埼玉の入間の青木さん 今日は。始めまして。
ようこそ、全国の青木氏が集う青木氏氏のサイトにお越しいただきました。
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さて、早速ですが、お尋ねがありましたので、お答えしたいと思います。
お家のご先祖が武蔵国の入間にお住まいであった事
三芳町の臨済宗のお寺が菩提寺である事
家紋は丸に剣片喰紋である事
農家ではなかったかと見られる事
過去帳が存在する事
この5つの情報から次ぎの事が云えます。
先ず、武蔵の入間は藤原秀郷流青木氏の総宗本家が定住していたところです。
ここは全国24地方に定住していた藤原秀郷流青木氏116氏の中で、藤原秀郷の宗家を護って、「第2の宗家」と呼ばれた秀郷流青木氏が、入間を中心に神奈川横浜を半径とする円の地域をこの116氏の本家筋が螺旋状に定住しながら護っていたところです。
入間の中央を基点に外側に向けて116氏の分家筋の末裔が護っていたのです。
この末裔は、「嵯峨期の詔勅」で特別に天皇より「青木氏」を名乗る事を許された「特別賜姓族青木氏」であり、天皇を護る役目の親衛隊を担った特別に皇族に列する身分と家柄を与えられていました。
平安時代には天皇とその宮殿を護る「北面武士」として最高の官職と家柄と勢力を以って「北家」として誇っていました。藤原氏には「四家」の流れがあり、最終は同族の勢力争いから「北家」が残ったのです。
「特別賜姓族」と成ったこの116氏にもなるこの「特別賜姓族青木氏」は、第6位皇子の「皇族賜姓族」に習って、秀郷一門の秀郷第3子の千国が青木氏を賜姓で名乗り始祖となりました。
秀郷は「平の将門の乱」を鎮圧した勲功で貴族と武蔵国を獲得しました。このために貴族と成った秀郷は武力を持つ事が出来なくなり、そこで第6位皇子の臣下族と成った「皇族賜姓族」の青木氏と同じく「天皇家の仕来り」に習って、この第3子が一族一門を護衛する役目を担うことができる様に成りました。
そして、この「皇族賜姓族」を補佐し支える役目を担わせるために全ての身分、家柄、官位、官職を同じくする「特別賜姓族青木氏」として発祥しました。これが始祖の「千国」で総宗本家は入間に定住しました。
これがその後、全国各地の24地域に子孫を残し116氏にも広がったのです。
従って、この入間に昔から定住していた事は少なくとも本家筋の末裔である事が云えます。
なぜならば、昔の慣習は、「住み分け」として家柄に応じて住み分けていましたので、入間に定住していた事は本家筋の末裔である事が考えられます。
入間の総宗本家の青木氏は家紋は秀郷宗家と同じく総紋の「下がり藤紋」です。しかし、この総宗本家以外はその末裔は血縁関係により養子などの事が起こりますので、「家紋掟」により家紋は変化します。
入間の本家筋の末裔である事は、この「丸に片喰紋」が物語ります。
この家紋は116氏の中でも秀郷流青木氏の主要8氏の家紋類の一つです。
片喰紋に丸がついていますので、入間の本家筋枝葉の中の末裔で、その分家筋である事に成りますが、この「丸に片喰紋」は本家筋の「片喰紋の青木氏」より勢力を誇っていました。
そこで問題は、「柳沢吉保建立」といわれる入間の臨済宗のお寺(多福寺)の檀家である事なのですが、実は、「柳沢吉保」は「甲斐の武田氏系青木氏」です。本来は甲斐の柳沢村の青木氏ですが、徳川家の家臣になった時に、青木氏から村名の柳沢氏を名乗りました。
これにはある経緯がありまして、青木氏を名乗る事を本家筋から横槍があったことから名乗れなかったのです。
(吉保の叔父一門は青木氏を名乗った。吉保は一蓮寺、永慶寺の甲府の菩提寺、平林寺、等がある。甲斐青木一族の菩提寺の常光寺−曹洞宗)
この甲斐武田氏系青木氏である柳沢吉保が立身出世した時に、青木氏のゆかりの地に寺を建立します。本来は浄土宗なのですが、これにも経緯がありまして、浄土宗寺を建てられなかったのです。
そこで、曹洞宗、臨済宗の寺を建てました。
そもそも賜姓族青木氏の浄土宗は密教方式を頑なに守った事から、その氏が衰退するとその菩提寺となる寺の運営が出来なくなり滅亡消滅して行ったのです。
甲斐武田氏系青木氏も武田氏が滅んだ結果、この憂き目を受けました。
室町時代は下克上と戦国時代が起こり、これらの平安期からの由緒ある古い氏は滅亡して行きましたので、その菩提寺となる浄土宗寺も下克上の焼き討ちなどで消滅して行ったのです。
そこで何故、入間に寺を建てたかと云う事ですが、これにも経緯がありまして、武田氏が滅んだ時に武田氏系青木氏は、家康の管理下の配下に入り、後に武田氏系青木氏は家康の家臣に成り、この時、武蔵国の鉢形に一族全員が定住移動させられました。
この武蔵鉢形の「武田氏系青木氏」は、その後、住み分けの為に生き延びる為に関東北部に勢力を伸ばします。
ただ一人出世した青木氏の柳沢氏は、一族一門をまとめるために、この時に、これらの「武田氏系青木氏の寺」を各地に建立したのです。この入間のお寺もこの為に建てたものです。
密教系浄土宗を建てられなかった事から、曹洞宗や臨済宗などの寺を建立したのです。
そこで、ここにこのお寺がお家の檀家寺と成っていることが問題です。
しかし、片喰紋類は秀郷流青木氏の主要家紋ですので、当時は家紋が氏を証明する一つの有効手段でしたので、家紋と云うことから考えると、この「武田氏系青木氏」では無い事を意味します。
寺に関しては、江戸時代にも全国各地のこの本来の浄土宗の存亡危機が起こったのです。このために家康は「浄土宗の督励令」を発して存続を図ります。
ところが明治期には激しい「宗教改革」でこのような弱体化した得意な位置づけにあった浄土宗寺は殆ど廃仏毀釈で潰されたのです。
恐らくは特定の氏しか檀家に収めなかった菩提寺系の寺はこの時に潰されたのです。
実は武蔵の藤原の「総宗本家」や一門の「特別賜姓族」の「青木氏の菩提寺」さえも関東では判らなくなっているのです。
この時に、お家などは「柳沢吉保の勢力」の下に入り、この時に、お家も一族の安全の為にもこの寺に入ったと考えられます。この様な事が関東では大変多かったのです
この武蔵国には他に武田氏に味方した「皇族賜姓族諏訪族青木氏3氏」も、「秀郷流青木氏」を頼って、神奈川と栃木にも秀郷流青木氏の保護を受けて逃亡して勢力を盛り返し定住しました。
次は、”お家が農家では”の事ですが、「入間の青木氏」は鎌倉幕府-足利幕府-徳川幕府の時に、時の幕府の家臣団に加わりました。但し、これにも経緯があり、主に116氏の本家筋が家臣となったのですが、分家筋はその家臣の配下に入りましたが、本家筋はせいぜい200石程度の禄高で低く、更にその配下であった事から山林を切り開きして農業をして暮らしを立てました。若い時の吉保も含めて大変に貧乏していた事が詳細に記録されています。しかし、いざと云うときには武士として働くのです。
多くの抹消の分家筋は江戸時代には農兵の様な働きをしてこの暮らしをしたのです。
武田氏系青木氏に限らず、秀郷流青木氏も特に分家枝葉の一族は同じであった事が判っています。
本家筋の多くは、庄屋、名主、豪農を務めました。分家筋はその親族としてこの本家筋を護ったのです。
そもそも江戸時代の士農工商の身分制度には、士と農との間には、実は「郷士と郷氏の階級」があったのです。武士の階級に入っていましたが、平安期からの伝統を誇る武家の身分であって衰退して農業をしていた者たちです。
徳川氏は、この時、これらの者たちを村役の庄屋や名主とさせました。時には豪農、豪商となり「2足の草鞋策」を採りました。豪商の殆どはこの郷氏です。
そもそも、一般の農民は、独自に村を形成する事を許されていませんでしたので、この「郷士」か「郷氏」の村に所属する社会形態をとっていました。青木氏だけが氏名を村名とする事を奈良期から特別に許されていました。
室町期に伸し上がった一般の武士と違って、由緒ある古来からの家柄や身分や官位官職を伝統的に持ち、これらの土地を所有する郷士や郷氏は後からなった一般の武士からはけむたがられて居ました。
中でもお家の様な秀郷一門の青木氏は、村を形成し広大な土地を持っていた「郷氏」であった為に、土地の大名からも一目を置かれていました。
因みに「郷氏」に関する有名な事件が幾つも歴史上にあります。
一躍身分の低い豪族から躍り出た信長が、信濃、甲斐を平定し、巡行視察の際にこの甲斐の「郷氏」の清和源氏の末裔が白馬に跨り儀式の白装束に身をかため信長を歓迎したのです。
ところがこの儀式の郷氏の採った態度を知らずに、自ら馬から引きずりおろして殴る蹴るの狂態を示したのです。側用人がこれを知らせずにいた事から起こった歴史上有名な事件がありました。
又、徳川4代将軍が、伊勢の「皇族賜姓族の伊勢青木氏」が矢張り平安期からの儀式に乗っ取り所定の位置で出迎えずしたり、又、拝謁する際には上位の者が座る上座を取られて怒ります。
しかし、その後に家臣から知らされてこの儀式の事を知った将軍はしぶしぶに上座を譲ります。
これらのこの2つの事件は有名で歌舞伎にも成っています。
この様に、「郷氏」には、時の将軍と云えど朝廷から正式に永代で与えられた身分、家柄、官位、官職に関しては頭が上がらなかったのです。
この青木氏の様な「郷氏」の中には大名より経済的に勝った氏もいて、50万石から中には200万石にもなる経済的な勢力を誇っていて、広大な土地も所有する勢力を持っていました。そこいらの大名よりも大きく家人500人もいる青木氏の郷氏も居たのです。
因みに、筆者の伊勢青木氏も「2足の草鞋策」で歴史上有名な豪商を営み、紀州徳川氏初代頼宣から伊勢松阪において上位の位置で上座を維持し、大正期までこの関係を維持していた事が判っています。
お家は「青木氏の氏」を守っていたことから、古い由緒を持つこの「郷氏」であったと考えられます。
これらの分家筋は江戸時代には農業をしながら「郷士」か「郷氏」と呼ばれました。
恐らくは、お家は苗字と刀と布衣を纏う事を許された「土地の武士」で、この「郷氏」か「郷士」であったと考えられます。
一般の民衆は寺の習慣が無かったし、苗字もありませんし、氏も構成していませんでした。当然に過去帳もありませんでした。民衆はなかには有ったとしてもせいぜい「任別帳」で村の構成人としてその時代に生きた「人の記録」だけでした。
9割の民は苗字を持ったのは明治期の3年と8年のの苗字令からです。この場合の多くは、任別帳は庄屋の家で記録されて、それを村の一般の寺に保管していたのです。これらの事はお家の総本家の内容をお調べに成れば判ります。
以上の事柄の詳しい事は、研究室かルーツ掲示版に詳しく書いていますので、ゆっくりと関連する事からお読みになってください。
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