No.42
藤原秀郷と坂東八平氏
青木研究員 さん 2005/06/20 (月) 23:18
坂東平氏の平の将門を討った藤原の秀郷は958年没ですが、秀郷は同じ平貞盛とともに将門を討った。この将門は下総や常陸や下野の豪族であったが、一族と領地争いで争っていた。しかし、常陸の国の国司から追われていた藤原玄明をかくまい、その上で、常陸の国司を襲い、国家騒乱となった。上野や、秀郷が勤めていた押領使の朝廷の役人であった下野国まで襲った。秀郷はこの将門に果敢に挑んだ。
将門は強力でその内、この土地を基盤に独立国家を樹立した。
朝廷は手に負えずこの者を打てる者を募った。秀郷は当然、役目上、覚悟して手を揚げた。但しこの時、2つの条件を出した。
1 貴族に取り立てる事。2 武蔵と下野の守護にすることを条件として出した。
朝廷はこの条件を認めざるを得ず、勅旨をだした。
しかし、朝廷は絶大な武力の勢力を誇っていた平貞盛に指示し、貞盛はこれに応じた。
しかし、この時、清和源氏の武蔵介であった元祖の経基がこの事件を朝廷に訴えた。(この時、土地の者とのいざこざがある)清和源氏は関西から中部地方に勢力を伸ばしつつあったが、関東にも領地の礎を築こうとしていた。そのためには、坂東平氏をくずさなければならなかった。
一方、貞盛の先祖の高望王も桓武天皇から平氏の賜姓を受けていたので何とか世に出ようとしていた。貞盛は絶好の機会と見て手をあげた。
ここで貞盛の先祖の高望王は後漢の光武帝の末裔献帝の子供の阿知使王とその孫の阿多倍王は大和の国に帰化した渡来人であり、近代武装した、技能、政治集団を持つ200万に及ぶ超巨大勢力である。
瞬く間に肝付氏と朝廷役人の伴氏の協力も得て、九州全土を制圧し、中国地方に及ばす関西にまで制圧し、32/66の大和の国の50%に及ぶ国を獲得した。
そして、身内から大和名の賜姓を受け、準大臣の位まで獲得した。
しかしながら、この巨大集団は武力だけではなく、高度な技能を土地に移し、民を豊かにした。現代の第1、2の産業はこの渡来系の人々により引き継がれたものである。
孝徳天皇期前後から始まった渡来系の活動は桓武天皇の頃まで続いた。桓武天皇はこの功に対して当時としては難しい事であるのに、慣例を破り渡来系に賜姓し、敏達天皇のひ孫の皇族の皇女を娶らせた。
ちなみに、桓武天皇の母はこの阿多倍王の子孫であるし、歴史上、この渡来人の協力を得て、日本の律令国家の国体を造り挙げた天皇でもある。
丁度、この頃、5家の皇族賜姓族青木氏の著しい台頭もあり、国体を造ったと言う自負もあり、昔の武力に揺さぶられる朝廷政治を嫌った事もあり、この母方の阿多倍の一族を引き上げ、青木氏を押さえ込んだ。
賜姓族5家の青木氏は衰退したが、後には、清和源氏と組み藤原氏北家の協力を得て対抗した。
このような背景の中で、この渡来系の貞盛も討伐に参加した。
935年から940年掛けて戦った。この時には、政治的に乱れていて、藤原純友も氾濫をおこした。936から941年である。
この乱は源の経基らが鎮圧した。
源氏も渡来系の賜姓平氏も藤原氏も賜姓青木氏も秀郷も、もちろん将門もであるが、何とか伸びようとしていたのである。
結局、藤原秀郷と渡来系賜姓平氏の貞盛が功を認められ、国と身分を得た。
貴族になり、役人から2国持ちになった秀郷は貴族自らが武力を保持することは出来ない。
身内から第3子に藤原血縁を基にした朝廷の賜姓方式を見習い、同じ青木氏を名乗らせた。
そして、武力集団を構築した。そして、強大な渡来系平氏の圧力、清和源氏の坂東への進出、他家藤原氏の進出、と坂東平氏の侵蝕に備えたのである。
しかし、渡来系平氏は自らの体力を強くする事を目標にして坂東には進出は無かった。(坂東平氏が衰退していく中でも)
これによって秀郷は武蔵7党を関東に築けた。そして、藤原秀郷の秀郷を越える5氏が誕生するのです。
しかし、この5氏も直ぐ後には清和源氏頼信の進出を受けることになり(平の忠常の乱で)、子孫の義家が遂に入ってきた。さて、その後、青木氏ら藤原5氏はどうしたのか。(勢力拡大する)
坂東八平氏はどうしたのか。(息を潜めて衰退する)
遂には、清和源氏と武蔵藤原5氏との戦いが始まる。
自分のルーツがどの様に生き延びようとしたのかを知ることはルーツを知ることの意味でもあると思います。
藤原秀郷流永嶋氏と阿多倍王の子供の永嶋氏の繋がりなど面白いことが出てきます。
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