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  [No.924] 埼玉県の青木です。
     投稿者:ねこ   投稿日:2013/10/01(Tue) 23:06:47

はじめまして。
こちらの掲示板を拝見していて、自分のルーツのことも少し知ることができればと思い、書き込みさせていただきました。

私の家は埼玉県ふじみ野市(旧入間郡)にあり、本家は埼玉県入間郡三芳町にあります。
お墓は三芳町の柳沢吉保が建てた臨済宗のお寺にあります。
家紋は丸に剣片喰です。

父によると、家は昔農家だったので先祖も農民だったのではないかと言っておりましたが、家には過去帳のみで家系図がないので詳しくはわかりませんでした。


  [No.925] Re:埼玉県の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/10/03(Thu) 08:58:06

埼玉の入間の青木さん 今日は。始めまして。
ようこそ、全国の青木氏が集う青木氏氏のサイトにお越しいただきました。
サイトには青木氏に関するあらゆるデーターを投稿しています。
青木氏の氏を物語るデーター量では日本ダントツ一位です。ヤフーHPk歴史サイトにも認可をえてブログを運営しています。
これからも青木サイトの運営にご協力ください。

さて、早速ですが、お尋ねがありましたので、お答えしたいと思います。
お家のご先祖が武蔵国の入間にお住まいであった事
三芳町の臨済宗のお寺が菩提寺である事
家紋は丸に剣片喰紋である事
農家ではなかったかと見られる事
過去帳が存在する事

この5つの情報から次ぎの事が云えます。
先ず、武蔵の入間は藤原秀郷流青木氏の総宗本家が定住していたところです。
ここは全国24地方に定住していた藤原秀郷流青木氏116氏の中で、藤原秀郷の宗家を護って、「第2の宗家」と呼ばれた秀郷流青木氏が、入間を中心に神奈川横浜を半径とする円の地域をこの116氏の本家筋が螺旋状に定住しながら護っていたところです。
入間の中央を基点に外側に向けて116氏の分家筋の末裔が護っていたのです。
この末裔は、「嵯峨期の詔勅」で特別に天皇より「青木氏」を名乗る事を許された「特別賜姓族青木氏」であり、天皇を護る役目の親衛隊を担った特別に皇族に列する身分と家柄を与えられていました。
平安時代には天皇とその宮殿を護る「北面武士」として最高の官職と家柄と勢力を以って「北家」として誇っていました。藤原氏には「四家」の流れがあり、最終は同族の勢力争いから「北家」が残ったのです。
「特別賜姓族」と成ったこの116氏にもなるこの「特別賜姓族青木氏」は、第6位皇子の「皇族賜姓族」に習って、秀郷一門の秀郷第3子の千国が青木氏を賜姓で名乗り始祖となりました。
秀郷は「平の将門の乱」を鎮圧した勲功で貴族と武蔵国を獲得しました。このために貴族と成った秀郷は武力を持つ事が出来なくなり、そこで第6位皇子の臣下族と成った「皇族賜姓族」の青木氏と同じく「天皇家の仕来り」に習って、この第3子が一族一門を護衛する役目を担うことができる様に成りました。
そして、この「皇族賜姓族」を補佐し支える役目を担わせるために全ての身分、家柄、官位、官職を同じくする「特別賜姓族青木氏」として発祥しました。これが始祖の「千国」で総宗本家は入間に定住しました。
これがその後、全国各地の24地域に子孫を残し116氏にも広がったのです。
従って、この入間に昔から定住していた事は少なくとも本家筋の末裔である事が云えます。

なぜならば、昔の慣習は、「住み分け」として家柄に応じて住み分けていましたので、入間に定住していた事は本家筋の末裔である事が考えられます。
入間の総宗本家の青木氏は家紋は秀郷宗家と同じく総紋の「下がり藤紋」です。しかし、この総宗本家以外はその末裔は血縁関係により養子などの事が起こりますので、「家紋掟」により家紋は変化します。
入間の本家筋の末裔である事は、この「丸に片喰紋」が物語ります。
この家紋は116氏の中でも秀郷流青木氏の主要8氏の家紋類の一つです。
片喰紋に丸がついていますので、入間の本家筋枝葉の中の末裔で、その分家筋である事に成りますが、この「丸に片喰紋」は本家筋の「片喰紋の青木氏」より勢力を誇っていました。

そこで問題は、「柳沢吉保建立」といわれる入間の臨済宗のお寺(多福寺)の檀家である事なのですが、実は、「柳沢吉保」は「甲斐の武田氏系青木氏」です。本来は甲斐の柳沢村の青木氏ですが、徳川家の家臣になった時に、青木氏から村名の柳沢氏を名乗りました。
これにはある経緯がありまして、青木氏を名乗る事を本家筋から横槍があったことから名乗れなかったのです。
(吉保の叔父一門は青木氏を名乗った。吉保は一蓮寺、永慶寺の甲府の菩提寺、平林寺、等がある。甲斐青木一族の菩提寺の常光寺−曹洞宗)
この甲斐武田氏系青木氏である柳沢吉保が立身出世した時に、青木氏のゆかりの地に寺を建立します。本来は浄土宗なのですが、これにも経緯がありまして、浄土宗寺を建てられなかったのです。
そこで、曹洞宗、臨済宗の寺を建てました。
そもそも賜姓族青木氏の浄土宗は密教方式を頑なに守った事から、その氏が衰退するとその菩提寺となる寺の運営が出来なくなり滅亡消滅して行ったのです。
甲斐武田氏系青木氏も武田氏が滅んだ結果、この憂き目を受けました。
室町時代は下克上と戦国時代が起こり、これらの平安期からの由緒ある古い氏は滅亡して行きましたので、その菩提寺となる浄土宗寺も下克上の焼き討ちなどで消滅して行ったのです。

そこで何故、入間に寺を建てたかと云う事ですが、これにも経緯がありまして、武田氏が滅んだ時に武田氏系青木氏は、家康の管理下の配下に入り、後に武田氏系青木氏は家康の家臣に成り、この時、武蔵国の鉢形に一族全員が定住移動させられました。
この武蔵鉢形の「武田氏系青木氏」は、その後、住み分けの為に生き延びる為に関東北部に勢力を伸ばします。
ただ一人出世した青木氏の柳沢氏は、一族一門をまとめるために、この時に、これらの「武田氏系青木氏の寺」を各地に建立したのです。この入間のお寺もこの為に建てたものです。
密教系浄土宗を建てられなかった事から、曹洞宗や臨済宗などの寺を建立したのです。

そこで、ここにこのお寺がお家の檀家寺と成っていることが問題です。
しかし、片喰紋類は秀郷流青木氏の主要家紋ですので、当時は家紋が氏を証明する一つの有効手段でしたので、家紋と云うことから考えると、この「武田氏系青木氏」では無い事を意味します。
寺に関しては、江戸時代にも全国各地のこの本来の浄土宗の存亡危機が起こったのです。このために家康は「浄土宗の督励令」を発して存続を図ります。
ところが明治期には激しい「宗教改革」でこのような弱体化した得意な位置づけにあった浄土宗寺は殆ど廃仏毀釈で潰されたのです。
恐らくは特定の氏しか檀家に収めなかった菩提寺系の寺はこの時に潰されたのです。
実は武蔵の藤原の「総宗本家」や一門の「特別賜姓族」の「青木氏の菩提寺」さえも関東では判らなくなっているのです。

この時に、お家などは「柳沢吉保の勢力」の下に入り、この時に、お家も一族の安全の為にもこの寺に入ったと考えられます。この様な事が関東では大変多かったのです
この武蔵国には他に武田氏に味方した「皇族賜姓族諏訪族青木氏3氏」も、「秀郷流青木氏」を頼って、神奈川と栃木にも秀郷流青木氏の保護を受けて逃亡して勢力を盛り返し定住しました。

次は、”お家が農家では”の事ですが、「入間の青木氏」は鎌倉幕府-足利幕府-徳川幕府の時に、時の幕府の家臣団に加わりました。但し、これにも経緯があり、主に116氏の本家筋が家臣となったのですが、分家筋はその家臣の配下に入りましたが、本家筋はせいぜい200石程度の禄高で低く、更にその配下であった事から山林を切り開きして農業をして暮らしを立てました。若い時の吉保も含めて大変に貧乏していた事が詳細に記録されています。しかし、いざと云うときには武士として働くのです。
多くの抹消の分家筋は江戸時代には農兵の様な働きをしてこの暮らしをしたのです。
武田氏系青木氏に限らず、秀郷流青木氏も特に分家枝葉の一族は同じであった事が判っています。
本家筋の多くは、庄屋、名主、豪農を務めました。分家筋はその親族としてこの本家筋を護ったのです。

そもそも江戸時代の士農工商の身分制度には、士と農との間には、実は「郷士と郷氏の階級」があったのです。武士の階級に入っていましたが、平安期からの伝統を誇る武家の身分であって衰退して農業をしていた者たちです。
徳川氏は、この時、これらの者たちを村役の庄屋や名主とさせました。時には豪農、豪商となり「2足の草鞋策」を採りました。豪商の殆どはこの郷氏です。
そもそも、一般の農民は、独自に村を形成する事を許されていませんでしたので、この「郷士」か「郷氏」の村に所属する社会形態をとっていました。青木氏だけが氏名を村名とする事を奈良期から特別に許されていました。
室町期に伸し上がった一般の武士と違って、由緒ある古来からの家柄や身分や官位官職を伝統的に持ち、これらの土地を所有する郷士や郷氏は後からなった一般の武士からはけむたがられて居ました。
中でもお家の様な秀郷一門の青木氏は、村を形成し広大な土地を持っていた「郷氏」であった為に、土地の大名からも一目を置かれていました。

因みに「郷氏」に関する有名な事件が幾つも歴史上にあります。
一躍身分の低い豪族から躍り出た信長が、信濃、甲斐を平定し、巡行視察の際にこの甲斐の「郷氏」の清和源氏の末裔が白馬に跨り儀式の白装束に身をかため信長を歓迎したのです。
ところがこの儀式の郷氏の採った態度を知らずに、自ら馬から引きずりおろして殴る蹴るの狂態を示したのです。側用人がこれを知らせずにいた事から起こった歴史上有名な事件がありました。
又、徳川4代将軍が、伊勢の「皇族賜姓族の伊勢青木氏」が矢張り平安期からの儀式に乗っ取り所定の位置で出迎えずしたり、又、拝謁する際には上位の者が座る上座を取られて怒ります。
しかし、その後に家臣から知らされてこの儀式の事を知った将軍はしぶしぶに上座を譲ります。
これらのこの2つの事件は有名で歌舞伎にも成っています。
この様に、「郷氏」には、時の将軍と云えど朝廷から正式に永代で与えられた身分、家柄、官位、官職に関しては頭が上がらなかったのです。
この青木氏の様な「郷氏」の中には大名より経済的に勝った氏もいて、50万石から中には200万石にもなる経済的な勢力を誇っていて、広大な土地も所有する勢力を持っていました。そこいらの大名よりも大きく家人500人もいる青木氏の郷氏も居たのです。
因みに、筆者の伊勢青木氏も「2足の草鞋策」で歴史上有名な豪商を営み、紀州徳川氏初代頼宣から伊勢松阪において上位の位置で上座を維持し、大正期までこの関係を維持していた事が判っています。

お家は「青木氏の氏」を守っていたことから、古い由緒を持つこの「郷氏」であったと考えられます。
これらの分家筋は江戸時代には農業をしながら「郷士」か「郷氏」と呼ばれました。
恐らくは、お家は苗字と刀と布衣を纏う事を許された「土地の武士」で、この「郷氏」か「郷士」であったと考えられます。
一般の民衆は寺の習慣が無かったし、苗字もありませんし、氏も構成していませんでした。当然に過去帳もありませんでした。民衆はなかには有ったとしてもせいぜい「任別帳」で村の構成人としてその時代に生きた「人の記録」だけでした。
9割の民は苗字を持ったのは明治期の3年と8年のの苗字令からです。この場合の多くは、任別帳は庄屋の家で記録されて、それを村の一般の寺に保管していたのです。これらの事はお家の総本家の内容をお調べに成れば判ります。

以上の事柄の詳しい事は、研究室かルーツ掲示版に詳しく書いていますので、ゆっくりと関連する事からお読みになってください。

ご不明な点やご質問はご遠慮なくなんなりとお尋ねください。
この専用の投稿欄からReでおだねください。


  [No.926] Re:埼玉県の青木です。
     投稿者:ねこ   投稿日:2013/10/06(Sun) 15:02:49

返信ありがとうございます。

苗字と家紋からでもルーツが判明するのですね。
こんなに詳しく解説していただき、とても感激しております。
父と共にじっくり読ませていただきました。

寺の件ですが、父に詳しく聞いたところ、昭和の中頃に曽祖父がこの臨済宗の寺にお墓を購入したと聞きました。
ですので、家のお墓は先祖代々のものではないようです。
しかし、入間郡三芳町にある青木の本家も家と同じ臨済宗の寺の檀家になっているようなので、やはりこの寺が菩提寺ではないかと思われます。

家の仏壇にある過去帳(毎日日付に合わせて1ページめくります)も、先祖全てが書かれているわけではなく、家に近しい親族や親戚の故人の戒名、氏名などが書かれているので、
遠い先祖とは余り関係がないようです。
紛らわしいことを書いてしまいまして、すみません。

また何か伺う際はよろしくお願い致します。
こちらの他のページも拝見させていただきます。


  [No.927] Re:埼玉県の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/10/06(Sun) 20:05:07

入間の青木さん 今日は。

お便りありがとう御座います。

ルーツを知る事は、ご先祖が引き継いで来た「お家の伝統」を知る事になり、お家のご先祖の生き様を知る事にも成ります。
藤原秀郷流青木氏は他の氏に比べて悠久の歴史を持ち無視する事のできない伝統を持ち得ています。この伝統を知る事は自分の生き様にも参考に成る事でもあり、生きる助けに成ります。
時代が変化しても人の生きる様は大して変わりません。その意味で伝統に関わる事には心を豊かにしてくれます。
筆者は、”「過去の自分」と「未来の自分」の輪廻”だと云う考えを持っています。
”子や孫は自分の分身”云う考えです。孫が生まれた時に無条件に無意識にうれしく可愛く感じますし、不思議な安らぎを感じます。
これは、”人は子孫を残す事に一義があり、「現世の喜怒哀楽」には有らず” と云う事を脳が覚えている事を物語ります。他の生物と変わりません。
この事から「青木氏」には「家訓10訓」が遺されていてこの中にも書かれています。
因みに、科学的に観ても、子供の血液型が同じであれば、その親の遺伝子の85%の遺伝子を引き継いで居ます。つまり、これはまさに「分身」を意味します。
サイトでは、その意味で「ご先祖の生き様」を研究して記録を載せています。

今後共に何なりとお尋ね下さい。

さて、お便りに付いて、「青木氏に関する過去の慣習」がお家の中に遺されていますので、お知らせします。
先ず、「臨済宗の柳沢吉保の三芳町の多福寺」の件ですが、昔の慣習は氏家制度の中で営まれていましたので、氏の一族一門の本家に従ってその寺を菩提寺か檀家寺とします。
お家のご本家がこの多福寺に有るとすると、お家は江戸時代は郷氏であった事から昔の氏家制度の慣習では分家が他所の寺になる事はありません。
何故ならば、全て、ご本家の慣習に従います。もっと云えば一族の冠婚葬祭の儀は分家が独自に営むのではなく本家が主催するのです。
判りやすく云えば、分家の生計の根幹も本家の背景で営まれていたのです。
冠婚葬祭のみならず、一般の出来事もご本家のお伺いを立てて、あるいは相談して進めます。
本家が、何事にも前面に出て面倒を看るのです。
従って、一族一門の行動と結束を高めて統一する為に、「家訓」などがあり、一族を見分ける為に「家紋」があり、更に詳しくするために「通名」「襲名」などを使いました。
恐らくは、ご本家に沿って、明治後、この習慣が無くなりましたので、昭和になってご曾祖父が後に再びご本家の菩提寺に戻した事に成ります。
故に、前回のお答えの通りの経緯となり、それを明治期に生きたと観られる「ご曾祖父の行為」が証明しています。
ご曾祖父はこのような慣習を十分に知っていたと考えられます。故に本家筋のところに戻したのです。

余談ですが、そもそも、更に、古い平安時の本当の一族一門だけを祭祀する独善の菩提寺は、現在の研究では密教形式の浄土宗の「西光寺」ではないかと見られます。
入間ですので武蔵国か常陸国の「西光寺」になると予想されます。
「青木氏の神社」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」です。お近くの「神明社」がお家の青木氏の独自の守護神です。
お家などの116氏の秀郷流青木氏は菩提寺は当然の事として、この神明社も自らの力で青木氏に関係する各地の地域に490程度もの神社を建立しているのです。

「剣片喰紋」族は、元は愛知-静岡の付近に定住し分布し、その勢力を張っていた秀郷流青木氏の家紋類です。当然に藤原氏でもありますので、藤原氏の守護神の「春日神社」も2つのお家の守護神です。
そして、お家のご先祖は、上記した「氏家制度」を維持し、「藤原氏」と「賜姓族」の「青木氏の家柄や純潔性」を維持する為に徹底した「24地域の116氏の同族血縁」を前提としていましたので、恐らくは、この慣習の中で嫡男に恵まれずに「愛知の青木氏」から養子を迎えたが、再び2度も嫡子に恵まれずに「家紋掟」により「養子先の家紋」になった事を意味します。
この意味でどんな事があってもご本家は嫡子をはずす事は出来ませんのであらゆる手立てを講じてこれを守り通す責任を持っています。そして、総紋の「下がり藤紋」を守り通します。江戸中期からはこの慣習も緩んだのです。しかし、分家筋のお家は丸に剣片喰紋を維持したと見られます。
この家紋類は、実は、四国阿波国の秀郷流青木氏にも多いのです。

次に、過去帳の件ですが、これにもお家のご先祖の「青木氏独自の慣習」が遺されています。
「過去帳」や家系図は、本来はご本家が菩提寺に保管しているものですが、実家では、分家のお家の様に、ご分家ですので、ご先祖の一族の関係者の人を書き記した帳を置いておきます。
そして、「古来からの仕来り」として、その「ご先祖の人」は、「5代前までの身内のご先祖」と、「親族の3代前の親族」などを書き記した物を遺します。
仏壇では、法要では3代前までを原則祭祀する事、墓所では、3代まで墓を作り、50年経るごとに順次「先祖墓」に入れてこれを繰り返して行く事に成ります。
お家の様に、これは、仏壇のところでは、上記の「仕来り」で代々書き換えて行きます。
実際はそんなに前のご先祖まで覚えてゆく事は出来ませんので、その中でも、何とかこの「仕来り」が「古代密教形式」の「浄土宗の慣習」として引き継がれて来たのです。

(浄土宗は、本来は、江戸期前のものでは「密教系」であり、「特定の氏」しか入信できず、寺の建立なども独自に氏が立て、自分の氏から独自の僧を仕立て、独自の経済力で建設や修理にいたるまでの管理運営までの一切を賄ったのです。しかし、この密教形式はその氏が衰退すると立入らなくなり衰退し、無くなるなどの事が起こったのです。)

そして、江戸末期から明治9年まで何度も続いた「宗教改革」とその混乱に因って、この様な密教形式の浄土宗の寺は焼き討ちや取り壊しなどに会い、滅亡の危機に陥りました。特に浄土宗はこの影響を受けました。
特に、「秀郷一門の青木氏」は、平安朝は滅亡し、鎌倉期に多くは失職して経済的に低下し、一時これらの「仕来り」を維持する事が出来なくなりました。その後に勢力を盛り返して「関東屋形」と呼ばれるくらいに息を吹き返し大勢力を維持しました。しかし、この時から菩提寺や多くの仕来りや伝統の記録が消失したのです。
さすが「青木氏のメッカ」の入間ですので、研究でもかなり消えている事は判っているのですが、ある程度の事が遺されている筈です。
この「青木氏の仕来り」は、故に上記したことから、祭祀はご本家やご分家の関係者を帳としたのです。
今もお家の中の分家の慣習の中にもまだこの様に遺されている事を物語っているのです。
法事などが行なわれる時には、「先導僧」や「諷儀の僧侶」に供養する先祖を教える為にも、書き記している昔の浄土宗が採った慣習なのです。
この慣習には、寺から「曼荼羅帳」と云う掛け軸に上記した関係者の戒名を書いたものを書いてもらい仏壇前に吊るしておく慣習もあります。

この様に、お家には意外なところに古い観衆が遺されているのです。
前回のお便りからこの様な事が遺されていると予測できましたので前のお答えになっていたのです。
予測が当たりました。
決して余計な事ではありませんよ。伝統をこれからもこの様な事を是非守って行ってください。

気になりましたので、これらの事を追伸しておきます。
詳しくは「2つの掲示板」に論じていますので、膨大な資料ですのでゆっくりとお読みください。
読み終わるには先ず3年は掛かるかも知れませんね。

私も埼玉の草加には15年ほど住んでいました。入間川の傍の入間にも良く行きました。
何しろ、”おーい あおきさんー”と云えば、何処からも”ハーイ”と聞こえるくらいに、埼玉には青木さんが多いところですよね。
何か面白い土地のお話がありましたら教えてください。
では、又お便りください。


  [No.928] Re:埼玉県の青木です。
     投稿者:ねこ   投稿日:2013/11/07(Thu) 02:36:41

お久しぶりです。
埼玉の青木です。
先日は色々と詳しくルーツについて説明をいただきまして、ありがとうございました。

度々ですが、過去帳について訂正をさせていただきます。

家の仏壇にある過去帳(毎日日付に合わせてめくる)は、20年前に他界した私の曾祖母が用意したものらしく、近しい親族や親戚の他に曾祖母が仲の良かった友人の名前まで書き込んでいたと父から聞きました。
家は分家ですので、やはりちゃんとした本家筋からの過去帳はないようです。
とても詳しくご説明いただいたのにすみません。

そこでお聞きしたいのですが、私の家に本家筋からの過去帳がない場合でも、私の家の大体のルーツは先日ご説明いただいたままでよろしいのでしょうか。

また何かありましたら報告をさせていただきます。


  [No.929] Re:埼玉県の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/11/19(Tue) 09:54:13

埼玉の青木さん 今日は。寒くなりましたね。

実は、筆者は引越しを致しまして暫くサイトに携わる事が出来ませんでした。
ご迷惑をおかけしましたが本日より落ち着きましたので、なんとか管理が出来る様に成りました。

さて、お尋ねの過去帳ですが、お答えします。

お答えはお尋ね通りです。
御説明したルーツのままです。
そもそも、明治以前の家の祭祀の慣習は本家を中心に営まれました。
従って、ご本家にお家の御先祖が過去帳に記載されていれば問題はありません。
その後の分家の御先祖は、普通は過去の青木氏の密教浄土宗の慣習では5代を以って新たに分家の過去帳を作る事に成ります。
そして、その法要などの祭祀は3代の範囲で営むのが慣習です。
この事から、伺っている範囲では、曾祖父かその次の御先祖から分家に成った様ですので、そろそろお家の「分家の独自の過去帳」を作る必要がある事に成りますね。
その意味で曾祖母が作られた過去帳らしきものはその意味合いを持っていたのかも知れませんね。
ですから、丁度、見直す時期にあると考えられます。
その際には、本家の過去帳にあるお家の御先祖の直系の方と成った事を明記の上で、分家の独自の過去帳を改めて作られると良いのでは無いでしょうか。
その際には、御本家の菩提寺と成っている三芳町の多福寺などの事や本サイトの藤原秀郷流青木氏の概要などを一つにしてまとめられて、それを「由来書、又は添書」として添えて、その作成者明記の上でこれからの御子孫に遺されては如何ですか。
この様な本来あるべき慣習が、江戸末期から明治初期の激しい行過ぎた宗教改革で伝統や慣習が消されてしまったのです。
関東の藤原秀郷流青木氏の慣習は研究すると判るのですが、思いのほか消えてしまっている様です。
お家などもその影響を受けているのだと思います。
曾祖父や曾祖母様が多福寺に墓所を持たれ、且つ過去帳をつくられたこの一環の流れはこの慣習をいくらかでも戻そうとしたのではないでしょうか。

お家が御先祖の事に気を配られて本サイトに御投稿成されているのも、この”何かの御先祖の暗示”であるのかも知れません。御先祖がお家を動かしているとも思えます。
仏教で言う”以心伝心の法”であると云う事になりますかね。
因みに、筆者は「過去の人」と「現在の人」と「未来の人」との間には、何も無いとは考えていませんで、”以心伝心の働き”があると考えています。
ただ、問題は何でもそうであるとは限らず、人、時、場所の仏教で言う「三相の理」に従っている筈です。
筆者も不思議な体験をしています。筆者は技術屋で他の方より論理性の考え方が強いのですが、人間が持つ論理性以上の事がこの現世にはあるのではと考えていて、それを現在の人間の知恵ではまだ論理付けられないのではと観ています。
恐らくはその媒体はその個人が持つ脳のベータ波であって、そのベーター波の強い者(人の理)に働くのではないでしょうか。(進化進むにつれてこの人間の能力が低下している)
そして、何時でも働くのではなくある環境に成った時(時の理)にその波長を受け入れ、
何処でも働くのではなくある特定の適合した場所に届くと考えられます。
その最たる現世の現象には、子を生んだ母親とその子の間にはこの現象が働いている事が脳医学的に実証されていて、その為に、女性には、男性にない二つの官能の脳器官を持っています。
一つは、大脳の下にある予知能力を示す複眼機能、もう一つは女性が子を生んだある期間に極めて高いベーター波を持っている事、そして、この二つの事を同時に実行する本能として、女性にだけ同時に二つの事を思考し実行する能力が備わっています。残念ですが、この2つの事は男性には備わってないのです。
人間には脳の最も下の部位に「古代脳」と云うものがありますが、つまり、通称、幻覚症状を起こしたときに働く「野生脳」といわれるものが、この「2つの事」と「野生脳」が連動させられるのが女性である事が現在医学では解っています。
例えば、目に映って見えていない母親の後ろに居る幼児の動きが手に取る様に解る女性の本能は、この「以心伝心」の原型であると考えられています。

恐らくは、過去の人はこの事を察知して、仏教の最終の「心の境地」として修行に励んだのではないでしょうか。本来この能力を持っていない男性の僧侶は、修行に依って何とか会得しようとしたもので、仏教で云う「無我の境地」とはこの事を指すのではないかと観ています。
これを「仏教の目的」としたと考えられます。
特に、われわれ青木氏の古代密教浄土宗ではこの事を諭していると考えられます。
青木氏には「家訓10訓」と云うものが遺されていますが、この10訓全てを通して云える事はこの”「三相の理の会得」の人物たれ”と諭していると考えます。
この事は、論文に私なりに論理的に説いていますので参考にお読みください。

そこで、本来は昔の慣習では、「過去帳」はご本家の菩提寺にあるものなのですが、それを写してその御先祖に毎日の朝晩の仏様へのお勤めに使用して「般若心経」をあげます。
ご分家のお家にも御仏壇があるとすれば、5代になった処でもありますし、御本家にもお話をして「分家の過去帳」を作られて、三芳町の多福寺の菩提寺にも納めて置いては如何でしょうか。
御先祖が生まれる毎に書き足して貰うようにしてはどうでしょうか。
そして、仏壇に置いておく過去帳には曾祖母の様に親しい友人や人生に大変世話になった方も書き足して供養も合わせて行なうのも又良いのではないでしょうか。拘る必要はないのではと考えます。
代替わりすれば御先祖外の方を抹消して行けば良いのではないでしょうか。
ただこの為に、5代までの御先祖の「曼荼羅帳」と云うものがあり、現在もこの慣習は行われていますが、御本家のルーツの中で御分家のルーツに成ったお三人かお二人の御先祖の方の曼荼羅帳を作って置く事も慣習と成っています。
昔は「武家の慣習」では、この「曼荼羅帳の慣習」と「過去帳の慣習」が合わせて行われていましたし、特に浄土宗では現在も行なわれています。

過去帳の御質問に付いては以上ですが、曾祖母から既に代替わりしていますから、変える時期としても良いとも思います。

では、また御不明な点などや御質問がありましたらお尋ねください。