> 青森で青木が減るのは、青木が青樹 に?なってるからでは?
> 青森には青樹町 あります。
> ルーツ調べてて ここにカキコです。
>
> 昔し 偉い人の娘を嫁にして 青木を青樹に っと聞いてたが… 青樹で調べて解らず、ならば 青木で調べるかで来ました。
>
> 家紋は ゴサンノスギ 東京です。
> _(._.)_何か情報 無いですか?
青森の青樹さん 今日は。はじめまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、お尋ねですが、そうですね。青森には、”青木さん”が少なく成りましたね。
弘前市には”青樹”地名がありますね。
ところが、青木の地名が不思議に遺されていませんよね。
この陸奥域には、本当であれば、日本全国の中で、最も多い地域である筈なのです。
何故かと云いますと、この地域には、平安中期から、「藤原秀郷流青木氏」が、藤原秀郷宗家が赴任するに伴い、一門の「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏」が、「宗家の護衛団」として同行して居た地域なのです。
室町期までもこの秀郷一門の支配地であったのです。
江戸時代も一門の末裔が定住していた地域であったのです。
東北北陸地域(昔は東北6県を陸奥と呼んだ)を納める「鎮守府将軍」として12代も続いた土地柄です。
ですから、他の赴任地と同様に、「青木村」を形成して、遺って居なければならない土地柄なのです。
ここに赴任して来た「秀郷流青木氏」は、土地の豪族と血縁して、花房氏、小山氏、小田氏等多くの血縁族を作りました。
ところが、これらの血縁族は、「秀郷青木氏」が、「故郷の武蔵国」に赴任が終わる度に、この「現地の血縁族」を伴って、関東に連れて帰ったのです。
この「秀郷流青木氏」は、交代制で武蔵に帰る制度を採っていたのです。
関東に連れて来られた、これらの「現地の血縁族」は、後には、関東では超大豪族に成って、栃木や群馬や千葉や茨木等で「関東屋形」と呼ばれ程に大勢力を持っていました。
ところが、実は、これには理由があったのです。
1 ここには、「秀郷流青木氏」は赴任が終わると帰りますが、現地の土豪との間に生まれた末裔も、赴任の度に大きく成った末裔の殆ど連れて帰ったのです。
2 僅かに遺った子孫も、その後には増えましたが、江戸初期頃から始まった「蝦夷地開拓」で、北海道に移動定住ししてしまったのです。
3 鎌倉期頃までは、未だ多く遺されていたのですが、戦乱の世と成った時、ここには、福島や山形地域から押し上げて来た「安倍氏一族一門」等の勢力に取って代わられたのです。
その為に「秀郷流青木氏の末裔」は一時関東に逃れたのです。
4 この「安倍氏一族一門」もこの土地を失います。
この陸奥の「秀郷流青木氏等」は押し戻して取り戻したのです。
5 室町期には再び、取り戻して「秀郷流青木氏」の末裔は増えます。
6 ところが、末期には、今度は秀吉に依って潰されてしまいます。
7 その為に、今度は関東に逃げずに、北海道に逃げ延びたのです。
この様な、歴史的経緯があって、この青森だけは殆ど定住が遂には無く成ったのです。
江戸初期と、室町中期と、それに明治初期の苗字令で、お家の「青樹氏」の様に、青城氏、青城氏、仰木氏、葵木氏等の「あおき」さんが発祥しました。
多くは「明治期初期のあおきさん」です。
実は、お家の「青樹氏」には、発祥の次の様な「特別な経緯」があるのです。
その「特別な経緯」とは、上記した様に、「藤原秀郷流青木氏」は116氏あるのですが、この「秀郷流青木氏」は、特別に「円融天皇」から賜姓を受けた青木氏なのです。
「賜姓」とは、天皇から特別に「氏名」を与えられる事を云います。この氏を「賜姓族」といいます。
主に、天皇の皇子で、第4世族内の皇子で、皇位継承権は第4位皇子までとし、第6番目に位置する皇子が、この皇子が賜姓を受けて皇子から臣下して侍の武家と成る事なのです。
この制度は、「天智天皇」が最初に採用した制度で、第6位皇子の「施基皇子」が最初に賜姓を受けて名乗ったのが、これが「青木氏」なのです。
「5代の天皇」が、この方式にて皇子を臣下させます。
「光仁天皇」まで「5家5流の青木氏」が発祥します。
そして、天皇を直接警護する役目等の数々の役目を与えます。
ところが、この役目が大変であった為に、母方で繋がっていた藤原秀郷の第3子に、この”青木氏の賜姓族の役目”を補佐する為に、皇子では無かった「藤原秀郷」の子に、特別に賜姓をします。
これが、「藤原秀郷流青木氏」なのです。
全国24地域に赴任して、現地孫を遺して、116氏に子孫が拡大しました。
埼玉武蔵、群馬下野、栃木上野等の関東域を領国としていました。
24地域の一つが上記の「青森の陸奥域」なのです。
では、お家の「青樹氏」なのですが、この「藤原秀郷」の祖祖父が兄弟であり、秀郷と従兄弟に当たる「藤原利仁一門」がありました。
この一門は山形や福島などを拠点として、勢力を持っていました。
ところが、この従兄弟の「藤原利仁一門」には、「秀郷一門」と違って「青木氏」を名乗る権利が認められていませんでした。
当然に賜姓も受けられていませんでした。
皇族外の以外の者が、「青木氏」を名乗る事を「嵯峨天皇の詔勅と禁令」で禁止されていました。
明治期まで護られました。
ところが、この「藤原利仁一門」は、「鎮守府将軍」に成って、秀郷一門と同じく陸奥域に赴任していました。
しかし、護衛する軍団には名乗る氏名がありませんでした。
そこで、この「利仁の護衛軍団」は、後に、秀郷一門の「賜姓青木氏」に準えて、「青樹氏」と名乗ったのです。
そして、「利仁」とその父の「時長」が、「鎮守府将軍」に成った時に、陸奥に、「利仁一族の護衛団」が現地に末裔を遺して、その末裔が「青樹氏」を遺したのです。
これが、お家のご先祖なのです。
この時に住んだ地域が、「青森の弘前」なのです。
「青木氏」とは住んでいた地域が違っていたのです。
お家の親族に成る「青樹氏」は、「福岡筑前」と「徳島阿波」にも存在しますよ。
ところで、この「青樹氏」は、「あおき」と名乗る事を禁止されていたのです。
平安初期に「嵯峨天皇」が、命令を発して禁止していたのです。
そこで、江戸期前までは「うおーき」と名乗っていたのです。
江戸初期に、全ての「青樹」(うおーき)等は、「あおき」(青木)と名乗る様に命令を発したのです。
ところが、明治初期に、苗字令を出しました。
そこで、武士以外の庶民が苗字を持っていなかったので、その弘前に住んでいて「青樹氏」の弘前村にいた農民が、明治維新政府の指導で、一斉に「青樹氏」を名乗ったのです。
だから、「青森の弘前」には、「武士の青樹氏」と、「農民の青樹氏」があるのです。
実は、「武士の青樹氏」は、江戸幕府初期に「令」に依って、「武士の青樹氏」は「青木氏」に変更しているのです。
ただ、長い間、使ってきていたので、命令に従わなかった「武士の青樹氏」もいたのです。
お家は、この何れかに成ります。
これは、どちらかはお家の「家紋」と「宗派」とで判りますよ。
そこで、家紋が”五三のすぎもん”としていますが、これは間違いで、「五三の桐紋」ですよね。
「五三の杉紋」は家紋8000の中にありませんので、「農民の青樹氏」となります。
そこで、「五三の桐紋」として考えます。
この「家紋」は、「天皇家の式紋」と云う「権威紋」で、天皇家より、「藤原氏」の中でも、「特別の氏」が使う事を許された紋でなのです。
秀吉も使う事を許されました。(秀吉はこれを「五七の桐紋」に変紋して勲功のあった大名に使用を許可)
使用禁止されている「天皇家式紋」を、一般の「家紋」としたのは、正式には「北家藤原氏」だけです。
「藤原利仁一門」の「五紋」の内の紋で、「権威紋」ですので「宗家筋」が使えたのです。
つまり、お家は「武士の青樹氏」である事になるのです。
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