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  [No.874] ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:山口県の青木   投稿日:2012/10/27(Sat) 23:12:13





こんばんは。

エラーになってしまい、連続投稿になっていたらすみません。

母方の実家が青木家で、あることから先祖やルーツについて調べています。

そしてこちらにたどり着きました。

早速なのですが

母方の実家は山口県東部で、かなり昔からそこに住んでいます。

菩提寺は浄土宗で、代々そこの総代をしているそうです。

江戸時代は医者の家系であったようです。

家紋は丸の中に四本抱き角です。

家紋は丸に抱き角です。角が5股に別れています。

母の叔父やそれ以前も青木家の人間がとある神社の神主をしているそうです。

青木周蔵とは遠縁になるとかならないとか。はっきり分かる世代はもう親戚にいません。

母より古い世代は青木同士が結婚していたらしいです。

母の祖父が時折、白い羽二重を着ていたのが不思議だったそうです。


以上くらいしか分からないのですが、よろしくお願いいたします。


  [No.875] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/10/29(Mon) 08:08:01

山口の青木さん 今日は。始めまして。
ようこそ全国の青木さんが集うサイトに御越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
サイトには青木氏に関する膨大な研究資料を準備していますので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。ご質問やご不明な点や土地の青木氏に纏わる伝説などありましたら是非お便りください。

さて、ご質問の件ですが、頂きました情報は以下の通りですが、時代性が良く判りませんがお答えはルーツを確定する条件が揃っています。
山口県東部、浄土宗、土地の総代、江戸期には医者、家紋が「丸に抱き角紋」、親族が宮司、古代には同族血縁、白い羽二重着用、青木周蔵との関係
以上ですが、お家の母方ルーツは次ぎの通りです。

先ず地理的に検証します。
この山口県東部の日本海側から米子や八頭にかけて2つのルーツの青木さんが定住していました。
A 一つは信濃の「皇族賜姓族」の「足利氏系青木氏」
B 二つは讃岐の「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」
この2つの青木氏は宍道湖と美作を縦に東西を境に山口側、島根側と鳥取側とに定住していました
日本海の宍道湖から東側米子八頭まではAの足利氏系青木氏が定住しています。
宍道湖から西側は島根の日本海側と美作と安芸にはBの「藤原秀郷流青木氏」が定住しています。
そこで、地理的には「山口の東部」と成りますと、瀬戸内に勢力を張ったBのルーツの青木さんと成ります。Aの青木氏は北部宍道湖ギリギリまでしか延びていません。

そこで、次ぎに家紋から観て見ますと、「丸に抱き角紋」は「皇族賜姓族」の「信濃諏訪族系青木氏」と成ります。
ただ、この「諏訪族系青木氏」は武田氏に味方して3つの武田氏系青木氏に分流しています。
「諏訪族青木氏」と「諏訪族武田氏系青木氏」の「皇族賜姓族青木氏」の2氏と、「武田氏系諏訪族青木氏」の「武田氏系」の青木氏との3つに成ります。何れも親族ではあります。
身分家柄から、諏訪族青木氏>諏訪族武田氏系青木氏>武田氏系諏訪族青木氏と成ります。
この3つの内のどの氏であるかは、「浄土宗」と「白の羽二重」と「同族血縁」と「神職の宮司」の情報で確定します。
少なくともこの「4つの条件」に全てに完全に一致するのは「諏訪族青木氏」です。後の二つの氏はこの4つの条件のいずれかに昔の青木氏の慣習に一致しないのです。
この「信濃の諏訪族青木氏」付いては次ぎの通りです。
「信濃の皇族賜姓青木氏」は、天皇の「第6位皇子」が「信濃の守護王」として奈良期に信濃に定住していましたが、この「信濃の皇族賜姓青木氏」の一族が土地の「豪族の諏訪族」との跡目養子の血縁をします。この時、この「信濃皇族賜姓青木氏」には男系の嫡子に恵まれず諏訪族から跡目養子を採りますが、再び男系の跡目嫡子に恵まれず、当時の武家の慣習により「皇族賜姓族」ではありますが、女系と成った為に男子の養子先、つまり「諏訪族」の系列に組み込まれます。
これが「信濃皇族賜姓青木氏」の「諏訪族系青木氏」です。
前2つの「諏訪族青木氏」には「古代密教の浄土宗」に入信する事が許されます。
平安期から室町期までは「浄土宗」は「古代密教」ですので特定の限定した氏(皇族系)しか入信を許されませんでした。そして入信すると独自独善の青木氏だけの寺、つまり「菩提寺」を建立する仕組みでした。
昔は誰でもが自由に寺社を建立すると云う慣習ではなく、平安期の朝廷から特別に許された身分家柄の氏しか建立する事は出来なかったのです。
同じく、「皇族賜姓青木氏」は独自に「伊勢神宮の皇祖神」の「子神」として「祖先神の神明社」を建立する義務を負っていました。この「神職」には一族から選ばれた者が宮司を務める慣習でした。
「青木氏との守護神」(神明社)の投稿中の論文を参照して下さい。
当然に、「神明系5社の神社」も「皇族賜姓青木氏」が独自に建立する権利を持っていました。
この当時は他の氏が勝手に寺社を建立する権利を持っていなかったのです。
ごく限られた氏しか持っていませんでした。
浄土宗は入信が自由に成ったのは江戸初期からです。それでも上級の武士だけでした。
この事からすると「信濃の諏訪族青木氏」であり「神職」で「浄土宗の寺の総代」であった事はこのことに適合しています。

それに、少なくとも慣例により室町中期までは「白の羽二重」の着用は「皇族の朝臣族」(5家5流の皇族賜姓青木氏一族)にしか認められて居なかった慣習でした。儀式や目出度い時に着用する習慣でした。
「信濃諏訪族青木氏」は「皇族臣下族」ですのでこの権利を持っていました
この事で面白い事件が歴史にあります。
織田信長が甲斐に凱旋した時に、甲斐の「皇族賜姓族青木氏」の者が白馬に乗り白装束の儀礼の形で迎えたのです。ところが皇族賜姓族の皇族の慣習儀礼である事を信長が知らず、怒って馬から引き摺り下ろし殴る蹴るの仕打ちをして、後から失笑を受けたのです。歌舞伎にも成ったくらいの事件です。
「第6位皇子で朝臣族の臣下族の5家5流の皇族賜姓族の青木氏」にしか認められていない着衣です。
これは大変な家柄を示す「同族血縁の慣習」と共に「口伝」の重要な貴重な情報です。
余り知られていないこの様な昔の「朝臣族の伝統」の慣習を知っている事が「信濃の皇族賜姓族」の証しでもあります。

次ぎにこの「5家5流の皇族賜姓族青木氏」は奈良期から「皇族の血筋」を維持する為に、つまり、「純潔性を保持」する為にある一定のルールに従い同族間の血縁を繰り返したのです。
皇族第4世族の範囲の「真人族」と「朝臣族」の者に与えられた特別氏の慣習でした。
次ぎの「青木氏の守護神の−22」でも詳しく論じます。
「5家5流の皇族賜姓青木氏」は「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」に定住しています。
因みに、筆者は伊勢の青木氏です。お家はこの信濃青木氏です。この二つの皇族賜姓青木氏は同族血縁を含む「商い」でも深い関係にありこの状態は明治期まで続きます。
この二つの賜姓族の氏は「皇族武家」でありながら片方で「2足の草鞋策」を採用し、明治期まで「古代和紙」を扱う950年も続いた超大豪商の一面も持っていたのです。
1025年頃から守護としての租税の扱いを本格的に「商い」としても営みました。

お家は「神職」でもあった事と家紋に丸が付いている事から判断して総宗本家筋の分家であった事を物語ります。
つまり、この「4つの条件」を満足する氏は「5家5流の皇族賜姓青木氏」の一族一門しかありません。

さて、ではこの養子血縁先の「信濃諏訪族」とはどの様なルーツを持っているのかと云う事ですが、これもはっきりしています。
お家の「諏訪族」は、元は中国の漢の国があってこの漢の国も滅びますが、その時、その内の一人の光武帝と云う者が中国の東部と朝鮮半島北部にかけて征圧して「後漢」と言う国を再び造り上げます。
更に618年頃にこの国が完全滅びて、この国の全ての200万人の民は645年の頃に掛けて末帝の子供「阿智使王」と「阿多倍王」に率いられて日本の北九州に上陸し瞬く間に九州全土を無戦で制圧し播磨の手前まで勢力を広げます。日本の当時の国の32/66を占有します。
南九州の「阿多」と「隼人」と云う地域に居を構えていました。その後、朝廷から呼び出され首魁の阿多倍王は伊勢北部伊賀地方の半国割譲を与えられて住み着きます。
後にこの一族は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り皇族と血縁します。
大蔵氏、内蔵氏、坂上氏や阿倍氏や平清盛の先祖の伊勢平族を発祥させます。
大蔵氏は九州全土の最大豪族で自治を認められた氏です。
然し、この後、天智天皇の頃に戦わずに帰化します。
この帰化した内の200万人の「職能集団」の民の内、「大型馬」を飼育する「馬部」の職人等の集団が信濃や甲斐の土地を開墾させる為に移動させて配置します。奈良期末期です。
この職能集団の大型馬を放牧飼育する馬部の首魁がこの「諏訪族の長」なのです。
この集団が平安期には土地の大豪族に成ったのです。
この諏訪の土地の豪族と信濃皇族賜姓族との血縁よって上記した経緯から諏訪族青木氏と成ったのです。
この「信濃皇族賜姓青木氏」もその分家筋の「諏訪族青木氏」も1370年くらいの悠久の歴史を持つ氏なのです。何れも同時期にこの天領地の信濃の開拓民を治める為に配置されたのが「信濃皇族賜姓青木氏」なのです。日本書紀にもお家のこの二つのルーツのエピソードが出てきますよ。
つまり、お家はこの様な「重要な情報」を口伝として維持してきている証拠です。
お家はこの内の「信濃皇族賜姓族の分家の諏訪族青木氏」である事を強く物語っています。
お家のルーツの信濃の総宗本家は現存しています。この本家は綜紋の家紋は「笹竜胆」です。
「抱き角紋」の「諏訪族系青木氏」は元はこの皇族朝臣族の家紋と成る綜紋の「笹竜胆紋」を家紋としていましたが、跡目に欠けて女系と成った事で「諏訪族系」と成ったために家紋が諏訪族の家紋と成ったのです。しかし氏の綜紋は「皇族朝臣族の笹竜胆紋」なのです。
「丸付き紋」ですのでこの分家筋に当ります。
これ等の事は全て研究室に詳細に説明していますのでそれをお読みください。


ところで、何故、山口なのかと成ります。
検証を続けます。
この「諏訪族青木氏」には有名な信玄と諏訪族との関りがありますが、この「諏訪族青木氏」の一部が織田信長と武田勝頼との戦いで敗退して、「神奈川の藤原秀郷流青木氏」と「新潟の藤原秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びます。ここ神奈川からまたその一部が栃木に移動して武蔵の本領の宗家の「秀郷流青木氏」の力を借りて、この「諏訪族青木氏」は栃木群馬の北部を獲得して復興させます。
そして、「藤原秀郷流青木氏」の家臣に成ります。
この神奈川と栃木の何れかの「諏訪族青木氏」が、「藤原秀郷宗家一門」が安芸と美作一帯の守護として赴任しますが、この時、この「諏訪族青木氏」の一部が家臣として「秀郷流青木氏」に従って安芸の赴任先に護衛団として同行して移動します。
この「諏訪族青木氏」の可能性が先ずあります。

次ぎに、武田氏が隆盛を極めた時期に「安芸の分家武田氏」がこの安芸の一部を獲得して安芸の武田氏が定住します。この時に武田氏の家臣と成った「諏訪族青木氏」が付き従います。
この時の「諏訪族青木氏」である可能性があります。しかし、この青木氏には上記の「4つの条件」の権利を持つの家柄ではありませんので異なると考えられます。

更に、室町期中期までに「青木氏の守護神」の「祖先神の神明系5社」の566社の内の神明系社の建立を広島に5社や山口に1社建立していますが、この時に派遣された信濃から派遣された諏訪族青木氏である可能性もあります。
実は、信濃の「皇族賜姓族青木氏」から各地に、特に陸奥域から安芸域にかけて神明社系の守護神の神職や青木氏が多く住む青木氏の浄土宗菩提寺の住職としても派遣されています。
(地名地形データーベース参照)
この山口か広島の神明社系住職であった可能性があります。これには、柏紋の住職と抱き角紋の家紋を持つ住職の青木氏が多いのです。
そもそも、諏訪族は「信濃諏訪大社」を産土神の守護神としています。
然し、お家は「純粋な諏訪族」ではなく、血縁による跡目の掟から諏訪族系に組み込まれた皇族賜姓族の青木氏ですが諏訪大社系の住職も考えられます。
然し、この場合は、普通は宗派は「神道」と成りますが、神職の住職でありながら「浄土宗」であるとするとこれは皇族賜姓族だけに認められた慣習ですので、諏訪大社の神職も考えにくい事に成ります。

米子の「信濃皇族賜姓族」の「足利氏系青木氏」が山口東部に移動した可能性がありますが、記録にはありませんし、「神職」と成ればのでこの青木さんでは無いと考えられます。
且つ、浄土宗の総代を務めたとすると「神職の家系」であり「浄土宗菩提寺の総代」と成りますと氏の特定は限られてきます。「皇族賜姓族青木氏」と限られます。

以上4つのルーツからの移動定住によるものと考えられますが、3番目の信濃から派遣された「信濃皇族賜姓族の諏訪族系青木氏」と成ります。丸付き紋ですのでその分家に当ります。
四つ鹿角文様の抱き角紋ですから本流の分家筋と成ります。

普通、本来は移動定住は、ある限られた「許可を得た者」の定住と「婿入りした者」と成りますので、普通の者は何れ元の国に戻る必要があります。勝手にその土地に定住する事は「国抜け」になり一族打ち首の罰を受けます。然し、これをクリャーする者として、それには「神職か住職かの者」と成りますのでお家はこの何れもの条件を備えています。
更に、江戸期には「医者」であったとする情報から、昔の慣習の傾向の一つとして、神職や住職の部屋住みの後継ぎ(嫡子外の者)が人を救うと云う立場から「医者」を志した傾向が江戸期までの当時の社会全般にあったのです。
誰にでもなれない医者に成る為の条件が神職や住職の氏には多く備わっていたのです。

情報が3番目の青木さんとしては全て雑学上から矛盾がありませんのでこのルーツかと考えられます。

養子の医者の青木周蔵に付いてはお家の情報からこのルーツではありませんので無関係と考えられます。
「信濃諏訪族青木氏」は現在も西諏訪地方に集中して定住しています。おーい青木さん!と呼べば周りからハーイと答えが来るくらいですよ。
諏訪はいいところですよ。

上記の「3番目の青木さん」を確定するには他にチョトしたことでも言伝えや口伝などがありましたらお便りください。それで意外に確定する事が多いのです。
故郷の実家に帰られたらその時には何か見付かるかもしれませんね。
菩提寺のお寺の過去帳に記載の有無や戒名や過去帳の最も古い人、仏壇の形式や明治維新の戸籍簿や町村の周囲の村の景色や神社の名前や社歴や神明社かその場所などで雑学を駆使すれば判ります。
「村の名」を「氏名」をそのまま使える許された氏は青木氏だけです。他は地名を付ける事が慣習です。
この付近には青木村が無いので、上記の第3番目のルーツに成ります。
藤原秀郷流青木氏は116氏の青木氏で全国の24の地域に分布しています。皇族賜姓青木氏は25氏で極めて限られています。(地名地形データと研究室参照)
賜姓族ではない皇族青木氏は4氏だけです。
お家はこの25氏の中の本家筋の分家に当ります。

この様に実家のルーツは何かの方法で伝統として伝えられれば良いですね。
子孫に与えられるロマンがありますよね。

研究室にはお家の先祖の生き様が詳しく論じられていますので楽しんでゆっくりとお読みください。
この掲示板にも色々な諏訪族の方のお便りがたくさんありますので掲示板検索でもお読みください。
そして諏訪族青木氏の事を集めて纏めて子孫に遺してください。

このHPの左メニューには青木氏のテーマソングがありますので一度聞いてください。歌の物真似で有名な「青木隆治」さんが歌っています。

では又お便りやご質問をお待ちしています。


  [No.876] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:山口県の青木   投稿日:2012/10/30(Tue) 00:52:33

ありがとうございます。

早速母に話しました。

良い家なのは分かっていたけど、まさかそんなに歴史があるとは。と驚いていました。

お寺に行って過去帳を見てくるつもりです。

あと役所へ行って遡れるだけ戸籍を出してもらおうと思います。


  [No.881] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:青木さん   投稿日:2013/01/17(Thu) 00:25:56

こんばんは。先日はいろいろ教えて頂きありがとうございました。

田舎に行き過去帳を入手してきました。

過去帳で読める一番古い人は青木和泉守です。それより前、永正八年について書かれている事柄があるのですが、漢文のような文章がありどれが人物名かわかりません。

永正〜現在まで数ページに渡りいろいろな人が乗っています。

戒名はみんな居士か大姉です。

この他にどのような事をお伝えすればいいでしょうか。

よろしくお願いします。


  [No.882] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/01/17(Thu) 19:10:23

今日は。 お久しぶりです。
本年も宜しくお願いします。

過去帳をお調べに成りましたか。大変でしたでしょう。

さて、重要な情報がありましたね。

前回のお答えでは、「信濃諏訪族青木氏」の可能性が高いとしました。
今回のお答えと一致します。

実は、多少、先ず問題があるのですが、それは「青木和泉守」が過去帳では「一番古い人」と成っています。これは移動して現在のところで菩提寺を作られ、その時に過去帳を作られた時にご先祖が少しの口伝の記憶の間違いを起したと観られます。実は皇族賜姓族の信濃青木氏には和泉守は存在しません。
これは”間違い”と決め付ける程の事でも無いのですが。、恐らく、ルーツは「青木紀伊守」との間違いであったと観られます。和泉国は昔は紀伊国の北の域の郡郷でした。

(和泉国は江戸期のものです。従って、山口での過去帳は1520年代後の2から4世代後に作った事が判ります。思い違いをした事に成ります。「青木紀伊守」は越前福井没ですから、山口移動後、末裔が拡大して自らの氏の菩提寺と過去帳を作った時に、この祖の官職を間違えた事を意味します。)

何故かと云いますと、この「青木紀伊守一矩」は前回にお答えしました様に、「皇族賜姓族」の信濃青木氏の足利氏と血縁した「信濃足利氏系青木氏」です。(ニ引両紋)
この末裔の者が室町期に勢力を持ち直し足利幕府の重臣になり、室町末期に起った幕府倒壊に繋がるお便りの「天正8年の船岡山の戦い」が起こりました。(この時の人物は青木一矩)
(先祖のルーツを明確にする為に最も先祖を物語る重要なトピックスな事を「添書」として書き記したと観られます。よくある方法です。室町期末期の天正8年の事を書き記した事は過去帳は江戸期に成って後に書き記した事を意味します。)

この戦いは足利幕府の家臣団が2分して戦い、最終は幕府崩壊の「応仁の乱」へと発展します。この時の人物が「青木紀伊守一矩」と云います。この後、この人物は信長−秀吉に従い越前北の庄8万石を領します。
(この一族一門には同時期に越前国阪井郡丸岡4万6千石の青木伊賀守忠元なる人物も居る)

然し、何れも徳川氏との戦いで豊臣側が負け徳川氏から叙封されて、末裔は越前に本家一部を遺して其処から日本海側を通じて西に移動しました。この移動した末裔と成ります。現在その本家筋が福井に現存します。

(注意 信濃の土豪時代の足利氏の本家が藤原秀郷の指揮に従わなかったので、別に分家を引き上げて本家を作られて乗っ取られて、この為に立場が無く成ったこの土豪足利氏元本家筋は一門を引き連れて米子と八頭に移動逃亡して定住して生き延びた足利氏があります。
これに付き従った親族と成った上記の皇族賜姓族の足利氏系青木氏の一部も移動定住して、この青木氏は現在では宍道湖まで子孫を伸ばして居ます。然し、この一門には抱き角紋は無く血縁していません。御家とは別ルーツと成ります。)

足利幕府の重臣に成ったのは信濃足利氏(陸奥の斯波氏とも後に名乗った)で足利幕府を作った真の実力者であったのです。関東栃木域に勢力を持っていた足利尊氏とは親族関係(伯父)にあって、実際はこの「信濃足利氏」が全国を制覇したのです。11の国を領したこの足利氏の中では最大の勢力でした。
この「信濃足利氏」から養子を迎え「信濃皇族賜姓青木氏」と血縁をしましたが、2代続きで男系跡目が叶わず、結局、女系と成った事から家は養子先の「信濃足利氏筋」に組み込まれた「信濃皇族賜姓青木氏の末裔」なのがこの「青木紀伊守一矩」なのです。
因って、足利幕府の中では最高の家筋の一門であったのです。この一矩一門の中に「信濃諏訪族」と同じく血縁して2代続きで男系跡目が叶わず養子先の諏訪族に組みこまれた「信濃皇族賜姓族の足利氏系青木氏」なのです。
お家は、結局、「足利氏系諏訪族青木氏」と云う事に成ります。
詳細は研究室に記載しています。
「諏訪族系青木氏」にはお家を含めて3氏(内武田氏系2氏)あります。
(諏訪族に関しては前回お答えしましたが詳細は研究室で参照して下さい)

其処で、お家の過去帳がこの人物が最も古い人として地元に遺されているのですから、恐らくはこの人物の末裔で仮に「和泉守」が史実であるとして、それを「和泉守」としたとも考えられますが、つまり、一矩一族一門筋で知行地の一部の北域「和泉地域」を任されていた末裔とも観られますが、青木氏の記録には見付かりません。この判定は末尾の確認で明確にしています。」

前回の家紋が「信濃皇族賜姓族」の「諏訪族の抱き角紋」で「浄土宗の総代」も務め、「神社の神職」で地元の「庄屋的名主」でしたから、1512年前後にこの地に移動定住して来た事を意味します。
問題は移動定住の時期ですが、叙封された時の移動期なのか、その前に神職(神明社の神職)として移動して来たのかが判別が出来ません。

叙封期として検証しますと、「浄土宗の総代」、「神社の神職」、「庄屋的名主存在」から果たして江戸時代にこの様な実力を確保する事は安定した江戸期ですので無理と考えます。
然し、叙封期前とすると、この事は考えられます。
そうすると室町期中期以前と成ります。

実は、山口には、「神明系社」が古くから1社あります。
室町期中期直前頃のものとして、「柳井市阿目」と云う地域にありますが、ここに「神明宮社」があります。記録からここに信濃から神職の青木氏を配置しています。
研究室に「青木氏の守護神(神明社)」の研究論文がありますので詳しくは参照して下さい。
この事から、その後に大小の神明系社が拡がっている可能性がありますが、「諏訪族青木氏」の「抱き角紋」のこの地域への家紋分布と上記の3つの家柄から判断して、この室町期中期前に配置した神職では無いかと考えられます。
当初江戸初期までは、皇族賜姓族の青木氏の慣習により「神職」なので「神道」であった筈で、後に「神仏習合」の流れが起った時に末裔も広がり菩提寺も建立したと観られます。
この時に過去帳を作り祖とする人をこの青木紀伊守一矩とした事に成ります。この「神仏習合」の慣習では「神明系社」486社を独自に持つ青木氏に拡がり、「古代密教浄土宗」を独自に持っていたので神職青木氏に拡がったのです。

この「神仏習合」「神仏併呑」「神仏併合」「神仏合体」の流れは歴史上大きなもので4度起こっています。
平安末期と室町期中期と江戸初期と明治初期ですが、夫々の流れの特長が異なっています。
そもそも、皇族賜姓族と特別賜姓族の2つの青木氏は「伊勢神宮の皇祖神」の子神の「祖先神の神明系社の守護神」と奈良期からの「古代密教浄土宗」の「神仏の社」を独自に持ち自らの氏から神職と住職を輩出して維持管理する唯一の氏で朝臣族に許された「特別の権利」でした。
それだけに、「神道」でありながらも「菩提寺」を持つと云う慣習は青木氏にしか観られない奈良期からの元々の古い許された慣習であったのです。
これを「神仏習合の慣習」と呼ばれていました。
この慣習が後に各地の大豪族にも広がり、藤原氏や青木氏等の「朝臣族」に観られる「神仏習合」の他に時代毎の背景を受けて他の3つの流れが起ったのです。
(詳しくは、「青木氏の守護神]などの論文をお読みください)

恐らくは、お家の場合は、「青木紀伊守一矩」の頃は慣習上「神仏習合の状態」であった筈で、その後に山口に移動して神職を務めながらも「神道」をベースとしていましたが、子孫末裔が広がり本家筋からの経済的支援もあって、上記した本来の「守護神と菩提寺」の慣習に戻したのです。
因って、お便りの情報、「浄土宗の総代」、「神社の神職」、「庄屋的名主存在」は普通であれば矛盾するところなのですが青木氏に限っては当り前の慣習なのです。
この様に、「青木氏の雑学」からお家が「笹竜胆」を綜紋とする「信濃皇族賜姓族青木氏」の末裔で「二引き両紋」の血筋も持つ「抱き角紋」を家紋とする「青木紀伊守の末裔」である事が検証出来るのです。
この様にちょっとした何でも無い情報が青木氏には決めてに成るのです。
この口伝が現在まで伝えられていると云う事は、ご累代の御先祖がこの口伝の意味するところを認識していた事を示すものと考えます。

(この様なお家の口伝は子孫のロマンの為にも何らかの形で纏められて本文などの情報と共に何時か纏められて復元して是非引き継いでもらいたいと思います。ルーツ掲示板にはお家の昔の青木紀伊守一矩をルーツとする親戚の方のお便りもありますので掲示板の検索を使ってお読みください。)

中国地方には、比較的に浄土宗と神明社系神社は出雲大社の社領域から青木氏の定住地はすく無いのですが、5氏の青木氏が安芸、美作を中心に室町期中期前に増えて居ますのでこれに対応した建立であった事も考えられます。「皇族賜姓族の伊勢青木氏や信濃青木氏」や、「特別賜姓族の秀郷流青木氏」が「2足の草鞋策」の大商いを営み、これに伴なって増加するこの地域の一門の「青木氏の守護神」として、又、「2足の草鞋策」の「戦略的な根拠地」として建立された可能性があるのです。
それだけに、「国抜け制度」の中で、これだけの勢力確保とこの制度に掛からない立場となると神職(又は住職)の配置しかない筈です。普通は無い事なのに、故に「寺社の両方の力」(神仏習合)を持っていたのだと観られます。そして、その背後には「2足の草鞋策」の皇族賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の連携に基づく「2つの青木氏」の「莫大な経済力」が背景にあったのだと考えます。
江戸時代も含めてこの時代に地域の一青木氏の家がこの無縁の地域でこれだけの力を維持する事は不可能です。故にこれ等は符合一致します。

叙封後では大名や豪族が力を持つ事を極力嫌った徳川氏のチェックもあり不可能であり、室町期中期前の「信濃青木氏の神職移動」と成ります。
故に、過去帳の一番古い人が中国地方に移動した末裔でその始祖を「青木紀伊守」と成っているのだと考えます。本来で有れば、この中国地方では賜姓地ではないのですから、「過去帳」と成らない筈です。「人別帳」で「檀家寺」となる筈ですし、宗派も「浄土宗」とは成らない筈です。恐らくは普通ならば戒律から真宗か曹洞宗かになる筈です。

因って、お家のルーツは前回のお答えどおりの「信濃皇族賜姓青木氏の諏訪族形青木氏」で間違いないと観られます。室町中期前後を中心として信濃青木氏の再興を果した「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐)をルーツとする事には矛盾は無いと考えられます。
「従五位左衛門佐」のこの最高位の官職は「皇族賜姓族青木氏の朝臣族」にしか与えられない仕来りの永代官職です。この意味は実に大きいです。
室町中期前のお家のルーツは研究室に詳しく論じて居ますのでゆっくりとお読みください。

このお家の祖となる「青木紀伊守一矩」(笹竜胆の綜紋を宗家家紋)の遠戚の末裔の多くは越前地方3国に多く分布しています。お家の「家紋」は「抱き角紋」ですが、綜紋は「笹竜胆紋」と成ります。

以上ですが、因って、「氏神の守護神の神社名・地域等の詳細」や「菩提寺の浄土宗の寺名・地域等の詳細」の確認を、なかなか判らないと思いますが判る範囲で、創建の時代等が判れば完璧ですね。
念の為に、この和泉守、又は紀伊守の俗名をお調べください。
戒名が「院殿居士」ですとして、当然にこの人の永代官職名「従五位左衛門佐」等が書かれて居る筈ですので、これも合わせてお調べください。個人情報に関わる事でもありますので可能な範囲で結構です。当時の慣習雑学で判りますので。

尚、戒名にも本人が山口で没した場合は「院殿居士」の中にこの内容を読み込んでいる筈です。
読み込んでいなければ先祖名を記憶から後漬けで作った事に成ります。この時に誤った事に成ります。
実は江戸初期と明治初期に一時、過去帳に先祖のこの後付け慣習が起ったのです。
だから、上記した様に家紋の「抱き角紋」は維持しながらも、大化期からの信濃皇族賜姓族の正式な先祖ルーツを持つ筈の越前没の紀伊守(和泉守)まで止まりの途中の祖と成ったのです。

では、又お便りをお待ちしています。


  [No.883] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:青木さん   投稿日:2013/01/18(Fri) 17:20:40

こんにちは。
返信ありがとうございます。

永代官職名をさがすのですが古くて読めません。

青木和泉守の少し後に青木肥後守というのがありました。

青木和泉守は属名は書いて無く幼名らしき名ならありました。
青木和泉守の名の横に元亀四正月という書き込みがあります。
死亡日ではなくて何かをした年のようです。

肥後守の戒名ならありました。前肥○○○○○居士

お寺の方に聞くと抱き角紋は珍しいとのことで、私は丸に抱き角だと思っていた丸は
ただの石の形家紋の丸ではない事を聞きました。

なので家紋はただの抱き角紋です。

青木の家は周防のある島にあります。

どこまでが個人情報になるのか分かりません。もし差支えがある場合は申し訳ありませんが
伏せていただけると助かります。

よろしくお願いいたします。


  [No.884] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/01/20(Sun) 12:18:41

お便りありがとう御座います。
疑問が多く出てきました。その過去帳の添書にはルーツと書いているのかがはっきり判りません。
書いている以上はルーツであろうとして書いていると判断して次ぎにお答えさせて頂きます。

先ず、室町中期前までの家紋には氏家制度の中で大きな意味を持っています。
そこで、「抱き角紋」は丸が無ければ本家筋と成ります。
其処で、お家のルーツの前提は家紋の「抱き角紋」を前提としていますので、「信濃皇族賜姓足利系諏訪族青木氏」ですが、この中国地方では極めて少ないのです。
「青木氏の神職」は赴任する仕来りで任務が終われば元の地域故郷に戻る事に成ります。然し、何らかの理由で周防に定住したものです。(血縁が主)
丸があるか無いかに付いては、原則として分家であるか無いかの違いですが、本来は、丸付き紋は皇族賜姓族にはこの仕来りは無いのです。然し、室町期末期から江戸初期に掛けてどうしても上下の関係が起こり本家分家の違いが起こりました。この為に丸つき紋を用いましたが本来は賜姓族はこの方式は無いのです。ですから時代性が判るのです。

ところが、「皇族賜姓足利系諏訪族青木氏」は前回のお答え通り皇族ではない武家の「信濃足利氏」に組み込まれましたので、「武家の慣習」に基づき「丸付き紋」が用いられました。
「抱き角紋」とその丸付き紋は信濃は元より神奈川や栃木や越後にも多く存在します。
「神職の抱き角紋の青木さん」は「守護神−祖先神の神明社」の各地の建立により奈良期より各地に神職として移動したものですが、その移動域は神明系社の建立地としてはっきりしています。
前回のお答えに書きました様に室町期中期前にこの地域に神明系社を1社建立しています。その時に、「皇族賜姓足利系諏訪族青木氏」として派遣された「青木さん」と云う事に成ります。
つまり、神明系社を建立し維持管理するだけに、この地域には皇族賜姓族と特別賜姓族の青木一族が多かった事を意味します。更には、この地域の周辺には抱き角紋を始めとする皇族賜姓族と特別賜姓族の青木氏の2つの青木氏がいた事を意味します。
(現実にはいたのです。人、時、場所は史実として明確)
「抱き角紋」の中国地方への移動は「諏訪族」と云う特長ある青木氏の為に極めて珍しいのです。
それだけにこの「抱き角紋」の意味や重要度は何にもまして無視する訳にはいかない判断要素なのです。故に前回のお答えにも成っているのです。

さて、其処でこの史実を元にこの過去帳の添書の「和泉守」に付いては「・・守」の件は判っていました。
下記に平安期から江戸期中期までの青木氏が名乗った永代官職は次ぎの通りです。(末尾参照)
この中に、実は「和泉守」が有ります。但し、前回お答えした皇族賜姓族の中には無いのです。
然し、この「和泉守」は「藤原秀郷流青木氏(特別賜姓族青木氏)」が名乗った官職名なのです。人物も判っています。
因って、元々「皇族賜姓族足利氏系諏訪族青木氏」の「抱き角紋の和泉守」ではありません。
そもそも、「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と「皇族賜姓族青木氏24氏」に関らず、上記した様に諏訪族の「抱き角紋の和泉守」はその家筋より原則無いのです。
つまり、家紋と官職が一致しません。矛盾しています。
江戸期に作られた過去帳の添書編集の時の原因と明確に判ります。

更に、この間違いは、今回のお便りでも、下記の様に同じ矛盾の更なる間違いがあるのです。
お家の過去帳の添書の文書の中味の表現をよく精査して観て見ないとこの矛盾を解明出来ません。

周防で過去帳を作られた時期から観て、この添書文書の作成者の歴史認識に左右されています。
恐らく、時代考証からお便りから江戸期につくられている事に成りますから、個人が歴史書のような添書を「後付け」で作ろうとすると、現在の様に情報社会で無かった事から3つの有名な江戸期に作られた「姓の歴史書」を参考にするしかなかったと考えられます。
とすると、お家のご先祖が歴史家で無ければ、その歴史書の作成後にお家の添書が作られた事に成ります。「和泉守」と「肥後の守」の事が書かれている事から、早くて1650年、遅くて1810年頃と成ります。
特に青木氏の少ない中国地方の山口で、尚且つ、情報の少ない「抱き角紋」を元とすると尚の事であったと見られます。(抱き角紋の特長からお家の添書を作られたご先祖が歴史家とは考え難い)
当時の「時代の情報力」と「抱き角紋の情報」と「周防と云う地理性」から、普通に考えれば個人の正しい添書作成は先ず無理と考えられます。故に、この時に編集に矛盾を生じたと考えられます。
恐らくは、その矛盾は、”周防の周囲にある青木氏”と呼ばれている「和泉守」と「肥後守」とを、江戸期の「姓の歴書」から観て同じルーツと観て編集してしまったと観られます。ところが歴史の史実は違っていたのです。

「抱き角紋」の青木さんでは到底この歴史本書では作り得ない家筋と家紋なのです。
今回のお便りから丸付き紋の無い抱き角紋の家紋からすると益々疑問と成ります。
丸付き紋で有れば分家末裔筋なので丸付き紋の無い本家宗家筋と異なり長い歴史の中で何らかの変化慣習に基づかない変化が起こり得ます。
「氏家制度」の慣習の中で「神職」の「丸付き紋」の家筋ではその財力から観ても本家を超えて作成すると云う事は困難です。丸の有無に関らず神職赴任中の家筋と成れば尚の事、困難で何時か国許に帰るのですから造る事の意味も造る術も無い筈です。確実に相当後の「後付け」を意味しています。

そもそも武家社会の象徴である家筋を示す家紋と云うのは、一族の中である一つの家族の家が家紋を変えても他の親族関係が変えなければ変える事は出来ないし、その様な事を勝手にすれば氏家制度の封建社会の中では一族から締め出しをくい追放の憂き目を受けますし、そもそも生きて行く事は不可能です。(現実に甲斐の青木さんに起こっている。)
そう成ると現在と異なり昔は「移動の自由」は禁止されていて、勝手に国を抜ければ「国抜け」と言って、その一族全て惨罪の打ち首に合う事に成っていたのです。
まして武士で、名主的存在であれば論外です。氏家制度で縛られていたのです。
更には、「3つの発祥源」の皇族賜姓族であり、中でも戒律の厳しい諏訪族とも成れば論外です。
赴任中一族の神職青木氏とも成れば論外中の論外です。
従って、皇族賜姓族の青木氏ともなれば、家紋や宗派などの「家の象徴」と成るものを簡単に変更する事は出来なかったのです。丸付き紋で無い「抱き角紋」となると上記した様に尚更の事です。
故に、賜姓族の家紋の変化は「家紋掟」に依らない変更はあり得ないのであって、系図や添書などに比べて優先する判断材料なのです。

さて、次ぎは、「肥後守」の件ですが、青木氏の中にはこの「肥後守」は無いのです。
但し、周防大島と云う地方には”「肥後守」の末裔だ”とする青木さんが現実に存在します。
然し、この青木さんのルーツとその歴史的経緯ははっきりと史実で判っています。
この周防大島の青木さんは「三つ盛州浜紋」のお家です。
実は、この「肥後守」には、この史実の記録からある「謂れ」がありまして、実質の任官の「青木肥後守」では無いのです。
この青木さんは鎌倉幕府の時に「元寇の役」で幕府より命じられて肥後に出陣します。
この時にそのまま鎌倉幕府は倒壊して肥後に一部が地元の土豪との血縁により定住して、その後に「肥後の郷族」と成ります。
(「郷族」とは土地の土豪で郷氏や郷士で地侍に成った集団を云います。)
その後、この居残って「郷氏」に成った末裔が室町幕府に味方して仕官して、この肥後の一部のこの郷を本領安堵されました。
因って、「・・守」では無い、つまり任官された青木氏に関する「肥後守」では無く、この為に自らのルーツを良く見せるために名乗ったもので、朝廷より任官された「肥後の守」と勝手にその末裔が名乗っているだけで、はっきりした歴史的な記録の経緯から「肥後の本領として安堵された郷氏」なのです。
幕府から国では無く郷域を本領安堵された事を任官並に考えて名乗ったのです。

この一族が記録によれば後に周防大島に移り住んだと云う事に成っています。
この周防大島の末裔が肥後の郷氏のルーツを「肥後の守」と呼んだのです。
そもそもお家の添書に元亀元年の「肥後の守」をもルーツだとして併記で書いているとすれば、上記の通り「和泉守」と「肥後守」とがルーツであるとする説は矛盾するのです。
故に、前回のお答え通りに添書を書いた人の「歴史認識」に間違いがあった事に成るのです。

この肥後に定住した青木さんは、隣りの「周防大島」にも移動して其処に子孫を室町期末期ころに遺しました。
この青木さんは元は鎌倉幕府の時に合力した「皇族賜姓足利氏系青木氏」の末裔であり、前回の紀伊守とのルーツと同じです。この一部末裔には甲斐の「武田氏系皇族賜姓族青木氏」も含まれています。

(北九州域にもこの足利氏の分家が勢力を張っていた。九州域には元寇の役後関東域の豪族が子孫を残した。青木氏族に関係する豪族としては秀郷流青木氏は元より秀郷流永嶋氏、秀郷流進藤氏、秀郷流長谷川氏等があります。)

この青木さんは「三つ盛州浜紋」の家紋を持っています。このルーツの青木さんは薬師でした。
これにはある経緯がありまして、州浜紋は愛知−静岡付近一帯に分布する藤原秀郷流青木氏の家紋群です。
この氏と北隣の国境の信濃と甲斐の「皇族賜姓族青木氏」との血縁しています。
州浜紋に特に観られる現象です。故にこの様な血縁族が起っているのです。特定域の特定の諏訪族の「抱き角紋」とは違うところです。
「抱き角紋」の諏訪族には武田氏と血縁した経緯の通り諏訪族「由布姫」でも判る様に特に奈良期からの由緒ある家柄を保持する為に閉鎖的な傾向が強かったのです。
この「三つ盛州浜紋」の青木さんは肥後と大島に現存します。
然し、丸付き紋で無い「抱き角紋」では、この様な経緯からこの周防では「青木氏紀伊守一矩」のルーツと成ります。
況してや、明治期までの氏家制度の封建社会の慣習仕来りから「神職の抱き角紋」である限りこのルーツから外れる事は出来ません。

ところで、室町期末期の元亀1570年頃の時期は天皇家は貧していましたので、その為に金品を取って一代限りの官職名を多発に発行して財源にしていました。
実質の官職では無い金品授受の一代限りの名誉官職を与えて天皇家の大きな財源としていたのです。
皇族賜姓族の「和泉守や肥後守」等の呼称からもこの事が覗えます。
従って、「和泉守と肥後守」とするとすれば、「紀伊守一矩の永代官職」では無い様で大きな違いが出ています。ただ一代限りの官職名も幕府の推薦も入りますので大名や守護で無い限りは相当な財力を擁します。周防の神職では元より無理であります。
何時の時代か判りませんが、”御実家の周防の島”と成れば江戸期の事と観られますので、お便りの”周防のある島”とは、この”周防の大島”の事ではありませんか。

前回のお答えから外れませんが、仮に「周防の大島」と成れば、次ぎの問題を解決する必要があります。
1 家紋の「抱き角紋」と「三つ盛州浜紋」との違い(親族関係の家紋は 州浜紋が親族にあるか)
2 「和泉守の出自」の問題(添書の解読が必要 ルーツとしているのか)
3 永正8年の「青木紀伊守」の問題(永正8年のところに何を書いているのか)
4 元亀元年の「肥後守」との繋がりの問題(肥後守はルーツとしているのか)
5 ”周防のある島”の島名(大島とすると家紋に問題が出る)
6 神社名 神紋、神明系社、八幡社などの社種、創建期等の確認(この事で他の関係性が判明する)
7 浄土宗の寺名 創建期 寺の寺紋の確認 (人別帳では? これで判定できる)
8 永正8年の院殿居士の院殿部分の名(これが判れば確実に判る 家柄・立場を読み込んでいる)
9 「和泉守」とする永代官位と俗名の確認(ルーツとしているのか)
10 過去帳の添書の内容の解読と書いた時期(寺側でも判る筈です)

(注意 菩提寺と檀家寺とは違います。「総代」は檀家寺の時に使う呼称で菩提寺では住職も一族から出しますので「総・代」と呼ばないので「氏・上」(総・師)と成ります。)
(注意 家紋はそう簡単に変える事は累代で出来ませんからルーツの決めての基準と成るのです。特に中国地方の抱き角紋は出来ないのです。)

青木氏の守護職
摂津守、伊豆守、豊前守、甲斐守、尾張守、伊勢守、信濃守、近江守、美濃守、下野守、武蔵守、遠江守、駿河守、出羽守、美作守、和泉守、志摩守、紀伊守、伊賀守、以上18です。

(そもそも皇族賜姓族青木氏とはこの様な官位の「・・守」は官位を呼称しない家柄と身分が保障されていて、従四位(五位)上左衛門上(下)佐の最高官位。官職を永代に与えられているのです。
本来は名乗らない朝臣族の皇族賜姓族の仕来り慣習なのです。その様な家柄なのです。
従って、国司級の4階級の「守、介、掾(じょう)、目(さかん)」の官位官職よりそもそも数段上なのです。)

(「紀伊守」に付いては前回のお答え通り、特別に信長や秀吉より請われて受けた「・・守」なのです。
これには、理由がありまして、信長や秀吉は家柄が無位無冠であったのでこの皇族賜姓族足利氏系青木氏に対して遠戚を作り織田氏や豊臣氏の基ルーツは良い家柄であるのだとして利用したのです。特に秀吉は”腹違いの兄弟だ”と史実だとして喧伝したのです。そして、最終20万石の領地を与えたのです。)

前回のお答えをもう一度よく読まれて、過去帳の添書に矛盾が出て来ていますので、以上10項目の確認が必要ですね。
(提供される個人情報に触れる懸念の部分には筆者が編集しますのでご心配なく。)

兎も角も、家紋の「抱き角紋」を前提としてのルーツとするか、矛盾を多く含んだ「後付けの過去帳の添書」をルーツとするかは元よりお家の判断に因ります。

以上ですが、ご不明な点は何なりとご遠慮無くお尋ねください。


  [No.885] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:青木さん   投稿日:2013/01/21(Mon) 20:22:23

こんばんは。
大変丁寧にお答え頂きありがとございます。

最初、青木家のルーツを知りたいと思いお便りさせて頂きました。

管理人さんには本当に申し訳ありません。

いろいろ教えて頂いてよかったです。ありがとうございました。