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No.1200

資料を発見
群馬の青木こと。銃剣士さん 2007/12/25 (火) 11:44
お久しぶりです。
武田系諏訪族青木でございます。

インターネットの方で、私の先祖にあたります人と同姓同名の人の名がのっていました。
生きていた時代もほぼ一致します。

下は資料の一部です。通航一覧巻之二十
 琉球国部二十
   目録
 一来貢「文化三年」


文化三年十二月七日
           大目付
   時服三       伊藤河内守
   同         神保佐渡守
           御目付
   時服二       仙石次兵衛
   同         黒川与市
右は、琉球人参府御用相勤候ニ付被下旨、於芙蓉間老中列座、備前守申渡之、若年寄中侍座、
           奥御右筆
   金一枚充      青木忠左衛門
             間宮平次郎
右同断御用相勤候ニ付、於奥被下之、

青木忠左衛門という人が多分そうだと思います。
しかし、この時代にも同姓同名のものはたくさんいたと思うので、同じ人物かというのは微妙なところです。

あと、この資料の内容もよくわかりません。多分、琉球との外交でしょうか?

詳細をよろしくおねがいします。
No.1201

Re: 資料を発見
副管理人さん 2007/12/26 (水) 12:18
>お久しぶりです。
>武田系諏訪族青木でございます。
>
>インターネットの方で、私の先祖にあたります人と同姓同名の人の名がのっていました。
>生きていた時代もほぼ一致します。
>
>下は資料の一部です。通航一覧巻之二十
> 琉球国部二十
>   目録
> 一来貢「文化三年」
>
>
>文化三年十二月七日
>           大目付
>   時服三       伊藤河内守
>   同         神保佐渡守
>           御目付
>   時服二       仙石次兵衛
>   同         黒川与市
>右は、琉球人参府御用相勤候ニ付被下旨、於芙蓉間老中列座、備前守申渡之、若年寄中侍座、
>           奥御右筆
>   金一枚充      青木忠左衛門
>             間宮平次郎
>右同断御用相勤候ニ付、於奥被下之、
>
>青木忠左衛門という人が多分そうだと思います。
>しかし、この時代にも同姓同名のものはたくさんいたと思うので、同じ人物かというのは微妙なところです。
>
>あと、この資料の内容もよくわかりません。多分、琉球との外交でしょうか?
>
>詳細をよろしくおねがいします。
群馬の青木さんさん。今日は。5月からですから、半年以上のご無沙汰ですね。

何時も熱心にお調べになって、実に感心します。
ルーツ調べとか歴史調べはこの様な地道な努力が実を結ぶのですよね。
私も同じ様なことをして次第に目的に近づき幅のある情報を取る事が出来る様になりましたが、大変ですよね。
実によく解ります。少しづつ進むのが楽しみですよね。

実は私もここまではよく解りません。青木氏に関わることを中心に江戸中期以前の史料を多く調べましたが、この域には入っていません。

しかし、群馬の青木さんの疑問に対する私の意見として述べさしてもらうと、次の様になるのではと思いますが、参考にして下さい。

さて、2つの問題があります。
先ず一つは、この史料が群馬の青木さんの疑問の通り、琉球の何にあたるのか、もう一つは、幕府の直接の仕事をしていた事に成りますので、直参旗本という事に成ります。
この二つの推理を立てて、確認出来れば、お家の青木忠左衛門さんの所に近づく元になると考えます。

そこで、先ずね琉球の件ですが、推測として、幕府の諸国の担当の外交部中で、琉球との仕事を担当していた部門において、人事勲功の辞令があり、人事とその褒章としたものの記録ではないかと推測します。
先ず、お目付役の件ですのが、琉球国の薬事調達に関する関係管理を円滑にし働いたとする理由で、二人に対して年末の辞令交付であったと思います。
日本の会社でも功績のあった者に対して1年を締めくくる年末の仕事納めのときに辞令公布があるのと同じですね。
その時、次は幕府の琉球の薬用の調達の実務の役職によく務めたので、人事として、芙蓉の間(重役会議室)に集まり列する老中の中に列し、備前の守を拝命して、その列の若年寄組に列座する事を許され、その中でも奥向きの書記役を命じられた。そして、その時、その功績に対して、金貨一枚(現価10−15万円程度)の金一封を与えられた。
となるのではないでしょうか。

実は、この琉球と江戸幕府との経緯があったのです。
この江戸時代では、琉球は薩摩藩の管理管轄国で、江戸幕府の家康とこの琉球を巡って、壮絶なる争奪の小戦を含む政治戦をした有名な史実があります。
その後も、この琉球の産物獲得は莫大な経済的利益があるのでその争奪戦が、秀吉が死んだ直後から、幕末まで続きます。
このため、薩摩藩はこの琉球の管理権を採られまいとして、隠密に情報を盗まれまいとして、秘策を立てます。それは、薩摩弁です。言葉を解り難くする事と、隠密の徹底した掃討策でした。
言葉は、人称を逆にする事(行くは来るとするなど)、主語を無くする事、全ての言葉に解らない方言をつける事、等をしました。

政治的には、秀吉の命令に背いて、又江戸幕府の命令にも背いて、兵農分離を実行しませんでした。
これは、九州の薩摩島津氏以前の統治者であった1000年も続いた肝付氏の政策でもあったのです。だから、幕末の三国同盟で毛利家に対しても島津家のこの方式を採るように、坂本竜馬は進めて実現し、維新軍は強かったのです。西郷隆盛でも農作業をしていたのです。
更に、これに絡んでこの琉球国の中国との奪い合いなどもあり、江戸幕府は難しい立場にありました。
その中で、鎖国中で、中国との貿易取引もこの琉球国を経由して行う必要があり、喉から手の出るほどに欲しい国と権利でした。逆に傷ものに触るように難しい問題でした。
薩摩はこの琉球を通じて、鎖国策からのがれられて、中国を始めとして、外国との貿易の権利を勝ち取る薩摩の国の存亡に関わる最大の政治課題でした。
だから薩摩は幕府が手を出せないし一目置くほどに幕末まで強かったのです。そして、遂には、坂本竜馬の仲介で契機を掴み、倒幕へと進んでいったのです。
その最大の最後の秘策は、来年の大河ドラマの篤姫の徳川氏への輿入れでした。
この篤姫が実に賢い人物でしたので成功したのです。

この様に、琉球との交易は単純な交易ではなく、間に薩摩がかんでいる交易でした。
薩摩、琉球では隠密は全て抹殺されていましたから、大変な交易でした。
特に、科学薬品の無い時代の中国4千年の漢方薬は日本にとって鉄砲や武器弾薬以上に最大の必需品でした。
これを幕府が自ら行う鎖国の中で、権利を薩摩に握られている中で調達する事は至難の業でした。
だから、隠密や調達護衛役の目付け役と薬事方役の調達の担当者がその功績に賞された。
以上が一点です。

次の疑問です。
この仕事は直参の旗本の仕事ですから、何時、武田に属していた諏訪族が直参に成る時期、条件、場処、の史実に関する大きいものがあったかという事です
簡単に、他の藩に仕官するように幕府には仕官できるものでは有りません。
と成ると、過去にその大きな史実があったことに成ります。
特に、その諏訪族に限ってあったかと言うことです。
史実では、諏訪族青木氏は横浜神奈川と栃木に移動しています。また一部は讃岐土佐にも移動(逃げ。)しています。

実は、歴史上、最大のイベントがあったのです。群馬の青木さんももうお気づきに成っていると思いますが、超有名な事がありました。

それは、徳川家康は、諏訪族の赤兜の武田軍を先頭に、南下してきた信玄の武田軍に立ち向かいます。そして、織田信長の助けも無く、敗戦を覚悟で三方が原(1573)で立ち向かいました。
そして、家康は負けて恐怖の糞をして三河に逃げ延びます。しかし、ここで、武田軍は三河を潰さず通り過ぎて行きます。しかし、途中で信玄は死にます。そして、武田軍は甲斐に引き上げます。その後、信長は武田と和睦をしたかに見せて、周囲の国を掃討して強く成ります。そして、時期が来たときに諏訪族の血筋を引く武田勝頼に率いられた諏訪族を主軍とする赤兜軍団と戦います。武田軍は負けて敗走します。
しかし、織田軍に組していた家康の三河徳川軍はこの戦いの直ぐ後に、前に負けた武田軍の赤兜軍の諏訪族の多くを家臣団にし家来にします。
この時、当然に家康は信長に嫌疑を掛けられて窮地に陥ります。大きい犠牲を払って、この諏訪族を中心とした武田家臣団を放置していては、信長の関西攻めには問題が起こるとの主張をして家臣団に加えたと言い張ることで、関西攻めでは先陣を切ることで許しを得ます。

この時に、家臣になったこの諏訪族赤兜の騎馬軍団は徳川軍の主力と成ります。
この軍団を先頭に立てることで減らせると観た信長でしたが、意外に強く減ることは無かったので、信長は悩みますが、大きくなった家康の軍を潰すことは出来ませんでした。

これが、諏訪族青木氏が直参旗本になった時期なのです。
もし、この忠左衛門さんが、お家のご先祖とすると以上の2つの推理が裏付けます。
単独の直参旗本ではなく、この諏訪族青木氏一族を率いる一門とすると当然に、徳川軍団の中の中核になっていても不思議では有りません。氏家制度ですので、充分に考えられます。
時代が進み、文化の時期では(235年後)徳川幕府の古参の直参旗本と成っている事に成ります。

仮に同姓同名であったとすると、青木氏でありますので、藤原秀郷流青木氏の直参もあります。この藤原秀郷流青木氏も直参に成る史実は幾つかありましたので、否定は出来ません。
有名な芙蓉の間の重役に成れるのですから、大きい諏訪族青木氏の長である事が考えられます。
もし、藤原秀郷流青木氏とすると、静岡の東に定住していた藤原秀郷流青木氏と、江戸に移封されたときに家臣になったと思われます。
後者は大きな家臣団を持っていたとは考え難いので、諏訪族青木氏の可能性があると考えます。

ただ、ここで、伊勢青木氏が紀州徳川吉宗の時に飛地領の伊勢の豪商紙屋の青木長兵衛が商い知識を請われて江戸に同行します。そして、享保の改革を実行した伊勢の青木氏があります。この青木氏は納戸役や勘定奉行に成ります。この末裔の一部は江戸に残り直参に成りました。
この一族は青木氏の官職の・・兵衛を世襲としています。
幕府直参と成り重役であると以上があります。
個人で重役までにはよほどの事がないと出来ない筈ですから可能性は少ないと思います。

そこで、その判別は、ただ一つあります。
抱き角紋であるかどうかです。
家柄身分を中心とする時代ですので、抱き角紋は守っている筈です。
この忠左衛門さんの家紋は何なのか。
皇族賜姓族の諏訪族青木さんですので、その忠左衛門さんは藤原秀郷流の青木さんの家紋かです。
江戸時代の青木さんレポートが青木氏氏ブログサイトにあります。
この点の情報を掴む事が出来れば、確定ですね。
つまり、戦国末期の古い時期三河を境にして北系なのか、西系なのか、東系なのかですね。
しかし、三河の家康は後に関東に移動していますので、この時に関東に住まわれたのかもしれませんね。この件は、難しいことかも知れませんね。

青木氏の左衛門の官職名は朝廷の親衛隊の役職にあった両方の青木氏が名乗っています。
従って、この下につく俗名がお家の忠左衛門にはなんであるかと云う事も判別のものとなりますね。
青木忠左衛門・・ですね。同姓同名でもこの俗名で判別が出来る様になっていました。
江戸中期前は忠左衛門は名では有りませんでした。中期以降誰でもこの左衛門や右衛門を真似てつけましたので名と成ってしまいました。
この点も昔の徳川家臣人名簿でお調べになると解るかも知れません。

兎も角も、私は意外にご先祖である可能性は高いのかも知れないと思っています。

あと少しのような気がします。頑張って下さい。

何かわかりましたら、又お便りください。楽しみにしています。

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青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。