄砲」の「大商い」は明治期まで続きますから、外国貿易とあわせるとこの利益は計り知れない利益であった事が予測できます。
    伊勢−信濃の青木氏と伊勢の秀郷流青木氏の「3氏の青木氏連携」によって徳川氏に匹敵する位以上に「総合勢力」はあったと考えられます。
    この「総合勢力」に近江、美濃、甲斐の「2つの血縁青木氏」は連動して生き延びたとする上記の「勢力説」から観た説を筆者は採っています。

    (伊勢青木氏と同様に、瀬戸内は阿多倍一族一門の平族の根拠地であり、天下の平族でさえ「殖産」を推進し、それを「宗貿易」で大商いを推進していた。 矢張り「殖産・商い」無くしては平族を維持しその中で配下の「姓化」を起こさせるには困難である事を物語ります。これに依って「宗貿易」を行い富みを獲得し、それを背景に海産物を扱う海部氏の他に「姓氏」と成った陶器の陶部の「陶氏」が室町末期まで中国地方全土を制覇していたのです。 九州では大蔵氏の佐伯部の佐伯氏も同じです。「たいら族」の栄枯盛衰はこの商いのここから始まっていたのです。)

    伊勢青木氏を例とすれば「信濃の青木氏」や秀郷一門の「2足の草鞋策」を採用した各地の「秀郷流青木氏」の勢力は上記した様に推して知るべしです。

    その意味では、上記した勢力を持つ青木氏の「古代和紙」の「殖産・商い」は、「品部」ではなく「部曲・民部」(かきべ)の職能域でもあった事、勢力から観ても充分な環境でありながら現地では「姓化」は起こらず、又上記した「氏名の継承」の徒弟制度があった事の為に、更には天領地の「民部」の「かきべ」であった事、「神明社」で固く結ばれた4つの青木氏の集団があった事等からなかなかその中に溶け込めずにその各地の「青木氏の地」に発祥しなかったのです。
    総じて「3つの発祥源」の「氏」の地には「姓」を発祥させる事に躊躇したと観られ、又、発祥そのものも少なく有ったとしても「館」ではなく「2足の草鞋策」の方の離れたこの商取引の関係地(主に港、主要宿)に発祥させているのです。
    「嵯峨期の詔勅」と「祖先神の神明社と菩提寺」と「4つの青木氏」が護る整えられた領域の中に「姓化」が興し難くかったと観られます。
    「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
    これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

    それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
    全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」−「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。

    青木氏と守護神(神明社)−12に続く。


      [No.277] Re:青木氏と守護神(神明社)−10
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/08/13(Sat) 10:57:42  

      「平族の融合形態」

    生き残るために必要とした「3つの条件」がどれだけ「大変な事異」であったかを判る為にはこの「たいら族」を含む阿多倍一族一門がどれだけの勢力を保持し青木氏を圧迫していたかを上記した事件性とは別に間接的なデータを以って検証する必要があります。
    なかなかこの阿多倍一族一門まで掘り下げて研究している論文が不思議に無いので青木氏と大いに関わった一族だけに本サイトで掘り下げてみます。
    本文に入る前に、この「融合氏」青木氏に対して対比する為にもう少し「民族氏」阿多倍一族一門の直系子孫と平族「たいら族」を掘り下げてみます。

    「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
    「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

    一方、上記の「青木氏と守護神(神明社)−9」に記した「数式条件」を有する「青木氏」に対して、「平族」(たいら族)と阿多倍一族一門は、平安期では「民族氏」的な色彩の濃い集団で、後(本格的には鎌倉期以降)に関西圏と九州全土を「融合」で広め多くの「融合氏」を広範囲に構成しています。その九州に起こった氏では殆どがこの大隈の「首魁 阿多倍」の血縁を受けていて次ぎの6つに分類されます

    「氏の基本数」は「約55」もありこれから次ぎの支流分流が起こっています。
    1 本宗の血筋から輩出した氏族 18
    2 支流に属しているが出自が不明な氏族 5
    3 同族であるが出自が不明な氏族 14
    4 同族であるが基本氏に相当するか不明な氏族 4
    5 何らかの血縁があると観られる未勘氏族 4
    6 鎌倉期と室町期の「未勘氏」と「第3氏」と観られる氏族 推定10 
    (関係文書と家紋群より算出)

    資料より確認出来ませんが、支流、分流、分派はこの5倍以上「280程度」に及ぶのではないかと観られます。(歴史的に観て多くは支流、分流、分派の分家は3〜6の倍数にある。)
    九州に於いてこの数ですが、家紋と氏の資料から分析すると定住地域は次ぎの様に成ります。

    「定住地域」は「概ね5地域」に成ります。
    1 中国地方 陶族や海部氏や武部氏等の支援豪族と平氏に成って広めた一族の大きな末裔基盤地域
    2 四国地方 讃岐籐氏の基盤地域であるが平族に成ってからの末裔分布地域
    3 近畿中部地方 阿多倍の伊勢領国と阿倍氏に関係する本領末裔基盤地域
    4 東北北陸地方 内蔵氏に関係する末裔基盤地域
    5 関東地方 国香−貞盛親子時代の赴任地基盤地域
    以上の何らかの「末裔血縁族」を合わせると最終「大小550超」には成ると観られます。

     比較 鎌倉期以降 藤原秀郷一族一門361氏 550/361≒1.5

    鎌倉期から室町初期に掛けては家紋から観ると日本の全氏では約800氏(姓族含まず)}と観られますから何と「65%(家紋)以上」がこの「阿多倍一族一門」の「末裔血縁族」で占められていた事に成ります。
    平安期後半からこの傾向が強く「平氏にあらずんば人にあらず」はこの事から来ていると観られます。
    国レベルでは「平安初期 48% :32/66」、「平安末期 66% :45/68」 氏数

    これは源氏や藤原氏等よりは遥かに大きな「末裔血縁族」を有していた事は明らかです。
    これに彼等の配下で「後漢の民」の末裔であった「品部180」が「氏姓族」に平安末期から成って行きますが、これを合わせると勢力と云う点で観ると「7割弱程度」730になるでしょう。

    最早、この「鎌倉期以降 7割 :730」という数字は「帰化末裔氏」阿多倍一族一門の国と成り、「在来氏」30%は「異民族」であるとしても過言では無いでしょう。
    (子孫繁栄力がそれまでの在来民の3倍と云うことも出来ます。)
    800年ごろから「渡来人」と云うの言葉は書物から消えていますので、納得できる数字で「日本人」と成っている事を端的に物語ります。
    ただ問題は「民族氏」の「物事に対する概念」が前記の様に「法より人」「石は薬」に代表する様に異なっていた事なのです。
    天皇は帰化は認めたがこれでは”何かが起こる”と悩んでいた事はこの数字の検証からも明らかです。

    例えば、此処では本基盤地で本末裔血縁族を有する九州地域を観てみると、此処には大蔵氏を筆頭に菊池氏や酒井氏や佐伯氏や宗像氏等の大きな古氏が存在します。
    「産土神」の神社を中心とした古い「歴史性」があり、幅広く「事件性」を持っている北九州から南九州の肝付氏、廻氏等、同じく南九州の島津氏等の発祥源を検証すると、奈良期と平安期には少なくとも「平族」の始祖源となる「後漢阿多倍一族」の血縁を受けている事が明らかに観られます。

    この関係を地名、家紋、関係資料から重複する氏族を洗い出しますと、多くは「大隈の首魁」であった奈良期頃の阿多倍一族が関係した地域には、必ず「阿智使王」や「阿多倍王」の「阿智」や「阿倍」「阿多」(現在も遺す)等の「地名」が古代に在った事や、何がしかの「証拠物件」が遺されているのです。
    (阿多や阿倍は現在も存在します)

    例えば、「阿倍」(あばい)から奈良期と平安期には「阿倍氏」(あばい−あべ)が生まれ、この「阿部氏」から一族から「生贄」にされた問題と成った以北の末裔「安倍氏」の氏が誕生し清原氏が発祥し、九州はもとより各地(関西−中部以北−陸奥)に分散し「氏の融合」が起っています。
    彼ら末裔血縁族は、その地域の豪族との3倍の繁殖力の血縁があり、当時の「生活慣習」から明らかに「彼等の生活圏」にあった事を意味します。
    平安時代末期に地方の豪族のみならず九州には朝廷から「弁済使」として派遣された都の豪族官僚5大氏の一つ「伴氏」(伴兼貞−兼俊)が九州各地で肝付氏(大隈国肝属郡)等を始めとして融合しているのです。(肝付氏の関係族 末尾の氏姓族参照)
    九州全土が彼等の繁殖力で占められますが、中央の都とは「伴氏」(弁済使)等を「接着剤」として繋がります。(弁済使は税の官僚 今で云う税務官)
    この「接着剤」なしでは「独立」の形に事が成り得ず、上記の数字で示す様にこの「接着材」を背景に爆発的に「自然力」で進んでいた事が判ります。
    当時はこの「接着剤」が大きな意味を持ち、故に中央で力を持っていた事を物語ります。
    (官僚の6割は彼等の末裔と品部の職能集団(史部等)で構成されていた事が日本書紀にも記述されています)
    「伴氏」等の5大官僚が何故力を持ったかの理由が明確ではありませんが、恐らくこの「接着剤」であって、むしろこれは朝廷が採った「何かが起こる」の戦略であった事が原因している事を意味します。
    日本の国の「軍事、経済、政治」のどの面から見ても「65−70%の力」を持った一族一門と「5大官僚」との血縁でこれを「背景力」にし、朝廷内では「5大官僚族」として巾を効かせる事で「天皇力」を彼等に持たせたのです。
    「5大官僚」を「背景力」=「接着剤」=「仲介役」として存在させ大蔵一族とのバランスを保っていたのです。
    しかし、これも根本的な解決戦略ではありません。「何かが起こる」の一時的な彼等に対する「抑止力」としての効果に過ぎなかったのです。

    最終的には、1018年九州全域を「3権の自治」を認め、「遠の朝廷」として「太宰大監」の任を与え、「大蔵種材」に「錦の御旗」を与え「統治権」を委ねる結果で納まったのです。
    そして「民族氏」から「融合氏」へと巨化(進化)して行く事に成ります。
    最終は何とか八方を成功に収めたのですが、累代の天皇が懸念していた「何かが起こる」は大きい「国家の分裂的事件」へと成らなかったのです。
    後勘から観れば、「3権」と「民族融合」の観点からも”これ以上のバランスの採れた解決策はなかった”と成ります。しかし、それは国が危機一髪の状態で下記に示す「汚職、腐敗、騒乱」の「大荒れの状態」から立ち直ったものであったのです。

    「融合事件(繋がり)」
    依って、「民族氏」から「融合氏」へと変化していったことで成功裏に納まったのですが、これを「融合」という観点から更に調べて行くと、阿多倍の根拠地九州にはその経緯として青木氏にも関係する一つの「融合事件(繋がり)」が此処にもあるのです。
    青木氏は間接的ではありますが、「氏融合の最低条件」を成り立たせる実に密接に各地に「氏融合」を進めている事件の例が数多くあります。

    (青木氏の融合形態の例)
    因みにその例の一つを記述します。
    1180年清和源氏の宗家頼光系4家と本家筋の源三位頼政が平族に対して旗揚げをして失敗します。(以仁王の乱 1180)
    この時、伊勢青木氏が領する伊勢国の北部伊賀を(大隈の首魁阿多倍一族 平族に)朝廷から奈良期に割譲され定住していました。
    隣の松阪の伊勢青木氏は次ぎの深い親交から京綱(伊勢青木氏に跡目 頼政−仲綱の子3男)を通じて助命嘆願します。
    (桓武天皇の母の「高野新笠」(伊勢伊賀の阿多倍の孫娘)は、伊勢青木氏の祖の施基皇子の子供の「光仁天皇」の妻です。 即ち、桓武天皇にとってみれば、父方は伊勢青木氏、母方は伊勢阿多倍の一族、跡目青木京綱の3つの関係があった)
    平族は伊賀の「阿多倍一族」宗家からの助命嘆願を受けて「頼政」の孫の「仲綱」の子の3人の内2人と叔父(宗綱、有綱と叔父高綱:京綱は伊勢青木氏に事前に跡目)が処刑されずに九州日向国の廻村に配流されます。(除名嘆願は有名な事件)
    この時、肝付氏一門の廻氏等の支援を受けて城を築き再び「九州平族」と戦います。
    敗退して敗死、廻氏との間に生まれた末裔と廻氏と共に、本家の阿多倍の血縁を受けていた肝付氏の領内薩摩大口村の山寺に逃げ込みます。
    この時、この末裔は「嵯峨期の詔勅」に基づき、又、清和源氏の頼光系頼政本家(宗綱、有綱)を同族伊勢青木氏(京綱の跡目)に移した事等の2つの理由から寺の僧侶に勧められて追手から逃れる為には「日向青木氏」しかないとして名乗ります。(嵯峨期の詔勅に基づき名乗る)
    (後に日向青木村を形成してこの末裔を抱えて農兵民になり黒田藩の領民となります。明治3年8年の苗字令に基づき青木氏を復活させる)

    賜姓青木氏は「永代不入不倫の件」が認められているので、その末裔とすれば平家は手を出せない事になります。又、九州南部の周囲は阿多倍の肝付氏の本拠地 敵地の本拠地の中では青木氏を名乗ること以外になかったのです。九州全体が敵地でありだから配流先として選ばれたのです。
    阿多倍の領国薩摩国(大隈地方を割譲地:平族の始祖の割譲地)の懐に逃げ込みます。
    ”雉子懐に入らずんば猟師これを撃たず”の言葉通りに隼人の本拠地近くに逃れたのです。
    (この事でも判る様に阿多倍一族一門の族間の絆は薄い事が判ります。)
    「平族」の本領でもこの関係でこの青木氏末裔(日向青木氏 現存)を結局は討つ事は出来なくなり子孫を遺しました。(後に九州に唯一の青木村を形成し「兵農」として黒田氏に仕える)
    この様に「廻村の民」の様に地元に根ざした「生活、社会の絆」から新たに「氏の融合」が生まれ子孫の存続拡大が青木氏には起こっているのです。
    しかし、この考察から観られるように特長が出て来ます。
    「平族」即ち「阿多倍一族一門」にはそれは殆ど「血縁」が明らかですが、その元となる「出自」が明確でない事です。ここにもこの一族一門の特徴が出ているのです。
    これだけの本流氏34にも成る肝付氏の一族でも「民族氏」の概念が色濃く引き継がれているからに過ぎません。
    これでは近隣は兎も角も国を超えては時代が進むと、情報社会が低かった時代では一族一門が「互助」「合力」は働きません。

    「互助」「合力」
    「平族」が滅亡した理由の一つが、次ぎの事となります。
    中国地方と九州全土のこの「氏族」を味方にして、更に中部北陸から挟撃して戦えば100%で勝てて居た筈で氏を遺せた筈ですが、しかし、平安末期には余りにも一族の「氏の融合」が進み、その結果、自らの氏が「平族」に血縁している事が不明(出自不明)と成っている為に末裔は味方する事に躊躇した事が原因の一つとして観られるのです。
    恐らくは歴史的経緯から彼らは薄々は末裔と承知していたとは考えられますが。平安末期-鎌倉期-室町期には末尾の資料の様に「姓族」は爆発的に融合拡大します。
    其の為にそれなりに中心氏と成る者がいて「氏寺、氏神」で管理されて居れば一族一門性の「融合氏」の「互助の結束」は成り立ち出来るのですが、それが無った事から「民族氏」の形態の「無関心の感覚」だけが残り、その「他の民族性」は消え去ったのです。
    ただ鎌倉中期−室町期には関西から関東域に掛けての「菩提寺による集団」の形態は殆ど無く、その代わりに九州−中国域には「氏神による氏子集団」としての連合結束する傾向が生まれて来たのです。
    日本の融合氏はその経緯から次ぎの2つに分類されます。
    関西から以北に掛けては「氏神の守護神」−「氏寺の菩提寺」を中心とした「融合氏」を「第1の融合氏」とすれば、関西から以西の中部九州域は「第2の融合氏」とでも云うべきものに変化していったと考えられます。
    「第1の融合氏」 関西以北 「氏神・鎮守神・祖先神の守護神」−「氏寺の菩提寺」の2つを標榜する融合
    「第2の融合氏」 関西以西 「産土神の守護神」を主体 神道系 「民族氏」系「融合氏」
    参考
    神道系融合氏の例
    阿蘇神社・宗像神社−菊池氏、酒井氏、佐伯氏等 
    出雲大社−亀甲氏子集団等

    資料からこの一族一門の「34の姓氏」に共通するものとしては次ぎの事が挙げられます。
    A 上記の氏子集団化が加えられている事
    B 「家紋:三雁金紋、支流は丸に桔梗紋」である事
    C 襲名の名を「兼・・」と関係する事
    D 地名を「姓名」としている事
    以上4つが共通項です。
    これを慣習として「一族である事の印」としていたのではないかと考えられます。
    つまり、それを「一族一門性の証」としていたと観られます。
    ところが時間の経過と共にこの「一族一門性の認識」が不思議に薄れていったと観られます。
    何故なのでしょうか。

    鎌倉期−室町期の変化
    関西−関東域には「氏神・菩提寺による集団」「互助の概念」−「融合氏の形態」「弟1の融合氏」
    九州−中国域には「氏神による氏子集団」「無関心の概念」−「民族氏の形態」「弟2の融合氏」

    「源平合戦」では、「平族」は意外に上記した「1から5の血縁族」が味方に成らなかった事に大いに悩んだ筈です。
    原因(下記1から3)は判らないままにうすうす知っていたのかも知れません。
    それは奈良期、平安初期と古く成りそれが血縁を確認出来なくなってしまった結果なのです。
    逆に云えば、むしろこの現象が本来の「氏の融合」でありそれが著しく進んだ結果から来るものかも知れません。
    しかし、重要な事は此処には「平族」には更に「青木氏」と違うもう一つ大きな欠点(下記)を持っていたのです。
    「平族の非融合の欠点」
    これを見逃しては成らない事なのです。
    この後漢「大隈の首魁阿多倍」が引き連れてきた職能集団「部」の氏族も同じ傾向を持っています。

    例えば、室町期の中国地方全土を制覇していた「陶氏」は後漢16ヶ国の「陶部」(平安末期の記録有)の頭領です。他には、「品部」(180)の中で最も早く「姓氏族」を発祥させた海部(平安末期の記録有)、武部、村上氏等多くはこの血縁を受けています。
    「平族」はこれ等の末裔「村上水軍」等の中国地方の氏豪族を背景に戦ったのですが、九州の中部より南の氏族は味方しなかったのです。
    筆者はむしろこれらの無数に近い「品部」(雑戸含む)等の「血縁族」が一門と強く認識していた場合は源平の「たいら族」は勝利するか、又は1018年以前に九州全域を明らかに「独立国」と出来ていたのではないかと観ています。
    事実、過去(150年前)にその「独立」と云う歴史を史実として下記に示す5度の経緯を「平族」は持っていたのです。

    「独立への経緯」
    先ずその5度の中で最も有名な挑戦事件として、「平族」の初期の「国香、貞盛」の頃、関東に「独立国」を目指した一族の「平将門の乱」が起こっています。
    この時「国香」が同族「将門」に殺されたのですが、「貞盛」は父の仇でありながら最初は観て見ぬ振りをして放置していたのです。”何故見ぬ振りしたのか。”の疑問1が残ります。
    未だ、始祖「阿多倍王の没」より余り時間が経っていない時期でもあり、「後漢の意識・感覚」が強く残っていて、上記した勢力(70%)の一族を終結させれば、朝廷より遠く離れたところで関東域でも「たいら族の将門」も「独立国」を造れるのではないかと観ていた反乱ではないかと考えています。
    ”何故、親族の国香を殺さなければならなかったのか。”の疑問2が残ります。
    歴史の通説では”土地をめぐる一族の争い”となっていますが、これはおかしいのです。
    そもそもここは2人の「領国」ではありません。「知行国」で国香・貞盛親子と将門は押領使と追捕使等を務める朝廷派遣の令外官の役人です。通説の”土地争い云々”の話ではありません。(国香は将門の叔父)
    それならばその役目上で貞盛自身自分で解決しなくてはならない筈で、様子見などはもっての外であります。そもそも勲功の対象にはならないのです。土地の奪い合いをしても何の得にも成りません。
    朝廷より赴任地変えを受ければそれで終りで、犠牲を負うだけ損です。通説の論調が矛盾しています。

    (「通説」への注意 「後勘に問う」)
    歴史の通説は第1には前後の「時系列の検証」が欠けているのが殆どです。
    実は第2にはこの「知行国」と「領国」の判断の間違いの通説が実に多いのです。(前記の「源平の美濃の戦い」の通説も全く同じ間違いを起していました。)
    ”何故この様なミスをするのか”と云うと、次ぎの第3の事が原因しているのです。
    それと第3には朝廷側から観た「不都合な事」は「事件の反抗者・当事者への罪人扱い」としての決め付けが偏纂資料に書かれているのを前提に通説として用いているのが多いのです。
    この第3の事が原因して第2の矛盾が生まれるのです。
    ミスと云うよりは「承知の上でのミス」なのです。
    これ等は資料に忠実であればある程に起こる問題です。
    第1 「時系列の検証」
    第2 「知行国」と「領国」の判断の間違い
    第3 「不都合な事の偏纂記録」
    第4 「承知の上でのミス」

    この「4つの要素」(第1から第4)の配慮の判断ミスが通説の間違いの主因です。
    要するに”歴史を読み解く側がこの矛盾を判断すればよい”の考え方であり、当時の「慣習」なのです。
    つまり、系譜・系図のところで書いた”後勘に問う”の慣習であるのです。
    ですから、”後勘に問う”で”読み取る側が修正すればよい”と云う事に成るという「日本の歴史の慣習」であるのです。

    ルーツなどを調べる場合は、この4つの事に配慮しながら進めますが、第2の場合は調べればすぐに判ることです。しかし、この第2には色々な「歴史的意味合い」を多く持っているのです。「時代考証」が大きく絡んでいて当時の「慣習や仕来り」の雑学を必要とします。実は作業は簡単ですがこの間違いが一番多いのです。向後の資料の殆どは「現代感覚」で判断してしまっている場合が多いのです。
    第3は記録に残すものは「よい事はよりよく書く」、「悪い事はより悪く書く」の人間の性が起こります。
    これをより正しくするには「ギャップ差」を見抜く事が必要に成ります。
    それが第1の「時系列の検証」なのです。「前後関係」から観て”その「事象」があり得るのか”を推理し判断し検証して確定をしなければならないのです。特にその差を必要とする場合は筆者は下記に記述する「自然の摂理」による技法を用いています。
    この第1から第3まで判れば第4は自然に判ります。
    これが歴史資料が求める「後勘に問う」の作業と成ります。

    当事とすれば資料も少なく、時代の環境も厳しく、”承知でこの様に書かざるを得ない”と云う事もあり、まともな資料は上記した様に、だから「書き記した人」と「後勘に問う」の「2つの語句」を記するのです。
    しかし、「搾取偏纂の系譜」などは”ばれては困る”の訳ですからこの「2つの語句」を書かないのです。
    「書き記した人」の事を調べられて搾取が判るし、「後勘」に問われては嘘がばれてしまい末裔が大恥を掻き困る訳ですから書かないのです。

    これは仏教の精神構造から来ているもので、その思考の根底は”「三相」(人、時。、場)により事の真偽は変わるのだ”とするもので、とりわけ「武士の精神構造」を成していた「禅宗の問答」にあるのです。
    心理の追求の問いに対して何度も追及され、最後に、窮すると”答えは後勘に問うものなりー”と交します。 ”仏教の教えの「三相の原理」により、今、答えを出すものではない”と交すのです。
    「後勘に問う」は仏教の教えに従い正しい姿勢なのです。
    ”物事をこうだと決め付ける事はよくない事である” ”何事も拘ってはいけない”と云う仏教の最大の教えを護っていたのです。
    ”「後勘」から観れば今は多少の矛盾があっても良いのだ それは「後勘」が正してくれる”なのです。
    ”今はそれなりの理由があって書き記しているのだから正しいのだ”としているのです。
    故に、”多少の矛盾と疑問はあって良いのだ”としているのです。
    例えば、”「日本書紀は矛盾があって信用できない。”と主張する学者もいますが、この主張そのものが間違えているのです。当時の「後勘に問う」の精神が理解出来ていないのです。
    「後勘に問う」は「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」の解釈の当時の社会の忠実な実践でした。仏教精神が希薄に成った現在の一文の間違いも許されない社会と違い、当時は仏教精神がそもそもが大きく社会の規範に成っていたのです。

    だから「歴史の研究」にはこの事(「後勘に問う」)で大変惑わされ時間を要するのです。
    しかし、「歴史の探求」が面白いのはこの「後勘に問う」があるから”見つける事の楽しさ”が湧き出でてくるのでしょう。
    普通は、そのままに信じて行くと上記の「将門の乱」の様に必ず、”アレ”と云う風に疑問矛盾に突き当たってしまうのです。
    (疑問1と疑問2の共通する応え)
    ともあれ、この「後勘に問う」で行くと、疑問1と疑問2の共通する応えは”味方するのを待ったが、結局しなかった。だからこの独立国の計画はその内に頓挫すると将門は考え殺してしまった。”とすると納得できます。この様に要は第1位の「時系列」の紐解きが重要に成るのです。「時系列」は真に「後勘に問う」の役目です。
    ”南の九州でも自治か独立に近づいている”と考えていて、”関東で成功すれば九州の大蔵氏でも反乱を起こす”と戦略を描いていたのです。
    (ところが、朝廷もしたたかで大蔵氏を褒章冠位官位など出来る事全て賭けて宥め行く末に自治を約束します。大蔵氏の資料 純友の乱の指揮者に任命)

    (九州は「自治圧力」のその直前の状況であったし、「荘園制の行き過ぎ」で国内全域の不満と混乱はもとより、北の一門の阿部一族末裔の「長い騒乱状態」が背景にあった。
    その結末の事件はずれていますが、全ての事件には「前兆現象」の期間が10−20年位はあるのです。)

    この背景の下では、”その鍵は伊勢伊賀の国香の動きが戦力的にキーと成っていた。” として動かなかった親族の国香を抹殺したのです。そうなってしまった貞盛は困惑し「将門の乱」の行く末と自らの一族の行く末を見計らっていたのです。
    現に九州全域、特に南部(肝付氏:713-730に戦う)は殆ど朝廷の力が及び難い地域であった事から既に「自治国」的状況であった。(1018年自治)
    陸奥では既に阿倍一族と内蔵一族も勢力を高め東北北陸一帯は既に勢力圏にしていて騒乱状態下にあつたのです。
    この3つがこれを期に動けば最早日本は阿多倍一族一門の国に成っていた筈です。

    この様に一族の者が関東で「新皇」と呼称して関東に「10年間は独立国の覇者」として君臨した経緯を一族は持っているのです。

    しかし、そこで誰もが日本全国の大勢力「平族」の「末裔血縁族の動き」を見計らっていたのです。
    この動かない状況を観て危機感を感じた朝廷が西の大蔵一族の動きと北域の阿倍内蔵の一族の動きを横目に見ながら困って先ず関東の乱に特別な条件を出します。
    やっと名乗り出たのが何と一族の伊勢伊賀の宗家「平貞盛」と、予想外のこの地方の下野の押領使「藤原秀郷」だったのです。だから平定に5年以上も掛っているのです。西と北の動き見守って焦らずにすすめたのです。しかし、大蔵氏は乱を避け「自治獲得」を考えていた為に動かなかった、いや動けなくなったのです。
    と云うのは、九州全域が”他人事のように争いを好まず積極的に動かず”であって、その背景には技能を求めての在来民の民が180の部に大きく関わっていたからなのです。それと「民族氏の融合の形(第2の融合氏)」がそれを拒んでいたのです。
    (「何かが起こる」の疑念の元になっている「民族」の感覚と「融合の氏」の感覚の違いから起こる「国民性の差異」が露骨に民に引き継がれて出ていたのです。)

    朝廷は8世紀前半の大隈での反乱での敗退で、その反省から西の動きが自治を認める事で解決するのではと観察していたので、先ず関東の乱を鎮める事に専念したのです。
    この時は既に天皇は西の問題は「自治」で解決する腹づもりであったことが伺えます。
    ”北はまだ反乱には至らない時間がある”と踏んでいたのです。
    関東から始まり西、北の事件はほぼ50年間隔で起こっているのですが、天皇家の内心は「体制の崩壊」の危機感でいっぱいに成っていたのです。
    実は「何かが起こる」はこの様な経緯の中で「荘園問題による崩壊の危機」も含めて400年の間で起こっていたのです。その強い危機感が累代の天皇にあったのです。

    そもそも、両者共に「押領使」と「追捕使(令外官)」に任命されていたのであれば「警察権と治安権」を持っているのですから鎮圧出動するべき立場にあり、まして統治の国司から進言があって、その為に特別に派遣された「令外官」なのですが、観て見ぬ振りをしていたのです。
    近くに居て旧領地の下総を奪われている秀郷にしてみれば ”一族の貞盛が居るではないか”と成るでしょう。”今下手な出立てをすると平族を敵に廻す事に成る”と考えたでしょう。
    「貞盛」にしてみれば「将門」は一族なれど分家支流となれば”そんなの知るもんか”の「民族氏」の感覚が湧き出てくるでしょう。”場合によっては”とそれなりのゼスチャーを見せながら見据えていた可能性があります。
    そもそもその証拠に事前にこの地域が「不穏な危険域」として観て「国司」や「郡司」から強い要請があって朝廷は「2つの令外官」を派遣していたのですから始めからこの傾向があった筈なのです。
    更に、そもそも「押領使」は当初は「軍事上の兵員移動の担当官」であったのが、この乱の前から権限を大幅に広げて「反乱鎮圧(警察権併権)」にわざわざ変わったのです。
    又、「追捕使」は「凶賦を追捕する役目」を持っていて「臨時任務」であったのですが、この状況を観てこの時から常置するようになったのです。全て符号一致しているのです。
    「鎮圧平定」まで「切っ掛け」から観れば5年ですが、実際は前の混乱期から観ると少なくとも10年−15年程度の前兆期間になっていた筈です。
    この乱以降はこの「令外官」は要請ある地域には各地に常駐する事に成ります。
    ですから、「50年前後」で10年から15年程度を重複しながら「何かが起こる」の事件は進んでいたのです。

    この「押領使と追捕使(令外官)の状況」を観ても”観て見ぬ振りをし、下手な手立てをすると、そんなの知るもんか”が働いていた事は明らかです。
    間違いなく一族であり且つ事前に追捕使で派遣されている貞盛にはその役目があった筈です。
    まして「融合氏」の秀郷にしてみれば”急に治安警察権への変更と云われても困るし貞盛が居るだろうが”と成ります。
    ここでも阿多倍一族一門の「民族氏」の抜け切れない「民族氏」の「遺伝子的で無関心な感覚」が出ているのです。これが平族等の「彼等の特徴」なのであり概念ですから間違っているとは考えないのです。

    この時期の背景も背景なのです。同時期1年後に瀬戸内から北九州に掛けて「純友の乱」の「独立反乱」が起ったのです。急に起こったのではなく「3−5年の潜伏重複期間」があって起こっているのです。
    何か繋がりがある筈です。
    「将門」は何らかの「純友」との繋がりを持ち「反乱」を共に呼応したのではないかとも観られます。

    資料をよく考察すると、何れも「清和源氏の始祖の源経基」が関わっている事が判ってくるのです。
    「将門の乱」は経基は「武蔵介」在任中に「郡司」(地方の行政長で地方豪族)と対立し、「追捕役」として仲介に出た将門に不満を持ち朝廷に告訴するのです。要するに逆恨みです。
    「純友の乱」は大蔵氏と共に源経基は乱を鎮圧した事が大蔵氏の資料から判明します。
    ところが通説は異なっているのです。源経基と小野好古の二人と成っています。
    経基が朝廷に告訴(讒訴の傾向あり)します。
    (朝廷記録の疑問)
    ところが、何故、朝廷はこの事を書き記さなかったのか疑問が湧きます。
    それはこの「2つの事件の経緯」と「朝廷側の苦しい思惑」が働いていたのです。
    要するに歴史始まっての大褒賞と大勲功をした上で大蔵氏を指揮官に命じて置いたのだから当然そちらの方で記録が残る。片方で多少朝廷側の「立場事情」があって、「経基の讒訴」から事を歪曲させて「事件」から「乱」に仕上げたのだから、記録上は大蔵氏の事は別の意味もある事だし「後勘に問う」で逃げたのです。
    「朝廷側の立場事情」とは「九州大蔵氏の自治独立の難題」と「以北の騒乱状況」でこの件で「純友や将門の事件」が引き金に成って収拾がつかなく成る事を恐れた事なのです。
    そこで、先ず九州大蔵氏の「自治独立」の問題を無くす事の目的から、この事件を利用して「九州自治」を約束する形で「褒章勲功」などできる事全てを行う式典を行った上で指揮官を命じたのです。
    指揮官の任命は名目です。
    官僚からすると名目上は「別の式典」として記録する事を避けたのです。
    「指揮官を命じる事」は「名目上の手立て」であり、同時に「中国以西の管理統括権」を与え約束する式典にも成る訳ですから、「純友や将門の事件」は質的に違う事から、官僚は記録を切り離して「褒章勲功」の方で別に記録して「後勘に問う」で逃げたのです。
    その証拠に、「純友や将門の事件」の讒訴者でもあり、事件発端の当事者でもある経基の追捕の立場を「次官」として責任者の立場を与えなかったのです。また、逆恨みもはなはだしい将門告訴の当事者の経基は追捕とその責任者に指名されなかったのです。この事でも経基の立場と行為は見えて来ます。
    責任者に任じられる事は鎮圧後にはその勲功とその地域の管理統括者に成れるのです。
    しかし、経基にはその権利を与えなかったのです。
    (経基には第6位皇子でありながら長い間源氏の賜姓を受けられなかったのです。事件解決後やっと受けた時の喜びの記録が遺されています)
    「後勘に問う」から観れば”経基の行動少し変だな”と感じる筈です。
    その”変だ”に対して直ぐに誰でもが察することですが、”事件を讒訴させ解決して勲功を挙げさせ賜姓の根拠にする”と受け取るでしょう。そうすると、これで ”アレ、責任者は誰”と「後勘に問う」で気付く筈だとしたのです。
    「責任者探し」で「別の記録」(勲功幇助の記録と大蔵氏の記録)から大蔵氏が責任者であり、その時に責任者として事後は瀬戸内中国以西の管理統括権を大蔵氏に委ねる事で「九州の自治独立の問題」は解決する方向に動いた事が判明する事に成ります。芋づる式に判明します。
    それでなくてはこんな事件の責任者任命に何も大げさに下記に示す要に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」等の現在までの有史来の誰一人も与えられていない様な勲功授与式典にする訳がありません。
    誰が見てもここが「後勘に問う」で”変だな”と気が着く点の筈です。
    さすれば朝廷としては「九州の自治独立の問題」は歴史上に遺す記録としては避けなければなりません。
    少なくとも「後勘に問う」で判明したとしても絶対に避けるべき記録事であります。
     
    とすると、「大蔵氏の自治独立」の方に主眼を置いて利用した事ですから、「純友や将門の事件」の内容には多少事件の歪曲が事件の取り扱いと記録上で働いている事に成ります。
    そこで、何れも朝廷側から見ての罪状認否は次ぎの様に成っています。
    将門は関東の賊に仕立てられ、純友は瀬戸内の賊・海賊に仕立てられている事になっています。
    2人は何れも元役人。純友は「海賊」を取り締まる役人。その役人が海賊に成って反乱したとする朝廷側の言い分です。
    将門は役目柄で藤原玄明を匿まったが常陸の国府を襲撃したとの朝廷側の言い分です。
    経基は清和天皇の孫皇子でなかなか「源氏賜姓」を受けられなく功を焦っていたのです。
    ところが疑問・間違いがここにあるのです。

    「当時の海賊」(瀬戸内の海賊)とは、海の盗賊の意味での「海賊」そのものではなく、陸上にもある様に海上の「海利権」を糧として海上に「運行の安全」を保障し君臨した荒々しい仕儀する豪族の事ですから、明らかにわざとらしい間違いがここにあるのです。
    そもそも、瀬戸内は讃岐藤氏の青木氏が海利権を持ち、対岸の中国側は「たいら族」の水軍(後に村上水軍)が持っていたのです。この事で海の海運の運行や漁業・海産物の殖産の安全の管理責任を負いパトロールなどの行為で「海の賊」等の掃討に働いていた「海の族」の「海族」(海のシンジケート)と称されていたのです。
    それを「海賊」とわざと決め付けて記録したのです。明らかに当地の豪族によって管理統括されている海域で「海賊」がこの「乱」と呼称するほどの力は到底無く青木氏らによって押さえ込まれていたのです。
    これ等の事を承知していれば明らかにこの矛盾と偏纂は「後勘に問う」であります。
    瀬戸内の秀郷流青木氏は丁度この80年後頃の時期に「2足の草鞋策」で回船問屋を営み対岸から伯鰭の日本海沿岸までその圏域を伸ばします
    「藤原純友」(藤原氏の養子とも言われ多説あり)は「海賊追捕使」(この事件に初めて派遣された「令外官」なのです)を務めていたのです。
    これも「恣意的事件の根拠」としている事と明らかに矛盾しています。

    (将門が上野を攻めた時の「上野介」は純友の父。 中央から派遣された行政長官の階級は 守「かみ」、介「すけ」、掾「じょう」、目 「さかん」と成っている。国司では介が実質の長官 )
    (「藤原純友の乱」の主謀者純友は「上野介の父」がこの乱に関わっていた事から「将門の乱」をよく知っていた筈。)
    (中央の行政官「国司」と地方の行政官「郡司」とは立場は必然的に異なりこの2つの事件の発端は源経基の「武蔵介」と土地の豪族の「郡司」との立場の違う「勢力争いの諍い」が原因している)

    この時以降、「将門の事件」を含み各地に申請により「令外官」は派遣されるように成ります。
    (国司が令外官の派遣申請の目的と郡司の申請はその目的とするところは異なる)
    そもそもこの「海族」は各地にもあり、紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍、摂津水軍などがあります。(この5水軍は源平合戦の時義経に味方して、「たいら族」の水軍を破ったのです。)

    又、当然、役目柄で過剰な行為に対する事に対して取り締まるにも「硬軟の戦術」があります。
    見方によれば「純友の行為」は「海賊に成った」と成るでしょう。これを経基にこれまた讒訴の告訴をされ止む無く戦う事に成ったとするところでしょう。
    将門も役目柄仲介しているのに郡司に恨みを持たず仲介役の自分を恨み、挙句は告訴される。
    止む無く争いの藤原玄明の当事者を役目から安全上匿うことに成りますが、それを告訴されれば”何だ朝廷と経基と郡司は”、”経基等にしてやられた”となります。(玄明は常陸介末裔−父と将門は親交)
    それを理由に攻めてきますが実力で応戦し周囲の朝廷軍を潰し回った。これに応戦出来る者なく、”それならば腐敗した朝廷に代わって関東の自治を九州の一族大蔵氏と同じ様に独立国にする”と成って反逆的な様相となった。そこで一族の国香に同調を求めたが反対された。結局は国香を潰す事に成ってしまった。以上と成りますが朝廷側の片方の言い分が先行していて何か変です。

    「新王」とかの決め付けは朝廷側の言い分の罪状認否の明文構成ですので、「後勘に問う」からすると、朝廷側の言い分に上記した様に「時系列的史実」として傾向としては無理矛盾が多く出てくるのです。
    後世に残す記録としては朝廷側を正とした大義名分が必要と成ります。この事から無理矛盾が出てくる事が多いのです。
    この事から世の争いの「讒言讒訴の常」で、どちらにも同時に関係していた経基の動きから当時の朝廷内部の政治の何かが読み取れます。
    (因みに海賊の意味の例としては、源義経はこの関西の4海賊軍で「たいら族」の瀬戸水軍に勝った。もし海族が悪とするならば義経は悪の親分に成ります。そうなのでしょうか。変ですし無理が伴います。)

    その理由は「瀬戸内」と「坂東」どちらも「平族」の平安期中期までの基盤地域であり、同時期であり、「役職的な立場」と「反乱の根拠」の行動に持ち込む為の手法が全く同じである事です。

    「歴史の時系列」と「史実の列記」から考察するとこの様に見えぬものも見えてくるのです。真にこの様に矛盾が出て「後勘に問う」と成るのです。
    (3つ巴の構図と朝廷の思惑)
    この2人(純友・将門)に何か親密な繋がりがないか調べていますが確定するに足りるものは現在確認出来ないのですが、あるとすれば”純友の親を将門は攻撃した”とするもの位です。
    対立構図は「藤原氏」対「平族」の形でも、或いは「源氏」対「平族」の形でも、「藤原氏」対「源氏」の形でも、全く「3つ巴の構図」であったのかも知れません。
    (筆者は「3つ巴の構図」と見ていて朝廷内の勢力分布の丁度狭間にあったと考えています。)
    と云うのは、広域で云えば、朝廷から命じられた追捕使と押領使の「平族」の統括域とは云え、藤原氏北家の進出基盤地域でもあった処に「平族」の「将門の乱」(935-940)、「平族」の基盤地域に「藤原氏」の「純友の乱」(936-941)、共に相手先で起し合った「乱」とも観えます。これに経基が絡んだ「乱」とも観えます。
    だから、誰も手を挙げない中で「平族」から「貞盛」 「藤原氏」から「秀郷」が名乗り出たのです。

    源氏は何故名乗り出なかったのか疑問です。”潰す勢力が源氏になかったのか”と云うとこの後直ぐに清和源氏と成った3代目頼信系の源義家は以北勢力に力を注いでいますので「鎮圧の勢力」は無かったとは云い難いのです。
    確かに頼信は兄頼光に守護代を譲り受けて兄の領国の伊豆を拠点に関東に勢力を伸ばしていました。手を出すと「藤原北家−たいら族平氏−頼信系源氏」の争いの構図が出来て共倒れが起こると観たと考えられます。
    (天皇の思惑)
    そこでこの事で”誰が得をするのか”と成ります。
    それは、この事件の背景がそもそもそれが3氏の「潰しあい目的」が天皇の策略であったからです。
    九州の大蔵氏には朝廷は最早歯が立たないところまで来ている事から以西は「自治」にして解決し。、東は3氏のどれかを遺す戦略です。そして”以北の阿部氏等の勢力は義家に潰させ私闘とする”を描いていたのです。
    現に、この2つの乱・事件と思しき事件は、結局は朝廷にとっては「汚点の事件」でありますから、事件中は仲裁が入り私闘とする事の旨を将門側に史実正式に出していますので、「私闘」として裁かれ記録される結果と成っています。この時から天皇と朝廷は「私闘」の方針を持っていたのです。
    「私闘」であれば「恩賞」「論功行賞」はしないのが普通ですが、この場合は秀郷と貞盛の約束がある為に特別の事はせず辞令により約束を護るだけの行為は果たします。
    経基には源氏の賜姓を行いました。貞盛には官職の引き上げの約束をしますが、一代遅れの惟盛で行いました。
    結局はここで「漁夫の利」を得たのは秀郷で、以後、関東域全域を獲得し支配下に入れますし、この時以降秀郷一門は藤原氏の北家一族として他の3家を潰して最大勢力に伸し上がります。
    ただもう一人何もしないで利得を獲得したのは大蔵氏で中国以西と九州全域の自治権と貴族の身分と氏の誉れを獲得するのです。
    結局、天皇はこの「2つの氏」(源平)を遺し、残りの2つ(大蔵氏と藤原氏)は潰す事を狙ったのではないでしょうか。この事件後の仕打ち・仕置きを見ると判ります。
    「たいら族」は”美濃に下げられる”と云う事で最も危険な「源平の緩衝地帯」に追いやられます。
    この事で「源平の潰しあい」を起こさせたのです。
    この天皇家が描く戦略によって「たいら族」は滅亡し、11家あった源氏と義家等は「私闘扱い」とされ、且つ天皇から疎んじられて衰退し、遂には頼朝の反抗で一時的に蘇ったかの様に観えた事も静かに力を蓄えていた第7世族の坂東八平氏に3年も経たぬうちに完全滅亡させられるのです。
    天皇の描いたシナリオは成功します。
    更には普通なら地元の豪族集団の皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」が土地を奪われているのですから手を挙げる筈です。しかし、「将門」を潰すだけの勢力は「平族」と「藤原氏」と「源氏」の3勢力とに押されて「7世族の坂東八平氏」と云えども其の勢力は無かったのです。
    この事が皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」にとっては、結局、”棚から牡丹餅”の結果となるのです。
    結局、「たいら族」がこの結果、朝廷の懲罰を受けて一族は上総下総を残して平族(たいら族)は中部(美濃域)まで下がり勢力圏を以西の美濃にまで戻されて、この時以来、関東域にはきっぱりと勢力は無く成るまでに下げさせられたのです。
    (この時から美濃秀郷流青木氏が大きく関わってくるのです)
    (これが原因して緩衝地帯の美濃で源平の対立激化が起こり、美濃秀郷流青木氏が何とか仲介を図りバランスを取り戻そうとします。)
    (秀郷一族の先祖伝来の上総と下総結城は取られたままに成っていたが、平氏退場後は実質支配の形であったが、最終的に頼朝により旧領と本領は安堵される。)

    秀郷には恩賞の2条件が叶えられて「武蔵国、下野国」を与えられ、結果、関東は秀郷が押し出してその勢力権域を取り戻す事に成ります。
    実はこの事から裏では大きく「純友の乱」を鎮めた大蔵氏を含む「5つの勢力」がうごめいていた事に成ります。

    「2つの事件と青木氏の関係」
    この思惑の働く混乱の中間に居て「3つの発祥源」の立場を護った2つの青木氏は巻き込まれる事無く子孫を遺し、「2つの賜姓族青木氏」は清和源氏の頼光系四家の血筋も受け継ぐと言う事を成し遂げます。これには秀郷流青木氏のバックアップがあった御蔭であり間一髪の「生き残りの戦略」であったと考えられます。一つ判断を間違えれば生き残れなかった筈です。
    この「2つの事件」も1180年には「頼政の乱」もあった中です。
    この「2つの事件」後と「頼政の乱」との間に生き残りの難しさを身に染みて感じていた「2つの賜姓族青木氏」は「2足の草鞋策」を実行するのです。
    天皇も同族源氏を翻弄させていながらも青木氏には何も手を出さなかったのです。不思議です。
    確かにその「武力的な勢力」は小さいのですが、「3つの発祥源」の「立場や権威」を源氏と共に発揮すれば源氏以上に武門を動かす力は充分にあったと考えられ、天皇もその事を充分に承知していた筈です。
    もし天皇が「青木氏の力と行動」に疑問を抱いた時には「2つの事件」と同じ様な事の「引き込み戦略」に巻き込まれていた筈です。しかし、天皇と朝廷は賜姓青木氏5家5流と特別賜姓族秀郷流青木氏には手を出さなかったのです。
    それは「3つの発祥源」を他に影響を与える事なくその「静かな立場」を厳守した事にあると考えられます。
    故にそのままでは飲み込まれ結局じり貧すると読み、その為には「たいら族」と同じ様に「2足の草鞋策」で生き延びる事を決意したのです。
    それにはこの時代を生き抜くには無力では無理であります。その為には「影の力」が必要であり、それを「2足の草鞋策」の経済力を基に「陰の力シンジケートの構築」に力を注ぎ、表に対しては「秀郷流青木氏の抑止力」を戦略として用いたのです。
    これで「表向きの武力」は見えず巻き込まれる事は無くなります。
    この事が朝廷と天皇に安心感を与えたと考えられます。

    この様に「青木氏の外的要因」を主に描きその中で「青木氏の置かれている立場」を網羅しようとして論じていますがまさしく”紙一重であった”と云う事が判ります。
    では、”何故に紙一重を守り通す事が出来たのか”と云う疑問が湧きます。
    それは「紙一重の判断」を成し得たのはそれは”沈着冷静に研ぎ澄まされた精神構造”にあった訳ですからそれを人間に成し得るには「心の拠り所」と「仏の導き」以外にはありません。
    それは有史来の先祖伝来の「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」以外にはありません。
    「4つの青木氏」が「固い絆」で結ばれていてこそ「心の拠り所」は守り通せるものであります。
    この構図は他氏には決して見られない構図であります。
    だから天皇と朝廷はこの「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」の2つを決して潰さなかったのです。「4つの青木氏」を潰そうと思えばこの2つを潰す事で成し得ます。自然崩壊してゆく筈です。
    現に各地に存在した神明社は現在では5000程度(主に江戸期建立)と成っていますが、当事の神明社は200程度であったと見られますが多くは消失焼き討ちされずに残存しているのです。
    (この乱世の中でも「社会」もこの事の意味や青木氏の姿勢を評価していて、その神明社の尊厳を守り遺したのです。)
    それは「4つの青木氏」がこの2つを護る事は強いては天皇家を護る事にも成るからです。
    「祖先神の神明社」は「皇祖神の伊勢大社」を護る事と同じであるからです。
    「祖先神の守人」とは「皇祖神の守人」であったからです。
    「紙一重」としても「4つの青木氏」はその立場を沈着冷静に護り通したのですが、況や「天皇家の心の拠り所」でもあったからなのです。その沈着冷静な行動に対して天皇に深い感銘の安心感を与えたからなのです。つまり、天皇家の立場も東西南北で阿多倍一門に脅かされている天皇家をも護っている氏の青木氏であったからなのです。孤立無援の天皇家にとって唯一の味方と受け取っていたからなのです。
    これはまさしく「天智天皇の初心」を忘れずに「天皇家の護衛団・近衛六衛府軍」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」が頑なにも200の神明社と共に護り通していたからなのです。

    敢えて対比して、11代の同族の賜姓族の源氏を観ても判る様に天皇に疎んじられ社会から抹殺の憂き目を受ける等して潰されているのです。
    朝廷と天皇は11代の源氏族を護ろうとはしなかったのです。何故でしょうか。
    それは上記の事の「有無の差」なのです。その「生きると云う姿勢」の違いにあったのです。
    社会も源氏に対して”武士の頭領”と誉めそやしながらも、他面ではその存在を認めていなかったのです。だから1氏も残らず11代もの源氏が抹殺滅亡させられたのです。

    話を戻して、つまり、「2つの事件」より120年後の青木氏の「後勘に問う」の効用が大きく発揮されたのです。
    その史書では、通説では”「純友の乱」には「源経基」と「小野好古」とが当たった”と成っていますが、ところが大発見で青木氏の研究範囲の中で、大蔵氏の資料史実から「大蔵春実」と云う阿多倍の10代目の子孫の人物が、天皇から直接に正式にこの乱の指揮官を命じられていたのです。(上記注釈の件)
    経基は”追捕次官に任命”と成っています。そうすると指揮官が居た筈です。
    その指揮官は誰なのか疑問が起こります。そこで上記の経緯から大蔵氏が絡んでいる筈としてここで「後勘に問う」の慣習から調べました。

    この時938年、「純友の讒訴事件」に関して天皇より「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」が与えられて指揮官を命じられている事が判りました。その人物が何と九州の大蔵春実でした。
    この人物は更に1018年に自治を認められた大蔵種材の祖父に当たります。
    孫の大蔵種材も1018年に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の永代官位」と「岩門将軍」と「太宰大監」と「征西将軍」と「九州菅領」と「弓馬達者の栄誉号」と「遠の朝廷の称号」を与えられます。
    自治に伴う全ての権限の政治、経済、軍事の3権と最高位の身分官職を与えられた事に成ります。
    ”与えられるだけ与えた”と云う感じで現在までにこれ程に与えられた人物はいません。
    あってもせいぜい一つの称号程度の範囲です。春実にしても種材にしても驚異の勲功授与です。
    歴史的にこの2人の勲功授受の史実の意味するところは大変大きい事に成ります。
    「後勘に問う」そのものです。
    将門と純友の恣意的な「讒訴事件」に対して朝廷は史実と違う事を正式な朝廷の記録に残さねばならない事に成ります。讒訴でありながら賊として反乱として扱い記録しなければならないことから矛盾疑問が出る事は承知していた筈で、後勘から観れば史実判明は必定です。

    (後勘の史実)
    1 940年頃の将門の乱や純友の乱の時に既に「九州全域」と「中国西域」を大蔵氏に委ね自治を認める事を決意しての天皇の行為と成ります。天慶3年5月3日の日付と成っています。
    2 「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」を与えた事は現在までの有史来で一氏と個人に与えたのはこの大蔵春実が始めてで最も信用している氏と成ります。
    3 「従五位下の官位」は貴族に列する事を意味し、藤原秀郷一門と同じ身分となり、「錦の御旗」と「国刀」を与えられた事は藤原氏には与えられていませんので、藤原氏以上の身分と家柄となり「源氏−平氏−籐原氏<大蔵氏」で公に認めた事を意味します。
    4 関東の阿多倍一族一門の「将門の乱」と連動しない様に以西は自治を約束して押さえ込んだ事を意味します。
    5 「純友の乱」が通説とは異なる事を意味します。この「小さい反乱」と見られる「事件」の鎮圧に「錦の御旗」と「国刀」をわざわざ与える事ではありませんし、大蔵氏が出てくる事ではありません。
    この乱はあくまでも「讒訴事件」である事を意味し、これを利用して大蔵氏を指揮官としたこの契機に関西以西と関東の安定を図ろうとした事を意味します。要するに経基の「2つの讒訴」を上手く利用した事を意味します。
    6 大蔵氏の引き出しで成功した独立問題は別の反乱へと繋がってゆくのです。残るは以北の阿部氏一族等の解決と荘園制行き過ぎ問題の解決と成って行きます。ところが関東の問題を解決して「たいら族」を関東から引き上げさせたのですが引き上げたところが美濃で、その美濃での源平緩衝地帯の最前線のバランスが崩れて「源平の乱」が併発して始めたのです。
    そして源義家がこの以北問題と荘園問題に大失敗を起こして以北は大混乱に成ります。

      「輪状の鎖の対立」
    後勘の史実として、この時代の事件関係を並べて考察すると全て輪状の状態で夫々の立場で原因関係が繋がっているのです。
    A 九州全域に”独立か自治か”で争っている時に。
    B 以北陸奥域の安倍氏では”蝦夷と見立てられて”潰される苦労している時に。
    C 関東域では「将門の独立の乱」で。
    D 瀬戸内・中部地方域には「純友の独立の乱」で。
    E 「国司苛政上訴・国司愁訴」が郡司や百姓等により各地で多発で。
    (記録 尾張国郡司百姓等解文988)
    F 賤民の難民、流人、放棄人、俘囚の反乱多発で。
    G 朝廷内の官僚の腐敗
     
    これは同時期の大きな出来事ですが、これ以外に典型的なこの時期の事件(E)が全国的に起こっているのです。それは上記の「4つの乱」の原因となる基なのです。
    「以北問題」と「荘園問題」は関連しているのですが、国の代理施政官の「国司の苛政(非法行為)」を「郡司」や「百姓」等に依って朝廷の中央政府に訴えられる事件が多発していたのです。
    朝廷に訴えても取り扱う官吏が腐敗の中にあるのですから無駄と言えば無駄な行為ですが、それだけに不満の限界に来ていたのです。
    要するに「国司の政治」が良くなかったのですが、余りに「酷い状況」であって宮廷の大内裏の陽明門の前で直訴したのです。この行為は当事の慣習から異例中の異例で遠い地方から集団で歩いて出てくるのです。現在の「国会デモ」か「皇居の正門」でデモ行進するのです。民が国を離れる事態がそもそも異常な前代未聞の行為であったのです。
    どれだけの「酷い社会環境」であったかが、現在の民主主義のデモではありませんので、この行為で判ります。”最早、誰に訴えていいのか判らない 何でもいいからやるしかない”の「民の心情」であったのです。まして、国司の下の「郡司」が参加しているのです。異常です。

    AとBは国司の行政を無視した態度に不満
    CとDは「将門・純友の乱」も戦いの元は国司に対する不満
    となるのです。

    丁度、この時期は「荘園の集団化」がピーク時(900年)に成り、これより行き過ぎの過程へと進む時です。
    最早社会の横暴の流れを誰もが止められない状況と成ってしまっていたのです。

    「対立の輪」「輪状の鎖」
    この流れの輪は次ぎの様に成っていたのです。
    7つの輪がぐるぐる廻る「酷い社会環境」と成っていたのです。
    ⇔の印の間には「苛政」(苛立つ酷い政治行為)が往行していたのです。

    (天皇・皇親側)⇔(朝廷・上級官僚側)⇔(武家・武士団側)⇔(下級官僚・国司側)⇔(荘園主・地方豪族側)⇒(郡司・百姓側)⇔(賤民・俘囚側)⇔(天皇・皇親側)

    AからFの経緯を調べると、これ等の7階級族が互いに隣の階級族と「輪状の鎖」で対立し腐敗していたのです。
    これでは「対立の輪」が起こっている世情ですから、最早「融合の行き過ぎ」・「氏大集団化」・「荘園化」が誰にも止める事が出来ません。

    特に(E)ですが、現場の治世を担当する国司が不法行為をして私腹を肥やしているのでは「国が腐敗」している事は確実です。
    そもそも「政治腐敗」とはこの様な各階層の「対立の輪」「輪状の鎖」の連鎖が起こる事ではないかと思われます。
    奈良−平安期の時代毎にこの階層の状況で調べてもこの様な完全な「対立の輪」は他にはありません。
    私の方法として、”この「輪状の鎖」がどのくらいの程度で起こっているか”を「史実」を探し出し「時系列」で並べその「傾向分析」で調べると其の時代の乱れ具合が下記した様に判るのです。

    全ての階層(要因)でこの「対立の輪」が起こっていれば「政治腐敗」、「輪状の鎖」の輪がところどころで切れていれば「部分的に腐敗」とか云う風にレベルの程度を判断して行く方法です。

    (検査などに用いる統計手法の一種:技術手法です 逆に安定している場合にも要素の設定の仕方で可能)

    注釈として、「3つの発祥源」の青木氏側から観れば、尚更にこんな「輪状の鎖」「対立の輪」中で上記の融合過程の「義家の不合理な行動」には同族として納得できませんし、また別の面で観ると、これ程の「輪状の鎖」の「世情の流」を止めた事は、「天智・天武天皇」「嵯峨天皇」に並ぶ「後三条天皇」はすばらしい逸材で在った事が云えます。先ず自然の摂理に任して行く所まで行く以外に止められない筈です。
    しかし、主に優秀な3人の天皇が出現して止めたのです。
    これには「洞察力」と「勇気」と「決断力」と「戦略的思考力」の4つを兼ね備えた崇高な人物であらねば成りませんが、天は味方してこの3人にそれを与えたと考えられます。

    だとすると、累々と前記している様に「阿多倍一族一門」が全階層に何らかの形で深く関っている事は明らかですから、彼等の「独特な行動」、或いは「法より人」「石は薬」の考え方が「階層の対立」を直接、間接に影響して「対立の輪」を起こしていたのかも知れません。現在の中国の様に。私はこの説を採っています。これは阿多倍一族一門の利害の害の一点で天智天皇の「何かが起こる」現象の根源に成っていたのです。

    「天智天皇」が「融合氏の国策」の3策を断行したのは実はこの「何かが起こる」の「懸念事」に在ったと観ているのです。
    つまり、この「輪状の鎖」「対立の輪」が国民の間に連鎖的に起こり、国が場合に依っては割れ、全階層に「法より人」「石は薬」の考え方の影響力を蔓延らせて行くのを観て懸念して、「阿多倍一族一門」の”「独立自治」が「武力的独立」に因らずとも自然に雪崩の様に必然的に起こってしまう”と考えたのではないでしょうか。
    この「天智天皇の考え方」が累代の天皇の難題の一つとして引き継がれて、「後一条天皇」の時に「九州の自治」(1018年)に対して最早逃れられないとして止む無く改革を決断したのではないかと考えられます。
    片方では「荘園の行き過ぎ」から「融合氏の行方」が「行き過ぎ」になり、止められない状況と成って来ていたのです。
    この「輪状の鎖」の対立の中で「阿多倍一族一門」に日本の精神の「互助」が働けば、尚更にそう難しい事ではなかったのではと考えられます。
    日本列島南北で戦略的に揺さぶれば3箇所は一族一門に必ず有利に働いた筈です。
    恐らくこんな政治状況の中で、天皇側は、”後漢が日本に移したような形が出来てしまう”と冷や冷やしていた筈です。幸いに「法より人」「石は薬」から「互助」が働かないのです。

    簡単に渡来後に瞬く間に「無戦制圧」して行って突然に「帰化」の手段を採った理由は”史実的に何かあったのか”と調べましたが史実として遺されている事件性はありません。
    天智天皇は「何かが起こる」から早々と先手必勝で先ず「帰化」の決断をしたと考えられるのです。

    「品部180」から「在来民」が「物造り」の「技能伝授」があり「急速な経済的な潤い」を得た事が”「無戦に成った唯一の理由」”とされているのは事実なのですが、”帰化する、しない”は”直接の理由にはならない”のではと考えているのです。
    「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中で「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と考えるのが普通ではないでしょうか。

    「何かが起こる」の考えは「帰化」を認めた以上は「国策3作」「融合氏のへの転換」によって「石は薬」「法より人」の考え方を変える又は無くするの唯一の手段と成ります。
    それでなくては ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”と成ります。
    この事は言い換えれば、「融合氏:3つの発祥源」の「青木氏の存在」は「国の国体の安寧と安定」と等しい事を意味します。

    つまり彼等の神の「産土神」を押さえ、別に「融合氏の青木氏」には新たに祭祀させた「祖先真の神」にする以外には ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”とする天智天武天皇の「手立て」であった事が判ります。
    即ち、「祖先神 神明社」はその時より「融合政策のシンボル」と成り得たのです。

    「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓秀郷流青木氏」はこの「対象氏」としてこの考え方を体現しこの紙一重の時代を沈着冷静に行動判断したのです。

    中でも、「特別賜姓秀郷流青木氏」の立場は極めて難しく重要で事の可否を決め得る立場であった事が覗えます。
    皇族賜姓族を護りながらも、秀郷一門の中での「経緯」や「第2の宗家」の立場もあり、この2つの難しい立場を護ると云う「至難の業」に挑んだのです。
    それには”「皇族賜姓青木氏」と全く同じ官位官職名誉を与える”と云う「嵯峨期の詔勅」の範疇を遥かに超えて天皇は決断したのです。

    (「嵯峨期の詔勅]による青木氏の名乗りは、皇族の朝臣族又は場合に依っては例外的に宿禰族であることが朝廷に依って承認されれば賜姓無くして名乗れるだけのもので、前記の青木氏と守護神(神明社)−4での「俸禄と褒賞制度」の授受一切と官位官職等の授受は無関係です。
    秀郷流青木氏はこの「嵯峨期の詔勅」により特別に賜姓を受けて青木氏を名乗った氏であり、その時、賜姓族と同じ身分・家柄・官位・官職等を同じく保持した氏です。大きな違いがあります。記録からは「青木氏の名乗り」だけでこれ等のものは申請していないのですが与えられたのです。この事からも以下の数式の天皇の思惑が良く判ります。)

    「2つの青木氏の存在」=「国の国体の安寧と安定」
    「産土神」<「祖先神」=「国の国体の安寧と安定」
    「2つの青木氏の存在」+「祖先神 神明社」=「融合政策のシンボル」

    「阿多倍一族の考え」
    反対にこの時の渡来時に”阿多倍一族は何かを考えた。”とすると、”ではそれはどんな考えなのか”となります。
    先ず、全体の置かれている環境・経緯から観て、筆者が阿多倍の置かれている立場であれば次ぎの戦略・戦術を採るでしょう。経緯から見てこれ以外に「首魁・長」としてないのではと考えます。

    想像する経緯
    国を追われてぞくぞくと入国してくる漢族の難民の「衣食住の手当て」等の安定の担保が成されなくては戦いは難しいし、下手な出方をすると17県民200万人の大難民は大混乱に陥る。後漢の首魁としては無茶な事は出来ず「戦略」が必要となる。かと云って滅びたとは云え優秀だといわれていた「漢民族の自負」がある。
    国が違うのだから考え方も違う。何とか柔軟に対処したい。幸い人民の進んだ技能がある。在来民も慕っている。ここは戦いを避けて何とかこれを生かす先ずその算段が必要だ。状況を観ながら上手く行けば次の戦略で行こう。ただ場合に依っては朝廷側から何らかの方法で潰しにかかることも有り得る。その手立ても考えて置く必要がある。と首魁・長である阿智使王と阿多倍王は考えた。
    そこで次ぎの戦略を立てた。

    基本戦略
    1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の考え方を「基本方針」として踏襲する。
    2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
    3「独立か自治か」を獲得する。

    戦術1 全国に上から下まで自前の力を浸透させる。先ず「限定地域」(九州南北地域にする)を定めて「安住の地」を作り上げる。その為に「在来民」との融和を図り「職能集団」を全面に押し出す。

    戦術2 入国地の北九州から南九州に拠点を移して朝廷から遠隔地にしておく必要がある。
    大隈の隼人を本拠地として200万人を指揮する。

    戦術3 「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中では、在来民の賛同を得られないし孤立する恐れがあり「食料武器調達」は「長期戦」になると困る。続々と入国してくる「後漢の民」に対して危険である。支配下に入った在来民にも大犠牲が出る。仮に独立しても長く続かない。
    故に今すぐに「独立戦」は困難と判断。

    戦術4 一度帰化して上から下までの階層に勢力を浸透させて基盤を造る。天皇家に血縁で繋げ朝廷に政治基盤(政治、経済、軍事)を伸ばして為政力を着ける。
    其の力で国内を幾つかに分けて子孫とその配下と品部を配置する。

    戦術5 状況に応じて7つのブロックの自治か独立を政略的に基本方針に従い達成する。
    一族一門の「多少の犠牲」が予想されるが政敵(源・藤・橘・皇親族等)を政略的に潰す。

    戦術6 政敵日本全国統一する為の国策「融合氏」に対して、「私有化」に誘導して「民族氏」である「後漢人民」の「安寧の地」を確保する。

    現実には帰化(645)から概ね100年間位で次ぎの様な初期基盤が構築された。
    これ等の「戦略戦術」に際しては次ぎの基地を構築して実行した。

    「7つの基地」
    関西伊勢本部  阿多倍王の一族(後漢王族の直系子孫 桓武賜姓平族・京平氏 たいら族 品部)
    九州北地域基地 大蔵氏の一族 (皇族血縁族 賜姓族 品部 上級官僚為政族 品部)
    九州南地域基地 肝付氏の一族 (大蔵氏末裔 皇族賜姓族支流 官僚伴氏と血縁族 品部)
    中国地域基地  坂上氏の一族 (平族末裔1一族 皇族血縁族 賜姓族 官僚軍務族 品部姓族)
    関東地域基地  平族支流一族 (平族末裔2一族 後漢王族の血縁族 下級官僚族 品部) 
    中部地域基地  内蔵氏−清原氏(皇族血縁族 賜姓族 上級官僚為政族 品部)
    陸奥地域基地  阿倍氏−安倍氏(後漢王族支流族 中級官僚為政・軍務族 品部)

    「基地のその後の経緯」
    関西伊勢本部は1185年 平族滅亡 伊賀氏として遺す
    九州南北基地は1018年 自治権獲得 大蔵氏・肝付氏等繁栄する
    中国地域基地は1185年 陶部氏滅亡 村上氏・海部・武部の姓氏族で遺す 
    関東地域基地は950年  関東平族衰退 関西以東に後退 磯部氏等姓氏族で遺す
    中部地域基地は1062年 内蔵氏・阿倍氏衰退 支流族で遺す
    陸奥地域基地は1087年 安倍氏・清原氏滅亡 支流族で遺す

    平安末期に最終の段階で関東、中部、陸奥地域は最終的に犠牲の予期はしていたが、思わぬ事件が起こり失敗し戦略を見直し後退させます。しかし、鎌倉期−室町期から観れば常識的に首魁が採る「基本方針と判断1−5」の全ての「基本方針と6つの戦術」の内容は完全一致しているのです。

    筆者が最初に描いた「戦略・戦術」通りにほぼ進んだと観ています。
    「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と”阿多倍一族は何かを考えた。”は真に「基本方針と判断1−5」と考えたのです。
    それを判断通りに「150年程度」(初期100年)で完全に実行したのです。
    (阿多倍はかなり長寿であったことが記録から判明する)

    史実から領土の確定時期
    645年に正式な帰化許可 北九州域(大宰府付近)に定住を許可
    650年頃には薩摩大隈隼人に定住地移す 「阿多」にも定住地
    675年頃には伊勢北部伊賀地方の半国割譲
    685年頃には賜姓授受 賜田賜る
    723年頃には薩摩大隈が攻められ護る 大隈地方を半国割譲
    728年頃には功田で飛鳥高市郡を治領する
    730年頃には近江−安芸の以西地域を治領する(大領)
    780年頃には北九州の以北の正式な領主に(檜前領主・・)
    802年頃に蝦夷地征討 内蔵氏と阿倍氏 奥羽7国全域と越後一部を治領する
    833年頃には「7つの地域」を発展させた功労で例外的に特別に一族の賜姓族を「宿禰族」に昇格
    (この時に軌道に乗っているので帰化から最大185年程度経過) 
    938年に「純友の乱」(清和源氏始祖経基王と共に)で朝廷軍として「錦の御旗」の下に「天国刀」を賜り鎮圧の責任者として命じられる。中国以西と九州の自治を約束
    940年頃に暫定にて瀬戸内と長門国域まで鎮圧し治領する
    941年以降 鎮圧後、中国12全域と北九州全域を治領する
    1018年以降 九州11全域の自治の「院宣」を受ける
    1070年頃以降 長門国・岩戸(出雲)・岩門を治領する。

    阿多倍一族一門は・「帰化後425年」で国の大半と一部地域を正式に領地としているのです。
    正式の前には既に無戦征圧しているので帰化後は20年程度で完全に勢力圏に納めているのです。
    だから、この後の内蔵氏・阿倍氏末裔の「安倍氏・清原氏等の事件」や平族の「将門の事件」や「純友の事件」(大蔵氏・平族等で鎮圧)やAからG等もこの判断の中での出来事なのです。
    安倍氏や清原氏等の「辛い犠牲」も「大事の前の小事」として予期していた事で首魁・長の判断の中であったと観られます。

    「概念の違い」
    これは在来民持つものと比べると、「戦い方」或いは「目標達成」に対する根本的に異なる「感覚・概念」の違いとして出て来るものなのです。
    これが「融合氏」と異なる「後漢の民」の「民族氏」の一見「無関心主義」と観られる概念なのです。
    彼等の中では「通常の思考規準」として割り切れて出てくる概念なのです。
    「融合氏」であれば躊躇なく”それ助けよ戦いだ”と成るでしょう。
    「融合氏」であるならば「身内を犠牲」にしての「戦略戦術」であるなら大いに悩むところである筈です。
    「身内を犠牲」にすれば「因果応報」の概念が湧き出でて”何時か自分も同じ目に会う”と考えて「通常の思考規準」としないのが「武家の習い・武士道」として「伝統」と成っている筈です。
    ここが「融合」と云う言葉の意味なのであり、”溶け合う”に依って”同一”と成り、”身内は自分””身内を見放せば自分を滅ぶ”と成る概念なのです。
    これが「民族氏」と「融合氏」の概念の根本的な違いなのです。

    「民族氏」の概念=「無関心主義・漢民道」(民族制度の思考)
    「融合氏」の概念=「武家の習い・武士道」(氏家制度の思考)
    「民族氏」は「大陸的概念」
    「融合氏」は「家族的概念」
    その違いは以上と成ると考えられます。

    阿多倍一族一門(惣領・家人・郎党)と其の配下は全てのこの8階層(「対立の輪」「輪状の鎖」)
    に関わっていますので「大義名分」はどの階層からも出せます。しかし、これ程の「独立自立」を押し立てる名文があるのにも拘らずこの様に阿多倍一族一門にはまだこの「姿勢や態度」の「民族氏」の抜け切れない「無関心の感覚概念」が存在するのです。
    「中国大陸」と云う「多種多様民族」の中では「無関心の感覚概念」でなくては生きて行けないのであり、概念の「良し悪し」では無いのです。
    同様に日本においても”「7つの民族」を一つにまとめて「国の安寧と安定」を図る”と天皇が考えた以上は「融合民族」(・民族)をより進めるには「思考の単位」を小さくして矢張り「融合氏」(・氏)の国策を採る以外には無い筈で、ここに阿多倍一族一門との帰化後の「激しい対立」があったのです。

    上記の様に66国中の40国程度が彼等の治領範囲であるのですから、彼等の影響は影響の範囲を超え上記する「民族氏」の「大陸的な感覚・概念」が日本と云う「小さい島国」に蔓延こる事は誰が考えても当然の事です。
    そして蔓延った場合は”国は滅びる”(現在の国体は消える)と考えるのも当然の事でしょう。
    「天智天皇」(「何かが起こる」)から「嵯峨天皇」と「後三条天皇」の優秀な為政者と、その後の「院政」(天皇・上皇)では充分に考えられる「感覚・概念の差」である事でしょう。
    だから、彼等の「基本方針と6つの戦術」に比較して、対峙する天皇の「国の安寧と安定」の基本方針である以上は「融合氏の3策」を絶対的に推進しなくてはならないと成るのは必然です。
    両者ともに当面採らなければ成らない「必然の戦略戦術」だったのです。
    普通から考えればこの状況では「争い、戦い」は起こる事は間違いありません。

    「帰化と治領の理由」
    では、国が「融合氏」の「国策3策」を掲げていながら、それに反する事を何故したのかが疑問です。
    ”それならば、「帰化と治領」をしなければ良いではないか””何故、帰化を許し上記する国の40国の治領を許したのか”矛盾です。
    それは次ぎの6つの理由によるのです。
    イ 疲弊していた国を「物造り」の「技能集団」が在来民を誘って国を豊かにしてくれた事、
    ロ 優秀で豊富な知識官僚(6割)として働き国体の根幹とする「国家体制」を近代化し「律令国家」にしてくれた事、
    ハ 治領する国々の安定化を任せられる力を持ち対処してくれた事、
    ニ 統一されていない日本の国を彼等の進んだ武力で鎮圧してくれた事、
    ホ 対外国の脅威から国を護ってくれた事、
    ヘ 入国後、無戦征圧で実効支配している事、

    これだけも一民族氏の彼等に「勲功や治領」を許す事があれば認めない方が国が乱れる筈です。
    これが彼等の「基本戦略ーイ〜ヘ」であったのです。
    天皇は”しかし「民族氏の思考原理」は問題だ”のジレンマに陥っていたのです。

    そのジレンマが今度は”余計に危険だ、「融合氏」にしなければ”と「天皇の悩み」は逆行して行ったのです。そして一時は天皇はこの「判断の過ち」(隼人の戦い)を犯したのです。
    当然にこれには歴史的に史実として上記し前記する「戦い」を含む激しい「やり取り」があったのです。
    「民族氏の思考原理」が働き、国策に従わない713年−723年の「隼人の戦い」の例に観るように。
    しかし、朝廷は上記した勢力では勝ち目など始めから有りません。
    しかし、余りのジレンマの酷さから”潰しにかかるミス”を犯してしまったのです。
    それ以後、冷静に成り「戦いのミス」はしなく成ったのです。
    むしろ、上記「史実から領土の確定時期」の様に「取り込む作戦」に切り替わったのです。
    「排除作戦」→「取り込み作戦」
    その決定的な流れの重要な判断をしたのが「後一条院」の寛仁2年(1018)の「九州全域の統治権自治」を認めた事なのです。これでほぼ決着した事に成ります。無闇に認めた訳ではありません。それだけの綜合的な実力を持ち得ていたからでねむしろ朝廷よりあるのではと考えられる位です。判断はその直前の「純友の事件」の時に事前通告する(938年)手立てを講じていて冷静です。
    これは「民族氏」と「融合氏」の妥協案と成ったのです。
    阿多倍一族一門からすれば「基本方針と5つの戦術」に合致し「独立」に成るには及ばすとも充分とは行かずとも納得できる結果です。
    「32国の統治権」を獲得しているし、天皇家とも血縁族と成り子孫末裔は遺せたし問題は少ない筈です。ほぼ達成できたからこそ”「大事の前の小事」”として「陸奥の一族」を「無関心主義」をここで発揮し見放したと云う事に成ります。

    清和源氏や藤原氏と戦っていた場合は帰化時ではなく40国の勢力ですし、天皇より九州地域の自治権を認められて40年後の事ですし、「錦の御旗」と「遠の朝廷」と「天国刀」を授かっているのですから、上記する様に大儀名文は充分あります。
    軍事力から云っても格段の差、阿倍比羅夫や阪上田村麻呂の実績もあります。
    内蔵氏、阿倍氏、安倍氏、清原氏を救い出す事は簡単であったし、天皇も文句は出せない事であった事から犠牲をわざわざ払う事無く基本方針を貫く事は充分に出来たと観られます。
    そうなれば関東と中部と関西の3地域を残して両サイドは独立まで待ちこむ事は出来た筈です。
    この両サイドの力からすれば関東や中部や関西を獲得する事は時間の問題です。
    軍事だけではなく政治の6割を末裔一族が占め、経済は品部180とその姓族が各地で育っているのです。問答無用です。
    しかし、彼等は何とそうしなかったのです。後一条院の正式な「自治認可の裁可」に対する「交換条件」として。

    彼等の基本方針は
    1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」を踏襲する。
    2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
    であったからだと考えられます。
    この基本方針が賄えていたからです。
    しかし、2の基本方針は朝廷側からすると「民族氏」<「融合氏」成っている筈です。
    朝廷はこの「折り合い」をこの段階では「民族氏」=「融合氏」にほぼ等しいとして踏み切った事に成ります。朝廷の基本方針にするには「2つの青木氏の存在」の今後の如何に関わっていたのです。
    ですから、上記した「青木氏の存在」=「国の安寧と安定」の数式が成り立つのです。

    問題は”その後の荘園問題の絡みから来る「融合氏」はどうなるのか”です。
    答えは次ぎの政治改革の断行にあるのです。
    「後三条天皇」の1068年の「荘園整理令」
    「白河天皇」の1072年の「荘園公領制」
    以上2つの改革を導いた英断にあると観ます。

    恐らくはこの英断を観て”阿多倍一族一門は引いた”と観ていて、上記の「基本方針」に沿ったと見て居るのです。
    「九州全域の自治」に対し「国策に従う事」(荘園整理令と荘園公領制)と「戦いを起さない事」を条件に纏まったと考えられ辻褄が合うのです。

    源義家一族の「前九年の役」と「後三年の役」を天皇が「私闘」としたのはこの「協議の妥結案」に逆らうものであったからです。
    「義家等の行動」そのものが「国の行く末」、「融合氏の行く末」、「青木氏の行動」を破壊や波乱に導く可能性があったから「私闘処置」のみならず「疎んじる」(源氏を潰す)と云う決断の行為に出たのです。
    「青木氏」に対する扱いとは源氏の扱いは間逆であったのです。

    天皇は場合に依っては阿多倍一族一門が「契約違反」として動く事を懸念してハラハラしたのではないでしょうか。そして、「民族氏」の彼らの冷めた様な冷酷無比と観られる「無関心主義」に対して「融合氏」の欠点として、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”を天皇は憂いたのではないでしょうか。
    それが「融合氏の象徴」の源氏に出ていたからなのです。「融合氏」を進めなければならない立場にありながら「間逆の行動」を採っている源氏を許す訳には行かなかったのです。

    これが「後勘に問う」の当時の実情であって、「荘園整理令」「荘園公領制」の実行に依って、”最早「事の流れ」は決まった”と観て、単に「私闘」と片付けたのではないかと考えます。
    しかし、この事を救ったのが「真逆の立場」にあった懸念していた阿多倍一門であって、幸いにも上記した様にこの「民族氏」は鎌倉期−室町期の「弟2の融合氏」と進み、結果として「民族氏」の「阿多倍一族一門」と「融合氏」との両方に執って丁度良い「結びの結果」と成った事に成ります。
    この事から、青木氏と同じ立場にありながらも「源氏の判断ミス」の行動が際立ってしまったのです。
    これでは最早、天皇のみならず社会は「源氏を遺す根拠」が無く成ったと成るのではないでしょうか。
    武士階級では「源氏の頭領」と表向きには褒めはやしていたが、一面では「青木氏の存在」即ち源氏に匹敵する力を持っていた藤原氏の秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏の背景」と「皇族賜姓族青木氏」を片方で見ながらも認めていなかった事が判ります。
    それは「社会の民」は当事、民自身で「心の拠り所」の神社を建立する力は無く、多くは青木氏が建立する「皇祖神の伊勢大社」に繋がる「神明社」に「敬いの心」を持ちながら「心の拠り所」を求めていた事でも判ります。
    (源氏の八幡社より神明社の方が段突に信心は高くこの傾向は明治期まで続きます。伊勢参りの形で神明社に詣でた。)
    源氏が持て囃される事で民から「特別の氏」と見なされ、必然的には源氏の守護神の「八幡社」は武士以外には「特別な神社」と扱われてしまったのです。その反面、青木氏は「特別な氏」でありながらも、「神明社」を通じて慕われ崇められていたのです。平安期以降は「2足の草鞋策」としても生活は民の下まで降りて行き民と一体と成って行ったのです。それには「絆結合」で結ばれた民の「第4の青木氏」の功績が大きかった事が覗えます。この様に青木氏は源氏と異なり「生活の面」でも「民と一体」で生き延びてきたのです。

    この民まで繋がる「融合氏」「3つの発祥源」としての青木氏を護り支えた平安時代の累代の天皇はその意味では”ぶれ”ていなかった事が判ります。
    (平安以後は特別賜姓族の秀郷流青木氏が天皇の代わりを勤め賜姓族を懐に抱え、秀郷一門も護りその役割を果たしたのです。特別賜姓族の秀郷流青木氏あっての「4つの青木氏」であった。)
    その意味で「後勘に問う」から観れば、秀郷第3子の千国を申請外で特別賜姓族として「村上天皇」が容認した事の判断も優れていた事に成ります。
    その天皇の中でも「後一条天皇」「後一条院」も「後三条天皇」と並んで優れた先を観た判断の「先見の明」の「通眼の持ち主」であった事が云え、「逸材の天皇」として認める必要があった事に成ります。

    しかし、この平安期の「民族氏」の冷めた「感覚概念」は現在も引き継がれていて日本人の政治に対するアンケートでも出て来る4割にも上る数字の「無関心族」「無所属派」としてこの感覚の持っている人が多いのは此処から来ているのでしょう。又、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”も同等に多いのも此処から来ているのでしょう。
    現在でも「民族氏」が消え「第2の融合氏」と成ったけれど「7つの民族融合」の日本の国民の3割程度は中国系の日本人ですので、この「感覚・概念」を執拗に遺伝子的に引き継いでいるのかも知れません。
    「氏的」には7割程度に融合していればまあ殆どの「融合の国民」と云っていい筈です。

      「融合の必然性」
    本文で云う日本人の「7つの民族」の「融合氏」を分けるとすると、鎌倉期以降では「第1の融合氏」と「第2の融合氏」がある事に成りますが、この「2つの融合氏」を成そうとすると、初期には「血縁」で緩やかに拡がりますが、必然的に「氏間の競い合い」が起こり、この様に最後期には「争い」で決着をつける事が起こるのは「自然の摂理」です。
    「2つの融合氏」=「血縁」→「氏間の競い合い」→「争い」→「融合」=「自然の摂理」

    平安末期に起こり始めた「源平」(民族氏と融合氏)の様な「争い」は各地で起こっていますが、「民族氏」問題から危機を感じて「国の安寧と安定」を国是として、この様に「天智天皇」が政策として始めた「3つの発祥源」の「青木氏」を模範として、それを進化させ発祥させ推進させました。

    それが第1(融合氏)と第2(民族氏)の「融合」の経緯を辿り、遂には、この様な融合は「争い」を誘発させ、下の氏(姓族)が上の氏を潰す「下克上の争い」の現象(姓氏誕生)へと繋がり、それが全国的に広がり「氏の潰し合い」(氏間と姓間と氏姓間の争い)の「戦国時代」へと繋がっていくのです。
    この時、多くの氏は「平安期の氏数」まで入れ替わり激減して潰れてしまったのです。
    つまり「融合氏」としての弱点が原因したのです。
    「弱点を直す努力無し」では生き残れずこれはこの世の「氏融合の必然性」です。

    この様に「後勘で問う」で観ると、この中で「氏」を遺せるには、(「源平」の様に成らないようにするには)「決定的な何か」が必要な筈です。
    それが(証拠)「1千年以上の悠久の時を過ごして来た生き残りの歴史」を持つ「青木氏」に観えているのです。
    それが前記した次ぎの数式で表されると考えています。

    「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(血縁と生活の絆)=「4つの青木氏」
    「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

    「争い」を伴なう「氏融合」ではこの条件(「鶏の卵関係」・「血縁と生活の絆」)を伴なわなくては「滅亡の憂き目」を受けるのです。
    しかし、これは「青木氏の歴史と期間」から観た証明の条件ですから「融合氏」全体から観た集約される条件としてこれ以外に他に何かがある筈です。
    それを検証する為に次ぎに更に検証進めます。

      「氏融合の第2の条件」
    阿多倍一族一門以外にも実は中国地方と北九州地方一帯にも藤原純友による「独立国反乱」が起こっており、これには阿多倍一族一門の「大蔵春實」と賜姓族の清和源氏の祖「源経基」が当たりました。
    1年早く起こった「将門の乱」も夫々を代表する「平貞盛」も「藤原秀郷」の2人も上記した全国の「阿多倍一族一門」の出方を観たと考えられます。しかし、「貞盛」と「秀郷」の両者と共に上記する理由(融合が進み過ぎた)で「阿多倍一族一門」も「将門の乱」の方では直ぐには動かなかったのです。
    この「両方の乱」の発生場所は何れも阿多倍一族一門の根拠地・土地柄で共通しています。
    「純友の乱」の方は根拠地として重要度の高い地域であり、相手は「藤原氏」でありすぐさま大蔵氏が敵対したのです。
    「将門の乱」の方は「関東たいら族」の根拠地(上総下総)で「将門」は伊勢伊賀の桓武賜姓族(781)の支流平族の身内ですので「無関心」を装ったのです。
    そして、結局は「純友」には「阿多倍」の次男の「大蔵氏」(賜姓族・北九州)の末裔10代目「春實」が当たり、5年の後に鎮圧させ、春實には中国地方と北九州地方を正式に領地とする事を許されます。
    「将門」には「阿多倍」の伊勢伊賀の末裔賜姓「平国香」(将門に殺された)の子4代目の平貞盛(賜姓族・伊賀)が当事者(事件の追捕使・押領使でもある)でありながら暫くは無関心を装い様子を伺ったのです。
    何れも阿多倍一族一門の地域帯で起こり、阿多倍一族一門が対応したのです。
    将門の乱は身内が起こしたのです。
    そこで、今度は二人は逆に痺れをきらした天皇から出された条件に吊られて、「貞盛」は身内の拡大を、「秀郷」は潰されることが無いと見て身内の拡大を考えて苦しい5年の戦いに挑んだと観られるのです。

    特筆・注意
    ここで理解を深める為に先に「たいら族」と青木氏との関わりを知っておく必要があります。
    「たいら族」とは「氏」としては敵対する立場にありながら「血縁・隣人・人」としては不思議でかなり親密な関係にあったのです。
    「青木氏とたいら族の関り」
    「桓武平氏」・「京平氏」・「伊勢平氏」と呼ばれる桓武天皇より賜姓された氏です。
    関東の「皇族第7世族」の「ひら族」(平氏・坂東八平氏)に準えて「伊勢伊賀」に住する事に成った後漢から帰化した大隈の首魁「阿多倍王」にその功(技能普及で国を富ました)に対して慣例を破り「たいら族」(平家・伊勢平氏)を賜姓し伊勢北部伊賀地方を青木氏から外し半国割譲して与えたのです。
    本来は賜姓は4世族内の者で第6位皇子に与えられる天智天皇からの慣例でそれまでは青木氏として賜姓していたが、「光仁天皇」(伊勢青木氏の始祖施基皇子の子)の子の「桓武天皇」は自分の母の「高野新笠」(阿多倍の孫娘・光仁天皇の妻)の祖父阿多倍王(伊勢伊賀在住)に対して賜姓したのです。
    伊賀の高齢の「阿多倍王」又の名の「高望王」「高尊王」、朝廷側の名の「平高望」「平望王」「平尊王」として、死亡後に”生きている”として伊賀に出向き賜姓したとされています。
    そして「辻褄と帳尻」を合わせる為に「桓武天皇の曾孫」として処理したのです。

    しかし、伊勢北部地域の伊賀にはこの様な「桓武天皇の曾孫」とするものは皇族の記録には確認されないし、伊勢伊賀地方に第4世族の皇子の「王」とすることもおかしいし、「曾孫」とするも年数が合わないのです。
    後漢の王の「阿多倍王」と極めて酷似の名であるところから、又経緯からも「高」を「たいら族」(平族)とした事から真実味を出す為に「平」に変えたと観られています。
    これに対して「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の孫娘と血縁して3人の男子を産みこの子供に賜姓をうけ「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」を発祥させたのです。
    つまりは、この事により「皇族出自」としてその父親も同扱いにして第7世族の「ひら族」(坂東八平氏)に準えたのです。
    記録上は阿多倍の名に似せた名を作り出し「皇族出自の曾孫」として扱ったのです。
    その「平氏」の賜姓を受けた事によりその「阿多倍」の孫より「賜姓伊勢平族」として「平国香」−「平貞盛」より以降の平清盛までの末裔等の記録が残っています。
    (末裔の国香以前は不明で、国香は年代から孫か曾孫に当たる)
    大蔵氏等3賜姓族は天皇家の血筋を保持し、賜姓「たいら族」と阿多倍の縁戚族「阿倍氏」等は無血縁です。
    これを強引に孫或いは曾孫としているのです。
    この「平国香」より6代後が「平清盛太政大臣」であり、「阿多倍」の孫としたのは「阿多倍」の子は坂上氏(806年没)、大蔵氏、内蔵氏の3人であるので「平族」の2代目(国香の親)は誰なのか不明です。(記録上では高望王としている)
    一説によれば孫とする「平国香」はこの3人の内の一人の子の推測説もあり妥子の説もあるが、元々阿多倍王は超高齢(85歳以上−735年頃没?)であった事は事実で、死んだ後(35-45年後)の事で無理で強引な桓武賜姓であるので、不明としていると考えられます。
    「桓武天皇」が生まれた737年頃が最大時期で「阿多倍王」が没した時期前後とほぼ一致すると考えられます。
    95歳−100歳であればぎりぎり母親の実家の祖父の阿多倍を何とか知っているのが限界であると観られます。(当時の平均年齢は45−50です)
    桓武天皇生誕期≒阿多倍王没期 桓武天皇位781-生737=44年後に賜姓した事に成ります。
    この44年を埋めるには阿多倍を強引に孫(又は曾孫)とする以外に無くなります。
    これが矛盾の通説の根拠なのです。
    従って、阿多倍から次に判っている平族の人物は国香であり、国香は将門に殺されたので935年没で依って生誕不明としているのです。この国香の行動ははっきりしていて同年代の者の生誕日は明確に成っている事から観ると何も不明と成る理由は見付かりませんから明らかに伏せたと観られます。
    しかし、計算から当時の平均年齢から観て、「国香」は885年頃(895年頃)が生誕と成りますと(885-735)=150年前後位経った人物と成り、「孫か曾孫」と成りますので、実際はこの阿多倍から国香までの間には少なくとも「2人の人物」が存在する筈ですが判っていません。
    「国香」を始めとして「2人の人物」には賜姓するにはその功績が認められませんので、どうしても始祖である「阿多倍王」に戻り賜姓する必要があります。
    既に阿多倍の子供の大蔵氏等3氏には賜姓をしていますのでその父親だけは准大臣に任じてはいるものの賜姓は受けていません。
    そこで桓武天皇は母方の没祖父に何としても賜姓をしたかったのです。
    確かにそれだけの勲功は充分にあります。そこで、これは奈良期の「身内外の賜姓仕来り」により中臣鎌足の「藤原氏」の賜姓も没直前か直後とされているのに準えたものと観られます。
    これはその天智天皇が採った賜姓の仕方とも同じです。前例の”慣例に従った”と成ります。
    依って、「国香の生誕」を明確にすると「慣例の賜姓」の矛盾を露出させてしまいますので終えて消したのです。
    「桓武天皇」は、「阿多倍」の長男の「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」とは母方の伯父に当る事もあり極めて「知友」であった事は史実として残されていて、桓武天皇と同じ同没806年であり、伊勢の阿多倍の実家の内容は手にとるように実に良く知っていた筈です。知った上での行為でありその賜姓の目的が明確であります。(父方は伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇)

    桓武天皇は「律令国家」政治を完成させる為に父方の「皇親政治」族側の実力氏「2つの血縁青木氏」に対する対抗勢力(母方族)を作り出しました。その勢力が阿多倍一族一門なのであり官僚の6割を占め彼等の勢力なしでは律令国家は成し得なかったのです。
    「阿多倍勢力」による「律令国家完成」か、義の実家先の「皇親政治」側青木氏を採るかの決断に迫られたのです。
    父方族の青木氏では無く、上記した様に国の6割から7割を有する実力充分のその「対抗勢力(母方族)」に自分の律令体制の維持の意思を継がせたかったと観られます。
    「律令政治」と「皇親政治」は相反する体制で、現実に後にも天皇家はこの勢力に二分されて政争が起こって入るのです。
    事実、この「桓武天皇」(737-806・位781-806)のこの慣例を破った無茶な賜姓(天智天皇からの第6位皇子の青木氏を賜姓しなかった事)に対して、後の「嵯峨天皇」(桓武天皇の次男)と「政治手法」で争いを起こして対立するのです。
    結局は、「嵯峨天皇」は元の「天智天皇」の「皇親政治」に戻したのです。
    そして直ちに「弘仁の詔勅」を発して「賜姓の方法」を戻してこの様なことの無い様に規律を作った経緯なのです。
    以後、11代に渡り実行された「賜姓源氏」と変名して「青木氏」は皇族の者が還俗する際に用いる氏名として一般に使用を禁じ江戸末期まで原則守られました。
    結局、その「賜姓の意思」の決断は「融合氏の国策」に執って400年と云う間の「融合氏」を啓蒙する「民族性の強い相手」であった事に成ります。
    「桓武天皇」は身内の実家先の「3つの発祥源」の伊勢青木氏を、良い方で考えれば”強い氏として鍛え末代までに残る氏”に天智天皇の意思に従い遺したかったのかも知れません。
    何も「皇親政治」族として政治に関る事が目的だけでは無く未来の事を考えた場合「3つの発祥源」として生き残らせるべき事が本筋であります。
    それがと天智期からの”「国策3策」に合致するのだ”と考えていたと観ているのです。
    その為に結果としてはこの時の仕打ちで鍛えられて青木氏は衰退浮沈してもそこから這い出し生き残ったのです。
    桓武天皇は争いまでして「苦渋の選択」をした事に成ります。
    「たいら族」は「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)とは直接に血縁性は無いにしても、「何れも伊勢の住人」「青木氏と光仁天皇の末裔の桓武天皇・父方族」の「関り・隣人絆」から「親心」から強い「母方」を使って「皇族」と云う「ひ弱さ」を克服させる為に採った戦略では無かったかとも考えているのです。
    それでなくてはこの様な突拍子もない事をしなかったのではないでしょうか。
    それでなくては余りにも”平族賜姓の目的が単純すぎる”のではないでしょうか。
    恐らく、その時の父方の実家の青木氏は「皇親族」として「奢っていてひ弱さが目立っていた事」を示唆していたとも考えられます。

    現実に「嵯峨天皇」から同族として発祥した11代の源氏は「桓武平氏」を滅ぼしたけれど自らも共倒れする様に全て11代は完全滅亡しているのです。
    その意味で「平清盛」と接し「政治、経済、軍事」に付いて教授されていた「源義経」は兄頼朝に”諫言した事は正しかった”と観ているのです。
    既にこの時には直系の「近江源氏」「美濃源氏(賜姓美濃青木氏も滅亡)」「尾張源氏」「駿河源氏」は「たいら族」に因って「美濃の戦い」で完全に潰され子孫は滅びているのです。

    (最早、皇族賜姓族の青木氏や佐々木氏などの嵯峨期前の賜姓族と村上源氏支流(北畠氏等) が遺された。しかし:最終村上源氏も室町期に滅ぶ。特別賜姓族の秀郷流青木氏は5家5流の青木氏と佐々木氏を護る。 村上天皇は第6位皇子を源氏として賜姓するが、秀郷第3子も特別賜姓する。)

    「2足の草鞋策の強み」
    特に記録では義経は「清盛の宋貿易」に付いて「貿易経済と物造り」(商い)に感動したと記されています。皇族賜姓族の「生き残り策」は「武力」では無く、「荘園」で無く、領地を生かした「商いと物造り」つまり「殖産策」である事を「義経の感性」で感じ採っていたのではないでしょうか。
    「武家が商い」には感覚的に抵抗があったと観られますが、論より証拠で同族の「2つの血縁氏の賜姓族青木氏」と「平家の清盛」さえも悟っていて実行したのです。

    ”「税と権力」を基盤とする「勢力繁栄」は何時か「栄枯盛衰」のたとえの通り滅びるは必定”と見抜いていたのです。しかし、「清盛のたいら族」は滅びたのです。

    その原因は次ぎの事が働いたと考えられます。
    1 「税と権力の基盤」>「商いと物造りの基盤」であった事
    2 関東での治領の運営に失敗し撤退した事
    3 「荘園の行き過ぎ」にも肩入れし過ぎた事
    4 阿多倍一族一門の援護が無かった事
    以上の4つから起こった滅亡です。

    室町期の状況として分析すると、特に3の平族の未勘氏と家紋分類から見ると源氏には及ばないが姓氏含みで373もあり、これも”いざとなった時”には逃避離散する為に戦力には成らなくなる事も原因しているのです。(源氏では判明できないくらいでこの数倍となる)
    平族の氏力の約10倍程度と成っています。平族の実際の氏力は見た目より1/10程度の力しかなかったのです。これを清盛は間違えたのです。
    1に付いては「知行国と領国の比」から領国では殖産し産物を拠出することが出来るので「商力」(宋貿易額)とし、知行国は「知行と権力」に依って得られる「基盤力」とすると、「商力/基盤力」または「領国/知行国」から概算すると凡そ1/2程度と計算できます。
    2と4に付いては上記した通りであり、これら1から4を考察すると外見の方が大き過ぎた事に成ります。
    ここに落とし穴があり、人間の性(さが)でもある誰しも起す”思い上がり”が起こり「思考と判断の間違い」を引き起こしたものと考えられます。
    勿論、生き残る事が出来た特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏も「殖産・商い」を各地で積極的に行ったのです。確かに秀郷一門は荘園にも加担していたのですが、「秀郷流青木氏」だけには「特別賜姓族の立場」があり、一族一門の「護衛団の役割」から行動を抑えたと観られ、家紋から観るとこの荘園名義上の未勘氏が極めて少ないのです。
    この荘園に対する加担の証拠が見付からないのです。その大きな証拠として秀郷流の他の一族一門は未勘氏が大変多いのです。(源氏とほぼ同じ程度かそれ以上と観られます。)
    つまり藤原氏の名義を貸し名義上の荘園主として間接的に利益を挙げ、その代わり「無血縁の藤原氏」を名乗らせる要するに「未勘氏」族なのです。
    361氏の家紋群外の藤原氏は名義上の未勘氏族であったと観られ、室町末期、江戸初期、明治初期の何れかで名乗り変えをしたと観られます。
    しかし、秀郷流青木氏にはこの未勘氏族が極めて少ないのです。物理的に出来なかったか故意的にしなかったかは筆者は両方であったと考えています。
    恐らく、故意的にしなかった事としては、特別賜姓族の青木氏であると云う立場を貫いた事、勿論、それに見合う「2足の草鞋策」(殖産策)を採用した事(24地域の15程度で沿岸沿い地域)、その一門の「第2の宗家」としての権威も護った事の3つにあると考えられます。
    物理的に出来なかった事としては一門の護衛団であった事と成ります。
    この4つの事を護り維持するとすると、かなりの「財力を確保」をしなければ成りません。
    その証拠に室町期と江戸期の多くの「豪商のルーツ」を探ると本流支流は別として「藤原秀郷流一門の出自」である事が判るのです。中でも秀郷流青木氏の比率が高い事が家紋群の比率で判ります。
    一族一門の24地域にも上る各地の藤原氏の勢力と縁故を使って栄え、そこで蓄えた財力を一門の基礎としていたのです。

    ここに少し違う事があって、傾向として九州北、瀬戸内、日本海側、静岡の地域の秀郷流青木氏の方は「2足の草鞋策」を明確に採っているのですが、他の一門は判らない様にして運営していた傾向が認められるのです。これは「公家貴族」と言う立場を大きく気にしての計らいであったと見られます。
    (この分を補足すると24地域の殆どと考えられる)
    そこには、「政治の公家貴族」と「護衛団の武家」との差が歴然としてあった事を物語っています。
    この「商い」は何処から他人が作ったものを集めて売り捌く「小商い」ではなく、自らが「殖産」に財力をつぎ込みそこから生まれる物産を大量に計画的に売り捌く「大商い」を秀郷流青木氏は行っていたのです。
    他の一門は前者の形式を採用して財力(資本投下)を拠出する事のみとして、その配当利益を獲得くして表には「公家貴族の商い」として出ない様にしていたのです。
    要するに「計画殖産」と「集約生産」との「商い方の違い」があったのです。
    前者はそれだけに各地の一門の力を集める必要があったと見られます。
    後者は自らの財力で各地のシンジケートを育成しての商法であったのです。
    ここに大きな違いがあったのです。

    この商法が「子孫繁栄」と「生き残り」の将来に大きな影響の差となって現れるのです。
    鎌倉期を過ぎ室町に入ると各地で下克上が起こり、更に戦国時代へと突入して行きますが、この事に依って各地は乱れ各地の産物の生産力は落ちます。産物を運送するにしても相当な武力を要します。
    しかし、公家貴族の藤原氏はこの武力を保有し使う事は出来ません。また産物を集約して調達している一門も自らの身を護る事に精一杯と成ります。次第にこの形式の商いは成立せずに衰退して行きます。
    公家貴族の藤原一門は当然に貧して来ます。
    反面、秀郷流青木氏らが採用する殖産の商いは、繁栄を果たし強固なものに成って行ったのです。
    それは「下克上や戦国時代」で潰され敗退した各地の土豪集団が生活に困りこのシンジケートに入り豪商から経済的支援を受け、尚且つ、豪商の青木氏から殖産作業に従事させて貰え生活は安定し潤いを得るように成って行ったのです。
    そして、いざと云う時は、「シンジケート」として「影の武力」として「戦費の充足」を受けて「活躍の場」を獲得する事が出来る様に「商いの組織」は順調に繁栄へと働いて行ったのです。
    今までは荘園制の中で名義の荘園主の背景の下に細々と生き延び来たものが「活躍の場」「水を得た魚」の如くであったのです。

    「殖産策の大商い」の青木氏一門の中では、彼等を助け、益々その「発言権」を増し「第2の宗家」としての活躍を果たす事が出来るように「良のスパイラル」が起こり成長していったのです。
    結果、藤原一門は室町期に成っても勢力は衰えず、むしろ中には永嶋氏等の様に「関東屋形」と呼ばれる日本一の豪族として伸し上がったのです。その勢力は遂には東山道と東海道を勢力圏に治め以西は中部地方西域伊勢地域まで拡大する事に成ります。
    その勢力は留まるところを知らず、秀郷流青木氏の仲介で日本一最大勢力の大蔵氏と結びつき血縁して九州全域の長嶋氏まで勢力を拡大したのです。
    この永嶋氏と長嶋氏は旧来より土木建築業を配下に収めて繁栄を続け、これを基に「2足の草鞋策」を採用し青木氏からも「大商い」に基づく経済的な支援を受けたのです。(平安時代は永嶋氏の本職)
    今で言う青木氏は殖産企業もグループ化に納めた総合企業兼商社であろうかと思います。

    (青木氏の構図とその解析手法)
    「後勘に問う」からすると日本の2大勢力の「西の大蔵氏」、「東の藤原氏」とが血縁し、その間に有った「たいら族」と「源氏」の2つは共に栄え争い消えて、「東西の2大勢力」が血縁する事で日本の混乱の収拾が着いたと云えます。その意味からすると「荘園制の行き過ぎ問題」も「中央の2大勢力」が消える事で霧散して「自然の摂理」の通りに収まった事が云えます。
    「中間子」(中央の2大勢力)の「核分裂」を起こす中間子の持つエネルギーは何かに依って補われねばなりません。それが「武家社会の誕生」であったのです。
    この構図からする「2つの賜姓青木氏」はこの「中央の2大勢力」の間の「核」に成る部分に居たと見ているのです。「核」が東西の勢力や中央の勢力の様に動いては「核」は「核融合」を起して爆発します。それこそ国が朝廷が崩壊するでしょう。
    その「核」が沈着冷静に働いたからこそ「臨界点」に達せず「放射能」(大混乱)を放出する事無く「核爆発」は起こらなかったのです。「青木氏の採った判断と行動」は極めて「自然摂理」に叶っているのです。
    その「2足の草鞋策」は「核」が持つエネルギーと成り、周囲の「中間子」(中央の2大勢力)や「中性子」(東西の2大勢力)を引きつけていたのです。そして、その「中間子」「中性子」に引き連れられた「氏末裔」は「電子」(エレクトロン)と成り働き、その「電子」に引き付けられたプラトン(姓・民)は飛散する事なく「融合」して物質(融合氏)を構成し続けたのです。
    これは真に「自然物理の理」に叶った「構図」に成っているのです。
    筆者はこの「構図論理」を採用しているのです。核、中間子、中性子、エレクトロン、プラトン、等がどの様に動き働きするかに依って「臨界点」や「核エネルギー」がどの様な「反応」を示す事に成るかの判断をしているのです。
    (構図の構成要素が増えれば「分子量や質量や電位量」等の要素を加えて適性に応じて使う。物事の構図によっては別の自然摂理を使う。)

    そうする事で累代の天皇評価や乱・事件や歴史的な出来事やあらゆる所業の如何の判別が凡よその形で着く事に成ります。推理する際もその位置から”恐らくこうではないか”と考察することも出来るのです。
    この事は後勘に於いて多くの歴史史実からこの論理に当てはめての「分析・考察・検証」は真に「後勘に問う」の行為そのものであります。
    この筆者の「分析・考察・検証」の前提は、”この「世の所業・諸業」が「自然の摂理の構図」に基づいている”と云う思考原理(仏教理論と相似)にあります。(「後勘に問う」の手段=「自然の摂理の構図)
    この思考原理からすると、「皇祖神 神明社」は「青木氏の心の拠り所」「心の有様」と成りますので、「核の有様」つまり「核の持つ性質」を意味し、周囲に「不可抗力の恐怖」を撒き散らす放射能の出さない物質の「核」である事に成ります。差し詰め人間や生物の根源(3つの発祥源)の「ミネラル元素」の人体や生物への働きにあると考えられます。(「皇祖神 神明社」=「ミネラル元素 NaKCaMg)」と成ります。)
    そうすると、真に天皇又は朝廷はこの構図では「核」ではないかと云う考え方もありますが、これは「天皇」と云う存在の位置付けの考え方に依り異なりますが、筆者はこの「核や中間子等」を含む全体を含有する本体つまり「水素原子」ではないかと判断するのです。
    水素原子は自らの構図に影響し、尚且つこの世に存在する全元素に影響し左右させ得る基点であります。全体の「構図を左右させ得る影響力」を持っていて、かと云って直接的関係を持たないと云う事に重点を置いたのですが、当然構図が壊れれば歪めば本体は破壊し弱体化するのですから、天皇に指揮される朝廷の判断は構図そのものの行動や活動を決定付けることに成ります。
    そこでもう少しこの自然摂理の論理を展開してみたいと思います。
    では、自然摂理で云えばこの「中間子の行動を抑制する物質」がある筈ですね。出なければ物体は社会を破壊する怖い放射線を放出し続けて最後に核爆発を起こします。何かあるのです。
    実はあるのです。
    それは「放射線同位元素」と云うものなのです。「ハロゲン同位元素」と云うものなのです。2種類あって、フッ素、塩素、臭素、ヨ−素、Atとこれに関連するネオン、キセノン、クリプトン、ラドンがあり、それぞれ特徴を持っています。
    特に、中でもヨー素はこの中間子の活動を抑える能力を強く持っています。中間子が暴れればこのヨー素を放出して押さえ込む事が出来ます。
    では、中間子は「中央の2大勢力」の位置づけでしたが、この「放射線同位元素」は社会の何に当たるのかと云う事に成ります。他の原子を持ってくる訳ですので、本体の原子は「天皇」と位置づけしましたので天皇がこれらの中間子」(中央の2大勢力)と中性子(東西の2大勢力)を監視して、場合に依っては「他の原子の力」(「政策」)で抑制する手を打つ訳です。従って、「政策」「抑制策」がこの「放射性同位元素」の働きと成ります。
    「放射性同位元素」→「政策」「抑制策」、「原子の力」→「天皇の力」
    どの「放射性同位元素」(政策 抑制策)をどの様に使うかに依って効果的に抑制できるかが決まります。
    原子に当たる天皇が「放射性同位元素」の(政策 抑制策)を「三相」を以ってどの様に使うかに決まる事に成ります。
    中間子の「中央の2大勢力」は「放射性同位元素」の(政策 抑制策)で抑制し押さえ込まれたのですからその結果、拒絶反応として必然的に自然摂理が変位した中間子が生まれ事に成ります。
    この変化の力が働き「武家社会」と云うものに変化して生まれる事に成ります。
    「変位中間子」→「武家社会」
    このヨ−素の抑制では「原子の力」即ち「天皇の力」、つまり、「原子の力」が弱まる事ですから、放出された「放射性同位元素」の「政策 抑制策」は何かが保有しなければ原子は保てない事に成ります。
    弱体化して持ちきれなくなったこの放出され浮遊し遊離している「放射性同位元素」の「政策 抑制策」の力は、過剰反応したのですから、「武家社会」の力に吸い寄せられて必然的に「中間子の変位」が起こることに成ります。つまり中間子の「中央の2大勢力」から「変位の形」即ち「武家社会」が「政策 抑制策」の力を合わせ持つ事に成リます。
    そこで、この「武家社会」とはこの「原子構造」では”何に当たるのか”という事に成ります。
    それが新しい形の中間子の形即ち「融合氏」に当たるのです。
    「中央の2大勢力」→「融合氏」
    中間子の「中央の2大勢力」は「中間子の形を融合」と言う形に変位して、2の数字が消えて「別の力」(「放射性同位元素」(「政策 抑制策」)を持つ「融合氏」即ち、新しい形の進化した「武家社会」(幕府)が誕生した事に成ります。
    これに因って原子構造の内部エネルギーバランスは保たれた事に成ります。

    この様に観てみると、「社会が起こす森羅万象」は突き詰めれば「原子構造の自然摂理」に合致している事が判ります。合致しないと云う論理があるとするならば、それは「自然摂理」の全ての成り立ちを理解されないままでの論調と成ります。”この万象の出来事の成り立ちは自然摂理に合致する”は「仏教の教え」でもあります。

    (現在の最新物理学では我々が良く知るこの「エレクトロン構造」の宇宙体の他に宇宙の成り立ちが解明されて来て反対の「プラトン構造」を主体とした宇宙体があるとの学説が進んでいます。)

    (この様に構図を考えてそこに構成要素を当て嵌めて物事の解析をする事そのものも面白いのですが、推理案もこの構図の成り立ちや性格から観て”恐らくこう成っているのでは”と浮かび易いのです。この推理案で史実の発見も確率が高まります)

    その意味ですると、「放射性同位元素」の「政策 抑制」を効果的に使った事に成り、平安期のこの時期の「後一条天皇」の「自治の英断」と「後三条天皇」の「荘園制の停止」の英断は日本を救ったことに成ります。そして、その原子の英断は自然摂理に合致していた事を意味し冷静沈着の判断であった事に成り、尚且つ、「核」に相当する「2つの青木氏」が採った行動もこの「自然の摂理」に合致し「沈着冷静」の判断であったと云えます。

    それが故に、青木氏の「2足の草鞋策」も繁栄する事が出来たのですが、平安中期から末期に掛けて「荘園制の拡大」で、その増産された「産物の処分」を「殖産・商い」(紙問屋)の方向へと進んで行ったのではないかと考えられます。(資料から垣間見える)
    そして、其の証拠に鎌倉文化から室町文化(「紙文化」とも云われる)の全盛期に繋がったのです。
    (青木氏5家5流は有名な「5大古代和紙」と呼ばれる「伊賀和紙、近江和紙、美濃和紙、信濃和紙、甲斐和紙」の「紙」を「2足の草鞋」の基とした。)
    「文化」は樹木と同じで其の「下地」が無くては華は開きません。この下地が「荘園」過程であり「融合氏」過程から来ているのです。
    これも「後勘に問う」から観ればそもそも「自然摂理」に合致した判断であった為に起こり得た繁栄であったのです。

    この面で「荘園拡大と行き過ぎ」問題は「自然摂理」に合致してしていた為に悪いことばかりでなかったとも考えられます。
    考えて見れば本来「平清盛」は対立する「源氏の者」にわざわざこの様な事を教授する事は無い筈です。
    何か「桓武天皇」の意思を継いで「親側」の天皇家は「青木氏や源氏」を鍛え様としたとも考えられますが、賜姓源氏はこの「貿易経済と物造り」(商い)に関らなかった事が滅亡へと進んだのでしょう。
    まして、其処に「分家の源義家の不合理な行動」(荘園制肩入れ)が拍車を掛けたと観ているのです。
    (本家清和源氏の頼光系宗家4家は賜姓青木氏3家に跡目を入れて日向青木氏と共に遺した。)
    「殖産・物造り−商い」以外にも、この様に「融合氏」の発祥源として生き残れた原因の一つは少なくとも「桓武平氏」の「伊勢伊賀平氏:伊賀和紙の発祥」にもあったと考えられるのです。

    以上の事の「たいら族」の検証は青木氏のみに大きく関わる事以外には他氏がこの件に関して検証は無いものと考えられるので敢えてここで記しました。

    再び話を戻します。
    「氏融合の第2の条件」
    「将門の事件・乱」の始末に対して、その天皇が苦しい環境下で提示した条件とは「無条件」であって「望んだ事を叶える」であり、二人(平貞盛と藤原秀郷)は「貴族の身分」と「領国を取得」の条件を提示し叶えられます。これが大勢力拡大に繋がったのです。
    この時、更に「秀郷」には第3子(千国)に天皇の許可を得て「特別賜姓」で青木氏を名乗らせて「天皇近衛六衛府軍」に成る事の条件を付与されたのです。秀郷一族一門の護衛軍として勤めさせると共に賜姓青木氏と同じ役目と扱いと身分と家柄を与えたのです。
    天智天皇が天皇家一族が天皇を護る役目を作ったのですが、村上天皇は母方が同じ藤原氏と言うことで特別に青木氏を賜姓して母方同族氏による「六衛府軍の役目」なども同扱いとしたのです。
    この意味は大きいのです。これは真に「3つの発祥源」の「賜姓青木氏」を護ろうとした事に他成りません。

    「貞盛」は朝廷に直に仕えられる「身分の保証」と「常陸、上総下総、下野」を要求しますが最終関東での「たいら族」の醜態を理由に撤退(追い出し)の憂き目を受けます。
    この様に、「平族」の動きの中では理由はともあれ「独立国」を狙っていた事は明確で、少なくとも一度は「平将門」も「独立国」の行動を目指したのです。普通の在来の融合氏はこの様にはならない筈で「民族氏」ならではの事であります。奈良時代の蘇我氏しかりであります。
    しかし「後勘に問う」から観ると「将門の事件・乱」以外に彼等にはこの独立に関する絶好のチャンスは5回も訪れているのです。

    独立の経緯
    ・第1回目の32国/66を無戦征圧して帰化した時 奈良、平安初期
    ・第2回目の「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監」「大蔵種材」の時 平安期中期
    ・第3回目の前九年の役と後三年の役の安倍氏と清原氏の征討(義家の私闘)
    ・第4回目の「平族」の「源平の戦い」
    ・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」

    この1、2回の時は日本全国が彼等一族一門を絶賛している訳ですから100%「独立国」は出来た筈ですが、軍事、経済、政治の3権を手中に収めながらも何故かしなかったのです。
    第3回目の時も同じ状況下にありながら、何故かこの血縁族を集結させなかったのです。

    しかし、これだけの力がありながらはたいら族の「直系子孫」は実質的には遺せたのですが、首魁一族の宗家「平族」は結果として宗家は遺し得なかったのです。(支流一族のみ)
    むしろ「宗家としての認識」が上記した「平族の発祥経緯」もあって「九州血縁族」と共に無かった可能性が強いのです。これは明らかにこの一門には余りの「民族氏」からの「間接的な氏の融合」が進み過ぎた結果と見なされます。
    その証拠に、次ぎの5回目の事で判ります。

    ・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」の時もこれ等血縁族は全く動かなかったのです。(レポート9記述)
    品部や部曲の「姓族」の「下克上」と、「姓族」と「氏族」入り乱れての戦国により末裔である事の事態が無くなったか、最早、無意味なものと成っていたかによりますが筆者は両方であったと考えます。
    むしろ、この時も家紋から観ると、味方と敵対した氏を調べると末裔でありながらも平族末裔に対する「敵対状況」の方が大きかったのです。
    「姓族」の様な「氏形態」の未だ持たない族の台頭に加えて次ぎの様なことが挙げられます。

     「第2の条件」
    「氏の血縁融合」(1)が進み過ぎた事
    「青木氏」の様に「4つの氏の構成」(2)が観られない事
    「青木氏」の様に「氏の管理統括の有無」(3)が無かった事(下記)
    この3点なのです。

    この(3)が上記した”「争い」を伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”と成ります。

    むしろ、青木氏の「社会と生活の結合氏」とは違う点は、「民の結合」が「職能の部」と言う形で形成した為に「部氏」(職能氏・姓氏・海部氏等)の形で独立して行った事に依るのです。

    「民の結合」=「職能の部」(品部)=「部氏」=「姓氏」

    (「姓氏」も平安末期から「海部氏」「陶氏」などが中国地方の部民の集まった豪族となって発祥しているが、「たいら族」に組しなかった。)

    青木氏の「未勘氏結合」(「社会的結合」)、「第3氏結合」(「生活圏結合」)の「結合氏」と異なり、阿多倍一族一門と「職能・部氏・姓氏」との間には、即ち、「民族氏の形体」を進化させなかった事の違いがあったのです。

    「平族」の間接的な「氏の融合」とは、上記したデータから観ても、直系氏孫で固めて「氏融合」の拡大をさせて行く方法よりは、「各地の土豪」との「母方血縁」の方法が多かった事を物語ります。

    これは阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。

    つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香−貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。


    青木氏と守護神(神明社)−11に続く。


      [No.276] Re:青木氏と守護神(神明社)−9
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/07/07(Thu) 10:00:47  

    「武力的背景」の「抑止力」
    「2足の草鞋策」の「経済的背景」
    いつも思うのですが、何故間違った通説が実しやかに起こるのかは実は腹立たしいのですが、”虚偽でも時間が経てば虚偽で無くなる”はこの世の傾向 そこを他面から史実を積み重ねて解きほぐすのが面白いのですが。古来よりまともな資料に書かれている”後勘に問う”があるのは昔も同じ事を感じていたのですね。しかし、青木氏とそれに関る氏に対しては”後勘に問う”では困るのです。

    結局は「未勘氏」によって支えられていた「名義上の権威」(源氏)ではその平安期と云う体制が維持されている間は勢力と見なせますが、「鎌倉」と言う体制になった時点では滅亡以外には無かったと観ているのです。この世は”権威が無くなれば取り巻きは霧散する”は常道です。
    まして、室町期の「下克上」では、尚更に「未勘氏の動向」が左右しますので生き残りは無理であったと確信しているのです。
    足利氏でさえ幕府開幕以来6つの家臣が力を持ち思う様に動かす事は出来なかった事からも如何に難しいかは判ります。
    この事から考えれば幾ら皇族で「不入不倫の権」が与えられていたとしてもその気になれば潰されていた事は青木氏と源氏でも明らかです。
    生き残れたは「2足の草鞋策」と云う「自立策」が源氏と違っていた事に成ります。ただ、これだけでは生き残りは無理で、「氏家制度」の社会の中では何らかの「武力的背景」を獲得する絶対条件が必要です。
    この「武力的背景」の「抑止力」が無ければ、恐らく、隣人の「民族氏」の「たいら族」(京平氏・桓武平氏・賜姓平氏)にでは無く、源氏の様に、賜姓青木氏も第7世族の「ひら族」の「融合氏」の「坂東八平氏」に潰されていたと考えられます。(「たいら族」とは隣国で且つ「殖産・物造り 伊賀和紙」で親交が深かった)
    それも自前の「武力的背景」を保持していた場合では「戦い」に誘い込まれていたと考えられます。

    ただ「伊勢シンジケート」の反抗力では潰されていたかは判断が難しいところだと考えますが、「坂東八平氏族」と対峙する「武力的背景」とも成れば、「青木氏」も源氏の様に「未勘氏族」を味方にする結果と成った筈で源氏と同じ経緯を辿る羽目ともなりますし、室町期の「下克上」が起これば「武力的背景」に頼り、結果として「生き残り」は無理と成った筈です。
    では、実質に抗する戦力と成る軍事力が殆ど無かった青木氏にとって、この「武力的背景」とは当然に「抑止力」の事であり、その「抑止力」は「2足の草鞋策」の「経済的背景」に裏打ちされていなくては成りません。
    幸いに「青木氏」にはこの「大抑止力」には2つあったのです。
    一つは血縁族の「藤原秀郷流青木氏の力」であります。
    一つは経済的背景を基にした目に見えない影の「シンジケート」であります。
    この2つがあったと遺された記録から考えているのです。
    この5家5流賜姓族の「シンジケート」の件は遺された資料の史実から明治期の関西で起こった大一揆(伊勢暴動など明治4−9年の3騒動)まで維持されていた事が判っています。
    この時代まで続いた事から観てかなり大きく堅実な組織であった事を物語ります。
    記録から760年は続いた事になりますが、この年数から観て最早単純なシンジケートではなくかなり「家族性」を持った「陰の力」であった事を物語ります。

    (これだけの長期間を堅持している処から、女系による血縁性は充分に考えられるが記録が発見出来ない。その存在意義を保つために故意的に遺さなかったと観られます。シンジケートと云う形態体質上、遺すと同族間の勢力争いが起こる 全ての関係をフラットに保つ必要がある為)

    これは青木氏にとっては源氏の「未勘氏」の位置に相当するものでありますが、その関係する質的なものが青木氏の生き方と共に全く異なっていたのです。
    社会体制が変わった明治期に入りその質的なものが変化した模様で、明治35年を境に解散しているところから、「伊勢-信濃シンジケート」はその特長を生かして多くは「商い」を補足する主に運送関係(陸海)に従事した模様が読み取れるのです。

    さて、問題は秀郷一門に裏打ちされた「秀郷流青木氏の抑止力」の検証です。
    それは下記に記する「青木氏の血縁状況の考察」で証明されるのではと考えているのです。

    「抑止力」の検証
    その前に、「抑止力の相手」の「ひら族」(坂東八平氏)は、元を質せば両氏共に奈良時代の「皇族第7世族」(ひら族)と賜姓青木氏の「皇族第2世族」との差です。
    つまり、「源氏滅亡」では”奈良時代-平安初期の「皇族第7世族」が奈良時代-平安中期の「皇族第2世族」を潰した”と成るのです。
    「ひら族」「第7世族」、即ち「坂東八平氏」は「源氏」を表向き先ず祭り上げて置いて、裏で潰す戦略に出たのです。ですから、鎌倉幕府には源氏を登用せずむしろ排斥し潰しやすくしていたのです。
    それにはこの戦略を見抜いていた義経や伊豆大島氏を闇夜に襲うと言う戦術を露に使ったのです。
    「坂東八平氏」にとっては、源氏跡目が入っている賜姓青木氏に付いても同じ考えの中にあった筈です。「武家の頭領・棟梁」の「源氏の幕府」が源氏を登用せず、排斥し、源氏を夜襲する等頼朝や義経に限らずどんな人物でも坂東八平氏の本音は何処にあるかくらいは直ぐに判る事です。
    ましてこの行為は未だ幕府を開く会議の最中に起した事件です。
    この現象を「民族氏」や「融合氏」の他氏から観れば、”皇族出身者で潰しあった”と受け取られます。
    だとしたら、室町期の信長の様に信長の立場から観れば、”我々では問題ないだろう”と成ります。
    故に通説の通りの”信長異端児”とする事には、多少の強引な傾向があった事は認められるが、全面的な事としては疑問を感じるのです。
    だから信長が”「権威に対抗する行動」”を採ったとしても、同じ様な事を鎌倉幕府の「坂東八平氏」も行っていたのです。まして”「権威の象徴」の皇族出身者同士の潰しあいではないか”と成り、”信長異端児”とする通説には興味本位の云い過ぎと成ります。
    何はともあれ、そもそも”主君を倒しての「下克上」”がこの時代のこの最たる争い事で、現在からの思考原理では”信長異端児”と観えても、この時代の思考原理からにすると普通であり、それは言い換えれば「権威への挑戦」に他成りません。
    (通説の大きな欠点はこの時代の思考原理差の考慮なしの説になっているものが多い事なのです。)

    鎌倉時代の「坂東八平氏の脅威」や、室町時代の「織田信長の社会への挑戦」の社会環境の中では「賜姓青木氏の盛衰」にとっては、「賜姓の権威」「源氏の跡目」等が付け添えられている事はそもそも「無用の長物」であって、その為に”極めて危険な状況”に落ち至っていた事に成ります。
    取分け伊勢青木氏と信濃青木氏は「清和源氏頼光系の跡目」が入っている事に成る訳ですから、彼等が源氏を討ったとしてもそれだけでは終わらない極めて危険な位置に青木氏は置かれていた事に成ります。11源氏が「坂東八平氏」と「美濃平氏織田信長」に依ってその末裔は掃討作戦で全て潰されたのです。"賜姓青木氏は関係ない"とする事には何の保障も有りません。

    現実にこの事の史実として2度歴史上で有名な事件が起こっているのです。
    その一つが「美濃平氏織田信長」なのです。もう一つは「徳川家光」なのです。
    この二つとも歌舞伎に成っています。
    「権威への挑戦」事件1
    「美濃平氏織田信長」が信濃に入って謁見した際に信濃青木氏の末裔が下馬せず白馬に乗り白の装束で乗馬のままで挨拶したとして烈火の如く怒り末裔をその後末梢させてしまうと云う事件が起こります。
    これは皇族賜姓族等の「有品の氏」が執る正式な挨拶儀礼なのですが、平家の支流末裔の織田家の信長は武家である限り、この最高の挨拶儀礼を知らない筈は有りません。
    恐らくは「有品の儀礼」が「権威の誇示」として受け取り知った上で衆目の前で敢えて潰す事を前提に否定する姿勢を見せたと観られます。
    「織田家」は「美濃平家」の「織田木瓜」の家紋ですので、「有品の位」(美濃平氏本家は従五位下)では家柄として低くない氏でありますので、通説と成っている”知らなかった”は考え難いのです。
    源氏の跡目を継承している信濃賜姓族を潰す目的があったからで、この行動、即ち「権威への挑戦」に出たのです。結局、その信濃の賜姓族は伊勢青木氏との「シンジケート連携の保護」と「信濃古代和紙による2足の草鞋策」で再び直ぐに息を吹き返し一時宗家衰退はあったが生き残ったのです。

    「権威への挑戦」事件2
    伊勢では、「坂東八平氏」からは「秀郷流青木氏の戦略的抑止力」で何とか生き残り、「織田信長」からは小さい勢力でありながらも「3つの発祥源」の「権威の象徴」として警戒されて、直接3度「伊勢信濃天正3乱」で戦っていますが2度勝利しています。この2度の戦いは伊勢と信濃末裔の密かなスクラムを古くから組んだ「伊勢−信濃シンジケート」と「伊勢長島の秀郷流青木氏の援護」で生き残ります。
    最後の戦いは伊勢では秀吉に命じられた藤原秀郷一門の「蒲生氏郷との戦い」で「恣意的敗戦」をし新宮に落ち落延します。しかし、1年後に蒲生氏郷に松阪に呼び戻されます。
    明らかに蒲生氏郷は秀郷流青木氏の仲立ちで青木氏を助けた事が判ります。
    蒲生氏郷は秀郷流青木氏との強い血縁である事、又その上に松阪に政庁城を建設し特別に「家臣扱い」として「侍屋敷・99区画」の内の2区画も与えられる厚遇を受けている事からも秀郷流青木氏一門から保護を受けていた事がよく判ります。(融合青木氏が存在し血縁関係にあった)
    (松阪には城を築いては成らないとする平安期の仕来りがあった為に蒲生氏郷はヨーロッパ風の政庁方式を採用した。)
    (伊勢の青木氏は江戸から明治まで江戸幕府に同じ扱いで維持されている 家臣ではないが「紀州藩建て直し」や「吉宗享保の改革で勘定奉行布依扱い」として貢献)

    現実に無傷で5家5流賜姓青木氏が生き残れているのはこの秀郷流青木氏の存在が大きかったと考えているのです。
    (蒲生氏郷経歴:伊勢大河内城1569 伊勢長島攻め1574 伊勢松ケ島12万石1585 伊勢松阪城1588)

    「坂東八平氏と秀郷流青木氏の戦略関係」 
    平安期後半は「たいら族」の圧迫に喘ぎながらも耐え忍んで来ましたが、平安期に於いては「青木氏」には「天皇と朝廷の権威と保護」が働いていましたが、それが無く成った室町期には「自立」が余儀なくされ経済的には「2足の草鞋策」で生き、裏ではシンジケートを固めて身を護りました。
    しかし、がそれだけでは行かないのがこの乱世の厳しさであります。
    秀郷一門取分け「第2の宗家」を務める「秀郷流青木氏の背景」がこの様に大きく影響していたと観ているのです。
    それは武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする円状の圏内にいる秀郷流青木氏の位置が坂東八平氏の地理的な戦略的背景が左右していて彼等は手を出せなかった筈です。
    坂東八平氏が勢力を大きく拡大してその全ての力で幕府が開けた訳ではないのです。
    彼等の周囲は秀郷一門の領国に囲まれているために彼らを味方に引き入れる以外に幕府を鎌倉に樹立させる事は出来なかった筈です。そこで彼らに藤原秀郷一門と戦う力があるのかと云う事に成りますが、彼らには無かったのです。それはあくまでも鎌倉軍は頼朝の頼信系源氏の荘園の「源氏の未勘氏の集まり」であったからで「坂東八平氏」が顎で動かせる軍の実態ではなかったからです。
    そもそも関西で起した源平の2回の戦いには現実には「軍監の坂東八平氏軍」は動いていないのです。
    上記した荘園制の副産物の「未勘氏軍」「日和見軍」に他ならないのであって、故に義経や大島氏が主張していた藤原氏を背景とした確固とした「源氏軍の創設」と「源氏主体の幕府の創設」を主張したのです。その上で「朝廷の院政権威」と結びつくことが狙いであって「坂東八平氏」にとっては相容れない考え方であったのです。
    源氏に取って代わるだけの「皇族朝臣族」として幕府を開ける立場にある賜姓青木氏はたとえ小さくても源氏に取って代わる危険極まりない存在であったのです。賜姓青木氏にその気が無くても担ぎ上げられると云う危険性は極めて高かったのです。
    東海の海側が「東八平氏」の勢力圏域です。これを取り囲むように「東山道」を東は常陸−西は美濃のラインと、背後は越後−陸奥−出羽の秀郷の勢力圏域で押さえ込まれていれば、この様な事から戦うことは現実的に無理で味方に引き入れる戦略しかありません。
    現実に平泉を落としたとしても勢いに乗った鎌倉軍は川を超えても深追いせずに直ぐに鎌倉に引き返したのです。もし、平泉の藤原氏が潰れかけ東山道域を勢力圏としている秀郷一族一門がこれに加わった場合は地形から戦略的に袋の鼠です。
    これには「坂東八平氏」は更に「2つの弱点」があったのです。
    一つは独自の水軍を持っていない事で背後を突かれた場合弱い事、
    もう一つは下総上総の右翼と美濃−信濃の左翼が弱かった事です。

    ただ問題は、この弱点に加えて頼朝が一層拡大に向わせる彼等秀郷一門の「旧来の土地」を「本領安堵」してしまったことが計算外であったのです。
    頼朝にとってはやむ終えない措置であった事は頷けますし、この事から推測すると坂東八平氏の嫌がる事、或いは弱点を頼朝は実行したのですから、本音は義経と同じ考えで有った筈です。
    自分はしがない「浮き草」である事くらいは聡明な頼朝であれば理解していた筈ですし、ましてこの2つの弱点は知っていた筈です。
    せめて、滅ぼした「たいら族」の土地を余り戦功の無かった「ひら族」の「坂東八平氏」に残しておけば良かったのですが、頼朝は判っていて敢えてこれも「平家没官僚策」として元の持ち主に返してしまったのです。当然、それは美濃より東の各地に位置していた秀郷一門にです。
    これは頼朝は「藤原秀郷一族一門」を味方に引き入れるには戦略上返さざる終えない立場にあった事を物語ります。また自分の身を護る為にも「秀郷一門の抑止力」を必要としていた事に成ります。
    「頼朝」と「坂東八平氏」の激しい「鍔迫り合い」が起こっていた事が判ります。
    結局、関東の秀郷宗家の政光(親)−朝光・宗政・朝政(子)等こぞって2度の「本領安堵策」と「平家没官僚」で勢力を復活して頼朝に仕えます。
    これが「藤原氏を背景(抑止力)にする頼朝の狙い」であったのです。
    だから、危険承知の2度もの「本領安堵策」と「平家没官僚策」なのです。
    これでは「坂東八平氏」とっては弱点が更に弱点と成り、戦略的に最早、秀郷一門には一切手を出せなくなります。
    この事から、結果的に源氏頼光系の跡目を入れている”4つの青木氏は難を逃れられた”と考えられます。義経や大島氏に夜襲をかけ、はたまた平泉を攻めたくらいです。”その青木氏を潰す可能性は充分にあったのでは”と考えていて、「頼朝の秀郷一門の平泉攻め」は本音ではなかったが”坂東八平氏に押されてしまった。”が真相ではと考えているのです。
    そのためにも「本領安堵策」と「平家没官僚」で何としても武蔵入間の一門を温存して保護する為に身の危険も顧みずに遂に「対抗策」に出たと云うのが真相では考えているのです。
    そもそも考えて見ると、何も平安期よりも秀郷一族一門の彼等の所領(武蔵・下野・上野)を大きくする必要は無かった筈です。それをわざわざ大きくしている(常陸・上総・下総)のはまさしく「頼朝の本音」の現われです。
    特に、その安堵内容が史実として遺されている事として、頼朝に合力する彼等の条件として提示したのは旧領「下総安堵」で中でも「下総結城」です。彼等は旧領下総結城に拘ったのです。
    現実に、その後、この下総結城に配置した結城氏(後に永嶋氏を名乗る)が著しく勢力を拡大して「関東屋形」(佐竹・宇都宮・小山・永嶋)と呼ばれるくらいに関東を押さえ込んだ重要拠点なのです。
    秀郷一門が拘った下総結城は勢力拡大には欠かせない要衝の地であった事に成ります。
    当然に「坂東八平氏」にとってもこの下総結城の位置は東の戦略上要衝の地であったところを藤原氏に抑えられたのです。これでは東西北を袋の様に藤原氏に抑えられた真に「袋の鼠」なのです。

    この苦しさから坂東八平氏は秀郷一門の血筋を引く足利氏を何とか潰そうとして北を開こうとしますが成功しません。しかし、最終北条氏の執事の足利氏への裏切りで幕府は潰れることに成ります。
    「元寇の役」が衰退の原因として通説に成っていますが、元よりこの秀郷一門の「袋の鼠戦略」がじわりと効を奏したのです。
    (足利幕府に成ってこの孤児であった執事は足利氏の執事に成り、伊勢北部伊賀地方を知行地として「たいら族」に代わって与えられます。)

    「坂東八平氏」からすれば、本来で有れば「源氏根絶やし」の仕打ちが「戦国の世の習い」であり、これは有り得ない出来事だった筈です。しかし、秀郷一門が頼朝に取らした「袋の鼠戦略」の結果、「坂東八平氏」は気に成る「青木氏」に対しても手を出す事が出来ずに「融合氏」として生き延びられているのです。
    もし、「青木氏」に手を出した場合はこの「袋の鼠戦略」が動き反って自暴自棄に陥ります。
    現実に、「坂東八平氏」は支流北条氏の「傍若無人な態度」に身の危険を感じてすべて引き上げてしまうのです。それが引き金に成って執権北条氏は弱体化が起こるのです。これを観た執事は足利氏に裏切りを起し始めたのです。
    「経済的な自立」は「2足の草鞋策」に成し得たとしても「戦国の世の防御」はどの様に観ても「秀郷流青木氏の背景」しか無いのです。
    そこで、この「強い絆」で結ばれた「2つの血縁の青木氏」は「母方血縁」以外にも鎌倉期−室町期には戦略的に観て「母方血縁」だけでは済まない「直接血縁」の縁組があったのではないかと考えていて研究中なのですが、現在のところかなり「親密な付き合い」があったと考えています。
    それは次ぎの様な事から云えるのです。

     「3賜姓族融合戦略」(「室町期の秀郷流青木氏一門との付き合い」)
    「融合青木氏−伊勢」
    例えば、伊勢の秀郷一門の藤原基景を始祖とする伊藤氏を護衛する秀郷流伊勢青木氏(近江秀郷一門の蒲生一族末裔)が室町期に伊勢長島に定住しました。
    史実からこの伊勢秀郷流青木氏は藤原秀郷の末裔の蒲生左衛門太夫高郷の末裔であります。(高郷は氏郷の祖祖父に当たる)
    この高郷末男の青木玄蕃允梵純(伊勢の秀郷流青木氏を継承)なる者は常陸と陸奥の永嶋氏を援護して陸奥−常陸に転戦している史実もあります。
    この青木氏が長島付近に住み分けしていたとされていますが、実は伊勢四日市青木村では「皇族賜姓伊勢青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の判別区分けが付かなくなっているのです。
    これは松阪の「皇族賜姓青木氏」と長島の「秀郷流青木氏」が血縁してその末裔一族が四日市に定住していたと考えられ、最終、四日市は両者の青木氏の賜姓族の「融合青木氏」の一つと成っているのです。
    賜姓伊勢青木氏を救った氏郷は祖祖父の兄弟の末弟が秀郷流伊勢青木氏の祖でありますので、四日市での「融合青木氏」として繋がっているのです。
    上記の「権威への挑戦」事件2の経緯はこの縁戚の繋がりから来ているのです。
    信長-秀吉の「伊勢攻め3乱」の蒲生氏との戦いは結論は実は茶番劇です。
    片方で表向き賜姓伊勢青木氏と戦い、裏では蒲生氏の伊勢秀郷流青木氏が縁戚の賜姓伊勢青木氏に味方するという構図が出来上がっていたのです。だから「示威的敗戦」を採ったのです。
    だから、直接的な「藤原秀郷流青木氏の抑止力」が働いていたのです。
    この事は全く同じ事が史実から「日野城蒲生氏」の領国の「近江青木氏」でも起こっているのです。(詳細は別途)だから賜姓青木氏は「秀郷流青木氏の抑止力」で生き残れたのです。

    「融合青木氏+秀郷流青木氏」=「秀郷一門の抑止力」

    (参考 秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」による「皇族青木氏」であるが、特別に天皇より認可を受けている事、その官位官職も皇族賜姓族と同じ六衛府軍の近衛であり、「有品の位」も同じ4位と5位に位置する事から特別賜姓族でもある。)

    「融合青木氏−伊豆」
    また、清和源氏頼光宗家の頼政の本領の伊豆の2つの皇族賜姓青木氏(信濃青木氏と伊勢青木氏)も神奈川横浜の秀郷流青木氏と血縁して村を形成して一つの「融合青木氏」を発祥させているのです。

    参考 皇族賜姓伊勢青木氏に孫の京綱を跡目に入れている宗家頼光系の4代目源頼政の領国の伊豆地方は5つの青木氏の融合の坩堝域であります。これは鎌倉のお膝元であり「坂東八平氏」に襲われる危険性が高かった為に採った対抗策でもあります。

    「融合青木氏−美濃」
    美濃と信濃の国境にも「融合青木氏」が存在しているのです。美濃には美濃賜姓青木氏と秀郷流青木氏との血縁氏と観られる末裔青木氏が最終確認が取れないが「伊川津7党の青木氏」として存在します。
    更に美濃には西より域の現在の愛知県清須市春日と名古屋市西区に秀郷流中沼氏系青木氏、東よりの域に豊田、新城、額田、設楽の各市に中沼氏の支流中沢氏系青木氏が定住していて、各々と美濃皇族賜姓青木氏及び伊勢皇族賜姓青木氏との「融合青木氏」が存在します。
    これは鎌倉期−室町期に掛けての時代性に大きく左右された地域である事からかなり長い歴史的な背景での青木氏の融合氏の展開があったと考えられます。

    「融合青木氏−土佐」
    他に高知では武田氏滅亡後、甲斐武田氏系賜姓青木氏が讃岐籐氏を頼って定住し讃岐の秀郷流青木氏と血縁し村を形成しています。これは室町期の信長に対抗する防御戦略でもあります。

    「融合青木氏−越後」
    越後にもはっきりと見られる現象で、昔の越後国高井郡小阪金谷域滞には秀郷流青木氏が定住しています。現在の新潟市金屋−新発田町諏訪−阿賀野市金屋−村上市金屋の直線ライン上に青木村が形成されているのです。この直線上の新潟よりの新発田域には信長に追われて秀郷流青木氏を頼って逃げ延びた信濃賜姓青木氏と諏訪族系青木氏が集中して定住しています。
    この越後の青木氏のライン上でも2つの判別の付き難い「融合青木氏」が存在します。
    この地域は地理的な関係から室町期にかなり信長の勢力圏が及んだ地域でもありその為の「融合青木氏の展開」であったと観られます。

    「融合青木氏−信濃」
    この現象は更に信濃北東部と甲斐の東部上野より域にも見られる「融合青木氏」の現象が起こっています。信濃の国府には皇族賜姓青木氏系が定住し、信濃北東部域と越後南部域国境域には、平安期の秀郷一門の陸奥赴任に伴ない陸奥から移動定住した秀郷流血縁族花房氏の末裔で土豪足利氏と成った一族がここに移り住んだものですが、この地域には更に信濃賜姓青木氏との血縁族土豪足利氏系青木氏が定住していたところでもあります。
    そして信濃より上野北域と越後南より域の国境域には藤原秀郷流青木氏が定住しているところです。この信濃−上野−越後の3つの国境域にはこの2つの青木氏の「融合青木氏」が存在するのです。
    この青木氏は鎌倉期−室町期に融合したのではと観られます。

    「融合青木氏−甲斐」
    甲斐−信濃−上野−武蔵の4国の国境域にも藤原秀郷流青木氏と甲斐皇族青木氏と信濃皇族賜姓青木氏との判別が着かない「融合青木氏」が存在します。
    地理性や時代性から観て平安期−鎌倉期−室町期の判断が出来ないのです。何れの時代にも重要な政治関係があった事なので現在結論を得ていません。

    これ等現在判っている9つの「融合青木氏」は、明らかに時代的に明治期の「第3氏」や「未勘氏」ではない事は判るのですが、調べると「家紋と土地と宗派と一部には古系譜等」に依って本来は判別が可能なのですが、鎌倉期−室町期にこれ等の判別要素がある規則を以て混在する青木氏が発祥して現在もその子孫が存在するのです。
    現在では研究段階であるので確定的な事は云えませんが、平安期の「氏融合」は「住み分け主体」ですがそれと異なり違う点は次ぎの二つに成ります。

    「国境域」
    先ず一つ目は鎌倉期−室町期中期の「融合青木氏」の住み分けが大方「国境域」にあると云う事です。
    しかし、ただ室町期中期以降の住み分けには国境域傾向より秀郷流青木氏の中に潜り込んでいると云う傾向を示しています。
    論理的に考えれば、「国境域」は、平安期の直ぐ後の未だ氏家制度の社会慣習の強い鎌倉期の中では「藤原氏抑止力」を全面に押し出す事で「戦略的効果」を出し、相手に対して「威圧効果」を働かせ生き延びられる事が可能でした。
    その為にその「前戦域」、つまり「国境域」に住む事でも防御が出来たし、「氏家制度」の重要な慣習の「住み分け」も護る事が出来たし、万が一にも攻め込まれても「融合一族」で護れる事が出来たのです。
    そもそも「国境域」の位置付けは、比較的知られていない事なのですが、「戦略的国境域」には堅固な「氏寺や氏神」を建立し領内を城壁の様に取り囲み、領民の「心の安寧」を図ると共に、同時に軍事的な「要塞拠点」「情報収集拠点」として使う等の目的が主たるものであったのです。
    (例えば伊勢青木氏で言えば名張には城が2つあり名張城ともう一つは青蓮寺城でお寺なのです。)

    鎌倉期はまだ軍事政治の拠点は山城にあり(平時は平地の館に居住)、それだけに山間部の「国境域」に村を形成させて「融合青木氏」を置くことは「軍事的な抑止力」として充分に理に叶っていたのです。
    しかし、室町末期の織田信長の様に「権威への挑戦」とも成れば、その上記する「場所的・地理的な戦略性」は問題ではなく「権威の抹殺」が目的であれば、その「場所的・地理的な戦略」を破壊してでも「権威の抹殺」を達成させる事に成ります。
    政治的に絡んでいた「古来からの宗教権威の象徴」の比叡山や真宗本願寺や高野山や根来寺等の破壊に観られる様に、信長は「伊勢神宮」も直接破壊対象として挑む危険性があったのです。
    それから逃れるには「敵対」しないで「抑止力」だけの中に溶け込み、そして見分け判断が着かない様にする事が必要であったのです。
    「敵対」は衆目からすれば「伊勢神宮」を破壊すればいざ知らずただの戦いと見なされます。
    信長にすれば「権威の象徴の抹殺」であって「伊勢神宮」そのものはただの物体であることに成ります。
    その物体にまつわる権威を興している集団を潰す事がその抹殺になりその結果、「伊勢神宮」はただの「物体」と成り果てます。依って「敵対行為」は「目には目歯には歯」の結果を生み出し、この「物体」と「権威の集団」を潰す事に繋がってしまう事に成ります。
    この「衆目の目」と「伊勢神宮」を保全するには極めて効果的な「抑止力」を使うことが必要です。
    「強いだけの抑止力」は「目には目歯には歯」の結果を呼び込みます。

    この意味で信長強みは「武力型戦術」ですから、彼に弱い戦術は「影の抑止力」の効果です。
    「影の抑止力」は大義名分を青木氏側に呼び込み、且つ、「目には目歯には歯」の連鎖を起こしません。
    先ず、それには「秀郷流青木氏の定住地」のそのものの中に「溶け込み」をし、その上で同じ「青木氏で融合」する事での「2段構え」で幅の広い「抑止力防御」で構える以外にありません。
    しかし、ところが「伊勢青木氏」だけはこの信長に対してこの「2段構えの戦略」が採れない宿命があったのです。それは「伊勢神宮の皇祖神」を護り「祖先神の神明社」を護る為には「溶け込み戦略」は採れません。溶け込んだところで「皇祖神と神明社」が現存して目の前に存在するのです。
    これを物体として放置する訳には行かないのです。
    信長であれば先ずこれを破壊に掛り「権威の集団」の「青木氏」を引き出しに掛かるでしょう。
    これは「青木氏」に採って許す訳には行かない仕儀です。
    又、信長側から観れば「伊勢青木氏」の様な「見え見えの権威の象徴」は放置し見過ごす訳には行きません。
    「青木氏」としてもいくら子孫を遺すとしても「3つの発祥源」の象徴の「祖先神の神明社」と「皇祖神の伊勢神宮」を放置してまでして子孫を遺す事は出来ない事に成ります。
    仮に「子孫を遺す事」に舵を採った場合、世間は「伊勢青木氏」を認める事はしないでしょう。
    氏家制度の中では社会に容認されない氏は源氏の様に滅びるしかなく生きて行けません。
    少なくとも結果が同じであれば戦うが良策です。しかし、"ではどうすれば良いのか"と云う事に成ります。
    そこで「伊勢青木氏の採った戦略」は、筆者の論点の前提 「2足の草鞋策」と「シンジケート」にこの「2段構え」で「幅の広い抑止力防御」を組み合わせる事だったと観ているのです。

    「影の抑止力」の効果=「2足の草鞋策」+「シンジケート」+「2段構え」+「幅の広い抑止力防御」

    この「数式戦略」に依って個々の弱点を補完し合って強力で重厚な予測の付かない不気味な防衛網が出来上がるのです。信長はこの戦略に弱いのです。
    弱いからこそその証拠に「比叡山や真宗本願寺」の「目に見えない力」を押さえ込みに掛かったのです。
    信長は秀吉にこの「目に見えない力」の存在の事を教わります。(今宮ジンジケート)

    これを実証した最たる事件が有名な「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」の信長からの青木氏の勝利なのです。何と攻めて側の大将との血縁戦略を密かに行い、攻めて側の親族の伊勢秀郷流青木氏との血縁、この更には秀郷流青木氏を味方に引き入れて攻めて側と戦うと云う実に奇妙な戦略を駆使したのです。これでは攻めて側はうっかりと手が出せません。本腰入れて攻めた場合は全滅の憂き目を受ける事は必定です。例え総大将が信長の次男であって2万の軍を廻して来ても。
    その証拠に信長に引き続いた秀吉はこの事を充分に承知していて「恣意的敗戦」を求めて1年後に松阪に引き戻す条件を密かに提示させ青木氏を新宮に引き上げさせたのです。(追走しなかった)
    条件を護り1年後には「青木氏」の元の状態以上の扱い(上記の数式戦略の保全)をしたのです。
    この事が解決した時点で秀吉は蒲生氏郷に伊勢松阪城と伊勢松ケ島12万石を与えた上で「陸奥攻め」に廻したのです。(陸奥黒川城も与える)

    ( 参考 伊勢青木氏は伊勢松阪の本領を引き渡し、名張郡一部−三重員弁桑名3郡−玉城町全域−新宮尾鷲の本領安堵となる 伊勢56万石 内訳 伊賀10万石 志摩2万石 名張2万石 松阪12万石 長島18万石 他社領、寺領等5万石相当等を50万石相当割譲 室町末期 )

    当然に「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」をする信長に対しても世間の目は向きません。少なくとも「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」は「別のもの」を持っているのです。仮に全て破壊が成し得ても「信長政治」は成り立たなかった筈です。短命であった筈です。
    「物質の破壊」で「権威の破壊」は成し得ても「人心の破壊」は出来ません。「人心、世間・周囲」が容認しない政治は「下の者」はこれを容認しないでしょう。取り分け少なくとも信長の周囲の人物に於いては。
    それだけにこの「伊勢神宮・皇祖神」と「祖先神・神明社」を護る皇族賜姓青木氏が信長に挑み敗退したとしても、もう一つの「秀郷流賜姓青木氏」の「第2の宗家」は全国の秀郷一門を率いて立ち上がら無ければ成らない逃れられない宿命を青木氏として浴びている訳ですから、信長に取っては大きな賭けに成ります。
    現実、信長は「共和性」を敷く政治体制を目途としていたと観られ、かなり危険な状況に落ち至っていたことに成ります。その「日本騒乱状態」に突入する前哨戦が伊勢で起こり始めた事を意味します。
    筆者は「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」の「権威の破壊」は「共和性」(王性の共和制ではなく共和性としている)を意味すると捉えていて、行く末は朝廷の解体まで進む可能性があったと考えているのです。この時、「伊勢青木氏」もその様な「心構え」であったと観ているのです。
    その「前哨戦の2戦」は勝利したものの「第3戦」の手前で信長は明智光秀に討たれ頓挫します。
    筆者は明智光秀がこの認識(共和性)にあったと見ていて悩んだ末に自分の身を犠牲に信長を討ったと観ているのです。そもそも本能寺の謀反は短絡的過ぎると観ていて天下を掌握するのでは信長を討ったとしても天下は取れるわけでは有りませんし、無謀すぎるし軍略家の光秀にしては無知そのものです。
    人時場所の三相を得ていません。単純に信長を討つ目的であったとするのが普通です。
    矢張り信長にしても、光秀にしても無謀と言う面では世間の目・下の目が働いたと考えているのです。

    「完全な共和制」を目途としている概念では無く未だ「共和性のある社会」の構築を目途としていたと考えます。その例の一つとして「楽市楽座」、「新城郭構築」、「キリスト教の布教」、「近代的な物造りの推奨」「近代的な戦力戦術」に力を入れていましたが、しかし、この推進に大きな壁として「権威への障壁」が起こっていたと考えるのです。
    その後、秀吉に引き継がれた政治は幸いにも「権威への挑戦」「権威の破壊」ではなく、むしろ最もこの様に見られない人物の藤原秀郷一門の、賜姓青木氏とも繋がり縁戚関係を持つ、「蒲生氏郷」を差し向けてこの件を丸く治めた事は、裏を返せば秀吉も明智光秀と同じ認識の中に居た事を意味します。
    「蒲生氏郷」は温厚で学者であり、家康とも仲がよく、当時天下一と謳われた軍略師でもあって秀吉に戦わずして勝つ戦略を指導していた事は有名な話です。
    ただ一度秀吉の命で伊勢平定後に氏郷は陸奥で3000の兵で山城に籠られゲリラ作戦で長引きそこを無理押しして大失敗をします。(黒川城の戦い)その様な人物を間逆に選択したのです。
    何も青木氏が信長に当初から敵対している姿勢を採っていた訳でも無く、「権威への挑戦」「権威の破壊」の対象として攻め込まれたのです。故に、止む無く「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」を護る為に、皇族賜姓伊勢青木氏と村上源氏支流伊勢北畠氏だけは信長に対して秀郷流伊勢青木氏の合力を得て戦いを挑んだのです。北畠氏は先ず乗っ取られて落とされ滅亡します。
    しかし、伊勢青木氏は圧倒的戦力の差がありながらも「経済的戦略」を駆使し、伊勢−信濃シンジケート戦術で揺さぶり無戦で勝利します。
    (丸山城の戦い、伊賀城の戦い 長島吉野の戦い−秀吉との材木調達戦 名張の戦い−青蓮寺の戦い 松阪の戦い)
    しかし、最後に「松阪の戦い」で無戦に近い状態で新宮の飛地本領に引き上げて終わります。
    何れも青木氏の背後には縁戚の「伊勢秀郷流青木氏(蒲生氏)」の合力を得ていたのです。
    このままで行けば「伊勢の天正の3戦」は、信長・秀吉が強引に先走れば「秀郷一門と秀郷流青木氏の戦い」に発展して行く事は間違いなかったのです。
    ところが「天の裁き」か信長が討たれる事で「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」「権威への挑戦」「権威の破壊」は免れたのです。
    最早、この事が避けられれば青木氏としては「戦う目的」は無く成りますし、蒲生氏郷とは縁戚故知であったと伝えられている事からも尚更です。
    この経緯が異なっていれば5家5流青木氏は少なくとも源氏と同じく滅亡していた事に成ります。

    この様に鎌倉期の「坂東八平氏の脅威」は「秀郷流青木氏の抑止力」に依って、室町期の「美濃平氏織田信長」の「権威への挑戦」「権威の破壊」には「秀郷流青木氏の抑止力」と「天の裁き」で避けられて生き延びられたのです。

    「政権運営」
    二つ目は鎌倉期と室町期で、鎌倉期では「坂東八平氏」(北条氏)、室町期では「織田信長」の政権運営に関っている事です。
    これは明らかに、本来は氏家制度の中では一族が「融合氏」を形成して住み分けして菩提寺と「祖先神の神明社」を建立してその下に助け合う社会制度の中です。
    分布状況から観ると、「2つの血縁青木氏」の存在する全ての地域にこの「祖先神の神明社」が最も多く建立されているのです。(本文末尾の資料参照)
    この「青木氏」ならではのこの特殊な現象は、その鎌倉期−室町期に成っての事であり、生き残りの為に懸命に「横の関係」(物心両面)を取ろうとしていたことを物語る出来事だと観ているのです。

    大化期からの「融合氏の国策」は、平安末期の公領制の効果がタイムラグ的に働き何とか「荘園制の行き過ぎ」が室町期にはブレーキがかかり、結局、「荘園の争奪戦」が起こる事に成ります。
    この結果として「融合氏の細分化」と供に「荘園も解体・細分化」して行き、それに連れて懸命に生き延びた「融合氏」の発祥源・象徴の「賜姓青木氏」は、「秀郷流青木氏」の力を借りて生き残りを果たして更に融合化へと進んだのです。

    室町期の下克上と戦国時代に狙い撃ちされた青木氏は、「2つの血縁賜姓青木氏」と「賜姓源氏宗家頼光系の血筋」の3つを融合させて遺そうとしたと考えられます。(融合青木氏)
    ただ特記すべき歴史的に見逃しては成らない事は、「2つの血縁青木氏」には「2つの絆結合の青木氏」が親密に存在し、その結果、他氏とは異なり”「下克上」を起こさなかった”と云う事実です。
    この事が起こらなかった為にこの「3賜姓族融合戦略」が功を奏して生き残ることが出来たのです。

    「3賜姓族融合戦略」で生まれた「融合青木氏」には、家紋は笹竜胆紋か下がり藤紋を綜紋とし、「祖先神の神明社」、「祖先神の八幡宮」、「鎮守神の春日大社」、「産土神の諏訪大社」、「浄土宗古代密教」、「浄土真宗、真言宗密教」等の混在する氏が地域を限定して上記の様に発祥しているのです。
    「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」とは別の上記の「判別の確定要素」に迷う「融合青木氏」なのです。しかし、ある3つくらいの共通条件(地域・時期・歴史史実など)が存在して判別は可能です。

    話を戻して、「坂東八平氏」の腹の中は”源氏を潰して自らの政権を”と考えていたのにこれでは目論見は無理と成ります。”源氏を潰した後は秀郷一門を潰す”と目論んでいたのではないでしょうか。
    これを察知していた義経と大島氏が頼朝に警告するが無視、警告の夜に坂東八平氏に襲われたのです。この大した戦績のない「坂東八平氏」の行動は目論見が行き詰まっていたことを表すものです。
    最終的に、この「坂東八平氏」は最終仲間割れを起こしてしまいます。
    当初の目論見を捨て支流北条氏が勢力を持ち執権として坂東八平氏を廃して鎌倉幕府を主導することに成ります。「元寇の役」での通説衰退説は切っ掛けであって原因説ではもとより無いのです。

    (経緯 水軍の無かった鎌倉軍の弱点を突くために、「たいら族」は水軍を立て直して瀬戸から出て鎌倉湾を突然に突きます。これを聞きつけた源氏頼信系の大島水軍は急遽三日で黒潮を乗り越えて三浦半島に運び水軍による最終決戦をして功績を挙げ頼朝軍を救ったのです。
    しかし、最終会議の後に平家軍を敗退させた義経と鎌倉幕府を三浦湾で救った大島氏を襲う。大島水軍はその日の夜の内に大島に引き上げる。義経は平泉に逃れる。現在5家5流賜姓青木氏以外に傍系ではない綜紋の「笹竜胆紋」の大島支流源氏のみが現存し正式に遺されている。大島氏は庶流、傍系、未勘氏、第3氏ではない唯一の正式な支流源氏 大島と云う地理的要素が働いた為 更にこの大島氏の支流で富岡氏(富田氏)が静岡−埼玉の線上に分布している)

      「義家の不合理性」
    まして、「3賜姓族融合戦略」を採っている中で上記する平安末期の「義家等の不合理な行動」です。
    この事件行動の余波は全源氏に波及するのは確実です。波及すれば行動範囲が制約されていて生活圏範囲が狭ければ潰れる事は必定です。
    我々「4つの青木氏」から観れば、源義家の行動は「世間の絶賛」とは別には「裏切り者、反逆者、うつけ者」でしかありません。
    筆者は頼朝も義経の諌言を受けなかった事が義家に続いて2回続けての間違いの元でもあったと観ているのです。
    頼朝も危機感はあったが止む無く義経を打った後に悟って「本領安堵策」を何と2度も、更に念を押して「平家没官僚策」を北条氏らの反対を押し切って実施したのです。
    恐らくは現実思考性の持った戦略家の義経を潰した後に、北条氏等の態度が急変して初めて”アッ”と懸念を悟ったから「巻き返しの策」として命を掛けたのです。
    傀儡政権の中ですから、命を掛けないのであれば始めからこんな危険な策に出ることはありません。
    沈着冷静で戦略家の「義経の諌言」は歴史が物語る「世の無常」を悟っていたものであったと観ているのです。

    参考雑学 義経はその武勇だけを賞賛されているが、平氏を瀬戸内で討った時に事前に味方を引き入れる為に関西域の各地を駆け回り粘り強く説得し「平氏水軍」に対抗する独自の「源氏水軍」を作り上げる為に奔走していた事がその水軍の氏の資料として多く遺されている。
    源氏には水軍が無かった為に勝てない事が大きな戦略上の欠点であって「坂東八平氏」の軍には戦える水軍は無かったのです。
    ましてこの時、軍監の「坂東八平氏」は義経をこの戦いで潰す目的ではなかったかと観ているのです。
    その事を承知している義経は自らの軍2万を集め、自らの水軍を作る事に奔走する優れた緻密な戦略家であった事がこの時の資料から判るのです。「坂東八平氏」の軍は全く動かなかったのです。
    義経はこれを無視して「紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍」を集めたのです。
    そして、この水軍全て「海賊」のシンジケートだったのです。この「海賊」に意味があったのです。
    瀬戸内の「平氏水軍」と同じ戦い方では「多勢に無勢」で負けるが必定であり、この事を補う為には「海賊的な戦い方」を用いたのです。「平氏水軍」は違った戦い方に面食らい慌てふためいて総崩れを起こしたのです。
    義経はこれを狙ったのです。特に紀伊水道の紀伊海賊の説得に何度も粘り強い姿勢を示し義経の人間性に信頼を感じて味方をした事が資料に遺されているのです。その紀伊水軍が戦いの先頭に立ったと記録されているのです。ところが戦いに勝利すると直ちに引き上げたと記録されているのです。
    (この時代の「海賊」とは海賊そのものだけではなく、海の安全航行の保障を前提とした「海利権」的なもので一種の海のシンジケートなのです。従わない場合は武力で潰される事は陸のシンジケートと同じなのです。義経は「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を"斯くの如くあるべし"と云う事を都近くにいて清盛や藤原氏や青木氏から学んでいたのです。

    「氏存続の経営哲学」
    これは義経は偶然に勝てたのではなく「青木氏が採った戦略性」と「長としての青木氏家訓」とほぼ同じものを考え方として持っていたからと観られます。

    (青木氏と類似する「氏存続の経営哲学」を持っていた。記録では現実に義経は平清盛に宋貿易等の教育を受けている。同族賜姓族5家5流の青木氏の「氏存続の経営哲学」を観ていた可能性が高いのです。頼政の跡目の入った「青木氏の伊勢松阪」と「平清盛の伊勢伊賀」の親密な関係から観ても考えられる事です。 義経と青木氏の関係を調査中)

    この「義経の優れた特性」に対して頼朝はカーと成る「氏の性癖」と対比して「嫉妬と危険性」を感じたと観ているのです。
    ところが、その義経を潰した時、頼朝は「坂東八平氏」の豹変に初めて気が付いたのです。
    「頼朝」と「坂東八平氏」は頼信系の義家に続く清和源氏の分家子孫には観られない優れた「義経の優れた特性」を観たのです。
    頼信系の清和源氏には、新宮太郎や木曽義仲等の一門の人物像の書物を読むと、義経を除くと何かこの様な「不合理な性癖」(カッと成る癖で突っ走る)があったとも取れる印象を持つのです。
    その意味で賜姓同族で血縁性もある宗家頼光系4家の宗家頼政の血筋を受け継ぐ青木氏一族一門の「家訓10訓」は「生き延びる3条件」即ち「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を前提にこれらの事を強く戒めているのだと感心するのです。先祖も同じ考えであったと観ているのです。

    この義家末裔に観られる「不合理の性癖」は「融合氏」の賜姓青木氏側にも在ったのかも知れません。
    或いは、頼信系一門を観ていて感じ採っていた事も考えられ、だから敢えて「長の務め」として戒めているのだと云えます。
    恐らくは平成期の青木氏が検証している様に、平安期にも本文の様に検証していたのではないでしょうか。そして「3つの発祥源」の「融合氏」は家訓で”斯く在るべき”としたのです。
    そして、室町期には「生き残り策」として「3賜姓族融合戦略」を展開したのです。
    伝来の「家訓の背景」と観られる集大成「由来書」(大筋概要)の様なものを「平成の復元」で再び成し、明治35年の消失で無くなったものを筆者に復元させたのはここに子孫を思う先祖心があったのでしょう。
    取り分け由来書成るものは「神明社」(「3つの発祥源」「物造り」「融合氏の由来」)に力が入っていたとされるのです。

    ところが筆者には「経済的自立」と「3賜姓族融合戦略」とに依って「生き残り」は成し得た事は事実ですが、何かもう一つ納得行かないものがあるのです。
    それは「蒲生氏郷」から「江戸幕府」徳川頼宣までの青木氏に対する保護はこの「3賜姓族融合戦略」には無関係です。これは何かがあった筈です。
    それは何か青木氏に「人を引き付ける要素」があったと観ているのです。
    それが、「旧来の人の心に遺されている伝統」、即ち「祖先神の神明社」にあったのではと観ているのです。人はこれを否定する者はいないだろうと考えます。
    例え、ヨーロッパの影響を受けた「権威に挑戦」した信長でも。その信長の行動は「政治的な権威への挑戦」であって、「人の心」に存在する「伝統」と、その「象徴・権威」でもある「皇祖神」や「祖先神の神明社」そのものには幾ら信長でも否定と破壊はしないであろうと思うのです。また出来ない筈です。
    その「伝統から発する権威」が「政治的色合い」を強く示した時には、信長は挑戦するのであって、単に内に秘める「心の権威」のみを否定する事は、それこそ社会の「異端児」と成り果てあり得ない事です。
    それは人ではなく「鬼」に過ぎない事です。其処まで信長は異端児ではなく、やや人より「共和性の考え方」に富み進んでいた事から、当時では氏家制度の中では異端児的に観られているのであって、現在から観れば極めて合理性に富んだ当れ前の考え方であります。
    この「心の権威」の「伝統の祖先神」を守り通してきた「健やかな姿勢」の青木氏を人は認めたのではないのでしょうか。止む無く戦ったとしてもその上記した「戦い方」そのものにあったと考えるのです。
    それが源氏分家頼信系の宗家の義家一族に無かったものであり、”政治的な権威と軍事力の上に胡座をかいていた”から潰されたのです。
    青木氏の家訓に強く戒めている「長のあるべき姿勢」は「心の伝統」を重んじる「祖先神の神明社」に結び付いているのです。まして「絆」結合を重視した青木氏一門郎党ですから尚更の事では無かったかと観られます。「生き方が穏やか」であります。
    「氏家制度」の社会の中では「3つの発祥源の青木氏」ならばもっと積極的な生き方もあったとも考えられます。しかし、違ったのです。
    信長はこの「心の権威の伝統」の範囲に留まっていれば伊勢への「権威の挑戦」は無かったと考えられます。しかし、如何せん「氏家制度」の社会慣習の中では「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」は「心の権威」と当時に、それを「政治の権威」の基点とする「旧来からの政治体制」であった為に、信長は止む無く「神社の伊勢神宮」「寺社の比叡山天台宗」「真宗本願寺」等に類するものを攻撃したのです。
    しかし、青木氏の立場として止む無く関わらなければならなかった下記の戦いには信長の対応は少し異なっていたのです。

    1564年から始まり1584年まで「伊勢攻めの主要三乱」は各地で大小の戦いが続いたのですが、この内青木氏に関わる戦いとしては次ぎの通りです。
    「長島攻め」の3乱(1568−1575)の内北畠氏攻め(1575)
    「伊賀攻め」の4乱(1565−1581)の内第2次丸山城(1578)と第4次伊賀城の戦い(1581)
    「松阪攻め」の2乱(1583−1588)の内松阪無戦引渡し(1588)
    以上4戦に関わったのです。
    (参考 信長没1582年)

    「権威の守人」
    ところが、社会がまだ信長の「共和性」には理解が届かなかったのです。むしろ、逆に義家の様に振舞うのではなく、信長に執って、青木氏の行動が「権威の守人」として穏やかに振舞うところに引かれ、故に「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」である「心の権威」の「守人の青木氏」にむしろ「畏敬の念」を抱いていたと考えます。
    その証拠に伊勢神宮を焼き討ちせず、伊賀と長島の周囲を先ず攻め最後に松阪を攻めようとしていた矢先に「本能寺の変」(1582)が起こったのです。
    「伊勢攻め 丸山城事件」(1578)に対して、”何故に海側の先端の丘に丸山城を建て様とした”のでしょうか、地形から観て疑問が残ります。また「伊勢攻め」の前哨拠点にしては大げさで必要性と地形に疑問が残ります。
    第一に、城を建てなければ成らないほどに信長に抗戦する力(最大9千)が青木氏と伊賀氏と北畠氏等にあった訳では有りません。北畠氏は信長の調略(1575)に先ず落ちていますし、青木氏にはシンジケートの危険性だけ、伊賀氏は信長の始祖の「末裔たいら族」であり、縁戚でもあり内部に名は裏切りもあり実質小さい勢力です。他に伊勢には土豪勢力の屋形か陣屋か寺城程度の平城が10程度ある程度のものですがこの程度で出城の建設には疑問が残るのです。
    (注意 本論は青木氏に関わた事として限定して論じている。天正の伊勢3乱として歴史は大きく「戦い」として書きたてているが筆者は結末が大きくても内実は違っていると観ている。信長はこの戦いを通して結果として大軍を擁したがその間「村民と城兵」には傷つけなかった事は有名な事で盟約まで結んでいるし、伊勢の土豪との戦いは殆どは裏切りで解決している。)
    そもそも”何の為に岬の先端にわざわざ建て様としたのか”不思議です。前線基地として建てるのであれば好適地がある筈です。北畠の城も既に獲得していた筈です。
    この疑問を解決する要素はただ一つです。それは全青木氏に関しての戦いでは、「権威の守人」を遺そうとしたか、それとも秀郷流青木氏の背後を気にしたかの2つではないでしょうか。(伊勢土豪の小戦は不問)
    いずれにしても武力を全面に押し出さない穏やかな「権威の守人」の「青木氏の陰力の抑止力」が働いていた事は事実です。しかし、敢えて信長はこの「権威の守人の青木氏」一門を残そうとして、「抑止力」を果たす「監視城」を目指そうとしていたと考えられます。
    石山本願寺の悲惨な戦いの様にならない様にする為に、その差として「門人」と違う所と云えば、「守人青木氏」の「氏柄」の所以であったと考えられます。
    それを理解できずに次男信雄が大金を使い果たし建設時期を大幅に遅らせやっと出来た挙句は青木氏の影の力シンジケートに燃やされてしまうと云う失態を繰り返しこの建設に失敗するのです。
    故に、「青木氏の戦状況」は伊勢3乱の1564−1588年の間にはどの「表の歴史資料」には出て来ないのはこの「青木氏の陰力の抑止力」の働いた穏やかな「権威の守人」の行動からなのです。

    最終それを引き継いだ秀吉は青木氏と縁戚である蒲生氏を差し向けて穏やかに納めたと観ているのです。
    秀吉をそうさせたのは「信長の真意」を汲み取り、矢張り秀吉も「心の権威」の「守人の青木氏」(伊勢を始めとする2つの血縁青木氏)に「畏敬の念」を持っていた証と観ているのです。
    (2つの血縁青木氏 5家5流賜姓青木氏と賜姓藤原秀郷流青木氏)
    しかしながら、現実には信長とすると「政治の権威」と結び付いている「守人の青木氏」を一時攻めると云う事が起こったのであって、、伊勢を支配下に入れるにはそれには土豪の押さえ込みの「監視城」の必要性がありますので、奈良時代からの長い歴史来の禁手の天領地伊勢神宮の伊勢松阪に「松阪城」(蒲生氏郷 松阪松ケ島十二万石等計44万石の割譲後、 松阪城に移す)を建てたと考えているのです。
    この「監視城」とは松阪の平城は政庁舎の趣が強く築城の配置形態が資料から観て「戦城」とは異なっていたのです。
    伊勢路の松阪は尾張から京に出るには軍事上要衝の地である事からも戦略上ここに戦略基点を設ける絶対的な必要性があって、平安期からの「禁手」(不入不倫の権)では戦国時代では最早済まなく成っていた事も明らかです。
    従って、信長は未だこの「戦略基点」を丸山に置いたとする事は、伊勢の「土豪潰し」は行ったが、伊勢松阪の「伝統」を護る「戦略的配慮」があったからの事であります。
    そこで、秀吉は「禁手」を犯してでもそれをもっとはっきりとした形態を採りたかった為に一挙に松阪としたのであって、そのはっきりとした行為を和らげる為に青木氏縁戚の蒲生氏郷を配置し、且つ氏郷の人柄を表に出し、城より政庁の赴きを付けさせ、「権威の守人の青木氏」に「没本領」として氏存続の為に「割譲残石高」程度を与え残し、現状を維持させ残したと考えられます。
    これで「神明社破壊への民衆の動揺」をも抑えたと観られます。
    信長−秀吉−家康の時代を通して生き延びられたのはこの「皇祖神−神明社」背後にを控えた「氏柄」の生き様の所以だったのです。
    これが、疑問の答えの「穏やかな権威の守人」「伝統の氏」が人を引き付けたのです。

    常にその生き様を対比する「源義家」一門はこの「心の権威」の「守人の源氏」の姿勢を採らなかった事に所以しているのです。
    源氏の「祖先神・八幡社」の精神「守人の氏」(2つの血縁青木氏の様に)に徹せず「荘園制」に「氏の命運」を掛けて「氏世拡大」を夢見てしまって「人を引き付ける要素」を失って「滅亡の流」を源氏の中に作り出してしまったのです。
    筆者はこの「義家の生き様」と「信長の生き様」は「人を引き付ける要素」に一面欠けていたと観ているのです。

    そこで、この「青木氏」をより深く検証するために話をもう一度大きく戻します。
     「部曲と民部:(かきべ)」
    本来、上記の義家の例に観られる様に「源平藤橘」や「荘園主」の「融合氏」の「氏族」は多数の「部民」を「隷属民」として支配していたのですが、この「部民」は「部曲」として、又、朝廷に命じられる労役に「氏族」に代わって従事したのです。
    荘園に組する氏姓には血縁性は全く無く、「部民」間も血縁性が無く、「部民」の「品部」も同様で天皇家の「部民」、後に豪族も「部民」を持つ様になります。
    皇族賜姓青木氏は「天領地」を管理する守護王ですから、この5地方の天皇家の「部民」が「青木氏の部民」であることになります。
    皇族賜姓青木氏の永代官職名は「民部」を管理監督する「民部上尉」であるのはここから来ているのです。
    (平安期末には荘園が大集団化するにつれて荘園の「百姓」を「部曲」(かきべ)と、朝廷直属の「百姓」を「民部」(かきべ)と呼称される様に代わった。
    (字は異なるが何れも呼称は「かきべ」 、「品部」「部曲」「民部」の3つを合わせて「部民」と呼称された)
    これ等の「部民」が後に勢力を持ち「姓」を名乗る事になります。
    ところで、「氏名」では無くこの「姓名」に付いてどの位の種類で出来たのかを調べてみると次ぎの9つの種類の「姓名」があります。
    1 血縁的同族が形成する「氏」の姓名(奈良期)
    2 大和朝廷の統一過程における「部の制度」の姓名(平安期末期)
    3 名田制度から起こった名字の姓名(平安期末期)
    4 皇族が臣下した賜姓よる「氏」の姓名(奈良期)
    5 4の分家分派分流が名乗った「氏」の姓名(平安期後期)
    6 4の官職、役職の一部と組み合わせた「氏」の姓名(平安期中期)
    7 知行する土地の名称を名乗った姓名(鎌倉期以降)
    8 武士の集団移住分封より宗家とは別の土地の名を採り分家が名乗った姓名(室町期以降)
    9 江戸期初期と明治初期の苗字令により名乗った姓名
    以上9つの「姓名」から成り立ちます。

    但し、9は更に次ぎの分類が出来ます。
    明治初期の姓名は2つに分けられます。
    9−1 1と4と6の生活圏を共にした民の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の第3氏)
    9−2 地名等自由な形で名乗った明治期の苗字令の姓名(否絆の第3氏)
    江戸初期
    9−3 1と4と6が生活圏を共にした家臣の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の未勘氏)
    (4に付いては賜姓族[青木氏と源氏]と「嵯峨期弘仁五年の詔勅むの[青木氏]に2つに分けられる)
    (8に付いては大日本史に多く掲載されている姓名。)
    (8に付いては宗家が先祖伝来の「名字地」と「家名」と「伝統」と「子孫」を護る役目に対して宗家の統制に従わない者は除名追放が頻繁に行われた。この為に一族であっても違う姓名を興して名乗った。)

    「参考 (重要)」
    「賜姓」は次ぎの通りです。
    1つは「類聚三代格」賜姓の皇族賜姓青木氏(弘仁格式、貞観格式、延暦格式に記載)
    2つは「嵯峨期詔勅」賜姓の皇族青木氏と賜姓源氏に分けられる。

    1つ目の「類聚三代格」
    初回賜姓氏は8皇子皇女で内5人が青木氏(5家5流)、1人が佐々木氏の皇子で、他2名の皇女は斎王、宮王で不明死滅。
    2つ目の「嵯峨期詔勅」
    嵯峨期からは対象者17人 内皇子15人皇女2人で、青木氏は4人 源氏11人 他2人は比叡山門跡僧は斎王(宮王)と門跡尼に成り死滅

    (注 徳川氏はこの2名皇子(門跡院僧)の内の1名が南北朝の時に三河にて托鉢中に松平氏に逗留して還俗し子孫を遺したとして朝廷に認証を求めたが2名とも「門跡院僧」に成っている史実からなかなか認めなかった。 この時源氏を16代として拡大したが実際は花山天皇までの11代) 
    (注 上記計25人の皇子末裔で有る事を朝廷の認証を得て証明されなければ「征夷大将軍」になれず幕府を開けない。)

    「4つの青木氏」=「鶏の卵関係」
    上記の4と1の「氏名族」(2つの血縁族)と、9−1と9−3の「姓名族」(2つの絆族)から成る「2つの血縁族と2つの絆族」に付いてもう少し次ぎの事を論じておきます。
    「2つの血縁族」
    「2つの絆族」
    「鶏」は「卵」から「卵」から「鶏」に、卵は黄身と白身はどちらにも優劣なしにて成り立ちます。
    「鶏と卵のどちら」の論争は化学的に「卵が先」と判りましたが、その位置付けの「卵」(氏)の中味(血縁と生活の絆)の「構成関係」と「4つの青木氏の構成関係」と同じと考えています。

    「卵(黄身と白身)の構成関係」=「4つの青木氏の構成関係」
    「卵」=「氏」

    そこで其の前に果たして”「氏融合」とは何なのか”と云う疑問が湧きます。
    先ず「氏融合」は少なくとも「子孫存続」があってこそ成り立つものです。
    この「卵の構成関係」は、「氏融合」が可能となる「子孫存続」の「重厚な基」と成っていますが、これが”「4つの青木氏」の関係にあるのだ”と考えているのです。
    つまり、数式では次のように成ると考えています。

    「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
    「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

    そもそも最低はこの判別式の「数式条件」が成り立つ事こそが「氏融合」では無いでしょうか。
    上記した「3つの発祥源」と成る青木氏(390氏)は最大1365年以上の古い歴史を持つ事からこの条件が充分に醸成されて、この様な他氏に絶対に観られない「卵の構成関係」に観る様な「融合状態」が成立したのです。
    この「絆結合」は最大1365年の「有品悠久の歴史」と「日常の生活」を共にし「村」を形成して代々子々孫々暮らして感情を持てばむしろ「血縁以上」となるのは必定です。
    大化期から江戸期までその土地に住む「全ての民」はその「土地に対して所属」し、「氏家制度」に依って「互助社会」が成立し、その土地の「環境の中に生き抜く」のが定めです。

    現在の様に「契約社会」の中でその「契約の範囲」に限り「移動を含む自由」が成立するのですが、氏家制度の社会は、それだけに「村」を形成し、その「村」の中の人間関係(絆)は身分家柄上下の関係を問わず現在から見れば想像を絶する「強力な絆」で結ばれていた筈です。
    現在、我々が感じ云う「絆」の持つ意味が質、量共に異なっていたのです。

    例えば、ここで「第3氏の青木氏」と使えば殆どの人は3者の間には完全な溝が横たわり繋がりを持ち得ない関係の一方を意味するものと考えますが、明治期を除いてこれが違うと云うのです。
    室町期の「第3氏の青木氏」には確かに溝らしきものがあるが、その溝には他方を冷やす水が流れていないのです。溝があってそこを行き来出る状態の概念を持っていたのです。
    かと云って、今で云う「自由な往行」を意味するものではないのです。「自由」の中に「けじめ」を大きく占めた「自由」なのです。
    名づけて「けじめ自由」と云うべきものであったのです。つまり「けじめ社会」であったのです。
    つまり、「けじめ社会」=「氏家制度」であります。これが「発展の基盤」となるのが「融合氏」であります。
    この「けじめ社会」のレベルはその「環境の歴史」に左右される筈です。
    「融合氏の青木氏」は上記する様に「3つの発祥源」として最大1365年もの「有品悠久の歴史」を保持している訳ですが、この環境下ではその「けじめ社会」の概念が緩やかに成り、かと云って「けじめ」が疎かになるのではなく、丁度、充分に熟成した日本酒の「円やかさ」が生まれるのです。
    麹菌が加糖になりブドウ糖になり熟成してアルコールに変化してアルコールが更に細部まで分解して度数が上がるが逆にアルコールの「ビリッ」としたものが無くなり、円やかで独特な芳香が豊かになるのと同じなのです。
    室町期発祥の「100年の融合氏」の場合は、未だこの「けじめ」の部分が強すぎて身分家柄上下の関係が醸成されていない状態なのです。真さしく造ったばかりの日本酒なのです。年代が過ぎると徐々に変化してよい日本酒になるのと同じなのです。
    ここが他氏と異なる違いだと云っているのです。「4つの青木氏」はこの関係にあったのです。
    「4つの青木氏」の関係は”熟成された「けじめ」であった”と云っているのです。

    この熟成されたものが「青木氏」の「権威の守人」の穏やかな衆目を引き付ける「氏柄」を有していたのです。戦国時代を生き抜ける青木氏の「根本の氏柄」であったのです。
    故に「3つの発祥源」でありながら「家訓10訓」の様な「真意の戒め」と成っているのです。
    ここが同族賜姓源氏と異なっている所なのです。
    「嵯峨期の詔勅」が「皇族賜姓族の氏柄」を変えてしまっていたのです。


    青木氏と守護神(神明社)−10に続く。


      [No.275] Re:青木氏と守護神(神明社)−8
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/06/10(Fri) 10:22:12  

     「美濃秀郷流青木氏の系列」

    では”この美濃の秀郷流青木氏はどの系列の青木氏か”と云う問題がでます。
    9系列116氏の青木氏が各地に定住していますが、116氏の中で「五つ木瓜紋」の青木氏ですから先ず美濃の中では9つ系列のどの青木氏かを確定します。
    この青木氏は答えから「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」(地理分布の詳細下記)です。
    A 美濃の地理的条件と時代性の一致度
    B 116氏中の「五つ木瓜紋」の位置付け
    C 上記した伊勢「たいら族」と「秀郷流青木氏」
    以上の3つの関係からも可能性は極めて高い事に成ります。

    美濃で伊勢より側と成りますと、下記に詳細を記述しますが、現在の地名で云いますと次ぎの2つです。
    一つ目は「愛知県清須市春日中沼」と云う地名があります。
    もう一つは「愛知県名古屋市西区中沼町」とあります。(現在と昔との国県域は異なる)

    この美濃の伊勢より西側域一帯では、この2地域に「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏が幾つかの家紋を異にして集中して定住しているのです。
    この場合は「五つ木瓜紋」とすると主に前者の地域と成ります。
    2地域共に近接していますが、家紋での領域が異なっているのです。
    この事を証明するものとして実は家紋では無く系譜から次ぎの2氏がこの「越前−美濃−尾張−伊勢東ライン上」に存在するのです。
    イ 「織田氏族長沼氏」
    ロ 「桓武平氏系長沼氏」

    先ず、イの氏はこの「美濃−尾張地域一帯」には長沼氏族主要9氏の一つ「織田氏族長沼氏」が定住しているのです。(長沼氏に付いては研究室レポート参照)
    この長沼氏は家紋を異にしていますが織田氏の血筋の入った長沼氏です。
    この「織田氏族長沼氏」は「美濃平氏系長沼氏」が正しい表現と成ります。
    この氏は織田氏系図に記載があります。
    この「織田氏族長沼氏」は後の織田氏が系図を作った時にこの一族の事を織田氏側から命名した事によって呼称されています。
    学術的には内容から「美濃平氏系長沼氏」とするべきところですが、織田氏は「越前の清盛-重盛系列」の本筋を元祖として主張している事から、一段下げた弟の教盛系列の通盛の「美濃平氏系長沼氏」とする訳には行かなかったのです。
    そこで「織田氏族長沼氏」として虚勢を張ったのです。それも「系」とはせずに「族」とした自己中心的な表現にしたのです。
    そして、それもこの「長沼氏」は「永沼氏」と表現されていたのですが、研究に依って「飯尾定宗」の孫「宗康」成る者が「永沼左馬進」と同一人物と学説的に判明したのです。
    この者が過去の先祖の血縁した長沼氏(永承の頃1050年頃)を継承して部屋住みから脱して独立し名乗ったもので美濃に定住する一族であった事が判ります。
    この者は信長の祖父信定と兄弟定宗の孫に当たります。
    ところが秀郷流長沼氏はこの「永沼」を使用していないのです。
    後にこの長沼氏系である「飯尾宗康」が「永沼左馬進」を名乗る際に織田氏側がある種の虚勢で敢えて「永沼氏」とした事になります。この事から学術的には「美濃平氏系長沼氏」と成るのです。

    次ぎはロの氏の「伊勢平氏系長沼氏」或いは「桓武平氏系長沼氏」です。
    これは諸に「氏と地域性」を明確に指定しています。
    つまり、明らかに「美濃平氏系長沼氏」なのです。
    この長沼氏は「新撰会津風土記」に記述されています。
    会津地域一帯に分布していた長沼氏です。
    呼称は「たいら族」、「京平氏」を指定し中立的に学術的な呼称を採用しています。
    地域を指定していませんが、会津から判断して長沼氏と血縁できる「たいら族」は美濃平氏と成ります。
    この血縁の時期は明記していませんが、この長沼氏は鎌倉期直後に会津に来たと記述されていて、その前に”何処かの「たいら族」と血縁して赴任して来て土地の豪族と成った”と成っています。
    さて、その”何処か”ですが、下野国結城長沼地区(元祖は長沼五郎家政と解明)である事が文脈から判ります。
    この時期に「たいら族」の血筋を得ていた事を意味し、この家政の先祖は伊勢東-美濃-尾張の地域一帯の住人である事が判明します。つまり、この地域の「たいら族」は前記した様に「美濃平氏」だけです。
    この2つの「織田氏族長沼氏」と「桓武平氏長沼氏」は結局は「美濃平氏長沼氏」なのです。

    前記した様に伊勢北部伊賀地方の「たいら族」の宗家は「北-東域」に勢力を伸ばそうとしていた事がよく判ります。
    つまり、「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏の考証は「家紋」と「地理性」と「2系図」から長沼氏本家が率先して長沼氏系列の美濃域の青木氏を援護して美濃平氏との関係を維持しようとしていた事が良く判るのです。
    家紋から観て、この2系列の長沼氏からは出て来ないのは徳大寺氏の「四つ木瓜紋」との血縁をしていない事からです。依って織田氏の「五つ木瓜紋」と繋がらないのです。
    恐らくこの2系列の家紋は「揚羽蝶紋」を綜紋とする平家一族の家紋群と成ります。
    何れも男系継承に依って長沼氏の歴史を持ちながらも平氏族の系列に入った長沼氏であるからです。

    「美濃平氏の実態」
    ではこの2系列の”この「美濃平氏」とは一体何者”と成ります。
    前記した様に滅亡前の「平教盛-通盛系列」の支流平氏である事を論じましたが、更に詳しくは、つまり、織田氏の「美濃平氏」には上記した様に最近判別した資料からは次ぎの「3流」ある事が判っています。

    織田氏が主張する搾取偏纂の資料ではなく別の信頼できる資料から観ると次ぎの様に成ります。
    「美濃平氏の3つの流れ」
    1 清須地域による平家一族 (Aの地域 平常昌)
    2 岩倉地域による平家一族 (Bの地域)
    3 平左馬頭敏隆を祖とする平家一族(地域不明 平敏隆)

    この1、2、3の内、信長は2の系列と云われています。
    この「3つの集団」が個別に活動し農兵となり仕官口を求めて越前まで次第に移動し、そして遂に1の集団の「平常昌」なる人物が首領として働き先に仕官口を切り開いたのです。

    重要: 常昌は斯波義重の家臣に成る−常昌の子常勝が尾張守護代に成る。

    これに伴い2および3がこの配下に入った事に成ります。
    1、2、3を加えれば150年間の末裔の枝葉の拡大で大変大きな集団になった筈です。
    彼等の末裔数で最低は500とその近隣村の農兵を加えれば最大1000人の兵と成る可能性はありますから、凡そ騎馬将20と云う凄い集団であった筈です。
    仕官叶えば「即戦力」があり任せられ直ぐに上級家臣団に成れる力を持っていた筈です。
    足利氏の斯波氏であっても勢力拡大期の時期ですから喉から手が出るほどの集団であった筈です。
    「兵数」はもちろんの事、「即戦力」に大いに魅力があったと考えられます。
    事の次第によっては全国の「たいら族」の残兵に号令を掛けて集めれば一戦国大名の力はあった事に成ります。
    この勢力拡大中の斯波氏の家臣に成った人物は「美濃平氏」の初代と観られる人物から9代目の「平次郎四郎常昌」と成っています。
    (1300年頃)恐らくは尾張の守護代(常勝)に成った1339年には全てそれだけの家臣団を養える力が付いた訳ですから西国から集めたと考えられます。
    (他に後述する尾張尾藤氏系長谷川氏の系譜から証明できる)
    この人物(常昌)は信長より10代前の人物であり、この1の美濃宗家は代々隣の総宗本家筋の伊勢守(伊勢北部伊賀地方の守護防御を命じられていた事を示す 清盛の弟教盛の系列子孫であったから信頼があった)であったことが記述されていますので「美濃平氏」であった事を裏付けます。
    この人物から9から10代前は丁度1150−70年頃で「平家の最盛期」で150年間程度前と成りますので、それより少し前の時代(1025)の人物まで読み取れます。
    上記の検証と150年は一致します。

    (参考 長沼氏はこの美濃で青木氏と共に懸命に「美濃平氏」と「美濃源氏」とのバランスを取ろうとして「美濃土岐氏系流長沼氏」が同時期に発祥しています。この美濃地域は如何に微妙な関係地域にあった事が物語ります。)

    (参考 この地域の分布 伊勢−美濃-尾張の伊勢よりにも秀郷流青木氏が、美濃三河より東側にも4地域に秀郷流青木氏が、中央部域にも秀郷流青木氏が家紋を異にして存在します。当然に尾張−三河−駿府域にも秀郷流青木氏の定住地があります。 片喰紋など7-8の家紋類群)

    この美濃の木瓜紋類の秀郷流青木氏は7つ青木氏が家紋から観て、徳大寺氏一門との血縁関係を持っているので、普通ではないかなり親密な重複で同族血縁・縁者関係にあった事を物語ります。
    (氏家制度の中では特に珍しい事ではない。)
    この家紋から観て徳大寺氏と秀郷流青木氏とは親密な親族関係にあった事が判りますから、「四つ木瓜紋」か「五つ木瓜紋」の秀郷流青木氏と「たいら族」(京平氏・桓武平氏・伊勢平氏)の「美濃平氏」との血縁があった可能性がここでも極めて高い事に成ります。
    しかし、「美濃平氏」側はどの程度の支流分流分派であるかは判別できませんが、「阿多倍一族一門」「たいら族」の東側の最前線ともなれば分派では済まない筈です。
    一族の命運に関わる地域であり、清盛の弟教盛の末裔通盛に委ねた事から観て、恐らくは支流の範囲であろう事が判りますし、美濃源氏とのバランスの中で東側前線を護るには弟しかないでしょう。
    もしここが破られたら伊勢伊賀の本拠地が前線に成ってしまい、又伊勢神宮のお膝元で争い事の問題を起こす訳には行かない筈です。
    源氏、藤原氏、青木氏を巻き込んだ大事に繋がって行く筈です。越前からのライン上にあるこの美濃は護らなければならない一線であった筈です。戦略上要衝の地であります。
    だから、美濃がバランスを崩して美濃源氏が動いた時、すぐさま大軍(富士川の戦い等)を動かして騒ぎの源氏を大きな犠牲を犯してでも潰しにかかったのです。そして支流(教盛-通盛)を護る為にもそれを清盛の弟(教盛)の子供(通盛)にやらせたのです。
    (越前南-美濃・尾張西一帯の平氏は通常は「美濃平氏」と呼称される 地名も遺されている)

    そこで美濃の秀郷流青木氏が現在の愛知県清須市春日中沼地域に定住していた事にと成りますが、その理由はこの木瓜紋の家紋13を観てみると判ります。
    使用しているこの文様の地理性は越前(南)−美濃−尾張−伊勢東のライン上域に分布しています。
    これは室町守護大名の足利氏系斯波氏の勢力圏(11国)と重複します。
    つまり、鎌倉期末期ごろから斯波氏は足利氏の為に勢力拡大で各地に奔走します。
    1339年頃が斯波氏の勢力の絶頂期で尾張など2国が転がり込んで来ます。当然に急に守護兵が必要となります。その結果、実力、即戦力のある織田氏を取り立てて尾張守護代に据えたのですが、ところが斯波氏の領国運営の欠点は、一族は京に居て陸奥を始めとする11国に守護代を置いて任し放しにしたのです。この事が原因して最終それが実力が付き主家の云う事を聞かなくなり「下克上」が起こり滅亡したのです。
    斯波氏はつまりこの「守護代方式」の欠点に気がついた時にはもう遅かったのです。必死に奪回しようとしますが事は遅し、結局、一番可愛がっていた織田氏に逃げ込み最後は尾張の織田氏に面倒看て貰っていたのです。しかしその織田氏も1554年に謀反します。
    織田氏も守護代に成った事から当然に急激に拡大した為に兵を揃えなくてはなりません。
    越前(南)−美濃−尾張−伊勢東のライン上域に分布している「美濃平氏」の末裔(3集団)を早急に呼び集めなくてはなりません。
    本家、分家、支流、分派、縁者とそれぞれのその村の農兵等も含めて集めて尾張国を戦国時代から護らねばなりません。
    一国を護るには常備兵として50騎は最低必要と云われていて、戦い時はその戦いにもよりますが国に依っては100騎は必要とされていてこれは周囲から農兵を集めて来るのです。

    この様にして、「美濃平氏」の末裔は、越前−美濃−尾張−伊勢東域に「五つ木瓜紋類」が分布している事は斯波氏の動向に合わせて参戦しながら、仕官口を求めて同じく奔走して仕官口を得て来たことを示す事になります。その中の一つのグループが越前織田郷で(1の常昌)仕官が叶った事を意味します。
    その時が丁度1300+30年代となります。このグループが尾張の守護代になるまでに織田一族はこの経路を辿って来た事を示しています。
    その為に本家と分家と支庶流のこの3家紋類が分布したのです。現実に織田氏は大別すると3流、細分すると5流と成っています。
    そもそも「五つ木瓜紋」の類似紋の元と成る藤原秀郷流青木氏の場合はこの移動経路を辿っていないのです。
    秀郷一門は平安期の旧来からの勢力圏が鎌倉幕府や室町幕府に拠って一時は混乱しますが、多くほとんどは「本領安堵」されていたので、仕官口を探して参戦して奔走すると云う経緯を辿らなかったのです。
    依ってこの越前から伊勢東までのライン域での分布は「美濃平氏」の末裔等の織田氏3流等の行動分布に一致するのです。この木瓜紋の分布が織田氏の移動経路と成るのです。
    ( 参考 伊勢の秀郷一門伊藤氏もこの文様です。)
    つまり、そもそも藤原氏等の「融合氏」族の出世形態と、織田氏等の「姓氏族」等の出世形態が根本から異なっているのです。
    秀郷一門は鎌倉期には失職しますが、戦いに依って失職の憂き目を受けた訳では無く、依然として24地方の勢力は保全されていますし本領安堵されています。
    仮に失職したとしてもその土地に新たに守護・地頭として赴任して来た姓氏等の家臣に積極的に勧奨されて成ると云う云わば「勧奨固定型」で、ところが「姓氏」は「移動行動型」と云う事に成ります。当然に家紋も前者は「枝葉伝播」と成り、後者は「移動伝播」が主流と成るのです。

    ここで恐らく、確かに150年間の「伝統継承」で「五つ木瓜紋類」(藤原北家筋)である事は確かであるので、織田氏は上記1の藤原説と当初はしたものの上記の様にこの搾取偏纂には無理があるとして、今度は「美濃平氏」側の2の平氏本筋論を引き出して来たが、当時の社会の「家紋考証力」が低く始祖を特定出来ずにこれも1と同じく搾取偏纂をしてしまった事に成ります。
    要するに織田氏が主張する1と2の説は論理的に間違いは無いのですが、始祖とする人物特定に搾取偏纂をしてしまった事に成るのです。
    上記する様に美濃−尾張の木瓜紋類の秀郷流長沼氏-中沼氏系の秀郷流青木氏(青木氏116氏主要9氏の一つ)であり特定する事が出来るので間違い無い所です。
    一方、又、「美濃平氏」支流として、且つ始祖も上記する様に時代考証と家紋考証から通盛系の支流末裔である事も特定出来るのです。
    「長沼氏−中沼氏系青木氏」には他に片喰紋と剣片喰紋と沢瀉紋の秀郷流青木氏が定住して居ます。
    愛知県清須市春日中沼と愛知県名古屋市西区中沼町の地域に存在します。
    この両氏の人物特定はどの年代のところを以って始祖とするかの問題もありますが、1150−70年代の系譜人物で特定が可能と考えますが本論の目的が異なる為に個人情報となり敢えて指定しません。

      「類似7文様の存在」
    さて、次ぎの問題は「五つ木瓜」の文様の判別困難な「類似7文様」が何故存在するかです。一部上記しましたが、これを念の為に付加して説明して置く事で確実な考証は観えて来ます。(下記)

    B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)
    Bの説から、直接に「織田木瓜紋」との血縁族を持っている事に成りますが、問題は何時血縁したかその時期が問題です。
    ”a「織田木瓜紋」と成ってから長谷川氏と血縁時期なのか”
    ”b「織田木瓜紋」とした長谷川氏の家紋の呼称の時期は何時なのか”
    以上と成ります。
    平家の支流「美濃平氏」系(尾張)織田氏が「織田木瓜紋」とした後に血縁したとなれば室町期であり本論から除外となります。
    しかし、この家紋が「後呼称」の系譜とすれば、青木氏を長谷川氏に置き換えての経緯とすれば青木氏よりより高い可能性が出て来ます。ただ青木氏も「五つ木瓜」紋と血縁していますのでこの「五つ木瓜」紋が「織田木瓜」紋とするかしないか問題はありません。青木氏の可能性は美濃と云う地理性で1150−70代の仲介の史実でも確定していますし上記した事の様に男系継承跡目により家紋変異が起こりますので一致します。
    しかし、「たいら族」との関係では長谷川氏の「美濃」と云う地理的要素が青木氏に比べて可能性が低い事が揚げられます、その他は青木氏と同等です。依って長谷川氏の血縁性の必然性が無く成ります。
    そこで、念の為に「後呼称」の件を検証しますと、実は後世の「織田木瓜」又は「織田瓜」紋は「後呼称」なのです。これには特別な事情があります。

    「織田木瓜の後呼称」
    正式にはこの家紋は上記した様に総じて「5瓜に唐花線陵紋」が正しいのです。
    ところが、この「五瓜に唐花紋」には素人で判別困難な紋が7文様もあるのです。正直殆ど判別は出来ません。
    そこで、その「7つの家紋」(五つ木瓜紋)を使っている氏名をその家紋の前に付けて後で呼称するように成ったのです。
    その判別はその「線陵の太さ」と「背景の黒の多さ」に依ります。と云われても直ぐに見分けられない判らない範囲です。
    依って、徳大寺氏の家紋も「木瓜」紋とはせずに正式呼称は「四瓜に唐花線陵紋」と呼称します。
    そもそも上記した様に瓜や木瓜(ぼけ)を紋様化したものではないので、「唐花紋」が正しい呼称なのです。依って、長谷川氏に付いては「織田木瓜紋」は後呼称なので地理的要素だけの問題です。

    美濃には秀郷一門の戦略的な住み分けに依って長谷川氏が少なく、この辺域一帯は上記した様に兼光系3氏(青木氏、長沼氏、永嶋氏)主体ですので、文行系進藤氏と同様に長谷川氏は関東北陸東北域が主体と成ります。従って、長谷川氏との関係は美濃平氏(織田氏)の行動域から判断すると血縁の必然性は無く可能性が低い事に成ります。
    平安期「たいら族」の圏域は、当初は関東の常陸と下総域まででしたが、上記した事件より西の美濃域まで引き下がったのです。この地域に定住していた平氏を「美濃平氏」と呼ばれます。
    まあ、血縁ともなれば文行系の権域まで伸びる事は問題はないと考えられますが、”平安期末期30年の間にそれがあり得たのか。”と云う疑問が湧きますが先ずはその必然性が無いと考えます。
    ところが、ただ一つ大きい当時の可能性が認められるのは「京域での血縁」とすればこの30年の間には充分に考えられます。
    秀郷流文行系長谷川氏は北家族秀郷一門の主要5氏の一つですので一門は秀郷流青木氏と同様に「京」に赴任して詰めています。
    「圏域の安定や拡大」を目途として地理的に血縁するのではなく、「権力の安定」を図る目的で行った京域での血縁であると考えられるのです。
    経緯としては次ぎの様に成ります。
    京に居た長谷川氏が「美濃平氏」と養子縁組で血縁をした。しかし、嫡子が生まれず男系跡目が叶わず男系の養子先の家紋の「五つ木瓜紋」「美濃平氏(後の織田郷の土豪美濃平氏支流末裔の氏)」の長谷川氏が新たに発祥した。ところが「美濃平氏」が滅亡して飛散し越前-美濃山岳部に逃げ込み「物造りの技能職」で糧を凌いだが、時期を得て再び美濃−越前域ライン上の土豪となり勢力を盛り返して尾張守護代と成って家紋を上記した経緯で一部修正して類似変紋で「織田木瓜紋」を独自に作り上げた。織田氏の天下統一期に乗じて長谷川氏のこの末裔が「織田木瓜紋」に戻したと考えられます。だから13の家紋のある中で長谷川氏だけ「後呼称」に成っているのです。
    但し、この場合は「五つ木瓜紋」の「美濃平氏」が既に発祥していた事に成りますので、青木氏と同じく長谷川氏の中で「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」が発祥していた事に成りますが、長谷川氏の中に「四つ木瓜紋」は有りませんので、この仮説は地理的要素と合わせて無く成ります。
    結局は青木氏との血縁以外に必然性は無く成ります。

     「美濃での生き延びられた背景」(「美濃秀郷流青木氏の背景力」)
    ここで問題なのは、この「たいら族の一部の平氏」が紀州、四国、北九州の地域にに逃げ込まずに、”何故、美濃と云う主要衝の土地で残り無事に生き延びられたのか”が疑問です。
    何らかの「背景の力」が働いていなければ少なくとも鎌倉幕府からは逃れて「美濃」で生き延びる事は不可能です。

    だとすると、その「背景の力」は血縁した鎌倉幕府の家臣の中でも厳然として幕府に対する威圧勢力を保持していたのは藤原秀郷一門と言う事に成ります。ではこの地域にその勢力を持っていたのは紛れも無く長谷川氏では無く青木氏と云う事に成ります。矢張り地理性を見逃す事は不可能です。
    秀郷流青木氏であれば全く問題はありません。
    この美濃−尾張に勢力を張っていた秀郷流青木氏は、「系列9氏を持つ中の長沼氏」の血筋を引き継いでいる「秀郷流兼光系長沼氏系−中沼氏青木氏」と、更に東側域にその「支流中沢氏系青木氏」とが主流と成ります。
    この青木氏の縁者一族の保護が有ったからこそ「美濃平氏」の支流の「織田氏3集団」が1300年までの間150年間を戦略的に生き延びられたのです。
    他の逃亡域では3集団も終結していればいくら山間部に隠遁していても追及の手はめだっ事で免れぬ筈です。つまり背景力を意識して事が彼等の行動が幕府に対して大きくならなければ”この美濃に付いては戦略上鎌倉幕府は観て見ぬ振りをした”と成ります。幕府としても他の逃亡地域と違い藤原秀郷一門の「袋の鼠戦略」にはまる事は避けたいところです。
    つまり追求の手を緩めて「坂東八平氏」は藤原氏北家一門の目色を伺ったと成ります。まして秀郷一門の「第2の宗家」ですから指令一つで動きます。まして「116氏護衛軍団の武力専門集団」を相手にするのです。一豪族の武力と桁が違うのです。
    家紋から観れば「四つ木瓜紋-五つ木瓜紋の政治的背景とその戦略」(13家紋の威力)がちらついていた筈です。もしそれを鎌倉が犯して強行突破した場合何が起こるかです。それは当然に前記した「袋の鼠戦略」に引き込まれる可能性があったからです。他はこの「袋の鼠戦略」と「藤原秀郷一門の勢力圏」から外れていて鎌倉はつぶれる可能性は無かったのです。
    その意味でもこの秀郷一門の青木氏と長沼氏の血縁戦略は利いていたのです。美濃の源平籐と勢力バランスと共に後の鎌倉幕府に対しても、源氏は滅びて立ち上がれなくなりましたが美濃平氏の生き残りには大きく影響していたのです。その証拠があります。
    それは「伊勢北部伊賀地方」の「たいら族」の本拠地です。この地域の平氏は逃亡をしなかったのです。
    その理由は恐らく次ぎの事に成ります。
    一つはここは藤原秀郷一門の袋の鼠戦略の圏域末端のところです。
    二つは伊勢の「不入不倫の権」の国で朝廷を重視していた鎌倉幕府は手が出し難かった事。
    三つは賜姓青木氏の武力は無視できる範囲だがその「青木氏の経済力」と「伊勢シンジケートの影響力」が大きかった事。
    「参考 シンジケートの威力」
    (現に鎌倉幕府軍と楠正成の伊勢シンジケート作戦で対10万軍の勝利がある。この時に伊賀兼光は楠正成に合力している。「元弘の役」)
    (天正の乱の丸山城の戦いでは2つの伊勢青木氏が率いる伊勢シンジケート作戦でも織田軍に勝利する。)

    結局は、伊賀地方は伊賀和紙と伊賀忍者で知られ生き残り、美濃は殖産と織田氏で生き残った事で知られる事に成ります。
    そして、皮肉にもこの生き残った2つの「たいら族」は最後は「天正の乱」の戦いで相い戦うことに成るのです。この時、更に皮肉にも伊勢賜姓青木氏と伊勢秀郷流青木氏は共に伊賀を助けます。
    この段階で美濃と伊勢の秀郷流青木氏は最早一人歩きした制御の利かなくなった血縁族の「美濃平氏」の織田氏を見放したのです。
    しかし、行き着くところは”伊賀は負け生き残り、織田氏は勝ち滅びる”の宿命を負っていたことに成ります。(青木氏と戦った時の大将織田信雄だけは負けた為に信長から追放されて子孫を残す)

    この「2つのたいら族」は「2つの青木氏」と大いに関わりその資は「生きる糧」を「殖産物造り」に求めたからなのです。方や和紙であり、方や陶器・家具(家紋から判断 仕官するまで期間150年)であったのです。

    他の地域での「たいら族」掃討作戦は執拗に行われた事が歴史史実と逃げ込んでいる山間部から判りますが、伊勢ではこの3つが働き動かず、美濃では越前−美濃間では隠遁逃亡はしたが逃れられ上記する秀郷一門青木氏の「背景力」が作用していたと考えられるのです。

    先ず美濃平氏論が間違いはないと云う事と成りますと、後の信長が過去の恩義を忘れて秀郷流青木氏と繋がりを持つ皇族賜姓青木氏を「権威への挑戦」として倒しにかかった事に信長の序しきれない性格(共和性への信念)が垣間見えてきます。
    どうしても「3つの発祥源」の「権威の象徴」の「青木氏の存在」と「伊勢神宮の政治的権威」の存在は比叡山と同じく見逃す事が出来ない「挑戦」であった事に成ります。
    「4つの青木氏」の関係を持つ側からすると”「伊勢伊賀の戦い」で「たいら族の宗家」を縁浅からずの隣人として助けたのに、更には昔の宗家を攻めるとは恩知らずめ”となりますが、そこがこの世の諸行無常です。
    まぁこれが前記した「後漢の民」の阿多倍一族一門の「民族氏」の持つ遺伝子的な潜在的思考原理です。
    この家紋考証から「藤原秀郷一門とした経緯」と「美濃平氏とした経緯」の2つが観えて来ます。
    秀郷一門とする経緯は論理的にありえませんが、家紋とする「五つ木瓜紋」の「7つの文様」の経緯から観れば関わり具合は否定出来ません。しかし「秀郷一門とした経緯」は「第2の宗家」青木氏として室町期までも一族管理されていますので有り得ません。
    家紋から観て関わっている事は事実ですが要は「人物考証」と「時代考証」に矛盾が生まれるのです。また、織田氏系譜から観てその時期の人物を「某」として記し、その後の人物は一門の中に無くその人物の出自は「遺子」(系譜外の不明落子)と成っています。
    出来るとすると「美濃平氏とした経緯」の方が可能性があります。確かに「出自」には無理があり「人物」は間違えているが「時代考証」、「地理考証」には間違いはありません。
    「人物考証」は恣意的、作為的に違えたのでは無く、設定する際の「考証力」の不足から錯誤したものと考えられます。この部分を修正すれば矛盾は完全に払拭されますので、「美濃平氏とした経緯」は正しいことに成ります。藤原説から平氏説に変更した事には問題は無い事に成ります。
    要は「錯誤修正」で収まるのです。

     「類似7文様」
    そこで「五つ木瓜の7文様」の件ですが、この元は長谷川氏のところで書きましたが、四つ木瓜の徳大寺氏の支流紋として「五つ木瓜紋」が生まれたものなのです。これが「何らかの理由」(下記)にてその支流関係を表現する為に線陵の太さと黒の領域差で区別したものです。
    それが7つ産まれたことに成ります。その一つが上記の経緯から織田氏はこの支流紋「五つ木瓜紋」の線陵違いを付けて「織田木瓜紋」を案じた事に成ります。
    元の徳大寺氏の「四つ木瓜紋」から秀郷流青木氏支流の「五つ木瓜紋」は次ぎの家紋と成ります。
    1「五瓜に唐花」紋」(主紋)
    2「変わり五瓜に唐花紋」
    3「陰五瓜に唐花紋」
    4「中陰五瓜に唐花紋」
    5「石持ち地抜き五瓜唐花紋」
    6「丸に五瓜に唐花紋」
    7「織田木瓜紋(五瓜)」
    別枠「五瓜に桔梗文」

    1と2と7は判別困難でこれが更に変化している
    3と4は陰紋ですが2つは判別困難
    5は丸付き紋で判別が出来ますが1と2と7にも丸付き紋があり判別は困難
    別枠は気が付かなければ1と2と7と判別はやや困難

    結局、織田氏は室町期の初期に1に対して「美濃平氏」として藤原氏の家紋系列から離れて独自性を出す為に7の文様としたと観られます。
    しかし、この様に検証を深く進めると意外なところに「青木氏との関係」が出てくるものです。
    故に通説の検証には疑問が多くあるのです。
    この様に検証を多面的に進めると青木氏と関わった「信長の生き様」即ち「たいら族」がより鮮明に見えてきます。

    この徳大寺氏は下記の経歴から策謀家として有名な一族で、平家との権力保全の為に近づいて行動した史実が多く残っているのです。この事から可能性から観て地理的要件ではなく、京に於ける長谷川氏との血縁の可能性やあの手この手を使い策謀していた事がよく判る様に成ります。
    筆者は「秀郷流青木氏」(五つ木瓜紋)と「長谷川氏」との間での養子縁組の血縁が行われ「五つ木瓜紋」に成ったと観ていて、その「五つ木瓜紋」に成った長谷川氏が今度は「たいら族」(美濃平氏)との血縁をしたと観ているのです。徳大寺氏などを介してかなり政略的な血縁を早期に合作したと観ています。
    本来の家紋掟に拘らずに”長谷川氏に遠縁の養子の分家を「美濃」に作りそれを更に養子に出す”と云う事を実行したのです。当時には良くある政略結婚方式です。

    つまり藤原氏北家秀郷一門の兼光系と文行系から主要氏が代表して「たいら族」との血縁を図ったと観ていて、特に「たいら族」支流末裔の織田信長に関するルーツは文行系長谷川氏にも家紋考証通りにあったと観ています。
    青木氏に付いては検証通りで兼光系中でも長沼氏が猛烈に青木氏を補足していた事でもより明白に成ります。

    「参考特記 長谷川氏の仮説と検証」
    徳大寺氏の経歴を記録して置きますが、政治を自らの手で動かしている事が判ります。
    この人物と同族と云えど秀郷一門の「第2の宗家」として繋がり平氏とのバランス関係を美濃で保つには絶対不可欠な人物であった事が云えます。この事から既に先に起こる「源平の戦い」を予想していていてトップの政治家として藤原氏を介在させて何とか防ごうとしていたのです。
    ただ地元美濃の平家と血縁する事のみで争いの無いバランス関係を保持する事は無理で、その大元のところ「政治の場」との関係(清盛のたいら族との関係)を血縁保持してこそ成せる業であります。
    下記の経歴から明らかに為政者の徳大寺氏はこの「美濃の状況」に対して何かを合策した事は十分伺えます。関東下総から引き上げてきた時から美濃は乱れる争いが起こると見込んでいて何とかおさめる手立てを講じる様に考えて行動している事は読み取れます。又、為政者トップにいる者としてしなくては成らなかった筈です。それが既に青木氏と長沼氏といちぶ永嶋氏もは動いている中でより新たな関係を敷く為にも長谷川氏の血縁の策であったと観ているのです。
    つまり、藤原秀郷一門が美濃の周囲を固めている中で、長谷川氏とも血縁関係を作り関東東北関係にも押さえの網を張ったのではないでしょうか。それが、家紋掟による「五つ木瓜紋」では無く「織田木瓜紋」と明確に後呼称で血縁の深さを印象付けたのではないでしょうか。
    「後呼称の時期」
    そうすると問題は「後呼称の時期」が何時なのかです。
    「織田木瓜紋」を作り上げた時期は1300年の斯波氏仕官が叶った時期から織田氏が尾張守護代に成った1339年までの少なくとも40年間の間と成ります。それまで滅亡逃亡期より150年は家紋に関する必要性そのものが無かったのですから、又逃亡中に血縁する事は無い訳ですのでこの期間は外すとして、この40年間に果たして血縁する必要性があるかの問題ですが無い筈ですし京に於いて徳大寺氏の政略はない訳であり鎌倉幕府に成っているのでそのものは起こりません。
    そうすると、「滅亡前の平安末期」か「40年後の後呼称」と成ります。
    「滅亡前の平安末期」では「織田木瓜紋」が存在しない筈です
    下記の経歴から「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」の分家が発祥する程度が限界ですので「織田木瓜紋」は有り得ません。この段階では未だ美濃平氏(織田氏)の家紋は「五つ木瓜紋」の範囲です。。(織田姓は1300年まで未だ存在しない) 従って、「40年後の後呼称」と成ります。

    「美濃平氏」が再び行きを吹き返して斯波氏に仕官し家紋を必要と成り守護代に成った時期に類似紋として織田木瓜紋を作り上げた。これを観て、美濃平氏と血縁(養子)した長谷川氏の「五つ木瓜紋」の一族は天下を取りそうな勢いの血縁先の縁者の「美濃平氏の織田氏」に合わして一族である事を誇示する為に「織田木瓜紋」に修正したと見られます。そして、後日にその末裔が呼称を織田木瓜紋と呼称するようにしたと考えます。
    上記した様に徳大寺氏の政略に依って「五つ木瓜紋」の美濃平氏に跡目養子に入った長谷川氏の者が平氏滅亡を期に実家先を頼り長谷川氏に匿われ一時150年程度を長谷川氏として生き延びるが、「美濃平氏」の宗家が斯波氏に仕官し織田氏を名乗り息を吹き返した事から、「美濃平氏」の跡目養子の末裔一族は再び織田氏に合流したのです。つまり、守護代とも成れば縁戚関係を呼び集めて信頼できる縁戚家臣団をつくる必要性が出ますので、この時、縁戚の長谷川氏は旗下に入ったのではないかと考えます。各地から生き残った平家一族一門を呼び寄せたと考えられます。この中の一つが「美濃平氏織田氏族長谷川氏」の一団ではなかったかと考えられます。そして合わせて「織田木瓜紋」にして一族縁戚である事を誇示したのではないでしょうか。

    111氏もある膨大な長谷川氏の資料の中から次ぎのこの仮説を立ててこれと同じと観られる織田木瓜紋とする系譜が必ずある筈として忍耐強く調べた結果、これを発見する事が出来ました。
    (「調査」はより「現実性のある仮説」を立てる事が発見に結びつく秘訣なのです。)
    この仮説とする長谷川氏は尾張の尾藤氏族長谷川氏である事になります。この「流れ」は秀郷7代目左衛門尉公澄ルーツの末裔となります。この公澄の孫の知昌−知忠より10代目宗重の時に長谷川氏を別にこの宗重長谷川氏を発祥させたものです。
    この宗重の枝葉庶流(丹後)15代目宗茂にも別流長谷川氏を発祥させているのです。
    この様に長谷川氏は各枝葉のところから何らかの事由により長谷川氏を発祥させている一門の中では特長を持っているのです。
    その長谷川氏概流としては7つになるものと観られます。
    織田氏、或いは美濃に繋がる長谷川氏は下記の流れのみです。
    この流れの末裔守知よりの後は枝葉国であり、矢張り美濃の東隣の尾張(尾藤氏)からの宗重の長谷川氏を美濃に作り発祥させ、上記する「美濃平氏の政略跡目養子」を図ったと考えられます。

    実はこの流れに仮説を考証する現象が起こっているのです。
    この尾藤氏族長谷川氏系譜には「宗重」から「宗的」までの間の世系が本図から消えているのです。この間年代的に19−20代程度以内と成ります。"消える"というよりは"外す"が表現としては適切で、この尾張尾藤氏の系譜の本ルーツより外し、「宗重」の前の「宗継」で止め、別書で「宗重」を記しそこからこの流れを別に沿えているのです。
    この「世系中断」は秀郷一門361氏の中に比較的観られる現象です。恐らく一門はこの仮説の様な「政略血縁」の手法を多く用いていたと観られます。
    氏家制度の氏の武家での世襲の仕来りで「嫡子」外は「部屋住み」と成り、分家を興すか、養子に出るか、跡目養子に出るか、別家を興すか、部屋住みで終わるか、僧侶に成るか、武士を捨てるか等に迫られます。当然、藤原氏の場合は家柄が良い為に「政略的な血縁」と云う「道具」に使われる可能性が高い事に成ります。
    この「宗重」は次男「部屋住み」で美濃域(場所不明)で藤原秀郷一門の尾藤氏から長谷川氏を継承して興すと成っています。
    添書に特定年代が明記している「秀仁」(1312)より7代目前です。つまりこの間(175-196年間)とすると(1137-1116)年頃と成り、消えているのはこの10-20年前の頃に成りますので15として設定すると、1131−1151年頃から「世系中断」と成ります。
    この「美濃平氏の政略跡目養子」と成った仮説時期との時代考証が年代一致しますので「美濃平氏の政略跡目養子」の長谷川氏を興したのは「宗重」であると観られます。経緯が完全一致します。
    そして上記した徳大寺氏の政略の分家を作った初代は「宗重」で、養子本人は「宗重本人」かその子供の「宗有」が「美濃平氏の政略跡目養子」と成った事に成ります。筆者は「宗有」と観ています。
    平氏滅亡後、長谷川氏を頼って逃げこの「系譜の有様」の長谷川氏を遺す形式を採っている事からその長谷川氏は「宗重」のところであるのが自然です。あくまでもこの長谷川氏は美濃の「平氏」族なのですから本来は「平氏」を名乗るが順当ですが、現実、あくまで逃亡なのですから名乗れる事は有り得ません。「長谷川氏」としているのはこの地域では美濃の実家の「宗重」のところしかありません。尾張の尾藤氏と成っていません。
    (系譜は本家筋の尾藤氏の中にありますが 尾藤氏族長谷川氏系譜)
    依って、「宗有」と状況判断から自然に成り得ます。
    完全に時代・地理・経緯状況から系譜はこの仮説に一致します。

    又、この流れの長谷川氏の「添書」にある年代からも織田氏の斯波氏への仕官年代とも一致します。
    この「宗重」・・「宗的」の世系を本図から外している事は事実なのですが、しかしこの事の表示は系譜上には別書きし「添書」に"宗重―宗的まで世系から中絶し外す"と記されているのです。
    これは「美濃平氏の政略跡目養子」に成った事から来ていると考えます。
    もし「宗有」が養子であれば「宗重」の長谷川氏は「中絶」と成ります。
    故に添書の文と成ったと考えます。
    しかし平家滅亡により「宗有」か「有経」が再び藤原一門に帰って来た事で元の長谷川氏を継承した事に成ります。この時「宗重」が存続していたかは不明ですが、この間30−50年ですので「宗重」長谷川氏は生きていたことは充分に考えられます。当然に「宗有」も存命であった可能性があります。そして後、「美濃平氏」が仕官するまでの150年間は長谷川氏で生きた事に成ります。
    添書の如く「秀仁」が織田氏本家に1312年に今度は「美濃平氏」として仕官した事に成ります。

    平家滅亡からこの上記の「美濃平氏の政略跡目養子」の一族は本家尾藤氏-長谷川氏(駿河−尾張 下記移動経路)を頼って150年間生き延びたとしていますが、この間、尾藤氏族の長谷川氏の系譜の中にこの一族を「一つの流れ」として扱い追加され、その後の末裔は150年間も生活を共にして来た経緯から「美濃平氏族」として扱うのではなく「長谷川氏」として扱われたのだと考えられます。
    その時に形式上平氏である事からこの「宗重」・・「宗的」を一応は系譜から消してその系譜の位置に添書で遺したと考えます。
    つまり、この「宗重」から「宗的」までが「美濃平氏の政略跡目養子」の一族の系譜と言うことに成りますが、平家滅亡により長谷川氏に逃げ延びて難を逃れた。その後、「秀仁」−「宗仁」の信長仕官まで別系譜の形を保護した尾藤氏族長谷川氏側では採ったものと考えます。
    故にこの「美濃平氏の政略跡目養子」の「流れ」の末裔の「宗忠」が1340年頃(尾張の守護代)尾張織田氏本家に仕官しています。これも仮説と一致しますし、「宗仁」も信長に仕えています。
    系譜の添書にありませんが、「秀仁」(1312)も美濃平氏が斯波氏に仕官した時期に一致していますので織田氏を名乗った際に戻ったのではないでしょうか。それが以後「守知」も信長に仕えています。その後はこの末裔(秀真)は秀吉の家臣に成っています。

    「宗重長谷川氏系譜」
    秀郷−・7・−公澄−・?・−知昌−知忠−・10・−「宗重」−・?・−宗有−・6a・−秀仁(1312)−「宗忠」−満兼(1368)−・6b・−宗的−宗仁(1578)−守知−正尚−守俊・

    (・・)は添書に明記
    ・6a・有経−秀光−秀宗−宗昌−宗郷−秀久−
    ・6b・秀知−基昭−知経−宗茂−宗常−宗的−

    秀郷より19代目に当たる宗重なる者がこの流れの長谷川氏を名乗る。
    宗有は美濃平氏に跡目養子となる(1131-1151)
    秀仁は元弘の役後に越前の織田氏に仕える(1312)
    宗忠−満兼は尾張織田氏本家に最初に仕える。(1339-1368)
    宗仁−守知は尾張織田信長に最初に仕える。(1578)

    「長谷川氏の主家筋尾藤氏の移動経路」
    尾張−丹後−下総−駿河−大和−駿河−尾張
    尾張は最初と最後に、駿河が2度戻っている事が仮説として重要です。
    尾張で尾藤氏を興し、後に赴任により各国守を歴任し最後故郷に戻る。
    この間下記の枝葉の末裔国が広がっています。

    枝葉国(尾藤氏族長谷川氏を含む全長谷川氏の分布地域 17地域)
    丹後、美濃、下総、大和、岩代、越後、上野、常陸、羽後、武蔵、相模、駿河、尾張、越中、紀伊、肥前、越前、
    長谷川氏の主要氏 7氏-111氏

    この様に織田木瓜紋の家紋考証が同時に美濃平氏の時代考証をも証明するものと成ります。
    その意味でも特筆しましたが、ここで「青木氏の生き様」、「平氏の生き様」、この「二つの氏の関わり具合」、対比して「源氏の生き様の欠点」を描き、そこに存在する「生き残れた絶対的条件」を浮き彫りにしたいのです。
    それは前回まで論じてきた「物造り」「心の拠り所」「融合氏」の「3つの有様」が左右しているのですが、更に検証を進めます。

    参考 徳大寺氏の経歴(政略家を示す経歴具合)
    長治元年(1104年)従五位下。
    元永元年(1118年:娘璋子が鳥羽天皇の中宮)中宮権亮。
    天治元年(1124年:璋子院号宣下)待賢門院別当。
    保安3年(1122年)権中納言。
    同年に左兵衛督・右衛門督・検非違使別当。
    長承2年(1133年:長女・幸子(22歳)を藤原頼長14歳と結婚)、摂関家と関係を強めた。
    保延2年(1136年)正二位権大納言。
    永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位
    康治元年(1142年)の待賢門院の出家、閑院流は低迷期。閑院流は異母兄の三条実行。
    頼長と親交の実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席にする。
    久安6年(1150年)に内大臣。
    久寿2年(1155年:幸子が逝去 頼長から離れて美福門院に接近。
    皇太子・守仁(後の二条天皇)の東宮傅。
    保元元年(1156年)9月、左大臣。
    保元2年1157年正月、従一位。7月に出家して法名を真理。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。
    歌人、家人の西行と親交があった。

    「木瓜文様の全般的なルーツ傾向」
    実はこの文様を使うルーツには、この衣服や車や家財道具に入れる文様職人に多いのです。そのルーツを調べると綜紋を平家綜紋の「揚羽蝶紋」とする姓氏に多いのです。真偽は別として”昔は平家一門であった”とする氏が多い事に成ります。
    つまり、平家一族落人がその技能を活かして平家滅亡後、この技能職人として生き延びたと観られるのです。これは和紙などの殖産物の職人にも観られる傾向です。
    そもそも元を正せばその技能は阿多倍が後漢から率いてきた200万人の技能集団が持ち込んだものであり、その宗家の6或いは7代末裔の清盛はこの事を承知していて「たいら族」一族一統の配下の者にまでその伝承を指示していたと観ているのです。
    清盛が朝廷内の反対を押し切って「宋貿易」を行った背景には一族一門の配下に荘園時代からのこの昔からの技能集団を抱えていた事を示すものです。
    この事のその御蔭でその「技能伝承」が効を奏して滅亡を免れたのです。
    ここでも「青木氏」や「たいら族」と比較して、明らかに「11家の源氏の生き様」の拙さが如何に悪かった事が頷けます。清盛は極めて聡明な人物であってこの程度の気配りは出来ていたと考えているのです。
    上記した美濃平氏は生き延びられたのであり、全く同時期に生き残っていた3つもの源氏が滅亡してしまうのです。
    滅亡しても「美濃平氏」の様に生き延びた氏、滅亡しても「美濃源氏」の様に死に絶えた氏、これは偶然では無い大きな違いなのです。
    「美濃平氏」に比べて「美濃源氏」の方が周囲状況から観て殺されると云う事は無かったのですから生き残れる確率は高かったと考えられます。
    その差は清盛から絶やさず築かれていた「美濃平氏の技能集団」にあったのです。それは力説する「物造り」なのです。「自力、自立の精神」なのです。
    それは阿多倍が定住していた清盛の実家の「伊勢伊賀和紙」の青木氏と関った殖産がそれを物語ります。
    5家5流の賜姓青木氏の定住地は全て「5大古代和紙」の産地で、「伊賀の伊勢和紙」を含む「近江和紙」、「美濃和紙」、「信濃和紙」、「甲斐和紙」は夫々特徴ある紙質を持ち1千年の歴史を持つ古代和紙の殖産地です。現在でもこの紙に関る職業の人なら誰でもが知ることです。
    これを5家5流の賜姓青木氏に依って「2足の草鞋策」として引き継がれて来たのです。
    青木氏は「物造りと2足の草鞋策」が結びついた結果です。
    ”物を作って売り捌く”の経済理論が成り立っていたからなのです。
    全く同じ事が云える「たいら族」一門も滅亡から生き返ったのは、家紋から観ると矢張り「殖産(物造り)と交易」が氏の基本にあったのです。
    中でも織田氏と云うキーワードでそれが「現実の生き様」として証明できるのです。
    仕官後もこの「殖産(物造り)と交易」が無ければ「家臣の知行」だけでは天下統一まで成し遂げられなかった筈です。普通の見聞きする歴史からするとあまり知られていない事柄なのですが、もう一段歴史を掘り下げると、この「たいら族」配下一門の家紋から見るとこの「殖産(物造り)と交易」の努力があったからなのです。
    「信長の派手なドラマティクな行動にスポットライトが当たり過ぎて、この美濃平氏配下の「殖産(物造り)と交易」に当たっていませんが、別の面の「家紋考証」から観るとドラマティクな面が消えて現実の姿が観えて来るのです。
    (通説は兎角このドラマティクなストーリーが前提に成っている傾向が強いが現実はもっと泥臭いものです)
    「たいら族」には「自力・自立」の精神が一門の末端まで浸透していたのです。矢張り後漢の帰化人の所以です。源氏11家にはなかなか観られない「自力、自立」の精神なのです。
    其の証拠には、「義家の荘園拡大」を利用した様に「氏存続」を図ったとしても、この「自力・自立」精神が無くしては鎌倉−室町期には、結局は「坂東八平氏」に滅ぼされるまでもなく、「自然」に或いは「下克上」で滅亡していたのではないかと考えられます。
    そして「たいら族」の様に再び各地で末裔が草の根からよみがえる事も無かったのです。

    「自力、自立の精神」
    考えて観れば、室町期初期の「下克上」の乱世では「自力・自立の精神」無くしては「悠久の絆の青木氏」であったとしても、その結末は「下克上」が起こって無血縁の家臣や民に取って代わられていた事も有り得た筈です。
    しかし、「4つの青木氏」の中には「下克上」は起こらなかったのは、この「自力・自立の精神」が原因していたと考えているのです。「自力・自立の精神」(物造り殖産)は生き延びる事の糧、のみならず「下克上」も起さず、更にはより「絆結合」は強くして他氏には絶対に観られない何と「1千年の歴史」を刻む「4つの青木氏」の根幹を構築したのです。
    「下克上」は下が上を廃して「氏」または「姓」を維持しようとする事件です。
    「上」が長として確固たる「氏姓」を維持する能力があれば「下」はその「氏姓」の傘下で安寧に生き延びて行く事が出来ます。要は「戦国」と云う「姓氏乱立」と「潰し合い」の中での自分の「氏姓がどうなるのかと云う事に対する不安感」に基づいている訳です。
    従って、「氏長」が「氏姓」を「自力」で「自立」させられる資質を有している事がその「基本の要件」であり、「2足の草鞋策」はそれを叶えている事に成ります。
    故に賜姓青木氏には起こらなかったのであり、「伊勢青木氏 家訓10訓」の「長のあるべき戒め」をくどくどと詳細に解き求めているのです。
    その証拠に源氏では僅かに遺されていた最後の支流末孫と観られる村上源氏では「下克上」が起こって室町期に滅亡しています。それは室町期に成っても荘園に頼り「氏の長」としての「自立・自力の資質」が無く「下」が不安となり取って代わったのです。その弱点を信長が見抜いていてそこ突いて滅ぼしてしまいます。美濃平氏の末裔の織田信長はこの「自力、自立の精神」が阿多倍からの「先祖伝来の精神」として遺伝子的に継がれていて、信長に滅ぼされた氏姓にはそこを突かれたのだと考えます。最後に残った伊勢「村上源氏の北畠氏」はその典型的な氏であったのです。学問を主とする貴族型源氏であったのです。この様にこの「自力、自立の精神」の無い「上」の氏も「下」の姓氏も結局は乱世に飲み込まれて滅亡します。

    「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」
    「物造り」=「2足の草鞋策」 「心の拠り所」=「神明社」 「融合氏」=「祖先神」

    この様に「下克上」が起こった社会の中では、平安期では「源氏の実力」と見せていた「未勘氏」が蟻の子散らす様に源氏から離れて行き、遂には「荘園の未勘氏族の反動」が起こり争いで雌雄を決する以外には無く成っていたと考えられます。
    義家一門の力は権威に包まれた「名義上の力」であり、現に「たいら族」を破った義経の2万の軍でさえ「頼朝との争い」で御旗を失えば「くもの巣」を散らす様に2000を遺して飛散してしまっているのです。
    1198年には源氏11家もあった同族の源氏は「氏の運営」の悪さで全て滅亡しています。1氏も蘇る事も無く完全滅亡です。
    支流と見られた僅かな掃討作戦で逃れられた支流傍系末裔も上記する「下克上」で滅亡して「氏」は当然「姓」も滅亡してしまったのです。
    残るのは前回までに論じた「荘園制」での血縁性の無い「未勘氏」と血縁性の薄い「傍系氏」です。
    現在、ドラマ等で通説と成っている「源氏」と呼ばれている足利氏や新田氏や武田氏や多田氏や太田氏等はこの「未勘氏」か「傍系氏」であり、室町期の混乱期に名乗った氏で少なくとも家紋が異なり宗派や系譜にも疑問があり正式な源氏ではないのです。足利氏や武田氏は間違いなく傍系です。
    上記した様に織田氏等の「たいら族」の例に観る様には源氏に「生残れる術}=「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」は無かったのです。
    少なくとも平安期の氏家制度の中では「総宗本家」から認められる必要があるのですが、上記の氏源氏と目される一族にはこれが現実にはありません。つまり、家紋の異なる勝手かわずかな縁で名乗った氏なのです。徳川氏等はその最たるもので見え見えで甚だしいのです。

    因みに徳川幕府開府の際に朝廷から認められなかった明確な経緯があるのです。
    朝廷は経済的圧力に屈し取り敢えずは「征夷大将軍」の呼称は渋々認めはしたものの義家から名乗る事に成った「武家の棟梁・頭領」は認めませんでした。結局、「武家の長者」で妥協したのです。
    又源氏を名乗っていますが、足利氏も同様の事が起こり認めはしたものの正式には、そのルーツには2流あって本流の宗家は陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁した血縁族で、その後、信濃足利の土豪となり土豪足利氏を名乗り勢力拡大したのですが、この「陸奥花房氏の姓氏」の足利氏が云う事を聞かない為を理由に藤原秀郷一門がこの宗家を難癖をつけて廃嫡して、断絶した分家筋を持ち出し其処に秀郷一門より跡目を入れて立てたのが後の足利氏で藤原氏の秀郷血筋を受けた所に後に源氏頼光系の跡目を入れ足利氏の元を作り出したのです。直系源氏子孫では仕来り外の氏と成り宗家認証は無く当然に家紋も異なる事に成ります。(元の花房氏系足利氏は米子、八頭に逃げて定住します。)


    青木氏と守護神(神明社)−9に続く。


      [No.274] Re:青木氏と守護神(神明社)−7
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/22(Sun) 08:05:45  

    青木氏と守護神(神明社)−7

      「皇族賜姓族の生活圏範囲」
    勿論、皇族賜姓青木氏5家5流一族はその皇族と云う立場(3つの発祥源)からこの「未勘氏」を発祥させて勢力拡大を図ろうとする行動が制約されていたのです。且つ、従って行動そのものが限定した伊勢と云う領域の範囲に留め、限定した「氏と民」を指定し、同族の賜姓源氏の様な権威を背景とした広域的な勢力拡大(荘園制の集団化)を図らなかったのです。
    勢力圏域は5家5流とその一族が定住する「生活圏の範囲」に留めたのです。
    藤原秀郷流青木氏も24地方域に限定し「未勘氏拡大」や「荘園制の集団化」の策は「母方族 有品の位:第4位」としても藤原秀郷一族一門の中に於いてもその行動の範囲を厳格に守ったのです。
    そもそも荘園に属する未勘氏の多くは、旧来の「姓名」を持ちながらも「名義料」とその「労役の責任」を果たした上でその代償として名義主の「氏名」を名乗ったのです。そして、その主な義務と労役は「兵の提供」と「兵糧の提供」と戦いとなると「合力」する事でした。

    「4つの青木氏」は「国」よりも「郡と村」と云う小域に限定した事が、その「生活圏」で結束する「絆」を強めたのです。小さいながらもそれに見合った戦略を採用して結束して戦った事によります。
    それと、この「生活」と云う「絆」を強めるために採った経済策「2足の草鞋策」(物造り)を古くから採っていた事が共に生き延びられた原因なのです。
    更に云えば、「賜姓族青木氏」にとっては母方で繋がる「血縁性の結合」である「秀郷流青木氏」の存在が色濃くあったでしょう。
    その「秀郷流青木氏」には藤原氏の「第2の宗家」と云う確固たる立場があり、彼等の強大な護衛軍を擁していた事が賜姓青木氏に採っては大きな願っても無い「抑止力」となり「安全」を保障されていたからであります。
    そして、「賜姓青木氏」が「不入不倫の権」で護られていたとは云えど、「賜姓青木氏」が存在する地理的範囲の周囲には必ず「藤原秀郷流青木氏」が定住赴任していると云う環境も見逃すことが出来ないのです。
    恐らくは国策の「融合氏」「3つの発祥源」の元を潰す事は出来ないとした「天皇家の採った戦略」であったと観られます。
    平安期に「賜姓青木氏」に与えられた「不入不倫の権」とは別に、安全保障の意味からも「秀郷流青木氏の抑止力」を明らかに大策として採ったものと考えられます。
    「嵯峨期の詔勅」に依って皇族関係者は青木氏を名乗るとして民に「使用の禁令」を発したのですが、藤原氏北家の秀郷第3子の千国にはこれを特別に許し、「母方族」として「特別に賜姓」して「青木氏」を名乗ることを許し、更にはその”「官職」と「有品の位」は皇族賜姓青木氏と同じとする”と定めました。
    これは明らかに「単純な許可」では無く、「単純」であれば何も官職と有品を賜姓族と同じとする必要性はありませんし、賜姓する必要も無い筈です。青木氏を名乗る事のみ許す事でも充分です。
    「賜姓青木氏」と同じ様に「家柄と身分と役職と官職」を藤原氏北家自身が求めていないのに全く同じにした事は「藤原秀郷一門の勢力」を「賜姓青木氏」に「抑止力」として着けて護る目的であったのは明らかです。
    つまり、同じ青木氏を名乗らせ同じ仕事をさせる事によって”同族だ”と思わせてその威力を見せ付けて融合氏の発祥源賜姓族に手を出させない事を目論んだのです。
    又、天皇家にとっても「親衛隊の威力」を示威する狙いがあります。
    この時期は960年頃ですので「荘園の行き過ぎ」に依って起こっていた諸問題が佳境に入った時期でもあります。
    後60年至もすれば阿多倍族の九州自治の問題、外国からの難民流入、賎民問題、陸奥安部氏等の動向、各地での動乱、天皇の身辺もそろそろ危なくなってきた時期でもあり、「融合氏」の5家5流の賜姓族の安全保護を図るべき環境でもあったのです。
    兎に角にも、朝廷内外に問題を多く抱えながら摂関政治の最盛期でもあり、その中でも「平将門の乱」を鎮めた唯一信頼できる当時の大勢力と成った藤原氏北家筋で周囲(賜姓族)を固める必要もあったのです。 
    「不入不倫の権」
    しかし、これも充分に「抑止力」として発揮したのは平安期の事であり、「武家政治」「武家社会」を中心とする鎌倉期から室町期にかけては周囲が皆武家であり力を持った為にそうも行かなくなりました。
    本来であれば、最も「3つの発祥源」の「融合氏」としての充分な「氏拡大」を図るには、「皇族」と云う立場から考えてその「行動範囲」は極めて制約されていた筈で難しく、むしろ同じ「武家の社会」の中でこの立場(3つの発祥源」)に頼っていた場合は滅びるのは速かったと考えられます。
    それだけに「融合氏」やそれに連なる「姓氏」の急激な台頭が起こったと云う事でもあり、「融合氏」が増えたら増えたでその環境は別の意味で難しく成って行ったのです。
    そうすれば当然に、それまでに無かった「武家の目」が起こり、鎌倉−室町期には賜姓青木氏一門に向けられる目は、藤原秀郷流青木氏の「後ろ盾」がある事そのものが、他の豪族たちには「畏敬の念」と云うか「専横の目」と云うか”ちらついていた”ものであったと観られのです。
    しかし、「武」を以って成り立つ「武家」である以上、例え青木氏に「不入不倫の権」があるとしても潰そうとすれば潰せたと考えられます。それはあくまでも「公家社会の掟」としては成り立つ「物言い」であり、何の「武」による罰則の様な拘束力も有りません。武家にとっては"片腹痛い"と成ります。
    但し、その場合、ある意味で「朝敵の汚名」は覚悟する必要がありますが、それは汚名の範囲であり周囲の武家が乱世にてこの範囲を超えていればその汚名も関係は無く成ります。
    現に室町期の「下克上」と「戦国時代」には殆どの武家は信長の様に「空虚な権威」として何の躊躇もしなかったのです。
    信長だけではなく殆どの豪族は「不入不倫の権」は余り念頭に無かった筈で、言われれば”あっそうか”程度のものであったろうと考えられます。
    まして、鎌倉期以降は社会は前記した様に「融合氏」の数では無く「姓氏」の数が主体であり、歴史と伝統のある「融合氏」ではいざ知らず、賜姓族の「不入不倫の権」は左程の「拘束力」は無かったと考えられます。
    まして室町期の「下克上」の乱世の中では、5家5流の賜姓族に与えられた永代の「不入不倫の権」を気にしていては「下克上」は論理的に起こらない筈で、「下克上」とは「上の権威」の理屈が通らなくなった社会なのですから、「絵に描いた餅」程度のものとしてしか扱われなかったと考えられます。
    其れだけに平安期は兎も角も「朝廷又はむしろ天皇の力」には、鎌倉以降は青木氏を支える力が無く衰退して行ったのですが、この様な社会の中では「3つの発祥源」の青木氏に執って生き残るには秀郷流青木氏一門の「抑止力による武力」と、「自力・自立の経済力」以外には無く、その意味で「2足の草鞋策」の判断が大きく効を奏したと云えます。

    「秀郷流青木氏一門の抑止力による武力」+「2足の草鞋策の自力・自力の経済力」+「影の力のシンジケート」
    これら「3つの策」は互いに連携した関係を保持し「相乗効果」を生み出していたのです。

    「平家の様な生き方」
    平清盛も「宗貿易」を試みたのも阿多倍一族一門の「民族氏」の宗家「たいら族存続」を「栄枯盛衰」のたとえの通り強く意識していたのではないかと考えられるのです。
    恐らくは「伊勢の隣人」であり「古代伊賀和紙」の殖産で伊勢青木氏と繋がっていた事を考えると、伊勢青木氏が特に「2つの陰の力」と表に見える「自力・自立」で生き延びようとする姿勢を見て「武家・武門」でありながら「武」では無くむしろ「商家」に行き先を強く求めていたのではないだろうか。
    その証拠に平家滅亡後、実は各地に飛散し土地を無くした平家族は各地の阿多倍一族一門を頼る事なくその飛散地で「殖産」と「家具・陶磁器等の生産」に大きく関って生き延びているのです。それは家紋から判るのです。
    ”平家がどの様な生き方をしたのか”を検証する事で融合氏の「4つの青木氏」と同じく生き延びられた原因の本質が観えて来ると思えるのです。
    後漢の阿多倍王の6(7)代目末裔平清盛が確実に子孫の為に採った生き残り策「殖産と商い」が滅亡後に生かされていたのかを「織田氏」を通じて検証してみたいと考えます。
    同じ激動の時代を生きた青木氏と共通する何かが其処にある筈です。
    それがこの時代に必要とした「共通する生き残れた条件」であって真実が見えて来る筈です。

    「共通する生き残れた条件」
    ここからは少し「たいら族」の生き様を論じたいと考えます。
    そもそも「たいら族」は滅亡後、資料と家紋考証から紀州、四国、北九州、岐阜愛知等の山間部に逃げ延び、その地にはこの「殖産と家具・陶磁器等」の名産地が多く遺されていて、その職人家のルーツを家紋と資料で調べると「平家落人」が大変多いのです。
    逆に言えば大勢での落人先はこの4地域に成っていて「殖産と家具・陶磁器等」で生き延び逃げ延び通したのです。
    例えば、そこでその一つの氏に注目をしたいのです。
    この「織田氏」は筆者は「美濃平氏」として観ていますが、「平氏遺族だ」と名乗っている「織田氏」としてその主張している「家紋」(五つ木瓜紋 揚羽蝶紋)を正しいとして検証すると、次ぎの様に成るだろうと考えます。
    しかし、「織田氏」には諸説紛々であるので、ここでは先ず「織田氏系譜」の以前のルーツとして「たいら族」として家紋考証で検証します。
    その「たいら族の生き様」に青木氏に共通する何かがあると観ているのです。更に、驚くべきか何とこの織田氏が青木氏と深い関わりを持っていたのです。
    その意味でもこの織田氏を徹底的に検証してみたいと考えます。

    誤解のないようにする為に先に言っておく必要があるのは、諸説をまとめると彼等織田氏の主張は「搾取偏纂」の典型であると云う事です。ところが家紋考証と時代考証ではただ1つの矛盾の無い筋が観えて来るのです。
    織田氏の主張
    それは次ぎの3つの氏に成ります。
    1 先ず最初に尾張で土豪守護代として勢力を高めた時期に名乗った氏は「藤原氏」
    2 次ぎに頂点に躍り出た時期に訂正したのは「たいら族」(桓武平氏)
    3 現在の各種の調査資料から判明したのは「斯波氏の家臣」

    1と2は完全な搾取偏算の典型的な「搾取偏纂の方式」(「貼付方式」「継足方式」「遺子方式」「某方式」「混迷方式」など)を駆使して系譜の中に使用して作り上げているのです。
    下記にも証明しますがこの説を少し歴史を勉強したものであれば信じる者は居ないでしょう。

    3が正しいところですが、家柄の出世状況をよく見せる為に、後に室町期の系譜には「遺子方式」と「某方式」で搾取偏纂して付け足していて系譜は信用できないのですが、「斯波氏の家臣」であったことだけは最近発見された史実で「下克上」にて伸し上った姓氏である事が判明確定しました。

    ところが、これら123の系譜に書かれていない「平安期と鎌倉期末期のルーツ」はすべて不明と成っているのです。
    家紋考証から織田氏の行動の節目の年代が観えて来るのです。

    例えば”斯波氏の家臣で守護代に成った(1339)”と云う事が正式に解明されたところから色々なことが判明して来ます。この時期は「1339年」と先ず特定出来るのですが、これ等の節目の時期を確定して時代を遡れば平安期と鎌倉末期の事が判明する筈です。
    恐らくは平家滅亡の1185年−最終決戦の1190年以降、室町期初期の系譜にあるところまでは少なくとも職人であったと考えられます。(下記)
    家紋の考証から割り出しますと共通するキーワードは下記の様に成ります。
    織田氏は「五つ木瓜紋」である事は間違いない唯一のところです。

    それは現在から考証してこの「五つ木瓜文様」の氏のルーツの傾向が「職人あるいは殖産農業」の従事者の傾向を持っています。又、この木瓜紋の95文様の中の一つの氏には「農兵」であった事も資料と家紋から判っていますので、「五つ木瓜文様」には先ず農兵でもあった事が判ります。
    という事はこの家紋の「五つ木瓜文様」は元は武士の可能性が大であった事が云えます。
    平安期後、直ぐに足利氏系斯波氏家臣であれば寺の過去帳等のルーツに関するに類するものが存在する筈ですが現在見付かっていないので、直ぐに家臣ではなかった事は確実です。
    足利氏の斯波氏が未だ然程大きい豪族では無かったのですから、斯波氏が鎌倉時代を通して次第に力を着けて居た事は事実ですが、北条氏の圧力から未だ自由に家臣を求められる状況では有りませんでした。
    この事から家臣になった時期の算定が斯波氏の経歴を調べると出て来ます。
    それは(「1280-1300年の間」)下記に考証考証します。
    この様な家紋考証・考察を進めて行きますと、元のルーツのところの色々な出自等を探り出せます。
    そこで、ただ一つ信頼に値する可能性のある「家紋の考証」から「たいら族」として検証を進めますと、そうすると上記した123の主張と基本が一致する経緯が観えて来ます。

      「家紋からの考証」
    先ず、美濃-信濃域の山間部に落延びたグループであるとして(下記証明)、このグループで云えばこの生業にて生き延びたのは「たいら族支流」(下記 美濃平氏 通盛系)ですが、その家紋の「五つ木瓜(織田木瓜)紋」の五瓜がこれを物語るのです。
    つまり、判っている史実の越前国織田郷の土豪(織田姓氏家 下記証明)をどの様に観るかに依って歴史評価は異なってくるのですが、上記の1、2は次ぎの「家紋考証」からそれなりの理屈は成り立つのです。
    ただそれには根拠とするものには「五つ木瓜」の文様しか無いと云う事に成ります。
    結局は問題は室町期のこの文様(「家紋」)の証拠力に関わりますが、かなりの事が判ります。

    その主張している家紋は変えようと思えば変えられますが、変えるには全ての縁者や親族の家紋を変えると云う面倒な事が起こりますし、織田姓氏家一党の不明期の鎌倉期の段階では「五つ木瓜紋」の文様(家紋)としては無かったか有ったとしても「口伝状況」程度の筈です。
    つまり、滅亡し衰退し隠遁生活の一族一党が生活の糧として「職人あるいは殖産農業」(家紋考証)に携わっている状況の中では、家紋とすべき文様的なものは、最早、「伝統的遺産」に過ぎず、丁度、仕官まで150年の経過期間(下記)を経ていますので、織田本家が「口伝」として遺してきたものに過ぎなくなっている筈です。
    そこで、力を取り戻し土豪と成り表に出られる時期は、鎌倉幕府の勢力が低下し、平家一門(下記証明)としても最早、「討伐対象」とは成らなくなった時期は、室町初期の「下克上」のチャンス到来期(1280-1300)と成ります。この時初めて「家紋」と云う「伝統遺産」を表に出せる事に成ります。(下記証明)
    では、その表に出られる経緯ですが、平家一門の様な場合は、通常は「職人あるいは殖産農業」に関わっていた場合は次ぎのように成ります。
    先ず、「下克上」や戦国時代にはその土地の守護、この場合は尾張の斯波氏(室町期の11国の守護大名・足利氏系 各地に守護代を置く その一つが尾張)と成りますが、家臣は出陣と成りますと、一騎に対して普通は50人程度の兵を宛がわれその騎将は近隣の村から兵農の村民を徴収して来ます。この時、一人または一族一統の単位で「前金何両・・後金何両・・首何両・・手弁当・・」等を契約して揃えます。この事を専門にする斡旋業もいました。
    その時、参戦して著しい戦功を挙げた一族一党の農兵には騎馬将や領主守護の信頼を得ます。この事繰り返す事で仕官という道が開かれて来ます。一族一党統等で参加した農兵はその首領が仕官しその首領の下に兵として一族の若者が孫仕官するという形が出来ます。
    「美濃平氏」(下記)とも成れば元は武士で戦い慣れたものですから領主側からすれば願ってもない領民であり、守護領主が大きくなれば当然にこの様な優れた一族一党統は召抱えるが常道です。
    これが織田郷の「隠遁美濃平氏」(下記証明)であったのであり、通常の農兵もこの一族の配下に仕官して兵の形態が生まれて行くのですが、一族を揃えての実力がありますから直ぐに伸し上がります。
    これが尾張守護斯波氏の守護代(織田氏:ある史実の経緯がある)と成ったのがこの織田郷に辿りつきそこで土豪の織田姓氏を名乗った事を意味します。(下記)
    その織田氏は次ぎの経緯を持っています。

     「織田氏の経歴の考証」
    この「五つ木瓜紋」を家紋としている氏から観ると次ぎのような事が判ります。
    先ず、織田氏が守護代になった時期は1339年です。
    この事から鎌倉幕府が滅亡する直前の1290−1300年頃に斯波氏に仕官したと見られます。
    この時1300年前半に、丁度、越前朝倉氏や今川氏や浅井氏などが斯波氏の守護代に成っています。織田氏はこの間仕官40年で他の守護代と違い度々斯波氏に従って出陣した史実の記録を持っています。この事から斯波氏は織田氏を信頼し可愛がっています。
    1339年頃に尾張は「応永の乱」で幸運にも斯波氏は一度に2国(尾張と駿府)が手に入り斯波氏の領地と成り、この時に可愛がっていた織田氏は一挙に守護代に据えられます。
    ところが斯波氏の中で「応仁の乱」を境に1467年頃から下克上が起こります。
    駿府で今川氏、越前で朝倉氏が謀反します。しかし織田氏は謀反に加担をしません。
    斯波氏の守護代の中では下克上を起こさず最も長く255年間も斯波氏を支えます。
    しかしその織田氏は1554年を境に下克上を起こします。
    斯波氏は領国11国を失い1561年滅亡します。
    逆に斯波氏を背景にして織田信長の時に勢力拡大します。
    経緯
    1185−90年に最終的に三浦半島で平氏滅亡し、離散隠遁後120(150)年程度で斯波氏に仕官し織田氏名乗る。
    織田氏の姓氏は越前織田郷より名乗ります。
    朝倉氏が1300年頃に守護代になるが織田氏は未だ下級家臣です。
    40年間の間に織田氏は記録から戦積を挙げるべく出陣回数が最も多く斯波氏に可愛がられる。
    斯波氏は尾張等の2国領地となり急激に勢力拡大(11国になる)を図り家臣が追い付かない。
    織田氏を1339年に尾張の守護代に大抜擢する。
    鎌倉幕府滅亡し南北朝で国乱れる。1400年頃まで織田氏は斯波氏の中で出陣重なる記録あり。
    室町幕府で一族の足利氏系の斯波氏は政治の中心として勢力拡大。 織田氏は力を付ける。
    1467年前後から11国の守護代は次々と下克上で謀反 斯波氏は織田氏を使って奪回作戦失敗
    斯波氏衰退し1550年頃から1561年まで織田氏は斯波氏を匿う。
    織田氏250年以上斯波氏に最も長く仕えた家臣です。ところが戦国大名と成った元家臣と5年間密かに同盟。織田氏1554年斯波氏を名目上追放し尾張の戦国大名と成る。
    1561年斯波氏の残所領は織田氏に流れ、斯波氏系の他の戦国大名を凌ぐ。
    織田氏は同盟と斯波氏保護を前面に勢力を温存。1561年に2つの同盟を解消し旧斯波氏の家臣の戦国大名の朝倉氏や今川氏を全て潰します。

    「120年程度の放浪生活」と「270年程度の家臣の歴史」を持ち、ほぼ「平家滅亡から400年の経緯」を有したことに成ります。

    これらの予備知識を背景にして、家紋考証に話を戻して、この時、当然に、守護代とも成れば家紋を必要とされますので、「伝統遺産」として持っていた家紋を引き出して口伝・由来書を持出しある種の手を加えて類似する家紋を作り上げたのです。

    この家紋の作り上げる経緯が次ぎの事から起こります。
    「120年程度の放浪生活」の中で「家系不明の部分」に上記の1と2の経緯の宛がえが起こったのです。

    そこで更に少し織田家に拘ってみます。意外にこの1と2の関りが出て来るのです。
    そこで、織田氏の通説を述べて置きますと、次ぎの様に成ります。
    "1300年前の1と2は全くの搾取偏纂 1300年の後は越前織田郷の土豪が斯波氏の尾張守護代に(1339)" の通説と成っているのです。
    この事から割り出すと、斯波氏の家臣(1300)になるまでの経緯として観て見ると1185年の平氏滅亡離散から凡そ120年の間は不明に成っているのです。
    この120年間は家紋考証から観て「殖産-職業人」で糧とし生きて、滅亡より100年位経った鎌倉幕府が衰退始めた頃から一族は農兵をしながら各地に仕官口を探しながら生き延びたと判断出来るのです。
    この120年前の滅亡前は次ぎのルーツを持つ氏であったとしているのです。

    「通説 滅亡前の織田氏系譜の主張」
    1の藤原説は越前越後の藤原利仁−昌仁
    2の平氏説は平重盛−資盛−親実
    だと云っているのです。

    1の藤原説
    鎌倉期から室町期までは藤原氏は一時失職離散があったが本領安堵でその後勢力を「関東屋形」や「武蔵7党」等で勢力を持ち直しているのです。
    まして、織田氏が云う120年間も一族一門が不明に成ると云う事は氏家制度の中で藤原秀郷一門は古来より融合氏であり藤原氏の独自の菩提寺や春日大社等の氏神で一族一門は詳細に管理されているので不明は全くおかしいし、足利氏(斯波氏)とは陸奥と信濃で秀郷一門は血縁関係にあり家臣になる事もおかしいのです。藤原氏系の足利氏に藤原氏が仕官は矛盾ですし、藤原氏北家であれば仕官の主家側にありますし、利仁流は秀郷流と並んで北家の2代勢力を室町末期まで維持したのです。
    第一に利仁流にはこの様な人物は存在しないのです。
    又、更に織田氏の時代考証がこの人物では120年位大きくずれています。
    更に、越前(権守)に関わった人物は「利仁」の子供や末裔の中での長男の「大束」だけです。
    利仁の9人の子供や孫・祖父等にはこの様な人物は存在しないので全くの搾取偏纂です。
    要するに酷い主張の論外説です。
    この程度の主張でもこの室町期はこれで通ったのです。周囲が皆立身出世の搾取偏纂の主張なのですから”赤信号皆で通れば怖くない”です。織田氏には限らないのですがこれで十分に済んだのです。
    この時代の客観的立場から書かれたまともな資料には”後勘に問う”と最後に記述されています。
    藤原氏北家筋としたのは「下記の経緯」から織田氏の当時の「考証力の不足」から間違いを起こしたと観られます。間違いではなく分からなかったが正しいと考えます。
    そもそも木瓜紋は藤原北家筋の徳大寺氏の文様です。(下記)

    2の平氏説は確かにこの人物は存在します。
    しかし、親実はも資盛の子説と経盛の子説の2通り併記しているが先祖とするに自信がなく迷った形跡が観えます。これに関わる過去帳や菩提寺、氏歴の産土神か氏神または鎮守神の神社に存在するこのルーツに繋がる根拠は全く存在しないのです。
    ただ、上記した「織田氏の経歴の考証と経緯」から藤原氏では全くない事と、この様な上記した「経歴と経緯」を持つ事は「平氏の末裔」以外にあり得ません。
    そもそも急に斯波氏の守護代までに成れる実力は平安期に於いて組織的な実力の平家以外にはありません。
    ただ藤原説としてあり得ない事が発覚し、口伝の経歴や経緯から平氏説が高いとしたがその特定の人物設定に考証力不足から搾取偏纂をしたのでしょう。
    そこで、恐らくは「家紋考証」と「織田氏の経歴の考証と経緯」から”藤原氏では矛盾が大きい為にどうも平氏である”と観て訂正したと観られます。

    「平親実」とは、「斎部親実」であり、斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされます。
    この人物は貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚性と号した。平姓は跡付けです。
    この越前織田郷の「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)を捉えて、この「覚性」を平資盛のこの「平覚盛」と重ねて同一人物として「平親実」として搾取偏纂したものである事は後に判明しているのです。
    故に、「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)は織田氏の祖である事に疑問があるのです。
    「覚性」(かくせい)と「「覚盛」(かくもり)の音読みを使って同一人物と見せたのです。

    実は、これには大きな史実が遺されているのです。
    それは「美濃平氏」なのです。
    この美濃には「美濃源氏」と、それに「美濃平氏」が居て元より混在地域でした。小競り合いがありながらもある程度安定した地域でバランスが取れていたのです。「たいら族」の本拠地の伊勢平氏と賜姓伊勢青木氏と同じ様に相反する立場にありながらも隣人付き合いをしてバランスを採っていた様に、美濃も歴史上有名な源平混在の安定地域でした。
    そこに前記した常陸、上総、下総から追い出された国香・貞盛の末裔の「たいら族」(関東平氏)が1100年頃に美濃まで引き下がりここに定住したのです。
    ところがこの事により「美濃平氏」(現地では「美濃平家」と呼称)とが混在していた美濃地域が勢力バランスが崩れ争いが起こり始めました。
    以後、この「美濃源氏(土岐氏系)」と「美濃平氏」(通盛系)は常に勢力争いが絶えない有名な地域となりました。
    そこで遂に「美濃平氏」と「美濃源氏」には、次の様な有名な争いの経緯が起こります。
    「美濃源氏」は「尾張源氏」に加勢を頼み組んで「美濃平氏」を追い出しに掛かります。
    有名な1180年10月「富士川の戦い」に於いて平氏は敗北して一度帰京します。
    その直後の11月に「源頼朝、源信義追討の宣旨」が改めて出され、再度の源氏追討使派遣が検討され、その際、「平時忠」が「美濃源氏」を味方につける策で安定化の和睦策を進言しますがこれは容れられなかったのです。するとこれに11月に尾張・美濃の源氏が勢いついて更に蜂起したのです。
    その後、「反平氏」の挙兵は畿内にも波及し、10月に「近江源氏」が挙兵します。
    しかし、反撃に転じた平氏の軍事行動により先ず近江源氏の反乱勢力は制圧されます。
    敗れた「近江源氏」の武将らは美濃へ逃亡して「美濃源氏」と合流します。
    「美濃源氏」は「近江源氏」を迎え入れて平氏に対する抵抗を続けます。
    1181年1月 平氏は美濃へ攻撃を開始します。
    末裔の居る美濃に向けて「平通盛」が「蒲倉城」を落として「美濃源氏」「近江源氏」を制圧し「美濃平氏」を救います。(後にこの城が「美濃平氏」(織田氏)とって重要な拠点となる)
    この様な経緯を経て通盛の流れを汲む「美濃平氏」の末裔が再び美濃を制圧したのです。
    この有名な激しい戦いで両軍共に多数の戦死者を出しました。
    一時は「美濃源氏」の中心人物である源行家を制圧し支流源光長(土岐光長)も討ちとられ梟首されたとの有名な歴史夜話の噂が流布。「美濃奪回・攻略」に成功した平氏は次に尾張制圧を続けます。
    この直後に平清盛の死去 出陣は停止延期されますが、しかし、1181年3月に有名な「墨俣川の戦い」を迎えるのです。
    この時に「美濃平氏」を救った「平通盛」の守護兵とその末裔はその後も美濃を守り続けますが、遂に1190年この「美濃平氏」は離散する経緯を辿ります。

    この時期前、越前は始めは「平重盛」が国主でありましたがこれに代わって「平通盛」は国司で務めていました。しかし重盛死後1176年に通盛が越前守に成ります。
    (ここで織田氏が主張する説の間違いを起こしている)
    その後、朝廷内の政争ある事件が起こり1179年に平通盛は一時失職しますが、清盛がこれを解決して数ヶ月して戻ります。
    その直後に上記1180年の反乱が起こり通盛は越前より美濃源氏制圧に動きます。
    1181年の3月に制圧し、以後平家滅亡までの1187年まで越前と制圧した美濃平氏だけに成った美濃を合わせて平通盛が統治します。
    この間、下記に示す1150−60年頃から美濃に教盛-通盛の末裔を置き、1176年から越前国司・守護を務めながら1187年までの約40〜30年間程度は美濃に関わっているこ事に成ります。

    上記の平通盛の経緯から観ても2の説の「重盛-資盛-親実の説」は確かに越前国主でありましたが京に定住していて、越前との関係は1176年では既に終わっていて、その前から平通盛が国司の実質の管理下にあったので間違っているのです。
    越前-美濃の関係からは平通盛が実質の関係者なのです。
    まして、もし重盛ルーツであるとすると織田氏は越前の土地の者と云う事に成り「越前平氏」なる一族がいた事になり新たな平氏説が生まれますし、平家滅亡後、鎌倉幕府の掃討も受けずに逃亡もせずに住み付きその土地に穏やかに居た事にも成ります。(越前は知行国で平氏領国ではない)
    そして斯波氏にすんなりと仕官した事に成りますが、だとしたら「150年の過去の消失」は起こり得ませんし、織田氏の姓名も生まれない事に成ります。
    とそう成ると当然に織田氏の神社、寺社も残っている事に成りますから「150年の過去」を消失する事はあり得ません。
    そもそも各地の平氏掃討はそんな生易しいものではありませんでした。殆ど追手を逃れて都から遠く離れた人里離れた山間部を切り開き密かに隠れて住んでいたので生き残れたのです。(「隠れ里」と言う言葉がある位なのです)
    紀州の資料に残る平家の村も四国の平家の村と云われる所等(平家の里)はこの様なところです。
    ”越前に居て越前に”などあり得ないのです。
    現実に越前では平通盛は越前国人の全てから長い間反抗されていて”命令を聞かない”と清盛に愚痴手紙を送っている位にこの地の国府の平家役人の政治は上手く行っていなかったのです。
    もし、2の説であるのなら平家の部族が居て武力で押さえ込んでいた筈です。
    だから後白河法王は越前守を平家一門から外す事件が起きたくらいなのです。数ヶ月後に有名な政変事件を起こして平清盛が圧力を掛けて元に戻させたのです。
    そもそも越前は平氏の「知行国」であって末裔子孫が定住する「領国」ではないのです。
    知行の為に一定の軍を引き連れての赴任国でそこに赴任したからと云って、”子孫だ”と云うには矛盾であり、普通は知行国は政治的な知行能力があれば一人で幾つもの国を持つ事があり、重盛や教盛などは清盛の傍に居て補佐役で政権を維持する必要から代わりに「国司」を送るのが普通でなのです。
    国司とは本来その役目なのです。越前も長い間「知行地行政」を平通盛が代行していたのです。
    「たいら族」の平家は中部より以北地域は一時の関東を除き知行地でした。
    本論6までのところに記述した様に美濃より以西地域が平氏を含む「たいら族」の領国であったのです。美濃がその最前線です。
    「たいら族」の関東に押領使等で赴任しながらも一部には「関東平氏」の地域を作り出していた事も有りますが、その地域の「常陸-上総-下総」には「平将門の乱」はこの地域を領国として作り上げた上で近隣を制覇して更に進めて「独立国」を造ろうと考えた事件なのです。ここには元は一部は藤原秀郷の領国もあったのです。
    この様に知行国と領国とでは社会慣習やルーツ的な事も含めて根本的に色々な事が異なる判断が起こるのです。この事を織田氏は系譜を作る時に既に400年前の祖先のルーツを伝え切れていなくなっていた事を示しています。微妙なところですが「たいら族」は承知していたと観られますが、「越前−美濃」と「清盛−重盛」と「教盛−通盛」の違いを間違えてしまったのです。
    口伝で「清盛」(きよもり)と「教盛」(きよもり)の違いを間違えたために矛盾が生まれてしまったのでは無いかと観ています。

    先ずはこのおだしが主張している2つの説はどこから考察しても矛盾があり、鎌倉幕府の地頭が居た越前から足利氏の斯波氏に越前は変わったのにその間何をしていたというのでしょうか。
    重盛ルーツ説は搾取偏纂の疑問矛盾だらけですから通説でもどの様な根拠か不明ですが否定されているのです。
    (参考 清盛−重盛 教盛−通盛 教盛は清盛の弟)
    しかし、本論の「平通盛」の「美濃平氏」説では無理が生まれません。

    「美濃検証」
    更に詳しく家紋考証から「美濃検証」を進めます。
    本来「たいら族」は「阿多倍−国香−貞盛」から始まり「伊勢平氏」(維衡が伊勢半国司に任じられる)と呼ばれる頃から本拠地の伊賀地方に居て、その勢力は北部に向かいその隣には後に「美濃平氏」の通盛支流末裔が定住し、1100年頃には「関東平氏」は常陸、上総、下総から美濃に引き上げて来ます。「美濃平氏」は「美濃源氏」本流と「土岐源氏」を凌ぐ勢力拡大を図ります。

    ここで「美濃平氏」と「美濃秀郷流青木氏」との深い付き合いが浮き彫りに成るのです。
    この時期に「美濃平氏」と「藤原秀郷北家一門」との血縁関係が盛んに行われます。
    (北家秀郷一門の主要5氏の内3氏の13家13流が発祥します。)
    最終、「美濃源氏:行家」の本流は滅亡し「土岐源氏」も圧迫され衰退し、宗家源の頼政の「以仁王の乱」を切っ掛けに最初に攻め落とされた「近江源氏」と合力して最後の決戦を挑むのですが、敗退し遂に遺された3源氏も「近江源氏」と「美濃源氏」と「尾張源氏」は滅亡するのです。
    この「美濃平氏」は凡そ美濃には170年間位定住していて、この内1160年の後半50−30年が「平氏の拡大期」でもあり「美濃の拡大期」でもあったのです。
    この期間が下記に示す「50-30年」の期間で、この間に藤原氏北家筋とも家紋考証でも見られるように盛んに血縁をしているのです。

    「家紋が生まれ使われた時期は何時」
    そこで、先ず家紋考証するに際して参考として、そもそもこの文様は御簾の周囲に施した刺繍の布巾「帽額」(もこう)に付けられた文様が独立したもので、木瓜や胡瓜をせん断した模様の切り口とされていますがこれは間違いで、そもそも歴史は中国で「果紋」と呼ばれ、唐の時代に官服として袖口に刺繍してその職位をあらわす文様でした。
    これが奈良時代に使用された衣服や車紋や家財道具などに見られる物で、特に保元・平治の頃に多く利用されたのものなのです。資料からこの文様が最初に使われた時期は1156年に観られ「公家徳大寺氏」(藤原氏北家)の車紋に使われたとされています。
    とすると、家紋として使われた時期は徳大寺氏の1180年−85年代であります。
    この時期は綜紋「揚羽蝶紋」の平家一族が「美濃平氏」(織田氏)の支流まで家紋が定まっていたかは検証する必要があります。
    これは象徴紋から家紋として発生した経緯と年代と氏数から明らかに成る筈です。(下記)
    そうなると、この家紋が生まれた時期は何時になるのか””この文様を使った時期は何時になるのか”という疑問が湧きます。
    当然に「美濃平氏」の末裔が本格的に使った時期は「平家滅亡」後の各地に姓氏が多く発祥した時期と成ります。(平家滅亡前には織田木瓜紋は使用されておらず「五つ木瓜紋」は使用していた事が証明出来ます。)
    「織田木瓜紋」としてのその時期は室町期の「下克上」の頃が適切で1300年頃前後からと成ります。

    次ぎに資料から越前朝倉氏が1335年頃後半にこの「菱木瓜家紋(3文様)」を正式に使用した記録がありますのでこれから考えると、少なくとも上記の1300年が妥当な時期と成ります。
    この間、このグループの「美濃平氏」、つまり、「美濃守備隊の平氏」と「美濃に居た通盛系の平氏(後の織田氏)」等は、「越前−美濃−尾張−伊勢東」のライン域の山岳部(家紋分布)に先ず逃げ延びて、後世から観てこの家紋に関る何らかの職業(殖産と陶器家具等)に関り一致結束して隠れて生き延びた。
    ほとぼりの冷めた頃、再び元の武士の力を盛り返して来て農兵をしながら仕官口を探して各地を農兵として転戦して行くうちに、一部の「美濃平氏」は織田(斯波氏)に仕官口が見付かり、その後土地の土豪として定着し農兵から武士に戻ったと観られます。
    この時が室町期初期(南北朝期前後)で、仕官口が当時の足利氏であって勢力を拡大していた斯波氏に見出され「美濃平氏」の一族は家臣と成ります。
    これは斯波氏の経歴と一致します。
    ところで室町期初期から斯波氏は各地に勢力を広めましたが、足利氏系斯波氏の領国間運営は「守護代方式」を11国に採用したのです。
    拠って足利氏の急激に増える領国の家臣が大量に必要に成ります。
    (斯波氏11国 越前、若狭、越中、山城、能登、遠江、信濃、尾張、加賀、安房、佐渡)
    それも陸奥から始まり九州までに及んできますので1農兵の単位では間に合いません。
    (斯波氏は陸奥斯波の地名から名乗った)
    そうなると、「即戦力」として平家滅亡の各地に飛散隠遁している平氏に目を付けることに成ります。
    この事が「斯波氏の思惑」と「美濃平氏の思惑」が一致していたのです。
    「美濃平氏側」からすれば、”斯波氏が兵をどこそこで求めている”と云う噂を聞きつけます。そうすると農兵をしていた美濃の一族は挙って集まります。丁度、その土地が斯波氏の越前で求めていてそこに駆けつけて一族が農兵と成って大活躍をし、その元武士の実力の「即戦力」から「斯波氏の信頼」を一挙に得たということに成ります。
    現実に斯波氏の記録から、斯波氏は戦力の中でも「美濃平氏」のこの一団に対して目を付けて便利に各地に連れ行った記録が残っています。つまり、「即戦力」に成ったからです。
    その為に守護代になるのが遅かったのです。普通ならそれだけに「即戦力」の実力があったのなら朝倉氏の様にもっと早く1310−20年頃には守護代に成っていた筈です。
    しかし、斯波氏にとっては「信頼でき即戦力」となれば勢力拡大著しい時期の斯波氏にとっては喉から手が出る程に必要としていて、守護代として固定させる訳には行かなかったのでしょう。
    しかし、斯波氏はその代わり40年後に越前などに比べて尾張の温暖で主要な穀倉地の守護にします。

    当時、この様な農兵を集める仕事をする専門の斡旋業が横行していて、「斯波氏」や「美濃平氏」双方からこの斡旋業に繋ぎを求めていた可能性があります。
    筆者は考えるには、1300年頃に越前で朝倉氏等が斯波氏の守護代に成っていますが、1250年頃に「美濃平氏」の別働隊(美濃守備隊か通盛末裔隊−3集団の第2集団)が鎌倉幕府が傾き始めた時期の早期に動いて先に仕官口を得たのではないかと推測しているのです。
    それは、諸説ある朝倉氏等の家紋がこの木瓜紋類(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜 :四つ木瓜紋は疑問)であるからなのです。同じ文様である事は見逃すわけにはいかない要素です。
    そこで織田郷の「美濃平氏」の土豪一族は家紋として関った職業と口伝から「徳大寺木瓜紋」(四つ木瓜文様)から「何らかの経緯−血縁」を経て、案じて「織田木瓜紋」(五つ木瓜文様)に成り、それを使用したと考えられますがその検証が必要ですし、又”案じたのか始めからなのか”も家紋考証で見てみますとこの2つの答えが出て来ます。

    「何故木瓜紋にの経緯と理由」
    ここで先ず、先に問題は”何故木瓜紋にしたか”の経緯と理由です。
    この紋には実はそれなりの確実な経緯と理由があるのです。

    その前に本論とは外れますが、参考として次ぎの事を知って置くと更に深い興味が湧いてきます。
    「美濃平氏」(織田氏)と因縁浅からず越前朝倉氏も浅井氏も織田氏と同じ木瓜文様類を使用している事です。その「ルーツと経緯」が実に酷似している事なのです。
    同じ斯波氏の越前から始まった守護代であった両氏には因縁何かあるのかも知れません。
    この朝倉氏は諸説紛々で現在のところ定まっていません。
    殆どは上記した様に織田氏と同じで搾取偏纂で織田氏より酷い状態ですが、その諸説の共通点を纏めますと次ぎの様に成ります。
    「朝倉氏のルーツと経緯」
    大化期頃の帰化人・九州出自・神官は共通の通説で、阿多倍が引き連れてきた北朝鮮系後漢の職能集団の「祀部の末裔」と成り、平安期は九州−伊勢伊賀−美濃域の神官であった。 後に「たいら族」の支配下にあった経緯を持つ事。平安末期は美濃に居た事。 鎌倉期に武士に転身した事。 前身は日下部氏ら3氏(伴氏、紀氏 飛鳥期からの5大氏 3氏とも後付の木瓜紋類 伴氏は九州の弁済使)の枝葉説である事。
    この朝倉氏の事を背景に考察すると、少なくとも織田氏は阿多倍一族一門の「たいら族」かその配下の技能集団の出自である事が頷けます。
    但し、家紋を「五つ木瓜紋」として考証すると「たいら族」の末裔と成りますが疑問が多いのです。
    しかし、考証の前提とする物は家紋しかないのです。
    朝倉氏は天皇末裔説と阿多倍一族一門の技能集団の祭祀を司る「祀部」の末裔説の2つに分かれます。主張する家紋3種(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜)から観るとこの家紋は室町期の家紋類ですので織田氏の「五つ木瓜紋」類とは時期が異なります。
    朝倉氏はこの矛盾を隠す為に唐突に「四つ木瓜紋」(徳大寺氏家紋)を持ち出しているのですが、阿多倍の技能集団の祀部である事は共通の通説、即ち学説ですから直の「四つ木瓜紋」は室町期中期までは有り得ない家紋と成りますのて搾取偏纂は明らかです。
    結局、木瓜紋から観ると、「藤原氏北家の徳大寺氏の末裔」か「藤原秀郷流青木氏」との血縁しかありえませんので、ルーツとしての家紋を観ると、斯波氏の家臣に成った1250年代の朝倉氏の家紋の時代考証が不明不祥なのです。
    この考証から見ると家柄は織田氏の方が上である事に成りますが、ドラマや通説などでは数段に朝倉氏の方が上と成っていますが、これは殆ど信用できない天皇説を独自で主張しているからで間違いない祭祀部から観れば(共通説から観れば)織田氏側の方が主君側に成ります。
    織田氏と朝倉氏の戦いでは朝倉氏は虚勢を張って肩を怒らし家柄をよく見せての織田氏への態度は、信長がこの事を知っていれば”片腹痛い”と成ります。信長は同格程度に見ていたのでは無いかと観ています。
    後勘から云えば家紋考証では”織田氏の方が家柄は上、斯波氏家臣では40年の朝倉氏の先輩””出自経緯からは”織田氏は朝倉氏の主家”と成ります。

    朝倉氏の方が配下と云う立場から鎌倉幕府との”しがらみ”が無い為に数段に仕官運動を早めにできた事に成り、50年遅い織田氏は「美濃平氏」の立場を補完する様に遅くなった事が頷けます。
    家紋を考慮しないで観てみれば、両氏は斯波氏の経緯から観て”美濃平氏の配下”か”たいら族の配下”と成るでしょう。家紋考証が大きく左右しています。

    兎も角も朝倉氏は青木氏とは無関係であるので研究を進めると面白いですが此処までとして、織田氏は青木氏と関係する氏族であり、同じ時代を同じ糧で生き様も似て、生きた氏族で助け合いの絆もあった氏としてこれからも研究を進めます。

    話を戻します。
    「五つ瓜桔梗紋」の位置付け
    この文様が大きな決め手に成るのです。
    そもそもこの「五つ木瓜紋」には「7つの酷似文様]があるのですが、それとは別に放置できない極めて又似ている「五つ木瓜紋」が一つあるのです。これが大きな決め手に成るのです。
    それは「五つ瓜桔梗紋」です。
    桔梗紋は上記した「美濃平氏]と1181年に戦って滅びた「美濃源氏」系支流の「土岐氏」の家紋です。
    つまり、既に滅びる前に「美濃源氏」の土岐氏と、上記した北家秀郷一門の3氏の何れかと血縁して「五つ瓜に桔梗紋」が平安期に出来ていた事を示します。
    当然に秀郷流青木氏か秀郷流長谷川氏かですが、美濃は青木氏の領域ですので美濃土岐氏とでは地理的に青木氏の方が極めて可能性が高いことに成ります。
    そもそも長谷川氏には五つ木瓜紋の単独の家紋はありません。織田木瓜紋のみですのでこの場合は対象外と成ります。また美濃の秀郷流青木氏は特別賜姓族でありますので家柄と有品の位から観て吊り合いは青木氏と成ります。

    「美濃の秀郷流青木氏と美濃源氏土岐氏」、「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の2つの関係が「美濃の秀郷流青木氏」を仲介して血縁して互いに血縁により上記した「勢力バランス」を維持していた事を示します。
    上記した様にこの様な事が家紋考証から観ると美濃秀郷流青木氏を介して三角形の形でこの美濃の勢力バランスが取れていた原因なのです。

    その「五つ瓜桔梗紋」に成る経緯に付いて追記しておきますと、つまり、「五つ木瓜紋」の青木氏が土岐氏と血縁して土岐氏側に「五つ木瓜紋」の青木氏から跡目養子を受けた後にも続けて男系継承の跡目が叶わず両者の家柄(土岐氏が上)から養子側の家紋とせずに「五つ木瓜紋」に唐花部分を桔梗紋にして変紋せずに「副紋方式」を採ったのです。
    この方式は藤原氏北家一門の青木氏が家紋掟の仕来りとしてよく使用した方式です。「藤原方式」と呼び24地方で青木氏の本家がどうしても一門から探しても男系継承が困難と成った場合に用いた仕来り手段でした。
    宗家本家筋はこの場合2つの方式のどちらかを採用します。一つは上記の方式で、もう一つは主紋をそのままにもう一つの副紋を2つ併用して使用する方式です。
    枝葉には夫々本家筋が存在しますが後者を使用する習慣と見られ、前者は宗家筋の傾向を持っています。
    (例えば、讃岐藤氏の讃岐の宗家青木氏は「下がり藤紋に雁金紋」、雁金紋は足利氏系花房氏の例 秀郷流賜姓青木氏と賜姓源氏の支流土岐氏は家柄は同格)下がり藤紋の真ん中に雁金紋などを入れて本家筋の変紋を防ぐ方式です。

    話を戻して、ところがバランスが崩れたのは常陸等から「関東平氏」が美濃に引き上げてからバランスが崩れましたから、この家紋の血縁時期は1150−60年前後と成ります。
    つまり、「五つ瓜に桔梗紋」が存在する限りは「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の血縁は、その家紋は少なくとも1150−60年前後域と成ります。
    1181年で決戦が行われ土岐氏は完全に滅亡したのですから、その後の「五つ瓜に桔梗紋」は存在しない訳ですから、その後も5−7年は「美濃平氏」が美濃を支配していたことに成ります。
    従って、この家紋は「美濃平氏」が滅亡前(30−40年)に既に家紋として使用していた事を示します。

    従って、結論は「美濃平氏」の織田氏に成った時期には既に家紋は持っていた事に成ります。

    それを正式に使ったのは1335年前後(1339前)で、「織田木瓜紋」として一部判らない様に修正したのは1339年頃と成ります。

    次第に天下を治めるに当たって美濃の「藤原氏秀郷流青木氏」の支流紋そのままにするには「藤原秀郷流青木氏」の支流族としても、「美濃平氏」の支流一族としても、権威として問題があるとして独自性を強調する意味から「五つ木瓜紋」に見えない修正をかけて去勢を張ったと観られます。

    その「7つの類似五つ木瓜紋」即ち、「五瓜に唐花線陵紋」類は、3つは織田氏の本家分家一族、残りは藤原秀郷流青木氏2つ、長谷川氏1つ、永嶋氏1つが使用しているのです。
    そこで、類似紋の「3つの織田氏の紋」は美濃平氏の「織田氏の3集団」(下記)に一致し、使い分けしているのです。

    「30年間の経緯」
    以上は職業紋から考証したルーツですが、滅亡前にこの家紋の主の徳大寺氏、即ち、藤原氏北家筋との何らかの血縁関係(上記検証)から美濃平家支流の越前織田郷に1300年頃に定住した一族がこの家紋を落人時代からも密かに伝承していた可能性が極めて高いのです。

    そこで、この家紋の主は徳大寺実能を始祖としていますから、徳大寺氏一族との血縁関係があるとして使用したとした場合、その期間上記の約30年の前の間に秀郷一門と同族血縁していたことに成ります。
    これをどう観るかですが、ここでも「美濃平氏3分家」までの藤原氏北家筋との血縁が有り得ない事も有りません。
    当時の北家筋とは3大豪族の一つですので秀郷一門青木氏であったとする可能性は上記の経緯からも明らかですが、しかし、支流の「美濃平氏」と直接に京の「徳大寺氏」とが血縁をする可能性がありません。それは地理性や時期性や家柄性や戦略性から平家本家を超えて血縁をする事は氏家制度の仕来りから観て皆無ですので、「美濃秀郷流青木氏」と「美濃平氏本家」との血縁は兎も角も「美濃平氏3分家」までの血縁はこの期間内に果たして有り得るのか疑問なのですが確認は難しいのです。
    類似紋とすれば先ずは支流までは無いと考えます。本家の類似変紋にあわせて分家筋が更に変えたのだと考えます。
    有るのと無いのとでは美濃平氏の考証関係には問題が無いのですが、この「織田氏3集団」のどの集団が斯波氏への仕官口を掴んだのかが変わってくる問題です。

    「4つ木瓜」と「5つ木瓜」の仕来り
    それには先ず「4つ木瓜」と「5つ木瓜」との違いがあります。
    「五つ木瓜紋」は平安後期のもので平安期には少なかった文様でその文様の元は「四つ木瓜文様」に成っているからです。「四つ木瓜」と「五つ木瓜」は変紋による類似家紋で家紋掟によって分家が起こりますとその分家が本家の家紋を引き継ぐことが出来るかは本家の裁量に委ねられます。
    その際分家を興す者が「本家の嫡子と妾子との身分関係の有無」、「嫡子と妾子との親密度の有無」に依って家紋継承の有無が決まります。
    本家が容認しなければ類似紋か最悪は別紋という事に成ります。支流化の枝葉が広がるに連れてその可能性は広がります。
    「四つ木瓜」より「五つ木瓜」に成る事は上記の2つの条件の何れかが適用された事を意味します。
    「四つ木瓜紋」にも類似紋の変紋、「五つ木瓜紋」にも類似紋の変紋がある様にその関係度が判断出来ます。
    別の氏が類似紋とする場合は氏家制度の中では争いが起こりますので同じ木瓜文様とする場合は争いが起こらない程度に大きく変紋をする事が仕来りとして要求されます。
    歴史資料の中で”提訴したが最終戦いで決着と成った”とする史実もあるくらいでした。
    この様に類似家紋に無なっている事は当然に身分家柄の関係が低くなった事を意味しますので、徳大寺氏から観れば直接血縁は有り得ない事に成ります。
    これらの仕来りに依って既に「五つ木瓜紋」に成っている訳ですから、秀郷一門の中で起こった類似変紋の過程と成ります。そして、この「秀郷流青木氏の木瓜紋族」の支流と「美濃平氏」の支流とが養子血縁して家紋掟の男系跡目を理由に「美濃平氏」側にこの「五つ木瓜紋」の家紋が発祥した事に成ります。
    上記した様な分類からその美濃平氏側でも類似変紋した事に成ります。

    又、「美濃平氏」の支流一門として当時の京の平安期の最高権力者の一人徳大寺氏とが身分家柄の吊り合いの仕来りから血縁する事はありませんが、念の為にそこで調べました。
    実は上記した中継可能な方法で血縁しているのです。上記した仕来り通りに現実が動いていたのです。
    秀郷一門主要氏の中で次ぎの一門が血縁しているのです。
    次ぎの3氏です。

    青木氏  4つ木瓜、丸に4つ木瓜、・五つ木瓜 糸輪に陰木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、
    長谷川氏 ・織田木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、四方木瓜、、三盛木瓜
    永嶋氏  丸に木瓜、・丸に五つ瓜に唐花
    以上3氏です

    北家は9氏中7氏が秀郷一門ですから、可能性は極めて大です。
    「徳大寺氏」の家紋から13家紋と成ります。
    北家筋の徳大寺氏と北家筋秀郷一門との同族血縁をしているのです。それも13家に及びます。

    その中で本家筋は青木氏の「四つ木瓜」、長谷川氏は無し、永嶋氏は無し
    分家筋は青木氏は「丸に四つ木瓜」、永嶋氏は「丸に木瓜」(四つ木瓜は木瓜と同じ)
    支流は青木氏と長谷川氏の「横木瓜」、「丸に横木瓜」

    直接血縁の長谷川氏の「織田木瓜」紋と成ります。
    直接血縁と観られる青木氏の「五つ木瓜」紋と成ります。
    直接血縁と観られる永嶋氏の「丸に五瓜に唐花」紋と成ります。

    (「五つ木瓜」は判別困難の文様が7つもあり「織田木瓜」であるかは不明。「五瓜に唐花」もこの7つの一つで不明)
    青木氏だけが徳大寺氏一門の本家との血縁を幾つも重複血縁の血筋を持っています。
    ここでこの事から観て次ぎの2つの関係の可能性が高いと観られます。

    A 青木氏と美濃平家(織田氏)
    B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)

    参考として先ず徳大寺氏とは、北家藤原実能が屋敷に小堂を建て徳大寺と名付け出家しその後徳大寺を氏名として名乗ったものです。(徳大寺氏の経歴は下記)

    A 青木氏と美濃平家(織田氏)
    Aの説から、北家秀郷一門の青木氏との同族血縁(6氏)をし、青木氏に跡目を入れたが男系継承ならずして養子先系列の「四つ木瓜紋」の青木氏が発祥となり家紋は「四つ木瓜紋」となる。この「四つ木瓜紋」に分家支流が発祥し、その分家裔が正妻と妾妻との身分差から家紋掟により「五つ木瓜紋」の青木氏を発祥させて生まれた家紋です。
    この美濃の「五つ木瓜紋」の青木氏と「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢平氏)一門との養子血縁で美濃の「たいら族」側(美濃平氏)に男系継承ならず家紋掟により養子先家紋の家紋の「五つ木瓜紋」となった。この間30年の期間の出来事です。
    しかしその後、「平家滅亡」により美濃−越前付近山岳部に隠遁し職人的糧により生き延びて後、室町期初期の下克上期に再び力を得て越前織田郷の土豪となり勢力拡大を次第に図る。この時、家紋を五つ木瓜紋(5瓜)に戻そうとするが、平家一門であるので敢えて北家紋の「五つ木瓜紋」から一部変紋して美濃平氏系列の独自の「織田木瓜紋」(5瓜紋)とした。そして室町期の公表されている「織田氏の系譜」の人物に入り(最終は斯波氏の尾張守護代)信長の経緯に至る。
    以上の経緯が仕来りから間違いなく起こったと考えられます。

    青木氏と守護神(神明社)−8に続く。


      [No.273] Re:青木氏と守護神(神明社)−6
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/04/21(Thu) 08:47:26  

    青木氏と守護神(神明社)−6

     「生き残りの秘策」
    ここで、更に”もし「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」の名誉だけで青木氏は「融合氏」として果たして生き残れたのか”と云う疑問が残ります。
    しかし、これには実は「生き残りの秘策」が在ったのです。
    それは5家5流の土地の開墾地の「物造り」の産物を殖産しそれを「商い」(紙関係・墨硯等)とする「2足の草鞋」策なのです。「商い」は「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」からすると氏家制度の中で当時とするとかなり異質であり、それこそ源の頼信系の様に”模範となるべき氏が何事かけしからん”と世間から「疎んじられる」事は明らかです。
    しかし、それを「2足の草鞋」としたところに意味があるのです。表向きには「別人の商人」とした処で「疎んじられる」事を避けたのです。又、「開墾地の殖産」の為と云う「大義名分」もあったと考えられます。
    それも武器等の品位を汚すものではない「紙関係」なのです。
    この為に周囲はなかなか表向いて批判は難しいかったと考えられます。”見て観ぬ振りをする”以外に無かったと観られます。
    恐らく、天皇家の体質としては”皇族、貴族は自ら「武力」を持たない”と云う「仕来り:慣習」が会った事から考えると、同じ賜姓族の源の頼信系の源氏の様に「武力」に繋がるものであったなら同じ憂き目に会っていた事は間違いないと観られます。
    この事から賜姓5家5流青木は「紙関係業」と、秀郷流青木氏は水軍を使った主に「回船運搬関係業」であった事からも”非難は小さかった”と決められます。
    同じ「品部」を使ってのものであっても、その差は青木氏は「開墾−殖産−販売−運搬」と、片方の頼信系は「荘園勢力・武力」とで異なっているのです。
    現実に、仮に「開墾−殖産」までは同じとしても「販売−運搬」の「商いの領域」を行える力のあるものとしては当時では先ずは「ある程度の勢力」を堅持していなくてはこの「商いの領域」は成り立ちません。
    当時は大量の「販売−運搬」には危険が伴います。この危険を担保するには矢張り「ある程度の武力」を必要とします。「民の商人」ではこれは困難です。「民が武力を持つ事」は法的に不可能です。
    仮に闇で持ったとしても潰されるが落ちです。まして、「運送する」と云う事に成ると通過する長距離の国間の警護が伴います。これには「シンジケート」を構築する以外にはありません。
    「民の商い」では金銭による経済的な支援で構築できますが、多種多様なシンジケートの武力を金銭だけで確保する事は無理であり、そこには「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」とが無くては「氏家制度の社会慣習中」では成立しません。

    この「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」の「3つの条件」は「血縁」と云う形で形成されて行きます。これは「民の商い」では氏を構成しない為に「血縁の意味」が氏家制度の社会慣習の中では成立しません。まして「民の血縁」は法的に身分の境を制限して平安期までは定められていますから無理であり、そもそも「民」の中には「商人」の独立した身分は上記した様に現実には無いのです。
    部の制度のシステムの中(平安期)では相互間に「物々交換」を主体とした「売買」であり、実態は金銭を以て行うのは限られた範囲の身分に相当していたのです。
    「物々交換」が困難なものに対する手当てであったのです。
    例えば、シンジケートへの「経済的支援」などは「物々交換」は困難であり金銭を以て行われていたのです。故にこの平安期の「大商い」は「民の商い」では社会体制から無理でありそもそもその概念が低かったのです。
    これが「融合氏」の「氏家制度」(相互扶助:上下支配)の一つの意味なのです。
    この「氏家制度」の「社会概念」が間違えるととんでもない答えが出てくるのです。この氏家制度の平安期に「商いの概念」が薄かった時代に「生き残りの手段」として選んだと云う事は大変な画期的な手段であったのです。
    丁度、この時には伊勢平氏伊賀の末裔太政大臣の平清盛も「平族」として「宗貿易」を実行したのです。
    その伊勢の松阪では伊勢青木氏が中心となって国内は元より摂津と堺にも2店舗の大店を構え同じく5家5流の紙を中心に「宗貿易」を行っていたのです。
    意外に、平清盛は、伊勢青木氏との「付き合い」が同じ伊勢国の隣同士(伊賀)であった事からかなり親密な付き合い関係があった事が後の「ある事件記録」の中に伺えるので、大いに青木氏の商いに触発されたのではないかと観ています。(触発は逆の事も考えられる)

    参考
    「ある事件記録」とは、源の頼政の「以仁王の乱1180」の敗戦の時、源3位頼政の孫の「京綱」(伊勢青木氏跡目)を除く「有綱、宗綱の助命嘆願」を清盛の母等を通じて伊勢青木氏が行い「二人は日向配流」で助けられた実績がある。(後にこの二人は廻氏との間で日向青木氏を発祥させる)
    この乱の時、源の頼政−仲綱親子は伊勢松阪の京綱の居る伊勢青木氏に向けて逃げる途中、宇治の平等院で切腹する。逃げていれば助命嘆願の経緯から何らかの「時代の変化」はあったと考えられる。

    以上の様に「2足の草鞋策」の「商い」(古代和紙)による「経済的な潤いを背景」として「生き残る力」を保ち苦難を乗り越え「秀郷流青木氏」を含む「4つの青木氏」は子孫を現在まで遺せたのです。
    特に「絆結合の青木氏2氏」も大変であったと考えられます。現在でも存在する伊勢松阪と員弁、桑名、四日市、名張の「青木村」には血縁に勝る絆で1千年もの間、数え切れない子孫から子孫を村で引継ぎ、主家青木氏を支えてきたのです。血縁以上のものがあったと考えられます。
    伊勢青木氏で38代目位に成っていますが、”明治35年時では250名以上の昔からの家人が居たと口伝され隣の玉城町の面積の8割はこれ等の家人の住居と蔵群であった”と、当時の店主の祖父と父から真新しい口伝として聞かされているのです。
    この様な意味から「絆結合」で名乗った青木氏は最早、「家族の一つ」であったと認識しているのです。
    伊勢のみにあらず「生仏像さま」と「笹竜胆紋」で固く結ばれていた「4家4流」と「秀郷流青木氏」と「絆結合青木氏」は少なからずも上記の様な経緯の中にあったと歴史的に観て考察されます。

    話を戻して、そもそも秀郷流青木氏も母方を機軸とした「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」にあり、且つ、摂関家北家一族の藤原氏と云う「名氏の立場」もあり、藤原氏の中でも氏家制度と云う環境の中では厳しい難しい立場にあった筈です。
    故に24地方の秀郷流青木氏と同様に中でも「讃岐籐氏」の青木氏の様に大々的に「2足の草鞋策 回船問屋」を実行したのです。その先鞭をつけたのが皇族賜姓族5家5流の青木氏であると考えていて、伊勢青木氏の口伝(浅野家の取潰しの際の所蔵品・貴重品の買取)からも讃岐籐氏青木氏の回船業との繋がり関係が垣間見えてきます。
    ですから、源氏一族の頼信系は方向性を間違えて完全滅亡し、頼光系も「2足の草鞋策」を講じないままにした事で平家に圧迫されて、遂には「以仁王の乱」に突入せざるを得ず、結局、5家5流青木氏には跡目を入れて青木氏として遺しはしたものの、頼光系も「2つの立場」(「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」)は保ったにせよ未勘氏を多くしたままで源氏としての直系子孫は遺せなかったのです。
    頼光系は摂津、河内、伊豆に3領国を持ちながらも経済的な裏づけが子孫を大きく残す程に無かった事によります。
    頼信系を含む11代の源氏は荘園に繋がり勢力を拡大すれば子孫を遺せると考えていて、皇族賜姓族5家4流は毅然としてその立場を弁え勢力拡大には目もくれず「商い」に依る「経済的自立」で子孫を遺せると考えたのです。
    結局、荘園に関わる勢力拡大は互いの勢力の保持の為に戦いが起こり戦いで全て滅亡してしまったのです。「血縁による2つの青木氏」とその絆で結ばれた「絆による2つの青木氏」にとって、「商い」(古代和紙)は、武力による戦いは無く細々としながらも、大きく現在まで子孫を遺せた源なのです。
    況や、武器を使わず知恵を使う「物造り」に依って生き延びられたのです。そしてその「心拠りどころ」として「祖先神」を敬う「神明社」がそれを支えたのです。(参考 源氏は「八幡宮」を守護神とする)

    (結局は伊勢に直系の跡目と伊豆には頼光系4代目頼政の血縁の信濃青木氏と伊勢青木氏の末裔を遺した事で終わる。後は傍系と未勘氏である)

    話を戻して、青木氏の守護神(神明社)−5の「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」に続けます。

    次ぎに上記の様に「良民」の範囲も定めました。良民の範囲が決まると残る「民」を「賤民」(せんみん)として呼称しその奴婢を更に五段階に分けたのです。
    この五段階に分けた理由は次ぎの2つの理由に因ります。

    第2期奈良期− 朝鮮半島の動乱難民→「融合民」
    第3期平安期− 朝鮮半島の難民・中国大陸からの難民→「融合民」

    理由1 続々と入国してくる「難民」に対処出来なくなりこの難民の処置に困ります。
    そこで、これらを「賤民」に所属させ「奴婢」(ぬひ)として扱いその難民のレベルに合わせて区分けします。

    これ等の「難民」は次ぎの通りに分類されて身分分けされました。
    貴族の奴隷、
    官僚家の奴隷、
    武家の奴隷、
    天領地の奴隷、
    豪族の奴隷
    以上5つの職位域の集団に吸収されて行きます。

      「民分類の解体」
    夫々は奴隷で5つの集団に隷属して離脱する事は出来ない為にその集団の中で融合して行きます。
    しかし、この身分制度は900年頃を境に解体を徐々に進めます。

    「賤民制度」は901年から923年の間に解体。
    「品部と雑戸」の関係は890年を境に解体。

    これ等は丁度、荘園制のピーク時に当たり何れも890−923年の間の解体で一致しています。
    この荘園制がこの身分制度のこの解体で益々勢い付いた事に成ります。

    解体理由は次ぎの3つに因ります。
    1 良民間、良民と賤民間、賤民の奴婢間に著しく融合が進み最早「区分け」の理由が大筋を残して無くなりつつあった事
    2 荘園に賤民が大きく吸収され、「税と労役」はその荘園から徴収出来る体制に変化した事
    3 この解体をきっかけに5つの区分けした集団の賤民が集団間の垣根が取れてますます「民の融合」が進んだ事。

    900年前後に起こった「品部」等の「身分解体」により「民の融合」が著しく進みます。それに連れて「荘園大集団化」がその勢力に応じて加速度的に発達して進みます。結局、「民の身分解体」と「民の融合」は進み、挙句は「荘園の行き過ぎ」のその加速度の勢いは逆に最早誰の力も及ぶものでなくなってしまったのです。
    しかし、ここで疑問が湧きます。
    「民の身分解体」により「民の融合」を推し進めることには理解できますが、当然にこの事に依って懸念している筈の「荘園の行き過ぎ」は加速する事は、「朝廷と天皇家」にとっては「国家の政治態勢の維持」が困難に成る事は解りすぎる位に判る筈です。しかし、「民の解体」は実行されたのです。
    これは「天皇家」と「朝廷」との間に思惑の解離があって「朝廷」を牛耳る「名義荘園主」と「官僚の主体」と成っている阿多倍一門一族の勢力の方が勝っていた事を物語るものです。

    「天皇家の勢力」<「官僚の勢力」=政治の横暴と腐敗

    まして、その解体で朝廷は「税の収入増と安定」が図られるし、「1、2、3の解体理由」が政策的に「融合」と云う点で合致していた為に”好ましい現象”で”解体政策は成功”と捉えていてそこに大義名分があったのです。そちらの方に目を向けていた事も考えられます。この間の累代の天皇は「無能」と云う以外に無かった事を物語ります。
    しかし、これは同時に、「量的」な「荘園の拡大」、取り分け「質的」な「荘園の大集団化」に都合が良い事に気が付かなかったのです。”累代の天皇家は気づいていたとしても何ともし難かった”が真実の処でしょう。
    しかし、下記123の状況を作り出した事から考えても”何をしているか本当に”と成ります。これが為政者としての「無能」の前提と成らずして何が前提でしょうか。

    1の理由では、「区分け」が無く成ると云う事は荘園にとっては逆に自由に労役要員を確保が出来る事に成ります。
    それまでは荘園開拓には限られた数の「部曲」(農民)を使う訳には行かず、無理やりに武力を使って「難民や俘囚」を確保する事が必要であり、この「難民や俘囚」は朝廷の管轄下にあった為に、今度は自分の力を使って確保する事が自由に出来て且つ「無届」が出来る様に成ったのです。

    2の理由では、1に依って確保した「労役の担い手」には「税と労役の責任」は朝廷に対し詳細不明による「無届」とする事で逃れられ収益はより高まります。

    3の理由では、「賎民の垣根」が取れる事でそれまで法で押さえ込まれていた血縁が自由に成り、出生率が増え「労役の担い手」が自然増加しそれを「無届」とする事で「自前の分」の生産力が拡大します。
    (戸籍制度の有名無実化が起こった 戸籍の廃止 これ以後江戸時代まで続く)

    この123の解体で900年頃を境に「民の融合」としての国策は進んだのですが、結局は荘園主はより朝廷への「税と労役の負担」は軽減される事に成ってしまったのです。
    つまり、「内部留保」が大きくなりより「荘園力」を増すように成ったのです。

    ところが、この「無届」には更に増幅させる「愚かな措置」を発したのです。
    それは「奴婢戸籍」を廃止し「戸」を形成出来なくしたのです。この為に更に「無届」が横行したのです。

    これでは何か「朝廷の政策」が影では「融合の目的」とは逆の「荘園自由化」に成る様な事をしている気がします。事実その様にして阿多倍一門一族の官僚主体は「九州自治」を実現できる様に圧力を加えていたのです。如何に天皇と朝廷の間は腐敗していたかが判ります。

    ところが、この腐敗の犠牲に耐えかねた民は、その証拠に、この「賎民」即ち「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」「奴婢」は余りの過酷さに「俘囚」を中心に各地で大小の「暴動」を起したのです。
    主なものとして、始めに878年の「元慶の乱」大暴動が有名です。これは丁度、「融合」政策、荘園ピーク期の900年前後に当たります。

    「各地での主な暴動」
    この暴動は歴史上では余り出て来ないのですが、各種の遺されている資料を調べて総合すると何と次の様に起こっているのです。

    660年(3)−708年−712年−724年−733年−762年−802年)(4)−820年−[878年*]−1051年−1061年−1083年−1087年

    主な記録から観ても20回程度は起こっている事に成ります。実質は記録に遺されない小事を入れるとこの数十倍は起こっている事に成ります。
    (データーは暴動が何らかの形で起こったものを調査したもので、荘園の周囲に逃げ出さないように柵を施した等の大きな兆候を抽出)

    (*)の印のピーク期900年頃から「大きな暴動」が起こり始めたのです。

    蝦夷鎮圧の鎮守府将軍の頃からで、秀郷一門が鎮守府将軍に成った頃が「俘囚や賤民」が各地で起こした最大の暴動期と成ります。この陸奥の地で土豪と秀郷一門の青木氏の血縁の意味が定説とは違う意味を持っていることが良く判ります。(小山氏、花房氏、小田氏等との主な血縁)

    「俘囚賤民の暴動」には余り武力は使えない経緯があり、それらの代表者との血縁を進める事で何とか解決を進める以外に無かったのです。
    現にこれらの暴動は「俘囚賤民の暴動」だけの暴動ではなかったのです。余りの過酷さからその地域の土豪や地方官僚(郡司)も加わっていたのです。
    江戸期の一揆には役人や土豪の蜂起はありませんが、この時の動乱には土豪や地域の役人の郡司(こおりつかさ 現在の知事と市長との間の国の役人)が加わっているのです。
    良心的な役人が立ち上がる位に道理の通らない無法地の状態であって著しく政治は腐敗していた事が一揆の大きさと比べても判ります。
    (実際、資料を調べて書いている筆者が”何をやってんだ。全く”とむかつく位なのです。丁度、現在の政治情勢です。)


    つまり、関東各地の「俘囚賤民の暴動」は以北の大豪族の「安倍氏や清原氏の反発」に結びついていたのではないかと考えられます。
    その安倍氏は朝廷の官僚である宗家阿多倍地族一門(阿倍氏等一族)の身内一族の仕打ちに憤慨し、代々の家人や兵であった者が連れ去られ、それも歴然として阿多倍一族の「民族氏」であるのに「蝦夷民」(北方の醜い民族)として決め付けられていたのです。むしろ、阿倍比羅夫や坂之上田村麻呂が征夷を掃討して此処に一族の阿倍の末裔の安倍氏や清原氏などを配置したのであって「蝦夷」では決してないし統治することで此処に定住して子孫を拡大させていたのです。それを蝦夷地の掃討を理由したこの事でもかなり強引であった事が云えるし、これを理由に平気に実行されていたのです。
    この様な事から各地で「俘囚の奴婢」として酷使されいる事に首魁や地方に赴いている官僚としても絶えられなかったと考えられます。だから中央の阿多倍一門一族とその官僚族に対して安部氏等の身内の反乱が起こったのです。
    故に犠牲にされた彼らには阿多倍一門一族の中央の一族は救援の兵を向けずに見殺しにしたのです。

    耐えられなくなり遂に反発した事件が安倍頼時−貞任  前九年の役[1051-1062] 後三年の役[1083-1087]の乱なのです。
    或いは、各地で起こる暴動を押さえ込むには「俘囚の首魁」の蝦夷(陸奥)の安倍氏等一族を倒す事として藤原氏や源義家らを差し向けたと観るのが妥当と考えられます。
    (しかし官僚の主体の阿多倍一門一族の九州自治の勢力圧力を恐れて後で天皇は知らぬ顔を決め付けたが、源の頼信系分家の義家がこの戦いを通じて後に天皇家の悩みの種の「荘園制の行き過ぎ」に「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」も弁えずに進んで手を貸してしまった事にも憤慨した。)
    この時、後三条天皇(位1068-1072)は未だ19歳で天皇ではなく前九年の役の6年後(1068)に天皇に成っていて、この醜い施政の実情を知っていて「阿多倍一門一族と藤原氏等の為政の行き過ぎ」に”何とかしなくては”と憤慨していた筈です。
    そして、立ち上がった後三条天皇は「2つの勢力」を果敢に排除したのです。そして、改革の為に登用された大江匡房(1041-1111)は白河−堀河天皇の3代に渡ってに仕え後三条天皇−白河天皇−上皇の意を踏まえ徹底した改革を断行します。

    余談ですが、この事を観ると「累代の無能の天皇」と本論では決め付けたが、「3つの皇親政治の天皇」はいかに優秀な天皇であったかが逆に証明できるところで、むやみやたらに「皇親政治」を敷いたと云う事ではないのです。「天皇の権力欲」を避難するかの様な定説には納得が行かないのです。
    確かに、「皇親政治・院政・親政」を敷いた時に「国のあり方」を左右する「国難」が無く、その「皇親政治・院政・親政」を何時までもだらだらと続けるという事では「天皇の権力欲」の定説は納得できるが、他面的に「時系列と傾向分析」をすると「国難解決の目途」が就いた時に開放しているのであるから、一つの「非常時の政治手法」として三相を得た適時適切な行動であると認められます。むしろ斯くあるべきです。
    本論では「皇親政治・院政・親政」は「国難を解決する一時的な政治手段」であると云う説を採っているのです。

    兎角、定説では”身内で天皇家の権力を強めた”等と一面的な事と成っているが、どうしていつもこの様な否定的な定説になるのかが不思議です。”歴史は1点で評価しては真実は見えない”が筆者の私観です。殆ど定説に納得出来るものは未だ見つからないのです。
    歴史の研究は定説では何も真実が見えて来ずむしろ「疑問と矛盾」が生まれ、釈然としないし「先祖の生き様」が見えて来ないのです。
    故に前述に記述した私なりに一定法則に基づく「技術屋からの分析法」を用いての研究を進めているのです。
    本論のこの様な上述する事が観えて来ます。


    (白河法皇は反改革派の弟「輔仁親王」を退け子「堀河天皇」を立て政治制約の少ない院政を敷き改革断行した)
    (最高権力者の藤原教道を排斥した。 白河天皇:位1072-86 院政1086-1129 堀河天皇:位1086-1107)
    (もともと安倍氏は「蝦夷」と蔑視の呼称をされているが「北方民族」ではない。「北方民族」660-802を制圧した阿倍氏末裔で陸奥に勢力拡大して定着した「融合氏」でルーツは「後漢の民」である。阿倍氏は阿多倍一族 阿倍比羅夫は白村江の戦いで後漢に戻った人物)

    歴史的には「全国統一」を定説とされているが、この様に本文の「融合民族」と云う観点から時系列と共に見て行くと疑問が多く残るのです。

    「全国統一」は「荘園主官僚の大義名分」(天皇の大義名分では必ずしもない)であって、本当は官僚たちの利害に関わる「俘囚賤民の暴動」を抑え込む目的であったと観られます。
    その証拠に「院政」は「源の頼義−義家」の「征夷討伐」(前九年と後三年の両方の役)は通説の「義家等の私闘」と片付けたのもこの「阿倍氏」の「末裔安倍氏」等の行動に非は無いと考えていた事と、「荘園行き過ぎ」に「皇族賜姓族」として「あるまじき行動」を採った事からではないかと考えられます。

    そもそも阿多倍一族一門の「阿倍比羅夫」(3度:658)660年、同じく宗家の「坂上田村麻呂」の802年の「蝦夷の北方民族」と、「頼義−義家」の時の「蝦夷の民族」とは最早異なっているのです。(民族そのものが違っている)
    「724年」以降は「蝦夷の北方民族」は衰退し、制圧した「阿倍氏」の末裔の「安倍氏」と阿多倍の3男の「内蔵氏」の末裔がその後に陸奥地域を勢力圏としたのです。

    (元の安倍氏勢力圏は越後北(新潟)−岩代北(福島)−羽前南(山形)−陸前南(宮城)に囲まれた地域を基盤としていた。古代後漢渡来人の開墾配置地域の「中部山岳地帯域」であったが阿倍氏・坂上氏等一族一門で蝦夷を制圧したことから蝦夷の東北域に勢力を伸ばした) 

    だから、制圧後に残った北方民族勢力が盛り返したので「掃討作戦」に依って阿多倍長男の「坂上田村麻呂」(3度:アテルイ)が802年に完全制圧していたのです。



    完全制圧の証として朝廷の命により次ぎの証としての神明社を建立しているのです。
    A 宮城(陸前)仙台に762年(光仁期末期頃 「伊治砦麻呂の反乱」)先ず「神明社の第1社」建立しています。

    B 続けて4回の「掃討作戦」を実行し、3度目で制圧後に白石に807年「神明社の第2社」を坂上田村麻呂は建立しています。

    C 平安末期には「最終掃討」(人物は不明)として仙台の中田に1171年「神明社の第3社」を建立しています。

    制圧した証として「征討圏の象徴」として「融合政策の達成地」としての印として「神明社を建立」する事は平安期の仕来りと成っていたのです。
    この様な史実を見逃しての定説にどの様な意味を持つのでしょうか。

      「安倍氏の掃討原因」
    従って、「蝦夷」と呼ばれる族は「アテルイの北方民族」であって、明らかに「安倍氏」は阿多倍一門一族「阿倍氏」の末裔としての大化期からの有力氏ですから、最早「蝦夷民」では無いのです。しかし、「蝦夷民」でないのに陸奥を「蝦夷民」として攻めるには「大義名分」は希薄な「名文」と成ります。
    だから、各地の「荘園主である豪族」たちから「大集団化の為の権威のある氏」として「源氏の棟梁」として祭り上げられた「義家」を、疎んじて天皇にその痛くない腹を探られる様な「飛び火の非難」を来ないように「私闘」として扱い防護策を効じて逃げたのです。
    しかし、現実は世間では「皇親政治・院政・親政」を敷いた天皇を非難し、義家を英雄と持て囃したのです。「源氏の棟梁」とか「武家の棟梁」とか決め付けたのです。世間は拍手喝采です。
    明らかに、これは藤原秀郷流青木氏を除く藤原氏と阿多倍一族一門の「荘園主」等の利害を考えた「宣伝戦略」で在った事が観えて来ます。
    「希薄な名文」と「武家の棟梁」がセットに成っている事はこれを物語ります。

    a 阿倍氏末裔の安倍氏を「蝦夷」として攻めたてた事、
    b その「兵、家人、民」を「俘囚賤民」として関東域以西に配置した事、
    c 各地で起こる「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の原因矛先を安倍氏に向けた事

    以上のa、b、cの本質は蝦夷掃討後の阿倍氏の末裔安倍氏、内蔵氏の末裔清原氏等により東北地方全域を勢力圏に納められた事に対して、同時期(713−723)に起こっていた難問の南九州基地が国策に従わない肝付氏を攻めた事と理由は同じである筈です。

    一方の勢力(藤原氏)が、南北で阿多倍一族一門が国策に従わない程に勢力が大きくなり過ぎた為に難癖を付けて「潰そう」としたか、或いは少なくとも「勢力を削ぐ戦略」に出たと考えられます。つまり藤原氏の策謀では無いかと考えられます。朝廷内のウチゲバが起こっていたのです。
    清原氏を裏切りをさせて安倍氏を打ち、大きくなった清原氏を今度はその後に義家に依って清原氏を潰す事をしたのは、この「削ぐ戦略」があった証拠に成ります。だから、この戦略に史実として藤原氏は手を貸したのです。
    安倍氏−清原氏では到底潰せなかったのです。その勢力圏を観れば一目瞭然で、史実、彼等は青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形、新潟北部、群馬北部の8県(全国1割)の勢力圏を保持していたのです。


    (阿多倍一族一門は制圧期 関西以西32/66国であったが、常陸上総下総を加えて最終43/66国と成る)
    (「清原氏」は朝廷の高級官僚として「清原夏野」等は「日本後紀」「令義解」の編集に関わった氏:782−837)

    そこで「攻めて側」は各個攻撃の戦略を行った事に成り、最後にその名義荘園主として拡大する義家には、2つの大勢力の外に居た「天皇と院政」は「恩賞」も絶えず、「私闘」として扱い、「政治的」に疎んじます。
    最後の決め手として義家に各地方の豪族の名義上の「荘園寄進を禁止令」まで発して疎んじて押さえ込み衰退させたのです。これで義家は天皇と院政の政敵と扱われたと同じです。
    2つの青木氏の様に、身内であり正常な勢力として温存すれば天皇院政側に取ってはむしろ得策である筈なのに敢えて潰す戦略に出た事は身を切る思い出あった筈です。
    逆に、九州に於いての阿多倍一門一族の勢力と行動からすれば、こちらを潰しておきたい筈です。
    しかし、それが43/66の勢力で北と西で挟撃される懸念があり逆に民族氏の共和国が出来てしまう戦略上の事が起こる為に出来なかったのです。

    では、これ程に不合理なことがありながら、ここで「天皇や院政」は本当に”攻撃を命じていたのか”と云う疑問が湧きます。確認をする必要があります。

    これは先ず年代で明らかに判ります。
    「後三条天皇」が天皇に成ったのは「前九年の役」後の6年後で、天皇の立場は「後三年の役」の前11年前であり明らかに命令してはいない事が判ります。
    次ぎに、「白河天皇」が譲位後の11年後に「後三年の役」が起こっていて、退位3年前に「後三年の役」が始まっています。終わったのは退位1年後で、後は「堀河天皇」に譲位して院政を敷いています。
    つまり終わるまで退位しない筈ですから命令していません。
    まして、「白河天皇」は「後三条天皇」の「整理令−公領制」「荘園の行き過ぎ」国難の改革意思を引き継いでいるわけですから、改革に反する戦いの目的の命令書を出す訳はありません。
    この時、「詔勅」「院宣」「令旨」以外に「宣旨」と云う特別の天皇が自ら書しての直命の「命令書」をわざわざ作ったくらいのです。この「命令書」がないのです。勝手に「詔勅」や「院宣」をひそかに作られるほどに危険な状態で在った事を物語ります。

    ここで時系列で分析すると決定的な証拠が2つあるのです。
    決定的証拠−1
    それは、大改革を行う訳ですから、前期した様に「後三条天皇」は勝手に天皇の名前を使って為政に関わる荘園主でもある官僚豪族が都合よく何かを行う事を防止する為に天皇の命令を明確に伝える制度を制定して偽物が出されない様にしたのです。
    それが「宣旨」というもので「書式」もわざわざ定めているのです。以後継続されました。過去からの「令旨」(法の執行命令書)を更に細分化して「宣旨」(執政の執行命令書)を新設したのです。
    「令旨」と「宣旨」の中間の不詳のところを官僚たちに使われたことが起こっていた事を意味します。この事をわざわざ「後三条天皇」が定めたと云う事は前の天皇の時に「前九年の役」も恐らく令旨の盲点を使われて彼らに都合よく「荘園拡大」の為に起こされた戦であったかが判りますそれを天皇は知っていたのです。17歳から26歳の時の出来事ですから実情を把握できる年代です。

    決定的証拠−2
    つぎの証拠は前記した「九州南北基地」の大蔵種材に「錦の御旗」「遠の朝廷」と呼称して「九州自治」を認めた時期でもあるのです。後一条天皇の時1018−1020年です。
    征西大将軍に命じられて、そして、この後、寛仁2年1019年頃に”異族九州に乱入する武装大襲来の由其の告あり、其の時大蔵種材これを向いて西戒を退治せしめる。”。その後、「院宣」を発して異族を退治せし・・・”と在りますので、引き続き押し寄せる異族の難民に対して1086頃前後に全ての難民を防止する命令を正式に大蔵種材に命じているのです。
    恐らく、この内容から1018−1090年頃まで1019年の大事件より「難民流入」が次第に押さえ込まれていった事が判ります。
    「荘園拡大」の「働き手」の「賤民の奴婢」の元と成っていた「難民」をここで政策的に押さえ込んでいるのです。その為に彼に「宿禰族−従五位下−岩門将軍−壱岐守−太宰大監」、最後には「征西大将軍」の関西以西の治安責任者の官職に任じているのです。
    そして、それを権威付ける為に「錦の御旗」「遠の朝廷」を授けて、つまり、「九州全域の自治」と「難民」が大量に入国してくる「全地域の責任者」に任じているのです。
    この最後に任じられた「征西大将軍」には大きな意味をもちます。
    荘園主は「開墾の働き手」の根本を1018年から押さえられた為に、今度は「蝦夷」では無いのに「蝦夷」とされてしまった「安倍氏や清原氏」等を「令旨」「宣旨」「院宣」を抜きに、今までのルーズな慣習で以て「全国統一を名目」にして攻めて潰し、昔の「俘囚賤民」と見立てて頼義−義家親子は勢力拡大を図る為に「勝手な戦い」を始めたのです。そして荘園に送り込んだのです。名義上の荘園主になろうとしたのです。
    其の為に荘園主側から観れば義家は「武家の棟梁」として持ち上げられたと云うのが本質であるのです。

    しかし、天皇側から観れば、後三条天皇−白河天皇−白河上皇から観れば、「皇族賜姓族」でありながら、尚且つ、「後一条天皇」に「征夷大将軍」に任じられていながら最早「反逆者」の何物でもありません。「愚か」である事に成ります。恐らくは「皇族系」でなければ目先に起こっていた「平将門の乱」や「藤原純友の乱」や「平忠常の乱」と同じく「乱」として処理された筈です。
    ”知らなかった”は通らない周知であります。
    これには「乱」にしなかったのは、宗家源頼光系4家と賜姓青木氏5家からの何らかの働きかけや取成しがあった事がなくては逃れられない事だと考えられます。

    そうでなくては名指しの「義家に荘園寄進禁止令」は出さない筈です。反逆者になるよりはましで、正しく妥協の産物です。
    まして、この時期は普通の時期ではありません。
    「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の鎮圧の時期
    「安倍氏、清原氏の潰しの時期」
    「整理令、公領制」の時期
    以上に3つの国難に一致します。取成しに依って、この時期の事から院政側の大儀名文が成り立つのです。
    義家が如何にこの「法」に対して、「融合氏の行き過ぎ」に対して、まして「3つの発祥源」で「賜姓族」でありながらも、全て無視し、氏拡大のみの「利得」だけの考えで「反行動的な態度」を採っていたかが判ります。これでは潰されます。
    頼信系の分家は「3つの発祥源」であり模範とするべき「融合氏」でありながらその逆を行ってしまったのでは滅亡するしかありません。
    歴史では”「不運な義家」””「武家の棟梁」”と成っていますが、この様に時系列で傾向分析等を行うと違う事が見えてくるのです。我々融合氏の発祥源側から観れば”何をやってんんだ。 源氏を潰す馬鹿なことを”となります。
    歴史はその様な意味で先ず「定説や風評」に”オヤ 変だな”と一度疑問を持つ事が必要なのです。その疑問を解くのが楽しみに代わるのです。

      「予断雑学−1:邪馬台国の自分説」
    さて、上記と離れてここで思い出した様に予断を出します。
    予断
    例えば、無邪馬台国の奈良説や佐賀説がありますが、これも自分なりに疑問を持つと自分説が出来ます。
    私はこの件では両説を採っています。どちらにも「三国志」魏国の「魏志倭人伝」に書かれている事が「建物」や「祭祀方法」(鬼道)等が確実にあります。これ程最早、邪馬台国としての条件が確実に両方に存在すると云う事は両方なのです。
    もし近畿説とすると佐賀説の国のは”何の国”となり、邪馬台国に匹敵する国がもう一つ在った事になりますよね。そんな国2つも在った事は無い事は判っていますから疑問です。
    初期2世紀半頃から全国が繰り返しの飢饉にて食料不足で乱れ戦いが起こり、佐賀にても卑弥呼が鬼道を用いて祭祀を司り「お告げ」の方法にて夫々の国の決定事項を定めるうちに卑弥呼を佐賀の邪馬台国の国王として祭り上げて国の運営を連合方式(共立と記述)で行った。
    遂には全国の王国もこのうわさを聞きつけこれに従い、余りにお告げが的中する卑弥呼を中心としてまとまった。
    幸い100年周期で起こるとされる地球の気候変動期が過ぎて安定期へと入り飢饉は回避されて国はまとまり始めたのは卑弥呼の「鬼道」のお陰とした。
    そこで大国の魏国の脅威に対して通交を行ったが、其の為、国が卑弥呼中心でまとまり始めた事から、列島の全国の中心付近にある奈良の国に政庁を移し、佐賀には魏国との通交の拠点とした。
    奈良はその意味で遠すぎる為に佐賀の政庁には港から水路を引いて通交を容易にした。
    通交拠点化した為に佐賀には「金印」が存在したとすれば疑問点は解消する。
    その後、4世紀の始め佐賀の政庁は南九州からの民族に攻め込まれて北九州の国々も全滅したが南九州の族はここに留まらず南下して戻ったとされている。
    故に奈良の政庁のみが残ったのである。その後、共立国の弥生時代の銅鐸による弥生信仰を主体としていた出雲の国等との争いがあり、弥生信仰はこの100年周期の気候変動に合わせることが出来ず祈祷の予言が当たらず弱体化しつつあった中で、大和の政庁にその立場を争いではなく話し合いで譲ったと考えられます。
    そして、その後、朝鮮族応仁王の渡来と成り、戦いの末に話し合いと成り、応仁大王を主軸として連合国のヤマト王権が出来る。
    その後に、北九州は征討されて奈良の政庁に集約される。ここまでが「ヤマト王権」で、ここからは「大和政権」となり本文の大和朝廷の領域と成るのです。

     「予断雑学−2:道教との関わり」(重要)
    実は上記の「鬼道」は本文に記述した中国の「道教」の基とされその祭祀方法は酷似されるし、現在も中国奥地には未だ「鬼道」を行う地域があり、その「鬼道}の巫女には、古来から人間が「野生本能」を働かせる「複眼」と云うものを持つ女が多く、「透視能力、予知能力」を中国では未だ持っている地域があると云われている。
    卑弥呼もこの「複眼」を強く残っていた人物ではないかと見られている。お釈迦様の額の中央鼻の上に「ほくろ」の様な丸いものがあるがあれが複眼なのです。
    現在も人間の頭の中央の下の脳の真下に大脳と前頭葉が大きく成った事により押し下げられて10ミリ程度のものが人により存在し、特に女性に存在するが未だ僅かに使われている女性もあると云われています。
    女性の「感情主観」取り分け「母性本能」としてのインスピレーションが強いのはこの複眼の遠因とされています。
    本文による中国の特徴ある「民族性」は「鬼道−道教−儒教」へと発展し、日本人に理解し難い「固有の国民性や概念」が生まれたと観られ、「法より人」「石は薬」の中国人の共通概念はこの「鬼道」の「祈祷」の「宗教概念」が色濃くここに残っているのです。
    ところが大和の国では「鬼道−神道−儒教−仏教・神道」へと進んだのであり、日本人の「融合氏」から来る「集団性」に関わる「固有の国民性と概念」がこの過程に依って生まれたのです。
    この「鬼道」がある過程を経て「祖先神」と云う信仰概念が生まれねその代表とする「神明社」信仰が生まれたのです。
    その意味で歴史的に学術的に未だ余り知られていないこの「鬼道」は日本の歴史を取り分け神明社に関わりその存在を大きく左右させているのです。
    (詳細は研究室の「日本民族の構成と経緯」を参照)

    義家のところに話は戻ります。
    ただここでもう一つの「影の利得者」が居たのです。
    ”何故、その様な「愚か」と云える様な行動を採ってしまったのか”疑問が湧きます。
    「相当虚け者」でなくてはこの様な行動は採る事は無いでしょう。
    実は鍵はこの辺にあると考えているのです。

    それは何と義家に合力した藤原氏北家秀郷一族一門なのです。
    特に、平泉の藤原氏で、当初は清原氏と組み血縁して「清原清衡」と呼称する等一族に成り、最後は策略でこの清原氏に内紛を起こさせて裏切り、挙句は義家と共に滅ぼす等して3代の栄華を築いたのですが、義家の末裔頼朝に滅ぼされる始末です。
    この最後に残ったのが「第2の宗家」の秀郷流青木氏に率いられる武蔵入間の秀郷宗家一門であったのです。
    安倍氏や清原氏が滅ぶと上記の8県の圏域は戦略的に空に成り、結局、「鎮守府将軍」の懐に転がり込んだことに成ります。

    「院政」は頑固で律儀な「秀郷」を選んだのではないかと考えられます。
    それは「平将門の乱」に在ったのではないかと考えられます。
    藤原氏が「下がり藤紋」を”下がる”を忌み嫌い一族殆どが「上り藤紋」に変紋した経緯がある中で、秀郷一門9氏だけはこの「下がり藤紋」の伝統を護り続けたのです。それはこの背景には「義家と平泉藤原氏」の経緯があったのです。(平泉は秀郷一門とする説がある)
    そして、秀郷一門の陸奥の「蝦夷鎮撫」の「鎮守府将軍」の任命は、その目的が明確に成っていないが恐らくは、最終、政界から外されたものの策略を擁した「藤原氏京の北家の本音」であって、安倍−清原氏をを押さえ込ませたものと考えられます。そして「俘囚賤民の暴動の首魁元」(1058-1062:1083‐1087)と陸奥域8県の大勢力を獲得するところに裏の目的・狙いあったのです。
    結局、この結果、これに関わった「義家と京の北家筋(摂関家)」は衰退してしまった事から観るとこの二つの氏が策略的に仕掛けたことであったことが云えるのです。
    その「陸奥域8県」は鎮守府将軍の秀郷一門に与えられる事に成った事から見ても明らかです。

    もう一つは大きくなり過ぎた阿多倍一族一門の内、東北部の勢力を削ぐ事を朝廷や天皇と云うよりは藤原氏北家摂関家一族の思惑があったと考えられます。
    この背景から観ても京の摂関家は後三条天皇(1068)に排斥されたのです。何も大したことが無ければ長い以前の実績のある摂関家であるのですから「排斥の責め」を受ける事は無い筈です。
    「放置できない責め」があったからこそ義家と供に「過去の実績」を阻害されたのです。

    まして、丁度、この時、「整理令、公領制」を実行していた時期なのです。それに逆らう行動を採ったのですから見逃す事は絶対に出来ない筈です。見逃せば矛盾を生じて「整理令、公領制」は有名無実に成り果てます。
    その証拠にこの8圏域は義家が疎んじられて後は藤原氏北家秀郷一門の圏域と成るのです。

    そうすると、矛盾点が一つ起こります。
    「蝦夷の制圧」を名目にした敗北民と敗北兵を関東に「荘園の労役の働き手」として送り込んだのですが、その「俘囚」と呼称された民と兵は、元々「蝦夷」と云う意味の民ではないのです。
    阿倍氏の末裔の安倍氏の「家人や兵や民」を、「荘園拡大」の為に「人手」を獲得するために(陸奥の以北の民等を)適当な理由を付けて強引に奪ったことに成ります。

    初期の北方民族の「俘囚賤民」と制圧後(802)の「俘囚賤民」とは全く民族そのものが異なっているのです。つまり天皇が政治の国策の目途とする「融合氏」「融合民」なのです。
    それを強引に「俘囚賤民」として扱うことには無理が伴っていた事に成ります。
    天皇としても絶対に黙っている訳には行きません。「黙っている事」は「融合の国策の3策」を自ら無視した事に成ります。
    「安倍氏」はそもそも阿倍氏の末裔で阿多倍一族一門の末裔ですが「俘囚」等の首魁である事は事実です。この支流末裔には安東氏−秋田氏等が居る歴然として名家の家柄の「民族氏」から「融合氏」になった氏なのです。

    (鎮守府将軍:各地で起こる動乱を鎮撫し治安・経営をする軍政府の長官)
    (清原氏:阿多倍一族一門の内蔵氏の末裔 陸奥出羽の古代の豪族)

    とすると、この作戦は明らかに天皇が主導したのではなく、名義上の大集団化の荘園主となった阿多倍一族一門の官僚と、摂関家斎蔵の藤原氏北家等と、清和源氏頼信系義家等の「思惑」と駆け引きから密かに計画されたものと成ります。
    「詔勅や宣下や院宣や宣旨」の命令書のない無断独断の大義名分だけを掲げた無謀な行動であったのです。天皇の権威や許可無く勝手にやった況や「私闘」と成ります。「私闘」にしてもこれだけの大きい戦いを「天皇治世」の中でやると云うのはどの様に考えても問題です。
    あまり知られていない”義家のこの「戦いの戦費は自前」”としている史実からもこの事は許可を得ていない事は明らかです。
    ただ、民に対して「蝦夷を制圧して国統一」の「大義名分」だけを作り宣伝して批判をかわしたのです。
    この事だけは成功を収めたのですが、天皇だけはこれを見逃さなかった事を意味します。
    義家への「名義荘園主の禁止令」を出されてからは頼信系及び頼光系の清和源氏全体が信用を失い各地に飛散衰退して行きます。
    (結局、逆に阿多倍一族一門の「たいら族」の桓武平氏も関東の勢力を失いますが、朝廷内の勢力を伸ばす結果と成るのです。
    朝廷内にいる阿多倍一族一門は、この駆け引きの為に一門の阿倍氏の末裔安倍氏(内蔵氏の末裔清原氏も犠牲に)を犠牲にした事になります。観てみぬ振りをした事に成ります。
    これは失うものよりこの駆け引きの結果で得るものの方が大きいことを読み込んでいたのです。
    つまり、これが前記した阿多倍一族一門の「民族氏」の特徴(法より人 石は薬の潜在的固定概念)を顕著に出た史実なのです。
    つまり「伊勢本部基地」の徹底した戦略と成ります。しかし、この事で彼らも「関東の勢力圏」の常陸と上総と下総は全て失うのです。
    秀郷一門はこの結果、武蔵、下野、上野の3県を入れると14県/66の大勢力となり藤原氏京宗家を凌ぐ北家最大勢力と成るのです。
    この関東の全勢力圏は秀郷一門に下りますが、一門は兼光系の秀郷流青木氏、永嶋氏、長沼氏とそれらの支流の小山氏、織田氏、一部進藤氏の支流に護らせる結果と成ります。後に古来からの結城も戻ります。

    安倍氏らは既に融合氏に成ってはいたが、伊勢基地の阿多倍一族一門は後漢中国人の「法より人」「石は薬」の概念がまったく抜けていないで居たのです。
    時代が経ち、末裔が広がるも「血縁による絆」が「希薄に成る性癖」を諸に出した事に成ります。
    安倍氏は融合氏と成っていて日本人と成っている事からこの「仕打ち」は理解できなかったし「怒り心頭」となり、故に各地に「俘囚の賤民・奴隷」として配置された者達に秘密裏に連絡を採り暴動を起こしたのであり、それに呼応して安倍氏と大化期からの古代豪族内蔵氏の末裔清原氏は立ち上がったが、清原氏が裏切り、結局、路線争いの内紛が原因で藤原清衡に乗じられて清原氏も潰される始末となったのです。

    (歴史の定説をこの様に「融合氏」をキーワードで時系列的に立体的に傾向分析すると「矛盾」と「疑問」が多く出てくるのです。)


    この上記の年代の出来事と前期の南九州とを比較して下さい。前記した様に全く同じ事が同時期に南九州にも起こっていたのです。違いは南九州の一族一門は「戦いに勝った」事で展開が変わったのですが、この様な「融合氏」の国策を進め「国の安寧と安定」の基盤を造るにはこれだけの「生みの苦しみ」があったのです。
    右左に何時巻き込まれてもおかしくない混乱の流れの中でその中央に立ち、且つその混乱の中で「3つの発祥源」の重荷を背負う「4つの青木氏」はその範として立ち回るべき苦労が実に大きかったと考えられます。
    「4つの青木氏」即ち「2つの血縁氏の青木氏と2つの絆結合の青木氏」の採るべき態度での出方如何では同族源氏と同じ道を歩んでいた事は間違いないのです。
    勿論、そうなれば現在の「4つの青木氏」は存在しないのです。それは”何に依って滅亡の同じ道を歩まなかったのか”と云う疑問が湧きますが、それが解こうとしている本文とするもので、何か「精神を支える本質的なもの」が「4つの青木氏」の中にあったとする考え方なのです。
    この様な厳しい融合氏の環境経緯の中で生き残れたのです。何かがあった筈です。

      「4つの青木氏」と「5つの伝統」
    それが、次ぎのものだとしています。これは真に「青木氏7つの伝統」と云うべきものです。
    4つの青木氏が「心の拠り所」加護としてのお仏像様
    4つの青木氏が護る皇祖神、
    4つの青木氏の祖先神の守護神の神明社 
    4つの青木氏の人生の戒めの家訓10訓
    4つの青木氏が集う象徴紋笹竜胆の家紋
    4つの青木氏の堅い歴史のある絆
    4つの青木氏の「2足の草鞋策」の生き残り策

    以上「7つの伝統と殖産事業」が存在していたからです。

    そして、この「7つのもの」で維持されていたのは「3つの発祥源」としての「誇り」です。
    他の「民族氏」と「融合氏」との間にある違いはこの「7つの有無」にある筈です。
    それが1千猶予年代々引き継がれて来た事他ならないのです。
    古いとされる他氏でもせいぜい300年から多くて500年は超えていませんし、どの様に調べたもこれ程の条件は備わっていません。
    時代の激しい遍歴を得て殆どは滅亡衰退してしまって「融合氏」としての形を保持していないのです。
    その倍の悠久の中を生き抜いて来たのです。最早、物質的なものではないことは明らかです。
    「生き抜きたい」としても生き抜けないのが「無常の世情」です。しかし、「4つの青木氏」は現に生き抜けているのです。
    これを何とか「4つの青木氏」の「先祖の生き様」として描き、その時系列的に起こる現象の史実を用いて解こうとしています。
    そして、この「青木7つの伝統」に依って構成される精神が「3つの発祥源」としての立場を護らせたのです。
    同じ同族の源氏が翻弄される中で、「4つの青木氏」も頼光系の様に同じように観られて巻き込まれる可能性は十分にあったと考えられます。

      「550年の隣人」
    しかし、上記した事も事実あったのですが、もう一つ「巻き込まれる事」が避けられた事があったのです。
    それは、「伊勢」と云う地理的要素が働いたと観ています。
    伊勢は賜姓青木氏の根拠地で、そこに半国国司として950年頃から藤原秀郷の祖父の藤成が伊勢の国司代を務めています。(伊勢はj天領地であり松阪・伊賀・長島の3つの半国に成っている)
    そして、1050年頃にも基景が国司代として務め、その後、此処に伊勢長島以南域を藤原の伊藤氏として定住し、護衛役とし秀郷流青木氏も定住しています。
    平家滅亡期の1185年前は此処伊勢北部伊賀地方が阿多倍一族一門桓武平氏の「たいら族」の半国領国でした。この様に同じ伊勢の住人として550年間の「隣人付き合い」が在ったのです。
    実は伊勢の「たいら族」とは血縁的には無関係ではないのです。
    伊勢の青木氏の始祖の施基皇子の子の光仁天皇と伊勢の阿多倍の孫娘「たいら族」の「高野新笠」との間に生まれた桓武天皇は母方の「たいら族」を引き上げ賜姓した訳ですから、「たいら族」とは縁者関係にあったのです。
    この事で上記しましたが「以仁王の乱」の時、源京綱を跡目として入った伊勢青木氏を中心に「4つの青木氏」は主謀者の頼政の子供1人と孫2人の除名嘆願をしますがこれに清盛は応じます。
    また、4つの青木氏の殖産の「古代和紙」は伊賀地方の伊賀産で繋がっていたのです。
    伊賀の「たいら族」は「宗貿易」で栄え、それを観ての「4つの青木氏」も「商い」で子孫を繋ぐと云う「死生感」は同じで有ったからも知れません。
    織田信長の「伊勢攻めの3乱」で桓武平氏の末裔伊賀が攻められますが、この時、伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏は、2度も大群を相手に織田信勝軍の大軍の側面を突きます。織田勢から突然責められる危険性もあり、名張の城に一族一門を護る為に集結した「4つの青木氏」は伊賀城落城寸前で急遽城から出て織田軍の不意を突き敗退させ助けたのです。
    これは「たいら族」とは政治的には相反する立場に置かれていたとしても、この様に「550年の隣人付き合い」は政治を超えていたのです。この様な史実があって、「4つの青木氏」は源氏の渦中から逃れられたのです。
    もとより、「4つの青木氏」の「死生感」なるものを「たいら族」は「550年の隣人付き合い」から判っていたのではないかと考えられ「脅威感」はおろか「親近感」を持っていたと考えられるのです。
    どの点から考えても渦中に巻き込まれる可能性は無かった事と、「平清盛」と云う人物が上記の背景を考慮して助命嘆願に応じ渦中に巻き込まなかったことから考えて大きかった事ではないでしょうか。
    人物が小さければ上記の経緯が有ったとしても潰しに架った事ではないでしょうか。

      「決定的な失敗」
    ところで話を元に戻して、この事件を更に詳細に追及すると、更に次ぎの事が起こっているのです。
    この頃の政治を牛耳っていた彼等の「思惑」のこの政策には、「決定的な失敗」が潜在していたのです。
    900年の前から上記した様に徐々に「大集団が小集団を吸収する現象」が起こっていたのですが、この現象が益々急速に起こってしまったのです。

    それは、次ぎの「2つの失敗」です。
    イ 「奴婢戸籍」をも廃止し「戸」を形成出来なくしたのです
    ロ イを根拠に「賎民」取分け「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」から成る「奴婢」は「売買」の対象として許可されたのです。(戸籍があれば手続上出来ない)

       イ「戸籍廃止」
    荘園大集団は、上記123を背景に「荘園力」を高め、その高めた力で今度は小集団の「労役の担い手」「奴婢」を買い占める現象が起こったのです。「奴婢戸籍」を無くせば荘園主は「奴婢隷属」であるので自由に扱える事が出来る様に成ります。
    これで益々小集団は「労役の担い手」「奴婢」を失い大集団に吸収されてしまいます。これで荘園を継続する事が困難と成ってしまったのです。止む無く「小集団」はその「大集団」に吸収されて行く「加速度的な循環」が起こってしまったのです。こうなれば「流」が出来て止める事は誰にも出来ません。
    そもそも荘園に対して「税と労役」の負担分を算定する為に「奴婢戸籍」なる特別の人別帳の様なものを造っていました。しかし、それを廃止する事は荘園が拡大しても「税と労役」の負担分を算定できず大きくなった分の税と労役は免除されて終います。この為に益々収益がが上がり拡大の一途を辿ります。

    むしろ、無届に「難民や放棄人」を集め勝手に力ずくで連れてきた「俘囚」等を囲って荘園経営をする様に成り把握出来なくなった事が一番の要因であり、次ぎには源氏や阿多倍一族一門や藤原氏や橘氏や一部の皇族貴族等に「名義主」に成って貰ってその政治的力で「税と労役」を逃れ、その分を「名義主」に支払うと云う巧妙な手口を作り上げたのです。
    「名義主」はその力で更に拡大し、更にその名義料の拡大を図る為に「難民、放棄人、俘囚」を更に獲得しようとして政治力を使って巧妙に無届の戦いを起こしたのです。
    名義主になった大豪族には更に別の利得が生まれるのです。名義料のみならずその実質荘園主が無血縁の一族として名を連ねて其の荘園主の勢力を加えて益々拡大して行ったのです。未勘氏の「源平藤橘」族等が新しく出来上がったのです。(平:阿多倍一族一門)
    こんな「戸籍廃止」の問題だらけの政策を誰が見ても事前に「荘園拡大の行き過ぎ」や「俘囚問題」や「放棄人の流失」の難問が起こる事は承知できる筈です。しかし、実行されたのです。
    これも「源平藤橘」族等の「政治的な裏工作」によるものであり、観てみぬ振りをする公家貴族等の傀儡政権であるからです。
    戸籍を押さえておけば「税と労役」を課して抑制する事も出来たのですが、最早、全く歯止めが利かなくなったのです。
    源頼時−義家親子は真にこの典型的な行動をしたのです。
    清和源氏のみならず源氏一族11家は少なからずこれに同調したのです。
    しかし、清和源氏頼光系4家と2つの血縁氏青木氏はこの流れに同調せずに同族血縁して「2足の草鞋策」へと回避したのです。「3つの発祥源」としての立場を守ったのです。
    古代豪族で皇族賜姓佐々木氏2家(天智天皇近江佐々木氏、宇多の滋賀佐々木氏)は立場を守り「2足の草鞋策」を近江青木氏(摂津青木氏 近江商人)の様に積極的に採らずこの為に衰退したのです。

    (注:この時の令の慣習は江戸時代まで持ち込まれ「百姓」(:現在の意味と異なる 兵農の下級武士も含む)に適用されたのです。戸籍の代わりに村ごとの「人別帳」(履歴を有しない帳簿)を設けたのです。従って、700年以上の間は姓名も墓の概念もなくなったのです。中級以上の武士は「融合氏」を形成して独自の菩提寺を定めてその寺が本家筋の過去帳と戒名で管理したのです。江戸末期まで。
    「良賤民の制」と「五色の賤」が「士農工商」に)

    (参考:近江佐々木氏末裔 佐々木小次郎は衰退して剣術修行に 直系子孫は遺して現存する。 結局、阿多倍一族一門や関東の坂東八平氏[7世族:ひら族]等の掃討作戦で潰されて11家の源氏は直系子孫の「融合氏」を遺せなかった。 遺したのは未勘氏と第3氏である)
    (「源平藤橘」以外にも佐々木氏や賜姓族も含む代表語とする)

      ロ「賎民の売買」
    天皇側にはこの「賎民の売買」の禁止も合わせて行わなかった失敗があったのです。
    ここで敢えて「天皇側」としましたが、この事は阿多倍一族一門の官僚と藤原氏の摂関家等の官僚即ち「大集団の名義上の荘園主」は知っていた筈です。しかし、敢えて知らぬ振りをして123の「政策実行」を、如何にも「氏融合」の[国策3策の効果」を推進するかの様に見せかけて、実は123が荘園力を増す事を知っていたのです。否、この時期の天皇側もこれ位の事は理解し知って居た筈です。
    それも「奴婢売買」の事を「傀儡の天皇」に隠して「大集団の荘園力の拡大」を狙っていたのです。
    123に限らずイ、ロも内容的には天皇もそこそこの頭脳があれば理解できる筈です。無能であったか、何も云えなかったか何れであろうが「可笑しな政策」である事くらいは理解出来ていた筈です。
    まして、各地で下級官吏を巻き込んだ「暴動や反乱」が頻発しているのです。判らないのでは゜馬鹿」を通り越しています。
    ”何も云えなかった”、つまり無能であった事に成ります。だから、1068年の「後三条天皇」の行動に繋がったのです。国難と察し実に「有能果敢、洞察力、戦略性のある天皇」であった事が判ります。
    天智、天武天皇の「大化改新」に続くものである事が判ります。
    その後に力を持った「大集団の首魁、荘園主」は血縁の無い他の集団をも征服して土豪として君臨し、その「吸収された集団」もその「氏(融合氏)」の中に組み入れられて、同じ「融合氏」を名乗りながらも「血縁性」のある「正系」と「血縁性」の無い「傍系」と云う形で統合されて行きました。
    (ここに正系と傍系の呼称が残ったのです。)
    この「血縁性」の有無は元よりその「血縁濃度の高低」をも意味します。

      「正系、傍系」(融合氏の氏詳細)
    例えば、清和源氏などの「正系、傍系」はこの形から来ているのです。
    「甲斐源氏」は、正式には「清和源氏」には頼光系本家(4)と頼信系分家がありますが、この「頼信系分家」の「摂津源氏」の支流「河内源氏」の「傍系」となっているのです。「足利源氏」も同様ですが藤原秀郷一族の仲介で清和源氏と血縁しています。甲斐は河内源氏の傍系一族の放追者が常陸に逃げ甲斐に到達して甲斐の土豪と血縁して勢力を高めたとされていて真偽は定説としては武田氏の言い分を聞けば真であるとしているのです。
    系譜は義家の弟三男義光を祖とし義清より分岐し清光−信義と成っている。ここから上記の物語が生まれて武田に行き着いた事に成るので義光系の系譜と成っています。しかし一方藤原秀郷一門が鎮守府将軍として陸奥で務めそこで血縁した小田氏が次ぎの赴任地甲斐に同行して勢力を高め土地の土豪と成りその事から地名から武田を名乗ったとされる説もあります。前者は清和源氏説で後者は藤原説です。

    では、源氏説となれば家紋から見れば「笹竜胆紋」で「副紋と変紋」は一切使わないのが賜姓族の慣習です。主に平安期に於いては各地に分布する源氏11家と青木氏29氏と藤原氏北家主要9氏と佐々木氏2家の合わせて概ね55氏×5程度の中から血縁族を求め同族血縁を主体として主系正系を保っていました。その為に武家の「家紋掟」に従う事無く象徴紋(家紋)が保たれていたのです。
    これ等の融合氏では「武家の発祥源」でありながらも「家紋」の扱いは「家紋」と云うよりは「象徴紋」的扱いの習慣であったのです。
    これは天智天皇期から賜姓青木氏が「融合氏」のその「象徴紋」として、又「3つの発祥源」のその「象徴紋」として、「正系」の象徴紋としての扱いのもので在ったところから家紋感覚は低く、因って「副紋、変紋」が生まれなかった事によります。
    これ等の事から武田氏は「4つ割菱紋」である事は「源氏説」は異なっている事に成り、仮に源氏で在ったとしても「傍系」であり、その「傍系」も上記した「大集団化」の「融合氏」の「未勘氏族」の可能性大であるのです。まして、河内から各地を流浪して常陸に行き甲斐に来た者としているところは未勘氏の源氏説に使う手でありその可能性が強いのです。甲斐に到達した時に名乗ったとするだけでの心証ですので疑問が残ります。恐らくは河内源氏とするのであれば氏家制度に基づいて河内の宗家に対して家紋の認証と呼称の認証を採っている筈です。見つかっていません。
    もしこの系譜であれば笹竜胆紋である事に成ります。伊豆の源氏や木曽の源氏や新宮の源氏や近江の佐々木氏や滋賀の佐々木氏等直系の系譜を持つ源氏は全て笹竜胆紋です。この様に歴史の定説には矛盾を多く含んでいます。
    つまり、「源氏」を名乗った時に上記の「賜姓族の仕来り」を知らずに名乗り後勘にて矛盾を孕んでしまったのです。間違いなく「傍系」であり「未勘氏源氏」の可能性が大であると観られます。
    現実に源氏が滅亡しているのですから後から適当な系譜を作り上げても何も文句を言う者が居ません。其の内、「搾取と編纂」が実しやかになるのです。
    室町期の殆どは仕来り無視の名乗りでこの類なのです。
    其の点で藤原説では、足利氏と同様に、藤原秀郷一門の陸奥の血縁族の「小田氏の末裔」と考えられ、地名より武田氏を名乗ったと成っています。この小田氏の一部が常陸に移動して「関東屋形」と呼ばれる氏(結城永嶋氏、佐竹氏、小田氏、宇都宮氏、小山氏)の一つの大豪族小田氏(秀郷一門支流一族)と成っています。後に秀郷一門宗家の圧力仲介により清和源氏より跡目に入っています。
    この陸奥小田説を採り難い理由は「蝦夷」で無いのに「蝦夷」と呼称されて義家に征討され安倍氏と清原氏の俘囚民か支流末裔と観られる事に対する懸念からではないかと観られます。
    むつの土豪の花房氏、小田氏、小山氏等は阿倍氏や安倍氏か清原氏の支流末裔であると観られます。その根拠は秀郷一族一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任し、「現地の騒動」を鎮めたのは武力に因らず「血縁関係」による「政略」を主体としていたからです。
    それを主導したのは秀郷一門の護衛団の秀郷流青木氏だからで、各地の赴任地の治世では歴史上大きな戦いは無く24地方の政略婚が藤原氏の主戦略でした。この意味で陸奥安倍氏との繋がりを持っているのです。治世策で観てみると、藤原氏の「政略戦法」に対比して源義家は余りにも違ったのです。秀郷一門の政略婚は真に「融合氏」の国策に順じているのです。ここでもこの「荘園の行き過ぎ」には秀郷一門は加担していないことが判ります。秀郷一門の彼等の勢力はこの「義家らの荘園行き過ぎ」行動の始末に依って天皇より与えられ獲得した領国です。
    実は足利氏は同じく陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁しその花房氏の血縁氏が同行し足利に秀郷一門として赴任しました。その後、信濃足利(栃木ではない)の土豪と成り勢力を拡大し足利の地名を採って足利氏と名乗りました。
    この土豪の足利氏の本家は秀郷一門に反発して云う事を聴かなかった為に秀郷一門はこの土豪足利氏の分家に秀郷一門の宗家から跡目を入れて後盾の後見人となり、この分家を以て本家を追い出しに掛かります。結局、この土豪足利氏の本家は足利氏系青木氏(賜姓信濃青木氏の血縁族)と共に米子八頭方面に逃亡して定住します。残った分家を本家として信濃足利氏となるのです。この足利氏に清和源氏の跡目が入ります。故にこの史実より足利氏も源氏の傍系の支流一門と成ります。

    (この時、秀郷一門は東山道域の中部地域に勢力圏を延ばしたのです。そうしなければ伊豆を基点として頼信系清和源氏の関東伸張と対峙する事に成ります。最終、清和源氏衰退後秀郷一門の勢力圏に成ります。)
    武田の土豪小田氏は足利氏と同じ事件が起こり小田氏はこれを受け入れたのです。その代わりに青木氏系小田氏の一部を常陸に移し秀郷一門を背景に「関東屋形」と呼ばれる小田氏一門を拡げたのです。
    従って、武田氏は全体の経緯から「藤原説」を採るか途中から「源氏説」を採るかによりますが定説は中間の折衷説を採用しているのです。
    常陸からの流浪説もこの常陸と関係させておく配慮であったとみられます。恐らくは、武田の小田氏に跡目が無くなり一族の常陸小田氏から跡目を採ったのではないかとみられます。結局は足利氏と全く同じ源氏傍系支流一門と成る筈です。
    この地名を採った武田氏はその家柄をより誇張するために「一条氏の末裔」だと名乗っているのですが、この時、貴族血縁がある事を誇張する風潮が流行っていて四国などに逃げた一条氏の末裔と名乗る事が各地の豪族で流行ったのです。名乗るほどの一条氏に人物数が無いにも名乗ったのです。
    これでも武田氏のルーツ説の疑問があります。源氏と異なり藤原説は一族一門は厳然として残っている訳ですから変な名乗りをすれば周囲の藤原氏から潰される事は必定です。「第2の宗家」青木氏が絶大な武力を以て潰される事は判っていますから源氏の様な事は無いのです。

    (青木氏も秀吉の時代に摂津青木氏(近江青木氏)が元上山氏の滋賀青木氏(近江青木氏断絶分家を乗取り再興)に対して秀吉了解の下で2度戦い元上山氏の滋賀青木氏が勝ち名乗る事件等があった。各地でこの様な事が室町期末期から江戸初期前に頻繁に起こる)

      「定説の疑問」
    この様に「定説」と成る資料は氏家制度の習慣、掟、仕来り、取り決めを考慮せずに現在的な感覚で一面的に考察して検証しているのです。だから主に各氏の作る搾取編算の系譜を正としての説が多いのです。ですからルーツ解明となるとこの時期の「融合氏」の研究には特に注意が必要なのです。
    藤原秀郷一門からのルーツを観ると定説に対する搾取の疑問が多く観えて来るのです。
    この定説に影響を与えているのは「義家と安倍氏と清原氏」の事が見え隠れしているのです。
    殆どは定説の義家を「正」としての事から始まっているのです。
    しかし、本文の様に研究していると「義家の性善説」に疑問が出てくるのです。

    嵯峨期の「新撰姓氏録」には、古くから地方豪族であった氏が旧来の名字を捨て、中央で勢力のある豪族の氏に「何らかの縁」を求めて属し、その傘下に入り、その代償を払いその「氏名」を名乗る事に依って地方豪族が中央の官職を獲得する事が出来たのですが、その様子を観る事が出来ます。
    特に、この事(「正系、傍系」)を集大成したものが「南北朝期」に出来た「尊卑分脈」です。
    要するに「未勘氏現象」と呼ばれるものですが、「縁結合」のその一つです。
    その代表的な「氏」として中央に繋がる「源平藤橘」(阿多倍一族一門含む)がその「対象氏」と成ったのです。
    これ等が大勢力に成った主な原因は、主にこの事(正系傍系の未勘氏現象)に依るのです。
    しかし、この「結合氏」の「絆」(縁結合)は緩いものがあり、「橘氏」の様に藤原氏に押されて衰退すると直ぐに鞍替えして霧散するという現象が起こったのです。
    「橘氏」(4家)はこの判断(実力を過信)を誤った為に滅亡の憂き目を受けたのです。
    「源氏」(11家)も「義家の幻想」を理解損ない実態は左程に大きくなく院政から疎んじられると脆くも同じく滅亡の憂き目を諸に受けたのです。
    その点で「桓武平氏、平族」は上記した様に血縁による阿多倍一族一門が余りに大きく成り過ぎた為に「氏間」の結束が取れなくなった事と、「民族性」の強い互助の働き難い「氏姓性」を持っていた事等の別の原因で滅亡したのです。
    しかし、反面、「融合氏の集団化」による「未勘氏現象」が起こり「吸収と離反」を繰り返すと云う事が記録から少なかった事が云えます。
    平将門、平忠常、安部氏の事件等は乱世を生き延びる為の政略であったのです。日本人が求める「融合氏」の様に「氏姓」を同じくする「同族血縁」を深める等の事は比較的少なく”「薄く結合する」”と云う概念であったのです。だから安部氏の様な「トカゲの尻尾切り」の様な事は逆に頻繁に起こるのです。
    例えば日本人に理解し難い事として伝わる現在の中国の山岳地で起こる騒動の鎮圧の政治的措置に観られる現象と同じです。
    この様な大化期から入ってきた「民族氏の概念」が国内に蔓延すれば「在来民族」との間で遊離現象が起こり国は再び2分する結果となる事は「自然の摂理」として必定です。
    邪馬台国の卑弥呼を中心とした「国家共立体制」が「ヤマト王権−大和政権−大和朝廷」と引き継がれ802年にほぼ統一した国家が、再び阿多倍一族一門とその集団200万人の帰化に依って分裂すると云う事態に遭遇していたのです。既に九州では独立自治の動きがあり国政に従わずそこに「荘園の行き過ぎ」が起こったのですから危険極まりない状況に陥っていたのです。

    初期の天智天武天皇期の皇親政治、中間期の嵯峨期の皇親政治、そして末期の後三条天皇の親政院政政治の国を預かった天皇の悩みは計り知れないものがあったと考えられます。
    取り分け初期の皇親政治に関わった青木氏中間期の秀郷流青木氏には計り知れない悩みがあった事は間違いない史実であり、それ故に青木氏側から観れば源氏頼信系の義家等の行動は容認する事は出来ないものであります。「正系傍系の未勘氏現象」を起こして大きくなる等は言語道断であります。

    ところが、この「未勘氏現象」を上手く利用して勢力を戦略的に運用して生き延びたのは、政権の中枢に居て「同族4家の族争い」を起こした中でも「藤原氏の北家」、中でも「秀郷一族一門」なのです。
    不思議な現象です。「融合氏」の青木氏等の「正道」−「民族氏」の阿多倍一族一門の「逆道」に対してその中道を歩んだのです。「頭脳的な生き様」と云う以外にはありません。
    なかなか何時の世も「中道派」は生き難い筈です。「衰退の道」が世の常です。ところが「繁栄の道」なのです。
    「繁栄の道」になるとすると何かシステム(緻密な戦略戦術と組織の掟と司令塔の存在)が必要です。
    現在まで繁栄を遂げて来たのですからシステムが在った事を意味します。「それは何なのか」です。
    既に論じましたがその主因は「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」としての「緻密な戦略的行動」にあったのです。当然にこの「未勘氏現象」が起こりましたが、それを「判別する仕組み」を採用して「血縁性の有無」を明確にし、「実力の過信」を起こさない様に「管理統括監督」していた事が生き残りの原因です。
    その仕組みは次の通りです。
    一つ目は「藤原氏の呼称方法」です。
    青木氏と血縁性の高い主要5氏を除き、分けて「藤」の前に「24の地名と斎蔵の数種の官職名、役職名」を付けて一族一門の「血縁の関係性」の判別を明確にしていたのです。(主要5氏:青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)
    二つ目はその枝葉の「氏の象徴」となる「象徴紋または家紋」を明確にして「正系の系列」と未勘氏の「傍系」を判別出来る様にしていたのです。
    例えば、次ぎの様な方策を採りました。
    一つ目の仕組みには、秀郷一門は「副紋方式」を採用し「丸紋」は使わず「藤紋の変紋」も限定していてそれも判別出来る様にしたのです。
    二つ目の仕組みには、「氏掟」が存在していて「融合氏」が拡大するに連れて監視監督が困難に成る事を避けて一族一門が結束できる方法を考え出していたのです。
    ここに阿多倍一門一族との大きな違いがあったのです。
    甲斐の武田氏が信長に滅ぼされた時、甲斐の武田氏系の「3つの賜姓青木氏」が各地の藤原秀郷一門の青木氏を頼って逃げ延びる事が出来たのはこの「2つの仕組み」のお陰で血縁関係が明確に把握されていた事によるのです。特に青木氏に関しては母方での血縁関係が明確に把握されていたのです。

    これは「融合氏」として氏神の守護神(春日大社)と氏寺の菩提寺(興福寺)等の支社を各地に置きそこで系譜、戸籍などを管理記録されていたのです。
    この記録は「3つの発祥源」としての認識があったからこそと考えられます。
    全藤原氏においては「傍系未勘氏族」の判別が完全に出来るのはこの仕組みから来ているのです。
    「正系、傍系」の違いは「未勘氏」である事のみならず、この「3つの発祥源」にあり、これを護る認識の有無によります。それは「血縁性の有無」と「有品認識の有無」にあり「正系、傍系」は根本的に大きな違いを持っているのです。この「血縁性」が在っても氏家制度の中では「本家分家の差」に於いても分家は本家の指示行動に従うと云う仕来りから「義家の勝手な不合理な行動」(義家は頼信系分家筋の直系)の差として出て来るのです。
    結局は、最終は「有品認識の有無」が左右する事になるのです。(頼信−義家は本家と違い有品の認識が薄かったことに成ります。)

    このシステムを管理監視認可など場合によっては血縁の紹介と段取りもして居た事が判っています。これをする秀郷流青木氏が「第2の宗家」と呼ばれる所以なのです。青木氏の指示に基づいていたのでしょう。

    (甲斐の3つの賜姓青木氏:武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏 これ等の氏は甲斐賜姓青木氏の末裔で家紋掟により分家となった。)

    青木氏と守護神(神明社)−7に続く


      [No.272] Re:青木氏と守護神(神明社)−5
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/04/01(Fri) 12:06:03  

    青木氏と守護神(神明社)−5


      「5つのキーワード」
    青木氏と守護神(神明社)−4で述べて来た様に、つまり、どの歴史事件や史実を観ても、「国の安寧と安定」−「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」(寺社)の「国策関係」が連動して生まれているのです。融合氏の歴史には必ずこの「5つのキーワード」で史実を検証して立体的に論じる必要が不可欠なのです。

    ところが、人は間違いを起こすのです。歴史には殆どその間違いを起こしていて、指導者と為政者は「三相の理」を極める事無く、遂にはその勢いに押されて「妥協策」まで必ず打ち出す始末と成るのです。
    これを俗に「流れ」と云いますが、故に「事件と事件の間」には必ず「経過期間」として評価できる「妥協策」が存在しているのです。
    有るとなれば、先ずこの「妥協策」が何処にあるのかを発見する事がその事(例えば荘園制度とすると)の正しい評価(分析、考察、検証)が出来るものです。
    この「経過期間」=「妥協策」がもし見落としての「評価」(分析、考察、検証)は史実と異なってしまうのです。
    「大化期、嵯峨期、後三条期」の「3期の皇親政治」には「衆知の知恵」を生かしてこの「三相の理」が良く働いているのです。故に、前代未聞の大改革が達成されているのです。
    ただ「皇親政治」には危険性も認められますが、「皇親政治」を敷いた時はある「特定の条件・環境下」に必ずあり、この「独走する危険性」は低くなるのです。
    傾向分析にて調査すると、この「独走する危険性」が低くに成るには次ぎの3つの要因が認められるのです。
    先ず、一番目として、この「特定の条件・環境下」とは「国難」となっている大問題があって、それに強い「流れ」が起こり止められない状況と成っている事なのです。つまり、その国難の「限定された問題」に集中する為に「独走」は起こらないのです。
    政治課題が広範囲で長期間で有れば特定の共通する手法が用いられる為に「個性的な偏り」が全体に及ぶ事から起こる現象ですから、「限定された問題」に「著しい個性的な偏り」とはならないのです。
    そして、二番目には、その「独走する危険性」が低く成る要因として、その国難がほぼ解決すると「危険性が高くなる直前に「皇親政治」を開放している事なのです。
    次に三番目として、「皇親政治」の政治手法に「合理性」が強く働いている事なのです。つまり、「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」で処理されている事なのです。
    補佐する「皇親方」が「優秀」であってこの「合理性の理」に聡い人物で有ればこの一貫してその合理性のある政治手法が貫かれます。しかし、これが長期に及び他の聡くない人物に引き継がれるなどを起こすとこの合理性を欠く「独走する危険性」が起こります。だから開放するのです。

    この「3つの要因」が「3つの皇親政治」に傾向として働いているのです。
    この事は当然に読み取れる事として、「皇親政治」を強いた天皇には、或いは天皇家には伝統として”「皇親政治」は「通常の政治手法」ではない”と云う思考原理があった事を意味します。
    それは、「皇親政治」によって問題解決までの一時的期間には良いがその課題・国難が解決すると今度は「自然の摂理」(「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」)で「人民の反動」の現象が「良し悪し・好み好まず」に拘らず起こる事を悟っていて「皇親政治の短期的な開放思考」は伝統的に引き継がれていた事を意味します。
    主に中でも+−の「相対の理」が働く事を家訓的に引き継がれていたと観られます。
    国難が解決してもこの「現世の条理」には必ずその後には「負」の反動がある事を悟っていたのです。
    これは「青木氏の家訓」に示す様に「相対の理」による「負の反動」は、”先ず「人」の優劣に左右し、次ぎに「時」の長短に左右し、最後には「場」の有様に左右する” と云う「戒め」がある事からすると、同じ伝統を共有する天皇家にもその「伝統思考」が充分に「長の戒め」として引き継がれていた事が考えられます。

    この様に「3つの理」は扱い方に依っては「悪」にも成り「善」にも成る事なのです。
    特に「政治の世界」に於いては通り一遍では無く「人心の不確定さ」が大きく左右するのです。
    ”良ければ飽きが起こり増長して不満を述べ立て、悪ければ騒ぎ立て不満を述べる”と云う厄介な「人間の性」がある限り、”「良は良で有り続けない」”のです。仏教の認めるところです。
    だから、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」なのでしょう。
    この様に日本の歴史には「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」が連動している限りは論理的に次ぎの判別式が必ず成り立って行くのです。

    「事件」−(経過期間)−「事件」→「妥協策」
    「大改革」=「3期の皇親政治」=「三相の理」+「相対の理」+「構成の理」

      「整理令の反発事件」
    「三相の理」の「人の要素」の欠如から起こった過程では当然次ぎの過程を色々と生むのです。
    「融合氏」に成って大きくなった豪族等が「大集団氏」の翼傘下に入り好き勝手な行動を採り1050年頃から挙句は「荘園同士の潰しあい」にまで発展して行く過程を必ず採るのです。(相対の理)
    実はこの「荘園整理令」(1070年発布)の少し前から起こり始めた「荘園問題」(1028年頃)の象徴とする事件が東国にも起こっていたのです。「相対の理」として西を(+)とすると必ず原理に基づき東の(−)にも何か起こっていると云う事です。
    「三相の理」の「人」で起こっているものとすると「人の心理」は無意識の内に「相対の理」の対の現象をある時間を置いて起こすものなのです。
    史実として「氏吸収の大集団化」と「荘園力」に依って余りに大きくなり過ぎた東国の「平忠常」の「氏勢力」に対して朝廷は史実「恐怖」を感じてこれを清和源氏3代目源頼信に潰させたのです。
    1051-1062年には「安倍氏」の陸奥方面の超大勢力を5代目源義家に、更に源義家に1083-1087年の奥羽で清原氏の事件等の巨大化した氏に対して潰させ、これらの事件を潰した清和源氏頼信から孫の義家の源氏も大きくなり過ぎたと観て皇族の同族でありながらも、挙句は朝廷から警戒されて無視される始末事となる等の事件が起こりました。
    この様に歴史の経緯を観ると、朝廷による同じ「潰し作戦」に掛かる事件が各地で頻繁に起こる様になるものなのです。現実に頻繁にこれ以外にも大中の集団の氏が潰されて行きます。
    天皇が「朝廷軍」で自ら潰すのではなく大きくなり過ぎた「融合氏」で先ず潰させ、今度は「天皇の権力」でその「氏」を「政治的に潰す」と云うことが起こります。
    先ず、この時の後三条天皇と白河天皇とその院政は、阿多倍一族一門の「官僚勢力」と「摂政藤原氏勢力」を先ず首脳から外して無視してから、用意周到にこれ等の官僚氏に対して「無血縁の皇族」による「親政−院政政治」に依って「整理改革」が起こされたのです。これらの天皇は極めて頭脳的であります。

    この様にしてから、「荘園整理令」から始まり「知行国制」「院宮分国制」「荘園公領制」と40年間で「経済的な建て直し」と「権力の取り戻し」と「巨大化融合氏の潰し」を図り、内部には「大きな不満」を抑えながらも成功します。 (この不満が後に「負の反動」の元凶となる)

      「同時期の東西の始末策」
    この時期を同じくして、以西では九州の大蔵氏問題(1018年の巨大化した大蔵氏)の「九州自治統治」の時期が一致しています。つまり、日本の国左右で「巨大化氏」の「大集団化」が起こっていたのです。
    つまり、以西の九州では「民族氏」の「独立始末策」、九州より以東では「融合氏」の拡大の「荘園始末策」が起こっていた事に成ります。
    これでは阿多倍地族一門末裔の国策に従わない彼等に対して(九州基地の「民族氏」の「独立懸念」に向けての騒ぎに)は朝廷としては手を出す余力がありません。
    この様に以後に打ち出された国策を「相対の理」に従って予測し調べだしてそれを系統化して並べてみると、「朝廷」と云うよりは「天皇家」の「皇親政治族」は最早九州では「自治」を認める以外に無かった事が判ります。
    もし、仮にこの「自治」を認めなかったとすると左右からの「阿多倍一門一族の圧迫」により天皇家は無くなる事は間違いないと考えられます。
    東西から同族で挟撃されていて、尚且つ「軍事、経済、政治」の官僚6割を占めていた為に阿多倍一族一門に「政権の座」もしくは「天皇の座」も取って代わられていた可能性が大いにあったと考えられます。
    朝鮮族の蘇我入鹿の時にもあった様に、今度はそりよりも遥かに大きい後漢民族に。

    以西−「独立始末策」+以東−「荘園始末策」=「阿多倍一族一門」

    この様に同時期に東西の「2つの始末策」には両方に阿多倍一族一門が最大に関わっていたのですから。
    実はそれだけでは無いのです。以北の地域には実は大きく忍び寄っていた勢力があったのです。
    源義家らに依って鎮圧された以北には無傷の大勢力があったのです。
    それは何と阿多倍の3男の賜姓「内蔵氏」が以北の半部近くを占める大勢力の「融合氏集団」を既に形成していたのです。(以北の小集団の土豪連合と血縁した:民族氏ではなかった)
    そして、以北と中部、関東の境界付近には阿多倍の一族一門の「阿倍氏」も「融合氏集団」を同じように形成していたのです。
    しかし、「親政−院政」の歴代天皇はこれに手を着ける事は「火に油」に成り出来なかったのです。

    以北−「内蔵氏」+以北-中部-関東−「阿倍氏」=「阿多倍一族一門」

    東西に問題を持っていたにも関わらず関東と以北のこの融合氏にも手を出さなかった事に成ります。
    関東は藤原秀郷一門です。以北は「内蔵氏」と「阿倍氏」の一門です。

    ”一体何故なのか”疑問です。
    この「2つの大集団」融合氏に共通する条件を観る事で判別出来ると考えます。
    次ぎの4つがあると考えます。
    1 全てを潰すと逆に乱れ全体の「力関係バランス」が崩れる事
    2 1の中でも「温厚な氏」「経済的な具納する氏」「朝廷の主要官僚氏」を温存する事
    3 東西の阿多倍一族一門(直系兄弟、従兄弟)に挟撃される戦略上の事
    4 天領地と穀倉地の地域帯であり「食糧問題」に直結する事
    この4つの共通理由で平安末期この二つの「一門一族」は温存されたと考えられます。
    その歴史的な史実が多く遺されています。
    例として有名な秀郷一門の平泉の藤原三代の朝廷への「金の御調」等があります。

    皇族賜姓族の源氏でさえも押さえ込まれたのですが、不思議な事にこの中間にいた「日本最大の融合氏」361氏にも成る藤原氏北家族秀郷一門が院政に依って関白から外されても温存されたのです。
    この時点での「親政−院政」の皇族は賜姓青木氏とは殆ど無血縁であったのですが、皇族賜姓青木氏も温存されていますが、これは又何故なのか2つの疑問が残ります。

      「皇親政治の意味」
    その前に論じておくべき事があります。
    1020-1050年を境に「融合氏政策」の「国策3策」も有名無実と成りつつあったのです。
    恐らくはこの「後三条天皇」が大化の志を完遂する為に勇気を振り絞って命を掛けての「平安期の最後の抵抗」を試みたのです。
    孤軍奮闘の中で3度目の「皇親政治」そのものを敷く事自体難しい事とであった筈です。しかし、この問題を解決するには「皇親政治」を敷く事は避けられません。
    「律令政治」が熟成域に達していた時の彼等の末裔が要職を占めている環境下で、その彼等の最も利害の高い彼等の根幹と成る荘園に手を出したのです。

    ところが幸いこの天皇は次ぎの様な特長を持っています。
      「目的達成の手順と特長」
    1 藤原氏と血縁関係が無い事
    2 藤原氏を退けた事
    3 親政を敷いた事
    4 融合氏として成長した優秀な中小集団の大江氏等を登用した事
    5 多少の血縁性のある中流級貴族層を起用した事
    6 耕地調査やそれを監督する官僚を阿多倍一門から外して任命した事
    7 命令を徹底させる為に「宣旨」制度(天皇の直接命令書を制定)を矢継ぎ早に実行した事
    8 身の安全を守る為に「北面武士団」を創設して皇族身内族で固めた事
    9 後三条天皇の奮起により1070年から134年間「親政と院政」の土壌を敷いた事
    10「公地公民」を変化させて親政で目的とする「荘園の公領制」に道筋を開き戻した事

    史実を考察すると、この目的とする事の為に「的確に状況判断」をし、自分の取り巻く「条件の強弱」を見定め、必要とする「論理的な手順」の順序を間違いなく執行して達成しています。
    この10項目を考察すると、真に「相対の理」「三相の理」を会得していた人物である事、天智天皇の再来の人物である事が云えます。だから成し遂げられたのです。
    逆に云えばそれまでの天皇は、既に荘園制度が朝廷の圏域も脅かされる状況に成り、国策の行き過ぎが認識されていた筈でありながらも、改革を実行できなかった事はそれだけの「気構えと知力」が備わっていなかった事を物語るものであります。(長としての欠如)
    以西には九州の彼等の末裔大蔵氏が自治を始めた時(1020)でもあり、これだけ悪い条件の中では先ず「後三条天皇」と云えど命の保障は間違いなく無かったと観られます。
    周囲の大勢力阿多倍一族一門や藤原氏は大利害が伴う敵であります。

      「氏融合(国策3策)」<「荘園制度」
    「氏融合策」の「国策3策」の余りの勢いを抑えようとして採った政策が、想わぬ逆の方向へと走り結局は自分で自分の首を締めて、朝廷と天皇の力を弱め最早留める事が出来なかったのです。(荘園と云う強い流れが起こっていた)
    歴氏的に観ると、その「流れ」のピークは「園地宅地法」でその切っ掛けを作り、「墾田永年私財法」で完全な失政をしたと観ています。(「流れ」を作り出したのは「班田収授法」と成ります。)
    「荘園整理令」を、「天皇第2期皇親政治」(嵯峨天皇期)で一致結束して更に続けて、「文徳−清和天皇期」に発令する事が適切な時期と考えられ、「三相の理」から観てもう少し早く出すべきであったと観ています。そして諸般の事情を鑑みると「私有財産化」は鎌倉期前に出すべき事と考えられます。
    しかし、朝廷内では阿多倍一門一族平族を廃し藤原氏を外した為に結果として「3つ巴の争い」と成りました。誰が敵で味方か判らない状況と成り遂には天皇側の「賜姓族」「藤原氏」と「阿多倍一族一門末裔」側との「武力の戦い」に成り、「自然の摂理」にて「争い」以外に解決する方法が無く成って「決着」へと発展して行きます。

      「皇親政治院政」
    (第1期:天智天皇671没−天武天皇686没−持統天皇697没) 52年間 皇親政治
    (第2期:嵯峨天皇823没−淳和天皇840没−仁明天皇850没) 41年間 皇親政治
    (第3期:後三条天皇1072没−白河天皇1086−堀河天皇1107没) 60年間 親政政治
    (第4期:鳥羽天皇1107−白河上皇1129没−鳥羽上皇1156没) 49年間 第1期院政政治
    (第5期:後白河天皇1158−後白河上皇1192没 5代院政)34年間 第2期院政政治

      「同時代の経緯」
     大蔵氏九州南北の自治1018
    (清和源氏全盛期−源頼光1021没−平家台頭160年間−源頼政1180年没 源頼朝1195没)
    (以西で大蔵氏1018−都で源氏1021−平族960-1180)

      「大集団化への融合」
    1018年頃で皇親政治の国策(融合政策)はほぼ完成しましたが、その後は1180年までの160年間は姓氏(11824氏)にも成った「小集団の融合氏」が、上記の経緯の様に今度は「大集団の融合氏」に吸収されて行き「無血縁の大集団の融合氏化」へと変化して行くことに成ります。
    つまり、「血縁の融合氏」が大きくなるのではなく、ある力のある「一つの融合氏(A)」に無血縁の小さい融合氏が群がる様に吸収され、その大集団と成った氏名は融合氏(A)を呼称する事に成ります。吸収された「無血縁の小融合氏」もその氏名(A)を名乗る現象が起こってしまったのです。
    これが極めて多い通称「未勘氏」と呼ばれる氏なのです。

    丁度、「渦の現象」で周りのものを事ごとく巻き込んでしまう現象でそれがあちこちで起こりその渦も更に一つの氏に成りつつ最後には収拾できないほどの渦が出来てしまい、遂にはその環境を破壊し爆発さしてしまう現象なのです。この環境の破壊は朝廷・天皇家の体制を壊し共和性の政治体制へと変化する事を意味します。

    この事は天皇が考える「国策の融合氏政策」にとって目的とする現象では有りません。
    尚、更にこの難題「大集団化」には大きな弊害が起こったのです。
    「部曲、品部」などの「農業生産力」や「物造り生産力」の富がこの大集団に吸収され著しい富の偏りが生まれ、逆に民は疲弊したのです。
    何時の世も富の偏りが生まれれば当然に一局に「権力の集中」も起こり、腐敗等が横行して「政治の渋滞」が起こる事に成ります。
    終局、民の信頼を失い「天皇の権力」と如いては「朝廷の権力」の低下も起こり「悪の循環渦」を誘発して果てしない止める事のできない「政治の混乱」と成って行きます。
    累代の天皇はこの現象に憂慮していたのですが、この津波の様な「渦の流」を誰も止める事が出来なかったのです。少なくとも1018年の「後一条天皇」か1068年の「後三条天皇」までは何も出来ずこれ等の勢力に思うが侭に漂うのみだったのです。
    「第3期の皇親政治と親政・院政」で何とか留める事が出来たのですが、事は既に遅く「渦の流れ」は緩やかに成ったとしても、上記した「相対の理」による「負の反動」が皮肉にも「国策3策」の「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」に依って起こってしまったのです。
    「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」を育てようとして「荘園制の行き過ぎを留めたのですが、肝心の大集団の荘園主では無く、その「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」に依って憂慮して居た事が起こされてしまったのです。
    最早、天皇朝廷の権力の低下は避けられず、「決着」をつける意外には方法は見出せず遂に「大集団の荘園主」と「融合氏」の発祥原」(「侍」・「武家」)との争いへと発展して行ったのです。

    「小集団の融合氏化」(645-1018)→「大集団の融合氏化」(1020-1300)→「第1期の室町期混乱期−下克上−戦国時代」(1350-1570)

    しかし、実は「渦の流」の中で、天皇側は憂慮した事が起こらない様にそれまでに働いた形跡があるのです。
    その証拠に「天地・天武期」の「第1期皇親政治」と、桓武天皇の官僚による「律令政治」と対峙し「戦いを含む争い」を起こしてまでも嵯峨天皇は「嵯峨期の第2期皇親政治」を採用しているのです
    この「2つ実績経緯」を詳しく調べると、”燻っている朝廷内の不満を抑えようとした”とも見方も充分に採れるのです。
    現に、皇族外(たいら族:阿多倍一族)に賜姓した桓武天皇の「官僚による律令政治」を一部緩めて、第2期皇親政治の嵯峨天皇は第牟6位皇子による「賜姓制度」を再び皇族に戻し「賜姓源氏」にして「融合氏」国策を継承させ、更には「元の青木氏」を皇族出身者の「氏名」としての「融合氏」策も更に継承させ、又、上記した「八色の姓と爵位制度」の「柔軟な運用」も実施して優秀な官僚を登用した事も然る事ながら、荘園主には上位の姓と爵位を与えて不満の解消に当たった事にも成り得るし、天皇家一族自らも「氏の模範」として継承させて行く姿勢を内外に示した事等の事から観ても積極的に不満を抑えようとしていた事が史実から数多く観察出来ます。
    その総合的な姿勢を示す最たるものとして「嵯峨期の詔勅」(弘仁の詔勅)が発せられた事なのです。
    普通の安定した政治状況なら内容から観てこの詔勅は違和感を感じます。
    何かの政治的背景が有っての詔勅です。それは上記の「官僚による律令政治」の「初期の弊害」が生まれていたからなのです。
    何故、此処に来て嵯峨天皇がわざわざこの詔勅を発したのかを考えると納得が行きます。
    一方で「不の反動」の切っ掛けと成る「不満」を抑え、他方で天智天武期からの「国の安寧と安定」の国是の”「民族氏」から「融合氏策」”を推進させようとしていたのです。
    一方、「国の安寧と安定」は”律令政治の完成から”を主張する桓武天皇は律令国家を推進し完成させた日本で最初の天皇ですが、この2つの「政治路線」の違いが起こっていて、子供の嵯峨天皇は「律令政治への弊害」を問題視していたのです。
    この弊害は一つ目は「荘園制への憂慮」であって、二つ目は「官僚主導による政治体制」から「皇族の疎外感」が大きく燻っていたのです。
    この2つともに「天皇家の存在感の低下」とその「政治体制の崩壊」を招く材料です。
    まして、その官僚の6割を占めていた阿多倍一族一門の「民族氏」の台頭は、当然にも「天皇家の存在感の低下」とその「政治体制の崩壊」に直接結びつく要因であり、尚且つ、以西と以北の彼等の勢力(32/66)を度外視する訳には行かなくなっていた環境下だったのです。
    殆ど国ごと乗っ取られる可能性を占めていたと考えられ、そのきっかけは最早、荘園の行き過ぎを押さえること以外に無くなっていたと観られます。
    (現実に1018年以西域を含みと九州全域を大蔵氏に自治を委ね、以北は源氏の力を上手く使って制圧させて何とか国難を避けたのです。)

    このこれだけの「3つの要因」が存在していれば誰でもが憂慮することに成ります。
    しかし、「桓武天皇」は頑として譲らなかったのです。だからこの「路線争い」で「親子の争い」まで発展したのです。
    そこで「血みどろの親子争い」を何とか避ける為に「桓武天皇」は賛同者の子供の長兄の「平城天皇」に譲位します。しかし、「平城天皇」は病気で退位せざるを得なくなります。
    皇族側の態勢も「嵯峨天皇」の主張する側に優勢となり、結局、「嵯峨天皇」に譲位せざるを得なく成ります。
    この結果、”「民族氏」から「融合氏策」”の推進派が主導権を握ったのです。
    そして改革断行の為に第2期の「皇親政治」を実行したのです。
    これ等の事を実行するには勢いづいた「桓武天皇の官僚の律令政治」の時期に、それを押し留め天智・天武からの国策「融合氏政策の推進」に舵を切り直すのです。
    ”今更何だ”の反対の怒号が官僚や大集団の氏からは、利害が左右するのですから、当然にして聞こえてきそうです。
    何せ政権は確保したにせよ厳然と阿多倍一族一門の勢力とその配下の6割の官僚は無傷で存在しています。

    参考
    桓武天皇は母方(高野新笠)の「賜姓平族」(たいら族:781〜)を引き上げ育て味方にし、嵯峨天皇は第6位皇子の「賜姓源氏」を皇親族として育て味方にしていたのです。
    当初は嵯峨天皇の皇親族の源氏が勢力を高め、特に清和源氏(858〜)が台頭しましたが、この頃からは「たいら族」(桓武平氏)も台頭して来ます。この頃、朝廷、或いは天皇家と云った方が適切であると思いますが、再び「賜姓たいら族」(桓武平氏)派と賜姓源氏・皇親族派に二分されて行きます。
    そして「たいら族」の清盛(1167太政大臣〜81)の代に成り遂には清和源氏を圧倒します。
    この経緯の変化に伴い荘園も拡大をしながらも、清和源氏の皇親族が勢力を保持していた時期には押さえ込まれていました。一時、後三条天皇期(1068〜)の皇親政治と白河天皇の院政期では押さえられます。しかし、清和源氏義家の失敗(1087〜)を契機に再び荘園拡大が後三条期の歯止めが外れて起こり始め、これとは逆に「たいら族」の勢いも増し、荘園制も再び勢いを得て完全に「たいら族」の清盛の時代となるのです。
    この様に荘園の経緯は丁度、「清和源氏」と「桓武平氏」の勢力の経緯に一致しているのです。
    この様に逆に「融合氏の経緯」の障害と成って行くのです。

    参考から話を戻して、これは態勢が嵯峨天皇側に傾いたとしても明らかに難題です。
    それ故に「皇親政治」を敷きこの勢いの中を突っ走る政治体制が必要に成ります。
    荘園制度の初期の行き過ぎを感じ、国是とする「民・国の安寧と安定」に欠かせない「融合氏政策」が未だ道半ばであると受け取っていた事を意味します。
    その証拠に「国内の姓氏数の実態」の調査(「新撰姓氏録」)をわざわざ嵯峨天皇は突然に行っているのです。

    この「2つの制度で直接権威付けられた事により「姓」から外れる「下部層の小集団」にも正式な「姓」として「小さい融合氏」が生まれて行ったのです。
    (「2つの制度」とは「八色の姓」と「爵位制度」の運用と、青木氏と守護神(神明社)−4の俸禄褒章制度の運用)
    そして、それら「小集団」が「無血縁」でありながらも「権威」を基に結合して中集団へと拡大して行き、そこで「血縁関係」を結びして、遂には「姓族」から「融合氏」として拡大して行くのです。

    この様に大小の集団が互いに「血縁」と「権威」とを相互に絡めながら「融合氏」が新たに生まれて行きます。「融合氏」としての認可はこの「権威」が裏打ちされて氏数は増大し、それに伴なって「八色の姓」の姓の身分家柄を獲得し増して行きます。

    この事(姓氏)は詳しく日本書紀等の多くの史籍にも記録されていて、斯く正式な朝廷行事にこれ等の「姓氏」の首魁を呼び出して権威付けの儀式が頻繁に行われています。

    例えば、日本書紀で観てみると、天智−天武−持統期代の期間を大まかに筆者なりに確認すると次ぎの様に成ります。

    天智期では、集団では初期であるので少なく「個人−数人単位」での「新規の姓」の授与をしていてその数は25程度です。
    天武期では、23年間も経っている事もあり「氏融合政策」がある程度に軌道に乗ったと観られます。
    一挙に10以上の集団単位では6回で合計185、数人単位で5回程度で20、合わせて205位と増大しています。
    持統期では、天智期と同じ程度で個人授与25程度、集団単位の授与は見当たリません。

    全体として、大化改新の「融合氏」政策を採用してから65年間に合わせて回数で30回程度で250の姓に氏として授与しています。

    その授与された「姓」を観て見ると、殆どは「地方の中小の集団の長」で所謂、「土豪」と観られます。

    これで観ると、大化期の「氏融合政策」にどれだけの力を入れていたかが良く判ります。

    そして、文武−桓武を経て、嵯峨期の「新撰姓氏録」の調査では1182と成っています。
    この推移を考えると次ぎの様に成ります。
    この間180年間で250から1182まで増えている事に成ります。4から5倍に拡大しています。

    つまり、天智期から持統期まででは今までの氏数(20−40)から姓氏が250程度増えて、52年間で1年間に平均で「5融合氏」(姓氏)を認証している事に成ります。

    持統期より嵯峨期まででは935程度増えた事に成り126年間で1年間に「8融合氏」」(姓氏)が認証されていることに成ります。

    天智期から嵯峨期の全体では1年間に「八色の姓制度」で認められるもので180年間で1年間に 「7融合氏」」(姓氏)と成っています。

    以上の事から「融合氏」(姓氏)Ave5−8/年間と成り一定と見なされる集団が生まれて行く事に成ります。

    天智期−持統期 氏数20−40 姓数250  5融合氏/年間  倍数8.3  52年間
    持統期−嵯峨期 氏数40−80 姓数935  8融合氏/年間  倍数15.6 126年間
    天智期−嵯峨期 氏数20−80 姓数1182 7融合氏/年間  倍数23.6 180年間

    この事は氏数は60増加に対して姓数は922増加となり姓数は「小集団単位での融合」が盛んに行われその集団が朝廷に認められる力を持った集団に成った事を意味します。

    氏と姓の比率は15姓数/氏数となります。

    結局、氏数は4倍に、姓数は4.1倍で同倍数と成り、比率15はこの期間比例的に一定で伸びた事に成ります。
    そして、全体として4倍速で増え続けた事に成りかなり速に伸びた事にも成ります。

    以上の数字の実績から観ると、明らかに大化期から執った「融合氏の国策3策」は効果を発揮したことに成ります。

    朝廷は1:15のこの比率を保って何とか問題を認識しながらも政策的に認可して居た事が判ります。
    その変化(天智期−嵯峨期)の間は重要な事として「小集団単位から大集団単位」(15比)に成って行った事に成ります。
    嵯峨期前までは少なくとも「大集団が小集団」を吸収して行って大きく成って行った事が主流の経緯ではない事も判ります。
    しかし、この思わしくない傾向(荘園制の行き過ぎ)が起こっていた事は次ぎの数字で判ります。

    天智期−持統期の倍数 8.3倍−52年間 
    持統期−嵯峨期の倍数15.6倍−126年間 

    以上で拡大していてその差が2倍(15.6/8.3)になっていますが、年数比から観てみると同比率とで伸びたとすると嵯峨期前頃の倍数は本来は20に成らなければ成りません。
    この倍数は(15.6/20)下がっていますので大集団の荘園による吸収化が起こっていた事に成ります。

    全体として大集団に吸収されてゆく経緯では、数字的には4の倍数は低く成り、15の比率は低く成り、同倍数の現象は起こらず崩れる事に成りますので、「大集団の吸収化」問題は未だこの期間では本格的に起こっていないか見えていない事の近い状況で在った事になります。

    これでも明らかに「国策」として衰えていない事がこれで判りますが、しかしピークには達していないが徐々に「私物化−私有化−荘園化」の「経過期間」が静かに起こっていた事が数字的にも理解できます。

    しかし、遂に嵯峨源氏等が生まれ阿多倍一族の平族が台頭する時期(900年前頃:清和源氏)からは逆の現象が起こります。

    天皇が考えている本来あるべき姿として生まれて来る小集団が「自立する方向」に行くのではなく、明らかに顕著に大集団に吸収されて行くのです。
    この頃から「清和源氏や京平氏(桓武平氏)」は「武家の棟梁」と呼ばれる様に成り、各地方に生まれた「融合氏の小武士団」は「清和源氏や京平氏」の「皇族の権威」の下に入ったのです。
    つまり、第1期の「未勘氏」の大量発生となります。

    この無血縁の大集団化で、ある一つの大きい氏の下に繋がる現象が起こった事から、無血縁でありながらもその大集団の氏の中に入った事から、無血縁であっても仮に清和源氏であれば”源氏一門の誰々・・”と名乗る現象が起こったのです。
    その為にその清和源氏は「公家」に対して「武家」の身分であった事から、大集団であった清和源氏を「武家の棟梁」と呼ばれる様に成ったのです。
    この様に「武家の棟梁」の呼称は「大集団への吸収」の代名詞と成ったのです。

    参考
    この事が結果的に源氏滅亡を招いたのです。特に清和源氏の分家頼信の末裔の義家がこの現象に累代の天皇が追い求めている「国策の融合氏」政策とは逆の荘園制に肩入れしてしまったのです。
    この事が原因で天皇から無視される羽目に陥り、次第に「武家の棟梁」ともて囃されながらも「衰退の道」を辿り始めるのです。
    本家頼光系4家4流と青木氏5家5流は皇族賜姓族の身分」と「3つの発祥源」を弁えてこの「荘園主の路線」を採らなかったのです。
    この「路線の違い」は5家5流の賜姓青木氏と賜姓清和源氏の本家頼光系4家4流は血縁関係を保持している事でも判ります。分家頼信系とは血縁を結んでいないのです。
    しかし、本家もこの余波に飲み込まれて、ただ一人朝廷内に源氏の立場を残された総宗本家筋の源三位頼政は孫の京綱を伊勢青木氏に跡目を入れて、源氏を絶やさない為にも皇族賜姓族の本家血筋を天智期からの青木氏本筋に一本化にした上で、負けを覚悟の上で源氏再興のキツカケを作る目的で「以仁王の乱」に突入して行くのです。


    参考より話を戻して、この事は「氏数と家紋」から観ると、つまり、上記した「氏の経過形態」では、「大集団の権威」の中に「無血縁で小集団」が入り、その「権威勢力」の下に「氏の安全と重職」を獲得しようとする「流れ、動き」が「融合氏」間に起こり始めたのです。
    所謂、綜紋、家紋、血縁の異なる「未勘氏」の発生です。
    つまり、「280年間で1182」をピークとしてこれを境に「融合形態」がやや危険な「成熟期」に入った事を意味します。
    この事は「第2皇親政治」の嵯峨期の「政治の動き」が良く判る数字です。
    年表、氏数、家紋数、計算、史実、用語などから集約する「氏融合」は次ぎのような経過を辿った事に成ります。

    −天智期「融合化」20−(成長期)
    −嵯峨期「成熟化」80−(最高期:ラップ期)
    −清和期「荘園化」200−(過剰期:吸収化)
    −後三条期「整理化」+200−(滞留期)
    −後白河期「公領化」−200−(低下期)
    −鎌倉期「無秩序化」800−(拡大期)
    −室町初期「混乱化」1200−(混乱期:潰合期)
    −室町末期「減少化]80−(回帰期)

    中国・関西地方以北で主に起こっていた「融合氏形態」が「成熟期」(「荘園化」の形で後に行き過ぎが起こる)に入ると、一方中国・九州地方ではこのピークに上記とは逆の現象(この融合時の国策3作に抗して)が起こっていたのです。
    上記した阿多倍一門一族の「独立」「民族氏」の大問題が以西地域でクローズアップしていたのです。
    真にこの世の万物万象の何事にも観られる様に成熟期とする「変極点に起こる自然現象(YP)」(ピーク時)が「融合氏」問題にも嵯峨期には起こっていたのです。如何に大変な国難であるかが判ります。
    上記した判断を一つ間違えると国は滅びる事にも成りかねない「東西の大問題」です。青木氏の血縁祖の一人嵯峨天皇の苦労が判ります。

      「融合氏数の変化」(民族氏の変化)
    この間には(桓武期から始まった阿多倍一族の「民族氏」の問題)上記で論じた「負の反動」の「反発現象」もあり一時的に「停滞期」も認められます。
    しかし、900年頃から「負の反動」のこの反発も解決の方向に向かい、「九州域自治」を認めた頃の1020年頃から阿多倍一族一門が、遂に天皇の妥協条件を受け入れて周囲との血縁を進め「融合氏」になっていつた事から急激に増える事に成ります。
    つまり、以西以北の脅威と憂いは一応解決に向ったのです。ただ問題は「荘園の行き過ぎ」を解決せねば成りません。
    その間「融合氏」の政策はどの様に成ったのかを観てみると次ぎの様に成ります。
    恐らくは阿多倍一族一門の「末裔550」と配下の「品部180の部民氏」」を合わせて「730」がある短い期間を経て一度に融合氏と成った事に成ります。

    「氏数」が200から鎌倉期800に成ったのはこの要因であり、この時期、「藤原秀郷一族一門361氏」、「賜姓青木氏29氏」と、「以北の民族氏の約30程度」が加算されて行きますので、平安末期−鎌倉期では「姓氏」で観ると一度に1230−50が増え合わせて2400には成っていた事に成ります。

    「氏」クラスで観ると、この1割程度の200−240と成り、平安末期の象徴紋と家紋から観た「氏数200」と完全に一致します。
    つまり、平安末期までには順調に伸びて「物造り」策と共に連動して「荘園行き過ぎの問題」があったとしてもマクロで観れば「氏融合策」は成功していた事を意味します。
    そして、「桓武天皇」の「律令政治の国家」政策路線は「皇親政治」で一時滞留していたが「皇親政治の開放」に依って復活する訳ですから、「嵯峨天皇」は国内の「融合氏政策の効果」をわざわざ調べたのです。
    そして「皇親政治」に依っての上記の様な充分な実績を確認して「新撰姓氏録」を発表したのです。
    つまり、「1182の姓氏」が生まれている事を認識して、後は自然増に委ねる事で進むと観て、「荘園の行き過ぎ」問題が起こる事を懸念しながらも、最早、これ以上「皇親政治」を続ける事は国家にとってむしろ不必要な弊害を生むとして「開放」を決断したのです。
    現実に懸念通りに「荘園行き過ぎ問題」は「国家体制を揺るがす問題」と成って行ったのです。

    その後、200年程経って「嵯峨天皇の意思」を継いでいた「後一条天皇の院政」と「後三条天皇の第3期の皇親政治」と「白河天皇その院政」で、再び天皇家の「伝家の宝刀」を抜き「皇親政治」を敷き「国難の解決」に当たる事に成ったのです。
    天智期からの3期の「皇親政治」は何れも「国家の安寧と安定」を目標とする「氏融合の国策3策」を成し遂げるためにそこに起こる「国難」を解決し排除する政治体制を採ったのです。
    「荘園の行き過ぎ問題」は放置すれば最終は「国家体制の危機」を招かないとも限らず、再び「国策の融合氏政策の3策」に舵を切り直したのです。
    決して、俗説の天皇家の牽制の為ではなかった事がこの様に傾向分析により経緯をつぶさに調べると判って来るのです。

      「氏名と姓名」
    現在では「氏名」(しめい)と「姓名」(せいめい)は同じに扱われていますが、本来は1080−1100年頃の鎌倉前期までは違っていたのです。嵯峨期の「新撰姓氏録」では殆どはこの「姓名」です。
    本文で論じているのは「氏領域」の「氏名」です。
    当時では「姓氏」が幾つか集まって氏を形成していたものを分けて考えていて、この集まる条件が「血縁性」、「民族性」、「未勘氏性(大集団吸収族)」に依って違っていた事から「氏」と「姓」を使い分けしていたのです。
    そして、主に「氏」とは血縁性を主体としてのものを云っていたのです。「民族性」「未勘氏性」のものは「姓」として使い分けをしていました。更には「姓」は「小さい集団」と云うが概念が存在していました。

    皇族賜姓青木氏は「3つの発祥源」で「天皇護衛団(親衛隊)」である事から「氏」が青木氏で「姓」は無しと云う事に成ります。従って、青木氏から他の「氏」や「姓」が分派分流してはいません。
    ただ、母方青木氏の特別賜姓の認可を受けての藤原秀郷流青木氏も同様で、矢張り准皇族系として「青木氏の仕来り」を護ったことに成ります。
    これが皇族関係氏の「仕来り」で家紋もそもそもの家紋ではなく、元々の「象徴紋」で有る事から「家紋掟」による変化は起こりません。又起こさない様にする務めがあります。これが「3つの発祥源」としての「固い仕来り」だったのです
    嵯峨期の詔勅による「皇族青木氏」も仕来りを守り、「皇族関係者」と「賜姓源氏」から青木氏が発祥していますが、他の「氏」と「姓」は分流分派していません。この「2つの氏」は合わせて29氏と成ります。

    嵯峨期の詔勅で特別に名乗った藤原秀郷流青木氏は、理屈上は藤原氏から見れば「氏」が藤原氏で「姓」が青木氏と云う事に成りますが、秀郷流青木氏からは他の氏や姓は分流分派していません。
    故に116氏と大きな氏と成っています。
    これは賜姓青木氏と母方血縁族であり、天皇を護衛する六衛府軍の役目と藤原秀郷一族一門の護衛団と云う2つの役目があった事によります。
    又、宮廷の近衛軍団の六衛府軍になる資格を持っていてその役職を皇族賜姓青木氏と供に務めました。
    皇族賜姓青木氏は「蔭位の制」の有品の位は3位か4位、藤原秀郷流青木氏は4位か5位であった事からも判ります。
    この「血縁性」のある「2つの青木氏」は高い「有品の立場」からその権威を基にした平安期の「大集団吸収過程」の「名義荘園主の手段」を採らなかったのです。

    その裏返しとしてこの「2つの血縁性のある青木氏」に仕えた「血縁性が無い2つの青木氏」には血縁にも勝るとも劣らず「強く古い絆」を基とした「家臣団の未勘氏」と「部曲、品部」の「生活結合の青木氏」(第3氏)が「2つの氏」が存在するのです。
    他氏の「未勘氏」や「第3氏」とはその結合そのものが違っていたのです。他氏には観られない「有縁結合」であったのです。1千年を超える「歴史の所以」の所作が成し得た「特異な融合体」(絆氏)であったのです。
    故にこの「2つの無血縁族青木氏」は「大集団吸収過程」の「姓族」ではなく「氏」そのものを呼称しているのです。
    ところが藤原秀郷一門は361氏でありますが、24地方に分散して子孫を遺したことから血縁性のある大集団と成り、24の姓氏名を有しています。これに血縁性の無い平安期の「大集団吸収過程」に発祥した「姓氏」からの「未勘氏」と、「絆氏」とも見られない「第3氏」が大変多い氏と成っています。

    調べてみると、藤原秀郷一族の「未勘氏」と「第3氏」は青木氏の様な「絆結合」の判別が現在でも出来ないのです。恐らくは他氏に比べて格段に多い「未勘氏と第3氏」の姓数は全体の5%程度ではないかと考えられます。
    その「判別条件」が現在は研究が進んでいないので不明ですが、「5%の根拠」は平安期の荘園に隷属した「部曲、品部」(貴族奴婢を除く呼称の百姓)の比率がこの数字であった事が記録より判明しています。秀郷一族一門は「源平藤橘」大集団の一つであった事から間違いないと観られます。

    その条件は各地に存在する秀郷一門と「場」の「地理性」、「時」の「時代性」、「人」の「人為性」、「宗教性」のより近いものを有している「未勘氏」と「第3氏」を選択する事で判別できるのです。
    特に「宗教性」で1−2割程度に絞れるので、「地理性」と「時代性」と「人為性」とで5%に近づけます。
    しかし、これにはより幅広い「歴史概念」とか「史実の把握」とかの雑学が必要とされますが、何はともあれ秀郷一門より数倍も多い「未勘氏と第3氏」なのでかなり難しいと観られます。
    ですから個人でルーツを探索するには、思い立ったら直ぐには「ルーツ探索」がこの様な事から難しいのです。それ程に上記の様に個人の事に付いて書き遺した殆ど資料はありませんので、その意味でもせめて本文の内容でも参考にすると「ルーツ雑学」に貢献し効果が出て来るでしょう。

      「諸蕃の氏系列」(雑学)
    「氏」と「姓」がはっきりとした「姓族」が多く「血縁性」があっても血縁による結びつく事を積極的にせず「自立、独立性」が強く働き日本の「氏家制度の仕来り関係」が薄いのが阿多倍一族一門の特徴です。
    これは「儒教道教」を宗旨とする「中国人」ならではないかと考えられ、帰化当初からの持ち込んだ概念を遺し強く「民族氏」から脱却する事が出来なかった観られるのです。

    中国の「三国志」にも観られる様に、広大な大陸の多様種な民族がその民族毎にその民族を中心として政権が度々入れ替わる中国に於いて派、人民を纏めるにはその集約する「民族」と云う大きい概念で括る以外に統一した概念が生まれないは必定であり、「集約」とした概念は生まれることは大きく広すぎて困難と成ります。
    その真逆の環境にある日本に於いては「民族」→「氏」→「姓」と成り、当然に括る概念は小さく成るのはこれまた必然であり、そこに生まれる集約した小さい概念の「掟」「規範」が生まれ「人より法」となり「掟規範」を先ず守りその上での「人」と成り「薬は薬」は当然の概念として生まれるのも必然と成ります。
    (中国の共通概念は「法より人」「石は薬」の考えに集約出来るのです。全てこの概念の運用で彼等の思考原理や行動が判別できます。)
    16国を成し得ている漢民族を含む中国では、「民族」と云う大きい概念で「族」を構成する為に(大きい順で「民族−氏−姓族」となる為に)、「氏族」−「姓族」が「多様種の民族集団」であるが為に必然的に形成されない結合と成ってしまうのです。
    従って、集団で入国した漢民族の内の「後漢民」の阿多倍一族一門とその「品部」達には「氏と姓の関係」が、個人で入国しない限りは観られない原因であったと考えられます。
    阿多倍一族一門は上記した「3つ基地」と「1つの本部」を持ちながらも、基地夫々が独自の「別の行動」を採ったのもこの事から来ているのです。

    矢張り、故に現在でも観察出来る様に、「民族」と云う事で熱を上げて日本攻撃のデモやスプレヒコールで直ぐに騒ぎたてる帰来のある「中国人」なのです。
    しかし、日本と中国と戦った過去4度の「民族」で戦った「戦争の内容」を調査すると必ず共通して見られる現象があり”苦戦になると「戦場放棄」する”と云う性癖事が起こっているのです。
    この性癖の良し悪しは別として、「民族」だけでは固まるが「横の関係」「末端の関係」況や「兵の関係」で固まらない国民性の性癖なのです。
    そこに「法より人」「石は薬」の彼等の共通概念が更に「兵の関係」を弱くさせているのです。「人」を重視するのであれば「兵同士の関係」を重視する筈です。
    しかし、この「人」には「石は薬」の概念が加わり日本の「氏家制度」の「相互扶助」の様な考え方が起こらないのです。
    この「2つの概念」は個別の概念では使用するのではなく連動しているのです。そうすると彼等の思考は理解できるのです。
    「法より人」は「戦線離脱」は「兵の法」、しかし苦戦となると「兵の法より人」と云う概念が先行するのです。そして「兵の法より人」の言い訳には「石は薬」の理屈が付け加えられるのです。
    筆者も中国人の実習生を長い間受け持った経験があるが、日本人から観ると明らかに就業違反なのだが、当初から知ってはいたが、あぁ又かとこの「2つの概念」を必ず持ち出し言い訳を等々と述べだすのです。彼らは述べだすと留まらないと云う印象で「儒教の教え」が染み付いているのか大声で喚き立てるという印象であったのです。日本では大声は悪い習慣ですが彼らには普通の事なのです。
    彼らには全く発言、行動、態度は異常ではないのです。彼等の概念に従っていますから。そこで”郷に入りて郷に従え”と氏家制度の「融合氏と姓関係」で生まれた日本人の概念で彼らに説得を試みるのですが、納得せず「法より人」「石は薬」は思考の最上位にあると云う論理なのです。
    「郷に入りて郷に従え」は確かに「融合氏 氏と姓」の関係を正常に維持する為のものとして生まれたものではあるが、”その国に居てはその国の法律に従う”は当然の「世界の概念」です。
    その時は(彼らには現在でも未だ「民族氏」から脱却できていない程度の)「民度」と云う結論になったのです。
    この筆者の経験と同じ事を、天智天皇や天武天皇は彼らと話していて感じとっていた筈と思うとその時の苦労が判り天智天武の天皇に親近感を沸く感じであったのです。
    だから、天皇や我等青木氏の始祖たちは”このままでは国体が危険””「民族氏」を放置していては危険”と観ていたと予測出来るのです。

    (余談 この実習2年後、中国に企業進出した時の最新鋭のマシニング機械と全ての生産設備をこの2つの理屈で奪い取られるという前代未聞の事件が起こり、それを実行させる無法なサボタージュが起こったのです。恐らくも尖閣諸島の領有権問題もこの「2つの概念」で更にエスカレートさせて来る事はあきらかです。直ぐにこの染み付いた彼等の国民性の「2つの概念」は帰化したとしても直ぐには変わらないだろうから。同様に大和の民にも云える事ですが。)
    日本人も「氏家制度」「氏と姓」から生まれて来る日本人独特の概念「相互扶助と上下主従」がある様に。(最近はこの概念も変わりつつあるが。)

    これらの正しいと信じている中国の独特の概念が帰化しても消える事がなく、「天智期」から「後一条院-後三条天皇」まで「民族氏の思考基準」で「独立−自治」の主張が特に九州に蔓延り、天皇を悩まし続けた問題であった筈で、それは避ける事が殆ど出来なかったものと観られます。
    つまり「氏と姓の関係」は「氏家制度」(相互扶助)を充実させ”郷に入りて郷に従え”の例の様に、結果として日本人には「良い概念」を生み出しているのです。それが「民族氏」には無い「融合氏」に観られるものと成ります。累代の天皇は{律令国家体制」を成し遂げながらも「国の安寧と安定」の国是の為にこの「政治路線」を採ろうとしていたのです。

    阿多倍一族一門:「民族氏」→「法より人」「石は薬」→「民族氏」→「独立−自治」

    「日本の氏と姓」
    「郷に入りて郷に従え」←「氏と姓関係」→「相互扶助と上下主従」
    「氏と姓関係」→「郷に入りて郷に従え」→「相互扶助と上下主従」

    故に「融合氏の形成」が国策として採用された背景の最大の国難の一つなのです。彼等の思考原理に対してこのままでは「政治体制」が維持できなくなると云う危機感が生まれ、彼らを含む民族を融合して一つの民族に造り換える以外に方策は無いと考えていたのです。
    天智天皇−天武天皇が始めた”国策「民族氏」から「融合氏」に変換した国体を造る”と云う判断は現在に於いても理解できる驚くべき優秀さを保持していたのです。取り分け累代の天皇の中で「如何に優秀な2人の天皇」であったかと考えているのです。
    この判断だけではなく、上記(1〜4)で紹介した様に検証すると「具体的に、詳細に、綿密に、適切に、大胆に、合理的に」策が打ち出されている事も驚きでそれを証明しているのです。一分の隙もないくらいです。
    これを策案実行し主導して補佐したのは他でもない「融合氏の発祥源」と「皇親政治」の我等青木氏の始祖なのです。

      「皇別系」「神別系」
    ところが、更に難しさを増していたのは、この「諸蕃」(外国人 他民族)に対しては日本には入国した族は「一つの発祥族」ではなかったのです。それらの族は「皇別系」と「神別系」に分けられるのです。
    「皇別系」と「神別系」とは、「質」を異にする「諸蕃」の中で、阿多倍一族一門の「渡来人の首魁族」を除くその配下の「渡来人の集団」を指し、180もの「部」で構成されていたのです。
    それが次ぎの様に成ります。

    「諸蕃」→「神別系」(1+2)+「皇別系」(3+4)

    「神別系」(180)
    1 「中国系」では秦部の秦氏、漢氏、司馬部の司馬氏、海部の海部氏、磯部の磯部氏、等々
    2 「朝鮮系」では、百済部の百済氏、物部の物部氏、等々
    「皇別系]
    3 「朝鮮系」では「朝鮮族首魁」との血縁を有する「天皇家の族」(応仁大王時から)
    4 「天皇家」その「血縁氏」の蘇我氏、平群氏があります。

    上記した様に「民族氏」の形態は次ぎの様に分類できます。
    0 後漢民「阿多倍一族一門」 (賜姓)坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、阿倍氏、肝付氏、平族→「民族氏」

    1 後漢の「職能集団」200万人 第1期渡来民+第2期渡来民 →180「品部」→「融合民」

    朝鮮からの「渡来民」  第1期飛鳥期+第2期奈良期+第3期平安期
    2 第1期飛鳥期  「応神大王」が引き連れた集団 百済部氏 物部氏→「民族氏」   

    3 第1期飛鳥-奈良期  「天皇家」と「渡来応神一族」の血縁第7世族→「融合氏」 
    4 第1期飛鳥期  「応神大王一族」と「豪族」血縁族−武内宿禰の末裔族→「民族氏」

    民の難民(1−4の期間に次ぎの難民が流入)
    5 第2期奈良期 朝鮮半島の動乱難民→「融合民」
    6 第3期平安期 朝鮮半島の難民 中国からの難民→「融合民」

    (参考 3は天皇系族 4は応神大王系−蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏、巨勢氏)

    注釈
    「神別」の2とは「ニギハヤヒノミコトを末裔(ミコト)とする事から歴史的に神別としているが伝説域である。「神別」とされる「民族氏」は全て「・・部」を氏としている事から「漢」と「後漢」に制圧され圧迫され「弁韓域方面の民族」が百済の応神王と共に難波港に渡来した4世紀時代の「部民」である。

    この「物部氏」は応神期の兵部関係の「武力職能集団」であるに対して、「百済部」は飛鳥期の応仁王が渡来した時に百済の民族(民)が一箇所(難波と飛鳥の境付近)に集団で生活した事からその集団を「百済部」と呼ばれ「百済氏」の「民族氏」と成ったのです。
    この「百済部」の「民族氏」の存在はその後、荘園期(900年頃)までの記録がある。

    「神別」の「ニギハヤヒノミコトを末裔(ミコト:神)」とした事は「蘇我氏」が「応神王」の「王族末裔」であるのに対して、物部氏等の「民族氏」はその時の「渡来軍の民末裔」である事から伝説域の「ミコト末裔」と虚勢を張り主張した事に因ると考えられます。

    (これは嵯峨期の「新撰姓氏録」の分類であるが、現在の判明史実から観るとルーツはこの様になる)

    飛鳥期から奈良期に掛けて渡来した外国の民族には阿多倍一族一門の首魁末裔と、1のその後漢の職能集団180部が「在来民族」との融合で発祥した「融合民」があります。

    上記の様に「首魁末裔」の「民族氏」としての「行動、考え方」に付いて論じて着ました。

    しかし、遥かに多いその配下の「180部の民」はどの様な考え方や行動を採っていたのか検証する必要があります。それは次ぎの2つです。

    a それは「融合氏」にどのような影響を与えていたか、
    b それに依って天皇を始めとする為政者にどの様な問題を投げかけていたのか、

    以上aとbの「2つの問題」を知る事で「皇親政治」を主導する青木氏の「生き様」をより詳しく立体的に網羅する事ができます。
    そこで、この上記1から4の異民族がどの様な位置関係にいたのかを考察してみる事にします。

    渡来人の大半はその数から、又その影響度から観ても、阿多倍一族一門の末裔のものである事は云うまでもありません。しかし、この1から4もかなりの影響を及ぼしていたのです。

    先ず1に付いて。
    1の180の部の「品部」と「雑戸」は比較的自由にあり、後漢の民族性(「法より人」「石は薬」)に固守していたのではなく「集団生活」をして居た事は事実としてあり、首魁の支配を受けていた事も事実であるのですが、「融合」と云う点では極めて緩やかで「在来民」との血縁を行っていた事が「奈良期」の「法の制定」の内容で観えて来ます。
    これは「在来民」が積極的に「180の部」の技能を吸収しようとしてその配下に入った事からそこに「民族」と云う「垣根」が消滅して行ったと考えられます。
    そして、その結果「血縁」が垣根の制限も少なく積極的に行われたのです。

    その史実として、かなり多くなった「民の種類」に因って「税」と云う観点からこの民を区分けしてそれに応じて「税を課す体系」を見直しているのです。

    先ず、「民は」一つであったところを大化期645年に直ぐに次ぎの様に分けました。

      「4つの法令」
    「民」→「良民」と「賤民」に大別しました。
    「五良民の制」  「良民」→貴族、官人一般、百姓(部曲)、品部、雑戸
    「五色の賤制」  「賤民」→「奴婢」→陵戸、官人、家人、公奴婢、私奴婢  901−923解体
    「俘囚の制」    「俘囚」→蝦夷の討伐民(奴婢外下扱い) 
    「男女の法」   良民5と賤民5と良賤民の間とに生まれた子供の所属を決める法

    「品部」の配下の「雑戸」は良民であるが「雑戸籍」で管理されていた。(賤民扱い) 890解体
    「良民」と「賤民」は原則的に通婚は禁止
    「俘囚」蝦夷民は「公民」として認めず 討伐後収容して関東以西に配置し直した
    「男女の法」子の所属の法(良民男女の子は父に 良民と奴婢の子は奴婢に 奴婢間の子は母に)

    上記の様に、大化期には余りに増えた「民の種類」に驚き「男女の法」(645)を慌てて定めましたが、次ぎの2つの問題が起こりました。

    A 「民の身分」の区分けが出来なくなった事です。
    B 「民」に付加する「税と労役」に狂いが生まれたのです。

    その原因はこの「自由な民の融合」が起こりそれまでの「税と労役」の配分が困難と成ったのです。
    そこで、これでは拙いと観た朝廷は、先ず、大化改新後直ぐに645年の「男女の法」の法を定めて「民の身分」の「区分け」を行ったのです。
    それまで怒涛の様に入国する後漢の民(1)、それに朝鮮半島の乱れから朝鮮族難民(5、6)が続出していたのです。
    そこに少し前に入国した「朝鮮族の在来民」と成りつつあった渡来人(2、3、4)があり、夫々の「族間の争い」も絶えず収拾が付かなくなっていたと考えられます。

    「日本書紀」にもこの時の様子としてこの「民の配置」や「犯罪」などの問題が記録されている程です。中には本国に送り返される「民」もあって混乱状態が起こっていたのです。
    そこで上記の「4つの制度」を施行して大化の改新として融合氏政策と供にこの改革を早々に踏み切ったのです。

    イ 4世紀までの7つの民族の「従来の在来民」
    ロ 5世紀の朝鮮族の「新規の在来民」(2、3、4)と成った族
    ハ 6世紀−7世紀(後漢の0、1)の帰化渡来人、
    ニ 7世紀以降(5、6)の朝鮮半島とアジア大陸難民族

    これだけ(イからニ)が飛鳥期から奈良期までの約200年間に入国していて主に「民」の領域を構成し始めたのです。
    特に大化期はそのピークと成っていましたが、もし現在この様な事が起こった場合の事を考えても、その混乱さは図り知れない程のものであったと観られます。

      「民の人口の考察」
    人口は後漢の民17県民200万人以外には正式に記録にはありませんが、「従来在来民」(450万)を除外しても500万人以上には成っていたことが予想できます。
    この500万人と云う数はどの様な意味を持っているのか、国政にどれだけの負担となっているかを考察してみますと次ぎの様に成ります。

    後漢の民が入国帰化した時にも「唐の征討」により朝鮮半島からも同時難民の入国が起こっていたのです。この時の賤民が人口の5%で合ったとする記録がありますので、江戸時代で4000万人とする記録からすると、大化期では食料事情や寿命から概ね1000万人弱前後となり、何と国民の25%に上る入国があったと事に成ります。恐ろしく急激に増えた事に成ります。
    後漢200万人で25%と成り、それまでに身分として存在しなかった「賤民」が大化期に設定されて5%とする記録があるところから観ると25%は納得出来る数字である事が判ります。
    これに加えて厳寒地で人口は少ないが統治できていなかった「蝦夷の民」が入ります。
    恐らくは次ぎの事が起こっていたと考えられます。

    「部曲の生産力」と「品部の生産力」が確実に不足した事に成ります。
    「居住地の面積」が不足していた事が予測出来ます。

    この為に未開発地域に良民と賤民、難民と帰化人全てを配置し直して自立開墾させる事に成ります。
    現実に日本書紀には九州に居た多くの品部を各地に配置した事の関連記録が観られます。
    現在から観るとその土地柄を生かしている配置で在った様で、その地方域から多くの部民の融合氏が出ています。全て「部名」を「姓氏」にしています。
    次の様な主な配置が行われています。

    「180品部の部民の主な配置状況の概要」
    信濃地方には馬部関係、鵜飼部関係、山部関係を
    美濃尾張地方に矢作部関係、磯部関係を
    甲斐上野地方には山部関係、服部関係を、
    尾張遠江駿河地方には磯部関係、漁部関係を
    肥前肥後地方には弓削部関係、来米部関係を
    筑前筑後地方には鍛冶部関係、鍛師部関係、金作部関係、鏡作部関係を
    豊前豊後地方には佐伯部関係を
    長門周防地方には武器部関係、武部関係、陶部関係を
    安芸地方には舟部関係、海部関係を
    奈良紀州地方には史部関係、倭文部関係、鞍造部関係、墨部関係、硯部関係、鍛冶部関係を
    摂津難波には錦織部関係、石作部関係、玉作部関係、工部関係を
    近江滋賀には土師部関係、矢作部関係、綾部関係、舎人部関係、和気部関係を
    関西西域には麻績部関係、衣縫部関係、赤染部関係、茜部関係、紙部関係を
    (部民180品部全てを記述する事は困難な為にこの内記録的に配置状況が明確なものを記録した。「・・関係」とはその部を行うに必要とする関連の職能集団の部を云う。)

    後に記録としてこれ等が最も速く「融合氏」として集団化したのは890−900年の頃で「品部の廃止」(890)からで、その勢力の強い「品部」から「姓氏」を構成したのです。
    最も古い記録では確認できる「融合氏」の「姓氏族」は「陶氏」「海部氏」と「和気氏」と「弓削氏」等で記録が遺されています。

    この土地の特徴を生かした「配置状況」からその土地の当時の「生活環境」が観えて来ます。
    例えば、土地の環境に合わせて「山部」で「植林材の生産」や「まゆの生産」をしその絹の織物に必要な機械も甲斐の「服部」(はっとり)で織物の機械を作る品部が配置されています。
    産業が一定の周囲の環境から連携して生産できる様に配置に対して考慮されています。
    そして「民の融合化」が進む様に生活品の調達が出来る様に盆地地域と海岸地域の産物の交換が盛んに行われていた事が記録されていて、例えば海産物の加工品の「磯部氏」が信濃、甲斐にも彼等の「融合氏」「磯部氏」が観られるのです。この様に土地や集団域を越えて「品部」の「民の融合」は現在と殆ど変わらない程度に盛んに行われていたと観られます。

    ここで問題なのは「部曲」「民部」「奴婢」の”農業に従事する「民」の融合はどの様であったのか”に付いて疑問が出ます。
    これ等の「3つの農業民」は土地に属する「民」であって「公民、荘園民」がありますが、土地から移動する事は「品部」と異なり出来ない事ですから、「融合」と云う点ではリスクを負っています。
    上記の開墾地域では初期は品部自らが農業に従事し開墾を進めた事が日本書紀にも信濃の事の関連記録として書かれていてその様子が読み取れます。
    しかし、5、6の「流入難民」や「俘囚」を関東中部地域のこの開墾地域に配置したと記録されていますので、これ等が「部曲」「民部」の下位の「奴婢」と品部の下位の「雑戸」と成って農業に携わったのです。
    そして、この各地の開墾地の「流入難民」や「俘囚」が「奴婢」「雑戸」としてシステム化されて行き「部曲」「民部」「奴婢」「雑戸」間の「民の融合」が「男女の法」「五色の賤」の法令を定めなければ成らない程に進んだ事を物語っています。

    この「農業に携わる民の融合」は900年の「品部の廃止」から一挙に開放的に成り「流入難民」「俘囚」の「奴婢、雑戸」身分の「垣根」が無くなり「部曲」として融合が加速的に進んだのです
    この時点で「品部」の「民の融合」と「部曲」の「民の融合」は「開墾」を通じて爆発的に進んだのです。
    筆者は、逆に云えば、「俘囚」は初期の段階では、この美濃、信濃、甲斐等の青木氏が守護を務める「新規開墾地域」に「部曲、奴婢、雑戸」として送り込む目的で「蝦夷地域」を討伐したと観ていて「蝦夷」の蔑視する呼び名からも読み取れます。
    しかし、900年頃の「法の廃止」からその目的が達成されて代わって「全国統一」の討伐に成ったと観られます。
    「荘園の経緯経過」の法の時系列から観ても、阿倍比羅夫から坂上田村麻呂820年頃の討伐までは初期の目的の「開墾の働き手の確保」であったと考えられます。
    「品部」の生産には「食料供給」とは別に「部曲」の生産が素材等で必要で「品部−部曲」間には切り離せない中間工程が伴うのです。
    つまり初期、後期共にこの工程人として「部曲、奴婢、雑戸」を「俘囚」で補ったのです。
    ただ、藤原秀郷一族の鎮守府将軍や源義家の征夷代将軍からは主目的は「全国統一」に代わったのです。

    「品部」生産−「中間工程」−「部曲」生産
    「俘囚」の目的→「新規開墾地域」(890-923)→「全国統一」(1020-1060)

      「4つの民の融合化」
    「品部間の民の融合化」
    「部曲間の民の融合化」
    「品部と部曲間の民の融合化」
    「奴婢と雑戸の部曲化」

    この「4つの民の融合化」が余りの速さの融合で起こった為に判別が困難と成り上記の「男女の法」「五色の賤」の法(890−923年)は最速、意味を成さなくなったと云えるのです。
    「氏の融合」(私有化荘園)や「姓氏の融合」(集団化荘園)や「民の融合」(氏・姓荘園化)は矢張りここでも一致して「法の廃止」から観ても「3つの融合」のピーク期である事が判ります。

    大化期から平安期までは「荘園問題」でも物語る様に、また上記の「渡来人、帰化人、難民問題」でも判る様に、更に「品部」の各地への配置でも判る様に、各地殆どで漏れなく「開墾」は著しい速度で進み、それに合わせて「民の融合」も起こったのです。

    故に第6位皇子を臣下賜姓してわざわざ未開の開墾に皇子を守護王(青木氏)として送り込んだのです。それだけの「融合」が進み「治安統治」の必要性が急激に出てきた事を示しています。
    そして、その地を直轄領の天領地として認定したのです。政治的な意味がある事を示す事柄です。
    上記した開墾地は全て「天領地」或いは直轄地なのです。
    特に青木氏5家5流が配置されたと5地域は全て「穀倉地帯」に成り「要衝の地」で成り「主要街道」と成って行ったのです。

    この事でも如何に「開墾」と「民の融合」が短期に爆発的に進んだかこれで判ります。
    これは「品部」の「物造り」が「民の融合」(後には「氏の融合」「姓氏の融合」に変化)でも連動している事と成りその事の証明となります。

    参考
    (「日本書紀」に系図一巻が在った事が「釈日本紀」に記されている。これは「融合氏」の国策が国家的優先課題であった事を物語ります)
    (融合氏の事を系譜的な形で記録したものとして、他に「古事記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三大実録」「氏族志」(未完)がある)

    以上の様に配置し主要地のその開墾に守護王として皇子を送ったとあります。
    ここに後に守護王として第6位皇子を臣下させ青木氏を賜姓して送り込んだのです。奈良期には阿倍比羅夫が蝦夷を掃討してその時にその土地の「民」(俘囚:ふしゅう)等をこの3つの地域に送り込んだのです。その後も平安期に坂上田村麻呂や源義家らも「俘囚」を送り込んだことは有名な事件として語られています。(この時は「荘園の開発」を目的としていた)
    朝廷はこの「蝦夷の民」を征討する度にその地の「民」を「俘囚」と呼称して政策的に関東より西の各地に移動させて配置したのです。

      「上位の融合氏」「中位の姓氏」「下位の融合民」
    上記「4つの法令」取り分け「男女の法」と「五色の賤」の法制定から観ても、後の荘園の経緯経過状況が理解できます。
    又、その「二つの身分制度」が890−923年間の間に「法の廃止と解体中止」が行われた事から観ても、更に「俘囚の配置」処置から観ても、上記した様にこの「民の融合」の経緯からも観ても、荘園の「加速」と「行き過ぎの経緯」は何れも900年頃から確実に起こっていた事がはっきりと判ります。

    上記した様に征夷討伐完成は「阿倍比羅夫」(660)から始まり「坂上田村麻呂」(820)に続き、「鎮守府将軍の藤原秀郷一門」(960)と最後の「征夷代将軍の源義家」(1087)で終わった事に成りますので年代的に「俘囚の配置」もこの荘園の開発手段として移動させた事が判ります。

    この事でも「後三条天皇」までの「整理令・公領制令」(1068)まで「阿多倍一族一門の官僚方」が故意的に恣意的に政策誘導していた事が証明できます。
    その後の院政「後醍醐天皇」の「義家冷遇」の原因も「荘園の行き過ぎ」を押さえる措置の一つであった事が判ります。
    つまり、無血縁で小集団の荘園主の豪族武士たちは賜姓源氏権威の傘下に入り荘園を護る意図として源氏を「武家の棟梁」と呼称して祭り上げていた所以である事が判ります。(その意味で義家は後醍醐天皇の意思に反した行動を採ったことに成ります。その事から義家は冷遇されたのです。)

    兎も角も問題視される「荘園」が「上位の融合氏」と「中位の姓氏」と「下位の融合民」を誘発させて拡大した事が云えるのです。ただ900年以降の「荘園行き過ぎ」が「氏、姓、民」融合の政治状態に大きく影響を及ぼした事が問題と成るのです。

      「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」
    「融合氏」の国策3策を主導した天皇と「皇親政治族」には当時の「社会制度」とりわけ「身分制度や人口」などの考察からも「人間の能力を超える政治的課題」であって大変な精神的圧力であったかが良く判るのです。「悩む生き様」が観えて来ます。
    「3つの発祥源」として位置づけられた青木氏はそれだけに難しい立場に追いやられていた事が良く判ります。900年以降の身分制度がある程度解けて氏家制度が確立し成熟期に入った時に、「荘園行き過ぎ」が起こったのですから、2つの青木氏は「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」もありその権威を下に顕に「荘園」に直に組する事も出来ず苦しい立場にあった事が伺えます。
    まして、美濃、信濃、甲斐の国の開墾時の守護王であり「民の融合」の立役者でもあったのですから直接荘園に手を出す事は出来なかった筈です。
    その点で同族である賜姓源氏が取り分け清和源氏分家頼信系の末裔は勢力拡大を狙いこの「荘園」の「行き過ぎ過程」に手を染めてしまった事が後に滅亡の宿命を負ってしまったと考えられます。
    ここが青木氏の「3つの発祥源」の認識の有無の差が左右して頼信系源氏はその認識が欠けていたところであったと考えられます。
    その証拠にその代表的な清和源氏頼信系の義家は功績は実に大きかったにも拘らず「院政と天皇」に排斥され疎んじられた原因であると考えられるのです。
    確かに頼信系の清和源氏は「荘園の集団化」に権威を利用して無血縁の未勘氏を闇雲に増やした事は事実であり、それが同族の賜姓青木氏の様にその「皇族賜姓族の立場の認識」と「3つの発祥源の認識」に欠けていたと判断され、天皇家からは賜姓青木氏と比較されて排斥され疎んじられたと考えられます。
    元々清和源氏は青木氏の様に「開墾と民の融合」を成し遂げる守護王としての苦労を成していないのです。ただ蝦夷を鎮守府将軍の藤原秀郷一門に代わって征夷代将軍として制圧しただけなのです。
    その制圧も阿倍氏末裔安倍氏と清原氏を制圧し、最後は首魁を「だまし討ち」にした程度の功績なのです。それを背景に、「荘園」の「行き過ぎ」を懸念していた「院政の悩み」に対して、院政政治に逆撫でするか様に、逆の「行き過ぎの荘園」に手を貸して自らその旗頭(武家の棟梁)に成ってしまったのです。
    (祭り上げられた)
    清和源氏は頼信系だけでは決してないのです。宗家の頼光系(4家)が主役として厳然として勢力を張っていたのです。同族の皇族賜姓青木氏の守護地の代理守護として源頼光は開墾地の近江、摂津、美濃、信濃、甲斐の国を歴任し「荘園の行き過ぎ」の「未勘氏の集団化」には手を染めていないのです。
    「武家の棟梁」の呼称は、源氏の「未勘氏」になろうとしていた地方の小集団の武士達から、分家の頼信の子孫の義家に言われたものなのです。
    実は「頼光系4家」と「同族青木氏5家」とは「同族血縁関係」を保っていますが、頼信系と同族青木氏は血縁関係を結んでいないのです。

    これは何故なのか疑問です。
    「分家の頼信系の路線」と「宗家の頼光系の路線」が異なっているからで、つまり”「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」を認識した立場を護っていたか”の有無の差なのです。
    本来であれば、この様な「路線の違い」がなければ当時の習慣から「同族血縁」を結んでいる筈です。
    (路線の違い:融合氏国策3策の「行き過ぎ」を制御→整理令−公領制→900年前の正常状態に戻す。)

    恐らくは、これは清和源氏宗家頼光系と賜姓青木氏等は頼信系との間には血縁を結ばない程に「路線の違いの軋轢」が起こっていた事を物語るものです。
    簡単に云えば、”立場を弁えないで品が無い”と云う事を囁かれていたのではないだろうか。
    だから”院政は「比較する同族」(頼光系と青木氏)が居たからこそ余計に苛立ち、皇族として蔑視され、まして「氏融合の国策」にも逆らい、「行き過ぎ」を助長させ得る頼信系を疎んじた”と観るのが正しい事に成ります。決して”理解が出来なかった、知らなかった”と云う訳では無い筈です。
    1068年以降に続けて「整理令と公領制」(1068)を発布し、「後三条天皇」「白河天皇」等が藤原氏等主要な為政者等を完全排斥する事件を起しながらも決死の覚悟で実行したのですから、源頼信(968-1048)も直前の状況は把握していた筈だし、孫の源義家(1039-1106)はその渦中に居た人物だあるし”知らなかった”は当たらない筈です。
    兄源頼光(948-1021)に甲斐の守護代理(国司)の基盤を譲ってもらった部屋住みの身分の河内の源頼信は伊豆の兄の領国の勢力を背景に関東へ「勢力拡大」に邁進したのです。
    その結果、関東上総下総方面に基盤を持っていた「平族」(たいら族 桓武平氏)と対立する方面に勢力を拡大した為に争い(平忠常の乱をきっかけに平族を押さえて勢力拡大)となり、反面中央の平族の勢力拡大に伴いこれを援護する朝廷から余計に政治的な軋轢を受け疎んじられる事となって行ったのです。

    この様な全体の経緯があるからこそ「蝦夷制圧」(安倍氏清原氏)の戦いも下命して置きながらも朝廷は「私闘」として片付けたのです。
    歴史は「拡大しすぎた義家」として「疎んじた」と成っていますが、上記する融合氏の経緯等から全体的に時系列で観て史実を詳細に傾向分析するとこの様に真の答えが出てくるのです。

    結果として、頼信系は青木氏に跡目を入れずに衰退し「頼朝で源氏滅亡」と成り、「融合氏の集団化」を利用しながら極めて拡大させながら皮肉にも逆の結果が起こってしまったのです。
    その意味でこの難しい時代を生き残る術を見抜き、”立場を弁えた「品位」”のそれこそ「品位3位」と「品位4位」(有品の制)の「有品の融合氏」(源氏頼光系と青木氏の同族血縁の一本化として)を遺したのです。勿論、「有品の制」の「品位4位・5位」の藤原秀郷流青木氏にも頼光系源氏との一本化をさせたのです。


    青木氏と守護神(神明社)−6に続く

    以上


      [No.271] Re:青木氏と守護神(神明社)−4
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/03/21(Mon) 11:06:28  

    青木氏と守護神(神明社)−4


      「荘園制の経緯」(大化期から平安期)
    田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯

    位田      有品の親王と5位以上の官人に支給される輸祖田地
    職田      特定の高級官僚に支給される田地 郡司以下は不輸祖田地
             後にこれが拡大して荘園制の一因と成った。
    功田      功績(大上中下に4分類)に応じて支給される田地 輸祖田地 世襲制
             後にこれが拡大して荘園制の一因と成った。
    賜田      天皇からの恩勅に依って与えられた田地 輸祖田地 褒章世襲制
             主に皇族に与えた田地
             後に拡大して荘園制の一因と成った。 
    俸禄      主に一般官僚に与えた俸給 位階と官職に応じて俸給された 年2回の季節録
             中でも三位以上は「位封(階級手当て)」として「封戸(ふこ)」を与えた
             四位、五位には「位録(現物支給)」として「布帛(ふはく)」を与えた
             特別の官職を指定して「職田」を与えた 「職封」も与えた
             後にこれが拡大して荘園制の一因と成った。
     
    (此処までは基本制度 以下が荘園制度化)
     
    班田収授法    690年頃 国から人民に支給された田畑 戸籍身分に応じて支給
               一身耕作地(私有化)
    口分田       702年頃 国から支給された田地 戸籍身分に応じた税に対する支給
               終身耕作地(私有化)
    園地・宅地法   710年頃 国から支給された条件付私有地 制限付きで売買が可能 荘園の基盤
    郷里制       717年頃 「国郡里」から「国郡郷里」に地方行政区画の変更
               人民の支配管理の強化 荘園の基盤範囲を拡大 (740年廃止 元に戻す) 
    墾田法       720年頃 初期荘園制度で墾田を集約させ管理支配の強化 「荘園」の形を形成
    三世一身法    723年 開墾を奨励の為に施行した土地法期限付きの私有土地法 初期の荘園

    墾田永年私財法 743年 三世一身法を身分、面積、開墾期限の条件付きに変更 荘園形成 
               完全に永年の私有財産を認めた法
    荘園長制     初期荘園の荘園官 豪族を任命 浮浪人など集めて自経営化 免税の不輸租田拡大
               免税の寺田、神田等の土地が拡大          
    国免荘制     豪族国司により租税が免除される荘が出来る 国荘官は交代制で原則否免税

    荘園整理令    1070年 後三条天皇が天領地も侵略される 事の行過ぎの限界を是正する。
    知行国制     1080年頃 特定の高級貴族に国の行政権を与え経済的給付で力を付けさせた制度
    院宮分国制    1086年 特に知行国の中でも「院政」の基盤を造り確定させてた制度
    荘園公領制    1107年頃 土地制度を「巨大氏の荘園制」から再び「国の管理する公領制」に変更

    以上が平安末期までの荘園(融合氏の拡大)に至るまでの経緯を「経時的変化」にして並べたものです。
    夫々の内容を合わせて考えると「何かの変移」が起こっています。
    大化期の初期は通常のものであった制度が次第に「位田」から「賜田」まで挙句は「俸禄」までの運用が拡大化して行き荘園制に繋がるところまで拡大されて行きます。
    青木氏や源氏などの賜姓族には「賜姓田地(賜田)」が与えられたのですが、「位田」から「賜田」又は「俸禄」等の支給の運用が拡大して発展して遂には「班田収授法」(50年程度)へと進んだのです。
    荘園制の要件が加えられ運用されて行きます。
    この「位田」から「賜田」までの「基本制度」は平安末期まで荘園と合わせて施行されたのです。
    この「基本制度」と「荘園制度」の2つが施行されている事に成りますので、天皇家(内蔵)と朝廷(大蔵)の財政の逼迫は大変であった事が判りますし、「荘園制度」の私有化が「基本制度」の併用で更に加速する仕組みに成っています。これでは「過剰な私有化」を留める事は無理だと考えられます。

    この様に「基本制度」から観て行くと「荘園制度」に繋がる要因が明確に観えて来ます。
    ここで、では上手く運用すれば済む筈です。「基本制度」に大きな欠陥が無いのだから、”何故に「基本制度」が有りながら「荘園制度」の方向に近づいて行ったのか”疑問が残ります。

    それは次ぎの2つの要因が考えられます。
    1 「融合氏育成説」  増え続け勢力を得た「民族氏」の構成から切り替えて、「融合氏」を育て「国の安寧と安定」を促進させる為に積極的に「基本制度」の枠を超えて運用した。
    2 「官僚利害主導説」 この「基本制度」を運用する官僚が阿多倍一族一門とその配下の「史部」等であった為に自らの都合の良い方向に運用した。

    この事を史実から確認するには「日本書紀」から考察するしかありませんが、1の「融合氏育成説」も2の「官僚利害主導説」も積極的に運用して褒賞している事が伺えます。
    これを経緯から観ても1と2も何れも納得できる説であります。
    しかしこの内容から観ると、「位田」と「賜田」はこの大化期では主に1の説の「融合氏」に効果を発揮するものだったのですが、「職田」と「俸禄」は2の説に効果を発揮するものです。
    ところが問題は「功田」です。
    これが「4段階に分類」されている為に運用が容易であり、又「世襲制」である事から勢力を高めるには都合が良く、「功」の「大階級」は永代、「上階級」は3代、「中階級」は2代、「下階級」は子供までとされていますので、「下階級」でも50年は支給される田地と成ります。
    中以上は一応制限はあるとしても殆ど永久的と成ります。
    これだけ50年以上の年数が経てば時代がどう変化するかは確定できません。”変わらない”という前提であれば「功田」でも問題は無かった筈です。”恐らくは変わらないだろう”と考えていたと観られますので、年数にも問題がある事に成ります。

     「制限の年数設定の問題」
    A 「皇親政治」であった事から行く先も「皇親政治」は変わらないだろうから年数の制限の運用の効果が発揮すると観ていた。

    B 「田地は有限」であるとして「大開発による私有化」が起こるとは考えていなかった為に年数は問題ないと考えていた。この時代は「天候不順」「飢饉」「疫病蔓延」「凶作」「部曲の限界」などで開発は無理と判断していた。現実に平安遷都の時期まで頻繁に起こっていた。

    C 「阿多倍一族一門」とその支配下の部の職能官僚が故意的、恣意的に先を見越して「功田」のみの年数を延ばした。自分達の勢力から観て「大開発の荘園」を造り年数から私有化する事が出来ると観て勢力を高める事が出来ると先読みをしていた。
    即ち、「官僚の先読み思考」と「皇親政治の保守思考」とのズレが起こっていたと考えられます。

    「官僚の先読み思考」(C)>−「皇親政治の保守思考」(A+B)=「荘園の私有化」

    この判別式の数式が700年頃まで「功田」に起こっていたと観られます。

    1では皇族が主体と成るために官僚側からは無関係となります。
    2の「職田」では特定の官職に与えるものであるので、官僚側からすればそう簡単に運用が図れない事に成ります。無理に上申すると警戒されて疑われる可能性があり困難です。
    更に主に地方の「国司」の配下の「郡司」以下の場合のみ税を免除される仕組みである為に官僚が勢力を高める手段には効果が低い事が起こります。
    ただ盲点が一つあります。それはこの「職田」の盲点を突く事です。
    この「職田」には盲点と成った「蔭位の制」と云う誘引の制度と絡んでいるのです。(下記)

    「俸禄」では年春秋の2回であり、「3位」以上は天皇に拝謁できる身分であり「蔭位の制」で権利恩典が制限されているので無理です。
    又、特定官職でないと「田地」は与えられない仕組みである事から効果は期待できないし、これで以て運用しても大きく勢力を高める事は無理が伴い困難です。

    参考として、「蔭位の制」で5位以上なら子は21歳になると自動的に位が与えられます。
    3位以上の場合は孫までこの「権利恩典」が与えられるので、結局は運用的に世襲制であったのです。
    「俸禄」の制度を使うとしても、少なくとも荘園の所有者に成りあがるには先ず何度も出世して3位以上に成る事が必要ですのでかなり難しい状況と成ります。

    最初からだとすると、臣下した「賜姓族」に相当する皇族であるか「血縁性」の縁のある身分である事が必要ですので、普通は「俸禄」で上がるには「天皇の引き上げ」か「優秀な特定の官僚」に成り5位から昇格する身分となることが必要となります。

    結局は実質、皇族系でない限り信頼されて、且つ優秀である官僚であって、「天皇の引き上げ」がなくては「俸禄」からは大荘園または大集団の氏になる事は難しい事に成ります。

    (注):「位田」の「有品」とは天皇家の「親王・内親王」を身分別に4つに分けられた。「品1位」から「品4位」に分けられた。これを云う。

    そもそも、「蔭位の制」の貴族とは上級官人で5位以上の位階・官職の人を云い、 「品4位」以上には「供人」、「品5位」には「資人」と呼称される「付き人」が付与されます。 
    この「帳内の制」の供人・資人・舎人は下級官僚の事で、「課役免除の特典」が与えられたのです。

    この「課役免除の特典」で私腹を肥やし賄賂が横行し「職田」に左右し昇格する者が生まれ、上記「基本制度」の正規な運用の妨げには成ったのですが、別面ではこの特典を上手く使った昇格し実力をつけた有能な者は「融合氏」の元と成った「姓氏」を多く形成したのです。
    有品の氏の護衛と雑用を務める傍らで、繋がり易い立場を利用してその実力を認められ早期出世の糸口として使われ、これに依って上級官僚に成った歴史的に有名な人物が実に多いのです。
    これが盲点と成っていたのです。
    (例: 元上山氏の青木氏・滋賀青木氏はこれで立身出世した典型的な「姓氏」の「融合氏」です。)



       [青木氏の位置関係]
    ところで、「氏融合の発祥源」の青木氏はこの制度に於いて果たしてどの様な位置関係にあるのかですが、この問題では次ぎの様に成ります。
    臣下した皇族賜姓青木氏はこの「位田」から「俸禄」(3位)までの官位と成るので全ての対象者と成り、「3つの発祥源」「融合氏の祖」として成り立つ様に成っていて、制度的には当初から「拡大できる融合氏」として指定され保護されて成り立っていたのです。
    この制度でも「3つの発祥源」として「天皇家」から「融合氏の祖」を作り出そうと意図している事が充分に理解できます。
    現実には「不入不倫の権」も付与されて「民族氏」に対抗できる程に拡大し「皇親政治」を実行出るまでに勢力を保持した或いは保持させたのです。

    藤原秀郷流青木氏は「位田」を除く、「賜田」「職田」「功田」そして「俸禄」は4位ですが、「特定の官僚、官職」に属する「六衛府軍」の官職を持っていましたので、ほぼ賜姓族と等しい勢力拡大の条件が保障されていたのです。
    特に「賜田」に付いては「嵯峨期の詔勅」外であるが「母方血縁族」として「特別な賜姓族」として認可された事からこの対象氏になるのです。
    逆に云えば「六衛府軍」の官職は、記録不明な為に確定は出来ないが、この「賜田」「職田」「功田」の何れかと成り、恐らくは当時の「優位の原則」から「賜田」が優先されたものと考えられます。

    この位置に居た秀郷流青木氏は「鎮守府将軍」「朝臣族」の「姓氏と官職」を獲得出来たのです。
    この事は何を意味しているかと云う事なのですが、「秀郷宗家」よりはむしろ「秀郷流青木氏」の方が立場は上で、鎌倉幕府の「坂東八平氏」の出方如何では源頼朝が潰された後でも「征夷大将軍」に成り幕府を開ける立場にあったという事なのです。
    むしろ「宗家」より「青木氏」の方がこの官位からすると上位と云う事に成るのです。元より宗家は貴族であり武力を保持できません。

      「青木氏の立場を物語る慣習例」
    (参考)
    源氏が潰された時、背後では藤原秀郷一門青木氏の出方が大いに話題と成ったと考えられるのです。「生き様」が観えて来ます。平泉の秀郷一門の藤原氏との決戦がありましたが、これにもし青木氏が加わっていれば鎌倉側は「秀郷一門の圏域東山道」を横切る事に成りますと戦略的に弱く両側面を突かれるので勝負は青木氏側が勝利となり青木氏の幕府は開けていた筈です。
    疑問の一つですが、源氏の頼朝を旗頭に立てていた事が潰せない理由であった筈です。しかし幕府樹立後3年後に殆ど源氏一族が抹殺されてしまいます。
    「坂東八平氏」の反対を押し切って上記する田地制度の平安中期の状態に戻す2度の「本領安堵策」と「平家没官僚」策を実施し、藤原秀郷一門と賜姓族青木氏を含む源氏一族同族の再興を図った事が原因とされています。
    しかし確かにそうであることは事実ですが、青木氏が参戦して来ないと観て、「坂東八平氏」たちにとっては元々旗頭として権力を掌握するまでの期間の「源氏撲滅を狙いとする傀儡氏者源頼朝」であったのです。その戦略が採れたのですが、これに4つの青木氏が関わっていたなら変わって居た事に成ります。
    それは源氏の頼朝等を潰しても青木氏が幕府を開くことが出来るからです。2つの氏を潰す事は後々の朝廷に対する幕府執権としての立場を獲得する事は出来なかった筈です。
    この後、直ぐに「坂東八平氏」は新宮太郎の末端までの源氏一族掃討作戦が実施されたのはその証拠です。
    結局、源氏一族掃討作戦で遺したのは「永代不入不倫の権」で保護されていた「青木氏」に源氏宗家頼光系直系の[頼政-仲綱]-「京綱」が伊勢青木氏の跡目に入り、青木氏と云う形で「源氏直系子孫」のみが遺される結果と成ったのです。敵に成っていない青木氏を潰す名文が見つからないし「不入不倫の権」を犯す事が出来なかったのです。

    だから鎌倉幕府執権にとっては藤原秀郷の平泉一族と戦っても青木氏が静観した事から秀郷一門全体の本領安堵が許されたのです(秀郷宗家の朝光も上総結城が安堵される)。そしてこの様な立場にあった秀郷流青木氏は鎌倉幕府以降江戸期までも力を蓄えて秀郷一門を束ねる事が出来る様に成り「第2の宗家」と呼ばれていたのです。

    つまり、「融合氏」の経緯を「荘園」と云うキーワードで時系列的に傾向分析すると見えないものも観えて更にこの様に深い青木氏の実態が判るのです。
    この様な見地から観ると「青木氏」を名乗る事が出来ると云う事は天皇に続く身分、家柄、官位、官職を永代的に保持する「融合氏」と成る訳で、「血縁の青木氏2氏」とその「絆で結合した青木氏2氏」の「4つの青木氏」は明治期まで高い誇りの中に居た事を物語るのです。
    その明治期までこの「社会慣習」が遺されていた証として、筆者の伊勢青木氏が、松阪が紀州徳川氏の飛地領と成った時、家康の次男頼宣と伊勢で対面面談した時に、頼宣は下座し先に「挨拶の儀礼」の態度を執ったと「言い伝え記録」されていて、更には8代将軍吉宗が若年の時を家老加納氏と共に伊勢で養育し、吉宗が将軍と成った時には「享保の改革」の主軸として働くことを求められ、「大店紙屋青木長兵衛」に経済に強い一族の者を同行させる様に依頼がある等、又、尾張藩や会津藩等から反対の強かった節約方式の「享保の改革」に対し、それを証明する為に同時に紀州藩に於いても「藩建て直し」でも特別に依頼され、「特別勘定方」を務め成功する等をして活躍して反対を押さえ込みに成功する等の親密な付き合いは続いたのです。

    (この「挨拶の儀礼」仕来りは大正14年(祖父の代)まで続いたと直接祖父より聞いている。徳川氏の親書が多く遺されている)
    (伊勢加納氏とは伊勢青木氏と何度も血縁し加納氏も「2足の草鞋策」を採り「「伊勢の豪商加納屋」を営む :筆者の父の祖母も加納屋の伊勢加納氏の出)
    (江戸同行の伊勢青木氏は江戸に定住し江戸青木氏6氏の一氏となる。)
    (以上一つの慣習例として記録して置く)

    話を戻して、下記する「後三条天皇」は「大江氏」の様にこの基本制度の「俸禄」を利用して優秀な「下級官僚」を引き上げて育て「特定官僚」にし「小融合氏」の育成に力を注いだのです。
    (他には890年宇多天皇の菅原氏氏等の例がある)
    本来、「位田」「賜田」「職田」は皇族か高級官僚か特定の重要な官職に適用運用するものであり、優秀な下級官僚を引き上げて育てるにはこの「俸禄」制度以外にはなかったのです。
    となると、結論は「賜田」の運用と「功田」の運用との競合と成ります。
    そもそも「賜田」は対象者は皇族関係(6世族まで)が主体であり、天皇が指名する方式であります。
    そして「功田」は功績が趣旨であり、対象者は原則任意で官僚からの上申方式であります。

    そうすると「功田」以外に官僚から観れば荘園に近づく「永年性の勢力」を蓄えるにはこれ以外にない事に成ります。

    この事から、行過ぎた荘園制になったのは、初期は「賜田」<「功田」の関係式で運用が図られいた事が50年間でこの関係式<の運用は制限なく徐々に大きく成って行った事に成ります。
    そこに「班田収授法」が施行された為に余計に「荘園の勢い」に火を付ける第2の火種に成ったと考えられます。

    「賜田」=<「功田」・・・「1の説」=<「2の説」
    「功田」+「班田収授法」=「荘園」

    以上の関係式と成ります。

    これは「荘園制度のそのものの変移」であり、そこには「制度を仕切る権力の強弱の変移」が観えて来ます。
    「融合氏」の「経済的背景」は本来は「田地の保有」であり、その「田地の保有」は「荘園」に結びつき、その「荘園」の保有は「制限年数拡大」が重要となり、その「制限年数の拡大」が「永代の私有化」に成り、そしてこれが最大の「経済的効果」となったのです。この「荘園拡大サイクル」が起こったのです。
    (青木氏はこのサイクルに飲まれない為にもこれをカバーする為に「2足の草鞋策」を採った)
    結局、「荘園の拡大」はこの「流れ」が一度に依って成り立つ訳ではなく、この下記の「荘園拡大サイクル」を何度も繰り返しての結果と成って起こったのです。

      「荘園私有化のサイクル」
    「融合氏」→「経済的背景」→「田地の保有」→「功田の運用」→「制限年数拡大」→「荘園」→「私有化」→「経済的背景」→「融合氏」

    結局は前半150年以上はこの上記の数式サイクルを繰り返した事に成り大集団の荘園が形成され、その後、後半の150年は大きくなり過ぎた荘園に「自然の流れの力」が付与され「自然増大」を起こして「私物化−私有化」で収集が就かなくなった事が起こったのです。
    しかし、これだけでは行過ぎた荘園制が起こりません。これには「自然増大」を起こすには何がしかのエネルギーが必要です。その要因が実は深刻な「国内問題」と成っていたのです。

    それは、次ぎの二つの現象から起こっているのです。
    一つ目は、国内で「天候不順」「飢饉」「疫病蔓延」「凶作」「部曲の限界」「重税」に喘いでいた「部曲」や「奴卑」が耕作放棄して放浪すると云う現象が常態で起こっていたのです。

    二つ目は、朝鮮半島から難民が日本海の各地に盛んに上陸し犯罪などを起こし国内問題と成っていたのです。

    これ等の2つの事は「日本書紀」にも書かれていて平安末期まで1018年頃まで続いていたのです。
    この「2つの放浪民」を「融合氏」と「民族氏」の「大集団」は競って吸収して「働き手」として「荘園開拓」へと向けたのです。ここが「基本制度」の読み間違いの一つなのです。
    事実、「公地公民制度」の中では「重税と労役」に喘ぎ限られた「部曲」だけの力では絶対に先ず荘園開拓まで進まなかった筈です。この「放浪民」の存在がサイクルのエネルギーと成っていたのです。

    「放浪民」={サイクルのエネルギー}→「行過ぎた荘園制」

    この為にこの事が根幹にある事に遅く気がついた天皇は、1018年に大蔵氏に九州地域の全権を委任して入国を法的に禁止し武力で阻止するように命じ、特に大量流入していた九州地方と中国地方で入国を防ぎました。
    官僚は「放浪民」のこれを「先読み」していたのです。そして「功田」を使う事により「荘園の拡大と私物化、私有化」が成せると考えていた筈なのです。
    現実に班田収授法が施行されると急に「放浪民」を積極的に吸収し始めたのです。
    そして、言い逃れの為に”この「放浪民」の「救済対策」として「荘園開拓に吸収する」”と云う「大義名文」を打ち立てたのです。これでは累代の天皇にしてみれば手足が出ません。
    結局、この荘園の暴走が遂には「天皇家の弱体」に直接繋がって来た事から、この根幹問題の「放浪民の阻止」に遂に動かざるを得なかったのです。それには大蔵氏の力を借りなければ成りません。裏を返せば大蔵氏による九州地域の自治を認めざるを得ないことを意味します。苦渋の決断です。
    この「流入阻止」に動いた時期から「荘園の拡大」は止まったのです。つまり、「天皇家の弱体」を食い止めたことに成り、「民の安寧と安定」の国策を推進していた「融合氏の国策3策]の衰退は止められた事になります。
    (この後一条天皇の決断(1018)の前提があったからこそ後三条天皇の整理令(1068)に踏み切れる決断があった)

    これは「阿多倍一族一門」の「九州の南北基地」の自治を認めた時期(1018年)と一致しているのです。
    東(内蔵氏、阿倍氏の一門)、
    西(大蔵氏、肝付氏一門)、
    中央(伊勢基地の平族、坂上氏一門)、
    中国地方(陶氏、海部氏、武部氏の部配下一門)
    以上の様に全国的にその勢力を張る「荘園拡大の最大の大元締め」「阿多倍一族一門」が「九州南北の基地」の「民族氏の自治」を認めさせる替わりに「放浪民」の「流入阻止」を故意的に約束したのではないかと判断されます。この程度の読みは判らない筈はないと考えます。
    何れにしても「荘園拡大」には「利害」が一致し解決するにはそろそろ「適切な時期」と観たのではないかと考えられます。
    「朝廷政治」を拒否した「薩摩大隈の戦い」の713年から「大蔵種材」の1018年までの300年で完全自治を成し遂げたのです。これが前半と後半の「150年の変化」の経緯なのです。

    本来であれば政治的に「公領制」に戻す前に、このサイクルを崩せば良い事になりますから、それは「功田の年数」の「見直し」か「廃止」と「放浪民の措置」が必要であった事に成ります。
    恐らくはこの事は充分に認識出来ていたと考えられます。しかし、天皇側は「放浪民の処置」のところまで出来なかったのです。

    それは「郷里法」(717年)を発布して置いて740年にまずいとして廃止している事と、合わせて数年後には「墾田法」で出来た「荘園の制限付きの管理強化」を発令しています。
    これは拙いとして勢いづいた「荘園」を何とか止めようとしている事が良く判ります。
    しかし、止められなかったと云うのが実情であったのです。
    これは「放浪民」と云う原因が他にもあったからです。(後述)
    止む無く、「流れ」に押されて「三世一身法」で遂には「制限付きの私有化」を認めざるを得なかった事に成ります。この「放浪民」を確保した「荘園側」が強気に出た事がありありと伺えます。
    彼等の大集団の「融合氏」と「民族氏」の荘園側にとって見れば”「放浪民」を放置せず国の為に面倒見ている”と云う「大義明文」があるからです。
    当時の世情問題と成っていた政治上の大問題であるのですから、「朝廷側や天皇側」からすると納得出来る明文であった筈です。”判っていて何も云えなかった、出来なかった”が正しい現状であったと観られます。
    故に「郷里法」や「墾田法」が出されても効果なかったのであり、「融合氏の大集団化」と「民族氏の拡大・大集団化」が一人歩きし始めたのです。こうなれば止める事は誰にも出来ません。「流れ」に任すしかなかったのです。
    兎も角も命を掛けた「後三条天皇」までの何れかの天皇がこの「功田」の「年数制限の運用」の見直しを実行する勇気が無かった事に成ります。

    元々「公領制」に戻す大変な事になる前に「基本制度」で「融合氏の育成」が果せたと考えられます。
    こうして観ると、「功田」の「年数制限の運用見直し」は「詔」まで行かなくても「勅」で行えばそう難しい事では無かった筈で、先ず国内への「難民流入」を少なくとも押さえ「勅」を出す事で彼らに「法の違反の罪」が来て、今度は大儀は天皇側に移る事に成ります。
    そうする事により止めることは出来なくても緩める事は出来た筈です。

    また「郷里法」や「墾田法」に続いて「基本制度法の功田法の修正」を行うことが必要だったのです。
    これで「政治手法」からの「完全な大儀」を獲得出来ていた筈です。
    肝心なものを修正しなかった事が中途半端な大儀と成ったのです。
    そのずるずるの原因は、矢張り、「天皇」と「阿多倍一族一門」と「藤原氏」等との「血縁関係」の「絡」(しがらみ)から実行出来なかったとも考えられます。

    待っていたかの様にこの「絡」の無い「後三条天皇」の英断と成ったのです。 
    1068年から始まり124年間まで「親政−院政」に依って「朝廷権力」と共に「公地公民」に近い体制に戻し天皇家にその権力が取り戻されてたと云う事です。
    大化期に造られた「基本制度」を目標にほぼ戻したと云うことに成ります。
    ただ1068年以降それが「武家の台頭」と「荘園」を保持していた「融合氏」の彼等の反発を招いた事が、取り戻したとは云え、結局は1185年の鎌倉幕府の樹立で朝廷政治は終局を迎えたのです。

    当然に「公領制」も白紙と成ったのですが、しかし鎌倉幕府「源頼朝」の2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」で「平安中期の状態」まで戻ったのです。
    まあ「大化期」まで戻す必要は無いと考えますが、頼朝もある程度この「荘園制の問題」を認識していた事を物語るものです。
    お陰で頼朝もこの「3つの策」の実行で「坂東八平氏」の不満が爆発して抹殺されて11代続いた源氏は一掃されて滅亡の憂き目を受けたのです。
    (権力実行だけでは無理である事 三相の理:「人」では無理であったのです)

    それまでの平安末期までは、「荘園制度側の権勢」(融合氏の勢力拡大)が増してそのピークに達しているのです。しかし、「公領制」(1070年)に戻したとは云え皮肉にも約100年で「天皇家の権勢」が逆に低下して行った事に成ります。
    「荘園制」「融合氏」の勢いは留まらなかった事を意味し「公領制」は「朝廷の権勢」(荘園側の不満増大)の低下と共に強制力が低下して行った事を物語ります。

    「正常な氏融合」=「公領制」=「朝廷の権勢」<「荘園側の不満増大」

    「後三条天皇」の英断実行は矢張り遅かった事を意味します。
    (困難な状況の中でも「公領制」(20年)に戻せたとしても、結果としては「三相の理」:「時」が必要であった)

    しかし、結果として「融合氏」は九州の「民族氏問題」も「後三条天皇」の「公領制」(1070年)と同時期(1018−1050年頃)を境にして決着し、全国的に「民族氏」から脱して統一した「単一融合氏民族」が誕生したのです。これが現在の日本の根幹を成しているのです。
    この鎌倉幕府の「頼朝の3つの策」まで120年が経っていますので、「公領制」=「朝廷の権勢」<「荘園側の不満増大」(大集団の不満)の状態が20年程度あった事に成ります。
    後は天皇-上皇-源-平の争いの混乱期に成りますが、後世から観れば「結果良し」であります。
    大化期の国策3策の「融合氏」は結果として成功した事を意味します。

    考え方に依れば天智天皇の目標を忘れず引き継がれて、累代の天皇はこの事が念頭にあったとも考えられ”譲れるところは譲る”の考えがあったのかも知れません。少なくとも桓武天皇、嵯峨天皇、後一条天皇、後三条天皇、白河天皇と院政の上皇にはあった事は間違いないところです。

      「融合氏の拡大化の経緯」
    奈良期からの経過を観ると、次ぎの様に3つに成ります。

    「645年−公地公民−710年」−「717年−荘園−1068年」−「1107年−公領制−1192年」

    (不明な年代設定は年代の周囲の事件性から算定 鎌倉幕府成立後も6年間院政が続く)                                
    この順次、時代状況毎に打ち出された政策が上記の様に次第に「荘園化」して行く過程が良く判ります。初期の目的とは違って「郷里制」の頃から慌てて締め付けに掛かりますが、朝廷内部の勢力争いもあり「墾田法」の頃からは「荘園の勢い」が強く解決が着かなく成ります。

      「朝廷の政治目的」
    この様に経時的にあるテーマで傾向分析で検証すると、他の書物では「権力主義」と兎角簡単に云われがちな事に評価されるのですが、私は少し違っていると考えています。
    この「朝廷の政治権力」或いは「天皇の権力」は、あくまでも「国策」を実行するに必要とする手段であった事がこの時系列変化でよく判ります。決してそれが第1義で云々している訳ではありません。

    要は「国の安寧と安定」の国是を遂行するには「氏融合」とそれを成功させ得る裏づけ策の「物造り策」1とそれを養い得る「農政の充実」2の2つが先ずは必要不可欠な専決事項であった事が観えて来ます。

    「国の安寧と安定」の国是= 「氏融合」→裏づけ策の「物造り策」1+養い得る「農政の充実」2

    しかし、これ等の経緯から観て、中でもこの時代毎に起こる「農政による生産力」を経時的に検証すると、その状況は「荘園」が拡大しながらも何時の時代も例外なく極めて悪く賄い切れない状況であった事なのです。(農政の時系列は膨大になる為別の機会にする)
    「荘園」が拡大する事は「天候不順や疫病飢饉」等で減少する事はあるにしても、本来は「農業生産力」が増大する筈です。その「農業国策」は遂次間断なく実行されていますので良し悪しはあるとしても少なくとも政策によるものが主因では無いと考えられます。

    ここで、”では何故、増大しなかったのか”の疑問が起こります。
    この疑問を解く方法として、奈良期から平安末期までの「農業政策」を経時的に、系統別に2つの分類方法で並べて考察しその2つの答えを付き合わせた結果を検証すると次ぎの事が浮かび上がって来ます。(この分析資料は別の機会で提示する)

    その結論は、故に、「氏融合策」に依って生まれた氏の「経済的裏づけ策」(「仕上げ策」)として採用し実行した「私有財産政策」(4政策)が、その内一人歩きし巨大化して朝廷から離れて行く「荘園制度」と成ったのです。つまり「巨大化した荘園」に「富の偏り」が起こったのです。
    その為に政治的な統制が採れず、この「荘園の巨大化勢い」と「農政」とのギャップが大きくなり「国是の遂行」はますます不可能となって行く事に成ります。農政の効果が偏りとギャップの為に効果が無く成ったのです。
    それを憂慮した為政者の天皇は、これを解決すべく先ずその「農政の効果」を高め「巨大化の勢い」を抑える為に、その遂行の「手段の確保」に当たりました。
    それが、先ず「親政」(皇親政治)であって、それに依って「権力を集中確保」させて、その「融合氏数」に見合う「物造生産力」と「農業生産力」に戻す強力な政策実行を敢行したのです。

    実は歴史的に観て平安期までには「国政の大問題」が起こった時期には必ず「権力集中」を実行させる為に「皇親政治」を強いているのです。この時だけではないのです。
    それが「3期の皇親政治」と「2期の院政、上皇政治」といわれるものでなのです。
    累代の天皇にはこの手法が受け継がれていたと考えられ、問題解決するとまた開放すると云う伝統的な政治手法を採っていたのです。

    (桓武天皇の前の光仁天皇の時まではその皇親政治の主役は融合氏の発祥源の賜姓青木氏一族で有ったのです。それが同じ一族の桓武天皇に依って排除されたのです。そして嵯峨天皇が賜姓源氏として再び戻したのですが、終局、桓武天皇の「賜姓たいら族」との勢力争いになってしまって嵯峨期の皇親政治は終わったのです。融合氏政策は頓挫して源義家の荘園に引きずられての失敗で源氏は滅亡の引き金を引いてしまったのです)

    この事で一面で捉えると「権力の確保」が目的ではあるかの様に観えますが、前後の政治問題を検証すると決して通説の様では無かった事がこの経時的、系統的な解析経緯でよく判ります。

    要は次ぎの関係式が成り立てばよい訳です。
    「氏融合数」=<(「物造生産力」+「農業生産力」)←「権力の確保」←「親政・皇親政治」
    「氏融合数」+「私有財産政策:4政策」=>「荘園制度」←「国の安寧と安定」
    「荘園制度」=<「農業生産力」

    ところがこの3つの判別の数式が成立せず不等号は結果的に逆に成ってしまった事なのです。
    特にこの判別式の数式から判断できる事は(=)とすべき「政策実行の時期」が「遅く悪かった事」を意味しています。
    つまり「三相の理」の「時」を失していた事です。
     この「判断力」に欠けていた事を「後三条天皇」の以前(900年代前半まで)の歴代の天皇に云える事であります。
    そこでそれを確かめる為に更に細かく傾向分析を行いますと、”判っていたが圧力で積極的に出来なかった”が正しいのかも知れないと出るのです。
    それを示す「荘園側」からの「妥協策」が「天皇側」に次ぎの策が実行されているのです。

    荘園側からの策
    1 寄進 荘園権利を天皇家等の「中央権力」に寄贈し名義領主を借料して弾圧を避ける仕組み
    2 除田 荘園内の所有する特定荘園に「中央権力」のお墨付きをうけて借料し税等を免れる仕組み

    3 領家 開発領主から直接寄進を受け荘園領主に成ってもらい借料を「天皇家」に具納する仕組み
    4 本家 荘園領主が権門勢家(天皇家等)に名義上本家を依頼し借料を具納する仕組み
    5 本所 本家となった者の内実質的な支配権を獲得した者(主に天皇家)に具納する仕組み

    天皇側からの策
    6 不入の権 天領地や公領に一切の権力勢力の侵入を拒否する特権を与えて収納を高めた。  
    7 不倫の権 天領地や公領に租税免税特権を出し経済的な収益を高めた。

    この経緯から「後三条天皇」前には経過処置として荘園側もこの事態を察知していて何とか「妥協策」で逃げ延びようとしている事が判ります。
    荘園側(巨大氏)からすると1から5まで少しづつ内容を変えて対処していた事が観えます。
    天皇側にしてみれば、「妥協策」でも納得していない事が判ります。
    自らも「政策実行の力」をつける必要があり、この力が現状では難しい事を認識していて、「自らの特権」を生かしています。

    1 「天領地」や「妥協策」に依って得られた「荘園」に
    2 「妥協策」で得られた「準天領地」に
    3 「朝廷の「公領」の形となった荘園に

    以上この「3つ土地」」に対して収益をあげる為に積極的に「不入不倫の権」を実行し、この時期(整理令の前)に乱発しています。
    そもそもこの「不入不倫の権」は大化期に青木氏5家5流の天領地に与え使われた特権なのです。
    ところがこの場合は「天皇家内部の経済力:内蔵」を把握されない様にする為に「経過内容」(妥協策)に対応してこの権力を乱発行使しているのです。
    つまり、この「不入不倫の権」の使い方が本来と違うのです。その事で「乱発の目的」が判るのです。
    本来、大化期のこの大権は皇族賜姓「青木氏」を「融合氏の発祥源」として遺す為に「武力、権力、経済力」の点から守る目的であったのです。「錦の御旗」に近い手段であったのです。

    これ等の事である程度「荘園側の妥協的な態度」と自らの「天皇家側の力の復元」を見定めていたのです。 ”「荘園整理令」はこれでやれる。千歳一隅” と判断して、”「姻戚外の自分」を生かす事で「しがらみ」から逃れられ出来る” と「後三条天皇」は決断したものと考えられます。
    (後三条天皇は源平藤橘の氏や高級官僚との姻戚関係のない出自であった)
    そして、この時、世情は「源平籐橘」同士の「荘園争い」を起している環境下でもあり、”これを側面から政策的に突けば押さえ込める”と見込んだ事は間違いないと考えられます。

    故に「氏融合」のキーワードから観ると、この「後三条天皇」がたった4年の在位ながらも素晴らしい人物であった事が云えるのです。”機を観て敏””勇気のある人物”成せる業”の人物であったのです。
    書籍で観れば”そんな天皇も居たか”で終わるでしょうが。
    累代の天皇の中で唯一人「荘園の行き過ぎ」を押さえ「国是」を遂行する「国策3策」の「融合氏」を成功させたのです。

       「融合氏の変移」の分析
    この様に「氏融合」と「荘園制度」とが「経済的裏づけ」で連動している事に判断が付けば、「荘園制度」の傾向分析を行う事で、「融合氏」の「変移」を掴む事が出来るのです。
    序文で記述した様に、史実を「経時的」(時の要素)に、「系統的」(場の要素)に、「人為的」(人の要素)に並べて「3つの考察」をすると必ずその本質が観えて来るものです。
    夫々の内容に依ってこの「三相の理」「3つの要素」のどれに重点を置くかに依って決められます。
    これを「傾向分析」と技術専門的に云うのですが、余り採用していない歴史にも適用すると矢張り観えて来ます。これに依ってより正しく書籍に惑わされずに判断する事が出来るのです。
    何度も主張していますが、「青木氏家訓10訓の家訓8」は真にこの事を教えているのです。
    何も技術に限らずこの世の「万物万象」は「相対の理」と共にこの「三相の理」に従っているのです。
    現世は「善事」があれば必ずその裏には「悪事」が働きこの「善悪」は「三相の理」の「3つの要素」に左右されているのです。
    「相対」(+−)を基準に「三相」の3つ(人時場)が連動して「6つの傾向」が生まれこれを「取捨選択」して「検証」する事で「現実」の「立体性」が浮き彫りにする事が出来るのです。
    「歴史」は「1次元の結果」だけを並べたものです。従ってこの「一次元の結果」を突き合わせても正しい答えが浮き彫りにする事は難しいのです。
    「技術」の問題の解析も同様であり答えを出すには、この「6つの傾向」を考察し取捨選択する「傾向分析」手法を使わなくてはならないのです。

    「経時的」(時の要素)+「系統的」(場の要素)+「人為的」(人の要素)

    「相対の理」(+−)×「三相の理」(人時場)=「現実」(傾向分析 6傾向)

    「構成の理」(「理由」「目的」「手段」)
     
     「3つのツール」
    「6つの理」が出てきますと、次ぎは「構成の理」と筆者なりに名付けている手法があるのです。
    それは「万物万象」は「理由」「目的」「手段」に依って構成されていると云う事です。
    従って、「相対の理」と「三相の理」の「傾向分析」で浮かび上がったものを、この3つの「構成の理」で調べてみるのです。そうすると必ず「疑問点」が浮かび上がって来ます。
    「疑問点の有無」を発見するという事でも使う事が出来ます。
    虚偽の様なものはこの何れかがかけている事が多く又矛盾を含んでいる事が多いのです。
    ある史実とされるものがあるとしますと、これはどのような理由で、何の目的で、どの様な手段でと問い詰めて行くのです。この「構成の理」の3つ或いは2つが叶っているとほぼ真実に近くその時代の「生き様」「様子」がより立体的により詳細に描く事が出来るのです。
    殆どは「6つの理」で傾向分析をすれば観えてきますが、より面白くする為にも「構成の理」を使います。「疑問点」を発見するには最適です。そうするとその「疑問点」を解明しようと研究します。
    この時、「疑問点」に必要なのが広範な「雑学」なのです。此処に「雑学の意味」が出て来るのです。広く浅くをモットーにです。
    「疑問点」を持つ度に「雑学の探求」が起こりますので更に「雑学」が増えてゆきます。増えれば更に「疑問点」の解明に役立つし時間短縮が起こると云うのです。
    まあ、これが「濃い歴史」が生まれると自負し自己満足している「技術屋手法」です。
    世の現実もこの「相対の理」「三相の理」「構成の理」で成り立っているのではないでしょうか。
    青木氏の始祖は天皇の軍略家であったのですから、上記する理で考えていたのではないのでしょうか。そうすると筆者がその癖が取分け大きいので遺伝ですね。
    私はこれを「3つのツール」と呼んでいます。

    筆者の認識では技術文献は兎も角も他の歴史文献の多くはこの「傾向分析」の手法に欠けていて一つの面から見た論調が多い気がします。極論、否現実論、感情論、誘導論の類に見えます。
    筆者は「通説」というものには余り信用していないのです。特に室町期以降の資料を使ったものには信憑性が掛けています。
    特に、歴史に関してはもっとこの手法を採用すべきと考えています。どちらかと言うと「左傾」にあり「天皇」という「権力象徴」の様な一面を強調(学説)されている傾向が強い事が気がかりです。
    特に戦後見直された歴史の通説にはこの傾向が残っており疑問を感じるのです。
    現に、これだけ日本の構成に寄与した「後漢の民」の帰化・移民・技能伝導・仏教伝来等の事が教科書にも載せられていない事に疑問を感じます。戦後の影響が未だ遺されているのでしょう。
    誰でも一度は読む「三国志」等から中国の「漢民16国時代」の事を知るとこの事に気づくのですが。
    余談ですが、多くの文献を読むと恐らくは(この種の学者に)この「技術的な傾向分析」への偏見から来ているものと観られます。
    どちらかと云うと司馬遼太郎氏等の様な歴史小説家の研究に「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」から考察して立体的に評価検証していて賛同を覚えます。
    歴史を研究し趣味として学んでいる場合やルーツに関する雑学知識ではこの懸念を是非持つ必要がある事を注釈します。

      「2つの疑問点」
    では、次ぎの疑問です。
    1つ目として、何故、「農業の生産力」が増大しなかったのかの疑問が起こります。
    2つ目として、何故、「判断」が出来なかったのかの疑問が起こります。

    この[2つの疑問]は大きなテーマで本文の中では別のテーマですので別の機会に論じたいと思いますが、筆者の結論だけ述べておきます。
    「巨大化大集団氏への富の偏り」が原因していると分析しています。
    「融合氏」の「巨大化の経緯経過の過程」に問題があり、上記した様に「中小融合氏」が融合を重ねて大きく巨大化したのではなく、「無血縁」による「大集団の融合氏」への「勢力による吸収過程」を採ってしまったことが原因しているのです。
    「荘園開拓」に依って多少の「生産力」が上がったにせよ「無血縁」である事からその「保護の見返り」としてこの「経過過程」の原因(無血縁小集団)により「農業の生産力」が大集団に吸い上げられて行く事になるからです。その様な「荘園形態」が出来上がった事に因ります。結局、「均等な富の分配」が行われなくなり「小融合氏」が拡大に必要とする「生産力」にならず回らなくなる体制に成ってしまったのです。富が回らなくなれば「生産力」はますます低下するのみとなります。
    これもまた「巨大化し過ぎた荘園」と「起こり過ぎた階層毎に富の偏り」が原因なのです。
    そして、「巨大化した融合氏」=「巨大化した荘園」の関係式が起こり、朝廷を牛耳る「源平藤橘」族等に匹敵する様に成り「統制力のバランス」が崩れて、自ら「巨大化した荘園」の「利害権益体制」を崩そうとしなかった事によるのです。

    「巨大化し過ぎた荘園」+「過ぎた階層毎に富の偏り」=「利害権益体制」←「巨大化融合氏」
    「巨大化融合氏」=「天皇為政者の血縁関係」

    「後三条天皇」以前はこれ等の族が為政者であったからです。
    この判別式の数式のそこを見抜いていた「後三条天皇」はこれ等の巨大族と「無血縁」である事からすべての「絡」(しがらみ)から外れられ、一挙に「強権」を発動して「政治体制」を変え、「親政」にして、「小中の融合氏」の優秀な者を引き上げて擁して、「融合氏」を育て、「国策施行」に臨んだのです。
    これこそが「三相の理」(人、時、場)の判断力の持ち主であります。隙がありません。
    真に「風林火山」の略意そのものです。恐らく、平安期に於いて千歳一隅のチャンスであった事に成ります。
    場合によっては天皇に成る為のその機会を狙って下工作を行っていた事も予想できます。
    それは、下級官僚小集団の大江氏等を直ぐに登用した事から観ても準備は整って居た筈です。
    「俸禄」や「功田」で引き上げるには時間が掛かりますから始めから大江氏等と事前に密かに談合していた筈です。中大兄皇子の大化の改新劇の様に。
    「源平藤橘」や「大集団氏」の彼等が事前にこの「無血縁の皇子」を天皇にする事がどれだけの意味を持つかは充分に計算できていた筈です。判れば抹殺です。
    だとすると、彼は自分の考えを隠していた事に成ります。
    天皇に成り彼等の集団をすぐさま排斥した時点で「驚天動地」の事であったろうと予想できます。
    そうなると自分の命が危ない事は予測できます。何かの手を直ぐに打たなければ自分はおろか登用した大江氏らの命も危ない事に成ります。
    故に在位4年39歳(前後の天皇在位10年以上)と極めて短いのです。何かあった事が伺えます。
    歴史に載せられない何かがあったと予想できます。
    しかし、この父の姿を観ていて父の意思を引き継いだ20歳の若き「白河天皇」(1072)は先ず直ぐに「北面武士」軍団の創設をして身辺近くで護衛を行う仕組みを実行したのです。この事がその時の状況を証明しています。

    矢張り”「この親ありてこの子あり」”です。この意思を継いだ白河天皇はその資質からも在位14年院政43年の期間を維持し「融合氏政策の仕切り直し」を成したのです。
    上記した経緯の次ぎの3つの政策を実行して大化期に近い状態に戻します。
    知行国制     1080年頃 特定の高級貴族に国の行政権を与え経済的給付で力を付けさせた制度
    院宮分国制    1086年 特に知行国の中でも「院政」の基盤を造り確定させてた制度
    荘園公領制    1107年頃 土地制度を「巨大氏の荘園制」から再び「国の管理する公領制」に変更
    これで再び正常な「融合氏」は進みます。
    しかし、この3つの事を進めるには命を掛けての事であったのです。
    それは、通説では評判の悪い「院政」なのです。
    院政を執って置けば”危険が迫ったいざと云う時”の為には常態を維持出来て天皇にも教育できる期間も獲得できますし、命の危険性は低下する事にも成ります。
    天皇か上皇かどちらが裁可を出すのかは倒そうとする側から観れば難しく成ります。その上で身の安全の仕組み(北面武士)を作る事で相手に対して大きな脅威と成ります。
    倒そうとして失敗すれば「北面武士」の軍に潰されます。大儀も有りませんから天皇側に大儀が採られて関連する大集団荘園群そのもの全てをも滅亡させてしまう危険があります。それこそ天皇側の思惑(大きくなりすぎた大集団群の解消)です。

    そこでこの「北面武士」の詳細な仕組みに触れておきます。
    それは、それも門を護る近衛軍の様なものではないのです。緊迫しています。天皇が住居する部屋の隣がこの「北面武士」が侍従する部屋なのです。
    「北面」とは”北側の隣の部屋”の意味の通りです。
    その武士はある最も信頼する数人の氏の将軍で構成され交代制です。
    軍はその都度その将軍の配下の軍が動くのです。天皇の全ての行動に順じて常に即時に動く仕組みです。
    参考
    「侍」(さぶらう)でその語源の元は「候」(そうろう)であって、奈良期の「発音の仕方」(そうらう)から「さぶらう」となり「さぶらう人」の「さぶらい」となり「さむらい」となり、”退位した天皇や上皇が居住まいする「門跡寺院」を守る人”つまり、「人と寺」が「侍」と成ったのです。その漢字を「侍」としたのです。「候」の意”そっと側に寄り添い守る”の意の通りなのです。
    正しく武士侍が使う”何々・・・で候”の語尾の接尾語はこの意味の発展したものなのです。
    念のために、「青木」の発音は平安期まで、現在では神社等の祝詞でも発音しますが、「ウォーキ」または「うあぉーき」でした。貴族等は字の発音を「韻」(いん)に籠らせる事で「綺麗な発音」としての習慣があったのです。従って、神社もこの習慣を今も引き継いでいるのです。

    主に信用の出来る者の源氏方将軍で構成される(中に1名の桓武伊勢平族が記録あり)もので極一部の豪者で固めました。「組織命令」ではなく「臨機応変」に動く「天皇直命」であり藤原氏(1名指名有)や他の阿多倍一族等は矢張りなかったのです。今で言うSPです。
    これでも当時の「氏融合策」の改善の政策実行の危険性の状況が切迫していた事が良く判ります。
    でも危険を物ともせずに実行したのです。命が欲しければしない筈です。

    この勇気ある行動を成した「後三条天皇の判断」が「行過ぎた荘園制」を押し留め、青木氏を「3つの発祥源」とする「融合氏の発展」を成したのであり、終局、「単一融合民族の優越性」を担保させ、現在の日本の根幹を成した人物なのです。
    この直前の1018年の大蔵氏による九州地域の「民族氏の自治」を認めた後一条天皇の卓越したバランス感覚の判断も見逃す事は出来ないです。1068年の後三条天皇のこの行動もこの後一条天皇の行動が裏打ちされているのです。

      「農業生産力との関係」
    その証拠に上記の「3つの経過期間」には間違いなく「政治権力を集中」をさせるべく「皇親政治−親政政治−院政政治」の様に「皇親政治体制」が敷かれているのです。
    「物造生産力」と「農業生産力」が「融合氏数」に見合う物以上であれば天皇はそれで権力が低下しても「国の安寧と安定」が確保されるのであれば「所期の目的」は達成されている訳であり、何もより「国力が増す方向」に進んでいるのなら問題は無く、天皇として見守るに値する状況である筈です。
    しかし、現実は「物造り生産力」が賄えていたのですが、史実より「農業生産力」は極めて難しい状況にあったのです。
    平安期までは「農業」(部曲)より「物造り」(品部)は身分扱いとして低く観られていたのですが、これは「農業政策」が思うように進まない事で「放棄民」が生まれるのを身分と言う形で温存していた事の現われであり、逆に概ね「物造り」政策は上手く行っていた証拠でもあるのです。

    そこでこの事を法的にもはっきりとさせる為に「良賎の制」と「五色の賎」で区分していたのです。
    「部曲」を2段階(部曲と奴婢)に、「品部」も2段階(品部と雑戸)に分けて均衡を図ったのです。
    ところが後に間違いに気が付き、元々「良民」であった「雑戸」は平安中期に彼等の努力により「物造り生産力」が上がった為に廃止しました。
    「部曲」は後漢(漢民族)の職能集団に加わり「物造り」を教わりその「物造り」の基礎の生産にも関っていたのですが、その境がはっきりとしない事から身分制度により区分けして農業に従事する「部曲」を「良民」の「百姓」の上に据えたのです。
    (百姓は貴族官人以外の総称であった)
    ところが身分を保障したのにも関らず「天候不順」「飢饉」「疫病蔓延」「凶作」「部曲の限界」「重税」「耕作放棄」「品部に職換え」に依って左右され一向に生産力は上がらず、挙句は荘園に吸い取られると云う悪循環を繰り返していたのです。
    「品部」の「物造り生産力」はこの環境に余り左右されず「品部の職換え」にも左右されて伸びていったのです。
    その為に、この「神頼みの災難」を無くす事の為に歴代天皇は「五穀豊穣」を願い祭祀の一番としている事、それに伴う「民の心の拠所」となる「神明社の建立」を合わせて積極的に国策としていたのです。
    現在と異なり「神頼みの災難」とは云え、古代の「信仰概念」は人の「生き様の根幹」を成していた程のものであって、「神の存在」を固く信じたその神の宿る「神明社建立」国策は「単なる建立」の価値とは異なるものであったのです。
    故に「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」は連動していたのです。
    この流が狂う事は「国の安寧と安定」は乱れる事になり、上記した様に「氏融合」と「農業」は連動して連鎖反応を起こしていたのです。
    この連鎖する「2つの問題」を一つにして解決する事に迫られていたのです。
    それの全ての原因は「荘園制の行き過ぎ」とそれに伴う「富の偏り」であったのです。
    この難題を解決するには、”「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」は連動”が必要であってこのどれ一つも欠かすことも出来ない要件であったのです。

    これを成した「院政」を兎角悪く表現されている通説の歴史評価は間違っていると観ているのです。
    この様な「広い環境」を考慮して「傾向分析」で検証すると、むしろ当時の危険で複雑な政治環境の中で国策の政治課題解決、(”「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」の連動策実現)には「院政」が最も「理想的な政治戦略」であった事が云えるのです。
    つまり上記する「相対の理」と「三相の理」の「6つの理」に少なくとも叶っているのです。

      「追加 研究手法」
    ここで、ルーツを探す時の「探索、研究手法」をどの様にすれば良いのか、普通に調べていたら答えが見つかるのかの疑問が湧きます。上記の様に「歴史」には通り一辺では行かないのです。序文でも記述しましたが改めて印象的な項なので追記しておきます。
    その時代の「環境」(場)を探し出した中で、その時代の「概念」(人)を把握し、その時代の「時系列全体」(時)を通した時の「考察」で、その事件の「相対する事件」をも並行して模索して、時系列のそれぞれが「人時場」の何れに最も合致しているかを「傾向分析」する事でその時代の「様」が見えて来るのです。
    そしてその時代の「人時場」の、例えば「人」の要素が大きく働いていれば「人」を中心に検証して、結論を導き出す事でその事件の真実に近い答えが出せるのです。
    「歴史」はあくまでも「6つの理」の一つでしかなくなっているのでこの手法でその上記の「様」を再現しなくてはならないのです。序文でわざわざ執着して書いた様に「技術問題」も「歴史」と全く同じなのです。
    しかし、兎角、歴史を観る時この「概念の違い」を忘れて単に一次元で「歴史評価」をしてしまう事が危険なのです。この時代毎の「概念の違い」を研究して書いた文献が殆ど見当たらない為にもどうしても「相対の理」と「三相の理」に関する「6つの理」の「雑学」を高めなければならない苦労が歴史には伴います。
    不幸にしてか「室町末期」と「江戸初期」と「明治初期」には上記「6つの理」の検証は兎も角も、殆どと思われるほどに「虚偽」のものとしてあるのです。
    例えば、「系譜」を大義名文かの様に云われる方が多いのですが、「系譜」などは一部の限られたもの以外は「虚偽」で個人の系譜を網羅するほどに昔の氏家制度の社会は充実していなかったのです。
    特に江戸大名の平安の頃までの個人系譜が存在するのは不合理です。
    と云うのは、平安末期の氏の「大集団化」で中小の集団の氏の履歴や戸籍(部曲や奴婢や品部や雑戸も含めて)が判らなくなると云う現象が殆どの荘園内で起こったのです。
    (荘園の内部を知られたくなかった事からその様にした経緯がある)
    それ程に「荘園の集団化」は無秩序に成っていたのであり、これが原因して直ぐその後「下克上、戦国」を経た為に、以後、特定の「融合氏以外」は戸籍の無い社会慣習の概念が生まれ明治まで続いたのです。江戸大名はこの時の立身出世した者が殆どですので戸籍は本来は無い筈なのです。
    又在ったとしても独自の氏寺(菩提寺 大集団の氏 浄土宗密教)を持つ程の氏でなくては「氏の過去帳」は無いのです。
    この様な史実もありますが、まして、現在の様に歴史学者が多くはなかったのにどの様に確保したのか疑問です。特定の系譜でも疑問が多いのに不思議です。何百年と云う時代毎の人物が書き足して行ったとでも云うのでしょうか。ある時代のルーツのある特定の人物の自分の先祖を作り上げた系譜が殆どですが、その特定の作り上げた人物が歴史の専門家でしたか、その資料何処から、もしその様に造れる個人の資料を書いたものがあるなら教えて欲しいのです。彼の徳川氏の系譜や豊臣氏の系譜が搾取編算で有名な見本ですよ。
    ただ、青木氏に関しては、1365年も生残ってきた皇族賜姓青木氏や藤原秀郷一族一門青木氏の融合時の「3つの発祥源」としての責任からか多くは管理されていて、時代ごとに系譜を書き足して来たのです。そして、それに伴う時代毎の主な出来事等が「家訓」や「添書」「忘備録」等の「文書記録」と「口伝」と「遺品」と云う形で添えて引き継がれて来ているのです。
    それは勿論、古代密教とする浄土宗である事、青木氏の祖先神の神明社である事、この2つがそれを成し遂げたのです。
    自らの氏だけの神社と寺社を自らの財力と、自らの職人が造り、自らの神職と住職を置き、自らの歴史管理を成し遂げる神道と密教のシステムを有していたのです。

    しかし、「遺す」と云う事は大変な苦労を伴います。長い間には不可抗力の天変地変が起こり次第に欠け始めるのです。筆者の場合はこれを明治35年まであった資料も一部不可抗力の事情により欠けてしまい、上記の手法で昭和の補完をして来ましたが、本文に似た様な大筋を書いた近いもの(青木氏)が在ったようです。
    しかし、松阪の大火で消失したので昭和型の復元をして、これを全て整理しました。
    そしてサイトに個人外の必要な部分を公開しているのです。
    本文は青木の氏に纏わる「融合氏」に関して研究補完し整理し追記した論文を公開投稿していますが、念のためにその時の研究手法と感想をここで記述して置きました。
    それの内容には大きく祖先神の神明社の事柄が関わっていたのです。

    以上

    青木氏と守護神(神明社)−5に続く。


      [No.270] Re:青木氏と守護神(神明社)−3
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/02/25(Fri) 10:06:47  

    青木氏と守護神(神明社)−3

      「経緯の考察」
    彼等が入国して以来、上記した約280−300年間の独立性の経緯の事を留意して更に次ぎの検証を進めます。
    終局は、彼等が「優秀な民族集団」であると云う事とは別の見方をすれば、150年後の900年頃(変化点)から「半自治の運用権確保」から始まり「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監」(大蔵種材)を確保して九州域を「半独立に近い自治区」にして彼等側も朝廷側も解決せざるを得なかったのでは無いかと観られます。
    現在に至るまで誰一人として正式に授与されていない「遠の朝廷」「錦の御旗」と呼ばれる最大名誉の授与の所以は、彼等を誉めそやす事が目的ではなく、「半独立に近い自治区」に実質した事を意味するのではないかと観ています。歴史的経緯から観ても”その様にせざるを得なかった”と云った方が正しい答えである筈です。

     「阿多倍の一族一門の主観概念 儒教」
    そもそも、「半独立に近い自治区」を勝ち取った彼等の主観概念は元々は「鬼道」から発した「道教と儒教」(5世紀中−6世紀)にあった筈です。
    当時、「仏教」(司馬達等500−552)より早く日本にもたらされていた「道教と儒教」の「宗教観」と同じ概念を持っていたのですから、「鬼道」−「神道」の「神明の宗教観」の導入は彼等にはかなり受け入れ難い政策事であった事が伺えます。
    「物造り」を背景とする彼等の集団には「唯物史観」への傾向も強くあり、「観念的」な「神道」の「神明の宗教観」の押し付けはむしろ「独立」に向かわせる事に成ったと考えられます。
    そこを朝廷は”「宗教観の違いによる争い」”これを避ける為にも先ず地域を限定して推進したと観られます。
    そもそも、阿多倍側は概ね「道教 儒教」、朝廷側は「鬼道」−「神道」と「政治弊害」を起す程の「仏教政治」「神仏併合策」を採っていたのですから、なかなか帰化の初期段階からでは彼等には「氏融合、民族融和政策」の押し付けは無理であったと考えられます。
    これ等の史実から観ても、反論する史実が見つからず「氏融合」と連動する「神明」の「振興策」は結局は「関西以東、関東以西」に成らざるを得なかった事に成ります。
    故に、中大兄皇子の「氏融合策」と「神明信仰」の初期の段階では、「皇族賜姓青木氏5家5流と19地域」と「第7世族」の「坂東八平氏」のみと成ったと観られます。
      「その後の経緯」
    平安初期までには「公地公民」の制度領域外にあった「異民族(アテルイ)」等を「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」が制圧(791)、900年頃から「藤原秀郷一門」が関東域と以北を「鎮守府将軍」として最終的に鎮圧し、平安末期には「清和源氏義家」が「征夷大将軍」と成って「朝廷の勢力圏」として「清原氏等」の「強い民族性」を持つ以北の「民族氏」(征夷、蝦夷、俘囚などと呼ばれた)を武力で征討します。

    この280年の期間で藤原一門と以北勢力との間で「氏の融合」が進み、その結果の証明として下記の「神明社」2社が建立されたのです。
    この記録からは制圧と同時に「神明社」を「氏融合政策」の象徴として朝廷が積極的に建立した事に成ります。つまり、「3つの発祥源」の象徴「青木氏」から始まった上記した「氏融合策」は「神明社」とは切り離せない「政策手段」であった事を意味します。
    言い換えれば、「全国統一のシンボル的政策」であった事を物語っています。

    天智天武の両天皇が政策的に定めた「伊勢神宮」は「皇祖神」とする事のみならず、「氏」と云うキーワードでそれに関連する歴史的なワードを引き出し、史実により組み立て綜合的に検証すると、見えなかった姿が次ぎの関係数式として成り立っている事が判ります。

    「神明社」=「天照大神」=「太陽神」
    「神明社」=「伊勢神宮」=「皇祖神」=「氏融合策」=「全国統一のシンボル的政策」
    「神明社」=「民の心の安寧」=「物造り 品部の象徴神」=「部曲の象徴神」=「五穀豊穣」
    「神明社」=「青木氏」=「3つの発祥源」(氏、侍、武家)=「皇親政治の祖」=「3つ国策」
    「神明社」=「民の象徴」=「氏の象徴」=「天皇」=「天皇家の守護神」
    ゜神明社」=「鬼道」=「自然神」=「祖先神」

    つまり、天智、天武天皇の頭の中にはこの「国体の関係式」が思考されていた筈であります。

    上記する「人の生き様」は「太陽の光の恵み」に依って生かされている。依ってその限りに於いて「神明社」を「皇祖神」だけのみならずその「全ての象徴」の手段と位置付けたのです。
    この概念が代々受け継がれて行ったのです。少なくとも「氏融合の完成期」「1018年」を僅かに超える時期まで。
    しかし、国内ではこの時期には大事件が13件から広義には25件以上発生していて、その「国政の乱れ」を抑えようとして発した有名な「乱発法令」から観ると、30年程度ずれて「1045年頃」が境になります。
    そしてこの丁度この時期(「氏融合の完成期」)には、「源平対立」と「皇室内対立」と「朝廷内権力争い」もこの時期から全て起こっているのです。

    何も知らないひ弱い皇族者が”発祥源の荷物を担いで足腰を鍛え苦労して来た。 何とか「坂」を登り切ったところで”やれやれ”と思った瞬間、その坂の上は「氏」で”ぎっしり”、坂の上に残ろうとして互いに三つ巴の”おしくら饅頭”が起こった。 場所を私物化する者、坂から転げ落ちる者、知恵を使う者、力を使う者、うろうろするだけの者、入り乱れての混戦と成った。 最早誰にも止められない。 ”はっ”と気がつくと”皇族系だ 3つの発祥源だ”なんていっている場合ではない。 ”何か考えなくては”。 落ち着いてよく周囲を観察すると天皇もお隣の仲のよい為政者も同じ新しい考え方で何かを模索している。 ”これだ”と気がつく。 周囲を説得出来るし環境条件が整っている。 ”立場も利用できるがそうも行かない立場もある”。 ”「2足の草鞋策」を採ろう”。 ”伊勢だけではなく全青木氏に呼びかけスクラムを組もう”。 ”「商い」は和紙だ” 朝廷の推し進める「貿易」政策に乗ろう。青木氏一族一門を養える。これで生残れる。

    上記の数式の考え方は少なくとも「武家政治」が始まるまでは「国の運営の根幹」に据えていた事は間違いないのです。

    朝廷政治では”「融合氏」を育てる 「武家」を育てる”と云う「親心」で気配りをされて来たが、「武家政治」では「自らの事」の故に失われると云うよりは疎かに成ったと考えられ、それ故に独り立ちしたかと思うと「氏融合の基点」の「箍」が外れて遂には崩れ果て勝手気侭に成り果て、乱世の「生存競争」に突入してしまったと解析出来ると考えます。
    つまり、その「箍」を締めたのが青木氏であり「箍」を締めなかったのが源氏と成ります。(後述)

    その「融合氏発展の象徴」としての「神明社」の建立を使った証拠として次ぎの様な事があるのです。

    下記の通り「経緯のポイント期」の762年と807年には「制圧統一シンボル」として、それまでは関西19域にしか建立は無かった事なのに、突然に都から遠く離れた場所の以北に2度に渡って「神明社建立」を成し遂げているのです。「以北制圧の証」として、また「制圧後の氏融合の証」として実施した政策で在った事が良く判ります。

    「伊勢神宮」を「皇祖神」として決め、且つ「青木氏の祖先神」としましたが、実はこの決定の前には「神宮の鎮座地」を遍歴させ13の国・地域に皇祖神80社を建立して移動させているのです。
    松阪に決定後は直ぐに先ず天領地の19地域にも「祖先神の神明社」を建立したのです。
    この時期にいっきに合わせて99社も建立しているのです。
    神明社に「国統一・氏融合」の象徴の役目を与えて居た事がこの事でも良く判ります。 (本文 詳細後述)

    1度目は光仁天皇の642−645年に阿多倍末裔の阿倍比羅夫が以北攻めに従いその経路中の以北勢力を先ず一掃制圧した。この時に白石に「神明社」を建立した。
    (記録では762年に成っているが再建したのではないか)
    2度目は桓武天皇期に阿多倍の子供の坂上田村麻呂が以北攻めで以北の根拠地を制圧した。この時に仙台の岩沼に「神明社」を建立した。806年に制圧した。

    まとめると次ぎの数式が成り立ちます。

    「氏融合策」=[神明社」=「全国統一の象徴」=「融合の基点」=「人心の集約」=「物造りの起点」

    (「神明社」の建立記録:全国の詳細は下記資料)
     朝廷の命で坂上田村麻呂が仙台岩沼市(現)に「押分神明社」(807年)の建立
     宮城県白石区益岡町(現)に「神明社」(762年)の建立
     政庁として胆沢城802、志波城803を築く
    「桓武天皇」806年没 「坂上田村麻呂」811年没 アテルイ802年没 
    以上の記録あり。

    参考知識
      (「侍」の前は「武人」で「武装職業集団」漢氏(あや)、東漢氏(やまとのあや)、物部氏等(5)がある。 後に氏と成る。「蘇我氏」はこの「漢氏」等を最大護衛軍として雇っていたが、事件後、味方せず丘の上から引き上げた事により「改新劇」は軍事的衝突なしで成功する。)

      (漢氏、東漢氏は阿多倍王の父阿智使王の末裔子孫:職能武力集団)

      「青木氏」→「氏の発祥源」 「侍の発祥源」、 公家に対して「武家の発祥源」」←「3発祥源」

      (「武家」とは「武士」の事を指す言葉として通常認識されていますが、これは室町期以降に呼ばれたもので、本来は「公家集団」に対して新しく発祥した「侍の氏」を構成している「武士集団」として「武家」と呼ばれたものです。これが青木氏であったのです。「家」とは「氏:融合氏」を指す。)

    これ等の「国体関係式」の考え方は天智・天武天皇が「民族間の国体そのもののあり方の如何」を見直して「氏の融合策」を優先した施策を「国体の始め」とした事により、代々の天皇にも上記の考え方が引き継がれて「国の体制」が進み「律令国家」への足がかりを掴みます。

    その「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」はほぼ全国的に成し得たとしてそこで「成功の証」として次ぎの様な2つの事を発布しているのです。

    「氏融合」+「物造り」+「神明社」=「3つの国策」

      「日本の呼称」
    その一つ目はそもそも「日本」は多くの島から成り立っている事から、古くは「大八州」(おおやしま)とか「秋津島」(あきつしま)と呼ばれていました。その後「倭」と成り、聖徳太子が「日の本」と称した事に始まり、以北の蝦夷地方を制圧してこの「白石」にシンボルとして「神明社」を建立した頃の701年頃から「日本」(ひのもと)という言葉が多く使われる様に成りました。
    これに伴い資料から確認できる範囲としては年号(「大宝」)も途中で停止時期がありましたがその後継続して使われる様に成って行きます。そして7世紀後半には数ある書物には明記される様に成って行きます。

    この国の称号事は「国」としての「一民族の形」が基本的に一応構成された事を意味し、明らかに「民族氏」から「氏融合」策が進んで「融合氏」へと急激な変化を遂げた事を意味します。
    「雑種の優位性」か発揮出来得る充分な融合が達成されていないにしても、その「初期的な形」が整えられたと当時としては判断されていたのではないかと観られます。
    故に朝廷は「国の称号」を「民族氏」が多く存在した「大八州」−「秋津島」−「倭国」を使わず新たに「日本」(ひのもと)としたのです。

    これは資料から観ると、この呼称に付いて外国では三国志の「魏国」が「倭国」として、その後、「日の本」では最も先には「唐」が630年頃に「認めた記録」(認識)があり、これが初期に認めた記録とされます。
    律令制度の完成期の頃(桓武期800)には遂に「正式な呼称」として800年頃に「国の称号」の発布が成されたのです。
    諸外国、特にアジアでは950年前後であり、西欧では書物資料から観ると1020年頃に音読で「にっぽん」として伝わり呼ばれる様になったのです。
    これは阿多倍の子孫「大蔵種材の1018年」に九州を何とか「3つの国策」に従わせた時期に一致します。
    西洋の外国でも「九州自治」により「融合氏」による「単一融合民族」が完成したと認めた事を意味します。逆に云えば九州地域はまだその頃外国からは「不安定地域」として見られていた事に成ります。

    実は皮肉にもそれは「貿易」と云うキーワードが左右した事にあったのです。
    「貿易・交易」に依って「外国人の目線」と「貿易が成せる国」とによる評価を受けたものと考えられます。
    この懸命な努力に依って成し遂げられつつある「融合氏政策」に連動させていたこれらの「物造り政策」も飛躍的に進み、更に上記した「氏融合」の「3つの国策」とが整った事から、今度はそれを「貿易」と云う形に廻す余力で行われたのです。それが外国から観れば、これは”諸外国に廻すだけの「国力の安定とその余力」が生まれた事”と受け取られたから認められた事なのです。
    現に、意外に知られていない事なのですが、阿多倍の末孫「伊勢平氏」の「太政大臣平清盛」は積極的に「日宗貿易(南宋)」を朝廷として正式に推し進めた始めての「歴史的人物」なのです。
    この頃の政治環境として、一方では九州で阿多倍一族一門の「賜姓大蔵氏」等の「民族氏の自治」、他方では阿多倍一族一門の「賜姓平氏」の「貿易による開国」と何と同じ一族一門が関わっていたのです。
    「民族氏の自治」と「貿易による開国」の2つは「相反する施策」が「同じ時期」で「同じ民族氏」に依って成されていたのです。
    偶然ではないこの2つの政策関係があったという事は、この時の「政治の駆け引き環境」が存在していた事を意味します。その「天皇」側の考え方に対して阿多倍一族一門はタイミングを図っていたと考えられます。
    天皇側の”貿易に依って国を富ます事”の考えを後一条天皇等が主張していて、阿多倍側はこの「九州の大蔵氏による自治容認」を”何時認めるか”を見計らっていたのです。
    何れにしても「貿易」を成す「物造り」は彼等一門の配下にあり彼等の「協力同意」なしでは何も進まないのです。
    天皇側にとって見れば「国体の関係式」(”貿易に依って国を富ます事”)を成立させるには「大蔵氏による九州自治容認」は呑まなければ成らない必須の条件であったのです。
    当然に彼等に「協力同意」を得なければ成らないのですから、桓武天皇の賜姓から始まった「平族」を無理にでも引き上げねば成らない事に成ります。これが5代後と云う急激な速さの勢力拡大を成し遂げた「太政大臣平清盛」となるのです。歴史上「侍」が始めて「太政大臣」になるのだから、「清盛による正式な国の拡大宗貿易」となったのです。

    「貿易=物造り=氏融合」の関係式が「氏融合→物造り→貿易」の関係式で成立すると考えていた天皇は阿多倍一族一門から交換条件として「大蔵氏による九州自治」を暗に示していた筈です。
    以北問題等の後述する他の要件も整った為に天皇側が「自治容認」を呑んだ事から、この摂津からの「宗貿易」が始まり正式に「平清盛」に引き継がれて拡大し諸外国から「日本国」を容認させる結果と成ったのです。

    この事は青木氏にとって無関係ではないのです。「融合氏」を始めとする 「3つの発祥源」の「賜姓青木氏」に取っても「商い」(「2足の草鞋策」)はこの時期直後に興っていますが、この事は天皇と阿多倍一族一門の狭間にあって「融合氏の発祥源としての立場」と「青木氏の趨勢」とこの「時代の変革期」を読んだ結果の「青木氏の決断」でもあったのです。

    天皇家側  「融合氏」を含む「国体の成り立ち」は「国を富ます事」=「貿易」→「皇祖神」=「伊勢神宮」
    青木氏側  「融合氏」としての「氏の成り立ち」は「氏を富ます事」=「商い」→「祖先神」=「伊勢神宮」

    代々の天皇は、上記「国体の関係式」を念頭にして「氏融合」をより進めるには「国を富ます事」、それには「物造り策」が必要で、その「物造り」を富に変える「交易」を行う事、結果として「融合」が進み民の「感覚概念」が統一されて「国の安寧と安定」が図られるとした考え方を保持したのです。そしてその感覚概念の拠所を伊勢神宮に置いたのです。
    これに対して青木氏は全く同じ考え方をして「殖産」(物造り)を進め「商い」(2足の草鞋策)を興し「氏の安寧と安定」(祖先神)を図ったのです。そして、個人と氏の感覚概念の拠所を伊勢神宮に置いたのです。
    全く同じ考え方をしていたのです。

    詳しい事は本文で後述しますが、その証拠に今までの古代の信仰概念は先ず「自然神」の考え方であったのです。それを「鬼道」と云う占術に変化し、それが「民族氏」の誕生と共に社会構造が変化して「産土神」の考え方に発展します。
    そして、それが国策により「融合氏」へと再び社会構造が変化して「祖先神」と云う考え方に発展して行ったのです。青木氏を「融合氏」の発祥源として国策を進めたとき社会の信仰概念も新しい信仰概念に変化を遂げたのです。これが青木氏を始めとする皇族系融合氏が信仰する「祖先神」と呼称される概念なのです。
    「青木氏・神明社」=「祖先神の信仰概念」=「氏の安寧と安定」
    以上の関係式が成立するのです。

    「祖先神」(詳細は本文後述) :「氏」と云う概念に変化した新しい考え方が誕生
    「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」とする考え方

    ところが一口に”皇族賜姓族・皇親族が「商い」(2足の草鞋策)を営む”という事はなかなか身分・家柄・伝統という観点から極めて難しい事であり、本来であれば天皇・皇族に理解・認可が得難い事でありますし、思い付いたから直ぐ出来ると云う程にそう簡単な事では決してありません。まして賜姓族・皇親族・融合氏発祥源の立場があるのです。
    そもそも当時は皇族系の者が武器を持ち武力による勢力は卑しいとする考え方が一般的でした。青木氏は朝臣族で浄大1位の皇族から離れてわざわざ臣下して「侍」に成り天皇を護る力を保有したのです。
    そこに、その天皇を護る役目の「侍」が「殖産」「商い」をすると云うのです。現在の概念では何の問題も有りませんが、「自然神」−「鬼道」−「産土神」の感覚概念の時代の中に「祖先神」の考え方を導いた社会構造を構築した中で「殖産」「商い」の領域に立ち入るのです。
    何か「相当な政治的な環境」が整う以外に無い筈です。筆者はこの環境の如何を重視しているのです。

    「殖産・商い・交易」は未だ大きく発達していない社会構造で「部制度」による「準市場経済」であり「物々交換」を主体とした「貨幣経済」での中で、「荘園制」が進み「私有化」が起こり「社会問題化」し始めて「整理令」「公領制」に戻された時期に「殖産・商い」を興したのです。相当反動的な決断であった筈です。
    「殖産・商い」の点でも研究は進んでいませんが状況判断から相当フロンティアであったと考えています。

    「相当な政治的な環境」とは次ぎの様なものであったと観ているのです。
    青木氏からも光仁天皇・桓武天皇・嵯峨天皇系を出している縁戚の家柄とすると勝手に進めていれば恐らく非難轟々で在った事が予想できます。
    しかし現実に「商い」(2足の草鞋策)が出来た事から観て、上記の様に同じ考え方をしていたから同意を得られたと見ているのです。むしろ指示があったと考えられます。
    ましてその「宋貿易」を主導しているのは伊勢松阪の隣の伊賀の賜姓平氏なのです。
    更にはその伊賀の和紙を商いの基本としているのです。(松阪を中心として摂津堺にも2店舗・大船3隻)
    この様に条件が整っているのです。
    11代の皇族賜姓源氏の同族はこの「商い」(2足の草鞋策)を採用していないのです。採用できなかったと云って過言ではない筈です。「賛成・同意」が得られる条件下に無かったからに依ります。
    口伝より逆算すると1120−25年頃に「商い」(2足の草鞋策)を始めた可能性が高く「平清盛の宗貿易」の時期に一致しているのです。

    その「相当な政治的な環境が整う事」とは「平清盛の宗貿易」が大きく作用したのではないかと観ています。
    先ず「伊賀−松阪の隣国関係」と「伊賀和紙の関係」があった事から”「平族」と同意・同調した”のではと観ているのです。現にこの50年後では「以仁王の乱」で源頼政の孫の助命嘆願が伊賀から成されて日向に配流となった史実から見ても、「平族」の実家との深い付き合いに特別なものが在った事を示す出来事です。
    更には「桓武天皇」の母は「平族」の阿多倍の孫娘、「桓武天皇」は「光仁天皇」の子供、「光仁天皇」は「伊勢王施基皇子」の子供、「施基皇子」は伊勢青木氏の始祖、源三位頼政の孫京綱が「青木氏の跡目」を考慮すると「同意・同調」が得られる「深い付き合い関係」が在った事が充分に伺えます。
    「国体の関係式」の考え方を引き継いでいる「歴代の天皇」は勿論の事、「商い」(2足の草鞋策)では太政大臣「平族」にも同意が充分に得られたと観ているのです。筆者は同調説を採っているのです。
    この「5家5流の青木氏の路線」と比較すると、全く同じ立場にあった「11代源氏」は「平族」と敵対関係を形成してしまった為に「商い」(2足の草鞋策)は成し得ず生き残りは果し得なかったと考えられます。
    この源氏の事から観て上記の事は「軽視できない環境」としているのです。

    「相当な環境」=「天皇の決断」+「青木氏の決断」+「平族の決断」+「平族との関係」→「殖産・商い」
    「融合氏」+「殖産・商い」=「2足の草鞋策」→「物造り」→「貿易」

    天皇が考えていた「国体の関係式」とこの「氏融合の3策」には無くては成らない決断であったのです。

    「国体の関係式」+「氏融合の3策」=「民族氏の自治」+「貿易による開国」→「2足の草鞋策」

    この「宗貿易」は阿多倍の子孫「大蔵種材」の1018年に依って国体が遂に整った頃から丁度100年後にも一致します。(1045年頃と観れば50年後と成ります。 しかし、この結果、荘園制の行き過ぎが起こる)
    この事は「氏融合政策」が整った為に、100年で「物造り」に「国策的に余力」が生まれた事を意味します。

    つまり、その1つ目は「中大兄皇子」(天智天皇)の26年間とそれを引き継いだ「天武天皇」と「持統天皇」が行った上記の政策、突き詰めると「氏融合策」と「物造り策」の2策が国体(国の称号)を成したことを意味します。そして、それが「氏融合・100年間隔の節目」と云う特徴を持っているのです。

    「氏融合」の「3つ国策」の変化を観てみると、この様に700年直前、800年直前、900年直前、1000年直後、1100年直後と夫々「100年間隔の変革」の節目時期を持って進んで行っています。
    (鎌倉期以降も「100年間隔の周期性」を持ち続けている)
    不思議な現象で、当時の「朝廷の政治慣習」の中には「100年間隔の節目感覚」が有ったのではないかとも考えられます。或いはもっと云えば「日本の政治」にはこの「100年間隔の周期性」が遺伝子的なものとして潜在しているとも観られます。
    これは紀元前から起こっている「日本の気候変動の周期」が凡そ「100年周期性」で起こっていて、その度に「大飢饉」が起こり「氏」の「生存競争」により国が乱れる事による原因ではないかと筆者は考えているのです。これを繰り返す事から起こったものと考えられます。(詳しくは論理的な解析は後述する)


      「皇祖神 神明社−祖先神・伊勢神宮」

    そして、その二つ目は、何をか況やそれに伴ない本論の「皇祖神」即ち「神明社」−「祖先神」の考え方を朝廷は新たに採用したのです。
    その考え方の具現化として「天領地」でもあり、「融合氏発祥源」の「皇族賜姓青木氏」が守護する伊勢松阪に、「天照大神」を祭祀する「伊勢神宮」を置き、そこを「氏融合と物造り」2策を根源とする「日本国」の「神の象徴源」(万民の心の象徴)の場所としたのです。
    そして、この時期に下記19の地を定めそこにも第4世族までの守護王を置き、この「分霊を祭祀する政策」を天智天皇と天武天皇は積極的に実行したのです。(天智天皇が実行し天武天皇が正式に定める)
    つまり、青木氏を代表とする「祖先神」の考え方が進んだのです。

    上記の”「A=B」の検証と詳細な「経緯」”での疑問はこれで検証されるのです。

    つまり、故に本論の神明社論では「氏融合」と「物造り」を語る事になるのです。
    本論の基点はここにあるのです。つまり、言い換えれば「4つの青木氏」(下記)はこの「基点の氏」(三つの発祥源: 氏発祥源・侍発祥源・武家発祥源)であると云う事に成るのです。

    「4つの青木氏」=「氏融合」+「物造り」の基点=「氏発祥源」+「侍発祥源」+「武家発祥源」

    つまり、「氏の融合」は「雑種の優位性」を生み、それが更に「物造り」を助長させると云う循環の「国体の仕組み」政策だったのです。

    「氏融合」=「雑種の優位性」=「物造り」

      「物造りの開始、終期」」と「帰化の定着、終期」
    「日本の民」は先ずは中国の進んだ「知識や技能」を吸収したのです。
    天智天皇期から桓武天皇期までの間(イ)では経済的、政治的な完成を成し遂げたのです。
    経済的(工業的)には日本の「第一次産業」を飛躍的に発展させたのです。
    政治的に国体のあり方として「律令国家」の「政治体制」を完成させ、更には朝廷の「政治機構」をも構築したのです。
    軍事的にも、進んだ武器を使い「水城や烽火や山城」などの新戦術を使う「朝廷軍の創設」を完成させたのです。これ等は全て彼等の力(阿多倍一族一門)にあるのです。

    (「日本書紀」にも「天武天皇」が”一般の優秀な民からも登用して学ばせる様に”とした発言が書かれている様に。 日本書紀の編纂は舎人親王が宰相となり彼等帰化人の官僚が主体となって作成した事も書かれている。)

    「学ぶ終りの時期」(ロ)では800年過ぎ頃で、その頃の資料文献には「渡来人」の言葉が文字として出て来なくなります。「第1期の融合」が完了(80)したのです。

    「渡来人に日本名が定着した時期」(ハ)では彼等から4世の子孫が出来て藤原氏を凌ぐ一大勢力が出来上がった頃でもある事。

    「帰化の終わりの時期」(ニ)では、「阿多倍王」の末裔大蔵氏が「大宰大監」として「遠の朝廷」と呼ばれ、唯一個人に「錦の御旗」を与えられた人物の「種材」の時期(900年頃)で、この時には北九州や下関一帯から正式に外国からの移民を武力を使ってでも強制的に停止した時期でもあります。

    この様に概ね(イ)から(ニ)の経過を通して文明的に顕著に観られる初期は、450−500年頃の大和政権の飛鳥末期から始まりますが、工業的には640年頃に始まり920年頃の間に「中国の進んだ技能と知識」の吸収は終わる事に成ります。
    後は彼等から離れて更なる「氏融合」策により「雑種の優位性」が起こり日本人の「遺伝的特技」を生かした「独特で独自の発展」となるのです。

      「物造りの疑問点」
    此処で疑問が起こります。何故、教えた中国はこの「進んだ技能と知識」の範囲で留まってしまったのかと云う点です。同じ様に日本と同じく「物造り立国」が進む筈ですが、日本は進み中国は進まなかったのです。
    何れも国内の混乱は同じ程度にあったと考えられますが、「歴史的、政治的」な史実から筆者なりに考察すると、「移動、移民、難民、帰化」の点では次ぎの6分類に成ります。
    日本では次ぎの様に成ります。

     「移動、移民、難民、帰化の経緯」
    第0期(紀元前後頃)国境的な区切りの緩やかな状況下で各種の民族は日本各地に上陸
    第1期(150-250年頃)の太平洋と大西洋からアジア全域と北方大陸からと世界的な民族大移動
    第2期(300-550年頃 2期)に朝鮮半島南から倭人の帰国と南朝鮮人の大移動と西アジアからの難民
    第3期(600-700年頃 2期)に中国が混乱し後漢と北韓から帰化大移民(経済的な発展)
    第4期(750-850年頃)の各地に散発的に難民流入 (全土征圧 難民は朝廷の難題と成る)
    第5期(900年頃)前後2次期に渡り大量の散発的な南中国と南朝鮮人の難民(移民難民の防止)
    (研究室の詳細な関連レポート参照)

    以上の第1期から第5期までのその年代の状況により異なり「移動、移民、難民、帰化人」により「7つの民族の融合」が完成される事により世界に珍しい「完全融合単一民族」が構成された事に依ると観られます。

    0期から2期前半では国内で特に九州全域に於いて「民族的な集合体」を形成、各地で「民族間の争い」が起こる。
    2期後半から「民族的な争い」が淘汰されて優劣が決まり、納まる。結果としてその優劣により「民族間融合」(「民族氏」の乱立)が始まる。
    3期前半で小単位に成った「民族氏」間の争いへと変化して行く。
    3期後半では「民族氏」は終局して、更に「融合政策」を実行して新たな「融合氏」は爆発的に変化する。これを以って目を外に向け「防人」「烽火制度」「水城」「山城」等の防御システムに観られる「国境警備体制」が整えられる。 
    第4期前半では国内的に経済的、政治的な理由から「移動、移民、難民、帰化」が限界と成る。
    第4期の後半では「氏融合」は進むが、新たな「他民族の難民」の流入は「氏融合」の弊害と成り処置が困難と成る。
    第5期前半では主に九州全域を政治、経済の運営を一手に帰化人末裔の大蔵氏に「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え「太宰大監」にし全権委任して九州全土の安定化に大成功する。
    第5期後半では「武力難民」が多発する中で軍事的な防御力で成功する。

    国内的にも「氏融合」の結果「藤原氏」等の「源平籐橘」系列での「氏の優劣」が整い安定化する。それに合わせて「律令国家」に伴なう「氏家制度」の国体が整えられる。
    この5期の成功で大蔵氏(個人的には種材なる人物)は”武人の誉れ”の氏として賞賛される。
    その中でも「大蔵種材」は日本の守護神と崇められ多くの武人の模範とされた。そして、神を護る仁王像や四天王像の彫刻のモデルとも成った。

      「参考:氏数の変化」
    家紋数と氏数の平均(資料に残る主要氏)
    奈良期20位
    平安初期40位 中期80位 末期200位 
    鎌倉中期800位
    室町初期1200位 中期80位 末期200位
    江戸初期2000位
    明治初期8000位  

    (数字は氏の真偽判定が困難の為、室町期からバイアスが大きく計算で大きく変わる)
    (氏姓制度が決まる前は「氏の概念」は無く5世紀中期では民族的な集団生活を基本としていた)

      「大蔵氏と坂上氏の勢力範囲」
    この史実の事は、当時、国内ではこの第4期から起こった事に国民が心配し大政治課題に成っていた事を端的に物語るものです。それは「民族氏」ではなく「融合氏」単位に対する意識が大きかった事や、それが「渡来人の大蔵氏」であった事、国民が挙って賞賛する事が「渡来人意識」が無くなり「氏の融合」が完成に近い状態である事が検証出来る事件でもあります。
    更に、これに加えて、この大蔵氏の兄は「坂上田村麻呂」であり日本一有名な人物で日本全土を初めて「征夷大将軍」として征圧させ、「日本の国」を統一(氏の融合を意味する)させたとして朝廷軍の「武家武人の頭領」と称号を与えられた人物です。後にこの事で「征夷大将軍」の称号と「武家の頭領」の身分は「幕府樹立の条件」に成った程の事なのです。
    これらは「氏の融合」の完成と後の「政治体制」(民族氏では成立しない)を決めた要素となったことを物語ります。
    つまり、何と渡来人の後漢の阿多倍王(日本名:高尊王 平望王)の末裔が、朝廷の命により自ら西に太宰大監「大蔵氏」、北に征夷大将軍「坂上氏」の兄弟が日本全土を制圧し、遂には天智天皇が「大化改新」で初めて採った「氏の融合政策」の実行は、彼等一門の主な努力で「氏の融合」の完成を成したと云えるのです。
      「以西と以北の融合勢力」
    この事だけでは実は済まないのです。では平安時代には西と北の真ん中はどうなったかの疑問ですが、実は同じ渡来人の後漢の阿多倍王の支流末裔で「阿倍氏」の末裔子孫(阿部内麻呂や阿倍比羅夫で有名)と、中部東北に掛けて同じく三男の「内蔵氏」の末裔子孫の2つの親族が関西と中部域を勢力圏とし、その一族の筆頭末裔の平氏(たいら族 5代後の平清盛で有名)等で「氏の融合」を構築したのです。
      「中部関東域の融合勢力」
    又、他氏ですが、東は「斎蔵」(斎藤氏)を担う藤原北家一族秀郷一門361氏が「日本一の氏」と成って中部関東域で、又、母方で「藤原氏」と「たいら族」の「2つの血縁」を引く天皇家第7世族の「坂東八平氏」らにより「氏の融合」は完成させていたのです。
    そもそも、「桓武天皇」が母方の阿多倍一族を引き上げて賜姓するにはそれなりの家柄身分の裏づけが必要です。そこで、中央に於いて藤原氏の血縁を持ち、且つ、坂東に於いて赴任地に居た国香、貞盛ら阿多倍一族等との「血縁融合」が部分的に進んでいた皇族系の「第7世族」「ひら族」(坂東八平氏)の呼称に習って、この「2つの血縁」(藤原氏とひら族 融合氏)を間接的に受けている事を根拠に、賜姓時に「たいら族」:同じ漢字の「平氏」として呼称する氏を与えたのです。

    (国香、貞盛の親子は下総、常陸の追捕使、押領使を務める 坂東八平氏と血縁 「独立国」(たいら族国家)を目指した仲間同僚の「平将門」の乱鎮圧)
      「桓武天皇の父方母方のジレンマ」
    「桓武天皇」は彼等の努力に依って「律令」による「国家完成」が成し遂げられた事を考えて、「天智天皇」より始まった5代続いた「天皇家の賜姓慣習」がありながらも、それに反する「皇親政治」を標榜するの父方(光仁天皇)の「青木氏」(「天智天皇」の子供「施基皇子」の子供の「光仁天皇」)で賜姓せずに、母方でもあった「阿多倍一族」を賜姓してより「氏融合」を図ったのです。
    このままで行けば「阿多倍一族の単独的な勢力化」に繋がり、反って「乱れ」に成り「融合」が果たせない事を懸念して、敢えて「父方派(青木氏と藤原氏)]と「母方派(阿多倍一族)]とを競わせる事を目指したと考えられます。(父方の青木氏は衰退する)
    「桓武天皇」には「父方と母方」、「皇親政治と律令政治」、「氏の融合の可否」の「3つの選択」が伸し掛かりかなり苦しい選択であったと考えられます。
    この時、朝廷では「桓武天皇と長男の平城天皇」派の「改革派」と、「次男の嵯峨天皇と青木氏」派の「保守派」とが「賜姓の路線争い」で「同族間の骨肉の争い」が「官僚と豪族」を巻き込んで起こったのです。
    結局、「桓武天皇」が母方の上記した「政治、経済、軍事」を背景とした「強力な後押し」もあり、勝利の象徴として「賜姓」を「天智天皇」からの「第6位皇子」の「賜姓慣例」を廃止し、彼等に「たいら族」と賜姓したのです。これが後に「国香」と「貞盛」親子から5代後の太政大臣「平清盛」と発展したのです。”平氏に在らずんば人に在らず”と云われる程に旺盛を極めたのです。
    つまり、桓武天皇の「政治目的」の「氏の融合」が反映されずに成ってしまったのです。
    しかし、この間、保守派の「嵯峨天皇と青木氏」派は手をこまねいていた訳では無いのです。
    「嵯峨天皇」は兄の反対派「平城天皇」(不思議に病気を理由に2年後に退位 退位後活動)に続いて「皇位」に着くと「天智天皇」が採った「氏の融合策」の「賜姓」策に戻し、「第6位皇子」を「源氏」と変えて賜姓したのです。
    そして、5代続いた「青木氏」は皇族の者が臣下又は下族する際に名乗る氏名として詔を発したのです(対象者18人)。これが11代続き「花山天皇」まで「氏の融合策」の「賜姓」策は続いたのです。
    この間、11代の天皇は「融合策」は採りつつも、「平族」は益々勢力を高めて「賜姓源氏」や「賜姓青木氏」を凌ぐ力を持つのです。
    終局、5代続いたこの「平族」(たいら族)は「全国的」に「積極的」に「管理された融合策」を採らなかった為に1185年滅亡する事に成ります。
    「全国的」に「管理された融合策」を「積極的」に採った「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は生き残ったのです。ここに大きな違いがあります。
    「清和源氏」と「嵯峨源氏」と「村上源氏」と「宇多源氏」の4氏が生残ったのです。
    しかし、「賜姓源氏」は11代続くにしても、結局、最大勢力を維持した「清和源氏」が鎌倉幕府3年後に第7世族の末裔「執権北条氏」と「坂東八平氏」に依って滅ぼされて子孫を遺せず滅亡します。「氏の融合」拡大とは裏腹に元を質せば天皇家の同族に潰されたのです。
    結局、村上源氏(傍系北畠氏)と宇多源氏(滋賀佐々木氏)と清和源氏(清和源氏宗家 青木氏)が子孫を僅かに遺したのです。(北畠氏も結局織田信長に滅ぼされて滅亡する)

      「4つの青木氏の血縁と絆」(重要)
    特に青木氏に於いて検証すると、青木氏は近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐で29氏、母方で、藤原秀郷流青木氏として24地方で361氏と拡がったのです。この29氏と361氏の390氏は清和源氏の宗家頼光系と分家頼信系で「氏の融合」を果たし血縁して遺しているのです。

     「血縁融合」
    1「皇族賜姓青木氏」と「皇族青木氏」 29氏
    2「藤原秀郷一門の青木氏」119と「青木氏血縁氏」 361氏

    これ等は「2つの血縁融合」です。
    青木氏には他方次ぎの様な「2つの無血縁融合」の氏が融合形式を採っているのです。

     「無血縁融合」
    3「未勘氏結合」「社会的結合」(何らかの社会的な縁にて結合している氏 遠縁関係等)
    4「第3氏結合」「生活圏結合」(限定する域内で生活を共にする氏 村民関係)

    これ等が「2つの無血縁融合」です。
    1から4までを「4つの青木氏」と呼ばれます。

    参考
    記録調査から分析分類すると、3の「未勘氏結合」の青木氏の中には、その割合は不確定ですが次ぎの「4つの青木氏」が観られます。
    A 室町末期に立身出世した者の先祖が、次ぎに示す兵役に着いていた事の「口伝」をたよりに「絆」を基盤とした「絆氏」。
    B この期に「皇族賜姓青木氏」や「秀郷流青木氏」と密接に網の様に繋がった家臣一族の末裔が青木氏との「絆縁」を基盤として名乗った「縁者氏」。
    C 「2つの血縁」の青木氏が「青木村組織」「家臣組織」で「優秀な者」や「氏」に大きく「貢献した者」に「青木氏」の姓を名乗らせる「養子方式」の「養子氏」。
    D 「2足の草鞋策」でその「職能組織」を支え貢献し職能を引き継ぐ優秀な者に青木氏を与えた「職能氏」

    これ等AからDは、1から4の「4つの青木氏」を基盤から固める為に「より幅広い子孫を遺す目的」で行われたものです。
    AからDの「絆氏」「縁者氏」「養子氏」「職能氏」の「未勘氏結合」の中でも「4つの未勘氏の青木氏」が鎌倉末期から室町中期に始まりあった。
    この「無血縁」ではありますが、形式的な「養子方式」でもあり、一種の青木氏独自の「賜姓方式」でもあった事になります。
    恐らくは、青木氏が歴史の厳しい中で「源平藤橘」がほぼ滅亡している中で、「2つの血縁」の青木氏390氏もの氏が生き残れた事から観て、下支え無くしては殆ど無理である事は明白であり、このことから判断しても「未勘氏結合」の少なくとも5割はこのAからDが占めていると観ています。

    実は筆者の伊勢青木氏にも「養子氏」Cの青木氏が3氏確認できる範囲では知る事が出来ます。
    その内の2氏の青木さんが「ルーツ掲示板」に投稿あり、残りの1氏は末裔の人(元は藤田氏 明治初期)を口伝で承知しているが、相手は筆者の特定の先祖の名前を始祖だと発言している。筆者がそのルーツの跡目者である事を知らない。「青角字紋」の青木氏はこの「職能方式」の一種の賜姓の青木氏であります。
    以上の3つの傾向も「個人の由来書」などから強く観られます。

    これの氏の占める割合がどの程度であるかは把握困難ですが、鎌倉期以降には乱世である事から、「血縁融合」だけではなく「優秀な者」を「青木氏」として育て「絆融合」でも「団結」により「青木氏」の生き残り策を構築したものと観られます。
    これは平安末期から採った「2足の草鞋策」(経済的)には、特にこれらの「優秀な者の力」を必要とした事から起因していると考えられます。
    又、源氏が滅亡する鎌倉期から始まった、青木氏に起こる「乱世」を生き抜くための手段としても又、武力的にも、下記の縁の繋がりの「絆融合」も必要であってその為にも「組織の上位」の「優秀な者」を賜姓して固めたと考えられます。
    これは「皇族賜姓青木氏」と「母方血縁の秀郷流青木氏」と云う「2つの朝臣族の立場」が成せる業であった事によります。つまり、下記の官職から来ていると観られるのです。
      「青木氏の永代官職」
    「六衛府」(左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府)と(左右衛士府)の宮廷軍があります。
    この「宮廷軍の指揮官」が「皇族賜姓青木氏」で、後には平安中期には「源氏」と「藤原秀郷流青木氏」もこの「指揮官」の任に着いたのです。
    この1と2の青木氏は「衛門」と「兵衛」の官職名の永代名が付いたのです。
    賜姓臣下した青木氏のこの役目を「侍」と呼ばれたのです。そして、この「侍の氏」を「公家に対して同等の家柄として「武家」と呼ばれたのです。
    この「侍」は「国侍」(真人侍)と「院侍」(貴族侍)と「家侍」(公家侍)に分けられます。
    (江戸時代は「武士」は全て「侍」で「武家」と呼称される様に一般化した。その為に金品で一台限りの官職名が朝廷より授与されたが末期以降には誰でもが自由に付けた)

    それぞれの兵は概ね次の役目を平時は担っていました。(左右の兼務含む)
    「六衛府軍」」(左右の兼務含む)
    1 近衛府軍は貴族など高位身分の者の子弟を集めて兵とし軍を編成 天皇の護衛軍 全般
    2 衛門府軍は諸国の国司等の上級官僚の子弟を集めて兵とし軍を編成 主に左右宮廷門の警護軍
    3 兵衛府軍は諸国の郡司等の中級官僚の子弟を集めて兵とし軍を編成 主に行幸等の警護軍
    (平時はこの任に就く 非常時は天皇を直接護る護衛軍の任に就く)

    「衛士府軍」(左右の兼務含む)
    4 衛士府軍は諸国の役所の衛士を徴発して軍を編成 宮廷内各所の巡視をする警備軍。 
    (明治期の庶民から成る近衛軍は元はこの衛士府軍であった。)

    つまり3と4(「未勘氏結合」「社会的結合」、「第3氏結合」「生活圏結合」)に於いても「室町末期(1期)、江戸初期(2期)、明治初期(3期)の「3つの混乱期」で青木氏が大きく拡大しています。
    「2つの血縁融合」の青木氏に対して、集団を形成して住む村(青木村)又は郡で生活をともにした家臣や農民や庶民の「絆」を基にした「生活圏結合」と、血縁先の縁者と間接的な血縁状態になる「未勘氏結合」がありますが、この「2つの無血縁融合」に依って他氏には観られない「幅広く重厚な青木氏」が大きく構成されているのです。
    つまり、「血縁」を絆とする「2つの血縁融合」と「社会」「生活」を絆とする「2つの無血縁融合」で構成されているために子孫は上記した様に遺せたと観られます。

    「血縁の絆」と「生活の絆」の何れもが「融合の優劣」に無関係であります。
    筆者はこれを丁度、「鶏の卵関係」と呼んでいてこの事が子孫を遺せた条件と観ているのです。
    数式にすると覚えやすく認識しやすいので何時も原稿にはこの様にまとめて記録します。

    ここでそもそも「氏」の起源についてより理解を深めるために更に述べておきます。
    そもそも、この氏と姓(かばね)付いては記録としては次ぎの様なものがあります。
      「氏と姓の書籍」
    最古のものとしては、「日本書紀」には「氏」に関する事が書かれていて、「舎人親王」が編集の氏系図一巻が添えられていた事が「釈日本紀」にあります。
    大化期の国策が「氏融合」を前提として進められていた事の証明です。
    次ぎに「釈日本紀」の系図を前提とした「上宮紀」、「古事記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三大実録」
    嵯峨期の「新選姓氏録」とその元と成った「氏族志」は体系的にも完成度が高く有名です。
    個人の古い信頼される範囲では「和気系図」「海部系図」があります。
    南北朝期には「尊卑分脈」があり公家武家の系図であります。
    鎌倉期には個人の系譜として「中臣氏系図」「武蔵7党系図」
    江戸期の各藩が競って編集したものでは「新編会津風土記」「上野国志」「新編常陸国志」「新編武蔵風土記」「尾張志」「丹波志」「芸藩通志」「防長風土記」などがありますが、その編集の前提がそれらの氏家の系譜を信用しての編纂であるので、家柄身分誇張の風潮下、搾取編纂、疑問点も多く概要を知る上ではその価値には配慮が必要なのです。
    新しくは江戸期には「寛永諸家系図伝」「諸家系図纂」「寛政重修諸家譜」があります。

    上記した限定された資料の中で、立身出世した者の個人の家の系譜まで詳細に記録されたものは無い訳であり、そこまで社会体制が整えられていなかったし、その系譜元としている平安期の氏は「皇別、神別、諸蕃」の主要な範囲のものであり、青木氏、藤原氏等と異なり「個別系譜」を造れる「資料環境」ではなかった筈です。この様な系譜資料には共通するある特徴とパターンが垣間見られるのです。ただ、特記するは研究過程でのその「系譜の使い方」ではそれなりの意味を持ちます。
    室町末期より江戸初期に掛けての資料には歴史的な混乱期の3期が介在していて配慮が必要なのです。
    そこでそれを効果的に使うとする次ぎのような歴史的な氏の編成拡大の経緯を把握しておく必要があるのです。
    本文の参考となるのは「新撰姓氏録」です。これによると1282の「氏姓」があり、京畿内のもので「氏姓」は、4種から成り立っています。
    「皇別」
    「神別」
    「諸蕃(民族氏の渡来人、部氏含む)」
    「未定雑姓(末梢氏、枝葉氏)」
    以上4種からなるものです。

    これは815年編ですのでその編成過程は明確になっています。
    この「1182」の数字は「本文の氏数(20−40−80−200)」とは算定の基準が異なり、本文は「象徴紋、家紋」からの算定とするもので、「部氏」と「未定雑姓」が含まれて居ないものです。
    本文のものは論じるために確立した「氏」集団を構成する単独単位として計算されたものです。
    依って、「諸蕃」の内「民族氏」の一部有力氏は含まれますが、これらの氏として確立したのは平安末期から室町期に掛けてと成ります。

    「氏名、姓名の呼称」
    そもそも、「氏」と「姓」に付いてその発祥経緯を把握しておく必要があります。
    奈良期初期450年頃には朝鮮半島から応仁王が船を連ねて難波の港に攻め入ってきます。
    この時戦いが起こり、古来から存在した5豪族との連合国軍と戦います。先ず「紀氏」が潰され紀州南紀から山伝いに奈良に入ります。葛城氏等の連合軍と戦いますが決着が付きません。そこで協和会議を開き、応神王を初代王として連合体形成による初期の「ヤマト(大和)王権」を成立させたのです。
    この時まで「氏姓」は原則としてこの応神期までにはありませんでした。
    この「氏姓」は次ぎのプロセスを経て成立するのです。

      「氏の構成形態」
    当時の「氏」そのものの構成形態の経緯は次ぎの様に成ります。
    地域の「民族的集団」が「一定地域枠内」で「集団生活」をし、その「最小集団」が相互に「血縁」を繰り返し、「血縁性」の「家族性集団」を先ず造ります。
    次第に出来る「血縁が高い集団」毎に「小集団」、「中集団」、「大集団」が生まれその集団毎に結集して行きます。
    このそれぞれの「血縁性集団」が互いに結束して他に出来た「血縁性集団」から自らの「血縁性集団」を護る為に「防衛」と云う「共通目標」が出来てその「集団防衛体制」が出来ます。
    この「集団防衛体制」を敷いた事から、其処にその「集団」を指揮する「首魁」が生まれます。
    この「大小集団の首魁」を中心に「集団防衛体制」と云う「共通目標」でまとまった事からこれを「氏」と呼ばれる様に成ったのです。
    しかし、ここではまだ「民族性」が強い集団の「民族氏」を作り上げただけなのです。
    「防衛」と云う「共通目標」の集団単位=「民族氏」
    この「民族氏」には当然に集団の大小が生まれます。
    その防衛集団の「首魁」を「氏上」とし、その「血縁者」を「氏人」と呼ばれる様に成ったのです。
    ここから第2段階が起こります。
    その集団には子孫末裔の「氏人」が増え、更にこれが血縁活動に依って「分散独立」して、新たな「民族氏」の小集団を構成します。この「終結 分散、独立」を繰り返します。
    この「民族氏」は今度はより「血縁性」を基準としての他の「民族氏」との血縁を繰り返してゆきます。
    多少の血縁性を持ちながらも「防衛」と云う「共通目標」で結びついていた形態から出来た「民族
    氏」は、今度は発展して「血縁性」を主体にして「終結 分散、独立」を繰り返して行きます。
    次第に「血縁関係」により集団が大きくなり、数も増して「結束力」も大きく成って行きます。
    「枝葉の定理」で「血縁」と云う「共通性」の集団単位=「氏」の単位に再編成が起こります。
    この「民族氏」の「氏集団」の「相互間の血縁」が進むにつれて「呼称」が必要となります。
    臣勢族、葛城族、紀族、平群族、等と互いに「呼称」に伴い「族」を形成して行きます。
    「血縁関係」を基準として「呼称」は「・・族」の「・・氏系列」の「枝葉の系列化」を生み出します。
    最初はそれらの「民族氏」の「氏族」が「由来のある地名」で呼び合った事から大集団の「族名」が出来ます。
    大集団の中は、その「集団生活」の「族名」の中の「一集団」を「氏」として呼称される様に成ります。この様に「大集団」の族の中に多数「氏名」が出来ます。
    「民族」−「朝鮮族」−「百済氏系列」−「蘇我氏」

    更にはその「一集団」を構成している「家族性」の「最小集団単位」にも呼称として地名等の「姓名」が付けられて呼ばれる様に成ったのです。
    「民族」→「朝鮮族」−「百済氏系列」−「蘇我氏」→「姓名」
    ただこの時、「大集団の首魁」だけがその集団の「民族名」を採って単独で「民族氏」として進んだのです。つまり、首魁が宗家として「民族氏」のままで「血縁」(純血性)を保ちます。
    その族の氏の首魁が「氏上」と呼称される様に成ります。
      「首魁」初代「応神大王」
    飛鳥期に於いてそれぞれの族の「民族性」を持つ「臣勢族」、「葛城族」、「紀族」、「平群族」、等「大民族氏」の元と成った「氏族」の「大連合体」(大和)があり、そこには「総合血縁氏の大和首魁王」(飛鳥前の大和地域の王:天皇家の祖 出雲など各地に大小の首魁王が居た)が居た。それに対して渡来した「朝鮮族の首魁:応神王」が血縁する事で「民族氏の連合体+朝鮮族」が完成し、「ヤマト王権」を樹立させた。初代「応神大王」が誕生する。
    結局、「連合体+朝鮮族」により大勢力を得たこの「ヤマト王権」が次第に中部南−関西域を制圧した。中国地方と中部北北陸域の一部を聖域としていた「出雲首魁王権」を吸収し血縁してヤマト王権に統合した。
    その系列(後の天皇家)末裔には「朝鮮族」の「物部氏系列」と「蘇我氏系列」の2系列があり、この2つの系列は上記「氏の構成形態」の循環作用で集約されて遺されました。
    つまり、渡来人初代大王の末裔この二つは「朝鮮族」の「民族氏」の形態を持っている事に成ります。
    この二つの「朝鮮族系列」は更に「神別派」と「皇別派」に上記する様に「集団分裂」して行ったのです。
    そして、元から大和圏に古来より居た強く「民族性」を持つ「民族氏」形態の「大和4族」は「2つの朝鮮族系列」と「相互血縁」して「一つの政治大集団」を形成して速やかに「ヤマト王権」の「連合体の体制」を維持したのです。
    参考
    神別系・・・物部氏系列→ 血縁族・巨勢氏系列 葛城氏系列(にぎ速日命族)
    皇別系・・・蘇我氏系列→ 血縁族・平群氏系列 紀氏系列(武内スクネ族)

     参考 「日本民族の体系」
    (研究室 日本民族の構成と経緯 参照)
    「中国系民族」、九州全域と中国全域 −関西西域
    「朝鮮系民族」、九州北部域と中国西域−関西西域と関西北域
    「太平洋系民族」、九州南部域と九州中部東域と紀州南部域−北海道南沿岸域
    「北方系民族」、東北北陸全域と北海道域−中部北山間域
    「東アジア系民族」、九州北部域と中国東域と北陸域沿岸域−中部西山間域
    「南アジア系民族」、九州北部域と九州南部域と九州東域−紀州南部域
    「在来族系民族」、日本全域沿岸域東西南域−関西中域 (縄文民族 弥生民族) 

     参考 「民族移動の手段、理由、条件」
    これ等は入国場所の地域には次ぎの関係によりそれぞれ特徴ある分布をしました。
    船、 移動できる手段
    黒潮、海洋を渡る手段
    温暖、定住できる環境地
    海山物 食料を確保出来る地域
    地形 集団が安全に住める土地環境
    大陸 大陸との移動する距離関係
    外国動乱 移動する理由
    先住地 他民族地域外の土地

    この「7つの民族」は「生存競争」により上記経緯形態で「集団形成」しながら「特長ある流れ」を示しながら「民族性」に依って分布しました。
    「ヤマト王権」の「民族氏」がどの上記「7つの民族」のルーツを持っているかは資料が遺されているレベルでは無いので確実な判断が着かないのですが、「コルボックス」から始まり「民族移動の手段と条件と理由」を複合的に考慮すると大方の判断が出来ます。
    取分け関西全域は初期からやや年数経過後の飛鳥時代には最終「7つの民族の坩堝」と成り、上記の「民族集団形成の経緯の形態」が顕著に現れた所です。
    一方、九州全域は初期の段階から後期の1020年代まで民族流入が留まらず「民族移動の手段、理由、条件」が全て合致する要素が備わり、北方民族を除く全ての民族流入が起こった地域でありました。
    それだけに、本文の様に「先住・移民族」−「民族」−「氏族」−「民族氏」−「融合氏」までの過程を検証する場合は上記したこの「2つの地域」の様子を比較しながら詳細に論じる必要があるのです。そこで本文は史実が明確になるところの大化期前後のこの「民族氏」から「融合氏」へと転じて行く過程を通じて「青木氏と神明社」を論じています。
    その前の「民族氏」に変移する経緯経過の事前情報を提示しています。

    参考
    恐らくは、初期は九州の「邪馬台国」の卑弥呼時代前後3世紀初期から後期の4世紀後半の「ヤマト国」へと変化したのは「九州−関西」への押し出される様な大規模な「民族の移動過程」があったのではと考えています。現実に、史実が確認出来る大化期に成ってでもこの「押し出される現象」は止まってはいないのですから、この事を考慮すると、「卑弥呼問題」は「卑弥呼の墓の判別」の確定論に成るのではないでしょうか。
    「九州−関西」への押し出される様な「民族の移動過程」がある限りは「奈良ヤマトに卑弥呼説」は「九州−関西」の民族の「流」の「自然の摂理」に逆らう事は困難である事から納得出来ないのです。この世の誰も除し難い「自然性」への考慮が欠如していると考えています。
    あるとすれば、当然に「自然説」から離れて「事件説」以外には無い事に成ります。
    「事件説」と成れば、卑弥呼は九州での死亡はほぼ確かですから、「ヤマト王権」から「大和政権」に以降前、「正統性」と「統一性」を確保させる目的を以て、「邪馬台国」が滅亡していて放置されていた「卑弥呼墓」を、また九州に「続々民族流入」が起こっていた事も含めて、応神大王」の子の「仁徳天皇」が九州討伐後に「ヤマト」に移したのではないかと考えられます。

    (注 「応神大王」を「応神天皇」と呼称したのは後の事で正しくは次ぎの下の国の変移:経緯から「応神大王」が正しい。)
    (「民族集団」−「ヤマト族連合体」−「ヤマト王権」−「大和政権」−「大和朝廷」:国体変移)

      「氏と姓の違い」
    次ぎに「未定雑姓」と呼ばれるものがあった事は余り知られていないのですが、実はこの「最小単位」の「家族性小集団」の呼称名が「姓」(かばね)としてあるのです。
    大集団から小集団の「氏」が出来、それを同等に扱うのではなく、更にランク付けする為に下の小集団は「氏名」で呼称されずに「姓名」で呼称されていたのです。

    大集団の「氏」には臣(おみ)、連(むらじ)中央の大豪族

    中集団の「姓」には君(きみ)、直(あたい)地方の中豪族
    小集団の「姓」には造(みやつこ)、首(おびと)地方の小豪族

    これ等の「氏」と「姓」の区別は、大小は区別されていたが、中に位置する豪族の血縁集団はむしろ明確にされていなくて「直」までを「氏」と見なす事もあり、逆の事もあったのです。
    この考え方は当時の常識で「中間」は何れともせず何れともすると言う認識であったのです。

    特に、大集団の「氏」で「執政官」の「氏」には更に「大」(おお)を付けて分別したのです。
    中の集団から執政に関わった「姓」には「夫」として「大夫」(まえつきみ)と呼称したのです。
    この役職には大化の国策を特別に監視する御使大夫(ごしたゆう)が在りました。
    小の集団から執政に関わった「姓」には「史」(ふびと)と呼称したのです。
    これには後漢阿多倍の一族一門(渡来人)が大きく関り、彼等の持つ進んだ「政治専門職」を生かしての事だった為に小集団であっても特別に「史部」(史:ふびと)と呼ばれたのです。これでも阿多倍一族一門が特別な扱いを受けていた事が判ります。
    更には、これに属さない渡来系の「家族性集団」(村の長)には村主(すぐり)の「姓」で呼んだのです。阿多倍一族一門の180の「部」が日本の民を吸収して小集団の村を形成してその部の首魁が長を務めさせていた事を示すもので、その彼等の持つ「政治専門職」を積極的に活用して国策に生かした事がこれでもも判ります。
    在来族の郡や県などの「中小の家族性集団」には「造主」(くにのみやつこ)や「県主」(あがたぬし)「郡司」(こおりつかさ)と呼称されました。
    この「氏姓」は民族のランクにより国体を造っていた事が判りますが、この様に明確に「民族性」(「民族氏」)がまだ強く持っていたのです。
    そこで「大化改新」でこの「民族性」を無くさなくては「国の安寧と安定と発展」が無いとして「国策」として「氏融合」を図り「民族性」を無くそうとしたのです。
    これが、「氏」のランクを全て「姓」に依って統一して「八色の姓」制度に変更された理由なのです。
      「八色の姓」
    真人(まさと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)
    忌寸(いみき)、道師(みちのし)
    臣、連、稲置(いなぎ)

    第4世第4位皇子までを「真人族」に。
    皇族系血縁族で第6位皇子までを、「朝臣族」に。
    前の王族血縁族の「連、臣」までを、「宿禰族」に。
    前の「君、直」と「渡来系族」とを、「忌寸族」に。
    前の「造、首」までを、「道師族」に。

    実際には「道師」以下の「姓」は授与しなかったのですが、朝廷に帰属する「官僚」には別制度で対応したのです。 
    これは大化期の「臣連」は前の「臣連」と連想させる事が起こるとして保留したのです。
    現実には、制定当初は関西以西に定住する渡来族系の「枝葉の民族氏」が国策に従い「融合氏」に成ると予測していましたが、現実には上記に論じた様に「独立」と言う方向に動き始めていた事から保留したのです。しかし、大蔵氏にだけは「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監特」等の別な身分で応じました。
    関西以西の阿多倍一族一門の「枝葉末裔族の氏」には姓は正式に与えられていない事から検証出来るのです。

    これでも明らかに「時代の変化」に合わした「制度変更」である事が判ります。
    「皇族系」と「臣族系」との2つに身分家柄の分離・・「皇室族」。
    「阿多倍一族」の国策への著しい台頭が影響と「物造り」と「朝廷軍策」・・「渡来系族」
    「氏融合」策「3つの発祥源」の賜姓策(皇親政治補佐青木氏) 自衛近衛軍・・「朝臣族」
    「皇親政治」の「皇族」の重用・・「真人族」
    「旧来の氏族」「臣連族」を上記3つの族の中間に据えた・・「宿禰族」
    「旧来の姓族」「造首族」で「官僚体制」構築、即ち「律令政治」に向けた。・・「道師族」
    以上にてこの制度でも「氏融合策」のその方向性が判ります。

    これ等の制度の「姓」の集団には、「氏」と「姓」とに身分家柄を分けていましたが、大化後には「氏」に対して統一して全て「姓」として身分を定めその集団の呼称「姓名」を定めたのです。
    其処で「氏融合策」から新たに出る青木氏を始めとする「融合氏」を大化期以後の新しい「氏」としたのです。つまり、それまでの「民族氏」から離脱して「融合氏」を「新氏」と定めたのです。
    この制度をより身分家柄を明確にし「氏姓」に権威を与えて「融合氏」の拡大を促す為に、原則を越えて「柔軟な運用」で「姓」以外の村とか郡の「小集団の首魁」にもその勲功功績に応じては広範囲に与える「爵位制度を」定めます。所謂、「爵位制度」にも「やる気」を起こさせ「氏融合」策を末端根底から起こさせる試みを導入したのです。

      「爵位制度」
    明位は二階、浄位は四階、これを「大」と「広」に分ける 合わせて十二階 王階級に授与
    正位は四階、直位は四階、これを「大」と「広」に分ける 合わせて十六階 渡来系と重臣に授与
    勤位は四階、務位は四階、追位は四階、進位は四階 これを「大」と「広」に分ける 合わせて三二階 諸臣の位として授与
    以上が爵位制度です。

      「氏姓授与の実態」(運用実績)
    一応は授与する位が定められているが、正位からに付いては「日本書紀」では授与された者はこの位に限らず「柔軟に運用」していて、「国内の郡や村の長」のみならず挙句は「百済等朝鮮から来た者達」にも十数人の単位で与えています。
    問題は阿多倍一族末裔(部の首魁にも)には「直位」を授与している事で如何に重く扱っているかが判るところです。
    第4世王までの王族にはその天皇に近い順に授与しているのですが、興味ある事は原則皇位順位であるのに、よく観ると天皇に実力的に如何に王族として貢献したかに依って異なっているのです。
    例えば、天武天皇の皇太子が最も高い位になる筈ですが、天智天皇の子供の施基皇子(伊勢青木氏祖)が皇族の者の中で最も天皇に近い「浄大1位」次ぎに天智天皇の川島皇子(近江佐々木氏祖)、天武天皇の長兄の高市皇子が最終「浄大2位」に成っているのです。
    これは日本書紀にも記録されているところですが、この3人が最も天皇に代わって働いている事でも判る様に「改新の国策」を推し進める為にも「実力主義」が徹底されていた事なのです。
    皇太子草壁皇子が本来仕切る政治を施基皇子と高市皇子が仕切っているのです。
    代表的な例として、天武天皇が死去した時の職務代行の仕切りとその葬儀まで施基皇子が行ったのです。その後も主に施基皇子と高市皇子と川島皇子が皇后を補佐しています。
    我等全青木氏の始祖施基皇子がこの動乱期の「融合策の国策」に「3つの発祥源の祖」として全責任を持って取り組んでいる事を証明しているのです。
    この事は、上位の「姓氏」だけではなく名もない末端の下位の小集団の「政」に関った勲功功績を残した首魁にもこの爵位を運用して与えたのです。

    この「実力主義」を貫いた「柔軟な運用」の「2つの身分家柄制度」(八色と爵位)の相乗効果が大きく奏して、それの実績を証明する記録として、大化期から180年後の嵯峨期の「新撰姓氏録」に記録されているのです。
    100にも満たない「姓氏数」が何と1182にも拡がったのです。
    つまり、要はこの記録を”何の目的で作ったのか”です。
    行き成りの「姓氏」の記録ですから、「嵯峨天皇」は「桓武天皇」と「路線争い」の戦いまでしてこの「記録」を造ったのは、「皇親政治」に戻した結果を証明したかったのではないでしょうか。
    それは総合的に観ると、「阿多倍一族一門」の台頭が進む「桓武政治」の余波が依然続いている環境の中で、「国策」を「一つの形」に遺したかったと観ています。
    どれたけ「国の安定と安寧」の国策(「民族氏」から「融合氏」 「物造り」)を観る上で最もそれを的確に表現する事が出来るのは「新撰姓氏録」(1182)であるでしょう。
    わざわざ「新撰」と呼称している位ですし、「姓録」でよかった筈です。そこに「氏」を付けた呼称にしたのは「皇親政治の国策」「融合氏」の結果を求めたかったと考えられます。
    「桓武天皇」の「法」に基づく「律令政治」に比較して「法」を定めるにしてもその運用に「皇親政治」が働く「国家体制」を標榜しての争いであった訳ですから、大化期からの第1期の皇親政治の功績を政治的には明確にして置く必要があったと考えられます。
    皇親政治を否定し律令そのもので国家の基本運営を標榜する桓武天皇であったからこそ、皇親政治の基と成る賜姓制度では矛盾を孕む問題である為に、「政治と経済と軍事」中枢の官僚6割を占める民族氏集団(一般の阿多倍一族一門 母方族)から賜姓を行って、その「律令政策」を作り運営している彼ら一族を政治の根幹に据えたのです。
    ただ、「物造り」策に付いては「桓武天皇」は推進しているのです。「財源論」は賛成していることを示すもので、「政治手法」(皇親政治−律令政治)が異なる議論が朝廷内で2分して争った事と成ります。
    参考
    本文は平安期までのものとして論じていますが、結局は、嵯峨天皇期の第2期の「皇親政治」(809-850)に続き、院政が始まる手前の後三条天皇期の第3期の「皇親政治」の終焉(1070年)まで続く事になりますが、この後末期は「伊勢北部伊賀基地」の「平族」や「大蔵氏」の台頭(112年間)は抑えられなかったのです。
    後三条天皇は「大集団化の融合氏」象徴の「荘園制度」を見直して最大ピークに成った頃に「荘園整理令」を発して矢張り「皇親政治」を敷いてこの「大集団化」を押さえ込みました。これにより朝廷の政治は一時落ち着き経済的な潤いが生まれます。
    この様に、何か大改革を天皇が成そうとすると、必ず「皇親政治」を強いています。
    これは、官僚の6割が阿多倍一族一門末裔が占め「政治経済軍事」の3権を握っている事が原因していて強く反発を受け推し進められなかったのです。
    この時は250年経っていても「律令政治」が完全に敷かれているのですが、矢張り無理であったことに成ります。それは「律令政治」は「官僚政治」でもあるからです。
    それどころかこの「官僚政治」を推し進める彼等の利益集団化した「荘園制度」もこの結果彼等に牛耳られてのもので、天皇家は政治経済軍事の面で次第に弱体化して行ったのです。
    まして「公地公民」であった「部の組織」も「軍事」もいつの間にか「荘園」に「大集団化した氏」が集中してその配下と成り、挙句は「天領地」までも脅かされ削がれる状況と成っ行ったのです。
    そもそもこの「荘園制度」は、天智天皇から始まった「氏融合」の「国策3策」が一定の進展を遂げたと観て、それらを「安定化」させる目的と「経済的裏付」を目的として政策的に打ち出したものです。しかし、その経緯、過程を観ると、本来の目的を超えて次第に独立した形態を示し始めたのです。

    以上

    青木氏と守護神(神明社)−4に続く。


      [No.269] Re:青木氏と守護神(神明社)−2
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/02/09(Wed) 18:59:19  

    青木氏と守護神(神明社)−2

      「国難」
    1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
    2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
    3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
    4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
    5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。


      「国難2」
    次ぎに国難2に付いては、国難3「民族間抗争」と国難4「朝廷内の抗争」と共に共通項がありより立体的に論じることが出来ると考えますので、国難2を口火として論じて行きます。

    先ず国体をどのようにして豊かにして行ったのか、その考え方と行動施策を論じる必要があります。
    時期を同じくして大化期に阿多倍王に率いられた200万人が第1期、第2期の難民として渡来しましたが、入国来、働く彼ら「後漢の技能集団」の「物造りの効果貢献」を観て、「大和の民」を引き付け、著しい経済的な効果を生み出します。
    豊かさを享受した民が自ら進んで彼等の支配下に入り無戦でその支配地域を拡大して行きます。
    その進んだ技能集団を観た朝廷は「物造りの国策」を全面に押し出し推進する事になります。
    つまり「部制度」を定めて部方式の「経済の確立」を促す政策を採用したのです。
    国を「物造り」で豊かにする事が出来、且つ「民の安寧」を確保する事が出来るとする教訓と、その手法がある事を彼等から具に学んだのです。それを具体化し「国策制度」として採り入れる事をこれも直に彼等から教わります。
    「物造りの技能」のみならず「政治への取り入れ方」、挙句は国体の「政治手法」も彼らの官僚から学んだのです。日本書紀によると”官僚の6−7割近くは彼等の集団であった”と書かれています。
    この為に天武天皇は”民より優秀な者を選び学ばせよ”と命じたと記録されています。
    その政治に関する知識を持っていた「部の集団」は「史部」(ふみべ)、「文部」と呼ばれ、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が率いる集団であったのです。「阿智使王」は自らがこの政治を主導する史部の首魁として、「文直」(ふみのあたい:官僚)として働いたのです。そして、この「阿智使王」は自らも武力集団(漢部)をも率いて軍事面での政治主導をも首魁として働いていたのです。

      「乙巳の変」の経緯(改新劇)
    後にこの軍事集団は「民族氏」の「漢氏」(あやし)と呼ばれ、その末裔は「阿智使王」の末裔「東漢氏」(やまとのあや)と呼ばれる様になります。
    この「漢氏」は職業軍事集団として「蘇我氏」に雇われていたのです。これが「蘇我氏」の軍事的な背景であり、「蘇我氏」が裏表の軍事武力行動は全て彼等の集団が行ったのです。これらは記録として残っています。
    その顕著な例として、「中大兄皇子」が「蘇我氏」を倒すことが出来るか否かは、この「漢氏」、つまり「阿多倍」の父「阿智使王」の出方如何であったのです。結局、「漢氏」の首魁「阿智使王」は「蘇我氏」の大屋敷から「漢氏」に引き上げを命じたのです。「中大兄皇子」に対して”我等は元より雇い軍である。攻める意思なし。一両日中に岡より引き上げる”と伝えて来たのです。本来、家臣である「蘇我氏」が宮殿より上の土地に館を構えるは法度でありながらも「宮廷」より遥かに大きい館を構え周囲を防御柵で覆うものであったのです。
    戦略上、「中大兄皇子」にいかなる強力な軍隊が構えていても三方の岡よりくだり攻められた場合は全滅です。元より「中大兄皇子」には「蘇我入鹿」を倒しても軍事的に戦略的にも勝ち目は無かったのです。
    しかし、「阿智使王」は命令を下さず事件後直ちに伝令を飛ばしてたちどころに伝え消えたと記録されています。一定期間その所在は不明であったとあり、後に出てきて「史部」「文部」の首魁、「漢部」の首魁として朝廷の官僚として働きます。そして後には朝廷軍は「阿多倍軍と阿智使王軍」の編成軍として作り上げ日本全土を制圧したのです。(阿倍比羅夫・坂上田村麻呂の軍)
    この様な予備知識を下に「民族氏」の代表の阿多倍一族一門を比較対象に青木氏を「融合氏」の代表として下記に論じて行きます。(詳細は「日本書紀と青木氏」に詳細参照)

    当時180もの「品部」が生み出す物を一度「朝廷に納品」させ、「必要な量の物」を「税」として郡毎の「正倉」に収納し、残りを市場に「適度な量」を放出して安定した経済にする方式で、それまでに無かった「準市場経済」の「統制仕組み」を創設しました。
    それまでは「品部」を支配下に置いていた「蘇我氏」等の「一部の豪族」に「利益」が吸収されていて経済を想うままに支配されていました。これでは「氏融合」の発展の経済的基盤が整いません。
    そこで彼等の指導によりそれまでの「物々交換」の経済からそれを一挙に統制された「市場経済」(貨幣経済:和銅開宝 「鋳銭司」[すせんじ]が各地の主要駅舎で発見されている)に近い方式に変更する事で平均して「氏が融合できる体制」を確立したのです。
    そして、それをより効果的に可能にするには、当然にそれまで頻繁に起こっていた「物品の争奪」や偏った「利権の確保」や「民族間の争い」を無くす事に集中する必然性が出てきます。

     参考記録 (「物造り」に積極的な例)
    「物造り」を推進して経済的発展を促して「融合性」を進めようとする為に、これには積極的に天皇自らが新しいより良い品を作る提案や準備をする等の行動を採ったのです。
    例えば記録によると日常よく使う「墨や硯石や筆」や「貨幣の材料:銅」などを探す努力や提案、その匠(墨では方氏)の派遣を中国に直接頼む等の努力をした事が数多く記録として遺されています。

    (例 和歌山県海南市下津町に「方」と云う地名が現在もあり、ここに墨を造る職能集団が定住:日本最古藤白墨の生産地 熊野古道沿い 天皇が探し当てた それまでは中国から全て輸入)

    この様に中には天皇が直接旅をして「材料探し」をした等が記録として遺されています。それ程に「物造り」政策が根幹であるとして積極的に力を入れていた事を物語ります。(研究室にレポート済み)

    この事は「物造り」を平衡して国策として進めれば「経済的な潤い」が生まれ、争いの基と成る奪い合いは無くなり、その基盤に依って「民族氏」から混血を進める「融合氏」にする事で争いを抑えられます。
    また、優秀な「後漢の民」との融合を図る事で、彼等の「独立」を防ぎ、「日本の民」を巻き込んだ「職能集団」の「経済力」の活用をも図り得ます。
    「7つの民族」が定住する国土の中で「民族氏」の構成では蘇我氏の例に観られるように”「民族間の争い」が起こり「国の安寧と安定」を図ることが出来ない”と考えた天皇はこれ等を融合させて一つにする事が肝要と悟ったのです。この為に必然的に「天皇家」自らが模範として進んで「融合氏」を計る事が必要に成りました。そして其の為にも先ずは朝廷の大きな経済的な負担と成っていた「皇族数」を下野させて減らし、且つ融合を進め、それまでの「民族氏」形態から「融合氏」形態への推進の為にも、その融合の弊害の根本と成っている「皇位継承制度の改革」を全般的に果敢に断行します。 
    「皇族数」を減らし経済的な負担軽減を率先して行い「物造り」を併用して経済的な潤いを発生させて「融合策」を天皇家が進んで率先したのです。これに依って「民の合意と賛同」を得ようとしたのです。
    天皇家の第5世族以下(1000家程度 5000人/代)が下野する事で「民との接近」が生まれ「融合」は進み「民族氏」の数(20−40)に比べて「融合氏」は一挙に増えると考えたのです。
    これに皇族と母方姻戚関係を得た藤原氏の「融合氏」を加えると「民族氏」に匹敵する融合氏の数と成ったのです。(現実に増えた 荘園制で弊害の問題が起こる)
    これに依って、第7世族を含む「皇族系の融合氏」が各地に広がりを示し、そこに建立して行けば「民の心の拠りどころ」として定めた「皇祖神」の「神明社」(「伊勢神宮」)の各地への普及が図られると考えたのです。つまり、根本の政策戦略としては「物造り」−「融合氏」−「神明社」の関係が成り立つのです。

    その「融合策」の目玉として次ぎの様な施策を実行したのです。
    先ず、第5世族以下の皇族系臣下・下野の長として第4世族内の朝臣族の「第6位皇子」を「臣下」させ「賜姓」して「融合氏(侍)」を「発祥源」とさせる事を押し進めたのです。
    これに身分と経済的裏づけ(官位・官職・爵位・賜田・功田・位田・俸禄田)を与え天皇と天領地を護る近衛府軍を創設し、その責任者に任じます。
    (「侍」「さぶろう」の古語 ”真人族に寄り添って護る”の意 「国、院、家」の3侍を定める)

    皇位継承者を第4世族までとして真人族・朝臣族の「王」と改め、それまでの第6世族以下を改めて臣下・下野させます。(第5世族は政治の官職に就く・貴族公家)第6・7世族は坂東の護りとして「ひら族」を賜姓して夫々「8つの融合氏」として配置します。(坂東八平氏:ひら族)

    「平安期以降の融合経緯」(1期から5期の融合)
    この「臣下策」と「賜姓策」が平安末期までの丁度550年間継続されるのです。

    「第1期融合」は、「民族氏」から「融合氏」の「初期的融合」は900年頃に政策的にも終る。
    「第2期融合」は、「自然の摂理の現象」で室町期初期頃までには必然的に更に「濃厚な氏融合」へと進みます。この時から「民族氏」傾向の強かった「部民」の殆どに「職能集団」を生かして生き残りの「姓氏形成と融合」が起こります。
    「第3期融合」は、完成した「濃厚な氏融合」は室町期末期頃までには今度は「自然の摂理の現象」で「氏の潰しあい」へと変化します。
    「第4期融合」は、「氏の潰しあい」は終り、江戸初期には氏を形成出来ていなかった「下級武士階級」が氏を競って形成します。
    「第5期融合」は、主に第4期までの全武士階級の「氏間の融合」と、封建社会に阻まれて「氏の形を採る融合」を採れずに居た庶民が「明治期の苗字令」により国民の9割が氏姓を形成します。

    つまり、先ず正式で初めての「融合氏の発祥源」として、「皇族賜姓青木氏」(真人族 国侍の氏)の施策を関西域に行い、続けて「皇族7世族」(家侍の氏)の「坂東八平氏」」の発祥政策を関東域に行ったのです。
    (奈良期は近江、伊勢域 平安期は美濃、信濃、甲斐域 4世王族は19地域に「融合氏の発祥源」として配置した その象徴(シンボル)として本論の「神明社」を建立した)

    九州を含む関西以西域は「阿多倍一族」とその「職能集団」の配下域にあり「民族氏」の傾向が強くなかなか「融合氏の政策」を「朝廷」が率先して先に行うには難しい政治的な状況にあったのです。
    何はともあれ、彼等は軍事、経済、政治共に優れ、むしろ彼等から学ぶ立場にあって、「融合氏政策」とその象徴(シンボル)の「神明社」の普及は到底「立場の優位性」から見て難しかったと考えられます。
    又、関東より以北はまだ「朝廷の力」が完全に及ぶ制圧域にあらず、関西以東関東域までの施策とせざる得なかったのです。それ故に、この域には「神明社」の建立は果たし得なかったのです。
    恐らく、以西と以北の地域では、これは「民族氏」の傾向が強い事から「融合氏」の「神明社」(「祖先神」)と云う「宗教観の概念」との違いが大きくあったと考えられます。

    (「物造り策」−「氏融合策」−「神明社布教策」は相互関係にて連動していると云う史実観)

    まだ蘇我氏と物部氏が争った「仏教観」と「神道観」が起こって60年程度しか経っていない時期でもあり、尚且つ「仏教化」が進んでいる時でもありますから「神道」の「融合氏」と「神明社」(「祖先神」)とを連動させて政策を実行するには奈良期の初期の段階では無理があったと考えられます。
    そこに、阿多倍の配下の職能集団が「司馬達等」を先頭に「仏教」を崇拝していた私布教の環境下では、尚更、難しさがあったと考えられます。
    (司馬達等は私伝で仏教を職能集団に普及させ最初に伝えた人物)

      「宗教観」
    「氏融合」と「神明信仰」を連動させての政策は先ずは限定された範囲の中にあり、しかし、反面では「氏の融合」を推し進めないと「国の安寧と発展」は無いし、「首魁阿多倍」とその「職能集団」を「九州独立」から遠ざけるには「根本的な政策」としては他には無かったのです。
    史実から観て、この「氏融合」と「神明信仰」の政策を推し進めながらも、終局は「独立」から「帰化」と成りはしたものの、未だこの問題の解決は完結出来ずにいたのです。

    史実から、観ると次ぎの事件が起こっていて難しさが判ります。
    A 7世紀始めに朝廷は南西諸島と九州域を制圧し服属させたが、その後直ぐに九州地域は阿多倍軍に  制覇された。
    B 713年に朝廷は薩摩国から日向4郡を割いて大隈国を半国割譲して何とか「独立」と云うことを避ける  為に妥協した。しかし、律令政策の浸透は九州域では無理と成った。
    C 720年には遂には「朝廷の軍」を送りこの大隈の首魁に対して大征討を試みるが挟撃を受ける事を恐  れて軍を引き上げた。
    D 結局、その後、阿多倍の職能集団の配下に入った九州の民の賛同が得られず放棄。
    E 800年に数々の妥協策によりやっと朝廷の律令の内、農政の部曲に対する「口分田」だけが施行出   来る程度に成った。

    ただ、ここで大きな疑問があります。
    「関係する歴史的経緯」
    645年に阿智使王と阿多倍王17県民と共に九州地方無戦制覇後に帰化する。
    648年頃に阿多倍は准大臣に任じられる。
    650年頃には阿多倍に伊勢の国から「伊勢北部伊賀地方」を半国割譲して住まわせる。
    670年頃には阿多倍は敏達天皇孫芽淳王の女と婚姻(第6世族)する。
    698年阿には阿多倍一族一門の阿倍比羅夫が蝦夷を征討します。
    690年頃に子3人に賜姓(坂上、大蔵、内蔵)を受け朝廷の軍事権、経済運営権、政治権を任す。
    713年には阿多倍に薩摩の国から「大隈の国」を半国割譲します。
    720年には国策に従わない事を理由に朝廷軍は大隈国を攻めています。
    730年頃には阿多倍孫娘(高野新笠)と天皇家(光仁天皇)と直接血縁する。
    758年頃には朝廷軍の主力を「阿多倍軍(坂上氏)]と「阿智使王軍(東漢氏)」で編成する。
    764年には朝廷軍として阿多倍末裔二人(阿倍氏等)が以北征夷を攻め「征夷大将軍」に任ずる。
    769年には和気清麻呂は大隈国に配流される。(大分の九州最大神社の宇佐八幡宮神託事件)
    790年頃には九州北部と南部大隈国に騒ぎが起こり朝廷の全ての政策に反抗して従いません。
    800年には朝廷政策の内の「班田収授法」の「部曲」に支給する田畑(口分田)だけに従います。
    806年には阿多倍の子坂上氏は蝦夷地の異民族アテルイを以北制圧して絶大な勢力を確保する。
    820年頃にも九州地方特に大隈国は末裔肝付氏が勢力拡大し国の「律令政策」に従っていません。
    833年には太宰の大蔵横凧は「宿禰族」になります。
    938年には太宰の大蔵春實は「錦の御旗」を受け「藤原純友」を追捕する。
    940年頃には阿多倍末裔の国香−貞盛は「将門の乱」を鎮め「功績」を上げる。維衡、正盛、忠盛−清盛
    950年頃には「太宰大貫主」と成り初めて「半自治形態」を採る。
    1018年には大蔵種材は「遠の朝廷」「錦の御旗」を受け「太宰大監」に成り九州を「完全自治」する。

    この様に、関連史実を時系列で並べるとこの阿多倍一族一門には何か大きな「氏融合の生き様」が観えて来ます。

    720年には以西では国の政策に従わず攻められています。そして以北では698年と802年に朝廷の命で蝦夷を攻めています。この時、関西では軍事と3政治機構の内、大蔵、内蔵を占有し「国の政策」を立案推進しています。
    以西以北では全く逆でこの様に阿多倍一族一門の地域に依って異なる行動を採り矛盾が起こっています。

    この事は何を意味するのか。「氏融合」の過程で大きな政治的な戦略が観えて来ます。

    結論から述べますと、「九州基地」と「伊勢基地」との間で「両立2面作戦」の戦略を展開しています。
    それは先ず、「氏融合、農政、物造り」の史実から観て、戦略的に「3つの基地」を展開しています。
    1 大隈国を基地として「九州南部地域の基地」
    2 大宰府を基地として「九州北部地域の基地」
    3 伊勢伊賀を基地として「関西中国地域の基地」

    阿多倍側からの考察
    「九州南部地域」は国政に対して従わず入国以来「物造り」と「農政」には「自治」を継続。
    「九州北部地域」は国政に対して「物造り」に従い「農政」には不従政策 「半自治」を継続
    「関西中国地域」は国政に対して「物造り」「農政」共に従い、政策を主導
    800年までこの態勢を維持した。


    朝廷側からの考察
    入国来、無戦征圧32/66国を征圧した彼等一団が「帰化」か「独立」で来るかで朝廷は悩む。
    結果は「帰化」で来た。しかし、武力制圧して「帰化」に成った訳ではない。
    争いを避ける事である。”完全に従う”という事ではないと判断して朝廷は悩む。
    そこで「首魁阿多倍」を都に呼び寄せ「伊勢」に勲功を理由に懐柔策に出た。
    要するに「首魁不在」の「九州南部基地」を空にする作戦に出て九州南北の基地の勢力を弱める作戦に出た。
    そこで妥協策として、勲功とは別に朝廷の力が及ぶ所に定住させる作戦に出た。
    関西以西中国地方の影響力に限定する戦略である。その為に阿多倍に「伊勢北部伊賀割譲」をして留めた。
    しかし、九州2基地は依然折れて来ず、国策に従わない。これでは「独立」と成ると焦る。止む無く次ぎの手を考えた。
    そこでこの「都定住策」に加え、取り合えず、阿多倍王と「間接血縁」させて一度目の「天皇家との繋がり」を作り恐れている「独立」の「回避策」に出た。
    ここで天皇家と間接的にも結び付けば「子孫繁栄」の生活圏を築かせて置く事で縛りつけられると考えた。中国関西基地は何とか折れて国策に従い始めた。
    それで九州の北部基地はやや折れてきたが南部基地は依然として国策に従う様子なしと観て、更に懐柔策として「大隈国割譲」で様子見守った。
    矢張り動かないので今度は阿多倍の子に異例の賜姓をしてお膝元の九州南部基地を従わせる様に試みた。(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏)
    朝廷は妥協して阿多倍賜姓族に「軍事、経済、政治」の政策実務を任せて自らの首魁が行う政策であるので九州南北の基地が国策に従うだろうと考え誘導した。
    これでも従わないので、そこで遂に軍事で解決しよう決断を下した。
    当初の作戦通りに空した「九州南部基地」の本拠地を攻めて彼等の「分断作戦」に出た。
    首魁らが行う政策に従わない事を理由に一族の粛清と見せて挙動したのである。
    これが恐ろしく強い「彼等の戦力」に押されて失敗して慌てて船で逃げ帰る。
    これで「立場と信頼」は完全に消失したと考えた。
    「本拠地」大隈を突かれて「関西中国地域の基地」では阿多倍一族は驚いた。極度に警戒を強めて来た。
    最早、動かし難い「伊勢伊賀基地」の今にも「独立」の気配の態度硬化を観て、軍事的にも解決は無理と観た。
    後は「天皇の権力」しか無く成る。つまり「冠位と血縁の策」しか無く成った。
    朝廷内も政治、軍事、経済の実務を握られている。「蘇我氏の専横」のレベルでは到底ないと感じる。
    第1期の青木氏等が主導する「皇親政治」では天皇家の中で「何の改新か」との批判高まる。
    遺された道は只一つ阿多倍の孫娘と2度目の天皇家と「直接血縁」で逃げる又もや懐柔策に出た。
    朝廷は「仏教政治」の弊害で乱れている。「称徳天皇」の道鏡に振り回されて政治は混乱し朝廷はますます弱腰になる。
    そこで、皇親政治族の賜姓青木氏や藤原氏に無理やりに押されて例外の天皇に成った優秀な光仁天皇は「仏教政治」を廃止し「皇親政治」に戻して朝廷内を先ず一新し、そして阿多倍一族から妻を向えて以西の問題を先ず収束させた。
    朝廷の政治を主導し律令国家体制に整えた。しかし、3権を殆ど牛耳る程の彼等の勢力と成っては逆に打つ手なしと判断した。
    「桓武天皇」が率いる賛成派は阿多倍の末裔を賜姓策で引き上げて又もや更なる「血縁融合策」に出た。そこで、先ず朝廷軍を「阿多倍軍と阿智使軍」を主力とした編成にし信用させて、九州の南北の2基地を攻める意思の無い事を示し、「政治、経済、軍事」の「3権」を任して「究極の独立回避策」に出た。
    さすれば九州は国策に従うと観たが南部基地の「強行派肝付氏」が勢力を増して依然従わない。
    そこで、以西を突けば「民族性」の強く「融合」に従わない「異民族」の「以北勢力」を逆に南下させると見て、まず「以北の憂い」を無くす事から始めた。
    優秀な妻方の連合軍を編成して強力な「阿多倍軍+阿智使軍」を使って取り合えずは先ず以北の征圧策に出る。成功する。後は彼等の以西を国策に従わせるのみと成る。
    阿多倍の子を「征夷大将軍」に任じて最終「軍事の最高権威」も与えて動きを誘導して3権で九州南部基地を従わせる様に仕組んだ。
    戦っても身内同士の戦いになるし戦力の差がある。間違いなく国策に従うと観た。
    ところが”強力な身内の「伊勢伊賀本部」の「首魁宗家」と争う事を避けるだろう”として考えた。朝廷は命じた。そこで「九州北部基地」に地盤を置く「大蔵氏」は国策に従う様に条件付の「柔軟な姿勢」を採ったが、逆に「九州南部基地」では騒ぎが大きくなり依然として国策に従わない。
    しかし、「伊勢伊賀本部」からの指令で止む無く妥協策として農政の「口分田」のみに従うとする態度を示す。
    ところが、強硬派の「九州南部基地」では異変が起こり、阿多倍末裔の超強硬派肝付氏が台頭し主導権の勢力図が変わり「律令政治」そのものに従わない態度を示す。
    最早、打つ手なしとして、今度は朝廷内では「最悪の独立」を避ける為に「九州2基地」の「半自治政策」に傾く。
    そこで、暫時策を打ち出す。九州阿多倍末裔の最大勢力の大蔵氏に焦点を当てる策に出た。
    先ず、彼等を完全に引き入れる為に一族の大蔵氏に天皇家の流を汲む身分の「宿禰族」を与えて「身分家柄」を高める策に出た。
    次ぎに、暫くして大蔵氏の本拠地「九州北部基地」に対して前代未聞の「錦の御旗」「太宰大貫主」を与え「冠位と身分」の妥協策で朝廷側に引き込むお膳立てを構ずる。完全に成功する。
    依然、更に国策に従わない「九州南部基地」を横目に、「九州北部基地」に配置して「半自治」を認める「懐柔策」を展開した。
    つまり「九州北部基地」の大蔵氏をして「九州南部基地」を凋落させる戦略である。
    それでも、まだ不安があり解決が出来ない。そこで本家筋の大蔵氏に従わない肝付氏との間に険悪な状況が起こった。「九州南部」と「九州北部」の「基地間の争い」(同族争い)が起こる可能性が出た。
    「関西中国基地」と「伊勢北部伊賀指令本部」は焦った。朝廷が狙う共倒れが起こる。
    「関西中国基地」等3基地の全権を握る「伊勢基地の司令部」は慌てた。最早、「人物策」しかないと考えた。
    天皇に働きかけをして一族の中でもこれを解決できる「人物」は日本全国で唯一とされる万来の「人物」に白羽の矢を当てた。
    大蔵氏の優秀な政治、経済、軍事で有能で万能な逸材の「大蔵種材」に任す事を提案する。
    超強硬派の肝付氏も”種材ならば”とこれに従うと判断。それには前提条件がある。
    朝廷は、彼等の「共倒れ」で「乱」を選ぶか、「国策」を守らせ全国共通して律令下で「氏融合策」を採るか選択を迫られる。
    そこで、前提条件を認める事に成る。九州全域には多少の「国策律令の不順」は妥協しても「運用権」を認める戦略に出た。
    止む無く彼等の末裔の主力大蔵氏に「運用権」の範囲で「九州全域の政治」を任す「完全自治国」とする事で「乱の国難」を避けた。九州南部基地は従い大成功する。そして矢張り九州南北の基地では政治、経済、軍事で安定に向かう。
    この時、丁度、「物造りの本拠地」でもある九州全域の安定化に伴ない「品部の物造り生産力」の向上とは裏腹に、逆に、特に全国的に「班田収授法」等の「農政政策」を定めたものの、各地で「凶作や天災、飢饉、動乱、政権不安定等の原因で、全国的に「農産物の被害」が続出し、「重税や労役の負担」で「部曲の不満」が頂点に達し「農民反乱」が各地で起こっていた。
    これに呼応した豪族等が叛乱を起こし、これを潰そうとして朝廷は戦いを起こしたり挙句の果てには朝廷内で「農政による政争」が起こった。
    この様な環境の中で、「部曲の農産力」が限界に至り、「難民移民」などの受け入れが国策上限界と成っていた。
    特に北部地域に頻発していて、武装難民等の入国を阻止する為には九州南北基地の彼らの力が必要な環境下に入った時でもあった。
    ここで「九州南北基地の戦い」が起これば、依然不安定な武力制圧で納めたがその末裔が息を吹き返してきた以北、一応は「運用権で納めた九州南北」、膝元の「中央の政権の乱れ」、「各地の農政による不満の反乱」、これに呼応した「豪族の反乱」、これでは国が立ち行かなくなると朝廷は悩んでいた。
    そこで、危急存亡の「秘策の提案」を採用する事になる。
    九州南北の問題を「運用権」より進めて「自治」を宣言させる方策で任して置いて、他方の「以北の憂い」を解決する為に源義家の「征夷大将軍」と藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」に任じて、彼等の氏力で片方の「以北の完全鎮圧」に当る方策に切り替えたのである。成功する。
    しかし、義家は荘園制で大きくなり過ぎて却って問題が出た。義家を潰しに掛かる。成功する。以北はほぼ解決した。
    次ぎは九州全域の問題だ。彼等の狙いは実質は「独立」だか、朝廷はその「大義名分」として「遠の朝廷」として権威を与えそれを証明する「錦の御旗」で繕う事で「独立の形」を避けて「自治の国」を認める決断を下した。これが1018年の事である。成功する。
    以西と以北は解決する。
    しかし、この結果、「融合氏」の勢力が必要以上に増し、荘園制が行き過ぎ土地私有化へと勝手に進み始めた。朝廷は観てみぬ振りをする。
    しかし、これを憂いていた天皇が立ち上がった。後三条天皇。融合の弊害に成る荘園の私有化に歯止めを掛けた。「荘園整理令」を出す。
    身に危険が迫る。白河天皇は更に勇敢に「荘園公領制」に踏み切った。融合氏は正常な形で進み始めた。
    融合氏推進を国策とする天皇側と、民族氏の阿多倍一族一問との駆け引きの問題に一応休戦状態となった。
    これで、全国統一して「律令国家」の前提が、九州に「自治の国」は存在するにしても、一応は出来上がったのです。阿多倍側と天皇側とには両者共に主張点は確保して後は妥協策で解決する方向へと進み始めた。

    時系列で観た融合に関するこれが平安期の経緯と考えられます。

      「律令と造作」
    これで「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」は一挙に進むことになります。
    その解決への弟1の変曲点ピークは桓武天皇期にあり、この「3つの国策」を成した天皇として、彼を「律令と造作の天皇」と呼ばれた所以なのです。
    明確な”「造作」”の名称が着いた事は「氏融合政策」には「物造り政策」が連動していなければ成らない国策状況であったことを物語ります。
    彼の「物造り」(造作)は資料記録から観ると、大事の「都造り」から始まり「河川道路造り」「寺造り」「神社造り」末端の「物造り増産と開発」などに率先して働きこれ等は広範囲に渡ります。
    つまり、「高負担の税と労役」を課しながら「公共工事による税の還元」や「朝廷に入る部制度による物造りの利益」に依って「税と労役分」を民に戻し潤いを与えて、「農政不満の解消」を図り国の安定を計ったのです。
    「物造り」政策の「増産」とそれに伴なって起こる「開発」を基盤として、自然災害の「農政問題」を補完した政策を採ったのです。
    そして其処に「民の心の安寧と安定」を図る為に「神社仏閣の建設」も積極的に並行する相乗効果を狙ったのです。
    これらの考え方(「氏融合」−「物造り」−「神明社」)は平安期の代々の天皇に引き継がれて行ったのです。これは真に融合氏の発祥源「青木氏」、青木氏の「守護神・祖先神」、青木氏の古代和紙・殖産「2足の草鞋策」に一致し、そのものの考え方です。これで天皇家と青木氏は連動して行くのです。(後述する)

      「運用の基盤差」
    上記した連動した国策(「氏融合」、「物造り」、「神明社」)は「九州南部基地」と「九州北部基地」とでは若干の導入に関する温度差はあったと想われますが、筆者は、自らの首魁等が決めた国策には概ね従っていたと考えていて、それを実行する「完全な拘束力」に対して「柔軟な運用権」を主張していたのではないかと観ているのです。”全く国策を撥ね付けていた”とは考え難いのです。
    その根拠はその「土地柄」「民族柄」を未だ強く遺されていて一概に国策の「律令制度」には馴染めない環境が強く遺されていたと考えているのです。
    だから、それを解決する手段としては「柔軟な運用」以外に無い筈です。彼等は「氏融合」策に付いては論理的には”「国の安寧の根幹」を示す事である”とは充分に認識していて、「否定的」ではなく「総論賛成 各論反対」の態度を採ったのであって、其処には3基地の受け入れの「温度差」があったと考えているのです。特に後の末裔「たいら族」(平族)の根拠地になった「関西中国基地」では”都に近い”と言う「地理的要素」があり国策をある程度呑む以外には無かったと観るのです。
    九州の「2つの基地」に付いては、恐らくは「地理的要素」が強く遺されていた事からこの様な経緯を辿ったと考えます。とりわけ、「土地柄」「民族柄」を基本としていますが、決定的な要素が此処にあるのです。それは本文の論説の一つのなのです。

    つまり、彼等は「中国人」それも最も「優秀な民族」と評されている「後漢の人」なのです。
    彼等の思考の原理は「儒教の教え」から来る「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」があるからなのです。今も彼等には色濃く遺されている概念です。
    この「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」がある限り、「律令」よりも「人」と云う理屈が生まれてくるのは必然です。ましてや、「古代の時代」「日本も始めての律令」の環境下にあったのです。遺伝的に持つ彼等の概念「柔軟な運用権」は「人」の思考を優先する彼等には「自然の思考」であったと考えます。
    優に摩擦が生まれて自然にこの様な経緯を辿ったのです。
    日本人の「7つの民族」から来る「集団性癖」から観ると、「集約する思考」が存在しない限りは成り立たない「融合単一民族」であり、つまり、「常識」が「法」としたとの考えがあり、「最低の常識」つまり「法」が優先されるべきと考えるが「自然の思考」と成ります。
    少なくとも「人」は最低は「法」の概念を守るべきと成るでしょう。ここが彼等とは全く逆なのです。
    ここが、日本の「氏融合」と「物造り」と「神明社」の概念が中国に差をつけて大きく進んだ所以と考えます。

      「青木氏の功績」「妥協と争い」
    兎も角も、奈良期、平安期の時代には、現在にも未だ大きく遺されて問題事件と成っている「人類の課題」が、この時期に大きくのさばっていた事を物語る「融合氏の生き様」であったのです。
    恐らくは現在でも起こる中国ロシアとの摩擦どころの話では無いと考えます。
    それをこの様な「経緯」を280年間の間に解決して共通認識の「氏融合」は成されたのです。
    「国策経緯」=「氏融合」=280年間
    日本の歴史上最も見本とするべき経緯です。
    恐らく、諸外国が「民族性」から脱し得ず「氏融合の単一民族化」していない原因は「妥協」を選ばず「争い」で決着する方法を選んだ事だと考えます。
    日本人の「妥協的思考原理」とすると、それから観れば彼等の遺伝子的に持つものは極端な「合理的思考原理」とも成りそれに起因するものと成ります。
    「争い」も「自然摂理」から観ても必ずしも否定するものではないとは考えます。
    「争い」の手段は「解決」と云うよりは「決着」と考えるのが日本人なのかも知れません。
    この世の「物事の解決」には分析すると「幾つかのプロセス」が存在している筈です。
    一挙に右から左と「問題発生−解決」と云うシナリオを経験した事はありません。
    この間には「決着」を始めとする「2、3のプロセス」が必ず介在しています。
    「決着」は「解決」と云う目標の一つ手前のプロセスである筈です。
    とすると、「争い」には大小あると思いますが少なくとも人間が考え出した「本能」に近いもので「決着の手段」の一つと認識されるでしょう。
    「人」が「人間」である限りは現代も全く変わっていないと考えます。
      「長は理想と現実の理解者 青木氏の教え−1」
    現に、この1018年以降は今度は下記の「三相の理」が崩れて「氏融合の弊害」の「生存競争」が起こり、「争い」という「自然の神」が織り成す解決手段で「下克上」「戦国時代」へと突入して行くのです。
    恐らくは現代あるこの社会でも、国内外の問題を問わず「神の力」を除きこの様な事が起こればその「流れ」の中では、矢張りその解決手段は「争い」以外には無いと考えられます。
    これだけ「大きなエネルギーを押さえ込む力」は「神の力」以外に何人にも無い筈です。神でも不可能かも知れない。
    「神」も時には「争い」を以って解決を示します。つまり、「理想論」では行かないのがこの世の摂理です。
    そもそも、少なくとも「理想」とは「人間の知恵」の「発露の発展」が成した「論理的な究極の思考」と定義付けられるでしょう。他の動物に観られない無い思考なのです。
    と云う事は「厄介な思考」とも取れます。「理想」は「争い」があるからその反意として「理想」と云う形を「人間の知恵」は形作っているのであって、現実の中に容易に存在するものではない筈です。
    それを恰も現実中に存在するものとして、「理想通り」に物事を進める事は「集団の長の思考」とはとても考えられないものと成ります。
    歴史上の史実から観て確かにその様な人物は一部存在しますが、考察すると一時は事は成したとしても、むしろ周囲には必ず「弊害や滅亡」を生んでいます。
    しかし、世の中、”「長」が理想論者であるべきだ”とする説があるのは「論理的な究極の思考」に酔っている姿の説であり、良く見掛ける”耳障りの良い事を言い立て自己を満足させる”と云う事に執着している「人間の性(さが)」(癖)の一つと筆者は観ているのです。仏教でもこの説を採っています。つまり、仏教の説法にもあるのだからこのタイプの人間が多いと言うことです。
    例えば、「人を観て法を説け」「縁無き衆生動し難し」”現実から大きく離れ「理想」「無関心」などに拘り過ぎ「色即是空の説法」を聞き入れない者は捨て置きなさい”そして裏意では”行き詰まり救いを求めた時に手を差し伸べなさい”と説いています。
    筆者は個人の範囲で「理想論」を思考する事が「知恵の性」である限りは否定はしませんが、”長はそれに酔って物事を云々する事”を否定するものなのです。
    「理想世界」の中では、「人間の妄想」と位置付けられ「人間の性」「人間の煩悩」が無くならない限りは、現世に「矛盾差」が生まれ、その世界があっても、その中では人間は生きられない筈です。つまり、生きるには「理想の世界」は「人が生きられない世界」と考えているのです。むしろ「仏説」の説く処の「地獄」だと考えているのです。
    ”「理想世界」が「極楽」で、「現世(うつせ)」が「地獄」ではない””「理想世界」が「地獄」で「現世」が「極楽」である”と。これが「般若心経の教え」であり、青木氏家訓10訓の真意であると考えています。
    「理想世界」は「人間の思考」の成せる業であり「神」の成せる業ではないのです。「現世」が「極楽」とする場合、「無条件」ではなくこれには「適切な条件」が伴っている筈です。
    上記の「経緯」の如く歴史的に事を正しく納めた「長」にはこの理想思考タイプの人物は見当たりません。
    「理想」とは、突き詰めればそもそも「個人の産物」に過ぎないのです。
    「理想」は、団体では「民族性」、個人では「人生経験度」に依って異なります。
    故に、「長」は「妥協」の「プロセス」として「現実」を直視すれば、「民族性」(民族氏)から脱して、より小さい集合体の「氏性」(融合氏)に終結させる事が必要である事に成ります。
    1つ2つの民族ではなく、「7つもの民族」が存在している現状の中では、「自然の摂理」として「民族氏」の「民族性」が強く存在する限り、”「争い」と云う現象が起こりより良い現実の「安寧」は獲得出来ない”と考える事が「長」に求められる筈です。
    この「氏融合 280年間」の「国策の山」を越させた「長」の人物「嵯峨天皇」までの「濃い血縁」で繋がる「我等全青木氏の祖」は、「長」としてぶれる事無く、この事を理解していた事を意味します。
    (「我等全青木氏」は下記「血縁と絆」からの「4つの青木氏」を意味する)

      「適切な条件」=「手段の使い方」と「三相の理」
    「家訓10訓」の青木氏の教え−2」
    ただ、問題はその「手段の使い方」によるものでしょう。「妥協」もその使い方如何では「争い」以上の悲惨さを生む事は「神と仏教の教え」でもあります。
    即ち、「手段の使い方」とは「人時場所」の「三相の理」であります。
    この解決策と成った「妥協」は、この「三相の理」(人、時、場所)に叶っていた事を意味するもので、即ち、「7つの民族」の「集団性」から来た「日本人の特技」であり「癖」でもあるからです。

    「奈良平安期の天皇と後漢の帰化」の「人」
    「上記280年経緯」の「経時」
    「3つの基地と都」の「場所」
    以上の「3つの理」が叶っていたと云う事に成ります。

    では、この「三相の理」を一つにして適える「使い方の手段」とは「律令」「格式」であります。
    「律」は刑法、「令」は民法、「格」は追加法令、「式」は雑則規定類
    この4つを「現世」に於いて「極楽」と成す条件であり、これにより「現世」の「人の性(さが)」による「弊害」を最小限に押さえ込む事が出来るとするものです。
    「律令」「格式」により「地獄」から「極楽」に変換するものです。
    ただ、これでは「絵に描いた餅」、要は「長」のそれの「手段の使い方」、つまり、「運用」と成ります。「絵に描いた餅」「環境問題(人、時、場所の環境変化)」は刻々変化します。
    それに適合する「運用」(妥協)が「長」に相応しい「資質」として求められるのです。
    これが上記した経緯「律令国家体制への道筋」なのです。(現在でも通じる事)

    「適切な条件」=「手段の使い方」=「三相の理」=「律令」「格式」・・・「極楽」>「地獄」

    この「三相の理」を理解していた「皇親政治側」の青木氏等の偉大な為政者には私事を捨て「大変な苦労」であった事が絵に描くように判ります。現代の為政者を評価する時、大いにその評価基準と成り得ます。
    故にこの思考は、この時代を「皇親政治のリード役青木氏」の全ての「始祖施基皇子」の「善事選集」司の処から発している事を強調する点なのです。
    「飛鳥浄御原律令」、「大宝律令(養老律令)」等と「上記した国策」であり、その究極は「氏融合」とそれに連動する「物造り」であったのです。
    日本書紀にも書かれている記録であるのですが、この大元は全国を歩き回って集めた行動指針として活用を始めた施基皇子編集の「善事選集」から発しているのです。
    (「善事選集」:各地の豪族たちが国を運用する時に決められた賞罰、慣習法の良いものを集め「律令格式」の下地にした。 後に整備された「律令格式」以外にも独自に「国例」即ち、慣習法として国ごとに定めた残った。 現在の「国政令」と「地方条令」の仕組みの下に成った)
    これを上記した「長」としての資質を持ち天皇に代わって先ず執行したのが青木氏の始祖であるのです。この当時としては現在の「2つの仕組み」になるほどのものを考えた事は驚きで卓見そのものです。
    これが青木氏にとっては本文の目的とする「伝統とするべき認識」なのです。
    「3つの発祥源」である青木氏はこの様な「やり取りの渦中」に居た事を物語るものです。
    これは取りも直さず、故に「青木氏の家訓10訓」の大いに示す所でもあります。
    大化期では施基皇子が「天地、天武天皇」の「皇親政治の相談役」として主導している事は日本書紀にもよく出てくる事でなのです。(研究室にレポート有)
    まして、「光仁天皇」は「施基皇子」の子供で女系天皇が続いた為に皇位継承者が無く押されて天皇に成った人物です。
    (女系天皇が続きその精神的負担から逃れるために「仏教のお告げ政治」を敢行し、国は乱れ疲弊してしまった危機状況であった。 これを解決するために民衆と藤原氏は皇位継承権外の第5世族次席者第6位皇子の家柄に白羽の矢を立てた。)
    青木氏の始祖末裔で、「阿多倍の孫娘 高野新笠 血縁の妥協策」の苦しい時期の為政者であって、正に青木氏の「皇親政治」の真ん中に居たのです。つまり、「青木氏の孤立的な苦悩」でもあったのです。
    「280年の経緯」全体から見ればこの時期は「最も重要な良悪の分かれ目」になるポイントであったと観られます。青木氏は正しい判断を問われて親族として具申した事は明らかに予想が出来ます。
    日本書紀の伊勢国を「国司三宅連岩床」に任せて「天皇の補佐役」をしていた「施基皇子の優秀さと立場」から判断すると、間違いなく「皇親政治の立役者」の「青木氏の具申」と考えられます。
    まして「桓武天皇」は「青木氏の第3始祖」とも考えられる人物です。大いに具申はあったと考えるのが自然ではないかと思うのです。
    (青木氏と直系血縁天皇: 天智天皇−施基皇子−光仁天皇−桓武天皇−嵯峨天皇)
    筆者は、青木氏は「3つの発祥源」である訳ですから、「皇親政治」を標榜する天皇は青木氏の考え方、提案を聞かない訳には行かなかったと考えています。
     重要参考
    光仁天皇の妻 高野新笠の実子の桓武天皇は父方(皇親政治)、母方(阿多倍政治)の「苦しい選択」に迫られて「母方重視の策」を止む無く採った。故に「律令政治」に成り「第1期の皇親政治」は終わり、何と青木氏出目の天皇に依って青木氏は一時衰退させられる憂き目を負う事に成る。
    (ここで5家5流青木氏は和紙を扱う「2足の草鞋策」に入るのです。)
    2代後「激しい政争」の末に嵯峨天皇期では再び第2期の「皇親政治」は「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に復活するのです。
    ここより「賜姓源氏」に変名するのですが、「賜姓源氏」も「阿多倍伊勢一族」の直系子孫(平清盛)の台頭を抑えきれずに憂き目を引き継ぐのです。
    国策「融合氏」から発祥した「賜姓青木氏」「賜姓源氏」と、「民族氏」から発展した「阿多倍一門の融合氏」の対照的な2種氏の勢力関係の競合は、依然として1275年頃にやっと起こった九州北部基地の大蔵氏と、九州南部基地の肝付氏と、藤原秀郷流青木氏と秀郷一門永嶋氏との血縁までのその時期まで続くのです。
    これらの関係は次ぎの融合数式により成り立ったのです。
    A 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」><阿多倍一族一門
    B 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」><阿多倍一族一門

    C 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」=「絆」=阿多倍一族一門(関西中国基地 伊勢基地本部)
    D 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」=「血縁」=阿多倍一族一門(九州南北基地の2氏)

    「融合氏」の「賜姓青木氏5家」にしてみれば宗家が「伊勢北部南部の隣の地理的関係」から、また「5大和紙と云う経済的関係」からの関係からも、「民族氏」の彼等との血筋は無いにしても「絆」と云う点では多少なりともあった事になります。
    所謂、判りやすく云えば、日本人ノーベル賞の有機物の不可能な結合を成した「カップリング現象の結合」で相反する氏は融合したのです。「絆」を触媒として。

    (1180年の「源平合戦 以仁王の乱」にて賜姓青木氏の伊勢青木氏の跡目に入った京綱が助けられ、賜姓清和源氏頼光系頼政末孫3名がこの「絆」で日向で日向青木氏として助けられる。)
    最終の結末は「争い」と云う手段で解決しなくてはならない方向に動きます。
    5年後には「2軍の将相立たず」の教えの通り「絆」で結び付いていても「解決」と云うものに向って「決着」と云うプロセスを踏まなくては成らないのがこの「世の条理」です。
    「関西中国基地 伊勢基地本部」は滅亡するのです。

    E (「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」)>×(阿多倍一族一門:関西中国基地 伊勢基地本部)=0

    しかし、「解決」には影で動かす勢力も必ず存在するのもこの世の摂理条理です。
    上記の数式の影で「第7世族 坂東八平氏」が再び「融合氏」として成長して来ていたのです。
    「決着」の「争い」で弱体化した「賜姓源氏」は影の氏に依って葬りさられるのです。

    F 「第7世族 坂東八平氏」×「阿多倍一門一族 伊勢基地本部」=0
    G 「第7世族 坂東八平氏」>「賜姓源氏」=0

    結局、上記のAからGまでの数式から差し引くと

    「賜姓青木氏」+「秀郷流青木氏」

     「九州南北基地の阿多倍一族一門」
    結局、「融合氏」の「3つの発祥源」の青木氏が無傷で残る事になります。
    これは上記で論じてきた事柄
    a 「三相の理」や「理想と現実」を弁えて「家訓の戒め」を良く守った。
    b 「2足の草鞋策(物造り)」と「絆」で結ばれた「絆結合の青木氏の支え」があった。
    c 「神明社で団結」の4つの条件が整っていた事があった。
    以上の3つがあったからこそ「融合氏の3つの発祥源の青木氏」として生き延びられたのです。

    今から観れば、”これ以外には無い”と考えられる素晴らしいこの様な経緯を辿ったのです。
    恐らくは3地域を率いる阿多倍一族一門側も、青木氏等と藤原氏等を始めとする「皇親政治」を主導している朝廷側(天皇家)との駆け引きには、上記する経緯に「裏腹の相似する態度と思考」を持っていたと考えられます。
    それはその上記した大化の国策に始まった「融合政策」と関連する「物造り」等の国策は取りも直さず彼等の立案と実行に掛かっていた事なのです。
    彼等にとって大きく反動する事は「自らの政治立案」と矛盾する事になり、政治は成り立たなくなり「皇親政治側」の反発を招き危険な筋道を辿る事は必定です。
    其処に両者には難しい上記する手綱捌きが起こったのです。
    この青木氏を始めとする「皇親政治側」の「苦悩と生き様」は研究室のレポートに詳細にしている通りであり、これ等との知識と連動させると立体的な奈良時代から平安末期までの「生き様」が観えて来ます。

    この「氏融合」「物造り」「神明社」とするには研究室レポートと他面の阿多倍側の「苦悩と生き様」も描き明確にする事が必要で一挙に大論文に入っているのです。


    次ぎは「青木氏と守護神(神明社)−3」に続く


      [No.268] 青木氏と守護神(神明社)−1
         投稿者:福管理人   投稿日:2011/02/09(Wed) 13:09:10  

    青木氏と守護神(神明社)

    副題 「神明社」「融合氏」「物造り」

    序(ルーツ解明に思う事 雑学の根拠)
    なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいです。
    知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得する事が先ず大事で他に方法がない気がします。ルーツを辿るにしても、その歴史の中ではいろいろな事が起こっています。
    ただ「系譜」を通り一辺に探し当てる事は容易でなく、まして簡単に信用できない歴史的なことが「氏家制度」の社会の中では起こっているのです。まして「下克上、戦国時代」と云う事の真偽が確認できない程の乱世か起こっているのですから、その中から糸の縺れを解くように答えを導き出すにはその時代のより多くの「雑学」を把握するしかないのです。そして、その「雑学」をいろいろと組み合わせて推理し「矛盾」を思考して排除して初めてルーツがその先におぼろげに観えて来るものです。
    特に江戸期に作られた資料や文献には多く虚偽の資料が多く、信じて研究するといろいろな所で矛盾が出て来るものです。より「雑学」を把握すればする程にそれが観えてきます。
    それをフィルターの様に「事実と虚偽」を「篩いに掛ける事」が必要で、「残った物」を史実として遺し整理する作業事が必要に成ります。個人が単純に「我が家のルーツ」をテーマにこの期の資料で辿ると神代のルーツの様な矛盾だらけのルーツが出来てしまいます。それはそれで個人の範囲で納得をしていればそれは良いことだと思いますが、この多くは「下克上、戦国時代」に伸し上った氏が家柄身分を良く見せようとして「搾取偏纂」をして創り上げた結果に依ります。それを元に編集したのが「・・系譜本」と呼称されて遺されているのです。
    しかし、小説なら兎も角も本サイトの史実のお尋ねのお答えとしては難しい事に成ります。
    そこで、「青木ルーツ掲示板」にお尋ね頂きました事にお答えを正しく出すというのはなかなか範囲が広くて説明が難しいのです。当然にお尋ねする側から見れば情報が少ない事だし、その情報の原石があってもそれを磨き上げて全うな情報とするにもそもそも難しいし、お答えする側としても「個人の範囲」としてのお答えをする程の処までの知識は無いと思うのです。また世間に於いても無いと思います。古来より其処(個人の範囲)まで整えられた社会体制ではなかった筈です。
    まして、「氏家制度」「封建社会」の社会習慣や考え方と現在の自由な社会とではある事の捕らえ方ひとつが全く異なります。奈良期、平安期、鎌倉期、室町期、安土、江戸期、明治期とではその期毎に「習慣や考え方」が異なっているのです。
    現在から古代過去を観る時、”現在の視点で観てしまう”と云うついこの間違いを起してしまいます。
    これが問題なのです。その時々の人の自然の悩みや自然に起こっていた資料に載っていない様な社会情勢を見抜く事が出来ないのです。当然に先祖の「生き様」や「悩み」も判らなくなります。

    しかし、そこでまあ楽しみの一つとして正しく何とか知る範囲で書いて見ようとすると、「脳の反応」が硬くなり「雑学の記憶」が出てこないと云う事が起こります。実はこれが序文の問題なのです。

    「脳の反応と雑学の取得」
    上記の事は「人間の脳」が起こす忌まわしい「性」(さが)です。
    この「性」(さが)を何とか克服する必要に迫られます。
    そこで、私は次ぎの様な事をします。

     「3つの脳」の「思考訓練」
    第1番目に、何でも良いから「雑学量」を増やす事。
    第2番目に、それを「系統的」に分別して覚える訓練をする事。
    第3番目に、覚えた事の幾つかを引き出し「組合せ」をする事の訓練をする事。

    第1番 これはある期間を限定して納得できる程度にある事の範囲に付いて「読み漁り、調べ漁りする事」で出来ます。
    第2番 これは覚える時にそれに纏わる何か「印象」を遺す事で出来ます。
    第3番 これはその都度「人、時、場所」の3要素でその重要度、関係度のような事で発想訓練をする事で出来ます。

    筆者はこれを「3つの脳」の「思考訓練」と呼んでいてこの「習慣」の特技を身につける事となります。

    そもそも「人間の脳」は本来このパターンで思考する仕組みに成っています。
    これが他の動物と違う「知恵の差」と成るのです。人間に於いての差も「訓練の有無」に依ってその差が出ている事に成ります。
    身近な事では、最も判りやすい例として「受験勉強」がこれに当り、それをまとめたものが「・・参考書」と成ります。これをより多くマスターし、試験問題に適用する事と同じに成ります。
    私は幸い「物理系の技術屋」であった為に仕事柄で朝から晩までこの繰り返しでした。
     「経験談 物造りの例−1」
    どう云う事かと云いますと、ある市場に完成製品の問題が起こります。そうするとその発生原因を究明する為にあらゆる現象を思い浮かべ想定し試験し検査し原因を特定して行きます。これには広範囲な技術的な知識が必要に成り、その知識を瞬時に思い浮かべると云う能力が要求されます。
    因みに、判りやすくする為に参考として経験談述べますと、例えば皆さんがお使いの自動車のブレーキのクレームが起こりました。
    先ず普通では考えられない事なのですが、ブレーキに摩擦を起させてタイヤの回転を止める焼結金属で出来たライニングがありますが、このライニングを取り付ける鉄の板があります。これをパットといいますが、この何枚かある内のひとつにライニングが取り付けられた金属板(パット)が板圧方向に平行に二枚に割れてしまってブレーキの効きが悪くなったという問題です。
    (焼結金属とは金属を粉にしてそれを型に入れて形にして熱を掛けて固めて均一な部品を生産する方法です)
    調べた結果、金属を精錬する際に、不純物が金属内に残った結果なのですが、不純物はJISで決められた範囲に維持しているのです。普通はこの不純物を精錬で取り除きますし、もし残ったとしても溶融している時に「リミングアクション」と云う金属に起こる自然現象でインゴットの上部にこの不純物が集まりこれを強制的に取り除きますので起こらない筈なのです。
    しかし、この不純物の一部が何等かな理由で金属板の中央に残り、それが圧延時の何度もの加熱で板圧方向に広がり不純物が均等に分布するという現象が起こったのです。
    これは専門的には特異な現象で「バンドストラクチャー」と云う現象なのですが、普通余り技術的に知られていない事でもあり、かなりの専門書でなくては文献等には出て来ないものです。
    この板を使って部品にするには適当な板圧に圧延されたフープ材(円状に巻いた鉄の板)からこの金属板をプレスで打ち抜きます。この欠陥を持った金属板の不純物現象のところにプレス圧力が掛かり、目に見えない程度に衝撃亀裂が起こります。普通は仮に不純物の欠陥があったとしても何の問題も起こりません。金属を剪断する時は板圧の4−8%の範囲(クリアランス)で切り口を入れると鉄板は後は軽い力で押すと自然に切れ落ちるのです。ところが、これを多くしたり少なくしたりするとこの金属にはその「金属の特質」を超えたところで致命的な欠陥が起こるのです。それは上記したイオウやリンや銅等の不純物がある事に依ります。まして上記の「バンドストラクチャー」等の現象が起こっていると尚更です。そこにこのブレーキの繰り返し荷重と振動が金属板に掛かり、この「バンドストラクチャー」に均等分布する不純物の一つに剪断範囲を超えた力が掛かるとミクロの破壊が起こります。
    そして、次々と分布する不純物に破壊が連覇して遂には金属板が結果として二枚に成ってしまった現象でブレーキの効きが悪く成ると云う致命的な危険な現象です。一般に知られていませんが全ての金属にはこの難しい特質範囲で出来ているのです。
    これを電子顕微鏡で見る前の処理として「サルファプリント」や「ナイタールプリント」と云う特殊な検査方法で調べると、丁度、サンドイッチの様な模様に成っていてその中央に不純物らしきものが点在してピカッと光るものが見えます。サンドイッチの中味は約0.5ミリ程度の薄く薄灰色の模様として見えます。これが不純物の集合体でその物質はシリコン、イオウ、リン、銅と炭素の一部が組み合わさったものです。
    この不純物は原鉱石の中に含んでいるもので、この不純物があると金属は脆く成ります。
    普通はこの不純物は0.03%以下でなくては鉄は成り立ちません。
    これを無くす綜合技術が優れているのが日本の鉄製品の良さで、これを「ラミネーション」(薄板)と云いますが、他国ではこの現象を無くす事は出来ないのです。外国に輸出される薄板製品で自動車関係等の精密なものに使用されます。この進んだ「ラミネーション薄板」には「リムド」と「キルド」と云う2種類の板がありますが、キルドはこの現象を無くした鉄製品で高価です。普通に使用されるのはリムド(自動車関係部品等に使用)です。
     「経験談 物造りの例−2」
    この様な「日本の技術」は「雑学技術」から技術者のこの「3つの脳」の「思考訓練」で解決されて良い品質の物が生まれて行くのです。

    その最たる綜合物のもう一つの良い例は「日本の新幹線」です。
    実はこの新幹線にも上記と同じ事が起こっていたのです。
    この事は未だ日本の高速新幹線が走る前の開発段階の事で、未知の高速のタイヤにブレーキを掛けると云う未知の技術で、ブレーキ開発段階の時にこの現象問題が「新幹線ブレーキ開発」にも及び特に問題に成りました。
    新幹線はブレーキを掛けた時に高速の為に400度位に繰り返して成るのですが、この金属板にこの「バンドストラクチャー現象」(1)があると、更に加熱されて温度分布の差と繰り返しの「熱にての破壊」(2)(熱疲労や熱脆性破壊)が必ず起こる事が予想されていたのです。
    特にこの350-400℃ではイオウやリンが反応して「ステッドブリットネス」と云う第1期の「脆性現象」を更に起こす「危険特定温度領域」(3)なのです。またあらゆる金属は繰り返しの熱過熱が起こると「熱疲労」と言う現象が起こり破壊します。その臨界限界が300度以下なのです。
    この「3つ問題」を解決しないと新幹線のブレーキは効かず走らせる事は出来なかったのです。普通は無理なのですが、そして更にはこの金属板を車体のブレーキ本体に取り付ける方法も熱問題や脆性問題等の同じ上記の問題で困難を極めたのです。(4)
    普通は考えられるボルトや溶接やリベットなどの固定方法では熱で「3つの問題」と「軟化」が起こり強度が持たない事が考えられ、この「現象の特定」と「原因の究明」とその「後の解決策」が無ければ今の新幹線は走らなかった筈なのです。(「物造り日本」)
    勿論、日本人はこの特技の「3つの脳」の「思考訓練」で解決したのですが、今でも日本以外の先進国の高速新幹線は遠くからブレーキを掛けないと効かないのはこの辺の開発が出来ていないからなのです。日本の新幹線だけです。
    この知識としては冶金学、材料力学、化学、金属学、熱処理学、ブレーキ力学、破面工学、塑性工学、自然力学などが働き、何れもが広範囲な「高い専門知識」と「熟練技術」が要求されます。
    先ず、常識的にこれだけの学問を習得している技術者は、専門化しているために居ないし、文献の殆どが専門領域に限定されているもので、これだけの範囲で綜合的に研究されて解析され説明されているものは有りません。ですから、直ぐに外国が真似の出来ないノウハウであるのです。
    反論として、最近の急に出てきた韓国や中国の新幹線があるだろうとするでしょうが、実はこれには落とし穴がありこの様なノウハウに追いつくことは出来ないのです。
    新幹線やロケットは「総合力」」ですから「物真似」だけでは殆ど作れないのです。そこで”彼はではどうするか”と云う事に成ります。
    それは新幹線の「日本の部品」を殆ど単体購入して自国で組み立て一部の可能な部分を取り付けて国産のものとしてしているのです。当然に彼等の「人工衛星」もロシアから主要な部分を購入しているのです。
    これを専門的に「OEM生産」と呼ばれます。この「OEM」で政治的な自国の国威発揚を図っているのです。日本は自国製品です。「3つの脳」の「思考訓練」の結果です。
    日本はこの「特技」を生かした「物造り」を成し経済的な発展を成し遂げたのですが、彼等は日本を始めとする「外国資本」の「技術の持込」と「OEM」で成り立っているのです。

     「ルーツ解明」と「3つの脳」の「思考訓練」
    下記に述べる様な「ルーツ解明」も全く同じで「3つの脳」の「思考訓練」に依って解明されてゆくものです。敢えて上記に例を挙げてくどくどと記述しているのは、「ルーツ解明」には上記知識と同じ様に、「考古学」や「歴史学」等の様により多くの広範囲な知識の「歴史知識」(雑学)が要求され、その中には大変重要な事が多く潜在しているからです。
    例えば、当時の「生活様式」や「考え方」や「常識」や「慣習」や「仕来り」や「掟」や「身分」や「家柄」や「宗教」や「学問」等人間が生きて行く上で必要とするあらゆる「行為」の知識が学べるのです。そして、これ(雑学)が「ルーツ解明」の「紐解き」や「真偽選別」の道具に成るのです。
    恐らくは「平成の事」も未来から観ると、「雑学」の一つに成る筈です。
    その「平成の雑学」と「平成前の雑学」を「ルーツ解明」と云うキーワードで遺しておけば一つに繋がる事が出来、それは連続した「歴史」、即ち「伝統」と成る事に成ります。
    少なくとも、「青木氏」の範囲に於いて、文科系の人には目を覆いたくなる様な例として技術的な事をくどくどと述べたのもその「青木氏の人たち」の未来に遺す「平成の雑学」の意味を持ちます。
    そもそも、この「判断材料」の「雑学」の会得は「目を覆いたくなる事」そのものなのです。
    文科系の得意の人は技術系が苦手、技術系の得意な人は文科系が苦手。しかし、「ルーツ解明」にはどうしても両者が必要なのです。バランスの取れた、且つ正しい「3つの脳」の「思考訓練」を成すには絶対不可避なのです。
    研究室には他にも青木氏ならではの「色々な論文」(雑学)を遺しています。
    その雑学行為(「3つの脳」の「思考訓練」)で「日本の伝統」況や「青木氏の伝統」を「解き明かす事」が、”日本そのものを生き遺させる仕儀の一つに成るから”と考えているのです。
    ともあれ、残念ながら何処にも「ルーツ解明」の要素が一つにまとめられた「受験勉強の参考書」の様に「文献、参考書」としてのものが無いからで、それを「一つにまとめる方法」は個人努力でこの「3つの脳」の「思考訓練」による以外に他に方法が無いからです。
    これ等の要素は普通はばらばらの「常態」で存在しているのです。故にこの「努力」が欠ければ「日本の伝統」は現状のように必然的に消えて行く運命にあるのです。
    現在の「伝統消滅」の有様は、この「3つの脳」の「思考訓練」の「努力」が足りないか無い事ですが、「技術立国」(物造り日本)として余りに「技術」に偏りすぎた為に「伝統消滅」を起し、多くの「社会問題」を発生させているのだと考えているのです。

      「技術立国」(物造り日本)と「熟練技能」と「熟練技術」
    上記した「技術立国」(物造り日本)の構成を考えた場合、「熟練技能」と「熟練技術」に依って構成されていると考えます。これは「日本人の特技」とされながらも「熟練技能」と「熟練技術」で生きていかなければ成らない(下記に理由を述べます)古来よりの「日本の宿命」でもあるのです。
    そうすると、当然に「技術側」(技能側)に偏りが起こります。
    これも仕方の無い事とは思う事なのですが、然りながら故に、日本の「技術の伝統」は「3つの脳」の「思考訓練」で成されていても、偏り過ぎで「心の伝統」関係は消えて行けば”日本は日本で無く成るは必然”です。
    無くなれば論理的に「技術の伝統」も消え去る筈です。しかし、まだ消え去っていないのですから「心の伝統」は「何がしかの工夫」で維持されている事に成ります。
    では”それは何なのか”と云う疑問が起こります。
    この「心の伝統」が本論の目的(これが下記本論に示す「守護神」等なのです。)
    詳しくは守護神「神明社」のところで論じますが、それをより深く理解を得るためにそこまでに至る論調を追々述べて行きます。
    先ずこの事についての筆者の考え方は数式に表すと次の様になります。

    A「技術の伝統」+「心の伝統」=「日本の伝統」=「日本の特技」=「技術立国」(物造り日本)
    B「熟練技能」+「熟練技術」=「3つの脳」の「思考訓練」=「技術立国」(物造り日本)
    故に「A=B」

    つまり、筆者はこの「技術の伝統」(物造り)と「心の伝統」(神明社)は表裏一体であると考えているのです。故に「守護神の神明社」本論を論じる場合はどうしても「A=B」を論じる事になるのです。
    このAの表裏一体の「2つの領域」を「熟練技術」(上記した技術例)の様に高い位置に遺す事が必要と考えていて、一方の「心の伝統」を「一人の努力」として「狭い範囲」ではありますが「青木氏の範囲」で本論文の調査に入ったのです。

    全くの素人であった故に、初期はその調査に入る方法が判らず、止む無く「技術屋の特技」を生かして”手法「3つの脳」の「思考訓練」”で入ったとするところです。これが序文「雑学の根拠」であります。取りも直さずこれは「雑種の優位性」(下記)の「日本人の特技」でもあるのですが。

      「物造り日本」と「技術立国日本」
    いずれにしても、「ルーツ解明」や「技術解明」にしても、それに必要とするどの学問一つ欠けてもこの問題解決の原因が判らないのです。原因が判らなくては「クレーム」や「ルーツ」が解決出来ずに「企業存亡」や「伝統消滅」に至り、否、これは「日本存亡、又は衰退」に関わり至る事なのだと思うのです。
    ともあれ、これらの何れの学問の「雑学知識」を保持するだけでは「解明」は出来ず、それには上記する「3つの脳」の「思考訓練」の熟度が無ければな成らないと考えています。
    「専門職」や「専門家」としては大変な仕事ですが、この様な事が「高い努力」に依って現在も解決されて「日本の技術」や「日本の伝統」は世界に冠たる位置にあるのです。

    (「3つの脳」の「思考訓練」の熟度」)+「雑学知識」=「解明」

    ここで「技術面」で観れば、「資源の無い国」でありながらも、不思議に日本の「資源の学問」域は世界的にトップ域であり、その応用域の「綜合技術」(例えば「ブレーキ関係産業」等)の置かれている立場も世界に冠たるもので、当然に上記「8つ程の学問」とその業界も侵されないトップクラスなのです。他の産業域もほぼ同じであると観ています。
    つまり、「物造り日本」と「技術立国日本」は”「造る事」のみならず、その「資源の学問」も「学問立国」でもある”事なのです。

    「物造り立国」+「学問立国」=「技術立国」

    この数式が成り立たなければ中国、韓国の新幹線、ロケットは出来得ないのです。故に彼等は「OEM」なのです。仮に、純正であるとするならば、学問域でも「ノーベル賞」を取得出来る筈でそのレベルがどの程度かを確認する出来る事です。技術面から、部品を外から観て真似を出来るほどではそれは高いノウハウではないのです。単品のブレーキ部品でも絶対に真似の出来ないノウハウは私が知る範囲でも5つ程度もありそれを作り上げるノウハウの特殊な生産設備も無い筈で上記の例の様に一つではないのです。それらを作り上げる生産設備を含む経費は莫大で短期間で出来るものではないのです。日本から購入した方が割安で「相互依存」になり、彼等にとってはその目的は「海外に向けた宣伝」と「国威発揚」の政治的手段に他ならないのですから、「時期を重視」する必要があるのですから莫大な経費をかけてのものではないのです。
    彼等の「国民性の考え方」は「国は面子」「石は薬」「法より人」の常識ですから「莫大な経費」より容易な「購入の相互依存」を選択するのが採るべき手段なのです。
    「部品単位のOEM」は日本にとっては生産コスト削減には成り、実質日本製に他ならないのです。

    これは先輩諸氏、否、先祖による「3つの脳」の「思考訓練」(「熟練技能」「熟練技術」)の努力による功績で他国が侵す事の出来ない領域まで到達させたのです。
    しかし、これを今後コンピーターによる激しい速度の「学問の進歩」に合わせて、「造る事」が持ち堪えて行けるかは「遺伝的な日本人の特技」の「引き出し努力」にある事は明らかです。
    つまり、その「引き出し努力」とは「3つの脳」の「思考訓練」」(「熟練技能」「熟練技術」)であると観ているのです。
    「物造り」+「学問の進歩」=「技術立国」

    つまり「物造り」は「学問の進歩」を連動させる事が絶対条件なのです。
    だとすると、その「物造り」の概念を時代に合わせながら明確に把握する必要があります。
    「物造り」=「熟練技能」+「熟練技術」

    故に、「物造り」から「エキス」を引き出したとすると、この二つの概念から下記の数式が成り立っています。
    「熟練技能」+「熟練技術」+「学問の進歩」=「技術立国」

    この「物造り」には「普通の技能と技術」も当然に潜在しますが、日本が必要とする「物造り」は「普通の技能と技術」を軽視できませんが、コンピューター時代の基礎の進化で補う事が可能な領域です。(下記)

    A「遺伝的な日本人の特技」=「3つの脳」の「思考訓練」=「引き出し努力」
    B「熟練技能」+「熟練技術」=「物造り」=「3つの脳」の「思考訓練」
    A=B

      「A=B」の検証と詳細な「経緯」
    そこで、ではこの数式の歴史が”何時から始まったのか、何処から導入したのか、誰が推し進めたのか”と云う疑問が先ず理解を深めるためには必然的に起こる筈です。

    実は調べてみると、結論から云えば、この努力(「引き出し努力」)の始まった明確な時期は、何と「青木氏の発祥」(「大化改新」)と一致し、その「造る事」「資源学問」は皮肉にも中国(後漢)だったのです。そして、その推し進めた人物は当然に中大兄皇子だったのです。
      
    「後漢」の「光武帝」より末帝の21代「献帝」の子供「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が17県民200万人の「技能集団」(職能集団)を引き連れて北九州に上陸し瞬く間に日本66国中32国を無戦征圧した時から始まったのです。
    それまでの奈良期初期前では「物造り」と云う影は無く、むしろ「原始的な日々の生活」を続ける漫然とした体制であり、蘇我氏等による一部の政治的思惑の範囲で国揚げての政策範囲というものは無かったのです。日本統一は当然に未だ無く「7つの民族間」の争いの中にあったのです。

    しかし、その環境の中に突然、主に中国から渡来人が続々と襲来し始め、後漢の帰化人が第1期と第2期とに渡り入国するに当り、「日本の民」はその進んだ技能を後漢の渡来人に積極的に進んで学び、進んでその配下に入りした結果「無戦」と云う形で瞬く間に関西以西全土を彼等の帰化人が支配すると云う現象が起こったのです。この時、民は生活の向上と国を主導できる彼等に陶酔して行ったのです。
    全ての青木氏の元祖の中大兄皇子はこの有り様を観て、国体の全体の有り様に疑問を持ったのです。
    そして、その思いから蘇我氏を討ち「大化改新」を推し進めるのです。
    しかし、この時、彼には別の大きな悩みがあった筈です。
    その32/66国の「軍事、経済、政治」の勢力と民から慕われる彼等を観て、為政者である限りただの想いだけでは絶対に済まなかった筈です。
    この時、史実から観て国内には次ぎの様な国難が起こっていたのです。

      「国難」
    1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
    2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
    3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
    4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
    5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。

    しかし、この5つの国難の内、大和国で無く成る「最大の懸念材料」は矢張り「後漢の渡来人の動向」であり、他4つは「国内の腐敗」によるものであり、リスクから観て彼の頭の中では、最大の問題であった筈です。

    彼等の「軍事と経済の勢力」と「民」から慕われるその「支配形態」から観て、日本に「後勘の独立国」が出来てもおかしくなかった筈です。まして国内では「4つの崩壊する要素」が潜在していたのですから「独立」の方向に進むのが「自然の流」であった筈です。

    そもそも「独立」とは「1から4」が在って起こるものです。
    「1+2+3+4」=<「独立+5」
    上の数式が成り立てば、為政者は危機感を感じ考えない方がおかしいの筈です。

    中大兄皇子は蘇我氏を倒して「大化改新」を実行した決断力、胆力、頭脳明晰な天皇です。
    「1+2+3+4」=<(「独立+5」)

    ところが、幸いに「帰化」と云う形で納まったのはこの「日本の民」を巻き込んだ「無戦征圧」が原因しているのです。
    (「独立」+5)=<「日本の民」+「無戦征圧」

    故に、次ぎの数式が成り立つ事になる。
    「1+2+3+4」=<「独立+5」=<「日本の民」+「無戦征圧」

    とすると、右が<であるので、ここで、当然に、「阿多倍王の判断」が左右した筈です。
    「阿多倍王」はこの数式が成り得た場合、”「独立」が可能か”を考えたのではないかと想うのです。と云うよりは、「独立は可能」だが「独立後の施政」に問題が出ると観たのではないかと考えられます。

    「唐国」と崩壊寸前の隋国に西から圧迫を受け、遂には618年に滅亡し、軍隊と共に日本に後漢の漢民族の全てを引き連れて渡来したのです。
    ”「独立国を新たに造ろう。軍事、経済力、政治力の弱い大和の国なら潰せる」”と考えていた事は自然である筈です。まして、「漢国」が滅び東に移動して「朝鮮国」北部を征圧して「後漢国」を造った歴史を持っている民族です。疑える条件は何も無い筈です。
    まして「阿多倍」は入国した主力の在る北九州に住まいせず南の薩摩大隈に定住したのです。
    何故でしょう。恐らくは「独立国」にした場合に「大和から最も遠い所」に首魁を住まわせるのが「戦略の常道」です。そして、この薩摩は民族的に穏やかな「太平洋族」と、「ベトナム系民族」とその系列の「漢民族」の移民地なのであり、元を質せば半分は中国系民族で構成されていた安全な地域なのです。つまり、ここに定住した事は明らかに当初は「独立」を考えていた事に成ります。
    (その史実は下記)
    しかし、彼等は帰化したのです。「帰化」に決めても彼等集団の中に「乱れ」が起こらなかったのは「200万人を統制する絶大な力」があったことを意味します。

       「中大兄皇子の考え」
    そうすると、一方「中大兄皇子」は1から5の悩みの中で起すべき態度は決って来ます。
    「独立」と「帰化」の中で、それは1から4を粛清する事以外に彼には「解決の道」は無い筈です。
    そうなると「蘇我氏を滅ぼし政治の体制を改善する事」以外にありません。
    そして、考え出した改善策とは「大化改新」策なのです。(研究室大化の改新レポート参照)
    その中では、当然に考える事とは「1−5に対する施策」(「改新の詔」)と成ります。
    つまり、「改新の詔」とは別にこれに関する「4つに関する付随政策」(勅)を別に実行しているのです。
    それらを上記した技術屋的に解析すると、それには関連する「一つの道筋」が見えて来ます。それが、「氏融合策」なのです。

    A「改新の詔」概容
    1 公地公民制度
    2 統一地方行政制度
    3 戸籍、計帳、班田授受制度
    4 統一税制制度

    B「付随策」概容
      「皇位継承制度の変更」
      「東国国司制度」
      「男女の法」
      「冠位の制」
      「葬祭令」
      「食封」
      「八色の姓制度」
      「三蔵の制定」
      「天皇の近衛軍の創設」
      「部経済方式の創設」
    (本文に関係策のみ記述)

    C「政治課題の改革策」概容(上記重複)
    1「大豪族と東漢族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
    2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
    3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
    4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる

    政治課題1に付いては、先ず「蘇我氏」を討ち天皇家に政権を取り戻した後に、朝廷の経済と軍事の疲弊の元凶と成っていたものを改善する為に、空かさず「皇位継承制度」の全般の変更を行います。

      「主な変更点」
    第4世皇族継承(第6世より)
    第4位皇子まで皇位継承権(真人族 第6世より)
    第6位皇子の賜姓臣下(朝臣族 新設)
    第4世守護王(宿禰族 第6世族より)
    第7世平族(新設)
    第5世王、第5位皇子、第6世族はその中間位とする。

    (後の7代後の嵯峨天皇は、女系天皇が続いた事により「皇位継承者」が激減した事で継承権を敢えて第4世族に変更する。例、天智天皇から5代後の光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の子供 例外で継承し次ぎの子の桓武天皇に継承−平城天皇−嵯峨天皇)

    それまで実施されていなかった「氏融合策」の「賜姓臣下策」を除き「第6世族」までを全ての対象としていたのです。しかし、これでは「大蔵、内蔵」の「財政」は耐えられず「朝廷の弱体化」を食止める事は出来なかったのです。そこで、先ず「皇位継承制度」を詳しく見直したのです。

    これらCを背景にしてAとBを観察すると、次ぎの関連する政策が実行されています。
    「改革策」
    「付随策」
    「変更策」
    以上があります。

    政策を単純にならべると”そんな物か”と見えますが、特技とする上記した「3つの脳」の「思考訓練」によりそれ等をよく分析して関連性を調べると、実は色々な「複合的な関連性」があり「政策的意味」を持っていることが見えて来ます。
    先ず上記した「改新の詔」の4つを観ても、「Cの背景」が存在していれば「絵に描いた餅」に過ぎません。
    「改新の先決問題」は要は全て「Cの背景」なのです。

    「Cの背景」のその中でも、1に付いては先ず最初に手を着けるべきは、政治母体を完全に安全に保つ必要がありますから、彼の立場からすると先決問題として「軍事的な弱点」を改善する必要があります。
    そこで先ず手を着けたのが「軍の編成」の点です。
    天皇自らを護る一団の「近衛軍の創設」(イ)を実行し身内で護る事に成ります。
    つまり、況やこれが天皇を護る為に身内の皇子にその任を課した「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)と成りますから、これが「近衛軍」に相当する訳です
    これには、更に別の目的として、分析類似点を調べると次ぎの様な「関連性」が見えて来ます。
    「皇族」から「臣下」させて初めて「侍」としたとありますから、つまり、「民間」の中で「侍」として「皇族」から「独立」し、「身分家柄」を得て「氏」を形成する訳ですから、「氏の融合」策(「八色の姓」策併用した)(ハ)を率先して図る役目を得た事になります。又、それは強いては朝臣族とする「民間のトップの位置」を得ている事ですから、その立場を利用して「力」を発揮すれば「民族間の勢力の削除」をも図る事にも成ります。
    そこで、これには実行するに必要な「経済的な裏づけ」が必要です。
    そこで、殆ど「蘇我氏と物部氏」の主要豪族に所属して牛耳られていた「物造り」の「部」を制度化(ホ)を実行します。これを「公地公民」で「朝廷の政治組織」に組み入れたわけですから、今まで「民族氏」が占有していた「物造り」から生まれる「財力」を獲得できます。
    依って、その「財力」で政治的に課せられた次ぎの役目は果たせる事に成ります。

    青木氏の政治的任務
    「近衛軍の発祥源」
    「賜姓族の発祥源」
    「侍の発祥源」
    「朝臣族の発祥源」
    「武家の発祥源」
    「融合氏の発祥源」
    「皇祖神の守護職発祥源」

    これらは次ぎの施策から読み取る事が出来ます。
    「近衛軍の創設」(イ)
    「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)
    「氏の融合」策(「八色の姓」策併用)(ハ)
    「民族間の勢力の削除」(ニ)
    「物造り」の「部」を制度化(百八十部 ももやそべ :180)(ホ)

    経済的には(3)の補足策の「物造り」の「部」を制度化(ニ)して一度朝廷に納品させた上で市場に供給する画期的な「経済方式」を始めます。
    この為にはこれらを「公地公民制度」にして豪族からその「経済的背景」を削除して勢力を低下させて全て「国の管轄下」に起きます。
    当然に「豪族の不満」は必然的に起こります。そこでこの「豪族の不満」を完全に封じ込める為に、俸禄を定めた「食封」(じきふ)と「冠位の制」と「八色の姓」制度(やしきのかばね)の「3つの策」を創設します。

      「3つの策」
    1 「食封」(じきふ)とは、俸禄を定める事でそれに見合った力にさせ必要以上の力を封じた。
      つまり、「勢力の制限」を図ったのである。

    2 「冠位の制」とはその者の冠位を授けて冠位以上の施政への関与を牽制した。つまり、「身分の  確定」による権力と行動範囲の限定を図った。

    3 「八色の姓」制度(やしきのかばね)とは「氏の家柄」を8つに分けてその家柄に見合った職務  と権力を定めた。つまり、「家柄の統制」にて氏の勢力拡大の制限を図った。

    このこれが後の「氏家制度」へと発展しその根幹と成ったのです。

    以上が彼等豪族達の「立場」を「法」で縛ったのです。

    要するに次ぎの施策と成ります。
    「勢力の制限」
    「身分の確定」
    「家柄の統制」
    と云う事に成ります。

    「民族氏」の彼等は「法」のこれらに従わなければ朝廷側にその「大義名分」が出来ますので潰されることに成ります。これが「力の政治」ではなく「初期の律令政治への始まり」であったのです。
    「天智天皇」はこの事にいち早く悟った事に成ります。

    しかし、これでも彼等の「不満」は完全に抑える事は出来ません。そこで効いて来るのが、「近衛軍の創設」と、蘇我氏の「雇い軍隊」であった「阿多倍」の父の「阿智使王の護衛軍」(「職能軍の東漢氏」)を味方に引き入れて、初期の「朝廷軍の創設」を果たします。
    そこで、帰化した阿多倍に薩摩の国を裂き「大隈国」を造り「半国割譲」(713年)し、更に「伊勢北部伊賀」を「半国割譲」(715年頃)して呼び寄せてここに住まわせます。
    (日本書紀には「大隈の首魁阿多倍」と記されている。伊勢伊賀から出て来て天皇の前で踊りと相撲を披露すると記されている)
    そして都に呼び寄せた「阿多倍」天皇自ら勲功し褒賞して「准大臣」に任じた上で、「敏達天皇」の孫の「芽淳王」の娘と血縁させます。
    平安期の「桓武天皇期」(791頃)にはその子の長男に「坂上氏」を賜姓して「彼等の軍」を「朝廷軍」に組み入れ、「征夷大将軍」に任じて、「職能軍と阿多倍軍」から成る「強力な朝廷軍」を編成します。
    (注)
    (「蘇我氏討伐」の時、蘇我氏が雇い入れていた「東漢氏の職能軍」は中大兄皇子の呼びかけに岡から引き上げた)
    (「朝廷軍」の主力は父の「阿智使王軍」と子供の「阿多倍王軍」の編成軍と成る:帰化人「後漢の軍」に相当する。)

    (その後の経緯):この朝廷軍だからこそ国を統一出来た。
    800年始めに一族の阿倍比羅夫と坂上田村麻呂が征夷族を以上4回に渡って攻め3回目で異民族のアテルイ一族が率いる民族を制圧します。(806)
    900年代には秀郷一門が「鎮守府将軍」として鎮圧します。
    1100年代には源義家が「征夷代将軍」として完全制覇します。
    以北勢力は以上3回で統一する。

    「民族性」の強い「民族氏」が以北に現存していてなかなか進まなかったのですが、以西は「帰化」、以北は以西の帰化人が「制覇」と云う珍しい形で「氏融合の基礎」を完遂させ、益々上記する「氏融合策」は進み日本全土は朝廷の支配下に入ります。
    支配下に入ると云う事は一連の上記の政策が実行されるという事に成ったのです。とりわけ「氏数」と補足として「家紋」(象徴紋含む)の変化を観て見ると、この3つの時期を基点に「氏融合策」は3度に掛けて急激に進みます。

      「近衛軍創設」と「朝廷軍の創設」
     「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の意味
    「八色の姓制度」は、飛鳥−奈良期初期の「氏姓制度」から「氏の融合策」へと推し進める上で、更に発展させる上で、この改革をしたものですが、「国力」即ち、「公地公民」とした「物造りの生産力」に合わせた「氏数の制限策」をこの「3つの策」で実行したのです。

    ただ「氏数」が無制限に伸びる事はそれに見合った「物造り生産力」と「部曲の農産力」が無くては争いが生まれます。そもそも「氏融合」の本来の目的からそれは逸脱する事に成ります。
    それを「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の「3つの策」で「許可制」にしたのです。
    勝手に「氏」を起しても「身分」と「家柄」が与えられなければ「経済的裏付」「社会的な裏付」を得ることが出来ません。増やそうとすると結局、「朝廷の許可」を必要となります。
    つまり、これは「物造り」の政策が拡大するに従って「融合氏」を増やして行くと云う戦略であるのです。この様に何度も力説していますが「物造り」と「氏融合」は連動しているのです。
      「物造り生産力 5倍(氏融合は5倍)」
    とすると、この「時代の生産力」又は「経済力」の発展具合が判る事に成ります。
    奈良末期から平安末期までには「氏数」が「20から40に、40から80に、80から200に」
    変化したのですから、それに見合う「物造りの生産力」更には「部曲の農産力」が最低限あった事に成ります。奈良末期から平安末期まで約550年間に5倍に伸びた事に成ります。
    鎌倉前記まで100年で「倍増の生産拡大」を起したことに成ります。
    (部曲に関する政策の検証は別にします。)
    「融合氏の政策」に伴なって「物造り生産力の政策」は力を入れた為に効を奏している事がこれで明確に判ります。故にこの「2つの策」は連動していると解いています。
    もしそうでなければ、「食の争奪戦」が起こる筈です。「政治権力の争奪戦」が在ったにせよ「食の争奪戦」の事件はこの間にはありません。
    起こったのは無政策による「氏数の拡大」によりこの連動関係が崩れた結果、「下克上、戦国時代」の室町期の混乱であります。つまり、「物造りの生産力」「部曲の農産力」の不釣合いから起こる争奪戦の「氏数の生き残り合戦」です。

    例えば、藤原秀郷流青木氏119氏は「秀郷第3子の千国」が母方藤原氏を理由に朝廷からの青木氏の許可を得たのも、又「皇族賜姓青木氏」の血縁を持つ「5家5流の青木氏血縁11氏/29」も、「嵯峨期の詔」に準ずる「皇族青木氏」等もこの許可の下にあったのです。
    元より北家一門藤原秀郷一門主要361氏もこの許可の下に発祥した「融合氏」です。中でも母方血縁による秀郷流青木氏の「氏の融合」の勢いは恐らく当時としては比較にならない「最大の融合力」であったのです。
    本流119氏、永嶋34、長沼52、長谷川88、進藤48の青木氏の主要血縁族222氏

    そもそも、元の阿多倍集団の帰化以来「部制度」(「物造り」の制度)の「部民制」(180部)は、「民族氏」の諸国の有力豪族が管理して「経済的潤い」を得ていて、その「経済的潤い」の下で民を「伴」(とも)としてこの「部民」(品部)を率いて「民族性の強い彼等豪族」が朝廷の「職務に奉仕する仕組み」であったのですが、これを朝廷に組み込んだものです。
    依って「民族氏」の彼等を「伴造」(とものみやつこ)と呼んだのです。これを更に「国造」(奈良期の国司:くにのみやつこ)が管理統括する仕組みとしたのです。
    これらの政策により「民族氏」は否定される結果となり、必然的に「融合氏」へと動き始めるのです。「八色の姓制度」等の政策で「民族氏の性格」に固持すると「家柄身分」を得られなくなり氏の存続は難しくなりますので動かざるを得ないのです。
    「氏融合」策を戦略的に推し進めて「民族的」な傾向から「融合的」な国体の形に進める以上は、それを絶対対条件として「経済的に裏付ける制度」にしなくてはなりません。それには「部の仕組み」を確固としたものに作り上げる必要が起こります。

    (参考 農民は”「部曲」:かきべ”と呼ばれた。 部制度の民を「品部」:”しなべ”と呼ばれた 「品部」の下に助手「雑戸」:ざこ 2段階制度に成っていた)
    (氏の宗家の長を「氏神」ならぬ「氏上」:”うじがみ”と呼称し、その支配下にある一族一統は「氏人」:”うじびと”と呼称していたのです。後にこの「氏人」は一族一統の下にある「品部」と「部曲」までを呼ばれる事になった。この「品部」は室町期後半には職能集団の首魁の部名を採って「氏」(180)を形成した。)

    実質は「八色の姓」の制度では、仕組み上「朝臣族」「宿禰族」の第4世族が天領地の国の「守護王」として置き、「国造」(くにのみやつこ:奈良期の国司)を指揮したのです。これが初期の「氏姓制度」から「部制度」と連動させて、更に「公地公民制度」と変化させて、これを管轄する氏の根幹を「八色の姓制度」で明確にして改革し「氏融合策」の推進過程としたのです。

     「氏融合の推進過程」
    「氏姓制度」−「部制度」(物造り策)−「公地公民制度」−「八色の姓制度」−「氏融合策」

    注目点として、「物造り策」と「氏融合策」と連動させたのです。
    見逃してはならない事は、これが「経済的裏づけ」を生み「氏融合」を飛躍的に発展させたその「推進力、原動力」の猛烈な元となったのです。
    これら「部」等を「国の管轄下」に置くことに依って「財政に対する全権」を握り、その上で「政治機構」を3分割にして「内蔵、大蔵、斎蔵」を明確にして「財政的根拠」と「権力の集約」をして「統括管理」を実行し易くし、終局、明確な「朝廷の財政的裏付」を図ります。

    更に、この制度を「安定化」させる為に「改新の詔」の「2と3と4」と「男女の法」を定めて実行したのです。これで「民と支配層」の「不平不満」を抑えます。これを「管轄管理」する為に「東国国司制度」を定めて朝廷より官吏を送り「監視体制」を整えます。

    「皇族賜姓青木氏」と「物造りの部制度」は同時に「Cの3」の解決策としての「氏融合」政策とします。この「氏融合政策」に伴い「庚午年籍」を定めて「戸籍制度」(ニの補足策)と「氏姓制度」(ハの補足策)を実行します。

    飛鳥期ではそれまでは「氏」と云う概念が無く「民族氏」的な個人の「集団生活」を主体とした社会でしたが、これ等の連動した政策実行により「氏」は40程度に定まり初期の「氏家制度」が本格的に開始されて行きます。ただこの時、「氏」を無制限に拡大する事を避けた帰来があるのです。
    それは「氏間の争い」を起こさない範囲限度、つまり、「監視出来る範囲」を考えていた事なのです。
    この「監視出来る範囲」を配慮した「融合政策」を効果的にする為に「実務で補佐する政治システム」の「御史太夫制度」を定めます。つまり適時適切の臨時の「専任官僚」を任命した事に成ります。つまり指定する「地域」や「期間」を限って適切に「人選人事」をして監視する体制を施行したのです。「氏数」を増加するに伴ってこの固定制度では「専任官僚」を増やす事にも成り、結果として「経済的負担の増大」を招き、「腐敗と権力乱用」を起こす事を嫌ったものと考えられます。
    よく考えています。
    実質、次第に「朝廷の力」に応じてこの「令外官」の「専任官僚」が管理しながら40−80−200と拡大をさせますが、鎌倉期にはこの「平安時代の統制」が取れて「鎌倉期以降の乱世」にて無秩序になり最大1200となります。
    結局、その結果、「融合氏」の「生存競争」が発生し「下克上、戦国時代」の様に「氏間の争い」が全国的に頻繁に起こってしまったのです。
    経時的に観ると「令外官」の効果があった事が証明されるのです。
    必然的に「潰しあいの争い」から過剰反応を起こし平安中期の80程度に急激に戻り収まります。
    結局、「物造り生産力」に見合った程度に納まるのが必然です。
    再び自然量の200程度に回復し、更に江戸初期には急激に拡大を始めたのです。この江戸初期では「氏」を形成していなかった「氏」の下で働く「下級家臣群」氏を立て事で1200程度以上にも成りますが、江戸幕府は史実からこの事(「物造りの生産力」「農政の生産力」)を把握していたと観られ、国内の藩を限定して大小「主要200氏」の下に組みました。これが「家紋200選」である訳です。後の氏は「主要200氏」の「枝葉氏と抹消氏」として呼ばれ拡大したのです。
    江戸時代の「適正氏」は、即ち「物造り生産力」と「農政の生産力」は平安末期と同じ程度に絞ったことが判り、「融合の氏数200程度」であった事に成ります。(石高にて表現した)
    平安期はこの「枝葉氏 抹消氏」は許可制の下「氏姓制度」政策と社会の「氏家制度」に縛られて発祥は無かったのです。つまり「実質の氏数と物造りの生産力」であるのです。

      「物造り政策の生産力と農政の生産力の不均衡」
    ただ、問題は「融合氏数」に比較してこれには見合う「部曲」の「農産力」が見合っていたかは多少疑問なのです。九州南北基地の阿多倍一族一門が国策に不順であったもう一つの原因は実はこの事にあるのです。「物造り政策の生産力」は「彼等の得意業」それに引き換え彼らに「追随した民」の「農政による生産力」が見合わない事に不満を抱いていたからなのです。
    と云うのは、農政による奈良期平安期の税制として「租、庸、調」「雑よう」「兵役」「衛士」「仕丁」「運脚」「出挙」「正税」等多くの政策が実行されましたが、内容を観察するとかなり厳しいもので「重税、重役」の様にも観られます。
    (各地で土豪や地方官吏を巻き込んだ大規模な不満爆発、叛乱が起こる。)
    ここに証拠があって北九州基地の大宰府官庁から官吏が痺れを切らして「公営田制」「直営田制」と云う提案が朝廷に出されているのです。九州北部基地の収入を上げる為に独自の農業政策を提案実行したのです。これに依って「物造り」の「品部や雑戸」の生活の安定を図ったのです。
    別途、機会を観て農政との関係に付いても論文を投稿したいと考えていますが、現に「日本書紀」には農民が不満を持ち騒いだ事や信濃の諏訪族の長が「開墾の功」で呼ばれて「信濃王」立会いの下で直接天皇に税軽減の具申をする異例の事件が起こる等の事が書かれています。他にもこの様な事が多くの資料記録等に遺されています。
    明らかに「物造り政策の生産力」と「農政による生産力」とには若干の違いがあったことが認められ「農政の生産力」には恒久的な問題があった事は間違いありません。
    この事に対して900年以降から徐々に発生し、1020年頃を境に「氏融合政策」が山場を越えた時期の特に1030年以降、朝廷の「部制度が弱体化」に呼応して各地の「融合氏」と成った豪族がその勢力に応じて独自に「品部、部曲」の「囲い込み」を行って「富」の分配が不均等になった「荘園制度」の結果で、これらの「富不均衡」が鎌倉期まで続いたのです。その証拠として、10世紀から13世紀前半まで、この禁令や整理令が13令も出ているが守られず、逆に基準や規制が緩かった為に拡大させて終った失政の制度と成ったのです。戸籍を偽る「偽籍」と云う行動が頻発し制度は限界を超え腐敗へと進んで行くのです。
    この事が原因して「物造りの改革」に比較して「農業の改革」が進まず、13世紀後半から16世紀にその影響が出てしまったのです。
    「物造り生産力」>「農業の生産力」この数式が融合氏の生存競争を加速させてしまったのです。

    ここでは「物造り生産力」に重点を置きながらも、「物造り政策の生産力」+「農政による生産力」と観て検証しますが、この様に歴史的経緯から観て「安定化、沈静化」が起こった歴史的な実績でも判るのですが、この様なアンバランスが論理的に起こる事を充分に予測していた事を意味します。
    天智天皇を始めとして大化期の為政者は、これでも心配であったと考えられ、これらの「補足策」を含む「政策実行」を守らせるための「規則」を定め「令」と云うよりは先ずは「氏の行動規範」とする「近江令」を制定します。
    更にこの行動規範の「近江令」を補完する為に「青木氏の始祖施基皇子」が「善事選集」司を担当し、それを元に最終の編成令として「飛鳥浄御原令」を施工する事になります。
    この様に念に念を入れた「氏融合策」を実行した事に成ります。

    参考 皇族賜姓青木氏は「古代和紙の物造り」
    皇族賜姓青木氏5家5流の国は、何れも穀倉地帯でありますが、「5大古代和紙の主要名産地」でもありこれを商いとして扱っていた。
    (何れもほぼ1300年程度の歴史を持っている。重要文化財に指定されている。)
    5家5流の青木氏は「2足の草鞋策」として「古代和紙」(下記)でも経済的に繋がっていた事が証明出来るのです。
    これは取りも直さず、5家5流の青木氏の土地全てにこの古代和紙の「物造り」が共通してある事は偶然ではないと観られます。国の安寧は「物造り」にある事を物語るもので、5代の天皇はそれぞれの賜姓する第6位皇子に対して、”「物造り」の国策を指示し「氏融合」の役目を目指して「自立」する事を促した”と観るのが妥当ではないかと考えます。

    伊勢青木氏は「伊賀古代和紙」
    伊勢国北部伊賀地方で生産される最も古い和紙で阿多倍一族に依ってその技法がもたらされた。
    青木氏は大化期の政策によりその立場から最初にこれを扱う。
    各地伝導は710年前頃から810年前頃の100年間と観られる
    恐らく、生産の各種の歴史資料(検証年代)から観て、賜姓青木氏の関係から「氏融合策」と連動して「物造り策」として他4国に伝えられたと考えられる。

    信濃青木氏は「信濃古代和紙」
    信濃川流域で生産された「古代和紙」で伊勢青木氏との関係からの技法で生産されていた「伊賀和紙」に継ぐ古い歴史を持っている。

    近江青木氏は「近江古代和紙」
    現在の滋賀県大津市桐生で生産されていた古代和紙で「 雁皮紙・鳥の子紙」と呼ばれていた。
    「土師焼き(信楽焼き)」 でも後漢の技能集団の「土師部」(しがらきべ)の民が持ち込んだものが広まり近江商人青木氏が扱った「物造り」。

    美濃は「美濃古代和紙」、
    現在の岐阜県美濃市蕨生地域で生産された古代和紙である。

    甲斐青木氏は「甲斐古代和紙」
    富士川下流、河内領(現在 の西八代郡と南巨摩郡一帯)で生産されいた古代和紙。市川和紙、西島和紙の名称で和紙生産

    以上の様に「農政の補足策」として古代より職能集団が伝えた「物造り」を「2足の草鞋策」の商いとして「地産の物」を扱い推進していた事が青木氏の記録で判ります。 
    他に「墨、硯石」等「紙」にまつわる「物造り」(生産販売)にも大きく関わっていた事が口伝や先祖の遺品、骨董品でも判ります。
    中には「火薬造り」もあり、玉城町の8割を占める面積の一部の屋敷蔵に保管されいてこれが明治35年に爆発したとする記録が有り、又、紀州墨や紀州硯石などの関連品も扱っていた模様です。長い間中国との貿易をしていた形跡があり、松阪とは別に堺港には2つの大店を構え、3隻の大船を持っていたと記録があり、大きく「物造り」を推進させそれを裁く商いも両立させていた事になります。

    この様に明らかに青木氏が「和紙」と云う伝統とする「物造り」で結び付いていた事は、これは取りも直さず、上記する朝廷の「融合に関する政策」が効果を発揮した事に成ります。そもそも朝廷の政策的な裏づけがあったとして発祥してもそれは充分ではなく「自立」する気構えがその氏に無くしては存続は現実は不可能です。
    「3つの発祥源」のその「先駆者としての青木氏」が「経済的な困難」を乗り越え「自立力」で生きて行き崩れる事の無い姿勢を国民に示し促した事で、更に勢いが着き「融合政策」は推進していったのです。
    全青木氏初代始祖施基皇子伝来の天智天皇授受の司馬氏「鞍造部止利」作「生仏像様」と共にこの紙でも強く結び付いていた事を示す大きな史実資料なのです。
    この様に「物造り」と「氏融合」は連動している史実があるのですが、「青木氏の家訓10訓」の中でも「家訓8」は正にこの経験事が代々に強く在った事を示していて家訓の形に遺したと考えられます。世襲名「紙屋長兵衛」(青木長兵衛 代々南画水墨画を本職に近い形で会得しそれらの遺品が残されている。歴代の有名無名の画家の墨絵が保存されている)を示すものです。

    筆者は、「物造り」は1120年代に「2足の草鞋」策としてが成されてたのですが、発祥時期頃から守護王として「自立」を認識していて積極的な支援を「物造り」の「紙部」にしていたと考えているのです。「紙」を元とする故に5家5流の賜姓守護王の「長」の資質として、「家訓8」の「長」としての認識に「物造りの戒め」を強く置いたのだと考えています。

    続く
    次ぎは「国難2」に付いてです。


      [No.267] Re: 伊勢青木家 家訓8
         投稿者:福管理人   投稿日:2010/09/01(Wed) 15:57:52  

    伊勢青木氏の家訓10訓

    以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

    家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
    家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
    家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
    家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
    家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
    家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
    家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
    家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
    家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
    家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

    家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)

    家訓1は「夫婦の戒め」
    家訓2は「親子の戒め」
    家訓3は「行動の戒め」
    家訓4は「性(さが)の戒め」
    家訓5は「対人の戒め」
    家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
    家訓7は「品格の戒め」である。

    この家訓8の先祖の説いているところは”人生 「生きるべき力」は「創造」にある”と説いている。
    家訓7までの内容の戒めと少し違う。
    家訓7までの戒めは「人」又はその「長」としてのより高い人間的な習得、悟るべき戒め」を説いている。
    しかし、この家訓8は「人」又はその「長」としての「示さなくては成らない戒め」を解いている。

    どう云う事か。当然に自らも絶対条件として保持しなくてはならない条件でもあり、且つ、「長」として人を引き付ける「強いもの」を持ち得ていなくては成らないとしている。
    その「強いもの」とは「創造力」であって、その「創造」は具体的には”「技の術 技の能」とを分けて会得せよ”とあり、闇雲に「創造」を追い求めても会得できないし、「長」として人を引き付ける事は出来ないと解いているのである。
    此処は”敢えて”解いている”と添書には記述されている。
    つまり、”説く”のではなく”解く”であり、即ち”強く分けて考えよ”という事を伝えたいのであろう。

    「強く分けて考える事」に付いて”それは何故必要なのか”疑問(1)が湧く。
    そして、その「創造」の基となる「技」に付いても”「技の術」と「技の能」とはどう違うのか”の疑問(2)も当然に湧く。疑問の多く湧く家訓8である。
    何も「創造」だから「技」に拘らなくても良いであろうが、特にその主な例を以って判りやすく解いているのであろう事が判る。
    そこで、「技」としているのは、この「2つの疑問」(1)(2)を「解く事」と「悟る事」の行動が大事で、書籍による習得ではなく、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)としているのであろう。
    ”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)と伝えている。
    更に、即ち、”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)と添書は強調しているのである。
     
    さて、「2つの疑問」(1)(2)と「3つの添書」(A)(B)(C)に付いてこれから単独ではなく誤解をより少なくするために複合的に都度論じる事とする。

    最初の”それは何故必要なのか”の疑問(1)の解明の前に、”「技の術」と「技の能」”とはどう違うのか”の疑問(2)を先に論じて解明する方が解けると考える。
    そうする事で最初の疑問(1)は間違いなく理解できるし論理的な答えとして導かれるだろう。

    そもそも、”自らの努力と思考により得よ”(A)と論理的に会得する事を求めているのであるから、この解明の過程が正しいと思える。

    既にこの世に「技術」と「技能」と云う言葉がある。
    この「二つの言葉」があると云う事は、この二つの言葉の「意味」や「目的」が違う事を意味している。
    しかし、世間では言葉の範囲では厳密には使い分けをしているとは思えなく、ここは「技術」だなと思うところを「技能」と発言して使っていることが多い。当然に逆の事もある。
    つまり、この現象は世間の人、全ての人は「長」としての立場で使い分けをしている事は無いだろう事を示している。
    だから、裏を迎えせば、”導く立場の「長」としてはこれでは駄目なのだ”と云っている事になる。
    当然、この「技」は添書では主例であるのだから、万事、特に「創造」とする事に関して”斯くあるべきだ”といっている事に成る。

    そこで、結論から先に云うと次ぎの様に成るだろう。
    ”「技術」は「知識」を主体視してそれに「経験」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
    ”「技能」は「経験」を主体視してそれに「知識」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
    つまり、「知識」と「経験」の主体が違うと云う事に成る。

    当然にその比率は千差万別と成るだろう。場合に依っては殆ど差が無く変わらないものもあり得るだろうし、逆の場合もあり得るだろう。
    例えば、科学の場合には「知識」に依って論理的に編み出された「技」もあり、この場合は「知識」から観れば「経験」の度合いが小さいと云う傾向もある。
    芸術や工芸の様な観念的なことが働く場合には「経験」から観れば「知識」の度合いが小さいと言う事もあり得る。知識で創作された芸術は”論理性が高く面白くない”と誰しも評価するだろう。
    ただ下記に論ずる”「経験」から「知識」へと進む「進化の過程」”を考えると、片方がゼロと云う事は論理的にないし、この比率の差は大した意味を持たない。

    この様に分けて考えると、この世の「進化の過程」もあり「知識」と「経験」の定義としては類似する事に成る。だから一般的には面倒だから世間の通常は分けて使い分けしないのであろう。
    しかし、だからこの家訓8は”「長」としてはそれでは駄目だ”としているのである。
    判りやすく云うと”雑では駄目だ”と云う事だろう。

    そこで、これを判りやすくする為に論理的に解析すると、最近の脳科学的に観た場合、次ぎの様に成るのではないか。
    「知識」とは学問など書籍に依って「判読力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
    「経験」は実労等に依り「体験力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
    と考えられる。

    「術」=「知識」=「判読力」
    「能」=「経験」=「体験力」

    当然に、この「集積結果」は左脳の集積場所は異なる筈である。つまり、カテゴリーが異なるのであるから、コンピータ的に観れば収納場所は「トラック」や「セクター」や「カテゴリー」の位置は異なる事になる。
    脳も同じ仕組みで成り立っているのだから、つまり、これ即ち、「術」と「能」は「違う」と云うことを意味している。
    しかし、厳密に云えば、「知識の学問書籍」も基を正せば始めからあったものではなく「人の進化」の過程の「体験」に依って得られもので、それを類似分析して「学問化」し「体系化」したものが「知識」と成る。
    これは大事な思考基準である。
    つまり、「能」の「体験力」から「術」の「判読力」へと進化したものと成る。

    「進化の過程」=「経験」−「学問化」・「体系化」−「知識」
    「体験力」−「進化」−「判読力」

    この左から右に向かってルートを通って進む。
    従って、現在に於いても未だ体系化されずに、「能」の「体験力」の段階のものもあるだろう。
    「体験力」と「判読力」とには「進化」が介在する事に成る。

    逆に、最近の科学域では高度な「知識」の「術」から更に進化して高度な「経験」の「新能」が生まれると言う事も起こっている。コンピーター関連やソーラー関連や最先端医療のIPS医療等はその典型であろう。むしろ、これからの形体はこのパターンで論じられる事が主体と成ろう。
    しかし、あまり前に進めずとりあえず先ずは、上記の「原型のパターン」を論じて理解しておく必要がある。

    「知識」の「術」−「経験」の「新能」=未来の進化。

    ”「術」と「能」”には同じ事象の中の事でも「能」と「術」とには「経時的変化」を伴なう。
    つまり、「能」から「術」へと進むと云う事に成るので、「術」は進化した事になる。故に進化したのであるから、そこでその初期の「能」の段階に留まってはならない事を意味するのである。
    つまり、”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない”と諭している事に先ず成る。

    平たく云えば、”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ。”と云える。

    さて、これは難しい。何故ならば今は科学は進みその「術」は何処かで進化して確立し書籍などに表されているが、古ではその様な環境に余りなかった。
    とすると、自らが「能」の段階のものを「術」の段階まで進めなくては成らない努力が伴なう。
    恐らくは、”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”と求めている事に成る。
    だから、故に家訓8は作り出す事を求め所謂「創造」としているのである。

    そこで「技能」には「経験」に依ってその「技」を極めた「匠」がある。
    更に推し進めて「能」の「匠」を考えるとすると、”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”とし、むしろ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”としているのではないか。
    何故ならば、「経験」の「技能」を極めた「匠」は、兎角、その事に「拘り」や「偏り」を持つ傾向が起こる。止むを得ない人間の仕儀でもあるがそうでなくては「匠」には成り得ないであろう。
    むしろ、「拘り」の極めが「匠」であろう。

    数式で表すとすると次ぎの様になる。
    「経験の最大」=「拘りの極め」=「匠」

    そうすると、ここで矛盾が生じる。
    ”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”とすると、経験には「拘り」と「偏り」が生まれるのであるから、「知識」の「術」は成し得ない事に成る。
    何故ならば、「知識」とは「能」の「拘り」と「偏り」の個人性を排除したものが「術」であろうから、そこで初めて他者が一般的に利用し知識として「学問」と成り得るのであって、「匠」の「能」はそのままでは論理的には「知識」の「術」へは不可能である事に成る。
    「匠」の能は個人的なものに支配される。個人的なものに支配されるからこそ又、「匠」の値打ちが
    出るものであろう。

    「経験」−「拘り」=「知識」

    「拘り」「偏り」の排除=「体系化」作業
    という事に成る。

    ただ、それを解決する方法がある。(A)
    それは、この家訓8では”「経験」の「能」を「匠」として極め、先ず会得せよ”とは書いていない。とすれば、何故ならば、それは”他の者をしてそれを極めさせれば良い”事に成る。
    これだけでは「会得」と云う事から観て意味が無いだろう。
    「長」の「習得、会得の率と理解度」が必然的に低下する事になるからだ。これでは「長」の求められるものでは無い事に成る。
    しかし、その前提があろう。物事には「完全の習得」は有り得ない。
    そうすると「匠」まで極めずとも良い事に成り、それを理解するに足り得る「経験」を会得する事でも、「知識」の「術」の「体系化」は充分に成し得る事が出来る。それが前提である。
    つまり、他の者をして「匠」としてそれから「聞き出す事」の手段にて成し得る。
    それが”「長」はこの「聞き出す努力」をせよ。そして「能」を自ら「体系化」せよ。”としていると理解する。

    「聞き出す事」=「体系化」作業の始まり行動
    という事に成る。

    上式と連立すると、次のように成る。

    「聞き出す事」=「拘り」「偏り」の排除=「個人性の排除」=「体系化」の作業

    そして、行き着く処は「知識」となる。

    それには先ずは、”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「拘り」を排除して「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”と云っている事に成る。

    つまり、”その「経験」から「知識」への「過程を創造する」”と定義している事になる。
    これは何も「能」、「術」だけの問題ではないだろう。
    「創造する」とは「考え、そして新しき何物かを生み出す」と定義すると次ぎの様に成る。

    ”「経験」から得たものを「体系化」して「新しき何物」かを生み出せ”
    と成るので、この上記の解釈は正しい事になるだろう。

    {「経験」−「体系化」−「知識」}=「過程を創造する」

    「過程を創造する」の「行動の努力」は、再び、「経験」−「体系化」−「知識」のサイクルのプロセスを生み出す事は容易に理解出来る。より進化して。

    この「進化」とはこれを定義とし「体系化」を「媒体」としている事に成る。
    このサイクルが限りなく続く事を論理的に説明出来る。
    但し、媒体と成る「体系化」を無くしてはこのサイクルは起こらない事も。

    そうなると、そこで「創造」とは果たして俗に云う”夢を持て”と云う事に成るのか。(B)
    どうも違うのではないか。そもそも俗に云う「夢」とは「就寝中の夢」の如く暗中模索、否具体性のものであろう。その「夢」をかなえる為に「暗中模索」では「夢」は叶えられるものではない。
    それほど世の中は甘くは無い。人は兎角「夢」とは「暗中模索」のものを云っている傾向がある。
    世間では”夢を持て”と若い者に吹聴しているが、あれには少し違いがあろう。
    「暗中模索の夢」は無防備にそれに進むために「夢を叶えられる力」の醸成もせずに「無駄な挫折」をし「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を生み、若い者に良い結果を生まないのが現状であろう。果たして「幾多の挫折」に充分に耐えられる者がどれだけいるだろうか。
    これは、上記した「匠」に相当する”「拘り」「偏り」”と成るだろう。
    「夢」を叶えられ者は「匠」と成り得る確率と同じであろう。誰しもが「匠」、「夢」を成し得る事は出来ない。一握りである。さすれば、「夢」に向かって挫折した時、その挫折が向後の人生に良い方向に働けば何の問題もないが、多くは「暗中模索、否具体性」で走る。依って、思考に「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を持つだろう。これは多くの者に起こる。
    この「夢」は取りも直さず「経験」の域にある。
    {「経験」−「体系化」−「知識」}=「過程を創造する」のつまり以上のプロセスの「体系化」が成されていない。依って「長」とも行かずとも「夢の実現」は「過程を創造する」の域に達していないだろう。途中である。
    従って「創造」とは「夢」であるとは成らない。

    大事な事は「暗中模索の夢」を叶える為にその過程のそれに向かった「努力の積み重ね」が必要であり、「ただの努力」では成し得ない筈である。
    何故ならば、この世は「人の社会」である。その「人の社会」が皆が同じ程度の努力で「夢」が叶えられるのであればそれは楽なもので「夢」では無い。叶え難いからこそ「夢」と表現しているのだ。
    「人の社会」であるからこそ「夢」を成そうとすると「人を押しのける」事の行為は必然的に生まれる事に成る。
    「人を押しのける」という事は「人以上に力」を持たなければ成し得ないし、かなりの「忍耐」「苦悩」が伴なう。
    その「人の社会」が日本の様な高度な社会であればこそ、更に「それ以上の力」を保持しなくては成らない。
    当然に、その「夢の分野」が高度で汎用な分野であればこそ、尚更の事「人を押しのける」「人以上の力を持つ」の条件は更に厳しさを持つ事に成る。
    そう成ると、この「人を押しのける」の力は{「経験」−「体系化」−「知識」}の「体系化」の努力に等しい事に成る。

    数式では次ぎの様になるだろう。
    「人を押しのける力」=「体系化」の努力=「知識」

    中には、”その挫折が大事だ”と如何にも正論の如く簡単に云う人が多い。
    確かに「挫折」は人の成長に欠かす事が出来ない。
    然し、どんな「挫折」でも良いと云う事では無い筈である。

    ”不必要な挫折などしない方が良い。”と考えている。この家訓から学んだ事として。
    4つの「み」を強く興す「挫折」は避けるべきである。
    強い「ねたみ」「そねみ」「うらみ」「つらみ」が起こる「挫折」は「人を歪ませる」と仏教では説いている通り、
    この仏説には「人間形成に於いて不必要」と観て賛成できる。
    確かに「挫折」するよりは「体系化」する事の方人間形成に効果的であろう。
    つまり、「不必要な挫折」をするよりはこの事は言い換えれば次のように成る。

    ”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”

    ”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”

    そこで、”「人以上の力」「人を押しのける」に耐え「正常な精神と思考」を持ち得ている人物がどれほど居るだろうか。「不必要な挫折」は必ず「精神と思考」を歪ませる。
    それを正常に成し得る者が果たしてどれだけいるだろうか。”先ず居ない”と云える。
    仮に「人以上の力」を確保出来たとして、無情にして非情にも「人を押しのける」と云う行為に絶え得るだろうか。「人を押しのける」が一度であれば未だしも常態の日々に続くのである。
    故に、無責任極まりないこの言葉を私は、”「夢]を持て”とは決して云わない。
    それを云える人物が果たして、この2つの条件(人以上の力 人を押しのける)を以って発言しているのだろうか。おこがましい限りである。

    云うとすれば、くどいがこの家訓8の真意を得て次ぎの様に云っている。

    ”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”

    ”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”

    ”不必要な挫折はするな。その暇があるのなら「自らの努力」で「知識」を得よ。 自らの努力で”

    では、どうすれば良いのかと云う事に成る。そのキーワードが必要だ。

    それが、この家訓8の事で云えば次に示す処であろう。
    「夢」に向かって進む限りに於いて大なり小なり「経験」が伴なう。「能」を確保する事になろう。

    ”それを進化させて「術」として「知識」と成せ”と云う事に成る。
    ”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”と云う事に成る。

    では、更に考えて、”その「進化させる」はどの様にすれば良いのか。”の疑問が起こる。
    それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”と云う事に成る。
    判りやすく云えば、”「経験」(能)をまとめよ。” それが”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と解ける。
    つまり、”「長い多様な経験」により「多様な知識」が「人としての力量」或いは「人としての格」を成し得るのである”と解ける。
    ”それで良いのだ””何も「夢」を叶え持つ事だけが目的では無い。”
    だから、「無駄な挫折」をして思考に歪みを持つ事よりも、”足元の「経験」(能)をまとめよ”その努力が”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と成るのである。(B)

    ”この家訓8の「長」はこのことを忘れて怠っては成らない”としている。
    ”それを会得した者が「人を導ける力」を持ち得るのである。”としている。

    つまり、”「人としての力量」或いは「人としての格」は「長」としての人を導く「人格」が得られる”と云う事に成る。
    この「人格」が「品格」に、そして、それの積み重ねの結果、雰囲気に滲み出て「風格」と成るのではないだろうか。

    「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」

    そして、”この「風格」が生まれた時「長」と成り得る。”と理解できる。
    家訓10訓、とりわけ家訓8の「風格」を得た時、その「長」の下には「家風」が生まれるだろう。
    この「家風」が「伝統」と成り得るのである。
    「家風」=「伝統」

    ”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は自らその「家風」「伝統」を理解して、「長」が充分に指揮せずしても「的確な行動」を起す”と解いているのである。

    昔から、”今成金”という言葉がある。
    下記に例として記述する「信長、秀吉」の例は家訓8による「大意」この事に欠けていた事により滅びたと解析できる。

    当然に、「多様な経験」を体系化した「多様な知識」は事に当って人を納得させ、諸々の事象に当って適切な指揮する能力を保持する事に成る。
    その結果、尽くに「正しい指揮」が積み重なり、その「指揮する品質レベル」に信頼度を増し、人は従い、その結果として”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される”と定義されるだろう。つまり、”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”と云う事になる。
    これは”自らが作り出せるものではない”と云える。

    判りやすく数式で表現すると下記の様になるのではないか。(A、B、C)
    「品格」=「配下の信頼度」*N=「正しい指揮」*N=「指揮する品質レベル」*N
    「品格」=「人格」*N
    「品格」*N=「風格」
    (「人格」*N)*N=「風格」
    (N=経験量+知識量)

    しかし、然りながら、ここで「多く無駄な挫折」をした者が、この家訓8を成し得た時に、”何故悪いのか”の反論があろう。悪いのである。
    「多く無駄な挫折」「人を押しのける」事の結果で「思考精神」に歪みの持たない者は先ず居ないだろう。つまり、その者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に、或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
    ”一時的には「長」に成り得ても必ず破綻する。”と云う事になるからだ。

    例えば、「信長、秀吉、家康」の例えが適切に物語る。
    信長はこの過激的で独善的な典型的人物であろう。その人生過程に於いて余りの典型であったからこそ、歴史は事半ばで終る。
    秀吉は下積みから這い出ての「技能量」或いは「経験量」は豊かであったが、体系化した多様な知識を持ち得ていなかった。「千利休に対する対応」や「金の茶室」がそれを物語る。
    故に標準的な典型的人物であろう。歴史は一代で成し得たが一代で終わると成り、人生の目的、万物の目的とする後世に子孫を遺し得なかった。
    家康であるが、この家訓8に適合する人物である。
    三河の地侍に生まれ、今川氏の人質、織田氏から屈辱的な待遇、武田氏との敗戦、秀吉との駆け引き、摂津商人との付き合い、関が原の戦いに負けて勝った結果等を検証すると「多くの挫折」と「人を押しのける」等の「経験」は申し分なく豊かでありながらも、そこから学習して「知識」を獲得し「長」としての家訓8で云う資質を「捻くれる」事無く会得している事が検証できる。
    「捻くれる」はこの家訓8で云うそれは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”の努力の結果がそれを抑えたと考えられる。

    徳川氏の歴史資料からも、”「多く無駄な挫折」を避け「人を押しのける」事の結果を極力少なくし、「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」を学習し成した。その為に出来る限り「思考精神」に歪みの持たない様に心がけた。
    「家訓8」で言う「長」としての数式条件は次ぎの様に成るだろう。

    即ち、「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」 を備えた。”と理解し検証できる。

    故に、250年以上の存続の条件が醸成されたのである。
    それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”は何も言葉そのものではなく、「捻くれる」事をも抑える事が出来るのであろう事が読み取れる。
    誰しもが普通は陥る経験からの「捻くれ思考」はどうすれば良いのかの疑問は次の事として云える。

    「捻くれ思考」は予断なく「長」として最も排除しなければならない事は明白であろう。
    "「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"と成る。

    恐らく、当然の事として添書に書かれていないが別の真意はここにもあるのだろう。
    つまり、通常はその者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。

    ”信長、秀吉はむしろ常人であって人としての陥るところに落ち至った。しかし、家康の人物は稀有であるが斯くあるべきだ”と云っている事になる。

    ”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない”ことを諭している事に成る。

    青木氏の家訓10訓は室町以前の試練から生まれたものであるが、それ以後も子孫に合意されていたからこそ現在までに遺されているのであって、それ以前にこの「3人の生き様」を言い当てていた事になる。

    この家訓8が遺された時期は一族一門がこの世に生き残れる確率は極めて低く、危険率は現在の数十倍のものであったことである。それは毎日の茶飯事思考であった筈である。
    しかし、青木氏は1367年も続けて直系子孫を遺し得たのは代々先祖がこの家訓類の戒めを護り続けて来た事に他ならない。少なくとも明治35年までは「長」として。
    そして「家訓」として「伝統の集約」として維持されている。
    現在では科学の著しい進化で社会がより敏感に成りハイトーンと化しているが、この別の意味で厳しさはむしろより遺されているだろう。さらに子孫の時代にはこの状況はもっと続くであろう。
    「経験」から「知識」に進化して来た時代から、あまり「経験」の「技能」の伴なわない「知識」から更に「新しい技術」が生まれる時代に、人間形成に於いて代らないだろうが、この「新しい厳しさ」に立ち向かうにはこの家訓8は古い様で居て現在、否未来にも何らかの形に変えて生きている筈だろう。

    故に、筆者はこの家訓8の考え方を重視していて、自分の思考判断基準の重要な一つにしている。
    とりわけ「人を観る」とする時、或いは「長」とされる「人物評価をする時」に反射的にこの家訓で観ているが、外れた事はない。誰しもが何らかの判断基準を持ち得ているものであろうが。
    多くの歴史偉人伝を読み漁ったがこの家訓8は有効に利用されより面白く雑学を得た。
    この世は当然に「人の絡み」の世であるが故に必然的に「人を押しのける」は起こる。
    別の効果としてもこの世の必然的な行為の"「人を押しのける」"前にこの家訓8の「人を観る」事の「思考経験」とその「体系化」による「知識」で不必要な摩擦を避けて来た。

    古い様であるが、突き詰めると現在の言葉が無いので古来の言葉にすれば、「人生の生き様」の体系化は「六稲三略」に通ずる様だ。「戦略戦術」は正しくこの「体系化」であろう気がする。

    添書にはないが、"人との不必要な摩擦が避けられる"も極意なのであろう事を思い知り、頭書に記述した、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)に感嘆した。
    これも「経験」からの「体系化」−「知識化」を成し得た事に成るからだ。

    もう一つ会得した事がある。
    それは、「体系化」−「知識化」を成さず豊富な経験だけで終わる場合、その人物には「個性的性格」、「個性的思考」が残る事が確実に起こる事である。
    恐らくは、信長や秀吉は多少なりとも「体系化」−「知識化」があったにせよ多くはこの「経験」のみによるところで留まっていて、そのレベルにより独特な「個性化」が起こったと観られる。
    ただ、信長はこの事をある程度知り得ていて外国の新しき文化知識で補おうとしたと観られるし、その側近には同じ行動をする秀吉を登用したことで頷ける。
    明智光秀は主に「経験」から「体系化」−「知識化」を成した人物ではなく「書物」から「知識化」成した事により信長との余りの差が起こり、信長は自らを補おうとした余り「接点の無い間違いの登用」をしてしまった事になるだろう。
    「経験」を「体系化」成せる者で充分であった筈で、この判断ミスをした事に成る。
    ただ、此処で云える事は、光秀タイプが悪いのではない。”学者馬鹿”という言葉があるが、これは「偏り」に依って起こる”「適合性の低い思考」が起こる”からで、その思考化の視野が狭くなる事から起こる現象である。しかし、これを超えるとむしろ大変な「経験」を生み出すのである。

    例えば、三国志の劉備と軍師の諸葛孔明である。
    諸葛孔明は最たる「知識」と「知恵」の持ち主である。諸葛孔明の策に対して、”敵は過去の彼の「策の経験」から恐れて逃げる”と云う所まで達していた。これは明らかに「知識」から「経験」を生み出し、その「策の知識」から敵は「体系化」して自ら「経験」を作り出した効果に他ならない。「逆のプロセス」である。
    明智光秀はこの域に達していなかった事に成るだろう。世に云う「今だ我木鶏にあらず」であろう。
    「知識」からの「逆体系化」で「経験」は「木鶏」に達し得る可能性がある事を意味する。
    歴史偉人伝にはこの「逆体系化」は少ない為にかなり難しい事が云える。
    しかし、家訓8の添書には一句も触れていないがあり得る事である。

    秀吉は「金の茶室」で全てを物語るもので「体系化」−「知識化」は自ら嫌っていた事が覗える。だから、補う為に石田三成を重く登用したと観られる。しかし、この石田三成も明智光秀型であった。
    ただ、秀吉はこの体系化の見本と見なされる人物を採用している処は優れている。
    その人物は一介の下級浪人の薬売りで溢れる知恵の持ち主であった。そして、その知恵を屈指して各地の土豪の争いに雇われて「戦い」を「経験」し、そこから自らその「戦い方の体系化」を成し、知識として保持し続けた。その結果、「天下一の軍師」として賞賛され認められた秀吉の「軍師 黒田勘兵衛」と成り得たし、明治期まで続いた黒田藩主の「長」にも成った。

    だから家康は石田三成や明智光秀を「知識側の偏り」に対する者として(「経験」−「体系化」−「知識」の者でないとして)ある面で軽視していた事が伺えるが、黒田勘兵衛は認めていた。
    当然、家康は本人が「長」としての「経験」−「体系化」−「知識」を偏り無く成し、性格的にも合致していた事から全て側近はこの型の者を配置したし、「経験」型のものは実践部門に配置した事が読み取れる。

    信長は「経験」型の偏りから、「実戦型」と成ろう。
    秀吉は「経験」型の標準から、「実戦型」+「術策型」と成ろう。
    家康は結果視として「経験」−「体系化」−「知識」から「権謀術策型」と成ろう。

    この家訓8は言い換えれば別の意味で、"「長」としては「個性型」を避けよ"と云っている事になる。("「経験」−「体系化」−「知識」"とはっきりと明言している。)
    避けなくてはならない理由は、当然、家訓からすると後の人物であるが、"信長−秀吉であるな"と云っているのであるが、この事について他の家訓3で明確でも云えている。
    つまり、「個性的」である事は結果として「人」「時」「場所」の三相に左右されるからだ。
    その「経験」を「体系化」せずにすると「偏りの個性化」が起こる。その個性は「ある人A」に対してよい効果を生み出すが「ある人B」に対しては逆効果と成ることが起こるからだ。信長−秀吉の例に成る。「時」「場所」も"推して知るべし"である。
    "未来永劫に子孫の繁栄を願う場合には、これをリードするに「長」としては好ましくない"
    これは個人の単位での事として良いのであればそれも良いであろう。しかし、この訓では個人ではない。あくまでも「長」なのである。
    然しながら、筆者は大なり小なり"「長」に限らず斯くあるべきだ"と考えている。
    現在の様な「個人」を基盤として尊重し、その連携の先に集団結束を目途とする「個人主義」の時代にあれば「個性的」を賛美され「良し」としているが、日本人にはこの思考原理は「違う」と考えている。
    これが仏教で言う"「刹那主義」に偏りすぎる。"と云う点である。
    家訓8の「裏意」として、「経験」−「体系化」−「知識」の線上に於いて、この「刹那主義」を排除せよ"としている事が云える。
    その根拠は"人は男女一対で成り立っている。"と云う事である。
    その「男女一対」は更に「家族」を構成する。そしてその「家族」は「親族」を構成する。「親族」は「一族一門」を構成する。この原理はすべて「男女一対」の「理」が成立しその中にある。
    決して、「単数」「個人」の「理」ではこの構成は論理的に成り立たない。
    「単数」「個」だけでは子孫は生まれず決して拡大しない。「人」のみに限らずこの世の「万物」は「相対の原理」と「一対の原理」に依って成立する。
    この家訓ができた時期には、この「個」の上に無く長い歴史の中で日本の歴史と文化と思想は上記の根拠(「男女一対」−「家族」−「親族」−「一族一門」=伝統)が醸成されて来た。そしてそれが国民の遺伝子的な思考基準と成っている。所謂、現代用語で「チーム」、古代用語で「族」で事を成そうとする癖がある。つまり、「複数の原理」の社会である。
    ところが、この「複数」の社会の中に、突然に「単数」「個人」「個性的」を最高視し標榜する国の思想が流入した。この標榜する国の考えが悪いと云うのではない。それは「その国なりの形」でありそれでなくては国は成り立たないのであろう。ただ、日本という「国に於いては構成上の条件」としては決して好ましくないと云う事なのである。
    「個人主義」仏教で言えば「刹那主義」と見なされる易い思考が蔓延したのである。
    上記した「遺伝子的な思考基準」が醸成している2000年以上の社会の中に、200年にも満たない「然程の伝統」「然程の祖先」も持たない国の思考基準が混在して来たのである。

    {「遺伝子的思考基準」=「複数の原理」}><{「個人」「個性的」「個人主義」=「単数の原理」}

    現在ではその間約100年で「複数の原理」<「単数の原理」の状況の中で矛盾が生まれ社会問題化していると考えられる。
    しかし、反面、「然程の伝統」「然程の祖先」でも200年も経過すると先祖が形成される様になり初めて日本の様な「初期的な伝統」が重んじられる社会風土が出来つつあると云われている。
    その一つの現われとして、「ルーツ探し」が大ブームと成っていると云われていて、日本の様な「チームの重視」「族の重視」に思考が傾きつつあると云われている。
    端的には云うと今までの彼等の観光目的とは異なり、日本の彼等の観光目的はこの稀有な「伝統の確認」に変わりつつあるとされている。彼等はこの経済大国と近代的な世界有数の国、トップのノーベル賞や最先端の科学技術立国の社会の中に「何故、伝統の美が融合するのか疑問」があり、その「融合力」に驚いているという事らしい。未開発国のそれとは別に観ていると言う事だ。

    そもそも元より世界稀有の国として、日本民族は7つの民族の「融合」であり、その「融合」を「遺伝子的性癖」とも云われている事から、何時かこの「刹那主義」に近い「個人主義」から何物かを融合して日本独自の「複数の原理」+「単数の原理」=「中間子の原理」を生み出すであろう。
    米国がそうである様に今丁度その最中であろう。

    参考に日本の融合過程は、古墳時代の融合は別として、先ず飛鳥時代と奈良時代初期に第1陣の大量移民が起こり、大化期初期に第2陣、奈良末期に第3陣、平安初期に第4陣の民族の大移動が西と北で起こった。然し、平安初期の桓武天皇の時代の律令国家完成期の800年頃には「帰化人」「渡来人」の言葉は書籍から消えている。「遠の朝廷」「錦の御旗」の称号を与えられた「大蔵種材」の時代にはこの移民は禁止して「大宰府大監」は押さえ、北は大蔵氏の兄の坂上氏の「坂上田村麻呂」の「征夷大将軍」がこれを完全に抑えた記録がある。450年から800年の350年で完全融合した事を意味し、900年までの100年で民族は「単一性」を成した。
    200年後の650年代大化期では融合の終焉期であった筈である。記録にもそれなりの表現がある。当然に、民族が移動する事は思考も流入されていた事に成り、その最たるものとしての「司馬達等」による「仏教」の伝来で証明出来る。
    だとすると、民族の移動は無いにしても思想の流入はあったから、それだけに、明治初期から始まり昭和20年とするかは時期設定には問題であるが、新しい思考原理が侵入して来たこの期間を80−100年とすると、170年後の今ここで家訓8の検証とその問題提起が思考原理の融合が起こり始めている中ほどの時期と観て重要な事であると考えている。
    そもそも科学物理の「中間子理論」関係の発見が続いているがこれすべては日本人なのである。
    中間子はや中性子は+と−を融合させるファクターであるが、それを発見し続けている日本に於いて日本の「思考の融合」は先ず間違いは無いであろう。次ぎの子孫の代には完成するであろう。
    その為にも、家訓8を書き記しておく事の意味は大きいと考える。

    何をか況や、先進国の彼等が驚く「融合力」は取りも直さず「経験」−「体系化」−「知識」から起こる「本家訓8の創造力」に他ならないのである。
    つまり、”「創造力」は「経験」−「体系化」−「知識」の力であり、即ち、日本固有の「融合力」に等しいのだ。”と解いている。

    「融合」とはA+B=Cと成る。しかし、この式の過程には何がしかの因子Xが働いているだろう。
    自然科学では「中間子」なるものが働き、更には、「中性子」なるものが働いている。
    そして、この両者のエネルギーのバランスをとり続ける。
    とすると、AとBと「融合」が成し得なかった民族融合の要素として「中間子」が働かなかったことに成る。つまり「拒絶反応」が働いたことに成る。
    日本の「融合」はその「拒絶反応」の逆の事が起こったことに成る。
    ”ではそれは何なのか。中間子は何なのか。”又疑問が湧く。

    AとBが「融合」するには、その数多くの過程で色々な事が起こるであろうが、先ず、融合に依って何らかの良いことが起こり、良い事の「融合の経験」が繰り返される。そしてその「経験過程」で「信頼」が生まれる。この「信頼」の元となる「経験」が数多く繰り返され人は「学習」をする。
    この数多く繰り返される「学習」から何らかの「体系化」の「知恵」が働くだろう。
    そして、そこに「知識」の「知恵」が生まれ、「経験」では「伝達」を成し得ないその「知識」と云う「共通媒体」で次に正しく伝える。そして、その「正しさ」の結果、「高い信頼」が生まれる。
    この事が繰り返されての「信頼」に裏打ちされた厚味のある「知恵」と成り、より「確率の高い融合」は完成する。
    日本は「7つの民族」と云う途轍もない数の融合である。世界を観ても、たった300年という短い期間では普通の融合の条件では成し得ない。しかし、そこにはこの「信頼」と云う確固たる「醸成手段」が出来上がる。この「信頼」が「中間子」である。信頼は(+)右の人と(−)左の人を結び付ける。

    この事は明らかに正しく「経験」−「体系化」−「知識」である。
    ”この事が何故に日本人に成し得たのか”またまた次ぎの疑問である。

    それは、現在に於いても「科学技術」や「文化芸術」でも「創造力」を駆使して遥かに他を抜いている「日本人の特質」に他ならないのである。2000年もの期間を経過してでもこの特質は変わらない。つまり、「融合」と「創造」は「遺伝的特質」に他ならない事を証明する。
    ”「中間子」を働かせる力が強い”と云う訳である。言わずもがな自然物理の「中間子」や「中性子」は日本人の発見である。
    「長」の「体系化」は配下に「信頼」を生むと論じた。そうすると、次ぎの数式が成立する。

    「中間子」=「信頼」=「体系化」

    この「経験」−「体系化」−「知識」、即ち、「融合」に働く「中間子=信頼=体系化」に裏打ちされた「創造」が日本人の基盤にあり、ここが外国の「個」の世界と歴然と根本から違うのである。
    故に、この理屈からすると”自らに無いものを求める”のも、そして、”それを融合する”のも日本人の特質と云える。それでなくては「日本人の融合論 創造論」は論理的にあり得ないことに成る。
    故に、”「個」の侵入は心配いらない”と成り、それ故にそれに惑わされた”「刹那的な夢」の吹聴は良くない。”としている。
    それよりも、この「家訓8」は取りも直さず”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”とのこの事を解いている。

    「融合力」=「経験」−「体系化」−「知識」=「創造力」
    「知恵」=「体系化」+「中間子」
    「知恵」=「創造力」=「融合力」

    この数式間には目に見えない「何らかの中間子」が作用している事に成る。
    正しく「核理論」そのものである。
    その「中間子」は諸事事象によって異なるであろう。「中間子」が発見されれば「体系化」が起こり「知識」となり末には「知恵」と成る。そして、その「知識」は「伝達手段」として正しく継承されるもの」と成るのである。

    ”「経験」が浄化、或いは整流されて「知識」「知恵」になり伝わる。”と解ける。

    日本の国全体に於いても然ることながら、故に青木氏に於いても「家訓8」である事が頷ける。
    故に、古の家訓でありながらも、この事は家訓1の真意でもある。
    取りも直さず、仏教ではこの事を説き、"「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"としているのであろう。理解できる。
    故に、日本社会に於いて行き過ぎた「個」から発した思考規準は現在は尊重されてはいるが、余りの「個性的思考、性癖」により大きな「偏り」を起こす事を好ましくないと観ているのである。
    それはその「事象」により「経験」を卓越し「名人」「匠」と成り得るには「個性的」を強く求められる事もあるが、それはそれで「名人」「匠」の範囲であれば、必要以上に「体系化」−「知識」の線上に無くても良いであろう。
    むしろ、彼等が「体系化」−「知識」の線上にあると「名人」「匠」と認めない不思議な風潮が日本社会にはあるだろう。「中間子」が存在する割り切れない思考として。
    これは取りも直さず、”「名人」「匠」は「長」又は「石田三成」「明智光秀」「諸葛孔明」「黒田勘兵衛」の「権謀術策」側にあってはならない”とする日本人特有の区分けの思考であり、裏を返せば、この「家訓8」の「経験」−「体系化」−「知識」の思考がある事を証明する。
    ただし、「家康」も「個性的」とするかは「経験」−「体系化」−「知識」の線上の何れの「位置と量」にあるかに依って決まる事になろう事は頷けるが、家康は歴史上最も偉人伝の人物の中ではこの「家訓8」に「典型的」ではない「標準的」に相当する人物と見なされる。

    この何処に規準を置くかも「中間子思考」の所以であろう。其れはそれで良い。そうでなくては凝り固まっては「融合」「創造」は働かない。

    「融合」「創造」は正しく「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」である。

    平たく云えば、”頭を柔らかくせよ。(融合) でも考えよ。(創造)”である。
    禅問答である。

    筆者は青木氏を研究する雑学の中で、この「経験」−「体系化」−「知識」の線上で「偉人伝」なりを観ているが、人物の「生き様」がより立体的に観られて面白いし、意外に大発見の糸口に繋がる事が多いのである。
    その中でも、偉人伝の人物の生き様も然ることながら、この家訓8は特に「長」のとるべき姿として論じているが、この「体系化」には別に誰しもが人生で経験する事、即ち、「スランプ」の原因とも成り、そこから「脱出」する答えでもあると考えている。
    スランプは、「経験」−「体系化」−「知識」のプロセスの中に起こっている。
    「経験」を長く続けると必ずスランプに陥る。然し、このスランプは「経験」だけに留まり、その中で長くそれに頼り生きる「能」を身に沁み込ませてしまう。その結果、この「経験」を活かしての「体系化」に怠り、足踏みしてしまう事がスランプである。前に進まない。「経験」を活かして「拘り」「偏り」を排除して「体系化」を成せば「知識」として身や脳に集約され、更なる「進化」が起こるのである。
    スランプの中でも”前に進む”と言う事である。
    このプロセスの中で「体系化」を怠った結果スランプなるものが起こる。
    つまり、「体系化」を成せばスランプから脱してより一段上のものを獲得する事が出来るのである。
    経験中になかなか「体系化」の行為は難しいだろう。
    ”どの時点で「体系化」を成せば良いのか”の疑問も残るだろう。
    その答えは「スランプ」に落ち至った処と観ている。即ち、「スランプ」は「スランプ」では無いのである。
    「スランプ」はこの「体系化」するポイントなのである。その「体系化」には「拘り」と「偏り」を見つけ出す時間が必要である。この時間が「スランプ期間」なのである。
    人生はこれを繰り返して行く事であるが、その「スランプ」の「期間とレベル」は次第に小さいものと成り得る。但し、「体系化」をして「知識」に移す事で。

    ”この世の中に「進化」せずして生残れるものは決して無いない。”周囲は途絶える事無く「進化」しているのである。自らもそれに合わせて「進化」せずして取り残されるは必定である。
    「進化」の手段「体系化」を怠れば留まるしかないのである。
    冒頭からの上記の論説は「長」の誡めに限らず”よって件の如し”である。
    「長」のスランプを避け、尚且つ「長」はこのスランプ対策のそれを超える処のものを要求されているのである。「長のスランプ」は取り扱いに依れば一門の滅亡を意味する。
    「長」は常に「体系化」を無し、自らの「資格」を獲得し、「スランプ」も起しては成らないのである。
    それには、家訓8の戒めを護る以外に無い事を諭している。

    話を戻して、だから、この様な事を多く積み重ねる事で「生きる力」「望み」「希望」「目標」は内側から醸成されてくるものであり、「暗中模索の夢の発揚」方法にも賛成できない。
    仏教でも説いているが、上記で論じた「刹那思考」や「刹那主義」からの考えや行動を戒めている。
    しかし、「刹那思考」や「刹那主義」をマスコミでも大口を開けて怒鳴り喧伝しているが、今だ未だ社会は上記に論じている様に「融合」の中期過程にあるのだろう。
    これからは上記した時代の厳しさは増すと共に、そこから逃げようとする「その場凌ぎの思考や行動」がより起こるであろうが、故に誡めて、この”「長」のみならず人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”としている。
    故に「長」でなくしてもこの家訓類10訓とりわけ「家訓8」は以上の様に解説して末裔に伝え守り通さなくてはならないと考えている。
    そのためにも、平成に掛けて家訓添書の解説を時代に合わせて、状況に合わせての再編集を行い遺す事をした。

    家訓8を取り纏めれば、次ぎの様に成るだろう。
    家訓8の添書(悟る事)

    「術」=「知識」=「判読力」
    「能」=「経験」=「体験力」

    「技術」の構成=「知識」>「経験」
    「技能」の構成=「経験」<「知識」

    「経験」−「学問化」・「体系化」−「知識」=進化過程
    同事象の進化=「能」+「術」=「経時的変化」

    ”「術」は進化した事になるので「能」の段階に留まってはならない。”
    ”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない。”
    ”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ”
    ”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”
    ”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”
    ”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”
    ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”
    ”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”
    ”「経験」から「知識」への過程を「創造」せよ。”
    {「経験」−「体系化」−「知識」}=「過程を創造する」
    ”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)
    ”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)
    ”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)
    ”「創造力」は「経験」−「体系化」−「知識」の力、即ち、固有の「融合力」に等しいのだ・。”

    家訓8の教訓(解く事)
    ”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”
    ”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される。”
    ”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”
    ”「長」としての「品格」「風格」は自らが作り出せるものではない”
    ”「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」”
    ”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は「的確な行動」を起す”
    "「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"
    ”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない。”
    "「体系化」−「知識化」で人との不必要な摩擦が避けよ"
    "「長」としては「個性型」を避けよ"
    ”「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"
    ”人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”
    ”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”


      [No.266] 周辺の環境写真(藤白神社 熊野神社)
         投稿者:福管理人   投稿日:2010/07/20(Tue) 06:56:49  
    周辺の環境写真(藤白神社 熊野神社) (画像サイズ: 118×116 3kB)

    参考
    全国各地の熊野神社

    神紋 烏紋(からす)
    (神使 三本足のやたがらす紋も使用)

    熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。
    必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
    それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
    それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。


    夫々の神社の歴史的な関係を調べたが、不思議な一点が浮かび上がる。
    それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。

    東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住していたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この全ての県でも云える事である。
    京都は天皇家との関係からのものであろう。
    鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
    不思議である。現在研究中である。

    ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
    皇祖神の神明神社との関わりからであろうか。
    高知を除く四国に無いのは弘法大師真言宗の関わりか不明である。讃岐籐氏もこの影響があるのか。

    「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。

    参考
    伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19/66国
    これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
    矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。

    この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。

    「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。そこで同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
    その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
    これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。

    「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
    勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。
    或いは、江戸幕府の奨励もあり江戸期の「お伊勢参り」で熊野神社は押されて建て直しのために昔の藤原氏との親交から各地に熊野神社普及を面倒な正式な系列方式としないやり方で試みた事かもしれない。研究している。


    ・ 紀伊熊野三山の三社形式

    成島三熊野神社(岩手県花巻市)

    新宮熊野神社(福島県喜多方市)

    熊野三山社(宮城県名取市)

    ・熊野神社を名乗っている神社(単独形式)。

    熊野神社 (青森県中泊町)

    熊野本宮社(宮城県名取市)
    熊野神社(宮城県名取市)
    熊野那智神社(宮城県名取市)
    今熊野神社(宮城県名取市)

    前野熊野神社 (東京都板橋区前野町)
    志村熊野神社(東京都板橋区志村2丁目)
    熊野神社 (東京都新宿区)
    熊野神社 (東京都目黒区)
    熊野神社 (東京都東村山市)
    熊野神社 (東京都八王子市)

    熊野神社 (千葉県船橋市)
    熊野神社 (千葉県四街道市内黒田)
    熊野神社 (千葉県四街道市亀崎)
    熊野神社 (千葉県武郡横芝光町)
    熊野神社 (千葉県匝瑳市)
    熊野神社 (千葉県旭市)

    熊野神社 (埼玉県和光市)
    熊野神社 (埼玉県入間市)

    熊野神社 (神奈川県横浜市港北区)
    熊野神社 (神奈川県横浜市瀬谷区)

    熊野神社 (静岡県鎌倉市)
    熊野神社 (静岡県富士宮市)

    熊野神社 (愛知県小牧市岩崎)
    熊野神社 (愛知県小牧市久保一色)
    熊野神社 (愛知県北名古屋市)
    熊野神社 (愛知県北設楽郡豊根村)
    熊野神社 (愛知県西尾市)

    熊野神社 (京都府京都市)
    熊野神社 (京都府京丹後市)
    新熊野神社(京都府京都市)

    鹿塩熊野神社(兵庫県宝塚市)
    熊野神社 (兵庫県西宮市)

    熊野神社 (岡山県倉敷市林)

    熊野本宮社(広島県安芸市熊野町)

    熊野神社 (山口県山陽小野田市)

    熊野神社 (高知県馬路村)
    魚梁瀬熊野神社(高知県馬路村)

    熊野神社 (鹿児島県三島村)
    熊野神社 (鹿児島県出水市)

    熊野神社 (和歌山県御坊市)

    ・併社(併社形式)
    熊野大社 別神祭祀(島根県松江市)

    ・勧請社(勧誘形式)
    熊野神社(いやじんじゃ)(和歌山県御坊市)

    ・別社方式
    久米神社 伊邪那美神祭祀(島根県安来市)

    以上


      [No.265] 家紋掟
         投稿者:福管理人   投稿日:2010/06/13(Sun) 17:53:08  

    「家紋掟」

    家紋に関して大変ご質問が多いので一つにまとめました。

    そもそもは、「家紋の使用」は、平安末期から使用される様に成りましたが、その家紋化した目的は「氏家制度を規則正しく保つ目的の根幹手段」として室町時代の中期から明治の初期頃まで使用される様に成ったものなのです。
    従って、「家紋」と云う初段は、当初から「家紋」として存在していた習慣ではなく、本来は最初は奈良時代初期に「皇族」が自らの「ステイタス」(印章)として使用していたものでした。
    その最初は何んと「青木氏」に関わる事から始まったのです。
    この「家紋」というものを理解する上で「家紋の経緯」としてそれを少し詳しく述べておきます。

    それは「蘇我入鹿」を倒した「中大兄皇子」の時代に遡ります。
    それまでは「文様」としては「儀式的な意味合い」が強く「天皇家と朝廷」の「儀式の権威」として位置づけられていました。
    その「儀式」を司る天皇に対する「間接的権威」として扱われていたのです。
    ところが、この「大化の改新の事件」と成った原因から、天皇家の「体制固め」(大化の改新)が始まりました。

    先ずその一つは「経済的な原因」でした。
    つまり、それは無秩序に近い状態で存在する「皇子の数」でした。
    それまでは「数を固める事」で「天皇家の権威」を作り上げていたのですが、そこを入鹿に狙われたのです。
    先ず、蘇我氏に内蔵の経費に依る経済的な弱体化を狙われたのです。
    軍事的には「渡来人の漢氏(あやし)」、又は、「東漢氏(やまとあやし)」等の軍事集団を「蘇我氏」に抱え込まれ裸同然の無力化に干されました。
    政治的には、「天皇家」は「斎蔵の祭祀による「権威のみの立場」に追いやられると云う事態に成っていたのです。
    つまり、「天皇家の財政」を司る「内蔵」、「朝廷の財政」を司る「大蔵」、「朝廷の祭祀」を司る「斎蔵」の「政治機構の三権」と「軍事権」を蘇我氏に奪われていた事に成ります。

    この「経済的に問題」に付いて、「4世族」までの皇子皇女の数が大変多く34人にも成っていました。
    「第6世皇子皇女」までいれると50人以上と成っていたのです。
    (7世族以降は坂東に配置されていました。)
    「権力」を取り戻す為に、そこで「大化改新」と云う「大政治改革」を断行しました。
    その「目的」の一つとして、「皇族に掛る内蔵の経費」を少なくする為に「第4世」までを「皇子王とし、「第6世以降」は臣下させる事を実行しました。
    その「第4世皇子」までに順位を付け「第4位皇子」までに「皇位継承権」を与え、「第6位皇子」(1)を臣下させる仕組みとして改革をしました。
    この結果、これらの「下俗臣下」した「皇子の身分」を保障するために、この新たな「世族の仕組み」は「身分制度の確立」に発展し、先ず「8つの家柄階級」(八色の姓の制)を定めました。
    そして、この時、問題の皇子族は、「真人族」(まさと)、「朝臣族」(あそん)(2)と、特別に「宿禰族」(すくね)。を加えて「3つの身分」に分けました。
    これら「八色の姓」に合わせて、別にその功労能力に応じて画期的な「官位階級制度」が定められたのです。
    これは現在でも観られない徹底した「実力主義」でした。

    例えば、「皇太子」であろうと、他の下位の皇子が優れていれば皇太子よりも遥か上の官位を授かると云うものでした。
    現在でもあり得ない「実力主義」でした。(天武天皇がこれを制度化した。)
    つまり、「家柄制度」と「身分制度」が定めた事に成ります。
    そして、この「2つの制度」に伴い「職務制度」も定めたのです。
    この「職務制度」でも下位の皇子でも能力が高い場合は、重要な守護王に任じられると云う事が起こりました。
    (三野王や栗隈王の例がある。)
    そして、「朝臣族4世皇子族」までには「6段階の位」に準じて重要な順に「天領地の守護王職」を命じたのです。
    更に、その皇子には順位を付けて「第6位皇子」からは臣下する事としたのです。

    この「3つの制度」によって先ず最も昇格したのは「第6位皇子の伊勢王」の「施基皇子」(実質は天智天皇の第7位皇子)でした。
    これは「日本書紀」に記述されています。(「日本書紀と青木氏」のレポート参照)
    この時に、最初に「中大兄皇子(天智天皇)」から直接与えられたのが「第6位皇子」の「施基皇子の伊勢王」の「青木氏」(3)と、特別に第7位皇子(実質は第2位皇子)の「川島皇子」の「近江の佐々木」の地名から「佐々木氏」の氏を与えたのです。

    (注釈 「川島皇子」は「天武天皇」に不信感を持たれ、皇位を下げられ、施基皇子は逆に挙げられた経緯を持つ。)

    この制度に則って「実力のある皇子」には「氏」を与えると云う「賜姓の仕組み」が出来上がりました。
    この「皇族の改革」を始めとして、「八色の姓」に準じた他の臣下の特別な豪族の身分改革も起こりました。
    政治機構は一段引き締まる体制が出来上がりつつありました。
    そこで、この「家紋の経緯」に入ります。

    先ず、皇子族の「身分制度」を明確にする為に、更にその「ステイタスの表現」の一つとして”「独自の印章」(「印章制度」)”を用いて明確にする様に改革しました。
    結局、次ぎの「5改革」が行われたのです。

    5つの制度改革
    「家柄制度」
    「身分制度」
    「職務制度」
    「賜姓制度」
    「印章制度」

    「天智天皇」は、この「2人の皇子」にはその「ステイタス(印章)」として「竜胆の花」とその「葉の形」を文様として「笹竜胆紋」(4)を使用する様に命じ、他の氏には使用を禁じ区別させました。
    注釈 これが「施基皇子の氏族」には「青木氏の笹竜胆の印象」の使用を命じたのです。
    この「実力主義」に基づく「5つの制度」に裏打ちされた「笹竜胆の印章」が、後に各氏の「家紋」への展開の始まりと成ったのです。
    その代表者が我々の「青木氏族の始祖」の「施基皇子の青木氏」であったのです。
    「施基皇子」は、「第6位皇子」でありながら「天武期の皇太子」よりも3階級も上の官位(浄大1位 天皇に継ぐ官位)を獲得したのです。
    これは異例中の異例でした。

    更には、この「施基皇子」は「天武天皇の葬儀」を「皇太子」に代わり「取り仕切る」と云う前代未聞の事も起こったのです。
    そして、日本の「律令の根本」と成る「善撰言司」の役を与えられ「善事撰集」の偏纂を任じられると云う「名誉の編纂者」に任じられたのです。
    「天智天皇」が「天皇家の守護神」として「伊勢神宮」を指定し、後に「天武天皇」がこれを正式に定めましたが、「天皇家」にとって最も大事な祭祀の地のここの「伊勢の国の守護王」に任じた事からもその仕事ぶりが判ります。
    そして「官吏」として彼の有名な「三宅連岩床」を「伊勢国の国司」として送っているのです。
    恐らくは、研究中ですが、この事実の実力から観て、この「4つの制度」の制定も「施基皇子」が指揮したと観ています。
    「家柄、身分、職務、賜姓」の制度に裏打ちされたこの「印章制度」を、更に確実な権威付け的なものとして次の事も実行しているのです。
    これらの制度は完璧と云わざるを得ない程に理路整然として作り上げられているのです。
    この時、その「皇族賜姓族」の「青木氏」にはその姓の源と成った「一族の神木」(5)として「青木の木」の使用を指定しました。
    当時は「青木」は、「榊」と同じく「朝廷祭祀の神木」として同党として扱われていたのです。

    そして、その「守り本尊」として日本最初の仏師の「鞍作部止利」作の「北魏方式の仏像」の「大日輪座像」(6)を与えました。
    「印象」を与え、「神木」を指定し、且つ、「守り本尊」を与えると云う事は大和朝廷の始めての事でした。

    次に、それまでは「天皇一族」には自らを護る「親衛隊」が無く、「蘇我氏の増長」を招いたとして「大化改新」の一つとしてその「護衛隊の任務」(7)を与えました。
    そして、何んと細部には宮中の「3つの衛門」の護りの実務をも与え、これに官職名として「左右の衛門」に位を与え、「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの「尉佐と上下」の「4階級の職務」(8)まで設定し与えたました。(後にこれが「北面武士」と呼ばれるように成った。)
    更に、「天皇家の守護神」として「伊勢神宮」を指定し、ここを守護する王の「守護王」(9)の最大任務を与えると云う徹底した改革でした。

    (注釈 この親衛隊の「宮殿の役務」から「青木氏の綜家の世襲名」は「左衛門上佐長兵衛」と呼称する様に成りました。つまり、最高位の佐位の者の務める「左の衛門」を護る「兵の長」であるとしての名が継承されました。
    軍隊であれば、将軍の直ぐ下位の「大佐」である意味です。「将軍の位」は「征夷大将軍」でこれは「臨時の冠位」で、常時は「上下の佐官位」でその「上佐」です。
    「青木氏」は、この他に「令外官」として「賜姓五役」とする「永代の役目」が与えられました。
    「令外官」とは「天皇の直接の意」を受けて動く役人の事です。)

    因みに、江戸時代には御家人や旗本等の中級武士以上が金品を渡して朝廷より一代限りの官位をうけましたが、例えば彼の江戸南町奉行の遠山の金さんは遠山左衛門上尉景元と名乗っていた様に。
    この元は、「皇族賜姓族の青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」に与えられる「永代官位」だったのです。

    その後、上記「5つの制度」と共に「施基皇子」で始まった「9つのステイタス」に裏打ちされたこの権威のある「第6位皇子」に「5代の天皇」が「5つの主要天領地の守護王」を命じたのです。

    14の地域に配置した天皇
    天智天皇
    天武天皇
    文武天皇
    聖武天皇
    光仁天皇

    そして、「第4世皇子」までが「守護王に任じられたのは下記の当時の「天領地の王」に及びました。
    「嵯峨天皇」からは、「賜姓青木氏」の役目の「皇親族」と「令外官」の役目を中止し、「賜姓」もその代わりに「賜姓源氏」に変名されて11代続きました。
    然し、下記の守護王や国司に任じられたのです。

    天領地の守護王
    「伊勢王、近江王、美濃王、三野王(信濃王)、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、栗隅王、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王」

    以上19王/66国

    この中で、「伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」には、「第6位皇子」が任じられ、上位王として「5家5流の青木氏」が発祥したのです。
    この「5つの国」に「青木氏の子孫」を遺しました。
    「他の14王」では、「ステイタス」が授与されましたが、「氏」を遺したとされる「王」と、遺し得なかった「王」とがあります。
    「賜姓源氏」は滅亡しましたが、「未勘氏(確認されない氏)」として子孫を遺しているとされていますが、史実は結果として、この14の地に多くは「賜姓佐々木氏」がこの「印章権威」に保護されてこの地の多くの子孫を遺しています。

    以下の「9つのステイタス」は、「皇族賜姓青木氏5代」と「皇族賜姓源氏11代」と「皇族賜姓佐々木氏2代」に続けられました。
    (1) 「第6位皇子」 (1)
    (2) 「朝臣族」 (2)
    (3) 「青木氏」 (3)
    (4) 「笹竜胆」印章 (4)
    (5) 「一族の神木」 (5)
    (6) 「守り本尊」「大日輪座像」 (6)
    (7) 「護衛隊の任務」 (7)
    (8) 「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの官職 (8)
    (9) 「守護王」 (9)

    この「9つのステイタス」が「5代の天皇」に引き継がれて「光仁天皇」まで続きましたが、「桓武天皇」と「平城天皇」は律令国家完成を目指して皇親族の「賜姓青木氏」らの「皇親政治の勢力」を維持しました。
    ところが、これに反発した「桓武天皇」の「第2位皇子の嵯峨天皇」が、これを元に戻し改めて、これに手を加えて「嵯峨期の詔」を発しました。
    「賜姓青木氏」には皇族の者が下俗する際に称する氏名としてその「氏名」とその「慣習仕来り掟」の使用を禁止しました。
    これは明治3年まで3つの混乱期を除き原則守られました。

    このわずか後に、「平将門の乱」を平定した功労で「藤原秀郷」は貴族に任じられましたが、その為に「秀郷護衛団」として「第3子」の「千国」を「侍」にしてこの「嵯峨期の詔」に基づき「(2)の身分」を「円融天皇」より授かり、「(3)の呼称」を許され、(1)同等の身分を持つ「補完役の青木氏」として呼称する事を許されて、朝廷より母方を同じとする事を理由に、特別認可され発祥させました。
    そして、代々「青木氏」と同等の「天皇家の近衛軍」の「(7)(8)の官職」を与えられ、(9)として「伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王」の「補佐官吏」として国司に任じられました。
    (4)では、この秀郷は下賜の「下がり藤紋」の印章を維持しました。
    ところが、他の摂関家等の藤原氏四家は、元の「下がり」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋しましたが、「秀郷」は「下賜家紋」を固持したのです。
    (5)は藤、(6)は守護神の「春日大社」として「9つのステイタス」を代々保持したのです。

    「五家五流の賜姓青木氏」は、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を守護神としました。

    以上の様に「藤原秀郷流青木氏」は、「皇族賜姓青木氏」と全て同等の扱いを受けていたのです。
    この様に、家紋の「下がり藤紋」には「皇族賜姓青木氏」の「笹竜胆紋」と、同等の身分家柄扱いを朝廷から受けていたのです。
    「家紋」は、この様に「9つのステイタス」を背景にその全体的な「象徴」として観られていたのです。
    この「9つのステイタス方式」を継承して、その「第6位皇子」には「賜姓青木氏」から「家紋」はそのままに源氏の賜姓に変更しました。
    「賜姓源氏」は、正式には花山天皇までの11代の天皇に継承されました。
    合わせて16代続いた事に成ります。

    この同等扱いを理由に「源氏」とも繋がりを持つとして、後に、「藤原秀郷流青木氏」は「源氏」でもあるとする説が生まれたのです。

    この様な「4つの制度」(身分階級制度等)の政治システムが次第に確立してゆく中で、その「立場」を表す「印」が必要に成り、その「ステイタス」として平安初期には「真人族の貴族や朝臣族」や他の「藤原氏の血筋」を引く「公家」や「八色の姓族」などにも使用される様になったのです。
    この「印章」となる紋だけではなく、同時に「他の8つのステイタス」がその身分に合して制度として引き継がれる様になりました。

    注釈として、 「賜姓源氏」の「象徴紋(権威の印象)」は「笹竜胆」としていますが、「印象」を下腸したとする記録はありません。
    「賜姓青木氏」が、「天智天皇」より「賜姓」を授かり「臣下朝臣族」と成る際に、「高位の印象」として下賜された際に、「六つの印象」が与えられました。
    その一つが、「印象紋の笹竜胆紋」で、二つは「氏の木の神木」が「青木の木」で、三つは「護り本尊」は「大日如来坐像(鞍作止利作)」で、四つは「守護神」が上記の「神明社」で、五つは「仏帰依」は「古代浄土宗」で、六つは「旗印」は「白旗」とする様に命じられました。
    ところが、「嵯峨期の詔勅」に基づく「賜姓源氏」には、何も与えられなかっただけでは無く、「嵯峨期の禁令」、つまり、「青木氏の慣習仕来り掟の禁令」に逆らって、同じ皇族の「賜姓族」であるとしての理由で、「印象紋の笹竜胆紋」と「氏の旗印の白旗」の使用禁令を破ったのです。
    又、この「白旗」は「古代浄土宗の印象」で、「法然」が「浄土概念」を変異して「浄土宗」と云う派を造りましたが、後に法然の死後、この「浄土宗」は二つに分裂し、「賜姓青木氏」等の「古代浄土宗の派」は衰退しました。
    ところが、「清和源氏の分家河内源氏の源頼朝」はこれを見直し、更に、「室町幕府」は正式の二派に分裂した「浄土宗の主派」をこの高位の氏族が帰依する「古代浄土宗」の派に正派として定めると決定したのです。
    この時、この「正派」は、「旗印の白旗」を引き継いでいた「高位の賜姓青木氏らの旗印」としていたのです。
    この正派の「住職僧」は菩提寺である為に全て「賜姓青木氏の者」から編成されていた事からその派も「白旗」を「印象」と成っていたのです。

    この「嵯峨期詔勅」の「賜姓源氏」は、印象等「下賜」の無いままに勝手にこの経緯から「禁令」を破って「笹竜胆紋」を象徴とし「白旗」を「印象」として「旗印」としたのです。
    「四つ他の印象」は流石にこの禁令を破って引き継ぎませんでした。
    その証拠に、因みに、「守護神」は「八幡神社」、「菩提」は「古代密教」では無く、顕教の「法然浄土宗」であり、「抑止力」では無く「武力を持つ賜姓族」であり、「賜姓五役」に従わず等、将又、禁令を破っての「姓族の発祥」や「本家分家等の氏家制度の慣習」も行いました。
    他のは「禁令」を破っていず、「賜姓族の印象」では無く独自の別の禁令外の一般のものとしています。
    「賜姓族の役目」の表す「賜姓五役」も全く引き継いでいませんし、「嵯峨天皇」の前の「二人の天皇(純仁、光仁)」が手掛けて失敗した「新撰姓氏禄」の偏纂を強引に推し進めました。
    ところが、青木氏が出自元でありながら「源氏」を賜姓する事を決めた「嵯峨天皇」が、自ら偏纂を強行したこの「新撰姓氏禄」の中には、自ら決めた「源氏族」は、「皇族別」の中に無く、何と一段下の「朝臣族」の中にあるのです。
    つまり、これは、この「賜姓五役」のみならず「六つの印象」の使用を認めていない事を示します。

    従って、「平家」に同格として対抗する為には、つまり、これは「平家との戦い」の為には、「嵯峨期詔勅」に明記されていない以上は、この「二つの権威の象徴印」だけが是非に必要だったのです。


    さて、この予備知識を前提に「家紋化」へと進んだ時期は、「渡来人の帰化人」が国に同化し「渡来人」と云う言葉が使われなくなった時期で、「律令政治」が確立した頃の「桓武天皇の時期」からその「ステイタス」を表す「諸道具」や「牛車」などに盛んに「権威ある印章」が用いられました。
    記録によると、牛車等に付けられた「印章」で、その位や身分の差異で道を譲れ譲らないなどの「権威争い」が起こるなど一種のブームと成りました。

    平安初期の最初は、「皇子族、貴族侍、公家侍等」の「40程度の氏」を構成する者が使用を許される様に成りました。
    平安中期には、「80程度の氏」、平安末期には、「200程度の氏」に拡がり始めて、鎌倉時代には、幕府の推薦で朝廷が授与するシステムが出来上がりました。
    従って、急激に増える様に成ったのです。
    この「ステイタス」は、「幕府」が開かれる事に成って明確に家紋化に特化して「侍」にも「身分の区別化」として用いられる様に成って拡がりました。
    鎌倉期には、朝廷からこの「9つのステイタス」を授受される事が最高級の「上級侍」としての「誉れ」とされました。
    しかし、鎌倉時代の移行期を経て、更に、室町初期には幕府体制の下で「姓族」が多く発祥し、「家紋」の元に成った「印章」だけは「姓の武士」を中心に「上級武士」の間で用いられる様に成りました。
    この事と平衡して、「朝廷の下賜」では無く、自らが定める完全な「家紋」と成り、800程度に、戦国時代には1200程度の氏と一時急激に増えました。
    然し、末期には武力の持たない「氏族」は、戦乱で淘汰されて平安初期程度に戻ってしまったのです。

    この一連の「9つのステイタス」は、当初は「印章」から「家紋」に、「誉れ」から「判別」に変化して行きました。

    この様に「家紋(判別手段)」を始めとして、(4)(5)(6)だけは個別に成り、遂には(7)(8)(9)は実態とは別に名前だけを「金銭」を前提に「幕府の推薦」と「朝廷の授受」するものの方式にと変わりました。
    (1)(2)(3)は、朝廷内部のものとして「禁令の詔」を発して明治3年まで原則護られました。
    (2)だけは(1)と(3)の家柄を持つ氏に与える事として定められました。
    これは結局は、鎌倉、室町幕府を開いた征夷大将軍にのみ与えるものとして遺されたのです。

    因みに、徳川幕府は(1)(3)の「朝臣族の家柄」にはなく、南北朝の天皇家の乱れた系譜を搾取偏纂して朝廷の抵抗を撥ね退けて強引に取得すると云う有名な事件が起こりました。
    すでに南北朝時代はこの制度は無くなっていました。
    徳川氏はそこを突いたのです。
    安定した桃山時代には、遂には、天下を取った「秀吉」が、今度は天皇家の「五三の桐紋(天皇家の祭祀紋)」等を変紋して「五七の桐紋」にし、秀吉の「勲功紋」として家臣に勝手気ままに与えるなどして再び増えました。
    江戸初期には、「幕府の権威付け」の為に「国印状発行」に伴い「家紋奨励」するほどに中級以上の「武士階級」は全て持つように成りました。
    「姓族」から伸長した大名は、この「国印状」を獲得する為に、上記の武士では無いと騒いだ「氏人の郷士の家系」を盗み、その「氏人」を遡れば「氏族」に繋がると云う搾取策を使ったのです。
    中には、この「郷士」と血縁する事で系譜を作ってその出自元が武士である証拠を創り上げて「国印状」を獲得しました。
    この現象は、大名のみならず「家臣、媒臣」にまでに及び「武士である事」を「幕府から認証を受けた大名」から認めてもらうと云う事が起こったのです。

    江戸中期からは、朝廷は(7)(8)(9)を乱発して経済的な収入源とした為に中級武士以上は「家紋」は元より「架空の官位官職」までもを全て持つ様に成りました。
    結果的に(4)は、この様に室町末期からは自由と成ったのです。

    挙句の果てには、江戸末期から明治初期の戸籍化と苗字令に因って「裕福な一般庶民」も搾取偏纂で使用する様になりました。
    何時しか「全ての姓」が使用し、日本全国には「8000もの家紋」が存在する様に成りました。

    この様な経緯を持つ「家紋」は、初期には「特定の氏」だけに認められて使用を禁じられていましたが、禁令の順守が緩やかに成り鎌倉末期には慣習化されて次の様な「家紋のルール」に基づき使用される様に成りました。
    江戸時代初期には、幕府によりこの「家紋掟(ルール)の概要」が明文化されて、各大名が更に慣例に基づき自らの氏の「家紋掟」を定めて「氏家制度」を新たな形で保持しました。

    この様に、完全な画一的な「掟」ではなく、統一する事は「各姓族の事情」により異成る為に、大筋を社会慣習にて定めたものです。
    例えば、奈良時代から存在する一連のステイタスを保持する「藤原氏一族一門」の様に、元来「丸付き紋」は使用せず、大一族一門を見分ける為に「丸付き紋」では困難であり、「分家」を始めとする「分流と分派」を見分ける為にも「副紋方式」の様な「独特で詳細な掟」を定めました。

    因って、「皇子族、貴族侍、公家侍、大古豪族」の氏族の「家紋(印象紋)」は、当時の社会慣習により、「血縁関係」もあり「身分釣り合い」と「純潔習慣」もあり、「丸付き紋」は原則使用していませんでした。
    依って、「(1)(2)(3)」、「(4)(5)(6)」、「(7)(8)(9)」の「ステイタス」が「3つ」に分離が起こりました。

    その結果、「姓族」の「武士階級」によって「家紋(姓判別紋)」が左右される様な時期からは「丸付き紋」が始まりました。
    「氏族」が姓族化して拡大して行く室町期頃からの必然的な使用と成りました。

    本来、この「丸付き紋の目的」は、「青木サイト」として「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、次の様になります。

    「氏家制度」の武家社会の「家紋掟」により細かく分けるとすると、「7−8つ程度の役目」があります。

    以上の経緯を考慮に入れ、次ぎの各要素を組み入れて「家紋」を分析する事で、ご先祖のルーツ解明の一つの手段に成り、ご先祖の氏姓での位置付けが見えてきます。

    「皇族賜姓青木氏29氏(21氏)」は、特別な史実に基づく未勘氏を除くと、原則は「丸付き紋」は使用していません。
    「朝廷が認めた氏族」である限りは子孫には「姓」を出す事は禁令です。

    例えば、「青木氏」は「皇別の氏名」ですが、上記した様に「嵯峨期禁令」と「賜姓五役の役務」から「姓名」は在りません。
    全て「青木の氏名」です。
    そして、「氏族」ですから「氏人の血縁族」は、氏の「福家と四家」以外は「青木の氏名」は名乗りません。
    然し、「青木氏の姓」ではない訳です。
    ですから、「氏人名」は、「姓名」では無く、「氏の中の氏人の位置づけ」であり、本来は「氏人名」か「郷士名」と成ります。

    (注釈 江戸初期にこの「氏人」は「姓の武士」では無いと云う大議論が起こりました。
    論理的には、「姓の武士」の「社会」と成った以上は、確かに、「武士」では無いと云う事に成ります。
    そうすると、論理的には、「旧社会」では、「氏人、郷士」はその「役目」を果たしていた「元来の武士」と云う事に成ります。
    「氏人の郷士」は、「元来の武士」、つまり、「本来の侍」である事に成ります。
    「武の士」が「武士」であるとするならば、ではその務めをしていた元の社会の「氏人の郷士」の役目名の”「侍」を名乗るな”と議論されました。
    議論は平行線の末に「氏人の郷士」は、「武の家」(侍)であり、「武家」と成る論理に到達します。
    そして、「郷氏」の「氏」の中の「武家」と云う定義と成りました。
    これの「定義」の中で、平安期にはその「差配頭」を「家人」と成っていて、その「役目の呼称」を「御家人」と云う「区分け」が起っていたのです。
    この定義を下に、これを江戸期には、「氏人の郷士」を「御家人」と呼んだ決着をつけたのです。
    平安期に呼ばれていた「御家人」を其の侭に「江戸期の御家人」としたのはその証拠です。
    そして、「武士」で無いのなら、では、”郷士の「元来の武士」は何だ”としたのが、「姓側」からは「御家人」としたのです。
    結局は、「郷氏の郷士」で「氏族の氏人」は、元の「武士」であるとする結論に落ち着き、「本来の役目柄」より「武士」としました。
    数少なく成った遺る「青木氏」の「氏族」の「氏人の郷士」は、「姓」、又は「姓名」では無く、「氏人名」か「郷士名」と成りました。)


    ただ、注釈よりそうすると上記した「象徴紋」の「笹竜胆紋」は、当初は「部分変紋」を使用していたと観られていますが、「賜姓青木氏の笹竜胆紋」と「賜姓源氏の笹竜胆紋」と「賜姓佐々木氏の笹竜胆紋」は「竜胆の花」と「5枚の笹葉」との間の「軸の部分」を変化させて判別させていたと観られます。

    藤原氏が採用した「副紋」では無く、調査すると、文様の「笹」と「竜胆の花」の間の文様は、「賜姓青木氏」の場合は、「軸状」であり、「賜姓佐々木氏」の場合は、「円点状」であり、「賜姓源氏」の場合は「菱状」であったと観られ判別されていた模様です。
    これが何時しか「軸状」と同じに成っています。

    この原因は、奈良時代から平安時代の皇族の「純潔慣習」が保たれて「同族血縁」を繰り返した結果から「部分変紋」を維持する事が難しく成ったと考えられます。
    この「同族血縁」が制度的に続けられていた最後の時期は、「伊勢青木氏」の血縁を観ると嵯峨期の禁令を破った「清和源氏宗家源頼光系頼政の仲綱の子」との「養子血縁(京綱)」をしている事から、1180年頃から1185年までと観られ、これは平安末期です。
    その理由は、「武力」を持ち最大勢力を誇った「清和源氏」は、1195年で滅亡しました。
    後は、「同紋5家5流青木氏」か「近江佐々木氏」との「同族血縁」しか無く成っていました。
    その後には、「美濃、信濃青木氏との血縁」が観られます。
    依って、「部分変紋」が無くなったと考えられます。

    同じく補完族の「藤原秀郷流青木氏」も原則は使用していませんが、116氏の内30紋が「丸付き紋」と成っています。
    依ってこの「30紋」は江戸初期前後に発祥した氏が多いのです。

    「秀郷流青木氏」に関しては、あくまでも「丸付き紋」の単独で存在する「家紋文様」はなく、全て「分家」である事が裏付けられます。
    つまり、単独であっても「分家」が生き残ったと観られる「補完氏」であります。

    室町末期、江戸初期、明治初期に発祥した「青木氏」には、全てと云ってよい程に「丸付き紋」が目立ちます。
    これは、室町末期は下剋上と戦国時代を経て立身出世した者が、没落した氏の家紋などを使用する、又は、似せて使用した事から「家紋掟」に憚って「丸付き紋」を使用したことが原因と成っています。
    「下剋上」で元の主君の家紋を何等かな方法で使った事が大きく原因しています。

    江戸初期は、百姓から「武士に成った者」や家紋の持たない下級武士であった者が左程に姓族を構成するほどに大きくなくてもこぞって持つ様になりました。
    この時、土地柄や周囲の盟主豪族の家紋に似せて「丸付き紋」と「一部変紋」や「糸輪紋」や「囲い込み紋」の方式で変化を付けて「家紋文様」を作りました。

    この時期は、武士の間では急激に家紋が増えた時期です。
    家紋としての役割が、それほど無い家でも”家紋が無い家は武家ではない”とも観られた時期でもありました。

    (参考 当初「武家」とは「公家」に対して「氏」を構成する「侍集団」として主に天皇を護衛する武力集団として呼ばれたものです。
    室町末期ころから一般の「武士」までを呼ぶ言葉と成りました。
    そもそも、家紋の元と成った「象徴紋」は、大化期に「伊勢青木氏」から最初に発祥したものです。
    それまでは「部」を構成する「武力の職業集団」であった。
    これが「物部氏」が最初です。)

    「氏家制度」に沿って一族一門が結束する為の「ステイタス」としての役割では無く、「氏」が乱世で個別離散してまった為に結果として一族間でありながらも「家紋文様の違い」が起こる等の問題が起こりました。
    この時期、この様な家紋やルーツを手繰る専門の職業が生まれて、力のある者は良く似た家紋を作ってもらう等のブームが起こりました。
    室町期中期や江戸初期や明治初期に顕著に表れたのです。
    「明治初期」は、「氏家制度や身分制度の崩壊」で政治新体制下で「契約社会」となりました。
    この為に全ての国民が「明治3年の苗字令」と「8年の督促令」により「姓」を持つ事を義務付けられて、明治3年に「苗字令」、8年に「督促令」が公布されました。
    なかなかその習慣に馴染めない民衆は、一度にある日村全員が村の周囲の盟主の氏名や姓名を名乗るなどして苗字を持ち、苗字に合わせて家紋も同じ要領で持つ等の事が起こりました。
    「苗字」でも民衆は8年も掛りましたから、「家紋」に至っては文様を考案する等は程遠く、「類似する家紋」か「盟主の家紋」に「丸付き紋」を付けるなどの事で対応するのが限界でした。
    この時、憚って「盟主の家紋」に主に「丸付き紋」を付ける事などして「家紋化」が起こりました。

    例えば、全国各地に多い「下がり藤紋に丸付き紋」はこの時の家紋群で、群や村の全員が藤原氏の宗家本家筋だけが名乗る「藤原氏」を名乗り、又合わせて「丸付きの下り藤紋」の「家紋」も使う等の事が起こったのです。
    この様に、「氏名」である藤原氏等をあり得ない事の名乗りや各地では盟主の家紋に「副紋方式」である筈が「丸付き紋」が多用されました。
    家紋で代表される「源平藤橘」の「丸付き紋」はこの様な背景から生まれました。
    「丸付き紋」などの家紋群ではその発祥や出自元が判り、これで「掟破りの家紋」で8000と成ったのです。

    因って、そもそも、「丸付き紋」には、元来、正規には分家を意味しますが、「氏」や「姓」の発祥の時期によってはこの様な意味を持っているのです。
    この時期の「丸付き紋」の家紋は、「村の盟主(郷士などが成る庄屋、名主、村主、豪農)」の「分家」と云う意味を広義に捉えた手段に成ったのです。
    中にはそれなりの理由根拠があり、{盟主}が「農兵」として駆り出されその功労として「姓」と「家紋」の使用を主君より許されると云う行為を多用したのです。
    然し、「農兵」にしてみれば、彼らには生活の中に苗字や家紋を使うそのような慣習がそもそもなかったのですから、当時としては何の価値もありませんでした。
    但し、「明治の苗字令」で督促されて過去のこれを持ち出した事が起こりました。
    「盟主」にしてみれば文句の言えない事でした。
    明治期には、「盟主」は「地権の地主」に成り、「農民」には小作人として働いてもらわなくてはなりません。
    むしろ、「苗字と家紋」は新体制維持のためには是非もない事でもあり、従って、「維新政府」の「奨励と厳しい指導」があったのです。

    そこで、上記した様に「印章」から始まり「家紋化」したものには必ず其々次の特徴を持っています。

    1 由来姓
    2 時代性
    3 地理性
    4 氏名性
    5 特記

    以上の1から5の「其々の特徴」と「氏家制度の慣習」とを把握し勘案すると、その「姓の家紋」の発祥内容が確定できます。
    特に、「氏族」の「青木氏」に関する内容については明確になります。
    従って、「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は大方は評価できるのです。

    普通は、次の要領で「家紋掟」として判断されていました。

    a 嫡子が存在する場合
    本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
    嫡子が同紋を引き継ぐ。
    本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
    分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
    妾子には丸付き紋を付ける。与えない。
    因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。

    b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
    二代続きの養子婿の場合は、婿養子先家紋に先ずは変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。(養子先本家の許可)
    この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
    一度目の婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
    二代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する。(女系化 婿先系の新氏発祥)
    確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。

    c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
    養子(養嗣)の男子を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
    養子(養嗣)の婿先の家紋に丸付き紋を付ける。

    d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
    家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)

    大きな氏は、原則、「丸付き紋」で対応する事に成ります。
    然し、次の要素により「3つの変紋」の手段が採用される場合があります。

     「時代の変化」
     「地理的な変化」
     「氏(姓)の拡大」
     「全体の氏(姓)性」

    以上が原因で大きい氏(姓)は確実に把握が困難と成りました。

    この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には次の事が起こりました。

     室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
    「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった「氏の構成」が「新興勢力の姓」に新しく変化した。
    この為に「氏を示す家紋」も新しく発生した。

     江戸初期(下級武士 氏の判別)
    鎌倉期と室町期初期の「新興勢力の氏」は自然淘汰されて、「氏の安定期」に入り、それまで「姓」を構成しなかった下級武士が改めて興し独自の姓と家紋を持った。

     明治初期(庶民 家柄の誇示) 
    「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民が苗字を持ち姓をあらためて構成し始めた。
    当然に家紋も併せ持った。

    以上の3乱期には「第3氏」が「丸付き紋」を採用しました。

    (注釈 「第3氏」の呼称や判別方法に付いては、江戸期の「大日本史」の中で使用され本ルートではないとして区別されています。
    青木氏に付いても{第3氏}が記載されている。)

    この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
    この一つとして「8000の家紋群」の中の「主要な家紋」としての「家紋200撰」の様に増加しました。
    唯、「氏家制度」が無くなり「身分制度」の無く成った社会慣習の明治初期以降に使用された「家紋」が、この「家紋掟」を護られたかは疑問です。
    先ず護られていません。

    唯、a、b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でも、ただ「養子縁組」になると「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。

    現在では「家紋の持つ意味」も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない事と思います。

    そこで、次の「4つの方法」が採用されて来ました。

    上記のabcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。

    イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
    ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
    ハ 陰紋
    ニ 類似変紋(イの変化)
    ホ 副紋併用紋

    #1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
    主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。

    #2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
    「丸付き紋」が細分化すると、「丸」は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」を採用して分家筋を判別する方法を採用した。
    更に「部分変更」を加えて対処した。

    #3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
    「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。

    #4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
    更に「血縁性」が不明確に成り「傍系支流化」すると「類似別紋」を採用した。
    「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も起こった。

    大小の氏(姓)では時代性が異なるが、#1から#4の経過を辿っています。
    つまり、正規には、「直系尊属派」、「傍系尊属派」、「直系卑属派」、「傍系卑属派」等の四つに分けられ、この中で家紋が変異して引き継がれる。
    ”「源氏族」だ”と云っているのは、殆どは、良くて「傍系尊属派」か、「直系卑属派」に成ります。
    要するに、「支流」なのです。

    「家紋」は本来は「6つの掟」に成る。

    1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
    2 嗣子と妾子分類
    3 宗家の許可
    4 配流子孫の区別
    5 男系跡目の継承
    6 養子縁組(養嗣、義嗣含む)
    7 嫡子尊厳
    8 身分家柄の保全

    1についての説明
    先ず、「宗家」が家紋を決めます。そこから枝葉が拡がります。
    又、それぞれの分家の本家ができます。そして、嫡子以外は分家となります。
    これを繰り返して行くと、1の様に呼ばれる枝葉が拡がります。
    この6つに更に宗家から分派まで出来る事になります。
    この大元が「総宗本家(藤原氏)」となります。
    この時、「家紋の使用」は、「氏家制度」(室町期中期以降は姓家制度と云った方が正しい。)ですから、それぞれの本家筋がこの「伝統」を重んじ使用許可を出して決めます。
    「氏家制度」の中では一族の「純血」を出来るだけ守るためにそう簡単には使用を認めません。
    この許可は本家を継いだ「嫡子」が行います。
    「嫡子」は何も長男とは限りません。能力のあるものが「嫡子」となります。
    長男が「嫡子」と成る事を決めたのは、「江戸初期」の徳川家康が決めました。
    徳川家の後継ぎとして定めたものです。これに諸国の大名が習ったものです。
    「氏家制度」の中では実力のある者が成ります。
    「嫡子」が出来なければ、氏の血筋目が立ちませんし、「長」がいないことにも成る訳ですから、当時の「妾」の存在の概念は罪悪感はなく、「子孫」を残すと云う人としての大命題である為に「氏家制度」では普通の概念でした。
    唯、とは云え「正子」と「妾子」では身分上で原則区別されます。
    然し、「正子」に「妾子」が勝れば「子孫繁栄存続の目的」のために「妾子」が成ることがあります。
    「正子」が無ければ「妾子」が「嫡子」に成ることがあります。

    この為、大きい氏、又は、姓では「妾子」は次ぎの「3つの身分」に分けられます。

    妻の身分
     后:きさき (正妻)
     
    夫人
     妃:ひめ、
     嬪:みめ、

     采女:うねめ

    正妻と次ぎの2つの妻との間には一つランクがあり、更に妥女との間にも一つランクがあります。
    当然、この子供が独立するとなると、歴然としてその扱いには差異があり、「家紋の継承」が問題と成ります。
    「正妻の身分」に子供が居ないとなると必然的に下に降りて行きますが、「嫡子」が江戸時代までは原則は正妻よりランクに従い長男と成りますが誰になるかは別問題です。
    これは大きい氏や姓には、正妻等の血族結婚による弊害を避ける事もあり、戦国時代で優秀な者を嫡子にしなければ氏や姓の存続は保てない事情もありました。
    従って、「本家、宗家」はこのシステムで血縁性と家紋継承を保つのです。

    「正子」がいる場合は、「采女」の身分まででは、「丸付き紋」は当然の事として「部分変紋」、又は「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序でかなり厳しい扱いを受ける事に成ります。
    この「3つの身分扱い」は各氏で血縁性を担保するために「掟」として定めていました。
    一般的には「副紋」「丸付き紋」「部分変紋」「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序となっています。
    「陰紋」は、その意味合いや目立たない事から比較的に使用を嫌われていました。
    「家紋」は、「部分変紋」の差異が小差であるから「類似変紋」へ、「類似変紋」の差異が大差であるから次第に「別紋」へと変異しているのです。

    この様な「家紋掟」の中では、分家以降は余程その子孫の枝葉が大きくならないと勝手に家紋を決める事はできません。
    依って、主要な姓の大豪族は、原則として「丸付き紋」は使用しません。多くは「副紋方式」です。
    分家の分家以降は主に普通は、「丸付き紋」が多いのですが、これは、普通の姓、氏で、分家である場合か、他氏の無断使用の場合かによります。

    然し、ここで「丸付き紋」に欠点があります。
    分家の分家の場合は「丸付き紋」は二重の丸となり使えないことが起こるのです。
    そこで「丸付き紋」に「部分変紋」が起こるのです。
    そこで、又、更に分家扱いが起こると「部分変紋」にも限界が起こる為に「類似変紋」と成ります。
    この「類似変紋」に来ると「変化の多様性」、つまり、差異が大きく取れる特長を持っているので「別紋」に至るまでには時間的な経過期間を保てるのです。
    この様にして「一族の家紋」は変化して行くのです。

    「血縁性の経緯」を一定に保つために「戸籍簿、系譜」の様に氏家制度の中ではそれを宗家本家が管理している事に成ります。
    然し、この管理が江戸中期以降緩んだと云う事に成ります。
    「宗家本家の力」が落ちた事を意味し、氏家制度も低下した事に成ります。
    明治期に入り氏家制度が崩壊し、「家紋の使用」は庶民に広がったがその家紋の持つ意味合いは「9つのステイタス」からほど遠く成り、「氏の誉れ」と云う単位から「家の虚勢」へと変化していったのです。
    「家紋掟」は護られる環境では無く成っています。

    例えばそれが、「藤原秀郷一門」の「家紋掟」ではないあり得ない「丸に下がり藤紋」が出来て庶民のせめてもの搾取に依る「虚勢行為」と考えられます。

    例えば、藤原氏の「下がり藤紋」や「上がり藤紋」に「丸付き紋」は、元来、「家紋掟」の中には無く「副紋方式」ですので、「第3氏」である事になります。
    この様に、高位の立場から「源平藤橘」の紋は、主に「副紋方式」ですが、「源平橘」の氏の子孫拡大はそれまでに至っていません。
    依って、これを捉えてこの3氏には「丸付き紋」の「未勘氏」が実に多いのです。
    殆どは、「未勘氏」か「第3氏」です。

    「橘紋」は藤原氏に圧迫されて子孫を多く広げる事は出来ず大衰退を余儀なくされました。
    従って、この衰退を末裔は忌み嫌い、橘氏自身がこの「橘の紋」を使う事をやめると云う事が起こりました。
    依って、「第3氏の丸付き紋」の「橘紋」も著しく敬遠されました。
    「丸付き紋」になる程に「橘紋」は使用されなかった筈なのです。
    然し、現実に子孫もそれだけに広がっていないのですが、これを見越して実に「第3氏」が多いのです。
    明らかに、明治期の第3氏であることが判ります。

    ところが、この「橘紋」には上記の由来性、時代性、地理性や宗派性に先ず矛盾し、尚且つ、「丸付き紋」が実に多いのです。
    この「氏」はその地理性が極めて限定されいて大変に「氏」が小さいのですが、第3氏として矛盾しての名乗る氏が驚きを超える程に多いのです。

    平家の「揚羽蝶紋」も、滅亡して関西以西に逃亡して農民として隠れ忍びましたので、この家紋を公に使う事が憚られ室町期に入ると表に出てくる事が再び起こりました。
    この為に史実から末裔の素性が明確になりません。
    各地で「農民」として生きていた為に「丸付き紋の揚羽蝶」が出来る程に管理されていなかった筈なのです。
    「揚羽蝶紋」に対して、実は「平家の分家」には「臥羽蝶紋」もあるのです。
    平家には「丸付き紋」は、元来なくこの様な「家紋掟」により分家筋は実は「臥羽蝶紋」が使用されていたのです。
    「丸付き紋の史実」がとれない平家の「未勘氏」も子孫の数より数倍も多い氏が驚くほどにあります。

    源氏には「11家11流」がありましたが、清和源氏、村上源氏、宇多源氏、嵯峨源氏の末裔が何とか政争の中でも生き残りましたが、中でも引き継いだ鎌倉時代の清和源氏の河内源氏の頼朝の末裔が滅亡して史実は子孫を遺せなかったのです。
    何とか「不入不倫の権」で守られていた「賜姓青木氏の5家5流」と「近江の佐々木氏」、「宇多天皇の滋賀佐々木氏」がこの「笹竜胆紋」を維持して来ています。
    「清和源氏の未勘氏」が膨大と云う言葉で表現出来る程に多いのです。
    何んと家紋から観ると1165氏も名乗りを揚げているのです。
    少なくとも1/100も無い筈です。「未勘氏」を入れると2000前後にも成ります。

    普通でも、身分家柄上同族血縁を原則としている為に、これほど清和源氏が子孫を遺す事そのものが難しいのに源氏だと名乗っている氏があるのです。
    そうだとしたら、「源氏の末裔」を尽く潰した鎌倉幕府の北条氏らは放って置く事はありません。
    鎌倉幕府の後の政権を取った足利氏も家紋の違う「傍系支流」ですから、本流の末裔が生きているのであれば足利氏の室町幕府に参加していた筈です。
    そして、「副紋」も「丸付き紋」等も使わない「掟」のある「氏」であり、「嵯峨期の詔」で禁令が出ているのに、「家紋」は「笹竜胆紋」ではなく「氏名」も異なる氏が源氏だと名乗っているのです。
    ほとんどは史実がありませんので、殆どは「搾取行為」です。

    因みに、上記した藤原氏に殆ど抹殺され、氏名家紋を使う事さえ嫌われた橘氏ですが、家紋から観ると86氏も名乗っているのです。
    藤原秀郷一門でさえ永嶋氏は34氏、長沼氏が52氏、進藤氏は48氏、長谷川氏は111氏、もちろん青木氏は116氏で、「関東屋形」と呼ばれて平安、鎌倉、室町期、江戸初期までに全盛を極めたこれらの秀郷一門の氏でさえせいぜい30−50程度です。
    それが「橘紋」が86もあると云うのです。
    未勘氏を入れると150くらいにも成ります。
    この意味合いを考察ください。

    ところが、藤原秀郷一門の「主要5氏」で観てみると、全部で「361氏」ですが、家紋から観てみると不思議に「371氏」なのです。
    未勘氏を入れると凡そ500程度に成ります。意外に少ないのです。
    これは、一門が「第2の宗家」として「秀郷流青木氏」を中心にして管理されていた事を物語り、なかなか「第3氏」が秀郷一門の氏名(家紋)を名乗れなかった環境があった事が云えます。
    名乗れば天下の武力で潰されたのです。

    つまり、代表的なものとしてあげれば、傾向として「源平橘」は滅亡しているので氏の「厳しい管理の目」が無く自由に名乗れると云う現象があり、室町末期、江戸初期、明治初期の3乱期に起こっていた事を意味します。

    賜姓青木氏でも、或る伊賀の立身出世した者が、元近江青木氏が滋賀に移動して再び近江に戻りましたが、一部滋賀に残った全く絶えた分家を乗っ取り、滋賀の青木氏を名乗り、その近江青木氏本家がこれに異議を申し立て2度も戦いをしました。最終、秀吉の承認の下で決戦をし滋賀から近江に戻った近江青木氏本家は負けてしまったのです。伊賀上田の者は滋賀青木氏を堂々と名乗り、後には滋賀青木氏本家を名乗ると云う事件さえ起こりました。そしてこの滋賀青木氏は著しい子孫拡大を果たしました。

    藤原氏に付いても群村単位で農民が名乗りましたが、氏家制度の管理が解き放たれた明治期に成って名乗った事、秀郷宗家本家筋が名乗る氏名を名乗ったが、家紋はなかなか使えなかった事と丸付き紋等を使用した事によるものと考えられます。
    藤原氏全体では未勘氏があまりに多すぎて検証は困難です。

    この様に、絶えた有名な氏を名乗った「虚勢」の未勘氏が実に多いと云う事なのです。
    氏家制度の慣習の中では上記した5つの条件から検証するとそれを明確に検証できるのです。

    この現象は「源平籐橘」全てに云える現象です。如何に室町末期や江戸初期に武士となった者が搾取して家柄身分に「虚勢」を張っていたかが判ります。
    殆ど、5つの条件 即ち、由来性、時代性、地理性、宗派、特記や当時の慣習などから調べると矛盾が出てくるのです。

    「伊勢青木氏」よりはじまった「賜姓紋の笹竜胆紋」は「副紋」も一切使用していませんので、「福家」と「四家20家」の「総紋」の継承と成ります。
    従って、「丸付き紋の笹竜胆紋」は、「未勘氏」(明確でない氏か史実として認められるが継続した証明がとれない氏の事)か「第3氏の使用」となります。

    (「姓」を出しませんので、「本家、分家の制度」を執りません。従って、「象徴紋」である事も含めて「家紋の変紋」もありません。)

    「笹竜胆紋」や「下がり藤紋」の「青木氏」は、「各青木村」を形成して「嫡子」がいない場合とか死んだとかした場合は、「青木村」を形成している事により「縁続きの者」を迎え入れて同じ血筋を保持し、「象徴紋」を保持する事が出来たのです。
    これを護る「宿命的な伝統」のそのような「仕来たり」があったのです。

    (注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」により「氏名」を「村名」に出来るのは「二つの青木氏」だけです。
    あとは全て地名を村名とする事に成りますし、「姓名」も「村名」とする事は出来ません。)

    「笹竜胆紋」は「5家5流の青木村」と「24の国の青木村」、「下がり藤紋」は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする地域に「116氏の青木村」と「24国」に「青木村」を形成しています。
    従って、「宗家本家筋」が血筋と家紋維持のためには「縁者」を迎え入れる事は「氏家制度」の中で管理されていればそう難しい事ではありませんでした。

    「笹竜胆紋の青木氏」と「下がり藤紋の青木氏」との相互血縁も母方血縁族ですので不可能ではありませんでした。
    例えば、次の様になります。

    「讃岐藤氏の秀郷流青木氏」が「足利氏系青木氏」や「甲斐の武田氏系青木氏」を保護し血縁、
    神奈川の秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を保護し血縁、
    伊豆の賜姓青木氏と神奈川の秀郷流青木氏が血縁、
    その伊豆賜姓青木氏と本家筋の伊勢賜姓青木氏との血縁、
    信濃賜姓青木氏と美濃の秀郷流青木氏との血縁、
    その「信濃賜姓青木氏」と「伊勢賜姓青木氏」とが江戸末期まで各1300年程の歴史を持つ「伊賀和紙と信濃和紙」で結ばれた長い期間の血縁関係、
    「皇族丹治氏系青木氏」と「入間秀郷流青木氏」との血縁

    以上の様に複合した血縁関係等の多くの史実があり、恐らくは、これ以上に慣習として頻繁に更に相互間で行われていた事が予想できます。

    これは同じ村単位だけではなく、何処に血縁族が居て互いの宗家に話を通せば相互間で紹介し合える「仕来り」が生まれていた事を物語ります。

    秀郷一門の「第2の宗家」の「秀郷流青木氏」は、この管理を江戸初期頃まで一元化して管理したいた事が判ります。

    「氏家制度の青木村」は、「只一族が集まる」というだけではなく、「9つのステイタス」の家柄、身分、家紋、伝統、血筋等を護るために「血縁関係のシステム」、即ち、「氏家制度の根幹」を担っていたのです。

    この様に同じ「青木村」だけではなく、各地に分布する「青木村」から迎え入れる事も頻繁にしたのです。
    この様にして広い範囲から「宗家、本家、分家、支流、分流、分派」から迎え入れる事で血筋の弊害をなくしていたのです。
    その証拠の一つに、「甲斐武田氏」が滅びた時、「甲斐賜姓青木氏」、「武田氏系青木氏」、「諏訪族青木氏」ら一族一門が「藤原秀郷一門」を頼って神奈川や栃木など、四国讃岐、土佐、阿波にも逃げ延びた史実が遺っています。
    これは真に「宗家本家筋」のこの「管理」が行き届いていた事を証明するものです。

    一般の「丸付き紋」は、この事から「宗家、本家、分家、支流、分流、分派」の5つの中で血縁性の高低で直系性が無く成る場合に多く使う事を求められました。

    この「6つの流れ」の中で、「女系」と成り新たに「氏」を発祥させる事となると、ここで始めて「丸付き紋」の家紋が出てくる事に成ります。
    「丸付き紋」で違いを出し「支流性」を表現して宗家との区別をします。
    始めから「丸付き紋」の氏はこの結果で生まれるのです。
    「丸付き紋」の家が血縁性が低下した場合に「丸付き紋」に更に「丸付き紋の変紋」は物理的に困難ですので、「部分変紋」や「囲い込紋」や「陰紋」が一定の規則の下で使われたのです。

    「家紋200選」から観ると、むしろ「本家」より「分家」が勢力を持った結果、3割もの「丸付き紋」が多い事になります。

    2番目は「嗣子と妾子扱い」に付いて。

    これに当たる場合は、「嫡子」が指示しない限りは「嗣子」は原則は「丸付き紋」は使用しない事になります。
    しかし、「嫡子の指示」が無い場合の「妾子」は、原則は使用する事になり得ます。
    ここに区別がつきます。
    只、「妾子」が「嫡子」となった場合は自らが決める事になりますので問題はなくなります。
    ここに、「嫡子」、「嗣子」、「妾子」の問題が出て類似家紋が増加する事に成ります。
    「氏家制度」の中での「妾の概念」は、制度を維持する為の方法に主眼が置かれています。
    そして、元来は「男子子孫」を遺す事に目的があり、「妾子」の「妾の差別的な概念」が強く生まれたのは「長男=嫡子」となった江戸期に入ってからの事です。

    3番目は「宗家の許可」です。
    「氏家制度」は宗家を頂点にして一門を構成しています。
    当然に、「勢力」を持つ宗家から「経済的、武力的、政治的な保護」を受けて成り立っていますから、この組織からはみ出しての勢力拡大は困難です。
    氏家制度とは、要するに一族の「互助システム」ですから、「家紋」はその「ステイタス」ですからその許可は「宗家の許可」を必要とします。
    何事も「宗家」に睨まれると「家の存続」は元より「家紋」の使用も難しい事になります。

    「家紋類」を分析すると、これにより現実には「3割近く」が「丸付き紋」の使用を指示された事になります。
    そして、これは「宗家本家筋」より「丸付き紋」の「分家筋の方」が勢力を持った氏が3割近くもいた事を物語ります。

    4番目は「配流子孫」の区別です。
    平安初期から「氏の戦い」が起こり始めて、「負けた側」が遠地に追いやられる事に成ります。
    この史実として、各地には配流されましたが、その史実は認められるが、「戦い」や「勢力争い」などに敗れて「島流し」や「逃げ延びる事をしたりして、その地で再び子孫を広げた場合などの時にその確たる証拠等がない場合のその「家紋」の使用は、原則は「丸付き紋」を使う事に成ります。
    「皇族、賜姓族の青木氏」では、「5家5流」以外に「嵯峨期の詔」により後に「皇族青木氏」を名乗り、史実として認められる特例として「日向青木氏」等の3氏の「丸に笹竜胆紋」の「青木氏」が正式に認められます。
    「源氏」や「青木氏外」の「丸に笹竜胆紋」は、上記した経緯から明治期か「江戸期の第3氏」と成ります。
    比較的この場合の「家紋」が多く、「源氏」や「藤原氏」や「橘氏」や「京平氏」等の「家紋」にはこの「未勘氏」のものが大変多いのです。
    源氏等を名乗る氏の9割は、この「配流子孫の類」の「未勘氏」です。
    この「配流子孫の未勘氏」には、史実が明確な子孫と、そうではない史実が発見されない子孫に分かれています。
    ほとんどは言い伝えだけで「史実の無い未勘氏」です。

    5番目は「男系跡目の継承」の原則です。
    「氏家制度」ですから「男子」が跡を継ぐ事になります。
    当然に、上記した「嫡子、嗣子、妾子」に分けられます。
    江戸の初期までは、「嫡子」は原則は「正妻の長男」と云う事では必ずしもありません。
    一族一門を束ねるだけの器量を保持しているかどうかが問われる時代で、且つ、又その制度でした。
    因って、下の者に器量があれば「嫡子」に成る事もあります。
    当然に内部で「跡目争い」が起こります。
    それを乗り越えての試練でなくては一族一門を束ねる事は出来ないと考えられていました。
    「必要悪の条件」の様なものでした。
    中には、「本家」からではなく「分家」に良い「嫡子」とみられる者が居れば「養子(養嗣)」に迎え入れて「長」に据える事も行いました。
    比較的、「分家」から「養子」を迎える事が多かったのです。
    「本家」に「男子」が生まれるとは限りません。
    そうなると、「分家」から迎え入れて「血筋や家紋」を保つ必要が出ます。
    大きい姓や氏では、縁者関係まで広げて探し出して「本家筋の血筋」を護る事になります。
    そうでない「氏や姓」の「分家支流筋」は、「女子」に婿養子、養子婿を迎えて「嫁」をとる方法が起こります。

    6番目は「養子縁組」です。
    原則は「丸付き紋」です。
    「女子」に「婿養子」をとると、「男系の制度」ですから、一時、「婿養子の家紋」を使います。
    「婿養子」に「男子」が生まれると、その「男子」が「跡目」と成れば、「家紋」は元の家紋に戻ります。
    然し、再び、「女子」に成れば「婿養子」を迎える事に成ります。
    この様に、「2代」続いて「女子」となると、その「家」は「女系」となりますので、「男系の最初の婿養子先の家紋」が定着してしまいます。
    つまり、「家紋」は変化して「新しい養子先系列の姓」を発祥させた事に成ります。
    この場合は、元の家紋に「丸付き紋」は使えなくなります。
    又、多くは「養子先」からも本系列ではないので「養子先家紋」に「丸付き紋」とする事が多く起こりました。
    この様に成らない様に、「宗家本家筋」だけは無理でも縁者関係から「婿養子」を何とか探してきます。

    「女子」もなく「養子婿」を迎えて家を継続する場合です。
    多くは、これは「分家筋の事」となります。
    この場合は、「縁者」から迎えない場合は「血縁関係」は無くなります。
    「女子」を縁者から迎えて、それに「婿養子」とする場合もあります。
    これは「家」を継続すると云う事だけの目的で採る処置です。
    従って、江戸時代では、「武士」で「家紋の持った家」からの「養子婿」であればそれを「家紋」とする事に成ります。
    然し、どうせ許可は下りないので。「本家からの許可」は多くは無視した様です。
    それでも「摩擦」を避けるために「丸付き紋」を使用する場合が多かった様です。
    元々、問題が起こらない様に「丸付き紋」の場合は、「丸の太さ」を変えたり中の一部を変えたりして新しいものを作りだしました。
    この場合は「家紋」も持たない「下級武士」などそうでない場合が多かったので、「家紋」は無く新たに定める事も起こりました。
    しかし、大きな姓や氏では出来ない事ですが、江戸中期以降では「男系の血縁」の姓が途絶えても「家紋掟」を無視して「家紋」も継続してしまうと云う事が起こりました。
    ほとんどの「武士」が「家紋」を持ち始めたのは、江戸初期からで、「旗本、御家人」等にブームが起こり、こぞって持つ様になりました。
    従って、「江戸初期からの発祥」が殆どなので、「本家の許可」の云々の問題はあまり起こりません。
    ルーツを手繰れてもせいぜい普通は江戸初期までで室町期に入れる姓は少ないのです。

    その点では「青木氏」は、「平安期初期まで遡れる氏」です。
    「家紋8000」の中では、武士の場合は、戦国時代を経てきた為に「子孫」が少なくなり、殆どはこのタイプです。
    農民等から身を興して新たに姓を興した場合が多かったのです。
    又、先祖が「武士」であっても、そのルーツが下剋上や戦国時代で消失して判らなくなるなどして新たに姓を興したのです。
    この為に、「未勘氏」が多く成ったのです。
    使用した家紋のその姓に憚って「丸付き紋」とする事が多く起こりました。
    この場合は中の一部も変えると云う方法を使い争いを避けました。

    七番目は「嫡子尊厳」です。
    「氏家制度」の中では「嫡子」が「絶対的権限」を持っています。
    「嫡子」に選ばれると、「他の嗣子妾子」は、その「嫡子」の心一つで「家紋」を引き継げるかどうか決まります。
    「家紋」を引き継げると云う事は、一族の中に残れるかどうかが決まる事です。
    「家紋」を継げるという事は、それなりに「財産分け」がある事に成りますが、「嗣子妾子」はほとんどは他家に養子に出る運命です。
    勢力を拡大しない限りは、「嗣子妾子」を抱え込むと姓や氏の財政が圧迫するのです。
    むしろ、他家に出す事で勢力範囲が拡大する事に成るので積極的に行われたのです。
    どちらかと云うと、結婚適齢期に「婿養子」に入ると云うよりは、「小さい子供」の頃から預けると云う習慣が多かったのです。
    その後に、「正妻」や「妾」に「嫡子」が生まれたりすると、「養子」には「家」を新しく興して「傍系支流」を発祥させたりしました。
    従って、「家紋」が変化する事の方が「氏家制度の中」では「正常な事」であったのです。
    その為にも「宗家本家」だけは、「家紋や伝統」を絶対的に護る必要が生まれたのです。
    ただ、乱世であったことから「婿養子」に出て「男子」が多く生まれた場合でも、「養子先」を子供に任して実家に「跡目の問題」など絶えたなどの事が起こると「実家」に戻る等の事が頻繁に起こりました。
    「固定された嫡子」が「長男」と考えられる様に成ったのは、江戸初期からで家康がその先鞭を付けたのです。

    八番目は「身分家柄の保全」です。
    「氏家制度」の中では「血縁はつりあい」で行われます。
    その為には、「家紋の判定」が重要に成ります。
    「婿養子」や「養子婿」では、「つりあい」をある程度無視した形で行われました。
    特に、「婿養子」に「男子の子供」が生まれる事で解決するので家紋問題は解決します。
    「つり合い」のとれない婚姻の場合は、「家紋継承」が許されるかは問題で、「丸付き紋」を指示されたり、「影紋」や「家紋の一部」を変える「変紋」を要求されるか「囲い紋」を要求されるかは「本家次第」と成ります。
    「宗家本家筋の血縁」には「吊り合い」が重視されますが、「分家以下」ではその様な事を云っていては「跡目の継承」は困難となります。
    「養子縁組」は、この様な事をある程度無視しなければ成り立ちません。
    そこで、このままでは「氏家制度」が崩壊して行きますので、「養子縁組」には「家紋の継承」には統一的に「一つのルール」を設けていたのです。

    以上の様な理由で一族の家紋は変化して行きます。

    故に、「藤原秀郷流青木氏」では116氏にも成り、「皇族賜姓青木氏(皇族青木氏含む)」では「24氏(29氏又は21氏)」に成っています。
    この様に長い間に、「一族の家紋」は、元の「総紋」を「宗家本家」がどんな事が起こっても引き継ぐ苦労が伴います。
    然し、上記の理由で分家筋では緩やかに拡がって行きました。

    その様な「家紋継承」にはそもそも次の様な方法があります。

    A 「総紋」と云うのがあります。
    これは「宗家、本家」が引き継ぐ一族の始めからの紋で、それが「氏(平安期)」が拡大すると「代表紋」に成るのですが、これが「家紋掟」により、「分家と成った者」が次第に「家紋」が変化して行き「藤原氏」で云えば361氏の家紋数に成ったと云う事です。
    その「元の家紋」が「総紋」と呼ばれるものです。
    藤原秀郷一門で云えば、「下がり藤紋」と云う事になるのです。
    この「総紋」と「藤原氏」の氏名を継承している事は361氏中に限られた数の24氏と成る筈です。
    中でも「氏名」に付いては、「藤原氏」には「ある掟」があり、「藤原氏」そのものを「名乗れる氏」は、武蔵入間の「総宗本家筋」だけと成ります。
    つまり、「氏名」も「総称」なのです。
    それを名乗ると成ると、"藤原朝臣青木左衛門上尉・・・・"と成ります。
    この「総紋」を継承するには、「男系跡目」を必ず果たさなくてはなりません。
    その為に「宗家本家筋」では、「妾子の方法」も必然的に必要であり、それだけでも「宗家本家筋」に肝心の「男子」が生まれなかった場合には、一族一門より「男子」を「養子婿」に迎えて嫁取りをします。
    「女子」がいれば婚姻し「婿養子」としますが、居なければ縁者から先ず「養女」を迎えてその「婿養子」をとる等して縁者による「男系跡目の方策」を構じて何等かな方法で宗家本家を維持し、家紋の一族紋の「総紋」の伝統を維持します。
    ここが、「宗家本家筋」の大変なところなのです。
    当然に、「総宗本家」を持つ様な大きい氏では、確実に維持できる何等かな方法を構築しているのですが。


    本家と分家の違いを出す方法
    B 「副紋方式」(主紋に他の血縁族の家紋も併用して使用する)があります。
    本家筋では養子を迎える努力はするが、どうしても叶わない場合は「総紋」にその迎えた養子先の家紋を併用する方法、或いは、「総紋」の中にその養子先の家紋かその一部を組み入れて一つの家紋を作り上げます。
    「藤原秀郷流青木氏」の本家筋では、「下がり藤紋」にこの「2つの方式」の何れかを採用しています。
    「宗家本家筋」は依然として「下がり藤紋」です。
    領国の宗家筋は、「総紋を維持する環境」が周囲に整っていますので、「総紋方式」で継承して行けますが、地方に定住した本家筋には総紋維持は困難ですので「副紋方式」を用いたのです。
    本家筋に近い分家筋では、ここまで縛られませんが、「丸付き紋」を使わない「下がり藤紋」に「藤の花数」を変えるなどして変紋します。
    この意味から良く見られる現象ですが、そもそも、「傍系支流」が「総紋」の「下がり藤紋」である筈がなく、血縁性から「副紋」でもなく「丸付き紋」でもなく「別紋」である筈です。
    藤原秀郷一門で「下がり藤紋」を家紋としているのは、「青木氏を含む主要7氏」だけで、「藤原氏」だけでも系列から見て「9氏」しか使用できない筈です。
    「主要7氏の宗家本家筋」は、結局、養子縁組が起これば「副紋」を使用する事に成ります。
    「361氏」を監視監督しこの「氏の管理」をしていたのが「第2の宗家」と呼ばれた武力を持ち内外に睨みを利かしていた一門一族の「大護衛団の青木氏」なのです。

    C 「丸付き紋方式」
    明らかに分家となると、その氏が定めた「家紋掟」により「養子先の家紋」に変化して行きます。
    「丸付き紋」を使用する「氏」は、「宗家本家」に伺いを立てて「丸」を付けますが、許可が得られない場合は「養子先の家紋」と成ります。
    「嗣子」となった「妾子の場合」は、この対象に成ります。
    「妾子」は多くは他家に養子と成ります。
    この「妾子」が「養子」に入った先で「男系」に恵まれなかった場合は、実家に家紋の使用の伺いをたてますが、「妾子」である事を理由で先ず許可が得られず、多くの場合は「丸付き紋の使用」と成ります。

    従って、基本的には「丸付き紋」は「分家紋」です。
    一部に「女系」に成ってでも「分家」と見做して使用している「氏」があります。
    この様に「分家の広義」の「捉え方」が広まり、「分家」の「一種の分流や分派」はこの「丸付き紋」と成ります。
    「血縁性の乏しい支流」に「広義」に依って「丸付き紋」を使っている場合が多いですのでが、元来は「別紋」である筈です。
    あくまでも、「丸付き紋」は、原則として「同門一族」に「分家筋以下」を区別させる為に用います。

    この他に次のような場合があります。
    有名家紋の様な「他氏の家紋」を無断拝借する場合に多少なりとも遠慮して「丸付き紋」を用いました。
    この現象は、室町末期、江戸初期、明治初期に起りました。
    本流ではないが、「血縁性の低い支流」であるがどうしても「本流の家紋」を使用したいとして「丸付き紋」を無断使用する事が室町末期に起こりました。

    更には、進んで直接血縁がなく自分の親族がその縁者である場合に「丸付き紋」を用いたと云う事が起こりました。
    縁者の縁者の場合であるので無断使用が多かったのです。

    この様に、室町末期に一族の見方を誇示する事から、又その「一族に大きな背景」がある事を匂わせて身を護った事から「丸付き紋」が使用されました。

    D 「影紋方式」
    本家に遠慮して家紋の明暗を逆にして用いる。
    「丸付き紋」を使用せずに「家紋の明暗」を逆転させて、「血縁性のある支流」を敢えて誇示させる方式である。
    室町末期に多く用いられました。

    E 「変紋方式」
    文様の一部を「局部的」に変更して用いる方式である。
    「軸、葉、花、花弁等」の「形や数」を変更して用いる。
    「宗家」から「同紋の使用」が許されないので、一見して同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。
    特に、「妾子の場合」にこの方式を多く採用した。
    一般の家紋はこの方式から広まった。
    この方式からは血縁性が薄れる方式である。
    室町末期、江戸初期、明治初期に広がりました。
    特に、江戸初期に「御家人や旗本」に多用されました。

    F 「囲い紋方式」
    「角舛」や「糸輪」で囲って用いる方式である。
    「糸輪」は「丸付き紋」に似せて用いたもので「変紋方式の一種」である。
    江戸中期以降に用いられたもので、「土豪集団、職人集団、氏子集団、檀家集団等」の「集団紋」に多く用いられました。
    明治期には、姓の庶民はこの「神紋」や「寺紋」を使いましたので爆発的に増えたのです。
    元の文様は、「神紋や寺紋」から発展し、「小集団同士」が結束して「自主防衛の連合体」を作りその「集団紋」としたものに多く観られます。
    「文様として囲う事」で「集団性」を表現したものです。
    それを家紋としたものです。

    この様な氏家制度を保つための社会慣習があり、「家紋」はその過程で変化して行くのです。
    従って、各姓や氏の家紋がこの上記する方式の何処に属するかにより氏家制度の中で大方の先祖の姓や氏の位置するところが判るのです。

    「丸付き紋」の青木氏
    以下39の青木氏に関わる「丸付き紋」
    ・丸に州浜、丸に三つ盛州浜、・丸に抱き角、・丸に違い鷹の羽、・丸に蔦、丸に陰蔦、・丸に木瓜、丸に横木瓜、・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に三つ柏、丸に蔓柏、・丸に梅鉢、・丸に揚羽蝶、・丸に九曜、・丸に三つ星、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、五瓜に丸に三つ引き、・丸に桔梗、・丸に三階菱、丸に三つ目菱、・丸に剣花菱、・丸に花菱、・丸に抱き茗荷、・丸に三階松、・丸に根笹、・丸に違い矢、丸に八矢車、・丸に隅立四つ目、丸に三つ目、・丸に扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・丸に並び扇、・丸に立ち沢潟、丸に三つ鱗、丸に青の角字

    ・印は「家紋200選」に撰ばれている「丸付き紋の家紋」です。
    つまり、この「青木氏の丸付き紋」の「氏」は「大豪族の氏(郷氏)」です。

    「丸付き紋」中の大豪族28紋/39紋で72%も占めています。
    「青木氏全体361氏の家紋」からすると、「家紋200選」の「丸付き紋28紋は7.8%」を占めています。
    全体の39紋では11%となります。
    「家紋200選」の全体から観ると28/200で14%です。

    「青木氏」は「丸付き紋」の分家筋でも家柄、身分に釣り合いを合わせて血縁している事が云えます。

    この分家を分家、分流、分派、その他で分析すると、次ぎの様に成ります。
    分家 21家 79.5%
    分流 12家 30.7%
    分派  5家 12.8%
    其他  1家  2.5%

    殆ど、直系の分家で血縁(79)しています。
    それも大豪族との血縁(72)です。

    この「丸付き紋の氏」は次ぎの様な血縁で成り立っている事が云えます。

    1 男系跡目が2代続きで叶わず変紋した氏。
    2 直系の分家筋で丸付き紋に変紋した氏。
    3 同族血縁した氏。

    先ずは、分家筋の氏に「1の事」が起こり、他氏から養子縁組で変紋して家紋が増えて行くのです。
    然し、以上の内容データから観ると、1-2にて氏が拡大して家紋が増え、そこで、3-2-1の順に氏が構成されている事に成ります。
    これほどの「家紋200選」にある「丸付き紋の氏28氏」もある事は、1と2で起こった事とは、氏家制度の中での慣習からは、血縁関係は出来難いと考えられます。
    大豪族を幾つも一門に持つ「藤原秀郷一門の氏」には血縁に関してはそれなりの明確な戦略があったのです。

    イ 24の赴任地には土地の豪族との血縁族を拡げて勢力基盤を固めている事、
    ロ 氏家制度の本筋でもある「血縁にはある一定の釣り合い」を求めている事、
    ハ 氏が大きく成る弊害を克服する為に各地の同族間の純潔血縁を求めている事、

    この「3つの戦略」を遂行すると、一つの「血縁上の問題(良い子孫が生まれない事)」が生まれる為に、各地で「他氏との血縁」で一門で無い血液濃度の平均化を図る必要が起こった。
    その事から、3を実行する事で「3つの戦略」は可能と成ります。
    故に、普通ではあり得ない上記の79%であり、72%等のデータが出て来るのです。

    つまり、「家紋」から観ると、1-2-3-3-2-1-3を繰り返す事による「家紋データ」なのです。
    この中で、この上記する「家紋掟」は(1-2-3−3-2-1−3)の循環が働いているのです。

    この「家紋」は次の事に大きく関わっているのです。

    X 氏家制度の社会慣習
    Y 家紋の掟
    Z 宗派の慣習

    1、2、3のサイクルは、上記X、Y、Zに大きく影響を受けて定まって行くものです。
    これを考慮しないでは判断できない仕組みの「掟」なのです。

    「家紋」は、要するに「9つのステイタス」を背景として初期には用いられ、次第に「氏の判別」としての目的が強く成りました。
    然し、それでも忘れては成らない事として「家紋」と同様に、「宗派」も「一種のステイタス」であったのです。

    「家紋ステイタス」と連動してその「宗派ステイタス」と観られて宗派は「古代密教」を掲げる「3つの宗派」でした。

    天台宗密教、
    浄土宗密教、
    真言宗密教

    以上です。

    この3つは其々、又、「違う階級の氏」を宗徒としていました。

    「青木氏」に関しては「浄土宗古代密教」を慣習として引き継いでいました。
    あくまでも「密教」でありますので、「密教でない宗派」との「運営上のシステム」(四掟)が異なります。

    {氏}が自らの寺を建立して、自らの氏の者の住職を立て、自らで運営し、自らの氏だけを祭祀する「排他的運営方式」ですので、「宗派の発展」は特定地域に限定する事に成ります。
    この「菩提寺方式」が、これが「ステイタスの象徴」と成っていたのです。
    その「菩提寺」に「寺紋」として「氏の家紋」を使う事に成ります。

    「藤原秀郷一門では、この「浄土宗古代密教」ですが、「24地方」に赴任していますので、限定されたところにしか無い寺と成ります。
    そうすると、一時的に浄土宗から派別れした「浄土真宗」に仮入信すると云う事が起こりました。

    「24赴任地」に定住し勢力を拡大させた者は、多くは同様にその地に「菩提寺」を建立しましたが、一時的な事が本宗と成ってしまった氏も一部に確認できます。
    この様に「家紋と宗派」は、その欠かす事の出来ない二つの「氏のステイタス」であったのですから、簡単に「家紋も宗派」も「氏家制度」の中では変える事はあり得なかったのです。
    それは「氏家制度」の中では、それまでの「氏の先祖の伝統」が切れてしまう事を意味しているのです。
    これは「自らの伝統」を切る事は、「氏家制度」の中では「氏への冒涜の何物」でもありません。

    これは一人の判断で出来る事ではありません。
    今と違い「家紋と宗派」は生活に根付いていて、連動しての「氏の伝統の象徴」であった訳ですから「個人の判断」では困難です。
    従って、「一定のルール」で維持した「家紋と宗派」を勝手に変えると云う事は有り得ない事だったのです。

    因みに、「甲斐青木氏」に於いて「武田氏」が潰れる3年前に「改紋」と「改宗」をした人物がいて大問題と成りました。
    その結果、「親子、親族間の争い」に発展したのです。
    結局は、正子の「2人の子供」が、「浄土宗の菩提寺」を別に建立して、且つ、「家紋」を元に戻すという大事件が起こりました。
    この様に「家紋と宗派」は氏家制度の中では連動して動いていたのです。

    (注釈 五家五流の「賜姓甲斐青木氏」には、「皇族賜姓青木氏」があって、これを平安末期には、分家の清和源氏の「河内源氏」の「源の源光」と云う者がこの「青木氏の跡目」に入りました。
    ところが、この「源光」の兄の「時光」は、「家」を興せず、遂に、「嵯峨期の詔勅」を使って「皇族系の源氏」である事を理由に朝廷の許可なしに「青木氏」を名乗ったのです。
    この「時光系甲斐青木氏」が、勢力を甲斐で拡大し、{源光の賜姓甲斐青木氏}を凌いだのです。
    「家紋と宗派のステイタス」の異なる「青木氏」が「甲斐」を抑え、これが本家勢力と分家勢力に分派したのです。
    この「分家」が、更に、「分家の本家(A)」と「分家の分家(B)」に分派しました。
    ここでも、分家の「本家争奪の争い」が起こり、「分家の分家(B)」が「家紋と宗派」を正当に戻そうとしたのです。
    結局、(B)が敗退して北巨摩郡の山間部と柳沢に追いやられ衰退しました。
    ところが、その後、武田氏が勃興し、本家勢力と分家勢力(A)が武田氏に味方し、(B)は織田氏側に味方したのです。
    (B)は徳川氏に拾われて武蔵鉢形に移流され生き延びたのです。
    この(B)を背負っていた兄と弟の二人の弟の子供が柳沢吉保(甲斐青木氏系)です。
    この柳沢を名乗った「吉保(父は青木豊定)」は「家紋と宗派」を何とか武蔵に興し直したのです。
    この様に、「家紋と宗派のステイタスを護る事」は最大の命題であったのです。)

    ここでは、複雑に成る為に宗派の慣習を論じない事として別に機会があればその掟や社会慣習に付いて研究論文を記載する事にします。

    「青木氏」に関しては室町末期から江戸初期前後に発祥した「氏の家紋」の「丸付き紋」と観られ、恐らくは上記した掟から「丸付き紋」と成るには50年から100年程度の期間が必要と成ると考えられます。
    依って、江戸初期から江戸中期前までに分家化したものと考えられます。
    江戸中期以降は、政治的に安定期に入り「家紋と宗派」も当然に安定化に入り、「新たな姓の発祥」は「青木氏」に関わるものとしては考え難いのです。
    (幕末から明治初期に調査編纂された資料による為に「家紋掟」による以後の家紋の変化は未確認)

    江戸末期には、「家紋掟の遵守」が低下した事から「丸付き紋」にする氏や姓がどれだけ居たかは疑問です。
    多くは、「藤原秀郷流青木氏の末裔」が、室町末期から江戸初期にかけて「家紋掟」により新しく発祥させた「氏の丸付き紋」と観られます。
    (この資料は室町末期と江戸初期の第3氏の青木氏も含む)

    以上は、「氏家制度の社会慣習」の中で「家紋」に関する各氏の定めを凡そ共通する内容をまとめたものです。
    特に「丸付き紋」を中心に考察したものです。

    (注釈)
    「家紋」による「ルーツの解明」も然ることながら、「戸籍」による解明も可能ですが、
    「戸籍」はその「ルーツを紐解く要素」が必要です。
    それが「氏名又は姓名の継承」でありますが、氏名の戸籍の歴史は最も古いもので「天智天皇」の「大化の改新」の時の一つとして「戸籍簿」、又は「人別帳」成るものが作られました。
    これが最初で「日本書紀」にもこの事が記載されています。
    この時の戸籍簿たるものは、主に氏の出自を目的とするものでは無く、税の「租庸調」の課税対象者を設定する為のものでした。
    その税の最低年齢が男6歳とした為に民衆の不満が爆発したと記録にあり、むしろ「戸籍」と云うよりは「人別帳」の「色合い」が強かったのです。

    然し、これも「平安期の荘園制度」が確立する事に成り、「荘園内の事」はその「荘園主の持ち主」のものとして扱われた事により次第に公的なのものは消滅しました。
    矢張り、その一時的な「人別帳」的なものとして使われた様です。
    然し、「荘園の民」はその「氏名の継承」は有りませんので、次第にルーツの概念が薄くなり無くなり江戸末期までこの状態が続きました。
    あるとすれば「村の庄屋」が取り扱う「人別帳」程度であり、「武家」を構成し支配階級の中級以上の「武士の身分」と「権威の保全目的」からでした。
    その「氏」の「氏寺」、即ち、「菩提寺」が「過去帳」として「戸籍簿」を管理する習慣に成って行ったのです。

    これに対して、室町初期から中期には「下克上」が起こり、この支配階級の社会制度を崩壊させて、力のあるものはこの中級以下の武士が取って代わろうとしました。
    その為に多くの元の支配階級のこの様な権威を示す物件の焼き討ちや取り壊しをしたのです。
    その結果、「家紋と宗派」に連動する「権威を代表するステイタス」の「氏寺」を含む等のものが消失してしまいました。
    又、江戸時代から明治の初期まで250年以上続き、多発した「民衆の一揆」もこれらの「武家の武士」ではなく「下級武士」を含む「民衆の権威への抵抗」が起こり、この2度による「事件」と「反動」で「戸籍や人別帳」による「ルーツの解明」は困難と成ってしまっているのです。
    それに耐えた「特定の地域」や「氏の権威物件」だけが遺される結果と成ったのです。
    その意味で、「皇族賜姓族5家5流青木氏」や「藤原秀郷流青木氏等」は、「不入不倫の権」とその勢力に護られてある程度その難を逃れました。

    (むしろ「民衆の一揆」の経済的支援はこれらの難を逃れた「氏」が「シンジケート」を使って裏から支援を行っていたのです
    この様な歴史的経緯から、その意味で「姓名」を持つ事を命じた「苗字令3年」や「督促令8年」の明治維新体制が確立するまでの間は、「戸籍簿」に代わるものとして「過去帳」や「氏寺菩提寺」等の存在はルーツ解明には重要な要素に成るのです。
    そして、この「氏名」等の歴史的経緯と「家紋と宗派」とその「習慣」は無関係ではなく連動しているのです。

    (これ等に関する詳細は研究室関連レポートに記載しています。)


      [No.264] Re: 伊勢青木家 家訓7
         投稿者:福管理人   投稿日:2010/05/01(Sat) 16:58:55  

    家訓7
    伊勢青木氏の家訓10訓

    以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

    家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
    家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
    家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
    家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
    家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
    家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
    家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
    家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
    家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
    家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

    家訓1は「夫婦の戒め」
    家訓2は「親子の戒め」
    家訓3は「行動の戒め」
    家訓4は「性(さが)の戒め」
    家訓5は「対人の戒め」
    家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)


    家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
    「品格の戒め」である。
    この家訓7は「執着」つまり「こだわり」であると考えている。
    「執着」は兎角悪く考えられがちであろうが、そうでも無い事もある。
    人生に於いて苦難が多く立ち向かう。この様な時に「執着」無しでは生きていられない事もあり、それに依って苦難から幸せの扉を開く事も出来る場合もある。むしろこの場合の方が多いのかもしれない。だから、最近では、世間ではこれをむしろ煽っている向きもある。その例えの言葉として「拘りの一品」とか「拘りの・・」とかの流行言葉も出ている。
    しかし、ここで云う家訓7は「こだわり」は「拘り」ではない。敢えてその違いが有るから分けて論じることとする。
    人間は物事を考える場合、脳は「拘り」を持つと幅広く思考範囲を広げてその上で適切な判断を下せ無くなる「性」を持っている。狭い範囲で思考する事で正しい対処が出来なくなり人生の難業苦難に引き込まれる場合が多い。そして、狭い範囲の思考から抜け出す事が出来ず、そのような「悪のスパイラル」に陥るのである。
    まして、昨今の様な科学文明が起こり「合理的な判断」無しでは正しくものが成せ得ない事に成る時代である。
    科学は「合理」で成りたっているからだ。この様な時代に「主観的な拘り」を持つ事はそれだけに逆行に成り思考範囲が針の様に狭くなるだろう。
    特に「感情主観」の強い傾向の持つ範囲ではこれが起こりやすい。
    特に、前の家訓のところで述べた脳の一部の「性」(さが)を司る「脳陵帯」で管理されている「女性の深層思考の原理」(感情主観:感情-勘定-妥協)から観るとこの傾向が強く成るだろう。
    男性に於いても「論理思考の原理」では論理的に間違うとそれを正しいとして過剰な「拘り」を強く持ちすぎる傾向があり、むしろ「女性の拘り」よりも厄介であり危険である。
    女性の場合は元々揺れ動く「感情主観」であるので「環境」が変わると「他の感情」に移る事も起こり得て「拘り」は消えうせるであろうし「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。
    しかし、男性は「論理の錯誤」を起している事から「環境」が変化してもその「錯誤」に気が付かない限りは「拘り」から抜け出させない「質癖」を持っている。
    勿論、男性も「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。厄介な宿命の「性(さが)」の定めであろう。
    むしろ女性の「拘り」に比べて個人の範囲に留まらず周囲にその「悪の影響」を及ぼしてしまう危険性を持っている。あらゆる「争い」の主因とも成っている。
    この「男性の拘り」にはここが問題なのである。この家訓7はこの点を指摘しているのである。

    この家訓7が説く意味は次ぎのことによるだろう。
    一つは「こだわり」と「目標(目的、狙い)」とは違う事。
    二つは「こだわり」は「頭の使い方」如何である事。
    三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
    四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。

    先ず、一つ目の”「拘り」(こだわり)と目標(目的、狙い)とは違う事”付いて考えてみる。
    心に固く決めた揺るぎ難い「目標」はその進める過程には長期的で「論理的な戦略と仔細な戦術」を保持しているものである。
    一見すると、「こだわり」と「目標」は何れもこの”心に決めた揺るぎ難いもの”を持っている様に観える。しかし、良く観察して見ると何か違う。
    それは「戦略と戦術の有無の差」(1)が起こる。しかし「こだわり」はこれが「殆どゼロ」であり特に戦略は観られない。
    そして、それは達成されるとその目標は「解消」はされる(2)。しかし「こだわり」は解消する事はすくない。
    更には、過程では揺るぎ難い「目標」は「臨機応変」に変化させる事がある(3)。しかし「こだわり」は周辺と進行過程の変化に対して頑なに盲目である。
    目標は衆議に対して「賛同」が得られる(4)。しかし、「こだわり」は個人性が強く衆議に弱い。
    揺るぎ難い「目標」は周囲に「弊害」を生まない(5)。しかし「こだわり」は兎角に「弊害」を生む。
    この「5つの違い」がある。
    この家訓7は揺るぎ難い「目標」を持つ事を否定していない。むしろ、「こだわり」を否定する事で人生に於いて揺るぎ難い「目標」を持つ事を求めているのである。

    「戦略と戦術の有無の差」(1)「解消」(2)「臨機応変」(3)「賛同」(4)「弊害」(5)

    この「5つの違い」が「目標」と「こだわり」と区別されている。
    これは「青木氏」の歴史的な背景から観ると、「賜姓族侍」の一面と「商人」の面も持ち得ている内容である。どちらかと云うと「商家」に成るのではないだろうか。
    伊勢青木氏は「不入不倫の権」で護られながらも、室町末期からは少なくともこの「権」が弱く成っていた事は明らかであり、同じ東伊勢の村上源氏の末裔の北畠氏が信長に騙まし討ちされ織田信雄が城に養子婿として入る等の「乗っ取り事件」も起こっている。
    「武力による戦い」とは別に北畠氏のような事が起こる可能性が”伊勢松阪青木氏にとっても無い”とは云えず、この時を含めて「極めて冷静な判断力」を求められていた筈である。
    伊勢に限らず賜姓族の青木氏は上記の「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い判断力」が求められていた事が、隣で起こった深い付き合いのあったこの北畠氏で充分に認識していた筈である。
    現に、大きく時間を置かずして「丸山城の戦い」が伊勢青木氏との間で起こったのである。
    この時の戦いは信長の只一つの「負戦で有名な戦い」で、信長が家臣の面前で指揮官の次男の信雄を罵倒し蟄居されると言う事が起こった。この勝利したのは真にこの家訓7の「こだわり」を捨てた戦略戦術であった。
    商人の顔の紙屋長兵衛が全面に出て城構築の材料の買占めから初めて経済的に締め付けて弱らせ、最後は出来上がったばかりの城を伊勢シンジケートを使って城を爆破させてしまうという実に見事で冷静巧妙沈着な戦略戦術を長兵衛は使ったのである。目に見えない相手と戦って信雄は負けたのである。商人として城構築の莫大な材料利益を生み出し、賜姓族としては邪魔な城を潰しその上青木氏は安泰と成っている。
    賜姓族とか青木氏とか武士とかの必要以上の「こだわり」だけで有ればこれ程の戦略戦術は浮かばないし成功も無かっただろう。
    他にもこの後の同じ「伊賀攻め」でも今度は武士の顔の長兵衛は名張の青蓮寺城と3つの城から中立を装い、商人の顔の長兵衛が伊勢シンジケートを使ってゲリラ作戦で食料調達を困難とさせた上で疲れさせて置き、この伊賀氏の伊賀城が陥落寸前に信雄の軍を側面から突き敗走させると云う戦いを実行した。これでは信長は立場は無いし怒るのも無理が無い。
    この後の秀吉はこの事を学習して最後の松阪青木氏等の「伊勢松阪攻め」ではこの「こだわりの無い戦略戦術」を防ぐそれに勝るとも劣らない戦い方をした。そして、戦略家で学者であり青木氏とは繋がりの有った蒲生氏郷を派遣して青木氏を温存したのである。その経済力を潰さずに信長が好んだ西洋風の楽市楽座の出来る日本初の「伊勢松阪の街づくり」を実行したのである。この時青木氏は西洋風の街づくりの「侍屋敷町」の2区画(9番と19番)を与えられて生残ったのである。
    普通に「武士のこだわり 執着」で戦っていた場合は今の青木氏は無く、これ程の扱いは氏郷も採れなかった筈であり、救済する大義名分の根拠も言い出せなかった筈である。
    この「こだわり 執着」が、戦いながらも勝利し秀吉を学習させて、無傷で生残る事を成し遂げたのである。もとよりこれは「武士商人」の「こだわり」も無かった事を意味するだろう。

    「組織の長」の採るべき「精神的な格」(こだわり)を心得ていた結果の勝利なのである。

    この戦い方を分析すると「5つの違い」が浮き彫りになる。
    兎も角も賜姓族でありながらも、「5つの違い」は左様に「商家」に課せられた立場にあると考えられる。どちらかと云うと「紙屋長兵衛の顔」の方の家訓であろう。
    侍的な「難くなさ」が無く添書にも然程に詳しくはない所を観るとこれも(1)から(5)は「商家の家訓」である傾向が強いだろう。
    昔、筆者は「こだわり」に対する判断力が無い若い時に、”お前は間違っている”と親父と話す時によく誡められたが、これは「青木氏の伝統」(こだわり 執着)とも云うべき家訓7であった。
    何故、間違っているかは大分長い間判らなかった。”間違っている”とはっきり云うのだから”親父には何か明確な根拠が有るのだろう”。それは何か何時も意識していた。
    その理解できたきっかけは結婚して「男女の性(さが)」に”「根本的に違う思考原理」が働いている”と云う事が経験を通しても判り、書物による脳科学的にも納得し判った時である。
    つまり、そうすると男女の「こだわり」と「拘り」にも”論理的に違いがある事”と云う理解であった。「男の論理主観」と「女の感情主観」から考察すれば「男のこだわり」と「女のこだわり」は本質的に違う事に成る。
    そこである時に「家訓添書」に書いていた「仏教の教え」と云う字句に気が留まった。
    日々の務めとして「般若心経」を何時も仏壇で何気なしに唱えているが、”どんな内容で唱えているのだろう。”心の経(みち)”の悟りを得た仏を前にして、悟りを開いてもいない生きている者が”「心の経(みち)」を唱えるのはおこがましいのではないか”、”それが何でお経なのか”と次から次へと疑問を抱いた。
    筆者の「こだわり」とも云うべき質癖が又もや働いたのである。
    「般若心経」の書いている意味を元来持つ字句語意一つ一つを調べてその「字句の総意」を考えたのである。そして、その「傾向分析」を行った。真にその手法も「技術屋の質癖」である

    私の結論は次ぎの通りであった。
    ”この現世の何気ない意思一つ一つが「拘り こだわり」の発露であり、その「拘り こだわり」の保持する「強さ」と保持する「時間」の差異に依って無意識に判別しているものである”と考えた。
    ”その究極は「有無の定義」であるとし、「有る」とすれば「有る」であり、「無い」とするば「無い」。「有る」を「有る」とする事がそもそもが「拘り こだわり」であり、「無い」を「無い」とするも「拘り こだわり」である。「現世」と「彼世」の差異もこの「仏法の定義」に当て填る。

    「般若心経」の全ての行の共通する真意は、その真意には強弱はあるが、この”「拘り こだわり」に捉われるな”であると考えた。その”「拘り こだわり」の誡めの最大の語意の行は「色即是空 空即是色」である”と考えに達した。そして「色不異空 空不異色」との2つの語句が「拘り こだわり」の強い戒めで有ると。

    その場、その時で色々な解釈は出来るが、”「色」は「現世」、「空」は「彼世」”と定義する事で
    全ての行の一節語句はその意味するところが読み取れる事が判った。
    この定義そのものが「拘り こだわり」ではあるが、仏の前で唱える「般若心経」を通じて、”私は不必要な「拘り こだわり」を無くす事を誓い努力します。 ご先祖の仏様ご安心ください。”と。

    「色不異空 空不異色」(こだわり)であるのだから、「色」有る世界から色の無い「空」の世界へ「心」を媒体として念じ発している事となるだろう。唱えるはその姿を云う事に成る。
    人の現世の生きる目的は「喜怒哀楽」に必ずしもあらず、子孫を遺す事にその一義があり、その一義の為に悪行と成す「こだわり」を捨てる事を誓っている事と成る。

    即ち、上記の青木氏存続に関わった史実に観てもその秘訣は、「こだわり」を悟れば「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い冷静な判断力」を培える事にあるのだと考えた訳である。
    そこで、此処の世の意志は全て「拘り こだわり」であるとするならば、「拘り」は感情的主観のものとし、「こだわり」は論理的主観のものとして、その思考を狭める「拘り」と「こだわり」は「色」のある現世の中では「人格形成」の一つとして習得せねば成らない「必須条件」としての事柄である。依って、この青木氏の家訓7はこの事を誡めているのだと考えている。
    「拘り」も時には子孫存続に間接的に関わることもあるが、「こだわり」は特に誡めておかなくては成らないものと考えている。勿論、「揺ぎ無い目標」とは異なるが。
    この「目標」と「夢、希望、願い」は仏法からすると感情主観の「拘り」であるが、その上記「5つの違いの強さ」に起因すると考えられる。依って、仏法の考え方からすると、この「弱い拘り」はむしろ「良質の拘り」であり、「現世で生きる糧」とも成ると説いている。

    「5つの違いの強さ」<「目標」
    「夢、希望、願い」=「弱い拘り」=「良質の拘り」=「現世で生きる糧」

    標記した”「拘り」には全て悪いものではない”としたのはこの仏説に有る。

    二つは「こだわり」は頭の使い方が違う事である。
    即ち、頭(脳)の使う(働いている)所が違うと云う事である。
    それはどう違うのか、以前の家訓でも述べたが、「感情主観の拘り」と「論理主観のこだわり」は本質的に異なる。
    「感情主観の拘り」は脳の「前頭葉」の部分に於いて起こり、その「強さと時間」を保有する「拘り」は脳の神経伝達機能網シナプスのスイッチング時間が長く入っている感情の保持状態を云う。
    本来の感情保持の時間は0.2-0.5s程度であるのに対してその「拘り」を持ち続ける時間だけスイッチングが保持状態になる。
    電気回路で云えば「自己保持状態」である。「自己保持状態」である事から外からの信号に依ってスイッチングを切る以外にはない事に成る。例えば「うつ病」はこのスイッチングが入ったままの状態であり長く入っている事によりエネルギーを多く使い脳のシナプスは疲労しシナプスに被害を受ける状態を指す。
    「拘り」はこの状態と類似し「うつ病」より「強さ」の点で弱い事に成る。
    これは「自己保持状態」である事から、「外からの環境の変化」を与える事でスイッチングは切れることを意味する。つまり、「拘り」は消えるか弱くなる事に成る。
    従って、感情主観に左右される女性の場合はこの「拘り」は消える事が起こる。
    論理主観で左右されている男性の場合に於いてもこの感情による「拘り」が起リ得る。
    そもそも深層思考が「論理主観」で有る事から、女性特有のこの「拘り」の現象が男性に起こった場合には、「論理性の矛盾」に気付けば、元々感情による「拘り」であるのだから直ぐ霧散する。
    元来、男女差の性(さが)は「脳陵帯」で管理されているので「前頭葉」で起こる「感情の強さ」の部分で低いレベルで異なっている為に「拘り」の問題は少ない。
    つまり、「拘り」は女性に起こりやすい事は否めないが誰にでも通常に起こっていることを意味する。この「拘り」の範囲は現世の「イザコザ」の範囲であろう。

    そうなると、次ぎは「こだわり」である。
    「こだわり」は「論理主観」により「錯誤」にて起こっている状況である。
    だから、「論理性」を構築する「左脳のデータ」とそれをシナプスで繋いだ「右脳の働きの思考原理」を働かせて「中紀帯」で一つの思考を取りまとめ想像し構築する仕組みの中で論理主観は生まれるである。
    この時、蓄積されていたデータに偏りがあった場合には、「右脳の働き」と「中紀帯の働き」とに「間違いの思考」が生まれ、これを「良し」として「こだわり」が「深層思考」として起こる事に成る。
    即ち、その保有する「左脳データの信頼度」(1)や、その大脳でシナプスを繋いで「綜合判断をするデータ量」(2)や、その保管されていたデータはそれまでの構築されてきた環境に依って左右される事になるので、その「質の良悪、偏り、偏差値」(3)に依って、直接にその「こだわり」の良悪が左右される事に成る。これはその本人の「質癖の錯誤」と呼べるだろう。

    「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)

    この「質癖の錯誤」の「こだわり」が起こるとこれを解消するには(1)(2)(3)を変える以外に無い。
    では”この3つを変える事が出来るのか”と云う疑問が湧く。
    先ず、”難しい”と云う答えになるだろう。この3つを自ら自覚して直ぐに変える事は出来ない筈である。
    なぜならば「左脳データの信頼度」では長年培って来たそのデータ量を急激に変える事は時系列に無理である。
    まして、その信頼度はその者の環境とその者の賢明さにもよるだろうから殆ど無理である。
    「綜合判断をするデータ量」ではデータ量を急激に増やす事は有り得ないし、その様に人間の脳の記憶を仕分けする「海馬の仕組み」はその様に出来ていない。間違い無く無理である。
    「質の良悪、偏り、偏差値」は(1)(2)に左右される事からこれだけを良くする事は論理的に無理である。
    これは、その「こだわり」を持った者の人生に大きく関わる問題である。その生きて来た環境に左右される問題である。余程の「左脳のデータを消滅させられるだけの衝撃」が無くては困難である事は容易に判る。その衝撃に「人間の精神」は持つとは思えない。
    まして、この上記3つは個人の保有する「先天的資質」に左右されるもので誰でもが「確実で良質」な「こだわり」を持つ事の可能性は低いだろう。
    多くはこの「こだわり」は終局は(3)の影響を大きく受ける事に成るだろう。
    故に、仏法では「縁無き衆生動し難し」として説いている。
    ”無理な者は元々無理なんだ。 理想にかまけて「こだわり」を起してはならない。それこそが「こだわり」なんだ、錯誤なんだ”。と。
    又、仏法では”「人を見て法を説け」”とまで云っている。
    だとすれば、”どうすればよいのだ、「こだわる」な。人を観てその人なりに合わせて其れなりに説けばよいのだ。”と。”肩を張って考えるのはそれこそが「こだわり」なんだ。「こだわり」の持った者が説くことに意味は無いのだ。”と説いている。
    だから衆生が「般若心経」を仏前で唱えるのはここにある。
    ”先ずは無心に唱える事から始まるのだ、「こだわるな」「こだわるな」”と自問自答自責して仏の前で懺悔している姿なのである。

    皆、衆生が「確実で良質」な「こだわり」を持ち得ているのであれば仏前で唱える必要も無く仏も心配はないだろう。「般若心経」の様な「心の路」のお経を作る事は無かった筈であろう。
    だから、この現世は「こだわり」の世界にして「こだわり」を抑える事の戒めを解いている事になるであろう。
    論理主観のこの「こだわり」はその「深層思考の性の定め」により主に男性によるものであろうが、女性にはこの「こだわり」はその「性の目的」(産み育てる本能)から先ず有り得ない。もし、仮にあるとすると「こだわり」の錯誤が起これば子孫は育たない事になる。
    「神」は矛盾するその様な「性(さが)」を作る筈が無い。
    男女ともに”人はどんなに優れていたとしてもこの「神」から受けた性(さが)から抜け出せる者はこの現世にはいない”という事である。居るとすればその者は「現世の神」である。
    この様に「人生」は「拘りとこだわり」であるとしても過言ではあるまい。

    況や、殆ど「拘りとこだわり」の間に垣間見れる「喜楽」の中に生きていて、「怒哀」はこの「拘りとこだわり」の産物と成るのではないか。
    その「拘りとこだわり」の大小が「怒哀」の大小と成り得ているのであろう。
    だとすれば、この「拘りとこだわり」を小さくする事で「喜楽」が増え、「怒哀」は小さくなる。この「拘りとこだわり」のこれを「抑える努力を試みる事」が「現世の幸せ」を大きく享受する事になるであろう。
    それを「般若心経」は現世に於いて色々な人間の性(さが)が持つ「五感」との「五体の機能」を使って表現して判りやすく誡めているのであろう。
    そして、仏教では「拘りとこだわり」(執着)は「108つの煩悩」として具体的に細かく分けているのである。
    人である限りに於いてこの「108つの煩悩」を無くす事は不可能であるが、幾つかでもより多く抑える努力は可能である筈。それが「人格形成」と言う事に成る。
    この「108つの煩悩」は感情主観による「拘り」の産物であるが、この家訓7の戒めは上記する論理主観の「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)から起こる「錯誤のこだわり」を誡めている。
    当然に、この「108つの煩悩」(執着 拘り)の中で生きているのであるから、全く無縁であるとは云えない。「幾つかでもより多く抑える努力」が高いレベルで成し得ている事、即ち「人格形成」が成し得ている事がその前提にはなるだろう。
    この現世では「108つの煩悩」(執着 拘り)の何割で「人格形成」が成し得ていると云われるかは判らないが、多い方が良いに越している。それでなくてはこの「論理主観のこだわり」を[抑える力」は出て来ないであろう。

    この”「108つの煩悩」(執着 拘り)の「抑える力」と「論理主観のこだわり」は逆比例する。”と考えている。

    「108つの煩悩」(現世 執着1 拘り 感情主観)<=「人格形成」

    「左脳データの信頼度」(1)
    「綜合判断をするデータ量」(2)
    「質の良悪、偏り、偏差」(3)
    (1)+(2)+(3)=「錯誤」(現世 執着2 こだわり 論理主観)

    「錯誤」の抑止=「人格形成」(人間形成)

    「拘り」(感情主観)<「こだわり」(論理主観)

    平易に云えば、脳医学では「統一・一貫性の抑止」と云うらしいのだが、「拘りの抑止」(人間形成 人格形成)は「こだわりの抑止」の基盤になると考えられる。そして、仮にこれが成し得られたとすると、一段上の「人格形成」を得た人物と成り得るのであろう。この時、それが「品格の形成」を成し遂げた事を意味する。
    この家訓7は家訓6と類似するが、敢えて家訓6で「人間形成」が成し得られたとしても、更にその”「品格の形成」を成すには家訓7を会得(悟り)しなくてはならない”としたのであろう。
    青木氏の「長」としての条件として、”「人間形成」だけでは「品格」は得られない。「悟り」で「品格」を得よ”とより厳しく求めたものであろう。

    故に、此処に「伊勢青木氏が置かれていた立場の長」としてのこの「家訓7の会得」を子孫に求めている事であると考える。
    添書では仏教的な事柄が書かれているこの家訓7ではあるが、上記する数式論になるであろう。
    それを顕著に表すのが、上記する信長との「天正の3つの戦い」に現れていると思われる。故にこの家訓の説明では何度も引用記述しているが、この有名な史実の事を判りやすくする為に「標語の形」として子孫に明確に言伝えているのであろう。これを子孫に悟らす為に。

    三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
    この「長」に求めた2つの戒め「拘りとこだわり」の事に違いを敢えて求めているのは、”「拘り」の範囲に留める場合は上記する一段上とされる「品格の形成」は無い”と観ていたからに違いない。
    恐らくは、この厳しさは「長い青木氏の歴史の所以」であろう。
    だから1365年以上も生き延びられたのである。
    「信長との戦い」の口伝があるのは”見事勝った”だけの意味では無く、”織田氏の様に急に興きて急に滅びる所以”も伝える意味をあったのであろう。
    つまり、室町期の青木氏の先祖は、織田氏には「家訓6、7」に値するものが無かったからに過ぎないとして観ていた。故に、青木氏としての「家訓心得」を以って全身全霊で戦えば、飛ぶ鳥を落とす勢いのある信長と云えども”潰す事は出来なくても勝てると見抜いていた”事になる。
    ただ、「皇族賜姓族の誉れ」に安住しての青木氏であればたちどころに滅びたであろう。
    ところが、伊勢青木氏を始めとして一族親交の深かった信濃青木氏までも子孫を遺し得ているのは、この家訓の「人間形成」と「品格形成」に依って沈着冷静な判断が可能となり生き延びたことを意味するのである。

    四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
    それは、この家訓6と家訓7の戒めは、伊勢、美濃、信濃の青木一族を束ねていた長の「紙屋長兵衛」に有る。
    「2足の草鞋策」の「商い」が、「皇族賜姓族の誉れに安住」させなかったのである。
    家訓6よりも更に家訓7を求め、更に「拘りとこだわり」の戒めを「長」に求めていた事にある。

    仮に、史実から信長と長兵衛を比較すると次ぎの様に成る。
    経済力からの考察からすると、家康も名古屋城で秀忠の本軍の遅れを待つとして一時徳川軍を留めて、それを理由に伊勢路の確保の為に伊勢青木氏の合力を求めてきた程の伊勢の豪商紙屋長兵衛である。経済力の大きさは堺の貿易と松阪の商いから信長とほぼ互角で有ったであろう。
    信長も「楽市楽座」の制度を推し進めた人物である。そうすると直ぐ近所の伊勢松阪の紙屋長兵衛の事は知っていた筈である。当然、伊勢攻めを命じたのであるから、賜姓族青木氏の事も名張の青蓮寺城を始めとした3つの城持ちである青木民部上尉信忠の事も知っていた筈である。
    ただこの「2つの顔持ち」である事は判っていたかは疑問である。
    長兵衛が仲介者を通じて材木の商談を持ち込んだのに対して知っていれば警戒する筈であるが結果としてしなかった事に成る。織田信雄も家臣の滝川一益も知らなかったのであるから。
    つまり、紙屋長兵衛と青木長兵衛は同じである事を知っていたとするとこの戦略戦術はもとより成り立たない事に成る。青木氏側も知らないだろうと予測し、現実に織田氏側も知らなかった事に成る。
    知っていて騙される馬鹿は戦国の時代には居ないであろう。彼の有名な知者の滝川一益も補佐しての戦いでもある。「商人の顔」の長兵衛の経済力だけと観ていただけにその経済力効果がより大きい事に成る。

    次ぎは軍事力の検証である。
    兵力は資料から江戸初期前には250程度と記録されている。
    この戦いに”「不入不倫の権」で護られている賜姓族だから静かにしているだろう”と踏んでいた事に成る。「伊賀の戦い」、「永嶋の戦い」によもや参戦するとは考えも無かった事に成る。
    しかし、「商人の顔」の長兵衛が裏で暗躍していたのである。そうすると目に見えない「伊勢シンジケート」の戦力が既に戦い前に暗躍していた事に成る。信長のお膝元の岐阜の「信濃シンジケート」も伊勢青木氏とは連携を採っていたとされるので事前に動いていた事にも成る。当然に信濃の動きも情報として伊勢には入っている。
    堺には大店を構えているし、信長の膝元には「楽市楽座」で仲間の豪商が入り込み信長軍との取引上から詳細な動向は掴んでいた事にも成る。
    つまり、「情報戦」と「ゲリラ戦」で青木氏の方が先んじていた事に成る。
    だから、海辺に面した丸山城構築の情報が入り、逸早くそれにシンジケートの大工や人夫を忍び込ませる事が出来ていたから天守閣から爆破されたのである。これは充分に「情報戦」に勝っていた事に成る。当然に事前に材木等の戦需品の買占めも出来た事からも判る。

    後は「直接戦」の兵力は1/50となるが「戦わないで勝つ方法」を編み出していたのであるから問題は無く成る。当時からすると全く新しい戦法で「近代戦法」を敷いた事なのである。
    つまり、「経済力」を全面に押し出した「戦い方」である。
    シンジケートも「武力」で繋がるのではなく、「闇の元締め」を元に小さい小豪族や戦いで敗れた一族などを「経済的な裏付」で組織化して、お互いに一族や組織を護り合うシステムなのである。
    豪商はそのシステムを利用して商品運搬の護衛や取引の安全等を担保に経済的な支援も行う互助組織である。山陸海にその組織を構築していたのである。
    この組織を通じてすれば「ゲリラ戦」「情報戦」は山陸海をくもの巣の様に実行できる。
    そして、そのシンジケートと他のシンジケートとが結ぶと領主どころの「武力や経済力の勢力」ではない。到底及ばない「広域の力」と成る。そして、相手が「闇の組織」であり見えない為に攻撃が出来ないのである。
    しかし、秀吉だけはこの事を蜂須賀小六の子分の時に学んだ「ゲリラ戦」と「堺の商人」との付き合いから「経済力を使った情報戦」の事は良く知っていたのである。
    (この小六等も今宮神社のシンジケートのこの一員であった。)
    その証拠に、史実では信長には秀吉から、鉄砲入手の時に「今宮神社」の「闇の元締め」のシンジケートの有る事を教えられていた。そのお陰で紀州の「雑賀衆」から3000丁の鉄砲とその戦法を獲得でき武田軍に勝てたのである。とすると、信長はこの「近代戦法」を採用しながら、青木氏との戦いでは、この事の「ゲリラ戦」と「情報戦」の警戒はしていたと観るのが普通であろう、
    しかし、「天正の乱」(3乱)は何故なのか疑問である。
    恐らくは、信長は、後にこの戦法を使う事を得意とする「職業武力集団」雑賀衆と敵対するが、これが何かを物語っている。逆に家康はこの時に直様この「雑賀軍団」と手を組んだのである。
    家康は何故組んだのかも疑問である。
    この2つの疑問の鍵が答えに成るだろう。
    そして、対比して家康は、青木氏との戦い方も観ており、且つ、豊臣との戦いの時には名古屋城でこの「伊勢路の確保」とその「青木氏の経済力とシンジケート」を味方に取り入れる事を合作し「ゲリラ戦」と「情報戦」を「戦いの本質」(前哨戦)と捉えていた事に成る。
    つまり、”豪商の「影の戦い」で8割は決まる。”と家康は判断していたことに成る。
    此処に信長と家康の違いが出たのは両者の「生い立ち」による「こだわりの悟り」の差が出た事を意味する。経緯からする偶然にそうなったのではない。信長の行動を観て直ぐに「雑賀衆の取り込み」に家康は行動した事でも「こだわり」を無くして冷静に判断していた事に成る。

    信長が本能寺で明智光秀に打たれた時、家康は堺の商人の家に居たことからも判る。このゲリラ戦と「情報戦」の近代戦法の重要さを知って豪商に下工作をしていたのである。
    信長と光秀の戦いは「情報戦」から既に家康は承知して予測しての下工作であったと考える。
    そうなると、だから家康は、この戦法を得意として駆使した「戦わずして勝つ」の秀吉の死ぬのを待ったのである。
    つまり、「こだわり」を捨てていた「冷静沈着な判断」「長の心得」を家康も秀吉も悟っていた事に成る。問題は信長である。
    つまり、学習していたが、信長はこの「ゲリラ戦」と「情報戦」が嫌いであった。”性分に合わない”と排除していた事になる。
    これは信長の生い立ちと性格から、又、「比叡山の焼き討ち」から観ても上記する環境(5つの間違い)が左右し、明智光秀の扱いにしても判るが「品格形成」更には「人間形成」のところに歪みが生まれていたのである。此処が、「長のこだわり」なのである。つまり、信長はこの「こだわり」を捨てなかった事に成る。むしろ、「こだわり」に「こだわった」のではないか。

    長兵衛は千石船3隻を保有しているし、伊勢湾の丸山地区の海辺の城は海を抑えれば城の効果は半減する。では何故海辺の側に城を築こうとしたのか疑問と成る。
    欠点は陸から攻められれば背後は無い。利点は補給路を確保出来る。
    この当時の城は戦術上「山と川」を前提としていた。「山は護り、川は補給」である。
    この考えからすると、「川」の代わりを「海」としたのではないか。
    この当時には伊勢には11の城があった。真ん中から入ると周囲から囲まれ補給が困難と成る。
    つまり、伊勢シンジケートと信濃シンジケートのゲリラ戦で挟撃されて補給路を立たれるし、11の城から囲まれる可能性が高い。これを打ち破るには10万の大軍が必要である。
    信長には各地で戦線を広げていた事からその兵力を伊勢攻めに割く余裕は無かった。

    何故10万なのかと云う事である。
    実はこの例と同じ事が「南北朝」時代に起こっているのである。
    新田義貞軍と足利軍の鎌倉幕府10万の兵を用いて天皇側に味方した楠木正成の3千の軍と対峙した戦いがあった。それも伊勢の横である。
    そしてその戦いは正成の「情報戦」と「ゲリラ戦」であったし、その「ゲリラ戦」と「情報戦」は伊勢シンジケートに依るものであった事と、正成はその伊勢シンジケートの田舎の小豪族の一員であった事は有名な史実である。
    恐らくはこの時、そのシンジケートの元締めの当時の青木長兵衛の配下と成り経済的支援を受けていた事に成る。そして、結果は10万の軍はシンジケートの「ゲリラ戦」で水と食料路を断たれて確保出来ずに餓死して敗退したのである。周囲を山に囲まれた地形である。そして、山の上で谷川を持つ城を背景に篭城戦を繰り返した。山城にはシンジケートが武器と食料を補給する。10万の軍は水と食料で飢える。この敗退した史実の学習は承知していた筈である。

    この歴史的な史実を知っていた為に、伊勢シンジケートを警戒していた事に成る。だから海辺に構築しようとしたのであろう。城作りの常識を破り海から補強しながら中に戦線を広げながら攻め入る戦略であったのであろう。
    これでも判る様に、信長は有る程度の戦略的な戦い方の事はこの海辺の城作りから観ても知っていた事を物語る。

    これに対して青木氏側は自らも船を持ちながら海の支配を商人として持っている。陸の豪族の信長にはこの海の支配権は無かった。仮に信長に広域に補給路を抑えられたとしても海からのシンジケートを使って補給できる。また逆に織田軍の補給を抑える事も出来る。
    この様に検証すると、何よりも計り知れないのは「伊勢シンジケート」と「信濃シンジケート」との連携ではほぼ互角に近かったのでは無いか。
    だから、豊臣氏との戦いで家康は上記する様に伊勢青木氏に合力を求めてきたのである。
    そうなると信長と青木氏との戦いは後は「戦い方」に成る。
    当然に、「商いの経済力」で締め上げ、「シンジケート」で周囲から「ゲリラ戦」を駆使すれば勝てる。最も愚昧戦なのは「直接戦」である。
    これでは仮に勝てたとしても被害も大きい。史実は明らかのように「ゲリラ戦」であり被害は殆どなしである。
    だから信長は知っていての悔しさの余り自分に腹を立て、その腹いせに家臣の面前で次男を叩き罵倒し蟄居させてしまったのである。信長は「自分の至らなさ」に気がついたのであろう。
    しかし、最早遅い。歴史的に観ればこの事が皮肉にも疎んじられた次男の織田信雄だけが生き延びて子孫を遺したのである。(子孫はスケートの織田信成)秀吉の茶友で家康の茶友として生き延びたのである。信長に取って観れば、「不幸中の幸い」であった。
    つまり、言い換えれば信雄は青木氏の御蔭で生き延びた事が云える。

    信長は結局、この「天正の戦い」で3つの失敗を起した事に成る。
    「長」として求められる「人間形成」はもとより「品格形成」に欠けていた。
     生い立ちに打つ勝つ事が出来ずに「こだわり」に「こだわった」事にある。
    1 「直接戦」を好み「シンジケート力」の「ゲリラ戦」「情報戦」の力を見誤った。
    2 「武力戦」に過信し「商人の力」「経済戦」を軽視した。

    ここで、「シンジケート」の史実を述べ立てたが、真にこの「シンジケート」を維持出来る事は経済的な繋がりはあるとしても、全て「人」である。ここにそれだけでは成り立たない一つの要素がある。それが「長」として「こだわり」を抑えた事によって「品格を得た者」に成し得る要素なのである。そして、その組織が「大きな力」を発揮し得るのである。
    ここが「信長」に成し得なかった事なのであり、強い「こだわり」により「深い思考を巡らす能力」を会得できずに「軽視」していた事を意味するのである。
     
    比較する家康も、この史実は信長の面前で観ていたので知っているから、学習して伊勢青木氏の力の有り様を知り青木氏との連携に力を注いだのである。
    同じ学習した秀吉も只一度「直接戦」をして陸奥の豪族を叩くために「ゲリラ戦」にしびれを切らし、その時の指揮官は「蒲生氏郷」であるが直命して「直接戦」で失敗して3千の兵に惨敗している。
    その反省として「小田原城攻め」が物語っている。
    だから、更に学習した秀吉は松阪を攻略する時にこの氏郷を廻した理由の一つなのである。
    その証拠に、徳川氏の天下に成って、家康の子の頼宣を紀州の藩主として差し向けた時も先ず松阪の青木氏との面談を行った。この時の様子も口伝で伝えられていて「上座」を青木長兵衛に譲ったと伝えられている。
    紀州藩三代目の妾子出(巨勢氏)で後の将軍8代目吉宗が部屋住みの時、伊勢の加納家に預け親族関係にあった伊勢青木の後見として育った。将軍に成った時、伊勢青木氏で豪商紙屋長兵衛の子供を江戸に引き連れて「享保の改革」を実行させ、更には紀州藩にも長兵衛の子供を配置させて藩財政を立て直させた経緯を江戸幕府に見せ付けて、幕府の「享保の改革」を断行したのである。
    筆者祖父の時代まで大正14年まで親交があった。絵画、書道、茶道、漢詩、禅道、商道などを藩主と藩士に代々教授した事が伝えられ、その徳川氏からの返礼として豪商青木長兵衛に紀州藩より十二人扶持米(1年間12人が食べてゆける石高)を与えられていたことが記録に残っている。

    つまり、青木氏の「皇族賜姓族の誉れに安住」だけでは、最早、藤原秀郷の末裔で人格者で学者で歌人で戦略家であった蒲生氏郷も、徳川時代に成って紀州徳川氏も、代々これ程までに扱わなかったであろう。
    これは誉れだけではない。家訓の教えに従い「こだわり」を押さえ「品格」を獲得し「見えない力」を会得したからこその所以である。

    結論
    この様に、”「人間形成」とその上の「品格形成」は「人を呼ぶ」事で「発展」するが、「こだわりの力」と「権力、力の形成」は「人を遠ざける」で「衰退」する。決して間違っては成らない。現世はこの条理で動いている。”況や、!成蹊の人たれ”即ち”「こだわり」を捨てた人たれ”である。これが添書の言い分である。

    上記の史実が殊更に青木氏に口伝化されているのはここにあり、家訓6と家訓7の「長の戒め」が判断を間違えずに歴史上に無かった新しい戦い方で、冷静に処理し「長」としての「戒め」の勤めを果たした事を意味する。又、その後の徳川時代にも上記の素晴らしい生き延び方を図った事を物語っている。
    これ全て家訓6と家訓7が伊勢青木氏を形成していた事の所以になる。


    伊勢に築づいた城(館城、廓城、櫓城、寺城、山城を含む)
    伊勢青木氏の城
    (・は伊勢青木氏の城)
    ・柏原城(奈良)、・名張城(奈良)、・青蓮寺城(奈良)、・桜町城(摂津)、
    ・桜町中将城(奈良)、・四日市羽津城(三重)、・四日市蒔田城(三重)、・浜田城(愛知)、
    ・福地城(三重桑名)、・脇出城(三重松阪)、・青木山城(三重松阪)、
    ・松阪館城(三重松阪)

    ・柏野城(三重伊賀)、・阿山城(三重伊賀)、

    藤原秀郷流青木氏(伊勢)
    滝川城、須賀川城、

    丸山城(三重 織田氏)、



    次ぎは家訓8に続く。


      [No.263] Re: 伊勢青木家 家訓6
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/29(Tue) 06:48:39  

    伊勢青木氏家訓10訓

    家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
    家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
    家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
    家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
    家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
    家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
    家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
    家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
    家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
    家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず


    家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)

    家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
    家訓1は「夫婦の戒め」
    家訓2は「親子の戒め」
    家訓3は「行動の戒め」
    家訓4は「性(さが)の戒め」
    家訓5は「対人の戒め」
    以上であった。

    家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
    この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
    この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
    それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
    この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。

    それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
    それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
    「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
    そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
    組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
    家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
    「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
    「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」

    更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
    その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
    それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。

    この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
    それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
    従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
    この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
    この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
    その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
    人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
    況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
    つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
    当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
    しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
    この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
    「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
    「教養」=「心」=「心の豊かさ」
    「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」

    ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
    家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。

    そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
    この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
    桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
    要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
    その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
    賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
    賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
    この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
    70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。

    つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
    それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
    この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
    (美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
    恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
    それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
    何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
    その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。

    この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
    「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
    しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
    これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
    しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
    しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
    この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
    この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
    しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。

    関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
    5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
    そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
    むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
    平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5−7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
    その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
    その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
    そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
    ”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
    ”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
    当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
    当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
    故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
    同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
    美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
    これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
    歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
    この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。

    しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
    衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
    この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。

    うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける

    源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
    その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。

    実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。

    兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
    (後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
    また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
    これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。

    更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
    これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
    それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。

    これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
    現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
    この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
    この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。

    この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
    それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
    名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
    名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
    そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
    後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。

    これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
    この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
    この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。

    では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
    そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
    「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
    二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
    これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
    これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
    特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
    将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
    この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
    本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
    これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。

    この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
    家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
    当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
    学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
    まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
    古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
    従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
    対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
    これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
    この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。

    と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
    「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
    「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
    これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
    「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
    「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
    そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
    これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
    真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。

    「教養」=「質的な探求」=「心」
    「教育」=「量的な探求」=「頭」
    「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
    「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
     故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
    「心の豊かさ」=「心の知識」

    更に、次ぎの様にも書かれている。
    「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
    つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
    反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
    「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」

    そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
    ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
    対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
    では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
    そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
    「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。

    「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(−の方向)=「質を高める源」
    「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」

    以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
    この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
    ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
    当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
    依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
    この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。

    筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。

    幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
    意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
    近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
    この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
    この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。

    兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
    「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」

    なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
    家訓6=「人間形成の戒め」
    次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。

    次ぎは家訓7に続く。


      [No.262] Re:写真技術と色の理論−後編
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/12(Sat) 13:43:24  
    Re:写真技術と色の理論−後編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

    > > 写真技術と色の理論
    > > (副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)


    「写真技術の現状」
    むしろ、極端に云うと、この理論から云うと、一般的にはマニアを除く素人域では”YMCの色合いを出す努力”で大方の良い綺麗な自然美の写真を撮るのには充分だと成りますよね。
    そして、ポイント4域右の領域は”プロとマニアに任す”と成るのでは有りませんか。
    つまり、2分化ですね。我々は「光の色域」の中間色の所での撮影に重点を置く事ですね。
    カーブもそ「光の色域」が広く安定した様に成っているのは太陽、否、神の成せる業(技)ですね。特に、色理論のCCカーブは日本人好み向きと成りますね。そこで次第にCC理論の腕を挙げて来れば挑戦すればよい事になるのでは有りませんか。しかし、このCC理論を知っておく事は絶対に必要ですね。腕をより挙げるのであれば。
    昔は、外国で”カメラを首から吊るして歩いている人は日本人と思え”と云われていました。
    ところで、この日本の2分化は写真技術の発展に大きな効果を示し、カメラのみならず写真媒体関係も発展させたのです。何れもが世界のトップに成ったのです。
    非常に美的感覚の強い繊細な日本人の為にはCCは最適であり、YMC域があり、好みの範囲であり、その領域が綺麗に撮れる領域で、且つ、撮影には安定しているのですから、故に日本で写真技術は進んだのですね。
    そこで市場の現状を観て見ると、昭和の時代はコダック社が日本の市場の寡占状態でしたが、次第に日本のメーカーもカメラ好きの日本人の後押しもあり、上記した様なCC理論の技術革新と開発をして、平成に入って日本のトップメーカーのF社はアメリカに上陸し、優れた繊細で綺麗な写真技術を背景に瞬く間に2大写真媒体メーカーを買収したのです。現在はカメラ本体、写真の技術媒体の何れもがアメリカ市場を大きく寡占する状況に成っているのです。
    当然に、上記した米国人の印象記憶の問題がありますが、これはポイント4−5域のところですからCC全体からすると20%程度と成るでしょう。
    最近では、日本人好みのG傾向が理解されて来て日本ソフトも好まれるように成りました。
    これは日本の景観の観光の効果と、米国の多様人種化の影響、米国人の「飲まず嫌い」の為でもあったと考えられます。丁度、寿司が世界に広まった事と同じではないでしょうか。
    これは、ただし写真を撮るのではなく、上記CC理論の様な写真技術を理解して撮る事により進歩が生まれて、それが物心両面で何時か我々の生活を豊かにさせる要因と成っているのではありませんか。

    話をCC理論に戻します。
    上記して重複しますが、ここで、「色調」を示す「色の階層」というものがあります。それを知っておく必要がありますので、長文と成った為にも改めて上記の復習をします。

    色の無い白が次第にやや色じみたものが出て来ます。このポイント1が大事な写真の良悪の判定となるのです。これがある程度の平行状態で進みポイント2のところに来ますと、YMCの色合いが強く出てきます。
    この辺まではポイント1と同じく自然色の色合いの判定が出来又、その写真性の修正も幾らのYMCを足せば自然色なるかの判定が可能です(説明する)。
    YMCのバランス関係が一定で推移します。
    ところが、更に右に進むと、つまり、このポイント3付近ですが、このポイントから急激に濃度は上がります。又このポイント3当りからYMCの相関関係が崩れてきます。
    同時に光の関係が崩れて色の関係へと進むのです。融合すると薄いグレー色を示してきます。
    そして、ポイント3から4付近で全てのYMCが一点に集中して来ます。ここがポイント4です。
    所謂、融合色のグレーです。このポイント4が「K18」と云われるところで、「光と色の中心」即ち(YMC)と(BGR)の中心と成ります。「K18グレーポイント」と呼ばれるところです。
    「BGR:YMC」の光と色の中心、又は光と色の分れ目、分岐点、分離点です。
    このポイント4が世界で統一されたグレーでこれを基準に色の種類の判定が出来る様に成っています正確に、そのK18の中味を分析すると、YMC、BGRの数値がバランスの取れた形で存在して色合いが出来ています。

    では、その階層が判るとして、写真技術では「色のレベル」を判定して調整する事が必要に成ります。
    撮影時には環境条件やカメラ技術で調整する事に成りますし、プリントではペイントソフトで編集する事も必要と成ります。
    兎も角も撮影時の調整として考えるとどうしても「色レベルの判別能力」をつける必要が出てきます。
    そこで、人間には色に対する判別能力が実にシビヤーに持っているのです。

    色判別能力
    そのレベルはどの程度なのかの疑問が湧きますね。
    もとより判別が出来なければ撮影の環境条件を左右させられません。
    目で観た自然との違いを表現するにしても数値的ものが無くてはこの位と云っても抽象的では判りません。
    世界共通の何かの基準が必要です。
    そこで、そのために色理論では「色の階層」を定めています。そのレベルに付いて述べます。
    そして、それに依ってYMC、BGRの個々の色の階層と云うものを定めています。

    その方法を簡単に述べますと次ぎの様に成ります。
    人間の色の濃度(Ed)或いは強さ(Es)の判定のレベルを統計的に、色の範囲を十進法で先ず10階層に分けます。そして、その1の色の濃度の変化を更に10等分してどの程度に見分けることが出来るかを観ます。
    (注 ここでは写真性という観点から判りやすくする為に「濃度Edと光の強さEs」と云うエネルギーの定義の枠で説明している)
    そうしますと、統計的に実験では、カラーチャートを使うと次ぎの様な能力を持っています。

    人間の判定能力は次ぎの様に成ります。
    普通の人でD=0.5です。
    プロではD=0.2です。
    D=1であると判り易いのですがそうでは有りませんでした。

    この判定能力を機械的(濃度計)に再現しても一致しますし、写真の中での濃度を見ても0.5と0.2ですので、これを根拠に再び階層を分け直しますと次ぎの様に成ります。
    0.5では10のものは、中心と両サイドを計算すると12階層と成ります。
    プロでは0.2ですから24階層と成ります。
    更にプロ域が使えるために作った0.2は確実なので「感の領域」のために進めると36階層が出来ます。この様に分ければ人間の判別能力に一致します。
    簡単であれば現実でも6階層でも充分可能です。
    これで”何色が0.5足りない”とすれば直ぐに対処できます。
    当然、縦と横の階層の判別はその色がK18の基準が決められていますので縦の位置と横の位置の判別には問題はなく成ります。

    本文では、縦のその色の変化をポイント1から7までとしての6階層として説明しています。
    しかし、この6階層を更にその微細な特長毎に分割すると12階層に分けられます。
    当然この域はプロの域です。そうしますとYMC、BGRの一階層に対して、6、12、24、36の単一の階層が出来ます。
    そうしますと、最高の識別では縦横の階層に分けた色の種類は1300程度成ります。
    現在では機械的に更に分ける事は出来ますが、それに付いて来る人間の判別能力が追い付きませんので意味が有りません。
    多くして超微妙な「色合い」を変化させてもそれを観る人が居ないのでは同じですね。(中には10進法で階層を作っているものもある)
    これで、YMC、BGRの色の分類をしています。
    我々では6階層でも綺麗な写真は上記理論を駆使すれば充分に撮れます。
    ですから、出来た写真を観て、1程度の濃度等の判別能力があれば充分です。
    色見本を観ながらでは経験して慣れますと、この写真の出来栄えでは”少し濃度が現実の自然より高いな”とか、”色がずれているな”と評価して一眼レフのカメラ技術で修正撮影をする事が出来ます。
    又、プリントする際はカメラ写真店で”Mを0.5程度引いて下さい”と云えば自分の好きな色合いを弾き出す事は出来ます。
    当然、目で観た「自然の美」に合わせることも出来るし、「趣」を表現し誇張する事もこの操作で出来る事に成ります。(デジタル、アナログともに可能)
    今はデジタルですので目で観たものとモニター写真とで直ぐにこの評価が出来ますね。
    しかし、ところが、このデジタルにも多く問題を持っていて万来の信頼を置く事は出来ません。
    デジタル写真では、家でのプリンターでの操作は、先ずはそのソフトの持つメモリー容量から来る再現能力で決まります。その再現の品質が悪ければ、後は画像修正のペイントソフトで行えますね。
    ところが、実はデジタルは色を出す事に対して「大変な問題」を持っているのです。このことは詳細は後述します。

    「店頭プリントの問題」
    ここで、自然の美を追求する立場から、デジタルとアナログ共にプリントに付いて少し予備知識として持っておく必要があるのです。
    デジタルはインクジェットでプリントしますが、なかなか思った様な再現プリントが出来ませんね。
    微妙な色合いは出ません。それはそのインクジェツトが噴射するソフトのメモリーが左右します。
    充分な色階層を再現出来るソフトメモリーでなくては実態の自然美を出す事は出来ません。
    そうすると、マニアーはデジタルカードを銀塩写真の現像器にセットして処理しますと400万画素と成りますので充分な色合いを正しく出す事が出来ます。
    しかし、現像液の管理が正常に出来ている事を前提としています。これには管理の問題があるのです。
    デジタルを直接PCに映像にすると、それを再現するソフトのメモリーが左右してしまいます。
    今は多くはインクジェツもソフのトメモリーの低さが左右しますので同じです。、これを放置するとどんなに撮影で写真技術を駆使して微妙に表現しても、思ったような写真は出来上がりません。

    メモリーでないこの店頭プリント(家でのプリントも含む)で解決できるのですが、この管理の問題点を理解していないと再現出来ません。
    それを説明します。
    店頭のプリントは現像液で処理しますが、このシステムは簡単に云いますと次ぎの様に成ります。
    デジタルアナログ共に同じです。
    「現像]「定着」「水洗」「安定」「乾燥」の原則5つのプロセスで出来ています。
    ところが、これは化学液ですから次ぎのことが起こります。
    「処理液の反応差」
    「反応による劣化」
    「自然の劣化」
    「機械のCCソフト差」

    先ず、反応差です。
    反応は処理すると反応前の原液が一定量で処理量に合わせて補充されます。従って処理液は原則的には劣化しません。ところが、この処理液はメーカーに依って微妙に異なるのです。
    この「微妙」がまずは問題なのです。0.2以下の違いであれば問題有りませんね。しかし、それでは反応差をメーカーがつける必要がありませんから、少なくとも0.5程度の差を付けています。
    当然に、ポイント4−7までの域での差と成ります。
    この差は次ぎの様に成ります。
    CC全体に及ぼしている場合
    限定したポイント域で及ぼしている場合
    以上2つです。

    それは上記したCC理論で記述したメーカー独自のノウハウで調整されています。
    上記での人種の差も含みますから、米国の処理機械と処理液では日本人であればクレームを付けられる範囲です。
    先ずは、ここで出る「0.5程度」の「色の差」と「濃度の差」を認識しておく事です。
    ポイント5−6域では1弱程度は出るでしょう。
    日本のデジタルカメラで日本の処理機であれば0.2程度以下ですのでほぼ問題が有りませんる
    カメラと処理機のマッチングが違った時の問題です。日本に居ますので殆どはマッチングしていますが、米国製であると、上記した様にR系で出てきます。そうするとテストプリントを見て「R0.5引き」を要求する事に成ります。
    この事を知っていれば自然美の写真を再現出来ます。この時にはこの色の判別能力が求められます。

    次ぎは「反応による劣化」です。
    処理すると反応による処理劣化が起こります。劣化した分の液の補充は行います。しかし、反応によって起こった反応廃棄物は機械的に除去されながらも発生して沈殿し、さらに攪拌されて印画紙に付着等の現象を起し、紙の表面の反応が不十分と成り、自然に劣化が起こります。
    定期的に交換が必要に成ります。これを忙しさとコスト意識で遅らすと出てきます。
    この時に、全体に先ず濃度が低下します。個別の色ではM(マゼンタ傾向)が多くて出来ます。
    これも、液の交換が怠り長引けば0.5程度の「色の差」と「濃度の差」は出ます。
    劣化はマゼンタですので、写真でマゼンタになったのか、現像劣化でマゼンタに成ったのかは左右しますので、兎も角も少なくともこの劣化では「マゼンタ引き」M0.5引きは起こるでしょう。

    次ぎは「自然の劣化」です。
    処理されていれば「反応劣化」の程度で済むのですが、一日の処理量が少いと充分に補充が行われませんので、化学液は空気、湿度と温度の影響も伴ない自然劣化します。
    標準的には一日20本以下であると発生してきます。8本/1日ですと劣化退化を起すのです。
    このレベルは20本では0.5程度で、8本以下であれば1程度起こります。
    起こる「自然劣化」の色合いはこれもはっきりとしたM(マゼンタ傾向)です。
    当然にそのプリントの店頭の繁盛さが響きます。
    本来であれば、モーニングチェックでK18のグレーチャートをプリントして補正を掛けます。
    処理量が少ないと補正が届きませんし、経費が大きく掛かります。
    最近ではデジタルのインクジェツトプリンターに成りましたので銀塩の処理機ではこの問題が大きいのです。マゼンタ引きM0.5から1.0は起こります。

    次ぎは「機械のCCソフト差」です。
    処理機ではCCカーブのソフトが入っていますが、次ぎの問題が出ます。
    ソフトメーカーのノウハウ差
    店頭のノウハウ差(顧客の要望傾向の反映差)
    以上の2つがあります。

    CCカーブの事に付いては上記で論じて来ましたが、例えば米国メーカーの機械で日本のカメラで撮影したものを米国の処理機械でプリントした場合はどのように成るのかという疑問が出ます。
    上記した様に米国はR傾向と日本はG傾向の違いによる「色ズレ」なるものが起こる可能性があります。実際、目で観た被写体に較べてRとGが強く出ると言う事に成りますね。
    この逆の事も起こりえます。どの程度かは判断は困難ですが、0.2では無い事が云えますから0.5程度の差は出る事はCCカーブ差でも判ります。
    店頭では顧客の満足度を高める事が「市場命題」(至上命題)ですから、その統計的な傾向を汲み取りセットアップの時にK18グレーに対してこの分を補正を掛けてスタンダードとします。
    当然、気に入らない人も出てきます。統計では8割程度の時に実行します。
    ですから、2割程度の人は不満足と成ります。この人が自然美を追求していると、補正分を引く事を指示しなくてはなりません。8割とは写っていれば良い一般の人です。
    そして、この補正の色合いは上記しました様に
    矢張りM(マゼンタ)なのです。元々日本人はマゼンタ傾向を要求しますので、補正分とすれば補正値は(0.2要求分)0.5程度です。
    中にはCCカーブの両端の白と黒の色合いを要求します。白にマゼンタが入ると「白さ」が低下しますので余計に嫌われると言うことに成ります。
    白を強調するのは上記した様にC(シアン)ですからね。

    対応策
    「処理液の反応差」「反応による劣化」「自然の劣化」「機械のCCソフト差」が最悪の場合重なると、2程度の差が出て来る事に成ります。何度も経験しています。そして、その都度、主にM引きを要求するのですが、問題はその店のオペレーターの「技量」の問題、つまり、「目の判別能力」の問題ですね。その為に、メーカーが各店を廻ってセットアップをK18にする様に指導するシステムを採用しているのですが、徹底されていないのですね。上記した様に、”アスファルトにマゼンタ”のオペレータとか、”市場がM傾向が多い”とか成りますと最悪ですね。
    修正を要求するとそれだけ儲けが無く成りますからね。ですから、「いい店」を見つけて置くか、主人と「知り合い」に成っておくか、その店の傾向を観て「何時もM引き」とするかの対応策が必要です。マァ2度程同じ修正をすると、”何時もの様に”で通りますがね。
    故意的にM傾向にしているのは別として、上記「4つの問題」からでは他のYCも多少狂っていることを意味しますから、処理量20本/日以上と0.2−0.5の判別能力の持った「いい店」を選ぶべですね。
    何せ上記した様に1で誰でも明らかに違和感が起こりクレームが付くのですからね。これは絶対に無視する事は出来ません。少なくとも0.5−1は起こっているのです。
    0.5は普通の人の判別能力がありますからね。
    この様な画素数ではよい処理機でありながら上記「4つの問題」ですから、”インクジェツトのプリンターに”としたいと成りますし便利ですが、一般の人は上記のPCの画像ソフトメモリーの問題が伴ないますしね。最近は大分高いものはよくなりましたが、プリンターの画像の解像度の問題も起こりますしね。余り使わないプリンターに高額も無いと思いますから。
    そこで、私は”これぞ”と思う写真は溜めておいて「行付けの店」で「何時もの」でプリントしています。要は「CC理論」は「400万画素」と「画像ソウトメモリー」の問題で揺さぶられるのです。ですから、展覧会とか展示とも成ると、是非にも「店」ですね。
    さぁ、どうしますか。
    こんな事が起こっていると云う事を想像した事はないでしょう。アマチュアでも否プロでも知らないかもね。恐らく、このズレに慣れている為に、”これが「当り前だ」”と認識していると思いますよ。不幸にしてか「上記4つの問題」と「CCの傾向」から、全てM系かR系に走りますからね。”何か赤っぽい”とか思う程度で終わっていると思いますよ。
    この「4つの問題知」の知識と「画素数とメモリー」の知識を覚えておくことが必要であり、自分の問題として「判別能力」を養って置く事が自然美を再現する「隠れた秘訣」です。
     
    デジタルのメモリー
    上記に”後述する”としたメモリーの問題です。
    改めて、更にメモリー(画素数含む)を解説します。

    兎も角も人の判別能力を持ったとしても、その外側では先ず「上記4つの問題」で「色のズレ」が起こります。この「色のズレ」を何とかしなくてはなりません。しかし、未だ「色の問題」が外側であるのです。
    それ等を知ってこそ「自然の美」を、吟味し観察し、撮影して再現できると云うものです。
    難しい面倒と思えばそれまでの事です。しかし、その物事の「追求」とはその様なもので、それを会得する処に「面白味」や果てには「侘寂」の様な何か「悟り」の様なものを得られるのでは無いかと思うのです。当然その面白味も倍増すると云うものですね。
    もとより、「色理論」等と難しいものと観られがちな事を長々と解説するのは本文の目的ですので敢えて論じることを続けます。色にはさて未だ問題があるのです。

    先ず、次ぎの事がソフト上で出ます。
    先ずは、「YMCの表現力」と「CCカーブを含む理論」を記憶させる「メモリー容量」の問題が出ます。
    次には、上記の「色の階層」をメモリとして反映する容量の問題も出るのです。
    更には、困った事には、画面の「画素数」(後述します)にも問題が出来ます。
    以上「3つのソフト問題」を抱えています。

    幾ら写真技術で「自然美」を表現してもこれ等の「メモリー」がそれに追いついて来なければ何の意味も有りません。
    ですから、6階層程度でも良い事に成ります。それ以上であると、その1300以上の階層の色合いを先ずメモリーにしておかねば成りません。CCカーブをメモリーにするだけでも大変な要領を必要とします。そうなるとPCでは無理ですから専用器機のプリントや画像にするプロ用の高容量の高額のソフトを使う必要があります。
    そこで、これ等の3つの事は後で解説します先ずは予備知識として知って置いて下さい。

    再び、話を元に戻します。
    前まではポイント4の説明でした。
    これからの説明にはメモリーに直接関わってくることだから重複して詳細に掘り下げて置きます。

    さて、ここからが問題です。ポイント5域です。
    上記しました人種の印象記憶の違いが出てくる域です。
    そして、BGRの色合いのバランスは大きく差として出て来ます。
    この事は、撮影では大きく影響します。では”どの様に出てくるのか”ですが、YMCの様に”撮影の環境条件をコントロールすれば自然美を出す事が出来る”と云う事では無く成ります。
    それは次ぎの原因です。もとよりBGRは「透過」と云う現象を乗り越えてくる事から、「環境条件」に左右され易いことは説明をしました。ところが、これだけでは今度は済まないのです。

    そもそも、CCカーブより”BGRの色の差が大きく差が出る”と云う事は、本来であれば同率である筈ですが、そうであれば問題ありませんね。次ぎの様な事柄です。

    自然界では縦軸と横軸に微妙な(E)の差でズレが出る事、
    更には人種の印象記憶から来る「好みの違い」を演出している事
    この2つから厄介な事が起こります。

    先ず、YMCの様に環境条件を合わせたところが、このポイント5域は撮影すると、自然に合わせて撮ったつもりでも極端にRが強く出たりして、目で観たものと違う現象が画像上に起こる事に成りますね。
    BGR同率で有ればバランスが取れていた場合は目で観た通りのものが再現されますね。
    しかし、BGRとしての色としては「はっきりくっきり」と出る事に成りますが、当然に、突出した色に対して、画面にフェリヤーが更に働く構成の画像に成っていたとしたらこれは大変です。
    先ず見られる写真では有りません。色が突出してフェリヤーが働くのです。
    しかし、故意的、恣意的にその様にしたいとすれば好都合ですね。その場合、この領域を使って撮影する事で解決出来ます。但し、フェリヤーがそれだけに働きやすいのですから注意が必要です。
    人種による印象記憶の好みの国ではこの現象の2つは普通の事に成るでしょうが。日本人では先ずは普通では無いと思います。(日本人はマゼンタ好みでG)
    では”日本人のこの2つはどの様に成るのか”と疑問が出ますね。
    日本人は統計的に「G」にあるのです。
    これは問題が出ますね。
    このポイント5での日本人好みは、CCカーブでは、エネルギー(E)的にはRが強く出ます。其処に印象記憶の好みの「G」が要求されて来るのです。
    つまり、RとGが衝突です。さて、どうするのか。解決策はただ一つです。
    Eの順序からするとR>G>Bですから、RとGを同率扱いにソフト上操作する事が必要に成ります。
    これは論理的に同率で本来の形ですからいい事です。でも、そうも行きませんね。
    RとGが良くても、今度はBとの差が同率であれば問題ありませんが、しかし、Bとの差が単独で大きく(−)で出て来る事に成ります。R=G<Bと成ります。
    つまり、日本人の場合は、Bに問題が出て来るのです。
    この場合は、RとGが同率ですから、Bが低い写真として出て来る事に成りますね。
    Bの少ない何となく思惑より青味の少ない写真が出来る傾向が出てきます。
    乾いた様な写真が出来る事に成りますね。
    つまり、ポイント5域付近で撮影した写真はBが引けている写真と成ります。
    日本人の目の印象記憶の目の感覚からすると”自然美と少し違う”と云う感覚ですね。
    D0.5の領域を越えない範囲であれば問題視しないでしょう。色の判別能力外ですからね。でも、プロD0.2では困りますね。(D:濃度差)
    しかし、このポイント5の域は断念ながら0.5域では有りません。明らかに違うのですから、概して1.0−2.0はあると思います。

    困りました。そこで”何か技術的工夫は無いのか”ですね。
    幾つか考えられますが、次ぎの方法があります。
    フェリヤーを使う方法です。
    このポイント5域付近はDがフェリヤーを起しやすいDに成っていますから、この技術を使えますね。
    先ず、被写体の「背景をY傾向」にします。
    その「被写体の位置を画面60%の中央の中」に入れます。
    且つ「Yの多い背景の位置に写す」様にアングルを考えます。
    これで補える理屈に成ります。

    或いは、
    その被写体に「日差し」を強く取り込みます。
    そして「紫外線」を多く取り込む事です。
    「C(シアン)」の薄い青味の色合いを取り込みます。
    太陽のハレーションとで何とか見た目を直す事が出来ます。

    この様に、写真技術の論理の展開でカバーが出来る様に成ります。経験と訓練が必要ですがね。
    この様な「Bの低下現象」は、季節の傾向としては、次ぎの様に成ります。
    「青味豊かな夏」は目立ちます。
    「秋は色の綜合色が蔓延する時期」ですから、写真としては元々は青味が少なくなる時期ですから「紅葉」が進んだのかとも観えますね。
    反対傾向では
    「冬は落ち葉」で目立ちません。
    「春は緑」は徐々に目立って来ることに成るでしょう。
    「春と夏」にはこの認識を持つ必要があります。

    特に、ポイント5域はBGRの最も撮影の良い所ですからね。色がくっきりと出る時期ですね。

    では、この時は他の人種にとってはどの様に成るでしょう。
    例えば、アングロサクソン系はRが強くなり濃度を上げて来ますので、ソフトもそのバランスを組み込んで作られています。「R傾向」に「R好み」ですからR>G>Bはそのままでも問題ないことに成ります。
    本来はYMCもBGRも同率比であるのが理論ですが、つまり、一つの曲線で推移する筈です。本来は。自然界のEはそう上手く出来ていません。
    復習しますと、しかし、自然はそのように出来ていなくて、地球の環境により太陽から飛来し届いた振動磁波は、3段階の成層圏を経て地球に到達するまでに、振幅の細かさの影響でこの定率の関係は崩れて、先ずYMCでY=M=Cであるはずのものが、はそのY>M>Cの順序で成り立ちが変わります。
    そうしますと、Y>M>Cであるのですから、理論的にはB>G>Rとなる筈です。
    しかし、R>G>Bと成っています。逆転していますね。上記の説明の通りでRは振幅が細かいのですから「可視光線」の順序からすればRが強く成るのは当然ですね。
    ポイント1でのYMCではYの濃度が最も高く出ます。それほどに大きな差を示しませんが。これがポイント2までの領域です。
    ところが、ポイント3からはその濃度が急激に上がる事で差は再び縮まります。
    ポイント4では左側から集中が起こり始め遂には「一点に集中」(K18)します。
    これは濃度がこのYMCの少しのバランスの違いを埋める事になる事を意味しています。この事は、写真は撮りやすく成り、思ったように自然美が撮れる傾向が改善され事を意味します。
    そのポイント4からはBGRのバランスがRの濃度が高く成ります。
    この様に品利色の変化の経緯は上記したようにポイント5域と成りますので、Rが突出して、次にGと成り、Bと成ります。
    逆転したRGBであり更に大きな差を示しますので、写真にすると「色の違い」が完全に判別することが出来ます。

    ここで、その前に、「色の違い」が出るのですから、「判別能力」が必要です。何度もと言っていますが、「判別能力」が無ければ「色の違い」は出来ませんから自然の美の再現は出来ません。
    従って、更にそれを説明します。
    一つの色を機械的には10段階(基本12段階)に分類する事に成っていますね。
    一般の人の色の差の判定能力は0.5で違うと判別する事が出来ます。
    プロになると0.2でも判定する事ができます。
    普通の人では0.2では”違うかなー”との程度と成りますが計測器では違うのです。(この判定はデンシティー計で計測する事がで来ます。)
    この様に、人間の脳の能力は素晴らしいものがあります。

    そこで、この判別能力が特に働かせなくては成らない領域と成るであり、これなくして「目で観た自然美」を再現する事は不可能ですね。
    このBGRのポイント5の処から、人種の違いが出てきて「印象記憶」から「本当の色合いと違う」のですから、夫々「希望的色合い」を主張するように成ります。
    つまり、CCの理屈以外のところの「美意識」で「自然美」に対する違いが出てきます。
    日本人からすると、基準から”何でこんなに違うのに”と思うくらいです。
    統計的に日本人はこの基準に極めて近く理解に苦しむ範囲がこの辺から起こります。

    「日本人はG」ですが、「彼等はR」が強い訳ですから、この域のカーブはR>G>Bと成っていますので、”更にRが強い”と成ります。
    日本人はGで下のBが低くで、彼等は上のRですから、これは反対に成りますよね。
    日本人からすると、”何だこれは”の印象ですね。
    季節から観て見ると、彼等にしてみれば、日本の秋の紅葉はBGRの祭典ですね。喜びますよ”ワンダフル”と。「日本人はGですから春」ですね。

    この様にポイント5域ではこの様な傾向を持ちながら、次ぎはその傾向を維持しながら、ポイント6付近ではその状況のバランスが最大と成ります。
    マァこの辺までが写真にする事が出来る範囲です。それがポイント6と成ります。BGRが「はっきりくっきり区域」です。
    その最高点に来ています。逆に云えばポイント5の拙い現象は最高と云う事に成ります。
    写真性で云えば、極めて「BGRの色合い」を出すには最高の所ですが、自然美の演出では危険性も失敗も起こり易い所と成ります。
    念の為に、YMCを忘れない事ですね。前述した様に、YMCは光の色で、その光がBGRに変化するのですから、その基本又はベースに成っていますね。
    つまり、「BGR」の色合いを良く見せるのはこの「YMC」なのですから、「くすんだ、澱んだ、濁った、冴えない、映えない等の色合い」を無くすには、「BGR」にこの「YMC」を多く加える事が論理的に必要ですね。日本人には。

    それには、次ぎのことが必要です。
    可視光線外に「紫外線や赤外線を多く取り込む事」
    上記した「撮影の環境条件を最大限に引き出す事」
    以上の2つの工夫が必要に成ります。

    YMCはBGRの根幹
    画面全体が綺麗であるのですが、”何となくスッキリしない、パッとしない”はこのYMCの不足から来ている事が多いのです。
    逆に云えば、”素晴らしい”と成るのはこの「YMC」を多く取り込み含んだ写真と成ります。
    この判別は次ぎの様に成ります。
    夏の「夕日の写真」
    秋の「紅葉の景色」
    以上での2つの季節ではっきりしますよ。

    この様な現象が顕著に起こるのがポイント6なのです。
    春は原色を持つ西洋花などで起こるので「夕日」と「紅葉」とのその中間域ですね。
    ポイント5からポイント6はこの季節域にこれ等の現象が主に働きます。
    被写体によっては他の季節では起こらないと云う事では有りませんが。

    そこで、この域ではBGRの綜合色は黒ですから、黒域に近づいている訳ですから、この域の特長としては「黒の色合いにも変化」が出てきます。
    写真では黒を演出する場合もありますから、その黒の色合いをこの域では多少論理的に意識する必要が出ますね。その現象が顕著に出て来るのが、次ぎのポイント6です。

    ポイント6域
    ポイント5域を基本に説明してきましたが、改めてポイント6を勧めます。
    Ed(濃度)としては最もピークに有る訳ですから、即ちポイント5の特長が最大に成る事ですから、写真では「色合い」がはっきりし、濃度もよく出ると云う事に成ります。
    自然の景色では、この域ではこの被写体は季節的に限定され少ないと思いますが、あるとするとYMCによる「はっきりくつきり」の特長と黒の特長が出し易いと云う事ですね。

    このポイント6域前後はカーブではRGBの全体が下がる傾向を持っています。
    「下がる」と云う事は縦軸と横軸の「Eが下がる」と云う事、主には「濃度が下がる」と云うことですから、撮影では思ったより薄く写ることに成ります。
    しかし、もとよりこの域では黒の傾向が強く成りますから、撮影には大きく影響しません。この辺からは黒く暗くなり過ぎて最早、写真とはいい難いものと成ります。
    黒を基調とする被写体であれば問題と成りますが、「自然美の綺麗な写真」では殆ど問題外と成ります。マア、「夏の夜空の花火」の写真や「夜景写真]や「影の多い写真」くらいでしょうか。
    この領域の黒味を使って、YMCの中間色の色合いを出すと言う技法もありますね。日差しの強い所でのYMCの色合いはカラーフェリヤーが働き自然美を表現し難いということが起こります。そこでこの技法を良く使われるのです。
    つまり、青葉や緑葉での多い背景の中での自然のYMCの色合いを持つものが多いですから、影にして、斜め上から柔らかい朝の日差しを部分的に入れて被写体の花のYMCを表現するのです。

    そして、次第に今度は黒の領域が始まりほぼその濃度差は一定で少し下がり始めますので黒の基調が(R)赤気味に成ったり、(G)、(B)の黒が目だって出て来ます。
    BGRの強さ、即ち「明度」とか「彩度」とかの特長が良く出て被写体の中の黒に特長が出ると云う事ですね。
    全体としてはR傾向の黒が出ます。画面全部が真っ黒な写真と云うものはありませんから、その中に被写体の灯りが出てきますので、赤傾向(R)又はG傾向(緑に含まれるY)であれば問題はなく成ります。むしろこの特長を利用して撮影をすると云う事もあり得ますね。

    この様な特長を維持してポイント6からポイント7と成り、ポイント7では黒のレベルの領域です。
    そして、急にその濃度は下がります。
    これは黒はエネルギーを他から吸収する性質を持っている事から起こります。
    依って、その黒の持つエネルギーと濃度との対比関係に狂いが生じる事に成り、吸収した分の差だけ濃度が下がると云うEに関する自然現象が起こる事に成ります。
    ですから、下がったところで印象として赤みがかった黒とか、緑がかった黒とかの印象領域と成ります。
    当然に、次ぎの様に成ります。
    BGRの黒の末端には「Eの色を吸収する」の性質があります。
    YMCの白の初期部分にも「Eの光を反射する」の性質があります。
    以上2つですから、その分のEの濃度比率が僅かに上がることが起こります。

    しかし、この白と黒のこの末端領域で印象領域と成りますので、殆ど使用しませんので、全く問題はありません。マァここの域はスタジオでの写真技術ですから何とでも成りますのでプロ域でしょう。

    この様に、「YMC」と「BGR」は定率で変化するのでは無く、且つ、バランスよく差の無い形で変化しているものでは無い事を物語ります。
    論理的には光(YMC)と色(BGR)はある一定の傾きで直線として伸び、且つ1本線であるはずのものが、上記の様に縦軸と横軸のEd、EsはYMC、BGRのポイント毎に異なる巾を持ってこの様にSカーブを示します。
    其処にポイント4域付近からポイント6域までは厄介な「印象記憶」が働くと云う事が起こるのですが、この部分には本来Eに依って起こるカーブの傾き(積分係数)より高めの印象記憶(R等)が追加されてソフトに組み込まれます。

    現在ではアナログでのプリントと云うものは少なくなりましたが、アナログの現像器機ではこの印象記憶を「現像液」と「マニアル操作」で反映されるように成っています。
    デジタルではスキャナーでの読み込み、プリンターでの読み込みのソフトに反映されているのです。
    (詳細は後述)

    撮影の変化
    例えば、撮影では”どの様なことが起こるか”と云う事ですが、次ぎの様な事に成るでしょう。
    まず、中間色のハーフトーン領域だけの写真撮影であれば、多分考えた通りのものが出来上がります。
    しかし、BGRだけの写真撮影であれば、一律で無い為にその被写体の濃度Eに依って少し思ったものと違う色合いのものが出来る事に成ります。そうすると自然色の美は遠ざかります。
    更に、ハーフトーン領域(YMC)とBGR領域とを入れた被写体とすると、脳がYMCに持っている基本的な正常な記憶(YMCは広域で定率変化する事から脳で基準と成っている)から対比感覚が起こり微妙に判定して”違う”としてしまいます。

    アマプロの判定領域
    これ等の微妙な判定領域は、上記した様にYMCとBGRでの横軸は、本文では判りやすく6階層に分けましたが、プロ域ではこれを更には12階層、24階層、36階層と分けられています。
    プロ域での分け方では微妙な色(E)の階層域です。
    普通、簡単なもので普通は6階層(0.5)ですが、マニア等やや専門的に成ると12階層で留まりです。これ以上は上記したプロの判定能力(0.2)に掛かりますので一般の人は無理と成ります
    上記した事は色の三属性(色相、彩度、明度)の変化がどの様に変わるのかを簡単に判り易いE(縦横のエネルギー)として観た場合の変化で説明をして来ました。

    ハーフトーン
    YMCの領域のポイント1から3まではほぼ平行領域ですので階層を分けても余り意味を持ちません。このポイント1から3の領域は「ハーフトーン」(中間色)と呼ばれるところです。
    上記した肌色などの領域です。この「ハーフトーン」で色の良悪の判定が確実に出来るところです。
    当然に濃度の変化の無い一定率で平行領域のところですから、ポイント3までのかなりの範囲で同じ基準で判定が出来ます。ですから、逆に云うと広範囲でのBGRの”フェリヤーの影響を受け易い”と成ります。
    この理屈から背景をYMCのハーフトーン(中間色)にしてBGRの原色でない人物など被写体を撮れば綺麗な写真となりますね。これがスタジオのハーフトーン中間色の背景の理由ですね。
    逆手に取れば、フェリヤーを含む写真全体の自然色の判定が出来ることを意味します。
    濃度の差がないのですから基準は一定と観る事が出来ますので、その基準に照らして見れば0.2或いは0.5の差で判定が確実に出来ます。
    概して云うと「空気の澱み」等の影響を余り受けていない領域だと云えます。
    例えば、花や肌色などのハーフトーンを画面から探し出して、その色が変化していないかを見る事でわかります。一度テレビ等の画面をよく見てください。
    あまり、金額をかけていない質の悪い番組等はこのハーフトーンが全く出来ていないのが多いのです。フェリヤーなどはもう無視の場面が実に多いですよ。
    矢張り、NHK等のそれなりの写真性のある番組を見るとこの理論が出来ている事が判ります。勉強に成りますよ。その場面のハーフトーンのところを見る事ですね。一番いいのは顔ですね。化粧していても原色で化粧する人はいませんからね。

    このCC理論のSカーブがソフトに組み込まれて連動して画像ソフトは出来ています。
    画像を作りだす機器にはこのソフトが組み込まれているのですから、人種の印象記憶からアメリカ人の好みに合わせたソフトでポイント5から6のカーブ域は手を加えていて、その域は日本のそれと違って来ますね。日本人から観ると何時も”赤みがかっている”と云う印象を持ちます。
    彼等からすると、”Gがかっている”と見えるでしょう。
    最近では、この域はデジタルとなりましたので、更に難しく成ってきました。
    上記のYMC、BGRのCC理論だけの問題では無いのです。

    実は色に関してここに大問題があるのです。次ぎの事を認識する必要があります。
    上記の「YMCとBGRのCC理論」とこの「デジタル大問題」のどちらの問題が起こっているのかを判別する必要があるのです。
    折角、YMCとBGRのCC理論の写真撮影で工夫をしたのにそれを低下させる問題が起こるのです。

    デジタルメモリーの不足
    その問題とは、次ぎの事です。
    「人間の感覚」をいかに忠実に「デジタルソフト」に組み込み反映させるかの技術です。
    当然に、今までの「経験」と色の階層等の「CC理論」と2つをソフトに組み込みますが、この2つ全てを組み込みますと膨大なメモリーと成ります。とても出来るものでは有りません。
    このメモリーでPCに乗せると大変な事に成ります。
    PCには「ROMメモリー」と「RAMメモリー」がありますが、PCの容量を高ギガ(G)レベルに上げておくことでROMメモリーは解決しますが、PCを立ち上げた時に、ハードディスクから呼び出した表に出て来るその操作用の動作メモリーは小さい(全体の1/10程度)ので、「完全なCC理論」と「色の多階層」の情報の大きいものを入れると動作メモリーは不足して他のものに支障を来たします。
    場合によっては動作メモリーは動かない事になる程度と考えられます。
    従って、単独に使える専用画像ソフト器機となるでしょう。
    インターネットでは現実にPCに関わる事ですから。動作メモリーにマッチングしたソフト容量と成ります。人間の感覚に忠実に自然美を反映させられるソフトにでは無理で容量を落としたソフトに限定されますね。
    この事は一応納得したとして、更にこのメモリーに更に問題を持っているのです。

    そこで、このメモリーには次ぎの2つの問題を持っています。
    一つは、画面を出来るだけに細かくして人間が観て自然と見られる画像を入れる事が必要です。
    これを「画素数」と云います。

    普通アナログではこの画面の細かさ、即ち画素数が400万画素です。
    この400万画素で人間の脳、又は目は画面に異常性を認めません。
    問題が起こらない「基準画素数」(400万画素)です。
    ところが、デジタルでは画面を細かく分けて、その分けられた個々(マス)にメモリー(2ビット)を配分して行かなければ成りません。そうしなければ、その分けられたマスに写った情報を反映させられなく成ります。又、更には、そうしなければ実際の被写体をところどころを削った写真となってしまいます。これでは自然美どころの話ではありませんね。
    一度PCの自分の写真の登録したものを倍率を200-400倍程度に拡大して見てください。
    四角いマスで囲われています。これはそのマスの中に入る情報が区切られていることを意味します。
    多くの情報があったのが削られた結果です。
    特に中心から外れた上下、左右、対角線状の4隅にはこの現象が目立ちます。
    当然、全体としても画像の細かさやその輪郭等がスムースに表現出来ないし、ピントも甘く成りますね。目立つ所はYMC、BGRなどの色の繋がりなども突然に色が変わる事や悪く成ります。
    それには輪郭でははっきりと放物線等の曲がったものや線などにはスムースに繋がらない線や輪郭が出来てしまいます。これを専門用語では「パラセーション」と呼びます。
    中には直線部分が突然消えたように表現されないと言う事さえ起こります。
    ここでは色ですから、例えばYMCの白からBGRの黒までの領域を細かく分けて、それに光と色の階層を割り振り、それを情報として画面の画素に入れる事に成りますと、大変なメモリーのバイトに成ってしまいます。
    400万画素で正常にパラセーションなど事が起こらない域ですので、メモリーから考えるとせいぜい200万画素程度が良い所です。
    ところが、最近ではデジタルカメラでは最高で400万を超えて1200万画素までのカメラが出来ています。
    プリントソフトや画像ソフトの反映力が、「200万画素」で、「色のメモリーバイト」が低いとすると、幾らカメラが1200万画素でも1/6ですので、「画素メモリー」と「色のメモリー」が低いので反映力は悪く成ります。
    つまり、折角、綺麗に取れたカメラでの映像はPCなどの映像ソフトに載せると1/6の綺麗さに低下すると云う事です。
    「趣」を充分に撮影出来た写真が普通の以下(400万画素)の趣の写真となると云う事に成ります。これは、難しく云うと、当然に三属性(色相、彩度、明度)にも影響して来ます。
    そこで、その画素問題をより詳しく説明します。

    上記2つの問題
    「画素」に関係する問題
    「色」に関係する問題
    以上の2つに品質低下の影響が出て来ると云う事です。

    当然にプロが使う専門の専用画像ソフトは、一眼レフカメラに対してこれを反映出来るの程度400万を超える様にメモリーを配置されているのです。ですからデジタルカメラ1200万画素のカメラがある事に成ります。
    画素数ではテレビでもデジタルハイビジョンのテレビとアナログのテレビの違いですね。

    簡単にこれ等の判別が出来ます。
    1番目は、それは放物線の線や輪郭を持つものを写すのです。
    電線などですね。これを観るとその「線や輪郭が不連続」に成っています。これを「パラセーション」と云います。
    2番目は、これが起こるのはメモリーが画素だけでも400万以下である事を意味します。
    慣れますと、人間は色判別等でも0.5の能力を持っていますので「カラーチャート」を撮影する事で「色の違いのズレ」が判別できます。
    3番目は、YMCのポイント1のところの白の白さがフェリャーが働いているか働いていないかの判別です。
    上記のメモリーの不足でCCカーブのメモリーが低いと白が白らしく出なく成ります。
    フェリヤーを防止するソフトを組み込まれていないのでフェリヤーが働いています。
    組み込まれたテレビと組み込まれていないテレビを2台並べて観れば一目瞭然です。
    最近のテレビは安価廉売と原価低減でこれ等のソフトを外しているからか知れません。

    上記して来ました理論の様に、確実なのは「YMCの白」を見抜く事で自然美の良悪が判るのです。
    写真もさる事ながら、デジタルテレビも画像なので同じなのです。
    さすがパラセーションは400万を超えている為かなかなか発見出来ませんが。
    カラーフェリヤーとYMCの白だけは一目瞭然で見抜く事が出来ます。
    デジタルにはこの様にそのメモリー上の問題を持っていますので注意が必要です。
    さて、これで問題は全てだと思われたでしょう。
    ところが、未だ大変なことがあるのです。
    それは画面の画素に対するメモリーの配分なのです。
    これはどうしようもありませんね。人間の脳の働きと目の働きによる訳ですから避けられません。
    それが「画面比率」と云うものです。

    画面の比率
    写真画面は全体を同比率でメモリーの配分を構成している訳では有りません。
    人間の脳とそれと連動する目は、ピントや色合い等はその被写体をほぼ画面の中心に置く確率が高い為に、その中心の写真性をよく出す様に仕組まれています。
    これは人間の目の能力に起因しています。脳が目がその様に判断して見ているから同比率配分よりはむしろ合理的であると云えます。
    人間の目は捕らえた被写体のものを中心に据えて、観てよく観察して脳にその信号を送り印象記憶として保管します。従って、対角線の4つの隅は意識と記憶が低く、記憶としての量と記憶の確実性は低いのです。
    当然に、写した写真を観る時もその中央のものを先ず観るという傾向を持っています。
    又、画面を同時に全体を観ると云う能力は無く、ある時間を置いてこの対角4つの隅を見て中心と上下左右の6つを綜合的に写真を考察するようにも成っています。
    同じくその「記憶の量」と「記憶の確実性」は低い事に成ります。
    「撮る時」、「観る時」の脳の記憶の原理がこの様に成っています。
    従って、その被写体の中心に評価が主に集中する訳ですから、4隅が良くビンと色合いがよくてもその評価は脳の仕組みから出て来ません。
    その為に、次ぎの様に成ります。
    その脳の仕組みの為
    カメラ、プリントのメカニズムとメモリー上の制約の為
    以上2つが働きその理由で9つの分類を画面に施しています。
    いずれにして脳と目は兎も角も元はレンズなのですから。

    そのメモリーの配分の仕組みは次ぎの4つに成ります。
    A 脳の記憶の仕組み
    B カメラの仕組み
    C プリントの仕組み
    D メモリーの仕組み

    先ず、分割の部位は次ぎの9ヶ所と成ります。
    1 画面の中央部位 1ヶ所
    2 左右の部位 2ヶ所
    3 上下の部位 2ヶ所
    4 上の両隅 2ヶ所
    5 下の両隅 2ヶ所

    この1−5はA−Dが同等の配分とは成っていません。
    そうすると、どの様に成っているかと云うと、次ぎの様に主に成っています。
    配分
    1>2、3>4、5と成っています。

    その比率は概して次ぎの配分です。
    比率と領域
    6:3:1(1域:2、3域:4、5域)
    この様に仕組まれて被写体が構成されているのです。
    これはアナログ、デジタルの遺憾に関わらず脳の仕組みもさることながら、カメラ機能やプリント(映像化)機能にも仕組まれている大事な基本機能なのです。
    人の脳又は目はもともとの事ですが。
    ですから、この仕組みを配慮して撮影をする事がその撮影の効果、即ち本文の自然美の綺麗さを最大に引き出すコツと成りますね。
    主にはメインとする被写体を何処に置くかに関わる事に成ります。

    意外にもこの事は各メーカーのノウハウに依るものなので一般に知られいません。
    しかし、脳科学では認知されているのですから、さして、多少より工夫を凝らした特長の持った違いはありますが、我々にはそのノウハウの違いを特別に意識する必要は何もありません。

    そうすると、では写真技術ではどの様にするかですが、次ぎの様な工夫をするでしょう。
    当然に、先ずは撮りたいものを中央付近に置く事が必要ですね。
    そして、それは全体の6割の領域の中に納めることが必要です。
    その6割のどの程度の領域を恣意的に使用するかを決める事かに掛かります。
    その領域の占める割合でもその印象記憶は変化します。6割の全域を使用するのか、その中で何割の被写体にするかに依って写真の綺麗さも違ってきますね。
    当然に、左右、上下、中央の何処に置くかでも違ってきます。大きな違いですよ写真では。
    「趣」などはこれで一変に変わりますよ。

    これは更に追求すると、その被写体を表現する度合いが、広域な意味として「時、人、場所」の何処に重点を置くかにも拠りますね。
    例えば、撮りたい被写体を6割の領域内でやや左右、上下のどちらかにずらして撮る事もその思惑を表現する事にも成ります。ど真ん中とする場合もあるでしょうし、6割全部を使うと云うこともあり「場所と割合(比率)」の問題を持っていますね。
    マクロなどのカメラレンズを使うとこの6割全部を使う事に成ります。
    と云う事は、”どの様な色の問題を引き起こすのか”と云う疑問に突き当たります。
    上記での解説の理論を使うとどうなるでしょうか。
    先ずは、
    画面比率から画素数が高いためにピントやYMC、BGRはよく写る。
    綜合色から単一色傾向になる為に反面カラーフェリヤーが強く働く可能性が出る。
    パラセーションが起こりやすい。
    6つの3の領域は当然にピンとは甘くなるので全体に色に関するイメージが落ちる。
    この6つの3の領域では、これをカバーする為に、色や影やアングルで中央の被写体を際立たせる工夫ポイントとする必要が出ます。

    それは、上記3つの思惑条件「時、人、場所」(TMPと呼ぶ)に関わって来ます。
    ただ、この領域を外れて、上下左右と4隅に置く事はA−Dの表現力の差違で写真としての効果は無いと成りますのであり得ません。
    取り込んだとしても1による影響ですから全体の表現力には必然的に成り得ません。その前に脳がその様に動かないので1が0と成り論理的に無い事が云えます。
    芸術写真は別として「自然美の綺麗」とするテーマではあり得ません。
    当然に、本文のYMC、BGRをより効果的に問題(フェリヤー)無く取り込む為にもこの配慮も必要に成ります。
    例えば、
    イ 太陽の光の影響、
    ロ 日差しの方向や強さや時期の取り込み
    ハ 影の配置で強弱の表現力
    ニ 明暗の区分けによる説明力、
    ホ アングルの比率やバランス、
    ヘ 全体の色合い、
    ト 背景の色合いとフエリヤー
    チ YMC、BGR配慮
    の特長を配慮等をし、この仕組みのどの所に置くかを、それも出来るだけ瞬時に閃かせるかで決める必要があります。
    これはこの条件を撮影時に訓練し経験しする事で可能に成り、この「成行き」が写真の面白みに成っていると思います。そして、次第に表現力が伸びることへの喜びに浸たるのですね。
    この表現力は「CGS(長さ感、重さ感、速さ感)」を引き出す大元と成るのです。
    出来た写真を観る時もこの「思惑(RPM:理由、目的、手段)」がどれだけ多く表現できたか、或いは限定した思惑がこの仕組みの中で上手く反映されたかの結果が楽しみであり、且つ、「出来栄えの喜び」か楽しみと成るのですね。
    目で観た自然の美の綺麗さが表現出来、且つイ−チで「趣」をも引き出す事が出来るのです。
    TMP、CGS、RPMをより引き出したかの評価が決まります。

    この写真の配分比率の知識も知る事で、より綺麗な写真が脳の印象記憶と連動して、綺麗な趣のある写真が出来る事に成ります。
    これはひとつ一つを使いこなす経験と訓練で成し得る事ですね。
    当然に、写真の観る目もより養えて来る事に成ります。この様な目で観ればそうすると展覧会に行っても”面白い”と成る事でしょう。

    まとめとしては、「6:3:1」と「1>2、3>4、5」の仕組みは「TPM、CGS、RPM」を引き出すために「A−Dとイ−チ」に大きな影響を与えるのです。
     
    以上 ”目で観た自然美を如何にして綺麗に撮るか”をテーマとしてその影響する写真技術を解説してきました。
    最後に私は写真を撮る時は何時も「絵」として捉え、日本画、南画のような景観を思い浮かべ被写体を決めています。このポイントが写真が写真だけでは無く成る接点ではないかと思っているのです。
    「写真技術」と「色理論」が「絵」として変わる点である筈だと考えています。そして、そこに「芸術写真」との接合点が生まれると思うのです。その為には、日本画や南画の誇張の無い自然美溢れる絵を良く見る事も必要です。
    芸術絵画や芸術写真には、否定するものではありませんが、何かそのものの持つ「趣」と云うものが少ない気がするのです。
    写真が芸術写真でなければ、それは「趣」を表現して人にその「軽やかな印象」を与え「懐かしき思い出」を引き出すところに意味があると信じているのです。そして、それを最大限に引き出す技法が「自然の摂理」から来るこの「写真技術と色理論」にあるのだと思うのです。

    そこで、それが意外に多くの問題と云うか技術があるのかを知ってもらったと思います。技術ですので論理的である事は否めません。しかし、何とかより高いところを目指す意思をお持ちであるのなら、何とか繰り返し呼んで頂き少しづつ理解して「経験と訓練」で獲得して頂きたくレポートを致しました。

    折角ですので、この青木サイトには「一時の癒しの場」として写真館を解説していますから是非一度ご覧ください。
    最近ではこの館に訪れる人も多く成りましたので、敢えて「昔取った杵柄」で思い出してその資料を史料とすべく遺す事にしたのです。
    本文は理論を説いていますので難しいとされる方も居られますから、一度に全ての理論を記述するのではなく、何度も同じ論理を繰り返して少しづつ別の要素からの理論を書き足して行く方式を撮りました。従って、散文と成っている事は否めません。
    理論の言葉や用語も平易にして出来るだけ判りやすく配慮したつもりです。
    専門的な立場では多少の語弊はあると思いますが、あくまでも上記の趣旨の範囲での技術として頂きます様にお願いします。
    そうして、この技術を使って撮った写真を写真館に展示して頂ければ幸いです。
    そこで、その方法は次ぎの方法に依ります。

    展示登録方法
    雑談掲示板1580より

    写真データの登録システム開設のお知らせ
    この度、携帯などから直接青木ルーツ掲示板に添付したい写真がある場合、その登録する保管庫が出来ました。

    パソコンなどに登録した写真の場合は青木ルーツ掲示板の投稿欄の下から添付ファイルにて出来ます又、カメラ、携帯から直接する場合、先ず一度保管庫に登録し、その後、管理人室から代理添付の作業を行います。
    この場合は、保管庫に登録されたかは判りませんので、雑談掲示板などから先に連絡を頂きます。

    保管庫メール先はaoki@aoki.ccです。
    QUANP.NETが出ます。
    コメントも付けられます。


      [No.261] Re:写真技術と色の理論−中編
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/08(Tue) 06:18:23  
    Re:写真技術と色の理論−中編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

    > 写真技術と色の理論
    > (副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)
    >

    中編
    科学的な物質の影響
    ここで、「酸素」(O2)やオゾン(O3)なのですが、写真性の影響外と思われたでしょう。
    ところが、あるのです。
    酸素は化学的に周囲の温度を下げる効果を持っています。つまり、酸素は他の物質と酸化反応を起します。その時、その反応に必要とするための熱量を周囲から吸収します。ですから、森や林や木々の下では涼しいのです。あれは影だからだけではないのです。論理的には一般には2度ほど下げる効果を持っているのです。
    では、”温度が下がるとどうなるか”ですね。
    空気中の水分量が下がります。つまり、絶対湿度(その温度が水分吸収するの限界能力)が下がるのです。上記の理論から「空気中の澱み」の水分量が下がりより澄んだ光を多く通すことを意味します。
    又、周囲の浮遊物質を酸化させるために余計な澱みが少なくなる事を意味します。まして、オゾンは酸素より一つ酸素が多いオゾンO3のイオンですから酸化反応は抜群です。(因みに消毒剤のオキシドールは(H2O)より酸素一つ多い過酸化水(H2O2)です。それが一部空気中にあるわけですから。当然に、より赤外線領域の光が通る事を意味しますから、撮影には、赤外線の効果の「深みの色合い」が増す事になる訳です。ですから、山で撮った写真には良い綺麗な写真が撮れるのは景色だけでは有りませんね。

    では、「深みのある写真」を撮ろうとすると、論理的には次ぎの様に成るでしょう。
    雨上がりの後に埃が落ち、
    暖められて湿度の少ない、
    温度の高すぎない、
    お昼までの朝方の、
    カラットした日
    以上の条件を選ぶ事に成りますね。

    この様にして上記した知識を論理的に活用する事で目的の良い綺麗な自然美のある目で観た写真が撮れる事になるのです。

    では、次ぎは上記した中で、”後述する”とした二つの事です。
    この二つの事は一つを説明する事で解説出来ますので、それをこれから進めてゆきます。
    この理論は最も大事です。この事を知る事でマスターすると写真家専門家に負けない知識を習得した事を意味します。意外に専門家は芸術家であるので技術者ではないので知らない基礎的知識なのです。

    「CC理論」(Sカーブ)
    先ずは添付ファイルの図を見てください。
    写真技術はこの論理により成り立っています。
    上記した「顔の肌色の影響」の解説と、「BGR:YMC」の関係と、「CC理論」とを合わせた「CCカーブ」と云うものがあります。その解説ですがこの二つのことでしたね。

    では、解説を始めます。
    Sカーブの経緯の見方
    人の綺麗さの評価はある基準がありそれをベースにして脳では印象記憶として持っています。それが人種に依ってその先祖の生きて進化した環境から若干理論的な色合いに較べて異なっているのです。そして、それはある「光或いは色の濃度」と「光或いは色の強さ」との関係から違いの差が判定できるのです。
    当然に、「BGR:YMC」の関係です。
    先ず、縦軸に「光、色の濃度」を取り、横軸に「光、色の強さ」を取ります。
    これをエネルギー(E)として考えても判り易いかも知れません。
    そうしますと、添付ファイルのような図表が出来ます。
    これをCC理論の通称Sカーブと云います。

    取り敢えずは、面倒ですが、数理に苦手な方が多いのですが、でもより良い写真を撮るという意気込みからこの図表の論理的なことを覚えてください。数理に苦手な芸術家の写真家は意外に知らないのはこの事から来ているかも知れませんね。余談は兎も角も。
    このデータは各メーカーのノウハウの基となるものなのでこの理論は公表されていないかも知れません。その共通の理論を解説します。

    先ず上記した特長を持つ「BGR:YMC」を夫々この二つの関係をとると次ぎの様に成ります。
    先ず、大まかな推移として述べます。
    光の色YMCがBGRの色に変化して行く過程のEの変化を基に解説します。
    そこで、縦軸の濃度を(Ed)とし、横軸の強さを(Es)とします。
    光が弱い事は当然に色の濃度も低い事に成ります。当り前の事で光が弱いのに濃度が高いと云う事は有りませんね。ですから、朝の光は弱いですから、朝の色は濃度が低い事に成りますね。
    当然に、写真ではこの理屈を利用する事で目的の柔らかくてスッキリとした趣は叶えられますね。
    この様にカーブの変化を論理的に観てその理屈を使って写真に利用して自分の思う趣を表現すればよい訳です。

    左から次第にYMCは右の方に強さ(Es)を変えて行きます。
    ところが、低濃度で弱い光は余り濃度が上がらずにほんの僅かに上がりながらほぼ右に平行移動して行きます。
    これは、高低と強弱の関係は余り無い事を意味しますので「安定している事」を示します。もっと云えば、Edが変化しないのですから、環境条件の諸条件に影響され難い事ですから、更に云えば、写真性として”問題なく綺麗に撮れる”と成りその領域が実に広い事になりますね。
    「濃度の変化」と「色の強さ」の変化が変わらないのですから、この何処の範囲で撮っても同じ様に取れると言う事です。
    YMCは下記にも書いていますが綺麗に撮れる光の色媒体ですから、朝の薄暗い時から色として確認出来るまでの明るさまではYMCの綺麗な色で写真は撮れる事なのですね。

    そして、あるポイント付近(3)に来ると急激に高低のバランスが崩れて強さEsの変化比率に対して濃度Edの方がより上がるのです。EdとEsのバランスが崩れると云う事です。
    ある光の強さEsの時期で強さよりも濃度Edが強く出る事に成りますから、明るさよりも濃度がきつく出る事ですので、写真では昼前後域には思ったよりも強い色の写真が出来る事に成りますね。
    当然に何時もでは有りません。
    曇り、塵、埃、水分などでも変わりますね。その時はこの障害物に依ってBGRの透過率が低いのですから、濃度は低いし、光の色合いYMCの方が透過率が良く成りますのでこの色合いの強い写真が出来る事に成ります。

    色の出現
    そして、そのポイント付近(3-4)から、光が色へと徐々に変化してゆきます。そして、遂には「色」らしきものが出てきます。
    その「色」又は「光に近い色」は白に薄い淡い白に澱み、濁りに近い色合いを示してきます。それが次第にある程度の速さではっきりとしてきます。
    YMCの色に近いその3つはその間隔の差が無くなりひとつに融合して行くのです。
    一点化が進みます。その全ての「色の中心色」付近(4)に来るとYMCの高低同比率では一つに成ります。
    YMCが同率である事は元々濃度Edの差がないのですから、それが理想的なYMCで撮影する領域である事がいえますね。
    つまり中間色が理想的な色合いを示し、それでいて、写真撮影をすれば濃度も丁度良いころあいでBGRもある程度はっきりとして来る部位ですから撮影としては良い所に入ったと云えます。
    ポイント4の中心とその右側での撮影より、私は、YMCの強さがまだ残っていて更にBGRもはっきりとして来るこのところの方が癖の無い部位としては良いのではと、考えます。
    この様な時期は環境が好条件であるとして、昼過ぎから14時頃までのところであろうと思います。
    「春夏秋冬」でその時期がずれますが、凡そ感覚的にですが、真夏では1−2時間手前、真冬では1−2時間後と言う事になるのではないかと思います。

    季節の選択
    真夏では日差しと紫外線量が最大の傾向がありますし、逆に真冬は日差しが弱く、夕闇は速く成ります。
    秋では冬傾向にあり、春は夏傾向にありますが、一日の撮影時間の長さとYMCの量の多さか
    から考えると、春がこの部位の領域を示す傾向が一般的な好みから一番ではと思います。
    しかし、秋には春に対して逆に撮影時間とYMCの量が少ない事ですが、環境条件は秋晴れの空高く空気が澄んでいますし、色彩豊かで環境条件で良い事では一番となりますので写真性は高まりますね。
    結論は「YMCの春」か、「環境条件の秋」かを選択する事に成ります。

    K18グレー
    「CCカーブ」はこれ等の環境条件等の全ての影響要素を無くしての試験世界標準適用(22℃RH50%etc)で作成されているので、この領域を使う場合は「春夏秋冬」「朝昼晩」の時期を選べぶ必要があります。

    さて、上記の左側から移動して、次ぎは中心(4)ですが、ここが大変意味のあるポイントなのです。
    色と光、つまり、YMCとBGRの中間点又は融合点なのです。その光(YMC)と色(BGR)の融合点は通称グレーと呼ばれています。
    グレーには沢山のグレーがありますが、この点はそのグレーの中心で、G=「18K」と呼ばれるところです。
    上記した左側YMCの写真性とその右側のBGRの写真性の良い部位、領域の特長の中間であると云う事に成ります。
    右側のBGRの部位、領域は当然に左側より時期では14−16時、或いは夕日までの時間帯です。
    環境条件としては「春夏秋冬」としてでは、夏では「光の強さと量の多さ」からBGRは段突ですね。その反対は勿論冬となるでしょう。
    YMCは少なく、右側ですのでBGR域だけの域ですから、中間色は紫外線の強い夏のC(シアン)だけと成るでしょう。
    「春のYMC」と「秋の環境条件」はその中間と観るのが妥当でしょう。
    「春のYMC」では、右側のBGR領域ですので、BGRの品質の根幹と成るYMCで「はっきりくっきり感」等良く出る領域となるでしょう。
    春の緑豊かなこの時間帯で写真を撮るとすると、春は「BGRの品質」と云う事に成りますね。

    「秋の環境条件」は当然に光の透過量が大変良くなる訳ですから、写真は空気が澄んでいるので赤の色合いが強く成ることを意味しますね。ですから、紅葉写真は最も適合している訳です。

    この様にこのCCカーブを使えば、写真撮影ではその目的に合わせて撮る事や、その時期の特長と時間帯を選べばより綺麗な写真が撮れることが約束される事に成ります。

    時期と時間帯の特長
    撮影の時期
    凡そ次ぎの様に成ります。

    「夏のBGR」
    「春のYMC」
    「秋の環境条件」
    「冬の白黒」
    以上の4つの条件を覚えて置く事がこのCC理論のSカーブを利用する事が出来ます。

    撮影条件を考えてCCカーブの特長をのポイントを選ぶと云う選択方法もあり、逆にこのCCカーブの色のEsとEdの状態の特長を念頭にして、撮影条件を考えると言う事も有り得ますね。
    上記の時期に対して、今度は時間帯はどの様に分けられるのかと云う疑問が出ます。

    撮影の時間帯
    CCカーブの特長から詳細に分けると次ぎの様になります。
    一日の時間帯を次ぎの様に分けられます。
    「朝日の3光(6-9)と時間帯(5-6)(7-8)(9-10)、(10-12)」
    「昼の3つの時間帯(12-14)(14-16)(16-18)(18-19)」

    (0-5)(19-24)は黒の特殊な領域です。
    (0-5)の領域の黒と(19-24)の領域の黒とでは黒の傾向は異なります。
    これは光の環境条件から起こる結果です。
    (0-5)は空気が澄み、気温は低下します。結果、論理的に光の透過は良く成りますので、YMCは勿論の事、赤と赤外線領域の透過は良く成りますので、黒はB系の黒が出てきます。
    (19-24)は空気は澱み、まだ地熱より気温は高いです。結果、光の透過は悪くなりますので、もとよりYMCは悪く、逆に黒は赤系の黒が出る事に成ります。
    G系はこの何れかの時間帯の中で起こることですね。それは季節の変化にも大きく左右される所ですが、空気の澱みと気温の程度に依ります。

    この時間帯での写真は全て光と色のEdとEsの変化から異なってきます。
    この「8つの時間帯」を考えCCカーブの色のEdとEsの特長とを合わせて撮影するとぐっと写真性が良くなるのです。
    この様にして、季節の時期と時間帯を使う事でも的確にその被写体の特長を引き出し、自然美をより効果的に演出し再現できる事に成ります。
    このCCカーブの理屈を利用して綺麗な写真を撮るにはこの特長は大切です。
    未だ細かい判断記憶があるのですが、後は後述で説明する事にします。先ずややこしくなるのでここまでにします。

    次ぎは、ここK18では、ご覧の様にYMCとBGR全てが一点に合流しているのですから、論理的には撮影には最も良い事を意味しますね。

    この中心点、合流点、K18、グレーポイントのポイント4は、左側部位、領域と、右側部位、領域から”推して知るべし”でどちらにもマッチングする領域と成ります。
    しかし、当然、理想的な領域ですが、残念ながらその領域は小さい事に成ります。
    ここで撮影出来れば綺麗な写真が撮れる事に成ります。無難で綺麗な写真が問題を少なくして撮れる事に成ります。
    K18のグレーを背景にして写真を撮れば、自然美のある人間の目で見た綺麗な写真が撮れる事が出来ます。YMCとBGRの左右の領域に偏らない問題の少ないバランスの取れた撮影が約束されると云う事ですね。でもその綺麗な中に更に綺麗さの基を成している「趣」を強調するとした場合は左YMCの領域だと云う事なのです。

    上記した「春YMC」と「夏BGR」と「秋の環境条件」と「冬の白黒」等の条件が絡んでも綺麗な写真が取れます。しかし、「趣」をより強く出すとかの工夫をする場合は、その特長と云う点では賛否両論の出るところです。写真でなくても世の中の事は何でもそうですよね。
    この条件を見つけ出すのは自然界の中ではなかなか困難でしょう。
    プロのスタジオでの「作り出し条件」では問題はありませんし、プロのスタジオでは凡そ世界標準に成っていてこの領域で撮影をします。ですから、商業写真は綺麗ですよね。なかなか欠点を見つける事は困難ですね。
    では自然美の撮影では”どう言う時にこのチャンスはあるのか”と云う事に成りますね。
    それを発見するには、先ず、CCカーブを使って論理的に考えます。

    理想条件
    時の要素
    CCカーブは標準的で理想的条件の世界標準の中で出来ていますので、これに先ず、自然の全ての環境条件が絡んで来ると撮影時の要件は悪くなる一方ですね。
    とすると、その中でも理想条件を叶えるものとして、この最高の領域となると、経験から観ると次ぎの領域ですね。
    先ず「秋の環境条件」の一番良い時で時間帯は「昼前後」と成ります。

    では、”そんな時は秋にあるのかな”と知りたいとして疑問が出ますね。
    実はあるんです。その例として、皆さんは次ぎの言葉知っていますか。
    ”「秋の台風一過の青空」”昔の人は良い言葉を遺してくれていますね。
    この言葉は写真だけに対してだけではありませんで多くの事に適応されるのです。
    「台風が来た半日ほど経った時かあくる日」です。

    台風のよく通る地方の人は知っている筈ですね。
    このポイント4域を再現すると、この日がこのYMCとBGRの合流点なのです。抜群の写真が撮れますよ。環境は標準条件に近いでしょう。
    ただ、”絶対に秋だけでは”と言う事ではなく、他の季節にもこの様な標準的な環境条件が無いと云うわけでは有りませんね。
    このCCカーブの中心点に相当するYMCとBGRの総合的な好条件を再現する環境条件は”秋だけに限って”とする意味合いでは有りません。他の季節にも再現される可能性はあります。少ないと云う事だけですね。

    そこで、「時、人、場所」の三要素の内、上記のこの「時の要素」の「季節、時期の問題」だけでの考察では無く、「場所の問題」で観て見ると、この標準条件の好条件に近い場所があるのです。

    場所の要素
    何れの季節に於いても再現しやすい所が在ります。多くの良い写真はこの場所から撮っていますよ。
    其処は山間部の「山」なのです。
    「山」は酸素の様な科学的な要素、温度湿度の要素、塵埃の要素、風の要素、光の透過、周囲のYMCとBGRの豊富さ等が際立って良い事が云えます。
    これは季節の夏でも、気温を大きく下げる事や風等の要素が働き、秋の環境条件を再現出来るからです。
    当然、春も同様ですが、冬だけは除外しなくてはなりません。冬は雪もさることながら、上記した様に白黒の再現域ですので、このポイントの好条件の発見と演出は困難となりますね。
    従って、次ぎの様な事に成ります。
    「秋の時期」の台風一過の様な天気、
    「山間部」の山の様な場所
    以上2つが撮影にはこの中心点ポイントの好条件を再現する事に成ります。

    この中心域はEdがEsに対してその比率が高くその領域が狭い事を示していますので、ある限られた範囲でしかこの好条件は成立しない事を示しています。

    「台風一過」の様な好条件を頭にしっかりと認識して、”さて、今日はどうかな”と空を見上げてCCカーブを思い浮かべてその日の撮影に合った被写体を模索する事が必要ですね。

    中心域最右側
    次ぎはこの中心点から上記した右側の域を越えての領域でのCCカーブです。
    そして、其処から強さEsの変化比率に対して放物線で一挙にBGRの色の濃度Edは急に上昇してBGRの夫々の強さにその差が出てきます。
    次第に拡大して行きます。
    ある中間位に来ると色として最も際立って明確な色調を示します。
    色としての色合いを最も幅広く使えるところでBGRそのものの特長を顕著に出す所です。
    其処から放物線は最大点を迎えます。
    この点付近からはポイント5の領域の特長を持ちながら、よりその特長の強さを写真性に出し”ドギツイ”と云いますか”過激”と云いますか、余り色として使われない所で自然の「美の感動」を表現するには問題が出てきます。しかし使えない所では有りません。これは何度も云っていますが日本人の話ですね。ヨーロッパ系人種は使えるところです。
    日本人と比較すると、彼等はポイント1つ右にズレていると概して云えますね。

    更にそのBGRの強さの差違は拡大しながら今度はその放物線は下降を始めます。
    この領域は”下降する"と云う所に問題があるのです。
    下降するは”Esに対してEdの比率が下がる”と云う事ですから、最高点に較べて”何か濃度が薄らんで来た”と感じるところです。
    マア、その様な趣を出す被写体があればこの域のポイントを使う事に成ります。
    夕焼けより少し後の”太陽が落ちた頃合”の時間帯となりますかね。
    当然、写真にするのであれば、フラッシュを焚く事に成りますよね。
    ”何か濃度が薄らんで来た”は無関係に成ります。
    ”夜の線香花火”の写真でしょう。

    この範囲では自然美の追求としては黒ずんできますので普通では使える程度では有りません。
    黒をバックにして対比的に被写体を浮き出させその色合いを誇張する写真などがあり、夜景のスナップ写真と成ります。
    そして、最後はBGRの綜合色の黒と成り、BGRが一線状に無く別々にR>G>Bで拡がっていますので、その黒がBGRのB系の黒、G系の黒、R系の黒となる黒系が出来ます。
    R>G>BからR(赤)系の黒が強く出てきます。
    G系、B系の黒は”鬱陶しい”と云うか”物寂しい”と云うか”物静か”と云うか基本的には”被写体の目的に応じた黒を選ぶべき”とするべきですが、現実にはR系が好まれるのです。
    これが白から黒までに変化する「CCのSカーブ」と呼ばれる変化です。

    「3つの要素」(撮影3要素)と「CCカーブ」
    これを自然美の追求からすると、次ぎの様に成ります。
    「撮影季節」と「撮影時間帯」
    「撮影場所」
    「撮影被写体」
    以上の「撮影3要素」の「3つの要素」です。

    このCC理論に当てはめて考えると「自然美に融合した綺麗な良い写真」が撮れる事が出来るのです。
    逆に、写真展などで綺麗な写真を判定評価するとしたら。この「3つの要素」と「CCカーブ」が合致しているかの評価をすればよい事に成ります。
    写真展や展覧会などで「3つの要素」と「CCカーブ」を下に観た事がありますか。
    余り少ないと思います。
    そうですね。プロはこの「3つの要素」と「CCカーブ」で観ているのですよ。
    この「3つの要素」と「CCカーブ」の視点で観る事でその写真の撮った人の「努力」や「技量」の奥のものも垣間見る事が出来て楽しさや観覧の有意義さが出るのではないでしょうか。
    この様に、「3つの要素」と「CCカーブ」が働いていますから、絵画の芸術性と違い写真は「技術の領域」を多く占めている事を物語る事ですね。
    本文は故に「芸術写真」を論じていないのです。

    ポイントの詳細(ポイントの解説)
    それでは、更に深く理解を深める為に、そのポイントのところを更に詳しく考察する事にします。
    さて、復習しながら進めますが、そこで、このポイントの”写真に対する効能がどの様に働くか”を解説します。

    ポイント1−4
    先ず、太陽の光が人間の目に届いた時点のところです。YMCの左側のスタート点と云う所ですね。
    この点をポイント1としますと、このポイント1この所が、YMCの完全な綜合光、即ち灼熱の太陽に見る「白」ですから、その白つまり、ポイント1の所です。人間の目に見えうる僅かな色合いを示す限界の所です。
    従って、写真には影響の出るポイントと云う事に成ります。
    つまり、最も光の領域に近い色合いですよね。BGRも光が物体に衝突した時に発する閃光色と考えられますから、その最初の所と云えます。

    最初とは云え、実は無視の出来ない大事な大事なポイント1なのです。
    それは”何故なのか”と云う疑問が湧きますね。
    太陽のぎらぎらの光が写真に無理だと思うでしょう。目にも見えないくらいの光の領域の白なのですから。ところが、人間に見えない光線が人間社会に働いているからなのです。
    つまり、可視光線外に色があると云う事に成りますね。よーく知られている言葉の紫外線、赤外線の境界領域なのです。
    特にこのポイント1の場合では、紫外線の働きがあるのです。
    写真には、人間の目に見える限界です。
    その限界に現れる白を持つ植物や自然現象が多くあるのですよ。
    では、それを説明します。
    元々BGRも上記した様に光の色のスタート点(ポイント1)からEsが進んだものなのですからね。

    先ず、植物では「淡く薄く青じみた光輝く青」とも確認が難しいほどの色合いを示す白の花があります。
    当然にこれは自然界には物理的にもあり得る事です。無いとは云えませんね。巾のある自然界ですから。
    太陽から可視光線外の紫外線などの光を受け付ける細胞(錐体細胞)を持ち得るものがあればその限界の白ともいえる色合いを示す事になりますから、自然界にはある事に成ります。
    もっと紫外線外の光をも受け付けている植物が在るかも知れません。しかし、如何せん人間の目にはその限界があるからそれを確認出来ないだけの事なのです。
    この様に考えれば”なるほど”と納得出来ますね。実は意外にこの世の中には物理的に観るとこの事が多いのです。知られていないだけの事なのです。

    自然界でははっきりと観られますよ。先ず「雷」の光を見た事の無い人はいませんよね。又は物と物とが高速で衝突した時に出る閃光も光の領域ですね。
    BGRは光の透過量(YMCは衝突閃光)を原理としますが、要は元は振動磁波と浮遊物質との衝突ですね。その時に出る閃光ですからね。雷の光の色も原理は同じですね。他にも沢山あります。

    最近ではプラズマ光線、レザー光線など良く知られるように成りましたが、あれは太陽で起こっている核爆発の光に近いケルビンを持っていて太陽で起こっている光そのものでもあり、小さい太陽そのものの光線ですね。
    普通には鉄等の鉱物を溶断する時等に使う建築現場の酸素と窒素の溶断バーナーなどの火炎が身近に在りますよ。火炎は光りですから
    水晶の結晶に超高速の高周波を通すと起こるレーザー光線などは明らかに青色がはっきりと見えますよね。レーザー光線は目でも飛んでいる光の色ははっきりと青として観えますね。

    プラズマ光線ははっきりとやや赤味を帯びた感じがしますし、酸素バーナーなどはやや黄色味を帯びた色をしています。
    この様に例でもわかる様にこれらの光に「色合い」を持っていますね、確かに。これがYMCのスタート点のポイント1の所です。つまり、YMCは光の領域の色合いですね。
    そうすると、もうそのものから考えると、YMCは光又は色の基に成っていることが判りますから、この「光の色」(YMC)が無くては全ての色合いは成り立たない事は判りますよね。
    太陽が色の根源なのですから当然ですね。
    では、この光と云うか色と云うか「YMC」の融合色には3つのものがある事も判ります。
    Y傾向の閃光、
    M傾向の閃光、
    C傾向の閃光
    と云う事に成ります。

    この白の色合いが完全に融合した所が白ですから、しかし、このエネルギーを分析すると本来理論的なところでは「一つの白」と成る筈ですね。
    ところが、光は鉱物の核爆発の振動磁波でしたね。そうすると、鉱物には人間の指紋と同じく特長を持っていますから、当然にその持つエネルギー(E)も違う事が考えられます。
    この地球上の「鉱物の周期律表」と云うものを習いましたね、あれは言い換えればエネルギーの違い差ですから、その差がズレとなって出てくるのです。YMCの3つの形で。
    ですから、ご存知の上記した閃光をよーく観ると、Y系、M系、C系の白の光の色合いを示すのです。そして、そのレベルは高い順にY>M>Cと成ります。エネルギー的には一つに成っていないのです。但し、メーカーに依ってはEdがYとMが接近か或いは同等である様に編集している場合があります。これは人はM傾向を一般的に持っているからなのです。当然に日本人ですが。

    つまり、その閃光の基の鉱物はNa>K>PorBs=Y>M>Cと成ります。
    そこで、理解を深めてもらう為にC(シアン)の例をもう一つ挙げます。
    昔の人から墓所で「火の玉」「人玉」を観たと聞いた事があるでしょう。これは現実なのです。
    これは夏場に虫や生物が死んだ時に出る肉質の根源のP(リン)が静電気の現象(「スキンエフェクト」と云う現象)で引っ張られツルツルとした冷たい墓石の角にイオンの形で集まり、塊となるとそしてそれが空気の酸素と反応して酸化して燃え軽くなった塊が石から飛び出した現象なのです。
    昔は人は土葬でしたからね。
    余談はさて置きこの(P)が燃えた色合いがシアン色を発光するのです。

    Y(イエロ)のNa(ナトリウム)は夜の道路やトンネルの外灯です。ランプガラス管の中でNaガスイオンに放電管から出た電子が衝突してYの閃光を発しているのです。これも太陽からの飛んできた振動磁波が障害物に衝突して閃光を発した光の色と同じ事ですね。それがガラス管の中で起させているのです。

    M(マゼンタ)のK(カリウム)は料理の時に塩が鍋からこぼれてコンロの火に当り燃えた時の色です。このマゼンタの光の色合いが自然界では多いのですがよく認識されていない為に気が付いていないのです。そして、このマゼンタが中間色としてBGRの色に融合していないと写真では納得しない色合いなのです。勿論、前提は日本人ですが。
    赤い夕焼けなどもよーく観るとマゼンタの場合が多いのです。
    秋の紅葉を赤と観ていますが、あれもマゼンタのものもあるのです。
    このマゼンタは最も多いのですが、赤に間違われやすい色合いだからです。
    これはマゼンタのEd(濃度)が高くなった領域ポイント3−4のマゼンタを観ている事なのです。
    中には、人間の肌色やピンク色を「マゼンタ」では無く「赤」として観ている傾向があるのです。
    ピンク色はマゼンタのポイント3域付近の色合いですね。人間の肌色はポイント2域付近と成るでしょう。
    プリントする際に補正を要求する傾向の強いのはこのマゼンタの色合いが多くこの認識の違いから来ているのです。
    極端な人では、道路のアスファルトは黒か黒系統の灰色と普通は観ているでしょうが、違うのです。マゼンタ傾向のアスファルトと認識している人が日本人に実に多いのです。
    決して色盲ではありません。印象記憶がその様に思い込まれて記憶しているだけなのです。

    この様に印象記憶になるほどにYMCは身近にある光或いは燃えた時の光の色として多く存在しています。ですから、念の為に聞きなれない光の領域の色合い「YMC」を確認して覚えてください。
    これ等は全て「YMC」=「光から出る色合い」ですね。

    さて、これでその原理は判ったとして、次ぎは、この「3つの光、YMC」の色はそのエネルギーの僅かな差でほぼ平行移動して変化して行きますが、写真撮影ではどの様に働くのかが問題です。

    色を左右させる根幹のものですから、人間の目には色では無い色ですから、光とBGRの色との中間ですから、このの融合色は「中間色」(専門用語でハーフトーン)と云う事に成りますね。
    例えば、YMCの融合色のピンク色などが中間色です。要するに肌色の様な感じの特長を持った色合い等です。中には中間色でもEd(濃度)の濃いBGRと見間違える中間色もありますよ。
    ポイント4域手前と、ポイント3域付近では慣れていないと見間違えます。
    この共通する感覚としては次ぎの様に覚えてください。
    「YMC」=「淡く薄い光輝く色合い」
    以上の共通する特長を持っています。

    それを覚えるには上記した説明です。
    「YMC」=「閃光色」です。

    そこで、上記した「閃光」の色合いを少し濃くした色として思い起こしてください。
    そのYMCのマゼンタ傾向の強い「融合色」のピンク色はプラズマ光線の色合いを濃くした色がこの中間色です。

    このポイント1の部位域での色合いの濃度、つまり、エネルギーの量Edを上げて行くとその中間色は濃くなって行きます。そして、その領域(量域)がポイント3まで続く事に成ります。
    ここまでは「中間色域」で「光の色合い域」と云うべき所です。
    厳密にはポイント4域までが論理的な域ですが、このポイント3からポイント4域は中間色とは云え特長をやや異にして来ます。
    当然、写真性でも同じくその効能と云うか特長として出て来るものが異にしますので、ポイント3とされるのです。
    兎も角も、ポイント3域まではポイント1からのスタートのYMCのEd、Esの差違は狭まりながらもやや濃度Edを上げながらもほぼ平行に推移します。この域を「中間色」(YMC)なのです。
    「YMC」=中間色

    余り変化の無いという事は光の色としてである為に単独(単属)では「安定している」と云えるのです。従って、ポイント1に対してポイント2までの域は強さEsと濃度Edに対する判定能力はやや出来る程度(0.5)である為に写真性に大きく差が出て来る領域では有りません。
    その「安定性」の面ではポイント4より右のBGRの障害物に依って変わる色に比較して「安定」な特長を示す領域です。

    ポイント1域は「極めて淡い薄い色合い」で光輝く「光の色合い」程度で、自然の中では探せば見つけることが出来る程度の色合いです。
    ポイント2域では「淡い薄い色合い」で自然色の中に多く観られる色合いとなり人間の印象記憶の始まり程度の「光の色合い」です
    ポイント3域では「淡く薄い色合い」では人間の判定能力から色BGRの濃度の薄い色合いと見間違える人が出て来る色合いです。印象記録は誰でもが共通の色合いを示します。
    しかし、未だこの域は光輝く特質は持っています。自然の中には大変多い色合いです。
    淡い透き通るような花の多くはこの域のものが多いのです。

    撮影では、条件さえ整えば「安定」して表現出来る色合いであると云う事ですので、この3つの目で観た情景を的確に捉えて。撮影に反映させればよい事に成ります。
    その反映とは上記した
    「撮影季節」と「撮影時間帯」
    「撮影場所」
    「撮影被写体」
    以上の「撮影3要素」の「3つの要素」でこれを検討すればよいことに成ります。
    この逆の事も「撮影3要素」で「情景」を探せば良い事に成ります。

    まとめますと次ぎの様に成ります。
    撮影要領=「撮影3要素」><「自然の情景」

    その安定域はポイント4或いは3まで続く事に成りますので撮影には好条件です。
    かなりの”環境条件にも左右され難い色合い”という事に成ります。
    但し、上記したBGRのフェリヤー(補色反応)が働かないとい云う前提です。

    ですから、このピンクの色の花の群れがあるとして、それを被写体としてアングルの6割以上(科学的な論理的根拠あり下記に記述する)の中に入れると、目で観た色としての感覚は保たれると云う事に成ります。
    この事からすると、写真技術としては、そのピンクの色合いだけでも「安定して且つ感覚が保たれる」だけでも、「アングルや周囲の景色」の如何を問わずそれはもう綺麗な写真と成ります。
    更には、光の色YMCは光が衝突して発光したのがBGRですから、この理論からすると、このBGRの色を持つものの根底にはこの中間色YMCが含むことを意味しますから、撮影にはこのYMCをより多く出す工夫をする事が秘訣と成りますね。
    そうすれば、YMCのBGRに対する効能として「くすみ、澱み、濁りの無い色合い」を引き出す事が出来るのです。

    よって、論理的には「YMCの中間色」は、ポイント1からポイント4までの中間色域と、BGRのポイント6までの域まで(このYMCは色合いとして)働いていることに成ります。

    前はポイント3域までは「直接的な影響」です。
    後ろポイント6域までは「間接的な影響」と云えます。

    当然に、このYMCは直接、間接で「自然美の綺麗さ」を表現出来る最高の色合いである訳です。
    更に言い換えると、このポイント3域までのところで撮影をする事が秘訣です。
    最高撮影域=ポイント3域

    では”どうしたらその様に出来るか”ですね。
    何度も云っていますが、「自然環境」です。撮影の「環境条件」です。
    振動磁波が地球の障害物に衝突した時に発する「閃光色」ですから、「障害物」つまりは論理的に地球の「環境条件」と成りますね。
    光の色のYMCは光の状態に左右される事に成りますからね。地球上でこの「光の状態」を変えるのは「自然環境」以外には有りません。太陽から飛んできている訳ですからね。それが地球の障害物に衝突しているのですから。その障害物は自然そのものですね。

    障害物=自然環境
    その光を左右させる自然条件は上記で述べた様に、温度、酸素、風、湿度、塵、埃、朝昼、紫外線量、赤外線と影域等に成る訳ですから「被写体に合わせた良い条件」を選べばよい事に成ります。

    更に、シビヤーにするとすれば、上記した様にYMC(中間色)の場合は次ぎの要領です。
    光の強さのガンガンのポイント1域なのか、
    量的な領域のポイント3域なのか、
    その中間のポイント2域を使うか
    以上3つに拠ります。

    これ等は日本では、季節、時期の選択と成ります。
    環境の広域変化の四季を使うか、
    狭域の一日の変化を使うか
    この2つによる事に成りますね。
    光の色合いYMCですからね。

    例えば、ガンガンのポイント1域では真夏を使えばよいでしょう
    ポイント3域では秋冬間を使えばよい事に成ります。
    ポイント2域では晩秋か春盛を使うことで表現出来るでしょう。

    狭域では、朝の光(3つもあります)のポイント1域、
    11−15時の昼の2つの光のポイント2域、
    夕暮れの16−18時の夕焼けが起こらない手前のポイント3域
    を使うとなるでしょう。
    復習
    「朝日の3光(6-9)と時間帯(5-6)(7-8)(9-10)、(10-12)」
    「昼の3つの時間帯(12-14)(14-16)(16-18)(18-19)」

    (0-5)(19-24)は黒の特殊な領域です。
    (0-5)の領域の黒と(19-24)の領域の黒とでは黒の傾向は異なります。

    これだけでも、良い写真を撮る事は出来るでしょうが、上記した幾つかの環境条件を駆使する事でも更に短期に撮影できる事に成ります。

    温度の心得
    先ず、温度ですが、
    一季節の温度、
    月単位の温度、
    週単位の温度、
    一日の温度の「温度の高低」
    以上でも大きく変わります。

    特にこの温度の要素は、湿度、乾燥、空気の移動、酸素量などの変化が起こします。
    これは光の透過量を大きく左右させます。又、花などでは植物にも変化を与えますし、そもそもその色合いにも微妙に変化が起こります。

    酸素の心得
    酸素は意外に認識は無いでしょうが大変に影響があるのです。
    酸素量はその周囲の温度を2度以上に下げる能力を強く持っています。
    風は温度を2度程度下げます。もとより、塵埃類を飛ばします。

    湿度は推して知るべしで空気中の水分量が光の透過を左右させます。
    後はこれも推して知るべしで被写体に合わせて選ぶべきですね。

    これら一度に全部の条件選択とはいかないでしょうから、その被写体に合わせたより多くの条件を選択して撮影する工夫が必要でしょう。

    撮影前の心得
    写真撮影は撮影前のこれを考え設計するのも又楽しみの一つとすべきです。これがこのCC理論をマ
    スターする秘訣ですね。
    設計する楽しみ
    当然に撮影時の楽しみ、
    撮影後の設計の検証考察の楽しみ
    この3つだと思います。

    言わずもがな、この「3つの楽しみ」が、上記した「写真技術の習得」と「その腕前」を上げる基となるでしょう。
    一度には覚えられない理論に苦手な人も居られるでしょうから、何度も読み返しながらも訓練と経験を通して得られるものです。慌てる事は有りません。

    条件のマスター
    誰でもが通る方法は、写真撮影ではこの理論を一つづつマスターしながら多くを覚え、遂にはいくつもの条件を瞬時に配慮した撮影の成功に繋がるのです。その時の喜びは飛び上がらんばかりです。
    実は、筆者も撮影の際には出来るだけ前もって設計し、それを現場である程度の範囲で瞬時に条件を考え出し、それを再現する努力をします。どちらかと云うと設計が楽しみなのです。
    これはボケ防止によい様に幸いにも働いていていまだ忘れぽくなると云う事が少ない様に思いますね。何をか況やこれは父親が手本です。

    さて、余談が過ぎましたが、”YMCの光が色を発する?”はこの以上の理屈から来ているのです。そして、それがBGRの色域のところまでその影響力を伸ばしているのです。

    この「中間色」には色々と理論が多くありましたね。
    ここら辺で一休みして又別の日でも読みますかな。
    しかし、説明は続けます。

    次ぎはポイント4域ですね。
    中間色YMCのポイント1−3の説明はこの程度として、次ぎは大事な色の3原色のBGRの色への入り口です。
    「光の色YMC」から「BGRの色」へと入るには、エネルギーEを持っていますからある変化が必要ですね。
    この世の何でもそうですが、その脱皮には莫大なエネルギーEが必要です。物理学でもこの点のところには言葉が付いているくらいです。降伏点とか変態点とか分岐点とか分離点などの言葉がありますが、この色の理論では「K18ポイント」(K18)と呼ばれています。
    そして、このEの「変換点」には全てのものに云える事ですが、その変化にエネルギーの加速度が起こり軌道を一時「ズレ」を起す現象が伴ないます。これを通称他の物質(水等の液体)ではス−パーヒーティング(加熱時)とかス−パークーリング(冷却時)と呼ばれています。
    要するに過熱現象、過冷現象(通称ラップ現象)などの言葉が付いています。(スーパー:過)

    YMCの過色現象
    YMCからBGRへのこの「脱皮点」の「K18」付近では全てのEが集中しています。光が色に変化する時にも全ての物質に起こるようにこの様な「変位現象」が起こるのですね。
    普通の理屈なら集中しなくてもそのままで変化しても良い筈ですね。
    しかし、例外なくCCの理論のカーブでも集中現象が起こっているのです。
    集中してEを蓄え「変位現象」が起こっているのです。明らかに脱皮現象ですね。
    そして、そのカープが双曲線から放物線へと一挙に変化します。
    物理学ではE的に観ると、この地球上の全ての物質の「変位現象」はこの「ラップ現象」と「BGRの集中現象」が起こる事に依って成立していると成ります。
    そうするとCCカーブでは「集中現象」は再現されて起こっていますので、過色現象(ラップ現象)も当然にある筈です。

    そこで、多分、自然摂理からこの変曲点ではこのスーパー現象(過色現象)が起こっている筈です。
    つまり、どう言う事かと云うと、K18の直ぐ右側でYMCの現象も一定の領域で平行して起こっていると云う事です。本来なら理論的にはYMCはBGRの根幹要素として働く事に成ります。
    しかし、このK18右側一部領域では根幹要素ではなく左側の「YMC効能」をも示す筈だと云う事に成ります。
    ですから、K18の所での撮影が最も綺麗に撮れるポイントだと成るのです。
    それ相当には、K18の左右のCCカーブの集中領域では綺麗に撮れる領域ですが、文句なしの完全に綺麗に撮れると成れば、理論的には、K18のその一点の領域だけと成りますね。
    そんな芸当は現実に困難ですよね。しかし、テストでは確認すると現実に多少ずれても可能なのです。
    最高の撮影ポイント領域だとする事はこのYMCの「過色現象」が起こっている事に成ります。
    CCテストでは現計測器ではCCカーブのこの「過色現象」を取り出す事(この色としての再現)は無理だと言う事に成ります。水などははっきりと大きく長く出て来ますよ。
    「YMCの過色現象」がBGRの領域にあると云う事は綺麗に撮れる領域である事の証明なのです。
    当然ですよね、綺麗に撮れるYMCのポイント3の領域とBGRの領域の二つを持ち合わせるのですからね。文句なしですね。
    そこで、では撮影に際してどのような時かと云う事に成りますね。なかなか難しいですが。
    YMCの濃度Edが急に3−4倍に成っていますから、その事から考えると
    BGRの色が情景に観られる所で、且つ、その濃度が「YMCの淡くて薄い色合いを持つ濃度」よりはっきりと数倍の濃度に成った所ですので、BGRの色合いの情景が着いた領域で、時間帯で云えば季節にも依りますが、平均して昼前ごろですね。
    カンカン照りのEsEdの強い15時以降の時間帯では無い事ははっきりしていますが、季節では春の桜の咲くころ前後かなとも思います。この時期に「目で観た自然美」の「完璧な色合いの写真」が撮れる事に成りますね。これは基本的には経験で体得して頂く事に成りますが。

    先ず、桜が綺麗に取れるのは桜の花の色合いをお考え下さい。
    主にYMCの中間色のピンク系でEdが少し進んだところですね。桜の花がピンク色であるからだけでは無く、このK18の直ぐ右側の過色現象が働いている所も大きく左右しているのです。
    写真館にこの桜の時間帯に分けた写真の3枚組写真を添付していますが、この時間帯を過ぎるとフェリヤーが働いて色合いが変化していますが、時間帯の早い桜の写真は自然の色合いを示しています。
    (写真館にはこのCCカーブの各ポイントでの例題写真を展示していますのでご覧下さい)

    さて、少し難しく成りましたが、そこで、これを覚える事のためにも、もう一度K18の意味合いが深いので復習を兼ねてこれに付いて考えて見ます。

    各メーカーで独自の分岐点を持っていますが、これでは国際的な統一が出来ません。そこでこの微妙な点を何処の国のどの分類方式のものにするかが新理論を確立する上でも何れの時も問題に成ります。
    この際は一番進んでいる2つの国の日本のポイントとするか、米国のポイントとするかに成りました。結局、この理論化の発祥元の米国のものとする事に成りました。
    それを確立したメーカーのコダック社のものを使うことになったのです。
    その為に、Kを使いました。そしてその分岐点の階層分類の内の18番目のものを使うと云う事に成りました。
    それが、この「K18」ポイントと成ります。カーブではポイント4に当ります。
    「K18グレー」と呼びます。
    そうなんです。このK18は光の色のYMCとBGRの中心で、K18のグレーより左側は薄くなるグレーで中間色の色合いです。ポイント3付近半ばから起こる極めて薄い色合いのグレーです。
    右側のグレーはBGRの色のグレーと理論的には云えます。
    「左の中間色のグレー」か「右の色のグレー」かの判別は上記した「淡く薄い光輝く色合い」で判別が出来ます。慣れるとそう難しくは有りません。
    その為に、色に変化するためのカーブの傾きが最も高く成っています。
    つまり、この事は「量と質の変化」のEが同率で比例的に起こる事が示されています。
    「中間色」には「YMCの色合い」以外に、この「グレー系統の中間色」があるのです。
    綺麗なグレーですね。
    この左側の中間色のグレー色の領域での撮影では、「色合い」の表現では、大変難しい作業と判断が伴なうことが論理的に云えます。難所である事が云えます。
    それは次ぎの「質と量」の変化が原因しています。

    「質と量」のE
    K18での「質と量」のEが急激に同率で変化するのですから、その領域は小さい事が云えますので色合いの表現は難しいのです。
    逆に、その色を表現出来たとすると、その写真は抜群の出来栄えと成る事を意味します。
    被写体に中間色の薄い淡い輝くようなくすみの無いグレーがあるとすると、上記のYMCの撮影の環境条件が限定されてくる事に成ります。
    逆に云うと、このグレーを背景にすると前に来る色合いはYMCとBGRの中間付近にある訳ですから最も補色関係の差が有りませんので、フェリヤーが働き難い領域と成ります。
    そうすれば、我々素人範囲ではそのタイミングを取る事が難しいですし、この自然美が自然界に少ないことが考えられます。主にはプロが撮影するスタジオなどで再現できる環境条件です。
    ですから、身近では祝時等でスタジオ撮る写真には後ろにグレーの背景の膜を張り撮影しますね。あれはこの原理から来ているのです。
    プロが撮る商業写真などをよーく観てください。この域の中間色域のものを選んでいます。
    難しいですがその環境条件を再現できれば出栄えは抜群で誰でもクレームをつける事が出来ない綺麗な写真が撮れる事が出来るからです。
    当然に上記したフェリャーや紫外線の影響などの問題は起こりません。この過色現象とK18の左ですから周囲にBGRの色を使っても印象記憶の差違も出ません。
    ですから、環境条件を再現出来る様に計器が多く存在するスタジオなのです。

    商業写真の被写体の目的にも拠りますが、次ぎの領域を使う事に成ります。
    第一には「K18の左側」=「ポイント4の左側50%付近まで」
    第ニには「K18の右側」=「ポイント4の右側15%の過色現象領域まで」
    第三には「K18の右側」=「ポイント5の左側50%付近まで」
    成ります。

    ポイント4の右域(50%以上)は既にYMCの領域では有りませんから、BGRの単一色の欠点を補う間接的なYMCの影響と成り、商業ベースでも綺麗な写真とはなり難いのがこの域です。
    しかし、それを敢えて撮影に出すという技法も有り得ます。最近は美以外に人を引き付ける目的で、強い「個性出し」とか恣意的な「意外性」を出す為、又は「芸術性」を出す為に用いられる事が多いのではと考えますが。ここではその域であるとして知る事で充分ですから対象外とします。

    このポイント4域の左右は撮影の良い環境ですが、変化し障害の多い自然界にはそのタイミングを捉える事には少し難しさを感じます。
    先ずはこの中心点をK18と覚えてください。色合いを文章で表現するのは困難ですので、専門書等で「K18」でお調べに成ってください。

    そこで、現実には更に突っ込んで、撮影では被写体が「YMC」と「BGR」のどちらの比率が高いかの問題が出ます。それを解決する事が必要ですね。
    それは、被写体の中心に置くものがどちらの領域のものであるか判別する問題です。
    下記にそれを解説する理論がありますので、そこでより詳しく理解してください。
    答えは撮りたいものを、画面の中心を原点として、その領域の「60%の範囲」の何れかに置く事で解決します。
    つまり、その「60%」の中にある被写体に合わせて、YMC、BGRのポイント5まで左の域ですので、「YMCの環境条件」を考えて撮影する事に成ります。
    YMCの条件下にして被写体を60%以内に抑える事です。(60%の根拠は後述する)
    そうする事で「自然美のある綺麗な写真」が撮れる事に成るのです。


    次ぎは後編です。


      [No.259] 写真技術と色の理論−前編
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/01(Tue) 09:11:09  
    写真技術と色の理論−前編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

    写真技術と色の理論
    (副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)


    さて、写真を趣味としている人、或いは写真が好きだが難しいし理屈が判らないと云う人は一度は”写真をより綺麗に撮れるノウハウが無いのか”と思ったことがあると思います。
    意外にその「写真技術」に付いての解説が一般的にどこでも見られる事に成っていない気がします。
    有っても難しい抽象的な事の芸術的な事が多い気がします。カメラの使い方ならあるかも知れませんね。
    そこで、「芸術写真」では無く、”綺麗で自然美のある写真を撮りたい”と思う人は多いと思います。
    一般に「綺麗な写真」とは「人間の目で観た通りの感じ」が表現出来ていると、人は「綺麗な写真」と先ずは云うのではないでしょうか。
    脳の科学でも「綺麗」と云う印象は、その比較対象があり「汚い」が反意語ですが、「綺麗」には脳の中に先祖から培われて来たその無意識の「印象」が遺伝子的にインプットされているものがあります。それは人間が生きて来た「環境」に左右されています。
    その「環境」とは「自然の美しさ」なのです。この「自然美」が長い間に一つの統一したものを脳の「印象記憶」として保存されているのです。
    そうなりますと、その「自然」が違う、或いは「環境」が違えばその「自然美」の評価も違うという事になりますね。例えば、日本人の先祖はある程度の「穏やかな環境」と「自然豊かな環境」に恵まれて来ました。四季があるのは何よりの要素ですね。
    ですから「日本人の自然美」と云う固有の共通したものがある事に成ります。
    それはこれから論じる写真の「色」で最も表現出来るのです。
    そうすると、論理的に「人種」では異なると云う事に成りますね。
    その通りです。例えば、下記でも書いていますが、以前にもレポートした事がありますが、アングロサクソン系の人種は極寒の中から生き残り進化して来ました。そして、その環境で「身体」とその「脳」もそれに合わせて進化しています。
    ですから、其処に存在する「環境」の「自然美」の感覚は必然的に違う事に成ります。その最も異なる「印象記憶」は何はともあれその「極寒からの自然美」なのです。
    例えば、特に人はその「肌の色」と「自然美」に顕著に違いを出すと言われています。
    「肌の色」は日本人は「淡いピンク色」ですね。でもヨーロッパ系は、本当は違うのですが、「やや赤みがかった色」を云っているのです。
    この様に、「色」にはかなり「主観性」というよりは「人種性」に依って異なります。
    そこで、その「色」と云うものに付いて根本から考えて見ようと思います。

    「色」とは何か
    そこで、先ず、この雑学に入る前に、”色とは一体何だ”ということを知る必要があります。
    ここから少し論理的に成りますが苦手な人は何とか追い付いて来てください。
    出来るだけ優しく説明をします。
    では先ず、簡単にいえる事は、「色」は「波」、つまり「振動波」と云う事ですね。
    では、その「振動波」は”何の振動波”と次から次えと疑問が湧きますよね。
    それは、「太陽から来る振動波」です。
    では更に、その「太陽から来る振動波」は”何の振動波 何で来るのかな”と続きます。
    それは「太陽の核爆発で起こる振動波」だと云う事で「エネルギーを持った振動の波だ」と成るのです。
    では、その「太陽の核爆発で起こる振動波」は”何が爆発して起こるのかな”と疑問が湧きます。
    それは、「全ての物質」の「核爆発振動波」だという事ですね。
    「物質」の基の基と成っている「核」と云うものがあります。それが爆発しているのです。核爆弾のあれであの爆弾の大きい破裂が連続的に起こっているのです。一つが爆発すると、その物凄いエネルギーで更に隣の核も爆発してしまいます。この「核の連動爆発」が起こっているのです。そのためにその爆発の熱で太陽の表面の温度は6000ケルビン(ほぼ6000℃)と成っているのですが、その中の方は想像も付かない温度と成っています。この為の熱で連動して「あらゆる物質」の核が爆発を続けるのです。ビッグバーンで飛来した地球上にある物質では溶解する温度の最高は知る範囲で3200度程度です。地球と太陽は同じビッグバーンで発生していますから、ほぼ同じ物質が存在している筈ですね。そうすると、表面が6000度ですから内部の物質は全て熔け蒸発の領域にあると考えられます。
    因みに鉄は1540度ですから、太陽の中ではとっくに蒸発している筈ですね。
    蒸発すれば4倍以上ですから気体領域をとっくに超えている訳ですから、その物質のエネルギーを持つ核は裸の剥き出しですから隣の核との反応に依って核の分解が起こる事は素人的にも充分に考えられる筈です。
    そうすると気体を超えて裸の核の状態の中で、”何で核が爆発すると振動が起こるのか”と云う疑問が起こりますよね。
    それは簡単に云うと、「裸の核」の環境の中(+−の状態)で、物質の基の核が爆発すると+と−の引き合うエネルギーの渦が起こります。そうするとそのエネルギーの差がバランスをとろうとして「振動」として動きます。そもそも「振動」というのは原理は「高いところ」と「低いところ」の差で起こるのですから、差が無ければ振動は起こりません。
    そうすると、その+−のエネルギーの差が次第に集まってきてエネルギーを持っているのですから「磁場の渦」が起こるはずですね。よってその渦の中にはエネルギー差の振動が集まり、そこで大振動が起こる事に成ります。従って、この振動は音の振動のようにエネルギーの無い振動ではなく、その振動には磁力(E)を持っていますので「振動磁波」が働きます。この磁波の力が集まって「磁束」が起こりその磁波の渦が起こるのです。
    この大きなものが宇宙で起こるビッグバーンと連動して起こるブラックゾーンですね。
    恐らくは其処に起こる磁波の渦の形は「とんがり帽子」をひっくり返した様な形で渦巻いていると想像できますね。強い所と弱い所の差を埋めようとして渦が収束して行きますからね。
    太陽ではこの一つの核爆発で一瞬の一つのビッグバーンの連動が起こる事で振動が起こるのです。

    この現象は太陽だけで見られる事ではありませんよ。実は地球の「自然の摂理」の中でも、これと同じ様なよく似た事が身近で起こっていますよ。台所ではIHのコンロです。洗面所では自動歯ブラシ器です。工場では高周波熱源などの装置です。
    つまり、この原理は次ぎの通りです。
    上記した磁束の真ん中には振動磁波の束の渦が起こります。この渦の真ん中に抵抗する何かのものをセットすると、その振動がその抵抗物の中の電子を無理に動かしその逆の方向に電流が生まれます。そうすると、そのセットした物質に電子の衝突が起こり、衝突した時の熱で加熱現象が起こるのです。IHのコンロはこの振動磁波の特長を利用しているのです。(誘導起電力と云う)
    電動歯ブラシもこの電流でモータを廻しているのです。
    この原理の大きいものが起こり、その時に起こる振動が渦の中心から「振動波の連動」で飛び出すのです。そこから発生するのです。この連続したものが振動磁波です。
    では、爆発するとそのあらゆる物質の核の”その振動波はどの様にして遠い太陽からこの地球まで届くのか”と云う疑問が湧きます。
    その答えは、太陽と地球の間には「宇宙ちり」以外に障害物がないからですね。
    障害物が無いと”何で「核爆発振動波」が届くのかな”と疑問が湧きます。”
    振動波とはどんなものか”という事を知る事で判ります。
    先ず、衝撃が起こる。宇宙は「相対の原理」に基づく為に、衝撃の+エネルギーの反対の−エネルギーが同時に起こります。それでなくては衝撃は起こりません。反対のエネルギーが無い事は同じ衝撃が連続的に起こる事を意味します。その事は衝撃が無い事を意味していますね。
    つまり、衝撃とは「ある処からの差」を云っているのですよね。

    簡単に言い換えますと、「楽しい」と云う事は「楽しくない」と云う事があって、その「差」を言っているのですよね。「楽しくない」と云う事が無ければ「楽しい」と云う変化はありませんね。当然に、差が無いのですから「楽しい」という言葉も無い筈ですね。

    この様に、核爆発が起こる事は例えば「+の衝撃」が起こると、多少の「タイムラグ(時間差)」が起こり「−の衝撃」が起こります。
    同じく「−の衝撃」が起これば必然的に相対の原理で「+の衝撃」が起こる事に成ります。
    ここにこの時、次の「三つの特長」が必ず生まれますね。
    それは、次ぎの通りです。
    「タイムラグ」
    「衝撃の大きさ」
    「速さ」
    以上3つが生まれる事に成ります。
    この事が色に関しては大事な事なのです。特に人間には大事な事なのです。
    この衝撃の「+−」の事が繰り返して起こりますね。この衝撃に「障害と成るもの」が無い限り永遠のリサイクルが繰り返し起こります。

    つまり、「タイムラグ」と「衝撃の大きさ」と「速さ」の「三つの特長」が起こる限りはサイクルは続く事に成りますね。
    「三つの特長」が起こらないと、”衝撃は皆同じ”と言うことに成りますので、波は起こらない事を意味します。
    そこで基に戻りますと「波」とは”あるものからあるものへの差”があるので「波」と云う言葉が存在するのですよね。
    繰り返しますと、”全てのものが皆同じ衝撃”という事に成りますので、それは衝撃ではありませんね。当然に「衝撃」と云う言葉は必然的に存在しませんね。

    さて、太陽で核爆発を起して衝撃振動波が起こりサイクルが起こると磁束の渦の中央から噴水のように打ち出される様にそれが宇宙に飛びたします。(トンガリ帽子の形のために)
    宇宙には、空気を含む一切の障害物がないとしますと、「三つの特長」の持った波は「+−」のサイクルが次から次えと起こり始めます。
    「タイムラグ差」*Nの条件で360度の方向に繋がって起こり始めます。
    障害が無いのですから、「タイムラグ」と「衝撃の大きさ」と「速さ」の「三つの特長」に影響を与える事無く条件は永遠に維持される事に成りますね。
    つまり、このサイクルでこれが太陽で起こった「核爆発衝撃波」として三つの特長を持ち続けて地球まで届いているのです。これが波なのです。

    さて、そうすると、”あの太陽でそんなことが起こっているの””「三つの特長」は何で起こるのかな”と思いますよね。
    そこで、それを解くには”太陽はどんな物で出来ているかのかな”と考えます。
    地球は星のビッグバン(爆発)で生まれていますので、少なくとも太陽と同じ物質である事が考えられますよね。
    そうすると、同じ物質であるので、その物質には上記した様に何がしかのエネルギーを持っています。そうすると”そのエネルギーとは何なのか”と云う疑問が生まれます。”鉱物は生きてもいないのにどんなエネルギー”と続きます。
    この太陽から分裂したこの宇宙の世に存在する全ての物質には上記した様に「電磁波」なるものを持っているのです。当然に人間にも持っているのですよ。
    この宇宙は相対の原理ですから、「+」と「−」とがあるのですよね。太陽を含む宇宙からから出た物質にはこの原理に依っていますので、「+」「−」になるものが物質に存在する筈です。
    それが、「電磁波」なのです。未だすっきりとしませんね。
    その電磁波についてももう少し詳しく考えると、物質は分子、原子、核とにより成り立っています。
    その物質は幾らかなバランスを崩して他と引っ張り合う為に1か2か3か4か・・の+−の何れかのイオンを物質に触手の様に手を出して持っています。
    このイオンの触手がある為に物質と物質との「結合と融合」が起こるのです。その基は核の振動です。
    この核の中には僅かなエネルギーの差を埋める為に、更に「中間子」と「中性子」とがあり、夫々の役割を果たして微妙なエネルギーのバランスを保っています。
    そうで無いと、いつかバランスが崩れて物質は破壊してしまいますね。
    言い換えればこの「相対の原理」とは「バランスの原理」とも云えます。
    そして、その為に物質には何がしかの行動が無くてはなりませんが、その核は「超微細な振動」をし続けているのです。一般的な概念では”鉱物は死んでいる”と思いますが、これでは”生きている”と成りますよね。そうなんです鉱物も生きているのです。「生きると言う概念」の問題ですね。
    全く静止しているのではなく自ら核はバランスを取る為に中間子中性子を連動させて「超微細振動」を起こしているのですからこの概念の一つとも云えます。
    更に、この磁力を持つ振動の磁波は人間を始めとする他の物質に影響を与えているのですから、これでは”生きている”と成りますね。
    概念として観て見ると、この電磁波の最たるものとしての収束力が地球と成りますが、鉱物の集合体の地球の電磁波は地球の上に存在している人間を、この磁力の力、つまり、エネルギーの差で地球に引き付けているのです。
    人間にもその人に相当する電位差(身長分)を持っていますので、その電位差と引き合い地球に存在出来ているのです。そうでないと、地球はマッハ2程度の速さで回転していますので、加速度により宇宙に飛ばされて行きます。そして破壊します。
    つまり、バランスが崩れての現象が起こるのです。人間だけでは無く全物質が対象です。この様に、電磁波は太陽で起こった核爆発で振動と云う原理で届きます。

    ところが、その物質が持つ猛烈な電磁波の差で引き付けられて核の衝突が起こり、その衝突熱のエネルギーで核が更に破壊されて核爆発(爆発のすごさを表現すると6000ケルビンで℃では凡そ6千度の表面温度)が起こっているのですから、この理屈から地球に存在する物質の全ての核爆発が太陽で起こっている事に成ります。
    そうすると、その物質の核爆発の特徴とする「特有の衝撃波の違い」が出てきますね。人間の指紋の様に、それが「三つの特長」と成って出てきます。
    その3つの特長とは、「タイムラグの大小(波長)、衝撃波の大小(振幅)、波の速さ(エネルギー)」でその大小が生まれますね。
    これが、地球に「特有波」と共に届いているのです。
    では、その物質は地球では約360程度の物質数にも成りますので、太陽にもその物質が熔けてある筈ですね。その物質の全ての核爆発が起こりそれだけの違いの振動磁波のサイクルで地球に届いている理屈に成ります。
    この波が地球に届くとここからが「色」と云う原理が働きます。

    さて、いよいよ「色」ですが、では、その「三つの特長」が人間にはどのように見えているのか疑問です。
    其処には、ある「物理的現象」と「人間の目」のシステムに依っているのです。

    そこで、その前に、復習としてもう少し波の成り立ちに触れます。
    ”何でその振動(波)が遠い地球に届くのか”と云う疑問の追求です。
    先ず、+の第1の振動が起こります。そうするとその−(マイナス)の相対のエネルギーの振動が起こりますね。そのエネルギーを減らす障害物が宇宙には無いのですからエネルギーを保持したままにこのサイクルが前へと延々と繰り返されます。
    この様に、宇宙は障害物が有りませんので、全く変化無く届きます。しかし、地球に届いた時から障害物が存在します。
    ”そうするとその障害物にどの様な事が起こるのか”と云う疑問です。

    その前に地球圏内ではどの様な障害物があるのかと云う事の疑問が先ですね。
    先ず、地球には次ぎの2つがあります。
    全ての物質さえも引き付けてしまう超強力な磁力波(バリヤーA)が存在しています。
    更にはその周りには「空気と塵やガス」(バリヤー:B)が在ります。

    そのバリヤーBには3段階で覆われています。
    第1(95K)、第2(500K)、第3の成層圏(1000K)のB(1−3)で構成されています。

    そうすると、このバリヤーB(1−3)の手前まではこの核爆発で起こった振動波が弱まる事無く「+−」のサイクルで届いている訳ですから、エネルギー(E)に変化はありません。
    それが、(B)と衝突します。
    猛烈な速さで届いた振動磁波は、その時、超高速な為にそこに含む物質との間で衝突が起こり分子が破壊されて、それによる分子爆発が生まれ閃光を発します。この現象が必ず起こります。
    丁度、火打石で火花を飛ばす事と同じですね。金属と金属が衝突した時に出る火花の様に。
    その時に発する特別な「波」との「火花」です。
    それが、人間の目ではその「爆発波」が網膜の角質に入り「色」としてに入り目に写るのです。

    太陽からこの360もの物質の振動磁波が届いている筈ですが、その内のほんの僅かな振動磁波だけが目の細胞が受け取る事が出来るのです。これを「可視光線」と云います。
    この「可視光線」の「振動磁波」の大きい側には、紫外線(周波数:振幅700ナノ)、細かい側には赤外線(周波数:振幅400)があります。
    後は地球の電磁波力に依って引き付けられて消滅するか、振動磁波の細かいものは人間の細胞を透過して地球も透過して再び宇宙へと飛んで行くのです。
    この時、全ての物質の衝撃波が主に太陽から届いていますが、それを人間は「色」として捉えてある範囲しか見えていません。つまり、「光」、即ち振動磁波が「色」に変わるのです。
    これが「可視光線」と云います。(波では、400ナノ(n)−700ナノと成ります。)

    目に見える色(光)に変えるとすると、「7つの原色」と成りますので振幅の小さい順に、次のように並びます。

    「赤外線」 「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」 「紫外線」です。

    この「可視光線」外の「紫外線」、「赤外線」までは目には見えませんがある現象に依って確認出来ます。
    この「可視光線」のそれは、真に、「虹」の現象として観えますね。
    虹は雨上がりの空気中に、水滴が多いためにそれにこの7つの物質の振動磁波の波が当ります。
    そうすると、K(カリウム)と云う物質の核爆発の振動磁波の光の変化の色の「紫」は振幅が大きいので、水滴の少ない所でも遮られて止まってしまいます。その時に衝突により色を発します。

    Li(リチウム)と云う物質の光の変化の色の赤は振幅が細かいので水滴が多くても通過して最も多い所で遮られますのでその時に衝突により色を発します。
    夕焼けも同じですね。一日の塵や埃などで光が遮られてその障害物の多さや細かさでその夕焼けの色が違ってきます。赤色の夕焼け、黄色い夕焼け、紫色の夕焼けとその中間の夕焼けが見える事に成ります。それは「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の範囲で見える事に成ります。
    端的に云うと、赤色の夕焼けは空気がより澱んでいる事に成り、赤色より右側の振動磁波も手前で抑えられてしまいますので衝突して赤色だけを発することになり、紫色の夕焼けは藍色より左側の振動磁波が透過してしまうくらいに澄んでいる事に成ります。
    一日の空気が汚れて通過する振動磁波の波長が変化します。天気の良い日の塵埃の少ない時、多いときで色合いは変化するのはこの原理から来ています。
    「真赤な夕焼け」や「紫の夕焼け」や「黄色の夕焼け」では空気の清み方が違うのです。

    写真技術の原理
    ですから、写真をとるときはこの原理を頭の中に入れて撮影をすると人間の目に映る自然の色が表現が出来て綺麗に撮影出る事に成るのです。

    朝日にも同じ事が必然的に起こりますよね、塵や埃の沈んだ空気ですから夕焼けとは又別の色合いを示す事に成ります。朝日には、その空気の澄み具合と温度の上昇で「3つもの色合いの変化」をも起こします。これを「朝ぼら、曙日、朝日」と呼ばれていますね。
    「朝日」では塵埃が増え温度も上がり地面の水分が蒸発してあがり絶対湿度も上がります。夕焼けとは環境が変わるために又別の趣が見える事に成ります。
    「朝ぼら」や「曙日」はその傾向がより低い事になります。
    「朝ぼら」の持つ趣や「曙日」の持つ趣が、写真性に与える影響を考えて、その被写体の趣を最大現に引き出す為には、この様にその撮影時期を選ぶと自然性のより綺麗なスナップが取れることが約束される筈です。

    そもそも人間の思考の「綺麗」であるかどうかはその比較のものがある事による感覚ですから、その人間共通する比較対象と成るのが「可視光線」による「自然美」です。
    人間は目に映るこの「自然美の色」を基準にして脳の感覚を表現しています。
    「自然美」=「綺麗」=「趣」の数式がもし成り立つとしますと、「太陽から発する振動磁波の光が衝突に依って発色変化する色」の理屈を ”より上手く使うことである”と定義されますね。
    同じ物を同じ位置から同じ撮影条件で間違いなく撮影すると、明らか違いが出ます。
    この違いを「柔らか味」とか「爽やかさ」とかの「趣」で撮る時に使えばより素晴らしい自然の色合いの「表現力」が出せると言う事に成ります。

    フエリヤー理論
    この様に、この振動磁波の「季節の澱みの知識」を観察して撮影する事が第1番目のポイントです。
    当然にこの空気の澱み方は季節に依っても異なりますね。
    夏は温度が高く、乾燥しますし、絶対湿度(空気中の水分)も高いですから空気は澱み傾向です。
    冬はこの逆に成りますし、風も強く吹きますから塵埃も飛んで行きます。
    この様に「春夏秋冬」、「気候」、「天候」、「地理」や「場所」での「酸素の多い少ない」等も撮影には大きく働きます。
    この様に、これを写真技術では”フェリヤー(撮影の環境条件)が働く”と云います。
    これを「フェリヤー理論」と云います。
    先ず、色の元の知識が掴めましたがまだこの理論が続きます。

    色を発する鉱物
    では、その”太陽から来ている核爆発の物質のものとはどんな物か”と成りますが、地球には360の元素の内、次ぎの物質が人間には見えているのです。
    今までは正直「色」は「色」としてのみ太陽から飛んできていると思っていたのではありませんか。
    鉱物の振動磁波とは到底思っていなかったでしょう。
    では、その鉱物又は物質はどの様な物なのでしょうか。

    これは、主に「アルカリ金属」と「アルカリ土類金属」に所属する物質の爆発の振動磁波です。
    第1 Li(赤)、Na(黄)、K(紫)、Cu(緑)、Ca(橙)、Cs(青紫)、Cr(暗赤)
    第2 Sr(紅)、Ba(緑)、Ra(洋紅)
    第3 B(黄緑)、G(青)、In(藍)、Tn(淡緑)
    第5 P(淡青)、Bs(淡青)、A(淡青)
    後の物質は地球を通過して行きます。

    これだけの物質の光の振動磁波が色に変化するのです。
    赤夕焼けの真っ赤はLiでした。Na:ナトリュウム(黄色)は皆さんも知っている何処にでも使われている物質ですよね。外灯ですね。あれはNaの黄色を出しているのです。ですから埃塵や水滴が有ってもNaの外灯の光線は届いていますよね。
    ですから、黄色や赤の色合いを示している花や物は、この物質の光が花や物に当り色を発している事に成りますね。
    この物質の色を簡単に試験で観る事が来ますよ。
    例えば、銅の粉を市販のやや強いライターで燃やして見ると緑色の火花が見えますよ。
    この原理を使ったのが夜空に咲く色とりどり「花火」の祭典ですね。
    これを「花火」をも含む酸化反応による「炎色反応」と云います。

    色合いの技術
    この様にこの色でどんな物質の波が遮られているかが判るのです。
    写真では、撮影する物がどんな色合いであるかを先ず観察します。
    そして、その色合いが「可視光線」の左側にある物か右側にある物かをまず考えます。
    そうすると、地球の環境は埃、塵、水分で覆われていますから、赤か紫かのどちら側の色合いが出易いかを考えます。
    凡そは赤のLiの波が細かいので透過してしまいますから赤より右側の色合いが出やすい事が考えられますね。都会と田舎ではよりはっきりしますね。
    そして、それが朝、昼、夕方なのかの撮影時期を考えます。
    更に突っ込んで朝の何時頃、雨模様か晴天か曇りか、湿度、風の有無、日当たりや影、等を先ず考えて撮影しますと、これだけでもかなり「自然美」の色合いを出す事が出来ます。
    フェリャーが正しく取れる事に成ります。
    そこで、より理解を深める為に次ぎはこの「フェリヤーの理論」を進めます。

    フエリヤー理論
    写真では、色(光)の三原色(BGR)と補色の光の三原色(YMC)で撮影は一度に変化するので、この事を先ず覚えておく事が必要です。
    ここで「色は可視光線」だけだと思っているでしょう。ところが違うのです。
    その前に、元は光ですよね。そうすると、可視光線の一つ外に、「紫外線」と「赤外線」がありますよね。その紫外線や赤外線にも「色らしきもの」が幾らか有るとは思いませんか。
    急に「可視光線」に成って仕舞うのですか。そんなに急に色に変わってしまう程に自然はきっぱりしていませんよね。
    未だ「紫外線」、「赤外線」は光の状態ですね。
    その光の状態で「僅かな色合い」を示しているのです。
    そして、それが「可視光線」の色の基本に成っているのです。
    この理屈が写真には大事なことなのです。
    つまり、人間の脳の感性はこの「僅かな色合い」の光を重視しているのです。
    可視光線の「BGRの三原色」の基を成し、このBGRの「深まりや鮮やかさ、明るさ」等微妙な「色合い」を構成しているのです。
    ですから、この「光の色合い」はその可視光線の7色の「微妙な色合い」を変えているのです。
    これが、「光の色合い」が(YMC)の「3つの色合い」なのです。
    この事の詳細は例を上げて観るとなるほど”紫外線に色が人間の目に見えているな”と気付きますよ。
    現実の目の前でBGRの可視光線ほどでは有りませんが起こっているのですから。
    この事は後述します。
    そこで、写真ではこの微妙に確かに目の前で起こっている「光の色合い」を知り認識する必要が先ずあるのです。
    可視光線の根幹を成しているのですから、これを認識しないでは綺麗な写真は先ず撮れません。

    光の色合い
    そこで先ず「可視光線」の知識とこの「光の色合い」の知識が必要と成るのです。大事な事なので更に解説を続けます。
    太陽から届いた振動磁波の光は全ての光が交じり合うと「白」と成ります。
    混じらない時は「黒」と成ります。当然ですよね。昼は白ぽいし夜は暗いので黒ですよね。
    ところが、これが衝突すると色に変わるのですから、全ての色が交じり合うと「黒」に成ります。混じらないと「白」に成ります。これも当然ですね。
    そうすると、ここで、この「光」の「色」と「三原色」の「色」とに何か特長のある原理が働いていますね。そうです。大雑把に云えば「反対の性質」が働いていますね。
    これを理論では「反対」と云う定義ではありません。この現象は「+−」の相対の関係では有りませんね。少し違います。
    元々「光」と「色」は同じ物では有りませんからね。BGRの色だけでならば「+−」の相対の原理となるでしょうが。そこで、この関係を色理論では「補色の関係」にあると云うのです。
    反対の様で基が違うのですからお互いに助け合っていると云う関係にもあると云えますよね。
    そこで、この関係を良く観て見ると、この「光の色と可視光線の色」には3つに分けられますよ。

    先ず可視光線を見てください。
    「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」
    この可視光線は次ぎの通りです。
    「黄色系」
    「紫色系」
    「青色系」
    以上3つに分けられそうですね。
    兎も角も「濃度と強さ」は別としてこの3つに分けられるのでは有りませんか。

    「黄色系」を「Y」、「紫色系」を「M」、「青色系」を「C」と成ります。
    この3つに分類で出来ますね。

    当然に上記した様に「補色関係」にあるのですから、この3つの分別に相当するものがある筈です。
    そこで、考えて見ます。
    補色ですから「色」として見る事にします。
    例えば、橙、緑などは黄色系の中には青が入るとこれに近い色合いに成りますよね。
    この考え方で観てると次ぎの様に成りますね。

    「黄色系」(Y)のものは「青色系」と観る事がで来ます。これを「B」とします。
    「紫色系」(M)のものは「緑色系」と観る事が出来ます。これを「G」とします。
    「青色系」(C)のものは「赤色系」と観る事が出来ます。これを「R」とします。

    人間の目に見えている振動磁波の光は可視光線としての色として見えていますから、これを「色の3原色」と呼びますね。
    当然「光の3原色」と観る事も出来ます。
    「YMC」は「イウロー、マゼンタ、シアン」
    「BGR」は「ブルー、クリーン、レッド」
    以上3つと成ります。

    「Y」に対して「B」、「M」に対して「G」、「C」に対して「R」の補色関係にあると云う事に成ります。

    「YMC」「BGR」の働き
    さて、この事が判るとして、この関係が”撮影でどのように働いてくるのか”と云う事が浮かんで来ます。
    そこで、例題を挙げます。
    ある「B」系の背景があります。この環境は木々などで撮影する場合が多いですよね。
    其処に、人が立ちます。
    そうすると、その「青色系:B:ブルー」の中に人の肌色の顔があるのですから、この肌色には「B」に引っ張られて補色関係の「Y」が働き、肌色に黄色が働き褐色ぽい顔色になってしまいます。
    これは人間が観た自然色ではありませんね。人間の目は脳の印象記憶でこれを瞬時に修正しています。
    ”私の顔はこんな日焼けした顔していないよ”として”綺麗に撮れた”とせずクレームがつきます。

    ある「G」系で画面が6割以上も占める背景があります。其処に、顔とか花とかを中心に据えます。
    そうすると、フェリヤーが働き、補色の「M」が働き、花が「M」が強く混じった色の花が出来上がります。何か紫ぽい花と成ります、肌色の顔ですと赤っぽい赤紫色ぽい顔が出来ます。
    同様に、クレームですね。写真を叩きつけられるかもね。

    M(マゼンタ)中間色
    ところで、この「M」(マゼンタ)ですが、聞きなれない色の呼び名ですね。
    この色はつまり、光は「極めて薄い赤紫」の色合いを示し、”色なのか色でないのか判らないもの”で、つまり原色では有りません。
    これを「中間色」と云う色理論では呼ばれている色合いです。
    この「M」と「C」は「全ての色」に対して大きくその色合いを与えるもので、この様な働きをするものを「中間色」と云います。
    これから撮影する場合、花や物や人物等の被写体をよーく見てください。そうすると”なるほど 少し原色と違うな”と感じる筈です。これがYMCの「中間色」が働いているのです。

    さて、この「中間色」ですが、日本人はこの色合いが含まれた色を「綺麗」とし、「自然美」の感覚としているのです。つまり、日本人の「綺麗」の根源はこの「中間色」なのです。
    その中でも、この聞きなれないM(マゼンタ)を最も好むのです。
    万葉の昔から、「薄紫」が最も高位の色とされている理由はこの所にあるのです。
    このM(マゼンタ)とこれを含んだ色合いを「綺麗」とする遺伝子を持っているのです。
    ところが、上記した人種の印象記憶ではアングロサクソン系の人種は、余りこの中間色に反応を示しません。もとより「原色の美」を好みます。
    つまり、「中間色」又は「中間色を含んだ色合い」のものは濁り、澱み、くすみとして嫌います。原色の中でも特に、赤系統を好む傾向があります。
    それは何度も言うようですが、極寒の中で進化した人種の遺伝子がその様にさせているのです。
    況や、極寒の中での生死はその血液の凍結を防ぐ最も大切な条件であったからです。
    彼等の体型や顔や目鼻や皮膚の全てがこの「血液の凍結」を防ぐ事から進化してあの体型に成っているのですから。
    そのYMCの中間色ですが、花の「自然美」が判りやすいと思いますが、中間色又は中間色を含んだ色合いの花と原色の花とを示すと、日本人は「中間色」系を「自然の美」として「好み」を示します。
    しかし、「原色」の美は「感動」とした反応をする事が統計的に判っています。
    「好み」(中間色)の「自然の美」
    「感動」(原色)の「自然の美」
    以上2つとに脳の印象記憶で分けている事が判るのです。

    漫然と聞くと、どちらも「綺麗」と聞こえていますが、それを分析すると、上記の様に脳では分類しているのです。
    故に、その理屈から云えば脳科学では「感動」は「血液」の如何を意味しています。
    ですから、上記したアングロサクソン系の人たちは遺伝子から「血液」即ち「感動」を基幹とした反応を示す事になるのです。
    当然に、日本人としては、写真を撮る時、又は観る時には、この脳の反応が働いている訳ですから、この「中間色」(YMC)を如何にして取り入れる工夫をするかに掛かる事に成りますね。
    自分と他人は「綺麗」と反応して評価するのですからね。
    当然に、日本人にもある「感動」を与える写真の工夫は、”如何に「BGRの取り入れ」を工夫するか”に掛かることを意味します。

    そこで、問題に成るのが、「綺麗」で且つ「感動」の写真ですね。
    つまり、「難しい写真」と成る事です。
    そこで、その典型的な被写体があります。それは、「秋の紅葉」に挙げられる風景です。
    「原色の自然の美」とも云えるものですね。確かに「感動」を与えます。
    観ると「血」が騒ぎます。そして綺麗です。感動と綺麗が融合しているのです。難しいですね。
    しかし、反対に「春の花々や植物」は「中間色の自然美」ですね。「感動」「血が騒ぐ」と云った脳や前頭葉の働きでは無い「何か静けさを感じる美的感覚」では有りませんか。
    ”感動して心が動く”と云うものでは有りませんね。

    この季節による写真にはこの様に”何か違うもの”を感じます。
    「淡い色合い」で何とも云い難い印象を持ちます。
    最近は西洋花が多く成りましたが、矢張り、春の野辺の花の色合いの綺麗さは「血液」が騒ぐと云うのでは無く「遺伝子」が騒ぐと云う感じがします。
    これが我々日本人に持っている「遺伝子」の「YMCの感覚」がその様に複雑に美的感覚を分けているのです。日本人は「繊細」な人種と判定出来る要素ですね。
    アングロサクソン系の人たちは全体を「血液」の「感動」に依る事から、当然に日本人の様には論理的にこの難しい事は起こらないことを意味します。
    彼等は全て、遺伝子から来る「血液」による「感動」を主体としている事に成ります。

    量的感情と質的感情
    「感動」とは確かに「綺麗さ」もその一つですが、主に「強さ」や「壮大さ」や「広大さ」に対して起こる「量的感情」が主体です。そして、秋の「感動」の綺麗さはその字の如く主に「動」による綺麗さでは有りませんか。

    それに対して、春のYMCの綺麗さは「静」による綺麗さを示しているのでは有りませんか。
    YMCの淡い色には、「感動」の「動」の強さや壮大さ広大さの「量的感情」の印象は少ないと思います。どちらかと云うと、「質的感情」と区分けする事が出来ます。

    この様に、まとめますと「静」の「光」の「YMC」中間色による「自然美」の「綺麗」は、殆どは日本人の「遺伝子」による「質的感情」の「綺麗さ」とでも云えるものなのです。
    そして、それは色理論としてはYMCが「色の根幹」の印象を左右しているのですから、むしろその上記「まとめ」である事が正しい感情と云う事に成ります。
    ですから、写真撮影ではこの「YMCの如何」を習得して表現する事が「本当の自然美」であると言えます。

    YMC
    さて、そこで、そのYMCの全てが均等に左右しているとは限りません。
    質的、量的にも特長を持ちます。経験による私的感覚ですが総合的には、この関係はM>C>Yであると観ています。その原因は日本人の「進化による遺伝子」と「四季による環境変化」によって起こっていると判断しています。

    ではそのYMCが個々にどの様な特長を示すのかを説明します。
    中でもM(マゼンタ)の美は日本人以外の人種では綺麗だとする感情を高める統計的なものは無いとされています。
    市場の店頭で起こっているその例題を述べます。

    M(マゼンタ)
    このM(マゼンタ)に関して普通にプリントすると、10人の日本人があるアスファルト道路の入った被写体写真に対して、このマゼンタを抜いた本来の色のアスファルト道路としてプリントすると、10人がこの”道路の色はおかしい”云うのです。
    あの汚いアスファルト道路に対して、Mだと認識はしていないのですが、”M(マゼンタ)の様な色合いを少し欠けている”と要求するのです。通常、0.2−0.3程度の色合いを求めます。
    そして、Mを補正を欠けると納得するのです。
    この様に、写真店等のところでは道路だけではなくてもプリント全体にM(マゼンタ)0.2の補正を掛けているのです。それで初めて、”綺麗だ”と評価されるくらいに日本人にとってはこの中間色の存在を綺麗の前提としているのです。
    そもそも、補正に依らずとももとより、「静」の「光」の「YMC」による「自然美」の「綺麗」は綺麗なのですが、遺伝子的な強い感情なのです。

    C(シアン)
    淡い青の色合いを示すC(シアン)は、特にM(マゼンタ)程にその傾向はありませんが、恣意的に欠けさしていると、強さとかシビヤーさとかシャープさとしてクレームが付きます。
    観やすいものとしては、真っ白い光の当った花などよーく観てください。光がよーくあたった一部分に薄い淡い青、或いは水色の光り輝く部分があります。この部分がC(シアン)が当ったところです。このC(シアン)はより真っ白を白く見せつけます。
    可視光線外の何ともし難い紫外線にこのC(シアン)が多く含まれている為にフェリヤーが強く働き自然美を阻害してしまうので注意を払う必要があります。
    最近ではこの紫外線は大変に知られ、嫌われる光ですが、そうでもないのです。
    殺菌作用や季節の植物の発育には欠かせない光でこれなくして生物は生きて行けないものなのです。
    しかし、可視光線外の紫外線に含まれるこのC(シアン)の中間色としての存在そのものが知られていないのが現実です。最近ではやっと「アントシアン」として知られるように成りました。
    従って、普通は一般的には「可視光線」の範囲での色合いの構成と知られ観られていましたが、ところがこのシアンが光として写真技術にも大きく影響しているのです。
    より写真技術を上げるとすると、逆にこのC(シアン)を如何にコントロールするかの技術が必要となりますね。上記した様に強弱、鋭鈍、明暗等の輪郭等の印象記憶をコントロールする場合に必要と成ります。

    もとよりM(マゼンタ)は言葉そのものの認識が低くても中間色としての色合いは日本人なら誰でも知っている事ですが、太古の昔から知られていました。
    しかし、このC(シアン)の言葉はもとより色合い自身も認識されていないのが今も現実ですね。
    それだけに写真技術を上げるにはこのC(シアン)の論理的な知識を習得してそれを活用する事で「綺麗な写真」が撮れる前提要素と成るでしょう。

    Y(イエロー)
    次ぎはY(イエロー)なのですが、イエローは日本語で黄色ですね、でも、この光の中間色のイエローは色のイエローとは少し違います。
    その色合いはやや淡い薄い透明的な光り輝く黄色です。
    日本人はこのY(イエロー)の有無には余り反応を示しません。それは遺伝子と進化から来ています。
    日本人は黄色人種ですし、その環境は森林や家屋等にイエローの多く含む環境にあります。ですから、多少のY(イエロー)が過不足があっても違和感を持たないのです。この中間色のY(イエロー)が働くと顔等は黄土色や日焼けしたように成ります。
    色の黄色にこのYが多く含むと輝くようなイエローと云うか黄色が出来上がります。
    テレビ等の画面に最も多く出て来る自然美から離れた不良画面はこの中間色のY(イエロー)が代表的です。余り意識していない事から来ていると考えます。
    この光の中間色のY(イエロー)は原色を好む人種には大変に好まれます。それは色としての可視光線の原色の黄色として存在するからです。
    原色の黄色の変化として、日本人の中間色の嗜好品的な所までは行きませんが、使われるのです。これを加える事による変化を好みます。
    「感動」を主体とした反応である事から、強弱、鋭鈍、明暗等の輪郭等の印象記憶を要求する事に拠ります。

    どちらかと云うと、C(シアン)等の使い方もこのY(イエロー)に近いものがあります。
    更にどちらかと云うと、多くは画面が汚くなる傾向があります。このフェリヤーが働いた画面等は見られませんね。
    とは言え一概には云えないことですが、写真撮影期の「春榛の緑」とすれば必要な中間色ですが。秋の銀杏の葉などにも使われる色合いですので、機会の多さ被写体の多さからすると同等に学び使う必要が出てきます。

    中間色YMCの使い方
    そこで、「好み」(中間色)の「自然美」と「感動」(原色)の「自然の美」をコントロールする”この難しい写真を撮るにはどうすれば良いのか”との課題です。
    先ず、あくまで「原色の自然の美」の「BGR」を中心に、中間色の「YMC」を引き出すかの写真技術と成ります。そうすると、必然的には「YMC」の理論を学び会得するかに掛かる筈ですね。
    難しい被写体ですから、簡単にこれだとする一つのものはあり得ません。故に複雑なそれを系統化した其処に理論が生まれるのですから。
    それを系統化して論理的にしたのが「CC理論」なのです。
    その中には、当然に補色に関係する「フェリヤー理論」も必要ですね。
    本文の目的とするレポートですが、日本人の自然美は多くは、原色BGRの理論も必要として、よりこの「YMCの理論」と「フェリヤーの理論」を会得する事に関わります。
    そして、それを融合させた理論の「CC理論」があるのです。
    この「CC理論」のSカーブに付いて後述します。

    そこで、それを理解する為に必要とする予備知識として知るべき事があり、その為に話を元に戻します。

    撮影の予備知識
    同じく、ある「R」の多い花などの背景に人が立つとしますと、或いは別の花を中心に据えるとしますと、その人物や中心の花には「C」が働き、何か青覚めた人物や花が出来上がります。
    これでは写真では有りませんね。
    今度は、「Y」「M」「C」の背景に同じ様に撮影の対象物を撮ると「B」「G」「R」の補色関係が働き観るも堪えない写真が出来ると考えられますね。趣が出るのか疑問に成りますね。
    しかし、この「BGR」の背景に「YMC」が中心に来るとに較べて、そのフェリヤーの影響は少ないと見えます。”何故かな”と成るでしょう。
    それは「YMC」の背景に「BGR」が来ると、人間の目或いは脳は次ぎの様な事に成ります。

    先ず、1つは目は、フェリヤーが働いてくる「BGR」は可視光線のよくある色ですし、中央の被写体の色の殆どはこのBGRの色で構成されている事だから目立たないのです。脳、目は”反応し難い”のです。
    2つ目は、YMC全体の背景と云う被写体が自然界では少ない事により、確率的に認識できないのです。恣意的、故意的にスタジオでの背景を作らないと「全体背景」としては先ず見られません。
    3つ目は恣意的、故意的な特別なものは除くとして、自然背景の「BGR」に対して「YMC」はその色の根幹をなしているのですから、むしろその色合いのはっきり感等の明度の助長として働くからで目立たないのです。

    テレビ等でよく観察してください。主にこのBGR背景でのフェリヤーの働いた画面が出てきますよ。
    人間は「人の肌色」(YMCの中間色です)に対する印象記憶が何よりもすば抜けて強く違いを見抜きます。又、これには納得する色理論が働いているのです。後でこの理論を解説します。

    人種の色の好み
    この様に、フェリヤーは自然の摂理現象の「光と色」関係がある以上この現象が起こります。
    写真はこれを目の錐体(覚質)細胞の覚質層(受光細胞)に残像として遺すわけですから、人間の印象記憶がある以上また避けることも出来ません。
    ところが、恐らく、”この印象記憶が人或いは人種により異なる”と考えるでしょう。
    その通りです。日本人は全世界の人種の内で最も自然色を好む人種なのです。恐らくは自然に周囲が囲まれ育まれてきた結果だと思います。
    例えば、アメリカ人又はアングロサクソンのヨーロッパ人は自然色から離れたやや赤みがかった色を好みます。人肌は赤みの人肌を自然だと云います。実際は違うのですが。希望的観測と云うか印象と云うかのものですね。
    これは、彼等の祖先が生き抜いて来た「極寒の環境」から来ていると云われています。そのために肌は赤く血液が通って居るのが良いということに成ります。
    アングロサクソンの白色人種は極寒であったために血管が体の中に引き込めて進化した結果のために白色に成っているからです。鼻が長く高く毛深いのはこの進化から来ているのです。
    日本でも北部の人はこの若干の傾向を持っています。
    色とはこの様にその祖先の如何が左右するのですが、兎も角も、好みの範囲ですが、論理的「自然色の美」は変わりません。
    そんな事を言っていても、フイルムや画像ソフトが売れなくては困ります。そこでその好みの範囲でフイルムやソフトはその好みに合わせています。この合わせる理論があるのです。
    それを「CC理論」と云います。それを一つの図表化にしたものがあり、これを上記の「BGR:YMC」の関係と「CC理論」とを合わせた「CCカーブ」(Sカーブ)と云うものがあります。
    これは大変撮影の時に重要なものですので、後で解説します。
    我々は、日本人ですので、「自然美の色合い」の理論で更に進めます。

    自然美の理論 YMC
    紫外線
    では次に「可視光線」外の紫外線と赤外線とに付いて述べます。
    この「2つの光線」も色に影響するのです。当然に写真にも作用するのです。
    先ず、紫外線です。700ナノ付近の光線です。
    この光は現在はかなり知られて来ましたが、この光は物に作用して殺菌する能力等があります。それはその光の持っているエネルギーに拠ります。衝突した時に発生する熱エネルギーで菌が死滅するのです。また、紫外線に多く含まれる「C」(シアン)が光線として物体に当りますとそのシアンの毒性で菌などは死滅する事に成ります。(用語としてアントシアンと呼びます。)
    青酸カリという劇薬を知っていると思いますが、これはシアン化カリのことです。(C)は青色系ですから青と呼称します、シアンの酸化イオンと(K:カリ)のアルカリイオンが反応したものだと云うことです。このシアンが猛毒で怖いのです。炭素と窒素で出来ています。これをCNイオンと書きます。
    このシアンがアントシアンとして作用します(ここではシアンと記する)。紫外線にはこのシアン(C)の光を多く含んでいます。
    光は物質の振動磁波だと上記しましたが、この紫外線にはCN物質の振動磁波の光の状態のものが含んでいることを意味します。
    例えば判りやすく例を挙げますと、柿の実、或いは葉や赤い紅葉はこの紫外線に含まれるシアンが柿に当りシアンの補色の赤に作用して赤く色づくのです。
    色づくだけでは有りません。このシアンは柿の実の中の味物質に衝突してCとNが分離してCが更に醸成して炭酸(CO)イオンとなり、紫外線の当る量が増え、更に進んで果糖になりブドウ糖の糖分へと変化します。これが真っ赤に熟した甘い柿の実なのです。
    柿の葉や赤の紅葉も同じで紫外線の当る量が多くなるとシアン(C)の補色の(R)へと変化するのです。簡単に云えば赤い夕焼けと同じですね。
    ですから、この時期の葉で太陽光線に強く当った紫陽花の葉は危険なのです。緑の葉でありながら、葉には紫外線が当っても補色の色に変化せずに緑のままでこのシアンを溜め込むのです。それだけに紫陽花の葉の緑の力が強いという事ですね。虫は紫陽花の葉を食べませんね。虫食いの紫陽花の葉を見たことが有りません。
    ところが、例外の紫陽花の外では、つまり、紫外線が当る事で、葉の緑の色素は分解されて葉の内部の細かさが赤を受け付けるのです
    赤の夕焼けと同じです。この物質にアントシアンが残るのです。シアンは元は「薄い青みがかった白
    」です。写真技術では「薄い青みがかった白」だと大事ですので覚えて置いてください。
    このC:シアンの光が衝突することで補色の赤(R)の色に変わるのです。
    他に例としては、銀杏はこの紫外線のシアンを吸収しますが、紫陽花ほどでは無く黄色程度のところで葉の内部の分解は留まりますが、この葉も危険です。ですから、生きた化石として長く生き延びてきたのです。
    同じく銀杏の木にもこの溜められたシアンが働きスポンジ状の木の内部に溜め込みます、当然に菌や虫は食べませんので腐らずに木は生き残れたのです。

    つまり、当然にシアンを含んでいるのですから、写真ではこの紫外線の太陽光を最も気にする必要がありますね。どう言う事かと云うと、写真は光と物体の肖像ですから、アングルに光の取り入れ方が重要です。取り入れすぎるとシアンが働きますし、その光の中心に肖像物体を入れて撮るとシアンの補色が働き赤みが自然色から離れて働きます。上記の理論よりフェリヤーが働き過ぎますね。
    そうすると、撮影時は光は写真を生かすかどうかのものですから、何とか取り入れる必要があります。そこで、フェリヤーが働かないように撮影肖像物から離して取り入れる必要が出てきます。
    むしろ反対の場合のも在りますね。
    撮影肖像物が赤であり特に強調したい場合は、むしろ紫外線を当ててフェリヤーを働かせればより綺麗に写ります。
    更には、白色をより強調したい場合は、アングルの中心から僅かに外してフェリヤーを外して紫外線を直接当てる事でCの薄青みがかった白が出てより白く見せる事が出来ますね。
    注意は当然に光の綜合色の白が強く成るのですから、ハレーションが起こります。このハレーションを防ぐには紫外線の時期を選ぶ以外には在りません。紫外線の少ない光です。
    朝の上記した3つの時期と成り局部的に当てる事でかなり抑えられます。だから、朝日でもこの様に3つもある事の自然論を知っておく必要がありますね。
    つまり、地球の空気の澱みの有無を知る事が写真技術では大切な要素と云う事です。
    こうなると、物理に成りますが。マア其処まで行かなくてもこの程度の原理を覚え使う事で綺麗な写真が撮れる事に成れば覚えて活用したほうが得ですね。
    この様に、上記した理論を駆使して紫外線を撮影から利用するのです。推して知るべしで撮影には紫外線は色々なアングルに「シアン」というものが大きく働きます。
    太陽光の綜合色となる即ち紫外線ですから最も重要ですね。
    紫外線フィルターも在りますがこれも使うことも一つです。芸術写真を撮る事等にはお勧めですが。
    紫外線の効能は「シアン」以外に「趣」として観ると活力や明るさ等もありますからね。
    又、他の方法では4000ケルビン程度のフラッシュで紫外線を迎え撃つ事も出来ます。光の方向に向かって明るいですがフラッシュを焚くのです。
    慣れてくると、フラッシュの発射角度や時間や強さをコントロールする事でも微妙な趣を出すにはこの方法も可能です(場合によっては自分専用に改造か作る必要がある 殆ど充電量をコントロールする事で可能)。

    写真を撮る一番最初に考える事は、被写体が決まると”「光」をどうするか”ですから、シアンの影響が続けて記憶から出るぐらいにしておく事が必要です。

    赤外線
    次ぎは、赤外線です。
    紫外線ほどではありませんが、この光も働きます。
    赤外線は400ナノ程度以下ですから、実に細かい振動磁波ですから殆どのものを透過します。
    当然、空気の澄んだ時には多くこの赤の光とか赤外線の透過量が多いと成ります。
    そうすると、どうなるかの問題です。
    赤外線量が多いと云う事はその量が衝突する物体に赤傾向が強く成ると云う事ですね。
    朝の「曙」はその赤の綺麗さが良くて「曙」と呼ばれ好まれているところですね。
    赤の夕焼けとは少し違います。赤の夕焼けは空気中の澱みでやっと透過してきた赤の振動磁波が空気の澱みに衝突して発光して赤を示すのですが、朝の曙は澱みが少ない事でその量が多くて衝突してより多くの赤を発光している訳ですから。「質と量」の内の「量的」なところが違うのです。
    そうすると、写真性では、先ずは「色濃度」はもとより「色の深み」と云う形で出て来る事に成ります。
    紫外線のシアンの白っぽさの元気感、活力感、とかに較べて、赤外線の補色の赤は「しっとり感」「落ち着き感」とか「深み感」が出る事に成ります。
    夜明けの赤外線は「低い角度」で入ってきますから、撮影時はこの角度をも配慮する事がその趣感をより強く出すので大切です。
    この様に、赤外線と紫外線とは相対的な趣を醸し出す事に成ります。大まかには逆に働くとして覚え利用する事です。
    赤外線は振動波が細かいですから、つまり透過は良いわけですから衝突や透過に依って起こる色合いではものを「暖める能力」を持っていますから「暖かい感じ」がしますし、被写体に当ると透過の影響で花の花びらなどでは透き通る事に依って「透明感」のある「色合い」を示します。
    この様に、赤外線の「透過」と衝突による「赤味」から撮影時はこの2つの影響を論理的に考えることで赤外線の趣を引き出す事が出来るわけですね。
    紫外線の様にYMCのC(シアン)が強く出る事が有りませんが。強いて云えば「下地にM傾向」と云う事になるでしょうが、赤の中にMですので目立ちません。BGRの根本の一つMですから赤の色合いは良くなる事は確実ですね。
    現実に、論理的には振動磁波が物体に衝突する事で発生する熱エネルギーにより紫外線の「熱さ」に対して、赤外線が当ると穏やかな「温もり」を起します。「遠赤外線ヒーター」はその証拠ですね。
    この論理的な現象から目に見えないのですが、これを活用する事が写真ではより「自然美の綺麗さ」を表現する事が出来ます。従って、意外には配慮されていないのが現実ですが、上記した様に大きく影響するのです。
    推して知るべしで、逆に赤外線の影響を少なくするのには赤外線フィルターも在りますが、紫外線の処で述べ現象と同じ事が起こります。使う目的にあわすことが必要ですね。
    フラッシュは逆効果で赤外線の効果を消す事の手段としては使えますが、それも面白みなどを出す目的での事に合わす事が必要ですね。
    兎も角も、この赤外線を含む赤色系は、「空気の澱み」がある限り紫外線と較べて難しい事に成ります。
    ですから、都会で撮影する時と、田舎で撮影する時と、町で撮影する時と、森で撮影する時では、「空気の澱み」と「酸素やオゾン」の量が異なるので、違う色合いを示す事に成ります。
    森や林で、木々の多い所で撮影すると「深み」のある「しっとり感」とかが出てよい写真が撮れ易いのもこの事から来ています。

    次ぎは中編、後編と続きます。


      [No.258] 摂津麻田藩の史料(丹治氏系青木氏)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/02(Fri) 19:06:51  

    丹治氏系青木氏の摂津麻田藩の青木氏の問い合わせが多いので史料として掲示板から移動させました。


    摂津麻田藩
    青木氏
    藩祖 - 青木 一重(かずしげ)
    天文二十年(1551年) 青木刑部卿法印重直の長男に生まれる。
    母 某氏、幼名 忠助
    所右衛門(通称)、初名 重通、法号 宗佐
    官位職歴 従五位下民部少輔
    経歴 豊臣秀吉の黄母衣衆
    慶長・元和の役後、徳川家康に仕える
    元和元年(1615年)  一万二千石を領し麻田に住む→のち弟可直に二千石分与
    寛永五年(1628年)  8月9日没 法名 梅隣院革屋令曇居士
    葬地 麻布祥雲寺(のち、摂津畑仏日寺へ改葬)
    墓所 江戸白金台瑞聖寺
    正室 不詳
    子女 正重(一重養子、小寺則頼子)→ 病により家督相続できず。
    重兼(養子) → 二代

    二代 - 青木 重兼(しげかね)
    慶長十一年(1606年) 青木可直(一重弟)の長男に生まれる。
    母 関右京亮某の娘
    幼名 源五、職歴 甲斐守、号 瑞山
    元和五年(1619年)  一重の養子となり、家督を相続。
    寛文三年(1663年)  摂津多田院再興の奉行
    同十二年(1672年)  致仕
    天和二年(1682年)  没 法名 瑞山性正竹岩院
    葬地 河原村北渓の山中
    正室 酒井忠利養女(酒井忠季娘)
    子女 可一(重兼養子、酒井忠勝三男)→ 正保元年(1644年)没
    重成(養子) → 三代
    女子     → 三代の正室

    三代 - 青木 重成(しげなり)
    寛永二年(1625年)  松平忠長家臣朝倉宣親の長男に生まれる。
    母 酒井忠勝の娘、職歴 内膳→民部→甲斐守
    承応元年(1652年)  重兼の養子となる。
    寛文十二年(1672年) 家督を相続。
    元禄五年(1692年)  大番頭・御留守居→側衆を勤める
    元禄六年(1693年)  没 法名 陽徳院殿徹山道剛大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 二代重兼の娘
    子女 直正(青木直澄養子)、重矩(四代)、女子、景孝(朝倉景行養子)、明教(加藤喜隆養子)、源三郎

    四代 - 青木 重矩(しげのり)
    寛文五年(1665年)三代重成の次男に生まれる。
    母 正室 二代重兼の娘、幼名 源五郎
    職歴 民部→甲斐守
    元禄六年(1693年)  家督相続
    正徳三年(1713年)  致仕
    享保十四年(1729年) 没 法名 了心院殿雄山元英大居士
    葬地 摂津畑仏日寺
    正室 戸沢正誠の娘
    子女 一典(五代)、女子(大給[松平]乗真正室→離婚→京都祇園宝寿院行快妻)

    五代 - 青木 一典(かずつね)
    元禄十年(1697年)四代重矩の長男に生まれる。
    母 某氏、職歴 民部→出羽守→甲斐守
    正徳三年(1713年)家督相続
    元文元年(1736年)没 法名 春徳院殿瑞海元活大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 冷泉為経の娘
    子女 一都(六代)、見典(七代)、一新(八代)、女子(加藤明義妻)、女子、寅太郎、
    亀三郎(近江國唯念寺長寿養子)、正岑(井上貞高養子)

    六代 - 青木 一都(かずくに)
    享保六年(1721年)  五代一典の長男に生まれる。
    母 正室 冷泉為経の娘、幼名 源五郎
    職歴 出羽守→甲斐守
    元文元年(1736年)  家督相続
    寛延二年(1749年)  没 法名 覚翁院殿大徹浄真大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 谷 衛衝の娘
    子女 見典(弟、養子)→七代

    七代 - 青木 見典(ちかつね)
    享保八年(1723年) 五代一典の次男に生まれる。
    母 某氏、職歴 内膳→内膳正
    寛延二年(1749年)  兄、一都の養子となる。
    寛延三年(1750年)  家督相続
    宝暦四年(1754年)  没 法名 清涼院殿秋岳浄映大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 不詳
    子女 一新(弟、養子)→八代

    八代 - 青木 一新(かずよし)
    享保十三年(1728年) 五代一典の三男に生まれる。
    母 某氏、職歴 主税→美濃守
    宝暦四年(1754年)  兄、見典の養子になり、家督相続。
    明和七年(1770年)  致仕
    天明元年(1781年)  没 法名 善応院殿心珠衍明大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 久留島光通の娘
    子女 一在 → 明和三年(1766年)没、女子(九代の正室)、一貫(養子)→九代、他 早世男子四人

    九代 - 青木 一貫(かずつら)
    享保十八年(1733年) 伊達村年の三男に生まれる。
    母 伊達吉村の娘、幼名 伊織、職歴 甲斐守
    明和七年(1770年)一新の男子早世により養子になり、家督相続す→大番頭を勤める
    天明四年(1784年)  没 法名 養源院殿慈眠衍端大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 八代一新の娘
    子女 健行(佐野義行養子)、貞喬(設楽貞猶養子)、政佑(米津政従養子)、一貞(十代)、
    女子(渡辺春綱正室)、女子(斎藤利恵妻)、一寧、喜代三郎、他 女子四人

    十代 - 青木 一貞(かずさだ)
    安永五年(1776年)  九代一貫の四男に生まれる。
    母 正室 八代一新の娘、幼名 源五郎
    職歴 出羽守→甲斐守
    天明六年(1786年)  家督相続→柳間詰を勤める。
    文政四年(1821年)  致仕
    天保二年(1831年)  没 法名 正法院殿一乗義貞大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 佐竹義忠の娘、継室 池田定常の娘
    子女 重龍(十一代)、一興(十二代)、衛モ(谷 衛弥養子)

    十一代 - 青木 重龍(しげたつ)
    寛政十二年(1800年) 十代一貞の子に生まれる。
    職歴 内膳正→美作守→駿河守、幼名 源五郎
    文政四年(1821年)  家督相続
    弘化四年(1847年)  致仕
    安政五年(1858年)  没 法名 龍光院殿天祥本瑞大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 森 忠賛の娘
    子女 一興(弟、養子)→十二代、重義(十四代)

    十二代 - 青木 一興(かずおき)
    文政五年(1822年)  十代一貞の子に生まれる。
    職歴 美濃守
    弘化四年(1847年)  兄、重龍の養子になり、家督を相続す。
    嘉永二年(1849年)  没 法名 玄了院殿俊徳義勇大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 不詳
    子女 一咸(養子)→十三代

    十三代 - 青木 一咸(かずひろ)
    文政十一年(1828年) 奥平昌高の子に生まれる。
    職歴 甲斐守
    嘉永二年(1849年)  一興の養子となり、家督を相続す。
    安政三年(1856年)  没 法名 泰雲院殿一峰清咸大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 戸田光庸養女 ラ(戸田光行娘)
    子女 重義(養子、十一代重龍子)→十四代

    十四代 - 青木 重義(しげよし)
    嘉永六年(1853年) 十一代重龍の子に生まれる。
    幼名 源五郎。職歴 民部少輔。
    安政三年(1856年) 一咸の養子になり、家督を相続す。
    明治十七年(1884年) 7月8日 子爵位を授爵す→同年 没
    正室 松平信宝の娘 由(のち、離婚)、継室 塩田伝兵衛の娘

    15代 信光(のぶみつ)
    16代 蔚(しげる)
    17代 淳一(じゅんいち)
    2003年 4月27日(日) 01:22:27
    [返信]


    --------------------------------------------------------------------------------

    80 青木一重流青木氏のルーツ
    青木研究員
     
    一重氏の孫 重吉氏は当初は信州の丸子に住まいしていましたが、それ以前は武蔵国足立郡の青木村に住んでいたと記録されていますので、9/14の土地ですので藤原流青木氏と判断しました。
    信州小県郡にも青木村がありましたがこの青木村は武蔵の国足立郡の青木村から時間経過から移住したものと推測します。
    2005年 6月18日(土) 20:40:05


      [No.257] 甲斐青木氏の研究(花菱紋)−後編
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/29(Tue) 15:21:16  

    [花菱紋から丸に花菱紋]
    親族の豊定の柳沢氏の菩提寺は常光寺−光沢寺−永慶寺−護国神社となります。
    その柳沢氏は上記の理由で曹洞宗常光寺から引き上げて浄土宗光沢寺を開山しました。
    同じく兄の正定の本家筋を継がした青木氏の菩提寺は常光寺−源空寺(末寺 明治廃寺)を開山しました。そして、自分の青木氏は山間部の「国衆」の防衛団役として住んでいた北巨摩郡の菩提寺松源寺を開山したのです。
    柳沢郡青木村の人の青木氏の菩提寺は結局は有りませんから甲斐に戻った後は「丸に花菱紋」の曹洞宗常光寺としたのです。
    ”何故、柳沢郡に青木村があるのか”と云う理由は信定が臨終の間際に採った父子の「路線争い」と「宗派争い」の苦肉の策と観られます。
    14代目兄弟正定、豊定の親族では特に豊定自身が継ぐものと思っていただけに苦々しく思っており、止む無く伝統の無い柳沢氏を発祥させられる羽目に成った事に成ります。
    後刻、末裔は花菱紋の別家を起こした兄と共に、この養子信之の末裔(長男元忠襲名)に対して異議を申し立てた事になります。
    事実、この伝統ある皇族青木氏の柳沢郡青木氏を血縁の無い青木氏が継いでいる事に対して、甲斐全体の青木一族には、継承の経緯もあり決着を付けるべく、”伝統ある青木氏を血縁の無い者が継ぐ事は罷り成らん”と申し込んだと観られます。
    ”事実、血縁が無い事は否めない事実”として”「花菱紋の使用」と「浄土宗派」をやめるが、「系譜」と「青木氏」を改める事は拒否する”として決着を図ったと成っている訳です。

    果たして決着を見たのかは疑問です。
    取り敢えず、「花菱紋」から伝統の無い分家的な扱いの「丸に花菱紋」に変紋した事で一応は納得した事にして”様子を見る事にした”としたと思われます。

    と云うのは、この事は次ぎのことからも覗えます。
    1 寛政の史書(1800頃)にも「寛永第三の青木氏」(1635頃)と示されていた事。
    2 花菱紋青木氏元祖の正定の9代目末裔信政(1735頃)が、この「丸に花菱紋」の系譜を当時の口伝から偏纂し添書を詳細にして違いを表し、伝統を正確に遺した事
    以上等で末裔は先祖の錯誤行為を一時納めたと観られます。
    3 この時、末裔信政は”この「丸に花菱紋青木氏」は違うのだ”と後世に示す為に、年代も故意的にみえみえにずらして居ることもその憎悪の程が良く判ります。
    4 9代目末裔「信政」が編集し直したとされるその養子「信之」を祖とする「丸に花菱紋」の系譜には、その添書もさることながら、「信正」の所が「某」と記されているのがその先祖に対する「遺憾の意」を表現している所で、その経緯が面白いと見られます。
    自分の先祖の系譜には「信正−信定」と明記していながら、信之養子の系譜には「某」−「信定」とし添書を記しているのです。これでは直ぐに判ります。
    これは遺憾の意を後世に表すために故意的に判る様にしたのです。

    常光寺に祭祀されている「信安(11)」の弟「信生(11)」の次に「信正」(12)が来て更に「信定」(13)が来て養子「信之」(14)−養子「信茂」(15)....(20)として、この系譜は明らかであるのに、わざわざ「信正」を「某」とするのも故意的です。

    この末裔信政は自分の系譜も添え書きの追記編集していてそこは正常に記載しています。
    末裔信政は信定(13)よりは信正(12)に対して「遺憾」の感情を持っていた事が割ります。

    当然、この様に系譜は明治までは花菱紋一族は、親族柳沢氏と同じ対応をしていた事に成りますが、源空寺の廃仏毀釈で、「お墓と仏像と過去帳と記録資料と石燈等」の「花菱紋青木氏の遺産」を何れかに移す必要に迫られた事になります。
    その理由は、上記した「丸に花菱紋」と「常光寺曹洞宗」の経緯にあります。
    南北の巨摩郡青木村青木氏と一門一族は、この歴史的史実を寛政の史書から少なくとも(1800-1900)年頃まで知っていたと思われます。少なくとも本家筋の南巨摩郡の浄土宗派は。
    「丸付き紋」とした為に分家となった派は曹洞宗に入信し、宗派争いは3宗派で燻り続けて明治まで続いたと見られます。
    養子続きの系譜上の経緯から「丸付き紋」青木氏の一部が浄土宗のお寺にする訳には行かなかったのでしょう。”止む無く、曹洞宗とし、南明寺を墓所とした”と云う事に成ります。

    ところが、「丸に花菱紋」曹洞宗の青木氏(第三氏)派に対して、明治初期に発祥した「第3の青木氏」の存在が更に複雑にして、廃仏毀釈廃寺の浄土宗源空寺の「歴史遺産」に複雑にしている様子です。
    恐らくは、この歴史遺産は明治初期頃までは承知されていたとすれば、昭和の末期に不明に成ったとすると、その廃寺後の処置から紛失経緯を鑑みた場合、現存する花菱紋本家分家筋に引き取られている可能性があります。
    現在、源空寺跡近在の歴史家等によって市の文化遺産にした事や、曹洞宗などの対応から観て、この「第3氏」等や「宗派問題」の解消又は区切りを図ったと見られます。

    実は地元がこの「第3氏」の問題に苦慮するには理由があるのです。それは甲斐の「第3氏」の青木氏の問題は「特別な背景」と云うか事情を持っているからなのです。(後述)
    もし、これ(第3氏の主張)を認めると文化遺産の所有権の問題が更に複雑になることが予想できるからなのです。
    兎も角も、1573-2009年頃まで続いた甲斐花菱紋青木氏の問題はこの研究レポートが一助になることを期待しています。
    この「特別な背景」を理解する前に必要とする経緯を復習したいと考えます。

    「柳沢青木氏の復習」
    経緯
    武田氏系青木氏と同じく、柳沢郡の青木氏は「長篠の戦い」(天正3年)で敗戦しました。
    (武田勝頼に奇策を提案したが受け入れられなかったので、武川12騎は勝頼から離れ戦線から離脱した)
    その直前(1567)に、信定(巨摩郡青木氏と柳沢郡青木氏の父 常光寺を曹洞宗に改宗した人物)の妻の実家(安芸国桜井安芸守)を頼り一族は安芸に移動します。
    この柳沢郡の青木氏は元は織田信長に攻められる前は和泉守(高尾氏)でした。(和歌山と大阪の境の国 後に毛利氏から浅野氏になり紀州徳川氏に移る)
    柳沢郡青木氏はこの後、母安芸の実家の安芸守の縁で「毛利元就」(中国地方の覇者)に仕官します。
    そして、勲功で安芸の尾引城の城主となります。
    毛利氏の勢力拡大に著しい勲功をあげます。
    更に元亀4年の元の和泉守を取り戻します。
    しかし、この者は(初代養子信之)尼子の戦いで戦死します。
    そこで子供の次男毛利氏の伸張で志摩守と成り信之の跡目を天正5年に継ぎます。
    ところが、この次男は毛利氏の配下で讃岐元吉城の合戦で戦死します。(長篠の敗戦から2年後)
    この志摩守の兄(青木助兵衛元忠)が跡を継ぎ父の名信之を襲名し、その後、三田尻(山口)に移りそこから一族は甲斐国韮崎(1582)に帰ります。(墓は安芸、三田尻近在になしの記載あり)
    この毛利で3代続いた養子一族の柳沢郡青木氏一族は、和泉守、志摩守等をして大きく財を築きました。1577年頃、その勢力と財力で先祖の曹洞宗常光寺を再興し先祖祭りを再び開始します。
    この時(天正中頃:寛永に記録)、北巨摩郡青木氏から家紋と系譜の使用で協議します。
    この時期の北巨摩郡の青木氏を含む「武川衆」は「武州鉢形に国替え」は起こっていないので、丁度柳沢郡の養子青木氏も戻った所であり協議と成ったと考えられます。
    協議結論は家紋は丸付き紋に変紋と改宗で妥協、系譜は譲らずと成ります。(慣習は原則丸付き紋は不使用)

    これが、曹洞宗常光寺の寺紋「丸に花菱紋」の所以で、「丸に花菱紋」の発祥理由です。
    系譜には末裔に対して理解を得る為に経緯の詳細を書添に遺した事に成ります。

    次に、理解する事として「尾張守」に対する知識です。

    「尾張守の意味」
    さて、ここで、この「尾張守」の持つ意味はどのようなものかを歴史の変化で述べます。
    官職で職位です。尾張の守護職で尾張の守護地から取れる石米を糧としていた事を意味します。
    史料から次ぎのものが観られます。
    甲斐氏一族には武田氏本家の「甲斐守」があります。
    菱紋青木氏、割菱紋青木、花菱紋本家青木氏は「尾張守」です。
    武田氏が最大勢力を張っていた時期はここまでです。軍制にも「尾張衆」とあります。
    残る家紋の一門柳沢郡青木氏は「和泉守」(高尾氏)と一部の史料に記載されています。
    花菱紋の別家青木時光は「摂津守」です。
    甲斐でいながら尾張の守護とは変ですが、平安時代、鎌倉時代、室町時代前期は自分は朝廷の仕事をし領地には朝廷、幕府から国司、地頭、守護を送ります。この国司、地頭、守護が守護主に代わって勤めます。自分は朝廷、幕府の仕事をします。
    鎌倉時代からは守護の代わりに地頭を送りますが、殆ど自分が赴く制度です。

    平安時代は守護は公家と貴族と朝臣、宿禰族が領地を持ちましたので、公家貴族は采地には軍事を持ちませんので護ることが出来ません。そこで「国司」「地頭」を送ったのです。
    江戸時代に成ると、この守護は無くなり領主となり自ら当ります。そして家臣に任せて幕府に仕えます。
    ところが、しかし、次第に江戸中期以降、中級以上の武士は金品を天皇家に送り名誉職の実質の伴なわない官位官職を貰う事に成ったのです。衰退した朝廷の経済的財源と成りました。
    むしろ、幕府はそのように仕向けたのです。天皇家に僅かな経済的な潤いを与えて幕府の経費を削減して朝廷が幕府に歯向かわないように縛り上げたのです。
    当然、幕府の職位と天皇家の名誉職とダブル事に成ります。
    この事で争いが起こっています。
    ですから、ある時期を通じてこの官職に対する見方評価は別にする必要があります。
    平安期、鎌倉期、室町期はほぼ正等に評価して史料史実として考察する判断材料に成ります。

    というのは、この武田系青木氏にはこの尾張守が大きく左右する疑問点があるのです。
    下記で系譜上の最大疑問点であるこの事を論じます。
    その前にもう一度「一条氏」の事に付いて検証します。

    「一条氏呼称の疑問」
    次ぎに”一条氏と武田氏と青木氏とで家紋が変わるのか”の疑問です。
    一条氏は一応武田氏では母方です。忠頼の母一条郷出身であると云う前提に立っています。
    本来は「氏家制度」は男系継承です。
    武田氏の血を引いた源の時光ですので、前編と中編で述べた様に身分と家柄という点では弟より落ちる事に成ります。
    そこで、忠頼の一条氏をとりわけ誇張したのであって男系の一条氏では有りません。
    この一条氏の系譜継承で名乗るにも問題があり過ぎるのです。
    本来は一条氏は藤原北家筋の摂関家です。藤原秀郷は北家です。その秀郷の血筋も陸奥の小田氏(武田氏は)で血筋を引いている事に成ります。
    武田氏は源氏末裔を名乗っていますが、清和源氏の頼光が本家筋です。
    弟の頼信系の分家で河内源氏の更に傍流と成ります。更に、陸奥小田氏(秀郷一も門杜血縁)から豪族となった甲斐の武田氏にこの傍流の跡目を送り込み源氏系としたもので、藤原秀郷一門の支流に源氏の跡目を入れたことを意味します。
    よって、この血縁は氏家制度の中では下の氏との血縁を源氏がしたことを意味します。本来は源氏は下の氏との血縁はしないのが慣習で殆どが青木氏を含む賜姓族、皇族16氏の同族血縁が主流なのです
    しかし、止む終えない事でした。源氏の16の一門は平家一門に圧迫を受けていましたので、なんとしても子孫を遺す必要があったのです。そこで下の氏との血縁をした事に成ります。
    ただ、武田氏には藤原秀郷一門の筋が流れていますので、源氏としては建前は護れた事を意味します。従って、武田氏は源氏の跡目が婿として入ったので、源氏の血筋の良い方の家柄身分の方を誇張したのです。
    この時光系の一条氏を名乗るものと同じです。
    清和源氏の河内源氏の傍流からすると、支流の直系ではない末端の源氏です。(史実が取れているので未勘氏にならない)それも頼信系の分家筋の賜姓清和源氏です。
    ですから、女系側の清和源氏には藤原摂関家の母方一条氏の血が流れていますので史実の如何を問わずより一条郷を作り出し忠頼の一条氏を名乗りたかったのでしょう。
    同じ清和源氏の分家本流の河内源氏の頼朝に謀殺された初代忠頼も甲斐一条郷の出身として名乗っていますが、一条郷に一条氏が流れ着いたかの確証は見当たりません。
    そんなにあちこちに一条氏が逃がれるだけの一族が居たのでしょうか。これは明らかに疑問です。
    これは清和源氏母方の一条氏の誇張ではと観ています。
    時光の末裔の仕組んだ誇張宣伝ではなかったかと観ているのです。
    この時代大変にこの風潮が蔓延した時期なのです。第3氏と未勘氏の発祥もこの時期が多いのです。
    (江戸初期前後の2期目混乱期)
    ですから、家紋は笹竜胆ではなく、武田氏の菱紋で、更に、分家のその分家筋の花菱紋なのです。
    武田氏一門は厳密には6つの菱紋、概して8つの菱紋を一門としています。
    氏として分けると、花菱紋はこの第3番目です。
    1番は本家武田菱紋、2番は割菱紋、3番目が花菱紋です。
    これでは時光の気持ちは判ります。まして、弟の源光系は1番2番で、朝臣族皇子の甲斐賜姓青木氏との血縁を主流としていますから兄としてはたまりませんね。
    ですから、武田氏は笹竜胆紋は使えませんし、宗家から認められません。ですから使用していません、武田氏の家紋類だけです。
    甲斐武田氏が直系の源氏であれば笹竜胆紋の筈ですが、同じ分家頼信系列でありながら、義経、頼朝等は「笹竜胆紋」ですし、甲斐の皇族賜姓青木氏も笹竜胆紋です。
    甲斐源氏と名乗っていますが、分家の支流の分家の武田氏です。(公表している史料は誇張)

    信濃足利氏でも、陸奥から藤原秀郷一門と血縁して護衛団として足利の赴任地に同行した花房氏が地元に定着し勢力を得て土豪と成り地名を採って足利氏と名乗りました。
    その後、藤原秀郷一門がこの足利氏の絶えた分家に藤原秀郷一門の者を入れて分家を興して、最後はこの本家を排除して足利氏を乗っ取ったのです。
    其処に清和源氏頼信系本流との跡目血縁を2度して清和源氏系足利氏が出来たのです。
    後にはこの様によく似た事件が起こっていますが、武田氏ではこれ程では有りません。
    足利氏の場合は藤原秀郷一門が大きく足利氏に関わっています。
    清和源氏の時光は下の家柄の武田氏と繋がります。

    そして、清和源氏は第6位皇子の経基王の子孫で甲斐賜姓青木氏も第6位皇子です。
    源光自らはこの清和源氏(清和天皇第6位皇子系)頼信系の末裔であり、且つ、甲斐国守護王の皇族賜姓青木氏(光仁第6位皇子)と血縁をした賜姓族系であります。
    時光は甲斐武田氏に跡目として入った一族の血縁朝臣族として単族で皇族青木氏を名乗った訳ですから兄でありながら身分は下と成ります。

    この時光が名乗った青木氏は「嵯峨期の詔」によるものです。
    嵯峨天皇期の詔とは ”皇族者が平民になる事の「下俗」する時に青木氏を名乗れ””その青木を他氏は名乗ってはいけない”の天皇の勅令の命令です。
    父桓武天皇の賜姓青木氏に対する反発から、子供嵯峨天皇は賜姓をこの青木氏から氏名を変えて賜姓源氏としたのです。
    この命令に従い清和源氏は第6位皇子ですので(「朝臣族」ですので)青木氏を名乗れるのです。
    この詔を使って下の身分の武田氏と血縁した時には身分家柄が下がりますので「青木氏」を名乗ったのです。
    この詔を使える資格者は歴史上18人居て内確認出来る範囲で4−5人です。
    本来、時光は源光に対抗して詔を使ったと云う説を採用しています。。
    しかし、弟の源光は、尚且つ、武田氏でも本家筋の上の家紋2つの菱紋と割菱紋と笹竜胆紋との血縁ですので差が大きく出ています。この二つは賜姓青木氏系と成ります。
    同じ武田氏系でも家臣ではなく客人扱いです。座る位置は全く兄弟と言えども時光は家臣となってしまいますので下座下末座です。これでは面子が有りませんので、だから母方一条氏や詔の青木氏を持ち込んだと成ります。
    これが青木氏や一条氏の名乗りの背景と成ります。

    しかし、この末裔の正定らは更に下の扱いと成り、「国衆」と云う驚くべき階級なのです。
    しかしながら、その家柄では朝廷が嵯峨期の詔が認めている証拠として次ぎのことがあるのです。

    「源空寺と吉田氏」
    そこで時光系の正定(14)では浄土宗源空寺を菩提寺として建立しますが、この寺の位置付けを示す事柄があるのです。それはその住職に吉田氏を迎えて居る事なのです。
    何故そのように成るのかと云う事なのですが、その住職吉田氏に付いてお話します。

    先ず、源空寺をどれだけ大切にしていたかと云う事を意味しその寺の位置付けが判るのです。
    つまり、この吉田氏住職は源空寺の寺院の威厳、権威、又はレベルを示すものなのです。

    「吉田兼好」徒然草の作者を承知されている事として、吉田兼好は朝廷の役人(官僚)をしていましたが、役所勤めが嫌に成って放浪の旅に出ました。
    その役所の勤めとは何であったかと云う疑問です。
    吉田氏は日本書紀に出てきます古い伝統の藤原氏に負けない氏です、
    つまり、朝廷の祭祀を司る斎蔵の藤原氏の下役人だったのです。
    中臣鎌足、つまり、藤原鎌足は大化改新の功労者です。
    その仕事は朝廷の官僚機構の3蔵の一つの「斎蔵」の祭祀を司る官僚でした。
    昔奈良期−平安初期の政治機構は3つの機構で出来ていました。

    1 「斎蔵」です。朝廷、天皇家の事務一切を取り仕切る政治機構です。
    2 「大蔵」です。朝廷の財政全般を取り仕切る政治機構です。
    3 「内蔵」です。天皇家の一切の財政全般を取り仕切る政治機構です。
    これを「3蔵」と云います。
    これに軍事が着き「斎蔵」が指揮する形です。

    そこで、この「斎蔵」は事務一切の中には、朝廷の祭祀行事(政治を含む政所:まんどころ)が主な仕事ですが、斎蔵の藤原氏はだから摂関家なのです。
    これを藤原氏の下で専門に祭祀だけを行っていた官僚が吉田氏です。
    この吉田氏は奈良時代からの氏です。
    吉田氏は朝廷と天皇家の神社仏閣の専門祭祀役人です。
    全国に最も多い神社の宮司は吉田氏ですが、この関係から来ているのです。
    また、寺社も吉田氏が多いのです。余り知られていないのですが吉田氏は祭祀の名門族なのです。
    関西の神社には吉田氏は大変多く、とりわけ熊野権現社を始めとして万葉の世界が残る紀州には吉田氏が多く宮司として現在も任官しています。

    (参考 世界遺産の熊野権現第1社の藤白神社は吉田氏です鈴木氏の発祥社です)

    青木氏、佐々木氏も浄土宗菩提寺を自らの氏で運営をしていましたので多いのです。
    独自の菩提寺と氏神を持つ身分でしたので、身内の者がそれを勤めました。佐々木氏と青木氏の家紋で見分けが着くのです。その伝統が今でも続いているのです。
    吉田兼好はこの祭祀役人でした。藤原氏の下で役人勤めが嫌に成ったのは今も同じですね。
    これ等の事は「研究室」の「鈴木氏関係のレポート」2つに書いていますので参照して下さい。

    どう言うことかと云うと、常光寺の曹洞宗改宗の時に浄土宗源空寺を開基しました。
    この時、この寺に対する肝いり具合が判るのです。
    藤原氏を通じて朝廷関係者から吉田氏を迎え入れた可能性があると云う事です。
    源空寺の元墓には現在も住職吉田氏の墓があると云う事はこのことを意味しています。
    つまり、それだけに花菱紋の青木氏は皇族系ですので、藤原氏を通じて吉田氏派遣を願い出たという事に成ります。
    ”何時から源空寺の住職は吉田氏か”は現在、私も未確認ですが、恐らくは最初からではないでしょうか。まだ今でも、吉田氏の墓があると云う事は、昔から吉田氏系統の住職であった可能性があります。だから廃寺になっても吉田氏の墓があると云う事に成ります。
    吉田氏を住職、宮司としてある神社仏閣は位の高い神社仏閣と言う事を意味します。
    吉田氏を迎えるだけの氏柄、身分でなくては派遣されません。
    まして、京や奈良ではなくて、甲斐ですので、余程の氏身分では無くては北家の藤原摂関家からは派遣される事は有りません。
    時光系は賜姓源氏で皇族朝臣族青木氏ですので、文句無く派遣される事です。
    武田氏の元は、源信義が跡目に入る前は北家の藤原秀郷一門と陸奥小田氏との血縁族でした。
    筋目から全く問題はありません。

    「吉田氏」の住職で「源空寺」は最高の組み合わせです。
    時代的に”吉田氏は何時からで、青木氏の住職は合ったのか”の確認が必要です。
    研究課題として調べていましすがまだ見つかりません
    この様に吉田氏の史実一つでも源空寺の時光系青木氏の確証が取れます。

    「系譜上から観た武田氏系青木氏の系譜経緯」

    さて、次ぎは時光系青木氏の実系譜を記述します。
    これは上記した系譜上の疑問点の解決に必要とするもので、公開されている誇張された史料とは一部異なるところがあります。

    寛政までの系譜(割菱紋 葉菱紋 時光系本家)
    信義−信光−信長−信経ー時信−時光*−常光−信連−貞義−義遠−安遠−義虎−信種−信親−信時信安−信就−信幸−信峯−信祐−信任−信*−信考−某

    (割菱紋 時光系分家)
    義虎−信正ー信定−正定−正重−信久−信知−信秋−信富−信保−正蜜−信政
    累代です。


    さて、この系譜では、信正は8代目、信定は9代目となる筈です。
    ところが、本来の本家と分家の系譜では、信安11の義弟落合氏養子の信生11系列に成っているのです。
    信生11は信安11の義弟ですから、本流の系譜の中には有りません。又、常光寺には祭祀されていません。
    どの様に系譜の位置付けに成っているかと云うと次ぎの様に成ります。

    北巨摩郡青木氏 信生11−信正12−信定13−正定14−正重15・・と成ります。(後述)
    柳沢郡青木氏 信生11−信正12−信定13−信之14−与蔵15(次男)−元忠16(長男:襲名)−信茂・・・(後述)

    上記二つのどちらにも系譜には11代目の信安の義弟の信生11が8代目、9代目の信正とその子の信定の前に来ています。最大の疑問です。
    先ず年代的に観てみると、信正は信虎と信玄、信定は信玄と勝頼に仕えています。
    信生は勝頼に仕えて徳川氏に仕官しています。
    信生の経歴は信安の実父信時に養われています。
    武田氏家臣で落合常陸守信資の三男です。
    子供の居無かった信時は落合氏から養子として縁組し小さい時から養ったが、その後に実子が生まれ信生の扱いは部屋住みと成りました。

    次ぎに、この信正に付いて考察します。
    信正は青木氏本家の義虎の子供で嫡子は信種であるので、嫡子外の子供で妾子です。
    しかし、信種は尾張守と成っています。信正も尾張守です。同時期に尾張守に成っています。
    ところが、嫡子外妾子の信正には後継ぎの通名の「与兵衛」が与えられ尾張守にも成っています。
    何れも信虎と信玄に仕えています。

    疑問
    1 同時期に尾張守
    2 世継ぎの通名「与兵衛」は信正に

    これを”どの様に理解したら良いのか”の「信生の系譜の位置」と合わせて2つ目の最大疑問です。

    これから推理すると、先ず考えられる筋目としては、次ぎの様な事に成ります。
    1 信種は信正であろうとする説が成り立ちます。つまり信正=信種説です。
    年代共に一致しある一点を除いては疑問は解決します。

    次ぎの事も成り立ちます。それは信種の子供嫡子信親は尾張守で通名の与兵衛が着いています。
    2 信正が信種の子供嫡子の信親であろうとする説です。信正=信親説です。
    年代もほぼ一致しある一点を除いては疑問は尾張守と通名の点で解決します。

    信親の子供の信時つまり、信安の実父で信生の義父です。尾張守ですが通名の与兵衛は有りません。
    3 信正が信親の子供嫡子の信時であろうとする説です。信正=信時説です。
    この説では年代は何とか一致しますし信生が先代に据える事は可能です。

    先ず、ここで通名が大きなキーワードに成っていますので、中編でも記述しましたが、系譜上からこの通名を名乗った人物をもう一度引き出します。

    「通名の考察」
    義虎は弥七郎−信種は無し−信正は与兵衛−信親は与兵衛−信時は無し−信安は与兵衛−信就は与兵衛−信幸は与右衛門−信峯は与右衛門−信祐は与兵衛−信任は与兵衛−信*は与右衛門−後は与右衛門
    義虎以前には与兵衛は無い。尾張守は嫡子は代々継承している。

    このことからすると嫡子であれば与兵衛の通名を継ぐ事に成っているとすると、信種と信時の2人は通名が無い事が不自然であるので、1番の尾張守でもあり同一説が納得できる事に成ります。
    では、信種なのか信時なのかを考察すると、次ぎの様に成ります。
    しかし、上記した様に、正定ルーツの系譜(花菱紋)と養子柳沢郡青木氏の信之ルーツ(丸に花菱紋)の系譜の二つはこの1番の説では起こらないことに成ります。しかし、子孫は現存しています。
    ある以上は1番の信種説と3番の信時説は成立しません。

    2番の信親説には信親は、又の名を「信立」であると添書に書かれています。
    この「信立」は全ての系譜上には出てきません。
    つまり、しかし、「信立」は柳沢氏の系譜から公開されている史料では初代人物の元祖であるとしています。
    しかし、柳沢氏は系譜では豊定を初代として明らかに系譜にありますので、信生−信正−信定−豊定としていますので本流の信親の「信立」ルーツでは無くなります。
    とすると、”この「信立」は一体誰なのか”を解く必要が出てきます。

    一種架空の人物の「信立」は本来系譜の信正の子供の信定であろうとする説です。
    つまり、系譜を作る際、或いは信政が再編集する再に、信定の「定」の字の行書を「立」と観てしまった、又は書いてしまったのではないかと考えられます。
    系譜資料では字体の崩し様で確かに「立」に読み取れるのです。

    そうすると、123の説は消えますので、信種の腹違いの弟妾子信正は別家の割り菱紋を起こした事に成ります。これが正しい答えと成ります。

    では、次ぎは尾張守と与兵衛の件を解決する事です。
    先ず、信正と信種の年齢です。
    明確な史料は有りません。そこで、戒名を特別に調べました。(個人情報に関わるので詳細不公表)

    信正の戒名から死亡年は不明ですが、法名は信正は深見、信種は浄賢と明らかに異なりますので別人である事は間違い有りません。

    考察経緯
    A 信正の死亡年代は1548年頃、信種の死亡年代は不明だがこの僅か前と成ります。
    先ず、当初妾子の信正が別家を興した。
    B しかし、嫡子の信種が尾張守を名乗り死亡した。
    C そこで、別家の信正が嫡子扱いとなり、それより以後「与兵衛」を通名として名乗り、跡を継いで尾張守に成ったが戦いで信正も死亡した。
    D その跡を信種のルーツに戻しての豚ねの子供嫡子信親が尾張守に成り通名を与兵衛を名乗った。
    E そして、嫡子信親が死亡した。
    F これを再び別家信正の子供の信定が継いだ為に通名の無い尾張守と成った。
    G この間20年程度の経緯で、その後、信定は長篠の戦い(1575)で戦死した。
    H そこで、又本家に戻して通名の無い形式上信時が尾張守となった。
    I しかし、この時は既に尾張守は有名無実のもので、2年後の1578年で滅亡の一時期であったので通名は後世滅亡か存続かどの様になるかは判らない為に名乗らなかった。
    J その後、本家分家ともに徳川氏に仕官出来たし、本家嫡子の信安は真田氏の上田城攻めに加わる事に成ったし、分家正定は武州鉢形に国替えとなり徳川氏の旗本に成ったとすれば疑問は解けます。

    因みに、尾張守は時光より3代目の信連から始まり、嫡子貞義−義遠なし−安遠−義虎なし−信種と続きました。
    信種の親の義虎は無役でした。それだけに、信種に対する期待は大きかったとみられますが戦死したので嫡子信親にせずに別家の信正に移した。
    この時代の信虎の武田氏はひどい戦いに明け暮れていたので嫡子を失う事を嫌ったのではないかと観られます。
    この時には信虎と信玄の軋轢の争いが物語っていますが、信玄も結局40数回もの戦いをしたのでこの様な系譜と成ったと見られ、その影響もあって戒名等には詳細が書き込まれていないのもこの事から来ているものと思われます。この間20年であるので如何に難しかったかが判ります。
    以上系譜の添書から割り出した系譜の経緯です。

    次ぎは、信正の上に信生が来る系譜である。
    A 信生は信時に養子嫡子として育てられたが実子信安が生まれた事から信安を嫡子とした。
    B そこで、信生の扱いに不憫に思い苦慮した信時は別家の信正の跡取として据える事を考え系譜上で信生を別家の上に据える事を相談したのではと観られます。

    この時は別家は信定の時代で上記の系譜の経緯からすると、本家側から見ると別家からの人の移動が無いが本家との区別が少ないと観ていたのではないだろうか。
    信定の子供としては実子の正定や豊定や豊勝等が居て親子争いを起こしていたので、子供として養子にする事は難しいと観たのではないか。そこで、上にすえる事で、形式上何とか処理したのではと観られます。 
    下にすえる事は1575年前の軍事的な連携から高尾氏との関係もあり、信之の柳沢郡の青木氏の養子もあるので、最早別家を興させる手が無く成っていたと観られます。
    この時は1567年頃後の織田氏との戦いを前にした緊張時期でもあり、年齢は無視して5年程度の期間の系譜として扱ったと観られます。

    これが、不思議な系譜が出来上がっている原因と観られます。
    前編と中編の系譜はこの信生−信正−信定の前提に立っていますので、ここで、系譜や添書や史料や戒名などで検証しました。
    このような20年の間に上記に近い経緯を持っていたと考えられます。
    本来であれば、信正−信定−信生(落合氏養子)と成るのですが、信正−信定−信之(高尾氏養子)と成れば、実子3人も居る上に養子2人と成ってしまいます。
    それでなくても実子との軋轢が起こっているのに、この上に信生の養子は幾ら戦乱とは言え受け入れ難いことだろうと考えます。
    結局、この様な系譜に納まったのではと考えます。

    「内容の整理」(重複)
    参考
    因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
    割菱紋青木氏本家(義虎系)
    信種(嫡子)の子の信親
    信時(信親の子)の子の信安
    信安の子の信就
    信就、信幸、信峯の子の信祐
    信祐の子の信任

    割菱紋青木氏分家(義虎系)
    信虎の子の信正(妾子:信種弟)
    以上6人です。

    参考
    注 信種は信正と同人物との説もある。
    注 信種は信定と同人物との説もある。
    注 信親は信立と同人物との説もある。
    注 信親は信定と同人物との説もある。
    注 信時は信定と同人物との説もある。

    参考
    「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
    始祖時光は甲斐守
    時光系割菱紋の本家
    A 時光-常光の子の信連
    B 信連の子の貞義
    C 貞義-義遠の子の安遠
    D 安遠-嘉虎の子の信種
    E 信種の子の信親
    F 信親の子の信時

    時光系割菱紋の分家
    G 義虎の子の信正
    H 信正の子の信定
    以上8人です。

    参考
    注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
    注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
    注 信時で武田氏は滅ぶ。

    参考
    疑問点
    以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がる。
    1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
    2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
    3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
    4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
    5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
    6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
    7 重複人物説の疑問がある。
    以上を複合的見地から解明しなくてはならない。

    参考
    信立
    柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木と血縁を同じくする(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連で源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
    「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
    送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
    それは「豊定−信立−信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
    「信生−信正−信定−豊定」の時光系の割菱紋副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事を意味します。


    ところで話を戻します。
    この様な事は話し合いによる訳ですから、この武田氏系青木氏の滅亡か存続かの瀬戸際に系譜がどうのこうのと云う単純事で、”この時期にこの事に付いての話し合いが果たして出来るだろうか”という素朴な疑問が湧くのです。
    何らかの都合が一族間に起こらなければ出来る話では有りません。
    ”それは何なのか””何かがあったのか”です。

    戦乱の世に於いては他にも宗派間の違いが兎角争いの元と成っています。
    ところが、この武田氏系青木氏(時光系)には他氏には見られない程に宗派に拘り、挙句は別家を興すほどの事を起こしているのです。そして明らかに「争いの遍歴」が大きく起こっているのです。
    中でも日本最大といわれる112年に及ぶ宗教界を巻き込んだ「天保騒動」が甲斐で起こっているのです。これではなかなか一族一門は納まりが付きません。
    そこで、その経緯と宗派の競争の状況を調べて見ました。

    武田氏系青木氏時光系の宗派経緯
    信義−...−時光 浄土宗(明楽寺 宝林寺、前常光寺)
    常光−...−信正 真言宗(常光寺の中興開基 改宗)
    信定−.......曹洞宗(中興開基 改宗 天正3年まで)
    正定−(割り菱紋).浄土宗(源空寺 中興開基 菩提寺解除 天正5年頃−明治廃仏毀釈廃寺)
    正定(花菱紋分流).浄土宗(武川衆 松源寺 関東に武蔵鉢形に国替え移転と移設)
    信之(丸に花菱紋).曹洞宗(武田氏滅亡で常光寺を再建)
    廃寺後、......曹洞宗(第3氏 南明寺 信定派曹洞宗派)


    以上の様に。甲斐武田氏の信義から5回の改宗が起こっています。
    この事から次ぎの争いが起こったと観られます。

    第1回目の信義の時
    改宗時には青木氏の浄土宗の伝統を護ろうとする宝林寺派と、母方一条氏派の真言宗派との間で争いが起こったと観られます。
    元祖時光を宝林寺に祭祀しようとする一族と、時光を常光寺に祭祀しようとする一族が争いを起こしたと観られます。(これに時光赴任先の摂津からも菩提寺説が出ている)
    第2回目の常光の時
    この時、常光派が勝ち皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源光系武田氏系青木氏の2つの派を巻き込んで争いが起こり常光寺派が勝ち常光寺を開基しました。そして、亡き父時光を常光寺に祭祀しました。
    そして、曹洞宗で上記の11代が祀り続けられたと観られます。(11代目信安まで祭祀)
    浄土宗、真言宗の者が曹洞宗に祀られると云う前代未聞の事が続けられた事に成ります。
    第3回目の信定の時
    ところが、又再び、12代目の信正の死後、信正を祭祀するところを巡って、又争いが起こります。
    元の真言宗派の一族と、現在の曹洞宗派の一族と、元来の浄土宗派の元に戻そうとする一族が争いました。3つ巴の争いです。話し合いで解決できる事などあり得ません。
    結局、この時は信定が帰依する曹洞宗派が勝ちました。しかし、12代目の信正の墓は曹洞宗常光寺には祭祀されていません。11代目信安までですが、これも異常です。
    曹洞宗が勝ったとは云え12代目13代目は常光寺には並べて墓は無いのです。
    第4回目の正定の時
    納得しなかった信正別家正定派本流は元来の青木氏の浄土宗源空寺を南巨摩郡に開基しました。そして、曹洞宗常光寺から脱退したのです。
    この時正定は別家を興した青木氏、豊定も別付けを興した柳沢氏が父子争いを起こしたのです。
    第5回目の正定の時
    そして、本流は正定実子昌輝に任し、正定分流派は北巨摩郡に浄土宗松源寺を開基したのです。
    恐らくは、親子軋轢の結果、宙に浮いた12代目と13代目は「御魂移し」をして源空寺に存在したとも考えられますが史実の経緯がありませんし、明治の廃寺で不明です。
    尊たい寺と光福寺にあったと観られますが、武田氏滅亡により信正と信定の墓は関東に移動により墓、過去帳、仏像、記録等も含めて移したとも考えられます。
    上記の様に、其れより光福寺と尊たい寺への祭祀が経緯から妥当と考えられます。
    (現在でも一部はこの浄土宗派はどこかの浄土宗の寺に墓と御魂を移して祭祀している可能性があります。)
    第6回目の信之の時
    信之は毛利氏に仕官して戦死し、その後跡目を継いだ次男も戦死し、長男が信之を襲名し甲斐に帰ります。そして、武田氏滅亡で廃寺となった常光寺を再興して丸に花菱紋の寺紋とします。
    血縁の無い養子一族が本来のこれまで本流本家の10代を祭祀している曹洞宗常光寺を再び興し割り菱紋から丸に花菱紋に寺紋を変紋して血縁性の無い信之一族の曹洞宗派の寺としたのです。
    本来であれば本流本家の常光から信時まで祭祀されているのですからその割り菱紋の末裔一族が再興してこれを祀るが本筋です。
    しかし、違ったのです。信正別家の養子の血縁性の無い信之一族(以後も血縁性の無い跡目養子縁組が続く)と成っているのです。

    ここで、11代の信安は本流本家割り菱紋の嫡子ですし、信之とは同年代であり既に家は別家と成っているし、寺も信之の一族の丸に花菱紋の寺として再興されています。既に武田氏も滅亡しています。信安は徳川家の家臣として江戸に赴きそしてその後上田城攻めに参加しています。
    その人物が死んだとして、全く血縁性の無い信之一族の曹洞宗常光寺に祭祀された史実と成るのです。
    この浄土宗の信安11が最後の人物として信之の別族が運営する常光寺に、且つ異宗の曹洞宗に祀られる事はこの2つの大異常性がありながら、ここに何らかの大きい経緯があると観ています。
    本来ならば、氏家制度ではありえません。
    これは信安は絶っての願いとして2代目襲名信之に頼んだという事に成ります。そしてこの2つの異常性が認められたのです。

    「協議の内容推理」
    実は、上記した系譜協議の結末が、ここに、”系譜を其の侭に家紋を変更する事だけ”で治めた妥協の経緯があるのではと考えているのです。
    「・・・・よりて各々のその見ゆるところを記して後勘に備う」とするこの一文を系譜に記され且つ文章の表現を考察すると「・・各々・・」の表現は多数関係者の同意に基づく表現と観えますし、「・・見ゆるところを記して・・」は衆議の意見を書き記して置くことにするとの表現に成ります。
    更に、「・・後勘に備う」の表現は明らかに衆議合意の上での記述となると観えます。
    この様な事から、「多数関係者」が存在して「関係する事柄」を「協議合意」したと成ります。

    そうすると、別家の正定と、別家本流の昌輝と、本家本流の信安と、別家の祖と成った信生と、柳沢氏の豊定等の関係者を交えた協議が「常光寺」で行われて、「信安11の常光寺祭祀の約束」と「信生11の別家の祖」と「丸に花菱紋使用」と「信正系譜」と「常光寺の譲渡」等を正式に決めたのではと推理しているのです。
    そして、この事が1578−1580年の2年間の間に行われたと観ています。
    これだけの宗派の遍歴を起こしていて後に大きな問題が起こっていないのはこの様な協議の成立があった事を意味していると考えます。
    それでなければ、普通本来であれば、氏家制度の中では、青木一族の柳沢吉保が甲府藩の領主と成り甲斐に対して権力を持った時にもめる筈です。しかし、揉め事は起こっていません。

    これがより経緯とより立体的に理解を得る為の後編の冒頭からの説明に起因する事であったのです。

    「花菱紋一族の証明」
    ところで、第7番目の明治の廃仏毀釈による廃寺が問題です。
    この廃寺に依って多くの資料と系譜の如何が複雑にしてしまっているのです。
    4宗派の争いがあり、信之一族の「丸付き紋の花菱紋」の「第三氏」に、本来の丸付き紋を使った「第3氏」が入り乱れて信之の末裔に大して区別し判断する事が出来なくなっていることがあります。
    特に、北巨摩郡の正定の花菱紋は武蔵の鉢形に国替えが起こり一族全て強制的に移動していますので判別問題は明確です。
    南巨摩郡では第3氏青木氏が存在し主張している花菱紋末裔はこの歴史的史実を知らない結果に拠りますので判別は明らかです。
    しかし、南巨摩郡の昌輝の別家本流と柳沢郡青木氏の甲斐帰国後の信之の末裔に判別が付き難い事が起こります。
    南巨摩郡の昌輝の別家本流の末裔も徳川氏の仕官となり旗本と成った事から八王子近隣から江戸にかけて移り住みましたので、これも第3氏の主張が判別できます。
    しかし、とりわけ、信之末裔との判別です。
    信之末裔も本多氏の家臣と徳川氏の家臣と成って武蔵、常陸、上総、栃木の関東に最終移動していますので大方は判別が可能なのです。
    しかし、この末裔一部が先祖の寺を守る為にか常光寺付近に残ったとする説があります。
    この「第三氏」と「第3氏」の判別が困難のです。

    更に複雑なのはこの「第3氏」には二通りあります。
    一つは明治の苗字令による「第3氏」です。
    二つは1575年前の農兵による制度から来る苗字帯刀を許した青木氏があります。
    戦いの場合は家臣だけでは兵力成り立ちません。そこで「農兵制度」と云う組織があり、農民との契約で兵として参加する方式です。戦勝すれば契約報奨金と褒美が与えられます。
    この時に、その農兵の庄屋や名主や郷士の長等に青木氏の苗字を名乗る事と家紋使用を許す事が在りました。特に武田氏は兵を多く集めましたので、この方式を採用したのです。
    明治期の「第3氏」と異なりこの名乗る根拠のある「第3氏」があります。

    この根拠のある農兵「第3氏」と武士の信之末裔の甲斐残存子孫の「第三氏」との判別が付き難いのです。
    明治期には先祖が戦いに参加したこの農兵の長とは違う者等もこの「第3氏」を名乗ったことになります。何も経緯の無い「第3氏」が殆どですがこの中にはこの青木氏もあるのです。
    つまり、甲斐では「第3氏」は4種ある事に成ります。

    全国青木氏が定住する地域に対しては夫々異なりますが、甲斐での武田氏系青木氏に関する「第3氏」には4種もあり、それなりの根拠を保持していて、この様な経緯を持っているのです。

    そこで、これ等を特別に判別できる事があるのです。これだけは同じくすることは出来ないからです。それは継ぎの事柄です。
    そこで、これ等を次にを詳しく説明します。

    俗名、戒名、法名、没年はこれ等の青木氏の独特の戒名を持っています。
    宗派と寺と土地によって宗教的教義が違う為にまた、習慣が違う事から必ずしも統一している訳では有りません。
    しかし、浄土宗青木氏では戒名と没年は必ず記載しますが、俗名はそのものを書くものと、俗名を戒名の中に二文字を読み込んで入れる習慣とがあります。
    俗名そのものは仮の名として厳格に教義を護り書かない宗派もあります。
    浄土宗と浄土真宗は原則として「俗名」と「法名」と「生き様」の3つを表すように書いています。

    A 戒名にはその人物の現世の生き様が判ります。
    B 戒名にはその人物の身分と家柄が判ります。
    C 戒名にはその人物の財力勢力判ります。

    花菱紋の青木氏であれば、その戒名は必ず「院殿居士」と云う最高級の戒名が付いています。
    この「院殿居士」を観ることで、AからCを判別できます。
    この「院殿居士」は次ぎの様に成ります。

    「院」とは現世から離脱した時に庭園などを含む広域な住まいとする処で、その位を意味します。
    天皇など皇族のものが「現世」の身分を離れ、「彼世」の御仏に仕える時に持つ最高級の院号です。
    この住まいを「門跡寺院」と云います。僧化することを意味します。
    仏教で云う「宇宙」であり教義では「立体」を意味しています。

    「殿」とはその院の中の目的に合った「住居」とする処で、「院」に続く位を意味します。
    この位の「殿」の位が敬称として使用されています。
    「殿」のような処に住む貴方と成ります。
    仏教では「立体」を構成する「面」を意味します。

    「居」とはその殿の何処かの目的に合った「部屋」とする処で、「殿」に続く位を意味します。
    住居とする所です。
    仏教では「面」を構成する「線」を意味します。

    「士」とは「居」に居住まいする者の身分を意味します。「居」に続く位を意味します。
    「武士」とはその「院殿居」にて「武」を以って仕える身分の士者と成ります。
    従って、「武」の意味する処は観仏に仕える者であり、「義」を基本としている事をされます。
    「侍」は「院殿居」(寺院)に仕える者と「さむらい」(仕えるという意味の「古語さぶろう」の変意)です。
    仏教では「線」を構成する「点」を意味します。
    つまり、「氏家制度」では社会の力の尺度し「建物」を用いたのです。
    この様に「彼世」の絵姿を描いた形でその建物を使って位階を定めたものなのです。

    では、「院」では”どの程度の者が戒名としての「位」を付けて貰えるのか”と云う事ですが、氏家制度の社会の中では、「院」つまり、寺には「院殿居」に相当する建物がありますので、その寺を一つ建てられるだけの力のある者と成ります。
    「殿」、「居」では「院」の尺度に推して知るべしで一段下の者が受けられる戒名と成ります。
    「士」では階級として存在する最下位で「武」を有する者が受けられる戒名と成ります。
    現在では社会に対してそれなりの勲功を収めた者が得られる位階です。
    その勲功の大きさから「殿」の前にその勲功を読み込みます。
    これ以下は階級なしの「院殿居士」の無い身分の者とし、俗名或いは法名のみと成ります。

    「氏家制度」では、「氏姓」を持つのみの者が墓を持つ事が出来る訳ですから、庶民は河原の路傍のに俗名を書き込む習慣でした。
    武士は尺度して「院殿居士」の「士」に当り氏姓を持ちますので、戒名と墓と過去帳がある事に成ります。
    (氏姓を持たない事は時系列的に戒名を付け過去帳に記する事は論理的に出来ませんので、庄屋などが書き記す村の一時的な人別帳に「・・村・・」とする習慣でした。)
    そこで、甲斐の武田氏系青木氏にはこの「院殿居士」の尺度に相当する事に成りますので、どの程度の戒名が付けられているかに依ってその立場や身分や貢献度や人物像が観得て来るのです。
    現在に於いても、この「院殿居士」は相当な財力があり支払能力が無ければ付けて貰えません。
    しかし、「士」は「信士」と「信女」として多くの戒名に付いているのは現状です。

    この様に戒名や過去帳はその過去の生き様を表すものでした。
    ただ古い時代にはこの習慣が徹底していなくて、また不明な事も多い時代でした事、戦いで判らなくなった事、大火、焼き討ちなどで消失したことなどで、完全に復元できない事などから、史料で観ると3つが何時も完璧という事は有りません。
    特に室町時代の下克上、戦国時代では「寺は戦いの拠点」として使われましたので、一番に持ち出すものですが、遺されている可能性は低く、跡で復元したものが多いのです。
    そのために不明な点が出て来るのです。

    鎌倉時代初期、室町時代末期、安土桃山時代、江戸末期の混乱期の間はその寺がどのような災難にあったかによりますので必ずという事では有りません。
    特に、江戸中期から明治初めまで、宗教を全面に押し出した一揆、村騒動な各地で頻発に起こりました。
    特に曹洞宗や一向宗や時宗は農民や下級武士等が入信する宗派でした。ですから、この農民や下級武士が起す一揆、村騒動などの背景には曹洞宗寺等が必ず居て指揮していました。
    よって、騒動を鎮める為に寺を焼くと言う行為で治める側は行いました。
    当然、多くの犠牲者が出ますので、混乱の中、とても3つを揃えて書き記す事すら難しい事でした。
    その意味では、浄土宗、真言宗、真宗などは比較的江戸時代中期以降には3つの原則は護れてたと思います。
    ただ、この宗派は室町時代の下級武士が起した上級武士への(青木氏や藤原氏など)「下克上」の「焼き討ち」の対象寺でした。
    また、戦国時代には氏寺は戦いの拠点(作戦本部)として使われましたので記録が消失している事が多いのです。
    ですから、農民や武士はこの時代の人物には生年月日や没年がはっきりしないと云う事が起こりました。特に農民は姓を持ちませんので、過去帳は作れないのです。庄屋等が作るその時代の人別帳だけでした。
    人別帳を使って復元するなどを寺は行いましたが、人別帳は詳しく記録しているものでは有りませんし系統的では無いのでそのような事が起こるのです。
    そして、江戸中期までは、兵農の慣習がまだ残っていて分離せずにいましたので、農業をし、戦いの際は兵として参加しました。
    戦死すると不明者が多く、記録は戒名どころか俗名程度しか書けかけなかったのです。
    九州、四国、中部地方には明治前までこの兵農の仕来りはまだ残っていました。武士だけでは兵が足りませんので、この方式が採用されていたのです。
    例として、西郷隆盛等は侍でしたが、農業もしていたのです。
    明治維新の長州と土佐と薩摩軍はこの農民兵でした。”ちんらいさん”と呼ばれ強かったのです。
    この寺の過去帳を調べる事でこの「第3氏」の判別がわかります。

    例え、系譜や曼荼羅過去帳などは自由に作ることは出来ますが、寺が管理するこの過去帳は出来ません。
    仮に作るとすると、過去の人物を調べ出す事に成りますので上記した様に記録が有りません。従って出来ないのですし、一人の過去帳を作っても親族縁者の統一した過去帳までも物理的に出来ません。
    又、氏家制度は「国抜法度」ですので、何処からか流れてきても何々村移住と明記されますので出来ません。
    ですから、どんなに飾っても過去帳を調べて戒名を見ると氏家制度の身分が一目瞭然と成ります。
    過去帳の一番古い人を調べる事で年代が判りますので判別は簡単と成ります。

    「甲斐の宗教戦」
    さて、この様なことですので、甲斐は武田氏ですから、このシステムを用いていました。後に徳川氏の配下に入りますが、「武田の赤兜」で有名ですが、これに従ったのは地元の地侍と農民兵です。
    だから強かったのです。
    甲斐では、曹洞宗が多く一揆の多いところで100年以上も続いた「天保騒動」の例の様に、寺の焼き討ちも多く、明治維新前の徳川側として戦いの場にもなった地域です。
    寺は寺の宗教的目的だけでは無く、軍事的拠点としても使われ、作戦本部としても使われましたし、その為に軍略上要衝地に建立しました。
    甲斐ではこの様に宗派間争いが強く、次ぎに記述する日本最大の「天保騒動」が有名です。
    これが起こったという事は上記したような甲斐のそのものを物語る物です。

    「甲斐騒動(天保騒動)」
    特に、「甲斐騒動」又は「天保騒動」と呼ばれ、1724年から頻発し1836年までの112年に及ぶ一揆で甲斐の国全域で起こりました。日本最大の一揆で広域一揆で、日本歴史上最も有名な一揆です。

    農民、商人、下級武士らによる鉄砲刀等の武器を持ち焼き討ち、打ちこわしをし、食糧難から政治不満(米穀商と徳川甲府藩との癒着)に発展した甲府域を中心にした戦いでした。
    商人らは経済的支えをし炊き出しまで行いました。
    多分、家臣の宗家本家は別として、多くは農業と武士とを兼ねる生活をしていたと観られます。

    仮に一部の者が武士を棄て甲斐に戻った武田氏系青木氏3氏6家の花菱紋らの一部の遺産は明治前の「維新戦争」に巻き込まれ、尚、「宗派争い」とこの「100年に及ぶ一揆」で全てを失ったと観ています。甲斐に武田氏系青木氏は残る事が珍しかったと考えます。
    この様に記録や記録の遺し方は不完全であることが当り前の地域でした。
    農民や下級武士にとっては甲斐の歴史上最も苦難の時期でした。
    当時は氏寺に出来るだけ寺に証拠などのものを遺す習慣でしたから、寺の消失が起こると過去帳関係や歴史資料が消えてしまうのです。ですから不完全なのです。
    花菱紋の宗派争いもこのことに大きく影響していると考察しています。

    世の中には、「宗閥」「派閥」が生まれるのは止むなしです。自然の摂理です。
    現在も、浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派が出来れば、必然的にこの派閥が生まれ一致団結が難しくなる事は必然です。当然に、この宗派の派閥は「伝統」のレベルを弱めます。
    その伝統が今も続いていると見られます。「因果応報」です。
    祭祀するものが無く成った事に成ります曹洞宗常光寺は、結局、柳沢郡青木村の青木氏が直ぐ後にこれを再興しました。兎も角も、この2人(12、13代目)の墓所は不明確で無く「御魂移し」で済ましたと観られます。
    この場合、一条氏を名乗る真言宗派は潰れたと見られます。それは一条氏を名乗る事に無理があり味方を得られなかったと考えられます。
    その理由として、中国地方や四国でもこの一条氏を名乗る者が各地で出てその正当性を疑問視された事によると観られます。ここには、当時の社会システムの氏家制度の矛盾があるのです。
    明らかに、時光らは清和源氏頼信系分家の源氏系統です。
    しかし、一条氏は藤原北家摂関家四家の一つの公家です。
    (藤原氏四家は北家、式家、南家、京家であり、北家が残る。この北家は更に2氏摂関家と秀郷一族に分かれる。その摂関家は四家の一条、九条、京極、鷹司氏に分かれる)
    公家は元来、武力を保持しないのですが、武器を持つ一条氏です。
    (秀郷は貴族に成った為に第3子千国を侍として護衛隊にした)
    この源氏傍流が母方の一条氏を名乗ったのです。
    武田氏は甲斐源氏と呼称していますが、一条氏を名乗るのであれば源氏では有りません。男系跡目の社会です。まして、時光は源氏として土豪武田氏に跡目として入り源氏と成ったと呼称しているのです。なのに一条時光は慣習の矛盾です。
    正規の書物は源氏と成っています。そして武田氏は甲斐源氏支流と河内源氏傍系と呼称しています。
    でも、河内源氏などの源氏は皆、本流笹竜胆紋です。武田氏は菱紋です。
    一条氏といい、甲斐源氏といい、矛盾です。
    慣習で源氏と名乗るのであれば、全て源氏になってしまいます。
    ですから、一条氏はある時期のある人物の時に家柄を更に誇張する為に世間に対して偏纂したものと観ています。
    甲斐には一条郷の一条氏を名乗り又他の村などに一条氏の子孫の繁栄は無い事から判断できます。
    だから真言密教の宗派は消えたのです。まして、密教を教義としている真言宗です。
    そして、明治になり、廃寺と成って、再び、浄土宗派と曹洞宗派との間で争いが起こります。
    ところが、浄土宗源空寺の伝統を重んじる派がありながら、多くは曹洞宗に帰依する事を決めたものです。
    この時、当然に、浄土宗派はその伝統とする仏像と墓を隠す手段に出たものではないでしょうか。
    ”歴史は繰り返す”と云いますが、過去5回も立て続けに同じ「宗派争い」の戦いをしたものと当時の慣習から考えられます。
    他の国でも同じ事が起こっていることなどを考えると、この伝統と歴史を持って神奈川、横浜、栃木、常陸、鉢形、八王子、仙台手前域などには時光系、源光系の武田氏系青木氏が全て移動して子孫を拡大している事に成ります。
    今回、青木氏としてのかなりの疑問を解決しましたが、甲斐武田氏系花菱紋の一族にはまだその「伝統」が明確に成らないこの宿命がまだ続いていると見られます。
    5回の宗派争いの中に伝統を護ったのは、正定の弟の別家を興した豊定の柳沢氏で浄土宗光沢寺-永慶寺として伝統を明治まで護り続けました。
    柳沢氏の発祥と元祖とが明確になり、更にこの柳沢氏も4つの柳沢氏がある事が確認する事が出来ました。

    今回のこれ等の研究で甲斐の割り菱紋と花菱紋の青木氏の歴史的な史実が多く表に出す事が出来たと感じています。これからも、個人情報の難しさもありますが、青木氏の史料を整備しながらも各地の青木氏のより深い研究を続けたいと考えています。

    ここで、もう一つ疑問があります。
    それは、「信生」です。
    「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
    「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
    「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
    本来であれば、「信正−信定−信生−正定」と成る筈です。



    史料
    「甲斐の宗派別勢力表」(廃寺含まず)
    甲斐百八霊場より宗派の影響がどのように成っているかを分析すると、次ぎの様に成ります。
    浄土宗.. 3.7%
    曹洞宗.. 33.3%
    浄土真宗..2.7%
    真言宗...16.7%
    臨済宗...22.2%
    日蓮宗...12.9%
    時宗....2.7%
    法華宗...2.7%
    単一....1.8%
    考察
    3派(浄土宗、真言宗、曹洞宗)で全体の54%を占めています。

    浄土宗は%が低いがこの宗派は朝臣族、宿禰族等の高位の特定氏がその菩提寺として独自に寺を建て運営する真言宗に近い古代密教に近い方式を採っていた事から、低いながらもその権力の座にいる者が支配していましたので、宗派を維持するためにも武力を背景に3派の争いに成る事が覗えます。

    真言宗は密教を主体としている為に公家、貴族など自らは武力を持ず権力だけの層に入信を許す事と成ります。これは武士の生き方に合わない教義でもある事から特異な層貴族や公家の宗派でもあります。
    その意味でも一条氏を名乗るのもこの真言宗で無くてはならない事を意味します。
    2代目常光が浄土宗から開基して真言宗に帰依した事はこの一条氏を名乗った事に起因します。
    又、真言宗は密教ですので16.7%の率は相当な甲斐での力を持っていたことを示します。
    全体で54%と成りますが恐らくは70%程度の勢力を占めていたと考えられます。

    浄土真宗は2.7%と低いですが、この宗派は浄土宗の代用宗派としての役割を担っていました。
    浄土宗派は特定氏、特定域に存在する寺ですので、赴任する事などでは更に寺を建てると云う経済的な負担が掛かります。従って、その代用として藤原秀郷流青木氏などはこの中級-下級武士層が入信する宗派を一時的に利用し、領国に戻ると元の浄土宗派に戻るなどしたのです。

    曹洞宗は33.3%ととして下級武士や農民層等を取り込み宗教とは思えぬ影の武力的勢力を持っていました。自らの力で寺を建て、運営をしそこを一種城郭的なものとして利用していたのでそのためにも農兵を動かす為にはこの宗派を見方にする必要時要件として必要があったのです。
    信定が真言宗から曹洞宗に改宗したのは最早、名誉から力へと移っていた事からの処置と見られます。

    臨在宗が目立っていますが、これは後発である事と農民層を主体としていた為に国府近在では拡がらない事が観えます。曹洞宗とあわせると55.5%にも成ります。

    浄土宗と真宗と真言宗の3つの宗派を合わせると23.1%と成ります。

    このA55.5%とB23.1%とは教義や信者や宗教的作法は全く異なり宗派対立の元と成るのです。
    この意味から、信定の採った処置は晴天霹靂なのです。当然に正定との父子間の争いは起こります。
    その証拠に、この結果1724年から12年に及ぶ「天保騒動」が起こるのは当然と云えば当然であったことに成ります。144年歴史を遡って史実を分析し観れば正定等が正しかった事を意味します。この父子対立は如何に激しい対立であったかを物語るものなのです。
    柳沢吉保が甲府藩を去った直ぐあとに始まった事なのです。
    仮に55.5の宗派連合をAとすると、A宗派は柳沢吉保等の武田一族が健在の間は静かにして置き虎視眈々と狙っていたと成ります。
    このA3派が国府近在に集中しています。
    ただ、浄土真宗が拡がらない事が不思議です。浄土真宗は藤原秀郷流青木氏が赴任地移動時は浄土宗の代替宗派として帰依していた宗派です。しかし、甲斐では全く見放されています。
    其れと、臨済宗が近隣に接近してきていますが3派に入らなかった点が不思議です。
    「後発、農民層」の2つが影響しています。
    甲斐を揺るがした112年に及ぶ「天保騒動一揆」が明らかに間近に迫っている事が判ります。
    この騒動の裏の煽動者(曹洞宗34、臨済宗22、日蓮宗13 下級武士と農民)70%が集まれば起こらない方がおかしいです。
    武田氏滅亡と同時期にタガが外れた様に始まった事がこれで理解できます。
    特記したい事は、信定の「曹洞宗改宗」の裏の事情はこの「迫り来る圧迫」に左右されていた事も考えられます。だから「宗派争い」なのです。
    花菱紋浄土宗の正定派が親と対立した根拠は少ない浄土宗を「伝統」の意味から護ろうとした事が判りますし、源空寺の建立の意味も出てきます。
    このデータが、信定−正定間の軋轢が手にとる様に判り、その大きな意味を持っています。

    この様にして多くの史実を基に武田系青木氏花菱紋の遍歴を観れば、その当時の生き様が目に観る様に浮き出てきて真実の史実が出てくるのです。
    他の青木氏と異なり宗派の問題は甲斐の武田氏系青木氏の研究に欠かす事の出来ない要素なのです。
    以下にその史料を記述しますが、未だ多くの事柄を引き出す事が出来るのです。
    しかし、又の機会に更に論じる事にします。

    これら前編から後編までの研究論を通じて、お読みに成られた歴史ファンの方々に一辺の史料と成る事が出来れば幸いであります。
    更に青木サイトでは全国の青木さんと本サイトのファンの方々に他の青木氏の生き様をも再現したいと考えています。

    史料

    近隣地域分布
    浄土宗3 曹洞宗23 浄土真宗6 真言宗14 臨済宗18 日蓮宗0 時宗0 法華0

    浄土宗75 曹洞宗64 浄土真宗0 真言宗78 臨済宗64


    甲斐青木氏が定住していた近隣地域の分布
    甲府
    浄土宗3 曹洞宗4 浄土真宗3 真言宗2 臨済宗4 日蓮宗2 時宗0 法華0
    山梨
    浄土宗0 曹洞宗3 浄土真宗0 真言宗1 臨済宗2 日蓮宗0 時宗0 法華0
    甲州
    浄土宗0 曹洞宗1 浄土真宗2 真言宗2 臨済宗5 日蓮宗1 時宗0 法華0
    巨摩郡
    浄土宗0 曹洞宗5 浄土真宗0 真言宗6 臨済宗3 日蓮宗6 時宗0 法華0
    笛吹
    浄土宗0 曹洞宗2 浄土真宗1 真言宗3 臨済宗4 日蓮宗2 時宗1 法華0
    韮崎
    浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0
    甲斐
    浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0

    宗派別寺数
    浄土宗...4
    曹洞宗...36
    浄土真宗..3
    真言宗...18
    臨済宗...28
    日蓮宗...14
    時宗....3
    法華宗...3
    単一 ...2


      [No.256] Re:甲斐青木氏の研究(花菱紋) 中編
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/18(Tue) 10:09:20  

    [忠頼の考察]
    100年の遍歴
    武田信玄は信義から19代目です。武田氏は次ぎの20代目の勝頼で滅びますが、吾妻鏡や源平盛衰記にある小説的な事と違い、信義2代目次男忠頼は実質は上記の様な政治的経緯で謀殺されました。
    要は源の義経や平泉藤原氏や大島源氏などと同じく潰しに架けられたのです。
    (平家水軍を打ち破った大島源氏は謀殺直前で察知し難を逃れる)
    11代の賜姓源氏の末裔が全く遺されていないのは北条氏による「徹底した殲滅作戦」のこの事によります。
    同じ同族でありながらも、天智天皇の伝統の「不入不倫の権」に護られて5家5流24氏の賜姓青木氏(皇族青木氏を除く)は、桓武天皇と平家に圧力を加えられ衰退はしたけれども、生き延びて子孫を遺しました。
    賜姓青木氏と同族の賜姓清和源氏も賢い「義経の戦略」に従っていれば充分勝算があり子孫を遺せたのです。
    しかし、頼朝の本音は2度強行した「本領安堵策」と「平家没官僚策]で源氏一族を遺せると観たのでしょうが、北条氏の方が上であった事に成ります。
    頼朝は当初より北条氏の勢力拡大は予想できていて、この程度の事は念頭にあって北条氏の反対を押し切って強行したが、裏では北条氏等の潰しに架かりそれが成功していたので、身の安全と源氏の幕府の存続を考えて、止む無く北条氏に従う以外に無く成った事に成ります。
    史実、この事に付いて、史実として、義経、大島氏、新宮太郎の源氏一統等は頼朝を説得している記録が残っています。
    しかし、当然に、同じ河内源氏の傍流としながらも、当時は武田氏の忠頼は北条氏と同等の勢力を持っていた事から謀略で甲斐武田氏までやられるとは計算していなかったのでしょう。
    (兄弟の信光は安芸守に成り、忠頼謀殺後甲斐武田氏は衰退したが安芸武田氏が中心に成る)

    この時、信濃足利氏も媚びながらも鎌倉政権には途中まで付き合いますが、後に圧迫を受け信濃に引き籠ります。
    この時から足利氏は倒幕行動を開始したのです。執権北条氏の執事と蜜脈を通じて情報を獲得していたのです。結果、大きな怪我も無く倒幕するだけの力を蓄えていました。
    後に、足利幕府が樹立した時には、この北条氏執権家の執事(平氏を与えられ名乗る)を足利氏の執事として成り立つように、元京平家(桓武平氏 阿多倍一族)に与えた伊勢北部伊賀地方(割譲地)を執事に与えたのです。
    頼朝の味方と成る清和源氏宗家頼光系の跡目を入れて存続を狙っていた伊勢賜姓青木氏は、この時、鎌倉幕府(室町足利幕府でも)から「本領安堵策」で割譲された伊賀地方の変換があると考えていましたが矢張り無かった事に拠ります。(伊勢東部志摩地方も割譲されている 半国司)
    鎌倉、室町時代ともに5家5流の賜姓青木氏を率いる伊勢青木氏等は大きく伸張する事は出来なかったのです。
    頼朝は懸命に伊勢を含む摂津近江などの5家5流青木氏と、その血縁を持つ5地方の同族に対して三つの策(2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」)を強引に構じましたが、北条氏の強い抵抗もあり徹底出来なかった事が原因したと観ています。

    この方向から検証すると、頼朝は一般に伝えられている程に北条氏に対して信頼をしていないという事が判ります。その戦略は当初は北条氏を含む坂東八平氏等を使って京平家を破り、その後に「本領安堵策」や「平家没官僚策」で立ち直らせて、「源氏政権樹立」をと考えていたと観られます。
    しかし、甲斐源氏や関東に根を張っていた藤原秀郷一門をも含む反勢力を北条氏らに依って戦いに依らず殆ど裏工作で潰されて行ったのです。
    その証拠に頼朝を始めとして一族末裔は3年後には源氏一族は全て根絶やしで抹殺されています。
    これに反対する北条氏の味方であった「坂東八平氏」等さえも潰されたのです。
    この事件が有名なのはこの「源氏の再興」を意図したこの象徴的な事件の一つとして甲斐源氏武田(一条)忠頼の事件があります。

    他に潰された史実は沢山ありますが、これくらいにします。

    忠頼が謀殺されただけでは無く、清和源氏支流の武田氏系青木氏を含む甲斐武田氏一門も例外ではなく圧力を加えられ、1200年ころから衰退を始め、その勢いを警戒されて室町幕府からも睨まれて武田信満の頃(1430)ころまで100年単位で浮き沈みを繰り返します。
    しかし、義清や清光等が築いた14氏の縁戚族の持つ遺伝的な特異体質から、再び信虎の時代ごろから拡大を始め、信玄の頃(1550)ではその勢力は頂点に達します。
    しかし、総じて何れも清和源氏系でありながらも、鎌倉幕府と室町幕府に執拗に圧力を掛けられたのです。美濃の土岐氏などは武田氏の様な強い体質が無く脆くもいち早く潰れてしまいます。
    徳川時代には、青木氏から出た柳沢氏を除くと、それでも末裔は武田信興の八代郡500石で終わります。

    「体質の分析」
    この様な観点から検証すると、これは武田氏が「危険視された原因」であり、ただの大豪族と云う事では無く根本は、矢張り前編文で今まで述べて来たその甲斐の「土地柄」と「気風」と「異質体質」(発展的体質)に在ったのではないかと観られます。氏家制度の社会慣習の中では当時の為政者はそのように観ていたと考えられます。

    賜姓青木氏5家5流の「系譜と添書と史料」と比較検証しても、甲斐武田氏には「浮沈を繰り返して来る力」が系譜からも観られます。
    その証拠として最後の一族「柳沢吉保」(1688)の返り咲きです。
    ”元に戻すまでに周りが何を云われ様と形振り構わず頑張り、駄目と感じると形振り構わず素早く身を引く早さ”これが吉保の行動に現れています。
    これが「甲斐の特異体質の原点」、つまり、内訳は「変わり身の早さ」と「頑張りたい異質」に在ると考えられます。
    これは武田氏の遺伝であると考えます。
    その元は武田始祖の義清(「武田冠者」)にあり、彼が「乱暴者」であったことから父義光の守護地となったとされている常陸武田郷(他説あり)に移し、そこで再び起こした土豪等(吉田氏等)との争い事件(乱暴な性格)で訴えられて、朝廷からその罪を認められて更に甲斐に配流され、そこで又再び受け入れを拒否されてしまったのです。
    甲斐の土地の土豪(陸奥小田氏末裔)に助けられて、後に甲斐の土豪等と争勝ち、子供清光(「逸見冠者」)が甲斐14地方に子供を配置して土豪の荒くれを押さえ込み、この結果、伸張し地盤を築いた経歴を観るとその遺伝が頷けます。
    河内で、京で、常陸で、甲斐でと排斥されたと成ると「乱暴者」の定評が出るのも史実として頷けます。
    罪人として入りながら、土豪の反発を受けながらも、甲斐に地盤を築くなど生半可な荒くれの性格では成し得ません。つまり、むしろ乱暴者の一面に「軍略的」な一面を持ち、それが逆に「適所適時適材」の功を奏したのです。この遺伝が子孫に引き継がれて居るのです。
    信虎と信玄の親子争いもこの「義清の血」に所以しています。
    それだからこそ下記のような「甲斐100年遍歴」が起こるのではと観られます。

    上記の様に「100年遍歴」を以って「盛り返してくる力」が在るのです。
    0 1100年頃の平安末期に甲斐各地(14)に勢力伸張(義清、清光 子孫14氏)
    1 1200年頃の鎌倉幕府樹立での衰退(忠頼 頼朝と対等勢力保持)
    2 1330年頃の室町幕府樹立で復興(信光 安芸国に勢力移る)
    3 1420年頃の室町幕府から圧力で衰退(信満 甲斐に勢力戻す)
    4 1550年頃の信玄の復興(信虎、信玄 中部関東一円に拡がる)
    5 1565年頃の勝頼の衰退(勝頼 甲斐に縮小)
    6 1688年頃の柳沢吉保の復興(吉保 甲斐から郡山移封反転)
    (小遍歴除外)

    注 義清と清光の武田縁戚一族
    第1縁戚族 逸見、武田、加賀見、安田、平井、河内、浅利、八代 以上8氏
    第2縁戚族 一条、甘利、坂垣、秋山、小笠原、南部、三好 以上7氏

    「武田冠者の説」
    注 義清の「武田冠者」は常陸武田郷であるとする説(源氏検証説)があります。
    これは藤原秀郷一門と血縁をした陸奥小田氏が藤原秀郷一門の赴任先の甲斐の武田郷に同行して勢力を高めて土豪武田氏を築いた後(1000)に、一部は秀郷一門の領地の常陸にも移動して(1050)室町期には「関東屋形」と呼ばれるまでに勢力を持ちました。この移動時に元の甲斐の武田の地名を採って常陸に武田郷を造り上げた事を捉えて、常陸の「武田冠者」(1100)としているものです。
    しかし、義清の「武田冠者」と子供清光の甲斐「逸見冠者」もあり甲斐の「武田冠者」の説もあります。
    常陸の武田、甲斐の武田どちらを採るかに依ります。
    本当の所は手の付けられない乱暴者であって、父義光(義家弟)から常陸の管理を任すとの大義名分の理由を付けて常陸に移された程の人物に「冠者」が付くのは疑問でもあり、まして常陸の行状が悪くて罪人配流となった者に「武田冠者」が付くのかと云う疑問もあります。
    この土地は藤原秀郷一門361氏の主要な土地柄なのです。まして、この国一帯の秀郷一門の頼朝に合力した結城朝光を始めとして末裔で占めていますから、鎌倉時代には「本領安堵策」で息を吹き返している事に成ります。この平安時代末期前後の条件を考慮されていない説ではと観ています。
    つまり、源氏から観た武田氏、藤原氏と青木氏から観た武田氏の違いにより、その対象と成った史料の違いと信頼度の差に依ると考えます。
    本文は元より「藤原検証説」に従っていますが、これら「源氏検証説」は、前節でも述べましたが、他の賜姓4家4流と藤原秀郷一門には見られない甲斐武田一族の「特有の体質」で、一条氏の呼称等に観られる様に「甲斐武田氏」の家柄を良く見せようとする後からの偏纂であろうと考えられます。むしろ、甲斐武田での成功に依って附帯した「冠者」であると観ています。

    徳川幕府編集の史料が多い事から、徳川氏は源氏末裔(搾取偏纂で朝廷と揉めたは有名に事件 朝臣族)と名乗って「征夷大将軍」に成っていますから都合良く偏纂したと見られます。
    従って、「源氏検証説」は義清らの行状を悪く書いていない特長を持っています。
    この「体質源」は、「氏家制度」の中で、清和源氏の「河内源氏の傍流」であり、「配流氏末裔」であるとする「劣等感」から来るものと観られ、それに裏打ちされる「頑張り意識」「100年の遍歴」では無いかと考えます。

    そこで比較対象として、この時、これに対して一方では、鎌倉幕府樹立で失職離散した武蔵国の「青木氏」(第2の宗家)を始めとして藤原秀郷一門が生き延びたのには3つの理由があります。

    「鎌倉期の生き延び説」
    1つは「2足の草鞋策」(大豪商 「地の利」「元職の利」「武力の利」)に出た事
    2つは藤原宗家の朝光が地元の鎌倉幕府樹立に合力協力した事
    3つは頼朝による2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」で域を吹き返した事

    これを評価されて直ぐ第一次の関東領が本領安堵されて(結城の下総と上総と常陸結城等)一部が戻されて息ついた事と、そして第2次で関西各地の藤原一門の土地を少し遅れて「本領安堵」と成った事、この2つの事で宗家の基盤が確立して、後に藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏と共に、その「武力」と「経済力」で勢力を戻します。
    この「3つの戦略」の差で、源氏と武田氏系は潰されましたが、一方では5家5流の賜姓青木氏と全国各地の藤原秀郷一門は大きく末裔を遺す事が出来たのです。

    この様に武田氏と藤原氏とではその返り咲きの過程が異なります。
    しかし、子孫を全く潰されていたとする説に対して、その潰された一条系、清和源氏分家支流の武田氏系青木氏(3氏6家)の一つ(花菱紋の本家筋(時光系)の末裔)が、今回の研究で現存する事等が判り疑問の解消が出来たのです。
    (通常、皇族賜姓青木氏は特別な場合を除き「丸付き紋」を使わないのが決まりですが、この花菱紋の分家筋と見なされる「丸付き花菱紋」の分家筋も、「系譜添書」の分析から、今回その存在の確認は取れています。原則外の丸付き紋になった理由も確認出来ました。)(上記系譜参照)

    家紋的に観ると3氏の武田菱紋、武田割菱紋、武田花菱紋、と、他3つの分家支流分派の武田氏系青木氏の「変紋菱紋」(武田菱紋の一部を変える)の6家青木氏があります。

    1 「武田菱紋」と「割菱紋」は「源光系」で甲斐賜姓青木氏(青木氏主流の源光系)です。
    2 1の「割菱紋」から出た「割菱紋副紋葉菱紋」の本家と「花菱紋」及び「丸に花菱紋」の別家は「時光系」で「皇族青木氏」です。

    「家紋、系譜、添書」から観ると1から2を発祥させたことを意味します。これが源光系青木説の理由です。

    源光系青木氏は賜姓系ですので、その存在は守護王として居ますので政庁の「国府」に起因します。
    そこで、この甲斐の「国府」を調べますと次ぎの様な経緯を持っているのです。
    普通は、何処でも「国府」は政庁ですので混乱を招く為に移動させませんが、甲斐は何度も移動すると云う敬意を持っているのです。それだけに甲斐の賜姓族の史実は元より史料も整わないのです。

    尚、甲斐の「皇族賜姓青木氏」の守護王時代の国府は、次ぎの通りです。

    1 7世紀末に現在の「山梨県笛吹市春日居町寺本付近」に「寺院」を建てて「国府」が置いていたことが判っています。
    この付近に「皇族賜姓甲斐の青木氏の村」があった事が判っています。
    更に、この付近に「甲斐賜姓青木氏守護神」の「甲斐奈神社」も置いていたとされています。
    この事はつい先日(09-4)に予測されていた所から7世紀末の古代国府の「古代寺院跡」が発見されました。

    2 この後、清和源氏の頼光、その後、頼信系6代目信義の子の忠頼の頃前に、守護青木氏に代わって守護代と成った頃(1185年頃)に「八代郡」に国府と氏神の「甲斐奈神社」を移したと見られています。

    賜姓甲斐青木氏と武田菱紋と割菱紋の2武田氏系青木氏(源光系)より勢力が強かった観られ、忠頼等に依って菱紋武田氏が移動させた事に成ります。
    そして、その後、常光寺も変名した事に成ります。

    その証拠として、次ぎの事柄が挙げられます。
    1 甲斐武田氏一条忠頼が頼朝に謀殺された時(1184)に「国府城」に居住していた事、
    2 その直ぐ後にここを弟の時宗が一蓮寺の尼寺とした事
    等が記されています。

    この時(国府城が尼寺になると国府はなくなります)に移動させた原因として、衰退する中で一族間で何かあったと推測して研究していますが、原因はまだ見つかりません。同族親族間争いがあった可能性が否定できません。
    ただ、上記した様に「甲斐皇族賜姓青木氏」の村で「国府」であろうとされるところが先日発見されました。これで「移動説」はっきりしましたので、後はその理由(時光系の勢力説)と成ります。

    つまり、「国府の移動」はその「勢力の変化」と移動を意味しますので「国府の移動」は重要に成ります。
    まとめると次のように成ります。
    「国府移動」は3度で厳密には勝頼の事件を含めると4度と成ります。

    「国府所在地」
    平安初期 山梨県笛吹市春日居町寺本 市庁南横(09.4確認)(皇族賜姓青木氏定住跡 770)
    平安後期 山代郡甲府国衛に移した。(武田氏発祥第1衰退期 後1185)
    室町初期 甲斐の国国衛在「八代郡」国衛(笛吹市御坂国衛 信満没 武田氏第2衰退期 後1420)
    室町末期 武田勝頼は韮崎市に新府城を建設。(武田氏第3衰退期 滅亡前 信定時代1575 )
    江戸初期 甲府城 武田氏系柳沢氏(吉保)甲斐三郡の領主に成る (1688)
    江戸初期 柳沢氏 奈良郡山に移封 (吉保、吉里 花菱紋継承)
    江戸初期 武田宗家の氏(信満) 免罪となり八代郡500石に戻る。(信満 割菱紋柳沢を発祥)

    「国府」と「国府寺」と氏神の「甲斐奈神社」が移動しています。
    「国衛」とは「国府」を意味します。
    「山代」は八代との説もあり。
    以上が武田氏の衰退復興の政治的経緯です。

    [ステイタス仏像の存在]
    この皇族賜姓青木氏には象徴3物の「生仏像様」が在ります。その経緯は次ぎの通りです。
    後漢の阿多倍王に率いられた渡来人の第1段階の帰化人技能団の司馬氏で、日本に最初に仏教を伝えた「司馬達等」という人物が居ました。
    馬の鞍を作る職人集団の首魁でした。その集団を鞍造部と云いますが、又、仏教も伝えて信望していましたので仏像も彫りました。
    多くの渡来人を含む日本人は好んでこの配下に入り学びました。その司馬達等の孫が「鞍造部止利」です。奈良時代の日本の国宝は彼の作です。この仏師「鞍造部止利」が天智天皇の命で作りました。
    作家の司馬遼太郎氏はその子孫です。
    この時代の書籍は日本書紀しかありませんが、韓国に「日本世紀」という書物が見つかりました。
    そこには、天皇と朝廷が毎日行った仔細な行事や出来事を「日本書紀」よりも日記帳的に詳しく書かれています。そのものが発見されました。
    遺したのは韓国より政治指導に来日していた天皇の相談役の人物です。
    其処にも詳しく書かれているのです。
    当然、賜物仏像の事は(筆者)賜姓伊勢青木氏の宗家の記録でも遺していたのですが、祖父の代の明治35年の伊勢松阪の大火で消失してしまいました。新たに祖父が記した忘備禄にも書き遺されています。小さい頃より口伝として、「由来事項」や「生仏像様」の事は安全な所に保管して伝わっていた事を当時の事を知る祖父から聞き及んでいます。

    ただ、その他の賜姓青木氏4氏に仏像等の物を与えた記録は確認出来ていませんが、書物より、次ぎの様な事が書かれています。
    一つは多くの平安中期から末期の書物から観ると未だ家紋が一般化していませんでした。しかし、「真人族」や「朝臣族」や「宿禰族」等にその身分を表す「象徴紋」の使用を許したと記されています。
    この時から、「40程度」の有力各氏は挙って正式に「象徴紋(家紋化)」として使用し発展して行ったと観られます。
    公家や皇族賜姓族や高位の身分を与えられた氏(日本書紀に記載されている豪族)がこれを用いていて、ですからこの身分の氏には後に目的に合わした紋(象徴紋、車紋、旗印、陣紋等)が3つくらい持つように成っています。
    其の他、賜物で遺らないものとして、反物とか当時貴重なものを与えたと記録されています。
    日本書紀には身分、家位、官位、職位などの位を与えた際には、賜物は絹などや中国の宝石(田嚢:ダイヤモンドより数倍もする貴重宝石)や中国珍物を与えています。
    実は賜姓伊勢青木氏宗家にもこの与えられたと観られる田嚢(美嚢の一種)があるところに保管されていますので、この様な経緯から直接天皇より賜姓のあった4氏4家の青木氏宗家には何がしかの賜物が伝わっていると思います。
    「田嚢」は極めて希少価値であり、当時としては天皇家一族しかもてないものでした。現在でもより難しい宝物です。持つ事そのものがステイタスに成りきれない程の超貴重物なのです。
    伊勢と、近江、美濃、甲斐の賜姓青木氏とは江戸期初期ころまで付き合いがあった事が記録から認められますので、この伊勢青木氏に与えられた「生仏像様」で少なくとも3つの青木氏とその一族が衆参していた事が覗えます。

    平安初期には甲斐賜姓青木氏宗家とは伊勢賜姓青木氏の始祖施基皇子の子供ですので親族として付き合いがこの「生仏像様」との衆参であったと考えます。この様な背景から少なくとも源光系の賜姓青木氏には何がしかの賜物があったと考えられ、兄時光にもあったと考えるのが普通ではないでしょうか。
    因みに、清和源氏の第6位皇子の経基王は天皇からなかなか賜姓してもらえずやきもきしていることが遺された文書で判っていまして、賜姓を受けた時にはそれは飛び上がらんばかりの喜び様であったと記されています。それだけの賜姓に重みがあったという事でしょう。
    ですから、光仁天皇も何がしかの物を甲斐賜姓族に与え、それを兄弟の時光の皇族青木氏にも伝授してし与えている事が考えられます。
    時光系に賜物を与えていなくても弟の源光一族に見習ってそれに相当する一族を象徴するステイタスを準備したと考えます。

    美濃は伊勢の隣り合わせで伊勢青木氏の員弁と桑名付近まで伊勢青木氏の国境に定住しています。
    現在も青木村を形成して集中して住んでいます。ですから、この「生仏像様」との関わりは少なからずあった筈です。問題は甲斐です。
    「嵯峨期の詔」に基いて名乗った皇族青木氏(時光系青木氏)には「仏像」なるものが天皇の賜物として与えられたかは判りませんが、何がしかのステイタスとして祭祀されていた事が口伝で明治期まで判っています。
    この仏像らしき物は明治の「廃仏毀釈」令により、それが保管されていたその一族の菩提寺(浄土宗源空寺)が廃寺に成り、現在まで記録遺品関係が不明と成っています。
    (賜物であるかは他の皇族青木氏には記録が無い事から疑問)
    これ等が発見されると、この甲斐皇族青木氏で花菱紋の時光系青木氏の研究が更に進むと期待しているのです。恐らくはこの口伝経緯からステイタスは適切な処に現存すると見ています。
    それは、武田氏滅亡で徳川氏に仕官して中部から最終関東方面に移動しましたので、その移動過程の添っていると考えられます。

    源時光と源源光との青木氏のルーツの違いをはっきりさせる事でもこれらの人物(花菱紋の一族)は大切です。更に甲斐の国府、守護神、定住村、菩提寺、韮崎市、笛吹市、花菱紋、武田3氏6家、藤原氏との関係など甲斐の青木氏に関する事柄を史実として一つにまとめることもこの掲示板の大事な仕事です。
    その意味で、甲斐にこれ等を物語る記録遺品関係が少ない無い中で、それに代って武田氏には諏訪族青木氏を含む「諏訪族赤兜軍団」を始めとして、「花菱紋」の青木氏を含む「武川衆12騎家臣集団」等も重要な要素であり考察する必要が出てきます。
    先ず、これ等を分析する事で武田氏の中での花菱紋の位置付けが判ります。

    先ず「花菱紋」の「丸付き紋」の件に付いては以下の通りの事柄を論じてきました。
    武川衆青木尾張守主計、
    氏神に保管の仏像と氏神の神紋の花菱紋、
    甲斐の花菱紋のステイタスの仏像、
    廃仏毀釈と源空寺、
    柳沢氏と灯篭と青木氏
    以上5検証等を研究して論じてきました。
    これ等の事を念頭に次ぎの事を網羅すれば綜合的に読み取れると観られます。

    次ぎは花菱紋の母体と成る[武川衆12騎家臣団]です。
    この母体を探る事で花菱紋の青木氏の在様が観えて来ます。
    その武川衆12騎家臣団は次ぎの通りです。

    [武川衆12騎家臣団]
    馬場氏、柳沢氏、折居氏、折井氏、山寺氏、横手氏、入戸野氏、山高氏、白須氏、横根氏、牧原氏、青木氏

    (1騎とは足軽約50人従えた将で当時の責任範囲の基準とされ、兵50人を養えるだけの石高と戦いの際の行動単位と成った。これ以外に戦いのレベルに応じて要求され、この際は地元「農兵」を雇兵とした)

    武田氏には家臣団の一つとして以上の武川衆の家臣団(600)が構成されていました。
    この家臣団に青木氏(柳沢氏含む)は加えられています。
    武田氏には、他には大別すると次ぎのように成ります。

    「武田家臣団」
    「御親類衆」、「譜代家老衆」、「他国衆」、「水軍衆」、「近習衆」、「譜代国衆」、「国衆」
    以上の7衆に分けられます。

    この武田系青木氏(花菱紋)が所属するのは「国衆」の中の武川衆です。
    この「国衆」は次ぎの通りです。
    「武川衆」、「津金衆」、「御嶽衆」、「九一色衆」、「西湖衆」
    以上の5衆で構成されています。

    参考として諏訪族や真田衆は「他国衆」に属します。

    以上の事が武田氏系青木氏(花菱紋)の武田氏の中での位置付けです。

    これを観て皆さんは疑問を感じたのでは無いでしょうか。
    時光系でありながら「御親類衆」では無いのです。まして、青木氏が所属する「武川衆」は「譜代国衆」でもないのです。さすが「他国衆」では無い事は判りますが、これで「武川衆」の武田氏の中での位置付けが良く判ります。つまり、「普通の甲斐の土豪集団」として扱われている事に成ります。
    何か、違和感を感じます。家臣団として最も低く更にはその中の一つです。

    時光系からは武田氏の跡目に入った者もいる位です。とすると、まさか時光の時代から「国衆」で合った事に成るのか疑問です。
    時光は信義から6代目で甲斐守で甲斐国主の時信の子供です。明らかに武田氏の直系子孫です。
    「御親類衆」の上の「直系子孫」であるとすると、何処でこの様な扱いに成ったのか解き明かす必要があります。扱いを下げられる何か大きな事件があった事を示唆しています。

    それが次ぎの様な事が引き金の一つに成っている可能性があります。
    1 一条氏を名乗った事
    2 青木氏を名乗った事
    3 何度も中興開山した事
    4 花菱紋に変紋した事
    5 柳沢青木氏の発祥させた事
    6 別家を興した事
    7 柳沢氏発祥させた事
    8 宗派争いをした事
    9 信定と正定豊定らの争い事
    10 養子系が続いた事
    11 妾子一族である事

    系譜を中心に史料と添書を考察して、この様な事に成る”どこかに「節目」に成る所が在るのか”を探す事が必要です。その中で最も「国衆」に成る「節目」(上記1-10)を発見する事と成ります。
    これ等を洗い出した結果次の4つに成ります。

    考察
    A 時光2代目の常光が真言宗常光寺として中興開基した事
    甲斐の3氏6家の青木氏の菩提寺として建立したものが常光が他氏の2氏を排除して中興開山してしまった事が引き金に成って「御親類衆」から外されて「国衆」に組み込まれてしまった。
    (b、c、d)
    B 時光から11代後までは常光寺に祭られている事
    時光から11代の信安までは常光時に墓所を設けて割菱紋の氏として遺しているが、この10代には「系譜や添書や史料」から「事件性」のものは見当たらないのです。
    (b、c)
    C 11代目に落合氏から養子(信生)が入った事
    割菱紋の分家を発祥させて武田氏の家臣落合氏から養子(時信が育てる)に入れて跡目を起てた。
    この為に養子先の血筋分家と成った事から譜代ではなく通常の家臣で構成する「国衆」に組み込まれた。
    (a、b、c、)
    D 割菱紋から14代目で別家花菱紋を発祥させて分離した事(3と同時期)
    信定が家臣高尾氏から養子信之を迎えて柳沢郡青木氏を、実子三男豊勝に分家割菱紋跡目(12代からの分家)を継がせ、実子嫡男を別家青木氏花菱紋を発祥させ、実子豊定には新家の柳沢氏の花菱紋を発祥させた親子での争いが起きたので血縁性も低くなった事もあり「国衆」に組み込まれた。
    (a、b、c、d)

    11代信生は武田の信虎(勝頼)に仕え、13代信正は信虎と信玄に仕え、14代信定は信玄と勝頼に仕え、15代正定は勝頼に仕えた。そして、1575年織田信長に負け、1582年滅亡する。
    この期間までの「節目事件」が問題と成ります。

    先ず、「御親類衆」から「国衆」に下げられるには次ぎの事が上げられます。
    第1番目はa「血縁の低下」
    第2番目はb「家柄の低下」
    第3番目はc「名誉の低下」
    第4番目はd「主家との争い」
    以上4条件と考えられます。
    (4条件を上記AからDに割り振りました。)

    考察
    上記AからDまでに条件を当てると、Dが最も可能性が高く、Cと続きます。
    Dは勝頼の時代で起こった事で、その母方諏訪族が武田氏の中で勢力を占めていました。その様な立場からも、Dは更に有力です。
    直接の原因はDの時に起こったと見られ、その背景はAとCの一族が大いに乱れていた時期が根拠に成っていて、採決する「御親類衆」「譜代家老衆」が最早当然と考えたのではないかと思われます。
    つまり、「国衆」の中の一つ「武川衆」に組み込まれた時期が12代目(信正)−13代目(信定)−14代目(正定)の1期間(信玄ー勝頼)と成ります。
    この時期は武田氏の48戦中、勝頼の2度の大戦があった最も戦いの多かった時期でもあり、軍編成上で変化を付けられたと考えられます。

    確定するには問題は武川衆が何時ごろから発祥したのかと云う疑問です。
    武川衆の発祥期は定かでは有りませんが、「1567年」に「武田信豊」に提出した「起請文」に一族名を列ねて「武川衆」と出て来るのが確認されている中では最初です。
    この1567年前には史料より「武川筋」と呼称されていて、「西郡路から諏訪口」を云います。
    信親−信時、信正−信定の時はまだ正式には武川衆とはなっていません。
    「国境警備軍団的な土豪集団」として扱われていました。

    「武川衆」の最終は徳川氏に仕官(1582)後、1590年に「武州鉢形」に「代替地」を設けられます。従って、1567−1582年まで(正定や豊定の時代)は、正式に「武川衆」と呼称されていた15年期間です。
    それまでは、「武川筋」は最も古い時期としては1542年の桑原築城の文書に”武川筋は板垣信形の配下に入れる”と記されているので、1542年から1567年までの25年間が「武川筋」と呼称されていた事に成ります。

    「武川筋」 1542−1567年 25年間
    「武川衆」 1567−1582年 15年間

    「武川筋」の当時は、広域的には「武川筋」と呼称し、むしろ「武河衆」又は「六河衆」と呼ばれていたのです。それが1567年以後は「武川衆」に変わった事に成ります。

    信玄から勝頼までの期間では動向が史料から現在も不明です。
    しかし、「長篠の役」(1575)13代目信定の時より6年前と成ります。
    直接原因のD説に一致します。

    しかし、一説では「甲斐国志」では「直参」と記されています。
    この問題を解決する必要があります。

    「直参青木氏の検証」(甲斐国志)
    「武川衆」とは「国境辺境地域の土豪」で、武田氏に組み込まれてからは「国境警備」を任務としていた事が書かれています。
    「国衆」の津金、御嶽、九一色、西湖の地名の土豪は国境域にあります。
    「武川衆」は「北巨摩郡」の国境域です。
    ここに定住していた前編の巨摩郡青木氏と云う事に成ります。
    「北」の巨摩郡青木氏(現北杜市)は14代目正定の別家花菱紋(正定-正重-)の定住地です。
    依って、「八代郡」に居た分家割菱紋青木氏(豊勝-・-・昌輝-)は含まれて無いと考えられますので、この武田氏割菱紋系の11代目養子信生系(信虎期)の本家割菱紋青木氏と他2氏(国衛、八代、甲府)が「甲斐国志」に記されている「直参青木氏」である事に成ります。
    「甲斐国志」の説も正しいことを意味しますが、青木氏は3氏6家あるのですから、どれが「直参衆」かを明記すべきであったと考えます。ただ、3氏6家の青木氏がある事を承知していなかった文面です。(殆どの史料は判別できていない。)
    「直参青木氏」は本家割菱紋(葉菱紋)青木氏(信安系)と分家割菱紋青木氏(信生系)
    「武川衆青木氏」は別家花菱紋青木氏(別家柳沢氏含む)

    豊定の柳沢氏も起請文(1567)には「国衆」に組み込まれた事が記されていますが、武川衆12騎の中には有りません。これは信生系青木氏から豊定の柳沢氏が発祥したばかりで引き入る一族も無い訳ですので小さい氏(50人以下)として兄の正定の「別家青木氏花菱紋族」の中に組み込まれたのでは無いかと見られます。

    「柳沢郡青木氏の扱い」
    そして、柳沢郡青木氏に付いては記されていない処を見ると、丁度、1567年頃に安芸国に移動した事から記されていないのです。これは添書と一致します。この養子続きの柳沢郡青木氏の移動時期(1567)とも一致します。
    この時、起請文を武田信豊にわざわざ提出する事を行っているところを観ると、織田氏との戦いに向けて大掛かりな軍編成があり、其処にはこの高尾氏の子「信之」が「信定」の養子と成り柳沢郡青木氏を発祥させたばかりでもあり、「豊定」の柳沢氏発祥と同じ扱いを受けたのではと観られます。
    しかし、「信之」の場合は義父信定が強引に進めた跡目側でもあり、別家を興さざるを得なかった正定と新たに柳沢氏を起こさなくては成らなくなった豊定側からすると、血縁のない信之を正定側は豊定の柳沢氏のような扱いで正定の隊に入れて行動を共にしたくない相手でもあります。
    信之は実家高尾氏の「和泉守」を名乗っている事があります事から、正定は無冠であり余計に関係が上手く行かなかった事と見られます。
    恐らくは、実家高尾氏の「和泉守」(標準四騎)である事から、少なくとも信之は一族一騎(50人)を以って「一騎合衆」(寄合衆)に加えられた事も考えられます。
    結果として、これを不満としてか義母の実家先の安芸の毛利家家臣の桜井安芸守を紹介してもらい家臣を引き連れて移動したことに成ります。
    上記した様に、「甲斐の武田氏」は衰退し、一時1330年代に安芸守守護として信光の「安芸の武田氏」に勢力が移っていた時期があります。
    この末裔桜井氏が毛利氏の家臣となっていたところを頼った事を意味します。

    信定は尾張守を称していた事から4ー5騎程度の兵を有していたことが考えられ、「武川衆」に組み込まれた事から一部は正定と豊定に宛がわれ、残りは信生系の三男豊勝の本家が有していたと観られます。(最終は正定の子供昌輝が跡を引き継ぎ、武川衆の中では全騎が正定の配下と成った)

    信定(尾張守)-信之(和泉守)-豊勝と正定-豊定の軋轢の背景には、織田軍との戦いを前にして前編の「路線争い」と「宗派争い」の他に、添書の”終わりに臨して養子と成る”(織田軍との戦いに討死覚悟で養子にする)を憶測すると、「信之」の実家の兵(4-5騎)を期待したのではないでしょうか。
    武田氏に対して「信生系」の青木氏の尾張守としての立場を意識したと考えられます。
    そうすると、この考え方で行けば、曹洞宗改宗は多くは曹洞宗信者の多い農兵を集める一つの手段であった事にも成ります。
    (建前は”曹洞宗の海秀玄岱商人に信心した”と成っているが裏にはこの目的があった事に成る)
    つまり、織田氏との戦いを前にして、「戦況不利」で兵が集まらない状況に落ち至っていたことを示すものと成ります。上部からの命令で信定の一門は躍起と成っていた事を物語ります。
    その証拠に、次ぎの様な事で証明できます。

    武田氏主力軍の「他国衆」の編成は次ぎの通りです。
    1 信濃先方衆
    2 西上野衆
    3 駿河先方衆
    4 遠江、三河先方衆
    5 飛騨先方衆
    6 越中先方衆
    7 成蔵先方衆
    8 駿河、三河、信濃、上野一騎合衆
    以上8衆です。

    これでも判る様に、3と4と8は織田軍(徳川軍)に最早抑えられています。兵力は不足しています。更に、「他国衆」のみならず、「譜代国衆」も離反、謀反が相次いで起こり始めていた時期です。最終、戦い直前では国境を護る「国衆」の武川衆も離反したのです。
    見逃しては成らないこの背景もあった事が考えられます。

    何れにしても、「御親類衆」でなく北巨摩郡の別家花菱紋は「国衆」の武川筋の国境を護る衆に下げられた事は事実です。

    注 巨摩郡は南北に分けられている。花菱紋の正定の別家を興したときには北に移動したことを意味します。豊勝の割菱紋側が南に留まったが断絶し、結局、正定の子昌輝が跡を継いだ事から南北は統一された事に成ります。
    (1590年 徳川氏仕官後、正定花菱紋一族は武州鉢形の代替地に強制移住させられた。)

    前編で記した家臣落合氏の子信生を養子にし嫁を迎えての系図であり血縁性が無く成った事は否めません。「信定」(1573討死)は肩書きが「尾張守」であった事を配慮すると、「長篠の役」6年前の1567年頃に「軍制編成会議」で子供の正定の別家が「国衆」に組み込まれ起請文を提出した事に成ります。

    それらの事情も背景の上に「正定と信定との親子争い」はこの様な事に繋がっているのです。
    これで「宗派争い」と「路線争い」と「身分家柄の低下」と「本家の跡目」問題が重なって起こり天地が変わる程の大変な争いであった事を意味します。
    其処に武田氏の急激な衰退が起こりつつある中での事です。今で云えば、正定の青木氏は”左遷で格下げで窓際族で肩書き無しで給与ダウンで免職瀬戸際”と云うところでしょう。
    普通では耐えられない環境です。一つ間違えば武田氏系青木氏滅亡も有り得た環境です。
    結局、1582年の武田氏滅亡後に徳川氏に下級家臣として扱われ250石程度で仕官した事が逆に武川衆の青木氏の「命拾い」に成った事に成ります。その事で決着が着き氏は持ち堪えたのです。

    「柳沢吉保」の出世で武田氏系が復興するまでの期間(1582-1688=106)と明治までの徳川譜代家臣団として期間(1688-1866=178)あわせて約300年存続出来たのです。

    特筆する事は、「花菱紋の丸付き紋の青木氏」も添書で観ると、少し遅れて1582年武田氏滅亡後3年後に仕官し、以後、徳川氏に代々大番役で禄米200俵ながらも叶えられて存続したのです。
    貧困に喘いでいた元親族の柳沢郡青木氏(後に丸付き紋に成る)も安芸で功を成し、それからその財を以って帰国(1584年頃)し曹洞宗常光寺の建て直しなどを行った事に成ります。その期間に帰国6年も遅れての事から300年の存続を成し得たと考えられます。
    武田氏系青木氏は豊定系柳沢氏(花菱紋)が丁度よい時期(1688)に立身出世したお陰で丸付き紋までの武田氏系青木氏一族をも救出した事を証明しています。

    この様に調べると、時光系から青木氏の発祥経緯に始まり、一条氏などの上記した「引金条件」の様な事が14代目まで続き、異質の一族家系の乱れが後世の子孫に大きな原因と成っていたことが判ります。(これらの事は前編で既に記述していますがより深く改めてここでも記録しておきます)

    「丸付き紋の花菱紋」
    この様な背景にある花菱紋ですが、そこで無い筈の「丸付き紋」に付いて、更に詳しく「丸付き紋」経緯の件で考察します。
    この花菱紋の「丸付き紋」が更に又一族に問題を引き起こすのです。

    賜姓青木氏5家5流と11家11流の賜姓源氏の綜紋の「笹竜胆紋」は慣習(歴史的な家柄、身分)から「丸付き紋」等を一切原則的に使用しませんでした。
    同様に藤原秀郷一門も「下がり藤紋」の綜紋は「丸付き紋」を使用していません。
    藤原秀郷流の青木氏は末裔が116氏に及ぶ為に副紋方式(藤紋の中に副紋を入れる方式)を採用しました。
    (配流孫等によりその証拠が確認できる特別な場合は慣用的に「丸付き紋」を用いた。殆ど丸付き紋は未勘氏と第3氏です。)
    これは、当時の「氏家制度」の慣習から、”「家柄」「身分」「純血」を護る事”を前提としていた事によります。
    つまり、「丸付き紋」を使用しないのは多くの血縁外の氏が使用して仕舞う為に「血縁外青木氏」の拡がりを防いだのです。嵯峨期の「青木氏使用禁令の詔」を護ったのです。
    この2氏のこの原則は明治3年まで3つの期間を除き原則長く守られました。

    3つの期間とは次ぎの通りです。
    「室町末期」 下克上、戦国時代の混乱期に、氏姓の持たない農兵や下級武士がその中に力のある者は武士として立身出世して氏姓を与えられ、又自ら主人の氏名を搾取して名乗った。

    「江戸初期」 ある程度安定期に入り、「兵農分離令」で農兵の武士化が起こり、又末端の下級武士等が旗本、御家人等に成ると、自らの氏姓や家紋を改めてよく見せる為、又出世に必要とする為に家柄身分の良い氏姓を搾取して名乗った。

    「明治初期」 維新革命の3年の苗字令やその8年の督促令に基づき、九割近い国民は苗字を持つ事に成ったが、近隣に居た身分家柄の良い氏姓を自由、無秩序に名乗り、それに伴なって家紋や系譜も搾取して名乗った。
    以上の3混乱期です。
    これ等は未勘氏や第3氏と云います。

    そこで、「氏家制度」の代表的な「社会慣例」は、当初は特定の氏の「象徴紋」としての家紋でしたが、次第に氏姓に代るくらいの意味合いを持つ様に成りました。そして、其処に社会の中で規則が生まれ統一した使用方法が確立したのです。増加、拡大した氏のその紋に依って氏の家柄、身分等を判別できるシステムが発展し、「家紋」を中心とした「氏家制度の充実」が起こりました。
    そこで、先ず、夫々の氏の紋、即ち「家紋」と云うものに対しての位置付けを改めて先に「家紋掟」の概容を取りまとめてみます(レポート済み)それは「家紋掟」にあります。

    「家紋掟」
    本来、丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7−8つ程度の役目があります。
    (本来は6つの掟)
    1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
    2 嗣子と妾子分類
    3 宗家の許可
    4 配流子孫の区別
    5 男系跡目の継承
    6 養子縁組
    7 嫡子尊厳
    8 身分家柄の保全
    これ等は「氏家制度」と「封建社会」の維持を理路整然として堅持する事を目的としていました。

    ただ、これ等の事が江戸末期から次第に守られなく成りました。
    当時の封建社会の社会慣習の緩みが原因です。
    明治に入り、明治3年の「苗字令」と8年の「督促令」でかなり緩やかに成りました。これにより国民が無秩序に皆氏名を持つ事でその必要性が薄らいだのです。
    昭和に入り全く護られなくなりました。むしろ、「家紋」の有無もある事すら衆知されていないことです。家紋は存在しながらも「家紋掟」どころではありません。

    そこでまず、項目事に説明し考察します。
    1番目は「純血」を前提とするので血縁も「吊りあい:身分合わせ」を採り厳密に云うと同族(同属)血縁関係を維持していたのです。

    奈良期−平安期頃までは当時の習慣として同族血縁でした。奈良期では5親等族間での血縁でした。
    その後、同属と少し緩やかな血縁と変化しました。日本書紀の記録では姪を妻とする事を正式に行っています。
    (この純血遵守の慣習の弊害を除く為に、2つの方法を採用しました。
    1 「妻の制度」を4つに分けていました。(身分により階級は異なる)
    2 戦いや視察などを目的で各地に移動して「戦地妻」の仕来りに従いました。

    この奈良期と平安期の時代には、血縁の大きな変化が無い為に家紋は全く同じものを使用しました。
    同じ家紋同士の血縁と成りますので、この慣習が続いた為に「丸付き紋」を使用する慣習の必要がなかったのです。それが家紋が急激に多くなった鎌倉期まで続いたのです。
    この鎌倉期ごろから氏の爆発的拡大が起こり、夫々の氏は家紋を持つ様に成り始めましたので、家紋を持てる上級の武士と貴族は1番目の方式(宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別)を採用して家紋を変える事をしました。
    特に藤原北家一門は子孫末裔を大きく広げましたので区別する為にこの方式を代表として使用しました。

    1番目に付いて、各氏によって違いますが、原則として末裔子孫が大きく拡大するにつれて、次ぎの様に変化して行きました。
    家紋を認めるのは氏家制度ですので、夫々の枝葉末孫(ツリー)の本家筋が使用の許可を宗家(本家)に出しました。
    本家筋は、「同紋採用」の方式と、家紋の「一部変化」させる方式と、もう一つの紋を付ける「副紋」を使う方式を採用しました。
    但し、皇族賜姓青木氏、藤原秀郷一門、武田氏系はもとより武田氏系青木氏の宗家筋一門の綜紋は丸付き紋を使用しませんでした。
    分家筋は「丸付き紋」にする方式と、「裏紋」にする方式にしました。
    支流分派筋は家紋を変化させる「類似変紋」の方式にしました。

    2番目(嗣子と妾子分類)は男系跡目を作る為、近親婚の弊害を避ける為に、妾方式を正式慣習として認められていました。大まかに分類すると次のように成ります。
    上級では4階級(后、妃 賓 妥女)
    中級では3階級(妃 賓 妥女)
    下級では2階級(妻 妥女)

    注 「賓」は使用字は賓の左に女辺が付き「ひめ」と呼ぶ。妥女(うねめ)は妾である。
    そこで、正妻に男系が出来れば同紋の採用、嫡子外は本家筋方式(綜紋)に、妾子は分家方式に、嫡子が出来なければ妾子に同紋採用、嫡子外は分家方式にしました。

    3番目(宗家の許可)は、夫々の本家がその家紋の使用の仕方を命じます。本家の宗家がその使用の仕方に異議があれば指摘し、従わない時は破門か武力で取り潰しでした。かなり強い決定権を持っていました。つまり、1、2番の規定方式外に宗家本家のチェック機構が働いていたのです。最も上は「総宗本家」と云います。このシステムで決めていた事に成ります。

    4番目(配流子孫の区別)は配流子ですが、戦いで又は罪を得て島流しに遭った者に現地で子孫が生まれた場合です。
    普通、その子供に嫡子である事を認知確認出来れば、妾子と成りますので2番目の方式を採用します。殆どは、配流ですので丸付き紋に成ります。認知外は原則別紋です。

    「未勘氏」は確認出来ない何らかな根拠がある場合はこの「認知外」です。
    「第3氏」は根拠無しで認知外(第3混乱期)です。「未勘氏」と「第3氏」は判定は困難です。
    ただし、歴史的に史実が取れれば、原則丸付き紋と成ります。
    (真人族、朝臣族、特別宿禰族に対する処置が多かった)
    「配流」でなくても、正式に「戦地妻」の習慣がありましたので、認知、認知外の方式を採用する事に成ります。つまり、この未勘氏が殆どこれに当ります。
    「戦地妻」は正式な慣習行為として認められていましたが、源氏や平家や藤原氏や橘氏や鈴木氏等の有力な豪族が自らの子孫を拡げ”いざ戦い”の時には、その子孫の一族郎党が駆けつけて自軍勢力を拡大する戦略です。又「戦地妻」の子孫が生まれればこの旗頭の配下に入り身の安全は護れると云う相互互恵の考えがあったのです。
    (一族に”娘が居なければ妻を出す”という事も常識の範囲として平然と行われました)
    最も有名なものとして頼朝の坂東八平氏軍を頼らず、強行突破して平家を2度も打ち破った「義経軍」(1万2千)の手勢はこれから来ているのです。
    (義経自身は行わず、鈴木三郎、亀井六郎、駿河次郎、伊勢三郎等の戦地妻族です)
    北条氏は摂津にどしどしと終結してくるこの「義経1万2千の手勢軍」に対して計算外で合ったことが記録されています。これ等に対して義経自身も摂津から河内、紀州、伊勢に掛けて説得して周り自ら兵を集めたとする記録が遺されています。
    それほどにこの「戦地妻」方式が氏家制度の中で汎用化していたのです。
    それだけに、この義経の「人的魅力、指揮能力、軍略、軍の有様」が怖かった背景と成ります。

    5番目「男系跡目の継承」ですが、男子が正妻子、妾子の何れにも嫡子が出来なかった場合の娘の場合は養子婿を採ります。
    この場合は、養子婿に嫡子が出来れば自家の家紋採用です。
    妾子嫡子の場合は本家に伺いを申し立てます。原則そのままですが、本家との関係が悪ければ丸付き紋を命じられます。
    嫡子が出来なければこの間養子婿先の家紋採用と成ります。或いは丸付き紋の許可を本家に求めます。更に娘がいて養子婿を採る場合は、嫡子が出来れば元の家紋に戻す事に成ります。
    つまり、男系跡目が出来た事に成ります。

    6番目の「養子縁組」ですが、5番に続いて、嫡子が出来なければ2代続きで女系に成りましたので、以後その最初の養子婿先の家紋採用と成ります。
    子供ができない場合は、他氏から養子縁組をする事に成りますが、この時、原則家紋を引き継ぎますが、男系は切れていますので、1番の何れかの方式に成ります。通常、丸付き紋か変紋です。
    ですから、家紋が変わるので、極力縁続き(分家、支流、分派、遠縁、縁者)の男子を必死に探し出して迎える事をします。普通この場合が多いのです。この場合は家紋はそのままで繋げます。
    例として、実は花菱紋青木氏は正定から4代目信知に嫡子無く3女子であって、青木宗頼の次男を養子婿として迎えて跡目を継いでいます。
    (享保の跡の寛保元年没 宗頼は縁者になし 上記系譜参照 末尾記述)

    後に異議が出た「信之」の柳沢郡青木氏の場合は、”全く他人を養子に迎えて嫁を採り養子に子が無く、跡目として更に養子先母方の親族から探し出して養子を迎えて嫁を採り子が出来たが早世して、更に他人を養子に迎えて嫁を採り”と次ぎから次ぎへと繰り返している家系図ですが、花菱紋の家紋を変えなかったので正定系子孫から異議が出たものです。結局、原則使用しない事に成っている「丸付き紋」に成ったのです。

    7番目の嫡子尊厳ですが、嫡子とは「後継ぎ」の事ですが、長男とは限りません。
    最も跡目に相応しい人物と云う事に成りますので、男子が居ても6番の方式で探します。
    普通は3親等範囲では問題はありません。跡目に成らなかった場合はその男子は1−5の方式を採用しますが、家紋は主に本家の許可を求めます。普通は1番の方式で処理します。
    長男方式の習慣に成ったのは江戸初期からです。徳川家康が”長男を後継ぎとせよ”とした事が始まりです。それまでは「生残り」の為に長男とは限らず優れた者が嫡子の跡目に成ります。
    自分の家に男子が居てもきわめて優れた者が親族縁者(原則3親等内だけれど文武にたけた人物が居る場合は)に居れば廃嫡して養子として迎えて跡目に入ります。但し、この場合は名家、豪族以上と限定されます。一族末裔郎党の存続に大きく左右する様な事とが無ければここまではしません。
    この場合は、廃嫡子は親族縁者か他家に養子に出すか、僧侶にするか、家臣にするかの選択が必要と成ります。宗家が本家に対して注文を突きつけるなどをする事もあり、氏家制度の中では戦国時代はこの状況が頻繁に行われました。
    正定(別家北巨摩郡青木氏)と豊定(別家柳沢氏)は、父信定との軋轢から信之(柳沢郡青木氏 准嫡子)と豊勝(本家巨摩郡青木氏-割菱紋 嫡子)に本筋青木氏を奪われてしまった為に、実質廃嫡に成った事から夫々別家を興したので割菱紋は使えません。
    又信之の様に職位が無かった事もあり、そこで本文の事件では花菱紋に変紋した事に成ります。

    8番目の身分家柄の尊厳ですが、「氏家制度」の社会の中では、極力「吊り合い」を採る血縁です。
    下の家柄身分の血縁は極力避ける事に成りますので、普通は6番の方式(養子縁組-縁者)で逃げますので家紋はそのままです。場合によっては虚偽の遠縁を作り出し跡目に据えると云う事が横行しました。
    定信と豊定は廃嫡になり家柄身分の継承が成り立つ分家では無く、「別家」(甲斐北国境の辺境地 北巨摩郡)を興していますので、信生の養子系(嫁採り)である為に血筋も無くなり、家柄身分も当然に無くなります。依って、親子争いだけでは無く氏家制度の「家紋掟」から観ても「国衆」に下げられた事に成ります。
    信生の場合は、割菱紋から養子として分家を興している事に成りますので家柄身分は維持されます。
    信之(嫁採り)の場合は、信定の采地巨摩郡(南)の青木氏(豊勝)対してもう一つの采地柳沢郡にも青木氏を興して分家扱いとした為に、それなりの家柄身分(和泉守の含めて)は維持されたと観られます。ただ養子続き(嫁採り)である事が問題と成ったのです。

    注 氏家制度には、養子には「養子婿入り」(女系)と「養子嫁採り」(他人)があります。
    注 「養子婿入り」には「遠縁養子」は家紋が変化しない。「他氏養子」は変紋義務が伴います。

    [第3氏と未勘氏の存在と判別]
    氏家制度の下では、家柄を良く見せると云う事が風潮として社会全体にありました。その為には立身出世した者は、下から上への血縁では、”上の潰れた分家等の家を探し出してそこに一族の者を入れて跡目を立てて名乗る”と云う事が頻繁に起こったのです。無ければ強引に造り出す事もしましたが、「戦地妻」と違い根拠の無い多くの「未勘氏」とされる氏はこの方式です。
    滅亡した源氏などの氏が何故こんなに多いのか不思議です。こんなに多いのであれば滅亡ではないでは無いか、又滅亡する事は無いだろうと思う位です。
    それは、拡大に伴なう「氏家制度の弊害」と云えるもので、「情報社会の発達」の初期の課程で起こる現象です。

    一人が搾取偏纂するが、次ぎの様なことが起こります。
    1 それに異議を唱えるだけの情報が無い事、
    2 自らも搾取偏纂の同じ立場にある事、
    3 情報網が未熟である事、
    4 武力で戦う以外に中止させられる罰則が無い事、
    5 期間を経るとそれが既成事実として歴史になる事、
    6 元の氏末裔は死滅で異議を唱える者が無くなる事、
    7 社会全体が搾取を暗黙で認めている事、

    この様な経緯から源氏、青木氏、藤原氏の身分家柄を獲得するのにはこの8番目の方式を利用したのです。
    この場合、有名な事件が大変多いのです。当然、家紋掟では家紋は異なる事に成りますが、同紋を使われた宗家本家との間で戦いが起こりました。
    青木氏では、秀吉の立会いの前で、近江の青木氏の宗家と滋賀の分家残留組の断絶家を使われた為に
    戦うと云う事件(250人が出陣した)が起こりました。近江の宗家本家の青木氏が負けました。(近江青木氏が一時滋賀に移動して再び近江に戻り後に摂津に定住するが、滋賀残留組が断絶した)
    滋賀に多い青木氏は勝った方の青木氏です。
    (この勝利した者は元は伊賀南部上山郷の農民出身の上山一族でそこからは多々良姓青木氏が出ている位で歴史が既成化したのです。
    近江佐々木氏系(天智天皇第7位皇子の川島皇子が始祖)青木氏と、滋賀佐々木氏系(宇多天皇系)青木氏とは異なります。
    (共に皇族で家紋笹竜胆で判別は通名と土地と系譜で判別が出来るが専門的で困難と観られる)

    賜姓源氏と賜姓青木氏は綜紋は次ぎの通りです。
    「笹竜胆紋」、
    藤原秀郷一門は次ぎの通りです。
    「下がり藤紋」
    武田氏は武田菱紋です。
    以上が綜紋です。

    武田氏の様に直系の源氏を名乗っているのに家紋が笹竜胆紋でないのは「支流傍流氏」か「未勘氏」です。
    賜姓源氏は11家の内で最終3家しか残らず、最終その3氏も滅亡して遺していません。特定の5氏に跡目策を採り遺しましたがこの5氏を除き絶滅しています。
    笹竜胆紋からの他紋への変紋が慣習上は全く無く、他紋で名乗っているのは九割九分はこの未勘氏です。又、笹竜胆紋なのに青木氏と佐々木氏(他1氏)でない氏は未勘氏です。
    (丸付き紋は特定の配流氏のみ使用)
    何れも綜紋を引き継げるのは宗家か本家筋の一門だけです。
    清和源氏を名乗る「未勘氏」は数える事が出来ないほどに多いのです。もしこれだけ源氏が多ければ潰れてはいません。この意味するところは家柄を良く見せると云う風潮です。
    特にこの甲斐の国はその傾向と未勘氏が多いのには特別の感じがします。
    笹竜胆紋は綜紋(一族一門の代表紋)ですから、宗家、本家筋が引き継ぐものですから、分家支流分派でありながら笹竜胆紋とするのは家紋掟の慣習を無視した「第3氏」か「未勘氏」です。

    例えば、「藤原氏」を直接名乗る氏がありますが、藤原氏は地名官位官職を「藤」の前につけて名乗る事に成っています。藤原氏を名乗れるのは武蔵国入間の宗家だけです。しかし、直接藤原氏を名乗っている氏が如何に多いかです
    同様に、「下がり藤紋」を家紋としている氏も大変多いのです。これも藤原秀郷主要5氏と2氏合わせて7氏の本家筋と宗家筋だけですがこれも大変多いのです。。”全て”と云っても「第3氏」で当るでしょう。
    しかし、上記した伊勢伊賀地方の南の上山郷から出た上山氏の青木氏には、家柄を獲得した為に結果として10以上の守護、国司等の高官を勤めた氏ですので、最早第3氏ではありません。歴史伝統を証拠つける全ての条件が整っているのです。
    滋賀残留組の近江賜姓青木氏、近江佐々木系青木氏、滋賀佐々木系青木氏の判別がつかなく成っています。既に分流族もありこの一族(元上山氏)から出た多々良姓青木氏もあるくらいです。
    混乱期第1期(室町期)の青木氏に限り4ー5の元上山氏の青木氏の様な「第三青木氏」があります。
    明確に史実として遺されている氏として、関西では2氏、中部では1氏、関東では2氏があります。これを筆者は「第三青木氏」と呼称しています。
    問題はこの「第三青木氏」には宗派が浄土衆では無い事なのです。
    恐らく室町期の浄土宗側の入信戒律が厳しいものがあった事から来ていると観られます。
    浄土宗は、氏自ら実費で専属の氏寺、菩提寺として建立し、一族の者から住職を選び、許可して本山で養成していた事から特定以外の他氏は財力があるとしても許可が得られなかったのです。
    賜姓青木氏と秀郷流青木氏は宗派は浄土宗です。これは分派まで同じです。
    この様な理由から青木氏を名乗りながら浄土宗とは違うのは「第3氏」か「未勘氏」と成るのです。

    この様に浄土宗は高位の身分の氏だけが入信できる宗派でした。と云うよりは、一族で自寺を建てて菩提寺として、一族の者から住職を作り寺を一族で浄土宗寺を運営していたのです。
    ですから、室町期の上記の第三氏青木氏は知恩院、清水寺などの総本山からの派遣の僧侶の無い事、仮に浄土宗の菩提寺を建立する経済的な勢力が在ったとしても浄土宗総本山からの異議が出来て場合によっては戦いになる事も起こるのです。多分、宗教活動が出来ない事に成ります。
    現在でも浄土宗は総本山から管理される運営システムです。勝手には出来ません。

    これ等の2氏が下克上と戦国時代で衰退しましたので、浄土宗寺菩提寺を単独で維持できなくなり潰れて行くことが多発しました。そこで、江戸初期からは中級武士が入信させる「浄土宗督奨令」を出しました。
    江戸初期からは総本山から管理され補助されながらも浄土宗寺は中級以上武士の「檀家衆」で寺を運営する様に成りました。この「檀家衆」は未勘氏を含む藤原氏系、平家系、源氏系、橘氏系、皇族賜姓青木氏系29氏等の流を持つ氏から成り立っていました。
    この様に浄土宗には歴史的な経緯があるのです。
    この歴史的経緯で以って、2つの青木氏も定住地が特定されていますので、宗派と特定先と違う土地の青木氏は「第3氏」か「未勘氏」と判定できるのです。
    (明治期前の昔は「国抜け」で移動定住は許可なしにはできなかった。無宿者と成る)

    他には、菩提寺の有無、過去帳の有無、過去帳の一番古い人、仏壇形式、氏神の有無、村の有無、伝統品の有無、本家分家の有無と判別が出来ます。
    実際、2つの青木氏より第3の青木氏と未勘氏の方が数倍多いのです。
    「第3氏」と「未勘氏」はこれ等の条件が一致しないのです。
    特に、絶滅した源氏を名乗る氏は未勘氏が殆どです。
    中には、九州地方と中国地方西域に源氏そのものの氏名で「源」氏を名乗る者がいます。
    多分、これはこの地域に上陸した中国と韓国から渡来した「源」さんの末裔なのでしょう。
    例えば、山口県に多い武部氏や武田氏は中国からの渡来人です。
    (安芸には甲斐武田氏の末裔が定住 安芸武田氏)
    毛利氏家臣で有名な毛利元就が取り立てた中国人の武氏がいましたが、この人物は後に武田、武部を名乗りました。中国地方特に西域に多い武田氏の多くはこの末裔です。甲斐の武田氏とは中国系で別です。
    この様に、特に、この家紋掟から見て、史実と照らし合わせると、家紋はそれを見抜く事が出来る代表的な条件です。
    特に、2つの青木氏関係の家紋は史実と照らし合わせ、又「家紋掟」から割り出して判っていますので、丸付き紋の有り無しが疑問に成るのです。
    室町末期、江戸初期、明治初期の第3氏を含む未勘氏は、この2つの青木氏(源氏含む)の条件に一致しないのです。
    皇族賜姓青木氏、皇族青木氏、藤原秀郷流青木氏等は「丸付き紋」は当時の氏家制度の社会の中で身分家柄(純血 下の身分家柄との血縁は原則しない慣習)の保持の為に丸付き紋は使用していないのです。
    「丸付き」は”本来本流では無い事”を意味する手段として用いたもので、「象徴紋」から「氏の家紋」に変化して行った平安末期では「分家」などに用いられたものです。その意味が拡大解釈されて血縁が無くても”違うや仮”を意味する記号として変化して行きました。
    それが「下克上」に依って「分家」や「支流」「分流」「分派」が本家に変わるなどの現象が起こった事から何時しかデザインの一つとして用いられる様に成ったのです。
    特に、養子などによる変紋の「仮」の意味合いは昭和初期まで使用され一般に認識されていました。

    そこで、問題に成るが、武田氏系青木氏3氏6家の一つの時光系の花菱紋に「丸付き紋」が史実に照らして存在するのかが研究課題なのです。第3氏か未勘氏の判別です。
    では、この「丸付き紋」は「家紋掟」1番のどれに当るのかと云う疑問も出来ます。
    それには花菱紋の氏には要件が一致していますが、その花菱紋の分家筋と見られる上記の条件の「土地」と「家紋」を除いて、他の要件に一致するかの研究が必要となります。

    研究を進めると、「武田菱紋」の「系譜と添書と史料」を基に調べると、次ぎの事柄が発見されました。
    この上記した武田氏が滅んだ天正3年の頃、毛利元就に仕官した甲斐花菱紋青木氏で柳沢郡青木村の者がこの「丸付き紋」を後にある事件で使用した事が系譜、添書で発見されました。
    つまり、「丸に花菱紋」の武田氏系の皇族青木氏の存在が「第3氏」「未勘氏」でない事とその経緯が発見されました。
    「花菱紋青木氏」では、氏神社、柳沢氏、仏像、尾張守、官職主計と、花菱紋、時光系、韮崎市の常光寺、丸付き紋なし、源空寺、吉田氏住職、巨摩郡青木村、柳沢氏が史実と完全一致しています。
    ですので、理解を深めて頂き正しく判断して頂く為に「氏家制度」で用いられた上記「家紋掟」を今回詳しく紹介して検証しました。

    「丸に花菱紋」は正定系の花菱紋末裔から全く血縁性が無い事を理由に異議申し立てがあり、協議の結果、信生−信正−信定−信之の系譜はそのままに、家紋の花菱紋を「丸付き紋」とする事を前提に妥協したのです。そして、これ等のことを系譜とその末尾に一文を入れる事で解決したと添書にあります。
    花菱紋の系譜の「信生−信正−信定−正定」の系譜と丸に花菱紋の「信生−信正−信定−信之」の系譜は、後刻、寛政の頃(1800)信正にて添書き等を含む修正編集が加えられていますが、信之側の系譜には異系である事を誇張する故意的な編集が観られます。これはこの協議の時に成されたものか信政に依って成されたものかは確定できません。
    問題は寛政時代の信政が信之側の系譜に携わることが出来たのかは不明です。
    協議の時期も定かではありませんが、曹洞宗常光寺が丸に花菱紋に成っている処を考察すると武田氏滅亡後の信之(2代目襲名 元忠)の常光寺再興期頃(1585年頃)である事が考えられます。
    何れの氏も徳川氏に仕官して3年くらいの時期ですので、多少の落ち着きが出た処と観られます。
    この二つの氏がどの様にしてコンタクト出来たかも確定は出来ませんが、添書より次ぎの事が判ります。

    正定側は”家康に仕える 旗本 采地250−450石、代々大番に列す”とあります。
    信之側は”家康家臣本多佐渡守に仕える 禄200俵 代々大番に列す”とあります。
    仕官初期の頃(1585年)であれば本多氏は家康側近である事から家康陣内で合う事は充分に可能と成ります。この頃はまだ武州鉢形に移動していません。時系列的に一致します。
    依って、上記系譜は寛政期の信政の修正編集では無い事がほぼ裏付けられます。

    ここで、もう一つ疑問があります。
    それは、「信生」です。
    「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
    「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
    「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
    本来であれば、「信正−信定−信生−正定」と成る筈です。
    この事に付いて後編で論じます。

    さて、次ぎは「青木尾張守主計」の件ですが、史実を披露しますと次ぎの様に成ります。
    清和源氏末裔の青木十郎時光から12代目に尾張守青木主計頭信正がいました。
    この人物が花菱紋青木氏の祖祖父です。皇族青木氏の時光系青木氏その末裔と云う事に成ります。
    この「信正」は官職は尾張守で、俗名は「与兵衛」と云います。法名は「深見」と云います。
    「..兵衛」は賜姓青木氏の宮殿親衛隊の官位から特別につける共通名「..兵衛」なのです。
    これは、元は天皇を護衛する近衛兵親衛隊で、宮殿の3つの門を護る官職名で2つの青木氏に天皇から与えられた永代使用を認められた共通通名です。だから、「..兵衛」(門を守る兵)なのです。
    「北面武士」として有名ですが、これが青木氏なのです。(右衛門、左衛門も青木氏の通名です)
    この「通名」でその「系列」を判別するように成っています。
    (後に金品を朝廷に渡す事で得られる名誉官位、官職と成りました 天皇家の経済的根拠)

    因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
    割菱紋青木氏本家(義虎系)
    信種(嫡子)の子の信親
    信時(信親の子)の子の信安
    信安の子の信就
    信就、信幸、信峯の子の信祐
    信祐の子の信任

    割菱紋青木氏分家(義虎系)
    義虎の子の信正(妾子:信種弟)
    以上6人です。

    注 信種は信正と同人物との説もある。
    注 信種は信定と同人物との説もある。
    注 信親は信立と同人物との説もある。
    注 信親は信定と同人物との説もある。
    注 信時は信定と同人物との説もある。
    注 信立は系譜上正式に存在しない。

    「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
    始祖時光は甲斐守
    時光系割菱紋の本家
    A 時光-常光の子の「信連」
    B 信連の子の「貞義」
    C 貞義-義遠の子の「安遠」
    D 安遠-嘉虎の子の「信種」
    E 信種の子の「信親」*
    F 信親の子の「信時」*
    時光系割菱紋の分家
    G 義虎の子の「信正」*
    H 信正の子の「信定」
    以上8人です。

    注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
    注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
    注 信定と信時で武田氏は滅ぶ。

    以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がります。
    1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
    2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋が引き継ぐ事となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
    3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
    4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
    5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
    6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
    7 重複人物説の疑問がある。

    以上を複合的見地から解明しなくてはならない事柄です。
    これらの事は長文を要する為に後編で論じます。

    次ぎに、「主計」は名では有りませんで、「朝廷の職位」です。
    かなりの上の身分で事務の中の経理に相当する役職で「頭」が付いている為にその長である事を意味します。斎蔵(藤原氏 摂関家)の所属です。
    本来の呼称は、「青木尾張守主計頭与兵衛信正」と成ります。
    この青木氏は先ず「割菱紋と副紋葉菱紋」から「割菱紋」に変わり「花菱紋」と成り、後に武田氏「武川衆12騎」に成った事は確認出来ました。

    発祥地は「割菱紋」は「甲斐国南巨摩郡青木村(南)」です。
    後に発祥する正定の「花菱紋」は「甲斐北巨摩郡青木村(北)」です。

    信正は武田信虎に仕えます。その後、子供信定は信玄、勝頼に仕えますが、天正3年長篠の役で討死します。法名は宗青です。
    その子供豊定は家康に仕えます。法名玄栄。大番役500石 別家の柳沢氏を発祥させます。
    豊定と共に別家を興した兄正定はこの跡を継ぎ花菱紋青木氏を発祥させます。

    この2代目豊勝(正定の弟)が信正の主家を引き継ぎ、形式上正定の子供とします。
    そして、3代目豊信のところで後継ぎなしで絶えます。
    しかし、弟豊勝に主家を譲り、別家を興した分家となる正定の子供の昌輝が継承します。
    13代目信定の嫡子であったが別家を興した正定−正重−信久(途中略)以降の代々末裔は徳川旗本として栄えています。(上記系譜参照)
    これが正定からの花菱紋系譜です。
    (徳川氏により仕官3年後に武州鉢形に強制移動させられる)
    ところが、この14代目正定の次男の15代昌輝は大井家に養子になりましたが、後に実家の青木氏が豊信で絶えましたので、昌輝の嫡子に大井氏を引き継がせて後、自分昌輝は子供次男正寛を引き連れて断絶の豊信の割菱紋青木氏主家の継ぐ事に成ります。
    (信定系割菱紋は結局、別家の正定の花菱紋系列に吸収される)

    まとめますと、信生11ー信正12−信定13と続いた割菱紋より分家した青木氏は次ぎの様に分流します。
    時光系青木氏の系列
    A 信安系本家割菱 副紋葉菱紋 青木氏(本流)

    B 信生系分家割菱紋 青木氏の4流
    1 豊勝系(南巨摩郡青木氏 主家 割菱紋)
    2 信之系(柳沢郡青木氏 別家 跡目養子 割菱紋−花菱紋−丸に花菱紋)
    3 正定系(北巨摩郡青木氏 別家 花菱紋)
    4 豊定系(柳沢郡柳沢氏 別家 花菱紋)

    注 最終 1及び3は合流
    注 柳沢氏は割菱紋 副紋葉菱紋柳沢氏、花菱紋柳沢氏 4つ割花菱紋 割菱紋の4流がある。

    3の別家を興した為に家紋は「家紋掟」にてこの時点で「割菱紋」から「花菱紋」になります。
    豊勝の主家は最終は正定系の系譜と成ります。(途中略)
    以上が花菱紋青木氏の4家の系譜略です。

    問題は元となる系譜の位置付けです。
    1「信生」−「信正」−「信定」系列の「信生」の問題、
    2「信正」の出生(信種)と尾張守重複の問題
    3「信定」の出生(信親)と尾張守重複の問題
    4「信立」の問題(花菱紋柳沢氏の系譜)
    5「正定」の系譜の位置付け問題(信安、信生に列するのか)

    前提と成っている上記系譜の為には元の系譜上の疑問を解決する事が必要です。(後編記述)
    そこで、その前に先ず5の問題の「正定」末裔の系譜を確認する必要があります。

    「正定の子供」
    正定の子供がどの様に成っているかを検証します。
    末裔が「丸付き紋の花菱紋」の可能性もある事から、「正定の子供」の研究は4つの系譜を付き合わせた結果、次ぎの通り解決しました。以下の通りです。

    (正定は本来は嫡男で長男であった)
    A 豊勝(割菱紋青木氏 主家 正定の弟で養子と成る)
    B 正重(花菱紋青木家 別家)
    C 昌輝(大井氏−青木氏)
    D 忠世(犬塚氏)
    E 元宣(木村氏)
    F 大震(初宋友 松源寺住職)
    以上6人です。

    1 豊勝は兄正定に代わり父の割菱紋本家を継承し、3代目豊信に嫡子なしで4代目断絶、後に割菱紋から花菱紋に変わる。(13代目信定は割菱紋を継承したが子の3男豊勝がこれを継ぐ)
    2 長男正重が別家花菱紋を継承する。
    (正定は長男であるが、弟に本家を譲り、自分は花菱紋の別家を興す。)
    3 次男昌輝は大井氏に養子後戻り、実家断絶の割菱紋主家を継承し、大井氏は昌輝の嫡男に譲り、昌輝次男正寛が主家青木氏の跡を継ぎ花菱紋に戻し継承する。
    (大井氏は信玄の妻の実家先)

    花菱紋青木氏は、別家と、割菱紋から花菱紋にかわった主家との2家に成ります。
    後の子供は他家への養子となります。
    これで正常に継承していますので家紋掟からの変紋を含めて正定系列の「丸付き紋」の可能性は消えました。

    さて、次ぎは丸付き紋と柳沢氏との事ですが、信正の子信定で先祖を同じくしています。
    正定の弟豊定が別家を興して花菱紋柳沢氏を発祥させ元祖と成ります。
    家紋も兄と共に花菱紋の同紋を引き継ぎます。(柳沢氏の4系譜4家紋は上記検証済み)
    柳沢氏の丸付き紋の可能性は家紋掟から観ても消えています。(信立の問題含む 後編)

    [花菱紋の丸付き紋の原因]
    この柳沢郡青木村が存在しますが、この青木村から青木氏が出ている事が判っています。
    この柳沢郡青木氏派どの様な系譜であるのかを検証する必要があります。
    次ぎの2つの問題を解決する必要が出ました。

    この柳沢郡の青木氏は一体誰なのかの疑問があります。
    その前にこの青木村から「丸に花菱紋」が出た経緯がこれも疑問です
    この二つをまず研究しました。

    本来は、花菱紋を初めとする武田氏6家紋には丸付き紋は有りません。
    武田氏は清和源氏系(朝臣族 皇族系)である為に原則使用しません。
    「丸に花菱紋」は「家紋200選」及び「全国家紋8000書類」にも掲載されていません。
    しかし、「丸に花菱紋」が史料の中で存在し重要な歴史史実が存在します。
    つまり、検証の方向はこの「丸に花菱紋」が「第3氏」又は「未勘氏」であるのかどうかの検証と成ります。
    これはどう云う事を意味しているのかも研究が必要です。
    そこで、系譜と添書や他の資料を細かく調査すると出てきました。

    「系譜添書の内容」
    甲斐青木氏の系譜には甲斐の「青木和泉守」なるものが居ます。
    この甲斐の青木和泉守の子孫系譜には、次ぎの様なことが書かれています。

    1 甲斐青木和泉守は柳沢郡青木村の青木氏の出自である。
    2 義母実家安芸の桜井安芸守を頼る。(信光の安芸武田氏との関係)
    3 和泉守の時に芸州の毛利元就に仕える。(1567)
    4 同国尾引城に処している。
    5 再び輝元公から再び元亀4年1月20日(1573)に和泉守に任じられた。
    6 その後、和泉守は尼子氏との合戦に参加する。出雲国にて討死する。
    7 墓は芸州吉田には無い。
    8 更に、跡目を継承した次男志摩守與三は天正5年6月23日(1577)輝元公に従い四国に渡り讃州元吉城の合戦で討死する。
    9 尚、志摩守與三の兄青木助兵衛元忠(二代目)の時、長州三田尻に移っている。その後、甲斐に戻る。(1582年頃)
     
    以上とあります。

    柳沢郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
    注 この系譜は巨摩郡青木氏の系譜と対比すると、丁度100年全てずれています。
    (編集者の寛政の頃の信政による系譜編集時の故意的行為と観られる。)

    青木尾張守信正は添書は次ぎの様に成ります。
    割菱紋  副紋は葉菱紋
    正保4年12月跡目継承(1647年となり史実の1547年で一致)と成っています。
    信正は与兵衛以外に幼名三十郎 清左衛門の名も記されている。信虎に仕える。

    信正の子信定(藤九郎 主計頭) 信玄、勝頼に仕える。
    信定は明暦3年12月家督継ぐ(1657年となり史実1557年で一致)と成っています。

    「巨摩郡青木氏添書」
    巨摩郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
    信定は天正3年5月(1576)長篠の役に討死 法名宋青 妻は桜井安芸守の娘。(史実)
    主計頭 常光寺を曹洞宗に改宗した人物である。花菱紋の正定の父である。
    以上添書にあります。

    この信正の子は実子正定(巨摩郡青木氏花菱紋)と豊定(柳沢郡柳沢氏花菱紋)が居るが「第3の子」なる者(養子信之)が居て上記の通り「柳沢郡青木氏」を継いでいる事になります。
    安芸は信正の妻(義母)の実家先である。
    (安芸守護の信光末裔武田氏 甲斐の新守護信元の前までは安芸の武田氏の勢力が中心 信光は頼朝に謀殺された人物忠頼の兄に当る。信光は安芸守 忠頼は甲斐守)
    この者が武田氏滅亡前(1567頃)に義母の実家桜井安芸守を頼り赴いた事を意味します。
    では、この者(第3の子)は一体誰なのか(疑問)です。

    「柳沢郡青木氏添書」
    柳沢郡青木氏系譜によると次ぎの様に成ります。
    結論から先に述べると、”信定の終わりに臨み養子と成る”と添書にある本人で、高尾伝九郎久治の三男伝助 この母は多田次郎右衛門昌繁の女と書かれている者の「信之」と成ります。

    添書を検証しますと次ぎの様に成ります
    和泉守の時代は元亀から天正前半にかけての人物となります。(1570-1576)
    この期間で毛利に繋がる人物は信定の妻の実家桜井安芸守である。
    安芸は毛利家の国である。
    この時代は毛利元就、輝元である。
    この信正の子供(第3の子の存在)か又は関係者となる。
    そこで、信正の子供を探すと4つの系譜から次のように出て来る。

    「信正の子供」
    正定(花菱紋、巨摩郡青木氏)、
    豊勝(割菱紋、巨摩郡青木氏 正定の養子に成る 正定の子昌輝が継承)
    豊定(花菱紋、柳沢氏)、
    信之(割菱紋継承後に花菱紋、柳沢郡青木氏の養子)
    「信之」なる人物が出る。この人物はどのような人物かを調べました。

    「信之の継承経緯」
    上記の通りこの「信之」は”高尾伝九郎久治の三男 信定(討死)の終わり臨み養子となる。”とある。
    この者(信之)が柳沢郡の青木氏を継承した事に成ります。
    それ以前に柳沢郡青木氏が発祥している史実はありません。
    そして、長篠の役1575年武田氏敗北の前に何らかの事件か理由(後述)が起こり義母の実家の桜井安芸守(毛利氏の家臣)を頼り安芸守の配下として働いた。

    何らかの理由とは上記に記述した様に織田軍との決戦の為に開かれた「軍編成会議」で国境警備の「国衆」に正定と豊定と共に組み込まれたが、その際に提出した「起請文」の中には無い事から正定隊に柳沢氏と同様に組み込まれた可能性があり、それを不満として信光系安芸武田氏のいる安芸に移動したと観られます。

    其処での安芸での経過は以上の通りです。
    この「信之」討死後、この柳沢郡青木氏筋の跡目は「信茂」と記されています。
    この「信茂」で”多田新八郎昌興の三男久三郎が青木氏(柳沢郡)の養子に入る。”とあります。
    多田新八郎昌興とは「右衛門」の肩書きが無い所をみると、「信之」の実母の実家先多田次郎右衛門昌繁の子供(母方叔父の子 従兄弟)であると観られます。
    安芸にて「信之」本人と子度次男「与蔵」が討死した事から、甲斐では母方から跡目を入れた事を意味します。

    この「信茂」の跡目時期に付いては記されていないので、安芸での別の毛利氏(柳沢郡青木氏)の記録を調べると次ぎの様に成ります。

    「安芸(毛利氏)柳沢郡青木氏の記録」
    安芸に赴いた”「信之」の次男志摩守「与蔵」は討死後、安芸当地で長男(兄)の青木助兵衛元忠には「2代目」”と特記しています。
    その後に、”安芸と周防に墓は無い”とあり、”甲斐に戻る。(1582頃)”とあります。
    「信之」の長男「元忠」が戻った時には既に武田氏が滅び、徳川氏の配下に入った時期と成ります。
    この「元忠」は本来であれば、「信茂」に代って跡目を採る立場に有ったことが考えられますが、時代性が合いません。
    「元忠」は長州三田尻に1577年頃まで居た事よりすでに出国後15年も経っていて「信之」と子嫡子と認められていた次男志摩守「与蔵」もが討死した為に、長男「元忠」は「2代目特記」の意味から「信之」(初代)を現地で襲名(1677 1577)した事になります。
    甲斐に帰国後(1582)2年程度経過後、直ぐに”徳川氏に仕官し大番と成る。後に加恩あり200俵の禄(1694 1594)となる”とあります。
    更に、それは武田氏滅亡1582年後の徳川氏の仕官は次ぎの4代目「信也」の系譜添書でも理解できます。
    「信也」の添書によると「信也」は”久五郎 清左衛門 享保元年(1716 1616)年6歳にて後を継ぐ。享保15年(1730 1630)大番に列する。27歳で死亡”とあります。 
    これで、2代目から4代目(元忠−信茂−信也)までの時代差の考証は採れています。

    ここで、戻った「信之」の長男元忠2代目襲名は本来柳沢郡青木氏に戻りますが、時代差考証から観ると上記添書から現地で2代目襲名した事に成ります。
    この時代差から考察すると、元忠が帰国し仕官した時(1582-1594の前半)に祖母方親族より「養子信茂」(跡目養子)を迎えたことに成ります。
    つまり柳沢郡青木氏は多田氏からの養子「信茂」3代目が引き継いでいる事に成ります。

    この毛利氏の記録によると2代目元忠から10代目までの記録は無く10代目以降は明確に成っています。
    武田氏の記録とこの二つの記録を付き合わせると系譜は次ぎの様に成ります。

    「武田氏系青木氏と毛利氏の記録系譜」
    始祖「信之」1-1代目「与蔵」2−2代目「元忠」(襲名)3−「信茂」4−「信也」5−「信考」6−「信睦」7−「信並」8−「信嬰」9−「住眞」10−「道」11−「健」12−・・

    注 「信之」和泉守 「与蔵」志摩守 毛利氏が陶氏を滅ぼした際に泉州と志摩一部を領する
    注 弟「与蔵」が跡を継いだが討死 1代目
    注 兄「元忠」信之襲名 2代目 甲斐に戻る
    注 「信茂」4は母方縁者多田新八郎昌興の三男 跡目養子
    注 「信考」6は小野朝右衛門高壽の次男 九歳の婿養子 
    注 「信睦」7は「信考」の長男で早世
    注 「信並」8は「信考」の三男 久米之丞 母は「信也」の女(叔母)跡目養子
    注 「信考」6の次男「高達」は養子元の縁者小野平八郎高品の養子と成る
    注 「信嬰」9は安太郎(嬰:えい)
    注 「信考」の末裔は現存
     
    ここで、甲斐に戻った柳沢郡青木氏の高尾氏から養子「信之」の長男「元忠一族」(信之襲名)の家紋に問題が出ます。
    定住地は添書から”甲斐の国に戻る”とあり、一度柳沢郡の青木村に帰ったと推理出来ます。
    その後、更に検証を進めると巨摩郡付近に移動している事が2つの事(常光寺再興と常光寺寺紋と丸に花菱紋事件)で理解できます。
    多分、元忠の帰参一族の柳沢郡青木氏はこの常光寺に一時停泊したのではと思われます。
    最終、武田氏が滅び武田氏系青木氏の時光系一族は徳川氏に下級武士として仕官した為に曹洞宗常光寺を維持する事が出来ずにいたと見られます。
    そこで、帰参一族はこの荒廃した菩提寺曹洞宗常光寺の再建に取り掛かった事が、「丸付き紋」の花菱紋に成る切っ掛けに成ったと観るのが、当時の「寺」の持つ役割から普通では無いかと思います。
    常光寺は割菱紋から襲名信之の頃から「花菱紋」に、続いて「丸付き紋」に変紋しています。
    この史実によると次ぎの様に成ります。

    「柳沢氏の発祥と時期」
    信定の子の「豊定」がこの柳沢氏を発祥 法名は玄栄です。元は「正定」の所で兄弟です。
    「信之」は義兄弟と成ります。
    天正3年5月の時です。
    系譜からは割り出すと天正の頃(1575)からの親族です。
    ここで問題が出ます。
    とすると、時代的には「柳沢郡青木村の青木氏」は「柳沢氏発祥」とは同時であった事を示すものと成ります。
    そして、「豊定」の柳沢氏は、義弟(養子)「信之」が主家(信定)の意に添い柳沢郡の青木氏を継いだので、止む無くこの地名を採って青木氏を名乗らず柳沢郡の「柳沢氏」を名乗った事に成ります。

    以上系譜、添書、史料等から信之の花菱紋(丸付き紋)のルーツは解明されましたので、次ぎは丸付き紋に成った経緯と時期が問題と成ります。

    そこで「信之」の長男「元忠」系の柳沢郡青木氏の「花菱紋」が「丸付き紋」に成った事に対して調査の結果、青木氏と柳沢氏の系譜を照合すると末尾の添書に一致する内容が出てきました。

    「5つの継承の意味」
    この内容には、5つの意味があります。

    1 父「信定」が「信之」を柳沢郡青木氏をこの養子に継がせた(発祥させた)。
    「正定」の添書を観ると、別家を興して太郎右衛門正満の祖と書かれている事から、長男「正定」は北巨摩郡青木氏の別家を興し、子供「正重」にこの分家を引き継がせた。
    そして、南巨摩郡青木氏を三男豊勝に主家を継がせた事に成る。

    2 次男豊定は本来は筋目から柳沢郡青木氏を継ぐ事に成るが、養子「信之」の出現で止む無く地名より柳沢氏を発祥させた。

    3 父「信定」の長男「正定」と次男「豊定」に対する対応がおかしい。
    本来であれば、長男「正定」に本家巨摩郡青木氏を継がせ、三男「豊勝」に分家を継がせ、次男「豊定」には柳沢郡青木氏を継がせる事に成る筈である。

    ところが、わざわざ養子「信之」を設けて柳沢郡青木氏を、三男に巨摩郡青木氏主家を継がせる事は長男「正定」と次男「豊定」は排除されたも同然です。
    だから、反発した長男「正定」は別家の分家青木氏を興し、次男「豊定」も柳沢に別家柳沢氏を興した事に成ります。
    そして、この2人は、兄「正定」は巨摩郡青木村に「浄土宗源空寺」を開山し、弟「豊定」は柳沢郡に「浄土宗光沢寺」を開山せざるを得なかった理由の一つに成ります。
    更に家紋を割菱紋から花菱紋に変更を余儀なくされたのです。

    参考(「浄土宗源空寺」と「浄土宗松源寺」)
    寺については、通説「浄土宗源空寺」に対して「浄土宗松源寺」(正定の5男大震 初宋友 松源寺住職)では無いかとの仮説もあります。
    これは、次ぎの様に考察しています。
    正定は最終主家の割菱紋と別家の花菱紋とを引き継ぐ事になります。

    1 「浄土宗源空寺」は主家の地の南巨摩郡に菩提寺として建立した。
    2 「浄土宗松源寺」は別家の地の北巨摩郡に菩提寺として建立した。

    2の寺は甲斐の巨摩郡には確認されないのは、徳川氏により武川衆は武州鉢形に代替地を与えられて一族郎党は強制移動させられた為に確認出来ないのです。
    北巨摩郡には自分の子供を住職にして寺を建立した事に成ります。

    4 父「信定」は常光寺を曹洞宗に改宗した、或いは改宗せざるを得なかった事に対して「正定」と「豊定」が反対をした。そこで父「信定」は対立の見せしめに養子を迎え、三男に本家を継がした事になった。

    更には、武川衆の青木氏の採った態度(武田勝頼を見放す事)に対して、「正定」と「豊定」が見放す側に立った事等で父親と対立した事が考えられます。
    「正定」と「豊定」の花菱紋の別家は「国衆」の国境辺境地の警備に廻され、「御親類衆」から外されて格下げされた。

    5 しかし、結果は、正定が正しかった事が云えます。
    巨摩郡青木氏主家も、別家した青木氏分家も、「正定」の末裔が跡を継ぐ結果と成った事を意味します。

    柳沢郡の柳沢氏の立身出世と柳沢郡の青木氏の2分裂化と養子化で他人化してしまった事に成ります。血縁の無い他人化した丸付き紋の花菱紋の発祥を招いた事に成ります。
    血縁上は第3の青木氏(「寛永青木第三の系図」の歴史書が示す通り)であり、系譜上は柳沢郡青木氏の2流が出来た事を意味します。
    (現在も氏家紋書にも乗らない第3氏として扱われる所以です。)

    以上歴史史実から考察すると、矢張り、父「信定」は曹洞宗改宗などの暴挙を行い子孫末裔にも大きな禍根を現在までに遺した事に成ります。

    「花菱紋の系譜」
    正定は別家を興す。小右衛門 太郎右衛門正満の祖
    正定は花菱紋北巨摩郡青木氏別家 (正重派 副紋は九曜紋)
    正定の次男昌輝青木氏主家継承 (昌輝派 大井氏養子後 割菱紋−花菱紋 副紋は九曜紋 )
    豊定は花菱紋柳沢郡柳沢氏本家 勘九郎 勘右衛門  
    信之は割菱紋柳沢郡青木氏本家 和泉守−志摩守(花菱紋−丸に花菱紋 信定の養子 高尾氏三男)
    信茂は花菱紋柳沢郡青木氏本家(多田氏より柳沢郡本家青木氏養子となる)
    信之の長男元忠は柳沢郡青木氏本家(信茂と元忠の本家と重複 花菱紋−丸に花菱紋)
    以上徳川氏に仕える。

    注 「信之」の実母は多田次郎右衛門昌繁の娘 「信茂」多田新八郎昌興の三男 信之の母と信茂は従兄弟である。信之(元忠襲名)は割菱紋の柳沢郡青木氏を1577年に正式に継ぎ1585年に徳川氏本多家仕官1595年大番役を勤む。

    柳沢郡青木氏の「信之」の割菱紋−花菱紋−丸に花菱紋の変紋の経緯は次の様な系譜添書が在ります。

    「丸に花菱紋の経緯」
    文章1
    「寛政系図」の史書には 信正は通称与兵衛といい尾張守と称す。武田信虎に仕う。某年死す。法名深見。とあり、「寛永青木第三の系図」に載する処によると、信種、及び同書柳沢曲渕の譜に見ゆる信定と共に尾張守と称する。法名浄見と云う。
    その事跡同じければ、この「信正」疑うらくは同人ならん。

    文章2
    これ寛永の時呈する処の譜なり。各々の家に伝わる処を誤りとするか、或いは、その名を異にするか、或いは、別人の如くするかは、何れその子孫に至りては、何れ兄、何れ弟たる事を詳細にせず、よりて各々のその見ゆる処を記して後勘に備え識する」と記されています。

    「信之」の末裔青木助兵衛元忠が安芸国から甲斐に戻り、柳沢郡の信之系青木氏を継承し、家紋を義父の家紋割菱紋から花菱紋に変え、その後、正定の二つの巨摩郡青木氏の主家方から抗議を受け話し合いにより、花菱紋を「丸付き紋」(以後変紋している)として変える事で妥協した。しかし、「信定の系譜」は譲らなかった。”と成ります。そして、系譜に付いては”後勘に備える”としたのです。
    上記の分析からこの特別な2添書で検証された事に成ります。

    注 寛政期(1800)本系譜修正編集した信政の父信満は伝五郎 太郎右衛門 石川清右衛門 政辰の4男 母は山本新五左衛門正相の女 信保の終りに臨みて養婿子となる。寛政2年家を継ぐ。大番役に列し、寛政8年に新番に移る。250石 妻は信保の養女 信政は大助 

    異議の申し立ての時期は不明ですが、一説では系譜編集に当った花菱紋別家の末裔青木信政の時(寛政10年頃1800年)ではないかとも観られますが、それまでに曹洞宗常光寺が「丸に花菱紋」の寺紋と成っている事から花菱紋を使用する「正定」の別家青木氏と、後に正定の子昌輝継承の主家青木氏と「豊定」の柳沢氏と「信之」の柳沢郡青木氏(当初発祥期は割菱紋)の4氏と成ります。従って、必然的に常光寺の再建とも含めて、血縁の無い「信之」系の青木氏が「丸付き紋」に成る可能性がある事に成りますが、問題は時期と成ります。

    上記に検証した通り、1584年(1585年)頃の徳川氏が甲斐を支配し始め仕官を集めた時期で、信之の青木氏が家康の家臣本多氏に仕官し協議出来る時期はこの期間と見られます。この後、本多氏は領国に移動した為に信之一門も移動、正定も武蔵鉢形に移動していますので、家紋のことや系譜の事もまだ新しいこの時期しかありません。

    この「信之一族」は、武田氏滅亡後、青木氏離散、間際の曹洞宗改宗等で常光寺の維持管理は困難と成り、荒廃した為に、この寺の再興を図ったとされています。その為にこの常光寺の寺紋は本来の「花菱紋」から結局「丸に花菱紋」に変紋しました事に成ります。(1584年頃)
    常光寺を維持管理する者が仕官で各地に移動し始めた為に荒廃したのです。

    これも「丸に花菱紋の常光寺」もその証拠と成ります。
    つまり、曹洞宗は信定の曹洞宗僧侶に帰依した事により改宗と成っていますが、その3−5年後に起こったこの「丸付き紋の事件」による事も考えられます。

    更に検証すると、丸付き紋に成ると云う事には氏家制度の中ではそれなりの事件である必要があります。
    次ぎの事が考えられます。
    1 花菱紋の「血縁関係」の変化が変わった時
    2 菩提寺等が改宗等の「事変関係」が起こった時
    3 本家分家の「跡目関係」が変わった時
    4 ある程度の「勢力関係」を保持した時

    これ等の事が一時期に起こっている時と成ると「信定−正定の時期」と云う事に成ります。

    A 菩提寺の真言宗常光寺が曹洞宗常光寺に改宗は「信定」(1575没)が行ったのでその直後の跡目の問題が出た時とすると[1575-1576年頃]。

    B 血縁性の無い「信之」一族(元忠襲名 1577)に成る前には協議できないので帰国前の襲名後の周防三田尻の頃[1577-1580年頃]。

    C 常光寺に最後頃に祭祀されている人物「信時」は信玄と勝頼に仕え尾張守であったので、「信定」(1575年没)が尾張守であり2人ともに信玄と勝頼(1582没)に仕えた事と、重複して尾張守を名乗ることは出来ないとすると、「信定」が常光寺を曹洞宗に改宗したので、その時期は1567頃年と成ります。

    そうすると「信時」の尾張守は1575年に引継ぎ、没年は勝頼時代討死武田他氏滅亡(1582没年)と成ります。「信時」は武川衆と呼ばれたとされている時期(1567)の人物である事に成ります。(武田氏軍編成の起請文(1567)に武川衆が始めて出て来る)
    最後の祭祀人物「信安」は(1573跡目)と成り、次の信就の跡目が1606年と成りますので「信安」は(1606没)と成ります。

    D 正定の浄土宗源空寺建立と豊定の浄土宗光沢寺建立時期にまだその勢いがある事から信定が没後に正定等の別家を興して花菱紋を定めて信定の没後時期と成ると[1580-1585年頃]

    E 長篠の役(1575)から武田氏滅亡時期期間と成ると[1582-1582年頃]

    F 徳川氏仕官後では低禄でそんなことに拘っている余裕は無い事から仕官前とすると[1582年後頃]。

    以上添書と史料から検証割出しました。
    結論はAからFまでを考え合わせると、「丸に花菱紋」に成った時期は1585年前後頃と成ります。この年代であれば時代考証は採れます。

    武田氏が滅亡した後に、”武川衆の離散と甲斐青木氏の逃亡が相次ぎ常光寺の荒廃が進んだが、花菱紋の2氏は徳川氏に仕えたとは云え、その生活は貧窮を呈し、この事態を解決できる勢力を最早維持していなかった事。其処にこの柳沢郡青木氏が毛利氏に仕えた事でその裏打ちで和泉守や志摩守などのその財力を持って甲斐に帰ってきた事(1582)。その財力で先祖の常光寺の再興を成した事。
    これらを考え合わせると、その為、曹洞宗常光寺(1565-1567改宗)の寺紋を「丸に花菱紋)」に変紋(1584-1585)した”と云う事に成ります。

    この柳沢郡青木氏信之派が義母桜井安芸守を頼ったのもこの時武田氏の行く末を推し量り、徳川氏等の勢力に対して何処に味方して生き残れるかを真剣に模索していた事を物語ります。
    また、前述した「長篠の戦い」を前(1567)にして軍団編成の処置に対して起請文を提出させられ、扱いを「国衆」に格下げさせられた事も一因と観られます。

    一つに偏る事は一族存亡を考えた場合得策ではないとして、当時中国地方を制覇しつつあった毛利氏を一時頼ったのではと考えられます。武田氏の大勢が固まった後(1582年)に甲斐に帰国後は徳川氏(1585年 1594大番役)に仕えたとなります。

    その常光寺に付いては、次ぎの視点が起こります。
    多少の疑問は養子にして「曹洞宗の常光寺問題」の扱いのこの「役目を担わした」と云う視点です。

    1 別家を興すほどに「親子争い」に成っていた関係上、わざわざ信之を養子を迎えて「信定」が命じたものと考えられます。

    2 武田氏滅亡後に信之派が曹洞宗常光寺を扱い始めた事に正定派と問題も起した形跡も無くすんなりと進んでいるし、常光寺寺紋も何の問題も無く割菱紋から丸付き紋の花菱紋に変更しているのも不思議です。

    3 正定派に執って見れば、最早父親が改宗した曹洞宗であり、別家を興した時に自前の浄土宗寺を建立している事、祭祀している人物は時光系青木氏の割菱紋本家の人物に限られている事などからも信之派に任した事でも頷けます。

    4 割菱紋本家の信安派もこの寺に執着していない所を観ると曹洞宗寺となってしまった寺に対して浄土宗を護る本家としての意味合いが無く成った事も考えられます。

    しかし、この時、「信安」は、分家の信定が尾張守としての主導権を行使して曹洞宗に改宗していながら、最後の祭祀人物としてこの寺に祭祀されているのです。不思議な疑問点です。
    「信安」と「信生」と「正定」と「信之」(元忠)と「豊定」等は同年代です。
    自分(信安)を時光系本家の先祖の眠る寺に最後に祭祀する事を条件にして、信之や正定等に対して妥協を求めた事も考えられます。

    現に、改宗した人物信定と父の信正はこの寺に祭祀されていない現実があるのです。
    又、信安の義弟で信生も系譜上は年代の違う分家の先に死んだ信定の父に成っているのです。

    分家が本家の寺を一族の指導者として成っている尾張守を背景に主導権を行使して改宗しているのですから、武田氏滅亡後に同年代の者が揃った短い時期を利用して、戦後処理として、徳川氏に仕官し異動する事の前に、「家紋や寺の事等を含めて一切の何らかな話し合い」が成されなければこれだけの問題は解決する事は無いと考えます。
    家紋変紋や常光寺扱いや系譜の添書などの事は一度に解決する事はあり得ないと考えます。

    5 その再興のもう一つは、甲斐の国の最大34%を占めるこの時代最も勢力を大きく伸ばした曹洞宗を使った事による事も見られます。(史料 後編)
    曹洞宗は農民や下級武士の入信団でありました、この大多数で常光寺を青木氏だけの菩提寺だけのものとせずに開放したと見られます。

    故に時光から11代「信安」での墓所と成っているのはこの事が原因と成ります。
    武田氏の滅亡寸前で寺を「1氏で運営維持する事が難しく成った事」と「農兵を確保する手段」でもあったのです。つまり、豪農、庄屋、名主、郷士、豪商等の農兵指導者の確保に動いたのです。
    この事に「親子の路線争い」が起こり「別家」を興すなどの事が起こったのです。

    この様な中で常光寺に「信安11」の祭祀がされている事に疑問が解決します。(後述)
    1567年頃に改宗したと見られますので、その後の改宗後の「信安」が曹洞宗常光寺に祭祀され最後の人と成っているのはこの事だも働いていると観られます。
    つまり、それは曹洞宗改宗の意味が違ったのではと観られます。

    信定の”特定の僧侶に帰依”だけでは改宗は、当時の生活に密着した宗教の慣習から相当強引に実行しなければ無理で、「氏家制度」の中では一族の総意でなくてはなりません。一人が変えても周囲一族が変えなくては成り立ちません。
    一人の者の意思だけで成し得る「氏家制度」の時代では有りません。「助け助け合いの慣習」の中ではこの様な事をすれば無視され、場合に依っては廃領されしまい浮いてしまいます。
    改宗は「象徴と伝統」そのものを壊す行為です。この様な”帰依した”だけでは済まないのが氏家制度です。
    恐らく、非常に多い歴史結論に見られる現代感覚で思慮した説であると観られます。最近痛感する事柄です。短期間(6年)の間の出来事からこの事を誤って考証されたと見ています。

    「跡目」などの「路線争い」が起こっている処から観ると、「織田氏との決戦」を控えての「政治的決断」と考えられます。だから、「改宗事件」があっても本流の後継者浄土宗信者の「信安」が祀られたと観られます。そして、滅亡後には「丸に花菱紋」の寺紋となって正味の下級武士とや土豪や庄屋や豪農等が入信する一般曹洞宗寺に成ったと観られます。

    「柳沢氏の検証と石燈」
    花菱紋の柳沢氏との関係の考証は、その「柳沢氏」から石燈を花菱紋青木氏の菩提寺浄土宗源空寺に贈られた事は史実とし柳沢氏の記録の中に記述がある事です。
    この石燈は現在も廃寺浄土宗源空寺跡に保存されている事から確認出来ます。
    又、同石燈は柳沢氏菩提寺浄土宗光沢寺(廃寺)にもあります。この二つは極めて類似します。
    柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連にで源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
    「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
    送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
    それは「豊定−信立−信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
    「信生−信正−信定−豊定」の時光系の割菱紋 副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事に限定されてくる事を意味します。
    この事は後編で論じますので、更に、ここではその裏付となるこの石燈を送られた時期等に付いて詳しく検証する必要が出てきます。

    「石燈を贈られた可能性と時期」
    次ぎの様になります。
    分家の時代から観て、付き合いが見られた時期は、江戸の親族付き合いの慣習と系譜から平均45歳として4−5代とすると、5代目の吉保(1714没)が没した時期の享保元年位(1712-1716)までは親密に付き合いしていた事に成ります。

    付き合い期間 (1582)−(1712−1716年)頃まで

    武田氏滅亡1582年、約140年と成りますが、石燈を贈るとすると1676年頃以降と見ます。4代目位のところです。

    石燈奉納時期 1676年以降−(1680-1688) 柳沢吉保期

    そうすると、柳沢安忠の時代です。安忠は1602−1687年です。
    徳川氏に仕官し、この時代は250石程度の貧困時代です。石燈を2つ贈る余力は有りません。
    次の子供は柳沢氏最大の立身出世吉保の時代と成ります。
    石燈を贈れる身分は1680年の小納戸役から吉保(1658-1714)が30歳1688年に大名格に出世した期間と成ります。
    最終、吉保は1694年の川越藩72000石から、1704年の甲斐の国三郡(山梨、八代、甲府)15万石を知行地とします。
    吉保(吉里)が奈良郡山に転封する前と成ります。この1688年の1年前は父親の享年です。
    吉保の納戸役に成った時1680年頃か、1688年の大名に成った時の何れかです。
    推理と一致するとすると、

    第1説 1676−1680年。

    或いは、「父親の喪中明け」に巨摩郡青木氏花菱紋正定系の浄土宗源空寺と柳沢氏の元祖豊定(正定兄弟)の光沢寺に2対を贈った事に成ります。

    第2説 1688年

    後者の大名に成ってから贈るには立場上に問題があり過ぎます。
    送れる能力が出来た頃である筈です。氏家制度の社会慣習の中では「親族付き合いの義理」が重んじられる慣習(一族で力のある者は無い者を助け、無い者ある者の力と成る)から観て、これを欠くと人は付いて来ませんので贈れる事が出来始めた頃となると前者(1676-1680)の1680年と観られます。

    結論 1680年の奉納

    浄土宗源空寺石燈は間違いなく記録から柳沢氏からと観られます。
    これは次ぎの証しとも成ります。

    1 花菱紋青木氏の菩提寺検証の充分な証しと成ります。
    2 別家を興した正定の花菱紋青木氏とその菩提寺浄土宗源空寺の建立、
    3 弟の豊定も別家花菱紋の柳沢氏を興し光沢寺を建立の証しに成ります。
    4 この石燈は、信興の割菱紋柳沢氏では無く、豊定系の花菱紋柳沢氏である事の証しにも成ります。(信立の事も証しの一つですがこの件は後述)

    次ぎの証明です。
    「氏神に保管の仏像」と「氏神の神紋の花菱紋」

    この事は「花菱紋ステイタスの仏像」と「廃仏毀釈と源空寺」の事件に関わります。
    明治の愚策として有名な維新政治を断行する「廃仏毀釈」ですが、歴史的に有名な貴重な寺など文化財が無くしてしまいました。この愚策も当時学者の愚論が成したもので甲斐の武田氏の貴重な「伝統」が消えてしまいました。この様な研究をして大変な努力でその史実を戻す必要があるのです。

    花菱紋の祖の「正定」主家が建てた青木氏菩提寺浄土宗源空寺ですが、浄土宗の開祖「法然」の法名「源空」を採って名付けられたのです。その山は「法然山」として開山します。
    甲斐青木氏の菩提寺の浄土宗寺ですので、ここに彼等のステイタスとするところの仏像が明治の廃仏毀釈まではあったと伝えられています。
    現在、不明であり、一時、源空寺廃寺になった際に近隣の氏神社に保管されていたと伝えられています。
    地元の口伝によれば、この源空寺を市当局が昭和の末に住民の申請に基づき調査し、その伝統の重要性を認め市の寺跡としては「文化財」として保管管理しているとの事です。
    恐らくはこの「仏像の所在」が確認されれば、廃仏毀釈で壊された甲斐武田氏花菱紋の一部の「伝統」が子孫に遺される事になります。地元では期待されています。
    源空寺には現在、過去帳や書籍記録などは不明であり、柳沢氏から贈られた石燈だけが遺されています。(上記検証済み)
    廃寺と成った源空寺と住民檀家の意思で江戸時代に造られた嘉永年間の「釣鐘」が神社に保管されているとの事です。
    これ等の遺品の所在が確認されれば、正定系花菱紋青木氏と豊定系花菱紋柳沢氏との関係の証しとも成ります。恐らくはその記録書籍にも明示されているものと思われます。
    青木氏と柳沢氏が徳川氏に仕官して移動した経緯や、1590年の武川衆の武州(武蔵:埼玉鉢形)への代替地などでの移動で明示の廃仏寺に宗家筋に引き取られている可能性も否定できません。
    従って、武川筋には花菱紋の青木氏や柳沢氏の子孫末裔は無く、全て徳川氏の命で鉢形に移動しているのです。
    巨摩郡には両氏ともにその末裔は、江戸時代には極めて少なく、依ってこれ等に関する全ての史実が両方の土地では歴史が霧散しているのが現実なのです。
    これ等が確認出来れば武田氏、青木氏、柳沢氏との完全な形の証拠が裏付けられますが、間違いは無いと考えますが、最早、個人の提供なしでは現状ではこの程度の検証と成ります。ここまで把握するだけでも大変な苦労を伴ないます。武田氏は兎も角も青木氏と柳沢氏に関しては進めたいと考えます。

    「曹洞宗改宗の対応」
    花菱紋の正定を元祖とする青木氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗源空寺を開基しています。
    花菱紋の豊定を元祖とする柳沢氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗光沢寺を開基しています。
    (時光より2代目常光は真言宗常光寺を中興開基しましたが、更に天正元年頃前(1567)に13代目信定が曹洞宗常光寺と中興開基したのもこの同時期です)

    甲斐の賜姓族を含む皇族系青木氏(武田氏系青木氏)の一門3氏6家は独自の菩提寺と氏神を当初持っていたと考えられます。
    その浄土宗寺を確認すると、甲斐には4寺のみです。
    その内、甲斐巨摩郡付近の浄土宗寺は次の通りです。
    1 定額山善光寺(甲斐)
    2 岩泉山光福寺
    3 功徳山尊たい寺
    以上3寺があります。

    甲斐の賜姓青木氏も青木村と寺社(国府跡)を持っていたことが史実として判明していますが、それが時間の経過に伴ない不明に成っていました。しかし、先日、寺本の庁舎南横がその寺であったことが判明しました。(皇族賜姓青木氏 国府跡)
    その後、当然に、青木氏の慣習に基づき、当初は武田氏系青木氏の3氏6家(時光派、源光派)の「統一した菩提寺と氏神社」があったと考えられます。
    先ず一つは、真言宗に改宗する前の常光寺であったと考えられます。
    ただ、その完成から時光没までの期間が短いために、2代目常光が故意的に「中興開山」して新たな寺として、尚且つ、真言宗と改宗してしまったのではないかと思われます。(中興開基と開山と寺名の変更が記録されているので、建立当初は浄土宗であったと観られる証拠で、建立から極めて短期間のためにその寺名は不明となったと観られます。

    この様に、この2代目常光の行動は不自然です。
    源光系2氏としては、新たに開基、開山され、宗派が違えればこの寺を使う訳には行きません。
    まして、念を押すように、時光派の自分の名を寺名に付けた極めて不自然な行動からすれば源光系2氏は引き下がる以外に方法はありません。
    ”そうする事で源光系2氏を排除した”と考えれば、常光の突然の「中興開基、開山」「真言宗改宗」「寺名変更」の理由は成り立ちます。
    そうなれば、常光から真言宗、建てた親の時光だけは浄土宗の常光寺の理由は成り立ちます。
    ここで、常光寺には11代分の墓がある事は上記した通りです。(疑問7)
    時光より14代目正定と豊定が夫々浄土宗源空寺(松源寺)と浄土宗光沢寺を建立しましたので、以後の墓所は断定できます。しかし、12代目信正と13代目信定は何処に祭祀されているかの疑問11Aが残ります。(但し、信正、信定、正定等の代数は信生系譜説を前提 後述)

    「信正と信定の祭祀場所」
    先ず、時光より「12代目信正の添書」によると次ぎの様に書かれています。
    与兵衛 尾張守 武田信虎に仕える。法名深見、

    祭祀推定場所の浄土宗尊たい寺
    寺記によると次ぎの通りです。
    寺の創立は大永元年(1521)。
    武田信虎が忠蓮社弁誉上人を開山に迎えて開いた。
    初めは古府中の元柳町(武田3丁目)にあったが、文禄・慶長(1592〜1614)の頃、加藤、 浅野氏ら豊臣大名の甲府城築城にともない、現在地に移転した。
    以上の添書が在ります。

    考察すると、割菱紋の信定は浄土宗です。よって真言宗常光寺(曹洞宗になる前)になく、源空寺、光沢寺にもないとすると、浄土宗寺は上記二つであり、時代性、武田氏縁の寺でもこの寺のみです。信定は史実では何処にも移動していません。時光系の守護職「尾張守」であった人物です。
    添書”信虎に仕えた”とすると、信虎が建てた尊たい寺と成ります。
    ここに祭祀されている可能性があります。

    「時光より13代目信定の添書」
    藤九郎 主計頭 信玄と勝頼に仕える 天正3年長篠の役(1576)で討死 法名宋青 妻桜井安芸守の女 
    祭祀推定場所は浄土宗光福寺
    寺記によると、次ぎの通りです。
    甲斐源氏の祖である新羅三郎源義光が、「後三年の役」の時、奥州で戦死した人々を弔うために、嘉保2年(1095)に空源法印を開山として「寂静院」(横根寺)という真言宗寺院建立した。
    その後、山崩れで寺は失われたが、天文16年(1547)に武田信玄が、先祖の由緒ある寺として再建し、その時に「光福寺」と寺号を改めて浄土宗となった。

    考察すると、常光寺を曹洞宗に改宗したのは信定本人です。しかし、この常光時には時光から11墓ですから11代目と成ります。「信安」までです。つまり、12代目と自分13代目は祭祀されていないことを意味します。
    記録から時光系の守護職「尾張守」であった信定は祭祀されていません
    ”では何処に”と成りますと、後は信玄が建立したこの寺しか有りません
    何はともあれ、甲斐甲府付近には浄土宗は3寺です。甲斐善光寺は武田氏本家で青木氏は祭祀されていませんので上記2寺です。これが時代考証として「信虎」と「信玄」に夫々合致します。
    もし、ここに無ければ他国と成りますのであり得ないと思います。
    (一蓮(寺尼寺)と長禅寺の宗派のない単一寺で異なります。)

    確かに、両者は時光系青木氏割菱紋 副紋葉菱紋の本家では無く妾子により割り菱紋の分家(葉菱紋無し)を興したわけですから、その意味でも本家筋が祭祀には拒絶すると考えられます。
    しかし、信正と信定は当時は「尾張守」で時光系青木氏の主導権を握っていた人物です。
    まして、信定は常光寺を主導者として10代まで祭祀されている寺を独断で曹洞宗に改宗してしまった人物です。この事から考えれば、まして親の信正と自分を祭祀させようとすれば簡単に出来る事です。
    これだけの条件が揃っていながら、祭祀されていないのは、他に祭祀される寺があった事を意味します。まして、自分が入らずに甥に当る本家の信安が曹洞宗に改宗した後に最後の人物として祭祀しているのです。
    常光寺は宗派は別として、信定が尾張守で甲斐青木氏の主導者であっても「時光系青木氏の本家」を祭る寺として扱い、そこで曹洞宗に改宗して時光系青木氏だけの菩提寺とせずに一般化した事で、以後青木氏の祭祀を打ち切るとして決断し、物事の「けじめ」を着け、親の信定と自分は上記二つの寺に祭祀される様に武田宗家に申し込んだと考えられます。
    (信定は信玄と勝つ頼に仕え、この時は勝頼)
    その宗家の許可の背景には、曹洞宗にする事の利益、つまり、甲斐全土35%の「宗派の力」とその曹洞宗信徒から来る「農兵の勢力」の確保にあったからに他なりません。(曹洞宗は下級武士、庄屋豪農、名主、郷士、を信徒とし、それに連ねて農民が帰依した。)
    この時期は織田氏との戦いを前にして家臣が離散し、兵が集まらずに躍起と成っていた時期であります。これ等の条件が重なり過ぎています。

    「常光寺前の経緯」
    ”時光は武田氏から離れ、清和源氏の朝臣族を理由に「嵯峨期の詔」に従い「皇族青木氏」を名乗り、弟の源光の「皇族賜姓系青木氏」の2氏と共に統一した甲斐の「青木氏の菩提寺建立」に着手した。”と成ります。統一した青木氏の寺を建立しようとしている位に青記氏に津からを入れています。
    その時光は賜姓源氏清和源氏の充分な身分家柄の末裔でありながら、敢えて同族青木氏を名乗る必要性は有りません。そもそも賜姓源氏と賜姓青木氏は皇族系の同族です。しかし、名乗ったのですから、そこで、”何故青木氏を名乗ったのか”と云う元の疑問1が出ます。

    「青木氏を名乗った理由」
    ”甲斐の本流の「皇族賜姓青木氏」と血縁した武田氏系青木氏(賜姓血縁族青木氏2氏)を持つ弟源光と、弟に合わせて兄時光系からも青木氏を発祥させる事にした。”とすれば証明が付きます。
    そこで「全甲斐青木氏菩提寺」を建て始めたとする事で疑問の経緯は成り立ちます。
    従って、全甲斐の皇族青木氏を含む武田氏系青木氏の当初の寺(浄土宗常光寺)は、2代目常光の行動により常光の代から天正3年前まで(1576頃)時光系の真言宗菩提寺として使ったとすれば(既にこれは確定していますので)、別に武田割菱紋宗家の青木氏(源光系)と武田菱紋の青木氏(源光系)の独自の末寺と氏神社が別にあったと考えられます。
    (武田氏系花菱紋の青木氏(時光系)を除く)
    では、それは何処なのか疑問11Bです。
    (甲斐皇族賜姓青木氏宗家は寺本の古跡寺院跡)
    この2氏は当然に浄土宗寺ですが。その浄土寺は上記した様に甲斐では2寺のみしか見当たりません。
    12代目(信正)と13代目(信定)は時光系ですが、系譜通り家紋は割菱紋を使っています。
    とすると、源光系の皇族賜姓青木氏の「武田割菱紋」一族もこの第13代目「信正」の祭祀されていると推理される「尊たい寺」と成ります。
    源光系の皇族賜姓青木氏の「武田菱紋」も皇族賜姓族の清和源氏の祖を祭る事で「光福寺」であると考えられます。
    もし、源光系の青木氏は賜姓系である事から、寺本の国府跡にあったとされる寺院に祭祀されていたとすると、「国府」が武田氏によって笛吹市に移動された時期と寺の消失時期が問題に成ります。
    源光系の武田氏系青木氏の発祥は、武田氏が最初に国府移動させた後に成りますので、寺本の寺院は賜姓族本家筋のみであるとなり除外できます。(国府は甲斐では3回移動させている)

    そうなると、この二つの浄土宗寺は次ぎの氏を祭祀してることに成ります。
    時光系青木氏12代目割菱紋(尊たい寺)
    時光系青木氏13代目割菱紋(光福寺)
    源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田割菱紋(尊たい寺、光福寺)
    源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田菱紋(光福寺)

    その経緯からすれば、13代目の信定の曹洞宗に改宗する理由背景は”曹洞宗の僧に帰依した”とする単純な理由説で良いのかと疑問11Cが湧きます。
    現在ではいざ知らず、「氏家制度」によって成り立っている社会です。
    そんな事をすれば一族の「伝統と習慣」が壊れ一族郎党が大変な事に成りますし、信定本人や本家の存続が危ぶまれます。
    上記で述べた様に、信定は実の3人の子供が居ながら次ぎの様な脅威の事を断行しました。
    1 他家から養子(信之 高尾氏)を迎え柳沢郡の青木氏を継がせた。
    2 嫡男(正定)に別家を作らせた。
    3 次男(豊定)には新規に別家柳沢氏を発祥させた。
    4 三男(豊勝)に兄正定の養子として分流跡目の割菱紋を継がせた。
    5 信生(信時の養子 落合氏 信安の義弟)を本流(割菱紋 副紋葉菱紋)から迎えて分流始祖に据えた。
    (系譜上、父信正の祖に据え義祖父とした。信生−信正−信定の説 後述)
    と云う5事件が起きたのです。

    更には、次ぎの様な事も起こっているのです。
    1 曹洞宗改宗事件は天正3年前(長篠の役前)に武田氏が危ぶまれている時期に起こっています。
    2 武川衆の去就(離脱)も左右している時期です。
    3 真言宗常光寺の存続も危ぶまれている時期です。
    4 真言宗は密教ですから尚更に運営維持は困難と成って居た筈です。
    5 信定にとっては政治的に身動き出来ない事に成っていたと考えられます。
    6 実子(正定、豊定)と「路線問題」の意見対立が起こっていたと見られます。

    故に、「浄土宗源空寺」の経緯は、強引に又は止む無く「曹洞宗常光寺」に成った事により、浄土宗派(正定、豊定)が、常光(真言宗)や信定(曹洞宗)の採った処置を、元に戻そうとした行動と成ります。
    当然に、ここで、武田系青木氏の中に「浄土宗派」、「真言宗派」、「曹洞宗派」が生まれるのは自然の摂理です。
    「5つの浄土宗派」は次の通りです。
    「甲斐皇族賜姓青木氏」1氏
    「武田氏系青木氏(源光)」2氏
    「花菱紋青木氏(正定、豊定)」2氏
    以上5浄土宗派は、依然として勢力を持ち現存している中で、浄土宗派が元に戻そうとする行動は自然、必然の行為です。
    では、次ぎに真言宗になった時点で浄土宗派はどうしたのかと言う疑問12が生まれます。

    「浄土宗派の行動」
    「光福寺」と「尊たい寺」の前身を堅持していたと見られます。
    これ以外に甲斐には浄土宗はないのですから、「宗派伝統」を護るためにもこの二つの寺を堅持する以外にありません。
    その武田氏系青木氏の経緯を観ていた「信虎」と「信玄」が、武田氏の本家筋の寺としてでは無く、改めて改宗をして全武田氏系青木氏の菩提寺として2つの寺を再建したと考えられます。
    だから、「信虎、信玄」の時代、即ち「信正と信定」の時代に改宗しているのです。
    又、だから真言宗常光寺も11代分(信定の前の信安)までの墓しかないのです。
    信虎、信玄、(勝頼)は、特異な行動を採る常光寺を除外し、この二つの寺を再建して伝統の浄土宗の武田氏系の菩提寺としたと成ります。
    5つの浄土宗当事者と本家の「信虎、信玄」を含む浄土宗派武田氏は「真言宗と曹洞宗の改宗」に対して対策行動を採った事に成ります。
    この宗家の行動は自然で当然の行動と考えられます。これで筋道が通ります。
    しかし、この行動も直ぐ後(天正3年1576、武田氏離散 天正10年1582 武田氏滅亡)で難しい問題に直面したのです。(史実としては1573年頃から崩れ出した)
    この事で、これ等の寺を棄てて全武田氏系青木氏が各地の藤原秀郷流青木氏を頼って逃亡しました。
    当然に、信虎や信玄の折角の浄土宗寺の再建にも檀家の青木氏が逃亡したのでは維持管理は難しく成ります。
    (逃亡した武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏は逃亡先に御霊を移して菩提寺を建立した)
    その後、この2つの寺も戦国時代で火災消失が起こりその記録などが無く成っているのです。
    現在はその再建した寺ですので上記の事が記録として確認出来ないのです。
    しかし、後にも先にも甲斐にはこの二つの浄土宗寺のみですので、浄土宗派には祭祀はここしか有りません。その意味でも花菱紋の源空寺の存在は重要です。
    次ぎに、この花菱紋に「丸付き問題」が続きまたもや事件が起こったのです。
    更には明治の「廃仏毀釈」が起こったのです。

    「廃仏毀釈廃寺の理由」
    全国の廃寺の寺は殆どが「末寺、檀家数、特定寺」によって廃寺処理されています。
    明治政府にとって観れば維新政治を断行するには宗教勢力を弱体にする必要がありましたのでこれ等を基準に潰したのです
    このことから考えますと、青木氏の源空寺と柳沢氏の光沢寺はこの条件に合致し末寺の花菱紋2氏の青木氏菩提寺であった事から、一般性に欠ける「特定寺」「小さい寺」として(本寺があるとして)廃寺されたものと考えられます。(松源寺は武蔵鉢形に移された 廃寺)
    親族の末裔「柳沢曲渕」を元祖とする寺(豊定系)が甲斐(光沢寺−奈良に移動 永慶寺廃寺−末寺大泉寺)に別にあリますので、花菱紋の正定系の2氏も当然に独自の寺を持っていた事に成ります。これが源空寺と松源寺です。そして、源空寺の廃寺の際に花菱紋の一族のステイタスも含めて寺の物事を近隣の神社に移動させたとする口伝がありますので、大切なものであったとされます。
    その花菱紋一族のステイタスが「仏像」であった事に成ります。
    当時、伊勢を初めとする皇族、賜姓青木氏にはそのステイタスとするところの仏像を保持していました。
    甲斐の皇族賜姓青木氏(源光系含む:慣習で仏像を与えている)には寺本の国府寺が消失しているので、そのステイタスの存在如何は今後の研究課題です。
    しかし、甲斐の花菱紋の「仏像」が存在しているとすると、まして、その寺の寺紋が花菱紋の丸なしです。(現在、昭和60年前後以降この仏像の所在は確認されていない)
    花菱紋の青木氏の氏神が現存すると云う事は、花菱紋のステイタスの仏像もある事に成ります。
    藤原秀郷流青木氏主要9氏116家も同じ独自の寺社神社を持っていますので、家紋の事も含めて丸付き紋なしの花菱紋であれば間違いなくその慣習に従っています。
    この研究が今後の課題です。

    そこで、武田氏と武田氏系青木氏の家紋には「丸付き紋」は本来は採用していません。
    まして、一条系(後呼称)とされている源時光系の花菱紋族となれば尚の事です。
    藤原摂関家北家系の一条、九条、鷹司、近衛の公家4氏一族の母方です。名門中の名門です。
    その名門に仮に「丸付き紋」が存在するとした場合、「家紋掟」1−8のどの原因で「丸付き紋」に成ったのか「原則が崩れる大きな問題」が存在し、それを研究することは甲斐の「武田氏系花菱紋青木氏」を解き明かす上で必要と成るのです。
    そこで、以前より「丸付き花菱紋」を調べていましたが、花菱紋の系譜添書から観て、分家筋には丸付き紋になる原因が発見されました。この「丸付き花菱紋」は柳沢郡青木村の青木氏が「特定の事情」により「丸付き紋」を使用しました。この事は上記検証済です。
    江戸中期以降はこの家紋掟の1−8が緩やかに成りました。
    しかし、追記しておく必要がある事として、次ぎの系譜添書が発見されました。
    天正の頃、その時代付近では、花菱紋の正定が別家を起こしました。そして、その別家末裔が発展し正定より享保の頃、5代目信秋のところで、養子縁組が起こっています。
    当初、この下記青木氏が柳沢郡青木氏として考察していましたが異なりました。
    詳細に調べた結果、次ぎの様な検証と成りました。

    他氏の同姓の青木宗頼の次男「信秋」が花菱紋青木氏分家「信知」(正定系)に養子に入っています。
    この養子先実家の青木市郎兵衛宗頼が何処の氏なのか疑問でした。
    当初、柳沢郡の青木氏とも考えられていました。
    今回、「丸付き紋」を調査していて、更に検証の結果、「丸付き紋」に成った背景が享保(1735年)頃と判断されていたがその可能性が乏しい事に成ります。
    そして、天正の時期が最も適合するとの推理から、添書を更に徹底調査し史実を発見した事に成ります。
    これも添書調査を行った結果、享保のこの養子先家紋は花菱紋を含む武田氏系では有りませんので、柳沢郡青木氏の可能性はなくなりました。
    そこで、念のためにこの信秋を考察したところ、添書と史料を付き合わせると次ぎの事が書かれていました。

    「添書と史料」
    三五郎 太郎右衛門 実は青木市郎兵衛宗頼の次男 母は小栗平吉久弘の女 信知の養子となる 宝永6年大番に列する 享保20年組頭に進む 寛保元年51歳にて死す 法名常心 妻は松平勘十郎忠隆の女

    史料
    その元と成ったキーワードは「享保」「・・兵衛」「小栗氏」「江戸」です。
    徳川吉宗の享保改革として、伊勢松阪の豪商伊勢青木氏本家(紙屋青木長兵衛)から吉宗に請われて紀州藩から同行 吉宗の享保の改革を勘定方として断行する。江戸に伊勢青木氏の分家2氏の末裔が出来る。吉宗は伊勢の紀州藩家老加納家に育てられる。吉宗と知友 加納家と伊勢青木氏とは数度の血縁関係にある。同時に伊勢青木氏は紀州藩勘定方としても奉仕する。
    以上の伊勢青木氏の史料から享保時代の内容が出てきました。

    享保時代の江戸の青木氏は史料から6氏程度と見られます。
    この一つが「青木市郎兵衛宗頼」の氏と観られ分家の1氏と成ります。
    以上の内容からこの伊勢青木氏の「通名等と時代性」と血縁性が酷似していますので、この氏とも考えられます。
    (何れも徳川氏家臣ですが、この氏は1−8の家紋掟から観て「丸に花菱紋」に変わる根拠が発見されません)
    つまり、別に享保時代に正定の武田氏系花菱紋青木氏の末裔と笹竜胆紋伊勢青木氏との血縁があった事が覗えます。(今後充分な検証要)
    信正−信定系譜の高尾氏からの養子「信之」の末裔が丸付き紋の花菱紋を使った事が上記で検証しましたので、特記として正定の養子の「青木宗頼」は伊勢青木氏のルーツとの血縁がある可能性がある事も判りました。

    「丸付き紋の第3氏の青木氏」
    系譜を確認する際に於いて最も考察しなくてはならないのは、第1期、2期の「未勘氏」と「第3氏」ですが、賜姓青木氏や藤原氏一族主要5氏や賜姓源氏等の名家はその特定の定住した地域に多く発祥しています。
    この「第3氏と未勘氏」には必ず「氏家制度の慣習」の矛盾が起こります。
    前のレポーにも書きましたが、先ず、「菩提寺の有無」と「過去帳の有無」、それに先祖の「最も古い人」が江戸中期前の人である事などで直ぐに判ります。
    幾ら系譜などで「搾取偏纂」しても氏家制度の社会の中では絶対に変更できない事が発生します。
    中級武士、又は下級武士は寺に過去帳を作ります。
    氏家制度の慣習の中では、姓を持たない者は時系列が取れませんので「過去帳」を作れず持ちません。又、庶民にはその社会習慣がありませんでした。一部苗字帯刀を許された者以外は例え持ったとしても江戸中期以前は認められなかったからです。
    豊臣政権下の「兵農分離令」以降に於いて一部苗字帯刀を許された者として次の家柄が挙げられます。
    A 庄屋、
    B 名主、
    C 豪農、
    D 郷士、
    E 郷氏、
    F 豪商
    以上です。
    これ等の者はもとより鎌倉期−室町期初期では武士であった事と、「伝来の姓」を堅持していた事が「共通条件」です。「過去帳」も持っている事と、「墓所」も持っている事に成ります。
    「それなりの伝統」を堅持しています。
    しかし、これ等以外の庶民は宗派(改宗)は単独では変える事は出来ますが、特定の宗派(浄土宗寺)が受け付けませんし、姓を持ちませんので出自の確認は当然に出来ません。
    個人一人が名乗ったとしても親族関係が変化していませんので判別できる事に成ります。
    この様に江戸中期前は当時の「氏家制度の慣習」は厳しいものがありましたので、一つ一つを潰して行けば必ず矛盾が生まれます。

    現在の感覚から判断して「第3氏、未勘氏」は差別的と考える人が居られますが、当時の「氏家制度」の社会慣習からは普通の事で、特に本サイトだけの事では有りません。
    一つの青木氏の氏として系統的に纏め様と試みますが、何せ”「氏姓」を持たない”と云う事から物理的に、「不特定多数」である為に「系統化」出来ないのです。又当然、「特定の事件性を持った第3氏か未勘氏」6氏以外に古史料も有りませんので調べる事は出来ないと云う難点があります。
    多くの明治以前の歴史書では「第3氏、未勘氏」の区別を明確にしています。当時としては区別しない方に社会慣習から異常感があったのです。
    今回の系譜、添書、史料からの検証もこの系統的なものがある事から成し得たものです。
    本サイトでも、「第3氏と未勘氏」に関してはすでに一部のデータもレポートしています様に、上山氏等の特定6氏の第3氏青木氏の研究データを保持しています。
    将来、上記AからFまでの青木氏に関する研究を試みたいと思いますが、しかし、最早、武田氏系青木氏の研究も難しく成りつつある今、その史料と成るものの発見が困難と観られます。

    注 「青木氏氏 研究室」「明治期に発祥した第3の青木氏」レポートに詳細の検証項目を列記していますので参照して下さい。

    現実には、皇族賜姓青木氏29氏と藤原秀郷流青木氏119氏以外の「第3氏又は未勘氏」の方が格段の差で人口的には多い事に成ります。

    さて、「信之」の「花菱紋」に関しては、系譜上は初代より養子の連続で「丸に花菱紋」は「第3氏」ではありませんが、血縁関係としては全く有りません。(上記済み)
    「寛政史書」の「寛永青木氏第三の系図」の歴史書にみる様に、又「古書家紋200選」や「全国家紋8000の家紋集」にも掲載がない所をみる様に、ある意味の「第三氏」である事が検証の結果判りました。
    しかし、この「第三氏」として扱われている青木氏にも、甲斐には上記したルーツ(系譜と血縁)を持たない「第3氏」(氏姓を持たない)が多く存在します。
    上記の様に、武田氏系青木氏は殆ど完全に近い形で一族郎党が移動している現実があります。
    武田氏滅亡により、関東に逃亡、徳川氏仕官、秀吉の甲府関係の築城で転地、徳川氏の代替地、で本家宗家を含む一族郎党、菩提寺氏寺、氏神も持って移動しているのですから、他の国の青木氏と違い甲斐としては特別な第3氏、未勘氏」の意味を持っています。
    これ等は「個人の意思」とは別の「政治的な移動」であるからです。

    「花菱紋」の浄土宗菩提寺源空寺には、この「花菱紋(浄土宗)」と「丸に花菱紋(曹洞宗)」の問題が後世に於いても面倒な遺産として遺しています。それだけに、家紋の変紋と共に、甲斐武田氏系青木氏には「浄土宗、真言宗、曹洞宗の改宗問題」が大きい物であるかが判ります。
    しかし、この検証結果から「丸に花菱紋」(第三氏)の源空寺問題には差違を生じている事は否めません。
    また、武田氏衰退滅亡(1573-1582)と共に、「丸付き紋」も含む第3の系図青木氏は例外なく武田氏系青木氏と見なされて全ては逃亡して本家分家ともに主に現在も関東の東に在住しています。当然に氏寺や氏神(御魂とステイタス仏像)を移動させているのです。
    甲斐は織田氏に滅ぼされて、更には豊臣、徳川氏の支配下に置かれました。(1582信長死亡)
    従って、1585年戦後処理の後には、一部身元引受人の藤原秀郷流青木氏の許可を得て再びその地に帰る事もあったとも考えられますが、徳川の家臣団に組み入れられましたので移動は現実には困難であったと考えられます。

    「花菱紋の柳沢氏の出世」
    特に、柳沢氏の吉保の出世に伴ない甲斐の武田氏系青木氏を初めとする出身家臣が多くなったと考えられます。
    豊定を元祖とする柳沢吉保は概暦は次の通りの出世をしています。
    1 綱吉の小姓 111石 1675年
    2 小納戸役 500石 1680年
    3 従五位下 6500石 1685年
    4 側用人 12000石 1688年
    5 従四位下 32000石 1690年
    6 老中侍従 72000石 1694年
    7 甲府藩 150000石 1704年
    8 郡山藩 150000石 1709年   
    以上石高から観た概暦です。 
    (当時の慣習では史料からバラツキがあるが戦い時には1万石で平均4−5騎が義務付けられたとする。)
    小姓時代は0人、小納戸役時代は1-2人、6500石時代で100人 12000石では300-400人 32000石では900-1200人 72000石では1800-2400人 150000石では3700-5000人

    恐らくは、甲斐の武田氏系青木氏の者の内、親族の巨摩郡青木氏の「花菱紋族」はこの柳沢氏家臣団を構成したと見られます。
    一騎50人を原則としていますので、身内から集めて石高に合わせて家臣団を作る必要があります。そうなると当然に先ずは身内から集める事に成ります。

    「柳沢氏と家臣団と家紋の分布」
    柳沢氏は35年の間に家臣を上記の推移で養っていたと考えられます。
    これ等は主に甲斐の花菱紋を始めとする3氏6家と武田氏縁の家臣を集めて編成したと考えられます。これ以外に直接徳川氏の旗本と御家人に成っているものが殆どである事から、1688年の頃には武田氏系3氏6家は充分に一族郎党が吸収される能力を保持している事に成ります。
    当然、吉保4代前の元祖豊定の兄弟の正定の花菱紋の親族を中心に家臣団を構成したと考えられるますので、花菱紋の末端まで吸収されたと観られます。

    1 中部から関東にかけて藤原秀郷流青木氏に保護されていた源光系の武田氏系の青木一族
    2 神奈川横浜、栃木、常陸に移動した諏訪族青木氏、諏訪族武田氏系青木氏
    3 時光系の武田氏系青木氏の武蔵、上野の青木氏
    4 武川衆の武蔵鉢形に代替地移転
    5 讃岐、高知、阿波の藤原氏を頼った源光系青木氏
    6 安芸を毛利氏を頼った武田氏分家一族
    7 武田氏宗家 第1縁戚8氏、第2縁戚7氏
    8 甲斐国隣接する国境の武田氏家臣の同心一団
    以上に移転し、その後、柳沢氏や徳川氏の家臣団に加わる事に成ります。

    各地から身内を呼び戻して家臣に加えたと観られます。
    柳沢、八代、江戸、川越、甲斐、郡山へと花菱紋を中心とする武田系の家臣団は移動し、甲斐には柳沢氏の配下に成った者は1704年頃には殆どは故郷に戻った事に成ります。早い者は1688年に戻っている事に成ります。
    問題はその5年後の奈良郡山郡への移動では家臣は戦時と異なり減少をしている事が考えられるので、減少すると見て、甲斐には僅かに一部残留組が留まったとも観られます。
    しかし、「武士を捨てる云う選択」に迫られる事が起こるために土地家屋を失った所では青木氏の一族郎党は直に生活に困ると云う現実問題が伴ないます。
    数として考えられない範囲の若者の個人単位であったと観られます。
    この事から、江戸、川越、郡山にも花菱紋の青木氏の多くが定住し存在した事が考えられます。

    柳沢吉保は武田氏として再び甲斐3郡(山梨、八代、甲府)の15万石の大名(1688)になり、再び花菱紋の武田氏が領地を取り戻した事に成ります。
    逆には、甲斐に戻れたとした場合は、113年後には、関東の逃亡先からの武田氏系青木氏は戻った事も一部であるが考えられますが、但し、100年以上も経っている事から武士として戻る事は不可能と観られます。
    既に生活基盤が出来ている年数ですし、住めば都です。100年(当時では3−5代)も逃亡先ではその生活も出来ている事もありますので極めて少ない事であろうと考えられます。
    しかし、一族揃って徳川氏の家臣となりましたので、柳沢氏の家臣団の移動以外の武士の移動は国抜け脱藩となり罪人と成りますので、現在の移動とは比べ物にならない困難さであったと観られます。

    この様な、動きを証明する事件が起きています。
    柳沢氏以外にも、この事に対して、一派の家臣を救う次ぎの様な動き(8)がありました。
    1 武田氏の家臣で徳川氏に仕官した「大久保長安」なる者(八王子8000石)が家康に「治安と要衝地防御」を理由に建言し、「八王子500人同心」を編成する事を許可され、離散した武田氏家臣を吸収しました。
    2 又その後、その効果ありと観た家康は「八王子1000人同心」を追加指令して多くの武田氏浪人を救ったのです。この策を武田氏の家臣の分布する国々に「・・同心」を編成して治安を回復を進めたのです。
    3 他には、武田氏宗家の生き残りは伊豆大島の流刑となり50年間滞在する事に成ります。
    その代表的な事件として、武田信興は柳沢吉保の働きかけで、この流罪刑を解かれて戻り、一時、同族柳沢吉保に護られて生活をします。
    4 更に許されて武田氏最後の地の八代郡に戻されて500石を与えられて旗本にし一族家臣を引き取りました。
    恐らくは、これが最後の武田氏の救済作であったと観れます。

    「武田氏の救済策」
    徳川氏の仕官した一団、
    八王子大久保氏に救済された一団
    柳沢氏に吸収された一団、
    八王子大久保氏に救われた一団、
    四国讃岐籐氏に保護された一団、
    藤原秀郷流青木氏を頼った横浜神奈川に定住した一団
    伊豆の皇族賜姓族青木氏を頼った一団
    下野、武蔵、常陸、上野に逃亡定住した一団
    以上の様に、武田氏系花菱紋の柳沢氏の吉保は直接間接に武田家臣団を救済していたのです。

    武田氏の家臣団全てが徳川氏に仕官したわけではありません。青木氏等の武田氏に縁のある一族が先ず仕官が適ったのです。
    しかし、末端の家臣では盗賊山賊などのシンジケートに入りその集団は膨れ上がり治安悪化の原因と成っていたことが判ります。
    多くのシンジケートには豪商などのその大元の頭目元締めが居て背後から経済的な支援をして大名以上の勢力を保持していました。
    明治期までには、大豪商を維持するには、その財力の保全、取引の安全、運送の防御等の力が必要です。そうしなければ他のシンジケートから襲われる事がおきます。
    その武力の背景をこれ等の戦いで敗れた者を引き取り一団を形成させて自治運営をさせて、その一団毎を列ねて束ねる経済的な支援の相互関係が形成されていたのです。
    そして、今度はそのシンジケート間の連携を図ったのです。大きいシンジケートでは大名も到底おぼつかないものでありました。武力を背景とした大名と、連携の盟約の武力は勿論の事数段上であり更には、その比べ物にならない経済力です。
    大久保長安はこのシンジケートを取り込み表向きは「同心」としていて、実態は裏大組織による治安維持であったのです。ですから、後に「長安事件」が起こったのです。
    因みに、織田信長の3度の伊勢攻めに対して伊勢北畠氏、伊勢伊賀氏、伊勢青木氏(伊勢の豪商紙屋長兵衛)の「天正の戦い」(武田氏と同時期)で織田信長歴戦上の唯一負けたのが丸山城での伊勢賜姓青木氏(青木民部尉長兵衛信忠 青木紙屋長兵衛)との戦いでした。各地シンジケート連携による経済的な戦いでした。歴史上、有名な信長次男信雄の蟄居事件です。

    武田氏一族は4度の衰退を繰り返し、最後は吉保が出世する事で立て直した事に成ります。
    意外に、彼は悪役とされていますが、家臣団を救うことに情熱を高めていた事がこ考察から判ります。だから治安上から徳川氏はこれ等の動きと吉保の引き上げを図ったと考えられます。
    武田氏家臣の大久保氏の建言が認められたことが何よりの証拠です。

    「第3氏の発祥原因」
    室町期と江戸初期と明治初期の3期に発祥した「第3氏」は実は上記の「1騎50人」の原因から来ている事が多いのです。
    上記した家臣団を平時に維持する事は経済的負担が大きく、実際は「治安維持」と「年貢取扱」と「事務担当」と「資産管理」と「軍事」の家臣団の最低限の人数を維持しています。
    いざ戦いと成ると、「割当」が来ます。相手により違ってきます。ではどうするかと云うと、4つの方法があります。
    「徴兵の策」
    1 プロの雇い兵を徴用します。
    雑賀集団、根来集団、柳生集団、伊賀集団、甲賀集団、紀州集団、熊野集団、など例を挙げると限りが有りませんが、各地には多くの職業集団がありました。
    2 野武士、海賊、山賊、土豪等、敗軍兵を裏で取り仕切るシンジケートがあります。
    3 近隣の農兵でこれ等を束ねる地元家臣や土豪の集団 「武蔵7党」「伊川津党」等
    4 堺、摂津、伊勢、近江、商業都市等の豪商

    1は、信長が用いた武田氏滅亡の引き金に成った雑賀軍団鉄砲隊(3000)が有名です。
    武田氏は「長篠の戦い」でなす術も無く無抵抗で殲滅されたのです。
    三段撃ち戦法で間断なく発射する仕組みを使ったのです。最後は空砲で散り散りに成り逃走させたプロの射撃です。最も良い例です。

    2は、各国各地で発生する敗残兵で国を追われた彼等は集団と成り、海賊、山賊、盗賊等と成りこれ等を経済的裏づけで取り仕切る豪商(武士で、2足の草鞋策を採る)に支援を求める。
    秀吉の家臣の成った蜂須賀小六は元は山賊団で雇兵でした。秀吉は最初この小六団の一員で雇い兵だったのです。

    3は、豊臣秀吉が各大名の勢力を削ぐ事の目的で「兵農分離」の令を出したものですが、殆どはなかなか守らなかったのです。古来からの戦いの慣習です。
    農民がいざ戦いとなると土豪たちが農民と契約して借り集めて兵とする方法です。
    秀吉の軍師の黒田藩や薩摩藩が最も有名ですが、この軍団を使いました。
    明治維新の薩摩長州連合軍はこの兵でした。
    これには、支度金と戦いで勝った場合の報奨金や討死した場合の家族への保証金、負けた場合の前渡金等明確に契約されていました。
    彼等を雇う側(土豪等)では戦いでの戦利品がこの「裏付」でした。ですから、彼等は「落人狩り」を徹底して行い、又、関係する一族や農民の女子供を捕らえて人身売買をして「裏付」を確保したのです。戦利品として刀、槍兜、鎧弓、矢等を集めて金に交換するというシステムが出来ていたのです。大名はこれを黙認していました。禁止令を出す場合は自らが保証してやらねばなりません。しなければ次ぎからは兵が集まらないで負ける事に成ります。

    4は、戦いは兵だけで出来ません。野戦城や櫓建築や安全に交通要衝の所を通過するための護衛と道案内や運搬や食料調達や給仕役をする事も必要です。これ等を一手に引き受ける商人が必要です。
    その場合の兵とそれを護衛する護衛兵になります。
    徳川氏が豊臣を攻める時、名古屋城で一時留まりました。名目は秀忠本軍を待つ事でしたが、本当は伊勢路の確保に時間が掛かったのです。つまり、実戦部代と違う上記の軍団確保に手間取ったのです。
    それには、伊勢一帯を仕切る伊勢青木氏(豪商 紙屋長兵衛 伊勢シンジケート元締め)の合力が必要です。
    最終、伊勢青木氏は表向きは実兵250名で合力したとありますが、裏ではシンジケート連携で「伊勢路の掃討作戦と警護」が役目で影の数万の者を投入して行われるのです。家康は信長伊勢攻めでこの勢力を知っていますので、これが決めてと観て交渉していたのです。家康はその手配に時間が掛かったと観られます。

    さて、この3番目が第3氏を生み出す原因なのです。
    戦いが数度と続くと地元の豪族の土豪との付き合いも出てきます。
    大名は報奨金として、金品以外にも自分の家紋や氏名を使う事を許すことが多かったのです。或いは農兵の長等には「身分や権利」を与える事も行いました。
    軍師黒田藩はこの方式を軍略上の主点として徹底しました。黒田藩が元は農民に近い貧困の薬売り浪人であり、武田氏一族の大系譜を持つ様な事は全く有りません。大大名に成ったのもこの「農兵システム」を使った事に拠ります。
    黒田藩の農民が天皇家の象徴紋「五参の桐紋」を使っているのはこの事に拠ります。

    守護、領主、大名、親族、重役、主家臣から実兵としての扱いを受けていた背景があり、場合に依っては武田氏の様に織田氏との戦いの前では兵は集まりませんので、そこで事前に苦しい選択として「農兵の長」等に家紋や氏名の使用を認めて「准家臣」扱いをして兵を集めていたのです。
    甲斐に「第3氏、未勘氏」が多い原因でもあり、家柄身分を殊更に強い土地柄はこの関係から来ている事ともあるのです。源氏の傍流、系譜呼称一条氏、青木氏の強引な跡目系譜、数度の改宗事件等が起こっているのです。
    この様な原因から室町期末期、江戸初期、明治初期に観られる様に、青木氏は殆ど他地に移動していながらも、甲斐には多くの「第3氏 未勘氏」が生まれた主原因の一つに成っているのです。

    又、「明治期の第3氏、未勘氏」はこの傾向は少ないのですが、明治政府も「兵農の縁」から特に明治維新の功績から進んで名乗るように仕向けた事もありますし、又、なかなか明治3年の「苗字令」が行き届かなかった為に8年の「督促令」が出た事でも判ります。取り敢えず全国民が何とか苗字を持つ様にする為に、周囲の豪族の氏名を使う様に仕向けたのが原因の一つでもあります。
    ある日突然に、村全体が、郡全体が藤原氏や青木氏等を名乗る現象が起こったのがその証拠です。
    誰か大きな組織が主導していたから同時に成るという現象が起こったのです。

    しかし、花菱紋に付いては、系譜上は兎も角も血縁上他人となった柳沢郡青木氏の「丸に花菱紋族」は氏家制度の慣習の中では、他の武田氏系青木氏と違い難しい選択に迫られ、武士を捨てて逃亡するか、武士のままでの逃亡を選択し得なかったのではないかと考えられます。
    添書から観て、一時(3−5年程度)甲斐を離れて3代目で縁故を頼りに徳川氏又はその主な家臣に仕官した青木氏もあると成っています。
    そして一部この者等は織田氏の過酷な追及を逃れて3年から5年程度で甲斐に戻ったとも考えられますが、家紋の分布が極めて狭く限定した小域にある事や現在も家紋8000の中に無いほどに個人家紋が多い事等から子孫繁栄は拡大出来なかったと見られます。
    「丸に花菱紋」の青木氏の系譜を考察すると、先ず子供が少なく女が多い家系で、小録の扶持米200俵とあり、早世の家系にあります。これでは子孫を広げることは難しいと観られ1760年頃までで5代です。分家子孫などは1系統で殆ど増えていません。ぎりぎりに寛政(1800)まで来たと見られます。現存が確認されています。(これ以上個人情報により詳細不記載)

    故に、寛政の歴史書(1800)の「第3氏」に書かれている事と、これを観て作った正定の分家花菱紋9代目の青木信政(寛政1800)が編集して作ったとされる「丸に花菱紋の系譜」(添書には信政作ると明記)の錯誤(丁度100年)も故意的にずらしたと観られますので、花菱紋からすると系譜上からずらす事で別系図の異なる氏と見せたのではないかと観られます。
    この様な搾取偏纂の行為から見ても天正の頃から寛政までは「丸に花菱紋」は「第三氏」(第3氏では無い)と判断されていたと考えられます。
    「丸に花菱紋」の「第3氏、未勘氏」が特定していない筈の甲斐甲府に限り集中しているのは、上記の「兵農の縁」とも重なり、この系譜と家紋を使用するに問題が少ないと観たと観られます。

    「常光寺寺紋」
    常光寺の寺紋ですが、この寺は3度変化しています。
    1度目は寺の建立時は最初は浄土宗寺でした。(寺名不明 建立後時光死亡か)
    甲斐武田氏系青木氏3氏6家の統一浄土宗菩提寺の建立を目的として計画は進められた。
    (源光系菱紋、割菱紋青木氏の皇族賜姓青木氏と、時光系割菱紋葉菱紋青木氏 、割菱紋青木氏の皇族青木氏の菩提寺)

    2度目は皇族青木氏2代目常光の時に「真言宗」に成ります。
    建立間際前後に時光が死亡し、2代目常光は「中興開山」して自分の名を採り常光寺と命名 他の青木氏を排除する為に真言宗に改宗した。(時光系花菱紋青木氏 皇族青木氏だけの寺として中興)

    3度目は時光より11代以降の13代目のところで、13代目信定(信定の子)が「曹洞宗」の僧の「海秀玄岱和尚」に深甚したと成ります。そして曹洞宗に「宗派変え」(改宗)をします。
    信玄死亡後、武田氏衰退が始まり真言宗常光寺(11代目まで祭祀)の1氏菩提寺として維持管理が難しく成り、又青木氏の政治路線の違いから子(正定と豊定)側−父信定(子豊勝と養子信之)側の意見対立が生まれ、父信定は甲斐の3割以上を占める曹洞宗に改宗して門戸を開き「集兵と運営」の強化をした。
    寺紋の「丸に花菱紋」の使用もこの様な「集兵と運営」の一つの表れです。現に韮崎の常光寺や源空寺付近には「丸に花菱紋」が多いと観られるのもその証しです。
    (浄土、真言、曹洞宗の宗派争いに発展した 花菱紋青木氏の元祖正定と豊定は浄土宗派 豊定は花菱紋柳沢氏の元祖)
    この様に3度変化していますが、甲斐武田氏系青木氏にはその菩提寺を巡って3宗派間争いが起こっていたのです。
    これには、源光派の皇族賜姓青木氏(菱紋、割菱紋)−時光派の皇族青木氏(花菱紋)の対立が絡んでいたのです。
    其れは兄時光より弟源光の方が家柄、身分、血筋、と武田氏の6紋(家紋)から観た立場は格段上です。これが大きく左右している要因です。
    時光系派に取ってしてみれば、兄と云う立場もあり同等に成りたいとする心情がこの3つの変動から働いたと観られます。それは系譜から無理な一条氏の呼称にも観られるのです。
    そもそも、初めは、1185年頃までは甲斐の皇族青木氏(浄土宗)の菩提寺でしたが、甲斐源氏武田信義より6代目武田時光は母方が藤原北家摂関家の公家(一条、九条、鷹司、近衛)であるとして甲斐一条郷の一条氏を名乗ったとされています。
    これは皇族青木氏を名乗っているのにこれは疑問です。
    信義より2代目次男の忠頼は一条郷のであるとして母方一条氏を名乗りました。甲斐一条氏元祖です。
    それは公家一条氏が戦乱を避けて逃げ延びた所を甲斐一条郷としている所以であります。
    そこで、賜姓清和源氏の分家頼信系の源氏傍流を名乗るより、又、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏を名乗るより、一条氏を故意に誇張して家柄身分血筋を良く見せる為にした事では無いかと推測しています。清和源氏は傍流であり、乱暴者都して河内、京、常陸、甲斐と各地で受け入れを拒否され配流扱いをされた人物義清を始祖としている事、賜姓族ではない前例の少ない嵯峨期詔の青木氏である事、土豪(小田氏末裔)との血縁族、時光系は宗家武田氏支流族等が、当時の氏家制度の社会習慣からは低く観られていた事で劣等感を抱いていたと観られます。まして、特に、比較対照として上位にある弟派に対して誇示したかったと観られます。現在では如何にも源氏名門と一般的に公表されていますが、当時では氏家制度の社会の中で左程の事は無かったと観られます。
    ところがこの一条氏を名乗る根拠が系譜を調べると矢張り薄いのです。疑問です。

    「一条氏の持つ意味」
    一条郷の一条氏は信義の次男武田忠頼が元祖です。
    武田氏は信義の嫡男武田信光(2代目)が継承し時光(6代目)に及んでいます。
    忠頼は頼朝に謀殺されて絶えます。そこで、甥(信光の子)の信長に継がせます。
    信長の子義長が一条氏を名乗ります。ここで再び絶えたために義長の弟信経の子(甥)の宗信が継ぎます。ここで更に一条氏は絶えます。この様に5度も血縁性は低下しているのです。殆ど無いと云っても過言ではありません。
    一条郷の出自である忠頼は死亡し、その兄の信光は腹違いの兄ですので、一条郷のは母方一条氏の血縁性は元より有りません。そのルーツで名乗ります。
    更には、つまり、時光の父時信の弟(叔父)の時に絶えてしまうのです。それ以後継承者は見当たりません。6度目にも絶えた氏名を更には時光系が名乗るのです。

    結論は更に時光系が一条氏を名乗るのはルーツが異なります。
    この様に一条氏を名乗った全員がルーツを殆ど無縁としているのです。
    従って、6度もの断絶の一条氏ですから、まして、四国の一条氏や中国毛利の一条氏の様に一条氏の出自は明らかに無いのです。
    この事からも明らかに何らかの目的を以って故意に名乗ったものであり、当時、高野山に於いて空海の真言密教が大変隆盛(20%)を極めていた時期でもあります。そして、それをいち早く取り入れたその公家衆の宗派の真言宗に甲斐源氏武田常光が宗派変えをしたのも、叔父の源光系浄土宗派をブロックすると共に、其処に目的を置いていたものであり、「宗派選択の意味」があったのではと考えられます。

    研究の意味として、血縁性の無い甲斐の「第3氏、未勘氏」の氏姓の名乗りと、血縁性の殆ど無い武田氏系青木氏の「一条氏」の名乗りとは同じ土台の上にあると云う事です。
    武士も庶民も甲斐では同じ行為をしている事を意味します。藤原秀郷一門や皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏にはこの現象は確認出来ない現象です。
    まして、この「宗派対立」を全面に押し出しての争いは最早、「気宇」と云うべき事かなと思えます。

    「宗派対立」
    甲斐青木氏を揺さぶったこの宗派がどのような勢力範囲を維持していたかを検証しますと次のような結果が出ました。
    (末尾 分析詳細史料添付)

    真言宗は18寺 17%に成ります。甲府関係域では6寺です。
    曹洞宗は36寺 34%、
    臨済宗は24寺 22%
    真言宗は18寺 17%
    日蓮宗は14寺 13%
    真宗は3寺 2.7%
    時宗は3寺 2.7%
    法華宗は3寺 2.7%
    単一無派は2% 1.8%

    以上のデータの様に、甲斐は大変宗派間の競争が高いところです。全部で9派が競っているところです。
    しかし、甲斐賜姓青木氏の武田氏系青木氏2氏の跡目に入った同じ弟の源の源光は一条氏を名乗りませんでした。これで何故一条氏を誇張したのかはあらかた判ります。
    本来は、青木氏は源の源光が主流ですが、兄の武田時光は一条氏を名乗りながら、嵯峨期の詔に従い青木氏を名乗ったのですから、ここに意味するところがあります。
    一条氏を名乗るのであれば何も青木氏を「詔」を使って名乗る必要は有りません。
    既に弟の源光が本流として皇族賜姓武田氏系青木氏を引き継いでいます。
    それで、時光は皇族武田氏系青木氏は一条氏としながら11代続いたのです。
    (11代後墓は途切れています。)
    それと、常光寺前身の菩提寺そのものが青木氏です。わざわざ特別に11代の墓を列ねて並べる必要はありません。特に墓は青木氏でありながら名乗りは一条氏とは当時の氏家制度の慣習から考え難い行為であり、家柄を誇張したい所があったのでしょう。
    又、2代目の青木常光が自分の名前を採って名付けるなどの特異な行動を取りました。(中興開山)
    多分、この時(時光までは)寺紋は菱紋であったと観られます。
    そこで、自分の家紋の割菱紋に変更したと見られます。
    ところが、13代目あたりで曹洞宗に宗派変え(改宗)をしました。
    「中興開山」と記されていますので新たに開山したことを意味します。
    ですから、常光寺には11代分(12代目まで)しか墓がありません。
    当然、宗派が違う寺に、尚更に本流ではない妾子の12代目と13代目からは並べる事は出来ません。(浄土宗−真言宗−曹洞宗と中興開基と改宗をした)

    曹洞宗派甲斐全体で34%でもっともの勢力を張っています。甲斐全体で満遍なく分布しています。
    これは中興開基と改宗は当時としては飛び上がらんばかりの大変な事件です。
    「伝統」を重んじる氏家制度の中で、その身分家柄を示す宗派を変えてしまったのです。
    真言宗は公家、浄土宗は皇族賜姓族と藤原秀郷一門の皇族系侍が入信できる宗派です。
    それが、一揆そのものの良悪は別として、各地で一揆などを起す宗派で庶民か農民などから伸し上がった下級武士が入信する曹洞宗の宗派です。一族の者としては絶対に認める訳が有りません。
    まして、源氏でありながら筋違いの一条氏を誇張する程の家柄を気にした一族11代です。
    それも違いを出す為に一箇所に並べての仕種です。最早、これは彼等周囲にとって青天の霹靂です。
    当然、武田氏本家も何らかの対策を講じる必要はあったと考えられます。
    放っておく事は武田氏本家と一族にとって織田徳川今川北条との一戦の前に乱れるのは好ましくありません。武田氏系青木氏の路線と宗派の対立争いです
    其れが、武田氏宗家が採った上記の「光福寺」と「尊たい寺」の再建であり、菱紋、割菱紋青木氏(源光系)の浄土宗派への対策であり、そして、正定の別家花菱紋青木氏の発祥と源空寺建立と、豊定の花菱紋柳沢氏の発祥と光沢寺の建立、豊勝の本家継承であり、養子信之の柳沢郡の青木氏の継承となったのです。
    これは恐らくは信虎、そして、信玄の打った手であり、皇族武田氏系青木氏に対して圧力を掛けたものであろうと考えられます。
    自然に任したものではなく恣意的に全体が上手くまとまり過ぎています。
    添書”信定終わりに臨み養子となる”として高尾氏三男の信之を養子(柳沢郡青木氏)にした事が何よりの証拠です。これが明らかに恣意的行為です。
    (これが後に花菱紋との協議の結果であり、系譜添書の一節に繋がるのです)
    まして戦い前の臨終前の行為です。当事者間では無理で、仲介者が居て反対を抑えて上手く納めたこと以外にありません。(高尾氏と多田氏の氏は不詳)
    武田氏滅亡後に起こっ112年に及ぶ「天保騒動」でその宗教の体質も家柄誇張体質も良く判ります。

    後編に続く。


      [No.255] 甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/07(Tue) 20:43:31  
    甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編 (画像サイズ: 100×100 0kB)

    「花菱紋青木氏の歴史研究」
    (甲斐武田氏系青木氏)

    「始めに」
    日本全国の中でも甲斐には氏を別とする青木氏が大勢居るところで、昔は村を形成していました。
    武田氏系青木氏発祥には夫々の氏の特徴を持っています。
    ところが、千年以上経ちながらもまだ歴史的な事柄について余りにも解明されていない事が多いのです。
    特に甲斐では疑問点が多く時代と共に解消されないままに史実が消え去っています。
    最早、その史実を引き出し疑問点を解明する事すら出来ない状況に成っています。
    そこで、本サイトとでは何とか甲斐武田氏系青木氏に関する事柄をまとめ、疑問点を解き明かし、後世に遺そうとしています。
    そこで、サイトの「青木氏氏 研究室」と「青木ルーツ掲示板」等に個別に関係資料レポートを保存していますが、これ等のデータを改めて引き出して、「甲斐の青木氏」を総括的に記述して判りやすくし一つの「研究記録」として遺したいと考えました。
    そうする事により、まだ本サイトとのレポートを読まれていない全国に散在されている青木さんに歴史認識を高めて頂きたいと企画いたしました。

    「論文方法」
    先ず、本題に入る前に青木氏の「基礎知識」を高めて頂きます。
    そして、その基礎知識を基に甲斐青木氏の研究論文を読んでいただければより深いご理解が得られると思います。その理由はこの甲斐の青木氏には大変入り組んだ歴史と複雑な系譜と事件を持っています。これ等を理解するには過去の歴史の知識を前提に成ります。そうすると当然にその経緯を一度に文章化が出来難い事が起こります。
    そこで、論調は重要な研究部分を何度も重複しながらほぐれた紐を解くようにして更に深層を探り進めて行きます。
    その裏付と成る史料、史実、各氏系譜、添書、時代背景を絡まさせて論調を形成します。
    では、先にこの甲斐青木氏に持つ疑問点を列記しますので、概略を念頭にして本題をお読みください。そうする事でより深くその総括的な意味合いがご理解されると考えます。

    注 本文は甲斐青木氏に関係する所有する古系譜と古添書と古史料を先ず前提に論文を進めます。
    よって、インターネットなどで一般公開されているものと異なるところがあります。
    注 本文は甲斐武田氏系青木氏(時光系)に限定します。
    注 寛政史書、寛永青木氏第3の系図等の青木氏は含みません。
    注 甲斐皇族賜姓青木氏と甲斐武田氏系青木氏(源光系)の詳細な検証は含まみません。

    甲斐武田氏には今だ解明されない疑問点が以下の様にあります。
    「疑問点」(順不同)
    1 甲斐武田氏系(皇族系)源時光花菱紋元祖が浄土宗をどの様にしたのか。
    2 何故青木氏を名乗ったのか。
    3 何故花菱紋にしたのか。
    4 何故甲斐の常光寺に11代分のみ祭祀していないのか。
    5 何故一条氏を名乗ったのか。一条氏呼称の根拠は何か。
    6 何故真言宗に中興開基し改宗したのか。
    7 何故1ケ所に墓を列したのか。
    8 何故12代目13代目の墓が不詳なのか。
    9 時光は何処に祭祀されているのか。
    10 何故曹洞宗に中興開基し改宗したのか。
    11 柳沢氏は誰が興したのか、何処で繋がるのか。
    12 柳沢郡の青木氏は誰が継いだのか。
    13 巨摩郡の青木氏は誰が継いだのか。
    14 真言宗派はどの様に成ったのか。
    15 浄土宗派と曹洞宗派はどの様に成ったのか。
    16 花菱紋は誰が継いだのか。
    17 丸に花菱紋はどの様にして興ったのか、誰が継いだのか。
    18 3派の宗派対立は何故起こったのか。
    19 曹洞宗改宗事に浄土宗派はどの様な行動を採り寺を建てたのか。
    20 誰が甲斐武田氏系青木氏を救ったのか。
    21 柳沢氏がどの様にして甲斐武田氏を立て直したか。  
    22 第3氏と未勘氏の発祥理由は何なのか。
    23 明治の廃仏稀釈はどの様に影響を甲斐青木氏に与えたのか。
    24 花菱紋のステイタス仏像等の歴史遺産は何処にあるのか。
    25 100年以上も続いた「天保騒動」はどの様にして興ったのか。
    26 「天保騒動」が青木氏に与えた影響は何か。
    27 何故「丸に花菱紋」は各種の家紋集に記載無いのか。(「個人家紋」)
    28 武田氏系青木氏は源光系か時光系なのか。その違いは。
    29 誰が花菱紋の前に割菱紋を引き継いだのか。割菱紋と花菱紋の関係は。
    30 何故国府が3つもあるのか。(青木村、氏神、氏寺の移動)
    31 割菱紋の柳沢氏は存在するのか。(花菱紋の元は何処から。)
    32 何故甲斐国府の経緯に異変が存在するのか。
    33 武田皇族青木氏は源光説か時光説か。
    34 武田氏の前身はあるのか。
    35 家臣団位置付けの低下が起こったのか。
    36 其の他(系譜上の問題点と疑問)

    以上、武田氏系青木氏を研究すると如何に疑問が多くて解明されていない事に気付きます。
    それは、時代の進歩と共に起こる歴史認識の低下による影響ですが、最早、それを解明するのは今しか有りません。そこでこれ等に付いて研究を試みました。
    内容は、絡み合って複雑な為に解明できる事から進めて次第に繋がるように試みました。よって順不同に成っています。疑問点の解明検証文は複雑に絡む為にこの理由から「行」を定めて限定していません。先ず疑問点の洗い出しから研究作業を行いました。
    これだけ疑問が多いと整理が着きませんが、一応は全疑問点は網羅しているつもりでいますので全体を通してご理解ください。文中で他の疑問点も出てきますがこれは其の他としています。
    依って、不明点等有りましたら、「青木ルーツ掲示板」から何なりとお尋ねください。
    では、武田氏系青木氏を理解する為に先ずその「基本的な事」を先に説明します。

    基本事項
    [青木氏の系統]
    まず、青木氏には大別すると、3つのルーツがあります。
    1 皇族賜姓青木氏(5家5流皇族賜姓青木氏と皇族青木氏 計29氏)
    2 藤原秀郷流青木氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏 計116氏)
    3 室町末期、江戸初期、明治初期の3混乱期に禁令を破り各地(主に上記2つの青木氏の土地)で発祥した青木氏(「未勘氏 第3青木氏」と呼称する)
    以上の青木氏の3つに成ります。

    これ等のことに付いて詳しくは「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏関連、藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。
    「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」にも詳しく歴史的な史実に基づき研究レポートしています。

    随分、長いレポートですので、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
    また、お読みになっているときに、順不同の為にご不明な点、ご質問等有りましたらサイトにご遠慮なくお尋ねください。

    では、上記1に付いて、甲斐の皇族賜姓青木氏系には次の氏があります
    1 甲斐国府(初期の位置 現在地名 笛吹市春日居町寺本)に、「皇族賜姓青木氏」1氏、
    2 甲斐北部に「諏訪族武田氏系青木氏」1氏(山梨北部)、
    3 現甲府付近に定住する信濃から一部移動した「諏訪族青木氏」1氏(甲府地域)
    4 巨摩郡青木村と柳沢郡青木村に「武田氏系青木氏」の3氏6家、(皇族系 後述)
    以上4つの皇族系と皇族賜姓系の青木氏5氏が存在します。

    これ等は「国府」の存在が大きく左右します。つまり、国府は政治の中心でした。そこからまず青木氏が発祥し、その周辺に豪族などが集まります。当然、其処に血縁関係と歴史の史実の集中が起こります。その史実を集めて、考察するのが歴史研究のポイントです。
    ですから、この血縁の元の族種を知ることが必要なのです。

    何れも、4番(花菱紋系2氏の青木氏)を除き、皇族賜姓青木氏の末裔で、土地の豪族の武田氏、諏訪族との血縁による一族です。
    「皇族賜姓青木氏」詳細に付いては後述しますが、甲斐に朝廷より配置された第6位皇子の「甲斐王」の末裔子孫です。
    「笹竜胆紋」を綜紋とする「甲斐皇族賜姓青木氏」は、男系跡目が適わず武田氏の養子側の系列に入り、家紋を変紋した一族です。(後述 「家紋掟」を参照)
    「皇族系青木氏」詳細については後述しますが、嵯峨期の詔(弘仁の詔)により「青木氏」を名乗った氏です。

    武田氏系青木氏には、詳細後述しますが次ぎの通りです。
    1 「源の源光系青木氏」の 「武田菱紋」の氏と「武田割菱紋」の氏の2氏があります。
    2 「源の時光系青木氏」の「花菱紋」及び「丸に花菱紋」には「嵯峨天皇期の詔」に基づく「皇族青木氏」1氏があります。
    以上3氏(6家)があります。

    (重要な研究結果)
    以後の内容は重要です。(概容を把握要 後述詳細)
    注 花菱紋は割菱紋から分離した家紋氏です。
    注 割菱紋は副紋を「葉菱紋」を使います。本家と分家の2氏に分離しています。
    注 花菱紋2氏派は本家割菱紋からと分家割菱紋からと出ています。
    注 分家割菱紋から出た花菱紋は後に一部が「丸に花菱紋」に変紋します。
    注 柳沢氏花菱紋は分家割菱紋より分離しています。
    注 花菱紋の本家は元来別家として発祥分離しました。(後本家と成ります。)
    注 分家割菱紋から出た花菱紋は柳沢郡青木氏と成ります。
    注 柳沢郡青木氏は養子より発祥 連続他氏からの養子で繋がれます。(血縁性なし)

    注 源の時光と源の源光は兄弟 清和源氏分家三男頼信系の源氏(本家は嫡子頼光)(詳細後述)
    注 皇族賜姓青木氏(5代)と皇族賜姓源氏(11代)とは同族(第6位皇子系)です
    注 16代の天皇の第6位皇子の朝臣族で臣下族(詳細後述)です。
    注 皇族青木氏は「嵯峨期の弘仁の詔」による発祥氏(詳細後述)です。


    武田氏家紋群8つは次ぎの通りです。
    (大別家紋 6家紋)
    1 武田菱紋、
    2 割菱紋(4つ割菱紋)、
    3 花菱紋、丸に花菱紋、
    4 地抜き武田菱紋、
    5 陰武田菱紋、丸に陰武田菱紋
    6 丸に出武田菱紋、
    以上6分類8家紋です。

    注 上記123から武田氏系青木氏が発祥しています。
    注 1−6は家柄順です。

    ここでは、武田氏系青木氏3氏6家の内、この「花菱紋の青木氏」と「丸に花菱紋の青木氏」に付いて重点を置き、この2氏の歴史と由来を中心に述べます。
    それはこの2つの青木氏に付いては、今まで特異な歴史を持ちながら余り詳しくその「ルーツと経緯」が解明されずに居ました。
    この様な事(紹介、研究されていない事)から、ここでは消失を防ぐ為に研究して解明し特別に世に紹介しておく必要があると考えました。

    この武田氏系青木氏3氏は次ぎの通りです。(6家は下記)
    1 武田菱紋の青木氏で武田氏本家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
    2 武田割菱紋の青木氏で武田氏分家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
    3 武田花菱紋の青木氏で武田氏主家の跡目に入った清和源氏の朝臣族の「皇族青木氏」
    以上が武田氏系青木氏の3氏です。

    注 「賜姓」とは天皇が自らの子供の第6位皇子(第6番目の皇子)に氏を与え臣下させる事で、その役目は天皇を守る親衛隊である事。この制度は天智天皇より始まります。 
    「賜姓族」(詳細後述)
    注 「賜姓族」は「賜姓青木氏」5氏「賜姓源氏」11氏 16代の天皇の第6位皇子(詳細後述)

    このレポートは3番目の清和源氏の「皇族青木氏」の2家に付いてその歴史的な経緯を紹介します。
    先ずこの氏が発祥する根拠に付いて知っておく必要があります。

    [発祥根拠]
    蘇我氏の専横政治を倒して「中大兄皇子」は「大化改新」によりその一つ「皇位継承の制度」を大きく見直しました。
    その改革の中で、次ぎの事を断行しました。
    1 第4世までを皇子王とし各地の守護王として配置しました。(それまでは第6世王)その内、「第4位皇子」までは「皇位継承権」を与え、その「第6位皇子」は臣下し賜姓して天皇を護衛する親衛隊としました。
    2 「第7位皇子」以下は比叡山の僧や門跡寺院に入りました。
    3 「第7世族」(6世含む)以降は「ひら族」として坂東の守護隊として配置しました。
    4 「第5位皇子」と「第5世族」はその中間として皇族者の者が少なくなった場合に戻る位置としました。
    5 647年頃に発祥した「天智天皇(中大兄皇子)」の「第6位皇子」の「施基皇子」が皇族賜姓の「伊勢青木氏」と成って「伊勢王」として赴任しました。これが初代です。

    注 伊勢の守護王施基皇子は三宅連岩床を国司として派遣 伊勢王は天智天武の天皇を補佐した人物。日本書紀に頻繁に出て来ます。 (「日本書紀と青木氏」のレポートを参照)
    この後、文武天皇以後、皇位継承者が少なく、女系天皇が続きましたが、次の5代の天皇は第6位皇子を5つの国に配置しました。

    [青木氏を賜姓した天皇]
    賜姓した天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁の5代天皇

    [青木氏を配置した守護国]
    配置国は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5国です。

    ところが、この賜姓システムを「光仁天皇」の子供「桓武天皇」と孫の「平城天皇」は2代続いて継承しませんでした。

    [賜姓の不継続の経緯]
    その理由は、中国後漢国からの帰化人「阿多倍王」の一族の子孫(「たいら族」)で「桓武天皇」の母(高野新笠:阿多倍王の孫娘)の一族が賜姓を受けました。
    後の「京平家、桓武平氏、伊勢平氏」と呼ばれる一族で、末裔は太政大臣平清盛です。
    (詳細は「青木氏氏 研究室」の関連レポート参照)

    注 阿多倍一家はの概略は薩摩の国の半国割譲(薩摩の首魁)と伊勢北部伊賀地方の半国割譲(伊勢衆)を受けました。
    注 敏達天皇の孫芽淳王の娘を娶り、3男子を産む、准大臣に任じられます。
    注 朝廷の官僚組織と人の6割を占める勢力を持ちます。
    注 現在の第1次産業の基礎を築きました。
    注 日本初の律令国家体制を完成させました。
    注 日本書紀の完成チームの8割を占めました。
    注 彼等の勢力日本全国66国中関西西部地域から九州薩摩まで32国を勢力圏としました。
    注 日本書紀に何度も出来ます。

    「たいら族」の系譜
    国香、貞盛、惟盛、定盛、忠盛、清盛
    阿多倍王一門から「たいら族」としては以上5代を経て最終の太政大臣にまで上り詰めます。

    注 桓武天皇の「たいら族」(780年頃)とは、「第6位皇子の賜姓」の慣例を破る事に成る為に、坂東に配置した第7世族(坂東八平氏:ひら族)にあやかり皇族系と見せる必要がありこの名を授けました。呼び名は”たいらの清盛”と一方は”へい氏の梶原の景時”の様に呼称させました。

    [賜姓をしなかった理由]
    慣例を破り皇族からの賜姓は5代で途絶えました。
    「桓武天皇」は日本の「律令国家」の政治体制を完成させた天皇として位置付けられます。
    「桓武天皇」前は「皇親政治」とする天皇とその一族が政治を執り行う政治体制でした。
    1 相反する政治体制である為にそれまでの「皇親」の賜姓青木氏一族等の政治発言力を排除する必要があった事、
    2 更には、その律令国家体制の天皇と官僚機構の政治体制を創り上げ、日本の第1次産業を飛躍的に発展させた一族(後漢の帰化人阿多倍王が率いる200万人の技能集団)を引き上げる必要があった事。
    3 母方一族らの信頼と背景に政治を推し進める必要があった事。
    (朝廷軍も長男の賜姓阪上氏が統括する。 天皇親衛隊は賜姓青木氏が統括する)
    以上主に集約するとこの三つに成ります。

    「その他技能集団の勢力」
    官僚機構の6割はこの一団で占めた事。
    1奈良平安期の政治機構の3蔵(斎蔵、大蔵、内蔵)の内、2つ(大蔵、内蔵)を掌握した事。
    2軍事(朝廷軍)の実権を握った事。(天皇の軍は青木氏)
    3天皇家と血縁し准大臣と成った事。
    4桓武天皇の母はこの集団の首魁の孫娘(高野新笠)である事。
    5阿多倍の支配技能集団「部制度」で国内の第一次産業の基礎を築き経済的な支配権を保持した事

    この事から「第6位皇子」を賜姓をせず、青木氏に各地守護職(国司藤原藤成等を2度派遣)を実質外し圧力を加えた。(官僚国司の派遣と権限強化)

    [嵯峨天皇の賜姓族]
    桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反発し戻します。
    天智天武期に実行した「皇位継承制度」が厳しい事になり、皇位継承者が絶えるなどの事が続いたことから、更に「皇位継承制度」を緩めました。
    この時、第6位皇子の賜姓青木氏を変名して賜姓源氏としました。
    青木氏は皇族者(真人族、朝臣族、宿禰族)が下俗(下族)する際の氏名として定め、「弘仁の詔」を発して他の者が青木氏を使用する事を禁じました。(不入不倫の権を与える)
    この後、賜姓源氏は11代の天皇に引き継がれます。賜姓青木氏5代とあわせて実質16代と成ります。
    この事に対して、賜姓源氏16代とする説もありますが、12代以降は徳川氏等の搾取偏纂の結果で5代が追加され16代と成りますが、実質、賜姓源氏としての意味は花山天皇の11代目で終わっています。

    この間、嵯峨期より「皇族系の青木氏」を名乗れる皇族者は合わせて18人いましたが、実質に青木氏を名乗り子孫を遺せたのは5氏であります。最終3人が子孫を遺しました。後は清和源氏系の2氏です。
    「皇族系青木氏」
    1多治彦王配流孫青木氏
    2島王配流孫青木氏
    3清和源氏頼政の日向配流孫青木氏
    4橘氏系宿禰族青木氏
    5甲斐武田氏系青木氏です。
    以上5氏です
    後は史実に基づかない「未勘氏」です。

    この様な「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」の両方の賜姓族が出て来る事や、阿多倍一門の平族(たいら族)に振り回される2つの賜姓族が、この甲斐の国とそこに発祥する武田氏系青木氏との時代に翻弄された氏の関係です。
    この武田氏系青木氏が、江戸時代まで時代に翻弄され続け、終局、その史実さえも消え去ろうしている時に、又、その存在の確認も取れていない時に、甲斐の花菱紋の青木氏の調査の結果、完全に検証が採れました。

    これにより次ぎのことが主に検証できました。
    A 花菱紋の皇族系青木の存在が確認された事。
    B その一族の元来、慣例よりあり得ない皇族系青木氏「丸付きの花菱紋」の存在の確認された事。
    以上の2つの氏のルーツが史料から確認される事となったのです。
    (2つの花菱紋の氏は室町末期、江戸初期、明治初期の第3青木氏の可能性があった事によります)
    (寛政史書では第三青木氏と記載されている)

    注 系譜上から「丸に花菱紋」と成った青木氏を「第三氏」とします。系譜を有しない青木氏を「第3氏」として記述します。(寛政史書に「寛永青木氏第三の系図」とありますのでこれを使います)

    では、先ず次ぎの事柄から入ります。
    実は系譜を調べて判った事ですが。甲斐には分けると、次ぎの様に成ります。
    1 皇族賜姓青木氏
    2 武田氏系青木氏(武田菱、武田割菱=1との血縁族)
    3 武田氏系青木氏1(花菱紋)
    4 武田氏系青木氏2(2と3の血縁族)
    5 武田氏系青木氏3(3の巨摩郡の青木氏と3の柳沢郡の青木氏との血縁族)
    6 武田氏系青木氏4(3の柳沢郡の青木氏と1の皇族賜姓青木氏との血縁族)
    7 武田氏系柳沢氏 (時光15代正定と豊定のところで兄弟 3の花菱紋) 
    以上がある事が系譜の添書と史実から観えます。

    問題は、1、2、3の3氏の家紋は判明するが、4、6は判断が付かなかったのです。
    5は花菱紋、丸に花菱紋の何れかであると考察されていました。

    本来、武田氏主要6家は、原則、丸付き紋は主要6家紋には使用しないものとされていました。
    (注 賜姓青木氏、賜姓源氏は丸付き紋を原則使用しない。源光系も使用していない。特別除く)
    その中で、「丸に花菱紋」は家紋200選には無く、全国8000の家紋群にも無い家紋ですが、系譜よりその発祥はある経緯(後述)により確認出来ました。

    [武田氏の家紋事件簿]
    上記6家紋(詳細後述)により成り立っています。
    ただ、ここで”花菱紋の丸付き紋が何故存在するのか”ですが、どの権威ある専門家紋書にも記載無いのは「個人家紋」である事に成ります。
    (家紋書籍に記載無い疑問 個人家紋の経緯 丸付き紋の疑問)
    「個人家紋」と歴史は判断した事に成ります。そうすると”何故「個人家紋」と考えられたか”と云う疑問に変わります。「個人家紋」とは枝葉子孫を拡げられなかった氏と成ります。
    しかし、史実にはこの武田氏系の「丸に花菱紋」が出て来ます。
    「個人家紋扱い」になった特別な理由がある事に成ります。
    武田氏の中ではこの一つの家紋だけが異端児扱いです。
    「個人家紋」扱いになるとすると、系譜上に何らかな事件があった事を意味します。
    その事件を探す事で判明します。
    そうなりますと、系譜とそれに纏わる事を添書として必ず書いている事に成ります。
    氏家制度の中で伝統ある「ステイタス」の家紋が「丸付き」に変わると云う「大事件」が起こったのですから、武田氏の系譜添書を徹底検証して考察すれば発見できる事に成ります。
    「氏家制度」の「家紋掟」から考えると、当時としては身分家柄を下げることを意味します。
    其れでなくても武田氏系青木氏には一条氏を無理に誇張するほどに家柄身分を意識している氏です。丸付き紋に成る事は「晴天霹靂」でしょう。
    時代は1570−1585頃までの期間で起こっている事に成ります。つまり、武田氏の変貌期です。過敏に意識する事に成ります。
    そこで、その先ず系譜から考察する事にします。

    [清和源氏の時光系に至る系譜]
    経基王−満仲−頼信(三男 分家)−頼義−義光−義清−信義−信光−信長−信経−時信−「時光」−経光(常光)−時忠

    満仲−頼光(長男 本家)

    注 時信は甲斐守(甲斐国守 時光の父)−信時は尾張守(時信より11代目 時光より10代目)

    甲斐武田氏系青木氏(武田菱紋、武田割菱紋の2氏3家)
    (時信)−源光(弟)−信高−信行

    甲斐武田氏系青木氏(武田花菱紋1氏3家)
    (時信)−時光(兄)−常光2−時忠3−..−信時10−信安11−信就(12養子 割菱紋)..

    時光1−....−信時10−信生(11養子 割菱紋)−信正12−信定13−正定(14 花菱紋)

    注 信安は真言宗常光寺に祭祀される最後の人物
    注 信安と信生は義兄弟です。
    注 信生は信時に養われる。
    注 武田氏系青木氏の系譜には3つがある。これらを対比させると3つの疑問(不明点)が出る。
    注 ここでは以下は信生-信正-信定の系譜説に従う。(信正-信定-信生の説もある。後述)


    「重要人物」
    信生は清左衛門 武田氏家臣落合常陸守信資の子 信時に養われる 養子と成る
    この信生より花菱紋正定が出ている説に従う。
    時光11代目信安の義弟信生11が割菱紋引き継いでいます。
    元は落合氏からの養子です。
    疑問の一つとして、この養子の人物(信生11)が割菱紋を引き継いだ事に成ります。
    系譜から花菱紋の「正定ルーツ」では「信生11」が割菱紋を引き継いだ人物です。
    その子の信正−信定と3代割菱紋が続いた事になり、その後に花菱紋が発祥した事に成ります。
    以上の様に関係する系譜と添書が取れます。
    この系譜には「添書」が沢山ありますが、現存する子孫に対して個人情報に関わりますので不掲載とします。ただ、この系譜の中に何かがある事(3つの疑問 後述)に成ります。

    この花菱紋の清和源氏は源時光が名乗った青木氏です。
    本来、この武田氏系青木氏は源源光の「青木別当蔵人」とある様に明らかにその祖とされていました。(源光と時光とは兄弟)
    しかし、歴史上の史実を正確に検証すると、この源時光も甲斐の武田氏系青木氏3氏6家の内、花菱紋を持つ一族がこの時光の子孫であることが確認出来ます。(源光説ではない事)
    しかし、一部には時光系青木氏は無いとする説もあり、源光系とする説もあります。
    この疑問も解決する事が必要です。
    先に、答えは系譜から観るとどちらの説も正しい事に成ります。
    そこで、次の通り検証しました。

    [甲斐武田氏系青木氏の2流]
    この青木氏は次ぎの通りです。
    1 源光の甲斐皇族賜姓青木氏と、武田氏との血縁で発祥した源光系青木氏
    (武田菱紋、武田割菱紋家紋としています)
    2 嵯峨期の詔を使って名乗った時光系青木氏
    (割菱紋-花菱紋を家紋としています。)

    1に付いての経緯は、次ぎの通りです。
    武田氏系青木氏2氏は甲斐王の皇族賜姓青木氏との血縁にて生まれた青木氏で、平氏に圧迫されて源の源光が清和源氏の子孫を遺す為に同族の賜姓青木氏に跡目に入れた青木氏です。
    2代続きの跡目が養子であった事から「家紋掟」により養子元の武田氏系と成りました。
    「笹竜胆紋」から「武田氏系菱紋」と「武田氏系割菱紋」に変紋した2つの賜姓青木氏です。

    [時光系の花菱紋青木氏の発祥経緯]
    時光より12代目信正と13代目信定は武田氏割菱紋です。(11代目信生は養子)
    信定の嫡男正定が別家花菱紋青木氏を興します。
    本家(割菱紋)は三男豊勝が継ぎます。途中絶えて別家より跡を継ぎます。
    詳細後述します。

    [丸に花菱紋の存在と発祥経緯]
    時光より13代信定が高尾氏より養子を迎えて柳沢郡青木氏を継承させます。
    他氏より養子縁組続きで花菱紋柳沢郡青木氏を継承します。(柳沢青木氏の疑問)
    本家と別家より異議が出て、丸に花菱紋に変更します。(詳細後述)。
    結論として、次ぎの様に成ります。
    割菱紋は源光の血縁族ですから、「家紋」から観ると「割菱紋」の「源光系」と成ります。
    「系譜」から観ると「時光」の子孫ですので「時光系」と成ります。
    つまり、「時光系12代目信正」以前の系譜の中に、「源光系の割菱紋」との血縁がありその人物が割菱紋を継承した者が居る事を意味します。(源光説と時光説の疑問)
    以上の結果から、「青木信生11」が落合氏から養子に入り「割菱紋」分家を引継ぎ、「信正12」、「信定13」と継承したのです。

    先ず、この二つのその後の歴史的経緯と由来に付いて述べます。

    [花菱紋定住地]
    この青木氏は次ぎの二つの所に定住しています。
    1巨摩郡青木村の青木氏(花菱紋)
    2柳沢郡青木村の青木氏(後に丸付き花菱紋に成る)
    以上2つの定住地です。

    先ず、巨摩郡青木村の青木氏(韮崎市清哲の青木町)から述べます。
    この青木氏は花菱紋の青木氏です。
    現「韮崎市の清哲青木」(巨摩郡)にはこの花菱紋の菩提寺の「常光寺」が在ります。
    この寺に祭祀されている青木氏は皇族青木氏の宗家筋です。(嵯峨期の詔で発祥:現存確認)
    この甲斐の韮崎の「常光寺」は韮崎市が特定する有名な青木氏のみの「菩提寺」です。

    古来、賜姓青木氏の5家5流の土地には独自の「青木村」と守護神の「氏神社」と「氏寺」を持っています。この3つをもつ事が当時の皇族系の仕来りです。
    この甲斐の「青木村」には、ところが、この「菩提寺」と「氏神社」が3つもあるのです。
    そして、この青木氏菩提寺と言われる「常光寺」には大きな問題を持っているのです。
    では”何故三つなのか”と云う疑問です。
    それを解き明かします。

    [甲斐の皇族賜姓青木氏の定住地]
    (発掘済で、定住地は未確認でありましたが、09年確認)
    現在の「笛吹市春日居町寺本」(笛吹市庁舎南横)です。

    先ず一つは、甲斐の守護王の末裔の「皇族賜姓青木氏」が甲斐国国府に村を形成して政治を行っていました。皇族賜姓5家5流の守護王の青木氏は国府を置き其処に青木村を形成し守護神と菩提寺を建立しています。
    その「国府所在地」とその政治を直接行う「政庁」と「菩提寺」と「神社」がある筈ですが、甲斐では特定出来ていませんでした。
    当時の政治慣習として、この上記「3つの建物」が揃っていて初めて政治が行えるのです。
    「国府の3つの建物」
    氏村のある所を政庁として住居とする。(現在の官邸)
    氏神社は国の祭祀を行う所とし氏神とする。(現在の護国神社)
    氏寺社は国の宣教を行う所とし氏寺とする。(現在の護国寺社)

    このシステムは奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸時代まで続けられ、これ等が一つに成って政治を行っていました。明治から現在間では多少変化をして来ていますが今だ類似する体制を持っています。ただ、これがはっきりとしていたのです。
    現在の笛吹市の御坂にその国府があったとされていて、そこが甲斐の皇族賜姓青木氏の村のところであるとも考えられていました。
    笛吹市の現在の市庁の南横が政庁であり、その近くに「古代寺院」と「甲斐奈神社」がある事が確認されました。これが「国府の条件」です。
    国府の位置を見つける事は皇族賜姓青木氏の村を見つける事に成り、その氏との関係した血縁族の内容を網羅させる事が出来るのです。
    甲斐の場合はこの賜姓族と武田氏との履歴を引き出す基に成ります。
    ところが甲斐にはこの国府が3つ以上もあるのです。
    つまり、平安期までは賜姓族は守護です。鎌倉期にはこれが一変しました。賜姓族から土地の豪族(武田氏)へと政権が移動していく事を意味します。
    その「経緯」を調べれば偏纂されている可能性のある「系譜と添書と史料」を正しく判断する時の資料と成ります。偏纂系譜はこの矛盾と疑問と問題点が推理から浮き彫りに成ります。
    歴史を調べる時は鵜呑みにするのでは無くこの事が大事なのです。

    [守護王の青木氏の国府定住地]
    平安期の初期は定住する処の国府には、先ず青木氏の菩提寺を建立し、守護神を建立してそこを政庁とするシステムでした。そこで甲斐の国府跡を見つける事がその皇族賜姓青木氏の存在全てを明らかにする事が出来ます。他の4国と違って甲斐は消失して記録も定かではありませんでした。
    ところが、山梨県では09年4月に発掘調査が完了し、笛吹市の役所の位置(寺本)がその7世紀頃からの国府であった事が確認され、その南横には古代寺院の政庁寺があったことが確認されました。
    そして守護神の「甲斐奈神社」があった事が確認されました。
    ここが、甲斐の皇族賜姓青木氏の国府定住地であります。
    先ず、一つの青木氏の定住地が確認されました。

    ここで、政治的安定を狙って土地の豪族間との政略血縁が起こっている筈です。それがどの様なものなのかを調べ上げればよい事に成ります。基資料として「人と時と場所」の関係を掴む事に成ります。

    (移動説の実証)
    ところが、この国府が平安後期には寺社ともに「甲斐国八代郡国衛(笛吹市)」に移動しています
    何故移動したかの原因が問題に成ります。
    主に甲斐の武田には土豪小田氏(藤原秀郷一門の血縁族の陸奥小田氏 土豪武田氏を名乗る)が勢力を伸ばしていました。ここに源氏の跡目(義清−初代信義)が入り勢力と発言力が更に拡大して、政庁(寺社神社共に)を源氏系武田氏が定住する「山城郡(八代)国衛在」に移動させた事に成ります。3つの条件を持ち存在した形跡史実が確認されます。

    更に、この後、武田氏が長篠の戦いに敗れて織田氏、徳川氏、今川氏から三方を囲まれ為に立て直しの為に勝頼は国府を「韮崎」(韮崎市)に移して「新府城」を構築して移動させて根拠地を固める作戦に出たとする史実があります。3つの条件が確認出来ます。(国府の疑問)
    この建設経費が武田氏家臣の負担となり不満続出して離散が始まるのです
    以上「3つの国府跡」がある事に成ります。

    この事を「人、時、場所」を前提に分析を進めます。搾取偏纂の史料(系譜等)はこの前提のどれかを欠けています。搾取偏纂史料は其処まで史実を掴んでいないことが殆どです。
    ですから上記した基本知識が必要なのです。

    この寺本の賜姓族青木村は、甲斐の守護王の皇族賜姓青木氏の菩提寺で、上記の諏訪族2つの青木氏を除く宗家の菩提寺があったのです。
    そして、この国府の甲斐の皇族賜姓青木氏には平安中期に清和源氏の源源光からの跡目が入ります。
    ところがこれとは別に、清和源氏の分家源頼信より4代目の義清が武田冠者となり、6代目信義は甲斐の土豪武田氏(陸奥小田氏)に跡目として入ります。(武田氏の前身説)
    武田氏(藤原秀郷血縁族陸奥小田氏が地名を採り土豪武田氏)はこれより清和源氏系の武田氏となり、信義が初代の清和源氏系武田氏を改めて発祥させました。つまり、前身は藤原秀郷系小田氏です。裏には藤原秀郷流青木氏が「第2の宗家」として主導する藤原秀郷一門勢力が源氏武田氏に関わっている事を念頭に検証すると深層の史実を掴むことが出来る事に成ります。

    経緯
    0 藤原秀郷系陸奥小田氏が甲斐に移動し地名から土豪武田氏を名乗ります。
    1 義清(武田冠者 頼信4代目)が武田冠者の役目に成ります。
    2 信義(武田太郎 頼信6代目)が清和源氏系武田氏を発祥させます。
    3 源光(青木別当蔵人 頼信11代目)が寺本の国府に定住の皇族賜姓青木氏の跡目に入ります。
    4 時光(頼信11代目)が甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。(嵯峨期詔の青木氏)

    上記した賜姓青木氏や賜姓源氏の知識が無ければ”この時光の青木氏は何処から来たか”と成ります。
    その後、清和源氏系の武田氏6代目として兄の源時光は、甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。
    更に、その時光より2代目(武田氏7代目)の源常光が韮崎市にある浄土宗寺(寺名不明)を中興開基して「常光寺」とし甲斐皇族青木氏(時光系)の菩提寺とします。

    「土豪小田氏から源氏系の武田氏に」
    義清は乱暴で横暴な人物として甲斐に移されたとされます。そこで土豪小田氏(武田氏前身)との因縁が生まれて甲斐清和源氏系の武田氏が生まれたとされます。
    清和源氏の宗家兄頼光に続いて守護代を譲り受けた頼信系が、甲斐に勢力を伸ばすにはこの様な人物でなくては務まらなかったのではと考えられます。
    信濃足利氏と同じ様に、これは甲斐に勢力を張り其処に子孫を遺すと云う目的事が生易しいものではなく、清和源氏の勢力圏(子孫を遺す)を伸ばさなくては成らない切羽詰った背景(平家清盛からの圧迫)があった事によると観られます。
    現に、元は兄頼光が甲斐守護を勤めていたにも関わらず土豪との血縁族を作っていません。
    この事から土豪小田氏の勢力が大きく、又、なかなか一筋縄では出来ない相手であった事を示しています。それと背後に藤原秀郷一門が控えていた事も大きな障害に成っていた事と観られます。
    それを打ち破るには破天荒の人物が適任と考えたのではないでしょうか。
    普通ならば、この様に人物がいると平家と諍いを起こして清盛から難癖をつけられて大変な事になって居た筈です。そこを源氏は「武田冠者」と役職を付けて「京」から遠ざけて且つ一筋縄ではいかない相手に上手く合わしたという事だと考えます。
    つまり、土豪武田氏(小田氏)もその様なところがあって「類が類を呼ぶが如く」で意気投合したのではないでしょうか。そして、自分が武田氏を興すのではなく、土豪との血縁者の孫息子の信義に引き継がせた事になるでしょう。
    そうする事で、藤原秀郷一門を納得させたと観られます。
    その証拠に信濃足利氏も秀郷血縁族の陸奥花房氏が信濃の土豪と成り足利氏を名乗り、秀郷一門がこの云う事を聞かなかった土豪足利氏(花房氏)の本家を廃嫡して追い出し、絶えた分家に秀郷一門を入れて分家足利氏を作りそれを本家にしてしまうことが起こっているのです。
    当然に、この信濃にも清和源氏の跡目が直ぐに入り源氏系足利氏(藤原系)が興るのです。
    恐らく、この場合は秀郷一門と源氏との結合である事に成りますので話が付いたのであろうと考えます。
    だとすると、場合によっては、甲斐も信濃と同じ経過に成っていた事だと思います。そこを乱暴者の義清を宛がい上手く治めた事に成りますし、土豪武田氏(小田氏)は信濃を観て秀郷一門の手が伸びないうちに得策では無いと判断して血縁に踏み切ったと観られます。
    何故秀郷一門が信濃と甲斐に執拗に発言力を高めようとしたかは、藤原氏も源氏と同様に清盛から猛烈な圧迫を受けていたからで、摂関家の立場も危なく成っていたのです。
    そこで源氏と藤原氏と青木氏の3者同盟が起こっていたのです。
    その荒波に頼光派は、本来部屋住みの無冠の頼信派(後に藤原道長に仕える)に信濃甲斐の守護職(守護代)の立場を譲り勢力を付けさせて関東に伸びようと考えたのです。
    関東は藤原秀郷一門の勢力圏内です。其処に一部陣取る平家軍を一掃して中部域と関東域を源氏秀郷ラインを築く戦略が働いていたと考えます。
    現実この戦略が働き清盛一門は関東に伸びることが出来ずに撤退して行ったのです。
    それだけに団結を成すこの血縁戦略は大変な意味を持ち、信濃や甲斐の土豪を強引に抑えに入ったのです。そして、頼光派は関西に集中的に基盤を築き上げる機会を覗ったのです。
    そこで頼光派の関西は、伊勢の青木氏、近江青木氏と佐々木氏、滋賀の佐々木氏、美濃の土岐氏に防御網の血縁関係を築いたのです。
    清盛は結局、関西以西(兵庫が最前線)に留まる事になったのです。
    ですから、兵庫に全源氏一族の氏寺と守護神の神社が在るのもこの一つの表れです。
    この様な時代背景の中で甲斐の土豪武田氏から源氏武田氏へと変化して行ったのです。
    しかし、後に信濃足利氏と甲斐武田氏は何れも清和源氏の跡目が入る支流ですが、同じ清和源氏の分家頼信本流の頼朝(坂東八平氏)に圧迫されて一時衰退します。
    そしてその背景は更に続いたのです。

    注 信義以後、武田氏5代目までは菩提寺を浄土宗明楽寺を開基し、その後、大井荘南条の宝林寺と変名します。
    注 武田氏2代目信義次男忠頼(一条郷の一条氏を名乗る)は同族頼信系の鎌倉幕府将軍の源頼朝に謀殺されますが、後に一族(弟の時宗等)はこの寺を尼寺にし、一蓮寺と変名します。
    注 宝林寺を甲斐武田氏の時光等一族郎党までの菩提寺としていました。
    注 宝林寺は甲斐国守護の一人武田時信(信義より5代目)までの歴代の墓です。

    その武田信義5代目時信(甲斐守守護)までは比較的平穏でありましたが武田信満の頃から変動し始めます。(武田信満は1417年足利幕府に攻められて家臣の裏切りで天目山で討死)
    そこで、信時(尾張守)の子の時光(信義より6代目)は青木氏を発祥させた為に、「氏」が異なる為に菩提寺を別にする必要が出てきました。(何故青木氏を発祥させたかの疑問 詳細後述)
    この時、時光の死後、子の常光(信義より7代目)が突然に自分の名を採って「真言宗常光寺」と「改宗変名」をして中興開基したのです。ここで、一つ疑問が出ます。
    その疑問は次ぎの事です。
    ”何故中興開基し改宗したのか”の疑問が起こります。
    ”親の浄土宗を宗派としていた親の時光は何処に祭祀されていたのか”(疑問)と云う事にも成ります。
    (一説では時光は摂津国の地頭をしていた関係から、摂津国浄土宗善法寺だとする説があります)

    この寺「常光寺」には、現在、時光より11代信安(後述)間での墓が一列に並べられて祀られています。
    という事は、時光の宗派は浄土宗です。常光は真言宗です。
    一人宗派が違います。(時光の祭祀場所の疑問 11代墓所の疑問)
    ここ浄土宗宝林寺境内に安置されている5代目までの武田氏歴代の墓が在ります。
    しかし、6代目青木時光より7代目常光は菩提寺として「武隆山常光寺」を「真言宗」の寺として中興開山しましたから、この時、真言宗常光寺境内に安置されている11代の青木氏歴代の墓は真言宗と成ります。、しかし、時光だけの墓は浄土宗信者です。
    常光以降の10代の墓は真言宗として納得できます。
    浄土宗信者の時光の墓が真言宗の寺にあると云う事に成ります。これは慣例よりおかしいです。
    普通はこの場合、墓は浄土宗の墓所に移すことが慣例です。
    しかし、真言宗の常光寺の境内に並べられてあるのです。
    摂津浄土宗善法寺説がこの点から考えると納得できる説と成ります。多分この疑問を盾に採っているのではと考えます。しかし、現実には真言宗常光寺にもあるのです。
    常光寺は史実から「中興開基と開山」と記録していますから、その前身は浄土宗(寺名は不詳)である事に成ります。
    ここで「中興」を前提に推理が立ちます。
    先ず、時光が「武田氏」から「青木氏」を発祥させましたから、武田氏の菩提寺「明楽寺」から出る必要があり、直ぐに独自の浄土宗寺を作る必要が出て来て建立します。その「直後前後」に没しています。
    そこで、子供の常光は”この寺を常光寺とし、自分の信心する真言宗に改宗した”とすれば父が建てた以上は「中興開基開山」と云う形に成りますので理屈が合います。

    そこで、「摂津善法寺説」の検証です。
    時光の清和源氏は3男頼信系の河内源氏系です。
    摂津は嫡男頼光の摂津源氏です。河内は元は嫡男兄頼光の領地で河内源氏としていましたが、頼光は頼信に河内領地と甲斐の守護代国司を史実として譲ったのです。
    鎌倉幕府時代に源氏の地を治めるには源氏の者を地頭として配置したのです。よって善法寺があるのです。
    現在も摂津には源氏一党の神社がありますし、同族の摂津賜姓近江青木氏が定住する地です。
    清和源氏頼信系の時光も頼光系の寺で合わせて祀られている事は充分にありますが、しかし、本所は甲斐ですので、子供常光は親の時光が青木氏菩提寺として建てたこの寺に時光を先ずは納めたのではと考えられます。
    そこで、改宗「真言宗」は別の問題と考えるのが普通の行動とみます。(一条氏説等後述)
    実は、その後に、信義6代目時光から13代目信定が更に「曹洞宗」に改宗すると言う事件が再び起こっているのです。
    更に、連動して「浄土宗源空寺」と「浄土宗光沢寺」を作るという一連の事件が起こっているのです。
    改宗は別の行為での事と見るのが正しいと見ます。これは明らかに宗教性が甲斐に吹いていた事を示すものです。(後述詳細 末端に分析史料添付)
    常光寺の境内には、史実として判る範囲で祀られている人物としては次ぎの人物等が祭祀されています。

    [甲斐武田氏系青木氏の花菱紋の人物]
    藤原秀郷と血縁した陸奥小田氏は地元の地名から初期武田氏を発祥させます。
    その後、清和源氏系より信義が跡目が入り清和源氏武田氏が発祥させます。
    「武田氏系譜」
    初代の信義−信光−信長−信経−信時−時光(青木氏発祥)として子孫を遺します。
    その後、清和源氏系の信時の子時光が以後割菱紋の甲斐青木氏(嵯峨期の詔)を発祥させます。

    [甲斐時光系青木氏の系譜]
    以下11代が真言宗常光寺に祭祀
    時光1−常光2−信連3−貞義4−義遠5−安遠6−義虎7−満懸8−信親9−信時10−信安11(11代)
    以後、信就(同族山寺氏の三男)と続く。(時光系割菱紋本家)

    時光系割菱紋分家(信生-信正-信定の説)
    信生11(信安義弟 落合氏の子 養子)−信正12−信定13−正定14−豊勝15−豊信16(一時絶える 昌輝継承)(正定14は別家花菱紋青木氏を興す。)

    豊信16−昌輝17−正寛18−正教19−教豊20−昌邦21−長国22−満眞23−某(熊之助)24

    正定−昌輝(大井氏に養子後、戻り割菱紋分家の豊信の跡を継ぐ 大井氏は信虎の妻の実家先)

    「時光源光の子孫」
    時光−常光−時忠
    源光−信高−信行

    信生11は養子で分家であるので(義兄の信安までは真言宗常光寺に際されている)常光寺に祭祀されなかった事も一つの条件です。(11代の疑問の理由の一つ)

    「真言宗常光寺」は以上時光より11代にわたる青木氏の墓と成っています。
    注 信時−信安(割菱紋本家)と信時−信生(割菱紋分家 落合氏の子 養子婿)が出ていますが、これが後に大きな事件に発展するのです。(詳細後述)

    伊勢を始めとしてその青木氏独自の菩提寺は「..光寺」と命名している寺が多いのですが、この常光寺は県が指定する甲斐青木氏の史跡寺です。
    これで、伊勢を始めとして、長い荒波の中で5家5流の全て宗家筋が現在までも途切れずに存在している事が判った事になります。しかし、ここで更に家紋の疑問が出ます。

    問題の家紋は「笹竜胆紋」の綜紋の保持氏で、且つ浄土宗の菩提寺の筈でありながら、この時光系の青木氏は2代目の常光からは真言宗常光寺として改宗し家紋を花菱紋としている説もありますが、系譜と添書から明らかに割菱紋であり、花菱紋は別家を興した際に変紋した事に成りますが、これが正定14からと成ります。同時に浄土宗源空寺を建立します。
    (何故青木氏にしたのか疑問 賜姓青木氏の弟源光に対して皇族青木氏の兄時光の青木氏を興した)
    (何故花菱紋に成るのか疑問 添書から正定から花菱紋が判明)
    (何故11代だけなのか疑問 理由1は養子と割菱紋分家が判明)
    更に他に理由と背景として無いかを考察します。
    その鍵は真言宗であると考えます。
    そこで真言宗に付いて考察します。

    [真言宗改宗の根拠]
    その根拠はこの清和源氏(母方)に藤原北家摂関家の公家より母を迎えいれた事から一条氏を名乗ったとされているのです。(書物では「一条時光」と呼称されている)
    朝臣族の賜姓源氏、皇族青木氏の皇族の身分家柄がありながら、わざわざ何故一条氏を名乗ったのか疑問です。(詳細後述)
    よって、一条氏の公家宗派は弘法大師空海の真言宗であるところから改宗したとされます。
    時光のときは浄土宗寺であったのですが、2代目常光は自らの名前を採り常光寺と解明して更に中興開山し真言宗武隆山としたのです。
    それでは今度は何故真言宗に改宗したのか疑問は一条氏にあります。
    (詳細後述)
    勿論、時光までは浄土宗ですが、跡目の関係で変紋が起こっている可能性もありますが、この場合は意識的な行為です。
    「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏の関連レポートをお読みください。

    この常光寺は甲斐青木氏の菩提寺として上記11代まで祀られています。
    その11代は常光寺に一箇所に列にして墓石が在ります。
    本家は信安11−信就..と続きます。

    更に割菱紋の分家 その1は次の様に成ります。
    信生11−信正12−定信13−正定14−豊勝15−豊信16(一時断絶 正定の子供が継ぐ)と続いています。
    11代目からは何処に祭祀されているのかも疑問です(詳細後述)

    不思議に青木氏菩提寺であればその間必要性がありませんが、敢えて一列に何故1箇所に列したのかも疑問です。何かある筈です。(詳細後述)
    この常光寺には、他にも多くの青木氏の墓所がありますが、その後(11、12、13)の歴代の墓所は不詳に成っていますのでありません。
    とすると、この青木氏菩提寺の常光寺には他の者の何故墓所は無いのか疑問です。(詳細後述)
    歴史を趣味としている人なら誰でもが知っている青木氏のお寺ですが、ここではこの様に異質の慣習が起こっています。普通は同じ墓所を多少の理由があっても代々何代も菩提寺にするのが普通です。
    そして、この皇族青木氏の「花菱紋」の分家と見られる「丸付きの花菱紋」が存在しますが、本来、この皇族系(皇族賜姓族含む)の青木氏は丸付き紋を使用していないために、「丸に花菱紋」は「第3氏」か「未勘氏」なのかの疑問も残ります。(詳細後述)
    何故丸に花菱紋が存在するのか疑問の疑問が出てきます。(詳細後述)
    この様に次から次えと不思議なほどに矛盾を持っています。
    ここまでこの8つの疑問程のものを詳細に研究して解決する必要があります。

    この疑問解決には先ず信用できる範囲で更に突っ込んで系譜と史料をつき合わせてどのように成っているのかを調べる必要があります。
    参考「正統な系譜の見分け方」
    この系譜と添書は人物や時代性や発祥地などに矛盾が見当たりません。

    普通、搾取偏纂した系譜には特長があり、前の系譜人物と後の系譜人物との間に何れにも属さない不明の人物が一人介在し、その人物と繋ぎ合わせて正統に見せる工夫があります。そこに時代のズレが生まれ、場所の不透明さが出てくるのです。系譜は代々の人が書残して継ぎ足して作るのではなく、何れかの時代に誰かがまとめて作る事に成ります。しかし、その人は歴史に専門でない所から専門の系譜屋に頼みます。系譜屋は系譜を良く見せて客を嬉しがらせ金品を高く要求しますのでこの事を必要とします。そうすると当然に上記の様な搾取偏纂が起こります。特に第3氏や未勘氏の場合は必要と成ります。江戸時代に造られて多くの系譜史書を観て作る事になるのです。
    例として、九州のある氏と四国のある氏を繋ぎ合わせて繋ぎあわせる部分に一人人物を入れて系譜がさも良い家柄かの様に偏纂していました。四国の依頼者にはある遠方の土地の縁者と観られる人が居る事が判りそれと結び付いたと大変喜びその系譜を信頼してしまいます。その搾取偏纂の系譜は遠方の人が持っていた系譜でした。ところが四国地元のある土豪(乙部氏)の家にその本当の系譜が存在しているにも関わらず作られた系譜が偽であるにも関わらず知らないで信じ込んでしまいました。こうなるとどうしようも有りません。
    系譜にはこの様なトリックがあるのです。

    [甲斐青木氏の系譜]
    「直系青木氏」
    「割菱紋青木氏本家」
    時光(信義より6代目)−常光−信連−貞義ー義遠ー安遠−義虎−信種−信親−信時−信安(常光寺に墓所16代目)−信就−信幸−信峯−信祐−信任−信*−信考(22代目 割菱紋系 本家)
    系譜を繋いで調べ挙げると以上の様に成ります。

    注 信生は信安の義弟 落合氏の子 養子婿 信時の養子となる
    この中で、添書から先ず、柳沢氏への疑問事と信生(前述)の事が出てきました。

    「割菱紋分家の柳沢氏」
    割菱紋本家から柳沢氏に跡目を入れた形に成っています。

    ところが、本来は割菱紋から分離した花菱紋の柳沢氏が豊定より発祥しています。

    史料によると、「柳沢」の事が出て来るのが1433年頃に「柳沢衆」とあり、特に氏を名乗ったという形では有りません。武田一族の「柳沢の衆」と呼称する「古来の慣習」と観られます。

    添書によると、割菱紋系列の安遠−信興(時光7代目 義虎の弟)が”柳沢氏を称する”とあります。
    この系譜では割菱紋青木氏より7代目に初代柳沢氏が発祥しています。

    問題はこの7代目がどの様な人物でどの時代になるかの問題です。
    柳沢氏は後述しますが、先ず系譜では豊定14を元祖としています。
    最も栄えた時期は柳沢吉保です。豊定より5代目です
    とすると、この時光7代目のところで柳沢氏が発祥したのか、豊定後の事かの検証が必要ですので、関わりはあります。しかし、青木氏系譜の柳沢氏の史料には豊定が元祖とあります。
    系譜と添書を繋ぐと次ぎの様に成ります。

    「豊定の柳沢氏系譜」(割菱紋−花菱紋)
     別系譜では信生(割菱紋)−信正(割菱紋)−信定(割菱紋)−「豊定」(花菱紋)*−信立(花菱紋)*−信俊(花菱紋)−安忠(花菱紋)−吉保(花菱紋)−吉里(花菱紋)

    「信興の柳沢氏系譜」(割菱紋  副紋は葉菱紋)
    安遠−「信興」−貞興−信房−信兼−信俊−安忠−信花

    この2つの柳沢氏の系譜には次ぎの違いがあります。
    割菱紋を家紋とする(信生)−信正系で、信種の親の義虎系(信興の兄)で「信種」と異腹と観られる「信正」系譜から発祥しています。
    信正は妾腹である為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」から「割菱紋」と成り、豊定のところで「花菱紋」に変紋します。

    信種は本流の為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」です。
    (信正と信種等に付いての関係は不明点があり後述します)

    更に、「信立」なる人物が介在します。
    この人物は系譜上からは存在しません。ただし、系譜添書では信種の子供の信親ではないかと書かれています。添書表現では”信親或いは信立”書き込まれています。
    信種、信親、信正、信定、信時、信生の人物関係が他説が多くあり不詳部分です。(後述解明)

    もう一つは系譜が示す「信生−信正」のルーツ説で信生は信時の子供信安と義兄弟です。
    信生は落合氏の子供で信時の育てられたと添書にありますので、信正との間に系譜のズレらしきものが見られます。(とりあえずこのルーツで検証しています。)

    一方「信興」(義虎の弟)は割菱紋に副紋葉菱紋です。

    時光より7代目から11代目までが武田氏系青木氏の系譜の不詳部分で人物が判明しているが問題疑問の多い代です。この繋ぐ詳細な史料と系譜がこの研究課題です(後編 後述)。

    本節の初期の前提で検証しますと次ぎの様に成ります。
    前とすると、青木(武田)信興から途中で耐えた可能性があります。
    後とすると、別の柳沢氏が発祥した事に成ります。重要な問題です

    調査の結果、史料(武田氏)とこの上記系譜添書との突合せで判明しました。

    時光系の本流の「割菱紋 葉菱紋」から上記1433年の「青木氏の柳沢衆」の絶えた跡目に本流から正式に「柳沢氏」を1525年頃に発祥させた事に成ります。
    つまり、「柳沢衆」から「「柳沢氏」の変化です。
    「信興」が「割菱紋 葉菱紋」を家紋とする「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

    時光系の分流の割菱紋から「信正-信定」系で「豊定」が花菱紋の1567年頃に「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

    武田氏滅亡後(1582)、大久保長安事件で、この武田信興は伊豆大島に長期流罪になり、柳沢吉保の口利きと保護の下で免罪となり一度吉保のところで保護されますが、その後、甲斐の天保動乱の中鎮める意味でも幕府の計らいで旗本に成ります。そして、甲斐八代郡500石で戻る事に成った人物がこの武田信興であります。
    甲斐の戻った後に、系譜から「割菱紋」の柳沢氏を一時期(1690年頃)に名乗った事(子孫不明)が判明しました。
    一代限りと見られます。 一族の柳沢氏に感謝を込めてたか天保争乱中の身の安全確保為か名乗ったと見られます。


    この様に、「4つの経緯」から「系譜と添書と古史料と家紋」の「4検証むから「7代目から11代目」の前後共に起こった柳沢氏(柳沢衆)の呼称を代表とする「生き様」があった事を意味します。

    結論
    4つの柳沢氏の発祥経緯
    1 「時光系本流家」の「割菱紋 葉菱紋」の「柳沢衆」(1433)
    2 「信興」の「割菱紋 葉菱紋」の柳沢氏(1525)
    3 「豊定」の「花菱紋」の柳沢氏(1567)
    4 「武田信興」の柳沢氏を一時呼称(1735)


    注 この「武田信興」なる人物は本家筋を担い武田氏滅亡後で大久保長安事件で流罪になった人物です。(武田信興は武田信道の子)
    注 ほぼ同時期に「青木信興」なる人物が居て、時光より7代目に有り、柳沢氏を名乗るとあります。
    注 「武田信興」(1690)と「青木信興」(1525)と同一人物かは判明できません。
    注 「武田信興」は大変長寿であったと記録があるが年代が異なります。
    注 一般公開されている史料の柳沢氏(青木氏)は系譜や添書や家紋等の検証が成されていないのです。

    柳沢氏の家紋と云われているものには次ぎの4つがあります。
    1 花菱紋(豊定系柳沢氏 甲斐甲府藩)
    2 4つ花菱紋(吉里系柳沢氏 大和郡山藩)
    3 割菱紋(信興系柳沢氏 本流本家筋)
    4 葉菱紋(信興系柳沢氏 本流分家筋)

      
    1 花菱紋は兄正定の青木氏の花菱紋と弟豊定の柳沢氏の花菱紋があり、地域は巨摩郡の北域に多く分布します。何れも別家を興した氏ですので父親信定の割菱紋を使えません。
    吉保の甲府藩主の時代までに使用した家紋です。

    2 4つ花菱紋は4つの花菱紋を組み合わせて菱形に割って配置している家紋です。
    信定の割菱紋に類似させて花菱紋を図案化したものです。
    これは柳沢吉保跡の吉里が大和郡山藩主に移封された時に家紋化したものです。
    大和郡山柳沢氏の家紋です。

    3 割菱紋は信興の本流の家紋で1433年頃からの武川筋の青木氏の伝統家紋で副紋を葉菱紋としていました。1525年ごろからの武川衆に成った時に使用した本流の本家筋の家紋として使用したものです。
    巨摩郡南域から柳沢郡域にまたがって分布する家紋です。

    4 信興系は割菱紋 葉菱紋を使用している本流ですが、この分家筋が副紋の葉菱紋を家紋としたものです。柳沢葉菱紋として有名です。柳沢郡域に分布する家紋です。

    注 現在の家紋分布は4つ花菱紋を除き徳川氏仕官と武川筋の代替地で多くは中部東から関東全域に移動しています。
    注 信興や義虎−信種らの割菱紋 葉菱紋の本流派は、皇族賜姓青木氏の源光系の菱紋と割菱紋の宗家との違いを出す所から時光系の本流は副紋を「葉菱紋」として使ったものです。
    注 信正−信定の妾子分流派はこれに対して葉菱紋の副紋を外し割菱紋のみとしたのです。何か意味合いが感じられます。

    この様に家紋に依って何処の氏の柳沢氏かを判別する事が出来ます。
    インターネット等の一般公開の史料はこれらの総合的判断による分類が出来ていません。
    この様に、家紋に代表されるように青木一族の柳沢氏には青木氏を物語る意味合いを多く持っているのです。


    「割菱紋の柳沢氏の意味」
    柳沢氏の発祥経緯は記録から観ると、次ぎの様に成ります。
    1433年頃に柳沢の呼称が出てきますが、この時代の「柳沢」は当時の呼称としての慣習から地名を採り「武田一族」の中で「柳沢の何者」と呼称していたと見られ氏としての発祥という経緯では無いと観られます。
    次ぎに観られるのは、1521年に柳沢氏を記録として名乗っているものが有ります。
    多分、年代からこの人物が「青木信興」であると観られます。
    当然に、系譜から青木義虎の弟であるので「割菱紋 副紋葉菱紋」と成ります。
    しかし、この「青木信興」の柳沢氏は大永年間の武田一族の争いで絶えます。

    つまり、豊定の前と成りますので、系譜の割菱紋青木(武田)信興の柳沢氏が一時一代程度で発祥した事に成ります。「割菱紋柳沢氏」が発祥した事に成ります。
    (この割り菱紋子孫が存在する事に成りますが不明です。)
    つまり、豊定の花菱紋の柳沢氏では無く、信定までの割菱紋の柳沢氏を本筋として発祥させた事を意味します。割菱紋の武田氏の中での家柄と正当性の意味するところが判ります。
    その前に信定の(信之)養子事件が起こっていた事に成ります。(後述)
    とすると、それだけにこの割菱紋の「柳沢郡」(武田氏一門にとっての柳沢氏と血縁性の無い青木氏との関係が目立ちます)の存在価値を意識していたことを意味します。

    後に、柳沢吉保(1688年頃 100年前史実)の上記の結論のこの事は承知していて系譜の一部偏纂(信立等の系譜の疑問)した事の可能性があります。
    「信立の人物」の件や「信俊−安忠」の共通系譜の件を組み込んで立身出世にあわせて「4つの柳沢氏」の「統一系譜」を創り上げて「一条氏家柄拡大」の事も含めて世間に喧伝したと考えられます。

    7−11代の同時期に生きた「信定」は、この信興に割菱紋の柳沢氏を別に立てさせるのでは無く、他人の柳沢郡青木氏をつくり出して、本流の信興柳沢氏を無視した形で或いは対抗した形で、敢えて柳沢郡は柳沢氏(豊定)の花菱紋と柳沢郡青木氏(信之)の花菱紋のものであると誇示したのではないでしょうか。

    柳沢吉保は、「信定」の取った処置が愚策で合ったと認識していた事と見られ末裔に影響を与えていた事に成ります。それだけに「柳沢氏の系譜偏纂」やこの「丸付き紋の変紋事件」や末裔信政の下記の系譜編集時の「否定細工」に繋がったのではと考察しています。

    次ぎに進めて、そこで、前述の信生の割菱紋から4代目に花菱紋(正定と豊定)が出ている事に成りましたのでその分家筋を更に調べます。

    「割菱紋分家」
    割菱紋分家 その2が系譜から確認出来ました。(柳沢郡青木氏の疑問)
    信生(16代目養子)−某(信正)−信定−信之(養子)−信茂(養子)ー信也−信考(養子)−信並−信*(割菱紋系 分家)

    この分家の系譜もあります
    注 信生は信安の弟 信生は信時に養われる 信生は武田氏家臣落合常陸守信資の子
    信安は常光寺の最後の時光より11代目の祭祀の人。

    この系譜添書には故意的と観られる全て+100年の年代誤差があります。
    この系譜は”信政が作る”と添書にあります。
    この信政は正定の別家の花菱紋分家(本来は本家 正定が別家を興した事による。詳細後述)の寛政時代の人物です。
    別家の添書と系譜とこの系譜のその2を信政(正重系)が意味を持って割菱紋分家の系譜を改めて完成させた事が判りました。江戸の末期寛政に作った事が判りました。
    寛政期には寛政史書が出来ています。この中に「寛永青木氏第三の系図」としての事が書かれています。
    別家を興した花菱紋の末裔以外に、もう一つの信生の末裔で信定の時に信之を突然養子にし柳沢郡青木氏を継承させると云う事件が起こります。
    この別家の末裔がこの柳沢郡青木氏の正当性を疑問視して故意的に,年代のズラシと信正を某とするなど偏纂した事に成ります。調べれば直ぐに判る偏纂です。
    又、この氏の信之(実家和泉守)が義父信定の妻の実家の桜井氏(安芸守)を頼って安芸に出かけた事も添書にこっそりと書き添えて違いを見せています。
    柳沢郡青木氏の系譜の序文に毛利氏に仕官した経歴や墓の有無までを詳細に明記しています。

    「花菱紋青木氏本家1」
    信生16−信正17−信定18−正定(19代目 花菱紋青木氏の元祖)−豊勝−豊信−(花菱紋は断絶−花菱紋系に引き継ぐ)−昌輝が継ぐ

    「花菱紋柳沢氏本家」
    信生16−信正17−信定18−豊定(19代目 柳沢氏継承 花菱紋柳沢氏の元祖)−(後述)

    「花菱紋青木氏別家 (正重系系譜)」
    信生−信正−信定−正定−正重−信久−信知−信秋(青木市郎の次男より養子になる)−信富−信保−正満(石川氏4男養子)−信政(花菱紋分家1−後述 系譜編集者)

    「花菱紋青木氏本家2 本家1継承 昌輝分家で継承(昌輝系譜)」
    信生−信正−定信−正定−昌輝(大井氏に養子後、豊信の青木氏本家に戻る)−正寛(大井氏次男 青木氏本家を引き継ぐ)−正教−教豊(養子)−昌那−長国−満眞−(割菱紋から−花菱紋に変紋)

    「花菱紋柳沢郡青木氏本家」
    信生−某(信定)−信定−信之(養子 高尾伝九郎久治の三男)−信茂(養子 多田新八郎の三男)−信也−信考(婿養子 小野朝右衛門高騰の次男)−信並−信*

    この「系譜」と「添書」と「他の史料」の詳しく研究し検証した結果から判った事が次ぎの11点であります。
    1 武田氏の第2勢力を誇る割菱紋の一族は本家筋の末裔「信生」から分家が出ている事。
    2 この割菱紋本家筋は正定の孫の豊信のところで末裔無しにより断絶した事。
    3 この断絶した花菱紋本家を正定(花菱紋青木氏元祖)の子昌輝が一度大井氏に養子に入り、再び断絶した花菱紋の父の実家(断絶)に戻った事。
    4 引き継いだ「花菱紋分家」筋は昌輝より「花菱紋本家」となります。
    つまり、正定の本家花菱紋は正定の分家花菱紋に引き継がれている事に成ります。
    5 花菱紋の青木氏は正定より発祥した事に成ります。
    6 正定には長男豊勝(実は正定の弟)と次男昌輝と三男正重と3人子供がいた事に成ります。
    7 嫡子豊勝(実は正定の弟 養子)の本家を次男昌輝(正式に子正寛継承)が本家を継ぎ直した事に成ります。
    8 青木昌輝が大井氏の養子となりますが、昌輝の子嫡男には大井氏を継がせ、父昌輝は断絶した実家本家に戻る事に成ります。そして、次男大井正寛はこの実家の花菱紋本家青木氏を引き継ぎます。
    (青木昌輝-大井昌輝-青木昌輝 大井正寛-青木正寛)
    9 柳沢氏は正定(19代目)の弟の豊定が花菱紋柳沢氏を発祥させている事に成ります。
    10 割菱紋青木氏本家より割菱紋柳沢氏を武田信興(信義12代目)が称する。
    11 以降信義19代目豊定で花菱紋柳沢氏を発祥させます。
    12 時光系青木氏から出た柳沢氏は割紋菱と花菱紋の柳沢氏(現在の本家筋と成っている)が2氏が存在する事に成ります。(割菱紋柳沢氏の存在が未確認 花菱紋に変紋統一)

    注 武田信興(時光より7代目)は柳沢吉保の口利きで流罪伊豆大島より戻り吉保の下で生活するが、その後幕府の許可を得て八代郡500石として旗本となる。この時、割菱紋の柳沢氏を称する。
    系譜と史料とで花菱紋柳沢氏と割菱紋柳沢氏の2流がある事に成ります。これがどの様に絡んでくるのかは現在不明です。
    兎も角も、柳沢郡青木氏は武田氏滅亡前に”信定の妻の実家に移る”とあり、これが後に「丸に花菱紋」と「曹洞宗改宗」の事件の鍵を握ります。(詳細後述)

    [甲斐の異質慣習]
    先ず、甲斐の皇族賜姓青木氏は発掘によりその定住跡と菩提寺跡と守護神が寺本に確認できましたが現存する皇族賜姓青木氏の本家は笹竜胆紋で浄土宗を護っています。

    この甲斐武田氏系の青木氏は「嵯峨期の詔」(第6位皇子の源氏系であるので朝臣族)に基づき青木氏を名乗りましたが、当然に時光のときは「浄土宗」寺でした。嵯峨期の詔を使えば当然に「笹竜胆紋」と成る筈です。しかし、この割菱紋です。綜紋笹竜胆紋を使えない理由がある筈です。
    其れは、武田氏の出自に拠ります。
    家柄と身分での違いです。武田氏は清和源氏と大々的に甲斐源氏の名乗っていますが、系譜からは明らかに清和源氏分家頼信系で河内源氏の支流の傍系です。これも系譜からは次ぎの一条氏の名乗りと同じく誇張領域です。つまり、義経頼朝の本流に対して傍系ですので明らかに笹竜胆紋は使えません。

    初代の武田氏の武田信義が浄土宗明楽寺を開基します。
    2代目武田氏の次男の武田忠頼の時に浄土宗宝林寺を中興開基します。
    忠頼は甲斐一条氏を名乗る。(武田忠頼は一条郷の出身です。)
    一条氏を忠頼は名乗った事により氏が異なることから「浄土宗明楽寺」から独立して「浄土宗宝林寺」を開山する必要に迫られた事に成ります。(一条氏は後述)
    源の時光(6代目)より青木氏を発祥させた事により氏が異なる事で「浄土宗明楽寺」から離れ新たに皇族青木氏2代目常光の時に自分の名を採用して青木氏の氏寺の真言宗常光寺を中興開山し事に成ります。ここで、改宗していることに成ります。
    しかし、この間、元祖時光の菩提は「中興開山」である以上は元の浄土宗の寺名は何であったのかは不明です。又は明楽寺に一時祭祀されていた事も考えられます。

    時光は浄土宗であり青木氏を発祥させた事から甲斐の全青木氏(源光系賜姓族含む)の浄土宗菩提寺を計画します。
    時光2代目常光は青木氏でありながら一条氏を名乗っていることから時光の計画に乗れなく成ります。そこで常光はこの計画が完成する前後に時光が没しましたので、一条氏の真言宗の寺に改宗し寺名に自分の名をつけた事に成ります。
    これでは他の青木氏(菱紋と割菱紋の源光系)はこの寺を菩提寺にする訳にはいかなく成ります。
    一条氏系青木常光は親青木時光を祭祀する寺が無い事に成りますし、元の計画者でもあり放置できない親であり真言宗常光寺に無理やりに祭祀する以外になくなります。
    この様な背景の中で、青木氏でありながら家柄誇張の為に筋違いの一条氏を更に名乗り、その宗派を真言宗に中興開基したのです。
    これと同じ事が、時光より11代後(時光より11代目)にも再び起こります。
    時光より13代目信定が、この常光寺を3度目に中興開基して今度は「曹洞宗」に改宗してしまいます。
    この様に、「繁栄衰退の栄枯盛衰」も含めて「宗派対立の因果応報」の繰り返しがこの甲斐の武田氏に降りかかっているのです。

    [改宗経緯]
    1 信義より6代目時光まで浄土宗明楽寺(後に浄土宗宝林寺に中興開山)を菩提寺とする。
    2 信義より2代目忠頼謀殺で後に宝林寺は一蓮寺の尼寺として中興開基します。 
    3 信義より7代目常光から真言宗常光寺を中興開基します。16代目信安まで。常光寺に墓所あり
    4 信義より18代目信定は曹洞宗常光寺と開山します。
    5 信義より19代目正定は浄土宗源空寺を開山します。(花菱紋青木氏発祥)
    6 信義より19代目豊定は浄土宗光沢寺を開山します。(花菱紋柳沢氏発祥)
    7 柳沢郡青木村の青木氏は真言宗常光寺を再興します。(丸に花菱紋を継承 後述)
    8 明治の廃仏毀釈で浄土宗源空寺は廃寺と成ります。
    9 柳沢氏の浄土宗光沢寺は郡山に転封で永慶寺(岩窪)−大泉寺(廃仏毀釈で廃寺 護国神社)
    10 浄土宗源空寺の花菱紋の氏は浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派とに分かれる。
    11 現在の花菱紋の曹洞宗派の青木氏の一部は曹洞宗南明寺に入信した可能性あり。(不詳)
    (浄土宗派花菱紋の青木氏、真言宗花菱紋の青木氏は武田氏滅亡で関東に移動したので現在未確認)
    12 天正期の時、曹洞宗派は武田氏滅亡で衰退した元の常光寺を再興、別に常光寺曹洞宗派を引き継ぐ。(丸に花菱紋を寺紋と成っている)
    13 青木常光の改宗で、明治まで真言宗派と浄土宗派と曹洞宗派に分かれる事に成ります。
    14 信義より19代目豊定は柳沢氏を発祥させる。
    15 柳沢氏菩提寺の浄土宗光沢寺を開山する。(信定の子正定と豊定は兄弟)
    16 19代目信之に柳沢郡青木村青木氏を発祥させる(後に丸に花菱紋が出る 曹洞宗常光寺再興)
    17 信生(信安の義弟)から信正−信定(曹洞宗)−正定の浄土宗系譜が出来る。

    以後、以上の経過を経て花菱紋青木氏は明治の廃仏稀釈まで代々祭祀します。

    [武田氏の発祥経緯]
    花菱紋は武田氏の家紋で、時光系で発祥。(嵯峨期詔青木氏 朝臣族と宿禰族皇子)
    武田菱紋と割菱紋は武田氏の家紋で、源光系で発祥、甲斐皇族賜姓青木氏との血縁で発祥。(皇族賜姓族 皇族賜姓族は天智期詔青木氏 第6位皇子)

    当時は「氏家制度」の中、血縁は身分制度(甲斐の皇族賜姓青木氏は光仁天皇第6位皇子、朝臣族、浄広1-2位を持つ天皇に継ぐ最高身分家柄です)の吊りあいによって行われる慣習でした。
    そこで、当時、最大勢力を誇った武田氏ですが、元は陸奥の豪族であり、陸奥の鎮守府将軍として赴任中の藤原秀郷一門と血縁をした小田氏が在りました。秀郷一門が甲斐に赴任替えに成った時に護衛として藤原秀郷流青木氏と共に同行した小田氏の一部が甲斐に定住した氏です。
    その後、勢力を持ち甲斐の最大豪族と成り上がった氏で、武田の地名を採り土豪武田氏を名乗ったのです。
    そこに、清和源氏の義清が武田冠者として赴任し、小田氏の武田氏と血縁し、清和源氏の血筋を引く武田氏が発祥しました、この初代が信義です。
    この小田氏の一部は、その後、再び秀郷一門の国に同行して常陸に移り、「関東屋形」と呼ばれる日本最大の豪族の有名な3氏の一つと成りました。甲斐の武田氏と常陸の小田氏は親族です。

    この清和源氏系となった武田氏と、甲斐の守護王であった皇族賜姓青木氏との間で血縁を結んだが源光系の武田系青木氏(賜姓族)です。
    当然、武田氏より身分は数段青木氏の方が上です。先ず、賜姓青木氏は天皇以外に上に来る身分は無いのです。
    ところが、本来は、天皇より皇族賜姓青木氏に与えられた綜紋の笹竜胆紋ですが、武田氏と血縁をした際に、皇族賜姓青木氏の本家筋の方に男系跡目が出来ずに居ました。
    先ず、政治的に土豪との結びつきを良くする為に、武田氏から養子を迎えたのです。ところが、この養子婿との間に嫡男に恵まれず、一時、家紋は氏家制度の「家紋掟」により養子婿先の菱紋に変紋を余儀なくされました。次ぎに再び養子を迎えましたが、この時も嫡男に恵まれずに、最終この賜姓青木氏の一部が女系となり「笹竜胆紋」に戻る事は出来ませんでした。
    つまり、賜姓族でありながらも、「氏家制度」では「男系」で言いますので武田氏系の方に系譜がなると云う事です。これが、甲斐の皇族賜姓青木氏の武田氏系青木氏です。
    同じ事が割り菱紋との血縁もした事に成ります。この賜姓族も同じ事が起こってしまった事を意味します。甲斐の皇族賜姓青木氏本家は存在して、本家筋の嫡子外の分家筋が武田氏との血縁に成った事を意味します。
    しかし、武田氏の一門に入りましたが武田氏の家来では有りません。
    あくまでも、甲斐の皇族賜姓青木氏の一門です。
    これが、時光の弟の源光系の武田菱紋、武田割菱紋の青木氏です。
    時光系と源光系の間には身分家柄の違いが歴然として起こっています。
    この皇族賜姓青木氏の「青木氏氏 研究室」の関連レポートに詳細があります。
    「藤原秀郷一門の生き方」や「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」等にも甲斐の皇族賜姓青木氏との関係も詳しく記録しています。
    しかし、この武田氏も遠くは藤原秀郷一門の血筋(藤原鎌足より8代目−11代目くらいの北家一門の血筋)も引く名門です。

    [皇族賜姓青木氏の経緯と身分家柄]
    皇族賜姓青木氏は天智天皇の「大化改新」で天皇を凌ぐ専横を極めた応仁期の渡来系の蘇我(入鹿)氏を中臣鎌足と共に倒して、政権を取り戻しましたが、その時の反省から、天智天皇(中大兄皇子)は”自分の身は身内で守る”ことを決意して、皇位継承の制度を変更しました。
    その制度の概要としては、皇子の内、第6位の皇子を臣下させて、賜姓(天皇自ら子供に氏を与える事)して「青木氏」とし、象徴権威紋の「笹竜胆紋」と、天皇家ステイタスとして「仏像(鞍造部止利の作 大日像坐像)」を与え、その神木として青木の木を定めました。(象徴三物)
    そして、その官職を天皇を守る「親衛隊」としその官職を...左衛門佐尉、右衛門佐尉とし、又民部佐尉の官職名を名乗らせました。身分は真人族(第4位皇位継承皇子まで)に続く朝臣族(第6位皇子)としたのです。
    それの初代が、日本書紀にも出てきます中大兄皇子の施基皇子(最終は「浄大1位」の身分)で、天領地で守護神伊勢神宮の伊勢の守護王と成りました。伊勢青木氏には「永代不入不倫の権」を与えました。

    注 左衛門佐尉、右衛門佐尉は宮廷の三門を護る官位で「佐」は上下2段、一階級下の「尉」も上下2段で構成されています。周辺警備隊の「民部」も同様の階級で構成されています。
    注 「浄大1位」は身分制度の最高、これ以上は天皇、皇族の皇太子は一段下の浄広1位−2位、皇子は浄広3位です。
    注 「永代不入不倫の権」は永代に如何なる理由があろうとこの地と氏には侵入したり攻めたりする行為一切をしては成らないと云う詔です。
    信長と秀吉による「天正伊賀の乱」(3度)までこの詔は伊勢では破られる事は有りませんでした。

    施基皇子は天皇の補佐役として働いていましたので、朝廷は三宅岩床を国司として派遣しました。
    これらの詳細は日本書紀に書かれています。
    「日本書紀と青木氏の関係レポート」を詳細参照して下さい。
    これが伊勢の皇族賜姓青木氏です。
    この制度が、その後、天武、文武、聖武、光仁天皇の第6位皇子が、天領地で防衛主要国の近江、美濃、信濃、甲斐の国の守護王となって赴任し引き継がれて行きました。

    「源氏発祥の経緯」
    光仁天皇(伊勢施基皇子の長男)の子供の桓武天皇はこのシステムを嫌い自分の母方の渡来系阿多倍一族に賜姓をしました。これが「たいら族」で後に太政大臣に成る平清盛です。
    これを嫌った桓武天皇の子供の嵯峨天皇が制度を元に戻しました。
    この時、第6位皇子は賜姓「青木氏」ではなく、賜姓「源氏」として賜姓する事にしました。
    そして、賜姓青木氏は、皇族の者が下俗する際に使用する氏とする事を「弘仁の詔」を発して決め青木を一般に使用する事を禁じました。明治3年まで原則的に守られました。
    当時、女系天皇が3代も続き、男系の皇位継承者が居なくて止む無く第6位皇子の子孫である伊勢王の施基皇子の子供が皇位(光仁天皇)を継いだのです。伊勢青木氏より出た事に成ります。
    したがって、賜姓伊勢青木氏と賜姓甲斐青木氏は従兄弟の同族と成ります。
    賜姓源氏は11代続きました。この中でも、清和源氏とこの賜姓5家5流との同族血縁をしました。
    清和源氏とは義経や頼朝ですが、三男頼信の分家子孫です。
    伊勢は長男頼光系との同族血縁、甲斐は頼信系との同族血縁をしました。
    当時は純血を守る為に皇族系では同族血縁の習慣が主流であったのです。

    「武田氏栄枯盛衰」
    武田氏発祥後は「4度の衰退と復興」の歴史を持っている。
    1184年、2代目武田忠頼が頼朝に謀殺されて鎌倉幕府の圧力で衰退し盛り返す
    1417年、室町幕府により武田信満が天目山木賊村で討死し衰退(家臣裏切り)
    1582年、武田勝頼か天目山田野村で討死し衰退(家臣裏切り)
    1688年、武田氏柳沢吉保が甲斐三郡の領主に返り咲き成る。
    1690年頃、武田信興が吉保の口利きで流罪放免し八代郡500石に戻る。
    1709年、武田氏柳沢吉保が奈良郡山の領主に移封と成る。

    頼朝に忠頼が謀殺され衰退し、盛り返して今度は信長に潰され、武田氏系青木氏は藤原秀郷一門の勢力圏の横浜、神奈川に藤原秀郷流一門青木氏を頼って逃げ延びました。そこで、再び花菱紋の時光系の皇族青木氏が子孫を広げます。

    甲斐青木時光は摂津の地頭として働きました。
    その子孫(時光より2代目常光)が、常光寺を当初菩提寺にし、その後に花菱紋を甲斐で維持している氏があるとすると、柳沢氏が甲斐三郡の領主になり、その時に甲斐に戻ったと観られその横浜神奈川域に逃亡した甲斐青木氏本家筋に当ると見られます。しかし、果たして、1575(1582)−1688年113年間も経過して戻られるかの疑問も残ります。私が持つ系譜で見るとこの期間内では本家筋は戻っていない事に成ります。
    当然、この後、直ぐに柳沢氏が奈良郡山に移封された時には同行する事に成りますので残るとすると浪人となる以外にありません。この時期、甲斐では天保騒動112年間続いています。
    この中で浪人までして生きるか死ぬかの中で個人ではいざ知らず氏家制度の中で武士をして氏の保護のない所では先ず無理と観られます。出来たとして特例で多くの家臣を抱えての本家筋が先ず出来ることでは有りません。

    同じ、武田氏系青木氏でもなかなか、この花菱紋と青木氏菩提寺の二つの条件を維持して行くのは長い歴史の中では困難です。多くは、菩提寺や家紋を変更せざるを得ないのです。
    しかし、この系譜の末裔が調査の結果、二つの条件を現在維持していると観られるのは、その皇族青木氏と相当に本家筋に近い一族である事です。
    簡単なようですが、本家の目的義務を長い期間を維持する事は普通では出来ない大変な努力が必要です。大抵は分家は伝統を無くしその家の宗派や家紋すら忘れ去られているのです。

    [青木村の形成]
    青木氏は”何処にでもある青木”と思われているところがあります。
    ところが、大化の天智天皇より、唯一独自の村を形成したのは先ず青木氏なのです。
    と云うよりは「青木村」を形成が認められたのは皇族の賜姓族の青木氏だけなのです。
    当時の習慣で、地名から氏名にした氏名が全てでしたが、中大兄皇子が初めて賜姓をしたのが、伊勢王の施基皇子の青木氏で、それを村名にしたのが始まりでした。
    その伊勢には、桑名、員弁、四日市、名張、松阪のその「青木村」が有り、現在も存在しています。
    これ等”しき”と言う地名では、以下の通りです。
    桑名京町、松阪京町、四日市京町、伊勢市一色町、津市一色町、四日市一色町、河芸一色町、久古一色町、施基、磯城、...10程あります。
    全て”しき”と読みますがこの名が多いのです。(一色をいっしきと呼称するのは室町末期から)
    当時、奈良時代では施基皇子の個人名を特別に地名とする事を朝廷から許されたのです。
    ですから、「氏名」を地名にする習慣が無かったのです。
    もっと云うと、「氏名」そのものを持つと云う習慣がなかったのです。ですから、”何処の土地の何々者だ”と云うように成っていました。
    中大兄皇子が第6位皇子に青木氏を賜姓をし、住んだ伊勢の地名が「特別な氏」であるところから「青木村」と名付ける様になったのです。
    「氏名」を地名にするのは「特別な氏」(青木氏)しか習慣として認められていなかったのです。
    そして、ですから、その「氏名と地名」の「青木」の使用は嵯峨天皇が「弘仁の詔」を発して一般に使う事を正式に禁止したのです。
    ですから、「青木村」は氏名から地名となったもので、賜姓青木氏と皇族青木氏が住んでいた5つの守護国の国府に「青木村」が必ずあるのです。これが歴史的な所以なのです。
    明治以降詔が解けて青木村が多く出来たのは「第3氏」「未勘氏」の結果です。
    天智天皇は第7位皇子(川島皇子)に特別賜姓しましたが、天皇はこの原則を護り、川島皇子が住んでいた土地の地名を採り近江佐々木氏を賜姓すると云う経緯があるのです。
    但し、朝廷は藤原秀郷流青木氏には督励で認めましたので藤原秀郷一門の青木村があるのです。
    赴任地24地方には藤原秀郷流青木氏の始祖「千国」等の地名もあるのです。
    藤原氏北家でも藤原の地名は少ないのです。あるとしても、明治以降に名付けられたものと観ます。

    ですから、甲斐の青木村の二つはその習慣から賜姓青木氏系であり、武田氏としては当初は賜姓青木氏と繋がる割菱紋から出た花菱紋ですので巨摩郡青木村と柳沢郡青木村があり、「第3氏」「未勘氏」の青木氏の村では無い事に成ります。
    「地名地形データーベース」を参照して下さい。

    [嵯峨詔で認められた氏」
    念のために、この習慣を認められた氏が他に2つあります。
    一つは、皇族賜姓佐々木氏です。
    上記した中大兄皇子の第7番目の皇子(施基皇子の弟)の「川島皇子」です。
    特別に第7位皇子にもその功績を認めて近江佐々木村の地名を採って「佐々木氏」を中大兄皇子は賜姓したのです。
    地名から氏名を賜姓された最初の賜姓佐々木氏です。
    この後、青木氏と共に、佐々木氏も宇多天皇が第6位皇子に佐々木氏を賜姓して滋賀の守護王として賜姓しました。
    これが「近江佐々木氏」と「滋賀の佐々木氏」です。
    有名な剣豪の佐々木小次郎はこの近江賜姓佐々木氏の末裔です。

    もう一つは、鎌足の子孫の藤原氏です。
    藤原氏は四家(北家、式家、南家、京家)と言って4つの一族家がありましたが、勢力争いがおこり「北家」が勝ち他は絶滅に近く衰退しました。
    この中でも藤原秀郷一門が最大勢力を広げました。この一族には主要5氏(青木、永嶋、長沼、長谷川、進藤)が在りますが、中でも、藤原秀郷流青木氏が最大勢力を持ち、「第2の宗家」と呼ばれていました。
    この青木氏は母方で5家5流の皇族賜姓青木氏で繋がっています。
    藤原秀郷は朝廷に青木氏を使用する事を願い出ました。許されて958年頃秀郷の第3子の千国が始祖として貴族の身分から臣下して藤原氏を護る護衛隊としての役割を担いました。
    そこで、天皇を護る親衛隊の青木氏と血縁と役目で同じであることから朝廷はこれを特別に許したのです。
    これが藤原秀郷流青木氏です。116氏に広がっています。
    特別の氏名を地名として使用を許されたのはこの2氏です。
    ですから各地には青木村が多いのです。
    これ等の土地は皇族賜姓青木氏6家6流29氏と藤原秀郷流青木氏116氏に関わった土地柄が殆どです。
    地名に付いてのデータは「地名地形データベース」のメニューを参照して下さい。

    [青木氏の由来]
    そもそもその「青木氏」の氏名の由来は、次ぎのことから来ています。
    中大兄皇子が施基皇子に与えた「青木」の理由は、常緑樹「青木」と云う木があります。
    この木は奈良期より「榊」と共に「神木」として使われていて、その木の性質から真っ赤な1センチ程度の実を着け、木と葉は共に緑で枯れずに成長が早く枝を真っ直ぐ伸ばす性質がある木です。
    その実の赤は血を表し、常緑の緑は体を表すもので、全ての命の根源として扱われていました。
    つまり、この第6位皇子は天皇の皇子、「民の象徴」の皇子として、この木の「青木」の名から与えたのものなです。
    これ等のことは詳細に、「皇族賜姓青木氏関連のレポート」と家紋の笹竜胆紋のところにも写真つきで記載しています。
    甲斐の国府のあったところの県庁所在地ですが、武田氏系青木氏の韮崎の周辺は青木村が有ったところで現在も清哲青木町があります。「地名地形データベース参照」

    「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の青木氏29氏の所のレポート観てください。

    [青木氏墓石の慣習]
    さて、甲斐の青木氏の花菱紋に関わる出来事があります。墓石のことです。
    昔、室町末期、江戸初期、明治初期頃にこの様なステイタスに関わるものが盗まれると云う事件が各地で起きました。
    この原因の一つには、明治政府の失策「廃仏毀釈」です。
    これにより、「伝統」が壊れる事が起こりましたので、民は反発をして「一族の伝統」を隠す行為をしたのです。また、逆に、その伝統を盗み自らの出自を証明するものとして盗みの行為をしたのです。
    (明治政府はこの「伝統」が政策実行に対して邪魔に成った事は否めません。江戸幕府はむしろこの「伝統」を遵守して強化したので300年という封建社会を維持したのです。逆に終末、この「伝統」を重んじ過ぎて大勢を疲弊腐敗させる原因とも成りました。平安時代も同じで鎌倉幕府の樹立につながりました。何時の時代も伝統-腐敗-維新のサイクルが起こります)

    そこで、現在の使用されている墓石は、正しくは明治初期から使われている花崗岩、つまり大理石の墓石は江戸時代は使用していませんでした。
    実は、昔の墓石は、泥岩や砂岩の石を使っていました。
    これは、”魂と体は「自然に帰る」”と云う仏教的教えによるもので、そのために、”川原に帰る”を意味するところから川原にある石を使用したものなのです。
    江戸中期以前の当時は、武士以上、庶民の裕福な者、農民の庄屋、名主等の身分のものが砂岩、泥岩等で墓石を作り墓所を設けていたのです。
    庶民は、適当な川原の石を選んできて積み上げた川原に簡単な墓を作ったのです。ですから土葬でした。(この作業をする者を昔は「川原者」と呼んだのです。)
    今でも”死して路傍の石になる”という言葉を使いますが、この「路傍の石」の言葉の由来はここから来ています。
    どんな大名でも当時はこの石を使用していました。ですから、歴史探訪で墓石が大理石では虚偽となります。明治になって墓を綺麗に長持ちさせることを狙いに花崗岩の石にしたのです。
    砂岩などは苔がつきやすく風雨で崩れやすいのです。昔は”自然に帰る”としてこれでよかったのです。

    韮崎青木の常光寺にある11代の青木氏ばかりの古いお墓はこの石で出来ています。
    墓石は塔(五輪の塔)のように積み上げていますか゛、これは50年経ったご先祖にはこの塔にするのです。それまでは、角墓石です。このお寺のお墓はこの泥岩砂岩で出来ています。
    一条氏などの公家は真言宗高野山には歴史上有名な人物の墓石が在りますが、全てこの砂岩や泥岩の石で出来ています。ですから苔が生しています。”土に返る”はこの事なのですが、だから泥岩砂岩を使用したのです。
    ただ、これ等の青木氏の墓石には、特長があります。
    浄土宗の仕来りとして皇族賜姓青木氏、皇族青木氏の宗家、本家、主家の墓には習慣として「女墓」と「男墓」の2つがあります。
    まず、「男墓」は全体を祀る墓です。そして、「女墓」は代々の妻及び子孫拡大に寄与した人物の「俗名」と「戒名」を書いた大きな平石の墓石があります。この様に別に更に特別に祀ります。
    この様な事から「青木氏」は奈良時代から明治まではその青木氏の家柄から衆知の姓でしたので、それで各地の青木氏の墓が、「第3氏」や「未勘氏」を名乗る人たちや一般の人たちからよく各地で盗まれたのです。
    特に女墓は戒名が書いていますので、証拠になるところから良く盗まれたのです。
    ですから、「女墓」は廃れてしまったのです。今では多分5家5流の本家だけで女墓の持つ家は無いと思います。
    甲斐の花菱紋の一族でもこの事は起こっている筈ですが、多分、逃亡の移動で女墓も無く成っていると思います。まして、甲斐の花菱紋の青木氏では特異に5回も改宗などの事件が起こっているのですから、男墓と女墓も消失しているでしょう。
    さらにその上に浄土宗、真言宗、曹洞宗などの宗派争いが発生している事からも当然の事と思います。むしろ、起こらない方が不自然です。史実から観ても、武士が起さなくても寺側が起すことがあります。
    この様に青木氏には伝統に支えられた細かい習慣があり、本家筋はこの「伝統」である「習慣」と「遺品」と「記録」を懸命に護っています。勿論、宗派もその一つです。
    ですから、「伝統」の差が起こり、「夫々の伝統」を護ろうとして宗派間対立が生まれるのです。

    甲斐一揆などは確かに政治に対する不満が大儀明文でしょうが、その殆どは宗派対立です。
    その証拠に甲斐で起こった「天保騒動」(1724-1835)云う大変な騒乱が112年も続いて起こったのです。
    この宗派争いの中で、花菱紋本家筋かその上の宗家には女墓か或いは子孫を生み遺した女性の戒名と俗名を書いた何物かが仏壇などに遺しているかも知れませんが現在確認されていません。
    これはこの宗派対立を巻き込んだ騒乱が原因で現在でも墓、仏像、寺そのものが消失しているのです。

    [家柄身分の考察]
    その証拠には常光寺の菩提寺には11代の青木氏の墓がありますが、その周囲には個人墓も祭祀されています。
    これ等の史実から、根拠の薄い矛盾を伴なう「一条氏」を名乗るほどに、家柄身分を誇張する傾向の強い甲斐の青木氏とも思えますので、特別の家柄として観て比叡山か高野山か清水寺などの浄土宗本山にも本家筋の墓所がある筈です。
    これ等の事で筆者の家などにも口伝が多く遺されています。
    余談を一つ披露しますと、徳川家康の3男の子供で紀州の徳川頼宣と伊勢で青木氏先祖と対面した時の出来事です。客殿座敷に殿様が座る上段の席が在ります。そこを降りて上席の上座を譲ったと伝えられ、祖父の代までの大正14年まで代々付き合いがあり、紀州徳川氏はこの仕来りを護ったと祖父から聞かされ伝えられています。
    昔、歌舞伎でも、”おのれ、このわしが甲斐の山猿めらに上座を譲らねば成らないとは口惜しい”と将軍が怒鳴ると言う場面がありました。この”甲斐の山猿”は甲斐の皇族賜姓青木氏であったのです。
    江戸初期のことで、甲斐の青木氏と将軍と対面する場面で、青木氏との仕来りを護らない将軍に対し挨拶もせずその場で立ったままにしているところ、家臣が将軍に仕来りを教える場面でした。
    これも史実に基づいた事ですが。
    更に、史実として、信長が、甲斐を打ち破った後、甲斐の豪族達と対面する時に、甲斐の青木氏の末裔は下馬せずに白装束の古来の正装で乗馬のままに挨拶をしなかったとして、刀の鞘で徹底的に打ちのめし半死の大怪我をさせると云う有名な事件がありました。
    信長はその歴史的なことを知らなかったのです。
    この二つの史実は甲斐での出来事です。当時の青木氏の習慣を知る事が出来る事件です。
    余談ですが、普通とは少し変わった青木氏だけの古い習慣や口伝があります。都度雑学として知る事も良いのでは。そして、それを子供達に知らしていく事もよく、先祖を敬う口伝としても伝わってゆくのではと思います。

    これ等の歴史的な事柄は次ぎのレポートを参照して下さい。
    1 「青木氏の綜紋」関係
    2 「皇族賜姓青木氏の背景」関係
    3 「賜姓青木氏の弱体」関係
    4 「青木氏の地名の発祥源」関係
    5 「青木姓の発祥源」関係
    6 「青木氏と血縁族」(家紋)の菱紋
    7 「大化改新」関係
    8 「天智、天武天皇の皇子皇女系譜」関係
    9 「日本書紀と青木氏」関係
    10 「青木氏と官位、官職、職位の研究」
    11 「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の4/10
    12 左メニューの「地名/地形データベース」の山梨関係の2つ(地図を左クリック)

    先ずはこのレポートとあわせて以上のレポートをお読みください。(左クリックで文章が出ます)
    注意点
    以上のレポートは無駄と理解の間違いを無くす為に論文方式で記述しています。
    なれない文面でしょうから、暫くは難しいかもしれませんが我慢して読んでいきますと慣れます。
    (読んでいる間に、ご質問、ご不明点が有りましたら、お尋ねください。)

    そこで、”「花菱紋」の青木氏は「未勘清和源氏の武田氏系青木氏 尾張」”と書いていますが、研究では花菱紋が存在することは史実で検証出来ているのです。
    今回の研究で系譜や添書や史料などから花菱紋の末裔が現存することが確認出来ました。
    現在では、史実が消えてしまい個人情報保護で確認する事は不可能に成り、更に室町末期から以後の史料は「搾取偏纂」が殆どで信用できないのです。
    ですから、現実に、”史実に合う確認が取れる”という事はこれは大変な出来事なのです。

    [青木姓の由来]
    そこで、既にレポートしていますが、改めて「青木の木」に付いて述べます。
    余りそこらにある木では有りません。
    賜姓青木氏の「象徴3物」というものがあります。
    1笹竜胆の綜紋、
    2大日像坐像、
    3青木の木の神木
    以上の一つの「象徴木」を末裔の人に、「先祖を敬う心」を根づかせる為に、何時しか末裔の誰かが知ってもらえるとして、言葉よりも「心の木」を植えたのが天智天皇です。
    これ以後、多くの貴族などの氏は独自の木などを定め、それがシンボル化して何時しか家紋と成っていたのです。当然甲斐青木氏の花菱紋青木氏には浄土宗源空寺を開基した際には、そのステイタスとして、護り本尊として「仏像」を保持していた事が覗えますが、明治の廃仏毀釈で由緒在る源空寺は廃寺となりました。
    恐らくは、明治期には真言宗常光寺から曹洞宗常光寺とめまぐるしく中興開基したことから、浄土宗源空寺の歴史的存在の理由を消却されて末寺として処理されてしまったのではと考えます。
    浄土宗源空寺は曹洞宗常光寺以上に歴史的価値の在る皇族青木氏の菩提寺浄土寺です。
    現在、その寺社跡があり、僅かに石燈や釣鐘や墓石などが遺されています。
    又、天正2年ころから明治までその寺を皇族青木氏花菱紋の浄土宗菩提寺として護ってきた武田氏滅亡後、仕官先からの花菱紋一族と近隣の檀家が、その1500年以降の過去帳などが保存されています。
    源空寺は武田氏滅亡で菩提寺を氏で護れなくなり広く浄土宗信徒(江戸の浄土宗督奨令で中級武士が入信)に門戸を開きました。これが近隣の檀家と成ります。多くは1688年頃の柳沢吉保の甲斐三郡の領主と成った時の家臣団の檀家と観られます。
    その過去帳の戒名からもその末裔で在る事の証しを確認する事が出来ます。(戒名の証しは下記)
    源空寺にはこれ等の檀家の過去帳等は廃寺の際には事務手続き上しかるべきところに保存されていると観られます。1575年から青木氏だけの氏寺ではなくなりましたので檀家総代は保存の義務を負っていると考えられます。

    [戒名の意味]
    この花菱紋の青木氏には、源空寺に開山当時からの何処にか「過去帳」が遺されていて「系譜と添書」と「史料」が出来上がっています。寛政の史書(1800)にもあるくらいですので、廃寺に成る明治まで後68年と成ります。そして、その史書の有無からそれが関東にある事を意味しています。
    且つ、その系譜等の伝統を護ってきた本家末裔も関東である事に成ります。
    花菱紋本家の青木信政が系譜編集に関わった事が添書から判明しています事からの裏付けられます。
    この菩提寺過去帳の存在とその戒名の内容からその花菱紋青木氏の証しと成ります。

    そこで戒名に付いて基礎知識として記述します。
    戒名はその「家柄と身分と生様」を物語る物です。
    現在はやや多く成りましたが、戒名の形の「院殿居士」をお持ちの氏は少ないと思います。
    平安期からの戒名「院殿居士」は相当の家柄身分で無いと付けていません。
    一つのステイタスなのです。
    その「院殿居士」に付いて説明します。
    一つはその人が「現世で行った功徳」を表現します。これが「院」で、より詳しくすると「殿」でも表現します。
    次にその人の「人徳」または「人格」(性格)を表現します。法名などがこれに当ります。
    漢文に成っています。
    3つ目はその人の現世での俗名の二文字を戒名のどこかに組み込みます。
    昔の戒名にはこの3つの意味合いが含まれているのです。特に浄土宗には。
    この様に戒名を観ると、その人の現世での生きた大まかな生き方がわかるようにしていたのです。
    明治以降はそのことが変化して無関係により聞こえよくする傾向が強く成りました。
    寺と依頼する側の意向が働いているのです。

    では、このような戒名を「院殿居士」(いんでんこじ)と云います。
    先ず、観られない戒名です。現在に於いても。
    昔、皇族系の者で花菱紋の様な皇族青木氏と菱紋や割菱紋の賜姓青木氏、賜姓源氏等の朝臣族と真人族や宿禰族等の者が皇位継承から外れた場合(第7位皇子第6世皇子)は門跡院を造って僧に成り入るか、比叡山の僧になって入るかの選択をします。皇女の場合は、「斎王」と云って伊勢神宮や天皇系の神社の「斎王」と成って入ります。そこで一生を終えます。
    又、天皇を経験した人なども門跡院の仏門に入り天皇家とその一族の御魂を弔います。
    この時に、「...院」としてその人を呼ぶ事に成りました。
    つまり、俗世から離れた時(剃髪して仏門に入ったとき)に付ける「院殿」てす。
    この慣習が特別な宗教(浄土宗、天台宗)で皇族、貴族、公家が入信する宗派で用いられる様に成りました。
    この習慣が鎌倉期以降は少し上級武士にも用いられる事に成りました。
    室町期ではたくさんの宗派が出来ましたので、寺の経済的な運営のことから、他の宗派でも用いるように成ったのです。
    明治初期の頃までは中級武士でも用いられる様に成りました。
    明治になっても、相当な資産家などが高額金品を寺側に渡して付けてもらう事になってしまったのです。
    次に、「殿」も同じ経緯を辿りましたが、「法名」(仏法に基づく名)がつけられます。
    昔は、同じ様に皇族系や貴族、公家、上級武士でなくては「法名」も持ちません。
    これらの身分の者以外は戒名すらありませんし、墓もありません。川原に埋めるのが普通です。
    「法名」がある事に成ると彼世の住まいとして「殿」が必要です。
    つまり、彼世での法名、彼世での住まいの「殿」が必要と成りますので、「殿」が付けられるのです。
    「住」では無くて立派な「殿」です。それが、今は現世でもその習慣が「...様」の「...殿」(どの)に成って使われているのです。
    例えば、奈良に在る平等院の中にはたくさんの「...殿」が在るように「院」と「殿」を一つにして使う場合が多いのですが、「...院..殿」とする場合もあります。
    次も、「居士」も同じですが、その「仏法」の位が高いことを示す階級です。
    「居士」を付けない場合は「信女」とか「信士」とかを付けるか、全くな無しで、「俗名」を後ろにつけるのが普通です。現在もこの「居士」は特別な者しか用いません。
    以上3つのその身分を示す表す方法として用いられたのです。
    この3つを付けてくれと寺側に頼んでも昔はその身分に無い者には付けてもらえません。
    誰でもつけるとその値打ちが無くなり寺側としての権威と経済的な裏づけはなくなりますので絶対に受け付けませんでした。
    特に、浄土宗では厳格に護られました。江戸時代初期まで。ところが、檀家が少なくなって浄土宗は運営が出来なくなったのです。困った徳川幕府は「督奨令」を出して、武士以上の者に進めたのです。
    浄土宗はこれ等の身分(皇族、貴族、公家)に支えられて権威と経済力で特定宗派として維持できていたのです。入信したくても出来ない宗派でした。江戸初期までは。然し、それでも駄目でしたが明治の苗字令で政府の援助もあり。廃仏毀釈の目的でもあり、増えたのです。
    今でも多くはありません。
    源空寺が廃寺の一つの原因です。
    源空寺を支える人達の財力が低下した事にもよります。
    だから、明治の廃仏毀釈で殆どの人は甲斐では元々常光寺「曹洞宗」と云う事もあり宗派変えの事も考えられます。

    この「院殿居士」の意味は戒名の意味だけでは無く、改宗の原因でもあるのです。
    現在でも、この「院殿居士」を付けてもらえるには、大変なお礼金額を出さないと付けてもらえません。多分、1割も無いでしょう。ですから、これだけでも、直ぐに判るのです。

    花菱紋青木氏のことはこの「院殿居士」と曹洞宗「改宗」が繋がっているのです。
    第3氏や未勘氏がどんなに繕っても絶対にごまかせないのです。歴史の慣習を知っていると。
    甲斐全体でも現在でも4寺しか有りません。大変少ない県です(宗派別データを後述)
    この4寺中での「院殿居士」ですから大変です。
    花菱紋の過去帳(系譜編集)の存在があり、尚且つ「院殿居士」だけでもこの慣習が働いていた時代(明治以前)として確実な証明に成ります。
    この様に「源空寺」は歴史の知る者にとっては大変な価値を持っているのです。

    そこで話を戻します。
    甲斐青木氏の存在の当時の立場がどの程度のものかを知ってもらうために余談を致しましたが、さて、甲斐の源時光(一条系と呼称している)の常光寺の青木氏菩提寺が在りますが、その藤原摂関家四家一条氏系を名乗る初代信義より2代目次男の源忠頼なる人物がありすが、この忠頼(一条忠頼を名乗る)にはある事件が起こります。
    これは武田氏がどれほどの立場を占めていたかを物語る事件なのです。
    武田氏系青木氏に関わる事件です。
    武田源氏の初代信義の次男(嫡子)忠頼の居住した所は大きく変貌する青木氏の菩提寺と関係を持ちます。
    大きい事として有名な事件ですか忠頼が頼朝に謀殺された真相です。
    (吾妻鏡、源平盛衰記に小説的に記載)
    平安中期960年頃に陸奥より藤原秀郷一門との血縁をした小田氏が秀郷一門の赴任地替えで甲斐に藤原秀郷流青木氏と共に護衛団として同行しました。
    この事は前で記述しましたが、その後、勢力を増して清和源氏の満仲三男の分家頼信系で、頼信より4代目義清が、甲斐の武田で豪族となった小田氏系武田氏と血縁し土地の地名から清和源氏系武田氏(小田氏)が発祥します。これよりは正式には初代が孫の武田信義と成ります。
    その経緯は、源満仲の嫡子の本家頼光が青木氏の守護の国司職として甲斐に赴任します。
    しかし、摂津源氏の頼光は弟三男頼信(河内源氏)を出世させるために、この国司役を頼光の上司の摂関家の藤原氏の許可を貰って(朝廷の許可)頼信に譲ります。
    そこを足場にして分家の頼信は関東に勢力を伸ばし、第2の拠点を兄頼光本家筋の領地伊豆に賜姓伊勢青木氏の護衛の下で勢力を得て築きます。これが、河内清和源氏の頼信系の勢力拡大に繋がります。
    当然、これが土地の豪族となっていた小田氏(地名より武田氏を名乗る)と有名な暴れ者の義清の血縁と成ります。
    これが甲斐の源氏としての流を作ります。これが謀殺の大きな原因に成ります。
    その義清の孫の信義の子次男忠頼はその居城を国府(八代郡)に起きます。
    そして、明楽寺を開基します。
    その居住地は大井荘南条に起きます。現在の宝林寺と云われています。
    そこに政治の場として甲府城を築きます。
    しかし、頼朝の鎌倉幕府樹立するまでにこの武田氏は勢力を最大に伸ばしていましたが、忠頼は同じ清和源氏(頼信系)の分家本流(本家は頼光系)頼朝に謀殺されます。

    この謀殺の経緯は、次ぎの通りです。
    頼朝は北条氏の援護の下に鎌倉政治を行いました。
    しかし、その実態は大変複雑でした。
    頼朝は幕府樹立後には、身内の源氏一族が極めて衰退していました。
    つまり、これでは孤立無援の将軍であり、自分の身内の援護がありませんので、樹立後、直ぐに北条氏らの反対を強引に押し切って、衰退してしまっている自分の血縁関係にある源氏一族と、母方であり跡目を入れている北家藤原氏(朝廷が衰退して失職離散)の復興を狙って「本領安堵策」(土地を旧来の持ち主に戻す策)を強引に2度行い自分の背景勢力を戻して築こうとしました。
    更に駄目押しとして「平家没官僚策」(平家の土地を含む財産を分ける策)も実行しました。
    しかし、このことが切っ掛けで、北条氏の基盤の「坂東八平氏」は猛反発します。
    「坂東八平氏」は頼朝も含めてこれ等の2つの勢力の一掃にかかりました。
    幕府の実権の確保と、頼信の関東制覇と藤原秀郷一門の勢力拡大で坂東八平氏は取られた土地を取り戻す為に動きました。
    更には、他の源氏を担ぎ出して、別の幕府を作り、鎌倉幕府に対抗して来る可能性が朝廷にありました。頼朝弟の義経もその自前の軍1万2千を持ち平家を一人で潰してしま程に勢力を持っていました。「坂東八平氏」の敵対したい人物その1人ですが、他にもう2人居ました。
    それが甲斐の一条系源忠頼です。

    もう一人は、大島源氏です。
    義経に壇ノ浦で負けた平家水軍が最終決戦として再結成して鎌倉幕府の弱点(坂東八平氏は水軍を持っていないし、兵は全て各地に出払っている)の三浦湾を襲い逆転を狙いました。
    水軍の持たない裸同然の鎌倉に平家水軍が上陸する寸前に、この作戦を知った大島群島の為朝配流孫の落種の大島源氏が大島水軍を黒潮を3日で渡り三浦湾に到着し平家水軍と激戦しこれを打ち破りました。
    平家の知らない隠し源氏の大島源氏です。最大の勲功を挙げました。清和源氏頼信系(源の為朝の子)です。彼は義経と同じ考え(幕府は源氏一族で)を持っていました。
    北条氏を始めとする「坂東八平氏」はこの「大島氏」と「義経」も「忠頼」と同じく宿舎で謀殺にかかりました。何れも難を察知して逃げ延びます。
    大島氏は戦えば義経軍(駿河水軍と伊勢水軍と熊野水軍と紀伊水軍)共に背後から平泉藤原氏軍で挟めば必ず勝つ事は出来るのですが戦わず水軍を大島に引き上げます。
    この3人を潰せば「坂東八平氏」は朝廷の封じ込め(別に朝廷側の源氏幕府を開く動き)が出来て安泰です。結局、大島氏を残して2人を潰しました。
    そして、各地の源氏一族(義経の件も含む)も、各地(24)の土地の豪族と成っていた藤原秀郷一門(平泉藤原氏の秀郷一門)を尽く潰しにかかったのです。
    戦略的には、義経が、その時意見を頼朝が聞き入れることをしなかった場合は、一度京に戻り、関西と中部の源氏と中部以西の幕府樹立で失職離散した藤原一門を味方に引き入れて、関東の藤原氏と坂東八平氏を敵に廻しても勝てることは充分でした。
    忠頼は元より武田氏系青木氏を含む関西系青木氏一門と、残存する清和源氏や村上源氏などが味方する軍力と、関西に集中する青木氏や藤原氏の軍と経済力でははるかに義経側が上でした。
    史実、紀州源氏の叔父である新宮太郎は繋ぎ役としてこれを必至に説きましたがこれも謀殺により潰されてしまいます。
    坂東八平氏は藤原一門に周囲を囲まれていて旧来より抑えられています。更には「平泉の軍と金の経済力」が在れば「袋のネズミ」だったのです。そうする事で源氏一族は子孫を遺す事が出来た筈です。海陸共に抑えられていたのですから、坂東八平氏は窮地にあった筈で戦うと負けるので、3人と頼朝一族を会議の場で緊急で謀殺としたのです。
    しかし、義経の性格がこの機会を逃したのです。逃げるという手段に出た事によります。

    この北条氏の母体「坂東八平氏」は、元はと云えば、天智天皇の「大化改新」で、皇族第7世以降は「平民」にして皇族から外し、侍として坂東の固めに配置しました元皇族系の一族です。
    そして、第四世までを皇族として「守護王」の身分として「大化改新」の経済的負担もあり急いで第一の改革しました。
    この時に、皇子も今までは第6世までの皇子を、第4世までの皇子でその第4番目(第4位)までを皇位継承権を与え身分を「真人族」としてました。
    そして、第4世までの第6番目の皇子は臣下して侍とし、賜姓して天皇を護る親衛隊しました。
    これが初代施基皇子の伊勢王の皇族賜姓青木氏です。この一族の身分を「朝臣族」としました。
    (皇子数のにより第5世はこの中間としました。)
    この時、当然、第6世以降は天皇が代わる度に第7世になって行きます。
    これが「坂東八平氏」なのです。この一族を「ひら族」と呼ばれました。
    ここで、大きな違いが起こったのです。
    第4世の皇族賜姓青木氏の侍の親衛隊で守護王、一方、第7世の「ひら族」の坂東守備隊、
    元は同じ皇族王であった者が、大きく変化したのです。

    そこえ、この不満の「坂東八平氏」に追い討ちが起こりました。
    藤原秀郷がこの坂東の地域の領主として入り込んできました。
    当然、摂関家を背景とした北家藤原氏に圧迫を受けます。土地は尽く奪われます。
    第7世の「坂東八平氏」は完全に衰退します。
    この状況で皇族賜姓5家5流の青木氏はその親衛隊として、皇族朝臣族として、その政治と武力で最大に発言力を持ちます。
    合わせて、鎌足よりの摂関家の藤原氏との血縁関係で藤原氏も勢力を持ちます。
    「賜姓青木氏」、「北家藤原氏」、「坂東八平氏」の3つ巴の関係が出来上がります。何れも血縁関係はあります。そして先ず「坂東八平氏」が勢力を失います。

    ところが、この勢力関係を好まない天皇が出ました。桓武天皇です。
    日本の律令国家体制を完成させた天皇です。天智天皇から仕来りとして詔に従い、第6位皇子を青木氏を賜姓して臣下させる事を嫌いました。
    そこで、伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇、その子供の桓武天皇は、自分の母方の渡来人の後漢の阿多倍王の孫娘の「高野新笠」を母に持ちます。この母方を引き上げます。
    阿多倍王一族は全国66国中32国を征圧します。そして、伊勢の北部伊賀地方を青木氏から割譲します、また、朝廷は薩摩国の大隈も半国割譲して与えました。
    そして、賜姓をするに必要となる皇族者の根拠を坂東の第7世族(ひら族)に求めます。
    この一族であるかのようにして、名を「ひら族」に対して「たいら族」としました。
    これが、桓武平氏(京平氏 伊勢平氏とも呼ばれる)です。
    そして、この勢力は大化期より敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り子を成し准大臣に成ります。
    そして、三人の子供の長男は征夷代将軍になり、坂上氏の賜姓を受け、次男は朝廷の財務担当で賜姓大蔵氏、三男は天皇家の財務担当で内蔵氏となり、朝廷の官僚の6割はこの一族末孫と連れてきた渡来系政治部の者達で占めれたのです。
    このすざましい勢いで拡大し、遂には。国香、貞盛より5代で太政大臣「平清盛」に上り詰めます。約200年で朝廷の3政治機構の内2つを握り3政権(政治軍事経済)を末端の官僚の事務員まで一族で固めてしまいます。ただ一つ斎蔵は藤原氏が、天皇の親衛隊は賜姓青木氏だけと成りました。
    その最後が清盛の”平家にあらずんば人にあらず”の時代でした。

    上記の3つ巴にもう一つ加わったのですが、この桓武天皇のやり方を嫌った子供の嵯峨天皇は青木氏の賜姓に戻そうとしましたが、抵抗が生まれて賜姓源氏として第6位皇子が臣下させました。
    これが11代続いた源氏で終局3つの源氏(清和源氏、村上源氏、嵯峨源氏)だけが生き残りました。中でも、清和源氏が北家藤原氏と組んだ為に最大勢力を持ちました。

    第7世族の「坂東八平氏」は、頼朝を前面に推しながらも、この清和源氏の北家摂関家の藤原氏の一条家の血筋を持つ甲斐の武田氏を、他のところは潰したので、清和源氏の血筋を持つ武田忠頼(信義の子供)を潰しにかかったのです。
    頼朝は、幕府3年後(1195)にトリカブトを食わされて毒殺され、2人の子孫も有名な事件として鎌倉八幡宮と伊豆修繕寺で暗殺されてしまいます。
    藤原秀郷一門、義経、各地の清和源氏を根絶やし(1184-1185)にします。
    ここで、三つ巴の一つ皇族賜姓青木氏5家5流一門24氏(皇族系宿禰族青木氏は除く)を抹殺する事は天皇家に逆らう事を意味するところから世の反発を受けて好ましくないとして生残るのです。

    この様な背景から、藤原北家一条氏の血筋を引く小田氏の血筋を持つ支流の甲斐の源氏 源忠頼は謀殺(1184)されたのです。
    この時、弟の時宗は居城であった甲府城を、忠頼の妻子の尼寺として一蓮寺とします。
    その後、甲斐の武田氏は勢力を盛り返し信義から5代目の甲斐の国守武田時信(一条系源時信)は子供の時光と源光に甲斐の皇族賜姓青木氏と更に重複跡目血縁して北条氏からの追求を逃れる為に(子孫を遺す為に)引き継がせます。
    既に、武田菱紋と割菱紋の青木氏との血縁は出来ています。

    本来、源の源光が青木別当蔵人で青木氏の祖です。官職もその通りです。
    これが甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目には入ってこの武田氏2氏との血縁関係は出来ました。
    その兄弟の源の時光と更にこの武田氏(小田氏)との血縁で生まれたのが、もう一つ武田氏の花菱紋でこちらもこの青木氏を名乗ったのが時光だとされていてこれが有力説です。
    1180年代の源の頼政を首謀とする「以仁王の乱」の「源平の争い」が始まる前後と見られます。

    因みに、伊勢青木氏にも同じ事が起こりました。この時、頼光の4代目頼政(仲綱の子)の孫の三男京綱が跡目に入っています。
    (ほぼ同時期に近江、美濃、信濃の賜姓青木氏にも同じ事が起こりました。)
    乱の敗戦後、嫡男次男は日向に配流されます。
    (配流先での末裔は日向青木氏です。)

    つまり、時代的に考察すると、1180年の5−6年前後に武田氏の忠頼から始まった初期の存亡の時に危険として皇族甲斐の賜姓青木氏に6代目に跡目(源光2、時光1)を入れている事に成ります。
    (同時期に各地でも朝臣族血筋を持つ者は青木氏を名乗り難を逃れている)
    この時信の子供の時光が(これ等のことを明らかにするために)青木氏菩提寺の常光寺に初代の時光系の源氏武田系青木氏としての11代の墓石を列ねる事にしたのではないかと観られています。
    この寺の周囲には全体に他の多くの賜姓青木氏と観られる小さい墓石があります。
    この寺は、本来、甲斐青木氏(源光系)の菩提寺でもあったのでは無いかと推測されます。
    そこに、流を異なる兄の時光系武田氏系青木氏により2代目の常光の時に変名しています。
    名を執り常光寺としました。元の名は不明でする
    源光の武田氏系青木氏(武田菱紋と武田割り菱紋)の墓所が明確ではないのはこの原因ではとも思います。しかし、この研究で光福寺と尊たい寺が有力と成りました。
    この時、兄の時光派(一条氏を名乗る)弟の源光派(一条氏を名乗っていない)の間で常光寺(前名は不明)の処遇で争いがあったと推測が出来ます。
    (時光の墓は摂津の地頭であった事から、摂津浄土宗善法寺にあるとする説もあります)

    [一条氏を名乗る疑問]
    甲斐の一条氏は山梨郡一条郷として名乗る事と成ります。
    この一条郷には室町末期に一条氏が住んだとされる由来からです。
    そこで、甲斐清和源氏系の武田信義の次男忠頼がこの一条氏を名乗ったとさされるものです。
    信義の長男武田信光は武田氏を、次男は忠頼は母方の一条氏を名乗ったと成ります。
    京の公家藤原北家摂関家四家の一つ一条氏が甲斐のこの地に逃げ延びたという史実の確証は取れません。各地でこの時期一条氏が逃げ込んで子孫を発祥させたとする説は大変多いのですが、甲斐も一条郷とするだけにその一つと見られています。未勘一条氏と観られます。
    しかし、忠頼は兎も角も、6代目以降の時光等が一条氏を名乗る根拠が系譜史実から薄いのです。

    先ず、兄弟で一条氏を名乗る者と名乗らないものが出た事に疑問です。

    「時光7人兄弟」
    信一、義行、貞連、宗景、貞家、時光、源光、信源
    以上の内では誰も名乗っていないのです。

    その前には名乗っている人物を確認すると次ぎの人物と成ります。
    時信の弟宗信(時光の叔父)
    時信の叔父宗長
    時信の祖父信長
    以上の3人です。
    この3人の内、武田氏に関わった人物は祖父信長だけです。
    信長は武田六郎です。
    信長は信光の4人の子で実質4男です。
    信長は忠頼の甥に当ります。
    時光は信長の曾孫に当ります。
    時光その者は十郎です。

    つまり、系譜から観ると、時光が一条氏を名乗るとすると、自分と父からの筋では無く、祖祖父の親(信光)の兄弟(異母弟忠頼)の母方家筋を名乗った事に成ります。つまり、祖祖母です。
    そして、この一条氏を叔父の宗長一族が正式に引き継いでいるのです。
    この様な事は現実にはありません。
    お爺さんの親の異母弟の母方の実家を名乗った事に成ります。

    この様に、一条氏の名乗りそのものが問題ですが、多分、この兄弟の矛盾は当時はなかったものと推測され、ある時期から家柄を誇張する為に採った手段であろうと見られます。
    もしこの様なことを行えば本人は世間の笑いものに成るでしょう。それも”笑いもの”の反対の”よく見せようとする目的”で名乗るのです。あり得ません。
    賜姓源氏で最も栄えた清和源氏の血筋を引いているのに、敢えて無理に一条氏を名乗る事は賜姓源氏の名をわざわざ否定する事に成ります。
    賜姓源氏は皇族系の朝臣族、一条氏の公家は藤原氏で身分と家柄は2段下と成ります。
    何も低い方を名乗ることは、「氏家制度」の家柄身分を誇示する社会の中であり得ません。
    そうすると、賜姓源氏以上に更に上乗せて家柄身分を誇張しなくてはならない現実があったことに成ります。
    その「誇張した人物」と、その「誇張の背景」があって強引にこの叔父と祖父の系列の筋違いの一条氏を名乗る必要があり、平気で名乗れる環境があった時期と成ります。
    それをこの武田氏系一族の中からこの二つの環境条件を引き出せればその証明の一つと出来ます。
    まず、その時光等が叔父の家の一条氏を名乗るには嘘を世間が認めないでしょう。逆効果も甚だしいものと成ります。
    一条忠頼が、一条氏がこの地に来たとする証拠の有無は兎も角としても、発祥元としている事は先ずはあり得ることですが、また、各地に多く逃げ込むほどに、それ程一条氏はその時に子孫が多かったのかの疑問もあります。
    更に云えばばらばらにして何故逃げ込んだとする疑問もありますし、山口や四国の様にそ一条氏の人物が明確であればよいのですが、甲斐の場合は風説です。

    頼朝に謀殺された忠頼の筋ではなくて甥(信光の子供)の信長の姓であるのです。
    これも疑問ですので、ですからその時代に生きている人間には一条氏を語ることは先ずあり得ません。
    時光から墓を源氏として11代列ねたとすると、この間その必要性がなかった事にも成ります。
    ただ、常光が真言宗に改宗する根拠は「一条氏」が一つ根拠として必要です。
    しかし、有力ですが、真言宗に改宗したのがこの「一条氏」を理由としたのではない事も考えられます。時光が一条氏の筋では明らかに無いからです。
    謀殺された忠頼の子孫では納得できますが、常光が理由にするには根拠が低いと考えます。
    つまり、真言宗改宗は、信定の曹洞宗改宗と同じ事件が、時光から2代目の常光の時にも起こったのではないでしょうか。「第1の呼称説」の2つの原因説です。

    仮に、この前提で考察すると、次ぎの様に成ります。
    「第2の呼称説」
    その人物は、つまり誇張するに必要として世に出た人物は柳沢氏であり、柳沢一族が出世した人物と時は「柳沢吉保」であり1680年頃と成ります。
    その柳沢氏は次ぎの系譜と成ります。

    「青木氏系譜」
    12代信生−信定−正定−豊勝−豊信−(嗣なし家絶える 分家跡を継ぐ)..青木氏系譜 花菱紋

    「柳沢氏系譜」
    12代信生−信定−豊定−信立−信俊−安忠−吉保−吉里 柳沢氏系譜 花菱紋
    吉保は1688年です。

    豊定は武田氏が天正3年に滅びその後直ぐに家康に仕えます。 家禄は吉保までは250石程度の下級武士でした。大番などの役目であったと記されています。
    吉保の出世で甲斐国15万石 柳沢郡、八代郡、甲府郡の三郡を知領しましたが、吉保失脚後、吉里は奈良郡山に同等の石高で移封と成りました。
    もともと250石程度では誇張する必要は無く、甲斐の地元の三郡を治めた時期が最もこれを誇張するに必要とします。
    丁度、柳沢氏発祥から100年経過した頃です。3代前と成ります。
    時光より18代後です。この頃に矛盾の多い本筋ではない一条氏を無理に持ってきたのではないでしょうか。後付の家柄誇張と謂う説です。
    源氏では、甲斐源氏とは云え本流ではなく下の家柄の支流の跡目筋ですのでその迫力は当時ではなかったのではと推測します。
    多分、甲斐源氏もさほどこの当時は甲斐では意識が無く、むしろ土着の小山氏筋の方に意識が強かったのでは無いでしょうか。跡目が入ったとしても意識の変化はタイムラグを起すのが世の常です。
    それだけに甲斐源氏とも矛盾の誇張をしたでは無いかと考察されます。(甲斐の人には悪いですが誇張癖が強い民)
    本流は兎も角も支流の源氏の家紋も違い、陸奥花房氏の足利氏と同じく、元は陸奥小田氏の武田氏であるのですから。どの確実な学術史料にもこの一条氏は出て来ません。あくまでも源氏の跡目一族です。
    インターネットなどの史料はこの搾取偏纂を元にしてのものですので確実性は疑問です。
    この辺の史実の検証が出来ていなくて常にこの時代の資料には鵜呑みには注意が必要なのです。
     
    話を戻します。
    氏家制度の社会の中で家柄身分の低い時光系にとってコンプレックスを抱き、その結果「氏争い」や「宗派争い」が起こった。時光の「甲斐全部の青木氏」(3氏6家)の菩提寺としての目的を排除して「皇族青木氏」だけのものとする事に賭けた。そして、宗派争いでは時光側が勝った(正しくは常光が勝った)。そして、建立完成前後に時光が死去し、その後、素早く殊更に1条氏を誇張し「真言宗改宗」と、他の青木氏のプライドを傷つける「寺名」(自名)の変更をするために「中興開山」せざるを得なくなった事に成ります。(一条氏の疑問、中興開山の疑問)
    そして、常光は妥協条件として源光側に対して花菱紋の時光系の墓を墓全体とするのでは無く一箇所に墓所を固めて列ねる事と云う事にしたと観られます。(1列の疑問)

    源氏の名乗りにしても、青木氏の名乗りにしても、家柄象徴の家紋にしても、一条氏の名乗りの理由にしても、宗派の違いにしても、武田氏の中でも菱紋では無く割菱紋で更にその分家の分流と成ると、少なくとも、賜姓青木氏と賜姓源氏は皇族同族である事とはせよ、皇族賜姓青木氏5家5流と区別した武田氏系青木氏(3氏家6家あり)その内の(割菱紋−花菱紋)の1氏を故意に喧伝する行為に出た事に成ります。
    皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と区別する為に、下の身分家柄の武田氏の跡目系武田氏であるところから、低い武田氏ではなく、時光の代からはより高い身分家柄の嵯峨期の詔に基づく朝臣族の皇族青木氏を名乗ったと見られます。(青木氏の疑問)それを2代目常光は更に菩提寺を分離させる喧伝行為に出たと考えられます。
    (職位官職など一切の諸事はこの強い氏家制度の身分家柄社会の中では必然の行為です。)
    武田氏、一条氏は皇族系でも無く、又朝臣族でも無い身分家柄で無いのに一条氏を名乗ることはあり得ないのです。皇族青木氏に名乗り替えをしているのに、わざわざ下の氏を重複して名乗る必要性はありません。
    参考に、同じ甲斐の武田氏系諏訪族青木氏は、信濃諏訪族と皇族賜姓青木氏と血縁した諏訪族青木氏が武田氏と更に血縁した一族で常光寺隣りにはその守護神の諏訪神社もありますが、秀郷流青木氏と他の4氏、それと隣りの信濃足利系青木氏はこの様な態度は採っていないのです。

    では、皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と皇族青木氏、一条氏の身分家柄の違いはどの程度かを示しますと、
    更に、武田氏と因縁を持った信濃諏訪族青木氏は源氏、武田氏、小田氏、藤原秀郷氏の血筋が入っていない日本書紀にも出て来るほどの純粋な賜姓青木氏です。
    天皇と謁見できる身分では無かったのですが、信濃王青木氏の後見として特別に許したのです。
    そして、年貢の納件に対する具申まですると云う態度を採ったとして天皇はその力量を褒めたのです。これ程に賜姓青木氏とその血縁族の身分家柄のレベルは当時としては破格の立場であったのです。
    天皇に謁見拝聴できる身分は従三位の身分である必要があります。京一条氏を初めとして摂関家四家の公家でもこの立場にあるものは数人程度です。
    5家5流の賜姓族青木氏は朝臣族で浄広1位−3位で従三位です。因みに、藤原氏秀郷一門は従4−5位下です。皇族青木氏は朝臣族だけですので謁見等は有りません。まして跡目支流の分家筋清和源氏では他の源氏とは格段の身分家柄の差があった事に成ります。
    その中の不詳甲斐一条氏です。
    (諏訪族は日本書紀にも出て来る渡来人後漢阿多倍王の末裔支流子孫集団(馬部)です。)

    次に続きます。


      [No.254] 京平氏と坂東平氏の説
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/06/12(Fri) 19:49:02  

    (青木ルーツ掲示板より移動)

    京平氏と坂東平氏の説
    青木研究員 さん 2005/06/21 (火) 22:18

    平氏には二つの説があります。
    1 京平氏と坂東平氏とはルーツが同じであるとする説。
    2 京平氏は渡来系で坂東平氏は第7世以降の者とする説
    以前は、1の方が採用されていました。最近は色々な史実から2の方を採用するようになりました。大河ドラマの義経では2の説を採用しています。
    私は2の方が正しいと思います。

    では、その2の説とは、京平氏、桓武平氏、伊勢平氏と呼ばれる平氏は、797年伊勢北部伊賀地方に住んでいたこの平氏の先祖の高望王、又は平望王に賜姓しました。

    この高望王の生没は不明となっています。次の貞盛も生没不明です。
    ところが、この土地には後漢の光武帝の21代末帝の献帝の子供石秋王の子供阿知使王と孫の阿多倍王が大和に帰化して、後にこの土地を与えられて住んでいました。(前述済)
    後漢の17県民(200万人)の技能集団を率いて帰化しました。
    第1次、第2次の入国があった。
    技能集団は日本の第1次産業の基礎を成しました。
    「律令国家」の政治体制の基礎を築きました。
    朝廷の官僚はこの集団で6割を占めました。
    日本書紀の取りまとめはこの官僚が舎人親王の下で仕上げました。
    九州の大蔵氏、北陸の内蔵氏、坂上氏、阿倍氏等はこの阿多倍の末裔です。
    この軍団は全ての技能を持つ職人集団で「部」(べ)と云います。海部、服部..等はこの末裔です。
    全国66国中、32国を勢力下に納めました。関西より西域です。
    室町期の中国地方の覇者陶氏はこの陶部の末裔で瀬戸内海の村上水軍はこの末裔です。
    この阿多倍王は大隈の首魁と呼ばれ、薩摩の国の大隈を半国割譲を受け、伊勢の国北部伊賀地方を半国割譲を朝廷から受けました。
    この阿多倍王の孫末裔の国香、貞盛、惟盛、正盛、忠盛、清盛と続きました。
    朝廷より、この子孫に対して伊勢北部の「不入不倫の権」を与えられました。

    この阿多倍王の事は前レポートに何度も詳しく書きました。
    この阿多倍王はまたの名を、高尊王と言います。
    この高尊王はかなり長生きしたと伝えられています。日本書紀にも8度も出てきます。「大隈の首魁の阿多」という名で、そして、この伊勢北部伊賀地方を与えられたと、この地を特別に保護したと書かれています。
    賜姓は797年、この阿多倍王、高尊王は没は不明ですが、記録から計算して730年ころまで生きていた事がわかります。
    797年と730年の67年のズレがあります。
    しかし、このズレも判別します。
    次に、桓武天皇はこの阿多倍王の孫かひ孫を母にしています。 「高野新笠」という名です。

    阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り3人の子供をもうけて、国に貢献したとして準大臣の身分を与えられ、3人の子供は大和名の賜姓をうけました。朝廷の重大な役務「3蔵」の内、2蔵の大臣と軍事の大臣となりました。(以前のレポートで記述)

    次の様に、附合一致する点があります。
    1 伊勢北部伊賀地方の住人
    2 高望王と高尊王の名が酷似
    3 高望王は生没不明である事
    4 日本書紀の記述
    5 桓武天皇の母は高尊宇の孫(阿多倍の孫)
    6 高尊王の妻は皇族の皇女
    7 高尊王の子供は征夷大将軍の坂上田村麻呂(軍隊の長)
    8 西国に32/66国の所領(清盛の所領と高尊王の所領一致)
    9 忠盛、清盛の朝廷の役と高尊王の子供の役所が一致  
      軍事、大蔵、内蔵を所轄(斎蔵のみは古来鎌足より藤原氏)
    10 貞盛は高尊王の子孫の大和国武勇一として名高い永嶋氏の祖の  永嶋種材では (「錦の御旗」を与えられた暦上唯一の個人)
      貞盛の武勇と一致

    史実を検証すると一致点が出て来る。
    2は史実を書き写す時に字体が似ていることから間違えた。日本書紀などのにはよく見られる事。

    あるいは、当時ではまだ渡来人の引き上げは慣例上難しい状況であるので、わざと本人の高尊王を使うのを避けた。そして、生没不明にした。まして、60年も後に母の祖で自分の祖である桓武天皇が引き上げて賜姓するので編者は変えた。

    暦上、律令による国体を完成させた天皇として位置づけられている桓武天皇は、帰化して、国内全土に軍事術、経済術、部による産業術の持込、律令の知識と固体の官僚としての仕上げ、現代の日本をの基礎を構築した人物であるとする説は過言ではない。

    数えれば限りないこの人物にたいする感謝の念が強かったのではないか。国体を仕上げた天皇として、否、普通の人間でもこの人物に尊敬の念があったであろう。

    現在、つい最近にこのような史実から京平氏は渡来系とされた。
    では、坂東八平氏はどの様なルーツなのかを述べる。

    奈良時代末期から平安初期にかけて、皇族の低位の王の身分の者の4世(ひ孫)から6世王が、天皇の5年から20年程度で代替わりの度に起こる「7世族」が生まれる度に、臣籍して各地に分散して奥州地方への守りとして配置した。
    これが「坂東平氏」で時代の変化と共に八平氏になったのである。
    これが、1説の平氏で、呼び方を「ひら族」とし、”7世以降は普通の人”の意の”ひら”である。
    坂東八平氏(ひら族)と渡来系の京平氏(たいら族)と混同している史書もある。

    坂東八平氏は次の氏である。
    1 千葉氏、
    2 長尾氏、
    3 上総氏、
    4 秩父氏、
    5 三浦氏、
    6 土肥氏、
    7 大庭氏、
    8 梶原氏

    関東の千葉から伊豆半島までの地名に残っているこれ等の土地の豪族である。
    しかし、これ等から北条氏などの支流が出たが、北条氏が執権として実権を握ると5年以内に源頼朝の一族と他の氏は潰されてしまう。

    話を戻して、桓武天皇は渡来系の高尊王の子孫をこの7世以降の皇族民の一族に並べて引き上げ、同氏とした。この一族と世間に思わせる手段にて慣例外の行為の反発を避けたと見られている。
    ちなみに、渡来系の桓武平氏、伊勢平氏、京平氏を賜姓の「へい氏」と呼んだと記述されている。(外史の日本記に)

    1説には矛盾が多いことが指摘されている。
    その一例として、時代のズレがある。
    平安初期700年ころにこの坂東にすでに7世族がいたこと。貞盛の賜姓平氏は930年頃である。急に坂東八平氏が関東に出来ることは無理。貞盛は将門の争い相手の国香の子としているが、賜姓は桓武天皇の797年であるから将門の乱は940年。140年位のズレ?

    賜姓は高望王にとすると次貞盛まではまだ100年もある。
    多分、阿多倍王の情報が歴史家に無かったか、国情から渡来人の貢献を暦上に認められなかった2つ事がある。後期に偏纂した。

    2つの系統の青木氏にはこの2つの平氏が関っていたのです。
    ちなみに、源氏の意は”大和の人民のみなもとの意”です
    青木氏の意は”あおきの木は古来から神木の意”で常緑で赤い実(清血=子孫)をつけることから”「真正」で「神聖」にして清き正しい意”の「真の意」を持つとされた。その意を持つ氏として含んで名づけられた。この皇族一族のことを、青木氏を賜姓時に、天武天皇は”真人族(まさとぞく)”と言う事を決めた。(八色の制)

    参考 八色の姓は次のとおりである。(説明は概説)
    1 真人族(まさと) 第5位皇子までの皇族の姓
    2 朝臣族(あそん) 第6位皇子の皇族賜姓族の姓 臣下した青木氏と源氏
    3 宿禰族(すくね) 下俗した第7位皇子以降の皇族の姓
    4 忌寸族(いみき) 6世までの臣下した族の姓
    5 道師族(みちのし)7世以降の臣下下族の姓
    6 臣族(おみ)   各国の大豪族の姓
    7 連族(むらじ)  各国の中豪族の姓
    8 稲置族(いなぎ) 各国の小豪族の姓


      [No.253] Re: 秀吉に取り立てられた青木氏
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/29(Fri) 18:29:51  

    Re: 秀吉に取り立てられた 青木氏
    青木研究員 [副管理人] 2005/06/19 (日) 07:15
    タイトルの中で2ケ所ちがっていると思われる所がありますので、参考のために記述します。

    美濃の国の安八郡の青木村は藤原流青木氏となっていますが、この土地は当初、皇族賜姓の青木氏が守護地として赴任したところです。その後、ある戦略的理由で清和源氏嫡流の源の頼光が国司として赴任したところです。そして、この青木氏は清和源氏の頼光の子孫が跡目に入り同化しました。よってここは皇族賜姓族の青木氏のルーツとなります。

    AAAの青木氏は藤原秀郷流青木氏であることはこのルーツが元は武蔵の国の足立郡に住まいしていたことが判明し、信州の小県郡にも青木村があり、足立郡の移住によることがわかりましたので藤原秀郷流青木氏である事が確認しています。
    藤原利仁流青木氏はちがっています。

    利仁流は分行流の進藤氏の分派です。分行流には進藤氏と長谷川氏の流れですが、この進藤氏は余りにも大きい派閥のために藤原利仁から分派したものです。
    したがって、この流れには青木氏は原則はありません。
    青木氏は兼行流におこります。長沼氏と長嶋氏とともに。
    利仁流青木氏というのは戦国時代の搾取偏纂の疑問が大きく残りますが、秀郷一門の進藤氏と利仁流進藤氏が陸奥の奪回の時為に同族を固める為に秀郷流は北陸に地盤を固めていた利仁流と史実として血縁していますので、この時に青木氏も血縁して「家紋掟」により利仁流青木氏が出来たとする説が有力です。
    嵯峨期の詔にて青木の氏名の使用は真人族、朝臣族、特別に宿禰族以外之ものが使用を禁止しています。
    直接の利仁流青木氏は秀郷流青木氏の様に「朝廷の許し」を得た史実は有りませんので、分流したものが正しいと考えられます。

    しかし、青木氏と姻戚関係があるというのは藤原秀郷流では。


      [No.252] 秀吉に取り立てられた青木氏
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/29(Fri) 18:28:17  

    「青木ルーツ掲示板」より移動

    秀吉に取り立てられた 青木氏
    かんりにん [本物] 2003/04/26 (土) 19:03
    青木氏には、清和源氏武田氏の一族で、甲斐国巨摩郡の青木村を発祥地とする青木氏、武蔵国入間郡青木村を発祥地とする丹党の青木氏、美濃国安八郡青木村を発祥地とする藤原姓青木氏などがあるが、この青木氏がそのどれにつながるのか、あるいは全く別な系統であるのか、よくわかっていない。

    子孫の家に伝わる家系図によれば藤原北家利仁流とされ、その後裔青木持通が美濃大野に住んだことに始まるという。摂津麻田藩主の青木家の祖重直はあとに出る重矩の甥にあたるともいう。もっともこちらの青木氏は丹党青木氏の末とされているが。

    史料上に名前が出てくるのは、青木右衛門佐重矩で、その子紀伊守に至って有名となる。紀伊守の名乗りは一矩・秀以・重吉・秀政と称したが、ふつう一矩といわれている。また先の重矩の妻は、秀吉の叔母にあたるともいう。

    一矩は一説によれば、織田信長に仕えていたというが、ふつうには、はじめ羽柴秀長に仕え、天正十三年(1585)、それまでの千石から一万石に加増され、その後、同十五年には秀吉に直接仕えるようになったとされる。播磨立石城主から越前大野城主となり、石高は八万石といわれている。さらに、慶長四年(1599)には二十万石に加増されて越前北庄城主となり、羽柴北庄侍従と称していた。秀吉の朝鮮出兵のときには名護屋在陣衆のなかにみえ、名護屋城に駐屯していた。

    慶長五年の関ヶ原の戦いのときは、西軍に属し、北国口防衛という任務を与えられていた。そして、東軍の前田利長の攻撃に備えて、北庄城に籠城して防戦体制を整えたが。西軍の敗戦を知り、また利長の縁者である土方雄久の斡旋により、嫡子俊矩を人質として利長の許に遣わし、降伏した。当時一矩は病気で、結局、関ヶ原の戦い直後の10月10日に没している。

    さて俊矩は、利長が一矩の遺領相続を許してほしいと家康に嘆願してくれたものの、ゆるされず所領はそのまま没収され、改易処分を受けているのである。なお、俊矩は慶長十三年に没し、その長子久矩は大坂の陣のとき豊臣方に加わり、夏の陣で戦死している。俊矩の末子の子孫は醸造家に転じたという。

    家紋 - 富士に霞(藤原北家利仁流)
    http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html


      [No.251] Re: 青木氏の3つの流れ
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/29(Fri) 18:21:08  


    青木一重流青木氏のルーツ
    青木研究員 [副管理人] 2005/06/19 (日) 08:00
    一重氏の孫 重吉氏は当初は信州の丸子に住まいしていましたが、それ以前は武蔵国足立郡の青木村に住んでいたと記録されていますので、9/14の土地ですので藤原流青木氏と判断しました。
    信州小県郡にも青木村がありましたがこの青木村は武蔵の国足立郡の青木村から時間経過から移住したものと推測します。


      [No.250] Re: 青木氏の3つの流れ
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/29(Fri) 18:19:14  

    Re: 青木の地名の発祥源
    青木研究員 [副管理人] 2005/06/19 (日) 07:35
    青木の地名の発祥源は全国に14ケ所あります。

    この発祥の基は皇族賜姓青木氏があり、又多、賜姓青木氏の方式を習って、藤原秀郷が第3(4)子に青木姓をつけて土地を与えたもので、その土地を青木村と呼称するようになりました。
    (伊勢の青木氏を除く賜姓青木氏が、母方に藤原氏の血筋を受け継いでいるために踏襲した)

    この14の青木の地名は2分類に分かれます。5の青木村と9つの青木村です。
    9つは藤原流のものです。関東(武蔵国を中心に円状に)を中心に存在します。
    5つは皇族賜姓族の青木村です。
    つまり、5天皇から青木姓の氏を与えられて臣籍し侍(武士)となり、朝廷の重要な土地の伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の5つの土地を与えて守護させました。そのことにより青木村が出来ました。
    (5天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁です。最初は伊勢の青木氏(645)です。)
    一方の9つは、岩代国、越後国、越中国、武蔵国4、筑後の主要9ケ所です。
    藤原氏は4つに分かれますが、秀郷は北家で最も栄えた藤原一族です。
    注、この土地には、別に武蔵7党と言われて土着の豪族が居て、この中の丹治氏から出た皇族系青木氏(賜姓ではない真人族の島氏の血筋を受けたとされる)が、他説がありますが分流して定住していたといわれています。

    秀郷流は2つに分けられて、分行流と兼光流です。
    前者は進藤氏と長谷川氏、
    後者は長沼氏、永島氏、青木氏です。この青木氏は主要9氏で116氏家に分流します。
    なぜ青木氏としたかは前回のメールで伝えました。

    皇族賜姓青木氏の後の皇族賜姓源氏は、この北家の藤原氏との婚姻で子孫を増やしています。

    皇族賜姓青木氏と皇族青木氏の違いは、次の様になります。
    嵯峨天皇期に令を発して、全ての皇族系の者が還俗する場合は氏を青木氏として名乗る事を許しました。(藤原氏以外に)

    賜姓などを受けられなかった大抵の皇族の者が、入山し僧侶や門跡寺院等に入るか、又は遠い地方に移り住みました。
    その後に還俗したり、土着の者との間に子孫を遺した者は血縁を統一するために賜姓を受けない青木姓を名乗る事を許しました。それ以外の者が名乗る事を正式には江戸期まで禁じたのです。

    (源氏の者が平家の追手を逃れるために、もとの賜姓に戻して青木氏を名乗る事が各地で起りました。)


      [No.249] 青木氏の3つの流れ
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/29(Fri) 18:01:40  

    「青木ルーツ掲示板」より移動

    青木 三つの流れ
    かんりにん [本物] 2005/06/19 (日) 07:55 [ メールウェブサイト ]

    1.甲斐国 巨摩郡 青木村発祥(現 山梨県 韮崎市 清哲町青木)
    清和源氏 新羅三郎源義光の後裔
    一条信長―信綱――時信―――時光(「武田系図」) 甲斐国守護 青木

    この系統に戦国時代、武田信虎・信玄親子に仕えた青木信親がいる。
    子孫は徳川旗本四家、あるいは山梨・静岡に帰農した旧家が今に続く。
    青木時光―常(経)光 → 山口に移動
    安芸武田氏に従って広島に移動、後 毛利藩士になり山口に移動
    ※青木和泉守
    戦国時代・・・長洲に移り、毛利元就に仕える
    江戸時代・・・山口県大島郡安下荘にて医者に転職

    子孫 周弼――――幕末に長州藩の藩医になり、藩内で種痘を実施
    周弼の甥 周蔵―明治の外交官として、不平等条約の撤廃に尽力
    ※青木信種(のぶたね)
    甲斐武田氏家臣で韮崎白山城主
    武田信縄・信虎・信玄の3代に仕える
    天文十年(1541年)10月20日没

    2.武蔵国 入間郡 青木村発祥(現埼玉県 飯能市 青木)
    武蔵七党丹党の流れで秩父基房の子孫
    秩父基房ー新里恒房ー真直(「丹党系図」)
    称青木
    戦国期   → 後北条氏・佐野氏に属す
    主家滅亡後 → 帰農して関東一円に土着
    この系統で、美濃(岐阜)に移った一族から戦国期の青木直兼・重直
    親子が土岐・織田・豊臣に仕え、その子一重は徳川家康に仕えて摂津
    麻田藩主に封ぜられて、後、廃藩置県の時まで14代が継承する。(参照)AAAへ
    ※この系統は、疑問点が多く残っており、摂津麻田藩と丹党の関係もわからない。
    藩主になった系統の発祥地・・・美濃國安八郡青木村(現 岐阜県大垣市)

    3.近江国 坂田郡 青木村発祥(現滋賀県 甲賀郡 石部町)
    藤原時長―利仁―叙用―吉信―伊伝 ⇒ 利仁流
    称斎藤
    この系統は、六角氏→織田信長に仕え、江戸時代になり旗本として続く
    ・他流 ⇒ 藤原秀郷流、平姓など

    ・家紋
    清和源氏系旗本青木家 割菱、葉菱
    丹党青木家 定紋 (じょうもん)[第一級] 州浜(すはま)→三つ盛り州浜に後代おさまる

    副紋 裏紋 霞に富士(青木富士)
    替紋(かえもん) 霞に富士、木の字(青木の木を図案化)、鹿の角(鹿角(かずの))

    ・文献 青木系図(系図綜覧)、青木系譜(東大史)、肥前唐津青木系図(神宮)
    諏訪社青木系図(長崎)、「私の家系追求」青木健著


      [No.248] Re: 雑学 「竹細工」と忘れられた知識
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/26(Tue) 21:47:36  
    Re: 雑学 「竹細工」と忘れられた知識 (画像サイズ: 333×247 11kB)

    > 雑学 「竹細工」と忘れられた知識

    竹には色があるとと書きましたが、その写真を採りました。

    写真の左は7年です。
    一番手前は1年です。
    右は5年です。
    奥真中3年です。

    10年竹ですとまだ左の色より更に赤く成ります。
    15年竹ですともっと深みのある赤に成ります。

    白っぽく成っているのは竹油です。
    竹細工用に伐採せずにこの様に保存しているものです。
    左はもう使えますし、よいものが出来るでしょう。

    このスナップ写真はタイトルを「色と竹」として掲載します。
    次回、もっと赤い竹を育竹しているものとエイジングしているものと保存していますので、撮影して掲載します。


      [No.247] 雑学 「竹細工」と忘れられた知識
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/13(Wed) 08:20:48  
    雑学 「竹細工」と忘れられた知識 (画像サイズ: 640×455 52kB)

    雑学 「竹細工」と忘れられた知識

    「竹細工」のことを書くのですがその前に竹の事を書いて置こうと思います。
    「竹細工」のゼミナールの時間です。
    写真は竹花筒の幾つかを添付しました。

    前置き
    楽しみの知識として気軽に読んで見ませんか?。
    私の趣味のあり方は実は、「竹細工」とそれに関わる事の「技能技術の知識」を知り、マスターする事(挑戦する事)を目的としているのです。
    これは青木氏の長年の研究の癖から来ているようですね。
    否、もともとの癖かも知れません。
    ですから、「竹細工」は「竹の知識」を知って作る事がよりその特長を生かしたよい物が出来るからなのです。
    昔は竹は生活の中で必需品でした。それだけに竹に関する知識が豊富で誰でもが知っている知識であったのです。現在では田舎でさえ失われた知識です。
    そこで、竹細工を通してそれにまつわることを書いて雑学として頂きたいと思います。

    忘れられた筍
    さて、先ず、竹には色々な種類があり私の癖と同じ様にその竹の癖も違うのです。
    ここでは「白竹」という中国産の竹で述べてみます。
    と云うのはこの竹は中国でこの竹細工と食用として改造された竹なのです。
    大昔は必需品の竹で、紙文化が発達していない時は竹にこの文字を書遺す役目を持たしていました。
    「木簡」と云うものがありますが、漢詩の文学的なものを遺すのにはこの改造された白竹を用いたのです。
    要するに「竹簡」です。この竹を1/3−1/4くらいに割り用いているのです。
    この竹は大変太くなる竹で育て方では直径25センチにもなるのです。昔では最大で30センチ位はあったのではないでしょうか。保存されている竹簡を直径に直すとそれくらいに成ります。

    他の種類は別の機会に記述するとして、さて、この白竹の細工を中心に挑戦した色々とおもしろい事を先ず書く事にします。
    と言いますのも、最近では竹薮が少なく筍の生えている所を観た事がないという人が多く成りました。
    私の近所のみならず孫までも知らなかったと云う有り様です。当然に竹の特長など知る術もありません。先日もご近所に掘りたてを配りましたが、子供達が寄ってきて大騒ぎです。
    これからもこの現象も大きくなるでしょう。
    そこで、青木氏の皆さんにも竹の事と細工の事をご披露したいと思い、また、雑記録にしたいと思います。
    竹と云っても色々な特長を持っています。そして、大変に繊細な性格です。
    昔から”竹を割った性格”と云う言葉がありますが、”繊細でありながらはっきりとしている”まさにその通りです。この事は竹に携わっていないと意外と知らない事が多いのです。
    そして、この竹の性格から人生のいろいろな事を悟らされます。
    この言葉は昔の人はこの性格から来た人生訓の意味を持たしていたのだと思います。

    白竹の事
    竹の事を一寸知ると言う事でも先ずは次ぎをお読みください。
    筍の事から。
    先ず竹は4ー5年で筍を出さなく成ります。ですから竹の手入れは4ー5年目に成ったものを年に一回選別して手入れします。そうしないと竹は良い筍を出しません。
    約1メーター間隔で良い竹を遺して行きます。良い竹の選別は年に2度行います。
    それは、4月と10月です。
    これには色々理由があるのです。
    先ず筍の時節の4月から選別します。
    出て来る筍を太くてより円錐型の強い元気の良い筍を選びます。そして、少し竹の皮が赤味かかったものを選び遺します。いたる所に出て来ますが石の下からとか二つ重なりくっついたりして出ますので筍が変形して出て来ます。これを排除して素直にすくっと出たものを遺します。

    ところが、竹細工では逆にこの排除する珍しいものを使いたいのです。普通の竹は丸い形をしていますが、排除するような筍は変形していておもしろいのでこれを紐で縛り印を付けて遺します。
    竹の皮には黒ずんだ筍がありますが、これは余り食用にするとおいしく有りませんし、やや固くなり筍の灰汁(あく えぐ味)が強いのです。特に筍の先端が最もえぐ味が強いのです。
    しかし、店頭には多くはこの黒い竹の皮の筍が並べられています。従って、茶色い筍は竹薮のある特定の地域の持ち主だけしか食べられない筍なのです。

    昔はこのえぐ味を取り除く為に料理では、現在では釜の灰が有りませんので米ぬかを使いますが、釜の下の灰を使いました。灰は石灰質(アルカリ性)でえぐ味を分解します。
    大昔はどんぐり等も食料にしていましたが、どんぐりも大変このえぐ味が強く余り食すぎると毒性があります。麻袋に灰を入れて川の水で先ず何日もさらしその後に湯の中に灰を入れてさらして食用にしました。この様に昔から自然のえぐ味をとるのには釜の灰を使いました。

    「えぐ味」の効能
    その前に、何でこのえぐ味があるのかと云うと、一つは他の動物や昆虫や虫に冒されないようにする植物の防衛手段なのです。竹や筍も同じで、先ず筍は狸や猪に地表に出たばかりのところを食べられてしまいます。ですから、竹の先端は特にえぐ味が強いのです。それで地表15センチくらいに出ると狸や猪はもう食べません。よく知っています。
    竹にはあの固い竹を食べる虫があるのです。それは竹を食べる専門の黒蟻があるのです。この黒蟻は先ず1.5ミリ程度の穴を竹の節の近くに開けます。其処を出入り口として中を食いつくし上から下まで巣を作ります。小さい一つの穴しか見えませんので外からは全く判りません。
    竹の中は温度湿度が一定で、どんな蟻や蜂でも必ず一日に1回は水を飲みに出てきますが、この竹の黒蟻は、竹は水分を竹の節の間に貯めますので充分で、それを呑めば外に出る必要がありませんし、竹は元々水分を多く含んでいます。
    その水分と竹の甘味と竹油がありますので、蟻には栄養分と居住環境は満点なのです。
    ところが、この蟻が食べる竹は5年以上経ったものしか食べないのです。
    それは5年以下の竹はこの強いえぐ味があるからなのです。
    5年以上経った竹は次第に古くなるとこのえぐ味分が少なくなるのです。竹をいじっているとよく判ります。
    古い5年以上経った竹とそれ以内の竹とでは先ず臭いが違うのです。
    古い竹は甘味がはっきりすっきりとしますが、新しい竹ほどすっぱい甘味の臭いがするのです。
    このえぐ味は酸性度を強くする物質を出しているので、灰で中和させるか湯で煮て分解したりして取り除く事になるのです。

    私の子供の頃までの昔は、竹やどんぐりなどの植物のこのえぐ味を採り過ぎると手足の痺れや脳が犯されると云われていました。戦後、物資の少ない時には焼酎はこのどんぐりと芋を混ぜて作りましたので、よく大酒飲みは手足が痺れると云う症状を訴えたものなのです。当然、虫も尚更です。
    竹と筍だけでは無くこの渋味、えぐ味、苦味を持つ植物は子孫を残そうとする防衛手段なのです。
    どんな植物でも種子が出来る頃にはこの防衛策を採ります。
    皆さんは野菜などはお店で求めますが、田舎の家庭菜園では食べられるかどうかはこの渋味、えぐ味、苦味の度合いで判断してするのです。渋味、苦味、えぐ味が出る頃にはもう食べません。
    ところが果実ではこの現象は逆に無く成って行くのです。
    太陽の光を多く取り入れてシアンを果実に当てアントシアンにして甘くし熟させて、そしてその合図としてシアンの補色の赤を出すのです。
    典型的な果実としては柿の実ですね。柿の葉もその補助行為で赤くして鳥や狸、猪等に認識させるのです。つまり、”柿の渋味が甘味に変化したよ”とする印です。
    虫で落ちた柿などの果物を狸や猪は色が変化したものしか食べません。人に負けず劣らずよく知っています。
    野菜などは風により種子を運ばさせ子孫を残しますが、果実は鳥や動物により渋味を変化させ甘味を作りだし種子を運ばさせます。ここに違いがあるのです。

    さて、えぐ味は外的防衛のそれだけでは無く、えぐ味は植物の表面を環境から護る役目もしています。
    温度が下がるとこのえぐ味成分は表皮を硬化させて温度から護る事もしています。
    竹には、よく判る典型的な現象を観察する事が出来るのです。
    この竹のえぐ味成分は、4ー6月頃に竹の根(茎根)を切りますと、切断面からどろっとした乳白色のゲル状液を大量に出して竹を護ろうとします。大変に苦味のある嫌な強い臭いのする液状のものです。放置すると今度はこれが白く固まります。
    これは狸や猪や蟻等の虫、動物を寄せ付けないようにする手段なのです。そして、切り口を固めてふさぐのです。

    筍は当然に竹の皮で表面を覆って身を護りますが、大きくなると竹のえぐ味は基より表面に竹油の乳化したものを出して表面の乾燥などから身を保護するのです。
    そして、竹の節間(筒部)に水を吸い上げて貯めて乾燥しない様に成っています。4ー6月には竹の筒の中は水で一杯に成っています。
    竹の皮もその乾燥と外敵から初期の間に竹身を護るために巻きつけています。
    この時は竹油が出ていませんので竹の皮で保護しているのです。
    この竹の皮は楠の葉と同じく虫は食べませんし、なかなか腐りません。これも竹の皮にこのえぐ味を保持しているからなのです。
    楠の葉などはナフトールと云う防虫、防触物を出すのですが、楠の手入れをしているとこの臭いで気分が悪く成る位です。
    竹の皮がある間は防虫効果で虫も同じでよってきません。

    竹の皮の事
    余談ですが、この竹の皮の事ですが、昔はこの皮を使って食品の包装材にしていました。おにぎりや饅頭などに使いました。昭和の30年頃まで使っていましたが、葉蘭(バレン、バランの方言)と同じく使用していましたし、杉や檜の葉も少し入れておくと更に抗菌作用と虫除けもあるのです。
    昔は、杉の葉や檜の葉を料理の横に置き使っていましたが、最近では見たことも有りませんし、杉檜を簡単に手に入れる事が難しく成っているのでしょう。
    又、あの独特の臭いの成分が抗菌、防虫効果のある事を忘れられているのでしょう。特に魚の時には必ずついていました。
    最近、プラスティックを使っていましたが、又、料理屋さんでも復活して竹の皮や葉蘭を使うように成ったし、杉や檜の葉を添えるようです。昔の知恵の正しさを認識し始めたのですね。

    ここで、つい先日の話ですが、知り合いの店で恐ろしい事が起こりました。
    その利用し始めた竹皮や葉蘭が少なく成り、止む無く料理の敷物に緑の葉を良く使うらしいのです。アジサイの葉とか柿の葉とか銀杏の葉とか大きい綺麗な緑の葉を用いているのですが、お客が知らないでこのアジサイの緑の葉もかじったそうです。ところがお客が急に腹痛を起こしたのです。
    アジサイの葉は虫も食べないほどに葉にシアンを多く含んでいるのですが、知らないで食べられる物と考えこれで腹痛を起こしてしまったのです。
    特に、花の咲く時期の前6ー7月にはこの毒素が強いのですが、客も店も知らなかったのですね。
    これらの事は、昔であれば私の子供の頃までは皆知っていた事なのですが。
    他にも沢山使用してはならないものを戦前の人間は知っていますが。食糧難の時代を生きた者として。
    当然に、元々えぐ味と苦味と渋味の強いものは採りすぎると人間には痺れ、腹痛など起こるのです。
    大体、虫が食べない葉は殆ど腹痛を起こします。虫が食べるか食べないかの現場を見たことが無い人が殆どなので犯す失敗ですね。それだけにこれらの知識が無く成っているのですね。
    最近、流行の春の山菜フキノトウの苦味なども”過ぎたるは及ばざるが如し”です。
    他にも沢山ありますよ。昔は「たんぽぽ」の葉もほうれん草の代わりにおひたしにして食べました。しかし、この葉を虫は食べません。葉に苦い白い液汁を持っているからです。食べ過ぎるとだめですね。
    ”食べることは勿論触ることも駄目”という野草植物の「きんぽう草」などの伝えられた知識が。何処にでもある野辺に春から梅雨まで咲く黄色い花を咲かす愛らしい花ですがね。
    私の地方では、昔はハゼの身からロウソクを作り、樹液で漆を作る産業が盛んでした。従って、野生化したハゼの木が多いのですが、この木がかぶれる木である事さえを知らない人が多いのです。
    隣りに新しく出来た団地の人たちは、”秋には真紅の紅葉で綺麗だ”というだけで。大木の木6本を、”取り除く取り除かない”で論争が起こったくらいです。
    この様に昭和20年頃まで伝えられていた「口伝承」が急激な科学の進歩で次第に消えてしまっていると思います。
    兎も角も、春の渋味、苦味、えぐ味は植物の防衛手段なので虫でなくても、喜び勇んでの人間にも採りすぎは禁物ですね。

    筍と竹の選別
    筍と竹には選別が絶対に必要ですが、それで無いと竹薮は維持出来ない事を知らない人が殆どですね。
    筍の選別期は4−6月ですが、次ぎは成育竹の10月の選別期です。
    竹に限らず、「春系」の木々は「7月20日」を境に木の成長の変化を起こすと教えられていました。
    竹は10月ですが、その成長を止め来期に向けてエネルギーを蓄えるのです。
    ですから、この前に木々の剪定をする必要があり、この後の春系の植物の剪定は来期の花の咲き方を激減させるのです。
    全ての木々は冬に入ったところで成長を止めますので、11月と12月の間に剪定を済ますのが木に対して一般的で良いのです。2月から成長を開始します。
    ところが果実を扱う農家は、むしろ、この2月を「剪定期」では無く「選定期」として出てきた新芽を見て良い枝を残すのです。これは素人では無理です。良い枝の「選定眼」が無いからです。
    「良い枝の選定眼」は木に依っても違うし、選定する条件と情報が立体的であり過ぎてきわめて難しいのです。40年やっている私にさえ判らないのが本音です。
    植物の趣味の本などを見ると剪定は殆ど2月と簡単に書いていますが、これは無理です。
    第一に良い果実を作って商品にする訳でもないのに、普通に出来ればその程度で満足する素人に「2月選定」は解釈が間違えていると思うのです。”本に書く”と云う事は素人向けに書いているのですからね。
    では、”どのように書けば良いのか”と云う事になりますよね。

    ところがあるのです。誰にでも出来る簡単な基準が。

    春系は”「7月20日」(成長変換期)”を知っていれば良い事に成ります。

    昔の人はこの事を口伝えで教えていたのです。

    竹も同じ様な間違いの本も見られますが、現実には無理です。それは竹には記述しています様に極めて繊細な性質を持っている為です。

    但し、ここで、例外があります。
    昔から、桜に関しては「桜切るバカ 梅切らぬバカ」の諺がありますが、ところが桜は切らぬわけには行きませんね。
    ところが、極めて、短い期間切ることが出来る時期があります。
    それは桜の葉が完全に散った後の10日程度です。但し、先端を抑える「先端切り」です。

    ついでに、難しいのは「山の木」を庭木にしている「モミジ」や「ヤマモモ」や「モチ」「ケヤキ」の木等ですが、完全に落葉したその直ぐ後10日くらいです。
    しかし、モミジ等は、その時は既に次ぎの小さい新芽が出ています。
    ずれますと「2月の先端枯れ」と云って先端が枯れてきます。場合に依っては切り過ぎると全部枯れます。

    ここで、通いつけの歯医者さんが”庭の親の代からの大事な「紅葉(もみじ)」が枯れた”と私に訴えてきました。”若い庭師に文句を云ったが受け付けない”と云うのです。聞くと”2月に選定した”と。
    この様に若い植木屋さんでも知らない状況に成ってしまっているのです。今度はその庭師が私に電話です。「紅葉の2月の先枯れ」を教えて1件落着。

    モミジには紅葉を観るモミジと、緑葉を観るモミジがあるのですが知っていますか。
    何れも綺麗ですがこれも扱いが違うのです。
    単純に本を読んで選別などをすると云う事は、それは素人の事ですから、この「2月成長開始期」の所ですので充分に取り扱いに注意が必要ですよ。
    私は”出来たら「2月の手入れ」は辞めた方が良いと思いますよ。

    先ほどの結論は、”素人は「成長開始期」より2月戻ったところ”と考えるのが無難に上手く出来るコツです。

    この様に昔からの技能の伝承、言い伝えが消えて、素人を忘れて本職並に書いたものが大変多いのです。
    もう一度結論を云いますが、素人の原則は春系、秋系に限らずです。

    ”花を咲かす木は咲いた直ぐ後に手入れ、落葉する木は落葉した後直ぐに手入れ”を。

    以上、剪定の基本を護れてすれば木々に影響は有りません。
    木々や果実を販売する訳でなければ。

    そこで、その基本ですが、簡単に心得る事は次ぎの通りです。
    1 先ず枝には木を大きくする「成長枝」と、枝葉を張ってより光合成をする枝の「成育枝」に分かれています。
    2 木を大きくしたい場合は「成長枝」を残します。そして、「成育枝」を取り除きます。
    3 既に大きいので木を整えたい場合は「成長枝」を切り落とし、「成育枝」を残します。
    4 木の枝葉は大方は手の中三本の指の形をした「三叉枝」に成っています。
    5 真ん中が「成長枝」で両端が「成育枝」です。
    6 大きくし且つ、整えたい場合は、かさの形になる様に、枝が足りない所は「成育枝」を残し、背が低い所は「成長枝」を残します。
    7 但し、この場合、木は太陽の方向に成長をしますので、日当たり方向を考慮にします。
    8 両方を残したい場合は「成長枝」の先端の「成長点」だけを切ります。横から芽が出て枝は伸びません。垣根の葉がすいている所はこの要領です。
    9 よく勘違いしている所は、木の原則は、「成長点」が伸びて大きくなり、枝そのものが伸びて大きくなるのでは有りません。原則太くなるのです。
    10 春系の木は花の咲いた後に「成長枝」を出し、秋頃に「実花のなる枝」を出します。春系は秋に手入れをするとこの次ぎの「実花枝」を刈り取る事に成りますので注意が必要です。

    この理屈で「木姿」を見て行います。
    椿系や梅系はこのパターンがはっきりとしています。
    特に椿は上の原則を守らないと花目が葉芽に変わります。余り花が咲かないと云う事が起こります。
    ですから、1-10の基本から[花の咲いた後、落葉の後}が良い事に成ります。

    私は木々の手入れは本職とはしていませんが、この様な事は素人40年近く親や農家や年寄りの人から教えられた知識で庭の手入れをしています。この原則を守れば上記剪定の結論で問題は有りません。

    そこで、本題の竹の結論ですが、竹は毎年花は咲きませんが、4月に「2番成り期」の時に突然に落葉を始めますので、その時か、成育済みの竹は勿論の事、10月頃が選別の最適な時期なのです。
    筍から約半年経った時期です。筍の半年後は一応は成育済みと同じくらいに伸びています。その時の2ー3月前には先端から7割位のところで「先端折」をします。先端を折る事で栄養分を他の竹に均等に分配するのです。そして来年には良い筍を出させます。

    実は竹は1本の水茎で繋がっていますので、その途中の一本の竹にその栄養分を採られてしまうとその水茎の後ろ竹は良く成長しないのです。良い竹が出来ません。
    既に成長した竹は先ず5年以上経っているかの見極めをします。そして、1メータ間隔で伐採しますが問題はこの5年の見極め作業です。
    竹細工ではこの5年以上の竹を使わなくてはなりませんので、4月の竹薮の保全は「竹細工用途」とは逆に成ってしまうのです。そこでこの5年ものを分けて残す必要がありますがそれには見極めが必要です

    「竹の見極め法」
    ところが、それを見極める方法がチャンとあるのです。その判断する元が幾つかあるのです。
    先ず、1番目は竹の色です。2番目には竹の表面の毛の有無です。3番目は竹の艶です。4番目は竹の竹油の状況です。5番目は葉の色合いです。他にもありますがこの5つで判断が完璧です。
    皆さんは”何、竹の色”と思われたでしよう。
    ところがあるのです。竹の色は普通は薄青緑の所謂、「竹色」ですよね。草の色に近い”あさぎ色”です。ところが、それは竹を知らない人の色です。良く絵で書いている色がありますが、はっきり言うとあれは嘘の色ですね。
    竹は年々色を変化させて行くのです。
    では、先ず筍が成長して一人前の竹に成った色は薄青緑です。次ぎに5年目は黄色です。次ぎに10年目は赤色です。15年では黒ずんだ赤色(赤紫色)です。20年目ですが大方は葉がなくなりますので枯れ果てる前の色は失せて黒の大きいシミが出来て周りは薄茶色の枯れかけた色に成ります。
    1年から15年まではその色が次第に色の階層のように変化してゆきます。
    青系が取れて緑系に、緑系が黄色系に変化、黄色に赤が混じり赤系色に、赤系に黒が入り赤紫系に成るのです。
    これは、太陽の紫外線とシアンの影響です。
    紫外線に依って色が分解されて、先ず、青が分解し、緑が分解で葉緑素が消失し、それに替わってシアンが蓄積されます。更に、残された黄色系が分解、シアンの更なる蓄積、赤系が露出しシアンが大量に蓄積して変化してより補色の赤へと変色し、更に紫外線で分解、赤系の最後は黒へ変色とするのです。
    20年くらいで完全に色素成分が消失して枯れるのです。
    つまり、色素を作り出す生命力が無く成る事です。枯色になるのです。
    明らかに色の7原色の可視光線です。
    この事は、色は光の波ですから色が変化すると云うことは竹の表面の透過(吸収)が年数で違ってきていると言う事ですね。
    言い換えれば細胞が変化していることですが、これは、竹の寿命では、年々竹の細胞の大きさが細かくなって行くことを意味しています。竹は歳月が経つとえぐ味等の防衛策が低下するので細胞を細かくして固くして身を護るのですね。

    ところで、「黒竹」とは別に、普通の竹色が変化した黒い竹を見た事が、触った事がありますか。
    多分無いと思います。紫外線により破壊されてメラニン色素が溜まった事になるのでしようが、全く人間のシミと同じですね。竹の節間では、半分以上に日の当る部分側にかなり大きい部分でシミの模様が出来て来ます。この部分はナイフや鋸が通らないほど固いのです。
    竹が色素を失った後の竹を見ると判るのですが、15ー20年以上経った枯れた竹には黒い斑点の筋が枯れた後に残ります。これを見ると人間も含めてこの世の生物は皆同じなのだとつくづく思いますね。

    次ぎに、竹の毛と書きましたが、竹に毛が生えているの知っていますか。
    先ず、筍が成竹に大きくなると、竹の表面は薄い柔らかい毛で覆われています。
    そして、竹毛はほぼ1年くらい生えているのです。これで表面を保護しているのです。
    2年目くらいから完全に無くなります。そして、今度は竹毛の替わりに表面に白い粉のようなものが着いて来ます。これは竹油です。これをバーナーで炙るとピッカと光艶が出ます。
    竹毛から竹油に変えて表面を保護するのです。この竹油は太陽の熱で次第に溶けて竹の表面は艶が出て来ます。そして、大事な節のところの周囲だけは竹油で真白く成ります。そして、節の下側は黒いシミが集まります。これで、4年目くらいに成ります。
    5年目で色がはっきりと薄黄色に偏って来ます。
    ここで、伐採です。

    更に判らない時は上を見上げます。
    竹の葉が新竹と違うのです。竹の葉は4月の筍の時期の2番成り時期(5月初め)に竹の葉を落として新しい葉を出します。それが半年後の10月には古い竹の葉色が違うのです。
    やや黄ばんでいます。そして、その枝が黄色なのです

    農家が作っている竹薮には5年程度で正確に伐採しますのでこの様な竹は観られません。
    自前個人の竹薮には「竹細工」をする為に残しているのですから。
    この様に竹の選別期は10月に行いますが、丁度、筍の時期から半年、次ぎの筍まで半年の中間です。この10月は来年に向けて竹は子孫を残すために準備を始める時期なのです。
    竹薮管理に良くない事のみならず、この後で伐採した竹とこの前に伐採した竹は竹細工には使え無いのです。この10月が大事なのです。
    竹薮の管理では子孫を遺す為に竹に影響を与えるのですが、竹細工では前後の竹は脆いので使えないのです。
    10月の前は水分が多く過ぎて柔らかくて温度が低くいので脆いし、後は水分が少なくて固く温度が高いので脆いのです。この様に10月の竹が細工には最適なのです。
    選別期はこのくらいにして、話を元に戻します。

    筍の癖(掘り方)
    その筍を掘る時は、竹の根から真っ直ぐ出ている筍より反り上がった形の筍を選びます。
    筍の大きさは約30センチ程度までのものを選びます。これ以上だと固く成ります。
    掘る時は竹根の紫色の芽が見える程度のところまで掘り下げます。
    ところがどの方向からでも掘れるわけでは有りません。
    筍は茎系根の所から出ますが、直立して直ぐ上向きには出ないのです。丸い茎があるとしますと上と下からは筍は出ません。腹の部分の横から先ず横向きに出て次ぎに上向きに土表に出てきます。
    つまり、「Lの字」の形で出てくるのです。ですから、「Lの字」の左横から掘って筍を採る事は出来ません。右からLの横線の先端をタング(舌の形をした農具で、昔はトンガと云いました)で切り落とすのです。
    一部の地域の農家の山の竹薮ではバールの様な農具を作りそれを差込んで「梃子の原理」で”エィ”と上に持ち上げます。これは表面が山の腐葉土で土が柔らかいので出来る事ですが、平地にちかいところでの竹薮はとてもそのようなことは出来ません。何処でも普通はこのタングですね。

    さて、土の上からどちらに向いているかは判りませんね。ですが、慣れてくると判るのです。
    筍の見えている部分と地形で見分ける事が出来るのです。
    ではその見分け方をご紹介しますと次ぎの通りです。
    先ず見えている部分では、5センチほど周りの土を取り除き掘ると、Lの右側の方が少し丸く無くつぶれています。そこを掘り下げ、赤い竹根がみえるところで最後にタングで茎根と切り離します。
    ところで、”竹は単独で竹根で生きている”と思う人が今では全てですね。

    ところが、親では、「茎系根」で先ず繋がっているのです。そして、自分の細かい「竹根」で支えて生きているのです。水分はこの「茎系根」から大元を採っているのです。
    地下系では、竹の茎系根(水茎)は先ず日当たりの良い所、次ぎに水分の多い所に向かって地表20ー30センチ下のところ当りを横に伸びていますので、先ず日当たりの良い方向に向かって右側を掘り下げてタングを入れます。というのは伸びたとき南側に日が、北側に風が当りますので、太陽を大きく受ける側には両手を開いているように枝を伸ばします。且つ、風に耐えるためには茎ではない竹根は風の吹く方向に張ります。反対に根を張りますと風の勢いに根は耐えられません。ですから先ず右側から掘ります。この二つの事で掘る位置が判るのです。

    筍の食べ方
    掘った時は水が滴る程度のものがおいしいのです。それは店で売っている筍と違い本当に甘いのです。多分皆さんはこの辺のところの筍を食した事がないと思います。店、料理店に届くまでには少なくとも1日以上かかっています。多分、この時は滴る程度の水分は無いと思います。あっては取り扱いに困るでしょう。掘ったものを放って置くと2ー3時間くらいで水分は飛びますので、新聞紙を濡らして伏せるか、濡らした布を覆うかします。
    そしてもう一つは柔らかいかどうかですが、掘った時のタングでの感触で判ります。雨が良く降り温度が高いときの季節の時は柔らかい筍が出来ます。
    「雨後の筍」と言う風に急に大きくなり、温度が高いとより伸びますので、例えば10センチ伸びるとしますと(掘るとしますと)、多水分と高温で成長時間が短い事に成りますので柔らかいのです。10センチで1日とすると水が少なく温度が低いと3日かかりますので固いのです。
    単位時間当たりの伸び率が違う事によります。
    筍ほど取り立てが如何にも旬を表すものはないでしょう。だから、竹冠に旬と書くのです。
    この白竹は太くて15センチ程度もあり細くて10センチもある大変珍しい大型の竹です。
    記録では直径20センチもある竹がありました。普通の竹は10センチ以下です。筍の段階で判ります。
    この白竹は食用に改良された竹ですが、又、太系ですので竹細工用と文字板にする等に昔は使われました。
    この目的の為に日本には中国から昔取り入れたので京都の一部に生息しています。そして、我が家にも先祖がこの竹を取り入れた薮があるのです。
    この筍は2ミリ程度の薄さにして刺身にして食べられる筍です。普通の筍は薄緑か薄黄していますが、この筍は白です。特別に甘いのです。

    筍に付いては「1番成り」と「2番成り」とがありますがご存知ですか。
    4月の10日ー15日前後を境に筍の出方が違うのです。この日を境に一度筍の出るのが留まります。後に出た筍は細いのです。そして、先ず第一に甘くなく固くえぐ味も強くおいしくありません。
    これを「2番成り」と云っています。「2番成り」の見分けは新芽と入れ替える為に竹の葉が枯れて散り始めるときです。この筍は竹が葉を落とす程度にエネルギーが足りませんので細いものが多く出来るだけ伐採します。

    竹の管理
    さて、この様に筍を育てて竹細工にするのですが、そうは簡単には行きません。
    良い選択した筍が伸びると、先ず、精一杯伸ばします。次に今度は「先端折」と云って6ー7割のところで上から揺さぶり折る作業をします。これは竹の栄養分を茎根を通じて全般に及ばせるようにしないと茎の先端の筍はあまり良く成長しません。

    念のために、竹は「基竹」と云って「親竹」群があり其処から茎根(水茎)を通じて伸びて「子竹」群が成長します。地面より約30センチ程度の上根です。深くても50センチは超えません。
    ですから、この竹藪を枯らそうと思うと、この親竹群の基の茎根を切るのです。切られると後の子竹群は全滅しますし、後は筍は出ません。
    ところが、4ー5年に一度不要な竹と根切りをして整理をしないとだめなのは、この親竹群が次第に駄目に成って行くのです。ですから、この5年以上経った竹の側に出た太い形の良い筍は残して入れ替えます。竹の色と葉で判断しますがこの管理が大変なのです。

    竹は土提や山の急な斜面に植えますが、上根ですので表面30センチ程度の大雨の土砂崩れには効果がありますが大きい山崩れは無理です。水分をどの木よりも吸う力は段突に持っていますので山崩れの初期の土砂崩れには効果があります。山に植えられた農家の竹薮は主にこの目的です。大抵は山裾のところに竹薮があるのは初期の崩れを防ぐ為です。
    この目的の為に上記した竹薮の管理が必要なので、本来は筍を採り竹を維持するためにでは有りません。
    田舎の農家にとっては大雨や地震で起こる山崩れで家や田畑が潰されるかどうかの大切な作業なのです。ですから、この目的の為にそれで育った竹は一本の竹の茎根から親竹群と子竹群とがあるので表層崩れには強いのです。
    この何本もの茎系根が出ていますので、大方どの親竹から出ているかどこら辺に筍が出てくるのか判るのです。毎年必ずほぼ同じ処付近から出ます。
    ところで、この4ー5年に1回の手入れが10回程度すると竹は枯れるのです。つまり、竹群の寿命は50年です。

    ところで、皆さんは竹が花を咲かすのを知っていますか。観た事がありますか。
    竹は50年に1回竹の花を咲かします。咲くとその竹薮は枯れるのです。
    丁度、竹の葉を10分の1程度に小さくした様な竹の葉に良く似た花を群生して枝の先に咲かせます。咲くときはばらばらでは有りません。その竹薮が一斉に咲くのです。親竹群が咲くと茎根で繋がった小竹群も咲くのです。
    もう一つは、怖いのは「天狗草病」と云う植物の菌による病気がありこれが竹に移ると枯れてしまいます。
    竹の笹枝が先端の部分で群がって固まって縮こまり鞠の様になって遠くから観ると天狗の鼻のように見えるところから名付けられた病名です。これにかかるとひとたまりも有りません。竹薮が全滅です。
    最近この現象が各地の山で増えてきているのです。
    猛威をふるって私の家から山を見ると2ー3箇所枯れています。
    それだけでは有りません。
    近年、豚と猪の掛け合わせのイノブタが山に逃げ込み1匹の親から5匹生まれるので大繁殖して野生化してこの筍を全て食い尽くしているのです。山の竹薮は筍が食い尽くされているのです。その内に手入れと筍を残す事が出来ずに竹藪は松くい虫による全滅と同じ様に全滅になるでしょう。
    私の家から200メータ付近以上山手の農家の竹薮全てはやられてしまいました。
    筍はご近所に配るのが田舎の習慣です。しかし、農家の竹薮はイノブタ被害で遂に今年は全滅しましたので、私の家だけと言う風になりました。
    全国的との事です。今のところ私の家の竹薮は平地であり途中の高速道路で遮られて降りてくることは出来ないので助かっています。まだ狸はスイカ、カボチャ、トマト、柿などの果物は既に食べますが筍を食べることをまだ覚えていません。
    そんなに田舎でもない都会の既に家にも住み着いている狸とアライグマの雑種が食べることを覚えると更に悪くなると思います。
    最近、直ぐ近くの家に日本猿と台湾猿とのこれも雑種も出て来ていますので、これも覚えることは時間の問題なのです。

    この様に竹にも生きて行く上で大変な時期に来ているのです。
    それだけに、竹細工は昔は大勢本職で趣味でやっていましたが、今は高齢化で竹を管理出来る人、造れる人が珍しく成りましたが、更にこの様な障害で竹材を手に入れる事さえ難しく成っています。
    竹細工を皆さんがすると言うには難しい時期になりました。

    竹薮は大変手入れが多く面倒ですが、竹細工はこの前に更に沢山の手入れが必要です。
    「伐採」と簡単に書いていますが、この伐採が危険なのです。全く竹のことを知らない人がすると怪我をします。
    先ず、竹の立っている場所と竹の傾き方向を見極めます。
    大抵は斜めの所に立っていますので、山手の方向には倒れませんが、傾きは必ずしも下手に向いているとは限りません。竹の傾きはを観て、傾いている方向に倒す必要があります。それは傾いている方向から切り始めると鋸が重みで抑えられて切れなくなり鋸が取れなく成ります。つまり切れないのです。そこで傾いている反対から切り始めますがこれでは大怪我の元で危険なのです。
    竹は「竹を割った.云々」の性質があり、突然割れて割れた竹が切る人の顔を跳ねて怪我をします。
    そこで、先ず、傾いている側に少し鋸が抑えられない程度に切り口(ノッチ)を入れます。そこで、反対側から荒目の柄の長い鋸で切り始めます。20メーターもある高さのものが倒れるのですから、そこで倒れる音を聞いています。バリバリ..と聞こえ始めたら柄の持つところを直ぐに後ろにして素早く勢いよく切り落として逃げるのです。これで枝落しで伐採完了です。
    この様では初めての一般の人は無理ですね。

    竹材の作り方
    さて、5年ー15年の伐採竹の竹細工にする為の前の保存の仕方があるのです。
    実は伐採した直ぐ後では使えないのです。
    伐採した竹はエイジングと云う作業をしなくてはなりません。
    つまり、竹の切り立てには未だ生きるエネルギーを持っています。そこで時間を掛けて竹のエネルギーを徐々に抜いて行くのです。これは竹に限らずこの世の物質が持っている性質です。
    例えば、鉄ですが精錬後、直ぐに使うと残留応力と云うものがあり精密なものには使えません。
    変形や亀裂(ヘヤークラック)が起きます。

    これを取り除く為に野外に放置して毎日の温度変化のエイジングや強制的にアニーリング処理(ある一定のその物質が持つ特性温度で加熱して応力除去や性質の安定化処理)をします。
    当然、竹も同じです。エイジングなら草むらに寝かして1ー3年以上放置します。
    昔、竹で作った番傘がありましたね。あれもこのエイジングしているのです。この場合は水の中に入れてえぐ味も共に抜いて番傘の骨材にします。
    エイジングで5年以上経つと、良い竹は色も変化せずに自然割れすることも少なく成ります。
    15年経つと色が無くなり黒の縞模様の竹が出来ます。これも竹細工では茶道などの人に侘、寂で大変に好まれます。このエイジングで伐採の時と違って、更に違った趣のある竹材が出てくるのです。
    これで、やっと竹細工が開始です。私は30年前の竹材を持っていますが紫外線を当てないと赤色は替わっていません。
    アニーリング処理に付いては処理そのものが大変なものなので又別の機会にしますが、昔の保存されている特別な竹細工はこの処理をしていると云われています。

    竹の癖と竹細工
    では、竹細工の事に入ります。
    竹細工には色々な物があります。例えば、花瓶類、篭類、人形類、置物類、道具類...などあります。
    ここでは主に花瓶類を紹介します。
    一輪挿しの花瓶、プランター、生花用、飾り柱等で竹の性質を観て色々な形を考えて細工します。
    馴染みのない「飾り柱」ですが、家の柱にこの1間長さの竹を固定し其処に色々な模様や細工をします。そして、それを柱の長さに合わせて固定します。そうすると家の中に竹薮があるように見えます。
    高級料理店や侘寂を好むの茶室や華道道場にもよく観られます。
    昔はこの太い白竹に漢詩を刻みこみ又書いて床柱に固定していたのです。
    私の家にも直径25センチくらいの漢詩をびっしりと刻み込んだ極めて古い飾り柱があります。
    割れやヒビが一つもありません。昔はこの様なものを細工して家の中を竹の趣で仕上げていたのですね。
    近代的な家の造りでも、竹の花筒やプランターを一寸玄関の所に一輪さして飾るのも非対称的な趣があって落ち着きがありいいものです。
    そう云うものを作ってみますか。

    さて、そこで先ず、長い1本の竹を持ってきます。
    その竹の性質、色、固さ、変形、模様、節間、年数を観見分けます。

    これ等は上記した筍、竹の癖が働いてきます。当然、5年、10年もので異なります。
    性質はその育った自然環境でも違ってきます。土、風、温度、傾斜、日当たりです。
    先ず、その土には色々な種類があります。ナメ土、赤土、粘土、山砂、火山土等です。
    一般には、竹薮の生息地は山土のナメ土が多いのです。つまり、山崩れの為に傾斜部に竹を植えますのでその目的からこの土が多いのです。他の殆どの土は竹の本来の目的に合いませんし、上手く育たないでしょう。
    ナメ土は大変脆くて、固くて、水分を吸収し難い土なのです。土木屋さんには最も土としては安くて悪い土として嫌われている土です。一度吸い込むと逆に溜め込んでしまいますので、大雨で表層山崩れが起こるのです。竹薮を調べると殆どこの土のところです。当然、そこで育つ竹はその土に合わせますから水分の補足分が一定では無く、夏までに貯めておかなくてはならない時に水が無ければ竹も当然脆い事に成ります。脆く固い土ですので根に力が入り竹の伸びは悪く成ります。
    竹を高くすると風圧で根に力が入りますので倒れ折れたりします。
    他の土は竹の性質に合っていないのでこの自然理で推して知るべしです。
    逆に、このナメ土は細工するときはこの土地で出来た性質が加工や保存で適しているのです。
    色から年数までの要素は上記した通りです。
    変形に付いては竹が生育するナメ土の場合にはナメ石や石英岩が多く含んでありますので、その石の多い所から出て来る竹は変形しておもしろい形をしているので竹細工には好都合です。
    ナメ土帯には鉱物学では土層帯として石英が多くその結晶の水晶が存在する層なのです。
    又、セメントや庭石にする青石や、自然石高級砥石や硯などに使う紫石などの高級石が存在します。
    ですから、大変固く脆い事、水分の保有の有様が考えられます。
    この様に育った竹は加工時や保存時には20度前後下目の温度が好ましいのです。
    夏に加工保存すると、高温、多湿で加工していますので、冬に入ると冷却されて温度差による割れが生じ、水分が無くなり低湿で乾燥しますので更に割れる事に成ります。当然、水分も低レベルに成るので色も変化して紫外線だけではなく水分による色の消失が起こります。
    低温と乾燥で収縮しますので割れなくてもエイジング不良のものは「竹のしわ」が起こります。
    ですから冬に細工が必要です。

    細工道具
    そこで竹の細工の道具ですが、ノミ、ナイフ、ハンマー、ヤスリ、カンナ、ドリル、細鋸、バーナー、ブラシ、砥石でしよう。
    要するに道具から見ると職人技能を要求される細工と言う事に成ります。
    切断は細鋸で行います。荒鋸では竹は割れます。切断面がささくれます。竹の表皮が剥れます。内部にも細かい亀裂が入ります。
    竹は0.5ー1.0位の固い表皮に覆われていますが、竹を10月で伐採しなかった場合はこの部分が剥離し易いのです。そして、エイジングが不足すると脆く成ります。内部も粘りが有りませんし、加工後割れ易いのです。

    先ず、粗加工は、必要な所を細鋸で予定切りして、後はノミとハンマーで割って行きます。
    割る時にはその加える力を慎重に加減しながら割りませんと割れが走りすぎて使い物になりません。
    この時は、その割る終わりの点に2ミリ程度の穴をあけます。そうする事で割れの走りを止めます。
    大方の形を作ります。
    次ぎに水で洗います。余りきつく洗うと竹油を落としてしまいますので濡れた布で拭く程度にします。水に長く浸すと竹の水分の吸収度合いが違う為に乾くと割れます。
    その後、陰干しします。

    粗加工したら、中仕上げではノミで切断面を細かく手で削って行きます。
    竹の綺麗な筋目の模様が出て来る様に丁寧に削ります。
    竹の節目には突形状に成っていますが、この部分に黒い竹油の変質したものが付着していますので、これを取り除きます。この突部分は加工後剥れやすく印象がよくありませんので先に少し取り除いておきます。これはカンナでくるくると廻して柔らかく削ります。
    黒ずんだ竹油は毛ブラシで擦り落とします。付けておいても良いのですが。
    侘寂を好む人は竹の有りの侭の姿で仕上げたものを好みます。

    仕上げは、ナイフを使いナイフの刃先を立ててやや斜めにして擦り削りで表面をつるつるにします。
    切断面と切断面の交点は直角にすると其処から割れを引き起こします。そこで、粗加工するときに大まかに位置を決めてドリルで穴を開けます。そしてヤスリで位置ずれを修正する為に仕上げ凹R(−R)をつけます。最低1ー2ミリ程度のーRをつけます。−Rは力を左右に逃がす事が出来るのです力学的に余り大きくしてもーRにかかる力は同じなのです。
    理論では0.5Rですが小さすぎて難しいので1−2Rとします。
    これは竹だけではなく金属でも同じです。本当は木材でも付けた方が良いのですが面倒な事と柾目があるからですね。

    加工では最も注意する事は道具が良く切れることです。
    切れない道具では、木材と違い竹は5年以上物は5倍位固いので細かい手仕事は上手く運びません。切れないで無理に力を入れるために本当に怪我する事が多いのです。
    そこで、道具は必ず毎回砥石で磨く事が必要です。これが最大の問題なのです。
    そして、更に木材のノミやカンナとは少し磨き方が違うのです。
    木材のノミやカンナ角より更に角度を少なくします。つまり、よりシャープにすると云う事です。
    それでなくては固いのですくえないのです。そしてノミ、カンナの刃先の先端形状は直線ではなく緩やかな丸みをつけます。
    直線ですくって行くと刃先全面に一度に負担がかかりますので、先端が直ぐに丸くなり切れなくなるのです。また力が必要で危険です。ですから、切削の力を点で捉えて前に切り進んで行きます。
    その為に、例えば、20ミリの刃巾ですと中央から次第に両サイドに切れて行く様に成ります。
    この様にすると刃も持ちますし、力も楽になり削りやすく成ります。
    これだけでも特殊な技能が働いているのです。

    ノミ、カンナ、ナイフの砥石での磨きと鋸の目立てです。
    これが一人前に成る事が良い品質を作る事が出来るのです。
    竹細工は特にこの点が必要です。場合に依っては複雑な物を作る場合には、自分で焼入れ等の熱処理をして加工具を作る必要があります。
    又、竹は固いし、特別に刃先の角度をシャープにしていますので直ぐにヘタリます。駄目になり切れなく成ります。そうすると、直ぐに磨きを入れますので、焼入れ部は直ぐに減ってしまって使えなく成ります。
    特にノミの磨きです。真っ直ぐに良く切れる様に磨けるには2ー3年はかかるでしょう。
    それに丸みを付けるのですから大変です。
    これも楽しい事ですが、固くて脆い竹ですので薄く削れる様にする為にはこの様な工夫が働きます。
    カンナもノミと同じ様に形状を変えます。鋸も然りで市販のものでは直ぐに切れなくなるので自分で目立てします。

    忘れられた雑学
    そこで、ノミも駄目に成りますし、竹の内部を削る時も特殊なノミも、必要で自分で作るしかありません。さて、この自作ノミを使える様にする為には特殊な技能の熱処理が必要です。

    そこで、竹とは別に、ここで、ついでに知識幅を広くする為にノミの「熱処理」の事に付いて触れてみます。
    ここからは少し大學で講義を受けていると思い我慢して読んでください。
    たまには良いのでは。ボケ防止に。若い人でも最近はボケが出ているとの事、気を付けなくてはね。

    いや、昔は農家の人はこの程度の技能を持っていたのです。青木氏のことを調べている過程で文献の文章から自前で農具を作り修理していた事が覗えます。そして、その中で特に特技に優れた者が村の鍛冶屋として、果てには刀鍛冶として独立したものなのです。
    歴史は繰り返すと云いますが、後漢の阿多倍らが持ち込んだ鍛冶部の技能が平安末期から第一次産業として進み、それが一般化しさらには室町期に入り商業が発達し、室町文化の影響を受けて又鍛冶屋として刀鍛冶として独立した事に成ります。明治期に入り産業革命で企業化して、昭和の中ごろから高度成長で難度の高い技能は低収入と成り技能と知識は一般から忘れ去られてきたのです。平成の現代に於いては鍛冶屋そのものを見つけることが困難と成りました。

    兎も角もこのことを念頭に「古の名刀」の作り方とも思い読んでください。
    この様な名刀の所以の事を書いたレポートは日本全国ないと思います。
    青木氏氏サイトだけです。
    これからは、名刀を作っているとしても読んでください。
    名刀はこの様な熱処理に依って出来るのです。

    先ず、磨り減ってしまった工具を探して利用して必要な形にする為の「姿作り」を先ずします。
    磨り減った使えなくなった古い工具は焼入れ部分が無く成っています。
    そこで、特殊な工具を作る場合はこの処理をしないと作れません。市販では販売していません。
    昔の職人は特殊な工具は自前自作で全て作ったのです。今は分担作業ですが。勿論、刀鍛冶もです。

    先ず、特殊な「姿作り」をグラインダーで手作りします。
    次ぎに加熱用の炉が有りませんので、昔の七輪(しちりん 昔はフイゴ)で炭をおこします。
    団扇(うちわ)で猛烈に扇いで熱して赤くなった頃の600ー650度(この温度を「特性温度」と云います。)にして30分間程度加熱します。引き出して灰冷か空冷します。

    (温度は「色温度」と云うものがあり昔の卓越した職人はこれを経験でマスターしたのです。熟練すると2度以内で判定が出来ます。)

    (特性温度 :全ての金属には必ず持っている特別な温度です。この温度の上下を境にしてその金属の性質が変化するのです。ですからこの温度で力や振動や刺激などを加える事で無理なく性質又は品質を変化させられるのです。)
    (注釈:温度だけではなく、強さでも「特性点」(YP)と云うところがあり、エネルギーの伝わり方でも特性点(SP)と云うところがこの世の全ての物質にあるのです。)

    人にも特性点
    ところで、この事に付いてついでの余談ですが、 ”全ての金属”と言う事ですから、この世の物質には人間も含めて特性点は全てあると云う事ですね。
    この摂理で考えると、特性点は動物の人間で云うと、何処にあるのでしょうか。
    私は、「社会の拘りを少なくした自然の心姿:自立環境」だと思いますが。私は「拘りと蟠り(ワダカマリ)」を捨てる心境」のところにあると思います。
    マァ捨てなくても、せめて「より自然の心に浸たる事」が出来て、「自然な人間の品質(健康な状態)」を保てる点で、ここが特性点だと思います。「自然に平静を保てる所」ではないでしょうか。
    町の中で平静を保てたとしても、自然の中に入り平静になった時とでは何か違いますよね。
    多分その時ではないでしょうか。

    これを理論的なカーブにして見ると、横に「自立神経」、縦に「健康度」ですね。
    自立神経が働かない所は健康は0ですね。次第に神経が働き始めると健康も良くなって行く。そして、あるポイントまで来ると健康は最高となり、それ以上に自立神経を働かせると疲れが来て健康は横ばい低下傾向になる。何時かうつ症候群として病に成り健康を害し健康度は急激に低下し始める。
    そして、何時か切れる。と云う事ですね。
    以前のレポートにも書きましたが、普通はこの世の物質はSパターンの形(Sを横に引っ張った形)を示しますので、人間の特性点も、この関係グラフでは、健康が最高点に成る一つ手前がこの点に成ります。
    全ての物質はこの特性点では少し横ばいになります。人にも下の所にあると思いますよ。
    だから、「自然の心姿」が狂ったものが「人間の心の病気」ですが、これを変えるには人間の特性域に持ち込み何らかな刺激等を加えれば良いと云う事に成りますね。それがこの世の全ての物質の摂理であるとすると。
    ”それは何ですかね?” 私には、人間の脳の「継電システム」の有様から見て、”陥っている環境のスイッチを切る”と言う事だと思います。
    だから仏教ではこの「特性域」に入る為に、「座禅や修行」をし「自然の心姿」を経験会得し獲得しようとするのであると思いますが。
    仏教が生活の中に密接に入り込んでいた時代では、この「特性点」が今より言伝えられて明確に成っていたのではないでしょうか。
    多分、”先祖を敬い毎日仏壇に向かう生活環境の自然の心境”がそれであったと思うのです。
    科学の進歩でそれが消えてしまった、又は忘れられたと観ています。

    現在でも、それまで行かなくても、凡人には常日頃に「静かな自然環境に浸たる」でも特性域に入れる事に成りますね。
    現在の社会病魔はこのこの事に尽きているのではないでしょうかね。
    つまり、自然一杯の中で、私達が子供の頃に知り得ていた何でも無い知識や経験と心姿を失った人が多くなったと。
    今書いているこれ等の知識や経験は難しいと思われているかも知れませんが、私にはそうは思えないのです。
    どちらかと云うと、社会の科学の進歩で煩雑化して自立神経が低下し始めている為に「難しいと思う心」が既に特性点を超えた位置にあると思えませんか。
    何故ならば、今書いている事は大學講座で話す事と思われるかも知れませんが、残念ながら、800年前には難しいと思わずに既に皆が知っていたのですよ。少なくとも普通の職人と農民が。
    理論ではなく経験を通して。ただ単純に、「理論(知識)」と「経験」の違いだけですよね。

    話を雑学の元に戻します。
    名刀の条件
    古い工具や刀の素材は既に熱処理を施されていて、ある程度の固さで未だ内部が硬化が少し残っているので、そのままで焼入れをすると焼入れの変化が強すぎて割れてしまいます。(専門用語では「変態応力」と云います。)
    そこで、その内部を鉄の元の結晶状態に戻します。
    (アニーリング600−650℃と云います。刀も素材つくりで鍛えていますのでの戻します)
    冷えたら、再び加熱します。今度は温度は723度以上で850℃にし30分間加熱します。
    温度は高温計が無いので「色温度」で目で判断します。判断には経験が必要です。
    850℃は真っ赤になって白傾向になり少し黄色か橙色気味になったところです。
    経験すると、2度も違いません。
    鉄に依って温度は違いますので注意が必要なのです。
    この850℃という温度は殆どどの鉄ー鋼にも合う温度なのです。材質によりこの温度を中心に上下に処理温度が違ってきます。
    普通は、「焼入れ」が出来る鉄(本来は鋼と云う。ここでは鉄と云う)は内部に含まれる炭素の量で異なります。
    最低は炭素量が鉄の全体の0.35%から最高は0.8%までです。
    これ以下は皆さんが「鉄」と云っているもので「軟鋼」と云います。
    (炭素0.18%以下なのです l理論最低は0.12)
    これ以上は「鋳物」と云います。鋳物は本来、炭素0.9ー1.4%まででこれ以上含まれると鉄と炭素が分離して鉄にならないのです。
    炭素は鉄の結晶と結晶の間に含まれていますが、この炭素が増えると鉄の結晶間を結んでいる力が低下して分解してしまいます。鉄にならないのです。
    古い工具は大抵は炭素0.4ー0.5%です。中炭素鋼と云います。
    「焼入れ」が出来る鉄は0.8%までです。高炭素鋼(0.6-0.8%)と云います。
    つまり、鋳物は「焼入れ」をすると焼入れが起こる力(変態応力と云います)が強すぎて割れてしまいます。内部が金属崩壊するのです。
    工具は大抵は中炭素鋼です。これに「焼入れ」をしているのです。

    では、先ず鉱物油を用意しますが無いので、水を熱して冷やして20度くらいにした水か、雨水などの溜めていた古い水に冷却します。鉱物油は一般に無いでしょうから、以上3種類の水のいずれかを使います。この辺も刀の良悪のノウハウになるのです。
    これは水の中に空気が多く含むと焼入品のノミの周りに空気が集まり冷却をするのを空気が邪魔をして「焼入れ」が出来ないのです。
    難度も使った波風の出ていない清んだ水が良いのです。
    この事も名刀などの焼入れの良悪が決まるのです。
    加熱30分経ちますと鋏で取り出して直ぐに冷却する水に真っ直ぐに入れます。

    但し、加熱(850)した所が全て焼きが入ると云うことではありません。鉄と炭素が融合する時間だけの部分が焼きが入りますので、加熱時間のズレが出来るのです。
    ですから、短すぎてもこの「融合の部分」(「質量効果」)が悪くなり直ぐに使えないものが出来るのです。
    この時、斜めにして入れると冷却差が起こり変形します。
    名刀はこの冷却角度が反りとなり、切れる時の逃げ角に繋がるために切れる鋭さが違ってきます。
    加熱が長すぎると結晶が荒くなって脆くなり良いものがこれも出来ないのです。
    この辺も名刀かどうかの違いに大きく関わります。

    冷却でそのままに放置すると良い焼入れは出来ないのです。
    まず、冷却すると「焼入れが起こる力」で手に響いて来ます。
    すごい響きです。”ググー グングン”と耳でも聞こえ鳴ります。そうすると感じるか感じないかのところで約0.5-1.0秒程度で引き上げます。そして放置します。
    そうすると、表面の硬化層が0.5-1.0ミリで「焼入れ」が起こりますが、まだ内部は400度くらいの高い温度です。この熱が焼入れ層に伝わり「焼きの硬化部分」が元に戻ろうとします。
    この熱が大切で戻る事が大事なのです。
    「焼入れ」をすると、鉄の結晶と炭素は結合してダイヤモンドと同じ結晶と成ります。
    ダイヤモンドは炭素で出来ています。この時の結晶は「稠密六方晶」と云います。
    硬度に表現しますと、ダイヤモンドはHrc63-65程度ですが、この焼入れはHrc65-67程度に成ります。
    先ほどの”ググー グングン”はこの結晶に変化したときの力なのです。
    元の結晶はオーステナイトと云う高温での鉄の結晶です。常温ではパーライト結晶と云います。
    つまり、パーライトからいきなりはダイヤモンドの構造にならないのです。
    熱せられて先ずオーステナイト結晶に成り、「焼入れ」で鉄ダイヤモンドになったと言う事なのです。
    これが焼入れです。
    そして、内部の温度で戻されたこの「鉄ダイヤモンド」はマルテンサイトと云う結晶構造になるのです。

    鉄を焼き入れると云う事は、パーライトからオーステナイトの結晶にする為なので、その為に加熱するのです。そして、それをゆっくりと灰冷すれば元に戻りますが、急激(850℃-1S)に冷やすとそのエネルギー差で本来在り得ない結晶に成ると云う事なのです。
    推して知るべしで、ダイヤモンドもマグマで炭素が熔けてそれが湖や海に流れ込み急激に冷えて、そこに次から次えと流れる込む溶岩の重みが架かり結晶が変わったのです。

    だとすると、昔の人は、当然に、この水晶などの取れる場所からこの自然の知識を思いつき、鉄に炭を浸込ませて、冷やせばもしかすると硬くなることを思いついたのです。そして、”試してみた所硬くなった”と技能的に経験したのです。平安中期以後の経験なのです。その後、この技能は平安末期から拡がったのです。(自然説  主に鍛造説)

    このマルテンサイト結晶は内部の熱でより細かいマルテンサイト(微細マルテン)に成ります。
    これで「焼入れ」は終わりです。
    しかし、このままで放置すると結晶が変化した力が内部に残っている為にその内100%割れるのです。
    そこで、200ー250度で1時間加熱してやりますと割れません。これをテンパーと云います。
    テンパーマルテンと云う結晶に成ります。 300度以上では逆に脆性が起こり脆くなるのです。
    これをやりますと、切れ味抜群なのです。マルテンでは切れ味は今ひとつで「刃こぼれ」が起こるのです。
    更に、焼戻しを更に進めると「ツルースタイト」と云う結晶になり衝撃のかかる刃物に適する事に成ります。

    これ等の事は理論と言葉は当然知らないにしても、技能として職人は知っていたのです。鍛冶屋も刀鍛冶も。いや、刀の目利きの出来る多くの武士もです。

    この時、焼入れで、4つの硬化層が出来るのです。
    一つは最も表面に加熱した時の炭の炭素が浸込んでいますので、この部分が硬化します。
    (ここは0.8%の炭素です。最も良い焼入れ硬化層の部分です。共析マルテンと云う)
    二つは自分の炭素量のところが焼きが入ります。(低炭素マルテンと云う)
    三つは冷却が届かなかった部分で半硬化層です。(ソルバイト、又はツルースタイトという結晶です)
    四つは全くもとの状態のままの層の深部です。(パーライトという結晶です)

    昔の名刀と云うものは経験でこの技術理論を技能でマスターしていたのです。
    つまり、これまでの処理が名刀とそうでないものとの違いです。
    これだけの理論を経験で取得していたかどうかですが、大変な神経を必要とする技能です。
    これの理論通りに伝承技能で上手く出来たものが「名刀」(正宗)なのです。

    昔は鋼を特別に作る技術が未だ有りませんでしたので、鉄を加熱した炭の中に入れて炭の炭素を浸込ましていたのです。これを「浸炭」と云います。
    逆の事を言うと、大昔の人は炭で鉄を形作るために加熱していた所、何かの理由でうっかりと急に冷やしたら硬くなる事を知り、ただ、鍛いて強くするよりもはるかに硬くなり長持ちできると知ったのです。
    これがきっかけなのです。これが職人に一般化して行ったのです。(炭説 主に冷却説)

    これを何度も繰り返して、鋼の上記の4つの層を先ず素材として創り上げる事が良い刀になる事を知ったのです。そして、上記の焼入れ技能を千年も掛けて習得したのです。

    実は、4つの層を作るにも恐らく失敗の繰り返しを千年として行い得た技能なのです。
    それは一度の加熱でこの4つの層を作る事は理論的に出来ないのです。
    二つの理由があるのです。
    一つは、長く加熱すると、結晶が粗大化するのです。一つの結晶に架かる力が細かくなるほど小さくなり、結果として力は強いのですが、粗大化は脆くなるのです。
    二つは、炭素が浸込んで行かないのです。限界が起こるのです。
    つまり、加熱可能な範囲の温度では、炭素は結晶の間に入るのですが、入らなくなるのです。飽和です。
    この最高温度域が723ー910度なのです。これ以上超えると、鉄は熔ける事と徐々に蒸発を始めるのです。そして、1050度で熔けてしまいます。1540度で完全蒸発します。

    こんな技術を千年も掛けての経験から技能を名刀の職人は引き継いできたのです。
    では問題は千年で職人はどのような技能を修得したのかですね。
    先ずは、約2時間加熱します。そして直ぐに灰の中に入れて冷やします。
    この経験には2時間以上加熱すると鉄の結晶が粗大化してぼろぼろに成る事を知ったのです。
    そして、灰の中に入れる事で鉄の酸化を防ぐ事をここで先年の継続した経験を通して学び覚えるのです。
    これを何度も繰り返して行くと内部まで炭素が浸透して行く事を覚えたのです。
    しかし、これでも駄目なのです。この間に一つしなければ駄目だと知ります。
    それは、ハンマーリング、つまり、用語では鍛造です。
    加熱、浸炭、鍛造、冷却この4つの作業を繰り返すと良い素材が出来ると千年を経て覚えたのです。
    良く鍛冶屋さんで見られるトンテンカンの作業です。
    まだあるのです。これでも駄目なのです。トンテンカンのしている温度範囲なのです。
    これが、上記した下限723度なのです。これ以下にしてトンテンカンをすると逆に駄目になるのです。折角、浸炭した部分が破壊されてしまうのです。
    鍛造する事で粗大化した結晶はある升の範囲では結晶が少ない事に成ります。当然、この結晶に入る炭素も少なく成ります。そこで潰して細かくし、結晶をある升の範囲で多くして再び炭素が入る様にするのです。”潰す加熱する浸炭する”を繰り返す事で出来ると知ったのです。
    これを4ー5回繰り返すと刀の素材が出来るのです。
    そこで、この部分を同じように焼入れしていたのです。

    名刀かそうでないかはこの焼入れの温度と加熱時間と引き上げのタイミングとテンパーの有無と良悪で決まりました。更に刀の反り具合(逃げ角)などはこの冷却時の角度によるのです。

    そして、名刀を作れる匠と成るには、その繰り返した浸炭の素材が出来たかの判定能力が必要ですよね。
    実は、名刀を作れる職人は鋼の「火花」で見抜いていたのです。
    その火花ですが、グラインダー(回転砥石)で擦りつけると熱を持ち溶融し始めて1040度以上になり、空気と接触して鉄と炭素が酸化反応を起し爆発します。これが火花です。
    先ず、その火花ですが、炭素が少ししか入っていないときは、火花は「一段咲き」(通称トゲ)と云う火花を飛ばします。つまり、夕涼みの線香花火を思い起こしてください。
    この線香花火は「4段咲き」です。
    「一段咲き」は、つまり、狸の尻尾の形にもう一つ横に短い尻尾の火花が出る状態です。これが0.25%以下の炭素量です。トゲと云います。
    「二段咲き」は、トゲの先端に一つ菊の花が咲いたように成ります。0.30%の炭素量です。菊の花と云います。0.3−0.6%までは菊の花が次第に増えます。
    「三段咲き」は、菊の花が増えてその菊の花の先にもう一つ花が続けて咲きます。0.8%の炭素量です。
    「四段咲き」は、線香花火の最後の方にパッパッと菊の花が咲いて散る状態となりますがこれです。
    0.9-1.2%の炭素量です。
    「五段咲き」は、普通は見られませんが、パッパッばかりの菊の花に成ります。1.4-1.8%の炭素量の限界に成ります。

    名刀の職人の匠は名刀に出来る材質が出来たかを「線香花火の火花」が飛ぶかどうかを見抜く事が出来ていたのです。この火花を微妙に見抜く技能を習得していたのです。
    名刀はこの「三段咲き」の状態を的確に見抜く力が必要なのです。
    恐らく、江戸初期までには匠でなくても鍛冶や農夫でも知っていたと見られます。

    実は私の家に伝わる刀に関する古本に上記のような理論は書いていませんが、「刀の目利き」に付いてそれなりの知識が武士や鍛冶衆に衆知されていた事が書かれています。
    古に本が出版されている事態がそれを物語るものです。
    こんな事を”よくもまぁ、千年も掛けて知り覚えたものだ”と感服です。
    ですから、日本刀は技術と技能の見本のような物なのです。
    名刀はこの作業を寸分無く違えずに創り上げたものが名刀で、この作業を違えてできたものが名刀でないと成ります。
    そこで、参考として、切れる刀の正宗、強い刀の村政の違いは、上記のテンパーマルテンとツルースタイトの違いですね。

    武士はその武士の魂の「たしなみ」として、「刀の目利き」に通じていたのです。
    それは、焼入れた部分が、結晶が大変細かい結晶と成りますので、其処に当る光の反射具合が先ず変わります。光を当てよく観ると、細かい凹凸の粒が見えますが、この「粒の大きさ」と「均一さ」で「目利き」をしていたのです。機会があったら一度この感覚で観てください。

    当然、良い刀はこのマルテンサイトとツルースタイトの表面の滑らかさが違いますので、光が薄い青色を含んだ白色を発します。この色合いの白色でも「目利き」が出来ます。
    其処に、浸炭した部分が焼入れしますが、全部が硬く焼入れが出る訳では有りません。
    これを「質量効果」(マスエフェクト)と云うのです。
    これが名刀の技能の所以の一つでもありますが、質量効果が大きくなれば、表面のきざきざの「焼入波面」に違いが出ますのでこれも名刀の違いです。
    つまり、「白色」と「波面」と焼きの弱い「背所の色藍」(白っぽい黒ずみが良)程度で「目利き」出来るのです。この様なものに成る技能的な理屈を武士は知っていたのです。

    物作り日本
    既に、「物作りの日本」の素質はここに在ったのです。
    鉄の精錬は中国後漢の鍛冶部によって伝えられましたが、その後のこの刀の技能の伝承は日本独自のものであり、実はその刀の技能が現在の日本の冶金の基礎に成っているのです。

    大學で学ぶ知識が既に経験で一般化していたのです。全く専門的に調べると唖然として感服です。
    千年も前からあった知識を職人であれば伝え誰でもが知る事を一般化していたのです。決して大學講座では無いのです。

    因みに、典型的な事があります。
    日本の新幹線です。
    台湾、中国は日本の新幹線を採用しましたが、韓国はフランスの鉄道技術を採用しました。
    しかし、韓国は採用後日本の新幹線の方が良い事が判ったのです。
    それは、ブレーキなのです。
    日本の新幹線は駅手前でブレーキを架けてもきっちりと止まります。しかし、フランスの鉄道はかなり前から架けないと止まりません。フレーキの架かりが悪いのです。
    新幹線のフレーキは架けるとパッドやそれを支える鉄部品は400度以上に成ります。
    つまり、400度でブレーキ操作を難度も繰り返すと、金属は熱疲労を起し破壊します。
    又、400度以上に成ると鉄の中に残っているS(硫黄)、P(リン)が反応して脆くなるのです。(ステッドブリットネスと云う)
    更に、このS、Pは圧延に依って真ん中に一直線で分布していますが、不純物と共にこれが400度で中央に集まり「バンドストラクチャー」と言う現象を起して部品は二つに割れて破壊するのです。
    それと、高速にフレーキを架ける為にそれを押し込む部品(ウエーブ)が想像を絶する強度に耐えなくては成りません。
    そうなると、これ等の問題を解決するには「熱処理」です。
    (アルカリ土類金属のMo、Mn、Crの一つを加えているのですが、これを加えると熱に強くなり、焼きが熱で落ちないし、強くなり焼きが入りやすいし、熱が架かると自分で硬くなるし、錆びないのです。)
    ここに上記した日本刀の技術が活かされているのです。

    実は、この名刀の日本刀を分析すると、このCr(クローム)が適度に加えられているのです。
    Crを加えすぎると金属は脆くなり使えないのです。ところが、この昔の時代にCrを加えていることすら脅威であり、その限界を掴んでいる事も脅威であり、それを何処から取り出し、どのようにして知ったのかは現在も不明なのです。
    現在のフランスの新幹線が出来ていない知識を。日本刀は出来ているのです。
    この処理が設計的に活かされていて、駅手前でも止められるのです。

    この様に伝えられた冶金を含む金属に関する技術、技能は日本が段突なのです。続いてドイツです。
    だから、先日、経済復活の特効薬として、麻生さんはオバマ氏に新幹線を大陸横断で採用するように勧めたのです。
    「日本刀」は「物作り日本」のそれを集約した物なのです。その集約した知識が昔は一般化していたのですから、今の日本の物作りがあるのです。

    さて、この様に昔の職人が自前自作具をこの様な伝え知った知識を駆使して創り上げていた事に面白みがあり私も挑戦するのです。

    その歴史を紐解くと、奈良時代では中国後漢から阿多倍の一団により伝えられた技能を「部」(べ)組織化し専門化して産業を構築してきましたが、部制度が崩壊する平安末期から一般化したその技能は今度は自前で作る一貫技能化して作業したのでした。そして、日本刀=日本を生み出したのです。
    そこで、専用の道具を作る作業から、この様な歴史的な知識と先祖の努力とその素質が見えておもしろいから止められないのです。そして、この事を励みと成るように可能な範囲で将来の青木氏の子孫に遺したいとより思うのです。これは青木氏の歴史を調べると同じ事が判るのです。

    ステンの包丁
    ところで、参考雑学として、ステンレスの包丁がありますが、ステンレスは焼入れが出来ません。その理由は中にクローム(Cr)が多く含む原因と普通炭素量20.28-0.33%なので出来ないのです。
    そこで、精錬後、圧延時に850℃に加熱(オーステナイト)して圧延の力(75k/)で圧してマルテンサイトの結晶にしているのです。クロームが多く含んでいるのでマルテンに成りやすいのです。
    キッチンのステンレス板は常温で高温でいられるオーステナイトの結晶に成っています。ですから、NiとCrの効果と錆びない結晶(オーステナイト)で錆びないのです。

    話を竹に戻します。
    最終仕上げは、竹の表面の竹油をバーナーで溶かします。
    竹油はかなりの高い温度で解けますので炙り過ぎないように注意してて艶が出ると直ぐに移動して行くことが必要です。但し、この場合、細工物が濡れていないことが大切です。
    炙りすぎると、温度差が出来て竹は割れますので速く均一に炙ります。
    また、炙りすぎると、色素が分解されて色が飛びますので、最も神経を使います。
    炙った後は急に冷やすと割れますので自然に冷やします。
    加工中の埃はエヤーで飛ばすか布等で拭き取る事が必要です。
    加工した直後に水で洗いますと加工面だけが吸湿性が良く成っていますので、乾くとヘヤークラック(細かい亀裂)が出て何時か割れに繋がります。
    次ぎに切断部分には油がありませんので、この部分から水分が蒸発しますので亀裂が入ります。亀裂が入ると割れに必ず繋がります。
    そこで、この全切断部分にニスか透明ボンドか透明コーティング材を薄く塗ります。
    シックハウス症候群に成る場合がありますので、塗った後は3月くらいはエイジングします。
    3年未満の白ぼく艶の少ない青竹はバーナーで炙ると完全に色素が飛び色斑が出来ます。
    これはこれでおもしろ味がありますが水分が多いので斑のところから亀裂が入ります。
    品質は1年程度で色が変わりシワが出来て長持ちはしません。そのままでは殆ど割れますので全面にニスを強く塗ることが必要です。
    ニス等のコーティングは内部の水分の放出を防ぎ、且つコーティング部で保湿を保ちます。昔はワセリンを塗るなどした様です。
    大昔は吸湿放出する灰を容器に入れて保管したようです。

    青竹に塗らない場合は床下や低温低湿暗室のところ、例えばシステムキッチンの下のところを選んでください。上の保管庫は温度が高く成りますので良く有りません。
    次ぎの様な保管は10度の冷蔵庫に入れて保管すると良いでしょう。

    最後は保管です。
    竹と筍の保管に付いて冷蔵庫を使うと良いとしていますが、大昔から行われていた方法として、塩が使われました。
    先ず、これが最近、再び伝承されて、「器」として料理店などで5年未満の竹を保存する場合は「塩や砂糖」を使います。特に砂糖が用いられる様に成りました。
    冷蔵庫の無い時代では袋の中に塩や砂糖を入れて床下などの暗室に保存しました。
    そこで、その理由では塩と砂糖などは「潮解性」と云う性質を持っています。
    「潮解性」は周囲の空気を吸い込み又多いときは放出して一定に保つ性質を持っています。
    現在ではこの塩か砂糖を竹にまぶして冷凍します。
    そうする事で、表面を冷凍による水分の低下から護ります。内部は分子の運動がほぼ停止しますので色と竹の性質は変わりません。
    ただ、塩と砂糖の使い分けをしなくては成りません。

    筍は皮を剥き湯で灰汁抜き(あくぬき)してから塩で包むと塩の影響で表面が荒れますし、料理にはから味が出ますので良くありませんので砂糖を使います。
    竹は表面が表皮で囲まれていますし、竹油がありますので大した違いは有りませんので、問題ないのですが昔は筍も塩でした。
    現在は砂糖で包んで袋か容器に入れて冷凍します。料理店では砂糖で保存しているでしょう。
    ただ、5年以上の花瓶などは次ぎの要領を護れば問題なく夏冬でも使えます。
    青竹を維持したい場合には上記の方法を使います。

    竹はこの様に繊細で微妙な性質を持っています。そしてその素材の影響を大きく受けます。
    そこで、使用と保管の最大の注意は太陽の直射光を絶対に避ける事です。
    日の当るところとそうでないところの差です。温度差が出て100%割れますし色素が抜けます。日の当らない影の温度の低い一定の所を選ぶ必要があります。
    竹筒の中には水は絶対に直接入れないことです。
    ペットボトルなどの何かの容器に水を入れて花を生けることが必要です。
    直接入れるとその水分の内側と外側の水分の量が違ってしまう為に割れが出ます。
    入れるのであれば常に入れておく必要がありますが、竹特有の強い匂いがしますので好ましく有りません。
    2ー4月頃には加工量の多い部分で多くが割れが出ますので、竹筒のペットポトルに水を入れて保管すると割れません。保管ケースに入れて置くことも完全な対策に成ります。
    出来れば、保管ケースの中に砂糖か塩を瀬戸物の入れ物に入れて置くと尚良いでしょう。
    保管中は長い期間に一方の部分に重みを掛け過ぎると割れに繋がりますので注意が必要です。
    料理用として使う5年未満の竹の青竹の場合は冷蔵庫(10度)で保管すると次ぎの一年位は持ちます。ただし、保存袋に入れて保存します。取り出した場合はゆっくりと室温に戻して下さい。
    普通に凍らせては解凍後割れますので出来ません。但し、砂糖をまぶして保存すると割れないで出来ます。

    生花ですが、形も然ることながら自由にも生けると良いのではないでしょうか。
    竹細工の竹には水以外には影響はないと思います。竹細工の「趣」を生かしてのものであれば。

    昔の「侘寂の心」では、茶道や華道や書道や武道など「道」に繋がる心は、この竹細工のものを良く使いますが、それはその雰囲気に適しているからではなく、極めて微妙で複雑な技能と広範な知識を駆使して神経を注ぎ込んだ品であるからなのでしょう。
    当然に、その物質の究極の特性を掴み成し得たものであるからこそ、その作ることも「竹細工道」であるからなのでしょう。
    従って、これを使って生ける花も続けて「華の道」と成り得るのでしょう。

    竹細工は、色々なイマジネーションを引き起こして作り、より難しく、又、より単純にとさまざまな形を素材の性質や模様や趣に合わして作る事にあります。
    当然に、その時には、生花の形を連想して作ります。そして、その趣に合わせてそれに名前を付けるのです。
    作っているときは、耳も聞こえないほどに、息もしていないほどに集中しています。
    そして、それに合わして生けた時に、その趣が映えた瞬間は「自然の心姿」の喜びの頂点です。
    シンプル イズ ベストです。このシンプルは「自然の心姿」と私は考えています。

    終わりに
    生花もつまりは「自然の心姿」の結晶ですね。
    生花も買ってくる花では無くて「花作り」から始めるとより「道」を得られ良いのではとも考えます。
    今は、生けるところまでは行きませんが、花つくり、庭作りのところで止まっています。
    ”何時か、生花まで到達したいな”とも思っていますが。今は竹細工は生花の人に差し上げるだけです。
    ただ科学が発達するとそれに比例して、誰でもが知っていた事が特別な知識と成る事に大いなる疑念と焦りを感じます。当然に青木氏の歴史的史実も消えるのかと。
    今回は忘れられた雑知識を、竹細工をサンプルにして、そのために敢えて雑学として書いて見ました。
    忘れ去られる雑学をくい止めたいですね。少なくとも青木氏の歴史だけは。


      [No.246] Re: 伊勢青木家 家訓5
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/04/18(Sat) 09:11:45  

    伊勢青木氏の家訓10訓

    以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

    家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
    家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
    家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
    家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
    家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
    家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
    家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
    家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
    家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
    家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。


    家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)

    この家訓は大変に難しい誡めである。
    人間には主観を持っている。そして、その主観は人により強さと方向が違うことになる。
    この人の世に人と拘らなくては生きて行けない現実の中で必修の条件である。
    その基本とも云える要件にこの戒めが存在する。
    では、”その「実相」とは一体何であろうか”と先ず考えてしまう。
    「実」の「相」ですが、語源的に考えると「実」とは本来の持ち得ているもので、花木の「果実」に当るのではないだろうか。
    では、「果実」とは邪念の無い植物が最終に成し得る行為或いは目的である。
    そうするとその目的の「果実」には「果実」そのものが目的では無く、本来は「種」を保存する手段と成るだろう。とすると、「果実」そのものはその「種」を保存する「相」即ち、「様」と成るだろう。
    「果実」=「相」(様)となる。では、ここで、その「相」(様)とは何であろうか。
    仏教ではその「相」(様)は3つあるとしている。
    それは、この世にて万物が生きていく時に必要とする対応しなければならない条件のことであるが、それを「三相」(「人、時、場」)と定義している。
    この「実」と「相」を組み合わせると、「種」を保存する「人、時、場」と成り得る。

    この組み合わせの「実 相」=「人、時、場」(三相)と成る。

    人間本来のこの世に生まれて来た目的は万物は全て「種」を遺す事にあるだろう。人間も例外ではない。つまり、「子孫」を遺す事に他成りません。つまり、「種」=「子孫」と成る。
    そして、「三相」とは、その「子孫」(種)を遺す過程での「人、時、場」での現象であるとされる。
    更に、この「人、時、場」とは日々の生活に働く現象である。
    依って「子孫」(種)を遺す日々の本来の「生活」と成る。

    「子孫」(種)=「三相」(人、時、場)=日々本来の生活

    日々の「生活」の中には、「三相」の組み合わせで色々な事が起こるだろう。雑事が起こる。
    その中でも「子孫」を定義しているのであるから、雑事の中でもそれを実行して行くべき「基本の姿勢」と云う事になる。

    「子孫」=「基本の姿勢」と成る。

    即ち、雑事の中でのさまざまな姿勢そのものではなく、それに捉われなく、「子孫」に限定した「根本的な姿勢」を意味する事に成る。

    結論は、故に「実 相」とは、人間本来の目的である「子孫」に限定した根本的な「姿勢」を意味する事に成る。
    「三相」(人、時、場)の中、この家訓5は「三相」の「人」に対しての事を意味している事から、”「時、場」に依って起こる雑事を排除して、その人の「根本的な姿勢」の如何だけを観なさい”としている。
    「人」が生きて行く過程で”人の事に付いての「根本的な姿勢」だけを観て評価しなさい”としている筈である。
    又、”「時、場」を取り除いたその「人の姿勢」という事に成りその努力をしなさい”と訓している。
    ”なかなか、この努力が一朝一夕では出来ない故に、その日々の努力を積み重ねなさい。”
    そして、”その暁にはその「根本の姿勢」を見抜く力、人の巾を持ちなさい。”としているのであろう。
    そして、”その「人の巾」が大事にせよ”と云う事であろう。

    「人」は日々の雑事に追われてその雑事の中で兎角全てを見てしまい、雑事の中で生きている傾向が出来てしまう。そうして、その中でそれを基に「評価の基準」として人を見てしまうジレンマに陥る。
    「根本的な姿勢」を見るどころか見えな事に成る事さえもある。
    雑事の中では「拘り」が生まれるに他ならないものであろう。
    殆どは、実際はこの傾向が強いのではないか。だから、この家訓があるのであり、家訓5を知りより正しくより正確に見抜く力を付ける事が、より確かに子孫を遺せる事に成るし、又は、より人生を確かに豊かに過ごせる事としているのであろう。

    伊勢青木氏はその立場に於いて、他のレポートでも記述してきたが多くの立場を有していた。
    商家、武家、賜姓族、組織や集団の長などの立場にあったが故に、其処からこの家訓5のその必要性を求められ、又「人の巾」、「根本の姿勢」を持ち得ていなくては成り立たなかったと云う環境にあった。
    故に、この家訓5の意味がどれほどに必要視されていたかを物語り、又、子孫にそれを伝える重要性があった事から代々家訓として遺されてきたと考えられる。
    この立場の多さが先ずこの家訓を生み出したのであろう。
    普通なら雑事の中でも充分に生きられるが、青木氏にはそうでは無かった事を物語る。
    さて、これで、この家訓の意味が終わった訳ではないのである。

    この家訓には、進めて後文に次ぎの事が書かれている。
    それは、「人を見て法を説け」と記されている。

    つまり、「人の実相を見よ」とする家訓5の前文の「根本の姿勢」を見抜く力、「人の巾」だけではないのであり、更に進めて、「人を見て法を説け」とある。

    この二つの家訓が相まって効果が生み出されるとしているのである。
    この2つの意味する所の家訓を理解しようとした時、若い頃には正直に理解が出来なかった。
    当然である。「人の巾」をも充分でない者がこの後文を理解できる訳は無かった。
    人生の雑事での中で思考も一通り出来る様になり、”甘い酸い”の事が判る様に成って来て、ある時、”待てよ。「人の巾」だけではこの人の世の中上手く行かない”と疑問が湧いた。
    ”其処には何かある。”とその答えを仏典など読み漁った。
    その結論が次ぎのこの答えであった。

    確かに、仏典にこの答えが書かれていたし、自分の感覚もこの事に近いものを持っていた。
    しかし、ここで疑問が更に湧いた。
    ”何故、仏教が、「人を見て法を説け」と成るのか、全ての人を幸せに導くのが仏教の道ではないか。”おかしい。”人を見比べて法を説くのは違う。「人の道義」に離反する”と考えたのである。
    しかし、よくよく考えた。仏説には、上記した様に「三相」として定義し「人、時、場」を明らかにしている。
    普通の場合、雑事の中での思考世界では「人を見て法を説くのは違う」で正しいのである。
    しかし、この家訓前文は、”「雑事の思考」から超越して「根本の姿勢」を評価をせよ”としているのであるから、雑事の中での思考の「人を見比べて法を説くのは違う」と考える事とはこの家訓後文の意味するところは「別の思考の世界」と言う事になる事に気づいたのである。
    この様に、人間には、より巾を求めるには雑事の思考世界から逸脱する必要があり、常思考は深くこの雑事の思考世界にどっぷりと浸っている事を思い知らされたのである。
    つまり、”自己よがりで、低次元で拘っている”と。そして、”「別の思考世界」でなくては成らない筈”とそれは大変な難行苦行の末の事であった。
    考えて見ればれば、仏教を先導する僧でさえ難行苦行のこの「逸脱の修行」を行って体得しようとしている訳であるのにも拘らず、その事に気づかず、多少なりとも教典を浚っていながらあさはかにも「別の思考世界」と思い着かなかった。
    雑事の中での「低次元の拘りを捨てる事」そうする事であれば、家訓であり仏説である「人を見て法を説け」の縛りは解ける。

    後はこの、「人を見て法を説け」の意味する所を理解する事にあった。
    では、この意味する所とは「見て」と「説け」に解決キーがあると考えたのである。
    そこで、まず、「見て」はその人の「人間的レベル」、その人の「生活環境」の二つに分けられるであろう。「その人の人間的レベルを見て法を説け」なのか、「その人の生活環境を見て法を説け」なのかである。
    その「人間的レベル」とはその人の「仏教的悟り」のレベルを意味するだろう。
    その「生活環境」とはその人の置かれている「諸々の立場」の如何を意味するだろう。
    さて、この内の何れなのか、はたまた両方なのかである。
    この事に付いては仏教ではどのように成っているかであろう。調べるとそれを決定付ける仏教の教えが出て来る。つまり、「縁無き衆生動し難し」とあった。
    これで大まかには前者の「人間的レベル」である事が判る。
    ”どのように衆生に説法を説いても説法の効き目が無い人にはその程度の理解力しか無いのだから意味が無い”。諦めなさい”としている。
    仏教では”最後までその様な人には説法を説き続けなさい”とは言っていないのである。
    ”見捨てなさい”とまでは云っていないが、ここで矛盾を感じる。
    家訓の前文の”実相を見よ”とある。仏教でも「実相」と云う言葉が使われている。
    ”雑事から逸脱した「根本の姿勢」を見よ”としているのであれば、どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である。
    そう考えると、言っているこの二つには矛盾がある。
    ところがこれは矛盾ではないとしているのである。

    その事に付いて、更に仏教では”それは拘りだ”としているのである。
    仏教では最大の教えは「色即是空 空即是色」又は「色異不空 空異不色」としている。
    つまり、この二つの般若経の行では”必要以上に拘るな”としているのである。
    ”どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である”と考えるのは”必要以上に拘り過ぎる”と云っているのである。
    何故ならば、上記の般若経の一説は”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない”だから、それは”「必要以上」”であり即ち、「拘り」であるとしている。
    仮に理詰めで出来ているのであればそれは”必要以上ではない”と成るだろうが。

    これでは納得できる。”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない。” この事を「三相」で考えると、人の世は「人」と成り、社会は「時」と「場」と成る。”だから、三相(人、時、場)で考えよ”と説いているのである。
    ”どのような事象でも普遍ではなく三相にて異なる”と説いているのである。
    もっと進めれば、「三相」に依っては”正しい事は必ずしも正しくもなく、間違いでもあり、間違いは必ずしも間違いではなく正しい事でもある。”と成り、普遍では無く成ると説いている。
    つまり、これが「拘り」を排除した考え方であると云う事になる。
    確かにあり得る。むしろ科学文明の付加価値が進む現代社会では自然性が無くなり、科学的付加価値の要素が大きく働き、むしろ上記した事の方が多いとも思える。否多いであろう。どちらかというと、「正しい」と「間違い」だとする間のどちらにも含まない事の方が多いと考える。
    ところが、我々凡人には普遍だと思い拘ってしまう所に、「悟り」(人間力)の有無如何が問われるのであろう。この家訓の意味する所だろう。
    この様に”「三相」に依って変化する時の実相を見る力を付けよ”と家訓は誡めているのであった。
    「三相」を思考する事に依って「普遍」と見る「拘り」を捨てれば、「雑事の中の思考」を取り除く事が出来て、「根本的な姿勢」を見抜くことが出来る事を諭しているのである。そして、その姿勢で法を説けとする誡めである。
    雑事の中の「思考の拘り」を取り除く方法とは次ぎの事と成る。
    ”三相で以って行い、そして、考える力の訓練をせよ”と云う事であった。

    「人を見て法を説け」の意味する所の「見て」の結論は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」である事である。

    次ぎは、”法で「説け」”での疑問である。
    先ず、解決キーは「導け」と「教えよ」の二つであると考えられるだろう。
    つまり、「説け」とは、仏教では「導け」までを行うのか、「教えよ」までを行うのかという事を判別する事に成る。
    これも仏教の教典に随処に明確に書かれている。答えは「教えよ」である。「導け」とまでは書かれていない。”先ず教えよ”である。
    例えば「般若心経」である。このお経の「経」の意味は「路」であり、更にこの「路」は「ある過程を持つ路」であり、「人生という過程の心の路」を説いている事に成る。
    つまり、般若経は、この世の「心」の段階の「迷い」「拘り」を捨てさせる「術」に付いて教えている事に成る。
    上記した、「縁無き衆生動し難し」でも”説法を説いても縁の無い者は動かせない”となり、「導く」と云う所までに至っていない。
    本来、「導く」の語意は「教えて」の後に「導く」を意味する。教える事せずに導けることはない。
    人の世のことは先ずは教える事無くして導く事は不可である。だから経文があるのである。
    仏教は”この教える事に主眼を置いて教えても理解が出来ない者には導くはありえず動かし難い事である。故に「必要以上に導くのだとする拘りを捨てよ」”と禅問答などで説いているのである。

    既に「法」とは「則」(のり)であり「決まり」であるのだから、”人の世の生きる為の「決まり事」を教える事”を意味する。

    参考
    奈良時代に我等の青木氏の始祖の「施基皇子」が、全国を天皇に代わって飛び廻った際に、地方の豪族達からの話や土地の逸話などで得た全国の「善事話」を集め整理する事と、この「まとめ」をし、民の「行動指針」とし発行するように天皇に命じられたが、更に天皇はこの「善事話」を進めたのが日本最初に作られた「律令」であり、この様な「善事話」の「まとめ」を法文化したものであったと日本書紀に書かれている。
    事と場合に依っては、これ等の家訓10訓は、証明は困難だが、この時の事柄を施基皇子は自らの氏に抜粋したものを遺したのではとも考えられる。
    もし、仮にそうだとした場合は、5家5流を含む29氏の一族一党の青木氏はこの家訓に近いものを保持していた可能性がある。
    当時、天皇家は男子に恵まれず女性天皇が何代も続いた時期であり、第6位皇子(第4位までで対象者なし場合は第5位とする継承権)の施基皇子の子供光仁天皇に皇位継承権が廻ったという経緯がある事と、鎌倉時代から江戸時代までに交流があった事から察するに、特にその系列の伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族一党の青木氏はこの家訓に近いものを持っていた可能性も考えられる。
    家訓なるものが偏纂される状況を考えると、700年前から800年前の100年間の期間ではないかと推測する。青木氏が発祥して2ー4世代の間と成るだろう。
    その状況の一つとして例えば、又、光仁天皇の子供の桓武天皇(伊勢青木氏の叔父)は、第6位皇子を賜姓せず、後漢の阿多倍の孫娘(高野新笠)を母に持ち、この一族(たいら族:平氏)を賜姓して引き上げ、発言力を強めていた青木氏特に伊勢青木氏に圧力(伊勢国の分轄や国司を送るなど政治から遠ざけた)を加えて歴史上最も衰退に追い込んだ。しかし、この後、桓武天皇の子の嵯峨天皇はこのやり方に反発し賜姓を戻し、青木氏は皇族(真人朝臣族)の者が俗化する時に名乗る氏として一般禁止し、賜姓は源氏と改めた経緯がある。この時代付近までに初期の家訓なるものが偏纂された可能性がある。

    当然に長い間に修正編纂された事は考えられるが、多くは仏説の解釈内容を引用している事から見ると、当時の仏教の置かれている立場は絶大であった事から考えても、現在にも通ずるこの家訓10訓は可能性があり否定は出来ないだろう。
    この研究を進めた。しかし、この時代の確かな文献が遺されていないために進まなかったが、状況証拠はあるとしても、日本書紀に始祖が「まとめ」に当った史実事だけである。
    伊勢では、口伝で伝えられ「家訓書」なるものがあったと見られ、何度かの戦火と松阪の大火で消失し、その後「忘備禄」(別名)なるものに諸事が書かれているが、10訓はあるにしても解説は他書に漢詩文でのこしてあり、「忘備禄」の方は完成に至っていない。
    恐らく復元しようとしてまとめながら口伝として「忘備禄」の中に「家訓書」にする為に書き遺し始めたのではと考えられる。続けて筆者が公表できないものを除外しながらこれ等の漢詩文と口伝と忘備禄と史料を基に何とか平成に於いて完成した。


    後文の結論は即ち「法を説け」は先ず上記した解説の事柄を「教えよ」の意味する所と成る。

    よって「人を見て法を説け」の解釈は次ぎの様に成る。
    人の「見て」は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」であり、「説け」は「教えよ」である。
    ”人の「人間的レベル」或いは「悟り具合」を良く洞察した上でそれに合わせて必要な事を教えよ。”と成る。
    しかし、と云う事は、自らがその「人間的レベル」(悟り)を上げなくては人を洞察する事は不可能であり、「教える」に値する度量とその知識と話術を習得せねばならない事に成る。
    つまり、言い換えれば、この家訓は逆説の訓でもある。

    ”自らは「人」を見て「実相」を知るべし”の前文には、確かに「自ら」と定義している。
    当初、この家訓には他の家訓と較べて一足踏み込んだ個性的な家訓であるとも考えていたが、どうもそうではない事が後で判る事となった。
    特にこの前文の”自ら”と”「人を」見て”の二つの言葉に違和感を持った。
    ”自ら”は逆説的な事である事を意味させる為に挿入したことは判ったが、”「人」を見て”とするところに”二つの解釈が出来るのでは”と考えた。
    つまり、”他人の行動を起している様を良く観察して他人のその実相(根本的な姿勢)を読み取れ、そして自分のものともせよ”と解釈するのか、はたまた、”自分以外の人を評価する時「根本的な姿勢」だけを以ってせよ。そして他人の雑事の姿勢の評価は捨てよ”と単純明快にしているかの考え方もある。
    始めは後者の考え方を採っていた。しかし、後文の逆説的内容である事と判った時、前文の「自ら」の記述で、前文も前者であると解釈を仕直したのである。
    そすれば、何れも前文、後文共に、”他人に対処する時の姿勢を意味しながらも、そうする為にも”先ず自らも磨け”と成り一致する。

    この家訓5の解釈は「人事」を戒めとしているだけに表現も意味も難解であった。
    多分、先祖は”単純明快であれば大事で肝心な事が伝わらず間違いを起す恐れがある”として何時しか書き換えて行ったのではと推測する。
    恐らく長い歴史の中に間違いを起した事件の様な事があって氏の存続も危ぶまれた時があったのであろう。それだけに、この家訓は人を束ねる立場にあった青木氏の「自らの人」「人の集合体の組織」に関する最も重要な家訓である事が言える。

    この様に、青木家の家訓5は人の上に立つ者のあるべき姿を説いている事になる。
    これは、子孫を遺す為に難行苦行の末にして、数百年に及ぶ商家の主としての姿を誡めていると同時に、千年の武家としてのあるべき姿に共通する戒めを遺すに至ったのであろう。
    正しい事だけを家訓にする必要は無い。何故ならばそんな事は書物でも読み取れる。しかし、書物に書き得ない青木家独自の上記の意味する所一見矛盾と見られるような事に関しては青木家としての家訓として遺す必要があったのであろう。
    もとより伊勢青木氏のみならず、「生仏像様」を奉る全国青木氏の家訓であっただろうと同時に、これらの家訓があっての1465年続いた青木氏の所以であると見られる。

    次ぎは家訓6に続く。


      [No.245] Re: 周辺の環境写真(むらさき草 拡大)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/15(Sun) 10:10:58  
    Re: 周辺の環境写真(むらさき草 拡大)  (画像サイズ: 297×273 13kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照
    花の様子が良く判らないので拡大したものを添付します。

    もし行楽で田舎に行かれたらこの草花があるか見渡してください。

    この「むらさき草」の花は余りにも小さいので、接写レンズの写真でもくっきりとは撮れません。
    拡大するとデジタルの画素数により画面が荒れてしまいます。
    兎も角、画質が悪いのですが、ご覧の際の下絵としてこの写真をご確認ください。
    暫くの間添付します。


      [No.244] Re: 周辺の環境写真(むらさき草)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/14(Sat) 07:57:07  
    Re: 周辺の環境写真(むらさき草)  (画像サイズ: 353×235 29kB)

    鈴木氏発祥の環境写真

    詳細は本文参照

    この草花は「むらさき」と云う。
    万葉の時代に熊野古道の鈴木邸付近で「紫の水」や「紫硯」「紫川」と名付けられ最も高位で気品高くいい色とされた「紫」の語源に成ったものである。

    この草花のその性質とその花の色合いからの語源である。
    花の大きさは5ミリ程度できわめて小さい。草も5センチくらいであろう。
    この草花は日差しがよく照り、周囲には余り高い雑草が無く、広々とした丘や平原に咲き乱れる。
    咲く時期は3月から4月頃までである。
    生きるその様は、特長があり決して一草花で一箇所で咲くことはない。必ず群れて咲く性質がある。
    その生命力が大変強く踏まれても踏まれても枯れない。次ぎから次へと花が咲く。その元はこの草花の根にあり、極めて細い毛根がびっしりと着いていてその根が隣りの根と絡み合っている。だから、踏まれても軸が折れても生き延びるし、風雨に強く晒されて土が流されても互いに絡みあったまま留まることが出来る。
    咲くその様は、群れる事に依って野原一面に群生するために地面がこの花の色で染まってしまったと幻想するくらいに観える。
    皆さんが知る蓮華草がその赤紫の花で田畑が染まるが如き様以上に群がって咲くのである。
    その花は「空の水色」と「地の水紫」で両方にはさまれて天国の楽園に居るが如き思いがするくらいである。最近、この様な景色は除草剤で枯れ果てた事と住宅化や雑草処理をしなくなりして成育環境が悪化して田舎でさえも殆ど観なくなった。

    この様に全く名もない雑草の草花が、”群がって咲き乱れる”水紫の咲く様を観て、奈良期から平安初期に歌に読まれた時、この花の呼び名を、その様から、”群がって咲くあの花”と呼ばれ、何時しか”群”と”咲く”でその花の色を「ムラサキ」と成り、その草花を「むらさき草」と呼ばれる様に成った。

    平安時代の心にゆとりのある優雅な心意気が読み取れる。
    言葉の語源は、主にその「生活環境や草花の様」を読み取る自然の呼称から変化して生まれている。
    「ムラサキ」の語源説には4つほどあるが、殆ど時代性から観て万葉歌が詠まれた時期に位置していて、考証に問題がある。例えば”村に咲く花”とか、”村崎”に咲いているからとか、前後に関連性が乏しく「こじつけ」に近い。

    「むらさき」は日本書紀にその天武期に官僚と式服の衣服の定めを施行した時からの話であり、既に色として好まれていた事にもなるので、それ以前に既に「むらさき」の言葉はあった事なる。従って、この「むらさき」は奈良期末か平安初期頃に言葉として出たと考えられる。使われていたのはその前と成るだろう。

    「4つ語源説」は、「むらさき」はこの様に「慣用言葉」として扱われて正式に定められた言葉で無かつた事から、しかし、大切な「高位の色」として扱われ万葉歌としてよく歌われている事の為に、後で学者たちの間から「4つの語源説」が生まれたのであろうが、その元となったと考えられる。
    同じ咲き方と性質を持つ雑草花として「蓮華草」も「むらさき草」も同じ経路を辿っている。

    この写真は30ー50センチ範囲の接写で撮ったものでもこの多くの花が群れている。これが草原一面に一度に咲くのである。


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