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No.387

大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
青木一徳さん 2007/01/24 (水) 17:56 [ メール ]
長野県の北部の県境に近い青木氏は、足利氏流との記述がありましたが、この地域で一番、素性が確かなのは、江戸時代に上田藩川中島内中氷鉋村の名主及び組頭の青木氏では?
長野県では現存する最古の太閤検地帳(文禄期の増田長盛による)を伝えています。
全国によくある話ですが、大坂の陣で浪人に加わって戦死し、戻って帰農し村役人との伝承。
家紋は3家あり、表紋が丸に剣カタバミ、裏紋が三盛り州浜の家と、左三つ巴の家があります。
中世には青木湖畔に荘園を持っていたことからの由来といい、青木村の青木氏とは違うようです。

このような大坂浪人系を伝承する青木氏には、石田三成の鉄砲頭で、関が原の戦いで捕虜になつた
青木市左衛門の末裔もいるようですが、情報を教えてください。
No.388

Re: 大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
青木研究員 さん 2007/01/24 (水) 21:13
>長野県の北部の県境に近い青木氏は、足利氏流との記述がありましたが、この地域で一番、素性が確かなのは、江戸時代に上田藩川中島内中氷鉋村の名主及び組頭の青木氏では?
>長野県では現存する最古の太閤検地帳(文禄期の増田長盛による)を伝えています。
>全国によくある話ですが、大坂の陣で浪人に加わって戦死し、戻って帰農し村役人との伝承。
>家紋は3家あり、表紋が丸に剣カタバミ、裏紋が三盛り州浜の家と、左三つ巴の家があります。
>中世には青木湖畔に荘園を持っていたことからの由来といい、青木村の青木氏とは違うようです。
>
>このような大坂浪人系を伝承する青木氏には、石田三成の鉄砲頭で、関が原の戦いで捕虜になつた
>青木市左衛門の末裔もいるようですが、情報を教えてください。

どこかの青木一徳さん 今日は。始めまして。
先ず、お尋ねは次の3つとしてお答えします。

信濃国北部の足利氏系青木氏に付いて。上田藩の青木氏か。
家紋3つの氏の青木氏に付いて。青木村の青木氏か。
大阪の陣での豊臣方青木氏に付いて。

以上の事としてお答えします。

先ず足利氏系青木氏(二つ引き両紋)に付いてはそのルーツは皇族賜姓青木氏と信濃の足利氏との間で血縁を結んだ一族です。この皇族賜姓青木氏に付いては研究室の所に詳しくレポートしていますのでお読みください。

概要は天智天皇から光仁天皇までの男系天皇5人(天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇)の夫々の皇子のうち第6位皇子を天皇自ら青木氏を賜姓して、臣下させて侍とし天皇を護る親衛隊として、5つの国の守護王として遣わした者です。
この国は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐です。この国の王(青木氏)となつたものです。

この場合は信濃王の末裔の青木氏は土地の豪族足利氏(藤原秀郷より4代目兼光から更に4代目の成行を土地の足利氏の分家の跡目に入れて足利氏の本家を奪い取り、本家の足利氏を美作国に追い出した)と血縁を結んで2代続きの跡目が出来ず家紋掟にて足利氏系となつたものです。
(2代続いての女系になると養子婿先の家紋となる。元は笹竜胆紋)
この一族が信濃北部の国境に定住すみわけ、もとより国府にはこの皇族賜姓青木氏が定住し、南部には藤原秀郷流青木氏が住み分けていました。

藤原秀郷流青木氏に付いては研究室の「藤原秀郷一族の生き方」に詳しくレポートしていますのでお読みください。

この足利系青木氏は末裔の方でこの地域から沢山にこのサイトに投稿されています。
お説の名主の青木氏に付いては調べてみましたが、家紋と宗派の点で疑問とみています。多分、足利系青木氏ではなく、藤原秀郷流青木氏ではと考えるのが妥当と見ています。

そもそも、この上田藩の上田氏は父と弟が西軍に合力しましたがこの上田氏は藤原秀郷の一族です。
そして、この上田氏に所属する青木氏は藤原秀郷流青木氏で御説の青木氏もこの支配下にあつたと見られます。

次にこの時に伊勢青木氏を始めとして皇族賜姓青木氏5家5流は徳川方に合力しました。
伊勢青木氏は徳川家康方に250を持って参戦したと記録されていますので、5家5流の元締めとして采配していましたので、5家5流24氏も徳川に付いています。
有名な名張と伊賀の戦いで1575−8年に織田と秀吉から伊勢青木氏は攻められていますので西軍に合力する事はありません。
よって、上田藩の青木氏は皇族賜姓青木氏(足利氏系青木氏含む)ではなく、藤原秀郷流青木氏です。

下克上と戦国時代を経てきた室町期から江戸期までのルーツの系譜や家紋などは全く信用が出来ません。徳川氏でも系譜搾取改纂ですから。

私が研究した中で矛盾だらけで一度も確定した事がありません。
ですから、鎌倉時代まで遡って検証する必要があります。特に2つの高位の青木氏に関してはある特定のいくつかの絶対条件が合う必要がありますので搾取改纂では矛盾が生まれるのです。

次の3つの家紋に付いては全て藤原秀郷流青木氏の家紋類です。従って、皇族賜姓青木氏の青木氏では有りません。

この皇族賜姓青木氏は上記5家5流の青木氏と伊勢の国を除く4国の豪族との血縁氏とその支流24氏とで成り立っています。5家5流の青木氏の綜紋「笹竜胆紋」と24氏の家紋の中にはありません。

この3家紋は明らかに藤原秀郷の一族の綜紋の「下がり藤紋」と主要5氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)から末裔を広げた24氏の3つの氏の使用する家紋類です。

先ず、第1に、丸に剣片喰紋は酒井氏との血縁による藤原秀郷流青木氏でその分家筋に当ります。

第2に、三盛州浜紋は陸奥の小山氏(秀郷から4代目兼光系で、更に5代目政光が跡目のルーツ)の代表家紋です。陸奥小田氏の支流です。この氏と藤原秀郷流青木氏との血縁による一族です。

第3に、左三つ巴は宇都宮氏、小山氏、佐野氏、結城氏、赤松氏です。藤原秀郷系24氏の中の兼光系4主要氏の氏と家紋です。この一族との同族血縁による青木氏(佐野氏系)です。(矛盾点として、兼光系ですが、佐野氏以外に、ただこの一族からは青木氏は出ていません。)
(藤原秀郷流青木氏は116氏にも及んでいますのでご注意ください)

この一族の青木氏は各地に赴任して定住していますし、その本家筋は武蔵国の入間郡を中心にして横浜神奈川を半径として円を描く範囲の中に、内円を総宗本家筋にして定住し、外側に支流本家筋が囲み宗家を護っています。。(武蔵、下野、常陸)
分家筋は全国24地方の各地にも分布しています

藤原秀郷流青木氏は藤原秀郷の第3子の千国を元祖としてそれより3代目の兼光系から青木氏が護衛役として継続発祥しています。17代目で更に行久のところで総本家から跡目を入れて継承しています。
(貴族に成った藤原秀郷は、皇族賜姓青木氏の親衛隊役方式を真似て、朝廷より青木氏の氏を使う事を子供の千国に許されます。嵯峨天皇から皇族の者以外に青木氏を名乗ることの禁止令の詔を発しました。その代わりに第6位皇子は源氏を名乗りました。)

以上は「青木氏(家紋)と血縁族」と「家紋掲示板」などのレポートを参照して下さい。
この一族の方々が当サイトに多く投稿されています。
この3家紋の青木氏は皇族賜姓青木氏では有りません。

この信濃の青木氏には以上3氏の皇族賜姓青木氏と足利氏系青木氏と藤原秀郷流青木氏とが住み分けていますが、更に別に皇族青木氏(島氏と橘氏の2氏青木氏)と伊川津七党青木氏、第3青木氏(江戸初期前後と明治初期苗字令で青木氏を系譜搾取改纂した青木氏)の3氏の青木氏が混在しています。

下克上と戦国時代で、室町期から江戸初期までの混乱期でこの住み分けはかなり崩れています。したがってこの時期の資料では信用が出来ない理由の一つなのです。

青木氏に関しては鎌倉期前の資料で是非にお調べになる事をお勧めします。

大阪の陣での青木氏は次の資料に掲載されていますのでお調べください。
「徳川除封禄」です。ここにお尋ねの青木氏が記載されています。

念の為に、青木一重、青木木工右衛門、青木左京進衛門、青木紀伊守一矩、青木伊賀守忠元、青木次郎兵衛、青木多膳、青木太郎左衛門、青木清左衛門、青木新兵衛などが挙げられると思います。

研究室と家紋掲示板と地名地形データーベースと青木氏氏ブログに詳しくレポートしています。

ご不明な点がありましたらご遠慮なくお尋ねください。

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