No.103
はじめまして!(かんりにん代理登録)
岐阜の青木さん 2005/08/25 (木) 23:51
はじめまして!岐阜の青木と申します。
自分の先祖は その昔日置江村(現在は 一夜城で有名な安八墨俣に近くの岐阜市です)の青木だとの事です。
僕も青木の氏の生い立ちにはには興味がありますのでちょくちょくお邪魔します。
では、
※データベースの方に投稿されていましたので、
対話形式のこちらの板に移動させていただきました。
ご了承くださいませ。
青木氏氏かんりにん
No.104
Re: はじめまして!(かんりにん代理登録)
青木研究員 さん 2005/08/26 (金) 12:13
>はじめまして!岐阜の青木と申します。
>
>自分の先祖は その昔日置江村(現在は 一夜城で有名な安八墨俣に近くの岐阜市です)の青木だとの事です。
>
>僕も青木の氏の生い立ちにはには興味がありますのでちょくちょくお邪魔します。
>
>では、
>
>※データベースの方に投稿されていましたので、
>対話形式のこちらの板に移動させていただきました。
>ご了承くださいませ。
>青木氏氏かんりにん
貴方のお家のルーツを検証する場合、情報を元に進めますと次の様になります。
安八郡と青木氏の二つですが、概ね次ぎのようなことが云えます。
出来れば、家紋と宗派と菩提寺のある土地とか何か歴史的なちょっとした情報でも判りましたら後でサイトにメールして下さい。
ここには昔は美濃国安八郡青木村という地名の村がありました。
この村はここに次に記する青木氏が赴任して定住したことから始まります。そこでこの経緯を少し詳しく元から説明します。
この地は古代より要衝の地であるために多くの種族が入り氏を形成した土地柄であります。
特に、「下克上の戦国時代」以後の氏の歴史がよく伝えられていますが、「天智天武期」以降の歴史の史実は難しいために伝えられていないのが現状です。
この地は「天智天武期」より「5代の天皇」により始まる「皇族賜姓青木氏」の5家の地の一つです。
5つの土地は奈良から平安初期に掛けて奈良と京を囲む戦略上の土地柄であり、また軍事、交通、穀倉地帯の重要な拠点でもあり、朝廷はこの地に力を入れて天皇自らの皇子を臣籍させて守らせた土地であります。
ちなみに、5代の天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁であります。此処までは天皇は第6位皇子を賜姓の青木氏を授けて臣籍(家臣にする)させて守らせたのであります。
光仁天皇より次の天皇桓武天皇は青木氏の牽制を目的として他に幾つかの理由でこの賜姓青木氏を止めて平氏を賜姓しました。
その後、再び次の嵯峨天皇が皇族賜姓方式の源氏に変名して戻しました。
初代は伊勢より始まり甲斐の地で終わりました。
5地方とは伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐であります。
美濃、信濃、甲斐の一帯は、更に時代をさかのぼると、中国の後漢の滅亡で、末帝の石秋王の子の阿智使王と孫の阿多倍王が17県民(200万)を引き連れて集団帰化しました。朝廷は九州より始まり、中国地方から関西を除いて中部に架けて移民させました。この集団は万能集団で政治、軍事、経済の豊富な進んだ知識や技量を持っていました。日本の第1、2次産業の基礎や国体の律令国家の基礎も作り上げた集団でした。
この集団には技能集団があり、奈良時代から平安初期までの「部制度」を構築した優れた技能を持っていました。
海部、服部や磯部や綾部や武部や織部や鍛冶部や陶部、土師部などたくさんの部の付く姓はこの渡来系種族です。
この高い技能を持った種族が中部地方に開墾するために配置されました。(450-650年頃)
この開墾が進み、朝廷はこの3地方を守る為に上記の代々賜姓青木氏を配置して「調役の免」(不輪の件、不入の件)を与えて守ったのであります。(800年頃)
その後は同族の賜姓清和源氏の宗家の頼光が朝廷より賜姓青木氏の領国を補佐するために守護として赴任しました。
その後はこの3地方は土着の豪族土岐氏と賜姓青木氏と賜姓源氏の3つ巴の血縁関係の氏族が生まれました。
清和源氏の頼光の子の頼国の曾孫の光信が土着豪族の土岐氏の跡目を継いで土岐氏を名乗りました。この支流源氏土岐氏と賜姓青木氏との土岐氏系青木氏が生まれました。
土岐、足利、武田の支流源氏が生まれて、各3地の3氏系青木氏も同時に生まれていました(1150年頃)。丁度少し後にも、戦略的な意味合いもあり、藤原秀郷の末裔の兼光系藤原の秀忠が美濃の守護にもなりました。この時に同行した藤原秀郷流青木氏の一族がこの地に定住しました。(1200年頃)
土着豪族の武田、足利氏は元は藤原秀郷の子孫です。
従って、この土地には、初代の皇族賜姓青木氏(800年頃)
次に土着豪族の支流源氏の土岐氏系青木氏
(皇族賜姓青木氏の支流)
最後に藤原秀郷流青木氏が存在しました。
この結果、3氏の青木氏がこの土地(3地方とも)に混在して存在することに成ります。
しかし、この3氏は家紋で判別が可能ですし、住み分けをしていました。
土岐氏系青木氏は越前より国境付近に、
藤原秀郷流の青木氏は安八郡より南よりの尾張の国境付近に、
安八郡には皇族賜姓青木氏(文武天皇の第6位皇子と考えられる)が定住していました。
一説では江戸時代に藤原秀郷の末裔の利仁系青木氏が入ったとしていますが、利仁系は進藤系で文行流であるため系譜には青木氏は出ていません。
藤原秀郷流青木氏は兼光系から直系と直流あわせて血筋としては2家で分流として5家です。
詳しくは研究室やたの武蔵国の所をチェックしてください。
これは戦国時代の「氏」の偏纂からきたものと思います。
この時代の系譜は矛盾が多く確定は殆ど不可能です。
青木氏は主流2氏でありますが、嵯峨天皇期に青木氏は皇族系か藤原氏筋のもの意外に名乗ってはならない姓とされていました。しかし、戦国時代以後はこの令は秩序が壊れて無視されました。したがって青木氏を調査する場合は鎌倉以前の歴史的史実を調べる以外に信用は出来ない状況で、殆どの文献はこの室町以後の文献を参照して結論付けている傾向が強いので、豊臣や徳川でさえも偏纂ですから注意が必要です。
結論として、住んでいた所をベースにする(氏家制度であるので鎌倉前の住まいは決定要素)と、安八郡に住まいしていた青木氏であるので、ルーツの元祖は「皇族賜姓美濃青木氏」の子孫と言うことに成ります。
家紋と宗派がわかれば本流や支流や血縁の内容の確定は可能です。
お調べになり、一報ください。
詳しくは研究室の他のレポートも参照してください。