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  [No.749] 愛知の鷹の羽の青木さん
     投稿者:青木正照さん   投稿日:2010/09/23(Thu) 09:13:59

青木正照さん 今日は。 

”Re:愛知の青木について ”は別の方の専用投稿欄と成っていますので、新たに正照さんの専用投稿欄をこちらに設けます。(代理投稿しました)

次回からはこちらから投稿をお願いします。


[No.748] Re:愛知の青木について
投稿者:青木正照 投稿日:2010/09/23(Thu) 01:45:21


 たまたま我が家の家紋を正確に知りたくて、ネットで調べていたらこのサイトに行き当たりました。

 同じ愛知の青木でもルーツは異なるようですが、非常に懇切丁寧に回答されていたので、思わず私もお尋ねし
てみたくなりました。

 私の先祖は、長慶天皇に仕えていた青木新左衛門秀頼という人で、長慶天皇が身罷られた後に故国三河に帰り
、宝飯郡音羽の里で余生を送ったとされています。

 その本家として、青木丹生大明神(祭神は月夜見尊・多治比古尊・雅日女尊・高野御子大神です)を祀ってい
るのは、東海道赤坂宿の旅籠として、今も営業してみえる大橋屋さんです。

 私の知っているのはこの程度の知識ですが、このサイトで紹介してみえる家紋の中には、我が家の家紋である
鷹の羽は出て来なかった様に思いますが、何故でしょうか。

 また、私が知る青木新左衛門より前の歴史については、どの程度まで遡って調べられるもので、何を調べれば
分かるのでしょうか。

 どうか、ご教示の程よろしくお願いいたします。


  [No.750] Re:愛知の鷹の羽の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/09/23(Thu) 12:43:58

青木正照さん 今日は。 始めまして。

全国の青木さんが集う青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもこのサイトが盛んに成ります様にご協力の程お願いします。

尚、正照さん専用の投稿欄を此処に設けましたので、以後Reで此処からお便りを頂きます様にお願いします。

さて、お尋ねの件ですが、ご先祖の情報では次ぎの様に成ります。
長慶天皇に仕えた。
ご先祖の方のお名前は青木新左衛門秀頼と言う人
ご先祖の国は三河国宝飯郡音羽村
ご本家筋が青木丹生大明神を祭祀
東海道赤坂の宿の旅籠 大橋屋
家紋は鷹の羽紋

では、先ずご家紋の鷹の羽紋の青木さんの件ですが、「青木氏と血縁族」(家紋)の11番の「鷹の羽紋」のところの一番目に記載していますよ。
又は、家紋掲示板の「鷹の羽紋」のところにも同じものが記載しています。
更に、青木ルーツ掲示板にも昔同じ親族一族であった鷹の羽紋の方からのお便りも沢山頂いていますので掲示板の検索でお調べください。
この際、「違い鷹の羽紋」も支流一門ですので縁者と成りますので同じくお読みになってください。
この「鷹の羽紋」類の一族は藤原秀郷一門361氏の中でも「家紋主要8氏」の一つで、秀郷一門主要5氏に続いて大豪族です。
そこで、結論からお家のルーツを先に申し上げます。
高い確率で間違いないと思います。
藤原秀郷流青木氏の一門です。
この藤原秀郷流青木氏の一門の事は「青木氏氏 研究室」の藤原秀郷関係のレポートをお読みください。
レポートは膨大と成りますので、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。

一応此処ではそのレポートを容易にご理解頂けるためにお家のルーツの概容を記述いたします。

お家のご先祖は、武蔵国入間を中心に横浜神奈川を半径とする円内を領国として栄えた藤原氏北家筋始祖秀郷一門の青木氏です。
そして、この藤原氏は4家(北家、式家、京家、南家)ある中の最も栄えた一門で、鎌足から8代目の人物です。平安時代初期に関東で「平の将門」の独立動乱を平定した二人の一人で、貴族と武蔵国と後に下野国をも領国として与えられた人物です。
この時、貴族に成りましたので秀郷の宗家は武力を使えません。そこで、第3子の「千国」なる人物に一族を護る護衛役を任じます。そして、朝廷に申請して嵯峨期詔の禁令である天皇家の者が下族する際に使用する氏名の「青木氏」を名乗ります。
藤原氏は母方で天智天皇から始まった第6位皇子に与える賜姓氏名の皇族賜姓青木氏と血縁である事から、特別に許されます。
皇族賜姓青木氏は天智天皇から始まった伊勢青木氏と、続いて天武天皇、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の4代の天皇の近江青木氏、信濃青木氏、美濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流の第6位皇子の皇族賜姓青木氏が発祥します。この青木氏は天皇家を守る親衛隊としての任務を与えられて臣下します。
光仁天皇の子供である桓武天皇はこの賜姓方式を中止し自らの母(高野新笠)方の氏を引き上げて「たいら族」として賜姓します。これが「国香」、貞盛から始まった後の5代後の「平清盛」と成ります。
つまり、平氏の先祖で、中国後漢の光武帝から21代目の献帝の子供阿智使王と孫の阿多倍王が17県民200万人を引き連れて後漢滅亡後に日本に上陸し、瞬く間に66国中32国を無戦制圧してしまい、そして帰化した渡来人です。
この渡来人が天皇家と血縁して、伊勢北部伊賀地方を与えられます。そして力を付けたのですが、桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反対して、皇親政治を目指して第6位皇子の賜姓方式を戻します。
この時に発したのが「嵯峨期の詔」ですが、この時それまでの「青木氏」に代えて「源氏」として賜姓します。そして「青木氏」は天皇家の者が臣下又は下族する際に名乗る氏としたのです。

この青木氏一族と母方を血縁関係にある藤原氏の秀郷は同じ天皇を護衛する任務として、また藤原氏と秀郷一門一族を護る護衛集団としても認可され子供の「千国」が担当しました。
宮殿は賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の母方同族が護る事になったのです。後の北面武士と呼ばれるものです。この時の官職名が「・・・左兵衛門」又は「・・・右兵衛門」と付けられたのです。
これにこの役目の階級「尉又は佐」を付け更にこれに「上下」を付けての4段階で呼ばれました。
お家のご先祖の「新左兵衛門」は平級官職名で青木氏に付けられた永久官職名です。
江戸時代には上級旗本、御家人が金品を天皇家に御調し一代限りの名誉官職名を獲得しました。
この結果、乱発したために明治時代には勝手にこれに真似て庶民も名乗るようになったのです。

後に、この藤原秀郷流青木氏は116氏に末裔が広がります。
この青木氏は秀郷一門361氏を護る為に宗家に代って「第2の宗家」と呼ばれていました。

お家はこの内の一つで、鎌倉幕府北条氏の時代の蒙古襲来時に北九州に宗家を護衛して赴任します。
この時、子孫繁栄のために同じく北九州一の豪族の菊池氏と血縁をします。
(「1274 1281の文永弘安の役頃」)
この菊地氏が阿蘇神社の神紋でもある「鷹の羽紋」を土地の氏子として最初に使用していた氏なのです。
ところが、その後、この菊地氏と血縁した秀郷一門の青木氏は嫡子に恵まれず、更に菊地氏から養子を迎えて血縁をしましたが、再び嫡子に恵まれず氏家制度の「家紋掟」に従い、結局、2代続きで女系に成った事から養子先の男系家紋の「鷹の羽紋」に変紋を余儀なくなり、秀郷一門の「下がり藤門」の綜紋から「鷹の羽紋」に成った秀郷一門の青木氏です。

この「鷹の羽紋」の秀郷一門の青木氏が、北条氏の鎌倉幕府滅亡前後のこの北九州から1340年頃に武蔵国の領国に戻ります。24の地方に土地の豪族との間に子孫末裔を遺してきた秀郷一門の青木氏らは赴任中の宗家一門とともに一部を残して領国に戻ります。

恐らく、帰国後、1350年頃、この時に、南北朝時代となり、藤原氏の天皇家との繋がりから「南朝派」に仕官していたものと考えられます。(1370−1383 長慶天皇)
菊地氏と家紋と南北朝と土地柄とご先祖の官職名や南朝仕官などで史実から観てどれもが極めて時代性が一致します。
約100年程度の期間から観て、お家の本家のご先祖は「鷹の羽紋」と「違い鷹の羽紋」類の発祥祖と成りますね。
この人が「青木新左兵衛秀頼」と云うご先祖であったとも考えられます。

更に、ご本家の把握と本家筋が「青木丹生大明神を祭祀」の史実は、藤原氏母方血縁の天皇家のつながりのある2つのルーツの「青木氏」が「皇祖神」として大化期から伊勢青木氏の守護役であった伊勢神宮の「明神信仰」を行っていた事の史実も一致します。後に室町時代から江戸時代に掛けて、この「神明信仰」は「お伊勢参り」で有名に成ります。
恐らくは、経緯から観て、お家のご先祖一門の何方かがこの宮司を司っていた事もあると思います。
藤原秀郷一門の中で神明の宮司は大変多いのです。藤原氏は春日神社が氏神ですが、この中でも母方皇族系の青木氏である為に、この青木氏だけは神明(明神)社の宮司、祭祀の役目を荷っていたのです。

そして、更には三河国として愛知から静岡(駿河)にかけて藤原秀郷流主要5氏一門(青木氏、永嶋氏、長沼氏と長谷川氏、進藤氏)が定住する地域で、中でも、鎌倉期から室町期にかけては横浜神奈川地域からこの地域西圏に勢力を伸ばしたのです。
主要5氏の中でも「青木氏」と特に直系の親族である「永嶋氏」は「関東屋形」の3氏と呼ばれて、青木氏の保護を受けて関東の最大豪族となって勢力を伊勢の付近まで勢力を伸ばしました。
依って、この地域には藤原秀郷流青木氏が青木村まで形成して多く定住している主要な地域なのです。
故に紀伊半島とその以西にはこの「鷹の羽紋」と支流の「違い鷹の羽紋(浅野氏)」が多いのです。

お家はその「鷹の羽紋」とその支流の「違い鷹の羽紋」が多く存在する西端の愛知付近にあたり、その主要一族であることに成ります。このことも史実に一致します。

「東海道赤坂の宿の旅籠 大橋屋]に関しては愛知県豊川市にある現在も続いている大老舗で日本一老舗で有名ですね。聞いたことがあります。武家であったと云う話をうっすらと覚えています。
ご先祖の国は「三河国宝飯郡音羽村」ですから、音羽村大字赤坂郷は今の豊川市ですね。
真に額田郡青木村や岡崎の青木村に近くその権域にある秀郷一門青木氏が最も多く住んでいた所ですね。

その土地の赤坂村に1600年頃からの老舗ということですが、ご本家の始めた時期がよく判りませんが、上記の事からも考えて平安期からの藤原秀郷一門の土地の豪族であった事がよく理解できる事柄です。

商い創業期が室町時代から始めて江戸時代に入ったとあれば、神明の事も含めてその頃の力を利用して室町期末期の戦国時代かにご先祖は「2足の草鞋策」を採ったのではと考えます。その後江戸時代手前で大商い(旅籠等)に主力を置いたと考えられます。
その理由はこの頃(1550−1600)から「神明信仰」で各地に神明社が立て始められた時期で、そしてその「お伊勢参り」としてブームに成り始めた時期でもあります。その流行は明治初期まで続きました。
当時の豪商はこの時期にこの「2足の草鞋策」が殆どでよくある事でした。
この事に付いては証明する情報が今有りませんが、確率高く予想できる事と思いますが、何らかの一寸した情報が有りましたら確定するためにもお知らせください。

この愛知の青木さんに関しては、この地域は上記しました経緯から、幾つかルーツを持つ青木さんが存在します。これ等の事は詳しくはレポートに記述していますが、概ね、次ぎの青木さんに成ります。
皇族賜姓伊勢青木氏 西端域
藤原秀郷流青木氏 中央から東全域と信濃より全域
皇族賜姓美濃青木氏 北域の美濃より
皇族賜姓信濃青木氏 北端上の信濃より
皇族賜姓足利氏系青木氏 北端下の信濃より
伊川津7党の青木氏 愛知やや中央より西域(愛知の土豪集団 美濃青木氏の末裔)

(地名/地形データーベースに愛知の青木村を表示しています。)

西加茂郡青木村、
丹波郡青木村、
豊田郡青木村、
渥美郡青木村、
額田郡青木村、
岡崎市の青木氏
秀郷一門青木氏の青木村は以上の6つの村が有ります。

お家はこの2番目の域に定住していた青木氏だと考えられます。

次におうちのルーツを調べるにはお一人の情報探求の能力だけでは現在ではなかなか難しいと思います。それほどに多く資料が遺されていませんのでかなりの雑学から研究する以外には無いと考えます。
お便りから観て正しい情報であるかを確認する術を保持していないのではと思います。
殆どが江戸時代前後の残された書籍は家柄誇張などの理由から搾取偏纂の書籍が多いからです。

そこで、ご本家がお判りであるのなら、ご本家の家紋の詳細、過去帳、氏寺、ご本家筋の維新戸籍簿、宗派、仏壇、古物品、戒名などを先ずお調べになり、それをお尋ねしていただければ、サイトで正しい専門的な検証のお手伝いをさせて頂きます。分家からのルーツの検証探求は無理であります。
そうする事で専門性の雑学史実からの検証が可能に成ります。
その前に掲示板などの本サイトとのレポートをお読みに成る事でルーツ探求の判断力が付き、より解決に向かいますよ。

兎も角も、上記したルーツ概容がお家のルーツだと思いますが、そこでご質問等が有りましたらお尋ねください。更に検証の確率とより詳細なご先祖を発見する事が出来ますよ。

ではお便りをお待ちしています。