青木氏のルーツ & 雑学研究室
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◆-埼玉県北本市 大島です
└Re: 埼玉県北本市 大島です
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No.1214
埼玉県北本市 大島です
大島 重正さん 2008/03/02 (日) 14:26 [
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今日は、埼玉県北本市の大島と申します。
ネットで自分の苗字を検索していたら、こちらの青木様のサイトにたどり着きました。
こちら、サイトに記載のあった伊豆大島氏のことですが、教えてください。
私は、埼玉県北本市の出身で、この北本市には、大島の姓が多いのです。
以前に鴻巣七騎(鴻巣の地にいた戦国時代武士)の1人の大島大膳亮久家が伊豆大島から
この地に住み着いたと聞いておりました。
確かに、北本市宮内に子孫の方がいるそうです、お墓に行ってみたら笹竜胆の紋でした。
また、同じ宮内の別の墓地にも、大島の墓が有り、この墓の家紋は剣カタバミの紋でした。
宮内の隣の古市場にも大島一族の墓が有り、丸に揚羽蝶を使用しておりました。
同じ北本市の大島なのに家紋が、なぜこんなに違うのか?
また、どの大島家も一族の墓で、かなり大きいな墓地でした。
ちなみに、私の家は家紋が丸揚羽蝶です。
しかも家の本家は、大善院と言う里修験だったようです、しかし江戸時代の墓には大島と言う
苗字が刻んで有りました。
やはり、北本市の大島は伊豆の大島氏でしょうか?
No.1215
Re: 埼玉県北本市 大島です
副管理人さん 2008/03/02 (日) 19:59
>今日は、埼玉県北本市の大島と申します。
>ネットで自分の苗字を検索していたら、こちらの青木様のサイトにたどり着きました。
>こちら、サイトに記載のあった伊豆大島氏のことですが、教えてください。
>私は、埼玉県北本市の出身で、この北本市には、大島の姓が多いのです。
>以前に鴻巣七騎(鴻巣の地にいた戦国時代武士)の1人の大島大膳亮久家が伊豆大島から
>この地に住み着いたと聞いておりました。
>確かに、北本市宮内に子孫の方がいるそうです、お墓に行ってみたら笹竜胆の紋でした。
>また、同じ宮内の別の墓地にも、大島の墓が有り、この墓の家紋は剣カタバミの紋でした。
>宮内の隣の古市場にも大島一族の墓が有り、丸に揚羽蝶を使用しておりました。
>
>同じ北本市の大島なのに家紋が、なぜこんなに違うのか?
>また、どの大島家も一族の墓で、かなり大きいな墓地でした。
>ちなみに、私の家は家紋が丸揚羽蝶です。
>
>しかも家の本家は、大善院と言う里修験だったようです、しかし江戸時代の墓には大島と言う
>苗字が刻んで有りました。
>
>やはり、北本市の大島は伊豆の大島氏でしょうか?
>
>
埼玉の大島さん。今日は。 始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
青木氏のサイトですが、ご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。
判る範囲でお答えしたいと思います。
さて、ご質問ですが、伊豆大島の大島さんですね。
既に、このサイトの大島さんの事はお読みと思いますので、概略をお話します。
伊豆、大島さんは、清和源氏の分家頼信の子孫(本家頼光)ですが、頼朝義経などと同じルーツの源氏です。この源氏の為朝が平氏に追われて中国地方、九州地方、沖縄まで逃げ延びて、最後に黒潮を渡って伊豆大島にたどり着きます。
此処で、土地の伊豆の水軍の豪族の大島氏に保護されて、暫く、留まります。
此処で、豪族の娘との間に子供が出来ます。この子供は背の高い大変大きい人物でした。ところが、為朝は迷惑が掛かるので腹を決めて都に帰り処刑と成ります。
この大島の子供に脇差と認知状を渡しました。その後大きく育ちました。
丁度、義経が平家を壇ノ浦で打ち破りましたが、平家の残党の陶水軍(後の村上水軍)が再結集して源氏の首根っこの三浦半島を急襲します。頼朝は水軍を持っていませんし、この域に防備が敷いていませんでした。慌てた大島氏の落しだねの伊豆水軍は5日かかるところを3日で駆けつけて、平家と最後の決戦をします。そして、打ち破ります。
ところが、頼朝は義経と歩調を合わしたこの大島氏を正等に扱いませんでした。頼朝のバックの北条氏はこの大島氏を襲います。何とか逃げ延び伊豆大島に帰ってしまいます。
これが、清和源氏は滅亡しましたが、子孫を遺して笹竜胆紋を使える5氏(皇族賜姓青木氏(5)、近江佐々木氏(1)等)の一つ、伊豆の大島氏(1)があります。
この伊豆大島本家筋1氏だけが特別に笹竜胆紋です。
しかし、この大島氏の分家筋は他紋です。大島氏の家紋に付いては専門外ですのでわかりません。
この笹竜胆紋は本家筋本妻のルーツの者が引き継ぎます。
さて、お家の家紋は「丸に揚羽蝶」紋との事ですが、揚羽蝶紋は平家紋です。この揚羽蝶には沢山の文様があります。
しかし、先ず、平家紋の揚羽蝶紋かどうかです。
平家にあやかってよく似た揚羽蝶紋を多くの氏が使っています。
次に、平家の揚羽蝶紋は丸付き紋を使用して居ません。
分家は副紋方式です
同様に、笹竜胆紋、下がり藤紋も丸付き紋は使用していません。
第1番目は、これ等の紋に「丸付き」にしている紋は「未勘家紋」といいまして、主に「あやかり氏」であります。
大島氏に遠縁や分派分流族や何らかの間接縁を持つ者が大島氏を名乗ってその家紋に丸付きにして使用しました。
この現象は室町末期の混乱期、江戸初期の混乱期、明治初期の苗字令の3期に起こっています。
大島氏は平家である事は上記の事から考え難いです。清和源氏を助けたのですから、本家が源氏なのに分家筋が平家はおかしいです。先ず無いと思います。
第2番目は、従って、江戸初期の家紋を持たない武士に出世した者がこの家紋を使用したか、この丸付きの揚羽蝶を家紋としている氏と血縁し男系継承できずに養子を取り女系となった氏とも考えられます。
氏家制度は男系ですので養子と成ると養子先の家紋と成りますし、妾腹の子供は原則は家紋を引き継げませんので別の物にする必要が出てきます。
第3番目は、家紋は江戸初期まで中級武士以下は持っていませんでした。
家紋の無い武士と成った者は、この時期に集中して家紋を作りました。
氏の家紋の変化は他にもいろいろとありますが、主だったものはこの程度です。
笹竜胆紋は、賜姓青木氏5家5流の綜紋ですので、直系氏だけですので、子孫を遺しているのは、青木氏、近江佐々木氏、滋賀佐々木氏、伊勢北畠氏、大島氏です。
これ以外は、有りませんで、これ以外は「あやかり氏」の未勘氏です。大変覆いのです。
(中には、日向青木氏の様に家紋消失の丸付き笹竜胆紋は特別で別です)
私の近所にも居まして、伊豆大島の大島さんが笹竜胆紋です。
大島氏は専門外ですので以上です。
ご質問が有りましたら、お尋ねください。
No.1216
Re: 埼玉県北本市 大島です
大島さん 2008/03/03 (月) 20:15
管理人さん、有難うございました。
色々と勉強になりました。
ウィキペディアの源為朝に北本市の大島氏の事が載っておりました。
足立郡宮内村(現在の北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正 大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1008年)に八丈島に弥陀寺を創建した。(現在の宗福寺)太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原の役後帰農して今に連綿と系譜が続いている。家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ) 。
家紋は剣片喰となって降りますが、笹竜胆が本家で北本市でも2.3軒しかないようです。
剣片喰の大島家は、たくさん有り分家だと思います。
北本市史をみたところ、北本の大島氏は新田氏の支流だとの記載もあり、何が本当か
わかりません。
これから、調査していきたいと思っております。
No.1217
Re: 埼玉県北本市 大島です
副管理人さん 2008/03/03 (月) 21:51
>管理人さん、有難うございました。
>色々と勉強になりました。
>ウィキペディアの源為朝に北本市の大島氏の事が載っておりました。
>
>足立郡宮内村(現在の北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正 大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1008年)に八丈島に弥陀寺を創建した。(現在の宗福寺)太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原の役後帰農して今に連綿と系譜が続いている。家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ) 。
>
>家紋は剣片喰となって降りますが、笹竜胆が本家で北本市でも2.3軒しかないようです。
>剣片喰の大島家は、たくさん有り分家だと思います。
>
>北本市史をみたところ、北本の大島氏は新田氏の支流だとの記載もあり、何が本当か
>わかりません。
>
>これから、調査していきたいと思っております。
大島さん 今晩は。
北本市の史の新田氏の支流説は何処の時代の資料を元としたかによります。
室町期初期以後の史料は余り当てになりません。これは歴史を研究している者の常識です。
自市史を良く見せる為によい情報を出します。
新田氏は清和源氏足利氏の家来筋の支流ですが、分家は兎も角も、本筋かは疑問です。家紋が綜紋を使っていませんので支流の支流でしょう。足利期以降の系譜や家紋は余り当てになりません。
昔は「国抜け」と言い国以外に許可無く出ることは出来ません。無許可で出ると一族郎党死罪です。
大島氏分家の新田氏の支流は考え難いものです。この大島氏は未勘の氏か搾取偏纂の可能性が。
今の感覚で考えると間違いを起します。
多分、居るとすると、この大島氏は立身出世して武士に成った者が大島の縁ある者か遠縁のものが名乗ったと思われます。
剣片喰の家紋の多い地域は新田では有りません。青木氏の家紋掲示板に記載していますので参照して下さい。主に四国阿波と美濃付近です。
昔は「氏家制度の社会ですので血縁は均等な家柄の血縁と成ります。
大島氏本家は1家は、鎌倉期の史料より証明されているものですので、確実です。
ただし、大島氏本家筋1家1流ですので数は限られます。
笹竜胆の綜紋の大島氏は多くはないと考えます。
(本来は正腹で直系で無いので綜紋の笹竜胆紋使用はではないし、総宗本家の許可を得ていないので疑問 家紋掟では未勘氏の丸付き紋の笹竜胆紋が正しい)
全国で5-10軒程度でしょう。後は、あやかり族と思います。
江戸中期以降は殆どは女系になっても「家紋掟」により家紋を変えることをしていませんので信用できません。
本家大島氏は源氏本流とは違いますが、亜流の妾腹(戦地妻と言います)ですが、為朝の直流です。
調査に際して、注意される事は、史料が全て正しいと言う事では有りません。前レポートで書きました室町期末期からのものは、3つの混乱期の系譜家紋詐称偏纂が殆どですので。
市史や県史や系譜書は先ずこの3期の搾取偏纂をしたものを元にしています。本青木氏のレポートにもありますが、徳川を始めとして全てに近い氏はこの搾取偏纂です。
特に清和源氏を名乗る氏の殆どは未勘の氏と成ります。
この点を留意してお調べください。
先ず史料を頭から信じると何がなんだかわからなく成ります。
それでは。
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