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No.13

青木姓の発祥源
青木隆夫さん 2005/06/19 (日) 06:14
そもそもの青木姓の発祥源は皇族賜姓の青木氏と藤原秀郷流の2流になりますが、この2つの発生源について少し詳しく記述します。

先ず、皇族賜姓の青木氏について、大化改新645年の時に発生しました。大化改新は多くの問題があっておこりましたが、特に3つの問題、政治的、軍事的、経済的な問題をもつていました。そしてこの3つの問題の解決を図るためには天皇家の体質を変える必要がありました。

経済的には中大兄皇子には34人もの皇子皇女がいました。この子供たちにかかる費用は莫大な経費でした。そこで経済的負担を軽減する目的で、王位継承制度をかえました。第4皇子まではこれを与え、第6皇子以降は臣籍(侍になり家来になる)にし、第5皇子は中間的立場としました。この第6位の皇子には青木氏の氏を与え(賜姓)ました。第7皇子以上は土地の名を採って氏としました。そして夫々には朝廷にとって主要な守護地を与えました。これが5つの土地ですが、中大兄皇子(天智天皇)は先ず伊勢を第6子の皇子(青木氏)に伊勢王として守護させました。伊勢は天皇家の天領地で守護神でもあり、主要交通の要所地で主要穀倉地でもありました。これで経済的な軽減と政治的に重要地を身内で守る体制を確立しました。更に、侍となつて武装集団で土地を守り天皇を守る親衛隊としての役割(侍所)を果たしました。

この様にした背景について、当時、蘇我入鹿が天皇家をしのぐ勢力をもっていました。その背景には次のことがありました。蘇我氏には自前の特別な武装集団をもつていました。この集団は、中国の後漢の光武帝から21代目の献帝の子供の阿知使王とその孫の阿多倍王が後漢滅亡で17の県民(200万)を引き連れて大和国に帰化してきました。この集団には専門の武装集団と技能集団と政治集団を引き連れていました。後漢一国が帰化した事になります。この集団が日本の国体の基礎をつくりました。この武装集団(漢氏、あや。東漢氏、やまとのあや)と技能集団を蘇我氏が管理管轄していました。技能集団は部(べ)制度として物を作りそれを朝廷が売り利益をえていました。当時は市場経済ではありません。部経済ですからこの権利を取得していた蘇我氏は軍事と経済の全てを握り、政治は婚姻を繰り返して思うがままでした。3権を握られていた天皇家と朝廷は弱体化するばかりでした。この状態を打破する目的で、藤原鎌足とともに大化の改新を実行しました。これが上記した改革で経済的軽減と自前の親衛隊と政治的に主要地の守護を実行し、更に、公地公民制度にて部制度を天皇家に戻し親衛政治を敷きました。これが青木氏と藤原氏の発祥の起源なのです。

この後、青木氏は天武、文武、聖武、光仁の4代の天皇の時にも賜姓(しせい)をしました。近江、美濃、信濃、甲斐に4家の青木氏を配置しました。光仁天皇の後の桓武天皇の時、この青木氏の勢力を嫌い、上記した渡来系の阿多倍王の一族を引き立てて(平貞盛)後の渡来系の京平家が産まれました。ちなみに、桓武天皇の母は高野新笠という上記の渡来系の阿多倍王の子孫の娘です。参考のために、この阿多倍王は敏達天皇のひ孫の娘を娶り3人の男子を作り、長男は大蔵氏(朝廷の大蔵大臣)、次男は内蔵氏(天皇家の財務大臣)氏、三男は坂上氏(朝廷の軍事大臣)の賜姓を受けました。そして、準大臣の地位を授かりました。大蔵氏は後に永島氏になりますが、3人とも朝廷内では最大の勢力をほこりました。3蔵というのですが、もう一つは斎蔵でこれが後の秀郷の祖先の北家藤原氏が握っていたのです。

この青木氏と藤原氏の青木氏と源氏とが歴史上で絡んできます。次はこの藤原流青木氏の発祥関係を記述します。
青木氏は天皇家の軍事勢力で東漢氏は朝廷の軍隊としました。更に、この賜姓を嫌った次の嵯峨天皇は青木氏とするのをやめて、賜姓の氏を源氏としました。後15代の天皇まで続きました。この青木氏の家紋は笹竜胆(笹リンドウ)です。源氏紋と同じです。したがって、源氏系は16流16家あります。最終的に清和源氏とこの5家青木氏と藤原氏とが一体化します。
No.16

Re: 青木姓の発祥源
青木研究員 さん 2005/06/19 (日) 06:26
元記事のレポートの追加をします。この内容を理解しておくとルーツを判断するのには大変効果的です。
先ず、大化期には、皇子が34人いましたが、内訳は12人が皇子で、22人は皇女です。12人は二人の親からですが、兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子です。中代兄皇子には4人いましたが一人の軽皇子は若くして病死、もう一人は大海人皇子との皇位継承で大友皇子は戦い死亡。兄の子供は2人となりました。施基皇子と川島皇子です。残り10人は弟の大海人皇子のこどもですがこの内二人は兄の中大兄皇子の娘との弟の間に出来た皇子です。この時代は天皇家の純潔を守るために血族結婚は普通なのです。天智天皇が671年に死亡してから、弟の大海人皇子の天武天皇が即位して天智天皇の2人の皇子は皇位第6位の施基皇子と7位の川島皇子となりました。第6位が伊勢王となりました。伊勢青木氏の元祖で日本書紀にも14回も出てきます。

部制度を記しましたが、渡来系技能集団で、例えば、服部(はつとりべ)とか海部(かいふべ)とか磯部(いそべ)陶部(すえべ)とか綾部(あやべ)と武部(たけべ)とか土師部(しがらきべ)等数えれば限りありません。後日レポートします。現代ではこれが姓となっていますが、この人たちは元記事の阿多倍王の連れてきた技能集団です。部の着いた氏は渡来系です。室町末期まで中国地方を統治した陶氏はこの子孫です。現代の各地の第1、2次特産物は殆どこの子孫が持ち込んだものです。
渡来系の武装集団の漢(あや)氏と東漢(やまとあや)氏は蘇我入鹿の命で気に入らぬ崇峻天皇を殺害した。これほどに蘇我氏は力をもっていました。天皇家は手も足も出ない状況から中大兄皇子の大化の改新となつたのです。元記事で記した様に青木氏や源氏や藤原氏の氏の発祥させた理由です。

次に阿多倍王の集団は先ず九州北部に上陸し、余りの力の差で土地の勢力の肝付氏や朝廷は戦うのをやめて同化して土地に根着きました。そして朝廷の伴氏とともに遂には九州全土を制圧しました。九州南部には阿多と言う地名があります。ここに本拠地を置いたのです。大隈の首魁の阿多という名で日本書紀には8回も出てきます。
この後、中国地方へと進出し、ここでは配下の陶氏が勢力を保持します。更に、上記した様に朝廷は関西に拠点を与えます。伊勢北部伊賀地方に住まいします。全国の長嶋と言う地名はこの末裔です。
馬部等の集団は甲斐などの中間地に移して馬などを飼育しました。
元記事での三男の坂上氏は坂上の田村麻呂の歴史で蝦夷や東北部を制圧した将軍がいます。阿多倍王の親族は阿倍(あべ)と言う姓を出しした。阿多倍王の妻は敏達天皇の孫の芽淳王の娘です。

さて、藤原氏のことに入ります。藤原氏は中臣鎌足から始まり、賜姓で藤原氏になります。藤原氏は加藤氏や伊藤氏や後ろに藤を着いた姓が地方に移った藤原氏が名乗りました。役職の頭文字を付けたのが斎藤氏や佐藤氏です。そこで藤原秀郷氏は藤原氏は4家に分けられます。北、南、式、京家ですが、秀郷流は最大勢力の北家です。初代は房前(738)、魚名、藤成(826)から3代目の秀郷になります。958年頃です。秀郷は地方の豪族でしたが、関東に坂東八平氏の内の平の将門の乱がおこります。これを清和源氏の初代源の経基が朝廷に告訴します。しかし、朝廷はこの乱を鎮めることができませんでした。将門は国司を倒し独立国家を作ろうとしました。そこで、倒した者は2つの褒美を賜ると詔をだしました。この時、2人が手をあげました。一人は元記事で書いた桓武天皇の賜姓を受けた平氏の貞盛で阿多倍王の一族でしたから実力は十分。

もう一人は青木氏のルーツになる秀郷でした。結果は乱を制圧します。そして、褒美の貴族の身分と武蔵国と下野国の守護になります。貞盛は伊勢北部伊賀の国司に任じられ、子孫は清盛までますます出世します。秀郷は大きくなった氏を保つため、先祖の藤成の時、伊勢の国司に2年間任じられましたが、この時の伊勢青木氏を見習い、天皇家の藤原血縁から、秀郷は第4子以降を藤原直系の親衛隊として臣下させました。代々慣習として続けました。これが116流になりました。同じ加藤氏や佐藤氏や伊藤氏と違い、直系の一族として氏を構成しました。念のため、後の時代の氏として、佐野氏流青木氏、青木玄蕃、青木忠英、青木安明、青木正命、青木政之、青木正胤の一族が確認できます。中には平氏の血筋を持つ氏もある。皇族賜姓の5家5流の青木氏(家紋笹竜胆)以外として、116家ありますが、家紋が家紋200選の中にあり、且つルーツの土地が武蔵国や下野国や元記事追加で明記した土地の者であるとすれば、この秀郷流青木氏です。それ以外は明治以降に付けた青木姓です。家紋については注意してみる事が必要でわずかに変えているものもあります。古来より氏姓(うじかばね)制度で社会が構成されていましたので、家紋掟というものがありました。全ての氏はこの制度の掟に縛られていました。明治以降はこの掟は崩れました。

わからなければルーツの菩提寺の過去帳を調べると良いとおもいます。昔はお寺が戸籍簿の役目を司っていました。これだけ調べればで大抵は偏纂は難しいとおもいます。鎌倉以降の下克上の戦国時代以降は世中が乱れて歴史や慣習が崩れてしまいましたので、殆どは偏纂の様です。ちなみに天下の豊臣秀吉や徳川家康の家系も偏纂しています。この二人の偏纂は後日に。これで2つの青木氏の発祥源は一応停止しますが、御質問があれば可能な限りでお答えします。
次は源氏などとの関係をレポートします。次第にルーツが見えてきます。
No.17

レポートの訂正
青木研究員 さん 2005/06/19 (日) 07:11
レポート見直しをしましたところ2ケに間違いが見られましたので訂正します。

”崇峻天皇を阿多倍王の武装集団、漢氏又は東漢氏か゛蘇我入鹿の命で殺害した”と書いていましたが、蘇我馬子の命で”に訂正します。

”貞盛が平の将門を討った功により、国司に任じられた”と受け取れる文面になっていましたので、功の実施がずれて実際は息子の維衡が元々住んでいた伊勢北部伊賀地方の国司に任じられています。
以上

余談
京平家の平の清盛の元祖の貞盛(渡来人阿多倍王の子孫)の居住地域がこの伊勢北部伊賀でした。日本書紀にもこの地域を阿多倍王に国の産業の発展に寄与した事を理由に朝廷より与えられたものと記しています。

そして、この地域を立ち入り禁止にし、且つ、鳥獣の捕獲禁止地域にも指定して彼等を保護した事が書かれています。不輪の権と不入の権を与えました。そして、朝廷で祝いごと事があると、300人ほどの人たちが天皇の前で度々踊ったと記されています。
賜姓平氏は桓武平氏ともいい、京平氏とも伊勢平氏ともいいます。
貞盛より清盛まで5代で上り詰めたわけですが、この勢力の大きさは大変な者でした。
当時、日本全土は66ケ国ありましたが、このうち32ケ国が平氏のものでした。

以前のレポートでも阿多倍王の一族が九州から中国地方と関西までの殆どを制圧して移動してきてこの伊勢北部の伊賀地方を与えられて住んでいました。皇族の皇女と結婚して3男をもうけて朝廷内に絶大勢力を築き、後には清盛が最高位に昇り詰めました。坂上氏と内蔵氏や阿多倍の子孫阿倍氏が北陸以北に子孫を遺しました。32/66の勢力は青木氏や藤原氏や源氏が束になっても勝ち目はありません。長嶋種材と言うすごい豪傑もいました。朝廷より太宰大監として「錦の御旗」を個人に与えられた最初の人物です。

桓武天皇の母はこの子孫の娘ですが、だから平氏を賜姓した3理由(青木氏の勢力牽制も含み)の一つです。
この勢力の中で藤原秀郷は関東に坂東八平氏と戦い勝ったのは親衛隊青木氏の活躍である。この活躍で青木氏は各地に分散して行く。そして、清和源氏の頼信の関東進出とで坂東八平氏は衰退した。
皮肉にも同じ頼信の子孫の頼朝を旗頭に1185年に再び坂東を取り戻したことになる。表向きは源氏が勝った様に見えているが。
大河ドラマの義経と頼朝との摩擦もこの原因です。
(義経は源氏主力で戦う意見であった)

幕府樹立ご4年で頼朝とその子孫と源氏も完全抹殺された。平の将門と平の忠常の独立国家の夢は遂に叶ったのである。逆に、第1,2の青木氏は衰退に向かうのです。
藤原秀郷流青木氏はこのような背景が子孫に掛かっていたのです。
だから、116流にもなる勢力拡大をはかつたのです。
ルーツを知るには先祖の苦労も知ることが大事な気がします。
No.46

Re: 青木姓の発祥源
青木研究員 さん 2005/06/23 (木) 09:06
訂正 中大兄皇子の子供に軽皇子と記述しましたが、建皇子(たけるみこ)に訂正します。念のために、建皇子は8歳で病死、斎明天皇はこの孫を大変可愛がり、病死後に孫の歌を詠んで、未来にこの歌を残す事を命じたほどの可愛がりでした。

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青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。