青木氏のルーツ & 雑学研究室
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◆-武田菱紋
└Re: 武田菱紋
└Re: 武田菱紋
No.302
武田菱紋
青木研究員 さん 2006/10/07 (土) 08:52
山形の青木!
2006/10/06 21:20
パソコン
代理投稿します。(雑談掲示板から)
山形県長井市に生まれました。家紋は、丸に武田菱のようです。さかのぼれるルーツでは、上杉家(現在の白鷹町あたり)に仕えていたと勝手に思っていますが、定かではありません。近くに南陽市がありますが、そこの説明にある「青木」ルーツでは説明がつかないので、ちょっと戸惑っています。かなり入り組んでいるのでしょうか
山形の青木さん 今日は。始めまして。
ご説明が長く成りますのでこのサイトに移しましたので了解ください。
お尋ねの提供頂きました情報として家紋だけのものでありますので、もし宗派や古いご先祖の所在地や言い伝えやお家のご本家の菩提寺の所在地などちょっとした事でも有りましたらお知らせください。
では先に、家紋から判る範囲の事を検証してみます。
この家紋の菱紋の紋様は全部で106もあります。
この紋様は2つのルーツに分けられます。
一つは菱の紋様です。2つは花菱の紋様です。
前者は甲斐の国の武田氏の一門の家紋類です。多くの氏が使用しています。
後者は大内氏の家紋類です。
この二つは全く別紋です。
そして、この菱紋を使用している青木氏は9氏あります。
この菱紋を使用している青木氏のルーツは概して述べますと次の通りです。
この青木氏には二つの青木氏があり次の通りです。
一つは皇族賜姓青木氏です。
(詳細は研究室の皇族賜姓青木氏の所のレポートを参照して下さい。研究室の検索で出ます)
二つは藤原秀郷流青木氏です。
(詳細は研究室の藤原秀郷流青木氏のレポートを参照して下さい。研究室の検索で出ます。)
前者に付いて概して述べます。
この青木氏は天智天皇の第6位の皇子が天皇を護衛する親衛隊を造るために天智天皇から臣下を命じられて侍となり、青木氏の氏を与えられて(賜姓)伊勢王となり伊勢を守る守護となりました。伊勢は天皇家の守護神とされ天領地でありました。
此れが初代の皇族賜姓族です。つまり、伊勢青木氏です。
続いて天武、聖武、文武、光仁の4代の天皇の第6位皇子が臣下して青木氏の賜姓を授かり各地の主要地の守護を務めました。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの国の王となり守護を務めました。
これが5家5流の青木氏です。
この青木氏は全部で24氏に成ります。家紋の綜紋は「笹竜胆紋」です。
(源氏一族と同族同門です。光仁天皇より2代後の嵯峨天皇期に変名して源氏となりました)
この24氏の一つ青木氏が甲斐国の皇族賜姓青木氏です。
此処に、藤原秀郷一族が鎮守府将軍として北の守りを勤めていましたがこの陸奥の国の小豪族であつた武田氏と血縁しました。
この武田氏は藤原秀郷一門の甲斐の国の国司を命じられた時に護衛役として同行してこの地に定住しました。
この武田氏は勢力を得て今度はこの地の守護王であつた皇族賜姓青木氏との血縁をしました。
しかしこの武田氏と血縁した賜姓青木氏の分家筋には男系の跡目を2代続いて出来ずに「家紋掟」にて変紋を余儀なくされて武田菱紋となりました。
この一族が更に武田氏支流とも子孫を拡大させて九つの青木氏が出来ました。
これが武田系青木氏です。この地には皇族賜姓青木氏とこの青木氏と血縁を持つ諏訪族青木氏も存在します。3つの青木氏が存在します。
そこでお家の家紋ですがこの九つの家紋の中にはありません。
つまり、丸付き紋の武田菱紋はありません。
武田氏は支流になると丸付き紋を使わず2つの家紋以外に主に変紋方式を採りました。
そこでお家の家紋は丸がついていますので次の事が考えられます。
特別の2つの丸付き武田菱紋である可能性もありますのでお調べになるとよいと思います。
その二つとは「中陰武田菱紋」と「丸に出武田菱紋」の二つがあります。
この家紋では無いかどうかまず確認する必要がありますが、この家紋からは青木氏は出ていません。これが第1の可能性です
しかし江戸中期から明治初期にかけて上記九つの青木氏のいずれかとこの武田菱紋の一族と血縁をし男系跡目が叶わず婿先の家紋に変紋し丸付き紋になったた事が考えられます。
普通は一般的に丸付きは分家筋を意味しますので時期的には江戸中期から明治初期までの間と考えられます。
何かの理由があり本家の許可を得て特別に丸付き紋にした事も考えられます。此れが第2の可能性です。
次に明治初期の第3の青木氏と成ります。
甲斐の国に住み明治初期の令にて苗字と家紋をつけることが庶民に許されましたが、この時に多く青木氏を名乗りましたし、家紋は青木氏が持つ紋様をつけるブームが起こりました。神社仏閣に高額の金品を積み上げて証明してもらい届けました。この時は青木氏は最高の付け値でした。此れが第3の可能性です。この青木氏の可能性もあります。
兎も角も
お家が武士であつた事とか、
ご先祖が何処に住んでいたとか、
菩提寺がどこか、過去帳がどのようであるか
宗派は何か、仏殿の形が浄土宗形式であるとか
周囲に同紋の青木氏が多くいて墓所が同族で集中しているとか、
遠縁が同紋であるとか
で第1から3までを決める情報と成りますので大変でしようが所期のところを先ずお調べになる事が必要です。
山形地方の青木氏は藤原秀郷流青木氏が殆どですのでお家のルーツとは別に成ります。
先ず、お判りになりましたらお知らせください。ルーツは根気が必要で直ぐにわかる事は少ないのです。ルーツ解明の決め手になる時期は戦国時代と混乱期にありましたので資料が乏しく難しいのです。
専門的に観て一寸した事が歴史上に大変な意味を持ちますので逃さずお知らせください。ご協力いたします。解明してゆきましょう。
では、先ずは研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」のところの第3のところのレポートをお読みください。そして、次に家紋掲示板の菱紋のところの家紋をご覧下さい。
では、遠慮なくお便りや質問をお待ちしています。楽しみにお便りをお待ちしています。
No.304
Re: 武田菱紋
山形の・・・さん 2006/10/09 (月) 17:10
ご丁寧な分析に感謝します。なるほど、可能性がいくつかあるわけですね。昔、武士であったと聞いています。遡れるところまででは、女性であったと聞いていますので、分家説が有望のようです。周囲に「青木」は多いのです(同級生60名弱で、8人程が青木姓でした)が、親戚筋にあたるものがいません。明治初期からそれ以前という時代はまさに的中なのかもしれないと、背筋がぞくっとしてきました。これからも探ってみます。家紋の絵が手にはいってからまた詳細等、報告いたします。ありがとうございます。
No.305
Re: 武田菱紋
青木研究員 さん 2006/10/09 (月) 20:00
>ご丁寧な分析に感謝します。なるほど、可能性がいくつかあるわけですね。昔、武士であったと聞いています。遡れるところまででは、女性であったと聞いていますので、分家説が有望のようです。周囲に「青木」は多いのです(同級生60名弱で、8人程が青木姓でした)が、親戚筋にあたるものがいません。明治初期からそれ以前という時代はまさに的中なのかもしれないと、背筋がぞくっとしてきました。これからも探ってみます。家紋の絵が手にはいってからまた詳細等、報告いたします。ありがとうございます。
山形の青木さん 今日は。
武士であったことが確認出来れば第2の青木氏の可能性が高くなりました。
次に”周囲に青木氏が多くいるが親戚ではない”ということでも第2の可能性と成ります。つまり、この周囲の青木氏は藤原秀郷流青木ですので親戚ではないはずですから。
家紋どおりにこの地の人ではなく甲斐の国の人であつた事がいえます。
つまり、丸付き紋の武田菱紋になるにはこの甲斐の国付近に住んでいる必要があるからです。
当時は、「国抜け」といいほかの国に移動することは禁止されていました。
そこで、お家のご親類が調べられる範囲で多いでしょうか。
ご親類の郷は遠方にありませんか。
例えば甲斐を中心にして信濃(岐阜)越後(新潟)越中(富山)に本家筋か親戚がいる事も調べられると良いと思います。
実は、織田信長に追われて武田勝頼を始めとして武田菱紋の一族はこの方向に逃げ延びて後に子孫を広げている史実があからです。
他の武田一門の例えば同じ諏訪族青木氏は神奈川から栃木まで逃げ延びているのです。
武田系の青木氏はこの二つに向けて逃げ延びた史実があります。
この時に年月をかけて越後から山形に移動してきたと言う説が成り立ちます。
その理由はこの地域に同じ姓の藤原秀郷流青木氏がいて逃げ込めば判らなくなるという前提が成り立つのです。
何故かといいますと同じ武田系諏訪族青木氏は神奈川横浜から武蔵と下野などにある藤原秀郷流青木氏のところにも逃げ込んでいるのです。
此れには青木氏のあるところに単純に逃げ込んだか、この藤原秀郷流青木氏と何らかの血縁関係を頼って逃げ込んだという事が云えるのです。
というのは、武田氏は元は陸奥の国の住人豪族でした。
ここに藤原秀郷の末裔が陸奥の鎮守府将軍として赴任して来た時に血縁を結んでいて、後にこの藤原氏の護衛役として甲斐に移動してきたのです。
そこで皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏と血縁して更に土地の元からいた豪族の諏訪族と諏訪族青木氏と血縁して勢力を得て土地の豪族となった経緯がありました。
そして、この陸奥にいた藤原秀郷一門を護衛するために同門の藤原秀郷流青木氏が護衛してこの土地付近に定住したのが山形付近の青木氏なのです。
私はこの説をとっています。この可能性が高いと見ています。
ですからお家の武田菱紋の青木氏がこの付近か上記の土地に後に定住していることはありえます。
故に、多分お家の「丸付き紋の武田菱紋」ちするとその子孫は信長から追われて逃亡により全滅に近い状態で分散しているので少ないと見ています。
本日のお便りのたつた一寸した二つの情報で此処までルーツを解明できるのです。
又、お便りお待ちしています。
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