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No.426
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群馬の青木さん 2007/03/23 (金) 09:07
おひさしぶりです。お彼岸ということで久しぶりにお墓参りに行き、江戸時代に生きていた祖先の名前を知ることができました。
名は青木忠左衛門という人物でした。没した年は慶応3年とかいてありました。確か農民などが苗字をつけて良くなったのは明治3年ごろと聞いたことがあるので、昔から青木という苗字を持っていたと知り安心しました。
No.427
Re: 最新・・・
副管理人さん 2007/03/23 (金) 20:10
>おひさしぶりです。お彼岸ということで久しぶりにお墓参りに行き、江戸時代に生きていた祖先の名前を知ることができました。
>名は青木忠左衛門という人物でした。没した年は慶応3年とかいてありました。確か農民などが苗字をつけて良くなったのは明治3年ごろと聞いたことがあるので、昔から青木という苗字を持っていたと知り安心しました。
群馬の青木さん 今日は。
お久しぶりです。去年の10月以来ですね。
お彼岸でお墓参りされたそうでよかったですね。
さて、ご先祖のお名前が、忠右衛門さんとの事ですが、実はこの「..右衛門」の「右衛門」と言う名は朝廷の官位なのです。
「左衛門」と同じく官位で、朝廷の宮殿を守る官位役職です。近衛兵です。宮殿には「右側の門」と「左側の門」とを近衛兵が守っていたのです。
この近衛兵は天智天皇が定めたもので、蘇我氏に「軍事、経済、政治」の3権を牛耳られていた反省から、大化の改新の「18改革」と「10活動」改革の一つとして実行した制度で、第6位皇子を臣下させて侍とし、賜姓(青木)を授け、親衛隊としたものです。
これが伊勢王の「施基皇子」を始祖とする初代の皇族賜姓族の「伊勢青木氏」です。
この時、「天智天皇」は更に、「冠位制度」と共に「7色の姓制度」という制度を施行しました。
この中の一つが「衛士」制度というものがあり、宮廷の各門を守らせる徴兵制がありました。
この「衛士」には各地から身分の高い氏の若者を選びました。
そして、これ等の「衛士」を青木氏が指揮していました。つまり、親衛隊の近衛兵です。
この名誉ある近衛兵の指揮する青木氏らの幹部に与えられた官位として、次のようなものがあります。
左衛門
現代の軍隊であれば、下士官で軍曹に当る。5家5流の支流24氏はこの冠位を与えられた。
右衛門
現代の軍隊であれば、下士官で軍曹に当る。5家5流の支流24氏はこの冠位を与えられた。
左衛門尉
現代の軍隊では士官級で少尉から大尉に当る。この階級を3つに分けられていました(少、中、大)
右衛門尉
現代の軍隊では士官級で少尉から大尉に当る。この階級を3つに分けられていました(小、中、大)
左衛門佐
現代の軍隊では上級士官級で少佐から大佐に当る。この階級を3つに分けられていました(小、中、大)
右衛門佐
現代の軍隊では上級士官級で少佐から大佐に当る。この階級を3つに分けられていました(小、中、大)
左兵衛府
右兵衛府
親衛隊の近衛兵の指揮官。諸国の郡司の子弟などから兵衛を率いて、宮門の守衛や行幸の警護などを担当した。
民部丞尉(民部尉)
現代の軍隊では准将から大将に当り将軍位です。伊勢青木氏他4家の青木氏はこの冠位です。
例として、「北面武士」、「西面武士」ということばがありますが、「北面武士」は北側の門を守っていた近衛兵軍団です。
「西面武士」西側の門を守っていた近衛兵軍団です。
後に、天皇と北条氏と戦いましたが、この時にこの「西面武士軍団」が戦いました。
藤原秀郷一族はこの左衛門佐、右衛門佐の官位を代々授かり、この藤原氏は後に佐を採り「佐藤氏」と名乗ったのです。
左衛門の冠位を授かった藤原秀郷一門は左を採り「左藤」と名乗ったのです。
この様に、護衛隊の賜姓青木氏に与えられた職位ですので、この名誉を守り、名に左衛門、右衛門を付け前に区別用の文字をつける習慣がありました。
特に、近江の青木氏にはこの「..右衛門」の官位を名にしたものが多く襲名として引き継がれてきました。
伊勢は親衛隊の左右兵衛府の官職を担いましたので、「..長兵衛」の代々襲名として引き継がれて来ました。
御家のルーツは抱き角紋の諏訪族青木氏で24氏の一つですので、代々この「..右衛門」を襲名していたのではと考えます。しかし、江戸時代末から明治にかけて誰でもが使うようになりました。
江戸時代初期までは、厳格にこの官位の名を使用する事は青木氏や藤原氏らにて守られていました。
群馬の青木さん この様にご先祖の名には由緒あるお名前ですので引き継がれて来たものと思います。大切にしてください。大正時代までは普通の名に成っていましたが、元はこの様な青木氏と藤原氏に関わるもので意味を持っていました。
又、何か判りましたら、是非お便りください。お待ちしています。
No.429
Re: 最新・・・
群馬の青木さん 2007/03/26 (月) 18:52
ありがとうございます。
すごい名前なのですね。また調べてみます。
そして、また聞きたいことがあるのですが、庭の外(道路の縁側)に大きな石(縦幅1m横幅1m40)くらいの石が3つほどあるのですが、前から気になっていたのですが昔の武士は石の大きさなどで石高を表していたと聞いたことがあります。もしかして、それらの石はそれなのではなかと思うのですが、実際どうなのでしょうか?また、父の話では開拓して出たものでないかと言っておりました。
No.430
Re: 最新・・・
副管理人さん 2007/03/26 (月) 21:56
>ありがとうございます。
>すごい名前なのですね。また調べてみます。
>
>そして、また聞きたいことがあるのですが、庭の外(道路の縁側)に大きな石(縦幅1m横幅1m40)くらいの石が3つほどあるのですが、前から気になっていたのですが昔の武士は石の大きさなどで石高を表していたと聞いたことがあります。もしかして、それらの石はそれなのではなかと思うのですが、実際どうなのでしょうか?また、父の話では開拓して出たものでないかと言っておりました。
今日は。さて、ご質問ですが、
石の種類は何でしょうか。
昔、江戸時代の御家人が家柄を競うため、庭石や灯篭などで誇示した事がありました。石でも大きいだけでは誇示できませんでした。
石の種類の良し悪しがありますので、普通武家が競ったのは「青石」です。
この習慣は朝廷の公家達が庭に高級石の「紫石」等を庭石として玄関先や門前の見えるところに据えました。
この「紫石」は珍しい石であるので大きいほど値打ちがありました。当然に数も多ければそれだけで高級石を持っているので値打ちが上がります。
何故、この紫石が良いかというと、朝廷や幕府では、紫は当時、僧侶の袈裟色が最高位を示す様に、色として最もいい色と認められていました。
確かに紫石はきれいです。次に良いのがこの「青石」なのです。
この二つの石は万葉歌などを刻んで碑にしたりして、家柄身分の嗜みとして公家や貴族は楽しんだのです。
紫石は、天皇や公家が使う特別仕立ての最高級硯石に用いられました。めったに見つかりません。
青石は比較的にありますが、特産地は何れも主に紀州石なのです。昔より県外不出の条例があるくらいです。
紫についで青は青木氏の青で、その氏の由来どおりに昔は全ての根源を意味したのです。
青もきれいですが、「生命の根源」を意味していました。青木と言う木がありますが、この木は常緑樹で真っ赤な10ミリ程度の実をつけます。
赤い実は、血を意味し命を表し、青い葉は長く続く生命を表します。生物の根源を意味するのです。
ですから、我々の皇族賜姓青木氏の氏の由来が、青木なのです。全ての民の根源、即ち民の元を意味して天智天皇から賜姓を受けてつけられたのです。
この様に、紫石や青石は大変貴重できれいな石である事から、そのステイタスとして持つ事を競ったのです。
そのために入手そのものが難しいかったのです。今も。
関西、紀州では今でもこの二つの石を多く大きく持っている家はその家柄を誇っています。
他に、第3番目に白岩石(御影石)も同じ扱いをされています。あまり、わざとらしいので風流を好む人には好まれません。「枯山水邸」に谷川を表す石として用いています。
一度どのような石であるかをお調べください。では又お便りお待ちしています。
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