> はじめまして。東京に居を構えて4代目の青木隆と申します。家紋は丸に蔦です。よろしくお願いいたします。
>
> 『桜町治蹟 二宮先生起業地』の序文(http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758763 pp.9-10)を書いた青木浦次郎が大正時代に栃木から転居を敢行し、私はその直系曾孫に当たるのですが、浦次郎の養父(福嘉)より前の先祖のことを調べたいと思っています。
>
> 貴サイトの記事から勉強しようと思っていますが、なにしろ量が膨大なので特に重要な部分をご示唆いただければ幸いです。そのほか参考になりそうなことならば、何でもご教示いただければ幸いです。
>
> どうぞよろしくお願いいたします。
東京の青木さん 今日は。はじめまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。同じ青木氏としてこれからもよろしくお願いします。
さて、そうですね。サイトには青木氏に関する研究資料を沢山用意していますので、膨大になりますね。
そこで、先ず自分に関わる事からお読みになると良いと思います。
先ず、お家ではルーツ情報として「家紋」(蔦紋)がお判りになるのでしたら、「家紋」からお入りになることですね。その関係するレポートをお読みになり、そこからお家に関わる得た情報(例えば宗派)で更に広げてレポートを探すと云う風にして行くのが唯一の辿り付く着く方法です。
先ず、最低は、家紋、宗派、土地柄、菩提寺、過去帳、維新戸籍簿(本家)、本家筋、戒名、伝来品、口伝、言伝え、江戸期身分、ご先祖の名(例えば・・兵衛)、と明らかにする必要があります。
最低は前の先ず6つくらいは把握する必要があります。
これで推理が立ち検証する事が出来ます。
この6つが判らないと云う事は”伝統がなかつた事”を意味しますので、江戸期前ルーツは下記の理由から無理と思います。
ルーツを持つ氏は現代でも代々少なくとも本家筋はこの「伝統」を引き継いできています。
明治期のご先祖と江戸期(封建社会 氏家制度)のご先祖とは社会体制が異なりますので明治期以後の情報ではルーツは確認出来ませんし、明治期以後(自由社会)は戸籍簿で十分に判ります。
江戸期以前は庶民(士を除く農工商)は戸籍を持つ習慣(氏名)がありませんでしたので、ルーツは有りません。(特別な庄屋、名主、郷士、郷氏、豪農、豪商は元は土豪で氏名を持っていました。名字帯刀許可)
そこで、家紋がわかると成りますので、先ず、研究室に「青木氏と血縁族」(家紋)の「蔦紋」をお読みになってください。
お家は、家紋だけでは、蔦紋のレポートの7番目のところの分家筋です。そして、丸付き紋ですので、蔦紋の青木氏の4番目の所の氏の支流となります。
藤原秀郷流青木氏である可能性があります。
もし、この氏の青木氏であればレポートを藤原秀郷流青木氏関連のレポートを続けてお読みになればルーツが把握出来ます。
「藤原秀郷一族の生き方」
「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」
「明治以降の第3の青木氏」
これ等を確定するには、先ず上記の最低6つ、或いは13くらいの所までの情報をお調べください。
ただし、お話の情報は明治期の個人情報のものとなりますので、現在の役所の戸籍簿で明治期以降(明治3年又は8年)まで充分確認出来ます。
それ以前は士分(武士)であれば菩提寺の過去帳(江戸時代はお寺がこの役目を荷っていた)にて辿り付けます。但し、この家紋の青木氏であれば宗派は浄土宗(又は一部で真宗)です。
この家紋群のこの宗派以外の宗派では明治期3年8年の苗字令の青木氏です。
氏家制度の中では藤原秀郷流青木氏の場合は、独自に自らの寺即ち菩提寺と氏神を持っていましたので、檀家寺は即ち菩提寺となります。
お家の江戸期の地理的なところにこの菩提寺がある筈で、そこには蔦紋のご宗家の本家も丸付き紋の蔦紋の支流ご本家が存在している筈です。
それが、江戸期での足利か真岡となるのかをお調べになる事となりますね。決め手になる大事な情報ですね。足利となると別の意味が出てきます。
その時にお答えします。
書かれている大正期のお家の個人情報からでは先ずは200万人もの個人の情報と成るために把握は物理的に困難ですので、明治期前のお家のご先祖の過去帳の把握が絶対に必要です。
蔦紋は新しい家紋群ですので、最終f江戸初期まで辿りつけます。そして、三河、駿河国に辿り付けます。
丸付き紋で分家支流ですので、江戸中期(享保時代以後)までと考えられますが、丸の無い蔦紋のご本家を見つけ出す事が必要です。
明治半ばに「郡長」をされていてこれだけの序文を銘記されたとすると、。(特別な庄屋、名主、郷士、郷氏、豪農、豪商であったか)何か上記の6つの情報は持っていると思うのですが、兎も角も、丸付き紋の支流の直系ですと、この家紋ですと、江戸中期から明治期前までのご先祖となる筈です。
念のため、この栃木には抱き角紋の諏訪族青木氏が多く定住している地域です。
上記6つの情報が取れないととなると明治期3年8年の苗字令と督促令の青木氏になることも有り得ます。
上記の情報が少しでもお判りになれば、ご指導いたしますのでお気軽にお尋ねください。
次第に氏家制度の社会習慣でそのルーツを検証する事が可能になります。
先ずは、研究室の指定するレポートを読まれた後に上記最低6つの情報からお調べください。
では、お便りお待ちしています。
参考
二宮尊徳氏の先祖は滋賀二宮氏で平安末期−室町期からの古い家柄で、家紋を抱き茗荷紋としている。この二宮氏と血縁した青木氏がある。
「青木氏と血縁族」(家紋)の「抱き茗荷紋」参照
以下の業績は昭和前半の教科書に記載されて勉強した有名なものである。校庭の最たるところに薪を背負い本を読む姿の二宮尊徳像が何処の小学校にもあった。
戦前に生まれた者としては最も徳の得た人物として教えられ、本偉業も教えられて知っている。
関係するので下記に複写する。
序
近世の偉人二宮尊徳翁小田原君公の命に依りて野州物井桜町に赴任し居を桜町陣屋に占めその地の開拓に従事し具(つぶさ)に辛酸を嘗(な)め桜町及び真岡東郷に留まること30有余年の久しきに至り偉人二宮翁の活動史を飾れる後半生の波瀾起伏は悉く此の時代に在りしなり。
翁来任の当時上官の圧迫、奸民の反抗、惰民の悪風滔として物井四千石を風靡し随って築けば随って破られ数年に亘(わた)れる幾多の辛酸は偉人翁の如きに非んば到底忍ぶべからざるものなり。
況んや此の間に立って不眠不休住民の指導誘掖至らざるなく怨みに報ゆるに徳を以てし人民を懐柔してその企画を遂行す。
偉人翁の如くに非んば到底為し能(あた)わざる所のものなり。
野猪(しし)の害を除き荒地を開墾して良田を作り水利を図りては灌漑を便にし排水を湿地に設け田畝(でんぼ)を開き交通に治水に民舎の団体的移転等において至便至利なる施設に基き総て実際的農業本位を以て根本と為し来れり。
翁の耕地を整理するや、その設計の画一にして規模の広大なる真に後世農政家の依て以て範と為すべきもの多し。
その道徳の方面に至りては質素勤倹分度推譲等身を以て之を示し凶歳積穀法を設け飢饉の厄を免れしめ延(ひ)いて他地方の窮民を救助し貯蓄を奨(すす)めて事業発展の資に供しその人を訓誨する卑近の例を取って平易に之を諭す。
遠近翁の仕法に則り翁の徳を慕いてその門下に集まるもの百人に上れり。
翁の徳化の及ぶ所深くしてかつ大なりというべし。
余職に此の郡に在ること久しく翁の興復せし物井四千石を過ぐるごとに翁の勧農政策の上において風教改善の上において著しき成功を為せしことを追想して止まず。
常にこの翁の起業の地における大功業を成就せし旧蹟、報徳教の生まれし霊地につき記述の少なきを遺憾とせり。
然るに今や本書の成る。
誠に余の心を得たりというべし。
想うに本書に依りて翁の治蹟を発揮し報徳の趣旨を一層普及せしめ一面においては殖産興業の必須なることを切実に感ぜしむるや必せり。
即ち所懐を述べて序と為す。
明治44年10月
芳賀郡長 青木浦次郎