はじめまして。
青木正明と申します。
現住所は静岡県三島市加茂39-2に在住です。
本籍は茨城県水戸市です。
家紋は丸に揚羽蝶です。
墓地は茨城県水戸市内にある水戸徳川の藩士のための
水戸常磐共有墓地内にあります。
水戸学の藤田東湖の墓地の向かい側に青木家の墓地が
位置しています。
青木家の墓地には昔の古い五輪の塔があります。
共有墓地の管理人によれば、共有墓地内には五輪の塔
が建立されている墓地は他にないそうです。
従って、家格、身分の高い家柄であると教えられました。
現代ではお金を出せば、誰でも供養塔を設けることが
できるが、当時は五輪の塔の建立は勝手に設けること
は許されなかったことから家格が判明するそうです。
青木家の系図は
青木近江守持通五世とあり
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)から下記のように
始まっています。
青木筑後守若年の時江州を出て、駿州に来り。
今川氏に属し後三州に住す。天文元年十二月卒
六十九歳。
教えて頂きたいのは青木近江守持通から青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
に至るまでの抜けている部分です。五世とあるから五世代その間に存在すると
いうことになると解釈しているのですが、如何なものでしょうか?
また青木近江守持通に関する史実及び青木近江守持通に至る経緯が分かれば
教えて頂きたいと念じています。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の弟に青木隆吉(又の名:青木六左衛門)
が記載されています。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子には
女子(名前の記載なし)として下記の記載があります。
清康公御室廣忠公御母堂永禄四年八月四日逝去
次の質問ですが、
廣忠公の誕生が代永六年四月二十九日或いは
天平四年という情報があるのですが、事実は
何年でしょうか?
清康公御室廣忠公御母堂は廣忠公の出産御まもなく
なくなっているという情報もみうけられます。
我が家の系図では永禄四年八月四日逝去と記載されて
いることから産後まもなく死去したと言うのは当たらないない
と考えるのですが?如何なものでしょうか?
何処に埋葬され、墓地はどこにあるのでしょうか?
どのようにすれば墓地の場所がわかるでしょうか?
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子(次女なあたる)には
女子(名前の記載なし)として下記の記載もあります。
松平善兵衛信正妻
信正の子善兵衛正親其子善兵衛康安は元亀三年叔父青木
四郎兵衛吉継と共に遠州二又城を守る。其子善四郎正朝
後壱岐守に任す。六千石を賜い水戸中納言頼房郷に附属
せらる。其弟志摩守重成五千石を賜て兄と共に頼房郷に附属
せらる。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子青木吉継
又隆重 四郎兵衛初名又四郎遠二股城代を命せられ元亀三年
十二月二十二日同国味方原合戦に討死四十三歳
*徳川家康嫡男岡崎三郎信康の寺 清瀧寺(天竜市)に墓があり史跡となっている。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子隆員
青木権十郎
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子青木泉良
法印権大僧都
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の女子
伊豆の守義勝妻
以下省略
以上宜しくご教示いただきたくお願い申し上げます。
青木家の系図を検証しながらより完成させていくことを希望しています。
次回は明治時代の早い時期にある事件が起こっています。その件に
お伺いいたしたいと思っています。先代の時に水戸市役所の史跡編纂係りから
資料を求められたことがありましたが、残念ながら...
氏名: 青木正明