>はじめまして。最近祖先のことに興味を持って調べておりますが、はっきりしない所もあり詳しく教えて頂ければ幸いです。>家紋は丸に揚羽蝶、お墓は茨城県水戸市の共同墓地にあります。江戸時代は水戸藩だそうです。宗派は日蓮宗です。>実家にある家系図には青木貞景の名前があります。親からの話によりますと、華陽院は貞景の娘!?でも、家系図には女子としか書いてないのでどこにあてはまるか分からないそうです。また、徳川家康に仕え、武田信玄が攻めてきた時には二俣城の副将として戦ったという話。桜田門外の変の時、お家断絶、明治まで復興を許されなかったとか。明治維新の時に徳川慶喜と一緒に駿府へ移ったと聞いてます。>他にも聞いた話は色々ありますが、丸に揚羽蝶は池田家の家紋、平家方ではないのでしょうか?また元々のルーツはどこから来ているのでしょうか?その他分かることがありましたら教えてください。丸に揚羽蝶の青木さん 始めまして。
お尋ねの件につき情報をまとめますと次ぎのようになると思います。
1番目は家紋の「丸に揚羽蝶紋」です。
2番目は水戸藩の家臣であった。
3番目は宗派は日蓮宗です。
4番目は徳川家康に仕えた。二俣城の戦い
5番目は桜田門外の変
6番目は駿府に移った
以上ですがこれ等を情報として検証しますとお家の青木氏は二つの青木氏のルーツに辿りつきます。
先ずその前に、青木氏の出生に付いての基礎的な情報として次ぎのことを念頭に入れてください。
青木氏のことに付いては研究室の藤原秀郷一族の生き方を先ずお読みください
此処には青木氏のことが詳細にレポートしています。
では、青木氏は次ぎの2つの発祥から出ています。
1つ目は皇族賜姓青木氏です。
この青木氏は天智天皇から5代の天皇が自らの皇子の第6位の皇子を臣下させて賜姓を授けて青木氏を名乗らせ、天皇の親衛隊として任務を与えました。
(臣下とは皇子から侍にすること。 賜姓とは氏を天皇自ら皇子に氏を与える事)
この青木氏は5家5流あり、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5地の王として守護の役にて赴任する。
伊勢青木氏を除く各地の青木氏は母方に藤原氏の血筋を持つ。
天皇は天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人の天皇から出ています。
2つ目は藤原秀郷流青木氏です。
藤原鎌足より8代目の秀郷が「平将門の乱」にて大功を上げて武蔵と下野の国の守護に任じられ貴族に列せられました。
この時に貴族に列することから自らは武力を使うことは出来ない定めより、2つの国を護るために自分の子供の第3子の千国と言う者にこの護衛の役目を与えて侍ととしたものです。
侍となった千国には上記の皇族賜姓青木氏に習って青木氏を与えました。
本来は嵯峨天皇期にこの青木氏を使用することは皇位の以外の者は禁止しました。しかし、朝廷は同じ藤原氏の血筋の藤原秀郷の一族にだけ特別に許可しました。
この他に明治初期に苗字と家紋を持たない一般の庶民が高額の金額を叩き寺や神社に日本最高の名家家柄の青木姓を付けてもらった青木氏があります。
つまり、第3の青木氏である。
(明治初期は戸籍を作るには古来より戸籍的な役目を担っていた寺と神社がこの役目を担った)
以上の主要2氏の青木氏であります。
この内、お家の青木氏は藤原秀郷流青木氏であります。
この藤原秀郷流の青木氏には次の主要9氏があり、直系1氏、直流4氏、支流4氏となり、ここより116氏に末裔を広げています。
そこでお家の青木氏はこの内の支流4氏の内の「揚羽蝶』又は「丸に揚羽蝶」の家紋を使用しているのは内の3つです。
この「丸に揚羽蝶紋」は元来は京平氏(桓武平氏とも伊勢平氏とも言う)の支流家紋です。
つまり、藤原秀郷の第3子の千国系の青木氏が4代目に男系の跡目が出来ず藤原秀郷の総宗本家から跡目を受けて青木氏を次ぎ、更に18代目のときにも第3回目の総宗本家の行久から跡目を受けています。
鎌倉時代までにこの3回目の跡目があるのですが、この2回目の後に千国より3代目までの間に「揚羽蝶紋」の平氏の一門より嫁を取りこの一族の分流が同じ跡目の問題で「下がり藤紋」より家紋を平家の紋所の「揚羽蝶の紋」に丸をつけて変紋をしています。この一族がお家の元祖です。
この2つの「丸に揚羽蝶紋」の青木氏のうち室町後期に松平氏に仕官し、のちに水戸家に仕官した青木氏は1氏のみです。
藤原秀郷の一族は鎌倉幕府が樹立した時点で崩壊し116氏一族全ては離散します。この時に多くの関東に住んでいた藤原一族の青木氏は縁故を頼りに戦国時代に勢力を拡大した松平氏に仕官します。
この二つの藤原秀郷の主要9氏中の支流4氏の2氏は次ぎの通りです。
1番目は藤原秀郷流青木正命一族です。
この一族は元は平氏の一門で「嶋崎氏」と「岡田氏」を名乗っていました。
「嶋崎兵右衛門利澄」のときに上記した経緯から藤原一族にもどり青木氏に氏姓を戻しました。
この長子を正命といい、次男は利備といいます。
この一族が「丸に揚羽蝶」の家紋を引き継ぎました。
2番目は同じく青木忠英一族です。
元祖は青木玄蕃允梵純です。
3番目は青木安明一族です
藤原秀郷の子の千常が元祖で、安明より前は「根村」を姓としていたが、この安明の時に元の青木氏に改めました。
本来は千国から青木氏が出ているものであるが、この千常の子孫はこの兄の青木氏を名乗ったと云う事になります。
家紋は揚羽蝶と一部子孫の分家は「丸に揚羽蝶」の家紋を使用している。
お家のルーツは後者の分家筋にあたり、何れも松平氏に仕えていて二俣の戦い等に参加しています。
この内に水戸家に仕えた一族は第3番目の分家筋に当る青木氏で、安明より2代目の安長のときに長女が水戸家臣(呉 観石)に嫁ぎ、後に安明の分家筋の跡目家系継承の問題でこの長女の一孫子が実家先一族の分家の青木氏の跡目姓を継いでいることに成っています。
水戸家に関わる青木氏はこの一門のみであります。
更に「桜田の館」に関わる一族は史書からこの一族のみと見られます。
駿府までの経緯は判別できませんが、経緯と水戸の行動から当然に認められます。
池田氏の家紋の件については池田氏は京平家の勢力範囲(32/66)であつた中国地方の支流平家の末裔でと名乗っていることから、江戸初期に下克上と戦国時代の混乱期を経て家柄を誇示する必要から成否は不明であるが、挙って家系を偏纂したのであります。この池田氏の平家の末裔の真偽は不明と言う説があります。この時期の大名になったものは徳川氏をはじめとして殆どは偏纂です。
そして、この池田氏も同様に土地の経緯からこの「丸に揚羽蝶」の平家支流紋の家紋を使用したのです。
しかし、この意味からするとお家は上記した様に青木氏の由来から正規の「丸に揚羽蝶」の根拠をもつ藤原秀郷流青木氏の主要支流4氏の安明一族の分家支流の一つで116氏にも末裔を広げた一つの青木氏の名家であります。
青木氏は主要9氏のであるが藤原秀郷の主要5氏の一つで、長谷川氏、進藤氏、永嶋氏、長沼氏、青木氏であります。
この中でも青木氏は上位の位置にあり最大の116氏にもの家紋を持つ一族であります。
皇族賜姓青木氏を入れると121氏にもなる青木氏ですので、青木氏を理解する上で、詳細は研究室の藤原一門のレポートを時間をかけてお読みください。
これを読むとお家の青木氏の鎌倉前のルーツと歴史と由来などが極めて詳細にお判りになると思います。
尚、宗派に関しては主要9氏は浄土宗です。この鎌倉前は特別に皇位の一族のみしか入れない宗派でした。そして、藤原秀郷の支流116氏の多くは赴任先の土地の各地に定住しましたので、特別に限られた浄土宗の寺は無く止む無く、その元さきの宗派の比叡山の真言宗に入信しました。
(中部から関西中国地方の藤原秀郷流青木氏に多い)
したがって、日蓮宗に関しては水戸家の家臣に嫁いだ先の宗派を引き継いだことが十分に考えられます。
以上の検証結果ですが次ぎの点に推測の部分が残っています。
日蓮宗は鎌倉時代から生まれた宗派ですが、この宗派に入信したのは下級武士階級と庶民が一般的な信者です。
この呉氏(観石)はその姓の経緯から渡来系の一族であり日蓮宗の宗派である事が覗えます。
念の為に、青木安明の一族の菩提寺が武蔵国か下野国か下総国(結城地方)かの土地に元の菩提寺がないか調べられるとよいと思われます。
この三国には浄土宗の寺がありますので、もとはこの地方の寺に菩提寺があったものと推測します。
この寺があるとみられるところでは、私の調べた範囲では17の浄土宗の寺がありますので、他に何かの手がかりを元に調べていただきますように。
武蔵の国にある可能性が高いと見られます。
この宗派の件を確定しますと検証と完全一致いたします。
現在の菩提寺の過去帳を調べられてその中で一部に何らかのとぎれがある場合にその下先を調べることから始められると見つかると見られます。
時代的には1705から1725年頃の菩提寺を探されるとよいと思います。
「丸に揚羽蝶紋」を家紋とされている以上は必ず見つかるものと思われます。
家系上の女子の場合は当時の男系の氏姓制度の慣習の中では女子は書かないか別の家系譜に女系のものを入れたものを作るかしていました。
また、墓も墓横に別に女系の墓石を作るのが慣習となっていました。現在の慣習は明治以降の慣習です。
詳細は先ず、研究室のほかのレポートをお読み下さい。
次ぎに左隅に「丸に揚羽蝶」の藤原秀郷流青木氏の家紋を掲示します。
左隅をクリックして下さい。拡大します。
揚羽蝶紋は姿と足の数と羽の模様と輪郭の4つにてそのルーツを判別する事がで来ます。お家の家紋はこの紋と一致しますか。
以上の検証結果についてご質問や不明点など有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
お待ちいたしております。