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No.1270
千葉の青木です
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 00:25
はじめまして、こんばんは。いつも興味深く拝見しています。
私の出身地は千葉県野田市関宿なのですか、この地域は青木姓がたくさんいます。菩提寺は曹洞宗なのですが、先祖のルーツを探る上で、手がかりはありませんか?よろしくお願いします。
No.1271
Re: 千葉の青木です
副管理人さん 2008/06/06 (金) 09:40
>はじめまして、こんばんは。いつも興味深く拝見しています。
>私の出身地は千葉県野田市関宿なのですか、この地域は青木姓がたくさんいます。菩提寺は曹洞宗なのですが、先祖のルーツを探る上で、手がかりはありませんか?よろしくお願いします。
千葉の青木さん 今日は。 始めまして。
同じ青木氏の青木サイトに良くお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
このサイトは、青木氏のことに付いて多くレポートをしています。管理人さんと打ち合わせて沢山計画がありますが、慌てず少しづつ計画を進めています。これからもどんどんレポートしますのでお読みください。
さて、お尋ねの件ですが、
土地は千葉野田市との事ですね。
宗派は曹洞宗との事。
この二つの情報ですが、正直むずかしいですね
そこで、お調べになるポイントの情報を提供します。
既に、本サイトのレポートをお読みと思いますが、改めて書きますと次の様に成ります。
千葉には、藤原秀郷一門の結城氏がいます。千葉の結城地域です。
この結城氏は藤原秀郷一門の朝光と言う者が先祖伝来の土地として守ってきましたが、桓武平氏に奪われ、更に後には坂東八平氏に奪われて、土地を離れ一門の居る武蔵の国で生活をしていましたが、朝廷の命が下り上野の国司として赴任しました。その後、鎌倉幕府が出来て、この鎌倉幕府に一番先に合力しました。この勲功で、本領安堵され、結城を取り戻す事が出来ました。
この結城氏の護衛役を同門の藤原秀郷流青木氏の分家が担いました。
そして、ここに藤原秀郷流青木氏が住み着きました。江戸幕府になっても水戸徳川氏の家来になり、ここに定住していました。
先ず、この流があります。
次に、藤原秀郷一門は武蔵の国を領国としてそれを取り巻くように護衛役の一門の青木氏が下野、茨城、栃木、群馬等に存在し、埼玉の入間を中心に横浜神奈川を半径に円を描く様に、何重にも青木氏の本家から外円に行くほど分家、分流、支流、分派が円を描いて取り囲んでいました。
この一つに野田付近も護衛役の支流の青木氏が護っていました。
この青木氏の流があります。
特別に、栃木と神奈川に皇族賜姓族の武田氏系青木氏(諏訪青木一族)が信長に追われて逃れてこの藤原秀郷流青木氏を頼って移ってきました。
この3つの青木氏がありますが、これと、明治3年の苗字令と8年の督促令に基づき、姓を持たない一般の青木氏が、土地の青木氏に因んで青木氏を名乗りました。この地域には、この明治期に発祥した青木氏が大変多いのです。村全体が突然ある日青木氏に成るなどのことが起こりました。
この青木氏には、藤原秀郷流青木氏と異なり、幾つかの違いがあります。
それは先ず、1番目には、家紋です。藤原秀郷流青木氏は主要9氏で116氏が有りますが、この116氏の家紋は系譜が取れますので明確です。
2番目は、伝統の内の宗派です。藤原秀郷流青木氏は鎌足を先祖とする特別な家柄でしたので、浄土宗です。浄土宗は皇族青木氏、公家、橘氏などの真人族、朝臣族が入信する宗派でした。只、地方に赴任した一門は浄土寺が無いので、系列の浄土真宗に成っているものもあります。
3番目は、この藤原秀郷流青木氏には独自の菩提寺と神社を私有しています。一族の者だけを祭る寺と神社なのです。
4番目は、ですから、昔は役所の役割を担っていた寺と神社を独自にもっていますから、ルーツの系譜が取れますし、本家筋あたりでは青木氏の何らかの伝統を長く保持しています。
5番目は、古い人の官職名があるのか、何であるか、
藤原一門はこの官職名がはっきりしています。
6番目は、古い江戸期以前の由緒の有無。
7番目は、墓所の墓石の家紋と周囲の青木氏との家紋の違い
(周囲の青木氏の家紋は家紋掲示板に存在するものかどうか)
他にも判別できるものがありますが、明治期と室町末期と江戸初期の3期の混乱期の発祥の青木氏とは、とりあえずこの7つで殆どが出来ます。
(明治3年まで皇族の者が藤原氏の青木氏以外に使用の禁令が働いていてました)
先ず2番目の宗派は曹洞宗ですので、外れます。3番目も外れます。
藤原秀郷流青木氏は伝統としてこの宗派は絶対に護るものです。
ただ、1、4、5、6、7番を調べる事で変わることの条件がありますので、お調べになるとよいと思います。
本家筋の家紋はなんであるか、本家筋がどこか、何時からそこに居るのか。本家筋の曹洞宗の菩提寺のある場所、菩提寺にある「過去帳」に先祖の一番古い人は何時の時代で、誰か、官職名は。(寺で教えてくれる)
本家かお家の市役所の戸籍簿の最も古い人の明治初期の人の身分は。(士分、平民などが書かれている。)それ以前は菩提寺の過去帳です。江戸期の過去帳に載っていないのであれば、明治期の青木氏です。
先ずは、家紋で賜姓族か藤原一門かは判りますし、このどちらでもない事が判ります。
とりあえず以上ですが、先ずは上記から始められて参考にされてお調べください。
以上、不明な点はご質問してください。
では、お便りお待ちしています。
No.1272
[投稿者削除]
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 18:45
投稿者によって削除されました。(08/06/06 18:54)
No.1274
Re: 千葉の青木です
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 18:56
詳解ありがとうございます。家紋は「丸に違い鷹の羽」、確認できるだけで先祖は1700年頃から関宿で名主をしており、青木を名乗っているようです。平安時代、関宿には藤原秀郷の居所があったそうです。何か関係あるのでしょうか?よろしくお願いします。
No.1275
Re: 千葉の青木です
副管理人さん 2008/06/07 (土) 07:30
>詳解ありがとうございます。家紋は「丸に違い鷹の羽」、確認できるだけで先祖は1700年頃から関宿で名主をしており、青木を名乗っているようです。平安時代、関宿には藤原秀郷の居所があったそうです。何か関係あるのでしょうか?よろしくお願いします。
>千葉の青木さん 今日は。
早速のお便りありがとう御座います。
さて、早速ですが、家紋は「丸に違い鷹の羽」との事。又ご先祖が関宿の名主で1700年代であった。
以上の情報から、考えますと、次のような事が出てきます。
先ず家紋ですが、「丸に違い鷹の羽」は家紋掲示板にもありますように、33紋中の一つで安芸の国に赴任し分家筋が定住した藤原秀郷流青木氏の家紋です。この一族は比較的一門としては新しい青木氏で、室町期に発祥しています。
平安末期に朝廷の命で藤原秀郷一門の青木氏が安芸に赴任して、土地の豪族の浅野氏との血縁をしたもので、定住した藤原秀郷流青木氏分家側に男子跡目が無くて、土地の豪族と成っていた浅野氏の分家筋から養子を取りました。一時、家紋掟により、男系筋のこの養子先の分家筋の家紋と成りますが、この養子にも男系の跡目が生まれず、結局、家紋は養子先の家紋となってしまいました。藤原秀郷流青木氏の方は女系と成った事を意味します。この場合、秀郷一門の家紋の「下がり藤紋」から外れて、「丸に違い鷹の羽」と成ったものです。
秀郷一門は24の国地方に赴任していまして、必ず土地の豪族との間に子孫を残す戦略を採っていました。一門のこの青木氏もそこで嫡男は武蔵国の入間に帰りますが、分家に当る弟筋を遺す戦術を採っていました。ところが、鎌倉幕府が樹立し、藤原一門は離職して多くは武蔵に帰りましたが、この時、残り、浅野分家との血縁を結んだものであると考えます。
その後、室町末期に何らかの理由で武蔵国の藤原秀郷流青木氏のお家のもともと居た本家筋が居る地方の野田付近に戻り、そこで、農業をしながら定住したものと考えます。ですから、野田の土地の豪族ですから、「2足の草鞋策」を採ったものでしょう。この様なパターは藤原秀郷流青木氏の場合大変多いのです。武士ではあるが、農業の手広く小作人を使って行っていたということです。
ですから名主なのです。名主はもともと土地の豪族であつたものが武士を捨てて農業をした者です。
通称、「郷士」と言います。ですから、農民でありながら、名前、家紋等持っているのです。
この武蔵、下野、付近の関東には藤原氏の「郷士」が多いのです。例えば「近藤勇」等は藤原一門の流を持つ「郷士」です。近衛軍の勤めをしていた藤原秀郷の末裔氏で「近」と「藤」で「近藤氏」の名なのです。藤原氏は役柄や土地の字を取りそれに藤原の藤を付けて何処の藤原氏か判る様にしたのが始まりです。近藤勇も大きな名主の家のうまれですね。
家紋と1700年代の名主である事から、平安期には「下がり藤紋」の藤原秀郷の主要一門の青木氏です。(「藤原秀郷一族の生き方1-13」などのレポートを参照して下さい。)
先ずはこの一族と思いますが、さて、問題は、宗派です。本来であればご本家筋は浄土宗です。
只、お家の場合には、キーワードは「安芸」です。
安芸に赴任した藤原秀郷一門の護衛役の青木氏には、この地域には浄土宗寺は有りませんでした。多くは、一門の浄土真宗にとりあえず切り替えました。中には、血縁先の宗派を使用する事に成った者もあります。
多分、確定はこんなんですが、養子血縁先の家紋と宗派を引き継いだものと考えられます。
多分、この浅野氏の分家筋の一部には曹洞宗であったのでしょう。この様なパターンは多いのです。
名主であったとする事がこれを裏付けます。名主で無ければ明治期か江戸初期の「第3の青木氏」であることにも成りますが。
前レポートの条件とはこのことを意味します。その条件(名主の郷士、時代性、場所がら)にぴったりと一致します。
宗派は曹洞宗は下級武士や農民などが入信した宗派です。江戸時代には大変な力をもちました。徳川氏も曹洞宗には苦労しています。関東では武蔵の国などで郷士を交えた武士や農民一揆などを頻繁に起しています。
名主で郷士であったお家は、この時代に農民を守る為に、この当時、良くあった宗派変えをしている事も考えられますが、ここは情報が無いので2つのうちのどちらかかを確定する事は現段階では難しいのです。
のこどちらかなのですが、仏壇がおありであれば、仏壇の形式が「浄土宗仏壇」となっているかを確認すると良いでしょう。仏壇は先祖伝来のものを長く引き継ぎますので、遺している筈です。特に本家筋では。宗派によって仏壇形式は異なります。
もし、浄土宗仏壇とすると、後者でしょう。曹洞宗仏壇では前者と成ると思います。
浄土宗は阿弥陀様ですので仏具に何らかのものが残っていることも在ります。
武蔵入間を本拠地として関宿にも藤原秀郷一門の居所や館が総宗本家の出先機関として当然ある事に成ります。これも条件ですね。
結論としては、藤原秀郷流青木氏であると観られます。
藤原秀郷流青木氏は主要9氏で、直系1氏、直流4氏、支流4氏で、116氏に広がっています。
お家は野田と成りますと、入間から外郭円の外側に成りますので、支流の分家筋に当ると思います。
本家の本家や分家、支流の本家や分家、その又分流の本家や分家と入間を中心に縁を描いて描いていますので、最も外側の護りをしていた青木一族ですね。野田付近は分流の本家か分家ですかね。
研究室に「違い鷹の羽」の一門の青木氏の投稿がありますので、検索で調べてみてください。
昔はご親類で付き合っていたことでしょう。
では、ご質問があればまたお便りください。
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