> 追記情報
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> 字青木の浄土真宗本願寺派龍念寺の本尊阿弥陀如来は那須家臣とも佐竹家臣ともいう青木三河守義勝の守本尊と伝える。時点では義勝の後裔大山次郎秀勝が文明年間に堂宇を建立したのが始まりで、文禄頃火災で絶えた。宝永三年百姓源十郎が仏堂を再建、のち現在地に堂宇が建立されたという。
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> 原文のまま、掲載しました。
今日は。初めまして。
青木氏さんでは無いようですが、「青木氏氏サイト」にようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
いろいろとお調べに成って居られるようですね。頑張ってください。
早速ですが、お名前が良く判りませんが、袴田さんですか、兎も角もお尋ねの件でお答えいたします。
さて、お尋ねは、「浄土真宗」の「門徒衆」で「龍念寺」を”菩提寺”としている「青木さん」がどのルーツの青木氏であるかのお尋ねですね。
では、ご説明致します。
日本全国の青木氏に付いては、そのルーツは判っています。
関東に分布して、ご指摘の地域に住した大元のルーツの青木氏は次ぎの通りです。(234)
この下記の(1)が最初に「天智天皇の賜姓」に依って「第6位皇子」が臣下して、発祥した「賜姓族青木氏」です。
これに習って以下に平安中期頃に発祥した(2)の「特別賜姓族の青木氏」(116氏)があります。
(1)は「5代の天皇」によって引き継がれて、皇子が臣下して賜姓する制度は光仁天皇まで受け継ぎます。
この後、この「賜姓制度」を「嵯峨天皇」が一部変更します。
「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に「賜姓名」を変更します。11代花山天皇まで続きます。
この時、元の「青木氏の氏名」は、「皇族の皇子」が還俗、下族する場合に名乗る「氏名」として定められて、「嵯峨期詔勅と禁令」を発します。
一切他氏がこの「青木氏の氏名」の使用を永代で禁じました。明治初期まで護られました。
この「嵯峨期の詔勅と禁令」を使って、「皇族関係の下族した末裔」が名乗ったのが、(3)の「丹治氏系青木氏」です。
(1)の「信濃賜姓青木氏」が、土地の「信濃豪族の諏訪族」と血縁して発祥したのが、(4)の「賜姓族の諏訪族青木氏」です。
この氏から「3つの氏」が発祥します。
(1) 「皇族賜姓族青木氏」 「5家5流青木氏」 「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」に奈良期から定住しています。「大化期」の「青木氏の発祥源の氏」と成ります。
・(2) 「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏」116氏は、 (1)の青木氏とは母方で繋がる「青木氏」で、「嵯峨期の詔勅」で、特別に「青木氏の賜姓」を受けた「北家藤原秀郷流青木氏」です。
「平将門の乱」で、「藤原秀郷」は、「平貞盛」と共に、鎮圧して勲功を挙げ、「貴族の身分」と「武蔵の国」を領国とする事に成りました。
この為に、貴族は武力を持てない事から、「秀郷第3子の千国」が「始祖」として「青木氏」の賜姓を受け、以後、この「青木氏」が「一族の護衛」を受け持ち、軍団を創設します。
この「千国」を始祖とする「青木氏」は、「(1)の青木氏」を補佐する事を役として、「家柄、身分、官職、官位」の一切を「(1)の青木氏」と同じとして発祥します。
そして、天皇を警護する役目等を朝廷から受けます。
その後、この「秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、下野、上野、下総、常陸、陸奥、越後等に広範囲に子孫を拡げて、全国24地域に分布する様に成っています。
武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径として、円状に116氏の本家筋が護っていました。
・(3) 武蔵守を務めた「丹治彦王」の「武蔵の配流孫」の「峯時」が、秩父牧の「別当」と成りますが、この者が後に「武蔵7党」の「丹党」を結成します。
この「丹党」から、「丹治氏」を名乗ります。
その後に、上記した「嵯峨期の詔勅」を使って、「皇族配流孫」であるとして、この「丹治氏」から「青木氏」を名乗ります。
主にこの族は、宇都宮南の武蔵の国の児玉、秩父、比企、入間に分布しています。
この一族は「丹治氏系青木氏」と云います。
この大田原に住した時期は、「諏訪族青木氏」が、この地に勢力を張った少し前の時期で、「丹治氏系青木氏」が、各地に「国衆」として転戦した時期の少し前が開基の期と成ります。
更に、戦国時代に入って、「武蔵7党」が守りに入った時期で、その時に、「館、要塞、寺」を兼ねた「戦国様式」として建立した城のころの「戦国期始めの時期」となります。
戦国時代は、1467年頃からで、「諏訪族青木氏」が、この地域に入った時期は、1586年頃の間で、「武蔵7党」が守りに入った時期の1485年頃と、「丹治氏系青木氏」が転戦した時期の1500年頃の間に開基したと考えられます。
従って、1500年前頃と考えられます。
以下の(4)には、(1)の「信濃の賜姓族青木氏」と、奈良末期に血縁した「賜姓族の諏訪族青木氏」で、この「賜姓族系の諏訪族青木氏」「諏訪族系青木氏」と、武田氏とが血縁した「武田氏系諏訪族青木氏」「諏訪族系武田氏族青木氏」との以上の4氏があります。
・(4) 武田氏が滅んだ際に、(2)の神奈川に定住していた「秀郷流青木氏」を頼り、「武田氏」に味方した「諏訪族系青木氏」等(4氏から成り立つ)の一部が、この神奈川に逃げ込んで定住します。
しかし、その後、この「諏訪族系青木氏」の一部は、秀郷一門を背景に栃木に移ります。
そこで、「宇都宮以北」に勢力を拡大させ、「岩代の国境」まで勢力を拡大させます。
ここで、子孫を大きく拡大させ、「守護神の諏訪神社」をこの地域に建立してする程に大きく子孫を拡げました。
この一族の家紋は「抱き角紋」です。
以上、この栃木地域に分布する「青木氏」にはこの「3氏」と成ります。(1)は除く。
この小さい地域の下野北部に、「3つもの青木氏」が定住していた地域なのです。
そこで、お便りの情報が少ないので、この3氏の内のどの青木氏であるかは確定させることは困難ですが、可能性から判断します。
先ず、「浄土真宗」からで検証しますと、次ぎの事が云えます。
当時は、「家柄身分」等の事から、その入信する宗派は決まっていましたが、上記(2)と(4)の2氏は本来は、「密教浄土宗」です。
但し、(2)は領国以外の赴任地の24地域、特に、関西以西の地域では、赴任中、その地に「密教浄土宗」の寺が無い場合が多く、一時的に、「浄土真宗」に入信する場合もありました。
しかし、赴任後、領国に戻りますと、武蔵と下野の栃木には、一門の領国域ですので、氏自らが住職を役て、創建し氏の人だけを祭祀し、運営する「氏の菩提寺」があり、これが本来の「密教浄土宗」です。
従って、ご質問の青木氏は、(2)と(4)では無い事が明らかに判ります。
「氏家制度」の社会では、「宗派」は、その「氏のステイタス」と成ります。大きな重要な判定要素と成っていました。
宗派では、(3)の一族の宗派は、当に”「門徒衆」”の「浄土真宗」でした。
小土豪集団が入信する宗派でした。
従って、お尋ねは、「丹治氏系青木氏」である事に成ります。(詳細は研究室などで)
次ぎは、地域からの検証ですが、当時は、同じ「青木氏」でも「出自」が違う事では、”「棲み分け」”をしていました。
その為に、(2)と(4)は「賜姓族」である事から、「青木村」を形成する事が許可されていました。
上記した「嵯峨期の詔勅」で、”「氏名」”を使った「村の形成」は、(2)と(4)の「賜姓族青木氏」にしか認められていませんでした。
従って、”「青木村」を形成していたか”では、重要な意味を持ちます。
この栃木の北部地域の付近には、栃木県那須塩原市青木の「青木村」があり、「村」でした。
確かに、「大田原市」にもありますが、大田原は「村」では無く、一段小さい「字」の青木でした。
この那須塩原の「青木村」は、「(4)の青木氏」の正規の「青木村」です。
この(4)の「青木村」がある様に、下野と岩代の国境までは、「R4」に沿って、(4)の「諏訪族青木氏の分布域」である事は判っています。
(宇都宮の北域一帯にまでこの(4)の子孫が分布しています。)
しかし、(3)の「青木村の形成」は、その「配流孫の家筋」からは原則ありません。
つまり、「武田氏滅亡」後に、後から来て、「秀郷流青木氏」に保護され、勢力を一挙に拡大させた(4)の分布域の中に、(3)の氏が小さく元々「武蔵7党」の小土豪の「郷士」として存在して居たのです。
依って、当時の慣習の「棲み分け」としては、上記した様に、宇都宮より北部域に成ります。
「南部域」は、藤原秀郷流一門の「関東屋形」と呼ばれる一族が定住していたのです。
ただ、この「丹党の丹治氏系青木氏」が入っている小土豪の連合防衛組織の「武蔵7党」は、この「宇都宮付近」近郊まで住んでいた「小土豪集団」でした。
ところが、「関東屋形」と呼ばれて、この「宇都宮」から南域は、藤原秀郷一門の「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」等の勢力圏にありました。
お家の情報のあった「佐竹氏」とは、この「関東屋形」の”佐竹氏”です。
お家の情報提供の永禄期の”「佐竹氏の青木氏に関する文書」”は、上記の3氏のどの青木氏の事を指して書いたかは問題です。
そもそも、この「佐竹氏」は秀郷一門です。
秀郷一門と云えば「秀郷流青木氏」と成ります。
「秀郷流青木氏」と云えば、「秀郷一門一族361氏」を束ねていた「第二の宗家」と呼ばれる「青木氏」です。
この「佐竹氏」は、元は、北九州豊後で、赴任中の秀郷宗家と護衛を務めた「青木氏」と仲良く成り、この一族は関東と行き来します。
関東に来た「佐竹氏一族」の末裔が関東に定住し、秀郷一門と血縁して関東で大きく成った秀郷一門でも「支流族」です。
この「関東屋形」と呼ばれる程に大豪族に成った「佐竹氏」が、「第二の宗家」と呼ばれる上位の上役の「青木氏」の事を、この「支流族」がおこがましく書くかの疑問もあります。
(小山氏も「陸奥の土豪」で一門と血縁して関東で大豪族と成ります。)
もし書くとすれば、「秀郷流青木氏」を背景に、その勢力を北に伸ばした関係のあった(4)の塩原の「諏訪族青木氏」の「合力」の事では無かったかと考えられます。
武蔵を領国とした秀郷一門と、同じ武蔵の土豪(郷士族)であった「丹治氏系青木氏」とは、血縁関係もなく、支配関係下にも無かったのです。
この「丹治氏系青木氏」は、そこで、何とか立身出世を夢見て、各地を転々とした”「国衆族」”の「小土豪の郷士」でした。
文書にする相手であるかは疑問です。
そもそも、この事に付いて決定的な事があります。
それは、「丹治氏系青木氏」が ”「門徒衆」” であることです。
この ”「門徒衆」”は、秀郷一門一族としては「禁じ手」でした。
当時には、”「門徒衆」”と云う言葉の中には、”ある意味の含んだ言葉”であったのです。
この「真宗」に入信している「下級武士」等は、”「藩主」の云う事を聞かなく、宗教に強く真髄し、藩主よりも「顕如上人」に真髄して「顕如」の云う事に従い、勝手に行動する「衆」である”と云う意味を持っていたのです。
要するに警戒されていた集団であったのです。
(因みに、浄土真宗 「石山本願寺」を攻めていた「荒木村重」も、この家臣の「門徒衆の裏切り行為」にて、信長に疑われて、結局は追い込まれて、「謀反の仕儀」と成った事は有名です。
依って、慌てた全国の藩主等は、「家臣の門徒衆狩り」をしたのです。)
「秀郷流青木氏」の事でも、上記した様に、「賜姓族の立場」があって、”「門徒衆」”を警戒して、嫌っていたのです。
(「真宗」は二流あった。穏健派と抗戦派・門徒衆)
それ故に、この「真宗」とは言え、 ”「門徒衆」”の(2)(4)はあり得ません。
追伸の件ですが、上記の3氏が混在する中で、あり得ることではありますが、(4)の家臣は立場や家柄が違い過ぎて考え難いし、「佐竹氏」の家臣も共に上記の事もあって、考え難い事であったのです。
ただ、(4)の支配下と、「宇都宮氏」の支配下、「佐竹氏」の支配下の中にはありましたが、「丹治氏系青木氏」は、正規の家臣では無く、「武蔵7党」の「郷士」であったのです。
支配下の中での「土地所有」を一部認められた”「郷士団」”ですから、正式な家臣では無かったのです。
一応は、支配下にあった事から、”「郷士」” ですから、ある程度の命令には従わなくてはならないのですが、正式な「家臣」では無かったのです。
故に、”自由度の高い「家臣」” と観ていたのではないかと考えられます。
そもそも、”「郷士」”とは、小さい「土地持ち」の古くからの”「地元の武士団」”で、後から来た「支配者」には「准家臣扱い」を受けます。
この「大田原の丹治氏系青木氏」は、”「郷士」”として、”「下野の国衆」”と成って、秀郷一門(佐竹氏か宇都宮氏と、諏訪族青木氏)から、この大田原地域の「出城・物見櫓城」の防衛を請け負っていた事に成ります。
「小土豪や郷士」等は、「国の支配者」に対して、「一部の土地」を与えられて、「国衆」か「プロの武装集団」を「生業」として、生き延びたのです。
要するに、これが”「武蔵7党」”なのです。”「丹党」の「丹治氏系青木氏」”なのです。
その一部本体が、各地を転戦した後に、「信濃の国衆」としても転戦し、「「村上氏の支配下」に入ります。
そこで、一つの「出城の防備」を任されていたのです。(その後に「真田氏の国衆」に成る。)
この様な集団は、各地に沢山ありました。
愛知には、「今津川青木氏」の集団もありました。
関西で有名なのは、雑賀族、根来族、柳生族、伊賀族、甲賀族、・・沢山あります。
例えば、信長の「雇のプロ鉄砲集団」として、「雑賀族」は有名ですね。
ところが、この時期に、各地では、この”「郷士団」”と、後から「支配者」となった「大名」や「豪族」との間で「争い」に成った事件が多発しました。
有名なところでは、「山内氏」が土佐に入った時に、この「土佐の郷士団」が、「山内氏」に”「だまし討ち」”に合い戦闘して皆殺しにされる事も起こりました。
戦国時代末期の緊縛した「永禄と元亀期」に、この”門徒衆”の「郷士」の事を書くかは疑問です。
「文書中の青木氏」が、”門徒衆”の「大田原の青木氏」と決め付けるには問題です。
従って、「大田原付近」にも一部「村」は形成しなくても、”「字域の程度以下」”で、「丹治氏系青木氏」が住んでいたのです。
(江戸期初期には、この「丹治氏系青木氏」の本体は、「摂津麻田藩」と成った事から、関東に分布していたこれらの一族を呼び寄せて藩を固めます。
弟にも河内4000石が支給され、”「国衆」”で離散していた一族を集めて家臣団を構成しました。)
当初は、この”「郷士」”の「勢力の範囲」からも「村域」を形成出来る勢力ではありませんでした。
ですから、この事からも「丹治氏系青木氏」と考えられます。
そもそも、「丹治氏系青木氏」の本体は、「武蔵の国」の一部に”「郷士」”と成って住し、「立身出世」を夢見て、各地の ”「国衆」”と成って各地を転戦していた一族です。
そもそも”「国衆」”の”「転戦族」”なのです。
最終は、”「信濃の国衆」”がきっかけで立身出世して行きます。
その結果、最終、「関ヶ原戦い」の「勲功」で、家康に味方した事から摂津の1万石の大名と成ります。
離散していた一族は、皆、「摂津大阪域」に集まります。
この”「門徒衆」の「丹治氏系青木氏」の「摂津磨田藩」”は、”門徒衆”の本山顕如の石山本願寺(平城 摂津国東成郡生玉荘大阪 現在の大阪城)の近くです。
家康は、恣意的に”うるさい危険な「門徒衆」”を管理させる為に、「丹治氏系青木氏」をこの地域に配置したのです。
家紋が判れば、「家紋分析」で判別が出来ます。また、守護神などでも判ります。
(2)の守護神は「春日社」、(4)の守護神は「諏訪社」の様に、「守護神」が判れば、判別は確定する事が出来ますが、情報提供の範囲では確定は無理です。
「龍念寺」がお判りに成るのであるのなら、その寺に、「人別帳」(過去帳は無い)なるものや「青木氏のルーツ」を物語るものは何かある筈です。
城主(平館)ともなれば、「密教」の「菩提寺の過去帳」とは言えずとも、必ずや何らかの形で遺されている筈です。
何故ならば、当時のルーツを示す事柄は「寺」が管理して遺していたのです。
”「土豪、郷士」”であるのならある筈です。
少ない情報提供の範囲では、上記の「丹治彦王の配流孫」の「丹治氏系青木氏」と成ります。
念の為に、情報の”菩提寺”の定義が違っています。
「浄土真宗」は「密教」ではありません。「顕教」ですから、「檀家寺」と成ります。
現在の”菩提寺”の使い方は、江戸初期、家康に依って、「密教の宗派」を一切無くし、全ての宗派は「顕教の宗派」と成りました。
この為に、”檀家寺”も”菩提寺”と云う言葉と混同されてしまったのです。
しかし、江戸時代でも、上級武士は「菩提寺」は「菩提寺」でした。
「菩提寺」の言葉の使い分けは、一部上級武士階級で護られていました。
更に、この時代の「・・守」は、朝廷が認証した正式な「・・守」では無く、勝手に名乗ったものも多く、城主が家臣に与えるなどの事もありました。
土地の豪族らの「集団防衛組織」が、「権威付け」の為に、勝手に与えるなどの事も頻繁に起こったのです。
室町末期の衰退期には、どんな小さな「土豪」でも、「金」を出せば朝廷の認可なしでも与えた衣冠名でもありました。
従って、同じ「三河守」も沢山出てきますよ。
何れにしても、この”「衣冠」”で、「個人の青木氏」の「郷士」を特定し、確定する事は困難です。
先ず、お調べに成る時は、この辺のところを充分に検証してからお調べに成る事をお勧めします。
この辺の検証を間違えると、ルーツ探究などの歴史研究は行き詰まります。
「武蔵7党」の「小土豪集団」の「丹治氏系青木氏」でありますが、念の為に家紋や過去帳等の事をお知らせください。
「丹治氏系青木氏」等の家紋は、はっきりしていますので、完全に判ります。
上記した様な、「歴史的背景」を承知した上で、正しい歴史観の中で、ご研究を成される事をお勧めします。
「青木氏」に限っては、他氏と異なり、「悠久の歴史」を持つ氏でありますので、「歴史観の判断」では「大きな影響力」を持っています。
50以上の「慣習、仕来り、掟」と「賜姓族としての戒律」を把握しての探究が必要に成ります。
何しろ、古い為に、一般の「氏や姓」と違って、全てが違っているのです。
以上の事柄の歴史的な事に付いては、研究室やルーツ掲示板にも詳しく掲載していますので、是非お読みください。
何せ、「膨大な資料」ですので、ゆっくりとお読みください。
お読みに成って、ご質問やご不明な点がありましたら、何なりとご遠慮なくお尋ねください。