No.56
皇族賜姓青木氏の背景 3
青木研究員 さん 2005/06/30 (木) 11:22
嵯峨天皇と藤原北家一族の助けによって、伊勢青木氏をはじめとする5家の賜姓青木氏は再び息を吹き返した。
嵯峨天皇は桓武天皇の渡来系一族を引き上げてその持つ力の絶大さを政治の場に多いに利用した。又その効果は抜群で律令国家の国体を完成させのである。それは、それなりの方法で3相を得ていたものであるので否定するものではない。時代は3相(人、時、場所の構成体)にて構成されなければ本当の目的効果は達成されない。
この意味では、この800年頃は桓武天皇方式が正しいのであった。だから、効果があがった。しかし、何時の時代にも完全というものはない。嵯峨天皇はこの隙間に発生する問題を指摘し、これを修正しなければ天皇家はもとより朝廷も瓦解すると考えたのであろう。
なぜならば、この事例が目の前に歴史的にあった。そして、天智天皇や天武天皇はこの問題に取り組んだ。蘇我氏の台頭による天皇家の危機であった。これも3相を得て乗り越えて守りきれた。そして、その効果は桓武天皇期前まで引き継がれた。桓武天皇は果敢に課題と取り組んだ。そして、嵯峨天皇も背景2で述べたように1から5までの対策を実行して効果を挙げつつあった。
1−5の政策実行と次の二つの変更を試みたのである。
引き上げた藤原北家は貴族である。従って、武力による行動はない。しかし、北家には関東の役武を与えた。必然的に武装する必要は生まれる。祖父や秀郷親子のように当初は自ら武器で統治した。
もう一つは賜姓の源氏である。源氏は賜姓青木氏以来の天皇の親衛隊であり、侍を本文とし、政治に関与しない。
しかし、この本来の役務に対して、政治に関与させた。それを主務とする源氏まで生まれた。(村上源氏や醍醐源氏であり、右大臣までなった。)参考に、伊勢青木氏は軍略所であつた。つまり天皇の軍事的な相談役で勅命の代理実行者である。村上源氏(北畠氏)は学問所である。事務、政治の相談役である。
藤原氏には主務外に武を求め、源氏は主務外に文を求めた。
これは何故であろう。結論はあくまで渡来系一族にたいするけん制のための一策で、彼等と同じ能力をつけることに先ず主眼を置きそして、勢力を付けさせたのである。そうでなければ、到底、超大勢力で万能の一族である彼等と同等の力を持ち得ない。
策は成功した。しかし、依然として、彼等は益々大きくなる。
それは何故なのか。そこには二つのことが欠けていたのである。
嵯峨天皇はこのことに気がついた。
それは、部制度(前記)による経済的な基盤である。もとより、彼等が引き連れてきた技能集団の力でそこから上がる経済的利益の基盤が彼等にあつた。朝廷の軍事力は渡来系一族の武装集団に頼っていた。(蘇我氏の二の舞である)
「一紀一班の制」を施行し調査して、余剰の税の徴収をした。
「健児の制」を敷き一般の有位者の子弟から徴兵し軍団を創った。(前記した渡来系統治の九州は除く)
この政策を実行したことで、弱点は消えるとした。元に次第に藤原氏と源氏は勢力を付けて台頭し朝廷内では対等になった。背景2と背景3の政策が、1160年頃から渡来系一族と4者の団結で対等となった。1180年伊勢青木氏の跡目祖の源の頼政から乱が始まるのです。