家紋掲示板より代理投稿
三つ鍬形 やす 2010年10月10日(日) 17:56 メール 修正
私の家紋 三つ鍬形ですが、
こちら和歌山には少ないと聞かされ、
京都の侍の家紋だと、亡祖母が言っていたが、
赤穂浪士の一人に仕えていたとか。
ルーツの探し方など、何かヒントがあれば、教えて下さい。
和歌山のやすさん 今日は。始めまして。
青木さんかどうか判りませんが、ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、鍬形紋ですか。大変珍しいですね。
鍬形紋には12の文様があります。
そのうち三つ鍬形紋は4つあります。
1つは尻合わせ紋
2つは変り尻合わせ紋
3つは三つ組み合わせ紋
4っは三つ違い鍬紋
です。
普通は1の文様です。
そこで、お家のご家紋はこの内の1と観てお答えします。
この家紋の経緯は、家康が信長、秀吉と膝を合わせて談合している夢を見たとするところから、家康が「変え紋」として、鍬は農民の主道具であるところから三つの鍬を組み合わせた文様を考え使用したもので、家康の次男の紀州徳川の初代藩主頼宣がこれを引き継ぎ、紀州家の「変え紋」としたのが始まりで、家臣がこの変え紋を拝領して使用したとされるものです。
主に家臣などに与える紋として使用されます。
(一部三河松平氏も使用した経緯がある)
(主紋や副紋に対して「変え紋」と呼ばれる−臣下からは下賜紋 拝領紋と呼ぶ)
むしろ、和歌山発の家紋なのです。この家紋を貰った家臣は一部を変更して12の家紋に成ったものなのです。
従って、下賜紋なので和歌山にも少ないですが、その後、関西地方と中国地方に分布しました。
紀州徳川氏になる前の藩主は紀州と難波の和泉地方を領地とする浅野氏でありました。徳川氏に成った後この浅野氏であった家臣の土豪は紀州徳川氏に仕官しました。その浅野氏の一部も和泉地域を与えられて残りました。(浅野氏の城跡がある)
この時に三つ鍬形紋の家紋を拝領した一族が発祥したのです。
お家はこの紋を大事にしお家の前の家紋に変えて主紋としたものです。
その後、残った紀州徳川氏の家臣団と成った紀州の浅野氏一族は、浅野事件等もあり取り潰しに成り整理されて、多くは安芸の浅野氏に移動しました。安芸に分布する三つ鍬紋はこの時に移動した一族の氏です。
他に、近江、滋賀、付近にもは役目柄で赴任していた家臣もあり、それが紀州国、和泉国、滋賀国付近に分布する様に成ったものです。
つまり、お家が住まいする紀州がその発祥地なのです。
さて、そこで、お家のルーツはこの経緯からその本拠地は大阪の和泉市から和歌山市付近に分布しています。恐らくは徳川氏の家臣と成った浅野氏の家臣であったと観られ、この家紋の使用を紀州徳川氏から許されたところを観ると浅野氏の遠縁かその家臣の重臣の一族と観られます。
浅野氏は、違い鷹の羽紋が主紋ですが、お家のルーツは次の要領でお調べになる事が必要です。
紀州徳川氏が使用する「変え紋」を許可された家紋であるところから観ると、限られた少ない家紋であることは間違いないと思いますので、調査も限定されますね。
この様な家紋は、家臣が特別な功労を挙げた者に使用を許す家紋なのです。
例えば豊臣氏では、天皇家の式紋「桐紋」(五三の桐)を秀吉に許し、秀吉はその家紋の一部を変更して豊臣家の家紋(五七の桐)としました。後にこの五三の桐紋を黒田藩などの有力大名に使用を許可し、それを貰った大名はその又家臣に、更にその家臣は庶民の功のあった者に一台限りで使用を許すというような事が起こりました。これに習って徳川氏や各大名もこの様な「変え紋」の家紋を設えて家臣に使用を許すシステムが確立したのです。紀州徳川氏は桐紋のほかに独自にこの「三つ鍬紋」を与えたのです。
与えられた大名級家臣には田所氏や富氏や浅野氏など紀州藩の5つの大名格の元土地の豪族がありましたが、これらの氏等または家臣に与えました。
恐らく、全国で特に関西と中国地方以東の地域に12の文様しかないこの鍬紋が分布していますところから、紀州徳川氏の家臣に成った元の領主の浅野氏の一族一門か重臣であった可能性があります。
そこで、先ずは本家の調査をされて、その本家の「菩提寺」(氏寺)の調査をします。必ず一族一門が集まってひとつの箇所に祭られている筈です。檀家寺の場合は一番本家に近い人の墓所に成ります。
恐らくは、本家筋や菩提寺が和泉地方にあると思います。
その寺にお家のご先祖の「過去帳」がありますので、それを調べられるとルーツが詳しく出てきますよ。
分家では無理ですよ。
次に宗派の調査ですが、身分に依って宗派は異なりますので、お家の江戸期ごろの宗派ですが、当然、その宗派は菩提寺に繋がる筈です。和泉と和歌山地域内にある筈です。
宗派としては、三つ鍬紋である場合は高野山にも墓所または永代供養寺があると思いますが、浄土宗、真宗、真言宗の何れかと見られます。
真言宗の場合は高野山も考えられます。
もし、菩提寺や檀家寺が判らない場合は明治維新の戸籍簿がご本家の土地の役所にありますので、明治以降と江戸末期直前のルーツは判ります。そこから割り出せばお家の昔の土地柄が出てきます。
土地柄が判れば菩提寺も判ります。
先ずは、お家の宗家に近い江戸期のご本家または宗家をお調べください。
ところで、お家の氏名は何ですか。
この家紋を貰える氏は和歌山では歴史的に限られてきます。和歌山か和泉かも地域判別できますよ。
和歌山では武士であれば、室町期の守護に付き従って和歌山に来た信濃の氏が足利幕府が滅亡してこれ等の氏が和歌山に住み着きましたので氏がはっきりしているのです。
信濃足利氏の家臣団氏名が殆どです。
平安期は藤原氏が守護を務めていたましたので、紀伊守護守の藤原修行の家臣団の氏名とで土豪は構成されています。その上に徳川氏の家臣団となります。
この浅野氏を含む4つの土地に定住した土豪集団が徳川氏の家臣団に組み込まれました。
先ず、簡単にルーツには辿れつけませんので、ご本家の調査が判りましたら又ご指南いたします。
では又お便りをお待ちしています。