青木氏のルーツ & 雑学研究室
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◆-青木一矩
└Re: 青木一矩
No.183
青木一矩
綾女さん 2006/02/23 (木) 01:57
初めまして、綾女と申します。
今、徳川家康側室のお梅の方(蓮華院)について調べているのですが、その父・青木一矩について疑問があったのでこちらに書き込ませていただきました。
青木一矩は紀伊守を名乗っています。
豊臣秀吉に仕えた青木紀伊守が有名だと思うので、この人物がお梅の父親だと思うのですが、
一方で、家康の愛妾について書かれた資料では、お梅の父は六角氏家臣・青木紀伊守とありました。
これによると、家康の祖母・華陽院の遠戚だとか。
これは同一人物なのでしょうか?
ご存知の方がおりましたらご教授の程宜しくお願いいたします。
No.184
Re: 青木一矩
青木研究員 さん 2006/02/23 (木) 12:20
>初めまして、綾女と申します。
>
>今、徳川家康側室のお梅の方(蓮華院)について調べているのですが、その父・青木一矩について疑問があったのでこちらに書き込ませていただきました。
>
>青木一矩は紀伊守を名乗っています。
>豊臣秀吉に仕えた青木紀伊守が有名だと思うので、この人物がお梅の父親だと思うのですが、
>一方で、家康の愛妾について書かれた資料では、お梅の父は六角氏家臣・青木紀伊守とありました。
>これによると、家康の祖母・華陽院の遠戚だとか。
>
>これは同一人物なのでしょうか?
>
>ご存知の方がおりましたらご教授の程宜しくお願いいたします。
綾女さん 今日は。
ようこそ青木氏の研究室にお越し頂きました。
早速ですが、家康側室の「お梅の方」のルーツの件ですが、
お尋ねの「青木一矩」に付いてのご疑問について、次ぎの条件を加えて調査いたしました。その結果は次ぎのとおりです。
条件1 徳川氏の幕臣として仕えた者、
条件2 家康の徳川初期前後に生きた者
条件3 三河国とその近辺の在所の者
条件4 それなりの身分を保持していた者
条件5 なんらかの処罰を受けていない者
ルーツより検証しますと
「東鑑」から出る青木氏は二人が載っていますが、上記の条件に合致しません。
「承久記」には一人が載っていますが、上記の条件に合致しません。
「太平記」には三人が乗っていますが、上記の条件に合致しません。
「徳川除封禄」の巻の一にお尋ねの青木一矩が載っています。
この「青木一矩」は紀伊守です。従五位左衛門佐となり、しかし、紀伊の守でありながら、越前北の庄八万石を領しています。
有名な事件の史実です。信長と秀吉に主に使えました。
その後、家康に一時主従しましたが、しかし、この「除封禄」に載っていますので、条件5に合致していますので、「お梅の方」のルーツになるには当時の慣習からは相応しくないと考えます。
又、六角氏の家臣の青木氏に付いては、信長が京に上る途上で足利氏の6大家臣のこの六角氏を滅ぼしました。
この後に、足利氏の家臣の青木氏が信長の家来になり加賀攻めのときに功を立て、突然に前田家の前に現れて元は柴田勝家の北の庄の一部を与えられ、後日に外されたことは有名です。秀吉との軋轢も有名です。
当時は、紀伊守等の官職を名乗るのは室町幕府が乱れていたために勝手に手柄を立てた者が名乗ると言うことが起こっています。
青木氏の中でも、異なる人物が全く同時期に同じ官職と姓と家柄を名乗る者がいて後に、片方の者が家系偏纂を白状したと言う経緯があります。
この様に、室町時代から江戸初期まで下克上の世界から退き出た家柄や系譜の持たない者が出世すると系譜家柄と家紋を偏纂して名乗るという事が起こりました。
特に江戸前期には御家人制度のことからこの必要に迫られて多くは偏纂がおこりました。
秀吉はもとより家康も偏纂しています。このことから家康は天皇家からこのことを指摘されて「源氏頭領」の官職は受けることは出来ませんでした。
又、「征夷大将軍」になるときも系譜を偽り源氏の末代(16代源氏)付近の源氏になりすましました事も有名です。
(源氏は実質は花山天皇の11代目までが正統です。詳しく研究室に掲載)
この様にこの時期の資料には非常に矛盾が多いので注意が必要とされています。
よって、同一かどうかは確定は困難ですが、史実の流れからは同一と見られます。
(ただし、六角氏の家臣の青木氏の家紋が不詳であるので疑問 藤原秀郷流青木氏と見られる。)
このサイトにこの紀伊守の末裔子孫の方から以前質問がありましたが、家紋と青木氏ルートが別でしたので違うように思います。
青木氏は下記しますが明確に2つのルートから発祥
愛妾を六角氏家臣青木氏と決めた資料の時代の前提が不確定のもので使用している可能性があります。
足利末期の六角氏の定住地から考えると家臣青木氏は疑問ですが、青木氏には特別な特徴があり、この青木氏の家紋と宗派が判れば真偽は確定できます。
しかし、同一とすると「徳川除封禄」に載ることは有りませんので疑問です。
又、更に青木伊賀守忠元という者が同時期にいましたが、同じ時期に同じ越前坂井郡丸岡藩四万六千石を領していましたが、関が原の役では西軍に属した為に除封されています。
この者が六角氏家臣の青木氏ではと考えますが確定要素が不足しています。
これも条件5に合致していますので相応しくないと考えます。
越後国古志郡に来迎寺城の城主で青木主馬なる者がいました。
しかし、家康との結びつきが低いので異なると考えます。
他に、「日向記」「安西軍策」「京極殿給帳」「加賀藩給帳」に相当の青木氏が載っていますが、上記の条件に一致しません。
そこで、この様な結果から、別のところで、元は身分が高い者ではなく、家康に関連する条件1と2とと3と5から選択すると次ぎの者が出てきます。
次ぎの二人が出てきます。
一人目は四代将軍家綱の生母「むらくの局」が下野国都賀郡高嶋村の青木氏のルーツで、身分と家柄と血縁に相応しい人と考えます。
(「下野国志」に記載)
この者のルーツは有名な天王社家の青木氏で「皇族賜姓青木氏」の系統の皇位の家柄であります。
江戸時代前後から代々徳川家との血縁の深いルーツである伝えられています。
皇族賜姓青木氏の内、皇族青木氏は、嵯峨天皇期の詔に基づき皇位より下俗した者、同還俗者、同離脱者、同退位者が青木氏を名乗りましたが、この皇位の霊位を祭る役目として皇位の血筋を引く青木氏の一部が皇位家の役目として寺社の主になりました。
皇族で賜姓青木氏(第6位皇子が青木氏を名乗る)に付いては研究室の所のレポートを一読ください。
二人目は家康の三河国渥美郡青木氏であります。この青木氏は伊川津七党という土地の豪族の集団があり、この党の一つに青木一党がありこの青木氏です。
この尾張の青木氏は皇族賜姓青木氏の血筋を引く一統です。
又、同じく額田郡にも青木氏がいました。
家康の行動過程から時期と場所と人の条件が合致します。
この地域には、尾張より西側の地域は平安初期から美濃と信濃と甲斐の守護として務めた皇族賜姓青木氏の子孫と、鎌足より八代目の藤原秀郷流青木氏の子孫が鎌倉期前までこの尾張より東側付近の守護の護衛役として定住しています
この様に主要青木氏の2氏のルーツが混在する地域です。
(尾張より伊勢を含む西近江付近までは皇族賜姓青木氏が青木村を形成して定住した。)
このことから、特に、家康の行動の史実からの側室の身分を調べますと、又そのルーツの家柄も検証しますと、特別な必要以上の身分家柄などの偏りはなく、気に入る範囲のものであつたと見ます。
このことから、私は次ぎのように考えます。(側室となった時期考慮)
第一には三河国の渥美郡の青木氏(藤原秀郷流青木氏)、
第二には下野国都賀郡の青木氏の2つのルーツが揚げられるのではないかと考えます。
(下野国は藤原秀郷流青木氏の根拠地でありますが、天王社主は皇族賜姓青木氏=朝廷から罪を得てこの地に定住した皇族配流者の唯一の島氏の青木氏)
(青木一矩は除封を受けていますので疑問です。)
これ以上は今の保有情報では確定は困難ですが、宗派と家紋と土地柄がわかれば更に検証の確定は進むかと思います。
ちなみに、「お梅の方」の宗派は浄土宗、家紋は笹竜胆か121氏の青木氏の33紋様の家紋類内にあるか、下野と武蔵国側か、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐国の国5地方側にあるかを判ればと思います。
史書から相応の青木氏を選択することは可能ですが、上記の5条件に完全に合致しない可能性の低い者ばかりです。
更に、上記の他の情報がありましたらご遠慮なく当サイトにお便りください。
綾女さんの調査にご協力いたします。
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