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  [No.724] 愛知の青木について
     投稿者:きむ   投稿日:2010/07/27(Tue) 15:48:35

はじめまして。
私の母方が青木でそのルーツをたどっていたら当サイトにたどり着きました。
私はとある理由から、母方の青木の影響を強く受けているときき、ルーツを
探り始めました。
母の実家は私が知る限りでは、大きな農家だと思っていました。しかし、
「過去に没落したことがある。」と聞かされていました。
よくよく考えてみると、没落したのは江戸後期あたりで、百姓なら名字は名乗れなかった
はず・・・。またこの没落は、何度もくりかえしているようなのです。
ということでこのサイトをいろいろ拝見しました。

母方の実家は、尾張の国海東郡伊麦村(現在あま市七宝町)。この地域には青木さんが多いようです。
江戸末期にはすでにここにすんでいたようです。家紋は蔓柏。宗派は浄土真宗大谷派。
私の祖父の兄は近衛師団にも選抜されていたようです。関係があるか分かりませんが・・・。
私のご先祖さまは何をされていたのでしょうか?

また、長崎の諏訪神社の再建に尽力された青木賢清についても分かることがありましたら
教えてください。
長崎県には現在親戚などはおりませんしかなり離れているので関係はないかもしれませんが、
もし何か繋がる情報がありましたら教えてください。


  [No.726] Re:愛知の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/07/28(Wed) 18:28:18


愛知の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。

さて、お尋ねの件ですが、お便りの情報では、「没落」「農家」「時代」がキーワードですね。
先ず、ご母君の実家は江戸時代は農家なのでしょうか。
明治期では氏家制度社会から自由社会に変わりましたので明治後の事はルーツ検証には役に立ちませんし、明治期からは戸籍簿がありますのでルーツは確定します。江戸期は士農工商の身分確定の社会で、武士以外は氏家制度の中にありませんでした。依って、武士は菩提寺に過去帳をつくり、当然に武士は氏を形成して社会を構成していますので、氏名で時系列的に先祖を管理出来ます。
当然にこれを辿ればルーツが判ります。氏家制度社会の中で身分が確定していますので、脱藩や廃藩や罪を犯すことがない限りは「没落」はないことになります。
そして、藩に拘束されますので、他国には移動定住することは出来ません。勝手に出ると「国抜け」と云って一族郎党は斬罪です。
当然、農民も「国のもの」と云う事でこの罪に問われますし、貧乏であることには変わりませんが「没落」はありません。農工商には氏を構成しませんので過去帳は管理維持する事は出来ません。
ルーツを辿ることは出来ません。もとよりそのような社会慣習が必要なかったのです。
何々村の何助で終わりますので過去帳はないのです。
ただし、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は元は武士で合ったことが多く特別に認められていました。
すべての「没落」は原則明治以後の事になります。
平氏、源氏、藤原氏、青木氏などはその勢力圏の中で生きてゆきますので起こりえます。
藤原氏、青木氏などはこの為に「2足の草鞋策」を採りました。
故に、工商を除く武士と農民は少なくともなく「没落」は明治以降の出来事になりますので、”「何度も没落を繰り返している”は疑問です。

祖父の兄は「近衛師団」は明治期の事です。薩摩長州の連合軍の兵は「ちんらいさん」と云って農民が主体で幕府を倒したのです。この「ちんらいさん」が後に天皇を護る師団に変化して主に「全国の優秀な若い農民」と「若い下級武士の子弟」で編成したのです。上記した様に明治以降の事ですからルーツには関係ありません。
江戸期では、祖祖父のことになりますね。

母方の実家は、尾張の国海東郡伊麦村(現在あま市七宝町)の件ですが、岐阜の美濃は国府付近に皇族賜姓青木氏とこの血縁関係にある西域には土岐氏系青木氏の末裔が定住しています。
東には藤原秀郷流青木氏が定住しています。

この青木氏とお家の母方の青木氏ですが、仮に武士であるとすると、地理と宗派と家紋がこの氏の特長ですので、これから観るとこの藤原秀郷流青木氏ということになります。
当然に農家であると、氏を形成していませんのでルーツが出来ていません。
もし、この氏であるとすると、上記した様に「何度も没落」が起こっています。
氏家制度の中では、概ね「没落」をテーマに観て見ると、平安期に3度、鎌倉期には2度、室町期には3度、桃山期には1度、江戸初期に1度程度のことが起こっている筈です。

言い換えれば、室町期末期には土地の土豪でしたから、江戸期は庄屋などはこの氏の「没落」の結果なのです。これをお家の母方の実家の没落と云うのであれば「没落」です。
上記の庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は元はこの一族の氏でしたから、元の氏名と家紋と帯刀を保持しある程度の武力(家人や家者)を持っていましたから農民の代表となっているのです。
これは戦国時代と下克上の結果、土豪が戦いに敗退しての選んだ道なのです。
豪農や豪商は元の立場を生かして税の産物の取り扱いに慣れ、武力を持っていますから運搬などの保護にも必要ですから、商人になったので豪商は殆どこのパターンで、両方を続ける者もいました。

明治初期の近衛師団のお話は「若い下級武士の子弟」「若い農民」ですので、この氏の可能性を高めます。恐らくは、この庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商のどれかであったと考えられます。

長崎の諏訪神社の再建に尽力した宮司の青木賢清の件ですが、諏訪族青木氏は信濃の青木氏です。
皇族賜姓の信濃青木氏の血縁族の諏訪族青木氏、諏訪族武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏がありますが、この青木賢清は宮司ですのでこの3つの内のどれかの末裔です。

長崎の諏訪神社の再建は1625年前の頃の事ですので、戦国時代に成りますが、諏訪族は武田氏とともに戦い敗退(1585)して主に神奈川横浜の藤原秀郷流青木氏に保護を求めて信長から逃れます。藤原秀郷流青木氏は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする螺旋状に宗家を護っていました。
この横浜の地に諏訪族青木氏を迎えたのです。

恐らくはこの時期各地で神明、熊野、住吉、宗像など歴史ある大社は各地に支社を建設して勢力の拡大競争が起こっていました。諏訪族の氏神の諏訪神社も例外ではなく再建が起こっていますが、長崎はこの時期キリスト教の教会領であり、それに対抗してその権域で住吉神社と地元氏森崎神社の三社が結束して成したものです。
関東の諏訪族青木氏の逃亡定住地に諏訪神社が多いのですが、各地の諏訪神社の宮司は一族の諏訪族青木氏が多いのです。この青木賢清は間違いなく諏訪族青木氏と考えられます。
諏訪族青木氏が藤原秀郷流青木氏に保護された時期と長崎の諏訪神社の再建と40年の後の事ですのでやっと立ち直る時期です。
この初代宮司は諏訪族一族の存続を掛けての他社との協力で諏訪神社を長崎丸山に建設したのだと思います。長崎には諏訪族の末裔はありませんが。

お家母方実家との繋がりは一族の神奈川の藤原秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を救ったと云う繋がりだけです。
青木氏との族が異なります。皇族賜姓青木氏との違いです。両者は元は藤原氏の母方では同じ族となります。故に、嵯峨期の詔の例外で秀郷3男千国に禁令の青木氏を名乗ることを許したのです。

ただ、今の情報ではお家が美濃と愛知にまたがる藤原秀郷流青木氏と確定はできませんが、諏訪族青木氏とは地理的、血縁関係などから見て関係は殆ど少ないのです。
どのような事からのつながりでのご質問でしょうか。

以上ですが、明治期と江戸初期の第3氏の事もありますので、確定は出来ませんが、一度維新後の戸籍簿とご本家に菩提寺が在ればそこの過去帳を確認されるとはっきりします。
ご仏壇の中に先祖位牌がありますのでその中に木札で先祖の戒名札があるはずですのでご確認ください。当然にご本家でのご確認と成ります。
確認出来ない、江戸期の過去帳がないと成りますと第3氏の可能性か未勘氏の可能性と成ります。
青木氏の上記した庶民や農民が禁令の青木氏を名乗った時期が3期あります。
室町末期、江戸初期、明治初期の混乱期です。

明治期は3年と8年に苗字令と督促令を出しています。この時維新政府が余りに進まなかったので指導して近隣の土豪や豪族の氏名家紋などを使うように指導しました。ですから、ある日突然に村或いは郡の者が全員青木氏になると言う現象が起こったのです。
これが江戸期に過去帳を持たない第3氏か室町江戸初期の未勘氏なのです。未勘氏はある程度の過去帳を保持しますが、宗派と地理的なことは異なります。

兎も角も、以上ですが、ご質問やご不明な点が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
お待ちしています。


  [No.727] Re:愛知の青木について
     投稿者:きむ   投稿日:2010/07/29(Thu) 19:32:44

ありがとうございます。
とても勉強になりました。

曽祖父は江戸時代末期生まれで、没落したのはそれ以前と聞いています。
しかし江戸時代に農民だったのかどうかは今のところ分かりません。

青木賢清氏についてもありがとうございました。
身内が九州で大変お世話になったので、何か縁があるのでは・・・
と勝手に思いお尋ねしました。

ちなみに柏紋は神紋といわれていますが、蔓柏紋と神社は繋がりはないのでしょうか。


  [No.728] Re:愛知の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/07/30(Fri) 12:16:15

>
> ちなみに柏紋は神紋といわれていますが、蔓柏紋と神社は繋がりはないのでしょうか。

お読み頂けましたか。ありがとう御座います。

さて、早速ですが、お尋ねの件の柏紋と蔓柏紋との関係ですね。

それでは、先ず柏紋からその由来を記述します。
研究室の「青木氏と血縁族」(家紋 柏紋)をお読みください。
昔、太古では食器に、奈良時代にはこの葉は大きく旅等にはこれを食器にしていました。
そして、これを素手で食べていた事が判っています。「随書倭国伝」に書かれていますし、日本書紀等にも天智天皇と皇位継承問題で争った有間皇子が蘇我赤兄に熊野古道の熊野神社の社領の第1の鳥居のある第一神社の藤白神社の直ぐ近くで絞殺されます。この時、読んだ辞世の句にも葉を使ったと書かれています。

結論から元は柏ではなく、槲(かしわ)の葉で蔓が付いていました。
槲は関西地方に生息する茨の一種で丸いハート形をして大きさは人間の掌程度の大きさです。関西では「かしわの葉」と云えばこの葉の事を云います。この槲葉には蔓紋と同じ形の蔓があります。
この葉は神様や仏壇等に食べる物を備える時にはこの葉の上に置いて供える習慣があります。
この神事の名残として、5月の子供の日等にはこの2枚の葉で「あんこ」の入った柔らかい団子餅を挟んで蒸して供えたものを食べる習慣があります。
まだ関西の高級料亭等ではこの神事の習慣が残っていて、会席料理の食べ物の下に敷く食器代わりのものとして使われて遺されています。最近都市化で少なくなりましたので苦労している様です。
この葉の事を「さるいばら」方言で(さるびたち)と云っていましたが少なくなった事で忘れられてしまいました。関西(平安の習慣が遺されている主に紀州奈良)ではこの葉を使う習慣が多く遺されていて、柿の葉、からす瓜の葉、紫陽花の葉、あけびの葉などまだまだ沢山あります。
従って、蔓の付いた槲なのです。しかし、鎌倉時代頃からは関東にないこの槲葉は関東に生息する柏の木の葉に成っていたのです。そして、家紋も「柏の葉」に変わっていったのです。
槲の紋は平安の時代から丸く書かれ、柏は鎌倉の時代から細く書かれているのはこの結果から来ているのです。太紋はこの紋に成ります。この例として熱田神宮の傍系末裔の山内一豊の家紋は三つ柏の細紋です。

上記の習慣から太古の世には朝廷の食事を用意する夫を「膳夫」(かしわで)と云いました。
この事から神事に御供えするものにこの槲の葉を使われたことから、槲の柏を「杜の神」として神聖視されたのです。
以後、朝廷の伝統として神事にはこの葉を使用された事から、神職の家がこの槲と柏の葉を紋様化して家紋としたのです。
「神紋」というよりは「神官職紋」と成ったのです。

天皇家の皇祖神の神明神社の伊勢神宮を始めに、熊野神社系の神職の氏も使用するように成りました。その後これに習い、熱田神宮、宗像神宮、吉田神宮、吉備津宮等の神明系が柏紋を神官職紋にしました。
伊勢神宮の宮司久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神宮の宗像氏、吉田神宮の吉田氏と卜部氏、吉備津神宮の大守氏がこの家紋を使いました。
当初は上記の様に柏の葉だけではなく蔓も付けた槲紋でした。これを元は「三つ葉槲(柏)」と呼んでいたのです。
その後、時代が平安から関東に移りこの蔓がなくなり、今の柏の三葉紋と成りました。ですから、神職紋としては「柏紋」より「蔓柏紋」の方が古く正しい文様なのです。

そこで、平安初期から上記したこの神官職の間では相互に血縁関係を結びました。
神明関係の神社は大変青木氏が多いのです。
伊勢神宮は伊勢青木氏の守護地でこの伊勢神宮を護っていた氏ですし、皇祖神は自らの氏神でありますので身内から神官職を司ったのです。各地の主要神明社の多くは青木氏で蔓付きの槲紋です。
吉田氏も奈良の古くから朝廷の祭祀を司る神職でした。
室町期の山内氏は熱田神宮系の傍系です。
この柏紋を類似変紋して家紋とする氏はこれ等の末裔血縁氏が多いのです。山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏等あります。150位はあると思います。多くは江戸初期に旗本や御家人がこの変紋を使用したのです。
そこで、原型の三つ蔓柏紋を家紋としているのは当然に多くは青木氏で、朝廷神職官僚の吉田氏と、それらの神明の血縁関係のある末裔と見られる山本氏や長田氏です。
古い氏の青木氏には、二つ葉と三つ葉の蔓柏紋があります。

全国神明関係の神社は今は数えられないほどにありますが、始まりは伊勢賜姓青木氏から近江、美濃、信濃、甲斐の地に、他に19の天領地にある主要神社は多くは青木氏です。この青木氏が各地の神社と血縁関係を結んでいるのです。
従って、神職関係の柏紋には青木氏の血が流れている事が考えられるのです。
吉田氏や宗像氏や千秋氏とは恐らくはつながっている筈です。少なくとも吉田氏とは同じ環境にいたのですから血縁関係はあったと考えられます。
前回のお答えの諏訪神社系(三つ立梶の葉紋 神紋)の諏訪青木氏(抱き角紋)の氏は皇族賜姓信濃青木氏の末裔ですのですので諏訪神社とも繋がりがあるのです。
二つ柏紋(柏の葉を向かい合わせた紋 抱き柏紋)はこの抱き角紋の諏訪族青木氏と繋がっています。

当然に蔓柏紋の藤原秀郷流青木氏ですが、この氏も赴任地の24の国に自らの氏神を持って神官職を務めていますので、もとより母方で繋がり、朝廷とつながっていますので、賜姓族の青木氏と三つ巴に相互血縁関係が成立しているのです。ですから、この藤原氏ルーツは蔓槲紋または蔓柏紋なのです。

「繋がり」という意味からは諏訪族青木氏の宮司青木賢清(抱き角紋)は蔓柏、柏紋と神職関係で繋がっている事にも成りますね。藤原秀郷系青木氏ルーツとして。
お家の蔓柏紋が神職関係に元あった事が確認出来れば、皇族賜姓信濃青木氏系の諏訪族青木氏とも三つ巴に繋がっていることにもなります。

蔓柏紋は藤原秀郷流青木氏の綜紋の「下がり藤紋」から神職になった時点で「蔓柏紋」に成って男系跡目に依って変紋なく、それを引き継いでいることを物語ります。

(神明神社は天照大神を祀る皇祖神で伊勢神宮が本社宮 伊勢青木氏  No706の函館の青木さんのご質問に詳細記述)

兎も角も、前回のご本家の維新戸籍簿や菩提寺過去帳などの確認をなさる事でこのお答えの内容を更に証明することに成ります。場合に依ってはご本家は吉田氏の様に神道であるかも知れませんね。
この様に、次第にルーツ関係の紐が解けてくることもあるのです。

又何か疑問、質問、不明な点が有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.731] Re:愛知の青木について
     投稿者:きむ   投稿日:2010/08/02(Mon) 15:51:43

大変詳しい説明ありがとうございます。

こうやってルーツを探ってみて、改めてこれまでの
歴史の上に現代が存在していると強く感じますね。

また新しい情報を入手できたら報告させていただきます。