何処かの青木孫さん 今日は。はじめまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越しいただきました。
これからもよろしくお願いします。
さて、お尋ねの件 大変重要なお尋ねですが、申し訳ありません。
はっきり申し上げて判りません。
ただ、確かに江戸末期と明治初期の青木さんを調べたことがありますが、私の記憶にはありません。
徳川慶喜の子供となりますと、明治後の静岡での子供となります。
確かに、慶喜は妻一人(美賀子)と側室二人(中根幸、新村信)と側女(新門辰五郎の娘)が居て、側室(側女扱い)二人の間に5男6女を産んでいます。
この内の跡取りの長男一人は慶久といいますが、英国留学、帰国後大実業家に成りました。現在も続く数十社大企業主でした。彼等兄弟一族は日本の企業家の草分けと云われていました。
子供は厚、仲博、誠、精(勝海舟の婿養子に)の5人です。
厚が次男となります。彼等は慶久と共にこの企業を発展させました。確か私の記憶では次男は日赤の創立にも兄を助けて携わったと記憶していますが、確かではありません。
これらの事はNHKの篤姫でのドラマでも有名ですよね。
この中に重次郎はなかったと思いますし、徳川氏にはこのような命名のつけ方ではありません。
もとより慶喜は5人にこのような名前の付け方をしていません。
幼名も徳川氏の慣例で大変多いので数字を使うことになっていました。
慶喜は大変な趣味家で、新しいものを好む性格で、それもプロ並みでした。名前も現在の名づけ方と変わりません。
この人5外には外に妾子はいません。作れる環境と時間がなかったのです。
実は居ない理由があるのです。
幕府崩壊で、維新政府から警戒されていて疑われると困るので一切外との関係を遮断していたのです。
静岡で蟄居閉門で監視が付きましたので鷹狩りや狐狩りなどは飛んでもないことでそれこそ疑われて処刑されます。そこで、子供に疑いをかかるのを恐れた篤姫は維新後親族となる勝海舟の助けを受けてすべての子供を引き取り小さい家に二人の妾と住んでいました。
実は、慶喜の子供と搾取して各地でお手つきの子供と云って6男8女、10男11女、22男23女等々に成るくらいの説があるくらいで地理的、年数的、時間的、行動的にあり得ない言い分で明治の中ごろまでに隠し子だといいそれなりの証拠品のようなものを準備して家柄を良く見せようとしたのが多く出たのです。
明治維新の出来事も本人は後に自伝(日記)によると開国と天皇を中心とする国家体制を願っていたとされています。兎も角も徳川氏宗家の存続を願っての行動であのような非難される行動をとりましたが、その先頭の論者勝海舟に子供を婿にやるということまでしています。
精を除く彼等4人は徳川氏を名乗っています。
静岡ということに成りますと、藤原秀郷流青木氏の定住するところです。
何故、徳川氏が青木氏の氏名を使うのか疑問です。精以外は他氏から養子を迎えたとする記録は見つかりません。
江戸中期に青木昆陽と云う芋で有名な儒学者がいましたが、この青木昆陽は襲名名の重次郎です。
江戸末期に幕府に関わった青木氏は6ルーツとなります。住所が20程度確認されています。
さて、ここまでが私の記憶ですが、祖父が慶喜の子供と判ったとする事はそれなりの史実があることで判った筈ですね。
だとすると、この程度の事は判らないと祖父であることの確証はないのでは、ご質問の意味が少し良く判りません。また、”恐れ多い”と云う事はありません。まして、正式な次男ですよ。
また、”判った”とされていますが、慶喜の子供ははっきりと判っていて実業家でその子孫は現在も企業家です。判っているのです。
徳川氏宗家の慶喜です。ドラマのようなことは出来ません。まして慶喜はまたまじめな人物でした。
江戸城の中で見張られているのと同じです。
二人の側室は顔と体系が良く似ていて極めて仲がよく一つ屋根の下で11人の子供とどちらが母か判らないほどに生活していたのです。彼等は二人の母を幸、信と呼んでいたと自伝に書かれています。どちらが母であるかと意識したこともなかったと書かれています。
むしろ、自伝では篤姫の教育もあり、当然として教育されたと書かれています。
本妻の子供がいないのですからもとより嫡子側なのですよ。他に隠し妾子もないのですよ。この兄弟5人は二人の母を持っていたとする程です。
明治維新の戸籍簿に明確に詳しく書いていますし、静岡の徳川氏だけの菩提寺がありますので、そこには過去帳がありますので確認がとれます。本妻には子供は居ませんでしたので側室二人の子供5人は徳川氏ルーツの墓に入ることが出来ます。
現在も末裔は数十社の実業家ですので、お調べに成られてはいかがですか。
青木昆陽と同じ名である事も偶然とは考えにくいですね。
お家の宗派や土地柄や家紋の出所、明治期のお住まい等の情報がないのですが、史実と照らして疑問を感じます。
現存はしていますが、天下の徳川慶喜次男のお家柄とすると、本サイトにお尋ねする前に、上記した事以外に何がしかの証拠がお家にあるはずですが、まだ100年程度しか過ぎていませんので。祖父であれば戒名、位牌、曼荼羅、墓所などもはっきりとしている筈ですね。それがないのも疑問です。
全青木氏に発する学問的なこととして、忌憚なくお答えさせていただきましたが、私が研究した史実と大変違っていて疑問が多く残りました。
もう一度お調べになって下さい。
そして、ご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。お待ちしています。