No.138
鈴木氏のルーツと青木氏
青木研究員 さん 2005/10/15 (土) 21:46
本文では少し青木氏と離れて鈴木氏の子孫が広がった理由に付いて検証してみたい。
鈴木氏と云えば日本の姓のなかでも非常に子孫を広げた氏の一つですが、この氏に付いてどのような経緯から発祥して広がったかに付いて見てみる。
鈴木氏は今NHKの大河ドラマの義経に家来として本来は出て来るはずである。
多分、ドラマの喜三太とか云う義経の身の回りの仕事をしている家来が鈴木三郎であると思う。
この鈴木氏の発祥は熊野古道の熊野詣でで各天皇が詣でたことから興った氏である。
後醍醐天皇は23回も詣でたといわれているが、年に一回程度である。
この熊野詣でで和歌山県海南市藤白に熊野古道の熊野神社の第一の鳥居がある。正式にはここから熊野古道と言われる。
つまり熊野神社の社領の一番最初にある鳥居の事である。
この鳥居から藤白坂を登って1キロ程度上りきったところから、古代の呼び名の「馬の背」という坂道を通り(馬の背中のようになった坂)、200メートルくらいのところに藤白神社がある。熊野系列の第一番目の神社である。
千年以上の歴史を思わせるような大きな楠木に囲まれて静かに佇む神社である。後ろには静かに流れる谷川がある。この谷川は「紫川」といって非常においしい水が飲めるきれいな川で、万葉の歌にも多く謡われている。
この神社の隣に鈴木屋敷がある。
この神社の宮司は元は日高氏である。
日高氏は南紀(和歌山の南地域)にある日高川の付近の土豪で熊野神宮の宮司の一族である、この日高氏の宮司がこの藤白神社の宮司になった。
日高川は歌舞伎で有名な庵陳清姫の舞台となったところである。
このり藤白神社は毎年熊野詣でで訪れる天皇の一団をもてなしをする。
この藤白神社からは372メータの藤白山の山越えをするのでここで一団は泊まる。
この泊まるところを「王子」と云う。
この付近には熊野詣で尋ねてきた人を留める祓戸王子と藤白王子とがある。
この王子や周囲の民家の屋敷に泊まって一団は歌会を催すのが恒例である。
小栗判官や山辺赤人や柿本人麻呂など平安歌人が多く通ったところである。
そして、又この地は習字の墨を日本ではじめて作った場所でもある。
この墨は後醍醐天皇に命じられて日本各地に探し求められたが見つからず、熊野詣ででこの地に来て海南地方から少し南にある湯浅地方に分布している「うばめ樫の木」(通称ばべの木)で地元の炭焼きの者が造っている炭を観て、その煤で作ってみたのである。
ところが、この墨が其れまでは中国から輸入していたが、それに勝るとも劣らず墨が取れる事に気付いたのである。この墨が日本最古の墨で「藤白墨」というのである。
この墨は天皇家だけに納入された特別品であつたし、後の代々の将軍家に納入された。そして、最後は徳川家の専売特許とされた。この墨の最後の墨が筆者の家につい最近まで保存されていたが、紛失した。しかし、魚拓ではないが「墨拓」は保存している。
これが現代では多くに使われている備長炭の炭である。
(この藤白墨が取れた場所から50メータも行ったところに鈴木屋敷がある。)
この馬の背の坂から昔は万葉の唄で知られる和歌の浦も見渡せる位置にあり、この景色や藤白の浜の藤白の歌を謡った万葉の歌は多く残されている。
後醍醐天皇は此処に毎年の様に泊まり歌会を催した。この時、この宮司が天皇に歌をいつもの様に歌を披露した。
ここに流れる紫川の歌を披露した。
この歌を聞いた天皇は大変に感心して、褒美としてこの日高氏の宮司に「鈴木」という氏と名を「瑞穂」として与えた。所謂賜姓である。
大変に喜んだ宮司だか、この宮司には子供がいない。
そこで、神社より15メーターほど坂を登ったところにある農家の氏子の三男を養子に貰い、鈴木姓を継いだ。これが最初のルーツの鈴木氏である。
丁度、その時、鞍馬山の牛若丸が僧侶になる事を迫られて、これを拒否して平氏より追われていた。
この時、五条の橋で家来になった弁慶が居た。この弁慶は日高地方の田辺郷地方の熊野神社別社の宮司の息子であった。
この弁慶は大変に乱暴であり、土地で問題をよく起していた。
そこで困り果てた宮司の父親は比叡山の僧兵として送り込んだ。
しかし、ここでも問題を起して追い出される始末である。
この後、五条の橋での弁慶と牛若の言い伝えである。
この主従は平泉に逃れる前に、熊野神社の本宮の宮司に牛若丸の庇護を願い出るために旅をしてこの藤白神社まで辿りついた。
此処で、弁慶はこの藤白神社の鈴木氏に主を預けて熊野神社に交渉に出かけた。
この時、この牛若丸の面倒をこの鈴木氏の養子の三郎に委ねた。ほぼ3月滞在することになるが、この時、この三郎の弟の六郎も牛若丸の下働きをするようになった。その後に兄の鈴木氏は牛若丸の家来になつた。このせいもあり、六郎も牛若の家来になる。六郎はこの神社の天皇から褒められた紫川の美味い水の井戸の蓋の形が亀の甲羅の形に似ているので、この亀の形の蓋を採って「亀井」と称した。今でもこの井戸と蓋は藤白神社に祭られている。
つまり、このような経緯から、鈴木氏と亀井氏とはルーツは兄弟である。
この二人の鈴木氏と亀井氏との兄弟は弁慶の帰りを待った。
弁慶は熊野神宮の拒否された答えを持って帰ってきた。
熊野神宮は牛若丸を庇護を拒否することで、平家との摩擦を避けたのである。この頃は熊野神宮は平家側に付いていた。
天皇もまだこの頃は平家にたいして対抗していなかったことから天皇から保護されている熊野神宮の立場であったから、断わったのである。
鈴木の三郎と亀井の六郎の兄弟の家来と弁慶は牛若丸に付き従い京に戻り平泉に旅立つのである。
NHKのドラマは史実と若干異なる。小説なのでやむ終えないことであるが。他にも2、3史実と異なる事があったので実は私は意見を申し上げた。
このはっきりした史実の家来の構成も異なっているのであるが、上記した喜三太の役柄は鈴木三郎と亀井六郎の牛若丸の家来としての役目である。
この二人の兄弟は義経の最後までつき従ったのである。
義経の生存説はこの二人の兄弟の逃亡のための段取りをつけて句里の後ろがわから逃亡したのである。
そして、蒙古に逃げ延びたとするジンギスカン説が生まれたのである。
この説の根拠として、ジンギスカンの紋章は真さに「笹竜胆」の源氏の紋と非常に似ていてそっくりである事と、ジンギスカンの生い立ちはかの放牧民の中で不詳であり、記録には天から舞い降りてきた救世主として記録されているのである。
そして、このジンギスカンの後ろに何時も影の様につき従う二人の家来が居たと記録されているのである。
このジンギスカンが現れる前はこの集団を率いる一族の子孫は居たが、この突然天から現れた者に統率力があり、周囲の各豪族の集団はこのジンギスカンに任す事を決めて、元の子孫を抹殺したと記録されているのである。蒙古の掟として実力のある者を長とする定めに従いジンギスカンを主としたとするのである。
(この蒙古では各豪族の集団指導体制でこのなかから戦いにより武勇実力に優れた者を首長として決める掟があり、出生がわからないと言うことはないのである)
ジンギスカンの顔かたちと義経の顔かたちとは非常に良く似ている。
そして、弓と馬の操作が上手く機敏であり、恒に戦いの先頭にたち突き進んだと記録されている。平家との戦いと類似し物語る。
他国のジンギスカンの紋章が源氏の紋章とが類似一致することは偶然を超えている事と2度の蒙古襲来もこの説を説明する要素に成り得る。
句里の中に入った義経の遺骨は発見されなかった事と、弁慶の仁王立ちの理由もこの時間を稼ぎ、逃す手立てであったはずである。突然に攻められたわけでもないので十分に検討する時間はあったはずである。また、北陸地方には逃亡中にこの主従を一時匿ったとされる別名で判官さんと言う一族がある事も突き止められているのである。
十分に考えられる内容である。
さて、この二人の兄弟の鈴木氏と亀井氏が何故に子孫を増やしたかという事であるが、義経には初期に付き従う土豪集団はなかった。いざ源氏というときに源氏の味方として従う一団をつくらねば成らない。そこで、各地を移動するときに、必ず当時の慣習として、「戦地妻」といって土地の豪族との血縁関係を持ち生まれた子供は源氏の支流一族の者との朱印状を受けて、土豪側は一族の安全を図り、義経側はいざと云うときには駆けつける味方とする目的があり、盛んに此れを行ったのである。時には娘を、場合に依っては妻を出すということまで行ったとされている。このことは現代の常識では異常であるが当時としては慣習であつた。
特に、この兄弟は義経の直の家来としてこの役目を負っていたのである。
この兄弟の二人には紀州にもこの一族造りの応援団が出来て、熊野詣で宣伝隊と称して密かにこの二人を追って手伝いをして地域毎に鈴木氏と亀井氏の子孫を多く残してくる旅をして応援をしたと記録されている。
名目は熊野宣伝隊であるが、この宣伝隊は既に、天皇が一年に一度以上も熊野詣でする位で、「別名、蟻の熊野詣で」と称されるくらいであった。何もいまさら宣伝隊ではない。
仮りにするとしても、新宮の熊野神社の膝元から始まればよいものを一番熊野神社から遠い神社の藤白からその隊が興るのはおかしい。
平家の目をくらます藤白の鈴木氏と亀井氏の一族の応援であったのであろう。
その証拠に義経が一の谷の戦いの時は義経の12000の直属の一族の兵が集まったと記録されている。つまり、各地の鈴木氏と亀井氏の血縁者が集まったことである。だから義経はつよかつたのである。全く直属の家来の無い頼朝と違う所である。
義経の”源氏一族で幕府を”とする考えと、坂東八平氏の裏打ちされた頼朝の考えとの食い違いによる兄弟の摩擦である。結局は幕府3年以内には頼朝と頼朝の子孫は全て抹殺されてしまい、坂東平氏の幕府となってしまうのである。
この義経を裏から支えたのは鈴木氏と亀井氏の二人のであり、その貢献は実に大きいのである。しかし、このことは余り歴史上には出てこない。今回の大河ドラマにも出て来ないのである。
しかし、この鈴木氏と亀井氏との子孫を増やす作戦に出た事が大きな成果を生んだ。この一族最後まで義経に付き従い、北陸への逃亡も付き従ったことが子孫を各地に残す結果となったのである。場合に依っては蒙古にも鈴木氏と亀井氏の子孫がいることにもなる。
実は私は海南市の藤白神社のこの全国に広まった鈴木氏の本家の最後の末裔の人を知っているのである。本家鈴木氏は絶えたが、亀井氏は依然として、この鈴木屋敷の側に本家が現存するのである。
全国の鈴木氏と亀井氏とは元は兄弟である。
このような経緯によって鈴木氏は発祥した。そして同じく亀井氏も同じルーツで発祥したのであるが亀井氏のことは余り知られていない。
亀井氏も鈴木氏と比べて多くの子孫を各地に分散して残した。
この様に子孫の広がりに付いて何が原因しているのかと言うことを青木氏と比較してみる。
皇族賜姓青木氏や源氏一族等の子孫の広がり方は全く異なる。青木氏には家柄と言う当時では絶対視された考え方で、子孫を鈴木氏や亀井氏の「戦地妻的な血縁」で増やしたものに対して「政治的な血縁」で増えて行くのとではその勢いは異なる。
藤原秀郷の青木氏や進藤氏や長沼氏や長谷川氏等は守護などの官職の赴任でその土地に子孫を残してゆく「戦略的な血縁」と阿多倍の一族のような渡来系族の部制度による「経済的な血縁」と「武力的な血縁」で子孫を一時多く遺した京平氏と「集団的な血縁」で子孫を温存した坂東八平氏等色々な形がある。
そして、その形はその氏の宿命的立場に依って関わっていることに気付くのである
この様に、子孫を遺す方式を研究すると、「戦地妻的な血縁」「政治的な血縁」「戦略的な血縁」「経済的な血縁」「武力的な血縁」「集団的な血縁」のパターンがある事に気付くが、現在から考えた場合、どの血縁が一番子孫を遺したかは一概には云えないが、結果としては家紋200選の中では、「戦地妻的血縁」が確実に子孫を多く遺していることになる。
これは、一族に関わる全ての”しがらみ”の大小が原因しているのであろう。
この”しがらみ”のパラメータで並び直すと子孫を多く遺した順に並ぶような気がするのである。
そして、「各地に散在して血縁」していることも原因している。
この点から考えた場合は、賜姓青木氏は少ない事に納得する。
賜姓青木氏はしがらみも多いし、5地方に限定し散在の血縁もしていない。
青木氏を研究していてこの事柄から心配をしていたが、しかし、賜姓青木氏の直流支流分流の24氏の現代においても確認出来たのはすばらしいことである。
又、藤原秀郷流青木氏の直系1氏直流4氏支流4氏分流あわせて116氏は「戦略的な血縁」で拡がった子孫であるが激しい戦乱の時代を潜りぬけて関東地方に確実に根をおろして現存する力強さは他のどの子孫よりも優秀である。
このことは賜姓青木氏のように今は、「パラメータと散在の血縁」では低いが、その歴史が物語る様に子孫を遺そうとする血筋に持つ「粘り強さ」が影響していることに気付いたのである。
少ない子孫を確実に残すことから粘り強さが生まれているのである。逆に、少ない小さいしがらみと散在の血縁タイプでは数を多く遺して確率で遺すタイプは粘りが無い事に気付いたのである。
これは真に「虫の生存原理」である。人間の子孫を残す行為にもこの原理が働いていることに改めて感心したのである。
研究室のレポートの如く、我が2流の青木氏の先祖が子孫を残すことの方法は別にして、全力を尽くしたことを感謝して、今後とも青木氏諸君は大いに良い子孫を育て頂きたいものである。そのためにもこのサイトのレポートが役に立つことを期待する。
以上。
No.435
Re: 鈴木氏発祥地と周辺の環境
副管理人さん 2007/04/05 (木) 20:34
今回、青木氏を離れて鈴木氏ルーツの地元に関わる昔のお話をします。
この鈴木氏が発祥した由来は前回の「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポートで紹介ましたが、大変に読まれていますので、その意を汲んで、今度はこの発祥地がどのようなところかを説明して、昔のこの鈴木邸周辺の雰囲気を味わってもらうと思います。
又、周囲が概ねどのような自然環境にこの鈴木邸があるのかを、全国の青木氏を代表して、全国の鈴木さんに紹介したいと思います。
では、鈴木氏のご先祖がどのような所に住んでいたかを先ずは偲んでください。
そのためには一部、前回のレポートと重複するところもありますが、ご理解を得て雰囲気造りに努力します。
鈴木邸周辺に纏わる話。
この鈴木氏発祥の藤白の有名な事柄に付いて述べてみます。
この鈴木氏の発祥の場所は世界遺産の熊野古道の最初の出発点(社領の第1鳥居)より約1KMくらいの坂の上の所にあります。
先ずその付近の環境に付いて述べて行きます。
「藤白神社」と「鈴木邸」と「紫川」
周囲の環境
前回のレポートでも述べました様に、後醍醐天皇や後白河院達の一行が、熊野古道詣での途中で、この熊野権現の第一社目の藤白神社に宿泊し毎回歌会を催しました。
この時、藤白神社の宮司の日高氏の歌の上手さに感嘆して、その功によりその席で「鈴木瑞穂」(すすきみずほ)の姓と名の賜姓を賜ったものですが、ところが日高氏の宮司には子が居なくて近くの農家の氏子の三男を養子に貰い受けて賜姓鈴木氏を継がせました。
これが鈴木氏の初代の三郎であります。
その神社隣には鈴木邸があります。
熊野詣で天皇の一行は藤白に一泊しそこで歌会をいつものように催しましたが、熊野詣では後醍醐天皇は23年間の間に24回訪れたと伝えられています。後白河院は33回と言われています。
この藤白神社からは直ぐ後ろの藤白山(370M)の峠越えを行なわなくてはならないのです。
途中で山越えになると夜になるので、全ての人はこの藤白の山麓の熊野権現の第一社の藤白神社や鈴木邸で一泊するのです。
この藤白神社の社領には参集殿や儀式殿や広い母屋があります。
神社東隣には500坪程度(2500u)の木々が生い茂る鈴木邸があります。
この神社と鈴木邸との北側20M位の所に大理石の大鳥居がありましたが、この大理石の大鳥居は60年程度前まで海辺の近くの所にありましたが、今は直ぐ近くをJRが通っていますのでこのために移されて母屋横の北側正門前に有ります。
そこより一段低い所(7M)の20M程度の離れた所には海が直ぐに控えており、藤白の浦といわれている入り江がありました。その藤白の浦の西先には「お崎浜」と言う小さい干潟がありました。
(現在は沖合いの1KMところまで埋め立てられているので一部を残してなくなりました。)
神社の南は直ぐに藤白山でその裾の所には孟宗竹の藪があり、この藪より直ぐに急な角度で段々畑の山が控えています。
西側の神社敷地端には、この南の山から流れ込む山水が谷川となり、直ぐに神社に隣接する所には5M幅程度の急激な勾配で、大石の点在する水の豊富な谷川(紫川)が流れております。
更に谷川は200M程流れて、この水が鯔場(イナと言う魚が住んでいる海に繋がっている池)に流れ込み、そして隣の「お崎浜」の海に直に流れ込んでいます。この景色は昔と今も余り変わっていません。
この谷川の両側には、藪椿でびっしりと覆われて目白や鶯等の小鳥が鳴きながら飛び交っている静かなたたずまいの環境です。その小鳥の鳴声は山に響いて自然が作り出した「枯れ山水」の様です。
この神社中央を「熊野古道」(八尺:2.4M)が東から南に貫いていて、神社横の「紫の谷川」の橋を越えると「藤白坂」が始まり峠に向けて続いています。まだこの付近は「藤白の浦」や「名高の浦」が右手に見えています。
この途中で、神社西端の「紫の谷川」の橋から50M上った所に「中大兄皇子」(天智天皇)と皇位継承で争った「孝徳天皇」の子供の「有間皇子」の墓があります。
狂気を装った有間皇子は南紀「白浜温泉」の帰りのこの藤白のこの地の所で、「中大兄皇子」の蜜命を持った「蘇我赤兄」に依って絞殺されます。(蘇我赤兄は中大兄皇子に娘を差し出して皇女を産んでいる)
この神社境内には1000年もの老大楠が境内いっぱいに覆い被さっています。
その境内には、隣の「紫川」から引き込んだ「名水」と詠われた井戸があり、この井戸には亀の形をした紀州名産の大青石盤の蓋が被せられています。(青石は紫石と並んで庭石としては高級石でこの付近で採れる紀州名産)
この亀の形をした青石盤は現在は神社の南側にある本殿の左横に祭られています。
その理由は、鈴木氏の始祖の兄の「鈴木三郎」に続いて、牛若丸(源義経)の第3番目の家来となり、この亀の形の蓋の井戸に因んで、「亀井の姓」を名乗り「亀井六郎」と名乗りました。
この名元と成った謂れの石なのです。鈴木三郎と亀井六郎とは兄弟です。
この兄弟は神社の氏子で「紫川」の橋を渡り藤白坂道を10M行った所に6人兄弟で農業を営んで住んでいました。
藤白神社隣の鈴木三郎の鈴木邸にも、この名水が西側端から引き込まれて、2M程度の小滝を経て、苔むす庭と欝蒼とした木々で覆われた「枯れ山水」の庭の池に流れ込みます。
この滝池の西庭にはS字のようにゆっくりと鯉と共に流れる小川があり、苔生す中央の曲水園の池に流れ込んでいます。
この鯉の住む中央の池をやや東よりに位置する本宅座敷の縁側より眺められるように配置されています。昔はこの縁側で平安歌人達は歌を詠んで楽しんだのでしょう。
この曲水は、更に本宅の南横を通過して東に向けて小川の如く流れて行き、東側にある正門の近くまで届き、ここに小さい菖蒲が生える溜池があり、この池に留まります。
この庭園内の小川の南側には古道が走り、邸より2Mほど高い位置にあり、その斜面には藪椿などの花咲く木々が50M程度の距離に植えられています。
この溜池と東正門通りの真ん中に大きな雄松がありその横には御影石で蓋をした井戸がありました。
実はこの雄松には次のような逸話があります。
牛若丸(義経)は平清盛に追われて熊野権現に庇護を求めての途中、ここで弁慶の交渉の結果を3月も待っていました。
この時、鈴木の三郎と六郎(後に亀井を名乗る)が身の回りの世話をしました。この縁で兄弟は義経(牛若丸)の人柄に惚れて家来にしてもらう様に懇願し許されたのでした。
義経は直ぐ近くの藤白山で山狩りなどをして過ごしましたが、この時に弓を立てかけたと言われる松がこの大松なのです。現在はその3代目の雄松があります。その松の名を「義経弓立ての松」と言います。
この松を巻き込む様に北側には馬小屋と納戸があり、その横を通って一段下の所へと、溜池の水は小川となり20M程度を流落ちて行きます。
そして神社と鈴木邸の北側真ん中下あたりに二つ目の孟宗竹で覆われた大溜池に注ぎ込んでいます。
鈴木邸の曲水園から流れてきた紫川の水は絶えることなくここに流れ込んでいるのです。
この水は直ぐ下の細波静かに繰り返す入江に注ぎ込んでいたのです。(現代は埋め立てられてない)
この様な神社と鈴木邸の静かで花咲く木々で覆われた小鳥が飛び交う環境の中で平安人の「曲水の宴」を催すのです。
更に神社と鈴木邸の静かなたたずまいの中で、神社と鈴木邸とを繋ぐ北側面には桜並木の坂道があり、この桜下では曲水の宴だけではなく、周辺住民の庶民の唯一の憩いの場として、また歌会や大桜宴会が恒例の如く昔は行われていました。
この桜は何度か枯れて現在のはソメイヨシノの桜でと成っています。
この様な環境と雰囲気の中で、天皇や天皇家の人々と大勢のお供の人々の「蟻の熊野詣」で知られる人たちは、ここで恒例の大歌会を催し、一泊の楽しい一日一夜を過ごしたのです。
明日の峠越えを控えて、この「紫川の名水」と地元の地元酒を飲んで英気を養うのでした。
この時、弁慶の郷里でもあり実家でもある熊野権現の宮司でもあつた豪族日高氏(庵沈清姫の物語で知られる日高地方)から派遣されていて、この藤白神社の宮司になっていた一族の日高氏は、毎回にこの歌会に参加してその歌の技量に大変な評価を受けていました。(熊野権現の主な氏 日高氏、久鬼氏、音無氏、田所氏、吉田氏、榎本氏、和田氏、宇井氏、玉置氏)
ある時、天皇は喉が渇いたので水を所望しました。
宮司はこの神社付近の川の水を引き込んだ井戸(亀井の井戸)から汲み上げた水に歌を添えて天皇に差し出しました。
この水の美味さに加えてその歌の余りにも上手さに感心して、歌を返して返礼しました。
この時に歌われた中にこの川の水を絶賛してそれを後醍醐天皇は「紫川」(紫は最上位の色)と詠み名付けられたのです。
この意味は、紫の色は当時では最高の美しい色とされ官位の色付けでは最高位の色とされていました。
例えば朝廷が僧侶に与える階級の最高位の色はこの「紫」であり、「紫の衣」として有名であります。
つまり、最高の褒め上げた水を意味したのです。
以来、この川を「紫川」と称されました。
参考に、「紫」の語源は野に群がって咲く5ミリ程度の小さい野の花の色が、大変愛らしく美しく、万葉の世界では好まれた花であります。
この花が群がって野に一面に咲くので“ムラ”と“サク“でこの草の色を「紫」と呼ぶようになりました。紫の語源説は幾つかありますが、これが語源の元となったものです。
鈴木邸で詠まれたこの紫色の歌があります。
万葉集の詠み人知らずの歌
紫の 名高の浦の 真砂地の 袖のみ触れて 寝かなりてなむ
「名高の浦」はこの藤白神社の北側の直ぐ前に見え拡がる松並木のある海が「名高」と言う地名の所で、その前に小さい入江干潟があり、ここを「名高の浦」というのです。鈴木邸からは藤白の浦の隣の浦で領方の浦は一望できます。
この様な歌を詠って一夜を過ごしました。
そして、明日は峠越えです。
熊野詣の人たちは、難所のSの字の藤白坂を登るのです。
約3時間程度の登坂であります。
その真ん中ほどの平になった山道の途中には、「名所」の「筆捨て松」という所があります。
ここで疲れが出て熊野詣での人たちは一休みをします。
ここからは、遠い先の「瀬戸内海国立公園」の「和歌の浦」が全望できる絶景の名所です。
高いところから眺望すると、和歌の浦は藤白の浦と名高の浦の北側の山向こうある大きい入り江干潟の浦です。
この眺望を詠った万葉の歌
和歌の浦 潮満ちくれば 片男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる 山辺赤人
この「筆捨て松」には逸話があります。
その逸話は概ね次の通りです。
墨屋谷から藤白坂を登って行くと、「筆捨松」というところがあります。
この松の由来は、宇多天皇の御代(887−897)に画家の巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣の途中「投げ松」の所に来て、眼下のすばらしい景色にみとれて、写生をしようとしていた時、峠の方から少年が降りて来たのです。
この少年もあまりの美しさにひと休みをしました。
お互いに話がはずみ、金岡は「君は何をしに来たのか」と聞いたところ、少年は「私も画がすきで勉強に来たのです」と答えたので、二人は意気投合して絵の書き比べをしようということとなりました。
先ず金岡が松にとまったウグイスを描きました。
次いで、少年は松にカラスの絵をかきましたが、双方とも甲乙つけがたい立派なものでした。
そこで”手をたたいてこの鳥を追っぱらった方を勝ちとしよう”ということとなり、お互いに手を打ってみると両方とも鳥は画面から飛び去ってしまい、またも勝負がつかなかったのです。
困りはてた二人は思案のすえ、今度はその鳥を呼び戻そうと話は決まり、まず少年が手をたたいたところカラスは帰ってきたので、次いで金岡が手を打ってウグイスを呼んでみたが帰って来ることはなかったのです。
無念の金岡はいたたまれず、手に持っていた筆を松に向かって投げ捨てて、少年の勝ちを認めたのです。
このことからこの松を「筆捨松」と云い伝えられるようになったと言い伝えられています。
この少年は熊野権現の化身であったいい、当時、飛ぶ鳥も落す勢いの金岡を諌めるためでもあったというお話です。
その眺望の良さの意味も含めての言い伝えであろうと思います。
(注 巨勢氏は大和朝廷の前の4世紀の半頃の連合政治族の4族の一つで、平群氏、巨勢氏、葛城氏、紀氏であり、巨勢氏は和歌山北部の大豪族と、紀氏は和歌山南部の大豪族であった。巨勢氏は8代将軍徳川の吉宗の母方が巨勢氏である。)
熊野詣の人たちはこの眺望を見てここで一時の休みをとると、後半分の登坂に向かって再び頑張るのです。
再び登り始めると一時間程度経つと、峠の頂上に到達します。
藤白峠の頂上には10軒程度の村があり、この村の真ん中には大きい池があり、大鯉が住んでいます。
そして、頂上の上がりきったところには小寺があり、村の人たちが住職を代々続けています。
寺の後ろ上側には大きい広場があります。この広場からは和歌山市や海南市が全望でき、実に見晴らしの良いところであります。
以上が鈴木邸のある藤代圏のこの藤白の神社と鈴木邸の環境です。
次に上記しました亀井氏の発祥の地の由来に付いて更に詳しく述べてみます。
「亀の井」
(亀井の井戸)
亀井の井戸は「紫川」の水の件以来、この川の水を引いたこの井戸のことを「亀井の井戸」と呼ばれる様に成りました。
この井戸は今でも神社中央に遺っています。
この井戸の呼ばれる元になったのは、この「井戸の蓋」が亀の形に似ているので「亀の井」と名付けられたのですが、今でもその蓋は本殿の直ぐ左横に祭られています。
この蓋の石は和歌山原産の「青石」であり、この「青石」は庭石では最高級品の物です。
この「青色」は「紫」と同じく奈良時代末期からこの「青色」は神霊で尊き諸源の色されていました。
又、朝廷儀式では紫に次いで最高位の色として使用されていました。
最も美しい色と好まれた「紫色」と、階級職色の「紫」と同じく、この「青」の色を代表する樹として「青木」の木があり、古来より「神木」として用いられていました。
そして、神官の祝詞では(今でも)「アオキ」ではなく「オオキ」と発音されていました。
この由来は「木の色」とその実の「赤い色」の二つの色に起因するのです。
つまり、常葉の「青色」はすべての物の諸源を意味し、実の「赤色」は血を意味して命の根源を意味したのです。
参考として、この「青木」の樹木は恒葉樹であり、絶えることのない物質の生命の根源を意味したのです。
「青木」姓はこの意味を持つ氏として、天智天皇より賜姓(第6位皇子の施基皇子に与えた氏名)を受けた日本最初の氏名であります。(青木氏の由来)
参考
現代の藤白神社の宮司は吉田氏で、平安初期から朝廷の神職を司る由緒ある官職の持つ氏であります。
吉田氏は現在は藤白神社3代目です。
上記の由来どおり青木氏は皇位の門跡者を祀る神職を司る氏が多い。
この亀の井戸に因んで名乗った亀井氏は現在も鈴木邸横に本家筋の住居があります。
ここも鈴木氏と同じく亀井氏の発祥の地でもあります。
鈴木氏の鈴木三郎と亀井氏の亀井六郎とは、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶に伴って一度京に戻ります。その後、平泉の藤原京に向かうのです。これよりその鈴木亀井の両氏の兄弟はぴったりと常に寄り添い平泉から逃亡にも付き従ったと言われています。前回のレポートに記述しています。
上記した「青と紫の石」に付いては、鈴木邸付近の藤白山で取れる高級石ですので詳しく述べておきます。
「青石の園」
「青石」は上記した由来からの様に、平安初期から最高貴重品として用いられたものです。
庭石としても高級品である。庭石は主に敷石やふすまの様に立石として用いられる。これは石が平石が多いことによります。
この石は又アルカリ性が強くコンクリートの原料として使用されつい最近まで藤白の山で採取していました。
現在ではこの青石も少なくなり、県外不出の条例が出ている現状です。
鈴木邸付近の山の産物なのです。
この鈴木邸にもこの石が敷き詰められています。
「紫石」と「紫の硯」
この「青石」と同時に、「紫石」もあり、この「紫石」は平安期から和歌山市の浜の宮から海南にかけて採取された石で、これも上記した「紫色」の由来から朝廷内で「飾り石」として用いられました。
又、日本初国産の「藤白墨」と同じ時期に、「紫の硯石」としても加工され高級品として朝廷内で使用されていました。
当時は「市場経済」ではなく「部経済」(べ制度)として殆どの加工品は一度朝廷に納入され、その後に市場に払い下げられると言う方式であったので「紫の硯」は「藤白墨」と同じく専売品として庶民には手に入る物ではなかったのです。
この様に「紫の硯」は「藤白墨」と「紫の硯」とは一対として庶民には手に入らない品物として扱われました。
注 「部制度」とは全て一次製品はその専門の職人が集団となって作り上げ、その作り上げた製品は一度朝廷に納められ、その後余った製品は市場に払い下げられると云う経済方式でありました。
この技能集団は、例えば、服を作る集団であれば「服部」(はっとり)と言い、陶物を作る集団は「陶部」(すえべ)、海のものを加工する集団は海部(かいふ)等全て後ろに「部」が付く姓はこの子孫であります。
そして、更に、この子孫は中国後漢の民で渡来人であります。(詳細は青木氏氏のサイトの研究室にレポートしています)
「大化の改新」(645)前後を挟んで200万人の17県の民が、後漢の光武帝より第21代の献帝の子の石秋王とその子で、阿智使王とその孫の阿多倍王の二人の王の下に共に大和国に帰化して来ました。そして、66国中32国を征圧しました。
この阿多倍王は天皇家(敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘)との血縁で発祥した子孫の坂上氏、大蔵氏、内蔵氏であります。
後に大蔵氏は永嶋氏に変名します。特に関西より西に多く子孫を残しています。平家の清盛の一族とその5代前の先祖はこの阿多倍王の子孫です。
坂上氏は北陸に子孫を遺しました。この3氏の勢力は朝廷の3権(3蔵と言う)のうちの2権を握りました。
この部を管理していたのは蘇我氏で、天皇家より勢力を握ったのはこの「部制度」とその渡来系の一団を管理していたことによります。朝廷の役職は「国造」(くにのみやつこ)です。
万葉集 詠み人知らず
紫の石を詠んだ歌
紫の 名高の浦の なびき藻の 心は妹に よりにしもを
さて、次は周辺にはこの鈴木邸より20M東に戻った所に日本最古の「藤白墨」(紫の硯石と共に)が採れました。
この藤白墨の採れる場所を「墨屋谷」と云います。
「藤白墨」
奈良時代より中国より輸入されていた墨は平安中期に後醍醐天皇に命じられて日本各地で墨の試作を試みられたが中国産に勝る「墨」は見つかりませんでした。
そこで、朝廷は「熊野古道」沿いに「炭焼き」する村を見つけました。
この村で、「熊野神社」の「第一の鳥居」の近くに「藤白村の炭」がある事を発見し、この「炭焼き」で出来る「煤」をかき集めて、それを練り、牛の皮を煮詰めた「にかわ」で「墨」を固めて作ってみました。
ところが、この「墨」が中国産より優れ、「紫色」を滲ませる墨色であったので、大変に喜ばれて以来、朝廷の専売品として生産されて、その後、大々的に生産されて、徳川時代まで、その時の幕府専売品として扱われました。
この「藤白墨」は徳川時代までに四、五種類のものになっています。
この「藤白墨」は海南から有田地域まで分布する「うばめ樫」の木を用いて造られました。
この「うばめ樫」はどんぐりの木の仲間で、通称「ばべの木」と呼称されています。
この藤白村で生産される「藤白墨」の生産場所は史跡として指定されています。
この「うばめ樫」は海南地区では今も現存します。
又、この生産場所も当初はこの場所を古来より藤白の「馬の背坂」と呼ばれていました。
丁度、馬の背中のような真ん中が下がったような形をしている坂でありました。現在は道拡幅の為に少し変わっています。
藤白のこの付近ではうばめ樫の木が少なくなり江戸時代には南紀の有田方面に生産場所を移動して行きました。
しかし、鈴木邸付近周辺のところには時々は藤白墨の片鱗が出てきます。
この「藤白墨」と「墨拓」も個人が所有して現在も保存されています。日本国産最古の墨です。
(現在でも宮内庁正倉院にはあるのではないでしょうか。大正14年にはあった事が確認出来ています。)
「熊野一の鳥居」
本来、熊野古道と呼ばれる最初の起点は、この藤白の入り口の鳥居のあったところから始まるものです。
つまり、この「鳥居」は熊野神社の「最初の鳥居」であり、「熊野神社」の社領の入り口と言うことになります。
藤白の「馬の背坂」を北に下り、「日限坂」との交差する点に存在しました。
古道の由緒ある「一の鳥居」です。ここから藤白峠に向けて坂が始まるのです。
1キロ程登った所から、馬の背のようになった道が鈴木邸まで続き、この「馬の背坂」には「熊野古道」参詣の「道宿」として二つの「王子」(参詣のための道中の宿)があり、「一の鳥居」から50メータほど古道沿いに東に寄ったところにある「祓戸王子」と、「藤白神社」のところに「藤白王子」とがありました。
この王子は一般には寺や神社が営んでいました。
天皇の熊野詣では一行はこの王子に分散して宿を取りました。天皇は藤白神社や隣の鈴木邸に泊まります。
「藤白王子」と「祓戸王子」
上記した様にここには一般の人たちが泊まる「藤白王子」と「祓戸王子」と言う「熊野古道」の2宿が存在しました。
「熊野詣での蟻の行列」として平安朝から呼ばれてこの8尺程度の狭い道を参詣者は途切れることなく歩いたと言われています。
現在でも3.6Mの道幅ですが、古道の出発点としてのこの静かな環境の周辺が「熊野古道の世界遺産」の影響を受けて、昔と同じ様に古道を訪れる人でいっぱいなのです。
そして、昔の参詣者は藤白山の難行の「藤白坂」を目の前にして、ここで一泊して休息して朝早くに起きて「藤白坂」に挑んだのです。宿はいつも一杯だったと言う事です。
泊まれないときは寺社や民家や3キロ程度戻った所の春日王子に戻って宿泊しました。
当時は約1里(3.75=4キロ)程度毎に王子がありました。
宿は泊まりが中心で食事は周辺の農家の人たちが仕出しをするという方式で現在の旅館とは違っていました。
この時、この王子に留まった人たちはこの藤白神社から西の方に向かって「藤白の浦」と「名高の浦」と「和歌の浦」の景色を見てその美しさに感嘆しまた登るのでした。
ここで詠まれた万葉時代の歌は多く遺されています。
代表歌として
和歌の浦 汐満ちくれば 方男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる。
「鈴木」と「亀井」の館
先ず、鈴木姓の発祥について上記した歴代の天皇が参詣した中で後醍醐天皇が藤白坂を上るに際して前日にこの藤白神社に投宿した時、恒例の宴を催しましたが、この時、天皇はこの日高氏の宮司の歌を褒め、褒美として「鈴木」姓を賜姓しました。(名は瑞穂)
しかし、この日高氏には子供は居なかったので、氏子の亀井(後に名乗る)の家から三男の三郎を養子に貰いうけて鈴木姓を継がした。
丁度、この時に鞍馬山の牛若丸(清和源氏の分家筋の頼信系の九郎)は平家に追われていた。
弁慶の父が田辺では熊野神社の宮司の一人であつた事からその庇護先を求めて弁慶と共に熊野神社に向かった。
この時、牛若丸と弁慶の一行はこの藤白神社に立ち寄り弁慶だけが実家の日高に向かいその後、熊野神社に向かったのです。
この間、この牛若丸の身の回りの世話をしたのがこの「鈴木」の養子となった鈴木三郎でありました。
そして、3月ほどの滞在のうちに、この「鈴木三郎」は牛若丸の家来になる事を許されました。
そこで、この三郎の実家の弟の六郎も牛若丸の世話をしていて兄弟二人が家来となったのです。
この六郎も姓が必要となり上記した有名な「亀の井」にあやかり「亀井」の姓を起して「亀井六郎」と名乗り武士となり、牛若丸に付き従いました。
弁慶は熊野神社から庇護を断わられて戻り、共に家来の三人と共に再び京の都に戻り、その後、一行とこの兄弟は奥州藤原氏を頼り平泉へと向かうことになつたのです。
これが鈴木と亀井の姓の発祥となり、全国的に子孫を広めた原因ともなりました。
この後、この藤白の鈴木と亀井の縁者は身内を応援するために、平家の監視を逃れるために「熊野参詣宣伝」を名目に各地に向かい子孫を増やす作戦に旅立ったのです。
当時は自らの勢力を広げるために旅に出てその土地毎に子孫を遺していざと言うときにはこの子孫が駆けつけると言う戦略を取るのが普通でこれを「戦地妻」と呼ばれました。
その結果、八島と壇ノ浦の平家との戦いには12000人の身内の軍勢が義経の周りに集まったとされています。
頼朝から派遣された「坂東八平氏」の力を借りずに、この身内の軍勢が先陣を切り勝利を決定付けたのであります。
「義経弓立て松」
歴史上で義経一行は二度ここ鈴木屋敷を訪れたとされています。
この時、一度は上記の牛若丸時代の時と、二度目は二つの戦いの時に、熊野水軍と紀水軍と攝津水軍と伊勢水軍を味方に引き入れるための説得工作に赴いた時に訪れています。
「曲水の園」(曲水の宴)
この鈴木邸には平安朝時代に和歌を詠み、それを山から引いた「紫川」の山水を邸の池に流しこみ、その流れに乗って流れる短冊を入れた小船に和歌をすばやく詠み返歌して返してゆくという平安朝の歌儀式の社交池です。
熊野神社参詣に来る貴族達の一時の休息の場となりました。
この曲水の池は今も現存します。(上記)
そして、この曲水の園は自然の景観に溶け込み「枯れ山水」の形式に造形されていて、その曲水の池と溶け込み自然の景観を造り出しています。
この「枯れ山水」は人間の作り出した創造美ではなく、「自然の力」による美を強調し苔や自然の石組み樹木の成り立ちを生かして園として作り上げたもので、渓谷の谷川の成り立ちを思わせる自然美を追求したものです。
古来よりその美は作られていたが戦国の時代に廃れ、再び桃山時代からその美が見直されるようになりました。
しかし、昭和期には再び創造美が求められて消えました。
然し平成期の安定期に入り再現され始めていますが、世と人の心の安定に左右される落ち着きのある美です。
この鈴木屋敷の「曲水の園」と「枯れ山水」は現在に於いて貴重な美の財産でとして遺されているものです。
この時に歌われた万葉の歌は次ぎのとおりです。
黒牛潟 潮干の浦を紅の王裳 裾ひき行くは誰が妻 (潮干:ひかた 現在は日方の地名 黒牛潟:黒潮潟の昔の呼称)
古に 妹とわが見ぬばたまの 黒牛潟を見ればさぶしも
黒牛の海 紅にほうももしきの 大宮人しあさりすらしも
紅の海 名高の浦に寄する波 音高きかも逢わぬ子ゆえに
紫の名高の浦の名告藻の 礎にまかむ時待つ我を
(読み人知らず)
鈴木邸付近には、現在は絶滅したと言われている平安人に大変好まれた「まゆみ」という花がありました。
この花は「恋歌の花」として親しまれていました。
「まゆみの木」
この木は平安朝の時代にはこの熊野古道沿いに沢山生息していたとされ、この木の持つ印象から沢山の歌が万葉歌として読まれています。
この上記した曲水の宴でも読まれたことであろうことが想像されます。
しかし、現在はこの木は殆どなくなっています。
この木の花は淡い赤紫の花と真っ赤な実をつけて長く咲き誇る花で、その花の形は少女の可憐な姿を想起させ、其処からは清廉な恋心を詠んだ万葉歌が多いのです。(万葉集二歌選択)
「まゆみ」とは、基字は「真弓」とされ、真の意は語源は「目一杯」の意を基とし、真実は「目一杯の実」、つまり、「目一杯の誠」となります。この様に、「真の弓」となり、「目ッ一杯に弓を引いた射する寸前の状態」をさします。
況や「まゆみ」の意は「目一杯の愛」であり、純心無垢く、清廉な熱愛とし、「少女の愛」とされます。そして、その意に合う、何とも云えない真っ赤な花色と半年も長く咲く花とその愛らしい花の形をしていて、葉は1年近く紅葉しても落葉しない性質で次ぎの葉が出るまで落葉しません。その葉の形が弓を一杯に引き込んだ弓形をし、木の軸は花と葉に出過ぎぬ様に葛のように頼りなさを表しています。しかし、花火が開いた時のように柳のように垂れ下がり大木になるのです。
大変、繊細な木で環境や土壌が少しでも変わると枯れたり、花を咲かせずに居ます。
「まゆみ」にはオスメスの2種があり、雄木ははしっかりしていてなかなか枯れません。
詠われている「まゆみ」は雌木の様であります。
この様な何とも云えない愛のはかなさの木質から繊細な万葉の歌人はこの木を男女の恋愛歌と観たのでしょう。
絶滅種の雌雄の「まゆみ」は現在、神社の近隣のある個人の家で何とか育植されています。
彼の有名な「てるてる姫」で有名な歌人で官僚の小栗判官もこの藤白神社の「馬の背」付近で姫に宛てて詠んでいます。
恐らく、昔は、この「まゆみ」が熊野古道沿いに一杯咲いていたのでしょう。
ちなみに、二首を次ぎに示します。
みこもかる しなぬのまゆみ わがゆけば うまひとさびて いなといはむかも
解説
信濃の弓を引く様に、私が貴方の気を引いたなら、あなたは都人の様に、嫌ですと云うでしょうか。
みこもかる しなぬのまゆみ ひかずして しひさるわざを しるといはなくに
解説
貴方が信濃の弓を引くこともしないのですから、私が嫌ですともいいともいえる訳がないでしょう。
この様に、沢山のこの「まゆみの花」の歌が詠まれています。
現在では京大の調査では熊野古道の新宮付近の山奥に生息するのみとなつています。
しかし、この花は現代では熊野古道の万葉歌としてその花名の愛らしさと花のその可憐さが愛好家には好まれています。
鈴木邸の周辺環境の一つとして、藤白峠の始まり点で、神社より直ぐ近くで、このところから氏子の民家が存在する所ですが、”やれやれ”と峠を下りきって”鈴木邸で一休み”という所で気を緩めたところで絞殺されたと見られます。
鈴木邸と有間皇子は550年位の時代差がありますが、周辺では一つとして捉えています。それは有間皇子も鈴木三郎も同じ悲運の者だからです。
「有間皇子」
皇位継承問題で痴呆を装う有間皇子は白浜の湯に行き、その帰りに藤白の坂の麓で蘇我赤兄に絞殺された事件が起こる。
有間皇子は孝徳天皇の子供であるが、中大兄皇子との権力闘争に巻き込まれて狂気を装い白浜に逃げ延びるが中大兄皇子の意を受けた同行の蘇我赤兄に絞殺される悲しい事件の場がここで起こります。
この直前に遺した歌があります。
家に居れば いい盛る椎も草枕 旅にしあればしいの葉に盛る。
現実には山に生息する椎の葉には飯は盛れないけれど、いい(飯)とかけて詠んだもので椎の木は山の意から旅の意味を含み、皇位継承問題で狂気を装いそして旅に出なければならないわびしい気持ちを詠んだ歌です。
昔は旅に出た時は柏の木の葉に包んだ乾し飯を食べていました。
地方に依っても異なりますが、和歌山地方では柏の木は少ないので、ハート形したさる茨の葉を用いました。
五月の祝いに作る柏餅はこの葉で作る習慣は未だ残っています。
「小栗街道」
熊野の「蟻の熊野詣で」の通り、一年に一回は参詣するためにこの熊野街道を通りました。
この時、天皇に同行した歌人の「小栗判官」と「てるてる姫」の逸話の通り、この「馬の背坂」付近で「藤白の浜」見て「てるてる姫」に宛てて詠んだ歌が有名です。
此れに因んで歌人の間ではこの付近の丘の事を「小栗街道」と呼ばれる様になりました。
この浜は現代の位置とは異なり、この古道の直ぐ崖下が波打ち際でありました。
昔は「藤白の浜」または「藤白の浦」と呼称されていました。
「藤白獅子舞」「藤白相撲」
熊野詣での朝廷の人たちにはこの獅子舞を見せたとされています。
藤白の獅子舞は熊野権現の各社で行われている五穀豊穣の祭りに神に奉納する行為の一つです。
この獅子舞は日本各地の熊野権現の支社では行われているものです。
平安中期ごろからこの獅子舞は行われていて歴史上伝統ある祭りの奉納する行為の一つです。
この舞はその昔神の使いの命が獅子を退治して村を平安に保ったという言い伝えから来たもので、獅子とは架空のものだですが、この世の全ての悪を獅子に見立ててこれを退治して平安を願う庶民の祭りです。
これと同時に藤白には「藤白相撲」も奉納されていました。
最近まで行われていて、50年前位までは祭りに「子供相撲」が夏に奉納していたものです。
「藤白桜」
この藤白神社と鈴木邸には昔から周辺に沢山の桜が植えられていて、春には山越えをして遠方からも訪れて周辺が見物人でいっぱいで立つところもないくらいの盛況ぶりでありました。
当時も鈴木邸付近では花見の見物と熊野詣ででいっぱいであったことが予想できます。
未だ、この時分は神社の鳥居の直ぐ坂下は浜辺であり、その景色は万葉の人が褒めちぎるほどの景観を示していました。(上記の歌)
現在は世界遺産の決定で再び桜見物はもとより、古道散策が盛んになり、この狭い古道は昔の「蟻の熊野詣で」と同じくらいに賑やかになっています。
そして、その景色と共に「藤白の山」と「藤白の浜」と「藤白の桜」として平安の古来より有名でありました。
この景観を詠った詞が地域の小学校の校歌として残っています。
桜は主に現在は染井吉野桜と山桜の群生であります。
現代はその一部の子孫の桜が残っている程度です。
この様に、鈴木氏発祥の土地の鈴木邸の周辺の環境は万葉の時代を偲ばせる雰囲気が多く残る所ですし、名所旧跡の多いところです。
周辺にはまだ鈴木氏や亀井氏の一族末裔が多く残る所です。
しかし、残念な事ですが、周辺は鈴木邸近くまで住宅が立ち並び、住民の歴史意識が低下し土地の謂れを知らない人たちが殆どとなり、次第にこの伝説が消えつつあることが気に成ります。
この鈴木氏のレポートをする事で、出来るだけ多くの各地の鈴木氏や歴史ファンの記憶に留めて欲しいと思います。
敢えて、現在の青木氏のブログでは「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポートが青木氏以外の多くの人たちに読まれていることを考えて、青木氏ブログサイトから「鈴木氏の環境」のレポートをした次第です。
以上。