青木氏のルーツ & 雑学研究室

小中高校生の皆さんへ、難しい漢字の読み方 - 便利な裏技

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No.129
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栃木の青木
青木勝一さん 2005/10/01 (土) 19:28 [ メール ]
以前このHPに来ました、久しぶりに来てみました。
私も自分のルーツを知りたいと思い、わかる範囲で教えていただきたいと思っています。

家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です。
母の話によると、昔どこからか移動してきた武士だ。といわれました。
住所は栃木県の足利市で家の系統と違う青木もいると聞きました。
地元の表具屋さんに偶然聞いたのですが「お宅は武田の関係の青木でしょう」と言われた事があります。でも初めて聞いたことでした。
宗派は真言宗です。
わかる方いたら教えてください。
No.130
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Re: 栃木の青木
青木研究員 さん 2005/10/03 (月) 12:26
>以前このHPに来ました、久しぶりに来てみました。
>私も自分のルーツを知りたいと思い、わかる範囲で教えていただきたいと思っています。
>
>家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です。
>母の話によると、昔どこからか移動してきた武士だ。といわれました。
>住所は栃木県の足利市で家の系統と違う青木もいると聞きました。
>地元の表具屋さんに偶然聞いたのですが「お宅は武田の関係の青木でしょう」と言われた事があります。でも初めて聞いたことでした。
>宗派は真言宗です。
>わかる方いたら教えてください。
栃木の青木さん 始めまして。
暫く旅行しておりましてご返答遅れましたが、本日お答えすることが出来ます。
貴方のお家のルーツを調べる情報は次の事とします。
1 家紋は丸に抱き角紋(鹿角 おずか)
2 移動してきた武士
3 宗派は真言宗
4 武田氏系か
5 栃木には違う青木氏
最も重要なのはお家の家紋ですが、このことがお家のルーツの大元を示します。

では、鹿角紋の所以を述べます。
戦国時代に兜の前立(まえだち)として武家の間で好まれ、何時しかこれを紋としてもちいられました。
この家紋は近藤乗直という者が松平清康(家康の長男)前でしかを捕らえて角を引き裂いたことの伝説から家紋として清康から賜ったと伝えられています。
角の枝数で氏が判断出来ます。
この家紋は上記の藤原秀郷系の近衛将尉の役柄を平安期に務めていた家柄で、この近衛からの役務の頭文字をつけた藤原氏で近藤と名乗ったものです。

そして、この家紋を綜紋として用いていたのは甲斐の国の諏訪氏です。
この諏訪氏には付いては次のとおりです。
甲斐の国の武田氏に付いては、陸奥(青森)に赴任していた藤原秀郷の一族の者が陸奥の土地の土豪武田氏の者との血族で生まれた氏で、この氏が藤原氏の主の移動で甲斐の国に移り住み、その藤原氏を背景に力を発揮し土地の豪族となりました。

しかし、この時、土地には諏訪氏と言う土豪の強い一族が居て、この一族との決着がつきませんでした。そこで甲斐に入った武田氏は周囲の豪族を見方に引き入れるために、その土豪集団の長であつた諏訪氏との政略的な婚姻を結び、武田信玄の若き頃に見方の一族に引き入れることに成功し、甲斐の国最大土豪となりました。
この一団が結局、武田の最大武力集団の主役になり多くの戦いに働きました。これが諏訪族と言う有名な一族で、諏訪太鼓で有名で、戦いの最前線に出て太鼓を叩きながら前進する姿を見て、敵は全て逃げると言う程の武田諏訪族なのです。(日本書紀に大隈の首魁が太鼓と踊りで天皇をもてなしたとでてきます 後述)
武田と云えば諏訪族です。この諏訪族がこの家紋をもとより使用していました。

貴方のお家はこの武田諏訪族の一族の支流に当ります。
丸つきの抱き角紋に付いては諏訪氏の支流の家紋です。

諏訪氏支流とは諏訪氏の一族の者と武田系青木氏(後述)との間で血族関係を持ち、諏訪一族の者を婿に取り、後に生まれた子供にその婿の実家の家紋を継がせて、武田の諏訪族の配下にはいり、その証明として家紋に支流の印とする丸付き紋としたのです。
(家紋掟と云うものがあり、丸付き紋はこの場合が多いのです)
そして、武田系青木氏と諏訪氏との血統を持つ家柄の青木氏である事を示し、一族の安定を図ったのです。 
武田氏の家臣で武勇に優れて世の中を怖がらせた諏訪族の一団員であつたとされます。
では、武田系青木氏とはどの様な一族かを概略を示しますが、詳しくは当研究サイトの青木氏の記述をお読みください。

この青木氏の出生は次の通りです。
昔は甲斐国 巨摩郡 青木村と言われている所がありました。
645年の中大兄皇子の大化の改新にて皇族の皇子を臣籍させて「青木」という「氏」を造り、5天皇自ら賜姓して、夫々5つの土地に配置し、この地の発展のために此処に赴任させました。
(5つの土地とは伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)

詳しくは、この皇族賜姓青木氏は天皇の直接の護衛集団として「天智天武」期から5代に渡り、第6位の皇子を賜姓して青木氏を出生させました。
この賜姓は645から790年まで5代の天皇に依って5地方に行われました。この地は790年前後の時期と考えられます。
そして、この地に守護として国府を置き、部落を形成して賜姓青木氏は住み着きました。そして、この村を青木村と名づけました。

その後、開拓が進み、朝廷はこの土地を他国から守る為に青木氏の勢力以外にこの青木氏の領国に清和源氏の「源の頼光」を守護として派遣しました。(975-980年頃)
「頼光」は弟の「頼信」を分家させて領国を勝ち取る為に、この地の守護を後に譲りました。ここを拠点に関東に進出しました。(義経や頼朝の先祖)
更に、確固たる勢力を作り上げるためにこの地に赴任して領国としていた賜姓青木氏とは、当初は政治的な連合関係でしたが、後に跡目による皇族系の姻関係を結びました。
(ほかの賜姓青木氏4家も同じ時期に跡目による婚姻関係を結んでいます。)

土着の豪族の武田氏との清和源氏(8代目源の源光と15代目義虎)との跡目の血縁関係をも構築し、源氏の裾野を広くする戦略を採りました。これが支流武田源氏の始まりです。

この武田氏と賜姓青木氏とが更に血縁関係を結び此れが武田氏系青木氏です。

この様に三つ巴の戦略を採り、清盛等の「京平氏」に対抗しました。

関西と中部に大きな源氏による勢力圏を構築したのです。他の賜姓青木氏4家同時期にも同じ戦略を実行しました。

このような歴史的な背景から、ここには皇族賜姓青木氏と武田系青木氏の2氏の青木氏が存在し村を形成しました。3つ巴の戦略です。この地のこの3つ巴戦略が成功して鎌倉幕府が出来たといっても過言ではありません。

平安期の歴史がその名として今に残っている貴重な地名なのです。将来も残してほしい地名です。

その後、2流2家の青木氏は、清和源氏の関東への移動に伴い、この皇族賜姓青木氏と武田系青木氏の子孫の一部は伊豆地方にも移動しています。

この様に生まれた武田系青木氏は、更に土豪の最大集団の諏訪族との婚姻を果たしました。武田氏系青木氏の中の諏訪族流青木氏となります。
この青木氏は上記した経過で諏訪族の系列に入り支流一族として組み込まれました。
もとより、お家の青木氏はこの諏訪一族に入った青木氏でありますが、更に辿れば上記した様に藤原氏の血筋も引いている一族でもあります。
更に元は皇族系の賜姓族の青木氏の血筋も持っている氏でもありますが、質せば、この皇族賜姓青木の母方は伊勢の賜姓青木氏を除く全て藤原氏の北家の血筋を引いていることにもなり、藤原秀郷の北家の血筋の引く武田氏と賜姓青木氏の母方藤原氏北家の血筋の2つもの藤原氏の血統を強く持つ一族です。
名家の一族です。
更に、この土豪の武田氏は清和源氏の跡目を受けて支流清和源氏(母方は藤原氏北家族)の血筋も持っているので、3つの北家の藤原氏の血統を持つ諏訪一族に入った青木氏ということに成ります。
賜姓青木族、諏訪族、清和源氏族、藤原氏族、武田族の5つの血統を持つ氏でありますが、中でも5つの族が並んだとしたならば、最も上位の家柄は主従は別にして賜姓青木氏が主であります。
お家はこの血筋の持つ青木氏です。

最後に採っておきの血族を持った結論を示します。
では、この強い諏訪族とはルーツは何にという疑問が湧きます。
このことに付いて長く成りますが下記に記述します。

この諏訪族の先祖は645年頃を中心として日本に帰化してきた渡来系の200万人に及ぶ後漢の国の民族です。
この後漢の光武帝から21代目の献帝の孫の阿智使王とその子阿多倍が、後漢が滅び、その一団を率いて日本に上陸しました。この集団は非常に高い軍事、政治、経済。生産能力に伴う技能などの持つた集団を引き連れて戦いをせずに帰化してきました。
ヤマトの朝廷はこの高い能力の持つた集団を歓迎し、各地に配置し、その技能で未開の土地を開墾させて、朝廷と国の力を高める戦略に出ました。
この戦略は大成功し、現代の第1、2次産業の基礎はこの集団が持ち込んだものが殆どです。現代にも維持されているのです。

この集団を甲斐の国の山間部に配置し、米を始めとする山の産物の加工と背の高い馬の放牧をし増産しました。この成功を朝廷は護るために信用できる天皇の皇子を臣下させ賜姓して、ここに配置し監督させたのが皇族賜姓青木氏であります。
ですから、この諏訪氏は元を正せば、渡来系の民族の血が流れている事になります。又、清盛等の京平家もこの集団の長の阿多倍の5代先の子孫に成ります。
この集団は天皇家とも血縁になり、賜姓を受けて、大蔵氏、内蔵氏、坂上氏、永嶋氏、阿倍氏、阿倍氏等がこの一族となります。
ついでこの縁者となるのは、全ての名前の後ろの字が「部」のついた氏はこの集団の末裔です。例えば、海部、服部、武部、綾部、磯部、など全てはこの渡来系族です。
古くから居た諏訪族はその信仰の元を、(当時まだ真言宗か少し後の浄土宗しか有りません。この渡来系の諏訪氏は)真言宗を宗派としました。
そして、賜姓青木氏とか16流ある源氏一族とか藤原氏とかの高位の武士と公家は浄土宗としました。鎌倉時代中期まで一般の者は宗派には入れませんでした。
したがって、貴方のお家は諏訪一族系の族になりましたので、真言宗に改宗したものと思います。
甲斐の国には上記した様に、皇族賜姓青木氏(笹竜胆)と武田系青木氏(割菱)となり、武田氏系青木氏の中のこの一族の諏訪系青木氏(抱え角)とが居た事になります。(武田氏は角菱紋)
角紋は24紋あります。
この中で、お家の家紋は家紋200選というものがあり、この中にありまして、全国の有力氏の一つとして選ばれた一族です。
(8000から10000あると言われる中で)

武田氏が信長に滅ぼされて、お家の一族が逃げ延びて栃木にきたのでは無いかと思います。
栃木の下野国は武田氏の故郷の藤原秀郷一族の領国で親族が多く居るところだからだと思います。
この一族が逃げ延びる事ができる方向は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木だと思います。
この2国には藤原秀郷流青木氏が存在します。お尋ねの系列の違う青木氏です。(藤原秀郷流青木氏に付いては研究室のレポート参照してください)

嵯峨天皇期に令が出されて、青木氏を皇族、皇族賜姓族と藤原秀郷の氏以外の者が名乗ることは江戸末期(名目上)まで禁止されていましたので、家紋が正しいとして元を辿ればこのようにはっきりします。

(2大別すると、お家などを含む皇族賜姓族の血筋を受け継いだ末裔と、他には上記の藤原秀郷系の青木氏があります。明治初期の苗字の令にて苗字の持たない者がこの青木氏を名乗った第3の青木氏もあります。これ等は全て判別する事が可能です  地名データーベース参照)

青木氏であると言うことから、その範囲はこのように集約されて来ます。
元をただせば、同じ青木氏の血筋の持つ者の願いとして、是非に大変な名家ですので子孫を多く残してください。
以上が情報から観た貴方のお家のルーツとなります。

回答が遅れましたが何かご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
No.132
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Re: 栃木の青木
青木勝一さん 2005/10/06 (木) 13:07 [ メール ]
大変詳しい解説ありがとうございました。自分では知らないことばかりで驚いています。青木なんてありふれた名前だと今まで思ってきましたが、いがいと良い家柄だったのですね。ただ無意識的に武田信玄がなぜか、前から戦国武将で一番好きでした。これもなにかの本能でしょうかね?この度は自分のルーツを知ることができ大きなプラスとなりました。ありがとうございました。
No.133
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Re: 栃木の青木
青木研究員 さん 2005/10/06 (木) 19:51
>大変詳しい解説ありがとうございました。自分では知らないことばかりで驚いています。青木なんてありふれた名前だと今まで思ってきましたが、いがいと良い家柄だったのですね。ただ無意識的に武田信玄がなぜか、前から戦国武将で一番好きでした。これもなにかの本能でしょうかね?この度は自分のルーツを知ることができ大きなプラスとなりました。ありがとうございました。
武田氏系青木氏で諏訪族の血筋を引くとなれば、日本広しと云えど戦国武士の見本のようなものです。だからその血筋を引くお家の子孫だからこそ無意識に呼び寄せられるのでしょう。
今の世界でも通ずる「風林火山」の旗頭は私の行動の原点となっています。
又、何かありましたら、お尋ねください。
No.134
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Re: 栃木の青木
青木勝一さん 2005/10/07 (金) 23:33 [ メール ]
住所地の昔の表示に〇〇町大字諏訪瀬という表示があり、菩提寺の名前にも諏訪山〇〇院の文字がありました。
No.135
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Re: 栃木の青木
青木研究員 さん 2005/10/08 (土) 09:24
>住所地の昔の表示に〇〇町大字諏訪瀬という表示があり、菩提寺の名前にも諏訪山〇〇院の文字がありました。
栃木の青木さん それは本当によかったですね。
私も長年青木氏の研究をしていますが、青木氏は比較的に他の氏と異なりその家柄からか血統を横に広げなかった傾向があり、血筋は有力部族に限られています。
これは、嵯峨天皇期に出されてた令にて、青木氏は皇族の者か又は特別に藤原氏に対してのみ認められた姓であります。それ以外のも者は名乗る事を禁止しました。

皇族が天皇が代わるたびにどんどん増えてゆき、朝廷の財政を圧迫するのでこれを防ぐ事を目的として天智天皇が大化の改新で行ったことが最初です。
天智天皇期には皇子と皇女は34人もいました。(現代までの天皇の中で最も多い。)このために其れまでは第4世皇位第6世臣下方式をとっていました。
此れを天智天皇は覆し、第2世皇位第6位臣下方式にかえました。
これが第6位の皇子の施基皇子(しきのみこ)であり、伊勢王となり賜姓を青木氏と受けて臣下して伊勢の青木氏が誕生しました。この青木氏が初代であります。この方式が5代続きました。(天智、天武、文武、聖武、光仁)
そして、各地の守護として配置しました。(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)
の順です。

伊勢青木氏のときに特別に第7位の川島皇子も賜姓を受けて近江王となり土地の名前を採って佐々木氏となりました。
光仁天皇の子供の桓武天皇はこの方式をせず、自分の母方の(渡来系一族の阿多倍の孫に当る娘 前回のレポートの渡来人)阿多倍王又の名は高尊王又は高望王に賜姓をし、平氏(ひらぞく)の氏を使ってひきたてました。これが5代後には清盛の京平家になるのです。
次の天皇の嵯峨天皇は伝統を崩すこの方式を嫌い元の皇族に戻し、青木氏より変名して源氏(16代続く)としたのです。
この時にこの様な事がないように上記の令を発し天智天武期の方式に若干手を加えてを正式に発令したのです。

この時、第6位以下の皇子は殆どは比叡山か門跡寺院に入り学僧となりました。後にはこの皇子たちが還俗(俗世に帰る)する時は青木氏を名乗ることとし、皇族の者が下俗するときは青木氏として一族の姓の統一をはかりました。
この賜姓の受けない皇族の青木氏も確認出来るところでは5家(実際は15人ほど)ほどあります。
(門跡寺院とは天皇家の者が皇位を離れて僧になるときに入る独自の寺の事)

このように令により青木氏は血筋を護られてきたのです。
お家の賜姓青木氏の血筋を受けた武田氏系青木氏中の諏訪氏流青木氏は今日の情報でも裏付けられました。
そして、室町ころまで菩提寺は貴方の一族だけを祀るお寺であつた筈です。
門跡寺院と同じく何々院としていますので限定された菩提寺であつたのです

大寺の社主で青木氏と佐々木氏と藤原氏が多いのはこの理由からです。

間違いは有りません。一族の寺院を持つと言う事は大変な皇位の家柄を示し
その勢力も大きかったと想像できます。この様な寺を持つ一族は青木氏、藤原氏、佐々木氏などの限られた10氏程度の氏です。持ちたくても持てなかったということの方が現実でした。

この事から、現在の栃木のお住まいの所に貴方のお家のお寺があるかも知れません。この様な氏は必ず先祖を祭る寺も引き連れて移動しているのです。
逃げる状況にも依りますが、又、藤原秀郷氏の青木氏の寺もありますので難しいかも知れません。ただし藤原氏の青木氏の寺は浄土宗です。お家は天台宗ですのでこの点で見分けられると思います。
(下野武蔵国では殆ど浄土宗の中にいますので、お寺が元の浄土宗に戻していることも考えられますが)
地名も移していることが考えられます。面白い調査ですね

又、何かわかりましたらお知らせください。楽しみにお待ちしています。
No.182
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同じです!
K.Aokiさん 2006/02/12 (日) 00:18
私は神奈川在住ですが,栃木の青木さんと同じ家紋です.(丸に抱き角)
また宗派は浄土宗です.
祖父からは「祖先は山梨で武田家の家臣をしていたが(何らかの理由で)現在の横浜市戸塚のあたりに一族郎党で移動してきた」と聞かされていました.
実際,お墓のある戸塚の大運寺に行って見るとお墓が青木だらけでした.
今日は「抱き角 青木」で検索してこのページを見つけました.
詳細なルーツの解説があって驚きました.
どうやら我が家のルーツは栃木の青木さんとほぼ同じようですね.
青木研究員さんの説だと信長に滅ぼされて逃げ延びた先は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木ということですが,横浜に落ち延びた一族もいるということで新説になりましたでしょうか?
No.186
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Re: 同じです!
青木研究員 さん 2006/03/05 (日) 15:33
>私は神奈川在住ですが,栃木の青木さんと同じ家紋です.(丸に抱き角)
>また宗派は浄土宗です.
>祖父からは「祖先は山梨で武田家の家臣をしていたが(何らかの理由で)現在の横浜市戸塚のあたりに一族郎党で移動してきた」と聞かされていました.
>実際,お墓のある戸塚の大運寺に行って見るとお墓が青木だらけでした.
>今日は「抱き角 青木」で検索してこのページを見つけました.
>詳細なルーツの解説があって驚きました.
>どうやら我が家のルーツは栃木の青木さんとほぼ同じようですね.
>青木研究員さんの説だと信長に滅ぼされて逃げ延びた先は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木ということですが,横浜に落ち延びた一族もいるということで新説になりましたでしょうか?
抱き角の栃木の青木さんのご親類の方 始めまして。
当サイトに良くお越しいただけました。
これからも同じ青木氏としてこのサイトでお会いしましょう。

其れとお答えが非常に遅れました事をお詫びいたします。申し訳ありません。
実は栃木の青木さんのところに入っていたので気が尽きませんでした。
昨日、管理人さんから指摘を受けておどろきました。

抱き角紋の青木さんは言うまでもなく栃木の青木さんと全くの縁者です。
皇族賜姓青木氏の血筋を引くお家の方ですので、私とは元は同じルーツに成ります。私は伊勢青木氏の総本家です。

既に栃木の方のレポートをお読みと思います。そこで信長との戦いで逃げ延びる時に一族の一部の方は大勢の一族がかたまることは好ましくない事から多分神奈川郡横浜にとどまったもので、他の一族は藤原秀郷一族がいる奥手の栃木に逃げ延びたのでしょう。

信長はこの地域まで戦線を伸ばす事は戦略上は出来ず、又戦いになる場合はお家のご先祖の勢いを再び高めることにもなり、この結果、藤原一門の結束が起こり余計に複雑にする事にもなり、尚且つ、背後を突かれる可能性がありました。ですからこの方向に逃げ延びることを選択したのです。
そして、万が一のことを考えて子孫を残す目的のためにも両端に分けたものと思われます。
武田一族は風林火山の下に強い軍であったことは知られ、徳川家康も大量に家臣にしています。

一部は伊勢の青木氏を頼りに逃げてきています。そして、伊勢の桑原地域に留まっています。伊勢青木一族は天皇の伊勢不可侵の令の保護を受けていましたので逃げる事ができたのです。

信長はこの令を守りましたが、武家の出ではないので秀吉は守りませんでした。
私の家も3つの青木城に籠り戦いましたが、秀吉の命を受けた蒲生氏郷に
負けました。
しかし、無敗の武将で学者でもあった蒲生氏郷は青木氏とは清和源氏の血筋を持つ氏であったので、これを守り、これ等の青木を手厚くまもりましたので武田系青木氏も含む青木一族は生き延びました。徳川氏もこの令を守りました。

そのなかでも武田系青木一族の大半は藤原氏を頼ったことに成ります。

家紋に何らかの細工がないとしたならば完全な親族です。抱き角紋の本家筋と少し分家筋となると極めて小さい範囲で細工をして見分けられるようにしてあります。(一度細部に渡ってみてください。家紋掲示板を参照)
しかし。抱き角紋と同じは家族か兄弟か親類の人たちであったはずです。

そこで、横浜の件ですが、全く新説では有りません。
極めて歴史的な史実の中に居ます。

甲斐国の武田氏系の諏訪氏の青木氏は元を正せば武田氏は藤原秀郷の一族の者が陸奥国の守護(鎮守府将軍)として赴きました。この時、現地の豪族の武田一族との間で縁組が整い藤原秀郷の一族の血筋を受けました。
そして、この鎮守府将軍は次に甲斐の国の守護を命じられましたが、この時、この藤原の血筋を受けた武田の一族は護衛のために同行しました。
そして、この武田の一族が甲斐の国で勢力を持ち本家筋にも劣らない一門となります。
(研究室の皇族賜姓青木氏のレポートと藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。)

この武田氏が其れまで、甲斐の国にて守護としていた皇族賜姓青木氏と縁組をし、更には後に守護代として入った清和源氏の分家源の頼信(本家は頼光)より8代目の者がこの武田氏の跡目に入ります。
上位からの跡目であるので家紋も家柄も上位の家柄と成ります。清和源氏の支流一門となったのです。
つまり、日本の上位2つの氏の両方から陸奥の豪族であつた武田族はついには、藤原秀郷の血筋と皇族賜姓青木氏の血筋と同じ皇族賜姓源氏の血筋をも持つ氏となつたのです。

そこで、逃げ延びる時に、このときは既に弱体化していたが藤原秀郷一門でしたが、武蔵国と下野の国を定住地としていたので一族で固められた土地に上記した縁を頼って甲斐の武田系青木氏の一門は逃げてきました。

この藤原秀郷の武蔵の国は埼玉県の入間郡を中心に現在の西は神奈川横浜、東は栃木の県境、南には葛飾郡まで、北は北埼玉郡まで丁度円を描く様に取り囲み内側より直系の青木氏、中段は直流の青木氏,外円は支流の青木氏と言う様に取り囲み防衛をしていました。

この藤原秀郷流青木氏は鎌足から8代目の秀郷の子供千国がこの護衛の役目を担いました。(平将門の乱の勲功で秀郷は公家に昇格したので武力を持つ事ができなくなり子供の戦国にこの役目を与え、皇族賜姓青木氏に習って青木氏と名乗らせたった。皇族賜姓青木氏も天皇を守る親衛隊の役目を担う)

以後、この青木氏は各地に赴任した本家の一族にしたがって護衛として各地に点在し、その分家筋が勢力を拡大するために赴任地に定住しました。
本家筋は上記の本国の守りと各地に送り出すための子孫を増やす目的から残りました。

元々は藤原一門の血筋を受けている武田系青木氏(母方の郷)はこのルートを使って逃げたのです。
鎌倉時代には藤原一門は衰退しますが、これらの本家筋は源の頼朝に合力して
御家人となつた者が多いのです。
室町期にも同じく武田氏と同じで藤原氏の血筋と皇族賜姓青木氏と皇族賜姓の清和源氏の血筋も受けている足利氏ですので、ある程度の力は保持していました。
そこを頼ったことに成ります。

神奈川郡の横浜はこの藤原秀郷の勢力圏内の西の入り口です。栃木は東の出口と成ります。

元を質せば、諏訪族は中国の後漢の光武帝から21代目の献帝の子供の阿智使王とその子供の阿多倍が引き連れてきたの民で、帰化して200万の一部がこの甲斐の国の開拓に入ります。
大型の外国馬を飼育しこれを糧として生きてきた一族です。640年代のことです。孝徳天皇期で大化の改新期です。
(お家のご先祖が日本書紀に度々出てきます。そして、天皇はお家のご先祖を守っていることも書かれています。)
そして、この渡来系の民の開拓を守る為に皇族賜姓青木氏(光仁天皇の皇子)がこの甲斐国に入ります。950年代には清和源氏の源氏本家の頼光が守護代として入り、その後970年頃には弟の頼信が守護代として入ります。
1120年代頃には武田氏が入ります。

ですから、栃木の青木さんとお家は大変な血筋を持つ一門です。武田系となつていますが、家柄からは武田系青木氏は武田氏より上位です。
当時はかなり丁重に扱われていたはずです。

正真正銘の浄土宗の皇族賜姓青木氏(光仁天皇と清和天皇と阿多倍王)の血筋を引き継ぐ一族です。
(皇族賜姓青木氏は5家5流でその支流一族にあたります。)
栃木の青木さんの所のレポートでも書きましたが、皇族賜姓青木氏の後は皇族賜姓源氏と変名しましたので何重にも皇族の血筋を受けている事に成ります。
この様な末裔ですので、是非多くの子孫を遺していただきたいものです。

これからも、このサイトに是非お越しください。又、ご質問があれば遠慮なく
同じルーツを持つ者として平易にお尋ね下さい。
No.202
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Re: 同じです!
K.Aokiさん 2006/04/03 (月) 01:31
青木研究員さん,お返事と詳細な解説ありがとうございます.

先日実家(同じ神奈川県内)に帰った際に,親戚がお寺の過去帳を元に作成した家系図というものを見ました.
それによると,過去帳に存在する一番古いご先祖は私から数えて12代前で元禄7年(1694年)に亡くなったようです.初代と書いてありましたが,これが実際に過去帳に書いてあるのか,家系図を作成した親戚が書いたのかは分かりません.

ということは,私のご先祖は信長から逃げた際に横浜に来たのではなく,16XX年頃に移動してきた可能性が高いと思われます.恐らくいったん栃木に逃げ延びた中から,江戸時代になって一部が横浜に来たのではないでしょうか.

ちなみに初代から7代目くらいまでは2種類の名前がほぼ交互に表れていました.家督を継ぐものは名前も継いでいたんでしょうが,区別が付きません.奥さんに至っては戒名だけで俗名が残っていないのはなんだかかわいそうでした.

とりあえずボトムアップ方式で300年ほど遡れることが分かりました.いつか光仁天皇まで繋がったら面白いですね.
本当の初代にあたる光仁天皇の第6皇子(皇位継承順でしょうか,第6子という意味でしょうか)の名前というのは判明しているんでしょうか?
No.203
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 同じです!
青木研究員 さん 2006/04/03 (月) 22:01
>青木研究員さん,お返事と詳細な解説ありがとうございます.
>
>先日実家(同じ神奈川県内)に帰った際に,親戚がお寺の過去帳を元に作成した家系図というものを見ました.
>それによると,過去帳に存在する一番古いご先祖は私から数えて12代前で元禄7年(1694年)に亡くなったようです.初代と書いてありましたが,これが実際に過去帳に書いてあるのか,家系図を作成した親戚が書いたのかは分かりません.
>
>ということは,私のご先祖は信長から逃げた際に横浜に来たのではなく,16XX年頃に移動してきた可能性が高いと思われます.恐らくいったん栃木に逃げ延びた中から,江戸時代になって一部が横浜に来たのではないでしょうか.
>
>ちなみに初代から7代目くらいまでは2種類の名前がほぼ交互に表れていました.家督を継ぐものは名前も継いでいたんでしょうが,区別が付きません.奥さんに至っては戒名だけで俗名が残っていないのはなんだかかわいそうでした.
>
>とりあえずボトムアップ方式で300年ほど遡れることが分かりました.いつか光仁天皇まで繋がったら面白いですね.
>本当の初代にあたる光仁天皇の第6皇子(皇位継承順でしょうか,第6子という意味でしょうか)の名前というのは判明しているんでしょうか?
横浜の青木さん お元気ですか。
先ず、お尋ねの件ですが、いくつかありますので順次ご説明いたします。

第1番目の過去帳の件ですが、皇族賜姓青木氏系24氏の一族は皇位の家柄であるために、室町期の下克上と戦国時代にほとんどは壊滅的な打撃を受けました。
又この様な家柄という事に対する反発もあり、焼き討ちに逢い宝物、家伝のもの、系譜、由緒書きやステイタスと成る物、ついには菩提寺や青木氏の神社などが焼失してしまいました。

したがって過去帳は昔の戸籍簿ですがなくなっているのが殆どです。
先ずは、江戸の中期ぐらいの過去帳しか有りません。
江戸中期と言うのは安定期の文化の栄えた時期でしたので此処からは大方の過去帳は残っているのです。
つまり、自分の家は皇族賜姓青木氏の武田系青木氏であると言う事がわかっていても又、言伝えがあっても証明する物は到底ある事などありません。命を守るのが精一杯でした。
其れと男はこの戦乱で跡目の多くが無くなり、男系の継承すらままならなかったのです。そう云うことから言い伝えそのものも途切れると言うことが起こったのです。
ですから判るところから江戸初期ぐらいから初代として扱い、家系譜を造るということが起こりました。
しかし、家の氏名と家紋と宗派程度は他の親族がいるために継承することが可能ですので青木姓と家紋と宗派は残ったのです。

次ぎに第2番目の横浜の件ですが、神奈川郡横浜から伊豆地方までには実は青木村が3つあり、この皇族賜姓青木氏の3つの氏が住み分けて存在しています。

西端の伊豆地方には平安期にはこの地方には清和源氏総宗本家の源頼光系が入り、一族の守護地でした。
此処には、この頼光系の血筋を引いた皇族賜姓青木氏(伊勢青木氏の支流)が定住しています。
この地の墓には全て笹竜胆の家紋がありこの墓石は青木氏のものです。

神奈川郡の横浜付近西よりには甲斐の武田系青木氏の一族が定住しています。
この一族は二つに分けられます。
一つは甲斐を兄の頼光から守護職を譲り受けた頼信は此処を基盤として東に勢力を伸ばしたのです。
4代後の源の義家や義光などの頼朝や義経の先祖が関東を制圧して此処を拠点として藤原秀郷と同盟して東北から北陸地方へと勢力を伸ばしました。
この時に付き従ったのが甲斐の武田氏系青木氏です。
したがってこの一部にはお家の諏訪族も含まれいるのです。
大体は付き従うのは分家筋の子孫がつき従います。
青木氏の宗家や支流の本家筋は確実に子孫を残すために地元に残るのが慣例でした。
ですから、先ずは此処に入る親族を頼ると言うことが起こったのです。
又、隣には藤原秀郷流の血縁を持つ青木氏がいますので逃げ延びるには格好の場所でした。(母方は藤原氏)
この青木氏には天皇から「不入不輪の権」が与えられてあり、これを破って東に信長は討伐に勢力を伸ばす事には背後を突かれるということもあり、且つ、この藤原秀郷一族とこの青木氏とお家の武田系青木氏それに伊豆の頼光系皇族賜姓青木氏がいますので無理というものです。
まして、伊豆と横浜との中間には頼信の東制に従ったお家等家元の甲斐の皇族賜姓青木氏の皇族賜姓青木氏が村を形勢しています。

この3つと藤原秀郷流青木氏と秀郷一族がいるところに信長は入れません。
したがって、此処が甲斐武田系諏訪族の青木氏の逃げ延びる最本拠地なのです。

更に東の奥に入れば縁者が少なくなるのですが、信長の勢力はより届かないところと成ります。
味方の縁者が多くいるところを選ぶか、より信長の勢力が届かないところを選ぶかの選択です。お家のおずか紋の一族の青木氏は子孫を確実に残すには両方に分けた方が確実です。其れは信長の比叡山攻めの印象や、武田氏の壊滅作戦や、東本願寺攻めの激烈な殲滅作戦から考えて、青木氏も例外ではないとしてこの様な選択をしたのでは無いでしょうか。

第3番目の戒名の件ですが、高位の皇族賜姓青木氏系の血筋を引く一族にはつぎの仕来りがありました。

それは、墓には男墓と女墓とがありました。
つまり、男系を主としていますし、妻には4階級のものがあり、皇后(本妻)、后(きさき)、妃(ひ)、優、と階級外に采女(うねめ)がありました。
これ等はその妻の実家の身分に寄ります。
皇位と高位であるので子孫を確実に遺すためにこの4つと一つの妻を認められていました。
よって、この者たちの女の墓は一つの墓に入れることは出来ませんので、妻の墓として「おんな墓」を作り、その横にその戒名だけの書いた大きな石碑を立てます。
当然、女墓があればその近くには男墓の本格的な大墓があるのです。
見られた墓は女墓であったはずです。

其れと、仏教では戒名が本当の名で、俗名は仮の名として扱います。
家柄の高位系の氏では昔は死ぬ前から官職を外れるとこの戒名で呼んでいました。江戸期から俗名に変わったのです。

筆者の伊勢の墓にはこの二つの墓があり、1年の宗教的行事には周囲と違う仕来りがありつい最近までこの仕来りをまもっていました。今でも少し違いがあります。

第4番目は光仁天皇の皇子の件ですが、先ず、第6位皇子の件ですが
その時の天皇から見て天皇の子供とその孫、天皇の兄弟の子供と孫を天皇の全ての子供とします。
そして、これをより高位の妻の子供から年齢に関係なく第1位とし続けて、次ぎに兄弟の子供として、これ等を並べて第6番目の子供を第6位皇子と呼び、この皇子から臣下します。
そして、この第6位皇子までを王と呼びます。この第6位王にだけ賜姓(氏名を天皇自ら与える。)を授け臣下させ侍として天皇の親衛隊とします。
そして、この第6位皇子(王)には青木氏としました。

第7位の元皇子は土地の名を採り氏名としました。
この第7位以降の者は天皇が代わるたびに、そしてその子供と孫が生まれるたびに順位が代わります。
世代で云うと、7位以降に関わらず第7世程度の者になりますから8世9世と下がります。この下がった一団は青木氏は名乗れませんので関東地方に移動して生活しました。
(この青木氏を名乗れる者は花山天皇までで全部で27人ですが実質18人となっています。名乗ったのは5人程度です。後は僧侶で終わったことに成ります。)
この一団のことを「ひら族」といいます。(平清盛の一族の「たいら族」とは異なる)
この集団を「坂東八平氏」と云い、鎌倉幕府の頼朝の後ろ楯となり2年後に頼朝はじめその一族を抹殺して鎌倉幕府を奪い取つた北条氏らの平氏8集団です。

この第6位皇子には各地の天領地の王として配置します。
これが伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成ります。
つまり、伊勢の青木氏、近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏です。
伊勢の青木氏は天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が伊勢王となり氏名を青木氏として子孫を青木氏とした初代の青木氏です。
伊勢王は最初は天智天皇の敵の孝徳天皇の子供が伊勢王となりましたが、2年もしない内にこの王とその弟が同じ日に没します。そして、その直ぐ後に天智天皇の第6位皇子の子供の施基皇子が伊勢王に成ります。

この青木氏の祖の施基皇子は天智天皇の采女の子供です。
天智天皇には男女合わせて34人もの子供が居ました。内12人が男子の皇子です。この中には日本書紀を造った舎人皇子がいます。
施基皇子と川島皇子と大友の皇子と舎人の皇子(近親婚の弟)他にもう一人(近親婚の弟)がいます。
川島皇子は近江王となり、第7位皇子でしたが特別例外として賜姓を受けて初代の近江佐々木氏となりました。

伊勢青木氏は藤原系の血筋の無いただ一つの青木氏です。
他の4つは全て藤原氏を母方に持ち4階級の何れかの妻です。
この5つの青木氏のことを5家5流の皇族賜姓青木氏といい、天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人です。
この天皇の間には女性の3天皇が在位します。

この様な方式は大化の改新によりこの反省(天皇を自ら守る親衛隊がなかったことと皇子達の家を維持する経済的費用の節約からから実施しました。蘇我氏に専横を許した原因)から行いました。
この方式を聖徳太子のときまでは第4世皇位第7世王としていました。これを第2世皇位第6位王に変更したのです。世と位との違いです。

第4世はその天皇の孫の子供まで、その天皇の祖父の親まで、兄弟の孫の子までを皇位の者としたのでしたが、これを兄弟の子供までを一つの子供とし上位から数えて第6番目までの子供を皇子として王とする方式で、以降の子供は皇位を外れて比叡山や門跡寺院や皇位賜姓青木氏の寺社の仏門に入ると決められていました。
この方式は光仁天皇まで行われ、この後に光仁天皇の子供の桓武天皇がこの方式を嫌い別のこと(たいら族に賜姓で後の平清盛)をしました。
しかし、この子供の嵯峨天皇は元に戻して第6位の皇子を青木氏と賜姓するのをの源氏(16代続いた)とする事をきめました。
そして、青木氏は皇族から下俗や還俗する時の氏名とすることを嵯峨天皇の詔令により決めました。
この嵯峨天皇は世継ぎの問題が起こったために少し方式を変更して第4世皇位第6位王方式に緩めました。(5位はどちらにも付かずとする)

第5番目の光仁天皇の子供の件ですが、子供は桓武天皇ですが、その他の第6位以降の皇子の名はわかっていません。其れが今でも歴史家の研究課題です。何れは判明するでしようが、資料が無いためにまだ墓さえ判明していないのです。

光仁天皇は伊勢青木氏の施基皇子の子供です。したがって甲斐の青木氏は伊勢の青木氏とは同じ血筋を持つ同族です。お家と筆者は最も古いところで血縁族です。
施基皇子のことは日本書紀に18回も出てきます。最も多い人物です。この皇子は有史来の極めて有能な人であり、日本書紀によると当時の各地で起こる大問題を天皇に変わってすべてを解決しています。何でも施基皇子を呼び出して解決していることが克明に書かれています。お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。あげくには皇太子をさておき天武天皇の葬儀の責任者を務めています。天武天皇は兄の子供の施基皇子を自分の子供以上に可愛がっていることが書かれています。
天智天皇と天武天皇にも信頼されて皇太子より信頼されている様子が判ります。天智天皇や天武天皇の軍師役を演じています。

お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。
伊勢青木氏は代々天皇家の軍略家として北畠氏と共に働き、秀吉との戦いに敗れるまでは務めていました。伊勢青木氏は1200年頃から「二束の草鞋作戦」を採り、一方では伊勢の豪商紙屋長兵衛としても名を馳せています。(NHKの大河ドラマにも3度もでてきました。余計なことですが、筆者の物の考え方もこの血筋の影響を受けている気がします。)

この時期の資料は殆どは日本書紀と古事記以外になく、歴史史書は戦国期の焼失などで判らなくなっています。
後は韓国の史書に日本の史書より詳しく載っている「日本世記」という史書があります。
この書いた人は大和の国の朝廷の行政指導をしていた人で韓国に帰って日本のことを書いた極めて詳しい日記を残しました

参考に、この時に施基皇子が伊勢王となって伊勢の青木氏を賜姓を受けた時の状況を詳しく書いており、この時にこの伊勢の青木氏の施基皇子に仏像を天智天皇は送ったと記されています。
歴史小説家の司馬遼太郎氏もこのことを調べてこの仏像の所在不明のことをかいていますが、実はこの仏像は1360年も続いている代々筆者のところにあります。
かなりの大きくきれいで保存の良い状態の仏像です。世間に出せば日本最古となるでしよう。
これが全ての5家5流の24氏の青木氏のステイタスです。

この時期の事を調べる事は国の専門家でも今でも研究しているのです。高松塚古墳群は誰の墓などと研究は続いています。
司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や山本惣五郎氏や松本清張氏などもかなり詳しくこの時期の事を調べていますので読んでみてください。
又、歴史写真マガジンなどの本もあり、各大学の専門研究家がプロの写真を添付して此処にその歴史的なことをレポートした本もあります。

筆者の経験からは室町期以後の史書は殆ど当てになりません。この時期の事は疑問をもち推測を立てて一つ一つを潰していくことの研究が必要です。

以上ですが、参考にしてください。
No.291
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栃木の青木
青木勝一さん 2006/09/24 (日) 18:06 [ メール ]
お久しぶりです栃木の青木です。
今日はお彼岸だったので墓参りに行ってきました。
そこで気になることが2つありました。
1つは家紋についてでお墓にはいっぱい青木家の墓があるのですが鹿角の数が四本なのです。家紋の本とかに載っている角は叉が四つ叉で尖った部分が五本のものばかり載っています。じぶんで投稿した家紋の画像も四つ叉で角が五本のものでした。
四本と五本のものの違いはあるのでしょうか?
もう1つそのお寺の賽銭箱が添付した家紋付の賽銭箱でした。
No.292
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 栃木の青木
青木研究員 さん 2006/09/24 (日) 21:54
>お久しぶりです栃木の青木です。
>今日はお彼岸だったので墓参りに行ってきました。
>そこで気になることが2つありました。
>1つは家紋についてでお墓にはいっぱい青木家の墓があるのですが鹿角の数が四本なのです。家紋の本とかに載っている角は叉が四つ叉で尖った部分が五本のものばかり載っています。じぶんで投稿した家紋の画像も四つ叉で角が五本のものでした。
>四本と五本のものの違いはあるのでしょうか?
>もう1つそのお寺の賽銭箱が添付した家紋付の賽銭箱でした。
栃木の青木さん 今日は。大変お久しぶりです。
2つ疑問を持たれたとのことですが、良いところに気がつかれました。

先ず1つ目のご質問ですが、次の様な事になります。

鹿角紋には二つに分類できます。
1つは「抱き角紋類」です。
この紋は勿論お家の諏訪族の紋様です。
この紋様は12あります。

2つは「鹿角紋」です。
これは近藤氏の氏の紋様です。
藤原氏の家紋ですが近江に定住した藤原氏です。
抱き角紋より新しい家紋の氏で松平清康の共で狩りに出て、「上がり藤紋」の近藤乗直が鹿の角を引き裂いたとのことでその武勇を褒めて「鹿の角」を家紋とすることを命じられたもので以後その一族が使用したものです。

「抱き角紋類」には角の数を5つと4つと3つの3種のものがあります。

通常、5つの角紋を持つ抱き角紋としては主要紋で宗本家筋の家紋です。
(家紋集では4つは5つと同紋として扱われる場合がある)

5つの角数の抱き角紋には「抱き角紋」(総宗本家)「丸付き抱き角紋」「陰抱き角紋」「石持ち地抜き抱き角紋」「抱き角に一つ巴紋」「抱き角に日足紋」「隅切り角抱き角紋」の7つです。
5つの角数の場合が主要紋であるので「4つ又」とは云いません
直流分派の家紋類です。

4つの角数の抱き角紋には「4つ又抱き角紋」(抱き角紋と分類しない場合がある)「細抱き角紋」「違い抱き角紋」の3つです。「4つ又」と呼ぶ時は角数が4つです。
支流分派の家紋類です。

3つの角数の抱き角紋には「細輪に三つ又抱き角紋」「変わり抱き角紋」
の2つです。
支流分派の家紋類です。

後は、藤原一門の近藤家です。(藤原氏には四家4流あり、南、北、式、京の4つです)

参考 北家の藤原秀郷の一門としては文行流の進藤氏と長谷川氏です。

諏訪族青木氏はこの総宗本家の5つ角の抱き角紋の血筋の家柄一門の中にて皇族賜姓青木氏の血筋を持つ特別の立場にあった氏です。

これ等、5つの角数の抱き角紋を中心にして12の抱き角紋から諏訪族は構成されており、これが有名な赤兜の軍団を構成していました。

武田氏が滅びこの赤兜の軍団は徳川氏や多くの大大名に仕官しました。

お家の諏訪族の青木氏一族はこの時、横浜神奈川から栃木まで逃げ延びて旧来の藤原秀郷一族をたよって2つの地域に定住したのです。

お話だとご先祖のあるそのお墓にあつた家紋類は長い間の歴史の中で上記の一族の支流分派の諏訪族と血縁を結んだお家の縁者であります。
ですから、お家は総宗本家筋の青木氏ですから全体としては少ない可能性もあります。

そこで、先ず4つ又抱き角紋の4つの角数のそのお墓の青木氏の集まりの中でのお家のお墓の位置がどのような位置に存在したかをお調べになる事も意味があると思います。

墓の構えが男墓(本墓)と女墓(女の戒名ばかりを書いた墓石がある)に分かれていなかつたかも思い出して見ることも必要です。
(賜姓族の青木氏の宗家の墓は家柄から古来よりこの形を採っている)

多分、この4つ又抱き角紋の青木氏以外にも支流分派の青木氏も存在する筈です。氏家制度の中で家柄の吊りあいを重んじた時代ですので少ないかも知れませんが。

12紋様の中でも宗家に相当するお家であるのでどのような家紋集にもありますが、この支流分派の家紋類は普通の家紋集では掲載されていない可能性もあります。(四つ又抱き角紋だけは同門扱いもあり)

次に、この賽銭箱の家紋が「4つ又抱き角紋」であるとしてこの寺は諏訪族青木氏の菩提寺であり、この寺の住職は分家筋の4つ又抱き角紋の青木氏であるかあったかを意味します。

甲斐の諏訪地方から移動してきた「抱き角紋」(5つの角数)を宗家とする諏訪族青木氏は諏訪神社と共に菩提寺を建立したものです。

菩提寺があることの意味は、また諏訪族が、(ほかの抱き角紋の紋様類を家紋としている青木氏以外の他の氏姓を持つ末裔も多く存在する中で)諏訪族青木氏の一族が挙って集団で移動してきたことをも意味します。

他の氏姓の諏訪族(縁者関係のある)も数は少ないが同行している可能性もあります。

合わせて菩提寺があるくらいですから栃木にも多くの青木集団が移動した事をも意味します。横浜神奈川と同じ程度に。

5つの角数を家紋とする一つの単位の本家筋を中心に分家筋が行動を共にしていた事にも成ります。
四つ又抱き角紋の栃木の青木さんたちはお家とはかなり近い親族関係であったことを意味します。

そうすると、どちらに宗家の「抱き角紋」の青木氏が多かったのか、
どのようにして分けたのか、
青木氏以外の上記の家紋類の諏訪族も同じにして移動していたのか、
との疑問も出てきます。

(私は神奈川横浜地域の青木氏が資料より主であったことと考えていますがこれほどのものとは思いませんでした。)

「抱き角紋」(5)と「4つ又抱き角紋」(4)の青木氏以外にも他の10の「抱き角紋類」との血縁をした少ないかも知れませんが青木氏も在る筈です。

私の研究では4つの青木氏が検証済みで確認されています。ただし「4つ又抱き角紋」は分類せずに「抱き角紋」として扱つかっていますが、家紋掲示板を参照して下さい。

兎も角も又一つルーツの詳細が確認出来て広がりましたね。

賽銭箱のような一寸した事がその事からわかってくる事があるので面白いですね。
来月、観光で上諏訪に行く予定です。

諏訪族青木氏のことが色々とわかってくるので研究の検証の参考になり面白いですね。かなり検証があって合っている様です。

又、ちょっとしたことでも判りましたら又お便りください。
楽しみにお待ちしています。

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青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。