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No.114
家紋について悩んでいます
丹沢麓の青木さん 2005/09/13 (火) 16:46 [
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初めてお邪魔します。
記入の途中ですっ飛んで行ってしまいました。
我が家の家紋ですが、普通に青木の家紋と云われるものとはかなり違っておりまして、鷹の羽を真中にして三枚羽の曲がり矢がそれを囲んでおります。非常に少ない家紋らしく、よほど大きな家紋帖でないと出ていないと言われました。
近江から美濃に移った青木と伝えられていますが、この家紋は何なんでしょうか。
普通に見かけない家紋だけに困っております。
No.115
[投稿者削除]
丹沢麓の青木さん 2005/09/13 (火) 20:52
投稿者によって削除されました。(05/09/13 23:42)
No.116
Re: 家紋について悩んでいます
青木研究員 さん 2005/09/13 (火) 22:21
>初めてお邪魔します。
>記入の途中ですっ飛んで行ってしまいました。
>
>我が家の家紋ですが、普通に青木の家紋と云われるものとはかなり違っておりまして、鷹の羽を真中にして三枚羽の曲がり矢がそれを囲んでおります。非常に少ない家紋らしく、よほど大きな家紋帖でないと出ていないと言われました。
>
>近江から美濃に移った青木と伝えられていますが、この家紋は何なんでしょうか。
>普通に見かけない家紋だけに困っております。
先ず、青木氏の家紋は合計121家紋もあります。
主要紋は次の通りです。
1 皇族賜姓青木氏の「笹竜胆」紋 (5家5流)
2 藤原秀郷流青木氏の「揚羽蝶と副紋つき」紋と「梅鉢と副紋つき」
この青木氏は9氏あり計116氏家があります。(116家紋)
( 丹治系青木氏も「丸に揚羽蝶と副紋つき」)
3 足利氏系青木氏(土着足利氏と賜姓青木氏との血族氏)
足利氏系(青木氏を含む)、この一門は二つ引両紋を用いています。
引両紋には34もあり新田氏など名家の家紋として用いていまして、足利一門の中でも名家の青木氏は足利氏と同じ”丸に二つ引両紋”です。副紋は有りません。
笹竜胆と同じで二つ引両の文様の一部を変化させる方式です。呼び名は同じです。
4 武田氏系青木氏(土着武田氏と賜姓青木氏との血族氏)
「割菱紋と副紋つき」と「花菱紋と副紋つき」
「葉菱紋と副紋つき」(主要2氏あり。)
5 土岐氏系青木氏(土着土岐氏と賜姓青木氏との血族氏)
「桔梗紋と副紋つき」
直流と支流合計青木氏121氏の家紋の中には貴方のお家の家紋が見つかりません。
ただ、貴方のお家の家紋は「三つ矢の丸に鷹の羽」と云うもので、
この矢紋の家紋は武家の紋に用いられたもんですが、いまだ家紋を確定できないほどに一般武士の家紋である為に多くの紋(100程度)があります。
その中で、この「三つ矢」紋は室町期に使われた紋で、松平深溝氏が用いた家紋ですが、中央部の部分はその一族の出自を表すものとされています。
例えば、「三つ矢の丸に花菱」の家紋の場合は、中央の花菱は武田氏の支流の血筋を持つ氏とされます。
したがって、貴方のお家の家紋の「三つ矢の丸に鷹羽」の鷹羽は松平氏と白須氏系の支流の血筋を持つ氏と観ることが出来ます。
このことから、内と外の文様からともに「支流松平氏系血族の武士」であつたと見られます。
そこで、貴方のお家の青木氏は121氏の青木氏にありませんので、なんらかの理由にて青木氏に名乗り換えしたものと思われます。
その理由としての史実があります。1200-1230年台頃に。
その史実として、1200年頃に近江から美濃等に移動した氏で青木氏を名乗った一族があります。
元は近江の国の甲賀に住まいし、上山氏と名乗る家紋も持たない下級武士がいましたが、源平の乱にこの者が功績を立てて美作守家頼となり、大変に出世して近江の青木庄に移り住んで、身分に合わして青木と名乗り換えしました。(本来は使用禁止姓)
近江青木氏は上記の皇族賜姓青木氏と賜姓佐々木氏との血縁にて発祥した氏です。
(賜姓とは皇子が天皇から氏を与えられて臣下する事)
この上山氏、即ち変名の青木氏は下から出世したので、元々家来が有りませんので出来る限りの縁者関係を集めて家臣団を当時の慣習として作ったのです。
1150-1200年頃は、従って、まだこの時期は全ての者が家紋を持つという事ではなく、持たない一般の武士の者が多かったので、一族の縁者関係も家紋は定まっていなかった筈です。
その後、この者は一族の者たちを引き連れて美濃をはじめ10以上の各地の守護を務めて戻りました。(1203-1230年頃)
この時に、美濃守の時に主に付き従って後、この血筋の持つ者が此処に定住した氏と見られます。
(美濃には現代も末裔が存在し、その一部が後に移動)
(ご指摘の備後などの土地は主家が1230年以降までに[鎌倉期に]移動したもので、貴方のお家の後の移動先はこの10以上の土地外ですので、後に移動したものと思います)
この一族の血縁族が甲斐や越後などの10の転勤の土地に残留した者が多いのです。
従って、重複する土地の者との血縁にて家紋が変化して、松平深溝氏系の一族となり、家紋を「三や矢の丸に鷹羽」としたのであると推測されます。移動の少ない故に少ない家紋となるのです。
この一族の主は出世したときに家紋を「丸に揚羽蝶と木文字」としました。従って、貴方のお家を始め一族関係は主に統一した筈ですので、元の家紋はこの紋所であり、この者の宗派は元は下級武士ですので、曹洞宗か臨済宗等の一般武士が入信する宗派でした。
しかし、出世したときに地位と家柄を誇示誇張するために浄土に宗派換えしたとされています。
(当時の慣習から守護職になると宗派換えする)
この影響を受けていて、全ての武士が家紋を定め始めた時(1350-1400年頃)に末裔も少ないこと故に、実情に合わせて変更したものと考えます。(多いと一族の家紋全部を変更する事は不可能)
この主の家紋は10以上も転勤したので直系の縁者が比較的に存在します。貴方のお家は変更が出来た故にこの支流の一族であつたと思われます。
家紋とか青木氏とか史実とか当時の慣習とか考慮すると上記の結果と成ります。
何でもご質問があればお尋ねください。
No.117
Re: 家紋について悩んでいます
丹沢麓の青木さん 2005/09/13 (火) 23:13 [
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早速のRe有難う御座いました。
家の古文書を溯って行っても戦国時代以前の記録は曖昧で、どこから出た青木なのか首をひねっておりました。
家紋はどこかの時代に変えた(あまり良いことではないようです)とも伝えられていますので、ますますもってややこしい。
しかし、近江甲賀の出と伝えられていますので、研究員さんのご指摘は正しいようです。
どこの青木にぶら下がるのか判らず悩んでおりましたが、お教えいただいてすっきりしました。有難う御座いました。
目下先祖の歴史の発掘中に付き、また判らない事がありましたら質問させていただきます。
No.119
甲賀の青木について
丹沢麓の青木さん 2005/09/17 (土) 18:19 [
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研究員さんの言及されました甲賀の青木氏について、もう少しお教え頂ければ有り難いのですが。
と、いうのも、甲賀五十三家に上山氏と青木氏の名が見えるのですが、この青木氏は上山氏から名乗り変えしたものでしょうか。
それと、近江から美濃に移った時期が我が家の記録では1400年代の初めとなっております。
事実かどうかは別として、一応将軍足利義量公の頃までは近江に居り、国戦に破れて美濃に追われ、一族が居た美濃の養老郡から安八郡辺りにしばらく定住していたと16000年頃の記載が残されています。この辺りになると諸説入り混じって、どう理解してよいのか困っています。
当家の青木は、甲賀の出としか伝えられて居らず、一般に言われる清和源氏とか藤原氏とかの伝承は全くありません。その点では研究員さんが研究対象とされている高貴な青木氏ではなく亜流の青木氏になりますが、よろしく
No.120
Re: 甲賀の青木について
青木研究員 さん 2005/09/17 (土) 21:19
>研究員さんの言及されました甲賀の青木氏について、もう少しお教え頂ければ有り難いのですが。
>と、いうのも、甲賀五十三家に上山氏と青木氏の名が見えるのですが、この青木氏は上山氏から名乗り変えしたものでしょうか。
>それと、近江から美濃に移った時期が我が家の記録では1400年代の初めとなっております。
>事実かどうかは別として、一応将軍足利義量公の頃までは近江に居り、国戦に破れて美濃に追われ、一族が居た美濃の養老郡から安八郡辺りにしばらく定住していたと16000年頃の記載が残されています。この辺りになると諸説入り混じって、どう理解してよいのか困っています。
>当家の青木は、甲賀の出としか伝えられて居らず、一般に言われる清和源氏とか藤原氏とかの伝承は全くありません。その点では研究員さんが研究対象とされている高貴な青木氏ではなく亜流の青木氏になりますが、よろしく
先ず、最初のご質問ですが、ではもう少し詳しくご説明します。
ご先祖は甲賀の人ですが、この人は甲賀郡の正福寺というところが最初の出所地です。この人は一時、美作国(岡山県)にて住まいし、1203年の承久の乱に大変な手柄を立てて出世し、鎌倉幕府から、その功を認められて平家の所領であつた美作の国を与えられました。その後、子孫の家頼が丹波の国青木庄に移住して、青木氏を名乗りました。
そこで、この青木庄の青木氏は、次の様な事情の血縁で発祥しました。
天智天武期に第7位の皇子の川島皇子がその功績にて特別に天智天皇より賜姓佐々木氏を受けて臣下しました。
(本来は第6位の皇子が賜姓を受ける 第6位は施基皇子の伊勢青木氏)
そして、近江滋賀の国の王となりました。その後、天武期には、佐々木氏から皇族であるために嵯峨期の令に従い、青木氏に分流して名乗り換えしました。(青木氏別説もあり)
この青木氏が後に何らかの理由で丹波と攝津国(別説の青木氏)に移動しましたが、この丹波の佐々木系皇族青木氏が定住したところが青木庄です。
この土地に、貴方のお家の先祖の家頼と言う人がこの地に移りました。此処で、出世もしたこともあり豪族となり、この地に佐々木氏系青木氏がいましたので、その絶えた青木氏の分家の家柄の一部を買い取るか、下克上の奪い取りなどをして名乗ったとされています。
(当時は守護や地頭になるには家柄が無くては所領を認めてもらうことが絶対に出来なかったのです。)
それは、鎌倉幕府がとつた「本領安堵策」が原因しているのです。
「元の土地をその氏に返す策」で源氏の勢力を、奪い採った平家の土地を賜姓源氏一族か賜姓青木氏一族かに分け与えて勢力を盛り返す策に出たのです。
ですから、功を立ててもこの一族に連座していなければ所領は認めてくれません。そこで、この上山氏は土地に奈良期から居た佐々木氏系青木氏の一部の子孫の絶えた家系を買い取りか、奪い取る方法をしてその功績に見合う家柄をつくったのがこの経緯です。
(なんらかの方法で奪い取るが、下克上が妥当でその理由は下記)
この当時、13〇〇年ころまで「本領安堵策」のために土地を認めてもらうためにこの現象が各地で起こりました。(下克上の始まりです)
貴方のお家の本家は氷上郡にいて、友政城という城がありますが、この一族(久政)の居城と云われています。
1230年頃に務めた美濃国に子孫を遺してきました。
この土地は佐々木氏の家来に成っていた貴方のお家の本家の家頼の孫(安頼)が信長配下の青木左京進(後に秀吉の配下)等に敗れて正福寺の所領を貴方のお家の本家と分家筋の貴方のお家は無くすことに成ります。(墓は浅井郡甲賀村にあり)
この時、1338―1341の3つの乱にて美濃の国に逃げ延びて移動すると成っています。(1400年初め前です)ここに上記した子孫が居ました。
(美濃国安八郡には幕府の国府があり、守護地頭の時代のときに現地の国府近くに1230年頃に子孫を残してきていますから、この安八郡付近には賜姓青木氏と貴方のお家の上山氏変名の青木氏が南よりに住み分け居住)
このことから、元は上山氏は最初は丹波の青木左京進を倒して、この土地を奪って家系も奪いとる事になったのではと推測します。しかし、青木左京進は勢力を盛り返し、上記の乱で再び元上山氏の青木氏は敗退し、更に元上山氏の青木氏が今度はこの青木左京進を再び本家の安頼の息子(不明)が近江勢田で討ち取ると言う事件があり、元上山氏の青木氏は家系と土地を再び保つ事が出来て、本領安堵となり、後に本家筋は徳川秀忠の家臣に成ります。
上山氏の青木氏への変名はこの史実から起こったものと思います。
(一時敗退したときに分家の上山氏の一部が上山氏を名乗り続けたと見られます)
(この敗退した青木左京進の一族は丹波から近江の佐々木氏を頼り戻ったと史実はなっています。)
以上ですが、これでご質問は答えているかと思います。
もとから居た佐々木系氏青木氏とは以上の理由で血族的繋がりは有りません。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏を調べるには全ての青木氏の把握が必要でどの位置に青木氏が歴史的に存在したかは判りません。
ルーツを知る事は同時に先祖の苦労の跡の歴史を知ることだと私は思っていることです。
当然に、佐々木系青木氏が近江で上山氏と戦い丹波に移動した青木氏がどの様な理由で敗北したかも知る事は目的の一つです。
これは、何故に佐々木氏から離れて青木氏が二つに分かれて移動したかの疑問を解明する事も楽しい一つです。ですから上山氏の青木氏の貴方のお家の解明も大変な作業なのです。
摂津に移動した青木氏は兵庫の大木(おうき 古代呼称)に現存します。貴方のお家の青木氏(上山氏)は資料からは5地方程度に居していたことが確認出来、江戸期には城持ちなど大変活躍しています。
調べていると疑問が出てきてどんどんと引き込まれていきますね。
又、調べられて判らないことがありましたら、またサイトにメールください。楽しみにして待っています。
No.121
Re: 甲賀の青木について
丹沢麓の青木さん 2005/09/17 (土) 22:40 [
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詳細な解説を頂きまして有難う御座います。
少しずつ霧の中の判らなかった部分が見えてきたような気がします。
下克上や家の買取のお話で、ふと気が付いたのですが、嫡男が居るにもかかわらず養子を押し付けられ、実質的に家を乗っ取られたのではないかと思われる例が見え、当家の家系にもそれらしい痕跡が見えております。また、当家の血が幾度となく絶えているにもかかわらず家だけが続いてきたと言うことは、研究員さんのおっしゃるような背景が有ったのかなと、興味をつのらせております。
家の存続というものを巡って、今の企業以上に壮絶な生き残りに懸命であった先祖の姿に感激です。
少しずつ判った範囲を整理して行こうと思っております。
引き続きよろしくお願いします。
No.122
Re: 甲賀の青木について
青木研究員 さん 2005/09/17 (土) 23:34
>詳細な解説を頂きまして有難う御座います。
>少しずつ霧の中の判らなかった部分が見えてきたような気がします。
>下克上や家の買取のお話で、ふと気が付いたのですが、嫡男が居るにもかかわらず養子を押し付けられ、実質的に家を乗っ取られたのではないかと思われる例が見え、当家の家系にもそれらしい痕跡が見えております。また、当家の血が幾度となく絶えているにもかかわらず家だけが続いてきたと言うことは、研究員さんのおっしゃるような背景が有ったのかなと、興味をつのらせております。
>家の存続というものを巡って、今の企業以上に壮絶な生き残りに懸命であった先祖の姿に感激です。
>少しずつ判った範囲を整理して行こうと思っております。
>引き続きよろしくお願いします。
全く、貴方の仰る通りです。今の企業どころの話ではありませんね。本家が一つ間違うと一族郎党赤子まで滅ぼされるのですから。まして、同じ一族の者から裏切られる事もありますから、一族は力のある者が指揮しないと死です。ですから、長男が居ても次男がしっかりしていると長男を誅し次男が嫡子になる事は日常の事でした。
賜姓青木氏の所を見ていただくとお判りであると思いますか゛伊勢、美濃、信濃、甲斐の賜姓青木氏は長男や嫡子が居ながら、清和源氏から跡目相続を受けています。又、美濃の土岐氏も、岐阜の足利氏も、甲斐の武田氏も清和源氏から同じ跡目相続を受けています。
又、この土岐氏、足利氏、武田氏と賜姓青木氏と血縁関係を持ち土着豪族系の青木氏が生まれている3つ巴の状況です。
これは渡来系の32/66国の所領を持つ超大勢力の京平氏に対抗するためで、普通の子供では到底一族を維持出来ないためです。
しかし、結果としては伊勢の青木氏を除き清和源氏(頼信系)を含む4氏は滅びます。
しかし、色々と調べていると以外に逃げのぴて子孫が残っている事が判ってきました。現在のところでは伊勢の賜姓青木氏を始めとして賜姓青木氏は美濃、信濃、甲斐に直系の賜姓青木氏(笹竜胆の家紋)が存在する事が確認できました。(支流は太田氏とか多田氏とか伊豆氏とか名を変えて多く残っているが)
伊勢と含めて5家5流氏の青木氏が現存します。
貴方のお家の本家筋の青木氏も、夏冬の陣で豊臣側に着いた一族は消えていますが、徳川方についた本家一族の正頼という人の子孫が代々徳川家に仕えて生き延びています。多分、どこかに本家が存在すると思います。私の調べた範囲では一人が江戸期に城持ちに成っている者がいますが、多分この者は貴方のお家の一族の本家筋の人ではないかと推測します。
本家の家紋は丸に揚羽蝶と木一文字です。このことから、この上山氏は揚羽蝶紋は渡来系京平氏の家紋ですから、丸付き紋はその支流紋と言うことに成ります。故に家紋が事実とすると平家の支流に当る血縁を一部に引いていると考えます。この線を基準に調べると出て来るかもしれません。
(渡来系一族のことは研究室の平家のレポートを参照して下さい。)
(賜姓青木氏と藤原青木氏とに当てはまらない疑問がありますので)
貴方のお家の本家筋は1230年ころまで10程度の各地の守護地頭職をつとめていますから残っていると思います。参考として私の調べた範囲としては地名データベースの欄を見てください。
研究の結果を又、教えてください。
追記
今後の研究に参考になるかもしれませんので以下のことを追記します。
貴方の一族の移動範囲ですが、越後(新潟)、越前(福井)、越中(富山)、美濃(岐阜)、近江(滋賀)、山城(滋賀)、大和(奈良)、淡路(香川)、阿波(徳島)、土佐(高知)、伊予(愛媛)、石見(島根)
以上に30年かけて3人の兄弟一族で移動し赴任しました。
これは一一族が10以上も官職を務めるのは稀で大変有能な一族で団結力もあつた事を示します。それだけに本家分家の内では厳しいものがあったと思います。この内のいずれかに貴方のお家の青木氏を残して来ていると思います。
(上山姓でも子孫を遺しているかもしれません)
(美濃には4氏種あり上山氏の青木氏の存在は確認、四国は無い様に思います。信濃には4氏種の青木氏が居るが1氏種は不明となっていますが、この一氏種は元は上山氏の青木氏かと見ています)
ご質問も何なりと。
No.188
Re: 二つ引き紋の青木について
今回の両引き紋についての解説掲載、有難う御座いました。
我が家の古文書にある二つ引き紋は足利の家紋であり、青木とは何の関係も無い紋だと思い、今まで全く気にも留めていませんでした。
まあ、せいぜい主家の足利から使ってもいいよと与えられた一時的な紋であり、それ故そのあとで紋を変えてしまったのだろう・・・・と。
新しい発見であり、非常に役に立つ内容でした。
No.191
Re: 二つ引き紋の青木について
青木研究員 さん 2006/03/15 (水) 21:32
>今回の両引き紋についての解説掲載、有難う御座いました。
>我が家の古文書にある二つ引き紋は足利の家紋であり、青木とは何の関係も無い紋だと思い、今まで全く気にも留めていませんでした。
>まあ、せいぜい主家の足利から使ってもいいよと与えられた一時的な紋であり、それ故そのあとで紋を変えてしまったのだろう・・・・と。
>新しい発見であり、非常に役に立つ内容でした。
>甲賀の青木さん お久しぶりです。
古文書に二つ引き両紋の家紋があったと言うことですが、上山氏の青木氏の時代よりまえの古文書からの者であるのなら、この元上山氏の青木氏は足利氏系青木氏であったことが考えられます。
この上山氏の青木氏は元は美濃の足利青木氏の一族であったと言うことになり新しい発見と言う事に成ります。
今までは通説としてこの上山氏のルーツが明確に平安期中期から鎌倉初期の系譜が判っていませんでしたので、興味深いことです。。
つまり、このことからと室町期から桃山期の佐々木系青木氏との戦いは結局は信濃の足利系青木氏と近江の佐々木系青木氏との青木氏同士の戦いであったことに成ります。
系譜を架けた戦いとされていた事が勢力争いが主な戦いの原因と成ります。
先ず、当時の家紋は兄弟でも同じ家紋を継ぐと云うことは珍しい事でした。
必ず、宗家の許しを得て継ぐことになり、殆どは家紋に丸をつけるか、家紋の一部に細工をするか変紋をするかしました。
これは宗家の純血と権威を守る為でした。
家柄と身分なくして官職には就けない社会で氏家制度で保たれていた社会でした。
それ故に其れを象徴するものとして家紋を用いたのです。
通常、普通の者はこの家紋を持つ事ができませんでした。
本妻の子供以外は大抵は丸つき紋に成ります。男系跡目の社会ですから男系が切れれば氏はそのままにして変紋をする事に成ります。
信濃の皇族賜姓青木氏の家紋の笹竜胆紋は足利氏より跡目を受けて家紋を足利氏の家紋に変紋しましたが、兄弟でも許さないのですから使ってよいと言う立場ではなかった筈です。家柄は上位であったので。
そうすると、足利系青木氏がなぜ上山氏になり、その後に青木氏になったかと言う疑問ですが、上山氏から青木氏に代わった経緯ははっきりしていますので、足利系青木氏から上山氏になるまでの時代の検証が必要に成ります。
時代では、鎌倉期前1120年頃から1320年頃の時代の200年の間の変化と成ります。
当時の寿命は40―50年ですから5―6代の変化の中で起こったことに成ります。
戦いも頻発していましたので戦死などで代替わりは多めに成っていたことも含めて、先ず、氏名が変化するのには
第1は男系相続の跡目が何度もできなかった。
第2は子供が何代も出来なかった。
第3は勢力争いで一族は衰退した。
第4は一時子孫が絶えて、途中で遠籍(上山氏)が氏を興した。
第5は本家筋の足利系青木氏は氏を維持していますので宗家から家紋使用を許された本妻子の分家筋が絶えた
結論は次ぎのようになると考えます。
当時の社会情勢から考慮しながら
第5の本妻子の分家筋の一族は、第1から3までの原因で、第4の子孫が絶えたが、この遠縁籍の上山氏の子孫が、この足利氏系本妻子系分家の青木氏(家紋は二つ引き両紋)を1300年代に引き継いだ。(出世したので)
本流、支流、分流ではない上山氏は戦いに勲功を立て勢力を高めてきたので身分と家柄が必要となり、縁戚の青木氏を名乗ったと言うことになリます。
家紋は本流の総宗本家の足利系青木氏が現存する以上は許可がとれないので、引き継ぐ事は出来ない。そこで故に家紋はまったく異なることに成ります。
この上山氏の青木氏は総宗本家の許可がとれないことから、美濃の青木氏の分家筋の跡目(美濃の土岐氏系青木氏一門との婚姻関係もあったかも知れない)を引き継ぎ名実ともに青木氏となろうとしたのではないかと考えます。
そこで大きくなった上山氏の青木氏が小さくなつた美濃の土岐氏系青木氏の本家筋との戦いとなった。
結果として、大きい上山氏の青木氏が美濃土岐氏系青木氏の本家筋にとって代わられると言う「家」を背負った戦いとなつた。だから繰り返しの戦いとなつたと思います。
だから当時の権力者は同じ陣内での戦いを放置したのではないかと思います。
最終、信濃の足利系青木氏の縁戚の上山青木氏が勝利して美濃土岐氏系青木氏の分家筋の跡目に入ったと言う事に成ります。
当時は勢力関係からこの青木氏が土岐氏系青木氏を牛耳っていたことに成ります。
だからその実力と家柄で幾つもの守護が務められたのです。
鎌倉期前当時から室町期初期までは当時は家柄の無い者は守護にはなれませんでした。
現代では末孫が何とか生き付き美濃の土岐氏系青木氏の木瓜紋の青木氏は現存しています。
現に、足利氏の分家が政略結婚の末に戦い、本家を乗っ取って本家となったことと同じ現象であり、当時はこのようなことは茶番事であったのです。
故に本家筋はしっかりした者が嫡子となり跡目を継いだのです。
このように足利氏のように場合に依っては嫡子がいてもその子を廃嫡して他からしっかりした者を跡目に入れるということは当り前の行為であつたのです。
このお家の上山氏の青木氏は上記した様に、実は足利系青木氏の本妻子系青木氏の血筋を一部に持っていたことに成ります。
1150+40年代は足利氏系青木氏であった事になりますね。
古文書には断絶の跡がいくつかあるのではないかと考えます。
この辺のところは世情は下克上と戦国で乱れていて確認は採り難いのですが、私は多分この様な事が起こっていたと考えます。
新しい新事実です。
私もこの上山氏の過去とこの戦いの理由(同じ陣内での戦いに周囲が仲裁に入らない事)に疑問を持っていました。解けた気がします。
又何かわかりましたらお便りください。
No.193
Re: 二つ引き紋の青木について
ご返事有難う御座いました。
当青木も戦国時代末期あたりからはある程度ルーツが読めるのですが、それ以前は戦乱の中心になった近江辺りに居たためか検証できる記録も無く手探り状態のままです。
上山氏に繋がるのかどうか、その時代まで遡っての検証は不可能ですが、少なくとも1420年代までは足利義量に与力していたか仕えていたかで近江で頑張っていたようです。
その後美濃に蟄居・・今で言う隠居ではなく誰かの命で押し込められたのか・・・しかし、その逃げ込んだ美濃には一族が居て名田も持っていた、当然誰かを頼って美濃に入ったのでしょう。
その辺りのことは私のウエブサイト
http://fen3aoki.web.infoseek.co.jp/の資料8の冒頭(現代語訳あり)に僅かに見えるだけです。
この部分は読み下しに自信が無く、且つ背景もなかなか理解できなかったので現代語訳は付けておりませんが、家紋を変えるということが何故起こったのかは研究員さんの解説で納得できました。
これから少しずつ掘り起こしてみたいと思っています。
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