青木氏のルーツ & 雑学研究室

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◆-皇族賜姓青木氏の背景2

No.1259
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皇族賜姓青木氏の背景2
副管理人さん 2008/05/06 (火) 21:10
皇族賜姓青木氏の背景2
(皇族賜姓青木氏の背景1に続き、背景2の記述)

背景2−1
5家の青木氏特に伊勢青木氏は桓武天皇期に前述した5つの牽制策で衰退の一途を辿ったが、桓武天皇の子の嵯峨天皇(786−842 位809−823)は渡来系一族の平氏の賜姓を実行した事に同じ方法を採らなかった。
超貢献度のこの一族に対して普通であれば賜姓し続ける筈であるが、実行しなかつたのは一体どの様な背景があったのだろうか。

検証項目
1 皇族として賜姓したが事実は渡来系であり異なる事
2 天智から光仁天皇までの皇族賜姓青木氏の身内の伝統を護る事
3 今度は渡来系一族への牽制をする必要がある事
4 再び増え続けた皇族一族の維持費の軽減を図る必要がある事
5 律令制度が整った現状の今政治への見直しが出た事
以上が考えられる。

この事に付いて詳しく検証する。
1 に付いて
前記したように高尊王や高望王、同一住居の伊勢北部伊賀地方等、明らかに皇族と見せかけた賜姓であった事から、衰退して行く伊勢青木氏などを見て、矢張り一族賜姓の族を護ろうとしたのではないか。そうでなければ結局、身内を無くすことは天皇家を弱くする事と父のやり方を見て認識したのではないか。その証拠として、嵯峨天皇に即位する前は平城天皇(現状維持をしていた)が即位していた。この天皇は兄弟であるが3年で病気で嵯峨天皇に譲位した。そして、その後、再び、810年「薬子の変」が起こるが、天皇としての考えを持っていたと見てこの変を察知しつぶした。この変を企てた藤原式家は衰退した。そして、嵯峨天皇の考えを後押ししていた秀郷の北家が台頭した。
桓武天皇が採った伊勢青木氏の牽制策で伊勢国司に成った藤原藤成の子供(豊沢:藤原秀郷の祖父)の時の出来事である。
この藤成は5−6年程度の任期であり、その後、810伊勢青木氏は守護に戻っている。秀郷の祖父が初めてこの功績で下野国と備前の守護に成っている。(下野の豪族の娘を母) 
ここで伊勢青木氏と藤原秀郷とはここで初めて繋がっているのです。

青木氏牽制策で祖祖父の藤原藤成(秀郷の祖祖父)が伊勢の半国国司に。
伊勢青木氏を伊勢に戻した天皇を補佐した藤原豊沢(秀郷の祖父)。
下野の守護になり坂東に根着いた藤原豊沢。
豊沢の影響を受けた孫の押領使の秀郷が藤原秀郷流青木氏(始祖の第3子千国)を出した。
この経緯から伊勢青木氏にしてみれば、この北家藤原氏は恩人である。

2 に付いて
嵯峨天皇はこの考えのために、賜姓を青木氏から変更して、同じ方式で第6位皇子を源氏とした
父の手前上、青木氏の姓に戻す事は角が立つので避けたのではないか。そして、この時、弘仁5年に詔書を発して、天智天皇の時に定められた「皇位4位6位臣下方式」から正式に「皇位4世6位臣下方式」に変更し定めた。この時8人の皇子皇女は臣下した。そして、このうちの6位の皇子を源信として初代の源氏が誕生した。この時、同時期に伊勢青木氏も伊勢神宮の護り守の守護として戻っている。つまり、朝廷の守護神の伊勢神宮の守りは、藤原氏ではなく、皇族一族の者に戻す事が本来とした証拠であり、渡来系一族(たいら族:平氏)では「皇親政治」を築こうとするには困るのである。
渡来系平氏族を賜姓し続けることは天皇家として得策ではなく出来ないのである。桓武天皇の施策(母:高野新笠:阿多倍一族の引き上げ策)は間違いとして嵯峨天皇が改めたことになる。
そして、嵯峨天皇は伝統ある伊勢青木氏の衰退はこのためには困るとした。
伊勢青木氏に付いてのこの考え方の伝統は、織田信長の伊勢永嶋攻めの1576年まで続いた。(後述する)
この伝統を守るために、この時から詔で皇族以外の一般の者が青木姓を名乗ることを禁止した。そして、源氏はこの後の天皇の第6位皇子の賜姓で16代続いた。(実質11代:花山天皇期)
17人の皇子と15人の皇女の臣籍が行われた。15家15流(実質11家11流)ある。
(16家16流とする説もある)
賜姓を外れた者は比叡山か門跡寺院への入山が主となり、学僧となった。この者たちが還俗したときは青木姓を名乗ることを許した。皇女は斉王か他家に嫁いだ。
嫁いだ先は家紋の違う未勘の源氏一族としてその男子の子供は名乗りをあげた。本来の皇族賜姓の家紋は笹竜胆である。しかし、家紋の違う源氏一族は源氏宗家の許可を得ていない事を主に意味する。(又上記の皇子皇女の数からして青木氏と源氏の名乗る数は多すぎる。前記した戦国時代の家系偏纂である。)皇族賜姓族は青木氏5家を含むと24氏となる。
賜姓青木氏から還俗青木氏までの賜姓源氏からは家紋違いの源氏がでた。
正規には、家紋笹竜胆は賜姓青木氏5流と佐々木氏2流と大島氏1流の3氏が使用する。
(大島氏は源為朝の逃亡先伊豆大島での子孫)

背景2−2
(背景2-1の続き)
皇族賜姓青木氏と還俗青木姓と皇族賜姓源氏からは家紋違いの源氏一族がうまれた。
桓武天皇の施策によって政治構成が大きく変化したが、この変化に対して、嵯峨天皇は反対派を押し切って修正を実行した。
律令国家の形態が完成したが、この行き過ぎを嵯峨天皇は修正したのである。
兄の平城天皇が病気理由で譲位したが、譲位後、戻ろうとして、薬子の変が起こる。つまり、変が起こるという事は現状派と修正派の戦いであろう。そして、これに藤原氏が両者に絡み戦った。そして、式家が落ちて修正派の北家が上がった。桓武天皇に命じられ青木氏に代わり、伊勢の国司に成った北家の藤原藤成であったが、修正派の勝利で伊勢の守を退き、伊勢青木氏に戻した。
そして、藤原秀郷の祖父藤原豊沢が修正派として藤成と行動した。この結果、北家が力を持ち孫の秀郷の代へと繋がるのである。

3について
嵯峨天皇は渡来系への牽制策の必要性があった。余りにも大勢力の超一族が朝廷内に存在して来た。修正派として勝利した古来から朝廷内に血縁を広げて確固たる勢力を敷いて来た藤原氏にとって、この渡来系一族の存在は放置することは出来ない。しかし、余りにも大きく貢献度もある。建前上も到底武力では排除できない。
桓武天皇を背景とした渡来系一族は、勢力の出した青木氏を牽制し、今度は藤原氏が渡来系一族を牽制しょうと画策する。多分、薬子の変はこの策の延長線にあったのであろう。しかし、嵯峨天皇(809)から1185年までこの戦いが続くのです。この間にこの戦いが朝廷内にくすぶるのです。そして、数多くの乱(保元平治 1159)などに結びついてゆくのである。
戦う北家は摂政関白にありながらも殆ど権力を失った状況の中(1150頃)で、渡来系一族を横目に見ながら、その後の11代の天皇(1070頃まで)は源氏を賜姓し北家の協力を得ながら着実に親衛隊の育成に勤めるのである。特に、清和源氏が勢力を挙げて積極的であった。
この証拠に清和源氏の妻は殆どが藤原氏北家の娘である事。特に清和源氏の源氏の勤め先は藤原北家の侍所で、頼光や頼信などは長く摂関家に勤めたのである。(1148頃)このパイプを利用して約10年程度で、5家青木氏の守護地は全て頼光の守護地に変わり青木氏との血縁を進めた。(990頃)
ここで源氏と摂関家との結びつきが生まれ、清和源氏と皇族賜姓青木氏が古来からの守護職を清和に代譲し、且つ、5家青木氏の跡目に入るなどの同化策に出た。
つまり、(1150年頃まで)渡来系一族追い出しの長期共同作戦である。

背景2−3
(背景2-2の続き)
青木氏への牽制策が、今度は藤原氏が子孫を守るために余りに大きい渡来系一族に対して天皇譲位と言う変化を捉えて牽制を始めた。渡来系一族にとっては「青木氏との摩擦」から今度は「藤原氏との摩擦」になりつつあった。そのなかで、皇族一族の維持経費が増大した。

4に付いて、
天智天武期の改革で皇族の維持費が財政上の問題として大化の改革は行われたが、それから160年経った嵯峨天皇期には再び膨大していた。嵯峨天皇には多くの皇子皇女がいた。そして、8人の皇子を臣籍した。そして、皇族を賜姓しなかった桓武天皇にも皇子が居たので、天武からの第4世以降の王が嵯峨天皇の時には膨大に成っていた。それまでは第6世以上の者は坂東に移して土地の者(坂東八平氏)とした。
これが、「坂東八平氏」で”ひら族”と呼ばれていた。しかし、この「ひら族」以外に天皇が代わるたびに増える6世王がたまって来ていた。王には高位王と低位の王とが居た。この低位の王の存在が朝廷と天皇家の財政上の問題と成っていた。よって天智天武期と同様に嵯峨天皇は弘仁5年8月に詔書を出した。そして、それまで、大化改新時に実施した皇位継承の制度を正式に制度として発した。天武期のそれと一部改善して皇位4世第6位臣下方式を発した。
代々出る低位王の数を減らした。
この事も桓武天皇との考えの違いがあったのではないか。譲位すると直ぐに実行したのはその証拠である。桓武天皇はこの臣下の策を皇子の中では採らなかった。律令制度を構築した天皇でありながら
も財政上の改革を身内の中で実行しなかった唯一の天皇であった。
それどころか、渡来系一族の引き上げを一族と見せかけて賜姓したのである。(これが将来、朝廷内のもめごとの一つになるのだが)
重複するが、嵯峨天皇以降の15天皇(11天皇)はこの方式を踏襲して第6位王を臣籍して、それ以外の王は比叡山か門跡寺院の僧として入った。皇女は伊勢神宮の斉王や門跡寺院の尼僧として入ったのである。一部には豪族の他家に嫁ぐなどした。この皇女を受け入れた豪族は源氏一族として生まれた嫡子に名乗らせたのである。これが家紋違いの源氏一族の支流族である。(豪族の跡目方式として出来る源氏一族もある)これらは全て、家紋違いの源氏である。
入山した学僧や尼僧が還俗する時は[青木姓}を名乗る事もこの嵯峨天皇から後15代の天皇に引き継がれた。(多くはない)

歌舞伎などで演じらる5家の賜姓青木氏に対して、徳川家の殿様が上座を外す、外さないともめる場面がある。慣例では賜姓青木氏は上位であるので結局外して上座を譲るという場面である。
たとえ嵯峨天皇から臣籍してきた源氏であっても、古代の賜姓青木氏に対しては下座した。特に、伊勢王を先祖として持つ伊勢の賜姓青木氏に対しては、江戸時代になっても行われたと伝えられている。
天武天智から引き継いだ賜姓族の制度で朝廷の財政は改善されたのである。
(実際の効果は花山天皇期までで後二条天皇まで行われた)

背景2−4
(背景2-3の続き)
嵯峨天皇が譲位したこの頃、阿多倍一族の勢いに対して賜姓青木氏も北家藤原氏も何とか対抗しようとしてあがいていた。
しかし、余りにも大きい相手である。この渡来系の一族は益々実績を挙げて、更に力を付けて拡大した。過去誰もなし得なかったが長男の息子坂上田村麻呂は征夷征伐の大成果を成し、征夷大将軍となり、次男と三男は大蔵氏と内蔵氏として、朝廷の律令の国体を完成するなど3蔵の官職のうちの2つまで握り、又一族は九州全土を統治する大宰府の大監になり、「遠の朝廷」(とうのちようてい)と呼ばれ3権を委ねられた。室町時代までこのように呼称されて3権を与えられた者はいない。この様な一族の働く中で、嵯峨天皇は源氏を賜姓し、上記の1から4までの改革を進めた。歴史では簡単に云う大変な軋轢と争いがあり、例えこの「勢力争い」の中で、天皇でも身の危険もあり言語に絶する大変なことであったと思う。
嵯峨天皇と藤原氏はこれだけでは納まらなかった。
絶大な反対勢力の中で桓武天皇の「政治」を改めたのである。また、北家藤原氏も着実に勢力をた高めた。それは次のことである。

5に付いて
律令体制が完成したが、一つの問題が出てきた。
それは、官職と官職の間の不備である。この問題に藤原氏は大いに関わったのである。
それは「令外官制度」である。(令の規定にない官職)
戦略1
嵯峨天皇は渡来系一族の対策として次の政治見直しにかこつけて、対抗する勢力を藤原氏北家に次の役職を与えて政治力を強めさせたと考える。

戦略2
それと「侍所」や「右大臣」などの政治の場での役職を与えて、身内の源氏一族の引き上げをした。

令外官は次の通り。
内大臣、中納言、参議、勘解由使、検非違使、按察使、蔵人、摂政、関白、近衛府 以上を出来上がったばかりの律令制度外に設置した。(財政、司法、行政、立法の官)
この「政治と行政」の「見直し機関」を設置し、これに全て藤原北家氏が関わったのである。これにより、力の出てきた藤原氏の秀郷も祖父の豊沢と共に70年後位に押領使として下野に赴くのである。
そして、この「令外官制度」は次第に常駐となった。この常駐となる事で藤原北家は朝廷政治の中では、渡来系一族に負けない絶大な力をもったのである。阿多倍の末裔一族に対しては軍事や経済力は依然として劣っているが朝廷政治では同等とまで成ったのである。(880−920)
しかし、矢張り渡来系一族は巻き返し強かった。1120年頃には再び藤原北家族と源氏は権勢は無くなるのである。

戦略3
しかし、藤原氏北家は朝廷内では衰退したが、坂東では930−940年頃には、豊沢や村雄や秀郷らに役職を与えて勢力を高めさせていた。
そして、この時、遂に、朝廷内でも940年頃に、更に台頭のきっかけとなる事件が起こったのである。「平の将門の乱」である。
「平の将門の乱」では、秀郷は掛けに出た。将門の独立国家樹立の動きに対して、朝廷内には、2分する勢力の為に、この勢力を征圧する事が出来なかった。
阿多倍一族の平貞盛もこの掛けに出た。そこを見越した秀郷は、混乱する朝廷に2つ条件を朝廷に出した。平貞盛もこれに載った。この二人は決死で戦った。5年後に征圧した。条件の貴族に成る事と武蔵、下野国の領国化を2つを獲得した。この二つを基盤に低迷する藤原氏の勢力を付けて行ったのである。当然共に、たいら族の貞盛を始めとする阿多倍一族も勢力を高めて行ったのである。

また、一方近畿では、源氏が誕生して村上源氏(9代目)まで一族が拡大していた。そして「清和源氏」や「村上源氏」や「醍醐源氏」が3源氏は、軍事と政治に力を持ち始めていた。清和源氏の3代目の頼光、頼信の兄弟は、摂関家の侍所、村上源氏では、具平親王が右大臣になり、遂には朝廷内にこの3源氏は藤原北家氏と勢力を二分するまでに成長した。しかし、まだ一氏だけでは渡来系族には劣っていた。
(15源氏中この3源氏が子孫を遺し勢力を拡大した。)
令外官で政治の場に台頭した藤原北家氏、関東では北家秀郷氏らが勢力拡大、近畿では軍事力を保持した親衛隊の源氏3家が台頭、力の盛り返した賜姓青木氏の4勢力がスクラムを組んで対抗した。
この4つの勢力が一体となって渡来系一族に1160年を境に立ち向かうのである。
1−5の政治、軍事の改革変化の中で、戦略1−3を実行して、2分した天皇家をも巻き込んだ双方一進一退の状況であった。





背景2の最終。

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