No.1309
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−家紋200選 −1/10
副管理人さん 2008/08/11 (月) 22:02
(藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−家紋200選)
史料1
「家紋200選」
藤原秀郷主要5氏との家紋を中心として血縁関係等を理解する上で、この「家紋200選」の事を検証し、考察すしておく必要がある。このレポート全体は青木氏外の氏でも関係する内容となる。
そこで、先ずその意味からも次の内容から入る。
「氏と家紋の経緯」
平安時代から明治初期までに約8000といわれる家紋類の中で隆盛を極めた氏の家紋である。
主に江戸中期までを主体としている家紋類である。
氏の家紋的扱いは、当初、「奈良時代」から始まる。その目的は先ず「瑞祥文様」として使われ、式服や幔幕等の単純な装飾の「文様」して使われていた。
次ぎに、それが進み奈良時代末期では律令の法体系化が起こり「八色の姓制」や「冠位制度」等が定められるに連れて、極めて限られた皇族賜姓青木氏などの一部の高位の身分や家柄の「ステイタス文様」として使用が許される様に成って行った。
この「ステイタス文様」は天皇などから勲功や賜姓をうけた皇族が使うもので、誰でもが使用できる習慣ではなかった。
それが「平安初期」に入り、律令制度が整い、それを実行する皇親政治の天皇と云う権威から「賜物」を受ける事で、天皇家を始めとして皇族や公家や高官の「象徴紋」として使われるように成った。
依然として、皇族、公家、などの特定の身分の「40程度の氏」に対して特別の部分(源氏車等諸道具)などの「判別使用の目的」の為に許されていて、それは自由に使える慣習ではなかったし、一般の者もその必要性は生活習慣の中には無かったものである。
しかし、それが平安中期ごろ皇親政治で「氏家制度」と「律令体制」が完成するに従い、法順が整うにつれて次第に身分を表す「権威紋」と化して来た。
この頃、勲功に対して賜姓が多く発せられる等して、権勢のある者はそれを受けようとしたが、「八色の姓」制度や冠位制度等もありながら、遂には、皇族公家のみならず大豪族等も勝手に氏を名乗るようになり始め、その氏発祥に対して朝廷は危惧を感じて特定の使用を禁じる嵯峨期の禁令の詔を発する程になった。
「判別使用の目的」から徐々に勢力を現す「権威の標」として進み「家紋」の様相を呈するように成り「80程度の氏」が使用した。
しかし、「瑞祥文様」−「ステイタス文様」−「権威の標」とこの状況は進み、平安末期には武士の台頭勢力により、その軍団の武力による「力の象徴」として、「氏の標紋」として使用されるように成った。
しかし、まだこの段階では「200程度」の限られた身分や軍団のものであり、源氏一門、藤原氏一門等の武力集団等の氏で家紋であったし、普通の家臣の上級武士はおろか庶民のものではなかった。
この経緯が、鎌倉期に入り、完全に武士の時代となり、地頭、御家人制度が始まり、武士は家紋の持つ統一された軍団に帰属して、個別の氏の家紋では未だ充分になかったが家紋化が始まった時期でもあった。
挙って、その軍団長の主な公家や上級武士などが使用するよう成り、急激に「800程度」と膨れ上がる事になった。
しかし、ここで必然的に膨張した氏の勢力争いの戦いが激しく起こり、軍団の破壊が起こり、個別化し、夫々の小個別軍団化して家紋を持つ様に成った。
まとめると、この間の経緯は次ぎの様に変化した。
この間、大化改新の国体上の歴史期間は、約550年程度である。
「瑞祥文様」(1:天皇家)−「ステイタス文様」(10:皇族)−「象徴紋」(40:公家:身分)−「権威の標」(80:皇族と賜姓族:政治)−「力の象徴:標紋」(200:侍:武力)−「家紋化」(800:武士:氏家)−*
室町初期から始まった下級武士団の「下克上]で傀儡勢力の「打ちこわし」や、「戦国時代」での「氏の生き残り」の殺戮戦が繰り返される状況となった。
益々細分化の軍団化が起こり家紋は増加する様に見えたが、細分化は当然死滅する憂き目もあり、むしろ、この傾向が逆に起こった。この為に家紋の持ち主が変化して、家紋は細分化したが減少したのである。新しい家紋を持つ軍団(氏の集合体)の再編成化が起こったのである。
逆に、「象徴と権威と武力」を示す家紋を持つ旧大軍団は分裂し衰退した。
「氏と家紋(標紋)」のこれ等の反動と変化は、長期間の戦いに突入し、再び、氏は激減し「400程度以下」に戻ったのである。この時は、まだ上級武士階級の「権威紋」であった。
室町末期では氏や家紋の持たない庶民の「立身出世」が起こり、武士から転進した商人や技能者等の庶民に於いても室町文化の影響を受けて、この時期には多くの転進武士の大豪商が増え、それらが商標として、又一部では「家紋的な標」として持つ様に成った。
それら2つの動きがまた何の制限もなく自ら氏を起し、その「判別と権威」を誇示する行為と出て、「家紋」はもとより軍事「旗印」としての「判別標」的なものとして用いられる様にも成った。
「判別と力と権威」(旗印、判別標:「家紋」)の幾つかの家紋と氏を持つ小軍団が組織化されて、再び大きい軍団の下に集約されて行った。
次第に戦いは安土桃山に入り終結期へと進み、氏は再び爆発的に増えて、何時しか「旗印」から色々な意味合いを持ち、未だ限定的であるが、本格的「家紋」的扱いの方へと重点が移って行った。
これで激減した「家紋や氏」は再び「800から1000程度」にも成った。
この頃より家紋類が「族を表す手段」として意味を持ち、「下克上」「戦国時代」などで衰退した「象徴と権威」の「過去の氏」を引き出して「家柄身分」の意味合いも持たして名乗りだし誇示する様に成った。
そして、安定期に入った江戸時代初期には、各大名の家臣等や下級武士を含む旗本等が挙って自前の家紋を持つ様に成り、本格的な家紋として「2000程度」と爆発的に急激に膨れ上がった。
この時点では江戸初期前から中期以降は、下級武士の家紋みならず、武士が商人に成ったり、郷氏、郷士、豪農に転進する事が頻繁に起こった事から国民のかなりの階級まで「家紋」は広がりを示した。
むしろ、家紋を持たない者は立身出世のみならず、異端児扱いの風潮も起こっていたのである。
意味は大してないが、もつ事に意味があるという風潮が広まり、この傾向は更に明治維新に持ち越されて、明治3年と8年の「苗字令」、「督促令」に基づき全ての国民は苗字をもつ事を「義務」付けられた。この時の風潮に伴ない組織化、統制と目的のない自由な氏と家紋も平行して増えた。この時点では最終「7000から8000」とも言われる程と成った。明治政府は特定の家紋使用の禁令を発したが無視された。
しかしながら、無視はされたが、この時点でその氏や家紋は全く意味を持たなく成り始めたのである。
以上が家紋から考察した「氏の経緯」である。
「家紋・氏の経緯」
この間(1240年)の経緯は次ぎの様に成ります。
(家紋・氏数:種:目的:期)
1・「瑞祥文様」(1:天皇家:単純文様:奈良期)
2−「ステイタス文様」(10:皇族:真人朝臣姓:奈良期末期)
3−「象徴紋」(40:公家:身分冠位:平安初期)
4−「権威の標」(80:皇族と賜姓族:政治:平安中期)
5−「力の象徴(標紋)」(200:侍:武力:平安末期)
6−「家紋化」(800:武士:氏家:鎌倉期)
7−「判別と力と権威」(400:武士と商人:旗印・商標:室町期)
8−「限定家紋」(1000:中級武士と商人:家標:桃山期)
9−「本格家紋」(2000:下級武士と豪農:身分出世の具:江戸期)
10−「紋」(8000:国民:無意味:明治期)
11−「*}(2000:*:*:平成期)
現在は、氏は維持しているが、近代化と人口の低下や核家族化が急激に進み、個別の氏や家紋の必要性は失われて、意味を持たなく成り、慣習は無くなり、意識の中に忘れ去られて「2000程度以下」に戻っているのではないかと考えられる。
しかし、これでも明治初期の人口(4000万程度)からすると、0.02%程度になる。
つまり、一つの氏では平均5000人の集団となる。家紋も同等と考えると、大した集団ではないと考えられるが、江戸初期では、更に数字外の事であっただろう。
それだけに明治初期頃に作られたこの「家紋200選」の持つ意味は格別である。
この家紋200選の選別条件は次ぎ様な事に成る。
選別条件を調べると、家柄などに拘らず、先ず、根底に、”隆盛し子孫を大きく残した氏の家紋”の条件が観える。
次ぎに、象徴的な歴史を残した氏の象徴紋、時の政治を主導した権威紋の条件が出て来る。
象徴や権威に関わらず、時代に一生風靡し名を遺した職能紋も条件として出て来る。
分家の家紋が選択されているのに、本家紋がない、この家紋があるのならこの家紋もある筈だ、この家紋が何故選択されている等の疑問が湧くが、調べてみると、良く「歴史」と「子孫」を遺した事が検証されて納得できる事が観察される。
江戸期と明治初期前は封建社会の最低の仕組みは遺されている時の調べであるから、現在から観ると「疑問」と観えるが理解が出来る。
まあ、8000に対して200(2.5%)であるので、統計的には多少のバイアス(10)は認められる事で頷ける。
分家、家紋があり本家家紋がなければ足して理解してもその信頼度は変化しない事に成る。
歴史を研究する場合には色々な判断に使えるので、この「家紋200選」はその様に理解して利用されたい。
家紋200選(順不同:数字は分類)
1 笹竜胆、丸に笹竜胆、石川竜胆、竜胆車
2 下がり藤、丸に下がり藤、上がり藤、丸に上がり藤、加藤藤、軸付き藤輪
3 桔梗、丸に桔梗、中陰桔梗
4 抱き角、丸に抱き角
5 武田菱(四つ割り菱)
6 橘、丸に橘、丸に三つ足橘、井筒に橘、隅切り角に橘
7 丸に花菱、丸に剣花菱、中陰花菱、丸に三つ割り花菱、四つ花菱、七宝花菱
8 丸に三階菱(三階菱)
9 唐花、中輪に唐花
10 片喰、丸に片喰、剣片喰、丸に剣片喰、四つ片喰、丸に四方剣片喰
11 丸に一つ引き、丸に二つ引き、丸に三つ引き、丸に縦三つ引き
12 木瓜、丸に木瓜、陰木瓜、糸輪に陰木瓜、四方木瓜、丸に四方木瓜、立ち木瓜、剣木瓜、庵木瓜
13 丸に州浜、(州浜)
14 揚羽蝶、丸に揚羽蝶、浮線蝶、向かい蝶
15 立ち沢瀉、向こう花沢瀉、丸に立ち沢瀉、沢瀉に水、抱き沢瀉、中輪に抱き沢瀉、(沢瀉)
16 抱き茗荷、丸に抱き茗荷
17 三つ柏、丸に三つ柏、丸に変わり三つ柏、丸に牧野柏、蔓柏、丸に剣三つ柏、丸に一枚柏
17 丸に並び柏、違い柏、抱き柏、丸に抱き柏、中川柏、三つ追い重ね柏、丸に尻合わせ三つ柏、
17 丸に尻合わせ鬼柏
18 五三の桐、丸に五三の桐
19 鶴の丸、舞鶴、丸に鶴の丸、噛合い向かい鶴、向かい鶴
20 丸に三つ葵、(立ち葵)、丸に変わり花立ち葵
21 蔦、(丸に蔦)、中陰蔦、石持ち地抜き大割蔦
22 木瓜(丸に木瓜)、織田瓜、唐五瓜唐花、五瓜に桔梗、五瓜に丸に三つ引き、五瓜に四つ目、五瓜に立ち沢瀉
23 丸に違い鷹の羽、丸に右重ね違い鷹の羽、中輪に陰違い鷹の羽、阿倍鷹の羽、隅切り違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、亀甲に違い鷹の羽、
24 八つ鷹の羽車
25 梅の花、梅鉢、丸に梅鉢、星梅鉢、陰陽裏梅、剣梅鉢、中陰八重向こう梅
26 丸に雁金、(雁金)、丸に結び雁金、丸に二つ雁金、増山雁金
27 松皮菱、丸に松皮菱、三つ松皮菱、五つ松皮菱
28 丸に三つ星、渡辺星、丸に渡辺星、七つ星、丸に七つ星、九曜、丸に九曜
29 左二つ巴、右二つ巴、左三つ巴、丸に左三つ巴、尾長巴、左金輪巴、右金輪巴
30 丸に違い丁子、左二つ丁子巴、右二つ丁子巴、右に三つ丁子巴、丸に右三つ丁子巴
31 平四つ目、新四つ目、丸に隅立て四つ目、丸に平4つ目、十六目
32 中輪に三つ銀杏、向かい銀杏
33 丸に5本骨扇、丸に日の丸扇、三つ反り扇、丸に並び扇、中輪に地紙、檜扇
34 丸に九枚笹(根笹)、丸に根笹、丸に陰若根笹、仙台笹
35 竹輪笹に向かい雀、丸に竹向かい雀
36 丸に三つ鱗
37 櫛松、丸に左三階松、丸に荒枝付き三階松
38 亀甲花菱、亀甲剣片喰、三つ盛り亀甲に花菱、持ち合い三つ盛亀甲に花角
39 丸に立ち梶の葉
40 月に星
41 八つ鶴車
42 撫子、丸に撫子
43 唐団扇
44 陰源氏車
45 角田
46 並び矢、丸2違い矢
47 桜、丸に桜、三つ割り桜
48 半菊一の手、菊水、菊菱
49 丸に抱き花杏葉、別所鼻杏葉
50 左廻り一つ稲の丸、包み抱き稲、抱き稲、丸に抱き稲
51 丸に角立て井筒、丸に井筒、組井筒
52 石車
53 角立て稲妻
54 丸に輪違い、三つ輪違い
55 蛇の目
56 丸算木
57 丸に並び枡
58 細輪に三つ頭合わせ蛤
59 糸輪に向かい鳩
60 丸に笠
以上「家紋200選」である。
No.1311
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−藤原秀郷流青木氏の家紋類−2/10
副管理人さん 2008/08/20 (水) 09:25
史料2
藤原秀郷流青木氏116氏(120)の家紋類
(以下第3の青木氏の家紋、及び、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の家紋類含む)
(詳細説明は家紋掲示板か「青木氏と血縁族」(家紋)のレポート参照)
(各青木氏の家紋類は重複し合計121紋:不明紋含ず)
(・印 家紋200選 59/121 49%)
1 ・笹竜胆
2 ・下がり藤、・上り藤、・加藤藤、上り藤上一、対四つ藤
3 ・州浜、・丸に州浜、三つ盛り州浜、丸に三つ盛り州浜、三つ盛り陰州浜、五瓜に州浜、下り藤に州浜、
4 ・抱き角、・丸に抱き角、四つ又抱き角、隅切りに抱き角
5 ・違い鷹の羽、・丸に違い鷹の羽、並び鷹の羽
6 ・蔦、・丸に蔦、陰蔦、丸に陰蔦、鬼蔦、隅切り角に蔦、八角に蔦、二重瓜に蔦、五瓜に蔦
7 ・木瓜、・丸に木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、糸輪に陰木瓜、五つ木瓜
8 ・片喰、・丸に片喰、・剣片喰、・丸に剣片喰、隅入り平角に片喰、子持ち亀甲剣片喰、五瓜に片喰
9 ・三つ柏、・丸に三つ柏、・牧野柏、・丸に蔓柏、・違い柏、二つ葉蔦柏
10 ・梅鉢、・丸に梅鉢、加賀梅鉢
11 ・五三の桐
12 ・揚羽蝶、・丸に揚羽蝶
13 ・九曜、・丸に九曜
14 ・三つ星、・丸に三つ星、亀甲に三つ星、扇に三つ星
三つ星一つ引き、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、八角に木瓜に二つ引き、五瓜に丸に三つ引き
15 ・桔梗、・丸に桔梗、
16 ・武田菱、割り菱、・三階菱、・丸に三階菱、抱き茗荷菱、丸に一つ目菱、・剣花菱、・丸に剣花菱、松皮菱、四方瓜に重ね菱、・丸に花菱
17 ・橘、・丸に橘
18 ・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
19 ・三階松、・丸に三階松、抱き若松、
20 ・菊水
21 釘抜き
22 ・丸に根笹、・九枚笹、3枚笹、二階根笹
23 立ち葵
24 ・丸に違い矢
25 丸に六つ矢車
26 ・丸に隅立て四つ目、隅切り角に四つ目、丸に三つ目
27 抱き柊、蔓柊
28 ・扇、・丸に扇、違い扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・並び扇、・丸に並び扇、隅切り角に扇
29 ・立ち沢瀉、・丸に立ち沢瀉、花沢瀉、・抱き沢瀉
30 牡丹
31 ・丸に三つ鱗
32 隅入り角に梶の葉、立ち梶の葉
33 三つ銀杏、二重亀甲に三つ銀杏
34 隅切り角
35 枡、丸に隅立て升
36 五瓜に違い鷹
37 丸に青の角の字
38 くつわ
以上38分類の121の家紋がある。
(家紋掲示板は33文様 5紋様は削除)
青木氏の家紋類と「家紋200選」に関する考察
(「家紋200選」は1/10の史料1参照)
青木氏の家紋類の全体の50%は「家紋200選」にある。
青木氏にに拘らず他の主要4氏もほぼ同じ程度である。
この事は青木氏が先ず大変隆盛を極めて子孫を大きく遺した氏である事が云える。
普通の氏では10%程度である事から観ると、格段の違いである。
これは「氏家制度」の血縁の慣習が原因していると見られる。
つまり、血縁の家柄身分の慣習の「吊りあい」を前提としていた過去の社会慣習が左右していたと観られる。
この慣習は昭和20年前の社会慣習では血縁と言う事では未だ多く遺された慣習であった。
この青木氏の家紋類の多くは藤原秀郷流青木氏(70%:200選で35%)の比率となるが、その内容は「家紋200選」の中でも全て大豪族が血縁相手である。
又、護衛と云う役目柄として大豪族と血縁する事でよりその任務が果たせるからに他ならないのである。この様に偏るのはあくまでも戦略的血縁(政略血縁)であり、決して恋愛的血縁ではない。
現在では、華々しく恋愛的血縁であるが、当時の氏家制度の中では「吊りあい」の家柄身分の範疇で行われる政略血縁である。
特に秀郷一門の「第2の宗家」と目される青木氏に関しては、一門(氏)が生き残るための条件を優先されるものがより他の4氏より強かったし、要求されたと観られる。
だから、この様な「数と質」の血縁族との内容と成っている。(これ等は本文で説明)
その「数と質」の血縁には特長があり、青木氏121の家紋から「第3の青木氏」の家紋6氏を除くと先ず全て本家との血縁をし続いて分家、分流、分派の血縁を行っている。
これは採りも直さず、固めに固めていると言う事が観える。これだけ固めれば崩れることはなく一族挙って離反する事はなくなるだろう。これは青木氏本家と血縁先本家がその一族をまとめる事が出来る戦略そのものである。
当時は、未だ群雄割拠の時代で、隙を見せれば潰される時代であり、青木氏の護衛の如何では藤原秀郷宗家の任務が果たせず、家の面子に関わる事でもある。
この時代では理想的な言い分は通らない。実績のみである。この意味からして護衛と云う役目は宗家=青木家である。だから、宗家から跡目を入れて、身内で確固たる体制を築き、下記にも出て来るが、護衛で足利の騒動を守り抜いた「藤姓の足利殿」と呼ばれる事になるのである。
(秀郷総宗本家は「平将門の乱」で武力を持たない貴族になった)
地理的に観ても、その青木氏血縁相手の家紋の氏が、藤原秀郷一門の赴任地にほぼ一致するし、5家の賜姓族の土地柄に一致する。この意味するところは、藤原秀郷一門が戦略的に勢力を高め確固たる基盤を築こうとする「大戦略」に他ならない。
つまり、藤原氏北家が最大勢力を築き、それを背景として政治を主導したのは、この事が大きく影響している。青木氏は秀郷宗家の赴任地に護衛役として同行し、そこで宗家と共に、上記の戦略を展開した主役である事を意味する。
この事は永嶋氏を始めとする主要5氏の7/10−10/10の本シリーズのレポートでも記述するが、藤原秀郷宗家と同格に扱われていて、他の4氏と較べて「第3子の家法」に基づき「青木氏の跡目」も殆ど宗家から入れているくらいである。
「第2の宗家」と当時は見なされていて、書籍では実力者「藤姓の足利殿」と呼ばれていた。
この時期は足利に着任した秀郷7代目の成行の孫の宗家有綱七郎(二郎:秀郷10代目)から跡目を青木氏に入れて、足利に有綱が着任、その跡目を受けた青木氏が護衛役に着いた。実質の実力者である。実質は「足利殿」とは「青木氏」である。この表現は青木氏も宗家と見なされていたことを意味する。「流」から観ても子供であるのでそう云うに呼ばれるであろう。
その後、宗家本流の有綱流より跡目が入り続け、更に有綱より8代目の行久(第2子)まで跡目は続いている。この青木行久が2代目千国から続いた直系青木氏を引き継いだのである。
更に、宗家本流の佐野氏流と同系となり その後、総宗本家以外の本流佐野氏からも跡目が入り青木氏が繋がり、これより青木氏は兼光流の佐野氏を含む秀郷宗家一門筋から第1子を除いて第2子から第7子までの形で跡目は続いているのである。
本論で記述するが、秀郷流とは異なる流の利仁流からも青木氏の跡目が入っている。
これは青木氏の直流の一つに入れたものであり、利仁流の流を組む直流青木氏が引き継がれて行くのである。
当然、直系青木氏からも直流青木氏へ跡目を入れているのであるが、この様にして青木氏は維持され且つ、主要9氏116氏の青木氏が拡大して行くのである。このことは本論で詳しく考察する。
「第3の青木氏」についても、完全にこの氏の掌握は困難であるが、この青木氏(下記:30氏程度)にある氏は藤原一門と賜姓族の青木氏のほぼ勢力圏内での発祥紋と成っている。
つまり、この史料外の史料とも合わせて観ると「第3の青木氏」は、赴任地24地方の域周囲に居た者が他の二つの青木氏に習って名乗った事をこの史料で裏付けられる。
その時期は、家紋の出てきた時期から観て、第1期の室町末期、第2期の江戸初期、第3期の明治初期の内、この青木氏の家紋類から観ると、藤原秀郷一門が鎌倉幕府樹立で失職離散した時より以後の主に御家人、旗本等の発祥期の第2期の江戸初期が主になるであろう。
皇族賜姓青木氏5家5流と24氏(史料3/10)にと、藤原秀郷流青木氏の主要9氏116氏との家紋が24家紋で重複する。そして、それは、藤原秀郷流青木氏116氏の中に全て25家紋(笹竜胆紋含む)は存在する。
秀郷宗家が引き継ぐ綜紋「下がり藤紋」が、秀郷の青木氏宗家にも「下がり藤紋」を確認出来る。
これは秀郷宗家と同じく青木氏宗家でも「第2の宗家」の維持を固くしている事を意味する。
賜姓族の青木氏(信濃青木氏)の笹竜胆紋も重複していることは、秀郷一門の青木氏に跡目を入れていてる事を示すものである。つまり、藤姓の足利の青木氏(下がり藤紋)と相互に跡目血縁し2つの青木氏で何れも男系不継承で秀郷青木氏の方で家紋が笹竜胆、賜姓青木氏の方で下がり藤紋と成った事を意味する。
その重複25家紋に付いては全て「家紋200選」にあり、その「家紋200選」の中でも主要氏の家紋類である。
この青木氏の家紋には、「第3の青木氏」の職能紋(職能の高い伝統を護るために匠と成った者に与えた氏)が2つ含む。主な職能外の「第3の青木氏」は4つ含み合わせて6家紋が含んでいる。
この「第3の青木氏(家紋6)」は、藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓族青木氏の家紋116氏(家紋は重複)に対して、上記の「地理性」から観て同じ程度の家紋の数(下記:MIN30-MAX35)の氏があると見られる。
(秀郷一門20地方と皇族賜姓9地方:未勘と重複含ます゜:発祥していない地域もある)
発祥した「家紋と氏」では地理的には30(25-35)程度だが、第3期の明治期では村全体が突然に集団で名乗った事や、未勘の氏もいれて、第1期と2期では個別で名乗った氏が多かった。
この事から、個別の家紋化をして名乗りをした史実を考えると、(期間-氏-地方)の関係では、明治期を限界として(1125年-116氏:30地方=370年:?氏:30地方)の相対式の計算では?氏=38と成る。
相対式から観ても35(BIAS 3)氏(繁殖と死滅は同等とする)の「第3の青木氏」が存在すると考えられる。(地理的30:相対的35 結論30−35氏)
この結果、2つの結果を考慮すると、全ての青木氏は155−160の氏と家紋と成るであろう。
現在の全青木氏の人口を考察推定する。
全青木氏の数値を使うと、MIN95万-MAX100万(計算 155・5の5乗:家族5・5代=夜叉孫)と成る。これは概して日本の人口の1/120と成る。
家紋数8000として観ると、多い氏と成ろうし、ave50家紋<200で「家紋200選」から観ても主要家紋の氏と成る。
No.1327
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏121氏家紋に付いての研究 (分類)−3/10
副管理人さん 2008/08/26 (火) 10:11
史料3
青木氏121家紋に付いての研究−分類
次ぎの要領で分類する。
「家紋200選」を対象とする。
分類の記述事項とその条件は次の通りとする。
1 由来は文様種と文様の起源等とする。
2 使用氏は藤原秀郷流青木氏、並びに賜姓青木氏に歴史的に関連する氏で代表氏とする。
3 時代は紋様化の時期と家紋化の時期を記する。
4 地域は使用氏の発祥地域と末孫移動域とする。
5 特記は家紋情報に必要とする事柄とする。
「由来−使用氏−時代−地域−特記」
「青木氏と血縁族(家紋)」のレポートと一部重複する。
全体として本連載の本文史料7−10/10と4本文に関連する事項に対して参考となる事項を記述する。
青木氏を研究するには重要史料である。
各文様の主要紋を前提として分類する。
分類
1 ・笹竜胆
由来は、竜胆の花葉を組み合わせた文様化、花の青紫(藍:紫色は高位色)(象徴紋・瑞祥紋)
使用氏は、皇族賜姓青木氏の綜紋(5家5流青木氏、佐々木氏(近江、滋賀)、11代の源氏)。
時代は、奈良大化期から平安中期の家紋化。
地域は、史料4参照(近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐、滋賀、甲賀、駿河、伊豆、河内、摂津、日向)
特記は、この紫花を紋様化してステイタス(象徴の証)として、「大日像」と神木青木の樹木から「青木姓」と共に与え賜姓したのが始まりである。
2 ・下がり藤
由来は、藤紫(高位の色)の藤の花と葉を図案化(瑞祥・象徴紋)
使用氏は、藤原(北家)秀郷一門の綜紋
時代は、奈良期の文様から始まり900年頃に家紋。
地域は、24地方(詳細研究室レポート参照)
特記は、笹竜胆紋に匹敵する歴史と権威を持つ。藤原氏四家は鎌足以来の下がり藤紋を嫌い上り藤に変紋した。秀郷一門9氏の家紋となった。
3 ・州浜、・丸に州浜
由来は、祝事の装飾具の「州浜の島台」を文様とした図案化(瑞祥紋)
使用氏は、常陸小田氏の代表家紋
時代は、室町初期
地域は、常陸、陸奥地方
特記は、陸奥から秀郷一門と血縁、同行して信濃甲斐地方に定住、常陸に大きく末裔を遺した。
4 ・抱き角、・丸に抱き角
由来は、兜の前立から尚武的な文様を図案化。(尚武紋)
使用氏は、諏訪氏(諏訪族青木氏)
時代は、戦国時代頃に家紋化
地域は、信濃諏訪地方、相模、下野、常陸
特記は、信濃青木氏と諏訪族が血縁し、諏訪族青木氏が生まれた。奈良期の時代に発祥。
5 ・違い鷹の羽、・丸に違い鷹の羽
由来は、鷹の勇猛、強靭な羽根を意味した文様を図案化(尚武紋)
使用氏は、浅野氏、、松平氏、菊地氏
時代は、鎌倉時代に家紋化、江戸初期に汎用
地域は、中国地方、安芸から美作
特記は、元は阿蘇神社の神紋、菊地氏より発祥
6 ・蔦、・丸に蔦
由来は、蔦の紅葉・唐草文様に擬似させて図案化(装飾紋)
使用氏は、松平氏一門の代表家紋(高安、富田、椎名)
時代は、江戸中期(享保・吉宗)
地域は、松平氏(代表家紋)11氏の領国(三木、石川、形原、大岡、仁科、山本、志賀等)
特記は、吉宗がこれを家紋化し高安家の家紋と成り一族に広がる。
7 ・木瓜、・丸に木瓜
由来は、御簾の布衿の帽額の文様が図案化、中国官服の文様(装飾紋)
使用氏は、徳大寺氏の家紋で、越前朝倉氏、織田氏、関口氏、平賀氏、野村氏、竹内氏、岸氏等
時代は、平安後期から室町初期
地域は、尾張から遠江地域
特記は、文様は古いが家紋化は1155年頃である。家紋中央に支流紋を入れた大変多い家紋群である。
8 ・片喰、・丸に片喰、剣片喰
由来は、鳩酸草とも云う優雅な形から図案化(草植・植物紋)、車文様。
使用氏は、代表は長曾我部氏、中沢氏、長谷川氏、等 剣片喰紋は酒井氏、
時代は、平安末期−鎌倉時代末期、 室町期−江戸初期
地域は、四国地方全域 安芸美作域、関東地方全域
特記は、四国は讃岐籐氏、関東は藤原氏の勢力圏、四国は助任、安芸の氏 関東は大胡、上泉、の氏 (酒井氏は秀郷一門下総結城氏が永嶋氏に成る前の一時使っていた氏名でその末裔)
9 ・三つ柏、・丸に三つ柏
由来は、古来、柏に職を盛り食す。神聖視し瑞祥信仰の対象 神職の家紋(瑞祥紋・神紋)
使用氏は、伊勢神宮久志本氏、熱田神宮千秋氏、宗像神宮宗像氏、吉田神社卜部氏、吉備津宮大守氏
時代は、平安中期の紋様化し、家紋は平安末期から江戸初期
地域は、大神宮域に存在、全国に分社、血縁関係で全国的
特記は、神紋で血縁から数え切れない氏である。主な氏は山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏
10 ・梅鉢、・丸に梅鉢
由来は、梅の花の写実、図案化の2種 老梅から衣服や調度品の文様(神紋・瑞祥紋)
使用氏は、菅原氏系 代表は松任氏、筒井氏、平氏、斎藤氏、佐々木氏、前田氏、堀氏
時代は、奈良時代から平安末期の文様から、家紋は室町全期
地域は、菅原大社と、藤原氏の春日大社域にも比較的に存在する 畿内から中部西域に分布
特記は、菅原道真系の末孫氏を中心として各地に分布、江戸時代に大名移動で地域外の氏もある。
11 ・五三の桐
由来は、桐の葉と花を形象化 聖王の出現で現れる瑞鳥の鳳凰止まる嘉木(瑞祥紋)
使用氏は、特定できない。(特記)
時代は、平安時代の天皇家の象徴紋から鎌倉時代 江戸初期前後と明治期に庶民
地域は、特定できない。
特記は、元は天皇家の象徴紋で足利尊氏、豊臣秀吉が使用許される。しかし、豊臣家は大名に下賜し、大名は家臣に下賜し、遂には出兵に出た農民にも使用を無秩序に許可した。時代を通じて3度も禁令を発したが護られなかった。庶民の使える家紋と成る。
12 ・揚羽蝶、・丸に揚羽蝶
由来は、鎧兜、車、調度品の文様を図案化(尚武紋・象徴紋)
使用氏は、京平家(桓武平氏:六波羅党が車文様に使用した)
時代は、平安末期に文様化 江戸初期前後に家紋化(末裔が京平氏の家紋化)
地域は大隈、中国地方、関西地方より西、四国地方、其の他は未勘平氏
特記は、本来、京平氏の正式家紋ではない。池田家の家紋(車紋の象徴紋で末裔が家紋化した)
13 ・九曜、・丸に九曜
由来は、星辰信仰の対象で北斗七星の方角と時間の指針 (天象紋)
使用氏は、細川氏 佐竹氏など(北九州の豪族)
時代は、室町時代
地域は、西中国地方から北九州地方
特記は、九曜紋は細川氏系の10家紋がある。本家細川氏は細川九曜紋
14 ・三つ星、・丸に三つ星
由来は、妙見信仰から図案化(信仰紋)
使用氏は、児島氏、毛利氏、吉川氏
時代は、室町時代
地域は、中国地方
特記は、三つ星は将軍星と言われ好んで家紋化
15 ・桔梗、・丸に桔梗
由来は、桔梗の美麗な花を図案化 兜や薬効で出陣腹中にして戦勝したので後に家紋化(植物紋)
使用氏は、土岐氏系一門(小柴、榊原、太田、遠山、恒岡、安藤)各氏
時代は、平安時代の文様 室町期に家紋化
地域は、中部地方
特記は、着色文様では始めて 清和源氏支流
16 ・武田菱、割り菱
由来は、織文様で菱の形に類似(菱紋と唐花菱紋)、中国渡来の文様、(形象紋)
使用氏は、武田氏系一門の代表家紋(武田菱6氏、割菱9氏、花菱5氏)20氏
時代は、平安中期の文様 室町中期-江戸初期の家紋
地域は、甲斐、北関東地方
特記は、武田氏は武田菱(軍旗)と唐花菱紋(祭祀)を使い分。支流末孫が後に家紋群を広げた
17 ・橘、・丸に橘
由来は、橘の葉実の図案化 多遅間毛理が持参(垂仁天皇)「たじまの花」:「橘」 (植物紋)
使用氏は、橘氏(葛城王:橘の諸兄)系一門 薬師寺氏、井伊氏
時代は、平安時代初期の文様 平安末期の家紋
地域は、畿内 江戸時代各地に分布
特記は、皇族系で「源平籐橘」の4氏有名 藤原氏に潰され家紋嫌われる
18 ・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
由来は、茗荷の花を図案化 「冥加」の同音で縁起 (植物紋)
使用氏は、二宮氏系一門(伊勢の鳥羽氏、稲垣氏 近江の小沢氏、山下氏)
時代は、室町初期(二宮氏)、江戸時代
地域は、近江地方、伊勢地方(鳥羽、永嶋)
特記は、天台宗の摩多羅神の神紋
19 ・三階松、・丸に三階松、抱き若松、
由来は、松の樹齢から慶賀、瑞祥の意味を持ち、調度器具に使用、松の形を図案化(瑞祥紋)
使用氏は、讃岐籐氏系一門 讃岐の寒川、福家、飯田、新居、羽床氏、安芸-美作の松田氏
時代は、平安時代の文様 江戸時代の前期の家紋化
地域は、讃岐を中心とする四国地方
特記は、この紋の氏は松、林を使った氏が多い、庶流の多い氏で20程度もある。
20 ・菊水
由来は、古来中国の菊と水の形象の瑞祥文様 延命の意がある 調度衣服の文様(瑞祥紋)
使用氏は、楠木氏系一門の独占紋(和田、松村、内田、橋本、竹村氏)
時代は、鎌倉初期の文様 南北朝時代の家紋化
地域は、紀州九度山、三重、奈良地域
特記は、楠木正成で有名
21 釘抜き
由来は、大工道具の「釘抜き」を図案化 後説では千金万金と九城を抜くの縁起の意 (形象紋)
使用氏は、松平大給氏、長谷川氏支流(下川辺氏等)
時代は、室町末期
地域は、近江地方、関東下総の葛飾、駿河小川
特記は、多説 (職能紋の説、宇多源氏滋賀佐々木氏の一門説、長谷川氏支流説、松平大給氏説)
22 ・丸に根笹
由来は、歳寒三友(松竹梅)桐鳳凰の文様から独立 家具や調度品の文様 公家紋(瑞祥紋)
使用氏は、仁木氏、桜井氏
時代は、平安末期の文様 鎌倉時代の家紋化 江戸時代の家紋
地域は、上総下総地方 広くは関東地方
特記は、公家が文様を多く使用し象徴紋とした。後に、家紋化
23 立ち葵
由来は、葉を図案化 加茂神社の神紋 信仰的意義がある。(神紋:権威紋)
使用氏は、丹波国の神社氏子の西田氏が使用、神社神官(松平、本多氏)が家紋 徳川氏系
時代は、平安-鎌倉の文様 室町期に家紋化
地域は、丹波ー三河地域に分布
特記は、善光寺の寺紋 葵紋の禁令で分布せず、松平氏系の一代限の平井、山田氏等が使用した
24 ・丸に違い矢
由来は、武勇を表す矢を家紋化 (形象紋)
使用氏は、松平深溝氏系一門 矢の着く姓で武家紋として扱われた
時代は、江戸初期
地域は、中部地方-西関東地方
特記は、矢紋では家紋名も明らかでない物が多く一定せず。
25 丸に六つ矢車
由来は、武勇を表す矢を家紋化 (形象紋)
使用氏は、不詳(荒川氏)
時代は、江戸中期
地域は、関東地方
特記は、小氏で主に荒川支流域に分布
26 ・丸に隅立て四つ目、隅切り角に四つ目、丸に三つ目
由来は、染物文様の図案化 衣服直垂の文様
使用氏は、佐々木氏(椎名氏含む)系の支流(高山、幸田、馬場、鍋島、千田、小島氏)
地域は、近江、滋賀地方
時代は、平安末期鎌期に紋様 室町期に家紋化
特記は、4つ目は近江、滋賀皇族賜姓族一門、三つ目(磯部、由井氏)等の支流一族が使用
27 抱き柊、蔓柊
由来は、古代この柊木で矛を作った 後に悪魔退散の意味になった (植物紋)
使用氏は、関東7党の丹治氏系一門の大関一門(末裔 山本、林、早川氏)
地域は、関東地方
時代は、平安末期の文様 江戸中期の家紋
特記は、柊明神の氏で家紋化した(大名 下野黒羽藩大関氏)
28 ・扇、・丸に扇
由来は、末広の縁起から図案化 (形象紋)
使用氏は、佐竹氏、大蔵氏系 (松平深溝氏系庶流)
地域は、北九州地方(筑後、豊後、豊前)
時代は、江戸初期
特記は、使用氏の庶流は副紋使用している。
29 ・立ち沢瀉、・丸に立ち沢瀉
由来は、水辺の白い花を尚美的図案化 兜、直垂、車の文様に使用し家紋化(装飾紋)
使用氏は、越中椎名氏、酒井、土井、水野、奥平、堀氏の徳川氏の重臣とその庶流
地域は、主に三河、尾張地域、一部に豊後地域
時代は、平安末期の文様 江戸初期に家紋化
特記は、この地方によく沢瀉草が繁殖自生、
30 ・牡丹
由来は、中国で富貴な象徴で、衣服と車の文様 観賞用薬用花 (象徴紋)
使用氏は、近衛家、九条家、鷹司氏、難波氏系の一門(公家)の家紋
地域は、京都 畿内地方 特記各大名の地域
時代は、平安中期の文様 江戸初期の家紋化
特記は、武士では縁戚により伊達、島津、鍋島、本間氏
31 ・丸に三つ鱗
由来は、織文様から図案化 (装飾紋)
使用氏は、北条氏の代表家紋 平野氏、江間氏、岡野氏 前北条氏と後北条氏の末裔
地域は、小田原、鎌倉、駿河、遠江の坂東地域
時代は、平安末期の文様 鎌倉時代に家紋化
特記は、戦国時代に衰退 家紋(末裔隆盛なし)少ない。(一族紋は25)
32 立ち梶の葉、隅入り角に梶の葉
由来は、古代、梶は和紙の原料、諏訪社の神紋 ご幣に使用した (神紋)
使用氏は、諏訪氏系一門、下条氏、山辺氏、西牧氏 保科氏 保科氏 松浦氏 有賀氏 安部氏
地域は、信濃地方(諏訪) 会津地方 高嶋地方 平戸地方
時代は、平安時代末期の文様 室町末期の家紋化
特記は、隅入り角に梶の葉は向山氏 信長の追討で諏訪氏逃亡先に定住して末裔広げた
33 ・丸に二つ引き、丸に一つ引き、丸に三つ引き
由来は、軍旗の横に5段の布を色染め分けて着け大将の所在を示した。図案化(形象紋)
使用氏は、足利氏一門 新田氏、今川氏
地域は、信濃地方
時代は、室町期初期
特記は、足利幕府一門とその豪族名家の幕臣が使用した。一族は添え紋方式を採っている。
34 三つ銀杏、二重亀甲に三つ銀杏
由来は、銀杏の葉を図案化した 銀杏は長寿命樹 公孫樹とされ形象の美から家紋化した(植物紋)
使用氏は、西郡氏 大石氏、大柴氏、長谷部氏、大柴氏、大岡氏
地域は、中国地方から関東地方
時代は、平安末期の文様 江戸初期の家紋化
特記は、関西以西の氏では土方氏、水島氏、坪内氏、間部氏がある。
35 隅切り角
由来は、衣服、調度品、建築物の文様 正方形を変形させ図案化 (図形紋:職能紋)
使用氏は、不詳、不定
地域は、不詳、不定
時代は、平安末期の文様 不定(江戸時代の中期)職能紋として発展
特記は、職能(匠)による伝統継承の証として青木氏を与え家紋とを継承した
36 枡、丸に隅立て升
由来は、穀物を計る枡の図案化 (34の角紋と同様)(図形紋:職能)
使用氏は、不詳 不定
地域は、不詳 不定
時代は、不定(江戸時代中期)職能紋として発展
特記は、職能(匠)による伝統継承の証として青木氏を与え家紋とを継承した
37 五瓜に違い鷹
由来は、中国の官服の文様 木瓜紋に唐花が基本 (植物紋)
使用氏は、渋江氏(浅野一門との血縁族)
地域は、中国地方
時代は、平安中期の文様 江戸時代中期の家紋化
特記は、横木瓜を基本 木瓜紋の変形紋4-8の一つ 五瓜の中央に血縁紋の鷹の羽入り
38 丸に青の角の字
由来は、字を角紋様化したもの (図形紋:職能紋)
使用氏は、不詳 不定
地域は、不詳 不定
時代は、不定(江戸時代中期)職能紋として発展
特記は、職能(匠)による伝統継承の証として氏(青木氏)を与え家紋とを継承した
39 くつわ
由来は、馬の口輪「くつわ」を図案化 (形象紋)
使用氏は、不定 馬廻氏、馬場氏、大島氏 大草氏、馬上氏
地域は、不詳 不定
時代は、不詳(江戸時代−明治初期) 大名の馬周りの職能を引き受けた職人群の家紋化
特記は、職能紋は農民では馬字を着く姓に集中 武士では馬役人(大草氏)家紋
以上青木氏に関する家紋情報である
(注)家紋は代表家紋を表す。又、第3青木氏以外に家紋、ルーツなど確認出来ない藤原秀郷一門と観られる未勘青木氏が九州北西部、北陸地方の数地方に村を形成して存在する。
No.1328
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−皇族賜姓青木氏29氏(詳細) −4/10
副管理人さん 2008/08/26 (火) 15:28
史料4
皇族賜姓青木氏(嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏も含む)はどの様な家紋と系列を持っているがと云う事を理解する必要がある。
そこで次ぎにそれを示す。
皇族賜姓青木氏5家5流と24氏の家紋類は次ぎのように成る。
皇族賜姓族の笹竜胆紋 5氏(5家5流の青木氏:第6位皇子臣下族:朝臣族:浄大1−3位)
1 以下5氏
伊勢の青木氏(笹竜胆紋:天智天皇)
近江の青木氏(笹竜胆紋:天武天皇:摂津青木氏)
美濃の青木氏(笹竜胆紋:文武天皇)
信濃の青木氏(笹竜胆紋:聖武天皇)
甲斐の青木氏(笹竜胆紋:光仁天皇)
以上5家5流の青木氏は夫々の国の国府地域に定住している。末裔及び分家は現存している。
2 以下24氏
(皇族青木氏含む 未勘の青木氏5氏含まず)
支流 笹竜胆紋 3氏
佐々木系青木氏(笹竜胆紋:近江:近江青木氏と近江佐々木氏との血縁族)
佐々木系青木氏(笹竜胆紋:滋賀:近江青木氏(分家)と宇多天皇の滋賀佐々木氏と血縁族)
滋賀の青木氏(笹竜胆紋:滋賀:近江青木氏の一部が滋賀残留族の分家:注釈1)
(近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子で賜姓族:笹竜胆紋)
(滋賀佐々木氏は宇多天皇の第6位皇子で賜姓族:笹竜胆紋)
皇族青木氏 4氏 (嵯峨期の詔で発祥した氏)
左大臣島氏流青木氏(笹竜胆紋:島王:真人族)
橘氏流青木氏(橘紋:葛城王:宿禰族)
橘氏流青木氏(丸に橘紋:葛城王:宿禰族)
多々良氏流青木氏(未勘:多々良王:朝臣族)
皇族青木氏 5氏
(多治彦王系青木氏:武蔵7党:嵯峨期の詔で発祥した氏:配流先子孫)
丹治氏流青木氏(丸に揚羽蝶紋:三頭巴紋紋)
丹治氏流青木氏(三つ鱗紋:富士山)
丹治氏流青木氏(丸に鱗紋:富士山)
丹治氏流青木氏(花菱紋:九曜紋)
丹治氏流青木氏(州浜紋:蔦紋)
美濃 皇族賜姓支流 2氏
土岐氏系青木氏の本家(桔梗紋)
土岐氏系青木氏の分家(丸に桔梗紋)
信濃 皇族賜姓支流 3氏
諏訪族青木氏の本家(抱き角紋)
諏訪族青木氏の分家(丸に抱き角紋)
武田氏系諏訪族青木氏(二つ引き両紋:甲斐)
信濃 皇族賜姓支流 3氏
足利氏系青木氏の本家(二つ引き両紋)
足利氏系青木氏の分家(一つ引き両紋)
足利氏系青木氏の分家(三つ引き両紋)
(足利氏系青木氏の本家一部米子、八頭に移動し定住)
甲斐 皇族賜姓支流 2氏
武田氏系青木氏(割り菱紋)
武田氏系青木氏(武田菱紋)
越前 皇族賜姓支流 1氏
信濃青木氏の分家(笹竜胆紋、丸に笹竜胆紋:越前北の庄、坂井郡の2家)
信濃青木氏の本家一部は加賀、越前に定住(家紋不詳)
清和源氏 4氏
清和源氏系青木氏(丸に笹竜胆紋:日向:頼光流−注釈2)
清和源氏系青木氏(笹竜胆、丸に笹竜胆紋:伊豆(駿河):頼光流−注釈3)
清和源氏系青木氏(笹竜胆、丸に笹竜胆紋:駿河(伊豆):頼信流−注釈4)
清和源氏系青木氏(笹竜胆、丸に笹竜胆紋:甲賀:頼光流−注釈5)
(清和源氏は4地方の宗家に跡目を入れている−注釈7)
未勘氏 4氏(注釈6)
未勘源氏系青木氏(未勘:梅鉢紋:美濃:土岐氏系)
未勘源氏系青木氏(未勘:剣片喰紋:信濃:足利氏系)
未勘源氏系青木氏(未勘:花菱紋:尾張:頼信流:武田氏系)
未勘源氏系青木氏(未勘:割菱紋:尾張:頼信流:武田氏系)
(注釈7の分流族と考えられるが確証は取れない未勘氏)
未勘氏 1氏
伊川津党青木氏(未勘:沢瀉紋:三河:土岐氏系?)
(注釈1 滋賀青木氏は同族佐々木氏(近江)との軋轢から近江青木氏が一時一族が滋賀に移動する。後に戻り摂津青木氏と成る。 滋賀に残留した分家が滋賀青木氏と成る。この滋賀青木氏が後に伊賀上山郷の出身の上山氏がこの絶えかけた分家を乗っ取り、衰退した分家娘と目される者を探し出し、これに上山氏男系跡目を入れて青木氏を奪い取った。後に本家と2度の争奪戦が起こり元上山氏は勝つ。この元上山氏の青木氏は、身分家柄を得て、結果10地方の国司を勤めるなどの大勢力を築く事に成った。)
(注釈2)
「日向青木氏」は源氏宗家の源頼光−頼政4−仲綱5の3子の2人(宗綱、有綱)と頼政の子の広綱の3人が「以仁王の乱」で平家との戦いに敗退し日向国に配流(以仁王の乱)となる。この時、土地の豪族廻氏との間に嫡男誕生し、その後押しで大隈国仁田尾城を築き、再び平家に対抗し敗退、嫡男を連れて薩摩の大口村まで逃走した一族末孫である。この時匿った寺の僧侶から嵯峨期の詔に基づき朝臣族jの配流末裔孫である為に青木氏を名乗る事を勧められ平家の追求を逃れた。九州唯一(日向から薩摩大口に分布)の青木氏でこの末裔 現存)
(注釈3)
伊豆(駿河)の青木氏は頼政(宗家頼光4代目:源氏再興:以仁王の乱)の清和源氏の守護領国であり、領国管理(甲賀、伊豆)の為に、頼政の孫の京綱(仲綱の子)が跡目に入った皇族賜姓伊勢青木氏(伊勢の一部)が護衛団として派遣されていた。この末孫が定住した所である。
但し、この3国のその移動族には本家筋の笹竜胆紋が存在する。
注釈2の日向青木氏の祖の有綱、宗綱と京綱(伊勢青木氏の跡目)とは3兄弟で同族である。
(注釈4)
頼光より信濃と甲斐の守護代を譲りうけた頼信が関東(伊豆、駿河)に進出したときに注釈2のこの伊勢青木氏を頼りに駿河のこの地点に拠点を置いた時の賜姓青木氏(信濃、甲斐)が定住する処である。伊勢の青木氏の支流伊豆青木氏と信濃青木氏、甲斐青木氏の支流駿河青木氏とこの2つの支流族が血縁し発祥した青木氏がこの伊豆と駿河地方に定住する。
伊豆よりは伊豆青木氏(伊勢青木氏)、駿河よりに駿河青木氏(信濃青木氏、甲斐青木氏)この両方の地域に伊豆駿河血縁族の青木氏が存在する。
尚、この東の神奈川よりに信長に追われて逃亡してきた諏訪族青木氏一部と、横浜よりに藤原秀郷流青木氏が定住する。この一帯に6つの青木氏が定住する。当然、この5つの血縁族が定住している事が考えられる。
(注釈5)
清和源氏源の頼光(河内、摂津、近江、甲賀、伊勢、信濃、甲斐の守護、守護代を務める)の領国で守護を務めた内の一つ甲賀国の青木氏である。
この青木氏は近江青木氏で頼光に護衛団として同行した支流族である。
(注釈6)
未勘源氏5氏は史料から現在のところまで歴史的史実が取れない。研究過程に於いて判明する事で24氏に加える事とする。
主に清和源氏の未勘の末裔としているが、源氏史料(行動)の史実が少ない為で確定できない。
これ等は「嵯峨期の詔」に基づく「朝臣族」の青木氏と成っている。
後に、各地に平家に追い詰められた清和源氏(木曽源氏等)には朝臣族として青木氏を名乗った未勘一族(木曽青木氏等)が幾つか存在する。
(注釈7)
清和源氏の青木氏跡目
甲斐青木氏1 頼信の孫の義光(1055)より8代目源光(1195)が跡目
甲斐青木氏2 義光より15代目義虎(時光系)が跡目(5流に分流)
信濃青木氏1 頼信より2代目義康が足利氏に跡目(足利氏系青木氏)
信濃青木氏2 義光より16代目義康が跡目
信濃青木氏3 義康より3代目実国が跡目(4流に分流)
美濃青木氏1 義光より8代目時光(源光の弟)から11代目(不詳)が跡目
美濃青木氏2 義光より9代目(不詳)が跡目(5流に分流)
伊勢青木氏 頼光より4代目頼政の孫(仲綱の子)京綱が跡目(1184頃)(3流に分流)
(注):上記24氏の支流族の主に分家筋の家紋が一部で江戸中期から明治初期までの間で僅かであるが「男系不継承」で家紋が変化していることもあり得る。
(注):上記24氏の皇族青木氏と賜姓青木氏は原流と成ったものである。
No.1333
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏と同一血縁類の解析 −5/10
副管理人さん 2008/08/30 (土) 17:31
史料5
(解析資料1)
青木氏と同一血縁類の解析(青木氏の「氏力」の解明)
解析の目的
青木氏の116氏の家紋類に対して、他の主要4氏と同一の家紋を持ち血縁している氏を調べ、その青木氏の「氏力」や秀郷一門の中での「位置付け」等を家紋データ分析で割り出し考察する。
解析
分類の為に次ぎの記号を用いる。
藤原秀郷一門の主要5氏
永嶋氏(N1)、長沼氏(N2)、長谷川氏(H)、進藤氏(S)
(青木氏全121氏で調査する)
(・印 家紋200選)
「共通血縁族」(5-2)の4分類
青木氏との共通血縁族
青木氏と他主要4氏との同一血縁類(全5氏)
・下がり藤 (N1:N2:H:S)
・笹竜胆 (N1:N2:H:S)
・丸に片喰 (N1:N2:H:S)
・丸に剣片喰 (N1:N2:H:S)
・丸に立ち沢瀉 (N1:N2:H:S)
・丸に違い鷹の羽(N1:N2:H:S)
・丸に梅鉢 (N1:N2:H:S)
・五三の桐 (N1:N2:H:S)
以上7家紋である。(五三の桐含まず)
青木氏と他主要3氏との同一血縁類(全4氏)
・上り藤 (N1:H:S)
・九曜 (N2:H:S)
・抱き茗荷 (N2:H:S)
・丸に桔梗 (N1:N2:S)
・橘 (N2:H:S)
・丸に橘 (N2:H:S)
・丸に抱き茗荷(N1:H:S)
以上7家紋である。
青木氏と他主要2氏との同一血縁類(全3氏)
・丸に隅立て四つ目(N1:N2)
・桔梗(N1:N2)
・丸に蔓柏(N1:H)
・丸に木瓜(N1:H)
・三階菱(N1:H)
・梅鉢 N1:H)
・立ち沢瀉(N2:H)
・丸に横木瓜(H:S)
・蔦(H:S)
・丸に蔦(H:S)
・片喰(H:S)
・剣片喰(H:S)
・丸に陰蔦(H:S)
・橘(H:S)
・丸に二つ引き(H:S)
・九枚笹(H:S)
以上17家紋である
青木氏と他主要1氏との同一血縁類(全2氏)
・抱き沢瀉(N1)
・丸に三つ鱗(N2)
・丸に剣花菱(N2)
・木瓜(H)
・横木瓜(H)
・違い柏(H)
・丸に根笹(H)
・武田菱(H)
・剣花菱(H)
・丸に九曜(H)
・丸に一つ引き(H)
・丸に三つ引き(H)
・揚羽蝶(H)
・松皮菱(H)
・三つ柏(S)
・菊水(H)
・三階松(H)
・丸に三階菱(H)
・丸に三つ柏(S)
・釘抜き(N1)
丸に陰蔦(S)
三つ引き (H)
以上22家紋である
合計53家紋である。
4分類の史料の考察
この関係資料はどの様な意味を持っているのか、考察してみる。
この考察は主要5氏がどの様な関係を持ち、どの様な「氏力」を持って藤原氏を支えていたかも判るので、下記にそれらを考察する。
まず、上記の結果から、青木氏との共通血縁族の比率は次ぎの様に成る。
1 共通比から観た考察
他の4氏比 共通数(主要4氏の氏数:比率)
5氏 7 (246:3%) 13
4氏 7 (246:3%) 13
3氏 17(246:7%) 32
2氏 22(246:9%) 42
青木氏比 共通数(青木氏の氏数:比率)
5氏 7 (116:6%)
4氏 7 (116:6%)
3氏 17(116:15%)
2氏 22(116:19%)
全体比(共通数/全体数)
5氏 13%
4氏 13%
3氏 32%
2氏 42%
以上 合計53共通血縁数
この共通比は、共通5氏から2氏までを、夫々青木氏(116)、他の4氏の全氏数(246)が締める割合である。
青木氏の「氏力」の考察
(0) 「第2の宗家」の証拠
116/246(氏数比=青木氏/他の4氏)は、丁度1/2(47%)である。
この数字から、青木氏の氏力は他の4氏合わせての半分であり、如何に大きい「氏力」を秀郷一門の中で持っていたかが判る。3氏あわせても青木氏と同じであるのだから、「第2の宗家」と云われる所以が判る。
(1) 「第3氏の家法」「第2の宗家」の証拠1
秀郷宗家は「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして全力を注いでいた事を示す1つ目の大きな証拠でもある。
全氏共通数(共通比=53/116)の比46%とは、他の4氏に対して(無条件)全共通氏は、氏数比と同じく、丁度1/2(47:46)で同比である。
全体でみても青木氏だけで見ても同比は大きい。
(2) 「第2の宗家」と「第3氏の家法」の証拠2
この2つの47%と46%とを考察しても、明らかに間違いなく、青木氏(116)に対して、これも秀郷宗家が「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして、全力を注いでいた事を示す2つ目の大きな証拠でもある。
(3) 「親族関係」>「同族関係」の証拠
青木氏の内部の氏は、「氏数比」47と「共通比」46とも半分を占めているのであるから、同族というよりは”「親族関係」にある”と云うことでもあろう。
(4) 「5氏相互間血縁」>「個別間血縁」の証拠
この数字から、一つ推論が湧く。
青木氏が、例えば他の4氏外のある氏(X)と血縁して、そして、又、他の4氏がある氏(X)と血縁して、出来た個別の偶然の氏が出来たのでは無く、”5氏の内の何れかが他氏と血縁して、それが5氏と互いに血縁をした。”と云う事に成るのではないか。
そうでなくてはこれ程(47、46)の大きい数字は偶然では示さないだろう。
即ち、「個別間血縁」(イ)の結果では無く、「5氏相互間血縁」(ロ)である事を示す。
偶然ではないこの様な2つもの高い比率は果たしてどうして生まれたのであろう。
(5) 「恣意的血縁」>「互恵的血縁」の証拠
では、確率的に互恵的な「相互間血縁」なのか、恣意的に戦略的な「相互間血縁」なのかの疑問が湧く。
統計確率論からは50%偶然は無い。まして、5氏ともに定住地と行動範囲は別であるとすると、「氏数比」=47%、「共通比」=46%であり、5氏+4氏=26%、5氏+4氏+3氏=58%となるとすると、”恣意的に戦略的な「相互間血縁」”となるだろう。
一門の1/3から1/2が同紋であると云う事は、「人、場所、時」の条件が違うのだから、互いの自由意志での「互恵」では余程の偶然が起こらない限り成し得ない数字である。
つまり、誰かが仕掛けた「政略血縁」と成る。
(6) 「青木氏」で「一族固め」の証拠
では、”誰で、目的は何なのか”と推理は進む。
先に、答えは、{青木氏}で、{一族固め}である。
では、その根拠は、この数字は青木氏との関係数字である。従って、青木氏の内容を調べる事で判る筈である。
上記の「共通血縁数」はと比率は、全て「家紋200選群」の家紋と成っている。
青木氏の「共通血縁数」を構成している「家紋200選」の比を見る事で、大まかな事は判る。
(詳しくは史料2と本文の考察で記述している)
家紋200選比は49%である。(121)
第3氏と未勘氏と賜姓族を除けば、藤原秀郷比は70%と成る。
偶然では2氏=42%は無理には考えられるが、58%の共通比は難しく、この数字は70%の影響を受けている事に成る。
では、その58%の氏を内訳を見てみると、「主要共通血縁族8氏」なのである。8家紋群でこの58%が占められている。(下記)
従って、明らかに、「青木氏」が中心に成って、、”「恣意的」に戦略的な「相互間血縁」”をリードした事になる。
(7) 「相互間血縁」=「絆」の証拠
更に考察を進める。
その、「5氏相互間血縁」(ロ)の内容は、次ぎの様に成る。
5,4,3,2の順で観てみると、6,6,15,19%となる。
判りやすくすると(6を1とする)1(13%),1(13%),2.5(33%),3(41%)と成る。
ここで、「共通性」を大小二つに分けると、5氏と4氏(大)、3氏と2氏(小)とすると次ぎの様に成る。
(大)は26%、(小)は74%の共通性と成る。
つまり、1:3の関係である。
この関係を5氏の「血縁力」(絆:強弱)と観て評価すると、全体(46、47)の3割が「強血縁力」で占められて、7割がそれを補足している形を占めす内容と成る。
偶然(イ)ではない、「5氏相互間血縁」(ロ)は、3割もの強い「絆」で結ばれていた事を表す。
(8) 「青木氏一門の長期繁栄」の証拠
藤原秀郷一門の主要5氏は、2倍の力を持つ青木氏を中心として、極めて強い絆で結ばれていた事を物語り、それ故、藤原秀郷一門は他の藤原氏と異なり、総宗本家を中心に江戸時代まで各地でその勢力を堅持していたことを裏付けられる証拠である。
(9) 「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏の証拠
そして、このデータから、その一門のリーダーは青木氏で、宗家「下がり藤紋」を先頭に、それを補佐として5氏共通の・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族の「家紋4大血縁族」が固め、・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉の「家紋4血縁族」が2重固めをしていた事を示すデータである。
「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)
「秀郷主要5氏」の中では、次ぎの様に成る。
「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」
・丸に片喰・丸に剣片喰・丸に違い鷹の羽・丸に梅鉢族
・九曜・抱き茗荷・丸に桔梗・丸に立ち沢瀉
以上の青木氏が固めていた事に成る。
(10) 「青木氏主要8氏」(武家)の証拠
秀郷一門の組織=「藤原秀郷総宗本家」(貴族)−「秀郷主要5氏」(武家)−「青木氏主要8氏」(武家)
このデータが面白い事を示している。
それは、上記の8氏の血縁力は地理的に明確な形(分布=勢力圏)を示しているのである。
(11) 「大」の字の広域勢力圏の証拠
それは、畿内と四国を中心として、西には東中国、東には西中部に手を広げた形を示し、それを緩やかにラップするかの様に北九州の東、東中国、中部中、西関東に勢力圏を保持している事に成る。
勿論、拠点は坂東の武蔵を青木氏116氏の本家筋が螺旋状に固めている広域陣形がある。
陣形から観ても隙が無いもので、偶然に創り上げたものではなく「戦略的」に行ったと考えられ納得できる。(家紋分布史料参照)
ところで、「六韜三略」と云う攻守の戦法の基本があるが、これに合致した全く驚きいる隙の無い「氏の血縁力(内部)」と「陣形」を敷いている。
秀郷一門の青木氏は余程の軍略司が居たと観られる。
確か、これでは、歴史的に観て、信長、秀吉が中国関東の東西両方と四国の域に手を出せなかった事が言えるし、「手一杯」であった事を事実として物語る。
だから、この隙を狙って、信長等に追われた諏訪族青木氏等の賜姓族青木氏は2つの域のここに逃げ込んだことが納得できる。つまり、秀郷流青木氏が護衛守備軍として宗家に変わって、血縁関係のある賜姓青木氏を迎え入れたのである。
即ち、共通5氏の「笹竜胆紋」と共通4氏の「橘紋」の血縁関係、青木氏の「下がり藤紋」の血縁関係が成立していた事に依り、そして、そこには、上記の「血縁族8氏」と「血縁族」がスクラムを組んで存在したのであるから出来た事である。
皇族笹竜胆族29氏(笹竜胆族と24氏重複血縁)と繋がった藤原秀郷宗家が入間に鎮座していたのである。逃亡先にした事が納得できる。
当然、四国の讃岐籐氏の「下がり藤(副紋雁金紋)」の讃岐青木氏宗家と、それを補佐する「共通血縁族主要8氏である阿波、土佐東の青木氏の片喰、剣片喰紋の青木氏が率いる処にも逃避した事が理解できる。
そこで、余談であるが、歴史を思い起こすと、賢かったのは「家康」である。
この藤原秀郷一門の中に入り、その「氏力」を利用したのであるから。江戸初期以後は諏訪族を含む藤原秀郷一門は徳川氏の旗本と御家人になったがこれでは天下は確実に取れる。
同じ秀郷一門の軍師真田氏分家は家康を一刀両断の刀振り下ろす所まで追い詰めたが、両断はしなかった。下ろすと天下は変わっていた。”天下は家康が”の考えと、矢張り、軍師である限り、同じ一族の藤原一門の邪魔をしたくないとの意があったと考えられる。むしろ、一族が未来永劫に栄える後者の方の現実的なことを優先したと考えている。私は上記のこの分析からそのように考え直したのである。
2 綜合数の結果から観た考察
青木氏との「関係の強さ」を表すデータである。
「絆の強さ」である。
(A)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/氏数=個別血縁比)
永嶋氏19(35:54%) 長沼氏18(52:35%) 長谷川氏41(111:37%) 進藤氏27(48:56%)である。
(B)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/青木氏116氏)
永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)である。
「考察」
先ず、(A)の総共通血縁数の結果から観ても、血縁の比率は、青木氏に対して、(共通数/氏数)の関係の結果は次ぎの様に成る。
永嶋氏と進藤氏は55%台で、長沼氏と長谷川氏は35%台となる。
何かこの二つに分かれる原因があると観られる。この原因を調べれば主要5氏の「氏力」などが見えてくる筈である。
「絆の強さ」
総合的に観ると、この二つに分けられるという事は、青木氏(116)との付き合い具合(血縁具合の強弱)を示すものとも成る。ではどの様なものであったのか。
つまり、永嶋氏と進藤氏は大変に青木氏との「絆」が強かった事が言えるが、長沼氏と長谷川氏はそれよりやや「絆」が弱かった事に成る。ただし、これは藤原秀郷一門の中での事である。
しかし、藤原氏以外のこの数字は普通は10%前後である事から観ると、長沼氏と長谷川氏でも大変高い「絆」で結ばれていた事にも成る。
もう一つは、この「絆の強さ」がどちらからのリードであったのか知りたいが、これは(B)の結果から大まかなところが読み取れる。
永嶋氏と長沼氏の16%に対して、長谷川氏と進藤氏の30%前後の数字である。
つまり、兼光流の同流族の2つは16%で青木氏のリードは比較的弱いが、必然的に弱くなる「絆の強さ」の文行流の異流の2つにはリードは高くなっている。
(A)、(B)の結果から、即ち、異流であるので余計に青木氏側からは働きかけを強くしていた事を物語るものである。
では、此処まで知ると、その「絆の強さ」の内容はどうであったのか興味がより湧く。
これをデータを解析してより細分化して考察してみると、よりその「絆の強さ」の内容が判る。
「絆の内容」
(A)-aの結果(「部類分け」)
(a) 血縁比:110>72 (b) 血縁数:46>59 (c) 氏数:83>163
データを入力すると、以上の3つのデータが採れる。
血縁比の(a)で観ると次ぎの式が成立する。
永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1
血縁数の(b)、(c)で観ると次ぎの式が成立する。
血縁数のb及びcの関係式は不等号は逆になる。
(cの氏数は元数と成るので除外)
永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111 関係式2
つまり、この3つのデータと2つの関係式の中には何かの事象を持っている事に成る。
それを次ぎに考察して観る。
(A)-bの結果(「部類分け」)
bの血縁数(46<59)で観ると次ぎの様に成る。
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 関係式3
しかし、(A)-aの関係(相互氏数)には、夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つので、同率で比較する必要がある。
補正を掛けると次ぎの様に成る。
永嶋氏92 長沼氏48 長谷川氏39 進藤氏86
補正値:((各共通血縁数/各氏数)*100))*(1+(1-(各氏数/116)))
(116:青木氏数)
(A)-cの結果(「部類分け」)
永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式4
「部類分け」の関係式は成立する。(178:87 2.17)
(A)-aの関係式1と関係式4は一致する。
(A)-aの関係式1=(A)-cの関係式4
この結果は、秀郷4代目から分流した「兼光流」と「文行流」との「血縁具合」には、違いは無い事を意味する。
しかし、本来であれば、「流」から観ると青木氏と兼光流で同流であるから、「付き合い」としては、当然に関係式は次ぎの様になる筈である。
永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏 関係式5
しかし、「兼光流」と「文行流」が入り乱れて違っている。
(A)-aと(A)-bとは逆に成っている。どちらがこれで正しいのかを(B)で考察する。
そこで、(B)の関係(青木氏数)では観てみると次ぎの様に成る。
(B)の関係(修正前)
永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)
夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つ。よって同率にして比較すると次ぎの様に成る。
(B)の関係(修正後)
永嶋氏32 長沼氏25 長谷川氏43 進藤氏41
補正値: 共通数*((青木氏数−各氏数)/青木氏数)+1
ところが、この結果は次ぎの様に成る。
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 関係式6
(A)-bの関係式3と関係式6は一致する、
エラーを取り除いて観ても次ぎの様に成る。
関係式3=関係式6
ややこしいので、これをまとめると、次ぎの様になる。
永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏 関係式5(本来の関係式)
永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 関係式3
永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式4
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 関係式6
永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111 関係式2
関係式1=関係式4
関係式3=関係式6
エラーを取り除いて観ても、本来の関係式に一致する関係式は此処までの考察では出てこない。
青木氏との共通血縁数を各4氏夫々の関係では次ぎの様に成る。
イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a 関係式1
青木氏との各4氏の共通血縁数の関係では次ぎの様に成る。
本来であれば、次のように成る。
永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏 関係式5
しかし、異なる。最終の関係式は矢張り次の様に成る。
ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b 関係式3(関係式6)
直接、青木氏との共通血縁関係を青木氏の氏数から観ると、本来考えられる関係式と逆になる。
ハ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-c 関係式4
本来の答え(関係式5)に対して、関係式1=関係式4 関係式3=関係式6の答えが出る。
(これは個別分類の結果(「同族固め」)のところで解明する。)
考察
各4氏の氏数から観ると異なるのは、各4氏の氏数には共通血縁に入らないものを含んでいる。
含んだままではこのエラーが入ってくる事になるので、イの関係式(A)-aとハの(A)-cと成る。
それはそれで意味のあるデータであり、(A)-aと(A)-cで成立している位であるので別の意味を持っている事に成る。
先ずより正確に観ると為にエラーを取り除く。
エラー比は、永嶋46% 長沼69% 長谷川63% 進藤46%と成り、並び替えして関係式とすると、次ぎの様に成る。
エラー比:100(各氏数−共通血縁)/各氏数
永嶋氏54%と進藤氏54%>長沼氏31%と長谷川氏37% 関係式7
一致して”それなりに意味”を持っているからこの関係式が出て来るのである。
この”それなりに意味”は、下記の3の「個別分類の結果」でこれが証明されるのである。
依って、関係式7(「部類分け」)から、ロの結果の即ち、(A)-bがより正しい関係式となろう。
ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b
しかし、これは何故なのか疑問が出る。
それは、次ぎの様に成る。
結論
本来の考えられる一般関係式は、永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏と成るだろう。
ところが、青木氏から観ると、永嶋氏と長沼氏は同族であり親族関係にある。
しかし、長谷川氏と進藤氏とは同族であるが、親族とはいえない。系列が別で細分化しすぎている。
故に、青木氏は、長谷川氏と進藤氏に少し比率を高めて血縁関係を深めたと考えられる証拠である。
何をか況や、そのための「同族固め」の為の「共通血縁」である。即ち、強く「同族固め」を推し進めたと成る。だから、本来とは異なるロの(A)-bが出たのである。
では、その「同族固め」がどの様な戦略で行っていたかの疑問である。
次ぎのデータでもそれを証明している。
3 個別分類の結果(「同族固め」)
次ぎの様に分類する。
分類 (A)共通5氏と共通4氏との和、(B)共通3氏と共通2氏の和の二つに分類する。
前提 (A):共通性が強い (B):共通性が弱い
(A)分類
永嶋氏9(35:26%) 長沼氏12(52:23%) 長谷川氏13(111:12%)
進藤氏14(48:29%)
(B)分類
永嶋氏10(35:29%) 長沼氏5(52:10%) 長谷川氏28(111:25%)
進藤氏11(48:23%)
これ等の氏数には共通血縁外の数を含んでいるので、これを排除して正味で比を観てみるとする。
(A)永嶋氏は47% 長沼氏は67% 長谷川氏は8% 進藤氏は41%
(B)永嶋氏は53% 長沼氏は28% 長谷川氏は68% 進藤氏は41%
ここに一つ特徴が出る。
(A)と(B)は長沼氏が67から28に、長谷川氏は8から68に変化した事である。
(A)クループは、「主要8氏」で占めていて、大豪族の家紋類である。
(B)グループは、賜姓族を除いて、(A)グループの力の落ちた本家筋か分家筋で、中小の家紋群である。
分析
長沼氏は上記の(A)グループの主要8氏との血縁関係に重点を置いているが、(B)グループに血縁力を下げている。
逆に、長谷川氏は(B)に大重点を置いている事に成る。
結論
前論の疑問としては次ぎの様な戦略が浮き出て来る。
永嶋氏と進藤氏は(A)と(B)のグループに均等に「血縁戦略」を進めていた。・「血縁戦略A」
長沼氏は(A)グループに大重点を置いて、(B)グループに血縁力を下げている。
長谷川氏は(B)グループに大重点を置いて血縁をし、(A)グループには力を注いでいない。
長沼氏と長谷川氏は対照的な「血縁戦略」を進めていた。・・・・・・・・・・・・「血縁戦略B」
上記の結論の「血縁戦略的な違い」(「血縁戦略A」「血縁戦略B」)が下記の関係式と成っているのである。
イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a
(47-53)と(41-41)>(67-28)と(8-68)
長沼氏(67-28)と長谷川氏(8-68)の数字のバラツキが偏差となり上記の関係式(A)-aを構成していたのである。
”ふそれなりの意味”とは、他の2氏と較べて「同族固め」と「血縁戦略的違い」があったのである。
以上、今までは、「共通血縁族」の考察であった。
残るのは、青木氏の「単独の血縁族」の考察である。
次ぎは「単独血縁数」に付いて考察する。
ここでも面白い「戦略的血縁」の結果が出る。
「単独血縁族」
氏の内容に違いがあるので、正確にする為に、データの「単独血縁族」を分類し1−4の4分轄に分ける。
青木氏だけの「単独血縁族−1」(家紋200選族群)
(・印 「家紋200選」 15家紋)
・加藤藤
・上り藤
・抱き角
・丸に抱き角
・州浜
・割り菱
・丸に扇
・丸に日の丸扇
・丸に並び扇
・丸に三つ星
・陰蔦
・糸輪に陰木瓜
・丸に違い矢
・花沢瀉
・丸に三階松
青木氏だけの「単独血縁族−2」(30家紋)
「単独血縁族−1」(15)に属する一族紋
「共通血縁族」(53)に属する一族紋
この二つの内容の分類とする。
四つ又抱き角
隅きりに抱き角
隅切り角に梶の葉
丸に州浜
三つ盛り州浜
丸に三つ盛り州浜
三つ盛り陰州浜
五瓜に州浜
扇
丸に違い扇
隅きり角に扇
亀甲に三つ星
扇に三つ星
三つ星ひとつ引き
隅入り平角に片喰
子持ち亀甲剣片喰
五瓜に片喰
隅きり角に蔦
八角に蔦
二重瓜に蔦
五瓜に蔦
鬼蔦
抱き茗荷菱
丸に一つ目菱
四方瓜に重ね菱
加賀梅鉢
牧野柏
三階松
抱き若松
並び鷹の羽
青木氏だけの「単独血縁族−3」(12家紋)
「単独血縁族−1,2」に属さない家紋
抱き柊
蔓柊
3枚笹
二階根笹
丸に六つ矢車
隅きり角に四つ目
丸に三つ目
三つ銀杏
二重亀甲に三つ銀杏
二つ葉蔓柏
五瓜に違い鷹
立ち葵
青木氏だけの「単独血縁族−4」(6家紋)
第3氏及び未勘氏に属する家紋
五つ木瓜
丸に揚羽蝶
八角に木瓜に二つ引き
下がり対四つ藤
丸に隅立て升
隅切り角
丸に青角の字
(くつわ)
以上68家紋である
「単独血縁数」 68 (367:19%)
(第3氏と未勘氏の青木氏含む)
考察
(1)「家紋200選」に対する比率は59/121で49%である。
丁度、半分が「家紋200選」の家紋群と成る。
(2)「共通血縁数」(53)に対して(53/68)1:1.3にある。
「単独血縁数」(68)は青木氏数(121)に対し56%である。
全体の約半分は「単独血縁数」と成る。
(3)この「単独血縁数」(68)の内「家紋200選」は15家紋群で青木氏比12%(49%)である。
(4)「単独血縁数」(15/68)では「家紋200選」は22%である。
これらの内容に付いて考察する。
先ず、特長は、次ぎの事が挙げられる。
*「単独血縁族」(68)は上記4つの属に分類される。
(注)
「単独血縁族」−1,3に付いて下記に考察をする。
「単独血縁族」−2は、「単独血縁族」−1と「共通血縁族」(53)に属する血縁関係を保持する。
(注)
氏家制度の中ではほぼ同行動を採ると観られるので考察より除外する必要がある。
又、「単独血縁族」−4は第3氏又は未勘氏であるので除外しないと正しい分析には成らない。
「単独血縁族」の特長の考察
第1に、
まず、諏訪族青木氏の「抱き角紋」とその「丸付き抱き角紋」である。
この家紋の氏は藤原「共通血縁族」の秀郷主要4氏には全く無い家紋である。珍しい。
信濃賜姓青木氏と諏訪氏(たち梶の葉紋)との血縁により発祥した大変古い青木氏で賜姓族である。他に武田氏系諏訪族青木氏がある。つまり、秀郷主要5氏との重複家紋の中では只一つ重複なしの皇族賜姓青木氏である。
第2に、
州浜紋の一族である。この家紋も主要4氏にはない。珍しい。
有名な主要家紋であるが、不思議にない。
地域的に観ても常陸と陸奥である。
常陸は藤原秀郷宗家(朝光)の結城氏が定住する土地柄である。
陸奥は鎮守府将軍として代々務めた地域であり、土地の豪族の武田氏、小田氏、小山氏、足利氏、花山氏等は秀郷一門から血縁を受けた。
秀郷一門が赴任移動時に関東に移動してきて勢力を挙げた氏がいる地域でもある。この地域は「共通血縁族」が在っても不思議ではない。むしろ在るべきである。
何故なのか疑問1が湧く。
第3に、
他の4氏に無い家紋として、角紋類、扇紋類、柊紋類、銀杏紋類がある。
何故なのか疑問2が湧く。
ではその疑問1、2を解明する。
先ず、角紋族である。
角紋は理解できる。諏訪族の個性的行動にあったからであろう。
後漢阿多倍が引き連れてきた17県民200万の内の後期に帰化した馬部とその関係の職能集団がこの信濃の開拓に入り、開拓は成功し天皇より勲功を受けて土地に根着き力を着けた一族である。
諏訪神社を守護神として固い結束で有名な集団の赤兜軍団で有名な一族である。
この為、他の一族と血縁を余り進めなかった特長を持っていた。武田信玄との軋轢でも有名である通りこの一族は血縁を広げて守ると云う戦略を採らなかった一族でもある。
只、信濃青木氏との血縁が取れた。入植開墾の過程で信濃王の末裔(青木氏)との二人三脚で成し得た事であったからである。
日本書紀にも、呼び出しを受けた彼らは勲功を受ける時、この二人三脚で天皇に意見具申したと出て来る位である。その「気構え」のある一族である。
朝廷には藤原氏もいるし、阿多倍の末裔も天皇血縁族としても、官僚ともなって働いている。充分に血縁は在り得る事であるがない。だとすると「気構え」と「誇り」ではないか。
次ぎは、扇紋族である。
発祥地域は筑後、豊後、豊前に在る。
発祥時期は新しい。江戸氏初期後である。御家人旗本がごぞって家紋を持った時期に位置する家紋であり、他の4氏と「共通血縁族」に成り得なかったのは、この時期にあると観ている。
他の4氏から観ると平安から室町期に在るとすれば可能性は高いが、安定期には入ったこの時期に、遠方に於いて大した防御の必要性が無かった事と、他の4氏の聖域とのズレに問題が多少あったとも考えられる。
青木氏と「単独血縁族」に成り得たのは、共通血縁族の主要8氏の西末端に位置していた事に依ると観られる。「戦略的血縁」ではなく、「政略的結婚」に過ぎないと考えられる。
青木氏は藤原一門の「第2の宗家」としての役割からこの地域も血縁で確実に固めたと考えられる。
柊紋族である。
発祥地域は関東地方、武蔵7党の一つ丹治氏系青木氏一門の家紋である。
家紋化したのは以外に新しい江戸中期前の頃である。
柊明神の氏子神紋である。
藤原秀郷一門の領国であり、入間の地域、多治彦王の配流時の落子末裔が根づいた古い氏である。
秀郷がここを領国とする前からの小豪族氏であり、家紋は家紋化の江戸時代のブームによりこの一門は家紋化したと観られるが、血縁はその前の時期に行われていたと成る。秀郷流青木氏と丹治氏系青木氏との複合血縁もあったと考えられる。
武蔵7党としては土地と権域を奪われた事から、秀郷一門の他の4氏とは一線を架していたと観られるが、青木氏がこの丹治氏と代表血縁をしたのである。つまり、この武蔵は青木氏一門が螺旋状に取り巻いて守っていたからである。つまり、青木氏との対峙となろう。そこで、双方が戦略的血縁を図ったと観られる。何故ならば、この小豪族の戦力程度では、藤原一門とりわけ青木氏にとっては問題ではない。そこで、敵の力を生かす戦法に出たと観られる。その証拠に、この丹治氏一門と多く血縁をしているからである。丹治氏宗家だけではなく一門との血縁で押さえ込んだと見られる。
それで、円の枠の中に閉じ込めた結果藤原の他の4氏との血縁は無かったのである。
他の4氏の戦略は大豪族に在ったことは主要8氏でも判る。
銀杏族である。
地域としては関西以西の氏で、土方、水島、坪内、間部氏である。家紋化は家紋の持たない者の家紋ブームの江戸初期である。土地の10氏以上がこの家紋を使用している。
青木氏の聖域の西端であり、土地の小豪族の相互間の血縁集団の家紋群である。
主要4氏とは地理的に離れている。
西端を固める為に土地の小軍団との血縁をした戦略的血縁であろう。
血縁は速かったものと見られるがこの銀杏族集団の家紋化が遅かったという事であろう。
この地域の西には、出雲大社の氏子集団の亀甲紋集団があり、この地域では讃岐籐氏の青木氏が血縁を成している。
この小豪族の集団群は、他に関西以東の伊川津7党、武蔵7党等もあり、これ等との血縁も青木氏に任している。
更に以東の上記の柊紋の集団も、柊神社の氏子集団でまとまっていた事も同じである。
この事から観ると、疑問1、2は次ぎの様に成る。
同じ小豪族の集団群であったので、主要4氏は敢えて血縁を進めず、「第2の宗家」の青木氏に任したと言う事であろう。
そして、それは次ぎの考察で詳細の戦略が判る。
「独立血縁族」−1に付いての考察
家紋200選にある家紋は15家紋である。(詳細は史料3参照)
・加藤藤 加賀、越前 2種ある 藤原氏家紋
・上り藤 畿内長戸周防 藤原北家筋家紋 苗字が着く藤紋 賜姓族には無い
・抱き角 信濃諏訪 賜姓族 諏訪族青木氏 (諏訪氏と賜姓信濃青木氏との血縁)
・丸に抱き角 信濃甲斐上野 諏訪族青木氏の分家
・州浜 常陸、陸奥 重複 賜姓族にある
・割り菱 甲斐、北関東 重複 武田氏支流 賜姓族にある。
・丸に扇 北九州3 松平深溝氏分家
・丸に日の丸扇 筑後、豊後 佐多家氏支流
・丸に並び扇 筑後、豊前
・丸に三つ星 中国地方4 児島氏分家
・陰蔦 加賀越前越中 大岡氏
・糸輪に陰木瓜 尾張、遠江 岸氏 他7氏の分家
・丸に違い矢 中部、西関東 恒岡氏の分家
・花沢瀉 尾張、遠江 酒井氏
・丸に三階松 讃岐阿波土佐 五条氏分家 他11氏
以上「家紋200選」の15家紋である。
この15家紋だけから考察すると次ぎの様な事が観えて来る。
先ず、江戸初期か少しそれ以前の比較的新しい氏族である。
内訳を観ると、西海道の北側域(5)と、北陸道の西域(4)と、東山道の域(5)と、南海道の四国域(1)の4域の聖域を持つ家紋群である。日本8道の内の4道を血縁で抑えているのである。
これは、「単独血縁数(15/68)」の22%の成せる戦略技である。
その戦略は全体の戦略の2割の力を持っていることを示す。
つまり、大豪族との単独血縁を「第2の宗家」として行い、それが単独血縁の2割を占めて力を注いでいた事を意味する。そして、それも無造作にするのではなく、「日本8道」を自分の拠点の東海道を中心に満遍無く恣意的に4道を固めている。
諏訪族青木氏を除いて、江戸初期前に家を興した氏が主体で、共通血縁族の「藤原秀郷一門の聖域」(中部を基点に西は中国東から東は尾張、駿河がまでに広げ領国を関東に置いた域)以外の4域を満遍なくその域の豪族と「戦略的血縁」を「第2の宗家」の責任を果たすべく血縁をしている事を物語る確実な史実である。
即ち、まとめるとこの大戦略は次ぎの様に成る。
1 「共通血縁族」では「藤原秀郷一門の聖域」の保全(上記)
2 「単独血縁族」では「4道域」を抑えた。
この大戦略が観得る。
そして、それは「成長著しい新興勢力」に依って固められているのである。
当然に、古い伝統をもつ青木氏は秀郷一門主要5氏と「共通血縁族大主要4氏と補佐主要4氏」(「青木氏主要8氏」)で固められている。
3 「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」
4 真に「鉄の結束」である。
新旧の血縁族で、「第2の宗家」青木氏は総宗本家に代わって121氏をフルに活用して護っていた事を示す。
この大戦略で青木氏は秀郷一門を「第2の宗家」として単独血縁で構築し役割を果たしていたのである。
そこで、「単独血縁数(15/68)」外の78%(53/68)はどうしていたの興味が湧く。
それでは78%族の活躍具合を考察する。
名も知れない氏族である。その力をどの様に青木氏は活用して上記の戦略に加えていたのか観るとする。
この場合、「単独血縁族」の15氏の系列の一族紋は30紋あり、氏家制度の中、力の有る宗家を中心に纏まり、余程のことがない限りその「氏戦力」となる。もし、従わなかった場合には、その戦い前に力のある宗家がこれを潰すことが慣わしであり、余程の事がない限り生きて行くことは困難である。
故に、ここでは「単独血縁族」15家紋に従うとし、主要8氏の系列の一族紋の6紋も、これに従うとする。そして、第3氏の家紋6は戦力外で除くとする。
そうすると、11(68-(15+30+6-6))家紋と成り、それを「単独血縁族X」として、この11家紋の氏の活躍具合を調べる事で解析できる。
「11家紋」の解析
この11家紋は「家紋200選」に無い為に、その内容を把握するのは困難であるが、近い形の内容として把握する。
「単独血縁族」−3に付いての考察
「11家紋の内容」
1 抱き柊、蔓柊 柊明神の家紋 大関氏 武蔵7党の丹治氏系一門 江戸初期の家紋化
2 3枚笹 野々山氏 江戸初期−中期の家紋化
3 二階根笹 千葉地方 仁木氏、桜井氏 江戸初期−中期の家紋化
4 丸に六つ矢車 荒川支流の小族 関東 江戸中期の家紋化
5 隅きり角に四つ目 近江、滋賀の皇族賜姓族の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
6 丸に三つ目 近江、滋賀、佐々木氏系の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
7 三つ銀杏 関西以西の小豪族相互血縁集団の紋 江戸初期−中期の家紋化
8 二重亀甲に三つ銀杏 上記の氏と、出雲大社氏子の連合体(亀甲族)の血縁族 寺紋
9 二つ葉蔓柏 神職紋
10 五瓜に違い鷹 中国地方、渋江氏、五瓜族の副紋(神紋関係)
11 立ち葵 寺紋 丹波、三河 善光寺の寺紋 室町期 (松平、本田氏)
この11家紋からは次ぎの事が観えてくる。
全て、新しい江戸初期から中期の家紋の持たない者が江戸の家紋ブームに乗り家紋化したものである。そして、これ等は小氏が地域に連合して「相互間血縁」をして「集団化」したものである。
もう一つは、「神紋と寺紋」に関わるものが8紋/11ある。
「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」この2つが特長である。
家紋化の時期を考えると、その必要性が青木氏にはない。
しかし、これ等は室町期頃から家紋化前に集団化して、周囲の豪族から氏を守った。その時にその集団の旗印、又は標印として使ったものが、後に家紋化したものである。
この集団化は相互間に血縁関係を作り一集団として行動を採る誓約の基に行動した。
例えば、出雲大社の氏子連はこの代表的な属種であり、寺紋の亀甲紋を家紋化して、それに各氏子の独自の印をつけたもので、亀甲紋族と言われる。この亀甲族は藤原秀郷一門と青木氏との血縁族を結んでいる。特に讃岐籐氏と「下がり藤に結び雁金」の副紋を持つ青木氏9氏の直流一門との血縁をして中国地方を治めている。
小氏集団は何らかの基に集まり、「相互血縁」し「集団化」して、後にその「集団印」を家紋化したもので、多くの地方の家紋の殆どは、この「相互血縁集団」の基にある。
この考察の結論は、「相互血縁集団」とその基になる「神紋寺紋」の内容となる。
青木氏は「単独血縁族」として、この2つのターゲットに戦略を集中させたのである。
更には、上記の説明の「共通血縁族」=「青木氏主要8氏」との結束の戦略とを複合的にして「大血縁戦略」を展開した事に成る。
総論
この様に明確な二つの特徴(「共通血縁族」と「単独血縁族」)が読み取られ考察される。
夫々には、上記の「大戦略1−4」に合わせて、上記内容の説明の通り、更に「小戦略」=「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」が存在する仕組みを持って行動していたのである。
秀郷の総宗本家に変わり、武力を持つ「第2の宗家」として、この様な完全とも観える「血縁戦略」を採っていた事を示すものである。驚くに価する。
本史料をよく調べると、この様に、我々の先祖の苦労が観えて出て来るものである。
本文の考察では、この史料と考察を考慮に入れて、お読み頂きたい。
No.1339
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−秀郷一門24氏中主要5氏の青木氏等の実力−6/10
副管理人さん 2008/09/06 (土) 20:16
史料6
秀郷一門24氏中で主要5氏に成る根拠
[氏の発祥順位]
(24氏の内、主な氏記述)
(・印は主要5氏)
(氏・秀郷より代・元祖)
・青木氏2(千国)
−渕名氏5(兼行)−近藤氏5(脩行)
−・進藤氏6(行景)−佐藤氏6(公清)−足利氏6(成行)−・長沼氏6(考綱)
−太田氏7(行政)
−嶋田氏8(景頼)
−小山氏9(政光)−下川辺氏9(行義)−大屋氏9(秀忠)−伊藤9(基景)−後藤9(公郷)−首藤9(助清)−武藤9(景親)−波多野9(経秀)
−佐野氏10(基綱)−中沼氏10(宗政)−結城氏10(朝光)−尾藤氏10(知広)−松野氏10(親実)
−斎藤氏10(叙用)
−・永嶋氏14(行長)
−・長谷川氏19(宗重)
考察
主要5氏の発祥順位は1 青木氏、2 進藤氏、3 長沼氏、4 永嶋氏、5 長谷川氏となる。
青木氏と進藤氏と長沼氏は2−6代目で速く、永嶋氏と長谷川氏は後発である。
先ず、青木氏の発祥順位と氏数は段突で、「第3子跡目」の藤原秀郷の家法もあり、「藤姓の足利殿と呼ばれる青木氏」であるくらいに最大勢力であった事を物語る。
私は、むしろ藤原宗家一門より、「第3子跡目の家法」と武力を持つ青木氏の方が実質勢力があったのではと考える。だから「藤姓の足利殿」と呼ばれていたのであろう。
ただ、「護衛の役目」と言う一段下の立場であって、力があるからと云ってこれを崩す事は氏家制度の絆を破壊する事に成り、自らの首を締める事にも成るので、立場を保持させたのでは、又、「発祥と氏数」から観ても、その乱れを一門24氏に対して指摘する立場にもあった事に他ならない。
何をか況や、24氏を抑える立場のその勢力を保持していた事を物語るものである。
だから、藤原秀郷一門と北家一門は明治までの生残るほどに強かったのであると観ている。
ただ、一つの弱点があった。それは朝廷を中心という体制の中での立場であった。だから、武士による鎌倉幕府が樹立すると失職離散の憂き目を受けたのである。
恐らく大変な歴史転換点であって右往左往したであろう。
しかし、この中で、青木氏は「武士」と「宗家同等の護衛」という立場から、「武力」をシンジケートと言う立場に作り変えて利用して、弱点を補う為に「2足の草鞋」策で生き延びたのである。だからこの氏数に成ったである。
その史実は、幾つもあるので挙げる。
伊勢青木氏の明治35年まで続いた紙問屋家業(伊賀地方の特産和紙)、瀬戸内に勢力圏を持つ讃岐籐氏青木氏の廻船問屋家業、堺摂津の青木氏の貿易家業、磯部氏を代表とする信濃の産物問屋家業、土佐、駿河の青木氏の遠洋漁業の海鮮問屋家業など、史実が地域に多く遺されている。
多くは、1350年代前後の創業と見られる。室町初期からである。平家からの圧迫からやっと逃れたと思うと、今度は、北条氏の足利氏、青木氏の藤原氏一門、賜姓源氏、賜姓青木氏等への圧迫が強まった時期でもある。その時期を乗り越える為に、2つの青木氏一門は「2足の草鞋策」を採ったのであろう。これは長谷川氏、永嶋氏の活動時期と附合するのである。
宗家に代わる青木氏の武力以外にも、シンジケートと同族大集団を維持する為にも、この「経済的裏づけ」が大きく左右したのではと観ている。
特に、史料4「共通血縁族」でも記述したが、秀郷一門主要5氏の補佐役の主要8氏(片喰族、剣片喰族等)の四国勢を秀郷一門の主力に押し上げていたのは、廻船問屋家業の讃岐籐氏青木氏であり、この「経済力」に支えられていたと考えられる。
だからその「武力」とその「経済力」を利用して鎌倉幕府に合力して本領安堵されたりして、地方にいる青木氏は各地方の豪族と成り、又、家臣と成って生き延びる事が出来たから、この大氏数なのである。それでなくてはこれ程の氏数を「武力」だけでは維持することは出来ない。
この事は7/10以降のレポートの分析からも充分に云えるし、だから平安末期の後発の永嶋氏や長谷川氏でさえが勢力を保持したのである。
後発が主要氏として勢力を持ちえるには「武力」だけでは決して成し得ない事である。
だから、何れも主要5氏は全て「家紋200選」の比率では50%の高い率を持っているのである。
第3の青木氏を除けば、70%以上に達するとことに成る。
ところが、24氏中では永嶋氏と長谷川氏は最も後発である。
これは、最も後発でありながら、永嶋氏(14)と長谷川氏(19)が、秀郷一門の24氏の中で、経済力を発揮したと言う事に他ならない。武力は武力の反発を受けて「悪くのスパイラル」が起こり究極は歴史が物語る様にジリ貧である。しかし、経済だけでも同じく成し得ない。
「経済と武力」がバランスよく伴なわなくては長い歴史を成し得ない。
現に、詳しく7/10の永嶋氏レポートと9/10の長谷川氏のレポートでそれを証明しているので参照されたい。
それには、ただ「経済と武力」持てばよいと言う事ではない。其処には「戦略」が存在しなければならない。
戦略には、更に、その「血縁族の違い」と、「戦略の違い」に依るであろう。
それを次ぎに検証して観る。
永嶋氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(19/35=54%)が大変多い特徴を持っているが、大豪族(49%)と小豪族(47%)との血縁バランスを平均に持っている。
長谷川氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(35/111=32%)が少ないのが特徴であるが、大豪族(28%)より小豪族(68%)に重点を置いている。
永嶋氏の「戦略の違い」では、「地理性」に重点を置き、畿内から中部地方の家紋族と血縁して重点を小さく絞っている。「狭く濃く」の為に35氏である。
長谷川氏の「戦略の違い」では、北九州から東北まで満遍なく広げ、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の小豪族との血縁をして重点を広くしている。だから、「広く薄く」の為に111氏である。
各地に小さく分布する長谷川氏支流族の「釘抜き紋」はその象徴である。
これ等は他の2氏に較べて後発と言う立場にあり、逆の血縁戦略を敷いたが、先発の長沼氏と進藤氏は「血縁族の違い」(52氏-48氏)と「戦略の違い」はその中間である。
長沼氏は北九州から中部地方にてやや西よりに、進藤氏は関西から関東地方にやや東よりで、両者とも中間巾を持っている。
これは、先発、後発の違いで先発の地域は身内の地域争いを遠慮した結果、後発の2つの氏には違いが出たものであろうと先ず思うが、多分、先発の時代と後発の時代の藤原秀郷一門の勢力範囲が違って来ていたのではと考える。
後発になるに従い、やや西よりに勢力分布が出来て来ていたと云う事であろう。
その理由として次ぎの事が言える。
1 藤原一門の赴任地が東山道から東海道、畿内、山陽道、南海道、最終は西海道へと移っている事。(その過程で各地に子孫を遺していった事の成果が出てきた)
2 桓武平氏(京平氏)との勢力争いで、皇族賜姓族(伊勢、美濃、信濃、甲斐)と血縁連合を組んだ事。
3 清和源氏頼光系一族との血縁連合を組んだ事。
4 清和源氏頼信系一族と秀郷一門の勢力圏を神奈川を境にして組んでいた事。
以上の事が挙げられる。
この事に付いて、後発の永嶋氏と長谷川氏が誰かが主導してこの「勢い」に乗ったと云う事だろう。
しかし、そう簡単には「勢い」で済まされないであろう。
「遠慮、深慮」と言うが、現実は秀郷一門の調整による勢力圏の振り分けが出来ていたのではと考える。自然に出来上がったというには余りにも上手く出来すぎている。
永嶋氏と長谷川氏の「狭く濃く」「広く、薄く」の関係、長沼氏と進藤氏の地域の「西より」「東より」の関係は自然にも出来上がらないし、相談しても出来難い「振り分け」である。
まして、「氏数」でも永嶋-長谷川関係、「狭く濃く」「広く、薄く」に合わした35:111とその特長に合致、長沼-進藤関係 52:48とほぼ同数の「圏域の巾」に合わしてを維持している。
明らかにこの「特長造り」は何処からか主導していると観る。
私はその参謀は青木氏に在ったと観ている。
主導するには「力」が必要である。少なくとも氏家制度の社会である。史料1−5でも解説しているが、青木氏は主要5氏の中でも、倍の力を持っている。力のないものが、主導してもこれだけの力の差があり、尚且つ、「第3氏の家法」に裏打ちされた「第2の宗家」に口がなかなか出せないであろう。
秀郷総宗本家の後押しもあろう。護衛と言う実績もあろう。武蔵入間を中心に青木氏116氏の本家筋が秀郷宗家一族を守っている。これだけのの条件が備わっていれば文句なしである。文句をいえば、武力差がものを云う。この時代は宗家に逆らえば文句なしの潰しの社会の氏家制度である。
先ず間違いないであろう。青木氏以外にない。
秀郷宗家に代わって”青木氏が統制していた”と観ている。
ある大學教授の「藤原氏の研究史料」では、一部「藤原秀郷主要5氏」を「青木一族の系譜」の中に入れているものもある。これはその程度に統制されていた事を物語る。
だから、青木氏は江戸時代まで勢力を持ち得たのである。
途中で鎌倉幕府樹立で朝廷職を失い各地の秀郷一門は離散した。しかし、取り敢えずは「頼朝」の2度の「本領安堵策」強行で息を吹き返し、領国と各地では主要5氏の末裔が大豪族、大郷氏、大豪農、大豪商、と大大名となって生残った。これを物語るのが、主要5氏の家紋なのである。
しかし、後の北条氏とは大変な軋轢が起こっていたのである。
地頭、御家人と対立しながらも、その代表的な氏として、幕府に入り、虎視眈々と狙っていた青木氏が守る秀郷宗家の足利氏がある。
そして、後に、足利幕府を樹立する事になるのである。
この足利氏が鎌倉幕府の重鎮として残り得たのは、頼朝の幕府樹立に最も早く合力して貢献した藤原宗家の朝光である。それが宗家足利氏に繋がったのである。この時、先ず最初に本領安堵されたのはこの朝光であり、その末裔の結城氏が先ず最初に北条氏に潰されたのである。そして、それを引き継ぐ足利氏も北条氏に圧力を加えられたのである。
しかし、上記する藤原一門の底力がそれを支えたのである。何をか況や、真にこの青木氏が一門を総括して支えたのである。室町末期の信長から逃亡した時も、青木氏が匿ったのである。
だから、信長は東には手を出せなかった。
この力は記録では明治初期まで続いている。その記録では、江戸時代の中部、関東で多発し、明治の2度の大「一揆」までを含めて、その裏での主導はこの藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏との連合があった。
我々子孫が今に残るは、この先祖青木氏の努力以外に何ものでもない。
先祖の努力の理解が、これからの子孫の如何を左右する。
そのためにも、後世の青木氏が我々の時代を評価した時に、その何がしかの努力を受けるためにも、史料を提供してそれを考察して、現世で理解を広げて頂きたいと考えている。
次ぎの序文と7/10(永嶋氏の考察)からは秀郷主要5氏の本文に入る。
先ずは永嶋氏から入るが、以上1/10−6/10の史料を参考にして、お読み頂きたい。
そうすることで我々が習得した歴史の史実より、より深く理解が広まるものと考えている。
No.1342
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−序文(青木氏と主要5氏との関係)
副管理人さん 2008/09/17 (水) 19:53
藤原秀郷一門の家紋から観た血縁関係の研究
(青木氏と主要5氏との関係)
史料1/10-6/10の内容と考察を基本に据えて、本文ではこの血縁関係がどの様に成っているかを家紋類から観た分析を行う。
本文ではシリーズで、青木氏と対比させて、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏の順でそれぞれの氏が持つ家紋群を分析してから考察する。
本文史料(7/10-10/10)は進藤氏の考察終了後に末尾に掲載する。
(研究室の「藤原秀郷一門の生き方」(1-13)、「皇族賜姓族の背景」(1-3)等関連を参照)
藤原秀郷一門の24氏の詳細は「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏」参照の事
序文
そもそも、藤原秀郷一門は最も勢力を誇った主要5氏から成っている。
その主要5氏を江戸時代の書では、藤原秀郷流青木氏の中に組み込まれた”「青木氏一族」”として偏集されたものもある。
そこで、では何故、そのような「青木氏一族」と成りえるのか広い範囲で検証して観る。それには先ずは、その4氏と青木氏とがどのような関係(即ち、「絆」や「氏力」等)にあったのかを考察する。
下記通り「秀郷一門主要5氏」は、秀郷より4代目から分流しているので在るが、先ず系譜から入る方が理解が進むので次ぎにそれを先に記する。
藤原秀郷一門の系譜は次ぎの様に成っている。
鎌足−不比等−房前−魚名−藤成−豊沢−村雄−秀郷−千常−文脩−兼光−頼行−兼行−成行
(兼光のところで文行流と分流して兼光流との2つに成る。)
秀郷一門の主要5氏:青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏
秀郷一門24氏(「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏」参照の事)
先ず始めに、次の事を記して本文の検証を進める。
秀郷一門の青木氏以外の氏では、以上系譜の頼行より次ぎの兼行と兼助から初めて藤原氏以外の氏名を発祥させたが、それが初代「渕名氏」としての「氏」の発祥であった。
藤原秀郷一門24氏の内、分家、分派、支流系として、更に分流し、19氏(次ぎ主要5氏を除く)として引き継がれて行く。この初めに出た渕名氏でさえ主要氏とは成っていないのである。
しかし、藤原秀郷流青木氏には宗家筋から第3子を跡目に入れて常に濃い血縁関係で氏を構成し子孫存続を維持し来たのである。
これは下記にも示すが、「宗家一門を護衛すると云う任務」を担っていた事に関わる最大の検証点であり、ここが他の主要4氏の23氏と異なるところでもあり、この点に関わる事柄が検証の結果として大きく出て来るのである。これ等を明らかにする。
秀郷一門主要5氏の一つの青木氏の直系(直流)の跡目(不継承時の跡目)としては、4代目の兼光流の宗家一門より引き継がれて行く家法の「定め」と成っているのであるが、この事に付いて、秀郷総宗本家の系譜の関係記録に残るものとして、25代目あたりまである。
この内、判る範囲で跡目継承は6度あり、この内、記録として実名が判るのは3人である。
(千国系青木氏系譜は法により不掲載)
秀郷宗家一門から「宗家の護衛役」を一手に任されて護り続ける為には、他の氏から跡目を入れる事は他人化する可能性があり、その役目を正常に全うする事は困難となろう。
そこで、”代々の不継承時には秀郷宗家筋一門の「第3子」を青木氏の跡目に入れ純血性を保ちする”とする「定め」を、藤原秀郷は子供の千国を初代として一門に対してこの家法(掟)としたのである。これが家法「第3子の跡目」である。
これは他の主要4氏と異なる最大の差異である。
「第3子の跡目」の掟には「氏の存亡」の最大の決め事であった。
そもそも「跡目」とは氏の如何を左右する「氏家制度」の最大のテーマであり、現在の感覚では到底考えられない決め事であった。「氏家制度」は氏全体が一つの社会であり、万事に本家を中心に動いている社会であった。「自分の命」、況や「氏の命と存続」はそれを指揮する頭領の才能(能力)に関わっていたのである。それだけに、氏の拡大は「跡目」に左右されていたのである。
青木氏116氏もの氏の拡大は単純に広がったと云うものでは決してない。何らかの決定的な掟があって成し得たものであり、それが「跡目」なのである
これは、そもそも、次ぎの経緯からの決め事である。
朝廷が坂東に起こった「平将門の乱」平定(坂東に独立国を主張)に苦労し長年誰も平定出来なかった。そこで、秀郷が武蔵の押領使であったことから、京平氏の平貞盛(押領使)と共に、秀郷は次ぎの「2つの条件」を朝廷に突きつけて名乗り出た。
それは、秀郷が出した「平定後(勲功時)の朝廷に対する条件(貴族、武蔵下野領国の条件)」に基づき、「貴族の身分」と「武蔵国(下野)の領主」とを突きつけて成ったのである。
そして、その結果、その条件(貴族は武力使用の禁令)を整える為に、自らの子供の第3子を自らの「護衛役」として臣下させて「青木氏」を名乗ることを申請し、嵯峨期の令「詔」に基づき朝廷より認可された。この役目を担った初代は秀郷第3子の千国であった。(6人の子供が居た)
以後、秀郷宗家からの「第3子を青木氏に跡目」として入れる事を家法としたのである。
つまり、皇族賜姓青木氏族の5氏の形式を採った。
秀郷の6子は次ぎの通りです。
秀郷=千常1−千種2−千国3−千春4−千時5−千万6
千常、千時、文脩、千万は鎮守府将軍に任官
千春は相模介に任官
実系譜では千万は千常の子と成っているが、実弟である。
(千常の本家の跡目に入ったが文脩が生まれたために跡目とはならなかった。)
上記の通り、千国だけは朝廷の官職、冠位等が無く、無役であったとする説と、鎮守府将軍で従四位下の官職があったとする説があるが、状況からあったのであろうし「短期間」ではなかったかと見られる。
兎に角も、ただ他の兄弟と少し違った重要な人生送っている。
期間を前提として”無かった”とする説の根拠には、”それは「宗家の護衛役(侍)」に成った為に役に着けず6人の兄弟の中で千国だけであった。”とするものである。
それなりにその根拠は理解できる。
兄弟6人が全て「鎮守府将軍」であり、他の親族4人が「鎮守府将軍」に成っているのは合わせて10人居たが、この人数からすると成ったとすると実に短期間か名前だけの将軍となったとも考えられる。
また、各地に赴任した宗家の護衛役を担ったとすると「鎮守府将軍」を全うすることが出来ないだろう。
無かったとする説はこの「短期間」と「護衛役」から観てなかったと同じで「名誉的」なものであったことを根拠としているか、青木家の「系譜偏纂」から来るものと考察したのではないだろうか。
但し、嵯峨期の詔からの青木氏の許可にはそれなりの「身分」が必要であり、官職より青木氏の賜姓を受ける時には事前に官位は必要であろう。
従って、天皇に拝謁できる「従三位」以下の「従四位下」は必要であろうから、この官位はあり得る。他の者の「従五位下」と違い2階級上である事の意味は大きい。
(参考 皇族系の賜姓青木氏と賜姓源氏は第6位皇子であるが為に、天皇に拝謁し意見を述べる事が出来る「従三位」である。)
はっきりする事は、まして、官位と別に子孫では4代目までに藤原一門の領国の「武蔵守」に成っているのは千国だけである。
長男の宗家の千常でさえ「武蔵守」ではなく「左衛門尉」「従五位下」だけである。
親族の時長系の利仁の「従四位下」を除いて末裔は全て「従五位下」である。
因みに、秀郷は「武蔵守」で「従四位下」で千国と同じである。この2人である。
これは秀郷の後の宗家を実質継いでいる事になる。しかし、宗家は系譜上は千常である。
つまり、官位から観ても千国の青木氏は「第2の宗家」である事を確実に意味する。
何をか況や、朝廷はこの官位と官職を与えた事から観て、実質は千国を「秀郷の後継ぎ」と認めていた事を意味する。青木氏そのものを重視していた事を意味するものである。
この経緯には大きな意味があった。それは当時の朝廷の認識である。
それだけに、この「護衛役」を秀郷のみならず朝廷は重視したと言うことでもあり、総宗本家そのものの扱いであった事を意味する。総宗本家からは2人の任官は無いと言う事でもあろう。
しかし、朝廷もこの千国に皇族賜姓青木氏なみに「青木氏」を賜姓したと言う事でその意味を充分知っていた。
むしろ、朝廷は「無役」と理解するより「青木氏」が「最重要役」と認識していたのである。
それは24地方の国府に赴任する宗家を専門的に「護衛する役目」は、言い換えれば陸奥一国の「鎮守府将軍」より千国の24国の「国府将軍」の方の意味が大きいからである。又現実に大きい。
恐らく、当時は「征夷大将軍」なみの意味を持っていただろう。
阿多倍の息子の坂上之人麻呂から正式に始まった「征夷」の意味からすると、「征夷大将軍」も「鎮守府将軍」の変役であるから、「国府将軍」的意味の方が大きいだろう。
当時は朝廷政治(3蔵)は「斎蔵」の役から始まった藤原氏北家が勢力を占めつつあった事から、つまり、朝廷では「国府将軍」なみは真剣に認識されていた事である。
(朝廷の政治機構の3蔵は内蔵、大蔵、斎蔵)
そこで多くの史料から綜合すると、当時のその認識の根拠は、朝廷では大別すると次ぎの3つの様に認識されていたと分析できる。
朝廷の軍役は「阿多倍子孫−京平家一族−たいら族」が担う征夷代将軍と、九州全土の政治「遠の朝廷」と呼ばれ3権委任の「太宰大監」の軍役も担っていた。
後に末裔は坂東平氏と共に一部「西面武士」にも後に問題が起こったが成った。
天皇の親衛隊の軍役は「5家5流皇族賜姓青木氏一族」が、主要で重要5国の天領地の軍役を担うと共に、645年から宮中を護る上位(上の尉、佐の左衛門、右衛門、民部)の「北面武士」の衛士の長として本来任務も遂行する事で認識されて呼ばれいた。(青木氏の冠位官職のレポート参照)
政治をリードする軍役は「藤原秀郷流青木氏一族」が、24国の軍役を担うと共に、宗家は北域防衛の「鎮守府将軍」をも担った。嵯峨期詔の秀郷流青木氏は(尉、佐の左衛門、右衛門)「北面武士」も兼務し呼ばれいた。24国の軍役のみならず、賜姓青木氏と連携して親衛隊も兼ねていた。
この3つのシステムで全国が3軍役で網羅されていたとする認識なのである。
これからすると、千国から始まった青木氏の無役はこの様な3軍役の一つの位置付けの認識中にあったが、これ等の軍役は次ぎの様なことから始まった。
これは、奈良時代の蘇我氏の専横の反省から、天皇家を強くする為に、「大化改新」後の天智天皇が始めた「第6位皇子を臣下させて天皇を護る親衛隊」としたのが始まりであり、天智天皇はこの臣下の氏には青木氏を賜姓し、ステイタスの大日像の仏像を与えて初代伊勢王(施基皇子)として始まった。これが秀郷にヒントを与えたのである。
嵯峨天皇が第6位皇子を源氏と変名した為に青木氏は皇族出身の者が名乗る氏と下の者が使用する事を詔を出して禁じた。原則明治3年まで維持された。この間、3期の室町末期、江戸初期、明治初期での混乱期では護られなかった。
藤原秀郷は、16代(源氏含む)続いたこの制度(皇族で朝臣、宿禰族が名乗れる制度)に基づき行ったものであるが、その後、賜姓青木氏は男子の4代の天皇に引き継がれて5家5流と24氏の賜姓青木氏が誕生したが、この時の「定め」(嵯峨期の詔)に従い、賜姓青木氏の母方を藤原氏としている事を根拠に、朝廷の特例(真人、朝臣、宿禰の皇族者)の許可を得て、藤原秀郷は960年頃に初代千国の青木氏を発祥させ、代々このシステムに習ったものである。
(詳細は皇族賜姓族関係のレポート参照)
この始祖千国(直系末裔)の系譜は、母方が坂東に勢力を張っていた元「嶋崎氏」を名乗る平家一門とされていて、この一族は後に支流一族として青木氏を名乗っている。
この後、青木氏は先ず主要9氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏)と広がり、ここから秀郷一門116氏に広がっている事もあり、秀郷の宗家より直系の跡目継承を受けている事から起因している。
現在の史料では、消失も含めて余りにも拡大して末裔系譜は途中までしか確認出来ない。
しかし、この以下の解析レポートから青木氏の活動は他の4氏との関係からもある程度の傾向がわかるので、この辺の血縁関係のところ等をも「家紋分析」で検証する目的がある。
所で、その前に、この116氏と言う「氏拡大」はどの程度の「勢い物」であるかを知る必要があり、これに依って青木氏に対する位置付けの判断が異なる。そこで事前に検証して観るとする。
「青木氏の位置付け」
先ず、実際は、秀郷一門の「氏家制度」の社会慣習の中では、青木氏への「跡目継承」は、上記した様に秀郷系譜から6度の確認できる記録があるが、一門24氏の佐野氏や秀郷一門外の利仁流からも青木氏が出ているところを観ると、、記録に残らないほどに頻繁に行われていたと先ず考えられる。
青木氏の主要9氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏)と合わせて、116氏の末裔の「上位跡目継承」の慣習で考えると、直系直流5氏の本家筋には秀郷宗家より跡目は6度以上に充分にあったと考えられる。
はっきりと判る跡目から観ると次ぎの事が判る。
先ず、佐野氏は、秀郷より7代目成行(足利氏)−家綱と続き、その子の一人の成俊が佐野の庄司の役となり、更にその孫の基綱が佐野氏を名乗った初代の相伝である。
その相伝の基綱より7代目の行久(二郎)が青木氏の跡目継承に入っている。
次には、その前には、秀郷より直系10代目で青木氏本家筋に跡目を入れている。この時は第2子である。10代目で青木氏本家に跡目を入れた事に早くも成る。
更には、その前には千国の母方(平家)の嶋崎氏から青木氏の分家支流に跡目が入っている。
この他には、清和源氏の頼光系宗家筋より賜姓青木氏各5家5流本家にも跡目が入っているのだが、藤原秀郷流青木氏にも清和源氏の分家頼信系筋からも入っているのである。
秀郷宗家から出せないので、この時は上位の朝臣族の賜姓源氏(母方継承)から跡目を入れて繋いだと観られる。
記録を見つけることが出来ないが、主要5氏の家紋から共通血縁族(5氏共通)には笹竜胆紋の青木氏が入っている事から、皇族賜姓源氏のみならず皇族賜姓青木氏からも跡目継承が行われた事は確実である。
特に、主要5氏の血縁分布から観ると伊勢青木氏からの跡目が濃厚である。
秀郷一門となったこの笹竜胆紋の青木氏から他の主要4氏に血縁が広まって共通血縁族と成った考えている。
更には、皇族宿禰族の橘氏の橘紋も共通血縁族である処から観て、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏の一つ橘紋の皇族宿禰族の青木氏からも跡目に入った事は確実である。
つまり、何れも同じ青木氏の血縁であり、氏名は変わらない事に成る。
これだけの史実から観ても十数度以上の跡目が青木氏に入っている事が判る。
だから、歴史上、信長や秀吉に追われた賜姓青木氏が親族と成っている秀郷一門の青木氏のあるところを頼って逃げ延びて子孫を遺す事が出来たのである。全く無縁の所に逃げ延びたと言う事ではない。
先ず、その一つの例を挙げる。
藤姓足利氏(秀郷直系7代目:下野国足利郡開発足利庄:成行の護衛の直流青木氏)に清和源氏分家の頼信系の源義家(征夷大将軍)の孫の義康が跡目に入る。
更に、1185年頃に平氏方(嶋崎氏)の藤姓(足利氏)末裔(直系青木氏)が没落し、ここに足利成行の一族の基綱の娘と源義国との間に出来た子供がこの青木氏の跡目継承をしている。
(基綱は始祖佐野氏)
(藤姓足利氏とは秀郷の直系子孫の6代目成行一族の事(実質青木氏である)。
又、この足利氏ではもう一つの跡目騒動が起こっている。
一方の元足利氏は藤原一門の5代目頼行が陸奥国の鎮守府将軍としていたが、信濃国に転勤し、その藤原秀郷一門(青木氏を含む)に同行して信濃国に定住した陸奥の住人である。
この藤原氏との血縁を持つ分家陸奥の小田氏(小山、花山氏)の血縁族末裔が土豪と成って勢力を高め足利氏を名乗った一族である。(常陸の小田氏はこの末裔)
この藤原氏の血筋を陸奥で受けた配下の小田氏系足利氏と、其処に赴任した藤原秀郷宗家の成行の藤姓足利氏の二つが存在した。その藤姓の足利氏は実質青木氏である。
藤姓足利氏は上記系譜の兼行の子供の成行(弟の考綱は長沼氏)から始まり末裔が引き続いている。
この「兼行」から「足利大夫」として足利氏を発祥させているが、実は「足利氏」に事件が起こった。
陸奥から来た元足利氏の本家の嫡男跡目に対して、秀郷宗家はこれに異義を唱えた。跡目をなくした元足利氏の分家に対して、秀郷宗家より第2子の跡目をいれて、足利本家を潰して、この秀郷の宗家跡目を入れた元足利氏の分家を藤姓足利系本家とする戦略に出た。
豪族となり地名から足利氏を名乗った元足利氏と、秀郷一門の成行との間で争いが起こった。
跡目に関する足利での勢力争いである。
結局、秀郷宗家の勝ちとなり秀郷一門が入った分家が足利氏の本家と成ったのである。
この結果、陸奥から来た元足利本家は若狭湾沿岸沿いに逃亡して、鳥取米子と八頭当りに到達して定住した。これに同行した一部の賜姓青木氏の足利氏系青木氏はここに米子青木氏を発祥させた経緯があり、この時の事件の原因も跡目に関する廃嫡事件であった
そこで、秀郷一門の跡目を観ると、主要5氏の兼光流2氏では次のように成っている。
秀郷9代目の成俊の弟の有綱が足利氏を継ぎ、それより更に6代目の行長が初代永嶋氏をなのったのである。行久の跡目では青木氏とは基綱系の同族である。
跡目系譜
秀郷−成俊9・{佐野氏相伝}−(有綱-基綱-国綱-宗綱-宗行-行春-為行)−行久17・{青木氏}
有綱9・{足利氏}−基綱10・{佐野氏}−(景綱-秀綱-行政)−行長14・{永嶋氏}
秀郷7代目の成行の弟の考綱が長沼大夫となり、初代長沼氏である。
跡目系譜
秀郷−成行7・{足利氏相伝}−家綱−有綱9
考綱7・{長沼氏相伝・長沼氏}−秀基−秀忠・{大屋氏}
秀郷−行尊6・{太田氏}−行政−政光−宗政・{中沼氏}
−朝光・{結城氏}
−行義・{下川辺氏}
注:{有綱−基綱}は有綱は兄の成俊の「跡目」に入り「後継ぎ」となり、基綱の子の景綱と国綱
は、景綱は秀綱に繋ぎ永嶋氏に、国綱は宗綱に繋ぎ青木氏の跡目の行久に繋がる。
成俊の嫡子を外して弟を跡目に入れると言うことが起こったのである。
下記レポートには重要な判断の系譜であるのでこれを事前に特記する。
このレポートからは宗家一門より「第3子跡目」(第2子の場合もある)で本家分家筋から116氏の上位の家筋に跡目を入れていた事が覗える。それ程に藤原秀郷一門の領国を含めて赴任地24地方への青木氏の護衛役の意味は大きかった事でもある。
秀郷武士団の主要5氏の青木氏外の4氏は自らが護衛役を組織して赴任地を移動したものである。
それだけに、比較的に末裔の広がりは小さく、夫々その血縁族の有様の特長を持っている。
これに較べて、秀郷一門の宗家筋からの「第3子跡目」上位継承で跡目が入る事で、青木氏は、取りも還さず、「第2の宗家」とも考えられる。
上記の「藤姓足利氏」のところでも、当時の史書は青木氏を本家扱いをしている。他の23氏と較べても「宗家からの跡目」であるから、立場上は上位であるからトップの位置に氏家制度の中では存在していた筈である。
跡目系譜から観ても主要4氏も青木一族として含めた書籍もある位である。
第1、2子は宗家筋としての跡目として定め、第3子は広まった青木氏の跡目に据え、この事は純血を保つ「忠誠心の高い護衛」と言う秀郷一門の大戦略であった。
この「大戦略」には、次ぎの様な事が常に起こっていたのである。
ただ”「跡目を入れる」”と云う簡単な事ではないのである。
既に自前の跡目子孫が青木氏に存在しても、「護衛」と言う目的からその「嫡子跡目」は、場合に依っては宗家筋より強引に第3子を入れるという戦略上の目的を最優先していたのである。
その場合とは嫡子の能力であった。
「忠誠心の高い護衛」を目的とする以上、純血を保つ事になり、同族の血縁はそれだけに子孫に対して奇形児の危険性を持っていた事になる。それをも克服する手段として宗家筋の第3子を、青木氏に嫡男があるとしても廃嫡して、跡目を入れるという手段を採っていたものである。
(それだけに当時は「系譜の編集」は難しく成っていた)
そもそも「氏家制度」の封建社会では、この時代は「子孫存続」を前提として、嫡男が必ずしも嫡子になるという家法の慣習ではなかったのである。
この嫡男(長男)が嫡子になると言う方式は、江戸の始めである。
家康が徳川幕府樹立後に「2つの家法」の発言をした。武家社会ではこの一つとしての「長男方式」を採った事から始まったまだ新しい家法習慣である。
以後、徳川時代を経て昭和20年までの法改正まで続き、当時は大名以下上級武士以上全てこれに従ったのである。
それだけに江戸以降は長男に能力がないと何処でも跡目事件が起こったのである。
例えば、この様な跡目騒動の例が秀郷一門にも大事件として度々起こっている。
その内の一つを上げると、上記の「2つ足利氏」の藤原秀郷血縁族の「足利氏騒動」である。
これは一つの事例であるが、当時はこの様な事が各地で盛んに起こっていた事である。
同時に、青木氏にもその役目柄からかこの跡目に関しては宗家に6度も跡目騒動的なものが起こるという程に事は厳しいものがあったのである。
この当時の「跡目」と言う事にはこの様な事が起こっていた。
ここでは、上記の事を念頭にその血縁族の特長を次に検証して見る事とする。
面白いことが観えて来る。
先ず、その「氏拡大」であるが、ただ、青木氏116氏は余りにも大きい末裔集団である。
宗家一門に付き従い24地方への護衛役で入り、土地の豪族との血縁戦略(秀郷一門の統一戦略)だけではここまでにはならないであろう事が考えられる。
そこで、秀郷一門の子孫繁栄の隆盛期は4期が考えられる。
先ず、平安末期までは北家筋として隆盛した。
この間(958−1185)220年である。
この期間は24地方への赴任で土地の豪族と血縁するとした主戦略で氏拡大を図った。自然拡大ではない。そうすると次ぎのようになるであろう。
最大で24−30の氏の拡大程度でなかろうか。これを1期とする。
ついで、鎌倉幕府の樹立で一門は各地に失職離散したが、武蔵、下野付近の坂東では源頼朝に合力して本領安堵され藤原朝光などは生き残りを図ったし、各地の一門は土地に名主や庄屋や大農や郷氏と成って、一段と隆盛は下げた形ではあるが子孫繁栄拡大を図ったであろう。
赴任地に遺された子孫は守護、地頭、御家人などに圧迫されて血縁はなかなか難しいものであった筈である。
この間は鎌倉幕府倒壊までの期間(1358-1185)173年とする。
1期の30程度の拡大分を計算すると、最大で10−19の氏の拡大程度でなかろうか。これを2期とする。
その後、室町幕府が樹立して各地の秀郷一門は土地の豪族となり、一部は仕官したとしても各地でもこの時、全国的に発生した下級武士の「下克上」や「戦国時代」の藤原氏の様な高位の家柄筋の打ち壊しと狙い撃ちが重なり、藤原一門が狙い撃ちにされて権勢は低下し隆盛の域どころではなく衰退域にあったと考えられるであろう。その期間(1358-1408)50年とする。
当時の寿命からして最大で3−6の氏の拡大程度であろう。これを3期とする。
その後、安土桃山時代では兵農分離や天下分け目の戦いで子孫の拡大は衰退期の横ばいが最大であろう。この期間(1408−1603)195年とする。
子孫拡大分を計算すると、最大で12−23の氏の拡大程度であろう。これを4期とする。
(江戸時代以降は家紋から観た氏の拡大は信頼できないので除外する)
考えられる範囲としても、1期から4期までの合計は最大49−78となる。
(ただし、子孫を一代3人として分家化する分は断絶家と他家化の分とで相殺する)
この程度が普通ではないか。永嶋氏、長沼氏、進藤氏の拡大氏と同等程度(52と38)である。
この様に考えてみると、116氏に対して、67−38の氏分が足りない事になる。
(合計638年間)
この足りない分はどの様に考えれば良いのか疑問である。(疑問1)
この疑問1は本文で主要4氏との関係で個々に分析して解き明かす事にする。
これらの事も次ぎのレポートの解析で判断出来る。
上記の数字49−78は普通の子孫拡大で得られる数字と観ると、藤原秀郷一門にとっても、主要5氏の間でも、護衛役の青木氏の氏の子孫の存在が最大の問題であって、116氏に広がったところを観ると、これを何とかして必至に護ろうとしていた結果事が観えて来る。
では、これ等の事に付いて解析して観る。
藤原秀郷一門の主要5氏は次ぎの通りである。
兼光流は青木氏、永嶋氏、長沼氏
文行流は長谷川氏、進藤氏
青木氏に付いては既に研究室の「青木氏と血縁族」(家紋)等と家紋掲示板に掲載しているので、特に示さない。(ただし、次の比較は第3の氏を含む)
先ず、兼光流は次ぎの様になる。
青木氏116氏に対して、
永嶋氏は35氏に末裔を広げている。
長沼氏では52氏に末裔を拡げている。
文行流は次ぎの様になる。
長谷川氏は111氏に末裔を広げている。
進藤氏は48氏に末裔を広げている。
藤原秀郷一門は、兼光流と文行流と合わせて361氏(不詳含まず)と成る。
この数字を観ても如何に青木氏は大きい氏であるかが判る。
普通はせいぜい多くても20程度以下である。
歴史的長さと権勢の大きさもあるが、藤原秀郷一門の採った戦略が大きく左右していると見る。
歴史と権勢で観れば、例えば、典型的な氏として源氏11代もあるが、直系氏孫は遺し得ていない。
同じく、平安の栄華を欲しい侭にした平家も同様であり、隆盛を極めた割にはこの様にはっきりと氏を遺していない。
子孫を遺すと云う事は何らかのそれなりのものがあって始めて成し得る事である。
栄耀栄華は子孫を遺す前提ではない。そうすると、藤原秀郷一門は例外であると云う事になる。
藤原氏四家(北家、式家、京家、南家)の中では北家が隆盛を極めたが、跡目が上手く行かず北家以外は子孫を多く遺していない。
また、跡目を理由に他を潰したが、秀郷一門の中では、これだけ大きくなれば、「自然の摂理」により、秀郷一門は、時代と共に先ずは「烏合衆参」するかして、終局は再び「離散分裂」を起すが歴史の習いだが、しかし、起こっていないのである。
これは何故なのか疑問が湧く。(疑問2)
その「戦略」は先ずは、秀郷一門の中では、時の権威の朝廷との政治的繋がりは除いて、主に次の様な理由に成るだろう。
「生残り戦略」(疑問2)
「氏家制度」と「強食弱肉」と「権謀術策」の社会体制の時代の中での背景を前提とする
1 「武力」身内から専門の護衛役の氏を造った事にある。
2 「掟」宗家より「第3子の跡目」に入れる家法にある。
3 「権威」万が一の事を考えて武力を持つ「第2の宗家」を造った事にある。
4 「外防衛」赴任地24地方に血縁族を作り全国的防御網を張った戦略にある。
5 「内防衛」武蔵国(入間)を中心に神奈川横浜を半径とした渦円に単独青木氏116氏の防御網を築いた事にある。
6 「血縁」全国主要豪族氏との血縁を勧めた事にある。
7 「権威と象徴」皇族賜姓族(源氏、青木氏)との血縁を重複的にした事にある。
8 「組織強化」総宗本家と秀郷主要5氏との相互間の血縁族を作ったことにある。
9 「宗教」神社、寺社の宗教勢力との血縁を勧めた事にある。
10 「政治連携」積極的に北家一族との連携をとった事にある。
11 「経済力」長期間に穀倉地の武蔵下野の領国を死守した事にある。
12 「独立採算制」各氏は「武力と経済」の「2足の草鞋策」を積極的に採用した事にある。
「生残り戦略(1−12)」を一言でいうと、「跡目血縁」を中心として「政治、経済、軍事」の要件の「相互関係」が上手く取れていたことを示すものである。
本文を理解する上で、上記の序文を参考にしてお読み頂きたい。
これ等の事が本文のデータの考察から観る事が出来るのである。
主要5氏の氏の構成も判る史料も掲載するので、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏と、青木氏の関係からの影響も参考にも成る。
No.1345
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係
副管理人さん 2008/09/30 (火) 14:21
[本文の考察]
本文に入る前に、1/10−6/10の史料を提供して来たが、これらの史料を基に次ぎの本文を考察する。
この本文は青木氏に対して、他の主要4氏との関係がどの様に成っていたのかを検証する。
その事により青木氏の位置付けが明確に成るだろう。
予備知識として史料のところで一定の考察を加えたが、それらの事がもっと明確に成る事を期待する。
先ず、兼光流の青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流の長谷川氏、進藤氏が、藤原秀郷一門24氏の中で最も栄えたで氏でありその主要5氏であるが、先ずは永嶋氏から検証する。
本文 永嶋氏との関係
1 血縁族の家紋類(永嶋氏)
そこで、先ず永嶋氏は35氏から成っている。それは次ぎの様な血縁族に成っている。
(以下第3の永嶋氏の家紋含む)
(・印:家紋200選 比 20/35 57%)
1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆
3 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
4 ・丸に沢瀉
5 ・丸に抱き茗荷
6 ・丸に違い鷹の羽、丸に抱き鷹の羽、
7 ・丸に桔梗
8 ・丸に木瓜
9 ・丸に蔓柏
10 ・梅鉢、・丸に梅鉢、星梅鉢
11 ・蔦、・丸に蔦
12 ・三階菱
13 ・丸に平四つ目
14 ・五三の桐
15 丸に隅立て一つ目、丸に隅立て四つ目
16 折敷に三文字
17 丸に巴の字
18 扇に永の字
19 丸に八一の字
20 丸に抱き柊
21 丸に五瓜に唐花
22 亀甲に三つ柏
23 井桁、丸に井桁
24 釘抜き
25 石持ち地抜き釘抜き
26 七宝に花菱
27 垂れ穂抱き稲
以上27分類の家紋群である。
永嶋氏の血縁族の考察
永嶋氏にも矢張り「下がり藤紋」を堅持する永嶋氏の宗家が存在する。
宗家はこの「下がり藤紋」の綜紋を堅持するのが宗家の役目であるが、なかなか長い期間を男系継承して跡目を保って行くのは難しい。氏家制度の中で家柄身分の下の氏と血縁すると嫡子得られない場合は家紋掟により変紋を余儀なくされる。依って、上位の同門一族の同紋から養子を迎えての仕儀となる。つまり、秀郷の「総宗本家」(貴族)か、又は総宗本家から「第3子跡目の家法」に基づく「第2の宗家」(武家)の「青木氏宗家」から跡目を入れる事になる。
当然、兼光流の長沼氏の宗家からも考えられる。止む無くば、文行流の進藤氏や長谷川氏の宗家からもあるだろう。
しかし、なかなか秀郷24氏宗家に跡目を入れる程に、総宗本家には跡目の数は絶対的に足りない筈で、それ故に、総宗本家の護衛役を前提とする青木氏に「第3子跡目の家法」を優先して定め「第2の宗家」としたのである。そこから、青木氏の嫡子外は永嶋氏と長沼氏に跡目を入れていたのであろう。
藤原秀郷流の永嶋氏の血縁族は全体の57%が家紋200選に含まれている。半分である。
永嶋氏35氏から「第3の永嶋氏」を除くと、恐らく、85%程度に達することが覗える。
つまり、この数字は「主要族」との血縁を重視していた事に成る。
特に、上記の家紋類を観ると、丸付き紋が全体(16)の65%に達する。(第3氏除く)
つまり、分家或いは支流一族との血縁が多い事が覗える。
家紋200選57%(70−85%)で、支流紋65%とは、次ぎの様に解析できるのではないか。
永嶋氏は隆盛著しい一族と血縁して勢力を横に伸ばし、力を維持しているが、その相手の力は本流ではない元気一杯で身を起した本家を凌ぐ分家筋である事、
これは本流(本家)の「家柄」では無く、「実力」の分家筋を選んだ「戦略的血縁」と観られる。
つまり、これらの家紋の発祥時期から観ると、この時期は「下克上」が起こっている時期である。
「下克上」にて下級武士が、家柄身分を持つ氏に対して、主君に対抗して、「焼き討ち」や「打ちこわし」を行い秩序が大乱れしていた時期でもあり、主君側にある永嶋氏は、この中で「生き残り」の為により勢いのある豪族の「分家筋」を血縁相手に選んだ戦略と観得る。
つまり、主要氏の後発の発祥の氏としての当時の趨勢を配慮した血縁である。
考察として、更に詳細に分析すると、永嶋氏は3つの氏種に分けられ、時期は3期で、「平安期」と「室町期」と「江戸初期」の3つである。
先ずは、次ぎの3つ期間となろう。
1つ目は下記の分析でも出て来るが、「笹竜胆紋」(源氏と青木氏と佐々木氏)との血縁もしているが、多分、これは永嶋氏の本家筋の血縁ではないかと観られる。これ等は平安期である。
2つ目は、しかし、又、一方では「片喰、茗荷、梅鉢、沢瀉、鷹の羽」の一流の大豪族である血縁である。これ等の家紋は室町期に台頭した氏である。後に、これ等は大豪族に成った。
3つ目は全く知名度の無い家紋の氏の血縁である。これ等は江戸初期前の混乱期である。
この笹竜胆紋の勢力では先ず3つのルーツが考えられる。
一つは、賜姓青木氏(5家)である。
二つ目は源氏(清和)である。
三つ目は佐々木氏(近江)である。
この三つは何れも皇族賜姓族の同族である。
この内、この「笹竜胆紋」は源氏、佐々木氏、賜姓青木氏と成るが、この3つの中で賜姓青木氏であると推測している。
では何処の賜姓青木氏なのかである。
結論から、先ず「伊勢青木氏」ではないかと考えられる。
その考察は次ぎの考えから確認出来る。
時期的な考察からは、平安中期から末期の永嶋氏が発祥した初期であろう。
永嶋氏の発祥は、兼光流の秀郷13代目行政(四男)の子行長(四男)が伊予守に任じられた時である。
この時代は、大勢力に成りつつある「平家」に対して、「源氏」と「藤原氏」と「賜姓青木氏」がスクラムを組んで対抗していた時期でもある。この3氏は藤原氏系の母方で繋がっている。
一方、桓武天皇の母(高野新笠)方の「阿多倍一族」の「京平家(たいら族)」が誕生し、賜姓をうけ、成長し、反面、その圧力で皇親政治の賜姓青木氏は衰退に追い込まれた。
源氏も同様に最終11代と子孫を広げながらも平家との戦いで「清和源氏」と「村上源氏」と「宇多源氏」と「嵯峨源氏」程度の源氏がやっと子孫を僅かに遺し生遺り低迷していた。
その中でも、京では低迷していたが藤原秀郷一門の北家筋は関東に坂東平氏と戦いながらも秀郷王国を着実に東に築いていたのである。
その一つが一門の先鋒として逆に関東とその西域に勢力を伸ばすきっかけを狙っていたのが永嶋氏である。京の京平家に対抗したその勢いで2つに分流した永嶋氏は「関東屋形」と呼ばれた。
その証拠には西域に集中した血縁家紋群(・印)にある。東域には全く無い事にある。
その一つとして、この血縁がスクラム網の一つとして、発祥順位では24氏中後発グループの第7番目になる永嶋氏が担ったのである。
後発としては先ずは西域防御が求められ、そしてこの方法しか無った筈である。
京平氏の「東勢力侵攻」の時期に対して、そう成ると、対抗するかの様に畿内の東の伊勢青木氏や美濃青木氏と連携して戦略的に「秀郷防衛網」を築く必要が秀郷一門に出て来る事に成る。
戦略的には、この時期は、「道」に関係する戦略の展開をするのが常道であった。
京に繋がる東海道や中仙道等で分けられていた。信濃や甲斐は東海道外であるので、永嶋氏にはその勢力圏外であつた筈で、信濃と甲斐は防衛網の戦力域外であり先ずは問題はない。
又、近江は京平家域(阿多倍末裔一族圏)に入り過ぎるし遠すぎる。
ここで余談だが、徳川家康は豊臣を潰すために名古屋城で一時3月ほど秀忠本軍を待った時期があったが、この期間は、本軍を待っただけでは無かったのである。大阪に通ずるこの「伊勢道」を確保する事が勝利に繋がると観ての待機であった。つまり、この「伊勢道」を奈良の西域まで抑えていたのは大シンジケートを持つ「2足の草鞋策」の伊勢青木氏であった。故に「伊勢青木氏」に対して合力参戦を促したのであった。
南北朝の楠木正成軍3千が北条氏軍10万に対抗して勝ったのはこの伊勢シンジケートの背景を持っていたからである。家康はこの史実は当然知っている。「伊勢青木氏」の分家一部は豊臣側に味方した。しかし、伊勢青木氏本家は実戦250の「兵」で合力参戦する事と成った。
家康の先遣隊が側面からこの勢力(武力と経済力とシンジケート)に突かれては、北条氏や今川氏の失敗の二の舞に繋がり、家康が潰れれば、豊臣軍は勢いづき徳川本軍の指揮は低下する最も大事な戦略事であったのであった。史実、今川氏も行軍で最も弱い欠点を信長にこの側面を突かれたのである。
結局、「伊勢道」の安全通行の役を受けて「食事、経済面、運送、周囲防御」等を果たしたのである。実際は「伊勢道」にシンジケートを動かしたのであるから1万は超えていた筈である。
この様に「戦い」は刀を振り回す事では無く、その前に「道」とそれを勢力圏としている「氏力」の確保が優先するのが戦いである。
これは永嶋氏にとっても戦略は同じである。「道」を確保しない限り勢力は伸びないし、「氏の存続」は無い。それを保つには、この時期としては当然に必要なのは、先ずは「戦略的血縁」であり、その最適な氏として観ても、先ずは「不入不倫の権」を堅持し、最大勢力を誇る東奈良から員弁、桑名まで勢力を堅持し京大阪に繋がる「伊勢道」を確保している「伊勢青木氏」と成るであろうし、他に無い。
そもそも、賜姓青木氏の元締めの伊勢青木氏との血縁をすれば、必然的に信濃、甲斐との「道」の確保と側面の防御が出来るし血縁をする必要が余りない。永嶋氏にとっては側面の憂いを無くすることが出来る。それどころではない。武力だけでは護れない。経済的裏打ちが確保できなければ全て成り立たないし、永嶋氏には税から上がる以上にそれ程の経済力を持っていない。
伊勢青木氏の「2足の草鞋策」と繋がれば問題は無く成るし、長期的な勢力維持の展望が開ける。
この様に、史料の「共通血縁族」の5氏の「共通血縁族」の考察でも判る様に、「笹竜胆紋」は同じ青木氏の始祖の伊勢青木氏でもあった。
戦略上、西に勢力圏を重複する相手を選ぶのは当然であるし、平家との勢力争いを起しているのであるから、平家に対して、東の西はずれを強化するのは戦略の常道である。
永嶋氏としてはこの勢力を無配慮に放置する事は少なくとも無い。
先ずそんな事は出来ないであろう。その証拠の一つとして、伊勢の土地永嶋に一族を置いている。(地名:伊勢永嶋)
源氏はこの時期、清和源氏(宗家頼光流一門)だけが戦える武力を保持していたが、河内、摂津、甲賀、信濃、甲斐、伊豆の域である。これは圏外であるし、血縁相手は主に同族の5つの賜姓青木氏であって、土地も、伊勢、美濃、信濃、甲斐であった。この事から、清和源氏ではない。
地理的な考察から、中部を主体として延びた永嶋氏の拠点から観て、史料3の下記の皇族賜姓族5家5流と24氏の内容から美濃の一帯に勢力を持っていた美濃青木氏か、伊勢青木氏かであろうが、遠方の氏と血縁する事は、その勢力範囲が分断されて効果的では無い筈だし、城を築く様に血縁で固めるとすると勢力範囲内と成ろう。
ただ美濃青木氏は勢力範囲が小さく子孫を大きく遺してはいない。
これは、青木氏の家紋121氏(史料2)の群から判断出来る。
つまり、他氏に較べて桔梗紋類は本家と分家の2氏と少ないことでもあり、故に勢力と権威の期間も短かった。
現実には、少し後の桔梗紋族は信長の時期には、殆ど滅亡している位に小さい。
滅亡している事は永嶋氏とは結んでいなかった事により、結んでいれば、信長期には秀郷一門は離散したとは言え依然その勢力は末裔に引き継がれていた。
(注 藤原一門は源頼朝に本領安堵を2度受けている。独断で実行したこれが原因で坂東八平氏の反発を受けて幕府樹立後3年で清和源氏一族は尽く抹殺された。 北条氏は藤原一門と小競り合いを起すが、得策でないと見て結城氏が圧迫を受ける程度で終わる)
故に、東の背後から永嶋氏の勢力に圧迫を受けていて、信長は動けなかった筈である。
源氏(清和)は清和の宗家頼光の領国で主に関西の畿内域(河内)に集中している。永嶋氏の西端の域であるし、また近江の青木氏と伊勢の青木氏もあり、余り伸ばすと争いが起こる。確かに、西端の勢力は室町期の勢力圏域であるから、笹竜胆紋との血縁は平安中期から末期と観られるので、源氏ではないであろう。
確かに、村上源氏の北畠氏が最も栄えた一族であるが、伊勢永嶋に永嶋一族があり、伊勢東部に勢力を張り始めていたが、時代は室町期末なので少しずれていると観られる。
佐々木氏は、主に近江、滋賀と東北地方に勢力を張っていた事から、地理的には余り意味がないし、古来、奈良時代の役目から神官が多い事もあり、確かに大神領との考えもあるが「勢力」と言う意味から考え難い。
(参考 近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子川島皇子、滋賀佐々木氏は宇多天皇の第6位皇子)
佐々木氏は確かに圧迫を受けて、末裔の剣豪佐々木小次郎の近江佐々木氏などでも判る様に、滅亡の憂き目を受けているから永嶋氏との血縁は、桔梗の土岐氏と同様に考えられない。
地理的にも、伊勢青木氏である。
次ぎは氏からの考察では、清和源氏は確かに頼信分家一門が鎌倉幕府を開くが、平家傲慢の反発からの時代の趨勢によるものであって、上記した様にこの清和源氏の頼信末孫の一族は北条氏に依って鎌倉末期に絶滅させられている。
平安期となれば源氏一族11家は一段と成って平家に圧迫を受けていた。
結局は遺されたのは主に4つの源氏(清和、村上、宇多、嵯峨)だけであり、その中でも力を持ったのは実質戦い得る力のあった清和源氏だけであった。村上源氏も一時勢力を持ったが線香花火の様なものであった。
佐々木氏も清和源氏に同調して戦ったが、矢張り平家の圧迫に耐えられなくて近江、滋賀付近と逃亡先の東北地方に分布するだけの様になった。又、主に平家の圧迫手段に対して生き延びる為に神官職に従事して子孫を維持した事も大きく影響している。
(本論から外れるが佐々木氏の家紋から神官職が多い事が覗える。)
藤原秀郷一門の各地に定住した一門の守護神や菩提寺の住職に佐々木氏の姓が多いのは離散後この保護を受けた事から来ている。
(このことから後に清和源氏と佐々木氏末裔を名乗る氏が各地に現れるがこのためであり、先ずは未勘族である)
兎角、源氏では清和源氏が最も生き延び方が長かった。それは、次ぎの戦略からである。
一方、清和源氏は宗家の頼光系は伊勢青木氏に、土岐氏と土岐氏系青木氏に、そして、頼光は信濃守護代を最終は頼信に渡し、東の坂東への進出の足がかりを作らせて清和源氏の生遺り策とした。
この為に伊豆、駿河付近に拠点を置いて、分家の頼信系は足利氏と足利系青木氏に、武田氏と武田氏系青木氏に跡目を入れる戦略を採って子孫を遺したのである。
(この為、頼光系の源三位頼政は援護の為に伊豆に伊勢青木氏の一部を移動させた)
伊勢青木氏の経緯は、伊勢青木氏の天智期からの領国で天領地の伊勢国は、伊勢北部伊賀地方を割譲させられて、この京平家(桓武平氏)の祖の後漢の末裔の阿多倍王に与えられた土地である。
室町期には永嶋氏が抑えていた伊勢永嶋も室町期には北畠氏に割譲させられて、伊勢青木氏の伊勢国は3割譲の憂き目を受けた。
この時期の事で伊勢青木氏は永嶋氏と連携した事も充分に頷ける。
(桓武天皇の母の高野新笠はこの阿多倍王(高尊王)の孫娘である。青木氏と桓武天皇との間には軋轢を受け一時衰退した。しかし、桓武天皇に対抗して子供の嵯峨天皇がこれを解決し伊勢青木氏を救った経緯がある)
史実からも伊勢青木氏と永嶋氏は連携を採っていたのである。(共通血縁族でも良く判る。)
この様な状況から東に向かった頼信系ではなく、武蔵を基盤にした藤原秀郷一門の永嶋氏は、中部から西に勢力圏を求めた事から、畿内に勢力圏を持っていた清和源氏頼光系の跡目を受けていた伊勢青木氏(京綱)や後に美濃青木氏との血縁を結んだ事は確実である。
そうする事で、史実、京平家に対抗して3者(5家5流の元締め伊勢青木氏と、河内摂津に拠点を置く清和源氏頼光一門と、武蔵下野以北圏に勢力を置く藤原秀郷一門)のスクラム体制が成立したのである。
この体制網を組めば、平安期の事としては、京平家は東に侵攻することは出来ないであろう。
現実に出来なかった。無論。室町期にも「2足の草鞋策」を採っていた伊勢青木氏は藤原一門とは連携を続けた史実がある。
この「三者連合」は永嶋氏の35家紋と、その分析の青木氏との同一血縁族の家紋群(下記)でも判断出来る
(参考 秀郷一門24氏の発祥順位は史料4を参照)
笹竜胆紋から話を戻す。
次ぎに一流大豪族の発祥から考察すると、この永嶋氏の血縁時期は、氏家制度の中で分家の権域が本家を凌ぐ「下克上」、「戦国時代」の頃であると観られる。
「時代性」の点から観た分析では次ぎの史料から読み取れる。
(史料7/10添付)
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
H:4 11% H:3 13% H:2 08% H:4 13% H:7 03%
K:1 03% K:1 04% K:1 04% K:1 03% K:20 10%
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
A:9 24% A:6 26% A:5 21% A:7 22% A:55 26%
E:9 24% E:4 17% E:5 21% E:10 31% E:47 22%
永嶋氏は室町期を中心にして、血縁は江戸よりにある。
そして、その「地域の点」から観ては、次ぎの様に成る。
最も西はずれの出雲大社の氏子集団の豪族亀甲族一団(1)を始めとして、安芸、美作域の鷹の羽族(2)、関西域の片喰族(3)、美濃域の梅鉢族(4)、尾張域の沢瀉族(5)、近江と伊勢域の茗荷族(6)と満遍なく血縁を固めていることが上記の説としても判る。
これ等は全て「家紋200選」の名族である。
さて、そこで、「家紋200選」の46%とは、多いのか少ないのかの判断がポイントになるだろう。
藤原氏以外の氏の血縁は普通10%程度であることから、かなり多い事が云える。これは上記の「戦略的血縁」と「氏家制度の仕来り」で家柄身分の吊り合った血縁からこの%に成っている事が言える。
藤原秀郷流永嶋氏では高位の家柄身分であるので、跡目継承を機会に政略結婚的な血縁の様相が覗える。
「第3の永嶋氏」と見られる氏や家紋も20%程度を閉めている事は、他氏に観られない藤原氏と青木氏等に強く観られる現象である。この数字はほぼ平均である。
この「第3の永嶋氏」の家紋は不特定の条件と系譜を持つために系統的に調査が難しく全ての確認は「家紋200選」では困難であったと観られる。
従って、永嶋氏のこの特長を除けば、実質70%以上85%以内であると考える。況や殆どである。
そこで、では青木氏121氏の血縁族の家紋と、永嶋氏35氏の血縁族との間にはどの様な関係を持っているだろうと云う考えが浮かぶ。
そこで、次ぎに「共通血縁族」という点でそれを考察する。
「青木氏と共通血縁族の分類」
青木氏と永嶋氏と同一の文様を持つ家紋類は次ぎの様に成る。
解析
その答えは、先に次ぎの様に成る。
35紋中17家紋となる。48%である。約半分である。第3氏を除けば、70%である。
つまり、青木氏と永嶋氏は主要な血縁族としてはほとんど同じ相手である事になる。
青木氏と同様の兼光流から出た永嶋氏は半分は同一氏と血縁をしている事に成り、実に血縁関係の繋がりが深いことを示す。
「下がり藤紋」が存在することは永嶋氏の宗家が現存していることを示す。
又、「上り藤紋」がある事は秀郷主要5氏外の北家一族との血縁を依然として維持している事も示す。
中でも、「笹竜胆紋」の皇族賜姓青木氏との血縁が目立つが、ここで賜姓青木氏と繋がっていたことを示し、5家5流の青木氏と支流24氏(近江系、土岐氏系、諏訪族系、足利氏系、武田氏系。更には佐々木氏系)が信長に負われて逃亡した先が、各地の藤原秀郷一門のところを頼った事がこれでも良く判る。
又、皇族賜姓青木氏24氏の家紋類(参考 皇族賜姓青木氏5家5流と24氏 参照)と、藤原秀郷流青木氏116氏とは家紋類が「笹竜胆紋」の綜紋で、もとより重複するところがあり、これも頼ることが出来た要件であったと見られる。
(重複家紋は史料3に記する)
両者共に、桔梗紋の土岐氏との血縁もあり網目の様に血縁を広げていた事を示す。
特に、「片喰族」、「梅鉢族」、「抱き茗荷族」、「鷹の羽族」、「木瓜族」、「沢瀉族」と中部地方から中国地方手前までの氏と隙間なく満遍なく漏れなく血縁して、勢力圏を確保している事が判る。
これ等の氏は「家紋200選(下記参考)」にある主要氏ばかりである。
これ等の氏の発祥は、時代性から観て室町中期を境に2つに分かれ、如何に勢力を持ち得ていたかの判断材料に成る。
これ等のことは共通血縁族の下記の解析でも更に証明している。
ところで、永嶋氏には、関西より以西から九州地方全土にも、「大蔵氏系永嶋氏」の3氏が存在する。
「大蔵氏系永嶋氏」、「肝付氏系永嶋氏」、「島津氏系永嶋氏」である。何れも阿多倍の末裔子孫の大蔵氏から出ている。
ただ、秀郷流永嶋氏にも2つの流がある。
「佐野氏系永嶋氏」、「結城氏系永嶋氏」である。秀郷一門兼光系である。
この大蔵氏系永嶋氏と秀郷流永嶋氏とは繋がっているとを考察する。
(大蔵氏は直系の阿多倍一族である。)
これ等の事に付いては長谷川氏の本文で「戦略上の違い」として詳しく考察する。
永嶋氏の「共通血縁族」(青木氏)
(・印は「家紋200選」にあるもの)
(青木氏の家紋の内容説明の由来、使用氏、時代、地域、特記は史料5参照)
1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆
3 ・丸に隅立て4つ目
4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5 ・丸に沢瀉
6 ・丸に抱き茗荷
7 ・丸に違い鷹の羽
8 ・丸に桔梗
9 ・丸に蔓柏
10 ・丸に木瓜
11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12 ・三階菱
13 ・五三の桐
14 釘抜き
以上17の「共通血縁族」である。
青木氏との永嶋氏「共通血縁族」の考察
釘抜き紋(長谷川氏支流族)を除いて、16氏全て「家紋200選」にあり、永嶋氏35氏の70%は青木氏と共通血縁族である。
ここで、推論が湧く。
この”17家紋の氏の使用氏と、青木氏と永嶋氏は個別に血縁したのであろうか”である。
推論は、”青木氏と永嶋氏のどちらかの17の家紋を持つ氏が同族内で相互に殆どが血縁した”つまり、”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。
これは、主要5氏の家紋の解析資料1から結論付けられる。(解析資料1参照)
この17の家紋が主要5氏の4−5氏までの共通家紋群である事でも頷ける。
結論は”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。
その血縁は、先ず、何れかの5氏の内の一つが使用氏と血縁し、2代続きの「男子跡目継承」が出来ずに養子先の家紋と成り、男系の使用氏系列の永嶋氏と成った云う事になる。
この永嶋氏が青木氏と血縁したと言う事である。当然にこの逆の事もあったであろう。
つまり、”同族で固めている”と云う事である。
青木氏は、秀郷総宗本家からの跡目を「第3子の家法」で入れて青木氏の宗家を保っているが、他の4氏はこの家法の方式の跡目ではない。だから自らの氏を自らの力で維持しなくてはならない。そこで、他の4氏はこの方式を採り、”より高い血縁一族で固めた”と云う事であろう。
そして、一度は使用氏からの血縁を経て、その血縁先は多くは「第2の宗家」の青木氏から男系跡目が出来ない他の4氏に跡目を入れたと観られる。これは解析資料1で証明出来る。
広く使用氏との血縁出来る可能性(これだけに広範囲に大豪族との血縁が出来る事の可能性)は、主に武力を持たない貴族である「秀郷宗家」に同行し、各地に護衛役として移動していた青木氏以外にない。それが(血縁で固める事)又、護衛役の役目でもあり、「第2の宗家」の役目でもあった。
特に、24氏中の後発の発祥氏の永嶋氏にとっては、「総宗本家」からの血縁の繋がりは難しいとしても、常に「第2の宗家」と繋がっておく為には同族血縁は「生残る絶対条件」でもあったであろう。
その青木氏との繋がりは17/35=50%(普通は10%程度)と大変大きい比率と成っているのである。
そして、更には、青木氏と強く繋がる事で、それらは秀郷一門の主要5氏が「共通血縁族主要8氏」で構成されている事にも成ったのである。
青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏の5氏が同じ「共通血縁族主要8氏」を持っていて繋がっている。実に「強い絆」で結ばれた「氏力」である。
これ等のその「血縁戦略」、即ち、青木氏と繋がる事で35の家紋を持つこの35氏の後発でありながらも「関東屋形」と呼ばれる程に24氏の中でも「主要氏の永嶋氏」と成し得たのである。
参考
本流の永嶋氏(主流)
佐野氏永嶋氏 剣片喰紋
結城氏長嶋氏 丸に剣片喰紋 左三つ巴紋
大蔵氏長嶋氏 扇紋
肝付氏永嶋氏 三雁金紋 通名 兼
島津氏永嶋氏
未勘の永嶋氏
日下部族長嶋氏 一文字に左三つ巴紋
未勘氏
武蔵国 長嶋氏
相模国 永嶋氏
伊勢国 永嶋氏
肥前国 永嶋氏
肥後国 永嶋氏
美濃国 永嶋氏
越前国 永嶋氏
三河国 永嶋氏
8国に未勘の末裔が存在する。
No.1347
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長沼氏との関係
副管理人さん 2008/10/21 (火) 06:44
[本文の考察](長沼氏)
永嶋氏に続いて長沼氏に付いて考察する。
この主要5氏の一つ長沼氏は青木氏と同様に秀郷一門の兼光流である。
発祥経緯も早く青木氏との関わりは深い。
その青木氏とどの様に関わっていたのかを考察する。
藤原氏の古い研究書籍では、これ等の主要5氏特に中でも長沼氏と永嶋氏は「青木一族」と位置付けられているものもある位に親密な関係にあった。
「家紋」は当時の氏の特長を表す代表的な手段であって、その「氏の生き方」を示すバロメータでもあるが、その「家紋」を通じて検証してみる。
兼光流の長沼氏は52家紋は次の様な血縁族と成っている。
2 血縁族の家紋類(長沼氏)
(以下第3の長沼氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 24/52 46%)
1 ・下がり藤、・丸に下がり藤
2 ・左二つ巴、・右二つ巴、・左三つ巴、右4三つ巴、
3 ・中輪に抱き沢瀉、・丸に立ち沢瀉、・抱き沢瀉
4 ・丸に立ち梶の葉
5 ・桔梗、・丸に桔梗
6 ・九曜、七曜
7 ・抱き茗荷、重ね角持ち抱き茗荷
8 ・五三の桐
9 ・丸に三つ鱗、二つ輪に三つ鱗
10 ・丸に橘
11 ・笹竜胆、・丸に笹竜胆
12 ・丸に剣花菱
13 ・丸に剣片喰
14 ・丸に違い鷹の羽、四方瓜に違い鷹の羽
15 ・三つ柏、二つ輪に三つ柏、・丸に蔓柏
16 ・鶴の丸
17 ・丸に梅鉢
18 三つ扇
19 丸に竪二つ引き
20 輪違い
21 五つ矢
22 亀甲の中に根笹、亀甲に五三の桐
23 采配のぶつ違い
24 折敷に変り七宝
25 くつわ
26 丸に頭合わせ三つ雁金
27 丸に三ツ星に一引き
28 丸に本の字
29 丸に大の字
30 丸に三つ盛り亀甲花菱
31 黒田藤巴
32 丸に鬼蔦
33 丸に釘抜き、丸に延釘抜き
以上33分類52氏の長沼氏である。
長沼氏の血縁族の考察
永嶋氏の27分類に対して、長沼氏は33分類にされるが、「家紋200選」に対しては24氏で全体の46%である。長沼氏の%は永嶋氏とほぼ同じ程度(46)である。
氏数は永嶋氏35氏に対して52氏である。
青木氏は「家紋200選」では(59/121)49%である。
「家紋200選」の3氏とも同率で高く、主要族で血縁を結んでいる事を示す。
「家紋200選」にある主要血縁族で観れば、青木氏と永嶋氏と長沼氏は同じ程度の血縁力を示している。しかし、全体的に観ると、其処には夫々の特徴が出て来る。
先ず、次ぎにそれを示す。
分類の関係では、分類比(27/33)=79%と、氏数の比(35/52)=67%から考察すると、永嶋氏と長沼氏は同門であるので二つの比が同率50として考えると、、「氏力」と言うものがあるとすると、長沼氏の方が「氏力」が20%前後高い事に成る。
双方ともに同時に一般(10%程度)と較べて極めて高い「氏力」を持っている事を示す。
因みに、青木氏(分類38)とでは、永嶋氏との分類比(27/38)71%、長沼氏との分類比(33/38)86%である。青木氏は長沼氏とよりよく似た血縁性を持っている事を示す。
氏数比は「第2の宗家」であるので、次ぎの様に成る。
永嶋氏との氏数比(35/121)29%、長沼氏との氏数比(52/121)43%で、青木氏の「氏力」は数段上である。
又、同率氏数として計算すると(41-44)の氏数である筈であるが、(8-11)+となり永嶋氏より長沼氏の方が、「氏力」が高くなり、「氏力」=永嶋氏<長沼氏=1.2となる。
つまり、その「氏力」の強さの差は、明らかに長沼氏の方が20%程度「氏力」が強いことを示す。
分類/氏数の関係では、27/35=77% (1.3) 33/52=65% (1.5)から分析すると、長沼氏の方が分類は本来は44程度となる筈であるが、33であるので、ここでも20%(1.5−1.3)程度も凝縮して血縁している事を意味する。つまり、血縁の的を絞っていると言う事に成る。
因みに、青木氏は(39/121)で31%である。
青木氏は他の2氏と較べて、本家から分家分派分流からの子孫拡大でだけではなく、多くの氏と血縁を拡げていることを示す。本家分家の拘りは戦略上に余り無いことを示す。
青木氏の結果は、二つの氏の比較から対比してみる事で判る筈ある。
そこで、続けて2氏の比較をする。
上記した様に、永嶋氏より長沼氏の方が、血縁に関しては、特定の大豪族との血縁はするものの「分家筋」を中心とした血縁をし、地域的にも限定した「戦略上の血縁」をしている。
この様に永嶋氏もかなりの「絞込みの血縁」ではあるが、尚、長沼氏はそれよりも的を絞って”「氏数」を効率よく増やし「氏力」を高めている事”を示す。
では何故、よりそう成っているのか疑問である。
第1には、先ず「前発の発祥期」である。
当然に、秀郷一門としては、長沼氏発祥は、永嶋氏は秀郷14代目で、長沼氏はそれより早く6代目である。この代差数8が大きく左右している事がまず一つ言える。
その違いとは次ぎの様に成る。
1 平安末期の時代性と鎌倉初期の時代性で起こる豪族の種類での違いである。
2 貴族系から侍系への変化での違いである。
3 平家の時代から源氏の時代への変化での違いである。
4 朝廷社会から幕府社会への変化での違いである。
この4つの違いで血縁族は異なる。
第2には、次に「家紋群の違い」である。
先ず、「丸付き紋」である。
比率で観てみると次ぎの様に成る。
永嶋氏 18/35=51% 長沼氏 16/52=31%で、これも20%違う。
つまり、永嶋氏より長沼氏の方が「丸付き紋」が少ない。
当然には、永嶋氏と同様に、「共通血縁族主要8氏」との大豪族との血縁は結んではいる。
永嶋氏は、特長として「丸付き紋」の多い「分家筋紋」との血縁を選んで力を付けているが、一方、長沼氏は明らかに家紋数(氏数)から観て、「丸付き紋」の少ない「分家筋紋」が多い事を示す。
明らかにこの2氏は「相対的」で「戦略的」である。
これは発祥期(6)も早い事で「下克上」で分家が力を付ける前の血縁である事にもなる。
むしろ、「戦略的」にそのように動いた事も云える。
永嶋氏=「共通血縁族主要8氏」+「丸付き紋分家筋」
長沼氏=「共通血縁族主要8氏」+「分家筋紋」
家紋掟では丸付き紋にはほぼ6つの掟があるが、この時代では「氏の拡大」が起こって本家筋と支流筋の系譜が出上がって興った時代でもある。
家紋種から観てみると、この場合の「丸付き紋」とは長沼氏の「本家筋の分家」と、永嶋氏の「支流筋の分家」との違いである。
発祥期が違う事による結果であるが、青木氏を含むこの二つの氏もその焼き討ちの対象であったが、永嶋氏の場合は成長期がこのじきであり、「下克上」で勢いを得て「支流分家筋」が延びた事をも意味している
そこで、この2つの氏の比較を更にしてみると次ぎの様に成る。
第3には、更に「勢力圏の地域性」である。
そこで主な血縁族で観てみると次ぎのように成る。
「永嶋氏の主な血縁族」
片喰族、梅鉢族、抱き茗荷族、鷹の羽族(紀州)、沢瀉族、木瓜族
勢力圏は「関西以東中部」までに限定して小さくまとめて「濃い勢力圏」を固めた。
「長沼氏の主な血縁族」
剣片喰族、丸に梅鉢族、抱き茗荷族、丸に鷹の羽族(安芸)、抱き沢瀉族、丸に梶の葉族、桔梗族、鬼蔦族、
勢力圏は、次ぎの様に成る。
西は北九州から西中国の九曜族、西中国の亀甲族、
中国地方の鷹の羽族、近江の茗荷族、
東畿内から中部地方の梅鉢族、美濃の桔梗族、三河の蔦族、三河尾張の沢瀉族、
西関東の剣片喰族、信濃の梶の葉族
「幅広い勢力圏」を固めている。
以上の様に長沼氏の勢力圏は、北九州から中国地方へ、更に近江に入り、畿内を通って、美濃に入り、三河へ尾張へと進み、駿河地方から信濃へと直線上に隙間無く血縁族を作り上げていて、その直線は安芸出雲の巾で行き、信濃駿河の「分布巾」を持つ「広域圏」である。
(史料 家紋分布を参照)
これで永嶋氏と長沼氏の勢力「(氏力)」が違う事が明確である。
明らかに長沼氏の方が「氏力」は上記の吟味と合わせても上である事を証明出来る。
第一に中国地方関西以西に勢力を張る事は阿多倍の末裔の京平家の勢力圏と、神紋寺紋系の中国勢力圏(集団勢力)に合致してしまう事に成る。特に、秀郷一門の四国勢力の讃岐籐氏が中国地方への浸透は見逃せない。
(後に京平家が1185頃に滅亡したとしても、秀郷一門の独断場ではなく、依然としてその末裔(陶一族)は室町末期まで中国地方を抑えていたし、その後も、秀吉に潰されるまで陶族の村上一族等が力を持っていた。)
関西以西では秀郷一門にとってはこれでは争いが絶えない事を意味する。
長沼氏はそれに打ち勝つだけの勢力を持ち得ていた事を示すものである。
藤原一門の長沼氏が京平家(桓武平氏)等と対抗して藤原氏の圏域を何とか維持して来た事を物語るものであるが、摂関家藤原氏は何もしなくて居たのでは無く、その北家でも最も勢力のある秀郷一門とりわけ青木氏と長沼氏が京平家や他の勢力に対して「血縁戦略」で固めて直接対抗していたことを示す史料でもある。
実は、長沼氏は永嶋氏に無かったより強い「氏力」を増す血縁を次ぎの事でより広く行っているのである。
それは、「皇族青木氏族」と「皇族賜姓青木氏族」と「公家族」との血縁関係にある。
第4には、つまり、「皇族系勢力」である。
先ず、宿禰族の橘紋、朝臣族の笹竜胆紋、鶴紋を代表する公家族(日野氏)と血縁をしている事である。
そして、秀郷宗家(貴族)自らが公家最大の近衛家との血縁の連携をしている事にある。
(近衛氏に秀郷宗家から跡目を入れて近衛氏は秀郷流となる。)
つまり、この意味するところは、京を中心とした「朝廷の政治勢力」との結合を目指していることを示す。「政治」と「軍事」を絡めての「氏」の存続を掛けているのである。
これら4つの違いは永嶋氏に無かった事である。
そこで、”何故にこの勢力と血縁連携をしたのか”と言う疑問である。
それは、当然に、上記の{幅広い血縁族の圏域}を護る為である。
これだけ広ければ、「武力」だけでは無理であろう。
側面から「政治抑止力」を着けて「氏力」を維持する大変さが覗える。
当然に、京平家は単純に手が出せない。太政大臣にまで登ろうとしている京平家一門は公家の賛同を得なければ権力握れない。京平家は公家と連携している氏を相手にするわけには行かない。この事は真に「完全抑止力」になっている。
特に、北九州から中国地方の関西以西は、京平家末裔一族(後漢阿多倍一族末裔等)の古来大化期からの勢力圏(32/66)である。
この京平家一門一族にとってみれば、これは、”一部腹の中が虫食いの状態”であろう。その虫が取れない。痛し痒しである。
つまり、京平家末裔一族に対抗する「政治抑止力」を狙ったものである。
つまり、その抑止力の形は、この永嶋氏と長沼氏の2つの氏を合わせると、その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は2重複して強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である。
丁度、人が足を踏ん張って立って、両手を横に伸ばし立ち、少し中心(領国)より右に寄って、立ちはだかっている姿である。
この「氏力」は中国地方(32/66)を抑えている京平家末裔一族(所謂後漢一族)に対抗する陣形である。
ただし、これは青木氏を除いての「氏力」と「陣形」となる。
では、その青木氏との関係がどのように成っているのかを検証する。
そうすれば、兼光流一族の3氏がどの様な「氏力」と成っていて「陣形」を採っているかが判る筈である。それは青木氏との「共通血縁族」を調べることに依って判明する筈である。
長沼氏の「共通血縁族」の考察(青木氏)
青木氏と長沼氏との同一の家紋類は次ぎの様に成る。
(より判りやすくする為に兼光流の長沼氏と永嶋氏との比較をする)
「共通血縁族」(長沼氏) 「共通血縁族」(永嶋氏)
1 ・下がり藤 1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆 2 ・笹竜胆
3 ・桔梗、・丸に桔梗 3 ・丸に隅立て4つ目
4 ・九曜 4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5 ・抱き茗荷 5 ・丸に沢瀉
6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷
7 ・丸に三つ鱗 7 ・丸に違い鷹の羽
8 ・丸に橘 8 ・丸に桔梗
9 ・丸に剣花菱 9 ・丸に蔓柏
10 ・丸に剣片喰 10 ・丸に木瓜
11 ・丸に違い鷹の羽 11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12 ・丸に梅鉢 12 ・三階菱
13 ・五三の桐 13 ・五三の桐
14 釘抜き
以上15の「共通血縁族」である。 以上17の「共通血縁族」である。
青木氏との長沼氏「共通血縁族」の考察
この2氏の違い文様(大きい氏を対象とする)は次のように成る。
長沼氏は、九曜族、三つ鱗
永嶋氏は、柏族、木瓜族
この2つの家紋の違いがこの2つの氏の特長を示している。
それは、駿河と相模の境を左に永嶋氏、右に長沼氏と成る。
ここでも史料で示す結果が出ている。
青木氏と長沼氏の「共通血縁族」でも、上記した「地域性から観た分布」の「氏種」と同じ結果が出ている。全く、永嶋氏も「地域性から観た分布」の氏種と同じ結果が出ている。
つまり、青木氏は上記の長沼氏と永嶋氏との「共通血縁族」を合せた2つの分布の氏種である事に成る。
つまり、青木氏の主要族=長沼氏との共通血縁族+永嶋氏との共通血縁族である。
青木氏はここでも、この式からも青木氏を介して、この共通する血縁族で両者との接点を持っている事に成り、その2つの勢力「氏力」をまとめる事が出来るからであり、京平家に対抗する事が出来たのである。
家紋から観た陣形を示すと次ぎの様に成る。
上記に述べた陣形、即ち、”その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は重複して
強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である”を、青木氏に依って「2重に重複」している形になることを意味する。青木氏は上記の両方を持っているのであるから。
つまり、兼光流3氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏)で2重にして「人の陣形」を形採った「血縁族分布」で堅持して護っていることを意味する。
還して云えば、青木氏は「永嶋氏の氏力」と「長沼氏の氏力」の合せた2つの力を持っている事に成る。いかに大きい勢力であったかを示す。これは「第2の宗家」そのものである。
この「2重の陣形」で「他の勢力」と対抗していたことを意味する。
秀郷一門の総宗本家は貴族であるから、自らは武力を用いる事は出来ない掟である。依って、その力、即ち、血縁族に裏打ちされた「武力」「氏力」は青木氏に頼る以外に無い。
即ち、秀郷一門の総宗本家の力は「第2の宗家」青木氏の「武力」「氏力」である事を示し、兼光流3氏では2倍の力を持っている事を意味する。
その綜合力、即ち、「氏力、武力、勢力(政治)」は中国地方から「西関東域圏」にあったことを示す。
「秀郷宗家」=「青木氏の武力と氏力と勢力」=2*「3氏の血縁族」=「中国−西関東域圏」
当然、「東関東域圏」は武蔵の入間を中心にして、神奈川横浜を半径とする円域が一門の領国であるから、陣形は両手を伸ばし立ち。左手は中国、右手は西関東に向き、そして、右足を開いて丸い陣地に足を掛けている人の姿である。
これが、秀郷一門の兼光流3氏の「氏力」=総合力である。
陣形から見ても京平家を含む他の勢力は先ずてを出せないであろう。
史料関係でも述べたが、青木氏の「2足の草鞋策」が成す「経済力」はこの総合力を裏打ちしている事に成るから、この綜合勢力に打ち勝つ他の勢力は無いであろう。
これだけではない。これにこれに、文行流2氏の力が加わる。
では、文行流の主要2氏の事に入る前に、兼光流の3氏の2倍の「氏力」が急に力を得たのかを観る。つまり、この経済力に裏打ちされた「総合力」に一体「基礎力」が無いのか有るのかを観る必要があるので、その「3氏の基礎力」はどの程度なのかを検証する。
と言う事は、この総合力が長持ちする総合力なのかである。
それには、過去の由来性、地理性、時代性、他氏との関係、其の他について調べて見れば判るはずである。
これは史料−3/10に示しているので参照されたい。
青木氏は「永嶋氏と長沼氏」の両方の血縁族を持っているから、青木氏の上の要素を調べる事で判る筈である。これは史料−5/10等の事前史料に示しているので参照されたい。
他には、事後史料の次ぎの史料でより判りやすくなると思われる。
主要5氏の「時代性」に付いては数値化したデータの史料−7/10を参照されたい。
主要5氏の「共通性」に付いては数値化したデータの史料−8/10を参照されたい
主要5氏の「地域性」に付いては数値化したデータの史料−9/10を参照されたい。
主要5氏の「分布性」に付いては数値化したデータの史料−10/10を参照されたい。
以上の史料は現在は未掲載である。進藤氏の検証レポートが完了する時点までに掲載する。
結論は、長沼氏を始めとして、間違いなく”「3氏の基礎力」はあった。”である。
何をか況や、これが35+52+121(116)=208(203)氏に成った所以である。
この様に青木氏は長沼氏の子孫存続に於いて相互関係に依って大きく関わっていたのである。
では、次ぎは文行流の2氏に付いて考察して、ここで主要5氏を「青木一族」と呼ばれ、敢えて「青木氏一門」と云う族の関わった内容の検証を更に進める。
参考
本流の長沼氏
秀郷流長沼氏
秀郷流渕名族長沼氏
秀郷流小山族長沼氏
未勘氏の長沼氏
土岐氏族長沼氏
日奉氏西党長沼氏
宇都宮氏族長沼氏
桓武平氏長沼氏
島津氏族長沼氏
織田氏族長沼氏(中沼氏)
未勘氏の末裔
陸前国
信濃国
紀伊国
淡路国
駿河国
以上5国の未勘氏がある。
次ぎは長谷川氏である。
No.1349
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長谷川氏との関係
副管理人さん 2008/11/08 (土) 18:32
[本文の考察](長谷川氏)
これより文行流主要2氏の考察である。
念の為、兼光流主要3氏の結論は次ぎの通りであった。
「秀郷宗家」=「青木氏の武力と氏力と勢力」で成り立っていた。
青木氏の氏力=2倍の「兼光3氏の血縁族」の勢力で維持した
兼光3氏の勢力圏=東関東を領国を足場に「中国−西関東域圏」を血縁族で抑えていた。
青木氏=「長沼氏との共通血縁族」+「永嶋氏との共通血縁族」の「濃い絆の複合状態」であった。
兼光流3氏の「氏力」=「総合力」を構築していた。
2重にして「人の陣形」を形採った血縁族分布の理想的な戦略的勢力図であった。
青木氏=確実な政治、経済、軍事の力を持つ「第2の宗家」であった。
青木氏による恣意的な血縁構成を指揮していた。
さて、次ぎは文行流2氏の事についてであるが、兼光流3氏に「氏力」にこの2誌の氏力が伴なって藤原秀一門の「氏力」がどのようなものであったか定まる。
文行流と兼光流と定めているがこれ等相互に深い関係を維持していたのである。
そこで、その関係を先ず家紋から検証して観るとする。
文行流の長谷川氏111家紋は次の様な血縁族となる。
兼光流青木氏(116)と並んで大きな氏力を持っていた。
それを次に網羅する。
血縁族の家紋類(長谷川氏)
(以下第3の長谷川氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 54/111 49%)
(*印 「家紋4大血縁族」と「家紋4血縁族」=青木氏)
1・下がり藤、・上り藤、下がりばら藤、
2・笹竜胆
3・橘、・丸に橘
4・違い鷹の羽、・丸に違い鷹の羽*、・右違い鷹の羽、・隅切り角に違い鷹の羽、丸に右違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、中輪に違い鷹の羽
5・木瓜、・丸に木瓜、・四方木瓜、・織田木瓜、横木木瓜、丸に横木木瓜、三つ盛木瓜
五瓜に剣片喰、五瓜に蔦
6・片喰、・剣片喰、・丸に片喰*、・丸に剣片喰*、・亀甲に剣片喰
7・丸に蔓柏、・丸に蔓柏、・違い柏、・三つ柏、丸に並び柏
8・蔦、・丸に蔦、・丸に鬼蔦、中輪に蔦、鬼蔦、糸輪に蔦
9・立ち沢瀉、丸に立ち沢瀉*、抱き沢瀉
10・丸に根笹、長谷川筍、
11・梅鉢、・丸に梅鉢*、・丸に剣梅鉢
12・抱き茗荷*、・丸に抱き茗荷
13・武田菱、・花菱、・剣花菱、・丸に松皮菱、隅切り角に花菱、丸に菱四つ目、丸に亀甲花菱
14・桔梗、・丸に桔梗
15・九曜*、・丸に九曜
16・丸に三階菱、・三階菱、・松皮菱、丸に四つ目菱
17・丸に三つ引き、・丸に二つ引き、・丸に一つ引き、隅切り三つ引き、丸に竪二つ引き、三つ星に一つ引き
18・三階松、・左三階松
19・丸に三つ葵
20・揚羽蝶
21・二つ巴
22・九枚笹、・丸に九枚笹
23・菊水、丸に菊の一枚葉
24・五三の桐、丸に五三の桐
25・丸に違い矢
26・丸に梶の葉、梶の葉、
27 三つ盛亀甲、丸に三つ盛亀甲
28 白波
29 下り出ばら藤、
30 丸に隅立四つ目、丸に平四つ目
31 並び扇、丸に四つ扇、佐竹扇、五本骨扇、檜扇
32 下り藤に四つ目
33 丸に井桁
34 丸に平井筒
35 右三つ巴、・左三つ巴
36 丸に釘抜き
37 一つ茗荷の丸
38 切りに升
39 弓矢
40 隅切り橘
41 隅切り角に本の字
以上41分類である。
長谷川氏の血縁族の考察
藤原秀郷一門の宗家の流は、4代目から起こっている。
兼光流と文行流であるが、長谷川氏はこの文行流である。
秀郷より17代目の最も後発の発祥である。つまり24氏の中では最も新しい氏である。
17代目と成ると、平安末期のぎりぎりのところの後発の発祥であろう。
しかし、主要5氏の一つと成り得たのである。それは何故なのか疑問が湧く。
既に、史料6でも考察しているが、一つの特長を持っているからである。
これは、青木氏は兼光流の主導者であるが、長谷川氏は分行流の主導者である。
青木氏は、兼光流と文行流の2つのブロックの5氏を束ねているが、長谷川氏としてもその一つのブロックのサブリーダーと成っていたのである。
史料3で青木氏116氏が主導していることを記述したが、それに対してそれに相当する111氏を擁している。明らかに、1ブロックの主導者である。
主導者で在るからこそ、逆に青木氏と同様に111氏に拡がったと云う事にもなる。
青木氏116氏と同様に、111氏に声を掛ければ、大集団の末端までが動くのである。
単純に111氏ではない。この家紋111氏の家紋に続く夫々の親族縁者が氏家制度の掟の中で動くのである。
藤原秀郷一門の兼光流の主導者青木氏116氏と、文行流の主導者長谷川氏111氏と言う風に見事に戦略上のシステムが採れている。
そして、「一軍の将二頭合い立たず」のたとえ通り、この長谷川氏と云えども秀郷一門の掟「第3子の家法」の下「第2の宗家」の位置付けで青木氏の主導下に置かれていたのである。
この戦略も文句の付け様がない。
ではその長谷川氏がどの様な家紋、即ち、氏で構成されていたかの疑問も湧く。
疑問1 何故に秀郷主要5氏の一つと成り得たか
疑問2 どんな氏で構成されていたか
(疑問1と疑問2は重複する部分がある。)
既に、史料6で考察したが、それをもう一度引き出してみると次ぎの様に成る。
疑問1は「2足の草鞋策」を採っていた事
疑問1は「血縁族の違い」が在った事
疑問2は「戦略の違い」が在った事。
疑問1と疑問2では「大豪族28」と「小豪族68」の比率が在った事。
疑問1と疑問2では地理性が「狭く濃く」に対して「広く薄く(長谷川氏)」で在ったこ事。
等が挙げられる。(詳細は資料6参照)
では、41分類の家紋類を観てみるとする。
先ず、最初に驚く事は、「家紋200選」の比は49%である事。
これ程17代目と言う後発で、111氏という集団で在りながら、大豪族の50%程を占めている。他の氏はせいぜい10%程度で在るのに較べれば大変な集団である。
まして、「下克上」と「戦国時代」に差し掛かって発祥した氏である。
「家紋200選」ではないが、その一門(111)を入れて計算すると、73%にも成る氏である。
「血縁族」としての「主要8氏」など家紋群の正式な末端族を調べて入れると、概ね、90%弱になる。
「身内力」と成る90%となると恣意的に確実に固めに固めて創り上げた氏力である。
平たく言うと”いざ戦い”と言う時に駆けつける軍団が、全て身内で殆ど占められると云う事である。他氏との連携での力を借りる必要は無い。
これは「固い軍団」を意味する。これに、其の他の27%の血縁族が着くのであるから、疑問1の主要5氏になれるに違いない。成れないとおかしい。
次ぎには、長谷川氏も同様、「下がり藤紋」宗家紋が控えている。
17代目の発祥であるがこれは秀郷一門の直系子孫を身内にをまだ有していることを意味する事から、一門の中では肩身を広く持てる。これも疑問1の解答要素である。
更に、笹竜胆紋である。
皇族賜姓青木氏、又は清和源氏との血縁族を固めて、「家柄身分」の保全を続けている。
これが、「家柄身分」の社会慣習の強い氏家制度の中では、秀郷24氏との大きな差となってその力を一門の中で誇り絶大に働いていた事に成る。疑問1の回答要素でもある。
笹竜胆に限らず、橘諸兄の皇族宿禰族の橘氏との血縁も固めていることも、要素を重複させる。
次ぎには、史料5考察の青木氏の共通血縁族の「家紋4大血縁族」と「家紋4血縁族」補佐役4氏の合わせて8氏とも血縁をしている。(下記)
「家柄身分」の固めも然りながら、「家紋200選」の主要家紋の8紋の氏である「力、武力」の象徴族の固めも間違いなく戦略として取り入れている。
これも疑問1の解答である。
それも、他の秀郷主要4氏とは違うところがある。それは、この血縁族8紋の氏の支流紋とも血縁し加えての血縁を末端まで幅広く手堅く固めているところである。
特に、「大豪族」と「小豪族」の類とに分けるとすると28:68との比率になり、「小豪族」に重点を置いていることに成る。
同じ氏力持つ青木氏は「第2の宗家」であるが故に、長谷川氏の様に大きく偏る戦略を採れないであろうが、長谷川氏と異なる点である。
これは疑問2の解答に当るで在ろう。
参考
「共通血縁族」
5氏共通:「家紋4大血縁族」=・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
4氏共通:「家紋4血縁族」=・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。
「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)
青木氏と同じく全く、長谷川氏の主要血縁族はこの家紋の2群(家紋4大血縁族+家紋血縁族)に振り分けられる。
これも、疑問1の解答になるだろう。
しかし、この2群以外にも、大豪族との血縁をしている。
木瓜族、柏族、蔦族、桔梗族(土岐氏)、引両族(足利氏)、菱族(武田氏)である。
そして、特長は、この6氏族は、本家宗家だけではないその族の支流族の末端までとの血縁を進めている事である。(鷹の羽族浅野氏含む)
これは他の秀郷4氏とは大きく異なるところである。
これは疑問2の解答にも成る。
他の秀郷主要4氏の血縁戦略は宗家、本家、或いはその族の力のある家紋氏が特長である。
これは”「いざ戦い」”の時はその支流族まで余程の事がない限り「氏家制度」の社会慣習に基づき馳せ参じるであろうが、長谷川氏は違うのである。
この支流族までも「手堅く細かく」の血縁で固めている事である。
戦いの中で”裏切”で足を救われる危険は極めて少ない。戦国時代の中を通り過ぎてこの「氏力」(111)を維持できたのもこの戦略に大きく関わっている事に成る。
この戦略を採った理由は、矢張り、「最後発」の長谷川氏であるからであろう。
他の秀郷主要3氏(青木氏、長沼氏、進藤氏)に対する戦略的配慮もある事ながら、その平安末期の時代性と室町期の「下克上」に晒された事の「時代性」で、生残るには、宗家本家筋だけでは「下克上」でどう出るか判らない。藤原秀郷一門はその最大の標的であった。
だとすると、後発の長谷川氏としては、どうするか。
つまり、「小豪族(68%)」でも判る様に、「支流族末端」まで確実に血縁で結んで「生残り戦略」を展開せざるを得ない宿命を論理的に帯びている事に成る。
「広く薄く」の戦略を敷く以上、絶対必要条件で在ろう。
参考に、同じ後発の立場の永嶋氏は、違う戦略を採った。つまり、「狭く濃く」の逆の戦略で身を固めて安全を図る戦法である。
戦法で云えば、長谷川氏は城から出て「野戦戦法」、永嶋氏は城に籠り「篭城戦法」ではっきりするであろう。これが疑問2の明快な解答になるだろう。
因みに、では、青木氏と長沼氏はこの理屈で言うと何に成るだろう。
青木氏は「第2の宗家」で組織のピラミッドの上に立ち、且つ、組織(宗家)、武力(九州−関東)、経済力(2足の草鞋策)、政治力(シンジケート)にて押さえ込み、焼き討ちと打ち壊しのまとまりの小さい「下克上」を「力」で相手を綜合的に強圧した戦法である。
長谷川氏と違う秀郷宗家(貴族)に代わり「宗家」としての威厳を保った戦略である。
宗家が「篭城戦法」では話にならないだろう。又、大一門を率いているのだから現実に理屈上「篭城戦法」は出来ないであろう。
要するに、青木氏は立場上、必然的に秀吉が採った戦法「圧力戦法」となろう。戦わずして圧力で押さえ込む血縁戦法を採ったのである。
長沼氏ではどうなのか。
長沼氏は先発氏である。本文史料の考察の8/10で記述したが、この「中間的戦法」を採った。
だから、53氏であるのだが、長谷川氏の「野戦戦法」、永嶋氏の「篭城戦法」、青木氏の「圧力戦法」の「混合戦法」とでも云える。
しかし、史実、この先発の上級族との血縁をした長沼氏の支流族は下克上や戦国時代に大きく潰された。
この先発の長沼氏の失敗を反省して、戦略上採ったのが後発の永嶋氏なのである。
長谷川氏から話を少し留めて、その長谷川氏の血縁の対比を浮き彫りにする為に、一門で起こったその弱点の例を暫く述べるとする。
ここで、「長沼氏の弱点」(先発族の秀郷一門の弱点)を補う戦法を採った小さいながらも永嶋氏は大変な考えられない「篭城戦法」の弱点を補ったのである。
まさしく、鎌倉幕府末期の南北朝の戦いの主役10万の兵に対して3000の兵で立ち向かい勝った戦法の主役の楠木政成で在ろう。この戦法を補った。戦法としては次ぎの2つにある。
「篭城戦法」に対して、「シンジケート戦法」を加えた事、況や「ゲリラ戦法」である。
もう一つは、「2面作戦の戦法」を加えた事、況や「挟み撃ち戦法」である。
永嶋氏は「篭城戦法」+「ゲリラ戦法」+「2面作戦戦法」+「挟み撃ち戦法」を血縁戦略では採ったと成る。所謂「補足戦法」である。
長沼氏はこの「補足戦法」を採らなかった為に「下克上と戦国時代」の影響を大きく受け子孫を弱くしたのである。
先ずその一つ血縁戦略による「挟み撃ち戦法」として延べる。
これは、当時、最大の関西九州域で勢力を張っていた阿多倍の末裔の大蔵氏との関係である。
この子孫が、藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」と「24地方の守護職」の力に対して、「征夷代将軍」を担い、且つ、「遠の朝廷」と「錦の御旗」を持つ「太宰大監」として関西以西から九州全土の西側に勢力を張っていた。この大蔵氏の末裔が1250-1290年頃の鎌倉期に突然に、同名の永嶋氏に氏名を変更したのである。面白い現象である。
仇敵でもある東の秀郷一門の永嶋氏に対して、大蔵氏を変えて同名の永嶋氏を西に名乗ったのである。
秀郷一門の結城氏系永嶋氏(佐野氏系永嶋氏もある)は「関東屋形」と呼ばれてその勢力は中部東域である。
まして、この時代には天皇から賜姓を授かることは殆ど無くなりつつある時期でもあり、その中で3百年近い由緒ある「賜姓大蔵氏」から「長嶋氏」を名乗ったである。
当時の氏家制度の中で「賜姓」は大変な名誉の氏名で望んでももらえない特別で格別なものである。それを捨てたのである。
放って置く訳けにはいかない程の血縁的史実のこの現象には何か政治的なバランス関係が起こったのであろう。
それは経緯としては次ぎの様に成る。
阿多倍王の直系末裔(12)の歴史上大豪傑の「大蔵種材」という政治、経済、軍事を納める3権を保持した「錦の御旗」を正式に与えられた唯一の人物が居た。平安末期「太宰大監」を努めた人物である。この「種材」は四天王彫刻(増長天、広目天、持国天、多聞天)のモデルにもなった日本唯一の文武に長けた豪傑人物でもある。
賜姓大蔵氏は代々「太宰大監」を勤めた敏達天皇の曾孫の芽淳王の子の娘を娶り准大臣に列せられた家柄で、その阿多倍の次男が興した賜姓大蔵氏12代目(1090年頃)である。
朝廷の財政を一手に担う「3蔵」の一つを任された氏である。後には太政大臣平清盛まで上り詰めた家柄の一族でもある。全国32/66国の関西以西に勢力を保持していた。
この一族が大蔵氏から永嶋氏に突然に氏名を変えたのである。
関西以西から九州全土の永嶋氏はこの末裔である。
何故変名したのであろうか。それが「挟み撃ち戦法」になるのか疑問である。そこで史料を調査した。それが次ぎの内容である。
「大蔵氏系永嶋氏」と「藤原秀郷系永嶋氏」との関係
そこで、この「大蔵氏系永嶋氏」と「藤原秀郷系永嶋氏」との関係を調べて観ると、「繋がり」を否定出来ない史実が生まれている。
「大蔵氏系譜」
種輔−種貞−種有−種資−種秀−頼種−
種輔−種貞−種嗣−義種−−−−種親−種武−
種輔−種貞−種房−種重−
(注釈 種有は右馬氏の跡目に入る。)
まず、大蔵氏のことから検証する。
この大蔵氏の末裔が永嶋氏に変えた時期である。その経緯は次ぎの通りである。
変えた人物は、永嶋氏相伝の大蔵種秀(阿多倍王18代目 大蔵種材7代目)で、正式にはその親族の「種親」(19代目)である。
(注意 大蔵氏長嶋が正しい氏名である。 秀郷一門の結城氏系永嶋氏は長嶋氏が正しい)
系譜の経緯は次ぎの様に成る。
親の「種資」の時に血縁し、その子「種秀」は長嶋氏を相伝し、その子「頼種」は子なし 「種嗣」の孫の「種親」を養子にして継承する。その子「種武」が子孫を広げる。
(ここで始めて他氏の菊地氏から嫁を採り血縁)
「種秀」は大蔵氏より「長嶋氏」を相伝し始めるが、その子供(頼種)に嫡子出来ず僧侶(覚心)となり身を引く。「種嗣」の孫の「種親」を養子に迎え、その子「種武」で長嶋氏は伝承する。
この事から実質の長嶋氏は「種武」の継承である。
「種武」は「種材」から9代目に当る。
変更時期は1280(1275-1285)年頃前後に氏名を変えた事に成る。
この時期に関する考察には、次ぎの様な国家的大事件が起こっている。
1 鎌倉幕府の北条氏の執政で、丁度、2度の「元寇の役」が起こった時である。
第1次1274年と、第2次1281年である。
(北条氏の没落原因となった。)
2 この時、大化期から大蔵氏は代々続いた朝廷の3権を保持する「太宰大監」を、鎌倉幕府の「鎮西探題」(1293年)に変更する直前に、「種秀」の前の「種資」まで続いた「太宰大監」を下ろされた時期(1280頃)でもある。
「元寇の役」の責任をとらされた形で降ろされた事になり、大蔵氏は衰退の憂き目を受ける。
(参考「太宰大監」(初代種材)「遠の朝廷」(「西の朝廷」)と呼ばれた九州全土を3権を持って納めた大宰府に府庁を置いた大監である。後に鎌倉幕府は「鎮西探題」に変える)
秀郷の永嶋氏から観ると次ぎの様に成る。
この時期に北九州の守又は官職を務めた人物は、10人居る。
(大蔵氏の定住地域を前提とする。日向、鹿児島の肝付氏系大蔵氏と島津氏系永嶋氏は除く)
(藤原利仁流は永嶋氏との血縁は薄いことから9人を差し引くと1人となる。)
秀郷宗家一門の任官の人物
豊後5人(12、19、20、21、23代)、豊前1人(15代)、筑前4人(19、20、20、21代)
その1人目は、次ぎの通りである。
豊前 貞宗 15代目 1270−1280年頃
永嶋氏関係筋からの豊後に赴いた人物
その2人目は、行光である。
豊後 行光 16代目 1270−1285年頃
永嶋氏は行長(14)が始祖である。しかし、正式には孫の武蔵守の行光(16代:1280年頃前後)である。秀郷一門の永嶋氏も孫の代で実質永嶋氏(長嶋氏)と成ったのである。
「行光」と成ると1280年代であり、武蔵守であるので、可能性が大きい一人である。
これ等2人は、大蔵氏系永嶋氏発祥の経緯と永嶋氏の経緯からは年代的には完全一致する。
では、この接点の仮説である。
上記の大蔵氏の永嶋氏の継承の経緯から次ぎの様に成る。
「継承経緯」
”両氏は血縁関係を結んだ”つまり、”大蔵氏分家に秀郷流永嶋氏から男子跡目を入れた。””相伝した””2代続きで嫡子が出来ず完全女系と成った””養子先の氏名の永嶋氏の選択をし名乗った。”となるだろう。
大蔵氏の系譜の経緯から仮説は一致し問題はなく、氏名の変更は可能となる。
では、次ぎに九州と武蔵の地理的要因を仮説する。
1274年と1281年に2度の「元寇の役」があった。全国より豊前、豊後、筑前に史実として全国の豪族の兵が集まった。
ここで、仮説する。
仮説1
鎌倉幕府に一番早く合力し、藤原一門で最も勲功のあった「藤原朝光」はその為に下総の「結城の本領安堵」と「武蔵国の本領安堵」を受けた。
この永嶋氏は佐野氏−結城氏−酒井氏−永嶋氏が発祥しているのである。
この時、この佐野氏系から分流した結城永嶋氏(長嶋氏)3代目(孫)の行光が武蔵守に任じられた。
この「行光」が2度目の「元寇の役」の為に、九州に赴いた。
この時、大蔵氏は「太宰大監」を降ろされて窮地に陥っていた。
そこで、この時期、最も勢力を伸ばしていた「関東屋形」と呼ばれるほどの勢力のある永嶋一門(結城氏系長嶋氏)との連合に踏み切った。
そして、”両氏は血縁関係を結んだ”とする。
以上の上記の接点に至る。
そこから、この大蔵氏系長嶋氏は北九州3国から九州全土へと拡がる。(1300年頃)
この「関東屋形」には、大変重要なデータが入っている。
「関東屋形」とは、結城(永嶋)氏、佐竹氏、宇都宮氏、小山氏の4氏である。
4氏は大変連携を持っていた。
この内の1氏の佐竹氏は関東(分家)と北九州(本家)に一族が分布する。
佐竹氏は「扇紋」である。まずこのことは大きなポイントである。
しかし、この大蔵氏の跡目に入った人物は本人の「行光」なのか、その子か孫か、誰なのかの疑問が湧く。
そこで、この「行光」の系譜を追うと、次ぎの様な人物が浮かび上がる。
「結城永嶋氏系譜」
行長−行重−行光−房重−重忠−重国−
行長−行重−行光−行経−行房−行長−
行長−行重−吉清−
行長−重行−
(行長は同名2人居る)
「行光」には二人の子供が居る。
一人は、「行経」で佐渡に定住した。
もう一人は、「房重」である。
この人物「房重」には、「行光」系譜の全ての人物は定住地、役職など書かれているが、詳細が全くない。
普通では、詳細が無い理由は、大蔵氏に移動した為に系統外となり、系譜作成時に詳細は不詳と成った事からで、役職も無く成った事からである。
そして、更に違う事がある。
この「房重」は氏名の「行」の字(通名)を引き継いでいないただ一人の人物である。
まだ、決定的と観られるものがある。
それは、この「房重」の秀郷流永嶋氏の末裔子孫には役柄が着いているが、孫の「重国」には大蔵氏の役どころの「蔵人役」を司っている。
全て系譜は「永嶋氏」であるが、この人物の「永嶋氏」は「長嶋氏」と成っている。
これは系譜作成時に九州長嶋氏を「長嶋」で違いを出したものであろう。
ところが、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
「房重」はこの「行重」(永嶋氏)より直系3代目(孫:秀郷17代目)である。
初代「行長」の子の「重行」と「行重」の二人兄弟の人物が居る。
重行:長嶋氏であり、行重:永嶋氏を発祥継承している。
「房重」のその末裔一族は長嶋氏である。内一人が永嶋氏の跡目に入っている。
つまり、大蔵長嶋氏はこの「房重」の秀郷流長嶋氏で一致する。
故に、この人物の疑問の答えは、この「房重」ではないかと観られる。
この事は、下記仮説4の大蔵長嶋氏でも状況証拠として検証できる。
仮説1-1
つまり、「行光」と共に子供の「房重」が豊後の防備に同行した。
大蔵氏はこの「元寇の役」で正妻嫡子を無くしたか、嫡子を遺せなかった。
そこで、家の「存亡衰退の危機」もあり、共に戦った結城の永嶋(長嶋)「行光」の子供を跡目に入れて建て直しの政略血縁を図った。
「大蔵種秀」がこの「房重」であると観る。「種資」の「子供養子縁組」で入る。
そこで「子供養子」であるので「房重」の名を大蔵氏の通名「種秀」と変名する。
後に、「種秀」=[房重」は「種資」の実娘との血縁をした。
「種資」実子は廃嫡説
「種資」の「実子頼種」は僧侶(覚心)と成り身を引いた
「重房」の実子説
「種秀(重房)」と娘との実子「頼種」に子が出来ず、僧侶(法名覚心)に成り身を引く。
嫡子生まれず、親類より跡目(種親)を入れて長嶋氏(永嶋)を無理に継いで名乗った事に成る。
実質は、その子の「種武」が始めて嫁取りの長嶋氏(永嶋氏)が発祥する。
結局、仮説1−1は何れの説も結城長嶋氏(房重)の血筋は消える事に成る。
無理でも長嶋氏を継いだところに長嶋氏との血縁を実行したい大蔵氏の強い事情がある事を示すものであるが疑問の一点と成る。
(「親種」は「種資」の父の弟(叔父)の3代目である。)
その後の経緯は、次ぎの様に成る。
大蔵氏系の弁済使肝付氏(540年続いた。北九州中部から薩摩の一部まで勢力圏に納めていた)との血縁の肝付氏系永嶋氏が南九州に発祥した。
遂には、この肝付氏は薩摩の島津氏に敗退(1591年)し肝付半島を残して島津家家臣(志布志阿多)と成る。この時、島津氏系永嶋氏も発祥する。
この元は大蔵氏からの3系列の九州永嶋氏と長嶋氏が発祥した。(発祥元の大蔵氏は長嶋氏である)
仮説2
豊前 貞宗 15代目
大蔵氏の在所に役職として赴任していた1人(1270-1280年)が、上記仮説1(結城永嶋氏)の所を置き換えて、この大蔵氏との血縁した。
この永嶋氏は佐野氏系永嶋氏と成るが、兼光流で佐野氏系秀郷宗家一門15代末裔である。
兼光流9代目有綱系の青木氏と、兼光流9代目成俊系佐野氏とがあるが、佐野氏系永嶋氏(6代目兼行流)は後者である。(結城氏系長嶋氏は6代目行尊流)
「永嶋氏と長嶋氏系譜」
兼光−−有綱系−−青木氏
兼光−−成俊系−−佐野氏−−兼行−−永嶋氏
兼光−−成俊系−−佐野氏−−行尊−−結城氏−酒井氏−永嶋氏−永嶋氏
兼光−−成俊系−−佐野氏−−行尊−−結城氏−酒井氏−長嶋氏
(注意;:上総の結城氏が一時酒井氏を名乗り、その後永嶋氏(長嶋氏)と成った。)
(酒井氏には四国阿波の秀郷一門と大きく関わった剣片喰族の酒井氏が存在する。)
「貞宗」は佐野氏系宗家の15代目の人物であるが、流としては永嶋氏と繋がりは取れるが、豊前に長嶋氏か永嶋氏が移動した史実が取れない。(扇紋の佐竹氏関係のみ)
移動の護衛は青木氏であった事が確認出来るが、この時期の「元寇の役」の為に、青木氏と同様に佐野氏系永嶋氏も移動したとする仮説(100%)である。
この「元寇の役」には全ての豪族が命じられたことは史実であるので間違いはないだろう。
しかし、この仮説2では史実が取れない。今後の研究課題である。
豊前は大蔵氏と長嶋氏共に間違いなく赴任しているので地理的にも問題はない。
家紋としては、この地域は「扇紋」の大蔵氏の末裔支流と見られる佐竹氏と佐伯氏がある。
大蔵氏は宗家は「三つ撫子紋」である。
肝付氏系永嶋氏は「三つ雁金紋」である。
大蔵氏系長嶋氏の家紋が正式には掴めないが、「三撫子紋」であろう。
現在の所、秀郷流永嶋氏の家紋の中にはそれらしき九州地域の家紋は見当たらない。
ところが、青木氏と長谷川氏だけに、この3地域(豊前、豊後、筑前)の「扇紋」は確認は出来る。
そこで、大蔵氏系長嶋氏は、「扇紋」から観て、「貞宗」に同行した青木氏との何らかの繋がりにて長嶋氏が発祥したとも考えられる。
仮説3(研究課題 仲介説)
「青木氏の仲介説」
賜姓青木氏と大蔵氏は奈良期(大化期)から宿敵であり、特に、桓武期の賜姓青木氏の衰退は、彼等の台頭と桓武天皇(阿多倍大蔵氏は母方親族:高野新笠)から官職剥奪の憂き目も受けての結果であり、藤原秀郷一門も同様に桓武平氏(阿多倍一族)台頭で勢力は低下した経験がある。
この環境の中で、旧来の宿敵大蔵氏と繋がる背景が如何に在るのか大きな研究課題である。
北条氏が間に絡んでいる可能性も高いと推測している。
佐竹氏の扇族の扇紋と丸に扇紋の二つである。
つまり、”北条氏から「元寇の役」の責任で「太宰大監の剥奪」を受け、「危機存亡」の窮策として先ず、「第2の宗家」秀郷流青木氏の「扇紋(大蔵氏系佐竹氏)」を仲介として、時の「関東屋形」と呼ばれる「結城氏系長嶋氏(永嶋氏)」が入った”とする説である。
「長谷川氏の仲介説」
もう一つは、最後発の長谷川氏の仲介説である。
長谷川氏は史料6でも述べたが小豪族が全体の68%を占めている。これが「野戦戦略」の所以であるのだが、北九州の豪族の扇族との血縁を強く進めている。これは青木氏以上である。
青木氏は、「扇紋」とその分家の「丸付き扇紋」の2つである。宗家紋筋である。
長谷川氏は、「並び扇、丸に四つ扇、佐竹扇、五本骨扇、檜扇」紋の5つである。
支流紋筋である。
2つ合わせると、扇一門全てに成る。
ここで「関東屋形」4氏の関東佐竹氏(北九州佐竹氏の分家)との繋がりが観られる。
青木氏の「2つの扇紋」の「丸付き扇紋」は分家に成ったものと観られるが、長谷川氏は明らかに「5つの扇族」と血縁している。そして、それは佐竹氏を中心にして一族の全ての家紋群と個別に血縁している事である。
その域は豊後に留まらず、真に北九州全域に血縁していることである。
この事から、「第2の宗家」青木氏より長谷川氏の方が大蔵氏との血縁関係の可能性が遥かに強い事が血縁種や血縁数から観て言える。間違いなく「縁」が深い。
何よりも、青木氏には「扇紋族」と血縁があると云う事は、真に「行光」と「貞宗」の2人に同行して豊前、豊後の2地域に赴任した証拠であり、藤原秀郷一門の戦略「赴任地の豪族との血縁族を造る」に一致する事である。
青木氏には、「宗家護衛の役」があり、[第2の宗家の役」があるので、「繋がり」は納得出来易い。
では、長谷川氏の方は、その「血縁の可能性」から大蔵氏との「繋がり」の経緯はどの様なものであるのか疑問である。
長谷川氏は、”この「5つの扇紋」との血縁をどの様なことから起こったのか”と言う事に成る。
兎も角も、私は、「5つの扇紋」の中に鍵があるのではとも考えている。鍵は「関東屋形」である。
(1280年前後の関係史料が少ないので、「探り出し」は難攻となる。)
後は、史料6でも詳しく述べたが青木氏の一門への指揮は大きく働いていた。故に、その「青木氏仲介説」の証拠の「接点探り出し」の今後の研究課題と成る。
「長谷川氏仲介説」も「接点探り出し」で共通の研究課題である。
「長谷川氏仲介説」には、「長谷川氏と永嶋氏との接点」(「大蔵氏と長谷川氏の接点」)も解明が必要である。
この「接点1点」である。この1点の確証が取れれば、仮説1、2、3は一つに成り証明出来る。
何にしても三相(人、時、場所)の状況証拠の条件は先ず揃っている。後は確証である。
仮説4(青木氏抜き説)
「房重」の「房」の通名では「種房」と云う者が「種資」の叔父に居る。
「貞宗」の「貞」の通名では「種貞」と云う者が「種房」の父に居る。
「関東屋形」の結城永嶋氏と連携した4氏の「関東の大竹氏」も一族の扇紋である。
九州の大蔵氏の永嶋氏は長嶋氏である。
2人の通名の持つ人物が大蔵氏に居る。
時期、時代、地理、繋がりも佐竹氏で採れ一致している。
「房重」と「貞宗」の豊後、豊前に関係した藤原秀郷流長嶋氏の2名の通名が使われている。
この事から、次ぎの事が予想できる。
「房重」は「種房」で、「貞宗」が「種貞」であるとすると、仮説1、2、3とは別に、次の事が仮説できる。
同時期に関係は確認出来るが通名が一致するのは余りにも偶然過ぎる。
この2人の繋がりは、「扇紋」の佐竹氏であり、「関東屋形」の「繋がり」より、九州の本家の佐竹氏に繋がりをつけて、血縁を結んだ。これで大蔵氏と藤原秀郷流の長嶋氏(永嶋氏)の「繋がり」は取れる。
第一次の役(1274)の前後で、長嶋氏の「房重」は大蔵氏の本家と血縁したその人物が「種房」で、大蔵氏の通名の「種」と長嶋氏の通名の「房」とを採って「種房」と名乗った。
「種房」は「太宰大監」を勤めた。
しかし、その血縁は、そこに、再び第2次の「元寇の役」の事件が起こる。
九州を納めていた責任を問われ本家大蔵氏は「太宰大監」の職を解かれた。
相伝の「種秀」の親の「種資」のところでの出来事である。
そこで、長嶋氏から跡目に入った大蔵氏は「危機存亡の窮策」として、「藤原貞宗」が再び大蔵氏と血縁した。
そして、通名を大蔵氏の通名の字「種」と、藤原氏の通名の字「貞」とを合わせて、「種貞」とした。
しかし、「種貞」の子の「種有」は直ぐに、右馬氏に跡目に入れた為に、「種貞」は跡目「種資」の子の「種秀」(孫)を長嶋氏の相伝に指名した。
しかし、「種秀」の嫡子の「頼種」に子供が居なく、「種貞」のところでの長嶋氏を告がせるために長嶋氏の血筋を引く同系列「種貞」の子「種嗣」の孫の「種親」を養子に迎え、長嶋氏を引き継ぎ名乗らせた。この時、「頼種」は僧侶覚心と成って身を引き跡目を譲った。
これで藤原氏の血筋が大蔵氏に入った事に成る。
仮説1、2、3、の繋がりは仮説4の「関東屋形」(5氏連携)の扇紋の佐竹氏の九州の本家筋扇紋の佐竹氏で「繋がり」は採れる事が出来る。
仮説4と合わせて、何れの説かは今後の研究課題である。
さて、話は変えて、仮説1、2、3に付いては次ぎの様に成る。
肝付氏は、1140年頃に朝廷上級官僚の弁済使の「伴兼俊」が土地の古い阿多倍らの血筋を引く無名土豪の跡目に入り始祖(1270頃)とされるが、丁度、この時期の氏である。
雁金紋がキーポイントになる可能性が観られる。
秀郷一門の永嶋氏の家紋の中に雁金紋があると決定であるのだが無い。
しかし、青木氏がこの両家紋を持つ。
何らかの方法で青木氏のリーダ役目柄この縁を取り持ったと言う事に成る。
”青木氏の雁金紋の者が長嶋氏に養子の形を採り入り、その後、九州の大蔵氏系長嶋氏に入った”とすれば解決する。この時期はこの方式が良く採られた。
この形の血縁方式を採れば家紋は遺せる事で一致する。
以上仮説1、2、3、4にて確証は取れないが、秀郷一門の永嶋氏(長嶋氏)と繋がっている事はほぼ間違いないと考えている。
この様に仮説3で絡んでいる事もあり、”どの仮説か”の問題である。
(今のところ仮説1が有力であるが、青木氏と大蔵氏と永嶋氏の関係を掴む事が今後の研究課題である。)
話を元に戻して、九州長嶋氏の以上の仮説から、先ず間違いなく永嶋氏は西にその弱点を補った事が云える。
「篭城戦法」に対して、「シンジケート戦法」を加えた事、況や「ゲリラ戦法」である。
もう一つは、「2面作戦の戦法」を加えた事、況や「挟み撃ち戦法」である。
先ずその一つ「挟み撃ち戦法」として延べた。
つまり、関西より西側に親族血縁者を作り出し、”いざ戦い”と成ると、背後より縁者が駆けつけて「挟み撃ち」にしてくるという「圧力作戦」である。なかなか手が出せない事になる。
大蔵氏は現行の役で窮地に陥っていたとは言え、引き続いて直ぐ後の時代には雁金紋の肝付氏等の末裔が依然として九州の最大勢力を誇った事から考えれば。その大勢力はへ保持され大蔵氏との血縁は秀郷一門の長嶋氏としては戦略上願っても無い血縁である筈である。
だから、「挟み撃ち戦略」で後発発祥でありながら「関東屋形」と呼ばれる位の勢力を持ったのである。だから、主要5氏に成れた一因のである。
次ぎは「シンジケート戦法」(ゲリラ戦法)である。
堺から名張、松阪から桑名、員弁まで、更には美濃、信濃域までのライン上には伊勢シンジケートがあった。
これは、伊勢青木氏の「2足の草鞋策」を護る「陰の力」である。史実このシンジケートの存在は確認出来るが、このシンジケートは東隣りの美濃、その隣りの信濃との繋がりを持っていた事も判っている。つまり、5家5流の青木氏との繋がりであり、その基点とするところには今でも必ず伊勢で無いのに伊勢町の地名が残るほどである。つまり、拠点の要所要所に一族を置いて連携強化を図っていた事を意味するのである。
大商いをするには、その運搬や商品を護る必要がある。そのためには各地にその護る連合が必要であり、「下克上」で潰された氏や敗退した武士団をまとめて経済的な支援をしてシンジケートに入れる事で彼等は生き延びる事が出来るのである。これが氏家制度の「裏の慣習」なのである。潰された小氏は皆死んだ訳ではないのである。
村の農民、小商人、野武士、盗賊、山賊、海賊、土地の小豪族、神社寺社の宮司や住職に身を変えてその役目を果たすのである。そして、それらの一族と配下はその下で働くのである。これ等の働きの歴史的な事件は山とある。
有名なことでは、上記した南北朝の楠木正成と北条氏の戦いである。
又は、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛と織田信長の「天正の乱」の「丸山城の戦い」で在ろう。
物資補給を抑える事、局所戦で疲れさせる事等の戦術を採る事で相手は餓死し、眠れなくて疲労困憊で戦意は無くなる自然壊滅に成る戦略である。事実10万の兵が餓死寸前になったのである。
この事を知る秀吉に忠告されながら信長も、足利氏に忠告されながら北条氏も、この「陰の力」を無視したから負けたのである。
永嶋氏はその伊勢から始まる中部勢力圏を「第2の宗家」の青木氏が指揮する事で、このシンジケートに乗れる。当然、秀郷一門の青木氏は賜姓青木氏とは笹竜胆紋で血縁の繋がりを持っている。勿論長嶋氏もである。
伊勢を動かすことは容易である。当然、広範囲に116氏もの血縁を広げているから、一声出せば各地が地震の様に動く。
この二つのシンジケートに護られれば、うかつに手を出させない。先に出した方が相手を無傷にして負けるが定法である。
目に見えない武力である。永嶋氏は賜姓青木氏との血縁によりこの「陰の力」を保持していたのである。だから「篭城戦法」が効くのである。
だから、「丸付き紋」を多く血縁相手に選んでいるのである。
菊水紋の楠木正成の様に10万の兵に勝てるのである。この楠木正成こそ紛れも無いこの「伊勢シンジケート」の一員なのであった。伊勢と紀州に跨る山里に住まう土豪集団の元締めであった。
史料5の秀郷流青木氏には菊水紋がある事に思い出してもらいたい。
大元締めの伊勢賜姓青木氏と秀郷流青木氏とこの楠木政成の土豪集団の元締めと血縁関係を保持していたのである。
完璧な血縁戦略で固めていたと考えられる。だから、強かったのである。
何れも二つは伊勢青木氏が指揮する「伊勢シンジケート」の活躍である。
話を元に戻して、ここが、長谷川氏と異なる所である。
これが、説明が長くなったが、「篭城戦略」の血縁族の「永嶋氏の補足戦略」であって、長谷川氏との違いである。
だから、「野戦戦略」を採用した長谷川氏はその代わりにこの支流族まで細かく血縁で固めている事である。
本来、永嶋氏のところで記述するものであるが、敢えて長谷川氏のところに移した。
「接点探り出し」如何では、長谷川氏との結びつきが高くなることも在り得ることも含めてここに記述した。先にレポートした本文「永嶋氏との関係」を思い起こして頂きたい。
家紋から推察出来得る長谷川氏の「氏を守りぬく戦略」の苦労は統一した戦略として血縁関係にも働いていた。
その長谷川氏とは、「逆の戦略」で氏を守ろうとしていた事も覗える史実なので、ここで記述した。長谷川氏のこの「野戦戦略」をクローズアップさせる為にも、逆に永嶋氏の戦法「篭城戦略」を説明した。
長谷川氏の「共通血縁族」の分類(青木氏)
「共通血縁族」(長谷川氏) 「共通血縁族」(長沼氏) 「共通血縁族」(永嶋氏)
1・下がり藤・上り藤 1 ・下がり藤 1 ・上り藤、・下がり藤
2・笹竜胆 2 ・笹竜胆 2 ・笹竜胆
3・桔梗 3 ・桔梗、・丸に桔梗 3 ・丸に隅立て4つ目
4・木瓜・丸に木瓜 4 ・九曜 4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5・橘・丸に橘 5 ・抱き茗荷 5 ・丸に沢瀉
6・梅鉢・丸に梅鉢 6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷
7・九枚笹・丸に根笹 7 ・丸に三つ鱗 7 ・丸に違い鷹の羽
8・片喰・丸に片喰 8 ・丸に橘 8 ・丸に桔梗
9・九曜・丸に九曜 9 ・丸に剣花菱 9 ・丸に蔓柏
10・蔦・丸に蔦 10 ・丸に剣片喰 10 ・丸に木瓜
11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉 11 ・丸に違い鷹の羽 11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12・剣片喰・丸に剣片喰 12 ・丸に梅鉢 12 ・三階菱
13・武田菱・剣花菱 13 ・五三の桐 13 ・五三の桐
14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷 14 釘抜き
15・丸に蔓柏・違い柏 以上15の「共通血縁族」 以上17の「共通血縁族」
16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽
17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き
18・三階菱
19・松皮菱
20・揚羽蝶
21・五三の桐
22・丸に隅立て四つ目
23 横木瓜 丸に横木瓜
以上40血縁族である。
青木氏との長谷川氏「共通血縁族」の考察
青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様な同変化しているか、その特徴を分析する。
この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。
(史料7/10添付)
以下の数値はdB的な数値として扱う。
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
H:4 11% H:3 13% H:2 08% H:4 13% H:7 03%
K:1 03% K:1 04% K:1 04% K:1 03% K:20 10%
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
A:9 24% A:6 26% A:5 21% A:7 22% A:55 26%
E:9 24% E:4 17% E:5 21% E:10 31% E:47 22%
このデーターから、次ぎの様な事が読み取れる。
1 大別すると平安、鎌倉期 2 室町期 3 安土桃山、江戸期期
この3つがこのデターの趨勢を物語っている。
そこで先ず、最初の時代から観てみる。
1 平安、鎌倉期
全体としては次ぎの様な事を物語る。
平安と鎌倉期では12−17%で平均14.4%Bで主要5氏の大きな差はなく低率である。
各氏とも平安末期までに発祥した氏であるが、発祥の時期には大した差は無い事になる。
速ければ、隆盛期のH、Kが多くなるとも考えられるが、それだけに社会の氏の数も少ない事を意味するので、同率と成ったと観られる。
後につまり、逆に言えば、最後発の長谷川氏にしてみれば、大いに勢力拡大に努めたと成る。その数値の比較として永嶋氏の数値で判るし同様である。
青木氏は藤原一門が鎌倉幕府樹立で離職離散した苦しい時期にその氏力を他の4氏より段突に伸ばしておりその立場から来る努力の跡が観得る。だからリード役の「第2の宗家」がしっかりして窮地を守り抜いたから4氏が生き延びられたとも謂える。
私はこの時点で「総宗本家」の「藤原氏」より「第2の宗家」に徹しながらも青木氏の方が信頼されていたのでは考えいてる。
青木氏は鎌倉期では10%と矢張り他の氏と異なっているのはこの事を意味しているのではないか。
鎌倉幕府樹立で失職離散したが、秀郷一門の氏を支える為に、源平合戦に生残った豪族との血縁関係を持ち連携を積極的に図って建て直しを試みたものであろう。
平安期には各地での藤原氏特有の戦略的血縁も図ったが、未だその相手は小豪族であって、鎌倉期では生残った血縁氏が力を増して家紋200選に選ばれるくらいの大豪族と成った事を意味する。
むしろ、室町期の39%はこらの血縁氏が力を付けた氏の数字であって、39%の家紋を調べるとその60%が平安期と鎌倉期のの血縁氏である。
即ち、平安期は氏が少ない故に発祥したばかりの小さい氏を育て将来に種をまいて守ったといえる。
それが鎌倉期を経て室町期で育ったと云える。
別の面から観ると、「源平合戦」、「下克上」、「戦国時代」で青木血縁族は潰れた氏も多かったで在ろう。
青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は13%と平安期に血縁族を多く創り上げている。
文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、同時期、同地で同族と親族間の血縁連携をも図っていた戦略が観える。
利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
赴任地は主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ血縁族を広められなかったのではと考えられる。
それに依って、失職離散する前の平安期の血縁率が高く成ったと観られる。
その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
(詳細は進藤氏の本文考察参照)
5氏の平安鎌倉期のこの平均15%は、主に賜姓族(笹竜胆族)一門と皇族(橘族)一門と限定されている。
秀郷一族のその「母方縁者関係」から血縁をした結果の率である。その当時の大豪族とは積極的な血縁をしていない事を意味する。していればもっと大きい数字となろうが、そうでは無い。
つまり、5氏共に平安期と鎌倉期には全く他の大豪族とは記録に残り、且つ、子孫を遺す「正式血縁」をしていない事を意味する大きな特徴である。
この時期は「象徴と権威の血縁」を主体に血縁戦略を進めたと観られる。
”ではどうしていたか”であるが、氏家制度の最も厳しい時代での血縁では、最も最上位の氏が下位の身分家柄との血縁は、この藤原としては「直接的血縁」では困難で、天皇家、公家、朝臣族、宿禰族かの相手しか無く成る。つまり、「同族血縁」を繰り返していた事が云える。
又、娘を下位の血縁相手に出し「間接的血縁」を行っていた事に成る。
上位は「直接血縁」(「同族血縁」)で「象徴と権威の血縁」、下位は「間接血縁」で「組織固めの血縁」(「力の地固めの血縁」)とする戦略を採っていたことを示す。
この「同族血縁」の習慣は、現在社会では異常視されるが、当時は通常の血縁習慣であった。血筋家からを重んじる「氏家制度」の最も強い社会で「純血度」がその尺度に成っていた。
その只、その社会は出来る限り「4階級の妻制度」を持ち、障害を克服する手立ては構じられていた。
つまり、平易に謂えば、氏家制度の中で行為の立場の氏には、病気と戦時での死亡率が高い時期に、確実に子孫を遺す目的とこの弊害を無くすることも含めて、4人までの妻を作る事が慣習或いは義務として認められていたものである。
その制度とは、純血の高い順に3位まで妻は高位の身分とし、4位(3位)は妥女(妾)であった。
純血度の高い妻の子で障害の無い場合は嫡子として扱い、後は全て妾腹子になる。嫡子の直氏が産まれなければ妾子を嫡子とするシステムであった。
嫡子外妾子は上記の下位の「間接血縁」(跡目)の道具として用いられると言うものであり、長男が必ずしも嫡子ではなく廃嫡と僧化する事は頻繁に行われていた厳しい社会でもあった。
長男制度は江戸初期からである。
話を戻して、別の見方をすれば、皇族賜姓族と天皇家との結束を重点に図っていた事になり、賜姓青木氏との血縁が強かった事を意味する。
これは室町期末期の信長などにより敗退逃亡した時に、諏訪族を始めとする賜姓青木氏を各地の藤原秀郷一門が匿ったのはこの「強い縁と絆」の関係があったからである。ただ、頼っただけではない。この数字はこの事をも意味するのであり、この社会体制は豪族間の間で江戸時代まで続いた。
(だから、3期の混乱期には特に江戸時代には、系譜などの「搾取偏纂」が起こったのである。)
秀郷一門が匿う事で手が出せなかったのは、この「関係情報」は信長などもよく知っていた事をも意味する。
もっと云えば、秀郷一門の中で、これだけの事をどこかで支配していないと出て来るデータではない事に成る。
5氏らが勝手に動くだろう。そうすると5氏ともに率は散在する筈である。しかし、全ての比較データを見てもらうと進藤氏の1箇所を除いて殆ど同比である。(進藤氏のこの考察は下記)
つまり、武力を持たない貴族の秀郷の総宗本家に代わり「第2の宗家」が居て、それが統率して細かく指揮していた事を物語るものである。そうで無くてはこのデータは出てこない。
つまり、「第3子の家法」を持つ青木氏が居たからである。
氏家制度の中で、藤原秀郷一門の氏はこの「第2の宗家」の青木氏に許可と指示を受けていた事に成る。
2倍の勢力を持つ相手に背けば打たれるのは当時の「氏家制度の掟」を前提に組織は護られていた。宗家本家の末端までの口出しは「冠婚葬祭時」も含めてこの社会習慣は江戸中期まで護られていた。
これが「氏家制度」であり、しかし、物身心共に困った時には助けてくれるなど良い事の多い制度であった。
しかし、これは難しい事である。次第に他の血筋が入れば他人化して統率は取れなくなるは世の常である。史実が物語る通り武力だけでは無理である。
しかし、それをクリヤーしたのは、2つの方法があり、その一つは他氏の豪族の血筋が入ればその氏との藤原一門間の「同族間の血縁」である。
だから、「共通血縁」(普通10%程度)が50%程度と云う高い率に成っているのである。
そして、史料でも記述したが、その5氏の「共通血縁」が80%台(第3氏未勘氏賜姓氏など除く)で同じと云う不思議とも云える現象を示しているのである。
これは「他氏の血筋」が入るその「同族間血縁」で組織を固め、同族血縁の障害を排除している証拠でもある。草する事で当然に高い率の「共通血縁族」が生まれる事になる。
このまだ「氏家制度」が厳然と残る平安期と鎌倉期は、これから起こる日本歴史上の未曾有の社会逆転現象と危機存亡期に打ち勝つ組織力を築く前哨戦でもあった。
其処に、その試練の室町期が到来するのである。乗り越える力をこの「共通血縁方式」の藤原秀郷一門は持ち得ていたのであろうか。
2 室町期
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
この数字を観て驚く。
進藤氏を除いても、40%である。
室町期は下克上と戦国時代と云う混乱期で有名であるが、失職離散の憂き目でも、この数字は高い。
当然に、室町期に大きい数字が出る可能性は高いが、現実に、混乱期で、農民などが武士となり立身出世をして、自らの存在を鼓舞する為に家紋化が次第に起こり、氏数も最大に増えた時期でもある事から、それを物語る結果である。
この数字を観る事から、同族血縁間の弊害は克服している事を意味している。見事なものであるが、恣意的な指示があったであろう事を想像される。当然にその恣意的指示の出処は「第2の宗家」の青木氏である。
これは藤原秀郷一門主要5氏が平安期の隆盛より室町期の隆盛の方が大きかった事を示すものであるが、鎌倉幕府が樹立し、秀郷一門は職を失い離散した時期でもあるから、一時期はこの影響を受けたことは否めない。その時期の鎌倉期は矢張り一段小さいデータと成っている。
しかし、室町期では高く成っていて、その勢いは江戸まで続いている事は失職離散の憂き目を受けながらも、猛烈な勢いで氏を固め、勢力を盛り返した頑張りが観えて来る。
その間の頑張りは、普通ではない。40%である。
室町の「下克上」の時期の最も苦しい時期に最も高いのである。ましてや、その「打ちこわし」「焼き討ち」の相手は、殆ど弱り目祟り目の藤原氏だけに向けられたのである。
それにもまして、延びている。倍の80の力以上を出して、40を確保した事を意味する。
そうすると「戦う力」は倍の力を持っていたとは考えられない。離散失職しているのであるから、兵力も減っている。
そうすると後は秀郷一門の結束以外に無い。その結束は精神的なものだけであったとは言い切れる程に世の中は理想的に出来ていないし甘くは無いない。
上記から青木氏の「第2の宗家」の統率力と、その支配を裏打ちする「経済力」が無ければ、「下克上」と「戦国時代」で「政治と軍事」の力は低下しているのであるから無理である。
それが、上記で説明してきた2つ目の「2足の草鞋策」なのである。
私は、近江、伊勢、美濃、信濃の豪商の地として有名であるが、この4地方の皇族賜姓青木氏の「2足の草鞋」と藤姓秀郷流青木氏の豪商が支えていたのではないかと観ている。
史実として残る伊勢の豪商紙屋長兵衛、讃岐籐氏の大廻船問屋、近江、堺、摂津の大貿易商人、藤姓の駿河の大海鮮問屋信濃の大産物商や大馬商等の青木氏がこれを支えたのである。豪商史実を挙げればきりが無い。
平安鎌倉時期の水軍合戦の史実を紐解くと、これ等の「2足の草鞋策」の船団が軍船に早代わりして戦っている。最も有名な事として、源平合戦は水軍の戦いで勝敗が決まったが、この史実を探ると幾つも出て来る。先ず、平家の壇ノ浦の水軍の敗戦再結集で、軍戦の持たない頼朝軍の本拠地とする三浦半島の鎌倉沖まで迫り「万事窮す」の時、これを察知し救ったのが。伊豆大島と伊勢尾張間で水産物商い船団と伊豆の海賊船団に伊豆の源氏の大島氏が乗り込み、更に、伊勢の豪商の伊勢船団の水軍(賜姓青木氏)が加わり急いで三日で三浦沖に駆けつけ、平家軍と再び戦火を交えて頼朝の窮地を救った。
この時、義経自身の身内船団で平家の瀬戸内の平家水軍を破った船団を構成する紀州海賊(雑賀、河内一族)、熊野水軍(新宮太郎)、伊勢水軍(伊勢三郎)瀬戸内水軍(讃岐青木氏)は関西にいて裏を掻かれた。
この2つの史実の船団を裏で結び付けたのは2足の草鞋の2つの青木氏の豪商である。
この様に、裏では「2足の草鞋策」の商船団が暗躍していたのである。
故に、「2足の草鞋策」で「下克上」「戦国時代」の危機を乗り越えられたのである。
これだけの力を持ち得ていれば、潰される事は無いだろう。武蔵、下野の領国は安泰であったのである。鎌倉幕府も故にその力を認めての2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」が降りたのである。
その藤原氏を代表して朝光が頼朝の幕府に近づき、結城氏を再興したのである。そして、そこから永嶋氏や秀郷一門が底支えを受けたのである。「関東屋形」として力を発揮出来たのである。
データーでもこの様に出ている。
ここで、進藤氏と永嶋氏の数字が少し違う。これは何を意味しているのであろう。
後発の永嶋氏46%と先発進藤氏31%である。
他の3氏は40%であるが、永嶋氏に付いては史料6と前本論で記述したが、氏の血縁方法と云うか生き方に違いがあった。
所謂「篭城戦略」で「狭く濃く」ある。長谷川氏は「野戦戦略」で「広く薄く」であった。
この差が46%と云う数字と成って現れている。
後発でもあったが、確実に主要8血縁族との血縁を固めている。室町期に誕生した豪族との血縁で身を護った結果を示すデータでもある。
3者合計(N1:N2:H) 4者合計(N1:N2:H:S) 5者合計(N1:N2:H:S)
H:09 11% H:13 11% H:20 06%
K:03 04% K:04 04% K:24 07%
M:35 41% M:45 38% M:126 39%
A:20 24% A:27 23% A:82 25%
E:18 21% E:28 24% E:75 23%
主要5氏の合計でも観て見ると、3者と4者と5者とも高率と同率であり、主要5氏間の血縁は極めて濃厚さを示し且つ固い事を示すものである。主要5氏共に「家紋200選」の上位の家紋群で構成されている事を示すもので裏打ちされている。
合計で観ても同率であると云う事は、”夫々が勝手に動いて血縁関係をしていない”事を物語るものである。
文行流の同じ氏力を持つ長谷川氏でさえも「第2の宗家」青木氏の一門を統括する恣意的指示があった事をここでも意味する。
本流長谷川氏の一族
秀郷流長谷川氏 秀郷7代目公澄の末裔である。後に尾藤氏を名乗る。
秀郷流長谷川氏 秀郷8代目行義の末裔である。後に下川辺氏を名乗る。
秀郷流長谷川氏 秀郷の末裔長久の末裔である。長久は未勘
利仁流長谷川氏 為輔を祖とする進藤氏の末裔である。
利仁流長谷川氏 有国を祖とする末裔である。有国は未勘
未勘の長谷川氏
橘姓長谷川氏
菅原姓長谷川氏
在原姓長谷川氏
中原姓長谷川氏
宇野氏族長谷川氏
中臣姓長谷川氏
源満政流長谷川氏
未勘氏の末裔。
岩代
越後
上野
常陸
羽後
武蔵
相模
駿河
尾張
越中
紀伊
先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。
No.1355
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−進藤氏との関係
副管理人さん 2008/11/22 (土) 09:47
先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。
本文では、藤原秀郷一門の主要5氏の永嶋氏、長沼氏、長谷川氏と青木氏の関係を述べて来たが、最後は進藤氏である。
夫々3氏は特長ある氏力を持って青木氏と関わって来た。そして、その中で、比較対象として進藤氏の事にも触れてた。ここでは、それ以外の特に主な役割に付いて述べるとする。
次ぎの進藤氏も例外ではなく、極めてはっきりとした特長を持っている。そして、その特長はその「氏力」に合わした重要な役割を演じている。
では先ずは家紋群から入るとする。
文行流の進藤氏48家紋は次の様な血縁族となる。
血縁族の家紋類
(以下第3の進藤氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 23/48 48%)
・上り藤、・下がり藤、左藤巴、かに藤
・笹竜胆
・橘、・丸に橘
・蔦、・丸に蔦、丸に鬼蔦、丸に陰蔦
・丸に剣片喰、・丸に片喰、隅切り角に剣片喰
・丸に桔梗、太田桔梗、五瓜に桔梗
・丸に梅鉢
・丸に立ち沢瀉
・丸に三つ柏
・丸に違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、藤の輪に違い鷹の羽
・抱き茗荷
・丸に二つ引き
・九枚笹
・九曜
・三つ鱗
・左三つ巴、・左二つ巴、左二つ丁字巴
・丸に雁金、丸に対噛合い雁金
・三階菱、丸に花菱
・五三の桐
丸に釘抜き
丸に横木瓜
亀甲に三つ星
茶の実、丸に茶の実
丸に木の字
丸に宋の字
抱き柊
組井桁に花菱
井桁に違い扇
丸に隅立て井筒
浮線菊十六菊
29氏の分類である。
進藤氏の血縁族の考察
さて、進藤氏の考察に付いては、青木氏を中心に主要3氏の考察をして来た中で、概ねは比較対照として述べて来たが、主要5氏は夫々の立場などを生かして特長ある血縁戦略を採っている。
その中で、進藤氏は秀郷流から外れて利仁流にも進藤氏も発祥させている。
これが最も他の主要4氏と違う所ではないかと考えられる。
永嶋氏は兼光流の中での2流を発祥させている。
青木氏には利仁流があるとされているが、これは室町期の混乱期の搾取偏纂である事が高い。
長沼氏は中沼氏等を発祥させているが兼光流を越えていない。
長谷川氏は自らの氏の勢力拡大と兼光流の3氏中でも青木氏との関係を強く維持したのである。
勿論、文行流の主導者としての長谷川氏は、兼光流の主導者としての青木氏の立場と同様に、利仁流進藤氏(為輔)との関係も維持したのであった。(利仁流一族との血縁は直接は持っていない。)
元々、進藤氏は下記に詳細を記するが秀郷流からの発祥であり利仁流との次ぎの様な縁で末裔が拡がったものである。
この進藤氏は利仁流から進藤氏を発祥させている事の意味は大きいので特記する。
単純に利仁流進藤氏と言う事だけではない。これは血縁戦略の重要な一つである。
つまり、関東に勢力を持つ兼光流と文行流を持つ秀郷一門と、同じ地域に勢力圏を持つ藤原北家利仁流一門とを固める大きな要素に成っているのである。
利仁流と秀郷流を両方の進藤氏の仲介で結びつける事は、より強固に北家一門が固まる事になり、その「接着剤的働き」をする事に成る。
まして、利仁流は秀郷一門の「鎮守府将軍」も歴任する等「同じ地域」でも「同じ環境」に繁栄している。利仁流に付いての赴任地を見てみても2地域に限定はされているが秀郷一門と余り代わらない位である。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」を参照して観てもかなりの多くの赴任地を占めている。それも代々の赴任地である。
因みに、そこで重要な関係であるので、利仁流との関係に付いて先に少し述べる事とする。
先ず次ぎの様に成る。
赴任地とは云え「藤原氏の血縁戦略」として「土地に子孫を遺す」と云う事から、当然に次ぎの土地にも子孫を多く遺している事に成る。
赴任地は「藤原氏の血縁戦略」の最たるものでもあるので、これ等の検証を先ず進めると何かが見えてくる筈である。
利仁流の赴任地は次ぎの通りである。
豊後2人、5、12代目
豊前1人 5、(15)代目
筑前4人、19、20、20、21代目
陸奥2人、1、2代目
加賀8人、5、7、8、11、12、13、14、15代目
能登2人、14、17、(26)代目
越前7人、7、10、11、13、14、20、20代目
越中4人、12、13、14、20代目
越後1人、10代目
相模1人、15代目
隠岐1人、12代目
肥後1人、22代目
飛騨1人、22代目
出羽2人、5、9代目(18、20)
秀郷流24地方に較べて、14地方37人である。
(注)出羽と豊前と能登は時代性より対象外とした。
(注)「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。
これで、「藤原氏の血縁戦略」であるので利仁流の概ねの「氏力」が判る。約半分であろう。
氏数から観ては25%程度(下記)であろう。
赴任地の大きさから、次ぎの様に成る。
@ 越前、越中、越後、加賀、能登、陸奥 の北陸道地方
A 豊前、豊後、筑前、肥後 の北九州地方
主に以上の2地域に限られる。
北陸道は秀郷一門は特に赴任していないが、北九州地方は赴任している事は特長ある戦略である。
これは明らかに秀郷一門の手薄な地方の北陸地方を利仁一門が補完した形態である。
北九州地方の土地は秀郷一門が、阿多倍一門、即ち、京平家の大勢力圏を後ろから牽制する力を利仁一門に補完してもらった形態である。
しかし、後に、この「敵対関係」は北条氏の鎌倉幕府に成ってからは、むしろ「同盟関係」を樹立した。それは念の為に記するが、秀郷一門の鎌倉幕府樹立による「失職離散」の憂き目と、阿多倍一門大蔵氏の「元寇の役」による責任「太宰大監の失職」の憂き目とが一致した「血縁同盟」であった。
この事は、長谷川氏のところで詳細に論じた「大蔵永嶋氏との関係」で証明した事であるが、重要であるので概容だけを重複させる。
これが秀郷−利仁ラインの主な「戦略的な関係」であった。
そして、その繋がりと成ったのが「進藤氏」である。
その意味で、「大蔵氏との血縁同盟」も然ることながら、北家一門の2氏の「接着剤役割」=「進藤氏」なのである。
これは秀郷一門をまとめるには下記に述べる「大事な役割」である。
先ずその前にこの内、その進藤氏の赴任地としては次ぎの通りである。
豊前1人
豊後1人
筑前4人
加賀4人
能登1人
越前6人
越中4人
越後1人
隠岐1人
出羽1人、
但し、進藤氏は秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏とがあるが区別は無しとする。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。
陸奥の利仁本人と父の時長の2人であるので進藤氏ではない。
この地域は同時に進藤氏の末裔の分布域である。
北陸道の赴任地は主に昔の越国と出羽国域である。
(注:後に、越国は越前、加賀、越中、越後と4分轄、出羽国は羽前、羽後と2分轄)
利仁流の赴任地37人中で進藤氏は29人であり、78%を占めているのである。
進藤氏でない赴任地
相模1人
能登1人
肥後1人
飛騨1人
加賀2人
越前1人
出羽1人
以上の7赴任地8人が進藤氏でない事に成る。
残りのこの進藤氏が利仁流と血縁をし大きく交流を続けていたことが判る。
利仁流藤原氏(8)と進藤氏(29)では、この赴任地から観ると利仁一門の働き(78%)は進藤氏が主役である事になる。
この数字78%は2つの進藤氏の「接着剤的役割」の大きさが証明出来る。
では”この進藤氏の中で秀郷流進藤氏の割合がどの程度占めているのか”が問題と成る。
先に数字的には下記に示す7人で進藤氏の中では秀郷流進藤氏は24%(7/29)である。
この内、先ず秀郷流進藤氏の内情を調べると、「下がり藤紋」より「かに藤紋」が主家主流と成っていて、この一族の末裔は出羽国(山形、秋田)の山形地方に広く定住した(現存:仙台岩切)進藤氏であった。
この進藤氏の家紋から観て、血縁に依って北家の京、近江、丹波付近に定住する「上り藤紋」の進藤氏もあり、「下がり藤紋」の秀郷一門の本家筋も下野国付近に存在するが、長い歴史の中で「かに藤紋」の進藤氏が子孫繁栄には隆盛を極めたものと考えられる。
これは利仁一門との関わりからその居住地(出羽)に定住した進藤氏が主流となったと考えられる。
しかし、この多くの進藤氏は利仁流進藤氏が76%(22:7)で占める働きをしている事に成る。
その比率は、利仁流の赴任地(37)の中での29人である事から観て、この29人の中で秀郷流進藤氏は、確定出来ないが、下記に示す血縁族の分布と史料、系譜から観ると次ぎの通り7人である。
この7つの国域帯に秀郷流進藤氏の末裔が分布した。
特に、分布域は次ぎの様に成る。
出羽国域(延沢、里見)
陸前国境域(宮城:大崎)
越後国境域(出羽国境)
越前域(主に斯波域)
能登域(2人の域は判別できない。)
出羽、越前域には両方の進藤氏が分布した。
秀郷流進藤氏
出羽1人
越後1人
越前1人(斯波域)
隠岐1人
能登1人
筑前1人
豊前1人
以上7域の7人と考えられる。
全進藤氏29人:秀郷進藤氏7人で約24%であろう。(4:1)
そこで、秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏の系譜上の接点は何処にあるのかが次ぎに問題と成る。
そもそも、元の進藤氏の始祖は秀郷−千常−脩行−行景の系譜で「行景」がその始祖と成る。
先ず「脩行」が官職「進藤大夫」と成り、その子「行景」が「進藤左衛門尉」の官職と従五位下と成った。そこで、進藤氏の発祥の基が生まれた。発祥は明らかに秀郷一門である。
この進藤氏は利仁流進藤氏では、次ぎの様に成る。
これには斎藤氏が発祥の基と成っている。
「利仁」の子の「叙用」(斎宮頭)が「流」と成り、下記の通り次ぎの9氏の「斎藤氏」が発祥している。この「斎藤氏」の内「疋田斎藤氏」から発祥している。
この疋田斎藤氏から進藤氏に到達するには次ぎの事を理解する必要がある。
藤原一門は全て2つの氏名の使い方をしている。
1つ目は役職官職を藤原の「藤」の前につけて区別して氏名としている事。
(役職を前に着ける。左衛門佐の左藤氏、佐藤氏 斎宮頭の斎藤氏等)
2つ目は土地の名を藤の前につけて区別する何れかの方法である事。
(24地方の国名の前だけを着ける。伊勢で伊藤氏 加賀で加藤氏等)
北家は大変多くの藤原氏を出したが、「姓名」だけでは区別判別が難しいし、同じ「姓名」の者も多く居る。よって主に上記2つの方法を採った。
3つ目は少ないが爵位より着けた氏名がある事。(爵位 諸臣の位6回階級の第6番目の「進位」でその進藤氏は藤原氏の爵位の「進」と「藤」とで進藤氏とした)
参考
宗家以外に藤原氏を直接「姓」として各地に名乗る氏があるが、多くは明治初期の村全体が或いは郡全体が名乗ると云う現象が、特に”藤原”姓に起こったが、この「第3の藤原氏」か「未勘の藤原氏」である。上記2つの方式で名乗っているのが本来の藤原氏である。
家紋も同様で、藤原氏は丸付き紋の藤紋は使わず副紋を使う定めである。
多い丸付き紋は「未勘氏」か「第3の氏」と成る。
「藤原氏」そのものの「氏名」を名乗れるのは基本的に夫々の「宗家、本家」と「総宗本家」である。以上の知識を把握すると家紋類の分析が正しく出来る。
元に戻して。
役職官職では「斎藤氏」はそもそも朝廷の藤原氏の本職の「斎蔵」の官職「斎宮頭」に成った事により「斎藤氏」と号するように成ったものである。
「斎蔵」は奈良期、主に大化期から「朝廷の政治機構」を3つに分けると「3蔵」と称し分けられた。
この内、律令が進むに連れてその立役者と成った阿多倍の子の次男の「大蔵」の大蔵氏と、3男の「内蔵」の内蔵氏が2つを占めていた。賜姓である。
律令体制が完成する桓武期にはこの高い知識を持った後漢の帰化人が官僚の6割を占めていたことが日本書紀に記録されており、天武期には一般からも官僚として採用するように命じている。
この桓武期以降には史料から渡来人、帰化人などの言葉が消えている。この事から150年で融合同化したものと考えられる。
(この日本書紀そのものが、舎人親王を中心に主にこれ等の官僚の編集組織で構成されていた。)
この事を念頭に次ぎの事柄を把握されると概ね全体像が見えてくると考える。
その全体像の中で、次ぎの事柄の流と時代背景(氏家制度の社会慣習)を思考されたい。
天智天皇の大化の改新以降、「皇親政治」の祀り事一切(政治含む)を司る「斎蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、天皇家の財政を司る「内蔵」の「3つの機構」と「軍事(朝廷軍と親衛隊の2軍と藤原氏の押領使)」に分かれていた。
朝廷軍は「阿多倍」の子の長男の「坂上氏」が征夷大将軍を司った。親衛隊は「北面武士」に語られるように宮廷の衛兵軍の近衛兵で天皇を護る「親衛隊」の役目から「青木氏」と、「斎蔵」の役目から各地の押領使役の「藤原氏」であり、この2氏には永代の左と右の衛門尉か佐の官職が与えられた。
(宮廷門の左右の門の衛兵から来ている。2つの青木氏、即ち、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏はこの事からは民部尉か佐、右左の門(左衛門尉か左衛門佐)の役職と成る)
この「斎蔵頭」の「疋田斎藤氏」が上記の越前の国の押領使(警察と軍の役割)に成った「藤原為延」から起こり進藤氏の祖と成った。
そして、その子の4兄弟の一人「為輔」が史料から勘案すると進藤氏を名乗ったと成っている。利仁より6代目である。
秀郷流進藤氏は「行景」で4代目、利仁流進藤氏では「為輔」で6代目である。
秀郷の代から合わせると、利仁は「時長」の子であるので「為輔」は7代目に当る。
では、秀郷流の相伝の「行景」の進藤氏の末裔の誰がこの「為輔」と関わったのか問題である。
秀郷流の進藤氏系統では、可能性のある人物は次ぎの4人に絞られる。
6代目では「脩俊」(隠岐八嶋冠者)
7代目は「好治」(進藤太郎)
8代目では「治卿」(左衛門尉、母は豊後守藤原安隆の娘)
9代目では「秀世」(進藤左馬允)
以上4人が可能性のある人物と成る。
つまり、秀郷流より発祥した進藤氏は、利仁流の進藤氏相伝の「為輔」との血縁か縁組かをした事に成るが、上記の秀郷流の4人の内の誰かとの子孫と跡目継承か血縁をしたことを意味する。
そこで、繋がるキーは「為輔」と繋がる関係を持つところを調べる事で判別できる。
次ぎの通り検証した。
同じ年代7代目の「進藤好治」では実質の進藤太郎で嫡子であるので難しいし、その親の「進藤脩俊」は源の頼朝から冠者として命ぜられて平家を西海に討ち紀州和歌山の地の領主となっているから血縁は無い。
8代目の「進藤治卿」は豊後守の利仁流安隆の娘を母にしている。豊後と言う利仁流子孫の赴任地から血縁して可能性が高まるが、経歴から将軍宗尊の近臣を務めた事から山形にいる「為輔」とは関係は薄いので疑問である。
最後は次ぎの「進藤秀世」である。
この「進藤秀世」の親が利仁流と血縁関係を先ず母方で完全に繋がり、更にこの「進藤秀世」の経歴を調べると完全に繋がるのである。
その経歴の一部から、元弘の建武の乱の時、北条尊時に属し勲功、その後、足利幕府家兼家に仕え、家兼の奥州官領の時、陸前の「大崎五郡」(現在の宮城大崎市)を知行するによって、その一部を知行とし、元の赴任地の「越前斯波」の一部加美郡保柳(現在の宮城加美郡 大崎市の隣り)2百余町を加え知行する。秀世大老として働く。
その後、足利家兼の嫡男家督し大崎治部大輔になり継承する、次男が斯波修理大夫として延文元年に出羽探題(山形、秋田地方)と成り、最上地方(現在の山形北部最上郡)に移動した時、秀世は同行する、この代々秀世の末裔12代まで足利氏(最上家)に仕える。
秀世はこの地の「為輔の知行」の一部「寒河江小国」(現在の山形中央部の寒河江市)を知行する。その後、「手の粉城主」(手の子城)となる。(山形と宮城の圏域地帯の藤原氏と最上家の知行帯)
この事から、@秀郷流の秀世の母(利仁流)の豊後、A大崎の一部知行地、B利仁流の主な赴任地の越前、C「為輔」の斯波、D利仁流の「為輔」の官職知行の一部取得、E利仁一門の代々の山形居城の出城の「手の粉城主」から観て、明らかにこの「秀世」が関わったと観ている。
その一族の履歴がこの経緯を示す重要な史料となるので次に記する。
「為輔」の父は「疋田斎藤氏」の祖で「為延」である。
「為延」は「越前押領使」で「北陸道7国押領使」も兼ねている。(重要)
利仁より4代目の祖父は「伊傳」で越前押領使で官位は高い「民部小輔」である。
伊傳の兄弟の一人嫡男「忠頼」は加賀守で加賀斎藤氏である。
次男「重光」は豊後守で豊後の斎藤氏である。
三男の尚忠は官位は「春宮小進」であり、爵位の進位の「進」の氏の役官である。
四男は「文紀」で隠岐守、讃岐守である。
他無役4人の男子が居る。
そして、上記赴任地の北陸道一帯を勢力圏として納めていた一族の中で、「進藤為輔」には4人の兄弟が居る。
「為兼」(疋田大夫)疋田氏相伝した
「為頼」(越前権介)越前権介 総追捕使、7代目の利仁流跡目
「行用」(無役無禄:妾子)
「為輔」(進藤氏祖)居所最上に捨扶持知行地
以上の4人となる。
この事から残りの部屋住みの「為輔」と成る。
つまり、”秀世との上記の6つの関係が興り、4兄弟の身内から身軽な「為輔」が秀郷流との関係強化の目的から秀郷流進藤氏の実質後継者の「進藤秀世」の「進藤氏」を名乗り引き継いだ”と考えられる。
「秀世」と「為輔」は同知行地の地域で懇親を深めて部屋住みで斎藤氏を継げない所から秀郷一門からの働きかけにより「養子縁組(秀世の娘との血縁)」の形を採り進藤氏を名乗ったものと考えられる
そこで、「為輔」の捨扶持知行地一部が何故「秀世」に渡ったかは確証は取れないが、次ぎの経緯からと考えられる。
その経緯とは、朝廷より命ぜられた「秀世」の赴任地が「越前斯波と陸前大崎」に成った事から、この経緯から、恐らくは、「北陸道7国」を納めていた利仁流の父、祖父が、秀郷流一門との関係強化の目的から、「為輔」の知行地の一部の「寒河江小国」を同地に来た「秀世」に与え、その見返りに部屋住みの「為輔」に「秀世」の娘を嫁がせて「進藤氏」を名乗らせひとり立ちを進めたと観られる。つまり、秀郷と利仁の両方の一門の思惑がこの「秀世」の時に一致した事に成る。
(秀世は跡目をなくしている 下記の「血縁の経緯」参照)
同時に「為兼」には「疋田氏」を名乗らせ、「為頼には斎藤氏」を名乗らせて独立させいるから
”為輔には、進藤氏を”と成ったとしても経緯から自然である。
(参考 斎藤氏主要9氏 加賀斎藤氏、広岡斎藤氏、疋田斎藤氏、河合斎藤氏、長井斎藤氏、勢田斎藤氏、吉原斎藤氏、豊後斎藤氏 他1氏)
参考
秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏があるが、他に未勘の進藤氏がある。
乙部氏族の進藤氏
源の頼政流の乙部氏族の未勘末裔が信長との軋轢から進藤氏に改名したとある。
伊勢国の乙部郷に住する。
綾姓羽床氏族の進藤氏
讃岐の羽床氏が進藤氏を名乗る。
以上2氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。
武田氏進藤氏
吉良氏進藤氏
近衛氏進藤氏
以上3氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。
以上5氏が時代を経て室町末期以降から江戸期初期に発祥した進藤氏である。
秀郷一門と関係があると認められるこれ等5氏は、進藤氏に何らかの血縁を先祖に持つ事から、後に何らかの理由にて縁先の進藤氏を名乗ったものと考えられる。
出羽の進藤氏
近江の進藤氏
丹波の進藤氏
安芸の進藤氏
出雲の進藤氏
他の13の未勘進藤氏がある。
夫々の国に合わせて18氏(全部で23氏)の未勘進藤氏があるが確定できない。第3氏で無いかと見られる
この様に、主流2氏の進藤氏は上記の経緯を以って一族固め戦略を7代目辺りで採った事に成る。
進藤氏は他の主要4氏の血縁戦略とは違う中間的な血縁戦略の生残りを図ったのであるが、その一つとして、地域的な血縁戦略より、上記した9つの「地方の赴任地」で血縁を固め、且つ、「利仁流の勢力圏」を利用する2つ形で主要族に成った。
それを補完した利仁流の勢力圏は14地方が秀郷流進藤氏(7)を創り上げた。
この様に、秀郷流進藤氏は「接着剤役割」で青木氏からの依頼を受けて利仁流とのパイプ役を演じていた。
参考
長谷川氏のところで九州永嶋氏との関係の仮説4つのキー探しは、接着剤役進藤氏の役目柄、”青木氏に依頼されて、利仁流の北九州の赴任地との関係から、この進藤氏が絡んでいるのでは”と見ているが現在確証は出来ない。
しかし、この「接着剤役」の文行ルートの進藤氏では、秀郷流兼光ルートの青木氏が主動していたが、一門の中で最も重要視していた血縁戦略であった筈である。
と云うのも、この「接着剤の役目」が上手く働かなければ、戦略上、関東以北の同地、身内の中に爆薬を抱える結果と成るだろう。
武蔵以西の事を主要3氏のところで、その戦略の合理性、完璧性を論じてきたが、しかし、武蔵以北が秀郷一門の弱点とも言えるところであり、武蔵以北と北陸道を抑えている利仁一門との関係が藤原秀郷一門の最悪の弱点であったでと観ている。
それだけに両方の進藤氏の出方は秀郷一門を仕切る「第2の宗家」の青木氏の最大のテーマであろう。他の4氏との戦略的関係は上手く行っているとしてもである。
その青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は、江戸期までの間で平安期は13%と血縁族を多く創り上げている。(普通は3%−5%程度)
進藤氏の発祥は文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の3つに差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、上記の赴任地の内容から同時期、同地、同族、親族間の血縁連携をも図っていた戦略がはっきりと観える。
利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。上記「接着剤的役割」はこの「身内戦略」から出たものである。
永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
”広く求めなかった”と云うより”求められなかった”とする可能性が下記の系譜の所の史料で判断できる。
赴任地は北九州の目的とは別に、主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ、鎌倉期以降の血縁族を広められなかった原因の一つではと考えられる。
それと二つ目は本流の「跡目継承の子孫繁栄」が上手く行かなかった事であろう。
それに依って、失職離散する前の成長期の平安期の血縁率(13%)が高く成ったと観られる。
その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
(詳細は進藤氏の本文考察参照)
青木氏との共通血縁族を観てみると、進藤氏は下記の主要5氏の「共通血縁族」の「主要8氏」が殆どである。この事は進藤氏が独自に血縁戦略にて血縁族を拡げた傾向は少ないことを意味する。
青木氏に指導に基づき「主要8氏」に留めていることに成る。
その分、利仁流との関係を強化したと観られる。
この事は上記の「為輔との血縁の経緯」を観ても、「第2の宗家」との相談で、むしろ、秀郷流進藤氏の「最大の役目」としていた事を物語る証でもある。
つまり、腹の中に爆薬を抱えた秀郷一門の弱点を補う「接着剤的役割」に主眼を置いていた事に成る。
室町期から江戸期にかけて発祥している未勘の進藤氏を含む進藤氏の上記データを観ても、秀郷一門の「西側防衛域」には全く進出していない。秀郷一門の戦略上の規定域内だけである。
これも一つの「最大の役」即ち「接着剤的役割」を越えることの無い証であろう。
この秀郷一門の血縁戦略から誰が見ても明らかに見えて来る「弱点」を進藤氏で補っている。これ程の完璧な戦略事は、自然にその戦略が出来上がったと云うことではないであろう。
明らかに「恣意的な戦略計画」で実行されたものと考えられる。
”それは誰が主動したか”であろうか。当然「第2の宗家」の青木氏となろう。
青木氏との「共通血縁族」とは、”大きな笊(ざる)に血縁族というものを入れて流れ落ちて残ったものが「主要8氏」である”と云う事に成る。
と云う事は、この笊の原理からすると、「青木氏「=「共通血縁族」の条件と、上記「進藤氏」<「共通血縁族」の条件とで、共通項=「共通血縁族」と成り、結果、「青木氏」=「進藤氏」が残る。
青木氏が主導の下で、進藤氏は「行景」より発祥後、6代目「秀世」のところで利仁流の「為輔」と「接着剤的役割」を果たしたと成る。
しかし、ここで、「秀世」は秀郷流進藤氏の本家跡目を継いで子供の「脩久」に引き継いでいる事から、「跡目血縁」は無い事に成る。
では、”どのような形の血縁か”と云う事に成る。
「血縁の経緯」は次ぎの通りである。
「秀世」には子供が4人居る。2男2女である。
長男の嫡男は”秀世18歳の時の子供で実に聡明である事から足利将軍の寵愛を受け、2つ引き両紋の家紋を授与されるが、短命で死す。”とある。”次男が将軍に仕え「脩久」が跡目を継ぐが、これも若くして死す。跡目耐える。その暫時後、その跡目に養子を取る。養子「実理」成る者を跡目として進藤氏を継ぐ。”とある。”「実理」の実父は大崎家の家臣の四亀(伊予)氏で、「実理」はその次男で、65歳で没する。”と成っている。
この大崎家は秀世の2度目の赴任先で大崎五郡の知行地のある土地で其処の豪族である。
2女の”次女は里見に嫁ぎ、長女は山形の延沢に嫁ぐ”とある。
長女の延沢は現在の(出羽)山形県尾花沢市で最上線が走る最上地方であり、隣りの寒河江市地域でもある。(延沢の進藤氏発祥)
次女の里見は現在の(出羽)秋田県横手市である。(後に里見の進藤氏発祥)
これは上記の「為輔」「秀世」の記述と完全一致する。
このことから、「秀世」は跡目2人を若くして無くし、暫く跡目を探していたが、「為輔」も「4兄弟の部屋住み」である事から、長女を山形の延沢(「藤原為輔」居所)に嫁がせ進藤氏を絶えさせない努力をした。そして、この相伝「為輔」が形式上の養子縁組の形を採り進藤氏の姓を継いでもらった。(実質は延沢の末裔の吉継の継承)その後、秀郷流の進藤氏も耐える事の無い様に、支流で大崎家の家臣の四亀(伊予)氏から養子を取った。
以上が血縁経緯であり、秀郷流進藤氏は「秀世」の子供の代で絶え、支流大崎家(秀世の知行地)より跡目養子の進藤氏となり、利仁流進藤氏は「秀世」の娘の女系進藤氏と成る。
実は、この後も養子「実理」後の跡目末裔も48歳、30歳、39歳、38歳、その後も討死、親子腹切等があり、「跡目継承」は大いに乱れて大変苦労している。
この秀郷流進藤氏の本流は殆ど枝葉の無い系図である。この系図から観ると、この様に、嫡子だけでも他氏から迎えるくらいで、嗣子と女子を外に出すほどの余裕は無く秀郷流進藤氏は子孫繁栄に極めて苦労している。
ところが利仁流進藤氏の「為輔」の末裔は全く逆で枝葉を伸ばし多くの子孫を遺している。
これは上記の家紋群29分類の48家紋の氏は「未勘氏」が多いことを意味する。
未勘氏に対しては、上記の進藤氏家紋群の家紋と、進藤氏の上記の小さい地理性から観て殆ど繋がりは採れない。
室町末期と江戸初期、江戸末期と明治初期の苗字令の混乱期の移動性から来た分布氏ではと考えられる。
上記に記した「未勘氏18氏」(23)があるとしているが(他の主要4氏と異なり未勘氏が多い)殆ど枝葉の無い系譜から察するに「主要共通血縁族8氏」を除いては未勘氏と成る。
進藤氏の利仁流一門との「接着剤的役割」は主に「主要共通血縁族8氏」に委ねられていた事を物語る。
では、その「主要共通血縁族8氏」が働いた「接着剤的役割」の血縁を他の主要3氏と比較して観てみる。
参考
主要5氏の「共通血縁族」(青木氏と同じ家紋を持つ氏)
主要5氏共通:「家紋4大血縁族」・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
主要4氏共通:「家紋4血縁族」・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。
「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)
青木氏と同一血縁族の分類
「共通血縁族」
1・下がり藤、・上り藤
2・笹竜胆
3・橘、丸に橘
4・丸に片喰、・丸に剣片喰
5・丸に違い鷹の羽
6・丸に梅鉢
7・九曜
8・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
9・丸に桔梗
10・丸に立ち沢瀉
11・蔦、・丸に蔦、丸に陰蔦
12・三つ柏
13・三階菱
14・丸に二つ引き
15 丸に横木瓜
以上15分類21「共通血縁族」
参考
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏
1・下がり藤・上り藤 1 ・下がり藤 1 ・上り藤、・下がり藤
2・笹竜胆 2 ・笹竜胆 2 ・笹竜胆
3・桔梗 3 ・桔梗、・丸に桔梗 3 ・丸に隅立て4つ目
4・木瓜・丸に木瓜 4 ・九曜 4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5・橘・丸に橘 5 ・抱き茗荷 5 ・丸に沢瀉
6・梅鉢・丸に梅鉢 6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷
7・九枚笹・丸に根笹 7 ・丸に三つ鱗 7 ・丸に違い鷹の羽
8・片喰・丸に片喰 8 ・丸に橘 8 ・丸に桔梗
9・九曜・丸に九曜 9 ・丸に剣花菱 9 ・丸に蔓柏
10・蔦・丸に蔦 10 ・丸に剣片喰 10 ・丸に木瓜
11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉 11 ・丸に違い鷹の羽 11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12・剣片喰・丸に剣片喰 12 ・丸に梅鉢 12 ・三階菱
13・武田菱・剣花菱 13 ・五三の桐 13 ・五三の桐
14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷 14 釘抜き
15・丸に蔓柏・違い柏 以上13分類15「共通血縁族」以上14分類17「共通血縁族」
16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽
17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き
18・三階菱
19・松皮菱
20・揚羽蝶
21・五三の桐
22・丸に隅立て四つ目
23 横木瓜 丸に横木瓜
以上23分類40「共通血縁族」である。
(謝罪 画面の乱れはソフトの関係)
進藤氏は以上15分類で青木氏との共通血縁族は29に成る。
分類/共通血縁族の分類比は、進藤氏52%に対して、長谷川氏58%、永嶋氏87%、長沼氏82%である。
この比は、%が高い事は同じ家紋の文様が多いことを示し、他氏やその本流に限らず支流分流分派の末裔まで及ぶ広い血縁をしている事を示すもになる。つまり、「血縁活動」が高かった事を物語る。「血縁活動」が高かったと言う事は「氏力」が高いと云う事になる。
そこで進藤氏は同じ文行流の長谷川氏と同じ程度であるが、永嶋氏と長沼氏とでは大きな差がある。
進藤氏と長谷川氏とでは同率であるが元々体質が異なる。
先ず、上記した様に未勘氏(18+5)が進藤氏に多い事で、これを勘案すると、上記した様に25%程度の分類比と成る。
「家紋200選」では48%である。
上記の考察の「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」とすると、この分類比25%と勘案すると、支流族などと殆ど血縁していない藤原一門外の「普通の氏の血縁力」と言え得る。
故に、「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」=「接着剤的役割」の数式の結果と成る。
つまり、秀郷流進藤氏の「氏力」(25)は「接着剤的役割」の一点に絞られていたことを示すものである。「氏力」(25)=「接着剤的役割」の数式と成ろう。
そうでなければ、この他の役割を果たす以外に25%では氏力が小さく「氏力の余裕」は出てこないであろう。
これでは、主要5氏に成る要素は無い事だし、自分の氏さえも護ることは難しい事に成るが、そこの「氏力の余裕の役割」の補填は利仁流進藤氏に頼ったという事であろう。それ以外に無いだろう。
その事は、現実に主要氏と成っていることから、2つの進藤の交流が高かった事にも成るだろう。
つまり、数式では、秀郷流進藤氏+利仁流進藤氏=氏力と評価される。
但し、この「接着剤的役割」は藤原北家一門にとって無くては成らない何物にも変え難い「最大の役目」なのである。
むしろ、進藤氏にこの役目が在った事からこの様な低い「氏力」と成り得た可能性がある。
それに進藤氏の「氏エネルギー」を使い果たしていたと言えるだろう。
その証拠に、この進藤氏の官位官職は八嶋冠者、左衛門尉、左馬允、右近蔵人、主税介、駿河守、程度であり、他の主要4氏と異なり高位高官は無く官職も少ない。
これは政治的に活発に活動をしていない事に成る。上記した活動地域も出羽を中心とした利仁一門と同じ域の北陸道に限られるし、この役目に徹していたと言え、役割に専念したからこそ藤原秀郷一門はこれ程の子孫繁栄を果たしたと言える。
この戦略的な主導的働きを進藤氏に与えたのは青木氏と成る。
今までの永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、史料1/10−6/10の考察にも比較対照として進藤氏の血縁戦略を合わせて考察し述べて来たが、進藤氏にはこの様な大きな役割が存在したのである。
以前のレポートに、長谷川氏の様に「野戦的血縁戦略」、永嶋氏や長沼氏の様に「篭城的血縁戦略」であって、世の中の諸事には、その役割が「外向き」と「内向き」とがあり、その両方をコントロールする「調整役」が居て上手く行くのであるが、この3氏は「外向き」で、進藤氏は「身内戦略」の「内向きの役割」を担っていたのである。所謂、「身内の女房役」とでもいう役割を演じた。
そして、その「外向き」と「内向き」の「調整役」が「第2の宗家」の青木氏と言う事に成る。
この時代は平安末期から室町末期までの混乱期であった事から、「外向き」と「内向き」の比率が3:1の形に成っているが、平安初期や江戸時代の安定期では1:3の逆の比率として戦略を採る事も必要であっただろう。それだけに、混乱期に「調整役の青木氏」にとっては「系譜に弱点」を持つ「氏力」の小さい「進藤氏」にこの役を担わしたのであろう。
それだけに、青木氏は利仁一門との関係強化を目論んだと観られ、上記する「秀世」−「為輔」との関係を強力に図ったものと考えられる。
それが、上記した「秀世」の跡目養子の縁組と「為輔」の婿養子の縁組(女系)の采配に現れている。
秀郷流進藤氏に対して「調整役青木氏」が大きく関わった証として、「かに藤紋」の進藤本家と、殆ど「主要8氏の共通血縁族」だけの血縁枠にある。
本来、進藤氏の家紋類には、綜紋の「下がり藤紋」が本家家紋の持つ家があるにも関わらず、出羽国域に居所する「かに藤紋」一族の分家筋を「主家筋」として扱った事。
青木氏が推し進めた秀郷一門内での戦略血縁を推し進めた「共通血縁族」が進藤氏血縁族であった事。
この氏家制度の中で青木氏だけが成し得るこの2点にある。
この様に、氏家制度の中で、一門の運営を総括する「第2の宗家」としての「調整役の青木氏」は「内向き役」の「一門の弱点」の強化に大変苦労したと考えられる。
「所感」
何にせよ、主要5氏の血縁戦略を検証するに当って、感嘆することは、その「血縁戦略」が揺るぎないものと成っている事、戦略としての定法に欠けるものが無い事、強処弱処の押さえ事、攻め護りの定法事、等を「氏」の維持に必要とする戦略上の疑問が湧く点事を、尽く史料分析から証明されて「理」に叶い否の付く所が無かった事にある。
実際、筆者の長年の検証が進むに連れて、その戦略が”定法ではこの戦略は何処に”と次々と疑問が湧く状況であったが、尽く潰された。
日本書紀には大化改新より藤原一門と賜姓青木氏の天皇の相談役の軍略司の記述が多い中で、伝統的に確かに如何に青木氏が優れた「戦略師」であったかを思い知らされた検証事であった。
「結」
本論文は、元々は「青木氏」の調査の中での他の氏に疑問を感じて調べていると大変な繋がりがある事を知れ得て、更に青木氏の巾を横に広げたのが経緯であった。
しかし、秀郷一門の「青木氏」と「主要5氏」、それに「主要8氏の共通血縁族」に付いては血縁族ではあるが、どのような関係で成り立っていたかを長い間で試みたが、あまり関係研究の資料が無い中で、苦労はしたが何とか網羅できたかとも思っている。
その苦労とは、「史料調査−疑問−推論−史料探索−考察−検証−確定調査」の繰り返しでここまで到達する事が出来たが、今後、ルーツ探しなどに挑戦しようとされる方は、この手順を踏まれる事をお勧めする。
中でも、「疑問−推論」のプロセスが大変大事であり、”「推論」が当らなければ又元に戻り推論を建て直す”とする根気の必要とする作業である。
そして、その「推論」の当る秘訣は、当時の時代性の「氏家制度の社会慣習」の知識を習得する事にあり、「現代感覚」では決して推論は当らないことである。
その「社会慣習」を習得するには、上記のプロセスは役に立たず、”只、一言「雑学」を試みる。”に以外に無い事による。この「雑学」が上がれば、「推論」も確率的に不思議に高まるのである。
筆者は物理系技術者であるので、本職的に上記プロセス作業は専門であった為に比較的にこの作業は楽であった。しかし、「科学的雑学」は領域内であったが「文科系雑学」は特に大苦手で読む事さえも毛嫌いし苦労をした。従って、この「文科系雑学」に極めて努力を重ねたものである。
それに、最後は、「男の社会経験」(ネゴシエイション)にあると考えている。
この3つがあると、「魚釣り」の吊り上げる直前のググウと引き込まれる手に伝わる「感触感と歓喜」を味わえる。
釣であろうと、何であろうと、上記「プロセス」は同じであり、それを補う「雑学」や「ネゴシエイション」も同じ「必要素」では無いだろうか。そして、其処に、「達成の歓喜」が生まれるのではないだろうか。その「達成の歓喜」が次ぎの「ヤルキ」に繋がるもと考える。
況や、これは「人生学の摂理」ではないと考える。
兎も角も、これで、他のレポートと合わせて、筆者は「歴史の伝統資産」を少しでも後世に遺す事が出来ると自己満足の域にある。今後、歴史に興味のある方は、大いに利用し挑戦して頂きたい。
その為に、本文の後に、本文関係資料を続けて掲載する。
No.1365
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 7/10 (時代の変化に対する特長)
副管理人さん 2008/12/05 (金) 11:55
史料 7/10(主要5氏の時代性の分析)
青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様に変化しているか、その特長を分析する。
この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。
(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)
判りやすくする為に次ぎの記号を用いる。
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
(一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。)
「作成要領」
主要5氏各氏の家紋群を上記5つの時代に分け、その家紋群の一つ一つの発祥を分類し、一つの家紋に1ポイントを与える。
但し、一つの家紋が時代を跨るものもある。
家紋になる過程は「家紋200選」にある様な主要な家紋は、象徴−ステイタス−物象−具象−宗匠−家紋などの過程を踏むが、いきなり家紋に成るもの等多種多彩である。
又、また家紋の種類(瑞祥象徴等)もありかなり難しい。一つの家紋でも本家、分家、分流、分派等の家紋の変化と経緯と由来もあり、それらにも配慮してポイントを割り振った。
(注)
室町期(M)までの家紋群には上記の「経緯」とか「由来」を正確に持つが、安土桃山期、江戸期の家紋にそれらのものが殆ど無く「類似家紋」のものが多い。
特に江戸期初期の家紋には、殆どこの「類似家紋」が多く時代性の特定は容易である。
また古い滅びた氏の家紋を持ち出して「経緯と由来」に一致せず自前の家紋とした搾取偏纂も多い。
この辺も考慮して割り振った。従って、このポイントは数値そのものに意味を持たないレベルを表すデシベル(dB)とする。
史料
「時代性から観て家紋の分布」
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
H:4 11% H:3 13% H:2 08% H:4 13% H:7 03%
K:1 03% K:1 04% K:1 04% K:1 03% K:20 10%
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
A:9 24% A:6 26% A:5 21% A:7 22% A:55 26%
E:9 24% E:4 17% E:5 21% E:10 31% E:47 22%
(謝:画面のズレはソフトの関係)
「時代性」の考察
先ず、H、Kの時代から考察する。
「青木氏」は2代目の千国を元祖とする発祥であり、「第2の宗家」であったことを物語る様に、他の4氏とはHとKが比べ物に成らない程に8倍を有し全体の家紋数(27)を保持している。
Hでは3%で低く、Kは特に10%と高い。
氏数では多いのであるが、これは平安末期から鎌倉期にかけて秀郷一門の「失職離散」の時期でもあり苦しい時期でもあった中で、「第2の宗家」として、藤原一門の氏を守らんとして働いたことを示す苦しさを示す数字である。
特に、逆にHの数字(3%)が低いのは、当時、青木氏との「血縁を進める相手」の問題があったと考えられる。
ながでも「氏家制度」の「身分家柄の吊りあい」の取れた血縁相手が少なかった事にもより、又、純血を守る「同族(属)血縁」を主体とした「奈良時代の高位の習慣」が色濃く残っていた時代でもあった。
これが青木氏に大いに働いたのであろう。何せ、「第2の宗家」でもある。宗家としての立場もあったであろう。他の4氏と同じようには行かない自由の効かない事情もあったのであろう。
逆に言えば、他の4氏と「同属血縁」する事により、「間接的に新しい血」を取り入れていた事をも意味するものである。
「共通血縁数」の数値が、他の氏と異なり8倍ほどに段突に高いのは、上記の理由から「同属血縁」を推し進めた証でもある。
H、Kの時代は氏数も少ない中でも高いものである事から、Kの10%は全国の氏数が200から800に変化した様に、4倍の変化からするとこの10%は40%に相当する。
これは、他の時期の数字から観てもピークに相当する数字であるので、大いに努力をし苦労した事を意味するものである。
何をか況や、これは「第2の宗家」としての「本当の実力の本領発揮」を示すものである。
全体的には、H、Kでは青木氏の努力の証明から勘案しても、全氏とも12−17%に入るが、これは5氏が「一致協力(絆)」して頑張ったことを示すものである。
これはまさしく青木氏の秀郷一門に対する「体制固め」を主要5氏に対して均等に図ったことを示すものである。
数字が示すもの
「同属血縁」、「本領発揮」、「体制固め」
しかし、その中で「長沼氏」と「進藤氏」は若干高めを推移している。
これはどのようなことを意味するのか多少考察しておく必要がある。
特長としては、「長沼氏」と「進藤氏」は「発祥」が「先発」で速いために矢張りHでは13%と高い。これが原因しているのであろう。
「発祥」が早いと言う事は、それなりに「積み重ねた勢力」を築いていた事を示す為に血縁の機会を拡げる事が出来たのであろう。
その証拠に、逆に「長谷川氏」と「永嶋氏」は「後発」であるので3%は高くは無い。論理が一致する。
つまり、「発祥時期」即ち「勢力圏」がこの時期では大きく働いていた事を示すものである。
では”その血縁はどのようなものであったのか”を考察する事も必要である。
この時代の数字は「同族内での血縁」でも数字が出来ているのである。
この時代はまだ、社会全体の「氏数」が低く、青木氏を除いて、4氏の数字としてはそれ相当の意味を持っている。
鎌倉時代は進んで「氏数」も増えたが、ここでは平安期に較べても数字は低い。
更に、このH期は、主要5氏共にH、Kと合わせて(12−17%)で「京平家」との軋轢の中でも氏を次第に固め始めている時期でもある。
主要5氏ともに、鎌倉期Kは対抗する「平家が滅亡した」となったとしても、反面、矢張り、鎌倉幕府樹立で「失職離散期」であり「苦難の時期」で有った事には変わりは無い。
本来なら「平家滅亡」で数字は上がる筈である。しかし、それ以上に「失職離散」のマイナス要因が大きく働いたと云う事であり、結果として、「氏数と血縁数」は当然に低いなった事を示すものである。
「平家の影響」によるものより、矢張り、「失職離散の影響」の方が影響が大きかったことを示すこの数字は、この「失職離散」期の子孫を広げるどころか失う方が大きかったほどの「大苦労」が襲ったことが解る。しかし、この大苦労が後の「子孫繁栄の礎基」と成ったと観られる。
私は今ある現在の苦労を考える時、この時期の先祖を理解して、この時期の苦労を思い起こして将来に鑑みて頑張っている。
何時か未来の子孫がこの様に考察するとき、「平成期の先祖」としての印象に成る事を期待している。これが先祖に残す「先祖が居て現在の自分がある。先祖への敬いと伝統」との最大のメッセージであり、我々も平安鎌倉期の先祖の苦労を思い起こすように。私事ながらこれ等の史料を由来書に書き記したものである。
数字が示すもの
「平家滅亡」「失職離散」「2重苦難の時期」−「子孫繁栄の礎」
さて、この事はさて置き、室町、安土桃山期の戦乱期でさえこの大苦労が実を結ぶのである。
本来であれば、更に鎌倉期より氏の入れ替えが起こり、尚且つ、既成勢力の藤原一門を狙い撃ちにされたにも拘らず、「子孫繁栄」に大きく影響した「下克上、戦国時代」に、更に翻弄されて、数字は間違いなく下がった筈である。
しかし、それにも拘らず違っているのである。
M、Aの時代
Mでは、永嶋氏と進藤氏を除く3氏は39%で「失職離散」の苦難の時代から脱出してやっとその勢力を伸ばし始めている。
その中でも、「後発」の永嶋氏は「関東屋形」(結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏)と呼ばれる様に佐野氏流と結城流からと氏を二つに分けて勢力を「氏力」の半分を占めるほどに伸ばしている。
これに対照的に、「先発」の進藤氏は秀郷流と利仁流からとこれも氏を二つに分けているが、「氏力」は他の4氏と較べると低い。これは他の4氏の間では「接着剤的働き」に専念し勢力圏を思う存分に広げる事が出来なかったである。
また、秀郷流進藤氏はその「末裔の跡目」に代々恵まれなかった事が起因している。データーもそのように成っている。
進藤氏は他の4氏に較べて、別の方へ勢力(接着剤的働き)を注ぎ、軍事、経済、政治的な「基礎的な戦略的」が徹底されていなかった事によるものである。この「3重苦難の時期」に主要5氏にさすがは「明暗の変化」を与えた。
勿論「第2の宗家」青木氏の補完はあったのであり、主要5氏として遺し得たのであるが。
数字が示すもの
「2重苦難の時期」+「下克上、戦国時代」=「3重苦難の時期」 −「主要5氏に明暗変化」
Aでは、5氏共に「戦乱の終焉期」でありながら、同率(21−26)でありよく氏力を固めている。室町期では進藤氏が、安土桃山期では永嶋氏が史実通りやや息切れ状態ではあるが。
実は、この時、皇族賜姓青木氏、及び、藤原秀郷流青木氏は西軍と東軍に分かれて戦った。
子孫を遺すにはやむ終えない仕儀であったと考えられ、それなりの「氏力」を形成している以上避ける事は不可能であった。例え中立で居られたとしても戦いが終わった勝者の戦後処理では子孫存続は不可能であった筈でこれはこの世の条理である。
史実は、この二つの青木氏を見てみると真田氏の様に本家分家で仕儀無く二つに分けて戦っている。
この時期は「戦いによる子孫存続の可否」もさる事ながら、どちらに味方するかの天下分け目の戦いに「選択による子孫存続の可否」も大きく左右した時代でもあった。
生死を伴なう「戦いによる子孫存続の可否」+生死を伴なわない「選択による子孫存続の可否」の「2重苦の時代」でもあった。
「戦う」と言う事ではその「戦術の駆使」で臨めばよいが、「選択」と言う事で「子孫存続」を決めると言う事は「至難の業」である。最早、殆ど「賭け」であっただろう。
故に、高い確率で子孫を遺せる方法として藤原一門は「本家分家の選択」で臨んだのだ。
だから、永嶋氏や長沼氏の様に分家筋が多いのはこの事の原因によると観られる。
ただ、徳川幕府後の青木氏等の本家分家の比率を調査したが確実な答えは出なかった。
しかし、感じとしては家紋類から観て矢張り「分家筋」が多い感じがする。
確証は出来ないが数字としては青木氏は83/121=69%に成った。
当時、感覚的には社会現象として、庶民の中では、強弱は別として「軍勢の差」と「豊臣政権に対する保守的思考」が働いていたのではと考える。
大豪族は別として、全国各地の一般的な豪族の分家筋は自分達も室町期に立身出世したこともあり、「立身出世の星」の豊臣政権に期待したのではと考える。
現実は小説や伝説などの説とは少し違うのではと観ている。家紋から観ると間違いなく通説と異なる。
「通説」と「家紋説」のどちらが正しいかの検証は難しい。
藤原秀郷主要5氏の家紋から観ると分家筋が60−70%と成り、通説と異なる。
通説と異なるのは藤原一門だけが分家筋に偏ったととも考えられる。
その理由は、商業に長けた豊臣政権ならではの「2足の草鞋」策が働いたと観ているのである。
史実では、関西の堺、摂津、伊勢、近江、瀬戸内などの豪商は二つに分かれたと成っているし、藤原秀郷一門の本拠地の関東の豪商では徳川側に傾いたからである。
つまり、関西では割れた事、「2足の草鞋策」を採った秀郷一門の豪商の多くは関西に在った。
「戦い」は「武力」だけでは戦えない。「経済力」なくした絶対に勝利は無い。年貢だけではせいぜい生活が限度である。そこに、「戦いの戦費」と成ると、別の所から補う必要がある。
当時の戦いの「手弁当の掟」から、”軍事費用(戦費)の「経費負担」はこの「2足の草鞋策」の豪商から出ていた”とし、その「豪商の発言力」が左右したのではと観られる。
況や、この豪商の主体は「第2の宗家」の「青木氏の発言力」に有ったからである。
「2足の草鞋策」を持つ「讃岐籐氏」の青木氏と、四国の豪族の藤原一門の長曾我部氏等の末裔は、四国では秀吉と戦っている事からも、藤原秀郷一門の特長であったと観られる。
血縁を結んでいる伊勢青木氏を始めとする5家5流の賜姓族青木氏と、その「2足の草鞋策」の豪商の全ては徳川方に味方した。その為に、関西の5地方の港を抑えていた商業に長けた豊臣政権に対抗して、家柄、身分から観て、その「2足の草鞋策」の青木氏の豪商は、徳川氏に味方し、その発言力を保守的な本家筋を避け分家筋に向けていたと観られる。
平安、鎌倉期の「失職離散、氏家制度の影響」と、室町期の「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」と異なり、この時の時代背景(2極体制下、「2足の草鞋策」の経済力、賭け)が数字に、即ち子孫繁栄に大きく左右した時代でもあった。
平安鎌倉期は「失職離散、氏家制度の影響」
室町期は「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」
安土桃山期は「2極体制下、2足の草鞋策の経済力、賭け」
Eでは、混乱から安定期に入り、青木氏は当然として、「後発」の2氏の長谷川氏と永嶋氏は20%程度である。江戸幕府の御家人、旗本に成り子孫を遺す為に勢力を懸命に維持した時代である。その苦労が数字で物語っている。
ここでは進藤氏が高い「氏力」を示している。これはMでの伸び切れなかった「氏力」をここで伸ばしているのである。
「接着剤的働き」がここに来て花を咲かしたと云う事になり、他の4氏と違う「生残り戦略」を採った結果による。
進藤氏が室町期に足利氏に大老として入り各地、特に北陸道以北に領国を持ち、その戦乱の影響を最小限に抑えた結果、江戸期に入って、その力をその遺された力を遺憾なく発揮したのである。
その証拠に、逆の現象を起こした中部にその勢力を温存していた先発の長沼氏は、低い「氏力」を示している。「生残り戦略」を前半に採った事に依る。
つまり、平安鎌倉期の「高位の氏との血縁」を主体としていたが、江戸期には「戦乱後の立身出世の豪族」との入れ替わりの時代と成り、その時代の趨勢に乗れなかった結果でもある。
「高位の氏との血縁」から「戦乱後の立身出世の豪族」に変化
しかし、全体を観ても判る様に、青木氏は他の4氏の「標準的氏力」を示している。
夫々の「時代性」に対応して「血縁戦略」を採っている事を物語っている。
その苦労が読み取れる。
これは、矢張り、藤原秀郷一門を指揮するその立場(第2の宗家)から来ているのでは無いかと観られる。極端な戦略は取れない立場で、且つ生残れなくては成らない宿命があった事に依る。
しかし、時代を通じてところがこれが相して現代に我々子孫が現存する結果と成ったのである。
このデータはその時の「時代の背景」とデータを突き合せてみると、先祖の生き様がこの様に良く見えてくる。
史料7/10は、この様に他に多くのことの分析に使用する事が出来るので利用されたい。
このデータは主要5氏の分析考察の確証となるものである。
No.1367
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 8/10-@(時代の変化に対する対応)
副管理人さん 2008/12/26 (金) 19:11
史料8/10-@
この史料は主要5氏の”時代に対してどの様に血縁状況を適応させていたのか”を統計的に家紋を分析して、その姿を今に再現しようとするものである。
そこで、その内容を次ぎの2つに絞った。
(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)
この史料@(時代の変化に対しての推移)と、史料A(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)に付いて、「時代性」から観た青木氏と他の4氏との「共通血縁性」を統計分類したデータである。
(作成要領と注意は史料7/10と同じ)
(史料1−5/10を基本に統計分類しデータ収集 参照)
平安(H)、鎌倉(K)、室町(M)、桃山(A)、江戸(E)の夫々の時代で、秀郷一門の「共通血縁族」(2氏から5氏)がどの様に、且つ、どの程度出来上がって行ったかを考察する。
このデータは他に「一門の有様」の「色々な状況」を発見するのに使う事が出来る。
今回は特に上記の2つの内容に絞ることで、秀郷一門の出来上がり具合(氏力の推移)を浮き出させる事にする。
先ず、史料@(時代の変化に対しての推移)から考察する。
「共通血縁族」
史料@−1
3氏合計の場合 4氏合計の場合 5氏合計の場合
H:09 11% H:13 11% H:20 06%
K:03 04% K:04 04% K:24 07%
M:35 41% M:45 38% M:126 39%
A:20 24% A:27 23% A:82 25%
E:18 21% E:28 24% E:75 23%
2氏合計の場合 全体の平均
H:03 08% H:36 09%
K:07 18% K:33 08%
M:13 33% M:151 38%
A:09 23% A:95 24%
E:08 20% E:88 22%
(時代の家紋数/全家紋数)=X%
(但し、例えば3氏(4、5)とは青木氏と他主要4氏の何れか2氏(3、4)との合計を意味する。)
史料の考察
史料 @に付いて。
平安期に於いて
主要5氏の「共通血縁族」は「5氏の場合」のレベル(6%)は意外に低い。
これは平安期の「氏数」(40)が大きく育っていない為に少ない事が先ず云える。
尚且つ、その中で「血縁相手」が幾ら各地での「血縁戦略」とは云え、土地の土豪程度であった。
従って、「氏家制度」から藤原秀郷流主要5氏と他氏との「血縁の吊りあい」の取れる相手が少なかった事が云える。この2つ等が主な理由として挙げられる。
特に、5氏の中で、青木氏だけは「第2の宗家」としての立場から難しかったのではないかと考えられる。その為に数字を下げていると観られる。
更に、平安期での後発族の2氏(永嶋氏、長谷川氏)の血縁力はまだ拡げるに必要とする「氏力」が低かった事も誘引しているだろう。
しかし、「3氏、4氏の場合」共に「共通血縁族」の数字は11%と一割を占めている処から観るとこの時代としては5氏の6%は妥当なレベルと考えられる。
これは、上記の4つの理由からすると6%が妥当であるとするならば、赴任地24地方の相当な豪族との血縁を青木氏は進めていた事にも成る。
それは他の4氏と異なり「移動性」が高かった事によるだろう。特に、「全体の平均」(詳細事例確認:9%)(11%と6%)から観て上記4つの原因と合わせて、次ぎの事柄で「5氏共通性」が低い数字(伸悩み原因)と成ったと考えられる。
伸悩み原因
@青木氏の「第2の宗家」としての立場
A発祥の先発後発の関係
B地理的な関係
C立場、役目の違い
D由来の違い
E移動性
F平家と競合(末期)
@−Fにより夫々の氏の「血縁戦略」は異なるだろうから5氏全てを以って評価するには問題がある。特に、Aの「発祥期のズレ」が大きく原因しているだろう。これで考えると、秀郷が一門を構えてから、間隔は最大で240年、最低で130年はある。当時としては、平均寿命から4代から7代の代替わりがあった筈で「発祥期のズレ」(4−7)は史料とほぼ一致する。
この秀郷一門は、この期間のほぼ中間に居る「進藤氏」を中心にして、
@青木氏と長沼氏の「先発組」、
A進藤氏の「中間組」、
B長谷川氏と永嶋氏の「後発組」、
この3つの組にはっきりと分けられる。
この間には、「進藤氏」を中心に左右2つに分けると、その片側の巾は平均90{(60-120)/2}年と成るので、この事から、盛んに血縁を進めていた3氏、4氏の「共通血縁族」の11%からすると(上記の理由(@-F)があるとすると)、左右に分けた1/2(先発組分)のその6%と同じに成る。
故に、「5氏の場合」のレベル(6%)は「妥当」な数字6%なのである。特別に低い数字では無かったと考えられる。
何か特別な原因が作用してでは無く、普通の結果(氏家制度の中で)に依って得られた低い数字である。
更に2氏(8%)と、より「共通血縁性」が高い3氏、4氏も含めての評価とすると、5氏は妥当な「時代性ある血縁」と見なされる。
それなりに”しがらみ(@-F)”の多い5氏ならではの数字(努力)である。
つまり、平安時代には、別の見方をすれば、主要5氏の「共通血縁族」は200年程度経ってやっと一割を占めていたと言う事である。
平安期では、「氏」には広がりが出てはいるが、「氏力」即ち「一門結集勢力」(共通血縁力)としては、この意味としては「氏力」の一割は既に出来上がっていた事に成るし、秀郷一門の「絆」は1割であるので固まり始めていた事にも成る。
しかし、一門に末裔の広がりを見せても、必ずしも「結束(絆)」が固まるとは限らない。
史実を観ると、むしろ「結束(絆)」は恣意的に成し得て、且つ、維持をさせて始めて成し得るものであろう事を教えている。
「嫁取り」すれば「兄弟は他人の始まり」とも云う。それが世の現実であろう。
まして、「主家、分家」等「主従関係」の厳しい「氏家制度」の社会の中では「結束(絆)」は別であり尚更であろう。
従って、全く他人が入る「嫁取り」では無く、秀郷一門間を「血縁関係」で固める事は、ここでは「結束(絆)」と成ると観ている。
その上で、「第2の宗家」の物心両面の一門への「思いやり」が「結束(絆)」を高めるものと成ろう。故に、このデータの「血縁」+「思いやり」は「結束(絆)」となると観た。
つまり、数式論で言えば、次ぎの様に成る。
「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割
「氏力」(「一門結集勢力」:共通血縁力)=1割
故に、「共通血縁力」=「氏力」=「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割 と成る。
更に、この論理ですると、言い換えれば、青木氏の「第2の宗家」としての「指導力」は全体の平均から観ても一門の1割を固めるだけの力を発揮していた事にも成る。
平安期
時代の状況:「貴族の社会」「氏家制度」
秀郷一門の状況:藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」=「7つの確認事例」
鎌倉期について
ところが、鎌倉時代(K)に入り、矢張り一族に「失職離散」が起こり、政治体制も「武士の時代」と成り、秀郷一門の「貴族」の下に「侍集団」が構成されていた時代とでは大きく異なり、又、「豪族集団」もその「氏種」が異なった事もあり、そのレベル(4%)は平安期6%よりも低く成っている。
多分、この時代は「血縁」と言うよりは「当面の生残策」に翻弄されていた時代であったろう事を物語る数字である。
従って、この時代の血縁は、「同族内の血縁」を主体として固めていたのではないか。
その証拠にKの5氏の「共通血縁」が7%と高い。青木氏を中心として翻弄されながらも「横の関係」を必死に整えていたの事を示すものであろう。
しかし、ところが主要4氏と共通血縁性が低い青木氏と他の1氏(2氏の場合)の場合が18%と段突である。これは平安期では地方24赴任地での青木氏と土豪との「血縁戦略」があったが、まだ、主要4氏との「横の関係」の血縁までの発展には至っていなかった事を物語る数字でもある。
この18%(単独の血縁数字)は青木氏が先頭に立って進めている「血縁戦略」(平安期8%)が次第に延びて来ている証拠の数字でもある。
「氏力」には未だ至ってはいないが、全体の26%まで延びてきているのは、”「当面の生残策」に翻弄されながら、「横の関係」を必死に確実に進める努力をしていた”と成る。
この「単独血縁」と「横の関係」が次ぎの室町期の混乱期の時代に大きく支えに成ったのである。
この時期、同時に「青木氏の単独血縁」の努力と合わせて、後発の永嶋氏や長谷川氏らが構成する5氏の6%(平安期)から7%(鎌倉期)と+傾向に成り、全体13%の数字が示す様に、やっと力を付けて延び始めた時期でもある。
鎌倉期
時代状況: 「失職離散」「武士の時代に変化」「氏種が変化(豪族集団)」
秀郷一門の対応:「当面の生残策」(横の関係)「同族内の血縁」「青木氏単独血縁」「長谷川氏永嶋氏の台頭」
室町期に付いて
そして、室町時代ではなんとその努力が実り、丁度、高率の40%を占めている。
この「地道な努力」の「冬の時代」から一挙にその努力が花を開いたことを意味する。
況や、秀郷一門の鎌倉期の対応が正しかった事を示す数字と成っている。
一門全体の「同族内の血縁」による「氏力」の半分がこの時代の混乱期に出来上がったことを示す。
この時代の背景、即ち、「下克上、戦国時代」の攻撃を受けながらも、これだけの「氏力」(40%)を形成したのは、藤原秀郷一門は青木氏の「第2の宗家」を中心に一致協力して、「下克上」の攻撃には「受け」に入らず「攻め」の体制を採ったからであり、この数字はそれを物語るものである。
普通は、「下級武士の台頭」を中心とした「下克上」「戦国時代」では、「伝統」を主体としてた氏は「受け」に入り衰退するのが現実の理屈であった。また普通はその様に予想するであろう。
ところが、秀郷一門の現実の史実は、一門は「焼き討ち等の憂き目」を受けているが、「子孫」「血縁」と云うテーマで観た場合は、データの通り違うのである。
つまり、この40%は「時代の生様」を具現化する見逃しては成らないデータである。
果たしてこれは何を意味するのか。深く考察に価するテーマであろう。
そこで、敢えて検証を進める。
一体どの様な戦略で対応したのであろうか。そして、その「生き様」(経緯)はどの様であったのだろうか。
「焼き討ち等の憂き目」が在ったためにそれを「警鐘」として受け止め、一門がそれまで創り上げていた「氏力」15%で先ず「横の関係」を図り、身を鎧の様に固め、24地方の一門は青木氏を中心に据え「一致結束」して「戦い、排除」しながらも、「24地方の血縁族土豪集団」をひとり立ちできるように「育成」してたのでは無いかと観ている。
その為に、「下克上」の下級武士等の不満は、同じ立場に居た「24地方血縁族土豪集団」を「潰す」と云うところまで処せられなかったと観ている。
現に、それには次ぎの証拠があるのである。
それは家紋分類の史料(3/10)をもう一度参照されたい。
ここに隠れた証拠が潜んでいたのである。それはある種の「集団防衛」システムである。
各地の秀郷一門の土豪集団は、このシステムで動乱期に臨んだのである。
後の安土桃山時代にはこれ等は一種のシンジケート化した集団として遺したのである。
このシンジケートが、又、次の時代の生き抜く重要な力と成った。
つまり、「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱に誘引されて「跡後」に訪れるそれは世の「必然の流れ」では無かったかと観られる。
しかし、ここで、この対応策の「集団防衛」は「精神論」だけでは成り立たない。
当然に「経済的裏打ち」が取れていてこそシステムなのである。
既にお気づきと思うが、秀郷一門の「第2の宗家」青木氏の「2足の草鞋策」で「裏打ち」されていたのである。
恐らく、青木氏はこの「裏打ち」の為に、「第2の宗家」として一門を支える為に採った「必然の策」であっただろう。
「氏家制度」による「手弁当の掟」から観ても、「領地から得られる税収入」を以って一門を支えこの動乱期を乗り切るだけ力は無かった筈で、秀郷一門にはどの様に見積っても到底その財力は出て来ない。有史来、史実の中で「世中の動乱の動き」(必然の流れ)を押し返すだけの「氏力」の持った氏は何処にも無かった。
たとえ、頼朝、尊氏、秀吉、家康にしてもその時代の「世中の動乱の動き」(必然の流れ)に上手く乗っただけである。自分の「氏力」のやり方で押し返したのではない。
まして、24地方の赴任地に戦略として「血縁族」を作っている。室町期まで上記の通り育ててきたこれ等の「血縁族」に生き残らせる為に「軍事的支援」のみならず「経済的支援」を必要とする。まして、動乱期(有史来「世中の動乱の動き」:必然の流れ)である。尋常の「経済的支援」では済まないであろう。
これ等の育ちかけた「抹消の血縁族」を生残らせ、尚更に、育てるには尋常を超えていると観られる。
と成ると、「人の心」は、必然的にその財源を求めようとする。
しかし、その「財源」は他氏を攻め落として領地を増やして得られる収入の範囲ではない。
それに頼れば「犠牲」も多く成り、育てている「抹消の血縁族」は疲労し潰れ離れて行く事は世の必然である。
だとすると、「人の心」に生まれる知恵は「地の利と理」と「役職の利」を先ず考える。
税としての物資を裁くは「役職の利」そのものである。当然、それを「守る武力」も役職である。裁く「商いの繋がり」も一門の縁故を使える。
この様に「2足の草鞋策」の「商い」の条件は整っていると成ると、むしろ、これだけの条件を使わない方がおかしい。「人の心」はその方向に間違いなく動く。これが「必然の動き」である。
それは「24地方の血縁族」の力も使えるし、その24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせば商いは成り立つ。まして動乱期である。
「動乱の戦い」のその「軍需物資」を扱う事が出来れば大商いは成り立つ。当時では、食料は当然の事、鉄や銅や金などの「鉱物資源」と成ろう。
参考
自然の摂理で、太平洋プレート、ユーラシャプレート、フィリピンプレートの3つのプレートが重なる地域には地殻の動きで比重の重いものが集まるのが冶金学的な特長である。
信濃と上野と甲斐の境界点付近の3合流を基点に能登佐渡との中間を結ぶ線上帯に鉱物資源は集まる。
さて、ここで、本文の進藤氏のレポートを思い起こしてもらいたい。
大変な藤原秀郷一門の戦略が観得るのである。
再度、概容として、進藤氏は秀郷一門が発祥であった。ところがこの秀郷一門の進藤氏は「秀世」のところで男系跡目に苦労した。そして、利仁流の「藤原為輔」と出羽国で出合った。そして、この進藤氏を為輔は引き継いだ。この進藤氏を「接着剤的役割」でリードした青木氏は利仁流との血縁関係を戦略上で持とうとした。
この利仁流は北陸道7国を代々の勢力圏としている。何故、この北陸道に目を就けたのか。
一つは、確かに藤原秀郷一門の「氏力」の「血縁戦略上の強化」であったであろう。しかし、それだけでは無いと観る。それは上記の資源帯のこの北陸道一帯に存在する鉱物資源である。
既に、頼朝に潰された秀郷一門の「平泉三代」の栄華はこの鉱物資源(金)の確保から来ている。
又、信長、秀吉の経済力もこの北陸道地域を抑えた事から全国を平定した。
当然、この知識を知っていたであろう。同じ秀郷一門宗家が知らないはずが無い。
(史実は足利氏、信長、秀吉、家康も先ずこに最も信頼できる人物を差し向けている。)
「武力」だけではない「経済力の裏打ち」が必要であると、間違いなくこの事を知っていた筈で天下を取ろうとする者がこのことを知らない方がおかしい。
だとすると、喉から手が出るほどに「経済的な裏打ち」を望んでいた筈。これを一門を維持するには戦略上見逃す筈が無い。
しかし、直接、「武力」でこれを抑えるには室町期では藤原氏の「50%の氏力」では無理であろう。
だとすると、「血縁戦略」以外に無い。まして、土地には藤原北家一門利仁流が土地に根付いている。直接支配は室町幕府の直轄であるが、現場の支配は利仁流一門が担っている。これを「商い」として結び付けば、相当の「経済的効果」は挙げられる。
これに目を付けて進めた血縁戦略ではあった筈で、利仁流一門からしても当時とすれば3倍以上の程度の「氏力」を保持している秀郷一門からのこの「力」を借りて「経済的裏づけ」を持ちたいと云う立場にあった筈である。藤原北家一門でその恩恵を分かち合える事が出来る。
秀郷宗家としては、貴族であり「武力」と「商い」は法度であるとすると、「第2の宗家」の青木氏としては、24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせる「大商い」と、「軍需物資」を扱う事が出来る「大商い」の2つを見逃す事は無い。
これが、青木氏の藤原秀郷一門の戦略であった。
この「必然的な流」の中でのその知恵が青木氏に働かせたのである。
その「必然の流」(A−B−C)とは次ぎの様にまとめられるのではないか。
(A)「下級武士の不満」「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱
(B)「縦から横の関係」「一致結束」「24地方の血縁族土豪集団化」「2足の草鞋策の裏打ち」
(C)「秀郷一門の集団防衛化」
(A)が起こり、混乱から逃れ生きる為に「味方を呼び集め」、一心に「身を固め」、他に「生活の糧」を得んとして、必然的に人の心に(B)の「自然の流」が起こり進み、結果として(C)の生き延びられる「形」が生まれた。とする。
この「必然の流れ」の中で青木氏は、それを(B)を得心し、一門をリードし、自ら「糧」を生み出しす役目を果たしたのである。
一門の「2足の草鞋策」は史料から観てみると、年代は不詳だが由来書や系譜説明等の内容の経緯から、丁度、この時期(末期)から実行されている。
史料から他氏の時期を記述する事には問題があるので、因みに筆者伊勢青木氏の紙問屋紙屋の青木長兵衛の事に例を挙げて記する。
丁度、この頃、同じ苦境にあった青木長兵衛は「土地の利と理」(伊賀紙)と「守護の立場」を生かして1325-40年頃(鎌倉−室町期)に「2足の草鞋策」に挑んだのである。史実は秀郷一門の青木氏も同様の時期に「2足の草鞋策」を各地で採っている。(詳細下記)
逆に、動乱期に於いては「2足の草鞋策」にも「経営と物資運搬」の防衛の為にシンジケートが必要である。この必然的な「相互依存の環境」にあった事がこの「システム完成」を助長した。
「下克上、戦国時代」後の安定期には、これ等がシンジケート化して現存したのである。
「比叡山などの寺社集団」や「2足の草鞋のシンジケート」のこれに苦しんだ信長以後の主導者の秀吉、家康は「戦わずして勝つ」と云う戦略上で挑み、史実上、逆にこの2つを味方に引き入れて利用し勝利した事に成る。
つまり、2人はこの藤原氏一門の「戦い方の史実」としてこの各地の「防衛集団」種を充分に認識し承知していた事を示すものでもあろう。そのために戦いに有利としてこのシステムを持つ藤原一門はこの2人に大いに雇われ仕官したのである。
その決定的な事例の「典型的事件」がこの時期に起こっている。それは「南北朝の戦い」で楠木政重(菊水紋)と北条氏10万の戦いであろう。
この特長データから考察すると、各地に満遍なく、且つ、大変な量の集団が形成されていたかが判る。これでは、「下克上、戦国時代」では「勢いのある焼き討ち集団等の敵」に対して、何とか抗する事が出来たのではないかと容易に想像出来る。
史料(3/10)の特長として、「一門の集団性」がある。つまり、「2つの種類の集団」が秀郷一門の家紋類に大きく存在するのである。
「2つの種類の集団」
1つは、地域に根ざした「土豪の集団防衛」である。
2つは、地域の氏子の「寺社の集団防衛」である。
この「血縁族」をまとめた「集団防衛」は他にレポートした「伊勢の青木長兵衛」のそれをはるかに超えた大きいものである。
史料@−2(一門の集団性)
主な秀郷一門「土豪の集団防衛」群
中国地方では、亀甲族集団(8党)、鷹羽党(3党)
関東地方では、武蔵族(7党)、関東屋形族(4党)、坂東族(8党)、矢車族(2党 荒川党)、大島族(2党)、根笹族(4党)、駿河族(3党)
中部地方では、伊川津族(7党)、諏訪族(2党)、真田族(2党)、伊勢族(2党)
関西地方では、河内摂津族(7党)、紀州一党(雑賀族、根来族、巨勢族、葛城族、紀族、平群族)、熊野神職族(5党)、上山党(2党)、伊賀族(2党)、菊水党(2党)
四国地方では、讃岐族(讃岐籐氏4党)、阿波族(阿波藤氏2党)
(注)史実上、秀郷一門の何らかの「流」を汲むもので、以上は動乱期前後までに何族、何党、何衆と呼ばれた共闘集団を構成したものを記述した。
(注)史料3/10では枝葉氏の家紋まで記述していない。
主な秀郷一門「寺社の集団防衛」群
出雲大社氏子集団(亀甲紋神紋:美作、安芸、出雲の氏子)
阿蘇大社氏子集団(鷹の羽神紋:氏子が中国地方に移動 菊地氏、浅野氏)
伊勢大社氏子集団(柏紋神紋:久志本氏)
熱田大社氏子集団(柏紋神紋:千秋氏)
宗像大社氏子集団(柏紋神紋:宗像氏)
吉田大社氏子集団(柏紋神紋:吉田氏、ト部氏)
吉備大社氏子集団(柏紋神紋:大守氏)
春日大社氏子集団(下がり藤紋:藤原一門)
菅原大社氏子集団(梅鉢紋神紋:菅原氏系)
天台宗檀家集団(摩多羅神の神紋寺紋:抱き茗荷紋:二宮氏系)
加茂大社氏子集団(立ち葵紋神紋:西田氏系 丹波、信濃、三河)
柊明神社氏子集団(抱き柊紋神紋:丹治氏、大関氏)
諏訪大社氏子集団(立ち梶の葉神紋:諏訪氏)
熊野大社氏子集団(やた烏紋神紋:熊野5氏)
(注)史実上、秀郷一門の何らかの流を汲むもので、血縁関係が認められる集団で、以上は動乱期に共闘集団を構成したものを記述した。更にこの期間では、完成した「防衛共闘集団」になりかけのものも含まれている。以上、2つの「防衛共闘集団」に更に夫々小さい土豪の集団が枝葉する。
(注)柏紋の大社神紋は主に三つ柏紋8種に分類される。
これだけの「2種の大集団」を一つにしてシンジケート化すれば、「表の勢力」に比較できない程の「裏の勢力」が働く事は間違いない。「裏の勢力」であるが故に、室町政権から直接睨まれる事は無く、又大儀明文が無い為に出来ないであろう。
上記の経緯から、この時代の期間では、「他の氏の入れ替わり」が起こったにも拘らず、全体としての一門の「氏力」の推移は、平安期10%の「氏力」(基礎力)から苦難の中で鎌倉期では15%と維持し、その努力が生きて室町期(39)では全体では55%と拡大に繋がったものである。
これは平安期の藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」が、時代の変化にも拘らず鎌倉期の群雄割拠の侍時代(土豪達)に、効を相して血縁族が台頭したものである。
それが室町期では、この台頭の血縁した土豪、地侍等が「勢力争い」に勝ち抜き一門が「氏力」を広げたと成る。
勿論、この土豪、地侍に秀郷一門が積極的に「武力と経済」で「裏打ち」したのは紛れもない事実であるが、終局、彼等の集団は「共通血縁族の主要8氏」と大豪族と成り得たのである。
この終局の室町期は「共通血縁族の主要8氏」がこの数字を作り得たものである。
その室町期の「氏力」の出来上がり具合は次のように成る。
2氏で59% 3氏で56% 4氏で53% 5氏で52%
この数字から観ると、5氏だけに拘らず青木氏と1氏までも50%台であり、”一門と血縁族全体が均一に「氏力」を固めた”と云う事であり、”取り残しは無い”事に成る。
”赴任地24地方の血縁族が全て生残り、尚且つ勢力を拡大した”と云う事は、如何に秀郷一門が強かったかを物語る。
この強さは当然に一門を指揮したからこそ強いのであるから、これは当然に青木氏の指揮如何に関わる事である。指揮のない「烏合集団」はやがて衰退するがこの「世の常道」である。
つまり、秀郷一門は「烏合集団」では無かった事を証明する。
これは後の時代に遺す「一門の絆」の強さを示すものである。
青木氏と他4氏との関わり具合が均一である事は、明らかに「血縁戦略」即ち「青木氏の指揮」が徹底していた証拠にも成る。
これでは、秀郷一門が時代に取り残されずに生抜けた事がこのデーターでも明確に解る。
安土桃山期に付いて
そして、その「氏力」が安土桃山時代ではその勢いが続き25%と氏力を維持させた。
多分、室町期の40%が無ければ、この高い「氏力形成25%」は無かったであろう。
この時代は「群雄割拠の時代」から「選別の時代」へと変化して行った時代である。
その中で「選別された豪族」(「共通血縁族の主要8氏」等)との血縁が結ばれ、主要5氏が時代に即応した「氏力」を培ったと言う事に成る。この事は主に「分家筋」との血縁を優先させた事が頷けるし、その証明に成る。
「共通血縁族の主要8氏」からそれを主軸として、更には「選別」により駆逐されてこれ等「枝葉の末裔末孫」の「横の血縁」を拡げたに他ならない。つまりは、鎌倉期に勢いのあった2氏(18%)のところまで主要4氏との血縁は進んだことを意味する。
普通、この時代は時代のめまぐるしい変化に即応出来ずに古い氏は全て衰退し消えて行った時代でもある。その中で生残れたのは、「時代の変化」に拘らず、これもH、K、M(55%)と「氏力」を即応させた結果による。
しかし、生き残れはしたが、秀吉には、史実上に記録されている氏として、豪族クラスでは、四国の讃岐藤氏一門、阿波の藤氏一門、伊勢の秀郷一門の青木氏、永嶋氏、伊藤氏、常陸の結城氏、小山氏、陸奥の結城氏等が多くの秀郷一門が潰された。数えられない程である。逆に、徳川叙封禄に記載されているもので、江戸初期には家康に依って潰された青木氏等の秀郷一門も多い。
多少の戦いはあったとしても、殆ど「選別」に類する衰退である。
(機会あれば何時か衰退した青木氏等のレポートもしたい)
安土桃山期に付いては上記した室町期から桃山期初期の秀郷一門の「生残りシステム」が効かなかったことに成る。
何故ならば、彼等二人はこの一門の「生残りシステム」を熟知し、真似をし、利用し、駆使したに過ぎない。
同じ「生残りの戦略」で対抗されれば、「時の勢い」の持ったものが勝つのが常道である。
違うものを持った同士の戦いであれば、「群雄割拠」であり、殺戮の少ない同じシステムの戦いであれば「選別」であろう。
しかし、ここで、特記する事は、秀郷一門の生き方の数式論である。
「生残りシステム」から「選別」が起こると差し引き残るものがある。
{秀郷一門}=「生残りシステム」−「選別」={時代の趨勢}
@「生残りシステム」=「血縁戦略」+「経済(2足の草鞋策)」であった。
A「生残りシステム」−「選別」=「経済(2足の草鞋策)」と成る。
B「経済(2足の草鞋策)」は無傷である。
Cそうすると、「全秀郷一門」−「選別」=「選別された遺豪族」と成る。
D故に、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」と成る。
Eそこで、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」=「共通血縁族の主要8氏」と成る。
結論は、”{力の着いた「共通血縁族の主要8氏」}が一門を支えた”と云う事になる。
しかし、これが選別後の江戸初期以降では、時代に即応して、Eの数式論が大きく左右して末裔を遺し得たのである。
因みに、再び、筆者の伊勢青木氏を例に挙げると、この典型的な数式論が成立しているのである。
「伊勢攻め」即ち「天正伊賀の乱」と「伊勢永嶋の戦い」で、信長、秀吉と戦った。
この時、青木氏は名張城、青木山城、柏原城など3つの城と平城の松阪館から戦いを挑んだ。
信長は伊勢の入り口に丸山城を築く為に信長の次男信雄と滝川一益を差し向けた。
この時、伊勢の500年歴史を持つ豪商紙問屋青木長兵衛が陰で建築物資を抑えて高騰させ物資不足を作り出し伊勢シンジケートを動かしてゲリラ作戦を展開した。そして、高額築城費と長期間を費やさせやっと出来たその日にシンジケートに天守閣を爆破させて消失させた。信長は烈火の如く怒り、信雄を蟄居させる事になった。有名な史実である。一方この時、名張の城では、別の顔を持つ青木民部尉信定は無傷、紙問屋長兵衛の店も無傷で、次ぎの「伊賀攻め」に備えた。
その後、秀吉を先ず伊勢永嶋攻めに差し向けた。青木氏の手の内を知る秀吉は青木氏の陰の手口を封じて、材木を兵が切り裁き筏を組んで流したりして伊勢永嶋を攻めて北畠氏を潰した。次ぎにこの伊勢の背景を知る秀吉は、戦わずして勝つ戦法を使ってきた。藤原一門で清和源氏血筋も持つ蒲生高卿の子の歌人で軍師の蒲生氏郷を差し向けた。伊勢青木氏とは遠縁関係にあり縁故を使った。青木氏の背景を知る抜いている。戦うと両者ともに「シンジケート戦」で大きな犠牲を払う事に成る。青木長兵衛を説いた。条件を飲んだ。一端新宮に青木氏は引き上げた。
氏郷は有史来松阪に城を築いた。1年後に屋敷町に2区画を与えて青木氏を戻し松阪の一部と玉城町を与えた。そして、その経済力とシンジケートを氏郷は潰さずに利用した。
伊勢は発展した。その後、家康は関が原の戦いにその「経済力」と「シンジケートの力」を利用して合力した青木氏を氏郷と同様に無傷で青木氏を遺した。
この史実は、秀郷一門と同様に、上記の方程式の「必然の条理」の上にあった。
これはこの世の「必然の条理」に従った最高の戦略ではないか。秀郷一門はこの戦略に到達したからこそ子孫を大きく遺し得たのである。何をか況や、青木氏の指揮の下の所以である。
時代の状況:「群雄割拠の時代」から「選別の時代」
秀郷一門の状況:「共通血縁族の主要8氏」成長と「選別された遺豪族」「横の血縁}(分家筋)
江戸期に付いて
江戸時代に成ると、そして、その「必然の条理」の下に、江戸時代の藤原秀郷一門の主要5氏は多くはその背景を持つ事を重用されて大名、御家人、旗本に成った。
この時代は「戦国時代の終焉」を経て「江戸の安定期」に入ったが、逆に「氏と家紋」は爆発的に増加した。
(参考 氏数変化は家紋200選を参照 N40-H200-K800-M400-A1000-E2000-m8000)
この中には「家柄や身分」などが「出世や羽振り」等に必要と成り、こぞって自分のルーツの故古を持って名乗りを挙げた。この中には疑問のものも多いが20%台を維持して血縁関係を維持したのはこのブームの影響もあった。
つまり、室町期まで培った「正味の努力」の血縁で拡げたものとは異なるレベルである。所謂、江戸の「安定期」に起こる過去の「家柄の誇示」に過ぎない。
「安定期」のこの時代にはある意味では「戦略的血縁」を必要としている訳では無かった。
むしろ、「社会的必要性」(家柄)からの血縁ではあった。
しかし、ここで秀郷一門の「戦略的血縁」を必要としないからと云って、レベルが低く成っていた場合は、現在の青木氏等の主要5氏は無かったのではと考える。
「戦略的血縁」ではその勢いは息切れしたであろうし、一種の「接着剤的働き」をしていたと考えられる。この血縁は現在の青木氏を始めとして藤原一門の存続に大きく影響させた時代でもあった。
秀郷一門にとってはその「社会的必要性」(家柄)を元より踏襲する必要が無かった事によるもので、江戸の時代の「軽い風潮」に振り回されることが無かった事が幸いしたものであろう。
むしろ、「羨望の目」が向けられたし、この家柄が安定した「氏力」を保持していると評価されて認識されて、幕府や大名に仕官し、平安期と同じく再び高い位置を得た要因の一つと成り得たのである。
世間の中級以上の武士は、この安定期では、衰退した朝廷に媚入り金品を支払い、誰しもが一代限りの名前だけの官職や爵位を貰い獲得し名乗ると云う風潮がはびこった時代でもある。しかし、藤原氏はこの必要が無く元より永代の官職を保持している事から、鎌倉期の失職離散の憂き目や室町期の下克上での敵対視された時代と異なり、今度は逆に一門の末裔である事が効果的に働き続けた時代でもあった。このために末裔はその一門の「氏力」を期待されて、多くの新興勢力の大名に逆に抱えられて出世した時代でもあった。
これは、青木氏を中心に的確に「時代の先取り」を間違える事無く一門を指揮した為に、平安期から室町期までの上記した「血縁戦略」がやっと働いた事に成る。データはそれを物語っている。
そのA、Eでは、共に3氏4氏5氏の青木氏との「共通血縁」が同じ数字20%台と成っているが、青木氏から観ると、総じて”5氏間は70%台以上が同じ血縁族で占められていた”と言う事であり、平安期から江戸期まで次第に相互間の血縁を深めて行った事に成る。
普通ならば、「安定期」では、世間と同様に5%台程度の数字を示すのが当り前であったが、何れも20%台と言う高く巾のある「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)を維持していた。
「家柄の誇示」等の「社会的必要性」(室町期から江戸にかけての風潮)と、地道な「秀郷一門の血縁戦略」に支えられた「氏力」が世間に受け入れらマッチングして2つの「相乗効果」を発揮したものであろう。
その典型的な時代は室町期の数字の通りであり、且つ「混乱期」にありながらより「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力:40%)を高めていたその時代性(難行苦行の努力)にあり、この事を物語る。
これは青木氏の一門に対する「指揮力」が在ったからこそ成し得たものであった。
そして、その「指揮力」は「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)の裏づけにあった。
統一した指揮指導がなければ40%の「氏力」のこの様な数字は残せない。普通は5%台なのであるから。
「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)とは云え、結束は緩むものであるのが世の常である。ましてや「安定期」である。しかし、25%程度の「血縁力」を生み出し、決して”緩んでいない”のである。誰かが中心に成ってリードしてこそのこの結果であろう。
私はそれが、「第2の宗家」の青木氏であると説いている。つまりは青木氏を中心として秀郷一門は「混乱期の余裕の不足」と「安定期の気の緩み」に2つに依って緩みかねない中で「氏家制度」を厳然と護っていた事の証しである。
そして、この90%にも達した(2氏3氏4氏5氏共に)「氏力」が突然ある磐が崩れる如く崩壊したのである。今度は、「2足の草鞋策」も全く効果がなく明治末期頃までに崩れ去ったのである。
その後の時代の経緯として、この結束は明治前夜の動乱に依って、「武士の体制」が壊れ、西欧化した「政治体制」が敷かれて、その基盤の「氏家制度」は崩壊して最早「血縁戦略」の意味が無くなり始めて一門は完全に離散したのである。その後、明治以降昭和20年頃までは、そう強くは無かったが、「社会慣習」として「家柄」だけは重んじられていた。その契機は終戦による「アメリカナイズ」により完全に社会から消え去ったのである。
むしろ昭和は「日本的伝統」さえも「自由主義」と「共産主義」とで社会に「罪悪感」がはびこり否定された時代であった。平成に入り世界第2位の経済力を確保して人の気持に余裕が生まれて「自然の確保」とそれに伴なってあらゆる「伝統」が見直される時代へと変化してきた。
最早、平成では、藤原一門の「景」は完全に消え去ったのである。
明治から100年を経ているが、後世から見た藤原秀郷一門の生き様はどの様に理解され検証されるのであろうか。多分、藤原秀郷一門青木氏などの歴史的史実は霧消しているだろう。
そこで、現在の社会体制の中では「家柄」「伝統」が大した経済的意味を持たないが、「心の伝統」(誇り)の持つ事の意味は「7つの民族」で構成される「融合単一民族」の日本社会にはあると信じている。
「7つの民族」「融合単一民族」=「伝統」と成る。これが「日本人」なのである。
故に「日本人」=あらゆる「伝統」である。
とすると、「三段論法」が是とするならば、故に、「日本人」−「伝統」=0であり、「日本人」から「伝統」を差し引けば何が残るだろう。
そして、もし「伝統」が認められるなら、「伝統」=「先祖」=「自分」=「尊厳 感謝」=「日本人の心」へと進化する。
もし、日本人を「骨抜き」にする事を目論むなら、数式から「伝統」をことごとく否定する事により潰せる事に成る。これが左傾主義者の「目論み」であろう。行く末「伝統」の破壊は「革命」であろう。故に我々「日本人」であり続けるためには、「伝統」の啓示にある。
その「伝統の啓示」は最早、今の時代のみしか無く成っている。次世代では史料もさることながら「心の伝統」も蘇させる事は無理であろう。「時代の動きとウネリ」は計り知れないほど大きい。せめて、筆者は青木氏の子孫の一部にでも遺したいと考えていてこの史料関係の提供と成っている。
(参考 子孫は血液型が同じであれば、遺伝子的には85−95%が同じなのである。故に、自分*0.85=子供 の数式が成立する。故に、先祖=自分=子孫 の数式が成立する。)
さて、次ぎは秀郷主要5氏に関わる「共通血縁族」の比率である。
青木氏とどの主要4氏がどの様に一番関わっていたのかの検証史料である。
No.2111
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 8/10-A(時代の変化に対する役割)
副管理人さん 2009/01/02 (金) 10:43
史料8/10−A
次ぎは史料A(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)の付いて考察する。
「共通血縁族」
史料A
2氏の場合 3氏の場合 4氏の場合
長谷川氏:15/22 68% 14/17 82% 06/7 86%
進藤氏 :03/22 14% 09/17 53% 07/7 100%
永嶋氏 :02/22 09% 06/17 35% 03/7 43%
長沼氏 :02/22 09% 02/17 12% 04/7 57%
5氏の場合:「家紋4大血縁族」(7氏)
長谷川氏:100%
進藤氏 :100%
永嶋氏 :100%
長沼氏 :100%
(氏の家紋数/全家紋数)=X%
{但し、2(3、4)氏とは青木氏と他1(3、4)氏を云う}
(史料5/10より統計による算出)
参考
「共通血縁族」「秀郷一門性」
5氏共通:「家紋4大血縁族」=・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
4氏共通:「家紋4血縁族」=・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。
史料A
4氏の内では、「長谷川氏」が「青木氏」と最も関係を深く持っていた事が判る。
2氏(68)、3氏(82)、4氏(86)、5氏(100)の何れの場合もこれを証明している。
特に、全体的に高いレベルであるが、「共通性」の高い方に行く程に高くなっている。
つまり、「共通性」即ち「秀郷一門性」(「共通血縁族8氏」)が強く成ると、更に「長谷川氏」との繋がりが強く成っている。
これは兼光流のリーダーの「青木氏(116氏)」と文行流のリーダー「長谷川氏(111氏)」の2氏が強く繋がっていた事を示す証拠である。
2氏の場合(青木氏と他1氏)の「共通血縁族」までもが段突であると云う事は、「長谷川氏」と「青木氏」はそれも末端の氏とも相互に「血縁関係」が深く繋がっていた事を示す証拠でもある。
何れもトップで高率であるので疑う余地はない。「青木氏」が「第2の宗家」であるなら、「長谷川氏」は「第3の宗家」とも云えるレベルである。実際、そうであっただろう事がこの数字の高レベルで想像出来る。
況や「氏数」が「青木氏116」と「長谷川氏111」と同じである事からも、240年経ってもこの兼光流と文行流の二つのリーダーが間違いなくスクラム組んで共に一門のために働いていた事の証明と成る。
本文で、北九州の「大蔵氏系永嶋氏」との繋がりに付いて仮設1−4で説明したが、その時、「長谷川氏」が介在したとの仮説を有力視したのはこの事からである。
「青木氏」は「長谷川氏」との連携で、「永嶋氏」を一門の常套手段の「血縁戦略」で北九州に発祥させたが、その「青木氏」は、豊前と肥前に未勘の藤原秀郷流の青木村を形成している史実がある。(地名地形データ等に記載:豊前が有力)
入間の青木氏宗家からの指令でこの「血縁戦略」を「長谷川氏」と進めるには充分な連携の数値であると観ている。この史料の最も明確な特長である。
二つ目の特長は、「永嶋氏」、「長沼氏」はほぼ同率でレベルを上げている。従って「一門性」が高く成っている事である。ただ、「長谷川氏」とは少し違っている。
その違いは、これは秀郷一門の主要な「家紋大血縁族4氏」(5氏)と「家紋血縁族4氏」(4氏)の「共通血縁族8氏」だけで主に強く繋がっていた事を示すものである。
2氏の場合、3子の場合では、共に低い数字である。ところが4氏になって急に50%台に成り、5氏ではいきなり100%と成っている。
これは、「青木氏」が、主要な「共通血縁族8氏」とで緊密に「永嶋氏」、「長沼氏」とより繋がっていた事を示すものである。どちらかと云えばやや「永嶋氏」の方の「繋がり」が強く成っている。
その一つの例として、「関東屋形」と呼ばれる様に、「長沼氏」より、「永嶋氏」の方がより積極的に青木氏と「血縁戦略」の面で協調していたことを示すものである。
例えば、上記した北九州の「永嶋氏」との血縁は、関西に向けて西域方向に勢力を伸ばしていたが、関西域を飛び越えて「永嶋氏」が北九州で血縁族を作る事で、一門にとって、戦略上、中国地方の「平家末裔の一門」と「其の他の勢力」を北九州の背後から牽制する事が出来る。この様に「第2の宗家」としての青木氏と「協調戦略」を採っていた。
又、九州全土には、「平家(たいら族)」の先祖の阿多倍一門が率いてきた「後漢」の集団の帰化人の多く住む地域である。特に、これ等の末裔が統治していた北九州の大宰府には「太宰大監」として「遠の朝廷」が置かれていた所である。その「大蔵氏」との血縁に踏み切ったのである。つまり、大蔵氏系長嶋氏である。敵陣の本部の土地に楔(くさび)を打ち込み、敵陣の指揮官の家との血縁を成し遂げたのである。「背後からの牽制」どころの話ではない。敵陣の懐に入り、敵の「主」に成ったとほぼ同じである。既に、帰化から500年以上も経っているが、藤原秀郷一門の敵である中国地方の平家一門末裔の分断孤立が起こったのである。
この「永嶋氏」の「歴史的な血縁戦略」が起こったのだが、後発の「永嶋氏」だけの勢力でこれを成しうる事ではない。この戦略には「一門総出」でなくてはこれだけのことは出来ない。
”戦わずして藤原一門の勢力の拡大と安泰の戦略が成し遂げられた”と云っても過言ではない。
そうなると、当然、「一門総出」とは、一門の「第2の宗家の青木氏」と「文行流の領袖長谷川氏」がこの「裏打ち」をしたことには疑いない。
即ち、この”「主要5氏の役割」をはっきりさせたこのデータがそれを物語っている”と述べている。
しかし、データが示す様に「永嶋氏」にはその役割を生かした戦略が見えるが、「長沼氏」との間にはこの様なはっきりとした「協調戦略」が見当たらないのである。その様に歴史は数字通りである。
この事に付いては、本文中にこの史料の分析結果が反映している。
この「永嶋氏」や「長沼氏」の兼光流としては、本来はむしろ強く繋がっている筈と考えられるが、ところが逆に成っている。
これは同流の「兼光流」と云う事が逆に左右した為に、「青木氏」の末端との「血縁性」を下げたことであろう。(下記 長沼氏には別の理由もあった)
その中の最大の理由は「同属血縁」が強く成ることを出来るだけ避けたものであろう。
その証拠に、文行流の「長谷川氏」と「進藤氏」は、逆に数字が、5氏は勿論の事、2氏、3氏、4氏共に高い。
「長沼氏」はその中でも一番低い(9、12、57)のは、兼光流の中でも「青木氏」と先発組で同系列で、より「同属血縁性」は高まるので一門にとって子孫存続と云う点で危険である為に避けたものであろう。むしろ、「長沼氏」はより高い「近親血縁性」の危険があったと観られる。
それだけに「主要共通血縁族4氏」に限定したのではないか。そして、文行流からの末端から入る他氏の血筋を入れる事で薄めていた事が云える。
ところが、「進藤氏」は「主要共通血縁族8氏」との繋がりのこの傾向をより強くしている。4氏と5氏では100%である。
この4氏、5氏の100%の意味するところは、特別に青木氏との何らかの繋がりを強力に持っていた事を示すものである。100%が2つ繋がっていることは、又、「長谷川氏」とは異なった繋がりを持っている事も示すものである。
これは、「青木氏」と一門との何らかの「繋がりの役目」を果たしていた事を示すもので、この4氏5氏のところで100%で強く血縁して、それを背景に一門他氏との「接着剤的な役割」を果たしていた事を物語るものである。
4氏5氏は青木氏の主要な「共通血縁族8氏」である。つまり、「青木氏」は「共通血縁族8氏」を総括する「第2の宗家」である。言い換えれば、4氏、5氏のデータは「共通血縁族8氏」の存在を証明するものでもある。
「進藤氏」に付いては、役割を判りやすくする為に数式で表すと、次ぎの様な関係を維持していた事に成る。
「青木氏」=「第2の宗家」+「共通血縁族8氏」=「進藤氏」=100%
と成る。
故に、「進藤氏」=「第2の宗家」の代理
と成る。
この数式で表される「進藤氏」と「青木氏」とが強く血縁で繋がった「進藤氏」の発言は「第2の宗家」の「発言、指示」として「一門他氏」に伝わるであろう。
「青木氏」はこの「進藤氏」を「接着剤的役割」として動かしていた事になる証拠である。
「進藤氏」=「接着剤的役割」
「長谷川氏」=「文行流領袖」+「第3の宗家」
同じ高い数字を示す「長谷川氏」とは又別の意味の繋がりであろう。
兼光流と文行流の「2つの流」の領袖であろう。勿論、「第3子跡目」の慣習を持つ「第2の宗家」は「青木氏」であるが、2つの一門の「流」を保つ氏、つまり、「2軍の将」が「長谷川氏」であろう。
その「2軍の将」の「長谷川氏」と繋がりを強くする事は文行流一門を統括できる仕組みである。
その役割の違いは、「進藤氏」の「接着剤的役割」と「2軍の将」の「長谷川氏」と成ろう。
青木氏は文行流に対して、一門を固めるためにこの「2つの戦略」を採っていた事に成る。
この事から、「進藤氏」は「青木氏」、「長谷川氏」の「2つの領袖」の「軍師役」と読める。
だから、普通であれば世に言う「2軍の将 相立たず」の戒めの通りであろう。
しかし、ここに「進藤氏」の「接着剤的役割」が存在する事により「緩衝効果」が働き成り立ったのではないか。このデータはそのような「数字配列」に成っている。
もし、「長谷川氏」が逆に「接着剤的役割」であったとすると、2氏から5氏まで高率で繋がる必要がなかろう。その繋がっている必要性は「共通血縁族8氏」だけで済む事である。
まして、2つの氏流の領袖の片方の「長谷川氏」が「接着剤的役割」として「青木氏」に「物申す」は、真に「2軍の将 相立たず」そのものに成る。
それ程に「接着剤的役割」の役割であれば、無理に「長谷川氏」は子孫縁者を使って「青木氏」と血縁する余裕は無くそれを他氏の血縁に振り向ける方が得策であろう。
現に「進藤氏」は「利仁流進藤氏」の方が末裔を拡大し、本流の「秀郷流進藤氏」は代々跡目を何度も他氏から採らなければ成らない程に末裔の広がりは本家筋だけで殆ど無い。
故に、「進藤氏」は「長谷川氏」と違って「接着剤的役割」を果たす事に専念し、繋がりとして「共通血縁族8氏」に全精力(100)を注いだと見られる。
又、これで「長谷川氏」が「接着剤的役割」の働きを採っていなかった事が判る。
「長谷川氏」は111氏と大勢力を持つ氏力を保有している。必然的にその力は「接着剤的役割」に留まらず、「2軍の将」へと必然的に当然に進むだろう。又、その方が兼光流の「青木氏」と繋がって置く方が戦略上で補完関係を構築出来てより得策と成る。
だから史料では「2軍の将」の「悪の結末」に成っていないから、藤原秀郷一門の末裔は遺したのである。
故に、この「2つの領袖」の「青木氏」と「長谷川氏」と「進藤氏」は、数式で表すと次ぎの様な関係であろう。
「青木氏(116)」>「長谷川氏(111)」+「進藤氏」−−−−「永嶋氏」
「第2の宗家:兼光流領袖:第3氏家法」>「文行流領袖」+「接着剤的役割」−−「先鋒的役割」
この数式が成り立っていて良かったから「悪の結末」に成らず現在まで末裔を遺したのではと考えられ、この数式を維持していたと必然的に成る。
この世の「役割の違い」は、「氏家制度」では、その「氏力」が起因して「自然の摂理」で定まって行くものである。
この「永嶋氏」、「長沼氏」、「進藤氏」も同様の「氏力の差違」、即ち「血縁の特長」で定まったものであり、この史料Aのデータと成っているのである。つまり、「血縁の特長」で束ねていたのである。
「進藤氏」と「長谷川氏」とのその「中間的役割」として、「永嶋氏」、「長沼氏」があるが、「関東屋形」と呼ばれるくらいに後発の「永嶋氏」の方の勢力が高まり、その勢力を戦略的に一門の防御の為には、「永嶋氏」との繋がりを強くしていた事を示す証拠でもある。
「永嶋氏」が3氏の処で高い血縁数字を示しているのは、九州地域の豪族との血縁にその勢力を補完している事による。
「戦略的役割」が在ってもその働き手が無ければ「絵に描いた餅」である。
史実をよく観ると、この役割を実行している氏が居る。
それは上記の「戦略的役割」の数式に、「永嶋氏」の「戦術的役割」が働いていたと観る。
永嶋氏の本分でも強く述べてが、当時、永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれていたのがその証拠であろう。
つまり、「戦略的役割」を実行し行動を起す「先鋒的役割」を担っていたと観る。
現に、後発でありながら中部西域から関西西から中国地方に向けて勢力を伸ばし攻撃的に進出していたし、北九州の大豪族の「大蔵氏」との繋がりを持ち「永嶋氏」を発祥させた。「六韜三略」の「鶴翼の陣」の最先端部の役割を果たしていたのである。「永嶋氏」の家紋群から見てもその役割が観得る。
しかし、長沼氏の事には不詳な点が多い。そこで、この長沼氏の系譜の事に付いて触れて置くことにする。
まず、結論からすると、「長沼氏」はこの「戦術的役割」の補完を担っていたであろう。
史実には強く出てこないし、血縁類も先発である事から、「先鋒的」な血縁類ではない。
系譜から考察すると、かなりこの氏は「貴族的」な感覚を保持していたのであろう。
しかし、主要5氏の一つであるのだから、長沼氏一門の誰かがこの役目を担っていたはずである。
そこで、考察すると系譜からそれを物語る。
結論から、「長沼氏」には「中沼氏」が存在する。
従って、この(支流)の「中沼氏」が当然注目される。しかし、主要5氏に成り得る勢力を保持したのであるから「貴族的本家」に対して、中沼氏がその役目を代行していた事に成る。
その氏が同系列の「中沼氏」である。
この「中沼氏」は子孫末裔を大きく伸ばしている処から観ると先ず正しいのではと考える。
現に、現在に於いても、歴史家の中では、実は、この「長沼氏」と「中沼氏」とは同じ氏とする説が大勢であるのはこの代行から来ているので誤解されていると観る。いや誤解ではなく解釈の違いであろう。しかし、この二つのルーツは「長沼氏」が出てそしてその系列から「中沼氏」が出ているし、始祖はずれているので系譜上は分派している。
先ず、古い文献資料を考察すると長沼氏は次ぎの様に成る。
@長沼氏、
A中沼氏、
B仲沼氏、
C永沼氏
@からCと4つ出て来る。
この「長沼氏」は室町期まで観ると「9つの流」がある。
藤原秀郷流をベースとして、次ぎの様に成る。
長沼氏9氏である。
渕名氏族、小山氏族、藤原秀行流、土岐氏族、日奉姓西党流、宇都宮族、桓武平氏族、島津氏族、織田氏族
以上9氏である。
この中で、明確に「中沼氏」と称しているのは、次ぎの3つである。
小山氏族と宇都宮氏族と島津氏族とがある。
島津氏族は時代性と地理性から観て異なるだろう。
明らかに、小山氏族と宇都宮氏族である。
先ず、「小山氏」は「関東屋形」の1つであり中沼氏を出している。
「永嶋氏」の「関東屋形」の「先鋒的役割」の「関東屋形」である。
更に、この小山氏は秀郷一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任した陸奥での最大血縁族であり、関東に同行して来て大きく勢力を伸ばした野戦的一族である。
同じ「関東屋形」の一つ宇都宮氏族の中沼氏もある。
秀郷一門より分流した宇都宮氏である。
「関東屋形」の結城氏系永嶋氏(長嶋氏)と合力して、秀郷一門を「先鋒的役割」を果たした小山氏、宇都宮氏の3氏である。
上記の長沼氏族4氏の内の中沼氏はこの2つである。
長沼氏一門が動くとしたら、この「関東屋形」の野戦的一族の経歴を持つこの「中沼氏」以外に無い。
後は「渕名氏」を除き、6つは支流分派族でもあり、第3氏性も強く仲沼氏や永沼氏や又どちらともわからない一族でもある。
この結論は上記の「渕名氏族長沼氏」である。
6代目「渕名氏」(兼行:第2位発祥)の子の7代目考綱の「長沼氏本流」は秀郷一門第3位の発祥氏であるから、貴族的な傾向が強いので、正流長沼氏一門のこの二つの野戦的一族「中沼氏」(祖宗政)に任したのであろう。
その方が、「永嶋氏」との関係からも同じ「関東屋形」として「先鋒的役割」の実行を円滑に行く。
逆に云えば、この3氏だから、「関東屋形」であり、その「先鋒的役割」を果たしたからこそ云われる呼称なのである。
つまり、ここに秀郷一門のその役目が隠されていたのである。「関東屋形」と云う呼称で。
「関東屋形」=「先鋒的役割」=「野戦的役割」
である。
「繋がり」から観れば、夫々の役割は持っていたであろうが、血縁データから「青木氏」、「長谷川氏」、「進藤氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の順となろう。
秀郷一門のを盛りたてる役割は次ぎの様な戦略を採用して一門を維持していたと考えられる。
秀郷一門の主要5氏の役割
青木氏の「第2の宗家」(兼光流領袖) 秀郷一門全体の指揮
長谷川氏の「第3の宗家」(文行流領袖) 青木氏と綿密に血縁戦略を展開
進藤氏の「接着剤的役割」(兼光流−文行流)「第2の宗家」の官房役 調整役
永嶋氏の「先鋒的役割」(実践的活動) 「関東屋形」
中沼氏(長沼氏)の「先鋒的役割」(永嶋氏の補完役) 「関東屋形」(小山氏、宇都宮氏)
では、主要5氏と呼称される位であるのだから、長沼氏は”何もしなかったのか”と疑問が湧く。
結論は”長沼氏は実は大きな「政治的役割」を果たしていた”である。
実は、その証拠が活動の史実として在るのである。
それは関東に「西党」と呼称される「土豪大集団」(20)が存在した。
その大集団が更に「武蔵7党」と云う「土豪の結束連合集団」に属していた。
これを「長沼氏」は20の土豪集団「西党」を率いて、この「土豪の結束大連合集団」を統括していたのである。
中沼氏の本流の「長沼氏」は史料から読み取ると、青木氏に代わって、主に「政治的組織」の「統括役割」を担っていたのである。
その理由として、関東の「武蔵7党」の「西氏」の「西党」の形成にある。
長沼氏は関東一円の小豪族を一つにまとめて、「西党」なる集団を形成し、更に武蔵一帯域にこの様な集団を形成させて「武蔵7党」の「連合組織」を形成していたのである。その一つを統括していた。
その「西党」とは20氏から成り立っている。
西党の構成氏
長沼氏、西氏、上田氏、小河氏、稲毛氏、平山氏、河口氏、由木氏、西宮氏、由井氏、中野氏、田村氏、立川氏、沼江氏、信乃氏、高橋氏、清恒氏、平目氏、二宮氏
以上20氏である。
「武蔵7党」の中の1つの「西党」は以上の20氏の小豪族で成り立っていた。
つまり、秀郷一門の主要5氏の一つ長沼氏は、関東一円の地元の小豪族を宗家に替わってまとめる役目をしていた事を示すものである。
それは、「青木氏」に継ぐ名門「渕名氏」の「長沼氏」であるが故に出来る事であり、「第2の宗家」の「青木氏」が各地に赴任する中で、地元から崩れないように政治的に固めていた証拠である。
そして、「長沼氏」の一門の中で、「中沼氏」を秀郷一門の戦略に参加させていた事に成る。
言わずもがな、これ等の集団と長沼氏を中心とする「血縁関係」を保持しての事である。
他にも、更に証拠があるが、ここではこの程度しておく。(別途機会があればレポートする)
つまり、長沼氏は本家筋は「西党」を形成して更に「武蔵7党」と連携しながら「政治的役割」を果たしていたのである。
確かに、入間を中心に円を描く様に青木一門が取り囲んで固めても、元は下野の押領使である秀郷が最終、この武蔵下野を始めとする関東を統括するには、古来から居た土豪集団を治めねば成り立つ話ではない。家の中に爆弾を抱えているようなものである。
当然、先ず領国とする以上はこの土豪を治める事から始めねば成らない。
青木氏だけでは成り立たない。当然、その役目は青木氏に継いで第2、3位発祥の古参の氏と成る。「渕名氏」か子供の「長沼氏」かと成る。渕名氏族「長沼氏」がこの役目を担った。
この渕名氏族長沼氏は、土豪を先ずまとめる事から入り、先ず自ら「西党」を構築し、次いで、各地で集団化を促し、最終、「武蔵7党」が形成されたのである。元々この地には丹治党などの幾つかの弱い集団が出来ていた。丹治氏系青木氏が存在するのはこの役目の所以の血縁である。
一口で”関東一円の土豪集団をまとめる”と云うが大変な事である。軍事、経済的だけでは離反する。秀郷一門の懐だけに実に固く固めておく必要がある。それには、血縁で何重にも固めることが必要であろう。これが、主要5氏の1氏2氏の血縁族の家紋群である。
血縁となれば、長沼氏だけでは一門との血縁もあり成り立つ筈が無い。
故に、データでは、長沼氏が一番低い数字と成っているのである。この長沼氏の役目の方に振り向ける必要があった事を意味する。
そこで、「青木氏」の指揮の下に、5氏の縁者を婿、嫁、養子を問わず振り向けて固めたのである。
長沼氏(25%)と青木氏(33%)の血縁族には、これらの関東土豪氏(武蔵7党と西党等)との血縁氏が他氏と較べて段突に多く観られる所以なのである。(史料9、10/10参照)
この様に、「長沼氏」は大きな「政治的役割」を果たしていたのであり、秀郷一門としての役割の責任は一門の「中沼氏」に委ねた。
これが「関東屋形」と呼称されるものであり、秀郷一門の本来の役目を果たしたと成る。
長沼氏はこの「2つの役目」(懐を固める「政治的役割」と先鋒的行動する「戦術的役割」)を果たしていたのであるから主要5氏としての地位を築いたのである。
この様に数字に示すように4氏に対して一門を血縁でも、「自然の摂理」とは云え、この偉大な青木氏は「第2の宗家」として、これらの構成の役割を見損なわずに指揮する者が居たからこそ成し得る血縁構成を後世に導いたのである。それは「青木氏」であったのである。150万と云う一門を現在に遺した誉れ高き青木氏である。
それにしても、この史料−8/10−@、Aのデータから、後世の末裔の我々が驚くほどに、「世の摂理」を見抜いて「子孫を遺す」事に卓越した「人格保持」、況や「悟り境地」にあった事がこのデータと史実を照らし合わせて観るとよく判る。
史実だけでの分析からでは読み取れないが、「統計分析」して、その沈殿物を集めて、その内容を分析すると見えないものが浮き出て来る。
筆者の研究の本質は、史料をただ「突き合わせる事」ではなく「統計分析」のここにある。
つまり、「史実を数値化」する事にある。「沈殿物」にこそその「本質源」が潜んでいる。「遺伝子分析」もたんぱく質を遠心分離して特殊光を照射する事で遺伝情報を引き出す様に。
この史料は9/10、10/10とまだ続く。未だ未だ秀郷一門を浮き彫りに出来るだろう。
No.1292
備前青木氏のルーツを探しています
国方さん 2008/07/06 (日) 19:53 [
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こんにちは、初めて書き込みさせていただきます。
昨年父が亡くなったことで以前から気になっていた
自分のルーツを知りたくなり、家系について独自に調べていたところ、
4系統の内のひとつ母方の祖母の家系である青木氏について大変詳しい内容が記載されている
こちらのサイトを拝見し、投稿させていただいた次第です。
記述が長くなることをお許しください。
祖母から伝え聞いたところによると。
本家所在地 赤磐郡円光寺
家紋 抱き茗荷
宗派 不明です
菩提寺 不明です
和気 天神山に刀塚がある。
お納戸役として勤める。
駕籠に乗って登城していた。
近くに青木があるが、そちらは別の生まれ。
安土桃山時代にはすでに、宇喜多氏に仕えていたそうです。
浦上氏の名前もあがっていたことから、それ以前から備前に居住していたのかもしれません。
備前守、備前介として任官した藤原氏に随従した一団だったのかもしれません。
ここが重要なのですが、青井から青木に氏名を変更したと聞きました。
青井氏といえば藤原南家相良氏流で相良7代目の弟である、
相良頼範(青井氏)からの家系ではないでしょうか。
いつ氏名を変更したのか、なぜ青木に氏名を変更したのかはわかりません。
また、家紋が「抱き茗荷」であることから、近江青木氏と伊勢青木氏のどちらかと、
婚姻関係を結んだ二宮氏(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)の血統も
流れていることになるのではないでしょうか。
また、藤原一門であることから氏名を青木に変更することが許されたのでしょうか。
ここで疑問が生じるのですが、
相良7代目相良前頼は南北朝時代から室町時代前期にかけての武将なので、
それ以前の時代である藤原氏が備前守、備前介の時代には青井氏は存在しないことになります。
また兄が九州の肥前守護に任官していたことから、
この時代の備前に弟である青井氏が移り住むとは思えません。
また、「戦国時代には守護代の浦上氏が主家の赤松氏の勢力を締め出して備前国を支配した。
戦国時代末期には浦上氏の家臣宇喜多直家が主家を凌駕する力をつけ、
ついには浦上氏を追い出して、備前国に美作国と備中国の一部も加えた戦国大名となった。」
とゆう記述を考慮すると、やはり1500年代ごろ
備前に親類縁者を頼り移動したのではないでしょうか。
ここで先ほどの備前守、備前介として任官していた藤原氏の末裔が
備前に土着していたとしたら仮説としてなりたつようには思います。
しかし、宇喜多氏有力家臣団に青木氏、青井氏の記述はみつかりません。
青井氏が青木と氏名を変更したことを考慮すると、
青井氏が土着の氏族と婚姻関係を結んだと考えるのが自然な流れだと思われます。
口伝を信じるならば、青木氏青井氏が同時期に備前に着いたとは考えにくく、
青井氏は近畿圏で近江青木氏と伊勢青木氏と婚姻関係を結んだ二宮氏
(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)と血縁となり、氏名を青木に変更した後に備前に赴いた。
もしくは、備前に土着していた近江青木氏と伊勢青木氏と婚姻関係を結んだ二宮氏
(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)と、後の時代に辿り着いた青井氏が
婚姻関係を結んだのではと考えられます。
ですが、その辺りの資料がなく仮説としてなりたちません。
少し青木氏から話が脱線しますが、
宇喜多氏有力家臣団に、もうひとつの家系で母方の父系である
寺尾氏の名前の記述を見つけることができました。
こちらの家系も武家であるのは間違いありません。
寺尾氏の家紋は「下がり藤」なのです。
真言宗から天台宗に改宗したことや、蔵に鎧兜、刀、などが所蔵されていたこと、
口伝で戦に破れ逃れてきたことなどから間違いないと思います。
また、家紋が藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤」であることなどで、
なんらかの関係があると思われます。
こちらの家系は祖母から聞いた話によると新田氏と関係があると伝え聞いています。
清和源氏新田氏流で寺尾氏といえば、脇屋義助の後裔となりますが、
母から家紋は変更していないと聞いていることから、
脇屋義助の後裔の寺尾氏は家紋が「結び鐶唐花」なので、「下がり藤」とは合致しないことや、
藤原秀郷一門から寺尾氏を見つけることはできず、調査を進めるのが難しくなっていました。
そこで先に青木氏を調べていると、宇喜多氏の家臣団で、
もうひとつの家系の寺尾氏をみつけることができたのです。
不思議とどこかで繋がっているものだということを実感しました。
上記のことを踏まえると、
青木氏と青井氏のつながりをどの辺りを調べればよろしいのでしょうか。
また、家紋掟や武士の氏名変更についての資料があればお教えください。
お手数ですがご教授いただけると大変助かります。
No.1295
Re: 備前青木氏のルーツを探しています
副管理人さん 2008/07/07 (月) 21:02
備前の青木さんルーツの方 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
さて、いろいろと歴史をお調べに成っているようですね。
出来るだけ、知る範囲でお答えしたいと思います。
先ず、その前に、備前には、藤原秀郷流青木氏で四国の讃岐の藤氏の藤原秀郷流青木の綜紋「下がり藤紋」と剣片喰紋等を家紋とする一族が、備前と美作などに大勢力伸ばしていました。この一族讃岐と行き来をして明治まで廻船問屋などを大きく営んでいました。
そして、この同族の備前に赴任した藤原氏に同行した藤原秀郷流青木で茗荷紋の青木氏がいます。
青井氏の件ですが、藤原氏の南家であるとしていますが、上記のここの青木氏は何れも最大勢力を誇った北家ですので、原則的には違うのではとも考えます。
しかし、ある条件では一致するところがあります。それは下記に示します条件なのです。
氏の変更の件では、青木氏は大化期の天智天皇より伊勢の青木氏から始まり、光仁天皇の5代続き、桓武平城天皇の2代を外して、政治的な理由で嵯峨天皇から青木氏を源氏に変名しました。
この時、青木氏は朝臣族か宿禰族の皇族以外(藤原秀郷流青木氏は母方で繋がるために例外に認められた)のものが使用する事を禁止しました。明治3年まで続きます。
原則的には、この間の3期の混乱期を除いて護られました。
そこで、もし、青井氏から青木氏に変更したとすると、この3期の室町末期の第1期、江戸初期の第2期、明治初期の第3期の何れかと成ります。
二宮氏の抱き茗荷紋であるとすると、第1期の室町末期と成ります。
そして、その理由は上記の例外藤原一門(本来は北家)として、嵯峨天皇の詔では、朝臣族、宿禰族が名乗る事ができるのです。
これを理由に、南家の青井氏から青木氏に家柄か何かの理由(下記)で、これを重んじて変名したと考えられます。(藤原氏は朝臣族としてのこの例外は2件ある)
その必要性はこの時期に大きく出世した事と、高位(皇位)の家柄との血縁の必要性があったとも考えられます。(多分、近江青木氏一族一門との血縁か 近江青木氏の一門の摂津青木氏では)
この血縁は稲垣氏ら3氏ではなく、家紋からこの3氏の元の二宮氏が拘っていたであろうと考えます。
この3氏は江戸時代の伊勢で、後に二宮氏の末裔として豪族になった氏である事から、時代性から観て、直接古い発祥氏の二宮氏の方だと考えます。
全く衰え殆ど潰れた南家筋の藤原氏を名乗るより、藤原北家の朝臣族を利用して、賜姓族ではない詔による皇族青木氏を名乗る事により有利となり、政治的にも二宮氏との血縁の際の上位の血縁と成ります。
主に摂関家などを努めた代々の北家筋だけが認められた青木氏ですが、この場合、嵯峨期の詔により室町末期に朝臣族を理由にして身分の位をあげて、後に駕籠を使える身分の侍までなったとすると、出世も絡めた「出世と血縁」をかさねたものであると考えられます。
現に、徳川時代ではその勲功と家柄で、二宮氏の末裔の稲垣氏も伊勢の東部の大名にまで成っています。又鳥羽氏も稲垣氏を背景に相当の勢力を持っていました。
このタイミングが、提示されている貴殿の次の疑問の「相良騒動」でしょう。
この騒動は次の事で符合一致するのではありませんか。
実は、宇喜多氏の件ですが、伊勢の青木氏(藤原秀郷流青木氏 伊勢永嶋半国司の藤原秀郷の末孫の基景に同行した青木氏)の青木氏の一部が、戦国時代に宇喜多氏を名乗ったと言う土地の説があるのです。宇喜多氏側からの説と思います。
出世によって家柄身分を創り上げる為に、この時代に良くあったことですが、徳川氏のように、騒動時の時に持ち出して名乗った青木氏とも考えられます。
この事が事実とすると、藤原秀郷一門の伊勢永嶋の青木氏の末裔の分家筋か、縁者関係が土地の土豪の宇喜多氏との血縁(入り婿)で立身出世して、青木氏として独立したのではとも考えますが確証は取れません。
つまり、宇喜多氏の一部が、立身出世後に絶えかかった元の親族の藤原秀郷流青木氏を名乗ったとも考えられます。いずれにしてもこれで青木氏が宇喜多氏から出た事に成ります。
つまり、この情報から観ると、家臣団ではなく、宇喜多氏そのものが青木氏であった事に成ります。
相良の藤原氏の朝臣族で青井氏から青木氏に、藤原氏の青木氏の宇喜多氏から青木氏に、の二つの青木氏が考えられるのではないでしょうか。
不思議にどちらもが偶然に相良がキーになっています。
推理ですが、相良では長い期間に勢力争いが幾つも起こっている中で、何れが相良氏か家臣の宇喜多氏からか青木氏で結ぶ知恵を出した。そして、それを理由に解決しようとした。
相良氏は朝臣を理由に青木氏に、宇喜多氏はもとの抱き茗荷の青木氏にしてで双方が結び一族としてタイアップし、その裏づけに、讃岐籐氏の綜紋「下がり藤紋」の剣片喰族等の青木氏の勢力圏の世界の中で、同族の藤原秀郷流青木氏の旗の下でとしてを青木三者連合を結んだ。
この接着材は青木氏であった。この接着は茗荷紋の婚姻では。
だから、経済軍事を背景に、長期間の相良騒動の後も、宇喜多氏は大勢力を張る事ができた。「三方一両損」です。何時の世も何も背景が無ければ個人の力では簡単に潰れます。
相良を乗っ取る事が出来たのは大きな力が働いたからです。
美作と備中に定住していた青木氏には、四国一体と瀬戸内を政治経済軍事で明治まで支配した讃岐籐氏に同行した「下がり藤紋」を宗家として剣片喰族等の藤原秀郷流青木氏があります。家紋関係が異なりますが元は同じです。
利害を伴ない同族である事から三者連合が成立した。
この地域では備中に赴任した藤原一門に同行した青木氏の末裔は大きく子孫を遺せなかったことから、殆どは讃岐籐氏の青木氏です。この讃岐籐氏の青木氏一族は、四国阿波はもとより、広くは、中国地方の土豪の亀甲紋族も含めて広島山口まで広げています。
参考に、直ぐ北側に位置する鳥取の米子から八頭付近までに信濃足利から逃れてきた足利本家とそれに同行した足利氏系青木氏(皇族賜姓青木氏)の一部がここまで逃れてきて定住しています。
(藤原秀郷一門と本家争奪戦で本家筋が負けて奪い取られる。)
美作、備中、備前の土地の豪族を全て血縁関係を維持し経済と軍事を支配するほどに大きい力を持っていた「2足の草鞋策」を持った藤原秀郷流青木氏の中に、その大勢力の領域に宇喜多氏の青木氏が入ったのではないかと思われます。生き残り策の連合です。
元は、この二つは伊勢の藤原秀郷流青木氏(家紋不明で片喰紋か)と讃岐の藤原秀郷流青木氏(剣片喰紋)で同じルーツですが。
つまり、基の青木氏を持ち出して、同族である事を背景に見方に引き入れる手段としていたのではないでしょうか。平安時代なら別にして、この時代に普通なら変名したところで家柄を誇張する背景程度で大した意味はありません。
しかし、この宇喜多氏はこの讃岐籐氏の力と前記する二宮氏一門の力を何らかな方法(婚姻変名劇)で獲得したかつたのではないでしょうか。
だから、青井氏から変名をもしたのではと考えます。青木氏による三者連合を成す為に。
宇喜多氏は、「讃岐籐氏」と呼ばれるくらいにこの瀬戸内の両岸を抑えていた藤原秀郷流青木氏の一族間のこの大背景を基にして、有名な「相良騒動」を乗り切ったのではと考えます。
この「相良騒動」を乗り切るには、経済的な裏づけと、軍事的な後ろ楯を得なければ出来ることでは有りません。
この「下がり藤紋」を綜紋としての宗家剣片喰一族等の藤原秀郷流青木氏の勢力は、土佐、阿波にも剣片喰の同属で抑えていたのです。
秀吉も四国攻めの時にはこの一族に余りにその勢力が大きくて手を焼いた有名な話があります。
信長も手が出せなかったのです。
多分、抱き茗荷紋の青木氏を名乗ったのもこの環境とこの背景があったのではないでしょうか。
さて、次に、宇喜多氏の家臣の寺尾氏の「下がり藤紋」の件ですが、藤原秀郷一門宗家の氏の綜紋を引き継げたのは確認出来るところでは藤原一門の主要5氏を含む計9氏しか居ません。又、藤原秀郷一門の中に寺尾氏が見つかりません。
綜紋を引き継げるには藤原秀郷一門の青木氏を含む本家筋主要24氏でありますので、寺尾氏の「下がり藤紋」は疑問です。支流末裔族の氏では無いでしょうか。または第3の氏と成ります。藤原氏には大変多いのが「第3の氏」で江戸時代初期に利用されたものです。
宇喜多氏が支流紋で、寺尾氏が本家紋は疑問です。
次に、更に、清和源氏支流一族と結んだ藤原秀郷流青木氏がありますが、これも未勘源氏です。
家紋に付いてのご質問ですが、
家紋は家紋掟により、常に血縁関係で変化します。氏家制度の中で男系継承でありますので。嫡子がなければ養子か婿養子を取り、再び、嫡子に恵まれなければ、養子先の家紋に成ります。
藤原秀郷主要5氏の一つの藤原秀郷流青木氏はこの様な理由で116氏にも拡大しています。
下がり藤紋を維持出来るのは余程の事でなくてはなりません。まして、使える元の本家筋ともなれば9氏筋しかありません。
宇喜多氏の家臣団の寺尾氏は別として、この寺尾氏の件は疑問が残ります。
次のご質問の件ですが。
青木氏と青井氏のつながりをどの辺りを調べればよろしいのでしょうか。
また、家紋掟や武士の氏名変更についての資料があればお教えください
青木氏と青井氏は上記した通りではないでしょうか。禁じられていた青木氏に変名するには、藤原氏のこの朝臣か宿禰族以外にありません。当時は突然に青木氏を名乗ることは周囲のこの禁則から観て出来ない事でしょう。
実は、例えば典型的な例として、伊賀の上山郷の上山氏がこの滋賀の耐えた分家の青木氏を奪い取り立身出世に必要な為に名乗りました。ところが、本家の青木氏が怒って2度戦いをして滋賀の本家青木氏が負けてしまいました。
この後この上山の青木氏はぜんこく8箇所の守護職を勤めるまでに出世したのです。
問題は青井氏から青木氏の変名は朝廷に届けられていたものかはべつですが。
第1期の混乱期ですから、届出はないとみます。
家紋掟は氏家制度の平安末期からの慣習で、家紋化が主要40氏ぐらいが行われてきました。
その後、鎌倉末期から明治初期まで新規発祥の氏が沢山でて家紋化が進んだのです。特に、
3期に集中しています。
室町末期、江戸初期、明治初期の3期です。中でも、家紋は武士のステイタスですので、江戸初期には初めは公家や皇族の高位の象徴紋の8紋程度で、次第に40程度のものになり、平安末期には、200家紋程度となり、遂には一挙に4000位に膨れ上がりました。
明治にはいり、裕福な者が苗字と家紋を採用しましたので7000程度成り、次第には現代では8000以上と成っているのではと考えます。
江戸時代に造られた「家紋200選」というものがあり、奈良時代からの現存する主要な家紋類撰です。
この間もには、氏家制度の中でのステイタスとして、それを守る為に、慣習として、作られてきたのが家紋掟です。江戸時代初期か中期ごろにまとめられたものがありますが、非売品の本で家紋と対比して書かれているものです。私達でも50年前くらいには未だその言伝えが遺されていました。
今でも田舎に行けば残っているのではないかと思います。
基本は、「氏家制度」の社会の慣習、男系継承の規則を知る事で、2つの事を考え合わせればこの慣習の掟は自然に出てきます。そんなに難しいものでは有りません。
論理的です。
後は各氏の特長を把握する事でわかります。
例えば、娘が生まれて、男子が生まれず、他から養子を取ります。
この時は、未だ、男親が居ますので、家紋は維持できます。男親が無くなり、養子の時代と成りますと、今度は娘の時代ですが、この一時期、男系継承ですので男子先の養子先の家紋と成ります。
しかし、子供が生まれますが、嫡子であれば、家紋は元に戻ります。嫡子で男系になったわけですから。しかし、又、女子の娘であれば、2代続きの女系になったのですので、養子の親が生きていれば、養子先の一時期の家紋が本家紋に成ります。もう元に戻る事は有りません。養子の親が死んでも養子先の家紋と成ります。
この様に理屈に氏家制度の知識を組み入れれば自然に掟が出てきます。
ここで、氏家制度ですので、この養子先の家紋にするには、養子先の本家の了解が必要です。
了解が得られなければ、家紋を失うので、何か別のものを考えるしかありません。この時は丸付き紋も考えられます。
その子供が本妻の子であれば、本家が認めれば家紋は繋がりますが、妾腹の子供となると問題に成ります。もし、正妻に嫡子が無く妾腹に嫡子が生まれた場合は本家の了解を得て嫡子として家紋を引き継げます。本家が認めなければ、分家などの支流紋の丸付き紋にするか、別紋を作るかによります。
妾腹でも、本家筋が認めれば、同じ家紋を引き継ぐ事ができます。要は本家がどう出るかによります。
男子も女子もなく子供に恵まれなかった時は、縁者から養子を迎えるかによります。この養子が同じ門であれば問題はありません。
他人から迎えれば、次の養子の嫁との間に生まれた子供が男子であれば、家紋を引き継ぐ条件は取り敢えずは出来ますが、本家が何というかと成ります。
もしNOとでれば、この場合は、家紋を別にする以外にありません。
この様にして家紋は同族でも増えて行く事に成ります。
江戸の中期ごろからはこの慣習が無視されて行きました。本家などの氏家制度は無くなり、明治以降は全くでした。
又、主要な氏には夫々の掟があり、丸付き紋は作らないとか、副紋方式にするとか、家紋の一部に細工して類似紋とするとか、主紋の中に血縁先の家紋を小さく入れるとか、2つ紋にするとかを決めています。
例えば皇族賜姓青木氏の場合、純血を守る為に一切認めていません。そこで、この中に入らない青木氏は丸付き紋しか採用していません。つまり、「未勘家紋」と成ります。
「丸に笹竜胆紋」は未勘家紋です。純血を保て無かった、又は血縁がはっきりとしない氏である事を意味します未勘の丸付き紋としています。支流分家分流分派はこの丸付き紋にして本流の純血を護ります。これが未勘氏です。
藤原秀郷流青木氏は副紋方式ですが、下がり藤紋に丸付き紋の藤紋が殆どですが、これは藤原秀郷一門の家紋掟の内容と異なります。藤原秀郷一門主要5氏24氏はこの丸付き紋を採用していません。
従って丸付き下がり藤紋は偽と言う事に成ります。つまり、如何にも藤原北家一門の者であるかの如くみせている事に成ります。
家紋掟は各主要な氏(家紋200選)の慣習や取り決めを決め、氏家制度の仕来り慣習や系譜とともに家紋とその共通する慣習ルールを取りまとめたものです。
家紋を調べる各主要氏には特長がわかってきますので、これは偽だ何とか判ります。
徳川氏も源氏であるのと主張していますが、「笹竜胆紋」ではありませんよね。16代目の源氏なんかは無かったのですから。南北朝時代だのに。皇子を創り上げて系譜を作り上げたのです。
当時の朝廷は知っていましたので、なかなか認めませんでした。経済的圧力を加えて無理に認めさせたのです。武田氏や足利氏や新田氏も殆どの源氏と主張している氏は笹竜胆紋ではなく支流分流分派の別の家紋ですね。女系になったわけでは有りません。
ルーツや家紋や系譜は鎌倉期にまでルーツを遡らないと真実は出てきません。
3期の混乱期発祥の氏はこの前提を先ず崩す必要があります。100%とに近い状態で信用できません。それはそれなりに良いとして信用すればべつですが。
ところが、真実の書物はこの下克上と戦国時代の混乱期で消失して有りません。
次にルーツをお調べになる場合は次の事を留意しておく必要があります。
ルーツをお調べに成る場合は、この点を考慮しないと書物を見ても、何がなんだかわからないと言う事に突き当たります。これはこのことによります。江戸初期の大風潮で、自分勝手に良く見せてつくりあげたものを信用して史実としているからです。殆どです。
ある日突然、村、否、郡全体が青木氏や藤原氏を名乗ると言う事態があちらこちらでおこったのでいすから。主要な氏の「第3の氏」です。当然、家紋も同じ事になりました。
しかし、これ等の氏には、矛盾が必ずあるのです。本当の氏には歴史的条件が備わっているので、そこまで、この「第3の氏」が条件を合わせる事ができないからです。
特に、宗派などは全くこの条件に合わないひとつです。宗派は歴史と地理性と条件を持っていますから合わせられないのです。
菩提寺、宗派、過去帳などは、伝統の証ですので、第3の氏でない氏の場合は、絶対に護る条件の一つです。特に江戸初期から明治以降の発祥氏はこの条件に合致しません。
判らないとか、知らないとかは先ず少ないものと考えます。
先ずご質問の参考になればとして記述しましたので参考にしてください。ご質問があれば何なりとお答えします。
ではお便りお待ちしています。
No.1298
Re: 備前青木氏のルーツを探しています
国方さん 2008/07/10 (木) 01:32 [
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こんばんは。
大変詳しい解説ありがとうございます。
いろいろとわからないことが多くあり、まだまだ調べなければならないことがありそうです。
管理人様の情報をもとに、さらに調べていこうと思っています。
青木氏の件ですが、新しい情報を母から聞いたので記載しておきます。
宇喜多氏ではなく浦上家に仕えていたそうです。
備前から浦上氏のお城に仕えるために赤磐郡にでてきた。
和気天神山に城を構えるためについてきた。
菩提寺は真庭郡久世町にあるそうですが母は数十年前に祖母と参ったそうですが、名前は覚えていないそうです。
墓所は先祖墓を含めて30基ほどのお墓があり、途中には元はそれが墓だとは思わなかったような、一畳ほどの一枚岩でできた古い墓が6基ほど並んでいたそうです。
祖母が『和気郡誌』に先祖が載っていると言っていたそうで、私に読めるかわかりませんが、『備前軍記』『天神山記』『美作太平記』『和気郡史』『赤磐郡誌』『和気郡誌』これらの資料を調べる必要がありそうです。
また、当時の世相や時代背景を知るのに司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」なども読んでみようと思います。
天神山城は浦上宗景が築いた城なので、浦上宗景について調べる必要がでてきました。
相良騒動についてですが、室町時代の1448年、下相良氏の相良長続が上相良氏を滅ぼし、肥後三郡の統一したことでしょうか?もしそうなら、青井氏がどちら側であったかが鍵となりそうですね。
さて、当初簡単に調べられると思っていた寺尾氏ですが、なんとも不可解になってきました。
戦に負け、落ち延びていた際にかくまってくれたのがお寺だったので、寺尾と改名したと聞きました。
こちらも、菩提寺がわかりました。
菩提寺 上寺山 余慶寺 天台宗 本載院(漢字がこれであっているのかわかりません)
お寺の決まりごとだそうです。7つ位があるうちの一番上なそうですが、この決まりについてはわかりません。
寺尾氏も青木氏探しと平行して調べたほうがよさそうですが、その寺尾氏ですが様々な武将の家臣として名前を見かけます、この道を探すのが正しいのかまったくわからなくなってきました。
武家がそんなに簡単に氏名を変更できるのでしょうか。
また名を変えても家紋がそのままでは、周囲にわかるのではないでしょうか。
安東氏、伊賀氏が備前、美作の藤紋を使用している有力な氏族のようですが、どちらも「下がり藤紋」ではありません。家紋で探すのは難しくなってきました。
菩提寺に過去帳があればいいのですが。
今度帰郷した折に母が青木の菩提寺や墓所を案内してくれるそうなので、同時に寺尾氏についても調べてみようと思います。
何かわかりましたら、ご連絡します。
No.1299
Re: 備前青木氏のルーツを探しています
副管理人さん 2008/07/10 (木) 11:13
菩提寺が真庭郡久世町にあるとの事ですが、岡山にはもともとはここは浄土宗法然の生誕地で、中国33霊場の第1番札所で、「生誕寺」というお寺があるところですね。
藤原秀郷流青木氏は浄土宗か浄土真宗です。ここには古い浄土宗のお寺も幾つかあるようですが、天台宗との事ですが。この宗派の違いもお調べになるとよいのではないでしょうか。
真庭には、新庄というところが有名ですね。昔聞いた事があるのですが、木山寺と言うお寺もありましたが。
菩提寺のここは戦災にあっているのでしょうかね。もし、無ければ過去帳は存在し、お家のご先祖の方の名が残っているはずです。この時、その方の官職名がついていますのでそれを確認ください。
例えは、青木氏であれば、左衛門尉・・とあるはずです。尉が佐に成っている場合もあります。又、左が右と成っている場合があります。民部尉も同様です。
青木氏は天智天皇から第6位皇子が臣下し賜姓を受けて親衛隊として天皇を守護する軍としてその役目をしてきました。藤原氏の青木氏も同じです。ですので、宮廷を護る衛兵のつく官職名が末代までなれる事に成っています。(一代限りの官職名も江戸中期から生まれました)
藤原秀郷流青木氏であれば、上位衛兵の官職が付けられています。
氏家制度が確立していた江戸中期までは、武家の変名は原則的には無いと言う事に成りますが、考えられるのは、婚姻関係による変名、3期の混乱期の室町末期と江戸初期、特に青木氏に関しては詔があり、武士は青木氏にする事は根拠が無い限り世間から観て難しいでしょう。
青木外でも、前2期の時を除いてない事に成ります。
自分が変えても親族一族が変わらないとおかしい事に成ります。家紋や宗派も伝統の象徴ですので変える事は少ないですね。
氏家制度が確立していた江戸中期までは先ず無い事でしょう。
変更する事ができるのは3期の混乱期に身内が無く単独出世した場合に限ります。
氏と家紋と宗派は氏家制度の中では連動していますので、少ないですね。
もともとは、武士でも、上級武士で無い限り、家紋と氏は無かったのです。
氏、家紋、宗派を持つ様に成ったのは、江戸初期からです。最も氏と家紋が増えた時期です。
徳川幕府は3期の戦国時代の混乱期を修正する為に、氏家制度の規律を取り戻す手段として出世の条件として重んじました。この時、宗派の内、浄土宗の信仰の督励を2度出しました。
上級武士に限りこの浄土宗の寺を各地に建てて入信を勧めたのです。
それまでは、特定の高位の氏の宗派でした。従って、特定の地域にしかないのがこの宗派の特長です。
そして、それを寺が管理する体制を強化しました。従って、上級の武士以外は寺については菩提寺はもとより過去帳すら有りませんでした。
殆ど、中級以下の武士と一般の庶民は菩提寺や過去帳の慣習は有りませんでした。江戸長期以降の特に明治初期以降のことです。
上級武士以外は、墓も、現在のような立派なものでなく、川原者の言葉があるくらいに、大抵は川原の側に川原の石を積み上げて作るのが慣習でした。上級武士でも、「土に帰る」を前提に川原にある泥岩の墓石でした。
大理石のように立派に成ったのは明治初期以降です。
ですから菩提寺と過去帳の有無は検証の一つの条件に成ります。
この様な観点からもお調べに成る事が必要です。現代感覚では迷路と成ります。
それに、江戸期の書物を検証する場合は、特に史実を無視した偏纂に注意ください。
では、又ご質問等有りましたら、お便りください。
No.1291
群馬の青木昇さん
副管理人さん 2008/07/01 (火) 10:58
群馬県前橋市今井町の青木一族です。現在は群馬県内の安中市にすんでいます。家紋は丸に4本角鹿の抱き角です。
ルーツは武田の武士団であったという事くらいで、よく分かりません。私は現在安中市でかつて、明治38年まで焼かれていて途絶えた自性寺焼を復興する為に、昭和54年にこの地に工房を構えました。現代の名工に認定されております。
菩提寺はなく、神道で、先祖代々の墓地です。
正確なルーツが分かるといいのですが!
群馬の青木昇さん。 今日は。ご返答は雑談掲示板からこちらに移しました。
さて、頂きました情報は、群馬の青木さんで、家紋は「4本鹿角の抱き角紋」ですか。そして、武田軍団との事ですね。菩提寺はなく、神道であるとの事。
自性寺焼きの名工とか、大変ご苦労されての復元であったでしょうね。
これからも頑張って伝統品のご継承にご盛栄下さい。
さて、お尋ねの件で、情報から検証しますと、次の答えが出てきます。
「抱き角紋」は唯一はっきりとした一族の家紋です。
それは、信濃の諏訪地方の諏訪神社を守護神とした諏訪族の家紋です。
そして、この「4本鹿角の抱き角紋」は諏訪族青木氏の家紋と成ります。
この諏訪族青木氏の事については、詳しく研究室にレポートしていますのでそちらをお読みください。
先ず、レポートしているところを紹介します。
研究室の右メニューから、「阿多倍一族関係のレポート」、研究室の検索から「諏訪族青木氏」を入力、研究室の「地名地形データーベース」の信濃地方からのデータ、研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の抱き角紋、家紋掲示板から「抱き角紋」、研究室の右メニューの「皇族賜姓族」関係のレポート、青木という地名地図、等に詳しく掲載されています。
お家の諏訪族青木氏はこの青木氏のレポートの全てに関係してきますので、全てを読まれると完全なルートの由来を把握する事が出来ます。
当然、大レポートに成りますので判らない所も出て来るかと思いますので、不明な所はこのレポートのREでご遠慮なくお尋ねください。
これは相当量のレポートに成りますのでゆっくりと楽しんでお読みください。
大まかに、諏訪族青木氏は2つに別れます。
この青木氏は、皇族賜姓青木氏5家5流の24氏の一つです。
もともとは、奈良期に誕生した大変古い一族青木氏です。
奈良時代の聖武天皇の皇子の第6位皇子が、臣下して信濃の国の守護王として赴任します。
この信濃王の第6位皇子の皇族賜姓青木氏と、土地の古い一族の後漢の渡来系帰化族との間に血縁関係が生まれます。
この信濃の皇族賜姓青木氏の分家末裔が跡目が採れずに、信濃の諏訪族から跡目養子をとりましたが、男系に恵まれず2代続きで女系となり、養子先の一族に組み込まれます。これが諏訪族青木氏です。この諏訪族は大化の改新期(孝徳天皇期)に後漢が滅び、阿多倍の首魁に率いられて17県200万人と言う大集団で大和に上陸し、瞬き間に九州全土と中国地方関西の一部を支配下に無戦の状態で置かれます。当時日本66国中32国を征圧しました。この一団は帰化を選択します。
この一部が信濃の開墾に向けられます。そして、中国より持ち込んだ大型馬を飼育して、開墾に成功し天領地になります。ここに、上記の第6位皇子が守護王として赴任し、その末裔は青木氏を名乗る事に成っていますので、信濃国府に皇族賜姓青木氏が定住しました。これが信濃青木氏です。
この皇族賜姓の信濃青木氏が諏訪地方に定住して生活していた豪族の諏訪族との間に血縁関係が生まれ、上記した女系の経緯で系列が諏訪族側になったわけです。
この様な皇族賜姓青木氏は5氏(伊勢青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏)あります。ちなみに筆者は伊勢青木氏です。この5氏は夫々順に天智、天武、文武、聖武、光仁の5人の天皇の第6位の皇子の末裔です。
初代の大化の改新の天皇の天智天皇の第6位皇子の施基皇子が臣下して伊勢王と成ります。この時、天智天皇より「この第6位皇子の末裔には青木氏を名乗ることを許されて青木氏を与えられて天皇の親衛隊として臣下します。この方式が光仁天皇までと桓武と平城の2代の天皇をおいて、嵯峨天皇からは、源氏に変名して第6位皇子は11代続きます。青木氏と源氏は天皇家の同族です。
嵯峨天皇期に詔を発して皇族以外の者が「青木氏」を名乗ることを禁じます。それが明治3年まで続きます。
信濃青木氏の分家筋が諏訪族との血縁で生まれたのが、諏訪族青木氏です。
ところが、ご存知と思いますが、この諏訪族一族は甲斐武田氏の配下に入ります。そして、この諏訪族青木氏は甲斐の武田氏の分家とも血縁して、男系に恵まれず、武田氏系諏訪族青木氏が生まれます。
この武田氏系諏訪族青木氏は甲斐の国の上田地方から群馬に掛けて(真田氏配下)に定住して末裔を広げます。
お家は、群馬に長く定住していたとすれば、この武田氏系諏訪族青木氏であると考えられます。
何れの諏訪族青木氏も元の綜紋は5家5流の家紋の笹竜胆紋です。しかし、女系と成った事から家紋が女系側の諏訪族の抱き角紋になったわけです。そこで、更にその分家筋に末裔が広がり、この抱き角紋の家紋に分家筋の丸付き紋となったわけです。
この分家筋でも本家ルートの分家の分家と成ります。
抱き角紋には、5本角(と6本角)と4本角などの分家分流分派があります。
5本角が宗家で、4本はその分家筋に当ります。更に、その4本に丸付き紋と成りますので、更に分家筋と成ります。
しかし、この後、武田氏は信長に潰されますので、神奈川、横浜と栃木方面と土佐地方に逃亡し、縁者関係にあったもう一つの藤原秀郷流青木氏の保護を受けて定住します。
神道の件は明治はじめの廃仏毀釈により神道になったもののでしょう。元は信濃諏訪神社と、この付近にある菩提寺(青木氏が住職)が5本角の総宗本家筋の元の寺であると思います。
多分、お家の分家筋の菩提寺は廃仏毀釈で無く成ったものでしょう。
皇族賜姓青木氏からすると、信濃国府付近にある浄土宗の寺が菩提寺になると考えます。
皇族賜姓青木氏は皇族なので、青木村を形成して青木氏の独自の氏神と独自の青木氏の菩提寺を持っています。例外なくこの信濃青木氏はこの二つの寺社を持っていました。宮司と住職が青木姓です。
根っからの諏訪族では有りませんので、女系化した皇族賜姓族ですので、必ずどこかに独自の青木村と独自の寺と独自の神社を持って居た筈です。
(4つ角の丸付き紋は家紋掲示板に不記載ですので、4つ角紋でご理解ください。武田氏配下後の室町期後半かに丸付き紋になった事が考えられます。)
移動するとその寺社ともに移動させますので、上田付近に浄土宗の分寺社がある筈です。
大まかには、お家の諏訪族青木氏に関しては書き留めましたが詳しくは上記したレポートをお読みになってください。どちらも日本書紀に出て来る氏です。阿多倍一族と後漢の民と、諏訪族の青木氏も出てきますので日本書紀の青木氏の関係のレポートも用意していますのでご一読ください。
左メニューから青木氏氏ログにも入れます。
大変な大由来を持ったお家であります。
研究室には元はご親族の諏訪族青木氏の方のレポートが沢山寄せられていますのでお読みください。
では、ご質問ご不明な点が有りましたら、どんな事でも結構ですご遠慮なくお尋ねください。
No.1293
[投稿者削除]
青木昇さん 2008/07/07 (月) 01:08
投稿者によって削除されました。(08/07/07 09:39)
No.1294
Re: 群馬の青木昇さん
副管理人さん 2008/07/07 (月) 20:12
群馬の青木昇さん 今日は。
早速のお便りありがとう御座います。
武田氏系諏訪族青木氏の青木さんは、多くは甲斐と群馬、群馬と信濃の西境に多く定住していました。
神道の件に付いては、推測どおりで判断できました。
武田氏系諏訪族青木氏であるとしても、諏訪族と血縁を結び武田氏と血縁関係をした皇族賜姓青木氏の一族であり、男系不継で諏訪族となったものですので、お家の総本家筋では浄土宗です。
元は諏訪族青木氏ですが、武田氏との血縁で生まれた一族の方たちの定住地でした。
そして、ここに、と群馬(上野)の東側には藤原秀郷流青木氏も定住しています。
藤原秀郷流青木氏は武蔵の入間を中心に横浜神奈川を半径として円を描く様に定住しています。その外郭に位置する上野と下野の境にあります。藤原秀郷流青木氏に付いては研究室の右メニューから選ばれてお読みください。(藤原秀郷一族の生き方等のレポート)
大河ドラマの武田信玄に諏訪族青木氏と上田の真田家臣団の中にも青木氏がおりました。
お読みになって、ご質問やご不明な事はいつでもお尋ねください。
出来ますれば、研究室に、この様な内容をまとめていますので、群馬の青木昇さんの回答レポートのREをお使いになってご遠慮なくお尋ねください。
全国の青木さんも楽しみにして読んでいますよ。
では、お便りお待ちしています。
No.1296
Re: 群馬の青木昇さん
大変詳細なご回答を戴き有難う御座いました。
菩提寺については、「浄土宗」ですか!
現在青木家の地域にはお寺はありませんが、かつては『お寺んち』と呼んでいた青木家があります。
廃仏毀釈令によるものだったのでしょか、私の記憶の中にはお寺のお堂などは残っておりませんでした。
我がルーツが是まで遡って判明した事に、驚きと誇りを初めて感じ入った次第です。
ご説明を戴き、大変参考になりました。
一族にお知らせしたいと思います。有難う御座いました。
No.1297
Re: 群馬の青木昇さん
副管理人さん 2008/07/08 (火) 11:34
>大変詳細なご回答を戴き有難う御座いました。
>菩提寺については、「浄土宗」ですか!
>現在青木家の地域にはお寺はありませんが、かつては『お寺んち』と呼んでいた青木家があります。
>廃仏毀釈令によるものだったのでしょか、私の記憶の中にはお寺のお堂などは残っておりませんでした。
> 我がルーツが是まで遡って判明した事に、驚きと誇りを初めて感じ入った次第です。
>ご説明を戴き、大変参考になりました。
>一族にお知らせしたいと思います。有難う御座いました。
本サイトの他のレポートをお読みになれば更に良くお判りになると思います。
「お寺んち」の言葉は多分、独自の菩提寺の住職が一族を代表しての青木氏であり、この人のことを一族の方たちはこの様に読んだのだと思います。
皇族賜姓青木氏は独自の菩提寺を持つことを許された藤原氏と並んでその氏の一つです。
5家5流の皇族賜姓青木氏の菩提寺は昔は全て青木氏でした。
この事で検証がつきます。
検証には、現在何の意味も持たない一寸した事が当時の慣習から意味を持つのです。周囲に寺が無いのは、廃仏毀釈でこの様な独自の寺は全て潰される羽目に合いました。多分潰されてしまったのではと思います。栃木に逃亡したの諏訪族青木氏はこの寺を護って今でもあるとの事です。
お家の総本家筋の末裔が、現在も諏訪地方の西諏訪には諏訪族青木さんの市長が代々長を勤めていますよ。ここがお家のルーツです。研究室の右メニューの「諏訪の旅」のレポートを参照して下さい。
多分、この市長さんのお家が総宗本家の諏訪族青木氏の筋と見られます。
多分ここに、諏訪族青木氏の本寺がある筈です。ご先祖のルーツの方がわかるかもしれませんね。
更に奈良時代まで遡ると、筆者の伊勢青木氏や近江青木氏に突き当たります。
諏訪族青木さんと伊勢青木氏は江戸初期まで付き合っていた形跡があるのです。伊勢シンジケートで結ばれていた模様です。信長の3度の伊勢攻めにはともに戦ってくれた形跡があるのです。
是非ゆっくりとレポートをお読み成ってください。この様な事が沢山出来ますよ。
信長に追われて、真田氏の家来であったお家の親族らの青木氏が高野山の九度山に逃れてきていますよ。有名な真田十勇士で有名な九度山です。この真田氏の家臣の青木さんは大阪夏冬の陣で徳川氏と戦っています。この方たちもご先祖かご親類です。
研究室の検索で諏訪族青木氏と打ち込みますと、沢山この末裔の方たちとのお便りも出てきますよ。
では、お便りをお待ちしています。
No.1279
福岡出身の青木です
福岡出身の青木さん 2008/06/09 (月) 17:29
はじめまして。
福岡県出身の青木と申します。
母から、うちの家紋はめずらしいほうだと聞き、私の先祖は誰に当たるのか調べてみたくなり
検索したところ、このページに出会いました。
私の家の家紋は「丸に重ね三階菱」です。
母が言うように、たしかにこの家紋の家は私の周りではとてもめずらしいのです。
先祖の墓参りに行ったら、周りにいくつも他の家のお墓はあるのですが、
私の先祖のお墓が際立って大きいので、何故なのか母に聞いても、
母は元々は青木の人間ではないので、詳しくは分からないようでした。
そこで、どうしても知りたくなり、投稿させて頂きました。
お墓に刻まれている一番古い名前は「佐々木」だそうです。
また、お墓の場所もそうですが、我が家の本籍は
「福岡県糸島郡二丈町」というところにあります。
この情報だけで分かるものでしょうか?
宜しくお願いします。
No.1281
Re: 福岡出身の青木です
副管理人さん 2008/06/09 (月) 18:03
>はじめまして。
>福岡県出身の青木と申します。
>
>母から、うちの家紋はめずらしいほうだと聞き、私の先祖は誰に当たるのか調べてみたくなり
>検索したところ、このページに出会いました。
>
>私の家の家紋は「丸に重ね三階菱」です。
>
>母が言うように、たしかにこの家紋の家は私の周りではとてもめずらしいのです。
>
>先祖の墓参りに行ったら、周りにいくつも他の家のお墓はあるのですが、
>私の先祖のお墓が際立って大きいので、何故なのか母に聞いても、
>母は元々は青木の人間ではないので、詳しくは分からないようでした。
>
>そこで、どうしても知りたくなり、投稿させて頂きました。
>
>
>お墓に刻まれている一番古い名前は「佐々木」だそうです。
>
>また、お墓の場所もそうですが、我が家の本籍は
>「福岡県糸島郡二丈町」というところにあります。
>
>この情報だけで分かるものでしょうか?
>宜しくお願いします。
>福岡の青木さん こんにちは。始めまして。
同じ青木サイトに良くお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
沢山の青木氏に関する資料をレポートしていますので、研究室の右メニューと全国の青木さんからのお便り質問がたくさんありますのでゆっくりと楽しんでお読みください。青木氏のルーツがお判りに成ると思います。ご質問がありましたならば、何なりとお便りください。
これからも、同じ青木さんでコミニュケ−ション致しましょう。
さて、ご質問ですが、情報が錯綜していますので、どれを捕らえて検証すればよいか判断に困ります。
先ず、家紋の「丸に三階菱紋」は甲斐の武田氏系青木氏です。家紋掲示板の1Pを参照して下さい。
つまり、天智天皇より光仁天皇までの5代の天皇が、夫々第6位皇子を臣下させて護衛役として、5つの国に配置したものです。
詳しくは、研究室の右メニューから皇族賜姓族のレポートを選ばれてお読みください。
概略は、天智天皇の第6位皇子の施基皇子が伊勢の守護王にし、その子孫を青木氏と賜姓したのが始まりです。
他に近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏があります。この5つの国に配置しました。天皇は天智天皇、天武天皇、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の5人です。この後2人の天皇を外して、嵯峨天皇からは、青木氏から源氏に変名して第6位皇子に賜姓しました。源氏は11代続きます。合わせて16代です。
お家は、この甲斐の国の守護王であった青木氏の分家が男系跡目が出来ずに、土地の豪族武田氏から養子を取り跡目を継ぎました。ところが、この養子にも男系が出来ずに、結局、女系となり家紋掟により、養子先の武田氏の分家の家紋の三階菱になったのです。
これが、武田氏系青木氏です。元は皇族賜姓青木氏の24氏です。綜紋は笹竜胆紋です。家紋掲示板の笹竜胆紋1Pを参照して下さい。「青木氏と血縁族(家紋)」のところの菱紋と笹竜胆紋のレポート参照してください。他にも沢山関係するレポートがあります。
武田氏系青木氏には武田氏系諏訪族青木氏と諏訪族青木氏もあります。
「地名地形レポート」では甲斐の地名で観て下さい。
ところが、墓所と国は福岡県です。先ずこの住所は何時の時代でしょうか。江戸中期以前の国が必要です。本籍とすると明治以降の住所ですので、これではルーツは新しすぎて出ません。
福岡には、賜姓青木氏は定住していません。
次に、墓石には古い人では佐々木氏であるとの事。
佐々木氏は、近江青木氏と近江佐々木氏(何れも天智天皇と、天武天皇の皇子の子孫)で近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子の賜姓佐々木氏です。
そして、この賜姓青木氏の一族の者が同様に男系跡目が出来ずに、同族の佐々木氏より養子を取ったが、同じく女系となり、佐々木氏系青木氏となりました。
佐々木氏には、近江佐々木氏(第7位)と滋賀の宇多天皇の皇子(第6位)の佐々木氏があります。
甲斐の賜姓青木氏の武田氏系青木氏と佐々木氏との血縁を示す史料は有りません。
ただ、氏家制度の中で同等での血縁ですので身分的にはありうる血縁です。
養子に来られたとして、この佐々木氏の人は何時の時代の人でしょうか。少なくとも室町時代以前の人である必要があります。第6位と第7位の同族であるので佐々木氏も笹竜胆紋です。
笹竜胆紋の使用できる5氏の内の1氏です。
この佐々木氏も賜姓青木氏と同じく各地に末裔が移動しています。
この甲斐にも室町期の末期にも同族の足利氏の家臣となって各地に赴任して少ないですが定住しています。
問題は福岡です。
福岡は江戸中期以降か明治以降に移ったところでは有りませんか。
佐々木氏と家紋に付いては時代性が室町期に一致すれば解決します。
福岡は何時から、佐々木氏の人は何時の人。
福岡の本家の本家は本家筋が甲斐にある筈です。菩提寺を確認すると良いでしょう。
次に本家の宗派は。
何かルーツを物語る一寸したことは有りませんか。
家紋からは「青木氏と血縁族(家紋)」を読まれるとご理解していただく事が出来ると思います。
甲斐の皇族賜姓青木氏の24氏の一つ武田氏系青木氏の分家の分家です。
そして、研究室の皇族賜姓族青木氏のレポートがたくさんありますのでまずそれをお読みください。
先ずは、上記の事をお調べになり、又お便りください。お待ちしています。
No.1283
Re: 福岡出身の青木です
福岡出身の青木さん 2008/06/10 (火) 11:47
お返事を頂いてから母に聞いてみたところ、
福岡のお墓がある場所一帯は、元々は領土かなにかだったようで、
いつの時代かは分かりませんが、移り住んだようです。
No.1284
Re: 福岡出身の青木です
副管理人さん 2008/06/11 (水) 09:57
>お返事を頂いてから母に聞いてみたところ、
>福岡のお墓がある場所一帯は、元々は領土かなにかだったようで、
>いつの時代かは分かりませんが、移り住んだようです。
時代性がはっきりしないとわかりません。
つまり、ルーツの取れない第3の青木氏である可能性がありますので、先ず、時代の一番古い人明治以前のご先祖ですが、ご確認ください。
お墓のことでの情報が多いのでそれからの検証事を次に書きますのでお調べください。
領土となると大名です。大名となると先祖の事が判らない事はありません。またご本家がどこかもわかるはずです。
そうでなくても、又、名主、庄屋、郷士、郷氏でもご先祖はご本家が伝統がありますので大事に護っている筈です。この4氏のどちらですか。
お墓は、大きいと書かれていますが、その墓石は花崗岩(御影石)で出来ていますか。
御影石で出来ているお墓は昭和のはじめのお墓です。
昔は明治頃以前は墓石には御影石は使いませんし、特別な大名でも使いません。
墓の墓石には、五十塔のような墓石がありますか。これは50年以上のご先祖が祭られている墓です。どうですか。
墓石は3段になっています。(20年未満の木製の柱の仮墓)父母等の墓石、50年未満の祖父母などの墓石、そして50年以上の墓石、で出来ていますが、どうですか。
墓石の一番古い人の俗名は官職名がついていますがありますか。あれば何とかいていますか。
ご本家は何処ですか。見つけられますか。
宗派は何なのでしょうか。
本籍のところの戸籍簿の一番古い人(明治1年)の所に、平民か士分かの身分が書いています。
このところを先ず確認される事でしょう。
それ以前は菩提寺の過去帳に載っている事に成りますが、載っているか載っていないかで大きく異なります。
そのお墓のお寺は何宗ですか。そこは菩提寺ですか。
そこのお寺のご先祖の一番古い人は何時の人ですか。
寺に所属していない墓所は昔はありません。
昔は一般庶民は川原の渕に作りました。武士であれば寺の中にありました。
墓関係から以上のことでわかりますのでお調べください。
福岡の疑問がありますが、又お判りになりましたらお便りください。
No.1270
千葉の青木です
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 00:25
はじめまして、こんばんは。いつも興味深く拝見しています。
私の出身地は千葉県野田市関宿なのですか、この地域は青木姓がたくさんいます。菩提寺は曹洞宗なのですが、先祖のルーツを探る上で、手がかりはありませんか?よろしくお願いします。
No.1271
Re: 千葉の青木です
副管理人さん 2008/06/06 (金) 09:40
>はじめまして、こんばんは。いつも興味深く拝見しています。
>私の出身地は千葉県野田市関宿なのですか、この地域は青木姓がたくさんいます。菩提寺は曹洞宗なのですが、先祖のルーツを探る上で、手がかりはありませんか?よろしくお願いします。
千葉の青木さん 今日は。 始めまして。
同じ青木氏の青木サイトに良くお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
このサイトは、青木氏のことに付いて多くレポートをしています。管理人さんと打ち合わせて沢山計画がありますが、慌てず少しづつ計画を進めています。これからもどんどんレポートしますのでお読みください。
さて、お尋ねの件ですが、
土地は千葉野田市との事ですね。
宗派は曹洞宗との事。
この二つの情報ですが、正直むずかしいですね
そこで、お調べになるポイントの情報を提供します。
既に、本サイトのレポートをお読みと思いますが、改めて書きますと次の様に成ります。
千葉には、藤原秀郷一門の結城氏がいます。千葉の結城地域です。
この結城氏は藤原秀郷一門の朝光と言う者が先祖伝来の土地として守ってきましたが、桓武平氏に奪われ、更に後には坂東八平氏に奪われて、土地を離れ一門の居る武蔵の国で生活をしていましたが、朝廷の命が下り上野の国司として赴任しました。その後、鎌倉幕府が出来て、この鎌倉幕府に一番先に合力しました。この勲功で、本領安堵され、結城を取り戻す事が出来ました。
この結城氏の護衛役を同門の藤原秀郷流青木氏の分家が担いました。
そして、ここに藤原秀郷流青木氏が住み着きました。江戸幕府になっても水戸徳川氏の家来になり、ここに定住していました。
先ず、この流があります。
次に、藤原秀郷一門は武蔵の国を領国としてそれを取り巻くように護衛役の一門の青木氏が下野、茨城、栃木、群馬等に存在し、埼玉の入間を中心に横浜神奈川を半径に円を描く様に、何重にも青木氏の本家から外円に行くほど分家、分流、支流、分派が円を描いて取り囲んでいました。
この一つに野田付近も護衛役の支流の青木氏が護っていました。
この青木氏の流があります。
特別に、栃木と神奈川に皇族賜姓族の武田氏系青木氏(諏訪青木一族)が信長に追われて逃れてこの藤原秀郷流青木氏を頼って移ってきました。
この3つの青木氏がありますが、これと、明治3年の苗字令と8年の督促令に基づき、姓を持たない一般の青木氏が、土地の青木氏に因んで青木氏を名乗りました。この地域には、この明治期に発祥した青木氏が大変多いのです。村全体が突然ある日青木氏に成るなどのことが起こりました。
この青木氏には、藤原秀郷流青木氏と異なり、幾つかの違いがあります。
それは先ず、1番目には、家紋です。藤原秀郷流青木氏は主要9氏で116氏が有りますが、この116氏の家紋は系譜が取れますので明確です。
2番目は、伝統の内の宗派です。藤原秀郷流青木氏は鎌足を先祖とする特別な家柄でしたので、浄土宗です。浄土宗は皇族青木氏、公家、橘氏などの真人族、朝臣族が入信する宗派でした。只、地方に赴任した一門は浄土寺が無いので、系列の浄土真宗に成っているものもあります。
3番目は、この藤原秀郷流青木氏には独自の菩提寺と神社を私有しています。一族の者だけを祭る寺と神社なのです。
4番目は、ですから、昔は役所の役割を担っていた寺と神社を独自にもっていますから、ルーツの系譜が取れますし、本家筋あたりでは青木氏の何らかの伝統を長く保持しています。
5番目は、古い人の官職名があるのか、何であるか、
藤原一門はこの官職名がはっきりしています。
6番目は、古い江戸期以前の由緒の有無。
7番目は、墓所の墓石の家紋と周囲の青木氏との家紋の違い
(周囲の青木氏の家紋は家紋掲示板に存在するものかどうか)
他にも判別できるものがありますが、明治期と室町末期と江戸初期の3期の混乱期の発祥の青木氏とは、とりあえずこの7つで殆どが出来ます。
(明治3年まで皇族の者が藤原氏の青木氏以外に使用の禁令が働いていてました)
先ず2番目の宗派は曹洞宗ですので、外れます。3番目も外れます。
藤原秀郷流青木氏は伝統としてこの宗派は絶対に護るものです。
ただ、1、4、5、6、7番を調べる事で変わることの条件がありますので、お調べになるとよいと思います。
本家筋の家紋はなんであるか、本家筋がどこか、何時からそこに居るのか。本家筋の曹洞宗の菩提寺のある場所、菩提寺にある「過去帳」に先祖の一番古い人は何時の時代で、誰か、官職名は。(寺で教えてくれる)
本家かお家の市役所の戸籍簿の最も古い人の明治初期の人の身分は。(士分、平民などが書かれている。)それ以前は菩提寺の過去帳です。江戸期の過去帳に載っていないのであれば、明治期の青木氏です。
先ずは、家紋で賜姓族か藤原一門かは判りますし、このどちらでもない事が判ります。
とりあえず以上ですが、先ずは上記から始められて参考にされてお調べください。
以上、不明な点はご質問してください。
では、お便りお待ちしています。
No.1272
[投稿者削除]
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 18:45
投稿者によって削除されました。(08/06/06 18:54)
No.1274
Re: 千葉の青木です
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 18:56
詳解ありがとうございます。家紋は「丸に違い鷹の羽」、確認できるだけで先祖は1700年頃から関宿で名主をしており、青木を名乗っているようです。平安時代、関宿には藤原秀郷の居所があったそうです。何か関係あるのでしょうか?よろしくお願いします。
No.1275
Re: 千葉の青木です
副管理人さん 2008/06/07 (土) 07:30
>詳解ありがとうございます。家紋は「丸に違い鷹の羽」、確認できるだけで先祖は1700年頃から関宿で名主をしており、青木を名乗っているようです。平安時代、関宿には藤原秀郷の居所があったそうです。何か関係あるのでしょうか?よろしくお願いします。
>千葉の青木さん 今日は。
早速のお便りありがとう御座います。
さて、早速ですが、家紋は「丸に違い鷹の羽」との事。又ご先祖が関宿の名主で1700年代であった。
以上の情報から、考えますと、次のような事が出てきます。
先ず家紋ですが、「丸に違い鷹の羽」は家紋掲示板にもありますように、33紋中の一つで安芸の国に赴任し分家筋が定住した藤原秀郷流青木氏の家紋です。この一族は比較的一門としては新しい青木氏で、室町期に発祥しています。
平安末期に朝廷の命で藤原秀郷一門の青木氏が安芸に赴任して、土地の豪族の浅野氏との血縁をしたもので、定住した藤原秀郷流青木氏分家側に男子跡目が無くて、土地の豪族と成っていた浅野氏の分家筋から養子を取りました。一時、家紋掟により、男系筋のこの養子先の分家筋の家紋と成りますが、この養子にも男系の跡目が生まれず、結局、家紋は養子先の家紋となってしまいました。藤原秀郷流青木氏の方は女系と成った事を意味します。この場合、秀郷一門の家紋の「下がり藤紋」から外れて、「丸に違い鷹の羽」と成ったものです。
秀郷一門は24の国地方に赴任していまして、必ず土地の豪族との間に子孫を残す戦略を採っていました。一門のこの青木氏もそこで嫡男は武蔵国の入間に帰りますが、分家に当る弟筋を遺す戦術を採っていました。ところが、鎌倉幕府が樹立し、藤原一門は離職して多くは武蔵に帰りましたが、この時、残り、浅野分家との血縁を結んだものであると考えます。
その後、室町末期に何らかの理由で武蔵国の藤原秀郷流青木氏のお家のもともと居た本家筋が居る地方の野田付近に戻り、そこで、農業をしながら定住したものと考えます。ですから、野田の土地の豪族ですから、「2足の草鞋策」を採ったものでしょう。この様なパターは藤原秀郷流青木氏の場合大変多いのです。武士ではあるが、農業の手広く小作人を使って行っていたということです。
ですから名主なのです。名主はもともと土地の豪族であつたものが武士を捨てて農業をした者です。
通称、「郷士」と言います。ですから、農民でありながら、名前、家紋等持っているのです。
この武蔵、下野、付近の関東には藤原氏の「郷士」が多いのです。例えば「近藤勇」等は藤原一門の流を持つ「郷士」です。近衛軍の勤めをしていた藤原秀郷の末裔氏で「近」と「藤」で「近藤氏」の名なのです。藤原氏は役柄や土地の字を取りそれに藤原の藤を付けて何処の藤原氏か判る様にしたのが始まりです。近藤勇も大きな名主の家のうまれですね。
家紋と1700年代の名主である事から、平安期には「下がり藤紋」の藤原秀郷の主要一門の青木氏です。(「藤原秀郷一族の生き方1-13」などのレポートを参照して下さい。)
先ずはこの一族と思いますが、さて、問題は、宗派です。本来であればご本家筋は浄土宗です。
只、お家の場合には、キーワードは「安芸」です。
安芸に赴任した藤原秀郷一門の護衛役の青木氏には、この地域には浄土宗寺は有りませんでした。多くは、一門の浄土真宗にとりあえず切り替えました。中には、血縁先の宗派を使用する事に成った者もあります。
多分、確定はこんなんですが、養子血縁先の家紋と宗派を引き継いだものと考えられます。
多分、この浅野氏の分家筋の一部には曹洞宗であったのでしょう。この様なパターンは多いのです。
名主であったとする事がこれを裏付けます。名主で無ければ明治期か江戸初期の「第3の青木氏」であることにも成りますが。
前レポートの条件とはこのことを意味します。その条件(名主の郷士、時代性、場所がら)にぴったりと一致します。
宗派は曹洞宗は下級武士や農民などが入信した宗派です。江戸時代には大変な力をもちました。徳川氏も曹洞宗には苦労しています。関東では武蔵の国などで郷士を交えた武士や農民一揆などを頻繁に起しています。
名主で郷士であったお家は、この時代に農民を守る為に、この当時、良くあった宗派変えをしている事も考えられますが、ここは情報が無いので2つのうちのどちらかかを確定する事は現段階では難しいのです。
のこどちらかなのですが、仏壇がおありであれば、仏壇の形式が「浄土宗仏壇」となっているかを確認すると良いでしょう。仏壇は先祖伝来のものを長く引き継ぎますので、遺している筈です。特に本家筋では。宗派によって仏壇形式は異なります。
もし、浄土宗仏壇とすると、後者でしょう。曹洞宗仏壇では前者と成ると思います。
浄土宗は阿弥陀様ですので仏具に何らかのものが残っていることも在ります。
武蔵入間を本拠地として関宿にも藤原秀郷一門の居所や館が総宗本家の出先機関として当然ある事に成ります。これも条件ですね。
結論としては、藤原秀郷流青木氏であると観られます。
藤原秀郷流青木氏は主要9氏で、直系1氏、直流4氏、支流4氏で、116氏に広がっています。
お家は野田と成りますと、入間から外郭円の外側に成りますので、支流の分家筋に当ると思います。
本家の本家や分家、支流の本家や分家、その又分流の本家や分家と入間を中心に縁を描いて描いていますので、最も外側の護りをしていた青木一族ですね。野田付近は分流の本家か分家ですかね。
研究室に「違い鷹の羽」の一門の青木氏の投稿がありますので、検索で調べてみてください。
昔はご親類で付き合っていたことでしょう。
では、ご質問があればまたお便りください。
No.1268
うちの家紋は・・・???
T-Tさん 2008/06/05 (木) 15:05
丸の中に3匹のアゲハ蝶がいる家紋がうちの家紋なのですが、家紋掲示板には無かったのですがどうなんでしょうか?
No.1269
Re: うちの家紋は・・・???
副管理人さん 2008/06/05 (木) 17:48
>丸の中に3匹のアゲハ蝶がいる家紋がうちの家紋なのですが、家紋掲示板には無かったのですがどうなんでしょうか?
T-Tさん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、あなた様のお名前が判りません。
家紋掲示板は青木氏に関する家紋類です。
青木氏でないとすると、貴方が云われる家紋はありません。
又、青木氏であるとしても、この家紋を持つ青木氏も有りませんので、明治以降の苗字令により発祥したルーツや家紋が確認出来ない青木氏だと思います。
どちらにしても、明治までの日本の家紋8000ある中ではこの家紋は有りませんので、明治以降に一族だけではなく1氏だけで家紋としたとも思えます。
そこで、折角ですので、この丸付き紋の揚羽蝶紋に付いて、知る範囲でお話します。
日本の蝶紋の文様は97文様あります。
その中に、「三連蝶紋」という文様は12あります。
そして、この三連の揚羽蝶の文様は3つあります。
しかし、この3つの揚羽蝶には丸付き紋は有りません。
この3つの「三連揚羽蝶紋」は池田氏と大河内氏が使用しています。
この三連揚羽蝶紋は、信長が戦いのときに軍を分ける為に使用する幟(のぼり)として使用し、これを家臣に持たせたものが、その家臣の氏が後に家紋としたものです。
岡山、鳥取、愛媛に多くあります。
そこで、この家紋に丸がついている事に成りますので、「丸付き」の持つ意味には沢山の意味を持っています。
例えば、幾つか例を挙げますと、
本家が三連揚羽蝶紋の使用を認めなかったので丸付きとした。
本妻ではなく妾の子供であるので、丸付き紋とした。
男系跡目ではなく、女系になった氏が丸付きにした。
血縁の低い者が三連揚羽蝶を使用として丸付き紋にした。
家紋や系譜が無いので、とりあえず丸付きにした。
明治以降の庶民が家紋を作ったが「三連揚羽蝶紋」を勝手に使用すると文句が出るので問題を避ける為に丸付き紋にした。
歴史上から観て、何らかの血筋を遠い縁で持ち、「三連揚羽蝶紋」の者が、何時しか家紋を失い、家紋を戻した。この様な意味を持っています。
只、この揚羽蝶紋は平家紋ですが、基本的には丸付き紋は家紋掟で使用していませんので有りません。
お家の家紋はお名前も判らないし、このどれに当るかはわかりませんが、家紋8000に無い極めて少ない家紋ですので、絞られてきます。
ご質問が有りましたら、お尋ねください。わかる範囲でお答えします。
以上です。
来場記帳のところに記帳して頂きました事を後で気づきました。青木さんですね。すみませんでした。
所でご先祖の石川県ですが、何時頃の時代の方でしょうか。これに依って話しが変わります。この家紋は上記した2つの氏が使用しているので、岡山、鳥取、愛媛の住人に成ります。
この3つの土地には、先ず岡山には、藤氏の讃岐青木氏の末裔、鳥取の米子と八頭には足利氏系青木氏、愛媛には香川よりに藤氏讃岐青木氏が定住しています。
仮に、余り移動していないとして、鳥取付近の住人であった事も考えられます。
そうすると米子か八頭の青木氏が住んでいる地域に居て、この青木氏に跡目が無く止む無く池田氏支流から男子の養子を取ったが、娘との間に又男子が生まれず、家紋は池田氏の支流「3連揚羽蝶」紋になり、何らかの理由で池田氏支流紋が使えなくて丸付き紋にした。但し、池田氏が丸付き紋を使用しているかは専門外で判りません。(信長に与えられてものであるし、平家類似紋でもあるし、普通は使わない。)
米子の青木氏は信濃の皇族賜姓青木氏が土地の豪族の足利氏と血縁して出来た氏ですが、藤原秀郷一門と争い足利本家を奪われて、本家に同行して米子付近に逃げ延びた氏です。
それか、家紋8000に無い家紋からすると、この地域にすんでいた者が明治の苗字令で池田氏の青木氏に因んで名乗ったとも考えられます。第3の青木氏であります。
(例えば、埼玉、栃木等の藤原秀郷流青木氏では「下がり藤紋」に因んで青木氏を名乗り、その家紋に丸をつける青木氏が多いのです。藤原秀郷の一門の「下がり藤紋」は丸付き紋は使用していません。)
以上、3つの何れかに成ると思われますが、確定する情報が全く有りませんので、何かちょっとしたものでも時代性(江戸以前)のある事であればお知らせください。
ではお便り楽しみにお待ちしています。
No.1276
Re: うちの家紋は・・・???
T-Tさん 2008/06/09 (月) 12:20
江戸時代のころには既にいたということです。それよりも前という事になると少し時間がかかるかもしれません。それと、前田家の家臣だったという事は参考になるのでしょうか?
No.1282
Re: うちの家紋は・・・???
副管理人さん 2008/06/09 (月) 19:06
>江戸時代のころには既にいたということです。それよりも前という事になると少し時間がかかるかもしれません。それと、前田家の家臣だったという事は参考になるのでしょうか?
今日は。早速のお便りありがとう御座います。
石川県と前田家の家臣ですか。この二つの事で次の様に成ります。
家紋からではなく、土地からの検証ですと、前回のお答えで、”三連揚羽蝶紋は、信長が戦いのときに軍を分ける為に使用する幟(のぼり)として使用し、これを家臣に持たせたものが、その家臣の氏(池田氏)が後に家紋としたものです”と記述しましたが゛、石川県と前田氏と池田氏と信長と足利氏系青木氏が繋がっています。
足利系青木氏は一部は鳥取の米子や八頭に逃亡して移動しましたが、藤原秀郷側が推す分家の足利氏に付いた足利氏系青木氏があります。
その事から、お家の青木氏は北の加賀、越前、越後付近に定住していた皇族賜姓族の24氏の米子青木氏の親族の一つ足利氏系青木氏の可能性が出てきました。
信濃の国境と加賀、越前、越後の一体に足利氏系青木氏、信濃の国府のあるところ県庁所在地に本家筋の皇族賜姓の信濃青木氏、南には藤原秀郷流青木氏が住み分けていました。
そして、信長の家臣として鳥取より発祥した室町期後期の池田氏が前田氏の配下となり、石川に移動。この池田氏の分家との間で養子縁組が起こり、男系跡目が再び出来ずに女系と成った足利氏系青木氏とも考えられます。
只、池田氏がこの三連揚羽蝶の丸付き紋を分家に持っているかは専門外ですので判りません。
又、池田氏の丸付き紋の分家筋が居たとしたら、この石川に移ってるかは判りません。
もし、この二つがないと言う事に成れば、室町期末期の第1期の混乱期に武士になり、発祥し出世した第3の青木氏と言う事に成ります。
この二つを確認する必要があります。
それには、先ずは、石川付近のご本家の菩提寺のお寺の過去帳にこの時期(室町末期)の人が存在するかを確認する必要があります。
では、又、ご確認して、足利氏系青木氏を確定致しましょう。お便りをお待ちしています。
No.1343
Re: うちの家紋は・・・???
T-Tさん 2008/09/19 (金) 01:53
随分とご無沙汰しましたが、調べたところ過去帳が江戸時代までのものしか現存しないということでした。以前の物は火事で焼失したらしいです。
ただ、江戸時代までは分かるのでとりあえずいけるところまではやってみようと思います。
No.1344
Re: うちの家紋は・・・???
副管理人さん 2008/09/19 (金) 08:30
>随分とご無沙汰しましたが、調べたところ過去帳が江戸時代までのものしか現存しないということでした。以前の物は火事で焼失したらしいです。
>ただ、江戸時代までは分かるのでとりあえずいけるところまではやってみようと思います。
T-Tさん 今日は。
お久しぶりですね。
お便りお待ちしていました。
過去帳をお調べになりましたね。
江戸までたどり着けた事ですので、もうひと踏ん張りです。がんばって下さい。
ルーツを調べると言う事は根気のいる事です。その根気を楽しみにして進めてください。
ルーツ確定まで辿りつけるかの如何に関わらず、その事が先祖に対する感謝の念となると思います。
そこで、一言。
実は、われわれ現在人は現在の常識で過去の事を考えてしまう癖があります。
過去は過去の社会慣習の常識がありますので、大事な一寸した情報を見流してしまう事が多いのです。
例えば、今では国内を自由に移動する事は出来ますが、過去は出来ませんでした。領民は全て領主の支配下に置かれていましたので、自由に移動すると「国抜け」として厳罰に処されます。
ですから、「移動」があるとした場合は大変な意味を持ちます。
過去の社会は、「氏家制度」という社会でしたので、現在の核社会ではありません。本家が分家などを支配する社会慣習でした。
例として、この様に違いますので、細かい、一寸した事柄が意味を持ってくるのです。
このことに注意してお調べください。
今の歴史テレビドラマで演じられる内容とは少し違っていますね。
一つの情報に幾つかの推理を立てながら一つ一つを潰して行く事が良い方法です。
例えば、一つのお寺に過去帳が江戸時代まであると云うこと、の意味です。
まず、”明治初期発祥の第3の氏ではないこと”が確定しますね。
次ぎは、江戸時代のどの程度のところの人までなのか。
更に、その人の俗名に「官職名」がついていないか。
その人たちに、「通名」が着いていないか。
その人たちの戒名には地名の字句がないか、ルーツに繋がる字句が無いか、共通の字句が無いか、などを細かくお調べください。
そして、江戸時代に過去帳を持っている事は、それ以前にもつながっていることの可能性をもっていますので、菩提寺の火災の時期なども大変歴史的な意味を持っている筈ですので、それとの絡みもお調べになるとよいと思います。
「江戸」と言うキーワードだけで、これだけの可能性を広げる事になりそれを一つ一つ潰して推理してゆく事がバイバイに広がり大変大事です。
判らない事やご相談が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。青木氏がお力に成ります。
では、お便りお待ちしています。
No.1260
台湾に渡った青木家
takako okamotoさん 2008/05/22 (木) 18:48 [
メール ]
こんにちは。明治時代に台湾台北市で砂糖業を営んでいた青木氏のルーツを探しています。どなたか教えてください。解っている名前は台北師範学校卒業の青木花子、青木正徳、など5人くらいの兄弟がいてその父母が砂糖業を営んでいた。その一代前は総統府の初代街長だった。青木花子の生まれは米子市。高円の宮久子様のおば様?ともなかよかったとか。。。その青木のルーツが知りたいのです。
No.1261
Re: 台湾に渡った青木家
副管理人さん 2008/05/22 (木) 21:38
>こんにちは。明治時代に台湾台北市で砂糖業を営んでいた青木氏のルーツを探しています。どなたか教えてください。解っている名前は台北師範学校卒業の青木花子、青木正徳、など5人くらいの兄弟がいてその父母が砂糖業を営んでいた。その一代前は総統府の初代街長だった。青木花子の生まれは米子市。高円の宮久子様のおば様?ともなかよかったとか。。。その青木のルーツが知りたいのです。
台湾に渡った青木家の青木さん。始めまして。
青木サイトによくお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、情報が余りにも個人的なものですし、時代性が新しすぎて、判断がつきません。
判りますれば、明治以前の江戸時代かそれ以前の情報があれば、よろしいのですが。
大変、失礼ですが、お役に立ちたいと思いますが、探偵社では有りませんので、是非、青木花子さんか青木正徳のご先祖の生まれ故郷、家紋、宗派、菩提寺、ルーツを証明する物などが有りましたら教えてください。出来るだけ古い情報をお願いします。
ルーツは江戸中期以前の情報が必要です。明治以降はルーツを確定する社会体制では有りませんので、ルーツは出ません。
台湾総督の情報を把握されている人はかなりの高齢で難しいのではと思います。パソコンも使えるかも疑問です。
ただ、米子市はずーと古いご先祖の故郷でしょうか。古い情報が得られましたら、まず、左メニューの家紋掲示板、地名データ、研究室のレポートで概ねに把握ください。
鳥取県の米子市では、「青木」と言う地名があり、青木神社も有ります。ここの青木さんではと思いますが。この青木氏では、ルーツが判ります。
家紋からも、地名からも宗派からも菩提寺からも、概ねわかりますので、その後にご質問ください。
その間、暫く、お家のことを知っている青木さんをお待ちしましょう。
No.1262
Re: 台湾に渡った青木家
takako okamotoさん 2008/05/23 (金) 10:04 [
メール ]
返信ありがとうございました。早速の処理に驚きと喜び、このサイトの大ファンになりそうです!
台湾に両親と共にに渡った青木花子はその後池上花子となりましたが、青木花子時代は聞いた話だと、菩提寺は神道で伊勢神宮だったと思います。家紋の話もきいたことがあるのですが、小さいころだったので記憶が甦りません。これ以前のことがなかなかつかめないのですが、米子市については米子市米子にまだ「大きな屋敷が残っていた」と12年ほど前に聞きました。ほんとに爵位のあった人の子孫なのか、あるいは天皇家にもつながるのか、歴史的に非常に興味があり、投稿しました。 台湾総統府時代の一代前の初代街長というおじいさんのことはもしかしたら青木姓ではないかもしれませんが「…トクウエモン」という名を聞いたことがあります。「青木」又は「ゴトウ?」と結びつくか。。。。兄弟は福島に一人「青木次郎兄さん」がいたはずです。
早速当サイトで検索できる地名の米子市の青木、青木神社を見てみました。これと伊勢神宮とつながりがあるでしょうか? 青木花子を生んだ両親、その先祖はいったいだれ?
なんだか情報がいろいろで、本当のことがつかめずだからこそこのサイトの意味があるのだと思うのです。
私自身は現在海外におり、結婚した相手も「青木」とは無関係ですが、日本人として、遠く昔の歴史のロマンに触れ思いを馳せたいと思うのは同じでは。。。?
No.1263
Re: 台湾に渡った青木家
副管理人さん 2008/05/23 (金) 21:26
>返信ありがとうございました。早速の処理に驚きと喜び、このサイトの大ファンになりそうです!
>台湾に両親と共にに渡った青木花子はその後池上花子となりましたが、青木花子時代は聞いた話だと、菩提寺は神道で伊勢神宮だったと思います。家紋の話もきいたことがあるのですが、小さいころだったので記憶が甦りません。これ以前のことがなかなかつかめないのですが、米子市については米子市米子にまだ「大きな屋敷が残っていた」と12年ほど前に聞きました。ほんとに爵位のあった人の子孫なのか、あるいは天皇家にもつながるのか、歴史的に非常に興味があり、投稿しました。 台湾総統府時代の一代前の初代街長というおじいさんのことはもしかしたら青木姓ではないかもしれませんが「…トクウエモン」という名を聞いたことがあります。「青木」又は「ゴトウ?」と結びつくか。。。。兄弟は福島に一人「青木次郎兄さん」がいたはずです。
>早速当サイトで検索できる地名の米子市の青木、青木神社を見てみました。これと伊勢神宮とつながりがあるでしょうか? 青木花子を生んだ両親、その先祖はいったいだれ?
>なんだか情報がいろいろで、本当のことがつかめずだからこそこのサイトの意味があるのだと思うのです。
>私自身は現在海外におり、結婚した相手も「青木」とは無関係ですが、日本人として、遠く昔の歴史のロマンに触れ思いを馳せたいと思うのは同じでは。。。?
>
>
>岡本さん 今日は。
ご返事ありがとう御座いました。
故国故郷を離れて、台湾でのお住まいとの事ですが、故国の事を知りたいと思う事はよく判ります。
頑張ってください。
さて、このお便りからも古い情報が有りませんので、兎も角、米子の青木氏の事に付いてご説明します。青木花子さんのご両親と成りますと、明治の方と思われます。ここに大きいお邸を持っていたとすると、その財力から考察すると、この時代からすると、一代限りでは無い事の可能性が高いと観られます。
としますと、江戸時代からと成ります。そうしますと、江戸時代では自由に一族が移動する事は「国抜け」としてきつく禁じられていました。つまり、人口が自由移動すると、その藩の人口が減り偏る事になり藩は維持できません。
先ず、米子に長年居たとする事にしますと、江戸時代は武士であったか、商人であったかと言う事に成ります。砂糖商を営んでいたとされていますので、農民ではなかったと成ります。
武士ではなかった事も、家紋が100年程度で判らなくなっている事、宗派、菩提寺が判らない等は武士ではなかった事を意味します。普通は判っている筈ですし、本家、縁者も米子にいる筈ですが判らないほどに成っているのは武士ではなかった事になるでしょう。武士ではこの辺は厳格に護っているものです。
経緯から検証すると、明治、江戸末期ごろは商人であったと成ります。
この前提で、ここには皇族賜姓青木氏の足利系青木氏(本家筋)が信濃(長野)から移動して若狭湾の日本海の陸沿いに沿って鳥取付近に定住した。
その場所は、八東郡(八頭郡)付近と島根鳥取との国境(米子)との2ヶ所です。鳥取の東西に青木村を形成して定住していた。
もう一つは、島根に赴任した藤原秀郷流青木氏の一部が島根出雲付近に定着した。
同じ一族で讃岐(香川)の藤原秀郷流青木氏が安芸、美作(広島)に移り末裔を広げた。
この藤原秀郷流青木氏が平安時代に朝廷の命で赴任して一部分家が土地の豪族との血縁で定住した一族末裔です。(土地に子孫を遺すのは藤原秀郷一門の戦略でした。赴任地24国に全て遺す)
この藤原秀郷流青木氏は藤原鎌足の8代目の子孫:詳細は「藤原秀郷一門の生き方1-13」のレポート参照)
青木氏は皇族賜姓青木氏5家5流24氏と藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏の2つの流から出ています。(研究室の右メニューから皇族賜姓族関係のレポート参照)
これ以外に、室町後期、江戸初期、明治初期の3期に発祥した「第3の青木氏」があります。
上記の経緯検証から、商人と成りますと、この第3の青木氏の可能性があります。
青木氏は大化改新から伊勢青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5代の天皇の第6位皇子が臣下して親衛隊となり賜姓を受けて5国の守護王となった。
この皇族賜姓青木氏は、美濃、信濃、甲斐の国の土地の豪族と血縁して、近江の佐々木系青木氏、美濃の土岐氏系青木氏、信濃の足利氏系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏が生まれました。
ところが、この信濃の足利氏で跡目相続で揉め事が起こりました。
足利氏の本家と分家とが主導権争いをしたのです。
この足利氏の分家に藤原秀郷一門が介入して、この分家を本家にする様に上記の藤原秀郷一門が動いたのです。争いの結果、結局、足利家の本家筋が負けました。止む無く、この本家筋は美濃の国から一族を引き連れて日本海側に沿って苦しい逃避行を行います。この時、この足利氏系青木氏の一部も同行します。
そして、遂に、やっと鳥取までたどり着きます。そこで分散してしまいます。それが上記した鳥取の東西に分散した一族なのです。藤原秀郷一門の勢力が余り届かない米子付近と八頭郡に留まったのです。
この米子の青木と言う地名と、青木神社はこの末裔の村と神社です。
実は、この平安時代では、独自の村と神社を保持できるのは、皇族賜姓族青木氏の特別の権利です。
嵯峨天皇の時に詔で定められました。従って、この美濃の皇族賜姓族の足利氏系青木氏にはその権利があり、ここに独自の青木村と青木神社を造ったのです。
また、この時、青木氏を皇族以外の者が名乗る事を禁じました。(4氏ある)
藤原秀郷流青木氏も皇族賜姓青木氏と母方で繋がっていますので、青木村と青木神社を作る権利がありますので各地の藤原秀郷流青木氏が造っています。
そこで、この「第3の青木氏」とは、この皇族賜姓青木氏に因んで、明治初期3年の苗字令で苗字、家紋、系譜、ルーツの持たない庶民が、寺や神社に金品を渡して青木氏の系譜を搾取してもらい届けました。(明治以前は寺神社が戸籍簿の役目をしていた)この時、金品を払える商人などが、あやかって、皇族の青木氏を名乗りました。この「第3の青木氏」は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐、武蔵、下野、栃木等の青木氏がすんでいる土地で起こりました。
ところがこの青木氏には宗派、家紋などに矛盾が出ます。又、一族のつながりが余りありませんし、古い先祖の戸籍が有りません。寺には過去帳と言うものがあり、これが戸籍簿に成っていたのです。
従って、過去帳に乗せられる特別な者を除いて大変な為に戸籍系譜が普通は無かったのです。
100年程度しか経っていないのに、家紋、縁者、宗派、菩提寺などが不明に成っていることはこの族の可能性が有ります。ルーツが明治までしか確認出来ないのはこの青木氏と観られるわけです。
この賜姓青木氏は浄土宗ですですが、神道との事ですが、皇族賜姓青木氏の足利氏系青木氏は家紋は「二引き両紋」です。宗派は浄土宗です。神社は青木神社です。賜姓族と藤原秀郷流青木氏は浄土宗です。浄土宗はこの二つの青木氏ら一部の一族しか入信できませんでした。
もし、この賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏であれば、米子の浄土宗の寺に戸籍簿として残っている筈ですし、米子の青木神社にも氏子簿がありますので、確認されるとよいと思います。
神道というのは、この賜姓青木氏は自前の浄土宗寺を持ち、自前の青木神社を持っていましたので、神道なのです。
伊勢神宮は天皇家の神宮であり、個人の氏子を待っていませんので、念の為に。
宮家とのつながりを言われていますが、当時では宮家と繋がるにはそれ相当の身分家柄でなくては交際は出来ません。5家5流の賜姓青木氏や藤原系の公家程度で無くてはなりません。
もしそうであると、情報が不明と云う事はおかしい事です。商品の納入などでの付き合いはあるとしても。宮家とのつながりがあるとすると米子の青木神社にはお家の履歴がある筈です。
寺がなく、実は「神道」というのはルーツが無い事を意味しますので、「第3青木氏」のパターンなのです。
賜姓青木氏では有れば、家紋が不明かないというのは、疑問ですが、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の家紋が家紋掲示板にありますのでご覧下さい。青木ブログにもご覧下さい。
兎も角、米子の青木神社で確認されるとはっきりします。ご先祖、縁者も出て来る事でしょう。
詳しい事は研究室の右メニューでゆっくりとお読みください。御理解されると思います。
ご質問があれば、ご遠慮なくお便りください。
No.1264
Re: 台湾に渡った青木家
takako okamotoさん 2008/05/26 (月) 10:26 [
メール ]
副管理人さん、おはようございます。丁寧なお手引きありがとうございました。!非常に興味深くまた私の知り得ない日本の歴史に深く触れることができ感慨深く読ませていただきました。
そうですねー。引続き他の青木家の人々のアクセスも見ていればきっとそのうち「ええーあなた様が。。」なんて縁者がでてきそうなそんな期待をよせてこれからもアクセスさせていただこうと思います。まずは御礼まで。
No.1246
日本書紀と青木氏 1
副管理人さん 2008/04/24 (木) 10:08
日本書紀と青木氏
日本書紀には、下記に列記する通り青木氏の始祖の活躍が多く出て来る。
その活躍具合を現して、我等の先祖がどの様に生き有能であったかを検証する。
特に、この日本書紀が編成された時期は、未だ大化期とその直ぐ後の事柄について書かれているので、主に青木氏の始祖の伊勢青木氏と近江佐々木氏の活躍具合が現せる。
今回は伊勢青木氏とする。
以下の項目をで10シリーズに分けてレポートする。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
序として
日本書紀はその時期の出来事を事細かく日記的(編年体)に書きとめているものであるので、その活躍具合を表現するには、全編を見た上で、その[活躍どころ]がどの様なものであったかをまとめて、その行間前後の「活躍姿」を考察して、個々の活躍の「役目柄と背景」を見定める必要がある。
大化改新の詔に依って生まれた(伊勢)青木氏の始祖は、主に「伊勢王」と「施基皇子」(芝基)言う形で出て来る。
従って、その「伊勢王」(30箇所程度)として出てきたところの前後の文章の背景と予備知識(研究室)を考察して纏める事にする。
と言うのは、この日本書紀は天武天皇の皇子の舎人親王らが編集したものであるが、この日本書紀はただの文章と言う事であり、見てもその内容をよく理解できない。
大事なことは、日本書紀が出来た時の政治体制や、その状況や、天皇家の構成や、朝廷の状況や、50人に及ぶ皇子皇女の活躍具合や、身分制度や、公家百官の状況等を把握した上で、その行編を外から見る必要がある。又、舎人親王の人柄とか、書き難い事を間接表現している事もあり、又、後の行間でこっそりと簡潔に記述していることもあり、内側からも見る必要もある。
更には、それでなくては、ただの文章の羅列で何の面白みも生き様も見えて来ないのである。
その史料として、研究室にこの時代の史実をレポートしているので、それを大まかに把握されている事を思い起こして、お読みいただきたい。未だお読みに成っていない方は研究室の右メニューの「おすすめレポート」を参照しながら読まれると、よりご理解が頂けると考える。
「大化改新レポート」「天皇家皇子皇女の系譜」「阿多倍一族の活躍」、「青木氏の綜紋」、「青木氏のステイタスの生仏像様」等、を先にお読み頂きたい。
この時代は、日本の歴史上から観て、例が無く想像を絶する位に、「変化と活動」が大きく、政治、経済、軍事全般に及んで改革が進んでいる社会である。何せ、三権をリードしていた蘇我氏が倒れたあとでもあり、後漢が滅亡して帰化人(17県民)が押し寄せ、進んだ技能を持ち込んで民は潤い始めた時期でもある。高句麗、新羅、百済から政治難民が上陸し、国内で問題を起して騒がしく成っている時期でもある。
従って、当然、民の人心は、下記の「清素仁政」とは裏腹に、百花繚乱ならぬ百花騒乱の如くであっただろう。
以上の事柄を念頭に以下のレポートをお読みください。
活躍 第1節 白雉の年号
本書記録
”白雉元年(650)2月9日に長門国の司の草壁の連の醜経(しこぶ)と言う者が、天皇に珍しい白の雉を献上した。”とある。
”そこで、百済から来ている皇太子の百済君が、天皇に漢の国で白雉が多く出ると大変珍しく吉兆であるとされている”と述べた。”とある。
”周囲の高官が、更に、わが国でも白の鹿や白の雀などが出て大きな休祥(よきさが)で、唐から持ち帰った三本の足を持つ烏(やたがらす)の時もめでたい事だとしています。””まして、白の雉ともなれば、益々祥瑞であります。と述べた。”とある。
”重ねて、天皇の師で国博士の留学僧の「ミン」が、王者の行いが清素で仁政である時に、必ず白の雉が現れます”と述べた。”とある。
その後、”この事を知った天皇は皇太子達を呼び共に、儀式として、公家百官を集めて白の雉を庭に放つ儀式をした。この時、この儀式の為に「伊勢王」と他二人がこの雉の篭を天皇の前に置いた。”とある。
”天皇は過去にもこの吉兆が漢の明帝の時と、国では仁徳天皇の時には竜馬が現れたことが2度程ある。めでたい印であるので、以後、白雉元年と改元する”とあり述べている。
”全国に恩赦を発し、長門の国の連に恩賞を与え、3年間の免税とした。”とある。
検証
年号制定時の朝廷のエピソードである。
この様に、「伊勢王」は儀式のところで白の雉の篭を置いたと書かれている。
この白の雉のことで、「伊勢王」は動いた。
白の雉を「醜経」に命じて天皇に献上さして、それを使って天皇の権威を演出し、国政の道筋を国に示す裏段取りをしたのである。ただ単に、白の雉の篭を天皇の前に置くくらいの事は第6位皇子である「伊勢王」の仕事ではない。他の官僚が充分に行えることである。
しかし、敢えて、「伊勢王」にさせ占めた事には意味がある。
後の記事にも出て来る事であるが、「伊勢王」は「天皇の補佐役」として働き、皇太子などより重く用いているのである。そして、主に、軍略所(天皇の裏仕事を任ずる役)として、天皇の命で問題が起こると全国各地に飛び回っている。
日本書紀には段突に最も多くの場面に出て来る人物である。
むしろ、日本書紀では、天武天皇の死去の葬儀を皇后の持統天皇に、その有能さを認められていて、懇願されて、草壁の皇太子があるにも拘らず、代わって取り仕切っている程にはっきりと明言している。(後節記述)
伊勢青木氏では、先祖伝来の口伝で「軍略所」であったと「口伝」で言伝えられている事でも納得できる。
つまり、この記事は、「醜経」から届けられた珍しい「白の雉」を使って、「伊勢王」は一計を按じて、天皇(斉明の説)の威徳を全国に高める為に演出を計画したものである。
世情には「孝徳天皇」と「中大兄皇子」との軋轢、「有間皇子」(孝徳天皇の子)との軋轢、大化改新の歪み問題などの経緯もあり、又、人心と天皇の権威に不透明部分があった。
ここで、天皇の威徳を高める為に、この「吉兆、休祥、祥瑞」と説得力の持つ人物の各人に述べさせて、お膳立てを行い、儀式を行い、そこで、人心を一新させる為に年号をこの白の雉を使って改元する事の演出の裏仕事をしたのである。
ここで、疑問が湧く。
孝徳天皇死去(654年)時に年号を一時保留(廃止)した経緯がある。
しかし、日本書紀の記録で検証すると、上記のこの辺のところの解決策として改めて演じたのではないかと見られるのである。
その経緯を検証すると、疑問が出て来る。
実は、645−650年の「大化」年号の後、654年から701年まで(47年)年号が無かった事になるのである。
後の、天武天皇崩御の686年の「朱鳥」(あかみどり)の年号は直ぐに廃止された。
この白雉の年号も検証すると、国博士の僧のミンは654年没(653説あり)であるので、この儀式は孝徳天皇の650年とするのか、「大化」を一度廃止した上で、後(654年頃)に、元号の復原儀式を改めて行い「白雉年号」の元号化を図った儀式とも考えられる。
本書記録では何れとも明言していない。
そこで、どちらなのかを観てみる。
孝徳天皇は645年から650年までの大化期の天皇であり、650年から654年までの孝徳天皇の皇位の威厳は中大兄皇子に移り実質無かった。
この時期は中大兄皇子との軋轢がはっきりとして時系列で確認出来る。
2度の遷都劇で既に追い落とされた経緯がある。
遷都劇の時系列 飛鳥宮 650.10 −難波柄豊碕宮 651.12 −飛鳥宮 653.8 −近江大津宮 668
時系列では、故に、650-654年前は孝徳天皇は軋轢と病気と遷都劇から天皇としての権威は全く無かった事になる(疑問1)。
更に、中大兄皇子の子供の「伊勢王」を儀式の中心にするのもおかしい(疑問2)。
既に、日本書紀の記録では白雉の年号に成っている(疑問3)。
又、この儀式は何処で行ったかと言う疑問も出る(疑問4)。
誰も居なかった権威の無い難波ではおかしい(疑問5)。
これ等の疑問1−5を解消するには次の4つの説が考えられる。
この事から、
第1には、大化年号を650年に一度廃止し、数年(4年位)して、再び斉明天皇(654)の天皇の権威を挙げるために、中大兄皇子が「伊勢王」を使って”改元(復元)”劇を演じたとも考えられる。
何故ならば、日本書紀の記録では、この劇の日は既に2月9日以降(650)である。白雉改元から実質3月以上も経っている。年号が始まっているのに、年号儀式はおかしい。(疑問6)
第2には、推測として、天皇が代わる事の度に年号が変わるが、しかし、これ以後、4人の天皇が代わっているが、年号が無い事に対して、後で追記したとも考えられるのではないか。
その為に、後で権威付ける為の僧ミン等の発言を入れたが、日付の矛盾が出た事になる。(654年説では可能)
第3には、653−654年頃にこの儀式を、斉明天皇共に中大兄皇子の元で行い、再び年号を復元儀式をして5年遡ったところを白雉元年としたか、儀式日を5年としたとも考えられる。
この第3の説が、始まったばかりの当時の年号意識からは自然ではないか。そうすると全て疑問(1−6)と矛盾は解決する。
第4には、650年説とすると、軋轢の真最中の時であるし、白雉の演出劇の日の記録がおかしい。(疑問7)
そこで、「軋轢問題」の検証で観てみると、時系列の記録では次の様になる。
650.3月 白雉の儀式
650.4月 造営開始
650.10月 造営中の仮小屋に遷都
651.12月 天皇移動
652.12月 完成
653.8月 飛鳥遷都となる。
これを観ると、儀式の1月後、直ぐに遷都劇の造営を開始している。つまり、権威失墜を開始したとなる。軋轢はその前となる。
650.10月では、中大兄皇子の皇太子が移動している。
650.4月の造営開始とは、本書記録 ”4月には土地、住居、墓の撤去の保障をした”とある。
650.5月には ”将作大匠荒田井直比羅夫(たくみのおおつかさあらたいのあたいひらふ)に境界標を立てさせた”とある。
保障し境界杭を立てた時期である。
従って、この時系列記録では、計画立案はその前に行うので、649.4月頃以前である事になる。
つまり、遷都劇は軋轢真最中の649年の始め頃に、わざわざ、遷都劇の計画で、天皇の権威を下げようとしている時に、”天皇の権威を高めることを「伊勢王」を使ってするか”と言う疑問が出る。(疑問8)
もし、したとすると周囲から”何をやってんだ”となる。慎重で計画的な政治戦略を実行する皇太子中大兄皇子は「伊勢王」にそんなバカな事はさせない。
要するに、自然に失墜したのではない。失墜させたのである。
実は本書記録にその証拠がある。
”皇極4年6月14日 皇極天皇が中大兄皇子に譲位を打診した。中大兄皇子は即答を避けて、中臣鎌足に相談された。 中臣鎌足は、古人皇子は兄上です。軽皇子(孝徳天皇)は叔父上です。古人皇子がお居でになる以上、殿下(中大兄皇子)が行為を継がれた場合、弟が兄に従う人道に背く事に成ります。 暫くは、叔父上を立てられた上で、人心の望みに暫く叶うようにしてはいかがでしょう。とあり、中大兄皇子は大変褒められて、密かに天皇に奏上した。”とある。
ここでキーワードは4つ有る。
舎人親王は敢えて、明らか様に記録しているのである。
”暫く”@は、”叔父上を立てられた上でA”であり、”大変褒められてB”、”密かに天皇にC。”である。
@からCから観て、5年の前から、初めから大儀名文を得る為に譲位前より失墜を決めていた事に成る。
即ち、叔父を立てておいて、後に人心が落ち着いたら、戻す。その戦略が良い事を褒めた。そのため密かに、計画を進めた。と言うことである。 実に戦略的である。
現に、3月後には計画を進めて、古人皇子を先ず打った。
その記録は次の通りである。
”大化元年9月12日(645年皇極4年 多説あり) 古人皇子を謀反の嫌疑で打たせた”とある。
645.6月で失墜計画は始まる。
白雉儀式劇の650.3月では、軋轢のピークとなる。
650.4月の時点で、既に権威は完全失墜している。
公家百官も知っている。改新の実績者は皇太子である。権威どころの話ではない。
この事から、全疑問(1−8)を解決するには、次の筋書きが当然に生まれて来る。
検証筋書き
先ず、権威の失墜した”孝徳天皇の大化は終わったのだ”とし、”斉明天皇の時代(中大兄皇子)の新しい時代が始まるのだ”と宣言する為に、654年にめでたい「白雉年号」を持ち出し演出して「遡り年号」として後に、直に廃止した。そして、軋轢などが国中に伝わっている暗い人心の払拭をも狙ったと考えられる。これが最も有力な説であろう。
この疑問解消説を証明出来る記録を更に次に示す。
年号の疑問解消の有力説の証明
日本書紀には、当時の事情が不明であるので、この様な矛盾が出る事が多いのである。後にも続々と出て来る。
わが国の年号の最初は、「大化」からであるが、「即位や瑞祥と災難」等で一応”改号”される仕組みであった。
従って、年号に対しての考え方は未だ臨機応変に緩やかであった筈である。
大化改新の改革内容を始めとして、自らが天皇に成らず、傀儡天皇の「孝徳天皇」を押し立てて、自らは皇太子(中大兄皇子)として政務を執り行うなど、実に人心に気を配っている。
孝徳天皇の子の有間皇子を暗殺し、そのカモフラージュで孝徳天皇に天皇の座を譲り、自分は蘇我氏の事件では「興国の士」としての立場を保持して、人心の矛先を逸らした位である。
まして、天智天皇の皇位は、23年間の政務の内、最後の3年間だけである事からも、物事にお膳立てをして、期を熟してから実行するなど、実に慎重で戦略的な性格である事が言える事でも本説は頷ける。
又、「孝徳天皇」との軋轢の解決も、突然に都を移し、「孝徳天皇」をそちらに引き込み、又、ある日突然に再び「孝徳天皇」だけを置き去りにし、突然に元に戻り、暫くして遷都とする等の早業を実行して解決している。
白雉の儀式劇程度の本説有力説は納得出来るだろう。
これ等の一連の戦略は天智天皇(中大兄皇子)が自ら描いた筋書きだけではなく、裏で「伊勢王」等が描いた筋書きではと観ている。年号の儀式もこの範疇にあったと観ている。
第一、次の疑問9として、何故に50人もの皇子が居る中で篭を置く仕事を「伊勢王」だけなのか疑問も湧く。
疑問9の検証
それは、15人(19人)もの第4世高位王までの者が赴任地に居ながら、後に第7位皇子の兄弟の近江王の川島皇子と共に、「伊勢王」は都で天皇の下にて働いている。
そして、伊勢国には、代わりの行政官として日本書紀にも出て来る大物の「三宅の連」を国司として派遣しているのである。
この様な背景を下に、前後の歴史的史実を考慮すると、この記事は明らかに、後でも記事を読んでいくと、”白の雉の篭を天皇の前に置いただけの行為”だけでは無い事がよく判る。
つまり、権力闘争の政治性が働いている。
日本書紀のこの前後の行間を読んでいると、大変気を使っていることが判る。つまり、この時期には「人心」が大きく動いていたのではないかと推測できる。
だから、皇子の一人の有能な「伊勢王」を特別に天皇と皇太子(中大兄皇子)の側に置いていたのである。この「伊勢王」には補佐役(三国公麻呂 倉臣小糞)として2人が付いていたと見られる。
実は、この時期の慣習として、「白雉」を使うと云う事は偶然の一致ではなく、一つの「儀式の象徴的物」として捉えているのである。
この記録が他にもあるのである。上記の有力説の証拠でもある。
有力説の証拠
この同じ演出記録がある。
「天武天皇」の即位(668)の”天武元年3月17日にも、この白の雉を備後の国司が亀石郡で捕らえた。”として朝廷に届けている。
そして、”亀石の郡には課役の全免除を与え、全国に大赦令を出した。”と記録されている。
更に、”天武元年4月14日(668) 「大来皇女」に初めて最初に伊勢神宮の斎王を命じた。”とある。
(これが伊勢神宮の正式認定であるが、記録から天武4年が実質であろう。それまで「大来皇女」は泊瀬の斎宮に居た)
「天智天皇(中大兄皇子)」は、伊勢に天皇家の守護神の「伊勢神宮」を建立し、お膝元の伊勢の「伊勢王」に演出させて、人心をここに集めて「伊勢神宮」と「伊勢王」の存在価値をももくろみ演出したものである事が判る。
即ち、全く同じ事を「天武天皇」も行った訳である。
「斎王斎宮の設定」と「白雉の儀式」と「年号の改号と廃止」も、遅れてこの天武14年7月20日に「朱鳥」(あかみどり:686年)と改号した上で、「直に廃止」している事からも証明出来る。
慣例的、且つ、象徴的に用いられた「白雉」の年号の結論は、「中大兄皇子」も「孝徳天皇」没の年(654)の「中大兄皇子」の政権となった斉明天皇の斉明元年(654年)に「白雉儀式」を行った上で、白雉の元号を「直に廃止」したとなる。
つまり、天智天武の2人の天皇には共通する3つの条件、即ち、「伊勢神宮」「白雉の儀式」「年号の改号と廃止」を伴なわせた慣例を造ったと成る。
「伊勢王」
「伊勢王」の働きは、これが本書の記録では最初である。
当時は、寿命が45-50前後と短い。従って、記録によると、社会は6歳頃から一人として扱う時代であった。時代が進み寿命が延びるに従い、10歳、15歳へと変化し、現在では18歳程度に成って社会に出ている。
「伊勢王」(643?-689)も、この時点では補佐が付いていたと見られ10−12歳程度であろうが、記録から実に利発で賢い人物だったと観られる。
「伊勢王」の生誕は不明であるが、皇子皇女の生誕のわかる人物から計算すると、640-645年頃となり天智天皇(626-671)の年齢から当時の可能な範囲では642-644と成ろう。
既に、天智天皇(中大兄皇子)は自分の3人の皇子を朝廷で働かしている事は、この利発と賢さを将来に見込んで鍛えていたと見られる。その一つがこの白雉の年号儀式に中大兄皇子は「伊勢王」を用いたと見られる。
本書編者の舎人親王も、この利発で賢い皇子の「伊勢王」の活躍具合に対して、「畏敬の念」を持っていた事が判る。本書の登場回数とその表現内容でも判る。そのことを念頭に次をお読み頂きたい。
この舎人親王の伊勢王に対する「畏敬の念」は後でも記録されている。
参考
「白雉年号」は一説では650−654年(大化645−650)とされているが、654年以前の5年間も日本書紀の年号から見ると途中から記録上で続いている。
斉明天皇の女性天皇になった時期の654年に廃止してから、天武天皇の朱鳥元年の686年(686年廃止)まで年号は消えたとの説がある。
更に、「朱鳥」の年号も廃止されているから、この説では次の大宝は701−704年であるので、この事から654年から701年までの47年間年号が無かった事になる。
高市皇子は「壬申の乱」の時、19歳で全軍の指揮を執っている事が記録されているので、10歳程度では政務は可能である。大友皇子は太政大臣で24歳であった。
日本書紀の改新詔の第1のところにも、青木氏発祥の概容が書かれている。
本書は賜姓に関しては個別には記述を一切していないが、「公地公民の制」に基づき、今までの身分制度を改めて、皇族4位と5位王以上(以前は6世7世王まで)を大夫(まえつきみ)として、人民を統治させる。そして、食封(へひと:戸口による給与)を与える仕組みとする。とある。(646-647)
全体像を見るために、他の史料と合わせると、この時、この定めにより、第6位皇子(施基皇子)で4(5)位王となり「伊勢王」の「伊勢大夫:統治者」と成り、賜姓にて青木氏と仏像を賜ったとある。川島皇子も例外として5位王として近江の地名より佐々木氏の賜姓を受ける。近江王と成る。
「斎王」とは、天皇の皇女が伊勢神宮の祭祀や儀式を執り行う事として、この皇女は永久未婚を通す定めであり、長くこの仕来りは護られた。伊勢青木氏はこれをサポートする役目でもあった。
「斎宮」とは、「斎王」が身を清める所である。
「舎人親王」は676−735年 天武天皇の皇子 淳仁天皇の父 元明朝から聖武朝にかけて活躍 日本書紀の偏纂 文学に秀で先駆的な歌人 性格穏やかで知者 皇子の中でも最右翼の実力者 淳仁天皇733-765 位758-764の親 一時その有能さから天皇に推された経緯事もある。
皇極天皇(斉明天皇)594-661(660) 皇位642-645 皇位654-661(660)
孝徳天皇は597−654年 位645−654年
天智天皇は627−671年 位668-671年である。
天武天皇は630?−686年 位は673−686年
斉明天皇は594−661年 位642−645 665−661
持統天皇は645−702年 位690−697年(太上天皇)
国博士僧みんは654没 653年説もある(632帰国)
施基皇子は643?−689年
草壁皇子は662−689年
高市皇子は653−696
大津皇子は654?−686
考謙天皇は718-770 位749-758
聖武天皇は701-756 位724--749
文武天皇は683-707 位697-707
特記 日本書紀の編成
史料によると、”日本書紀は天武天皇の発意で始まり、元正天皇の時(720年:養老4年:親王は45歳)に編集は終わった。”となる。
本書は漢文で出来ているが、全巻を通して、用語や用字の方法が巻毎と部分的に著しく異なる。これは多数の人が分担し執筆した事によると見られる。これを総裁の舎人親王が自分が観てきた時代の内容をチェックして、編年体での表現方法等の工夫や、非適切な表現等の修正や、文章の配置等の編成をし、編成責任者として1つにまとめ上げたものである。
ところが、31年経過完成という年月から、記録人、時、場処、史料が違う事から、矛盾、間違いが起こっているのである。
初めての大事業であるので、そこまで舎人親王はチェックを成し得なかったのであろう。否定するものではなく理解はできる。
特長として挙げられることは、この記録人の中には、帰化人が多く、史料の間違いを母国から大和を見て書いたそのままを移書きしたものがあり、史料の間違いどころから見て、後漢、百済、新羅の国の帰化人が殆ど多く関わった事が判るのである。この事から来る問題も多く含んでいる。
文章から、諸氏伝、地方伝、個人伝、覚書、中国古籍類などの特長が出ていると言われる程に確かに異なっている。この様なことから、全体として、整理、統一、修正が充分では無かった事が判る。
故に、古事記(712年:和銅5年)は、書き始め(序)で明記している様に、これを見直し編成した史籍であろう。
因みに、古事記の史料では、次のように表現している。
噛み砕いて言うと、”諸々の用いている史料や日本書紀は、経年から見て観察すると、事実と異なり間違いや虚偽や不揃いがあると見られる。現代(和銅)から見てそのミスを改めなければ、何時かはその史実は消滅するだろう。”と記述されている。
ただ、この事を否定要素と捉えて、本書の「日本書紀」の史実を政治目的の為に打ち砕く思惑のあるグループも存在する事も配慮せねばならない。
しかし、確かに疑義や違和感を抱かさせるが、「初めての大事業」の所以であろう事が、文章の前後関係や舎人親王の優秀さや多史料での照合の検証をする事で理解できる。
むしろ、日本書紀は「編年体」であって「記述体」(物語風)の赴きを持ち得ている事(詩文の様に)が判るのである。
つまり、詩文や和歌、連歌、俳句の様に、”想像して疑念を抱かせ、楽しませる”と言う技法を採用しているとも取れる。その方が、検証していると、推理が解けて喜びが湧き楽しいのである。
丁度、試行錯誤してやっと魚が釣れた時のあの感情に似ているのである。
舎人親王は、編成に当って、この技法で故意に後勘に委ねたとも受け取れる。
私は、日本の「詩漢の祖」(詩文興隆の祖)と言われる舎人親王の経歴と巾のあるその有能さを本書の編成に持ち込んでいると考える。
小説でも作文でも、戸籍簿の様に無為ではなく、千差万別の作者の個性が色濃く出るが如く、「日本書紀」も同じではないか。それの方が面白味が出ると言う事で正しいと考えている。元来、本(記紀)の本質は個性=面白味の表現であろう。
「詩漢の祖」(詩文興隆の祖)の舎人親王ならば、”ただ歴史の史実を単純にまとめた”と言う訳では無かろう。ロボットではあるまいし、それならば誰でも出来るだろう。
他書の「日本書紀評価」はこの辺の検証がない。私はかねがね疑問を感じていた。そこで、検証して見ると、案の定、「詩文的表現方法」を駆使して「魚釣りの極意」を披露している。「後勘」に委ねる「楽しみ」即ち「趣心」で編成していると見える。
多くの資料の突合せでは無理であった。その中で舎人親王の史料を見て、ハッと閃いたのである。詩文的に状況や趣を表現している筈だと。そして、再度挑戦し、この手法のお陰で、大分苦労したが長い年月を経て、遂には本書の「伊勢王」の詩文的記録で青木氏の「生様」が観えて来たのである。
特に、次の節の疑問の答えが第1節の証拠とも成り得るのである。
これらの点も留意して、続々と出て来る「伊勢王」の活躍具合を、次からの「伊勢王(青木氏)」の日本書紀の記録検証を、長文ではあるが我慢して是非お読み頂きたいのである。
次は「伊勢王の薨去」と云う項目で青木氏の関わりを記述する。
No.1247
Re: 日本書紀と青木氏 2
副管理人さん 2008/04/24 (木) 10:25
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活動 第4節 「諸国の巡行」
活動 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活動 第6節 「天皇の名代」
活動 第7節 「天武天皇の葬儀」
活動 第8節 「善行説話の編集」
活動 第9節 「伊勢行幸」
活動 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
斉明7年(660)に”6月 「伊勢王」が薨去した(死去)”と記録されている。
1年後の ”秋7月24日、(斉明)天皇は朝倉宮に崩御する”と記録されている。(661)
ところが、後のページのところには、この年(661:斉明7年)の7年後(668:中大兄皇子即位)に”天智(斉明没)7年6月 「伊勢王」とその弟王とが日をついで薨去(死去)した。”とある。
注意
斉明天皇崩御から7年間中大兄皇子は即位しなかったので、本書では天智7年(天智元年:668)と記録している。
本来の元号方式では、中大兄皇子は天智天皇に成った年は668年であるから、従って、天智4年までである。
斉明天皇崩御から観ると、天智7年である。
検証
この二人の「伊勢王」とは一体誰なのか疑問が湧く。
第1節の「伊勢王」と、第2節の2人の「伊勢王」の3人の「伊勢王」は誰なのか。(疑問1)
第1節での働きがあって、”概ね6−7年後に薨去した。”とあり、更に、7年後に、又、”薨去した。”とある。「伊勢王」が何人もいる訳が無い。
先ず、この大化の改新で定められた「第6位皇子」の臣下方式で考えると「施基皇子」となるが、この人物で検証すると、無理は無い。
大化期の皇子順位の第6位皇子を「伊勢王」(689没)として配置し、臣下させ、賜姓(青木氏)し鞍造部止利の作の大日像を与えたと複数の古書録にある事から、検証すると次の推理が生まれる。
第1節の時の「伊勢王」が天智天皇の子供の「施基皇子」とすると12歳前後である。
第2節の前の「伊勢王」を「施基皇子」とすると17歳である。
第2節の後の「伊勢王」を「施基皇子」とすると24歳である。
「施基皇子」と「伊勢王」は689年(45−46歳)に平均寿命で死去している。天武天皇死後の天武没後3年に死去している。
この後、「伊勢王」は、未だ30回程度は日本書紀にその活躍の内容で記録されているのである。
この活躍具合から観て、天智天皇や天武天皇が常に「伊勢王」を側に置いて補佐させて働いている状況を観ると、身内の子供であり、天武天皇からすると甥であり、同じ天智の子供の大友皇子との皇位争いの「壬申の乱」の時の味方でもある。
天武期に於いてはこの様な補佐をさせられる信用の置ける人物(30歳)は他にない。
この事から、兎も角は年代は別として、経緯から、本節の前者は「施基皇子」であり、後で出て来る「伊勢王」であろう事が判る。
この時代の王の祭祀や儀式には6-10歳程度で補佐役を伴ない出て来る。このことから考えれば第1節の儀式の「伊勢王」は「施基皇子」と考えても問題は無い。現実に中大兄皇子の補佐が明示されている。中大兄皇子が軋轢中の孝徳天皇の子供の「伊勢王」に天皇権威の演出劇の補佐をさせる事は無い。
そうすると689年の死去までこの人物で一貫して考えられる。
現に、”持統天皇に、歳を取っているがと言い、特別に懇願されて、天武天皇の葬儀の指揮を取る様にした。”とする様子の記録は納得できる。持統天皇は天智天皇の子供であり、「伊勢王」(施基皇子)と腹違いの兄妹でほぼ同年2歳下である。
そうすると、疑問が出る。
つまり、疑問2として、この間のこの2つの記録の「伊勢王」は”どのように説けばよいのか”難しい。
ここで、実は、”孝徳天皇の子供(詳細不明)が3人居て、一人が有間皇子であり、更に一人は「伊勢王」に成り、直ぐに孝徳天皇と中大兄皇子との軋轢で、天智天皇により排除された”とする記録(病死)があり、この時は大化のすぐ後の事である。647−648年頃である。
(有間皇子は中大兄皇子の命で、蘇我赤兄により暗殺された。)
中大兄皇子は伊勢神宮を天皇家の守護神として天照大神を定めて祭り、三種の神器を内、「八た鏡」をご神体と定めたが、この初期にこの孝徳天皇の皇子の人物は外されている。
伊勢国に対して「不入不倫の権」を定めた。そして、正式には伊勢神宮は天武天皇が大増築して斎宮を置き、天武元年(実質4年)より正式に祭祀を行い定め徹底した。
この伊勢神宮の記録から、「伊勢王」は孝徳天皇の子供ではない。
伊勢神宮の制定の前の「伊勢王」は孝徳天皇の子供となる。
この経緯論からすると、後者の記録は、孝徳天皇の子供となる。
有間皇子(暗殺)と兄弟二人(病死:暗殺)で3人となり一致する。
この一環の施策の中で、守護神と決めた段階で、天智天皇(中大兄皇子)の子供を、その土地の伊勢国の守護職として、自らの子供の第6位皇子を臣下させて護らせたものである。
この時期に孝徳天皇の子供は外され病死している。(抹殺されたか)
この後、直ぐに第6位皇子に「伊勢王」を任じている。
同時に、大日像のステイタスを与え青木氏を賜姓している。
第7位皇子の川島皇子にも同時に近江王の佐々木氏を賜姓している。
この事からも、前者はこの孝徳天皇の子供の人物ではない事に成る。
固有名詞で「伊勢王」に任じたとする記録は、日本書紀では正式記録されていないので、判断が尽き難い。
何はともあれ、日本書紀に記録される人物である。
真人族や朝臣族程度の者でなくては記録されていないところを観ると、まして、舎人親王が偏纂したのであるから、親の政敵の子供の事であり、大化始めの事の人物をわざわざと記録するかの疑問もある。
日本書紀にはよく出て来る者は19人中の高位王では「伊勢王」と「近江王」と「栗隈王」程度の王だけである。
研究室の「天智天武の皇子皇女の系譜」史料にも記述しているが、天智天武の皇子は合わせて12人で4世王位の者までを入れると日本書紀に書かれている王は19人である。
しかし、特に、その活躍具合を詳細記録されている人物は草壁皇太子と高市皇子と大津皇子と施基皇子(伊勢王)と川島皇子(近江王)と栗隈王(筑紫王)程度である。
この検証から観て、明らかに前者は孝徳天皇の子供の「伊勢王」ではない事に成る。
推理1
孝徳天皇の子供を病死としていたが、第2節の後者は実は病気中であって死んだので、「前」と書かずに記録したとも考えられるが、軋轢の子供を史実として書くほどの話かは問題である。
では、”前の「伊勢王」は誰なのか”と成る。(疑問3)
前の「伊勢王」の第6位皇子はこの時は17歳であるので、平均寿命は当時は45−50程度であった事からすると、充分に補佐役なしで仕事が出来る歳である。
後の「伊勢王」の記録には補佐役は出てこない。
推理2
この時点で、第6位皇子は上記したように第1期の皇親政治で政務官職が忙しく、天皇から都に呼び出しが掛かっている記述が後節に出て来るので、この時「伊勢王」を子供に任したが、この子供が若くして死んだ。”伊勢王にした若い子供の「伊勢王」だから、代理政務官の大物の三宅の連を国司に当てたとも考えられる。
止む無く、続けて死んだので、次に”「伊勢王」は自分がした”とすると、後に10回出て来る事から考えても”2人の子供も死んだ”とすると理屈が合う。
しかし、”続けて死んだ”の根拠はどの史料でもない。
身内の者で政治をリードする体制の「皇親政治」は、この時期から始まったのであるが、この時、呼び出しがあったので、天武天皇期では皇子第6位と第7位の皇子も呼び出しを受けて補佐として活躍している。
普通は大化改新では皇子の第4位(5位)までの者が政治に関わる事を決めたのだが、この二人は特別であった。日本書紀に記録されている天武期では草壁皇太子より働いているのである。
このシステムは「皇親政治」の所以である。
ところが、後での記録で記述するが、疑問の決定的その答えが出て来るのである。
先ずは、その答えから述べる。
答えは、編集ミスである。
”天智7年6月 「伊勢王」とその弟王とが日をついで薨去(死去)した。”
「天智7年」は、「孝徳7年」の間違いである。
つまり、孝徳7年は651年である。
中大兄皇子が実行した645年の大化の改新の政変劇からすると、7年である。
孝徳天皇には、この時二人の皇子(中大兄皇子と争いで有間皇子は既に死亡)が居て、「伊勢王」であったとされ、この二人は”同日病死”と成っている。
651年は第1節で述べた軋轢の政変劇のところである。
この”同日病死”は史料の一説では「暗殺」であったとされている。有間皇子の事から考えれば充分に考えられる。有間皇子を暗殺して残りの皇子を其の侭では理屈は合わない。
経緯
前節のところで記述したが、慎重で、戦略的家であり、センシティブな中大兄皇子は、この650年前後の孝徳天皇との争いで「向後の憂い」を無くす目的から、この孝徳天皇の二人を有間皇子と同じく抹殺したと見られる。
そして、その後に自らの皇子を「伊勢王」にして体制を保ち、第1節の動きと成った。空かさず、その為のデモンストレーションを演じた。と考えられる。
その証拠に、二人、病死、7年、粛清、暗殺、伊勢王、孝徳、年数、年号、月、年齢等の全ての条件に矛盾は無くなり一致する。
では、前の「伊勢王」の薨去は、どの様に理解すれば良いのかという問題に成る。
斉明7年(660)に”6月 「伊勢王」が薨去した(死去)”は次のように成る。
これには大変苦労した。
実は、本書の末の689年頃に「伊勢王」、「施基皇子」、「第6位皇子」、「爵位浄大1位」、「朝臣族」、「伊勢の首魁」等の固有名詞での薨去の事に第一全く放念し気づかなかったのである。
よく調べてみると、15人程度の上位皇子、王位の薨去の記録があるのに、本書で最も活躍した「伊勢王」等の薨去の記録が編年体であるのに無いのである。
そして、この事に気づいて、この第2節のこの二つ目の疑問の解決の為に、調べ直したのである。
その事で長く放置していた疑問が解けたのである。
その答えは、編集ミスである。
つまり、”斉明7年”は”天武17年”である。
天武崩御686年後、4年間は天皇不在で、持統天皇は2年間は喪に服する時を経て、妃から皇后になり、草壁皇子の病変問題、伊勢王の薨去等があり、その1年後にも即位を宣言したが即位しなかつた。4年目の690年でやっと即位したのである。
政治的にも揺れ動いた期間であり、本書記録的にも煩雑を極めている。(後の節で詳しく述べる)
後者の伊勢王は、上記の病死事件の経緯から、孝徳7年(651年)である事に成る。
中大兄皇子の650年ごろからの前節の時系列から観て、651年は納得できる。
天智7年は孝徳7年の編集ミスである。
その間、崩御前「朱鳥」の年号に改元するが直ちに廃号した。
天武期となる期間が690年まで続く事に成る。この辺のややこしい所の編集配置ミスをした事に成る。
崩御で年号を変えるか、即位で年号を変えるかの問題である。
この時は、まだはっきりと定まっていない。
従って、性格に間違いなく言うと、天武没3年後の689年は天武17年(天智没差)となる。
天智没671年で、 天武即位673年で、2年間即位なしがあるので一致する。
斉明7年は、天武17年の「編集間違い」である。
これで「伊勢王」薨去なしの疑問は解決し、本節の2つの「伊勢王」の薨去問題と、3人の「伊勢王」と、第1節の後付の白雉年号の問題も根拠があり全て一致して解決する。
即ち、多すぎる「伊勢王」薨去の記録と、薨去記録なし(後節でも記述)は解決する。
以上、出て来る「伊勢王」はその記録のくだり内容から無理は無い事になる。
第1節の所で、「特記 日本書紀の編成」でも「編集ミス」等のその特長を記述したが、第2節の既に、「編集ミス」もあった。
兎も角も、本節は後の記録の内容でも判断出来る。
この説を詳しく検証した第7節でも「編集間違い説」を記述した。
そこで、次節以降の事前情報として、留意して頂くべき内容を特記する。そうする事でより検証が巾広くご理解いただけると思われる。
特記
本書以降(持統期以降)の内容としての情報である。
光仁天皇までの第6位皇子(青木氏)には多くの子供がいて優秀な人材が多く居た。その一人は桓武天皇の前の光仁天皇である。
大化改新で定めた皇位継承順位では、平安期初期の当時は、即位できる4位(又は5位)までの皇子が少なくて、5人の女性天皇が存在している程である。結局、継承外の子供の多い施基皇子の一族に天皇を当てる以外になかった事を示し、この光仁天皇も第6位皇子(施基皇子)の子供であり天皇にした経緯がある。
この間、草壁皇子の子供(文武天皇)や舎人皇子の子供(淳仁天皇)も短期間の天皇に成っている。
桓武天皇期(781)には第6位皇子の賜姓を嫌って無かった。その代わり、母(高野新笠)方の「阿多倍の一族」の末裔を「たいら族」として、阿多倍の呼称「高尊王」に似せて「高望王:平望王」 を架空設定して伊賀に住む第6位皇子と見せかけて賜姓して引き上げた。
これが5代後の後の清盛の京平氏である。
この経緯からすると、賜姓は「第1の流」を「青木氏」とすると、阿多倍一族の京平氏は「第2の流」であり、「第2の流」は以後興隆を続けるが、この2つの「流」は共に相反する「流の勢い」を持つ。
持統天皇末期から始まり、この時点でも「伊勢王」を始祖とする「第1の流」の5家5流の青木氏は衰退を辿って行ったが、この光仁天皇の孫、つまり、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、前の平城天皇(兄弟)と、この相反する「流」の族に対して反目(政治争い)があった。嵯峨天皇は反対を押し切って皇族賜姓に戻し、問題の多かった天智期からの皇位継承方式を弘仁5年に変更の詔を発している。そして、第6位皇子を源氏と変名した。11家11流続いた。これが「第3の流」である。
これより賜姓の発祥時期から観ると、この第2と第3の二つには約30年の差が有り始まった。
この2つの「流」も当然に、繁栄衰退では共に相反する「流」に成る。{
「第1の流」と「第3の流」とは「同流」の族となる。繁栄衰退は共存の流を持ち、後には、第2の流に対抗する為に、同族血縁し「統一流」となった。
この時、今までの第6位皇子の青木氏の「第1の流」の氏は、皇族の者が下族する際の氏として定めた。これが「第4の流」であり、3家の氏を発祥させた。要するに第1と第3の分流族である。
「第2の流」と「第3の流」の間で、何とか「第1の流」の子孫繁栄は維持できた。
「第3の流」11家11流は、結果的に本流の何れも子孫繁栄を維持する事は出来なかったが、「第1の流」が「統一流」としてこれを保持した。
この様な経緯と関係を持つ「第1−4の流」は、本書では「第1と2の流」の記録と成るが、持統天皇末期から桓武天皇までの間では、伊勢の青木氏は上記の摂理で衰退の一途であった。
しかし、この嵯峨天皇は、桓武天皇の治世を見直した為に、伊勢の青木氏はやや一族は息を吹き返すのである。(後述)
嵯峨天皇の詔ついては、皇位継承は「4位方式」から巾を広げて「4世方式」に変更した。この時、臣下方式は第6位皇子を其の侭にしたのである。青木氏(朝臣族)が還俗下族する時の氏姓として変更し、他の者の使用禁令を同時に発した。これが原則明治初期まで維持された。
参考
「譜搾取偏纂期」(弘仁の詔が護られなかった時期)
第1期の室町末期 第2期の江戸初期 第3期の明治初期では護られなかった
「皇親政治」
第1期の天智天武の皇親政治 第2期の桓武嵯峨期の皇親政治 第3期の醍醐村上期の皇親政治
「還俗、下族」
還俗と下族は皇族の者が皇位より外れ僧となって比叡山や門跡寺院などに入るが、その後、下山して一般の者の俗人となる事を言う。皇族の者の下族は僧にはならず俗人となり氏を立てて一族を構成する事
「嵯峨期以降の青木氏」
詔を発した嵯峨期以降の青木氏が現存するのは3氏のみである。
「嶋左大臣の青木氏」、「多治彦王の丹治流青木氏」、「宿禰橘流の青木氏」であり、全対象者は18人であったのみである。殆どは比叡山の高僧僧侶となり子孫は遺していない。
この他、清和源氏の頼光系の高綱ら3人が日向に配流されて、保護した土地の娘との末裔が、逃亡中朝臣族であるので、青木氏を名乗った記録があり、未勘青木氏として日向青木氏(末裔確認済み)がある。
美濃に伊川津7党の中に青木氏があるが、未勘青木氏と見られる。
「有間皇子」は「中大兄皇子」との皇位争いで命を受けた「蘇我赤兄」が和歌山県海南市藤白の藤白神社近くの熊野古道沿いの所で、白浜温泉から帰りに、後ろから絞殺された。
次は、活躍 第3節 「伊勢国の重要度」である。
No.1248
Re: 日本書紀と青木氏 3
副管理人さん 2008/04/24 (木) 10:34
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
”天智天皇没(壬申の乱) 飛鳥にいる高坂皇子に駅鈴(駅馬の使用許可の公用の鈴:通行手形)の確保の命令を発した。結局、得られなかった。”とある。
”止む無く、大分君恵尺が走り、近江に居る2人の皇子に伊勢に集まるように命令を伝えさせた。”とある。
”(壬申の乱の最中に)大海人皇子(天武天皇)と高市皇子と大津皇子を都の近江からわざわざ呼び寄せて伊勢国に味方の軍を集結させる様にした。”とある。
(軍はその後、)”伊勢の鈴鹿に移動し、伊勢国の伊勢王の代理行政官(国司)の三宅連石床が出迎えて伊勢の入り口を固めさせた。”とある。
(その後、日を置いて)”大海人皇子とその皇子たちと軍は伊勢神宮を遥拝された”とある。
”天武14年7月27日 詔を発して、東山道は美濃以東、東海道(うみつみち)は伊勢以東の諸国の有位の者に課役を免ずる”とある。
検証
この時、伊勢は天智天皇の第6位皇子の伊勢王(施基皇子)が務めていた。当時は30歳程度である。年齢、仕事でも油が乗っている。周囲の信頼も定着している。
従って、本来は天智天皇の子供の大友皇子に味方する筈である。味方になれば勝負は戦わずして尽く。しかし、この伊勢国に大海人皇子(天武天皇)の軍を集結させると云う事は、第6位皇子と第7位皇子の天智天皇の皇子は、初めから大海人皇子に味方する事をはっきりさせていた事になる。
だから、二人の最大の味方が相手側に移った事から、日本書紀に記録されている様に大友皇子の周囲の王や官僚はどんどん離れていったのである。(この様子が詳細に記録されている)
むしろ、「伊勢王」の味方を背景に、皇子等を呼び寄せる時間を保ち、伊勢に集結すると云う事を見せつけて、大友皇子の陣中の分断を図ったと見られる。
それ程に、この「伊勢王」に対する乱の前の諸王公家百官等からの信頼は抜群であったことを意味する。
普通の5位王は赴任地に出向いて務めているが、守護地に代理行政官を置いて伊勢王と近江王は天皇の側で仕事をしている程に信頼をされている。まして、父の天智時代からである。
この乱の後、大海人皇子が即位した後に、この天智天皇の二人(施基皇子と川島皇子)を自分の皇子として扱い、政治面で自分の子供より特別に重用している。(後の節に記述)
しかし、ここで、何故、大友皇子に味方しなかったのか疑問が残る。(疑問1)
その前に、天武天皇の重用の記録の例の一つとして、次の記録がある。
”天武8年5月6日に、天智天皇の子供の皇后と川島皇子と施基皇子の3人と、天武天皇の子供の草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子の4人の計7人(皇子12人中)を都に呼んで、母は違うが全て兄弟であるから力合わせて政務に励み忠誠を”とあり誓わせている。
この後、”天武12年2月1日 実際に大津皇子が天皇に代わって朝政の指揮を取る事になった。”
と記録されている。
(しかし、その直ぐ後(4年)の朱鳥元年8月24日(686) 大津皇子は天武天皇死後の半月後に草壁皇子の皇太子に謀反している事に成っている (疑問2 後述)
疑問1に付いて
本来ならば、例え敵にならずとも中立でも排除される筈である。天智天皇が行ったと同じく尽く潰されるのが運命である。この乱の中では、大海人皇子の敵ではないが、疑われて多くの王が抹殺されている。
記録では乱中、”大友皇子は、”中立であっても疑わしきは討て”と直接命令した”とあり、この事が記録されている。どちら側にしても同じであろう。生きるか死ぬかである。
壬申の乱の模様を事細かく記録されている。しかし、あくまでも、大海人皇子(43歳位)側からの記述である。
特に、大友皇子(24歳)が、”中立であっても疑わしきは討て”と言ったとあるが、おかしい。
相手側の事の仔細な発言の内容をどの様にして判ったのか。この件だけではない。近江軍の動きを仔細に記録しているし、描いている内容は、群臣の忠言を無視したとか、近江軍の負けや、失敗や、愚鈍な行動表現ばかりである。、吉野側は良い事ばかりで、勝利表現だけである。
吉野側を身びいきで故意に良く表現している。
例えば、中立を採った実力者の筑紫王(第4位栗隈王)とその子供の二人の王(三野王と武家王)さえも、”疑わしきは”の命令が出ていて、危なかった事が詳細に記録されているくらいである。
これは、大海人皇子の子供舎人皇子が書いた記録である事からも、当然であるが、故意的表現を除けば記録自身は大方は事実であろう。
大海人皇子は吉野から動いて伊勢路を採ったのであるから、伊勢も例外ではなかったと観られ一族が潰されていた事もあった筈である。その証拠に、「伊勢王」の代理行政官の「三宅岩床連」が出迎えている記録で、つまり、事前に味方する事を明確に伝えていた事が判る。
この様に、第1には、皇族賜姓族であっても極めて危ない「人生路を卓越した読み」(青木家の家訓参照)で生き抜いて来た事が判る。
更に、第2には、もう一つの助かりは、大海人皇子の妻(4階級)は殆どが天智天皇の娘である事が左右したのではないか(兄妹)。
特に、「大海人皇子の妃(皇后)(持統天皇)には抜群に信頼」されていたことが記録されている。(後の節で記録記述)
妃等に事前にしっかりと「根回し」をしていたことであろう。この二つの事が一族全体の生残りの結果となったと観られる。
乱前には、大友皇子と伊勢王との兄弟争いは記録されていない。又、叔父の大海人皇子とも特別に仲が良いとかの記録も無い。(後述 信頼で連携)
だとすると、疑問1の答えは上記3つの事であろう。
即ち、「卓越した読み」「抜群に信頼」「根回し」である。(後述でも証明)
「青木家の家訓3」にも記述したが危機は多くあった。、この様に発祥直後にもあったのである。
この事でも「伊勢王」が如何に有能であったかを物語る。
「有能さの証明」はこれだけではない。次々と驚くほどに出て来る。
更に、この事に付いて、以下の検証を進める。
”天武14年7月27日 詔を発して、東山道は美濃以東、東海道(うみつみち)は伊勢以東の諸国の有位の者に課役を免ずる”とある。
この記録に対しては、壬申の乱の後処理の記録で、伊勢王のお膝元の伊勢の処置が記録されている。
伊勢以東の国に免税した事は、壬申の乱(672)で中立を保って平静を維持し、乱は都の範囲での結果となり、最小限の犠牲での戦いで済んだ事と、乱後の平静を維持する事の狙いの2つで、免税したものである。
特に、この地域には大化期から天武期までの改新で発生した新しい皇族第7世族に成った者等を、それまでの都から坂東に追い遣り配置した地域である。
所謂、1150年代までの坂東八平氏(皇族から平になった「ひら族地域」)である。(源の頼朝の後継者に成った「ひら族」である。)
天智、天武が実行した改新の不満を持っている地域である。
ただの地方の豪族ではない。天武に於いては場合に依っては敵側一族でもある。
事と次第では、不満も燻っている地域でもあり、敵側として飛び火するに充分な地域であったのである。
素早く、乱後対策を実行したのである。
実は、これ等の政策を提言したのは、「伊勢王」ではないかという事である。何故ならば、この後、「活躍 第4節 諸国巡行」のところで記録した史実がある。
その史実の一つを述べると、特に、この東国の不安定地域を安定させる為に、検地をした。しかし、その事で後に揉め事の煙が上がった。そこでその煙を消しに回ったのである。一連の仕事をしていたことを意味する。これを実行したのは「伊勢王」である。
この様に、「伊勢王」は一触即発の戦いにもなる難しい問題解決に当り、全国を天皇の名代で指揮官として、飛び回って活躍している。この様な問題解決には、高市皇子、大津皇子やその他の皇子は記録では出て来ない。有ってもせいぜい都範囲の神社仏閣への使い走りである。
この節外にも、文章の主語が「伊勢王」とは成っていないが、主語(高市、大津)の違いがあるが、その記録には確実には「伊勢王」が組み込まれているだろうと観られる内容も沢山ある。
軍事に強い高市皇子、事務に強い大津皇子はこの様な役目を命じられていない。
如何に、「伊勢王」が政治、経済、軍事の3面にその能力が長けていた事を物語る。
ところが、面白い事がある。別述するが、「全国善行話」の収集を命じられている。
これは全国を飛び回っている経験で、よく知っていてをその知識を買われたものであろう。
参考
「ひら族」
第7世族以下の皇族系は大化の改新により天皇が代わる度毎に、”ひら”(下族させる)にして坂東地域に送り、地域の護りとして配置した。この族の呼び名を「ひら族」と呼んだ。
これが350年程度で、坂東には八平氏となった。「坂東八平氏」と呼ばれた。
「たいら族」
これに対して、後漢から帰化した技能集団の首魁が、九州大隈の半国割譲と共に、伊勢の国をも割譲して、伊勢北部伊賀地方に半国を与えられた族がある。首魁阿多倍一族である。この一族は後に、平国香より5代後で太政大臣(清盛)になった「たいら族」(後に伊勢衆)があり、天皇家(敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘)との血縁をした。
現代日本の第一次産業の基礎を確立し、中国の進んだ知識を取り入れて律令国家の完成に最も貢献した。軍事、政治、経済に手腕を発揮して、国の国体の様を確立させたその勲功で「たいら族(平氏:京平氏)」と賜姓を受けた。この平氏がある。俗称「京平氏」と言う。坂上、大蔵(永嶋)、内蔵、阿倍氏が主流族である。(第10節記述)
「駅鈴制度」は、大化改新の詔で定められたもので、第2の条に書かれている。
都城(みやこ)を創設して畿内の国司、郡司、関塞(せきそこ)斥候(うかみ)防人駅馬(はいま)伝馬(つたわりうま)を置く。「鈴契(すずしるし)」(駅馬、伝馬を利用する時に使用する鑑札)を造り、地方の区画を概ね定めたもの。
次ぎは、活躍 第4節 「諸国の巡行」である。
No.1249
Re: 日本書紀と青木氏 4
副管理人さん 2008/04/24 (木) 10:45
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第4節 「諸国の巡行」
”天武12年12月13日 諸王5位の「伊勢王」を始めとして、大錦下羽田公八国、小錦下多臣品治、小錦下中臣連大嶋と官僚の判官、録史、行匠等を遣わして全国を巡行し諸国の境界を区分させた。”とある。”期日通りに出来なかったと報告した。”とある。
又、”天武13年10月3日 「伊勢王」等を全国に遣わして、諸国の境界を正式に定めさせた”とある。
”天武13年 詔を発し、「伊賀、伊勢、美濃、尾張」の4国は、今後、調ある年は役を免除し、役ある年には調を免除せよ”とある。
(伊勢伊賀北部を含む伊勢の国には後に不入不倫の権を与えた)
”天武14年10月17日 「伊勢王」を始めとして、諸臣を東国に向かわせ、衣袴を賜った”とある。
東国の各地で揉め事が多発した様子で、これを治めに出向いた。特に、境界による戦いであろうと考えられる。
”天武14年1月2日 爵位を改めた。施基皇子、川島皇子、忍壁皇子等に浄大三位を授け、諸王、諸臣に爵位を授けた。”とある。
(後に、伊勢王は皇子では段突の皇位の爵位の浄大1位に昇進している)
検証
活動 第3節で検証した通り、乱後の平定を狙っての全国的な行動である。
最初の12月の仕事は1年掛かりである。大仕事である。
助手の公、臣、連の高位3人と、事務処理官、記録史、測量士のスタッフを連れての仕事である。
これには、ただ測量だけではすまない。検地と言っても(表の目的とは別に)裏の目的は燻る全国を治めに出かけたと云う事であろう。
本来の目的は境界を決めることではある。現代でも尽く揉める事が当り前である。相当な政治的な能力がなければ、俗人には出来ない。戦いも争いもあったであろう。
案の定、”命じられた日時で出来なかった”と報告しているのが何よりの証拠である。
しかし、10ヶ月後に完成していて、再び正式決定の巡行に出たのである。
終わったと思う間もなく、今度は4国の問題に関わっている。この4国は自分の国(伊勢)を含む上位王の国である。つまり、揉め事の東国の処理後、次は逆に、安定化の為の防備で身内の処理である。主要天領地である。
天領地の豊かさを確保する為には、免税処理をして安定化を図ったのである。そして、経済的だけではなく、政治、軍事的な処理も「伊勢王」は行ったのである。記録されている通り「伊勢国東付近の不可侵の詔」を与えて護ったのである。
つまり、不満の強い坂東の第7世族(ひら族)から4国との西境界域を経済、政治、軍事で強くし、バリヤーを築いた事になる。
同様に、関西以西の勢力には、どの様な「バリヤー」が敷かれていたのか疑問1である。
(第10節で詳しく朝廷の姿勢を述べる。)
しかし、それでも、揉め事は起こったので、沈静化させるために、再び2年後に出向いたのである。
この仕事は大変な仕事であるので、天皇は「伊勢王」にその労を労って「衣袴」を送ったのである。
普通、出かける時には、物は送らない。帰ってからの事である筈。
それだけに、”本当に申し訳ない”と労う天皇の気持ちが伝わる。それを表現する舎人親王の配慮も覗える。
そして、爵位を挙げて「伊勢王」に天皇に次ぐくらいの「権威」をつけて「交渉の特使」として送る段取りをしたのである。そして、納まったのである。
”納まった”と云う事は、政治的に「天武天皇期の権威」が定まったことを意味し、それは合わせて天武期の「皇親政治」の基盤を確立した事を物語る。即ち、天皇の権威を護る仕事をしたと言うことである。これだけのことを任される人物は天皇の周りには少ない。
軍事や事務に強い高市や大津の皇子でも出来ると云う事ではない。全ての能力が備わっての事である。この事からも、天皇から信頼されるほどに「伊勢王」の有能さそのものである事が言える。
しかし、ここで見落としては成らない大事なことがある。
居並ぶ50人の諸王が居る中で、順位は第6位皇子で第4位王(5位)で有りながら、まして、皇太子を差し置いて天皇に匹敵する立場と身分(浄大1位:最終皇子最高位)を確保するに至り、諸臣からも信頼も厚い。実績も挙げた。申し分のない環境である。後は、ここまでの者であれば、世の常、二つの事が起こる。
一つは人の「ねたみ」である。二つは「慢心」である。この結果、大抵の者は身を持ち崩すのである。
”この事はどうであったのか。”と言う疑問2が湧く。
これ以後の日本書紀の記録記述を注意しながら読み、舎人親王の記述表現にも現れていないかを観察するが、不思議に出て来ないのである。
むしろ、益々であり、最後には、「有終の美」を飾っている。
この事に付いて、「伊勢王」の努力もあったであろうが、「大津皇子謀反」が起こった事により、反省し自らを誡めたものでなかろうか。(成行きは後節記述)
「伊勢王」がこの様な事に巻き込まれなかった理由(反省)として大津皇子事件を更に検証して見る。そうする事で伊勢王の環境がより理解できるだろう。
伊勢王を検証するための大津皇子事件
”朱鳥元年9月24日 もがりの宮を南庭に建て、天武天皇の喪がりをした。大津の皇子が皇太子に謀反を企てた。”とある。
大津皇子の件も、その命令を出した主役は、妃の後の持統天皇か、草壁の皇太子かは本書では記録していない。
しかし、前後の関係から執務を取っていた大津の皇子に対して頼んだ妃が行うのは疑問がある。
まして、妃が「壬申の乱」(後節記述)で高市皇子と大津皇子と共に戦い、危ない橋を渡ってきて、尚且つ、自分に代わって天武天皇崩御の直前まで政務を執ったのである。人の道や義理人情に於いて朋輩に成し得ない事である。
ところが、記録をよく観察すると、反面、事件後の皇太子の行動の記録は一度に出てきて頻繁に行動して活発である。この活発な行動は奇異である事から、皇太子の命令で有ろう。
天武天皇崩御後の”朱鳥元年9月9日 皇后(妃)は崩御の式も出来ずに”と記録している事から、皇太子が実行したと見られる。崩御から20日経ってからの事件である。
その経緯は、次の通りとなろう。
”天武天皇が崩御して、次は自分がなるものだと思い込んだ。ところが、自分ではない事が判ってきた(後節記述)。そこで、これは実務をしている「大津皇子の反対」に合っているものと思い込み、今の中なら手を打てると見て、皇太子命(勅書を出せる)で実行した。”となるのが世の常であろう。
実際、政務を執り行う大津皇子に対して、本来は自分(草壁)が取るべき立場にありながらも、皇太子草壁皇子の凡庸さの所以から、「ねたみ、そねみ」から嫌疑を掛けたのではないか。
というのも、本来は自分が執務を執り、そして、天皇になる筈でありながら、この時、妃(持統天皇)が成ったのである。
草壁皇子は年齢的(24-5)にも充分である。しかし、この時、成れなかったのは、この辺の皇太子草壁皇子の「人徳の不足」(病癖 後節記述)から来たものではないかと考えられる。
現実に、史実は皇后(持統天皇)で、次は「文武天皇」に譲位と続き、皇太子草壁皇子は遂には天皇に即位出来なかった。病気で無いのに突然、27歳で薨去している。
”天武没3年4月13日 皇太子草壁皇子が薨去した。”とある。
病気であれば、盛んに草壁皇子の行動を記録していて、渦中の人物であるから、舎人親王であれば、病気と書くが、前後に関係する何も記録なし。これもおかしい。舎人親王の得意技であろう。
(後述)
”普通であれば書くが、それを書かないで、想像させる。”と言う手法である。
ここで、更に追求して、推測だが、草壁皇子に即位させなかったのは、一体誰なのかと言う疑問3である。検証して見る。
即位に反対できる次の有力者は4人であろう。反対する条件は次の様になる。
1番目は、最有力は母親の妃(持統天皇)である。
2番目は、大津皇子 皇位第2位、出生順3位 実力2位 人徳1位 政務担当 壬申の乱功労者2位
3番目は、高市皇子 皇位第8位、出生順2位 実力1位 人徳3位 軍事担当 壬申の乱功労者1位
4番目は、「伊勢王」(施基皇子 天智)第6位 出生順1位 実力3位 人徳2位 実務担当。壬申の乱功労者3位
5番目は、舎人皇子 皇位第3位、出生順7位、実力4位 人徳4位 編集担当 壬申の乱功労者0位
長皇子は4位、出生順5位、弓削皇子は5位、出生順6位 壬申の乱功労者
(人徳は本書の中での記録、活躍、爵位、勲功、昇進の度合いを参考にした)
これらの2人物は、皇位第4、5位は順位はあるが、発言するに必要とする「実力」がない。
継承の「順位」と「実力」と固有の「人徳」の3つの条件が備わっていなければ継承者が多ければなれない。
条件の順位はこの時期では、「実力」で「皇位」で「人徳」となろう。この条件に無関係の人は妃(持統天皇)がある。
(舎人親王はその実力と人望は抜群でその声が出たが、断わり編集に専念した記録経緯がある。)
さて、ここで、草壁皇子から4人に対して「猜疑心」を抱かれるトップは、母親を例外として、矢張り、全ての条件で大津皇子となろう。余りに条件的に整いすぎている大津皇子が居る為に、草壁皇子は高市皇子にしろ施基皇子にしろ、先ず即位はないと見ていたであろう。そして、母親への猜疑は本能的に出なかったのではないか。
しかし、結論として、即位に反対したのは、無条件の母親であろう。(後述)
その証拠的記録がある。
何故ならば、天武天皇崩御後、暫く(5年間)は葬儀、即位を実行しなかった事。
次に、本書では、”壬申の乱から、妃は天皇に対して政務に対して助言をよくする積極的な人柄であった”。と記録されている。
別のところでは、”朱鳥元年9月9日より、2年を経て、立って妃から皇后となられた。皇后は始終天皇を助けて天下を安定させ、常によき助言者で、政治の面でも輔弼の任を果たされた。崩御後、5年間政務を自ら積極的に執った。”とある。
更に、”「2年後に」”、”「妃から皇后」”になって、”「更に1年後に」”、草壁皇子は”「薨去」”している。(689天武没3年後)
本書記録とこの4つの意味は何を示すのであろうか。
明らかに一つの経緯の推理が生まれる。
天武天皇没(686)後、大津事件(上記経緯)があった。即位の問題が出た。妃は悩んだ。暫く考える時間(1年:687)を執った。周囲の様子を見る事にした。しかし、矢張り決断した。自分(妃)が朝政務を執った(1年:688)。兄の「伊勢王」(高市皇子にも)に補佐を頼んだ。皇后になる必要がある。天武天皇の葬儀をした(688)、皇后で即位を決意(689)した。しかし、1年間は即位しなかった。この時、皇太子は自分が即位出来ない事を知った。意気消沈、大津皇子への懺悔、周囲の目から心の病、翌年(689)死亡(27)、兄の「伊勢王」も没(689)、補佐なくした皇后は翌年即位(690)。高市皇子太政大臣(693)。故大津皇子の嫌疑回復(爵位昇格:695)。持統崩御(697)
上記した事件の経緯と合わせて、この推理は、皇后の性格人柄から明らかであろう。
本書の記録もこの編のところを暗示させる為に、突然に行間の経緯から離れて、舎人親王はわざわざ記述したのであろう。
草壁皇子の人間を見て母親は長く悩み決断したと考えられる。
草壁皇子の取り巻きを本書の中で調べたが、はっきりしない。むしろ、大津皇子に関わったとする30人の高官は天武期の高官である。唆されたとする傾向はない。
この事から、草壁皇子の人間性から猜疑心を起し焦って皇太子の権限で実行してしまった。
(この時期、皇太子までは「詔書:天皇」「勅書:皇太子」を出せる仕来りであった)
焦った母親の皇后は、草壁皇子を押さえて暫く天皇を置かずに居たと考えられる。
そして、落ち着いたところで、後に、故大津皇子の嫌疑を回復する爵位の昇進を決めている事でもこれを証明する。
ただ、疑問4なのは、上記の天武期の3羽烏の一人高市皇子の動向である。
この事件を押さえることが出来る実力を持っていた。壬申の乱の功労者である。草壁皇子も一目は置いていた筈である。軍事力、政治力、経済力でも優位であった事から、草壁皇子を押さえ込む事は出来た筈である。
この場合は、中立的に軍を動かすだけの軍事的行動で抑圧して牽制する事で押さえる事は出来る筈であろう。軍事的対立での決着ではなく、「猜疑心」の嫌疑である。
謀反を起すとしたら、「軍事的行動」であろう。記録によると、大津皇子は軍事的行動を起した訳ではないのである。記録には全く無い。その周囲(30人)として挙げている者は僧侶達が多いのである。要するに狭量な嫌疑であり、記録では、ある日、「突然の死」の皇太子命令が下ったのである。
「軍事的行動」とすると事前に知っていた筈だから、その様な事は予期しているから錯乱する事は無い。それだから、大津の后(山辺皇女)は錯乱したのである。又、軍事的でないから、高市皇子や「伊勢王」も助けを出す暇がなかった事が言える。だから記録の通り”周囲の者は涙した”のである。「軍事的行動」であれば、”周囲の者は涙する”は無いだろう。まして、”周囲の者は涙した”は編年体の記録対象では無いだろう。
ここが舎人親王の「詩文的表現力」なのである。この一行を書く事に依って、その「様」を全て表現したのである。
もし、そうでないとしたら、何故、草壁皇子の正当性を表現し記録にしなかったのであろう。
(他説では”自殺”とあるが、本書では”訳語田「おさだ」の舎「いえ」で死を賜った”即ち、”命が伝えられた”とある)
「伊勢王」にしても、17歳年上の叔父であり、実務に長けているし、天智天武期を乗り越えてきて人格的な信頼度が高い。大津皇子との繋がりも高い。実務もし、身分も近いから頻繁に顔を合わしているから事前に説得出来た筈である。
だから、編者舎人親王は、それとなしに、事実を書かずに、大津皇子の性格を故意に書き添えて後勘に委ねたのであろう。
その証拠に持統9年1月5日 持統天皇は事件後9年後に、故大津皇子に浄広1位の爵位を授けている。持統天皇は、自分の子供の皇太子の人徳のなさで起した事件に申し訳ない気持ちを長く持ち続け、持統崩御3年前に嫌疑を回復させたのであろう。(活躍 第5節に記述)
この「故大津皇子の嫌疑回復」は”念願の心のしこり”を解消する為、高市皇子が太政大臣に成って提案し実行したと見られる。
妃である母親は途中(5年と7年計12年間)で、皇太子に問題なければ、譲位する事が充分に出来た筈である。しかし、譲位しなかった。一説では、”直前(1年前)で死んだから”と理由付けしている説もあるが、(持統天皇690年即位に対して草壁皇子689年薨去)天武天皇崩御(686)からの5年間がある。皇太子(27没)23歳で即位は充分である。
「伊勢王」ついては、この事件でも補佐と言う大変な立場にあったし、事態の変化に依っては草壁皇子の病的猜疑心から、場合に依っては嫌疑を掛けられて滅亡に至ったことも考えられる。
結果として、草壁皇子に説得を試みた様子の記録が見当たらないが、幸いしていたとも考えられる。
只、次に、「衣袴の授与」には「衣:つねみごろも」の深意をどう解釈するかである。(疑問5)
(参考の衣袴の解説参照)これを解釈すると、多少の努力はあったことも理解できる。
ともあれ、草壁皇子の性格を見抜いていた行動とも取れる。第一に高市皇子が動かなかった事から見ても、2人は乱の大事になる事を、壬申の乱の後だけに、人心に目を向けて、犠牲を最小限に押さえるために避けたとも考えられる。
壬申の乱の危機の後に、大津の事件の危機である。「伊勢王」は重要な政務と共に、気の休まる暇はなかったと思われる。人心も3度の「天皇家の争い」にはもう目をそむけて離れる事は必定である。
ところが、一難さって又一難である。更に「伊勢王」伊勢青木氏にはすごい試練が未だ待っていたのである。この事件の陰で試練は侵攻していたのである。
今度は、態勢が余りに大きく回避する事は出来なかったのである。(下記の第7節)
参考
天皇の妻 (皇后、后、妃、賓)の4階級と、妥女、女官の階級外で構成、女性天皇には皇后の位が必要。(皇后、妃、夫人、賓:の説もあり)
伊賀国は伊勢の国の分割国で後漢の阿多倍(大隈の首魁)に与えたものであると本書にも記録されている。
皇族賜姓青木氏の5家5流の一つ甲斐は、後の光仁天皇期であるのでやや先であるが、この4つの国には皇子を王として送っている。
信濃国(三野王)であるが、この当時は尾張の一部が開発されていた。
この当時は未だ開発は、現在の信濃までに及んでいなかった。この直ぐ後に後漢の阿多倍が率いる帰化人が入植した。(馬部、磯部等が入植)
大型外来馬を持ち込み牧畜による開発は信濃、甲斐までに及んだと本書に記録されている。
”持統天皇は、天智天皇の第2女で、母は遠智郎娘である。落ち着きのある広い度量の人柄である。”とあり記録されている。 天武天皇の妃になる 天智元年に草壁皇子の母となる。
「衣袴」とは、この字句には意味がある。この「衣」とは「つねみごろも」と読むが、皇位の者が日常に着る衣のことである。”私事(公務外)でも衣が磨り減るほどに頑張って貢献してくれた。”と言う意味があって、又、「袴」とは、今の袴(はかま)の意味ではない。この袴は「法衣」(ほうえ)又は「法服」(ほうふく)と言い、宮中で着る儀式や政務の時の衣服であるが、”政事(公務)でも袴の磨り減るほどに貢献してくれた。”だから、衣袴を与えよう”とする天皇はその意をこめて与えるものである。次の第5節でも、これをはっきりさせる勲功式があった。
次は、活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)である。
No.1250
Re: 日本書紀と青木氏 5
副管理人さん 2008/04/24 (木) 10:50
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
”14年12月30日の翌年の1月20日を朱鳥元年とし、その前の1月2日 大極殿で諸王を召して、宴を行い、詔を発した。””王たちに無端事を尋ねる”と言われ、”答を得ると賜物を授ける。”とあり、戯にしてこれまでの勲功に対して2人に論功行賞を行った。
壬申の乱と政務などで天武天皇を助け最も活動した勲功者として、二人に論功行賞をした。
”高市皇子に秦擦の御衣(ハンの木の実で編んだ染め衣)を三揃い、錦の袴を二揃い、絹20匹、糸50斤、綿百斤、布百反を賜った。”とあり、次に、”「伊勢王」も答が当り、黒色の御衣三揃い、紫の袴二揃い、絹7匹、糸20斤、綿40斤、布40反を賜った。”と記録されている。
”14年7月26日 勅して、明位以下進位以上の者の朝廷服の色を定めた。
浄位以上は朱花(はねず)、正位は深紫 直位は浅紫 勤位は深緑 務位は浅緑 追位は深葡萄 進位は浅葡萄 と定めた”とある。
(注 「伊勢王」は「朱花」色である。前節レポートにもあるが、衣は「黒擦」袴は「紫」の最高職を許されている。)
検証
”14年9月24日 天皇は病気に成られた。”とある。”朱鳥元年の9月9日 正宮で崩御した。”とある。
病気に成って、丁度1年後である。多分、信濃から螻蛄の胃薬を取り寄せたとある事から、胃がんで有ったのであろう。死期を悟り、最も、自分の御世に貢献してくれた伊勢王と高市皇子の2人に、特別に感謝を込めて賜物を授けたのであろう事が判る。
それを、感謝だけを以って正式な形としては出来難い事もあり、高市皇子と「伊勢王」の2人に特別に論功行賞の宴を催し行ったのである。50人もの諸王が居るにも拘らず、このたった2人にである。如何にこの二人だけに信頼されていたかが判る。
壬申の乱では殆ど「高市皇子」と「伊勢王」(施基皇子)の働きで天皇に即位できたし、その後の政務の2人の働きは段突である。この節では活躍 第1節−4節のそれをはっきりと記録しているものである。
特に、「伊勢王」の紫の袴は最高位の者(皇太子)が着用を許される色袴である。
高市皇子の錦の袴は天皇以外に着用を許されていないものである。
(平安後期では紫は僧位の最高位の者が許可されて着用を許された。)
そして、「伊勢王」は黒色の御衣の着用を許された。これは、政務官僚の長としての式服である。
皇太子が即位する時に着る冠位束帯の「黒染(くりそめ)御衣の法服」である。つまり、身分は第6位皇子、4位(5位)の王位、浄大3位(この時)であるが、皇太子扱い以上を意味しているのである。
どんな爵位を与えられてもこれ程の名誉は無いし、50人中の皇族の中にはこれ以上の者は他に居ない。
因みに、草壁皇子の皇太子の爵位は浄広1位で1階級下である。それ以上の身分扱いとなる。
(最高位の爵位は明大1位 2位 次は浄位1−4で大広に分ける 全48階級)
この2人は朝廷内外にその最高位の勲功があった事を発表したものである。
その有能さに付いてはこれ以上の説明は必要は無い。
伊勢王は、最終浄大1位に成る。
朝廷服の実務服は壬申の乱の従軍者への取立ての一環で、朝廷に上がる役人として登朝時に着る服でその勲功の印としたのであろう。
身分制度を明確にし、その実力に応じた勲功と身分を与えて、「皇親政治」のピラミッドの基礎が着々と進められていることが判る。
その例として、その朝廷方針として、今後の「律令制定計画」として「官僚体制」を確立する為に、上節記述の様に「官吏」を臣連はもとより、民間からも「優秀な者」の採用を積極的に行っている。
第6位皇子の「伊勢王」や「高市皇子」の二人は、空洞化していた皇太子身分より下でありながらも、爵位と実質身分が「伊勢王」等の方がはるかに高い事でも判る。
この辺に身分は前提になるが、その中でも「実力主義」である事が判断出来る。皇太子より他の皇子らは低い。
実力といえば、施基皇子を始めとして、大津皇子と高市皇子の3人は確別である。
しかし、大津皇子は実質は天皇に代わり政務を取っていたが、余り、彼だけが何故か昇進の記録が少ない(疑問1 上節の草壁皇子の猜疑心から来る反対である。追記)
その後、天武天皇崩御20日後に皇位継承第3位の大津皇子の謀反の事件が発生した。
(持統天皇崩御3年前に大津皇子没後に爵位昇格を与えている)
追記
大津皇子に対しての編者舎人皇子の評価は実に良い。
余談だが、記録から、次のような記録がある。
”朱鳥元年10月3日に、訳語田の舎で死を賜った”とある。
”24歳であった。妃の山辺皇女は髪を乱し、裸足で走り出した。見る者みなすすり泣いた。
”大津皇子は天武天皇の第3位皇子で、威義備わり、言語明朗で、特に、叔父の天智天皇にその才能を認められて可愛がられていた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に、文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は大津皇子にある”と本書は記録し断言している。
その証拠に、”この謀反に関連したとされる人物は30余人(皆天武期の大物の朝臣族 僧侶も多く含まれる。)である。罰は軽くした”とある。この記録がある。
又、”伊勢神宮の斎宮の大来皇女が同母弟の大津の謀反で任を解かれて都に帰った”とある。
大津皇子のその身分は皇太子より低い事への不満があり、余り実力の無い皇太子に天武天皇崩御直後に謀反したとも考えられるが、既に没した天武天皇にではない。まだ誰が権威者に成るかわからない時である。
そんな時に謀反するかとの疑問が湧く。有る程度天智天皇の時の壬申の乱のように大友皇子が成ると決まっていて乱が起った事であれば判るが、この場合は、皇太子とは限っていなかった。
この天智天武期は最も純血血縁度の高い者がなる掟であった。従って、天智の時は大海人皇子か大友皇子と成るが、本来は大海人皇子である。兄弟優先と決まっていた。
この場合は天武の皇位継承者は草壁皇子か大津皇子かの問題が出る。
順序では皇太子であるので草壁皇子ともなるが、実務、実力、権威、信頼、経験、性格に関わるであろうから、優先的には大津皇子となる。
大友皇子の時も、この性格人格が左右して、人心がついて行かなかったのである。
しかし、その条件中の性格は、大津皇子は温厚で文学的な素養を持ち人徳ある人物と特筆されていることからも充分である。
事件の記録されている中では、処罰された者の中には高僧も多いのである。これ等の処罰者は全て軽い刑に終わっている。
この大津皇子の事件の真因は、実刑実罪が見つから無かった事から、草壁皇子は他を罰する事に躊躇したのであろう。
この事件からも覗える事であるが、厳しい身分制度を確立しながら、ある身分の範囲では、実力主義であり、つまり、この後で起こった謀反説が、逆にこの時期には実力主義の考え方が常識化していたことを意味する。多分、上記した条件も含めて、時代の混乱期としては、大津皇子への周囲のラブコールが大きく起こっていたのではないか。
そして、そのラブコールをした人物を30人として罰したのであろう。
だから、ラブコールだから、高僧が多かったのではないか。謀反では高僧は入らないであろう。
しかし、狭量で凡庸な猜疑心の強い病的な草壁皇子には、謀反と捉えたのではないか。
だから賢く政治力の持つ母親は、心情的には草壁であろうが、息子に譲位しなかつたのである。
この時代の「皇親政治」が「実力主義」で無かった場合は、この事件は起こらなかったと考えられる。つまり、草壁皇子に政務を執らせ、爵位も高くして今までの「御座成り」の体制を敷いていた場合、「病的な猜疑癖」が頭をもたげなかったとも考えられる。
立場、仕事、身分、能力等何を採っても、本来は皇太子が上である事になる天智期の時代システムが、既に改革させられているのである。
そして、しかし、現実には天武期では「皇太子」と成っている矛盾がある。
「強い猜疑心」が湧くのは草壁皇子ならずとも、「人の性(さが)」から観ても必然とも思える。
同じ「猜疑心」での「大友皇子事件」、つまり「壬申の乱」は相互に「猜疑心」を持った事から起こったのであるから、若干、天皇になる慣習システム(純血順)が異なってはいたが、何れも「猜疑」と言うキーワードでは同じではないか。この乱は条件的なもの、例えば純血、勢力バランス等が均衡していた事で、勅書を相互に出せる立場にあったので、「大津皇子事件」と違い、勅書を遣わずに、「戦い」と言う手段で解決した事に成ろう。
中大兄皇子との「有間皇子事件」は、燻る孝徳天皇派との軋轢が左右した事もあり、「争い」が表沙汰にしなくて、「暗殺」と言う事で解決したが、この事件は「戦い」と「猜疑」との何れもが使えなかった事件ではないだろうか。
この事からすると、3つの要素の「暗殺」「戦い」「猜疑」から逃れられたことになる。
この様に「伊勢王」はあらゆる危機を乗り越え、真に「壬申」ならぬ「人心」に評価されてその幸運に恵まれている事をこの記録は物語る。
現在でも、同じで実力があっても昇進しないということは同じでは無いか。この3つの何れかで昇進しても潰されることが世の常である。
これは真に「伊勢王の人徳」と言うものであろう。
況や、我々青木氏の末裔は、遺伝子的にこの始祖の人徳を引き継いで持っているのである。
参考
爵位の朝廷で着る実務服は、浄位では朱色である。
袴では全体として最高位は錦と紫である。儀式では黒の御衣である。冠では逆である。
「八色の姓の制」の八色とは元は7色の定めであったが八色に変更したがこの色からきている。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置(684)である。宿禰までが皇族系
紫の色の高位性は、大化3年12月 「7種13階の冠位」を制定した。
第1服の色は冠と揃い深紫 第3は冠は紫、服は浅紫とある。
次は、活躍 第6節 「天皇の名代」である。
No.1251
Re: 日本書紀と青木氏 6
副管理人さん 2008/04/24 (木) 11:11
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
活躍 第6節 「天皇の名代」
”朱鳥(あかみどり)元年4月27日 伊勢神宮に多紀皇女、山背姫王、石川夫人を遣わされた。
5月9日 多紀皇女等は伊勢より帰った。”とある。
”朱鳥元年6月16日 「伊勢王」及び官人等を飛鳥寺に遣わして、衆僧に勅して「この頃、わが体が臭くなった。願わくは仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故に、僧正、僧都及び衆僧たちよ、仏に祈願して欲しい」と言われ、珍宝を仏に奉られた。”とある。
”天皇の御病平癒の祈願して、朱鳥元年8月15日 施基皇子(しきのみこ)と磯城皇子(しきのみこ)2人に食封200戸を加封された”とある。
検証
この頃、天武天皇は病気である。この年(686)、年号を朱鳥とした。「大化」期から始まった年号は次には「白雉」となり、直に廃止し、天武期の終わりに「朱鳥」の元号とし、又、直に廃止した。
第1節で述べた様に、「即位、瑞祥、災難」で年号を変える慣習であり、この時は災難に当るだろう。そこで、天武天皇が身内の者を遣わして、「伊勢王」の居る伊勢国に、天武天皇が斎宮、斎王を置き正式に定めた伊勢神宮に祈願した。
この節で判る様に、「伊勢王」、「施基皇子」と2月毎に差し向けている。
この平癒祈願の3つの記録に少し違いがある。
1つ目は、「氏神」の「伊勢王」の国許に祈願した。
2つ目は、「伊勢王」を「菩提寺」の飛鳥寺に祈願させた。
3つ目は、「祈願努力」の「施基皇子」に加封した。
1つ目は、名代人物の表現が疑問である。
天皇家祈願実行を受ける「天智天皇」の息子である「伊勢王」の立場と成っているが、本来は、実父(天武天皇)の祈願であり、皇太子があるのだから「伊勢王」ではなく「草壁皇子」であろう。
2つ目と3つ目にも違和感がある。逆の表現の疑問が出る。
2つ目は、本来、寺に遣わすのであるから、その正式な皇子名で「施基皇子」とするべきであろう。
「伊勢王」は役職名である。
3つ目は、その努力は氏神を護る役目として「伊勢王」とするべきであろう。逆ではないか。
1つ目では既に役目柄同行している。これは良いとして、2つ目の「伊勢王」の使い方は、伊勢神宮の「神」の護り役であり、その者が飛鳥の「寺」に行くのはおかしい。
神に仕える者が寺に祈願に行くには、役目を外した施基皇子の名であろう。
3つ目の使い方は、身分柄でなく役目柄に対しての勲功であるから、「伊勢王」である。
さて、この1−3(疑問1)をどう解くべきかである。記録から観てみる。
上記した様に、草壁皇子は天皇崩御後は、活発に没後の祭祀(もがり)を盛んに行っている。
しかし、崩御前は活動はない。崩御後は、草壁皇子薨去までの活動は、3年間で10回(正味2.0年)で、薨去直前1年は祈願を含めて全く無いのである。
そして、天武天皇発病で(胃病:信濃より螻蛄[おけら]という薬)胃薬を取り寄せる。
天武14年9月18日後、崩御(朱鳥元年9月9日)までの一年には、草壁皇子の治癒祈願は全く行っていない。治癒祈願外もない。
崩御したからと言って、突然活発に動いた。この事の持つ意味は何を示すのであろうか。
経緯
@ 上記の「伊勢王」の「身分柄」、「役目柄」の使い分の事、
A 病気中の皇太子の「本来役目」に対する活動のない事、
B 崩御後の活動が多い事、
C 皇太子薨去1年前は突然活動はなくなる事、
D 崩御2年は喪に服する当時の慣習(本書に明記)がありながら、活動は「もがり」以外にも活発である事、
E この皇太子薨去1年前は母親の妃が皇后になり、天皇に成れない事を知った年でもある事。
F 本来、これ等全ては皇太子の草壁皇子が全て行う「仕事柄」であるにも拘らず、周りの者(伊勢王)が行っている事。
G 何を於いても、率先して行わなければ成らない仕事柄である事。
H 民の範たる立場である皇太子である事。
これ等の事(@-H)から考えて推理すると、舎人親王の「得意の手法」であろう。
その推理とは次の事に成ろう。
推理
つまり、崩御前後の本来あるべき皇太子の行動に対して「病的異変」(参考参照)があったと観られ、編集上、舎人親王は記述する事は出来ない。そこで、それを代行する「伊勢王」の行動に、先ず「違和感」の変化を与え、「疑問」を持たせて、本書の天武天皇崩御前後の記述に、皇太子の行動に「目立つ変化」を付けた。そして、皇太子薨去1年前にも政治が動いているにも拘らず、全くで記述しない。これで、”皇太子に何かある”と見せた。
喪の終わった時のこの1年には、妃が皇后になり、天皇に即位すると決意した時である事を明示した。即位決意して1年後に即位した。
そして、編年体の項目に関係ないのに、特別に喪の期間を2年と記述した。
これで、舎人親王はこの間(4年)に起こっている経緯を意を含めて編年体で描く事が出来ると観ていたと考えられる。
何はともあれ、前節までの草壁皇子の疑問の行動の検証部分からも考えて、それまでの舎人親王の得意技から考えても、この疑問もこの様に成るのではないか。
この疑問の答えが正しいとすると、「伊勢王」は、大変な環境に居た事を示すものである。
前節までの「伊勢王」の政治行動は「役目柄」で「身分柄」を演じている事である。
本来、「伊勢王」は伊勢の「守護の役目」で、他の王と同じく伊勢に於いて果たす事が主務であり、「朝政務の役目」ではない事は明らかである。しかし、本書では、他の皇子は全て身分柄で記述されているのである。
既にお気づきと思うが、この「伊勢王」と第6位皇子「施基皇子」の全体の扱いの使分けには疑問はある。この事は「伊勢王」のすば抜けた有能さを持ち得えていた事を本書は示しているのである。
即ち、舎人親王が力を特に入れていた編集処であろう。それ故に、第2節と下節の「伊勢王の薨去問題」でも編集時の配置ミスをしたのではないか。
参考
持統天皇は天智天皇の第2女である。天智天皇(中大兄皇子)の同母(遠智娘:おちのいらつめ)弟である天武天皇(大海人皇子)の妃となり、後に皇后と成った。正式名は高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのすめらみこと)。幼名は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、俗称は新田部皇子
叔父の天武天皇との血族結婚による。その子供が草壁皇子である。
当時の皇位の血縁は血族結婚を主体として、純血を守る為に慣習化されていた。その代わり、その為に地方の豪族の娘を妥女(うねめ:宮廷女官:人質:妻の階級外)としてとり子孫を護った。
故に生まれは遅いが、妃の子供であるので皇位第一位皇子で皇太子なのである。
伊勢青木氏の始祖の伊勢王(第6位皇子)は越道君の郎女で妥女である。身分の低い皇子となる。
(天智天武の皇子皇女の系譜レポートを参照)
第3親等までの血縁は障害異児の危険性があり、隔世遺伝による危険もあるので、妥女からの子孫存続を図り、当時は可能な限りに於いて2代毎に新しい血筋を入れている。
持統天皇の孫(草壁皇子と後の女性天皇の元明天皇との子供)が次の天皇に成っている。つまり、文武天皇である。元明天皇は天智天皇の子供。持統天皇とは姉妹で、草壁皇子と叔母と血縁した子供が文武天皇である。
妥女の子の伊勢王、施基皇子の子供が光仁天皇であるが、光仁天皇は大隈首魁阿多倍の孫娘「高野新笠」(帰化人)の血筋を入れている。この後、「高野新笠」を母とする桓武天皇からは律令制度の確立に基づき、法的方針として、血族結婚は藤原氏や、阿多倍らの帰化人などの血筋を入れて避けた。
阿多倍は敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を娶る。(詳細は第10節)
次は、活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」である。
No.1252
Re: 日本書紀と青木氏 7
副管理人さん 2008/04/24 (木) 11:21
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
”天武没年10月22日 皇太子は公家百官と諸国の国司、国造を率いて大内陵の築造に着手した。”とある。
”天武没2年8月11日 浄大1位の「伊勢王」に命じて、葬儀の事を取り計らうように命じた。”とある。
検証
着工1年後の喪(2年喪中)に服した後、天武陵の完成(天武没年12月22日に着手)を見て、山陵に埋葬の正式な葬儀を行う事を、天皇は敢えて「伊勢王」に命じたのである。
この事はこの意味では終わらないのである。
本来は、この行為の責任者は皇太子の草壁皇子が執り行うものである。しかし、伊勢の守護で第6位皇子「伊勢王」なのである。
「天武天皇葬儀」と言う最も形式の慣習を重視する儀式の域をはるかに飛び越えている。
この事に付いて、草壁皇子には、絶えられないことであろう。
この「葬儀の件」、「大津皇子の事件」も含めて、「即位」出来なかった事、「爵位」が「伊勢王」や高市皇子よりも低い事、などを含めて、葬儀の事でも物語る様に、何か「人間的な欠陥」があったのではないかとも思える。これだけ立場の無い事は普通では、考えられない。
兎も角、この儀式は天武天皇の崩御の2年後の事である。
”崩御後に密葬して、天皇陵を造って埋葬の儀式をする。”とするが、本書記録では喪中を実行する為の肝心な「密葬の正式葬儀」は無かったのである。
この事を知りながら、大津皇子のこともあり、草壁皇子の猜疑心を考えると、かなり重大な危険性を持った任務を「伊勢王」は取り計らう事になったのである。
この時は、未だ草壁皇子は健在である。難しい仕事である。
実は、天武天皇崩御から10月まで草壁皇子は御陵の造営の指揮を取っている。
ところが、翌年の8月には、最後の仕上げの儀式では、「伊勢王」である。
つまり、草壁皇子にしてみれば、”下準備の工事は自分で本式の自分の親の葬儀は違う”では、納得しないであろう。本来はこの逆であるべき話である。
ここでも、違和感を感じる。
依然、草壁皇子が皇太子である以上、勅書で起した「大津皇子の謀反」の事件を再び起こす事の可能性の少ない「伊勢王」に決めたのであろう。
更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。
又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。
大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、この事で同じ事が起こっては拙い。そこで、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用で無難であろうが選択はしなかった。
しかし、”崩御後に「密葬」して、「天皇陵」を造って「埋葬儀式」をする。”の3つのことに付いて、「伊勢王」に全て指名実行しなかった。「天皇陵」は草壁皇子に、「埋葬儀式」は伊勢王にし、「密葬」は指名せず実行しなかった。
その理由は次の事ではないかと思われる。
1 天智天皇が定めたばかりの皇位継承順位第4位(継承者が無い場合第5位)と定めた事を覆すは法の尊厳から天皇の信頼を失う。
2 高市皇子、大津皇子等の天武天皇の上位皇子が居る。幾ら天武天皇の子供扱いとして可愛がられ信頼されていたとしても、この順位を狂わす事は大きな争い事を招く。
3 皇太子草壁皇子を覆す為の理由(上記)を天下にあから様に出来ない。より無難で身分、実力、年齢、何れの条件を以ってしても、草壁皇子より優れているし、問題は無いと見たので、誰しもが必然的に2人の一人を選ぶ手段でもある。
ここを境に、事前相談していた母親の妃は、草壁皇子を天皇にしない事を決断したのではないかと思われる。
そこで、決断した以上、草壁皇子は感情を高めているので危ない。
その時、葬儀責任者は、高市皇子にするか、「伊勢王」かの問題が出る。
「伊勢王」に指名したのは、上記の検証の第3番目の理由からであろう。
以上で、天武、持統天皇の二人は、相談の結果、政治、経済、軍事に長けて総合的力量を持つ「伊勢王」を選ばず、この選択肢(密葬、天皇陵、埋葬儀式の3つの行事)を全て「伊勢王」に任する事は、崩れたと観られる。軍事に長けた高市皇子も草壁の皇子の猜疑心の配慮から失う事を配慮して選択しなかった。
草壁皇子の天皇陵、「伊勢王」の埋葬儀式、とし、高市皇子を二人の「抑え」として、万全を期したのであろう。
そして、この3つの選択肢の行動で、間接的に、草壁皇子の即位は無い事を暗に諭したと観られる。
相談していたとするその証拠に、舎人の親王は次の事を3箇所に書き添えている。
それは、持統妃は大変に利発で政治性を持った女性であったのである。
直接の輔弼の記録である。
”天武元年6月 兵に命じて味方を集めさせ、天皇と謀を練られた。”とあり、又”妃は勇者数万に命じて要害を固めさせた。”とある。
”天武2年 始終、天武天皇を補助し、助けて天下を安定させた。常に、良き助言者であった。政治の面でも積極的に輔弼の任をはたした。”とある。
”朱鳥元年9月9日 天武天皇崩御以後、皇后即位式もせずに、大津皇子の代行まで、自らが政務を執った。”とある。
これは、舎人親王の追記の得意技でもあり、特別にこの事を3度もわざわざと書き込んだ事で、妃が朝政務に積極的に関与していた事を明らかにしているのである。それも、目立つように、女性が軍に命令を発したと書いて故意に際立たせたのである。普通は書かないであろう。
余りにも有能な「伊勢王」を政務代行に、そして次の皇位継承候補に選ばなかったのは、天武、持統の二人は綿密に相談した事から、上記の理由が出て実行しなかったのであろう。
舎人親王はこの記録でそれを強く故意的に物語させたのである。
この事から、即位に付いても、草壁皇子、高市皇子、大津皇子、伊勢王の4人の扱い方を、病気治療期間中の2年間の間には、相談していた事が充分に覗える
更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。
又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。
大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用であろう。
相談の結果、計算が合わなくなったのは、「大津皇子事件」であろう。それで、”妃は狼狽した。そこで、暫く、妃自らが朝政務を執り、その間、じっくりと周囲の様子を見てどうするかを考えた。その結論は、自分が皇后となり、周囲の目から観て実子草壁皇子を廃嫡し、天皇に即位し、高市皇子を太政大臣にし、伊勢王の皇子を実務補佐として人心を納めた。”となるであろう。
しかし、兎も角、誰も「伊勢王」の研究している者が居ないのでこの疑問を抱かなかったと思われる。又、舎人親王の詩文体形式の得意技で検証を試みなかったからに過ぎないと考えられる。
詩文体の検証だから出てきたのである。
その持統期以後も、新しい政争の相手が現れたが、後の活躍から立場を保っているし、「伊勢王」の末裔の我々は記録、口伝では厳然とその立場を悪戦苦闘しながら保ち、その後も生きている事からすると、これでよかった事でもあると見ている。
「伊勢王」は、大きい荒波の中で、実力を遺憾なく発揮し、自らその強運を上手く引き寄せて、生き抜いてきた人物であると評価できる。全青木氏始祖として申し分ない人物であり、末裔の者として大いなる誉れである。
「伊勢王」も危ない橋を渡っている。「伊勢王」は成功裏に終わらせている。
そして、その後、この3年後に、「伊勢王」(施基皇子)の記録は出て来ないで、他の記録から689年(6月2日以降薨去の記録を含む全ての活動記録なし)に薨去している。
ところが、同じ689年(天武崩御3年)4月13日に草壁皇子も薨去している。2月前である。
草壁皇子の薨去がそれも突然である。皇太子であり、天武没後の2年間は頻繁活動しているし、記録もされている。しかし、突然に病気でもないのに27歳で薨去している。違和感を感じる。考えられる事は一つである。
第2節でも記述したが、疑問1がある。
本書では天智(中大兄皇子)期には「伊勢王薨去」が2度も出たが、編年体であるので、689年のところ以降では、後の「伊勢王薨去」は出て来ないのである。
50歳を平均寿命とすると、690年代の前後の時期での「伊勢王」は寿命とも考えられるが、草壁皇子の方は27歳で早すぎる。
編者の舎人親王に書き難い何かがあったのか想像する。
書くに充分な立場(天皇に継ぐ浄大1位)の身分である。一つ下の浄広1位と同勲功の高市皇子と天智の兄弟の川島皇子は記録されている。
他の皇子全部と、高位4(5)世王の大半は記録されている。689年の「伊勢王」だけである。
最後に残った高市皇子が太政大臣として政務をとる事になった時代なのであるから、何かあるのではと調べたが、この事(同年死去、記録なし、高市皇子と川島皇子の処遇)から、前後の文章にそれらしき表現がないかを観察してみるが、矢張り記録は全く無い。
「伊勢王」の薨去なしの疑問に対して次の様になる。(第2節記述の追説)
先ず、次の様になる。
上記の一つ目の推理は、再び、本書記録の葬儀の件で、草壁皇子の何かが充分に働いたとも考えられる事。
二つ目の推理は、「第2節の伊勢王の薨去(こうきょ)」の所の「斉明7年の薨去」と「天智7年の薨去」のどちらかの薨去が編集時に間違えたとの推理である。
第2節では二つ目の推理としている。経緯から先ず間違いないことである。
”「斉明7年」は「天武17年」となるのを間違えた。”と推理する。(第2節の説)
天武天皇は668-686 持統天皇は690-697であり、持統天皇は天武没5年後に即位したので、689年は天武期から計算すると、17年後となる。天武没後の4年である。
その一年後に持統天皇は即位している事になるので計算は合う。
編年体で書いているので、舎人親王が故意的に書くことをずらしたが編集(計算間違い)間違いを起した。(編集故意説間違い)
伊勢王薨去が無いが為に、後の時代で書き足し(書き間違い)間違いを起したとも考えられる。
(後刻書き足し間違い説)
この記録の編年体の年号の入れ方を調べると、次の様になる。
「年号」は変化したときだけに「年号」を入れて、後は、「月日」だけである。
天智、天武、持統の3天皇の没後と即位までには年数のズレが有る。
天智と天武では2年間、天武と持統では5年間である。普通は天皇が没すると直ぐ即位である。
この間の期間を計算する事に間違いやすい。
天智、天武、持統元年の正月に年号が入り、その後、年を一度入れて、月日毎に記述されて行く。
この場合だけは、記述部位は、一行で、6月だけで、日はないのである。後全ては、行続きの日の重ね書きである。
全ての場合は月日が書かれているが両方にない。月だけはこの伊勢王の件だけである。
この「伊勢王」の2つの薨去だけに日が無いのは何か違和感を感ずる部位である。
この事からも、考えられる事は、先ずは、舎人親王らの編集時(故意的編集時)の間違い説であろう。
「舎人親王」は676−735年 淳仁天皇の父で、元明朝から聖武朝にかけて活躍した人物である。
日本書紀の編集は720年完成で、「伊勢王」没31年後(持統没23年後)の事である。
間違いを起こす事は充分考えられる。
もし、この推理だと、第1節からの全ての疑問は解消する。
これは、薨去に付いて、本書の大きな疑問1の一点である。
私は、一つ目の推理に付いては、「伊勢王」の失態ではなくて、それ故、編者が最高勲功者の「伊勢王」であるが故に、同月の薨去に対して、「大津皇子事件」の様に、草壁皇子との疑いを抱かれる紛らわしい事を編する事を避けたとも観ているが証拠は無い。
有るとすると、舎人親王の得意とする”記する事をわざわざせずにして、暗示”すると言う事で後勘に問うという思惑もある。だから、先に書いたが、”「斉明7年」は「天武17年」と間違えた。
31年も経っているし、記録人が渡来人で、多数人から成っている。更に、天智から天武即位までが2年のブランク、天武から持統までの即位は5年ブランクである。持統が即位宣言して1年後に即位したブランクなどの間違いやすいこともある。
舎人親王がチェックしているが、編年体で有るから最初に二つの「伊勢王薨去」が記録されていることに気が付きやすい筈である。私は配置は故意的であるが、2つ有るが故に間違えたのであろう。
参考
持統天皇の即位は天武天皇崩御後の4年1月1日 即位
持統1年7月5日 高市皇子は太政大臣に任じられる。
持統2年7月5日 高市皇子に5000戸に加増される。
持統2年7月5日 丹比嶋真人(たじひのしままひと)右大臣になる。 丹治流青木氏の始祖
持統2年1月13日 川島皇子浄大3位に食封(へひと)100戸加増される。(昇格)
持統2年9月4日 川島皇子こう去 近江佐々木氏始祖
持統4年1月2日 高市皇子に浄広1位を授ける。(昇格)
持統6年1月5日 故大津皇子に浄広2位を授けた。(昇格)
持統6年1月5日 舎人皇子に浄広2位の爵位を授けた。(昇格)
持統7年7月10日 高市皇子こう去
持統8年8月1日 文武天皇に譲位
「妥女」とは、大化改新の詔の第4の所に、”郡の少領(すけのみやつこ)以上の者の姉妹子女で、容姿端麗の者を奉れ。従丁1人と従女2人を従わせる。百戸で妥女1人の食料を負担せよ。”とある。つまり地方豪族の子女が人質として朝廷に仕えたのである。
藤原秀郷流青木氏は、この後、直ぐに勢力を高め摂関家として母方で皇族賜姓青木一族と繋がる。(呼称青木氏の許可の根拠)
次ぎ、活躍 第8節 「善行説話の編集」である。
No.1253
Re: 日本書紀と青木氏 8
副管理人さん 2008/04/24 (木) 11:30
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第8節 「善行説話の編集」
”天武没3年6月2日 施基皇子と他朝臣、連、忌寸、宿禰等の豪族6人に撰善言司(よきことえらぶつかさ)を命じられた。”とある。
検証
施基皇子はここでは、全国から善行の言伝えや話を集めて、それを民に示して、模範のマニアルとしたものである事が考えられる。しかし、良く調べてみると律令制定に繋がっている事が判る。
これを施基皇子をその長に命じられたものである。
この時代には、本書の記録から世情の一番騒がしいものとして、朝鮮半島北部と新羅、百済からの帰化人[難民)が大量に難民として上陸して来たことである。そして、朝政はこの取り扱いに懸命に活動している。
各地の未開の土地に配置しているし、騒乱状態でその長を呼びつけて沈静を命じたり、罰したりしている。これは本レポートの目的ではないので記述しないが、その記録は30箇所位ではないかと思われる。
例えば、”百済の使者が貢物と調を朝廷に納める為に、新羅の者と同行して大和に来るが、新羅の者は百済の使者を捉えて牢に入れて御調の物を盗り挙げてしまう。何とか百済の者は逃れて大和の国にたどり着き入る。百済の使者は、新羅が裏切った事を述べる。朝廷は新羅に使いを出した。言い逃れして裏切った事を朝廷の調査使者は察した。
そして、新羅との争いで難民が生まれた。これが日本書紀に出て来る記録の一つである。
この様な経緯の中で、難民が入り治安状態が悪化し、犯罪が各地で頻発して、特に大和古来の軌範の崩れが起こっていたのである。
そこで、上節で記した様に、施基皇子(伊勢王)は天皇に命じられて各地で活動して得た経験、その土地の話、逸話、物語、掟事に明るい事を買われてのことであろう。
それを取りまとめて軌範を作ろうとしたのである。そして、この帰化人、難民などの世情の乱れを正そうとしたのである。
丁度、施基皇子没(689年)前1年前の事である。
妃は出来る限りその彼の知識を遺させて向後に役立てようとしたと思われる。草壁皇子とのいざこざが取り沙汰されている時期でもある。
この時期に、全国を長期に度々飛び回って治めてきている人物は少ないので、伝達手段のない時期としては大変に貴重な知識であったであろう。
ところが、また、この時期は上節でも書いたように、新羅以外にも、後漢、百済の他民族が大量に上陸して来て、当時の慣習等が上手く護られなかった時期でもある。当然、他民族との揉め事が起こる等して、必然的に全体の軌範意識が薄く成っていたところでもあろう。
これ等の帰化人、難民たちに依って未開発地域がどんどん開発されて行く。帰化人の持ち込んだ技能を得て生活レベルが向上し豊かになる。全国は伊勢王の努力の検地などで少し治まったが、依然として、反面、犯罪が増えてきて、朝廷は頭を悩ませていた時期でもある。記録では罰則の変更を何度もしている。
本書記録では新羅、百済の難民などに褒めたり罰したりしている記録が頻繁に出て来る。
しかし、ここで、何故か、同時期に帰化してきている後漢の阿多倍が引き連れて来た技能帰化人が呼び出されての処罰はない。むしろ、下記するが、褒められていて大隈と伊勢半国を与えられて居るくらいである。(下節に記述)
この様な騒がしい状態であり、このために民に対して、その行いの模範とするところを示して、その軌範の基準を作ろうと考えたのであろう。つまり、律と令の法の基本形を整えて作ったのである。
そこで、この時期の律令の状況はどうであったのか検証するとこの説話の目的がわかる筈である。
律令制度は桓武天皇期(800年頃)に完成したが、100年掛けてこの原型から本格的な法が出来た事に成る。
その意味からして、持統の妃は、人、時、場処では、適時適切に指揮したと考えられる。日本最初の「検地」を実行し、又、坂東までを概ね「征圧」して治安を治し、朝廷内務をこなし、これまた、法体系の基礎のその大事な一翼を、我等青木氏の始祖は担った事に成る。
それには施基皇子が適材であり、その補助人も臣連など全国の国司を勤めた人物である。
つまり、妃は施基皇子に最後の仕上げの仕事をさせようとしたのであろう。
つまり、妃はなんとなく朋輩で功労者の施基皇子の健康状態を慮っていたと観られる一行である。
別面では、編成者舎人親王はこの状況を経験しているので知っている筈であるから、検証すると判る。
舎人親王はわざわざこの事の記録を後で編集時に組み入れたのではと考えられる。
舎人親王は、全巻をよく観ると編年体であるが故に、この様な手法を各所に多く取り入れている。
詩人でもあり、学者でもあり、温厚実直な性格でもあり、よく争い毎を嫌う人物であったと他書では記録されている。必然的に詩の如く、本書の状況表現する手法も同じであろう。
事実、上記にも記した各所で遣っている。それ故に、この本書を検証する際は、この点を配慮して注意して検証すると隠していたものが見えてくるのである。実に配慮の行き届いた書と思える。
この時、舎人親王は、妃の優しさ、施基皇子の実績の評価、施基皇子の状況、その時代の環境、等を実に上手く隠して間接的に表現している事が読み取れる。
当時は、字を読める人口は限られていて、尚且つ、漢文で編年体である。物語のように状況を表現する事は、記述(物語)体と違って、漢文に含まれる深意を表現するには難しい。そこで、採った手法が詩文などに観られる間接記述表現であろう。そのための深い配慮から間違いもしたと観られる。
日本書紀はこの様なことを念頭に置いて観ると筋書きが読めてくるのである。
確かに、豊富な情報がこの治安悪化の時期に必要であったが、”この任務を伊勢王(施基皇子)に与えたのか”という疑問もあり、他にも理由があると見たのである。余りにもタイミングが合い過ぎいている。
そこで、次の説を採っている。
持統天皇(妃)は「伊勢王」に対して、この「軌範つくり」を与えて、草壁皇子から遠避ける工夫をした事も合わせて考えている。
其の侭であれば、伊勢に返せばよい筈である。返せば大津皇子事件と同じく勅命が出る。
(大津皇子も避けて近江にいた。)
妃(持統天皇)は自分の側に置いて見守ることを選んだのである。2度と同じ失敗を繰り返さないように、兄妹として保護したのであろう。
1年後の689年に薨去するのであれば、「伊勢王」の姿を常に見て来た妃としては、この時点では何とか荒立てずに是非守りたかったのではないか。
何はともあれ、妃の配慮により、「伊勢王」は律令体制の基盤となる基準つくりに晩年貢献した事に成る。
しかし、この後、天皇となり、悲しきかな「戦友」とも言うべき「全ての朋輩」を失う持統天皇は、「太上天皇」とも成って、院政を敷き専制的な方向に進むのである。
しかしながら、よく調べてみると、この史料を基にして、現実に、持統天皇は「飛鳥浄御原令」(689年)の民法、行政、訴訟、その他の規定(制令)を制定(未完説あり)した。
この「飛鳥浄御原令」は未完成であり、その内容は法令と言う形までなっていないとされる説がある。これが通説と成っている。
この時の施基皇子らが「撰善言司」(よきことえらぶつかさ)でまとめ挙げたものである。
そのまとめたものが4つに区分けした一種の「令集」(令解集 基本集)とも言うべきものであった。
つまり、検証の答えは、「令解集」であり、この時の事(「撰善言司」)を記録しているものである。
この構想は「伊勢王」が各地に飛び回っている時(681-682年頃 第4節記述)より天武の指示で「原稿集め」を行い始まり、688−689年に責任者として妃から最終の取りまとめを命じられた行ったものである。
この事から、「令」と言うべきは「令集」と見なされて、「未完集」の説が生まれている。
更に調べると、施基皇子の作った「令解集」それを基本として編集した本格的な「大宝律令」(701年)を、持統天皇は「思い出多き令解集」を「自分の手で完成」を目指して、この後、「草壁皇子」の息子の「文武天皇」に譲位しながらも、この時代に、「院政」を敷きながらも完成させたものなのである。院政はこの為なのである。
況や、思い出多き朋輩等の「人生の集大成」の完成を目指した事が第1−9節からの記録で読み取れる。そして、時代は進み「大宝律令」は、更に見直されて、次の「養老律令」と成るのである。
「令解集」即ち、「「飛鳥浄御原令」は「大宝律令」へ「養老律令」への「見直しの史実」から証明されるのである。
この行の記録を入れる事により、舎人親王は後勘に委ねた「思い」として、この事を読み取ってもらいたかったのではなかろうか。
「令解集」の内容そのものの記録であれば、その内容を続けて記録するであろう。しかし、この記録以上の事は全く記録されていない。
「本書前後の記録」から見て、わざわざ、舎人親王は、「伊勢王(施基皇子)と持統天皇」の「8年間の人生苦労」を、「伊勢王薨去1年前の朝務の司」を記録として編入したのであろう。
特記
史料によると、舎人親王は、一時その人柄と有能さから政務(皇太子役)に押されたが、固持し本書の編集記録のみに専念したとある。確かに政治の場面では出てこない。
それだけに「記録の羅列」だけに人生をかける事はこの人物にして無く、本書にかける親王の「心意気」が見える。本書の持つ意味はこの一点に有り、この「政務(皇太子役)に押されたが、固持」の一行を放念してはならない事であると考える。
本書の記録もほぼ終わりに近い巻末に来ているところで、編集して締めくくったのである。
次は、活躍 第9節 「伊勢行幸」である。
No.1254
Re: 日本書紀と青木氏 9
副管理人さん 2008/04/24 (木) 16:18
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第9節 伊勢行幸
”持統3年2月19日 伊勢行幸を決める。”とある。
”中納言三輪朝臣高市麻呂は農時の妨げになると諫言した。”とある。
”持統3年3月6日 再度の諫言に従わず、伊勢に行幸した。”とある
”持統3年3月17日 伊賀伊勢志摩の国造等に冠位を賜り調役を免じた。大赦をされた。行宮造営の者たちに免じた。”とある。
”持統3年5月13日 伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、「伊勢の国の今年の調役を免じられましたが、2つの神郡からの納めるべき赤引糸35斤は来年に減らす事にしたいと思います」と言った。”とある。
”持統3年9月21日 班田収授の法の制定で役人長官を伊勢国等の4畿内に遣わした。”とあり、”伊勢の国の嘉采を見て嘉稲2本を立て奉った”とある。
”持統3年12月24日 太夫を遣わして、新羅からの調(税)を伊勢、住吉(すみのえ)、紀伊、大和に立て奉った。”とある。
検証
伊勢の国の事に付いて記録されている内容であるが、ここで違和感を感じる。
と言うのは、先ず、記録3月6日までの3つの記録である。
”何故、中納言が行幸に反対した事をわざわざ記録したのか”。(疑問1)
何事に付いても、反対はあるものである。天皇が行動すると言う事は官僚が計画し段取りをする。当然、検討段階では問題もあろうが、内部の問題であり、その内部の検討段階のそれを記録として遺したのは普通ではない。
普通は、編年体であるから、結果を書く事になるだろう。しかし、舎人親王は結果に対して、その結果の深意やその背景をそれとなしに書き足すと言う手法を執っている事は前記でも彼の得意技として論じた。
今回は、この「検討段階の内部事情」を書いたのは何故か。(疑問1-1)
わざわざ、2度も諫言していることを記録している。記録は一度で良い筈である。
それには、先ず、次の事から研ぎ解す。
「持統天皇の反論理由」
天皇家の守護神のある伊勢の国に天皇が行くことが、何が問題なのか。(疑問1-2)
問題として、”農事の妨げになる”とあるが、別に伊勢神宮に行くのである。今までもあり問題はない筈である。
まして。天智天皇が建立して定め、天武天皇が斎王、斎宮や三種の神器(鏡)などの祭祀を正式にシステムを作り定めたものである。その場所に”行くな”と言う方がおかしい。むしろ、”行け”であろう。
それも「注意程度」のものであるなら未だしも「2度の諫言」である。
「農時」と言っても、天皇が「農時」をするのではない。邪魔といっても伊勢路せいぜい1-2日で通り神宮に参詣するのである。
「梅雨の農時」を言うのであれば、「春畑の農時」、「夏の取入れの農時」、冬の「仕度の農時」がある。この程度の理屈を言い立てれば”行けない”となり理屈が成り立たない。
そもそも、伊勢の国に伊勢神宮を定めたのである。この時点からこの事は承知の事実である。
まして、「壬申の乱」で伊勢に集結して大儀を立てた土地ではないか。天武死後の混乱後の”けじめ”として、”行く”が正しい事であろう。
これが持統天皇の反論になるだろう。
そこで、次の事が考えられる。
1 中納言が何故「諫言」したのか。
2 舎人親王が何故この事を意図的に「記述記録」したのか。
3 持統天皇は「伊勢行幸」を何故強行したか。
4 何があったのか。
そこで、これ等を導き出すために、舎人親王の事だからどこかに得意技があると見られるので、この前後の1年間記録を調査すると次の記録が出て来る。
”持統3年6月9日 諸国の長吏(このかみのつかさ)遣わして、名のある山や河に祈祷を捧げさした。”とある。
”持統3年6月11日 畿内に太夫を遣わして、雨乞いをした。”とある。
”持統3年7月11日 使者を遣わして、広瀬と竜田とを祭らせた。”とある。
”持統3年9月9日 班田収受の役の太夫の長官(ただまいのまえつきみ)らを四畿内(よつのうちつくに)に遣わした。”とある。
”持統4年3月17日 詔して、全国に桑、カラムシ、梨、栗、青菜などの草木を勧めて、植えさせた。五穀の助けの為にした。”とある。
”持統4年4月17日 太夫を遣わして、全国諸社に詣でて、雨乞いをした。
”持統4年4月17日 使者を遣わして広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた。”とある。
”持統5年4月13日 使者を遣わして、広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた”とある。
”持統5年7月14日 使者を遣わして、広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた”とある。
記録では、” 持統3年5月15日から4年4月17日までの1年間で、農作業の免除や録や食封などの勲功賞として民臣に与えたのが7回記録されている。特に顕著である。”(詳細割愛)
4月17日以後は全く状況が変わって、免除的な関係記録的なものはない。概ね、一年間の全記録数は140件程度であるが、この中の記録である。
この1年間で盛んに与えている。論功行賞は毎年年賀と祭祀と祝事にまとめて行う程度であるが、この様な盛んな行動は他に記録はない。
それどころではない。
”伊勢北部伊賀地方、伊勢南部志摩地方と南北を割譲して功労者に与えた。”(第10節)
「伊勢王」の伊勢国を次から次へと、3割譲してしまったのである。
この意味するところは推して知るべしである。
先ずは、以上8つ記録から明確に見えてくるものがある。
この1年は大水飢饉(渇水、旱魃)であった事。(概ね2年間続く)
この1年に、特別に通称(租庸調)の年貢に関わる免疫追封の勲功賞を散在している事。
天領地の伊勢3割譲(伊勢、伊賀、志摩)が起こっている事。
舎人親王の得意技(間接表現:8記録配置)を駆使している事。
班田法で問題が各地畿内で起こっている事。
この事柄を考え合わすと、疑問1-2の答えでは次の事が言える。
持統3年から5年に掛けて著しい水飢饉が起こり、田畑の収穫は激減し、大飢饉となりながらも、逆に民臣に勲功賞を散在し、大判振る舞いをしたお陰で、朝廷の大蔵と天皇家の内蔵は火の車と成った。まして、大盤振る舞い最たるものは、「天領地」の伊勢をも割譲してしまった事である。間違いなく収穫激減である。「伊勢王」の伊勢松阪付近のみと成ったのであるから当然である。
そこに、全国各地とりわけ畿内では班田法施行の不満(参考)が勃発した。
この様な事であろう事が観えて来る。
つまり、答えは大旱魃が起こったのである。
持統天皇の政治に対する配慮が欠けていたことを記録として直接表現できないので、舎人親王は周囲に記録として18箇所(10+8)を配置し、「伊勢行幸」のところで主表現に違和感を持たせて、それとなしに、連想させる手法に出た。
上記1−4に付いては、
1番目の中納言の諫言理由は、即ち、「伊勢割譲不満と水飢饉と政情不安」である。
2番目の舎人親王の意図は、即ち、「直接表現の回避」である。
4番目の”何があったのか”は、即ち、「水大飢饉と政情不安」と成る。
以上の説明が付く。
しかし、問題は、3番目の持統天皇の「伊勢行幸の強行」である。
1、2、4のある事は雨乞いなどもあり充分に知っていた筈である。にも拘らず、3番目の強行をしたのは、「持統天皇の反論理由]であろう。
特にその中でも、「けじめ」ではないか。そして、自らが、守護神の伊勢神宮に「雨乞いと、政情不満の解消の神仏加護」を祈願するデモンストレーションを実行したとすれば、納得できる。
実は、記録を遡り、この様な事が無いか調べた。そうすると出てきた。そして、上記の説が当っている事が判る。
天武期の経緯は概ね次の通りである。
天武期4年の1月頃から旱魃が始まり、制定したばかりの伊勢神宮に斎王を行かせて祈りをさせたが、旱魃は続き、5年の9月頃にやや納まり、再び、6年の5月頃まで続いている。そして、この時4年、初めて、風の神を祭る事ととして竜田に社を建立し、広瀬には忌神を祭る事として社を建立した。ところが、全く効果は無く、全国的に凶作で民は飢えた。そして、国司は天皇に現状を訴え救いの対応を願い出たが受け入れられなかった。
それどころか、山の木々草木を切ることを禁じて、保水と保湿の対応と、竜田の風神と広瀬の大忌神に祈った。神頼みだけである。
結局は大旱魃となり、民は飢えてしまった。半年後に一時雨は降ったが、解決には至ら無かった。1年半の天武期の大旱魃であった。
以上の記録が出て来た。
天武期では、事態を明確に集中的に時系列に記録しているし、天武天皇の対応のまずさと無策までを暗に非難して記録している。
ところが、持統期では、この様な事は一言も記録で触れていない。
同じ事が起こっているにも拘らず、片方は書かないのは不思議である。
それは、舎人親王は編集上、「政情と財政」が揺らぐ位の救済の対応をした持統天皇に対する配慮を示したのである。
これは上記の通り「政情不安」の中で、そこまでした女性天皇の持統に対する「配慮、思いやり」があって、故意的に直接的に触れずに、舎人親王の得意技を遣って状況説明をしたと観られる。
これで、疑問1-1は解けて、疑問1-2と合わせて疑問1のこの証明が付く。
その得意技を記録から調べると次の様に成る。
それが舎人親王の得意技(配慮)であり、次の各処から抜粋した時系列記録である。
”天武期2年4月14日 大来皇女を伊勢神宮の斎王にするために、先ず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここで先ず体を潔めて神に使えるところである。”とある。
”天武期4年1月1日 大来皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移られた。”とある。
”天武期4年2月13日 十市皇女、阿閉皇女は伊勢神宮に詣でられた。”とある。
”天武期4年4月10日 美濃王と佐伯連広足を遣わして「神風」を竜田の立野に新たに建立して祭らせた”とある。
”天武期4年4月10日 間人連大蓋と大山中曽根連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の川原に新たに建立して祭らせた。”とある。
”天武期5年4月4日 竜田の風神と広瀬の大忌神を祭った。”とある。
”天武期5年5月7日 下野の国司から国内の百姓は凶作の為に飢えて子を売ろうとする者があります”と訴えた。とあり、”天皇は許されなかった。”とある。
”勅して、南渕山と細川山の草木を切る事を禁ずる。又畿内の山野の元からの禁制の所は勝手な切り焼く事をしては成らぬ。”とある。
”天武期5年6月 大旱魃があった 各地に使いを出し、神々に祈った。雨が降らず五穀は実らず百姓は飢えた。”とある。
”天武期5年7月16日 竜田の風神と広瀬の大忌神を祭った。”とある。
”天武期5年9月 雨あり、旱魃は雨乞いの祈りは無くやや解決した。”とある。
”天武期6年5月 又、旱魃があり京や畿内で雨乞いをした。”とある。
兎にも角にも、これだけを各処に配置して状況を演出している。最早、これでは編年体ではない。明らかに「編年体小説」と言うものである。
更に、舎人親王の記録表現の最たるものは、上記の神宮の「神官の申し出の記録表現」であり、これにもその事が良く出ている。
持統3年3月17日から12月24日までの4つの記録からも、そのための対策を実行している。
それは次の通りである。
朝廷に納められた新羅からの「調」税を、この伊勢にわざわざ移して与えて減免量分を補充している事や、”伊勢国(畿内4域に)に嘉采を見て嘉稲2本を立て奉った”とした「新良種の稲」を与えて「収穫量の増大」を賄って不満を押さえている。
この「新良種の稲」の記録は、次の記録がある。
”天武8年12月2日 嘉稲が現れた。それを称えて、関係した親王、諸王、諸臣、百官の人々に禄物を賜り、罪人の大恩赦をした。”とある。
恩赦するほどの良品種であったことが覗える。それを育て、「伊勢国」に与えたのである。
持統天皇は諫言理由の処置は、上記の事で出来ると観て、”ケジメとデモンストレーション”を専制的に強行したのである。
持統天皇の判断は、「衆生の論」に左右されない主長たる積分域(伊勢青木氏家訓3 苦しい時の明断)の判断である。正しい判断であったと考えられる。
それも然る事ながら、言い換えれば、又、舎人親王の各所に表現記録している「持統天皇の人物像」の「見識眼」も大したものである。
舎人親王は、皇子たちから信頼され、慕われ天皇に推されるに価する相当な人物であったことが覗える。
この記録は信頼に値する。
但し、上記の疑問1が解け判った以上、いよいよ本題の伊勢のことである。
ここで見逃して成らない事がある。
「伊勢国3割譲」と「伊勢王の努力」である。
持統天皇が採った「伊勢国3割譲」は、無二の朋輩しての「伊勢王」に対する裏切りではないか。つまり、「努力貢献」に対する無視である。
この「無視」は末裔の我等青木氏の者でも今でも、”ムカ”とする。
単純な「無視」ではない。それは、これが為に、「青木氏衰退」の”きっかけ”が出来て始まるのである。
つまり、持統天皇のこの事件の「専制的強行」は大きな犠牲の上に成り立ったのである。
今までの最大の朋輩で、「兄妹」に対して、「後ろ足で砂を蹴る」が如きである。
それに付いて次に論じる。
第1節から8節まで「伊勢王」は朝政務に誰よりも貢献して来た。本書に記録されていて出て来る人物の最高功労者である。身分も第6位皇子でありながらも、他の皇子より爵位上位でもある位に貢献してきた。8節までで説明は不要であろう。
しかし、朋輩「伊勢王」没後(689)には、この持統天皇の後期では、伊勢の国は3分割割譲されてしまった。
これではたまったものではない。末裔青木氏は一度に勢力を衰退させただろう。恐らくはこの段階では近江青木氏も衰退の傾向があったであろう。
第1期の皇親政治は、「伊勢王」や大津皇子の薨去後、必然的に持統天皇の独壇場となり、「皇親政治」の本筋は次第に変化して行ったのである。この一つの現われとして、本節の伊勢行幸問題が位置付けられるのである。単純に「伊勢行幸」だけではない。
敢えて、「専制的強行」と記したのは、大津皇子と伊勢王薨去後、舎人親王の心の中に、「皇親政治」から「専制政治」況や「院政政治」へ移行の「寂しい気持」があったから、多くのスペースを採り記録を多くしたのであろう事が観える。
この後も、「持統天皇」は草壁皇子の子供の文武天皇に譲位したが、この文武天皇の時も、「太上天皇」(皇太后)として「大宝律令」の制定に大きく関与したのである。
所謂、第1期の「皇親政治」から「院政政治」への始まりである。
「持統天皇」後も「太上天皇」と呼称した事がその専制の決定的証拠である。
しかし、一面、心情的には、必然的に生まれる「流」で、この事(専制、院政)は止む無き事かなとも咀嚼される。(第8節記述)
当然、伊勢国はこの強い「院政政治」の影響を受ける事に成ったとしても不思議ではない。
その仕打ちは、国の割譲の問題だけではないのである。
この「割譲を受けた氏」(阿多倍一族)にも影響を受けて、実は伊勢青木氏には大きな衰退問題が潜んでいたのである。
この一族と青木氏は相対の関係にあった。
(その内容は続いて、次の第10節で詳しく記述する。)
持統天皇が慌てた真因は、この「班田収受法」の施行にあった。人、時、場から観て拙い時に施工したものである。
その法の中の問題としては、「6歳6年」である。
班田収受法とは、戸籍に基づいて、6年毎(班年。籍年の翌年)6才以上の班田農民に口分田を支給し(6年1班:2反)、死亡後国家に収納する土地制度の仕組みである。
蘇我氏の横暴を防ぐ為に、大化改新を実行しその反省から採った公地公民の制で、土地人を国に帰し、その仕組みの一つとして、施行したもので、6才と言う幼児の年齢から土地を貸し与えて、その税の負担を課した。それを6年というサイクルで早くし税の収納を大きくした。
班田法の不満とは、これ等の「重税と飢饉」に対する不満が合致膨張して人心は大きく離れていった。この時、畿内の中、伊勢は最も割譲、重税、水飢饉、衰退、専制で苦しんだ事になる。
この時、「伊勢王」を始祖とする青木氏一族は不満の中、衰退の方向に傾く(桓武期まで)のである。
参考
文武天皇の第6位皇子も美濃王として青木氏を遺す。
次は、活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」である。
No.1255
Re: 日本書紀と青木氏 10
副管理人さん 2008/04/24 (木) 16:35
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。
検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
本書記録
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
”天武没(朱鳥)元年5月22日 皇太子は公家百官を率いて、もがりの宮に詣で慟哭された。隼人の大隈:阿多の首魁が夫々の仲間を率いて互いに進んで、しのびごとをした。”とある。
”天武没(朱鳥)元年7月9日 隼人の大隈:阿多の首魁等337人に物を賜った。”とある。
”天武没(朱鳥)3年8月16日 伊勢国伊賀郡(阿多倍の国)の身野2万代に禁猟区を設けて守護人を置いて、河内大鳥郡に順ずるものとした。”とある。
”持統3年5月15日筑紫大宰率「河内王」等に詔して「沙門を大隈と阿多とに遣わして仏教を伝える様にとご下命。”とある。
”持統6年5月13日 隼人の大隈に饗を賜った。”とある。
”持統6年5月21日 隼人の相撲を飛鳥寺の西の槻の木の下で行われた。”とある。
”持統7年 直広1位の位を宿禰大隈に授けられ、伊賀に水田40町賜った。”とある。
検証
本記録は「伊勢王」とは異なるが、「伊勢王」に大変関係する不可欠な記録であるので、特記する。
上記に、その大隈首魁の阿多倍と阿多倍一族の事だけの抜粋とした。何故ならば、この首魁の行動は、相対の関係で、青木氏の「栄枯盛衰」に大いに関わる事と成って行く事だからだ。
大変に奈良時代、否、現在の日本の国体の基礎を築いた帰化人の一族なのだが、余り知られていない。それだけに、特記する必要性を感じている。
この知られていない理由には、日本書紀の研究の遅れと、近代の日本の軍国主義と、左傾主義の本書の否定から、これ等の史実に対して葬って来た事が上げられる。
しかし、本書の裏づけが、韓国(高句麗)から発見された僧道顕の著「日本世記」や「海外記」「海外国記」等から、日本外交史の事に付いて最近裏づけが取れた事から、史実である事が判り、理解される様に成ったのである。
僧道顕は天智天皇の無二の政治の相談相手であり、共に生活した為に、その書は天智、天武天皇の政務や出来事をかなり詳しくその日の出来事を日記的、且つ、記述的に書き込んだのもので、日本書紀より詳細に書かれている。(本書外にも、青木氏の賜姓、由来、仏像授与もここにも記録)
しかし、「日本世記」に拘らずとも、本書の前後関係だけから見て史実である事は明白である。左傾主義者が間違いの多い事を殊更に喧伝した思惑否定の為に一般には信用されていなかったのである。だから、知られていなかったのであり、そのことを頭の隅に置いて頂き次の事をお読み頂きたい。
先ず、研究室のレポートに各処に記述しているが、本書の目的の面から概容を改めて記す。
この大隈の首魁の阿多、即ち、阿多倍王は、後漢光武帝より21代末帝の献帝の孫(石秋王の子)阿智使王と、その子の阿多倍王である。
最終、後漢は隋に圧迫(610)され、唐に潰されて(618)、これ等の阿多倍らに率いられた民は、北九州に上陸した。その入国は1次と2次とに分けられる。
入国経緯
第1次(前期)としては、隋が後漢を含む朝鮮半島を征圧する為に東征したが失敗し、そのために隋は弱体化して、結局、後漢と共に唐に618年に滅ぼされる。この時の2度の圧迫(隋唐)で難民が生まれ、その時、第1次(前期)は、先行して、後漢(高句麗)の漢氏(東漢氏)、司馬氏、秦氏、陶部氏、鍛冶部氏、等が先ず入国(582年頃前後)したとあり、渡来人の秦人、秦人部、秦部等(弓月君始祖)の秦氏の一部族だけでは約7053人居たと記録(宣化、欽明天皇期頃の記録:570-580年)にある。
この数字から観ると、従って、新羅百済の朝鮮系の渡来人を入れると、「部」の技能組織は、記録から調べると40−50程度と観られ、590−630年の間には40−50万人は入国していたと見られる。
第2次(後期:最盛期)としては、次に唐に圧迫(616-618頃)された後漢も滅亡し、618年前後頃か難民で入国、孝徳天皇期(650頃)が頂点となり、以後下降(670年頃)となり、後漢民の終わりは710年頃で200万人とある。(全難民は250-280万)
これ以後、全国的に各処で度々不法入国事件が続く。最後は、1019年の博多下関での西夷大乱入事件があり、朝廷は政治的に「遠の朝廷」の太宰大監の「大蔵種材」に命を正式に出し、「難民受け入れ」は打ち切った。
第1次の ”「阿智使王」(阿多倍の親)が率いた”との説があり、間違いである。
史料に依ると異なる。後漢が滅亡していないのに[阿智使王}だけが先に来るのは疑問である。他に史料では阿智使王は孝徳天皇期(650)に入国したとある。本書の記録と一致し後者が正しい。
又、前者の説では阿智使王は朝鮮系と成っていて、漢氏の始祖と成っているが疑問である。
前者の説は、全て朝鮮系としたいとする意図が見られ、史実を無視している。([日本世記」を無視)
第1次の一族の入国と本格第2次の阿多倍集団は、九州全土と中国地方を無戦征圧し帰化した(17県の200万人)技能集団であった。(研究室の阿多倍の関連レポート参照)
この集団が何故にここに出て来るかと言うと、「伊勢王」即ち、伊勢青木氏の「栄枯衰退」と「子孫繁栄」に大きく関わる集団なのである。
先ず、この阿多倍の本書の記録から検証して、次に本書「伊勢王」(青木氏始祖)との関わりを論じたい。
兎も角も、その前に理解を深める為に大筋の経緯を述べて置く。
孝徳天皇期前後(第2次)から、更に、後漢から遼東半島の湾を経て、先ず北九州に上陸入国してきた。これ等の民は中国の進んだ技能を持ち込んだ。所謂、「部」(40-50部)の民である。
その首魁阿多倍王等に引き入れられた軍と技能集団は、北九州から南九州にまで殆ど無戦の状態で征圧した。むしろ、大和の九州の民は進んでその配下に入り、その優れた技能を吸収して生活レベルを向上させたのである。そうして、彼等の首魁の阿多倍は南九州の大隈に定住した。
その後、続々と上陸してくる後漢の民と後漢に圧迫された朝鮮半島の民は、朝鮮半島を経て、中国地方の下関付近に上陸し中国地方へと更に進出して、ここも無戦征圧して、関西の西域まで到達した。
後に、この中国地方は第1次の後漢の「陶部一族」(すえべ)が勢力を高めて征圧し、室町末期まで大豪族として統治した。
この時点で、朝廷は彼等の貢献度を認めて帰化を許し、彼等は帰化人として正式に各地に定住した。
しかし、新羅の政情不安からも難民が出て、ここまででいっぱいに成り、朝廷は後漢の民と共に中部地方の未開発地域に配置した。特に、本書記録でも後漢の民が持ち込んだ外来馬の飼育に適する地域として、美濃(岐阜付近)と信濃の西地域に配置したと本書に記録されている。
朝廷は、この地域が開墾開発が進み、戦略上、主要穀倉地帯でもあり、幹線道路でもある事から天領地として定め、ここに、「美濃王」として第6位皇子を配置したのである。
(この子孫が美濃青木氏である)本書にもこの記録が出て来る。
朝廷は、南九州の隼人に定住していたこれ等の帰化人の首魁阿多(後漢阿多倍王)を都に呼び寄せて、その貢献に報じて賜物を授けた。この時、彼等は天皇の前で337人と言う大勢で踊りを披露したとある。
その後、伊勢北部伊賀地方を割譲されて定住した首魁大隈の阿多倍の一族関係者が、一同挙って天皇の前に集まった事である。しかし、337人と言う定数が面白い。先ず第1の疑問1(違和感)がある。
普通、記録しては”集まった”で良い筈である。
その理由の詳細はまとめて下記に記するが、ある目的で誇張したかったのであろう。
概して、”彼等の技能が国の発展に大きく貢献した事”であり、阿多倍一族らを「伊勢北部伊賀地方の割譲」をして、そこに住まわせた「理由と経緯の明示」(疑問1)を喧伝したかったのである。(詳細下記)
その後、天武天皇が崩御して、彼等は伊賀から都に出てお悔やみをしたのである。
2月後、再び、呼び出して、改めてその功労に対して、勲功を受けたのである。
「帰化人に割譲」の「理由と経緯の明示」の目論見は目立っていて、ここまでは問題はない。
しかし、”6年後に、大隈に居る阿多倍一族と、伊賀に住んでいる阿多倍に仏教を伝える様に命じた。”とあるが、何で彼等にわざわざ命じたのか疑問が湧く。第2の疑問(疑問2-1)である。
そして、何で仏教なのか疑問が湧く(疑問2-2)。
「仏教」と「阿多倍一族」の2つの疑問である。(疑問2)
それには明確な必然的理由があるのである。本書のこのままの記録ではこの疑問は解けない。
「仏教の伝来の経緯」の中に有ったのである。そこで先ず、その経緯を説明する。
仏教伝来の実際の経緯
実は、仏教伝導は「蘇我氏と物部氏の戦い」で決まったもので、聖徳太子の時の問題であった。この時は「決まった」だけであって、「伝導:広まった」ではない。誤解されている。
しかし、第9節でも述べたが、持統6、7年頃は政情は不安定で、特に畿内では国内問題を持っていた。しかし、現状の「仏教布教」は未だ天神文化と共に上位階級のものでしかなかった。
騒いだ割には大きく進まず、民までのものでは無かったのである。依然として、神物信仰が主流であり、天皇家自ら伊勢神宮を興隆させているくらいである。
そこで、朝廷は、矢張り、「民の心」を治めるには、仏教の宗教で納める事であるとして、進んだ中国の仏教典を持つ彼等に仏教布教を命じたのである。疑問2-1の解決である。
そこで、”何故、彼等にこの「仏教」をなのか。命じたか。神物ではないのか。”と言う第2の疑問中の疑問があるだろう。
それを説明すると、第2の疑問が解けるのである。
実は、阿多倍の配下で、初期(第1次)に入った「司馬達等(馬の鞍造を造る技能人鞍造部の頭領)」と云う人物が居た。この人物は大和国高市郡坂田原(天智天皇の高市皇子の里)で草堂を営んでいた。
彼は後漢から持ち込んだ仏教を、故国から離れて「部の民の心」の頼り所として、私伝で「部の民」に伝えて導いていたのである。(司馬達等:仏教私伝の祖と呼ばれる)
そして、その為に鞍を作る技能で仏像をも彫り、祭祀していた。(他書記録による)
次第に彼等の帰化集団者と彼等の配下となって技能を磨いている「大和の民」にもその仏教の広がりを見せ、大隈国と伊賀国の民を始めとして、彼等に従う関西以北の大和の民の心は穏やかであった。
この時期、少し後に、南九州では独立運動(700-713年頃)が起こり、朝廷の命に従わなかった。
分轄した日向、薩摩、大隈の内、薩摩と日向(朝廷大官僚の弁済使の伴氏と血縁した九州大豪族肝付氏)は従わず、朝廷は720年に遂に討伐した経緯がある。
朝廷は、この阿多倍等の生活態度の事前情報を得ていて、(この時は、半国割譲の大隈の首魁阿多倍一族とその技能集団は平穏であり、その原因は仏教布教にあった事。)そこで、国政不安定の中、持統天皇は、九州全土を統治している太宰大監の「三河王」に命じて、全国に彼等のこの仏教を伝え布教するように命じたのが、この経緯なのである。(この段階では、太宰大監は阿多倍一族ではなくこの直ぐ後である)
半国大隈地方と半国伊勢北部伊賀地方の阿多倍一族の彼等に、問題と成っている関西域にも、布教する様に命じたのである。
これが第2の疑問の解答である。
それだけに、この意味するところは、持統天皇は帰化人の彼等に頼まなければ成らないほどに窮していたのである。これ一つでも「治安人心が不安定」の証拠になる。即ち、疑問2の大元が証明出来る。
しかし、この時、本書の記録を良く調べてみると、後漢の東域の朝鮮半島の新羅と百済からの難民も入っていて、この仏教を信じていた。しかし、よく調べてみると、この新羅、百済の難民の事に付いては、本書記録ではこの期間の1年間で40件程度と本書にしては、目だって多く記録されている事に気づく。(新羅、百済からの難民は応仁大王の事件と共に、5世紀頃から始まっている。)
むしろ、その中を分析すると、犯罪的な事を起し、処罰されているのが約半数弱もあるのである。反面、後漢の民の犯罪記録は全く無い。
現在に於いてでさえ、外国人が多くなると犯罪や揉め事が多くなる。この時は、250万と言う難民帰化人が入国したのである。普通である筈ではない。
そう云う環境の中で、それどころか、隼人の大隈の一族の者を呼び出して、その功労に対して、天皇自ら宴を催して褒め称え、更には、隼人相撲大会を飛鳥寺で行っているのである。
この意味するところは明らかである。まして、「飛鳥寺」と言う場所に意味がある。一般公開である。宮廷ではない。
これは、”どの様に解せば良いのか”と言うことなのであるが、第3の疑問である。
実はこれも明確な理由があったのである。
持統天皇は、不満を増大している大和の民、阿多倍の帰化人の民、新羅、百済の難民の民、この3つの民の安寧を納めるには、静かに帰化してくれ、穏やかに生活している「阿多倍一族の扱い」にあると読んだ。
そこで、相撲大会である。
単純に相撲大会如き行事は何処でもある。しかし、この二つの行事をそれも「隼人相撲」を「大々的」に記録しているのである。相撲ならば何処にもある。何も遠い隼人から呼ぶ事は無い。
また、舎人親王は、得意技で何かを意味するところを含ませているとしか思えないのである。
そこで、本書の得意技と他史料をも調べた。そうすると観えて来た。
つまり、他の時期にも新羅百済の事は記録されているが、この行間前後の本書記録としては適さない40件もあり、その中約1/3の百済、新羅の民の「犯罪」と、何処でも日常茶飯事の「懲罰」がこの時期にわざわざ集中して記録している。
新羅、百済でなくても大和の民も犯罪を犯している筈である。歴史記録に値しないその茶飯事の事を記録しているのである。
明らかに記録の編集には違和感を抱かせる。
その反面、比較対照として貢献している阿多倍の集団を相撲というものでクローズアップさせて、際立たせ、その「品行方正な民」である事を目立てさせる事が、持統天皇の企みなのであり、その天皇の「治世の苦労」を何とか記録として、舎人親王は得意技で編成の配慮をしたのであろう。
これが、第3の疑問の検証の解答である。
この本書が完成する頃31年後には、この阿多倍の帰化人は、政治の官僚の中に「事務方」として本レポート序文に記述した時(天智、天武期)よりも、多く既に入り込んでいる。
この時期、多くの「律令整備」が進んでいる事が証拠である。
そして、”本書のその編成も当然に彼等達が行っていた”と言う事である。
留学生以外の大和の民ではその学識から無理である。留学生にしても量的にもこれだけの「律令整備」を賄う事は実務的に無理である。
そこで、実は、その記録が存在するのである。
”天武期4年2月9日 大和、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張の国に勅して管内の人民で歌の上手な男女朱儒技人を選んで奉れといった。”とある。
”天武期5年4月14日 朝廷に仕えたいとする者で一般の者でも能力のある者は雇え。”とする直接命令の記録がある。この一つでこれ以後、如何に忙しく成っているか物語っている。
前者の記録は、畿内と中部の王の守護統治領から、政務とは別に、文化や祭祀に拘る体制を民間(渡来人)から集めて確立させようとしていたのである。
後者の記録は、天智天武期から始まった「律令整備」の計画に対して、始まった頃に天武天皇は先読みして準備してこの手を打ったものである。
この2つの記録に付いては、この時期には、天武は民間の力(渡来人)を生かして国の力を付け様としていたのである。
それが持統期には、効果を発揮して律令体制の整備は大いに進んだ。
因みに、彼等による「律令整備」は、「帝紀」、「八色の姓」、「庚寅年籍」、「飛鳥浄御原令」、「藤原京遷都」、「大宝律令」、「養老律令」等が上げられるが、この中味たるは大変なものである。(詳細は大化の改新のレポート参照)
既に(686-692頃に)天皇家に血筋的に食い込んでいる阿多倍一族を、舎人親王は時代性を演出する為に故意的に挿入したのである。
むしろ、当然に、彼等の進んだ知識を以って入り込まなくては成らない程に「政治機構化」していたし、大和の民では、その内容を検証すると到底無理の一言の内容であり、既存の知識、学識ではその範疇が小さかった理由もある。従って、その後漢の民の活躍記録としては、主体がかれらの活躍でその記録になる。
その証拠に、天智天皇から持統天皇までの律令の制定は急激に多く成っている。(参考記述)
特に、この持統期の時期にすれば、689年の「飛鳥浄御原令」の令(民法、行政、訴訟法)と、701年の太上天皇(持統天皇)の「大宝律令」の律(刑法)の2つの大きな完成がある。
これ等は彼等の知識抜きでは成し得ない。
それならば、ここで疑問が湧く。
本来であれば、このような政治、経済、軍事の全能力を持った集団が、殆ど無戦で九州全土中国地方を征圧している事から、「独立国家」を宣言してもおかしくない。
しかし、”行わなかったのは何故なのか”
第4の疑問である。
彼等の軍事、政治、経済のどれを執っても朝廷より遥かに優れている。
また、その技能に依って民の生活レベルが急激に上がり、土地の人心も掴んでいる。従って、戦略補給は充分である。既存の朝廷が到底成し得ない力である。
なにせ、17県民200万と言う人口が津波のように押し寄せてくるのである。朝廷は戦っても絶対に勝ち目は無い。彼等の軍事、経済、政治の力を除いても、この真に津波のように「押し寄せる力」に打ち勝つ力は無い。「押し寄せる力」で充分である。
中国では隋に討伐されて漢が滅亡して漢民は西に逃れたが、西の土地(ネパールチベットベトナム等)の者を追い出し、そこに定着している経緯もある。(正式に元国のときに中国と制定)
その一方の東に逃れた漢民(光武帝に率いられた民)が、東中国と朝鮮半島北部を征圧して後漢を樹立したのである。
その経緯から考えても、後漢難民と言っても、普通の難民ではない。大和国に入った彼等は独立国を樹立するに充分な条件を備えている。大和朝廷としては、歴史上最大の国家存亡の危機問題である。
ところが、関西直前で彼等の進軍は突然に止まったのである。真に「一大決戦」と言うときにである。この時、既に、大和国66国中32国を征圧しているのである。
”進軍停止は何故なのか”第4の疑問(独立)の中の疑問が出る。
それには、ほぼ200年前にも同じ事が起こっているのである。この事は朝廷は知識として知っている。迫る阿多倍の集団に対してどう出るべきかを悩んでいる。
朝廷の事前知識
応仁(応神)大王が、朝鮮半島の百済を始めとして南部の民から構成された大船団を整えて、堺の港に上陸した。
当時、関西域は4つの豪族(巨勢、平群、葛城、紀の4族)の連合体で「ヤマト王権」(大和朝廷前進の連合政権)を樹立していたが、この連合政権と戦った。
先ず、上陸後、4つの豪族は水際の前哨戦で負けた。しかし、この4つの豪族は一端奥に退いて長期戦へと持ち込んだ。大王側は各個攻撃へと変更し、紀族を制圧、紀伊半島を回って新宮から奈良盆地に入った。ところが、残りの豪族達は奈良盆地(当時は未だ奈良盆地は中央に大湖があり、現代は地殻変動により湖面が下がり湖底の所にある。現代の「猿澤の池」がその元と言われている。)
の水際作戦のゲリラ戦を採用し長期戦に持ち込んだのである。
結局、この応仁(応神)大王の船団は補給不足となり、戦いを中止し講和した。そして、5つの豪族による「ヤマト政権」を樹立し、初代の大王に応仁(応神)大王が成った。(この時期は未だ「天皇」では無く「大王」と呼んだ。)
これが類似する事前知識である。
今回の阿多倍の集団には、違う点としては次の事がある
大和の民が彼等に従っている事である。
入国側の民は土地に生活基盤(技能集団)を作り定着している事。
戦いとなると、阿多倍側は勝利は確実であるが、この2つの事(軍人ではない2つの民を巻き込む)で良民に大きな犠牲が出る事になる。かれらも悩んだ。無戦で勢力下に入った人民である。
彼等の首魁の阿多倍は、”犠牲を払って勝利で独立国家を樹立するか、無傷に平和裏に帰化して実利を獲得するか”の二者択一の選択に迫られた。そして、都に入る直前に、選んだのは後者であった。
第4の停止の疑問の答えである。
この様な彼等の態度に対して、事前知識を持ちながらも、朝廷は悩みに悩んでいた事が、阿多倍集団の「実利の決断」と朝廷の「事前知識」とが一致した結果となった。
朝廷は平和裏に解決した事に対する安堵感で一杯であった筈である。多分記録には無いが下交渉はあった筈である。
決着した。そこで、彼等の首魁を呼んだ。阿多倍らもその恭順の意を表す為に、天武天皇崩御(686)に対して、都に出て葬儀に大勢(337人)で参加すると言う姿勢を示したのである。
これが、帰化申請後の「最初のもがりの参加記録」である。
又、この337人は上記のデモもあろうが、多分にして、騙まし討ちを避ける為の阿多倍を護衛する為に付き従った者達であろう。
そして、その返礼として持統天皇は再び彼等を2度も招き、次の記録の経緯と成るのである。
持統6年5月21日 隼人の相撲。
持統7年 爵位直広1位の位を授け、姓は宿禰とし、半国大隈国を授けられ、伊勢半国割譲の伊賀地方(水田40町)賜った。”となるのである。
見返りとして、下交渉の約束で、持統天皇は彼等に先ずはこれだけの事をした訳である。
これが第4の疑問の検証である。
(下交渉の記録はないが、これだけのことを下交渉がなくして出来ない)
しかし、これだけでは収まらず、持統天皇は次から次へと藤原氏以上に引き上げて行く事に成ったのである。(参考 藤原氏は720年頃から台頭:藤原不比等)
朝廷側も事前知識で彼等を敵とせず、味方に引き入れる戦略を採り、「独立国家」に相当するものを与えたのである。事前知識と全く同じ経過を辿ったのである。
むしろ、記録には明確なものは見当たらないが、下記の事も含めて、水面下の交渉の末でのこの「帰化条件」であったのではないかと思われる。
それは次の記録から判断出来る。
帰化の条件の説明
持統天皇としては、この200万人と言う技能大軍団の犯罪を起さないおとなしい帰化人が、第1次産業の技能を持たらし、それどころか国政の事務に長けて律令の根幹を作り、国の発展に貢献している事にうれしくて成らないのである。
その証拠に、「阿多倍」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王の娘」を娶り、「天皇家と縁結び」となり、且つ、「准大臣」に昇格し、「宿禰族」に列せられ(830年頃)、「半国大隈国東部を割譲」し、「国の首魁」を認め、「伊勢北部伊賀地方を割譲」し与えられ、更に、この半国に「不入不倫の権」を与えられたのである。文句の付け様のない扱いである。
これが持統7年頃のことである。
それどころではない。血縁となり、3人の男子を産み、長男は坂上氏を、次男は大蔵氏を、三男は内蔵氏を、「賜姓」(690-705年頃)を授けている。
まだまだである。少し後では、この3人に、夫々、坂上氏には「朝廷軍」を任し、大蔵氏には朝廷の「財務大蔵」を任し、内蔵氏には天皇家の「財務内蔵」を任したのである。
参考として、朝廷の役所は「3蔵」と呼ばれ、大蔵、内蔵、斎蔵で構成されていた。
斎蔵は藤原氏である。彼の名声と権力を欲しい侭にした藤原氏(不比等)である。しかし、未だ、この頃は、斎蔵を任され祭祀を含む朝廷全般の政務と総務を担当していただけなのである。
その事から、考えたら、恐ろしい程に朝廷の実権を握っていたのである。藤原氏どころの話ではない。(藤原氏の名声は知られているが、それ以上の比べ物にならない名声と実績を持ったこの阿多倍一族は余り知られていないのが、不思議の一つである)
もう終わりと思うであろう。ところが、皇族の「三河王」に代わって、九州全土の行政長官の「太宰大監」(博多別府大宰府:大蔵春實938頃:種光950頃)に任じたのである。(この時、奥州は藤原氏の鎮守府将軍となる)
まだあるのである。今度はこの「太宰大監」に、軍事、行政、経済の「3権」を委ねたのである。
そして、更に「遠の朝廷」(940年)と名付けるのである。遠いところの「九州の朝廷」とまで命名した。
又、「征西将軍」(1017年)に任じられるのである。
最後に、この「遠の朝廷」の阿多倍一族の「太宰大監」に「錦の御旗」を正式に与えたのである。
この「錦の御旗」(830頃:天慶3年:大蔵春実と孫の大蔵種材)は個人に与えた記録は他に無い。
最後の最後と言いたいところであるが、この「太宰大監」を阿多倍一族大蔵氏の「世襲制」としてしまったのである。(追加:この末裔の太宰大監の大蔵種材という豪傑がいたが、この者を四天王のモデルにしてしまった。)
この位で止めて置くが、この事で、もうお判り頂けたと思う。
「独立国」を選ばす、「実利」を選択したが、実利以上の無血の「九州独立国」そのものである。
これで疑問は史実で解けた事になる。850年代で完全達成している。
これより以後もまだ続く。
伊勢北部伊賀地方の阿多倍の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇の妻となる。その子供が「桓武天皇」に成る。桓武天皇は母方の伊賀の「阿多倍王」別名「高尊王」(既に没)に対して、架空の「高望王」(平望王)と呼称し、「第6位皇子」の扱いをして、「たいら族」として氏の「賜姓」をしたのである。(詳細下記)
そして、その末裔孫の2代目「平国香」より「平貞盛」で勲功を挙げて、5代後に「平清盛」で太政大臣と成った。
これで、朝廷の政治も思うが侭である。九州だけではなく、全国の政治、経済、軍事の覇権を握ったのであり、独立国どころではない。
本書の持統期(700年頃)では、この一族は未だ60-70%程度であろうか。そして、最終(100%)は1120年頃であろう。そして、1175年頃から没落し1185年で平氏滅亡(京平氏)である。
反面、伊勢青木氏は全くこの逆である。
伊勢の国を割譲されて、伝統ある近衛軍の役職も押さえられ、更には、伊勢の守護も半国司の藤原藤成(藤原秀郷の祖父:826年)に任してしまったのである。
当然、皇親政治として活躍していた天智天武期から、何時の間にか(645-720)この阿多倍一族に全て国と役職を奪われたのである。国と役職を奪われては基盤は無くなる。衰退は避けられない。現実に衰退した。
一方、阿多倍の一族は半国伊賀国を与えられ、そして、遂には、この首魁「たいら族」(平氏=京平氏:桓武平氏:伊勢平氏:781年頃)の一族に天皇から賜姓を受けた。
この賜姓は「大化改新」の目的の一つ経費削減で、第6世以降の皇族の者は皇族を外し、平に成った事から「ひら族」(坂東平氏として賜姓:坂東平氏:8氏)として、天智、天武、持統期に代替わり毎に坂東に配置した。
この「たいら族」の賜姓は、この「ひら族」にかけて阿多倍一族に名付けたのであるが、実は、皇族に並び続く「7世族」として位置付け、「ひら族(平氏)」を「たいら族(平氏)」として「高尊王」(阿多倍王の日本側呼称)に賜姓(桓武天皇期)したのである。
しかし、記録では、伊賀の国に住む「平望王」(高望王)と成っている。これは「尊と望」の編集時の間違いか、平氏賜姓後の呼称なのか、生没も含めて一切の記録は不明なのである。
この時、阿多倍は没している筈であるので、皇族系(第6位皇子)である事かをほのめかす為に「平望王」(高望王)は、「高尊王」に因んで、後付したのではと考えている。
この当時(持統期)は未だ、帰化人には偏見があり、次第に皇族との血縁族とは成りつつあるが、皇族に列する処置が出来なかったのである。
史料から観て、帰化人(渡来人)の字句が消えるのは桓武天皇期の書物からである。
(桓武期頃より以後、難民、帰化人は九州「太宰大監」の大蔵氏が、記録では朝廷の命で盛んに博多、下関の水際で食い止めている事件が記録されているので判る。)
これは、伊賀の国に住む阿多倍の末裔孫]娘「高野新笠」が光仁天皇の賓(みめ)と成り、後の「桓武天皇」を産む事により、世間は、最早、「天皇まで成る時代」として世間の意識の中で、渡来人では無いと考えたからであろう。つまり、日本民族の完全融合(参照 日本民族の構成のレポート)の完結期の経緯である。
賜姓を受けた伊賀の国に住む阿多倍一族は、その末裔孫の「平国香」(900頃)より始まり、「貞盛」(950:繁栄の基礎:平将門の乱鎮圧、常陸の押領使)、「惟盛」、「正盛」(中央政界)、「忠盛」(平氏繁栄の基礎)、「清盛」と続き、5代後で「平清盛」(1180)の太政大臣にまで上り詰める。
遂には、後漢から帰化した阿多倍一族の集団は、上記の本書の記録に示す持統天皇期から政治に関わり、天皇(桓武天皇781)まで上り詰め、政治、経済、軍事と産業の基盤を創り上げたのである。
この伊賀に住む後漢阿多倍王の末裔(渡来人:高野新笠)を母に持つ桓武天皇は、その彼等の力で「日本の律令制度」を完成した天皇としても位置付けられている。
阿多倍の上陸後、上記した経緯でその独立国を樹立せず、200年間でその効果と同じものを持つ実利以上でその立場を確保したのである。はっきり言うと、乗っ取ったとも取れるものである。
しかし、大事なことは、悪い意味での「乗っ取り」ではなく、むしろ現在の日本の政治、第1次産業の基盤を築く程の国としての国体を作ったとしても過言ではない。
「単純な帰化」ではなく、日本の国体を「構築した帰化」であった。阿多倍の卓見である。
ところが、古事記域に入るが、元明、元正天皇と女性天皇が続き、聖武天皇と成り、矢張り第5位後継者までは絶えた。
暫くすると、第6位皇子である「伊勢王」(施基皇子)の子供を、皇位継承者が無かった事から、伊勢より皇位継承者を出す以外に無く成った。光仁天皇である。(伊勢青木氏とは縁続きになる)
一時、一族の光仁天皇により息を吹き返したかとの予測も付くが、甘くは無い。伊勢隣りの伊賀の娘を娶ったのである。
しかし、、前節でも記述したが、その孫(光仁天皇の孫)の嵯峨天皇は賜姓を戻し青木氏を救ったのである。
「伊勢王」を始祖とする伊勢青木氏を含む5家5流24氏の青木氏、更に母方で繋がる藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏の元祖は、日本書紀の中で、その「生様」を検証して来たが、大変な、激動の時代(645-710)を乗り越えて来たのである。
日本書紀は編年体であるが、上記した様に真に、舎人親王著「編年体小説」と名付けたが、余り、伊勢王をキーワードとして、限定して検証している書籍はない。
また、本書内の舎人親王の「詩文体」とも言うべきものを考えて、それを年頭に記録を徹底して検索して詩文の環境を導き出すという手法を採用した。
結果は、本書には30箇所以上の伊勢に関する記録が出て来るし、他書籍にある史実以外のものが見えてきて、その背後関係を導き出す事が出来た事は、驚くに値する事であった。
検証する者としてわくわくとして検証した。
幸い、筆者の先祖代々は紀州徳川氏の漢文、漢詩、南画の師たる者でもあった事が”門前の子童習わぬ経を読む”が幸いしている。
古事記の序文ではないが、青木氏も同じ事が言える。”今を逃すと青木氏の史実は消える”と。
これが、本レポートの思いである。
近い将来、時間が有れば、青木氏一族としての藤原秀郷主要5氏の2氏(永嶋氏と長沼氏)との関係についても検証レポートを投稿したいと思っている。
参考
「坂東八平氏」とは、千葉、長尾、上総、秩父、土肥、梶原、大庭の8氏である。
北条氏や熊谷氏は支流である。
阿多倍の天皇家との血縁の年代推定は686-692の間の年代であろう。
”阿多倍次男の山本直が大蔵氏を賜う。”とあるが、その前の時期に敏達天皇曾孫の芽淳王の娘と血縁により次男が生まれ賜姓を受けている。(長男は忘手直、三男は波木直)
「平貞盛」とは藤原秀郷と共に、「平の将門の乱」の鎮圧平定者である。
大隈国 日向国を713年に4群を割譲して大隈の国を造り、正式に阿多倍の首魁一族に与えた。
4群以外はこれに従わず独立国家を主張720年に征圧した。
「司馬達等」は鞍造部の始祖で、仏教私伝者であり、日本初代の仏師「鞍造部止利」は彼の孫である。伊勢青木氏のステイタスの大日像の生仏像様は「鞍造部止利」作である。
文武天皇期の養老律令(718)は藤原鎌足の子供の不比等が編纂したものがあるが、これは大宝律令の修正版である。
光仁天皇は709-781 位770-781
桓武天皇は737-806 位781-806
嵯峨天皇は786-842 位809-823
「陶部の陶氏」は、後漢の阿多倍の配下で、第1次の後期の陶磁器の技能集団の部の頭領で、室町末期までその勢力は中国全土を占有していた。毛利氏に潰された。村上水軍はその末裔と言われている。
「日本書紀と青木氏」 完
No.1214
埼玉県北本市 大島です
大島 重正さん 2008/03/02 (日) 14:26 [
メール ]
今日は、埼玉県北本市の大島と申します。
ネットで自分の苗字を検索していたら、こちらの青木様のサイトにたどり着きました。
こちら、サイトに記載のあった伊豆大島氏のことですが、教えてください。
私は、埼玉県北本市の出身で、この北本市には、大島の姓が多いのです。
以前に鴻巣七騎(鴻巣の地にいた戦国時代武士)の1人の大島大膳亮久家が伊豆大島から
この地に住み着いたと聞いておりました。
確かに、北本市宮内に子孫の方がいるそうです、お墓に行ってみたら笹竜胆の紋でした。
また、同じ宮内の別の墓地にも、大島の墓が有り、この墓の家紋は剣カタバミの紋でした。
宮内の隣の古市場にも大島一族の墓が有り、丸に揚羽蝶を使用しておりました。
同じ北本市の大島なのに家紋が、なぜこんなに違うのか?
また、どの大島家も一族の墓で、かなり大きいな墓地でした。
ちなみに、私の家は家紋が丸揚羽蝶です。
しかも家の本家は、大善院と言う里修験だったようです、しかし江戸時代の墓には大島と言う
苗字が刻んで有りました。
やはり、北本市の大島は伊豆の大島氏でしょうか?
No.1215
Re: 埼玉県北本市 大島です
副管理人さん 2008/03/02 (日) 19:59
>今日は、埼玉県北本市の大島と申します。
>ネットで自分の苗字を検索していたら、こちらの青木様のサイトにたどり着きました。
>こちら、サイトに記載のあった伊豆大島氏のことですが、教えてください。
>私は、埼玉県北本市の出身で、この北本市には、大島の姓が多いのです。
>以前に鴻巣七騎(鴻巣の地にいた戦国時代武士)の1人の大島大膳亮久家が伊豆大島から
>この地に住み着いたと聞いておりました。
>確かに、北本市宮内に子孫の方がいるそうです、お墓に行ってみたら笹竜胆の紋でした。
>また、同じ宮内の別の墓地にも、大島の墓が有り、この墓の家紋は剣カタバミの紋でした。
>宮内の隣の古市場にも大島一族の墓が有り、丸に揚羽蝶を使用しておりました。
>
>同じ北本市の大島なのに家紋が、なぜこんなに違うのか?
>また、どの大島家も一族の墓で、かなり大きいな墓地でした。
>ちなみに、私の家は家紋が丸揚羽蝶です。
>
>しかも家の本家は、大善院と言う里修験だったようです、しかし江戸時代の墓には大島と言う
>苗字が刻んで有りました。
>
>やはり、北本市の大島は伊豆の大島氏でしょうか?
>
>
埼玉の大島さん。今日は。 始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
青木氏のサイトですが、ご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。
判る範囲でお答えしたいと思います。
さて、ご質問ですが、伊豆大島の大島さんですね。
既に、このサイトの大島さんの事はお読みと思いますので、概略をお話します。
伊豆、大島さんは、清和源氏の分家頼信の子孫(本家頼光)ですが、頼朝義経などと同じルーツの源氏です。この源氏の為朝が平氏に追われて中国地方、九州地方、沖縄まで逃げ延びて、最後に黒潮を渡って伊豆大島にたどり着きます。
此処で、土地の伊豆の水軍の豪族の大島氏に保護されて、暫く、留まります。
此処で、豪族の娘との間に子供が出来ます。この子供は背の高い大変大きい人物でした。ところが、為朝は迷惑が掛かるので腹を決めて都に帰り処刑と成ります。
この大島の子供に脇差と認知状を渡しました。その後大きく育ちました。
丁度、義経が平家を壇ノ浦で打ち破りましたが、平家の残党の陶水軍(後の村上水軍)が再結集して源氏の首根っこの三浦半島を急襲します。頼朝は水軍を持っていませんし、この域に防備が敷いていませんでした。慌てた大島氏の落しだねの伊豆水軍は5日かかるところを3日で駆けつけて、平家と最後の決戦をします。そして、打ち破ります。
ところが、頼朝は義経と歩調を合わしたこの大島氏を正等に扱いませんでした。頼朝のバックの北条氏はこの大島氏を襲います。何とか逃げ延び伊豆大島に帰ってしまいます。
これが、清和源氏は滅亡しましたが、子孫を遺して笹竜胆紋を使える5氏(皇族賜姓青木氏(5)、近江佐々木氏(1)等)の一つ、伊豆の大島氏(1)があります。
この伊豆大島本家筋1氏だけが特別に笹竜胆紋です。
しかし、この大島氏の分家筋は他紋です。大島氏の家紋に付いては専門外ですのでわかりません。
この笹竜胆紋は本家筋本妻のルーツの者が引き継ぎます。
さて、お家の家紋は「丸に揚羽蝶」紋との事ですが、揚羽蝶紋は平家紋です。この揚羽蝶には沢山の文様があります。
しかし、先ず、平家紋の揚羽蝶紋かどうかです。
平家にあやかってよく似た揚羽蝶紋を多くの氏が使っています。
次に、平家の揚羽蝶紋は丸付き紋を使用して居ません。
分家は副紋方式です
同様に、笹竜胆紋、下がり藤紋も丸付き紋は使用していません。
第1番目は、これ等の紋に「丸付き」にしている紋は「未勘家紋」といいまして、主に「あやかり氏」であります。
大島氏に遠縁や分派分流族や何らかの間接縁を持つ者が大島氏を名乗ってその家紋に丸付きにして使用しました。
この現象は室町末期の混乱期、江戸初期の混乱期、明治初期の苗字令の3期に起こっています。
大島氏は平家である事は上記の事から考え難いです。清和源氏を助けたのですから、本家が源氏なのに分家筋が平家はおかしいです。先ず無いと思います。
第2番目は、従って、江戸初期の家紋を持たない武士に出世した者がこの家紋を使用したか、この丸付きの揚羽蝶を家紋としている氏と血縁し男系継承できずに養子を取り女系となった氏とも考えられます。
氏家制度は男系ですので養子と成ると養子先の家紋と成りますし、妾腹の子供は原則は家紋を引き継げませんので別の物にする必要が出てきます。
第3番目は、家紋は江戸初期まで中級武士以下は持っていませんでした。
家紋の無い武士と成った者は、この時期に集中して家紋を作りました。
氏の家紋の変化は他にもいろいろとありますが、主だったものはこの程度です。
笹竜胆紋は、賜姓青木氏5家5流の綜紋ですので、直系氏だけですので、子孫を遺しているのは、青木氏、近江佐々木氏、滋賀佐々木氏、伊勢北畠氏、大島氏です。
これ以外は、有りませんで、これ以外は「あやかり氏」の未勘氏です。大変覆いのです。
(中には、日向青木氏の様に家紋消失の丸付き笹竜胆紋は特別で別です)
私の近所にも居まして、伊豆大島の大島さんが笹竜胆紋です。
大島氏は専門外ですので以上です。
ご質問が有りましたら、お尋ねください。
No.1216
Re: 埼玉県北本市 大島です
大島さん 2008/03/03 (月) 20:15
管理人さん、有難うございました。
色々と勉強になりました。
ウィキペディアの源為朝に北本市の大島氏の事が載っておりました。
足立郡宮内村(現在の北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正 大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1008年)に八丈島に弥陀寺を創建した。(現在の宗福寺)太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原の役後帰農して今に連綿と系譜が続いている。家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ) 。
家紋は剣片喰となって降りますが、笹竜胆が本家で北本市でも2.3軒しかないようです。
剣片喰の大島家は、たくさん有り分家だと思います。
北本市史をみたところ、北本の大島氏は新田氏の支流だとの記載もあり、何が本当か
わかりません。
これから、調査していきたいと思っております。
No.1217
Re: 埼玉県北本市 大島です
副管理人さん 2008/03/03 (月) 21:51
>管理人さん、有難うございました。
>色々と勉強になりました。
>ウィキペディアの源為朝に北本市の大島氏の事が載っておりました。
>
>足立郡宮内村(現在の北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正 大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1008年)に八丈島に弥陀寺を創建した。(現在の宗福寺)太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原の役後帰農して今に連綿と系譜が続いている。家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ) 。
>
>家紋は剣片喰となって降りますが、笹竜胆が本家で北本市でも2.3軒しかないようです。
>剣片喰の大島家は、たくさん有り分家だと思います。
>
>北本市史をみたところ、北本の大島氏は新田氏の支流だとの記載もあり、何が本当か
>わかりません。
>
>これから、調査していきたいと思っております。
大島さん 今晩は。
北本市の史の新田氏の支流説は何処の時代の資料を元としたかによります。
室町期初期以後の史料は余り当てになりません。これは歴史を研究している者の常識です。
自市史を良く見せる為によい情報を出します。
新田氏は清和源氏足利氏の家来筋の支流ですが、分家は兎も角も、本筋かは疑問です。家紋が綜紋を使っていませんので支流の支流でしょう。足利期以降の系譜や家紋は余り当てになりません。
昔は「国抜け」と言い国以外に許可無く出ることは出来ません。無許可で出ると一族郎党死罪です。
大島氏分家の新田氏の支流は考え難いものです。この大島氏は未勘の氏か搾取偏纂の可能性が。
今の感覚で考えると間違いを起します。
多分、居るとすると、この大島氏は立身出世して武士に成った者が大島の縁ある者か遠縁のものが名乗ったと思われます。
剣片喰の家紋の多い地域は新田では有りません。青木氏の家紋掲示板に記載していますので参照して下さい。主に四国阿波と美濃付近です。
昔は「氏家制度の社会ですので血縁は均等な家柄の血縁と成ります。
大島氏本家は1家は、鎌倉期の史料より証明されているものですので、確実です。
ただし、大島氏本家筋1家1流ですので数は限られます。
笹竜胆の綜紋の大島氏は多くはないと考えます。
(本来は正腹で直系で無いので綜紋の笹竜胆紋使用はではないし、総宗本家の許可を得ていないので疑問 家紋掟では未勘氏の丸付き紋の笹竜胆紋が正しい)
全国で5-10軒程度でしょう。後は、あやかり族と思います。
江戸中期以降は殆どは女系になっても「家紋掟」により家紋を変えることをしていませんので信用できません。
本家大島氏は源氏本流とは違いますが、亜流の妾腹(戦地妻と言います)ですが、為朝の直流です。
調査に際して、注意される事は、史料が全て正しいと言う事では有りません。前レポートで書きました室町期末期からのものは、3つの混乱期の系譜家紋詐称偏纂が殆どですので。
市史や県史や系譜書は先ずこの3期の搾取偏纂をしたものを元にしています。本青木氏のレポートにもありますが、徳川を始めとして全てに近い氏はこの搾取偏纂です。
特に清和源氏を名乗る氏の殆どは未勘の氏と成ります。
この点を留意してお調べください。
先ず史料を頭から信じると何がなんだかわからなく成ります。
それでは。
No.1190
青木ではないのですが・・・(資延氏)
すけのぶさん 2007/12/10 (月) 07:24
管理人様、初めまして。
自分のルーツのことを調べていましたら、何度もここのサイトが出てきましたので、
苗字は青木でもなんでもないのですが、もしかしたらお力添えになっていただけるかと思いまして書き込ませていただくことにしました。
10年前に亡くなった父から先祖はムカデ退治の「藤原秀郷」だと何度もきかされていました。
父は家系図も見たと行っていましたが、度重なる引越しで祖父が紛失させてしまったとのことです。
平将門様の話は父からは一切聞いたことはなく、後で知りました。
これまでの人生大きな不幸に見舞われたことは一切ありませんが、スピリチュアル・カウンセラー(?)霊媒師的な仕事ともいいましょうか、そういう関係の友達に連れられて、首塚にお参りもしてきました。
苗字は上に書いたとおり、資延(すけのぶ)と申します。
従兄弟は同じ漢字でしのべと読ませているようです。
祖父以前はすけのべと名乗っていたとも父から聞きました。
出身は讃岐(高松市)です。
家紋は「丸に剣方喰」
とてもではないですけど、藤原→資延につながる資料など探せないので、その間がとても気になります。
本当に秀郷流だと思われますでしょうか?
北海道の資延敏雄氏とも何か繋がりがあるのでしょうか。
何か少しでも情報いただければ幸いです。
失礼いたしました。
すけのぶ
No.1191
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2007/12/11 (火) 09:41
>管理人様、初めまして。
>自分のルーツのことを調べていましたら、何度もここのサイトが出てきましたので、
>苗字は青木でもなんでもないのですが、もしかしたらお力添えになっていただけるかと思いまして書き込ませていただくことにしました。
>
>10年前に亡くなった父から先祖はムカデ退治の「藤原秀郷」だと何度もきかされていました。
>父は家系図も見たと行っていましたが、度重なる引越しで祖父が紛失させてしまったとのことです。
>平将門様の話は父からは一切聞いたことはなく、後で知りました。
>これまでの人生大きな不幸に見舞われたことは一切ありませんが、スピリチュアル・カウンセラー(?)霊媒師的な仕事ともいいましょうか、そういう関係の友達に連れられて、首塚にお参りもしてきました。
>
>苗字は上に書いたとおり、資延(すけのぶ)と申します。
>従兄弟は同じ漢字でしのべと読ませているようです。
>祖父以前はすけのべと名乗っていたとも父から聞きました。
>
>出身は讃岐(高松市)です。
>家紋は「丸に剣方喰」
>とてもではないですけど、藤原→資延につながる資料など探せないので、その間がとても気になります。
>本当に秀郷流だと思われますでしょうか?
>北海道の資延敏雄氏とも何か繋がりがあるのでしょうか。
>
>何か少しでも情報いただければ幸いです。
>
>失礼いたしました。
>
>すけのぶ
資延さん 今日は。はじめまして。
本サイトにようこそお越し頂きました。
これからもお尋ねくさい。
さて、お尋ねの件ですが、青木氏ではないので、残念ながら、お答えできないのですが、折角のお尋ねですので、予想できる範囲で推測の域は出ませんがお知らせします。
先ず家紋からですが、
この剣片喰紋は酒井氏の家紋です。
この酒井氏と血縁をした青木氏があります。この青木氏は武蔵の国の藤原秀郷流青木氏です。
藤原秀郷一門は藤原氏四家の内最も勢力を持った「北家」でこの北家のなかでも最大勢力を誇った一族です。この一族には主要5氏があり、青木氏と永嶋氏と長沼氏と進藤氏と長谷川氏です。
この5つの藤原氏から24氏に広がっています。
青木氏は116氏に広がっています。
(研究室の所に「藤原秀郷一門の赴任地と発祥氏と主要5氏の分類」の所にレポートしてまいすので参照してください。また、「藤原一族の生き方(1-13)」にも詳しくレポートしています)
この中には、確かに剣片喰紋の氏はありますが、概ね藤原秀郷360氏の中にはお家の資延氏は出てきません。
藤原秀郷一門が24の国地方に朝廷の命で赴任していますが、この国と地方に地名と氏名が見付かりません。全国の中でも見付かりません。
ただ、氏はある特長で存在しています。
それには、先ず、真言宗の弘法大師の密教の住職の名に多いことです。
次に、剣片喰族の家紋は四国阿波と讃岐と武蔵入間に存在する多い家紋族です。
更に、酒井氏も元はこの四国阿波の豪族でした。
この3つの特長は四国で一致しています。
4つ目は、弘法大師は四国の住人で、四国巡礼の所です。更に和歌山の高野山に真言密教を開山した僧です。
5つ目は、この阿波と讃岐は、藤原秀郷一門の赴任地です。特に、この二つの国には非常に藤原秀郷流青木氏が多いところなのです。宗家の藤原氏も「讃岐籐氏」「阿波藤氏」と呼ばれて多いところです。この地の豪族はこの藤原氏の一門の支流族です。
特に、傾向として、阿波が剣片喰族の多いところです。
お家も讃岐だとしますと、一つ浮かんでくる事があります。
宗教関連の特に真言宗の住職です。
それは、阿波と讃岐の藤原氏をともらう菩提寺の住職に一族の者が成り(一族から出す慣習あり)この住職が元の藤原資延(青木資延)の名を採って、後にそれを氏名としたと思われます。
現在でも全国に拡がった資延氏を調べますと多くはこの関連の氏のようです。
この資延氏が剣片喰の家紋を持つ事は、後にこの寺関係者が還俗したときに元の家紋と名を使用したと見られます。
「藤原(青木)の朝臣左(右)衛門尉資延」と名乗っていたと考えられます。右衛門と左衛門は朝廷の官職名で藤原氏と青木氏とは基は皇族出身ですので朝廷の天皇の親衛隊でした。
この為に藤原氏と青木氏はこの親衛隊が守る宮廷の門衛で、右衛門と左衛門を使ったのです。その後ろか前に「佐」か「尉」の階級職名をつけました。
「北面武士」と「西面武士」が総称です。
青木氏も同じ一族の者が菩提寺の住職を務めるのが慣例です。
と言うのは、この賜姓青木氏と藤原氏は天皇家との血縁が特に強い2大氏で、この氏は真人族に次ぎ朝臣族という高位の身分であるので、自らの菩提寺と氏神を持つ事を許されていました。
青木氏はこの二つの氏から出ています。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏です。
この様な背景から、四国阿波藤氏か讃岐籐氏の一族の氏で酒井氏の血縁を受けた一族である可能性が高いと見られます。この四国の寺には青木氏の住職が藤原氏一門の菩提寺を多く勤めていましたので、場合に依っては、藤原秀郷流青木氏の116氏にはないのですが、江戸中期以降か維新初期の苗字令で四国の青木氏から出た氏の一つである可能性があります。
つまり、青木氏を名乗らず、一族の藤原姓の資延の名を姓にした可能性があります。
全国に広がっていることから考えると江戸中期となるでしょう。
研究室の検索から、剣片喰紋の青木氏の投稿も参照して下さい。讃岐の青木さんも阿波の青木さんの投稿もお読みください。このどちらも剣片喰紋です。本家は武蔵の国にあります。
この予想は大きく外れては居ないと観られます。情報がもっと多くあれば更に確定する可能性が潜んでいます。
どんな事で小さい事でも大きな情報となるのがこのルーツのポイントなのです。
当時の慣習から、大きな意味を持つのです。
特に、ご先祖に、この宗教関係の何かのお話が伝わっていませんか。
元は、青木氏であるかも知れませんね。可能性は否定できません。
有りましたら、ご遠慮なく又お知らせください。いつでも、ご協力申し上げます。
No.1194
Re: 青木ではないのですが・・・
すけのぶさん 2007/12/13 (木) 08:41
副管理人様
お返事大変ありがとうございます!
はっきり申し上げまして、感服いたしました。
真言宗ですか・・・藤原家からどなたか仏門に入ったんですね。
母には一応聞いてみますが、ただ父方(資延家)の祖父も叔父も父も亡くなっておりますので、少しでも詳しく聞ける人が周りにいません。これ以上は戸籍探索していくしかないようですね。
現在は海外在住になってしまいましたので、一時帰国した際にでもがんばってみます。
従兄弟にも興味あるか聞いてみます。
ここまで推測していただけるとは一人で探索しているよりよほど謎が解けました。
青木さんとも繋がっているらしいとのことで、ここに立ち寄ったのも何かの縁ですね。
今後ともよろしくお願いいたします。
すけのぶ
No.1195
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2007/12/13 (木) 16:46
>副管理人様
>
>お返事大変ありがとうございます!
>はっきり申し上げまして、感服いたしました。
>真言宗ですか・・・藤原家からどなたか仏門に入ったんですね。
>母には一応聞いてみますが、ただ父方(資延家)の祖父も叔父も父も亡くなっておりますので、少しでも詳しく聞ける人が周りにいません。これ以上は戸籍探索していくしかないようですね。
>現在は海外在住になってしまいましたので、一時帰国した際にでもがんばってみます。
>従兄弟にも興味あるか聞いてみます。
>
>ここまで推測していただけるとは一人で探索しているよりよほど謎が解けました。
>青木さんとも繋がっているらしいとのことで、ここに立ち寄ったのも何かの縁ですね。
>今後ともよろしくお願いいたします。
>
>
>すけのぶ
ご返事痛みいります。
ご参考までに、お家の宗派と菩提寺とを確認される事をお勧めします。
(特に本家筋が正しく出ます)
次に仏壇がお有りのはずですので、何派仏壇かもお調べになると進むと考えます。
次ぎに明治維新以降の戸籍簿では出ませんので、お寺の「過去帳」に記録されていますのでお調べください。(江戸以前はお寺が戸籍を管理していました)
藤原氏一門の者は寺に僧として入山する事は慣例で、特に妻の妥女クラスの子供の場合は一族の菩提を祭祀する役目を担う事が多かったのです。
藤原氏のような高位の家柄では4階級に妻が別れていました。嫡子と成る者が多くいる場合、経費が掛かるので3番4番目の妻の子は僧になるのが慣例でした。青木氏や天皇家などでも僧と成りました。何かある場合は還俗します。
僧になって各地の関連の寺に赴任移動しますので子孫が各地にできる事に成ります。
多分元は同じと考えます。
参考として、「資延」という名の藤原氏の子孫がいます。
近衛尚通-久我春通-通監-通世-秀通-英通-通条-白川雅富-資顕-資延
氏としては、藤原氏-近衛氏-久我氏-白川氏-資延氏となったと観られます。
白川氏一族には資延の代には嫡子が多くいます。そして、傍系です。資延の兄弟の雅言がいますが、この者も子孫は切れています。上記の推測は当っています。
藤原摂関家の近衛氏の末裔で久我氏となり、後に白川氏となり、白川資延がいます。
この資延で末裔は切れています。
この事は、仏門に入り子孫を遺さずの形をとった(系譜抹消)。ところが後に還俗したので藤原氏の白川氏を名乗れず、せめて俗名の資延を姓にして、下族(婚姻)して子孫を遺す結果となった氏と見られます。そして、阿波の土豪の酒井氏と血縁するが、男系不継で養子先の家紋となったと観られます。(青木氏ではないようです)
以上ですが、これを確定するには、上記の宗教関係の事の情報を先ずお調べになる事だと思います。
そこから確定は更に進むと見られます。
では、又、お便りください。
No.1198
Re: 青木ではないのですが・・・
すけのぶさん 2007/12/18 (火) 07:54
>>副管理人様
>>
>>お返事大変ありがとうございます!
>>はっきり申し上げまして、感服いたしました。
>>真言宗ですか・・・藤原家からどなたか仏門に入ったんですね。
>>母には一応聞いてみますが、ただ父方(資延家)の祖父も叔父も父も亡くなっておりますので、少しでも詳しく聞ける人が周りにいません。これ以上は戸籍探索していくしかないようですね。
>>現在は海外在住になってしまいましたので、一時帰国した際にでもがんばってみます。
>>従兄弟にも興味あるか聞いてみます。
>>
>>ここまで推測していただけるとは一人で探索しているよりよほど謎が解けました。
>>青木さんとも繋がっているらしいとのことで、ここに立ち寄ったのも何かの縁ですね。
>>今後ともよろしくお願いいたします。
>>
>>
>>すけのぶ
>ご返事痛みいります。
>
>ご参考までに、お家の宗派と菩提寺とを確認される事をお勧めします。
>(特に本家筋が正しく出ます)
>次に仏壇がお有りのはずですので、何派仏壇かもお調べになると進むと考えます。
>次ぎに明治維新以降の戸籍簿では出ませんので、お寺の「過去帳」に記録されていますのでお調べください。(江戸以前はお寺が戸籍を管理していました)
>
>藤原氏一門の者は寺に僧として入山する事は慣例で、特に妻の妥女クラスの子供の場合は一族の菩提を祭祀する役目を担う事が多かったのです。
>藤原氏のような高位の家柄では4階級に妻が別れていました。嫡子と成る者が多くいる場合、経費が掛かるので3番4番目の妻の子は僧になるのが慣例でした。青木氏や天皇家などでも僧と成りました。何かある場合は還俗します。
>僧になって各地の関連の寺に赴任移動しますので子孫が各地にできる事に成ります。
>多分元は同じと考えます。
>
>参考として、「資延」という名の藤原氏の子孫がいます。
>近衛尚通-久我春通-通監-通世-秀通-英通-通条-白川雅富-資顕-資延
>氏としては、藤原氏-近衛氏-久我氏-白川氏-資延氏となったと観られます。
>白川氏一族には資延の代には嫡子が多くいます。そして、傍系です。資延の兄弟の雅言がいますが、この者も子孫は切れています。上記の推測は当っています。
>
>藤原摂関家の近衛氏の末裔で久我氏となり、後に白川氏となり、白川資延がいます。
>この資延で末裔は切れています。
>この事は、仏門に入り子孫を遺さずの形をとった(系譜抹消)。ところが後に還俗したので藤原氏の白川氏を名乗れず、せめて俗名の資延を姓にして、下族(婚姻)して子孫を遺す結果となった氏と見られます。そして、阿波の土豪の酒井氏と血縁するが、男系不継で養子先の家紋となったと観られます。(青木氏ではないようです)
>
>以上ですが、これを確定するには、上記の宗教関係の事の情報を先ずお調べになる事だと思います。
>
>そこから確定は更に進むと見られます。
>
>では、又、お便りください。
再び失礼します。
母親に問い質したところ、うち、資延家は天台宗とのことです。
大元は比叡山延暦寺にあるわよー。とゆっていました。
元は真言宗から来てるから、同じ、同じ。唱えていることは同じよー(?!)
みたいなことを口走っていました。
もう私はこれ以上???です。
父の生家でもある、遠縁になってしまっている資延家があったことを思い出しました。
今度の帰国の際は勇気を振り絞って是非尋ねて見ます。
今回報告まででした。
ではまたいつか失礼させていただきます。
すけのぶ
No.1199
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2007/12/18 (火) 16:23
天台宗ですか。
比叡山の天台宗に当時は藤原氏や青木氏の末裔が僧として入山しましたので、又一歩進みました。
これが他の宗派でしたら問題でした。
当時は、天皇家を始めとして血筋を引く一族は、全て皇位継承の外れた者は門跡院か比叡山の天台宗に入り、多くは残り、そこから学を修めた者は下山して自分の宗派を開きましたし、弘法大師などに師事したのです。
弘法大師の真言宗も、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗など天台宗から出ています。
本来、藤原氏と青木氏等の高位の者は、浄土宗と限られていました。しかし、お家は天台宗又は真言宗と成りますと、直接個人が帰依する事は出来ず稀ですので、殆どは学僧として入山し、後に還俗して、お家の四国の縁の弘法大師の真言宗に帰依したと考えられます。一種の仏教の大学院の役目をしていたのです。
四家の藤原氏のままでは、浄土宗と成りますが、この点が僧として違いであるのです。
前回の推測は慣習の経緯で当っていると思います。
前記した藤原氏の近衛氏から続いた末裔であろうと思います。
ではお帰りに成った時には又お便りください。
No.1226
Re: 青木ではないのですが・・・
資延さん 2008/04/08 (火) 17:57
自分の苗字のルーツが知りたく、“資延”で検索したところ、このサイトを発見いたしました。
“資延敏雄”は私の祖父です。
私は、自分専用のノートPCがないので、会社のパソコンからメールしております。
もし、この文面にお気づきでしたら、メール投稿頂ければと思います。
No.1227
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/04/08 (火) 19:23
>自分の苗字のルーツが知りたく、“資延”で検索したところ、このサイトを発見いたしました。
>“資延敏雄”は私の祖父です。
>私は、自分専用のノートPCがないので、会社のパソコンからメールしております。
>
>もし、この文面にお気づきでしたら、メール投稿頂ければと思います。
資延さん。 今日は。
最初の資延さんと違う方で同姓の人ですか。
同姓の方ですと、奇遇ですね。
最初の方は投稿されて、現在、海外ですね。
帰られたらメールいただけるでしょう。その時をお待ちください。
青木氏サイトが、資延氏に付いてのルーツの簡単な検証レポートを参照していただけてると思いますので記述しません。
それでは。又、お便りください。
No.1228
Re: 青木ではないのですが・・・
資延さん 2008/04/10 (木) 18:22
資延様
書き込みを拝見しメールしております。
私は資延敏雄の孫で侑子(ゆうこ)と申します。
疎遠になっているのは、多分北海道在住の資延家(うち)であると思います。
いつかお会いできれば良いですね。
お気づきでしたら、お時間のある際に、このサイトに書き込みして下さい。
No.1300
資延 家 系図
資延 功さん 2008/07/11 (金) 11:01
始めまして、明治30年初期頃北海道に渡った資延の子孫です、 資延家の先祖の系図の元本は現在四国香川県観音寺市 資延 貢 さん宅に有ると亡父から聞かされて居ります。
北海道に渡った、先祖は未開の地を開拓をしながら、寒冷地にて熊や豪雪と戦いながら苦労をして、子孫を残し天国へと帰って逝つた事でしょう。心のよりどころとでも言いますか資延家の系図の写しは持参している、方々も居る様に聞いて居ります。
資延 貢さん勝手にお名前を借りてゴメンナサイ。
私は資延傳四郎ー資延宗蔵ー資延伊勢蔵ー資延金治ー資延高之雄ー資延営ーの子孫です。
(藤原鎌足 第45代資延営と記して有ります。)
気の向くままに亡父の言葉を思い出して記入しました。平成20年7月11日
No.1301
Re: 資延 家 系図
副管理人さん 2008/07/12 (土) 09:24
>始めまして、明治30年初期頃北海道に渡った資延の子孫です、 資延家の先祖の系図の元本は現在四国香川県観音寺市 資延 貢 さん宅に有ると亡父から聞かされて居ります。
>北海道に渡った、先祖は未開の地を開拓をしながら、寒冷地にて熊や豪雪と戦いながら苦労をして、子孫を残し天国へと帰って逝つた事でしょう。心のよりどころとでも言いますか資延家の系図の写しは持参している、方々も居る様に聞いて居ります。
>資延 貢さん勝手にお名前を借りてゴメンナサイ。
>私は資延傳四郎ー資延宗蔵ー資延伊勢蔵ー資延金治ー資延高之雄ー資延営ーの子孫です。
> (藤原鎌足 第45代資延営と記して有ります。)
>気の向くままに亡父の言葉を思い出して記入しました。平成20年7月11日
資延功さん 始めまして。
ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
さて、資延氏のつながりが少しづつ解明されてきてよかったですね。
青木氏サイトでも、専門では有りませんが、(調べましたレポートを既に記載していますが、)藤原氏から資延氏が出ている事が判っています。
功さんのお便りから四国の綜紋「下がり藤紋」の剣片喰紋の氏で有る事が判明しましたね。資延頁さんが四国讃岐に住んでいてその家系図をお持ちとの事ですね。綜紋「下がり藤紋」剣片喰紋等は讃岐から出て、瀬戸内を支配した大豪族で廻船問屋を手広く営み明治維新頃まで続いたと成っています。ここには下がり藤紋を綜紋とする剣片喰族等の讃岐籐氏の一門の藤原秀郷流青木氏が居て、その勢力は美作、備前、備中などに子孫を広げています。
従って、この一族とは同族に当る事に成ります。比叡山を下山して讃岐籐氏を頼り讃岐に定住した讃岐籐氏の末裔が資延氏をなのったとすることに成りますので、貴殿のお便りと当青木氏のレポートと一致します。これで青木氏のレポートつなぎ合わせれば平安時代から現在までの系譜が取れた事になりますね。
青木氏サイトがお役に立ててよかったです。突き詰めれば、現在、現存される綜紋「下がり藤紋」の剣片喰紋等の讃岐籐氏の藤原秀郷流青木氏とは縁続きであったことを意味しますね。(研究室の検索で「讃岐の青木さん」のお便りなどをお読みください。阿波、土佐にもこの一族の方たちからのレポートも沢山ありますよ。
お便りからすると、この讃岐籐氏と藤原秀郷流青木氏の末裔のお家が大廻船問屋を閉めたときに同一族の資延氏が北海道に渡った事になりますね。讃岐籐氏のこの青木氏とも繋がりを持っていて運命共同体として働いていて、それが理由で北海道に移動の仮説がうまれますね。
又何か有りましたらお便りください。お待ちしています。
No.1306
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/10 (日) 05:56 [
メール ]
管理人様、お久しぶりです。
北海道の資延様、始めまして。
最初に書き込みしました、讃岐の資延です。
久々に見てみたら、反応があってビックリです!!
まだあれから日本には帰っていないのですが、なんだか情報が増えていて、嬉しい限りです。
青木様関連にも関わらず別の姓なのに、いろいろ丁寧にお答えいただいてありがとうございます。
資延姓についてのルーツをもっと何か知りたいという気持ちがどんどん強まりますね!
ここ(海外では)インターネットで探す以外に方法がなくてウズウズします。
メールアドレス入れましたので、気が向いた時にでも連絡くださいませ。
失礼いたします。
No.1307
Re: 資延 家 系図
讃岐の資延さん 2008/08/10 (日) 06:02 [
メール ]
初めまして、功様
讃岐の資延です。
観音寺市の資延家の方々とは法事や父のお葬式でお会いしているはずです。
資延貢様ですね。明日にでも母に母に聞いてみます!!
No.1308
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/08/11 (月) 08:46
>管理人様、お久しぶりです。
>北海道の資延様、始めまして。
>
>最初に書き込みしました、讃岐の資延です。
>久々に見てみたら、反応があってビックリです!!
>まだあれから日本には帰っていないのですが、なんだか情報が増えていて、嬉しい限りです。
>
>青木様関連にも関わらず別の姓なのに、いろいろ丁寧にお答えいただいてありがとうございます。
>
>資延姓についてのルーツをもっと何か知りたいという気持ちがどんどん強まりますね!
>ここ(海外では)インターネットで探す以外に方法がなくてウズウズします。
>メールアドレス入れましたので、気が向いた時にでも連絡くださいませ。
>
>失礼いたします。
讃岐の資延さん 今日は。
海外の勤めたいへんですね。かんばって下さい。
そうですね。段々とわかってきましたね。
青木サイトがお役に立ててよかったです。
藤原一門であるとの事ですが、藤原秀郷一門では青木氏のサイトに沢山のレポートが用意されていますので、ゆっくりとお読み頂き、そこから又更にルーツが拡がると思います。
先ずは藤原秀郷一門の讃岐籐氏の一族である事が判っていますので、この一族のことは完全に把握できると思います。
資延氏の原点も近衛氏の末裔白川氏から発祥していることもわかりますし、確実な系譜も取れますので、後は讃岐での動きの状況を把握されると良いのではないでしょうか。
何はともあれ、お役に立ててよかったです。これからも何なりとご質問ください。
No.1310
[投稿者削除]
資延 功さん 2008/08/19 (火) 23:04
投稿者によって削除されました。(08/09/02 17:20)
No.1317
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/23 (土) 06:09 [
メール ]
副管理人様、資延功様
いろいろな情報提供、重ね重ね誠にありがとうございます!
去年秀郷さんの本を3冊ほど注文して難しいながらも読み漁りましたが、
全くもって資延とか出てこないので、父が見たものは本当だったのかと長年不思議に思っていました。
本をインターネットで注文したためその一冊は義太夫のもので更に意味不明でした(笑
母に尋ねたところ、貢様のお名前は聞いたことがないと申しておりました。
観音寺の親戚に聞けば絶対知ってると思うけど!とも。
観音寺に、しかもなんらかの形で親戚とはいえ会った事のない人のとこまでいって、お邪魔できるかどうかですね。
うちの祖父、資延正義は昭和50年8月に亡くなったらしく、私は既に生まれていたとはいえ、祖父の記憶は全くありません。今の段階ではうちの母も誕生日もわからないとのことです。たぶん大正生まれではないかと思いますが。正確に知るには除籍謄本取るしかないですね。
功様の家系図の写しには「正義」の名前はありますか?
ちなみに祖父は大阪に出て家族を作ったらしく、うちの父は大阪生まれ、成人するまで大阪育ちです。
それでは近いうち、また。
失礼します!
No.1318
[投稿者削除]
資延 功さん 2008/08/24 (日) 13:06
投稿者によって削除されました。(08/11/23 20:00)
No.1319
[sysop削除]
資延 功さん 2008/08/24 (日) 13:07
sysop(資延 功)によって削除されました。(08/08/25 17:23)
No.1321
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/24 (日) 22:25 [
メール ]
こんにちは功様!
私が子供の頃ずっと祖母だと思ってきた、正義(祖父)さんの妹、寿恵子ばーちゃんに電話をして、その先代のお名前までわかりました。
「縫五郎」だそうです。私から見れば曾祖父ですね。さすがに彼は明治生まれでしょうね。
彼のお名前は家系図にありますか?
本当にこれ以上は市役所に行くか、観音寺のどこかで家系図を見なくてはわかりません。
うちは天台宗、家紋は丸に剣方喰、ビンゴです。
私はともこと申します。今後ともよろしくお願いします。
私が興味があるのは、藤原から資延の間の苗字の移り変わりです。どこがどうなって資延になったのか知りたいです。
寿恵子ばーちゃんなら貢さんのことも知ってるかなと思ったのですが、わからないとのことです。
それでは、また!
No.1322
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/08/25 (月) 07:32
>こんにちは功様!
>
>私が子供の頃ずっと祖母だと思ってきた、正義(祖父)さんの妹、寿恵子ばーちゃんに電話をして、その先代のお名前までわかりました。
>「縫五郎」だそうです。私から見れば曾祖父ですね。さすがに彼は明治生まれでしょうね。
>彼のお名前は家系図にありますか?
>本当にこれ以上は市役所に行くか、観音寺のどこかで家系図を見なくてはわかりません。
>
>うちは天台宗、家紋は丸に剣方喰、ビンゴです。
>私はともこと申します。今後ともよろしくお願いします。
>
>私が興味があるのは、藤原から資延の間の苗字の移り変わりです。どこがどうなって資延になったのか知りたいです。
>
>寿恵子ばーちゃんなら貢さんのことも知ってるかなと思ったのですが、わからないとのことです。
>
>それでは、また!
今日は。始めまして。資延さん。
当サイトの福管理人です。
ご不明点がおありの様ですね。
ご不明な点は、第2番目と4番目と6番目に書いていますのでお読みください。
藤原氏の末裔の公家最大の力を誇る近衛一族の末裔で白川氏の子孫です。その中に資延と言う者ただ一人あり、その者が入山し還俗して四国に渡り資延氏(僧が還俗する時は新たに姓をつけます)として土地の酒井氏(剣片喰)と血縁して子孫を遺したのが、資延氏です。
系譜の概容は書いていますが、(個人情報ですので書けません)詳しくインターネットでもお調べください。藤原氏-近衛氏で白川氏筋でその個人がでると思います。
No.1323
[投稿者削除]
資延 功さん 2008/08/25 (月) 10:51
投稿者によって削除されました。(08/11/23 20:06)
No.1324
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/26 (火) 06:43 [
メール ]
こんばんは副管理人様
はい、以前にたぶんそのような家系ではと憶測していただきました。
まさか本当にそんな風に繋がっていたとはですね!
背筋の伸びる思いです。
青木様とは関係のない苗字にも関わらずいろいろ助けていただいてありがとうございます。
出会うはずもなかった親戚とも連絡が取れるとは、このサイトのお陰です。
散々書き込みをさせていただいてしまったので、青木様にとって資延家も藤原家を知る上での資料の一部になれれば光栄です。
No.1325
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/26 (火) 07:01 [
メール ]
功様、ありがとうございます。
やっと繋がりましたね!!
ただ寿恵子ばーちゃんは父親の兄弟(叔父達)のことは殆ど覚えていないらしいです。
実さんの名前、出ましたね。
彼は観音寺で、父の葬式や親戚の法事などで何度かみかけたことがあります。
私が家系図持ってるかどうかで電話したらビックリするでしょうね。でもやってみます!
あまりにも個人的になってきてしまいましたので、気が向きましたらメールでもくださいませ。
メールのところにメアド入れていますんで。
No.1326
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/08/26 (火) 08:13
>こんばんは副管理人様
>
>はい、以前にたぶんそのような家系ではと憶測していただきました。
>まさか本当にそんな風に繋がっていたとはですね!
>背筋の伸びる思いです。
>
>青木様とは関係のない苗字にも関わらずいろいろ助けていただいてありがとうございます。
>出会うはずもなかった親戚とも連絡が取れるとは、このサイトのお陰です。
>散々書き込みをさせていただいてしまったので、青木様にとって資延家も藤原家を知る上での資料の一部になれれば光栄です。
ご丁重なるご挨拶痛みいります。
これからも、ご質問等有りましたら、お尋ねください。
青木氏として可能な限りにご協力いたします。
このサイトには、藤原秀郷一門と判った限り、お家の藤原秀郷の一門の史料がたくさんありますので、ご先祖がどの様に活動されていたかが判るかとも思いますので、研究室右メニューから選んでお読みください。
ご先祖の苦労などがお判りになると思います。ゆっくりと、楽しんでお読みください。
青木氏のブログにも掲載しています。
実はこの青木氏サイトは最近口コミか何かで鈴木氏を始めとして他氏の方からの問い合わせが多くなりまして驚いている次第です。
鈴木氏などはこのために、本ブログに鈴木氏のルーツ史料を提供した所ブームに火がつき毎週50件くらいもサイトに入りレポートを読まれているようで、そのレポートの地理を頼りに鈴木ルーツの神社には毎月500人くらいの全国からの訪問者が来るように成ったようです。
これからも、せいぜいかんばるつもりです。
まぁ、兎も角も、本サイトの目的の「先祖に対する尊敬=自分の尊厳」を知ってもらう為に、世に不足する史料を提供しているものですので、管理人さんの同意を得て可能な限り対応するつもりでいます。
No.1331
[投稿者削除]
資延 功さん 2008/08/27 (水) 20:04
投稿者によって削除されました。(08/11/23 20:16)
No.1350
ただいま戻りました
讃岐の資延さん 2008/11/12 (水) 02:50 [
メール ]
お久しぶりです、管理人様、副管理人様、功様。
日本から戻ってまいりました。
10月というのに、西日本は夏のようでしたね。
さて、家系図の写しですが今回は手に入らなかったのですが、母方の親戚(観音寺の近く)を尋ねて家系図の話をした際、なんと意外なところから貢さんの連絡先がわかり、来年にはどうにかがんばって入手できそうです。母方の方からとは全くの灯台元暗し&観音寺ほぼ皆親戚?という感じですかね。
庄屋の話も聞きました。資延家には高価な陶器などもたくさん家にあったらしいのですが、長曽我部軍が攻めてくるということで隠してはみたものの、結局ほとんど破壊されてしまったとか。
ネットでいろいろ見ていて疑問に思った点があったのですが、長曽我部時代に既に庄屋の資延家が存在したのであれば、久我や近衛家のほうは通っていないと思うのです。
もう一つ、あと近衛家の方にいってしまえば秀郷さんは通らないことに気づきました。
藤原房前さんから近衛のほうであれば真楯と、秀郷にいく魚名に分かれてしまいます。
と、私のような素人目にはややこしいです。早く家系図が見れればいいのですが。
功さ〜ん、見てますかー?
とにかく大幅に進歩しましたので。
お伝えさせていただきました。
今後ともまたよろしくお願いします。
No.1351
[管理者削除]
wyztwzgmさん 2008/11/13 (木) 16:15
管理者によって削除されました。(08/11/13 18:26)
No.1352
[投稿者削除]
資延 功さん 2008/11/16 (日) 19:38
投稿者によって削除されました。(08/11/23 20:24)
No.1353
Re: ただいま戻りました
讃岐の資延さん 2008/11/17 (月) 08:22 [
メール ]
>写しを送りますので、電話 ファックス 番号を教えてください。
本当ですか?!ありがとうございます!
ここに情報を公開するわけにもいかないので、
お手数ですが、go_on_rock@yahoo.co.jp まで一度メールいただけませんでしょうか?
お気遣いいただいて、恐縮です。
No.1354
Re: ただいま戻りました
副管理人さん 2008/11/17 (月) 10:09
>>写しを送りますので、電話 ファックス 番号を教えてください。
>
>本当ですか?!ありがとうございます!
>ここに情報を公開するわけにもいかないので、
>お手数ですが、go_on_rock@yahoo.co.jp まで一度メールいただけませんでしょうか?
>お気遣いいただいて、恐縮です。
お久しぶりです。
お帰りなんさい。
さて、系譜がお判りに成るとの事、よかったですね。
又、色々と判りましたらお便りください。
先日の12日付けのご疑問のことにも多少専門的な事も絡んでおりますのでお答えする用意があります。
先ずは系譜を観られる事が肝要と思いますが、系譜は何処でもマジックがありますのでそのたねあかしが必要です。その上で12日のご疑問にお答えします。
では又お便りお待ちしています。
No.1362
家系図の写し届きました!
讃岐の資延さん 2008/12/03 (水) 06:10 [
メール ]
副管理人様、いろいろとお世話になりました。
北海道の資延さんとやっと連絡がとれまして、実家の方に写しのコピーを送っていただきました。
ということで私はまだ直に見ていないのですが、母によると難しい漢字だらけでどこまでが名前や戒名やら、読めないわ〜と苦戦していました。
鎌足さん以前のもあるようで、その辺はもう現代の名前とは相当かけ離れているようです。
私も見れるのだろうか心配ですが、妹が更にコピーしてこちらに送ってもらう予定なのでそのときはまたこちらにてお知らせさせていただきますね。
青木様の資料にお役立ていただければ何卒幸いに思います。
No.1363
Re: 家系図の写し届きました!
副管理人さん 2008/12/04 (木) 07:20
讃岐の資延さん 今日は。
そうですか。家系図がとどきましたか。
大変興味がわきますね。
参考までに、
漢字との事ですが、簡単な「返り点」を入れた漢文形式に成っていると思いますが、この程度と漢文内容でも何時に誰が作った系譜が判ります。
系譜が継続して代々継ぎ足してかいたものかも大きな差となってきます。
殆どの系譜はある代の一人が書き上げたものが多く、また、専門の職人に書かせたものが多いのです。内容などにも時代性に食い違いなどあり、系譜に関してはこの様に判断する材料があります。
先ずは、ゆっくりと解き明かす必要があります。
ではお便りお待ちしています。