No.22
Re: 青木の地名の発祥源
青木研究員 さん 2005/06/19 (日) 07:35
青木の地名の発祥源は全国に14ケ所あります。
この発祥の基は皇族賜姓青木氏があり、又多、賜姓青木氏の方式を習って、藤原秀郷が第3(4)子に青木姓をつけて土地を与えたもので、その土地を青木村と呼称するようになりました。
(伊勢の青木氏を除く賜姓青木氏が、母方に藤原氏の血筋を受け継いでいるために踏襲した)
この14の青木の地名は2分類に分かれます。5の青木村と9つの青木村です。
9つは藤原流のものです。関東(武蔵国を中心に円状に)を中心に存在します。
5つは皇族賜姓族の青木村です。
つまり、5天皇から青木姓の氏を与えられて臣籍し侍(武士)となり、朝廷の重要な土地の伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の5つの土地を与えて守護させました。そのことにより青木村が出来ました。
(5天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁です。最初は伊勢の青木氏(645)です。)
一方の9つは、岩代国、越後国、越中国、武蔵国4、筑後の主要9ケ所です。
藤原氏は4つに分かれますが、秀郷は北家で最も栄えた藤原一族です。
注、この土地には、別に武蔵7党と言われて土着の豪族が居て、この中の丹治氏から出た皇族系青木氏(賜姓ではない真人族の島氏の血筋を受けたとされる)が、他説がありますが分流して定住していたといわれています。
秀郷流は2つに分けられて、分行流と兼光流です。
前者は進藤氏と長谷川氏、
後者は長沼氏、永島氏、青木氏です。この青木氏は主要9氏で116氏家に分流します。
なぜ青木氏としたかは前回のメールで伝えました。
皇族賜姓青木氏の後の皇族賜姓源氏は、この北家の藤原氏との婚姻で子孫を増やしています。
皇族賜姓青木氏と皇族青木氏の違いは、次の様になります。
嵯峨天皇期に令を発して、全ての皇族系の者が還俗する場合は氏を青木氏として名乗る事を許しました。(藤原氏以外に)
賜姓などを受けられなかった大抵の皇族の者が、入山し僧侶や門跡寺院等に入るか、又は遠い地方に移り住みました。
その後に還俗したり、土着の者との間に子孫を遺した者は血縁を統一するために賜姓を受けない青木姓を名乗る事を許しました。それ以外の者が名乗る事を正式には江戸期まで禁じたのです。
(源氏の者が平家の追手を逃れるために、もとの賜姓に戻して青木氏を名乗る事が各地で起りました。)
本日は此処までにします。
No.23
青木村の追記
青木研究員 さん 2005/06/19 (日) 07:40
日本の青木村の発生箇所を記述しましたが、全体で14カ所です。このどこにあるのかは明記しませんでしたので、追記します。2流に分類できるとした内、5/14は皇族賜姓族の村ですが、先ず、甲斐の国は巨摩郡です。信濃の国は小縣郡です。美濃の国は安八郡です。同尾張の国は丹波郡です。伊勢の国は松阪です。近江の国は佐々木氏と同化し移住して不明です。
9/14秀郷流は岩代の国は伊達郡です。越後の国は中顕城郡金谷村大字です。越中の国は下新川郡です。武蔵の国は北足立郡と横浜神奈川字と入間郡と榛澤郡です。筑後の国は三猪郡です。これは古い住所ですので、一定の発祥源によってこの村が出来たのですが、この村より各地に分流していったものです。青木村が有って青木姓が出来たわけではありません。特に、鎌倉時代より以降の戦国時代のものは偏纂が多いので鎌倉から以前の歴史を調べる必要があります。
室町から以降は下克上の時代で、歴史伝統がくずれました。後日これらの事について記述しますが、別記事の横浜の青木さんの様に元は950年頃の歴史の出来事からおこつていますので、調べる時は元に戻ると明確になります。秀郷流は116の分流をおこしていますので、1/116を調べてもルーツの発見は難しいと思います。
調べるには家紋も大事です。
家紋200選といって室町後半以降は1200ほど有った家紋は激減し40程度になり、再び200程度に戻りました。奈良時代から平安初期は40程度で中期から後期には300弱になり戦国の下克上の時までには1200になり江戸所初期ころには200程度にもどりました。この200の家紋の中にはいっているかを先ず調べるとルーツがわかりやすいです。下克上の戦国時代の家紋とか系譜は殆どが偏纂です。系譜とか紋が食い違うとか系譜のずれがあるとかします。秀吉のルーツとか徳川のルーツとかにはこの偏纂の見本です。先ずは、鎌倉以前のルーツの村とか家紋とか系譜とか調べるとわかってきます。