あきさん 今日は。
さて、今度は梅鉢紋ですね。
この紋は菅原道真一門の紋です。
未だ余り家紋として進んでいない時代のものです。
菅原氏は、元は古代豪族の土師氏(しがらきし)の出身です。
もとを正せば中国の後漢が618年崩壊し後漢の光武帝の21代末帝の献帝の子供阿智使王と献帝の孫の阿多倍王が後漢の17の県民200万人を引き連れて日本に逃げてきました。
この200万人の集団は多くの技能集団で成り立っていました。
この集団の中に土器の素焼きの器物を作る集団があり、これを土師部と云います。
氏名の後ろに部の付いた姓はすべてこの後漢の渡来人の帰化人です。
今の信楽の里はこの集団の末裔が住んでいた所です。
「しがらき」から「すがわら」に変化したものです。
「すがわら」を菅原とし土師部の集団を菅原氏として構成しました。
その集団の首魁を務めていました。
そして、道真公の曾祖父古人公の頃に、土師を菅原と改姓し、次ぎの文道が朝廷に仕える家柄となりました。
その盛んな時代としては、桓武天皇の子供の嵯峨天皇の時代を頂点として、「文章経国」(学問を盛んにして国をつくる)という方針を主張しました。この意見が取り入れられて瞬く間に従ニ位まで上り詰めました。
丁度、この時、皇族第6位皇子が「賜姓青木氏」にする天智天皇から5代続いた制度を桓武天皇が中止しそれに反対した嵯峨天皇はこれを戻し、変名して「賜姓源氏」として続けました。この時青木氏は皇族の者が下族するときに使う氏名としました。(嵯峨天皇の詔)
そこで、この出世した菅原氏は藤原氏と勢力争いが起こり、結局、突然に大宰府に配流されました。
この時代は、唐風の文化の最盛期を迎えていて、菅原道真は梅が好きな事から梅紋を家の象徴紋としたのです。それが平安870年頃から家紋化されました。
道真は845−903年です。
東風吹かば 香い興せよ梅の花 主なしとて春な忘れそ
と云う歌を遺しました。
この菅原道真一門の家紋です。丸付き紋ですのでその分家支流となります。
菅原氏は橘氏と同様で藤原氏の圧力で子孫を遺せないほどに大きく衰退してしまいます。
概ね、成長期には4氏との血縁で何とか末裔は広がっていますので、それが現在の子孫と成っています。
現在の梅鉢紋の菅原氏はどこかでこの縁者の4氏の中で元の菅原氏の氏名の跡目を継いだのではないでしょうか。
青木氏にも梅鉢紋の青木氏があります。
詳しく研究室の、「青木氏と血縁族」(家紋 梅紋)のところにレポートしていますのでお読みください。
この紋はこの4氏から次第に拡がって行きます。
もし、道真の人柄などをお知りになりたい場合はインターネットや書籍でお願いします。
お読みになってご質問有りましたら遠慮なく又お尋ねください。