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No.189

群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/03/15 (水) 19:58
群馬にすんでいる青木です^^家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です^^ですが実際のところ…どこの血筋かわかっていません(親もわからないw)宗派は真言宗です^^;(お寺が真言宗だからw)よろしくお願いします。
No.190

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/03/15 (水) 20:46
追加ですw家の近くには諏訪神社という神社があります。
No.192

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/03/15 (水) 21:52
>追加ですw家の近くには諏訪神社という神社があります。
群馬の青木さん 始めまして。

お尋ねの件ですが、貴方の親類の方がこのサイトにお二人もお尋ねがありそのお二人は非常に近い親類であった事が判っています。
特に、栃木の方とのより近い親類であったと思われます。
貴方の過去のルーツのご子孫がこのサイトでお会いしたことに成ります。
大変珍しい事です。

詳しいことは、直ぐ下のレポートのその栃木の青木さんと神奈川の青木さんのレポートを先ずはお読みいただけると詳しいことがお判りになると思います。

そして、更に詳しくは、研究室の他のレポートの皇族賜姓青木氏のところと家紋掲示板のところの角紋をお読みください。

青木氏の血縁族と家紋(角紋)のレポートもお読みください。

お読み頂いたら又ご質問やお尋ねが有りましたら、是非ご一報ください。
では、お待ちしています。
No.194

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/03/17 (金) 13:34
ありがとうございます^^あともう一つ質問があるのですが?うちは町のなかでも一番の大農家だったと親から聞いております。倉には火縄銃とかなどがあるのですが。農業をする前は武士だった可能性もあるのでしょうか?
No.195

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/03/17 (金) 21:32
>ありがとうございます^^あともう一つ質問があるのですが?うちは町のなかでも一番の大農家だったと親から聞いております。倉には火縄銃とかなどがあるのですが。農業をする前は武士だった可能性もあるのでしょうか?
群馬の青木さん 今日は。
早速ですが、ご質問にお答えします。
栃木の青木さんのところや皇族賜姓青木氏の所のレポートをお読みいただいたでしょうか。武田氏系青木氏の諏訪族と書いています。

武田信玄の武田氏です。武士です。

では念の為に
丸に抱き角紋の甲斐の武田系諏訪族の青木氏は元は奈良時代には中国の後漢の国が潰れてその第21代目の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王の引き連れた17県の民が日本に帰化してきました。この一部は甲斐の山奥を開墾して外来種の大馬を育てて生活の糧にしてこの地に住み着きました。
そして、その開拓した土地を天領地として天皇の第6番目の皇子を武士にしてこの甲斐の国の守護としました。
そして、天皇はこの第6番目の皇子に臣下するために氏名を与えました。此れが甲斐の青木氏です。つまり、光仁天皇の第6番目の皇子が初代の青木氏です。
その後に、此処に奥州の豪族の武田氏が武蔵の国の藤原秀郷(大化の改新の藤原の鎌足の8代目の子孫)が勢力を挙げてこの子孫が陸奥の守護(鎮守府将軍)として赴き土地の豪族の武田氏と血縁をしたのです。
この藤原の秀郷の血縁を持った武田氏が藤原秀郷の子孫の次ぎの赴任先の甲斐に同行して勢力を持ち土地の豪族を押さえてトップになりました。
更に1130頃に清和源氏の源の頼光もこの地の青木氏の守護の守護代としてこの甲斐に赴任しました。この清和源氏もこの武田氏とも血縁をしました。
そして、この武田氏は源氏の支流となったのです

この前に、この地の守護の皇族の賜姓(天皇から氏名を与えられる事)青木氏
(家紋は笹竜胆)とこの勢力のた持つた武田氏と血縁をしました。そして武田系青木氏(武田菱)が生まれました。
この時、武田氏はこの地に元からいた渡来人のを先祖にもつ諏訪族(抱き角紋)との間でも血縁をして地固めをしました。
この諏訪族と武田系青木氏との血縁も結ばれました。
これが抱き角紋の武田系諏訪族の青木氏です。
つまり、皇族賜姓青木氏の5家5流の支流24氏の一つです。

青木氏は天皇家の者以外に名乗ってはならない姓で皇族系の子孫です。
源氏は皇族賜姓青木氏の後に(光仁天皇の2代後)嵯峨天皇がこの青木氏から変名して皇族賜姓源氏としたのです。16代の源氏が生まれました。

その青木氏の血筋を持つのがお家で丸が付いていますのでこの抱き角紋の分家筋に当ります。
武士であるなどの話では有りません。
武士の頭領は源氏ですがその源氏より上の武士が青木氏なのです。

皇子の血筋を持っています。天智天皇から光仁天皇までの5代の天皇は天皇家を自らの身内でを守る為に、第6位の皇子を親衛隊としてが臣下させて武士にしたのです。(蘇我氏の横暴の反省から)

この皇族賜姓青木氏は5家5流あります。
伊勢の青木氏、近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏です。
天智、天武、聖武、文武、光仁の5代の天皇がそれぞれ第6位の皇子を青木氏に賜姓して臣下させたのです。

お家はこの甲斐の青木氏の血筋を持つ上記した武田氏系の諏訪族青木氏です。

青木氏にはこれ以外に上記した藤原秀郷流青木氏があります。この青木氏は武蔵の国と下野の国を中心に定住し守護として赴任する先の24の各地に分散しています。

大化の改新の藤原鎌足の第8代目が勲功を立て出世して貴族になりました。
この時、自分の子の千国に護衛役を与え皇族賜姓青木氏に習って朝廷から許可を得て青木氏として名乗りました。(当時は貴族になると武力を使うことはできないので)
此れが藤原秀郷流青木氏でこの青木氏は116もの支流に拡がりました。
藤原氏は朝廷のなかでも大勢力の持った氏でしたが、この藤原氏の中でも(四家)秀郷は最も出世しました。(平泉の藤原氏もこの子孫です)

お家一族は織田信長と戦い負けて諏訪族の青木氏はこの藤原秀郷流青木氏を頼って東に逃げ延びたのです。
この時、秀郷の領国の西の端の神奈川横浜に、分かれて一部は東の端の栃木に逃げ延びました。
信長はここまでは勢力が届きませんでした。
そして、お家はこの栃木の青木氏から更に群馬付近に後に移動したものです。

栃木の青木さんの所のレポートや皇族賜姓青木氏のレポートや青木氏と血縁族の角紋のところなどをお読みください。
改めて概略を書きましたが、農民でない事が明確に書いていますので。
天皇家の血筋を持つ武士です。

大農家は昔は庄屋や名主などを勤めましたが、この氏の人たちは元は全て武士でした。
この武士は、室町期には郷士や郷氏と呼ばれる土地に根ずいた姓と刀を持つ武士の事です。例えば坂本竜馬はこの郷士です。
一般の農民は大きい土地を持つ事は許されていません。

この青木氏の人たちは室町期から始まった下克上と戦国の時代で土地に根づき武士を務めながらも農業もした。又、豪商と言われる人の大きな商いは殆どはこの郷氏の人たちが行いました。豪族としてそのノウハウを持っていたからです。
昔は商いをするには護衛する能力が必要で、又シンジケートとの繋がりが無くては出来ません。大農業をしてこの産物を商いに載せるには盗賊などがいて奪われるし、又隣の国に運ぶには交渉する力が必要で普通ではできなかったのです。
そのためには武器も必要で銃や刀や家来が必要です。
殆どの豪族は裏ではこの大商いをしていました。

例えば楠木政成はこの郷士でこのシンジケートの繋がりが合って足利氏の10万の軍勢と3千の軍でも戦えたのです。シンジケートは各地に住む郷士であったのです。全ては農業もしていました。
昔は表と裏の社会があり、この裏の社会とのつながりが無くては豪族は勤まりませんでした。
ですから大商いはこの郷氏らの専売特許でした。
ですからお家のご先祖は後には郷氏と成り室町末期よりこの表を農業にしていたのではないかと思います。
郷士は一般の武士で、郷氏は豪族の武士です。

では、くどいようですがレポートをもう一度ご確認ください。
No.196

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/03/19 (日) 16:11
光仁天皇と青木時光(武田氏)と血がつながっているということですか^^
No.197

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/03/20 (月) 21:05
>光仁天皇と青木時光(武田氏)と血がつながっているということですか^^
群馬の青木さん 今日は。
お尋ねの件ですが、皇族青木氏は770年頃にこの甲斐の国の守護となって光仁天皇の第6位皇子が賜姓を受けて臣下し甲斐の守護として赴任しました。
そして、この地に子孫が定住して皇族賜姓青木氏が生まれました。
しかし、その後の800年ごろ桓武天皇はこの皇族青木氏を賜姓しませんでした。
その代わりに自分の母方の渡来人の阿多倍を引き上げて、たいら族として賜姓し、5代後には平の清盛まで上り詰めます。

皇族賜姓青木氏5家5流の勢力の拡大を嫌って律令国家を確立させるためにも青木氏を押さえ込みました。
このやり方を嫌った一代おいた天皇、子供の嵯峨天皇は元に戻す事をしました。
ただし、皇族賜姓青木氏ではなく皇族賜姓源氏としました。
つまり、変名したのです。そして、青木氏の姓は皇族の者が還俗する(皇子や皇族の人が皇位を外れる事)時に使用する姓として青木氏を使うよう詔を発して決めました。
その後この青木氏の変名の源氏は16代続きました。
その中の清和天皇の第6位の皇子の経基王が源氏となりこの孫の嫡男の源の頼光がこの甲斐の地の守護代として赴任しました。(1140年頃)
しかし、3男の弟の頼信の出世のために兄の守護代を譲り受けて替わりました。
ここを足場として関東に勢力を拡大していきました。

この頼信の孫に当る義光(1055)から8代目の源光(1195)が古くから居た皇族賜姓青木氏に男系が絶えて源光が跡目を引き継ぎました。

更に、この義光より15代目の義虎(時光系)が再び同じ理由で皇族賜姓青木氏の跡目を引き継ぎました。

この跡目は同紋で同族で同位の跡目であるので家紋(笹竜胆)と氏名は変わりません。
此れが甲斐の皇族賜姓青木氏の系譜です。

ここで、この源の源光と時光(兄)は兄弟ですが、青木氏はこの源光が青木氏の跡目を継いだことになり、時光からは青木氏は出ていないことになつていますが、青木時光の説があります。通説は源光説です。
(兄弟二人が青木氏の跡目を引き継ぐ事はない)

参考に、信濃は頼信の3代目の義康が足利氏に、義康より3代目の実国が信濃青木氏に、義光より16代目(不明)の信濃の皇族賜姓青木氏に跡目を引き継ぎました。

美濃は義光より8代目の時光から11代目(不明)が美濃の皇族賜姓青木氏の跡目を引き継ぎました。

伊勢は頼光より4代目の頼政の孫(仲綱の子)の京綱が1170年代に伊勢の皇族賜姓青木氏の跡目を引継ぎました。

この甲斐の皇族賜姓青木氏は前レポートの武田氏との血縁を結びました。
これが、武田系青木氏です。

この武田氏も清和源氏の跡目を受けており、頼信から4代目の義清が入り、信義、と信光が引き継ぎます。

この義清より8代目(頼信から12代目)の源光が甲斐の青木氏の跡目に入っています。
つまり、甲斐の皇族賜姓青木氏は頼信から12代目(源光)に、甲斐の武田氏は4代目(義清)に跡目相続が起こったということです。


しかし、この前に皇族賜姓青木氏と武田氏との間には血縁が起こっていて、武田系青木氏があり、この武田系青木氏の跡目を時光が引き継いだと言う説になっています。

弟の源光は甲斐の皇族賜姓青木氏を、兄の時光は武田氏系青木氏が跡目を引き継いだと言う事に成ります。

この源光も時光ではないかと言う説になっていますが、皇族賜姓青木氏の知識がなくて混同しているのではと思います。よく間違っている資料があります。

結論は甲斐の皇族賜姓青木氏と武田氏系青木氏と武田氏の3者とも清和源氏の跡目を受けたと言う事です。(男系相続が出来ずに跡目)

光仁天皇からは時代が大きく(350)離れていますので、時光または源光との間には血が繋がっているかのご質問は皇族系ということでは源氏と青木氏も同じ天皇家と言うことになり繋がっているということになりますが、時代が離れすぎていますので繋がっていないともいえます。
770年頃までは青木氏、1200年までは源氏で皇族賜姓族です。

兎も角も、お家のおずか紋の丸に抱き角紋の一族はこの武田系青木氏と諏訪族との血縁族で、その分家筋に当ります。

以上が詳細な結論です。
不明な点が有りましたらお尋ねください。
No.199

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/03/31 (金) 14:13
あの〜近所に諏訪神社っていう神社があるのですが?この神社は自分の先祖がにげのびたときにつくった?ものでしょうか?
No.200

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/03/31 (金) 20:11
>あの〜近所に諏訪神社っていう神社があるのですが?この神社は自分の先祖がにげのびたときにつくった?ものでしょうか?
今日は、群馬の青木さん。
早速ですが、お尋ねの件についてお答えします。

皇族賜姓青木氏の24氏の支流血筋を持つ高位の氏は自らの氏神と菩提寺を持っていました。
そして、この氏神と菩提寺には一族の者が宮司と住職を務めました。
ですから皇位系の氏神や菩提寺には青木氏を姓に持つ宮司や住職が多いのです。
例えば、古いところでは蘇我氏、物部氏、紀氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏、等の奈良朝の豪族、平安期では賜姓青木氏、藤原氏、永嶋氏、平氏、源氏等は自らの氏神をもつていました。

氏神や菩提寺を持つ事が出来る氏は多くは有りません。
それだけの財力と勢力が備わっていなければなりません。

皇族賜姓青木氏の5家5流の血筋を引く一族は全て専属の氏神と菩提寺を持っていました。
そして、この寺では浄土宗となっています。

一族の先祖の魂を祀る寺と一族の神を祭る神社は当然に室町以降の戦国時代には当然、先祖を敬う心は全てでしたから、戦いに敗れた時にはこの神社や寺も移動させています。

そうして、この皇族賜姓青木氏系の神社や寺には、次のことが起こります。
代々各天皇の第7位以降の皇子らが皇位から外れることに成りますので、比叡山や門跡寺院やこの青木氏の神社かの寺に入り、上位の座主を務めました。

門跡寺院とは元天皇や皇太子や5位の皇子が役職を退くときに入る寺院です。

この人たちが還俗や俗界に入る時(一般の人になる事)は嵯峨期の令に基づき青木氏を名乗ったのですが、ですから宮司や寺の住職には皇族系青木氏が多いのです。

例えば、面白い話があります。
徳川氏は征夷大将軍になり幕府を開きましたが、この根拠は駿府の時に家康の2大前の時に一人の行脚僧が門前に立ち、以後この僧は松平氏の家にに住み着き婿入りをしたとされていて、この僧が還俗僧であるとして14代か15代目の源氏の一族である言い募り、よつて征夷大将軍になれたと言うかなり怪しい系譜を作り上げました。

源氏は16代の天皇から生まれましたが実質は11代目の花山天皇までの源氏が正規ですが、12代から16代目天皇の源氏は既に室町期の戦国期に入り天皇家も北朝南朝の2つに分かれていました。
だから、源氏としての意味は殆どありませんでした。この時代の系譜をいじったのですから朝廷から殆ど疑われました。そして武士の頭領の源氏の頭領になれませんでした。

兎も角も、信長に負けた時、武田は滅びましたが、甲斐の諏訪族の青木氏は信長に追われる事はなく、この一族を滅ぼす圧力は掛けませんでしたので逃げ延びる時には氏の守り神のこの諏訪神社も移すことができたのです。
美濃の青木氏信濃の青木氏なども氏神を逃亡先に移しました。

特に、武田氏はこの諏訪一族を武力では勢力下に入れることは出来ませんでした。
その理由は並外れて強く、且つ馬を使う戦闘方式には武田氏は勝ち目がないとして結果として政略的な結婚にて傘下に入れました。

諏訪一族は日本書紀にも出て来る一族で、天皇に拝謁した時のことが日本書紀にははっきり書かれています。
その時の様子が書かれていて、天皇にはっきりと物を言う一族で甲斐の地域で外来種の馬を育て生活の糧として開墾していましたのでその実績から、天皇から「不入と不倫の権」を得ました。

この時、甲斐の国に赴いていた皇族賜姓青木氏も同行してこのことを言い添えるくらいでした。この頃からの平安初期からの付き合いのある皇族賜姓青木氏と諏訪族です。この経緯からの血縁です。

つまり、天皇自らこの一族に武力で犯すなどをしては成らないという宣言をしたのです。このことが日本書紀に書かれています。

ですから、武田氏も信長もこの、「不入と不倫の権」があるためにこの規則を守りましたが、諏訪族の青木氏は藤原秀郷流青木氏のど真ん中に神社を持つて逃げ込む事が出来たのです。又この神社も藤原秀郷の領国に作ることが出来たのです。
他に筆者の伊勢の皇族賜姓青木氏も一時秀吉に攻められ城は潰されましたが、その時の将が蒲生氏郷であつたので特別に保護されて、その後も紀州徳川氏にも「不入と不倫の権」で江戸時代まで守られました。
このように甲斐の諏訪一族とその青木氏も難を何とか逃れました。

兎も角も、武田軍の赤の兜の騎馬軍は諏訪太鼓を叩きいつも先陣を司り最強軍団と恐れられたのです。大きい外来種を飼育していたので強かったのです。
信長に滅ぼされた時、徳川氏がこの赤の兜の諏訪族の一団をそっくりと家臣にしました。だからその時から徳川氏が強かったのです。

云うまでもなく、諏訪族は元は中国の後漢の国の21代目の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍が引き連れて帰化してきた渡来人の騎馬軍団が先祖ですから強かったのです。

漢の国が崩壊しましたが、この中の武将の一人の光武帝が再び盛り返し、後漢という国を造り、朝鮮半島までも勢力下に収めるほどに強かったのです。
お家の先祖達は、日本で最初に東北から北海道を制圧した征夷代将軍の坂上田村麻呂も阿多倍王の長男でしたが、この縁の人たちでした。

お家のご先祖にはまだまだ沢山の武勇伝があります。

この様に、「不入と不倫の権」を得るほどに下野国でも藤原氏の中でも神社を建てられるほどにかなりの力を持っていたことが頷けます。

お家のご先祖はこの様な歴史を持つ一族です。
来年のNHKの大河ドラマではお家の事がドラマになりますので、是非、見てください。
では、事前に情報を得て面白く見るためにも又ご質問ください。
No.201

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/04/01 (土) 09:26
なるほど^^あと武勇伝とありますが…ほかにはどんな武勇伝があったのですか?
No.207

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/05/24 (水) 19:32
お久しぶりです^^この前お墓にいって調べたのですが・・・昔は浄土宗というのがわかりました。これは証拠となるのでしょうか??
No.208

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/05/25 (木) 10:30
>お久しぶりです^^この前お墓にいって調べたのですが・・・昔は浄土宗というのがわかりました。これは証拠となるのでしょうか??
今日は、お久しぶりです。
早速ですが、お尋ねの件のお答えは次ぎの通りです。
先ずは、完璧な証拠です。

その理由は、平安期頃の浄土宗に入り一族の宗派とする事は一般の者はありませんでした。
そして、この頃は氏家制度の中で「家柄とか身分」が全ての評価の基準になっていましたので、これ等の身分や家柄の高い者の宗派でした。

特に浄土宗は限られた者の宗派でしたので檀家も他宗に比べて極めて少なく江戸時代になって徳川幕府が浄土宗を奨励し各地に浄土宗の寺を建立しました。このたことから一般民衆もこの宗派に入る事をしました。現代のように多くなつたのは江戸期以降のことです。しかし、それでもある程度限られたものでした。

お寺の中に入って僧侶の説法を聞く等のことは一般民衆は事実上は無く、ある程度の者で無くては出来ない慣習でした。一般民衆は鎌倉期になってやっと辻説法を受けるなどが出来る程度になつたのです。

この様に身分家柄に依って宗派がかわる内容でした。
ちなみに、大まかに分けると、浄土宗は高い身分家柄の武士階級の者の宗派でした。次ぎに中流の武士階級では浄土真宗、下級武士や民衆では日蓮宗などの宗派と成ります。
鎌倉期以降はこれ等の宗派が分立することになりそのターゲットは各層に振り分けられてゆきます。
天台宗が元に成りますが貴族はもとよりこの天台宗でした。

皇族賜姓青木氏系5家5流の24氏と藤原秀郷流青木氏直系1氏直流4氏支流4氏の116氏は当然に浄土宗であります。
これ等の一族は自前で神社と浄土宗の菩提寺を持つ氏でありましたので、少ない浄土宗はこれ等の一族の寄進とで成り立つていました。

特に、藤原秀郷流青木氏は宗家の護衛役として赴任地に同行しましたので浄土宗の無い地方に出向く事が多く発生し止む無く土地に定住した青木氏の一族は浄土真宗のお寺を使うなどしました。よって一部には浄土真宗という藤原秀郷流青木氏が存在する事があります。

現代は特定の一族のお寺としてはなくなつていますが、下克上と戦国時代になる前の鎌倉期までは大きいこれ等の一族は一族のみの者を祀る寺でした。

お家の寺はどこのお寺かを調べれば其処が一族の先祖を祭る菩提寺です。
しかし、これ等のお寺は下克上と戦国時代には先ず先にこの様な特定の寺は家柄身分を打ち壊す事を目的とした中級武士以下の者らの反動がはじまりでしたので、狙い撃ちされたお寺でありました。
よって過去帳の様なものなどはまったく残っていないのが現状です。
そのお寺自身さえもわからないのが現状です。

ちなみに、私の家の菩提寺は奈良時代からある伊勢のS寺が一族の者のみを祀るお寺即ち菩提寺ですが、今はその歴史的なことさえも寺側では3度の焼失で情報を失っています。先日、この寺を訪れた時にこのことをお話した事である事実から理解されたようでした。その程度です。

浄土宗を宗派とするお家はこの様な理由から家紋と同じく確実な証拠と成ります。
宗派と家紋は自分の家が変えても他の親族一族が変えない限り又総宗本家が変えない限りは変える事は出来ませんので大きな証拠になります。

研究室にレポートしている「青木氏と血縁族」の33紋様の青木氏が皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏との全てと成ります。現在は詳細レポートは17紋様目です。


お家のルーツの土地の話などを調べるとちょつとしたことが証拠になる事があります。
私の家のことを紹介しますと、
先祖に大変に鉄砲の上手な年寄りが居て江戸時代に伊勢松阪に紀州の殿様がきて鷹狩をした。その時、殿様が行ったり来たりして野良仕事にならなかった。そこで終いに年寄りは挨拶をしなかった。(年寄りは伊勢松阪の豪商の紙屋長兵衛で郷氏との2足の草鞋の主)
怒った家来は鉄砲で威嚇した。そこで年寄りはその鉄砲を取り上げて遠くにある柿の実を狙って打ち落とした。びっくりした殿様は鷹狩を中止し城に帰った。明くる日に呼び出しがあつた。打ち首になる覚悟で家族と別れをして白の袴に紋付の装束で城に出た。しかし、実に丁重で様子が変である。
殿様に面会した。突然、殿様は上段から下座した。そして、年寄りに上段の上座に座るように云う。隣の家来に聞くと分けがわかった。
1300年の歴史を持つ皇族賜姓伊勢青木氏の総宗本家の主である事を知った殿様は家柄は上位であるので上座に座ることを求めたのである。
その後、14代目までの紀州の殿様には「南画」(墨絵)を教授した。

吉宗のとき将軍となった時、松阪の豪商紙屋長兵衛の商才を見込まれて青木長兵衛は江戸に同行し納戸役(財務経済の長)として働き「享保の改革」を実行したと記録されています。我が家の記録と一致します。

以後、紀州徳川家とは代々14代に渡り大正14年まで極めて親密な親交を続けたとの史実の逸話があります。
そのことから家中を調べた結果、紀州徳川氏からの手紙数通と明治天皇の側近中の側近の二条氏の手紙も存在しますし、天皇家から拝領の品も存在します。
これで言伝えが事実と確認できた事になります。

このように一寸した家伝の言い伝えと土地の逸話との間に共通点が発見されてルーツを確定出来ることがあります
この様な土地の逸話一つにも大きな当時の慣習と先祖のことがわかる事があります。又他にもあります。

歴史小説家の司馬遼太郎氏が伊勢青木氏に付いて次ぎの様な事を調べていて、
”天智天皇から青木氏の賜姓を受けた時に伊勢王の施基皇子に授けられた仏像があり、この仏像が発見されれば日本の歴史上に意義のある古い仏像(日本最古)となる”と書物に書いてありますが、この本を読んだときに実はこのかなり大きいきれいな銅の仏像の事は自宅に祀られてあり、先祖伝来のステイタスとして長く伝えられた「お仏像様」と聞かされていましたので、矢張りと納得しました。
この仏像は現在はあるところに保存されています。(後日写真で紹介します)

この様にルーツはちょっとしたことでもキッカケを見つけることが出来ますので、何でも結構ですから、又お尋ね下さい。
No.209

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/06/03 (土) 18:41
ありがとうございます^^あと来週武田神社にいってきますw
No.210

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/03 (土) 21:04
>ありがとうございます^^あと来週武田神社にいってきますw
今日は。群馬の青木さん。
私も隣の埼玉の草加に若い頃に長く住んでいました。群馬にもよくでかけました。
群馬埼玉は関西と一寸違った地方感があり関西にいると懐かしく思い出します。握り飯を持つて田園風景に満ちた河にフナ吊りに出た事など思い出します。関西にはリアス式海岸ですのでこの様な景色は有りません。
お家のご先祖も甲斐付近から神奈川と群馬に移り住み景色の違う所で故郷を懐かしく思っていたことでしょう。

来年のNHKの大河ドラマはお家のご先祖のことがドラマになりますので、ドラマを通じてルーツの人情や景色を感じ採るのも一興かとも思います。
その意味でも武田神社への訪問は更に懐かしさが増すものと思います。
楽しい訪問に成りますように。

さて、武田神社にお出かけとの事ですが、訪問されましたら是非とも土地の逸話などを仕入れてくる事をお勧めします。

土地の役所などが出している史書がありますし、神社などでも周辺に逸話などが残っている事もままあります。

そう云うものを一つにしてご先祖の逸話として整理しておくと後世の人が見て参考になる事に成ります。今までの内容と共にお勧めします。これからは益々と史実がなくなりますので。

研究室などの関連事項もコピーしてファイルしておく事もお勧めします。
皇族賜姓青木氏系の武田系諏訪族青木氏の由来書のようなものをお造りになられたら如何ですか。

私が明治35年に焼失した家伝を父親から頼まれてはじめ、青木氏のことを調べてから40年以上かかりましたからまずこの様な資料は先ず無くなると思います。
40年まえと現代とではあまりにも社会が変化してルーツロマンの資料は軽視されていく事になるでしょう。

しかし、我々5家5流の青木氏はほぼ失った史実は回復していると思いますが、なんとか我々の子孫には伝わることで過去のロマンを味わう事が出来ます。

近江佐々木氏の方も昭和のはじめに佐々木氏のことを研究されていて青木氏との繋がりを書いています。私の研究と天智天皇の皇子の第6位、7位のところで一致するなど関連各氏も研究しています。
我々皇族賜姓青木氏系一門も出来るだけ多くの資料を復元して未来の末裔に生きた証としてロマンを残そうではありませんか。

また、武田神社でのお便りも是非お聞かせください。
No.213

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/06/13 (火) 19:44
武田神社いってきました^^
何か懐かしい雰囲気しました♪群馬ととても環境が似てました♪
しかし青木という姓が家臣団の表の中にのっていなかったことがショックでしたw
しかし鎧の兜の部分に鹿の角のような形のものがついていました。
No.214

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/14 (水) 10:35
>武田神社いってきました^^
>何か懐かしい雰囲気しました♪群馬ととても環境が似てました♪
>しかし青木という姓が家臣団の表の中にのっていなかったことがショックでしたw
>しかし鎧の兜の部分に鹿の角のような形のものがついていました。
>群馬の青木さん 今日は。
武田神社を訪れたとの事ですが、よかつたですね。
ルーツを訪れると何か落ち着く物がありますよね。私も何か不思議な感情がわいてきました。これは多分、遺伝子に組み込まれた感情の原理がその土地についた時に湧き出して不思議な感情にさせるのだと感じました。私は特に家伝の仏像を見たときに頭が真っ白になり身震いする事がおこりました。写真をとる事も忘れてボートと立っていました。

さて、そこでお家の青木氏の姓が家臣団に無かったとの事ですが、当然の結果です。むしろお家の証明になるものです。
つまり、前回等のレポートでも書きましたように、諏訪族は朝廷から「不入不倫の件」を与えられました。よって上位の家柄の諏訪族と諏訪族青木氏には後から来た武田氏は武力でねじ伏せて潰して家来にする事が出来ませんでした。結局、訪族代表の姫を妻に迎えることで決着をつけて土地の全権を握ったのです。そしてこの陸奥から来た武田氏は諏訪族を味方にし血縁した勝頼を産み、その家柄を上げる事ができて、且つ、源氏とも、賜姓青木氏とも血縁を結ぶことが出来たのです。
この様に、諏訪族は武田氏の家来では有りませんし、家柄も武田氏より上です尚の事、諏訪族青木氏は皇族24氏の一つですので更に上位の家柄であったわけです。上位の家柄の者を家来にする事当時では有りません。氏家制度で縛られていましたので。当時の上位の婚姻はこの氏家制度のもとに血縁の純度を守る為にその総宗本家の許可が必要と成ります。
諏訪族側からすると武田氏が諏訪族の姫を求めることは逆の行為でありますので”うん”といわなかったのですが、政治的生き残りから止む無く血縁を結んだ事に成ります。有名な史実です。

その諏訪族のなかの諏訪族青木氏は尚のことです。
しかし、軍事上武田一族の傘下に入る事になりましたが、武田家臣では有りません。今でいう、一種の政治的同盟関係になるのです。
これを当時の言葉で「合力」「与力」という言葉を使います。
そして、武田氏の中では「客員軍師」と言う位置付けになります。
3つの城を持っていた私の家も信長の伊勢永嶋攻めで「客員軍師」として「北畠氏」に合力しました。

その役目は作戦を練るときに参加して意見と延べ協力をするのです。

丁度、信長と家康の関係です。家康は信長の家臣では有りませんでしたよね。
戦いは、武田氏という一つの部族だけでは戦う事ができる程に人数をそろえることは出来ません。全てこの同盟関係のもとに何万という軍を作り上げることが出来るのです。
ですから史実では武田系諏訪族青木氏となっています。武田氏の下の傘下にはいった諏訪族と言うことになるのです。系という漢字はこの意味です。

この諏訪族は大変勇敢で諏訪太鼓を元に家臣団より前でいつも戦い、一度も敗れることがなかったのです。
ですから、徳川氏も最初戦かつて負けたこの諏訪族を後には一団を家臣にしましたが、武田氏の家臣ではないので信長は何も云えなかったのです。武田氏の家臣は殆どつぶされました。
ですから、他の諏訪族青木氏前回のレポートのようにの一族は関東に逃げ延びることも出来たのです。

つまり、家臣団の中に無い事が諏訪族青木氏の証明になるのです。
もし、諏訪族青木氏が武田氏の家臣団の中にあるとすると、お家の青木氏のルーツにありえないことなので疑問が残る事に成ります。

更に一つ証明がすすんだことを意味します。
お家と同族の方が多くこのサイトでお尋ねいただきましたがこれもその一つの証明になる事に成ります。
お家がもし武田氏の家臣団であるとするとサイトの同族の方も同じ事に成りますので、矛盾が生まれます。
一見家来かの様に見えますが、家臣団と言うのは家来の又家来その又家来となつて構成されていますので団なのです。枝葉のように。しかし、辿れば基は一つということに成ります。

しかし、お家はこの一団の中には入っていません。独立した由緒ある一族なのです。
戦国時代を経て現在までその青木氏の名を残しているのはこの家臣団ではなかったからです。家臣団では戦いの後の掃討作戦でことごとく遠慮なく抹殺されます。
兜の紋様に付いては家紋以外のものも多いのですが、この鹿角紋もこの兜紋から来た物です。
しかし、この紋様を使う他の鹿角の一族で青木氏以外の一族も家臣団にはあるはずですが諏訪族青木氏の鹿角紋の青木氏は家臣団には無い筈です。
丁度、このサイトに青木氏以外の四つ又鹿角紋の狩野氏と言う方がルーツのお尋ねがありましたが、この方は武田氏の家臣団の鹿角紋の方です。

諏訪族青木氏は本来は笹竜胆の家紋であるはずですが男系相続が不能になったこのことから諏訪族より養子を迎えて青木氏の家を継ぎ家紋掟により笹竜胆を使用することが出来ずにその養子の時代は鹿角紋を使用していたのです。
この夫婦にまたもや男子が生まれず結局2代目で鹿角紋となってしまったものです。
これ等の家紋認可は総宗本家が認可しますので、勝手に家紋を使うことは出来ませんから2代も女系となつた以上笹竜胆に戻ることは出来ません。
普通は2代目に男子が生まれるとこの子供世代は下の笹竜胆の家紋に戻す事が本家の認可の下に出来ます。
この様に皇族賜姓青木氏でありながらも家紋種が増えてゆくのです。

この様に、歴史には現在と違う氏家制度の中で検証することが必要なのです。

又何かわかりましたらお尋ねください。更に興味を出してルーツ探しにお楽しみください。
No.215

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/06/14 (水) 18:56
ありがとうございます^^
あと家の倉に火縄銃があることがわかりましたw確か武田神社にも同じものが飾られてました。これは先祖が使っていたのと考えてよろしいのでしょうか??

あとうちは江戸時代の頃に養子をとったというショックなことを聞きました。しかし昔のことですから従兄弟や親戚や遠い血のつながりから養子を取ると思うのですが??どうなのでしょうか??
No.216

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/14 (水) 21:58
>ありがとうございます^^
>あと家の倉に火縄銃があることがわかりましたw確か武田神社にも同じものが飾られてました。これは先祖が使っていたのと考えてよろしいのでしょうか??
>
>あとうちは江戸時代の頃に養子をとったというショックなことを聞きました。しかし昔のことですから従兄弟や親戚や遠い血のつながりから養子を取ると思うのですが??どうなのでしょうか??
普通、この火縄銃を戦国時代にもてる事は余程大きな氏でなければ持つ事は出来ません。

二つの理由があります。
一つは価格が高いこと。二つは火縄銃を入手する事が難しい事です。
火縄銃は闇のシンジケートとの繋がりをもつ事で可能と成ります。
したがって、このシンジケートと渡り合う勢力が必要です。

紀州の雑賀族がこの火縄銃をつくっていました。そして、この火縄銃は闇のシンジケートに流れて販売されます。
このシンジケートとしては若宮氏、今宮氏、などが有名です。この氏は表本職は神社の宮司です。この宮司が堺の商人との繋がりで各地の販売ルートに乗ります。
これだけでは火縄銃は使えません。火薬を入手する必要があります。これもシンジケートです。この火薬は堺商人や伊勢商人や松前商人の豪商が秘密裏に販売しています。
これ等の商人は別の顔として土地の豪族であり、普通は二束の草鞋策を採っていたのです。豪族は税として集めた土地の産物を売りさばく能力を持っているので別の顔も持っているのです。
そして、これ等の商品を無事に運ぶ武力も備えています。また、シンジケートも土地の豪族崩れの一族が浪人となった侍を集めて各地と連携して一団を形成して作っているのです。単純なシンジケートでは有りません。これ等のシンジケートと渡り合えるのは豪族であるのです。

私の伊勢青木氏も伊勢の豪商紙屋長兵衛としての顔ももっていて、この火薬を扱っていた形跡があります。この火薬の爆発で980年も続いた紙屋は焼失したことが記録されています。

信長はこの火縄銃を戦いに多く使い銃撃戦を最初に展開したのです。
しかし、この火縄銃を最初は入手できずに悩んでいたところをと秀吉が野武士の蜂須賀族に入っていた時にこのシンジケートの存在を知っていて信長に教えます。そして、このシンジケートの元締めの今宮氏に繋がり取り、雑賀氏と会い大量の火縄銃を入手して、火縄銃の扱いの熟知している雑賀族の3百人の雇い兵をつかって周囲の豪族を打ち破って行きます。

火縄銃はこの様な背景があるので、持っているということは一つのステイタスです。先祖が使っていたことに間違い有りません。

男系相続が出来ないときは先ずは同じ家柄程度のところから養子を採ります。
この養子の時代は元の家紋は使用できません。この時、姓はそのままで家紋を養子先の家紋を使用します。または本家の許可を得られれば元の家紋に丸付き紋として使用します。丸付きは分家扱いと成ります。
この時代の分家扱いは相当なダメージになります。正式な場での扱いなどで大きな差が出てきます。
この養子との間に出来た男子の子供に初めて元の家紋に戻す事が使用出来ます。しかし、男子でなく2代続きの又女系であればこの時点で元の家紋は2度と使えません。間に女系が入ったので。この様な掟で青木氏であっても家紋は増えてゆきます。

お家は元は笹竜胆が元の家紋ですが、上記の掟で諏訪族から跡目を入れて家系を継いだが女系が2度以上続いたことから諏訪族の鹿角紋の抱き角紋に変紋を余儀なくされた事を意味します。更にこの時点で丸付き紋になっていますから
この丸の持つ意味が何であつたかの疑問が残ります。
更に諏訪族から別の家紋になる事を嫌って本家の許可を得て丸付き紋にしたのか、元々の分家筋であったのかはお家のルーツの検証点の一つです。

兎も角も、諏訪族の血が賜姓青木氏の純血のものより濃くなった事を意味しますから諏訪族青木氏と成ります。純血を守る為に皇族青木氏の総宗本家では笹竜胆の家紋を使うことを認可しません。

お尋ねの江戸時代の養子が入ったが家紋は諏訪族の鹿角紋の抱き角紋でありますので、直ぐあとは男系相続の跡目が出来たことを意味します。
したがって、血筋は保たれている事がいえます。最大で15%程度の純血の変化で済んでいると思います。

普通もし代々で血液型が同じであるとすると5%程度です。
隔世遺伝で3代後に1代目と同じ血液型のものがでてきますから少なくとも10%程度の血筋の変化ですのでショックになる必要はありません。
遺伝子の研究がすすみましたが、昔は結婚すると50%変化すると言われていました。3代目には完全に違う血筋になるとみられていましたが、現代では人によっては95%以上同じ遺伝子を持っていることが証明されていて、最悪でも15%程度とされています。つまり、同じ血液型の子供は95%であるとすると殆どクローンです。5%は配偶者系列の遺伝子と成ります。

血液型が同じであれば代々遺伝子の基本90%程度は変化しないという事になります。

余談に成りますが、5―10%の遺伝子が違わないという事はクローンと成ります。と子供は殆ど自分ですよね。子供を大事にすることは自分を大事にすることと同じですよね。
国民にもつとこのことを知ってもらいたいのですがね。
もう一ついえる事がありますよね。
現代の自分にたいして、先祖は過去の自分です。未来の自分は子供です。更に次ぎの未来の自分は孫ですね。
ルーツを調べることは過去の自分がどのように暮らしたかを知ることですね。
子供や孫を可愛がることは自分を可愛がることに成ります。
そして、人生の目的は究極は子孫の自分をのこす事に他なりません。その間に起こる喜怒哀楽は人生の本来の目的では無い事に成ります。
現代の喜怒哀楽を目的とした思考は仏教では「刹那主義」として戒めています。「刹那主義」とは「追い詰められた者の思考」

話を戻します。
血縁者から養子はとる事は危険がありますので最低は4親等代以上の者とする必要があります。
しかし、子供がいない時はより近いところから迎えることをしなくては家紋使用の認可は下りません。この場合は近親者と成ります。3親等(従兄弟)と成ります。
どの氏も殆どは養子縁組が先祖の中にあります。
私の家は同族で同家紋の皇族賜姓源氏より跡目を迎えて子孫を繋ぎましたので家紋も同じで幸い現代までいたっています。孫が男子ばかりですのでこれより後100年は継承できます。1465年続く事に成ります。

兎も角も、一代程度では先ず大した変化では有りません。3代後に戻していることが考えられます。
ちなみに遺伝子工学では
女系と男系では遺伝学的には引き継ぐものが異なっています。
女性の卵子では人遺伝子を引き継ぎます。まず人族である遺伝子と世界での人種の遺伝子と族の遺伝子を引き継ぎます。
男性の精子の尾の付け根のところに性格などの人の持つ諸々の遺伝子を引き継ぐ部分があります。

男系女系の引継ぎの習慣はこの二つの理屈のどちらを選ぶかに掛かります。
同じ人種内での事であれば、当然に男系の継承と成りますね。他国との交配の少ない場合の男系が多いのはこの理屈から来ているわけです。
日本は島国ですから他国の人種との交配がすくないので男系と成っているわけですが、中東では血液の融合が起こらず族で固まった結果で民族間の争いがおこっています。

(650年ころまでは多かった。お家の諏訪族もレポートしましたように漢民族の末裔の血も入っています。天皇家でも朝鮮民族の血も3度入っている事に成ります。応仁天皇期、蘇我氏の時代、桓武天皇期(お家のご先祖本家首長の血筋)
この様に日本民族は7つの人種の混合民族から構成されて血液の融合がおこり単一の日本民族が出来上がったのです。研究室レポート参照)

上記の通りですが判らない点が有りましたらどんどんお尋ねください。
ルーツ探しはこの様な事の知識の取得から資料を始めて解析して楽しみが増しますので。
No.217

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/06/16 (金) 16:04
ありがとうございます^^

あとこれからの我等の子孫にこれからも伝えるために資料をつくることになりました。
良かったら詳しい情報やまとめ方など教えていただければ光栄です^^
No.218

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/06/16 (金) 19:38
>ありがとうございます^^
>
>あとこれからの我等の子孫にこれからも伝えるために資料をつくることになりました。
>良かったら詳しい情報やまとめ方など教えていただければ光栄です^^
あと追加なのですが私の家は新宅ですwですが本家には昔カタナがあったと親から聞きました。しかし泥棒に盗まれたとかwこらが確実の証拠になると思っています
No.219

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/16 (金) 20:50
>ありがとうございます^^
>
>あとこれからの我等の子孫にこれからも伝えるために資料をつくることになりました。
>良かったら詳しい情報やまとめ方など教えていただければ光栄です^^
群馬諏訪族の青木さん。今日は。
大変すばらしいことだと思います。

家の歴史が一見何の意味も持たないと思えることもありますが、私はそうは思えません。
現代の悪い習慣にはこのようなことにも経済的評価で持って決めようとする傾向があります。経済的評価だけでは決め兼ねるロマンなどは人の心に与える影響は図り知れません。
この意味で未来の自分に自分のロマンを遺して上げることはこの世に生まれ出た目的としての子孫を遺す以外にもう一つの意味を持っていると考えます。

私の場合は「由来書」という形で作り上げています。
先ず、発祥から入り、その時代毎の歴史と先祖のかかわり具合を比較しながら次第に説明と史実を書き進めてゆきます。

そして、その時に話の幅を広げるために他の青木氏などの説明などを添えます。この時、話は「3つの要素」毎に書いて行きます。
この3つの要素とは「人のこと」と「時のこと」と「場所のこと」に付いてです。この「3つの要素」で書くことで人の脳は理解度を完全に成るとされています。
甲斐の諏訪族のことを中心にしながらもこの事だけを書くと興味は拡大しませんので5家5流の青木氏とか武蔵の藤原秀郷流青木氏などを書き添えることも必要です。

諏訪族としては奈良から平安初期の甲斐の国に入植した事や後漢の国の阿多倍の帰化族とか武田氏との関係した事とか諏訪太鼓とか諏訪赤兜とか信長と戦ったとか徳川氏に仕官したとか、神奈川から横浜群馬に移動した事とか等を選び出して書いておく、すごい勇敢な部族であったこととか苦労話を書き添えることをされると良いと思います。

これ等のことは研究室に全てレポートしていますので先ずこの全レポートのザーと読みから入り、少し知識を頭の中に入れておきます。
そして書きすすみながらその都度そのレポートのところを詳しく読み足しながらまとめてゆきます。

そして、資料内容を書き込むと読む人の頭にストーリーが入りませんので番号を付けて末尾に添えて行きます。

書き始めてゆきますと、段々にイメージが湧いてきますから心配は有りません。人間の脳は最初のザーと読みでこの”ひらめき”が興るように働きます。
この時のイメージはメモして置きます。
そしてそのいくつか出たイメージを順番に並べなおしてそのイメージに付いての書き足しをします。

これ等のことを繰り返して行くといつか完成に近いところまで着ます。

此処で、全体を読み直します。そうすると不満足のところが出てきます。
この不満足もメモしておきます。一通り読み終わるとこの不満足部の書き足しをします。不満足とは文章が判りづらいとかストーリーが途切れているとかですが必ず出てきます。

最後に人に一度読んでもらって感想を聞きますとよりよいものが出来ます。或いは少し時間をおいてから読み直しても同じ結果が得られます。

誤字などは最後にします。
書いていると判らない事が必ず出てきますのでその時ご質問ください。

研究室のレポートはコピーして内容の中味を取り出して、後は資料として末尾に添付します。詳細は末尾参照として書く。

研究室の全レポートの読み込みで先ず自分の物にする必要があります。つまり全体を理解する事です。其処から始めてください。読み込みで判らないことがありますのでその時はお尋ね下さい。

一度先ず挑戦してみてください。そして、またお便りください。

追加の件 
刀のみでは証拠にはなりません。刀は室町末期から江戸時代にかけて少し財産のあるものは刀を持っていましたので証拠にはなりません。江戸中期では庶民も護身用に持つことも多くなりました。

証拠としては「刀な掛け」や「肘子」や「馬杯」鎧兜等武士が持つものとあわせて存在するのであれば証拠となり得ることも有ります。刀でも名刀で脇差や短刀などのセツトであり複数あれば武士の可能性は否定できなく成ります。
 私の家では刀が10セットありこのなかには名刀村政と正宗の刀があり、家紋入りの刀掛けと軍配と馬杯と肘子や刀鍔や手裏剣など武士の身だしなみのセットがありました。(鎧兜は焼失)
この程度のものがあれば証拠となると考えます。
No.239

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/07/02 (日) 09:26
おひさしぶりです^^
今日蔵を調べたら大名などと殿様が使う入れ物(着物とか甲冑や布団とかがはいる)やつを見つけました。
No.240

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/07/02 (日) 13:29
>おひさしぶりです^^
>今日蔵を調べたら大名などと殿様が使う入れ物(着物とか甲冑や布団とかがはいる)やつを見つけました。
群馬の諏訪族の青木さん 今日は。お久しぶりです。

お蔵から”ながもち”が出てきたとの事ですが、大変貴重な興味あるものが見つかりましたね。
昔はこの「ながもち」に貴重な物を入れて保管するものでした。

結婚する場合は嫁がこれを持参する習慣になっていました。そして、親族がこの「ながもち」を皆で担いで嫁ぎ先の門前まで運ぶし習慣がありました。
特に武家の仕来りと成っていましたが江戸時代に入り庶民も見習って使用するようになっていました。
武士の家はその土地の習慣を色濃く守ると言うことがありましたので習慣の違うものを表に見せないと言う事も配慮してのことでした。
この時はたんすに入れられないものは此処に入れて嫁入り道具としたのです。

この中には実家の先祖に関わるものや伝統品などを入れてきました。
又その後に嫁入りさきの先祖に関わるものをいれて保管する道具として用いられました。
この「ながもち」には嫁の実家先の家紋が大きく入っている筈です。
その家紋が何であるかで時代の検証も出来ます。この家紋と制作年月日も記されていますので注意してみてください。場合に依っては両方の家紋が並んで書いているものもあります。家紋がない場合は問題です。

多くの歴史書とか古文書は旧家のこの中から出てきたのです。この中は内側から錫箔などで内張りして空気や湿度を遮断して長期に保管できるようにしています。
そして、湿度も内側に当時の使用された使い古しの和紙を貼り湿度の調節をしていました。
この古紙には大変な貴重な当時の生活を物語る内容が書かれていたりしました。
甲冑は鎧箱などにも同じように保管していました。

古くなった「ながもち」の外側に古紙が張られている事もありますので一度注意深くお調べになるとルーツにかかわる面白いものが出て来る可能性もあります。

諏訪族の関東や東北に移動した時の何かを物語るものが出て来るといいのですが。何かわくわくしますね。

仏壇の引き出しなどにもその気になって意識して気を付けてみると思わぬものが入って居ることが有ります。
私のことで恐縮ですが、この長持ちに類する箱には手紙のような束がありました。整理しようとして、ひょと見るとなんと、明治の元勲の二条基弘の直筆の手紙と徳川14代の殿様の直筆の手紙もみつかりました。
徳川殿様との付き合いは記録もあり多くの贈り物もある事から証明は充分ですが兎も角も捨てるような所にも他辺に価値のあるものが有ります。

これらはあわてて、額に入れて保存しました。他にも古い手紙もありますが達筆で読み取る事ができませんのですが、ところところに崋山の字がありますので江戸時代の有名な画家の渡辺崋山のものではないかと思われる物もあります。
それで、気になってほかを当ると確かに渡辺崋山の直筆の竹の墨絵がありました。この墨絵は弟子に書いた練習用の見本絵である事が絵のところどころに朱書きで説明してある事で判りました。この時の手紙ではないかとも思っています。

ちょっとしたものが歴史上で意味のもつものであることが多いのでお調べください。「ながもち」がでる位ですから他にも何かあるはずです。

諏訪族としては甲斐の皇族賜姓青木氏とか武田氏との付き合いは充分に長い歴史であつたと見られます。何かそれを証明出来るものが出て来ると面白いのですね。
兎も角も来年のNHKの大河ドラマどのように諏訪族を描くのかたのしみですね。諏訪族あっての武田氏ですからね。諏訪族がなければ武田氏の勢力はなかつたのですからね。

諏訪族の血筋の持つ武田勝頼の逃亡中の諏訪族の全面協力があれば時代は変わっていたことも考えられますからね。
この部分を司馬遼太郎氏はよく描いています。

何にせよ、一度注意深くお調べになって又お便りください。お待ちしています。
No.241

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/07/02 (日) 15:54
ありがとうございます^^
あと我らの御家は武田家家臣団の一条一族の青木氏でしょうか???またこの一条一族と諏訪族は違うのでしょうか??
No.242

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/07/02 (日) 15:56
ありがとうございます^^
あと我らの御家は武田家家臣団の一条一族の青木氏でしょうか???またこの一条一族と諏訪族は違うのでしょうか??
こんな資料もありましたw
青木源光一條信重弟時信子信経孫信長曾孫時光子?時信孫?

  信高

  信行

  常光時光子新井経光

  信連

  貞義

  義遠

  安遠

  義虎

  信種====1541義虎子尾張信定

  信立====1590信種子尾張信親

  時信信立子信時尾張信秀?

  信安時信子弥七郎与兵衛信秀?

  信就信安子

  信生時信子

  信実信立子

信定義虎子藤九郎

  満懸 尾張

満定 弥三左衛門

  重満 兵部

  信秀信種孫右兵衛与兵衛

  信政清左衛門慶長頃

  忠秀与兵衛



  繁元仕武田元繁永正頃

横手信国青木信立子満俊?

曲淵信次青木信立子

  頼定頼親裔

吉高頼定子

  吉景15181593吉高子勝左衛門玄長仕板垣信方山県昌景

吉清吉景子

吉重吉清子

吉明吉重子

吉門吉景子

吉資吉景子

吉房吉景子

山寺信明青木信種子

  信昌信明子

  信光信昌子

  重正信光子

  昌吉信昌子

  信就信昌子

柳沢信興青木安遠子

  貞興信興子

  信景貞興子

信房貞興子

  信兼信房子

  信久信兼子主計

  信俊信兼嗣青木信立子横手源七郎

  安吉信俊子

  信安安吉子

  吉次安吉子
No.243

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/07/02 (日) 20:04
群馬の青木さん 今日は。

お家の系譜とみられる系譜を見ましたが、この系譜はお家の青木氏の元のルーツを述べているものと考えられます。次ぎにその元の系譜がどのように引き継がれたかを書いています。
最後にその末裔の女系を書いています。

皇族賜姓青木氏の場合は妻の系譜と戒名や墓は別に書くことになっています。
女墓を作り其処に戒名(子つき名)を代々書き足していきます。系譜も同じです。

この3段階ですが最初の青木氏のルーツと見られる系譜に問題があります。

先ず、先にお尋ねの一条氏に付いてはこの一族からは青木氏は出て居りません。お家の家紋が丸に抱き角紋である事とすれば諏訪族以外に抱き角紋を使用した氏はありません。
又、一条氏と抱き角紋の青木氏とは血縁を結ぶに必要とする家柄では有りません。一条氏は貴族です。貴族と地方の丸付き紋の青木氏との血縁はありえません。仮にあるとしても本家筋の抱き角紋であるはずです。
一条氏は貴族の中でもトップクラスです。
(源氏11代は母方が全て藤原氏系)
一条氏と諏訪族は全く違います。

(諏訪族に付いては更にもう一度研究室のレポート参照して下さい)
(諏訪族が武田系に入った経緯も含めて参照して下さい)

もし一条氏であるとすると大きな矛盾が出ますので明治の初期か、室町期末期かの第3の青木氏で系譜と家紋と姓を搾取し偏纂した事である事に成ります。
または、お家の末裔の方が江戸時代ごろにルーツとして書いたものであろうと見られます。(間違いがありますが)
このどちらかです。

後者として系譜をみてみます。
系譜の最初に書いている源光は、清和天皇の第6位皇子の経基王が賜姓を受けて源氏となつたものでこの子供の満仲の子の三男の頼信でその子孫で4代目の義光(1055)から数えて8代目の源の源光(1195)が光仁天皇(770年ころ¥)の皇族賜姓青木氏(甲斐)の跡目を引き継ぎます。皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏とは同族であることから跡目を引継ぎました。
甲斐の青木氏といいます。
家紋は笹竜胆で5家5流の一氏です。

(参考 光仁天皇は天智天皇の孫で施基皇子のこどもで伊勢青木氏とは同族従兄弟が甲斐の青木氏)

そして、この甲斐の青木氏と武田氏とが血縁した武田系青木氏の跡目を義光から数えて15代目の源の義虎が跡目を引き継ぎます。
武田系青木氏といい家紋は武田菱紋です。(割り菱門)


この義虎は源光の弟の時光系とされています。義虎は時光から7代目です。
時光系青木氏とはこの武田系青木氏のことを言います。
本来は時光からは青木氏は出ていません。

さてお家の系譜と見られる資料はこの二つを書き込んだことに成りますね。そして、この時光系としています。
この系譜では武田系青木氏とすると家紋は笹竜胆から武田菱紋になり、その後諏訪族と血縁したとすると武田菱紋から抱き角紋になり丸に抱き角紋に変紋した事になり青木氏ではなくなる可能性がありますので矛盾が出ます。
家紋が変紋することは男系の跡目ができなかったことを意味しますのでこれが丸付き紋とあわせると3度以上は起こっている事を示します。
これは完全に女系になった事を意味しますので青木氏ではなくなります。

抱き角紋である筈ですから、源の源光の甲斐の皇族賜姓青木氏と諏訪族との血縁にての発祥と成り確定していますので、それに丸がついたのですから本来はその分家筋となります。
(諏訪族青木氏は時光系の義虎の武田系青木氏との血縁では有りません 研究室の藤原秀郷関連のレポートに記述済み)

例えば、藤原秀郷流青木氏は本来家紋は下がり藤紋ですが、これによく丸付き紋があるものがありますが、下がり藤紋には丸付き紋は本来はありません。
よって、その家紋は第3の明治期の系譜詐称と家紋偏纂と成ります。
大変多いのです。このように矛盾が生まれます。

甲斐の皇族賜姓青木氏は光仁天皇期ですので時代に大きなズレが生じます。
この資料では系譜とするとずいぶん後で作り上げた可能性があります。

元々は系譜は2つの土地の氏を除いてあるはずがないのです。
と云うのは室町期に下克上と戦国時代に中流階級以下の武士が反動して其れまでの家柄身分のある氏全てと浄土宗の寺が焼き討ちにあいました。したがって余程のことがない限り資料など残っているはずがないのです。
全ては口伝と残った鎌倉期までの資料の組み合わせからによるものが多いのです。
二つの土地とは皇族賜姓の伊勢の青木氏と甲斐の青木氏で朝廷から奈良時代と嵯峨天皇の平安初期に2度の特別に「不入不倫の権」を与えられていて比較的難を逃れたのです。

そこでこの資料はそして二つの間違いを起しています。一つは源光系と時光系と同一としている事と、武田系青木氏と甲斐の賜姓青木氏と同一としている事と時代の7代のズレがあります。

其処に一条氏を血縁者としている事も疑問が残ります。一条氏は貴族です。
一条氏は私の資料によると直接に武田系青木氏との縁組をしていません。
一条氏からは直接は青木氏も出ていません。

多分、源氏の義光から7代目まで母方に一条氏との血縁があつたとしこの者の子孫が時光としているのではないかと考えられます。

(調査:結果 源の源光と時光は兄弟で母方は藤原北家の一条氏 夫々に上記の青木氏の跡目に入る 一条氏系から見れば間接的に武田氏に血縁 一条氏の資料に依ると一条源光としてあり、一条時光としてありますが、頼朝、義経と同様の清和源氏の本系3男の頼信の直系子孫です  家柄の低かった陸奥の小豪族の武田氏側から見ればより貴族との血縁もある事を誇示するねらいで書き込んだ。故に一条氏の血筋を持っているのは武田系青木氏と成ります。)

この3つのことを先ず検証して見ることが必要です。
お家のご先祖は確かに武田氏との間に血縁を持ちましたが諏訪族は家臣の形にはなく合力の形に成ります。以前もレポートしましたように客員軍師との立場に成ります。武田氏の家臣を気にしておられるようですが武田軍の形には色々な立場があります。

諏訪族は武田の枝葉の家臣とは別の武田氏を支える別の木と成るとご理解ください。
(ただし室町後期にはこの氏家制度が瓦解していますので他の氏族例えば武田氏の家臣先に仕官していることはあります。
江戸期では農家を営んでいたことですので仕官先が滅亡したことに成りますが、この時期には既に群馬での農家ですので。武田氏の仕官先も滅亡離散してこの地に逃げ延びたと以前のレポートによる結果となつたと云う事に成ります。)

丸付き紋は家紋と青木氏とからは諏訪族青木氏の分家と成ります。

抱き角紋の総宗本家は諏訪族青木氏である事は検証済みですので問題はありません。よって上記の系譜が基であるとすると上記の間違いからお家の丸付き紋の抱き角紋に問題が生まれたことに成ります。
確かに家紋掲示板にもある様に丸付き紋は青木氏の支流ですが。

本資料のはじめは青木氏の1195年代の甲斐の跡目のことを後から書いたものと見られます。

前者を偏纂として見ますと、以前江戸期には大農家であると述べられていましたが、庄屋中でも苗字と家紋とを持つ郷士か郷氏の家柄の氏(武士)もいましたのでどちらかをお調べになる事でしょう。

もと、郷士か郷氏であるとすると第3の青木氏の可能性は無くなります。
これがキーポイントとなります。

これ以外に何かほかに資料になるものは有りませんか。これが単なる別資料とするのであれば問題はなくなりますが一度上記のこと(郷氏か郷士)をお調べください。

お便りお待ちしています。こちらでも念の為に源氏との一条氏の関係のことを確認してみます。(7/3 確認済み)
No.245

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/07/06 (木) 16:50
信長 -- 光家
  |- 義長
  | 馬場
  |- 頼長 -- 長広 -- 広政 -- 政次 -- 政久 -- 長広 -- 広政 -- 政次 -- 政久 (→馬場氏)
  | 武川祖 山高
  |- 信経 -- 時信 -- 信方 -- 信武 -- 春方 -- 信行 -- 経春 -- 景信 -- 信基 (→山高氏)
  | [信綱] |   | L 時信 [信時]
  |   |   | 白須
  |   |   |- 貞信  
  |   |   |= 貞連
  |   |   | 青木
  |   |   |- 源光
  |   |   | 横根寺
  |   |   |- 信源  
  |   |   | 東條
  |   |   |- 義行 -- 信方(→山高氏)
  |   |   |   |- 頼行 -- 隆信
  |   |   |   L 行法
  |   |   |- 家景
  |   |   |- 貞家
  |   |   | 大幡・青木
  |   |   |- 時光 -- 経光 -- 信連 -- 貞義 -- 義遠 -- 安遠 -- 義虎 (→青木氏)
  |   |   |   | L 信興 (→柳沢氏)
  |   |   |   | 折井
  |   |   |   L 時次 -- 信衛 -- 信景 -- 次政 -- 政武 -- 次俊 (→折井氏)
  |   |   | 境祖
  |   |   L 信泰
  |   L 宗清 -- 信基 -- 時基
  |- 信久 L 遠実
  | 高畠
  L 信行 -- 行時 -- 時盛
  |- 泰行
  L 隆行
 
馬場氏略系図
頼長 -- 長広 -- 広政 -- 政次 -- 政久 -- 政長 -- 政房 -- 政忠 -- 房政 -- 信房
 
山高氏略系図
信方 -- 信武 -- 春方 -- 信行 -- 経春 -- 景信 -- 信基 -- 基春 -- 信之 -- 親之 -- 信親 -- 信直
 
青木氏略系図
時光 -- 経光 -- 信連 -- 貞義 -- 義遠 -- 安遠 -- 義虎 -- 信種 -- 信親
 
折井氏略系図
時次 -- 信衛 -- 信景 -- 次政 -- 政武 -- 次俊 -- 次久 -- 次昌 -- 次忠 -- 政次

 

この資料はどうでしょうか??
No.246

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/07/06 (木) 18:51
この資料は清和源氏の分家の頼信系の義光から青木氏に繋がった一条氏から見た系譜です。より詳しく藤原氏北家の一条氏の系譜を並べた物です。

結論は同じです。
前回のレポートに記述しましたように、
源の源光は甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目を引き継ぎました。
多くの資料は天智天皇より5代続いて皇族賜姓青木氏を発祥させましたが、このことの知識を把握されている学者は少なく、司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や山本惣五郎氏や松本清張氏などが研究されて書物にもしています。

(司馬遼太郎氏は私の家にも来られたようで天智天皇から賜姓を受けた時に青木氏を証明する物として銅の仏像(大日如来坐像70*60センチ)を授かりましたがこのことを調べられて見学にきたことがあり世に出すように勧められたとの事であります。)

源氏の初代の賜姓嵯峨源氏発祥させた嵯峨天皇期に詔を発して皇族の者以外に青木氏を名乗る事を禁止しました。其れまでは5家5流の青木氏が続き、その後の桓武天皇は母方の渡来系の阿多倍一族に京平家を賜姓しました。しかし、息子の嵯峨天皇はこれを嫌い元の皇族の賜姓に戻しました。(809年)
この時に青木氏姓から源氏氏姓に変更して、その代わりに青木氏姓は皇族の者が名乗る氏姓としました。

一条氏がこの源氏の系譜の源光から一条氏の主系譜に書き込むことには多少の疑問が残りますが。外孫になる系列の子孫を系譜にしなければ成らない理由があるのだと考えます。

源光と兄弟の時光も皇族賜姓青木氏と武田氏との血縁にて武田系青木氏が生まれていましたがこの跡目に入った事に成ります。

ですから、源の源光は兎も角も源の時光は武田系系譜に入ります。
更に、時光から7代目の義虎が更にこの武田系青木氏の跡目を引いています。
(清和源氏の系譜から)

この甲斐には藤原秀郷流青木氏も存在し、国府には賜姓青木氏、南には藤原秀郷流青木氏、北の北陸国堺には武田系青木氏、諏訪湖沿いには武田系諏訪族青木氏が現在も存在します。

武田氏系青木氏と諏訪族青木氏を同じにして武田系青木氏としている資料もありますがこの資料は間違いです。その理由は奈良時代から存在する諏訪族の由来の知識を承知しない人が書いたものであるからです。

藤原秀郷流の”流”と武田氏系の”系”との使い分けをしていることにご注意してください。
”流”は一族一門で血筋を同じくする氏です。縦横に血筋があります。
”系”は必ずしも血筋があるとは限らす゛その武門に属するを意味します。
系は必ずしも家来でもなく何らかの間接的縁者関係にあるを意味します。
横の血筋です。

諏訪族は武田系諏訪族青木氏ですから、間接的血縁にありながらも直接的家臣ではなくその同盟範囲の一族となるわけです。
諏訪族は諏訪族の姫が結果的に政略的に信玄に嫁ぎ勝頼を産みますが、諏訪族からは女系の外孫に成ります。諏訪族宗家だけが女系で武田氏と繋がっていることになり他の諏訪族の一族は全く無縁関係にあるわけです。
この秩序は室町時代の戦国期まで続きました。その後の血縁は入り乱れる事になるわけです。
武田勝頼の武田氏は信玄死後内紛が起こり、諏訪系と武田系とが争います。
結局、分裂し信長との戦いに負けます。
此れでもお判りと思いますが、諏訪族の武田の中での位置付けは他族でした。


司馬遼太郎氏の武田信玄の小説をお読みになるとその軋轢がよく理解されると思います。

この資料は諏訪族には直接に関係がありません。前レポートに書きましたように源光の青木氏(1195年頃)の跡目の時期と武田系青木氏への義虎の跡目時期と、諏訪族の青木氏の発祥期(790年頃)とは大きく違っています。

1195年は鎌倉幕府樹立し頼朝とその一族が抹殺暗殺されたときです。
この1195年の時期に青木氏の跡目を継ぎ甲斐の賜姓青木氏を立て直したと言う意味に注目が必要です。

(参考 何故にこの時期に源氏一族が各地の青木氏の建て直しに入ったのか大きく意味を持ちます。私の家も1180年頃に源の頼光(清和源氏の宗家嫡男)の4代目の頼政の孫の京綱が伊勢青木氏の跡目に入っています。
京平家が滅亡して後、源氏一族が合い争う時代で同族の5家5流賜姓青木氏の跡目に源氏の血筋を絶やさないようにする事を狙ってのことと同族が結束を固めた事を意味していると思います。美濃、信濃足利氏も跡目相続)

つまり、皇族賜姓の血筋を立てに持つ諏訪族青木氏も武田氏系の中に入って血筋の保全を固めた事を意味します。賜姓青木氏24氏のひとつとして。
だから、そして、武田氏が滅んだ時も諏訪族の中の諏訪族青木氏は決戦をせずに東に避難したのです。そして、現代にも諏訪族青木氏は東の地域に子孫を大きくして繁栄をしています。
No.250

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/07/23 (日) 10:12
イロイロ調べたんですけど。
昔門があったみたいなところに虎申(多分虎ってほうは字はちがいますが)みたいなでかい石碑がたってます。これは何でしょうか???
No.255

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/07/26 (水) 20:58
>イロイロ調べたんですけど。
>昔門があったみたいなところに虎申(多分虎ってほうは字はちがいますが)みたいなでかい石碑がたってます。これは何でしょうか???
獅少し孫がきましたのでお便り遅れました。

石碑は虎甲と書いていますが、仮に獅子頭とすると、皇族賜姓青木氏に関係する諏訪族の青木氏のような高位で大きな獅子頭のことですか。
それとも、亀甲碑のことですか。

では以前にも記述しましたようにお家の神社がおありですので、
この氏神の第一門正門の鳥居の内側には厄払いのために中国の習慣を利入れて獅子頭紋の石碑を建てることが習慣です。それは日本ではその氏のステイタスとも成ります。

特に天皇家の奈良期、平安期から存在する全ての野熊野神社系と清和源氏の八幡神社系での皇族系の守護神の神社では、この石碑とその無形文化財としての「獅子舞」が現在までも引き継がれて存在します。
(これ等の神社の宮司は青木氏か藤原氏か佐々木氏でした。)

これはその神にこの厄除けの獅子舞を奉納し神をもてなす祭りです。

お家の諏訪神社系でも何らかの形でこの厄除け祭がある筈です。

全てこの皇族賜姓族の守護神では何らかの形で獅子舞が或いは獅子に関する祭りがありそして、そこには石碑の一対がある筈です。

お家でありますと諏訪神社系の支社としての青木氏の守護神もあるはずです。

室町期の下克上や戦国時代や昭和の戦後での混乱期ではその存在や無形文化材も移動したり焼失したりしていますが。

以前のお便りで、お家の近くに諏訪神社の支社があるとの事が伝えられていましたが、これがそのもので、その門所にもあるはずですし、お家の正門内のところにもあるのもそのステイタスを示す石碑です。
青木氏を祭る諏訪神社支社に存在しないとすると何らかの理由でお家の門内に移したと見られる事もあります。

お家の近くの諏訪神社支社に存在しないとすれば、混乱期の多かった関東地方であるとすると、歴史上のいくつかの混乱期を避けて、ご先祖は末裔に永久的に氏神に代わってその家柄の尊属の意を伝えようとしているものと思われます。
あるとしても、一族が検討して何時の時代か混乱期を避けてその代替碑を持ったと考えられます。
もしそうであるとすると、お家はその村の諏訪族青木氏の一族の庄屋か名主か青木氏姓を古来よりお持ちですので、室町期から既にその村を代表する苗字帯刀を許された豪農であった可能性が高いと見られます。
普通は庄屋や名主はこの豪農が交代で務めるものです。
門のところに存在するのはその証拠ともなりえます。

神社の祭りとかこの石碑とかを大事に保存される事を期待します。
それがご先祖の意思を繋いでいく事に成ります。
そして、このことを更にお家の末裔のかたにもその意を書物にして遺す事もご先祖の意思を繋ぐ祭事と思います。

とかくこのようなことは忘れがちに成っているものです。
これからの時代では猛烈なスピード消えていくと見られます。
その意味でよいところに気がお付きになつたと思います。

熊野、伊勢神宮の天皇家の守護神系と皇族賜姓青木氏系と皇族賜姓源氏系との3氏にはこの獅子舞と獅子頭石碑が存在します。つまり、皇族系守護神のステイタスシンボルです。

私の伊勢青木氏も殆ど忘れられていますので復元しようと頑張り後世にそのロマンを遺す事に努力しています。

お家は諏訪族の影響を多く受けているのか、賜姓青木氏の影響を多く受けているかはこの石碑がそれを暗示しています。

大変な情報を得ることができました。かなりのことが遺されているようですね。

では又、何か有りましたらお伝えください。楽しみにしています。
No.256

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/07/28 (金) 08:13
しらべたところ・
石碑じゃなくて石塔でした^^;文字は庚申です。
何か武家とかなどは庚申待という祭りをひらいていたとのっていました。
No.261

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/07/31 (月) 19:58
>しらべたところ・
>石碑じゃなくて石塔でした^^;文字は庚申です。
>何か武家とかなどは庚申待という祭りをひらいていたとのっていました。
群馬の青木さん 今日は。
孫が帰省し気がつかずお便り遅れました。

先日の石碑では無かったのですね。石碑であれば関東では大変に貴重なものであるのですが残念ですね。

石塔との事ですが、つまり何かの記念に立てたものですので、その石塔の持つ意味が何なのかということになりますね。

さて、先ずこの庚申とは何なのかということですが、次のことに成ります。

中国の思想に「五行思想」と言うものがあります。
中国は現在に於いてもこの五行思想に概ね添って行動しているもので中国人の全ての行動規範です。

その中で、年代などを計算するために考え出されたものがあります。

日本にも入ってきていますし明治の中ごろまで昔は良く使われていました。

つまり、干支(えと)です。日本では占いなどの独特の使い方をしますが中国では計算方法です。

干支は二つの計算方法を組み合わせて年代の計算に使用します。

一つ目は「十千」です。二つ目は「十二支」です。
つまり、10進法と12進法を組み合わせているのです。

「十千」は木火土金水の5つです。恒星を基準にしています。
この一つを二つに分けて全部で10にします。
甲乙、丙丁、戊己、庚辛、壬葵の10に成ります。

これに干支の子丑寅。。。。。亥の12の数とを組み合わせて60進法を作り上げて計算する方法です。最小公倍数60です。

この様にして年代を決めました。これによりその年に起こった事件が判る様にしています。

例えば日本ではこの方式で還暦60はこの計算方法から人の人生の一回りを決めたのです。確かに全ての面で60は人生の一区切りですね。
本厄年は47ですね。確かに納得します。

さて、本題の「庚申とはいくつか」という事ですが。
この計算方式では、庚午の7、庚辰の17、庚寅の27....庚申の57と成ります。これが60年に一回還暦して回ってきますので、西暦で云うと57*Nという事に成ります。

つまり、57*Nの倍数の年に記念するべき事件があったことを意味します。

そこで、お家は甲斐の武田系諏訪族青木氏の末裔でありますので、この歴史を遡ることで、この57*Nの倍数の年にあったことを調べるという事に成ります。

何か土地に伝わることで聞き及んでいることは有りませんか。

私なりに次に検証しますと。
627年の庚申(57*11)
第一案は627年以前には未だ諏訪族の祖先は大和の国の甲斐に入植していません。入植は孝徳天皇(645)の少し前から帰化して入植をはじめ天武天皇期の終わりに完了している筈ですから、先ずは実際は627年が最初の大和への帰化年と見られます。史書にもこの付近の年代を明記している。
もし、627年が帰化年としますと大変な史実判明。

684年の庚申(57*12)
第2案は朝廷より甲斐の国を開発した功績で諏訪族に対して「不入、不倫の権」の特権を与えられて大和の民として正式に認められた記念すべき年で日本書紀には天皇自らが祝いの宴を持った記されている。
この時、始めて一族が武力やあらゆる技能を持つた集団の族として認められた事を意味する。

1539年の庚申(57*27)
第3案は武田家が甲斐の国にて勢力を上げるために諏訪族との血縁を結んだ時期である。一地方の豪族であつた諏訪族は武田氏との血縁にて武田系一族に組み入れられた記念すべき年期である。

1596年の庚申(57*28)
第4案は1582年に武田氏が滅び武田系諏訪族青木氏が関東に向けて逃げ延び、横浜神奈川地方と更に栃木方面に定住定着した記念すべき年期である。
この時の事を記念した。

以上4つの案ですが、57の倍数で一致しますので。又この4つ全てを云っていることも考えられます。

この事を祝って石塔を立て、忘れる事の無いように記録したのではと推測します。

この時の頑張った侍を称える意味で”庚申侍”と呼んだのでは。そしてこれを称える祭りを毎年行っているのではないでしょうか。

専門外ですので良く判りませんが、私は”第1案であって欲しい”との願望を持つていますが。

一度、57*Nでの計算でお調べになりませんか。

何かわかりましたら又お知らせください。
No.263

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/08/02 (水) 17:06
石塔がたてられた年は文政のとしだそうです。
(江戸末期)
No.265

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/03 (木) 22:22
>石塔がたてられた年は文政のとしだそうです。
>(江戸末期)
群馬の青木さん 今日は。
庚申の文字を刻まれた石塔は文政の頃との事ですが、私の専門では有りませんが知る範囲の事として次ぎのようなことが石塔を立てた理由としてあげられるのではと思います。
あらまし立てるのではこの幕末の頃だと思っていました。

当時は尊王譲位論の盛んな時期で特に関東に於いては大変なブームになっていました。

この火付け役は水戸藩の藩士でした。
この時期は「尊王論」と「攘夷論」が盛んになっていて国中が騒がしくなっていました。
特にこの「攘夷論」は「中国の儒教」の影響を取り入れた考え方が盛んで「頼山陽」のような学者が儒学と称して江戸関東近辺では大変なブームとなっていました。

おりしも、「水野忠成」が家斉の信任を得て「文政の改革」を断行し財政面からの改革を行いましたが、幕政は腐敗しました。このために人々の心は荒廃し儒学などの生活規律の厳しい「宗教の習慣」をとりいれました。

つまり、「儒教」、即ち中国の『五行思想』に基ずくもので、全てをこの思想に置き換えてやろうとする習慣が関東を中心におこりました。

又、この思想の元に騒がしい世の中で江戸に出ていこうとする「国抜け」の民衆がいて、これらを脅して博徒が横行し「治安は悪化」しました。

幕府はこのため関東の八州に「関東取締出役」を置き関東全てに「村単位」で組みを作り『寄場組合』成る物を作らせて50組もの組織が出来ました。
(改革の主導役の勘定奉行の支配下)

「農民」が自ら「牽制」し合う組織となり、農業に強く「干渉」する様になりました。
農村の治安は悪化荒廃しました。

この様な中で関東に於いてはこの五行思想に基ずく儒教の考え方が流行してお家付近の関東の村では「五行思想」なるものが強くなりました。
この結果、お家の村では「庚申信仰」が発生したのでしょう。
(幕府が煽動した)

そして、この信仰では「干支と十千」を組み合わせた「計算方法」を「占い」に使うなどのことが横行したのです。前回の内容を利用して日本独自の占い思想がうまれました。

各地の組単位の村では、その村の出来事がこの前回の計算手法にて周期を割り出してそれを信じては占いをして農業の祭りや行事を決めたりすることで苦難から逃れようとしたのです。

其れがこの時期に起こったというよりは流行ったもので、お家のご先祖での村単位の「寄場組合」の村(3-6の村)では「庚申(57)」が全ての占いの行動規範と成っていたのでしょう。

この裏づけが、お家の一族が形成する諏訪族の村の『寄場組合』としては、前回のレポートにて計算された出来事がこの「庚申」に当るので、「儒教信仰」からその村の意思を遺すために石塔を建立したのではないでしょうか。

そして此れにあわせて祭りなどの事が行われたと考えます。

この様な「占い思想」から生まれた童話や逸話が関東に多く残っていますし、時代の状況証拠からも裏づけられるのではと考えます。

しかし、幕末にはこの「儒教思想」のやりすぎが表面化して批判が強くなり、民衆の暴動が各地で起こり、結局はこの思想を取り締まりました。
頼山陽もとらえられました。

この儒教の仕来りが明治のころまで仏教の仕来りのなかにものこりました。
例えば還暦祝いや前厄、後厄の厄年や喜寿祝いや生活様式のなかにも正座して座る方式などはこの儒教からきた様式て゛、行事です。

正座に対して仏教では胡座(あぐら 男座)とひざ立て(女座)です。
ほかにも沢山あります。



中国と韓国がこの儒教の国です。
No.267

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/08/11 (金) 17:16
ありがとうございます。
違う話になってしまうのですが・・・自分が調べたところ自分が住んでいる市のほとんどの青木家が同じ家紋だとわかりました。
これは諏訪族青木家が一族郎党で移動してきたという証拠になるのでしょうか??
No.268

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/11 (金) 19:57
>ありがとうございます。
>違う話になってしまうのですが・・・自分が調べたところ自分が住んでいる市のほとんどの青木家が同じ家紋だとわかりました。
>これは諏訪族青木家が一族郎党で移動してきたという証拠になるのでしょうか??
群馬の青木さん 今日は。

前回のレポートでもあった様に、村全体が庚申思想の元に結束していると言う事はその思想が共通するものである事を意味しています。

お家の一族は神奈川横浜地域と一部お家の一族とかが栃木、群馬方面に移動し定住はした事は史実としてわかって居てます。

よって、お家の地域西南側に近く藤原秀郷流青木氏が116氏からなる宗家筋の青木氏が定住していますが、この一族は綜紋を下がり藤紋とし副紋使用しています。

したがってこの家紋類外の家紋を有している一族で皇族賜姓青木氏の24氏の家紋類を保有している事は史実上諏訪族のみですので間違いなく元は一族です。

武田氏、足利氏、土岐氏の青木氏を含む皇族賜姓青木氏24氏は5家5流の青木氏を元としていますので、中部地方西側に分布しているのが普通です。

関東に存在し同紋を有する武田系諏訪族青木氏はお家の青木氏の一族です。間違いなく証拠として成り立ちます。史実も認めています。

そこで、”どの家が宗家となるのか”という事です。

江戸初期頃に名主や庄屋や郷氏や郷士であつた家である事。
家紋が諏訪族青木氏の家紋か副紋を使用している家である事。
江戸時代でも農家でありながら、家紋と姓と刀の保有を認められている氏である事。
商家でも豪商と言われるくらいの家であつた事。
昔の家の構えが武家門を持ち敷居やかも居が武家構えであった事。

家の間取りも異なっています。
玄関には玄関の間があり、その間の上がり口は約35センチほど高くなっています。其れより更に35センチほど玄関の間は高くなっています。
その隣には控えの間があり、この間より15センチほど一段高くなっている座敷か客座敷の間があります。
掛け軸や飾りのや先祖を示す宝ものなどを飾る床の間は更に一段高くなっています。居間や台所は一段下がっています。
台所の隣には用人部屋があります。
仏間は家の中心の北側に位置して仏殿は一間間口に置かれ、その前には家族が集まる仏間があります。
この様に家一つでも仕来りで武家構えは異なっています。

武家が持つ刀架けや軍配や馬杯や武家肘子、薬箱等がある事。
軍配や馬杯があれば先ず間違いありません。(一団の将が持つもの)

墓所にも皇族賜姓青木氏の家柄の氏は本家筋であると男墓と女墓がありますし、本家筋は墓所の中央にあるはずです。又他に比べて大きいはずです。
又、仏壇も現代は別の宗派でも浄土宗仏壇の構えをしている事。

お盆ですが、そのお盆の迎え方が異なる事。
例えば迎え火や送り火行事を行い、盆のその仕来りの違いやお供えものの違いなど皇族賜姓青木氏の系列の24氏は周囲と違っています。

多分、お家の付近に移動した諏訪族青木氏は元は墓所も同じところにあつた筈です。そして、同紋の家の菩提寺もほぼ同じであるはずです。

農家でも商家でも元武家であり高い家柄である場合はこの条件に合致しています。
違いをのべましたが、現代ではこれだけのものを遺しているとは思えませんが、これ等が出来るだけ多く合う事がなどが要件と成ります。

以上のことを確認してみる事も大事で面白い事です。
多分、他の市の習慣とは共通する違いもあるはずです。

兎も角も、この地で諏訪族青木氏が同紋である事は一族郎党です。

宗家がどこかをべるともつと色々な事が出て来ると考えます。

また、色々とお知らせください。 お待ちしています。
No.275

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/08/25 (金) 20:11
お久しぶりです。
少し前にわかったことなのですが
私の家の3代目のおじが近衛兵だったことがわかりました。。。父に聞いた話によると近衛師団は天皇直属の軍隊だから家柄が関係したといいます。これは御家が良い家柄だったのだといえるのでしょうか???
また間違えていました近衛兵のこと教えていただけませんでしょうか?
お願いします。
No.276

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/26 (土) 00:18
>お久しぶりです。
>少し前にわかったことなのですが
>私の家の3代目のおじが近衛兵だったことがわかりました。。。父に聞いた話によると近衛師団は天皇直属の軍隊だから家柄が関係したといいます。これは御家が良い家柄だったのだといえるのでしょうか???
>また間違えていました近衛兵のこと教えていただけませんでしょうか?
>お願いします。
群馬の青木さん お久しぶりです。

早速ですが、ご質問の件ですが父上の言われるとおりです。

その歴史的背景を記述します。

そもそも奈良時代には天皇自らを守る兵はありませんでした。
天皇というのは周りのものが守ると言う慣習でまったくの無力でした。

これで有名な聖徳太子と蘇我馬子との軋轢の問題があります。
聖徳太子はその天皇と言う身分に無力さを痛感していました。何とか自分の政治理念を反映させようとしますが、蘇我の馬子に阻止されます。

太子は妥協案を実行して馬子の娘を娶ります。このことで姻戚になれましたので殺される可能性は少なくなり、理念の実行に踏み出します。

しかし、太子の父はこの理念を出そうとして馬子の意を汲んだものに殺されます。次ぎに太子の従兄弟が天皇に成りますが此れも理念を実行しようとして蘇我氏の護衛団(後述)の渡来人の漢氏(あや)に殺されます。

このことを見ていた太子は天皇に成ることを避けます。

蘇我氏はこの太子の頭の良い行動と交渉力に悩みます。
というのは蘇我氏には天皇に代わって蘇我氏がこの大和の国の長になる事を考えていたからです。

最初は聖徳太子はその実力の片鱗を見せていなかつたので、馬子は安心をしていましたが、次第に力を付け出してきて無視する状況ではなくなりました。
丁度、その時仏教の伝来を進めるかどうかで物部氏と争いました。

その争いは物部氏が優勢を保ち蘇我氏は劣勢で周囲も離れていきました。
窮地に追い込まれた蘇我氏を見て、太子は自ら意を通じていた朝鮮の友人(籐勝)に頼み物部氏の陣形の弱いところを調べさせました。

そこで、太子は神のお告げが降りたとして馬子に攻める相手の弱いところを示唆しました。馬子はこのお告げ通りにしたことで勝利して命を太子に救われました。それ以後、太子は馬この弱みをついて政治の実権を握る勢力を持つ様になりました。

しかし、三権のうちのまだ政治だけの力しかありません。当時はこの軍事、政治、経済を「三蔵」と呼んでいました。
軍事は渡来系の漢氏が担い蘇我氏の配下に成っていました。

三蔵とは「斎蔵」「大蔵」「内蔵」で藤原氏は代々この「斎蔵」の家柄で祭祀の家柄です。つまり、摂関家と呼ばれて天皇に代わって政事を行ったのです。

「大蔵」「内蔵」は中国後漢の光武帝の末帝の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王(17の県民を引き連れて日本に帰化してきた渡来系人民200万の人々の長)の子供が担っていました。

この阿多倍の人民集団はあっと云う間に66国のうち32国を無戦のうちに制圧してしまいます。この末裔が阿多倍の5代後に平の清盛に成ります。
この阿多倍が引き連れてきた集団の内の「武装集団」が漢氏です。
漢氏は後に東漢氏(やまとあや)に変名し次ぎに文直氏に変名します。

姓の後ろに部の付く姓はこの集団の技能集団の渡来系の人です。
日本の多くの第一次産業はこの人たちがもたらしたものです。

桓武天皇の母方はこの阿多倍の孫娘です。
桓武天皇はこの一族に賜姓して平氏(たいらぞく)と賜姓したのです。
坂東八平氏の平族(ひらぞく)とは別族です。

息子の嵯峨天皇はこれを嫌って青木氏を源氏と変名して賜姓を皇族に戻しました。

この阿多倍はこの集団を使って大和の国の経済と律令体制の完成に大きく貢献し、その貢献度から敏達天皇の曾孫娘を娶り、長男は朝廷の軍隊を、次男は「大蔵」で朝廷の財政、三男は「内蔵」で天皇家の財政の役職を担いました。

それぞれ坂上氏、大蔵氏、内蔵氏を天皇から賜姓を受けました。

長男の坂上氏は日本全土を制圧した有名な坂上田村麻呂です。大蔵氏は後に永嶋氏に(大豪傑の大蔵種材が有名で九州全土を任され「遠の朝廷」と呼ばれた)、内蔵氏は後に阿倍(あべ)氏にります。(北陸全土を制圧)

天皇の自らの軍隊は当然に青木氏です。伊勢青木氏を中心に絶大な権力を誇ります。
この青木氏と坂上氏とは後に桓武天皇期に争います。

話を戻して、何時軍事と経済で潰されるか判りません。兎も角もその課題を息子に託しますが、太子が没した後、結局は、直ぐに一族郎党全て殺されてしまいました。飛鳥寺の事件です。

蘇我氏が実権を殆ど取り戻しもう後一歩というところに来ていました。
孫の蘇我入鹿の時代です。

この時、天皇家では中大兄皇子が次ぎの皇太子に成ろうとしていました。
この飾りだけの中大兄皇子も危なくなり悩んでいました。

天皇家を守る為にも何とかしなくては成らないと日夜考えていました。
ある時に、蘇我氏の横暴に危機感をもっていた朝廷の神官職の中臣鎌足が同じ理念を持ていることを知り、「三蔵」を取り戻す計画を練りました。
そして、馬子の孫の入鹿に対し天皇家を潰す直前に実行したのです。

此れが有名な「大化改新」です。
この時、過去の反省から三権の改革を実行したのです。

先ず、手がけたのが天皇自らを守る親衛隊が無い事でした。
そこで、考えたのが、自分の14人の皇子の内の第6位皇子を臣下させて侍として氏(賜姓)を与えて天皇を守る軍隊を作らしたのです。
自分の子供が守ってくれるのですから安心です。

此れが、皇族賜姓青木氏なのです。そして、その軍隊の任務には第6位皇子の施基皇子がこれに当りました。そしてこの皇子の子供は青木氏と名乗りました。伊勢王です。

この伊勢王には変事が起こります。
大化の改新後の2年後に伊勢王であつた孝徳天皇の子供が突然にある日兄と弟二人が死亡します。(暗殺) 
この時期、孝徳天皇と中大兄皇子との間は完全に冷え切っていました。
遷都して天皇を放置するなどの事が起こります。
この原因の一つがこの伊勢神宮の守護神のことです。

その後、中大兄皇子の3人の皇子の内の最も信頼を寄せる施基皇子が伊勢王に任じられます。
伊勢は天領地でもあり主要穀倉地帯でもあった
その後もこの施基皇子は朝廷内に詰めて働きます。

参考として。
大変有能な人物で天皇に代わって日本全国くまなく周り問題の解決に奔走しています。これ等のことは日本書紀に書かれていて18回も出てきます。
皇太子よりも信頼されていて天智、天武の葬儀の責任者までも皇太子に代わって行っています。又、その天皇の妃殿下からも信頼されて相談をしています。
大変な能力の持ち主であった事が書かれています。
日本書紀から施基皇子は天皇の相談役で当時は「軍略師」と呼んでいました。
この軍略師の任務は1180年頃まで続きました。

話を戻して。
当時は兄弟の定義は純血主義を守る為に天皇家は近親結婚を行いました。
よって、中大兄皇子の弟の大海人皇子との子供も現代の系列では判断できない親族関係で兄弟は男女合わせて34人で内男子は14人でした。

この施基皇子は第6位の皇子でした。(この皇子の母は采女で朝廷の女官であったので身分が最も低い)

第4位までは皇位継承権を保有し、第6位は臣下し、第7位以降は僧侶になり下俗する。第5位はこの中間の身分としていました。残りの皇女の多くは天皇家に纏わる伊勢神宮に始まる神社仏閣と門跡寺院の「斎王」となり交代で行い独身を続けるが宿命として天皇家の先祖の神々を祭りました。此れが務めでした。

34人もの皇子をそれぞれに国を与え一人立ちさせるには大変な財政的負担がかかり天皇家の財政を圧迫していました。

この親衛隊と財政負担の両方の軽減を狙ったことが大きな改革の一つでした。

この改革の第一弾が初代の皇族賜姓の伊勢の青木氏の誕生です。青木氏の元祖に成ります。この時、天智天皇はこの施基皇子の青木氏にその証明として仏像を与えたと記されています。(後日レポートします)

その時、中大兄皇子は第7位川島皇子にも特別に賜姓氏佐々木氏として臣下させ近江を守らせました。近江王です。後に宇多天皇のときにも第6位皇子に滋賀の佐々木氏を賜姓します。
近江の佐々木氏と滋賀の佐々木氏があります。2家2流です。
剣豪の佐々木小次郎はこの近江の末裔です。

此れが蘇我氏の反省からの皇族賜姓族の始まりです。その後4代続きます。

その後2代置いて嵯峨天皇からは第6位皇子を皇族賜姓源氏としました。

そして、青木氏は皇族の者が還俗する時に名乗る氏として定め使用を禁止しました。正式には明治まで守られました。

このような背景で中大兄皇子の天智天皇が親衛隊を造ったのが始まりです。
そして、伊勢国に天皇家の守護神を定めます。

正式には天武天皇が詔を発して制定し天領地とします。伊勢神宮です。親衛隊としてここを守る任務が伊勢の皇族賜姓青木氏です。

この親衛隊の方式を朝廷の許可を得て特別に踏襲したのが第3子(千国を元祖)の藤原秀郷流青木氏です。お家の青木氏です。

秀郷は貴族になりましたので自ら武力を使えませんので子供にその任を与えたのです。更に、同じ藤原氏の血筋の持つ氏であるので第2親衛隊として。

藤原氏も青木氏と共に同族である事から、主要な土地に移動する親衛隊の役目を担った事に成ります。

鎌倉期まで。それがために藤原秀郷の一門は全国24地方の守護を務めたのです。この時に同行したのがお家などの藤原氏の青木一門です。
(別に朝廷には上記した坂上氏の軍隊はあつた。)

5家5流以外の土地の天皇家にとって大事な国の守護を藤原秀郷流青木氏に親衛隊として守らせたのです。66国中の31国を親衛隊が守ったのです。

3国は蝦夷地で鎮守府将軍(藤原秀郷一門の任務)として、後には征夷大将軍として制圧中でした。

藤原秀郷は大化の改新の中臣の鎌足即ち藤原鎌足の第8代目に当ります。

何れも、この二つの青木氏には伊勢青木氏を除く母方が藤原氏で有ると言うことです。従兄弟関係にある事に成ります。

皇族賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つ国を固定の親衛隊として守りました。天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5代です。

光仁天皇は施基皇子の第1位皇子です。特別に皇位継承権をもつた者です。伊勢青木氏とは正従兄弟の親族関係に成ります。

この親衛隊の仕来りは昭和20年まで続きました。

この親衛隊即ち近衛隊兵はこの経緯から出来ましたので、これ等の家柄の良い信用の出来る氏から選ばれたのです。

しかし、明治からは元大名の子弟や爵位の有る子弟などから構成されましたが、その中でも藤原氏系青木氏は元祖でそのトップでした。

本家筋の藤原氏四家は貴族公家でしたので賜姓の青木氏と共に外となりました。

特に皇族賜姓青木氏の5家5流の本家筋は氏を守る為に奈良期から有る「不入不倫の権」に守られて構成員にはなりませんでした。


これ等の詳細は藤原関連のレポートと賜姓青木氏関連のレポートに記述していますので参照して下さい。
No.296

Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/10/03 (火) 13:44
お久しぶりです^^
今日は来年のドラマの人物について聴きたいのですが。
青木大膳という人物が出てきますがこの人は家に関係がある人なのでしょうか??
No.297

Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/10/03 (火) 22:08
>お久しぶりです^^
>今日は来年のドラマの人物について聴きたいのですが。
>青木大膳という人物が出てきますがこの人は家に関係がある人なのでしょうか??

群馬の青木さん 今日は。お久しぶりです。
待ちに待った武田氏の大河ドラマがもう少しで始まりますね。
楽しみですね。
さて、ご質問ですが、井上靖の「風林火山」の青木大膳のことを言われていると思いますが、先ずこの中に出て来る人物はたいていが架空の人物です。
もとより、山本勘介も青木大膳も架空の人物です。
ただ、この山本勘介に相当する人物は忍者であつた事が通説ですし、青木大膳もこの武田系青木氏の知識を物語る人物として作り上げたのです。

その理由として、架空の青木大膳なる人物が演じる青木氏一族はもとより武田家の客員軍師として武田氏以上の家柄であり仕官を頼みに行くことは有りません。
武田の一門にあるから全て家臣という事は有りません。
当時は武田傘下にある連合軍で成り立っています。
たとえ親族の家臣であっても連合軍です。
ですから、全てを家臣とするには武力で周囲を全て滅ぼして家来を多く作ること以外にありませんのでそんな事は物理的に出来ません。
現に、この武田氏の滅んだ主原因は「連合軍の崩壊」です。
勝頼がこの連合軍をまとめ切れなかったことによります。
諏訪族青木氏が信長の追ってに対して神奈川横浜まで逃げ延びられたは直接の家臣ではなかつた事によります。

もし、家臣であれば信長は諏訪族青木氏を庚午の憂いを無くすために殲滅したでしょう。

軍事的手段は最終的手段でありその前に政略的な方法を講じて勢力を拡大するのが常道です。その最も効果的な手段は「血縁」です。

「六稲三略」と云う事があります。
つまり、全ての事柄を効果的にするには「三つの戦略と六つの戦術」があるとされます。
「勢力拡大」という事を目的にするためにはこの状況に応じて三つの戦略を実施してゆきその戦略の手段として六つの戦術を屈使するのです。

其れが出来ない時は「戦い」となりこの「戦い」の目的の為の策としてまた「六稲三略」を使うのです。
小説やドラマでは直ぐ戦いとなりますがそんなことは当時では有りませんでした。

ストリーの中での諏訪族の由布姫との確執や諏訪族との戦いなども架空のストーリです。

多分、井上靖はこの諏訪族の歴史的史実を知らなかったものだと思います。
諏訪族の歴史と諏訪族に与えられた「不入不倫の権」が与えられていた事なども認識しておらず無視しています。

又、武田氏が陸奥からきた藤原秀郷の4代目の兼光の血筋を持つ一族である事と、藤原氏の甲斐の赴任地に護衛として同行した一族であつた事も認識しておらず此れも無視しています。

大きくなるためにはこの地を牛耳っていた諏訪族10氏との結縁せずして物理的にこの地の豪族にはなりえません。
その証拠に同時に清和源氏(3男の頼信系)とも跡目を入れて源氏支流となるなどの政治的な血縁をして家柄を上げる手を打っています。

このような背景であるので周囲の賛同が得られず戦う事は不可能です。

多少の小競り合いがあつたと思いますが、又、史実は朝廷の「不入不倫の権」を無視して戦う事は上記の要件もあり朝廷よりこの地の守護に任じられれることも有りません。

朝廷より守護に任じられるには賜姓源氏か賜姓青木氏か藤原氏の血縁を持たなければ成らないという絶対的地要件があるのです。

だから、清和源氏と皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一族から3つの血縁を結んだのです。

又、武田氏とは言え、この軍事的主力は諏訪族の存在であったのです。

あくまでも、政略的結婚にての結果であります。
井上靖の「風林火山」はこの様な絶対的事柄を無視しています。
だから小説なのです。

司馬遼太郎氏や山本周五郎や黒岩重吾氏や松本清張氏などと違って歴史小説家で有りません。史実にて小説を作るのではなく架空性が強いのです。

小説としての価値があり、史実により構成されたものでは有りません。

先ず、大膳と云う名ですが、これは名では有りません。「大膳太夫」という官職です。そして、この役職の下に本当の名をつけるのです。

小説のように無職の者が大膳と呼称することが有りません。

清和源氏がこの甲斐の守護として赴任した中で、頼信より7代目の信光が大膳太夫を名乗っています。

そして信光より5代目の源光(時光)から甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目を次いでいます。

信光の父信義が武田氏の跡目を採っています。

この様な名は賜姓青木氏の血筋を持つ武田系青木氏とその諏訪族青木氏の場合は私が調べた範囲では有りません。

武田系青木氏(諏訪族含む)の場合は江戸期までの資料として直系の殆どに「信」の字をつけています。勿論、諏訪族をはじめ大膳なる人物は見つかりません。分家では「正」の字が良く使われています。

先ず、この青木氏の由来と位置付けも認識はなかつたと見られます。

この辺の認識も井上氏には無かったと思います。

上記のことを考えると司馬遼太郎氏と異なりあくまでもフィクション小説の何ものでも有りません。

結論として青木大膳はお家のご先祖ではありません。架空です。
青木をつかつた事は青木氏が武田にかかわっいる血縁者である事は井上氏は知っていたのではと思いますが、諏訪族青木氏があるとは小説を読んだ範囲では認識はなかつたと見ています。

小説を司馬氏と違ってそこまで調べて書いたものではないと見ています。

歴史小説は全てが事実と誤解する向きがありますが、注意が必要です。

司馬遼太郎氏は一つの歴史小説を書くのに10年から20年調べたと書いています。
司馬氏の小説は殆ど史実に近く学者を越えています。
黒岩重吾氏は論文まで書いています。これを読むとその史実は学者を越えています

私事ですが、伊勢青木氏のことも司馬氏は調べていまして、私の親族の家まで来て、後に本家の自宅に雑誌社の人が来ています。
そのことを伊勢青木氏のルーツと天智天皇から授与された仏像のことに触れて住所を何々付近として伏せて雑誌に書いています。そして、書いていることが一致していました。

朝鮮人で大和朝廷の政治指導をしていた人物が滞在中に日記として書いた書物が韓国に遺されていますが、日本書紀よりも詳しく日々の出来事などを詳しく書いているものです。「日本世記」という書物です。このことなどにも触れています。それを元に伊勢青木氏にその書かれた史実があるのかを調査に来ています。伊勢青木氏の存在と仏像の存在も確認したのです。

この中には青木氏(伊勢)の誕生からその間の出来事なども実に詳しく書かれているのです。黒岩氏も触れています。

お家のことは天智天皇の皇子の舎人親王の書いた「日本書紀」に出てきます。

実際に足を運んですごいところまで調べているという事です。
学者以上です。

ただこの「風林火山」には諏訪族とのかかわりが主体ですので当然、お家もこの武田氏の歴史にかかわっていたことに成ります。

お判りいただけたでしょうか。又何か有りましたらお尋ねください。

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青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。