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  [No.700] 青木の姓ではないですが
     投稿者:井上博美   投稿日:2010/06/19(Sat) 23:15:48

はじめまして 青木さん
私の姓は青木ではありませんが、家紋とルーツのことを調べていて
こちらにおじゃましました。
いままで家の家紋が彦根橘だと 思っていましたが
最近それが違うことに( 家紋は菊座橘だと判明 )
気づき色々と調べていると
青木の姓で行き詰ってしまいました

祖父の生まれた場所は 滋賀県甲賀郡石部町です
祖父から見て 刀鍛冶だった ひい爺さんが 彦根城の青木築之守の姫様と
結婚したと 聞いていましたが、彦根城には青木という藩主は居ないと言われました。

現在も滋賀県甲賀郡石部町に青木さんの姓の方は住んで いらっしゃいます。

実際に青木築之守といわれる方は存在してるのですか?

又 青木さんに 菊の家紋との関係は
あるのですか?

判明した家紋の菊座橘もとても珍しいらしいのですが
墓石も家紋の変更もしなくてはならないと思うと
はっきりしたルーツを解りたくて
お邪魔しました。
宜しくお願いいたします。


  [No.701] Re:青木の姓ではないですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/06/20(Sun) 09:43:21

始めまして 

ようこそ青木サイトに御越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
青木氏氏のサイトは全国の青木さんが集うサイトで歴史に付いて青木氏に関する事を研究しているサイトです。
膨大な資料を研究室などにありますし、家紋のことなども家紋掲示板や研究室の「青木氏の血縁族」(家紋)等にもレポートしています。この中には橘紋の青木氏も有りますので、ご覧下さい。

さて、お尋ねですが、井上氏と青木氏との繋がり判りませんが、色々と疑問点が有ります。
先ず、御祖父の祖祖父の方が彦根藩城主の姫様と結婚したとの事ですが、御祖父の方は明治の手前の慶応の頃、その祖祖父で在れば江戸末期で明治前60−80年前頃の人と見られます。
彦根は井伊直弼の居城、井伊直弼は「井伊橘紋」を使用したのですが、この時代の人である事を意味しています。時代は井伊直弼は1815年から1860年ですから1815年前後15年と成ります。
従って、封建社会で氏家制度の慣習の中で、身分制度が確立している江戸時代、お家の御職業は刀鍛冶の職人であるとすると、この武家の藩主の井伊氏の最も栄えた頃の姫様と血縁する事は家柄吊り合いから有り得ません。

この井伊家は「丸に橘紋」の「井伊橘紋」と云う紋ですから、「菊座橘紋」とは異なります。
文様は橘の実のところに菊を用いた紋ですが、当時は天皇家の紋所の菊を家紋に使用する事は禁じられています。
しかし、ここで、ただ一つ可能性があります。
刀鍛冶は良い刀を作る事が出来る職人であると、藩主から「姓」と「・・の守」を与えられる慣習が有りました。
一代限りの「青木姓」と「筑之守」等の官職の称号が与えられたのです。多分それと見られます。
この時、明治3年と8年に全ての庶民は苗字令により「名字と家紋」を持ちましたが、現在御実家などが青木姓であるならば、この時に青木氏を永代の姓として用いたものと考えられます。
正宗や村正などの多くの刀鍛冶の名人は、刀は武士の魂として藩主から藩の誉れとして、一代限りの「姓と官職」を与えられました。

そこで、では”何故青木氏が与えられたか”と云う疑問です。
実は、これには根拠があるのです。
滋賀には「滋賀青木氏」と云う氏の末裔が多く定住しているところなのです。
この滋賀青木氏には、元は平安末期から立身出世を夢見て、伊勢伊賀の西に「上田郷」と云う村が有りましたが、この村の若者が武士になり、それなりの勲功を挙げて上田氏を名乗りました。
鎌倉時代を経て室町末期の戦国時代に後にこの上田氏は織田氏の家来となり、やっと武功を上げて家来を持ち豪族となりました。
この時、上田の姓を名乗って居ましたが、上田郷の縁者と農民の若者を呼び寄せて一団を作りましたが、家柄が無い事から更に良い出世ができないと観て、滋賀に平安時代から定住していた地元の皇族賜姓近江青木氏の分家の断絶した家を探し出しこの家を乗っ取り、その分家青木氏の縁者娘と云う者を探し出し立てて養子縁組を作り出し結婚しました。強引に青木氏を興したのです。
上田姓から、奈良時代からある皇族賜姓青木氏の青木氏を名乗ったのです。
青木氏は嵯峨天皇が皇族の者が名乗る氏として「嵯峨期の詔」を発して使用禁令は明治3年まで原則守られました。しかし、この室町期の戦国時代末期の混乱期には護られなかったのです。

そこで、この近江の皇族賜姓青木氏は平安時代に赴任の為に一時一族が滋賀に移動します。
滋賀の守護職等(8つの赴任地)を多く歴任していましたが、平安末期より鎌倉幕府が出来て失職して元の近江に一族一門は戻ります。
この時一部の分家支流が滋賀に残りましたが室町時代初期に絶えてしまいます。
この絶えた皇族賜姓近江青木氏の分家支流を使って家柄を作り出しましたのが上田氏なのです。

そこで、この摂津に定住していた近江青木氏の本家がこのことを後に知り、怒り、この上田氏と2度戦いましたが、決着が就かず近江青木氏本家は秀吉に告訴しました。
この時、秀吉は”決戦して決着を就けよ”と命じました。
秀吉立会いの下で、結局、近江青木氏本家(摂津青木氏)は負けてしまったのです。
この元上田氏の青木氏の子孫が滋賀青木氏なのです。この青木氏は末裔を大きく広げました。

賜姓青木氏には橘紋の青木氏は有りますが、菊座橘紋はありません。
この家紋と青木姓は上記した職人紋と氏名なのです。
代々その刀鍛冶の頭領に成った血縁のない職人長の者が引き継ぐ氏名と家紋なのです。
青木氏には幾つかその集団があるのです。
他には画家などの芸術家や神職や住職や宮大工の青木氏伝統の一代限りの血縁のない職人集団の「継承氏名」なのです。
この青木氏には一部の研究の結果把握している所で2−3の家紋が確認されていますが、実は滋賀の菊座橘紋の青木氏は把握されていませんでした。

そこで、では、”何故、菊座紋なのか”と云う疑問ですが、もうお判りと思います。
彦根井伊氏の「井伊橘紋」に皇族青木氏の皇族菊紋を加えて変紋の家紋を作ったものです。
恐らくは禁令の菊文様を使っての事は井伊藩主から与えられた可能性があります。井伊藩には当時朝廷に伺いを立てずともその様な与えられる力を持っていました。
刀鍛冶や画家には各藩は藩の誉れとして競ってこの様な仕来りを持っていたのです。

皇族賜姓青木氏とは天皇の第6位の皇子で臣下する時に与えられる天皇自ら与える氏名なのです。
皇族賜姓青木氏には、近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流があります。天智、天武、文武、聖武、光仁の5代の天皇の第6位皇子の末裔です。
この5氏は現在も末裔子孫を拡げています。
他にこの賜姓系列の青木氏には、摂津青木氏、日向青木氏、伊豆青木氏、諏訪青木氏、一部滋賀青木氏等があります。
他に皇族青木氏には丹治系青木氏等の5氏があります。(嵯峨期の詔の青木氏)
藤原秀郷流青木氏には116氏の青木氏があります。

滋賀青木氏には果たして青木氏分家の縁者娘に血縁性があるかは確認されていません。
恐らくは、お家が云う青木氏は職人氏名の「継承青木氏」で明治期に正式な氏名としたとものだと思います。
初代の長が滋賀青木氏で有ったかは不明ですが恐らく滋賀青木氏であったと考えます。
その根拠は、平安末期からの刀鍛冶は元は武士の出身の者が殆どなのです。
青木氏でない者が長になると血縁性が無くても養子縁組の形を採り青木氏を引き継いでいますので、
初代の青木さんとの血縁性があるかは疑問です。
刀鍛冶集団は世襲制では有りませんので。渡世制です。

先ず、次ぎの事を確認されると上記の事ははっきりとしますよ。
まず、お家のご本家の菩提寺に過去帳があるか、あるとしたら、その過去帳に載っている一番古い人の俗名と戒名が判ればその内容でもはっきりとします。
ご本家の明治初期の新戸籍簿に記載されている内容で更に検証が進みます。
お家のご本家の江戸時代の宗派が何であったかでも進みます。
一度お調べに成ってください。

橘の紋の橘氏は藤原氏に徹底的に潰されましたので、子孫末裔は極めて僅かに限られた場所にしか定住していません。近江、滋賀地方付近にしか無い氏で、衰退滅亡したとされる氏で僅かに遺された末裔でもこの家紋と氏名を名乗る事は憚られました。それは「衰退する」氏名と家紋として明治の始めまで忌み嫌われたのです。橘紋を使用する事は明治期末まで習慣として嫌われていました。
井伊橘紋は日蓮上人の末裔として日蓮上人が使っていた僧紋を用いたとされています。
この様な事からお家の家紋は上記の経緯から家紋と考えられます。

お家の付近にある青木さんは滋賀青木氏です。
お家が青木さんと関係あるとすると「継承氏名」の青木さんと成ります。
普通はこの継承氏名の職業集団の青木氏の家紋には集団性を示す為に家紋には「囲込み紋」と云う方式の家紋を使う事に成ります。
ですから、そこから観ると菊座橘紋は井伊家から拝領した家紋と観られます。

この近江賜姓青木氏は後に摂津青木氏に成りますが、この賜姓青木氏に付いては青木氏のレポートに詳しく記述してありますのでお読みください。

何かお判りになりましたらご遠慮なく又お尋ねください。ご協力いたします。