返信
No.227
讃岐の青木です。
青木忍さん 2006/06/26 (月) 21:09 [
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はじめまして。讃岐高松の青木です。家紋は下がり藤に結び雁金です。宗派は浄土真宗です。元禄の頃、赤穂から移ってきたと大伯父が話していたことを聞いたことがあります。元は藤原氏なのでしょうか?
No.228
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/26 (月) 22:52
> はじめまして。讃岐高松の青木です。家紋は下がり藤に結び雁金です。宗派は浄土真宗です。元禄の頃、赤穂から移ってきたと大伯父が話していたことを聞いたことがあります。元は藤原氏なのでしょうか?
讃岐の青木さん 今日は。始めまして。このサイトによくお越し頂けました。
丁度この前の栃木の青木さからのルーツのご質問にお答えしたばかりですが、
丸に三階松紋のルーツが判明確認出来ましたが、この方のご先祖の赴任先がこの讃岐でした。したがって、讃岐には必ず故郷に帰らなかった一族の方が居られる筈と見ていましたが、矢張り居られたわけです。この点が栃木の青木さんのポイントでしたが検証されました。
その青木さんがお家でした。
従って、お答えは藤原秀郷流青木氏です。青木氏主要9氏の直流4氏の一つです。
直流4氏のうちのどの氏かはわかりません。何かお家の先祖のことで一寸したことでも有りましたらお知らせください。手がかりになるかもしれません。
この前のお家は讃岐地方の三階松族との血縁を結んだお家でしたが、このお家は藤原秀郷の子孫の本家筋の赴任地に護衛役として同行しました。
この時の人物は讃岐に赴任した「藤原文紀」であります。
もとより研究室のレポートをお読み頂けますとお判りになると思いますが、藤原秀郷流青木氏は秀郷の第3子で千国が祖で貴族から武士となり護衛役をにないました。この一族116氏にも成ります。直系1氏直流4氏支流4氏の9氏から拡がったものです。
秀郷は大化の改新での藤原鎌足から8代目の者です。藤原4家のうち最も栄えた一族です。
奥州平泉の藤原氏もこの一門です。
藤原秀郷一族の氏は朝廷の命にて24地方に官職として赴任していますが、この全ての土地では土地の豪族との血縁を結び勢力を拡大しています。
この青木氏は藤原秀郷の主要5氏の一つです。
さてお家の情報は讃岐と浄土真宗と赤穂と下がり藤紋に雁金の4つですが、
この赤穂地方には二つの藤原氏の一門が入っています。
その一つは讃岐からの青木氏が対岸の安芸に移動した一族ともう一つの美作と備中に定住した青木氏があります。
後者は別の藤原宗家の者に同行した藤原秀郷流青木氏です。
お家は赤補からとしますと前者の青木氏です。
前の三階松紋の方は三階松紋族との血縁を結んだ藤原秀郷流青木氏ですが、この一族と同じ縁者で男系家督が続き家紋を総宗本家の家紋の「下がり藤紋」を維持したもので副紋として結び雁金紋としているので、何らかの関係にて雁金族(土佐の寺田氏:結び雁金紋は品の滋野真田氏分家と土佐寺田氏)との関係を持ったことが考えられます。
多分、前の丸に三階松紋のお家とは元は本家分家の関係か兄弟の関係にあつたが丸に三階松紋のお家は男系の跡目が出来なかったと云う事だと思います。
ルーツはご親類です。
雁金族は土佐坊昌俊が源の頼朝から雁金の文字の紋を授かりこれを家紋としたものであります。この紋様は53ありますが江戸期に変紋して使用されました。
お家は副紋を雁金紋を使用しているので、鎌倉期前半までは「下がり藤紋」を使用していたことが云えます。
鎌倉幕府樹立した1192年には藤原秀郷一門全てが失職し離散しました。
お家もこの讃岐で失職した後にこの雁金一族との血縁を持った事がいえます。
しかし、副紋としていますので一門を表す目的から使用していたものと思います。副紋は色々な使い方をします。
下がり藤紋は藤原北家一門の家紋ですが、「下がる」と言う意味合いを嫌い秀郷一族以外は使用せず変紋して使用しました。
この紋様は藤原秀郷主要5氏の青木氏と永嶋氏と長沼氏と進藤氏と長谷川氏が使用しています。苗字の後ろに藤の字が付くのが藤原一門です。これは地名と役職名の二つから出来ています。
盛り藤紋を維持している青木氏116氏の中では少ないです。
此れで前のお尋ねの栃木の青木さんの疑問点は解決しました。三階松紋の一族の青木氏が讃岐に居た事が確認できました。
そして、お家は本来は浄土宗ですがこの地に浄土宗の寺がない事から宗派換えをした者と思います。
浄土宗は高位の家柄と身分のある者が入信できる宗派でした。江戸時代に徳川幕府の奨励で寺が増えましたが矢張り少ない宗派でした。
地方に赴任した藤原一門の困ったひとつでした。
さてお家の元のルーツはどこかと言う事に成りますが、丸に三階松紋の青木氏は宮城県の加美郡に戻りました。多分お家のルーツは此処ではないかと見られますが、宮城県の栗原郡にも青木氏の村がありますので、住み分けをしていた可能性があります。しかし、故郷に戻らなかった事になりますね。
ご本家筋は9氏の直流4氏の本家の護衛範囲としては武蔵と下野の国堺としていましたことから宮城福島付近にあると見られます。
下がり藤紋の青木氏は少ないのでご子孫を大切にしてください。
研究室の藤原一門の生き方などのレポートをお読みください。
ルーツの詳細がお判りになると思います。
家紋掲示板の下がり藤紋のところをお読みください。
地名地形データーベースのところも確認してください。
ご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
No.229
Re: 讃岐の青木です。
青木忍さん 2006/06/27 (火) 08:05 [
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早速のご回答をありがとうございます。今のように交通手段が発達していない時代に一族あげて大移動してたかと思うと頭が下がります。というか藤原秀郷流の広がりにただびっくりするばかりです。雁金紋のことを調べてみたいです。地元ではそんなにポピュラーな紋ではないようですが。あと同じ地元で遠縁の谷澤(たにざわ)家も下がり藤に結び雁金紋です。もとは同族なのでしょうか?あと墓参の時に紋が丸で囲まれているものもありましたが分家でしょうか?分家する場合、紋を丸で囲むなど、こんな地方でも知っていたのでしょうか?三階松紋は平安年間の国司藤原家成と綾氏を祖とする讃岐藤原氏(香西氏が総領の63家)で使われているのでこちらではよく目にしますよ。
No.230
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/27 (火) 12:09
> 早速のご回答をありがとうございます。今のように交通手段が発達していない時代に一族あげて大移動してたかと思うと頭が下がります。というか藤原秀郷流の広がりにただびっくりするばかりです。雁金紋のことを調べてみたいです。地元ではそんなにポピュラーな紋ではないようですが。あと同じ地元で遠縁の谷澤(たにざわ)家も下がり藤に結び雁金紋です。もとは同族なのでしょうか?あと墓参の時に紋が丸で囲まれているものもありましたが分家でしょうか?分家する場合、紋を丸で囲むなど、こんな地方でも知っていたのでしょうか?三階松紋は平安年間の国司藤原家成と綾氏を祖とする讃岐藤原氏(香西氏が総領の63家)で使われているのでこちらではよく目にしますよ。
讃岐の青木さん 今日は。
早速ですが、雁金紋は前レポートとに書きましたように範囲が限定しています。
家紋の紋様も多くありませんし、江戸初期に殆ど作られた紋です。
紋が作られると言う事は別の意味を持ちます。紋がなかつた事を主に前提と成りますので当然に家紋の持たない者が戦国期から江戸初期までの混乱期に庶民が何らかの手柄を立てて出世して家紋を持ったと言う事に成ります。
青木氏にもそのようなことで家紋を作り氏を詐称して大勢力を持ち青木氏を名乗った人物が3人も居ます。本筋の青木氏と偽の青木を名乗るものと戦いを起しています。この3人は本筋に勝った者です。乗っ取ったのです。
多くは家紋を殆ど正式にもったのは江戸期に入ってです。室町前から鎌倉にかけては一般の氏はもてない状況でした。従って、ルーツとなると室町から江戸期にかけての家紋にての検証には困難があります。
第一に松平氏でも三河の豪族であったときでさえ家紋や先祖は正式には不祥です。
後で、系譜などを偏纂する事になり、朝廷から官職をもらうのに大変苦労しています。源氏でなくては幕府は開けませんでしたので16代目の源氏の末子を持ち出してきて源氏を名乗ったのです。
16代の源氏とは南北朝のころの源氏です。既に源氏の時代はとっくに終わっている時代ですし南北時代は朝廷の家柄さえ危ぶまれている時です。源氏は実際は11代目の花山天皇のときまでが正式で、源氏の賜姓を受けるのは第6位皇子が受けますが、12代目から16代までは第6位皇子は殆ど居なくて皇子さえもわからない状況でした。
この様に家紋でさえも室町期以降の家紋は充分な検討を要します。
したがって、私は鎌倉期以前の確実な家紋どころを調べて査証しています。
雁金紋は讃岐の地元の紋では有りません。有名な土佐坊昌俊の家紋ですので讃岐には少ないと思います。
念の為に、当時はまだ氏家制度の仕来りが残っていましたので現代の仕来りで自由に縁組が出来るわけでは有りません。
先ず家柄の吊りあいと身分の違いを前提にします。どんなに勢力があっても。
ですから、伸し上がった豪族は家柄と身分の獲得に動くのです。戦いも覚悟の上で。
藤原秀郷流青木氏と家柄と身分を対等になる豪族は室町以降は殆どありません。
下克上と戦国の時に全てこの家柄が潰されて焼き討ちにあいました。其れが中級以下の武士の下克上の目的でした。ですから、下の家柄のものとの血縁となりますので、青木氏が116氏にも広がる原因のひとつになったのです。
谷沢氏の件ですが、藤原秀郷系列氏の中に谷沢氏が確認出来ません。讃岐籐氏のなかでも確認は出来ません。
藤原氏は4家あり、秀郷系列の北家と式家と南家と京家であり戦いの末にこの内最もさかえたのが北家筋です。
藤原氏は氏名の後ろの字が藤の付く苗字の藤原氏と藤原氏と血縁を結んだ氏ととちの地名を採った分家分流分派した氏に成ります。
この中に谷沢氏は出てきませんが専門では有りませんので。
藤原秀郷氏一門は主要5氏から構成されています。この系列ははっきりしていますのでこの中に谷沢氏は見つかりません。
(藤原秀郷一門から出た氏ははっきりしています。)
ただ、中沢氏は長沼氏の系列にはあります。
前記しましたように、氏名の査証は3度歴史上で起こっています。
一つは室町後期の混乱期と、江戸期前半の安定期と、明治初期の混乱期です。
この時期に家紋や氏名や系譜の詐称偏纂が大変多くおこりました。殆どと言っていいほどです。
この3つの時期には寺に金品をだして系譜や家紋や氏名の保証をしてもらい
家柄身分系譜を買い取ったのです。此れを第3の氏といいます。この氏には検証上矛盾が出ます。
今全国に8000程度の家紋がありますがこの内200が確実なルーツを持つ氏です。これを家紋200選といいます。更に絞り込むと40程度に成ります。確実に信用でき史実が取れているものは1/40です。お家はこの1/40の中です。
此れでお判りと思います。
次に、家紋の丸付き紋の事ですが、丸付き紋には次の3つの要件があります。
先ず、男子の子供が多く居て嫡子が跡目を取ります。長男と言うことでは有りません。そうすると後の男子は分家する事に成りますが、此処で問題が起こります。妻には4段階の身分がありますが何れの子供かにより丸がつくかが決まります。正妻の子供は同紋を宗家から許されます。しかし、妾の子供は同門は許される事は少ないのです。ただし男子がいない場合に限り嫡子と成りますので同紋ということに成ります。それ以外は宗家の許可を得て丸付き紋になるのです。
第2番目は宗家に嫡子の男系がなかった場合は養子を他の氏から採りますが、この場合は遠縁から迎えた場合は丸付き紋を本家が認めます。
しかし、全く他の氏からであると先ず養子元先の家紋とします。次ぎに生まれれる子供が男子であれば下に戻す事が出来ますが、又、女子であると2代続きであるので養子先の家紋の決定と成ります。女系となつた事を意味します。
ただ特別に本家筋が此れを認めた場合は丸付き紋と成ります。
場合に依っては本家筋にも女系のおそれがある場合は副紋使用を認めます。
第3番目は上記した第3の氏の場合ですが、その家紋の本家筋の手前上争いが起こりかねないので、遠慮して丸付き紋として認めさせることが起こります。
事実、青木氏ではこのことが起こっています。結局、元上山氏の青木氏が宗家の青木氏と2度戦い宗家がまけました。
この第3の家紋が実に多いのです。姓と家紋と系譜と出所が史実と一致しないものはこの第3の家紋と成ります。
藤原一門と藤原秀郷一門には丸付き紋の藤紋はありえません。
これは藤原氏の一つの掟であり、支流分派分流しても決して丸付き紋を定めることはありませんでした。
これで第3のことがお判りいただけたと思います。
藤紋及び下がり藤紋に関しては全て多分明治の第3の家紋と見られます。
明治の時に苗字の持たない者が寺とか神社に金品を渡して系譜と家柄と家紋と身分を詐称証明してもらい自分の家を依りよく見せたと言うことが流行になりました。
平安期の紋は勝手に決めるわけには行きません。自分が決めても親類が決めなければどうにも詐称は出来ません。
その為に氏家制度のもとに総宗本家筋の許可がいるのでどの大きい氏でも管理されていました。
朝廷には律令制度の中この官職もあり氏家制度を維持するために今の時代より厳しく管理されていたのです。
日本書紀にもこのことでもめごとになり官僚が仲裁に入っている事を書いています。
現代の感覚では情報の間違いを起します。
この為に確実な家紋類は「家紋200選」として定まっています。
家紋を定める場合にも「家紋掟」の慣習が定められていて氏家制度の維持を図っていたのです。
家紋は7000-8000とありますので大変です。
ちなみに、武田氏、足利氏系の氏は賜姓青木氏と賜姓源氏の血筋を入れたことにより源氏としていますが、あくまでも支流源氏で直接の笹竜胆の家紋は使用できません。足利氏は更に藤原秀郷一門の血筋も入っています。
足利氏は藤原氏が押す支流の足利氏を作りだし争いの上勝ち本家を乗っ取っています。
二つの青木氏は全てこれらの要件が定まっています。
青木氏を名乗ってもいずれで矛盾が出ます。
青木氏に関しては嵯峨天皇期に詔を発して青木氏を名乗る事を禁止しました。この令は江戸初期までほぼ原則的に守られてきました。
天智天皇の第6位皇子から発した皇族賜姓伊勢青木氏から始まり、光仁天皇の第6位皇子の青木氏までの5家5流と桓武天皇を一人空けて嵯峨天皇は青木氏を変名して第6位皇子を源氏として賜姓しました。源氏は本来は11代の花山天皇まで続きました。
そして、第6位以内の皇族の者が還俗して下俗する場合は『青木姓』を名乗る事に詔を出したのです。
そこで950年ころに藤原秀郷が勲功を受けて特別にこの青木氏を名乗る事を許されました。これが第3子の千国で藤原秀郷の青木氏の祖であります。
その許された根拠は勲功もあるが、この皇族賜姓青木氏の母方は伊勢青木氏を除く4家4流は全てこの藤原氏の血筋を持つもので、同じく賜姓源氏も母方に藤原氏の血筋を持つ者の子孫であつたからです。
青木氏は二つのルーツではっきりしてますが、皇族賜姓青木氏5家5流24氏は「笹竜胆紋」が綜紋の家紋です。
藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏は「下がり藤紋」が綜紋です。
この二つの家紋が綜紋と成ります。
三階松紋の件ですが、三階松紋には12もの紋様があります。青木氏に関わる紋様はこの一つです。丸に三階松紋(右)です。この内丸付き紋の三階松紋は5つもあり一見して見分けがつきません。
この全体で124紋様の中で通称松紋と称されるもので藤原氏に関わる紋様は松紋の讃岐籐氏の綜紋ですが、すべて庶流の家紋と成ります。
西隆寺氏、紫野氏、豊田氏、平尾氏、成宗氏等の氏が使用。
北家藤原秀郷一族の讃岐守護は「文紀」のみと成ります。
「家成」は秀郷一門では出てまいりません。平安末期に守護として赴任したものとしてはこの地には「文紀」です。又この青木氏は北家秀郷流からのみですのでこの範囲での検証です。
「家成」の讃岐籐氏で三階松紋を使用している氏の家紋類は、本来は「松紋」と称する紋様での中で違いがあります。
それは次ぎの二つのものによります。
藤原秀郷流青木氏の三階松紋は右ですが、この讃岐籐氏は他の12のうちの4つの紋様を使い分けしています。此処に意味があると考えます。
多分讃岐籐氏とは区別するために藤原秀郷流青木氏の三階松紋に対して後で江戸期に発祥した籐氏とみられる一門は変紋をしたものと考えられますし、更に違いを出すために副紋使用としたと見られます。
平安中期ごろはまだ全ての主要48氏が家紋を持っていたわけでは有りません。
90%以上は江戸期の安定期になって急遽しつらえた物です。
上記したような偏纂詐称行為事がありこの時期の家紋からルーツを起すには余り当てにはなりません。
次にこの籐氏の三階松紋の紋様は主に上がり藤紋等と必ず副紋付きです。
上がり藤紋はこの讃岐籐氏系列が使用しています。
藤紋97の中で下がり藤紋は藤原秀郷の一門のみで7家です。
参考に綾氏は奈良期ごろから帰化した後漢の民で元は綾部氏と称していました。綾編みの職人集団です。この四国地方と中国の中部に帰化定住しました。
以上ですが、納得頂けましたでしょうか。
No.231
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/06/27 (火) 17:14 [
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すごい短時間でご回答をいただき、また内容にも驚嘆の境地です。ありがとうございます。ご回答の中に安芸に移動した一族とありましたが、それは浅野家の時代で塩業、海運の絡みなのでしょうか?それから分家の赤穂にも移動したとか?赤穂の大野氏も先祖にあたると聞いたことがあります。戦後まで塩業と海運を業としていたようです。
No.232
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/27 (火) 20:56
> すごい短時間でご回答をいただき、また内容にも驚嘆の境地です。ありがとうございます。ご回答の中に安芸に移動した一族とありましたが、それは浅野家の時代で塩業、海運の絡みなのでしょうか?それから分家の赤穂にも移動したとか?赤穂の大野氏も先祖にあたると聞いたことがあります。戦後まで塩業と海運を業としていたようです。
今日は。讃岐の青木さん。
早速お読みいただき有難うございます。
ご質問ですが、安芸に移動した時代資料では鎌倉期の後半と江戸前期ごろにも見られます。
つまり、鎌倉幕府が出来て藤原一門は職を失います。中には藤原秀郷の武蔵国や下野では生き残りのために本家筋は頼朝に合力し御家人となりました。
この合力が頼朝の幕府樹立に大きく貢献したのです。坂東八平氏の勢力では到底なし得なかったのです。
この藤原秀郷一門の本家筋は各地に離散した一族を引き取る義務がありますので味方をしましたが、此れは同時に自分の首を反面しめる事にもなるのです。
しかし、多くの一族と縁者を引き取りました。
この時、讃岐や阿波に赴任定住していた一族は新たな守護が入りますので争いが起こります。
お家の一族の丸に三階松紋の一門は故郷の武蔵や下野に向かって移動をはじめました。そして、本家筋が鎌倉幕府の御家人となって守護地を関東や東北地方に授かり、其処の護衛軍団として戻ってきた一門を配置しました。
この時に関東東北に向かって先ず移動しています。
残った一門は讃岐から安芸の国に移動しています。この時この一門は讃岐に定住中に任務としての税の運搬、販売等のノウハウや運搬の護衛力を生かして裏家業を営みました。この様なノウハウのある者の一族が残ったのです。
特に青木氏は護衛役としての役目柄を生かしました。
当時は大きく商売をするには運搬力とそれを護衛する武力とシンジケートとの渡り合える武力がなくては絶対に商いは成り立ちません。
テレビドラマでは単純な商人が商売を営んでいるようにありますが、此れは間違いです。
当時は全ての商人は「二束の草鞋」の面を持つていました。
国司や守護は税を集めそれを金にに換える仕事をしていましたので直ぐに商売に切り替えることが出来るのです。
当時は商売はシンジケートが介在して行われていました。此れとの関係を持たなくては絶対に商売は出来ません。
シンジケートは鎌倉期に浪人となった土地の豪族などが山に入り各地のシンジケートと連携し合って組織を作っていたのです。
このシンジケートの主は地主や庄屋や郷士や郷氏などをして表向きとしていました。
例えば、楠木正成はこのシンジケートの主です。ですから10万の軍と3000の兵で戦えたのです。これはシンジケートと連携していたので食料や武器などは充分でしたが10万軍は餓死して戦えなかったのです。
私の家も二束の草鞋で伊勢で紙問屋を表向き営んでいました。一方では国司や守護や最後は郷氏の顔を持っていました。
明治35年まで950年程度続きました。NHK大河ドラマには3度も登場しました。伊勢の豪商紙屋長兵衛として。
特に藤原秀郷系の一門は突然に失職したので、この方向にはしりました。
お家の一部族は武蔵の国の本家に向かって移動しましたが、お家は此処での力を生かして讃岐と安芸との間での商いを営んだと見られます。そうでなくてはこの地で新しい守護が着て生残る糧は有りません。その地に生残ると云う事はこの手段があるのです。そして、抱えた家来を養う事が出来るのです。
幸い青木氏は武力を持っていますので容易です。そして、他面では新しい守護に仕官する事もできました。
お家の安芸に移動した一族は後に安芸の守護の浅野一門と毛利に仕官しています。中には江戸期には出世した者も居ます。
この時に裏の家業も同時に営んでいました。この様に一族で結束して生き残ったのです。
だから、下がり藤紋を維持出来たのです。普通の商人は家紋など有りません。
豪商という全ての商人は二束の草鞋なのです。
堺商人や伊勢商人や松前商人や博多商人は全て「二束の草鞋」です。
讃岐と安芸と言えば塩や魚と瀬戸の水軍を生かした海運は国司や守護やの時の本業です。
私の家も伊賀の和紙を扱う裏業を商い、大船を3痩をもち、各大名との商いをしていたとの事であります。秘密裏に武器や火薬も扱う商人でした。1315年ころから始めたとの記録です。
丁度お家の家業の始まりの時期と一致しています。藤原秀郷流青木氏も皇族賜姓青木氏もこの時期に窮地に陥つていました。
最後明治35年の祖父の時代にこの火薬爆発で倒産しました。
お家の先祖と私の先祖の青木氏は鎌倉幕府樹立と室町期の混乱期に同じ家柄と官職から同じ道を辿った事に成ります。
場合に依っては我が家の記録から見て知っていた事も考えられます。
というのは、毛利の武器調達や赤穂浪士事件の時に浅野氏の財産の買取に船を廻したとあります。当然お家の領域に伊勢松阪から船を廻したのですから何らかの繋ぎを採っていたことが考えられます。
お家のご先祖の一族の方と赤穂地方の豪族の亀甲族との間で血縁を結んだとありますので、この亀甲族に大野氏が見られますが、ご先祖の大野氏の中に亀甲紋と関係する一族がいないかご調査いただけませんか。
確か、このサイトに残られたお家の一族の方の亀甲族血縁の方のルーツ依頼が以前にあつたと記憶しています。
亀甲族は古くからこの土地の豪族です。亀甲紋は出雲神社の神紋です。
汎用的に多くの土地の豪族に用いられたとあります。
非常に良い情報でしたが、これで又、ルーツが進んだと思われます。
大野氏のルーツの中に繋がりがある筈ですので一度お調べください。
どんなことでも繋がることがあります。
お便りをお待ちしています。
No.233
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/06/27 (火) 21:22 [
メール ]
有り難うございます。ただただ副管理人様の文面内容に合点もいき、びっくりしています。早速、地元の本家筋の話の聞ける人を捜してみます。また、なにかわかりましたら、報告させていただきます。その時は、よろしくお願いいたします。
No.234
Re: 讃岐の青木です。
かんりにん [本物] 2006/06/27 (火) 22:15
こんばんは、讃岐の青木さん
そして、副管理人さん
いつもすばやく、そして大変詳しい回答ありがとうございます。
>確か、このサイトに残られたお家の一族の方の亀甲族血縁の方のルーツ依頼が以前にあつたと記憶しています。
副管理人さんのご記憶ですが、
こういう場合この掲示板の検索機能をご利用ください。
「亀甲」で検索しましたが、何件かヒットしました。
赤字で示されますのですぐに見つかります。
岡山の青木さんの依頼が関係ありそうですね。
検索フォームは掲示板の上のほうにあります。
副管理人さんのいままでの回答がすばらしいデータとして
使えますので、検索機能が生きてきます。
今後とも宜しくお願いいたします。
No.236
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/06/27 (火) 23:24 [
メール ]
こんばんは、何かすごい話が広がって驚きです。亀甲族と関係あるのか実家は瀬戸内海に面している亀水町(たるみと読みます、難読地名!)というところです。なぜ亀なのか地元でも明確な答えはないようです。たるみとはその昔、対岸の岡山との海上境界を決めるのに樽を流してそれを山から見ていたからこの里はたるみになったそうです。(それなら樽見でよさそうなものなのに)50年位前まではただの字名でした。青木はかなりの件数集中してます。
No.237
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/28 (水) 11:02
> こんばんは、何かすごい話が広がって驚きです。亀甲族と関係あるのか実家は瀬戸内海に面している亀水町(たるみと読みます、難読地名!)というところです。なぜ亀なのか地元でも明確な答えはないようです。たるみとはその昔、対岸の岡山との海上境界を決めるのに樽を流してそれを山から見ていたからこの里はたるみになったそうです。(それなら樽見でよさそうなものなのに)50年位前まではただの字名でした。青木はかなりの件数集中してます。
讃岐の青木さん今日は。
本日も大変貴重な情報が届られました。
確かに拡がってきましたね。これがルーツ解明の面白さですね。
其れが一寸した針の穴くらいの事からぱーと花が咲いたように広がるところが面白いですね。
今日も、きっとそうなるでしょう。
亀甲族は出雲大社の神紋ですが、この出雲大社に関係する周囲の氏子の小豪族は挙ってこの亀甲紋を家紋にしました。
そもそも、亀は万年生きることからこの紋様を目出度いとして家紋にしたわけですが、この紋様は極めて古くからあり、記録には平安中期頃から紋様化されて最初に出雲大社が鎌倉期に神紋化されはじめました。
次第に周囲の氏子族が使い始めて中国全土にひろがりました。ところがこの家紋族は小豪族の集まりから、その結束が弱く大きい豪族を作れ出すことはできませんでした。
それゆえに時代の荒波に乗り切れなかったというのが現実です。
しかし、地名や小豪族が残りました。
お家のご本家の土地名が亀水町もその一つですし、岡山には亀甲駅もある筈です。
亀甲族が住んでいた所は瀬戸の水元を意味しているのではないでしょうか。
つまり、水元は河と海の交わる港という漁業と海運の意味ですから。
この地域は元は中国後漢の国の光武帝から21代目の献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王が17県民(200万人)全てを引き連れて九州北部に上陸しました。孝徳天皇のころの大化の改新のさなかです。
そして、あつと云う間に九州全土を無戦に近い状態で制圧して大和の国に帰化してきました。そして、中国に入りここも無戦制圧して関西に侵入しました。この無戦とはこの一団は多くの民とその進んだ政治と経済と工業の知識と生活手段の集団を引き連れていましたので、土地の者は進んでこの集団の支配下に入り、その技術や技能を修得して生活が豊かになりました。
この阿智使王と阿多倍王を長としての後漢の集団は日本66国のうち32国を支配下に入れたのです。
そして、土地にその生活手段をおろして民を豊かにしました。(氏名の後に部のつく苗字は全てこの集団の民の一族です。)
現代の第一次と二次の産業は殆どはこの集団が持ち込んだものです。
この阿多倍の5代後の子孫が平清盛です。
そして桓武天皇の母はこの阿多倍の孫娘に当ります。
阿多倍は敏達天皇の曾孫を娶り、3男をもうけます。
この長男が坂上氏で次男は大蔵氏で三男は内蔵氏です。この姓は天皇から賜姓を受けたものです。
この3人が朝廷の役どころの3蔵のうち、大蔵と内蔵、そして軍事の実権を任されました。(祭祀や政治の斎蔵は藤原氏 朝廷の大蔵省は次男が 天皇家の財政を三男がそして、長男が朝廷の軍事をと担うのです。
有名な日本全土を制圧した坂上田村麻呂は長男です。大蔵氏は後に永嶋氏と名乗ります。桓武天皇の日本最初の律令政治はこの後漢の国の帰化民族が完成させたのです。
詳細は研究室のレポートをお読みください。
この一族は中国地方も制圧して陶部の陶族が統治しました。村上水軍もこの末裔です。室町幕府の末に幕府に味方して毛利氏に滅ぼされます。
この小豪族をたばねていたのが陶族です。この時にこの小豪族は解体してしまうのです。亀甲族は元を正せばこの阿多倍がつれてきた帰化民であると見られます
ですからこの付近の一族は殆どこの亀甲族の血縁的影響を受けている筈です。
其処にお家のご先祖が1320-50年前後に移動しているわけですから血縁を結んでいるはずです。
今は亀甲紋でなくても血縁を受けている筈です。ましてそのご本家がその真ん中に居るのですから当時の慣習から生きていくうえでも土地の協力なしでは無理なのです。
大野氏もこの亀甲紋に血縁していることは母方も含めて先ず間違いがないと考えます。
次に岡山の亀甲族との関係の持った移動されたお家の青木さんが確かに投稿うされていました。ですから、後は証拠を見つけるだけとみられます。
この付近にある青木氏はお家の一族です。当時は讃岐との連絡も充分に本家分家の関係から一族はとれていたはずです。当時は前レポートに記しましたように一族総出で商いをしていましたから。
この付近の青木氏のお墓の紋所を調べられるとお家の綜紋の「下がり藤紋」から変紋していることが判るはずです。
そして、この付近にお寺がある筈ですからそこからも何かでるやもしれません。
お家は「下がり藤紋」を維持されて来られているところから、讃岐青木氏と岡山の青木氏の本系筋に当ることを意味します。
藤原秀郷一族5氏でも「下がり藤紋」を維持できている末裔は少ないと思います。青木氏116氏ではもつと少ないと考えます。
投稿されている中では2件目になると思います。
又何か新しい情報がありましたら、是非お便りください。
段々と全国の青木氏のルーツの解明が進むことを期待します。
No.264
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/03 (木) 11:44
青木研究員様 副管理人様
お世話になります。讃岐の青木です。家の家紋を添付致します。
讃岐の青木さん 代理投稿させてもらいました。
今日は。
「下がり藤紋に結び雁金紋」の家紋を確認いたしました。
副紋として結び雁金紋を使用していることが良く判りました。
この雁紋の紋所は源頼朝の家来で有名な土佐坊昌俊の家紋ですが、出陣に際して頼朝より拝領した家紋です。この家紋を使用している氏は32と比較的少ないのですが、雁紋は殆どは江戸期になって変紋して家紋とした物ですが別に縁のある者が変紋として家紋化したわけでは有りません。
藤原秀郷の綜紋にこの一族との血縁を表すために副紋使用の家紋としてものと考えられます。
普通は養子縁組で男子が生まれない場合はこの雁紋になるわけですが、遠縁の雁紋の持つところから養子を迎えて後継ぎを作りそこに嫁を採るなどの方法が末裔のところで起こった(鎌倉期から室町期前)ので子孫をはっきりさせるために下がり藤紋の綜紋に結び雁金紋の副紋をつけたのではないかと考えられます。綜紋を使用したところは本家筋であったことを意味しますから、本家が雁紋に変紋しては分家筋とも一族はわからなく成りますので。
この場合は副紋使用をします。
次に、提供していただいた家紋の「下がり藤紋に結び雁金紋」を掲示します。
No.269
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/13 (日) 14:40
讃岐の青木さんの代理投稿です。
お世話になります。讃岐の青木です。里の大伯父に会って話しを聞いてきましたので、報告いたします。以下の文章省略。
讃岐の青木さん 今日は。
お便りありがとうございます。色々と調べられたようですね。努力のおかげでお家に関係する重要な情報が五つもありました。
一つは藤神様の祠です。
二つは獅子舞です。
三つは加茂神社です。
四つは奉納相撲です。
五つは岡山です。
では先ず、1番目の籐神様の祠です。
讃岐の藤原秀郷氏宗家の一門を『讃岐籐氏』と呼びます。例えば伊勢の藤原秀郷の一門(藤成、基経)の場合は『伊勢籐氏』と呼びます。そして、結局、その氏を『伊藤』と呼ぶようになったのです。そして、それらの青木氏を含むその一門を祀る神を『籐神』と呼びます。
場合に依っては讃岐の宗家の現在の姓は「讃藤」で”さとう氏”と呼んでいることも考えられます。
”さとう”には沢山の「さとう氏」があリます。「佐藤、左藤、讃籐」の様に前は2つは役職名を、後ろは土地名を採っていることが考えられます。このいずれかです。讃岐付近にはかたまってさとう氏なる氏が必ず存在します。それがお家が護衛役として同行した一門の藤原秀郷の一族の宗家に当ります。つまり、讃岐籐氏です。
参考までに、讃岐籐氏は次ぎの氏名が名乗っています。
西隆寺、豊田、柴野、平尾、有岡、竹田、成宗
この氏名は全て庶流です。本流宗家筋では有りません。
室町末期から江戸初期頃に武士になったものが仕官するに当り氏名と系譜と家紋が必要になりました。
少しでも何らかの関係があったりした場合にその一族だと名乗り氏名、系譜家紋を偏纂と搾取して名乗りました。出なければ仕官は無理と成ります。
参考に。
そもそも、徳川氏は史実としてこの偏纂と搾取で将軍になれたのですから。
任官するのに朝廷は大変抵抗しましたが勢力に負けました。
16代目の天皇の第7位以降の皇子で僧侶であつた者が、還俗して全国行脚して三河の小さい土豪の家の門前に立ち、そのまま松平の家に居着き、そこの娘の婿入りをしたとするのです。
この僧侶がもと皇子であるかは疑問ですが、であるので還俗する時は源氏と名乗る事になっていましたので源氏の血筋を引いていると主張。
しかし、この16代の源氏は室町期の南北朝の時代で源平時代は既に終わり3百年以上も経ち天皇が二人いて皇子も誰が居るか判らない状況の中での主張です。源氏を名乗る習慣とっくには終わっています。豊臣秀吉と同じです。
朝廷は認めませんでしたが生活費に事欠き、土塀が崩れ去れ悲惨なありさままで追い込んでやっと認めさせたのです。しかし、源氏系である事は認めましたが「源氏頭領」だけは認めませんでした。「源氏頭領」だけがなれる幕府を開ける「征夷大将軍」ですが、「源氏長者」として矛盾のある将軍を認める事で朝廷は妥協したのです。此れが現実です。
ですから、この下の御家人は氏名と系譜と家紋を殆ど偏纂し搾取したのです。
話は戻します。
藤原秀郷流主要5氏のように高位の家柄は自らの神社と神主を持っています。この祠も「籐神」さまですので、青木氏の「氏神」を持っていた事に成ります。
そして、その氏神様がお家の側にあるとすると、矢張り、お家は本家筋系の讃岐の「下がり藤紋」を綜紋を持つ青木氏であリます。以前のレポートにも書きましたが矢張りありました。朽ちて記録などがなくなっているのが残念ですが。
次に「獅子舞」ですが、この獅子舞は天皇家の守護神の熊野神社(紀州の和歌山県)系列の全ての神社に伝わる神にささげる舞です。
この「獅子舞」を奉納するところには神社の鳥居門よりはいった所に一対の必ず「獅子頭」の石堂または石碑があります。
この「獅子舞」は源氏系列の神社、特に清和源氏の八幡神社にも伝わっています。つまり、源の八幡太郎義家を祀る神社にもあります。
つまり、天皇家か皇族賜姓族かその一族と交わる藤原北家筋にこの舞が残っています。
特に、熊野神社系列の奉納舞として必ずあります。
この獅子舞は清和系の獅子舞と藤原系獅子舞とは舞い方が少し違っています。
此処でお家の「獅子舞」ですが、もうお判りと思いますが、藤原秀郷北家筋主要5氏の内の一門でもありますので、この「獅子舞」はあるはずです。
当然にその「獅子舞」の祠付近には「獅子頭の石堂」があった筈です。
赴任した時期の平安末期頃にこの祭祀に熊野系神社から招きいれた可能性が高いと見られます。
他の土地の「獅子舞」のと同じ様に其れが「加茂神社」につながっているのではと考えます。
それが更に、決定的な証拠になります。
それは次ぎの三つ目の「加茂神社」の存在なのです。
この「加茂神社」は熊野神社系列の神社でこの「加茂神社」は伊豆地方と千葉房総地方と三陸地方にも存在します。そして、この地方にも「獅子舞」が存在するのです。
では何故かというと、それには次ぎの理由があるのです。
この「加茂」という名の発祥は和歌山県の熊野神社に由来するからです。
熊野神社の社領は和歌山県海南市鳥居と言うところが最初でそこから南紀までがこの神社の社領です。
この鳥居というところに熊野神社の第一番目の鳥居があったのです。此処から此処からが正式な熊野古道です。世界遺産に登録された熊野古道は南紀にしていますが。
各平安期からむ炉町期までの天皇は毎年熊野神社参詣に出かけたのです。
後醍醐天皇は在任期間中24年間の内25回も参詣しています。
この時に天皇に「奉納舞」としてみせたのがこの「獅子舞」なのです。
その習慣が各源氏の守護神と藤原北家一門の守護神に慣例として用いられたものなのです。
つまり、高位で皇族との血縁ある氏の奉納舞なのです。
この第1番目の鳥居のある鳥居地区のところから南に1キロ程度上ったところに熊野神社の第1番目の神社の藤白神社があり、此処からこの獅子舞の奉納が始まります。
そこより一つ山を越えると「加茂郷」という村が有り、この村に「加茂神社」があるのです。ここが全国に広まった「加茂神社」の発祥の元なのです。
では何故広まったかというと、この村は同時に海に面していて漁業が盛んでした。
そして、この土地のものが黒潮に乗って黒潮筋に黒潮漁法を伝えたのです。
その子孫が各地に定住してその子孫の氏子達が守り神として加茂地区から迎え入れて「加茂神社」を造ったのです。
加茂だけでは有りません。勝浦や下津や田辺や由良や和歌山沿岸の土地の地名が各地に伝わっているのです。そして、この奉納舞を広めたのです。
四国の土佐や讃岐地方でもこの黒潮漁法が元で獅子舞も庶民にも広く伝わったのです。
この黒潮漁法とは、船の交尾より糸を出し10メータほどのところに広葉の形をした木の板を付けその30メータ後ろに針と疑似餌をつけて船を走らせる漁法です。
木の葉型した板は音を立て魚が跳ねた形になりますと魚の習性で音の周囲に集まるという事を利用した漁法です。
此れは太平洋のアモイ族が編み出した方法でこれを鯨やのマグロの遠洋漁法する紀州の漁民が物まねで会得し大漁高として有名になり平安期頃から各地に伝わったものなのです。
この様に「加茂神社」の「獅子舞」は「奉納舞」として上記の氏の一つとして皇族に縁のある藤原秀郷一門が定住する地域に広まったものなのです。
当然に讃岐の青木氏のもとにも。そして庶民の祭りなどに使う芸能舞としても。
瀬戸内海では水流が速く内海ですのでこの漁法は向きません。
単純に加茂神社からこの伝統を他の関西の藤原氏一門と同じく招き入れたものと考えられます。
上記した藤白神社でもつい最近までこの二つの行事が行われていました。
獅子舞は残っていますが、相撲は昨年なくなりました。
更に、此れだけでは済まないのです。
この「加茂神社」の「獅子舞」と同時に「奉納相撲」も行われたのです。
「獅子舞」と同じく上記の3つの系列ではこの「奉納相撲」も行われていました。
そもそも最初は「相撲」は神にささげ、楽しませるものであったのです。
特に相撲の中には面白おかしくする舞のようなしぐさでする相撲(ショッキリ相撲)があります。これが神にささげる最初の行事であり、当然、熊野詣で毎年来る天皇家の人々を楽しませたのです。
天皇にささげる相撲は舞と同じく神にささげる相撲でもあったのです。
此れも「獅子舞」と同じく皇族系の一門が住む讃岐の土地にも伝わっていたと云う事です。
そこで、もう一つ伝わっていないかお調べになると完璧に伝統が残っている事に成ります。
それは、「曲水の宴」です。
大きい庭に山から水を引き池にしてその池を庭中を取り囲む様に廻します。
そして、この池にところどころに座って歌を詠みそれを池に流します。
次ぎの人はその歌をとり、返歌して更にその返歌に対して次ぎの人が返歌を繰り返す。そして、その間毎に杯を流して飲み干すまでに返歌するという実に優雅な平安期の歌のゲームです。
これが当時の神にささげ天皇に報じるなどのこの伝統のセツトです。
武家ですので少ないかも知れませんが何らかの形で遺されては居ないでしょうか。
このことから、このような伝統を重んじたことで見えてくることは、讃岐の藤原秀郷流青木氏の「下がり藤紋に結び雁金紋」のお家の一族はこのような由緒ある伝統を現在までに伝えていたのは紛れも無く宗家筋の一門であり、且つ、藤原秀郷流青木氏の主要9氏(直系1氏と直流4氏と支流4氏)のうちの直流4氏のうちのかなり宗家筋の一門であったことが覗えます。
祠を建てたときにこれ等の奉納行事を熊野神社系から招き入れるだけの力があったことを意味します。
更に、間違いなく、讃岐では宗家本家筋から分流した末裔であろう事が覗えます。
そこで私は副紋を「結び雁金紋」としたことには一つの意味があると見ています。
結び雁金紋は前記レポートでも書きましたように土佐出身の土佐坊昌俊が元祖であり、1192年頃に源の頼朝に信頼されて重用された人物で、頼朝より与えられた家紋です。
この頃、讃岐のお家を始めとして藤原一門は鎌倉幕府が成立して全ての職を失い離散して生き残りに翻弄されていた最中であった時期です。
この時に生き残りさくとして、宗家本家筋として何とか一族一門を救おうとして奔走して居た筈です。これは自然の成り行きであり、生存の可否を決める行動ですから、渡りに船の土佐出身の日の出の勢いの頼朝につなぎの効く人物としてみて捉えて、接近し血縁を申し出たのではないかと思われます。
現に土佐坊の一族は元祖であるので元もは豪族ではないし、大きくは無いのだから、氏家制度の社会のもとでは血縁の釣り合いからもありえない家柄です。
結べる家では有りません。
その後も大きい一族では有りませんから同じ条件下であった筈です。
男系が絶えて養子縁組での跡目ではなく生残りとして養子を本家筋に入れて家を立ててその土佐の坊の勢力を見方に引き入れて他の族からの攻撃を避けたものでは無いかと見ます。
ですから、お家をはじめとして、他の藤原秀郷流青木氏と違い家紋を変紋せずに副紋使用としたのだと考えます。
直流4氏系列の多くは副紋使用しているのです。
藤原秀郷流青木氏の直流系の維持を図ったのではないかと思います。そうでなければ、姓をそのままに変紋することで生残れるのですから。
その宗家筋の維持の義務と伝統の維持の責任があつた事だと見ます。
その証拠に後に手広く商いをしていたことが伝えられていたわけですから。
そこで、最後の広島、岡山の地族の問題です。
広島、岡山には讃岐の一門が移動して定住して末裔を広げていることは史実ですが、この一族には下がり藤紋に結び雁金紋をはじめとして、家紋が丸に三階松紋、抱き若松紋、亀甲紋、五瓜紋、剣片喰紋などと血縁を結んでいます。
そして、これらの家紋に変紋しています。
これらは、お家の一族の末裔が広島、岡山に移動して藤原秀郷流青木氏として血縁を結んだ土地の豪族です。
特に2つの松紋の一族はこの讃岐籐氏の血筋を庶流に持つ一族とも血縁をしています。
つまり、遠縁の藤原一門の血縁族と再び結んだことを意味します。
松紋では研究室のレポートを一読ください。
以上で、5つの情報に付いてレポートしました。
此れでお家の一族の横の環境が更に詳しくなり、ルーツ解明が進みました。
一寸した遺された事がルーツにとって歴史上の大きな解明になるので、又、是非何か出ましたらお知らせください。
ルーツが縦横と拡がると楽しくなりますよね。
お待ちしています。
No.279
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/09/06 (水) 03:50 [
メール ]
ご無沙汰しておりました。調べましたことを報告致します。まずはうちの副紋の雁金紋のことです。副管理人さんのおっしゃる通り地元では見つかりませんでした。ですが対岸の岡山に戦国時代、宇喜多直家の重臣として活躍した花房氏が雁金紋(尻合わせ三つ雁金紋)を使用していたことがわかりました。花房正幸が瀬戸内海に面した邑久郡虫明城主(18,000石)として海上交通に睨みをきかせていたそうです。うちの里は本州(岡山)まで直線で7qと瀬戸内海で一番狭くなっている湾岸にあります。邑久とは目と鼻の先の距離です。武家家伝にはつぎのような文章がありました。
戦国時代、備前国に清和源氏足利氏流を称した花房氏がいた。花房又右衛門が播磨灘を船で通ったとき、海賊に襲われ、弓矢をもって防いだが、矢をきらして進退窮まった。その機に乗じた海賊は船を寄せて花房の船に乗り移ろうとした。そのとき、最後の雁又の矢で海賊の大将の首を射抜き、勢いにひるんだ海賊に「われは花房又右衛門ぞ、雁金紋に雁又矢、これぞ天下の珍高ぞ」と大音声でよばわった。その勢いに恐れた海賊たちは、以後、瀬戸内海を通る「雁金紋」を付けた船は襲撃しなくなったという。この話から、戦国時代にあってすでに花房氏の雁金紋が瀬戸内にあってかなり有名なものであったことが知られるのである。とありました。花房氏は次代の正成の時も宇喜多氏の重臣として秀吉の備中高松城攻めに従軍して水攻めを進言した功により、のち備中高松城主ともなり31,000石を領したそうです。のち宇喜多家内紛により徳川家に仕えたそうです。次代の志摩守幸次はで草創期の伊勢山田奉行に任じられています。 うちの雁金紋はこちらのほうに関係がありそうにも思えます。あと以前、うちは播州赤穂にも関係があると書かせていただきましたところ、伊勢青木氏も関係があったとお話いただきました。赤穂藩一族浅野長恒という人が刃傷事件当時伊勢山田奉行だったそうです。その縁で伊勢から赤穂収公関係に船を廻す機会があったのでしょうか。
花房氏の出自も秀郷ゆかりの常陸國久慈郡花房郷だそうです。伊勢のこともそうですが、何かが少しづつ繋がっているような気がします。
うちの地域は戦後すぐまで海運業で栄えていて、戦時中も船は徴用されたりしていたそうですが、何隻あったとかどこに行ったとか調べようとしても何一つ資料がでてきません。船の名前も屋号みたいな感じで口伝えで少し残っているだけです。地元の数少ない文献にもみつかりません。個人で所有しているものならば余計、他人には見せないだろうし、資料の価値も興味あるものにしかまず、わからないから、忘れさられ消失するのが多いのだろうとつくづく感じさせられました。 前回、お話した藤神様の付近にあった本家もどこに移ったかもわかりませんでした。話では馬小屋とか刀の類もあったようです。明治の初めの頃に事情があり他所に移ったそうです。その時に全て処分されたようです。30数年前を最後に無くなった藤神様の相撲は10/14に行われ、その後荒神さん、船だまさんと日を変えて行われていたようです。(なぜその日だったのか不明)
あと、青木の墓石の家紋を調べたところ3地区にわかれて50基位ある中で1基だけが丸に剣片喰紋がありました。あと亀甲紋のことを以前、教えて頂きましたが、青木姓ではないののですが三ツ盛亀甲に花菱の家紋がありました。
では、またなにかわかりましたらご報告致します。
No.280
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/09/06 (水) 20:08
讃岐の青木さん 今日は。
早速ですが、大変に良く調べられて驚きました。
実は、大変な事が沢山判りました。
このようにルーツを調べてゆくと思いがけないところで先祖の繋がりが網の目のように見えてきます。
先ず、順を追ってレポートしたいと思います。
お家の副紋の「結び雁金紋」の関係で岡山方面に雁金紋が多い事がレポートされています。
「尻合せ雁金紋」の花房氏が対岸の岡山に定住していることですが、この花房氏のルーツは判っていますので、面白いところで繋がります。
花房氏は元は『陸奥の国』の小豪族でした。
陸奥は藤原秀郷宗家一門が朝廷より北国を鎮圧させるために『鎮守府将軍』として任された専職としての土地で。初代より代々引き続き担った役職です。
この中でも、藤原秀郷より4代目の兼光が鎮守府将軍として赴いた際に土地の地固めとして2つの縁組を結んでいます。
藤原秀郷の一門はこの4代目の兼光と文行の兄弟から二つの流れになります。
兼光流から、青木氏と永嶋氏と長沼氏との3つの流れが起こります。
分行流から、進藤氏と長谷川氏の2つの流れが起こります。この進藤氏から更に2つに分流します。利仁流の進藤氏です。
この兼光の一族と土地の小豪族の武田氏の縁組が起こります。
更に、土地の小豪族の花房氏の縁組が起こります。
藤原秀郷の子孫の則高が甲斐の国に赴任した時にこの武田氏は護衛として陸奥より同行して土地に根を降ろします。此れが甲斐の武田氏です。
一方、花房氏は藤原秀郷の子孫の有綱が信濃に赴任した時にこの花房氏が護衛として陸奥より移動します。此れが信濃(足利)の花房氏です。
更に、この武田氏と足利氏は藤原秀郷の武蔵の宗家と血縁をしています。
足利氏には兼光流の成行が跡目で血縁に、武田氏も血縁を結んでいます。
この「三つ雁金紋」の花房氏は足利氏の支流と血縁を結び足利の配下となり室町期に中国地方(岡山)に赴任します。此処までは判っています。
したがってこの花房氏は足利氏の藤原秀郷成行一門の血筋と陸奥国での藤原秀郷の兼光の血筋と重複して藤原の血筋を濃くしています。
したがって、お家は讃岐の青木氏で藤原兼光流青木氏の直系4氏の一つですから、この花房氏とは同じ兼光流の血筋です。
鎌倉期に藤原秀郷一門は離散する事に成りますが、この時、この花房氏は足利氏の下で健在です。
この時、お家は讃岐に留まり、その元の役職と地の利と海の利を生かして商いをしたと考えられます。当然、お家の歴史どおりの海船問屋です。
この時にこの岡山付近に配置された花房氏との関係が必要と成ります。
ルーツを辿れば同じ藤原秀郷一門で兼光流です。
当時の慣習から同族として、お家と何らかの関係を持っていた事は当然の成行きです。不思議では有りません。
その後、足利幕府が潰れて花房氏の土地の勢力を生かすために領国主となつた宇喜多氏はこの勢力関係を維持して統治するのが常道です。
そこで瀬戸海の支配を任したと見られます。
当然に、瀬戸海の支配の花房氏はお家の海船問屋との関係も同族として持つ事は自然です。で無ければ瀬戸内の支配と安全は維持できません。
そこで副紋の「結び雁金紋」のお家と、「三つ雁金紋」の綜紋の花房氏(尻合せ三つ雁金紋は分家筋)は共に「雁金紋」の血縁で尚且つ藤原秀郷の兼光流一門である事から、家紋は一致せずとも、いずれかのところ(本家筋)で縁者関係を持っている筈です。
此処が讃岐青木さんの次ぎの調査ポイントに成りますね。
必ず繋がっている筈です。
因みに、この雁金紋は源の頼朝の治承の挙兵で土佐坊昌俊に与えた「旗差し紋」ですが、この岡山の地域にはこの血筋を引く「三つ雁金紋」の海野氏もいます。この氏の末裔が此処にひろげたものと考えます。
この紋様としては「雁金紋」を主要紋として53紋様あり、この内「三つ雁金紋」の系列は「尻合せ三つ雁金紋」や「三つ盛り雁金紋」などを含む8つがあります。
「結び雁金紋」は花房氏との血縁と見ると安芸の寺田氏であり他には信濃の真田氏があります。2つを中心として6つあります。
お家の副紋の「結び雁金紋」は室町期末期から江戸期前位にこの寺田氏との血縁ではと見られます。
第2の確認ポイントです。
次ぎに私の伊勢青木氏との関係は浅野長恒氏の江戸期の伊勢の山田奉行との関係はあつた事は充分に考えられます。
伊勢の豪商の紙問屋の青木長兵衛は船三艘を瀬戸の岡山の港に浅野家の依頼で家財の買い付けで廻したと記録されています。
忠臣蔵の活動資金と家臣の分配金にしたと見られます。
勝手に、当時は海支配と言うのがあり、伊勢から瀬戸内までには5つの支配の海を通る必要があります。伊勢支配、熊野支配、紀伊支配、摂津支配、瀬戸内支配があり自由には瀬戸内に入ることは出来ません。
又この間には海賊があり、特に紀伊支配には紀伊水軍の海賊がいました。
又、お家の様な廻船問屋の聖域もあり、役務のところの「札差」(鑑札)が必要です。
此れには奉行の許可を取る事に成りますので、それが丁度、浅野氏の伊勢山田奉行の依頼と許可が当然に必要となった考えます。
浅野氏とは認識は有りませんでした。此れで完全に三艘を廻した理由が判明しました。
長兵衛は松阪に本店2つを持ち、支店を含む蔵群が隣の玉城町の面積の8割が
青木長兵衛のもので合った事が記録と伝えられています。
松阪商人としてお家などの瀬戸内の廻船問屋さんのグループに依頼されて参加したのではないかと思われます。
さて、お家のルーツと活動範囲が明確になってきましたね。
花房氏と意外なところで繋がっていました。
代としても時代性から藤原秀郷一門との縁続きの元は兼光より1、2代の非常に近い範囲ではと考えられます。
お家の青木氏の千国の元祖より兼光(曾孫)は2代あとですからね。其れが陸奥のところで血縁ですから。お家も直系4氏の一つですからね。
次ぎに、丸に剣片喰紋の青木氏の讃岐の墓地範囲にあつた事ですが、
剣片喰一門は鎌倉幕府樹立で離散して一部は領国八王子付近に、一部は淡路の赴任地に、一部が讃岐にと移動した事はわかっていますが、矢張り、讃岐の青木氏を頼ったのですね。確認出来ました。
お家の青木氏を頼ったことは一つの意味を持ちます。
頼るだけの力があったことを意味していますし、墓地が同じと言うことは更に隣の阿波の国の剣片喰紋の青木とも関係を維持していたことがわかります。
岡山や広島の一族の方と同じく、多分、領国武蔵ではかなり近い親族中の親族関係にあつたと見られます。(藤原秀郷流青木氏9氏の116氏)
(阿波の青木氏は宗政親子に同行した青木氏)
亀甲族や三階松紋の青木氏も含めて、そして、岡山の花房氏は藤原秀郷の兼光の縁者関係で濃くつながっていた事に成りますね。
大変な発見ができました。
参考として、結び雁金紋の氏は当地の浅野氏とも血縁しています。
「四つ結び雁金違い鷹の羽紋」です。
当地岡山付近では青木氏を挟んで亀甲族と雁金紋の何らかの争いが見えてくるようですね。
三つ盛り亀甲に花菱紋の件ですが、青木氏以外のことは良く判りませんが花菱紋は割菱紋の武田氏の分家一族が使用した家紋ですので、この一族との関係あった亀甲族の氏とも見られます。武田支流がこの亀甲族との関係をどのようなことでもったかは判りません。
何せ、この亀甲族は出雲大社の氏子の小豪族の連合帯ですので、身を守る為に多くの氏との血縁を結んで安定を図り守っています。
ちなみに、浅野氏との血縁を結んだ「亀甲に違い鷹の羽紋」があります。
楽しく見させて頂きました。
又新しい情報が有りましたらお知らせください。楽しみにしています。
No.281
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/09/07 (木) 00:44 [
メール ]
有り難うございます。思っていた以上の繋がりがあったのでびっくりしました。副管理人さんの知識の膨大さと回答の速さにもいつものことながら感動します。それで、お話にありました結び雁金紋の安芸の寺田氏のことと四つ結び違い鷹の羽紋を教えて下さい。四つ結びなら鷹の羽はどこに配置されているのでしょうか?
あと、伊勢から赤穂の件で廻された船の大きさとか人員なども台帳として残存されているのでしょうか、そうならすごいことだと思います。300年も前なのに。
忠臣蔵の活動資金、家臣分配金の件はその通りだと思います。うちの先祖の一人といわれている赤穂の大野九郎兵衛知房は財政面で塩田、新田開発などで藩を立て直しを成功させていたのにあの事件があり、また家臣の分配金で役割に沿った分配を主張したものだから、身分の低いものから順に高い額の支払いを主張した大石さんにいいところをもっていかれ、また逐電したものだから汚名のみ後世残すようになってしまいました。うちには弟か息子がきて塩田開発したと言い伝えのみあります。事件前から赤穂藩の剣術師範の東軍流、奥村権左衛門無我(元備前藩士)の屋敷がうちの実家近くにあったので藩士の往き来はかなりあったようです。だからうちの先祖もなんらかの動きはしたとは思うのですが、なにぶん文献がみつからないので想像の域をでないところが寂しいです。もし、なにか船で依頼主、積み荷などの記録がありましたら楽しいと思います。ご存じかと思いますが、前述の浅野長恒は大石良雄の父の従兄弟です。
No.282
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/09/07 (木) 10:16
> 有り難うございます。思っていた以上の繋がりがあったのでびっくりしました。副管理人さんの知識の膨大さと回答の速さにもいつものことながら感動します。それで、お話にありました結び雁金紋の安芸の寺田氏のことと四つ結び違い鷹の羽紋を教えて下さい。四つ結びなら鷹の羽はどこに配置されているのでしょうか?
> あと、伊勢から赤穂の件で廻された船の大きさとか人員なども台帳として残存されているのでしょうか、そうならすごいことだと思います。300年も前なのに。
> 忠臣蔵の活動資金、家臣分配金の件はその通りだと思います。うちの先祖の一人といわれている赤穂の大野九郎兵衛知房は財政面で塩田、新田開発などで藩を立て直しを成功させていたのにあの事件があり、また家臣の分配金で役割に沿った分配を主張したものだから、身分の低いものから順に高い額の支払いを主張した大石さんにいいところをもっていかれ、また逐電したものだから汚名のみ後世残すようになってしまいました。うちには弟か息子がきて塩田開発したと言い伝えのみあります。事件前から赤穂藩の剣術師範の東軍流、奥村権左衛門無我(元備前藩士)の屋敷がうちの実家近くにあったので藩士の往き来はかなりあったようです。だからうちの先祖もなんらかの動きはしたとは思うのですが、なにぶん文献がみつからないので想像の域をでないところが寂しいです。もし、なにか船で依頼主、積み荷などの記録がありましたら楽しいと思います。ご存じかと思いますが、前述の浅野長恒は大石良雄の父の従兄弟です。
讃岐の青木さん おはようございます。
早速の返礼有難う御座います。
早速ですが、お尋ねの件ですが、
先ず、「四つ結び雁金に違い鷹の羽紋」の件ですが、結び雁の頭を内側にして羽先で四角に繋ぎます。真ん中に隙間が出来ます。ここに違い鷹の羽を入れます。「違い鷹の羽」は浅野家の綜紋ですが、青木外のことですのでこの氏の詳細はわかりません。鷹の羽の違いの内容でどこの浅野家かがわかります。
この違い鷹羽は安芸です。
結び雁金紋の主要紋の氏は安芸寺田氏ですが以外に有りませんので讃岐安芸の範囲での血縁となれば寺田氏以外にないと思います。
寺田氏そのもののことはよく判りません。
青木氏と繋がる家紋元はどこかとの調べた範囲での記録ですので。
我が家の記録は3つの方法の口伝と記録帳と史書でつなげていますが、明治35年に出火して松阪の大火となり店は焼失して記録は少なくなりましたが、
判る範囲としては安芸に廻したものは艘と成りますので千石船と成ります。
祖父の代まで950年も続いた店であつたので口伝は多く遺されています。
脚本家のジェームス三木氏や司馬遼太郎氏や当時の5人の歴史小説家の記録から我が家のことが多く判明しています。
NHK大河ドラマに3度も出て来ました。
人員は別の記録から身内で250人を手配差配出来る数としたとされていますが、船に乗った数はわかりませんが。積荷や依頼主の記録は明治35年の時に焼失しましたので不明です。大石氏に家財買い上げの為に3艘廻したことまでです。
同じ事をどこで調べたのか判りませんがジェームス三木氏も調べています。
記録で一番古いものでS647年の事まで史書でわかっています。口伝と日本書紀や日本世記などからも。物的証拠もあります。
いま祖父の代になくしたものを私がもう一度我が家の歴史書を後継ぎとして焼失したものごとを再生しています。40年掛かっています。
その過程で青木氏全体のことも判明してきたのです。
同じ事を近江の佐々木氏の方も佐々木氏のことを調べられていて一部青木氏でで重なる部がありまして参考になりました。従って佐々木氏のことも把握しました。
参考に。
近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子ですが、第6位皇子は伊勢王の施基皇子(越の道君伊羅都女の子)で伊勢青木氏の元祖です。二人は異腹の兄弟です。
本来天皇の賜姓は第6位皇子までですが天智天皇は特別に第7位の皇子にも賜姓しました。近江王の川島皇子(忍海造小竜の色夫古娘の子)佐々木氏です。
此処で、繋がっていたのですが調査は合っていました。
このように色々調べてゆくうちに今回のように広がり始めて又資料も増えてゆきます。
直接の資料を求めるだけではなく関係する資料から広がりが見えてくるのもこのルーツの極意です。今回のように。
大野氏がご先祖でしたか。忠臣蔵で有名な方ですね。
このお家のことを調べるとまだ色々と出て来るかもしれませんね。
紐解きには私もずいぶん苦労しました。
それと寺田氏のことを何らかの方法で調べ出すことが先ず広がりを出す決め手かも知れません。藤原氏は判っていますから。郷土史を利用しては如何ですか
参考として、お家のルーツの推測案を立てていますが。
そのことに触れてみたいと思います。
四国伊予にも藤原秀郷の宗家子孫が赴任しています。
藤原行長が伊予に赴任していますがここの青木氏は充分に確認出来ません。
行長は永嶋氏の元祖ですので護衛は子供の永嶋氏が担ったのではないかと思いますが疑問が残ります。
場合に依っては讃岐の青木氏か、淡路の青木氏が護衛を担っていた事も考えられます。伊予にお家の末裔が瀬戸内だけではなくここにも存在していると思います。
行長が赴任しても子供が護衛としても初期にはまだ難しいと思いますのでこの地域にいる直系の青木氏のお家がカバーしている事が濃厚です。
伊予に青木氏か永嶋氏(青木氏と同じく大勢力を持っていました)が存在するかです。
永嶋氏は名古屋地方から以西に分布しています。地名として残っています。(九州の永嶋氏は別)
この事によって見えてくるものが沢山あります。
お家のご先祖の位置付けです。つまり伊予は土佐南部と共に雁金紋の本来のルーツですので、此処で雁金紋の分家筋の結び雁金紋の氏から跡目の養子を入れての血縁を結んでいることも考えられます。其れが寺田氏のルーツでは。そして後に安芸で子孫を広めたとも考えられます。
伊予に青木氏か寺田氏がいるかどうかです。
つまり、副紋を用いたのは安芸の寺田氏から跡目を入れたというよりも地理的に伊予から跡目を入れた可能性が高いと見ているからです。
お家の家紋が副紋に変紋を余儀なくされた時期は安芸の結び雁金紋を広めた寺田氏の時期ではないと見ています。
私はこの推論が極めて高いものと見ています。
そのルーツとすると時期が合うと見ます。室町末期から江戸期前の混乱期にわざわざ変紋をするかどうかです。
私はその前だと考えています。土佐坊の後の鎌倉後期から室町中期までの頃ではと推測します。
つまり、藤原氏が離散して少し落ち着きが出た少しあとの戦国時代の前の「下克上」の時期頃(1340頃)と見ています。
(この時、伊予は下克上の人物の河野氏が支配していた 国堺で讃岐籐氏等とも争っている)
一族を守る為に日の出の勢いのこの雁金紋の氏を利用したのではないかと見ます。そうすれば海向こうの氏ではなく地元の範囲の氏で勢いの有る氏と成ります。
お家は岡山、淡路、讃岐と広く子孫を持っています。もし、跡目が無ければこの大きい子孫の中の縁者から養子跡目を入れることで充分に済み家紋を副紋とすることは有りません。
それではすまない存続に関わる大危機に立ち至ったことを意味します。
其れは離職した経済的危機の中でも、更に「下克上」が起こってしまった。
「下克上」は藤原氏や青木氏や社会を牛耳っていた階級の撲滅ですから、泣き面に蜂です。(殆どの40ほど主要氏は壊滅した)
中級階級以下の反乱ですから足元からも起こる事も充分に考えられます。
此れに対抗するには鎌倉幕府の下級武士の出世頭の氏の地元の雁金紋一門との血縁を結ぶことで収まりがつくというものです。これで周りは襲う事は出来ないと成ります。
だから、変紋せずに副紋を主家一族一門として利用したものと見ます。
だから生き延びられたのではないでしょうか。
更に云えば本家は嫡子がありながら跡目を「結び雁金紋」の氏から入れたといえるのではないでしょうか。
このほうが当時の状況から自然と見ます。
その意味でも地元の当時の状況もわかることもありますのでその事を調べられると上記の推測が証明しやすいのではと思います。
讃岐の郷土史とか岡山の郷土史とか広島の郷土史とか阿波の郷土史とかに必ずお家に関係する事柄や場合に依っては直接出て来る場合も大いに有ると見ています。どこの地方公共団体でも出しています。役所に行くと売っています。
閲覧することも出来ると思います。県史や地方史として。
又何かわかりましたらお知らせください。
お待ちしています。
No.283
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/09/07 (木) 20:45 [
メール ]
ありがとうございます。よくわかりました。教えの通りに調査に動いてみます。実際、動いてみて、なにか一つでも手がかりとか繋がることがみつかると本当に楽しいものですね。ですが、とにかく時間のやりくりが大変です。また、なにか見つけましたら報告致します。
No.1302
Re: 讃岐の青木です。
讃岐の青木さん 2008/07/13 (日) 19:21
御無沙汰しております、讃岐の青木です。最近、讃岐(香川県)関係のことがよく記事になっていたのでお便りしました。
こちらの新しい発見としては隣の隣の中世からの港町(近世は塩田のまち)の宇多津(中世鵜足郡の港)西光寺(浄土真宗)の家紋も下がり藤に結び雁金でした。門と瓦が紋入りでした。ここのまちの青木家も含めて昔の港町にひろがっている青木は一族のようです。宇多津には数件しかないようで家紋は現在、未調査です。それで西光寺さんの住職さんは進藤さんといわれるかたです。宇多津町に進藤姓は1件のようです。研究室に進藤姓も利仁流で幾度かでてきていたので不思議な縁を感じます。
あと最近の記事のなかでのことで、資延姓は西讃岐の三豊市高瀬町(16件TEL帳)、観音寺市(5件TEL帳)にありました。高瀬の方とは仕事でお世話になったことがあります。宇喜田姓は私の住んでいる高松の南西部に子孫のかたが数件いらっしゃるようです。花房姓(雁金紋かどうかは未調査)も固まっていらっしゃいます。あと真田信繁(幸村)が夏の陣で落ち延びてきて4男の之親さんの子孫が今も続いているようです。関係本の系図にもよく掲載されています。真田家の裏紋が結び雁金紋のようです。真田信繁(幸村)8女の阿菖蒲の嫁ぎ先も青木家(次郎右衛門、家臣?)(別冊歴史読本幸村と真田一族による)とあったので偶然にしてはと興味深く思いました。
以前、副管理人さんがおっしゃったように、こちらの高松藩主松平公の菩提寺は浄土宗の法然寺です。
こちらの加茂神社(讃岐藤氏の香西氏が1200年頃創建との伝)はでのことですが、一度再建されたようで以前は現在地より氏神の藤神さんの近くにあったようです。現在、北山池と呼ばれている池は昔はそのことの名残で宮池という呼び名だったとのことです。
あと一般にでまわっている文献で秀郷関係の系図に千国、青木始祖と書かれているものが見つかりません。千国以降の系図とかが記載されている資料とかはあるのでしょうか?
No.1303
Re: 讃岐の青木です。
副管理人さん 2008/07/14 (月) 11:48
> 御無沙汰しております、讃岐の青木です。最近、讃岐(香川県)関係のことがよく記事になっていたのでお便りしました。
> こちらの新しい発見としては隣の隣の中世からの港町(近世は塩田のまち)の宇多津(中世鵜足郡の港)西光寺(浄土真宗)の家紋も下がり藤に結び雁金でした。門と瓦が紋入りでした。ここのまちの青木家も含めて昔の港町にひろがっている青木は一族のようです。宇多津には数件しかないようで家紋は現在、未調査です。それで西光寺さんの住職さんは進藤さんといわれるかたです。宇多津町に進藤姓は1件のようです。研究室に進藤姓も利仁流で幾度かでてきていたので不思議な縁を感じます。
> あと最近の記事のなかでのことで、資延姓は西讃岐の三豊市高瀬町(16件TEL帳)、観音寺市(5件TEL帳)にありました。高瀬の方とは仕事でお世話になったことがあります。宇喜田姓は私の住んでいる高松の南西部に子孫のかたが数件いらっしゃるようです。花房姓(雁金紋かどうかは未調査)も固まっていらっしゃいます。あと真田信繁(幸村)が夏の陣で落ち延びてきて4男の之親さんの子孫が今も続いているようです。関係本の系図にもよく掲載されています。真田家の裏紋が結び雁金紋のようです。真田信繁(幸村)8女の阿菖蒲の嫁ぎ先も青木家(次郎右衛門、家臣?)(別冊歴史読本幸村と真田一族による)とあったので偶然にしてはと興味深く思いました。
> 以前、副管理人さんがおっしゃったように、こちらの高松藩主松平公の菩提寺は浄土宗の法然寺です。
> こちらの加茂神社(讃岐藤氏の香西氏が1200年頃創建との伝)はでのことですが、一度再建されたようで以前は現在地より氏神の藤神さんの近くにあったようです。現在、北山池と呼ばれている池は昔はそのことの名残で宮池という呼び名だったとのことです。
> あと一般にでまわっている文献で秀郷関係の系図に千国、青木始祖と書かれているものが見つかりません。千国以降の系図とかが記載されている資料とかはあるのでしょうか?
讃岐の青木さん おひさしぶりですね。
お便りくださってありがとう御座います。
そうですね。こちらの方は讃岐の青木さん関係の事が多く出て来るようですね。シリーズのように偏る感じをしています。
いろいろとお便り頂き、史実が更に深まりますのでありがたく思っています。これからも宜しくお願いします。多分、讃岐の青木さんのお便りを参考にしている方が多く居られると思いますので、これからも宜しくお願いします。
私もその方向でレポートして居ます。情報が立体的になって大変重厚なレポートに成っております。
私も四国をルーツや由来を紐解きま良く調べてみました所、お家の讃岐青木氏は江戸時代まで四国全体と瀬戸内を支配していることが良く判ります。
多くは、讃岐籐氏一門の末裔といっても良いのではないのでしょうか。
そして、藤原秀郷流青木氏一門の多くと皇族賜姓青木氏などに軍事経済の面で歴史的に保護をしている事が浮かび上がってきます。
土佐の青木氏、阿波の青木氏、美作の青木氏、安芸の青木氏、備前の青木氏、米子青木氏、摂津青木氏、近江青木氏、滋賀青木氏、足利系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏などを戦国時代に保護しているようですね。伊勢青木氏などと連携をしてつながりを持っていたようです。
伊予との勢力争いでの関係も出てきます。
信長も四国と関東に手を出せなかった一族の関東の藤原秀郷一門ともすごい勢力を誇っていたことを、裏付けています。
このことから、お便りのように、四国の「下がり藤紋」の青木さんは四国を占めていたのではないでしょうか。
秀郷主要5氏の一つの進藤氏は秀郷一門の進藤氏と利仁流の進藤氏がありますが、四国の進藤氏は利仁流の進藤氏ではないのではとも考えています。
讃岐籐氏の菩提寺のお寺で住職を代々勤められていたのではないでしょうか。
資延氏も結局、藤原秀郷氏の近衛氏の末裔ですが、この氏も讃岐青木氏を頼って定住してきたのではないでしょうか。
南北朝時代室町末期に公家が四国、伊予、讃岐と美作、安芸、周防に逃げ延びたのはこの讃岐青木氏の庇護を受けに逃亡したのではないでしょうか。
又、平家の落人の一番多い四国では、始祖千国の青木氏(平家の嶋崎氏より母方が入っている)とのつながりを求めて讃岐籐氏一門にある四国に逃げ延びたとも考えられます。
本拠地である九州や中国地方に逃亡せすに四国に多いのはこの庇護に入ったからではないでしょうか。
本家信州上田の真田氏も藤原秀郷一門ですので、当時でも最大勢力を誇り、信長、秀吉も四国攻めにはてこづったのはこのお家の讃岐青木氏のシンジケートがあったことでしょう。この為に四国に逃げたのではと考えます。
東でも藤原秀郷流青木氏を頼って、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏、武田氏系諏訪族青木氏が信長の勢力の及ばない武蔵に逃げたのですからね。
青木氏の逃亡には、東西の藤原秀郷流青木氏がこの様に全てにかかわっているのです。
同じ伊勢青木氏では、伊勢シンジケートを持ちながらも青木氏のこの史実が余り見つかりませんのも、讃岐青木氏の勢力が如何に大きかったかを物語ります。
長く続いた2回の「相良騒動」の宇喜多氏のことも瀬戸内の讃岐青木氏の関わりからです。
加茂神社のことですが、京都の加茂神社をはじめとして、全国の加茂神社は殆ど藤原北家筋の秀郷一門の居る土地柄にあります。
そもそも、家紋神社の由来は、神武天皇が東征して紀州の森(後の熊野神社の社領)にはいり、道に迷い、そこで夢うつつに耶田烏の後を着いてゆけと御告げがあり、奈良に入れたとされていて、迷ったそこが紀州加茂郷というところであり、その時の耶田烏を熊野神社の御告げ鳥とされ、以後、江戸時代までその熊野神社の耶田烏の空かしの入った紙で書いたものを誓書としたとされています。
耶田烏は中国の吉兆鳥とされているもので、日本書紀にもこのことが書かれています。
紀州加茂郷では以来熊野詣の人たちを楽しませたこの伝統的なお祭り行事があり現在も続いています。
ここが全国にある賀茂神社の最初の加茂神社といわれいます。
加茂郷の加茂神社はこの由来もあり、紀州の人々の漁業と林業と紀州発祥の鈴木氏の移動からも各地に移動してひろまったとされている所です。
紀州を初めとして、伊豆、千葉など又ね鈴木氏の移動経路の奥羽北陸地方にある加茂郷にある加茂神社も、そこには藤原秀郷流青木氏の在所で、そこには青木村の地名も必ずあるくらいです。摂関家の藤原氏もこの伝統ある加茂神社をもちろん氏神にしていたのではないのでしょうか
次に始祖の千国ですが、北家藤原秀郷一門の氏には、「第3子」を「青木氏」として藤原秀郷の護衛隊とする事を定めています。嵯峨期の禁令で青木氏は皇族の朝臣と宿禰族の身分の者しか名乗れない氏として原則明治年まで続きました。この例外として、秀郷には、独立国を主張した「平将門の乱」を鎮圧した勲功で身分は貴族と武蔵の国を与えられます。この時、貴族に成った秀郷は武力を自ら持つ事が出来ないために、第6位皇子を臣下させ賜姓して護衛隊とする賜姓青木氏の慣例に習って、秀郷は第3子にこの役をになわしたのです。この時、秀郷には6人の子供が居ました。(本来は5人となっていますが、3代目に位置付けた千常の子の千万も子供であるとしています。)
第3子は千国(母は平家一門)と成ります。この千国から4代目の兼光流から更に跡目を引き継がれて、制度として護衛役としてなくてはならないために、判る範囲では3度も秀郷本家筋から第3子をこの青木氏に跡目をいれており、本流の総元締めの青木氏に跡目が耐える事の無いようにして居ますし、最後には秀郷本家から行久がこの時にも本家の青木氏を引き継いでいます。
藤原秀郷一門の戦略的目的から、秀郷本家筋の第3子が青木氏を代々名乗る仕組みであり、青木氏の跡目が絶えると入れて総本家の秀郷一門24氏の護衛役を担ってきました。
青木氏は、この為に、直系1氏、直流4氏(一門第3子系)、支流4氏(分家)の主要9氏で、前代未聞の数の116氏にも広がっています。これ程に末裔を広げているのは他にはありません。
長い間には、男系継承が出来ない事も起こりますが、この第3子システムで成り立ち、他の氏から養子を入れるのではなく、本家筋より跡目を入れて、常に直系1氏、直流4氏が男系継承で成り立つようにしている訳です。この為に、藤原秀郷流青木氏一門だけは、直系が常に存在し、千国ルートが繋がっているわけです。この主要氏の5氏にも跡目を入れているわけです。
中には、秀郷の親戚筋の利仁流からも青木氏の跡目を入れて保っている事さえあるのです。
江戸時代に成ってもそのつながりで大勢力の藤原秀郷24氏をまもる事が出来たのでしょう。
第3子システムが組織を固め、戦国時代の多くの青木氏を東西で庇護する事が出来たものと観ています。
私は皇族賜姓青木氏の5家5流の自らのつながりはもとより、この第3子システムの藤原秀郷流青木氏とのつながりもあって厳しい時代を2つの青木氏はの遺しえたものと見ています。
対照的なのは、母方で繋がる藤原氏とも同族の源氏が(11家11流もありながらも直系直流の)全く子孫を遺せなかったのはこのシステムのなさが原因していると見ています。
源の宗家の頼光系子孫が伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏に跡目を入れて遺すのが精一杯であったのです。第6位皇子筋の同族の青木氏に子孫を委ねたのが戦略であった事に成ります。
非常に限定されたこれ等のことを研究したこの史料は唯一非売品本で、全国の主要青木氏に配布されています。著者は超有名大学の民族歴史学名誉教授の佐々木氏です。著者佐々木氏ルーツは天智天皇の第7位皇子の近江佐々木氏の末裔です。(近江佐々木系青木氏も出ている)
つまり、佐々木氏は特別に近江の佐々木の地名から近江王として賜姓をうけたもので、賜姓を天智天皇の第6位皇子の始祖の施基皇子伊勢青木氏の弟に成ります。本来であれば青木氏で有ります。
本来は、後の嵯峨天皇期の詔からすると浄大2位の高位の朝臣族ですので、青木氏一門族と言う事に成ります。この事から民族学的に藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏と嵯峨期からの皇族青木氏の3つに付いてと、第6位皇子の源氏一族の関係を歴史的史実を明記し網羅した書物です。
この研究書物は調査されて主要関係氏に有料で配布されたものです。当時としては販売しても限定されている氏である為に売れることは無かったのではと考えます。
他に関連する書物としは最近のもので、新しい「歴史フォットグラビヤ」と「古い後2つの書物」にも藤原秀郷の第3子の事が書かれています。公的なサイトですので、この程度としますが固有名詞は控えます。
我が家の口伝とともに当方の家宝となっています。
有名な3人の歴史家で小説家も対談単行本などでこの事に触れて書かれて居ます。外国史書籍を含む他古書籍の論文史実と書記紀と、そして、この書物からも伊勢青木氏等を端目とするの関連時事をも調べたものです。
いずれにしても、限定された青木氏のことは調べる人も少ないし本には成らないでしょうね。
この書物にもありますが、千国以降の藤原秀郷一門の系譜は公的にしたものがあります。
ただ、この歴史的史実書は下克上、戦国時代の打ちこわしと戦火で殆ど有りません。日本世記などの外国書の外交史籍に詳しく青木氏のことは記載されてのこっています。
各青木氏の遺された僅かな主要氏の史料と系譜系図を編集してこの様になるのではとしたものです。
従って一般に出回わるほどに有りませんので載っていません。研究論文です。
ですから、青木氏を研究して資料をまとめた研究者が少なく限定されているので無いので、本サイトに私の研究資料を遺そうとしています。
固有書籍名は法的なことから明記する事は出来ませんが、藤原秀郷流青木氏の事に付いての研究論文はこの書籍程度ではないかと考えられ、著名な歴史家も、「信頼性が高い事」から、どこかで入手獲得してこの非買品本から引用していると考えられます。
他のもの多くは江戸時代のもので、矛盾がありすぎて、手前味噌で搾取偏纂が全てで全く信用が出来ません。
信用し楽しみにするかはその人の自由ですが。徳川氏の系譜と系図を見ても判る様に。
兎も角も長くなりましたが、讃岐青木氏などのことを社会の成り立ちの現実的論理で史実と絡めて調べると如何に働いていたかが判るので歴史はおもしろいと私は考えます。
讃岐青木氏のことも、この様な史実と合わせて調べましたが、何故歴史的に四国に良く逃げるのかなどのテーマで大きな史実とつながりがあることが判ってきます。戦いで移動し逃げるにはそれなりの安全確実な根拠があるからですが、それを調べると面白い事つながりが見えてきて、”あっなるほど。”となります。
讃岐青木さんのお便りのことは同感です。楽しく読ませて頂きました。又、是非面白いお便りください。
No.1312
Re: 讃岐の青木です。
讃岐の青木さん 2008/08/21 (木) 22:45
ありがとうございました。千国のことをもっと知りたいとも思います。兄弟の
千常さんは藤原純友の討伐で四国に来られていたようですね。
資延さんの投稿欄で藤原房前(ふささき)(千国、秀郷、道長含む五摂家の御先祖で藤原四家の筆頭、北家の初代)が登場したので讃岐(香川県)との縁の話をひとつ。
地元に海女の玉取り伝説という昔話があります。昔話どころか能楽(海士)玉の段として演じられてるそうです。内容は今から1300年の昔(天武10年・681年頃)、大職冠(たいしょくかん)藤原鎌足公が、この世を去った時のことです。当時、海の向こう唐の高宗の妃となっていた鎌足の娘(白光・びやっこう)は、父の死を嘆き悲しみ、氏寺の山階寺(平城京遷都にに際し奈良に興福寺として再興)におさめるため、唐の宮廷に伝わる(花原磬・かげんけい)、(洫浜石・しひんせき)、(面向不背の珠・めんこうふはいのたま、釈迦三尊が刻まれ、どこから見ても背を向けない)の三つの宝物をはるばると船に乗せて送ってきました。ところがその船が讃岐の志度の浦の沖合いにさしかかった時、一天にわかに掻き曇り、波が立ち騒ぎ、あれよあれよと驚くうちに波間から姿を現した龍神が宝物の一つ面向不背の珠を打ちつかみ海底深く沈んでしまいました。そのことがあり、鎌足の息子の不比等は、その珠を奪い返すために(淡海)と名乗り、身分を隠して志度の浦に下ってきました。そして眉目美しい海女(玉藻)と契りを結びました。後年、ついにその本心を打ち明けて、宝珠を取り返すことができたなら、海女と儲けた男の子を藤原家の跡継ぎにすると言いました。海女(玉藻)の驚きは如何ほどばかりだったでしょう。愛する夫の為に悲しい決意を胸の奥深く秘めた海女は、ただ一筋の命綱を腰に巻き、海底深く龍宮を目指しどこまでもどこまでも潜っていったのです。不安になりながらも泳ぎ続けた海女はやがて龍宮にたどりついたのです。その中の様子を伺ってみれば、目的の面向不背の珠は確かにあったのです。高い宝の塔の上に置かれてその周りを八人の龍王が守っているのです。獰猛そうな魚や鰐もいる。「この様子ではとても生きては戻れまい」波の向こうにいる息子や大臣を思い、別れ難さに涙する海女だったが、思いを断ち切るように、一気に龍宮へ飛び込んでいった。突然の侵入者に龍王たちは混乱した。その隙に海女は目指す珠を手に取り、懸命に逃げる。しかし逃げおおせるものではない。海女は携えていた剣で一気に乳の下を掻き、切り裂き、その傷口に珠を押し込め、剣を捨てて身を伏せた。血が龍宮の者が忌み嫌うことを知っていたので予てより考えていたことであった。そして珠を隠し、真っ赤な血で海上を染めて浮かび上がりました。そして、夫の手に珠を渡し、追ってきた龍神らに下半身を食いちぎられて息絶えてしまったのです。不比等は玉藻の心根を不憫に思い、海辺に堂宇を建て、遺体を埋葬し、この地を死渡(しど・極楽浄土に続くと云う意味)の道場(死渡寺)と名付け、霊を弔い、子供を連れて都に帰りました。この子供が後の藤原四家のなかで一番繁栄した北家の創始、房前大臣・ふささきのおとど(房裂き)と呼ばれた藤原房前です。
13年後、房前大臣は死渡を僧の行基とともに訪れ、千基の石塔を建立し、母の冥福を厚く祈り、悲しみを乗り越える為にこの地名を志度と変えたと伝えられています。今もその千基の石塔の一部といわれる20基が残っています。志度寺は現在、四国88ヶ所の86番札所です。開基は藤原不比等。
夫のため子供のために命を捨てた海女(玉藻)の墓は今も志度寺の境内に残っています。
取り返した珠は今も興福寺の本尊釈迦如来の眉間に納っているそうです。
時代は下り、讃岐の領主となった子孫の生駒親正(豊臣政権の三中老の一人 *五大老五奉行を繋ぐ役柄で他は中村一氏、堀尾茂晴)は遥かな祖母を偲び十六度市を起こし、自分のなきがらも菩提寺の弘憲寺とともに志度時にも分骨しています。後も歴代藩主により保護されています。讃岐は生駒氏の改易後は東讃を水戸支流松平氏、西讃を佐々木氏流の山崎氏、後、同じく佐々木氏流京極氏が治めています。
この話が真実なら藤原秀郷、秀郷流青木氏を含め北家流の人々は皆、讃岐が御先祖の地になるんですね。四国88ヶ所を参る機会があれば気に留められたらと思います。房前の地名は駅名でも現存します。
No.1313
Re: 讃岐の青木です。
副管理人さん 2008/08/22 (金) 10:46
讃岐の青木さん 今日は。お便りありがとう御座いました。
大変役くに立つお話でした。
全国の青木さんにとっても、先祖を知る上で大変役くに立つ事でしよう。これからも宜しくお願いします。
狩野氏の描いた「竜に珠の絵図」はこのことを材題にしたものでと聞いています。昔、この絵本をみたことがあります。
私の先祖は伊勢の紙問屋を営み代々傍ら趣味とし、紀州徳川氏にも代々友人として教授して又本職にした先祖が代々続いていまして、私の代で終わっていますが、この図柄を見聞きしこの話を良く聞きました。
千常は第1子ですが、彼は陸奥、伊予、讃岐、他二つと各地に赴任しています。
四国は、藤原氏にとって、最も遠の深い土地柄ですし、四国全体が藤原氏であると云っても過言でありませんでした。
秀吉の四国攻めで苦労したのはこのシンジケートがあったからで、その最たるものは高松の水攻めや讃岐籐氏の末裔長曾我部盛親(剣片喰)との戦いがあり、秀吉は自らも出かけ天下統一の最後の戦いを大内氏にやらせて、最後の砦藤原氏の最強軍団讃岐籐氏を潰そうとしたものですね。
なかでも、中心は讃岐青木氏でありました。平家や信長や秀吉などに負われて逃れた全国の青木氏を関連する公家などを匿うなど史実が多くあります。
「藤原秀郷の主要血縁族の研究」のレポートを連載で投稿していますが、このなかで、讃岐籐氏の活躍具合を書いていますし、家紋から検証しています。現在、史料シリーズ2ですが、この史料からも検証できる一つとして、讃岐の下がり藤紋(雁金)の青木氏が、秀郷宗家の中でも「第2の宗家」と言われた116氏主要9氏の最高位の位置にいた氏と観ています。
私は、直系1氏か直流4氏の内の一つであったと観ています。そして、四国の剣片喰族を含む4氏の青木氏を長くに渡り束ねていたと観ています。
研究の中で、藤原一族近衛氏の末裔白川氏(資延氏)もそのなかの一つではなかったかと観ていましたが、偶然にも、他氏の資延氏の投稿があり驚きました。
家紋からの研究のレポートをお読みください。理解を自然に深めてもらう為に一度に出さずに現在は史料関係を出しています。その史料を見ると明らかに「下がり藤紋」を保持している宗家筋のことが良く判ります。青木氏の下がり藤紋を維持する宗家は直系、直流の合わせて5氏しか有りませんので恐らく、讃岐籐氏の青木氏はこの一つでしょう。
千国のことも系譜が途中までありますが、個人情報の範疇と成っているので、概容を書いています。
秀郷宗家の「第3子の家法」にて跡目に入れています。史料で確認出来るところは青木家宗家には6度跡目があり、支流には宗家筋から恐らく度々跡目を入れていたと観ています。
これの推論も書き添えていますので参考にしてください。
系譜の形では史料は途中までで、あとは関連史実の発掘と、家紋からの研究に成りますが。
先ずはお便りありがとう御座います。藤原秀郷一門の位置付けの一つが土地の逸話に残っていた史料と成ります。大変貴重な提供ありがとう御座います。
No.1316
Re: 讃岐の青木です。
讃岐の資延さん 2008/08/23 (土) 05:43 [
メール ]
副管理人様、讃岐の青木様
こんにちはー
そのお話本当ならなんとも神秘的ですね。
1000年以上前からその地に居た先祖から現代に繋がっている(かもしれない)なんて、想像しただけでもぞくぞくします。
皆様のご協力で市役所に行くこともなくここまで解明されれば念願かなったりです。
本当に皆様に感謝いたします。
後は言いだしっぺの私が資延本家にいって家系図をこの目でみないとですね!
No.1346
讃岐の青木です。
讃岐の青木さん 2008/10/03 (金) 20:41
資延さんがんばってください。あと資延さんの本家の近くの讃岐三豊市高瀬町上高瀬には御先祖、秀郷の出世の糸口となった平将門の長男の平良門(相馬太郎)と家臣6名の落ち延びた伝承があります。将門には長男良門、次男将国(相馬氏、信田氏先祖)、3男景遠がいたそうです。http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-205.html を参照。良門のことは
http://ja.wikipedia.org/wiki/平安時代の人物一覧 を参照してみてください。
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