吉永さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
青木氏サイトは、青木氏族に関する事を研究しているサイトですが、折角お越し頂きましたのまで、何らかのお答えを致します。
お答えから、先ず先に、青木氏とは吉永氏とは関係がありません。
青木氏にはいろいろな慣習や仕来りや掟がありまして、大化期から続いています。氏名については枝葉末孫まで青木氏を名乗ると云う掟がり、嵯峨期の詔勅により定められ、他氏が名乗る事を禁じられていました。明治3年まで守られました。
依って、青木氏から吉永氏には氏名の変更はありません。
青木氏は枝葉末孫まで青木氏を名乗る事が定められていました。
他氏とは異なるところです。
さて、折角ですので、提供していただいた情報から知る範囲の事を推測します。
まずは、「丸に木瓜に唐花紋」ですが、これは最初、公家の徳大寺氏が家の象徴紋として用いたものです。保元の乱の頃です。
この家紋は奈良期から平安期にかけて「5大官僚族」と云われた「伴氏」の家紋でもあります。
この伴氏は九州全土にその勢力を広げ、その拠点を大宰府に置きました。この「伴氏」は「弁済使」と云う官職のトップの官僚族で、土地の豪族との血縁を進め大蔵氏、廻氏、肝付氏など九州の多くの豪族はこの血筋を引いています。つまり、朝廷よりはけんされた「税務官」です。
長崎付近に菊池氏、大分の佐伯氏等多くの豪族はこの「伴氏」の血筋を持っています。
恐らくは、寛政時代からのお家と成り、大家を持ち、刀などの遺品、神社を建立できる権力を持っているとすると、これらの豪族の末裔でその分家筋に当たると観られます。
昔は、神社仏閣の建立は、朝廷−幕府の時の権力者から許可を得ての特権で、誰でもこの特権を持つ事は出来ませんでした。その地域や国を司っている豪族にしか与えられない権力でした。
青木氏は永代に認められた権利を持っていたのです。「神明社」で500社程度建立しています
その意味で、吉永氏はこの付近の豪族の末裔となりますと、とすると、この領域で考えられる豪族でその「永代権利」を持っているのは、限られます。
宗像神社の宗像氏、阿蘇神社の菊池氏、宇佐神社の佐伯氏等であります。
「市杵島神社」も宗像神社や阿蘇神社や宇佐神社と共に「5神祭祀の子神神社」です。
「市杵島神社」は古い有名な神社で全国各地に支社があります。特に九州はその本拠地です。
彼の有名な安芸の宮島の「厳島神社」もこの系列です。
この神社を建立したとなれば、そこで、長崎となれば菊池氏、この菊池氏は、太宰大監の九州全土を抑えていた大蔵氏との血縁族です。「神職系族」です。九州「吉永氏」も「神職系の氏」と云う事を聞いた事があります。吉が土冠が元の字である事は有名で間違いありません。
一族の枝葉末孫が何らかの理由で吉の字に変えたのが、「吉永」と成ったものではないでしょうか。
この現象は室町期初期、江戸初期、明治初期に起こったのです。
江戸時代まで続いた大豪族です。寛政期にこの字を使っていたとする何らかの理由で明治期に変更した古い一族であると思います。
「家紋」で繋がり、長崎地域や江戸時代や、大家や、刀や、古銭などの情報が一に繋がるとした氏は、この菊池氏と成ります。
「古銭の保持」は、当時の「大豪族のステイタス」でした。これは奈良期からの「古い氏」(連族)の高い家柄である事を証明する手段でした。
この「古銭の保持」はだれでもが出来る事ではありませんでした。「伴氏」はもとより「菊池氏」や「宗像氏」や「佐伯氏」や「肝付氏」などの大豪族の仕儀となります。
特に神職系豪族に良く観られるステイタスです。
この慣習は、特に平安時代の貨幣経済が活発になった時の名家には「古銭保持」のブームが起こりました。それを江戸時代までその伝統を守り続けてきたことを意味します。清盛もこの古銭を集めた事が判っています。
日本には朝廷から認可された「氏」(うじ)族と、平安末期から興った「姓」(かばね)族、明治期の苗字令による名の3つに分けられますが、「氏」は全体の5%にも満たない200程度にも満たない族です。
殆どは、室町期から江戸初期に興った「姓族」です。
この奈良期か平安初期からの「氏」を示す根拠として「古銭」を持っていたのです。
第2次大戦時に金属の拠出を命じられた為に、これらの「氏」は「刀」や「古銭」などの氏を証明する伝統品ステイタスを床に穴などを掘って隠したのです。
その意味で、この様な「古銭」などのものを持っている事は、悠久の歴史を持つ氏としての大変な証明に成るのです。この地域では「神社建立の権」を持つ氏や古銭のムステイタスを持つのは「菊池氏族」しかありません。この菊池氏一族一門は、多くの「枝葉末孫」を出しています。
お家は、その末裔ではないかと考えられます。
吉次氏も吉永氏の更に「枝葉末孫」では無いかと考えられます。
名籍の伴氏と同じ家紋を持つ吉永氏ですが、この家紋は愛知静岡付近に分布する家紋類ですが、これが北九州にあることは「伴氏系菊池氏族」以外にはないのではと思います。
長崎には、確かに、藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族青木氏が朝廷から赴任先としてここに赴任し、その後、土地の豪族との血縁した者が定住して「青木村」を形成しました。
「青木村」の村名は土地の地名を村名にする仕来りでしたが、「青木氏」だけには「氏名」を村名にする事を許されたただ一つの氏で、この長崎にも「青木村」があります。
ただ、上記しました様に、青木氏以外に名乗る事は許されていませんでしたので、吉永氏に成ることはありません。
確かに間接的に菊池氏とは血縁をしていますが、青木氏を他氏が名乗る事は出来なかったのです。
実は、お家にの主柱に寛政年間の字が書かれていたとしていますが、これも大変な氏を物語る事なのです。
寛政年間は大変歴史の感覚が強くなった時期で、この時代に日本の歴史本の研究が進んだ時期でもあって、寛政の歴史書が多く発刊された時期です。
特に、氏姓についてはよく研究されているのです。
そのような背景もあって大切に保存されていたと考えます。こま時期までお家の口伝による伝統が伝わっていた事を物語ります。
これからも、是非、この様な伝統や古銭や神社建立などを何がしかの文書成りにして、折角ですから、今からでも保存継承される事を期待します。
ご質問や不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。