No.102
Re: 山梨出身の青木です。教えてください。追加です。
青木研究員 さん 2005/08/25 (木) 20:48
>家紋は丸に花菱だったかもしれません。
>
>今は東京在住ですが、祖父の家系は代々、北巨摩郡の上ノ山近辺にいたと話を聞いた事があります。
山梨の青木さん 始めまして
貴方のお家のルーツは直ぐに判ります。大変に名家です。
昔は甲斐国の巨摩郡武川筋青木村に定住していました。
現在の韮崎市、(塩崎) 清哲町付近です。
この地は天領地として由緒ある歴史のある土地柄です。
先ず、このことに付いて先に述べます。
この地は奈良時代は未開の土地でした。しかし、中国の後漢の国が滅びて光武帝から21代目の献帝の孫の阿智使王とその子の阿多倍王が日本に17県の200万の人民を引き連れて帰化してきました。
この一族は大変な高い技術と技能と知識を持っていました。武力に於いても優れていました。瞬く間に九州、中国地方と関西の一部を武力だけではなくその高い能力で各地の豪族を支配下にいれました。現代の第1,2次産業の殆どの技能はこの集団の功績です。
平安初期には朝廷の2/3の権力を握る程になっていました。
平の清盛もこの渡来系一族の6代目子孫です。
どんどん入国してくるこの一族を未開の甲斐の国に入植させました。特に、馬の牧場とか山の産物を加工して開拓を進めました。
当時は、この様な技能を持つ集団を「部」(べ)云う呼称で「馬部」や「山部」や「磯部」等部の付く呼び名でした。現代もこれを姓としている人達がいますが、全て渡来系の人です。
この甲斐の国も開墾が進み、この国を守る為に下記に示す皇族の一族が派遣されたのです。
この地は大化の改新にてある理由により皇族の皇子を臣籍(天皇の家臣にする)させて「青木」という「氏」を天皇自ら賜姓(氏を与える)して、この各地の発展のために、又、天領地を守る為に、軍事的な理由のために、天皇の直親衛隊としてその処に赴任させましたのが始まりです。
(大化改新の臣籍の理由は研究室の青木氏の発祥を参照してください)
この方式に付いては、「皇族賜姓青木氏」は天皇の直接の護衛集団として「天智天武」期から5代の天皇に渡り、第6位の皇子を賜姓したのです。
645年から790年まで5代の天皇に依って5地方に行われました。
天智、天武、文武、聖武、光仁の天皇です。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5地方です。
この地は790年前後の時期と考えられますので、光仁天皇の皇子と思われます。
(光仁天皇の後の桓武天皇はこの皇族の賜姓を止めて自分の母方の渡来系阿多倍の一族の者を賜姓して引き上げました。
これが京平氏です。更にその2代目あとの嵯峨天皇は元に戻して皇族の賜姓方式にし、青木氏から変名して賜姓源氏としました。)
そして、この地の甲斐国に部落を形成して賜姓青木氏は住み着きました。この村を氏の呼称から青木村と名づけました。
その後、開拓が進み、朝廷は他国から守る為に青木氏の勢力以外に青木氏の領国に同族系の清和源氏の「源の頼光」を守護として派遣しました。
(嵯峨天皇から呼称を変名した皇族賜姓源氏は、16代の天皇より賜姓して、16源氏もあります。青木氏とは同じ皇族系の皇子)
5代目の清和天皇の清和源氏の「頼光」は弟の「頼信」を分家させて領国を勝ち取る為に、この地の守護を後に譲りました。ここを拠点に関東に進出しました。
更に確固たる勢力を作り上げるためにこの地に赴任して領国としていた皇族賜姓青木氏と同族の皇族賜姓源氏とは、当初は政治的な連合関係でしたが、後に跡目による婚姻関係を結びました。
他の4地方の皇族賜姓青木氏4家も同じ時期に跡目による婚姻関係を結んでいます。
土着の豪族の武田氏(陸奥国の藤原秀郷一族の者)との清和源氏(8代目源の源光と15代目義虎)との2回にわたる跡目の血縁関係を構築し、源氏の裾野を広くする戦略を採りました。これが支流武田源氏の始まりです。
この武田氏と賜姓青木氏とが更に血縁関係を結び上記の渡来系の「京平氏」に対抗しました。関西と中部に大きな源氏による勢力圏を構築したのです。他の賜姓青木氏4家も同じ戦略を実行しました。
このような歴史的な背景からここには「皇族賜姓青木氏」と「武田系青木氏」の「2氏の青木氏」が存在し村を形成しました。
3つ巴の戦略です。この地のこの3つ巴戦略が成功して鎌倉幕府が出来たといっても過言ではありません。
平安期の歴史がその名として今に残っている貴重な地名なのです。将来も残してほしい地名です。
その後、甲斐国の2家の青木氏は、清和源氏の関東への移動に伴い、この「皇族賜姓青木氏」と「武田系青木氏」の子孫は伊豆地方にも移動しています。
だから、伊豆地方にも貴方のお家の昔の縁者が居る筈です。
そこで、貴方のお家は、この「皇族賜姓青木氏」の一族の末裔です。詳しくは研究室の賜姓青木氏の所を読んでください。
二つの「青木氏」は住み分けをしていました。
甲斐国の巨摩郡武川筋青木村は{清和源氏の跡目}を受けた皇族賜姓青木氏の790年頃からの古代からの定住地です。
武田系青木氏は信州と遠州と甲州の3国境付近に定住しています。
貴方のお家の一族は4つに分流して支流が出ています。(99家)
その内の一つが「花菱紋」です。
清和源氏の跡目を受けた賜姓青木氏の家紋は本来は「笹竜胆」が綜紋ですが、賜姓甲斐青木氏は武田の「菱紋」を受け継いでいるところを見ると、清和源氏の跡目の入った武田氏の血筋も途中で受けているものと思います。
この時、家紋を「笹竜胆」にせずに「菱紋」を「綜紋」としたのにはなんらかの理由があつたと推測されます。
氏として賜姓青木氏であるが、武田氏からも途中で跡目も受けていることからこの血筋を大きくうけている家紋を「通紋」として定めたものと思います。
(信濃、美濃、甲斐の3国の賜姓青木氏はこのパターンです。)
5家5流の賜姓青木氏が結集して何かをする場合は「統一紋」として「綜紋」を使用し、普通時の家紋は「通紋」として「菱紋」を使用したと言うことです。
貴方のお家の先祖は清和源氏源の頼信子孫の11代目時光から更に11代目の孫信正が元祖に当り(本家)、その信正の孫の正定から始まります。(分家)
(時光は第2の青木氏の祖、第1は源光が青木氏の祖、時光と源光は兄弟、源光の一青木説という説もあり)
貴方のお家は賜姓青木氏として清和源氏の跡目による血筋も受け、又、清和源氏の跡目も受けた武田氏の跡目による血筋も受けているという事です。
同じく、別にその武田氏と賜姓青木氏の娘か息子が婚姻をして武田氏より分家して武田氏系青木氏を名乗った一族もいたと言う事です。賜姓青木氏と武田系青木氏もルーツは同じです。
足元をどちらに置いたかにより決まることです。
さて、次にその先祖のことですが、
青木信孝家とは4代前の信定で繋がります。
青木信考本家一族と分家一族(割菱と葉菱紋)、
青木信正本家一族(割菱紋)と分家一族(花菱紋)です。
貴方のお家は青木信正分家一族の本家です。貴方の分家からも多くの分家が出ていますが、「花菱紋」は分家の本家筋です。
仮に丸付き紋ですと信正分家のこの支流と成ります。
私も巨摩郡の青木氏の存在を確認していましたが、これで5地方の青木氏が見つかりました。私は貴方の「賜姓甲斐青木氏」と同じルーツの「賜姓伊勢青木氏」(清和源氏の頼光の孫の京綱の跡目を受けている 笹竜胆)です。
判らない事がありましたらこのサイトにどしどしと質問してください。