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  [No.764] 兵庫県氷上郡(現・丹波市)市島町中竹田の青木は?
     投稿者:M・青木   投稿日:2010/12/21(Tue) 00:11:53

兵庫県氷上郡(現・丹波市)市島町中竹田の青木家のルーツについて教えてください

この周辺には青木さんが多くて一時期にそれなりの勢力を持った家だと思うのですが、
ルーツがさっぱりわかりません 家紋はうちの家に限っては横木瓜ですが、近所の
ほとんどの青木さんが藤紋を使っていまして、うちの家も元は藤紋であった可能性が
高いです(一族で上がり藤・下がり藤を色々変形して使っているようです)

このあたりは荻野・芦田・塩見・足立・大槻・余田さんなどの名字が多くて、この人たち
はれっきとした丹波の国人・土豪の子孫ですが、我が青木家はどこの馬の骨かさっぱり
判らず悔しい思いをしております(笑)

よろしくお願いいたします


  [No.765] Re:兵庫県氷上郡(現・丹波市)市島町中竹田の青木は?
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/12/21(Tue) 11:47:44

兵庫の青木さん 今日は。始めまして。

全国の青木さんが集うサイトです。これからもよろしくお願いします。
ルーツ掲示板やルーツ研究室など左メニューには青木氏に関する資料が沢山用意されていますので、お読みください。家紋掲示板や研究室の「青木氏と血縁族(家紋)]の木瓜紋のところにもレポートされています。地名地形データーにも兵庫摂津の青木氏のことも書いています。一度お読みください。

さて、お尋ねですが、ご提供頂きましたデータは兵庫丹波と家紋の横木瓜紋の二つですが、この二つでは確定は困難です。しかし、この2つから検証しますと、次ぎのようになります。

青木氏は大きく分けると4つになります。
血縁性の有る青木氏 2氏 皇族賜姓青木氏の5家5流29氏と藤原秀郷流青木氏116氏 
血縁性の無い青木氏 2氏 室町末期、江戸初期発祥の未勘氏と明治初期の第3氏

この前の2氏は藤原氏北家の血縁で繋がっています。
皇族賜姓族は奈良期の大化期天智天皇より5代の天皇の第6位皇子が臣下した氏です。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の土地に守護王として定住し子孫を遺しました。
この皇族賜姓族と藤原氏の母方で血縁をしているのが藤原秀郷流青木氏です。
全国24の土地に分布しています。
それに皇族の者が下族する際に名乗る氏として青木氏が決められていてこの皇族青木があります。

そして、これ等の青木氏と生活圏を共にした「絆」で結びついてる青木氏があります。家臣や縁者などです。これには「家臣、遠縁の縁者」のグループと「青木村の農民」の二つのグループに分かれます。
「家臣、遠縁の縁者」は室町末期と江戸初期に立身出世により主家の氏名を乗りました。
「青木村の農民」は明治3年と8年の苗字令により全ての名字の持たない庶民が名乗った絆の青木氏です。
これら4氏は地理的な特徴を持っています。

そこで、お家が江戸時代半ば頃以前からはこの兵庫に住んでいたとします。
そうすると、近江の皇族賜姓青木氏と云う事に成ります。近江青木氏系摂津青木氏です。
近江の皇族賜姓青木氏は一度滋賀にある理由があって一族が移動します。後に再び一族が近江に戻ります。そこから、攝津に移動します。これ等は有る理由があって移動しているのですがお家はこの青木氏であると観られます。
藤原秀郷流青木氏は理由があって摂津には定住していません。昔は氏は争いを避けるために村を形成して住み分けていました。
丹波となりますと何時から丹波に住んでいるかによります。
丹波は滋賀の左隣です。
滋賀には別の青木氏が定住しています。元伊勢上山郷の農民であった者が立身出世して武士となり上山氏を名乗りますが、滋賀に皇族賜姓青木氏が移動した時に一部残った残留の絶えてしまった青木氏の名籍を奪い上山氏がこの青木氏を名乗り後にこの滋賀に大きく子孫を拡大しました。これが滋賀青木氏です。
この青木氏が明治期に丹波に移動したことも考えられます。(江戸期前は移動禁止社会)
摂津青木氏と滋賀青木氏には違う点があります。
それは、家紋と宗派です。
摂津青木氏は浄土宗です。家紋は限定されて木瓜紋などです。皇族賜姓青木氏は武士であり皇族賜姓族のその身分家柄から浄土宗に限定されています。
滋賀青木氏は他宗で曹洞宗などの当時庶民が入信する宗派で限定されていません。
宗派と時代性と地理がはっきりと判りませんが、家紋からは「摂津青木氏」です。上山氏の青木氏ではないと見られます。
この攝津青木氏はその始祖は天智天皇の第7位皇子「川島皇子」が佐々木氏の賜姓を受けて皇子から臣下します。
この佐々木氏の末裔の一部が天武期に青木氏の賜姓を受けて名乗りました。

兵庫と家紋からはこの様なルーツになります。
お家の本家の江戸時代半ばにこの攝津にいたのか、
ご先祖をお家のご本家の菩提寺はどこにあるのか、
そこの寺にある過去帳があるのか、
その過去帳が何処までの人がかかれているか、
江戸期からの宗派は何か
ご本家の明治維新初期戸籍簿に何が書かれているか、

未勘氏と明治期の第3氏かの判別が出来ていませんので、上記の調査のどれかで答えは出ます。

摂津は摂津源氏 清和源氏頼光系の根拠地でこの頼光系と青木氏は同族です。
摂津と云うのは昔から特別な家柄身分の氏が定住する土地柄でした。現在でも源氏の神社があります。
その意味で近江系青木氏の摂津青木氏は最終この摂津に定住したのです。

余計ですが、下がり藤紋は藤原秀郷一門一族が使う「綜紋」です。藤原秀郷流青木氏116氏の綜紋は下がり藤紋です。代表紋ですので秀郷一門の宗家本家の直系が使う紋で引き継ぐ紋です。
武蔵入間にこの綜紋を引き継ぐ青木さんが現存しています。
直系ではない分家分派分流支流はこの綜紋は使えません。
摂津にはこの一門は定住していません。24地方にこの副紋使用の藤原秀郷流青木氏が存在しています。
下がり藤紋は変紋禁止の掟があり副紋使用です。丸付き紋も禁止紋です。
そもそもこの綜紋である下がり藤紋を使うことが疑問です。

ご親族が使用になるこのことから明治期の第3氏の可能性もあります。
そうすると上の不明点は明治のところでとまります。過去帳はありませんし、江戸期にさかのぼれません。
庶民は明治期まで墓と戸籍を持つ概念がありませんでした。

恐らくは、本来は、「家紋掟」がありますので、横木瓜紋が家紋であり、分家筋がこの家紋を引き継ぐことをしなかったのでは。その代わり下がり藤紋の変紋で明治期に家紋としたことも考えられます。

横木瓜紋は青木氏が横木瓜紋の氏と血縁し、2代続きで養子縁組となり女系と成ったことから前の養子先の男系家紋が青木氏の家紋と成った事を意味しています。
横木瓜紋は青木氏の家紋群の一つですが。
この様に家紋は変わって行くのです。
総宗本家だけはあらゆる手段を使い変わりません。
ただ何れの藤紋もこの家紋掟の規則に一致していません。綜紋ですので。総宗本家が引き継ぐ紋です。
笹竜胆紋と藤紋は明治期まで庶民が使えない禁止紋の一つです。

皇族賜姓青木氏の綜紋は「笹竜胆紋」です。日本で最も古い正式な象徴紋で家紋です。
1365年の歴史があります。
笹竜胆紋から幾つかの家紋の変化を経て横木瓜紋に成った事を意味します。

このことは上記した7つの不明点のどれかを調べられれば判ります。

お判りに成ったときにはお尋ねください。
ご不明な点などがありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。

研究室やルーツ掲示板などにも多くの資料や青木さんからのお尋ねやお便りがありますのでお読みください。


  [No.766] Re:兵庫県氷上郡(現・丹波市)市島町中竹田の青木は?
     投稿者:M・青木   投稿日:2010/12/22(Wed) 22:58:15

早速のご回答どうもありがとうございます

すいません ちょっと情報不足でした うちの青木家は江戸中期〜後期には確実に兵庫県氷上郡
市島町にいました 過去帳を見たこともあります 宗派は曹洞宗ですが、これはたまたま近隣に
曹洞宗の寺院があるからではないかと思います(兵庫県氷上郡市島町中竹田の石像寺 655年開基
慶安元年(1648)に曹洞宗として再興)

それでですね・・・

青木という名字の分布地図データ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~myouji/zukan/frame/f000040.htm
青木姓の密度
http://www5a.biglobe.ne.jp/~myouji/chizu/000040b5.gif


このサイトに色々な苗字の分布状況が載っていまして、このデータはおそらく電話帳のデータが
元になっていると思われます それで、都市部に人口が集中している現在では、特に「密度」の
ほうが問題になると思いますが、現在、青木姓は近畿地方・・・特に北近畿・兵庫県内にもあまり
存在していないのですが、兵庫県氷上郡市島町のみ突出して青木姓の密度が高くなっています

同サイトに青木姓高密度21市町村が載っていますが、兵庫県氷上郡市島町は第19位になって
いまして、青木姓高密度地域になっております 北近畿の他地方と比べても世帯数も多いようです

ですので、いつの頃からか、うちの青木一族は、なんらかの事由・・・武力闘争か新田開発か何か
は判らないのですが・・・兵庫県氷上郡市島町で勢力を伸ばしてきたのではないかと思っているの
ですが・・・

この地域は荻野さんや余田さんや芦田さんなどの鎌倉〜戦国以来の在来勢力がいる地域でして、
市島町という狭い地域ながら、青木一族がどうやってこれらの在来勢力に匹敵する勢力に成長した
のか興味深いのですが・・・・力不足でして私にはこれらを調べる手がかりがありません(笑)


  [No.767] Re:兵庫県氷上郡(現・丹波市)市島町中竹田の青木は?
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/12/23(Thu) 11:20:30

兵庫の青木さん 今日は。

お便りありがとうございます。

さて、頂きました青木のデータは承知していますが、江戸期前と明治期以降では社会体制が異なっています。依って一概にはルーツ発祥地としてのデータとしては使う事は難しい事ですね。
江戸期前は氏家制度の社会でした。氏が集団化して住み互いに氏の宗家を中心にして助け合う社会でした。当然、移動禁止の社会です。従ってルーツはある特別な歴史的な縁ある地域に限定されてきます。
明治期は移動は自由の契約社会ですからそこに青木氏が多いからルーツの場所とは云い難いものがあります。明治から既に150年も経っていますので移動先で子孫が拡大している可能性があります。

この青木氏は先ず皇族賜姓族は奈良期から平安期までは少なくとも次ぎの国の「守護王」でしたので、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国に限定されます。村を形成する事を許可された氏です。
この5つの国以外には原則分布していません。原則外として伊豆と土佐と米子と摂津、神奈川、栃木以外には分布していません。
この原則外の地域は、この5家5流の青木氏が本領地とは別領国で子孫を遺した伊豆、摂津、
織田信長に攻められた甲斐青木氏の逃亡先で子孫を遺した神奈川、栃木、土佐
足利氏系列で同族争いで逃亡して定住した地域で子孫を遺した米子、八頭、出雲
この3つの青木一族が近隣に伸びて子孫を遺した地域の常陸、上野、越前
嵯峨期の詔勅により名乗った皇族出身者の末孫が分布する地域 甲斐、武蔵鉢形、日向、武蔵丹治、
嵯峨期の詔勅で名乗った甲斐の皇族青木氏
平安期に皇族の者が罪を得て配流先で子孫を遺したものが嵯峨期の詔勅で名乗ったものとです。

以上、皇族賜姓青木氏の奈良期からの分布地域と皇族青木氏の分布地域です。
この二つは他氏と違い皇族と云う身分家柄で氏家制度の中でも特別に血縁や定住地が制約されていたので分布が限定されているのです。この5つの地域は天領地でそこを護る王であったのです。
この5つの青木氏は天皇家直系子孫同族で源氏とも同族です。第6位皇子出身族氏です。天皇から直接青木と云う氏を与えられた天皇の第6番目の皇子です。
天智、天武、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の第6位皇子です。
この皇族賜姓青木氏は天皇を直接護る身内の近衛親衛隊です。

藤原秀郷流青木氏では武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする円状に分布する藤原氏北家秀郷一門の主要5氏の一つで、一門の「第2の宗家」と呼ばれる嵯峨期の詔勅を直接朝廷に申請して特別に名乗る事を許された青木氏で、皇族賜姓青木氏とは母方で繋がる事から青木氏を名乗る事が許されたものです。この青木氏は秀郷第3子の千国が始祖と成ります。日本最大の氏で貴族公家の藤原氏を護衛する武士団です。全国24地方に赴任してその土地に子孫を遺してきました。
全国に特定地域に分布しています。
未勘氏、第3氏の青木氏は明治と室町末期に村の長の氏を絆で名乗った無血縁の氏で、これ等の地域に分布しています。

お便りの前半は青木氏とは無関係の密度問題です。
何れの青木氏も密度に依って氏が分布したものではなく身分家柄とそれにまつわる地理的な発祥源です。
昔は氏が集団となって村を形成する事は朝廷の許可なしでは勝手に出来なかったのです。
2つの青木氏を始めとする特定の数少ない氏にしか許可が下りませんでした。
(地名地形データーべースにある青木村をご覧ください。)
皇族賜姓青木氏5家5流は日本で最初の正式な「氏の発祥源」で、「侍の発祥源」で、「武家の発祥源」です。

そこで、後半の2つのお尋ねですが、
先ず前半の定住地の理由ですが、上記した事によります。
ただ、お家の摂津青木氏のその移動理由は一つは同族の川島皇子から発した近江佐々木氏系とその佐々木氏系青木氏との同族争いで平安期初期に天皇家の許可を得て滋賀に一族全てが移動したのです。その滋賀を赴任地の命を受けて平安期中期まで定住します。しかし、宇多天皇が第6位皇子を滋賀の佐々木氏を賜姓します。この為に、滋賀にいた近江青木氏は職を解かれて近江に戻りますが、当地域では定住は困難なために近江の南の天領地の摂津に移動と赴任を命じられます。
これが摂津青木氏です。
他氏と異なり、皇族である事より身分家柄の釣合で血縁をする氏家制度ですので、またできるだけ純潔を保つ原則からその相手となる氏が少なく平安中期から出た同族の賜姓源氏か藤原氏以外には血縁族がなかったのです。従って、摂津は嵯峨期から発祥した同族の賜姓源氏の清和源氏の宗家頼光系源氏との血縁しかなく、この摂津がこの賜姓源氏と賜姓青木氏が護る天領地です。その2つ賜姓族の根拠地であり、そこを護る賜姓青木氏と平安中期からは賜姓源氏の清和源氏が護ったのです。
摂津は天領地ですが、摂津青木氏は当然に頼光の一族とも同族血縁をしています。
5家5流の青木氏は全てこの摂津源氏の頼光系の清和源氏と同族血縁をしています。
この同族血縁が崩れたのは鎌倉幕府からです。

”青木一族がどうやってこれらの在来勢力に匹敵する勢力に成長”
このご質問は上記の通り逆なのです。
元からその土地の守護王であったのです。
在来勢力が摂津青木氏とその親族の清和源氏頼光系一族なのですよ。
書かれている姓氏はその家臣の中から立身した者が室町期に自分の姓氏をつくり名乗ったのです。
記入されている姓氏は恐らくは室町末期か江戸初期の立身出世の発祥氏です。
鎌倉期にはそれ程氏が多くなかったのです。平安末期までは氏の発祥は許可制です。
許可された氏はそのルーツが明確ですし全国には80−200程度しかなかったのです。
許可が取れて自由に氏名を名乗れるのは室町中期頃の混乱期下克上からです。

鎌倉期では分家頼信系の源頼朝により「旧領安堵策」「平家没官僚」策でこの5家5流の青木氏と源氏は平家などに奪われた土地がもどされたのです。
特に皇族賜姓青木氏は「不入不倫の件」が永代に保証されていて周囲の豪族から余り襲われ奪われる事はなかったのです。平家と信長を除いては。
摂津も一時その権力を平家に奪われますが、土地の利権は保持されました。


”武力闘争か新田開発か何か は判らないのですが・・・兵庫県氷上郡市島町で勢力を伸ばしてきたのではないかと”
この件は既に上でお答えをしています通りです。

”青木姓は近畿地方・・・特に北近畿・兵庫県内にもあまり 存在していないのですが”
摂津でどの程度の量で有無を表現されているかは判りませんが、
上記した皇族賜姓族のしがらみで他氏との歴史的な由来が異なりますので比較は難しいと思いますが。
しかし、この件ですが、そんな事はありません。伊勢神宮の伊勢の守護王 筆者伊勢青木氏で伊勢と共にその青木氏の総宗本家ですが、伊勢には員弁、桑田、松阪、四日市、名張に大きく分布しています。
近江や滋賀、米子、出雲鳥取、越前福井よりにも大集団の青木氏が村を形成して分布していますよ。
関東に行けば青木さんと言えば皆”はい”と言いますよ

ルーツ掲示板にも多くのお便りが寄せられていますので一度検索でお読みください。

皇族賜姓族に関してと江戸期前の社会体制の氏家制度に関して、お便りではご理解されていない様子ですので、研究室の関連レポートを先ずお読みください。詳しくレポートしています。
膨大な資料ですがゆっくりとお読みください。恐らく歴史マニアになると思いますよ。
これからも研究レポートを予定しています。
近々、青木氏と神明社(氏融合)の論文を投稿します。

お家のルーツは江戸期前にあるとすると摂津青木氏となります。
宗派は江戸期の「ご本家」の宗派を確認ください。分家では無理ですので。
浄土宗菩提寺は摂津にある筈です。
清和源氏の氏神社の付近にある筈では。

摂津青木さん ご不明な点やご質問などありましたらお尋ねください。
何か摂津で変わったことがありましたらお知らせください。