青木氏のルーツ & 雑学研究室

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◆-宮崎の青木です。Re: 宮崎の青木です。
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No.1066
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宮崎の青木です。
たかさん 2007/09/26 (水) 11:21
先日私の第一子が誕生いたしまして、お宮参りをするのに家紋が・・・わからないんです。

お墓についていた家紋は「五三の桐紋」でした。

うちの親父に聞くと・・・

「お墓についている家紋は正直正しいものなのかわからない。
うちは百姓の出だからね。
うちの(宮崎県日向市)家の近くには『黒田の家臣』って場所があるやろ。
そこの戦に百姓が借り出されてそのときもらった家紋なんじゃないの?」

とかいってました。でも・・・『黒田の家臣』の紋は確か・・・『違い鷹の羽』なはず。

ますます怪しい。。。。

宮崎県日向市と言えば、元々宮崎県自体『日向の国』・・・

日向市美々津町と言えば紀元前、神武神武天皇が宮崎の皇宮屋(こぐや)で東征の軍議を決定されて大和へ向け出発、船出の港に選ばれた地

(参照)http://www.pmiyazaki.com/mmt/

日向市は昔、『天皇直轄の地』とも言われています。

これで参考になるでしょうか?

是非!自分の家紋が知りたい!

宜しくお願いします!!!

ちなみに、うちの戸籍謄本は・・・曾じいちゃんでとまってますんでそんな昔までは書いてませんでした。うちは元々ずっと日向市にいるみたいです。(他県から移住したとかではなさそうでした)

どうかみなさん教えてください。

宜しくお願いします。
No.1068
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Re: 宮崎の青木です。
副管理人さん 2007/09/26 (水) 21:14
宮崎の青木さん 今晩は。

さて、情報をいただきましたが、
1 お墓の紋は「五三の桐紋」である事。
2 曾祖父が一番古い人である事。
3 古くから宮崎日向である事。
4 先祖は農家である事。

そして、私の提供情報ですね。

以上のことですが、この情報で少し話しがすすみますよ。
先ず、第1番目のお墓の紋です。
この紋は、明治前は天皇家の儀式紋でした。そして、この紋を最初に天皇から譲りうけたのは豊臣秀吉でした。
天皇は功績のあった者に対して、褒美としこの儀式紋の使用を許しました。この他に秀吉の家来(黒田氏を始めとして)にも秀吉の推薦で与える事になりました。
しかし、その内、この伝授を秀吉が自分の推薦で、天皇家に届け出て、独自に家来に使用許可を与えるようになりました。
秀吉は、自分のルーツは天皇家のルーツだとして、系譜の搾取偏纂をして「五三の桐紋」から「五七の桐紋」を作り上げて、強引に天皇家に認めさしまして豊臣家の家紋としたのです。

その内に、秀吉は朝廷に許可無くこれを勝手に乱発した結果、ついには秀吉の許可無く各地の大名が勝手に家臣や土地の者に何かの功績に対して乱発をする様になり、更には、ついには庶民が勝手に使用するようになりました。
その後、困った朝廷と江戸幕府は、この紋の使用の禁令を発しましたが、全く守られませんでした。
更に、明治政府も禁令を出しましたが、駄目でした。
遂には、明治3年の苗字令が発せられてからは、苗字と家紋の持たない庶民は挙ってこの紋を紋付や墓紋に使用してしまいました。

はじめは、この天皇家の儀式紋で象徴紋である五三の桐紋が、この様に広がったのです。
だから着物屋さんが言った言葉はその通りなのです。

この経緯から御家の墓の紋が五三の桐である事は頷けます。

その根拠は、さらに黒田藩が秀吉の軍司の家柄であったことから、この家紋の使用を許されたことは有名です。
そして、日向の国の御家の在所の村民は、黒田藩の九州の征圧の時(秀吉の天下統一の戦い)この闘いに参加しました。
この時の戦いは、宇都宮氏が九州征伐の先陣を命ぜられたが、拒絶し、この為、黒田考高(如水)が秀吉の命でこれを城井城で、謀略(騙まし討ち)と、実戦では農民の協力を得た戦い方で撃ったのです。
これは、史実として有名なことですが、この功績で黒田の藩主からこの五三の桐紋の使用を農民に与えられたのです。(黒田の家臣)
だから、家紋の持たない農民の全ての墓にこの紋が使用されるようになったのです。
ただ、墓紋としてだけに使用を認めたのです。
この様なことは各地の藩でも起こりました。

明治初期までは、特別な者以外は、庶民には家紋と姓としての使用は禁じられていました。
(明治3年)。そして、この特別の者には(庄屋や名主や豪農や郷士には)、藩主から「家紋や苗字帯刀の特権」が許されたのです。

各地の神社や寺では村の何かの儀式のときには使用されるようになったのは上記の事から起こったのです。

第2番目の曾祖父が一番古い人である事に付いては、曾祖父は明治の人になりますね。
つまり、明治初期の苗字令にて姓と家紋(五三の桐)を使用できるようになったことから寺の過去帳(当時は戸籍関係は寺で行っていた)に残るようになったのです。
明治3年と曾祖父の時期は一致します。

第3番目の件は、黒田藩であり、古くから居た村民であったことから使用が許されたのです。
黒田氏は元は播磨付近の普通の流地侍で生計のために薬を売って生計を立てていましたが、大変知恵が働き村が隣りの国から攻められたときに、庄屋に頼まれて、この黒田の元祖が村人を救う為に知恵を出して追い払いました。
その内に、この村を取り仕切る土地の豪族たちが、この黒田氏を呼び入れて周囲の豪族を組み入れます。
後に、この豪族の元締めには跡目が無く、又、他の豪族から攻められて潰れそうに成ります。そこでこの黒田氏が又、知恵を出して救い、村人から頼まれてその豪族の跡目を継いだのです。それが黒田氏の黒田族の始まりです。
秀吉の中国攻めの時前に、この話を聞きつけて秀吉はこの知恵者を家来にして軍司にします。その後に勲功を立てて播磨藩主に成ります。秀吉の天下取り後、国替えで日向の国を守る事に成り九州征圧に乗り出します。
この時、瞬く間に征圧します。この戦いに御家のご先祖の近隣の農家の人たちが戦いに参加して戦勝をします。この時、黒田氏はもとより侍の家臣を使うより近隣の農民の協力を得て戦う戦法を播磨の時と同じく得意としていました。
秀吉も農民の出ですので、この黒田氏の戦略を好み、黒田氏の戦法軍略を取り入れて、秀吉の戦歴の内の2つの戦い以外は、武力による「無理攻め」はしませんでしたし、農民を多く使いました。
この戦法には、秀吉の農民に対する「思いやり」が含んでいて、戦勝すると、勲功に応じて金品を農民に還元して潤させる事と、武力を使わない戦法を採るには、その軍の力を誇示する必要があり、このために農民を多く集めて誇示するという戦法なのです。
秀吉の戦歴を研究すると殆どこの方式を採用しているのです。
この農民の役目は、戦う事のみならず、その能力を利用して土塁や陣柵や炊飯や城立てや水攻めのなどの庶務作業一般に当てたのです。
秀吉の戦い方は上記した力攻めは2度しかないのです。(両方が失敗)
戦隊を大きく見せ誇示し相手を威圧し、物量で攻める戦略で主に黒田勘兵衛の立案です。
(後に家康もこの戦法を真似するようになる)
その様なことから、日向の農民は当然に黒田の家臣扱いとして、参加した農民には勲功としてこの五三の桐の紋の使用を許したのです。(黒田家臣の元から居た者は農民の出ですから)
それがこの由来の一つです。(もう一つある。肝付氏の末裔の伝統)

次の第4番目の問題では、何時から農民であったかと云うことが問題です。

この五三の桐から、室町末期ごろから農民であった事が覗えます。その理由は当時の社会では「国抜け」と云ってその国から外に、勝手に藩の許可なしでは出来ませんでした。
もし、出るとその者の一族郎党と縁者は打ち首に成ります。
この掟では、南九州では庶民は藩主の指揮下の者として考えられていたのです。
御家の村人が、この農民になった始めの時期は、平家が滅亡したときごろと見られます。(1180-1185年頃)

と言うこの理由は、この青木姓の使用なのです。
青木姓のルーツの詳細は、研究室の所のレポートを参照してください。
青木氏の使用は2つのルーツ以外に、嵯峨天皇の弘仁5年の詔で皇族の者以外の使用を禁じました。そして、明治3年の苗字令まで原則守られました。
しかし、この禁令は次の3期ではまもられませんでした。

室町中期の下克上と戦国時代の第一期、江戸時代初期前後の第2期、そして、明治3年の苗字令期のの3期です。

そこで、前の雑談掲示板で予測として書きました事に繋がります。
前の記述の事件は1180年の源の頼政と以仁王が平家に対して起した戦い、即ち、「以仁王の乱」
です。この時に源氏は負けて主な源氏の者(宗家の頼光系)は惨殺されましたが、清盛の母の嘆願を入れて若い下記の者(3人)だけが生き残りこの日向に流されました。
この源氏の一族は家紋は同族の青木氏と同じの笹竜胆紋です。
しかし、この家紋を使うと平氏に捕まります。よって詔に基づき源氏であるが為に、上位2番目の朝臣の身分でもあり、姓を青木氏に変更してのみ家紋は隠したのです。

これが、日向の青木氏の始まりです。
しかし、結果として余り子孫を遺す事が出来ませんでした。以後、縁者は農民となって室町期から明治までこの地に生きたのです。
この時、その小さい村の青木氏に関係する血縁者や縁者や遠縁者が、長い時代の間(500)で血縁関係が出来上がり、明治3年の苗字令で、この血縁をベースを下に、この元の青木姓を血縁の村民が用いたと定説として予想されています。

そして、この時の農民は、元はこの北九州からこの日向国までを支配していた最大の大豪族の肝付氏の支流一族であろうと考えられています。
(肝付氏は、最後に勢力を南九州の薩摩で勢力を伸ばして来た島津氏と3回戦い、最後に残った城のこの日向の国付近で最後に滅亡します。)
この時の落人が日向より南に逃げて山里に逃げて農民となり村(宮崎の宮崎市阿波岐原青木村から最終鹿児島の大口村字青木まで分布する。 宮崎廻村から現在の大口市青木まで逃げた。)を形成して生き延びたのです。これが御家の元のルーツと見られます。
(ここで清和源氏を匿いその血筋を得た末裔を保護し青木村を形成した青木氏は、日向廻村から薩摩の鹿児島大口町までの間に分布する。最後は大口村まで逃げ延びたと記録されています)

御家の村の人たちの血筋は黒田氏を助けたことを始めとして、清和源氏の者をも助けるという歴史的な史実を持っていますが、これには元は侍としての伝統をもつ肝付氏の血縁者である事の所以として考えられています。
ただ単なる農民ではなく、古来よりその心魂には侍としての魂があるから農民としても2度の大きな戦いが出来るのだと思います。農民だけで平家に対抗する事はできません。プロと素人の戦いです。そにはこの様な経緯があり2度も大きな戦いをしたのです。

この伝統の農民は、後に薩摩に吸収されましたが、この「兵農」の伝統は薩摩の島津氏にも引き継がれました。
だから、江戸時代末期まで、日向の黒田藩士と薩摩藩の藩士は、通常は侍でありながら農業もすると言う伝統を持っているのです。
西郷隆盛も農業をしていました。農民でありながらも、だから黒田氏に合力する力があったのです。
家臣に細かく土地を分け与えて、農業を振興させ、体力をつけさせ、自給の精神を創り上げる国防の軍戦略です。
この事に付いて、これは各藩の力を強くする事であるので、弱体化を狙って、秀吉と家康は全国にこの「兵農分離」の令を出しましたが、南九州の藩は明治維新までこれを無視し続けました。
西郷隆盛の説得で明治維新の活躍ではこの伝統を長州藩も見習いました。
そして、3藩連合軍は、明治維新前後の時は、農民を中心とする軍を作り、それまでの武士を中心とする10万の徳川軍と戦い勝ちました。
この様な伝統と由来を持つ御家のルーツの村人です。江戸時代まではただの農民では有りませんでした。
参考に、昭和の第2次大戦の時も九州の連隊はこの為に大変強かったのです。しかし、大阪と東京の連隊は全戦全敗で、大阪の連隊は”又負けたか大阪10連隊”と呼ばれました。

この関係で、村人達の祖先は、肝付氏と都の五大豪族の一つの伴氏などの血筋と天皇家の血筋を引いていたので、この肝付氏の血筋を持つ村人は、清和天皇の清和源氏の配流者3人を助け、再び平家に挑んだのです。(敗戦する)
{伴氏は朝廷より九州に差し向けられた弁済使(税)の官僚です。後にこの伴氏と肝付氏は血縁します}
御家などは農民をしていますが、この支流の末裔であると見られます。

従って、清和源氏の血筋を受ける末裔は、この戦いで直系者が絶えたためにその家紋と成る笹竜胆紋が消えたのです。
(青木氏と清和源氏は同族で同紋です)
この推理はまず間違いは少ないと考えます。

上記しました3期の青木氏の使用の殆どは、その周囲に住んでいた皇族賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏の一族が定住していて、それを搾取偏纂して、禁令を破り名乗った氏の青木氏です。殆どこの経緯で名乗ったのですが、御家の場合の日向の青木氏は、少し違っています。

しかし、日向は周囲にはこの2つの青木氏の一族は有りません。
国抜けで移動は殆ど有りませんから、従って上記推理が出来上がります。

一番近い所で、北九州に藤原秀郷流青木氏が、武蔵の国から朝廷の命で国司として赴任してきているだけですので、先ず、この姓を使ったとは考え難い事です。

配流者は、元は清和源氏の宗家の頼光系の孫(配流者不詳 宗綱、盛綱、高綱?)(3人は死んだ)ですが、この配流者と肝付氏の流を組む地元の農民の娘との間で出来た子孫です。(村人はこの末裔男子を守り逃げ延びた)
後に、弘仁の詔を知っていた彼らを保護した住職が、農民として姓を持たないこの末裔なので、詔に従い、危機が迫った時、青木氏の姓を名乗ることを寺の住職の勧めで、初めて名乗った事が記録されています。

つまり、この3人の血筋の引いた、村人に保護された村娘の子供に、青木氏を名乗るように勧めたのです。
村人はこの末裔を守って生き延びました。
そこで、従って、500年の間に女系となりなどし、家紋や本家はどこかもわからなくなったと考えます。よって基本的には家紋は無い事に成ります。

しかし、この推測では、元は3人の血筋を引いた末裔であるので、綜紋は笹竜胆紋と成りますが、正式には認められているわけではありません。

この経緯と同じ事が他に2つ起こっているのです。
現在まで、子孫をのこしたのは、伊豆大島の父島の大島氏です。源の為朝が逃げ延びたときに土地の豪族との娘の間で生まれた子孫の大島氏の宗家が、現在もこの笹竜胆紋の家紋を使用しています。
(伊豆大島の大島氏には、為朝は短刀を渡して子供である事を認知)

大島氏は、源の頼朝が、平家の水軍に三浦半島を裏から攻められた時に、伊豆大島から大島水軍を引き連れて3日で黒潮を乗り越えて駆けつけて間一髪で助けた一族で有名です。

後は、木曽国の源の義仲の一族の末裔の青木氏もこの経緯と全く同じものを持っています。
これらと良く似たことだと思います。

詔での皇族の青木氏は他に多治彦王の末裔の武蔵七党の丹治氏の青木氏、島左大臣の末裔の青木氏、名古屋の伊川津七党の青木氏の3氏があります。
(少し違った形では、宿禰族の橘氏の青木氏がある)
これ等の3氏の青木氏は家紋とルーツを幸い明確に維持してきました。

2つのルーツの青木氏外の上記3期の第3の青木氏の中には、別に御家のようなこの経緯を持つ青木氏があるのです。(家紋が消失)

ここで、どの程度の血縁者であるかはわかりませんですが、御家の古くから居た村の本家筋が血縁が濃いと思いますが、男系で跡目が出来ているかはわからなく成っているのではないかと考えますので、その家紋も不明と成ったと考えますので桐紋を使用したのだと思います。

この点のところが調査する必要がありますが大変ですね。元住んでいた村の庄屋あたりがこの本家筋に当ると見られますが。
そして、御家はこの村の血筋を何らかの形で引き継いでいる事も考えられます。女系に成っていることも充分考えられますから、家紋は経緯から結果として原則として無い事とも考えられます。

日向青木氏はこの様に得意な経緯を持った青木一族です。

日向青木氏の青木さんからの投稿を待っていましたが、やっと出てきたと思っています。
まだ、木曽青木さんとか伊川津の青木さんもまだ有りません。

全国の家紋を持たない民は約6割以上と成りますが、御家の場合は消失ケースと考えます。

お判りいただけたでしょうか。

以上のことでご質問がありましたら、ご遠慮なくお便りください。お待ちしています。

以上ですが、ご不明な点が有りましたら、お尋ねください。
No.1088
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Re: 宮崎の青木です。
たかさん 2007/10/01 (月) 10:16
お蔭様で、貴殿の素晴らしいアドバイスにより我が家の新しい家紋は『笹竜胆紋』でいこうと思います。

『五三の桐紋』が農民してた時に黒田藩にもらったものだという理由と、

『青木』発祥のルーツで日向に逃げてきた青木がいて室町から江戸まで国抜けができない状態であってひいひいじいちゃんは1826年生まれで江戸を生きていた人だからうちはずっと青木なんだということ。

あと、女系続きや苗字令のせいで『青木』や『家紋』が分からなくなっていること


これらをふまえて、あと、私個人の「五三の桐は多いから・・・人と同じはあまり好きじゃない」という勝手な感覚からうちの家紋は 『笹竜胆紋』 でいくことが家族会議で決定しました。

ほんとありがとうございました。
No.1090
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 宮崎の青木です。
副管理人さん 2007/10/01 (月) 20:07
>お蔭様で、貴殿の素晴らしいアドバイスにより我が家の新しい家紋は『笹竜胆紋』でいこうと思います。
>
>『五三の桐紋』が農民してた時に黒田藩にもらったものだという理由と、
>
>『青木』発祥のルーツで日向に逃げてきた青木がいて室町から江戸まで国抜けができない状態であってひいひいじいちゃんは1826年生まれで江戸を生きていた人だからうちはずっと青木なんだということ。
>
>あと、女系続きや苗字令のせいで『青木』や『家紋』が分からなくなっていること
>
>
>これらをふまえて、あと、私個人の「五三の桐は多いから・・・人と同じはあまり好きじゃない」という勝手な感覚からうちの家紋は 『笹竜胆紋』 でいくことが家族会議で決定しました。
>
>ほんとありがとうございました。
>

日向の青木氏に関する由来に付いてお判りいただけたのは幸いです。

現在に於いて、どのような家紋を使用されるかはご自由ですが、一言老婆心ながらご進言いたします。
と云いますのは、笹竜胆紋は「綜紋」と明記いたしました。
又、確かな情報が少ない情報ために、状況証拠からの解明ですので確定は出来ないことも明記していますので、
念の為に前回ノレポートにも書きましたが、再度、研究室の皇族賜姓青木氏のレポートか、家紋掲示板の1Pの33番/33の笹竜胆紋と、研究室の「青木氏の綜紋笹竜胆紋」を是非お読みください。


そこで、
綜紋とは、「青木氏」の全体の「総宗本家」の「直系」が引き継ぐ家紋です。
現在、この家紋を使用できるのは、たった日本全国で5家(10軒に満たない)の本家筋だけです。血筋を正式に繋いでいる直系一族の家紋と成ります。

この旗の元に戦いの場合、集まるときには、先陣に立てる家紋が参集した一族縁者の統一の代表紋で、それを総宗本家が引き継ぎます。

「分家」はその家紋に部分的に違えた家紋を、一部に血筋を引いた(母方や間接的に)「支流」とその枝分かれの「分派」は全く違う家紋を使用する事に成ります。

「笹竜胆紋」を使用できる直系一族は、皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏で合わせて16家16流が全部であります。
この直系の「笹竜胆紋」は、直系の源氏一族は全て滅亡しましたので、直系の皇族賜姓青木氏の5家と、皇族賜姓佐々木氏(近江源氏と滋賀源氏)とだけであります。他に、特異なケースとして伊豆大島の分流一族の大島氏があります。

(大島氏は、清和源氏の3男の頼信の直系の末裔の嫡男が伊豆大島に逃げたときに土地の豪族との間に生まれた子孫で、その後、この為朝は斬首になり、子孫はこの大島だけとなりましたし、認知刀と認知状を保持しましたので直系子孫となり笹竜胆紋と成ります)
これ以外には有りません。

この「笹竜胆紋」は、他の家紋と違い皇族系(第6位皇子の直系末裔)であるので、藤原氏(秀郷)の「下がり藤紋」と同様に副紋や一部を違えた文様は一切慣習と禁令により使用していません。

そこで、江戸時代に何とか少しでも源氏の血筋を受けている一族の者は、源氏の流の一門族の者である事を誇示するために、「丸付き紋の笹竜胆紋」を使用しました。(第3の源氏と第3の青木氏)

「綜紋」の笹竜胆紋ですので、日向の青木氏は、直系ではなく、認知でなく、未勘の氏と成ります。
分家、分派、分流の以外で、はっきりしないとされる「不詳系」(未勘氏という)となります。

「進言」
従って、もしお使いになるのであれば、「丸付き紋の笹竜胆紋」をお使いになられるのがよいと思います。(本来は、家紋のない未勘の氏の青木氏でありますので。)

この「丸付き紋の笹竜胆」は、日本全国8000の家紋中から選んだ「家紋200選」にある家紋です。

「進言」
ありえない家紋を使用するは、親族や周囲や世間より嘘をついていると子孫代々の後日の恥じとならない様に、強く御家のために進言します。

(或いは、肝付氏の支流紋の10位あるもの(日向付近の多い家紋)をお使いに成る事も納得できる所です)

当サイトでルーツ由来を伝授しました責任上に於いてむしろお願いする次第です。

言いますのは、この笹竜胆紋の綜紋を使える氏は上記したとおりであり、家紋の知っている人や、歴史知識のある人、明治、大正、昭和20年生まれまでの人であればこのことは良く知っています。

例えば、現在も、天皇家の「菊紋」を誰も使わないのと同じ理由で、限定してたった5家に限られているので、昔から笹竜胆紋は使いません。禁令もあった。

(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏の直系青木氏の「総宗本家」で、現在も使用している。この一族の伊勢青木氏を始めとして存在します。それ以外には誰も使いません。)

どうしても使う場合は、未勘氏の「丸付き紋の笹竜胆紋」を使用するのが「家紋掟」にて、「世間の慣習」から普通です。

この丸付きの家紋の意味は、分家分派分流や母方を含む何らかの薄い血筋を持つ源氏縁者である事を示します。
他の丸付き紋の多くも、この意味をもって居ます。

お宮参りに使用されるのであるのであれば、至急に進言します。
No.1091
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Re: 宮崎の青木です。
たかさん 2007/10/01 (月) 22:21
進言ありがとうございました。

笹竜胆の外周に○を付ける 『丸に笹竜胆紋』ですね。

これを、「丸付き紋の笹竜胆紋」という呼び方があることも、円を付ける事で本家ではないという意味を持つことをはじめてしりました。

今回大変勉強になりました。

ありがとうございました。

ちなみに、着物は既に発注していたんですが・・・偶然、着物屋さんが「お宮参りの男の子には紋の周りに○を付ける人が多いよ!」って言ったので ○付けときました!

これからは 『笹竜胆紋』 ではなく 『丸に笹竜胆紋』 でいきます。


ありがとうございました。
No.1095
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 宮崎の青木です。
副管理人さん 2007/10/02 (火) 06:40
早速のご理解ありがとう御座いました。

安堵いたしました。
着物屋さんも本職ですからこのことを知っていたのですね。

これで、「日向青木氏」も子々孫々まで、その意味が伝わると思います。

お子さんが元気に育つように同じ青木氏としてお祈り致します。
実は私の3番目の男孫も先日、鹿児島市で無事にお宮参りを致しました。
他にも実は、血筋で致しますと、私の伊勢青木氏と頼光系で繋がっています。

日向青木さんも大いに元気な子孫を広げて頂きます様に。

これからも、いろいろなお便りを当サイトにお送りください。
No.1097
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 宮崎の青木です。
たかさん 2007/10/02 (火) 13:21
いろいろとありがとうございました。

日本史は苦手だったんですが自分の『青木』を通じて好きになりました。

これも、良き副管理人さんにお会いできたおかげです。

鹿児島に男孫さんがおられるんですね、ということは私より先輩の方ですね。(私は29歳なんで)

これから、『丸に笹竜胆紋』を大切にして子孫代々受け継いでいけたらいいなと思っております。

家建てたら門にも入れたいと思ってます。^^;

--------------
日向の青木さん
福管理人さんはお出かけ中ですので
この部分だけご希望通り修正いたしました。
本当にびっくりしました。
皆さんによろしくお伝えくださいね。
また、是非お越し下さい。
ありがとうございました。
by かんりにん
No.1203
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 宮崎の青木です。
宮崎の青木ですさん 2008/01/22 (火) 11:36
お久しぶりです

家紋使用に関して至急進言レポートをお読みください・・・

とありますがどこを見ればよいでしょうか?

見る場所の題名等をお聞かせいただけるとたすかります
No.1204
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 宮崎の青木です。
副管理人さん 2008/01/22 (火) 19:42
>お久しぶりです
>
>家紋使用に関して至急進言レポートをお読みください・・・
>
>とありますがどこを見ればよいでしょうか?
>
>見る場所の題名等をお聞かせいただけるとたすかります
宮崎の青木さん 
今晩は。お久しぶりですね。

進言レポートの件は、既に昨年10月1日に読んで頂いて、お家の丸つき紋の笹竜胆紋に変更されています。

ご兄弟の青木さん 野球活躍されていますね。
教えていただき以後応援しています。
又、何か有りましたら、お便りください。
出来るだけ新しいレポートを提供するつもりですので、お読みください。

現在、仮称の「温暖化の裏話」を時事放談で執筆中です。
青木氏に関してのレポートは「青木氏の家訓」の3に入ります。これ原稿編集中です。(現在家訓2です)

追伸
前回のお答えの中で、お家の元祖系譜となる配流された源氏の者の詳細の人物が書き漏れていましたので、追記します。
源広綱、頼政の子
源宗綱、頼政の孫
源有綱、頼政の孫
(源高綱、頼政の子?)

以上三人が1180年の以仁王の乱の敗戦で平家に配流される。

三人は廻氏に匿われる。
大隈の国に簡単な仁田尾城を築城して反乱した。

別に景綱(野州)、盛綱(勢州)、宗綱(能州)に配流
頼政、中綱、兼綱、仲家、仲光、石川有光、足利義房、一来法師は討死

宗綱に関しては能州に配流との説もあり、生き延びたの説もある。
高綱は討死に説もある。
ただ一人子孫を源氏宗家の遺す為に、頼政の3人目の末孫(京綱)は同族の最古の伊勢青木氏の跡目に入れて平家の掃討を逃れて子孫を遺した。

従って、お家の青木氏は広綱か有綱が元祖となります。

つまり、この元祖に付いては伊勢青木氏の京綱(筆者)とは叔父と兄に当ります。頼政の子孫と成ります。

頼政は、清和源氏の経基ー満仲ー頼光より4代目 頼政ー(仲綱): 総宗本家
以上の情報を追加します。
 

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